資本論




第五章 機械とシステム




 現状の資本主義経済は機械設備や機械装置などを含む機械類によって成り立っていることは確かで、物や情報を生産するだけなく機械を生産するのにも機械を用いなければならないのは当然だろうし、機械が生産されるとその機械を使う人が必要になるわけで、機械にとってはそれを使う人の存在が必要不可欠であり、それは自動制御システムやAI技術などにも言えることで、それを使って人が何かやらなければそれらの技術は不要となってしまうわけだが、そういう意味でいったん人工的に作られたものは、それを使う人がいなければ無用の長物となってしまい、それが何らかの用途で使われない限りは無駄となってしまうわけだが、その一方で使われるまでは在庫としてある程度の期間は蓄えておくことができるわけで、物によっては必要な時に出してきて使い、不要な時には仕舞っておくことが可能で、そういう意味で機械というのは労働力の貯蔵形態と捉えるとわかりやすいのではないか。要するに必要な時だけ稼動させて不要な時には停止させておけばいいわけで、それが人となると不要になったからといってすぐには解雇できないわけで、ならば必要な時だけ使うためにパートタイム労働者を雇えばいいということになるわけだが、今度は必要な時に労働者が足りなくなる恐れが出てくるわけで、だから機械化できるところではなるべく機械化して、必要な時に必要なだけ稼動させるようなシステムにすればより効率的に作業が行えるわけで、人が労働する部分はその機械システムの管理やメンテナンスにすれば、定期的な保守点検などの作業だけで事足りてしまうわけだ。それが自動制御システムやAI技術などが目指すところかもしれないが、それ以前にそのようなシステムや技術が何に使われるかが問題となるわけで、それを使って物や情報を生産するとなるとそれを使う人が必要となるわけで、それが乗り物なら乗ってくれる人が必要となり、何か物や情報を運ぶとなるとやはり運んだ先で受け取ってくれる人が必要となり、途中がどうであれ最終的にはそれを利用する人の存在が必要不可欠となってくるわけだ。だからそのようなシステムや技術は利用者の存在を前提としているわけで、利用者がいる限りで存在することが可能となるわけだが、利用者の方は生きてゆく糧がないと生きられないわけで、今度はどうやってその利用者を存在させるかが問題となってくるだろうし、そのような産業に携わる人だけではその産業の利用者を賄えないとすると、何か別のところから人を利用者として徴集してこないとその産業が成り立たないようなことになれば、徴集されてこられた人はどうやって生計を立ててゆくことになるのだろうか。
 結局産業はその産業によって提供される商品やサービスの利用者がいる限りで成り立つのであり、それ以外ではないのだろうし、実際にそうなっているのではないか。確かに相対的に機械化率が高い産業の利用者が相対的に機械化率の低い産業の労働者である場合、機械化率の高い産業に利益を奪われている可能性があるわけだが、機械化率の高い産業の労働者も機械化率の低い産業の利用者である可能性も考えられるだろうし、現状で機械化率の低い産業が今後機械化率を高めてゆけば、確かに労働者の職場がなくなってゆく可能性があるわけだろうが、余ってしまった人の生活が苦しくなれば、産業の利用者とはなれなくなってしまい、利用者が減ればその産業の規模も縮小するしかないだろうし、結局はその産業を利用できる人がいる分だけでその産業が成り立つことになるわけで、需要がある分だけ生産するしかなくなるのではないか。そういうわけでいくら機械化によって作業効率を高めて大量生産が可能となっても、肝心の生産物を利用してくれる人がいないと意味がないわけで、そうなると機械化は相対的な効果しか持ち得ないことになるだろうし、同業者間の競争で機械やシステムの改良によって他の業者よりも安く生産できれば、同じ価格で売れればそれだけ利益が出るわけで、絶えず同種の競合している他の商品との比較において、生産効率の良さが売上や利益の面で優位性を保てるわけで、しかもそれは安いだけではなく、魅力的な商品である必要があるわけで、生産効率が悪くて価格も高くても売れればいいわけで、それが商品宣伝における消費者のブランド心理なども絡んできて一概には言えないところなのだろうが、またそれが直接消費者とは関係のない他の商品の材料となる製品なら、品質や良くて価格が安ければ言うことがないだろうが、用途によっては価格が高くても強度などの面で品質や信頼性の優れた製品を使う必要があるのかもしれず、やはりそういうところでも生産効率の良さだけではうまくいかない面があるのだろうから、商品の種類に応じて様々な条件があって、その条件を満たしつつも生産効率を上げられればいいのかもしれないが、全ての生産現場で一律に労働者を減らせるわけでもないだろうし、また生産現場以外でも流通や販売などの現場で労働者を必要としているわけだろうし、さらに生産や流通や販売などの現場で機械化して効率を高めても、その機械化された産業の商品やサービスの利用者がいなければ産業自体が成り立たなくなってしまうわけで、やはり産業は最終的にその産業の利用者がいる限りで成り立つという原則は変わらないのではないか。
 株式や債券が資本の蓄積を表すのとは少し性質が異なるが、機械装置や機械設備は生産力や労働力の蓄積を表していて、資金が必要となった時に株式や債券を市場で売って資金を得られるのとは少し違った形で、機械を駆動させることによって物や情報を生産できるわけで、必要に応じて駆動させれば機械が働いて物や情報を産出するシステムになっているわけだ。そういう意味で機械装置や機械設備はある種の資本の蓄積を表していて、企業がそれを所有していればそれが企業にとっての資産となっているわけで、株式や債券や資金を生み出す資産であるのに対して、機械は企業の生産物を生み出す資産を形成していて、機械装置や機械設備は生産力と労働力の蓄積を表していることになる。機械が生産過程で使われれば当然それは生産力として機能するわけだが、流通過程で使われると物や情報を移動させる力を担い、また販売過程で機械が使われると商品としての物や情報やサービスと販売代金を交換する力となるわけで、機械を通して決済が行われることになる。いずれの場合でも人力で行うよりは効率的に仕事をこなすから機械が使われるわけで、実際に大量かつ迅速に仕事をこなすために機械が必要となってくる。そういう意味で資本主義的な経済活動における機械の存在意義は、より少ない労力で大量かつ迅速に仕事をやってのけることにあるのだろうし、それは競合する他の業者との相対的な比較においてもそうであるわけで、他の業者も多くの機械を使っていれば、一般的にはより性能の高い機械を使った方がより多くの作業をこなせるだろうし、そういう成り行きになるようなら一応はそこで公平な競争が行われていることになるのではないか。もちろん機械の性能にも様々な方向性があるわけで、大量に仕事をこなすことに特化したものもある一方で、迅速に仕事こなすことに特化したものもあるだろうし、さらに正確かつ精密な作業をこなすように作られているものもあるだろうし、その用途に合わせて機械の特性も異なるわけで、そうした中で少なくとも人力で行うよりは有利だから機械が使われることになり、人にはできない作業を行うのにも機械が使われ、そうなるとこれまではできなかったことが機械を利用することでできるようになるわけで、それができるようになったことで世の中が変わることにもなるわけで、そういう意味では機械の発明とその普及は社会変革そのものになるだろうし、実際に様々な機械の登場によって社会が変革されてきたのではないか。しかしその変革が必ずしも人が望んでいたような変革ではなかったのかもしれず、結果的に人の想像を超えた形で世の中が変わってきた面もあるのかもしれないが、それもそんな結果を肯定するなら何やら技術革新によって文明が進歩してきたように思われるだろうし、その恩恵だけなく弊害に気づかなければ、そこからは科学技術を無批判に礼賛するようなイデオロギーしか出てこないわけだ。
 機械の使用による弊害といえば一般的には人が機械を使ったシステムに組み込まれて、その中で機械の部品のように扱われることが人間疎外の例として思想的に批判されてきた歴史的な経緯があるわけだが、そこで機械の部品のように扱われることで人間らしさが損なわれると言われる中で、具体的に人間らしさという表現が何を意味するかがよくわからないところなのかもしれず、例えばそれについてよく引き合いに出される奴隷労働という表現は、非人間的な扱いというよりはまさに否定的な人間らしさに結びついているわけで、人類は数千年来文明の発達した地域では普通に奴隷を使用してきたわけで、人を奴隷として売買して使用するのが当たり前の時代が長く続いてきたことも確かで、それが産業革命以降賃金労働に取って代わられて、奴隷労働が急速に衰退した歴史的な経緯があり、実際アメリカの南北戦争では賃金労働が主体の産業で成り立つ北部が奴隷労働が主体の産業で成り立つ南部に勝利したわけで、それとともに実質的には産業の主流から外れた奴隷労働が過酷な賃金労働の比喩表現で使われるようになり、何か人間疎外の代表例として奴隷労働的な賃金労働が非難の槍玉に挙げられるようになったわけだが、そもそも機械の使用が人間を奴隷から解放した経緯があるわけで、それが人間を奴隷労働のような過酷な賃金労働の担い手として機械に縛り付けたと非難されるのだとすると、いったい人間らしさの肯定的な意味とは何なのかとなるだろうが、たぶん否定的な人間らしさとして奴隷の使用があることは確かであり、そうであるなら肯定的な人間らしさとは奴隷を使わない労働であり、すなわちそれは賃金労働となるわけだが、賃金労働でも過酷な労働は奴隷労働のような労働として否定されるわけで、では過酷でない人間らしい賃金労働とは何かといえば、社会の中で人として普通に暮らせるような賃金を得られて、しかも労働によって病や怪我や死の危険を伴わないような労働となるだろうか。しかしそれは経済状況にもよるだろうし、経済が比較的良好に推移していれば雇用環境も良くなって、過酷な労働をしなくても人間らしい生活を満喫できるかもしれないが、いったん経済状態が悪化すれば雇用環境も悪化して生活も苦しくなり、それによって人間らしさが損なわれることになるのだとすれば、それは肯定的な人間らしさが損なわれるという意味になるのだろうし、その代わりに否定的な人間らしさが顕在化してきて、その結果世の中の風紀が乱れて社会が荒廃してくるわけだろうか。そのように人間主義的な解釈を施せば人間らしさについてその肯定的な面と否定的な面がわかりやすく区別できるのかもしれないが、どうも実態はそれとは少し違うのかもしれず、簡単に言えば機械の使用と技術革新の進展によって、人間らしさの定義も少しずつ変わってきたのかもしれず、それによって恩恵を受けられる範囲内では、それに伴って生じる肯定的な人間らしさが奨励され、一方で弊害が生じてしまう状況になれば、それに伴って生じる否定的な人間らしさが非難されるといった具合になり、本当はその恩恵と弊害の両面を伴うのにも関わらず、その場の都合に合わせてどちらか一方の面を取り上げて、その都度肯定的な人間らしさを奨励してみたり否定的な人間らしさを非難してみたりするわけで、人間主義者たちはただ人間らしさの両面を見ないように振る舞っているに過ぎないのではないか。
 そのような人間主義者たちの非難に当てはまる例として、機械に組み込まれた労働は非人間的な単純作業がメインとなる部分があるわけだが、一方でそれなりの熟練を要する複雑な労働となる部分もあり、それを単純作業か複雑な作業かという対立軸で比較するよりは、部分的な作業の集合体として全体のシステムが構築されていて、その中で部分的な部門で作業している労働者にはシステムの全ての工程での作業をマスターできないという特徴があり、そういうところが徒弟制で親方の元で修業する職人などとは違うわけで、親方が弟子に持っている全ての技能を教え込むのとは違って、労働者がいくら特定の部門の作業をマスターしても、全体としてのシステムを構築することはできないし、また全体としてのシステムの構築に関わった設計者が特定の部門の作業をマスターすることはないし、そんなことをやる必要もないわけだ。そんなわけで工場制手工業の頃と比べてもシステムの規模がでかくなってしまったので、一人の人間の手に負えるようなシステムではなくなったということは言えるかもしれないが、それだけにその部門で作業している労働者は他の部門で作業している労働者には無関心となるのかもしれず、全体を見通すことができない部分的な専門家ばかりが育成されるようになってきたのかもしれないが、そうであるからシステムの全体という捉え方がまるで虚構のように思われてしまうのかもしれず、何だかわからないがとりあえず作業が機能していたり、うまくいっていればいいようなことになって、何らかの生産なり流通なりのシステムの設計者であっても、他のシステムから作業が引き継がれてくるからそのシステムが成り立っている限りで、それが一つの完結したシステムでないことは理解しているだろうし、またそのシステムから作業を引き継ぐ別のシステムもあるのだろうし、さらにそれと競合している同じようなシステムもあるわけで、それらについて考えてしまうときりがないだろうから、とりあえずは自らが関わっている部門のことだけ考えていればそれで間に合ってしまうようなシステムなのであって、それがその部門に関しては専門家であるが他の部門に関しては素人でしかないような実態を生んでいるわけで、しかも別にそれが悪いことなのではなく、うまくいかなくなったシステムが衰退してうまくいっているシステムだけがつながることとなり、そんなふうにしてうまくいっている複数のシステムが連携することによって、結果的にシステムがうまく回っている面もあるのだろうし、実態として部分的なところしか把握できないから、そこがうまく回っていれば全体としてもうまく回っていると想像するしかないわけで、本当のところは誰にもよくわからないのだろうし、そういう面で常に不確実な要素があり、憶測や推測で捉えることしかできないわけだ。そして世の中でどのようなシステムが機能しているかについても、各人が携わっている部門から推測するしかないわけだから、それぞれで捉え方も見方も違ってくるのではないか。
 またそのシステム内の労働自体がその人の生活の中では部分的な意味合いしか持たない場合もあるだろうし、その人にとって確かに生活の糧を得るには労働が必要だろうが、生活の全てを労働に捧げているわけではない人の方が、どちらかといえば多いのかもしれず、それは職種にも労働の内容にもよるだろうが、その人から見て自分が働いている仕事内容が世の中であまり重要とは思われていない場合は、その人にとっても労働があまり重要ではなくなってしまうのかもしれず、ただ賃金を得るための手段としか思われなければ、そのためだけの労働となってしまい、自然と興味は別の方面へと移っていってしまうのかもしれないが、そうであっても機械の動作が興味を繋ぎ止めてくれる場合があるわけで、機械を操作して何らかの作業を行うことで達成感が得られて、その作業を飽きさせないようにしている場合があるだろうし、人力ではできないことを機械が行なっているのを見ながら作業に没入していれば、それほど不快な思いもせずに時間が過ぎていく成り行きとなり、結果的に自然と作業をこなしてしまえるわけで、そういう面も考慮すれば機械とともにシステムに組み込まれていてもそれほど疎外感は感じられない場合もあるのではないか。また機械自体が部分的なシステムであり、自らがそのシステムを動作させているという操作感が人の興味を機械につなぎとめていることも確かだろうし、そのような達成感や操作感などが機械を介して仕事への執着を生み、結果的に人を作業へと駆り立てるような効果を生じさせて、労働を成り立たせているのかもしれないし、一概に人間疎外をもたらすような不快感とともにつまらない単純作業をやらされているとは言えない面があるだろうし、その辺でどこまでが肯定されてどこからが否定されるような状況となっているのかが、それぞれの職場で判断も認識も違ってくるだろうし、その人の境遇によって許容限度にも違いがあり、外部から勝手に否定したり批判したりできない面もあるのかもしれず、結局は各人が許容限度内でやっている実態がある限りでそのような作業が成り立っているのであり、不快さに耐えきれずにやめていく人が絶えないような職場でも、作業の管理者もその点は承知しているわけで、去る者は追わずで定期的に従業員を募集して補充するのだろうし、逆に長く勤められては賃金を上げていく必要が出てきて困ってしまうのかもしれず、はじめからそういう魂胆でやっているとすればそれだけ労働者の扱いもひどくなるだろうし、ひどい扱いを受けてやめていく人が絶えなくても募集すれば次から次へと応募者が現れるようなら、その職場はそうやって成り立つような職場だということであり、中にはそのような職場を転々とするような労働者も出てくるわけで、そういう人は嫌になってはやめて金がなくなればまた仕事を探すような生活に慣れているのではないか。

 機械の使用は決められた手順に則って決められた動作を伴い、それは生産や流通や販売などのシステムの中で一定の作業をこなすには欠かせないものであり、機械もそれを利用した様々なシステムも決まり切った動作を正確に行うように設計されている。機械はある意味では道具が進化した形態だとも言えるが、道具とは違って複雑な内部構造とそれを動作させるシステムを持っていて、機械自体は人が操作するわけだが、駆動している部分は人力ではなくエンジンなどの内燃機関やモーターなどの電力で駆動する場合が多いわけで、そのような駆動装置を使うと人力で行うよりは飛躍的に大量かつ迅速に作業がこなせるので、資本主義経済の中で生産力の増大と富の蓄積には欠かせないものとなってきたわけだが、機械の技術革新と資本主義経済の拡大が一体化して進行してきた歴史的な経緯の中で、それに伴って人口も飛躍的に増大して、増大した人口を養うために経済もそれだけ拡大したわけで、人口の増大とともに一人当たりの物質的な消費量の増大も相乗効果となって経済の拡大に貢献してきたわけだが、人口が増えずに人当たりの物質の消費も増えなければ経済が拡大する必要はなく、実際に経済の拡大が止まるはずなのだろうが、機械の技術革新の方もより少ないエネルギーで効率的に作業をこなせるように進化している面もあるだろうし、また人工知能などを利用した自動化技術の進化とともに、より人手がかからずに作業できるようになると、人そのものが要らなくなってくる可能性があるわけで、そうなるとますます人口が増える必要がなくなって、それと同時に一人当たりの物質的な消費量も増えなければ、経済の拡大が望めなくなってくるわけだが、そうなると経済が停滞して富の蓄積が難しくなってくるだろうか。たぶんそれに関する歴史的な経緯としては、産業技術の中でも情報技術の進化と拡大があったわけで、そこでは一人当たりの物質の消費量ではなく情報の消費量を増やそうとする傾向が顕著になってきて、情報に価値を持たせて、物質的な消費による富の蓄積とともに情報の消費が富の蓄積に結びつくような錬金術が生じたのであり、もちろんハードウェアがあってこそソフトウェアが成り立つわけで、情報の蓄積にはそれを蓄える電子機器が必要であり、また情報をやり取りする通信機器や通信網の存在が欠かせないわけだが、必ずしも情報量の拡大が人口の拡大に結びつくわけではないらしく、人口が増えなければ消費者が増えるわけでもないだろうし、いくら通信端末の買い替え需要などを見込んでも、個人が持てる端末の台数にも、買える端末の価格にも払える通信料にも限界があるだろうし、それによって飛躍的な経済の拡大が望めるわけでもないことは確かなのではないか。
 人口が増えなくても寿命を延ばすことができれば、相対的に長くなった生きている期間にそれだけ多くの物や情報を消費してくれるし、それとの関連で健康産業や医療産業の発達も生じたわけだろうし、また経済的に裕福になればそれだけ高価な商品を買ってくれる人が増えるから、世界的に富裕層を増やすような成り行きになっているのかもしれず、それとの関連で新自由主義的な経済優先政策も一時的に流行した経緯もあったわけだが、実態としてはまだ世界的には人口増加が続いている状態だろうから、はっきりしたことはわからないのかもしれないが、富の蓄積には富の集約が欠かせないだろうし、実際に世界的に貧富の格差が増大しているとすれば、絶えず富裕層に向かって富が集約し続けていて、経済的な不均衡が拡大しているとも言えるわけだが、情報革命以後は金融資産の増大とともに負債も拡大しているとも言えるし、負債も資産の一部なのだろうから資産が増えて富の蓄積が続いていることにはなるのだろうが、蓄積した富は投資に回さなければ経済活動が停滞してしまうわけで、経済活動が停滞すれば富の蓄積も停滞するわけだから、結局は富の集約と蓄積が絶え間なく続いているとしても、一方で投資される富も失われる富もあるわけで、失われる中には事業の失敗なども含まれるのだろうが、その大部分は投資によって富を消費する行為が富を集約して蓄積する行為と同時に起こっていると考えられるのではないか。そうやって富を蓄積しながらも消費し続けているから、絶えず蓄積する行為を行わないと富が消尽してしまうわけで、蓄積と消費の収支がプラスマイナスゼロなら均衡が保たれていることになるだろうが、もちろんそこで蓄積と消費が時間的に前後しているのが普通で、一つの成り行きとしては蓄積した後にそれを消費していることになるわけだが、複数の成り行きが錯綜しながら同時進行していることを考慮すれば、蓄積しながら消費していると同時に消費しながら蓄積していることにもなるだろうし、結局は大量に富を蓄積して大量に富を消費する過程と少量の富を蓄積して少量の富を消費する過程の間で、様々なケースがあることが考えられるわけで、たぶんそこに機械が関わってくると大量の富の蓄積と消費が実現していて、その反対に機械が関わってこない部分では少量の富の蓄積と消費が行われていることになるのではないか。そして機械がそれほど関わってこない分野で生活している人は少量の富の蓄積と消費で間に合っているのだろうし、実際にそうやって生きている人も世の中にはいくらでもいるのかもしれない。それに関しては例えば自動車を持っていなくても生活できれば、それを買うに際して必要な購入代金と使う過程で生じる維持経費がかからないし、また通信端末のスマホを持っていなくても生活できれば、自動車ほどではないにしてもやはりそれを買うに際して必要な購入代金と通信料がかからないわけで、企業などが物や情報の生産や流通や販売など過程で機械を使うは時には、確かにそこでは富が生み出されるわけだが、消費者が機械を使う過程では反対に富の消尽が起こるわけで、そういう意味で機械の使用は富の蓄積と消費の両面での拡大に貢献しているのではないか。
 業務的な機械の使用と消費的な機械の使用との違いは、業務的な機械の使用には人の労働が伴うことであり、それに対して消費的な機械の使用には労働が伴わないばかりか、娯楽的な要素も加わってそれを使用する人に楽しみをもたらす面があり、業務的な観点からすればそれはただ無駄に機械を動かしているに過ぎないように見えるだろうが、それを動かしている当人にとっては労働とは違う満足感を得られるわけで、ある意味でそれは労働から解放された行為なのであり、場合によってはそれは労働によって生じたストレスを解消するためにも必要な行為となるのではないか。そんなわけで人は生産的な行為と消費的な行為の両面で機械を使用することになるわけだろうが、機械自体が一定の動作を伴うシステムであり、人は機械を操作しつつも機械によって要求される決められた動作の範囲内で機械を操作することにもなるわけで、そうなっている時点で機械の動作が実現しているシステムに人が組み込まれていることになるだろうし、人は機械を操縦しながらも機械によって決められた一定の動作の範囲内で行動し、機械によってその行動を規制され制限されていることになるのではないか。ある意味でそれは人が世の中の制度や慣習に拘束されている場合と似ているのかもしれず、システムとしては機械も世の中の制度や慣習も人に一定の動作を要求しているわけだから、そういう面ではそれらの間にそれほどの違いはないのかもしれないし、どちらも人が文明の発展とともに人工的に作り上げてきたものには違いなく、文明がもたらすものはいつも人に一定の決められた動作を要求する傾向があるわけで、そのような動作に人を従わせることによって、世の中で生きている人々を同じような傾向を持つ同質化した集団としてまとめ上げようとする働きが生じているのかもしれず、その中でまずそれが漠然と人々の間で共有されているのが慣習であり、またはっきりとした法律などによって規定されているのが制度であり、さらに物体を伴って人の動作を矯正するような動作を伴うのが機械なのではないか。その中で機械の動作はより直接的に人の動作をコントロールしようとするのだろうし、人はまず労働の場で機械の操作を余儀なくされるわけで、それによって生活の糧を得ているわけだから拒否できないだろうし、そこで機械を操縦することによって資本主義的な生産システムなどに組み込まれることになり、またそうやって生産された商品の中にも機械があるわけで、今度は消費の場でその機械を買わされることになるわけで、そして買った機械を操縦して楽しみを得ることで資本主義的な消費システムにも組み込まれることになるのではないか。
 結局資本主義的な生産システムも流通システムも販売システムも消費システムも一つの制度には違いないわけで、多くの人がそれらの制度に拘束されていることは確かで、どのように拘束され組み込まれてしまうのかといえば、行為遂行的に組み込まれるのであり、具体的に機械を操作し操縦する行為を遂行することによって制度に組み込まれてしまい、制度が人にそのような行為を遂行するように仕向けているわけで、そのような制度の中で生きている限りは絶えず機械を操作する行為を遂行するように仕向けられるのであり、ある意味ではそうやって制度に従わせることによって人の主体性を奪っているように見えるかもしれないが、とりあえず消費の場では人は主体的に機械である商品を買っていると思うだろうし、それを自己の楽しみのために主体的に操作したり操縦するような成り行きになっているわけで、それは結局制度の掌の上で転がされていることになるのかもしれないが、それでも幻想を抱くなら積極的に機械を活用して何かをやっているように思い込めること確かであり、またそれは生産の場で企業経営者などには特に言えることだろうし、積極的に機械を導入してそれを活用して事業を行い利益を出すことが、資本主義的な制度の中では特に推奨される主体的な行為となるだろうし、そのような観点からも人に使われる側の労働者であるよりも人を使う側の事業者がもてはやされるわけで、何かをやろうとする積極性や主体的な行為は制度的にも肯定されるわけで、そのような資本主義的なシステムを守り維持するためにも、チャレンジ精神を持った起業家が次々に現れてくることが望ましく思われるだろうし、またその中から競争に勝ち抜いて成功して、莫大な資産を築き上げた人物が世間の名声を得るのも制度的には当然の成り行きとなるのではないか。そうやってそれが制度的に組み込まれた行為であるにも関わらず、それよりも主体性とか積極性とかいう人間の肯定すべき価値観を体現しているように思われるのは、制度がそのような行為に肯定的な価値を与えているからだろうし、そういうことをやるように仕向けているから、人はそれを遂行しようとするわけで、そのようなチャレンジ精神は世間的にも尊ばれ推奨され、結果的に資本主義経済の発展にも寄与すると思われているのではないか。確かにそれが資本主義経済を推進させる原動力だと言えばその通りなのかもしれないが、一方でそれは資本主義的な経済活動をもたらすシステムがその中で活動しようとする人々を規制し制限する制度の一つなのであり、事業家的な役割が制度からもたらされていることは確かで、そのような制度が規定している役割を担うように行動すれば、その中から誰かが成功するようなシステムとなっているのかもしれないが、誰が成功するかは実際に活動した結果が決めるわけで、必然的に誰が成功するとは限らないわけだ。
 機械を使って人がやろうとしていることがその機械の動作が目指す目的であり、その機械の使用目的が機械が作られ使われる理由でもあるわけだが、一方で目的から外れた機械の動作が新たな機械の用途の発見に結びつくわけで、またそのことがきっかけとなって新たな機械が発明されたり、さらにそれが世の中に普及することによって何らかの社会変革がもたらされる可能性もあるのではないか。それが世の中に様々な用途の機械が普及する成り行きをもたらして、機械の生産と流通と販売と消費を通じて資本主義経済の拡大を招いてきたわけだろうが、機械を使う以前に人が機械を使わないで行なってきた行為もあるわけで、その行為の全てが機械の動作に置き換わったわけではないにしても、機械を使った方が良いと判断されたところでは人の行為が機械の動作に置き換えられたことは確かで、しかも機械の動作が人の行為を完全に模倣しているわけではなく、人の行為にはない機械特有の動作が加わったわけだろうし、それはある面では人の行為を凌駕していて、それが人に代わって機械が使われる理由ともなったわけだが、またそれが経済的な利益に結びつく限りで資本主義経済の中で機械が使われる理由ともなっているわけで、そういう意味では機械の動作が目指しているのは経済的な利益を得ることになるのではないか。もちろんそれ以外の目的もいくらでもあるのかもしれないが、少なくとも経済的な利益をもたらさない機械は資本主義経済の中では廃れてしまうわけで、いくら性能が良くても利益を出さなければ、あるいは他の性能の劣った機械の方が利益をより多く出すようならそちらが優先的に生産されるだろうし、たとえ軍事目的で高性能な兵器が必要であるとしても、企業が製造する兵器である限りは製造経費が販売価格を上回ってしまうような兵器は生産されないし、国の主導で作られるとしても予算的に超過となる分は国側の財政負担となってしまうのではないか。そういう部分で商品としての機械にはそれなりの制約や制限がついてまわるわけだが、人の行為に取って代わるような機械の動作にも経済的な制約や制限が伴うだろうし、人の行為そのものも経済的な行為である限りで功利的にならざるを得ず、利益を得られるような行為が経済的な成り行きの中では優先されてしまうのではないか。そしてそのような行為により多くの利益を出そうとする目的で機械が使われるわけで、そうなると必ずしも機械本来の使用目的からは逸脱するような機能が付け加えられることになるわけで、わざと壊れやすい構造や材質にして修理代を稼いだり買い替え需要を促したり、読みたい情報の前に広告宣伝が目につくようにしたりして、そういうところで製品やサービスを提供する側の都合が優先される事態となるわけだ。
 そこで効率というのは経済効率となってしまうわけだが、動作効率よりも経済効率が優先されるような事態が起こると、場合によっては機械本来の使用目的が阻害されることにもなりかねず、そうなると機械本来の使用目的を求めている顧客や消費者の利益が損なわれることになるわけで、何か詐欺に遭っているように思われてしまうかもしれないが、そもそも売る側と買う側との間で思惑や目的が異なるのは当たり前のことなのかもしれず、双方の間で妥協点を見出せなければ売買交渉が決裂してしまうわけで、それも程度の問題であることは確かだろうが、そういう意味で機械の動作が目指す目的とその機械を販売して利益を出そうとする目的とは必ずしも一致せず、場合によっては利益を優先させる目的で機械の性能や動作が犠牲になることもあるわけで、機械の動作が人の要求の全てを満たしているわけではなく、機械に期待される様々な要求の中で経済効率や動作効率などの面で相反する部分に関してはそれなりに妥協が図られていることは確かだろうし、そういう部分で完全に使用目的に特化した機械はあり得ないのかもしれない。またその使用目的自体が純粋な目的とはなり難い面もあるのかもしれず、何らかの目的で機械が使われるとしても、使っているうちに目的以外の動作が現れてくる場合があるのだろうし、それが機械を使用することで生じる弊害になってくる場合もわけで、例えば使っている人の心身に重大な損傷をもたらすようなら、そうなるとその機械には人の心身に損傷をもたらす動作が内包されていることになり、それに気づかないと場合によってはそれが原因で使用者が命を落とすことにもなりかねないだろうし、そのような深刻な事態には至らないにしても、少なくとも機械を使わないで行う行為と機械を使用して行う行為との間で何らかの差異があることは確かであり、その差異が経済的な利益に結びつく限りで機械が経済活動に使用されるわけで、それは機械本来の動作目的や使用目的とは別次元の経済的な利益目的で使用されるのであり、機械が内包している機構からもたらされる動作システムを経済的な利益を求める生産システムや流通システムや販売システムなどが利用することによって利益が生じているわけだ。だから機械本来の使用目的に経済的な利益を求める思惑が内包されているというよりは、機械の使用目的を経済的な利益に結びつけられる限りでその機械が商品としても他の経済活動の中でも役割を果たせるのであり、その逆ではないのかもしれないし、どのような機械を使っても利益が期待できるわけでもなく、中には経済的な利益をもたらさないような機械もあるのではないか。

 産業革命以後に顕著になった世界の飛躍的な人口増加は、具体的には医療技術や医療システムの進歩によって乳児死亡率が低下したことが理由としてあげられるが、それは資本主義経済の発展と同時期に起こっている現象なのだろうから、とりあえずその段階では人口が増えるとそれだけ経済も拡大したわけで、他の様々な要因も経済の拡大には寄与しているのだろうが、一般的に言えば人口の増加に比例して経済が拡大したとみなしてもそれほど間違ってはいないのではないか。一方で20世紀末に起こった情報革命以後は先進諸国を中心として人口がそれほど増えないのに経済成長を促そうと試みられてきたことは確かだろうし、またその段階では医療技術や医療システムが進歩しても人口の増加には結びつかなかったわけで、その代わりに人の寿命は延びたかもしれないし、そういう意味で医療技術や医療システムの進歩は人口の増加ではなく死亡率の低下に貢献してきたと言えるだろうか。そうだとしても情報革命以後に顕著な経済成長を達成している国や地域ではまだ人口の増加が続いているのかもしれないし、その一方で人口がそれほど増加しないか逆に人口の微減が続いている国や地域では経済成長も微増している程度で、かつてのような著しい経済成長はあり得ない状況となっているのではないか。そうだとすると情報革命以後の状況では飛躍的な経済成長などは期待できず、実際に人口が増えない地域や国などが直面しているのは経済の成長や拡大ではなく経済の維持であり、実質的には現状維持的な経済政策を余儀なくされているのかもしれず、それを政治目標として持続的な経済成長を達成しようとして無理が生じてしまっていて、そういう実情を考慮すれば情報革命以後の政治的な主義主張が目指すべき妥当な内容としては、住民一人ひとりの生活を豊かにしていくというありふれたこと以外にはないのかもしれず、他に例えば正当化できる軍事的な侵略先がない以上は、そのような野望に伴って生じる国家主義的な主義主張は情勢的に合わなくなっていることは確かだろうし、さらにそれ以外の宗教的あるいは民族的な幻想も、それに起因しているように思われるテロや内戦が頻発する世界各地の紛争地域でその限界や行き詰まりがはっきりしてきてしまい、そんな中で国家的宗教的民族的な幻滅が世界を覆っているように感じられるわけだが、そんな状況から今やそれらの政治的な主義主張の時代が終わりつつあると宣言してみたところで、まだそれらの主義主張を信じて戦っている人たちが大勢いる中では何の説得力もないのかもしないが、実際に行われている紛争の根底にはいつも経済的な利害関係があるわけだろうし、それを覆い隠すためにそれらの国家的宗教的民族的な主義主張がなされているわけで、逆に言うと経済的な利害関係を正当化できないからそのような政治的な主義主張に逃げているとしか言いようがなく、実際にそんな主義主張が大義名分としてなされる地域では国家や宗教や民族などに絡んだ経済的な不均衡や貧富の格差があるわけで、それを直接正当化できない現状があるのではないか。
 そしてそれを正当化できないからこそ、そのような国家的宗教的民族的な枠組みではなく、問題は単に各人の間で生じている経済格差や不均衡だと説明した方が妥当性を持つような世界に変わりつつあると言えるのかもしれないが、それを促しているのが情報革命であり、世界のどこにいてもネットに繋がってさえいれば地域や国家や宗教や民族の枠組みに関係なく、それなりの情報にアクセスすることができるようになりつつあるのだろうが、やはりそれを阻害しているのが国家的宗教的民族的な枠組みであり、さらにそれに絡んだ様々なしがらみが社会の中に深く根を張っているのかもしれないが、やはりそこでも根底に経済的な利害関係があるわけで、それをもたらしているのが資本主義経済であることは言うまでもなく、実際に経済的な不均衡や貧富の格差をもたらすような経済システムがネットを通じて世界中に拡散しているといえば、そう言う部分ではそうかもしれないが、一方でそれに対する抵抗もネットを通じて世界中に拡散しているといえば、そうとも言える部分もあるのかもしれず、それらの促進と抵抗の両面でのせめぎ合いが、それ以前からあった国家的宗教的民族的な枠組みの形骸化を促進しているといえば、少し言い過ぎな面があるのかもしれず、逆にネットを通じて国家的宗教的民族的な団結を呼びかけるような主義主張を拡散させる試みも一部では行われているわけで、それがイスラム過激派の隆盛を招いた背景でもあるのだろうが、だからと言ってイスラム過激派が世界を席巻しているとは言い難いだろうし、結局はそのようなテロに頼るしかない武装闘争も一定の支持を得るだけにとどまってしまうのは当然で、現状ではネットを介して情報を世界に拡散させることはできるものの、情報の後から物質的な実体がついてくることはないわけで、物質的な実体を世界中に拡散させるには、売買を伴った経済的な流通網を通してしか可能ではなく、また人員を世界に拡散させるにもそれなりの渡航費用がかかるわけだから、そういう面で思想的な洗脳だけでは限界があるわけで、その根底では資本主義的な経済システムが機能し動作していることが前提となっているわけだ。そんなわけで情報革命以後に顕在化してきているのは国家的宗教的民族的な枠組みよりも経済システムを優先させるような傾向だろうし、人と世界経済の間にそれらの国家的宗教的民族的な枠組みを挟む余地が次第になくなってきているのかもしれないし、それだけ国家的宗教的民族的なこだわりを死守したい人々にも余裕がなくなってきているのかもしれず、そうであるからこそネットを利用してあからさまな主張を恥ずかしげもなく訴えかけているのかもしれないが、結局それはイスラム過激派と同じように一定以上の支持を得るには至らずに、それ以上の支持の広がりは期待できそうにないのかもしれないが、やはりそこでもそれらの枠組みの形骸化を促進するような作用とそれに抵抗して形骸化を阻止しようとするような作用のせめぎ合いが起こっていて、それがネット上で繰り広げられるような成り行きとなっているのだろうし、実際にそれらのせめぎ合いを体現するような政治宣伝や煽動などの情報がネットを通じて世界中に拡散する事態となっているのではないか。
 産業革命以前に存在した機械としては川の流れを利用した粉挽き用の水車とか風を利用した風車とかがあったわけだろうが、現代においてそれを応用した機械として水力発電や風力発電があるわけで、昔とは用途は違うものの原理的にはそれらの関係にはある種の連続性があるのだろうが、産業革命時には蒸気機関が突然のことのように発明されて、それが紡績機などから蒸気機関車や蒸気船などに応用が進み、そこからさらに石油などの燃料を燃やして駆動する内燃機関へと発展していった経緯があるのだろうし、またそれと並行して電磁気力などを応用した電気モーターなども出てきて、さらに20世紀に入ると核エネルギーの利用にまで行き着いたわけだが、そのような科学技術を応用した様々な機械と、それと同じく科学技術の一分野である半導体工学を応用したコンピューターなどの電子機器との間に違いがあるとしたらそれは何なのだろうか。20世紀末に起こった情報革命においてまず世の中の注目を浴びたのは個人が使えるコンピューターであるパーソナルコンピューターの出現だろうし、当初においてそれは科学技術者がプログラミングによって複雑な計算や情報処理などを行う目的があったわけだが、PCとして一般の消費者が使うようになった時、それは絵を描いたり文章を記したり写真をプリントしたりと、日常で使う文房具や事務用品と同じ用途で使われ出したわけで、さらにパソコン通信などを経てインターネットが世界的に普及しだすと多目的かつ不特定多数の人々とのコミュニケーションの道具となり、そのような社会メディアとして機能し出して双方向的な情報のやり取りをするようになると、今度はそのような機能に特化して携帯電話から進化したスマートフォンが登場したわけだが、人が心を奪われたのはまずその機械そのものではなくメディア機能だろうし、それを利用して個人が何かできるような幻想を抱かせたわけで、それまでの大衆向けに販売されてきた洗濯機や冷蔵庫やテレビなどの家電や自動車などのように特定の用途ではなく、一応は様々な用途に使い道があることは確かだろうが、その使い方が個人個人で異なっていても構わないような機械なのかもしれないし、それでもやはり何か利用者を一定の方向へと導くような作用があるのだろうが、その自由への幻想を抱かせつつも、実際のところはメディア経由で個人をコントロールするような作用があるのかもしれず、その辺で疑いを抱かざるを得ない部分があるわけで、それに関しては新聞や雑誌や映画やラジオからテレビへとメディアの主流が移って行った時に、それが進化だと思われていたのが実はある部分では感性の退化でしかなかったのと同じように、今後テレビからネットへとメディアの主流が移っていくとしても、同じことが言われるのかもしれないが、それぞれのメディアが直線的な進化関係を表しているわけでもなく、メディアによってまたそのメディア媒体の中でも様々な方向性があることは確かだろうから、一概には進化とか退化では表現できないにしても、何か悪貨が良貨を駆逐するような事態が待ち受けている可能性が常にあることは確かなのではないか。
 PCには単なる通信端末以外の使い道がいくらでもあるだろうし、またスマートフォンにしても使い方次第では同じことが言えるのかもしれないが、機械そのものは定期的にハードウェアの性能が上がる度にソフトウェアも更新された新製品が発売されて、その度に買い替え需要が起こることが繰り返されていて、果たしてどこまでハードウェアの性能が上がるのかはよくわからないところで、また性能の向上も宣伝されているほどでもなく、実態としては微々たる向上でしかないのかもしれないが、他にスマートフォンだとブランドイメージが先行している面もあって、何かそのブランドに特有なデザインの良さにつられて買っているような人も中にはいるのかもしれず、そういうところで価格も用途も異なるが自動車と同じような傾向があるのだろうし、それらの電子機器が売れることについては他に合理的な理由があるとは言えない面もあって、要するに世の中の流行に消費者が惑わされていると言ってしまえばその通りなのかもしれないが、どちらにしても買い替え需要が起こる度にそれを製造販売している特定のグローバル企業に多額の利益がもたらされている状況に変わりないようで、まだ当分はそんな状況が続いていくのかもしれないが、そのような事態が生じていることからしても、すでに情報革命が一段落してしまって、そこでは企業間競争のけりがついてしまっているわけで、少なくともPCやスマートフォンの製造や販売に関してはそれ以上の発展はないのかもしれず、その使い道にしても新たな使い道が見つかるとは思えないし、さらにそれらの通信端末を介して利用するネットメディアについても、新しいコンテンツを携えて新規参入してくる業者が出なければすでに飽和状態に達していると言えるだろうし、そういう意味でも情報革命自体が沈静化してきていると言えるのではないか。結局そのような革命ともいわれる現象が何をもたらしたのかといえば、人々が何か自由に物が言えることを期待してインターネットに飛びついたのだろうが、普及しだした途端にグローバル企業による囲い込みが始まって、ネットコンテンツを巡って広告収入などの利益の争奪戦も始まり、気づいてみたら勝者によるメディアを介しての情報の管理とコントロールが蔓延しだして、また特定の政治勢力による不快な宣伝や煽動が跋扈するような様相も呈してきて、そういう否定的な面ばかりに注目すればその通りなのかもしれないが、少なくともインターネットがなかった頃に比べると段違いの開放感があるだろうし、それによって他のメディアの権威も地に落ちているようにも見えるし、たぶん何かが変わったことには違いないわけだが、まだ時期的にもそこからの距離が近すぎて客観的な視点を獲得するには至っていないのかもしれず、考えてみればテレビが全盛だった頃も世間的には芸能ゴシップなどのたわいない話題で盛り上がって、今にして思えばくだらないことばかりがもてはやされていたわけだろうし、そういう物事がそのままネットメディアにも流れ込んでいる傾向もあるのだろうし、そういう面を考慮すれば昔と変わらないとも言えるのだろうが、それでも確かに昔と比べれば何かが確実に変わっているのだろうし、それがこれから時間が経つにつれてだんだんとわかってくるのかもしれない。
 そんな情報革命以後もそれなりに機能していて、現状で政治情勢や社会情勢を作り出している近代的な国家は、そもそも資本主義とともに成立したわけで、また資本主義は産業革命とともに発展してきたわけだから、産業革命が資本主義とともに近代的な国家体制をもたらしたとも言えるわけで、近代的な国家体制の枠組みは産業革命に対応することによって成り立つようになったとも言えるのではないか。そういう意味で近代的な国家は資本主義経済に依存しながら成り立っているとともに、産業革命がもたらした産業システムにも依存していて、近代的な様々な産業を守り維持する限りで国家としての体裁を保っていると言えるだろうか。具体的には産業の中で行われる経済活動が税収をもたらして行政府の財源を確保しているわけだが、その一方で産業を支えている企業は利益を確保する目的で、できる限り租税回避を目指しているわけで、それは国家の中で主導権を握っている富裕層などについても言えることであり、国家には国家財源が必要なのに国家の中で主導権を握っている企業や富裕層はできる限り税の徴収を逃れたいわけで、何かそこに近代国家が抱えている矛盾や不条理が浮かび上がってくるのだが、企業や富裕層が国家の中で主導権を握っている限りで、それらは国家の中では制度的にも経済的にも優遇されているわけだろうし、そうなると制度的にも出来るだけ税負担を軽減するような傾向になるのではないか。そんな矛盾や不条理を回避すべく編み出された苦肉の策が普通選挙なのだろうし、国家の中で多数派を占める富裕層以外の人々が団結すれば選挙によって自分たちの意向が反映できるような政治勢力が実権を握ることができるわけで、そうなれば企業や富裕層にそれなりの額の税を課して、それを財源として富裕層以外の人々の生活の向上に役立てることができるわけだ。実際にそういう富の再分配的な建前がそれなりに機能していた時期もあったのだろうし、それが持続的な経済成長をもたらしていた時期に重なるのではないか。そして何らかの事情によって経済成長が鈍化してきた時期に情報革命が起こり、たぶんその前後で産業システムも様変わりして、まず情報革命以後では労働者が団結する場がなくなってきたのだろうし、それは何よりも工場で働く労働者の割合が減ってきたことが原因の一つとしてあるのではないか。工場などで大勢で一箇所に集まって働いていれば、毎日多くの労働者が同じ屋根の下で直接顔を突き合わせているわけだから、何かとコミュニケーションをとる機会も団結する機会も増えるだろうし、そういうところでは労働組合なども積極的に活動できるような環境となっていたのかもしれないが、情報革命以後はネットを通じて連絡を取り合えるわけだから、労働者が大勢で一箇所に集まらなくても仕事ができるようになり、仕事を行なう場が分散する傾向になってきたのかもしれず、またサービス業などの第三次産業の労働者人口の割合が一層高くなるとともに、工場労働者などの割合がより一層低下してきた事情もありそうで、それとともに工場などを拠点とした労働組合の活動も下火となって労働者が団結する機会がどんどん減ってきてしまったのではないか。
 またそれ以前から産業の発展とともに主要な企業は大企業化していて、大企業の正社員はどちらかといえば高額所得者に属していて、そうであるなら自然な成り行きとして富裕層の味方となり、自らも富裕層に属している自覚が芽生えているのかもしれないし、またメディアでも大手の新聞社やテレビ局は大企業であり、当然そこの正社員は高額所得者であるだろうし、やはりそうなるとどちらかといえば富裕層の味方となるのが普通の感覚だろうし、そうであるなら自然にメディア自体が富裕層や大企業の味方となるしかなく、そうなるとその他大勢を占める富裕層以外の人たちは富裕層の味方であるメディアから伝えられる情報に日々接してその影響を被るわけで、さらに公務員の中でも官僚と呼ばれる政府内で主導権を握っている上級の管理職ともなれば、やはりどちらかといえば高額所得者に入るだろうし、そうした人たちが政治家とタッグを組んでお互いの利害を一致させれば、いくらそれ以外の一般市民が世の中で多数を占めているとも言っても、団結できなければそれらの人たちには太刀打ちできなくなってしまうのではないか。そうした状況の中で人々の間で貧富の格差が広がってきたことが誰の目にもはっきりしてきたのかもしれないし、産業革命とともに出現した近代国家体制も至る所でほころびが見え始めてきたわけだろうし、それに伴ってもはや以前のような労働者の団結などは二度と起こらない事態となってきたのではないか。またこれは産業革命以来の伝統なのかもしれないが、下層労働者は普通の労働者とは団結せずにむしろそれらの人々を憎んでいて、その反動で富裕層や行政機関や体制側に属する保守政党などの手下として働こうとする傾向にあるわけで、それが昔の呼び方ではルンペンプロレタリアートとかモッブとか言われる群衆であり、それが近年ではネトウヨという言葉で呼ばれることが多くなってきたわけだが、それらが若者を中心として活発化して組織的に政府に批判的な人たちをデマや中傷などによって攻撃し陥れようとしているわけで、それらの人たちが活動する場として格好のアイテムがネットメディアであり、それが一部では極右的な主義主張を世の中に流行らせようとする思惑とともに、盛んにヘイト的なパフォーマンスや政治的に偏向した煽動と宣伝を世の中に拡散する事態ともなっているわけだが、そういう動きが目立ってきたことも情報革命がもたらした副産物なのかもしれず、その中で主張されている内容は商品宣伝にも特有の単純な売り文句に飛びつくような大衆心理を逆手にとっているわけで、商品の宣伝で活用される売り文句がその商品の単純な利点を強調することであるのとは対照的に、偏向した政治宣伝で活用されるのは攻撃対象への単純化された否定の強調であり、しかもそれが世の中の保守的な慣習に根ざしていて、必ずそこでは慣習への違反行為が喧伝されることになるわけで、具体的には政府を批判することが国を侮辱したことに単純化されるのだろうし、また政府を批判した政治家に不倫疑惑などが取りざたされたら公の場で配偶者や世間に謝罪しろという主張になるのだろうし、そこで不倫を認めて謝罪しなければ禊が済んでいないという論理まで出てくるし、何か些細な攻撃材料が出てくる度にそこを集中的に否定口調で強調してメディアで盛り上げ、そうやって批判勢力を黙らせようとする行為が横行しているわけだが、それがことごく体制側への批判をうやむやにしてかわす手段に使われている実態があり、実際にそうやって批判を無効化させることができれば従来からある体制批判を容認する民主主義的な建前も無効化されるかどうかはよくわからないところだが、もともと近代的な国家体制には矛盾や不条理があるわけだから、それは今に始まったわけでもないのだろうが、やはり今後それに関して何らかの制度的な変革が必要となるのだろうか。

 商業は商品を安く買って高く売らないと利益が出ずに商売が成り立たなくなってしまうが、流通業は利益の出る運送料で仕事を請け負っている限りで商売が成り立ち、製造業は製品を安く作って高く売れる限りで利益が出て商売が成り立ち、サービス業は必要経費より高い料金で仕事を請け負うことができれば利益が出て商売が成り立つわけで、いずれの場合でも商売が成り立つ範囲内でそこで働く従業員の人権とか人道的な配慮とかに気を配る余裕が生まれるわけで、利益が出なかったり負債がかさんだりする状況ではそのような余裕は生まれづらいのではないか。その中で機械は当然のことながら製造業の中で生産されることになるわけだが、製造過程で必要なものはその材料となる各種の資源とそれを加工して組み立てる製造システムとそれに携わる労働となるわけだが、資源が近くになければ製造現場まで材料を運んでくるのに際して送料などの経費がかかり、また製造した製品を販売する市場が近くになければやはり市場まで運んでいくための送料などの経費がかかり、それらの製造に要した経費よりは高い価格で売れないと利益が出ないのは言うまでもないことで、製造する機械が世界的なシェアの中で独占的な割合を占めていない限りは、国内外の同業者との間で性能競争や価格競争が生じるわけで、そうなると必然的に製造過程のどこかでコストの削減を強いられるような状況も出てくるだろうし、それに関して例えば資源を外国から輸入してそれを加工して製品を外国へ輸出するとなると、どちらにしても輸送経費がかかることは避けられず、また人件費が競争相手の諸外国よりも高ければ、ではどこでコスト削減を図らなければならないかというと、製造システムの面で他の競争相手よりも生産効率を高めないと、価格競争力の面で競争相手に太刀打ちできなくなるわけで、多少は価格が高くても性能や品質の面で他の諸外国の製品を凌駕していれば、それで買い手がいれば商売が成り立つわけだが、普通は競争していればお互いに製造技術の面で切磋琢磨する成り行きになるわけで、競争しているうちにコスト面でも品質面でも性能面でも差が縮小していく傾向になってくるだろうし、そうなると単純に輸送経費や人件費が安いところがそれだけ価格の安い製品を売り出してくるだろうし、品質も性能も変わらなければ価格の安い製品が売れるのは当然で、物作りが盛んで機械製品などの輸出に頼って経済成長してきた国が、その成長が鈍化して物を作っても利益が出なくなってきたとすれば、競争相手の他の諸外国との間で産業技術に差がなくなってきたからだと捉えるのが妥当なところだろうし、それ以外に説得力のある理由はあまりなさそうに思われるのだが、それとは別に労働者や技術開発研究者の質が劣化してきたとか、それに関連して産業に直結する理工系の大学教育に力を入れるべきだとか、その手の精神論が果たして説得力があるかどうかはよくわからないところだ。
 それに関してドラスティックに考えるなら製造販売の面でコストがかからない場所で製造できればいいわけで、人件費や輸送費が安くて質の良い労働者を確保できるようところで作って、また作った場所やその近くで売れれば輸送費がかからなくてなおいいわけだから、機械の種類によっては海外で現地生産という選択肢も出てくるわけで、実態としても人工的な国境の壁や関税障壁などが絡んでくると、地球上のどこで生産してどこで売ろうとするのかによって様々な選択肢があっても当然の状況となるのではないか。そうなると製造している国や販売している国でも本国と同じように税を納めることになり、そこでそれなりの数の現地の従業員も雇うことにもなるわけだから、自国の企業であっても自国だけに利益をもたらすわけではなくなってくるだろうし、それに伴って世界各地で人材交流や技術交流などを盛んにして、なるべく世界のどこで製品を作っても差がないような具合になれば、どの国の企業もどの国でも製品の製造販売が容易にできるようになり、そうなれば特定の国だけ経済が好調でまた特定の国に限って経済が悪化するような事態にはならなくなってくるのかもしれないが、それでも国ごとに制度や慣習が異なっている実態があり、また地域事情もそれなりに異なっている限りで、やはり国や地域ごとに経済の好不調の波が出てくるのだろうし、何よりも現実に企業同士で競争していて国家同士でもいがみ合っている実態もあるわけだから、そのような変動要因を極力抑えるために必要な政治的な課題で言えば、各国ともに連携を密にして交渉によってなるべく経済に関する制度の面では国ごとに差がないように努めることが、世界的な共存共栄への道が開けるのだろうし、もちろんそれはきれいごとに過ぎないことではあるのだろうが、政治以外でも民間の様々な人材や技術面での交流があることも確かだろうし、結局そのような事態が進展していって世界標準で使われる機械が世の中に普及してくると、その機械の作り方から使われ方に至るまで、その生産や販売や利用などの過程で同じような動作が促されることになるわけで、多くの人がそのような動作に巻き込まれることによって、行為遂行的に機械の動作に従うことになり、そうやって機械に行動や思考を制限されて規制されることで、機械を通して人の動作に統一感が生じてくるのかもしれないし、それによって思考形態や生活形態が同じようになっていくと、それまでに差異を強調することでアイデンティティを確保してきた国家的宗教的民族的な枠組みが崩される可能性が出てくるのかもしれず、今は機械の動作に従うこととそのようなアイデンティティの問題は全く別次元のことだと考えられているかもしれないが、実際に生活の隅々に至るまで機械が入り込んできている実態があるわけだから、日常の場でも仕事の場でも世界中の人が同じような機械を使いながら暮らしているとすれば、何か自然と行動も思考も似通ってくる可能性がないとは言えないだろうし、それがあからさまな政治的なイデオロギーの類いとは全く異なる方面でそうなっている実態があるとすれば、そういう意味では機械の使用から得られる行為遂行的な動作は、頭の中だけで考えているよりも強く人の活動に働きかける力あるのかもしれないし、しかも現実に機械を使っている限りはそれを拒否しづらい面もあるわけで、意外とそういうところから今後人の活動形態に関して何らかの変革が起こるのかも知れない。
 そもそも国家的宗教的民族的な枠組みがどうやって形成されてきたのかといえば、近代国家がそれらの枠組みを必要としていた事情があり、具体的には国民の統合の象徴としてそれらの枠組みが利用されてきたのだろうし、なぜ国民を国家の下に統合しなければならないのかというと、国家的な枠組みでの資本主義経済の発展には産業の生産活動を支える労働者とそこから生み出された製品を最終的に買ってくれる消費者が必要なのであり、そのどちらもがまとまった人口の集合体を形成して資本主義経済を支える労働市場と消費市場の担い手として必要だったからではないか。それは現在でも必要とされているわけで、またそのような枠組みは資本主義経済以外でも宗派間紛争や民族紛争などの原因ともなっているわけだが、昔の広域支配を実現していた帝国がそうではなかったのに、近代的な国民国家が単一の宗教と単一の民族でまとまろうとする傾向があるのは、一見資本主義経済とは何の関係もないように感じられるだろうが、それは一つの国家の下に同じ価値観を共有する同質な国民としてまとめ上げる過程で必要とされるわけで、だから内戦状態などになった時に国家統一の政治的なイデオロギーとして同じ宗派や民族などの下に団結するように呼びかけられ、いったん国民国家として統一された後から同質の国民として一つの宗教的民族的な価値観の下にまとめられた人口の集合体が、同じような動作や生活習慣を共有する労働者や消費者として経済活動に利用されるわけだ。だからまだ現状で宗派間紛争や民族紛争などによって内戦状態にある地域では、統一された労働市場も消費市場も形成されていないわけで、そのような状態を見ると資本主義経済と国家的宗教的民族的な枠組みは何の関係もないように感じられてしまうわけだが、実際に国民国家として統一に成功した地域ではそれが経済活動を推進する原動力となってきたわけで、それは必ずしも完全な宗教的民族的な単一性を保っているわけでない国であっても、例えばアメリカなどは多民族多宗教の国ではあるにしても、その中で特定の宗派や民族に属する人々が主導的な役割を果たしてきたことは確かで、それはWASPと呼ばれるホワイト・アングロサクソン・プロテスタントの略語としても有名だし、同じく多民族多宗教の国家である中国でも漢民族が主導権を握っている実態があるわけだ。そしてそのような枠組みがなぜ崩れてきたのかといえば、資本主義経済が社会に浸透していく中で単に宗派間や民族の違いによっては生活習慣に違いがなくなってきたと言えるのかもしれず、そういう意味で資本主義経済の中では他の宗派や民族の人たちにも同じ労働と同じ消費を要求してくるわけで、そうした方が経済的な利益が得られるからそうした傾向を促進させるような成り行きになってきているのだろうし、経済効率を考えればできるだけ多くの同質の労働者と消費者を獲得した方が利益を得られる確率が高くなるのであり、実際にアメリカなどはそうやって世界の中に資本主義経済から生み出された大衆消費文化を普及させることによって、世界の中での政治的経済的軍事的な覇権を確立してきたわけだ。
 またそれらの枠組みが情報革命以後に崩れてきた原因としては同じ国家的宗教的民族的な価値観を共有する国民であっても、経済的な不均衡をもたらす貧富の格差が顕在化してきたことが挙げられるわけで、さらに経済的な有利な立場である富裕層だけが共有する価値観として、高級住宅街に住んだり高級車を所有したり高級ブランド品を身につけたり高級なサービスを優先的に受けられたりと、経済的な優位性を強調する価値観の共有があるわけで、そのような富裕層にだけ許された特別な価値観の共有というのが、理性的に考えるなら富裕層と他の層との対立や軋轢を生むように思われるだろうが、メディア上ではそれらが庶民が憧れる価値観として肯定的に紹介されて、実際に生じている庶民と富裕層との経済格差の否定的な面が覆い隠されてしまう結果も招いているのではないか。また富裕層に特有なタックスヘイブンなどを利用した徴税逃れの実態にしても、環境保護活動や人道援助などに積極的に取り組んできた世界的に有名なロックミュージシャンが実はそれを利用していたり、またリベラルな政治活動に理解を示してきた良心的な政治家もそれを利用していたことが暴露されたり、偽善者の仮面を剥ぐ的なスキャンダラスな面が興味本位でメディア上で取り上げられるにしても、それよりも根本的な問題である貧富の格差を必然的にもたらす経済システムをどうするべきかという議論には発展しないわけで、目下のところそれを解決する手段が見当たらないのだろうから、そうなるのが当然の成り行きなのだろうが、ともかく社会の中で現状の状態を維持しようとする方向への誘導は常に働いているわけで、そういう意味でその場の都合に合わせて国家的宗教的民族的な価値観の共有が政治的な宣伝や煽動の場では絶えず強調されるだろうし、また庶民の憧れとしてそうなることを目指すべき価値観として富裕層に特有の価値観も肯定的に取り上げられるだろうし、タックスヘイブンなどを利用した徴税逃れに関しても、政治的な都合を優先した取り上げられ方がされる傾向にもあるわけで、理性ではなく経済的な利益を優先させるような方向で事態が進展することは自然の流れとしてあるのだろうし、そういう方面での政治的な改善や解決への努力というのはうまく行かない可能性が高いのではないか。もちろんそのような努力を行なっても無駄だから放棄すべきというわけでもないだろうし、逆に絶えず政治的には現状の中で不具合や不都合な面があるならそれの改善や解決に向けて努力するような成り行きにならざるを得ないわけで、政治的にやるべきはそのようなことでしかないのかもしれず、それを怠ると政治制度は腐敗や不正行為にまみれて機能しなくなってしまうのだから、いやでも綱紀粛正としてそんなことをやらざるを得なくなってしまうのではないか。そしてそんな中でも経済的には利益を優先させるような成り行きにもならざるを得ないわけだから、たとえそのような傾向が政治的な腐敗や不正行為の温床になっているとしても自然にそうなってしまうわけだ。
 国家的宗教的民族的な枠組みに関して国内で首都などの政治の中心地域と経済の中心地域が距離的に離れている場合は、経済の中心地域で不満が生じる場合があり、経済の中心地域ではその経済力に見合った政治的な主導権を確立しようとする動きが出てきて、場合によってはその地域が国家から独立するような模索も生まれるわけだが、それはある意味では近代国家が必要とされる国家的宗教的民族的な枠組みの虚構性を物語っているのかもしれず、実質的にはそのような公式的な政治イデオロギーよりは経済が優先される実態も物語っていて、実際にそうなっている具体的な地域としてはスペインのカタルーニャ州とかドイツのバイエルン州とかアメリカのカリフォルニア州とかイタリアの北部諸州とかがあるわけだが、そうした地域でいざ独立を目指すような機運が生まれると、やはりそこでも近代国家特有のその地域特有の新たな国家的宗教的民族的な枠組みが公式的な政治イデオロギーとして語られ始めるわけで、それまでに首都などとともにあった国家的宗教的民族的な枠組みの誤りが指摘されて、まずその地域が過去において現在の中央政府の政治的な中心地域とは異質な文化的伝統に根ざしており、場合によっては軍事的な侵略を受けて併合されてしまったような歴史的な経緯があるようなら、まさにそこでその地域独自の国家的宗教的民族的な枠組みが強調されて、国家から独立して新たな国家建国に向けた大義名分が整ってしまうのかもしれないが、実際にはそのような事情など国内の他の地域でもいくらでもあって、それらの地域だけが特に中央政府から搾取されている実態があるわけではなく、実態としては経済力に物を言わせて政治的な発言力や制度的な権限を強めようとしているわけで、そういった地域に経済力がなければ、例えばスペインとフランスの両国にまたがった地域で暮らしているバスク人やトルコとイランとイラクとシリアなどの各国にまたがった地域で暮らしているクルド人などと同じような境遇になりかねないだろうし、その中間のような境遇としてはイギリスのスコットランドがあるわけだが、そのイギリスはアイルランドの独立は許してしまったが北アイルランドは手放していないし、北アイルランドでは今もなおアイルランド系でカトリック系の住民とイングランド系やスコットランド系のプロテスタント系の住民との宗派間対立が解消されていないのだろうし、結局は中央政府から独立するにしても中央政府の政治的な影響力を許したままにするにしても、どちらにしても実質的な経済力を背景として政治的な権力を強めようとする勢力が掲げる政治的なイデオロギーの中では、なぜか国家的宗教的民族的な虚構が語られるわけで、単に経済力だけでは政治的な権力の奪取に関して正当性を主張できない事情があるわけだ。それが近代的な国家体制とそのような政治体制が財政的に依存している経済システムとの間に矛盾や不条理をもたらしているのかもしれないし、経済的な覇権だけではその地域に住む人々を納得させられない事情が生じているのかもしれない。
 人々は制度や機械などのシステムがもたらす一定の動作によって利益を得ているにも関わらず、そのようなシステムにはない人間的な独自性を求めているのかもしれないし、それが富裕層だと一般庶民には手が届かない特別な物や情報やサービスの入手であり、地域住民だと中央政府から独立した自治権の確立となるのかもしれず、そういうことを意識しだすとともかく他と同じ境遇や待遇では納得しないし、他と同じようなことをやっていては自己や地域独自の主体性を発揮できないと思われるのかもしれず、しかも世の中の慣習や制度や仕事や日常の生活で使用している機械が、現実に他と同じ動作を自らに求めてきているわけだから、それらのシステムに拘束されて他人と同じこと考え同じことをやるのが苦痛だとは自覚していないものの、意識していないところで何らかの抵抗の動作が自然に出てしまっているのかもしれないし、それが富裕層の場合だと経済力に物を言わせて好き勝手なことをやって自由を謳歌したいとなり、そういうことができない一般庶民でも何らかのシステムに従わせられて同じ動作を強要されている成り行きには、少なくとも不快感を抱いているのではないか。そしてそのような動作を強要してくる主なものとしては、まずは世の中の慣習に自然と従わせられて社会の他の構成員と同じようなことをやっている実態があるだろうし、さらに中央集権的な国家権力による行政的な法治体制に従わせられることがあるだろうし、そしてこれはあまり気づかないことかもしれないが、仕事や日常生活の中で誰もが同じような機械を使って同じような動作を繰り返している日々があるのではないか。しかしそれが本当だとしても、そのような状態から逃れるにはある種の経済力が必要なのであり、しかもその経済力というのが何らかのシステムの中で一定の同じような動作に従うことから生み出されるのだとすれば、そこで矛盾や不条理に直面するのはある意味で当然の帰結なのだろうが、人も人が寄り集まって構成される集団内でもそのことは不問にしておかないと、主体的な自由を謳歌できる経済力を手に入れることはできないと同時に、そのような経済力から生み出される動作として人々に同じような動作を強いるような成り行きを意識してしまうわけで、そのような成り行きの中では解決手段も出口もないのかもしれないし、だからそれらの矛盾や不条理からは目を背けながら振る舞わなければならないのかもしれないが、そうなると問題の根底には経済的な不均衡から生じる貧富の格差があるのに、それを国家的宗教的民族的なイデオロギーの問題として語ろうとしたり、実際にそのような政治的なイデオロギーによって自らの立場を正当化したり、他の民衆をそのようなイデオロギーの下に従わせるために盛んに煽動や宣伝を仕掛けている実態があるのではないか。そして実際に全ての問題が経済格差から生じているなどとは到底思えないし、もっと何か根源的な問題があるのではないかと疑うのが普通の感覚だろうし、何やらそこから国家や宗教や民族の起源へと向かうのが思想的な探求としてありふれた傾向なのではないか。

 資本主義経済の中で機械が果たす役割は、機械を使わせて使う人を機械の動作に巻き込むことによってコントロールすることにあるのだろうが、そうなるには人が機械を使うことによって何らかの利益を得られたと思い込ませることが必要だろうし、それが些細な幸福感程度でも構わないのだろうが、実際に金銭的な利益が得られたらなおのこといいわけで、全ての機械使用者が得られるようでは収支が赤字となってしまうだろうから、そこに何らかの競争が生じてその勝者に金銭的な利益が得られるようなら、少なくともその競争に参加した人たちはそのような結果に納得するしかないのではないか。そして機械を使用させる側はその使用に関して何らかの手数料を得るような成り行きになるだろうし、手数料に関しては直接の販売代金に含まれていても構わないし、またローンの支払いとかレンタル料などの類いでも構わないだろうし、それが通信端末なら回線使用料とかデータ通信料とかでも構わないのだろうし、ともかく塵も積もれば山となるように、膨大な数の利用者から少しずつ手数料を取ればそれが莫大な額となって、そこから機械を使わせる側の利益が出るわけだ。そうでなくても生産や流通やサービスなどの場ではそこで働く人たちが直接機械を使って賃金や給与などの金銭を得ているわけで、そこでは機械を使うことが何か特別なことでなく、ただ仕事に必要だから使っている場合の方が多いだろうし、それを取り立てて問題視する方がおかしいわけだが、もはやそれが自然のことのように思われることこそが人を意識させずに制御する上では必要なのであって、しかも制御する側も意識してそれを行うわけではなく、それらがシステムとして一連の工程の中で働いていて、その中で誰の思惑や意図が反映されているとも言い難いような自然の成り行きとしてそうなっていれば、たとえ人がそのようなシステムに組み込まれることによって活動の自由を奪われているとしても、誰からも文句は出ないし表立って抵抗してくるような動作も生じないのではないか。さらにそれだけでなく積極的に機械を使って活動していると思い込めれば、意識の中では自らの意志で主体的に活動していることになるのだろうし、実際に現代社会の中で主体的な活動を行なっているとはそういうものなのかもしれず、世の中の制度や慣習や機械の動作にあからさまに逆らうのではなく、それらを自らの行為に積極的に活用しながらやりたいことをやっている感覚になれればいいわけで、社会の中で成功している人たちは実際にそうしているわけで、何らかの機械を使った競争というのもそのような成り行きの中で生じていることになるだろうし、その中で機械によって何らかのコントロールを受けながらもそれにうまく適応することが、逆に機械をコントロールしている感覚をもたらすわけで、その人の感覚の中では機械をうまくコントロールできたから競争に勝ち抜くことができたと思われるのではないか。
 人が機械にコントロールされながらも逆に機械をコントロールしながら何かをやっている感覚になれるのは、そこで動作している何らかのシステムに人が組み込まれていて、意識がそれを受け入れていることを示しているのだろうが、一方でそのシステムが何のために動作しているのかとなると、そのようなシステムを利用している人からすれば、それを利用することによって何らかの利益にありつけるから利用しているわけで、その人にとってはその何らかの利益をもたらすためにシステムが動作していることになるわけだが、実際にシステムの稼働によって生じているのはそれだけではないだろうし、誰かに何らかの恩恵をもたらしている一方で別の面では何らかの弊害を生じさせている可能性もあるわけで、それを感じ取っている人たちが具体的なシステムの稼働に反対したり差し止めを求めている例もあるわけで、その代表例が原発なのかもしれないが、システムに組み込まれて動作している人たちにはその感覚がわからないわけで、そのような人たちは弊害をもたらしていることから生じる罪悪感などとは無縁でいられるのかもしれず、実際にそうだとするとそのような人たちは身も心もシステムによってコントロールされていることになるのかもしれないが、そのことに無自覚でいられるならそれらの人たちにとっては何か積極的かつ主体的に活動していることになるわけで、そうした意味で機械を活用したシステムに人が組み込まれている場合は、その人には積極的かつ主体的にそのようなシステムを活用しているように思われ、そのシステムの動作を無条件に肯定している場合が多いだろうし、コントロールされていることに無自覚でいられるから抵抗感もなく、そういう面ではシステムの動作もそれだけ円滑に働いていることになるだろうし、またそんなシステムに身をまかせている人が多いほどその中では何もかもが滞りなく動作しているように思われるのだろうが、いったんシステムから離れてしまうとそうは思われないし、無批判にシステムに従う人が多いほど、逆にシステム自体に無理が生じている可能性を指摘したくなるわけで、誰もがそこから恩恵を受けようとすると必要以上にシステム自体に負荷がかかってしまい、ある日突然ポッキリと何かの部品が折れてしまい、そこでシステムが緊急停止してしまうと、今までシステムに全面的な信頼を寄せていた大勢の人たちがパニックを起こしてしまう危険性があるように思われてくるわけだが、比喩的にはそんなことを言えるものの、実際に世の中で稼働している様々なシステムに対して、人々がどの程度信頼を寄せているかはよくわからないところでもあり、現実に信頼を得るためにメディアを通して何らかの煽動や宣伝が盛んに行われていることも確かなのだろうが、信頼する以前にそれがどのようなシステムなのかもよくわからないのが偽らざる実感なのかもしれず、そんなふうにすでにシステムに対する疑念や懐疑が先行しているとすれば、そのようなシステムの一種であるかもしれない政治システムや経済システムも、人々から信頼されるに至る以前に、懐疑や疑念とともに流動的に変化していくだけのものなのかもしれない。
 それがどのようなシステムであるにしても、結局世の中に恒常不変なシステムはなく、それを何か定まったものとみなしてしまうと、その時間的あるいは場所的な変化に気づけなくなってしまい、そのような認識を維持しようとすると現実の状況と認識がずれてきて虚構の割合が大きくなってしまうのではないか。だがそうだとしてもシステムはそれが何であれ一定の動作を繰り返し行えるような仕組みを目指していて、そこから恒常的に一定の利益を得られるようにしたいわけだ。そのために必要なのが一定の動作を繰り返し行える機械であり、機械を駆動させて同じ製品やサービスを市場に供給して恒常的な売り上げと利益を引き出したいのだろうが、実際には製品もサービスも世の中の変化するニーズに応えて絶えず変化しているわけで、それに合わせてシステムも絶えず何らかの調整を迫られるわけだ。そして何がそのような変化をもたらしているのかといえば、第一にそれは移ろいやすい天候と同じで偶然の巡り合わせとしかいえない面があるのだろうし、そのような変化の中に一定の規則性を発見できれば、それに対応した戦略も立てられるのかもしれず、そうやって何らかの成功を収めたシステムもあるのかもしれないが、その一方でうまくいかずに衰退したシステムもあるのではないか。また利益を多く得るためにできるだけ多方面から信頼されるシステムを築くには、やはり多方面から意見を聞いてその意見を取り入れたシステムにしなければいけないし、そこで相反する意見が続出して利害の対立を解消できなければ交渉して妥協を図る以外にはあり得ないだろうし、そうやって何とか一定の合意を取り付けたところで、個々の事情や世の中の情勢が変わればまた意見の違いや対立が再燃してくるかもしれないし、システムを構築して維持するには終わりのない構築作業とメンテナンス作業と各方面の利害調整を同時並行的に繰り返すしかなく、それが何らかの事情で続かなくなってきたら瓦解の危機に直面するしかないのかもしれない。だからそこで何らかのシステムが恒常的に稼働しているとすれば、そこでは制度的な安定とともに過渡的な流動状態の中にあるとも言えるのかもしれず、機械を駆動させて製品やサービスを供給している一方で、そのようなシステムを維持するために多大な労力や経費がかかっているのだろうし、物や情報やサービスなどの生産や提供よりはそちらの方により多くの人的資源を必要としているから、産業人口の構成も生産に携わるよりも非生産的な労働者人口の方が圧倒的に多いのかもしれないし、ロボットやAIなどの産業技術がメディア上で脚光を浴びていることは事実だが、今のところはコスト的にも作業的にもまだまだ人手に頼っている実態があるのだろうし、そもそも人が労働して生活の糧を得るという資本主義的な産業システムが変わらない限りは、人が労働から解放されることはありえないのはもちろんのこと、ロボットやAIなどの産業技術によって仕事を奪われた人がどうやって生きてゆけばいいのかという問題も未解決のままなのかもしれない。
 根本的にシステムは人の存在を前提としていて、人が存在する限りは人の活動を前提としたシステムが組まれるだろうし、そうだとすると人がそのシステムの中に組み込まれて何らかの役割を果たすことにはなるのだろうが、たぶんそのシステムが上手く稼働しなくても、絶えずそんなシステムを構築しようとする過渡的な状態の中で人も集団も活動することになるだろうし、そのようなシステムを構築する過程の中で人材も資源も消費されるような成り行きを維持できる限りで、人も集団も何かやっているような体裁を保っていられるのであり、それが政治システムの流動的な捉えどころのなさを示しているのかもしれないが、そのような状態が絶えず内外からの批判にさらされているとしても、現実にそんなうまくいっていない状態を延々と維持できる状況があるわけで、それはある意味ではシステムとは言えない面もあるのかもしれないが、例えばそこから利益を得ている政党や官僚機構があるとすれば、やはりそれはある種のシステムと言えるのかもしれないし、うまくいっていない状態を延々と保つような政治システムの中で世間の理性や良識に訴えかける人や集団を疲労困憊させることで、政治的な実権を握っていることから生じる相対的な優位性を維持するやり方というのが、利権を共有する談合体制の中で自然と編み出されてきたと言えるだろうか。そんな中で体制に与するメディアが用いるやり方としては、常に批判をそらすために物事の本質から外れたところにキャッチフレーズのような論理の単純化を提示して煙に巻き、その結果として批判そのものがうやむやにされてしまうわけだが、そんなうまくいかないことを逆用する政治システムというのが政治的な主導権を維持する上で有効に機能するのだとすると、案外システムというのはうまくいってもいかなくてもどちらでも構わないような性質があるのかもしれず、普通はそんなものはシステムとは言わないのかもしれないが、ともかくそこで維持されている状態を長引かせるには必ずしも物事がうまくいく必要はなく、うまくやろうとするとかえって無理が生じて体制の崩壊が早まってしまう危険性があり、そうであるならうまくいくために実力を超える力を出そうとするような努力はせずに、大それたことには挑戦しないで分相応にうまくいかない状態を維持するような戦略に方針転換していけばいいわけで、うまくいかないなりにもそれなりに現状を維持している部分に関してはうまくいっているように見せかけながら誇大宣伝に徹していればいいわけで、しかもそれが見え透いた嘘やごまかしであっても、批判を受け流せるだけの談合勢力を保っていればいいのだろうし、ではなぜそんなうまくいかないシステムでも長続きするのかといえば、それが世の中で稼働しているシステムの全てではないからで、社会が部分的なシステムの総体から構成されているのなら、その中でも他のうまくいっているシステムに支えられながら維持されているシステムというのも存在できるのかもしれず、それが過渡的な状況の中で束の間の安定を保っているように見えるのではないか。
 そのようなシステムの中で人の意志以外で人をコントロールする社会的な要因としては、慣習と制度と機械があるように思われるが、その三者も密接に結びついて互いに影響を及ぼし合っていることは確かで、例えば機械である自動車が社会に普及するにつれて道が車道と歩道とに分かれるような変化が生じて、人と車との間で交通に関するルールが定められて、それが制度として広く世の中に定着して道路上で人と車の通行をコントロールしているわけだが、自動車を運転している時にはその交通ルールを守りながら運転している以外で、制度としては明確に定められてはいないものの、例えば他の車の流れに反して律儀に制限速度を守って、その場での車のスムーズな通行を妨げているような他人の運転が腹立たしく思われるとしたら、それは少しぐらい制限速度を超えてもその場の車の流れに同調するという慣習に反しているから腹が立ってくるわけで、そういう時には車の運転者の意識がそのような車の流れをスムーズに保つ慣習にコントロールされていることになるわけだが、それとは別に車の運転そのものは運転ハンドルやアクセルペダルやブレーキペダルなどの操作に関して、機械が規定している動作範囲から外れて制御することはできないわけだから、そこでは人が機械の動作に従わざるを得ない部分があるわけで、機械を制御しているつもりでも決められた手順に則って決められた動きしか許されないわけだから、そういう水準では人が機械にコントロールされていると言えるのではないか。そんなわけでもともとは人が作り上げた機械であり人が整備した道路であり人が制定した制度であり、また慣習という人と人との間での暗黙の了解事項であっても、それらがひとたび社会の中で定着すると、今度はそれが人の行動を規制し制御するように動作するわけで、そのような慣習と制度と機械が絡み合ったシステムとして人をその中に組み込んで動作していると言えるのかもしれないが、そんな中でも技術革新によって機械の動作が変われば、それに対応して制度も慣習も変わる可能性もあるわけで、それに関して車でいうなら自動運転技術が世の中に普及してしまえば、いちいち他人の運転が腹立たしく思われることはなくなるだろうし、自動運転していれば人が交通ルールを守っているのではなく機械がルール通りに動いているだけで、制度によって人がコントロールされているわけではなくなってしまい、制度自体も自動運転に対応して何らかの変更が加えられるだろうし、そうなると機械によって制度も慣習も変わったことになるのではないか。またそれはある意味では社会変革と言えるのかもしれず、もちろんそれを社会変革と呼ぶことに対しては多くの人が抵抗を感じるだろうし、それでは何か市民の政治的な運動によって世の中の仕組みを変えていこうとする理想からはかけ離れているだろうし、別にそれが社会変革だなどと強弁する必要はないわけだが、機械の技術革新が世の中の制度や慣習を変えるかもしれない例としては、そんなことも想像はできるのではないか。
 またそれとは別の成り行きを示す例として、例えば携帯電話が普及しだしてからは、機械が発する電磁波が人体や医療機器に悪影響を及ぼすから病院内での使用が禁止されたり、話し相手の見えない一方的な会話が耳障りだから、電車やバスなどの公共の乗り物内で携帯電話を使うのがマナー違反とされたり、車の運転中に使用するのも注意力が散漫になって事故の原因となるから禁止されたりと、新たな制度的な規制やマナーという慣習的な制限を加えることによって、機械の技術革新から制度や慣習の方を守る措置が施される例もあるわけだが、そういう具体的な日常レベルでの慣習や制度や機械の絡み合いについてはそれほど抵抗感なく認識できるし、それに従うにしろ逆らうにしろ従う理由も逆らう理由も明確にわかるのだが、システム内で人が意識できないコントロールがあるのかとなると、そういう作用があるとしてもにわかには信じがたいだろうし、それを突き止めて指摘しようとしても何か漠然としていて、はっきりとは示せない事態に直面してしまうのではないか。たぶんそれが政治的な領域であり、そういう領域では機械も単に会話する目的で使用する携帯電話や運転する目的で使用する自動車ではなく、携帯電話を使った会話を通して相手をコントロールする思惑があったり、運転する目的というよりは商品として車を買わせようとする思惑があったり、そうなると機械の用途や動作だけで説明できるような単純な目的ではなくなるわけで、それに関わってくる制度や慣習もより多面的な絡み合いが生じてくるのだろうが、逆にそこから単純な要素だけを抽出して強調されると、何か理解できるような気になって、そのような強調とともに主張される宣伝や煽動を信じてしまうわけで、そこで生じている制度や慣習の多面的な絡み合いに気づけなくなってしまうわけだ。少なくともそういうところでわかるのは物事を単純化して宣伝や煽動に活用しようとする側の思惑であり、そこで生じている制度や慣習の多面的な絡み合いを意識させないようにするために、物事を単純化してわかりやすく語ろうとしているわけで、意識しようとしてもその絡み合いが複雑すぎて意識できないから単純化しているとも言えるわけだが、その単純化の傾向にそれを主張する側の恣意的な思惑が潜んでいることは言うまでもなく、例えば社会的に名声のある著名人が何か不祥事を起こすようなことがあれば、その人が就いている役職を辞任しろとか引退しろとか声高に叫ぶ煽動者がいるとすれば、その煽動者の思惑は役職を辞任させたり引退させることによってその人の影響力を社会から取り除くことにあるのはわかりきったことだろうし、それと同時にその役職に就いている人が不祥事を起こす背景となる世の中の制度や慣習の複雑な絡み合いから目を背けさせることにもなるわけで、そうなるとそういう役職に就いている人の不祥事が繰り返される度に、その人の首と引き換えにして不祥事が繰り返されるようないかがわしい制度や慣習が温存されることになるわけだ。

 仮にそれを政治システムと呼ぶとすれば、年がら年中政治家や官僚などの汚職や不祥事を伝えるメディアから得られる印象としては、政治システムにはいつも不正行為が付いて回り、不正行為が行われないとシステムが回っていかないような仕組みとなっているのかもしれないが、不正行為が発覚した時にいつも決まって政治家や官僚などが無理に嘘やごまかしによって自らの主張を正当化するにしても、何かそうせざるを得ない事情があることは確かだろうし、そのような成り行きになってしまう事情というのが自らの権限の外からもたらされているとすれば、それは世の中の制度や慣習がそうさせている面があるのかもしれないが、経済的な利益への誘惑が不正行為を行わせて嘘やごまかしで取り繕わせる場合もあるだろうし、そうでなくてもそこで作動している何らかのシステムに従って行動すると必然的にそうなってしまうのなら、そこでは嘘やごまかしに頼らないとシステムが正常に動作しないことになり、そんなふうにしてシステムがうまく回っていくには不正行為に手を染める役回りが必ず必要とされてしまうとすれば、そんな役回りの人材を常に政党や官僚組織の側で用意しなければならなくなるわけだが、そんな犠牲者がつきもののシステムというのは、古代社会ではよくある犠牲の供物を用いた儀式を連想させるわけだが、そこで用いられる占卜の術というのが現代の合理的な基準から考えれば嘘やごまかしの一種だと言えるのかもしれず、そういう意味で現代の政治システムもそうした古代社会の犠牲の供物や占卜を用いた祭り事と地続きな面があるのかもしれない。そしてそのような政治システムには機械の動作が入り込む余地がないとすればそれはなぜだろうか。政治システムそのものが機械を排除した人間関係から構成されているからだといえばその通りなのかもしれないが、政治の何もかもが機械的に決められないわけではないだろうが、そこでは少なからず関係者の間で何らかの交渉が介在してきて、交渉においては必ず人の判断が優先される事情があって、そのような場合には法律に照らし合わせて機械的に決められてしまうような案件を捻じ曲げて、それとは逆の決定をするために政治的な権力が必要とされるのかもしれず、結果的にこれまでの制度や慣例を打ち破る決定を下すために交渉を介在させて、無理を通すために政治的な決定が下されるのであり、当然それを通常の法律に照らし合わせれば不正行為となる可能性が高く、そういう意味での政治的な権力の行使というのは必然的に制度や法律を破ることになり、しかもそれを行わなければならないのが本来なら制度や法律の庇護者となるべき政治家や官僚となるわけだ。だからひとたび不正行為が発覚すれば当事者の政治家や官僚は嘘やごまかしで言い逃れをしなければならなくなって、普段からそのような言い逃れがまかり通るような状況を整備しておかなければならないのだろうし、そのための議会での多数派工作なのだろうし、また現代的な大衆メディア社会においてはそのような行為によって世論の反発を招かないためにも、マスメディアと連携した世論操作も重要度を増すわけだ。
 またそうであっても本来なら公の場で機能すべき法律に照らし合わせて機械的に合法と違法を決定する制度的なシステムは必要なのであって、それは政治的な権力を持たない人々を管理し制御するために必要とされ、一方で政治的な権力を持っている特権的な立場にある人々だけが、法律を捻じ曲げて自分たちの意向を通せるようにしなければならないわけだ。それがいわゆる政治システムと言えるのかもしれず、法律で守られた制度的なシステムの上にそれを恣意的に捻じ曲げられる政治システムが必要であるのは、制度を管理し制御する立場の政治家や官僚が政治的な主導権を握っていることを活かすには、場合によっては法律を超えた決定をしなければならないからであり、法律を守って合法的なことしかできなければそもそも主導権を握っている意味がないわけで、法律を捻じ曲げて違法行為を行っても処罰されない権力を握ってこそ、政治的な主導権を握っていると言えるのだろうし、そういう意味で政治とは常に不正行為や違法行為の温床となることが宿命づけられたシステムなのかもしれず、ある意味でそれを恐れていたら政治家や官僚をやっている意味がないのかもしれないし、場合によっては見え透いた嘘やごまかしを平然と主張してでも事を成し遂げようとしない限りは、ただ法律に従うように強制された一般市民と同じになってしまうのかもしれないが、それの良し悪しは一応は選挙で有権者が決めることにはなっているわけだが、メディアが世論調査などの結果として示す有権者の意向というのが一人一人の市民の意向と同じとは限らないし、一人の市民がどう思っていようと結局は選挙で多数の票を獲得した候補者が当選するわけで、集団意志を体現している世論がマスメディアの世論操作によってどうとでもなるわけではないだろうが、現状で示されている選挙結果が誰の意向を反映しているのかといえば、一応は世の中の世論を反映しているのだろうし、それがマスメディアが行う世論調査と同じ結果ならそういう民意でしかないわけで、それがある一人の市民の意向と違っていようとそんなのは何の問題にもならないのではないか。もちろん一般市民の方でも違法行為を行わざるを得ない事情などいくらでも生じてしまう可能性があるわけだが、制度の方は合法と違法を区別して管理するシステムなのだから、別に違法行為を行ったからといってそのシステムから外れてしまうわけではなく、例えば違法行為が発覚して裁判で懲役刑などの有罪が確定すれば、今度は管理システムの一つである刑務所などの監視と処罰のシステムに組み込まれてしまうわけで、刑務所は犯罪者を受刑者として取り扱うシステムであり、そこでは機械的に他の受刑者と同じ動作を一日中強要されるわけだが、刑期の間は機械的にその動作を繰り返していれば、その期間が無事に終了すれば刑務所システムから出てこられるわけで、そうなると前科者の烙印が押されて他の市民の見る目も変わってくるだろうし、そのようなシステムを経由してきた人は慣習的に差別の対象になる度合いが高まるのではないか。
 そのようなシステムに限らずその中で働いている機械的な動作は一定の作業をこなすのに用いられ、それが経済活動である生産過程や流通過程や販売過程で使われるにしろ、消費者に売られて利用されるにしろ、何らかの一定の作業をこなすシステムを内包した機械が世の中に普及していくにつれて、それを使うことが慣習として定着していくと、便利だから使うというよりはそれを使うことを前提として他の関連する動作もその機械を使ったシステムの中に統合されていってしまい、それに関連する動作も含めてその機械なしでは活動が成り立たなくなってくる事態となり、そのような活動を伴うのがいわゆる制度一般の特徴かもしれない。だからといって別に制度には機械が必要不可欠というわけではなく、機械を使わない制度も世の中にはいくらでもあるのかもしれないが、制度が人々に一定の動作を要求していることは確かで、その中で人々を一定の動作に巻き込む機械の存在は重要であり、人々を何らかの制度に拘束する上で機械が果たしている役割を無視できないことは確かだが、一方で政治的な権力が制度の中で果たす役割となると、例えば制度の中で使われる機械の選定に関して特定の納入業者に便宜を測ることによって利益を得たり、またそうしやすくするために制度そのものを自分たちが権力を行使する上で有利になるように作り変えようとしたり、何かと公平かつ公正な判断基準を歪めるようなことをやりたがるわけで、その際に政治勢力が目指すのは制度を利用してその制度の支配下にある人々を自分たちの思惑通りに従わせたいということであり、何のためにそうしたいのかといえば、根源的にそれが権力を行使することだからとしか言えないのだが、そのようにしてそこで主導権を握っている政治勢力が権力を行使する成り行きを一つのシステムとして捉えられるわけで、いったんそのようなシステムが作動してしまうと、どんな勢力が主導権を握っていようと権力を行使したがるのであり、ただ自分たちの都合のいいように制度を作り変えて人々を従わせようとする以外にはやることがないのであり、そのように人々を従わせようとすることが目的化してしまうと、次第になりふり構わず強権的な行為も辞さないやり方が横行してくるわけで、そうなってしまうとそのようなやり方のエスカレートに歯止めがかからなくなってくるのかもしれないが、実際にそうなるともはやそのような政治システムも機械的な動作の比喩で語ることしかできなくなる状況になってくるわけで、そして場合によっては歯止めが利かない機械の暴走のようなことも起こり、実際にそうなって軍隊が住民を大量虐殺するような事態が起こると、何か人間の集団としての凶暴性が忌まわしい惨事を招いたかのように語られるわけだが、たぶんその頻度が高くなってきたのは産業革命以後の近代的な国家体制の中でのことだろうし、実際に人を効率的に大量虐殺できる武器や兵器などの機械が発明されて以後のことなのかもしれない。そしてそのような大量破壊兵器と政治的な権力システムの合体が住民の大量虐殺などの忌まわしい惨事を招いたとしたら、それは近代的な国家体制と資本主義経済の発達が招いた否定的な副作用と言えるだろうか。
 そうであるとしても実際には資本主義経済と近代的な国家体制は戦争による大量虐殺とともに平和時には人口爆発も招いたわけだから、どちらにしても機械の動作とともに人の活動にも一定の動作をエスカレートさせるような効果があったことは確かだし、それは情報革命以後の情報処理技術の発達とともに金融資産が飛躍的に膨張したことにも言えることかもしれず、何らかの機械技術の飛躍的な進歩が人の活動に極端な作用をもたらして、その結果として社会情勢を大きく変動させることになったのではないか。そしてそのような機械技術を伴った制度を国家レベルで管理制御するのが行政機構の役割となるわけだが、そこには制度を歪めて恣意的な権力の行使を狙う政治システムが介入してきて、その場で主導権を握った政治勢力の意向が通るような制度改正が目論まれるわけで、実際にそうやって制度が歪められたとしても、政治的な権力闘争が続いている過程ではさらにそれを歪めるような権力の行使が行われる可能性もあるわけだから、そのような行為の前提となる公的な制度の存在が必要であることには変わりないわけで、そこで政治システムに巻き込まれている政治家や官僚にしてみれば、絶えず公的な制度を利用して自らや自らが属する勢力の意向を通そうとする思惑があるわけで、結局そのような政治家や官僚や政党などにしても公的な制度なしには存在し得ないわけで、さらにそんな制度に依存して活動しているメディア関係者も含めて、制度の外で何が行われているかについては興味がないのかもしれず、制度外からもたらされる作用についてもあまり考慮していないだろうし、それが彼らの思考や意識の中で盲点になりやすいのだろうが、具体的に制度外から制度の中に組み込まれている人々に向かってはどんな作用が働いているのだろうか。たぶんそれはオカルト的な終末論が危惧する大げさな滅びの前兆ような深刻なものではなく、それとは逆の取るに足りないたわいない作用なのかもしれず、別に無視しても構わないような何の影響ももたらさないような作用なのかもしれないが、意識がそれにとらわれないでいられることが彼らに油断をもたらすのかもしれないし、それが意外なところで躓きの石となって、制度自体におかしな動作を引き起こすのかもしれず、たぶんそれが一般の人々の政治的な権力の行使に対する無関心を呼ぶわけで、それが熱狂とは無縁の冷めた反応とともに政治的な煽動にも宣伝にも関心を示さないような成り行きになっていくとすれば、それが制度の形骸化が促進していることの証しとなるだろうし、そうなってくると政治システムが空回りしつつあるとも言えるのではないか。それがまだテロや内戦などに明け暮れているような紛争地域では政治システムの暴走によって大量虐殺などが起こりうるのかもしれないが、そのような熱狂状態を通過してだいぶ時間が経過してしまった冷めた地域では、すでに大げさなことをあらかたやってしまって制度そのものが安定して、権力を行使する余地が次第に狭まってくるとともに政治システムの空転が目立ってきたとも言えるのかもしれず、確かにそこで主導権を握った政治勢力が権力の行使とともに盛んに制度を歪めようとしているのだが、普通に考えてそれがくだらないとしか思えない枝葉末節なことに権力が行使されているわけで、そのことがそれに関わっている政治家や官僚やメディア関係者が一般の人々の目には馬鹿に見えてくるという否定的な副作用を生んでいるのではないか。
 そのような政治システムやそれと連携して動作する経済システムを支えている社会的な慣習や法律が定める制度や産業技術が生み出す機械も一定の動作を伴ったシステムであり、その中で人が組み込まれたシステムのことを体制と呼ぶのかもしれないが、そうだとすると国家体制とはやはりすべての国民が組み込まれたシステムだとみなせば、定義としてはそれほど間違ってはいないだろうか。そうだとしてもその人の立場や地位や役職などによって、その組み込まれ方にも程度や強度の違いがあるだろうし、何か拘束感を嫌う向きにはあまり積極的には自らが国家体制に組み込まれているとは自覚したくないし、公務員でもない限りは実感が伴わないような感覚なのかもしれない。また国家と政府とを同一視することにも何かえも言われれぬ抵抗感が伴うのかもしれず、特に政府のやっていることを支持しない人たちはそれを区別してしかるべきだと思っているのかもしれないが、普段の感覚としては大抵は同一視しながら政治について語っている人が多いだろうし、特に政府を支持している人たちは是が非でも国家=政府という構図を周知徹底させたいと思っているのかもしれず、その方が現行の政権を担っている政治勢力には何かと有利に事が運ぶように思われるだろうか。たぶんその辺から話がややこしくなってくるわけだが、世の中で作動している様々なシステムにそれと自覚することなく従っている時がある反面、意識して逆らう時があるのも確かだし、その中で国家体制に逆らうとなるとそれ自体が大げさな表現になってしまい、そんな大それたことをやる気はないと普通は思われるだろうし、実際に普段生活している日常の中では国家体制に逆らっているなどという自覚が生まれることはまずないはずだが、その一方で政府のやっていることを支持できないと思うのはよくあることかもしれず、また大げさな表現としては具体的に国家反逆罪という罪名があることは確かだが、少なくとも日本では内乱罪や騒乱罪や外患誘致罪のようには具体的な処罰の対象としてはありえないし、もちろん国家体制に逆らうことが国家反逆罪に該当するわけではないだろうし、その辺は曖昧なままなのかもしれず、そういうところでシステムという言葉を使うこと自体が間違っているのかもしれないが、システムと呼べる一定の動作に積極的に加担している人にとってはそれがシステムとして機能しているように感じるかもしれないが、一方でその自覚がないままシステムに組み込まれているように見える人には、少なくとも何らかのシステムに加担しているとは思えないだろうし、システムが自らに一定の動作を課している自覚がないまま当人が一定の動作を行なっている現状があるわけで、何らかの慣習に従っている人はほぼ全てそうなっていて、制度にしても制度に従いながら自らが制度に従っている自覚はあまりないだろうし、機械を操作している時などは逆に自らが主体的に機械を使っていると思うことの方が多いのかもしれないが、そうやって無自覚に従っている時よりは、そのような動作に逆らう時の方が意識して逆らっている実感が湧いてくるのではないか。
 また従っていることを意識している時も不快感を覚えながらも嫌々従っているような時もあるだろうし、普段何かに従っていることを意識する時には従っている状況を肯定的に捉えることはなく、抵抗感や不快感を覚えるから従っていることを自覚できるのであり、自ら進んで積極的に従うような状況はあまりないのではないか。要するにそれだけ人を意識して従わせるのには困難が伴い、できればそのような困難を伴わずに人を従わせたいと思うのが普通の感覚なのだろうし、慣習にしても制度にしても機械にしても、それと意識せずに人を従わせるような動作を伴っていて、人を意識させないまま一定の動作へと導いているからこそ、あまり抵抗感を伴わずに世の中に普及しているわけで、それぞれで程度も強度も方向性も異なるのだろうが、そんな従っている自覚を伴わずに従わせる術が、体制と呼ばれる人を組み込んだシステムにも応用されていることは想像できるし、実際に何らかの政治的または経済的な体制に取り込まれている人は、抵抗感や不快感を覚えながら無理やり従わされている自覚がそれほど強いわけではないだろうし、それよりは積極的に体制のために役立ちたいという思いの方が強いのかもしれず、そういう思いが強まれば時には自らの身を挺して体制を守ろうとするだろうし、場合によっては体制の犠牲になることも厭わずに主体的に体制に尽くすような成り行きとなっていくのではないか。そしてそういう思いが強い人が多いほど体制内での人の結束が強まるわけだろうが、果たして現状の国家体制や政治体制あるいは経済体制の中で、そこまで強い思いにとらわれる要素があるのだろうか。どうもその辺が疑問に思われるし、現代的な国家体制や政治体制は必ずしもそういう思いの強い人から構成されているわけではないのではないか。それに関してそれをフィクションといってしまうと語弊があるのだろうが、果たして人々は国家というフィクションをどこまで信じているのだろうか。少なくとも政府の存在はフィクションではないし、行政機構として組織的に編成された集団であり、曲がりなりにも国家を統治している主体なのかもしれないが、それに関して人々は民主的な体制である現代的な国家体制や政治体制にそれほど不快感や抵抗感を覚えているわけではないにしても、逆にそのような体制に献身的に尽くそうとする人もまずいないのではないか。そういう意味で国家というフィクションを誰もあまり信用しなくなってきたのかもしれないし、それよりはもっと軽い感覚で政府のやっていることを支持したりしなかったりするレベルで政治に関わっているつもりの人が大半を占めていて、一般的に政治体制といえば政府や政党の体制であり、それが直接国家体制に結びついているわけではなく、政府=国家という虚構を信じている人だけが国家体制を実感できるのかもしれないが、現代的な感覚としては政府という実在と国家というフィクションを分けて捉えておいた方がよりリアリティを得られるのかもしれず、実際に政治の場で行われていることに対してどのような行動や活動が引き起こされるにしても、少なくとも愛国心だの国家反逆罪などという大げさな表現を想起させない程度で事態が推移していた方が誰にとっても好都合なのではないか。

 いつの時代でも人が個人として求めているのは主体性であり、自らの意志に基づいて主体的に活動したいわけだが、それは現実に依存している物事から目を背けることによって成り立つ活動形態かもしれないし、できれば自らが何に依存しながら活動しているのかをはっきりと自覚した方がいいのだろうが、それが難しいから依存している物事によって活動を規制され制限されていることに気づけないわけだ。社会の中ではそれが慣習であり制度であり機械である可能性があり、それらが組み合わさって何らかのシステムを構成していると、身も心もそのようなシステムに組み込まれて、システム内で働いている論理やそこで成り立っている価値観に囚われて、それ以外の論理や価値観を受け入れ難くなってくるかもしれないし、そんなところからシステムの内と外で生じている差異を巡って、その内側にいる人と外側にいる人との間で何らかの軋轢や対立や衝突などの争い事が起こるのではないか。だからといってそれを未然に防ぐ手立てはないのかもしれず、システムが動作すること自体が必然的に争いを引き起こすわけだから、対立や争いが起こったらそこで関係者が協議したり交渉して妥協を図るしかなく、交渉を通して対立し合う論理や価値観の差を縮めていくしかないのであり、絶えずそんなことを繰り返しながらそこで生じている物事を前進させていくしかなく、それを拒否すればただ対立が深まるばかりで、そうしているうちに交渉のハードルもだんだんと上がっていってしまい、しまいには交渉の決裂とともに互いが武力衝突などの暴力の応酬へと発展していくしかないのではないか。そうなっては困るのだとしたら世の中で作動している様々なシステムの間で対立や軋轢などが起こったら、そこで生じている差異を埋めるには可能な限り互いが交渉して妥協点を探り合わなければならないわけで、そんなことを絶えず繰り返しながら事態の進展を図っていくしかなく、そうすることによってその場の状況の停滞や膠着状態を打破するような成り行きへと導かれるのではないか。またもしそうならなくても対立が深まればしまいには武力衝突などの実力行使へと導かれてしまうのだから、それによっても何らかの事態の進展が起こるわけで、どちらにしてもそこで対立や軋轢をもたらすようなシステムを両立させるのは困難なのかもしれず、何らかの平衡状態や小康状態を経由するにしても、いずれは何らかの事態の進展が起こるのであり、そのような状況の中での人の活動は対立し合う双方の間で交渉を行うか、それともそれを拒否してより一層の対立を煽り立てるのかのどちらかとなる可能性があり、そのような状況の中で対立し合う両陣営のどちらかについていると否応なくそんな事態に巻き込まれるのかもしれないし、たとえそこで自らが主体的に活動しているように思えるとしても、実態としてはその場の対立という状態に依存していることは間違いなく、そこで交渉して妥協を図ろうとするにしてもそれを拒否して対立を煽り立てようとするにしても、自らの意志でそんなことをやっているというよりは、対立から生じる論理や価値観の差異を利用することで思考したり行動しているわけだから、いったん何かのきっかけで対立が解消して差異がなくなってしまえば、その人が主体的に行なっていると思い込んでいる活動も急速に衰えて無意味なものとなってしまうのではないか。
 そういう意味で人の活動から得られる主体性というものには、その人が巻き込まれている状況から生じる場の強度に依存している面があるわけで、何かそこで対立や軋轢が生じていて、それに対処しなければならない事態に直面していると、そこに積極的に加担しようとするほど主体的に何かをやっている実感を得られるのかもしれず、逆にそれを避けてなるべく関わらないようにするほど消極的な自己保身への度合いが強まり、そうなると現状でその場で働いているシステムへの依存度も強まって、システムの構成要素である慣習や制度や機械の動作に追従しようとするだろうし、それでうまくいっているように思われるほど自らが組み込まれているそのようなシステムから抜け出ようとはしなくなるかもしれないし、そのようなシステムへの依存体質の人が多いほどシステムの安定性がより強まるのかもしれない。そのようなシステムを内蔵した機械製品やサービスを売りにしている企業からすれば、それへの依存体質の人が増えるほど売り上げが増えて利益も増えるのだろうが、企業には別の競争相手がいるわけで、それが企業なら企業同士の競争となるわけだが、それが企業ではなく個人であるなら競争は成り立たず、例えば個人が主体的な活動を求めて依存体質から脱却しようとすると、そのような人が多くなるほどシステムへの依存を伴うような製品やサービスが廃れるかもしれないが、それも程度の問題でありまたその時の経済情勢にもよるだろうし、製品やサービスを買う余裕があってそれに魅力を感じられれば買うだろうし、金銭的に買う余裕がなければ買いたくても買えないわけだから、企業がいくら商品の宣伝に力を入れても売れないわけだ。またそれが企業ではなく行政機関が介在する何らかのシステムであれば、住民に選択権はなく強制的にシステムに組み込まれるような事態ともなるかもしれないが、それが嫌なら政治を利用してシステムそのものを廃止させるか改変させるかできるわけだが、それをやるには住民の代表を議会に送り込まなければならず、それが実現して議会で廃止や改正の法案が通れば住民の意向通りにはなるだろうが、そのような手続きを実際に行うには多大な労力を要するのだろうし、革新勢力がよく言うように草の根レベルの市民運動を下から盛り上げてゆかなければならないわけで、そのような運動を阻むものが世の中に張り巡らされている様々な制度や慣習がもたらす心身への拘束や、それへの住民の依存体質なのかもしれないが、結局そこでもシステムへの依存体質の住民への説得や、そのような運動を妨害してくる様々な政治勢力と交渉して妥協点を模索していくことになるだろうし、結局は交渉なしには何事も前進しないわけだろうが、果たしてそのような説得や交渉などの運動の主体として政党がその役割を担えるかというと、そのような活動を目指す住民にとっては担ってもらわないと議会を利用した民主的な手続きの段階で行き詰ってしまうわけだが、政党には住民よりも優先順位の高い各種の業界団体や労働団体などの圧力団体が関わっている場合が多く、政党がそのような団体の組織票に選挙の時に頼っているとすれば、住民の声が直接政党に届くことはないのかもしれないし、何の後ろ盾も名声もない個人の要望に答えるほどの余裕も余地もありはしないのかもしれない。
 実際に世の中では様々な利害関係が生じている中で、その利害調整を巡って様々な交渉が行われている実態があるのだろうが、交渉の中で駆使される駆け引きにおいては時には対立することが必要な事態も出てくるかもしれないが、たぶんひたすら対立しているだけでは交渉がうまくまとまるはずがないだろうし、まずは対立ありきの対決姿勢で交渉に臨めば、双方の言い分を言い合って議論が平行線に終わる可能性が高くなるのかもしれず、議会などの政治の場でそういうことをやって、その模様をメディアが伝えることに何か意義があるとしたら、対立するどちらの言い分が正しいかを一般の市民に判断してもらいたいということなのだろうが、果たしてそれでいいのかというと、事の良し悪しというよりはそんなことが延々と繰り返されている現状があるのだろうし、そのような論戦が世論に何か影響を与えているのかというと、それなりに論戦の内容に世論が反応している部分はあるのだろうが、それが選挙結果などに何らかの作用を及ぼしているのかというと、少なくとも何かしら作用を及ぼしているのだろうし、例えばそこで批判され不正や不祥事を追及された議員や大臣が場合によっては落選する事態にも陥っているのではないか。だがそのようなことがそれ以上に何をもたらしているわけでもなく、議会での論戦を通して対立を見せられて、議論しているどちらが正しいかの判断はそれなりに選挙結果に反映しているはずなのだろうが、それと同時に選挙においてどの政党の候補者に投票するかに関しての選択基準は、必ずしも議会での議論の内容だけではなく、他の要素もあるのだろうし、そういったところで様々な要素が総合的に判断された結果が選挙結果として出てくるのだろうし、そのような結果の良し悪しについても人によっていくらでも見解の分かれるところだろうが、何らかの結果が出ていることは事実としてあるわけだから、それはそれとしてそういうものだと受け止めるしかないわけで、そこから何らかの結論を引き出そうとして、引き出した結論を今後にどう生かすべきかとなると、それは議会で議論した各政党が判断することになるわけで、一般市民がそれを取り立てて判断すべきことでもないのかもしれず、たぶん判断が生かされた結果が今後の議会での論戦に反映してもらえばそれでいいとしか言えないのではないか。ただ少なくとも言えるのは今後も同じように議会での論戦がお互いの主張の言い合いに終始して平行線に終わるようなら、それも一定の動作を伴ったシステムになっているわけで、そのような議論が平行線に終わるシステムが作動していることに関しては、そのようなシステムに巻き込まれている議員や大臣や官僚たちに、結果として生じているそのようなシステムをどうこうできるような力はないと言えるのかもしれず、むしろそのようなシステムの中で得をしている勢力と損をしている勢力があるとしたら、損をしている勢力がそれを改めようとしない限りは、一方的に損したままとなってしまい、その損した結果が選挙結果にも表れているとしたら、損したままでは困るのならそのような議会の論戦内容を改めようとしなければいけないのではないか。
 経済活動の中で損したままではやがて活動そのものが成り立たなくなってしまうだろうが、政治活動の中でもそれは言えるのかもしれないし、現状で勢力がジリ貧状態となっている政党に関しては、やはり近い将来政治活動が成り立たなくなる危険性が高いだろうし、それでも今までと同じようなことを繰り返しているようなら自業自得とも言えるわけで、それをその政党の活動以外のせいにするわけにはいかなくなってくるだろうし、政党の活動そのものに何らかの欠陥があるのではないかと疑われても仕方のないことなのかもしれないが、別にその政党に落ち度があるとは思えなければ社会情勢に変化が生じていて、それに伴って生じている政治情勢の中では、もはやその政党自体が必要とされなくなってきたとも言えるのかもしれず、そうであるならその政党がなくても困らないような政治的な環境になってきたと言えるのではないか。そうだとすると議会での議論が平行線に終わるシステムは相変わらず発動している一方で、議会内の勢力図には変化が生じてきたことになるだろうし、その変化の中で不要な政党が出てきたということになるのではないか。それもそのような変化の良し悪しではなく、変化を招いたことの責任を誰になすりつけようというのでもなく、変化に対応した活動を行うことが肝心なのだろうし、今まで同じことを繰り返してきた結果を変えたければ、その結果の中で劣勢を強いられている側が何か今までとは違う対応をしなければならないのであり、逆に勝勢となっている側に今までとは違う対応を求めるのは筋違いだろうし、勝っている側がわざと負けるようなことをやるはずがないわけだから、そういう意味で勝っている側への無い物ねだりのような支離滅裂な批判などはもはや負けが決まっている敗者の断末魔の叫びでしかないわけだ。そんなことはわかりきった上で何をやればいいのかといえば、議会で議論が噛み合うように努力するしかないのかもしれないし、また会話が成り立つように工夫することしかできないのかもしれないし、それ以上に政党の体を維持したいのなら現状で実現可能な政策を提示することであり、批判とともに政策を訴えかけるべきなのかもしれず、それが実現可能であることを説得力のある説明とともに主張すべきなのかもしれないが、たぶんそんなこともわかりきったことであり、すでにそれを実行しているのにそれが一般市民のレベルにまで伝わってこないとすれば、やはり伝え方を工夫するしかなく、それに関してはメディア戦略などでも有効な手段を模索すべきだろうし、そのようなことをあれこれと試してみるべきで、実際にそれも行なっているとすれば、そんなことをやってみた結果が現状を示していると捉えればいいのではないか。政治に関して言うと今世界で実際に行われていることが実現可能なことであり、それによって実際にこんな世の中が実現していることは確かであり、それ以外のことは実現不可能ではないにしろ、実際にそれをやることに関して世論の支持を得られないからできない事情があるのではないか。少なくとも民主的な議会制度が機能している地域ではそんなことが言えるだろうし、機能していない地域でも機能するような試みが行われる成り行きにはなりつつあるのかもしれない。
 現実に社会の中で何らかのシステムが動作していると、そこで人の活動や物や情報などに一定の流れが生じて、それに関わっている人や集団に一定の利益がもたらされる成り行きとなるわけだが、それが人工的に計画設計されたあからさまなシステムでなければその存在は気づきにくいだろうし、それが形成される途中で様々な紆余曲折を経ながら結果的に成り立っているようなシステムだと、その場の状況に対応して自然に形成されたシステムだと言えるだろうし、また安定した利益を出さずにシステムの構造自体も常に流動的に変化し続けるようだと、もはやそれはシステムとは言えないのかもしれないが、長い目で見れば人工的に計画設計されたようなシステムであっても、安定して利益を出している期間はそんなに長くはないのかもしれないし、程度の差こそあれシステムがシステムとして機能している期間内であっても、何らかの変動が常に生じていて、またシステムの動作を阻害するような作用も周りから常に及ぼされている状況もあるだろうし、そのようなことからシステムにもそれなりに栄枯盛衰があるわけだろうが、それでも何らかのシステムを構築してそこから一定の利益を出そうとしている人や集団にしてみれば、常にそのようなシステムの構築を目論んでいることは確かだろうし、すでに構築されて運用されている実態があれば、可能な限りそのようなシステムの動作を維持継続させようとするのだろうし、そのためにはシステムに関係する人や集団を可能な限り管理しようとするだろうし、またその運用を阻害するような変動要因は可能な限り取り除こうとするだろうし、場合によってはシステムに逆らう人や集団には何らかの攻撃を加えることも辞さないような成り行きともなるのではないか。そして人は利益をもたらすシステムを継続させようとして害をもたらすシステムをやめさせようとするのだろうが、結局誰に利益をもたらして誰に害をもたらすのかがその判断基準となるだろうし、また社会の中ではより多くの人に利益をもたらすシステムが広範な支持を得るだろうが、確かに多くの人に利益をもたらすかもしれないが、ひとたびシステムに障害が発生すると広範囲に深刻な被害をもたらすようなシステムは敬遠されるだろうし、それの代表例が原発なのかもしれないが、実際に広範囲に被害をもたらす危険性はあるものの、いったん動き出したらなかなか止められない代表例も原発なのだろうし、その形成過程や運用過程において政治的かつ経済的な思惑が絡んでくると、止めたくても止まらない成り行きになってしまうし、単純な反対理由をいくら主張しても複雑で錯綜した思惑が絡んできて、結果的に多くの人に危惧や不安を抱かせながらも続いてしまうシステムでもあるわけだ。そんなわけで文明自体が様々なシステムの構築と運用から成り立っているわけだから、それを拒否することはできないのはもちろんのこと、多くの人に利益をもたらしてしかも害の少ない理想的なシステムの構築と運用への追求をやめさせることもできないのではないか。
 また産業が生み出すシステムである機械についても絶えず便利さや効率化を目指す方向へと人を誘導していくだろうし、それが利益をもたらす限りはそうした流れを押しとどめることはできないのかもしれないが、この先どこでそうした流れが限界を迎えるかはまだよくわかっていないところであり、また何を持って限界とみなすかもわからないところで、とりあえず経済的な利益をもたらす限りで機械は生産され続け、それが人にとって必要不可欠ならば利益が出なくても生産される可能性さえありそうだが、そこでも人にとっての利益とは何かということがよくわかっていないところでもあり、とりあえず金銭的な利益を得られればそれを利益とみなすしかないだろうが、本当のところはたとえ金銭的な利益を得られたところで、他の面で深刻な損害を被ればそれが利益とはみなせなくなってしまうだろうし、さらに言うと人にとって利益となることが人以外にとってはそうではないことはよくあることなのかもしれず、中には動物愛護団体のように特定の動物にとって損害を被るようなことを禁止させようとしている例もあるわけで、具体的には象牙やサイの角の商取引や捕鯨などを禁止させようとしているし、そのようなことも含めて誰の利益を優先させて他のどのような被害を食い止めるかについても、世界全体としてなかなか統一的な基準を作成できていない状況があるのかもしれず、そして特定の国が国益を追求することが別の国には被害をもたらすとしたら、そのような国益の追及もどの程度許されるかについての統一基準などありはしないし、そのほとんどは各国とも手探り状態でやっていることだとも言えるのかもしれないし、そうした面でも利益を得ている当事国と損害を被っている当事国とが交渉して妥協点を模索できればいいのだろうが、なかなかそうはいかない面があり、当事国間で軍事力や経済力や政治力などの面で力に差があるのが普通で、力がある方が有利なのが当然だろうし、一応は国連などの存在を背景とした何らかの法秩序が世界に張り巡らされていて、力に物を言わせて相手をねじ伏せたらそれで終わりとはならないような世界にはなってきていることは確かだが、それも加盟している各国が協調関係にある限りでその有効性を保っていられるだけで、個別の案件については国同士の敵対関係や連携関係が複雑に錯綜している中で交渉しなければならないわけだから、思うような成果を上げられないのはもちろんのこと、かろうじて協調関係を維持できればそれで満足しなければならない状況にもなっているのかもしれず、そうした中でこれも理想的な世界秩序を模索しようとする動きがあるのかどうかはわからないが、やはりそこでも多くの人に利益をもたらしてしかも害の少ない理想的なシステムの構築と運用への追求となってしまうのかもしれず、またそれは機械が目指す方向性にも一致するような追求かもしれないのだが、どうもそうした全体的なシステムの構築と運用の追求といった方向性は、結局人を行政が全面的に管理するような社会へと導く可能性があるわけで、それは昔流行った全体主義の再版となってしまう危険性があるだろうし、そうした流れには懐疑の念を抱かざるを得ないのだが、ではそれ以外にどんな目指すべき理想があるのかと問われれば、今のところは何もないとしか言えないのが正直な見解かもしれない。

 世の中で動作している様々なシステムにはそれぞれで機能も方向性も強度も性質も異なり、今のところはそれを一つのシステムに統合させようと試みる兆候はないわけだが、今後も複数のシステムが同時並行的に動作する状態が続いてくとしたら、システム同士で互いに影響を及ぼし合って関係し合い、相互に複雑に絡み合って錯綜する状況が続いていくだろうし、それがとりもなおさず世界の現状を物語っているわけだが、そうであるからこそ現状が現状としてフィクションにはないリアリティを持っているのであり、そんな現状を肯定すれば現状維持に加担していることになるだろうが、では世の中ではシステム以外に何があるのかといえば、システムの動作に抵抗する様々な活動があるだろうし、その中で絶えずシステムから抜け出ようとする意志が生じているのではないか。そこではシステムの動作に依存したいと思いながらもそこから抜け出したいという相反する感情が人の意識の中で同時に発生しているわけだろうが、そこから抜け出したいと思うのはシステムの呪縛から脱して自由にやりたいという主体性の発露だろうし、その一方でシステムの動作に依存しているのはそこから利益を得ている現実がそうさせているわけで、結局システムの動作に抵抗しつつも依存しているという状態は妥協の産物なのであり、絶えず人とシステムの間で葛藤が生じていて、それに対する妥協の戦略としては、システムに隙があればその隙を突いてシステム内で自らが自由に振る舞える領分を増やそうと画策するわけで、そのためには機会を捉えてシステムを管理する事業主体などと交渉を持ちたいのだろうし、そういったことがきっかけとなって自らの画策に同調する仲間を増やそうとして、システムに関わっている集団内で権力争いや勢力争いや派閥争いなどが生じるのではないか。だがそうなると本来の主体性の発露であるシステムから抜け出そうとする意志を尊重するのではなく、システム内で自らの力を強める方向で戦略の変化が生じるわけで、そのような戦略が成功するとシステム内で特定の人物や勢力や派閥などに優先的に利益がもたらされることになり、結果的にシステム自体に歪みが生じてしまうわけだが、それは人が組み込まれたシステムである体制の変動要因となり、システム内で主導権争いが続いている時期と争いが収まって力関係の秩序ができあがって安定する時期との間で生じる差となって現れるのだろうが、どちらの時期でもシステムの変動を起因としてシステム自体が崩壊する危険性があるわけで、一般的には争いが続いている時期の方が体制崩壊の危機を背景として各勢力に活力がみなぎっている場合が多いのだろうし、逆に争いに一定の決着がついて体制が安定して崩壊の危機が遠のいてしまった後は、活力がなくなってシステム自体が長期的に衰退傾向となってしまうのかもしれず、安定している方がシステム自体も長続きはするのだろうが、そのシステムに拘束されてシステムの中で不利な立場にある人にとっては、希望のない苦悩の日々が長く続いていくわけで、やはりそうなればシステムから抜け出て自由になりたいという願望が強まるのかもしれず、そういうところもシステムによって生じる弊害と言えるかもしれないが、システムに人が組み込まれているということ自体が、その中で組織的な権力関係が否応なく生じてくることを意味していて、権力関係は当然のことながらそれに関係する各人に力の不均衡を生じさせるわけで、そこでは必ず犠牲を強いられる人が出てくると言えるだろうか。
 資本主義経済の中ではその担い手である企業自体が商品とともに利益を生み出すシステムであるのだから、人がどのような立場で企業に関わるとしても当然のことながらそのシステムに組み込まれてしまうだろうし、企業が提供する商品やサービスの消費者まで含めれば企業とは無関係に暮らしている人などほとんどいないわけで、それはシステムから抜け出ようとする思い自体が不可能なことを示しているとも言えるわけだが、それでも各人は全面的に一つのシステムに依存しているわけではなく、複数の様々なシステムを利用している限りで、それへの依存度も相対的に軽減するだろうし、その中でどのようなシステムにも軽く関わっている程度であれば、そこから相対的には自由を実感できるのかもしれないし、複数のシステムに軽く関わっているにしても全面的には依存しないという関係を維持できれば、システムへの依存から生じる弊害もそれほど深刻にならない程度で済ますことができるかもしれない。またそうであるならシステムからの全面的な脱却を目指すのではなく、必要とするシステムを複数持つことによって相対的な自由を確保するような戦略も有効となってくるのではないか。そうなれば一つのシステム内での権力争いにもそれほどこだわらなくてもよくなるし、そのような複数のシステムを掛け持ちする人が多くなるほど権力争い自体もそれほど激しく行われることもなくなり、一つのシステムの中で強大な権力を手に入れたいと思う野望も影をひそめるかもしれないし、その手の野望が成就した結果として生じる独裁体制にもそれほど魅力があるとは思えなくなるのではないか。そういうことから考えられるのは、権力を分散させるにはなるべく各人が複数のシステムを掛け持ちするように努めるべきなのかもしれず、そうやって一つのシステムへのこだわりを減じることができれば、システムに関わっている人の自由もそれだけ大きくなり、システム内での権力関係によって犠牲を強いられる人も相対的に少なくなるかもしれないのだが、そうであるとしてもそもそも資本主義経済の中では金銭的な利益が優先されるわけで、収入を得られる先が一つであれば、当然そこが何よりも優先されて重要度も増すわけで、そんなふうに一つの企業から収入を得ている人がほとんどな状況下では、実質的にその働き先の企業のシステムに全面的に依存していることになってしまい、場合によってはその企業がその人の生殺与奪権を握っていることにもなってしまうわけだが、例えばベーシックインカムが実現すれば、行政機構が支給する最低限の生活を保障する金銭が企業への全面的な依存を軽減することにもなるのかもしれないが、やはりそれもそれだけでは成り立たない複数のシステムの内の一つに過ぎないのかもしれず、普通に考えれば収入を依存している企業をやめても、新たな働き先を見つけられればそこから収入を得られるわけで、企業の方でも労働力を必要としている限りである程度の人員を雇わなければやっていけないし、またその企業が手がける商品やサービスを買ってくれる顧客や消費者がいなければ、事業が続かずに倒産してしまうわけだから、一つのシステムだけで自立できるような仕組みにはなっていないわけで、そうやって企業自体も他のシステムに依存している面があり、結局は複数のシステムが互いに依存し合っている状況がある限りにおいて、一つのシステムに対する全面的な依存状態は起こらないわけだ。
 そんなわけで大きな一つのシステムを作ろうとするのではなく、複数の小さなシステムを作れば非効率だが権力を分散させることができるだろうか。たぶん実際にはそうではなく、目的や用途に合わせたいわゆる身の丈に合ったシステムが必要なのだろうが、現実には様々な条件の範囲内で構築可能なシステムが作られている実態があり、予算的にも労力的にも構築可能なシステムが人工的に作られている一方で、様々な紆余曲折を経て自然に成り立っているようなシステムもあるということであり、そのようなシステム内で特定の人が役職や役割を担う上で組織的な権力関係が生じているわけで、役職や役割を担っている人に何らかの権限が割り振られて、実際にその人の裁量で何かを行なっている実態があるのだろうが、全体として一定の動作を伴っていればそれがシステムとして成り立っているわけだ。そしてその中にはシステムの動作によって利益を得るのが必ずしもシステムの対象となる人々でなくても構わない場合もあるわけで、要するにシステムを構築したり建設する人や団体に利益をもたらす一方で、システムの利用者には利益がもたらせなくても構わない場合があり、その結果としてシステムが上手く動作しないで廃れてしまっても、その構築や建設に携わる人や団体に利益がもたらされるなら、かえって上手く動作しないで廃れてしまった方が、また一からシステムを構築する機会を得られるわけで、結局上手くいかないシステムを作っては壊し、壊しては作るという動作を繰り返していれば、その構築や建設に携わる人や団体には定期的に利益がもたらされるわけで、ではその構築や建設のための資金がどこから出ているのかといえば、それが公共のシステムなら国家財政から賄われるわけで、そんなふうにシステムの利用者にとっては無駄で無意味な公共投資がとめどなく行われている事例もあるのではないか。そしてある意味ではそれもシステムと言えるのかもしれず、実際に公的な資金を使って何らかの施設や建築物をひたすら作るシステムが発動していると言えるわけで、それによって土木や建設業者などが潤うシステムなのではないか。ただそれも公的な資金で賄われる限りで行われることであり、少なくとも財政的な制約があることは確かで、予算の範囲内で実行することが可能であるから行われているわけで、別に不可能なことが行われているわけではなく、無駄に意味のない予算が使われているというよりは土木や建設業者を潤すために使われていると捉えるしかなく、そうやって作った施設や建造物が大して一般の人々の役に立っていないとしても、その建設に携わった人や団体には利益が得られたわけで、それらの人や団体にとってはそれなりに役に立ったわけだ。要するにそうしたシステムも含めて世の中では様々なシステムが動作しているわけなのだろうが、そういうところで暗躍している政治勢力が権力を行使するための口実というのが民意であり、彼らは民意という世論の後ろ盾を得ながら公共のシステムに関わって、それらを制御するために権力を行使するのだろうし、そのような権力の行使が必ずしも金銭的な利益に直結しているわけではないにしても、それらの勢力と連携関係にある業界に利益をもたらしているとすれば、政治勢力と連携している産業界とはウィンウィンの関係にあると言えるだろうし、それを支持している一般の人々も何らかの利益を得ているつもりならそれで構わないわけだが、利益に直結していないだけに一般人のレベルではあまりはっきりしたことはわからないのではないか。
 それでも建前としてはそれらの公共のシステムは公共の領域で役立つために構築されようとするわけだが、実質的に公共機関の予算確保のための口実に使われてしまう場合もあるわけで、またそこに介入してくる政治勢力は連携している産業界のために予算を使おうとするのだろうし、そうなるとそこに関わってくる政官財を代表する勢力の事情が公共の利益よりも優先されることになるのだろうが、それでも公共の利益が優先されるべきという建前は相変わらず堅持されるだろうし、それが選挙に勝利して政治の場で主導権を握った勢力が権力を行使する口実となるわけだが、実際にそれを口実にして国民のための政策を推進しているはずなのだろうし、だからこそそれなりに世論を支持を得られているはずなのだろうが、その国民や国家のための政策というのが漠然としていて、具体的に誰のために行なっているかが曖昧なままなのかもしれず、時には政策による具体的な成果が強調されるとしても、成果自体が誰にとっての成果なのかもよくわからないわけで、それを批判しようと思えばいくらでも批判できるような政策の内容であることは確かかもしれないが、実際に行政機関や政党の側で政策を立案して議会での審議を経てそのような政策が実行される段になると、実質的にそれが行政機関や政党やそれと連携している産業界のために行われる政策となるにしても、国民や国家のための政策という建前が漠然としていて捉えどころがなく、何とでも言い逃れができることには変わりないわけで、現実に国民の中でも各人の立場によって利害が異なっていて、国家と言ってもその中の各地域でそれぞれに利害が異なるだろうし、そういう建前自体に虚構の部分が少なからずあり、政治勢力が権力の行使に利用する口実が虚構であるとしたら、ではそれを支持する世論が何らかの実態を反映しているのかといえば、それも世論調査や選挙結果から導き出される統計的な出力結果なのであって、各人が思っていることや願っていることがそれらの統計的な集計結果と必ずしも一致しなくても何ら不思議ではないわけだが、それらの結果に同調しようと思えばできないことはないだろうし、実際にそれらの結果から導き出される世論と同意見だと思い込んでいるつもりの人も結構いるのではないか。それは統計的な出力から得られる世論が人々の意見の最大公約数のように感じられるからであり、その最大公約数的な世論が大衆の集団的な意志を反映しているとしても、実際にそのような世論に後押しされて政治的な主導権を握った勢力が行うことが、世論と同意見だと思い込んでいる人の役に立つとは限らないわけで、この場合は役に立つということと支持することは違い、役に立っているとは思えなくても他の様々な事情から支持している人もいるだろうし、また実際に役に立つことと役に立っていると思えることとはやはり違い、政策が国民や国家の役に立っていると宣伝されればそう思ってしまう人も出てくるわけで、その辺の事情を正確に把握している人は少数派だろうし、その少数派の人たちが主導権を握った政治勢力の政策を批判している場合が多いわけで、その一方で多数派といえば世論に反映される最大公約数的な意見に同調するような人ばかりだろうし、そんなわけで政治の場で主導権を握っている勢力が行なっている政策が国民や国家のために役立っていると宣伝されてはいるのだろうが、それが多数派の人たちによって具体的に詳しく検証されているのかというと、検証している人や団体はそうではないとして政策を批判するわけだが、批判している人たちは少数派であり、その批判が多数意見としての世論に反映されるかというとそうでもないことの方が多いのではないか。
 だがたとえそうであっても、役に立つとか利益になるというのは何かをやるときの動機や理由になるわけで、それ自体は否定すべきことではないのだろうが、果たしてそれ以上に何かをやる必要が生じるだろうか。たぶんそれをやることが必要か否かという判断を経ないでやっていることがあるわけで、確かにそれを行なう上での動機づけや理由づけは、集団で何かをやるときには集団内の他の人たちを説得する上では欠かせないことであり、それを行なう上で他の人たちを納得させられる合理的な理由があれば、集団で行なう共同作業も比較的スムーズに事が運ぶ可能性が高くなるかもしれないが、役に立つとか利益になるというのは何かをやった後からもたらされるのであり、実際に役に立たなかったり利益も出ない結果がもたらされた場合には、集団でそれを行なうことに関して他の人たちを説得して回った人は非難されるだろうし、場合によっては詐欺と見なされても反論できないような立場にも追い込まれてしまうのではないか。そういう意味では集団で他の人たちを巻き込んで何かをやらせようとする場合には、思うような結果が得られなかった時には集団内での信用を失うというリスクを負わなければならず、たとえ勝算が高いように思われる場合でも一種の賭けとなる公算も高いのではないか。そしてそういう危険を回避するには、事前に明確な動機や理由を明かさないまま、何かをやるように仕向けるような体制や空気を集団内に作るやり方があり、そのような場合には集団内の特定の個人をターゲットにして周りからじわじわと同調圧力をかけてきて、その人が集団が求めている動作をやらざるを得ないような雰囲気を作り上げてから、その人にやるかやらないかの選択を突きつけるわけだ。それをやるなら集団内で特定の役割を割り振られるが、拒否すれば何の権限もない閑職に追いやられるか、場合によっては適当な理由をつけて集団から追放されてしまうこともあるわけで、そうやって個人を集団の意向に従わせる場合があるのだろうが、そういう場合はそれをやることがその人にとって役に立つとかその人の利益になるというよりは、その人が集団の意向に従って何かをやることが集団の役に立って集団に利益をもたらす限りで、その人が集団の一員として認められることになるわけで、それをやることがその人にとって必要であるというよりは、集団にとって必要であるからその人が集団が必要とすることやらなければならなくなるわけだ。そうなるとそれをやることが必要か否かの判断はその人が行なうのではなく、集団がその人に何をやらせるかを判断することになるわけで、常にそれをやるに際しての主導権はその人ではなく集団が握っていて、その際の指揮命令系統がどうなっているにしろ、何らかの合議を経て命令が下されるにしても指導的な地位にある人が命令を下すにしても、あくまでも集団の意志としてその人に命令が下るわけで、集団にその人がとどまる限りはその命令には逆らえないような圧力が絶えずかかってくるわけだ。そして人がそのような集団で構成される組織的なシステムに組み込まれてしまうと、何かを行なうための動機づけや理由づけを経ないでそれを行なっている状況が生じるわけで、それをやることがその人の役に立つとか利益になるというよりは、それをやる上での個人的な動機や理由はあまり重要視されない場合が出てくるわけだ。
 もちろん現代的な合法性を重視する集団では制度的な面で個人の権利を守るようなことが行われないわけではないだろうし、また集団の役に立ったり集団に利益をもたらすような個人が集団内で重用されることもあるわけで、その辺を単純化して個人と集団とを対立する視点で捉えるわけにはいかないのだが、世の中で動作している様々なシステムには集団的な組織形態が組み込まれている場合が多いわけで、それが何の役に立ち何に利益をもたらすのかといえば、どちらかといえば個人よりは集団の役に立ち集団に利益をもたらすことが重視される傾向にはあるだろうし、それが企業であれ政党であれ行政機関であれ、何らかのシステムを通じてそのような組織形態の役に立ち利益をもたらすようなことが優先的に行われている実態があるのだろうし、例えば消費者の役に立ち消費者に利益をもたらすような宣伝とともに商品やサービスが企業から提供されているとすれば、それは同時にそれを提供している企業の役に立ち企業に利益をもたらすような商品でありサービスであることは言うまでもなく、また行政機関が行なっている何らかの行政サービスがあるとしても、それが住民の役に立ち住民に利益をもたらすと宣伝されるとしても、一方ではそれが行政機関の役に立ち行政機関の利益となることを行政機関が行わないはずがないだろうし、それは政党の政治宣伝にも言えることかもしれず、一応は国民の役に立ち国民に利益をもたらすということがメディアなどを通して宣伝されるとしても、そういう宣伝によってその政党が国民に支持されているとすれば、まずはそのような政治宣伝がその政党の役に立ち政党に利益をもたらしていることにもなるし、またそれが実態を伴わない嘘の宣伝でしかなければ、世論が国民の役に立っているわけではないし国民に利益をもたらしているわけでもない政治宣伝によって騙されていることにもなるわけだが、そういう意味でどのような勢力から発せられているにしても、宣伝の類いには必ず一方的に宣伝する側に都合のいい内容が含まれているわけで、その一方で宣伝する側にとって都合の悪い実態にはあえて触れようとしないだろうし、そしてそれが宣伝であるならまだしも報道の場で宣伝ではなく報道としてそのようなことが行われている実態があるとすると、では報道とは何なのかと問わざるを得なくなるかもしれないが、たぶん報道と宣伝の境界は曖昧なのだろうし、メディアも集団的な組織形態である限りは、その集団自体の役に立ったり集団に利益をもたらすような報道を行ないたいのではないか。またそうしたところで区別をはっきりとつけようとすれば、資本主義経済の中では企業形態としてのメディア自体が成り立たなくなってくるのかもしれず、結局はそのメディアの商売対象である消費者に疑いを持たれないような報道を心がけるぐらいしかやりようがないだろうし、またそういうところで資本主義的な利益の追求という目的が揺らいでくるのかもしれず、たとえ資本主義経済の中で企業形態を維持しているとしても、単純な利益追求原理だけではやっていけない事情が生じてくるだろうし、そこで様々な勢力の間で価値観や論理を戦わせて葛藤が起こっていることに気づかなければ、何か単純明快なフィクションを信じればそれで済むような幻想を抱いてしまうのではないか。

 人が集団で構成される組織の中へと否応なく組み込まれて、その主体的な意志を抑圧するように動作する社会的なシステムの中では、人が組織の意向に従わざるを得ないような作用が働いていて、その作用が組織内の他の多くの人の行動や言動にも同じような傾向をもたらすわけで、それが社会規範と呼ばれようと共同体の中で共有される価値観と呼ばれようと、人の行動や言動をそれと自覚させることなく無意識の次元で縛っているものに違いなく、そうすることがアプリオリに正しいと思われてしまうからそうぜざるを得なくなるわけで、そうしていることが極めて自然に感じられて、改めてそれについて考える余裕を与えないままそうしてしまうから、それを後から他の人に社会的な合理性に照らし合わせて、そのような行動や言動が間違っていると批判されてしまうと、それに対しては反発や反感の感情しか湧いてこないわけで、それを単純化すれば社会的な合理性に照らして他人の行動や言動を批判するのがリベラルな態度であり、またそのような態度に反発や反感を抱くのが保守的な態度であるわけだが、すでに保守的な人は日常的に保守的な社会規範や価値観に従って活動している現実があるわけで、しかも多くの場合はそれを自覚していないわけだから、極めて自然な感覚からそうしていることを批判されてしまうと、それに対する反発や反感もよりいっそう強まるわけで、そのようなところから保守とリベラルの間で対立や軋轢が激化してしまうわけだが、リベラル的な思考が準拠する社会的な合理性というのは、単純に社会規範や共同体の価値観から外れた行動や言動をする人を認めるというよりは、そのような人も含めて新たな社会規範や共同体の価値観を作ろうとすることにあるわけで、従来からある社会規範や価値観では現状に対応できなくなってきたからそのような態度が生じるのであり、そういう意味で社会的な合理性というのは現状の追認に基づいているわけだ。だから保守との闘争に打ち勝ってリベラル勢力が新たな社会規範や共同体の価値観を作ることに成功すれば、今度はそれを守ることが新たな保守思想へとつながってゆき、結局保守というのは現状の中で社会的な合理性に照らして正しいと思われる社会規範や共同体の価値観を守ろうとする態度であることには変わりなく、社会が同質な規範や価値観で安定している状況であるならば、保守もリベラルも同じとなってしまうかもしれないが、進歩的な知識人や前衛的な芸術家などが絶えず新しい行動や言動の様式を模索している場合があるだろうし、また産業技術の発達がこれまでにない人の生活様式をもたらすような成り行きになって、そのような活動が従来からある社会規範や価値観を打ち破った時に、それを認めるか否かでやはり保守とリベラルの対立が再燃する可能性もなきにしもあらずだろうから、そのような対立は絶えず更新される宿命にあると言えるのかもしれず、人がそれと自覚することなく従っている社会規範や共同体の価値観から生じる対立というのは、社会が変動している限りは避け難いものであり、そのような変動と共に社会的な合理性というのも変わっていくのだから、保守的な態度やリベラル的な思考もそれに合わせて変化していくものなのかもしれない。
 一般的に言うなら保守にしろリベラルにしろ人は絶えず自らの活動を正当化したがるのであり、他人の活動が自分の活動と合わなければ批判したがる傾向にもあり、そのような傾向から社会的な合理性を求めるとすれば、他人の活動と自分の活動との間で整合性を得るにはどうしたらいいかという課題が浮かび上がってくるわけで、そうなると無用な対立や軋轢はなるべく回避するような模索が必要となってくるのであり、そのためにはお互いの活動について認め合える部分については認めた方が得策だという判断が生じてくるだろうし、そしてお互いの活動がぶつかり合う部分についてはお互いに譲歩できる部分については譲歩した方が得策だという判断も生じてくるだろうし、そうであるならそのような部分を探り合う上でも交渉するような成り行きになるのではないか。そして交渉して妥協できる点が見つかれば妥協して、お互いの活動に一定の制限を設けてそれで手打ちとなれば、それ以上の無用な戦いを避けることができるわけだが、そのような成り行きに至るケースがあるとしても、その途中の様々な紆余曲折を経た上でのことだろうし、現に社会が変化している途上にあるとすれば、今はその途上で発生している様々な紆余曲折を現に体験している最中だとも言えるわけで、その中には国家的宗教的民族的な対立や軋轢もあるだろうし、場合によっては凄惨なテロや内戦が繰り返されている最中の地域もあるだろうし、それほど極端な事態ではないにしても地域的にも社会的にも何らかの争いが起こっているのが普通の状況なのではないか。そしてそこで対立を煽り立てて争いを拡大させるよりは、無用な対立や軋轢を回避してできるだけ争わないようにした方が、争った場合に生じる被害を少なくすることができるわけで、そうした方が社会的な合理性に照らして正しいと思われるなら、そういう方向での模索が世の中の主流となってくるだろうし、実際に極端に暴力的な争いに明け暮れている地域よりは、比較的平和な状態で推移している地域が多い現状があるとすれば、人が大量に殺傷されて建造物や施設が破壊されるような物質的な被害が出ない方向で事態の収拾を図ることが世の中の主流となってきているのかもしれないが、メディアから伝わってくる情報ではまだ世界各地でテロや内戦によって多数の死傷者が出ている状況が毎日のように伝えられている現状があるわけだから、現状がどうなっているかは実際にはよくわからないわけだが、少なくとも身の回りで何も争いが起こっていないわけではないだろうし、実際に自身が争いの渦中にいれば、争いを避けることがいかに難しいかを身にしみて痛感させられるのではないか。だから争いは可能な限り避けた方がいいと思うにしても、現実に争いを避けられない事態に直面してからそう思うわけだから、その場で社会的な合理性に照らして身の振り方を考えるような余裕など与えられない時の方が多いかもしれないし、自分の判断よりも組織の判断が優先される場合は、その場の成り行きに従うしかないのかもしれず、現にそうした方が結果的にうまくいく場合もあるわけだ。
 人が集団的な組織から離れて思考できるような場合に、人の主体的な意志が何を目指しているのかといえば、自らを限界づけている様々な制約や束縛から自由になることを目指していて、ある意味ではそれが経済活動の動機ともなるわけで、実際に資本主義経済の中で経済活動に成功して経済的に豊かになれば、金銭的な制約から解放されて相対的に自由度が増すことは確かであり、経済的な豊かさを目指すことが資本主義経済の中で発動している共通の規範や価値観であるとすれば、それに束縛されていることを承知でなおそれを目指すことが主体的に活動することだと思われるわけで、何かその辺で矛盾しているようにも感じられるわけだが、そこでの規範や価値観が主体的に活動することなのであり、さらに言えば経済的な自由を目指して主体的に活動することが、資本主義経済の中で人を束縛する規範であり価値観だと考えれば、要するにそれが自由主義だと言えるのではないか。つまり自由主義の自由とは経済的な自由であることが暗黙の前提としてあり、経済的な自由がある限りで政治的な自由も実現するという成り行きがあるわけで、政治的な自由はそれだけでは実現し得ないから、人は経済的な自由を獲得するために活動するのであり、それがある意味では資本主義経済を発展させる要因にもなってきたのではないか。そして経済的な自由は誰にも平等にもたらされるわけではなく、競争を勝ち抜いた者のみが獲得できるとしたら、そのような自由主義が社会共通の規範や価値観となっているところでは、人々の間での経済的な平等はないわけで、経済的に豊かである人ほど相対的な自由度が増して、好き勝手なことができる社会となっていて、経済的に貧しい人ほど何もできないようなシステムとなっていると言えるだろうか。経済的な尺度を基準に考えればその通りなのかもしれないが、それが世の中の価値基準の全てではないことは確かだろうし、そもそも社会規範や価値観として自由を目指すことが求められているのだから、自由を目指すことが規範や価値観として自らを限界づけているという矛盾に関しては、そこに解決不可能な問題が提示されているわけで、答えが出ないわけだからそれを突き詰めて考えてはいけないだろうし、実際にそこで思考停止しないと規範や価値観としての経済的な自由を目指すことを正当化できなくなってしまうのではないか。それに関しては中国などは社会主義的な平等を捨てて、経済的な自由を求めて改革開放路線に舵を切ったから経済的に成功したのだろうし、そういう意味では自由と平等の間に横たわっている矛盾を止揚することはできず、それは未だに未解決の問題であり続けているのだろうが、矛盾を止揚しようとする弁証法的な行為が世の中で積極的に行われているのかというと、どうもそうではない実態があるのだろうし、その場の情勢や成り行きにまかせて絶えずそこから立場をずらし続けるような態度が人には可能であり、全体的な視点から物事を考えるのではなく、絶えず自らを限界づけている社会的な制約や拘束を踏まえつつ、そこから生じる限定的な立場から限定的な物言いに終始するわけで、そしてさらにそこから場所を変えてまた別の限定的な立場から語ることも可能なのであり、そうなるとある一定の条件下では言えることが別の条件下では言えないことになってしまうわけだ。
 だからたとえ経済的な豊かさを求めることが経済的な自由を目指すことに直結するとしても、それが政治的な自由を実現するわけではないし、そこで政治的な自由主義に何らかのずれが生じていることにもなるのだろうが、普通はそれらを一緒くたにして自由主義というわけで、そういうところで新自由主義と呼ばれる政策を推し進める政治勢力が、言論や報道の自由には抑圧的に臨んでしまう事情にも結びついてくるわけだが、規制や障壁を取り払って自由な貿易を推し進めるという点では自由を目指すわけだが、全ての面において自由を目指すわけではなく、それを単純化すればそのような自由主義を標榜する自分たちを批判する自由は認めないという態度には矛盾を感じないわけで、それを全体的な視点で考えてしまうと、自由を制限する自由主義という矛盾が生じてしまうわけだが、そこに都合のいい条件付けを施すと矛盾ではなくなってしまうわけで、そうやって自らの立場や態度にとって都合のいい条件付けを駆使することによって、そのようなことを行なっている自らを正当化する手法がとられるわけだが、それは社会の中で共通の規範や価値観に則ってその構成員を限定し限界づけるやり方にも合致するわけで、そうすることによって無限の彼方を目指す神の領域への侵犯行為から解放されたことは事実としてあり、それと引き換えにして人は労働や言語や寿命などの有限的な限界内でしか活動できないことを逆説的に証明していると言えるのではないか。だがそう述べてしまうと主体的に振る舞いたい意志を貫き通したい向きには納得しがたいわけで、そのような限界を取り払って自由を求めたいとは思うだろうが、何かそこに限界を打ち破る突破口があるのだろうか。限界を設けることによって矛盾に直面しなくて済むようになったことが文明の進歩だと言えば、それが屁理屈だとしても暫定的な答えにはなっているのかもしれないし、限界内での人の活動の自在さを保証するものでもあるのかもしれないが、いつまでもそれが世の中で通用するわけでもないのだろうし、そこで都合よく設けてしまう限界や限定を巡って対立や軋轢が生じてしまうのも、社会の中で各人の立場の違いが浮き彫りになるところでもあり、対立を止揚するのではなくずらしてごまかす手法には欺瞞がつきものであることも、それが欺瞞や偽善であることが周知の事実になるほど多くの人が納得できなくなってくるわけで、それでも絶えず問題化するたびにその都度争点や論点をずらしながらごまかす以外には方法がないとしたら、それ以上の文明の進歩は期待できなくなってしまうわけだが、そのような成り行きを文明の進歩だと肯定的に捉える必要もないわけで、例えば世の中で何か問題が発生するたびにその都度思いがけない紆余曲折が起こると考えれば、状況的には納得できるのではないか。そしてそこで起こる紆余曲折が人の思考や行動にずれをもたらすわけで、そのずれが場合によっては社会的な規範や価値観による支配や拘束を逃れる思考や行動ももたらすわけだろうし、首尾一貫した思考や行動を阻害すると同時にその場の偶然の巡り合わせから生じる様々な作用をもたらすわけだ。そしてその偶然の巡り合わせがそのような作用に直面する人々を驚かせ、場合によっては感動させもするのではないか。
 実際には経済的な自由を求めて経済的な規範や価値観に束縛されながら活動しているわけだから、実質的には自由に活動しているわけではなく、少なくとも規範や価値観に束縛されていることは確かなのだが、具体的にはそこで生じている慣習や利用している制度や使用している機械に束縛されているわけで、その中でも人が機械の動作に拘束されながら活動することと、人自身が何らかのシステムに組み込まれて動作することが、同じ次元で起こっているとは思えないのは、機械が道具の延長上で人の主体的な活動を助けていると思われるからだろうか。人を組み込んだシステムである社会的な体制内で拘束感を伴った不快な気持ちになるのは、その内部で自由を奪われて囚われの身となっているように思われるからかもしれないが、例えば実際に機械設備を伴った施設の中で機械を使って作業している時は、人が体制的なシステムに組み込まれてさらに機械の動作に拘束されながら活動していることになるわけだから、より一層の拘束感を伴って囚われの身になっていることになるのかもしれないが、実際にはそれほど不快には思われないのかもしれず、その理由としては機械の操作に心を奪われていて拘束感を感じる余裕すらないからだろうか。そこで作業に集中している間は機械が人の主体的な活動を助けているように思われるだろうし、機械の操作に夢中となっている間は体制内で心身を拘束されるような不自由さを忘れることができるのかもしれない。しかし機械ではなく人から直接指図されるような時に嫌な抵抗感を抱くのは、人の意識の中では機械と人とを区別していて、同じ指示を機械からの動作として受け取れば大した抵抗感もなくその通りに従う場合があっても、それは機械があらかじめ組み込まれた動作しかしないから、それに抵抗したり反発しても無駄だとわかっているからで、一方で人が発する指示は権力関係を含んでいて、指示を出す側が指示を受け取る側よりは立場が上であることを暗黙に意識するわけだ。そうなると対等の立場ではないことがはっきりしてしまい、指示されている自分が指示する相手より下に見られているようで不快になってくるわけで、そのような不快感や反発心が人が組み込まれたシステムが上手く動作しない要因となってくるわけだ。そういうことを考慮すればなるべく人が人に向かって命令を下さないシステムにした方がより効率的に動作するように思われるわけで、そういう傾向を突き詰めて出される結論として、例えば人をシステムから完全に排除すれば何が出来上がるのかといえば、それが機械そのものとなるのは言うまでもなく、人を排除してシステムの全ての工程で機械を導入できれば、人が人に命令して反発を招くような非効率な面を取り除けるのかもしれないが、後はコストの問題となり、機械を導入するよりは人を使った方が低コストなら人を使う選択肢も出てくるだろうし、そういう場合はシステムに組み込まれた人をなるべく不快にさせないような工夫が求められるのかもしれないが、それも作業コストや効率性と天秤にかけながら行うことになるだろうから、いちいち作業員のご機嫌伺いをしながら作業を進めるような余裕のないところでは、当然そんなところまでは考慮されないだろうし、結局は機械化するにしても人を雇うにしても、そこでシステムが上手く回っていける範囲内で様々なことが考慮されるわけで、システムに組み込まれた人の心理的あるいは身体的な環境をどの程度まで考慮に入れるかは、その場の経済的な状況次第となるのではないか。
 人が不快感や反発心を抱く組織内での権力関係は、そこで生じている不平等で不均衡な身分や地位の上下関係とともに、動作しているシステム自体を歪ませる作用もあるのかもしれず、どのように歪ませるかに関して人の不快感や反発心を取り除く方向で歪ませようとすれば、それは不均衡な権力関係を軽減させるように工夫することになるのだろうが、それが競合している他のシステムよりも非効率であればシステムそのものが衰退してしまうだろうし、またシステムの効率性と機械化が一致すれば人手をなるべくかけないような自動化されたシステムになるのではないか。そしてそれが産業システムならそれによって利益が出るか出ないかでそのようなシステムが存続するか衰退するかが決まってしまうのかもしれないが、一方でそれが人手を過剰にかけた議会制民主主義などの政治システムとなると、たとえ非効率で無駄な経費ばかりかかるとしても、民主的な政治理念を守るためにはやめられないと誰もが思うところかもしれないし、基本的に民主的な政治システムは金銭的な利益を得るためのシステムではなく、しかも不均衡な権力関係をできるだけ軽減させようとするためのシステムなのだろうし、そのために法の下での国民の平等な立場を保証しているはずなのだろうが、たぶんそれが金を多く稼いだ人が大きな顔をできる経済的な自由主義の論理とは相容れないわけで、逆にそういう人たちに権力が集中するのを防ぐための方便が、法の下での国民の平等な立場を保証するという民主主義の理念であるわけだから、そのような政治システムが経済的には非効率であるのは当然なのかもしれないが、放っておけば経済的な自由主義の論理の方が優勢となることは資本主義経済の中では自然な成り行きであり、民主的な理念を守り抜くにはそういう自然な成り行きに逆らうしかないのかもしれず、そのような抵抗姿勢には一見無理があるように思われるわけだ。そしてさらにもう一方に官僚機構などの行政のシステムもあるわけで、そこでは民主的な政治システムとは、不均衡な権力関係を維持する上で対立していて、また資本主義的な産業システムとは非効率な行政システムを維持する上で対立しているはずなのだろうが、その辺の対立具合が政治システムと産業システムとでは微妙に力を作用させる点が異なるのかもしれず、まずは官僚機構の利益を守る上では民主主義の理念などさほど重要視していないわけだから、他の西欧諸国と付き合う上で対外的にはそうでもないかもしれないが、国内的には法の下での国民の平等など保証されていなくても一向に構わないだろうし、そういうところでは民主的な理念の形骸化に拍車をかけるような作用を及ぼすだろうし、一方で産業システムの効率化に関する面では、民間の企業が利益を出すような政策ならそれだけ税収が増えるから推進したいのだろうが、行政システムの効率化となると、効率化して予算を削減するような試みには自分たちの力が削がれることになるから抵抗するだろうし、そういうところで推進と抵抗が相半ばするような状況となるかもしれず、その辺のどっちつかずの対応が競合する政治システムと産業システムと行政システムとの間でうまく噛み合わない原因となっているのかもしれない。

 現状で民主的な政治システムが機能している面があるとすれば、それは選挙や議会や議院内閣制や大統領制などの制度的かつ形式的な面であることは確かで、そうした制度面での機能が誰のために役に立っているのかといえば、実際にそのような制度を利用して働いている政治家の役に立っているわけで、政治家にとってはそこが自己実現の場であり、公的な制度によって活動の場が用意され、実際にそこで彼らは活動しているわけだ。そしてそのようなシステムを管理する行政機構と関係を持ち、行政機構に働きかけて自分たちの意向を行政に反映させようとするのだろうが、そこには行政に働きかけようとする政治家側の意向とともに行政機構自体の意向もあるわけで、それらが渾然一体となっているところでは、政治家の主張がどちら側の意向を反映しているのかわかりにくくなっていて、そもそも政治的な意向と行政的な意向が対立していなければ、別にそれらを区別する必要さえないのかもしれないが、そうなってしまうと世論調査や選挙などで結果的に明らかとなる世論と呼ばれる民衆の意向が政治や行政の場で反映される余地があるのかというと、どうもそれもよくわからなくなってしまうのではないか。そしてわからないといえば本当に世論と呼ばれるものが民衆の意向を反映しているのかというと、世論調査などに介在してくるマスメディアの意向が世論に反映しているのではないかと疑いたくなってくるわけで、そういう意味でそれがどういう経緯から出力されるにしても、そのような出力結果には常にそのような出力結果をもたらすシステムを管理している側の意向が反映されているのではないか。要するに選挙や議会や内閣などの公的なシステムには、それらを管理している行政機関の意向が反映していて、民間の世論調査などに関してはそれらを管理しているマスメディアの意向が反映しているわけで、それらも含めて世の中で動作している様々なシステムにはまずはそのシステムを管理している何らかの団体や組織の意向が反映しているわけで、結局そのようなシステムを利用する人たちはシステムを管理している機構からの影響を受けていて、場合によってはそれらの機構の管理下にもあるわけで、さらにいえば意識をコントロールされていることにもなるのではないか。そうだとするとシステムの利用者は初めから不利な状況にあって、自分たちの意向をシステムに反映させることは容易でない状況にあるのではないか。そしてそこに権力関係があるとすると、権力を行使するのは常にシステムを管理する側で、利用者が権力を行使できない制度になっているわけではないが、建前上は選挙によって国民の審判が下ると言われているにしても、事前の世論調査によってマスメディアの管理を受けながら世論が誘導されていることは確かだし、世論調査以外でも偏向報道などによって常時世論誘導が試みられているし、世論自体がマスメディアによる調査の対象となっているわけで、調査するということは調査対象を管理することにつながるわけだから、一般の市民がそのような世論に同調することはマスメディアによる管理を受け入れることになってしまうのかもしれず、そうなると民衆側に管理を受け入れるとか管理に逆らうという選択が可能なのではなく、常に世論はメディアの管理にさらされていて、それは民衆の世論というよりは管理するメディア側が民衆の同調を期待して出す世論なのではないか。
 少なくとも社会の中で何らかのシステムが作動しているとすると、そこで主導権を握って権力を行使しているのはシステムを管理する組織であることは確かであり、システムの利用者はそのシステムを利用している限りでシステムの管理者には逆らえず、選挙というシステムに関しても形式的には選挙管理委員会という公的で中立な組織が管理していることにはなっているわけだが、選挙に至るまでの過程において、世論調査を利用したマスメディアによる世論の管理から始まって、選挙時期の決定やそれに合わせた有形無形の世論誘導を目的とした政治的な駆け引きや、メディア上での宣伝や煽動が繰り返されるわけで、そうしたところで政官財+マスメディアからなる利権複合体を構成する人々が跳梁跋扈するのだろうし、別にそうした活動が何らかのはっきりしたシステムによって管理されているわけでもないだろうが、少なくともそうした過程の中で一般の人々の主体的な意志が世論に反映される余地などないだろうし、そのほとんどは多数意見として最大公約数的に単純化されてまとめられてしまうわけで、それは結局特定の誰の意見でもないし集団意志のようなものとなるしかないわけだが、そのようなシステムではそういう意見しか汲み上げられない仕組みだと言えばその通りなのかもしれないし、別にそれがシステムの欠陥だとは言えないわけで、民衆の中の一人一人の意見などいちいち聞いていられないことは確かだし、別に政治や行政に対して特に独創的で独自の意見を持っている人などもそうはいないだろうし、いたとしてもそんな意見など常識はずれでメディアの場でも政治の場でも聞き入れられないような妄想的な代物でしかなく、結局は世論調査が示すような最大公約数的な意見がメディアの場でも一般市民の間でも妥当だと思われてしまうのではないか。そしてそのような意見を政治や行政の場に反映させることがどんな意味を持つのかというと、そのような意見は漠然としたものだから何とでも解釈が可能になるだろうし、そうであるから政治の側でも行政の側でもそのような意見を最大限に尊重しながら政治活動や行政活動を行なっていると主張できるのではないか。そして最大限に尊重しているということは政治や行政に起因する諸般の事情から尊重できない面もあるということであり、それに関してまずは予算的な制約があり、そして他の政策との兼ね合いもあり、さらに内外の情勢が許さない面もあり、などといくらでも言い逃れができるだろうし、それでも民衆の世論を最大限に尊重しながら政策を遂行していると主張できるわけで、それは個々の政治家や行政担当者の人格や技量から判断されるようなことではなく、システムの構造がそのような活動を許しているとしか言えない面なのではないか。だからと言って政治の場でも行政の場でも全ての活動が制度的に同じようにしかならないということではないだろうし、システムの構造であるサイコロを振る腕の動作は一定であっても、サイコロを振って出た目の数は振るたびに違う目が出るわけで、そういうところで偶然的な要素があるのは確かなのだろうが、そのようなシステムがいくらひどいからといって、システムの構造である制度の改革を訴えるだけではうまくいかないのはわかりきったことで、システムを利用する人々の意識を変えることも必要であることもわかりきったことなのかもしれないが、もしかしたら現状ではどちらの変革もうまくいかない宿命にあるのかもしれない。
 有史以来の歴史を振り返ってみれば人の活動は世界の中で常に環境を取り返しのつかない状態に変形してきたわけで、それは現状が過去の状態へは後戻りできないことを示しているのかもしれないが、すでにそのような活動によって人類自体が地球上で繁栄しているわけだから後戻りする必要もないのだろうし、常に現状の上に新たな出来事を積み重ねて現状を変革する成り行きとなるのだろうし、意識して現状を変革したい勢力は絶えず自分たちに都合のいい新たな既成事実を積み重ねつつ現状を思い通りの環境へと作り変えようとしているのかもしれないし、またそのようなやり方に反対して抵抗を試みている勢力もあるわけだが、どちらにしてもその中で組織的な活動を行なっている勢力は利益を生み出すシステムを構築して、そのようなシステムを世の中に定着させることで、状況を自分たちの有利になるように制御したいわけで、世の中でそうした様々なシステムが競合しているなら、そのようなシステムを構築して運用している様々な勢力が競合状態にあると言えるだろうし、その中でも企業と行政機関が代表的な勢力なのだろうが、中にはそれらの勢力に食い込んで利益を上げようとしている勢力もあるわけで、その代表例が政党とマスメディアなのかもしれず、政党は一般市民と行政機関の間に入り込んでその橋渡し役を担いながらも、そこに利権の根を張って勢力の拡大を図ろうとするわけで、またそれと同じように企業と行政機関の間にも入り込んで中間マージンをかすめ取ろうともしているわけだが、マスメディアの方は組織形態としては企業そのものであり、活動は他の一般の企業と同じなのかもしれないが、商売としては行政機関と一般市民と政党と企業の間に入り込んでそれら全てから情報を入手して、入手した情報をそれら全てに伝えることによって利益を得ようとするわけで、要するに情報の売買によって利益を得る情報の商人という形態であるわけだ。そしてそのように現状を捉えるなら何もそこで政治と経済を区別する必要はなくなり、その全ては経済活動によって成り立っていて、政党などの政治活動もマスメディアの報道活動も商売と捉えるなら、それらと他の商売が何か異なることをやっているわけではないと認識しても、それほど間違ってはいないように思えるのだが、実際にはそれら全てを商売として同一視できない面があることも確かで、例えば一般の市民が行政機関から税金を徴収されるのと引き換えにして何を買っているのかというと、保険会社や警備会社から身の安全を買っているのと同じだとは言えない面があるだろうし、選挙で政党の候補者に投票するのは自分の意見をその候補者を通して国政に反映させるためだと思い込んでいる一般市民がいるとしても、それが経済活動と直接関係があるとは思えないだろうし、どちらにしても商売とは別の何か重要な活動が担われているように思われるのではないか。またマスメディアにしても商売とは別に、国民の知る権利や報道の自由や批判の自由などを守る活動を担っているように思われるだろうし、だから政府や議会の与党などに与する保守的なマスメディアはそれらの活動を怠っているように思われるから、何かと反体制的なメディアから批判されているのだろうし、そういうところで全てが商売だとは片付けられないから、行政や政党やマスメディアには何か他の企業活動とは違う特別な感情や幻想を抱いている人が多いわけだ。
 そういうところで政治活動と経済活動を分けて認識することに違和感を覚えなければ、政治活動に経済活動とは違う何か特別な価値を見出して、それが政治活動を正当化する理由となるのかもしれないが、そうなると経済活動にはない政治活動に特有の理念を擁護することが、その理由として相応しく思われてくるだろうし、それは何かと言えば経済活動からは得られない民主主義の理念となるわけで、それは法の下で国民の平等を保障することにあるのではないか。その法の下での平等という条件については、それ以外の条件の下では平等が保障されなくても構わないと解釈できないことはないだろうが、実際に経済活動から生じる貧富の格差などの経済的な不均衡が、法の下での平等を損なっていると言えるなら、それを是正するのが政治活動の役目となるだろうし、そうであるなら経済活動から生じる貧富の格差の是正を目指す政治活動を正当化できるのかもしれないが、果たしてそれだけが政治活動の役目なのだろうか。もちろんそれだけではないと思っている人がほとんどだろうし、具体的に行政にまつわる様々なことが政治活動の対象として想定されているわけで、その中でも現状で力を入れているのが民間の経済活動を活性化させることだろうし、政治が経済を重視している現状を考えるなら別に経済活動と政治活動を区別する必要はないとも思われるわけで、実際にも様々な面で政治活動に経済活動が結びついていることは確かであり、ただその中で経済的な貧富の格差などの不均衡に対する国民の不満を和らげるために、民主主義の理念に基づいた政治活動も部分的には行われていることを宣伝しなければならなくなるわけで、結局そういう部分に関しては選挙向けの政治宣伝に含まれるだろうし、そこだけを拡大解釈するなら政治活動は民主主義の理念に基づいて行われるべきことになり、それは経済活動とは分けて考えるべきことになるわけだが、現実にそれだけではないことは誰もは承知していることだろうし、経済に関する政策ばかりがメディア上で取り上げられて、民主主義の理念が軽視されている現状にそれほど違和感を感じないこともそれを裏付けていて、そのような経緯からどうも政治と経済を分けて考えるのは無理に思われてくるわけで、実際に歴史的にも政治と経済は一体化したものであり、そもそも法の下での国民の平等を保障する政治理念自体が経済活動の自由を保障する制度から出てきたものであって、民主主義的な政治体制が確立される以前のアンシャンレジームと呼ばれる身分制に基づく旧体制下では、一般市民には経済活動の自由が認められないから、現在あるような資本主義経済の発展に支障をきたすわけで、商工業者などが旧体制下で特権的な地位にあった王侯貴族や僧侶などの財産を奪って資本主義経済に利用するには、身分制を取り払ってすべての国民が法の下での平等な地位である方が有利だから、絶対王政下で産業発展に伴って台頭してきた資本家たちが、これまた絶対王政下で発達してきた行政機構の官僚たちと結託して、市民革命を起こして国民国家を作ったわけだが、その際に民衆の大多数を占める平民を味方につけるための方便として民主主義の理念が出てきた歴史的な経緯があるわけで、そういう意味で必ずしも民主主義の理念にアプリオリな正当性があるとは言えない事情があることは踏まえておくべきかもしれない。
 もっとも過去の経緯がどうであれ、現状で動作しているシステムの構造を比較してみた場合、産業システムの中では企業が集団的な組織形態を維持しながら従業員などの個人を拘束していて、政治システムの中でもやはり政党が集団的な組織形態を維持しながら政治家を拘束していて、行政システムの中でも当然のことながら官僚機構が集団的な組織形態を維持しながら公務員を拘束しているわけで、当たり前のことだがどのシステムも集団的な組織形態として人を組み込んだ体制となっているわけだ。そして体制は常に官僚機構を必要としていて、そのような官僚体制を支える官僚たちを単に事務員と捉えるなら、その事務員たちに権力があるとは思えないだろうし、事務員が機械的に事務をこなしている限りは機械と変わらないわけだが、組織はその事務員たちに指示を出さないと動作しないわけで、では誰が指示を出すのかとなると、普通に考えるならそれは管理職が指示を出すのだろうが、では管理職には誰が指示を出すのかというと、最終的には組織のトップに立つ人が指示を出すわけだが、しかし全ての指示をトップに立つ人が出すわけではないし、途中の段階で常に地位が上の者が下の者にトップからの指示とは別の指示を出しているわけで、そのような指示の集合体が官僚機構の権力の源泉となっているのであり、その様々な段階で地位の上下関係を利用して権力の行使が行われているわけだ。要するにその集団的な組織形態そのものが権力の集合体を形成していて、そのような体制に組み込まれていると必ず権力関係に巻き込まれることになり、組織のトップに立つ人以外には何らかの指示が出され、その指示に従わなければならなくなるわけで、その指示に従っている限りでその人の主体性が抑圧されることになるわけだ。だが別に指示内容に納得して従っているなら従うことが苦痛にはならないだろうし、当然理不尽に思われるような指示には逆らうことも可能だろうし、そういうところでその人の主体性が発揮されるわけだろうが、中には逆らえないような指示があるわけで、その逆らえない指示というのが制度や慣習や機械の動作を伴ってもたらされ、人が組織内でその逆らえない指示に従いながら活動することが、そこで動作しているシステムの機能であり、システムの機能は逆らえない指示に従って人が指示通りに活動することによって果たされるわけだ。そしてそれが集団的な組織形態の活動内容であり、その中で人が指示通りに活動した結果が集団に利益をもたらすのだろうが、その集団の活動が集団以外の人たちにとって利益とならなければ、社会にとってその集団の存在や活動が害を及ぼしているわけではないにしても、目障りにはなってくるだろうし、それが宗教集団や民族集団なら、場合によっては何らかの口実や因縁をつけられて迫害や弾圧の対象となってしまう可能性も出てくるのではないか。
 そうだとすると集団的な組織形態はその集団が存在している社会に何らかの貢献をしている限りで、その存在や活動が社会的に許されることになるだろうか。その集団が社会の中で政治的あるいは経済的な主導権を握っていれば、場合によってはその社会全体を支配することもできるかもしれないが、それが政府などの行政システムに関わっている官僚機構や政党だと言われることもあるわけで、比喩的には政官財+マスメディアの利権複合体が国家を支配しているようなイメージが世の中に流布されているかもしれないが、支配という概念にも様々な意味合いや程度があるだろうし、中には一般の民衆を抑圧する強権的な独裁体制がすぐに思い浮かんでしまう人もいるかもしれないが、強制的にしろ自発的にしろ当初は民衆の支持を背景としてそのような独裁体制が形成されることが多いだろうし、大概はそこから事態が進展して、ほとんどの民衆がそのような独裁体制に組み込まれてしまうと、民衆も集団的な組織形態の構成員となってしまい、そこで逆らえない指示に従うだけの存在となってしまうわけだが、やはりそれがシステムの機能だと言えるのかもしれず、社会全体が官僚機構に覆われてしまえば、その中で民衆はただ機械的に動作する事務員の立場になってしまうわけで、しかも生活の全てが事務的な作業となっているわけではないから、労働している間だけ上からの指示に従って事務的な作業をこなすだけでよければ、仕事はそういうものだと割り切ればそれほど苦にならないのではないか。そういう意味では何も独裁国家でなくても官僚体制に組み込まれている人が不幸な人生を送っているとは限らないし、日本のように公務員の給料や待遇が民間の平均的な企業より良いならば、多くの人が公務員になりたがるのも頷けるし、そういう人たちが現状の政府や議会与党を支持しているのも当然のことなのではないか。だがそうだとしても果たしてすべての国民が公務員と同じ給与や待遇でやっていけるかとなると、実際にはそうなっていないことからもわかるように、おそらく無理だから現状のようなことになっているわけで、しかも現状でも政府や議会与党に対する支持の割合が高ければそれで構わないわけだが、そのような状況でも政府や議会与党に対して批判している人たちもいるわけだから、比喩的には官僚体制の独裁国家だと批判されるかもしれないが、周辺諸国にさらにそうした傾向の強い国が実際にあって、それとの比較で言うとそのようなイメージは抱けない人が多いのではないか。そういう意味で政治体制への批判はとかく独裁的あるいは強権的な行為に対する批判に集中してしまいがちだが、他との比較でさらに独裁的かつ強権的なことをやっている体制があると、相対的にマイルドな独裁的かつ強権的な行為が見逃されてしまうことにもなるわけで、そのような単純かつ一方的な批判はその場限りのインパクトしか持ち得ないのではないか。そうであるなら他にどう批判すればいいのかということになるかもしれないが、有効な批判があるかないかではなく、まずは批判してみないことにはその有効性もわからないわけで、体制に批判的な勢力はとにかく批判するしかやることがないのかもしれない。