資本論





第六章 労働とサービス




 サービスというのは簡単に言えば人が他の人に対して何かやってあげることを言うのだろうが、やるだけで具体的に物のやり取りはなく、やった後に何も残らないような行為をサービスというのかもしれないが、それが報酬を受け取るのと引き換えして何かをやるとなると、何も残らないわけではなく報酬が支払われるわけだから、それもサービス業などの類いとしてはサービスだろうが、いわゆる賃金労働と解釈されるのだろうし、サービスの中にはそのような労働も含まれるし、産業としてのサービス業の中での労働もサービスには違いないわけだ。それとは違って何かを生産してその生産物を渡すのはサービスではないだろうし、生産をしないでただ生産物を運ぶだけならサービス業となるのではないか。また何かを販売するのは商業だが、小売業者に雇われて店員の類いになるとサービス業になるだろうし、生産者に雇われて製造過程で労働力を提供するのも厳密にはサービス業と言えるのではないか。その辺は定義上は間違っているかもしれないが、直接商品を作ったり販売するのではなく、労働力を提供するだけの人はサービスを提供していることになるのだろうし、そういう広い意味で労働者に分類される人々はサービス業者になるのかもしれないが、労働というのは常に何か道具を用いて行なうものだろうし、それはサービスを提供する人にも言えることで、サービスを提供する施設も含めて道具を使用しないサービスというのはまずあり得ないだろうし、生産者や小売業者にとっては雇用している労働者も道具でしかないのかもしれないし、そしてその生産者や小売業者にしても個人がやっているというよりは企業などの法人が行なっている場合がほとんどであるから、何か特定の個人が労働者を道具扱いしているというよりは、集団的な組織形態を伴ったシステムが人を道具のように取り扱っているとみなした方が妥当なのかもしれず、もちろんそこで道具の延長上に機械があるわけで、人を道具であると同時に機械のようにも扱っていると言えるのかもしれないが、その辺は表現の問題だから何と言っても実態は変わらないわけだが、人と道具と機械を厳密に区別することは可能だが、役割や機能としてそれらが混同されるような状況はあるだろうし、産業はそれらを使って利益を出せれば事業が続いていくわけだから、使う用途によって道具を持たせた人を使ったり全面的に機械化したりするわけで、必ず人を使わなければならない事情というのがそれほど切実ではないところでは、コスト的に割りに合えば容赦なく機械に置き換えるだろうし、そういうところの判断基準としては人道的な配慮はあまりなされないのではないか。それよりは採算がとれるかどうかが優先されるだろうし、それ以前に人は常に道具を改良して作業効率を上げてきた歴史的な経緯があるわけだから、そして道具の改良の延長上に機械の発明と使用とその改良が続いて生じてきたわけで、そのような成り行きの連続性を認めるなら機械を使うことに何の躊躇いもないわけだ。
 そしてコストや効率を重視する姿勢が機械の改良に結びつき、さらにコストよりも機械の性能を高めることにも人は魅力を感じるわけで、また効率にも様々な方向性があって、例えば至れり尽くせりのサービスを提供してそれに伴って価格を高くしても、採算がとれるだけの利用者がいれば効率的に利益を上げられる可能性があるわけで、消費者や顧客に魅力的なサービスを提供できればそれが利益に結びつくわけだ。そういう意味でサービスを提供する面でそれなりに筋の通った理屈になる場合もあるかもしれないが、それは結果論である場合が多いのかもしれず、結果的に利益を上げられるようなサービスが商業的には継続して行われている実態があり、そういうサービスにはそれなりに顧客が満足するような魅力があるわけで、確かにコストや効率が重視されている面もあるわけだが、それ以外のところでサービスを受ける側の嗜好が重要な要素となる面もあるだろうし、それに加えて世の中の流行現象も重要な作用を及ぼすこともあり、何かが流行ってそれがある期間を境にして急速に魅力を失って衰退した場合、それを後から振り返ってみると、なんでそんなくだらないことが流行っていたのか首をかしげるようなこともあるわけで、それはサービスだけではなく商品の流行現象にも言えることかもしれないが、人が何に魅力を感じるかは実際に魅力を感じるような物事が出現してみないとわからない場合があるわけで、そういうところでは単純なコストや効率の追求だけでは利益に結びつかない場合があるわけだ。そこに成り行きの偶然的な巡り合わせがあるわけで、それは誰から見てもお粗末な人物が民主的な手続きを経て首相や大統領となっている現状を見ても十分に理解できるところだろうが、それは人が行なっているサービスの内容にも言えるのかもしれず、誰が見ても非効率で無駄だらけのサービスが慣習や制度の助けを借りて平然と行われている場合がある一方で、いくらコストや効率を重視しても全く流行らないサービスもあるだろうし、そういうサービスが現れては消える一方で、特定の勢力にとって利権となっているサービスはそのような勢力が権力を行使して無理やり継続させるような成り行きにもなるわけで、そしてそのような勢力と連携しているメディアがサービスの宣伝に力を入れていると、そのような宣伝を真に受けた人々にはそれが魅力的に感じられてしまうわけで、そういう宣伝の欺瞞性に気づいている人にとってはくだらないことにしか思えないのかもしれないが、宣伝しているメディアの方が社会の中で影響力を持っている場合が多いのだろうし、そういうところで強引に権力を行使したり宣伝によって魅力的に見せかけたりしながら続いているサービスもあるわけで、何か少数派に属する人たちがくだらないと思われることが世の中で流行っている場合は、それらの人たち認識の方が勘違いでない限りは、多数派の属する人たちが特定の勢力による過剰宣伝や権力の行使によって欺かれていることになるのかもしれない。
 そのようなサービス伴う産業の中で労働だけで生計を立てている人は、原理的には労働力を売った報酬として金銭を得ていることになるわけだが、そこで成り立っている労働力と金銭の交換という売買が他の売買と違うところは、物や情報の売買だと金銭を払って買った物や情報が手元に残るのに対して、労働力はその場で消費されて残らず、しかも大抵の場合は労働力を使った後から金銭が支払われるのに対して、物や情報の売買ではそれを使う前に金銭が支払われ、それがローンになると使っているのと同時に分割払いされてゆくわけだが、それでも変動する金利の支払い以外は事前に決められた額を分割払いするだけなので、払っている間に物価が変動するとしても、決められた支払額そのものは変わらないのだが、賃金などの報酬を後払いで支払う場合は、事前に想定していた労働量より多く働かせても支払う額は変わらないので、支払う側がそれだけ儲かる場合があるわけで、もちろん残業代などの取り決めの範囲内で働かせるわけだから、時間給としては長時間働かせれば残業代も増えるわけだが、結局時間当たりの労働量を増やせばいいわけで、いかに時間内で効率的に働かせるかが人を雇う側の腕の見せ所となり、またそれが機械技術などの技術革新によって人件費を減らす目標ともなるのではないか。労働量を増やすといっても達成困難な過酷なノルマを課して、達成できなければ逆に罰金として賃金を削るような理不尽なことは普通の企業ではあまりやられないだろうし、従業員が気づかないところで自然に作業能率が上がってくるような管理体制や作業工程が模索されるわけで、そして労働量を増やすことが生産量の増加に直結してくればいいのだろうし、さらに機械を改良して労働量を増やさなくても生産量の増加につながればなおいいわけだろうが、もっと言うと労働量を減らして人件費を削減しても生産量が増えればもっといいのかもしれないが、そういうところで人的な労働力の代わりに機械を稼働させた方が安上がりになるような場合は、積極的に機械化されるだろうし、人の労働力を使うところでも雇用条件が時間給ならば、単位時間内でより生産量が上がるような工夫が凝らされるだろうし、絶えず生産経費の中で人件費を減らそうとする傾向にはなるのではないか。そして生産以外の流通経費や販売経費の中でも作業の効率的な運用によって人件費を減らす工夫はされるだろうし、物や情報の生産や流通や販売などの過程で人的な労働力が必要になる場合は、人を雇う側から見ればそれは絶えず必要経費として見てしまうわけで、経費を削減すればそれだけ利益が出るのは当然のことであり、そうなると作業に支障を来さない範囲で経費の削減ができれば、それをやらないわけにはいかなくなるだろうし、そういう面では労働力を売って生計を立てている人にとっては不利な状況となってくるわけで、場合によっては何かそういう成り行きとは異なる方向での労働力の活用が求められてくるのかもしれない。
 それに関しては効率とか能率とは関係のない方面で人を使う場合を考えなければならなくなるわけで、例えば人としての知性や理性などを使って顧客を満足させるサービスとか、また専門の技能などによって顧客を満足させるサービスを提供するとかが考えられるわけだが、そうなると専門的な技能に長けた少数の人材しか必要ではなくなるわけで、その一方で誰にでもできるような労働となると必要経費としか見られず、逆にその人にしかできない専門職となると少数の人材しか必要でなくなるわけで、それらの間で様々な労働力が産業の中で必要とされている実態があるのではないか。そして少数の人材しか必要でない専門職になるほど高給になる傾向があるだろうし、それだけ人気も高く競争も激しくなり、結果的に誰でもできるような職業ではなくなるわけで、その反対に誰でもできる職業ほど賃金も安くて、パートタイムで主婦や学生などが片手間でやるような職業となるのかもしれないが、そのように各職業の間で報酬に差が出るのは誰もが納得するしかないだろうし、結局最も安い賃金の職業でも生活していけるようなら構わないわけだが、行政などの政策によってそれが実現するとしても、必然的に給与の格差は貧富の格差をもたらすわけで、それは避けようのない成り行きであり事態なのではないか。そして実際にも現状では貧富の格差はなくならず、政治的にも行政的にもそれを解決できないわけだが、そうなるとそもそもそれを問題視するのがおかしいとなるわけで、ただ最も安い賃金でも生活できる状況を実現できれば、さらに無職でも生きられるような状況を実現できれば、生活に行き詰った人が餓死するようなことはなくなるわけだが、そのためには大多数の人が職業を持って普通に生活している状態が実現されて、ごく一部の貧困にあえいでいる人だけが行政などの援助を受けながら暮らしていけるような状況となれば、それほど民衆の間で不平不満は出てこないのかもしれないが、ひとたび経済状況が悪化すれば失業者が増えてそのような均衡を保てなくなるだろうし、また経済状況がそれほど悪化せずに雇用もそれなりに確保されている状況下でも、給与が上がらず消費も横ばいの状態が続くと、それはそれで民衆の間やメディア上で不満が出てくるわけで、粗探しをすればいくらでも不満の種が見つかってしまうことは確かだが、行政や政治などの場でそれらの些細な不満にも対応するような政策を打ち出せれば、それなりに世論の支持を得られるだろうし、民衆の側から少しでも不満が出ればそれをメディアが積極的に取り上げて政治問題化するような成り行きに持っていくことが、現代的な政治情勢を活性化させる上では重要なことなのかもしれず、そんな水準で状況が安定している限りは平和な状態が維持されるわけで、メディアを通じて出される政治への不満も不祥事への対応ばかりでなく、もっと何か建設的な方向へと向かうような成り行きが期待されているのかもしれないが、そうなるにはそれ以前に片付けなければならない問題が多すぎるのかもしれないし、様々な問題がある中では優先的に不祥事などの片付けられない問題ばかりが噴出してしまう状況となっているわけだ。
 そんな状況の中でも歴史的な経緯を辿ると、産業の大規模集約化はそれに伴って人の集団的な組織化をもたらし、そのようなシステムとして資本主義的な体制が形成されたわけだが、それは一方で体制内に組み込まれた人に細かな役割分担を課して専門化が促進され、役割ごとに部分的に機能する労働者の集団が生まれたわけだ。またそれはその体制を離れて別の職種に就いた場合、以前の体制内で養われた専門知識が新たな体制の中ではあまり役に立たないことを意味していて、その職種に特有の専門知識に普遍性がないことが明らかとなり、そこでしか通用しない仕事に関する知識や経験と、社会人として一般市民の日常生活の中で生じる知識や経験が分離してしまったわけで、仕事の中で専門家として通用している限りは、公の社会の中で民主主義の理念など尊重しなくても構わない風潮も生まれてしまったのかもしれず、それを促進しているのがメディアを通して伝わってくる政治情勢だろうし、マスメディアが政治的に主導権を握っている勢力に配慮して政治批判をしなくなれば、そこから影響を受けた民衆の側でもそれで構わないと認識するだろうし、民主主義の理念から外れた強権的な行為をメディアが批判しなければ、やはりそこから影響を受けた民衆の側でもそれで構わないと認識するだろうし、そんなわけで公的な社会領域で主体的に思考する意識が欠落すると、人の意識は仕事と趣味の生活の中に埋没してしまい、社会人としては慣習と制度に依存して生活するばかりで、その慣習と制度にとって不都合な面までは気づかないだろうし、世の中をより良くしていくには慣習と制度を状況に合わせて絶えず変えてゆかなければならないことにまでは考えが及ばなくなってしまうのではないか。もっともそんなことは社会の中でそれ相応の権限を持っている政治家や官僚や、メディア上で発言権があるオピニオンリーダー的な著名人が考えればいいことで、一般の庶民が考える必要はないことだと思えばそれで事足りてしまうのかもしれず、そこにも産業内で生じている役割分担に伴う分業的な専門化が影響していて、自分の専門外のことにまでは口を挟まなくても構わないという風潮も生じてしまっているのかもしれないが、それに関しては社会全体のことを考える上で公的な社会領域という概念が必要なのかというと、仕事と趣味の狭い領域にしか興味を示さない人にとっては不要なのだろうし、それで構わない状態が維持できる限りは、それで済んでしまう状況が続いていくのではないか。そしてそれでは済まない状況というのが果たして一般の人々に生じる時が来るのかというと、今この時がそうなのかもしれないし、その時が来ているのに未だに多くの人がそれに気づいていないのかもしれないし、今後も気づかないままなのかもしれない。そして気づかないままで構わないのかというと、それは各人の判断にまかされていて、気づかないなら気づかないなりに、誰もが気づかない状況が続いていくのだろうし、多くの人が気づいたらそれが世論に表れてそれなりに世の中の情勢が変わっていくのかもしれないし、結局世の中の情勢はそこに住んでいる人の意識の変化に左右されるものなのではないか。
 少なくとも公共的な社会空間がアプリオリにあるわけではなく、そこに暮らしている人々が意識しないとそんなものは存在し得ないし、存在しなくても済んでしまうのならそれだけのものなのかもしれないし、そこに住んでいる人々の意識や活動に合わせた社会がそこに形成されてゆき、またそれで安定するわけではなく、そこでそれなりに対立や軋轢も起こるし、それを通して社会が変化してゆくのだろうし、なぜ対立や軋轢が生じるのかといえば、それは社会の中で暮らしている人が他の人には受け入れがたいことをやるからであり、そしてその人の活動が社会の中で一定の支持を得るようなことになると、それを支持する人たちとそれに反対する人たちとの間で対立や軋轢が生じて争いが起こるわけで、そのような争いの中で社会が変化してゆくのだろうが、その中で誰がどのような勢力が主導権を握るとしても、今のところはそのような勢力の思い通りの社会が実現している地域は世界の中では限られているわけで、世界全体が一つの勢力の思い通りになることはないわけだが、ただその中でも資本主義的な価値観が世界全体を覆っていることは確かであり、それがある意味では普遍性を持っていて、それに対抗しようとする公共の利益を重視する価値観を圧迫しているわけで、それを単純化すれば個人の利益と公共の利益の対立となるわけだが、厳密に言えばそうではなく、その中では集団の利益と個人の利益も対立しているのであり、そして集団の利益が公共の利益に反している面もあるわけで、そこで集団の利益を個人の利益と混同してしまうと、その個人が集団に組み込まれていることに気づけなくなり、そのような錯覚が資本主義的な経済活動からもたらされる利益の追求の正当化にもつながるわけで、実際にそのような利益の追求によって特定の個人や集団が潤っている一方で、別の個人や集団が損害を被っていることには無自覚でいられるわけだ。要するに正確に言うなら集団に組み込まれた個人に利益がもたらされると、その集団に組み込まれていない個人には利益がもたらされず、しかもそれが公共の利益に反していることになるのかもしれないし、実際にそのような集団に対して公共の利益を重視する人々から批判がされる場合には、特定の集団による活動が社会全体から見ると目に余るものに映るわけだろうし、時にはそれが資本主義的な利益の追求に関してそれが行き過ぎた追求だとみなされてしまうのではないか。具体的にそれは資金に物を言わせて強引なことをやっていると受け取られる場合もあるのだろうし、さらにそれが政治的な権力の行使と連動してくると、民主主義の理念に反していると思われるわけで、そういったところから逆説的に公共の利益がどういうものなのかが浮かび上がってくるかもしれないのだが、たぶんそれは世の中の制度や慣習などとは違ったものになるのかもしれず、絶えずその場の状況に合わせて制度や慣習を変えてゆく作用をもたらすものなのではないか。

 人が何かをやっていることが世の中にそれなりの影響を及ぼしていることは確かで、そのやっていることの程度から言えば個人でやっていることよりは集団で組織的に行なっていることの方がより強く社会に影響を及ぼしていることが多いのだろうし、資本主義経済の中では企業が行なっていることがその主要な影響を及ぼしていて、企業活動が社会をその恩恵を受けている人の生活や活動するのに都合がいいような環境に変える原動力となっているのだろうが、企業は直接そのような使命を担って活動しているわけではなく、その主要な目的である経済的な利益の追求をやっている結果として社会環境を変えてしまっているわけだから、確かに企業活動に関わりそこから利益を得ている人にとっては都合のいい環境となるわけだが、逆に企業活動によって何らかの損害を被っている人にとっては、社会環境の変化によって生活しにくく活動しにくい状況に変わってきている面もあるのかもしれず、実際に辺境の地で狩猟採集などを行いながら暮らしている人々は、他の文明的な生活をする人々の活動に追い立てられて世代を重ねていくにつれて徐々に辺境の地に追いやられてしまった歴史的な経緯があるのだろうし、実際にそれは企業活動よりもさらに広範囲な産業規模で起こっている変動による結果なのだろうが、企業活動に限った中でもグローバル企業の活動がより規模の小さい地域に限定された企業の活動を圧迫している事例もあるだろうし、そういう面で単純に企業活動によって利益を得ている人と損害を被っている人を明確に区別できない面もあるだろうが、具体的に特定の企業で働いてそこから報酬を得ている人にとって企業活動はなくてはならないものだろうし、恩恵の他に弊害を伴う面としては、金銭的な利益を得ている反面で多大なストレスを背負いこんで寿命を縮めている面があるかもしれないが、それとこれとは次元の異なる問題だろうから、そこから一概に損得勘定など計算できないだろうし、そういう成り行きの中へとその人自身が絡め取られているだけのことかもしれないが、ともかく企業活動にとって都合のいい環境を維持していく上で、企業内で働く人たちに報酬と引き換えにしてそれなりの犠牲を強いている面はあるかもしれないが、企業活動にはそこで働く人員が欠かせないわけだから、とりあえず働くに値する報酬が確保されなければならないのはもちろんのこと、絶えず競合している他の企業との比較で、その企業で働くことのメリットも求められているのではないか。そのメリットというのが報酬以外では職場環境の良し悪しになるだろうし、企業の側でもそれなりに有能な人材を確保したければ、例えば福利厚生の充実を図ったり、他にも働く上で無用なストレスがかからないような職場環境を整備しなければならないのかもしれないが、それも需要と供給の関係で、黙っていても就職希望者が殺到するような企業なら、企業内での競争も熾烈なのかもしれず、むしろ去る者は追わずで、企業内の熾烈な競争を勝ち抜いた者だけが残って出世して、負けた者は閑職に追いやられた挙句にリストラの対象となってしまうような運命も待っているだろうし、そのような職場環境ではストレスがあるのが当然で、ストレスに耐えて打ち勝ってこそ一人前の企業戦士として企業に活用されるという論理がまかり通っているのかもしれない。
 そのような企業内での競争というのが企業自体に活力を生んでいるのか、あるいは競争がこじれて勢力争いや派閥争いに明け暮れることになって、逆に企業を衰退させている弊害となるかは何とも言えない面があるのかもしれないが、結果的に業績の好調を維持していればそれが良い方向へと作用しているのかもしれないし、逆に派閥人事などが災いして無能な人材が出世して最高責任者にまで上り詰めてしまったような場合には、業績が低迷して場合によっては経営危機に陥ってしまうような結果をもたらすかもしれないし、別にそうした要因がなくてもそれ以外の要因が作用して業績の好不調に表れるわけだから、一概に企業内の競争や争いが企業の業績に影響を及ぼすとは言えない面もあるのかもしれないが、それとともに企業間での競争も業種や企業が立地している国との関係で様々な影響を社会に及ぼすのだろうし、例えばそれが特定の国の特定の企業の業績が好調であることに起因して、その企業の商品の輸出先の国との貿易摩擦などに発展すると、国家間での国際的な緊張関係をもたらすこともあるだろうし、また資源の掘削や森林伐採などの乱開発に伴う環境汚染などは、それを手がける企業間競争の過熱によってより一層の悪化をもたらすかもしれないし、結局そうした悪影響がもたらされる場合にその歯止めとなるのが行政の役目になるわけで、場合によっては多数の国による国際的な協調関係を利用して貿易摩擦の調整や環境汚染などを食い止める方策が話し合われている現状があるわけで、また健全な企業間競争を阻害するグローバル企業による市場支配にも、さらにタックスヘイブンなどを使った企業や富裕層などの課税回避行為にも、国際的な協調体制による歯止めが必要不可欠となるだろうし、そういう面で行政と企業の関係は、企業活動が税収をもたらして行政の財源となる面に関しては、行政が企業を保護育成したい思惑がある一方で、その活動が行き過ぎてしまう面に関しては、行政がその歯止め役にならざるを得ない面があるわけで、その二面性がお互いに相殺してしまってはまずいわけで、二律背反する面の両面で上手く舵取りしていかないとならないわけだから、政府や企業に批判的なメディアからしてみたら、結果的にはダブルスタンダードのような嘘やごまかしと見られても仕方のない面があることは確かなのだろうが、それは行政だけに責任があるわけでもないだろうし、また企業だけに責任があるわけでもなく、その行き過ぎてしまうところを絶えず批判するチェック機能がそれらのメディアには求められているわけで、もちろんそうしたメディアだけがあるわけでもないし、行政や企業と癒着してそれらの宣伝ばかりしているメディアの方が、メディア自体の企業活動としては業績が好調となる可能性があるのだろうから、メディアの方でも批判と擁護という二律背反的な二面性を抱え込んでしまっているわけで、そちらの方も互いに相殺してしまうわけにはいかないだろうし、絶えず両面の方向で相矛盾する活動をしていかなければならない宿命にあるわけで、そういう面でもそのようなメディアから情報を受け取っている一般の民衆にとっては、欺瞞であり偽善のようなことをメディアが行なっていると疑ってしまうわけだが、それは民衆の側にも言えることかもしれないし、それらの民衆の中には批判されている企業や行政やメディアなどで働いている人も含まれるわけで、結局は互いが互いを批判する一方で擁護するような立場が生じてしまうことは確かで、しかもそれらを相殺してチャラにするわけにはいかず、時には耳が痛い批判を甘んじて受けないと、当の批判されている事態を改善することはできないわけだ。
 そして企業で働くということはそこで動作している集団的なシステムに組み込まれることを意味していて、人を組み込んだシステムとしての体制は、ある面ではその中で機能している分業から成り立っていて、また別の面ではその分業している各部門を指揮統括する中央集権的な官僚組織を必要としていて、分業によってそれぞれの役割分担が分散するとともに、その分散した各部門を指揮統括しようともしているわけで、分散体制と中央集権体制が同時に成り立っているような構造があり、それがその場その時の都合や情勢に合わせて、ある時はトップダウン方式で上から命令を下したり、また別の時にはボトムアップ方式で下からの提案をトップが受け入れたり、一つの方式で凝りかたまるのではなく、より柔軟な組織形態を維持していないとうまく情勢の変化に対応できなくなるわけで、そのような構造もそれを外から見れば何か二律背反しているような矛盾を感じるのだろうが、実際に上からも下からも主体的に活動していかなければならず、どちらもどちらへの依存状態ともならないような構造が求められているのではないか。だから上からの指揮命令系統だけを頼って企業の構造を把握しようとすると骨格や骨組みが見えてくるだけで、確かに何か上から命令して動いているように見えるわけだが、肝心の活動の内容がよくわからなくなってしまうわけで、逆にその活動内容だけを見ているとてんでばらばらなことを勝手にやっているとしか見えないだろうし、実はその二つの方向性が直接繋がっているのではなく、同時的に重なり合っているわけで、企業の規模が大きくなるほどその傾向が顕著になってくるのではないか。だから常にトップに権力が集中しているわけではなく、分業している各部門の中で働いている小さな権力の集合体がトップを頂点とする指揮命令系統を成り立たせていることは確かだが、各部門の中で行われる小さな権力の行使には、トップからの力が及ぼされているわけではないのだが、トップダウンで何らかの指令を発する時には、各部門に分散している小さな権力を素通りして下へと力が及ぼされるわけだ。そのような権力の行使は各部門を指揮している小さな権力には与り知らないことであり、逆に各部門の中で行われる小さな権力の行使はトップを頂点とする指揮命令系統には与り知らないことになる。そのようにしてトップダウンとボトムアップがうまく互いをすり抜けるようにして重なり合っていると、その企業の組織的な柔軟性が確保されることになるのだろうが、どちらか一方がもう一方を制御するようなことをやりたがると、途端に混乱が起こって、企業内の勢力や派閥の離合集散にも拍車がかかって、互いの勢力や派閥の間で疑心暗鬼が蔓延して収拾がつかなくなるのだろうし、結果的に組織が分裂したり全体として崩壊したりすることになるのかもしれないが、それも組織的な新陳代謝の一環なのかもしれず、そのような闘争が結果的にどのようなことになるにしろ、それが不可避な成り行きだと言える面があるのかもしれないし、そういう闘争は企業活動にはつきものなのではないか。
 そんなふうにして企業で働いていると日常の業務とは別の面でそういう政治的な活動も生じてきてしまうわけで、そういうことを調整する具体的な部署が総務課や総務部などの部署になるのかもしれないが、それも具体的な業務とは別に行われるわけで、上から取り仕切るのではなく下から突き上げるのでもなく、微妙な均衡を保とうとする目的で上と下との調整を行い、また横の連携も調整するのだろうが、そういうことのどこまでが業務とも言えない面も出てくるわけで、業務とは別に何かやっているようでもあり何もやっていないようでもあり、中小企業ならなくても困らないが、ある一定規模以上の企業になると必ずそれが必要となってくるのかもしれず、それとは対照的に庶務課というのはいわゆる事務職なのだろうし、それはコスト削減や機械化の対象ともなりやすい部門でもあり、場合によってはそれ専門の下請け企業というのも可能な部門なのではないか。またそういう面で企業は利益の追求という単純な経済目的だけで成り立っているわけではないのはもちろんのこと、そのような経営形態を維持するのに多大な労力を費やしている面もあるわけで、組織的な経営形態の維持と組織的な目的や目標とが必ずしも一致しているとは言い難い面まであるのかもしれず、トップの言動や行動ばかりがメディア上で注目を集めているとしても、企業の中で分散した各部門で行われていることがトップ経営者の直接の管理下にあるわけではない場合の方が多いだろうし、また各部門の責任者がその部門で独裁体制を敷いているというわけでもなく、そういう特定の人物が管理や裁量などに関して何らかの権限を握っていることは確かかもしれないが、それはあくまでもそこで形成されている集団的な意向に配慮する限りで権限が生じてくるわけで、比喩的にはワンマン経営が成り立っているように見える企業であっても、そのワンマン経営者が組織的なシステムが醸し出す集団的な意向から自由であるわけではなく、その集団的な意向に適切に対応して配慮しているから、その人の手腕がその人独自の才覚や技量から生じているように見えてしまうのではないか。そういうところからも企業のトップに立つ人物が担っているのが政治的な役割であることがわかるわけで、経営者が産業技術に関する知識に長けていたり営業的なセンスがあるというよりは、政治的なセンスが求められている限りで企業の最高経営責任者でいられるわけで、時にはトップダウンで何か指示しているように見えるとしても、別にボトムアップ的な提言を無視しているわけではないだろうし、相反するどちらの作用にも対応していかなければならないのであり、特にボトムアップ的な行為を制限したり制御しようとしてはまずいわけで、しかもそこで絶えず経営の主導権を握っているように見せかけなければいけないのではないか。そして結果としてそう見せかけられていること自体が経営の主導権を握っていることになるわけで、下から上がってくる意見というのがまるで経営者の意向を尊重しているような意見となっているように見せかけるわけだ。そしてそのような見せかけの体制を演出するのが総務的な部署の役割であるのかもしれない。
 そうした政治的な面以外では普通に業務的な仕事が企業の中で行われていて、普段の仕事以外の日常生活の中でやっていることが仕事としてやっていることと違うのは当たり前だが、日常生活と仕事とが意識の中で分離しているわけでもないし、仕事も日常生活の一部であることは言うまでもなく、仕事からの影響が日常生活に及んでいる可能性もあるだろうし、仕事上当たり前のように行われていることが、日常生活の中では違和感を伴うわけでもないだろうが、それが当たり前だと思うのは仕事上の習慣として身についているからそう思われるわけで、逆に仕事をやらなければ身につかないような習慣もあるのかもしれず、例えばそれは集団の中で家族や交友関係とは違った種類の協調関係を築くことだろうか。集団で仕事を行なっていれば確かにそうした関係を築くことが重要となるかもしれないが、では単独で仕事を行なっているような人にはその種の協調性は身につかないのだろうか。たとえ単独で仕事を行なっているとしてもそれだけで仕事が自立して成り立っているわけではなく、他と接触する部分が必ずあるわけで、それは何らかの取引や交渉の場でもあり、そこではそれなりに敵対を脱して相手との協調が必要となり、具体的にそこでは何かと何かの交換が実現するわけで、それが生産物であれ獲得物であれ、あるいは何らかのサービスであれ、それらとの交換で利益を得ることは確かで、一般的にはそれは金銭的な利益となるだろうが、当人が自給自足で暮らしているとしても、その場合は労働と自然との交換があるわけで、畑を耕すなり狩猟採集するような労働が自然の恵みをもたらすわけだ。それだけなら仕事を巡って人間同士の協調関係を必要としないかもしれないが、それが資本主義経済の中では労働と金銭との交換が必要となるわけだから、そこで人と人との協調関係を必要とするわけだ。しかしその場合は労働であって仕事とは違うと思われるのかもしれず、労働とは生きていくためにやらざるを得ない仕方のない行為だとみなせば、では仕事とは何かというと、自ら積極的にやる行為が仕事であって、自らの意志で主体的に働くような行為が仕事と言えるのかもしれないが、たぶん現代においては労働と仕事の区別は曖昧であり、どちらも同じような意味で使われていることが多いかもしれないが、それが労働と呼ばれるのを嫌う人たちは、消極的にやらされているのが労働で、自分の意志で積極的に行なっているのが仕事だという区別をつけたいのかもしれない。とりあえずはどちらも人の活動であることには変わりなく、当人としては積極的に仕事を行なっているつもりが、実は他からの何らかの思惑が作用してそう思い込まされている場合もあるのかもしれず、実際にはやらざるを得ないことをやらされていることに気づかないだけかもしれないわけで、大抵は世の中の慣習や制度がその社会の構成員に仕事をさせているのかもしれないのだが、それが企業内では集団が構成する組織的なシステムがそうさせているのだろうし、その中に身を置いていると、例えば組織のトップを目指さなければならないという立身出世欲が生じてくるわけで、出世するために自らが行なっていることが消極的な労働だとは思わないだろうし、自分の野望を実現するために積極的に働いているように思われるだろうが、やはりその場合も組織の中に身を置いているからそう思い込まされてしまうわけで、もちろん誰もがそう思うわけでもないが、少なくとも自分の前途が有望だと思えるようなエリート的な立場の人なら、そう思うのが当然の成り行きとなるのかもしれない。
 またそのような区別を敷衍すると、世の中で権力を行使する立場の人が積極的に仕事を行い、権力を行使される立場の人が従属的な労働を強いられているとも考えられるだろうし、確かに権力を行使する側とされる側の間で生じる力の不均衡や立場の不平等を考えるならそんな解釈も成り立つかもしれないが、それが対等な取引や交渉の場では成り立たないだろうし、また集団の中で誰もが協調関係を守っている場合は、誰が誰に対して権力を行使しているのかが曖昧となってしまい、そこに醸し出されている空気や同調圧力に従っているような場合だと、誰もが権力を行使される側となってしまう一方で、実質的に権力を行使する人物が不在となってしまう場合もあるわけで、そうなると誰が組織のトップになろうとその人が権力を振るっているわけではなくなり、その人でさえも集団が醸し出す空気や同調圧力に従いながら活動していることにもなって、そうなると活動の積極性も消極性も意味をなさなくなってしまうわけだ。それはある意味で世の中の制度や法律に従うような場合でも似たような構造になるだろうし、また神に従う場合でも形式的にはそうなるのかもしれないが、しかし実質的にはそれが制度であっても法律であっても神であっても、それらを利用してそれらに従っている人たちを支配するというやり方が成り立つわけで、それが積極的な意味を担う活動しての仕事だと思われ、そのような役割を担うのが司法官であれ司祭であれ、それらに従っている人たちの最前列に自らを位置づけて、皆が制度や法律や神に従うように説教する指導者の立場になろうとするわけだ。そして自らの権力の行使を制度や法律や神の力の行使と同一視するわけだが、それは制度や法律や教典などの戒律に則って権力を行使するわけだから、それらから生じる思想に帰依している人々の間では何か絶対的に正しいことをやっているように信じられてしまうのだろうし、そのような制度や法律や宗教の教典などの内容を絶対視することは、たぶん思考や活動の柔軟性を欠いて状況の変化に対応できなくなってしまう危険を伴うのだろうし、そういうのを教条主義というわけだろうが、集団内で空気や同調圧力に従うように仕向ける作用はそれとは少し違い、要するに戒律的なはっきりした内容がないわけで、内容がないだけにある意味では沈黙の圧力としてもっと陰湿な力を持っているのかもしれず、何だかはっきりしないが目配せのような仕草で暗黙の了解事項を守るように仕向けてきて、それに従わない人をのけ者扱いにして村八分にしようとするのだろうが、その何だかわからないがとりあえず集団の同質性を維持しようとする動作は、そのようなことを強いている人々の間でもはっきりしたことはわかっていない場合があるだけに、ただ単に同調圧力に屈しない人に違和感を抱いていて、そういう人は村のしきたりや掟を守らない人だということはわかっているのだろうが、それ以外ではないわけだ。だからそういう人を非難する内容は妙に情緒的な言い草になってしまい、論理的には筋が通らないようなことを言いながらも非難する姿勢は変わらないわけで、それは知性の感じられない否定的な感情の発露という以外には何の内容もない非難となるのではないか。

 日常の生活の中で毎日の日課のごとく同じ行為が繰り返されていると、そのような状態を肯定的に捉えることができるならその日常は安定していると言えるだろうし、同じことをやっているだけなら退屈かもしれないが、それなりに同じ日課を繰り返し行なうことができるだけでも安心するだろうし、それと同じように経済活動においても企業の中で集団で構成する組織的なシステムが噛み合って、一定の動作が弛みなく行われてそこから一定の利益が恒常的に生み出されていれば、その企業の経営は安定していると言えるだろうし、それなりに健全な経営状態にあると言えるのではないか。それはその企業で働いている人たちの感覚としても安心感を覚えるだろうし、安定した職場が確保されて安定した報酬が得られている面では誰もが安心できるわけだが、それでも企業の組織的なシステムの中で権限や報酬の面で不利な立場にある人には不満があるだろうし、また企業内で主導権を握れていない人もそれに関しては不満を抱いているのではないか。そしてそういう不満を抱いている人たちの中には組織内で有利な立場を目指したり主導権を握るために画策を巡らせたり、それなりの野望を抱く人が出てくるかもしれないし、そうした野望が企業内で何らかの争いを生じさせたりするのかもしれないが、一般的には各自の組織的な役割分担の中で優秀な働きをした人はその功績が認められて、昇進して企業内の地位が上がって主導権を握れる立場になったり、報酬もそれだけ増えることになれば満足するのだろうし、そうした不満に配慮したシステムも企業内ではそれなりに働いているわけだが、そのような功績に応じて立場が昇進していくシステム内でも、功績が認められるか否かを巡って、自分の功績が認められずに昇進できないと思っている人は不満を抱くわけで、そういうところから昇進する人への羨望がやっかみに転じて、職場内の人間関係がおかしくなっていくことがあるわけで、そのような面で昇進に関する制度などの人事的なシステムが合理的に設計されていても、その運用の面で不合理な人の感情が介在してきて、企業自体の業績が好調で経営が安定している中でも、その内部では何かしら不満が渦巻いている場合もあるわけで、ある意味でそれは集団で構成する組織的な体制には付きものかもしれないが、組織の中では地位や役割に応じて権限や報酬に差をつけないと指揮命令系統が正常に動作しないだろうし、何かあった時に責任の所在もはっきりしなくなってしまうわけで、実際にそのような組織的な役割分担と階層構造が権力関係を生じさせて、各自の立場上の不均衡と不平等が生まれていることは確かなのだが、それが企業内で働く人々に生じる不満の原因ともなるが、その一方でシステムの構造上はそうなって当然な面があるのだろうし、そうやって不満が生じること自体はシステム上の欠陥でも不具合でもないわけだから、それを改めようとする機運は生まれにくいだろうし、結局そこには組織的なシステムにとって必要不可欠な権力関係がある一方で、そうした権力関係が必然的に組織内にいる人々の間に不満や不和をもたらすと言えるのではないか。
 そしてそうしたシステムが動作を一定に保つには絶えず力を加え続ける必要があり、力を加え続けるには人と人の間で権力関係が必要となり、絶えず立場が上の者から下の者へと力が加わる仕組みとなるわけで、そこで立場の違いをはっきりさせるには役割の上下関係とともに報酬にも差を持たせないと、どちらの地位が上なのかわからなくなるわけで、一般的には報酬が高い人ほど組織内での地位も高く、組織にとってより重要な人物だという認識を組織全体で共有する必要が出てくるのかもしれないが、実質的には組織全体が一つのシステムとして動作するわけだから、その中で誰の重要度が高いか低いかはあまり関係がないのかもしれず、中身の構成がどうなっていようと、システムとして安定して動作していればいいわけで、そういう地位や立場の上下関係や報酬に差が出ること自体は、システムの動作そのものとは別の次元で認識されるべきことなのかもしれないが、そこで生じている成り行きや歴史的な経緯としては、そのような組織的な体制が当然のことのように構成されてきたわけで、それは産業の発展とともに衰退した旧体制下の身分制度を反映したものなのかもしれないし、また絶対王政下で組織された官僚体制に起因したものなのかもしれないが、原理的にはそのような権力関係を伴った体制が絶対に必要というわけでもなく、例えば管理職より従業員の報酬の方が高くてもシステムとして上手く動作するならそれで構わないわけで、部分的にはそういう職場環境もあるのかもしれないし、また従業員の中から組織の最高責任者が選ばれても構わないのかもしれない。それに関して議会制や大統領制では、原理的には無名の一般人が選挙によって代表に選ばれても構わない制度となっているわけだが、慣習的な面から言えば社会の中でそれなりの名声を得た著名人の中から代表が選ばれるような成り行きになってしまうわけで、そこにはマスメディアを通して情報統制のような作用も働いているだろうし、制度的には誰が代表に選ばれても構わないものの、実際はメディア上での人気投票のような選別を通過した人の中から代表が選ばれるような結果がもたらされてしまうだろうし、その一方で企業内でも組織内での活動を通じて、その功績に応じて次第に頭角を現してきた人が自然と周囲の人望を得て代表になる場合もあるだろうが、実際にはそのような人の中でも政治的な権謀術策を用いて取締役会で多数派工作に成功した人が主導権を握って代表に選ばれたりして、システム的な動作とは別の政治的な思惑や画策が働いてしまう場合もあるわけだ。そういうわけでそこで働いている制度などのシステム的な動作に加えて、またそれとは別の、あるいはそれを利用した政治的な動作も生じるわけで、それがその手のシステム論だけでは世の中で生じている物事をうまく説明できない理由ともなっているのかもしれないが、別に両者が全面的に対立しているわけではなく、相互に利用し合うような補完関係にあると言える面もあるのかもしれず、その中で片方の政治的な面だけを強調して状況を説明しようとすると、場合によっては説明者に都合のいいフィクションとなりかねないし、どちらかといえばその方が面白いし魅力があるのかもしれないが、政治小説などであればそれで構わないのかもしれないのだが、その人にとって面白かったり魅力的に感じられるところが現状を恣意的に歪めている部分になるのかもしれない。
 政治面でもシステム面でもそれらを利用して行われる組織内での主導権争いは、そればかりが活発に行われていると無駄なエネルギーを使うばかりで弊害しかもたらさないかもしれないが、争う理由や事情が生じる限りそれは避けられないことでもあるだろうし、その一方で争うというよりは交渉や取引によってその場を収めようとする成り行きになる場合もあるだろうし、その場での対立や軋轢の程度と対立する双方の力関係などの諸事情によってどうなるかが決まってくるのかもしれないが、企業などの場合は争う以前に本来の業務があるわけだから、そちらにかかりきりになっている人は争っている暇などないわけで、争うとしたら本業である仕事の方針を巡って争うことが多くなるだろうし、どのように仕事を進めるべきかを巡って争っているのだとすれば、少なくとも不毛な泥仕合になることは少ないのかもしれず、争った末に何らかの結論が出たら、その結論を尊重した仕事の進めが同意の上で採用されることになるのではないか。結局そうやって争いの中でも交渉や取引などによって仕事の方針が決まれば、一応はその場の誰もが納得した形をとるのだろうし、そうやって物事を推し進めるやり方は他のどのような類いの組織でも行われていることだろうし、別に取り立てて推奨するようなことでもないのかもしれないが、それとは違って立場が上の者から下の者へと一方的に指示を出すということは、すでにその時点で争うことも交渉することも取引することもできない命令として従わなければならないことになるわけで、そのような指示に納得できなければ反発してしまうわけだが、反発を伴いつつも従わせてしまうのが権力の行使の特性なのであり、そこには従わなければならない事情が生じているわけで、指示に従わないと何らかの損害を被ったり不利な立場を強いられたり、ひどい状況になることが予想されるから従わざるを得なくなるのだろうが、すでに指示に従わざるを得ない状況になっている時点で不利な立場に置かれていることは確かで、逆に指示などの命令を出す側は、相手が不利な立場であることを知っているから指示を出すわけで、それはそこで明白な権力関係が生じていることを示しているわけだが、何がそのような権力関係を生じさせるのかといえば、それはそこで構成されている指揮命令系統を伴った組織的な階層構造が権力関係を生じさせていると言えるわけだが、それは人がそれを意識している限りでそのような組織が生じているわけで、確かにそのような組織が所有している目に見える施設などがあって、その中で実際に人が集団で活動している実態があるのだろうが、その権力行使の実態は形をなさないものであって、たとえその組織に所属している人々の名簿や所属に関する関係書類があるとしても、そこで生じている権力関係は、それに関わっている人の間での共通の了解事項として信じられ認められている限りで成り立っているものなのではないか。
 だからその場にいる誰もがそこに権力関係があることを信じているとしても、指示には絶対に従わなければならないということではなく、その指示を巡って争ったり交渉したり取引する余地はあるのかもしれず、逆にそうしないからその場で権力関係が成り立っているわけで、指示や命令を出して権力を行使しようとする側はそれを巡って争ったり交渉したり取引するような行為が生じてほしくないから、立場の上下関係を伴った組織的な階層構造を構築しようとするわけで、しかもそのような構造があることを組織の構成員に信じ込ませようとして、法律などの決まりごとを組織内の掟として定めて、それを構成員全員に守らせようとするわけだ。そうだとすると国家的に決められている法律などに関しても、それを利用して権力を行使する側の都合が反映されているものなのかもしれないし、法律を利用した権力の行使とは具体的に何なのかといえば、行政的には徴税行為や警察的な行為などがあるのだろうが、普通はそのような行為には黙って従うしかなく、そのような行為に対して異議申し立てして裁判などで争っても、権力を行使する側によほどの過失がない限り勝ち目はなさそうに思われるだろうが、そこで意識しておくべきは、権力の行使の正当性を信じるというよりは、絶えずそれに関して争ったり交渉したり取引する余地を考えておくべきなのかもしれず、そういうところから世の中で成り立っている支配的な権威などへの精神的な依存から脱却する余地が生まれるのではないか。そしてそれは反体制的な政治姿勢をとるというよりは、体制的な権威にも反体制的な権威にも精神的に依存しないことを意味するだろうし、そこで装われている二項対立的な予定調和のフィクションから脱却して、可能な限り現状に適合するような姿勢を目指すことにもなるのかもしれないし、それは現状の中で生じている様々な対立や軋轢を増大させるのではなく、それを巡って争いながらもそこで絶えず交渉や取引への可能性を模索することにもなるだろうし、対立や軋轢を維持して停滞をもたらすのではなく、交渉や取引によって状況を前進させて事態の進展を促すことになるのではないか。現実にはそれが容易でないから争っている勢力は互いに対立や軋轢の中で自足しようとするのだろうし、そのような敵対状態を煽ることで自分たちの支持者を増やそうとするわけで、そうやって集められた支持者たちは敵対する勢力と戦って、極端な場合には争いの中で負傷したり命を落とすことにもなるわけで、そうやって戦闘で流された血の上に組織的な階層構造が実現されると、それこそが軍隊そのものになるのかもしれず、軍隊の中では部下は上官の命令には絶対に服従しなければならないだろうし、そこでは交渉や取引の余地のない権力の行使が日常の隅々に行き渡って常態化するわけだ。そういう意味で人が集団で構成する組織内で行なう権力の行使がどのような程度になるかは、その集団の置かれた状況にもよるのだろうが、そこに交渉や取引の余地があるほどより平和的で民主的な状況が実現すると言えるだろうか。
 ただ止むを得ず権力を行使するにしても、交渉や取引によって事態の打開を図るにしても、人が目的を持って何かをやろうとする際には、その目的がどこから生じてくるかをそれほど深く考えているわけではないし、少なくとも自らの意志で自発的に活動しようとすることは確かで、普通は目的を抱かせている対象が自分以外から生じているとは思わないのではないか。それに対して企業の経済活動は何をやるにしても結果的に利益を出すことが重視されるわけで、それは株式会社などの企業形態が利益を出すことを宿命づけられた制度であり、どのような形であっても最終的には利益を出さないと継続していかない制度なのであり、損失を出し続けて資金供給が止まってしまったら事業の継続が困難となってしまうのは当然だろうが、その一方で事業内容に関して出資者に夢を抱かせるようなことをやっていれば、その夢を求めて資金が集まる可能性が出てくるだろうし、その夢の事業というのが事業を行う者の目的となるわけで、それがある時には社会貢献という大義名分を纏うこともあるだろうし、また別の方面では人々の共通の夢を実現するためのプロジェクトという体裁を帯びることもあるわけだ。そういうのはまかり間違うと詐欺と紙一重な面もあるだろうが、とりあえずそうした事業が株式会社などの企業形態を伴って進められれば、必ず最終的には利益の獲得を目指す試みとなるだろうし、また国家プロジェクトのような体裁を纏う場合は国家予算で賄える範囲内で事業が進められることになるだろうが、そのような大げさなことではなく、個人の身勝手な夢を実現するためのプロジェクトであっても、出資者を募って資金が集まるような成り行きになるのなら、やはりそれはその人の夢だけではなく金銭的な利益を求めて資本家が企業が出資を申し出てくるのだろうし、普通は金銭的な利益が得られる可能性があると思われるから資金が集まるのだろうが、中にはそれが金銭的な利益目当てでない場合もあるだろうし、その利益を上げた先で行われる事業というのもあるわけで、まずは利益目当ての別の事業を成功させて大金を得てから、その資金を使って例えば世の中を変えようとするプロジェクトを立ち上げたりするわけで、そうしたプロジェクトの場合は金銭的な利益目当てとは別の利益が優先されるのかもしれず、場合によってはそれが自分のためというよりは、社会全体のために資金を使うような成り行きとなるのかもしれないが、そこまではっきりと意識していなくても、当初は何だかわからないが些細なことがきっかけとなってやっているうちに、そういう成り行きとなっていることに気づかなくても、事業が軌道に乗ってそれなりに満足感を得られていれば、資金が続く限りはそれを継続しようとするだろうし、案外それが大それた目的だという自覚がない方が継続する可能性が高いのかもしれず、目的を正当化する手間がかからない分、大げさな使命感や無駄な労力や心労を伴わずにやっていけるのではないか。
 だがそうなるとそれを行なっている途中では社会の役に立っているという実感を抱くには至らないだろうし、当人以外でも誰もそうは思わないかもしれないが、結果的にそうなるようなことを行なっているとすれば、それは誰にもはっきりとした自覚が湧いてこないような行為となるかもしれず、可能性としてはそのような成り行きもあり得ないことではないだろうし、そういう意味で何かをやるのに必要な目的というのはそれほど重要なことではないのかもしれないが、とりあえず多くの人を巻き込んでやる組織的なプロジェクトには、それをやるに際してそれに関わってくる人たちが納得できるような大義名分が必要となり、本当はそうでないにしてもそれらの人々を騙すための方便として事業目的をはっきりと設定しておくべきだろうし、そうなると目的のためにやるというよりはそれをやり続けるために設定しておく目的という意味合いも生じてくるのかもしれず、結局そのような事業が継続されている間は、それに関わっている人々が満足感を得られていればそれで構わないようなことが行われている可能性もあるだろうし、そういうところで初めに目的があってそれを目指して事業を行なうという順序とは違うことが行われる可能性が出てくるわけだ。そしてそれは何も事業的な活動だけではなく、一般的な生活の糧を得るために行なう労働という概念も、それが生活の糧を得るために行なうのではなくなった時から目的がずれてくるわけで、生活するにはもう十分な資金を確保した先に、何かそれとは違う行為が生じてくるのではないか。そしてそのような行為には目的を設定しづらい面があるのかもしれないし、あえて目的を付け加えるとすれば、結局そこで何かをやっていること自体が目的だとも言えるような成り行きになってくるわけで、そうなると社会貢献とかいう世間的な大義名分とは無関係となってくるのかもしれないが、そのような行為に他の大勢の人々を巻き込んでいる実態があるとすれば、何か後づけ的にそれらの人々を納得させる大義名分が必要となってきて、そのような大義名分として世の中に受け入れられやすいのが社会貢献となるわけだ。そしてそのような活動が他の多くの人々を巻き込んで行われる場合には資金が必要となって、そのような資金の蓄積がどこで生じるのかといえば、資本主義的な経済活動が生じさせるのだろうし、具体的には企業を中心とした利益を追求する活動が資金の蓄積を生むわけで、それ以外では行政による徴税行為や公債の発行などで資金の蓄積を生む場合もあるわけだが、そのようにして蓄積された資金を活用する場合にはそこに多くの人や団体などが絡んでくるわけだから、それを正当化する目的というのが世間を納得させるようなものでないと受け入れ難くなるわけで、そうなると世の中の慣習や制度からもたらされるような大義名分が目的として出てくるわけだ。そしてその最大公約数的な大義名分を単純化するなら、社会全体のために資金を活用するという目的になるのではないか。

 労働というと生活の糧を得るために行なうという一般的な認識があるが、それが労働ではなく仕事となると、仕事をするために生きているとか、人生を仕事のために捧げているとか、他の何よりも仕事を優先させるのが美徳であるような生き方も、世の中では肯定的に捉えられているかもしれないが、たぶん誰もがそのような肯定的な意味で仕事をやれているわけでもないだろうし、多くの人がどちらかといえば否定的な意味での労働を強いられているという実感があるのかもしれないが、それは世の中で通用している価値観に照らし合わせて、肯定的な仕事と否定的な労働という二種類の活動があるように思われるからだろうし、またそれは実際に働いている人が自ら行なっている作業に対する満足度にも関係してくることで、やりたいことをやっていると思われればそれは肯定的な仕事となりうるだろうし、やりたくないことをやらされていると思われれば、それは否定的な労働だと見なされてしまうのではないか。それに関して一般的なことを言えば、世間で脚光を浴びている仕事につければ満足感を得られるだろうし、そうでなければ不満を感じる場合もあるだろうが、別に脚光を浴びていなくても自分のやっている仕事が好きなら満足感を得られるだろうし、満足感を得られるようなことをやれている状態であれば、それはやりたい仕事をやっている感覚になれるだろうし、別に世間で脚光を浴びている仕事に就いていても、何かの事情でこんな仕事をやっているべきでないと思われるなら、それは不快な労働となってしまうかもしれないし、そういう意味で肯定的な仕事と否定的な労働の境界は曖昧であることは確かだが、そこに様々な思惑や要因が絡んできて、労働を肯定的に捉えたり否定的に捉えようとする気にさせるわけで、とりあえずやっていることから満足のいくような金銭的な利益を得られようと得られまいと、人がそこで何らかの活動を強いられているとともに、それが自らの意志で主体的に行なっている活動と思われるなら、その活動を肯定せざるを得ないだろうし、受動的かつ隷属的に何かをやらされているような状況となっていれば、そのような活動には否定的な感情を抱いてしまうのではないか。そしてそうであるとしても、誰もが肯定的な感情を抱けるような仕事に就けるわけではないだろうし、また誰もが労働に対して否定的な感情を抱いてしまうわけでもないだろうし、それが肯定的に思われるにしろ否定的に思われるにしろ、現に行なっている仕事や労働があるわけだから、そのような仕事や労働は人が行える範囲内での仕事や労働だと言えるわけで、たとえそれをやることによって心身の健康を害して悲惨な状況に陥ろうとも、とりあえずそんな状況に追い込まれるまではそれを行えることが、その人の身をもって証明されるわけで、それをやらせる側の思惑からすれば、その人がおかしくなって使い物にならなくなれば、その人を廃棄して別の人にやらせるまでだろうし、そうやって代わりが見つかる限りはそういう労働が成り立つわけだ。
 また社会の中で行われている仕事や労働の大抵は分業体制でやっていることが多いわけで、同じ企業内でもやりたい仕事とやりたくない労働というものがあるだろうし、同じ仕事でもやりたい役割とやりたくない役割というものも出てくるかもしれないし、それらをどう調整するかという課題が絶えず生じてくるわけで、結局はそこで人道的な配慮をするとなると、やりたくない役割ややりたくない労働をやらされる立場の人に何らかの配慮をしなければならなくなるのだろうが、その辺が微妙なところであり、配慮するためにコストをかけなればその分だけ利益が出るかもしれないし、実際にコストをかけた分だけ利益が減ることになれば、そんな配慮はやめてしまえという意見が大勢を占める場合もあるわけで、しかし仕事のシステム上必ずやりたくない役割や労働が生じてしまうとなると、ではそれをやる犠牲者をどうやって調達するのかということになるだろうし、調達が困難になってくればそういう役割や労働をできるだけ生じさせないようなシステムにしていかなければならなくなるわけで、そのような課題に対する一つの答えが、そのような役割や労働を機械に肩代わりさせるという選択肢が出てくるわけであり、実際にそうやって産業の機械化が進展してきた歴史的な経緯もあるのかもしれず、何も作業のコストや効率性だけなく、人がやりたくない作業を機械に肩代わりさせるという必要が絶えず産業技術の進歩や革新をもたらしてきたとも言えるのかもしれない。もっともやりたくない作業をやらされる側としては、やりたくないのにやらされているわけだから士気も上がらないし、その分自然と作業効率が悪化してコストも嵩むし、しかもそのうち作業のやり手自体が集まらないようになれば、やはりそういう部分は必然的に機械化するしかなくなるのかもしれないし、それも自然の成り行きといえば言えないこともないわけだが、そういう成り行きとして現状で直面している分野があるとすれば、それは軍隊であるのかもしれず、例えば現状の世界の中で命の危険を晒してでも軍事的に戦わなければならない相手がいるかと言えば、普通に平和な状況の中で生活が成り立っている限りは、どう考えてもそんな相手がいるとは思えないだろうし、またそれと同じように命の危険を晒してでも軍事的に守らなければならないような国家体制なのかと言えば、他国による軍事的な脅威が差し迫ったものだと実感できない限りは、どう考えても現状の国家体制にそんな義理があるとも思えないだろうが、そういう現状認識や思想信条的なことではなく、単に職業として他に選択肢がなく、そんな成り行きの中でたまたま軍隊に入ってしまったら、そういうものだとあきらめるしかないだろうが、それでも普通の感覚なら戦闘で死傷したくはないだろうし、戦争させる側でも味方の兵士が死傷するコストや効率が割に合わないと判断されれば、当然の成り行きとしてなるべく味方の兵士の死傷を少なく抑えるような戦闘や作戦のシステムにしたいだろうし、そうなるとできるだけ機械化するような成り行きとなるのではないか。もちろん機械化するには高度な産業技術やそれなりの規模の予算が必要となり、それを持っていないか購入するだけの資金がなければ、実際にそのような軍隊や武装組織で戦闘が行われている場合は、相変わらず兵士の死傷が日常茶飯事となっているわけだ。
 一般的に企業の経済活動が成り立つには、その企業が物や情報やサービスの生産から消費までの間でどの過程までの範囲で活動するとしても、全体としては取り扱う物や情報やサービスなどの商品を製造して流通させて販売するのに携わる労働者と、それらの商品を最終的に買ってくれる消費者の存在が欠かせないが、途中の時間的な経過を無視すると、労働者に支払う賃金などの必要経費よりは消費者が買ってくれる商品の売り上げの方が多くないと利益が出ないわけで、労働者が消費者だとするとその差額はどこから出るのかという話になってしまうわけだが、時間の経過とともに物価が上昇すれば辻褄が合うのかもしれず、要するに商品を製造して流通させて販売するまでの間に時間が経過するわけで、その間に物価が上昇していればその分商品の価格が高くなってその差引き額として利益が出るのかもしれないが、しかしそうなるとその高くなった商品を買えるように労働者の賃金も上げなければならないわけで、そして労働者の賃金が上がればその分だけ経費がかさんで商品の価格も値上がりして、そして商品の価格が上がればそれを買えるように労働者の賃金も上げなければならず、以下そうやって物価の値上がりと労働者の賃金の上昇が順々に起これば、物価の上昇と賃金の上昇の時間差を利用して企業に利益が出るという理屈が成り立つのかもしれないが、実際にはコストや効率などの改善や、もっと複雑に様々な要素が絡み合って、それらがもつれあって錯綜した成り行きとなっているのだろうし、また企業が商品を製造して流通させて販売する際に生じる必要経費も、労働者の賃金だけではないようにも思えるのだろうが、例えば材料費である資源価格がどうやって決まるのかといえば、資源が地中にあるとすればそれを掘削するための必要経費が生じるわけで、その内訳は主に掘削する労働者の賃金と、掘削に要する施設の建造費や掘削する機械の購入やメンテナンスなどの経費と、機械を動かすのに使う燃料費や電力料金となるだろうが、施設を建造するには建築労働者の労働と建材と建築に要する機械が必要で、それらの機械の製造にもやはり労働者の労働と材料が必要で、燃料の精製や電力の供給にもやはり労働者の労働と材料と機械が必要で、それらのすべての経費の源泉を順に辿っていくと、最終的には労働者の労働に行き着くわけで、結局商品は労働者の労働によって造られて流通して販売されていることになり、それにかかるすべての経費の大元は人件費だと言えるわけで、そうなると原理的にはそのすべての過程で機械化できれば、経費である人件費がいらなくなるわけだから、ただで商品を製造して流通させて販売できるようになるのだろうが、それには機械が機械を自動的に製造できるようにしなければならず、またそうなってしまうと人は機械が供給してくれる物や情報をただで受け取るだけとなってしまいそうだが、現状ではそんなところまで事態が進展するとは思えないし、どう考えてもありえない話でしかないわけだが、理屈の上では人工知能やロボット技術などの進展はそういう方向を目指していることになってしまうのだろうし、それは人が意識してそういう方向を目指しているのではなく、成り行きとしてそうなってしまっていると言えるだろうし、そのような技術革新の進捗状況を人が制御しているわけでも制御しようとしているわけでもないのも確かなのではないか。
 そのような成り行きが必ず実現するわけでもないだろうが、そういう意味で人が行なう労働とは、絶えず歴史的な経緯として認識される過渡的な状況の中で生じているものなのだろうし、現状で成り立っている労働そのものが人の本質的な特性を反映しているわけでもないだろうし、ましてや賃金労働となると完全に株式会社などとともに経済活動を行なう上での社会的な制度である面の方が強いだろうし、それは人の歴史上ある時期に生じた活動形態の一つであることは確かであり、昔からあったわけではなく、これから未来永劫に渡って存続していく可能性があるとも言えないものなのではないか。だがそうであるとしても現状の資本主義経済を支えているのが賃金労働であることは確かだろうし、労働者の賃金労働と消費者の商品の購買がセットになって企業活動を成り立たせているわけだ。そしてこの時代の人の生活には商品の製造と流通と販売と消費が欠かせないものだとすれば、それに関わっている企業も行政もそのような経済システムや物や情報の生産と消費のサイクルを維持存続させようとするのは当然のことだろうし、それらに加えてメディアも含めて世の中の世論をそのような営みを正当化する方向へと導こうとするのだろうが、それはそれでそうなって当然のことではあるにしても、今までの歴史的な経緯を振り返って見れば、そのような試みが必ずしも思惑通りの成り行きや結果をもたらさないのも事実としてあるのかもしれず、絶えず人や集団の思惑とは違う方向へと世の中が変わっていってしまうことは十分にあり得るだろうし、だからと言ってそのような行為はやめた方がいいとは言えないだろうし、人や集団がそのような方向へと活動を維持継続させようとするから、それらの人や集団が思いもしなかったようなことが起こるのかもしれず、そうなるとその思いもしなかったような出来事に人も集団も翻弄されて、それに対処するのに精一杯となってしまうわけで、そんな対応に追われているうちに、気がついてみれば以前にやっていたことなどはどうでもいいような世の中に変わっているかもしれないし、そんな未来を今からああだこうだと予想してみても始まらないことではあるのだろうが、一般の人々が認識しておかなければならないのは、この時代の中で当たり前のように思われていることが別の時代ではそうでもないことの方が多いのかもしれないし、そうだとすればあまり企業や行政やメディアの主張を信じてみても、それをそれらの企業や行政やメディアなどに利用されてしまうだけで、どのように利用されるのかといえば、企業ではそれを労働の対象として利用してまた消費の対象として利用するのだろうし、また行政ではそれを管理統治の対象である国民として利用して、また選挙の時には有権者としても利用するのだろうし、さらにメディアではそれを視聴者や世論調査の対象として利用するわけで、そしてそれが何のために役立つのかといえば、それらを利用する企業や行政やメディアの活動に役立つわけで、では利用されている一般の民衆には何の利益ももたらされないのかといえば、とりあえずは現状の生活が成り立っている限りで何らかの利益がもたらされていると信じればいいのかもしれないし、また知的好奇心や欲望が満たされたり、他の何らかの快楽がもたらされることで満足できれば、それも利益だと言えるのかもしれないが、だがそれも普遍的で本質的なものではなく、この時代に特有な特殊な利益なのかもしれない。
 では人にとって普遍的で本質的な行為とは何かといえば、それが労働や仕事だとは言えないものまで含めると、とりえず人は何らかの活動を行なっていて、その活動そのものは普遍的な行為だと言えるのかもしれないが、例えば人の活動と他の動物の活動を比較すれば、人には人の活動として特徴的な形態があることは確かで、そういう比較が意味を持つような研究分野もあることも確かだろうが、経済活動の範囲内では別に他の動物の活動まで比較の対象として意味を持つわけではないだろうし、人の経済活動に関しては同時代的にも過去の他の時代との比較でも、その時代の人の活動に特有な現象というものがあるのかもしれず、ここ20年ぐらいの傾向が他の時代と異なるように感じられるのは、情報処理技術の進歩に端を発したいわゆる情報革命と言われる現象に関してだろうし、それをことさらに重要視するのも何か偏向した認識に陥ってしまう危険があるのかもしれないが、その情報革命以後の世界で人の活動が他の時代と著しく変わってきたことがあるとすれば、それは何だろうか。それが誰の目にもはっきりと明らかになるにはまだ時代が近すぎて、認識しようとするにはまだ時期尚早なのかもしれず、歴史的に見ればそれよりも産業革命以後の近代市民社会の成立の方が、それ以前の社会と比較して劇的に変化した要因のように思えるわけで、具体的にはそこで労働力を提供して賃金を得るという労働形態の世界的な普及が急速に起こったわけだろうし、しかもそれと同時並行的に社会主義や共産主義的な資本主義経済への対抗概念も世界的に流行したわけだが、少なくとも情報革命の到来直前にそれらの対抗概念は急速に衰えてしまって、今や世界は完全に資本主義経済に覆われている状況となって、かつての社会主義や共産主義の理念を掲げる政治勢力も世界的に皆無となりつつあるのかもしれないが、しかしそれらの政治理念が批判していた資本主義経済に伴って生じる弊害が全て解決されたわけではないし、見方によっては全く放置されたままとなっていると認識している向きもあるわけで、その主要な弊害として挙げられるのが、主に賃金労働という労働形態から生じる貧富の格差の問題だろうか。しかも情報革命によって情報処理技術が進歩したおかげで、金融資産が飛躍的に増加して以前よりはさらに貧富の格差が増大したわけだろうが、それを問題視する政治勢力の方は以前よりは確実に衰退してしまったのだろうし、政治的な課題としてはそのような問題はあまり取り上げられなくなってしまったのかもしれず、しかもそれを直視させないようにするために極右的な政治勢力が台頭してきた傾向にもあるわけで、現状で生じている貧富の格差から目を背けさせる目的で、それを排外的な移民の敵視へと問題をすり替えているわけだろうが、企業としては移民などの安い労働力が必要な分野もある一方で、労働者の方は移民に職を奪われたり、移民が安い賃金で働くから賃金が安く抑えられてしまうという懸念が生じてしまうわけで、結局もとからそこに住んでいる住民としては移民の排斥に賛成するような成り行きになりやすいだろうし、そこに極右的な政治勢力のつけ入る隙が生じるわけで、また富裕層などを取り込んで主導権を握っている保守的な政治勢力の方でも、資本主義経済の中では貧富の格差の解消は不可能なだけに、移民排斥などを主張する極右勢力が台頭してきたおかげで、うまく論理のすり替えに成功している面があるのだろうか。
 しかしなぜ移民が生じているのかというと、テロや内戦などの地域紛争によって住みなれた故郷を捨てざるを得ない人たちが移民となるのだろうし、それだけが全てではないかもしれないが、いわゆる経済移民となる人たちも本国で暮らしていけない事情が生じていることは確かだろうし、その大部分が貧しい人々なのだろうから、それも経済的な貧富の格差から生じている現象なのであり、そういうところからもそのような問題には全く解決の目処が立っていないことを示しているわけだ。また富裕層であれば国籍を買えたり、それなりに受け入れ可能な国が世界のあちこちにあり、そこでもその人の資産や経済力に応じて待遇に格差が出てくるわけだろうが、ともかくそうやって生じた貧しい人たちは必然的に安価な労働力の予備軍となることは確かで、そのような労働力に頼っている経済分野では貧富の格差が経済活動の原動力となっている面もあるわけで、そうやって生じた需要を満たす限りで、いわゆる貧困ビジネスが成り立っているわけだろうが、もちろん労働の種類によってはその職種に対応したスキルを求めている分野もあるわけで、そうした分野ではそれ相応の賃金や報酬が保障されていて、貧しいだけでスキルのない移民労働者ではそういう職種に就くのは難しい場合もあり、そうしたスキルを身につけるにはそれなりの教育課程を経ないと身につかないわけだろうし、中には独学でそうしたスキルを身につける有能な人材も稀にはいるかもしれないが、そうした人はほんのわずかだろうし、また移民の子供達の世代の中から逆境をはねのけて社会的に成功する人たちが多数輩出されるのかもしれないが、ともかく貧富の格差があればそれに応じた労働力の需要が生じて、安い賃金でも職にありついた人はそれなりに生活していける場合もあるし、職にありつけなくても政府や民間の援助にありつければ、一時的にしろそれによって生きていける人も出てくるし、運悪くどちらにもありつけなければ中には死んでしまう人も出てくるわけだろうが、たとえ多くの人が死んでしまっても資本主義経済が打撃を受けるわけではなく、その中で主要な経済活動を担っている企業にとっては、働いてくれる労働者と商品を買ってくれる消費者が必要なのであり、それ以外の人は不要でも困らないのかもしれないし、労働者と消費者が間に合っている限りで企業活動は成り立ち、企業活動と政府などの行政的な管理がうまくいけば資本主義経済は滞りなく回っていけると言えるだろうか。そして行政的な管理がうまくいかない紛争地域では移民となって国外へと脱出する人が後を絶たず、戦火の中で国土が荒廃して産業も成り立たず、そうなるとまともに資本主義経済が回っていかない状況となるのかもしれないが、そんな中でもその国に地下資源などが埋蔵されていれば、その資源を巡って武装勢力やその背後で糸を引いている資源採掘系のグローバル企業や植民地関連の旧宗主国や新興の覇権国などが争奪戦を繰り広げているのかもしれないし、そこで行われている内戦自体が資本主義的な経済競争の延長上となっている場合もあるだろうし、単に民族的あるいは宗派的な争いというよりは、経済的な争いの延長上で特定の民族や宗派の間で利権争いが起きていると言えるのかもしれない。

 労働することで受け取る報酬にはその役割や種類によって格差があり、それが受動的な労働ではなく自らが主体的に行なう仕事であっても、その報酬額を決めるのはあくまでも仕事を依頼する側であり、仕事内容に応じて受け取る報酬の額に受動的な労働と同様の格差が出るのは当然のことだろうが、それも社会的な制度や慣習からその妥当な金額が大体は決まってくるだろうし、明らかに高額な報酬を個人や団体が得る場合であっても、それは売り手と買い手の需要と供給のバランスから決まる市場価格のようにして決まり、そのような市場も社会的な制度の類いであることは確かで、報酬を払う側も受け取る側も納得している限りでどのような金額で取引が成立しても構わないわけだ。それが契約という制度の特性であり、受動的な賃金労働であっても自由契約に基づいて何らかの報酬を受け取る主体的な仕事であっても、そこで売り手と買い手が契約に同意した金額の受け渡しが行われるわけだろうが、労働力を売る側にとっては安い金額であっても他に買い手が現れなければ、多少の不満があっても他に収入を得る手段がなければ契約を結ばざるを得ないだろうし、そこが労働力の買い手である企業などにつけ込まれるところであり、経費を削減するには人件費を抑制できるに越したことはないわけだから、たとえ人手不足が深刻化している中でもなるべく安い金額で労働力を買おうとするだろうし、場合によっては安い労働力を求めて海外にまで食指を伸ばしてゆくわけで、それに関して一見売り手と買い手とは対等な関係に見えるかもしれないが、どちらに権力があるかでその力関係が決まってくるわけで、労働市場の場合は労働を行う設備や施設などのシステムを持っていて、それを利用して作り出される物や情報やサービスを買ってくれる顧客を抱えている企業側の方が有利であるのは当然のことであり、労働力以外には何も売り物を持っていない労働者は、企業で働いて報酬をもらうしか生活の糧を得る手段がなければ、たとえ不満があるような金額であっても企業と労働契約を交わすしかないわけだ。ではそんな不利な取引はやめて自ら起業して労働者を雇う側になればいいと主張する人もいるかもしれないが、もちろん誰もが起業して成功するわけではなく、資本主義経済の中で存在できる企業の数はその経済規模や職種に応じて限られていて、その中で行われる競争に打ち勝った企業だけが生き残れるわけだから、人の数より企業の数の方が圧倒的に少ないのは当然だろうし、その圧倒的に少ない企業が多数の労働者を雇って事業を行なっているわけで、結果的に起業して成功する人よりは企業に雇われて労働する人の方が圧倒的に多いのも当然であり、そういう意味で企業に雇われて労働するのが嫌なら起業して労働者を雇う側になればいいという論理は、現実にはほとんど通用しないわけだが、それでも起業するための資金を得る機会に恵まれて起業する人はいるわけで、またそうやって起業に成功して大金を手にした人も実際にいるわけで、そんなふうにして実際に成功してしまった人にとっては、現実にはほとんど通用しない論理が成り立つことをその身をもって証明してみせたわけだから、それなりの実感を伴っていて、だから安い賃金で企業に雇われて労働するだけの不利な立場でいるのが嫌なら、起業して人を雇う立場になればいいと言い放っていられるわけだ。
 だが労働者のままでいるにしろ起業して労働者を雇う側になるにしろ、あるいは企業の中で昇進して管理職や最高経営責任者にまで上り詰めるしろ、また株式投資などに成功して投資家になるにしろ、それらのどれであっても結果的に企業に関わって資本主義経済を支える側になっているわけで、例えばそれとは別の経済システムを構築する担い手になっているわけではないし、それは企業とは別の行政側に身を置いていても、またジャーナリストになって企業や行政を批判する側に回っても同じことであり、どうあっても資本主義経済の中で活動している実態は変わらないわけだ。それが嫌なら果たして現状の経済システムに依存しないで生きていけるかということが今後の課題といえば課題になってくるのかもしれないが、どうあがいてもそれを人為的にゼロから構築することは不可能なのかもしれず、それに関して妥当なやり方としては、現状のシステムに依存しながらもそれとは別のやり方を模索していくか、あるいは現状のシステムの方向性をさらに極限にまで推し進めた先に、またそれとは違う別のシステムが自然に生じてくるのを待つのか、そのどちらでもないとすればすでに別のシステムの萌芽が世界の至るところに芽吹いているのに、まだ誰もそれに気づいていないだけなのか、その辺のところは何とも言えないが、そのどれでもなく現状のシステムがこれから先も延々と続いていくとしても、とりあえず現状で生じている経済的な不均衡や不平等の原因は売り手と買い手の間の力関係にあることは確かで、企業と労働者の間にそれが生じているとすれば、その中で不利な立場にある側を助けるような配慮が求められるのだろうし、それを助けられる立場にあるのは行政だと言えるのかもしれないが、もちろん行政も予算を確保する上で企業活動に依存している面があるわけだから、全面的には不利な立場にある労働者の側に立てないわけで、またジャーナリストなどの企業や行政の不正行為を告発する側でも、広告収入などの面で企業活動に依存している面があるわけだから、これも全面的には不利な立場にある労働者の側には立てないわけで、また企業側でも労働者の生活が成り立たないと労働者として使い物にならないわけだから、一方的に労働者を搾取するわけにはいかない面があるわけで、さらに労働者が消費者となって商品と買ってくれないと利益が出ないわけだから、労働者の購買意欲を保つ上でもそれなりの額の賃金を支払わなければならなくなるわけで、そのようにして様々な立場の間で利害関係が錯綜してもつれ合っている面があり、そのような関係の上に結果的に資本主義経済が成り立っているわけだから、そういう複雑な面を考慮すると、とてもじゃないがそれに変わる新たな経済システムをゼロから人為的に設計して構築するのは不可能に思われてしまうわけだが、少なくとも誰にもわかりやすい単純で合理的なシステムではうまくいかないことは予想できるだろうし、その一方で政治的な主張というのは誰にもわかりやすい単純で合理的な主張しかできないのであり、そうでないと民衆の支持を得られないわけで、そうなると政治的にそのようなことをやるのは不可能にも思われてくるわけで、そういうところで政治的な限界が露呈してくるのではないか。
 そうであっても経済システムが恒常不変であるわけがないのは歴史的な事実であり、これから世の中のシステムがどうなるにしても、とりあえず現状の中で人が暮らしているも事実であるが、現状の中で資本主義的な経済システムが有効に機能しているとしても、そのようなシステムから導き出される合理性を過剰に追求してしまうと、そのような行為に特有の利己的な利益を追求するあまり、それに成功して利益を出すほど、その反動で別のところで何らかの損害を被る部分が増えてくるのかもしれず、世の中の全体の損得勘定がプラスマイナスゼロだとは思えないが、一部で過剰な利益の追求が行われると、その反動で別の部分が損失を被ってしまうような事態が起こり得るだろうし、そういうところでシステムやその原理から導き出される合理的に利益を追求する活動よりは、その利益の追求によって損失を被る面にも配慮するようなバランス感覚に基づいた調整的な活動も必要になってくるのではないか。たぶんそのような活動は過剰な利益の追求によって実際に取り返しのつかない被害を出してしまったことの反省から生まれるのであり、例えば経済的な利益の追求から人々の間に貧富の格差や権力の不均衡が生じてくると、社会の中でその格差に応じた階層も生じてきて、そのようにして生まれた階層間での対立が深まると、世の中の空気が険悪なものに変わっていってしまうのかもしれないが、そうした空気に呼応して世の中で憎悪を煽り立てる感情や極右主義などが流行ってくるわけで、一方でそれは資本主義的な市場経済が活況を呈していることの表れだとも言えるわけで、その中で投機的な株や為替などの取引がもてはやされているようだと、すでにその時点で市場のバランス感覚が失われていて、過去に取り返しのつかない被害を出した反省が忘れ去られてしまったことを示しているのかもしれないが、そうなるとやがてとんでもない出来事が起こって、これまでに築き上げてきた信用が一気に崩壊して相場がリセットされてしまうような事態も予想されるわけだが、実際にそうなってみないことには反省など生まれないわけで、そういう意味で行き過ぎた利益の追求に調整を促すようなバランス感覚というのは、いったん取り返しのつかない事態が起こった後でないと発動せず、それはいつも手遅れになってから活動を開始するような実質的にはほとんど役に立たないものなのかもしれないが、それでも時代状況は完全な過去の繰り返しとはならず、過去の再現のようなひどい状況だと思われる中でも、少しは過去の教訓が役立っている面も出てくるのかもしれないし、それが過去の経験の反省として現状の行き過ぎを是正するような作用を及ぼして、何らかの歯止めとなって被害を最小限に食い止めるような効果を発揮しているのかもしれない。しかしそれが何なのかははっきりとはわからないだろうし、その実態がつかめないのが歯がゆいところではあるのかもしれないが、たぶんそれは偶然の巡り合わせとしか言えないものなのかもしれず、結果的に過去の繰り返しにはならなければ、偶然にそうなっただけとしか言えない面があるわけで、それがフィクションであれば何かそこで英雄的な活動を行なった特定の人物や団体が物語られるわけだが、実際には特定の人や団体が尽力してそうなったとは説明できない面の方が大きいのかもしれない。
 ただそうしたフィクションの中で物語られる活動もそういうフィクションを物語る行為も労働とは呼ばれないだろうし、労働とは何らかのシステムの中で部分的に繰り返される行為であり、少なくともそれは特定の人物や団体などの英雄的な行為とは無縁の活動であり、世の中の広範な方面から賞賛されるような行為だとは言い難い面があるわけだが、そのような地道な行為を利用して利益が追求されるわけで、資本主義経済の中で経済的な利益を追求するには、それを支える名も無き者たちによる労働が欠かせないとも言えるのかもしれないが、それらの労働に従事する人たちは寡黙に課された作業をこなすだけで、それ以外のことには何の発言権もないかのように扱われているのかもしれず、その代わりに娯楽として英雄の物語などのフィクションをあてがわれて、そんなものに気を取られているうちに不平等な格差や不均衡な権力関係によって虐げられている実情をごまかされているのかもしれないが、結局それも部分的な事情であって、娯楽も労働も生活の一部を占める要素の一つに過ぎず、そこに過剰な思い入れをすることをはぐらかされているわけで、何によってはぐらかされているのかといえば、それはそれ以外の生活から生じる煩雑な日常の営みによってかもしれず、そうでなければメディアを通じてもたらされる様々な情報に心を奪われることによってかもしれないが、それらは全て部分的な些末事の集合体となっているわけで、その中のどれ一つとして本質的な物事とはなりえず、結局貧富の格差も不均衡な権力関係もそれが生活の全てを覆っているわけではなく、それが自らの生活や人生に深刻な影響を及ぼしているとは思えない人の方が、そうである人よりは圧倒的に多いのではないか。そしてそれが世の中の世論の傾向を決定していて、政治的な現状を醸し出していると言えるだろうか。だがそうした主体的な活動の機会を奪われた人たちに向かって、メディア上で活動する煽動者たちは何を呼びかけているのだろうか。実質的には特に何を呼びかけていることにもならないのかもしれず、何か特定の話題について自らの主張に対する賛同を呼びかける時があるにしても、部分的な同調者を得るだけで、それが決して社会の全体に広がることはないのかもしれないが、それでは良くも悪くも本来の煽動者としての役目を果たせないわけで、確かにそうやってメディア上で何らかの煽動が行われているにしても、それが社会に部分的な影響しか及ぼせなければ、そうである限りにおいて煽動はいつも不発に終わるような結果を招いていて、良い意味でそれは世の中の多様性を物語っているのだろうが、悪い意味では世の中が資本主義経済の中で分業的な分散にさらされているとも言えるのかもしれず、そのような状態をどう解釈すればいいかは、あまり肯定的にも否定的にもこだわらない方がいいのかもしれないし、ただの分散状態と捉えておけばそれで妥当な解釈になっているのかもしれない。そしてそうした状況下ではどうやれば主体的な活動を実現できるのかとなると、何もかもが分散している状況なだけに、これといって特定の活動形態が推奨されるわけでもないだろうし、よく言われるような与えられた状況の中で最善を尽くすということが何を意味するかは、人によっても状況によっても異なるとしか言えないのではないか。
 その一方で従属的で組織的な労働は集団内で連帯し連携する動作を必要として、他人の動作に自らの動作を合わせようとする受動的な意識を生み出すわけだが、それが協業として効率的に作用すれば生産性が上がって、分業体制で作業を行なうメリットも生まれるわけで、そのような作業形態を通してしか大量かつ大規模な商品の生産と流通と販売ができないことは確かで、現実の資本主義的な経済活動もそのような形態に依存しているわけだが、人が普段生活している中ではそれをなかなか意識できないわけで、それよりは絶えず個人の創意工夫などに目がいってしまうのかもしれず、それに関してはメディアなどでも自分たちが贔屓にしている特定の人物の意見や活動を積極的に取り上げようとして、それを真に受けると何か特定の人物の発言や活動が世の中を動かしているような錯覚を抱いてしまうわけだが、実際には集団的な分業体制で世の中が成り立っているのに、その中で特定の個人の活動がクローズアップされるのは、そこで絶えず物事を単純化して捉えようとする意識が働いていて、その脚光を浴びせる特定の人物に物事を説明する上での象徴的な役割を付与したい思惑があるのかもしれないが、別の面ではそれが集団的な動作の隠れ蓑としても機能しているのかもしれず、例えばその集団を代表する個人を批判して、その個人が何らかの不祥事などで失脚すれば、それによって集団の動作も変わるかのような錯覚を抱くわけで、しかしそうやって集団の代表が次々に不祥事などで入れ替わったとしても、相変わらず集団の活動が以前と変化なく持続している場合があるわけで、確かに何らかの危機的な状況に陥った時には、その集団の中から改革を唱えながら特定の個人が指導者として登場してくる場合があるわけだが、またそういう個人を民衆が選挙で選んで政治的な期待を寄せたりもするわけだが、その批判の的となる否定的な行為や不祥事などを起こす原因が、集団的な動作から生じている場合、集団の代表者をやめさせたり、改革に関して期待の持てる人物を新たに集団の代表者に選出したりすることで、集団の動作が改められ変わることがあるかというと、一時的にはその新たに選ばれた代表者による尽力で何らかの改革に成功することもあるのかもしれないが、それが長続きするかというと、たぶんそうではないのかもしれず、確かに集団が一時しのぎ的には改革者の言うことを聞き入れる場合もあるのだろうし、そんな成果を人々が実感できるような瞬間も訪れるかもしれないが、あくまでもそれは一時的な現象であり、そうやって世間的に賞賛された特定の人物が集団内で長期間にわたって指導者の地位にあると、ミイラ取りがミイラになってしまうように、集団の論理に次第に同化していってしまうのであり、そうなってしまう主な原因は集団内の階層構造と役割分担に起因しているのかもしれず、いくら自分の意見を集団全体に反映させようとしても、代表といえども階層構造の中ではその頂点としての役割分担が課されてしまうわけで、その中で機能している様々な階層の様々な役割を担っている人々の立場にはなれないわけで、実際にはそういうところから集団的な動作が生じているわけで、それぞれの立場にまでは目が行き届かず、その結果として自らの意に反した動作を許してしまい、そのような動作をトップの立場からは制御できない現実が露呈してしまうわけだ。
 それが行政的な面では法律などの改正を行なうことで制度的な改革を行なうことはできるだろうが、それによって世の中の慣習までは全面的には変えられない面もあるわけで、法律として明文化されている部分については確かに文言を変えられるだろうし、明文化されていない部分については新たに明文化してわかりやすくすればいいのかもしれないが、それでも行政に関して直接の不祥事や弊害の原因とはなっていない部分については、取り立てて変える理由が見当たらないわけで、変える理由を見つけられない部分を変えるわけにはいかないし、そういう変える必要のない法律や特に明文化されていない慣習などが、組織的な動作を支えている主要な部分であるなら、不祥事や弊害をもたらす部分は組織にとっては枝葉末節な部分でしかないのかもしれず、そこをいくら変えても組織全体の体質は変わらず、まるでトカゲの尻尾切りのように次々に明るみに出てくる新たな種類の不祥事や弊害などに対処していくだけで手一杯となってしまい、その度に関係者を処分したり法改正などを行なっても、一向に組織的な動作を変えることができないままとなってしまうのかもしれず、そもそも動作というのは刻一刻と動いていくものであって、その結果として明るみに出る不祥事や弊害はその時点での出力でしかなく、法改正などは結果に関して対処することはできても、動き続けている途中では何も明るみに出ないわけだから、そのような組織的な動作によって次から次へと何らかの出力結果が出て、それに関して不都合だと判断されればその度にそれを改革しようとするのだろうが、そうなった時点ではすでに組織はその先へと動き出しているのであり、その良し悪しを決める判断はいつも後追いでしか出されず、過ぎてしまったことについて侃侃諤諤の議論を行なっている最中にも、組織的な動作は弛みなく続いているのだから、議論そのものが周回遅れとなってしまい、そのような議論では結果として明るみに出た不祥事や弊害などに関しては何らかの対応策を出せるかもしれないが、現に進行中の動作に関しては無策となるしかなく、そういうところで法改正などを伴った制度改革が空振りに終わる公算が大きくなるのかもしれない。それでも起こったことの後始末をつける意味でも手続きとしてそういうことをやらなければならないわけで、それも制度の類いとなってしまうわけだが、集団内で制度や慣習が一定の決まり事として守られていることは確かだとしても、それは事後処理的に正当化される掟であり、そのような掟を守っていればとりあえず周りから文句を言われる筋合いはないということであり、掟を守りつつも手続きとしても正当な手順を踏んで活動していれば、その活動内容が特定の個人に対する理不尽な仕打ちとなってしまったり、その人を不利な状況へと追い込んでしまったとしても、掟を守りながらそういうことをやっているわけだから、とりあえずそういう面では行為を正当化できるわけで、実際にそんな経過を辿りながら組織内の権力争いが陰湿に繰り広げられる場合もあるわけで、そういうことをやっている実態がなかなか明るみに出なければ制度的な改革では対処しようがないわけで、大抵の場合は争いに決着がついて、組織の中で誰かがあるいは特定の勢力が争いの敗者として組織外に弾き出された後から、事の次第が明るみに出てくるわけで、いったんそうなってしまうともはや原状回復が難しくなり、理不尽な仕打ちを受けた人たちは泣き寝入りするしかなくなってしまう場合も出てくるわけだ。

 企業や行政などの組織的な活動と個人の活動は必ずしも全面的に対立しているわけではないが、相容れない面もあるだろうし、時として個人としての活動と自らが所属している集団内での活動との間で整合性が取れなくなる場合もあるだろうが、資本主義経済の中では誰もが何らかの形で企業や行政などの組織的な活動に依存している面があるだろうし、それらから何らかの恩恵を受けているわけで、それなしでは個人としての活動も成り立ってゆかないのではないか。つまり恩恵を受けながらも対立する面では弊害も出てくるわけで、絶えずその恩恵と弊害の間で調整を強いられていて、その調整の様々な局面で個人と集団との間で何らかの交渉や取引を行なっているわけだ。それがその場限りの一時的な妥協に終わるか、あるいは何らかの合意に至ってそれがさらに進展して公的な法改正や制度改正などの恒久的な改善につながるかは、その場での成り行きや状況次第になるだろうが、そのような交渉や取引を個人で行うにしても団体として行うにしても、それ自体がそれらの個人や集団の活動の一部になるわけで、その中では時として交渉相手や取引相手を批判することもあるだろうし、それ自体が交渉や取引に含まれるパフォーマンスの一種と捉えても、それほど間違ってはいないのかもしれないが、たとえそのような批判に端を発して交渉や取引が不調に終わったり決裂しても、そのような結果を招いたことすらが事態の何らかの進展を物語っているのかもしれず、結果的にどのような状況になろうともそこで何らかの活動が行われている限りで事態の進展が起こっているのではないか。時にはその活動が軍事的な戦闘行為であっても事態の進展を促している面もあるのだろうが、それに関して主にメディア上で議論されているのは、識者や専門家などによる事態の打開だとか状況の改善などを促すための提言が行われている場合が多いわけで、そういった提言の類いが直接事態の打開や状況の改善に結びつくわけでもないが、世論の喚起を促して、それを政治問題化させたり選挙の争点になるような成り行きへと持ってゆきたい思惑もあるのかもしれないが、そのような活動が結果的に何らかの法改正や制度改正へと至るまでの間にも様々な紆余曲折を伴うわけで、実際にはそこまで至らない場合の方が多いのかもしれないが、個人の活動や集団の組織的な活動が目指すのが状況の変化に至る何らかの結果だとしても、そのような結果に至るまでの間で活動を続けることがそのような活動の自己目的となってしまう場合があるわけで、メディア上で提言する人は絶えず提言し続けることが自己目的化してしまい、提言することから一歩も先へ出なくなってしまって、では何のために提言しているのかというと、提言することだけが仕事となってしまい、そこで活動が止まってその先の提言を実現する活動へと結びつかなくなってしまうわけで、そのような自足状態がメディア上で蔓延すると、そこから先で事態の進展が起こらずに停滞してしまうわけだろうが、そのような停滞状態を打開するには政治や行政の側がメディア上でなされる提言を汲み取る必要が出てくるのだろうが、その橋渡しとなる上で安直なやり方かもしれないが、メディア上の提言者がそのまま政治家になったり、その逆に政治家がメディア上の提言者になるようなことも起こるわけだ。
 だがそうなると政治とメディアとの間で連携や癒着を招くことにもなって、場合によってはメディア上に登場する政治家に配慮してメディアがその政治家を批判ができない事態も生じる危険が出てくるわけで、そのようなことも含めてそれらの活動の至るところで恩恵と弊害が出てくるわけだろうが、そういう恩恵と弊害の二面性は人や集団のどのような活動にもつきまとってくるわけで、弊害が生じて困るようならそれを改めようとする活動を行わなければならなくなり、そうした活動が絶えずそれ自身の活動に付け加わってくるだろうし、それが活動自体の自己目的化という弊害の原因となる場合も出てくるわけで、結果的に自らの活動の弊害を改めようとするばかりで、肝心の活動の目的にまでたどり着けなくなってしまうわけだ。それも活動からもたらされる恩恵と弊害の二面性に含まれるのかもしれないが、少なくとも活動している人や集団はそれらが目指す目的に向かって活動しているわけで、その中で最善を尽くそうとするだろうし、その最善だと思われる行為が他の人や集団には受け入れがたいような傾向があればそこで争いが起こる場合も出てくるだろうし、そんな争いを収めようとするならばそこで交渉や取引の機会が巡ってくるわけだ。そして交渉や取引を重ねてゆけば何らかの妥協に至る可能性も出てくるわけで、そうなると事態の進展が起こるわけだが、それが当初に目指していた活動の目的と一致しない場合も出てくるだろうし、そうやって対立する相手との交渉や取引によって、ややもすると独りよがりに陥りがちな活動の内容が修正される可能性も出てくるわけで、それが交渉や取引によってもたらされる恩恵だと言えなくもないが、活動内容が修正されてしまうのを嫌う意識にとっては、交渉や取引は妥協などの弊害しかもたらされないと認識してしまう可能性も出てくるわけで、そこでも恩恵と弊害の二面性が生じてくるわけだが、そのような二面性は活動していく上で絶えず意識されつきまとってくるわけで、いちいちそこで立ち止まってそれを確認する余裕はないかもしれないが、そういう絶えず他者との交渉や取引に付きまとわれるという意味で活動には終わりがなく、その目的自体も真の目的とは言えない暫定的な目的に落ち着いてしまうのかもしれず、そうでなくても活動の自己目的化への誘惑を振り払えないばかりか、そこで自足せざるを得ない状況や成り行きも自らの意志に反して生じてきてしまうわけで、そのような状況や成り行きに逆らう気力も、いつまで経っても終わりのこない活動に疲弊して失せてくるのかもしれないが、社会が集団の組織的な活動で成り立っている実態がある限りで、そうした前提の上に個人の主体的な活動が許される余地が生じているわけで、自己目的化してその中で自足してしまう個人の活動というのも、集団の組織的な活動によって生じる分業体制にその活動が取り込まれた結果としてそうなるのかもしれず、分業の一部門としてその活動の周りを集団的な労働が支えていることになって、そうやって企業や行政やメディアなどから特定の個人に役割分担が付与されるから、そのような自足した活動が成り立つ余地が生じて、だからメディア上で何らかの社会問題に関して有識者のような個人が何らかの提言を行う役割が成り立っているとするならば、それはそこで集団の組織的な活動と個人の活動が対立しているのではなく、互いが妥協して折り合いをつけた結果としてそのような活動が生じていることになるのではないか。
 それ以外でも資本主義経済の中で成り立っている分業的な労働の形態は、物や情報やサービスなどの生産と流通と販売と消費の過程で、限られた範囲内で部分的な作業を受け持っていて、そこで個人や集団が限定的な労働を行い、そうやって行われる分業的な労働のそれぞれの作業を企業などが連結して管理しながら、全体として資本主義的な経済活動として生産から消費に至る連続性を保っていることになるわけだが、中には一つの企業で全ての過程を受け持っている場合もあるだろうが、大抵は特定の過程に特化した作業を受け持っている企業の方が多いかもしれないし、そんな中でも人の行う労働は細分化され個々の役割分担も多種多岐に渡っていて、そのような部分的な労働を行なっている限りで、個々の労働者は自分がやっていること以外の他の役割を担っている作業に精通しているわけでもないし、その必要もないわけだが、では仕事以外のことについては、例えば社会全般の情勢やそこで起こっている物事について知る必要はないかといえば、必要がないとはいえないだろうし、日々の生活の中でニュースメディアなどからそれなりに情報を得ているわけだから、知らないはずはないだろうが、とりあえず法律を守って身の回りを取り巻いている社会的な制度に従っている限りで、大して世の中の事情に精通していなくても何の不都合も生じないのかもしれない。それの何が悪いわけでもないのだろうが、とりあえず日々の労働をこなしてそれなりの報酬を受け取って生活できている限りで、それ以上に余分なことに関心を持たなくてもいいのかもしれず、そうであるなら私的な生活の他に何かやらなければならないのかといえば、特に何もやることがないと思われても、それは当然の成り行きなのではないか。果たしてそれ以外で何か行わなければならない事情が生じる余地があるのだろうか。たぶんそれは法律を守れなくなったり、世の中の制度に従えなくなった時に、やらなければならないことが生じてくるわけで、例えば自らに法律を守れない正当な理由が生じていると思われれば、法律があること自体が不都合なのだろうから、法律を変えるために何らかの活動を行わなければならなくなるわけで、また同じようにして世の中の制度に従えない正当な理由があるように思われるならば、その制度を変えるために何らかの活動を行わなければならなくなるわけだ。それが政治活動の始まりなのだろうし、そのような事情に対応するために公的な政治制度が整備されているわけだろうが、果たして一般の市民がそれを利用することができるのかというと、一人では無理だろうし、他に大勢の賛同者を集めないと選挙を通じて議会に代表者を送り込めないし、議会でその賛同者が多数を占めないと不都合な法律や制度を変えることができないわけで、それを実現するために政治活動をしなければならなくなるわけだが、そのような政治活動を専門に行うのが政党となるわけで、それも分業的な労働形態から生じた作業と類似していて、政党は政治という限られた分野の範囲内で部分的な活動を受け持っていると言えるのかもしれず、それは法律の分野で専門的な業務を受け持つ弁護士や、納税に関して専門的な業務を受け持つ税理士などと似たような傾向があるのかもしれない。
 そのようにして世の中が全て分業的な業務によって細切れとなっている実態がある中で、一般の市民が仕事と私生活以外で何かやることがあるのかというと、それに従っている限りで法律的にも制度的にも何もやることがないといえばその通りかもしれないが、肝心の法律や制度に逆らう活動があるわけで、ある意味ではそれは違法行為になる場合もあるだろうが、合法的に活動するならそれを法律や制度内に取り込むための政治活動として法律や制度の範囲内に限定したいわけだが、そこでもやはり分業的な傾向を持った政党活動が幅を利かせているわけだ。そうやって何かが人々を何らかの業務に専念させながら管理する傾向にあるわけだが、それを管理している主体というのが集団としての組織形態を伴った各種の団体となるのだろうが、その主なものは行政や企業などであり、また政治的な方面においては議会や政府などで一定の管理権限を持っているのが政党となるわけで、合法的な範囲では一般の市民が何かをやろうとすると必ずそのような管理団体の壁にぶち当たるわけで、もちろん非合法な範囲でもヤクザやギャングやゲリラなど、特有の傾向や役割を担った管理団体にぶち当たることになるわけだろうが、そうやって社会を分業的に管理し統括しているそれらの団体の間でもそれなりの交流があって、対立や連携の関係を構成しながらも互いに交渉や取引を行いつつ勢力争いに明け暮れている状況もあるのかもしれないが、一般の市民がそれらの各種団体に所属することで自身の主体的な活動を制限されたり奪われたりするのは当然の成り行きかもしれず、そこで個人的な活動に代わって優先されるのが組織的な活動となるだろうし、それらの各種団体を生かすために働かなければならなくなるわけだろうが、しかしそうである以前にそもそも私生活でやっていることが主体的な活動の全てだとみなせば、各種団体の中で働いている時間以外は主体的に活動していることになるわけだが、その中でも娯楽という制度に時間を奪われたり、またそれを制度というと語弊があるかもしれないが、一応は家族というのも社会的な制度には変わりないわけで、家族のために時間を費やすのも、それを主体的に行なっていると思っている人もいるわけだが、さらに各種団体の中でも主体的に仕事をしていると思っている人もいるわけで、その辺で何が主体的な活動なのか人によって異なるのだろうが、ともかく人は社会の様々なレベルで重層的に様々な団体の管理を受けながらも、自身もその管理に加わっている場合もあり、その中で自身が主体的に行なっていると思えるのは、自分で直接管理しているように思われる活動になるわけで、つまり主体的な活動とは自らの責任で何かを行い、それを自身が管理している範囲内での行為となるのではないか。結局そうだとするとやはり個人も社会の中で役割を分担されていて、その個人が責任を持って行える範囲内での作業に関して、管理権限を社会から譲渡されていることになるのではないか。それが主体性の正体であり、社会的な分業体制の中の一部門として個人が行う主体的な活動があって、その人が何か主体的に作業を行なっている実態があるとすると、その行なっている作業が社会の中でその人が受け持っている活動だと言えるのかもしれない。
 世の中で自分が管理しているつもりの物事は自分の権限でどうにでもなるわけではないが、その物事については自分に優先権があるように思われるだろうし、時にはそれについて自身が主体的に権力を行使しているつもりにもなれるだろうが、そのようなことを行う以前に制度的にも慣習的にも動作を縛られていて、またそれを機械を使ってやろうとすれば機械の動作の範囲内で行うしかないだろうし、それが何を意味するのかというと、同じような制度的で慣習的な制約の中で行われる他の人の動作と同じようなことになる可能性が高く、また機械を使ってもその機械を使っている他の人たちと同じようなことをやっている可能性が高くなるだろうし、結局自分と同じような物事について同じように管理しているつもりの人が他にも大勢いて、それらの人たちと同じように同じようなことをやっている可能性があるわけで、自分の含めてそんな人たちの集合体が社会を構成している実態があるのではないか。もちろんそのすべての動作が全く同じというわけではなく、それぞれでその人に特有の事情を抱え込んでいるから、それなりに差異はあるのだろうが、それもその社会を構成している制度や慣習の許容範囲内の差異であって、その許容範囲から逸脱するようなことをやると必然的にその社会の中では違反行為をやっていることになり、そうなると懲罰などの何らかの形式を伴って社会から締め出されるような措置を受けることになるのではないか。そういうわけでたとえ自分が管理しているように思われる物事について自分に何らかの権限があるように思われる場合であっても、その権限は自分を含んだ社会を規制している何らかの制度や慣習が許容できる範囲内で権力を行使できるにすぎず、それを逸脱して権力を行使することは制度的にも慣習的にも許されていないわけだ。だからと言って実際にそのような許容できる範囲内で権力の行使が収まるのかといえば、必ずしもそうはならないだろうし、絶えず成り行きとしてはそこから逸脱してしまうことをやってしまうから、世の中では様々な違法行為や道義的に許されない行為がはびこっているわけで、逆にそのような行為を抑止する意味で制度や慣習があると言えるのかもしれず、そういう意味では制度も慣習も人々が過ちを犯す歯止めとなっている面はあるのだろうが、またそれと同時に人々の自由な活動を抑圧する面もあるわけで、そこでも制度や慣習が人々に恩恵を与えている面と弊害をもたらしている面があって、必ずしも恩恵を与える良い面ばかりを制度や慣習に持たせることはできないだろうし、それに関して何か問題が起こる度に、制度的な変革を行う機運が生じてくるのだろうが、それも制度的な手順に則って変革が行われる場合でも、それで人々が目指す理想的な状況になるわけではないだろうし、結局は絶え間なく変革し続けるような成り行きにしかならないのかもしれず、そのような経緯に伴って慣習の方にもそれなりの変化が表れるのだろうが、そうであっても常に慣習から逸脱する行為が行われる可能性があり、場合によっては逸脱した方がマシに思われることもあるわけだ。
 そんなわけで何かが行われる場合には、常に個人にも集団にも制度的かつ慣習的な規制の圧力がかかっている中で行われるわけだろうが、人がそれに関してどれほど自覚的になれるかはその人が置かれた状況にもよるだろうし、またその人の意識次第な面もあるだろうが、その場の成り行きの中でそれと気づかずにそれらの規制の圧力に逆らっている場合もあるだろうし、圧力を意識しながらも逆にそれを利用しようとして、場合によっては周りの人たちと連携しながら自らに有利な状況へとその場の成り行きを変えて行こうとするかもしれないし、規制に従うか逆らうかの二者択一以外に、むしろ規制を利用して有利に事を進めようと画策する場合もあって、規制への対応といっても一筋縄ではいかない厄介な面があるわけで、そこで二項対立的な認識にとらわれてしまうと対応を誤ってしまう可能性が出てくるわけだろうが、戦略だとか戦術だとか言われる行為のレベルでは絶えずそのような対応に基づいて周囲との交渉や取引が行われることになり、そういうところで軽視されるのが道義的な側面であり倫理的な対応となるのだろうが、それに代わって安易に依存しがちな傾向になるのが損得勘定であり功利的な対応となるわけで、一見合理的に思われるような対応というのがその種の功利性に基づいた対応であり、戦略や戦術もその場で勝つための手法として功利性を重視するわけで、それでうまくいっているように思われているうちはそういうやり方に傾斜しがちになるわけだが、そういうことをやり過ぎてしまうと道義的な面でも倫理的な面でも世の中の荒廃に加担してしまうのかもしれず、戦略や戦術を有効に活用して成功した勝者が世の中の主導権を握ってしまうと、その一方でそれらを活用できずに失敗した敗者が民衆の大多数を占めるようになり、そうなると富や権力の不均衡や不平等がより一層顕著になって、そのような社会を規制し統制している制度や慣習に人々が幻想を抱けなくなってしまうのかもしれず、それは世の中で主導権を握っている一握りの勝者たちに対する信用の失墜を意味するわけで、それに呼応して革命への機運が高まってしまうのかもしれないが、現状の世の中でそうなっているのかといえば、そういう傾向が顕著になっている地域ではすでに何らかの紛争状態にあるわけだろうし、平和が保たれていればまだそれほど極端な不均衡や不平等は生じていないことになるのだろうが、それも程度の問題であるのかもしれず、特定の人や勢力が一方的に勝ち続けるような成り行きにならなければそういう極端な状況にはならないわけで、普通は民衆の意識や世論にバランス感覚が働いて、民主的な政治制度が確立して機能している状況では、選挙などで特定の人や勢力に一方的に勝たせても独裁的な政治体制が確立して、民衆にとってそれは活動の自由を奪われて自分で自分の首を締めるだけだから、それでは何事においてもあまり得にはならないという認識が世の中に広まれば、そういう結果になるのを回避するような動作が生じるわけだが、マスメディアも一体となって特定の人や勢力を勝たせるような行為に走れば、そういうバランス感覚に打ち勝つことができるかもしれないが、そうであっても相変わらずその場の前提としては、良い意味でも悪い意味でも制度的かつ慣習的な規制の圧力がかかっていて、規制から逸脱する行為を抑制するような作用が働いていることは確かなのではないか。

 企業の中で労働を担っている人たちはその企業が行なっている事業のシステムに人員として組み込まれているわけだが、その企業が手がけている事業の形態に応じて労働内容もそれなりに変わってくる部分があるだろうが、一方で事業形態が変わっても労働内容が変わらない部分もあるだろうし、それは事務処理的な部分であり管理業務的な部分でもあるわけだろうが、そういう部分ではどのような企業でも似通った業務を構成する部分だろうし、また企業でなくても行政機構や他の各種団体などでも共通する業務形態を伴ってくるのかもしれず、そういうところで集団的な組織形態に特有の階層構造が生じていて、それがその企業に特有の専門的な業務を管理し統括していることになるわけで、そこでいわゆる官僚機構が構成されていることになるわけだ。つまり集団的な組織形態を構成する官僚機構は企業特有の専門的な業務から生じているわけではなく、そのような業務を管理し統括するために存在しているわけで、それは行政機構や他の各種団体でも同じようにそこで行われている業務を管理し統括するために官僚機構を必要としているわけだ。そして企業でも行政機構でも労働組合などでも、いったん官僚機構が組織全体を管理し統括し始めると、その官僚機構自体を維持継続させることが最優先される傾向が出てくるのかもしれず、そのような官僚機構の維持継続とその団体の専門的な業務との間で背理が生じてくると、組織内での権力バランスが崩れておかしくなってきて、組織自体の運営が立ち行かなくなってくるのではないか。優先すべきはそれが企業ならその企業が手がけている専門分野に関わる業務であり、それが成り立たないことにはそれを管理統括している官僚機構も成り立たないのは当然だろうが、官僚機構の側が経営の主導権を握ってしまうと、業務の技術的な面よりも採算面でのコストや効率性を重視する傾向になってくるだろうし、そうやって利益優先主義になってしまうとその企業が取り扱っている商品そのものに魅力がなくなってくるわけで、そうなると場合によっては消費者にそっぽを向かれて、それでも価格が安ければそれなりに売れるかもしれないが、商品の熱烈なファンがいなくなって、やがて同業他社との安売り合戦などが生じてしまうと利益が出なくなり、場合によっては事業が立ち行かなくなってしまうのではないか。それは商品の種類や質にもよるかもしれないが、業務の専門的な技術水準を保つにはそこで働いている労働者の質が問われてくるわけで、労働者が専門的な技術を身につけなければならない仕事内容であるなら、そういう仕事に携わっている労働者はそのような業務を主に手がけている企業にはなくてはならない人材となるわけで、普通はそういう人材を粗末に扱うようなことはしないだろうし、専門的な労働者にはそれなりの待遇や報酬も用意されることになり、企業と労働者との関係も場合によっては対等に近い関係となるのではないか。またそのような人材は単に労働者とは呼ばれないだろうし、一般的には技術者に分類されるのかもしれないが、企業内の管理や統括を重視する官僚機構側の思惑としては、できればそういう特別な労働者がいなくても困らないような業務内容にしたいだろうが、その企業が取り扱う商品の存在価値を高めるには必要な場合も出てくるわけだ。
 そういう意味で官僚機構が組織全体を管理統括しやすいような体制にしようとすると、これといって特徴のない平板な組織構成と内容になるのかもしれないが、それでは集団内の個々の構成員にとっては魅力の乏しいつまらない組織になってしまうのかもしれず、その人が仕事に対して積極性や主体性を求めている場合は、集団内にあっても独自のことをやりたくなるだろうし、周囲との協調関係には配慮しつつも仕事の面では他人より目立ちたいと思うのではないか。そして目立ちたいということは良い意味で目立ちたいわけだから、仕事の面で自らの有能さをアピールしたくなるだろうし、他人より優れていることを示したいわけで、そういう人が多いほど組織内での競争が活発になってくるのだろうが、それを管理統括する側としては業績の向上に結びつけたいわけで、そのような競争心のある人たちを生かすような組織運営を行いたいわけだ。そうなると業務の中で何らかの基準を設けて、それを基に各人の成績を設定して、それに応じて成績の良い人の報酬をアップしたり昇進させたりして、そうやって各人に格差を設けることがそのような組織形態に特有な階層構造をもたらすことになり、それが官僚機構そのものだと言えるのかもしれないが、ではなぜそれが平板な組織構成なのかといえば、それでは必ずしも適材適所な人材配置とはならないわけで、仕事の内容に対する向き不向きを考慮していないことにもなるのかもしれないが、では組織内の役割分担として適材適所な人材配置にするにはどうやればいいのかというと、必ずしも共通の基準があるわけでもないだろうし、誰もが納得するような人材配置が適材適所というわけでもないのではないか。もちろん人によって得手不得手があることは確かだろうし、中にはその仕事には向いていないと思われる人がいることも確かなのではあるが、そうだとしても得意なことをやらせることが適材適所になるわけではないだろうし、当初は苦手であった仕事内容にも果敢に挑戦して努力の甲斐あってうまくこなせるようになる人もいるわけで、そういう事例からも適材適所な人材配置が最初から何の障害もなく組めるわけでもないことがわかるだろうが、では適材適所な人材配置ということ自体が幻想に過ぎないのかというと、そうでもありそうではないこともあるわけで、結局は誰もが納得のいくような仕事の成績や成果に応じて報酬のアップや昇進を行うやり方が妥当に感じられてくるわけだが、そのような妥当性を突き詰めていくと自然と官僚機構のような組織形態となっていくわけで、それは何らかの試験において優秀な成績を収めた者がエリート官僚として出世していくような成り行きにもその傾向が表れているわけだが、世の中の制度や慣習がそのような成り行きの妥当性を保証している場合もあるだろうし、実際にほとんどの人がそんな制度や慣習の中に身を置いているわけだから、そういう成り行きを当たり前のこととして信じて疑わない人の方が圧倒的な多数を占めているだろうし、現状では誰もがそれで構わないと言えるのかもしれないが、実際にそのような官僚体制に苦しめられている人たちもいることは確かで、官僚制の弊害に直面しながらも他にどのような制度にすればいいのかわからない人も結構多いのではないか。そういう人たちは制度的な変革を目指すわけだが、制度そのものの存在を疑わず、それが全てだと思い込んでいるのかもしれない。
 そうであっても組織的に行われる仕事は結果的にうまくいっている仕事だけが続いていく成り行きにもなるわけで、事前に立てた計画通りに物事が進まないのはよくあることで、そうなった時にその場での調整力が問われるのかもしれないが、事前に計画を立てて計画通りに事が運ぶように各方面に根回しするようなことは官僚機構が得意とする分野だろうし、連携している各組織間で利害調整を行なったり、意に沿わない業者をそこから締め出したり、そうやって組織全体としての利益を確保しようとするのだろうが、一方でそれは競争原理とは相容れない面も出てくるわけで、普通に競争に勝って利益を出す見込みがあれば競争するにしても、正々堂々と公正な競争をするよりは、事前に談合して利害調整を行った方が利益を得やすいと判断すれば、競争を回避して談合する選択肢も出てくるわけで、公共事業などの入札を巡ってそれが違法行為だと知りつつも業者間で談合が行われている実態があるとすれば、そこでは競争を促す公的な制度よりも仲間同士で通用するそのような商慣習が優先される状況が生じているわけで、そういうところでいくら制度改革を行おうとしてもそのような慣習が障害となって、制度自体も公平で公正なものとはなり難い面があるだろうし、現実に制度を管理する側にも官僚機構があるわけだから、そういう場合は制度を管理する官僚機構に都合のいいような制度になりやすく、またそれが制度を適用される側の民間の企業の官僚機構とも天下りなどで繋がっている場合は、互いの官僚機構同士で利害調整が生じやすいだろうし、根本的なところでそれらの機構が何に利益をもたらそうとしているのかといえば、やはりそれは官僚機構という組織自体に優先的に利益をもたらそうとする傾向になるわけで、そこで組織の中の交渉を担当している個人の意向ではどうにもならない構造的な力が組織内や組織間で働いてしまうのではないか。もちろん交渉担当者は組織の意向に従うしかないだろうし、しかも談合などの違法行為が発覚したらその担当者が責任を取らされるわけだろうし、そうなると個人をトカゲの尻尾切りのように犠牲にして組織が生き残るわけだろうが、そのようなことが長年の慣習として繰り返されているとすれば、そのような違法な慣習自体が制度となってしまっている実態があるのではないか。そして談合などを行うことによってもたらされる組織の利益はその構成員の利益となるわけだろうが、確かに公平な競争を行っても仕事を受注できなければ利益を得られないことになるわけで、そうであるなら複数の企業で談合して仕事を分かち合う方が確実に仕事にありつけるし、公共事業などの入札価格もそれなりに利益が出やすい価格で落札できるだろうし、企業側にとってはその方がいいに決まっているわけだが、公共事業などを発注する行政の側でも官僚の天下り先である気心の知れた企業に仕事を請け負わせたい思惑もあるだろうし、そうなると行政側と企業側が持ちつ持たれつのウィンウィンの関係となるわけで、それで組織と組織の間では何の不都合もないのかも知れないが、そこに問題があるとすれば公的な資金を活用して私的な事業を行なっているということだろうし、公的な資金で私的な企業を違法に儲けさせるという成り行きが問題となるわけだが、そこに公的な制度に関する何らかの不具合が浮かび上がってくるだろうか。
 果たしてそのような公私混同は避けなければいけないことなのだろうか。その一般的な意味からは若干ずれてくるかも知れないが、行政側の中にある官僚機構も組織自体の利益を優先する限りにおいて、それは私的な利益を追求していると言えるのかも知れず、それとは異なる公的な利益とは特定の組織の枠を超えた社会全体の利益となるわけだが、その社会全体の利益というのが合理的にはうまく説明できないものかも知れないし、場合によってはそれは特定の国家をも超える範囲を指すものだとすれば、国家的な利益ですらが私的な利益の範疇に入ってしまうだろうし、そうであるなら行政は何のためにあるのかという話になってきてしまうだろうし、そこまで範囲を広げることに関しては否定的な態度をとる人が世の中の大部分を占めるのではないか。だからそれに関しては絶えず相対的なレベルで物事を考えるしかないのかもしれないし、公的な資金を活用する公共事業などに関しては、制度として行政側の官僚機構の利益も企業側の官僚機構の利益も私的な利益とみなすしかなく、公正かつ公平な競争を実現するにはそれらの官僚機構の利益を考慮しないような制度にしなければならないだろうし、そこで違反行為が行われたらどちらの官僚機構も処罰の対象となるしかないだろうが、現状では違法行為を行った双方の責任者が処罰の対象となっていて、また民間の企業には法的に罰則が設けられているものの、行政機構そのものは関係者を処分する以外には罰しようがないだろうし、その官僚機構自体はどうやっても温存されてしまう傾向にあるのではないか。もちろんそれも行政改革の対象とはなるだろうが、機構自体をなくすわけにはいかないし、どうやっても官僚機構が残るような仕組みになっているわけで、それがないと行政そのものが機能しなくなってしまうわけだが、それは民間の大規模な組織形態を伴った企業にも言えることだろうが、それらの組織自体を中立的な形態にすればいいのかもしれないが、その中立的な形態というのがやはりわかりにくいだろうし、その辺で思考が停止してしまいがちになるところかもしれない。組織の中立的な形態とは組織自体の利益は求めずに、組織を運営する上での必要経費だけを得られるような形が求められるのかもしれないが、では利益はどうするのかというと、組織を利用する人たちに何らかの利益が還元されればいいわけだろうが、それが金銭的な利益となると、誰でも分け隔てなく組織を利用できるようにしないと公正かつ公平だとは言えないだろうし、そんなことを述べてしまうと実現不可能な理想論にしかならないわけだが、行政機構とは本来はそういうものなのかもしれないし、その中の官僚機構やそこで働く官僚に利益をもたらすのではなく、その機構を利用する一般市民に利益をもたらせばいいわけだが、公共事業などに関してはそれを受注する企業に利益をもたらすような制度となっているし、原理的にはそうならざるを得ない面があるにしても、できるだけ公正かつ公平な姿勢を示さないと公的な信用を失う可能性があるだろうし、そのことに一般の市民が敏感にならないと、なかなか悪弊が改まらないだろうが、それを悪弊だとも思わない人が世の中の多数派を占めているような状況ならば、一般市民の利益よりは相変わらず官民の様々な官僚機構の組織的な利益が優先される状態が続いてゆくのではないか。もちろん一般市民も一枚岩でまとまっているわけではないし、利害も様々なレベルで錯綜しているわけだが。
 社会の中での分業的な役割分担に伴って、誰もが自分の専門分野外のことには疎くなる傾向にある中で、どのような勢力が力を増しているのかといえば、まずはそれらの専門分野をまとめて管理統括している官僚機構の力が増すのはもちろんのこと、また様々な専門分野から情報を得て、それらの情報を取捨選択しながら都合のいい情報を人々に配信しているマスメディアの力も増しているわけで、官僚機構とマスメディアが連携すれば世の中の主導権を握れる可能性が出てくるわけで、実際に現代の大衆メディア社会と呼ばれる状況の中で主導権を握っているのは官僚機構とマスメディアなのかもしれないが、それはだいぶ以前からそうなっているのかもしれず、別に今に始まったことではなく、産業革命や市民社会や民主的な政治体制などが世界的に広まるにつれてそうなっていった経緯があるのかもしれないが、情報革命以後に特に顕著になってきたことは、メディア自体が一部の特権的な人々に占有されていた状態が緩和されて、インターネットの普及に伴って誰もが好き勝手に情報を配信できるようになって、全体的な情報の質は途方もなく劣化したかもしれないが、それはかつて政治体制が一部の王侯貴族や僧侶階級のものではなくなって、普通選挙が実施されてポピュリズムが全盛となってしまったことと似ているのかもしれず、第一のポピュリズム時代がナポレオン体制に始まってヒトラーのナチスドイツで全盛を迎えたように、今また情報革命に刺激を受けて第二のポピュリズム時代が幕を開けて全盛を迎えつつあるのではないか。もちろん第一の時代と第二の時代とでは状況も成り立ちの経緯も違うし、同じような悲劇が繰り返されているわけではなく、結末も前の時代とは全く違ったものになるかもしれないが、似ている面で言えばそれは極右的な思想が世界的に流行していることだろうか。また前の時代では産業革命の進行によってヨーロッパやアジアなどであぶれた人たちが、移民となってアメリカなどの新大陸を目指したわけだが、今の時代の移民はアジアやアフリカや中米の国々から欧米の国々を目指していることだろうか。そのような社会現象がポピュリズムや極右思想を煽り立てているわけだが、産業革命が人口爆発を招いたのに対して情報革命は金融資産の膨張を招いたわけで、今も世界で人口が増加している地域はまだ産業革命が進行している最中の地域であって、特に情報革命と人口の増加とは無関係なのかもしれないし、また移民も主に内戦やテロなどの政情不安が招いている面も大きいのかもしれず、そういうところであまり対照的な時代の比較はできないわけだが、ただ従来からあったマスメディアの権威が崩れてきたことと、旧体制下で世の中の主導権を握っていた王侯貴族や僧侶階級の権威が崩れてきたことの経緯は似ているのだろうし、第一の時代ではそれに代わって資本家階級が社会の中で台頭してきて国家的な主導権を握ったのだろうが、第二の時代ではまだどのような勢力が社会の主導権を握るのかは現状ではよくわかっていないだろうし、確かに第一の時代と同じように金融資産の膨張を背景として資本家階級の力がさらに増してきたと言えるのかもしれないが、まだ状況が一段落したとは言えないだろうし、これから先もどうなるかのはよくわからない流動的な状況なのではないか。
 ただ旧来のマスメディアの権威が崩れてきたということが、それに代わって新しいネットメディアの権威が確立されることを意味するわけではないだろうし、せいぜいが双方が競合状態になったと言えるぐらいで、その両方にまたがったメディアもあるわけだから、どちらが主導権を握るわけでもなく、別に主導権を握ろうとしているわけでもなく、世の中の様々な方面から情報を得てそれを不特定多数の人たちに配信するという役割が変わることもないのかもしれないが、ただそれを受け止める人々の意識は確実に変わってきたのかもしれず、要するに相対的にメディアに対する信用度が低下してきているのかもしれないし、何か特定のメディアを権威として崇め奉るような信仰とは無縁になりつつあるのではないか。それは大衆市民社会の中で旧来の王侯貴族や僧侶階級の権威が失墜したと言っても、それに代わって台頭してきた資本家階級を特別な権威として市民が崇め奉るようなことはしなかったのと似ていて、何か特定の人物や勢力を特別な存在として崇め奉るような風習が情報革命以後はより一層弱まってきたと言えるのかもしれないが、もちろん今でもメディアを通じて話題の著名人を特別な存在として煽り立てる風習は変わっていないわけだが、それはあくまでも特定の分野に限ってのことであり、世の中の全体に影響力を持つような存在としては扱っていないわけで、それも社会の中で分業的な役割分担がより一層顕著になってきたことの証しかもしれないが、もしかしたらそのことの影響が必ずしも第一の時代ほどにはポピュリズムが世の中の全体には広まらないことの原因となっているのかもしれないし、ほとんどの人は熱狂とは無縁の冷めた目線でそれらのわざとらしい煽り立てを見ているのではないか。もちろん煽り立てているメディアの側では皮相上滑りの感を呈しながらも熱心に洗脳活動に勤しんでいるつもりなのかもしれず、またそれに危機意識を抱いているメディアの側でも盛んにその手の洗脳活動に警鐘を鳴らしているつもりなのかもしれないが、どうもそれが社会全体としては盛り上がりに欠け、それを肯定するにしても否定するにしても人々がそれほど熱狂するわけでもないのは、やはりマスメディアの権威が崩れてきたことが大きく作用していて、メディアを心底から信用していない人が世の中の大勢を占めていて、また相対的に情報に対する世間の関心が分散していて、それの良し悪しがどうこうというよりは、そのような分散や分業の傾向に対して、情報を配信する側も対応していて、あまり一つの情報を特別視して煽り立てるようなことはしなくなってきたのかもしれず、情報を受け取る人の好みに合わせて様々な情報を分散的に配信するような傾向を示しているのだろうし、そのような傾向が特定の情報を集中的に配信して煽り立てるようなやり方を抑制しているのではないか。またそれがそうする必要性を低下させているのかもしれず、特に煽り立てなくてもそれなりに利益を得られるような情報の配信システムへと移行しつつあるのかもしれないし、情報を受け取る人の好みに合わせて情報を配信するということは、それはそのまま社会の中の分業化や関心の分散化を単に反映していて、それをわざわざ特定の一つの話題へと人々の関心を集中させる必要性がなくなってきたことを意味しているとすると、それはとりもなおさず人々の関心の集中によって成り立つ民主主義的な政治システムの崩壊の危険性をも意味するのかもしれず、また同時にポピュリズムの効力が薄れてきたことも意味するのではないか。

 仕事になぜ専門的な知識や技能が必要なのかというと、その仕事が専門的な知識や技能から成り立っている場合があり、それらを習得した上でないとできない仕事があるわけで、その仕事を巡って行われる競争の中で他人との知識や技能の差を利用して、自らの有能さをアピールしたい思惑が生じるだろうし、知識や技能を利用して他人より優れた仕事をすれば、より多くの利益が得られる傾向や成り行きがそこにあるからだろうが、それがいらない仕事なら誰でもできる仕事となり、専門的な知識や技能がなくてもできる仕事というのは、一般的には安い報酬しか手に入らない仕事となるわけだが、人によって報酬に差をつけるために専門的な知識や技能が必要となってくると、それの有無を客観的に判断するための試験や資格が必要となってくるわけで、試験をしてそれに合格すれば専門的な知識や技能があることが証明されて、それを判断する専門の機関から専門的な知識や技能があることを証明する認定資格を付与されることとなり、そのような資格を有する者にはその資格の難易度に応じてそれなりの報酬が保証されるような制度があるわけだ。そしてそのような資格認定を行う機関というのもやはり官僚機構の役割となるわけで、世の中に何らかの制度が生まれると必ずそれを管理統括するための官僚機構が必要となってきて、何らかの制度を管理統括するということが結局は社会の中に階層構造を作ることになるわけで、そうやっていったん階層構造が出来上がると、その中で暮らす人々はより上位の階層を目指して努力を惜しまず、より多くの人が努力すればやがてそこで何らかの競争が生まれて、そうなるとそのような競争を管理統括する官僚機構の支配力が強まるわけで、競争率が高くなるほどそのような機構が付与する認定資格にもそれなりの価値が生じてくるとともに、それを試験して認定する機関の権限も強まってくるわけだ。つまりそうやって社会の中で官僚機構が一定の権力を持つようになるわけだが、それは何らかの制度とともに存在しているわけで、それが社会を管理統治するための制度ともなっているのだろうが、そもそも社会を管理統治するというのはどういうことかというと、そこで暮らす人々に一定の役割分担を課して、人々がその役割を担って働いている状態を実現することが、その社会を管理統治していることになるのだろうし、その中で人々がなぜ働くのかというと、具体的には生活の糧を得るために働くわけで、その必要に迫られるから働くことになるわけだが、実際には生活の糧を得るだけではなく、それ以上の利益を得ようとする動機を官僚機構が作り出している面もあるわけで、それが他人より有利な立場や待遇を得るにはどうしたらいいかという向上心となって、それを実現するための手段として試験や資格が物を言う場合があり、官僚機構が課す何らかの試験に合格して何らかの資格を取れば、社会の中でより有利な立場や待遇を得ることができ、そのような資格を得るためには官僚機構に従いながら努力して、資格を得るための競争に勝ち抜かなければならなくなるわけだ。
 そのような制度があって官僚機構がそれを管理統括している限りは、放っておいても社会の中で格差が生じるわけで、日頃から格差社会を問題視して、社会の最底辺で従属的な労働を強いられる人々を擁護するような姿勢を保とうとするジャーナリズムに携わる人々も、実際にはある程度の格差は容認せざるを得ない立場にあるわけで、何らかの競争を勝ち抜いて今の職業に就いている人たちは皆そのような格差社会の恩恵に与っているわけだ。ただそこで行われる競争が公平で公正に行われている限りで競争自体は肯定され、地縁血縁などによって依怙贔屓があるとそれを不正行為として問題視するのだろうし、そうやって何とかそこで生じている格差を正当化したいわけだが、ある程度は正当化できてもどこかで正当化するのが難しくなってくるわけで、結局は自らの立場に関係する部分については正当化して、それ以外のところで社会問題化している部分については批判的に取り上げざるを得なくなるわけで、一般的には社会の中で不利な立場や待遇を強いられている人々に対して人道的な配慮を求めるわけで、そのような配慮を欠いている行為や仕打ちを批判したり非難するわけだが、どのようにしてそのような行為や仕打ちに至るのかについて、その経緯や成り行きを改善しようがない場合は、それをやめさせることはできないわけだが、そうであるにしてもそうなってしまった結果については批判したり非難できるわけで、批判や非難ができる範囲内でジャーナリズム的な仕事が成り立つわけだが、その辺が世の中に張り巡らされている様々な制度にしてもそれを管理統括する官僚機構にしてもそこから生じる格差社会にしても、それらを根本的な部分では改革しようがないことは確かで、ただ対症療法的に社会の中で不利な立場になっている人たちに対して、人道的な配慮を求めることしか主張できないのが偽らざる実態なのではないか。もちろん制度的に何らかの基準を作ってその基準に違反するような行為には罰則規定を設けることは可能なのだが、そのような行為がなくなるような根本的な改革に結びつくわけではないだろうし、改革とは違反基準や罰則規定を設けるような制度改革しか念頭にないだろうし、制度そのものをなくすことも官僚機構をなくすことも制度改革のレベルではできないわけだから、そんなことはやりようがないし、やろうとしてもそれ以外の面で多大な不都合や不具合が生じてしまうだろうから、現実的な話ではないわけだが、そのようにして制度面での改革には限界があるにしても、制度以外の部分で人が暮らして行ければいいわけで、制度以外の部分で生きられる余地を作っていくことが、制度に逆らう人たちがやらなければならないことになるのかもしれないが、世の中の制度が硬直して次第に改革も袋小路で行き詰まるような様相を呈するほどに、それ以外の部分が広まる余地も生まれていくだろうし、実際に制度とは別の方面で暮らしていける人が多くなるほど制度そのものが形骸化してくるわけだが、官僚機構の方もそんな状況に手を拱いているわけではなく、絶えず新たな分野で新たな制度を構築しようとするわけで、そうやって自らの所轄の領域を社会の隅々にまで行き渡らせようとするのだろうが、そういうところで制度に逆らおうとする人たちと官僚機構とのせめぎ合いが絶えず生じているのではないか。
 もちろん人が集団として組織的に機能しながら何かをやるには、組織内の各人に役割分担を課す体制とそれを管理統括する官僚機構が必要不可欠となってくるわけで、それが制度として世の中に定着している背景として、そのような官僚機構を内包する国家という枠組みが社会を成り立たせている大前提として人々の共通認識を形成しているからかもしれないが、果たして官僚機構なしに人が集団として機能するのかというと、それは集団の形態にもよるだろうし、たぶん部族社会ではまだ官僚機構と呼べるような集団は存在しなかったのかもしれないが、広範囲な領土を要する帝国となると宦官や職業的な軍隊などを統率する上で官僚機構のような組織形態が必要となってきたわけだろうし、国が成り立つ上で最も重要な行為である徴税を機能させるには、それを専門に行う役人の集団が必要となり、そのようなところから官僚機構が生じてきた経緯があるのかもしれないが、企業における官僚機構となると、やはり大企業のレベルで事務処理や分業的な各部門を統括する専門の集団が必要となってきて、そこから官僚機構が生じてくるわけだろうが、またその部門だけ多数の子会社を束ねる持株会社として別個に存在する場合もあるだろうし、そうなると財閥といった性格を帯びてくるわけで、金融系の会社ではホールディングスとかフィナンシャルグループとかいう呼び名が流行っているのかもしれないが、そのような形態にした方が企業経営に関して効率的かつ機能的に事業を進められるからそうしている面があるのだろうし、分業している各部門に様々な事業の可能性を探らせて、利益が出る可能性が高くなってきたら、その部門に資金や資財や人材を集中的に投資して可能な限り高い収益の確保を目指して、逆に事業の収益が悪化する兆しを察知したらさっさとそこから撤退できるように分社化しているわけで、それは手足をもがれても最悪頭だけ残ればいいような形態といえるのかもしれず、一般的にはそこまで深刻な状況は想定していないだろうし、そのせいぜいがトカゲの尻尾切り程度の感覚なのかもしれないが、投資の効率性や機能性を重視すれば自然とそのような形態に落ち着くのだろうし、それは国家形態でもいえることなのかもしれず、またそうである限りにおいて官僚機構自体の存在が他の何よりも優先されるのだろうし、それ以外の部門で働いているとその部門を管理統括している官僚機構の犠牲となりやすく、現場で働いている労働者がそれを指揮している管理者の糧となってしまう構図がそこで出来上がっているわけだが、そもそも人が集団となって組織的に働くという形態自体がそうなりやすい要素を含んでいて、そこに階層的な構造が出来上がっていれば上位の階層から下位の階層へと命令が下されるわけで、その命令を専門に下すエリート集団として官僚機構が様々な部門を束ねる上位の階層に位置する関係は、社会の中でごく自然に形成される成り行きであるのかもしれないが、そのような関係に下位に位置する集団の中から反発が生まれるのも自然の成り行きではあるわけで、そこに権力を巡って不均衡な力関係が生じていて、その中で不利な立場にある者は有利な立場にある者に反感を抱くわけだ。
 そしてそういう権力関係の中で下位の階層に属する不利な立場の者たちが上位の階層へと成り上がろうとする野望も生まれるわけで、またそのような野望によっても権力関係は維持されるわけで、野望を成就させるには是が非でもそこで生じている不均衡な権力関係が必要であり、野望を抱いている者には権力関係の解消を目指すような意志も活動も生まれず、そのような者たちが権力ゲームに加わろうとすること自体が逆に権力争いを活発化させ権力関係を強化することにもなってしまうわけだが、では権力関係の解消を目指すにはどうすればいいかというと、原理的にはそのような権力関係を生じさせる社会の階層構造の解体を目指せばいいわけだが、それでは集団の組織的な機能を阻害することになってしまうだろうし、そうなるとそのような社会自体の解体を目指すことになってしまい、現にそんな社会の中で生きている人たちが自らを養っている社会の解体を目指すわけがないだろうし、少なくとも意識してそのような行為に及ぶことはないのではないか。だが中には無差別殺人やテロ攻撃のように意識してそんな行為に及んでいる場合があるのだろうが、そうではなく単に成り上がり的な野望の欠如した静かに暮らしているだけの人が多数出現しているのかもしれないし、またオタク的な趣味に傾倒する人などのように社会で生じている権力関係に対する無関心な人の出現もそうした兆候の表れかもしれないが、そうした人が生きて行けるような社会環境が現に生じつつあるのだとすれば、権力関係を基とした社会の階層構造や現状の社会そのものが解体する兆しを示しているのかもしれないし、そのような人たちの出現が何に起因しているのかを突き止められれば、それを積極的に活用することで社会変革が可能となるのかもしれないが、それに関して遊牧民の社会の中で、例えば羊の群れを統率する牧人とその牧人に付き従う羊の群れの関係を社会に当てはめて、成り上がり的な野望を抱かずに一般の民衆がただ黙って羊のように牧人に付き従うだけの存在となってしまうと、その牧人の役割を担うのがエリート官僚たちになってしまうわけで、それでは階層構造が解体するどころか固定化して永続してしまうことにもなりかねず、成り上がりの野望を抱ける権力関係が下克上的で動的な関係だとすると、牧人的な権力関係は成り上がりのない静的で絶望的な関係だと言えるわけで、もちろん羊の群れの中にいれば絶望感など抱かないわけで、ただ黙って統率者である牧人について行けば、餌を与えられてそれなりに生きて行けるわけで、いったんそうなってしまうとそれが日常化してしまうから、別に統率者に対する反抗心など湧いてこないだろうし、それを何とも思わないような静かな日々を送って行けるのではないか。そしてその中にいると、その状態の良し悪しを自分では判断できないのかもしれないし、そのような気さえ起こらなければ完全にそのような構造に身も心も支配されていることになるのかもしれず、それをエリート官僚たちが意識して目指しているわけではないにしても、官僚機構の役割や機能を推し進めてゆくと、自然にそうなってしまうのだとすれば、構造的にそうなっているとしか言えないのかもしれないし、誰もそのような作用に抗う術がないのだとしたら、もはや現状の中で生きている人は絶望するしかないだろうが、いったんそうなってしまえば絶望とも無縁となってしまうのではないか。
 そのような認識は多分に図式的で世の中の構造を単純化しすぎているきらいがあるだろうが、人と企業と労働の関係は、人が企業の枠内で労働に従事する制度が社会的に定着していることから、それが世の中で一般化しているわけだが、そのような成り行きを招いている結果として、集団的な組織形態としての企業の役割や活動が社会の中で重要な部分を占めることになるわけで、実際に家族や国家などとともに企業活動が人の生活に多大な影響を及ぼしているわけだが、その中でしばしば企業の論理と人の生活との間で軋轢が生じていることも確かだろうし、多くの人が企業で働いて生活の糧を得ている一方で、自分の生活を犠牲にしてまで企業に尽くしたいとは思わないだろうし、またそれと同じように自分の命をかけてまで国家に尽くしたいとも思わないのだろうし、さらに自分を犠牲にしてまで家族に尽くしたいとも思わないのかもしれないが、とりあえず企業の集団的な論理からすれば、そこで働いている労働者を犠牲にしてでも利益を追求するような成り行きになりやすいわけで、そこにはそうしないと利益が出ないような企業を取り巻く経済情勢があるわけで、それは企業間の競争がそういう状況を作り出している面もあるのかもしれないが、そこでは競争せざるを得ないような経済構造となっているとも言えるだろうし、そうした構造の中で様々な集団が何らかの形で競い合えば、必ずその集団の構成員に何らかの負担がかかってくるのは当然の成り行きかもしれないが、それが国家間で行われる戦争であれば双方の国民に犠牲者が出るのが当然であるように、競争にも犠牲者がつきものなのかもしれないし、それは避けられないことかもしれないのだが、そこで労働に従事していること自体が報酬と引き換えにして企業という集団に尽くしているわけだから、絶えず犠牲になりやすい立場であるのだろうし、そのような労働形態自体がもとから不利な立場ではあるわけだ。そして企業の組織形態も官僚機構のような階層構造になりやすく、競争の他にも企業間の談合という手法も行政との間では取られるわけで、そこでも絶えず企業という組織の論理が優先されて、元請けの大企業が談合によって利益を確保する一方で、下請けの中小企業には経費削減などの名目で犠牲を強いるような階層構造も生じているわけだ。そうやって企業間でも系列などの序列関係ができあがっていると、立場の弱いところに犠牲を強いるような論理がまかり通る傾向になるわけだが、それも社会的に受け入れられている限りで成り立っているわけで、実際に弱い立場にある人たちの生活が成り立っている現状が、それが成り立っていることを示しているわけだが、もちろん生活が成り立たなくなる人たちが続出するような事態になると、社会そのものが崩壊に向かう可能性もあるわけで、犠牲者のなり手がいなくなってしまうとそんな論理も通用しなくなってしまうのかもしれないが、現状でまだ立場の強い側に利益が出ているとすれば、まだ犠牲を強いられる人たちが持ちこたえていると言えるのかもしれないし、持ちこたえられている限りで企業や社会の中での階層構造も維持される傾向が続いてゆくのではないか。だがそうだとするとそのような構造の維持継続は犠牲を強いられる弱い立場の人たちの耐久力にかかっている面があるのかもしれない。
 そして主に犠牲を強いられる最下層の労働者がどこから供給されるのかというと、普通は移民労働者などが最下層で犠牲を強いられる役割を担うのだろうが、移民が供給されない場合は中間所得層がどんどん下位の階層に下がっていってしまう場合も考えられるわけで、それが社会の中での貧富の格差の増大となって現れるのかもしれないし、それに関しては国境があって国家的な枠組みではその正確なところは把握しにくいのかもしれないが、ある国の国内では富裕層ばかりが増えているような状況があるとしても、その反動で別の国では貧困層ばかりが増えている可能性もあるわけで、それもその国でテロや内戦などの政情不安が慢性化していると、それらの人たちは貧困層とは呼ばれないで難民扱いとなってしまうわけで、そういう人たちの一部が移民となって富裕国を目指す場合もあるのだろうが、どのような場合でも犠牲を強いられる層に供給源があれば、社会や企業などの階層構造が維持される傾向にあるのかもしれず、そういう人たちの犠牲によって企業活動や国の経済成長もそれなりに持続していくのかもしれないが、最下層の労働者も人であるからには生き続けようとするわけで、生き続けていればそれなりに人口が増えてきて団結力がそれほどなくてもそこに何らかの力が生じてくるわけで、職にありつけなくても生きて行くために強盗や窃盗などの犯罪行為に手を染める人も多くなってくるのかもしれず、そうなると社会全体の治安が悪化してきてギャングなどの抗争事件も頻発してくるのかもしれないし、それによってそれ以外の層の生活が脅かされてくるわけだ。だがそうなると富裕層の方でも警備会社などを活用して自分たちの生活圏の防衛に乗り出すのだろうが、警備会社などでも利益の追求を目指すなら下っ端の警備員などは貧困層から安い給与で雇うかもしれないし、そこでも階層構造が生じてしまう傾向にあるのかもしれず、そうやって絶えず人が労働者として企業の利益追求に活用される成り行きの中で、社会そのものの維持が図られることになるのではないか。そしてそのような社会構造が維持されている限りにおいて、企業の側でも富裕層の側でも行政の側でも、それを経済的な悪循環だとはみなさないだろうし、ともかく企業活動から利益が得られて富裕層に富が蓄積されて行政の側でも税収が確保される状況が続いていけば、そういうレベルでは何の問題もないわけで、あとは行政の側で治安対策や貧困対策や移民対策などで対症療法的な対策を施して、それに関して世論や議会などの了承を取り付けられればいいわけだが、根本的なところで社会の構成員の中で誰かが犠牲を強いられるという成り行きは変えようがないわけで、それを矛盾や不具合や欠陥と捉えるわけにはいかないだろうし、それによって経済が回って企業や国家が成り立っているのだとすれば、それが必要不可欠だとも言えてしまうわけだから、そういう問題に関しては避けて通るか不問にするしかやりようのないところかもしれず、そのような問題を積極的に解決しようとしてしまうと、現状で成り立っている経済そのものが回って行かなくなり、企業も国家も成り立たなくなってしまうのかもしれないし、たぶんそれが旧来の共産主義や社会主義について回る無理難題なのではないか。

 現代文明は産業技術や科学技術などの発明や革新などによって、人が生活していく中で遭遇する様々な不具合や困難を解決してきた経緯があることは事実で、今後もそういう方面での解決が図られていく可能性はあるだろうが、全てがそのような技術的な解決で事足りる可能性さえあるのかもしれないものの、解決しようとする行為に対する抵抗も当然生じてくるわけで、それが制度的かつ慣習的な抵抗となって現れてくるのだろうし、世の中の制度や慣習を守っている側にしたら、当然それらを守ることで何らかの利益を得ているわけで、そのような既得権益を守る上で解決してもらっては困ることも一つや二つではないのかもしれないし、特に何らかの犠牲を伴うような制度や慣習となると、そのような犠牲をなくそうとする行為には激しく抵抗するのではないか。そしてそもそも社会の中で権力を行使するということは、行使される側に犠牲を強いる行為であるわけで、そのような行為をやらなくても物事がうまくいってしまうと行為そのものが不要となってしまい、権力を行使する側の権威が消滅してしまうことを意味するわけで、そうであるなら権威を守ろうとする側にしてみれば、そうなっては困るのはもちろんのこと、権力の行使を介して成り立っている世の中の秩序を守るためにも、制度や慣習の変革には頑なに抵抗するのではないか。またそれには権力を行使される側も抵抗するかもしれないし、彼らにしてみればそこで権力を行使されるという役割を担っているわけだから、その役割がなくなってしまうと自らの存在意義自体も消失してしまうわけで、そうなるとその先どうやって生きてゆけばいいのかわからなくなってしまうだろうし、だからたとえ権力を行使される犠牲者であっても、犠牲者がいらなくなってしまったらもう用はないということになってしまうと犠牲者自身も困ってしまうわけだ。たぶんそれが人工知能やロボット技術などによって職を奪われる労働者の立場なのかもしれないし、またその場合権力を行使する立場とはそのような労働者に命令する側の中間管理職の立場なのかもしれないが、いずれにしてもそれで利益が出るならそういう方向で物事が進行するだろうし、現にそのような分野も世の中にはあるだろうし、今後それが産業の全ての分野に浸透するかどうかは定かではないが、そのように事態が進展していくにつれて新たな問題も生じてくるだろうし、その問題には当然そのような進展を妨げるような抵抗も含まれるのではないか。そしてそんな抵抗とともに世の中も変わっていくのだろうし、事態を進展させようとする思惑とそれを阻止しようとする思惑が複雑に絡み合いながらも、双方の思惑から外れるような新たな事態も起こりながら世の中が変わっていくだろうし、そうやって変わっていった先に何が待ち受けているかは、そこまで実際に到達してみないとよくわからないことが多いだろうし、今からそれを予想してみてもそんな予想はほとんど裏切られてしまうのかもしれず、人はただそのような変化の過程を体験するだけで手一杯となってしまうのではないか。
 権力の行使に関しては、少なくとも加害者側と被害者側の双方の存在が権力の行使という事件を成り立たせているわけで、問題の解決とは双方の存在をなくすことにあるとすれば、そうなるとそこから利益を得ている側にとっては死活問題となりかねず、そうなっては困るなら権力の行使があった方がいいわけで、問題を解決して事件をなくすような行為は阻止しなければならなくなるだろうが、それを事件という比喩で語ること自体が間違っているのかもしれず、では何なのかというと経済的な活動というしかないのかもしれないが、集団で行う経済活動にはその集団自体の維持存続が欠かせないわけで、物や情報やサービスなどの生産と流通と販売と消費という経済活動が行われる中で、それを行う役割を担っている集団的な組織形態の維持存続が他の何よりも優先されることは、そのような集団的な組織形態を管理統括している官僚機構の都合が優先されることにもなるわけで、その官僚機構の中で行われているのが権力の行使という事件になるわけだが、仮に権力を行使する側が事件の加害者で、行使される側が被害者という立場を担っているとすると、そのような権力の行使が問題だとすれば、問題を解決するには権力の行使をなくすことになってしまうわけだが、そうなると権力の行使で成り立っている官僚機構そのものが崩壊してしまうという結果が想定されるかもしれないが、それでは物事を単純化しすぎているように思われるだろうし、実際に現状の世の中ではそうならない現実に直面しているわけで、ではそうなっては困るからそれを阻止するような作用が働いているとみなすと、それを実際に阻止しているものは何かというと、それが世の中で働いている制度や慣習といってしまうと、ではそれらを守っているのは何かと言えば、その制度や慣習に従っている人々だろうし、その中には権力を行使する側の人もいるし行使される側の人もいるわけで、まさに加害者側と被害者側の双方が権力の行使を機能させている制度や慣習に依存している実態があるのではないか。もちろんそこには力の不均衡や不平等があり、そこで主導権を握っているのは権力を行使する側であるわけで、主導権を握っている側が自らが有利な状況を改めるつもりにはなれないのはもちろんのこと、そのような権力の行使に抵抗する側でも抵抗活動をやめる気にはなれないだろうし、その抵抗活動が権力を行使する口実になっているとしても、問題なのはあくまでも権力を行使する側だと主張するしかないわけだが、そうであるならではそれをやめさせるのにはどうしたらいいのか、という問いが出てくるしかないわけだが、それにはそのような二項対立の関係から外れるようなやり方を模索するしかないのかもしれず、問題の解決とは権力の行使とは別のやり方を模索すること以外にあり得ないのかもしれないが、そういうやり方を世の中に普及させることで、そこで生じている二項対立をずらすような作用を起こすべきだとすると、ある意味では産業技術や科学技術などの発明や革新が今までにもたらしてきたことがそうなのではないか。そして現状でも人工知能やロボット技術などの進展が、それらの構造的な権力行使の問題を解決するきっかけをもたらす可能性があるのかもしれないが、実際にそういう成り行きになったところで、またそれとは別の新たな問題が生じてくる可能性もなきにしもあらずであることは容易に想像がつくところだろうか。
 企業や行政の活動の中で、いったん出来上がった制度を守る側というのは、その活動が既成の制度に依存している限りにおいて、その依存している制度に従わざるを得ない立場に置かれてしまうわけで、しかもその活動が成り立っているということは、それまでに制度に従うことによって何らかの利益を得てきた経緯があるわけで、そうであるならそれをやめる選択肢などありはしないし、そのきっかけが生じることもなく、ただ制度に従う限りにおいて自らの立場や役割を全うすることができ、従うことをやめてしまったら自らの立場も役割も失うしかないわけだから、そうなると今まで制度に従いながら築き上げてきた自らの業績も信用も失ってしまうことを覚悟しなければならないわけだ。しかし制度自体は時代状況の変化とともに変わってゆくものであるとすると、状況の変化によって制度自体が立ち行かなくなれば、そのような制度に依存している人も立ち行かなくなるわけで、そのような人は制度の衰退とともに消え去るしかないのかもしれず、制度に従いながら仕事をしていてその仕事がうまくいかなくなるような事態に直面したら、その従っている制度自体が時代状況に合わなくなってきたからかもしれないし、そのような事態に直面してもなお依存している制度を信じて、今まで通りのやり方を押し通そうとすれば、場合によっては身の破滅を招きかねない危険にも直面してしまうのではないか。だがそんな事態にうまく対処できるのかというと、すでに制度に依存しきっている状態なら対処するのは無理かもしれないし、現実にその人が破滅してしまうような事態となってしまったら、やはり時代状況の変化に対応しきれなかったということになるだろうし、時代状況の変化自体がそうした人たちの破滅とともに加速していくような成り行きを呈するのかもしれない。そこで何が破滅なのかといえば過労死とか自己破産とか色々な場合があるだろうが、そういう意味で制度の変更はそれに依存している人の身の破滅を招く危険性があるのなら、別にその危険性を意識して察知しているわけではないにしても、制度に依存している人たちは頑なに制度を守ろうとするのだろうし、制度を守ることが自らの死活問題であることを肌で感じているからこそ、制度の変更には激しい抵抗が起こるのかもしれないが、そのような抵抗が生じている時点で制度が変更しかかっていることを示しているとも言えるわけで、それに関して社会の中で深刻な対立や軋轢が発生している状況があれば、それは世の中が変化する兆候を示しているかもしれないし、それは何もテロや内戦などで多数の死傷者を出すような成り行きでなくてもありえることかもしれず、そういうはっきりしたことでなくても世の中のほとんどの人が気づかないところで着実な変化が起こっているのかもしれないし、逆にほとんどの人やメディアなどが気づかない変化の方が、社会やその中で暮らす人にとっては重要な変化なのかもしれない。そしてそのような変化は起こってからだいぶ時間が経たないと意識できないのかもしれず、そうだとすると世の中の大半の人たちが気づいた時にはすでに後戻りできない状況となっているのではないか。
 たぶん現状で普及しているネット上で起こっているメディア現象なども、もはや後戻りができない状況を示しているのかもしれず、その中では人々の気づかないところで従来とは異なる価値観や思考形態が生じているかもしれないし、それらが現状で成り立っている制度や慣習に変更をもたらすような作用を及ぼしている可能性はあるだろうし、それはネットメディアの表層でうごめいている一見誰もが批判できるようなくだらない流行現象に寄り添いながらも、それらの軽薄な現象に気を取られてそうした流行の担い手たちを小馬鹿にしている人たちを欺いているかもしれないし、ことによったらそんな流行現象の終息とともにそれらを小馬鹿にしている人たちをも一緒に葬り去ってしまう力があるのかもしれず、そのような流行現象を演出しているのがそこで生じている新たな制度であって、そんな制度に依存しながらネットメディア上で批判的な言動を弄んでいると、流行現象の終息とともにそれらに対する批判的な言動も用済みとなってしまうわけで、くだらない流行現象の担い手たちとそれを小馬鹿にすることで批判的な言動を弄んでいる人たちの両方が、そこで生じている制度に依存していることになるわけだから、そのような制度は次から次へと軽薄な流行現象を巻き起こしてはそれに群がってくる人々の関心を惹こうとする機能があるわけで、その中で一つの流行現象だけに対応していると、それが終息してしまうとそれ以上の進展が望めなくなってしまうわけで、それとは別の流行現象には別の言説が必要となってくるのなら、以前の言説では対応できなくなるわけだ。それが何を意味するのかといえば、そこで生じている制度を守ったり利用するにしても、あまりにもそれに深くのめり込んでしまうと、逆に制度自体に裏切られてしまう事態に直面するわけで、制度自体は特にそれを守ったり利用する人たちを守ってくれるわけではなく、確かにそれを利用する人に利益をもたらす場合もあるかもしれないが、時と場合によっては困難や苦難をもたらしたりすることもあるわけで、また制度はそれを利用するすべての人に利益をもたらすわけではなく、その中で主導権を握っている人には利益をもたらすかもしれないが、他の人たちには時には犠牲を強いることもあるだろうし、また制度を守ってさえいれば主導権を握れるわけでもなく、その中で行われる競争に勝利しないと主導権を握れない場合があり、さらにいったん主導権を握ってしまえばその地位が磐石なものとなるわけでもなく、絶えず競合してくる人や勢力とのやり取りの中で工夫を凝らしていないと、何かのきっかけで主導権を奪われてしまう事態も出てくるわけで、そうであっても世の中には様々な制度が並存していて、それらが互いに影響を及ぼし合いながらも錯綜している現状があるわけだから、その中の一つの制度に依存しきってしまうのは危険であり、特定の制度に依存して仕事をしながら生活している現状があるにしても、依存している制度に忠誠を誓っているからといって、いざという時に制度が助けてくれるわけではないことは肝に命じておくべきだろうし、制度の方からも利用価値のなくなってしまった人は見捨てられてしまうわけで、そういう意味で制度と人との関係は利用価値がある時だけお互いにお互いが有効に機能する関係なのではないか。
 世の中に様々な制度や慣習がある中で、人や集団にとって都合の悪い制度や慣習を改めようとするのは当然のことだとしても、何をどう改めるべきかを巡って、そこに存在している様々な人や集団の間で意見の相違があるだろうし、そのことで対立や軋轢が起こるのも当然であり、その改めるべき理由が妥当であるか否かを巡ってもそれぞれの人や集団で見解の相違があるだろうし、それが政治的な課題となれば議会や行政の中で議論を重ねながらも何らかの結論に至れば、その結論を尊重するような方策が採られて、それで一応の制度的な解決が図られるだろうし、企業でもそれに類する何らかの懸案が取締役会や株主総会などで議論されて、企業としての方針がまとまることもあるだろうが、それらの方策や方針通りに事が進められてそれなりに事態が進展することがある一方で、その進展具合が期待通りであっても期待外れであっても、絶えずそれを巡っても異論や反論が出てくるのも当然の成り行きになるのだろうが、それが世の中の制度や慣習に起因して起こっている事の成り行きであるならば、そのような事の成り行き自体が制度や慣習に依存しながら推移しているわけで、それらから絶えず影響を受けながら事態が推移しているわけだから、普通に考えればそれは制度や慣習の枠内で行われていることであり、別にそこから逸脱するようなことが行われているわけではなく、要するに制度や慣習を改めようとしているのは確かだが、一方でそれを制度や慣習の枠内で改めようとしているわけだ。もちろんそこで改めようとしている制度や慣習と、改める手続きとしての制度や慣習は異なるわけだが、それらが同じ社会の中で機能している制度や慣習であるならば、全く関係がないとは言えないだろうし、それらは社会の中で密接に関係し合い、互いに絡まり合っている場合もあるかもしれないし、そこで互いに関係し合って絡まり合っているような制度や慣習の中で、その一部だけ取り出してその部分だけを改めようとしているわけだから、当然その部分とつながっている他の制度や慣習も、制度や慣習の改革に対して何らかの形で作用を及ぼしてくることは想像に難くないわけで、そのような制度改革に対する異論や反論も、改革の対象とつながっている他の制度や慣習から生じる不都合を反対理由に結びつける場合が多いだろうし、その異論や反論に説得力があるようならその反対理由ももっともな内容となるわけで、そうなると制度を改革する理由ももっともな内容であると同時に、改革に反対する理由ももっともな内容となってしまうだろうし、どちらも正当化できる根拠がそれなりにあるとしたら、結局その場の多数決で決めるにしても、決めた後にしこりやわだかまりが残ってしまうだろうし、どんな結果が出るにしてもその結果に納得しない人が出てしまい、そんなことが尾を引いて改革がうまくいかずに中途半端なままとなってしまう場合があるだろうし、そういうところで制度改革が頓挫してしまう事例は多いのかもしれず、考えてみればそれは当然の成り行きであり結果なのかもしれないし、世の中には様々な制度や慣習があって、それらが互いに密接に結びついていたり複雑に絡み合っている中で、ある特定の制度や慣習が都合が悪いからといってそこだけを改めようとしても、それに結びついていたり絡み合っている他の制度や慣習が邪魔をして、うまく思い通りに改めることができないわけだ。
 だから制度や慣習の枠内での制度や慣習の改革はうまくいかないことが多いのかもしれないが、それでも世の中がそのような改革の試みとともに変わっていく可能性はあるのだろうし、実際に制度や慣習も不変ではないわけで、たとえそのような改革が失敗に終わったとしても、失敗したにも関わらず結果的には制度も慣習も変化を被ってしまうことがあるわけで、それが改革者の思い通りの変化でなくても、同時にそれは改革に抵抗した側の思い通りにもいかない場合があるだろうし、そういう意味で改革しないよりはしようとした方が何らかの変化には結びつくわけで、たとえそこで失敗してもそれを教訓として新たな改革の足がかりにできる可能性もあるだろうし、結果的には失敗を重ねながらも前進できるのではないか。たぶんそのような試みが絶えず続けられるから世の中が変わってゆき、なかなか思い通りにはいかない変革の試みも、少しは制度や慣習の変化には結びつくのかもしれず、改革しようとするからにはその場での抜本的な変革を目指すのだろうが、そのような試みが挫折や失敗に終わる可能性が高いにしても、結果的に失敗したからといってその結果だけをあげつらって批判ばかりしてみても、あまり生産的な方向へは行かないだろうし、とりあえず現状を変革したい切実な理由があるわけだから、その理由にも説得力があると感じるなら、そのような改革には賛成した方がいいのかもしれず、たとえそれが結果的に失敗したからといって、変革する理由が間違っているとは思えないなら、やはりさらなる変革への試みに期待するしかないだろうし、変革自体を否定するわけにはいかないし、ただし変革のやり方は失敗を教訓として、さらなる改良を施さなければならないだろうし、今度は変革のやり方を巡って議論を進めていくことになるのではないか。そういう議論の進め方が合理的に思われるだろうし、それなりに妥当なやり方を導き出すにはそうするしかないようにも思われるだろうが、だからと言って確実に合理的かつ妥当なやり方が見つかるわけではないだろうし、結局は変革の機会を捉えてはその場でやれる最善を尽くすような成り行きにしかならないのだろうが、そうした試みはそれでいいとしても、現実に世の中の変化も制度や慣習の変遷も、そのような試みとは全く違った方向に進んでしまうこともあるだろうし、それが実際の歴史的な経緯や成り行きを形成していて、そこに何らかの偶然の巡り合わせの結果として生じる世の中の情勢や、そこで生じている様々な勢力の間で行われる争いの経過や結果が作用してくるわけで、そのような現象や行為から新たに制度や慣習が生まれてくるわけだから、時にはそれを変革しようとする意志や思惑からはかけ離れた変化が生じることもあるだろうし、またいくら変革しようとしても失敗に終わる可能性もあるわけで、たぶんそのような試みにも様々な勢力の間で行われる争いそのものが反映しているわけだろうし、それをやることの良し悪しというよりは、その場ではそうせざるを得ない試みとしてそのような行為があるのだろうし、客観的にそれを肯定したり否定したりできない面があり、それを判断する意識そのものがすでにそういう争いの渦中の中で判断しようとしていることになるのかもしれず、そこには客観的な立場などなく、そのような試みに加担するか抵抗するかのどちらかの陣営に属していることになってしまうのではないか。

 人が何らかの職業に就いて働いていれば、その人は社会の中でその人を働かせる何らかの制度に従っていることになるわけで、働いて報酬を得ることが、人を働かせるのと交換で報酬を与える制度の中で人が動作していることを示しているわけだ。その大半が労働と金銭の交換に関する制度なのだろうが、それと重なる制度として商品と金銭の交換に関する制度があるわけで、労働も労働力商品とみなせばそれに含まれてしまうわけで、労働力商品とはいわゆるサービスに含まれるわけだが、そういう意味で金銭と交換できる商品には物や情報とともにサービスがあるわけで、そのサービスに人の労働が含まれていて商品として取引の対象となっているわけだが、そこで肝心なのは他の商品である物や情報は人から分離して他の人に渡すことができるわけだが、労働自体は人と一体となっていて分離することができず、かといって人自身を他の人に売り渡してしまうと人身売買となって、それでは違法行為とみなされてしまうわけだ。だから商売などの経済活動の中で商品として労働を取り扱うとなると難しい対応を迫られるのだろうし、労働者自身が売り買いの対象となってしまうと奴隷と変わらなくなるだけに、その人の所有権をその人が保持したままでその人に働いてもらわなければならず、その上で働かせる側の意向に同意してもらわないとならないし、それも脅して働かせるような強要はやはり違法行為となってしまうのだろうし、結局働かせる側としては労働者が働かざるを得ない成り行きにどうやって持っていくかが、労働力が商品として成り立つ上で重要となってくるわけだ。そのような環境として労働者が労働力以外に売り物がない環境が制度として整備されてきた歴史的な経緯があるのだろうし、具体的にはそれが都市環境であり、そこで人は畑を耕して農作物を収穫して売ることはできないし、森や海や河川に行って獲物を採集してそれを売ることもできないから、商人となってそれらの収穫物や採集物を売るにしても、買ってくれる不特定多数の大勢の人がいないと商売が成り立たないし、また職人となって生活必需品を作るにしても、それを買って使ってくれる不特定多数の大勢の顧客がいないと商売が成り立たないだろうし、結局それらの物を買ってくれる不特定多数の大勢の人たちは何をやって生活の糧を得ればいいのかとなるわけで、そうなると残された売り物は自らの労働力しかなくなるだろうし、必ずしもそういう成り行きで労働者が生まれたわけではないだろうが、ともかく都市環境の整備が労働者を生んできた歴史的な経緯があることは事実なのかもしれず、そして労働者は都市の中で職人に使われることになれば工業的な労働の担い手になるだろうし、商人に使われることになればサービス業的な労働の担い手になるわけだが、工業においてもサービス業においても集団として組織的な企業形態を取らないと経済活動が成り立たないわけで、またそれは他の農林水産業でも次第にそうなっていった歴史的な経緯があるだろうし、何がそのような企業形態を取らせるようになってきたかというと、結局それは資本主義的な効率やコストを重視する経済活動が、絶えず人を集団化して大規模集約的な作業に駆り立ててきたわけで、そうやって物や情報やサービスの大量生産と流通と販売と消費を可能とする社会を形成してきたわけだ。
 またそれとともに組織化された集団を管理統括する部門だけが独立した組織形態を構成するようになってきたのが官僚機構であるわけだが、それ自体は何を生産するわけでもなく、強いて挙げるなら権力関係を生産する部門と言えるのかもしれず、権力関係を構築しながらその関係を利用して労働者を働かせる役割を担っているとも言えるわけで、そこで労働者が働かざるを得ない成り行きに持っていく上で、そこに権力関係が構築されていると上位の者から下位の者へ働けという命令がスムーズに伝達されることになるわけで、そういう意味ではそれも集団で行う協業活動を効率的に進める上で欠かせない部門であるのだろうし、大規模集約的な作業を行うにはそれを管理統括する官僚機構の存在が必要不可欠となってくるわけだ。また官僚機構は行政の中でも主要な役割を果たしていて、行政は何も生産せずに何らかのサービスを提供していることになるわけだが、そのサービス自体が民衆を管理統括するサービスであり、では何のために民衆を管理統括しているのかというと、表向きは民衆のために民衆を管理統括していると言えるわけだが、それと同時に国家のために民衆を管理統括しているとも言えるだろうし、国家とは何かと言えば行政が管理統括する対象であり、実質的には行政のために民衆を管理統括しているとも言えるわけで、国の憲法などを率直に解釈すればそうではなく、あくまでも主人は民衆であって、民衆のための国家であり行政であると解釈しておいた方が無難なのかもしれないが、すでに企業の経済活動を円滑に行うために官僚機構が労働者を管理統括している実態があるだけに、その論理の延長上では国の行政活動を円滑に行うために官僚機構が民衆を管理統括しているという実態の方が説得力を持つのかもしれず、そのための方便として民衆を騙すために、憲法でそのような実態とは真逆のことが記されていると解釈するのは、あまりにも憲法を曲解しすぎていると言えるのかもしれないし、理想としても普通に解釈すればそんなことにはならないわけだが、官僚機構の実質的な動作内容を考えると、そうなりがちな面も否定できないし、そうなってしまう成り行きに政治の場で歯止めをかけることができない面もあるだけに、絶えず政治的に民衆の世論に訴えかけなければ、民衆は行政の官僚機構に管理統括されるだけの存在となってしまうだろうし、また企業の中では企業の官僚機構に管理統括される存在であり続けるわけだが、もちろんその中のごく一部の人たちは官僚機構に入って民衆や労働者を管理統括する側になれるわけだが、そうなったとして制度の中でそういう立場になるだけであり、自らを拘束する制度に従う限りでそのような立場や役割を担うに過ぎず、自らの主体的な判断で管理統括ができるわけでもないだろうし、あくまでも集団的な組織形態の中で働いている装置の歯車としての機能を担うわけで、その中でうまく機能すればそれなりに評価を得て組織の中で地位が昇進するかもしれないが、そういう成り行きに満足できればそれなりの達成感を伴って充実した職場生活を送れるのだろうし、別にそれで構わないわけだろうが、何のために民衆や労働者を管理統括しているのかについて、何か明確に肯定できるような理由を求めてしまうと、その辺で漠然とした疑問が湧いてくるかもしれないだろうし、その一方で答えなどないと言ってしまうと虚無感に包まれてしまうのかもしれず、どちらにしても組織の中で主体的な活動を目指すのには困難が伴いそうだ。
 そんな状況の中でも素朴な善意から人が社会のため国家のため人のために尽くさなければならないと思うのは、社会に対して国家に対して人に対して恩義を感じているからだろうが、そういう成り行きになるには、社会が人に対して国家が人に対して人が人に対して恩を売る必要があるだろうか。あからさまに見返りを期待するような振る舞いをしては何をやってもありがたみが薄れるだろうが、見返りを期待せずに困っている人を助ければ、こちらが困っている時には人が助けてくれるかもしれず、そういう意味で社会が見返りなしに人を助けたり、国家が見返りなしに人を助けたり、人が見返りなしに人を助ければ、社会や国家や人が困った時に、民衆が見返りなしに社会や国家や人を助けようとする成り行きになるかもしれないが、そういう因果応報の振る舞いが資本主義のルールには欠けていて、基本的にはそれは等価交換のルールであり、同じ価値のものを交換して双方ともにほしいものを手に入れて納得すると同時に、しかも同じ価値のものを交換したにも関わらず儲けを出さなければならないわけで、そうなると儲けを出した側が相手を騙していたことになり、交換した後から騙されたことに気づいた側が不快な思いをすることになるわけだ。だから働いて企業から報酬を受け取る労働者の側からすれば、企業が利益を上げていることを知れば、自分たちが不当に安い報酬で働かされていると思うだろうし、報酬額の面で企業に対して不満や不信感を抱くのは当然かも知れないが、企業は等価交換によって利益を出さなければならないわけだから、労働者への報酬を高くして利益をゼロにするわけにはいかないだろうし、それは実質的には等価交換を装いながらも不等価交換でしかないわけだが、現実の交換に際しては等価交換を装うしかないわけで、結局企業が利益を出すには不当に安い報酬で労働者を雇って、不当に高い価格で顧客や消費者に商品を売ることになるわけで、それ以外では利益が出ないわけだ。そうしないと企業の活動が成り立たなくなってしまうだろうし、できればそれらを不当な報酬額や価格だとは思わせないようにするための工夫が企業には求められているわけだ。そうなると金銭的な額以外の何かが必要となってくるわけで、それに関して例えば労働者が雇い主の企業に対して恩義を感じたり、顧客や消費者がその企業の商品の熱心な愛好家になったり、そういうのを総称して企業の社会貢献の成果が出たと言えるのかもしれないが、そういう面で企業がそこで働く労働者や商品を買ってくれる顧客や消費者に支えられていれば、それなりの利益を出していても文句は出ないかもしれないし、それらの人たちにとっては自分たちが支えている企業に利益が出ていることを喜んだり誇らしく思うことにもなるのかもしれず、そのような付加価値とともに社会の中で特定の企業が活動していれば、社会全体がその企業を応援するような成り行きにもなるのかもしれないが、それは国や地方自治体にも言えることで、そこに住んでいる住民がそれらの行政機関に対して恩義を感じるような成り行きになれば、喜んで税金を払い、機構による管理統括にも喜んで従うようになるのかもしれない。
 実質的に企業が等価交換を実現するには、事業規模をできるだけ大きくして雇う従業員の数も可能な限り増やしていけば、従業員一人当たりの利益額はどんどん少なくなっていくだろうし、また商品もできるだけ薄利多売にしていけば、一商品当たりの利益もどんどん少なくなっていくだろうし、実際にそうやって大規模な小売業などで可能な限り等価交換に近づけている分野もあるかもしれないが、そういう安売りの分野で生き残れる企業は数が限られてくるだろうし、何よりもそういう安売り合戦をやってしまうとそれと競合している他の企業が安売り競争に巻き込まれて、体力のない企業から廃業に追い込まれたり他の企業に吸収合併されたりして、それらの企業で成り立っていた地域経済や地域社会が破壊されてしまう事態にもなるわけで、そうやって正直に正々堂々と効率やコストを重視しながら等価交換に近づけようとすればいいというわけでもなく、結局企業が活動していく中で生き残る道を模索していけば、結果的にそこで生き残って活動が成り立っている企業の活動内容が、その企業を取り巻く経済情勢にうまく適合していることになるわけで、個々の企業でその活動内容も活動分野も千差万別になるだろうし、それも企業規模や業種などで特有の傾向が出てくるのだろうが、現状で活動が成り立っていれば、それがその状況下での最適な事業形態になるのかもしれず、そこから状況が変わればまたそれに合わせて事業形態も変えてゆかなければならないだろうし、状況の変化に対応できなければ事業の継続が困難になってくるわけで、その状況の変化に何らかの法則性があるようなら、それに対応できる企業活動にも何らかの最適な条件が導き出せるかもしれないが、それも変化した結果からしか導き出せない法則なら、それに対応しようとしても時すでに遅しとなってしまうだろうし、確かにそうなった結果を分析すればその時点でどう活動すればよかったかがわかるかもしれないが、その時点以降でどう活動すればいいかは、予測としては何らかの方針に結びつけられるかもしれないが、その予測が当たるか否かは偶然の要素も絡んでくるわけだから不確実であり、だからこそ結果的に状況の変化にうまく適合して栄える企業がある一方で、うまく適合できずに衰退する企業もあるわけだ。そして無理な経営がたたって不祥事などが続出するようならそれをメディアで批判されるだろうし、結果的にそのような事態になれば批判されて当然なのかもしれないが、そうなってしまった過程における成り行きについては後戻りができないだけに、それをうまく取り繕ってその先も事業を続けていくには困難がつきまとうのだろうし、場合によってはそれがもとで倒産する企業も出てくるのではないか。確かに企業ならそうなるかもしれないがそれが国や地方自治体となると、無理な行政運営がたたって財政赤字がかさんでしまうケースがあるにしても、行政機構自体が消滅することはまずないだろうし、たとえ他の国や地方自治体に吸収合併されるにしても、今度はその国や地方自治体の行政機構がそこで活動するようになるわけで、そのような結果をどう見るかはそこに住んでいる住民感情にもよるかもしれないが、その国や地方自治体に対して恩義を感じているのなら、そうなるのを阻止しようとするかもしれないが、制度があまり変わらず取り立てて不都合も恩義も感じていなければ、大した抵抗もなくそんな結果を受け入れようとするのではないか。
 人が社会の中で暮らしている限りは、その生活の様々な面で企業や行政機構などによる組織的な介入にさらされることになるわけだが、そのような介入から何らかの影響を受けながらも、人がそれと意識せずに興味を持つのは社会で起こっている様々な出来事や現象であり、その中で身の回りで起こっている出来事や現象については、自分が関わってくる部分で直接の実感を伴うが、メディア経由で見聞する出来事や現象については間接的な感触しか得られないから、それに関して直接の利害関係を意識の中で構築するのが難しいし、何らかの部分で自分に関係してくる面があるにしろ、情報がメディアを経由しているだけに一定の距離感を伴い、それらの出来事や現象の方から自分に近づいてこない限りは、わざわざ自分から出向いて行って直接の関係を持とうとは思わないし、そうでなければそれに関して何か言及する気にもなれないだろうし、そのままやり過ごすことができればそれでも構わないような状況の中で、時が経てば次第に忘れていってしまうような成り行きにもなるのかもしれず、そういうところで無理に距離感を縮めようとはしないのが普通の対応なのではないか。人が社会で起こっている出来事や現象との間にそうした距離感が保たれていれば、そのような社会では比較的平穏無事な状態が保たれていると言えるのかもしれないが、誰もが自分とは無関係に思われることにまで多大な関心を持ち、それに関してメディア経由でもたらされる情報を切実に求めているような状況になると、何か尋常ではないことが世の中で起こっているように思われるのかもしれず、それがポピュリズム的な熱狂ともいわれる現象なのかもしれないが、それが人と社会の関係あるいは人とメディアの関係として正常だとは思えなければ、何かそのような感情を煽り立てる否定的な要因が社会の中にあるいはメディアの中にあるように思われてしまうわけだが、とりあえずそうした要因が誰もが興味を惹くような話題をメディアに求めていることは確からしく、そのような話題に気を取られていると、誰も興味を惹かないような出来事や現象を感知できなくなってしまうわけで、そうでなくても普通に暮らしている限りで、そんなものを感知できるとは思えないのだが、その普通に暮らしている感覚というのが、メディア経由でもたらされる誰もが興味を惹くような話題に気を取られている感覚かもしれないし、そういう感覚が実際に世の中で起こっている出来事や現象がそれだけではないことを忘れさせるわけだ。そして誰もが興味を惹くようなことばかりがメディア上で取り上げられて話題となり、その種類や内容によってはそれが政治問題化したり社会問題化したりもするわけだが、その共通の話題なり問題なりがその社会に暮らしている人々にとって本当に身近な話題であり切実な問題であるかは、誰がそれを判断するわけでもなくメディア上で話題となっていること自体がそんな気にさせるわけで、たぶんそれは世の中の慣習としてそんな気にさせる作用があるのかもしれないが、誰もが興味を惹きそうな話題をメディアが取り上げるのは、制度としてそうなっているとも言えるのかもしれないし、そこでメディアという制度とメディアが取り上げる話題は誰もが興味を惹く話題だと思う先入観が人々の慣習としてあり、そんな制度と慣習が一体となって社会の中で暮らしている人々を一定の方向へ導いていて、そのような方向性が政治的にも経済的にも社会の中で共通の価値観や思考形態を生じさせているのではないか。
 だからそこで生じている価値観や思考形態に合わない物事は人々の興味を惹かないという先入観を抱くのかもしれないが、それも人々の意識の中で慣習として定着していて、そのような無意識の方向づけから外れる要素が、可能性としてこれから社会の行く末を占う上で鍵となってくるのかもしれないし、それらが思わぬところから社会を変革させるきっかけとなってくるのかもしれず、それは何かと知ろうとしても知り得ないかもしれないが、その一方で誰もが興味を惹く話題としてメディア上で取り上げられている物事は、制度的にも慣習的にも世の中を今ある状態に保とうとする上で役に立つ物事なのかもしれないし、もしかしたらそこに社会の変革の可能性はないのかもしれない。そうだとすると逆に今後社会に変革が起こるとしても、それが人々の期待に沿うような変革にはならない可能性の方が高いかもしれないし、しかもそんな人々の期待から外れるような変革こそが真の変革だと言えるかもしれないが、人々はそれを変革だとは意識できないかもしれず、人々の方でも今まさにそれを意識しないで社会変革を行なっている最中なのかもしれないが、制度的あるいは慣習的な社会のルールから外れることを現に行なっている最中だとすると、政治的あるいは経済的なルールからも外れることを行なっていて、それを意識せずに世の中に定着させようとしている最中なのかもしれない。そして実際にメディアが取り上げないような話題性のないことを、日々の生活の中で黙々と行なっているかもしれないし、それを行なっている人自身も気づかないようなことが、この先の世の中で社会変革のきっかけとなるかもしれず、たぶんそれは人々が興味を持ち切実に求めていることとは何の関係もない物事なのかもしれない。要するに人々が関心を抱くようなことは、関心を抱くことによってすでに一定の方向づけがされており、なぜ関心を抱くのかというと世の中の制度や慣習が人々に関心を抱かせるのであり、それらが関心を抱くように仕向けているわけだ。そして関心を抱くことによってある意味で安心するわけで、共通の話題を共有できたことによって人々の意識の中で安堵感が広がるわけだが、それがとりも直さず現状の肯定につながるわけであり、他の人々と話題を共有できる世の中があることを感じて安心するのだろうが、その一方で話題を共有できない事態を恐れるわけで、そうならないようにしなければならないと思うと、今ある現状を守らなければならないとも思うわけで、そうなると現状を混乱に陥れるような行為や言動には反感を抱くだろうし、そのような活動をやめさせたり抑え込まなければならないとも思うのではないか。そしてそれも現状で成り立っている制度や慣習が求める方向性であり、それらを守ろうとする人々が抱く率直な思いでもあるわけだ。そうであるならば現状を変革するきっかけをもたらす要素というのは、制度や慣習を頑なに守ろうとする意識でもそれに刃向かう意識でもないのかもしれず、そのような意識に呼応して起こる行為でも運動でもなく、そのような意識が取り逃がしているような行為であり言動でもあるのではないか。そしてそのような行為や言動を意識して目指すというよりは、まずはメディア経由で見聞する出来事や現象とそれを見聞している自己との距離感を意識することが肝要なのかもしれない。
 またたとえ民衆の生活が企業や行政機関による組織的な介入にさらされているとしても、忘れてはならないのは企業でも行政機関でも、取り立てて活動に支障が出ない場合は通常の業務が普通に行われているわけで、しばしばメディアなどで取り上げられて批判されるような不正行為ばかりが行われているわけではなく、不正行為や違法行為ではなく、合法的な通常の業務の中で行われていることが、社会の制度や慣習によって支えられていて、活動がそのような合法的な行為だけで成り立っていれば取り立てて問題はないわけだが、実際にはそれだけでは済まないから不正行為や違法行為が行われるわけで、なぜそうなってしまうのかといえば、そのような行為を行わなければならない成り行きや事情が生じてしまうからで、なぜそういう成り行きや事情が生じるのかといえば、社会の制度や慣習によって支えられているのは、合法的な通常の行為だけではなく、不正行為や違法行為までもがそれらの制度や慣習によって支えられているからだと言えるのではないか。業務が合法的な活動だけではうまくいかなければ、法律に違反するようなことを行ってまでも業務を遂行しなければならない制度になっていて、そういうことを行うのが企業でも行政機関でも慣習となっているとすれば、それらの業務には違法な活動までもが含まれると解釈した方がいいのかもしれず、ではなぜ活動には合法と違法の二種類の活動があるのかといえば、普通に考えれば違法な活動は非常手段であって、合法的な活動だけで間に合っている限りは、無理に違法なことを行う必要は生じないわけだが、それだけでは業務をうまく遂行できない時に違法な手段がとられるわけだろうが、法律違反を犯してまでも業務を遂行する必要があるのかというと、しばしばそのような行為が起こっていれば、少なくとも慣習としてはそうなのだろうし、それが常態化しているようならば制度としてもそうなっていると言えるだろうし、そういう意味では制度や慣習は少なくとも法律だけで支えられているわけではなく、違法行為によっても支えられていると言えるのかもしれないし、さらに言えば、企業や行政機関の業務は違法行為をも含むような制度や慣習によって支えられているとも言えるのではないか。そしてそこで優先すべきなのは法律を守ることでも違反することでもなく、業務を遂行することであり、優先順位として最も高いのはそれで、次になるべくなら合法的な範囲内で行うことができればそれに越したことはないとなり、さらにそれでは業務を滞りなく遂行できないとなると、非常手段として違法なことを行なってでも遂行しなければならなくなるのではないか。そしてそれがしばしば行われていて、場合によっては常態化しているようなら、もはや非常手段でも何でもなく、そのような行為は慣習となっていて、さらに周知の事実として黙認されているようならば、制度としても違法行為が成り立っていることになるわけだ。
 そしてやっていることが常態化していて黙認されている違法行為となってしまうと、たとえ一部のメディア上でそれを激しく糾弾しても、関係者の間ではさほど問題視されないわけで、場合によってはむしろ必要悪として世間一般でも容認されているのかもしれないが、その逆に別に違法でもない行為が、制度や慣習上は許されないような場合があるわけで、むしろそちらの方が世間一般では激しく糾弾されることにもなり、例えば政権中枢で行われた違法行為が不問に付されて、それと時を同じくして著名人の不倫行為が激しく非難されるような事態まで生じるわけで、それとこれとは別問題と言われればその通りかもしれないが、メディアの取り上げ方が著名人の不倫行為ばかりを騒ぎ立てている実態があるとすれば、政権中枢の違法行為に世間の関心を向けさせないための世論誘導だと思われても、それは仕方のないところかもしれないが、そこで問われているのは合法か違法かの判断ではなく、そこで成り立っている制度や慣習に照らし合わせて、それが許される行為か否かの判断であるのかもしれないし、そのような論理のすり替えがメディアの主導で行われている場合もありえるのかもしれず、別にそれを論理のすり替えとは認識していない人たちが世の中の大勢を占めている場合まであるわけで、そうなるとその場の状況次第ではあからさまな世論誘導でさえ、それがそこで成り立っている制度や慣習に照らし合わせて許される行為だと判断されてしまう可能性さえあるだろうし、そういう意味で世の中で行われている様々な行為や言動の中には、その全てを合法か違法かのような一つの基準では判断できない場合があり、しかもそれを判断する人の恣意的な判断と、制度や慣習に依存しているような世間的な判断とが、必ずしも一致しない場合があるわけで、そのどちらを優先させて判断するかも、その人の社会的な立場や地位によって異なるだろうし、その辺をどう考えるかがその先の行動や言動へとつながっていくのだろうが、それに関して誰がどんなことを述べようと、たとえ述べていることに説得力があるように思われようと、そう思ってしまう意識が世の中の制度や慣習から影響を受けている場合もあるわけで、そのことと自らの社会的な立場や地位から生じる損得勘定とは無関係であっても、それを肯定的に受け止めたり否定的に感じたりすること自体が、自らの社会的な立場や地位を反映しているのかもしれず、そういう立場や地位が世の中の制度や慣習から生じているとすれば、少なくとも意識がそれらに影響を受けていたり依存している限りで、どう考えても普遍的な感覚にはなれないわけで、そんな感覚になる必要もないのかもしれないが、社会の中で自らの立場や地位に依存した限定的な感覚というのが、他の立場や地位に依存している他人の感覚とは多少のずれが生じているとしても、その中には社会的な階層構造や職場や地域社会での役割分担に応じた特有の感覚という共通要素もあるだろうし、そのような感覚で構わないのか否かも含めて、そこで少しは謙虚さを装うなら、そのような事情もその場の判断に反映させるべきなのかもしれない。