資本論



序文



 資本といえば、企業を設立して運営するために必要な資金や、その企業が資金を調達するために発行した株式の時価総額や社債など額から、その企業にどれほどの資本があるのかを推定できそうだが、それが民間の企業だけではなく、政府や地方自治体なども公債として国債や地方債などを発行して、集まった資金を使って公的な事業を行なっていて、政府などの場合は主に徴税によって資金を集めるから、それが商品の売買や貸借によって資金を集める民間の企業の場合とは違ってくるが、商品の売買や貸借を伴った経済活動において資本が果たす役割は、主に企業が活動するために必要な原資となって、それを使って経済活動に必要な資金や物資や設備や機械類を調達したり、それらを使う人を雇うが、そういう意味で資本は資金や株式や債券などの金融資本だけでなく、土地建物や機械設備なども資本であり、そして何よりもそこで働く人間自身が人的資本と呼ばれるが、企業が資産としてそれらを抱えていることから社会的な信用が生まれ、銀行などの金融機関から資金を借りる際の担保として金融資本や土地建物などの固定資本が役に立ち、抱えている資本の量や額が大きいほど、それらを使った経済活動の規模も大きくなり、実際に資本を活用した経済活動の中で何がおこなわれているのかというと、その企業が取り扱う商品となる物や情報やサービスの売買と貸借が行われて、売買においては売り手から買い手への商品の受け渡しがある一方で、買い手から売り手へは代金となる通貨の受け渡しがあり、売買を通じて商品の所有権が売り手から買い手へと移るが、貸借においては貸し手から借り手へ貸した商品を使用する権利が渡ると共に、借り手から貸し手へは借りた商品の使用料などの支払いが発生するわけだが、借りた商品が資金であれば、その対価として利子や利息が支払われることになるわけだ。
 売買において取り扱われる商品は、人の労働によってもたらされる物や情報やサービスであり、もちろん人の労働と共に機械システムの稼働の方が生産や流通のメインとなる割合の方が大きいが、その機械を作る際にも、機械を使って機械を製造するにしても、そこにはその設計や操縦などの面で何らかの形で人が関与することになり、それらの生産と流通と消費が行われる過程において、例えばそれが物の生産となると、生産する拠点となる土地が必要となったり、土地そのものに鉱物資源などが埋蔵されていれば、それを採掘することが直接の生産となり、また土地を耕して農産物を栽培する場合や、漁業になると土地ではなく海や河川や湖沼が採取や養殖の場となるが、土地の上に事務所や工場や倉庫などの建物を建てれば、それが生産に必要な機械設備などの固定資本を設置する場となり、そこへと製品の材料となる物資などの流動資本を運んできて、それらを加工して商品を製造することになり、それが工場と呼ばれる建物なのだが、工場の中で人的資本である人の労働と固定資本である機械の稼働によって流動資本である物資などの材料を加工して製品を生産して、生産した製品を商品として消費地まで運んで行って販売することになるのが、産業革命以降に顕著となってきた物を介した一般的な経済活動になるが、物の生産ではそのような過程が一般的だが、情報の生産となると必ずしも工場の類いに労働者を大勢集めて集約的な生産活動が行われるとは限らず、またサービスとなると、直接サービスが必要な場所に出向いてサービスを提供する形態となるから、一般的には工場や事務所や営業所や販売所などでの労働がサービスのメインとなり、そこで物が生産されて、情報が流通して、サービスが消費されることになり、そうした生産の現場で物が作られ、流通の場で物資や情報が行き交い、消費の場でサービスが提供されることとなり、そうやって物の生産と情報の流通とサービスの消費が一体化することで経済活動が行われることになり、その中で物が生産されて流通して販売されて消費されて、情報も生産されて流通して販売されて消費されることとなり、サービスも生産されて流通して販売されて消費されるわけだが、製造業と非製造業という区分を考えるなら、物の生産は製造業そのものだとしても、物や情報やサービスの流通や販売や消費に関わる分野は非製造業になり、情報やサービスも生産されるには違いないが、その一方で情報やサービスは主に消費される対象であり、サービス業は生産ではなく主に流通や販売や消費に関わってくる仕事となるが、物の生産現場でも労働としてサービスが消費されるし、また情報の生産と流通と消費の現場でも労働としてサービスが消費されるから、サービス自体が労働を消費することによって行われる活動となり、物の生産の現場では情報も活用されるが、サービスが消費される過程でも情報が活用されるから、結果的にはそれらが渾然一体となって経済活動が行われていることになる。

 経済活動の中では商品を売買や貸借することによって利益を上げて、その利益が資産として蓄積されると、それをまた投資して経済活動に利用して、売買や貸借を伴った経済活動が行われることになるのだが、経済活動の中で利益を上げるには、商品を売買したり貸借する過程において、売り買いや貸し借りの差額がプラスになれば利益が生じてくるわけだが、それは商品の製造や生産の過程においても、流通や販売や消費の過程においても、例えば商品の原材料を仕入れてそれを作るに際にも、出来上がった商品を輸送する際にも販売する際にも、人件費などの経費を安くしたり、機械の技術革新などによる生産システムや流通システムや販売システムの見直しによって、従来より経費を安く上げることができれば、同じ販売額でも従来より余計に利益が出ることになり、あるいは同じまたは安い経費で従来以上の販売額になれば利益が出るし、さらに今までよりも付加価値を上げて価格を高くしても売れれば、そこでも利益が出るだろうし、また商品の貸し借りにおいては貸す側が借りる側に使用料を請求する際にも、また資金を借りた側が返す際に利子や利息を払う際にも、貸した側が利益を得られるような金額を設定できれば都合が良いわけだが、借りた側も借りた商品や資金を経済活動に利用することによって利益を得ようとするわけで、利益を得られる当てや見込みがなければ、わざわざ商品や資金を借りて経済活動など行わないから、経済活動が成り立つ範囲内で商品の売買や資金の貸借が可能となるわけで、そうやって得られた利益が蓄積することによって資産が形成されて、利益が蓄積されるには継続して利益を出し続ける必要があるが、まずはその利益を出す元となる商品が生産されなければならず、商品の生産過程において安く作って高く売れれば利益が得られ、もちろん生産物だけが商品となるわけではなく、生産するに当たって消費される労働も、それを提供するサービスが労働力商品として売り買いや貸し借りの対象となり、それらを組み合わせて商品を生産して流通させて販売して消費する際に、機械システムが重要な役割を果たしていて、それなしではほとんど商品が世界規模で大量に生産も流通も販売もできないし、労働を伴うサービスも含めて商品が産業として機械を使うことによって大量に生産されて流通して販売や貸借されている実態が、世界規模での経済活動を可能としている一方で、得られた利益を集積して再投資する際にも、世界規模でネットワーク化された情報処理システムが重要な役割を果たしている。
 売買や貸借などの経済活動によって得られた利益は、銀行などの金融機関に預金されると共に、それがまた企業や個人へと貸し出されて、企業へと貸し出されると、それがまた投資に回されて、個人へと貸し出される場合にも、株や債券の売買などの投資をやっている人なら投資に回されて、また車や住宅や土地などの比較的高額な商品を買う場合には、一般的には消費に使われると言えるが、それらを買う場合にも買った物が将来値上がりする余地があれば、値上がりした時点で売ることを念頭におけば、未来への投資につながる場合もあるだろうから、どちらにしても投資や消費を通して資金が循環して、それが経済活動に貢献することになり、その際に安く買って高く売ることによって利益を得られるなら、その利益が金融機関を通してさらなる投資や消費に利用されて、そういう成り行きが資金の循環を促進して、それらの資金が商品の生産や流通や消費の促進に活用されることになるが、そんな中でも活動に費やされる時間を短縮したり労力を節約したりして、効率的に運用しようとする中で活用されるのが機械技術であり、時間や労力の短縮や節約による効率化によって、それをしない場合よりは余計に生産量や流通量や消費量などを増やして、その分だけ余計に利益を生み出す一方で、機械技術によって生み出された機械自体も商品となり、人の生活や活動に必要な商品として売られて、そうやって得られた利益が逆に長時間かかって手間暇をかけて製造された希少で高額な奢侈品などの商品の生産や流通や販売や消費に使われる場合もあるが、高額な商品を買うことができるのは、ある程度資金に蓄積のある少数の人たちに限られてきて、また高額な商品を買えるかどうかで人々の間で経済格差が生じるのも、同種の商品であっても廉価なものと高価なものと間で格差が生じるのも、経済活動の成り行きであり結果であり、そのような実態の中で、人と人との間にも商品と商品の間にも格差が生じてくるのが当然と思われるような状況がもたらされて、そんな格差に応じた社会が形成されてくる。
 格差は産業革命が始まる以前の封建的な身分社会のように固定されているわけではなく、個人による努力や集団内の連携による協業の成果としても、その場の情勢から生じる運次第でも、金儲けに成功して経済的に豊かになれる可能性がある限りで、絶えず格差が縮まったり開いたりする可能性もあり、実際に社会の中でうまく立ち回って成功を収めた少数の人たちが富を独占するような傾向になるほど、ますます格差が開いていくように思われるだろうが、実態としてはそうではなく、成功した少数の人たちに憧れて、富の獲得や独占を目指す人や企業も少なからず現れて、そういう人や企業がとめどなく出てくる限りで、その中から努力が実を結んだり、運が良ければ成功することもあるし、大半の人や企業は大した成功も収められずに、その他大勢の内の一人や一社として大衆社会の中に埋もれてしまったり、中小企業としてそれなりの居場所を確保できれば、そのまま存在し続けるだろうが、そんな人の生き方や企業の在り方を正当化できる限りで、物質的にも金銭的にも豊かになるための経済活動の正当性も、社会の中で認められることになり、結果的に大して成功できない人や企業が大多数を占めるとしても、そんな人や企業も含めてほとんどの人や企業が、資本主義経済の中で活動している実態があるわけだから、そこで暮らしている多くの人々がそんな現実を受け入れている状況がある限りで、そんな前提の上に社会が形成されているわけだから、そんな現状を受け入れている人たちが世の中の仕組みを変えようなどとは思い至らないのも当然で、思い至らなければ現状の仕組みの枠内で成功しようとするだろうが、もちろん現状の仕組みの中では成功できない人や企業が多いから、仕組みそのものを変えようとする人や勢力もそれなりに現れてくるのだが、そんな社会の前提が今後変わる可能性がないどころか、絶えず変化し続けているとしても、そのような社会が機械技術とそれを活用した有形無形の人為的な制度やシステムから成り立っていることも確かであり、社会の主流をなす機械技術の形態が変われば社会そのものも変わる可能性があるが、それが機械の用途や性能や機能の向上や傾向や方向性などの変化に応じた仕組みや制度を伴ってくることも確かであり、実際に今まで通りに機械の活用が、経済活動の中で労働時間の短縮や人件費などの経費の節約などの効率化を目指しているなら、そういう方向で社会の形態も変わり続けて行くことになるわけだが、それが一方的に弛みなく変化し続けて行くわけではなく、変化の過程でその場の政治あるいは経済の動向次第で様々な紆余曲折を被ることも確かで、そのような成り行きの中で社会が変化して行くとすれば、今もそんなふうに変化し続けている過程の中で、現状で進行中の労働時間の短縮や経費の節約などの効率化がそれなりに限界に達しているとすれば、そういう方向での変化も、それ以上は変わりようがない局面も出てくるわけで、そうなると今度はそういう方向とは別の方向への変化が起こるかも知れず、実際に社会の中で暮らしている人々の気づかないところでこれまでとは違う変化も起こりつつあるのかも知れないし、そんな変化の限界に直面しているからこそ、現状でも社会の中で暮らす人々の間でそれなりに不安や動揺が生じていて、そんな情勢を背景にして従来からある方向や傾向から離脱するようなわずかな差異にも目くじらを立てて、執拗にこれまでの慣習や伝統を守りながら、それらの変化に対する不寛容を煽り立てる保守的な勢力も跳梁跋扈するような成り行きも生じてくるわけだ。

 産業革命以降の近代から始まった国民国家的な国の統治形態は、産業の工業化の進展とともに世界中に広がって、工業化は工場制手工業からの発展形態であり、それまでの農耕や牧畜が中心の産業構成から工業や商業が産業の中心になっていく過程で生じたわけだが、それに伴って農耕や牧畜にも工業化の進展に伴って機械が導入されて、機械化された農耕や牧畜の形態が主流となってゆき、それは他の第一次産業である林業や水産業でも同じように機械化されていったわけだが、同時に国民国家の統治機構も機械化されていったわけで、それに伴って戦争の形態なども目まぐるしく変化して、人をそれまでよりも飛躍的に大量に殺傷したり建物や施設を大規模に爆破して破壊する技術が急速に進歩した挙句に、原子爆弾や水素爆弾などの核兵器やミサイル兵器などの発明によって、もうそれ以上大規模に破壊しても意味がないほどの極みに達した後には、そこからもっと限定的な規模で効果的かつ効率的に敵の戦力を無効化する技術やシステムの開発の方へと、戦略の重心が移っていくような経緯も生じているわけで、それは産業の機械化に伴った国家的なシステムの機械化にも、規模の拡大が行き着くところまで行き着いた先には、限定的な範囲内で管理統治の綿密化や効率化が進展する傾向も生じてきて、それが20世紀末の情報革命以後は情報処理技術の進歩とともに、社会の隅々にまで管理統治の対象を広げていくような成り行きが生じてきたわけだが、一方ではそれがうまく機能せずに、逆に情報処理技術の進歩が社会を混乱させるような作用も及ぼしていて、インターネットなどの世界中に張り巡らされた情報網を通じて、ネットワークに障害を引き起こさせるようなハッキング的なサイバー攻撃が蔓延している状況も招いてしまったわけで、結局は技術の進歩が諸刃の剣のような効果を生んで、便利になった反面でその便利さをもたらした技術を逆用して混乱を引き起こす行為も可能となったわけで、国家機構によるに管理統治技術の進歩にしても、監視技術などを利用して情報統制を強めて人々の言論の自由を奪うような危険性も同時に生じていると共に、一見言論の自由が確保されているようでいて、実は世論誘導によって多数派が政府にとって都合の良い意見を支持するような傾向となっていて、そういう意味で産業技術は使い方次第で良い方にも悪い方にも利用可能であるから、それを使う側の倫理が求められていることは確かかもしれないが、実態としてはそれよりも経済的な利益を得るために利用されている度合いの方がはるかに大きく、現実に産業の機械化や電子化の進展を促しているのが経済的な利益の追求にあるわけだから、使う側に倫理を求めるような機運が生じることはあまりないわけで、それでも原爆や水爆などの核兵器の使用に関しては、核兵器の大規模な使用によって人類が自滅に直面しかねないから、倫理を求める世論が勝って、実戦ではほとんど使われていない状況となっているわけだが、戦争に関してはそうかもしれないが、経済的な利益と倫理のどちらを優先させるかとなると、無論経済的な利益を優先させている実態があるから、その結果として世界的に富の不均衡が顕著になっていると共に、その状態が大した改善の試みもないまま放置されているとも言えるわけで、そうだとしてもでは利益よりも倫理を優先させればどうなるのかと言っても、実際にそれが実現されていないわけだから、そんなことは誰にも想像がつかないことかも知れず、どのような状態が倫理を優先させた状態なのかも現状ではよくわからないし、ただ行き過ぎた経済論理の追求が人心を荒廃させているように思われるから、それについては経済的な利益の追求によって不利益を被っている人や集団を慈善活動や公的な救済制度などによって助けようとする機運も生じている。
 経済活動の中で利益を出すには、それが物であれ情報であれサービスであれ、単純に安く買って高く売れば儲けが出るのはわかりきったことだが、実際にはなかなかそうはいかず、誰もが安く買いたくても買えないし、高く売りたくても売れない中で、それに成功するには詐欺とは言わせないようなやり方を実行しなければならず、それも簡単に言うなら、安い時に買って高い時に売れるなら儲かるし、また安い場所で買って高い場所で売ることができれば儲かるわけだが、そういった時間や場所の差異をどうやって生じさせるかについては、技術的かつ人為的に生じさせると言っても、俄には納得し難いだろうが、それが制度を利用すればできると言っては語弊があるかも知れないし、売買をする際に商品と貨幣を交換する行為は一つの約束事であり、それを制度と言うよりは慣習と呼んだ方がいいのかも知れないが、誰も直接には慣習だとは思わないし、別にそれを政府が法律で定めているわけでもなく、むしろそれに依存して近代的な国家が成り立っていると言えるだろうし、売買によって儲けが出てそれが利益となるから、政府がそれに課税できるわけで、政府に税金を払ってもまだ手元に余分に金銭が残っているから、どう考えてもそれは商品を安く買って高く売ってその差額が生じていることになるわけだが、そのような売買が違法では政府による課税が成り立たなくなってしまうだろうし、実際にそのような行為によって国が栄えて人々の暮らしが成り立っているわけだから、どう考えても詐欺や違法行為ではあり得ないわけで、なぜそういう仕組みが成り立っているのかというと、制度というよりは商慣習として昔からそうした行為が行われてきた経緯があって、それが世の中で当たり前の行為として定着している実態があるから、結果的にそのような行為が普通に行われているわけだが、どのようにしてその仕組みが成り立っているのかとなると、誰もが安く買って高く売れるわけではなく、当然ゼロサム的な取引ではないわけだから、その中には儲けている人と損している人が同じ数だけいるわけでもなく、その差し引きがプラスマイナスゼロになるわけでもないし、それでが一見辻褄が合わないようにも思われるわけでもなく、そこでインフレが起こっていれば、時間経過に従って徐々に商品の価格が高くなっていく成り行きがあり、それが物価の上昇を示しているわけだが、世界にはデフレのように物価がほとんど上昇しないような状況に悩まされている国もあるが、そういう場合はどうなるのかというと、その国ではデフレであってもその国から商品を輸出している国で物価の上昇が起こっていれば、そこから利益が得られるわけで、世界全体として物価の上昇が続いていれば貿易によって利益が確保されるような成り行きになり、そうなっている限りで経済的な利益の追求が行える状況になっているわけだが、それは結果的に生じていることであって、人の心理状態の中ではとにかく少しでも安く商品を買いたいだろうし、また手持ちの商品を少しでも高く売りたいわけだが、もちろんいつでも商品を買えるように十分な額の金銭を持っていたいが、そのためにはなるべく買わずに節約して貯蓄したいという思惑も生じてきて、そんな思いが人々の間で強くなると物価の上昇が鈍ってくるように思われるが、また労働によって十分な額の賃金が支給されないようだとさらにその傾向が強まるだろうし、労働もサービスを行う労働力商品と見なす限りは、労働者は安く商品を買うために自らの労働力を高く売りたいわけで、自らの労働力を企業などが高く買ってくれなければ、それだけ商品の購買力も下がってくるのは、安く買って高く売る理屈に照らし合わせれば当然だが、企業の方でも安く労働力を買って高く商品を売りたいわけだから、そういうところで労働者の利害と企業の利害が背理してくるのも当然のことかも知れないし、それに関しては世界のどこかで詐欺的に騙されている面があるのかも知れず、それが低賃金で長時間労働の多い国であるか、あるいはテロや内戦で国土が荒廃してしまった国であるかは、おそらくはその両方の国の中で資本主義経済がもたらしたひずみが顕著に表れているのかも知れないし、そんなことまではほとんどの人が気づいていないのかも知れない。

 投資するには資金が必要であり、また資金を得るために投資することにもなり、投資こそが経済活動そのものであり、投資するための資金を経済活動によって得ようとするわけだが、結局資金がどうやって集められるかというと、民間では主に銀行などの金融機関で集められることになり、またその一方で、政府には通貨発行権があるとしても、発行し過ぎればインフレとなって通貨価値が下がってしまうから、政府の都合で勝手に発行するわけにはいかなし、表向きには徴税と公債を発行することによって資金を集めるのだが、売買や貸借に使われる通貨そのものは政府が発行しているわけだから、資金そのものでもある通貨は民間での売買や貸借などの経済活動によって世の中で流通して循環しているとしても、公的な機関である中央銀行の存在と役割が重要となってくるわけで、民間の銀行は中央銀行に口座を設けて、中央銀行との間で資金の貸し借りを行うわけだが、その一方で民間の銀行では預金者が預けた通貨を事業資金が必要な企業に融資することで、その資金に対して発生する利子や取引の際に発生する手数料などが銀行の収益となり、そうやって銀行から融資された資金が企業の行う事業を支えていると共に、銀行による資金の貸し借りを利用した経済活動も支えていて、企業は機械化された設備とそれを操作する人員がいないと商品の生産ができない事情があり、設備や人員をそろえるには多額の資金が必要となり、機械設備と人員は商品の生産だけでなく流通にも販売にも必要であり、そんなわけで企業が行う経済活動には機械設備と人員が必要不可欠なのだが、資金を投資して設備を整えて人員を雇ってからでないと生産も流通も販売も始まらず、それなりの規模の設備や人員を用意するのに自己資金だけでは賄えないなら、大抵の場合は銀行などの金融機関から資金の融資を受ける成り行きになるわけだが、他にも株式や社債の発行によって資金を確保しようとする場合もあり、いずれにしてもまとまった資金を得るために金融機関を利用して、それに関連した資金の融資や株式や社債の発行などの制度を利用するわけで、そういうことも含めて資本主義経済の担い手である企業活動には多額の資金が前もって必要となり、その資金を用意するのが金融機関の役目となるが、金融機関も機械化された設備と多数の人員が必要であるのは同じで、多額の資金を使って金融業に必要な設備や人員をそろえないと活動が成り立たない事情があるのは他の企業と変わらないわけで、その設備や人員を用意するために必要な資金も、他の金融機関からの融資によって得る場合もあるが、どのような経済活動を行うにもまずはそれを行うための設備や人員が必要であることが、多額の資金を必要とする事情となり、資本の中には固定資本としてそれらの設備も含まれてくるのは当然だが、その種の設備を伴った施設が人をそこへとつなぎとめておく仕組みや制度を作っていて、その施設を建設したり設備を制作するのに人手を必要としているのは言うまでもなく、また出来上がった施設を運用するために設備を稼働させて何らかの経済活動を行うにも人手が必要となるが、その人手がかかるコストをいかに抑えて、その抑えた分が利益に結びつく場合もあるから、機械化して人件費を抑える試みも一方では推進されていて、そうやって何らかの施設や設備を伴った制度やシステムが人を必要としていると共に、その必要をいかに減じるかも模索されていて、そうした制度やシステムが人そのものの在り方を構成しているとも言えるだろうし、何か特定のシステムに応じて人の在り方が構成されているから、その人をつなぎとめられている制度やシステムの中でその人が有効に機能していれば、他のことはなおざりになっていても構わないわけではないが、それに関して人として備わっているべき普遍的な価値観が欠けていても構わないような風潮が世の中に蔓延している可能性をあるし、その普遍的な価値観とは何かというと、他人の行いに共感や協調を示す能力に関連した価値観であり、さらに言うなら他人の境遇を自分のことのように受け止める価値観というと、利己的な行為を戒めるような成り行きが想像できるのだが、そんな戒めが利かない人たちがそうした制度やシステムによって生じてくると、その種の人がそんな制度やシステムの外部には存在できないから、それらにその人の心身が同化するしかなく、そうなると人が制度やシステムに従って動作しているだけで、それだけでは制度やシステムに逆らう理由が生じないから、自らが囚われている制度やシステムの外部に存在する人たちの境遇に共感することができなくなり、そうなると制度やシステムから生じる利害関係が自身の利害と一致して、それ以外の利害関係を共有することができなくなると共に、そうした制度やシステムから抜けられなくなってしまう。
 その場で囚われているシステム上の特殊な利害関係にしか興味のない人は、その利害関係が外れた人たちや利害関係の中で敵対している人たちを思いやる心が欠けていて、その制度が構成する利害を共にする共同体の中だけで凝り固まって活動することになるから、そうなると極端に走らないバランス感覚も他者と利害調整を行う能力も養われないだろうし、外部との交渉や取引ができない人たちとなるが、そういう人たちを使って利益を得ようとする側からすれば便利な駒として使いやすく重宝されるが、設備の付属物や機械の部品といった取り扱いになって、もはや人間扱いされなくなる危険が生じてしまうが、それで何が困るかというと、その制度やシステムが世の中の全てではないから、そして制度やシステムが滞りなく社会の中で機能しているうちはそれに従って活動できるが、活動に応用が利かなければ制度やシステムから外れたところでは生きてゆけなくなり、制度やシステムの中で働いている論理から外れた対応がとれなくなるから、制度外やシステム外の常識が通じなくなるだろうが、制度外やシステム外にどんな常識があるかというと、自身が囚われている制度やシステムが常識を作るという感覚からは考えられないだろうが、そういった常識が慣習と呼ばれるが、それは広い意味での世の中の一般常識というのとは少し違うのかもしれず、むしろそれは制度やシステムに逆らうことによって生じてくるような常識と言えるだろうが、それが何かというと普遍的な理性に基づいた行為や行動になるだろうし、それについてわかりやすく言うなら制度やシステムの問題点を指摘する行為や行動は、絶えず制度に逆らうことによってしか可能ではなく、制度やシステムに付き従うだけの人にはその問題点など指摘できないだろうから、制度やシステムに内在する問題に気づくこと自体がすでに制度に逆らっていることになり、そこから導き出されてくる常識とは制度やシステムの外に身を置いてみて初めて気づくようなことでもあるから、制度やシステムに囚われて、その内部で制度やシステムからもたらされる利益を享受することに凝り固まっている人たちには気づけないことであり、そんな人たちには制度やシステムの外側には制度やシステムにとって脅威となる敵しか確認できないから、それらの人たちが気づくのは自分たちに敵がいるということだが、実態としては敵が制度の外部にいるわけではなく、敵対し合う関係性自体が制度を通して構成されるわけだから、敵も制度の一部であり敵も何らかの制度に従っているから敵として認識できるわけだが、制度に逆らうことは敵が従っている制度にも逆らうということであって、敵対し合うどちらかの制度に逆らうが、どちらかの制度には従うという態度ではなく、ただ制度の問題点を見つけるために制度の外に身を置いて考えるような態度であり、哲学用語ではそれを超越論的な態度と呼ぶが、難しい哲学用語など使わなくても、外部の思考は常態として制度に逆らって考えることを示していて、制度外の他人に共感を示すには自分のこだわりを捨てないと共感できないし、そのこだわりがどこから生じているのかといえば、制度に従っていることからこだわりが生じてくるわけで、制度やシステムの中で通用している同じ動作にこだわっているとすれば、それは制度やシステムの仕組みに従うことから自然と同じ動作を繰り返すことになり、それが型にはまった動作となって、そのような動作が制度内の常識に生きる人たちに常識としての態度をもたらすわけだが、それは制度やシステムが成り立っている限りで通用する常識であって、制度やシステムと共にある常識だといえるだろうし、それに類似している世間の一般常識というのも世の中の多数派が従っている制度やシステムから生じてくる常識となるわけだが、そういった常識に囚われた人々が受け入れているのが慣習であり、それとは反対に制度の外で考える態度にはそんな常識にとらわれない思考が要求されるわけで、そういう意味では制度外の常識は制度内で通用する常識にはとらわれない態度から生じてくることになる。

 人は自らに降りかかる事故や災害や病気などの不慮の事態に備えて保険に入ることがあるが、保険には他の大勢の人や保険の種類によっては企業などの法人も入っていて、事前に決められた額の保険料を払えば、実際に不慮の事故などに遭った際には事前に決められた額の保険金の受け取れる仕組みになっていて、現実に大勢の人が保険に加入して保険料を払っているから多額の資金が保険会社に集められていて、その中のごく一部の人が不慮の事故などに遭った際には多額の保険金を受け取れるわけだが、保険にも年金のように定期的に少額ずつ払い続けて、満期になったらその額に利息をつけた額が一定期間にわたって払い戻されるようなものまであって、どちらの場合でも保険会社はただ加入者から支払われた資金を貯金して眠らせておくわけではなく、市場で株や債券や為替などに投資して利益を得ようとするわけで、投資によって得た運用益の中から、積立型の保険の払い戻しなどの際に、利息として加入者に一定の事前に決められた額が支払われるわけだが、そうやって大勢の保険の加入者から集めた多額の資金も市場で運用される資本として機能している面があるわけだが、通貨や株や債券などのどのような金融資本の形態であっても、資金や資本の貸し借りには利子や利息や配当などがつくから、投資によって資産運用していく中ではそれなりに運用益を出さない限りは、利子や利息を払えなかったり、配当を出せないという困難が生じてくるわけで、そこでも基本的には安く買って高く売るという行為を行わないと利益を出せないわけだから、そこで詐欺にならないような手法を考え出さなければならなくなるわけだが、それに関して普通の経済活動の中では物や情報やサービスなどの商品を生産して流通させて販売して消費する過程の中で、経費を安く抑えて利益の出る価格で売るようなことが行われるわけだが、金融市場での株や債券や通貨の運用ともなれば、どのような手順に売買を行うとしても、空売りなどのやり方が成功しない限りは、株や債券や通貨などの金融商品を安く買って高く売ること以外には、利子や利息や配当を得ることでしか利益を出せないだろうが、同じ金融商品を大勢の人が売ろうとすれば安くなるし大勢の人が買おうとすれば高くなるということ自体が、商品の価格という価値基準が人の心理状態で変わってくるという不条理を明らかにしているわけだが、そうした不確かな要素に左右されながら値動きが起こる商品を果たして信用できるかということに関して、そうした売買を伴う経済活動自体に明確な正当性や合理性があるかというと、単に利益を得るために行っている行為なのだから、それも売買や貸借の一種であり、正当性や合理性など考えなくても売買や貸借を行なった結果として利益を得られるなら、それを行おうとするだろうし、そこに明確な正当性や合理性などを求める動機はないわけで、保険にしても保険料を払っても事故などの不慮の事態が起こらない限りは、掛け捨て型の保険であれば支払った保険料が支払った本人には返ってこないし、ただ自動車の自賠責保険などのように制度的に強制される保険もあるものの、普通は安心を得るために保険契約をするわけだが、その場では結果的に無駄に金を払ったことになっても構わないとは思うし、もしもの時を考えれば金銭的に余裕があれば保険に加入する気にもなるだろうし、そんなふうに人の心理状態が結果的に無駄になるかもしれない保険料を払わせるわけだが、それは株や債券などの金融商品を買った時点では結果的に高く売れる保証はないが、利子や利息や配当を得られるという期待があるから買うのと同じように、将来において生じるかも知れない危機や危険を少しでも回避できるかも知れないという期待があるから、今からでも備えておいて損はないという心理状態になるわけだ。
 将来に対する不安や期待を抱かせて金銭的な支出を強いるのも、そうさせているのが制度や慣習であるわけだが、商品を安く買って高く売れると期待させるのは、売買という商慣習に従っているからそう思われて、実際に商品を売って儲けが出たら嬉しいし、他の人たちもそうやって儲けているのだから自分が儲けて悪いわけがないし、誰もが儲けを出そうとして必死になって努力しているのだから、そういうことを当たり前のように行なっている環境の中では、それが悪いことであろうはずがなく、悪いどころか逆に商品を売って儲けるのは自身にとっては良い行いだとも思われるから、そういった行為が当たり前のように行われている中では、行為に善悪の判断が伴うこと自体がおかしいわけで、ただそれが良いとか悪いとか思う以前に生きるために、自らの生活を成り立たせるために、もちろん成り立たせるだけでなく、金銭的に豊かになりたいから売買を当たり前のように行なっている感覚になれるかというと、売買以前に働いた対価として金銭を得ている感覚になるだろうし、賃金労働者の論理としては、働いてその対価として報酬を得て、得られた報酬から生活費を割り振るわけで、自らの労働サービスを売っている感覚には、自営業者でない限りはならないだろうから、しかも儲けが出るように買った金額より高い金額で売らないとまずいとも思わないはずで、そこでの合理的な判断基準として売買そのものが善悪の基準ではなく、いかにして儲けるかということにかかっているかということでもなく、働いた分だけ適正な報酬を得ているかという判断基準になってくると、商品を安く買って高く売るという論理が入り込む余地がなくなってくるのだが、商業的な基準ではそういうことをやっているのに、労働者的な基準ではそういった商品の売買の論理が隠蔽されてしまうわけで、それが労働の正当化につながってくるわけだが、一方で金融商品の売買などになってくると、空売りという手法以外では、安く買って高く売らない限りは儲からないわけだから、もちろん利子や利息や配当で稼ぐやり方もあるだろうが、それに関する合理的な判断基準としては高く売れて儲けが出れば良いことであり、損切りを強いられて買った価格より安く売らざるを得なくなって損を出せば悪いことになるわけだが、もちろん価格が暴落してそれ以上の損を出さないために売るわけだから、損を最小限度にとどめたことになり、そういう意味では損切りに成功したと思えば良いことだと判断する場合もあるだろうが、それでも思惑として商品を安く買って高く売ることになれば、売買に成功したことになるだろうし、そういう売買の中でどこから儲けが出てくるのかと言えば、買った価格と売った価格の差から儲けが出てくるわけで、そうやって儲けを出していることの正当化が論理的に難しくなるわけでもないが、市場の値動きを的確に読んで売買のタイミングを見計らうにはそれなりの努力やセンスが要求されるだろうし、また自動的に金融商品などの売買を行うAIソフトを開発するのにも高度なプログラミング知識と数学的なセンスなどが必要とされるから、もちろん大半はそういうAIソフトを開発している企業に投資して導入することになるわけだが、そういう努力を行なっているから儲けを出すことができるという理屈によって正当化できるかというと、また普通に物や情報やサービスなどを生産して流通させて販売して消費する過程で儲けるにしても、生産に関しては他よりもコストを削減できてしかも高品質な製品を製造する技術を開発したり、流通に関しても効率的な流通手法や流通システムを開発したり、販売に関しても営業努力によって良い商品を儲けが出るような適正な価格で買ってくれる市場を開拓したり、商品を買ってくれる顧客を確保したり、消費に関しても無理に大量に売らなくても安定して持続的な消費に結びつくように売り方を工夫したり、そうした努力が実を結んだから儲けが出るようになったと正当化することができるかもしれないが、そうなると単純でいかがわしくも思われるような安く買って高く売るという儲けを出すための論理を、技術的に克服することによって正当化できる理屈を編み出したことになるわけだが、結局それが現代文明が産業技術によって成り立っていることの証しとなるわけで、その一方でそうではない側面もあるから全面的には正当化できないのかも知れず、それが労働者を過労死させるほど働かせたり、従業員を安い給料でこき使っている一方で経営者が贅沢な暮らしを自慢したりすることが、論理ではなく倫理的に間違っているように思われるかも知れないが、そういうところで大抵は他から非難されるような社会の一般常識からはみ出るような行為や振る舞いに及んでしまうのが人の弱さでもあるのだが、そういうところでもそうした資本の論理には良い面と悪い面が表裏一体であることを踏まえておくべきだろうし、やっていることを正当化するということよりは、絶えずやっていることから生じる弊害や障害に対処しながら、それらを改善したり改革する努力を怠らないことが、売買や貸借から利益を得るには必要となってくる。

 企業活動は物や情報やサービスの生産と流通と販売と消費の過程の中で、部分的にしろあるいは全面的にしろ、必ず売買や貸借を通して、そこから収益を上げることによって活動が成り立っていて、民間の経済活動は物や情報やサービスのいずれかか、あるいはそれらが入り混じった商品を売買したり貸借することによって収入を得るわけだから、企業自体がそのような行為を制度化あるいはシステム化していると言えるわけだが、それは政府や地方自治体などの行政機構が、企業とは異なって、売買や貸借とは違った税を徴収することを制度化あるいはシステム化しているのとは対照的な活動になり、もちろん売買や貸借することや税を徴収することだけが活動の全てではないし、民間の企業では人々の生活に必要な物や情報やサービスを提供することが活動の主な内容となるが、人々が企業に期待しているのもそういうところにあるだろうし、欲しい物や欲しい情報や欲しいサービスが企業からもたらされるなら、買える範囲内で喜んでそれを買うだろうし、もちろん企業の中では直接消費者の要望に応える部門とは異なって、他の企業が必要な物や情報やサービスを提供する企業もあって、そちらの割合の方も企業活動の中では結構大きな割合を占めていて、そういった部門の企業は物や情報やサービスが生産から流通して消費に至る過程の中で、消費者の要望に応える企業が流通の川下に位置しているとすれば、比較的川の上流部分の川上に位置しているわけだが、それでも人々が最終的に商品を買って消費する動向に、間接的には影響を受けるので、全く消費者の要望とは無関係というわけにもいかないだろうが、そういった面も含めれば、物や情報やサービスの生産と流通と販売と消費のサイクルの中で様々な企業の間で分業体制が成り立っているわけだが、その一方で民間の企業とは異なって税を徴収している政府や地方自治体などの公的な行政機構が何をやっているのかというと、簡単に言うなら社会を法律に基づいて統治しているわけだが、統治とは何かといえば、そこに存在している人々が安心して社会の中で暮らせるように、治安の維持や揉め事の仲裁や犯罪の取り締まりや消防や救急搬送や災害の処理や軍事的な防衛などの面で公共のサービスを提供していると言えるだろうが、それと資本がどう関係するのかと言えば、人々の共有財産である国土や河川や湖沼や沿岸海域や、その中でも民間の土地建物などと共に、政府や地方自治体などの公共の土地建物なども保守管理しているし、また世の中が人々の暮らしやすい社会になるように公共投資や公共事業を行なったり、そこから得られる恩恵を福祉として住民に提供しているわけだが、そういった活動から得られる物や情報やサービスが公共の財産であり公共の資本だと言えるだろうが、それがその地域で暮らす人々が共有している資産でもあり、そうやって公共の資本を使って人々に恩恵をもたらすのが行政の使命だと言えるだろうが、そういった公共の利益というのが、政府や地方自治体の利益ではなく、そこに暮らす人々の利益になるところが、民間の企業にとっての持っている株数に応じて配当を受け取れる株主の利益とは違い、多額の税金を払っている人も全く税金を払っていない人も同程度の行政サービスを受けられる権利でもあるわけで、民間の企業が提供するサービス以外で、また企業以外でも宗教教団や町内会などが絡んで成り立つ地域共同体の慣習にまつわる祭事などの行事以外で、そこに暮らす人々にとって必要なサービスを提供するのが行政の役目になるだろうが、具体的には公的なサービスとして、学校教育や役所で管理される戸籍や住民票や土地建物の所有権など証明や移動などに伴う事務手続きや公衆衛生や上下水道などの社会インフラの管理や国民健康保険などの医療保険制度の管理運営や警察や消防救急などが行政サービスとしてあり、それが公共の制度やシステムとしてそこに住んで生活している誰にでも提供される仕組みになっているのが行政そのものになるが、公的な制度であれば誰でも等しく受けられるサービスであり、それがその国の政府が統治している範囲内に住んでいる人々にとっての共有の資本や資産として機能しているわけだ。