資本論




第七章 法律と制度




 法律は基本的に人々の活動に制限を加えることを目的として制定されるものかもしれないが、なぜ制限を加えなければならないのかといえば、活動を制限しないと世の中の秩序が乱れて行政としての管理統括ができなくなる恐れがあり、また人や集団に危害が及んだり、その財産や名誉などを毀損する恐れのある行為や言動などを取り締まらないと、社会そのものが成り立ってゆかないだろうし、そのような行為や言動を含むような活動が法律によって規制される傾向にあり、そのような活動を犯罪行為として行政の中で主に治安を維持する部門が取り締まるわけで、そのような種類の違反行為は主に刑事事件として起訴されて裁判で裁かれるわけだが、また争いを調停する目的でも法律的な取り決めがあるわけで、その場合は損害賠償請求などに関しての権利や義務や、土地や財産などの所有権に関してとか、離婚時や遺産の相続に関する財産分与などの取り決めが法律として定められていて、それらに関する争いは主に民事事件として裁判で調停が行われるわけだが、他にも人や団体が行うことができる権利とか行わなければならない義務とか、それを巡ってなるべく争いが生じないように、あるいは争いが生じたときに調停できるように、さらには違反行為を行政の側で取り締まれるように、その権利を侵害された時に告発できるように、その義務を怠った場合に指導したり罰則を科せるように、そのような様々な取り決めが法律によって規定されているわけだ。そして法律が人や団体に守られている限りで社会の秩序が保たれていて、また人や団体が法律を守るように行政が指導や監督を行なっているわけだろうが、逆にそれらの指導や監督を行なっている行政側の人や団体の法律の遵守を監視している機関もあるわけで、場合によっては行政側の人や団体も違反行為を行なっていることが明らかになれば、そのような機関から告発されて裁判などで裁かれることもあるのだろうが、そういう部分で権力関係が生じていて力の不均衡があると、なかなか力の弱い側が強い側を告発できない場合も出てくるだろうし、告発しようとしてもその手前で阻止されてしまう場合もあるわけで、その辺が法の下での平等という理想が実現できていない部分であり、力の強い側によって法を捻じ曲げられる可能性が常にあるとすれば、そういうところで法の公正性が揺らいでしまうわけだが、法律だけで社会の秩序が保たれるわけではなく、確かに人や団体が法律に従っている部分では、その法律が定めている取り決めが有効に機能しているかもしれないが、それ以外の部分ではその場で働いている権力関係の中で主導権を握っている側が、自分たちの都合に合わせてその場を管理統治している場合もあるだろうし、場合によってはそこで行われている管理統治が法律から逸脱していることもあるわけで、その典型例がギャングやマフィアやヤクザなどによる管理統治になるだろうし、それに近いような形態の組織が国家を乗っ取っている場合もあるわけだ。
 だからいかに立派で合理的な法律が定められていても、それを守ろうとする人や団体がいなければ法律そのものが機能しないわけだが、それを守る側も取り締まる側も、あるいは法律を制定したり改定する側も、さらには法律に基づいて裁いたり調停する側までも含めて、果たして全面的に法律に従っているのかというと、たぶんそうでもない面があるのかもしれず、取り立てて法律に頼らないで活動している面も少なからずあるわけで、わざわざ法律を持ち出すまでもなくその場を丸く収めてしまうこともあるだろうし、いちいち法律に違反している行為を告発しない場合もあるだろうし、実際に法律に違反した方がうまくいくこともあるのかもしれず、そうやって事を荒立てずに何とかその場を乗り切ってしまうことの方が多いかもしれないし、それはその場の状況や事情にもよるわけだが、その場の争いがこじれてその場に居合わせた人たちではどうにも対処ができなくなった時に、最終手段として法律に訴える場合が多いだろうし、最初から何でもかんでも法的な手段に訴えるような社会ではない場合の方が普通なのかもしれず、そういうところで社会の構成員である市民は、あまり法律の有効性を信用していない面もあるだろうし、いちいち些細な揉め事でも法律に訴えていたら世の中の人間関係が壊れてしまうかもしれないし、そうだとすると社会の秩序を維持しているのは法律だけではなく、そこで実際に暮らしている人々であり、そこで活動している人や団体の中で、それぞれの人の判断が交錯している中でそこにまとまった社会が構成されているわけで、その判断の中には確かに法律に基づいた判断も何らかの作用を及ぼしている場合もあるだろうが、それ以外のその場の状況に応じた判断もいくらでもあるだろうし、中には判断を伴わない活動もあるだろうし、そうした中で法律が関係している部分というのはそれほど社会全体には浸透していないのかもしれず、確かに法律関係の仕事に従事している人々にとっては、仕事が法律関係なのだから法律に関する知識やそれを活用する経験が豊富にあるわけで、そのような実体験に基づいて構成される意識の中では、社会の中での法律の重要度は他の人よりだいぶ高いだろうし、実際に法律の怖さやありがたさを身に染みて感じているだろうが、たぶんそうした社会の中で法律に関係する仕事に従事している人の占める割合は、高いどころかほんの一握りの少数の人たちでしかないだろうし、そういう人たちの実感とそれ以外の人たちの実感にはかなりの落差があるだろうし、また法律違反で告発される人や裁判などで裁かれる人の割合も同様に少数にとどまるだろうし、結局世の中の大半の人は法律に関しては素人であり、その知識に関してもそれほど詳しく知っているとは言えないだろうし、法律自体が日常生活の中では身近な存在ではなく、法律違反で告発されたり裁判で裁かれること自体が非日常的な特殊な体験となるのではないか。そしてメディアを通して知識として間接的に知る法律には様々な誤解や偏見が含まれているのではないか。
 行政などが世の中を管理統治するにあたって、人や団体などの活動を規制する上で法律の制定が有効であることは確かだが、制定しようとする法律が世の中の制度や慣習からあまりにもかけ離れた内容であると、そのような制度や慣習に依存している人や団体などの激しい反対や抵抗に遭って、制定が困難になるだろうし、強権を発動して無理にでも制定したとしても、今度はその法律を維持することが難しくなるだろうし、絶えずそれらの制度や慣習から状況に合わない法律を廃止したり改定する機運が生じてくるのではないか。そんなことを考慮するなら制定しようとする法律の内容は世の中の制度や慣習に沿ったものとなりやすいわけだが、それならわざわざ法律を制定する必要はないわけで、大抵はそのような制度や慣習を変えるために、それらに反した法律を制定しようとするわけで、そうやって法律を制定することによって世の中の改革を目指すわけだが、そのような法律が周囲の反対を押し切って制定されて、その法律が人々に受け入れられて世の中に定着すれば、世の中が変わったことになるわけで、古くて不合理な世の中の因習などが、それらを変える法律を制定することで一掃されるような事態にでもなれば、新たに制定された法律が有効に機能したことになるわけで、そういう意味で法律の制定は社会変革の手段として用いられるわけだが、現実問題として一般の人々に法律の遵守を周知徹底させるには、法律の制定とともに権力の行使が必要となり、それを担うのは行政の役割になるわけで、啓蒙活動や取り締まり活動などを通して人々が法律を守るように仕向けるのだろうが、それには行政と連携したメディアの側でも協力するだろうし、そうなると宣伝活動となるわけで、場合によっては世論喚起という世論誘導のようなことも行われるわけだが、そのような試みが功を奏して民衆の支持を取り付けて、法律の制定とともに世の中の変革が成し遂げられれば、そのような画策を行なった議会や行政の中で主導権を握っている勢力の思惑通りとなるわけだろうが、現実にはそこに至るまでの途中で様々な勢力からの抵抗が予想されるだろうし、その過程で意に反する妥協を強いられるようなことにでもなれば、法律の制定自体が頓挫しないまでも、交渉や取引によって反対意見を考慮した修正を施しながらも、何とか反対派を説き伏せて法律の制定にこぎつけたとしても、その内容が骨抜きにされたりして、結果的には変革をもたらすような法律ではなくなってしまうかもしれないし、そうだとすると法律の制定によって世の中を変革するというよりは、たぶん法律を制定を促すような世の中の情勢の変化がないと、法律の制定自体がうまくいかないのかもしれず、情勢の変化も何もないのにいきなり法律の制定を試みるというのではなく、何らかの情勢の変化に合わせて、その情勢の変化には今までの制度や慣習では対応できずに不都合が生じるから、それに対応できるような法律の制定が求められるわけで、正確にいうなら世の中を変えるために法律を制定したり改定するというよりは、世の中の変化に合わせて法律を制定したり改定することが求められているわけだ。
 そういうところで法律の制定と世の中の情勢の変化とその世の中で成り立っている制度や慣習などとの関係が複雑に絡み合っている状況があるのかもしれないが、制度としての法律の制定自体は、議会勢力や行政機関などがその実現を目指すわけで、一般の民衆がそれを目指すにしても議会に代表者を送り込まなければならないわけで、立法機関である議会で審議されて多数の賛成を得て何らかの法律が制定されれば、それを行政が実行に移すわけで、公的な手続きとしてはそのような経過をたどるわけで、それ以外の何を意味するわけでもないのだろうが、そのような制度的な手法によって何が変わるかといえば、普通に考えるなら制度が変わるわけで、それに合わせて慣習も変わり人々の生活も変わるかもしれないが、そのような制度的な変更によって世の中を変える試みは、それと並行して世の中の状況が変わりつつあるような成り行きを伴えば、それ自体が自然な推移のように感じられるかもしれないが、制度的な変更と世の中の状況の変化のどちらが先行するにしても、そこに暮らす人々が受け入れ可能な範囲内での変化にとどまれば、それほど激しい反発や抵抗などは生じないわけで、そうであるならむしろそれは人々が望んでいた変化となるわけだが、その一方で人々の激しい反発や抵抗を引き起こすような制度の変更もあるわけで、そのような制度変更からはそれを推進する勢力とそれに反対する勢力との間で対立が生じてくる場合が多いだろうし、世の中の世論が賛成と反対とで二分しているような状況があると、そのような制度変更や改革に伴って様々な問題が生じるだろうし、それがもとで場合によっては内戦の危機に直面することもあるだろうし、なぜそういう状況が生じるのかといえば、そのようなことが起こる国ではしばしば公的な政治領域で権力の不均衡が生じている場合が多く、国内で特定の勢力を優遇するような政策がとられている場合はそうなりやすく、すでにそうなっている時点で、優遇政策から外れた人や勢力などが制度変更を求めているわけだろうが、そこで制度を守る側と変更を求める側とで対立や抗争が起こっていて、そのような状況下での制度変更や改革はうまくいかない場合が多いわけだ。そういう場合も含めて法律を制定したり改定して世の中の制度を変更するような試みは、変更する内容や程度にもよるのだろうが、制度を取り巻く政治情勢や経済情勢からもその成否が左右されるだろうし、変更を切実に願っている人が多いほど、変更する前の制度によって不利益を被っている人も多いだろうし、しかもそうであるほどその制度のおかげで一部の特権階級の人たちが多大は利益を得ている場合も多いのかもしれず、そうであるならそれらの特権階級の人たちが世の中の主導権を握っている可能性が高く、そうなっているとそれらの人たちに関係する勢力に権力が集中していて、制度の変更が困難となっている可能性も高いだろうし、そういう意味でも法の下での民衆の平等状態を実現するのがいかに困難であるかがわかるだろうが、そこで問題となっているのは法律の制定や改定だけなく、その法律の利用状況なのかもしれないし、それはまた法律を取り巻く世の中の状況であり、そこで生じている権力関係でもあるわけだ。
 世の中には制度として人や集団が行う一定の活動形態があり、制度が機能するには人がその中で一定の動作を行わなければならず、その動作を規定しているのが法律と言えるのかもしれないが、人が法律を守りながら規定通りの動作を行なっていれば制度が機能しているはずだろうし、制度が機能していれば社会の秩序が保たれて、その結果として争いのない平和な世の中が実現していれば、何の問題もないのかもしれないが、実際には制度は一つではなく、競合して錯綜する複数の制度が混在していて、それに合わせてそれらの制度を規定している法律も、複数の制度間の整合性を確保するために複雑に定義されていて、法律に詳しい専門家でないとその全容を把握することは困難だろうし、もちろん一般の市民がその全てを知っているわけではなく、自分が従っていると認識している部分では大雑把には把握しているかもしれないが、だからと言ってそれでも普通に暮らして行けるのだから、専門家でない限りは法律の細かな規定まで理解している必要はなく、細かな部分は必要に応じて調べたり、専門家に聞けば済むようなことでしかないだろうし、そういう意味で人は自分にとって必要な部分だけ把握しようとするのだろうが、それ以外の部分は知らなくても構わないし、そうである限りにおいて、意識の中では法律に従っているつもりでも、実際にはその全てを把握しているわけではないのだから、中には従ってはいない面もあるかもしれないし、他から違反行為を指摘されて初めて気づくようなことも起こり得るのではないか。それが何を意味するのかというと、確かに社会の中で法律が張り巡らされていて、その法律の規定に基づいて何らかの制度が機能していることは確かだが、実際にその制度に直接関わっている人は制度を規定している法律を遵守しているかもしれないが、制度に直接には関わっていないか、間接的には関わっているとしてもそれを意識していない人は、その制度を規定している法律を遵守している意識はないのかもしれないし、そうだとすると確かに法律の網が社会全体に被せられていて、実際にその違反を取り締まる側に違反行為が見つかれば取り締まられてしまうかもしれないが、見つからなければそれで不都合が生じない限りは、違反したままでも平気でいられるわけで、そうなるとそこでは法律が守られずに制度が機能していないことになるわけで、結局何らかの制度が社会の中で機能するには、制度を規定する法律があって、人々にその法律を守らせるための社会を管理統括する官僚機構などの組織が存在していて、実際に社会全体にその監視の目が行き届いていないとならないわけで、もちろん監視の目が行き届いていないところでは法律が守られずに制度が機能していない可能性があるわけで、そうであるなら法律の網の目に引っかかる部分ではその監視の目も行き届いているとしても、その網の目に引っかからずにすり抜けてしまうようなところでは、監視の目が行き届かずに制度が機能していないことになるだろうか。
 実際には法律を守らせるための監視の目が行き届かなくても、人々が自主的に法律を守っていれば、その法律に基づいて整備された制度が機能していることになるかもしれないし、その制度が人々にとって有益であるなら、法律を守って制度に従うだろうが、逆になぜ監視の目が必要なのかといえば、人々が法律を守らずに制度に逆らう可能性があるからで、監視されないと守られないような法律なら、人々にとってその制度はあまり有益だとは思われていないのかもしれないし、さらに人それぞれで利害が異なる場合は、法律を守って制度に従うことが利益に結びつく人と、そうでない人とが存在していて、そうでない人を取り締まるために監視する必要があるとすると、ではそうでない人がなぜ社会の一員として存在しているのかということになるわけで、またそうなるとそうでない人を取り締まって社会から排斥する必要があるのかとも問われてしまうわけで、根本的に人を取り締まったり排斥することを目的とした法律が必要なのかということにもなると、たぶんそれが必要だからそんな法律が存在するのだろうし、具体的には他の人に危害を加える人や団体を取り締まる法律があるわけで、取り締まって罰則を科す法律もあって、そのような法律を対象の人や団体に適用することによって、社会の秩序を守ろうとしているのだろうが、やはり根本的なところでなぜそういう人や団体が社会に生じてしまうのかについては、今のところ法律や制度では解決できていないし、それは解決しようのない問題なのかもしれないが、現実に法律や制度を巡って社会の構成員の間で利害が異なる場合は、そのような法律や制度は守られず従わない可能性が出てくるわけで、いくら監視や取り締まりや罰則規定を強化しても、根本的なところで各人の利害の一致を実現できない限りは法律も制度も完璧なものとはならないわけだが、そもそも法律や制度より社会の方が先にあるわけだから、そこに社会が存在している時点で、その中で暮らして活動する各人の利害が一致していない可能性が高いわけで、つまり必ずしも同じ利害を共有する人だけで社会が構成されているわけではなく、人や集団の間で生じる様々な利害関係の中から社会が構成されるわけで、そのような前提がある中で全ての社会の構成員を同じ利害の下に管理統括しようとすれば無理が生じてしまうのは当然であり、そんな中でも行政としては法律や制度を作って、それに基づいた特定の利害を優先させようとするのだろうが、それはあくまでも最大公約数的な利害になるしかないだろうし、そうでないと世論の支持を得られない可能性が出てくるのかもしれず、その利害を守ることを社会の構成員の全てに周知徹底させようとはするだろうが、必ずしも利害関係はそれだけではないし、その利害と他の利害が競合したりぶつかってしてしまえば、それを守れない事情が生じてしまうわけだ。

 法律にはその適用の用途や範囲によっては一方的に禁止したりするだけではなく、逆に権利を保障したり活動の自由を認めたりするものもあり、例えば未成年には禁止する一方で大人にはそれを行う権利を認め保障する法律があるし、また所持や使用の権利を認める一方で登録の義務を課すような法律もありそうだが、それは人の活動をコントロールするには単に禁止するだけではなく、特定の活動を行う権利を保障することで、そのような活動を盛んに行わせることによって利益をもたらそうとする目的があるのだろうし、法律を課す側がそこから利益を得られると判断したものについては、そのような活動を積極的に推奨したり振興する成り行きとなるのではないか。そのような活動の代表例が経済活動なのだろうが、経済活動は行政がそこから税収を得るには欠かせない活動であり、税収によって予算を確保する制度であれば行政は経済活動を振興するしかないだろうし、まずはそれが前提としてないと、足りない分を公債などで賄うにしても、国家的な信用が得られないだろうし、債券の引き受け手がいなくなってしまうわけだ。そのようにして活動に使う予算を確保するわけだろうが、では行政の活動目的は何かというと、それが管轄する領域内で活動する人や団体の活動をコントロールすることにあるとすれば、法律を用いて人や団体の活動を規制しながらコントロールすることになるわけで、では何のためにコントロールするのかといえば、行政が活動するための予算を確保する目的で人や団体の活動をコントロールしていると言えば、何やら循環論になってしまうかもしれないが、それでは住民が納得しないだろうし、世の中の世論を味方につけるには、行政サービスによってそこに暮らす住民が安全で平和に豊かな生活を満喫できるように活動しているとでも宣伝しておけば、それなりに世論を納得させられるだろうか。行政の活動目的を肯定的に定義しようとすると何やらそうした宣伝文句のようなものとなってしまうのかもしれないが、それが行政ではなく企業となると、事業を継続させるために活動を行なっているとみなしても、それほど間違ってはいないだろうし、それの延長上で考えるなら、やはり行政の活動目的も行政活動を継続させるために活動しているとみなしても構わないわけで、その活動の一環として住民の支持を得るために行政サービスを充実させているとも考えられるわけで、そういう傾向を考慮すれば、法律も高圧的な禁止一辺倒ではなく、何らかの権利の保障や自由な活動を行えるような領域を増やす方向での規制の緩和を法律に盛り込む動きも出てくるのだろうが、たぶんそれも行政活動に支障が出ない範囲内に留めようとするのだろうし、その辺でいかに住民を納得させるかが、民主的な政治体制を採用している国では工夫を凝らす部分なのかもしれないが、独裁的な傾向の強い国となってくると、その辺の工夫を凝らさなくても体制を維持できるだけに、そういう部分では強権的で高圧的な態度でいられるかもしれないが、経済活動の振興という面では人や団体の活動が萎縮してしまう危険性が出てきて、その辺がマイナス要因となってくる可能性もあるわけだ。
 行政の活動が人や団体の経済活動抜きには考えられないとなると、その法律も経済活動に関する内容が主なものとなってくるのだろうが、純粋に権力関係から考えてしまうと、強権的で高圧的な面しか出てこないのかもしれず、またそれとの対立軸として民主主義に関する抑圧に抵抗するイデオロギーも出てくるわけだが、それらの活動の糧となってくる経済活動を抜きに考えてしまうと、途端にリアリティを失ってしまうわけで、その辺が民主主義や国民の福祉を中心に考える人たちにとっては躓きの原因ともなってくるのかもしれないが、だからと言って資本主義的な経済至上主義を礼賛してしまうと、人々の間で現実に生じている貧富の格差やそこから生じる権力関係の不均衡や不平等を是正する方向性が出てこないわけで、そういうところで従来からある政治的な主義主張が行き詰ってしまうわけだが、それらを全体的な視点から捉えて一定の政治的な主義主張を伴った一つの方向性を打ち出すと無理が生じるわけで、またそこには社会の中で互いに錯綜したり絡み合っている複数の部分的な活動があるに過ぎないと考えると、相対主義に陥るしかないわけだが、どちらにしてもそれぞれの視点から考えればそれなりに正しいようにも思われるだろうし、そう考えてしまうことについてはそれなりの妥当性もあるわけで、そのような思考や思想自体が無用なものだと捉えることも可能かもしれないが、実際に行政機構や企業などが社会の中で活動している実態があり、法律に基づいた制度の中に人や団体を引き込んでその活動をコントロールしようとしているわけだから、それに関して不都合や不具合が生じていれば、それを改善したり是正しようとする機運が生じてくるのは当然であり、そういう面では何らかの方策を打ち出さなければならず、実際にそんな目的で政治活動を行なっている人や団体も存在するだろうし、そこで政治的なイデオロギーとは違った具体的な活動の方向性が模索されているわけだろうが、それに関して法改正とか新たな法律の制定とかが具体的な方策として提案されてしまうと、そうした方向での努力が議会制度や行政機構を必要としてくるわけで、結局は現状の政治的な枠組みの中で不都合や不具合の改善や是正が求められてしまうわけだが、果たしてそれ以外のやり方を模索することができるだろうか。そこでも現状の政治的な枠組みを単純に否定するのではなく、そのような方向で努力していくうちに、自然とそこから外れる方向性が出てくるのを期待した方がいいのかもしれないし、そういう意味で現状を否定しないのと同時に現状にこだわリ過ぎない態度が求められるわけで、これまでの歴史的な経緯がそのような成り行きを示していて、絶えずその時点での状況からしか改革の機運が生じてこないのと同時に、人々の期待を一身に背負った急進的な改革の努力が絶えず人々の期待を裏切りながらも、期待外れの結果の中でも何らかの改善や是正が図られてきたわけで、それが期待からかけ離れた成果しかもたらさなくても、結果的にはそれがその時点で可能な成果でしかなかったわけで、それは歴史的な経緯が明らかにしているところなのではないか。
 そうした歴史的な経緯から生じた一つの試みとして国家主義的な模索があったわけだが、そこでよくありがちな成り行きとして行政側が富国強兵的な方針を打ち出すと、まずは国を富ませるために経済活動を活発化させる政策がとられるわけで、それに関連して経済活動の利便性を高めるには、各種の規制緩和などを促すような法整備と連動した政策もとられるわけだろうが、その経済の面での改革解放的な政策の一方で、言論や思想信条の自由を抑圧する政策がとられることは、ある意味では表裏一体をなしているのかもしれず、富国強兵的な政策の不合理で矛盾に満ちた面が広く世の中に知れ渡ってしまうのを防ぐ意味で、言論や報道などの面で行政側が統制を強めるわけだが、そこで顕著になってくるのが法律とそれに基づいて構築される制度との間に生じる矛盾であり、経済活動を活発化させるような制度は自由主義市場経済であることが不可欠で、そこでは個人の判断で自由に経済活動を行えるような制度にしなければならず、そのような制度の中から経済的に成功して莫大な資産を形成する資本家階級が生まれてくるわけだが、その一方で法的な措置として個人の言論や思想信条の自由を抑圧するとなると、自由な経済活動を認める一方で、自由な政治活動は認めないというジレンマに直面してしまうわけで、現状でその問題に直面している典型例が中国とロシアかもしれないが、最近の例ではスペインのカタルーニャ州の独立騒動でもそれに直面してしまったわけで、結局は政治と経済は連動していて、経済的な自由を手にして力をつけてくるということは、政治的な自由を求める活動にも直結してしまうわけで、国を富ませるためには経済活動の自由を人々に与えなければいけないが、政治的な主導権だけは行政の側で確保したいのが国家主義的な立場の特徴であり、一方では自由を与えてもう一方では自由を抑圧しなければならない矛盾が、何かのきっかけで破綻してしまうわけで、そのきっかけというのが富国強兵で言えば強兵の面であり、歴史的な経緯からすれば国家間の経済競争が高じてそれが軍拡競争へと発展して、経済的な競争では不利な側がそれを補うために軍事的な増強を行ってしまうと、軍事面での暴走を招いて国家的な破滅に追い込まれてきたわけだが、軍事的な暴走を招いてしまう国内的な要因としては、個人の言論や思想信条の自由を抑圧する姿勢であり、経済的な自由は与えるが政治的な自由を与えないということが、行政側の軍事面での暴走に歯止めがかからなくなるわけで、考えてみればそれは当然の成り行きであり帰結なのかもしれないが、行政側が政治的な主導権を確保するにはそうせざるを得ないわけで、それが国家主義的な立場の欠陥とも言えるのかもしれないが、行政機構の特性としてはそういう方向にしか行かない面もあるわけで、それに歯止めをかけるには民衆の側で政治的な主導権を握るような努力を怠ってはならないわけだが、そこでも制度的な面で不都合や矛盾があるのかもしれず、現状では制度面で行政と民衆との間で生じる権力関係を平等にするようにはなっていないわけで、そこで生じてしまう関係の不均衡や不平等をなくすように法的に文章で定めることは可能だが、制度としては絶えず行政側が力を持つようになっているのではないか。
 個人と集団的な組織の間での力関係で言えば、当然のことながら集団的な組織の方が力が強くなるわけだが、そのような集団的な組織に対抗するために個人の側でも同じ主義主張を共有する同志を集めて集団的な組織を結成すると、それで対抗できる可能性は出てくるだろうが、対抗しているそれ自体が個人ではなく集団的な組織となってしまうわけで、それが集団的な組織となってしまうと、個人である時とは異なる論理が組織内でまかり通るようになるわけで、結局それが個人が対抗しようとしていた集団的な組織となってしまい、そうなると個人と集団的な組織の間での力関係そのものは維持されて、個人ではいつまでたっても集団的な組織には勝てないことになり、だからと言ってその個人が同志を集めて集団的な組織を結成すれば、そのような組織の中では個人の力が抑え込まれてしまうわけだ。そんなわけで行政機構が集団的な組織形態をとっているわけだから、それに対抗するために同志を募って政党などを結成して、その政党が力をつけて議会内での与党の立場を占めるようになっても、そうなった時にはすでにその政党と行政機構との間で集団的な組織形態のレベルでは差異がなく、差異がないから同じ利害関係を共有して両者が癒着するわけで、いくら民主的な政治制度を法的に規定しても、制度によって実現された現実が法律を超えて動作して、それが法的な形骸化をもたらすわけだが、そんな問題が発生する度に法改正や新たな立法を行なって制度を修正したり改善する以外に制度的にも法的にもやりようがないだろうが、いったん立法機関と行政機関が癒着すればそういう成り行きにはならないだろうし、そうなる前に民衆の側が機転を利かせて政権交代を促せばいいのだろうが、今度は二大政党制などの制度が自然と形成されて、どちらの政党に政権が移っても癒着が解消されないような事態ともなるだろうし、複数の政党が選挙の度ごとに離合集散を繰り返して政権を作るにしても、今度は政党と行政機関との間の力関係が行政側の有利に傾いてしまい、そうなるといくら政党の側で改革を行おうとしても、行政側の抵抗によって途中で頓挫してしまう事態も予想されるだろうし、行政機関が恒常的に国家と国民を管理統治している実態がある限りは、そういう方面では行政機関の側に権力の優位があるのは当然かもしれないが、行政側が何のために管理統治しているのかというと、その集団的な組織形態を守り維持するために管理統治を行っているとしか言えない面があるわけで、そこから民衆との間に権力関係の不均衡や不平等が生じていて、また民衆の側でも経済活動によって貧富の格差やそれに伴って権力関係の不均衡や不平等が生じていて、さらにそのような不均衡や不平等が民衆に不満を感じさせるから、そこから政治的な主義主張が生じるわけで、そうなると政治的な主導権を握っている側でも経済的な主導権を握っている側でも、そのような政治的な主義主張を抑え込みたい衝動に駆られるわけで、結局そこからも共通の利害関係が生まれて、政治的な主導権を握っている側と経済的な主導権を握っている側との癒着が生じて、それが政官財+マスメディアの利権複合体となるわけだ。
 法律はそれに基づいて構築される制度を文章によって規定していることは確かだが、制度の方は法律を超える部分を含んでいて、法律で規定されている範囲を超えるような作用を世の中に及ぼしているとも言えるのかもしれないし、いったん制度が機能しだすと法律が制度の働きに追いつけなくなってしまい、法律の方は後追い的に法律の規定していない制度の機能を追認するか、それを怠れば形骸化して法律自体が有名無実となってしまうのではないか。それが日本で言えば憲法第九条なのかもしれないし、まだ有効に機能している部分もあるのかもしれないが、その一方で後追い的にでも憲法を改正する動きが出ていることは確かで、現状に合わせて憲法を改正することが、現状のさらなる変化をもたらすかもしれないが、その変化の方向が果たして正しい方向なのかどうかは、それについての立場や主義主張によって見解の分かれるところかもしれないが、一方で制度の勝手な暴走に歯止めをかける役割も法律には期待されていて、法律の有効性を信じる人たちはそれが法律の重要な役割であることを説くかもしれないが、現状で民主的な政治制度が機能しているのなら、世論を構成する民衆の意識が法律の有効性をまだ信じていて、現状で政治的な主導権を握っている勢力が推進している制度が法律から逸脱していると認識していれば、そのような制度側の勝手な暴走を民主的な政治制度の要である選挙を利用して、暴走を止めようとする政治勢力に投票することによって止めることも可能かもしれないが、それ以前に現状で起こっていることが本当に制度に与する側の暴走であると判断できるかどうかも、それについての立場や主義主張によって見解の分かれるところであり、さらに言えば世論や民意がそんなことにまで関心がないという事態もありうるわけで、そんな中で法規範の根本原理である憲法を持ち出す人々は、何かというと政治的な主導権を握っている側の憲法違反を声高に叫ぶ成り行きになってしまうのだが、憲法も法律の類いには変わりなく、文章として定めていることである限りは、その文章で記されている決まり事を守っていると意識している人がどれほどいて、果たしてそのような人たちが国政のレベルで主導権を握っている実態があるのかというと、どうも実質的にはそうではなく、文章で規定していることよりも実際に働いている制度を有効活用することの方が重要視されているわけで、結局そこで有効活用されている制度に文章で規定されている内容が合わなくなってくれば、単に文章の方を書き換えれば済むような成り行きにリアリティを感じられるのではないか。実際に世界各国の憲法自体がそういう成り行きに合わせて絶えず書き換えられてきた歴史的な経緯があるわけで、現状で動作している制度にお墨付きを与えるような内容に憲法を書き換える行為が、憲法違反を告発する行為と並んで同程度に行われているのかもしれないし、実際に憲法を改正する手続きが法律で規定されているわけだから、制度に合わせて法律を変える成り行きになるか、また法律が制度側の暴走の歯止めになるかは、どちらも可能であることは確からしい。
 そうだとしても法律は文章として記されている限りは絶えず過去の記述となり、それに対して制度の方が現在進行形で働いている作用であるわけで、どちらかと言えば制度に与する側の方にリアリティが伴ってしまうことは確かで、その制度を活用して権力を行使したり、何らかの利益を出している側からすれば、そのような活動を阻害する要因があればそれを除去したいだろうし、たとえそれが国を定める法規範の根本原理であろうと、それを変える手続きがあるのだから、それを利用しない選択肢はあり得ないだろうし、そうなると絶えず現状で主導権を握っている側がその主導権を握っている現状を正当化するために、自分たちの勢力に都合のいいように法律も変えようとするわけで、そのような行為の断続的な積み重なりが国の法律や制度の変遷を歴史的に構成してきたわけだろうが、そうだとすると現状で主導権を握っている側がどんな勢力なのかが問われてくるわけで、その勢力が民衆の支持を背景として政治的な主導権を握っているのなら、民主的な政治制度の中では当然のごとく正当化されるだろうし、その正当化の根拠は制度的には選挙の結果であり、選挙結果が政治的な主導権を正当化する上では欠かせない条件なのだろうから、少なくとも他の条件よりは優先されるだろうし、それに対して世論調査結果を主導権を握っている政治勢力に対する批判の根拠とする場合もあるわけだが、選挙結果と世論調査結果のどちらが優先されるかと言えば、制度的には選挙結果が優先されることは言うまでもなく、制度を有効活用する側は当然のことのように選挙制度も有効活用しているわけだから、それらの勢力が握っている政治的な主導権を正当化する根拠は選挙結果になるわけだ。そして選挙も制度であることには変わりなく、その制度自体を特定の勢力が有利になるような内容にすれば、その勢力を利することになるだろうし、それも制度の有効活用となるわけで、政治的な主導権を握っている側が制度を自分たちの側に有利になるように作り変えようとするのは、常に起こりうる動作であり、実際にそうやって特定の勢力が長期間にわたって政治的な主導権を手放さない例はいくらでもあるだろうし、そうだとすると確かに建前上は公正で公平な法律とその法律に基づいて構成される公正で公平な制度の下に世の中が統治されている状態が理想であることは確かだろうが、何らかの勢力によって世の中が統治されている状態自体が、その勢力の政治的な主導権を正当化するような法律や制度が構成されていることを意味するだろうし、そこで行われる政治的な主導権の正当化が、絶えずその正当化に合わせた法律の制定や制度の構築を促していて、その統治や支配を磐石なものとする方向で法律や制度を変えてゆこうとする傾向があるわけで、それに関してまずは現状で動作している制度が有効活用されて、いったん制度を利用して政治的な主導権を握れば、その主導権を盤石なものにしようとしてさらに制度を自分たちに有利なものに変えてくるだろうし、その過程で必要な法整備も行われ、自分たちが主導権を握っている制度に法律を合わせるわけで、それに成功すれば確かに世の中の統治や支配が盤石なものとなるかもしれないが、結局制度自体が人や団体を選ばないのかもしれず、制度に固執する者は制度に裏切られる可能性もあるわけで、実質的に特定の勢力が握っている主導権の源泉は法律でも制度でもなく、その場で行使している権力にあるのかもしれず、何かのきっかけでそこで生じている権力関係が崩壊してしまうと、いくら自分たちに有利な法律や制度に守られていても、それらが有効に機能しなくなる場合があるわけで、その辺が法律や制度で構成される形式的な構造の盲点となってくるのではないか。

 人が集団で寄り集まって組織的な形態をとると、個人のままでは持つことができなかった集団の力が生じて、大勢の人たちが協力して個人でいる時にはできなかったことができるようになるが、それと引き換えにして個人でいる時には持っていた活動の自由が奪われ、組織内での立場や役割の上下関係から生じる権力関係の中で拘束されることになるわけだが、社会自体が大勢の人たちが寄り集まって形成されるものであり、その中では個人で活動するよりは集団で組織的に活動する方が規模の大きなことができるわけで、社会の規模が大きくなるにつれて自然とそこに活動の目的に応じた様々な集団が形成されてきて、集団で行う活動も多種多岐に及ぶようになるわけだ。より広い視点で見れば社会そのものがそのような集団だとも言えるわけで、社会全体を一つの組織的な集団に編成するような試みが全体主義的な政治勢力によって行われていた時期も過去にはあったが、そのような一つの方向へと世の中の全ての人たちを導く試みには、たぶんどうやっても無理が生じるのかもしれず、そこまで集団の組織力を高めることができない要因が世の中には生じていて、そうであるからこそ人と人とはお互いに反目し合い争うことになるわけで、それは何よりも組織的な集団内で頻繁に起こっていることであり、個々人が離れている時よりも集団でまとまっている時の方がそういう傾向がより強くなるわけで、人と人との距離が近いほどお互いの不快な面がより鮮明に見えてきて、些細なことでもしょっちゅう衝突するようになるのではないか。だから人と人の間で一定の距離が保たれていた方が無用な争いには至らずに済むのかもしれないが、それを避ける意味でも組織内で権力関係が構築されるわけで、他人を不快に感じつつも立場や地位が上の者には逆らえない構造が制度的に構築されて、無用な争いが起こらないような組織体制が出来上がり、そういう意味では地位の上下を介した権力関係を伴った集団的な組織形態は合理的にできているとも言えるわけだが、その合理性ゆえにかえって組織内にいると、逃げ場がなくなってストレスが増すことにもなるだろうし、それが高じて病気に至るようなことにもなるのだろうが、そのようなマイナス面を補って余りある利益が生じるから、人は集団で寄り集まって組織的な形態をとるわけで、またそのような集団に対抗するためにも同じような集団を構成しなければならなくなるわけで、そうであるから人の集団的な組織化は避けられない社会現象となるのかもしれないが、その一方でそのような現象の渦中で嫌気がさして、集団から離脱する人も後を絶たないわけで、それも社会の中で生じる人の離合集散というある意味では避けられない現象を示していて、そのようにして集団的な組織化とともに絶え間ない分散化も繰り返し起こっているとも言えるわけだが、離合集散のどちらの方向への運動も可能である反面、どちらへ向かった方がより大きな力が得られるのかといえば、集団的な組織化へと向かう方が力を得られる傾向にあるわけで、経済的な利益を求めようとする思惑も政治的な権力を求めようとする思惑も、大概はそちらへと向かう成り行きになるのだろうが、それとは異なる方向性として分散化とネットワーク化の組み合わせが情報革命以後のインターネットの普及とともに試みられているのかもしれないが、現状ではまだそれがはっきりとした形態を伴っていないのかもしれない。
 それに関してより妥当な言い方をすれば、集団的な組織化の問題点を補完するのが分散的なネットワーク化と言えるのかもしれないが、どちらの方向でも制度として確立しようとする傾向があるわけで、集団的な組織化では得られない力を分散的なネットワーク化で得ようとすれば、それも一つの権力への意志を構成してしまい、そこから利益を得るためにそんな試みが行われているとしか言えなくなってしまうわけだが、資本主義的な利益の追求からそのような意志や思惑が生じるのは避けられないとしても、結果的にそうはならなければ面白いことになるのかもしれないし、その辺で安易な決めつけから否定的なレッテルを貼ってしまっては、それとは異なる可能性を削いでしまうことにもなりかねないが、単純に考えて分散的なネットワークからは力の集中は起こらないわけで、特定の団体に権力の一極集中を起こさせないシステムにするには、分散的なネットワーク化が必要だと考えられるとしても、それにはネットワークを管理している団体が力を持ち得ない構造にしなければならず、具体的にはその管理団体内に官僚機構を生じさせないような工夫が求められるわけで、それに関して究極の状態を考えるなら、例えば複数の人工知能が協議しながらネットワークを自動的に管理するような形態も考えられるのかもしれないが、それによってネットワークを管理している団体は利益とは無縁になるとしても、ネットワークを通して個人や企業が利益を求めようとしている現実は変わらないわけだから、結果的に利益をより多く得られた人や企業に権力が集中するような事態は避けなければならないとしたら、さらに何らかの工夫が求められるところかもしれないが、現状ではそうはなっていないわけで、ネットワークの活用にいち早く成功した企業が莫大な利益を得てグローバル企業へと成長した歴史的な経緯があるわけで、実際に力を得てしまったのだから、その現実をどう捉えたらいいのかうまく説明できないのかもしれないが、少なくともそれらのグローバル企業が国家的な行政機関と共通の利益を巡って癒着しているとは言えない面があるかもしれないし、また今のところは独自に政治的な影響力を駆使して独自の権力を欲しているとも言えないだろうし、それがこれまでの国策企業と行政機構との癒着関係とは異なるところかもしれないが、それも相対的な差異でしかないのかもしれないし、分散的なネットワーク化からは本質的にずれる方向で起こっていることかもしれないが、では現状で実現している分散的なネットワーク化に関してそれまでの制度とは違う点は何かと言えば、それは権力関係を伴わないで連携の可能性を探ろうとしていることであり、ネット外では確かに立場や地位の上下関係を伴った官僚機構を築けるだろうが、ネット上で構築するのは無理かもしれないということなのではないか。そこでも勘違いしている人たちが一部にはいるわけで、何とかネット上でもメディア的な権威を作りたい思惑が働いていて、その権威を頂点として役割や地位の上下関係の構築を模索しているわけだが、実際にそのような階級制度にどんなメリットがあるのかというと、それを想像するのは難しいのかもしれないし、果たして分散的な構造のネット上で権威に従う必要があるのかというと、権威を敬い従って権威の下僕のような立場や役割をネット上で表明しても、はっきり言って嘲笑の対象にすらならないのではないか。そんなわけでそこに権威を作れなければその権威を頂点とした官僚機構を作るメリットも生じないわけだ。
 歴史的な経緯としては情報革命とインターネットの普及によって、従来からある人が寄り集まって集団的な組織形態を構成して、それを権力関係から生じる上下的な立場や地位を利用して管理統括する官僚機構の形成とは別の方向性として、上下関係ではなく分散的な横方向でのネットワークを介した平等な連携を模索する動きが出てきたわけだが、インターネットにしても原理的な構造は縦方向でのツリー状の上下関係があるわけだが、それが一部の独裁的な国以外では権力関係を伴わずに単なる情報の流通経路として機能していて、形式的には管理主体とは言えない国際的な複数の非営利団体が管理していることになっているので、上から都合の悪い情報を遮断するような権力の行使は表向きは行われないことになっているのだろうし、もちろん企業が運営する部分的なソーシャルメディアなどではその企業の独自の判断で、都合の悪い情報を削除することもあるし、都合の悪い利用者をメディアから締め出すこともあるだろうし、そうやって部分的には官僚機構の管理統治が成り立っていて、それは独裁的な国の行政機関と形式的には変わらないわけだが、根本的になぜそれが都合の悪い情報であり都合の悪い利用者となるのかについては、やはりそれは企業でも国などの行政機構でも、それらを運営している官僚機構の上下方向での権力関係を利用した管理統治形態にとっては都合が悪い情報であり利用者なのだろうし、その管理統治形態を維持するには上下方向での権力関係を維持しなければならないわけで、それを単純に言うなら立場や地位が下の者が立場や地位が上の者に逆らってはまずいわけだ。そうであるから官僚機構によって上から管理されているメディア内では、官僚機構の方針に逆らうような都合の悪い情報は削除されるし、その方針に逆らう都合の悪い利用者はメディアから締め出されてしまうわけだが、インターネット内にはそうした複数のメディアがあるわけだから、それらの間で統一した管理基準があるわけではないので、あるメディアでは削除されたり締め出されたりしても、別のメディアではそうはならない場合があるわけで、それは国などの行政機関にも言えることだろうし、世界には様々な統治形態の国や自治体などの行政機関があるわけだから、ある行政機関の管轄内では締め出されてしまう人でも、別の行政機関の管轄内では受け入れ可能であれば、その人の行き場がなくなることはないわけだが、そもそも民主的な政治制度の理想としては民衆が行政機関に逆らうことが許される制度だったはずで、そこで理想と現実のギャップを構成しているのが官僚機構の特性に由来する動作なのかもしれないし、しかも制度としてそれなりの合理性を伴って実際に機能しているわけだから、その弊害を弱める意味でも縦方向での立場や地位を伴う上下関係とは異なる、横方向での平等な関係を伴う分散的なネットワーク化が、可能性としては模索されるべきなのかもしれないが、どちらか一辺倒を目指すのではなく、その場の状況に応じて使い分けたり混在させたりしているのが現状だと言えるだろうか。
 それに関してこれまでの様々な政治的な試みで失敗の要因となってきたのは、目指すべき方向を固定してそれを制度化しようとすることにあるのかもしれないが、政治的な目的自体が理想の統治形態を制度化することにあるのかもしれず、それが失敗の要因だと言われるとでは他にどうやればいいのかということになってしまうわけだが、そうした政治本来の目的である法制化や制度化の試みを一概に否定しないとしても、それ以外に何がやれるのかを模索するしかないだろうが、それが保守的な政治家に特有の懇意になっている特定の業者に対する口利きや忖度になってしまうと、それは制度ではなく慣習となってしまうわけだが、ではそうした制度や慣習ではないことを行えるかとなると、ではないことではなく、既存の制度や慣習に合わせながらもそこから生じる不具合や不都合を是正していくしかないだろうし、そうしていくことが結果的に制度や慣習を世の中の状況に合わせて変えていくことになれば、それが政治的な試みとして現状の中では妥当なのかもしれない。つまりそこに政治的な試みの可能性と限界があるわけだろうが、人のどのような試みにも可能性と限界は付き物だろうし、それ自体としてはそうであるしかなく、それを越えて理想状態を目指すと、今度はその目指すべき理想状態が実現不可能な妄想の産物でしかなくなってしまうわけで、確かに分散的なネットワークを介した人々の平等な立場での連携という理想状態を思い描くことはできるだろうが、現実には経済的な利害関係があるわけだから、現状のネット上では常に経済的な利害関係から自らに有利な立場を築こうとするだろうし、実際にそれに成功して巨万の富を手にした人物も中にはいるわけで、そういう経済活動を行なった結果としての不平等な現実は誰もが認めるしかないだろうし、そのような不平等な現実を政治的に是正するのは困難だろうが、だからと言って規制するのを目的としてネットに法制化や制度化の網を被せることが何を意味するのかというと、それによって行政機構のネットに対する管理統治が行われることを意味するわけで、それは一部の独裁的な政治体制の国で実現していることであり、部分的には企業などのソーシャルメディアなどでも行われていることだが、それは不平等な現実を是正するのではなく管理統治する官僚機構の意向に利用者を従わせることとなるわけで、その辺で特定の制度は特定の目的とともに特定の結果しかもたらさない典型例のようなことが起こるわけだが、そういう目指すべき方向を固定化した法律や制度の限界を法律や制度によって打ち破ることはできないだけに、その場その時の状況に応じた柔軟な対応が求められるといっても、具体的に何をやればいいのかが出てこないわけだが、そのような限界を打ち破るためにも可能性として横方向への平等な立場での連携が求められると述べてしまうと、何か詐欺的な言説となってしまうかもしれないが、お互いに足りないものを補い合うには平等な立場での連携が妥当なのかもしれず、そこには足りないものを交換する商慣習として売買が前提としてあるわけで、売り買いするどちらかが利益を得るような交換となると等価交換とは言いがたく、そこでの交換に納得できないと問題が発生するわけだが、そういう問題の是正も含めて横方向への平等な立場での連携が現実に模索されているのではないか。
 少なくとも官僚機構が主体となっている行政も企業も組織として現実に存在していて活動している実態があるわけで、人々がそれらを利用することで世の中が成り立っていて、その現実を否定するわけにはいかないし、それらの組織のマイナス面ばかりを批判してもリアリティに欠けるだろうが、そのプラス面を活かすとなるとそれらを利用する人たちの得になるような活かし方が求められるわけで、それに関して単純に考えるなら組織の利益を減らせば、その分が組織の利用者の利益となって還元されることになるのかもしれず、行政に限って言えば組織の肥大化を防げば無駄な予算を使わずに税金も安くなると考えてしまいがちになるが、必要なところにはちゃんと予算をかけなければならないだろうし、そうなると何が必要な予算で何が無駄な予算なのかが社会の様々な立場によって見解の分かれるところであり、場合によっては住民の生活を助けるような予算が削られて、産業振興に関する予算や国防予算などが増やされることにもなりかねず、住民の福祉の充実を訴える政治勢力はそういうところで政府を批判しようとするわけだが、どうもそれも単純すぎる毎度お馴染みの批判となってしまうわけで、その単純なわかりやすさがかえって世論の広範な支持を得られない結果を招いているわけだ。単純すぎる政治的な主張とは裏腹に世の中の構造もその中で機能している行政も企業も単純な活動から成り立っているわけではないだけに、主張の内容にリアリティが生じないわけで、それに対していくらでも詳細な反論が成り立つことになり、場合によってはその反論の方が説得力があったりするわけで、それでは人々が真面目に考えてくれないことになってしまうわけだ。それに対する妥当な考え方としては、住民に対する福祉サービスも産業振興も国防に関してもそれなりに予算を使うとしても、そのような予算を使って活動している組織の機能を効率的に動作するようにして、なるべくその活動のコストを抑えるような努力が求められるのかもしれないし、そのような面での政策的な論議を深めてゆけば、それに伴って生じる政治的な主張にもそれなりに説得力が出てくるだろうし、それに連動した法制化などにもそれなりに合理的な正当性が生じてくるのではないか。つまりその活動に関して工夫を促すような措置が求められ、組織自体の活動を活性化させるような工夫が求められるわけだが、それに関しても安易に競争原理の導入とか民間の活用とかキャッチフレーズ化するばかりで中身のない宣伝文句ではなく、行政の活動自体を活性化させるような方策が必要なのかもしれず、それに関しては従来から言われていることではあるが、各省庁ごとの縦割り行政ではなく各省庁間の横の連携を密にして、場合によっては複数の省庁にまたがるような予算編成が求められるのかもしれず、そのような在り方を実現するには各省庁の上にさらにそれらを指揮命令するような機関を置くのではなく、平等な立場で各省庁の活動を調整するような役割が求められるとすれば、具体的には総務省がそうした役割を担っているのかもしれないが、他の省庁との間ではっきりとした役割分担がされているようだと、そういった調整がうまくいかないだろうし、各省庁間の横の連携を密にすると言っても、癒着ではなく連携という行為が何を意味するかが、そういった方面では重要となってくるのかもしれない。
 組織内での上下方向の権力関係を伴った指揮命令系統とは別に、各組織間の横方向での平等な連携関係の模索というのが、それぞれの組織の足りない部分を補い合って連携することでより効率的な活動を実現させる可能性を生じさせるかもしれないが、それにはまず組織間で生じている対立を解消するためにお互いに交渉や取引を試みるしかないだろうし、交渉や取引を行うことによって他の組織の内情や活動や機能を窺いしれるだろうし、そうやって各組織間で互いの理解が深まれば、活動が重複している部分や足りない部分がわかり、重複している部分を統合することで生じた余力を足りない部分に割り当てれば、それだけ無駄な部分を削ぎ落として各組織間の連携も深まるし、効率的な協力体制を構築できるのではないか。それがやたらと行政改革の推進本部とかを増設したり、国家戦略室とかいう部局を増やしたりして、行政組織を肥大化させる口実に行政改革が使われるという本末転倒なことをやろうとするわけで、それこそが税金の無駄遣いなのかもしれないが、現状で活動している組織間で連携を模索して活動の効率化を図れば、多少は無駄に予算をかけずに改革を実行できる可能性も出てくるのではないか。また民間の企業がそういうことをやっているから行政もそれを参考にしろというのではなく、民間の企業がやりたがらないような採算の合わないことを行政が行うことが求められるわけで、民間企業が利益を追求するとそのしわ寄せが一般の人々に及ぶから、そういう部分を補完するような機能が行政には求められるのだろうが、社会が複雑な構造であるほどそれが具体的には何なのかがわかりにくいわけで、そういう部分を明らかにするのが政治の役目なのだろうし、社会には様々な制度や慣習があって、それによって不利益を被っている人たちを助けるようなことを行政にやらせれば、行政の活動としては民間の補完的な役割を全うすることになるのだろうし、もちろんそればかりが行政の活動ではないだろうし、政治の側でも大雑把な主義主張を表明するのが大事な時もあるのだろうが、具体的に社会の中でどんな不具合や不都合が生じているのかを見つけることが政治の役目なのだろうし、それを是正するための予算配分も組織構成も利益を追求する企業とは異なるわけで、その辺が民間の企業の感覚では無駄なことをやっているように思われるとしても、行政がそれを行う必然性があるとすれば、それを行う必然性に関して説得力のある説明が求められるのだろうが、説明が要領を得ないと世論から信用を得られないだろうし、またそういうところから偏向した意見が入り込む余地が生まれて、そういう面倒な作業から逃れるために、自治体の首長などが地産地消だのふるさと納税だのの軽薄なキャッチフレーズのような宣伝文句に踊らされる事態を招くわけだが、本質的なところで行政が何をやっているのか、その活動内容が問われるような成り行きに世論の関心を持っていかないと、いつまでたっても行政改革は掛け声倒れに終わるしかないだろうし、そうなるような結果の中で得をしているのが当の行政機構である可能性が高いだけに、単純に公務員と民間の企業との賃金格差を批判するようでは、そこから何をやればいいのかが出てこないだろうし、政治の側でも批判から先に活動が進まないわけだが、結局そこでも政治と行政の癒着ではなく連携を模索すべきなのかもしれず、対等な立場での交渉や取引を公の場で行うような環境を整えてゆかなければならないのかもしれない。

 政治を行う上で法制化と制度化は避けては通れない成り行きであるとすれば、それは主に議会で検討されることになるだろうが、何か法律を作ろうとすると必ずそのような法律を作った場合に生じる不具合や不都合を挙げて反対する勢力が出てくるわけで、それが場合によっては選挙での争点となり、法律を作ろうとする勢力が選挙で勝利すれば法律が制定される成り行きになるだろうが、そうなると法律を作った場合に生じる不具合や不都合が生じる可能性が出てきて、実際にその不具合や不都合が社会問題化すれば、そのような法律の制定に反対していた勢力が優勢となって、それが選挙での争点となれば、今度は法律に反対していた勢力が勝利する可能性が出てきて、実際にそうなれば政権交代が実現する運びとなるわけで、そのような成り行きを通して民主的な政治制度が健全に機能していることが示されるわけだろうが、実際にはそう簡単には事が運ばない場合があるだろうし、それに関わってくる政官財+マスメディアなどから生じる利権団体の思惑も関与してきて、それが議会で主導権を握っている勢力の味方をしている場合は、法律の不都合や不具合をできるだけ隠蔽しようと画策してくることもあるだろうし、そうやって社会問題化するのを抑え込めば、世論が反対意見になびいてこない場合もあるわけで、そうなれば法律の不都合や不具合は世の中の主流をなす世論の中ではあまり問題視されないことにもなるわけだ。そうなって実際に社会問題化しなかった場合には、法律に反対していた勢力の指摘は杞憂に過ぎず、法律の制定によって予想された不都合や不具合も幻想だと見なされてしまう場合もあるのかもしれず、そんな成り行きを通して世の中の多数意見として世論が形成されるとすれば、そのような世論は多分に心理的な要素が大きく作用していて、それに影響を受けて人々が感じる世の中の実情というのも、はっきりした事実や現実に基づいていない場合にもなるわけで、そのような世論に後押しされて政治的な主導権を握っている側が制定しようとする法律自体が、はっきりした実利や損害とは無縁の実体の定まらない曖昧模糊とした内容になってしまう場合もあるのではないか。そうなると法制化や制度化自体が世の中に大して影響を与えないような行為となりかねず、そういう政治的な行為自体の世の中に対する実質的な効力がなくなってくるのかもしれないし、そうなれば政治に対する批判的なメディアなどが現状の政治情勢から煽り立てる危機的な状況というのもフィクションでしかなくなってしまうだろうし、何かのきっかけで政治的な主導権を握っている側が反対派の民衆などに対してはっきりとした弾圧を加えて多数の死傷者などが出れば、危機的な状況というのもそれなりに真実味を増すわけだが、それは周りの状況との比較から感じられる程度の問題だろうし、またいくら危機感を煽っても世論の無反応に直面すれば、反体制的なメディアには民衆の感覚が麻痺しているように感じられることにもなるかもしれないが、たぶんその麻痺しているような感覚が主導権を握っている政治勢力とそれを支援しているマスメディアなどが演出している世の中の情勢そのものなのかもしれない。
 そういう意味ではっきりとした結果が出ないような法制化や制度化は、政治的な主導権を握っている側にとって有利に働くことになるかもしれないが、一方でそれは政治的な停滞を意味するのかもしれず、そこで世論が麻痺しているような世の中の状況が醸し出されているとすると、そうなっている間は政権が維持されるだろうし、その状態が長続きすれば長期政権となるわけで、意図してそれを狙っているわけではないにしても、自然な成り行きでそうなってしまう場合があるとすれば、どのような状態であるにしてもそれを否定的に見做すことも可能だが、世の中の安定がそれをもたらしているとも言えるのではないか。そしてそのような世の中の状態の中で政権を担っている勢力は、別に状況判断に優れているから政権を担っているわけではなく、そうであることよりも世間並みに凡庸であることの方が親しみやすさとともに世論の支持を得られる場合もあるわけで、それは結果としてもたらされている世の中の安定自体が、優れていると思わせるような政治力を発揮する機会を与えないのだから当然かもしれないが、逆に政治的に優れた手腕を発揮していると思われるのは、危機的な状況をうまく乗り切れた時にそう思われるわけで、そのような機会がないと誰も政治的に優れた手腕など求めないのかもしれず、政権を担っている勢力が優れていようがいまいが取り立てて問題にすらならないのかもしれないし、実際にそのような判断を必要とする機会が巡ってこなければどのような勢力が主導権を握っていても構わないような状況となってしまい、そうであるならなるべく世の中の慣習に逆らわずに波風を立てないような態度が好まれるのかもしれないし、それよりも世の中で主導権を握っている政官財の各勢力やそれらの広報を担当する体制翼賛的なマスメディアなどと懇意になっていれば、それらからは批判されないばかりか支援さえ受けられるだろうし、それらとの関係を重視して機会を捉えて便宜を図り忖度することが長期的に政治の場で主導権を握る上で重要となってくるだろうし、そうなると政治の場でそれ以外に何をやれるのかとなるわけだが、それは既存の制度や慣習に逆らわないことが政治的にできることであり、もちろんあからさまにそうしているように見えてしまわないように、表面的には改革を目指していることにしておかないと世論の支持を得られないだろうし、その改革を目指していることを装うための実効性のない法制化や制度化が、批判勢力にはごまかしに見えてしまうとしても、世の中の主流をなす世論がそれを支持している状況をメディア的に演出しておけばいいのだろうし、それに関しては批判勢力の中でも劣化している部分を誇張して取り上げることもメディア戦略としては重視されてくるだろうし、何かあまり説得力のない稚拙な論理を用いて批判を繰り返しているような人や団体が、体制批判の代表格のような存在としてメディア上で過大に取り上げられるようなことがあるなら、それこそが世論を体制側に誘導するための格好の宣伝材料となってしまうわけで、その辺を抜かりなく演出しておけば、直接の外的な脅威がなければ世の中の安定を保ちながらも長期政権を維持できるのかもしれないし、確かに政治的な行為としては議会での法案の審議や行政の長としての立ち振る舞いなどが世間の注目を集めるわけだが、そのような行為が形骸化を被っている時には、それ以外の部分が世論に影響を及ぼしている面があるのかもしれない。
 議会などの政治の場を利用して政治的な勢力が何を法制化したいのかというと、自分たちを支持してくれている人たちも含めた自分たちの勢力に利益がもたらされるようなことを法制化したいわけで、また法制化することによって自分たちへの支持がさらに広がることを期待している場合もあるだろうし、そうであるなら万人に利益がもたらされるようなことを法制化すれば、そのような行為によってそれらの勢力が万人から支持を得られることになるわけだろうが、なかなかそのような条件を満たす法制化は困難だろうし、実際には世の中の特定の勢力に利益をもたらすようなことが法制化されて、そのような法制化に対して不利益を被る恐れのある勢力から反対運動が巻き起こるのだろうが、利益を得られる可能性のある勢力が世の中で主導権を握っている場合は法制化されやすいだろうし、そうでない場合は法制化が困難になり、無理に法制化しても絶えず反対運動に直面して、それが政権交代の要因ともなれば、実際に政権交代が起こればそのような法制化を無効にするような新たな法制化が行われるわけだが、普通に民主的な政治制度が確立されていて、理性的な態度が世間一般に普及している場合は、合理的に思われることが法制化される可能性が高くなるだろうし、そうすることが世論の支持を得やすいような社会情勢となっていれば、特定の勢力に優先的に利益をもたらしたり、特定の勢力が不利益を被るような法制化は、たとえ被害を被るのが世の中の主流から外れた少数派であろうと、そのような不均衡や不平等をもたらす法制化は行われないだろうし、無理に行おうとしても世論の支持は得られないのではないか。それが民主的な政治制度の理想形態ではあるのだろうが、そこに資本主義的な戦略や戦術が絡んでくるとそうはならないだろうし、絶えず世論の良心的で理性的な部分を欺こうとして策略が巡らされてしまうわけで、それに関して例えば特定の勢力を社会や国家の敵に見立てて憎悪する感情を煽り立てようとするだろうし、そうやって世論の公正で公平なバランス感覚に揺さぶりをかけて、偏った敵対感情を増殖させれば、特定の勢力に利益が得られて特定の勢力が不利益を被るような法制化も実現してしまうわけで、そういうところで世論を構成する民衆の意識が問われてくるのだろうが、そのような民衆の意識が世の中の支配的な政治情勢をもたらしている面はあるわけで、何か特定の政治勢力が主導権を握って偏った法制化を実現して、その恩恵を受けた特定の社会階層に偏った利益がもたらされるような状況となっているとしたら、結果的にそのような政治勢力を支持する世論を構成する民衆の意識がそうした状況を受け入れていることにもなるわけで、その結果として不平等で不均衡な社会が実現しているとしたら、世論のバランス感覚が崩れていることになるのかもしれないし、それをもたらしているのが他ならぬ資本主義的な利益の追及を優先させる姿勢なのかもしれないが、単純にそう述べてしまうと、ではそれに対してどうすればいいのかがわからなくなってしまうだろうし、その中で具体的に何を優先させて何を自重すべきかは、個々のケースによって異なってくるのではないか。
 少なくとも全体的な視点から見て公正かつ平等な判断を下す立場には誰もなれないだろうし、その判断が世の中にもたらす影響力もそこで暮らす各人や活動している各団体によって異なってくるわけで、その場その時の各人や各団体がする判断の積み重なりが世の中の状況の推移をもたらすわけだが、そうやってもたらされる状況自体も決して一様ではないわけで、均質で均等な空間が世の中に広がっているわけではなく、その場その時の時間の流れもそこに加えられる力の強弱によって違ってくる可能性まであるわけだから、少なくとも自分の身の回りの状況がそのまま世界中に広がっているわけではないことは誰もがわかっていることなのだろうが、自分が何か判断する段になると自然に身の回りの状況から影響を受けた判断になってしまうわけで、それがそれとは別の状況の中で暮らしている人の判断とは異なってしまうのは当然のことだろうし、そうであるからこそ自分とは違う状況の中で生きている世界中の人たちが暮らしている実態を知ろうとするのは有益なことかもしれないし、実際にそれを知るためのツールがある意味ではインターネットからもたらされる情報環境であるかもしれないのだが、その中でも情報の取捨選択が行われている実態もあるわけで、何か偏った思考や思想に導くために偏った情報しか提供しないメディアが世界中で蔓延っているとしたら、そのようなメディアにしか接しない人たちは偏った思考や思想の持ち主になるしかないのかもしれないし、しかもまだインターネット環境が普及している地域も世界の中では限られている可能性もあるだろうし、その中で得られる情報も特定の国や地域に偏っている可能性があるわけだから、知らないうちに偏った思考や思想の持ち主になっている可能性まであるのだろうが、そうならないためにはなるべく自分とは異なる状況の中で暮らしている人の実態を知ることが肝心だろうし、そうすることでそのような人たちの思考や思想が自分とはどう違うのかを知ろうとする興味も湧いてくるだろうし、そうやってなるべく世界標準となるような公正かつ平等な判断を養うような努力を行なってゆけば、現状で普及しているインターネット環境を活かすことにもなるのではないか。もちろんそうした中でも自然と自分が暮らしている環境を守ろうとするような判断が優先されるだろうし、それを優先させることが他の地域で暮らしている人々の迷惑になるようなことにでもなれば、難しい対応を迫られるわけだが、そこから双方の地域で暮らしている人々にとって利益となるような判断への模索が生じるわけで、そのためには異なる環境で暮らしている様々な地域の人たちとの連携も必要となってくるだろうし、連携するにはそれ相応の交渉や取引が欠かせないわけだが、結局そういうことが政治の場で行われるようになれば、世界的なレベルで公正かつ公平な判断が養われることになるわけで、それに関してそう述べるのは簡単だが実際に行うとなると様々な困難が立ちはだかってきて、現状では到底うまくいくとは思えない事情もありそうだが、一応はそういうことを積極的に行うような成り行きに持っていくことも、世の中の世論が果たす役割となるのかもしれないし、理想を述べると現実離れしてきりがなくなるのを承知で言うなら、そこでも民衆の意識の程度が問われているとしか言えないだろうか。
 世界の様々な地域や国において、その国や地域の事情から法律や制度もそれなりに異なる傾向を示すにしても、例えば商品の売り買いに関しては同じような慣習があるだろうし、商品と貨幣の交換に関しては交換する貨幣の種類は違うが、交換自体は商品と貨幣が同じように交換されていて、また信仰されている宗教に関しても、宗教の種類や内容は違うが、信仰の対象である神という概念については同じようなものであるだろうし、さらに生活習慣の全般に渡っても仕事や子育てやそれらに絡んだ冠婚葬祭などに関しては、その種類や内容に違いがあるものの、同じような出来事に絡んだ行為としての共通点があるわけで、そういうところから見てゆけば世界全体で共通の法律や制度にしていける可能性はあるのだろうが、その一方で様々な面で差異があることは確かで、その差異を強調しようとすれば、その地域や国の独自性を正当化したがる傾向も出てくるわけで、特に近隣諸国との外交的な対立があると、その対立をテコにして自国の独自性を強調したがるわけだが、無用な対立をなくすにはその正当化したがる差異や独自性を政治問題に絡めないことが肝要だろうし、政治や外交の問題は政治や外交のレベルで近隣諸国と協議すればいいわけで、それをその国や地域の文化や慣習のレベルに持ち込むことがおかしいのはわかっているわけだが、やはり国内の世論に訴えかけるには、そういうやり方になびいてくる人や勢力が少なからず存在している現状があるだけに、そういう方面で理性的な対応を期待するのは無理なのかもしれないが、何かその地域や国の独自性にアイデンティティを見出そうとする姿勢は、国家的あるいは地域的な不均衡や不平等をもたらす可能性があるのは確かで、それが経済的な利益を求める姿勢と直結してしまうと国家間や地域間の経済競争へと発展するのかもしれないが、そういう成り行きが高じると文化的あるいは慣習的な対立も経済的な対立も政治的あるいは外交的な対立も混ざり合って、それに領土的あるいは軍事的な対立が加われば戦争の危機が生じてしまうわけだが、過去にそんな成り行きを経て実際に戦争を起こした経験があると、二度目はそう簡単には行かなくなってしまうわけで、実際に世界各地で国家間の戦争が起こりにくいのは、過去に戦争を起こした経験から戦争を起こすハードルがそれだけ高くなったことを示しているのではないか。そしてそういう成り行きを政治が利用している現状もあるのかもしれないし、極右的な勢力や極左的な勢力が体制側と反体制側から戦争への危機を煽っているような状況をメディア的に演出しながらも、その他大勢を占める中道的な部分で世論の支持を得るために、それらの極端な政治姿勢とは異なることを行うわけで、それが経済的な方面での政策の推進であり、また国民の生活を豊かにするというような政治宣伝なのかもしれないし、そのような政策に実質的な実効性があるかどうかは定かでないとしても、経済的な面で例えば株価が上がったり失業率が下がったりしてくれば、それが何らかの効果が上がっていることの証拠ともなるわけで、そのような雰囲気を醸し出すことが政治的な手腕として世論的な評価の対象となってしまうのではないか。
 制度というのは何も法律ではっきりと規定されていなくても機能することがあるわけで、近隣諸国との対立から戦争への危機を煽る体制的な極右勢力の政治主張も、それに呼応して体制側が戦争の準備をしていると主張して危機を煽る反体制的な極左勢力の政治主張も、それが延々と主張されているにも関わらず、実際に戦争が起きていなければ、そのように同じことを延々と主張すること自体が制度として確立されていると考えた方がいいだろうし、いったんそのようなことが紋切り型として世の中に受け入れられてしまうと、主張内容としての実質的な効力はなくなるわけだが、そのような制度的な主張を政治的に利用する価値が生じてくるわけで、その中で体制側の極右的な主張は野放しにしつつも優遇することで極右勢力の支持は得られるだろうし、その逆に反体制的な政権批判に関しては、起こりもしない戦争への危機を煽る極左勢力の主張と同一視するように仕向けて、世論の信用を失わせることに成功するわけで、その一方で経済政策に関しても罵詈雑言的な政権批判しかできない経済評論家の類いも、戦争への危機を煽る極左勢力と同一視するように仕向ければ葬り去れるだろうし、実際に株価が上がって失業率が下がっている事実を突きつければ、それ以外の否定的な要素をいくら挙げて批判されても無視できるだろうし、そういう意味で戦争への危機を煽るという行為は、実際に戦争が起こらない限りはフィクションでしかないだけに、それが制度としての紋切り型の政治主張になってしまうと、本気でそんなことを主張している側にとってはマイナス要因にしかならないわけで、やってはいけないことの教訓として、政権批判を行なっている勢力には身に染みて反省しなければならない材料となるのかもしれないが、たぶん何事も経験であり、かつての経験から学ばなければいけないことは、同じことが二度繰り返されるのではなく、一度目は確かに悲劇的な結末を迎えたとしても、二度目はそうならない可能性の方が高いということであり、しかも政治的な主導権を握っている勢力が一度目と同じ過ちを繰り返すほど愚かではないことは確実であり、確かに同じような傾向が見受けられるとしても、少なくともその愚かさは一度目の愚かさとは質が違うことを認識しておくべきで、それでも一度目と同じような傾向が見受けられるとすれば、同じ過ちを二度繰り返しているように見えるから、それ自体が誰が見ても滑稽に見えるわけで、それを演じている当人たちも自覚しているはずかもしれないが、そのそぶりも見せずに大真面目で滑稽な役どころを演じているように見えるなら、さらに見ている人たちは疑念を深めないとおかしいわけで、要するにそれが茶番劇に過ぎないことに関して明らかな兆候があるにも関わらず、一度目の悲劇をまた繰り返しているような気になっているとしたら、そう思ってしまう人たちは悲劇と悲劇の間には茶番劇を挟まないと場が飽きてしまう演劇に関する制度を知らないことになるのではないか。「ヘーゲルはどこかで述べている、全ての世界史的な大事件や大人物はいわば二度現れるものだ、と。一度目は悲劇として、二度目は茶番として、と、彼は、付け加えるのを忘れたのだ」とマルクスが述べたことが、果たしてどんな歴史的な経緯にも当てはまるとは思えないが、こうして世界的にも各国の首脳たちの二度目の滑稽な猿芝居に遭遇しているわけだから、少しはそこから学ばないと、いつまでたっても勘違いが治らないのかもしれない。

 社会の中で人や物や情報に一定の働きを課している決まり切った仕組みが、制度の特性や動作を構成していて、それが一定の動作を保っているとそこで何らかの機能を果たしているわけだろうし、その機能がその制度に依存している人や団体に何らかの恩恵をもたらしているわけで、その制度からもたらされる恩恵というのが直接の金銭的な利益でなければわかりにくい面もあるかもしれないが、たぶん全ての制度が金銭的な利益につながっているわけではないのだろうし、もっと漠然とした形で社会の中で活動している人や団体を活動しやすくしているのが何らかの制度だと考えれば、制度が人や団体の活動を助け支えていると考えてもそれほど間違ってはいないだろうし、そのような活動によってそれらの人や団体に何らかの利益がもたらされているとすれば、制度のおかげで利益がもたらされていることになるわけだ。またそうなっている反面でその制度によって恩恵を受けている人や団体とは別の人や団体は、制度があるおかげで活動しにくい状況となっているかもしれないし、そうやって制度によって活動を抑え込まれている人や団体にとっては、制度が活動の障害となっているわけで、そうだとするとそれらの人や団体にとってはできればそんな制度は社会から取り除きたいだろうし、そうなるとそれらの人や団体は制度によって恩恵を受けている人や団体とは敵対関係にあると言えるわけだが、そこで単純に考えればそこに制度があるから社会の中で人や団体の間で対立が生まれていることになるわけだが、だがそうやって社会の内部で不均衡や不平等をもたらす制度そのものを悪者扱いするのは、結果から物事を見てしまっているわけで、もともと社会の中では様々な人や団体の間で主導権争いが起こっていて、たまたまそこで主導権争いに勝利して主導権を握った人や団体が、自分たちが握っている主導権を永続化させるために自分たちが有利になるような制度を作って、他の人や団体に向かって制度に従うように権力を行使している成り行きがあるわけで、そうだとすると問題なのは制度そのものの存在ではなく、特定の人や団体が社会の中で主導権を握っている状況そのものであるわけで、何かのきっかけでそのような特定の人や団体の主導権が崩れてくれば、それに伴ってそれらの人や団体が維持している制度も崩れてくる可能性があるわけで、そうであるから制度は制度だけで成り立っているわけではなく、それを支え守りそこから利益や恩恵を受けている人や団体とともに成り立っていると言えるわけで、そのような制度によって他の多くの人や団体が損害を被っているとすると、それをなくすには単に制度を改めるよりも、そこから利益や恩恵を受けている人や団体との争いが避けられなくなることを意味するわけで、実際にそれが世界各地で起こっている宗教や宗派などの争いになっていて、また制度が特定の人や団体の生活習慣全般を形成していると、そのような制度を守っている人々は民族と呼ばれるわけで、またそれも世界各地で起こっている民族紛争の原因を作っているわけだ。
 さらにそれが特定の人や団体の資産を飛躍的に増やす働きがあるとすると、その制度は経済活動に関する制度となるだろうし、そんなふうにして何か社会の中で特定の人や団体が主導権を握っていたり有利な状況を実現していると、すでにある既存の何らかの制度のおかげでそうなっているというよりは、新たにそのような制度の成立とともにその制度の恩恵を受けて繁栄する人や団体が社会に存在するようになっているのであり、制度の成立とともにそのような人や団体が出現して、制度の衰退とともにそのような人や団体も消滅していくような成り行きが、歴史的な経緯を形成していて、そうであるなら単に議会で法改正をして世の中の制度を変えるようなやり方が、果たしてどこまで有効性があるのか疑問に感じられてしまうわけだが、そのようなやり方も選挙制度や議会制度などの制度を利用して行われるわけだから、それ自体が制度上で機能している制度内の制度であると言えるわけで、それは制度自体の栄枯盛衰とは異なるレベルでの動作であり行為なのかもしれないが、実際に人や団体が制度内で操作できるのはそういう部分であって、それを超えることはないのかもしれず、それを超える制度外から制度そのものに揺さぶりをかけるような作用は、人や団体が意図して行うような作用の限度を超えていて、そのような意図や目的とは別に、何らかの争いやあるいは争いを止めるような行為から派生的に生じる意図しない作用なのかもしれず、意図して制御できるような作用ではないのかもしれないし、制御しようとしなくても自然にそうなっていくような作用なのかもしれないが、そうであるからこそ人や団体ができることは制度内での意図的な操作しかないとも言えるわけだが、それを積極的に行うとしても行なった結果が必ずしも思惑通りにいくとは限らないわけで、その意図や思惑とそれを行なった結果とのずれが、人や団体の意図しない制度の変動や変化を構成しているのではないか。だから世の中の人や団体の間で不均衡や不平等を生じさせている制度を改革しようとするにしても、思惑通りの結果に持っていくことにこだわりすぎてはいけないのかもしれず、無理に意図したような結果に導こうとして急進的なことを強引に行なった結果、改革の全てがご破算になってしまうこともありうるわけで、そのような失敗を恐れないとしても、まずはできることから少しずつ行わなければならないという矛盾を抱え込みながらも、制度内でその制度そのものの改革を試みなければならず、そんなことは原理的に無理なように思われるかもしれないが、やっているうちに当初に抱いていた意図や思惑とは違う方面で何かができることに気づいてくるような成り行きになれば、また実際に今ままでは思いもしなかったことができるようになれば、それこそが改革そのものなのではないか。それを偶然の巡り合わせと言えばその通りで、結果から見れば簡単に言えることなのかもしれないが、やはりそこに至るまでの間で様々な偶然が重ならないとそうはならないわけで、そんな計算や理屈とは別の作用をうまく活用できれば、結果的に改革を成し遂げる可能性も出てくるのだろうが、その改革というのが当初に抱いていた改革とは違ったものになることも容易に想像できるのではないか。
 そういう意味で自らの意図や思惑と実際に行う行動や活動の辻褄を合わせようとすると、そこから逸脱するような改革の可能性を取り逃がしてしまうことになるわけで、それと同じように世の中で起こっている様々な現象や出来事の中から、ある特定の現象や出来事だけを選んで説明しようとすると、説明者の論理や理屈に適合する現象や出来事だけを説明していることになってしまうわけで、説明とはそういうものだと割り切るなら、説明を鵜呑みにして信じきってしまう危険も生じないかもしれないが、それが世の中の全ての現象や出来事を説明しているわけではないことに気づかないと、説明者にとって都合の悪い現象や出来事を見落としてしまうことになり、それが一見合理的で辻褄の合った説明をしているように感じられるとしても、そういう説明にとっては不都合で辻褄の合わない事例が他にあるとすれば、それが説明者の意図や思惑を知る上で重要な鍵となるわけで、それが意図的であっても意図していなくても説明者が不都合な真実を隠していることになるのかもしれず、制度とはそれを維持して守っている人々にとっては都合のいいことを行いやすくしてくれる仕組みであり、制度があるおかげでうまくいっている事例をいくらでも提供してくれるものなのかもしれないが、その一方で制度の批判者にとっては批判の材料をいくらでも提供してくれる格好の仕組みなのかもしれず、制度の推進者はそれを推進するにあたって合理的で辻褄の合った説明を行いたいわけだが、制度の批判者の方はそれを批判するにあたって合理的で辻褄の合った批判を行いたいわけで、双方とも説明者の論理や理屈に適合する事例を世の中の様々な現象や出来事から選り抜いてきて、自身の合理的で辻褄の合った説明に利用しようとするわけだ。簡単に言えば制度の推進者は成功した事例を持ち出して推進の材料に使いたいわけで、逆に批判者は制度の失敗例を持ち出して批判の材料に使いたいわけで、そして双方ともにその説明に説得力があるとすれば、両者ともに自身の説明にとって都合の悪い事例を取り上げようとしないからで、そのような説明を用いて制度を推進することも批判することも結果的には欺瞞的な詐欺行為になってしまうかもしれないし、双方ともに欠けていることは、制度によって恩恵を受けている面と弊害を被っている面の両面を伝えないことにあるわけで、その両面がないと世の中で実際に制度が機能していることがリアリティを伴わなくなってしまうわけで、制度の推進者にとっても批判者にとってもその説明自体がフィクションとなってしまうわけだが、もちろん世の中にはリアリティを伴うようなフィクションもあるわけで、そのようなフィクションにはその作者や話者の意図や思惑を超えるような作り話が構成されているからリアリティを伴うのだろうし、制度もその推進者や批判者の意図や思惑を超えて機能している面があるから、その推進者や批判者も巻き込みながら人々を一定の動作に導いているわけだろうし、その一定の動作の中には当然のことながら制度を推進するような動作も含まれるわけだが、さらに制度を批判するような動作も誘発しているのかもしれず、例えば制度への批判が批判者を特定して黙らせようとしたり、黙らせることができなければメディアの周縁地帯に追放して無力化したりする機能も作動させるのだろうし、そういうことも含めて制度が世の中で機能しているのではないか。
 だから安易に説得力のある制度に対する批判を信じてはまずいわけで、特に批判者にとって都合のいいい論理や理屈を用いて批判を展開している場合は、それに合うような事例しか持ち出して来ないわけで、特に一方的な批判には独善的な傾向があって、そんな批判に乗っかって自分も同じように批判しだすと途端に梯子を外されてそれっきりとなりかねず、そのような批判詐欺には引っかからないようにしておかないと、いつまでたっても二項対立を用いた単純で予定調和的な論理や思考から抜け出せなくなってしまうのではないか。現に世の中で制度が機能しているということはそれによって人々が恩恵を受けている面があるということであり、少なくともそこで一方的な搾取が行われているわけではなく、制度の利用者にも利益がもたらされているから、搾取を受けながらも制度を利用している人が大勢いるわけで、そこに恩恵と弊害が同時に生じていてしかも弊害だけを取り除くわけにはいかない事情があるから、実際に制度が成り立っていてそれなりに利用者の役にも立っているわけで、しかもそうした人は必ずしも制度の批判者の味方とはならないだろうし、逆に制度の推進者の方に恩義を感じている場合まであるわけで、実際にそのような制度を利用しているから生活が成り立っているとなると、もし制度がなくなってしまったら生活が成り立たなくなる危険もあるわけで、そうなると制度の弊害だけを訴える批判者は制度の利用者からは支持されなくなる可能性が出てくるわけで、そうなるとそのような批判を支持しているのは制度を利用していない部外者だけとなってしまう場合まであり、それでは批判自体にリアリティが伴わなくなってしまうわけだ。ならばどうすれば批判にリアリティが伴うのかとなるのだろうが、たぶん批判しているだけではリアリティが伴わないだろうし、結局は制度の批判者は制度の利用者との連携を模索しなければならなくなり、批判しているだけではなく制度の利用者を助けるような行動を起こさなければならなくなるわけで、そうやって利用者との関係を構築しながら制度の改善に取り組まなければならなくなるわけだが、そうなると結局は批判者も制度の利用者となるしかないだろうし、利用者の立場から制度の管理者や推進者と交渉や取引を行わなければならなくなるのではないか。そうやって制度に巻き込まれていってしまうと、いわゆるジャーナリズム的な立場とは違った傾向を伴うようになるだろうし、あまりにも制度に近づきすぎると制度の推進者と変わらなくなってしまうこともあるだろうが、そうなってしまうのも制度の機能なのかもしれないし、制度と自身との距離の取り方によって批判が成り立つ場合と成り立たない場合があるのかもしれず、要するに制度に関わって近づきすぎた人は制度の推進者となり、制度と常に距離を保ちながら直接の関係を持とうとしない人は制度の批判者に留まるのかもしれないし、そうやって制度との関わり合いの違いが立場の違いをもたらしているのも、制度の機能とみなしても良さそうに感じられなくもなく、世の中で何らかの制度が動作していて一定の機能を保っていると、その機能の一つとして制度に対する推進者と批判者の両方を生み出すような機能も制度自体に備わっているのかもしれない。
 制度の中でも仕組みや動作が法律で細部まで詳細に規定されているものは公的な制度であるわけだが、宗教や生活習慣などに伴った制度は法律で規定されている範囲を超えて、慣習的な決まりによっても規定されていて、そうなると法律を守っていても制度に従うには不十分な部分が出てくるわけで、その法律では規定できないような部分が、制度に従う上で理不尽に思われてくるのだろうし、そこで暗黙の了解事項のような慣習的な儀礼を損ねると、そのような儀礼を守っている他の人たちから非難されたりするわけで、場合によってはそのような儀礼を守る人たちとそれ自体を知らない人たちとの間で争いが起こってしまったりするわけだ。だからと言って人の全ての動作や習慣を法律で規定することはできないだろうし、実際にその必要がないから慣習的な決まりが法律を補完するような形で世の中に浸透している実態があるのかもしれず、それを守るか否かは法的にはその人の自由な裁量にまかされているといった方が無難なのかもしれないが、普通に社会の中で暮らしていると同調圧力のような形で有形無形の慣習に従うように仕向ける行為が伴ってくるわけで、普通は従わないと角が立つからなるべく従うように心がけるのだろうし、そのような慣習的な決まりは地域ごとに異なる場合もあり、郷に入れば郷に従えということわざもあるように、長い歴史があるような独自性の強い地域で暮らすようなことになれば、なるべくその地域に根付いている独自の慣習に従った方が無難なのだろうし、その場の状況次第の面もあるのだろうが、理不尽に思われるような慣習には従わない場合には従わなくても暮らしていけるような何らかの力が必要とされるだろうし、それが政治的な権力であり金銭的な経済力であるのかもしれず、実際に近代的な国家と資本主義経済の成立と繁栄に伴って、それ以前の伝統的な儀礼や慣習に基づく様々な制度が破壊されてきた歴史的な経緯があるわけで、それと入れ替わって主流となってきたのが、法律によって動作や仕組みを細く規定された公的な制度だと言えるのかもしれず、もちろん旧来からある伝統的な制度も全てが破壊されてしまったわけではないし、時代状況の変化や国家や資本主義経済の中で、状況に合わせた様式に変形を被りながらも生き残っている制度も数多くあるのかもしれないし、それらの制度と法律で規定された公的な制度とが社会の中で複雑に絡み合いながらも並存していることは確かで、それらの制度の中で何を優先させるかに関しては人とそれぞれの制度に対する関わり合いの中で決まってくるのだろうし、たまたま伝統的な制度には関わりのない立場でいられる人からすれば、伝統的な制度に従っている人のこだわりには理解しがたい面があるのかもしれないが、逆に伝統的な制度に生活の隅々にまで浸されている人には、それとは無関係な人は単なるよそ者にすぎず、そういうレベルで両者の間に相互理解が生まれるきっかけは生じないのではないか。
 そうだとしても対立するような接点がなければ両者の間で争いが生じることはないだろうし、たとえ同じ地域や国の中で暮らしていても交わることがなければ取り立てて問題は起こらないわけだが、そこにメディアが絡んできてお互いがお互いの存在を知るようにでもなれば自然と無理解な両者の間で反感が芽生えるかもしれないし、両者ともにメディアを通して自らの立場を正当化したい衝動に駆られる事態も予想され、そんなふうにしてメディア上で何らかの制度を擁護したり批判するようなイベントが生じれば、それに呼応して他の人たちも擁護するか批判するかのどちらかの陣営に分かれて対立するような成り行きになるかもしれず、そうなるとメディアという制度が何らかの制度に起因する対立感情を煽っていることにもなるのだろうが、ただメディアという制度自体も取り上げて流通させる様々な情報に付加価値をつけることを介して利益を作り出そうとしていて、そのような情報の発信源としての立場を固定化して守ろうとする傾向にもあるわけで、その情報を他の競合するメディアや関わりのない一般人に勝手に流用されてしまえば、著作権という権益を侵害されたことになるだろうし、場合によって法的な制度に訴えて損害賠償を請求するような成り行きになるかもしれず、要するに制度の擁護者は自分たちの権益を侵害されることを最も嫌うわけで、伝統的な制度の擁護者にとっては、制度に無理解なよそ者が土足で自分たちの領域に踏み込んできてその場を荒らすような行為を恐れるわけで、たぶんメディアによってそのような伝統的な制度が紹介されて、それに関してよそ者がああだこうだと癇に障るようなことをコメントしてしまう事態は許されないだろうが、しかしもしかしたらそういうことを積極的に行うのがメディアという制度だとしたら、結局メディアを通じて何らかの制度に関して人々の間で対立感情が煽られるような事態が、メディアという制度が社会の中で機能した結果として生じる必然的な成り行きなのかもしれず、メディアを通して世界を知るという行為はそれを利用して情報を受け取る人々の間で何らかの争いを招く可能性があるということであり、確かにメディアを介して人々の間で相互理解をもたらす面もあるかもしれないが、無神経な接触や理不尽な宣伝行為を介して無用な対立や争いが起こる可能性もあるわけで、そうなるとメディアという制度を利用することでも、恩恵と弊害の両方がもたらされるわけだが、それに関して普通は弊害が起こらないような配慮がメディア側に求められるだろうが、どんなに気をつけていても起こる時は起こってしまうわけで、メディアという制度はそうやって社会をかき回すような作用があるかもしれないのだが、もしメディア上で癇に障るようなコメントや不快な情報の取り扱いに遭遇したら、そんなふうに不快に感じられてしまう自分自身が、そうやってメディアが伝えている対象となる何らかの制度の擁護者であることに気づかされるのではないか。

 法律はやってはいけない行為を規定して社会の中で暮らす人々の活動を規制するわけだが、その一方でやってはいけない行為をやった場合の処罰規定も定めていて、それを厳密に解釈すると法律が重視しているのは、やってはいけない行為よりはそれをやってしまった場合の処罰規定であり、人がそれをやってしまうことに関しては十分に承知していて、やってしまったことが発覚した場合は公的機関が罰則を科すようなルールにしているわけだ。それが何を意味するのかというと、人の活動に公的機関が介入する口実を法律が与えているわけで、介入することが公的機関による権力の行使になるわけだが、社会の中で人や団体が争ったり交渉したり取引する上で、公的機関の介入を必要としている場合があり、そこで利益が発生すれば課税して、損害が発生すれば損害を与えた側を処罰したり損害を被った側を救済しなければならず、そのような課税や処罰や救済などが公的機関の権力の行使によって実現すると考えれば、その権力の行使の正当性にも納得できるだろうか。少なくともそのような介入によって救われた人や団体は納得するかもしれないが、課税や罰則を科された側は納得しないかもしれず、場合によっては不服申し立てなどの制度も利用できるわけだろうが、公的機関側に明らかな過失がない場合は受理もされないだろうし、法律上は公的機関による正当な根拠に基づいた権力の行使には逆らえないわけだろうが、そもそも公的機関とは何かと言えば、普通に考えればそれは行政機関や裁判所などの司法機関が思い浮かぶわけだが、一般的に言って司法制度が社会の中で有効に機能していれば、人や団体が他の人や団体から一方的に攻撃されたり搾取されるようなことは抑制される傾向になるのだろうし、その抑制される傾向というのが、違法行為が処罰される限りで、という条件がついた上で抑制される傾向が生まれるわけだが、そのような行為が全く行われなくなるということではなく、実際にはひっきりなしに行われていて、そのような行為が発覚すれば裁判などで裁かれて、行なった当事者が処罰されるということであり、それによって違法行為が抑制される傾向になると言えるとすると、そのような制度がなかった場合と比較してそう言えるかもしれないということだろうが、すでにそれがある現状の中では比較できないわけだから、もしかしたら別に司法制度があろうとなかろうと犯罪行為が抑制されているわけではないのかもしれないが、少なくとも実際に被害を受けた側にしても被害を恐れている側にしても、そのような制度がないと困るだろうが、そう思うのは司法制度があるという前提の中で暮らしているからそう思ってしまうわけで、それが司法制度がないか機能していない地域や国で暮らしている人々にとってはどうかというと、そのような前提が成り立っている地域や国の住民が想像できるようなことではないのかもしれない。
 比較するという行為がいつも理不尽な比較を当然のこととしているわけではないのだろうが、司法制度が正常に機能している状態というのが、どのような状態を正常とみなすかによって、それに対する認識も異なってくるだろうが、正常と異常とを分ける境界をどう取るかによっても、認識が異なってきてしまうだろうし、結局は現状で機能している司法制度をどう評価するかということであり、それとの比較で何が正常で何が異常な状態なのかを相対的に判断するしかないのかもしれないが、個々の事例に関する司法の判断が公正かつ公平な判断だとは思えなければ、判断された当事者が抗議するしかないだろうし、それに世間的な話題性があればメディアなどを通じて社会問題化されて、抗議の輪が世の中に広がって行く場合もあるだろうし、さらにそれが政治問題化されて議会などで取り上げられるようなことにでもなれば、場合によっては司法改革などの機運が高まる可能性も出てくるだろうが、それに関しては純粋な司法判断とは言えないような事例もあって、例えば政権や行政が推進している事業などの反対運動をやっている団体が、それに関する差し止め請求などの司法判断を求めているような場合もあるわけで、そういう場合に司法が政権や行政寄りの判断を出せば、反対運動をやっている団体が行政と司法の癒着だと批判してしまうわけで、実際に構造的にも司法機関は行政機関から派生しているような形態であるから、そういうところで法の下での公正な判断がどうあるべきなのかは微妙なところかもしれず、そこから司法の欺瞞を暴くような印象操作もできないことはないだろうが、それは同時に政治的な問題でもあるわけだから、そのような事例は執拗に司法判断を求め続けるよりも、政治活動の方で解決を図らなければならない面もありそうで、実際に政権交代を実現させて行政が推進する事業を転換させるしかやりようがないのではないか。またそうである限りにおいて純粋に制度の無謬性や完璧さを期待するのは無理なのかもしれないし、制度は人や団体がそれを活用して権力を行使したり利益を得たりするものと認識しておくべきなのかもしれず、制度だけで成り立っているわけではなく、それを活用する機関とともに成り立っていて、それを活用して権力を行使したり利益を得ている機関が制度を管理し運営していて、その管理運営機関に対して利用者が求められるのは、その機関自体に害が及ばないような範囲内でしかないだろうし、その機関の在り方を決めるのはその機関が属している権力機構の意向が絡んでくる面が大きいだろうし、結局はそのような権力機構が何から生じているのかが、その一翼を担っている制度を管理運営している機関にも影響が及んでいるわけで、やはりそうなってくると最終的には政治問題として民衆と行政との関係をどのような形態にしていくかが問われてくるのではないか。それに関しては果たして民衆は行政の主人になれるのか、それとも民衆は行政の単なる管理対象でしかないのか、という二者択一とは異なる関係を模索することが果たして可能だろうか。
 制度を管理運営しているはっきりとした機関が存在する場合は、そのような制度の仕組みや動作は法律によってはっきりと規定されているだろうが、世の中の慣習に基づいているような制度だとわかりにくい部分もあるだろうし、場合によってはそれが制度だとは認識できないかもしれないが、そこで暮らしている多くの人が何らかのしきたりのようなことを頑なに守り従っているような場合は、そのような慣習がその地域に根付いていると考えることもできるが、それを一種の制度だとみなすこともできるだろうし、そういうところで制度と慣習の境界が曖昧になってくるかもしれないが、それが宗教になると自然崇拝などの曖昧なレベルでの信仰が主流となっている段階では慣習的な傾向が強いが、教団などが組織されて集団内の信者の間で役割分担などがはっきりしてくると、戒律などが整備されてそれに基づいた宗教教団の管理運営体制が固まってくるにつれて制度的な傾向が強くなるのではないか。そのような例から考えれば、社会の中で何らかの集団が活動していて、その集団内で構成員の役割分担がはっきりしていて、集団として統率が取れているようだと、そのような集団は組織化された制度的な集団だとみなすことができるだろうし、それに比べて特にはっきりした目的がなくて何となく群れているような集団だと、あまり組織化されているとは言えないだろうし、集団内で掟もなければ規律も統率も取れていないだろうし、その代わりに自由はあるのかもしれないが、そのような集団で間に合っているうちは制度は不要なのだろうし、それで済むならそれに越したことはないのだろうが、それでは済まなくなってくる事情というのが、集団内で起こる争いや諍いなどであり、また他の集団との争いや諍いなども起こるわけだが、そんなことがきっかけとなって徐々に法整備が始まってしまうのだろうし、そうなると集団そのものの管理統治が問題となってくるだろうし、集団の規模が大きくなるにつれてそれを専門に行う組織も編成されてきて、それが官僚機構となるわけだろうが、果たしてそういう成り行きが自然な推移なのかは、歴史的な経緯がそれを示しているとすれば、それが自然な推移であることを認めざるを得ないのかもしれないが、それとは別の方向がないわけではなかったのかもしれないし、現状でもそのような集団的な制度化とは別の方向への作用も働いているのかもしれない。というのも実際に世界が一つの制度では統一されていない現状があるわけで、国も制度もある程度はばらけている現状があるわけだから、そんな現状が制度化の限界を示しているわけで、国連などを通じて世界の統一的な制度基準を作ろうとする動きはあるのかもしれないが、各国の利害が錯綜していてそれに伴って同盟関係や敵対関係も複雑に絡み合っている現状があるわけだから、なかなか世界が一つの制度で統一されるには至らないだろうし、その先の一つの行政機構による世界統一も現時点では時期尚早というよりはほとんど考えられないことなのではないか。
 現状から考えられることは国ごとの制度化は一応は実現しているわけだろうが、国家の枠を超える制度化にはうまくいっていない面が多いだろうし、国家の内側でも官民の様々な制度が乱立している状況にもあるわけで、形式的には一つの制度によって国家の統一が図られているわけだが、その制度を規定している法律も、行政機構による権力の行使によって維持されているだけで、法律が守られないことを前提として罰則規定を設けなければならないわけだから、制度による国家や国民の管理統治が完璧に行われているわけではなく、厳密に言えば隙だらけで綻びだらけの制度であり法律なのではないか。そしてそれを完璧なものにする必要はないだろうし、現実にできないのだから現状では絶えず違反者を取り締まらなければならないわけで、そのような取り締まりを通して行政機構が制度を維持管理している実態があるわけだ。つまり自動的に制度によって管理統治が行われているわけではなく、公務員の絶え間ない労働によって管理統治が行われているわけだろうが、それが何を意味するのかと言えば、常に管理統治が行き届かない面があるわけで、実際に違反者を取り締まる度にそのことが発覚して、全ての違反行為が取り締まられているわけではないことを考慮すれば、もしかしたら管理統治されている部分よりもされていない部分の方が大きいのではないかとも考えられてしまうわけで、要するに四六時中管理統治が実現しているわけではなく、取り締まりが行われた時だけ管理統治が実際に行われていることになり、それ以外の時間帯では国民が善意から制度に従っていることを祈るしかないとも言えるのではないか。もちろん形式的には違反行為を行なっていなければ制度に従っていることになるわけだから、別に従っている意識がなくても従っていることになるのだろうが、結局そういうところは心理的なレベルでそうなっているとしか言えないのかもしれず、客観的に制度に従っているとは言えず、制度やそれを規定している法律を意識しなくても、普段何気なく暮らしている限りで結果的に違反行為を行なっていなければ制度に従っていることになり、たまたま何かのきっかけで違反行為を行うような成り行きに巻き込まれてしまえば、制度に従っていないことになるわけだから取り締まりの対象となってしまうだろうし、そういうことを考慮すると人が意識して制度に従うように心がけるような局面は、普通に暮らしている中ではあまりないのかもしれない。そうだとすると制度やそれを規定している法律は、何も守ることを意識しなければ守れないようなことばかりではなく、また従うのが苦痛であるようなことばかりが規定されているわけでもなく、その大半が普通に暮らしていれば特に意識しなくても守れるようなことや、意識して従うように心がけなくても従えるようなことであり、そのようなことが法律で規定されて制度として守られていれば、少なくともそういうことに関しては特に取り締まる必要はないわけだ。だから世界の多くの地域で平和な状態が実現しているわけだろうが、その反面で複数の制度の間で深刻な相違がある地域では、それぞれの制度の擁護者の間で争いが絶えないわけで、実際に紛争地域では深刻な相違のある制度の擁護者の間で戦闘が起こっているのではないか。
 またそれに従っていても特にはっきりとした利益を伴わないような制度は、なぜそれが世の中で動作しているのかわかりづらい面があるかもしれないが、その機能すらはっきりしないような制度として何らかの慣習を伴った制度があり、その代表的なものが宗教的な儀礼を伴った制度になるのではないか。そのような制度はかつてはそれを行うことによって何らかの利益が生じていたのかもしれないが、歳月が経つにつれてその儀礼を伴った宗教自体が廃れて、はっきりとした利益がもたらされなくなった後も、慣習として儀礼だけは継続して行われる成り行きとなり、それ自体が形骸化した制度として存続している場合があるのかもしれない。そのような制度も全く利益を生じないわけではなく、儀礼自体が見せ物として観光的な機能を持っている場合があり、その儀礼を観に多くの人が集まれば、そこに祭りとしての興行収入が生じるわけで、そのような観光収入で成り立っているような都市も世界各地には数多く存在しているだろうし、中には人々の娯楽的な欲求を満たすために街全体が観光収入を目当てに作り変えられてしまった都市まであるのではないか。もちろん世界の全ての都市がそうなる傾向があるわけではなく、観光都市として成り立つには古い歴史的な建造物が数多くあったり風光明媚であったりカジノなどのギャンブル施設が備えられていたりと限られた条件が重ならないと観光都市にはなれないわけだが、都市自体がその周辺域から人が集まってくるような魅力があることは確かで、そこが交易の中心地となるからそこに人が集まって商売が行われることになるのであり、商業で街が栄えると人が常駐するために建造物が多く建てられることにもなるだろうし、だから都市になると言えばそれは当然のことなのだろうが、そこで交易に伴う商業の制度や都市の治安を守るために行政の制度が生じることにもなるわけで、さらにそこで蓄積された富を目当てに様々な勢力が集まってきて、自分たちの利権を作り出そうとするわけだが、その利権の一つが税を徴収することであり、都市を武力で制圧して税を徴収してその財源で王朝を打ち立てるような行為が歴史的に繰り返されてきた経緯があり、そのような王朝の儀礼的な部分が形骸化を被ると同時に税を徴収するという実利を求める部分だけが残って、結果的に近代的な国家形態が生じた経緯もあるわけだし、そういう意味ではっきりとした利益を伴わないような制度は、制度が歴史的な変遷を経て形骸化を被った成れの果てを示している場合もあるだろうし、現時点ではその機能がはっきりしない制度も、歴史のある時点でははっきりした機能を伴っていて、それなりに利益をもたらしていた時期もあったのかもしれず、制度にも時代の変遷を経るに従ってその役割や機能に変化が生じるとともに、その有効性にも限りがあり、他の制度に役割や機能を奪われたり、形骸化を伴いながらも儀礼的に存続している制度も中にはあるわけだ。
 そうだとすると制度の目的というのは、制度が形骸化を被った後では当初の目的自体が無効となってしまうのかもしれず、それでも制度自体が存続している場合は別の目的が付け加えられている場合があるわけで、例えばそれが観光目的や娯楽目的であったり、中には儀礼を継続することだけが目的化している例もあるだろうし、何かそれによって制度自体の存在意義が薄れてしまうような作用が働いているのかもしれないが、そうであるなら現状ではっきりした目的があって、それが社会の中で有効に機能しているような制度であっても、その目的が永続するとは考えにくいだろうし、現状で有効に機能している制度であっても絶えず形骸化作用を被っているとすれば、制度を管理している機構の方でもそれへの対処が欠かせないだろうし、実際に制度を維持するためにあらゆる手段を講じているだろうし、それが実際に制度を社会の中で機能させるために行う権力の行使であるのだろうが、それをずらすような作用が経年劣化に伴う目的の曖昧化なのかもしれないし、それに関して例えば近年目立ってきたのが、戦争の目的がはっきりしなくなってきたことであり、戦争本来の目的である敵国へ侵攻して領土を奪う行為が、国際的に非難されるようになってきたことに伴って、その非難をかわすための言い訳として出てきたのが国土を防衛するための戦争であり、侵略戦争は許されないが防衛のための戦争なら許されるという屁理屈がまかり通ってしまう傾向にあり、侵略戦争がなければ防衛のための戦争などありえず、両者が一体となって戦争が成り立つのに、その片側だけは正当化したいという現実に行われる戦争の実態を無視した無理な解釈を通用させようとしていて、戦争の定義という言葉の意味のレベルで戦争の目的をずらす行為が行われているわけで、それも実際に戦争を行わずに軍事演習ばかりを定期的に行なっている軍隊の儀礼化とともに戦争という制度の形骸化を物語っているのかもしれないが、実際に戦争が行われている地域では外国へ軍事侵攻するのではなく、国内で武装勢力同士の内戦が行われている傾向があるわけで、それが侵略戦争ではない祖国防衛のための戦争という大義名分をかろうじて成り立たせているのかもしれないが、その現代的な戦争の傾向である内戦の慢性化という自体が何をもたらしているのかというと、単に国土の荒廃をもたらしているだけで特にどの勢力に利益をもたらしているわけでもないだろうし、あえて言うなら武器を供給している側に利益をもたらしているのかもしれないが、結局それは外部から武器が供給されているわけで、そうであるなら別に外国から軍隊が侵攻してくるわけではなく、単に外国から武器が供給されてくるだけで、武器を供給する側の目的は武器を使って消費してくれるだけでいいのであり、特に戦火で荒廃した領土が欲しいわけでもないだろうし、そんな国土など何の利用価値もないわけだから、わざわざ武力侵攻する目的が生じないわけで、そこでも戦争の目的がずれてしまっているのだろうし、制度の目的がずれてその形骸化が進行していると言えるのではないか。そしてそこに武器の代わりに一般的な商品を当てはめてみれば、普通の意味での経済的な輸出戦略が姿を表すわけで、商品を輸出する側にしてみればその国に武力侵攻するのではなく、供給した商品を消費してもらえればそれによって利益を得ることができるわけだ。

 制度の形骸化はその本来の目的の代わりに新たな目的として儀礼への執着を生むのかもしれないが、何か礼儀作法のような決まりきった動作を頑なに守ろうとする態度は本来の動作の形だけを忠実になぞっていることを示していて、かえって何も考えずに同じ動作を繰り返すことが、特に目的を意識しなくても動作の継続を保つ上で重要となってくるわけで、そうなっている段階ではすでに儀礼を継続することが目的化していると言えるだろうし、実際にそれを繰り返していることが動作がまだ有効に機能しているような実感を伴うわけだが、そのような繰り返しの動作自体の自己目的化がすでに当初の目的に取って代わってしまったことを明かしているとも言えるわけで、何のためにそんな動作を繰り返すのかを深く考えなくてもいいように、延々と同じ動作を繰り返すことに執着しているわけだろうが、実際にそうなってしまうと、それを繰り返している共同体の内部では、暗黙の了解事項としてそのような動作が通用するにしても、本来の目的を知らない外部の者には全く理解不能な動作となるわけで、そうなってしまうと動作そのものはある程度の長期間は維持できるだろうが、外部へ向かっての発展性が消失してしまうわけで、実際にそうなってしまったものは伝統芸能や密教的な宗教の閉鎖的な形態を保ちながら続いていくのだろうが、次第にジリ貧となることは確実で、そのようなごく限られた人々の間で保存される制度は社会全体への影響力が欠如しているわけだ。そうだとすると逆に社会全体に影響を及ぼすような制度とは何かとなるわけだが、それは実際に社会全体に普及している制度だと言えるだろうし、例えばそれは商品と貨幣の交換に関する経済行為に伴って動作する制度だろうし、またそれは行政機構が法律に基づいて領土や領民を管理統治するための制度になるだろうが、それらさえも絶えず新たな制度に取って代わられる可能性がないとは言えないだろうし、それに関して効率やコストなどを考慮したり世の中の流行現象などから影響を受けて新たな制度が生じる可能性があるわけだろうが、実際にも商品と貨幣の交換に関して分割払いだとかクレジット決済などの制度が生じてきたわけで、また行政機構の管理統治形態にも国家の枠を超えたより広域な統治形態としては帝国という支配形態や、それよりもゆるい統治形態としては連邦制とか、また多国間の同盟形態として国連という枠組みも模索されている最中だし、実際には取って代わるというよりは複数の制度が競合状態になることの方が多いかもしれないが、逆に言えば一つの制度だけでは世の中がうまく回っていかないことも示しているわけで、なるべく複数の制度を混在させてその中から状況に応じて最適な制度を選べるような成り行きにでもなれば、効率やコストや利便性などの観点からすれば理想に近づくかもしれないが、実際には制度が機能する状況が社会の中で生じていないとその制度が利用されないわけで、利用されない制度は廃れるしかないわけだが、無理に儀礼目的で存続させようとするにしても、結果的に何らかの制度が社会の中で動作している状況があるとすれば、実際にその制度を利用している人が存在しているから制度が動作しているわけであり、少なくともそれ以外ではないことは確かなところなのではないか。
 そうであるなら現状で成り立っている制度で実際に間に合っているはずなのだろうが、それだけでは不都合や不具合が出てくるから既存の制度の改善や新たな制度の模索が生じるわけで、絶えずそのような試みが生じないと社会がそこで停滞してしまうとも言えるわけで、それでも構わないのならそう思っている人は、すでにある制度から生じる既得権益の恩恵に与っている人たちだろうし、そうではない人や現状に不満がある人は絶えず自らに有利な状況へと社会情勢を持っていきたいわけだろうし、そのようなことを積極的に行なっている人や団体が社会を動かしているとも言えるかもしれないが、そのような行為からも絶えず不都合や不具合や不均衡や不平等が新たに生じてくる可能性もあるだろうし、結局は利害関係を伴った様々な方面から及ぼされる作用のせめぎ合いによって社会の流動性や可動性が生じているわけだろうが、そこで一定の価値基準が定められている場合はその価値基準の変更を求めるような作用も生じてくるのだろうし、たぶんその場を支配するような制度とともにその制度を支えるような価値基準もその場を支配する価値として機能していて、そうなるとそのような支配に抵抗する勢力も台頭してきて、その場を支配する制度や価値基準とは対立関係を形成しようとするわけで、そのような対立状態もその場で機能する制度ともなり、対立するどちらかの陣営に属さないと、そのような制度からは外れてしまうわけだろうが、だからと言ってそれだけがその場で機能する制度であるわけでもなく、他の制度も社会の中で並存していればそちらからも利益を得られる成り行きにもなるだろうし、支配的な制度がメディアを通じて大々的に喧伝されているような場合でも、そのようなことが行われている時点で、別の制度があるからその制度が特に強調される事態ともなっていて、そういう面ではその制度の効率性とかコストパフォーマンスとか利便性などよりも流行現象の面がより大きく関与している可能性が高いだろうし、そういう現象を注意深く探ってみると、その制度のマイナス面が意外に多く指摘されていることも目につくだろうし、そういう意味で何か流行現象のような動きがメディアを中心として出てきたら、あまり深く考えずにそのような現象を煽っているメディアが多いことに気づかされるだろうし、民衆の側でもあまり深く考えずにそのような流行現象に乗っかって支配的な制度を利用してしまうと、後から思わぬ副作用や弊害が出てきて、かえってそのことで苦しめられる結果を招いてしまうのではないか。例えばそれがサラ金などを利用しすぎて多重債務を抱えたり自己破産に追い込まれたりすることにもなるわけで、また政治家が支援者の地元企業への口利きをやりすぎて、行政と癒着して公共事業などの予算を増やしすぎた結果として莫大な財政赤字を出してしまったり、企業の方でも行政と癒着しすぎると安易に利益を出せるから産業自体の活力や競争力がなくなってきて、海外の企業との価格や品質などの面で競争に太刀打ちできなくなってきて、苦し紛れに製品の偽装や業績の粉飾を繰り返して自滅するような成り行きにもなってきているのかもしれないし、そういうところでも同じ動作を繰り返すための偽装と粉飾という制度の形骸化と儀礼への執着を生むような結果を招いているのかもしれない。
 そのような形骸化を避けて社会の中で有効に機能するような公的な制度を社会に定着させるには、その制度に民衆を従わせるための法律が制定されることが多いわけだが、その法律の内容としては民衆が守れることを想定した内容となるだろうし、できれば権力を行使して強制的に守らせるようなことはせずに、民衆の方から喜んで法律を守ることを受け入れるような内容にできれば、法律を制定する側が民衆から支持されるだろうし、民衆からの支持を背景として政治的あるいは行政的な主導権を握ることにもなるのではないか。そのような制度を実際に行政が必要としているとしたらそれは具体的に何になるだろうか。それに関してありふれたことを述べるならそれは民主的な政治制度となるわけで、公正で平等な選挙によって議会の議員や行政の長などが選ばれて、そこで政治が行われるような成り行きになれば、一応は民主的な政治制度が成り立っていることになるのだろうが、実際にそのような制度が成り立っているように見せかけられている面はあるのだろうが、世界各国では内情が違っている場合が多いのだろうし、そのかなりの部分で政治を行政側のコントロール下に置いている実情があるわけで、行政が政治制度を通して民衆をコントロールしようとする思惑が働いていて、政治が民衆に対する管理統治の手段となっている面が大きいのではないか。そのような実態が何を意味するのかというと、制度自体に民衆の支持を取り付けているというお墨付きを持たせるには議会の了承を必要としていて、それには民主的な議会選挙が必要であり、また行政による民衆の管理統治という実態を民衆に受け入れさせるには、民衆の代表者が行政の長になっていれば、形の上では民衆の代表者による行政の管理統治が成り立っていることになるわけで、そうなっていれば行政の意向にも民衆が従いやすくなって、結果的にその管理統治もやりやすくなるわけだろうが、実質的には本当にそれで民衆による行政の管理統治が成り立っているかというと、選挙などで選ばれる民衆の代表という立場を占有している人が、本当に民衆の代表者なのかということになるわけだが、民主的な選挙が行われていれば形式的にはその通りだとしか言えないわけだが、実質的にはそうでもない現状があるわけで、実際に選挙で選ばれて行政などの官僚機構の出身者が行政の長や議会の議員になっている場合が多いのだろうし、またそれ以外の一般人が議員や行政の長になっている場合であっても、その周りに行政機構の官僚たちが補佐役として配置されて議員や行政の長がそれらの官僚たちの助言や提言を受け入れる成り行きになっているわけで、そうなると選挙で選ばれた代表者たちの意のままに行政を運営するわけにはいかなくなるだろうし、しかもそもそもの行政の機能や役割というのが一般の民衆の意向を反映させるような余地がない場合まであるわけで、そうなると誰が行政の長になったとしてもその役割や機能に差がなくなってしまうような事態まで生じかねず、そうなると特に行政の長が誰であっても行政自体の役割や機能は変わらないことになるわけだ。
 実質的に行政に民衆の意向を反映させることは何を意味するのだろうか。それ以前に民衆の意向とは何かということが曖昧なのかもしれないが、それに関してはメディアの世論調査などから浮かび上がってくる民衆の意向らしき要望の類いを真に受ければ、そういうものだと信じるしかないのかもしれないが、果たして行政に必要なのは民衆の意向に従うことなのだろうか。それに関しても民主的な政治制度の目的を肯定的に解釈するならそうだとしか言えなくなるわけだが、どうもそのようなアプリオリな前提が疑問に思われるような役割や機能が行政にはあるのかもしれず、それが民衆の管理統治という動作なのだろうし、それを正当化するために必要なのが選挙などの民主的な政治制度であるわけで、果たしてそのような制度を民衆が積極的に利用できるかというと、どうも現状ではそうでもない面があると言わざるを得ないだろうし、もしかしたら選挙という制度自体に民衆を欺くようなまやかしが含まれているのではないかと疑いたくなってくるわけだが、ではそれ以外に何があるのかという問いを設定してしまうと、当然のことながら選択肢が限られてくるわけで、そういう方面で突き詰めて考えてしまうと、選挙以外にはあり得ないという答えに行き着いてしまって、それこそ民主主義の罠にはまってしまうのかもしれないが、そこに制度があるからそれを利用するという受動的な態度から自由になるためには、制度自体を疑ってみるしかないことも確かで、まずは民衆の意向を行政に反映させることが本当に必要なのかというだいぶ反動的な問いを設定してしまうわけだが、そうなるとやはり行政に反映させるべき民衆の意向とは何なのかという循環論的な問いも出てくるわけで、結局そのような制度はそのような問いを巡って循環しながら、正確な答えが出てこないようなシステムとなっているかもしれないし、それに対する苦肉の策として選挙を行なって暫定的な答えを出すような成り行きになっているのかもしれず、その暫定的な答えが果たして民衆の意向を反映しているのかに関しては、選挙結果を肯定的に受け止めるならそう思うしかないだろうし、結果を否定的に拒絶するような人にとっては、何やらそこに陰謀らしき策略が巡らされていると疑うような成り行きにもなるだろうし、どちらにも受け取れるところが選挙のいかがわしさを印象付けているとも言えるのかもしれないが、行政側としては選挙結果からはっきりとした民衆の意向が導き出されない方がいいのかもしれず、そうである限りにおいて行政側の民衆に対する優位が確立されていることになるのかもしれない。要するにそれは民主的な政治制度の無効を意味しているわけだが、無効であるからこそそのような制度は維持させるべきで、無効な制度を維持することがその制度の利用者をコントロールすることにつながるとすれば、その無効な制度の利用者には利益がもたらされていないこととなり、ではその利益がどこへもたらされるのかと言えば、制度を管理運営している行政側にもたらされているわけだ。
 選挙という公的な制度に関して、それを利用して社会に影響力を及ぼそうとしている主な勢力としては、政党とマスメディアが挙げられるだろうが、マスメディアに関しては商売に利用する情報の中の一つという位置付けであると同時に、世論調査に連動した関わりもあるだろうし、そうした政治関連の報道を通して政党や行政とも関係を持ってくる面で、何かとそれらの勢力に配慮しなければならない事態も生じてくるとすれば、そういう部分で単純に批判的な姿勢をとるわけにはいかない事情も生じてくるのだろうが、一方でマスメディアの利用者である一般の民衆との関係でいうなら、政治批判を期待している民衆の期待を裏切るようなことは避けなければならないと同時に、政治的な主導権を握っている政党の支持者を取り込むには、その政党に対する批判は控えるような配慮も必要となってくるだろうし、その辺で微妙な言い回しが必要となってくるのかもしれないが、やっているのが商売だと割り切っているなら、一見もっともらしく理解できそうな報道機関としての公正中立な姿勢というのが何を意味するかについて、恣意的な解釈やずらしを施してうまく取り繕うようなやり方も生じてくるかもしれないし、そういうところで何らかのバイアスがかかった報道内容を一般の民衆の方で適切に理解することが重要となってくるのかもしれないが、それを真に受けたり鵜呑みにしたりすることがいけないわけではないだろうし、マスメディアの方でもそれを期待しているわけだから、期待通りにマスメディアを信用してあげることも一般の民衆としては模範的な態度と言えるのではないか。そうやって考える手間をかけない方がその場では効率的でコストもかからず、何よりもマスメディアとの関係が良好となるだろうし、またマスメディアが礼賛するような物事を民衆も礼賛して、マスメディアが批判している物事を民衆も一緒になって批判する姿勢が、現代社会の中で支配的な大衆メディア社会を作り上げていると言えるだろうし、それはマスメディアを通して作り上げられる世論の形成にも、そのような民衆の姿勢が一役買っていると言えるのではないか。またそれは民衆が個人として物事を考えずに集団としてマスメディアの判断に依存している状態も示していて、そのような依存状態がある方がマスメディアとともにそれと関係を持っている政党や行政にとっても好都合だろうし、そのことがマスメディアと政党と行政の三者が一体となって民衆を共同で管理統治できる可能性を生じさせているわけで、それを実現させるには主要なマスメディアの間での連携が欠かせないだろうし、マスメディアの間で共同歩調をとるような環境を整備する必要が生じて、その結果として国会などで記者クラブが開設されたのだろうし、それがマスメディアの利権を保護するための制度として有効に機能している実態があるのではないか。そうだとするとそのような制度で利益を得ているのは、やはり記者クラブを管理運営している側なのだろうし、そこからもたらされる情報を真に受けたり鵜呑みにしている一般の民衆側でないことは確かなのかもしれない。
 そして選挙という公的な制度を最大限に活用しているのは政党なのだろうし、議員個人ではなく集団で構成する組織的な政治勢力として、議会内でも政府内でも主導権を握ろうとしているわけで、多数の議員をその傘下に従えて数の論理で権力を行使しようとするわけだが、それが良い悪いではなく、確かに集団で構成される組織的な形態にしないと、同じように集団で構成される組織形態である行政の官僚機構には対抗できないだろうし、そのような必要から自然発生的に政党が生じる経緯があるにしても、議員が個人として物事を考えずに集団として政党の判断に依存してしまうと、その方が政党の判断や方針に逆らうような異論が出ずに、組織としての政党には好都合なのかもしれないが、それでも絶えず個人の判断と政党の方針との間でジレンマが生じる可能性はあるだろうし、そうでないと集団の中で埋もれてしまうだろうし、そういう意味で議員にとって政党は利用できる面と場合によっては反発しなければならない面の背反する二面性を常に意識し続けないと、その主体的な活動に支障をきたすような存在なのではないか。それは政党の党員なのか議員個人を優先するかの二者択一を選べないのはもちろんのこと、二つの身分を安易に融合するわけにはいかない事情も生じるかもしれないし、突き詰めて考えるとそれは倫理の問題にもつながってくるかもしれないが、それは行政の官僚機構の中に身を置いている公務員にも言えることかもしれず、絶えず個人で判断できる余地を残しておかないと、集団的な組織の論理に巻き込まれてしまった時に、組織の意向に逆らうわけにはいかなくなってしまうのだろうし、そこで安易に妥協をしてしまうと集団への依存度が高まるとともに主体的な活動ができなくなるわけで、結果的に集団内での発言力が弱まってしまうことにもなりかねず、集団内で主導権を握るにはその中で力のある人物や勢力に従っているだけでは、いつまで経っても下っ端に甘んじていることになってしまい、他の構成員を味方に引き込めるような駆け引きや交渉術やカリスマ性などが必要なのだろうが、そのような組織内で勝ち抜く術には欠けている何かが個人の倫理としてあるわけで、それが場合によっては組織と対決したり組織から脱退する上で必要であり、その辺の微妙な意識がないと、何も考えずに組織の歯車として機能したり、組織のために個人を犠牲にすることに関して何とも思わないような人間となってしまうわけで、そのような組織人間が多く組織内にいるほど、確かに組織そのものは団結力が増してより強力になったように感じられるわけだが、実際にはそれは幻想であって、硬さが増した分柔軟性がなくなってもろくなっているのかもしれないし、もろくなっている分ちょっとしたことで崩れやすくなっているというよりは、形骸化が促進しているのかもしれず、集団への依存度が高まると、結局は誰も主体的に物事を考えなくなってしまうということであり、そうなると組織的な動作の誤りに気づけなくなってしまうし、それに気づいたとしても組織に対して対等な立場でものが言えなくなってしまい、そしてついには組織的な暴走に歯止めがかからなくなって、最終的には組織の破滅とともに心中する羽目に陥ってしまうわけだ。

 集団による組織形態によって制度が管理運営されているのだから、その中では組織の論理が個人の論理より優先されるのは当たり前のことなのだが、その一方で集団にとって個人は識別可能な単独の形態で存在していることも確かであり、実際に集団による組織的な活動を利用することで特定の個人に利益がもたらされる場合があるわけで、それが企業との関連でいえば株主の利益であり、個人にもたらされる株配当や株の売却益があるだろうし、また集団内で役割分担されて機械の歯車のように活動している人でも、個人として労働の報酬がもたらされ、給与や賃金は個人に支払われるわけだ。そこに個人と集団の関係の中で微妙な意味合いが含まれるだろうし、場合によってはそこから組織や集団の論理がまやかしであることも明らかになるかもしれず、例えば集団に奉仕しているはずの組織内にいる多数の個人が、最終的にはその集団を率いている指導者の役割を担う特定の個人に利用されているに過ぎないことに気づけない事態も生じるわけで、別に指導者の役割を担う特定の個人が意図的に集団を利用する気がなくても、指導者という役割が自分のために集団を利用するような成り行きにしてしまうわけで、場合によっては私利私欲のために集団を私物化していることにもなってしまうだろうし、周りの人たちがそういう役回りに指導者を仕立て上げるような動作も生じてしまうのではないか。そうなってしまう典型例としては絶対君主制のような形態もあるのだろうが、現代において何か独裁体制のような形態が成り立っている状況があるとすると、例えばトップに立つ人物のカリスマ性がそれを実現させるというよりも、周りの人たちがそれを必要とするような事情が集団的な組織体制に生じて、実際に組織の内外で強引なことをやるには独裁者のような存在が必要となってくるわけで、万が一やっていることが失敗に終わればその責任を独裁者に負わせることが比較的に容易になるから、それを初めから意図しているわけではないものの、やっていくうちに組織的にやっていることが暴走し始めてもはや引き返すことができなくなってきた時に、さらにそれを継続させるには無理を承知で強引にやってしまうような指導力が必要となってくるわけで、そのような指導力をどこから生じさせるのかとなると、有無を言わせずそれをやらせるような雰囲気を纏ったカリスマ的な指導者の存在が必要不可欠となってくるのだろうし、実際に未曾有の人為的な被害を伴うような戦争などを推し進める過程で、その手の独裁者的な存在が現れる場合があるわけで、そういう意味で独裁者的な存在のカリスマ性というのは、そのような雰囲気を醸し出すことを狙った当人の演技から生じるというよりは、集団の組織的な活動がそれを必要としている面があり、その活動が既存の社会秩序などをぶち壊すような内容であるほど、それを行わせる理不尽な力を必要としていて、その力が備わっているように装わせるのがカリスマ的な指導者という役柄になるわけだが、実際にそれを行うのは集団的な組織活動であり、そのような活動の過程の中で特定の人物がカリスマ的な指導者に仕立て上げられる成り行きが生じてくるわけで、それも集団的な組織形態から生じる一つの特性なのではないか。
 そういうところで集団と特定の個人とのつながりが生じる場合があるわけだが、その一方で集団内で組織的に役割分担される多数の個人と集団との間では、集団による多数の個人に対する支配体制が成り立っているわけで、その中では個人の自由を制限して集団内の役割を担わせて、その役割に応じた一定の動作を個人に行わせるような仕組みとなっているわけだが、もちろんその役割を全うしている限りでそれなりの報酬が集団から支払われるような契約を集団との間で結んでいれば、契約上は集団と個人とが平等な関係になるわけだろうが、何らかの事情で個人がそのような契約を結ばざるを得ない境遇に追い込まれているとすれば、そのような境遇を作り出している社会環境が個人の側に不利に働いているのかもしれないし、それが有利不利の関係では判断できないような様相を呈しているのなら、例えば企業に対して株主として関わるか役員として関わるか従業員として関わるかによって、企業に関わっている個人への企業としての待遇が変わってくるわけで、また株主として関わっているとしても持ち株の比率によって待遇が変わってくるだろうし、そういう意味で単純な有利不利の関係ではなく、また単純な集団の個人に対する支配体制でもなく、集団の中での役割に応じた個人の立場や待遇の差別化が生じているとも言えるわけで、そうである限りで個人の方では自分に割り振られた立場や待遇を越えては、他の個人と仲間として団結できない状況ともなってくるだろうし、結局個人で集団に対抗するには同じ立場や待遇の別の個人と利害を共有して連帯するしかないわけだが、そういう意味で団結しやすい立場としては消費者という立場があるわけだが、それも同じ商品を購入している限りで団結できるのかもしれないが、そうであるなら企業の方でも商品の価格や品質に格差を設けて、消費者の収入の違いに応じた購買層の違いや、そこから生じる虚栄心につけ込んで消費者を分断することもできるわけで、価格が高くて高品質の商品を買える裕福な消費者が、安くて低品質の商品しか買えない消費者を貧乏人だと見下したりして、逆に安くて低品質の商品しか買えない消費者が、高くて高品質の商品を好んで買う消費者を金持ちだと妬むような成り行きになれば、そういうレベルでは消費者の団結を阻止できるかもしれないが、人口の比率からいえば安くて低品質の商品を買う消費者の方が圧倒的に多い可能性が高いわけだから、単純にはそうはならないわけだろうし、また安くて低品質の商品を買う消費者は金持ちを妬むと同時に憧れているようだと、同じレベルの消費者を蔑んでいる場合もあるのかもしれず、そうなると消費者の団結はそれほど強固なものにはならない可能性もあるだろうし、だから単純に同じ境遇や立場の人たちが利害を共有しながら団結して、自分たちを支配しようとする集団に立ち向かうような成り行きにはなり難いのかもしれないが、何か社会の中で主導権を握っている勢力に対して弱い立場や境遇の人たちが団結して抗議活動などを行う場合は、主導権を握っている勢力に対抗できる他の有力な勢力がその人たちの味方につかない限りは、活動が実を結んで何らかの成果を上げるには至らない可能性が高いのかもしれないし、普通はマスメディアがそのような活動を大きく取り上げることで味方を装う場合が多いのだろうが、その一方でそれらのマスメディアが主導権を握っている政治勢力と懇意の関係を結んでいると、大衆の不満を和らげるようなガス抜き効果を狙っていることにもなるのかもしれず、その辺の成り行きにもどこまで実質的な効果を持つかはその場の情勢次第になるのではないか。
 また制度を支える集団的な組織形態はその活動を支える糧がないと存続できないだろうが、それが資本主義経済の中で活動しているなら、物や情報やサービスを生産して流通させて販売して消費する過程の中で何らかの収入を得ながら活動しているわけだが、その一方で行政に関係する組織では税収や公債の発行によって活動するための予算を確保していて、どちらにしても金銭的な収入がその活動には必要となってくるわけで、そういう意味で集団的な組織形態によって支えられている制度には経済的な利益の獲得がその目的に絡んでくるわけで、それは慣習などに依存した宗教的な行事を伴う制度であっても、それを管理運営する団体の活動は民間からの寄付金や公的な助成金などで支えられている場合があるわけで、それらは全て経済活動に密接に関わり合ってくる面があって、それがなければ制度そのものが存続できないわけだから、経済活動を考慮に入れないような制度批判は説得力を伴わなくなってくるだろうし、制度の改正や新たな制度の創設を提案するにしても、その制度を維持運営できる財政的な裏付けがないと、提案の段階で実現性のない空理空論とみなされてしまうのではないか。だから公的な制度は軒並み税収や公債などに依存しようとするわけだが、そこで収入と支出を連動させない傾向にもなってしまい、無駄に予算を使って公共の利益に反するようなことをやってしまう場合もあるだろうし、それ以前に何が公共の利益に合致するかについてうまく説明できない面もあるだろうから、公的な制度を支える行政の活動に関しては合理的な説明が難しい部分もありそうで、そういうところで果たして民衆にとって行政の必要性をどうやって根拠づけるのかが、実際には行政的な課題となっているわけでもないのだが、行政の在り方について突き詰めて考えると、やはりその必要性について合理的な説明が必要となってくるのではないか。常識的に考えるならそんなのは必要に決まっていると思われてしまうだろうが、なぜ行政が必要なのかについて考えるというよりは、どうやって行政が公的な制度とともに社会に定着したかについて考えていくと、その成立の歴史的な経緯についてなら容易に説明することが可能だろうし、必ずしもそれが必然的な成り行きではなく偶然の積み重なりによって現状の形態に落ち着いた経緯についても説明できるのかもしれず、そのような説明からは必ずしも行政の必要性についての合理的な説明は導き出せないかもしれないが、必要だからそこに存在して制度とともに成り立っているわけではなく、偶然の積み重なりによってたまたま社会の中に生じてしまった経緯があり、しかもその勢力が社会の中で主導権を握っているからこそ、その存在を正当化しようとする成り行きも生じてきたのであり、その結果としてその存在と活動を正当化するための制度がそれを根拠づける法律とともに整備されてきた経緯も生じてきて、要するに制度も法律も後付け的に付け足されてきたわけで、そうであるならこれからも新たな制度や法律が世の中の状況に合わせて後付け的に付け足されてくる可能性もあるわけで、そう考えるなら全ては今ある現状から未来へ向かって変更を被るような成り行きになっていて、それらの存在や活動の根拠づけそのものは過去の正当化にしかならず、未来に向かっては何の意味も持たないようなことになるのかもしれない。
 そんなわけで公共の利益というのもそれが必要であるなら、これから新たに生じさせてゆかなければならないのだろうが、それをどこから生じさせるのかといえば、やはり経済活動からしか収入は生じないだろうし、そうなると民間では物や情報やサービスを生産して流通させて販売して消費する過程以外に収入が生じる余地はないのだろうし、それ以外では行政的な手法による税収や公債の発行からとなるわけで、その中で公共の利益に結びつくものとしては、一般的には行政的な手法によってひねり出すようなやり方が主流となっているわけだが、税収も公債も民間の経済活動と連動していて、そこで生じる私的な利益をどうやって公共の利益に結びつけるかが、行政面での恒常的な課題となっているわけだろうが、その一部を強制的に税として徴収して公共に役立てるやり方が、歴史的な経緯としてはそういうことを行う過程の中で、後付け的に公共の利益の必要性とともに付け加えられてきたわけだろうし、何も初めから税の使い道として公共に役立てようとしてきたわけではなく、初めは王朝や領主の維持経費などに税収が使われていたのではなかったか。それが民主的な国家体制の成立に伴って民衆を納得させるための方便として、公共事業や住民の福祉などが唱えられるようになってきたのだろうし、それを正当化する制度としては民衆の中から選挙によって代表者を選んで、その代表たちが議員となって構成される議会で税の使い道が検討されて、そこで決定されたことが行政によって実行される成り行きとなっているのだろうが、その一方で議員で構成する議会には政党が生まれ、また行政の中ではすでに官僚機構が生じていて、政党にも官僚機構にも企業と同じように私的な利益を追求する特性が備わっているわけで、そこでいう私的な利益とはそれらの機構が集団的な組織形態としての活動を支える糧となる収入であり、実際にその収入が税収や公債から賄われている実態もあるわけで、そうなると税収や公債で賄われる予算の中でどこまでが公共の利益に使われてどこまでが私的な利益に使われるかは曖昧になってしまうのかもしれず、それに関して少なくとも議員や官僚たちの公務員としての報酬は私的な利益となるわけだろうが、政党の活動や各省庁の活動に賄われる経費はどうなのかというと、それと企業活動に賄われる経費と比較すれば、少なくとも集団的な組織として勢力争いしている分には、それらの区別はつかないわけで、それに関して党利党略や省利省略を巡らせているとしたらそれは私的な利益の追求となるだろうし、そういうところで勢力争いをしているほど公共の利益からは遠ざかっていってしまうことになるだろうが、組織として他の組織との争いを避けることはできないわけで、そういう部分では私的な利益と公共の利益を明確に区別できなくなり、そうした中で私的な利益よりも公共の利益を優先させることがどういうことなのかについて明確な説明を求めることも難しくなるのではないか。そうだとすると現状では倫理的あるいは哲学的に公共の利益がどういうことなのかを説明はできるかもしれないが、それを実利として具現化するまでには至っていないかもしれないし、それ以前の段階で集団的な組織形態の私的な利益が優先されている傾向にあるのではないか。
 公共の利益とは理想としては誰もが分け隔てなく利用できるものでないとならないわけだろうが、そこに何らかの制限をつけると制限を設けたことで有利になる人や団体が出てきてしまうわけで、そのような制限は年齢制限や国籍の制限などの様々な制限があるだろうし、ある年齢より上の人しか利用できなかったり特定の国の国籍の保有者でないと利用できないとすると、やはりそれだけでも誰もが分け隔てなく利用できるものではなくなってしまうわけだが、なぜそういう制限を設けるのかといえば、例えば年齢制限なら未成年者にはとりわけ害になる度合いが高いと判断されたものについては年齢制限が設けられるだろうし、またその国の国民でないと利用できないような権利があるとすれば例えば選挙権などはそうだろうし、それはその国の国益に結びつくようなことに関して外国人の介入を許せば国益を損なうという考えに基づいているわけだろうし、それなりにもっともらしい理由がついてくるなら大抵の人は納得できるわけだろうが、たぶんその制限を設けなければならないもっともらしい理由というのが、制限を設ける側の都合を反映しているわけで、要するに誰にも分け隔てなく利用されては都合の悪い事情がそこに生じているわけだ。そしてその都合の悪い事情というのが特定の利害に絡んでくる事情なのだろうし、制度というのはそのような都合を反映したものになるわけで、普通は制度を利用することで何らかの利益がもたらされるから制度が利用されるわけだろうし、そういう意味では制度を利用する人の都合が制度に反映されていて、さらに言えばそのような制度を管理運営する勢力の都合も制度には反映されているわけだ。だから制度を利用されては都合の悪い人がいるとすれば、そのような人が制度を利用することは禁止するような規約が法律として制度には設けられているだろうし、それが公共の利益に合致しているとみなすなら、そこで規定している公共の範囲内にはその人は含まれないことになるだろうし、それだけ公共の範囲が狭まるようなら理想から離れてしまうことにもなるだろうが、その範囲内に含まれる人々にとってはそういう都合が優先されてしかるべき理由があるわけで、それをそれらの人々が共有しているとすれば、そういう都合が反映された制度の中では公共の定義がそれだけ限定されたものになるだろうし、そうであるとすると制度というものは何らかの限定を施さないとうまく機能しない性質があることにもなるわけで、結局誰もが分け隔てなく利用できる制度というのはありえないのかもしれず、逆に誰もが分け隔てなく利用できてしまうようなら制度とは言えなくなってしまうだろうし、そこに何らかの制限をつけて限定された人々の利益を保護するのが制度の特性とも言えるわけで、そうであるなら制度によってそれを利用できる人とできない人との間に格差がもたらされるわけで、世の中の不均衡や不平等はそのような制度から生じていることにもなるわけだ。
 そもそも利益という概念が何であるかを考えてゆくと、何か特定の人や団体にもたらされるのが利益なのだろうし、またその人や団体が何らかの制度を利用することで利益がもたらされるとするなら、利益はその制度を利用できる人や団体に限ってもたらされることにもなるわけで、そうであるなら誰にも分け隔てなくもたらされるような利益などあり得ないことにもなりそうで、その種の利益が利益の全てならそうことになるだろうが、果たしてそれ以外の利益があり得るだろうか。そうなると利益の概念そのものに何らかの制限を設けないと意味がなくなってしまうのかもしれないが、少なくとも誰もが呼吸に利用している空気というのは、酸素ボンベなどが必要なスキューバダイビングなどの特殊な環境下以外では利益をもたらすとは考えられないし、その延長上で考えてゆくと、理想としての誰もが分け隔てなく利用できる公共の利益とは、何の価値もないものとなってしまいそうだが、その逆の特定の人や団体に優先してもたらされる利益とは、優先的にもたらされるからこそ価値が生じるわけだろうし、優先的にもたらされてもたらされない人や団体との間で格差が生じるから、その格差の分だけ価値が生じて、そこに生じた格差や価値が利益とみなされるのではないか。だから公共の利益という概念は現状では不可能な意味が含まれているのだろうし、特定の制度を利用して特定の人や団体にもたらされる利益が世の中の不均衡や不平等などの格差を生じさせているとも言えるわけだが、その一方で制度を利用しても利益がもたらされないどころか損害まで被ってしまう場合もあるわけで、それが制度の不具合であり改善しなければならない点だと考えるなら、仮に制度を改善して利用者に利益がもたらされるようになったとしても、その制度を利用できない人や団体が存在するようなら、相変わらず格差が生じてしまうわけで、ならば誰にも分け隔てなく利用できるような制度を目指してしまうと、制度特有の限定や制限がなくなってしまうわけだから、今度は利益が出なくなってしまう可能性があるわけで、そういうところで制度の矛盾が生じてしまうわけだが、そこから合理的に考えるなら、制度とはそれを利用できる特定の人や団体に利益をもたらす仕組みであり、またそれが特定ではなく誰にも分け隔てなく利益をもたらすような制度を目指してしまうと、利益そのものが出なくなる可能性があり、結局利益とは誰にも分け隔てなくもたらされるようなものではなく、何らかの制度を利用できる特定の人や団体にもたらされるものであり、そうであるなら理想としての公共の利益などあり得ないことになってしまうわけだが、可能性としては利益などもたらされなくても人は生きていけるのかもしれないし、そうなると生きていくのに必要な糧というのは利益とは別の概念になってしまうかもしれないのだが、普通に考えて物や情報やサービスなどの生産と流通と販売と消費の過程に携わることでもたらされる何らかの収入というのは、利益と呼んでも差し支えない意味合いがあるだろうし、そこで人が生きていて生活が成り立っているとしたら、それぞれがそれぞれの事情や都合に合わせた限定的な利益を得ていることになるのではないか。

 制度を管理運営する側と利用する側の関係は、管理運営している側が制度を利用している面が多分にあるわけだから、重なる部分が大きいのかもしれないが、純粋に利用しているだけのユーザーは管理運営している側に制度の使用料などの手数料を払わなければならない場合も生じるわけで、そういう意味でなら行政が徴収する税金の類いは、国民が国家という制度を利用する際に生じる使用料とも考えられるわけだが、それを逆から見れば行政側が税を徴収するための口実として国家という制度を利用しているとも言えるし、そうであるとすると制度を管理運営する側は管理運営する権限を使って制度を利用していることにもなるわけで、そういう面でも制度を利用するだけの人や団体よりは優位な立場を占めているわけだ。そして資本主義的な経済活動の面から見ると物や情報やサービスなどを生産する側とそれらを消費する側の間に入って、両者を結びつける制度を管理運営する業者が優位な立場を占めている場合が多いのだろうし、生産する側からも消費する側からも仲介手数料などをとって利益を得ようとするわけだが、そのような業者の間でも競争があるだろうし、生産する側と消費する側の両方の顧客が多いほど仲介手数料も安くすることができて、安いほど顧客が集まってそのような市場の規模も大きくなるだろうし、そういう面で競争に勝つにはなるべく多くの顧客を集めて手数料を下げて競争相手から顧客を奪うような戦略になるのだろうし、そうやって独占的な立場を占めている業者も現にあるだろうし、それは国家を管理運営する行政機関にも言えることで、税を安くすれば企業も富裕層もその国へと集まってきて、その国の産業が栄えて国力が上がることにもなるわけで、税を安くした分予算的に苦しくなるかもしれないが、貧困層への福祉などを切り捨てても、国が経済的に栄えていればその富を目当てに周辺国から移民が集まってくるから、そうした移民を不法労働者として抑圧しつつも、低賃金の劣悪な環境で働かせて使い捨て用の人材として活用すれば、人件費を低く抑えて企業の利益にも結びつくだろうし、それで本当に国家的に繁栄していることになるのかは何とも言えないだろうが、アメリカなどは実際にそういう成り行きになっている面もあるのかもしれないし、それがおかしいと思うなら制度を利用するだけではなく管理運営する側にも加わろうとしなければいけないだろうし、それが国家や地方自治体などの行政に介入したいのなら、結局は政治的な面で参加意識を持たないとならなくなるわけで、無関心を装っていては税金を払うだけの利用者にしかなれないだろうし、そういうところから政治意識が芽生えてきて、選挙などの政治制度に巻き込まれるような成り行きも生じてくるのではないか。そうやって公的な制度を管理運営する側に介入して、なるべく公平で平等な制度にしたいと思う人も多いかもしれないが、中には公平という意味を重視して平等という価値観を葬り去ろうとする人もいるだろうし、つまり公平という言葉を利用して現状で生じている格差を正当化したいわけだが、果たして制度は利用者に対して公平であるべきなのか平等であるべきなのかは、そのような言葉を使う人の恣意的な意図や思惑に左右される面もあるのかもしれない。
 結局制度がそれを利用するだけの人に対して公平であろうと平等であろうと、制度を管理運営する側の優位は揺るぎないわけで、それが公平な税負担であろうと平等な税負担であろうと、管理運営する側に必要な額の税収があればいいのだろうし、そうであるなら制度の利用者に対する公平性を装えば利用者の納得が得られるなら、公平な税負担に関して合理的な仕組みにするわけだが、その公平性が誰にとっての公平性であるのかが肝心なのだろうし、それを決めるのがその場で主導権を握っている人や勢力であるとすれば、主導権を握っている側にとっては公平な制度となるだろうし、そのような制度に対して不公平感を抱くようなら、そう思う人の価値観に基づいた公平性と、その場で主導権を握っている側が抱いている公平性とは、違った価値観に基づいていることになるわけで、そういうところで公平の意味にはそれを判断する人の恣意的な主観が介在してくるわけで、では公平はやめて平等にすればいいのかというと、今度はそれでは不公平だと言う人が出てくるわけで、それについて簡単なことを述べるならば、頑張った人が報われて頑張らなかった人が報われないのは公平だが、頑張った人も頑張らなかった人も同じように報われるのは平等となるが、それでは頑張った人が損ではないかという論理を持ち出す人がいるわけだが、世の中には頑張れる人と頑張れない人もいるわけで、頑張れる人は頑張って何らかの障害があって頑張れない人も助けなければならないとなると、今度はその障害を取り除いて頑張れない人も頑張れるようにしようとする人も出てくるわけで、ではなぜ頑張らなければならないのかというと、頑張って仕事をして税金を払って国家に貢献しようと言い出す人まで出てくるかもしれないし、そういう論理を持ち出す人はどうしても頑張らない人や頑張れない人の存在を認められないわけで、要するにそういう人の価値観というのは、人は頑張って働かなければならないということであり、国民から公平に税を徴収しなければならない、という使命感に基づいた制度を管理運営する行政側の価値観に傾倒しているわけだが、そういう価値観に心を支配されている人にとっては、生活保護制度の恩恵に与っている人などは怠け者であって絶対に許せないだろうし、働かざる者は食うべからず、ということわざなどを使って自らの論理を正当化するわけだが、そういう人に欠けているのは何かと言えば、様々な境遇の人々が現状に至った成り行きを考えてみることかもしれず、現状でまだ存命中の人であるならばその人は何らかの形で経済活動である物や情報やサービスの生産と流通と販売と消費の過程に直接あるいは間接的に関わって収入を得た人であり、たとえその人が完全に扶養されているとしても扶養している人が収入を得ているわけで、また親の遺産で食っている人も親が収入を得ていたわけで、どのような経緯でどのような境遇に置かれていようと、現実に生きている限りはその人を生かすだけの糧を何らかの形で経済活動から得ていることになり、それが公的な制度であろうと民間の制度であろうと、その人を生かそうとする何らかの制度の恩恵に与っているわけだ。それは制度の公平性でも平等性でもなく、たまたまそのような作用がその人に働いているからその人が生きていて生活が成り立っている現状があるわけで、それが何かきっかけでうまく作用しなくなってしまうとその人の生活が成り立たなくなって、他の制度も利用できなければ餓死するなり病気になるなりして死んでしまう可能性が出てくるわけだ。
 人が死なずに生きていくには何らかの形で経済活動に関わる必要があるのだろうが、経済活動の根幹をなすのは物や情報の交換だろうし、それを実現する場所が市場であり、市場とは何かと言えば、そこで物や情報やサービスを売り買いする場であり、そのような固定した場がないと売る側も買う側も相手を探すのに苦労するわけで、そのような探す手間や経費をかけたくなければ、売り買いする場である市場が場所として定まっている方が便利だろうし、そこに行けばすぐに売買の相手が見つかるようなら、わざわざ探す手間も費用もかからずに済むわけだ。小売店舗などもそうしたものの一つであることは確かだが、様々な店舗が一箇所に集まっていればそれだけ品揃えも増えるだろうし、立地条件にもよるが人が集まりやすい場所にそうした市場があれば便利であり、さらにわざわざ足を運ばなくてもネット上に市場があれば、売る側の商品が確実に買う側に届けられて、買う側の代金が確実に売る側に送金される条件などが整えば、実店舗よりネット上の仮装店舗の方が便利な面も出てくるだろうし、商品の種類によってはそのようなネット通販には適さないものもあるかもしれないが、ネット上の方が便利に思われるものについては、ネット上で売買が済んでしまうような取引が盛んに行われるだろうが、商品の用途や種類や取り扱いや売買の方法に応じて、様々なところに様々な種類の市場が生じている一方で、市場を通さずに売る側と買う側が直接取引している商品もあるだろうし、一概に市場という制度が売買という行為を全て管理しているわけではないだろうが、商品の価格に関してはその決定権を市場が握っている場合が多いだろうし、また行政がそれを完全には制御できていない面もあるわけで、そういうところに行政機構の管理運営が及ばない領域があり、だから行政機構が国家を管理統治していると言っても全ての面で管理統治が行き届いているわけではなく、完全には管理統治できない制度として市場での物や情報やサービスの売り買いに関わる部分があるわけだ。そしてそういう部分に関しては公的な制度が目指す公平性や平等性などよりも、効率性やコストパフォーマンスなどの功利性に関わる部分の方が重視される傾向にあるだろうし、そういう部分ではできるだけ無駄な人件費を削るような方向での努力が払われる傾向にもあるわけで、そういう面で販売経費の削減が人件費の削減に直結するようなことにもなってくるのだろうから、サービス業的な面で市場の制度に関わってくる部分では人がそこから高額の収入を得るのが難しくなりつつあるのかもしれないし、それよりも直接売る側と買う側の利益が重視されるような成り行きになっているのかもしれず、またそれに伴って売る側や買う側に有利な情報を提供したりアドバイスするような職業としてコンサルタントの類いが新たな手数料収入の獲得を目指して台頭してきている実態もあるだろうし、売買に伴う単純な作業をこなすだけでは安い賃金しか得られない傾向が強まるのに比例して、ごく限られた人が専門的な知識やノウハウを駆使して高額な手数料を稼ぐという公平性や平等性とは明らかに質の異なる傾向が、行政機構の管理統治の及ばない部分から急速に世の中に広がっているのかもしれず、それが情報革命以後で顕著になってきている状況なのかもしれない。
 たぶん手数料というのは直接物や情報やサービスの生産に関わって生じるわけではなく、主にその売買に伴って発生する収入であり、そういう意味では金融部門に含まれる金銭的な収入なのだろうが、一方でメディア上で生じる広告宣伝などにも手数料が発生するだろうし、そういう意味では基本的には物質よりも情報から収入が生じるわけだが、それが情報であるだけに実体を伴わずに価値や価格を形成するわけだが、情報には必ずそれを映し出す媒体が必要となり、媒体は物質からできていて、また情報を処理したり作り出す装置もコンピューターなどの機械であり、それも物質からできているわけだが、物質の生産費用とそこから作り出される情報の生産費用を足しても、必ずしも情報の価格と一致するわけではなく、それは他の物質から構成される商品にも言えることで、売買を介してもたらされる儲けが大きいほど、生産費用+流通費用+販売費用より高く売れたことになるわけだから、情報革命以後に情報としての商品が飛躍的に増えたことに伴って金融資産も増えたということは、物質から構成される商品よりは情報から構成される商品の方が儲けが大きいことを示しているのかもしれず、またサービスから構成される商品も大勢で単純作業をこなす労働力商品よりも、限られた人が専門知識やノウハウを生かして行う労働力商品の方が儲けが桁違いに大きいことを示しているだろうし、富裕層の構成がそれらの限られた人々によって占められている現状を見てもそれは明らかだろうが、限られた少数の人々によって富や専門的な知識やノウハウが独占されているのは昔からそうだったとも言えるわけで、それが民主的な政治体制によって形の上では権力が民衆のものとなり、インターネットの普及によって情報の民主化も起こって誰でも専門的な情報にアクセスできるようになったこととは矛盾しているように思われるかもしれないが、結局はまだ民衆の意識が世の中の進化に追いついていない面があるのかもしれず、要するに意識が民主化されておらず、メディアがもてはやす著名人を権威のように崇めたてて、自ら考えないでその意見に盲従したり、そういう部分がそれらの著名人の利益を構成しているのだろうし、メディア自体がそこからしか利益を得られない特性があって、ひっきりなしにその手の著名人たちを粗製濫造して、そこに人々の関心が向かうように煽り立てて、それに伴って発生する商品の広告収入に依存していて、またそれは民主的な政治体制とともに成立した大衆メディア社会の特性でもあるわけで、その傾向は情報革命以後はさらに顕著になってきたとも言えるわけだろうが、それに伴ってメディアが人々の気を惹くために粗製乱造する著名人たちの質もさらに低下してきたとも言えるのかもしれず、その手の著名人たちと一般人たちとの差がなくなってきたのかもしれないが、それはある意味で情報の民主化といわれる現象なのだろうし、両者が同じ情報を共有しているわけだから差がなくなるのが当然だろうし、後は専門的な技能の差だけなのかもしれないが、それもある意味では幻想であって、大衆メディア社会自体の特性として誰でも構わないような一般人の中から、その場の都合に合わせてメディアが著名人を選んでいるだけかもしれないし、それが限られた少数者であることを示す希少性を伴っていれば誰でも構わないということであり、実際に今もそのような少数者の選別が日夜メディアを通して行われている最中なのかもしれない。
 そのような希少性から得られる利益は少数の人や団体で独占するほど大きくなり、その反対に全ての人や団体に均等にもたらされるような利益は空気と同じでタダ同然にしかならないのかもしれないが、利益は誰もが欲しがるようなものをごく限られた少数の人や団体で独占する時に最大の効果を発揮するとすれば、それこそが希少性の効果なのだろうが、その一方で利益が少ない人も資本主義経済の中で暮らしている限りは何らかの形で金銭的な収入がないと生活が成り立たないだろうし、そこで人が生きて生活できている限りは、その生活が成り立つだけの金銭的な収入が何らかの形でもたらされているわけだ。そんなわけで企業活動を利用して大掛かりな利益の独占が画策されている一方で、世界中で大勢の人の生活が成り立っている限りでそれなりに利益の分配が実現している実態もあるわけで、そのようにして世の中では利益の独占と分配という相反する作用が常に生じていることになるのではないか。そこに何らかの制度が介在しているとすると、一方には利益を凝集させようとする制度があり、もう一方には利益を拡散させようとする制度があって、両方の制度の間で均衡が保たれていれば、それなりに利益の凝集が生じているとしても同時に人々の生活も利益の拡散の程度に応じて成り立っているわけだろうが、特にそれらの制度の間でバランスを取っている主体はないのかもしれないし、過剰に利益を独占している人や団体が先進諸国を中心にして多数存在している一方で、移民や難民や貧困にあえいでいる人の中には収入を得られずに実際に死んでいっている人も大勢いるのではないか。それが世界の偽らざる現実だろうが、たぶん国家の枠内では制度の制御にも限界があるだろうし、行政機構が自らの力の限界を超えて収支のバランスを取ろうとしているわけではないだろうし、現状を見れば特にバランスを取らなくてもどうなるわけでもないのかもしれないし、そんな中で人を生かすのも殺すのも人為的には限界があって、人為的な面以外では自然からの作用が人の生死に重大な影響を及ぼしているのだろうが、人為的な作用の面では、まずは企業活動が自分たちの管理運営している枠内で富の集中を画策しているわけだが、そうした中でも従業員や株主などには富を分配している実態もあるわけで、また新たな投資という形で外部へ富を拡散しているだろうし、結局企業活動は富の集中と拡散を同時的に行いながらもその活動を維持継続している実態があるわけだ。そして行政機構の方でも人や企業などから税を徴収することで富を集中させて、また公債という形で未来から富を借り受けているわけで、そうして得た富を行政特有の活動によって世の中に拡散させているわけだが、しばしば集めている富を超えて富を拡散させようとするから慢性的な財政赤字を招いていて、しかも拡散した富が住民に均等に分配されているわけではないだろうし、そういう意味では平等な富の分配が実現していないわけだが、その良し悪しはともかく、とりあえずほとんどの国ではそれなりに貧富の格差はあるものの、住民のほとんどがそれなりに生きていて生活できている実態があるところでは、企業活動も行政活動もそれなりにうまくいっていることは認めざるを得ないだろうし、それをさらに改善させる余地もあるのかもしれないが、その一方でより一層状況を悪化させる要因も同時に発生しているのかもしれない。
 そうはいっても世界の中で昔と比較して人が過剰に多く生きている実態があり、それに関しては産業技術や医療技術の進歩もあるだろうし、何よりも産業分野でも医療分野でも人を生かすことが利益につながるから人を生かそうとしているわけで、行政の側でも公的な保険制度のように人を殺すよりは生かすような制度の方が優先的に整備されている実態もあるわけで、それは民間の医療保険などに関しても同じようなことが言えるのかもしれず、ともかく何らかの金銭的な収入のある人がいれば、商品を購入する消費者として企業などが利用できるわけで、そのためには企業が人を雇用して賃金や給与などの報酬を与えなければならず、しかも商品の売り上げから人件費やその他の経費を差し引いた後に利益が残らないとならないわけで、そうなると物や情報やサービスの生産と流通と販売と消費の過程の中のどこかから儲けをひねり出さないとならないわけだが、それを制度として見ると破綻している面もありそうで、その破綻している面が負債となってどこかで生じているのかもしれないが、それがある面では行政機構の慢性的な財政赤字となって出てきているのかもしれないし、また別の面では実際に企業が債務超過となった時に一気に表面化するのかもしれないが、債務が残ってしまったとしてもそれがどこにも引き継がれない可能性があるわけで、その辺で債務を抱えた人の死や企業の消滅とともに、債務も消滅してしまうようなことにでもなれば、何かごまかされているようにも思われるわけだが、実際に制度としても相続権の放棄や自己破産とともに誰も借金を払わなくても済んでしまう事態も生じるわけで、そういう制度が合理的と言えばそうかもしれないし、それ以外にはやりようがないのかもしれないし、そういう意味でも人に金銭的な収入がある限りで経済的な制度も活動も成り立っているわけで、企業の活動も行政の制度や法律を利用した管理統治も、そこで人が生きていて生活が成り立っている限りでそれなりに機能するわけだろうが、どこかで負債が表面化して経済活動の矛盾が明らかとなる以外では、負債ではなく株として富が溜め込まれる場合もあるわけで、実際にその株がすべて売却されて現金化されるようなら、当然のことのように株価が暴落してタダ同然の価格となって富の虚構性が表面化するのかもしれないが、実際にはそんなことは恐慌でも起こらない限りはあり得ないだろうし、結局株が買い支えられて株に価格がついている状態が維持される限りで、そこから富が生じていることになるわけで、それはその他の債券などの有価証券にも言えることかもしれないが、そこに貨幣とは異なる形で富が蓄積されていることにしておけば、その富の蓄積されているという虚構が信用をもたらすわけで、その信用を担保として資金を融資してもらえるだろうし、そういう面で貨幣以外の有価証券にも企業が主体の資本主義経済を支える上で重要な役割と機能が備わっているわけだろうが、結局貨幣でも他の有価証券でも負債であっても、それらは全て価値を担った情報に過ぎないわけで、何か物質的に不足していたり余っていたり足りていたりするという状態とは本質的に異なり、物質を生産したり流通したり交換したり消費したりする上で、それに関係する人や団体の間で通用している取り決めの内容として情報が共有されているだけで、それが物質ではなく情報の貸し借りでしかないとすると、いざとなったらその取り決めを破ればいいわけで、要するに借りた金を踏み倒すような行為を人為的にやってしまえるわけだから、そういう意味では最終的には物質的な論理が優先されてしまう傾向になるわけだ。

 制度というのはうまくいっている時には多少の不具合は大目に見られるものかもしれないが、うまくいかなくなってくるとそれがうまくいかない原因だと強調されてしまうわけで、確かにそういう指摘にはある種の正しさがあるだろうが、実際に起こっている現象はそれとはだいぶ違う成り行きが生じているのかもしれず、そこで何らかの制度が機能しているとすると、その制度の目的に合わせて人も物も情報も動いている一方で、そこで何らかの不具合が生じているとしても、それは制度に合わせて人も物も情報も動いているから、そのような制度の動作に逆らうような動きをしようとするとそれに対する抵抗として不具合が生じるわけで、制度がうまく働いているからそれに逆らうような動作が制度に対する不具合となって現れて、制度がうまく働いていることと不具合が生じていることは表裏一体の関係にあり、そうだとすると制度がうまく動作しなくなる原因がその種の制度への抵抗としての不具合だとは言えなくなるのではないか。例えば放漫財政が祟って行政側の財政赤字が取り返しがつかないほどかさんでいるとしても、それは行政機構が管理運営している制度がうまく機能しているからそうなってしまった可能性があるわけで、無理に緊縮財政にして財政赤字を削減しようとすると今度は制度がうまく機能しなくなって行政の活動が滞ってしまう危険が生じてしまうわけだ。そうだとすればそのような制度がうまく機能すれば財政破綻を招く可能性があるわけで、それが制度の欠陥といえばその通りかもしれないが、制度自体の機能としてそういうことが起こりうる可能性を内包した制度なのではないか。だからそのような制度を批判する人たちに向かって対案を示せと反論してもそんなものはありようがなく、そんな制度だから財政赤字が累積してしまうのも当然だし、実際にそうなればそれを誰かが批判するだろうし、それ対して批判するなら対案を示せと反論してみても、それはそのような結果が招いた争いでしかなく、それも制度が招いた結果であり機能なのかもしれないし、そういう争いから他に何が生まれてくるわけでもなく、批判に触発されてそれとは別の制度の模索も始まるかもしれないが、実際に起こる成り行きはそれとはまた違ったものになるかもしれない。制度が社会の中で生じる成り行きの経過としては、そこで何かがうまく機能しだすとそれが繰り返される動作をもたらして制度として定着するわけで、そうやって同じような動作が繰り返されているうちに、それとは違った動作が抑え込まれてしまうから、それが制度の不具合として顕在化するわけだが、それでも同じような動作が淀みなく繰り返されているうちは制度がうまく機能しているように感じられるだろうし、それに対する抵抗として絶えず不具合を生じさせつつも制度の機能が維持されていることになるのではないか。そしてそうした繰り返しの動作が何かのきっかけで滞ってくると、制度によって抑え込まれていた動作としての不具合が誰の目にもはっきりと浮かび上がってきて、制度に対する批判の材料として使われることになり、あたかも不具合が原因で制度がうまく機能しなくなったかのような指摘が行われるわけだ。
 人が社会の中で集団で組織的な活動を行っていれば、繰り返しの動作として何らかの制度が生じてしまうわけだが、そのような制度がうまく機能していれば当然のことのようにそれに伴ってそれへの抵抗として何らかの不具合も生じてくるわけだが、集団の習性として繰り返しの動作が優先されるのも当然の成り行きで、それを繰り返してそのような動作が社会の中で主流を形成すれば、それとは違う動作が主流をなす動作によって抑え込まれてしまうわけで、それが不具合だとみなせば制度の働きは必然的にそれに伴って不具合をもたらすのだろうし、不具合を生じさせないような制度はあり得ないのかもしれないが、制度を新たに人為的に作り出そうと画策する勢力は、当然のことのように自らの勢力に有利な制度を構築しようとするだろうし、そのような行為はそれとは別の制度を構築しようとする勢力との争いを誘発させるのかもしれず、そんな行為も勢力争いから生じる副産物の一つでもあるのだろうし、それができるだけ不具合の少ない制度の構築に結びつくとは思えないが、結局は人為的に作り出そうとしても思惑通りの制度ができるわけでもないだろうし、そこに様々な勢力の意図や思惑やそこから生じる有形無形の作用が及ぼされ、その結果として何らかの制度が社会の中で構築されて、それがうまく働けばそれなりに機能するような成り行きになるのだろうが、そのような過程の中で実際に制度がもたらす不具合によって苦しんでいる人や集団が出てくれば、そこから批判が生じてくるのも当然の成り行きだろうし、それも制度の構築に伴って及ぼされる有形無形の作用のうちの一つなのだろうが、そうであるなら制度がいったん構築されてそれに伴って一定の動作が生じているとしても、その動作が恒常不変であるはずもなく、制度自体も少しずつ変化を被ってくる場合もあるだろうし、そのような変化を生じさせている要因の一つが、制度の不具合を指摘する批判であるのかもしれないし、そうである限りで制度への批判が全くの無効であったり的外れであるはずもないのだろうが、そのような批判はすでに制度がそこに構築されていてそれなり機能している前提に縛られているだろうし、制度に拘束された批判であるならそれに伴って制度の限界も引き継いでいて、そうなると批判者も制度の推進者と同じ利害を共有している場合もあって、必ずしも批判者と推進者が敵対関係とはならなくなり、それに関してよくあるパターンとしては制度を批判していた側が推進している側にいつの間にか引き込まれてしまう場合が出てくるわけだ。要するに制度の批判者といえども何らかの別の制度の必要性は認めているわけで、制度そのものをなくそうとしているわけではなく、それどころか自らが納得するような制度を構築してそれを推進しようともしているわけで、実際に何らかの紆余曲折を経てそのような制度が構築されるような成り行きになれば、今度は制度を批判していた側が推進する側となるだろうし、またそれが制度である限りはその制度が社会の中で機能して一定の動作をするに伴って、それへの抵抗として何らかの不具合が生じてくるかもしれないし、やはりそうなるとその制度に対する批判も当然のことのように生じてくるわけだ。
 制度に対する批判は批判している対象との対立関係を装ってなされる場合が多いわけだが、批判という行為に関しては確かに批判の対象としての行為と対立関係が生じているかもしれないが、批判している当事者の社会的な立場や地位が批判している対象の人や団体と、必ずしも対立しているわけではないだろうし、社会の中で同じような立場や地位を共有している者同士で批判し合っている場合があるわけで、その場合の批判はやっていることの方針をめぐって対立しているとも言えるだろうし、その人が占有している社会的な立場や地位に伴ってやれる行為があり、そのやっていること自体は批判者も批判の対象者も同じようなことをやっていて、同じようなことをやっているだけにやっていることが競合してくるわけで、それが対立的な敵対関係か競争的な競合関係かあるいは両方が入り混じったような関係なのかはその場の状況にもよるだろうが、両者が同じ社会的な立場や地位を占有しているのだから、そのことに関してはそれとは別の社会的な立場や地位の人や団体とは無関係になるのだろうし、それとは別に利害関係が生じてくるとすれば、それは批判の対象となっている行為が別の社会的な立場や地位の人や団体と直接関係してくる時だろうし、そのような行為がそれらの人や団体に弊害をもたらしてくれば、そのような行為に対する批判をそれらの人や団体が支持するような成り行きとなるのではないか。結局それは批判者やその対象者の社会的な立場や地位が問題なのではなく、その立場や地位を利用して行われる行為そのものが問題となるわけで、そのような行為がそれに対する批判によって改められることになれば問題がなくなって弊害が解消して一件落着となるのかもしれないが、それによって批判の対象者が占有している社会的な立場や地位がなくなるわけでもないだろうし、そのような立場や地位を利用してやっていることが弊害や問題を起こさなければ、別に批判されることはないわけだ。そうだとすればそのような立場や地位を伴うような社会的な役割分担も維持されるだろうし、そのような立場や地位からもたらされる特有の利益もそれを占有している人にもたらされ、結局社会の中で様々な立場や地位を伴った役割分担が生じていて、それぞれの立場や地位を占有している人たちの暮らしが成り立つだけの収入がもたらされていれば、それらの立場や地位を伴った役割分担は維持され、そのような役割分担を構成する社会も成り立っていることになるのだろうが、それの何が問題なのかといえば、限られた人にしかその立場や地位は占有できないわけで、それを占有しようとして人や団体の間で争いや競争が起こっているとすれば、結果的にその立場や地位を得られなかった人や団体の中で不満が渦巻いているだろうし、そのような人や団体は自分たちが優位な立場や地位を占められるような社会を築きたいわけで、それが実際に実力行使などを伴って表面化してくれば、そこで何らかの争いが起こるだろうし、そういう争いが激化してきて事態の収拾がつかなくなってくると、テロや内戦などの泥沼の状況に陥ってしまうわけだろうが、実際にそうなっている地域は世界の中では限られているし、他のほとんどの地域ではそうはなっていないわけだ。
 もちろん平和な地域でもそのような争いが起こっていないわけではなく、争い自体が制度化していると試験や試合で優劣を決めるような成り行きにもなるわけで、そのような競争には特有のルールが設けられて、社会の平和が維持される範囲内で競争が行われるような制度になっていくわけだろうが、もちろん全ての競争が制度化されているわけでもないだろうし、逆に制度化されていないような範囲で争っている人には自由が生じている場合もあり、さらに特に争っている感覚を伴わないような成り行きも中にはあるだろうし、そういうところでは人々の間で共通の利益が生じていないわけで、利益の奪い合いが起こらなければ争いも起こらないわけだ。つまりそこでは社会化が進んでいないことになり、特に目的を伴うような役割分担も生じていないだろうし、社会の中でそういう余地が生じているとすると、その部分では平和が維持されていることになるのではないか。結局社会の豊かさを実現するにはそういう部分をいかにして増やしていくかが課題となってくるのかもしれないが、一方で制度の内外で争いや競争を伴うような行為が経済的な富をもたらしているのだろうから、矛盾しているといえばその通りなのかもしれないし、日夜争いや競争に明け暮れていれば豊かさを実感できず、実感するには争いや競争のない余地を社会の中に増やしてゆかなければならず、その両方が必要だとすれば両者の間で何らかのバランスをとる以外にあり得ないのかもしれないが、バランスをとったところで争いや競争がなくなるわけでもないのだから、それは一種のごまかしとなってしまうのかもしれないし、たとえごまかしになろうと相矛盾する両方の状態が社会の中で必要となっているわけだろうし、実際に人も団体もそれをはっきりと意識しているわけではないにしても結果的に両方の状態を求めているのではないか。そして実際に起こっていることは経済的な富を獲得した人たちが余暇を持て余して観光に耽っているわけで、その余裕のない人たちは働いていることになるのだろうが、別にそれで問題がなければ社会を壊すような争いは起こらないわけだが、実際にはそれに不満を抱いている人たちの中から社会の破壊を目指す人や団体が出てくるわけで、現に平和な地域でもテロ行為が断続的に行われているし、それで問題がないわけではないことを示しているのだろうが、根本的には問題を解決できないだろうし、争い自体を平和的な競争に制度化するのにも限界があるだろうし、結局それは人や団体の間で生じている争いに関して暴力的な攻撃から平和的な競争までの間で強度や程度に差があるということを示していて、そこで程度や強度に差が生じてしまうことについては人為的な調整が難しいことも示していて、結果として起こってしまったことについては対処するしかないわけで、また起こるのを未然に防ぐための対処も施されているのだろうが、そういうことの積み重ねの中で現状が維持され、また新たに生じる出来事に影響されて現状がそれなりの変化を被るわけで、それが資本主義的な経済活動を伴いながら世の中に様々な矛盾を生じさせるのだろうが、そうした中でも何らかのバランスが実現している地域では見せかけの平和が保たれ、バランスを欠いた地域では社会そのものを破壊する力の方が優ってしまい、テロや内戦に明け暮れているような状態となってしまうわけだ。
 世の中で起こっている出来事の中で何が問題だとしても、様々な出来事の間で関連性が見られるようなら、そこに複数の出来事を起こすような世の中の仕組みを想像できるだろうし、何らかの制度が働いているからそれに関連して次々に出来事が起こるとも考えられるだろうが、その一方で偶然の巡り合わせから起こる出来事もその場に無視できない影響を及ぼすだろうし、そうかと言って全ての出来事が偶然の巡り合わせから生じると考えてしまうとそれぞれの出来事の間に関連性など考えられなくなってしまうし、ならば全ての出来事がその場に構成されている世の中の仕組みから必然的に起こると考えてしまうと、偶然の巡り合わせなど何も考慮しなくてもよくなってしまうわけだが、結局はどちらの要素もそれなりに影響を及ぼしているからそれに対する完全な予測など不可能となるわけだが、それなりに世の中の仕組みから起こる要素を考慮しないと、社会に関して何も述べられなくなってしまうし、どちらにしても社会の中で起こっている出来事や現象を考える上で欠かせない要素となるのではないか。そして両方の要素を一概に対立した概念として捉えるのではなく、ある時には連携しているような作用を及ぼすこともあるだろうし、またある時には補完するような動作を引き起こすこともあるだろうし、また必然的な成り行きを偶然の巡り合わせが打ち砕くように作用することもあるのかもしれず、そんなふうにしてその場その時で全く異なる動作や関係をもたらすから、それが偶然の巡り合わせそのものだと言える時もあるだろうし、それに伴って生じる人や集団の行動や言動も一定の思考や思想に基づいてなされる時とそうではない時があるかもしれないし、またそこにその場その時の社会情勢が絡んできて、それが人や集団の判断に影響を及ぼしてくるだろうし、そういう方面から物事を考えていくと、考慮する要素が多すぎてきりがなくなってしまうのかもしれないが、考えられる限りでできるだけ詳しく説明に正確を期そうとする時と、大雑把な把握だけにとどめておいた方がいい時と、その場その時の状況に応じてどちらでもあり得るだろうし、どちらでもない時とどちらでも構わない時もあるかもしれず、そこにも偶然の巡り合わせが絡んできて特有の事情が生じてくるわけで、それに関しても一概には判断できなくなってくるのではないか。そして世の中で働いている制度に関して考えるには、制度の仕組みに伴って生じる必然的な成り行きや結果を考慮しなければならないだろうし、そんな成り行きや結果をもたらすために何らかの制度が構成されるに伴って、その制度を維持管理する集団的な組織形態が機構として生じて実際に活動しているわけで、そのような機構が制度の利用者やそこで取り扱われる物や情報やサービスを管理しながら制度を運営しているわけだ。だから制度側から見れば制度の仕組みや動作に則った必然的な成り行きや結果がもたらされることが望まれるわけで、その過程で偶然の巡り合わせから生じる突発的な事故や事件が起こっては困るわけだが、もちろんそのような事故や事件に対する備えや起こった時の対処に関しても、制度の仕組みの中では想定されていて、起こりうる全ての出来事を制度内で処理できるように工夫しようとするわけだが、実際にはそれにも限界があることは確かで、その限界を超えて起こる事故や事件には対処できないわけだ。
 そんなわけで制度からもたらされる恩恵や弊害も制度特有の仕組みから引き起こされていると考えても構わないのだろうが、それ以外の偶然の作用が制度に影響を及ぼしていないわけではなく、そういう影響は制度から生じる集団的な力をある意味では超えて及ぼされるわけで、いくら制度を利用してその場に影響力を行使しても、それには何らかの限界が伴っているのだろうし、その限界を超える部分に人や物や情報などに関係する自由な生産と流通と消費が生じる可能性が出てくるわけだが、自由であるだけに制度内に拘束されている意識から見ればそんなものには何の力も価値もありはしないように思えるだろうし、実際に人が社会の中で何らかの制度に拘束されている実態が必ずあるわけだからそう思うのも無理はなく、そう思っておいて間違いないだろうが、そうであるからこそそんな間違いや勘違いとともに人の自由な活動が生じる余地が生じているのであり、それはまた偶然の巡り合わせで間違いや勘違いを誘発するわけで、制度側から見ればそれらは全て否定されるべき要因と見なされても仕方のないところだが、一方でそれがないと何も法律を守ったり制度に従ったりする契機が生じないわけで、要するに人は偶然の災難に遭うのを避けるために制度に依存する傾向があるのであり、制度に従うことで制度特有の仕組みから引き出される必然的な利益に与りたいわけで、だから時にはそういう心理を逆用されて詐欺にも遭ってしまうわけだが、制度に従えば必然的に利益が得られるという思い込みも、制度特有の仕組みからもたらされる心理かもしれないし、そういう意味で制度は人をその中に引き込むための魅力と欲望を兼ね備えているとも言えるし、そんな人の思考形態や心理作用を社会の仕組みとして投影しているのが制度だとも言えるわけで、そんなふうにして人と制度との関係は断ち切り難い絆で結ばれていて、たとえ制度の不具合や弊害を指摘して制度を批判する人がいても、その人が制度の恩恵に与っていないわけではなく、たとえ制度から何らかの弊害がその人にもたらされているとしても、社会の中で生きている限り何らかの制度に拘束されながら暮らしていくことしかできないわけだから、制度をなくすのではなく制度の改良を目指しながら、人は社会の中で生きていく以外にはあり得ないわけで、そういう意図で制度批判が繰り返されている状況があるわけだ。そして人が制度の改良を目指すとしても全面的に制度に拘束されることを望んでいるわけではないのも当然であり、全面的に制度に拘束されてしまうと自由に振る舞う余地がなくなってしまうわけで、そういうところで人は制度から利益を引き出したいのと同時に制度から自由になりたいわけで、それを御都合主義とみなしてしまえばその通りかもしれないが、そういう自らの都合に合わせて制度を利用したい心理が、一方で制度を不完全なものにしているのかもしれないが、それも人の習性を考慮すれば当然ことであるだろうし、普通の心理状態から導き出される結論としては何かから支配されたくないと同時に何かを支配したいわけだから、その何かが人であったり物であったり情報であったり、中にはそれらを組み合わせて効果的に機能する社会の仕組みである場合もあるだろうし、実際にそれらを支配している気になっている人や集団も存在するわけだから、それも避けられない成り行きや結果の一つなのかもしれない。
 そうやって社会の中で管理運営されている様々な制度が何を目指しているのかといえば、制度の目的に利用者を従わせると同時に制度内で働く人員も制度に従わせて、そのような役割を担う何らかの機構がそれらの人々が制度に従うように管理運営を行うことになるだろうが、その制度を管理運営しているのが行政であろうと企業であろうと、管理運営するための費用を利用者から徴収することにもなるだろうし、行政であれば利用者から主に税を徴収して、企業であれば利用者に企業が取り扱う物や情報やサービスを買わせることによって管理運営費を捻出するわけだが、その一方で行政はそこで働く公務員に給与を払っているし、企業もそこで働く従業員に給与を払っていて、また公務員や従業員も行政や企業が管理運営する制度の利用者となるわけで、そういうところから資金が制度を通して循環している実態があるわけだが、中には循環せずに一時的にどこかに貯まっている状態もあるだろうし、それが利益や負債となって預金や株式や債券などの形を伴った金融資産や土地建物や機械類などの物質的な資産としても溜まっているわけで、それらの資産も常時使われなくてもいずれ何らかの機会を捉えて使われるか、特に使われなくても金融資産は物価上昇などに伴って目減りすることもあり、その他の物質的な資産は経年劣化したり、貴金属の類いは劣化しなくても盗難に遭ったり紛失することもあるのだろうし、全く使用されなければ何の役目も果たさないのだから、あってもなくても同じことになるだろうが、そうであっても売買という目的で活用されてしまうことが多いわけで、いずれにしても社会の中で経済活動として人や集団が行なっている物や情報やサービスの生産と流通と販売と消費の過程の中で活用される限り、そこで機能している何らかの制度の管理下にあって制度のために活用されている実態があるわけだ。そういう意味で制度は経済活動に関連して存在していると言えるだろうし、実際に制度が何らかの働きを伴って社会の中で機能していればそこで何らかの経済活動が行われていることを示していて、それがたとえ行政の活動に特化した制度であろうと、その活動費用を捻出するための経済活動に依存しているわけだ。そしてそれが何を意味するのかといえば経済活動が様々な制度を維持するためには必要不可欠であり、それは個々の制度の目的がその本来の目的とは別に経済活動特有の価値観に囚われる可能性を示していて、それに関しては具体的に採算が合うのかという判断にさらされる場合があるわけで、企業の場合は特にそれが重視される傾向にあるわけだが、必ずしも採算が合わなくても慈善事業などの社会貢献に関しては、それを行う余裕がある範囲内で行われることになるから、本業とは別の予算を使って行われる限りでその重要度は低くなってくるだろうが、行政となると税金を使うから採算の合わないことを行える可能性が広がるわけで、そうなるとそれをなぜ行わなければならないかに関して、納税者である一般の民衆を納得させる必要が生じてくるわけだ。
 行政が行う採算を度外視した事業に関してそれを行う正当性に関してもっともな理由があるとすれば、例えばそれが人助けを行うことに関しては金銭よりは人の命を救うことの方が大事という論理が成り立つだろうし、また学術文化やスポーツなどに関連した事業に関しては特に採算を考慮に入れなくても、支援した人が国際的な名声を博するような賞に輝いたり、世界的なスポーツ大会で活躍したりすれば、それをメディアを通して知った民衆が納得するだろうし、そういう面で金銭的な価値と同等かそれ以上の価値を得ることに貢献するような制度を構築すれば、それなりに民衆を納得させられるのかもしれないが、それも企業の社会貢献を意識した文化事業や慈善事業と同じように、それが行政が行う主要な事業とはならないだろうし、予算配分もそれらに関する予算が全体の中で占める割合がずば抜けて大きくはならないだろうが、では他に何に関して採算を度外視しなければならないのかといえば、それは福祉に関連した予算となるのかもしれず、それも人助けの範疇に入るだろうが、直接の行動で助けるのではなく金銭を支援することによって人を助けるわけで、具体的には医療保険や年金保険や労災保険や失業保険などの公的な保険全般に言えることかもしれないが、それが公共事業と並んで慢性的な財政赤字を招く原因となっているわけだろうし、公共事業に関しても企業を助けるための金銭的な支援である面があるわけだから、そういう面で採算を度外視した金銭的な支援が軒並み財政赤字を招くのは当然だとも言えるだろうし、もちろん実質的な金銭的な支援である限りは建前上は採算を度外視しているわけではないし、なるべく採算が合うような努力は払われているのかもしれないが、では財政を健全化させるには公的な保険料を値上げして公共事業を減らせば財政赤字を減らせるかとなるわけだが、それでは人助けにも企業を助けることにもならないだろうし、実際には弱者切り捨てと批判されつつも保険料を値上げしたり福祉予算を削ったりしているわけだろうが、それが少なからず政府に対する批判や民衆の反発を招いているだろうし、また公共事業を減らすことに関しては産業振興の見地からはあまり積極的には行われていないかもしれないが、実際に行えば公共事業に頼っている業界が打撃を受けるだろうし、議会や政府内の政治家や官僚たちとそれらの企業が懇意の関係となっている限りはそれを行うのは困難になるわけだが、ではどこから赤字となっている分を工面するのかというと、民衆や企業から徴収する税負担を上げることができなければ、国債などの公債によって未来から借金するしかなくなってくるわけで、実際にもそれが財政赤字の大部分を構成しているわけだろうが、行政自体が身を切るような行政改革が困難である事情も含めて、そうなるのが必然的な成り行きとなっている面があるのかもしれず、それが制度的な必然性を構成しているとすれば現行の制度ではどうにもならないかもしれないし、だから制度改革の必要性が叫ばれているのかもしれないが、現状では掛け声倒れとなっているだろうし、実際にそれで何とかなっているうちは制度改革など進まないだろうし、進めることよりもそれに対する抵抗の方が強いから進まないのではないか。