彼の声95

2013年

3月31日

 ようやくこうなったか。どうなったわけでもなく、夜の闇に包まれながら、何かを考えている。人は何かをつぶやく。その中身を知りたいわけではないが、そうなるには何か原因がありそうだ。またわけのわからないこと述べているらしい。何を語りたいのか。人はいつでも虚しい幻想を抱き、気休めを求めている。現実には何もありはしない。何を見出そうとしても、それは何かの幻影になり、実際に見ている当のものとはまったくの別の何かを心の中に思い描き、現実に存在する何かを見ていると思い込んでいる。たぶんそこから逃避しているのだ。あからさまに見ているものから目を背け、代わりの何かを空想している。そうであってほしいのだろう。こんなみすぼらしいものを見ているわけではない。そう思い込みたいのだ。嘘なのだろうか。偽りの何かにとらわれている。それでかまわないとは思いたくないのだろう。もっと違う何かを求めている。気に入るような環境に住まうのだ。それを模索するのが面倒だとは思いたくない。でもそれは無い物ねだりなのではないか。ものは言いようだ。もっと別の言い方があり、それを模索しなければならない。そんなはずもないのにそう思い込み、絶えずそこで何かを試みている。眠ってしまって、後が続かないはずだが、何だか愉快な気分でいるらしい。心変わりがしてしまったらしい。ではここがやめ時だろうか。それは自然の成り行きというもので、そうなる時はそうなるはずだ。

 またそんなことを思い、何も思わないふりをしながら、そうではないと思い続け、無駄に言葉を記し続け、意味の定かでないことを延々と語り、何か語っているような気になって、そんな状態を維持継続させようとする。果たしてうまくいくだろうか。何がうまくいっているわけでもなく、どうにならない行き詰まりの連続の果てに、いつかやめる時が訪れ、そこで終わりとなってしまうのかもしれないが、今がその時だとは思わない。誰もそうは思わないのだろう。架空の話の中ではそうだ。要するにでたらめなのか。でもなぜそう性急に断定したがるのか。間が持たないのかもしれない。それはどういう意味なのか。でたらめになっているに過ぎないのか。何がでたらめなのだろうか。架空の話自体がでっち上げで、何もないのにそこに何かがあると思い込みたいのであって、そこから何かが生じていることを信じて疑わず、それがもとで不幸になろうと破滅しようと、それをやめようとせず、さらに続け、ひたすら言葉を記す日々を送り、それが虚構の時間だと気づいているのに、やはりそんなフィクションを思い描き、その中で架空の登場人物が何かを語っているように装いたいのだろう。それはどういうことなのか。やはりそれはただのでたらめか。たとえそうであるとしても、なおそんな思い込みを糧として、君は何かを語り続けているのだろうか。そんなはずがない。現実にはどうなのだろう。

 どうなっているわけでもないか。まだ言葉を記している最中だ。そして飽きもせずそんなことを語っているつもりのようで、現実とはだいぶ隔たっているのに、何が現実でもないような気がしてきて、虚構だろうと現実だろうと、すべては記された範囲内でのことで、それが何を意味するわけでもない。そこに言葉が並んでいるだけか。誰かがそれを読み、読んで何か思うこともあるのだろうが、君には関係のないことだ。知るよしもない。すべてはここから生じている。これが現実なのか。これとは何か。問う必要もなく、問われるべきことでもない。ここではこんなふうに何かが記されている。また別の箇所では違う内容も記されているだろう。それとこれとは比較したところで、何が導き出されるわけでもなく、それでも強引に導き出すとすれば、それは誰かの幻想に違いなく、それをここで明らかにする必要もないが、それに代わる何かを模索する必要もないのだろう。ここではこんなことが述べられ、別のどこかではそんなことが述べられている。君が見出そうとしているのは、それらのバリエーションに過ぎないのか。そうだとしてもそれをどう変更しようとしているのでもなく、何も変えられないまま、ただそこに座って画面に並んだ言葉の連なりを眺めている。何か思うところでもあるのだろうか。あるかもしれないが、それが記される必要はないのかもしれない。また面倒くさくなってきたのだろうか。きっとそうだ。そういうことにしておきたいのだろう。それ以外を思いつけないのかもしれない。今はそういうことにしておこうか。


3月30日

 やはりできないことをやろうとしているのだろうか。そんなはずがないと思いつつも、できていないと思い、焦っているはずだ。だから深夜に目が覚める。寝不足になっているのかもしれない。投げやりな気分とはならないのか。そうなった時もある。いつもそうなのではないか。架空の話をしているわけではない。話ではないのかもしれない。では何なのか。何でもないわけではない。でもなかなか前へ進まない。君には何もない。語ることがない。だから語れないのだ。それは単純な理由だ。その一方で同時に複雑な理由でもあるのだろうか。そんなものなどありはせず、単純な理由の中に真実がある。そう思えてならないのだろうか。それは思い過ごしのたぐいか。思う必要のないことかもしれない。何も思わなくてもかまわない。思う以前に言葉を記していればいい。果たしてそんなことができるだろうか。君たちは何を伝えようとしているのか。つまらないことか。でも巷では話題なのだろう。それはわかっている。そうやって些細な現象の積み重なりがこの時代を作っているわけだ。くだらないことだろうか。そう思うならどうだというのか。どうもしない。書物など読む気がしないが、ネットで購入してしまったらしい。それをこれから読むのだろう。来週のことだ。そんな先のことまで考えているわけでもない。でもこうなっている。

 どうなっているのだろうか。こうなっている。要するにどうにもなっていない。また馬鹿げたことを述べているのか。冗談に違いない。もう夜か。何を説明しているわけでもないらしい。だから相変わらずなのか。変わっていないようだ。変わらざるを得ないのに変わらない。それはどういうことなのか。もういい加減にやめたらどうか。現実にやめていないことが様々なひずみをもたらしているのだろうか。どう思ってみても、とっくにやめているはずだった。だからこうなっている。どうなっているのだろうか。またおかしなことを述べているようだ。あくびとともに何かを忘れ、忘却が誰かの性格を形作り、そんな設定で架空の物語が進行してゆく。それはあり得ないことか。そうに決まっているだろう。何でもないのにここに何かがあり、何かとは何かでしかなく、それもまやかしのたぐいか。だからそういうことになる。誰もそんなふうには思わないだろうか。少なくとも君が思っている。そういう話の設定なのか。いったい何がそうなのだろうか。久しぶりに胃が痛いか。そこから見える光景が君を戸惑わせ、何をやったらいいのかわからなくなり、実際に何もやっていないわけでもないのだろうが、話の行き先が一向に見えてこないのはどういうわけなのか。どこへも持って行きようがないのではないか。どうにもならないのだろうか。たぶんその通りだ。では途方に暮れるしかないわけか。

 架空の人格を伴った誰かが悩んでいるふりをしているようだ。今日はそれでかまわないとは思わないのか。何を空想しているわけでもないのだろう。でもたわいないことか。何だか気が散っている。では音楽でも聴くとしようか。ジャズでも聴いているのだろうか。きっとそうだ。その時はそうだったのだろう。別の時にはロックを聴き、また別の時にはクラシックを聴く。邦楽を聴いていると気もありそうだ。まだ気持ちが外れているわけではない。そこで思いとどまっているわけか。でもどうしようもない。面倒くさいのだから仕方がない。そして何かがそのへんで分散している。ゴミか何かだろうか。何かとは何なのか。言葉に違いない。それを記しているわけだ。いつまでもそうしていられると思っているのか。そうは思わないが、まだしばらくはそうしているつもりのようだ。少し眠っていたようだ。気がついたらこんな時間だ。どんな時間なのだろうか。興味がない。時間なのではなく、時間帯なのではないか。でもそれで何を咎められているわけでもない。ただ眠いだけのようだ。そこで何が行われているわけでもなく、テレビを見ているわけでもない。放っておいてもやがて人は天に召される運命だ。でも誰がその時を待っているのか。それは最後の審判か何かのたぐいだろうか。そんな絵を見たことがありそうだ。中身が抜かれて皮だけになったミケランジェロでも見ていたのだろうか。でもそれは彼自身が描いた絵ではないのか。


3月29日

 何だか先が見えてきた感じだ。もう寿命か。しかしまだこの日付ではどうにもならないか。でも仕方がない。相変わらずこうなのだろうから、先が長そうだ。でももういいのかもしれない。こんな感じで前進してしまう。少しずつ近づいていくのだろう。寒くなってきて眠くなる。これも織り込み済みか。どうせまた眠ってしまうのだろう。何を考えているのか。何か考えているかもしれない。でもそれを記すことはないのだろう。なぜなのか。わからないからだ。それではだめか。だめならどうしようか。やめればいい。そういうことにしかならない。だからあきらめてしまうのか。あくびが出る。そのついでに言葉を記しているのだろう。貧乏揺すりか。苛立ちを隠せない。そんなはずがない。でもそんなはずなのだろう。また面倒くさくなってきた。言葉を記すのが面倒くさく、意味が通るように言葉を組み合わせるのも面倒だ。ではだめなのではないか。そういうことだ。さらにどういうことでもないのだろうが、どうということもなく、平然とでたらめに言葉を記しながら、何とかそれの修正を試みているようだが、うまくいったためしがない。無理もないか。でも無理ではないと思っているのだろう。いったい何がそうなのか。現実には何もそうではなく、ただの戯れ言が記されている。そんなはずがないと思いたいのか。ではそこで何を読み取ろうとしているのだろう。

 不意打ちを食らっているわけではない。何も聞こえないふりをしながら、風の音を聞き、実際には何も聞いてないはずだと思い込み、そのついでに何も思わないふりをしている。そこで君は何を思うのか。明日は晴れるだろう。音楽を聴きながら、他には何も思わない。それはずいぶんと投げやりな気分だ。要するに何もできないということか。冗談がきつすぎるか。別に何がきつすぎるわけでもない。でもあながち勘違いというわけでもなさそうだ。何を勘違いしているというのか。実際に何もできていない。まだ心は文章の表面をなぞっている。意味がわからないだけのようだ。別に心が外れているではない。そして夜になり、さらに言葉を記そうとする。どう考えても無理なのではないか。たぶん正気とは思えない。それは見た目であり、架空の表情を空想しているに過ぎない。誰がそれを思い描いているのか。だから冗談だ。またよくわからなくなりそうになっている。おかしいのはわかっているが、それを修正できないのもわかりすぎている。ではやはりだめだろう。ではどうしたらいいのだろうか。またずいぶんと待たされているわけか。でも苛ついているわけではない。何だかすごいのかもしれず、このままでもかまわないのかもしれないが、いったいそれはどういうことなのか。これから何をやる機会が到来するというのか。そういうわけではないらしい。もう過ぎ去ったことだ。何もがそうかもしれず、君はそこであきらめている。

 そんなふうにすべきではないのか。でも語りかけている。闇に向かってそうしているわけか。そんなはずがないだろう。何かが頭の中で砕けている。きっと神経細胞が壊死しているのだろう。脳血栓だろうか。でもそれはでたらめな空想の範囲内だ。他に何を思い描いているわけでもない。あくびが出ているだけのようだ。それでは何も語っていない。でも何を語る気でいたのか。よそ見をしている場合か。さらに先を急がなければならない。でも記している中身が空疎だ。それはすでに織り込み済みか。何がそうなのだろう。単なるごまかしか。そうに決まっているではないか。でも虚しくならないか。それを記しているのだから自業自得か。わけがわからない。そういうことにしておきたいのだろう。でもくだらなすぎるか。お粗末だ。それもそういうことにしておきたいのだろう。それではあまりにもくだらない。そういうわけでもないか。何のわけでもなく、何をわけとしているわけでもなく、他に何もないのに、そこに何かがあると思っているのでもない。でもまだ闇に向かって語りかけている。誰かが闇の中でそんなふりをしているようだ。君がそんな光景を想像している。でも中身がない。それは物語にならない。だから空疎なのか。それとも早合点しているのだろうか。まだ何も理解しないうちから決めつけ、そうだと思い込もうとして、そこで現れている何かを取り逃がしている。もう少し注意深く観察すべきだ。でもそうすれば何がわかるのだろう。わかったように思えてくるだけか。それでかまわないではないか。そうなることの何が不都合なのか。たぶん何も見失っていないはずだ。では勘違いなのだろうか。


3月28日

 風が吹いている。強風だ。何だろうか。風の音か。何が悲しいわけでもない。見通しが立っているわけでもない。相変わらず指先がしびれている。雨が降っているらしい。何を思っているのか。そんなことではない。そこから外れるわけにはいかないのだろう。でも思い通りにはならない。それでかまわないのか。そういうことだ。何とか言葉を記している。それでかまわないのではないか。そんな現状の中でそう思っているわけか。だからそういうことなのだろう。それの何が違っているわけではない。ただ何かが違っていると感じられるだけだ。君はそんなふうにして努力している。雨音にかき消され、君を惑わすかすかな予兆が心に響かなくなる。そんなはずもない。でもそんなふうになってしまう。また外れているのか。あるいは何かの予行演習だろうか。それは違う。翌日は晴れて暑い。何でもないようで、つまらないことをしきりに記しているようだ。相変わらず何を語っているわけでもない。無内容となってしまいそうな雰囲気で、さらに言葉を記してみる。たぶん何も出てこないだろう。それでかまわないのか。かまうも何も、自然とそうなってしまうのだから、そういう流れに逆らうわけにもいかないだろう。今は時を待つしかない。それはどうなる時でもなく、何を語る時でもないが、ただ言葉を記しているわけか。さらに何でもなくなりそうだ。本当にそういう流れなのだろうか。

 相変わらず何も思わず、仕事以外は何をやっているわけでもない。ただ空を見上げて何か思うが、それが何をもたらすわけでもなく、実際には何も見ていないのではないか。これから大気が不安定になり、所によって雹が降るらしい。そうなったら楽しいか。そういうわけでもない。ただの戯れ言に過ぎないのか。そうかもしれず、所によったらそうではないのかもしれない。意味がわからないか。わかりようのないことを述べているのかもしれない。でも相変わらずそれでかまわないのだろう。そんな気分なのだから仕方のないことか。何を語っているのでもなく、語ろうとしているのでもない。雲が動いているようだ。曇ってくるわけか。予報通りならそういうことになりそうだ。そうやってだんだん正気を取り戻しつつあるのか。別に気がふれているわけでもないか。では相変わらずなんでもない心境なのだろう。雲が動くように言葉を記す。そんなはずがないだろうが、そのつもりでやっていれば、やがて今日の日付に追いつきそうだ。そう思ってやっていないと心が折れてしまうか。それも違うだろうか。何が違っているのか。何もかもだ。今はそういうことにしておきたい。またフィクションの中でそう思っているのだろうか。ご苦労なことか。でも誰が苦労しているわけでもなく、他の誰かが苦労している光景を君が端から眺めているだけかもしれず、やはりそれがどうしたわけでもないのだろうか。

 別に挫折しそうになっているとも思えない。空疎な中身でもかまわない。そういう文章なのだから仕方がないか。果たして空が曇ってきた。本当にこれから雹でも降るのか。風が吹いてきたようだ。今日は天気の話で終わりか。首を傾げる。それだけでは何も出てこない。ではそのままそんなふうに言葉を記してみるだけか。記し終わるのは夕方ぐらいになるだろうか。いったい誰がそれを望んでいるのか。何が滅びるわけでもなく、誰かがテレビを眺めている。画面に映し出されている光景に心が揺り動かされることもない。でたらめなのだろうか。冗談に違いない。気力が減退しているわけか。でもどこへ退いているわけでもないのだろう。これからまた仕事か。そういうことになり、そろそろ中断してしまいそうだ。何だかごちゃごちゃした気分となる。同時に複数のことを考えているのかもしれない。あり得ないか。映像とは何か。幻影のたぐいだろうか。二十世紀は映像の世紀だそうだ。こちらからは手が出せない。ただそれを眺めるばかりだ。夕方には風も雨もやむ。テレビ画面上にはチンパンジーが映っている。他の猿を捕らえて食っているようだ。ヤバいか。相変わらず雲が流れている。時代が変わるのだろうか。何かが移り変わる。そんな気配が漂う。さもしい心も変わるだろうか。変われるときに変わっておかないと、さもしいままに固まって、死ぬまで卑しい性根のままでいられるわけか。そんなはずもないだろう。もう少し何とか救いがあるような物語的な話の展開が用意されているのかもしれない。かつてはそうだったはずだ。


3月27日

 何が気まぐれなのだろう。冗談の続きはそれか。中身がない。毎度のことだ。そして眠くなる。テレビでは誰かがさまよっている。そんな番組もあるのだろう。それを見て何を思うのか。何となくそんなことだと思う。馬鹿げているだろうか。その通りだ。何に見とれているわけではない。それは神の目でもない。誰の目でもなく、晴れた青空でもない。そこには何もない。何を感じているわけでもなく、ただ言葉を記している。そんなところだ。また何を見ているのか。もう夜で何も見えはしないだろう。でも眺めている。この世の何かを眺めている。幻滅しているのだろうか。夢など見ている暇はない。では何を見ているのか。無色透明な空気でも眺めているのか。腕時計を眺めているらしい。そして何も思わない。付け足すようなことではないらしい。言葉なのだろうか。それを記しているのかもしれないが、そのような行為に意味があるとは思えない。意味を見出したいのだろうか。では何を語っているのだろう。空疎だ。何もないことについて語っている。そんなはずがないと思いたいが、実際はどうなのか。そんなやり方ではだめなのだろうか。またそれか。それだけではだめか。だめではないが空疎だ。それが誰かの持ち味だ。そんなはずもないだろうか。わけがわからない。それでかまわないのだろう。いつものことか。それではだめだとしたら、他に何を付け足せばいいのだろう。

 面倒くさいのだろう。それが結果なのか。だから幻滅してしまう。否定し難い。否定し難いが、結局は否定してしまうのだろう。そういう宿命なのだから、それはそういうことになるしかない。唖然としてしまうだろうか。別に驚くような結果ではない。冗談でしかないだろうか。でも何とかしようとしているわけで、必死になってもがき苦しみながら努力しているわけか。だから冗談なのだろう。本気ではない。それはわかっていることだ。それが冗談だとは思えない。どうしても認めたくないようだ。何だかわからないが、そういうことらしい。信じられない。信用できないということだ。あくびが出るらしい。退屈を持て余しているわけでもないのに、そこから先が見通せない。その先には何もないのではないか。そう思うならよりいっそうの前進をあきらめなければならなくなり、そこで停滞するばかりのようだ。実際に気持ちが前へ進まず、要するに気が進まないわけで、何だか躊躇しているみたいだ。臆病風にでも吹かれたのか。それでもかまわない。慎重になりすぎている。だからそれでかまわないだろう。そうしないと思わぬところで足を引っ張られ、無駄な労力を費やすばかりとなり、何もできないうちに力尽きてしまうか。それで本望なのかもしれない。やらないよりはやってみた方がマシだ。実際に試みている。そんなふうに語っているわけだ。それだけでも大したものか。今ここで何を肯定しても意味のないことだが、とりあえずはそういうことにしておきたい。

 それにしても何とかここまで記してきた。何もないのにここまで来た感じで、それがさらに続けられるかどうかはわからないが、とりあえずはこうなっている。どうやら明日になってしまうようで、果たせない約束を交わすわけにはいかないのだろう。無理なのだから、それは仕方のないことだ。もう切羽詰まってきている。笑うしかない状況だ。あくびが立て続けに出て、終わりが近いことを悟る。それでも分量を間に合わせようとする。いくらあがいても無理だ。もうすでにゲームオーバーか。でも終了の合図など聞こえないふりをしながら、さらに言葉を記す。何もないのにそれはない。語っているのに語っていない。現実にそうだ。やめた方がいいのだろうか。たぶんそうだ。でも語ろうとする。だから無理だと言っているだろう。誰が言っているのか。それは心の叫びか何かだろうか。やめた方がいい。寿命を縮めてしまう。それでもいいのか。何を脅されているわけでもなく、何に脅かされているわけでもない。それはすでに記していることだ。そしてさらに記す。最後の悪あがきが延々と続いている。でも最後にはしないつもりだ。さらに続けようとして、実際に続けているのではないか。恐ろしくなってくる。でも勇気を出して言葉を記さなければならない。それは蛮勇か何かか。映画の中のアクションシーンを思い出すが、それは予定調和の趣があり、そうではないような方向を目指さなければならず、それに関して何が見出されているわけでも示されているわけでもないが、要するにそういうことだ。君にはそれが必要なのだ。


3月26日

 そんなはずもないのに気まぐれに言葉を記す。そんなのは嘘だろう。別にそれでもかまわないのではないか。もう夜だ。いつものことだ。いつものことでないとすれば、どうやらそろそろ日本という国家も終わりが近いということか。それは冗談だろうか。あるいはどこまで本気なのか。なぜそうやってあからさまな断言ができるのか。笑っている場合ではないだろう。日銀もめちゃくちゃなことをやっている。でも愉快だ。安倍ちゃんがんばれ!さらなる冗談な政策を期待している。冗談ではなく大胆なのだろう。大胆な冗談か。結果を出すと言うが、めちゃくちゃな結果が出ることを期待している。北朝鮮も破れかぶれだ。北朝鮮の破れかぶれと日本のめちゃくちゃが重なれば、東アジア情勢もこの先想像を絶する事態に陥るだろうか。だんだんおもしろくなってきたようだ。中国では鳥インフルエンザで人が死んでいるそうだ。それの何がおかしいのか。何もおかしくない。よくあることか。たぶんそうだ。お馬鹿な国民の皆さんも手遅れになってから気づくだろう。だから気づかれる前に手遅れになるようにがんばっているわけか。当人は何を意識しているわけでもないのだろう。要するにがんばっているわけだ。こちらもがんばれがんばれと応援している。運動会のようなものだろうか。お遊戯会かもしれない。誰かがそれを眺めている。ひたすら眺めているのだろうか。手を出したりしないつもりか。

 いらぬおせっかいだ。実際にいらない。口出しも無用だ。そのうちみんな青くなるだろう。青とは何か。赤信号ではないのか。こんなはずではと思うのか。まったくのギャグだ。日本は老人たちのギャグによって滅ぶのか。そうかもしれない。そうならないうちにぬか喜びしていればいいのだろうか。たぶん市場資本主義を甘く見ているのだろう。マネーゲームとは結局のところ幻想の共有にあるのだろうか。でも幻想とは何なのか。形而上学と同じで、実態を伴っていないわけか。しかし実態とは何なのか。それが幻想の共有なわけか。それでは堂々巡りだ。実際に日銀はマネーゲームに参加している。何だか冗談のようで恐ろしいか。でも結局はそういうことではないのか。何かの一線を越えているのだから、冗談のようにしか思えないわけだ。理論ではなく気合いでがんばっているように感じられ、それを現実にやってしまうところが恐ろしいのか。別にかまわないが、何かおかしいような感じがするのはなぜだろう。そして何だかとんでもないような間抜けな結果を招くような予感がするわけだ。そのへんがうまく言い表せないのは歯痒いところだが、どうも今回は勘が外れることはなさそうだ。しかし本当にそうなったらとんでもないのではないか。これは何かの予言なのか天啓なのか。それともそんなことは多くの人たちが感じていることなのか。

 実感とはそういうもので、何の根拠も理由もないのに、やはりそんな予感がしてしまうわけで、果たしてそうなったとき、自分は大丈夫なのだろうか。たぶん大丈夫なのだろう。笑ってしまうが、全然大丈夫なのだろう。別にざまあみろとは思わないだろうが、何だか愉快な気分でそんなニュースを見ている。それに呼応して株を買ったり資産運用をはじめた人たちは、きっと悲惨な境遇に陥るだろう。誰かにそら見たことかと言われてしまう。わかりやすいことをやれば、それを利用してうまく立ち回る人たちがいるわけで、そういう人たちが後からとんでもない仕返しをしてくるだろう。その人たちのよりいっそうの金儲けのために、一気に日本売りが加速して、わかりやすい政策に踊らされていたお人好しの人たちは、みんな表舞台から突き落とされて、一気に奈落の底へ真っ逆さまだ。現時点で誰かそれに気づいているのだろうか。気づいていなければ、何だか間抜けな気がするが、笑っているばかりで大丈夫か。大丈夫だろう。今や政治家もメディアも国民もすべてがおかしくなっている。デフレからの脱却というかけ声自体が大間違いなのに、要するに赤信号みんなで渡れば怖くないということなのに、それでもやはりみんなで渡ってしまうわけか。君もみんなと一緒に渡らないのか。さあそのへんはよくわからない。別に強制的に渡らされているわけでもないだろう。では君は黙ってそれらの光景を眺めているだけか。それもよくわからない。


3月25日

 誰かと誰かは意思疎通がうまくできていないようだ。君はそれでもかまわないのか。架空の話に決まっている。また冗談でしかないのだろうか。そうかも知れない。人はいつも幻想を抱いていて、死ぬ瞬間まで自分の思い通りになりたいようだ。何がそうではないのか。たぶん何もそうではなく、それが人としての本質を含んでいるのかもしれない。でもそんなことはどうでもいい。あまりそのことについて考える気がしない。眠たいのか。体中が痛い。逃げたいのだろうか。そこから逃げたいらしい。無理もないことだ。だいぶ疲れている。そこに至るまでには様々な紆余曲折があり、そうなったことについて何かもっともらしい理由を導き出したいのだろうが、それが間違っているのだろうか。しかし何なのだろうか。大したことではない。たぶん傷ついてしまうのだろう。間違っているからそうなるわけでもなく、間違っていようと合っていようと、人は疲れて消耗する。結局は死に至るわけだ。生きていること自体が死に至る病にかかっている証拠か。それを否定的に捉えればそういうことになるだろう。君はそこから抜け出したいのか。夢を見ていたのだろう。みすぼらしい現実を忘れていたいわけだ。間違っているからそう思う。でもそれは無理もないことだ。大いに間違ってもらいたいか。神もそう願っているのかもしれない。冗談だろう。すべては冗談だ。夢の中ではそうか。現実の世界でもそうなったら楽しいか。

 さっさと忘れてしまいたくなり、何を忘れたのかも忘れてしまいたくなる。実際にそうなっているのではないか。それが気に入らないらしいが、結局はそれによって精神の均衡を保っているのだろう。正気でいるためには忘れなければならない。いやなこともいやでないことも忘れ、常に新鮮な気分を保ちたい。だからそれが幻想なのかもしれないが、今はそれで十分だ。それ以上の状態を求めるのは無理かもしれない。しかし今が何の機会なのか。何も見えてこない。空は晴れている。別に視界不良でもないだろう。昼になれば暑くなる。春だからそういうことか。夏になればもっと暑くなる。だからどうしたわけでもない。何を語っているのだろうか。スポーツは競争の連続だ。野球のレギュラー争いも熾烈を極める。馬鹿げているだろうか。関係なければそう思うのか。でも陳腐化している状態は避けられず、何となく興味が向かないようだ。君がそう思っているだけで、要するにそれは思い違いなのではないか。がんばっている人たちを馬鹿にするのはよくない。別に馬鹿にしているわけでもないだろう。ただそれらの行為が馬鹿げていると思われるだけか。なぜそんなことを思うのだろう。他人の努力をわかろうとしていない。わかるのが面倒なのか。同情できないだけかもしれない。そんな成り行きではない。つまらないことを述べている。そういう成り行きなのだから仕方がないだろう。

 でもそれではどうにもならないのではないか。君はそこで何を考えているのか。不利益を被っているわけではない。でも別に利益を出さなくてもかまわないのではないか。何でもないことだ。そして何について語っているのでもない。ただわけがわからない。わかろうとしないからそうなってしまう。ではいったい何をわかればいいのか。それをわからなければ、何もわかりようがない。何だか馬鹿げたことを述べているらしい。急に語る気がしなくなってしまったようだ。いったいこの世界はどうなってしまったのか。君がどうかしているだけで、世界は変わりようがない。昨日と同じか。時間が進んだ分だけ少し違うのではないか。日付が違うだろう。それ以外は何がどうなっているわけでもなく、君自身も少し老いたのではないか。ほんの少しだけだ。そしてそれがどうしたわけでもなく、相変わらず語る気がしない。何か語っているはずだが、それについては何とも思わず、他のことを考えているようでもあり、他の時間帯では何も考えていないのかもしれない。でもそんなことを記す必要はないだろう。必要がないというのは嘘か。空白を言葉で埋めなければならないから記しているわけか。埋め尽くすまでに至るはずもないのに、なぜそれを続ける必要があるのか。だから必要もないのに記しているわけか。語りようがない。嘘でもかまわないなら、そういうことにしておけばいい。でもそういうことにはならないことも承知しているのだろう。実際にどんどんずれていってしまう。無意識のうちに何かまともなことを語ろうとしているのだろうか。それは本心から述べていることなのか。わからない。


3月24日

 まだ夜だろうか。そのうち何か変化が起こるのではないか。この世界にか。そんなはずがないだろう。手柄を立てたいのか。誰がそれを狙っているのだろう。くだらぬ名誉心でそうなってしまうわけか。別にくだらないわけではない。もう夜が明けている。また昼になり夕方になるわけか。当たり前のことだが、そこから言葉の連なりの引き出そうとしている。馬鹿げているだろうか。相変わらずこんな具合だ。画面上に文字が記されている。それを眺めて何を思うのか。自家中毒か。意味を見出せない。意味ではないのかもしれない。何かのかたまりだろうか。頭の中では何も固まっていない。分解されているのだろうか。別にそれでかまわないではないか。そういう成り行きになっている。外れているわけではなく、散らばっているわけでもない。やはり何かのかたまりのようだ。取り出せないような何かだ。はまり込んでいるのかもしれない。ひたすらそうだ。でもまだ時間があり、できればそれを取り出して後始末をしたい。気まぐれなのだろうか。それでそうなっているとは思えないが、どういうわけか当人はそう思っているようだ。首を傾げる。何が変わってきているわけでもないだろう。ただの老いか。そんな表情が顔にへばりついている。驚きを隠せない。もう終わりのお別れなのだろうか。まだ粘っているようだが、悪あがきでしかない。

 巧妙にしかけられた罠をかいくぐり、ゲーム感覚で何を楽しんでいるとも思えない。実際には何もやっていないはずだ。でももうしばらくとどまれるのではないか。ほんの一瞬だが、滞った何かをうまく吐き出す機会が訪れ、さらにやってのけるチャンスもつかみ取り、実際に実行している最中なのかもしれない。別に今日は外れているわけではなさそうだ。要するになんとかなっている。そう思えば合点がいくだろうか。でも気の抜いたらまた遅れてきてしまうだろう。無駄に急かされ、無意味に思い込み、くだらぬこだわりにとらわれ、そのまま置いてきぼりを食ってしまうか。よくあるパターンだ。たぶんそこから遠ざかるには臨機応変の対応が欠かせないのだろうが、それは実際にやってみなければわからないことなのか。だから言葉を記しているわけか。理由になっていない理由を記している。でも安心するのはまだ早い。まだその途上にあるだけだ。何も果たされていないと思っておいた方がいい。十分に遠ざかりきれていないのであり、地球の重力圏でやっていることだ。そう思って差し支えない。批判できない。批判しようがない。とりあえずやってみなければわからないのだから、やってみたところで理解がそれほど深まるとも思えないが、やってみた方がいくらかマシだ。だからこうなっている。もう少しの辛抱か。いくらでも耐える用意はできている。冗談でならそういうことなのか。

 だんだん時間が近づき、発作の感覚も狭まってきたようだ。作り話の中で誰かがそんなことを思う。でも何が虚構でもなく、実際に言葉で構成しているのだから、後はそれを読んで考えるしかない。また気がつけば外れているのだろうか。よくあることか。でも壊れかけたそれを放置できないはずだ。何とか修理して動かそうとする。壊れそうになっては修理して、そんなことの繰り返しの中で、きりがなく、とりとめもなく、考える暇もないことにも気づき、必死に食らいついていることが馬鹿げているようにも思われ、もういいのではないかとあきらめかけるが、やはりそこで踏みとどまらなければならないのか。そんな感じならまだやれるということか。でもやってどうするのか。こうしているではないか。くだらぬ問答を繰り返すばかりか。でもそんなことの繰り返しの中で考えている。何とかならないか。なっているはずだ。確かにそういう時もあるだろう。また別の心境になることもあり、さらに違う状況になる時もあり、その場その場で対応が違うことにも気づき、それが臨機応変の対応だとは言い難いが、それなりにこなしていることも確かで、要するに常に何とかしようとしているわけだ。そうやって生きている。冗談ではないようで、冗談でもあり、そんなことを思っていること自体が馬鹿げているのかもしれないが、一応はここまでやってきた。ここから先に新たな発展が待ち受けているとも思えないが、やはり続けられる限りは続けていくしかないようだ。そういう成り行きの中で考え、それを利用しながら日々を送り、たぶんそうやってどこかへ至ろうとしているのだろう。


3月23日

 夜だ。それは今の時間帯のことか。でも何を探しているわけではない。脈絡を感じられない。語ろうとしている内容が不明だ。また外れているのか。何も話せない。そんなはずがない。では何を語ろうとしているのか。語らずに記すつもりか。そんなはずもない。では何なのか。そういう問答が嫌いなのか。予定調和に思えてくる。それでかまわないではないか。だから冗談なのだろう。それ以外は何もわからないふりをしている。そう思うなら、それらのどこかに真実が隠されているのだろうか。何が真実なのか。なぜそこでわからないふりをしているのか。すべては冗談だからそうなってしまうわけか。違うだろう。何も冗談ではなく、君はそこで真実を語っているのではないか。では真実とは何だろう。それらのすべてが真実なのだろうか。嘘偽りも真実の一部だ。そしてそこに存在する何もかもが何でもない。すべては幻影なのだ。そんな嘘にも真実が含まれている。そう思いたいのだろうか。しかしそこで誰が何を語っているのか。別にすべての語りが真実に基づかなくても誰も困らない。それがどうしたのか。なぜ真実について語ろうとすると困ってしまうのか。それでは何も語っていないのと同じことになってしまうからか。わけがわからない。そんなはずもないのではないか。明確な理由とは何なのだろう。それがわからない。では理由などいらないか。そうでもないような気もする。

 何だか理路整然と語れないらしい。それについて語りたいのに、それが何だかわからないまま、さらに言葉を記していくと、わけがわからなくなり、何も語っていないような気になる。君はそこで何を語っているのだろうか。人はなぜそれについて語ろうとするのか。人ではだめなのだろうか。人でなければ誰が語るのか。夜が語り、大地が語り、海が語ったりするのだろうか。わけがわからないのは当然のことだ。やはり外れている。この世界の何が問題なのでもなく、人間社会がおかしくなっているのでもない。政治家はあまりにも安易で、メディアは性急に答えを求め過ぎる。それでかまわないのではないか。何を批判していることにもなりはしない。ただそんなことを語っているわけだ。だからそれでかまわないと思う。支離滅裂な内容には馴れているはずだ。ひたすらそんなことを記しているとしても、それでかまわないと思い続け、必死になってそう思い込み、それでかまわないと自らに言い聞かせ、心がそこから外れてしまうとしても、やはりそれでかまわない。眠たくなってきたようだ。しかし物語とは何なのか。君はそれを物語れないのか。たぶんそういうことだ。その代わりにでたらめで支離滅裂なことを語っているわけか。代わりではなく、ただそうなっているに過ぎない。それとはまったく違う内容を記そうとしているのに、出てくるのはそんなものばかりで、悪戦苦闘の果てに導き出された結果に愕然としてしまう。

 やはり何も語っていないのではないか。その通りだと思うなら、自ら負けを認めたことになるのだろうか。ではいったい君は何に負けているのか。虚無に負けているのだろうか。そんなはずがないと思いたいのか。たぶん何を思っているのでもない。ただ語る気がしないだけだろうか。それについては語れない。語るのが不可能なのだから、無理に語ろうとしてもだめか。なぜ不可能だと思われるのか。語れないそれとは何なのか。たぶんそれは虚無ではない。語れないのはこの世界そのものかもしれない。でもこの世界について語っている言説などいくらでもあるのではないか。それが違うのだろうか。勘違いか思い違いか。そういう違いでもかまわない。でもそれとは違う違いであってもかまわない。だがその違いとは何なのか。それがわからないということか。そうであってもかまわない。でもそうでなくてもかまわないのだろう。どちらでもかまわないのだ。でもそれでは何も物語れなくなってしまう。違いを違いとして語り、違いとして認識して、その違いについて語ればいいわけか。それと物語と何の関係があるのか。すべてを語っていることにはならない。そういうことだ。物語とはすべてを語らずにおくことで成立する。その語らない部分を想像するわけか。そして想像している間は物語から離れることができる。でも物語から離れてどうするのか。空疎で支離滅裂ででたらめになるわけか。そういうことかもしれない。君はそれを肯定できるだろうか。なぜ肯定する必要があるのか。否定してはだめなのか。


3月22日

 どうも自分自身がやっていることを理解できない。この感覚は何なのか。相変わらず何かが違うことは確からしいが、違ったまま続けなければならない。そんなはずがないか。何もおかしくはないだろう。誰もおかしくないはずか。でも君は誰でもない。言葉だ。誰かがそこで言葉を記している事実は変わらない。君にはそれがわからないらしい。架空の存在なのだろうか。でもそれではいつものパターンではないか。まったく何の進歩もない。それではだめか。だめも何も、何を述べているのかわからず、意味が不明だ。そんなはずがない。ただ無駄に言葉を記しているだけだろう。そう思うならそういうことか。でもそんな意味不明な状況の中でも、何かが確実にわかりかけているのではないか。人はどんどん愚かになり、人以外はどんどん賢くなるのだろうか。だからそんなはずがない。説明不足か。いったいそこで何を説明しようとしているのか。どうやらまた頭の中がごちゃごちゃしてきたらしい。どうせまた空振りに終わっているはずで、何も捉えられぬまま、不規則な言葉の羅列が続いていってしまうのだろう。だからそんなはずがないと思っているわけか。要するに記述し始めた当初とは事情が違っているということか。でもそれでは何のことでもない。いつまで経っても問答が平行線を辿り、何かが延々と繰り返される。

 それで何かの続きはその後どうなったのか。話になっていないだけか。その通りかもしれず、次第にうんざりしてきているのではないか。やはり何も捉えきれていないらしい。冗談にもならないようだ。それではだめだ。だめなのにそれはないだろうか。結局は何でもありはしない。何も語っていない現状を変えるには至っていない。チャーリー・パーカーのココをサンプリングしているみたいだ。そんな曲を聴いて何を思っているのだろうか。頭が痛くなってきたみたいだ。それにしてもEric ByrdのJazz Thing (Cool Cool Jazz)はかっこ良すぎる。それとこれとは関係だろう。もう別の曲に関心が移っているのではないか。君には翼がない。何か栄養ドリンクの宣伝のような気がしてくるが、そうではないのか。それにしてもここまで言葉を記してきたからには、是が非でも終わりまで記さなければならないか。そのつもりだが、また途中で眠ってしまうような気もする。でも今回は何とかなるだろう。でたらめに言葉を記していれば、やがて何らかのまとまりを得るに至るはずだ。あくびが出るが、まだ眠らない。実際に眠っていないはずだ。ではフィクションの中では眠っているわけか。それはどういうことなのか。屁理屈か何かを導き出したいのだろうか。それにしてはやる気が出ない。くだらぬことを語っている現実が誰かの両肩に重くのしかかってきているわけでもないだろう。

 もういい加減でもかまわないのではないか。後は適当に流すだけか。そうならないところが現実世界の摩訶不思議なところか。そんなはずがない。実際にはそうなる他ない。でも何を断言しても結局は裏切られ、偶然の支配に屈してしまうのではないか。気が変わったのだろうか。それ以前に何も思いついていないようだ。何を考えているのか。ただの行き詰まりか。そういう状態が続くと、やがて横になり、そして眠ってしまうだろう。今まさにそういう流れに入っている。何とかしなければならない。何とかしているではないか。でもまた眠ってしまったらしく、明け方に目を覚まし、また言葉を記している。難儀なことか。それが決まり文句と化している。空疎という言葉も何度記したことか。みんなここでの紋切り型のたぐいだ。なぜそうなってしまうのか。これもそうだが、理由がわかっているのにわからないと述べるのもそうだ。たぶんそうなると、いくらでもそんな言葉を繰り返し記せばいいことになってしまうのだろうが、実際にそう記してしまうと、良心の呵責を覚え、できるでそうならないようなことを記さねばと思うようになり、そこで行き詰まってしまうわけだ。だがそれもよくあるパターンであり、結局どうやってもそんなことの繰り返しから逃れられなくなり、そのことで思い悩み、さらに記述が遅れてしまう原因となっているわけだ。だからまったく難儀なことなのだが、やはりそれ以外を記せず、どうにもこうにもならなくなって、嫌気がさして寝てしまうわけか。だがそれもいつものパターンだろう。どこまで記してもそうなるしかないようだ。


3月21日

 さらに続けられるだろうか。それとももうだめか。まだ何も語っていないではないか。堪え性がない。そんなはずもないだろう。またこんな具合で無駄に言葉を記しているようだ。何もありはしない。すべては闇の中か。夜が明ければそうでもないことに気づくだろう。でもやる気にならないか。死んでしまいそうか。なかなかきっかけがつかめない。そんなことの連続だろう。老人は何を探しているのか。謎解きのたぐいだろうか。もう夜だ。風景を眺めている。ただそれだけのことだろう。それだけでは不満なのだろうか。また眠ってしまったらしい。少しは前進させないとどんどん遅れてしまう。もうすでに手遅れか。だめだろうと何だろうと、とにかく継続させなければならない。それが大きな勘違いであろうとなかろうと、やはりやるつもりのようだ。しかし何をやっているのか。言葉を記している。それだけのことだ。これではだめだろうか。またくだらぬ自問自答に終始してしまいそうだ。かまわないだろう。何だかわからないが、とりあえずそんなことを記している状態が延々と続いている。わかっているのではないか。自分ではもうすでにだめだということがわかっているのだろうか。どうやらその自覚がありそうだ。でも何とかしようとしているのだろう。真夜中に風が吹いている。音が聞こえるようだ。それに気づいている。

 取り立てて語ることもない。人は何をやりたがっているのか。誰か他人に尋ねてみればいいではないか。そうやって今こそ自問自答の無限ループから脱して、外部に向かってその問いを発してみたらいい。しかし外部とは何なのか。寒いか。昼になったら暖かくなってきた。もう春だからそういうことだ。またもと来た道を引き返していってしまうのか。君にそれができるだろうか。何をやろうとしているのでもなく、ただ言葉を記す。果たしてそんなことが可能か。たぶんそこでも何かを考えているはずだ。現状を何とかしなければならない。そうやって君はよろめき続け、いつか躓いてその場に転んでしまうだろう。仰向けに倒れて空を眺める。頭を打ったのだろうか。何を空想しているわけでもない。ただそんなことを思う。ただではないはずか。とりあえず何でもかまわない。言葉を記せばいいわけか。そうではなく、断念しなければならないということか。ではなぜそこでやるのか。相変わらず理由などありはしない。何もない。理由がないからこんなことを記している。それが違うと思うのか。何に気づいているわけでもなく、ただ何かが違うと思い込み、そう思うことで精神の均衡を保とうとしている。均衡とは何か。均衡が崩れるとどうなってしまうのか。気が狂うわけか。そんなことは崩れてみなければわからない。

 他に何を語ればいいのだろう。どうせ夕方から記述を再開することとなるのだろう。もう昼休みは終わりの時間だ。そして夕方になり、次いで夜になる。今までで一番遅れてしまっただろうか。ニュースではくだらない戦争ごっこの最中か。それに対して冷めた見方が蔓延している。ごっこはごっこでしかない。いくら軍事演習しても仕方ないか。内戦やら自爆テロやらで人間が消費され、憎しみの連鎖も蔓延しているわけか。冗談だろうか。楽しいのではないか。現実の世界でも漫画の中でも映画上でも、面倒でくだらぬ争いごとが絶えないようだ。それが物語の本質なのだろうか。君はそうやって何を物語っているのか。そこで各国首脳は何を主張しているのか。戦争とか平和とか、そういう単純なことではないのだろう。何だかそのへんでよくわからなくなり、国々の間でいろいろな利害関係があり、それに基づいて同盟したり敵対したりしているようで、そんなことを考えているうちにも、どうでもいいような気分となり、考えるのがいやになる。必要ないのではないか。たぶんそういうことだ。不必要なことを考えている。でもそれが重要なことなのか。嘘だろう。確かに嘘だが、そんなことを考えるしかない状況なのかもしれない。フィクションの中ではそうなのか。それも違うが、とりあえず考えている。ただ漠然と必要もないのにそんなことばかり考える。おかしいだろうか。何か忘れていないか。それがすぐそこまで出てきているような気がするのに、どうしても思い出せない。


3月20日

 またここまで来た。さらに君は何を語ろうとしているのか。何かの極みに近づいているような気がするが、それが思い違いでなければ、この先には何が待ち受けているのだろうか。危ういところだ。なぜかそう思われる。何だかおかしいが、これが真実のようだ。虚構の中でもがいている。そんな気がしてならない。埋まらないのだろうか。溝があるらしい。架空の溝か。実際にはどぶか側溝だろう。異臭がしていたりするのだろうか。わからない。そんなことしか思い浮かばず、それも虚構の中で考えようとしていることかもしれない。いったい何がおかしいのか。何かがそうなのか。何もそうではないのかもしれないが、今はそんなふうに思えるらしい。また何かが始まってしまったようだ。あり得ないことか。何があり得ないのか。何もないのではないらしい。では何かあるのだろうか。また意識が身体から外れているのか。だからそんなことはあり得ない。もう翌日の夜になっている。どういうわけか見失っている。何を見失っているのかわからない。それはなぜなのか。何を知ろうとしているのか。人類について知りたいわけではない。溝が埋まらない。でも誰と対立しているわけでもない。気が散ってまともに言葉を記せないのは、そこでテレビを見ているからか。それはおかしな理由だ。

 急にアーモンドチョコレートが食べたくなって、一袋すべて食べてしまった。気持ち悪いか。おかしい。笑ってしまう。これは本当に冗談なのだろうか。わからない。人は何のために生きているのか。冗談を言うためにここに来たわけでもない。まだここまで来ていないのではないか。しかしここで何を語ろうとしているのか。何でそうなってしまうのだろう。心の底から疑念ばかりが湧き出てくる。本当だろうか。何がそうなのだろうか。何もそうではなく、ただそんな気でいるだけかもしれないが、そこで何らかの病を患っているのかもしれない。気の病か仮病のたぐいだ。冗談だろうか。わからないが、現実にこうなっているらしい。言葉のコレクションを集めているわけでもないか。でも楽しい気分となり、さらに意味不明を継続させようとしている。完全にどこか得体の知れぬ境地へと突き抜けたいのか。たぶんそれも違うだろう。分不相応だと思われる。絶えずそこから外れたいのに、どんどんそこへと回帰する。だから冗談ではないと思いたいのか。意味を解さないようだが、さらに続けて言葉をつなげてみる。的を射ていない何かを煩わしく思うが、その何かについて語っていると思い、無意識がそうさせているのかもしれず、今はそれに従わなければならないとも思っている。

 果たしてまたこうなってしまう。困惑気味のようだ。でもだいぶこなれてきた。嘘だろう。嘘でもないのだろう。どちらなのか。実際のところはこんな感じなり、さらにどうなってしまうわけでもなく、このまま続けてしまうのだろう。おかしいか。たぶんそういうことになりそうだ。でも何か工夫を凝らそうとしているのだろう。中身が皆無かもしれない。話になっていない。でもそれがいいのではないか。いいわけがないか。でもさっきからひたすらこうなっている。また円高になるだろうか。今はおかしい。一時的に何もかもが狂っているのだろうか。これが続くとどうなってしまうのか。どうにもならないか。でも楽しいのではないか。だが似合っていない。似合っていない状態が一番いいのか。そうかもしれないが、できれば似合うように努力しなければならない。それはまともな人間が思うことか。まともでなければこのままでかまわないのだろうか。でもいったい現状の何がそうなのか。別に何のついでにこうなっているわけでもなく、何かのついでにこうだとすると、かえってこのままの方が誰かにとっては好都合だ。その理由が明確に示せていないことは確かだが、とにかく成り行き的にはこうなのだろう。笑ってしまうだろうか。笑えばいい。もういくらでも笑ってかまわない。そんな時期なのだろうか。後は精神的にどこまで耐えられるかだ。でも別に我慢競べをしているわけでもないだろう。


3月19日

 またつまらない冗談を思い出すが、先を急ぐとするか。さらに何かを続けるとしよう。これ以上は無理なのはわかっているが、とにかく言葉を記してみよう。だから無理だと思っているのではないか。そのへんで何かと何かがせめぎあっているようだ。だからおかしい。笑ってしまうか。とにかくおかしくなったら流すとしよう。何を流すのか。それは流してみなければわからない。ドラマの中では涙が流され、他に何が流されるのか。梅雨時のニュースでは豪雨で増水した川で人が流されたりするわけか。意味がわからない。意味などありはしないか。もう翌日だ。気分は最低だろうか。そんなはずはない。少し横になりたくなったらしい。そのまま眠ってしまったのか。そうではない。気を取り直してまた言葉を記している。無駄な努力だ。そう決めつけてしまっては後が続かないか。できることならもう少し楽な気持ちで言葉を記せないものか。無い物ねだりは良くない。でもこれからだろう。何とかしなければならないのに、これではだめなのではないか。たぶんそうだ。なぜかここで挫折する。挫折というほどのことでもないだろう。こんなやり方ではだめなのか。それはわかりきったことだ。わかりきったことだが、これでかまわないと思う。

 何だかおかしいのもいつものことか。コーヒーでも飲むとしようか。もう夜だ。またこんなところで停滞している。意味がわからない。またそうなってしまうらしい。まったくいつまで経ってもこれだ。どこまでも空疎か。きっとこのままだろう。正気とは思えないか。何がそうさせるのか。それがわからない。どう考えてもおかしいのではないか。たぶんそうだ。合理的な理由が見出せず、そこで戸惑い迷って、結局やめてしまう。それもいつものことか。何もかもがなっていない感じがする。それでかまわないのか。なぜそう思ってしまうのだろうか。そんなことを記していること自体が大間違いなのか。でもわざと間違うことに快感を覚える人もいるはずだ。倒錯しているわけか。馬鹿げているが、暇を持て余しているのかもしれない。それも冗談のたぐいか。まったくどうかしているのではないか。気が変だ。どう考えてもおかしいのだろうが、これも何かの宿命か。そう思うならそうなるしかないだろう。それで気が済むならそうすればいい。だから誰かがそうなってしまったのだろうか。悩んだあげくにそうしてしまったらしい。笑ってしまうだろうか。今笑っているのはどこの誰なのか。誰でもなければ君でもない。それでかまわないだろう。

 でも笑っている場合ではない。意味不明な言葉の羅列が収まらず、ここまでやってきてしまったようだ。愉快な気分となっていることは確かだが、何を語っているのかよくわからないのはもちろんのこと、実質的には何も語っていない場合でも、何だかそれでかまわないような気がするのはなぜなのか。でもなおのことそうなっている現状を鑑みれば、そうなる他ないとしか言いようがない。何だか言葉の使い方を間違っているだろうか。この期に及んでそんなことを気にするわけか。しかしなぜそうなってしまうのか。別にそうなってもかまわないからそうなっているわけか。意味をなさない言葉の羅列に歯止めがかからない。だからそうなってしまう。でもそれでは理由にも説明にもなっていないだろう。だからそれでかまわないと思う。ため息が出るが、何だか気楽になるのかもしれない。でたらめでもかまわないなら、何でもかまわないということになりそうで、何だか肩の荷が下りたような気になり、それが大きな勘違いなのかもしれないが、やはりそれでもかまわないと思う他ない。夜も更けてきたようだ。明日も朝が早いから眠ってしまうとしようか。まだ言葉が記し足りないのか。ではもう少しの辛抱だ。人も意識も廃墟の中から生まれるらしい。でもそれでは始原がわからない。いったい何がそれらの始まりだったのか。どうやらわけがわからないだけでは何かが不足しているらしい。意味不明ではだめなのか。それは当たり前のことだ。


3月18日

 別に地面が傾いているわけではない。他に何か傾いているわけでもないのだろうが、何だか感覚がおかしい。以前にもこんな感じを経験したことがありそうだが、これは何なのか。まるで冗談みたいだが、何か神経がおかしいのだろうか。まさか脳梗塞の一種か。それでは死んでしまうではないか。だから冗談なのではないか。たぶんそうだ。そう思いたいところか。実際そうなのではないか。でもそれがやる気がしない理由になるだろうか。なぜそんな理由を求めているのか。自分でもわからない。何を考えているのだろうか。何も考えていないような気がする。そういうことだ。要するに何でもない。でも要するにが余分だ。むちゃくちゃなのだろうか。でも君はどこかの国の総理大臣ではない。何だかわからない。それでも語ろうとしている気分が意味不明だ。君たちは何を目指しているのか。何か忘れていることがないだろうか。すべてがぎくしゃくしている感じだ。すべてが余分か。ならば空疎になるしかない。でも昼は食べたはずだから、空腹ではない。それはわざとらしいずらし方だ。そんなことを記していると黄昏れた気分となりそうだ。もうすでに黄昏れていないか。エリア外なのではないか。何のエリアなのか不明だが、そうかもしれない。何がそうでもないのだろうが、それにしてもこの感覚は何なのか。

 なぜか今日はこんなふうになっている。もうあきらめているのだろうか。いやそんなことはない。その代わりに何かを楽しんでいるのかもしれない。無理を承知でそう思っている。何が無理なのだろうか。もう翌日の昼だ。今さら語ることはないのかもしれないが、とりあえず言葉を記して周囲の様子を伺い、何かを感じ取るつもりのようだ。冗談か。またそれだ。気が散っているのだろうか。何を語ろうとしているわけでもない。どうやら人々は幸せになりたいらしい。何か読んだのだろうか。衣料品でも何でも、薄利多売でそれを売っている現場の人たちは大変そうだ。まあ仕事に夢を抱く人たちはどこでもいろいろあるらしい。君はそこから遠く離れたいのか。それができないからこうなっている。現状としてはそんなところだろうか。誰もが得するわけではない。得する人や団体があれば、損する人や団体もあるということか。そういうシステムの中で成功する夢を抱いてがんばっているのだから、失敗して夢破れる場合が多いのは当然だろうか。そこに何らかの対立や対決があるのも当たり前のことか。要するに悲惨な世の中か。でも大多数の人はそう思いたくないのだろう。仕事をして生活して幸せになりたいのだろう。別にそれが馬鹿げたことだとは思わないが、難儀なことだとは思う。一生懸命努力して、それで報われればいいのだろう。

 何だかやりきれない思いが募ってくるだろうか。本当に何かの競争に勝ち抜くための努力が必要なのだろうか。学校でその方法を学ばせようとしているわけか。ご苦労なことだ。そういうやり方に疑問を抱いてはまずいか。たぶん間違っているのだろう。でもそういう方向で正しい行いを遂行してはまずいような気がする。失敗して敗れ去っていく者たちに目を向けてはまずいか。彼らは努力が足りなかったから敗れ去っていくわけか。運にも見放されてしまったのは、日頃の行いが悪かったからか。さあそのへんのところはよくわからない。そんな単純な事情ではないのかもしれないし、いろいろな現象や出来事が複雑に絡み合った結果としてそうなってしまったのかもしれない。でもそんな説明では納得し難いことも事実で、何が悪かったのか原因をはっきりさせてほしい気もわかる。ではそれがわかったらどうするのか。気休めか何かになるわけか。そういう場合もあるだろう。何だか述べている途中から冗談のようになってくる。またよそ見をしていたらしいが、何とか気を取り直して、続けるとしよう。冗談だろう。何がそうなのか。ただ面倒くさくなって、そのへんで記述を放棄するつもりのようだ。もういいのではないか。何を主張したいのかわからなくなる。いつものことだ。たぶんそれは違うと思うが、ため息混じりにどこか遠くを見つめ、そうではないだろうと思う。果たしてどちらなのだろうか。いずれはわかることだろうが、今わかりたいのはそういうことではない。要するにわかり得ないことをわかりたいだけで、無い物ねだりなのだろうか。結局はそれか。


3月17日

 夜だ。そんなことはわかっているが、まだやる気があるのだろうか。取り立てて何もない。どこかで何かが引っかかっているようだが、何がそうなのかわからない。頭の中ではなさそうだ。何でもないことだろうか。いつもそうだ。たぶんそんなふうにしか記せないのだろう。語りに精神を集中できない。冗談だろう。冗談ではないのだろうか。本当はそうだ。無理に冗談だと思いたいだけか。それが無理の始まりだろうか。では他に何が無理なのか。そもそもそんな予定調和の問答自体がおかしい。気がつけばまた無駄に言葉を記している。そんなことの繰り返しのようだ。君に何がわかるというのか。苦しみとか嘆きとかが感じ取れるだろうか。でもそんなことではないはずだ。何が違うというわけではなく、何も違っていないのかもしれないが、君とは感じ方が違うのかもしれない。ますます記述が遅れていってしまうのがそんなに苦痛だろうか。かえって愉快だとは思えないのか。なぜそうなってしまうのだろうか。もう限界だからか。そのへんは誰かの想像にまかせるとして、当人にしてみればそんなに苦痛ではないのかもしれない。少なくとも苦行ではない。人はなぜそんなことをやるのだろうか。人がこの世界で何をやっているというのか。自意識過剰なのだろうか。誰がそうなのか。誰も何もそうではないだろう。だから面倒くさくなる。

 くだらぬことにかかり気だと思うのなら、それが記述の本質なのではないか。それによってもたらされる気分がくだらない気分なのだろうか。そんなはずがない。何がどうなっているわけでもなく、実態としてはこうなっていて、人の神経を逆撫でするようなことを主張したいらしいが、それが何なのかわかるわけもなく、自然とそうなってしまうとすれば、そうなって本望なのだろうが、どうもそうではないらしく、ただ無視され忘れ去られるようなことしか主張できず、それが誰かの自尊心を傷つけているのかもしれないが、やはりそうなって本望なのだろうか。しかし何が望むところなのか。君は誰の虚栄心を満たしてあげたいのか。そのさりげない自己主張が見え透いていることは誰もが承知しているところか。だからくだらないのだろう。それによって他人を驚かせたいのだとしても、何となくくだらなく思われてきて、そう思われてしまう時点ですでにそれらの試みは失敗していて、要するに箸にも棒にもつかないようなことか。意味がわからないのにそんなことを述べてしまうこと自体が、さらに馬鹿げている。でもそれ以外に何をどうしたいわけでもないのだろう。まさか他人を感動させたいのだろうか。そうではないが、結果的にそうなったら本望か。またそんな言葉を繰り返して使う。馬鹿げているだろうか。眠たくなるみたいだ。

 さっきから何を繰り返しているのか。たぶんそんな記述を繰り返しているはずだ。そこに何かが入る余地がなく、まともな感覚からすれば、最悪の状況に近いのかもしれないが、それでも済んでしまうこと自体が何かを物語っているようで、窮余の策というわけでもないのだろうが、間に合わせの記述が自らの首を絞めているようにも思われ、それに対するまともな解釈を妨げ、他に何を導入するあてもないのに、ことさら思わせぶりなことを示そうとして、かえっていらぬ誤解を招き、君を窮地に陥れることになるのだろうか。それこそ杞憂の最たるものか。それは嘘なんじゃないだろうか。それにしてもまだやる気なのか。実際に言葉を記しているではないか。それがどうしたわけでもないのだろうが、まったくその粘り強さには頭が下がるか。そういうことではないだろう。たぶん君はどこかにたどり着かなければならないのだ。そのためには途中過程としての記述が必要なのであり、今がまさにその最中なのだろうか。何のことやらわからないか。馬鹿げているのではないか。それはいつもそうだ。何もそうではない代わりに、常に何かがそうなのであり、たぶん性懲りもなく繰り返すことこそが、そこに至るためには必要なのかもしれず、今まさにそんなことをやっているわけで、さらにそれを繰り返さなければならないのかもしれない。まったくご苦労なことか。だから馬鹿げていると思われるのではないか。頭が下がるどころの話ではない。


3月16日

 話の中では誰かが紆余曲折の果てにどこかにたどり着くが、今さら何を批判したいのでもないらしい。虚しいのだろうか。そんなことなのかもしれない。生き残るのに必死なのだろうか。でもそれ自体が勘違いなのだろう。了見が狭いのは致し方ない。滅び行く人たちだ。そんな感じがしないでもない。果たして君もその中に入るのだろうか。それはわからない。それ以前に別の方面へ逃げてしまうのではないか。やめてしまうわけか。何をやめようとしているのだろう。まだやめていないわけか。そんなことを述べて気が済むとは思わない。では何を語ればいいのだろう。ここでやめるわけがない。そう思いたいが、やめてしまうかもしれない。何かが置き去りにされている。ままごと遊びのたぐいに思われてしまうが、当人たちは至って本気なのだろう。何とかするつもりなのだろうか。さらに忙しくなってしまう。それが前進を妨げているとしても、執拗に言葉を記そうとする。性懲りもなくそれを続けようとして、かえって墓穴を掘っている結果となり、それで何を思うわけでもない。つまり何も思わないということか。冗談だろう。馬鹿げている。ならばそういうことに違いない。また遅れてしまったようだ。過ぎ去った時間を取り戻せなくなっている。それは当たり前のことだろう。だから何がどうなったのでもないわけか。そんなわけもないか。

 また支離滅裂なことを述べようとしている。いつものことだ。人はそれでも語ろうとするのだろうか。君も人の中の一人のはずだ。それはそうだ。夜になっている。まだ眠ってしまう時間帯でもないか。でも君は無言だ。眠っているのではない。ただ言葉を発しないだけか。そんな空気の中で呼吸をしている。別にそれがどうしたわけでもないだろう。要するに言葉を発するのが面倒くさいのか。ただ単にその必要がないからそうなっているだけか。それはどういうことなのか。どういうことでもなく、当然のことだ。もう十日も遅れているはずだ。それは便宜的なことだろうか。何がそうなのか。記すべき言葉を間違えている。そんなことを記すべきではないということか。ならば何を記すべきなのか。とりあえずそんな予定調和の問答はやめておいた方がよさそうだ。でもそれがないと話が先へ進まない。話ではないだろう。たぶん話をしようとしているのではなく、言葉を記そうとしているのだろう。実際に記しているではないか。少なくとも何かに言及している。話の中ではそうか。だから話ではないと思っている。記述という行為は常に矛盾しているわけか。それの何が矛盾なのだろうか。何かを語ろうとすればするほど空疎になる。内容が何もなくなってしまうわけだ。それは君のせいか。何がそうなのだろうか。とぼけるのもいい加減にしてほしいか。別にとぼけているわけではなく、何も思いつかないから、苦し紛れにそんなふうに語っているに過ぎない。それではだめか。だめに決まっている。

 しかしくだらない。本当にこの世界には何もないのだろうか。少なくとも語ることなどありはしない。それが嘘だと承知しつつも、やはりそう述べるしかないらしく、たぶん他に何がどうなっているのでもないのだろうが、いつの間にかそんなふうにしか語れなくなってしまったらしい。だからそうなったのは君のせいなのか。しかし君とは誰なのか。架空の存在でしかなく、今のところはそうだ。そこから物語にならず、何も物語ろうとしていないから、そうなっているのは当然なのだろうが、何かを物語ることにも抵抗を感じてしまうのは、どういうことでもなく、ただ単に物語るべき何かが不在なだけなのだろうか。だからといって、そんなふうに記していいはずがない。もっとまともに語るべきか。でも何を語る気も起こらず、無理に語ろうとすれば、要するにこうなってしまうわけか。おかしな具合だ。でもそれでかまわないとも思い、そんな現状を肯定せざるを得ない。またそうやって嘘をつく。まったくくだらない成り行きか。でもそうなって当然なのだろうから、それはそれで受け入れざるを得ないのではないか。だから冗談にもほどがあり、嫌気がさしてしまうだろうか。そしてそんなことを記す度に自己嫌悪が増してゆき、次第に耐えられなくなってくるだろうか。だが何に耐えているのだろうか。嘘なのか。嘘に決まっているだろう。ならば画面の前で笑っているのは誰だろう。架空の君に決まっている。そんなわけですべては冗談のうちに含まれ、本気になれないのは、そういうところへ逃げてしまうのが原因なのかもしれない。これでは何を語っていることにもなりはしないか。


3月15日

 また何かがかろうじてつながっている感じだ。だから何かとは何か。さらにそれを続けるつもりらしい。目が疲れた。何だかそういうことだ。どういうことでもないのに、そういうことになる。馬鹿げた話には違いないが、巻き返そうと企んでいる。無駄な悪あがきとなるのだろうか。それでもかまわないのかもしれないが、裏をかいたつもりで、不意に真正面から仕掛ける。雰囲気が売りらしいが、賢く振る舞っているつもりの人々にはそれが理解できない。少しでも売り上げを伸ばさなければ、リストラが待っていたりするわけか。そんなシステムにうんざりしているのだろうか。それが当然のことだとは思えず、何かがおかしいと感じているのだろうが、なぜそう思ってしまうのか。何かそれとは違う可能性を模索しなければならないのだろうか。たぶんこの世界では何かがあまりにも過剰なのだろう。何もかもが回りくどく作用していて、そうしないと、人にはやることがなくなってしまうのだろうし、要するに仕事がなくなって、この世界で暮らしてゆけなくなってしまうわけだ。そんなわけで人が生きてゆくためには、絶えずシステムが複雑怪奇に構築されて、そういうシステムを維持継続させてゆくための人材が必要とされ、その結果どうでもいいようなことをやりながらも、それに携わっている人々がいるわけだ。おかしなことか。

 何もかもが一筋縄では行かず、交渉のための交渉が何度も繰り返され、どのような結果に至らずとも、また無意味な交渉の場が用意され、そこで何かが話し合われ、そこに居合わせた面々が何かやっているような気になるのだろうが、出てくる結論はニュース解説のような言説の羅列であり、それで誰かが納得せざるを得なくなるわけか。見せかけだけの陳腐な現象だ。人々は何に飛びつくのだろうか。操られている。言葉に操られ、他の何かにも操られている。それで楽しくなってしまうわけだ。何が悪で何が善でもない。判断などつきはせず、何を理解したいわけでもない。だが何を批判したいわけでもないのだろう。それらの雰囲気に流されているわけだ。意味をなさない意識がどこかで漂っている。さまよっているのだろうか。バガボンドか。そうではないようだ。たぶん意味をなさない気分なのだろう。言葉を記すことなどどうでもいいわけか。そうかもしれないが、それではだめなのだろう。何が楽しいわけでもなく、何に憤っているわけでもない。また意識がそこから遠ざかっていくようにも思われ、さらにどうでもいいような気がしてくるが、いったいそこで誰が語っているのか。それはいつもの決まり文句だ。くどいような気がする。馬鹿げているだろうか。なぜかそう思えてきて、やる気をなくしてしまうらしい。

 気がつけば心がどこかに埋もれている。根拠などない。いつもの嘘か。この世界の何が特殊なのだろうか。不意に疑念を抱くが、何のことやらわからない。テレビドラマで殺人事件が起こるが、君が犯人なのではない。どこかに特性のない人間がいるらしい。ただありふれているだけだろう。誰かがフィクションの中でそんなことを語っているらしい。おかしいだろうか。何かが余分だ。何がいらないのだろうか。そのへんに散らばっているゴミか。他は何だかわからない。でも君は何かを知っている。それは秘密ではない。ネットで調べればわかることだ。それを架空の人物がどこかで語る。そんなフィクションを思い描くが、それがどうしたのか。興味がないらしい。それらの中で何が関係ないのだろうか。なぜ関係のないことに気にかけるのか。おかしいか。冗談なのかもしれない。いつものことか。途中から続かなくなり、ごまかしを利用してかろうじて終わりまで行き着くつもりか。価値がない。価値があるとはどういうことなのか。誰かに感動を届けなければならないのだろうか。それこそ馬鹿げているか。宮本武蔵の話は作り話だ。作家の吉川英治がその大半を創作したわけか。漫画の『バガボンド』もそれを参考にしているらしい。よくあるパターンなのではないか。でもおもしろければそれでかまわないのだろう。しかしなぜ君はそれを読まないのだろうか。君はつまらない人間の平凡な一生の方にリアリティを感じるわけか。


3月14日

 それとは何か。いつものそれだ。そこで何やら模索中らしいが、たぶんわからないままだろう。探し物は何でもなく、見つからなくてもかまわず、たとえ何かの偶然で見つかったところで、どうでもいいことか。現状はそんな案配だ。何を見つけたわけでもなく、見つけようとしているわけでもない。昔はそうではなかったが、今は違うのか。今も昔も何も違うのではない。ではまたすべてが違うとか嘘をつくわけか。まだ何も語っていない。ここから何が始まるわけでもないが、誰かがどこかでさらに言葉を記しているのだろう。それに関して語ろうとしているが、うまくいっていないようだ。たぶんこれからもそうなってしまう。また性懲りもなく何かの当てずっぽうで、そんなことを予想しているふりをするのか。おかしくなっているだろうか。まだわからない。たぶん何がそうなってしまうのでもなく、何かが自然とそうなってしまうような気がするだけか。でもそれでは意味不明でわかりにくく、それに関する説明になっていないようだが、それでもそういうことらしい。何もそういうことではないのに、結果的にそうなってしまう。結果が君をそうさせる。またわけがわからないことを述べているようだ。しかし何が性懲りもないのか。そのへんが理解できないようだが、そんな案配ではいつまで経ってもまともな内容にはたどり着けそうにない。でもそれでかまわないのだろう。

 どうやらまたいつものパターンになってきたらしく、夕闇迫るどこかの窓辺で、誰かが半ば呆れ気味に、そんなくだらぬ思いにとらわれ、馬鹿げた妄想を抱きながらも、何とか正気でいるつもりらしく、平常心を取り戻した気で、さらに何か適当なことを述べようとしているみたいだが、それがどうしたわけでもなさそうで、どうしてもまともな内容に至れない。今回はそれでかまわないとは思わないのだろうが、何だかおかしな気分だ。すでに限界に達しているのだろうか。それは何の限界なのか。そのへんのところはよくわからないが、とりあえず何かの限界なのだろう。馬鹿げた気分でくだらぬことを述べているわけか。君はそこで笑っているのだろうか。誰が何を読んでいるというのか。そうではないだろう。読んでいるのではなく呼んでいるのではないか。君は霊媒師か何かか。何かとは何なのか。君が知っているそれのことだ。それとは何か。それは君が知っている何かのことだ。そうやって何でもないような何かが文章の中で循環しているわけだ。でもそんな説明が余分だ。そういうやり方がまともではないのだろうか。それでかまわないのかもしれないが、何だか行き詰まっている。冗談だろうか。それが逃げ道となる。何もおかしくないのに、おかしいと思い込み、何となく行き詰まっているような気になり、必要もないのに思い悩み、そこから努力して何かの結論に至ろうとする。まったくご苦労なことだ。

 もう夜だ。少しは前進できるだろうか。今回は何を利用してここまで来たのか。たぶんうまく乗り切ったと思っている。でもまだ先が長い。その時はうまくいったつもりでも、後になって手痛いしっぺ返しを食らうかもしれない。でもそうなったらなったで、それが何かを記す材料やきっかけとなるわけだから、甘んじて受けるしかないか。なぜそうなってしまうのだろう。それの何がうまくいったことになるのか。空疎な記述を自虐的に続けることの何がうまくいっていることになるのだろう。そういう否定的な思いも記述の材料であり、そんなふうにしてそれらを継続させているわけなのか。納得し難いだろうか。でもそれがここでの結果なのだろう。結局そういう結果について述べることになるわけだ。何だかそう述べてしまっては夢がない。でもそれは君の夢ではない。誰の夢でもなく、何を夢見ているわけでもない。夢のような未来を思い描いているのでもなく、たぶん未来は人々の夢の中にはないのだろう。ただ空想して想像するばかりかも知れないが、今はそれが許されるような状況にないのだろうか。でも実際にここまで歩んできた。それを実感している限りは、まだ意識がこの世界にあるような気がしてきて、何はともあれそれによってある種のリアリティを感じることができるかもしれない。またそんなごまかしで逃げようとしているみたいだが、君にとってこの世界は何の意味があるのだろうか。ただその中で生きていると実感するだけで満足しているのか。それでもかまわないか。また苦し紛れにそんなでたらめが導かれる。


3月13日

 また何かの分かれ目に達してしまったらしい。また深夜か。どうせもうすぐ朝になり、次いで昼になり、さらに夕方になり、結局夜になってしまう。いつものことか。そして考えるわけか。何を考えているのだろうか。あくびが出る。眠いのだろうか。それがどうしたわけでもなく、とりあえず横になるとしようか。何を考えているのかわからないまま、また眠ってしまうらしい。もう夕方だ。これから夜になる。そして何か記すつもりなのだろうか。今記しているそれではだめらしい。納得がいかないのだろうか。今回は真面目に言葉を記さなければならないだろうか。何が真面目なのか。何かが出かかっているのかもしれないが、それが出てこない。それはどのような認識なのだろうか。認識ではない。では何なのか。そんなはずがないだろうか。でも何を見出そうとしているのか。なぜそう思う。心から何かが弾き出そうか。弾丸か何かだろうか。そんな幻想を抱くが、たぶん違うだろう。また停滞しているようだ。なかなか踏ん切りがつかない。吹っ切れないと言った方がしっくりくるか。もっといい加減にやってかまわないのではないか。実際にそれができないから困っている。本当に困っているのだろうか。しかし何が違っているのか。それがわからないから困っているわけか。そうではないと思うが、そんなふうにしか記せない。何かの病か。

 何がそうなのでもない。いったい分水嶺はどこにあったというのか。またわけのわからないことを述べている。なぜそうなってしまうのだろう。このままではいつまで経ってもこのままだ。それでかまわない。何もままならないようだ。語っている先から空疎になる。内容が何もなく、ただ言葉が延々と並んでいるだけか。そう思うなら思えばいい。それ以外に何があるというのか。意味がありそうで、意味などないと思いたいが、何が何だかわからないとも思いたい、でもそれは違うだろう。今日は角砂糖二つでコーヒーを飲む。それがどうしたわけでもないだろう。要するに何でもないのに、そのへんで行ったり来たりだ。まったく前進が利かない。どこかにはまったまま動かない。何が動かないのかわからない。頭が固定されているわけか。要するに思考が固まってしまったということか。そんなふうでもなさそうだが、どうもだめそうだ。何だかおかしい。そればかりだからだめなのだろう。それに対応する言葉が出てこない。だから意味不明か。決まっているではないか。何もなければこんなふうになってしまうのだろう。悩ましいだろうか。頭の中で紫の煙がどうなっているというのか。そういうことではない。また外れている。そういうことだ。イメージが浮かんでこないようだ。何に接しているわけではない。危機ではないということか。またおかしくなっているのだろうか。何がそうなのか。

 まだたどり着いていないだけか。でも今日は少し縮めるつもりだったはずだ。距離感がない。安らぎを感じる音楽を聴いている。癒やされているのだろうか。何がそうなのでもなさそうに感じられ、そんなふうに思っていること自体が違うと思われる。嘘だろう。違いない。本当は何も違っていないのではないか。またここまでやってきただけのようにも思われ、何かが繰り返されているとも思われる。そんなはずがないか。またそれだ。その感覚が違うのではないか。外れな感覚と同時に当たりの感覚も共有され、どちらが違っているのかわからなくなり、どちらでもかまわないようにも思われ、どちらでもなくてもかまわないようにも思われてしまうが、それはどういうことなのか。どういうことでもないか。でも何とかなっている。こうして言葉を記しているではないか。曲がりなりもそうか。何が曲がっているのだろうか。空間と時間が曲がっていたりするわけか。誰かがそこで何かを説明していることに違いはないようだが、それを信じることはできず、たぶん嘘をついているのだろう。それが正解だろうか。そうでなくてもかまわない。何がおかしいわけでもなく、君が相変わらず画面の前で笑っているようだ。でも何が君を笑わせているのでもなく、ただ不気味に意味もなく笑い続けているだけなのだろうか。でもそんな光景を想像して何になるのか。何にもならなくてもかまわない。そんなことを記しているうちにも、時が経ち、何かをあきらめることによって、ようやく心が何かの束縛から解放されてゆくのかもしれない。


3月12日

 ついに何かがどうにかなってしまったらしい。それもフィクションの中でのことか。そうではない思いたいが、実際はどうなのか。どうもせずに普通に暮らしている。ではこの世界では何がどうなってしまったのか。わからない。何だかよくわからないが、気分が昂揚しているわけでもないのに、何となく状況を楽観視しているようだ。なぜだろう。そんなわけで今日も意味不明のようだ。何だかやる気がしない。笑ってしまうがそういうことらしい。安倍内閣の支持率が70パーセントで、TPP交渉参加支持率が63パーセントだそうだ。野田前首相が交渉参加表明していたらこうはならなかっただろう。まあタイミングと政権政党が違えばこうなってしまう。アナウンス効果なのだろうが、どうでもいいことだろうか。誰を支持しているわけでもなく、やはりどうでもいいことかもしれないが、角砂糖三つではコーヒーが甘過ぎるようだ。関係ないか。何が関係ないのか。たぶん何でもないことだ。ではもうあきらめているのだろうか。何をあきらめているのだろう。君はもうだめなのか。何がだめなのだろう。わからないが、気持ちが一定しない。興味がないのだろうか。何に対してそうなのか。誰かが世界のどこかで探検中だ。不意にテレビをつければそんなことをやっている。何でもないから音楽を聴くとしよう。気休めにか。政治がどうのこうの言う立場にはないらしい。余計なお世話か。

 機会がない。そう思ってもらって結構か。考える機会がないのだろうか。そういうわけでもないのだろう。ただ堕落している。何がそうなのか。それがわからないところが堕落している証拠となるだろうか。何だかわからないが、それでは内容を得られないか。だからまともな内容には至らない。そう思ってもらって結構か。しかし笑ってしまう。そういうわけで、何が何だかわからないうちに記述を終えてしまうことにしよう。本当はそうではないのに、この期に及んで嘘でもつくつもりなのだろうか。すでにそうなのではないか。何だかおかしい。そう思うからそうなってしまうようだ。そうでもないのにそう思われてしまう。実際のところはどうなのか。ただ無駄に言葉を記しているだけだろうか。そうに決まっているだろう。それとも本当は違うと思っているわけか。しかし何をよそ見しているのか。さっきから記述が進んでいない。さっきというわけでもないか。またつまらないところで道草を食っているようだ。どうもそのへんが何とかなりそうでならない。ため息が出る。それではだめなのではないか。テレビを見れば老人がジャングルで立ち往生か。道に迷ったらしい。でも道無き道を登っているのだろう。道ではない。ギアナ高地で山登りのようだ。最高峰なのだろう。ネブリーナという山だそうだ。君はテレビ画面を通して何を眺めているか。

 そしてまたしばらく時間が経ってしまったようだ。君は正直だ。退屈なのか。無理なのではないか。またつまらないことを述べている。結局は断念してしまうのだろうか。ニュースの時間か。この世界はどうなっているのだろうか。見た通りか。その通りだと思えばいいわけか。少年たちは金がほしかったので強盗を計画したらしい。安易なことか。あくびが出る。資本主義には夢がない。すべては弱肉強食の世界だ。そう思えばそういうことになり、そう思わなければ夢を見ることができる。そうやってみんな幻想を抱いて、夢に向かって金儲けでも企んでいるのだろうか。それは誰の夢なのか。それを信じている人たちには夢を見る権利があるのかもしれない。彼らは何を信じているのか。些細な夢か。社会の一員として仕事がしたいわけか。人類のために何か貢献がしたいわけか。メディアは夢見る人たちを応援してくれる。総理大臣もそういう人たちの味方なのか。人気取り的にはそういうことになるだろうか。大胆な金融緩和とは具体的にどのようなことなのか。まさか冗談のたぐいか。そう思ってもかまわないだろうが、とりあえず工夫を凝らして努力するのだろうが、別に失敗してもかまわないのではないか。どちらかといえばそうなった方がおもしろい。人々は破滅を心配しているのかもしれないが、たぶん日本は国家として破滅した方がいいのではないか。君は冗談を述べているのか。たぶんそう捉えてもらってもかまわないだろう。現状はそういう方向へと推移してゆきそうだ。要するに結果はマネーゲームの延長上にあるのだろう。


3月11日

 さらに夜だ。だから何なのか。理由もなく夜なのだろうか。地球が自転しているのだから、夜になって当然だろう。そういう理由ではなく、君は未だに言葉を記す理由を探しているのだろうか。それと夜が何の関係があるのだろうか。ただ夜に言葉を記している。それだけのことか。たぶんそれがどうしたわけでもないのに、ことさらにそんなことを記していることが、何だかおかしな気分を醸し出しているのだろうか。何だかわからないが、そういうことなのかもしれず、それについてあまり自虐的になっていては仕方がないが、とりあえずそんなことを思い、そんなことを記している。やはりそれだけのことのようだ。それだけのことなのに、それがどうしたわけでもないのに、何だかおかしい。要するに冗談なのだろうか。すぐにそうやって逃げてしまうようだ。すでに気持ちが逃げている。なぜそうなってしまうのか。面倒くさいのだろうか。何がそうなのか。だから語るのが面倒くさいのだ。何もないのに語ろうとするのも面倒か。それはそうだ。そういうことでしかなく、結局は無駄に言葉を記す羽目になる。だからそれが冗談なのではないか。でもかまわないのだろう。そうやって急場を凌いできたわけか。凌いでいるとはいえないのではないか。要するにそんな自問自答が予定調和なのか。だからそれでかまわないと思っている。仕方のないことだ。

 今のところは何が見出されているわけでもない。何も語っていないわけだ。それでかまわない。そんなふうに言い聞かせているわけか。誰に言い聞かせているのだろうか。たぶん自らに言い聞かせているのだろう。でも納得できない。でもそのまま言葉を記している最中のようで、誰が納得できなくても、話が進んでしまう。それだけのことだろう。今はそんなふうに記すしかないわけか。誰を責めているわけでもなく、何を恥じているわけでもなく、ただそんなふうに言葉を記し、それで何かを済ますつもりのようだ。それがいけないのか。そんなはずがない。たぶん違うのだろう。誰の目論見もそんなところにはない。誰もそんな状況を望んでいないのか。誰がそう思っているのだろう。誰も思わない。何を思わないのか。それに関しては何かが具体性を欠いている。今さら何を語ればいいのか。今さらそれはない。何が今さらなのかわからない。たぶんそれが今さらの意味なのだ。意味不明ではないのか。意味がわからなくなっている。でも語る意味を見出そうとしているわけでもないのだろう。語っていないのだから、無理に見出そうとしなくても、はじめから意味がない。だから冗談となってしまうのか。でも何が冗談でもないらしく、無縁の極致でもなく、両極端の間に何があるわけでもない。やはりまともに語れないようだ。それでかまわないとは思わないのか。なぜ思いたいのか。何を思いたいわけでもないのだろう。

 そんなわけでもない。ただわけもなくどこかの夜景を眺め、どんな感慨を抱くわけもなく、つまらないことを延々と記しているような気がするのだろうが、実際はどうなのか。前に進まなければならない。恐ろしいことだ。立ち止まる必要性を感じられない。冗談だろうか。なぜそうなってしまうのか。無駄に語らない方策でも考えた方がいいのか。眠たいのか。言葉を記しながらも何を考えているのか。駅前にタクシーが止まっているのが見える。電車の中が混んできたようだ。どこかのベンチで人が一息つく。眠ってしまいそうか。何を覚えていないわけでもない。覚えていることの大半は忘れてしまったらしい。新幹線の中で具合が悪くなった人が出て、少し到着が遅れてしまったが、とりあえず戻ってきた。明日も早い。寝るとしようか。それらのまなざしが何を見ているわけでもないことに気づいた時、君はどんな気持ちになるのだろうか。人はいつまでもそこに佇んではいない。さっさと退散したいようだ。もたらされたのが気疲ればかりでは、何か損したような気になるらしい。さもありなんか。でも誰の同情を求めているのでもなく、無視しておいてほしいだけだろうか。何か気に障ることでもあるのだろうか。別にかんしゃく持ちというわけでもない。ただずいぶんと間延びしてしまった感があり、集中力が持続しないだけなのかもしれない。それでもかまわないのだろうか。とりあえずはこうなっている。無内容の連続かもしれないが、一応はこういう感じであり、記述は記述に違いない。


3月10日

 しかし何なのか。ここに来てそれか。何が来たのだろうか。それが違うのだろうか。何が違っているのでもないのだろうが、そんな気になっている。まったく理解できない状況だ。なぜそうなってしまうのだろう。フィクションの中で誰かが何かを考えている。そんなはずがない。何を考えているのだろうか。本当にでたらめだ。何を記しても文章になっていないようだ。たぶん需要と供給の関係なのだろう。結局は市場競争原理が働くのだろうか。国内の労働者を手厚く保護していては企業も国家も地方自治体も生き残れないらしい。生き残るためには低賃金で労働者を働かせるしかないようだ。そんなテレビ番組を見ながらあくびが出る。君は何をやっているのか。何もやっていないわけではない。昼は誰かが仕事をやっていたではないか。その誰かが君と心を共有しているとは思えない。では何なのか。何でもない。そればかりだが、実際に何でもない。それも冗談なのだろうか。たぶんそうだ。それでかまわないのだろう。労働に価値などない。価値があるのは何か。芸術作品か何かか。それもずいぶんとふざけた話か。何に価値があるわけではなく、たぶん何に価値があってもかまわないのだろうし、少なくとも労働に価値があってもかまわないのだろうが、低賃金の単純労働には価値がないらしい。それが現実のようだ。

 人が求めているのはまやかしのたぐいか。そんなはずがないと思いたいところだろうが、それでもかまわないのかもしれない。何だかまた眠ってしまったらしい。今日もまた忙しい。それも違うか。しかし何が違っているのだろうか。もう夜だ。そして何を思っているのでもなく、そんな気でいるらしいが、何も進展がなさそうだ。話ではない。たぶん何でもない。目にゴミが入ったのだろうか。それがどうしたのか。何がどうしたわけでもないのだろう。この世界は平坦になろうとしている。地形がそうなのだろうか。誰かが神の国のことを思うが、それは間違いだろう。貧しき人はますます貧しくなるのだろうか。それに比例して、富める者はますます富んでしまうわけか。それはわからないが、富める者たちがこの世界を動かしているとすれば、そうなる可能性が高いか。でも何がそうなのでもなく、下克上とは違う何かを模索している人たちもいるはずだ。現状とは違う何かを構想することができるだろうか。君は何を思い描いているのか。もちろんそれはフィクションの中でのことだ。それではだめなのではないか。たぶんそうだ。物事を単純化して考えるべきではなく、すぐにどうにかなるようなことではないことは承知しているはずだ。だから絶えず模索していなければならないというわけか。わけでもないか。

 では何なのだろうか。やるべきことが違っていて、考えるべきことも的外れなのだろうか。目の前の問題を何とかしなければならないということか。たぶんわかっているのはそういうことなのだろうが、それではつまらないのだろう。とりあえず何かを記しつつあるのだから、少しは現実逃避が許されるのではないか。それもおかしな話か。ではどうしたらいいのか。例えば考える方向性が間違っているのだろうか。そういう問題ではないか。何が問題なのではなく、何も問題とはならないことが問題なのでもなく、君がそれについて何かわかっていて、しかしそれについては語れないことが問題なのではないか。なぜ語れないのか。要するに語る術を知らないということか。なぜそうなってしまうのか。現状を変革する策を言葉を記すことによって示すという行為が、現実の変革を妨げている可能性もあるということだ。ではどうしたらいいのか。あからさまにそれを示さず、かつそれを読んだ者たちが、現状を変革するために行動を起こすように促さなければならないということか。果たしてそんなことが可能なのか。さあわからない、確かにわからないが、君はそう述べて、誰かの無意識に訴えかけているのではないか。そんなはずがないと思いたいのだろうが、実際にそうなったらおもしろいと思っているのではないか。たぶん何かを語るとは、そういうことを含んだ語りを模索していることなのだろう。


3月9日

 たぶんここからが問題なのだろう。いつもここで記述者が眠ってしまう。君には関係ないことでは済まない問題か。では何をどうしたらいいのだろう。実際に眠ってしまったようで、すでに翌日の夜になっている。笑ってしまうか。なぜ笑ってしまうのか。さっきまで誰かがテレビを見ていたからか。そんなことで笑うはずがない。では笑ってしまったのは嘘偽りか。馬鹿げている。何かがそうなのかもしれない。また何を語っているのでもないようだ。もうすでに語りすぎているのか。たぶんそうだ。そんなわけでまた眠たくなってきてしまったらしい。これではだめだ。何を記してもしっくりこない。つまらない絵でも眺めているのだろうか。テレビ画面に見とれているわけでもない。では何なのだろうか。何でもなければさらにつまらなくなりそうだ。事件も何も起こらないか。ニュースでも見ればいいのではないか。それでどんな感想を抱くことになるのか。その場の成り行き任せか。それでは何にもならないだろうか。そんなわけで言葉を記している。結果はこんな具合だ。何だか投げやり気味のようだ。それがそこで抱いた感想か何かか。何にも思い浮かばず、どんな結果にもたどり着かない。時にはそんな嘘もついてみるが、至って何でもない。そんなことの積み重なりが鈍感にさせる。何に関してそうなのだろうか。

 つまらなくなっている。ただそういうことらしい。何か考えているふうを装うのが重荷になっているのだろうか。ではどうすればいいのだろうか。何を理解すればいいのか。この世界の何を理解しているというのだろう。自らに問いかけてみるが、何も答えが出てこない。君には無理なのだろう。誰にとってもそうかもしれない。君にとっても同様にそうなのか。何が同様なのだろうか。それに関しては何もつかみきれていない。誰かがこの世界の有様を眺めているだけか。別にそれに関する見解を求めているわけではない。ただ何かが目の前を通り過ぎる。それだけのことだ。なぜだろう。疑念を抱いている暇がないからだろうか。でもそこから遠ざかるつもりなのだろうか。意識が次第に遠のいていく感覚ではない。ではまだ生きているということか。誰がそこで生きているのか。君ではない誰かが生きている。少なくともそういうことだ。別にフィクションの中で生きているわけではない。現実の世界で誰かが生きているのだろう。ところで君は何から解き放たれて自由をつかみ取ったのか。だからそんな話ではない。誰もそんなことは話していないはずか。そこまでたどり着かないうちに眠ってしまうのではないか。なぜそうなってしまうのだろう。単に疲れているだけか。きっとそうに違いない。でもそういうこじつけはおかしい。何をこじつけているのか。

 君は何を語っているのか。そこでは何も語っていないはずだ。だからそうではない。面倒くさいのだろうか。別にスポーツについて語りたいわけでもなく、教育テレビで将棋を見ているわけでもないらしい。では何なのか。語る必要のないことを語っているわけか。そうかも知れない。ではこの先に何を続けて記せばいいのか。今記しつつあるこれでかまわないのか。かまうわけがない。だからかまわないわけか。筋の通らない何かを感じるが、何だかそんな成り行きのようだ。疑念をいくら深めていっても疑心暗鬼に陥るだけで、悪循環の迷路から抜け出ることはできない。いったい何をそんなに疑っているのか。それはこの世界の存在そのものか。笑っている。そんな大げさなことではないようだ。うまく言い表せないのだろうか。フィクションの中の登場人物はそう思っている。そんなのは嘘だろう。苦し紛れが見え透いているか。そういえば少年ジャンプで大げさな必殺技が最初に炸裂したのは『リングにかけろ』の中だったはずだ。誰かが不意にそんなことを思い出す。その後に『北斗の拳』が続き、『ドラゴンボール』や『ジョジョの奇妙な冒険』や『ワンピース』や『NARUTO』につながっていくわけか。『リングにかけろ』の作者も後に『聖闘士星矢』などで一世を風靡したはずか。しかし影道冥皇拳は何だったのか。技の説明すらいっさいない。たぶんアッパーカットか何かなのだろうが、それを繰り出す人物が拳を頭上高くに振り上げると、相手が宙高く舞い上がる。それだけのことだ。それが影道冥皇拳だ。それに類する必殺技を主人公も最後に繰り出すが、その技の説明が意味不明だ。確か技の名はウイニング・ザ・レインボーか。


3月8日

 どうも何も見ていないようだ。さっきから虚ろなまなざしを空想している。嘘なのだろう。嘘に決まっているではないか。何とかしようとしているのかもしれない。実際に言葉を記しているではないか。それだけのことか。そういうことだが、それだけのことで開き直ることもないか。何だかおかしい。今日もおかしいということだ。いつもそうなのだから、もうおかしくはないのではないか。だからおかしいのか。とりあえずもう昼だ。どうも昨日と同じ展開になってきそうだ。何だか意味がわからない。それだけのことだろうか。でもそれに心が耐えられるのか。別に貧窮の時を迎えているわけではない。貧窮とは何か。何だかわからない。砂糖を入れすぎたコーヒーが気持ち悪い。それを飲んで気持ち悪くなっているだけか。それと貧窮の時とは無関係だ。当たり前か。それはそうだろう。では何なのだろう。どうも先へ進むどころか、ずるずると後退局面であることを自覚しているらしい。これではだめか。何がだめなのだろうか。記述における内容にこだわりが感じられないか。それもそうだ。たぶん何かが違っているのだろう。いつもそう述べてしまうが、やはりその違いの意味がわからないのか。結果が知れている状況でそれを想像するのは意味がない。結果とは何か。期待していたわけではないが、結果がすべてだとも思わないが、何が結果だとも思わない。時にはそんな嘘をついてみるが、虚しさが募るばかりだろうか。

 久しぶりに『ゲットーの少年』を聴いてみる。それがどうしたわけでもないのだろう。たぶんそういうことになってしまうだろう。人間社会のすべてがゲットーなのだろうか。ただしここで言うゲットーとはユダヤ人居住区ではなくスラム街のことのようだ。またそこでつまらないことを考えているようだ。ここではないどこかへ行ってみたいとでも思っているわけか。君はこの世界の何を知っているというのか。サラリーマンの給料を上げれば好景気になるだろうか。たぶん誰かがそんなことを考えているのだろう。楽しい話か。たぶんそうに違いない。たぶんではないか。何もそうではないのにそうなってしまう。またしばらく道草を食っていたらしい。そんなわけがない。騒がしい曲だろうか。大したことはない。期待外れか。それをどう聴いてみても、君が思っていたのとは違っているようだ。何かを聞き逃しているのかもしれない。それは誰かの言葉か。君はそこで誰に会っているのだろうか。誰かに会うのだろうか。それがどうかしたのか。今日ですべてが終わるわけがなく、今日ですべてが変わるわけがない。そんなことはわかりきっているのに、そうなることを期待しているわけか。静かな夜だ。そんな気がしているだけか。たぶん勘違いだ。

 今日はちゃんとやるつもりなのだろうか。何をやろうとしているのだろうか。とりあえずほうじ茶でも飲んでみる。それとこれとは無関係かもしれない。たぶんそんな気がしているだけだ。実際は関係ないと思う。現実にほうじ茶を飲みながら言葉を記しているようだが、やはりそれがどうかしたのか。さっきから『21世紀の精神異常者』を立て続けに聴いている。買ったのはいいが、クリムゾンではなかったようだ。何だか拍子抜けか。ついでにジャズのトリオがピアノとベースとドラムスでやっているのも買ってしまったらしい。やはりそれがどうかしたのかと思う他ないのだろうか。洒落た雰囲気を醸し出しているではないか。クリムゾンジャズトリオという名もイカしているか。冗談のたぐいだろうか。当人たちは大真面目でやっているわけか。たわいないことだ。賃上げを渋っていたのに、総理大臣が直接お願いすれば簡単に方針転換してしまう会社経営者もたわいないか。この世界は国ごとに分割していないで、統一すべきなのはわかる。TPPもそうなるための過程で生じている一環なのだろうか。君はそれを冗談だと思っているようだが、本当のところはどうなのだろうか。この世界が統一されるまで生きていられるとは思っていないようだ。だから何だというのか。ただ漠然としているようだが、誰がスキゾイドというわけでもないか。


3月7日

 急いでいるのに先がつかえている。だからこうなっている。それでもまだやる気なのだろう。やる気があっても時間がないから、無理なのではないか。もう夜だ。昼の間は仕事をしていたではないか。また眠ってしまったらしい。もう翌朝になっている。これはどういうことなのか。ただ単に疲れているだけか。たぶんそんなはずがない。もうできないのかもしれない。冗談か。本音が出たのか。実感か。そうでもない。何がそうなのだろうか。何もそうではないか。考えられないことではない。何もそうではないが、こういうことになっていて、さらに記述が遅れてしまう。そして気がつけばこうだ。ろくでもないか。何もそうではない。こんな感じでかまわないのだろう。不可能に直面しているのかもしれない。ではもうそろそろ終わりの気配だろうか。それでもかまわない。そうなってしまうのならかまわない。またそれも冗談だ。そう受け止めておいてもかまわないか。また逃げているのだろうか。そういうことだ。おかしいのではないか。タイミングが狂っているのではないか。言葉を繰り出す機会を見失う。そうではないと思うが、そういうことかもしれず、何を語っているのでもない。現にそうだ。投げやりな気分に傾いている。その傾斜がだんだんきつくなり、今にも折れそうだ。だから無理なのではないか。それはわかっていることだ。

 ちょっと横になり、どうしたらいいのか考えている。焦っているのだろうか。何も出てこないようだ。失われた言葉がどこかに眠っているわけでもない。でもおかしい。ずれているのだろう。何かがそうだ。何もそうではないのにそう思っているのかもしれない。寒い。まだ朝が寒すぎるようだ。これではできないか。できるわけがない。実際にこうなっているわけだ。もう昼だ。わかっているのにそれはないか。さらに時間は夕方になってしまいそうだ。どうせ記し終えるのは夜になってしまうだろう。ただ忙しいだけか。実際に夜になった。何がはっきりしたのか。ここに至っているようだ。そういうことだ。誰かがテレビで何かを語っているようだ。それはごまかしのたぐいだろうか。別にかまわないのではないか。それは当然のことだ。誰かが誰かを説得しようとしているだから、たぶん何かをごまかさないと、うまくいかないのではないか。そうやって相手を出し抜こうとしているわけか。だから何だというのか。それはいったい何のことなのか。具体的にはわからない。でたらめかもしれないし、何のことでもないような気もしてくる。たぶんそれに関しては何も語れないのだろう。それではだめか。だめに決まっているだろう。しかしそれに関して何を語ればいいのだろうか。何も思いつかない。だから冗談で済ましてしまう方向へ傾いている。どうしたものだろうか。どうもしていないようで、心に迷いがあるだけか。

 人はなぜ迷うのか。それは人だからか。つまらない解答に違いない。ではどう答えたらいいのだろうか。人はなぜ死ななければならないのだろう。人殺しは悪いことか。社会の中ではそういうことになっている。法律としてもそういう感じだ。別に異議を唱えようというのではない。また何か違うような気がしてくる。そういう話で他人の気を惹こうとするのは良くないのではないか。ではどうしたらいいのだろう。苦し紛れで述べているのは承知している。つまらないからこの辺でやめにしないか。まだ先が長い。なぜそうなってしまうのだろう。それは君自身が知っていることだ。気分転換に音楽を聴いている。そんなことではない。たぶんそういうことではないのだ。ではどういうことなのか。それがわかれば苦しまないだろうか。そんなことなど知りはしない。誰が知っているというのか。だから冗談だろう。どうも逃げているようだ。それが良いか悪いかはわからないが、とりあえず苦境を脱して一息つきたいところか。しかしこれのどこが苦境なのか。たぶん苦境なのだろう。実際に記述が大幅に遅れて、遅れを取り戻せない状況となっている。それはかつてないことか。もはや忙しいでは済まないような状況か。いいわけできない。笑ってしまうが、こんなていたらくでは誰かに申し開きができないか。でも誰に向かって申し開こうとしているわけか。誰もそこにはいないではないか。それはわかっているが、とにかく架空の誰かを話の中に登場させたいらしい。


3月6日

 何を見ているわけでもないのにそれはない。画面に映し出される何もかもが滑稽か。そんなことはないと思いたいのだろう。君が思っているのはそういうことだ。それが本当か嘘か知らないが、ここでは不問にしておいて、後から何かがついてくるが、それは君の影だろうか。またもや意味がわからない。何となく違うような感じか。そうでもないとは思わないのか。今度は違うだろう。以前はどうだったのか。思い出せない。目が疲れているようだ。またここへ戻ってきた。とりあえずはそういうことだ。別にここで何も思い出せないわけではなく、たぶん適当に何かを思い出しているのだろう。無論それがどうしたわけでもない。では何なのか。何でもなければ嘘になる。嘘でもかまわないなら、そういうことだろう。そういうこととはどういうことなのか。こういうことか。それでは話にならない。だから話にならない状況に変わりがないというわけか。わけでもないだろうか。では何なのか。何でもなければ、またこんなふうになるしかない。何だかわからない。外では雨が降っている。それだけのことか。いったい人は何のために生きているのか。そんな答えの出ない問いかけが繰り返されるばかりか。違うだろうか。違わないのかもしれない。しかしこれはどいうわけなのか。寝不足か何かか。だからこの辺で切り上げた方がいい。

 少し執拗に追いかけすぎたような気がする。だから今回は簡単に済ましてしまおう。語る気がしない。それでかまわないのか。さらに遅れてしまいそうだ。それはいつものことだが、埒が明かないようだ。だからこれくらいにしておいた方がいい。そんなわけでここしばらくは空疎になる。まともに記せないのだから、それはそれで仕方のないことだ。さっさとやってしまった方がいいのであり、その方が無難だ。その次を記しやすくしておかなければならない。いつまでも幻想を追い求めるべきでもない。そのいつまでもが続かない。もうおかしくなっているようだ。すべては拙速になる。それではだめだろうか。だめに決まっているだろう。だからこうなってしまうのか。無駄に記述が続き、内容が空疎になってくる。まったくおかしい。あくびが出るか。今度ばかりは仕方のないことでは済みそうにない。でも十分なのではないか。愚かなのだから仕方がない。またそんな具合になってしまうのも以下同様だ。何かを片付けられないのだろう。このままでは済みそうにない。たぶんこれも勘違いのたぐいだ。そしてそこで行き詰まりか。何もかもがありふれている。そんな気がするのだから、君自身に原因があるわけでもないか。ではこの世界の仕組みがそうなっているのだろうか。それがどんな仕組みなのか。もう終わりだということか。

 たとえ終わってしまっても気にしない。終わりから言葉を記せばいい。そんなことを述べるのは簡単だ。それでかまわないと思えばいい。実際にそう思い込んで、そこから遠ざかろうとしているのではないか。実際に意識が遠のいているはずで、しばらく飛んでいる。ちぐはぐなことを述べながらも、何とか何かに食らいついてゆこうとしているようだが、たぶん何ともなっていないのだろう。ではここで負けてしまうのか。君は何の存在に気づいて、それでこうなってしまったのだろうか。独り言が延々を続いているのをいいことに、それを利用しながら目的を達成させようとしているわけか。しかし忙しいではないか。ひっきりなしに新しい情報が届き、そのほとんどに関心を持てず、ノイローゼになるわけでもなく、ただ傍観しているだけだろうか。フェイスブックは狂気の沙汰か。YouTubeも似たようなものだろう。君の記述もそうに違いない。そう見えてしまうのだから仕方がない。心が何かに追いつけない。面倒くさいのだから、そういうことになってしまい、慌ただしく何かを再開しているようだが、やはり追いつけない。だいぶ風が強そうだ。だからさっさと終わらせてしまおう。いつまでもこんなことにつきあってはいられない。馬鹿げているし、死んでしまうだろうか。死に損ないだからこうなっているのか。まだそこに至っていないだけだろう。正気とは思えない原因はそのへんにありそうだ。それでかまわないと思わない方がよさそうだ。あまりにも面倒くさいから、何となくそう思われるわけか。


3月5日

 何も見つからないのに何かを探している。そんなはずがない。たぶんよくわからないのだろう。では何を恐れているのか。それはどのような感覚から生じているのか。話のつじつまが合わないようだ。そんなことは百も承知か。でたらめなのだから仕方がない。たぶん何を語っているのでもない。何だかわからないが、いきなり言葉を記し始めてしまったようで、とりとめのない思いにとらわれたわけでもないのに、よくわからない気分でそんなことを記している。それの何が無駄なのだろうか。たぶん違うのだろう。でも気持ちの整理をつけるような状況にはない。いったいそれは何の話なのか。この世はわからないことだらけなのはわかるが、何をわかろうとしているのかわからないのはどういうわけなのか。わけがないということか。でもそれで何を納得しているつもりになれるのだろう。では何が納得し難いのか。それもわからないなら、何を語ろうとしているのでもないことになるだろうか。そんなわけでさらに意味不明となるらしい。まるで誰かのように傍観者気取りだろうか。確かにそこで何かを眺めているようだが、それが何だかわからないでは、眺めていることにはならないのではないか。では何なのだろうか。何でもないわけがなく、少なくとも目を瞑っているわけではない。どうやら君は何かから逃れたいらしい。何から逃れたいのかわからないわけではないが、果たしてそれでいいのだろうか。いいも悪いも、何から逃れたいのかが具体的に示されなければ話にならないだろう。それもそうだが、そんなわけでもなく、たぶんそれでもかまわないのだろう。

 今日は何かと忙しいか。それも違うだろうか。では何なのか。それが記されている。そんな具合なのだからそういうことになる。たぶん何もないのだろう。黙っていれば時が流れ、何かが君を置いてきぼりにしてしまう。そして君を黙らせるために何かがやってきて、実際に君はそれのおかげで長らく沈黙を強いられてきたのではなかったか。それともそんな話の展開では不満か。ではどうしたらいいのか。何が君を黙らせているのか。沈黙という言葉がそうさせているのか。それはつまらない表現だ。でもおもしろい表現を思いつけないのだから、今はそれでもかまわないのではないか。確かに何がそうさせているのでもないのだろう。そうなれば願ったり叶ったりか。だから何がそうなのか。そう問われても答えようがなく、何かのおかげでそうなっているだけで、それはそれで仕方のないことなのではないか。それも違うだろうか。たぶん君は近づけないのだろう。それに近づけない。それだけのことか。たぶんそうだ。君だけでなく、この存在する何もかもが近づけないのだ。それ自身に近づくことはない。遠ざかっているからこそ見えてくるのであり、近づけば近づくほど見えなくなるようなそれなのか。では遠ざかってそれを見ればいい。見てどうするのか。今はそれを見ているのだろうか。何を見ているのかわからないのではないか。まだ遠ざかりが足りないわけか。違うような気がするが、そんな表現がしっくりくるのはどうしてなのか。勘違いか何かか。それもありだろう。それでかまわないのだ。何について語っているのでもないのだから、それが何だかわからないのは当然であり、逆にわかってしまえば嘘になりそうだ。

 そんなわけでここまで記してきた。それがどうしたわけでもないのに、そんなことを延々と記して、何だかおかしな気分となっているようだが、それも何かの冗談なのだろうか。何だか記述が無駄に長過ぎないか。他に記すことがないのに、なぜか無駄にこれでもかと記している。これはいったい何なのか。この状況はどうしたわけだろう。疲れているのにそれはない。実際に疲れているのではないか。それともまだ余力が残っているのだろうか。それは何をするための余力なのか。無駄に記すためのそれか。でもそれではまずいのではないか。そんな話の展開に嫌気がさしてこないだろうか。しかし何をそんなに耐えているのか。ではもういいのだろうか。何がいいのかはわかっている。だがそれでも何かを続けようとして、こんな具合となっていて、これではだめだと思いつつも、やはり続けてしまうらしい。あくびが出てくる。退屈を持て余しているのだろうか。でも勝手に血を吹いたりしないし、そういうたぐいの病気でもないようで、血を吹けなかったら、ガソリンを吹くこともなく、アルコールを吹いてそれに火をつけようとしているわけでもなく、たぶん何に酔っているのでもないのだろうし、至って正気だとも思い、こんなやり方ではだめだとも思うが、やはり何だかわからないままに、それを続けてしまうらしく、どうもそのへんでこんがらがっているようだ。それはどういうことでもない。ただそう思っているようで、そう思っていること自体をことさら否定するつもりもないが、君はそこから遠ざかれないことに気づく、放っておけば遠ざかるどころか、さらに近づいてしまうだろう。まさか重力が作用しているのだろうか。地球の中心に向かって落ち続けているわけか。だが何を今さらか。


3月4日

 またよそ見をしている。これだから作業がはかどらない。いいのではないか。たぶんいいのだろう。それでいいのかもしれない。何がどうなっているわけでもないのに、何を見ているのか。伝説の戦場カメラマンが物語の主人公になる。ありふれた物語か。でも興味深いのだろう。戦争を商売にしている。楽しいだろうか。正直だ。それで話は終わりか。たぶんそういうことになる。また眠ってしまったらしい。フィクションの中では何が起こっているのか。誰かが何かを語っている。それだけのことだ。命がけで何かを成し遂げることの愚かさでも指摘しているわけか。なぜそれが愚かなのか。ヒロイズムに酔っているからか。別にそれが愚かであるとは思えない。たとえそれによって命を落としたとしても、要するに本望なのだから、そういうありふれた行為をやってみる価値があるのではないか。たぶんフィクションの中ではいくらでもあることであり、現実の世界でもそうなのかもしれない。震災の際に救助に当たっていて津波で命を落とした消防士などは、その典型だろうか。後で語りぐさになり、遺族がテレビに出演することもありふれているだろうか。行政から感謝状と見舞金が届き、涙ながらによくやったと語る父がいて、深い悲しみと感動を呼び込み、後はどうなってしまうのか。慰霊碑にその名前が刻まれ、そして残酷にも忘れ去られる。別にそれは残酷なことではないだろう。忘れ去られるのは良いことだ。人はその存在を忘れ去られなければならない。そうなれば救われる。嘘か。

 確か忘れ得ない人は、フィクションの光景に出てくる無名の人だった。柄谷行人がそんなことを指摘していたはずだ。架空の人物の記憶に残っている無名の人だ。それは恐ろしい内面化の本質でも物語っているのか。そんなことではなかったか。しかし何が恐ろしいのか。確か国木田独歩の小説に出てくる。争いごとが絶えない現実の世界から目を背け、その代わりに山水画のような世界を夢想して、その風景画の中に忘れ得ない人が描き込まれる。安野光雅やそれに類する画家が描いている風景画に出てくる人々だ。テレビの旅番組のたぐいにも、そういう人物たちがそういう役割をになって登場するだろう。その中で案内人の俳優やテレビタレントたちに気さくに接してくれて、時として親切に話しかけ、世話を焼いてくれたりする。要するにテレビカメラの前で善人を演じざるを得ないような立場に追い込まれているわけだ。それは悲惨なことだろうか。本当は家族と口喧嘩が絶えなかったり、隣近所の人と家の境界線を巡って口論していたりして、険悪で気まずい雰囲気の時もあるのだろうが、番組の都合上そういう雰囲気がちょっとでも出ては困るから、その時は善人を演じざるを得ない。もちろん逆に険悪で気まずい雰囲気が売りのテレビ番組では、いわゆる大家族を扱った番組がその典型だろうが、今度は日頃から口喧嘩ばかりが絶えず、落としどころのお涙頂戴に導くための伏線として、結果的にメロドラマの登場人物を演じさせられるわけだ。それでは救われないか。

 笑ってしまうだろうか。画面の前で何を笑っているのか。気がふれているわけではない。人は人の都合に合わせて加工され、その作品の中で使用され利用されている。単なる消耗品であり、その役割を終えればどんどん忘れ去られてゆく。それは残酷な現実だろうか。忘れられてしまうから、また新たに登場する人の存在する余地が生まれるわけか。人間社会を好意的に解釈すればそういうことになるだろうが、そういう視点から導かれてくるのは、虚しさややり切れなさのたぐいかもしれず、あまりそういうことを肯定できない。何だかそういうことを考えるのが面倒くさく、考えなくてもいいことまで考えているような気になり、そこで考えるのをやめてしまいそうになるが、それではだめか。何がだめなのだろうか。いったい何を考えていたのだろうか。たぶんとりとめのないことであり、すべてが漠然としていて、具体的にこれだと指摘できないことかもしれない。でもそれが現実の世界で起こっている何かであることは確かであり、その何かについて考えているわけだ。しかし何かとは何なのか。またそれだ。それがすべてではない。すべてではないが、たぶんそういうことなのであり、そんなことは意味のない付け足しに過ぎないのだろうが、それでもそんなことを語り、そこに記している。馬鹿げたことだろうか。たぶんそうであり、同時にそうでもないと思い、そんなはずがないとも思い、やはりそういうことだとも思い、そのへんで何かが循環しているようだが、そんなのはどうでもいいことなのだろうか。たぶんそうだ。だからこれ以上は何を記しても、そんなことの繰り返しになるしかないだろう。


3月3日

 どうしても続けようとしてしまう。その先に何かが待ち受けているのだろうか。そんな思いを振り切ることもできずに続け、結局わけがわからなくなり、理由も不在のままに、それらのフィクションの中へと迷い込み、さらに言葉を記しているつもりでいる。それだけのことだ。それだけで言葉を記す動機とはなり難いか。何が動機なのか。それがわからないのにそれはないか。どうもおかしいようだが、いつものことらしく、何がおかしいわけでもなく、ただおかしいと思っている。だからそれがおかしいのだろう。何がどうなっているのだろうか。日常の出来事を思い出せなくなっている。それはないか。では何なのか。何でもないらしい。そう思いたいのだろう。ではそれが正気とは思えないのか。何が正気なのだろうか。やはりそんなことを述べているときりがない。延々とそうなってしまい、いつまでも空疎な内容を記す羽目になってしまい、嫌になり、やめてしまいそうになるか。実際にやめているのではないか。これがそうなのか。そういうことかもしれない。たぶんそれらの何も気にしていないわけでもないのだろうが、ピンチの連続らしく、うまく対処できずに右往左往しているようで、困っているようだ。笑ってしまうか。誰に問いかけているのか。たぶん笑っているわけでもなく、深刻に受け止めている部分もあるのだろうが、あまり気にしていない感じもして、少しは平常心を保っているのかもしれない。それで何がどうなるわけでもなく、そんな状況が延々と続いているわけだ。おかしいだろうか。おかしいに決まっている。

 しかし何とかするとはどういうことなのだろうか。それさえもわからなくなってしまったらしいが、それでも何とかしようとしているわけで、実際にこうなっているはずだ。たぶんわかっていることなのだろう。わかっているのにわからないふりをしているわけでもない。重々承知しているわけでもないが、薄々理解している程度だ。そういうことにしておきたいのではないか。それもあるだろう。たぶんどういうことでもあり、そういうことでもあるのだろう。それを認めざるを得ず、実際に認めているのだろうが、今ひとつしっくりこないか。くるはずもない。今は夜だ。それがどうしたわけでもないが、ここから記述を再開するつもりらしい。無理か。自分のことで手一杯で、他の話題までは言及できないか。そんなはずがない。では何なのだろう。何でもなく、震災がもたらしたものは、人々のメディアへの過剰露出か。何よりも君は絆という言葉が嫌いだ。一刻も早く人々が絆から解放されることを願っている。それは絆ではなく頸木かもしれない。しかし言葉という重荷に喘いでいるのは誰なのか。そんなはずではなかったと思いたいのか。流浪の民であっても結構だ。でも宿命とは何なのか。話ができすぎていると、そこで宿命を感じるのだろうか。たぶん罠にはまっているのだろう。他人の痛みを理解できない。でも君が何かの突端で舞っているのではなく、それはどこまでも絵の中の光景に過ぎない。そこへたどり着こうとしているのではない。

 そんなはずがなく、何も語らずにそうなってしまうだけか。どこかで見た光景がそこに描かれ、それを見て何を思うわけもなく、内面へと昇華され、現実の変革を経ずに、感傷的にものの哀れを導き出すしかないのか。だからそれが冗談なのだろうか。何を語っているのかわからなくなり、君は出来事や成り行きにだまされたように感じられ、何か裏切られたような気になる。それでもそこから何かが見えてくるのだろうか。でも何を語っているのか。なぜか不条理にでも直面していると思いたいのか。そうではない。それはないだろう。何がないのかわからないが、ともかくそうなってしまわないうちに、記すべきことを記さなければならないのだろうが、どうもそこまで至れないようで、また疲れて眠ってしまったらしく、それは何となく裏切られたように思われてしまうわけか。しかしどうにもならない時はならないのだろう。嫌な感じがするわけか。それは仕方のないことだ。何とかしようとすれば、必ずそうなってしまい、それらの努力のすべてが報われるわけでもなく、大半は無駄になってしまうのではないか。そこではそうなるしかない。今はそんな成り行きに逆らうこともできず、ただ流されているだけかもしれず、それでかまわないわけでもないのだろうが、どういうわけでもないような気がするのに、こうなってしまっているわけで、これをどうにかしろと言われても、たぶんどうにもできないだろう。たださらにここまで言葉を記してきただけのようで、何となくそれで済ましてしまいそうになるが、それではいけないのだろうか。何がいけないのかわからないが、やはりその続きを体験しつつあるのかもしれない。


3月2日

 何かの兆しだろうか。吉兆というわけでもないか。では何なのか。何か予言でもしたいのか。君は予言者でも偽予言者でもない。では誰なのか。誰が予言者であり、他の誰が偽予言者なのか。誰がそれを知っているというのか。また冗談でそんなことを述べている。だから何が冗談なのだろうか。そのへんについて何が総合的に判断すべき材料などがあると思うのか。意味がわからない。何を総合的に判断しなければならないのか。現状だろうか。笑ってしまうか。たぶん違うのだろう。そんなことを記していると、何だかわからなくなる。至って無内容なのだろうが、なぜかそれが続いてしまうらしい。それはおかしなことか。普通だろう。ちょっとおかしいのではないか。まともな記述ではない。そんなふうに感じてしまうこと自体がおかしい。ただわからないということか。それだけでは納得がいかないか。何を納得しようとしているわけでもない。では何なのか。くだらぬ問答を終わらせたいのだろうか。実際に終わっている。たぶんわからないだろう。終わっているかどうかがわからない。そんなはずがないか。テレビを見ているわけではない。それであらぬ方向へ気を逸らしたつもりか。そんな意図などどこにもありはしない。では何なのか。何でもなければ嘘になってしまうのだろうか。だからそれでもかまわないのだろう。どうしてもそこから一歩が踏み出せない。誰かが今日も歌っているようだ。テレビをつけたらそんな感じか。やめた方がいい。

 地震があったらしい。ニュースでも見ているのか。テレビは消した。何も思いつかないが、そのまま言葉を記してしまう。ますます無理な状況か。気持ちが遠ざかってゆき、何も語れなくなり、その後はどうしたのか。やめた方がいいと思っているわけか。ただわからないままではどうしようもない。それで困っているのだろうか。違うのか。予言の話はどうなったのか。忘れてしまったようだ。地震の話と同じか。それとこれとは何が違うのか。何かが違うらしいが、本当は何も違っていない。過ぎ去ったことはどうでもいい。では何が問題なのか。誰かが原発がどうのこうの言っている。まだ先の話だろう。とりあえずそこまで至っていない。要するに語るべきではないのだろうか。今さら語るのはアホくさいか。君は何かを避けている。何かがそこへやってきて、それからが問題だと言ったとか言わなかったとか。そういうことではない。耳が遠いわけではないが、聞こえていないふりをしている。それが何を示すのか不問しつつ、何も問わずには語れないことを悟り、さらなる問答を準備中のようだ。あり得ないことだろうか。いったい何がそうなのか。くだらないと思っているらしい。しかしそれがどうしたのか。たぶんここから巻き返さなければならないのだろう。そんなことを思っている。もう無理なのにそれはないか。無理かどうかはやってみなければわからないか。それで実際にやってみてどうなのか。こんな感じになっているわけだ。

 また空疎なことを延々と記している状態に戻っている。このままにしておこう。言葉を記していれば、いずれは抜けられるはずだ。抜けるまでは我慢しなければならず、いつまで我慢するかはその場の成り行き次第だ。そんなわけでこんな状況があり、目が覚めて言葉を記しているのは早朝の時間帯だ。とにかくさっさと無駄に言葉を記して終わりにしようか。また今日も仕事をしなければならず、毎日がそんな状態で、それが延々と続いているわけだから、こんな状況となり、たぶん仕方のないことなのだろうし、割り切って考えなければならず、実際にそう思っているのだろう。それからどうしたのか。何か思いついたのか。そんな独り言の最中か。フィクションの中ではそういうことでかまわないのだろう。そういう逃げ方もあるにはあるが、虚しい努力となるしかない。それの何が虚しいのだろう。何かのついでにそんなことを記しているわけだが、そんな理由がどこにあるのだろうか。問いかけが不十分か。それを誰に向かって問いかけているのかと言えば、それは己自身となるだろうか。そのへんはよくわからず、たぶんわけがわからないことにしておきたいのだろうが、ここからが物語の核心となるわけでもなく、話が佳境になるはずもなく、実際には相変わらず空疎なことが語られており、何の話にもならない状態が続いているはずで、それを延々と説明する気ではあるのだろうが、たぶんまともな説明からはほど遠い状態なのかもしれない。でもそんなことなのだ。そんなふうにしか言葉を記せない。それはどうしようもないことだ。


3月1日

 どうも違うのではないか。ようやく日付が今月だ。あまりにも遅すぎる。もうやめた方がいいのだろうか。何をやめるつもりなのか。気がつけばわざとらしい記述になっているようだ。しかしまだ続けるつもりなのか。いい加減にきりのいいところでやめてしまえば楽になるのに、なぜやめようとしないのだろうか。現にかなり遅れているはずだし、記述内容の行き詰まりも並大抵のことではない。それは気のせいか。そうではない。では何なのか。さあ何だろう。実際にこんな具合だ。何も語っていないが、君は懲りていないらしい。また眠ってしまったらしい。たぶんこのままだ。そう簡単にできるわけがなく、そのへんは重々承知しているので、まあこうなっても仕方がないと思うしかない。後は空き時間に言葉を記すだけのことだ。それをやってみるしかない。またそれも冗談だろうか。何がそうなのかよくわからないのだろうが、とにかく冗談だと思われ、笑ってしまうらしい。何のためにやっているわけでもなく、何を目的としているわけでもない。それでは続かない。続いているではないか。いったい何が続いているのか。それがわからないから続けているのではないか。ではわかった時が終わりの時なのか。そうかもしれないし、そうではないかもしれない。どちらでもかまわないだろう。実際にそうなっている。どうなっているのだろうか。こうなっているわけだ。それでは何のことなのかわからない。だからわからないから続けているのだろう。そう来たか。どう来たのだろうか。きりがない。

 どうやら息切れのようだ。ぬるいコーヒーを飲んでいる。そんな感じのようだ。何がそうさせているわけでもない。ただ退屈を持て余しているのか。そんなはずがない。また外れた気分となる。たぶん何もそうさせていないのではないか。気分が乗ってきたわけでもない。でもそれでかまわないのだろう。いつものことだ。だからどうしたわけでもないだろう。そこで何を見出したのか。退屈という言葉の他に、どんな言葉が似つかわしい雰囲気なのか。その場の雰囲気がか。だからそうではないと述べている。虚しい努力の果てに見出したのが退屈という言葉か。そうではないなら、それの何が違うのか。わからない。わからないからそうなってしまうらしい。またそんな嘘をついて何かを継続させようとしている。何かとは何なのか。そればかりでは笑ってしまうか。何もないからそうなってしまうのではないか。たぶん何かがあるのだろう。今日はコーヒーを飲み過ぎたようだ。でも何だかうきうきしてこないか。理由もわからないのに、それはないだろうか。何でもないことに決まっている。そういうことにしておきたいのだろう。こんなことを記しているとさらにわけがわからなくなり、本当にどうでもよくなってくるのだろうが、まだなんとか軌道修正が利くと思っているわけか。そうは思っていないのではないか。気が抜けている。そうではないのかもしれないが、何となくそういうことかもしれない。この雰囲気は何なのか。

 うまくいくとも思えないか。何だかおかしい。何がそうなのか。また迷っているのではないか。明日も早い。グールドのピアノか。今日は静かだ。いつもと変わらない。心に何が響いているのでもなく、それだけのことのようだ。それ以外の何を知りたいのだろうか。また時が経つ。時だけが経ってゆく感じだ。その間に何を考えているのでもない。何ももたらされず、ため息をつく。そんなわけがない。まだそこまでいっていない。行き着く先が定かでない。それはどこでもないどこかだろうか。また矛盾したことを述べたいのか。それこそが時間稼ぎの最たるものか。いくら粘ってみても無駄だ。先が見えているのに、見えていないふりをしているだけか。それではわざとらしいだけで、何の感銘も与えられず、つまらなくなり、退屈を持て余しているのが当然のこととなるだろうか。実質的には何がどうなっているわけでもないか。何もそこまで語る必要もなく、そのへんでうやむやのうちにフェードアウトするのが何かの定石となるのだろうか。意味がわからず、何を述べているのかも皆目見当がつかない。それも違うだろう。何だかわからないのはすでに了解済みで、さらに言葉を付け足そうとしているだけで、それが無駄で無意味な試みであることもわかっていて、だからもういい加減にやめてほしいのかもしれないが、未だに言葉を記しているわけだ。これが冗談でなくて何なのか。でもキレる寸前というわけでもなく、何だかそんな光景を眺めているだけにとどまり、それ以上を求めていないような気もして、他に何を欲しているとも思えず、そんなことの繰り返しを受け入れているだけか。


2月28日

 今ここで何をやっているのだろう。誰がどこへ向かって突っ走っているわけでもなく、誰もが虚しい努力の最中なのかもしれないが、誰かが画面を眺めている。別に苦行の最中というわけでもないか。少しは音楽でも聴いてみたらいいのではないか。四千数百曲もあるのに相変わらずの曲だ。みんな覚えているわけか。何を覚えているというのか。難しい漢字が書けないか。漢字が書けなくなったら漢字検定でも受ければいいのか。君がそう思っているのではなく、何かの広告が目についたのかもしれない。だがそういう処理の仕方がわざとらしい。まるで取って付けたような対応だ。不自然な話のつながりを感じるらしい。つじつまを付けようとしているのだろうが、ご苦労なことだ。もうすぐ何かの季節だろうか。人が家路を急ぐ時間帯に何を考えているのか。だからそういう話ではない。頭の中がごちゃごちゃしてくる。いったい何を思い出したのか。それは思い出せない記憶だろうか。そのへんが話になっていない。たぶん何もかもが人の問題となり、そんなどうでもいいことの蓄積が歴史として語られる時、人は何か勘違いを起こし、それらの自意識過剰を肯定してしまうのだろう。本来なら否定すべき行為も正当化しなければ、歴史とはならず、そのへんで矛盾を感じつつも、何とか大げさな主題をねつ造することで、そこから生じてしまう嘘偽りをかろうじて隠し通せると思い込み、それに賭け、そんなことを語り続けるのか。

 たぶんそのへんで無理が生じているのだ。何でもないことをことさらに強調せざるを得ず、そこに何か顕揚すべき価値が生じていると指摘してみせ、目指すべき何かや見習うべき何かがあると主張して、それで何か語っているような気になるわけだ。なぜそうなってしまうのだろうか。それはそういう語り手自身に問題や修復し難い欠陥があるからか。それともそういう内在的なことではなく、そんなことを語らせる外部的な事情でもあるのだろうか。要するに語ることを強いられて語らされているわけか。いったい何がそうさせているのだろう。なぜ彼はそんなことを語らなければいけないのか。それが語る者につきまとう宿命だからか。それでは問いの答えになっていない。たぶん人はそこに意味や意義を見出さなければ気が済まないのだ。何らかの結果が見出され、そうなるべくしてなったような成り行きが必要とされているのかもしれず、そんなふうに語らなければ、それを説明したことにはならないのではないか。そうやって人は説明責任の罠にはまり、その場で何やら利いた風なことを述べて、耳を傾けている聴衆を納得させなければならず、そのためにはそういう説明が不可欠なのかもしれない。そんなわけでそこで語ろうとする誰もがそうなってしまうのだ。では君はそれの何が問題だと思っているのか。依然として何について語っているわけでもないらしく、だからわけがわからない。今はそういうことにしておいてかまわないようだ。

 どうも何かの途中からそんな調子で、何だかおかしい。何かが狂っているようだ。かすかな雑音でも読み取っているのか。別に特定の文章を読んでいるわけでもないか。では何なのだろう。何でもないだろうか。そういうことにしておきたいところだが、今回は違うような気がする。君が考えているのはそういうことではないような気がするようで、それで強引に軌道修正しているわけか。そんなはずもない。具体的な内容を欠きながらも、そんなふうに語るのは、何だか筋違いのような感じがするが、いったいそれは何なのか。君にわかるはずもなく、誰もわからないようなことか。でもそれが何なのか。さっきから執拗に問いかけている対象がなかなか見えてこない。そしてどこかへと外れていってしまうようだ。意識がそうなっているのだろうか。興味を失っているらしい。すでにそうなのだから、さらに記せばますます意味不明となるだろう。それでかまわないのだろうか。かまわないと思うならその通りになるしかない。それは当たり前のことであり、そうなって当然だから、何を蒸し返すつもりもないらしく、そのままおかしな具合となり続けるしかないみたいだ。それでも強引に脱線した地点へ戻るなら、いったい君はどんな歴史認識を保持しているのか。過ぎ去ったことについてどう思っているのだろうか。どこへ歩んでいくつもりもないなら、どこから来ようと君の知ったことではないか。そうなると投げやりな物言いになってしまいそうだが、何かもっと良心的に振る舞えないものか。なぜそこから逸脱しようとするのか。そのへんで意味不明になりそうだが、どうもわからない。


2月27日

 何もないままに暖かい日差しを浴びている。もうすぐ春なのだろう。何かしら微妙な感じか。何が微妙なのか。昨日のことなのでもう忘れてしまったらしい。それでは話にならない。だからどうだというわけでもないだろうが、今のところはそんなことだ。すっかりやる気をなくして、そのままどこから遠ざかるわけでもないのだろうが、とりあえず外れている。まともに語れない。語ろうとしていないのだろうか。何も必要としていない。言葉さえも無駄なのか。それらの何が無駄なのでもなく、すべてが無駄か。そこまで達していないのではないか。何が達していないのか。今月に達していない。もう少しなのに足踏み状態だ。なぜだろうか。やる気がしないか。やっているではないか。それでかまわない。もう夜だ。何だかわからないが、そんなことを記している。頑なにそうなのだろう。何がどうなっているわけでもなく、誰が悲惨な境遇にあるわけでもなく、すべてがそうなのだろうか。弱肉強食の市場原理に支配され、その中でも何とか自分だけは生き残ろうとしているわけか。それほど深刻な状況でもないか。君はそう思っているようだ。悲惨なところでは悲惨なことをやっていて、それ以外のところでは、そんな光景をのんびり眺めているわけか。それはどんな光景なのか。誰かが限界まで働いて、過労死しそうなわけか。でもそれは架空の誰かなのだろう。そういう逃げ方はいただけない。

 何だかわからないが、何となくそんな感じで、そういう思いでいるようで、中にはあまりにも極端なマネーゲームへ走りすぎている人もいるらしい。いったんそこから降りてのんびりできないのだろうか。誰も彼もが資産運用とかやるべきではないのはわかっているが、やはり自らが優秀で有能だと錯覚している人たちは、そういう方面へ走りざるを得ないのだろう。実質的には詐欺やペテンのたぐいなのかもしれない。でも合法的にやっているわけで、そういうところに莫大な金が集まり、それをさらに膨らます術が日夜開発されているのだろう。でも何となく先が見えている。たぶんそれらのほとんどは虚しい努力となり、うまく立ち回って莫大な富を得た一握りの者も、やがて寿命が尽きて死んでしまうわけだ。でもやめられない。死ぬまでやめようとしない者もいるのだろう。そこで何かが浪費され、費やされたエネルギーはすべて、貧富の格差をよりいっそう拡大させるのに貢献しているわけだ。それは恐ろしいことだろうか。でも当人にしてみれば正当なやり方で正しい金儲けをやったまでのことで、愚かな行為だとはこれっぽちも思っていない。人には分相応の器があり、天が小さな器しか与えない者もいるし、相対的に大きな器をもらった者は、富をその器一杯に満たすのが、器を所有している者の使命だとでも思っているのではないか。でもそんなたとえがどこにあるというのか。

 そんなわけで何だかよくわからないが、君はおかしなことを思っている。そんなでたらめな話はどうでもいいことだが、とりあえずこの世界では着実にグローバル化が進行中であり、それの行き着く先にはどうでもいいような事態が待ち受けているように思われ、今ここでそれを予想しても的外れな印象を拭えないが、やがてそういう富を過剰に蓄積しようとする行為自体がどうでもいいこととなってしまい、人間の生き方自体も現時点からは考えられないような変貌を遂げたりするのだろうか。そんなことをあれこれ考えてみたところで意味をなさないのかもしれない。とりあえず現時点では生きるために生きているだけで、それ以外はあり得ないのであり、だから何だというわけでもないが、どう考えてもそこに価値を見出せず、何が良いのか皆目見当もつかず、ただその場の成り行きに流されているだけで、そこに自らの意志がまったく反映されていないように思われ、そんな流れに翻弄され、悪あがきを繰り返すばかりで、ちっとも前に進まないような気もして、要するに馬鹿げていると思われてしまうわけだ。これはどういうわけなのか。たぶんそれに対する答えなどないのではないか。出しようのない答えを出そうとするのは毎度のことだが、何が問われているのかも定かでなく、問われていないのに答えを出そうとして、わけがわからなくなるだけかもしれず、そういう試行錯誤自体が徒労をもたらすばかりで、それがわかっているのにやめられないのもどういうわけでもなく、ただこうなっているに過ぎないだけのようだ。


2月26日

 やはり月またぎとなってしまったようだ。なかなか先月の壁を打ち破れない。何とかしなければと思いつつも、また遅れている。無理であることは承知しているのに、やろうとするのだから救われない。別に救われなくてもかまわないのか。でも何とかしなければならない。そんな思いばかりが先走って、肝心の内容が出てこない。どうせ何も出てこないか。強引に何をひねり出そうとしているのでもない。何も見えていないのではないか。それに関して何を思っているわけでもない。また外れようとしているのだろうか。今日は何から外れるつもりなのか。君は何を認めないのか。冗談でそんなことを述べているつもりか。何が冗談なのでもない。どうも人は迷っている。君ではないのか。何を問いかけているわけでもない。人は自然を利用する。震災も作品になる。誰かが絵の中で夕焼けを見ている。それがどうしたのか。何も思わない。そういうことではない。金にならないことは嫌いなのか。何が美しいのか。何でもない。誰が語り部なのでもない。君は違うのか。だからそれは他の場でのことだ。なんだ暗黒大陸じゃがたらはiTunes Storeで売っていた。『タンゴ』だけダウンロードしたようだが、他の曲は今ひとつか。別にかまわないだろう。何やら思い込みがあっただけかもしれず、風呂の中で溺死していた江戸アケミも伝説の人以外の何者でもない。

 君はどうなのか。どこで死んでいるわけでもなく、言葉として記されているだけの存在だ。それはフィクションでも何でもないはずだ。そこから遠ざかることができるのか。無理だから今があるのではないか。別に表面だけでもかまわないのではないか。でも表象と戯れようとしているのではない。もう何も見えやしないか。だから何を見ようとしているでもないのだろう。さっきまではテレビを見ていたはずだが、今はどうしているのか。バッハのヴァイオリン協奏曲第二番でも聴いているわけか。さっきまではそうだったはずだ。今は違う。時が過ぎ去りつつあるのだから、それは当たり前のことだ。ふれてはいけないことではない。さらに時が進んでいるようだ。今まで何をやっていたのだろう。何を思い出そうとしているのでもない。ただ言葉を記しつつあるだけだ。でも内容がない。それでかまわない。自然とそうなってしまうだけか。何かに飽きているのだろうか。何に飽きているのか。聴いている音楽にか。虚しい気分だろうか。それでも誰かが何かを探している。虚しい努力だ。でも努力しているわけだ。だからそれが何を示しているのか。君にわかるわけがない。そんなやり方ではだめなのだろう。君たちは何を利用しているのか。情報か。ネット上を行き交っている。君が利用しているのもそれか。

 でも何が危険なのだろうか。様々なことだろう。漫画を読んでいる。明日のことだろうか。記憶が曖昧だ。君たちはなぜそんなことに興味があるのか。それは他の誰にとっても興味があることなのか。君が知っていることではない。それで誰を救うつもりなのか。問いかけている対象が架空の存在では意味がない。悲劇は繰り返されるものだ。だから興味深いのだろう。感動したりするわけか。そういうことでもある。あの日からまもなく二年が経つらしい。君たちは負けた方がいい。それは誰からのメッセージなのか。空疎な表層から何かを読み取ろうとしている。違うだろう。未だ何も語っていない。それが正解かもしれない。だがつまらない。ここからが肝心なところなのに、内容が定かでない。だから無理なのか。でも安易に語るべきではない。できるだけ慎重に事を運ばなければならない。そう思っている。嘘かもしれないが、嘘でないことを祈り、さらに先へ記述を進めようとしているみたいだが、無理なのかもしれない。見ているのは安易なホラー映画か。安易でもない。そう語るとおもしろいか。それも違うと思われ、さらに空疎なことを付け足そうとしているみたいだ。結局はわからないのかもしれない。どうもいつもそうなってしまいそうだ。何かが違うが、その違いを説明できない。だからこうなってしまい、いつまで経っても出口にたどり着けず、困ってしまうか。時にはそんな嘘をついてみるが、しっくりこないのは致し方ない。


2月25日

 さすがにこれは無理か。そう思ったのは昨晩だ。今はもう翌日の夜だ。何とか仕事をこなしてきたではないか。それにしても忙しかった。すべてが過ぎ去り、何もかもが過去のことだ。それは当たり前のことだろう。なぜそうなってしまうのか。今にとどまれないだけか。なぜとどまる必要があるのか。とどまろうとしていない。しかしなぜ無理なのだろうか。ただ理由がわからない。また疑念を抱いているようだ。何が疑わしいのか。そんなことを問われる筋合いはない。まだそれほど遠くへ行っていないだろう。君は何かをわかりかけているのにわからない。そんなはずがないと思いつつも、何を語ったらいいのかわからない。また語り得ないことを語ろうとしているわけだ。それは嘘かもしれない。でも眠ってしまって、結果的に無理なことは判明したようだ。いったいこれはどういうことなのか。たぶんどういうことでもないのだろう。疲れているだけか。どうも何かがなおざりにされている。ペース配分を間違えたのか。かまわないのではないか。無理なものは無理なのだから、そのへんは割り切らなければならず、あまり自責の念に駆られる必要はないのではないか。何に愕然としているわけでもなく、今日もできないはずで、できなければできないなりに、そんなことを語るしかないだろう。

 さらに遅れるまでだ。でもやる気ではあるらしく、何とかしようと努力している。無駄で無理かもしれない。それはわかっている。わかっているが、そんなことでしかなく、空疎に語るわけだ。でも受け入れざるを得ない。こんな状況なのだからどうにもならず、どうしようもない。思い出すのは過去の出来事ばかりだ。それだけ長く生きてきたということか。しかしまただめだ。疲れて眠ってしまうらしい。言葉を記せなくなってしまう。なぜだろう。何を恐れているのか。もう死にそうか。そうでもないだろうか。さっきまではぴんぴんしていたらしい。こういう時は音楽でも聴くに限るか。心和むだろうか。でもまた翌日になってしまったらしい。仕方がないだろう。用事があったのだからどうしようもない。働き尽くめで死んでしまうか。実際に生きているではないか。そこで誰が生きているのだろうか。君が生きているのではないか。架空の存在でしかない君が生きているわけか。フィクションの中ではそういうことになる。だがそれ以外では不在なのではないか。そういうことでもかまわない。何を説明しているわけでもなく、たぶんそのものを説明しているつもりなのだろうが、それがよくわからないか。いったいそれは何のことなのか。

 君がそれを知っているとは思えない。何を知りたいわけでもないのに、誰かがそれを知っていると思っているわけか。なぜそう思うのか。君にそれがわかるはずがない。そう言い切ってかまわない理由を知りたいか。嘘に決まっている。何だかわからないまま、そんなことを記しているようだが、それが君のこだわりにどんな影響を与えているのだろうか。行き当たりばったりでそんなことをやってきたのではなかったか。それはわかるが、そこに偶然の巡り合わせがあり、それによって何かを利用する機会が生まれ、今の状況を引き寄せたのではなかったか。そして君はさらなる何かを獲得しようとしているわけか。それが誰かの思い込みなのか。たぶんそれは空疎な何かであり、同時に魅力的な何かなのだろうが、へたすると身の破滅を招きかねない何かなのだろうか。そんなことはわからない。わからないままここまで言葉を記してきたらしい。ただそれだけのことか。たぶん他意はない。おかしくなっている。何となくそう思っているだけか。何だかわからなくなってきた。また自らが記している内容を把握できなくなってきたらしい。面倒くさくなってきたのだろうか。まあ腐らずに地道に努力すればいいだけだ。それで何とかならなければあきらめるしかないか。でも何をあきらめようとしているのか。またそんなことの蒸し返しになってしまいそうで、わざとらしい表現になって、嫌になってしまうか。でもかまわないだろう。


2月24日

 何か機会を逃しているような気もするが、ここは先を急ぐとしようか。時間は時間だ。その時間がある限りは記述を優先させなければならない。どこまでもできるわけがないが、今を利用して何とかするしかないようだ。しかし機会とは何なのか。無意識のうちに何かがどうにかなる機会を待っているとは思えない。機会を得るために必死であるわけでもなく、機会を捉えて何を記そうとしているでもないのに、ただ無闇矢鱈と何か記している現実を受け入れ、それをどうしようというのでもないのだろうが、何だかそれで自足してしまうのは避けたいところだ。だから何とかしなければと思うわけか。でもそれにも限界がありそうで、そんな状況から脱しようとして、悪あがきをしてしまうわけだ。でもそこで何を断念しているわけでもなく、断念させられているわけでもない。実質的にも何かをやっているわけか。でも何をやっていることになるのだろうか。こうして言葉を記している。それだけのことだ。それがすべてではないが、とにかくそんな具合なのだから、それはそれでそんな現状を受け入れ、その上で機会が巡ってくるのを待っているわけか。でも最善を尽くしているとは言い難いか。できる限りのことはやっているつもりだ。それでだめならあきらめるしかないだろう。でも何をあきらめることになるのか。他に何をやりたいわけでもないのだから、あきらめるような状況にはないのではないか。それが嘘なのだろうか。

 そのへんが意味不明でわかりにくい。自分で記している内容を把握できていないようで、おかしな気分となっているのかもしれないが、たぶん何でもないことなのだろう。実質的には何でもかまわないのではないか。何が記されていようと、それについて言及している限りは、そんなことしかならず、何も危険を冒して命がけでやっていることとは無縁だろうし、現におおよそたわいない内容になっている。外は雨か。今に気づいたわけでもなく、朝から雨であることはわかっていて、たまたま電車の外に目を向けたら、傘をさして歩いている人を見かけ、ああ雨だと思っただけのことか。それでも何がどうしたわけでもなく、淡々とそんなことを思い、ゴミを燃やしている焼却炉の煙突を見かけて、何を連想したわけでもないのだろうが、人の想像力の限界を悟り、何だかがっかりしたような気になっているようで、何にがっかりしたのか具体的に説明できないのに、それはないだろうとも思われ、どうせまた嘘をついているのかもしれず、そんな語り方ではだめだと思う。でもそうなるしかない。要するに面倒くさいのか。どうもそこでは人がうじゃうじゃいるようで、街中だから当たり前かもしれないが、意味もなく誰かが嫌悪感を抱いているようだ。それの何が冒険なのだろうか。命がけで山登りをしている人は冒険者なのだろうが、そこにどんな夢や願いが介在しているのか。それを知ったところで感動するだけか。それでいいではないか。

 問題視するようなことは何もない。そこにはわだかまりがない。それは君が語るようなことではないのかもしれない。でも君以外の誰も語り得ないようなことでもあるだろう。また冗談でそんなことを述べているのだろうか。それにしては何も見えていないのではないか。何に笑っているわけでもなく、何に驚いているわけでもない。もう夜だ。テレビを見ながら眠たくなってくる。もう限界だ。何が限界でもないのに、限界なのだろうか。何も語ることができなくなり、どうでもいいような気分になる。そんなはずがないだろうか。昼は暖かかったはずだ。君はどうかしている。それはいつものことだ。暖かいとどうかしているのか。だからそんなはずがないということか。意味がわからない。まただいぶアレルギー反応が出てきたらしい。何がどうかしたわけでもないのに、花粉症のようだ。だんだん話がわかってきた。要するにどうかした原因は杉花粉なのだろうか。急に暖かくなってきたので、杉花粉の飛散が多くなり、どうかしたような気分となったらしい。君は花粉症でどうかしているのだ。わかってみれば簡単なことか。でも笑っている場合ではない。これから花粉が飛散する本番なのだろうか。憂鬱な気分か。でも何とか乗り切らないと、ヤバいことになってしまうだろうか。何がヤバいのか。別に花粉症だから命がけというわけでもないだろう。くだらない冗談だ。


2月23日

 別にない知恵を絞っているわけでもない。しかし知恵とは何なのか。ここから何かを発揮させるわけか。でも何かとは何なのか。人類は絶えずイノベーションあるのみで、新たな分野を作って、そこへ資金を供給して、既存の分野の価値を相対的に下げ、金儲けの多様性をさらに増して、結果的に何かやっていることにしておくわけか。そうではないだろう。人々はそれに実質が伴っていると思い込み、実際にそこで働き、糧を得ているわけだ。それは恐ろしいことだろうか。とにかく衣食住が間に合っているうちは何とかなる。そういうことでしかない。間に合わなくなった者たちは死ぬしかないか。中には路上生活者だとかいるではないか。かろうじて生き延びている人たちもいるわけだ。しかしそういう状況をどうにかできるのだろうか。一握りの人たちに偏っている富を公平に配分し直せば、たぶん誰もが何不自由なく生きていけるかもしれないが、それはフィクションであり、自然の摂理が働いている限りは、そうならないようになっていて、ごく一握りの富める者たちと、それを目指して必死に働いている大多数の者たちがいないと、現状は維持できないのかもしれず、あとは富める者になるのをあきらめて、ほどほどのところで妥協して、それなりの幸せで満足している者たちが、中間層を形成していればいいのだろうか。それはまったくの冗談か。あまりにも馬鹿げているように思えてきて、まともな神経の持ち主なら、そういう価値基準とは違うところを目指す必要にかられてしまうかもしれない。現状を考えれば、そんな図式を拒否したいのだろうし、それとは違うことを思っていることを正当化したいように思われ、自らがやっている仕事に没頭することに自足し、貧富の格差がどうたらこうたらという社会問題のごとき幻想を忘れようとしている。それでかまわないのだろうか。それは幻想ではないか。しかし幻想でなければ何なのか。現実に問題となっていることか。

 そもそも幻想とは何か。芸術か何かか。何が芸術なのだろうか。金儲けがすべてではないことは誰もがわかっていることだろうが、それが芸術だとは思えない。たぶん同じように芸術がすべてではないのだろう。特定の何かではなく、様々なことが絡み合っているのであり、それで何を基準にしてどう判断したらいいわけでもないのだろう。今やっていることの範囲内でどうこうというわけでもなく、何をどうしたらいいのでもないのかもしれないが、そのへんでわけがわからなくなってしまうか。それではだめであることも承知しているのだろう。では何なのかといえば、やはりわけがわからず、話は振り出しに戻るしかないようだ。どう考えたらいいのかわからず、途方に暮れてしまうか。考えがまとまらず、まともな言説を形成し得ない。そもそもなぜそんなことを考えなければならないのか。そこから疑念が生じて、必要のないことを考えているような気がしてきて、とにかくそんなこととは関係なく、今日の仕事をどうにかしなければならず、それをこなしながら、あるいはこなした後に、再び考えるつもりかもしれないが、それも冗談となってしまいそうで、そのときになったらまた別のことを考えているのだろうし、それらは今のところ何ら切実な問題とはなり得ないのかもしれない。たぶんアフリカの貧しい人たちを助けるために奔走しているセレブたちとは立場が違うのだ。U2のボノは未だにそんなことに関わっているのだろうか。君は南米の奥地で生活してる裸族とともに、同じ格好をしているスティングの写真を見たことがあるだろうか。あれこそが金持ちの道楽なのだろうか。ああいう活動もそれなりの成果を上げて、とりあえず当人たちは自己満足に浸れたのかもしれない。ああいうことによって世界がより良くなったと実感できるのか。たぶんそういうことだ。君としては腑に落ちないのだろうが、それはそういうことのようであり、君とは無関係にかつてそういうことがもてはやされていて、今もそれは続いているのかもしれない。


2月22日

 なぜそこで滞ってしまうのか。何を考えようとしているのではない。でもおかしい。たぶんおかしいのだろう。簡単に割り切ってしまうわけにはいかないらしい。唐突に暗黒大陸じゃがたらとかいうバンド名を思い出すが、江戸アケミはとうに死んでいる。それは何なのか。寒いから眠るとしよう。確か都会の片隅で食べかけのハンバーガーがどうしたこうしたと歌っていたはずだ。そして闇に埋もれた誰かが『ロビンソンの庭』とかいう映画を見たらしい。伝説の何かなのだろうか。君がそれを知っているとは思えない。忘れられた何かだったのだろう。君にとっては違うが、他の誰かにとってはそうだったのだ。未だ何も解消されていない。いったい何をやり過ごしているのか。うまく言えないが、二項対立に還元できない何かなのだろう。そのへんがどうも簡単には語れないらしい。そんな話ではなかったのかもしれない。

 どうも何かが出てこないようだ。考えあぐねている。何かが足りないことは明白だが、その足りない何かが思い浮かばず、焦れったくなるだろうか。そうではないと思いたいのか。それは違うだろう。そのへんでずいぶん損をしているようだが、いいのだろうか。いいに決まっている。わかってしまえば話は簡単なのであって、後はどうでもいいようなこととなり、予定調和の結果が用意されているわけだ。そうならないためにあれこれ考えているのだろう。でも安易に策を弄して事に当たれば、必ずこじれてしまうだろう。そんな結果が待ち受けていて、落胆するしかないか。何だかうまく言い表せないが、要するに幸せになってしまってはだめなのか。そういう人はいくらでもいて、それなりに生活を楽しんでいるのだろうが、なぜそれではだめなのか。それがわかれば苦労はしないが、やはりわかりようのないことをわかろうとしているみたいで、歯痒いところか。

 でもそうやってどこまでも突っ張っていればどうなってしまうのか。やがて寿命が尽きて死んでしまうだけか。のらりくらりといなしているつもりが、次第にミイラ取りがミイラになってしまうみたいに、何かにはまってどうにかなってしまうのだろうか。今がその状態なのか。しかしそうやって何に異議を唱えようとしているのか。そのへんもわからないところだ。今さら何を批判したところで無駄か。それ以前に批判の対象が見えてこない。この世界には矢を射るための的がどこにも存在せず、矢を射ること自体の有効性が疑わしい。どこにも届かないような気がしてならず、すべては虚空に吸収されて、何も返ってこない。それが閉塞空間なのか。そんなはずがないか。不用意に勇ましいことなど口走れば、たちまち嘲笑の的か。そうでもないような気もするが、具体的に何を口走ればいいのか想像できないところが、すでにリアリティを欠いているようだ。

 そういう意味で今は三十年前とはだいぶ状況が違っているのだろうか。でも三十年前には何を考えていたのか思い出せないではないか。安倍総理がアメリカを訪問してオバマ大統領と会談して、日米同盟がどうたらこうたら言っているが、それがどうしたのか。いったい何を目的としているのだろうか。そのへんがまったく理解できないのはどうしたわけなのか。彼らは何のために会談しているわけか。語っている内容はどうでもいいことでしかない。たぶん沖縄の米軍基地問題も、中国と確執が続く尖閣諸島の問題も、核実験やミサイル発射で息巻いている北朝鮮との問題も、竹島や従軍慰安婦を巡って確執が続く韓国との問題も、何一つ解決できるわけでもなく、たぶん他の誰がやっても解決できないのだろうが、それがわかっていながら、彼らは何をやっているのか。それはそれとしておいておいて、TPPだとか経済再生だとか、そういうことで何かやっているふりをしたいだけなのか。そんなふうにしか思えないところが、やはりどうでもいいような気にさせているわけで、そっち方面に目を振り向けておけば、後は平穏無事に済ませることができるのかもしれないが、果たしてそれでいいのだろうか。たぶんかまわないのだ。


2月21日

 ニュースではデフレ脱却の大合唱のようだ。政治的な宣伝だろうか。日銀総裁に特定の誰かが就任すれば、それが押し進められて、結果的にデフレを脱して好景気になるわけか。そうなったらおもしろい。実際にそうなるのではないか。君は相変わらず冗談半分でそんなことを述べていたいらしい。本気にはなれない。株価が上がったり下がったりして、通貨も他の通貨と比べて相対的に上がったり下がったりして、それに一喜一憂している人々が架空の地には大勢いるらしい。ニュースもフィクションの一部をなしていて、何らかの物語を紡ぎ上げるのに貢献しているのかもしれず、君はそんな光景を眺めながら、何を思うこともなく、疲れて眠ってしまうだけか。

 人々はそこで何をやっていることになるのか。みんながみんな仕事でもやっているわけか。そういう行為からは何も見えてこないような気がする。人々はそこでうごめいている。目的を遂行することが課せられた使命なのだろうか。それも思い違いのたぐいか。では他にどんな思い違いがあるというのだろうか。人は人を愛している。誰かが君のことを思っている。そういう話からは現状が大きく外れている。それが君の思い違いだというのか。くだらない水準で妥協したくないのだろうか。誰がそう思っているのか。思い上がりのたぐいかもしれず、自らが他の人より優れていると錯覚しているわけだ。それでもかまわない。鬱病の人はその逆らしい。薄っぺらいことを平気で口走り、他の人たちから失笑を買うのも良い。要するにそういう人になりきって、演技でもしているつもりなのかもしれない。

 何を眺めているのだろうか。外は暗闇だ。夜だからそういうことになっている。今は文字が記された画面を眺めているではないか。何を読んでいるのだろうか。何が革命なのか。現状が何かを打ち破っている。君にはそれがわからないだけか。他に何を知っているというのか。たぶん他の何かについて何かしらの知識を頭の中に蓄えていると思っているのだろう。現状で明らかになっているのは、そんな思い込みなのだろうか。あり得ないことか。説明がおかしいのではないか。それが大きな物語の再構築に結びつくとは思えない。ならば今やっているこれは何なのか。何から別れを告げようとしているのか。人の生活が昔より多様化したといえるだろうか。だが昔とはいつのことなのか。文章の中で言葉が効果的に配置されているわけでもなく、それらはただの支離滅裂に過ぎない。それでかまわないとは思えないか。

 またどかで外れてしまったようだ。もうもとへは戻らないのか。誰が問われているのだろうか。何を問うているのか。どうもわからない。わかり得ないだろう。何かと何かが融合して、別の何かが生まれたわけでもないが、今はそれとは別のことを考えているようだ。そう思っているのだからそういうことにしておこう。たぶんこれは娯楽ではない。それ以上でも以下でもなく、まったく別の何かかもしれないが、地続きだと思われても仕方がないだろうか。でも仕事とは違う。何の糧も得られないような行為か。でも修行僧がやっているようなこととは無関係だろう。ただの記述に違いない。それを延々と繰り返しているわけだ。飽きているのに執拗に続けている。無駄で無意味なことだ。当初はそれ以上の何かを得ようとしていたらしいが、結果的には目論見が外れたわけか。いったいどのような目論見があったというのか。今となっては思い出せないか。そういうわけでもないのだろうが、何だかはじめから違っていたような気がする。


2月20日

 さらに続けようとするのだろうか。無理をしすぎて自ら墓穴を掘っているのかもしれない。そうならないようにしなければならないか。何のことやらわからない。わかっているくせにそれはないだろう。さっぱりわからないわけではないのではないか。だからそれがおかしいのか。俄にやる気が出ているのだろう。そんなはずがないだろうか。しかし寒い。君が気づいているのはそういうことではない。たぶんそうだ。もう時間がないのだろうか。残された時間があとわずかなのか。そんな運命に薄々気づいているわけか。ではいったいこれからどうなってしまうのか。君次第だろう。それは君自身が決めることでしかなく、他の誰が決めているわけでもないのではないか。何もかもがあらかじめ決められているわけでもないらしい。それは重々承知の上で、なお決められている道筋というものがあるのだろうか。でもそうはならないようにしたいわけだ。要するに外れてしまうわけか。何から外れていってしまうのか。

 もう無理だ。今は昼になっている。そしてもう夜だ。さらに気がついたら翌日の昼だ。急にやる気を失い、言葉を記すのが滞ってしまったらしい。だからもうだめなのか。でもそれは誰の知ったことでもないだろう。誰も知らないうちに何かが起こり、それに気づいた時には手遅れになっているわけか。よくある話だ。だからここで何とかしなければならないと思っているのだろうが、もう夜だ。無理だと思ってからどれほどの時が流れ去ったのだろうか。何だかわからないが、三日ぐらい何もできなかったような気がする。様々なトラブルに対応しまくりで、とても言葉を記すまでには至らなかったようで、それをいいわけにしてまうときりがないので、スルーして他のことを語ろうとしているようだが、相変わらず何も思い浮かばないか。

 ウォーク・ディス・ウェイを聴きながら、何か思うところがあるだろうか。人はこの世界で何かをやらなければならないらしい。当人はやっているつもりなのだろう。我が道を行くか。誰の道でもありはしない。砂漠で疲弊したランボーは意味不明か。なぜ消耗してしまうのだろうか。耳当たりの良い音楽でも聴いて、癒やされた気分になりたいのだろうか。たぶんそんな意味ではなかったはずだ。何を探していたわけではない。探し疲れていたわけでもないのだろう。何をはねのけようとしていたわけでもない。人が及ばない領域を目指しているわけでもなく、何をやろうとしているのでもないらしい。映画は詐欺か。主人公には詐欺師が似合っているだけか。君はそこで何を成し遂げようとしているのか。何も成さなければ、ただの人でしかない。それでかまわないのだろう。

 今はそういうことにしておこう。今も昔も変わらない。昔からそうなのではないか。では今からでも遅くはないか。何かを成し遂げなければならない。冗談か。半分そういうことかもしれず、もう半分は本気でやるつもりなのだろうか。でもこれから何を成し遂げたとしても、どうしたわけでもないのではないか。忘れ去られる以前に、誰からも見向きもされないのではないか。それでもかまわないのか。たぶん何かをやることの意義は、そういうことにはないのだろう。自己満足を得るためにやるわけでもないらしい。もちろん世のため人のためでもない。では何のためにやるのか。そのへんはわからない。でもその場の成り行きからやらざるを得ないようになるらしく、とにかくやらなければならないのだろう。わけもなく意味も意義も定かでなく、何だかわからないが、やっている現状があるらしい。それが今なのか。昔もそうであり、おそらく将来に渡ってもそういう感じで経過してゆくのだろう。


2月19日

 なぜ外へ目を向けないのか。近頃は心が内向きのまま固定してしまっている。寒い。身も心も凍り付きそうか。そんなわけがない。でも寒いことは確かで、他に何も感じない。そしてもう夜だ。今年最強の寒波が押し寄せてきているようだ。何を考えているのだろう。寒波は何も考えない。でもそれのおかげでやる気を削がれ、また仕切り直しのようだ。それからだいぶ時間が経ったが、依然としてそのままか。他にやるべきことがあるのではないか。それは何だろう。いつものように何だかわからないか。それではだめなのではないか。その通りだ。しかしなぜ君は頑なのか。頑固すぎて融通が利かないらしい。それでは本当にだめなのか。そうなのではないか。でもそうなるしかないのではないか。だめになるしかないらしい。そんなはずがないと思いたいが、実際はどうなのだろうか。今日は缶コーヒーで我慢している。豆を挽くのが面倒くさいのだろう。やる気が出ないのはそのためか。そんなはずがない。

 あくびが出る。眠いらしい。首を傾げて何を思ったのか。世界中で原発を建設中のようだ。安い電気を生み出せるのだろうか。確実に放射性廃棄物が増えそうだ。嫌な世の中になってきた。それが誤った方向へ人々を導いているわけか。さあわからない。嫌な世の中だと思ってしまうこと自体が間違っているのだろうか。自由に生きられるわけもなく、勝手気ままに振る舞うこともできないのは当たり前で、それとこれとは別問題なのだろうが、何が正しくて何が間違っているか、などということには興味がないのかもしれず、では何に興味があるのかといえば、それは神秘主義思想のたぐいか。そう思われても仕方がないのではないか。勘に頼りすぎているようだ。

 喧騒などすぐにやむだろう。それはエアコンの音か。誰かがそこで眠っている。またそれは架空の誰かか。話がおかしな方向へ行ってしまいそうだ。景気が良いわけではない。たぶんそういうことだろう。スランプを脱していくらか盛り返した感じだが、それにしてはおかしいと思わないか。まったくやる気が出ず、何を語る気も起こらない。それで眠ってしまったようだが、また深夜に目覚め、その続きをやろうとする。無理に決まっている。

 原発の話はどうなったのか。何だかそれは違うような気がするだけか。何が違うのだろう。あくびが出る。何が問題となっているのだろう。何も問題とはなっていないらしい。ただ気の毒に思われるだけか。この世界には悲惨な人が大勢いて、それがわかっていないのであり、悲惨な境遇にある当人にもその自覚がないのだろう。間違っていることに気づかない。しかし何が間違っているというのか。理性や倫理を軽視しているどころか、要するに馬鹿にしているわけだ。それが哀れに感じられ、その滑稽なやり方を押し進めようとする姿勢が気の毒に思われる。

 本当に気づかないのだろうか。それ以前にごり押しするしかないような境遇なのかもしれない。受け入れ難いようなことを平然と押し進めるのには、何か切実な事情があるのかもしれないが、それにしてもあまりにも安易すぎないか。取り返しのつかない深刻な結果に直面して、なおのことそれを押し進めようとしているわけだから、まあ救い難い人々なのだろうが、そういう人たちのもとにも幸福な未来が到来してほしいか。当人たちはそうなってほしいと思っているのだろうし、実際にそうなることを信じて疑わないのだろうが、そんなことをやっていること自体が、何かの道から外れていると思われるのは、単に君の思い違いなのか。


2月18日

 今はどうしたのだろう。どうもしないし、誰がどうしたわけでもないらしい。今さらどうにもならないのではないか。爪が割れた。空は曇っているらしい。語っている内容はそういうことだ。それでは不満か。それしかないだろう。他のことを語るのが面倒くさいのか。今は日が射している。今は車の修理中か。もうだめかもしれない。そうでもないか。とりあえず修理して乗ってみて、もう一度壊れたらおしまいか。いよいよ新車を買わなければならないのだろうか。その方が無難だろう。中古車は故障と修理の繰り返しでもう懲り懲りか。格好がいいからといっていつまでもこだわっていると、維持費がかさむばかりだ。だから何だというわけではないが、そのへんは今後の成り行き次第で、要するに行き当たりばったりで、その時その場で判断すればいいだけか。実際にそうやってきた経緯があり、その場になったら、今とは違う心境になって、だめもとでまた修理に出すのだろうか。何だか笑ってしまうが、そうなったらおもしろいか。いっそのこと中身を全部取っ替えて、電気自動車にするのはどうだろう。バッテリーとモーターの性能が今より飛躍的に進歩したら、何となくやってみたいが、現状のままでは大して走らないか。別にかまわないのではないか。どうやらブレーキランプが片方点かない不具合は、電球切れではないので直しようがないらしい。配線を張り替えるとかできないのだろうか。このままではまた整備不良でパトカーに止められる危険性がある。パトカーが巡回しない時間帯を選んで車を走らせるしかないということか。そんなことが可能か。とにかく街中で深夜の時間帯はヤバそうだ。エンジン周りのファンベルトとパワーステアリングベルトの方は、一応ヤフーオークションで手に入れた新品と交換できそうだが、オイル漏れは直せないそうなので、漏れたオイルがかかって劣化してしまうと、まただめになってしまうらしく、オイル漏れを直すためにちゃんとした整備に出しても、部品を取り寄せられなければ無理みたいなので、やはりそろそろ廃車が近いということか。まったくもって八方ふさがりだ。あと今回はスルーしてしまったのだが、実はもう一つ不具合があり、上り坂が続いたり高速道路で、エンジンの回転数が上がったままになってしまうと、マフラーが熱くなった、という警告ランプが点いてしまうのだが、やはりオートバックスでは無理だろうから、その件については黙っている。社外マフラーにでもしてしまえばいいのだろうか。そのへんのところはよくわからない。ヤナセならどうだろうか。イモビライザーが壊れたときに修理してもらって、それが縁で一度車検して一年点検までは通知が来たのに、その後ぱったり来なくなってしまった。そもそもその車を購入したBUBUは、買って数ヶ月で冷却水漏れの表示が出ていたのに、そのまま走り続け、高速道路でオーバーヒートしてしまい、修理に出したら4カ月もほったらかしにされて、音沙汰がなかったので、強引に車を引き上げてきた経緯があり、やはり修理に出しづらく、結局はオートバックスしか行き先がなくなってしまったわけで、なかなかそのへんが最初で躓くと、後は茨の道が待っているわけなのかもしれない。まあ自業自得といえばそういうことか。


2月17日

 久しぶりにこんな具合だ。この気配は何だろうか。俄にやる気が出たのか。そんなはずがない。君は頑なのか。何だかわからないが、でもこうなっているようだ。困難な道を歩んでいるらしい。そんな自覚とともに、他に何をもたらそうとしているのでもない。とにかく外れている。それだけのことだ。何もかもが外れているようだ。そんな気でいるだけか。実際のところはわからない。最近はわかっていないことばかりだ。でも何がそう思わせるのか。本当は何もそう思わせないのかもしれず、そんなことを思っていること自体が勘違いかもしれない。では何なのか。たぶん何でもないのだろう。しかし何かが違っている。それはわかっているようだが、何が違っているのかわからない。だからそれがおかしいのではないか。そんな自問自答をいくら繰り返したところで何もわかりはしない。何も変わりはしないだろう。今は何となくそう思われ、そればかりでどうも埒が開かないようだが、やはりわかっていてもそれを繰り返すしかないらしい。結局君は外れている。何をやってもそうなってしまうのだ。そんなやり方しかできない。それは困った事態だろうか。そう思うならそういうことだ。それ以外は何もわかりはしない。困難に直面すると、人はよりいっそう頑になるらしい。そうやって自らの頑固さを守り抜いた末に自滅するわけか。それではヤバいではないか。ヤバいのに何とも思っていない。ヤバいと思っているのではないか。冗談でそんなことを思っているわけか。そんなはずがないだろう。

 そう思い始めるときりがない。要するにきりがない。後はそんな言葉を繰り返し記すしかないらしい。それではうまくいかない。だからどうしたらいいのだろうか。何もどうにもならない。そんな気がしてならず、それだけのことで手一杯になるらしい。だからうまくいかないのか。その通りのようだ。そしてだんだん嫌になる。後が続かず、面倒になり、やめてしまうわけか。なぜそうなってしまうのだろう。君は何か予感があるらしい。自らの死が近づいているのだろうか。きっとそれは気のせいだ。何がそうなのかわからないが、きっとそうなのだ。だから今を精一杯生きなければならない。そんなはずがないと思いつつも、結局はそうなってしまうらしい。それは否定しようがない事実となるわけか。まったくヤバい。まだやり残したことが山ほどある。それは嘘かもしれないが、そういう成り行きになるのが、それらのありふれた物語的展開なのだろう。だからそうならないようにしなければならず、そのためにも今は必死で何かをやり抜く所存か。馬鹿げているだろうか。そうかもしれないが、そうなるより他はないらしい。やがてここへ誰かが嵐を引っ張ってくるだろう。そんな予感がするわけか。嘘かもしれない。そんなことはあり得ず、それは君かもしれず、君自身が招いているのかもしれない。だからそんなはずがないと思う。でも何が嵐なのか。それすらわからないふりをするつもりか。たぶん何でもない。君はそれとは違う事態を招いているような気もする。ではそれはどんな事態なのか。静寂だ。ひたすら黙っていて、辺り一帯に静寂をもたらしている。そんなはずもないか。

 そういうわけでどうも続けるしかない。そう割り切ってそのまま言葉を記すとしようか。気が遠くなりそうだ。耳の奥から遠くなり、耳鳴りがしているような感じになり、やはりそのへんがヤバく感じられ、何だかおかしくなっている。何に気づいたわけでもないのに、そんな予感がして、何とかしなければと思うようになり、そのへんが理解できないのかもしれないが、やはり後はごり押ししながら前進するしかないわけか。実際はそうなっていないだろう。きりのいいところで手を退いて、やめてしまうのがいつものパターンだ。そこを何とかしなければならない。でももうそれも限界に来ているのではないか。そこで何かはっきりした夢を見たはずだが、なぜかそれを言葉で示せない。なぜそうなってしまうのか。そのへんもわからないところだが、どういうわけかそれで済んでしまい、そういう問題意識を置き去りにしながら、さらに前進させようとしていて、その結果おかしな具合になっているわけだ。スイッチが入っているのは認めよう。それは何かのスイッチであり、そのまま終わりまで突っ走るためのスイッチかもしれないが、果たしてそれでいいのだろうか。何かまずいことでも起きているのか。君自身に異変が起こっているわけか。なぜそう思われるのか。何だかおかしいではないか。指先もしびれたまま、体全体がだるいような気もする。ではもうくたばる手前まで来ているわけか。それもまずいか。実際にそうなっているのではないか。君はさらにおかしくなっているみたいだ。正気とは思えない。でもそれはいつものことであり、いつもの調子でそんなことをやっているわけで、それに関しては特段語るべきこともないだろう。そんなことの繰り返しの上に君の人格形成がなされているわけで、それがこれらのフィクションの一部をなしている。


2月16日

 どうも気分が何かに近づいている。そんな気がしているだけで、本当は何でもないのだろう。何も語っていない。本当に何も語っていないのだろうか。こうして言葉を記しているではないか。そんなことはどうでもいいか。やけくそになっているわけでもなく、投げやりな気分で言葉を記しているわけでもない。とにかくがむしゃらに何をやっているわけでもないようだ。嵐がみんな吹き飛ばしてしまえばいいと思っているわけか。そんなことを歌っている輩もいるようだが、君とは無関係だ。そんな曲を聴いているだけか。誰かが記している言葉の連なりは君の意識をどこまで連れて行くつもりなのか。誰の意識でもありはしない。果たしてエイハブ船長の最後はどんな感じだったのか。いきなりそんなことを思うが、何のことなのか。関連を思いつかない。架空の登場人物には違いない。誰かがどこかで海の藻くずと消えたわけか。でも何のことでもないことに変わりない。フィクションではないようだ。何も構成できない。何事でもないような気がする。つまらないことを考えているわけか。そうなってからでは遅いのか。でも依然として何だかわからず、意味をなさないようなことを述べているらしい。述べているのではなく、考えているのではないか。自らの考えまでも表明できない。それはどういうことだろう。でも誰かがそんなことを述べているらしい。そういうことにしておきたいのだろう。君にはまだ解決すべき問題などがあったりするわけか。そんなことではない。ではまたあり得ない妄想でも抱いているのか。

 何かを正当に評価してほしいわけか。でも評価する基準がわからない。たぶん評価し得ないようなくだらぬことを述べているのだろう。くだらないわけでもないか。でもそこから遠くへと旅立ちたいのだろう。そんなことを本気で述べているわけでもないが、まったくのでたらめというわけでもなく、たぶんどうでもいいことなのだろうが、案外何らかのゲームに興じているのかもしれず、知らず知らずのうちに窮地に陥るような事態かもしれないが、それでも薄ら笑いが顔にへばりついているみたいで、何もわからないふりをしながらも、何かの機会を伺っているのだろうか。それは何の機会なのか。別に追いつめられているとは感じないようで、心に余裕さえ感じられ、そんなのは嘘かもしれないが、何となく楽観しているようだが、本当にそれでかまわないのか。何も語る気分ではないが、言葉だけは記してゆかなければならないらしく、それが天啓というわけでもないのだろうが、そんな気さえ漂っているようで、でたらめでもかまわないとも思われ、後は何を言っても無駄らしい。何だかよくわからない。それだけのことなのだろうか。なぜそう思うのか。思っているわけでもないのに、そんなことを記しているわけか。何でそうなってしまうのか。世の中にはわからないことばかりあって、そこから生じている何かを感じ取れない限りは、いつまで経っても意味不明なままなのかもしれない。いつもそれがわからないと思われ、理解不能な言葉の並びを前にして苦悩し、脱力感に襲われ、次第にじり貧になって、気がつけば何も記せなくなっている。

 弱音を吐いてどうするのか。楽しいだろうか。あくびが出る。そんな気がしているだけか。もう飽きたのか。まだ先があるのではないか。言葉に詰まり、袋小路で何を思うだろう。絶望しているわけではない。必ず巻き返しの時がやってくる。そうなってしまうのだろうか。だんだんやる気が薄れてこないか。少し横になれば、すぐに眠ってしまうだろう。ためしに横になってみたらいい。睡魔に襲われているわけではない。誰かの執念を感じているわけか。悪霊か何かに祟られているわけでもあるまい。そんなこととは関係なく、現状を何とかしなければならない。別に我慢競べをしているわけでもない。たぶんこれもゲーム中で行われていることの一部なのだろう。君はそこで立ち止まり、後ろを振り返っているようだが、誰がついてきているわけでもなく、前を向けば、何かの分水嶺にさしかかっているわけでもないことに気づき、別に一安心しているわけでもないだろうが、冗談のような気がしてならないか。でも別に大したことではなく、思い違いでもなく、ただそんな成り行きに苦しめられているだけかもしれない。だからすべてが冗談だと思われるのか。でもすべてであるわけがなく、何かの一部でしかないことは承知しながらも、何となくそんなふうに思われてしまうのかもしれない。またわけのわからないことを延々と述べているみたいだ。だからそうなるしかないような成り行きの中で苦悶するしかないわけか。そんな大げさなことでもない。現にたわいない内容が延々と記されているではないか。それは満足からはほど遠い内容であり、何かの片手間でやっていることに過ぎないだろうが、やはりそうなるしかない現状を呪うしかないのだろうか。嘘かもしれない。


2月15日

 誰かが旅をしている。テレビでの話か。ありふれたことだろうか。そうに決まっているが、それを見ている君はそこで何を見つけたのか。そんな光景が映っているテレビ画面の存在を確かめたわけか。それでどうしたのか。果たして未来は君に向かって開いているだろうか。それはどういうことなのか。俄には述べていることが理解できないらしい。とりあえず人々は何かにはまっている。君もそうなのだから、それは確実だ。はまっているのは映像か何かだろうか。そういう時もあるのではないか。たぶん現実はそんな生易しいものではない。では何なのか。何かが直接語りかけてくる。それは人ではないかもしれない。人でなければ何なのか。機械か何かか。でも今その内容を知らないのはどうしたわけなのか。今でなければ知り得たのか。そんなことはわからない。ではそこで何に見とれているのか。誰かによれば残された時間が少ないそうだ。いずれ何もまったくできなくなる。その時が来てからでは遅いのだろうか。何が遅いのか。君は何をやろうとしているのか。そんなことまではわからない。何やら考えるのが億劫になっているようだ。いったい何を考えたらいいのか。そのへんのところもわからない。たぶん現時点ではわかりようがない。何とかしなければ行けないところなのだろうが、どうも迷ってばかりで先へ進まない。要するにだめなのか。何がだめなのだろうか。そんなことを記していること自体がだめなのか。そうに決まっているのかもしれないが、何だか嫌になっている現状があり、どうでもいいような気分になってしまう。

 考えさせられるものがあるらしいが、そのへんが記述に結びつかない。すぐに記すのをあきらめてしまって、そこから先に言葉が続かなくなり、やはりどうでもよくなってしまう。何も記さなくてもいいのではないか。それでかまわないのだろうか。だからかまわないと思っている。でもそれは虚構の意識がそう思っているだけではないのか。しかし虚構の意識とは何か。なぜかめまいがしてくる。そうやって外れて逃げているわけだ。やはり今はだめらしい。何も考える気にならず、何となく何もない現状をやり過ごすしかないようだ。君は架空の時空で孤独の荒野を空想して、そこで何かを夢想しているふりでもしているわけか。そんな言葉をいくら記してみても虚しいだけだろう。でも気を取り直して言葉を記すとしようか。これ以上遅れてはどうにもならないか。しかし何のために記述を継続しようとするのか。何のためのなのだろうか。答えなどとっくの昔に出ているはずか。でもあえて何も言わない。何だか虚しくなるだけのようだ。とにかく無内容でもかまわないから、言葉を記さなければならない。たぶん何のためでもなく、君のためでもないのだろう。そう思っていればいい。それ以上の答えなどどこにもありはしない。君はそれでかまわないのか。誰がかまうはずがない。誰もそんなことなど気に留めることもなく、黙ってその場を去ってゆくばかりのようだ。だが語ることもなく言葉を記して何がわかるのだろう。何をわかろうとしているわけでもないのだから、わからなくてもかまわないのか。実際に何もわからず、ただ無駄に時間を浪費している。そんなはずもないか。君の知ったことではない。

 José Jamesの歌声を聴きながら、ただやり過ごそうしている。君は何も探すつもりがないらしい。別に人を探しているわけでもない。何を探す素振りも見せず、でも目の前に何かがやってくるのを待っているのかもしれないが、果たして虚無以外の何が到来しているのだろうか。何かを考えている。ひたすら考えているふりをしているわけではないが、何となく思考中のようだ。そのつもりで言葉を記しているらしいが、いつものようにそれは意味不明をもたらし、何が何だかわからない。わかるわけがないだろう。何も語っていないのだからそれは当然か。でも何が当然なのか。当然ではないからこんなふうに言葉が並んでいるのではないか。おかしな具合か。今は夜だ。そんなことはわかりきっているが、とにかく夜らしい。心が外れている。完全に心の中で何かが脱臼しているのだろうか。そんなことを考えてどうするのだろう、何を考えているわけでもなく、ただ言葉を記している。それだけのことだ。何も心に響かない。いったいどこを通り過ぎてしまったのか。気づかないうちにどんどん遠く離れていってしまったわけか。たぶんそこは目的地ではないのだろう。何を成し遂げようとしているわけでもなく、ただやり過ごす。そのへんが君の勘違いかもしれないが、何とかそこへとどまっていなければならないらしい。そして延々と何かの到来を待ち続けているわけか。でも何が到来するわけでもない。話の中ではそうなっていて、話の筋書きもそのはずだ。でも待ち続けている。延々とそのままでいるらしく、案山子のように微動だにせず、その姿勢が変わらない。そんなはずもないだろうか。でも何が問われているわけもなく、返答しようがない問いに困惑しているわけでもないだろう。


2月14日

 たぶん何も出てこない。そんなわけでいきなりネガティブなことを述べているようだ。でも嘘だろう。何が嘘なのか定かでない。だから冗談か。でも何が冗談なのだろう。そんなはずがない。空疎なことを述べているのだから、それは当然の成り行きか。でもかまわないのだろう。要は言葉を記していればいいわけか。でもそれではあまりにも虚しく、意味がないだろうか。もとから意味などあり得ない。タイミングが合わないのだろうか。だから何のタイミングなのか。意味不明に思われてくるが、何となくわかるような気もするのはなぜだろう。たぶんそんなはずがないと思っているのだろう。どうでもいいことかもしれず、それで何がわかるわけでもない。ではただでたらめに言葉を記しているだけか。そうとも言い難く、そこには何らかの規則性が内在しているのかもしれず、それを発見したら愉快な気分になれるだろうか。君がそう思うのならそういうことになるだろう。そんなのは嘘だろうが、嘘でもかまわないから、そんな気分で言葉を記しているのかもしれない。だからそれが冗談なのか。ただわけがわからなくなり、どうでもいいように思われてくるが、それでもかまわないのだろうか。だからかまわないと述べているではないか。要するにどうでもいい。要するにでもないが、とにかくそんな気分で記述を続行中か。馬鹿げているだろうか。その通りのようだ。いくらなんでもそれはないか。それもその通りだ。未だにそんな空疎の悪循環から脱しきれていない。抜け出す気がないのではないか。そのへんが消極的な性分なのだろうか。

 たぶん勘違いか思い違いだ。また面倒くさいようだ。いつものことか。何が気になっているわけでもなく、何を欲しているとも思えない。何を巡って思考しているわけでもない。ただおかしいのはわかっている。なぜそんなことを思うのだろうか。面倒くさいからか。何が面倒くさいのだろうか。言葉を記すのが面倒くさいのか。言葉を選ぶのが面倒くさいのかもしれない。そんなはずがないか。この世に選ぶものなどありはしないか。それは大げさな物言いだ。何かの巡り合わせで選ばなければならない時が来るのかもしれないが、そこで何を選んだとしてもたかが知れていて、選んだからといって、何がどうなるわけでもなく、特定の何かを選んだことによって、何かがどうにかなったと思い込んでいるとすれば、それは間違っているということか。別に間違っていなくてもいいのではないか。それが正しい選択であってもかまわず、正しければ正しいなりに、何らかの結果がもたらされているのかもしれず、それを真摯に受け止めて、後はどうすればいいのか。どうもしなくてもかまわないだろうか。たぶんそういうことであり、それでかまわないと思いたいのだろうが、間違っているわけか。だから別に間違っていてもかまわないのではないか。そんなわけで君は平気で間違っている。でも君とは誰なのか。誰でもない君が君であるわけがない。では君は君が誰かであってほしいのだろうか。心がくだらぬ問答にとらわれているようだ。それでもかまわないのだろう。何だか馬鹿らしくなってきたようだが、そんな記述でもかまわないらしい。

 とりあえずそんなふうに思われ、思っているのだから誰の勝手でもないのだろう。そういう思いにとらわれ、何となくそれでかまわないように思われてしまう。そういうことでしかないようだ。それの何がおかしいのか。そんなことはわかりきっているだろうか。おかしいのは何でもなく、同時に何かがおかしいのであって、そんなことを述べているつもりになっているのがおかしいのではないか。たぶんそういうことだ。それが間違っているとしても、そういうことにしておきたいのかもしれず、そんなふうにして君はそこから遠ざかり、実際に誰かが何事もなかったかのようにその場を立ち去り、立ち去ったあとには何も残らない。そんなふうに述べれば納得がいくのか。誰を納得させるために述べているのでもなく、実際に納得などいくわけがないだろうが、やはりそれでかまわないのかもしれず、何となく屁理屈をこね回しているような気がするが、そんなことしか述べられない現実に直面しているわけか。実際はどうなのか。言葉の並びがどんな具合になっているわけでもないか。どんなふうになっているにしろ、君の知ったことではないだろう。誰もその場では責任の取りようがなく、なすがまま成り行きまかせで言葉を記しているに過ぎず、結果がどうなろうと知ったことではないのはもちろんのこと、まともだろうとでたらめだろうと、そんなことを記している現実を受け入れざるを得ず、後は野となれ山となれ、というふうに投げやりな気分で記述を継続させようとしているわけでもないのだろうが、現実は現実であり、結果は結果だ。それでかまわないと思うなら、そういうふうになるしかない。どういう風になっているかは見ての通りか。だから冗談だと思うわけか。苦し紛れにそんなことを述べているわけか。それでもどういうわけでもないと思い込みたいのだろう。


2月13日

 いつの間にかこんなことになってしまったらしい。君は何に気づいていたのか。何かがここから遠く離れている。でも何かとは何なのか。ここにある何かだ。でもここには何もない。それは何もないのにある何かか。屁理屈につながるような何かだろうか。くだらぬ問答に至るのが嫌なので、明かりを消して眠ってしまうつもりらしい。そしてまた翌日だ。この調子では遅れを取り戻すことは不可能か。もうだめだ。またそんな嘘をつく。だめならやめればいい。やめないのなら、だめだとは思っていないということか。そんなわけで戯れに言葉を記してみるが、別にそんなわけではないのだろう。でも相変わらず内容がない。君はおかしい。誰が語っているのでもないのに、君はおかしいと思っている。それを誰が語ろうとしているのか。それとは何か。そんなことでしかないらしい。いったいこの世界に必要なものとは何なのか。唐突な問いに答える義務などありはしない。たぶんどうでもいいことなのかもしれず、いつものことには違いないが、無内容の記述に終始しているわけもなく、わけもなければ、理由も見当たらない。いったいこの世界はどうなってしまうのか。そこに住んでいる人とは無関係な成り行きが進行中だろうか。それが違うと思われる理由もわけもなく、何となくそんなことを思っているだけかもしれず、そこで君が何を語る義務も意義もないのかもしれない。要するに何も重要ではないということか。そんなふうに語っているのだから、そうなって当然だろうか。

 でもまだ語り足りないと感じている。中身のあることは何も語っていないのに、それはないか。でもいったん語ってしまえば気が済むのだろう。内容如何に関わらず、とにかく語っていればいいわけだ。それで気が済むなら、そのまま続けて、さっさと語り終えればいいのだろうか。やればやるほどそんな感じになってしまうのだから、仕方のないことだ。さらに語りたいのなら、それらの無内容は避け難い結果だと思わなければならないか。そんなこともないか。でも何も思いつかず、世の中の何を批判する気も起こらないはずだ。人それぞれであり、人のやっていることはたかが知れているか。君にはそう思わざるを得ない必然性があるのだろうか。そんな言葉を持ち出してみても、それらの空疎は揺るがない。揺るぎようがないだろう。現状がそれなのだから、現状以外の何を空想してみても、現状を超える状況がもたらされるわけがない。ここには現状があり、そんな現状につなぎ止められ、身動きが取れずにいるのかもしれず、そんな制限の中でしか思考することも行動することもできはしない。それでも何かに導かれていると思い込み、要するにこの世界を信じているのかもしれず、いつか必ず何らかの境地に達することができるとでも思っているのか。そう思わなければ記述を継続することは不可能か。いったい君は何を信じているのだろう。この世界がどうなってほしいのか。君の思い通りになるはずがない。それは承知しつつも、何かを極めようとしているのだろう。

 それは何かの冗談か。たぶん何でもないことだ。何かであり、何でもない。世の中には同じ風景を何十年と描き続け、ついには何かを極めたつもりになって、成し遂げた業績を残しつつ、この世からおさらばした人もいるらしいが、君がやっていることは、それとどう違うのか。そんなことを思うと、やはりどうでもいいような気分となり、何を成し遂げてもたかが知れていて、そこから自己満足を得ようと、あるいはそうすることによって世の中の役に立ったと思い込んでみても、何となく虚しく思われ、何もやらないよりはやった方がいくらかマシかもしれないが、そのいくらかマシ程度の何かにこだわること自体が、何となく骨折り損のくたびれもうけのような気がしないでもないが、それでもやろうとしているのはどういうわけなのか。わけなど何もないから長続きするわけか。それもわけには違いないが、今やそんなわけですらどうでもいいことかもしれない。いったいそこで何を想像しているのか。くだらぬ未来を思い描き、それに向かって何をやりたいわけでもないのだろうが、とにかくそんなことを思っているらしく、それがどうしたわけでもないのに、さらに続けると、何だか愉快な気分となるらしい。この世界で行われていることの何が滑稽に思われるわけでもないが、要するにみんなひどいことを平気でやっていて、そのやっていること自体にもっともらしい理由をつけて、行いの正当化に余念がないのかも知れないが、行為自体がどうでもいいようなことでしかなく、それでもそんなことをやらざるを得ない成り行きに巻き込まれている状況が、おもしろおかしいような哀れであるような、そんな気がしてならないのだろうか。


2月12日

 またこれだ。いつまで経ってもこれらしい。これでは埒が明かないか。でもこれでかまわない。あきらめているのかもしれない。かなり以前からそうだ。数日後の今日は寒い。また明日は雪が降るのだろうか。みぞれだったらしい。それで何がどうしたわけでもないだろうが、君はここから考えている。何を考えているかは定かでない。機会を逃して、さらに記述が遅れてくるが、何となく楽観している。大丈夫なのだろうか。そんなことは知りはしない。でもそんな感じなのだから、そういう流れに逆らう気にはならないようだ。これでも何とかなると思っているのかもしれない。でもさらに遅れていることは確かで、もうすでに取り返せない段階まで来ているのかもしれない。疲れているのだから仕方がないか。余裕がないのかも知れない。とにかく何だかわからない。腕や指先のしびれも続いたまま、無理矢理言葉を記す気にもなれず、このままずるずると遅れていって、気がついたら終わっていたということもあり得る。そうならないように努力する気にもなれない。ではだめなのではないか。外では相変わらず雨が降り続いているようで、夜になってもやまない。それとこれとは無関係だろうが、憂鬱な気分なのかもしれず、たぶんそんな気分に影響されて、今日もうまくいかないのだろうか。そうなってはまずいのか。まずくはないが、どうにもならなくなるみたいだ。それではまずいのではないか。

 何もかもが崩壊するがままで、歯止めが利かないか。でも何が崩壊しているのだろうか。現実の世界に意識があるので、何もわからないようだ。たぶん何かわかるには、荒唐無稽な誇大妄想が必要なのかもしれない。またそんなくだらない嘘をついてみるが、何もわからないことに変わりはない。わかり得ないし、現状は何も変わらない。本当にそうだろうか。そこで急にコーヒーがほしくなる。一息つくとしようか。久しぶりに豆で買って砕いて淹れたが、あまりうまいとはいえない。こんな味だったのだろうか。粉で買った方がよかったのかもしれない。何とも言えないが、二百グラムあるからしばらくは大丈夫そうだ。何だか外れているのだろうか。一息ついたら、何を語ろうとしていたのか忘れてしまったらしい。人はなぜ仕事をしているのか。昼間はそんなことを考えながら仕事をしていたらしいが、考えていたのちょっとの間だったのかもしれず、ちょっとの間で結論が出たわけでもなく、時が経てばどうでもいいことでしかなくなるような流れで、その場はそれで済んでしまい、夜になってまた考えるわけもなく、やはりそんなことはどうでもいいみたいだ。日々の糧を得るために人は仕事をする。そんな答えで十分だろうか。不十分だ。何となくそれ以上の何かがあるような気がする。何だかわからないが、仕事をするように仕向けられていて、仕事から逃れられなくなっているわけだ。そんな成り行きにうんざりしているのだろうか。

 何だか矛盾していないか。仕事が忙しいから言葉を記すことができず、でも日々の糧を得るには仕事をせざるを得ず、仕事がないと生きてゆけないから、生きてゆけなければ、やはり言葉を記すことができなくなる。要するにどちらにしろ無理なのだろうか。明日も早いから、眠らないと体調を崩してしまうだろう。そんなわけで何が崩壊しているのかといえば、心身ともに健康が崩壊気味なのだろうか。そうだとしてももう遅い。気づくのが遅すぎるか。でも何だかわからない。本当にそうなのか。本当はそうでもないのではないか。だから本当のところはよくわからず、言葉を記すことによって果たして健康を害しているのかどうかは、今のところは定かでない。そういうことにしておきたいのか。どうも目の前に結果を突きつけられるのが怖いらしい。それが否定的な結果であることを心配しているのだろうか。そんなはずがないか。でも何を信じたらいいのかわからず、実際にところはどうしたらいいのかもわからない状況なのではないか。それでも何とか言葉を記しつつ、そうすることによって何かが前進しているような気もするようだが、やはり本当のところはよくわからない。わからなくてもかまわないか。結局はそうなってしまい、その場はそれで済んでしまい、結論の提示は次回へと先送りされ、かろうじて正気を保つことができたような気になるらしいが、またもや本当のところはよくわからない。是が非でもそういうことにしておきたいのか。でもそれで何かが前進しているとはいえないのではないか。


2月11日

 果たして君は生きているのだろうか。外見からはわかりにくいが、一応呼吸はしているようだ。当人にもそんな自覚がある。別にフィクションの中でそんなことを述べているだけだ。では誰がそれを記しているのか。くだらない込み入らせ方か。気が散っているらしいが、他にどんな自覚でもありはないか。それらは実質的には嘘偽りの範囲内で語られた記述か。だが君には記された文章の意味がわからず、いつまで経ってもチンプンカンプンでわけがわからない。別に理解不能な外国語で記された文章でもないのに、それはどういうわけなのか。またいつものごまかしかもしれない。そんな作業自体もうまくいっていないようだが、それでも君は生きているわけか。すぐに眠ってしまうところだったらしい。でも何とか起き上がり、しばらくして自然体を回復したらしい。自然体の意味がわからないが、そんなことはどうでもいいことか。そして今は普通の気分なのだろうか。何も語れなくなっている状態は変わらない。君の代わりに誰が何を語っているのか。

 矛盾しているようだが、空は晴れている。何も思いつかなければ、たぶんそういうことになる。相変わらずそんなことを思っているらしい。外は雪混じりの雨か。数日後の天気だ。でももう止んでいる。影が昨日ことでも述べているのだろうか。君は疲れているはずだ。そして眠たくなっている。わかっているのはそんなことか。それでどうしたのだろう。ただ眠ってしまっただけだ。風に流されている雲を眺め、無言でいるのが心苦しくなるか。だがここには誰もいない。誰かがまたやってくるに決まっているが、それが架空の人物でないことは確からしい。どうせまたわけがわからなくなっているのだろう。そうならないようにならないものか。それは苦し紛れの冗談だろうか。意味がわからないか。たぶん何を述べているのでもないのだろう。またそれだ。嫌になってしまうか。そんなこともないだろう。そのへんでそういうことにしておきたいのだろう。また面倒くさくなってきたのかもしれない。だからやめてしまったのだろうか。でも何をやめたことになっているのか。そのへんがよくわからない。

 空間が歪んでいるらしい。くだらないことを思っている。忙しいのだろうか。明日はそうだ。その代わりに何かを語る。何の代わりなのかわからない。何かの代わりに君が存在しているらしい。そんなはずがない。少しの時間だ。一瞬の間かもしれない。誰かの影を見たような気がする。そこで何かが明かされているわけでもないだろう。もう完全にあちら側へ行ってしまったのか。それも違うか。だからそんなはずがない。まだこちら側で言葉を記している最中だ。意識はそうだろう。でも何を意識しているわけでもない。自由なのだろうか。何を記すのも君の自由か。事前にそんな取り決めはない。でもそれが何の事前なのかわからない。またしばらくの間考えている。いったい何が違っているのだろうか。それは君の心がけ次第だ。それでどうなるのだろうか。何もどうにもならなければ、君はどうしてしまうのだろうか。どうもしないだろう。面倒くさいから、それでかまわないはずだ。心が何で満たされているわけでもなく、何で満たそうとしているわけでもない。だからすべては振り出しに戻ってしまう。

 そこから一歩も踏み出せないわけか。前進できずにいるらしい。ではまた眠ってしまうのか。そういうことだ。語るのが面倒くさいのか。そうだとしたら何だろう。何でもない。そればかりのようだ。まだそこから完全に抜けきれていないようだ。心は依然としてこちら側にあるらしい。その方が安全だろう。何と戯れているわけではない。虚無も同様にこちら側に巣食っている。蜘蛛の巣を見たことがあるだろうか。誰だって見ているはずだ。でも心が何に絡めとられているわけでもない。そこで君は何も連想しない。これはゲームではないらしい。何に参加しているわけでもない。登山を楽しんでいるわけでもない。でも疲れてきた。骨が折れる作業の最中でもないか。それは夕方頃に終わっているはずだ。そしてもう一眠りした後だろう。もう息切れなのか。夢見る人は疲れているようだ。誰のことだろう。それが心地良いのだろうか。印象としては少し違うようだ。何となくそう思っているのかもしれない。いったいどう思っているのか。君ではないからわからない。誰でもないことになっているのだから、それは致し方ないか。そんなはずがない。でも何があり得ないわけでもないのだろう。


2月10日

 何となく環境を変えてみたが、それで何がどうなったわけでもなく、結果的には無駄な悪あがきにしかならないのかもしれない。何かが空を横切っていく。隕石の映像でも見ているのだろうか。別にそれの何がおかしいわけでもないだろう。コーヒーが切れたので、紅茶を飲んでいる。静かな環境だ。それの何が不満であるわけでもなく、むしろ作業がはかどるような気がする。でもテレビを見ているではないか。北朝鮮も核実験を行ったりミサイルを発射したり、にぎやかなことだ。やっていて楽しいだろうか。当事者ではないからわからない。でも何が言いがかりなのだろうか。外国が非難すれば言いがかりなのだろう。でもそれでかまわないのではないか。

 また面倒くさくなっているのか。言葉を記すのが面倒くさいのだろうか。それでも楽しいか。たぶんそうだ。これでいいのではないか。静かだと思っている。何もありはしない。でも何を実行したのか。誰にそれを伝えようとしていたのか。今となっては何もわからない。光が見えてこないか。システムが見当たらない。では何に頼ろうとしているのだろうか。知識と経験か。困っているのだろうか。なぜそうなってしまうのか。わかるわけがない。君が何を知っているというのか。何か検証すべきことなどがあるらしい。ありがちな話の展開だ。気にいらないか。どうも人は何か目標を持って生きていくしかないらしい。少なくとも他の人はそう思っているようだ。

 何を見ているのか。冗談では済まないような出来事の中で、何か考えているふりでもしていたいのか。実際のところは何も見ていないようだ。明日は晴れる。予想ではないらしい。天気予報ではないのだろうか。たぶん見ているのはニュースのたぐいで、その終わりの方で天気予報をやっている。情報が足りない。それ以外を知り得ない。実際に何を知り得ないのか。少なくとも明日の天気ではないらしい。誰かが何かを紹介している。君にとって博物館は必要なのか。余分な建物か。君に必要なものは何なのだろうか。意識が朦朧としているわけではない。あくびが出る。もう飽きてしまったのだろうか。なぜそう思ってしまうのか。理由を探しているわけではない。何かと何かを分離すると、何かの存在理由が導き出される。そんなことはない。なぜそんな嘘をつくのだろうか。不安にかられると、なぜか誰かは禅に頼るようだ。

 その調子なのだろうか。何を生活に活かそうとしているわけでもないだろう。暇つぶしに老人たちがその地域の名所旧跡を訪ね歩く。やはり人は何か理由付けに追われている。存在理由がないと不安らしい。要するに絶えず何かを付け足しているのだろう。それは余分な何かなのだろうが、無駄だったり余分だったりしてはいけないらしい。偉そうではない。腹立たしいとも思わないか。でも失敗している。そこから何を学ぼうしているのか。君が知っていることではないらしい。寒いか。だいぶ着込んでいる。好不調の波がある。またテレビでスポーツ中継をやっている。さらに面倒くさくなってきたのか。皮膚が乾燥している。

 まだ語る気か。何かのできそこないだ。文章がおかしいのだろうか。枯れ木になった気分らしい。もう死んでいるのだろうか。内部を虚無に食い荒らされている。そんな空想に浸り、何か語っているような気になる。でも実際には何もない。何も語っていないようだが、何かまた思い出したらしい。気のせいだ。とにかく早く記述を終わらせたいらしい。もう限界か。何の限界なのだろうか。まだそこまで達していない。どうせまた面倒くさくなってきたのだろう。すっきりしたいから、やっていることを早く終わらせたいのだろうか。だからそれが間違いなのか。熟慮しないと、またおかしな方向へいってしまうか。でもそれでもかまわないと思っているのだろう。君はいい加減に考えているようだ。それでは安易過ぎるだろうか。そんなふうに思っていたらいい。


2月9日

 何がおかしいのだろうか。別に笑っているわけではない。要するに何だか機械の調子がおかしいのかもしれない。でももう直ったようだ。いったい何だったのか。結果的には何でもない。そのついでにアップデートしただけか。だから今は何が君を苦しめているわけではない。ではいったいここに何があるというのか。ただここに時間がある。そんなことを述べている時間だ。あり得ない時間だろうか。なぜあり得ないのか。それは言葉を記している時間でもあるだろうが、本当は時間でないのかもしれない。そこには時間さえない。

 でもそこはここではない。ここもそこではなく、そこもここも偽りの何かだ。でもそれがない代わりに言葉があるわけでもない。では何なのか。何でもなければ振り出しに戻るだけだ。確かにここには記された言葉が並んでいるようだが、それが心を捉えて放さないわけでもなく、何がそれらの拘束から逃れているわけでもない。誰の代わりに何が記されているのでもない。では何なのか。君がそれに続けて言葉を記せばいいだけか。それができないから困っているわけでもないか。さらに言葉を記そうとしているではないか。でも眠ってしまったらしい。何も記すことがないのに記そうとすれば、そうなって当然だろう。行き詰まっているわけだ。続けて記すべき言葉が見つからないか。その通りだ。誰かの影が答えている。そんなはずがないだろう。いよいよだめのようだ。

 何かが違っている。それは承知の上でそんなことを述べているわけか。でも何が違っているのかわからないではないか。ではどうしたらいいのだろうか。その違っている何かを特定しなければならないのか。果たして君にそれができるだろうか。何か思い当たる節があるというのか。今のところはわからない。たぶんこれからわかる可能性もないか。わかろうとしていないのではないか。それはごまかしようのない事実だ。他に何をごまかそうとしているわけでもない。おそらく何でもないのだろう。もうあきらめているのかもしれない。何かが進行中のようだ。どうでもいいことかもしれないが、自覚しつつあるみたいだ。徐々に心を蝕まれている。やる気がしない。それだけのことだ。それだけのことなのに、やはりどうしようもないのだろうか。何がどうなっているわけでもないのに、何となく笑ってしまい、そこから先への前進を受けつけない。

 また眠たくなってきたようだ。少し横になるよしよう。そのまま眠ってしまうのだろうか。それとも踏みとどまろうとしているのだろうか。どこへとどまるつもりなのか。意識がどこへ行こうとしているかがわからない。そんなはずがないと思いたいが、何となくおかしい。記しているのも思っているのもそればかりだ。しかし何がおかしいのか。いい加減にそれを特定しなければ、いつまで経ってもそこから先へ進めない。だからそれが無理なのだろう。

 いったい何を語っているつもりなのか。それでも語っているつもりなのだろうか。たぶん君が語っているのだろう。ここには何もないことについて語っている。そんなことはないか。なくてもかまわない。だんだんそれらの空疎な問答を続けるのが面倒になってきたようだ。それは良い傾向だろうか。何が傾向でもない。心がどこへ傾いているわけでもなく、やけくそで何を傾かせているわけでもない。風がない。無風状態か。そんな曲を聴いているだけだ。昔の歌など思い出せないだろうか。そんな歌を聴いている。それも苦し紛れに語っていることの一部か。きっとそうだろうが、それで苦境を切り抜けたつもりになっていることも確かだ。


2月8日

 もはや鬱状態か。冗談でそんなことを述べていると、本当にそうなってしまうか。でも感覚がおかしいのかもしれない。それは以前から気づいていたことか。血の巡りが悪いのかもしれない。それが冗談だとは思えないか。かまわないのだろう。またそれだ。もう言葉を記す気力が失せたか。そのようだ。疲れて眠ってしまい、もう翌日の夜だ。昼の空は晴れていた。これから雪が降るみたいだが、天気はどうでもいいか。でも何を認め難いわけでもない。意味不明だ。そこから何を見ているのだろうか。何も見ていないのかもしれない。では目の前に何があるのだろうか。何もなければ楽しいか。ずれている。そんなはずがない。だがそれが違っているわけではない。では目の前にあるそれは何なのか。何でもないわけがないか。難しい立場に追い込まれて、そんなはずがないと思う。それはフィクションの中で思っていることだろう。確かにそんなはずがない。どうやら他に何も記すことがないようだ。本当だろうか。まずは考えよう。それが本当かどうかについて考えているのではない。ただ何となくそんなことを考えているだけか。でもこれですっきりしたのではないか。理由などいらず、それに関する出来事など何もない。たぶん何かあるのだろうが、それをあえて記さないだけではないのか。たぶんかまわないのだろうが、今ひとつすっきりしない部分がありそうで、果たしてこれでいいのか。空疎なことを延々と述べていてかまわないのだろうか。承知しているはずだ。何を承知しているつもりなのか。できればそこが知りたいところだが、たぶんこの文章では明らかにされないままだ。なぜそうなってしまうのか。それは君が迷っているからか。迷ってしまうのは当然のことだ。指針となるべきものが何もなく、ただ闇雲に言葉を記すばかりではないのか。でもそれでどうにかなると思っているのだろう。そうは思っていないが、実際にどうにかなっているという感触は得ているはずだ。それが勘違いなのだろうか。たぶんそうだろうが、君はひねくれ者だから、わざと間違ったことしかしない性分だ。それは致し方ないことか。

 でもどうすればいいかなんてわかるわけがない。神に訊いてみるしかないか。でもそもそも君が神なのではないか。そんな嘘をついても意味不明のままか。でもなぜそんなことを述べてしまうのだろうか。何かの限界を超えてしまうと、そうなるしかないのだろうか。そんなことは誰も知るよしもないか。まだそこまで到達した者が皆無だから、一様にわけがわからないだけか。そんなはずがないだろう。でもおかしい。中身のないことならいくらでも記せそうな気がしてくるのは、単なる勘違い以上の何かを患っている証拠か。そんな大げさなことではない。でも何かおかしいと感じているままで、どんどん言葉を記しているではないか。それで恐ろしくなっているわけか。気が触れているのだろうか。そうだとしてもそれらの作業を止めるわけにはいかないのだろう。本当にどうかしているようだが、たぶんそれらの意識が宿っている心には、どうにもならない宿痾のようなものが取り憑いているのかもしれない。本当だろうか。何が本当なのか。別に嘘でも偽りでもかまわないような気がするが、そんなことを勝手気ままに記しているだけで病気になるとも思えず、要するに感覚がそこで誇張されていて、半ばフィクションのようになっていて、空想と妄想の混合物の中で、何か適当でいい加減なことが述べられているに過ぎないのではないか。簡単に言えば冗談のようなたぐいか。いつもそうなのではないか。どうもそのへんで冗談という言葉がマンネリ気味に使われている傾向があるようで、言葉に詰まるとすぐ冗談という言葉が頭に浮かび、結局苦し紛れにその言葉を使わざるを得ず、そうやってかろうじて記述を継続させている現状があるのかもしれないが、果たしてこれでいいのだろうか。いいわけはないのだろうが、やはり結局そんなふうになってしまうしかなく、どうもうまくいっていないような感じで、その場の成り行きに押し流されてしまっているらしい。


2月7日

 もう夜だ。また何を見ているのか。画面上に見慣れた言葉が並ぶ。皮肉ではない。何でもないのだろう。でもおかしいか。何を語ろうとしているのでもないらしい。それはいつものことだ。述べていることが支離滅裂なのか。そういうわけだ。新たに言葉が記されつつあるが、そこに何を付け加えようとしているわけでもない。語っている事実がかすんでゆく。あり得ないことだろう。また面倒くさくなってゆくわけか。誰がそれを認めるわけもなく、そこには否定し難い現実がありそうだ。あまりのお粗末さに面食らってしまうか。でもそれが実態なのだろう。今はそれを認めるしかなさそうだ。誰が認めなくても、君が認めればそれでいいわけだ。そんなことでしかない。これは呪いの言葉などではなく、祝いの言葉でもない。ここに記された言葉の連なりに過ぎない。そしてどうも何も言えなくなっているらしい。おどけて馬鹿踊りを踊るわけにはいかないようだ。要するに何を語るのも面倒くさいのだろう。そして心がどこへたどり着こうとしているのでもない。ただここにいるだけで、それ以外の選択肢を排除している。そんなはずがないか。でも誰かがそんなことを思っているわけだ。誰も知ったことではないのに、あえてそんなことを思う。どういうわけなのだろうか。だから誰の知ったことでもない。それでも何とかどこかへとたどり着こうとしているのかもしれない。得体の知れない誰かがそんなことを思っている。それが他の誰かが記そうとしているフィクションだとは思えないが、何となく回りくどく言葉を配置しながら、虚無から繰り出される何かをかわしきろうとしているみたいだ。ではまた無駄な悪あがきとなってしまうわけか。そんなはずもなく、君はさらに言葉を記そうとしている。

 でも何とかなっていると思い込む。深刻に考え込むよりは気楽だ。どうせまたそこから逃げる算段でも立てているのだろう。それでかまわないか。かまうもかまわないも、そのつもりなのだから仕方ない。だから何だというわけでもなく、ただ面倒くさい。そういうことでしかない。それは恐ろしいことだろうか。君にわかるはずがないか。君にわからないなら、誰にもわからないだろう。それでも人は懸命に生きているつもりなのだろう。キッチュとそうでないものの見分け方などありはせず、その場の状況次第でどちらにもなってしまうような気もしてくる。それはどういうことなのか。何かに必要であるわけでもないので、たとえまがい物だろうと、取っておけばコレクションの一つとなるに違いない。やはりそんなことでしかないのか。あくびがでるが、それを認めて、先を急ぐとしようか。それには及ばず、さっさと寝てしまおうか。それも違うのではないか。何も違わないか。語る時間が長過ぎる。そんなわけがないだろう。でも無駄に言葉を記しつつも、何とか切り抜けるつもりらしい。わざと外れようとしているわけではなく、自然にそこから外れていってしまうのだから、それは仕方のないことか。要するにまだ死の兆しを感じ取れないから、楽観するしかないのだろう。いったいそこで誰が死ぬというのか。どこに死神が舞い降りるというのか。またそんな外れ方をしてしまい、腰が痛む。誰に歯向かっているわけでもない。遠くで猫がけんかしているようだ。誰が邪魔をしているわけでもなく、至って順調に作業をこなしているとも思えないが、何となく切り抜けようとしているみたいだ。いつもやっているのは何でもないことか。そのようだが、そこから進展がなく、目新しい事物にも巡り会えない。そんなはずがないか。だから誰が邪魔をしているとも思えず、そのまますらすらと言葉を記しながら、何を思うこともなく、記述を終えようとしているわけか。まだ足りないか。何が足りないのだろうか。ひたむきさか真剣さか。何に対してそうであるべきなのか。心当たりがまるでないらしい。


2月6日

 心の中から外部に向かって何かが弾き出され、それを誰かが食らって軽傷を負う。銃で撃たれたわけでもないだろう。死んでいるわけでもない。オバマがクレー射撃をしていた。だから何だというわけでもなく、銃規制の是非がどうしたこうしたの話なのだろうが、何となく少し前にネットで見たそれを思い出しただけか。何を語りたいわけでもないようだ。君は銃でも撃ちたいのか。そんな映像を見ているわけでもない。何だろう。また何でもないのか。プレミアリーグは引き分けのようだ。リバプールとシティーか。それを見てどう思ったのか。さあわからない。今はテレビドラマでも見ているのだろうか。何を言いたいのでもなさそうだ。また面倒くさくなるのだろうか。どうかしている。たぶんそれでかまわないのだろう。何も思い出せない。人には美しい思い出が必要だそうだ。生きていくには気休めも必要だろうか。またそうではないと思いたいのか。自己中心的に考えている。君は未だに天動説を信じているわけか。それは違う。何もかもが何でもないと思っているのかもしれない。それがおかしいわけもない。でもなぜそこで黙ってしまうのか。何も語る必要がないのかも知れない。眠たいのだろう。きっとそうだ。そして何も思いつかない。誰かが心の中から語りかけているようだ。そんなはずがないだろうか。まだくたばっていないらしい。また何かが違っていると思いたいらしい。それは昨日の出来事だろう。君が思っているのはそれだけだ。何が違っているのかわからないのに、それはない。事をきれいごとで収めるわけにはいかないらしい。

 わかっているのはそれだけだろう。また翌日になってしまったらしい。どんなわけでもなく、大した理由もなしに遅れてしまうが、どうせ記すことがないのだろう。そこから何が見えているわけでもない。でも五里霧中というわけでもないか。見えていることは確かにあり、それに基づいて言葉を記せば、何かしら語っていることになるのかもしれないが、果たしてそれでいいのだろうか。そこでは何かが人々をつなぎ止めていて、それが仕事だったり娯楽だったりして、それに夢中でいる間は至福の時を過ごせるのかもしれないが、そんな簡単にその場での行為や出来事を説明していいものか。いったいそれで何を説明していることになるのか。それらの説明の何が疑わしいのか。必死になって何かをやるしかない人は、そんなことを考えている暇はない。でもひとたび心に余裕がでてくると、いったい自分は何をやっているのか、という疑念が芽生え始め、いつまでもこんなことをやっていていいのだろうか、と思うようになるわけか。大したことはやっていないはずだ。たぶん周りの状況によってやらされているだけなのかもしれず、果たして自らが主体的にやっていることなのか、やっていることの結果から生じる自信が徐々に失われつつあるのかもしれず、内心そんなはずがないと思いたいのだろうが、どうも実際にはそうでもないらしく、あえて自らのやっていることを自ら無視したまま、わけがわからないような心理的状態を保っているつもりなのかもしれないが、やはり本当のところはよくわからない。

 結果がどうであっても、これいいのだ、とはいえないのだろうか。しかし人々は何をやっているのか。他人のやっていることまであれこれ考えている余裕がないわけではないが、何だか滑稽に思われる原因が、いったいどこから生じているのか。プレミアのボール蹴りごっこをテレビで眺めながら、何だか冗談のような気分になり、思わず笑ってしまうのはどうしたわけなのだろう。またテレビドラマで俳優が利いた風な講釈を垂れるのを見ながら、あるいは農村で肉牛を飼っている女性が、いかにも一般の視聴者が喜びそうな、優しく人間味あふれる動物に対する接し方を披露して、おそらくその手のテレビ番組を作っている関係者を喜ばせているのは、どういうわけなのか。そういうニーズがあるから自然とそうなっていくのだろうが、何だかきれいごとを見せつけられて、反発したくなるのかもしれない。それではまずいか。たぶん君にわかるはずがない。たぶん表面的あるいは外見上は、そういう紋切り型的な人間であっても、一向に差し支えない世の中なのであり、それでかまわないのだろうが、一方でそこには何だか考えさせられるものがあり、たぶんそうではなくてもかまわないのであり、無理してそんな人々を見習う必要もないのだろう。要するにどうでもいいことなのであり、もっと何か心に直接訴えかけるような行為や出来事に接して驚くのは、それを積極的に求めるにしても、偶然に遭遇するにしても、また別の機会が用意されていたりするのかもしれないが、別にそうでなくてもかまわないし、すべてが表面的な接し方で済んでしまえば、それはそれで楽な状況か。


2月5日

 たぶんどうでもいいようなことなのだろう。そんな写真を眺めながら、次いでそんな曲を聴いていることに気づき、さらにそんなことを記している自らの存在に気づくわけか。そうならないようにしなければならないか。それは無理というものだ。眠気が吹き飛ぶわけもなく、寒いからさっさと寝てしまい、翌日の昼に再び言葉を記してみるが、うまくいかないらしい。そして夜になり、性懲りもなく言葉を記そうとしているようだが、きっと何も思いつかないだろう。それは冗談か何かか。何かとは何だろう。何でもないから何かか。わからない。でも何でもないことは確かだ。そう思うならその通りになるはずだ。そうならなければどうなるのか。たぶんどうにもなりはしない。気分が乗ってこないだけか。今はそう思いたいが、嘘かもしれない。何が変わったわけでもないらしい。変われないのだろうか。変わろうとしてないのではないか。変わる必要がどこにあるのか。そこで開き直る必要さえ見当たらない。ではどうしようとしているのだろう。やはりどうも語る気がしない。いい加減に語ればいいだけか。見え透いているような気がするから、どうでもいいと思われてしまう。大したことではないのだろうが、そんなことにかかりきりとなってしまったら、やはりそうならざるを得ないのだろう。でもあまり本気にはなれない。そのへんは他人の思うつぼだと思わせておいた方が無難か。君には自我がないのか。冗談でならあるらしい。そのへんも意味不明なところだが、やはりそれでかまわないと思うしかないのか。

 何だかわからない。そういうことにしておきたいのか。どういうことでもないだろう。現状がそうだとは思わないか。何か勘違いしているわけか。そうであってもかまわないだろう。そんな感じで何をどう思ってみても大したことにはならない。そうではないと思いたいのだろうが、現状がそう思うことを許さないだけか。では許してほしいのか。現状では何が許されるというのか。呼吸することか。しなければ死んでしまうではないか。かろうじて生きているのだから、結果的には呼吸しているということか。何の結果でそうなるのだろう。ただ言葉を記している結果が、そんな感覚をもたらすわけか。嘘だろう。嘘でも何でもないか。だらけているようだ。語るべきことが何もないからそうなってしまう。それでも語ろうとしているではないか。そのへんが理解できないか。理解するも何も、何を理解していいのかわからないのではないか。何かが暴走しているのかもしれない。そんな曲を聴いているのか。耳が遠くなっているつもりだ。危機は遠のいたのだろうか。馬鹿げた成り行きを黙って眺める。夕べは何を食べたのだろうか。オレンジを食べ過ぎている。そんなこと思い出すが、それがどうしたわけでもない。君には夢を運ぶ翼が必要か。強がっている場合ではないらしい。夏はとっくに終わっている。もうすぐ春だろう。北半球ではそういうことか。すべてが滑稽に思われる。それでやる気がしなくなったのか。でもそこで何を蹴飛ばしているのか。何かが足下に転がっているわけか。きっと気のせいだ。そこに死体などありはしないか。

 ならず者の最後は悲惨か。そんな映画を見たことがあるだろうか。『明日に向って撃て!』でも見たことがあるのか。たぶんそんな話ではない。では何なのだろう。誰がならず者なのだろうか。それを演じている映画俳優か誰かか。それも違うと思われる。悲惨なのはならず者などではなく、おかしなこだわりを捨てきれない他の誰かか。そうかもしれないが、誰かとは誰なのか。君ではないのか。安物の腕時計を眺めている。気になるのだろうか。ならず者の話はどこへ行ってしまったのか。結末に至らず、途中でやめてしまったらしい。どう語ろうとしても、至りようがないのだろう。終わらない話だ。そんなことを思っている。何かを空想している。空想しきれないような何かだ。それは何だろう。また話の焦点が定まらず、何をどう語っていいのかわからなくなり、投げ出してしまうようだ。いつものようにわけがわからないで済ませてしまうのか。そうなるしかない。きっとそれでかまわないのだ。そう思い込んで、ついでに関係のない言葉を記す。突拍子もないことか。それは何なのか。まともに語るのが面倒だからそうなってしまうわけか。わかりようがないのだから、わかろうとすること自体が無駄なのか。無理もない話だ。話に無理があるとどうなるのだろう。空想科学小説のたぐいになってしまうのか。団塊の世代が少年だった頃に流行したような話になるわけか。それは具体的にどんな話なのだろう。確か昔小松左京とかいう作家がいたはずだが、何かが沈没する話で話題となっていたらしい。失われた十年がいつの間にか二十年になり、それからどうなってしまったのだろうか。果たしてそこから現在進行形の話に結びつくだろうか。


2月4日

 何か反省すべきことはないか。これまでの行いの何が悪いのか。でも君はなぜそんなことを語るのか。唐突すぎる。でも実質的には何も語っていない。そこで安易に言葉を散らし過ぎか。要するに内容が支離滅裂なのだろう。それではやる気にならないか。もう今日はいいのではないか。無理だろう。無理ならやる必要がない。やる必要がなければそこで終わりか。そしてまた翌日の夜だ。君にとって何が重要なのだろうか。くだらぬ内容を記すことが重要か。それを誰が記しているというのか。だからそういうことではない。そんなはずがない。まだわからないのか。わからない方が身のためか。それでいいのではないか。それともこの期に及んで自らの救いようのない愚かさを自覚すべきか。またわざと大げさなことを語ろうとする。それが馬鹿げていることは言うまでもないか。でも相変わらず内容がない。でもそれだけのことだろう。今さらながら嫌気がさすか。笑っているからそれほどでもないか。でもわからないままだ。これから何を記せばいいのだろうか。そんな問いはないだろう。でも何だかわからない。わからなくてもそれほどつまらなくもないか。意味のないことを記して笑い続けているのか。誰が笑っているのか。それではだめだろうか。だらけているのかもしれない。とりあえずそんな場所で道草を食っているわけにはいかないらしい。でも場所とはどこのことなのか。部屋の中か。

 少しは具体的になってきたようだ。そんな雰囲気ではない。君がおかしいのではなく、この世界がおかしいのか。そんなふうにして繰り出されるのは、またいつもの問いだ。もう飽きたのか。でも飽きるほど世界中を旅して回ったわけではない。たぶんそんなことをやる必要がないのだ。そこで思考停止状態なのだから、それ以上の何かを求められず、そのまま固まってしまうしかないのではないか。実際に固まっているようだ。冗談なのかもしれないが、そこから進歩がない。ならばもはや君はだめ人間だろうか。笑ってしまうがそうらしい。とりあえずフィクションの中ではそういう設定にしておこう。現実の世界ではどうなのか。貧乏揺すりが絶えない。椅子に座っていると必ずそうなってしまう。情緒不安定なのか。でもそういうことではないのだろう。わざと的外れなことを述べているはずだ。本当のことを語るのが怖いのか。それともそれも嘘の一部だろうか。それがフィクションだとすると、記されたすべてが嘘になるのだろうか。虚構には違いない。嘘と虚構はどう違うのだろうか。虚をつかれたわけではない。不意打ちを食らったわけでもなく、他に何をもたらそうとしているのでもない。重要な情報は何もつかんでいないはずだ。また外れてしまいたくなっているようだ。意識がそこから遠ざかるか。でも何とか取っ付いているのだろう。ここは奈落の底ではない。では何なのか。部屋の中で言葉を記しているだけか。きっとそうだ。

 また面倒くさくなってしまったのか。堪え性がない。散漫な気分で言葉を散らして、意味不明を装う。いつものやり口だ。言い逃れをやめて、何とか真正面から語れないものか。でも何について語ろうとしているのか。いつもそこで躊躇している。決定的に何かが欠落しているのか。何を突きつけられているのでもないのに怯み、誰かの顔色伺いでもやっているわけか。そんなふうに語ってはだめなのか。でもこうするしかないだろう。実際にこうしている。そして何とかなっているつもりになりたいのだ。実際にそうではないのか。そう思っていれば無難にその場を乗り切れるか。でもごまかしには違いなく、何もないことに変わりなく、そんなことを記すと自己嫌悪に陥るのだろうか。だからそうならないようにしなければならない。誰かが海辺で波が打ち寄せる光景を眺めているようだ。そんな映像を見ているわけではなく、聴いている曲の中の効果音から空想しているのかもしれない。いきなりそれはないか。脈絡を感じられないが、なぜそんなことを記すのか。私が君を覚えているわけがないか。関係のないことだ。わかりきっているが、記す理由も原因も定かでないことを記すと、何となくしてやったりと思ったりするわけか。そんなはずがない。苦し紛れなのかもしれない。それが理由だとしたら、どうしたわけでもないか。それでかまわないと思う。それがいつもの決め台詞なのか知れないが、何となくそれでしっくり来るのだから、そういうことでしかなく、そこからさらに言葉を記すとしても、どうせ最後には、それでかまわないと思うのだろう。実際にそう記してしまいそうだ。それでかまわないのか。かまわないはずがない。


2月3日

 何でもないのにこれはないか。さらに待たされているようだ。また同じことの繰り返しなのだろうか。どこかで何かが循環しているようだ。言葉か何かだろうか。別に言葉でもないのだろうが、意識がそこへ向かっている。この状況をどうにかしなければいけないらしい。現にどうにかしようとしているのではないか。だからもう少し待たなければならない。待つ身は辛いか。でも焦ってみても仕方がない。さらに待つとしようか。待ちくたびれているのだろうか。たぶんそうだ。でも仕方がないだろう。待っても来やしないか。もう我慢の限界だろうか。冗談でそんなことを述べているのか。それは違うか。でもさらに待っている。頭がおかしくなりそうか。そんなはずがない。焦れったくなるか。でも待っている。郵便物と宅急便が来ないとここから動けない。ネットと電話で確かめたら、どうやらどちらも配達中らしいが、まだ来ない。まだ待つのか。郵便物は来た。後は宅急便だ。何とかならないものか。これも試練なのだろうか。馬鹿げている。何でもないだろう。だからさらに待っているみたいだ。あくびがでるだろうか。でているではないか。肩が凝るみたいだ。たぶんわからない。どうなっているのでもないし、どうなるわけでもなく、ひたすら待っているわけだが、それは限定的な時間内でそうしているわけで、宅急便が届こうが届くまいが、時間が来たら出発しなければならない。本当にそうするつもりなのか。ここが千載一遇の機会だというのに、一方では嘘だと思い、何か信じられないような気になっている。人々は今日も流動し続ける。君もその流れに従うまでのことか。別に従わなくても自ずからそうなってしまうだろう。ではそうなる前に何かやり残したことでもあるというのか。それは何だろう。それについてこれから考えてみてもわからないか。無駄なことだ。確かに無駄だが、それについて無駄に言葉を記すことが、ここでは無難な行為のようだ。どうせまだ神秘主義思想の境地には達していないのだろう。それらすべてが馬鹿げていると思っているのか。きっとそうに違いない。

 でもそれが機会を逃さないことになるのだろうか。たぶんそうだ。この機会を逃すわけにはいかないらしい。これが何の機会なのかわからないが、ともかくこの状況を利用して、さらに何かを前進させるつもりらしく、それが何なのかわからないまま、それを続けようとしている。でもそれは言葉を記し続けていることと何の関係があるのだろうか。記述を継続させている過程で、何かがそこから生じてくるわけか。それは文章の意味か何かだろうか。読み返してみて、何か気がつくことでもあるのかもしれないが、君はそこで具体的に何に気づいたのだろうか。世の中ではそこで暮らす人々による様々な試みが絡まり合っていて、そのような絡まり合いの複合体が、それらの社会に絶え間なく働きかけることによって、結果的に何らかの変化をもたらしているのかもしれないが、そこで君が気づいたことは、そんなこととは無関係であり、それらすべての変化や変化を働きかけている試みが、どうでもいいように思われてしまう何かなのだろうか。そんなはずがない。すべてがくだらないことのように思われてしまうのはなぜだろう。たぶん世の中の何に着目しているわけでもないのだろう。ではいったい人は何のために生きているのだろうか。冗談を述べるために生きているわけか。そうかも知れない。冗談を述べ続けるならそういうことになりそうだが、それではまずいか。まずいなら、まずいままではまずいのではないか。まずくてもかまわないような気もしていて、まずいと思うこと自体が、何だか違うような気がしているわけか。でもそれが最後の悪あがきになりそうな気配も漂ってくる。本当のところは何もわかっていないのかもしれない。何かをわかりかけていたような時期があったのかもしれないが、気のせいだったのだろうか。そんなはずがないと思いたいのだろうが、こればかりは何とも判断しようがないことかもしれない。どうでもいいといえばどうでもいいことで、それでは振り出しに戻ってしまうのだろうが、それでもかまわないような気がしてくる。言葉を記す度に見解が異なってしまうのかもしれない。でもそれは何に対する見解なのか。だからおかしいのだろうか。


2月2日

 何のことはない。何でそこで止まっているのか。別に今がすべてであるわけがない。誰もそんなことは述べていない。では何を主張しているというのか。主張とかそういうことではないだろう。ただ呼吸している。それも違うと思われる。ならば何なのか。問うこと自体がおかしい。問わなければならない必然性がない。ではどうしたらいいのだろう。何もせずに、黙って見ていろというのか。確かにそこで何かを見ている。記された言葉の配置に不満でもあるのか。また意味不明なことを述べている。階段から転げ落ちそうになっているわけがない。めまいがしてよろめいているのはほんの一瞬だ。だからそれも違うと思う。自虐的に何を語ろうとしているのでもない。皮肉を込めるべき何かを見つけたわけでもない。では何なのか。何でもないのだろうか。明確な拒否を突きつけられて、たじろいてよろめき、それからどうなったのだろうか。ごまかしに過ぎない。そう述べてしまっては身もふたもない。本当に何でもない。そこには何もないのだろう。言葉を失ってしまったらしい。それと引き替えに別の言葉を獲得したのだろうか。怠惰と倦怠の言葉だ。そんなはずがないと思いたいのだろうが、実際にまともなことは何も述べていない。ひたすら空疎と戯れているわけか。それもいつか終わるだろう。現状ではまだ終わっていないだけなのか。しかしそこで何を待っているのか。当たり前のことをやっているのに、それが正気とは思えない。どうも違うのではないか。現状から判断すれば、要するに見込み違いだったのか。たぶんそれはまったく違うことだ。どこまでも違っている。それどころかあり得ないことなのだろうか。それをどう言い表せばいいのかわからない。もしかしたら言い表すべきそれとしての対象が不在なのではないか。要するに相変わらず何について述べているのでもないというわけか。それは冗談だろう。それがないから冗談でもないのか。そんなことを述べているときりがない。だから正気とは思えないのではないか。

 どうやらこのまま記すしかないようだ。これではだめなのはわかっているが、こうなるしかないらしい。どうなっているのでもなく、しばらく考え込んでいたようだが、やはり考えがまとまらない。人々は相変わらず幻想に浸っているようで、いつも現実と虚構の間にある何かを求めている。君はそれに対する距離感がつかめない。何かそこに重要な記憶が封印されているのだろうか。でもお宝探しをしている暇はない。それでも何か考えている。それはどういうことなのか。思い出せない記憶をひたすら追い求めている感覚か。でも特定の何を思い出そうとしているのではない。ただ漠然とそんなことを考えているだけもかもしれない。とっかかりがないのだろうか。手を伸ばして何かをつかもうと試みているみたいだが、そこには何もなく、ただ空を切るばかりで、無駄だとわかる。そんなことを想像しているのだろうか。とりとめがなく埒が明かないか。どう考えてもそうなるしかないだろうか。つまらないこだわりにとらわれているのかもしれない。だからそんなことは考えない方がいい。でもそんなこととはどんなことなのか。それが明らかにならないのはどういうわけのだろうか。やはり何もないということか。そこに何かあると考えるのには無理があるのではないか。何もないのにそれはない。たぶんそういうことだ。でもそこから考えざるを得ないのではないか。そんなわけでまたおかしくなっているようだ。自分が何を考えているのかよくわからない。ただ言葉を記しているだけかもしれないし、誰がそこで何を語っているのでもないかもしれない。しかし何なのか。アクチュアリティが感じられず、もうどうでもいいような気分でさらに言葉を記そうとしているようだが、記している内容は空疎なままにとどまり、本当にわけがわからないというか、要するに限界なのだろう。何もないのにこれ以上の記述が困難か。だから正気とは思えないのではないか。でもよくここまで言葉を記してきたものか。意味がないことかもしれないが、やはりこれも何かしら努力した結果なのだろうか。あるいは悪い冗談なのか。きっと端から見れば滑稽そのものなのだろう。


2月1日

 一時的にやる気が出たが、また心がそこから遠ざかる。何がそうでもないのに、それはないだろうか。それに関しては未だに何だかわからないが、たぶん興味がない。でもようやく今月の時空にやってきた感じだ。とりあえず少しは前進したようだ。でもこれで何がどうなったというのか。まだ喜ぶのは時期尚早か。実際に何を喜ぼうとしているのでもなく、君は何を批判したいわけでもない。何とはなしにここまで記したようだが、誰もそんなところにとどまっているつもりはないのだろう。何がおかしいわけでもなく、間違っているとも思えない。ただいつもの調子で言葉を記し、何が目当てでもないのに、それを続けようとしている。相変わらずのそれでは何の進歩も望めないか。別に進歩しようとしているわけでもないのに、何となくそう思われ、たぶんどうにかなるように言葉を配置したいのだろうが、このままではだめのような気がする。ではどうしたらいいのだろうか。もっと寛容な気持ちになって、広い心で物事を考えたいのか。本当にそう思っているのだろうか。今さら疑ってみても後の祭りか。たぶんそれはまたいつもの冗談かもしれないが、本当はそこで何をやめるべきで、何をやるべきなのか。君に選択の余地はない。要するにそんな記述をやめるべきで、同時にそれを記述すべきだ。君はそこでできないことをやろうとしている。それは嘘だろうが、見え透いた嘘をわざとらしく述べていると、何だか愉快な気持ちになってこないか。そんなのも嘘のたぐいか。でもそれ以外に何を思いつくのだろう。そんなことはそのときになったら自然に思いつき、そこからどのような問題が生じようとも、それなりに対応できるだろう。では今生じている問題とは何なのか。何の問題もありはしない。それが問題なのではないか。またそんな嘘をついている。ならば今はそれとは別のことを考えるべきか。それとは何か。また別のこととは何なのだろう。思いつくものは何もない。だから別に今思いつかなくてもいい。何を思いつくかはその時の状況次第で、そのときになったらそれがわかるから、とりあえず今は何も考えなくてもかまわないのではないか。でもまた何か同じような記述を繰り返してないか。また振り出しに戻ろうとするわけだ。でもなぜそう思うのか。他に何も思わないようにしているだけか。それは矛盾しているのではないか。何が矛盾していようとかまわないだろう。たとえ矛盾があらわになっても、何もかまわなくてもかまわない。要するにかまわないということではだめなのか。そんなふうにして、またおかしなことを述べているつもりになるらしい。そうやって何もかもが恣意的に決まってしまうのか。気分がそうだからそういうことか。だからなぜそう思うのか。思わないから思うのか。何も思わなければそれでもかまわない。それで何がわかるわけでもなく、何となく情緒不安定のように振る舞っているつもりでも、またそんな嘘をついて、心はそこから遠ざかっていくわけだ。頭の中で何かが縦横無尽に走っているのかもしれないが、それは神経回路を走る電気信号のたぐいだろうか。それは違うのではないか。では何なのだろう。そうした自問自答がおかしいか。たぶん今は予言者の時代ではないのだろう。でもそんな時代が過去にあっただろうか。何を想定してそんなことを述べているのでもなさそうだ。当てずっぽうで利いた風なことを述べたいのか。君はおかしいのではないか。君の頭がおかしいのだろうか。でもそれはいつも述べていることだ。何がおかしいわけではなく、すべてがおかしいのではないか。それは違うと思う。すぐにそう述べてしまうからおかしくなるのではないか。どうも堪え性がないようだ。何がどうなったわけでもないのに、すぐに同じようなことの繰り返しになってしまい、それではだめだと思ってしまう。それでは本当にだめだろう。だめだからだめさ加減に際限がない。意味がわからないか。わかろうとしていないようだ。何だかため息がでるが、確か以前もそんなことを述べていたらしい。