彼の声89

2012年

3月31日

 まあ無理なことだ。本当に何もありはしない。ちなみに今日はいつだろう。いつであってもかまわない。どこまでもわからない。ではもうだめなのか。まだあきらめていないはずだ。現にこうして言葉を記している。だがそれでどうなるというのか。埒が明かないか。またいつもの自問自答に陥っているではないか。それでかまわないとも思っているはずで、そんなことの繰り返しのうちに嫌気がさしてしまうのがオチか。だからそれでもかまわないとなるわけか。要するに嫌気がさした時がチャンスなのか。それは何をやる機会なのだろうか。やめるチャンスか。そうでもあるが、結果的にはそうならないだろう。君はもうわかっているはずだ。何を問うているのではない。では何なのか。何でもないと述べておこう。そうやって言葉を記していけばいいことでしかない。それ以外は何もできないはずだ。君はまた何も語れなくなっている事実に気づくはずだ。果たしてそれが事実なのだろうか。わざと何かをねじ曲げている。ねじ曲げざるを得ないわけか。そんなわけがあるわけがない。だから何を述べても無駄になる。君はそれでも言葉を記すつもりなのだろう。すべてはつかの間の出来事だ。すべてでないからそんなことがいえるわけだ。では何なのか。語るのが馬鹿らしくなってきたようだ。どうやらチャンスを逃してしまったらしい。ではどうするのか。このまま空疎なことを記し続けるつもりか。それでもかまわないだろう。またそれだ。それだけではどうしようもない。では他にどうしたらいいのだろうか。その辺でそれは切り上げたらどうか。もう何をやっても無駄なのだ。また冗談でそんなことを述べている。

 なぜ無駄なのか。何も無駄ではないと思っているところが勘違いなのか。ではなぜそんなに語ろうとしているのか。何もないのにそれはないだろう。さっきからそればかりで、何もまともに語っていない。そして相変わらずわからない。何も語れないばかりか、語ろうとしていないことに気づき、語れない理由を知らず、求めているのは理由ではないような気がして、何を語ろうとしているのかわからなくなる。君はそこからどうするつもりなのか。そこが何かの分岐点なのだろうか。分かれ道の手前で悩んでいるわけか。まったくそれに同調できない。何でもないような気がして、そのままでかまわないような感じがする。そう思っている時点で、何かの階段から足を踏み外しているわけか。何かとは何なのか。たぶん君は何も手に入れられない運命なのだ。そんな気がしていること自体がおかしいか。なぜおかしいのか。何をそんなに笑う必要があるのか。たとえ手に入れたものにいくら価値があろうと、君にとっては必要のないものとなり、要するに宝の持ち腐れ状態となるしかない。君はただそれを眺めていることしかできはせず、まったく手出しできないまま、やがてどこかへ消え去ってしまうだろう。そうだとしてもなおのこと手に入れたくて仕方がないようだが、それはまったく困ったことに違いないか。誰が困っているわけがない。ちなみに今何に見とれている際中なのだろうか。またそんな嘘をついても無駄か。ギドン・クレーメルのヴァイオリンを聴いている。それがどうしたのだろう。うまいのかへたなのかわからない。うまいに決まっているのではないか。世界的に名の知れた人ならへたなわけがない。

 また調子に乗っているようだ。何かの所有欲を解放した方がいいのかもしれない。いつまでも馬鹿にしていないで、斜に構えて皮肉を口にするのを我慢して、少しは素直になるべきだ。そう述べていること自体が素直でない証拠になってしまいそうだが、その辺を何とかしなければならないようだ。では本気になるべきなのか。何をもって本気とするかは見解が分かれるところかもしれないが、それを素直に解釈するなら、きっとそういうことになるのだろう。まったく素直でない。今までのところはそうだ。テレビドラマの中で何かのゲームが行われていて、またその手の超能力に関する物語となりそうな気配が漂ってきて、鼻白む思いとなりそうで、またそれかと言いたくなってくるようだが、それは君も同じことか。またそれかのうんざりするような繰り返しが、それらの記述となっているわけで、君にその手の超能力が宿っているとするなら、それは虚無に関する能力となりそうか。それは具体的にどのような能力なのだろうか。虚無的に語ることなど誰でもできることか。また何をもって虚無的と言えばいいのか見解が分かれるところかもしれないが、そんなのはわかりきったことで、語りの中で空疎を肯定していれば、それが虚無的なのではないか。なぜそんな見解に疑念を抱く必要があるのだろうか。いい加減で何の根拠も示されていないからか。何でもかまわないのだから、それが虚無的な響きを伴っていれば、そういうことになるのではないか。それでも何を述べているのかわからないか。ではなぜそうなってしまうのだろうか。どうやら説明がうまくいっていないようで、その辺で焦りを覚えているのかもしれず、何とかしなければと思いつつも、結局うまく説明できないまま終わってしまいそうだ。実際には何も終わらないのに、何かを終わらせなければならないと思い続け、強引に終わらせようとしているようだが、何だかおかしな気分が心の奥から滲み出てきて、そういう語り方ではだめなような気がしてくる。


3月30日

 何を間違えているのだろうか。でもそれでいいのかもしれない。ここで正しい見解を導き出してはまずいのだろう。なぜそう思う。たぶんわからないはずだ。それでかまわないのだろう。間違っていてもわからなくてもかまわない。世の中がそうなっている。そんな勝手な思い込みではまずいか。それでもかまわないのではないか。周りが俄に騒がしくなってきたらしいが、君には関係のないことか。今日もどこかで何かが砕け散っている。君はそんな幻想を抱いているらしいが、たぶんそれは意味不明だ。理由もわからずそこから心が遠ざかっている。抽象的な言い分だろうか。なぜそれがそうなのか。わざと何かをずらしていないだろうか。心が醜い人は顔まで醜くなるのだろうか。そんなことはないのではないか。君はそれを知っているはずだ。ひどい連中に取り囲まれてうんざりだろうか。何かおかしいような気がするだけだ。でも確実に利益をもたらしているではないか。なぜそうなってしまうのだろう。どんどん不幸や不具合が押し寄せてきているのに、なぜ平然と受け流しているのだろうか。別に強がっているわけではないのに、まったく動じない。まさかそれらのすべてが他人事なのか。何となくそう思われてしまう。解せないようだが、解せないままにそんな成り行きの中で、どこかへと流されているようだ。それでもまだやる気になっているのか。今何が必要とされているのか。消費税の増税か。それもありかもしれないが、別に反対したいわけではなく、何となく関わり合いになりたくないだけか。それは無理だろう。

 今日も疲れているようだが、眠くならないのか。すでに眠ってしまったようで、目が覚めたら翌朝になっている。また遅れてしまうのか。いつものことだろうが、またわからなくなっているらしい。昨晩は何を語ろうとしていたのか。おかしな感性だ。今日は雨が降るらしい。たぶん違うのだろう。君はそれを知っているはずだ。そんなことは関係ないのかもしれない。何に影響されているのか。すべてはフィクションでしかない。そういう断定が嘘なのか。だがそこでとどまっていればだめなのかもしれない。生きることのすばらしさを伝え、死ぬことのすばらしさを伝え、それが嘘であることも伝えなければならない。結局人は愚かでお粗末だ。どうしようもなく馬鹿げている。粗雑なことを述べているようだが、それはどうにもならないような真実か。嘘でもかまわないだろう。昼には雨が降ってきた。嘘だろうと本当だろうと、そんなことを述べている事実に変わりはない。要するにそれがどうしたわけでもないわけだ。ただ言葉を記しているに過ぎず、記している内容が何であってもかまわない。またそんな嘘をついている。本当にかまわないのなら、なぜそれほど思い悩むのか。何とかまともな内容になるように努力しているわけか。絶えず試行錯誤を繰り返している。そしてどうにもならないことに気づいてしまう。何をやったあげくでもない。これはどうしようもない事実なのか。それでも何とかしたいのだろう。

 もう夕方だ。月末は慌ただしいが、何とか乗り切ってここに至り、何だかわからないがうまいことやっているらしい。状況的には大きな勘違いなのだろうが、なぜか気持ちが楽になる。要するにうまくいっていることとうまくいかなくなっていることが併存しているようで、それらが相互に影響し合っているようで、それが微妙な補完関係にあるのかもしれず、とりあえずうまくいっていない成り行きの方はそれでかまわず、そちらがうまくいっていないから、もう片方がうまくいっているように感じられ、それで何となく気休め的な安堵感をもたらしているようにも思える。たぶんうまくいっていないことについては、解決の糸口などないと思われ、うまくいっていないままでも、それでいいのかもしれず、これからもうまくいきそうにないことが、逆にこの世界の首尾一貫した連続性を感じさせ、自らの存在の危うさをつかの間忘れさせてくれるだろうか。たぶんそれが大きな勘違いなのかもしれないが、勘違いを改める必要はないのかもしれない。勘違いしたままでないと楽観的な気分になれないような気がして、そうやって自らが自らに暗示をかけているみたいで、何だか妙な気分になるようだ。うまくいかないことが決定的な破綻を免れるためには必要不可欠なのだろうか。なぜそう思うのか。もしかしたら逆にうまくいきすぎてしまうと、その先に待っているのは、大きな落とし穴であり、逃れようのない破滅になるだろうか。なぜそんな気がするのか。その理由や原因などわかるわけがないか。何となくそう思っているだけで、別に大して心配しているわけでもなさそうだが、もしそうなったらそんな気分になるのだろうか。例えばサッカーくじでも当たったらそんな心境になれるかもしれない。


3月29日

 君たちは何か勘違いしているのではないか。若者が真面目に就職活動やって何が得られるというのだろう。普通若者とは反社会的な存在なのであり、定職に就かずに街をふらついているものだ。要するに絶望的な立場に追い込まれているのが普通の若者だ。今の自分はそこからどうやって抜け出したのか。あるいは堕落した仕事人間になってしまったのか。過去のことは覚えていない。覚えていることもあるのかもしれないが、それを語ることはないのだろうか。何だかわからず、今も昔もよくわからない精神状態でいるらしい。このまま死んでしまうのだろうか。また胃もたれがひどくなっている。明日の朝は忘れずに胃薬を飲むとしよう。たぶんそんなことはどうでもいいのだ。何でもないことか。就活に失敗した若者が年間数十人自殺しようが、たぶん大したことではない。ニュースでそんなことが伝えられていただけか。大学を卒業するまでに何百社も面接して、ひとつも内定をもらえない現実に愕然とする若者がいるらしいが、何百社も就活すること自体が異常行動のようにも思えてくるが、就職するのが嫌だったので、教授に義理立てして、かろうじていく気もないのに一社だけしか面接を受けなかった自分の経験からすると、考えられないことだ。そういえば自分は受験勉強が嫌だったので、ほとんど勉強もせずに二浪もして、当時で一番偏差値の低い大学にかろうじて合格したのだった。そういう意味では当時も今も全面的に愚かな人間なのかもしれず、そんな人間の言っていることなど無視してもかまわないか。そういえば今思い出したのだが、大学の卒業式にジーンズをはいて出席していたのには何か理由があったのだろうか。まさか当時は本人も気づかないうちに気が狂っていたなんてあり得ないか。

 どうもまたどうでもいいようなことを記しているらしいが、別に酔っているわけではない。疲れているのだろう。コーヒー飲んだら気持ち悪くなってきたので、捨てて緑茶に切り替える。何だか意味不明のようだが、とりあえずこのまま言葉を記すとしよう。気休めに音楽でも聴いてみるか。ランダムにスタンダードなジャズを選択したらしい。それがどうしたわけでもない。たぶん気がついたらそういうことになっていたのだ。ただ今まで普通に生きてきただけでしかなく、きっとこれからもそうだろう。この世界では小市民として生きるしかない。気休めに漫画を読んだり音楽を聴きながら、昼間は仕事をしている。それ以外にどんな選択肢があるというのか。映画の中で誰かが架空の冒険者を演じていて、こちらでは日々アレルギー性の皮膚炎に悩まされている。何だかこのまま朽ち果てていく感覚だが、どうせそれは嘘で、当人は全く別のことを思っているのだろう。案外うまく取り繕っているつもりでいるのかもしれず、その辺で述べていることは、まったく信用できない。ならばくだらない気分でいるのは他の誰かなのか。君の他に部屋の中には誰もいないではないか。虚無が語っているつもりでいるらしい。またそんなあり得ないことを述べてみるが、現実感を得られず、意味もわからないのにラップを聴いている。顔がそんなにかゆいのか。かくとさらにかゆくなり、塗り薬で鎮めるしかない。そんなに面倒くさいのなら、いっそのことどうしたらいいのだろうか。マーカス・ミラーのライヴか。片目でこちらを見つめているらしい。そんなやり方でかまわないのだろう。君にできることは限られている。誰でもそうだろう。人は人でしかなく、誰もが人でしかない。要するに愚かなのだ。


3月28日

 そして何だか禁断の領域に突入してしまったらしく、迷いなく記述している。何も記すことがないのにそれはないだろうに、どうしても急いでやろうとしてしまい、ただ言葉を記せばいいわけでもないことは承知しながらも、あえてそれをやってしまい、どうにもこうにも収拾がつかなくなりつつある。なぜか今が書き入れ時というわけでもなく、何を根拠にそんなことを述べているわけでもなく、ただそんなふうに言葉を記しているだけなのだろうが、そんなことをやりつつ、何かを打ち壊しにしているような気になり、ちょっと躊躇しているようだが、そんなことなどおかまいなしに記述が続き、それ以上に不安感が募ってくるが、かろうじて持ちこたえているふうも見せずに、そんな気分をばらまき、何をばらまいているのかわからなくなるほど、それとは無関係にそれらの何かをどうにかしたいのだろうが、結局何もどうにもならずに、そんなふうに何かを繰り返し、何かが何なのかわからないまま、それがいつものことであるような気にさせるほど、それらの何かが別の何かを活性化させているようで、もう当分は正気に戻ることがないような気にさせるほど、何かに熱中しているように振る舞いながらも、心の片隅では冷静さを温存させているような、そんな気分を空想しているようだ。何かおかしいのではないか。それは今に始まったことではなく、いつの間にかそんな流れの中に身を置いているようにも思われ、それが思い過ごしでないことを祈っているわけでもないが、それらの何かが君をそうさせているみたいだ。

 ただ面倒くさいだけなのか。何がそうなのだろう。案外何もそうではなく、君の勝手な勘違いが記述を暴走させ、今に至り、何だかいい加減にやめてもらいたいような気分となり、やめられないことが何かのいいわけとなりそうにも思えるのだろうが、それ以上の何を期待しているわけでもないのだろう。そう述べておいて、いったい何を期待しているのか分からない事実に気づき、急いで今までの記述を読み返してみるが、やはりわからない。もうその辺でいいのではないか。無内容をどこまでも続けられることがわかったではないか。これ以上やり続けると発狂してしまうか。すでにそうなのかもしれないが、それでもやはり平静を装い、黙って画面を眺めているようで、それが何だかわかろうとしてさえいる。それで何がわかったのか。油まみれの何かを画面が映し出すが、きっとそれは何かの幻影なのだ。だがそれで何をそう決めつけているわけではないのだろうが、そういう言葉の並びがおかしく思われ、君はそこからそれ以上の何かを見定めようとするばかりで、まったく現状に目を向けようとしない。現状のひどさが目に映らないようだ。それでも何かを模索する姿勢を崩そうとせず、何かの探求にその全生涯をかけるつもりらしく、そんな嘘も時折出てくるが、まんざらでもないような気になりながらも、嘘は嘘で嘘も方便だと嘘を正当化したがるが、何だかリアリティを感じさせないようだ。ところで明日の予定はどうなっているのか。

 もう相当疲れているみたいだが、それが何を意味するのか一向に理解できない。なぜそこまでやる必要があるのだろうか。どこに底があるのだろうか。それはただの瓶の底に違いないが、それをいつまでも眺めていても、無色透明のガラス瓶に違いなく、それ以外の何も意味しないような物体について、いくら述べても無駄なのであり、君はひたすら述べる必要のないことを述べ続けているに過ぎず、要するにすべてはまったくの無駄なのだ。そう思いたいだけのようだが、君がそう思っているわけでもなく、誰もそう思っていないのに、誰かがそう思っているかのごときことを述べたいようで、それが嘘なのだろうが、なぜそんな嘘をつかなければならないのか皆目見当がつかず、それも冗談のたぐいだと思い込むだけで、別に思い込んでいるわけでもないことを記しながら、自分が何をどう思い込みたいのかわからなくなっていて、たぶん何を思い込まずに、何も記さないことを心がける必要があるのかもしれないが、やはりそんな嘘にも心がこもっていないような気がして、もっと何か本当らしいことを述べたいのだろうが、ここに至ってなお何も思い浮かばず、もうあきらめた方がいいのかもしれないが、あきらめきれずに言葉を記し、何とか文章としてまともな部類になるように、それなりに工夫を凝らし、そんな努力を誰に認めてほしいわけでもないのだろうが、次第に眠たくなってきているようで、もうこの辺が引き際だと悟り、黙ってそこから立ち去ろうとするが、そこがどこがかわからないようで、依然としておかしな気分が解消していないようで、何かを闇雲に続けようとする行為の欠陥を思い知らされたような気分となるが、それも嘘か。


3月27日

 どこをどうほっつき歩いていたのか知らないが、気がつけばまた今日の自分に戻っている。そんな気がしているだけだろうか。誰がそんな気分を求めているわけではない。だが何となくそこから離れたい衝動に駆られ、必死になって遠ざかろうとしているわけでもない。急ぐことはないのではないか。何かがおかしいのは確かなところだ。何もおかしくないわけはないだろう。だがおかしいだけでもどうということはない。今や誰もが滑稽な市民社会の住人だ。だがいったいそれらの何が滑稽なのだろうか。誰もが当たり前のことをやっているだけではないのか。それが当たり前のように振る舞い続けることの何がおかしいのか。当たり前のように振る舞い続けているそれとは何なのか。君はただ生きているだけのはずだ。それ以外に何をやっているというのか。そこで言葉を記しているのは誰なのか。たぶん何に答えようとしているのでもない。疑問でも何でもないのだろうから、答えようのないことかもしれず、目の前の暗闇に向かって何を問いかけているのでもない。たぶんこれが現実の世界なのだ。仮想空間で何をやらされているわけでもない。何を思いどう行動しようと、何がどうなるわけでもなく、沈黙が君を黙らせ、そうではないと思わせ、何だか違っているような気にさせる。こんなはずではなかったということか。だが過去に何を思い描いていたかなんてとっくの昔に忘れてしまったはずだ。では今のこれは何なのか。これについて何をどう思ったらいいのだろうか。現実に何もどうにもなってはいないではないか。

 無駄に言葉が記され、無駄に時間が費やされ、その結果として倦怠がもたらされ、そんな嘘をついている誰かがフィクションの中に登場したりするわけか。何だか作為的に述べようとしているみたいだが、それが誰の興味を惹くとも思えない。ではそれが運命なのか。記すべき言葉が間違っているのではないか。それの何が運命を感じるというのか。たぶんそれも何かに違いないが、その何かが何なのかわからず、未だにその辺で右往左往しているようで、目の前で何が爆発しているわけでもなく、何かひらめきをもたらすような何かに遭遇しているわけでもなく、必死で妄想している何かをどうにかしようとしているわけでもないのだろうが、そんな意味不明な言葉の並びに感動したいわけでもないか。ではどうしたいのだろうか。何だか正気とは思えず、何が正気をもたらしているわけでもないのだろうが、何となくそんな記述が疾走感をもたらしているのかもしれず、何だかわからないが、それでかまわないような気にさせている何かを感じさせ、それが君をどうにかさせているらしいが、それはどうしようもない浮遊感なのか、あるいは何かの勘違いでそう思わせているだけなのか。それともただのいい加減な意味不明に過ぎないのか、その辺がよくわからないのかもしれないが、わからないだけではどうしようもないような気もしていて、それに関して君が何を思ったら本当そうに思われるだろうか。何だか腹の底から笑いがこみ上げてくる。それは何の脈絡もない嘘に決まっている。でもそんなことを思いたいのだろう。

 どうやら何かがどこかへと動き出しているようだ。そしてその動き出した先にくだらぬ障害物が横たわっていて、それを避けきれずに激突してしまったらしく、今はその辺で散らばっているみたいだが、いったい何がそうなのか、その散らばった何かが何なのか判別できずに途方に暮れているようで、自分がこれから何をやるべきなのかわからず、今やっていることをそのまま続けていっていいのかについても疑問を感じていて、その辺で立ち往生しているようで、何だかそれがおかしな気分をもたらしていたのかもしれず、今になってようやく納得できる理由を見出した気になっているようだが、果たしてそういうことだったのだろうか。何が果たされているわけでもないだろう。ここに至ってなおも冗談としか思えないような無内容をもたらしているのが、誰かの記述であり、それらの無内容が君を不愉快にさせ、まるで何かの怨念のように心の底に凝縮させているわけだ。それがここで述べられている冗談のすべてなのか。何がすべてでもないだろう。まったく呆れてものもいえなくなるようで、いい加減にもほどがありそうだが、相変わらずそこでの疾走感をもたらしているようで、何か変である感は否めないが、それでもかまわず言葉を記して終わりまで行き着いてしまいそうだ。それではあまりにも雑過ぎるだろうか。心境の変化なのか、あるいは破れかぶれなのかわからない。たぶんそれでかまわないわけではないのだろうが、今はそれをやり続けるしかないらしい。でもすでに終わっているような気もしてきて、前言を撤回して、それでかまわないと思っているらしい。しかしそれで何を翻していることになるのか。


3月26日

 どういうことなのだろうか。たぶんなんとでも言えるのだろうが、そういうことなのだろう。煩わしいやり取りを経ないことにはありつけないものもあるらしい。商品を売っているのは人なのだろうから、売買するにはそれなりの交渉があり、そういうことを一通り経験すべきなのだろう。うまくいえないが、ものが高額になればなるほど、買うのに煩わしい手続きが必要となるのかもしれない。できればそういうのにはあまり関わりたくないが、どうしても通過儀礼的に、一生に何度かはそれを経験しなければならない宿命にあるようだ。社会がそういうシステムになっているのだから、それはそれで避けては通れないことなのだろう。まあ面倒くさいといえばそういうことになってしまうのだろうが、時には面倒な手続きを経た上で何かを買わなければならないようだ。まあその程度のことで気疲れしていては世の中渡っていけないのだろうが、何となくそういう流れの中に身を置くと、焦れったくなり、何というかかゆいところに手が届かないもどかしさのようなものを覚えるが、儀式とはそういうものだろう。要するにもったいぶっているわけだ。スーパーやコンビニで買えるものなら、ただ商品をもっていってレジで金を払えばいいだけで、何の苦労も伴わないわけだが、当たり前のことだが、自動車や家などを買うとなるとそうはいかず、何だか面倒くさいことになる。仕方がないといえば仕方がないことだが、やはり性に合わないようで、そういう煩わしさから早く解放されて、身も心もすっきりしたいところだが、まだまだ先が長いようだ。

 何がだめなのだろうか。何もだめではないのだろうが、何となくだめらしい。やはり面倒くさいのか。何がそうなのか。君ができる範囲内ではそういうことなのだ。煩わしいことをやり通すのにもそれなりの努力がいるらしい。しかし何が避けては通れないのか。今年中には何とかなる予定なのだろう。それでかまわないと思う。なら焦る必要はないのではないか。まさか途中で死んでしまうわけでもあるまい。そうなったらなったでそれら諸々の何かとは無関係になるだけだろう。それでかまわないのだろうか。かまうもかまわないも、どうでもいいことになってしまうわけか。だからそうならないように生き残るための努力を怠ってはならないということか。その辺が何だかわからないが、わからなくてもかまわないのであり、何を述べているわけでもなくてもかまわないのだろう。ならなんなのか。何でもなければそういうことか。さらに意味不明になってきそうだが、そんなものなのではないだろうか。語る必要のないことを語り、さらに頭がおかしな具合になっているのではないか。何がどうなっているわけでもないのは誰かの口癖であって、たぶん実際には何かがどうにかなっているのだろうが、君の知ったことではないのかもしれない。誰もそんなことは知らないのであり、そこでは何も起こらないことになっているのではないか。それはどこにあるのだろうか。空想の世界では何も起こらないということか。君が思い描いているのはそんなことではない。どんなことでもなく、実際に生き続けている誰かについて語っているはずだが、たぶんそうではないのだろう。何かがおかしいらしく、何かの感覚が狂っているのかもしれない。

 確かにこのところの君は損得勘定の外で散財している。なぜそうなってしまうのかわからないのだが、そうなってしまう理由を知りたいとも思わないらしい。ただ単に現状に飽き飽きしているのだろうか。今までとは違う状況に至りたいだけなのか。それだけではないはずだ。君がそうなりたいと思っているのではなく、その身を取り巻く状況がそうさせているのではないか。君はそれを意識できないらしい。知り得ないところから何らかの作用が働いていて、知らず知らずのうちに君をどこかへと誘っているのであり、そんな外部からの作用が君に不可思議な感覚を覚えさせていて、何だか今までの自分ではないような気にさせ、地に足がついていないというか、身の程知らずなことをやらせようとしているみたいに思われ、それについては意識の片隅でかすかに抵抗を試みているようなのだが、それを遥かに上回る力によって、どこかへと押し流されている。なぜそんなふうに思われるのか。それがわかれば苦労はしないのだろうが、わかろうとする気がないようで、何だかこのままでかまわないような気分に浸っているらしく、それがどこかへと押し流されている原因なのかもしれないが、意識が押し流されているのか、直接身体が押し流されているのか、その辺もはっきりしていないようで、ただ何となくそうなっていて、自らが何を思っても、それは思い違いのような気がして、それとは無関係になぜか身体が意識から離れ、日々の作業をこなしつつ、決まりきった範囲で動き待っているわけで、それで押し流されているとは感じられないのだろうが、例えば昨日と今日でまるで別の場所にいるみたいな感覚に襲われ、同じ場所にとどまっているのに、なぜか違うような気がして、いつまでもここにいてはいけないような気がしてくるわけだ。


3月25日

 頭の中が空っぽのようだ。アレルギーも相変わらず軽く皮膚を蝕んでいる。空は晴れ、心は何を思っているわけでもないのだろう。人は虫けらと同じか。詐欺師にとっては金を回収するための標的か。なぜ回収するのか。別に貸したわけではない。貸したことになっているのではないか。君は何によって洗脳されてしまったのか。お前には関係のないことだろう。不吉な予感がするが、きっと気のせいだ。また誰でもない誰かが何かつぶやいているらしいが、そんなのは無視か。だがそれで何を決め込んでいるわけでもない。何を語っていることにもならないだろう。たぶんそれは何かの時間稼ぎなのだ。何かが到来するまでひたすら待っているわけか。しかしいったい何を待っているというのか。いくら待っても何もやってこなかったのではないか。確かにこれまではそうだったはずだ。それにこれまでとは状況が変わったなんてとても思えない。それでは何も期待できないことを承知の上で、それでもひたすら待つつもりなのだろうか。それは何かの冗談がフィクションなのだろうか。なぜそう思うのか。また面倒くさいからそういうことにしておきたいのだろうか。そんな理由も意味不明か。では何なのだろうか。君などにわかるのは不可能なことなのか。冗談だと思っておけばいい。そのうち何とかなるだろうから、そのときになったら合点がいくかもしれず、なるほどそういうことだったのかと思っておけばいい。

 君がそれ以上の理解を求めているとは思えない。だから今のところはそういうことだ。その程度にとどめておくべきなのだろう。しかしそれで何をとどめているのだろうか。君には理解不能か。誰でもそうかもしれない。本当に何も到来しないのか。それは何かの予言なのだろうか。つまらないことを述べているらしく、途中で何度かあくびが出てくる。ただ眠いだけなのか。春が近いのかもしれないが、まだ寒い。思いは何もつかみ取れないだろう。何をつかみ取ろうとも思っていないのではないか。それでもつかみ取るとすれば、それは何かの栄光か。無理な注文を出さないでほしいか。守護霊の力にも限界があるのだろうか。でも何を信じているわけでもなく、何も信じられなくなっているわけでもなく、ともかく機会到来するのを待っているらしいが、それは何の機会でもないような気がする。では何なのか。そういう自問自答からは何も導き出せないような気もしてくる。予定調和に陥っているのだろうか。それだけではないような気がするが、焦って言葉を記そうとしても、結局何も出てこない。現状がこれなのか。君はそうなるのを承知の上で、そんなことをやろうとしているのかもしれず、何をやろうとしているのかと言えば、それは沈黙することでしかなく、要するに何もしないことだ。それでかまわないのか。たぶんそこが限界なのだろう。

 ぼやぼやしているとまた遅れてきてしまいそうだ。しかしなぜそんなことにこだわるのか。それほどひどい結果ではないはずだ。君もそれはわかっている。そこからどう体勢を立て直しても、それほど遠くへ離れられるわけがない。だが困るほどのことでもない。我慢すればいい。なぜそう思うのか。思わなければ済むことでしかない。だから思いたくないわけか。だが事態は単純な成り行きであり、自らの死を受け入れるか否かでしかない。そんなはずはないだろう。誰を挑発しようとしているわけでもないはずか。君にはまだ未来があり、少しは変わる可能性が残っているはずだ。現にどこかから抜け出す算段を巡らしている最中ではないのか。まだそうなる信じられないのだろうか。首尾良くやり抜けようとしているのではなかったのか。それも過去のことだとは言わせないらしい。今は何を思っているのだろうか。その辺のところをもう少しわかりやすく説明できないのか。また意味不明気味に言葉を並べているような気分なのか。ふぬけのたぐいだろうか。何がそうなのだろう。何となくおかしくなっているようだ。たぶんそういうことではない。何とかしようとしていたのに、悪い癖が出て、元の木阿弥になろうとしている。その辺で冷静さを欠いている部分がありそうだが、それが何の部分なのかわからず、たぶん全体として何を表しているわけでもないように思えてきて、また自らが何も語っていないような不安に襲われ、ことさらに自己卑下を繰り返し、何かのどつぼにはまっていくような気がして、焦りながらも、そこから逃れる術を必死に模索している。どうもその辺が嘘っぽいが、鏡に映るその苦笑いは何を意味するのか。


3月24日

 無理に言葉を記して遅れを取り戻そうとすると、後が続かなくなる。そんなジンクスを振り払うつもりなのか。無理に決まっている。だがまだそう決めつけるほど時間的に追い込まれてはいないはずだ。ならばこれからどうするのか。ジンクスという言葉の用法が間違っているか。何となく興味が続かない。たぶんそれは違うのではないか。そうならないように語るべきだ。何がそうならないようにしなければならないのだろうか。出来損ないの何かがまたやってくる。気が散って何もできなくなってしまい、それが立ち去るまで我慢している。何を語っているのだろうか。部屋の中は沈黙に支配されているようだ。そんなのは嘘か。君は音楽を聴いているらしい。他に何が必要なのか。ヴィタミンのたぐいか。また眠ってしまったらしい。目が覚めたら深夜か。もう何を語ろうとしていたのか忘れている。何がかまわないわけでもないだろう。忘れていたわけでもないことを忘れていたと思い込んでいるだけか。それとも嘘なのか。語る必要はないのかもしれず、何も語らなくてもかまわないのかもしれないが、それでも言葉を記している事実に違和感があるのか。だから何がかまわないわけでもなさそうだ。

 何を期待しているのか。何を望んでいるのか。それがわからないとは言わせないか。言わせないのは誰だろう。そんなふうにして何かを制御しているつもりになるが、実際に何をコントロールしているのか。個人の感情か何かか。でもなかなか本音に至らないようだ。本心から語っていないような気がする。だが何も語っていないわけではない。その辺は無内容で対処しておけばいいのか。あまり本気にはなれないようだ。そして眠たくなり、眠っているようだが、実際は嘘みたいだ。何かの起伏が大きいわけではない。それは君がやろうとしていることではない。たぶんそんなふうにしてどうにかなってしまうのを防いでいるのだ。だが何だか頭がクラクラしてくる。新種のドラッグをやっているわけでもないだろう。ではまた同じことの繰り返しか。そこまでいかないうちに軌道修正が必要だ。だが本気でそう思っているのだろうか。すでにそうなっている気配を感じて、背筋が凍り付くか。そんな状況にはない。そうならないようにしているだけのようだ。かろうじて耐えている。そんな気分で何かに抗しているのか。気分ではなく、気持ちでもなさそうで、では何なのかと問えば、問うようなことでもないのかもしれない。

 またできないことをやろうとしているのか。さっきから何を聴いているのか。音楽ではなさそうだ。では小説でも読もうとしているのか。それは筋違いというやつか。全身のかゆみに耐えているのか。それもあるだろうか。アレルギー体質がぶり返している。何かを克服しなければならないらしいが、結局同じことの繰り返しとなっていて、たぶん心に巣くう何かと戦っているのだろうが、本気にはなれず、冗談のたぐいと思い込みたいようで、それが原因でいつものように敗れ去っている。だがそういう説明で何がわかるのか。三寒四温を体験しているらしいが、今年は少し事情が異なるようだ。何かが違うように思われるのはいつものことだが、その違う度合いが多く、いつもより振れ幅も大きいようだ。それで戸惑っているのか。それがなくても気にするまでもなく、いつも戸惑っているはずだが、面倒くさいので誤りをそのままにして、その先に言葉を記してみるが、こんな具合でかまわないのだろうか。それでいつもとは違った印象を与えることができるだろうか。それともそんなやり方では見え透いているのか。またミルトン・ナシメントの歌声に遭遇するが、それが何を意味するとも思えない。たぶん偶然の巡り合わせだ。実質的にはそうなのだろうが、そこに意味を見出そうとするのが、感情の揺れ動きなのか。だがあまり乗り気にはならないようだ。


3月23日

 また夜だ。雨が降っている。もう何も語れないか。これから言葉を記すつもりのようだが、架空の世界で何を語ろうとしているのか。何かが現実離れしている。現実の世界で架空の世界を想像しているだけか。人はなぜ現実から離れたいのだろうか。嫌気がさしているのか。だがフィクションの中でも事情は変わらない。誰かが徒党を組んで宝探しに出かけ、様々な紆余曲折を経ながらも、かならず見つけ出すのだろうが、見つけたところから仲間割れというのもありふれた物語的展開だろうが、果たして君は他の連中をみんな殺して、宝を独り占めにできたのか。どうもそこから先が記憶が曖昧で、よく覚えていないのだが、とりあえずいつものように宝くじは外れたらしい。昨日までは五億円が当たった後の使い道をあれこれ考えていたはずだが、現実に外れたのだろうから、しばらくは考えなくてもよさそうで、何か別のことでも考えた方がいいだろうか。別のこととは何だろうか。これから先の身の処し方だとかか。何か問題でも起こしたのだろうか。そういうわけでもないだろうが、何もないというのも何だか手持ち無沙汰で張り合いがないだろうか。では何か問題でも起こしてみればいいのではないか。勇気もないくせにそんなことを述べるべきではないか。

 何をやるにしても大したことはできない。そのせいぜいが言葉を記すぐらいのことか。それにしてもまだ続いているではないか。くだらぬことを述べながらも、それ以上を目指そうとしているようだが、結果としては何も成し得ていないようだ。何を語るわけもなく、語ろうとしている意志に反して、意味不明な言葉が並んでしまい。どうにもこうにも収拾がつかなくなり、嫌になってしまうわけか。ちょうど今がそんな心境なのだろうか。だがそこから何とかしなければならず、仕方なしにこんな言葉を記している。馬鹿げているだろうか。現実にはあり得ないことかもしれず、何があり得ないのかわからないが、とにかくあり得ないようなことを記しているつもりなのだろう。時にはそんな嘘もついてみたくなるのか。フィクションの中では嘘ではないのかもしれない。あまりそんなところでこだわらない方が無難か。何も語れないのに語っているふりをしてはまずいか。

 でもそれがどうしたわけでもないだろう。それだけが唯一残された道なのか。それはどんな道なのだろうか。何かのたとえか。あくびが出てくるが、それが何を意味するとも思えず、眠くなっただけだろうか。飽きてきたのではないか。だが飽きるほど言葉を記しているわけではない。外では相変わらず雨が降り続いている。傘をさした人が大勢歩いている。たぶんいくらでも人がいて、いくらでも働いているのだろうが、それで世の中が成り立っているとすれば、平和である証拠か。半ばあきらめ気味にそんな現状を肯定せざるを得ないが、何をあきらめているのかがわからない。現状以外の状況というのが果たしてあり得るのだろうか。いったい君は世の中がどうなってほしいのだろうか。何か理想とする状態というのがあるわけか。そんなことまで想像が及ばないか。どうやらその辺で言葉につまり、それより先の言及に及べないようだが、そこで何をごまかそうとしても無駄か。まともな認識など何も示せず、頭の中で何かが空回りしているみたいで、急に言葉が出てこなくなったらしい。

 もうやめた方がいいのか。とっくに限界を超えているだろうか。何とかするつもりだったのではないか。ではこれがその何とかなのか。何を望んでいるわけではなく、そうかといって絶望しているわけでもない。とりあえずこんな世界なのだろうから、大多数の人がそれなりに生きてゆけるのではないか。実際に生きているはずで、くだらぬことやそうでもないことをやり続け、今に至り、さらなる未来へと意識の連続性を保とうとしているのだろう。人はそれを超えては何も成し得ず、そんな領域で何をやるにしても、絶えず虚無につきまとわれているのだ。今も眠気を催していて、どうにもならなくなってしまいそうだが、かろうじて目を見開き、言葉の連なりをその末端まで引っ張ってゆき、それで一区切りつけようとしている。たぶんそんなやり方しか可能ではない。それが現状なのだろうから、それを受け入れ、受け入れざるを得ないだから、そんな成り行きに沿った内容しかもたらせないのだ。それでも以前と比べて少しは進化したのだろうか。そう思うならそういう思い込みのままでいいのだろうか。そう思うしかない成り行きの中で言葉を記しているのだろう。そんなふうにしか事態は推移しない。だから君はあきらめるしかないわけか。


3月22日

 今さらそれはない。やめてしまいたいのだろうか。呼吸をやめたら死んでしまうではないか。では何をやめたらいいのか。無闇矢鱈に言葉を記すことか。別にそれしかできないわけではないだろう。それだけではないから厄介なのだろう。そして次第にどうでもよくなってきて、言葉を記すのをやめてしまうのか。たぶん何がどうなって、どういう理由があってやめるのではない。その場の気まぐれに決まっているのか。そこで何を記していようと、そんなことはすぐに忘れてしまうだろう。あえて嘘をついても、嘘をついているうちにその嘘が嘘でなくなり、話の中であたかも真実であるかのように振る舞うわけで、そうなると話者の制御を離れて一人歩きし出して、尾ひれがついてどこへでも泳いでいってしまい、終いにはどうなってしまうのか。終いがないからフェードアウトするしかないのだろうか。それは何に限ったことでもない。

 いつの間にやら意志薄弱と成り果てる。何がそうなのだろうか。問うまでもなく、問われるまでもない。何もかもがそうなのであり、ただ眠たいように感じられ、次の波が到来するまでの間に何をするでもなく、いつもの景色に見とれているだけのようだ。たぶん誰が見ているわけでもないのだろうが、少なくとも何かを語ろうとしているらしい。だが実際にはそうはならず、君はどこかで居眠りの最中か。今日が今日でない限りは、今日という日などあり得ず、すぐに過ぎ去ってしまう一日の中で、何を思ってみても、何をやろうと、やはり中途半端のまま中断してしまうのであり、明日になったら忘れていたりする。それでも何かまた続けようとしているのだろうか。続けられるものなら続けてみればいいのか。しかしそれで誰に向かって挑戦しているのか。誰ではなく、その対象は天か神か、それとも何だろうか。誰でもない。

 何かの一つ覚えのように呪文を唱えてみるが、当然のことながら何も起こりはせず、今は今であり、過去でも未来でもない。それだけのことで手一杯なのか。君がそれをやっているわけではないのだろう。別に時空を制御できるわけではなく、言葉の他に何を記せるわけでもない。記せるとすればただの落書きだろうか。そこかの山門に坊主が屏風に上手に坊主の絵を描いたわけか。別にそれが雪舟である必要はないか。なぜそんな固有名を意味不明気味に持ち出す必要があるのか。こけおどしのたぐいだろうか。この世界では誰もが人なのか。たぶん動物以下ではないのだろう。塵や芥のたぐいでもない。では君はそこで何を語ろうとしているのか。何かの照れ隠しなのだろうか。そんな無内容からはおさらばしたいか。できることならやっていてもおかしくないのだろうが、あいにく何をやっているとも思えず、たぶん何を語っているのでもない。

 誰もそんなふうに語る必要はないのであり、必要もないのに語りたがり、実際に語ってしまった者は後悔するしかない。しまったと思うわけだ。だがもう遅い。今日もどこかのブログが炎上しているわけか。誰かが火事場の野次馬のごとくに見物したがっている。だが君が出くわしているのはそんな枝葉末節な現象ではないはずだ。それは沈黙の空洞であり、悪意のこもった無関心でさえある。そこでは誰も助けてはくれないし、何も起こらないので助けようがなく、要するにどうでもいいことなのだ。それについて語る必要を感じられないから語らないのであり、語り得ないことについて語れるはずがなく、だから黙るしかないのだろう。そしてさっさと忘れようとする。実際に忘れているのではないか。明日になったらもう思い出せない。今でさえ何か起こっているか知りようがないのだから、語れないのは当然であり、わざわざ語る必要もないのだろう。だからここで君が何を語っているかなんてどうでもいいことだ。それでかまわないのなら、そういうことになってしまい、今後も何の問題も起こらないだろう。


3月21日

 どうもここからが問題らしい。前に進まないようだ。それほど思いつかないということか。何を思いつけるのか。まだそこまで至らない。そんなことまでしなければならないのか。それは誰の台詞なのだろうか。どこでフィクションが記されているわけでもない。気乗りしないだけだろうか。誰かがそこにうずくまっている。倦怠の中から何を救い出そうとしているのでもなく、記された言葉は相変わらずどこかへ散らばっていってしまい、まともな内容に巡り会うことはない。君は何を恐れているのだろうか。何もできなくなる日を夢見ているわけでもないだろう。ではまたそこから外れようとしているのか。何がそうなろうとしているのか。いくら首を傾げても、現実から逃避することなどできはせず、君は延々とそれを繰り返すばかりのようだが、そこで黙り込んでしまうことは何を意味するのだろう。果たして何から遠ざかっているのか。またおかしなやり方にこだわるようになって、軽やかさを失いつつある。

 また行き詰まっているのだろうか。そう思うならそういうやり方を改めればいいのだろうか。だがそう簡単に改められるとは思えず、現実問題としてそれ以外に何ができるというのか。今やっていること以外に何もできないわけではないだろうが、やったとしてもそうではないような気がするだけか。たぶんそこから先などありはせず、今やっているそれがすべてなのかもしれない。やれることのすべてをやっているのだろうか。それでもこれまでやってきたことの反省をふまえて、創意工夫しているつもりなのだろうか。ならば工夫を凝らしてどこへ至りたいのか。今至っているここがそこなのか。それにしてはあまりにもみすぼらしいか。何がそうなのか。

 たぶん何もそうではなく、何もそうではないようなことを述べようとしているのではないか。それはどういうことなのか。気がつけばまたどこかへ何かが外れようとしている。だが何かとは何なのか。それがわからないから、何かとしか記しようのない何かなのだろうか。それでは何について述べているのかわからなくなるが、わからないからそう述べているのだろう。

 何かが失われているようだ。水分が失われているのか。からからに乾いて干物状態か。しかしそんなふうにして逸脱する必要があるだろうか。無理をしているようだ。今はそんな気分ではないらしい。何をいらついているのか。雨が降ってくる。水分が失われているどころではない。つかの間の光景だ。君はそこで何を思い出しているのか。そこから立ち去る理由はない。昼寝の最中に夢でも見ているのだろう。世界中で人が殺されている。ニュースを見ているからそう思えるのか。テロリストが警察の特殊部隊に射殺されたらしい。誰かが会見を開いている。誰かがいいわけを述べているのか。誰と誰が戦っているのだろうか。片方はアルカイダか。射殺する以外に方法はなかったということか。

 誰かが自分の世界に閉じこもっている。フローベールは自分が記しつつある小説の主人公を突き放しているようだ。要するに助けてくれない。どうなろうと知ったことではないらしい。その辺で例えば今日の漫画の主人公は、作者に甘やかされているように思える。人として成長するように漫画の中で様々なエピソードが用意され、作者の生徒として教育されているような感じになる。最初はやんちゃな子供だった主人公は、漫画の中で周りの人たちによって鍛えられ、だんだん立派な大人になっていくわけだ。たぶんそういう話が多くの人たちから共感を得て、感動を呼び込むのだろう。しかしそういう漫画を読んでいる人が、必ずしも立派な人物とは限らず、むしろフローベールが残酷に描き出す小市民に近かったりするわけで、何となくその手の漫画が描き出す人間の成長神話が、きれいごとのように感じられてしまうわけだ。


3月20日

 また夜になったらしく、そこで誰かがつまらない内容を記すつもりらしい。できるだろうか。今ここでやっているではないか。でも眠ってしまい。翌日に目が覚めて、前日はかなり疲れていたことを悟る。蛍光灯もつけっぱなしだ。どうしても無理らしい。やめておいた方が無難だ。あくびが出てきて、まだ眠いことに気づく。この世界では相変わらず何がどうなっているわけでもない。君が表舞台に出る幕などありはしないか。でも何を演じようとしているわけでもない。では何がどうなっているというのか。地面が液状化しているか。この辺では縁がなさそうだ。別に何を語ろうとしているのではなく、ただ言葉を記そうとしているのはいつも通りで、その辺で不具合が生じていることは確かなのだろうが、本当に何も語るべきことがないのか。明日は雨が降るらしい。明日ではなく三日後のことだろう。それだけのことだ。君は何を思いついたのか。過去のことだ。どうしたわけでもないのに、気になることが見当たらない。それは君に限ったことではない。テレビ画面上で演じられている何かについて、何か思った方がいいのだろうか。仏陀はそのとき何を思っていたのだろうか。いきなりそれか。今から二千数百年前に何か思っていたのか。では孔子は何を思っていたのか。今ここで君が思っていることとは関連が薄そうだ。人が何をやるべきか考えるとき、その手の哲学が手助けしてくれるだろうか。『論語』を読んだりすればいいわけか。そこに何が書かれているとも思えない。人は何をなすべきなのか。それ以前に何かしているのではないか。

 君がそれを求めているとは思えない。だが君は神ではないだろう。他の誰が神なのでもない。そう簡単に天啓を得られるとも思えない。だがまだその先がありそうだ。君は黙ってそれ以上の何かを模索していればいいのではないか。それ以上の何かとは何だろう。何らかのこだわりがあるのだろう。たぶんそこから外れるわけにはいかないのだ。マネが描いた無名の人々は何を語っていたのか。モネの睡蓮は何も語らない。眠っているのだろうか。確か印象派はマネからの後退を意味しているとか誰かが述べていた。果たしてそこにどのような現実があったのか。君は知り得るようなことではないか。何かをえぐり取ってそれを言葉で構成してみたところで、それで何がどうなるわけでもないような気がする。みんな利いた風な意見を持ち合わせていて、それを声高に主張してしまうと、がっかりするような欠陥があらわになり、結局何らかの利害関係からそんなことを主張していることがわかる。今や芸術は市民のものだそうだ。大英博物館に展示されている過去の残骸も誰でも無料で見ることができる。意識のすべてが浅はかなのだろうか。君がそれを知り得る立場にはない。たぶん物事の捉え方がおかしいのだ。君はそこで何を感知しているのか。別に夕焼け空を眺めているわけではない。そういう無関係な言葉が何を意味するのだろうか。話になっていないだけだ。面倒くさいのでそれでかまわないことにしておこう。

 そして何かが君をどこへと誘い、それが嘘であることを見定めようとしているらしいが、語られているすべてが嘘であろうとなかろうと、言葉を記しながら絶えず軌道修正していくつもりなのだろうし、これから目指すべき何かを無視しつつ、それとはかけ離れた何かを作品とは無関係に構築しつつ破壊すべきなのだろう。そんなことができるわけがなく、そんな誇張した思いが長続きするわけもなく、次の瞬間にはまた別のことを考えているのだろうし、何事も真に受けるわけにはいかないらしく、それとは別に何かのアレルギー反応と共存しているようで、それが言葉を記す妨げになるどころか、かえってそれに頼らざる得ないような感じで、それについて延々と記し、それを飽きもせず繰り返しながら、それとは違う何かを模索しているつもりになりたいらしく、たぶん無い物ねだりには違いないが、さらなる何かを求めていることは確かなようで、冗談だと思いつつも言葉を記すしかないようで、無駄だと思いつつもそんなことを思っている。しかし意味不明に変わりない。いったい君はそこで何を語っているつもりなのか。記された言葉がバラバラに散らばっているような気がする。どんなに言葉を記しても何も語っていないような気がするのはなぜなのか。だから無理なのか。何が無理なのだろうか。冗談になっていないところが無理なのだろうか。別に何を求めているわけでもないのだから、それほど曲芸的な文章にすることはないのではないか。それ自体が無理なのだろう。それは曲芸でも何でもなく、ただのでたらめだ。


3月19日

 なぜそれがわからないのだろうか。わかるわけがないのかもしれない。またこんな状況に陥っているようだが、それがどうしたわけでもないのはいつものことで、冬に戻ったような寒風吹きすさぶ数日後の空を見上げながら、別にフィクションの中で暮らしているわけではないことに気づき、そんなことは気づく前からわかっていたはずだが、現状から言葉を記すのに都合のいい要素を抽出して、それで何かを述べようとしているのだから呆れてしまうか。別に呆れる必要はないだろう。君は極めて当たり前のことをやっているのではないか。寒さにやられてまた爪の手前のあかぎれが開いてきて痛い。気分は最悪だろうか。それもどうでもいいことに違いない。何を挑発しているのでもなく、何に満たされているのでもない。ただ現状の中で生きている。どうということはなく、何が必要とされているのでもなく、どうでもいいような未来に思いを馳せているのでもない。もう終わりが見えているのか。はっきりと見えているわけではないが、ある程度は予想がつく範囲内で見えているのかもしれない。ではそこに至るまでの紆余曲折はどうなってしまったのか。それをいちいち語る気がしないようで、省いてしまっても何ら差し支えなさそうに思える。実際にはどうなのか。今はとにかく眠い。眠ってしまったらしい。無駄に言葉を記している場合ではないか。

 何かが立て続けに起こり、気持ちに余裕がなくなり、語るのは面倒になり、記述が放置され、途中で嫌になってしまったらしい。それでも春が近い。忘れかけていた何かを思い出すが、また支離滅裂になってしまうのだろう。たゆまぬ努力などもう無理か。ここまでやってきたではないか。だがそれが何を意味するのだろう。内容がなければ無意味になりそうだ。どうということはないこの世界の中で、何を思うこともなく、たぶん何がどうなっているわけでもないのだろうが、誰かがどこかで暮らしていることは確からしく、それについて何を思うわけでもないが、ごり押し的に言葉を記してみても、何ももたらせないことに気づき、しばらく休んでしまいたくなるが、思うようにはいかないらしく、無理であることを悟り、それなら何か気休めはないかと辺りを見回し、遠くで舞っている土ぼこりを眺めながら、いつか竜巻でも眺めてみたくなるが、連想が余りにも率直すぎるだろうか。何が述べたいのかわからず、困惑の度を深めているのかもしれず、それでも言葉を記している現状を維持しているのだから、そんなところで納得すべきか。今はそれほど迷っているわけではない。やっているのはそういうことで、語っているのもそういうことだ。それではだめなことをもわかっているはずだ。だからそんなだめさ加減で妥協しなければならない。

 まだその先に記すべきことがあるらしいが、それが思いつかないようで、その代わりに無駄で無意味なことを述べているらしい。もうすぐ何かが変わろうとしているのだろう。変われるものなら変わってみたいか。でも今さら生き方を変える必要があるだろうか。変えるような状況にないか。でもそういうときだからこそ変われる機会が訪れるはずで、それを逃したら一生そのままになってしまうのではないか。それで何か不都合が生じるのか。変わってしまった方が不都合が生じそうだが、どうせまた苦労するのだろうから、機会を捉えて変わってしまった方がよさそうだ。そんなわけでまた面倒なことになりそうで、何やあれこれ行動に出ているようで、それについてもいろいろ模索が続いている。どうも一度に多くの出来事が起こりすぎているような気がして、忙しなく日々が過ぎ去り、何だかあっという間に数年が経過してしまうような勢いで、何かが断続的に転がり続けていて、何だか目が回っているような気分だが、それは何なのだろうか。そんなフィクションがどこに記されているのか。たぶん何も真実ではない。誰もそれ以上を望まず、その辺でやめておこうと思っていて、実際に作業は中断しているようで、重機は稼働せず、人影も途絶えていて、辺りは静まり返っている。君はいったい何の話をしているつもりなのか。何かをごまかしているのかもしれないが、そこに差し挟まれた過去の記憶が、何かを考えるきっかけとなれば、当初の目的を達成したことにでもなるのだろうか。


3月18日

 すでに夜のようだ。たぶんどうもしていない。何を語るつもりもなさそうだ。考えを巡らしているらしいが、どうにもなりはしないだろう。人と人の間には格差があるらしいが、君の知ったことではない。誰もが承知の上で接しているのだろう。どのようにすれば格差をなくせるか、などということを考えているわけではない。誰もが常にひとつの方角を向いて、その方向へ歩んでゆけば、自ずから格差が生まれる。実際はそうでないから、格差がなくなる可能性があり、皆が別々の方向へ歩んでゆけばいいわけだが、同じ価値観を共有して、それを目指して競い合わなければ張り合いがないだろうか。他人より少しでも優位な立場を構築したいのか。どうせまた見栄を張りたいのだろう。見栄っ張りな人々は格差を求めていて、自分の方が社会的に上位の階級に属したいものだ。自動車などもグレードの違いで価格も違ってくる。君も高級車に乗って格好をつけたいのか。そう思うと哀しくなってくるようだが、実際に乗ってみると、価格の安い大衆車を運転している人を見下したくなるものか。たぶん冗談の範囲内で済ましたいのだろうが、そうもいかなくなってくるようで、馬鹿げているの一言で片付けても後味が悪くなる。

 だから現状を認めざるを得なくなるわけか。公平な競争が行われて、より努力した者が報われなければならないと思いたいのだろうが、公平な競争自体が胡散臭いきれいごとで、何が公平なのかなんてわかりようがなく、要するに競争に勝ち抜いた者だけが、自らを正当化するためにも、公平な競争が行われたと主張するしかなく、敗残者たちにとっては、そこでは明白な不正が行われていて、自分たちはその不正行為の犠牲者だと主張したいわけだ。そういう思い込みや偏見をなくすにはどうしたらいいのだろうか。競争があるにはあるが、競争しなくても何ら不利益を被ることがないようにしなければならないのか。では何のために競争するのだろう。勝てばそれなりの利益を得て、優遇されなければならないから競争するわけで、そうならなければ競争などやる意味がない。たぶんそれでかまわないのだろう。明白な勝ち負けを回避しなければならず、価値観を多様化しなければ、気持ちにも余裕が出てこない。血のにじむような努力の末につかの間の栄光をその手中に収めた者に対しては、みんなで祝福してあげればいい。偉い偉いと持ち上げておいて、いい気にさせてあげれば済むことだ。後は知ったことではないが、競争がすべてだとは思えないのは、たぶん正しい認識なのだろう。

 久しぶりにアフリカ・バンバータのハードロックを聴いている。そんなに懐かしいわけでもないだろう。うまく立ち回ろうとするだけではだめなのだ。せこく損得勘定だけで生きている者にも、何かが欠けている。でもそういう方向へと傾きがちになるのは、卑屈な何かを心の片隅に内包している証拠だろうか。小さく凝り固まって防御の姿勢を崩そうとしないのも、何かを恐れている兆候があるからか。そういうやり取りの中から、動物的な獣の動作をかいま見た気がするが、別に皮肉たっぷりにそれを指摘する気は起こらない。別に優雅に遊んで暮らしていけるほどの身分ではないが、フローベールの小説に登場する小市民たちの残酷な末路が、現代にも地続きでつながっている何かを暗示させ、練炭自殺に見せかけて三人殺した醜女とかが、未だに真面目な小説の題材となってしまう予感もしてきて、そんな滑稽にも悲惨な市民社会について、何をどう思ったらいいのか戸惑うところだが、まさか一年前の震災に便乗して、何か利いた風な認識を示す気にもなれず、素朴な助け合いの精神を、絆とかいうどぎつい言葉でひとくくりにして、提示してしまう粗雑さだけは回避しなければならないような気はしている。だがそれにしてもあれらの現象は何なのか。人はなぜ使命感に燃えてしまうのか。たぶん善意でやっている分にはかまわないのだろうが、そこから何が生み出されるのか。


3月17日

 まだまだ先は長い。自分で何とかしないことには先に進まないようで、それで何とかしているつもりなのだろうが、やはり先が長過ぎて、途中で挫折してしまいそうだ。すでに挫折しているのではないか。器用に立ち回れずにどこかでつっかえている。何が滞っているのか。まだ言葉を記すつもりなのか。それがわからない。実際に記しているのにわからない。何を記していいのかわからない。そんなやり方でかまわないとは思わないが、かまわないようなやり方に至らないらしい。そして何も批判できなくなっている。何を目指しているわけでもないので、何も批判できない。そこに利害関係が生じなければ、何も語れないのか。たぶん細かく分析すれば、批判すべきことなどいくらでも見つかるのかもしれないが、怠惰が邪魔をしているようで、その辺に考えを巡らすことができないようだ。しかしいったい何を語ればいいのだろうか。世の中の何もかもが移り変わり、ついて行く気も起こらないまま、流され続けているようで、流れに逆らう力もなく、何となくぼやけた視線でそれらの光景を眺めている。

 今何がなされようとしているのか。消費税率が引き上げられようとしているわけか。興味が湧いてこない。とにかくせこく生きようとすれば悲惨な目に遭うだけだ。どうも何かを追い求めてはいけないらしい。夢とは何だろう。高望みしようと思えばいくらでもできそうだが、現状との落差を考えると、ほどほどのところで妥協しておいた方がよさそうに思われる。それらの映像を見ても何とも思わず、スポーツなどで必死になって動き回っている人に感動できなくなってから久しい。漫画の中で大げさな戦いを繰り広げている登場人物について、どんなことを思えばいいのか。映画の中で暴れ回っている謎解き探偵を哀れに思うか。実際には俳優なのだから多額の出演料が入るはずだが、何に取り憑かれているとも思えず、そこに何が宿っているわけでもないことは一目瞭然か。たぶんみんな生きていないのだろう。身体を酷使して神経をすり減らしながら動き回っているのだろうが、そこには何かが抜けている。要するに普通ではないということか。

 それはどういうことなのだろうか。静寂の中で何を思っているのか。作られた舞台装置の中で何かに操られ、たぶんそこで何かが動き回っているのだろうが、それは正気ではない精神が宿っている何かだ。それを眺めている意識を虜にしたいのだろうが、何となく媚びすぎているような気がする。何とか注意をこちらに向かせたいのであり、そのためにあの手この手でいろいろな仕掛けを駆使しながら、何とか動き回っている何かに興味を持ってほしいのだろうが、なぜかこちらの精神が引っかからなくなってきた。何でそんなことを思っているのか。それらのサービス精神が受け入れがたい原因は何なのか。たぶん衝撃の次元が違うのだ。それらは皆ひとたび天変地異でも起こればいっぺんになくなってしまうようなものでしかない。一億年に一回起こるか起こらないかの小惑星の衝突でも起これば消えてなくなり、千年に一度の大地震でも実際にすごかったではないか。そんなわけでどうも人々が大げさな何かを巡って競うことの意味がわからなくなってきているような気がして、結局その手の世界的な陰謀とやらも、虚構の矮小さしかまとえない世の中になっているのではないか。暴力を用いて人を支配するのも、北朝鮮やシリア程度の範囲内でしか有効でない。


3月16日

 誰を批判しているわけでもないが、これから批判してしまうのかもしれない。たぶん気まぐれでそんなことを述べている。たぶん何とかしなければならないのは君の方なのだ。しかし何に期待すればいいのだろうか。宝くじか何かか。それではあまりにも安易すぎるような気がするが、どうせ本気ではないのだろう。本当は何も期待していないようで、あきらめてしまっているのかもしれない。しかし何をあきらめているのか。またそれか。もういい加減飽きてきている。それもいつものことだろうか。何かの終わりが近いのかもしれない。それもいつものほのめかしで、理由も根拠もなく、ただそんな予感がしているだけで、何が終わるのかはわからないままだ。そして黙っていても時が経ち、何かが終わり、別の何かが始まっている。だがそんなことに気づく前に語ることがあるだろう。それは何だろうか。今のところは思いつかないままで、またどうでもいいような気分となっているらしいが、その時点ですでに手遅れなのか。だから何が手遅れなのだろうか。

 それもわからないのか。君は待つしかないようだ。数日後にはまた寒くなってきて、さっさと寝てしまう。もうやめてしまっていいのだろうか。まだその先があるはずか。言葉を記すには部屋の中が寒すぎる。そんな理由でやめてしまっていいのだろうか。翌朝に目を覚まして状況を把握しようとしているが、また面倒な事態となってきたらしい。そんなのは何でもないことだろう。何もかも楽観視してかまわないのだろうか。確かにそれほどのことでもないのだろうが、何だか妙な予感がしているようで、まさかすべてがうまくいって、また楽な立場へとその場の成り行きが運んでくれるような気がしてきて、そうなったらなったで怖いような気がするのだろうが、運命の神はこの期に及んで自らを守ってくれるのだろうか。もう手遅れとなっているのに今さら何を守ろうとしているのか。だが君の運命などどうなろうと神の知ったことではないのではないか。その辺もよくわからない。それに無神論者の君が神に頼ってどうするのか。君が頼らなくても神がおせっかいで助けてくれたりするわけか。運命の神はそんなお人好しなのだろうか。

 勝手にそう思っていればいいのだろう。すべてはどうしたわけでもなく、うまくいかないことなどいくらでもあり、君がそれを都合よく忘れているだけで、自らにうまくいっているように言い聞かせているに過ぎないことはわかりきっているのだろうが、それでもそれで平常心を保とうとしているらしく、それで済むようなことならそういうことでしかなく、別にどうということはないのだろう。しかし今さらながら何を述べているのだろうか。何を述べられるわけでもなく、述べているのはそんなことでしかなく、それ以上を望めないからそんなことを述べているのであり、それ以上のことを述べられたら、そんなふうにはならないのであって、その辺が君の限界なのだろうが、やはりどうにもこうにも退屈な内容になってしまう。もう少し何とかならないものか。何とかしようとしていないかもしれない。たぶんできないことはできないのであり、できないからそうなってしまうのであって、それは自家中毒のたぐいなのだろうが、そこでやめる気にはならないようで、もちろん中毒だからこそやめられないのであり、結果的に損なことを繰り返す以外にやりようがないからそうなってしまうのだろう。

 ともかく現状は現状として、現状以外の現状はあり得ないのであり、受け入れざるを得ない現状というものがあり、人はそんな現状の中で生きてゆくしかないのだろう。今日も今日で一年前の震災のことが語られ、テレビをつければ海外のドキュメンタリーで、ウラン鉱山の周辺で放射性物質で汚染された土砂や排水が、数十万トン規模で大量に放置されている現状が伝えられ、旧東ドイツでそういうことが行われていた経緯から、それの処理費用が数十年で数千億円ぐらいの税金が使われ続けている現状をふまえて、ドイツでは反原発の気運が高まっていることがわかる。無論ドイツでは過去のことだが、カナダやナミビアなどの世界有数のウラン鉱山では現在進行形でそうなっていて、世界各地で原発の運転が続く限り、ウラン鉱山周辺での放射能汚染が広がり続けるそうだ。そしてそれが福島の原発事故以前に制作されたドキュメンタリーであり、震災に便乗したものでないことから、何となく説得力があるような気になり、そんなものかと思う次第で、何か原発の代わりになるものはないかというわけで、原発がだめなら天然ガスを用いた火力発電が有望だとか言われていて、実際に原発が止まっている穴埋めに、その手のガスタービンを大量に稼働させているらしいが、今度はその天然ガスを地中から効率よく採取する方法が、これまたアメリカ中西部で環境破壊をもたらしていて、有害物質を地中に注入することから、周辺の飲み水が汚染され、そこに暮らしている人々を住めなくしている、とかいうドキュメンタリーも以前に見たことがあり、結局人間たちは利潤の追求のために世界中で悲惨なことを繰り返しているらしく、ひどいのは何もシリアのアサド大統領一族や北朝鮮に限ったことではなさそうだ。


3月15日

 道半ばにして挫折しているわけか。そんな大げさなことではない。語らなくてもかまわないのではないか。退屈で死にそうか。どこからともなくそんな台詞が思い浮かぶ。何がやってきたわけでもない。たぶんそこに何があるわけではない。倦怠感はきっと気のせいだ。ミルトン・ナシメントが寂しそうに歌い、それを聴いて何だか目が覚めたような気になるが、それも気のせいか。自由人とは何か。学生か何かの執行猶予的な身分の人たちを言うのだろうか。仕事に翻弄されている。人は哀しそうに生きている。馬鹿げているのではないか。何もかもがそうか。きっと何もかもがそうなのだろう。そう思いたければ思っていればいい。それだけのことでしかなく、それ以外の何ものでもない。この世界はこの世界でしかなく、それ以外はあり得ない。

 君は何を探しているのか。死んでいるわけではない。勤勉な性格ではないようだ。人を馬鹿にしたいわけではない。だが誰かが追い求めているささやかな夢とやらに関わるつもりもない。では何を探しているのか。意味がわからないのだろう。だから挫折してしまったのではないか。語ることができなくなってしまったらしい。それはもとからそうなのではないか。言葉を記すことはできても語れない。そんなふうになっている。だからあきらめているのだろう。人とは何か。君が人ではないのか。ではなぜ人が語れないのか。語っているのが人ではないからか。間違っている。それだけのことだ。そういうことではなく、説明できないようなことを語ろうとしているのではないか。だから語ることができなくなってしまったのか。

 そんなはずがない。君は嘘をついているのだろうか。それはいつものことに違いない。たとえ嘘だろうと何だろうと、そんなことを語っている現実は揺るぎようがないか。何も語っていないではないか。たぶんそういうことではない。何かを語っているつもりなのだろう。少なくとも君はそう思っている。嘘かもしれないが、そういうことにしておきたいのではないか。なぜそんな嘘をつく必要があるのだろうか。別に嘘でなくてもかまわないのではないか。では本当のことを述べているとしよう。気まぐれでそんな嘘をついてみるが、何も嘘ではないような気になってくる。何も見出せないのに、それで気が済んでしまい、嘘だろうが本当だろうがどうでもよくなってくるようで、そのまま状態で記述を放棄したくなる。なぜそう思うのか。まだ道半ばのはずだが、かまわないのだろうか。別に君の何が試されているわけでもない。

 ふぬけのまま、どこに至るでもなく今に至り、そこで何をしているわけでもない。ではまたやる気をなくしてしまったわけか。もっと早くそれに気づいた方が良かったのではないか。自らに才能が欠けていることにか。今はそれが冗談だとは思えないか。別にかまわないだろう。そんなふうに感じているのならそれでかまわない。一向に意に介さず、さらに言葉を記すまでか。君が語っているつもりの内容がそこに記されているはずだ。それでは不満だろうが、受け入れざるを得ないのだろう。いったいそれ以外に何があるというのか。わからなければかまわない。わかり得ないのだから仕方がない。いつまでもそれが繰り返されるだけだ。だからそれでかまわないと思うしかないのか。それにしても内容に行き着かないようだ。どこへも行くあてなどないのだろうから、その辺でくすぶっているしかなく、他に何もやりようがないのだから、ただ言葉を記すしかないらしく、ひたすらそんなことを繰り返しながら、退屈を持て余しているわけか。だが今さらそんな嘘をついても仕方がないだろう。実際はまったく違っているはずだ。


3月14日

 数日後は気温が高くなってきたらしく、指のあかぎれも塞がってきたようだ。でも花粉症か。かまわないではないか。他に何も見出せないはずだ。何も語れない。本気になっていないのだ。語ろうとしてない。語る気がないのだろう。その気にならないようだ。そのことについて語るわけにはいかないのかもしれないが、そのことが何のことやらさっぱりわからず、これから何を語ろうとしているのかもわからないままだ。今のところはそうだ。そうでなくてもそうなってしまうだろう。何も感じられず、何ももたらせず、思っていることが何も言葉にならないようだ。それでかまわないと思う。誰が思っているのか定かでないが、たぶんフィクションの中では誰かがそう思っているのだろう。君がそれを知っているとは思わないが、誰が知っているわけでもなく、架空の話の内容など誰も知りようがない。存在しないのだから当然か。話にならないではないか。でも言葉を記しているはずだ。それでかまわないのだ。嫌気がさしているとしてもかまわない。それは恐ろしいことなのか。別に無意識のなせる業でもないだろう。相変わらず何を語っているのでもない。なぜそんなことを語らなければならないのか。何も語っていないではないか。それが問題なのか。何の問題もありはしない。だから強がるのはやめた方がいい。

 見栄を張って強がるべきではない。できないものはできないのだから、できないことを認めるべきだ。自らの価値観に引き寄せて都合よく解釈すべきではない。うまくいかないのは当たり前のことなのだ。この期に及んで主義主張を戦わせているのだから、うまくいくはずがない。どのようなことをやれば勝てるかを皆が最優先させれば、競争となり、悲惨な結末が待っている。最初は善意でやっていたことかもしれないが、やっているうちに偏狭な心が芽生えてきて、平気で小狡いことをやるようになる。その辺にシステムの欠陥があるのだろうが、何かを最優先させなければならない時点で、たぶんおかしくなっているのだ。人はいつの世でもエゴイズムに凝り固まっている。そして使命感に燃えているわけか。始末に負えないとはそういうことか。何がそうなのか。何がそうなのでもないのかもしれないが、それでも何とかしなければならない。

 どこかの壁面を眺めている。何かがはがれているようだ。必要があるから見せびらかしたいのだろう。だがなぜそれとこれとが結びつくのだろうか。でも可動性は必要だ。そこから何かを取り去るのは至難の業だ。では全体が意味不明でもかまわないのか。かまうか否かの選択肢などない。行き詰まっているのは必然だろうか。何かを良くしたいのだろうが、よかれと思ってやっていることなのか。その辺はもうわかっているはずだ。誰がそこで何をつぶやいているわけでもなく、何かの付け足しでやっていることでしかない。無理をしたからそうなってしまうのだ。どこかで妥協しなければならない。ではここが妥協点の真上なのか。ここからどこへ行けるというのか。外は雨だ。部屋の中は暖かい。だから無理に言葉を付け足すべきではなく、それが理由にならないところがおかしいのだろうが、そんなところで妥協すべきなのか。誰かがまたくだらぬことを述べてしまったらしい。それでも何も発しないよりはマシだろう。


3月13日

 まだ当分は追いつけない。無理なのではないか。たぶんそうなるだろう。よほどのことがない限りは無理だ。人はシステムの中で生きている、そう思い込んでいるのだからそういうことになり、否応なくそう思うしかないらしい。君はそこから抜け出たいのか。システムの中にとどまる限りはシステムによって守られているではないか。別にそれが気に入らないわけでもないだろう。なぜことさらに自由を求めるのか。嘘だからか。システムの存在があり得ないからか。君を生かしているのはそのシステムではないのか。どのシステムなのだろうか。フィクションの中で何を探しても無駄か。そういう回りくどい話ではなく、実際はどうなのか。君はそこで何の存在を関知しているのか。具体的に何を妄想しているのか。フィクションとは何か。またずれているようだ。わざとずらしている。昨晩はよく眠れただろうか。そこで何かを関知するシステムが作動しているのか。監視カメラの具合はどうだろうか。どうも想像力が働かないらしい。たぶん何かの勘違いなのだ。またどこかの藪の中で迷っている。導き出された言葉の配列に魅力を感じられず、そこからわざとずらそうとしている。それで暗中模索しているつもりなのか。だが意味不明では話にならないだろう。相変わらず何かがおかしい。やはり何の説明もなしに性急に事を運びすぎるようだ。それでわけがわからなくなり、結果的に何について語っているのでもなくなってしまう。そうやって誰かの安心を引き出そうとしているのかもしれないが、そのやり方がおかしいのか。そういうシステムなのだから仕方がない。わざと言葉を散らせるのがそこで働いているシステムなのだろうか。何だかそこで考え込んでいるようだ。またいつもの違和感がこみ上げてくる。そんなやり方ではだめなのか。人は何のために生きているのか。何かをごまかすために生きているのだろうか。だが今感じている現実をごまかすことなどできはしない。いったいそれらのごまかしの中で人々が何を演じたというのか。無意識の意図として株価をつり上げているだけではないか。マネーゲームによって世界中の富をかすめ取っているのだろうか。一握りの人たちがやっていることに過ぎない。君には関係のないことだ。何かが違っているはずだが、経済という名の目くらましによって、それが見えない仕組みとなっている。それも作動中のシステムがもたらしている効果なのだろうか。

 たぶん君たちはやりたい放題やっていればいいのだ。当分は破綻しないだろう。それの何かがおかしいことはわかっているが、君にはそれをどうすることもできはしない。できなければ他のことをやっていればよく、例えばゲームの中でうまく立ち回ることを画策していればいい。これから何が起こるか知らないが、何が起こるにしても予想外で、誰もそこまでは見通せていないはずで、予定調和に収まりきらないからこそ、そこにまだ付け入る隙があり、そこで利益の源泉が生じているのだから、そこからいかに効率よく利益を引き出すかが問題となっていて、まず取り組まなければならないのはそういうことになる。しかし君はそれを信じていない。冗談だと思っているようで、なかなか本気に受け取れないところがある。なぜそれが冗談なのだろうか。たぶんわからない。冗談ではないのかもしれないが、何となく冗談だと思っている。別に間違っていてもかまわないだろう。冗談でなくてもかまわない。何かが足りないだけか。たぶん何が足りないかはわかっていて、それが手に入らないから困っているのだろう。それは何なのか。濃縮ウランか何かか。そんなはずがない。たぶんもっとまともな文字列がほしいのだろう。自ら記している言葉が、ちゃんと意味の通った文章になってほしいのか。それはできない相談か。誰に相談しているのか。神か悪魔か、そのどちらでもなければ自問自答の相手か。そんなことはない。虚無の空間では相談する相手さえ不在なのだろうか。どこにいるわけでもなく、部屋の中で言葉を記しているだけだ。どうも何かの振幅が大きすぎて、何も手に付かない状態が続いている。たぶんそれも嘘の類に違いないが、やはり何となく違っているようだ。語ることがなさ過ぎるのか。自らの中に心が埋没してしまっているのだろうか。それはどういうことなのか。なぜか気が散っているようだ。意味もなく言葉を散らして配置するが、何を述べているのかわからず、途方に暮れるほどでもないだろうが、おかしいことは確かで、気が変になっているのかもしれない。目の前に誰かの幻影が現れる。それも嘘か。どうもおかしくなってしまったようだ。これはどういう現象なのか。ただのスランプに過ぎないのだろうか。それにしては長く続きすぎている。ではもう終わりなのか。


3月12日

 またこの時間帯だ。もう夜だ。まだ二日前だろう。できないのだから仕方ないか。追いついていない。下手をするとまた遅れてしまいそうだ。記述に意識を集中できない。わざとそうなのだろうから始末に負えない。本当にやる気があるのだろうか。過去の話だ。過去の話を読んでいるのだろうか。小説を読むとなるとそうなる。だからどうしたわけでもないだろう。とりあえず何とかしなければならないらしい。話に至らないうちにそれをやめてしまい、予定調和のごとくに後悔しているのかもしれないが、フィクションの中だからどうでもいいことなのか。誰が登場人物でもあり得ない。いったい物語はどこへ行ってしまったのだろうか。どこへも行きはしない。まだ何も始まっていないのだろう。それより花粉症でくしゃみが止まらなくなったことの方が煩わしい。ニュースを見てそれを知ったはずだが、気づいたのはいつだったのか。アレルギー体質なのだから仕方がない。今さら何を思ってみても遅いか。もうすでに誰かが言葉を記し始めているはずだ。それは君の経験に基づいているわけではなく、誰の妄想が作用しているわけでもない。そういう状況なのだろうし、そんな成り行きになっているのだろう。そんな流れに従うしかなく、わけもわからずどこでさまよっているわけでもない。もちろんできないことをやろうとしているのでもない。では実際に何をやっているのだろうか。夜に言葉を記しているだけか。そうであったとしても、過去の話の中で何をやっていたとも思えない。そこでそれが語られているのだろうから、それは虚構の作業なのかもしれないが、やはり始末に負えないか。なぜそう思うのだろう。話になっていないのにそれはないだろう。それもあり得ない話なのか。まったく文章が理解できないようだ。読めない以前に意味がないのかもしれず、ただ言葉がそれらしく並んでいるに過ぎないのだろうか。だがそんなふうに言葉を並べていること自体に理由はない。それらしいとも思えず、それよりでたらめに並んだ言葉を連想させるそれであり、何ももたらせない代わりにもたらされているのが、それらの虚無なのだから、それ以上の何をもたらそうとしても、それは不可能なことなのかもしれない。だからあきらめて今はその続きを記すべきなのか。

 とにかく待つしかないようで、いくら待ってもまともな文字列を導き出せないならば、やはりあきらめてでたらめで我慢すべきなのか。だがそれで何を我慢していることになるのか。まさかそれが望んだ状態ではないはずだ。では他に何を望めるのだろうか。それらがどうなってほしいのか。満足できる状態などあり得ず、そこに至ろうとしていないのだから、何も望みようがない。そこで語られているのはそういうことに違いない。意味などありはせず、いくら何を探求しようと、理由を見出すには至らない。何とかしないといけないようだが、言葉が滞っているようで、その次に記すべき言葉が見当たらない。何もないのではないか。実際に何もありはせず、何も語ることができない。たぶんそういうことなのだろう。それでかまわないのか。誰に確認しているわけでもなく、否応なくかまわないことになってしまいそうで、要するに終わってしまいそうになる。興味が湧いてこないのはいつも通りか。なぜ人がこの世界に存在しているのか。唐突の冗談だろうが、問うようなことではない。苛立ちとともに貧乏揺すりも激しくなり、地震か何かだと錯覚するほどだが、実際に夕方から夜にかけて数回地震があったらしく、津波警報が出ていたようだ。しかしなぜあきらめないのだろうか。何も導き出せずに苛立つばかりなのに、あきらめる気にはなれない。何かの役に立つようなことを求めているわけでもなく、何か画期的なことをやろうとしているわけでもないのに、そこから退くことができない。そんな成り行きなのだから仕方がないのだろうか。何とかしなければならないのに、それはないか。それもあり得る話だが、君は何を思っているのか。まだ話は終わっていないはずだ。少なくともさっきまではそうだった。何を求めているのでもなかったはずで、それはどうでもいいような話だったはずだ。それがその人の心を支配しているこだわりなのだろう。偏見や固定観念から抜け出られなくなっていて、それどころかそれに頼って何かを語ろうとしている。それが間違っているのだろうか。そうならないように努力しているのに、気がつけばそうなっていて、容易く紋切り型の罠にはまってしまう。それが予定調和の自問自答に拍車をかけている原因なのか。そんなことを述べているうちに眠くなり、そこでやめようとしている。


3月11日

 何だか急におかしな具合になってきたようだ。風雲急を告げるということか。何だかわからないが、うろたえているようだ。とりあえずそういうことであり、また何とかしなければならなくなってきた。なぜそうなってしまうのか。何がどうなっているわけでもないのだろうが、巡り合わせが悪すぎるか。でも少し間を置いて冷静になってみれば、取り立ててピンチでもないのではないか。とりあえず今はやるべきことをやるだけで、それをやっていればいいだけか。実際にやっているのではないか。たぶんそういうことではない。やっていることが間違っているのか。間違っていてもかまわないはずだ。そう思うこと自体が間違っている。ではどう思えばいいのだろうか。たぶんそう思っていればいいのだ。間違っていてもかまわないのだろう。それはどういうことなのか。言葉をでたらめに配置して、わけのわからぬ事態になっているだけか。君がそう思うならその通りだ。誰がそう思っているのでもなく、何も思っていないのではないか。だからそう思っていて、いくらでもそう思っているわけか。やはり世間は損得勘定で動いている。利益が見込めるとわかれば平気で汚いことをやる。そういうところにリアリティを感じなければならないのだろう。君はなぜそこで躊躇してしまうのだろうか。長い目で見た場合のことを考慮しているわけか。そうだとしてもおかしいのではないか。どう見ても損していて、実害を被っているのに平気なのであり、平然と負け続けている。そしてそれでかまわないとも思っていて、大して有効な対策など取っているわけでもない。要するにやられっぱなしで、何の反撃も起こさないのだ。なぜそれでかまわないのか。それを評価する基準が違うのだろうか。攻撃を加えている側は、自分たちの勝利を確信していて、ざまあみろと思っているのだろうが、こちらはそれが理解できない。勝つならどうぞ勝手に勝ってくださいとしかいえない。誰がそこで勝とうが、勝ってもらって結構なのであり、いくらでも攻撃を加えてもらって結構なのだろう。彼らは何に攻撃を加えているのか。果たして攻撃を加えている対象が君と関係があるのだろうか。まさかまったくの見当違いだとは思えないが、でもその可能性がなきにしもあらずなのはどういうことなのか。

 何となく馬鹿げている。そもそも誰が攻撃を加えているわけでもないのではないか。偶然の巡り合わせでそう思えるような現象に出くわしているだけか。要するに気のせいなのか。そうであってもかまわない。どうでもいいことであり、嫌な思いをしていることだけは確かなようだが、たぶん何とか切り抜けてしまうのだろう。君にとってすべてはうまくいくはずなのであって、たとえうまくいかなくても、結果的にはうまくいったことになってしまうのではないか。それはどういうことなのか。思い違いをしているだけか。そうであってもかまわない。それでいいのであって、いくらでも思い違いをしていればいい。またおかしなことを述べている。いったい何を強がっているのだろうか。目が疲れてきた。何だかわからないが、事の顛末を記す気にならず、何だかわからないように語ることしかできないようで、その分意味不明にならざるを得ない。いったい何について語ろうとしていたのか。今となってはどうでもいいことかもしれないが、近頃はそればかりで何かが溜まっているみたいだ。しかしどちらへも持って行きようのないことであり、どちらがどっちなのかもわからないままに、やはり見当外れなことを述べざるを得ない。なぜそんなに馬鹿げているのだろうか。すべての歯車が噛み合っていないような感じとなり、ぎくしゃくするばかりで、物事が良い方向に進む兆しも感じられず、このままどうなってしまうのか不安になってくるが、なぜかそれでもかまわないのだ。実際に切り抜けているのではないか。ボコボコにやられっぱなしなのに、平然と無関心を装い、まったく懲りずにいつもと変わらぬ日常を過ごしているわけだ。痛い目に遭い続けているのにそれはないか。本当にそれが痛い目なのだろうか。どうもその辺がはっきりしないようで、客観的な視点があるとすれば、そこから見れば確かに痛い目に遭っているはずなのだろうが、気分的にはまったくこたえていない。なぜそうなのか。感覚が鈍感なのだろうか。愚鈍なのかもしれないが、たぶんそうは思っていないのだろう。平気であるはずもないのだろうが、平気を装うしかないようで、そういう素振りしか選択肢がないような状況なのかもしれない。そしてそんなことが記された画面を眺めながらにやにやしている。懲りていない証拠だろうか。ため息が出てきて、呆れ返っているように演じたいのだろうが、本心ではない。


3月10日

 どうも世間では二日後のことらしい。何かが起こったわけか。たぶん何も起こらない。何が至高の作品でもないだろう。君が語ろうとしていることに中身など期待できない。何もかもが空っぽなのか。すべてはそういうわけでもないのだろうが、あらかじめ決めつけてもらってもかまわないのではないか。しかしここから何を語るべきなのか。語るべきではない。語る必要もないのに語っているのだから、その中身が空っぽであってもかまわないというわけか。そうは思わないだろう。ではそういうことを語るべきではないということか。そう思って差し支えないのかもしれないが、現実にはその語るべきではないことしか語れない。今もそれを語っている最中だ。否応なくそんなことを語っているはずで、どうしても語りざるを得ず、語ろうとするとそうなってしまい、それ以外はあり得なくなり、仕方なくそんなことを語っている。やはり心の病なのだろうか。あるいは必然的な成り行きなのか。その辺がまだよくわかっていないようだ。虚無が語りの中に住み着き、自分の居場所を確保した証拠だろうか。虚無と無意識の絆はそれほどまでに深く強いのか。もはや離れられなくなってしまったのだろうか。だから他を語らせないようにしているわけか。そうだとしてもなお解せない部分がある。それは何なのか。もう何も語らせなくてもいいのに、なぜか空疎なそれを延々と語らせている。その辺に何か意図や思惑があるのだろうか。そうやって君を完膚なきまでに打ちのめし、二度と立ち直らせないようにしているのか。それにしては痛くも痒くもないのではないか。語らせられるがままに語っていれば、それで気が済んでしまい、それで自らに課したノルマを果たしているような気になってしまう。それはどういうことなのか。そんなふうに語ることにいかなる意義や理由があるのだろうか。そこから先に何か重大な真実でもあるわけか。しかし語るとは何なのか。なぜ語る必要もないのに語らなければならないのか。そう問うことがそこから先に待ち構えている堂々巡りのきっかけになるのだろうが、なぜひたすらそんなことを飽きもせず繰り返しているのだろう。それで何か語っているつもりになれるからそうやっているわけか。それもあるだろうが、果たしてそれだけなのか。他に何か理由が必要なのか。

 必要とあらばねつ造してみればいいではないか。何が必要なのか。たぶんそれは不必要に語らないことだ。本当にそれが求められているのならば、なぜそれができないのか。語ろうとしているから語らないわけにはいかず、語っていないときも語ろうとしているのであり、何時何時でも語ろうとしているから、逆にまともなことは何一つ語れなくなってしまう。久しぶりにもっともらしいことを語っているようだが、本当だろうか。何やら胡散臭い。自ら述べたことを信用できない自らがいて、何を述べても片っ端から疑いたくなる。本当にそれでかまわないのか。かまわないから不快な気分となっているのだろうか。誰がそんな気分なのか。またそれがフィクションの中の登場人物だとか嘘をつくつもりか。わけがわからなくなる。それでかまわないからわけがわからなくなり、誰が何を思っていても、すべては誰かが記しているフィクションの中で生じている現象だろうか。では誰がそんなフィクションを記しているのか。それが誰でもない誰かなのだろうか。ますますわけがわからなくなり、そんなことを語っている自らに呆れてものも言えなくなるか。そんなやり方でかまわないのか。いつまでもそれを繰り返していていいのだろうか。誰もそうは思わない。君がそう思いたいのだろうか。君とは虚無のことか。たぶん誰でもない誰かが虚無なのだ。そこには誰もいないようでいて、何かの断片が浮遊していて、それは心に巣くう塵や芥のたぐいであり、塵も積もれば山となるように堆積していて、それが固定観念となって心の自由を奪い、空想やひらめきの翼を折り、身動きが取れなくしているわけか。そして足下には虚無の泥沼が広がっていて、もがけばもがくほど深みにはまって、もはや抜け出ることさえできなくなるほどにまとわりついて離れなくなっているわけか。そんなふうに思えば楽しいか。なぜそう思うのだろう。要するに強がっているわけか。何かを説明したがっているに違いないが、それがもっともらしい説明になればなるほど、それは違うと思いたがる。もっと何か冗談のような軽い説明にしたいのに、妙に文学的なそれとなり、何だかしらけてしまい、本当はそうではないように思われ、そうであったとしても、それとは違う何かを付け加えたくなり、要するにすべてを打ち壊したくなってくるわけか。


3月9日

 何となくぐしゃぐしゃだ。どうもまともに語ることができない。時期が時期でないのか。それは何の時期なのか。そしてなぜそう思うのか。何のことやらまったくわからない。もはや意味などどうでもいいのか。なぜか手のひらが削られてしまったようだ。誰かの手のひらで踊らされている。血は出ていないが、ざらざらしていて、感触がおかしい。数日後にはようやく空も晴れてきて、それがつかの間の晴れであることは天気予報が教えてくれるが、少し日差しを浴びて、光合成もしていないのに気分がいい。そしてやはりつかの間のことで、夕方には雨が降り、また寒くなる。そこから気分はどうしたのか。気分の問題ではなく、何もどうにもなっていない。相変わらず何もまとまらず、とっ散らかったまま、何かがいい加減に推移している。やめるべきかどうしようか、気持ちが揺れ動いているようだが、たぶんそんなふうにして退屈な日々が過ぎ去ってしまうのか。ならばもう終わりだろうか。まだしつこく言葉を記しているではないか。かろうじて終わらないようにしているのだろう。それは三年前のことか。今から三年後にはそうなるだろう。そんなわけでさらにだらだらしている。まだ気持ちに余裕があるのだろうか。何に関してそうなのか。なぜか全部そろっている。いったい何がそろっているのだろうか。そうなってしまった原因は何なのか。君はそこで何をしているのだろうか。わけがわからないのに、さらに語ろうとしているらしい。何のために語るのだろうか。記憶にない。その部分が抜け落ちているようだ。たぶんあり得ないことなのだろう。たぶん勘違いなのだろうが、何となくそれでいいような気がしてくる。意味が通らなくても道理に外れていても、何となくそれでかまわないような気がする。話が何も進んでいなくてもいいのか。何となくそうなってしまうなら仕方のないことだ。気持ちにむらがあり、いったんやる気を失ってしまうと支離滅裂な内容のままになってしまう。何でもないのにそうなってしまい、気がつけばくだらないことを延々と述べている。何のためでもないのだからそうなって当然なのかもしれないが、延々とそればかり繰り返しても退屈なだけだ。

 なぜそうなってしまうのか。そうなるべくしてなっているのだろうが、理由などわかるわけがない。それでもまだ言葉を記すつもりなのか。すでに虚無の罠にはまっていて、まったく内容に至らないようなことばかり記しているはずだ。そして今は無表情で画面を覗き込み、雨音を聞きながら音楽を聴いている。それが退屈以外の何をもたらしているのか。なぜこの世界はこんな感じで推移しているのか。人々はフィクションの中で生きているのだろうか。小説の中に出てくる登場人物はそうだ。何も問えない。虚無以外の何で満たされているわけでもなく、心は空っぽのまま、人は何になるのだろう。まだそこまでたどり着いていないのか。雨が降っている。それだけのことか。雨を感じているわけだ。何を見ているわけでもなく、風を感じている。部屋の中から何を見ているのだろうか。小説でも読んでいるのか。昨日はそうだったはずだ。どこから何が降ってくるのだろうか。雨が降っているのではないか。風が吹いている。部屋の中で風の音を聞いているらしい。それは空気の振動でしかない。猫の爪が手のひらを削ったのか。なぜ今になって思い出すのだろう。興味のない話だ。それは『感情教育』の内容か。まだ読み始めたばかりではないか。そこには現実があるわけか。気に入らないことはいくらでもあり、何となく虚構の中に現代社会の本質が見え隠れするわけか。そんな勘違いでもかまわないのだろうか。何がそうなのだろうか。人はいつでも見栄を張りたい。そんなことはわかっていて、今さら述べるまでもないことだ。格好をつけたいのだろう。もったいぶりたいのであり、たとえ中身が空っぽであろうとなかろうと、何となくそんなふうに振る舞いたいのだ。だがそういうことではない。それは漫画を読んでいる人が、自分がヒーローのような主人公ではなく、やられキャラのような小者に過ぎないことに気づかないのと似ている。それでも人は現実の世界に自分が主人公の物語を構築しようとしていて、そうなるように何やら一生懸命画策しているわけか。ではこれからさらに悲惨な境遇が待ち受けているのだろうか。別にかまわないだろう。そうなったらなったで、そういう感じて死ぬまで生きてゆけばいい。君にはそれしかできないのだから、そんな宿命を背負いながら、せいぜい精一杯見栄を張ってゆけばいいだろう。それがくだらない行為であってもかまわないはずだ。それと気づかずに自ら進んでそうなってしまうのだから、本当にそれは宿命的な成り行きなのだ。


3月8日

 また寒くなってきた。もう遅いだろうか。言葉を記すにはもう遅いというわけか。何がそうなのだろうか。君は疲れている。何も君の助けにはならない。ところで探し物は見つかったのか。何かを探していたはずだ。何も見当たらない。ではできないのだろうか。かまわないのではないか。もう終わりが近いのだろう。だからおかしくなっているのか。だが何がおかしいのだろうか。眠たいだけなのかもしれない。確かに何がそうなのかわからないが、何となく馬鹿げているような気がする。それだけのことなのかもしれない。君は本当に君自身なのか。何を疑っているわけでもなく、冗談のつもりでそんなことを述べているのだろう。とても正気とは思えない。人はいつ何時でも正気ではないのかもしれない。でもまだ投げやりにはなっていないのだろう。あきらめてはいないはずか。とても正気とは思えないが、それでも言葉を記している。他に何をやろうとしているわけではない。別に吐き気を催しているわけでもないし、眠気に逆らって何をやろうとも思わず、そのまま寝てしまってもかまわないのだろうが、なぜかそうしないようだ。明かりを消して画面を見ている。今は何時なのか。何を挽回しようとしているのか。気持ちが切れているようだ。何かの後遺症か。勝手にバックアップが始まってしまう。確かにそれだけのことなのだ。目がかゆくなるが、花粉症のたぐいなのだろうか。何かのアレルギーに悩まされている。歯止めが利かないようだ。それでも夜の十一時になっている。哀しいのだろうか。背中がかゆいのか。黙って誰かの歌を聴いている。正気とは思えないのは特定の誰に限ったことではなく、誰もがそうなのかもしれない。どう考えてもおかしすぎる。やっていることが尋常ではない。なぜそうなってしまうのかわからないのだろうが、うまく立ち回っているわけでもなく、そんなことは承知の上でそうやっているに過ぎないのであり、やはり大したことではないようだ。みんなおかしい。普通ではない。何かにこだわるとはそういうことなのか。翌日は雨が降り続き、何となくさっぱりしない。ぐずついた天候がしばらく続いている。それが君に憂鬱な気分をもたらしているのか。何をはっきりさせようとしているわけではない。そんなふうに思いたいだけなのか。

 今のところは何も感じられないはずだ。それでも何か発言しなければならないのだろうか。なぜそんなことをやるのだろうか。君には関係のないことだ。またそれか。夜になってもまだ雨が降っているようだ。何とか何かを記そうとしているようだが、雨以外に記すことがない。そんなこんなでまた二日後になってしまい、どうにもこうにも何もないのに、それでも言葉を記さなければならなくなる。やめてしまえばいいのに、そんなことの繰り返しだ。テレビでは地震一周年記念番組が目白押し状態か。見せ物には違いない。津波の映像や原発の残骸などがそうか。そして現地で人々が祈るのだろう。何を祈っているのだろうか。雨が止んで晴れてほしいか。誰がそんなことを祈っているわけではない。祈らなくても晴れるだろう。祈らなくても人は生まれてくる。では気休めに祈ることは必要か。無理してゲームに参加する必要もないのか。得意な分野で努力すればいいだけか。何も得意でなければあきらめるしかないか。君は何をあきらめているのだろうか。語るのをあきらめている。そしてどうなってしまったのだろうか。頭がおかしい。どうかしていることは確からしく、気が散って何も語ることができなくなっている。言葉と言葉がつながらない。しかし何を我慢しているのだろうか。なぜ何も批判できなくなってしまったのか。何を考えあぐねているのか知らないが、どうもまだ言葉を記す段階まできていないようだ。思いつくことは思いつくのだろうが、いざそれを記す段階までくると何も出てこない。なぜかそれを忘れてしまうらしい。それは記すべきことではなく、無意識がそうさせているのかもしれず、誰かにそんなことを記させてはならないとでも思っているのだろうか。そんなくだらぬ妄想を抱いているようだ。あり得ないことか。あるいは心の病のたぐいか。何かに取り憑かれておかしくなってしまったのだろうか。それは疫病神か何かか。笑いながらそんなことを記しているのだから薄気味悪そうだ。それは虚無に心を完全に支配されていることの証しとなるのだろうか。そんな大げさなことではない。ただ何も記せないだけだ。そんなことしか記せないようだ。たぶんそれでかまわないわけがない。何とかしなければ行けないようだが、結果がこれではどうしようもない。


3月7日

 面倒くさいのだろうか。いつものように何がどうなっているわけでもない。そんな問いが宙に舞い、空振りに終わるのも同じような成り行きだ。似たような何かを感じ取っているらしく、それが匂いだか雰囲気だかわからないが、ともかく何かが到来する気配を感じ取り、それに応じて言葉を並べ替える。できるわけがない。たぶんできないはずだ。そう思っておいて差し支えない。実際のところはどうなっているのだろうか。真昼に何かを考えている。それを夜までに覚えているだろうか。言葉を記す段階になって、何やらうまくいかないことに気づき、さらに言葉を組み替えて、何とか意味が通るような文章を構成しようとするが、結果としてはどうなっているのか。そこで何を物語っているのか。別に外れた内容でもかまわないのだろうか。何から外れているのか明確に示せないようだ。どうもこのままではさらに外れまくってしまう予感がしている。そんなことではないのだろうか。わけがわからず途方に暮れるしかないのか。現実に何も語りようがない。事件らしい事件など何も起こらない状況で、そこで起こっている出来事について淡々と語っているつもりが、何だか外れているような気がして、たぶん何について語っているのでもないのだろう。だから面倒くさいと思われ、外れたままでもかまわないと思う。そんなふうに語ってしまえるわけか。やろうと思えばそのままでも結構なのだろうが、とりとめがないことに変わりなく、さらにおかしくなっているようにも思われ、そんなやり方ではまずいとも思われ、でも他に何も出てこないのだろうから、やはりそんなふうに語り続け、まったくの的外れをそのまま放置しているらしい。君にとってはそういうことになり、誰から見てもそうなのかもしれないが、たぶんそれでかまわないのだ。今はそういうやり方を押し進めている。理由が明らかではないようだが、とにかく成り行きとしてはそうなっている。まさかそれで言葉を並べる技術が向上したなどとは思うまい。笑ってしまうが、そんな勘違いに陥ってしまいそうな雰囲気を漂わせていることは確からしく、今もなぜかそれらの文字列を眺めつつも、あろうことか自己満足に浸っているようだ。意味がわからないではないか。だがそれで何に抗議していることにもならず、馬鹿にしているわけでもなく、そんな状況を肯定するしかないのだろう。

 少し飛ばしすぎているのだろうか。だが切羽詰まっていることに変わりはなく、何の余裕も感じられずに、記述を急いで、さっさと作業を済ませてしまうつもりなのだろう。それが君のやり方なのか。そう思ってもらって結構か。それにしては自信がなさそうにも感じられ、興味のある話でもない。そんなふうには行かないのだろう。通常の精神状態ではなく、異常というか昂揚しているというか、脳の神経回路にめまぐるしく信号が行き交っているようにも想像され、それの何が勘違いを誘発しているのでもないだろうが、それで難局を乗り切れるとも思っていないらしく、乗り切れないとしても、それなりの収穫があればいいのかもしれず、今度はそれを糧として何かを構築しようとしていれば、気晴らしや気休め程度の効用が得られるのではないか。本当にそれでかまわないのだろうか。現状ではいったい何に失敗しているというのか。どうせ何もできなくなってしまうのだから、今のうちに様々な可能性を試しておいて損はないだろう。別にそれで取らぬ狸の皮算用となるわけでもなく、そんな心のねじれ具合が愛おしいとも思えず、要するにここから何をやるにしろ、済ませておくべきはさっさと済ませ、次の何かを待っている程度には心の余裕を確保しておきたいということだろうか。そうなる前にポシャってしまえば身もふたもないわけだが、たぶんそうはならないような予感がしているのだろうし、そんな予感がしているのだから、それと頼りとして何かを試す以外にはやりようがないのだろう。それで何がどうなるとも思えないが、それで前進しているような気がするのだろうから、今はそれをやり続ける以外にはあり得ないところか。実際にやり続けている気でいるようで、誰がそう思っているのか定かではないが、何かを急ぎながらも、忙しなく思いを巡らしながらも、その合間に何やら言葉を並べ、何だか意味不明で得体の知れぬ作品を連想させるような何かを構築すべく、それがこれだとは思わないが、それでも何かの兆しを伺わせる何かが含まれているのかもしれず、そんな予感を頼りとしながら、さらに作業を続け、どういうわけかここまできてしまったらしいが、ここからどこへ行きたいわけでもなく、たぶんどこかへ行ってしまうのだろうが、行った先がどこであろうとなかろうと、そんな結果を受け入れるしかないようで、今まさにそうなっているわけか。


3月6日

 何を見ているわけでもなく、闇の中で沈黙する。寒いのか。気に入らないことでもあるのかもしれないが、不問に付す。何も問えないのかもしれない。何の見通しも立っていないようだ。ではやはり沈黙するだけなのか。それしかないだろう。他に何があるというのか。何かが立ちはだかっているようだ。障害物か何かか。そうだとしたらどうするのか。避けて通るしかないだろう。別に他で何を取り返そうとしているわけではない。ここで何とかしなければならず、君はこうして言葉を記している。君でなければ誰が言葉を記しているというのか。疑念を抱いているわけではない。では何をどうしたいのか。それで道が切り開けるとでも思っているわけか。すべては過去の思い出に還元されてしまう。それでかまわないのではないか。そう思っているはずだ。さっきまで眠っていたらしい。心がここにはなかった。今から何を目指そうとしているのか。もうだいぶおいていかれてしまった。すべての目算に狂いが生じていて、どうにもこうにも収拾がつかなくなる。何かが破綻する前兆なのだろうか。すでにそうなっているのかもしれず、君が気づいていないだけかもしれない。そしてそこから何かが生じていて、その生じている何かが疑念となるのだろうか。だがそれで何を述べているつもりになれるのか。荒野を突き進んでいるわけではない。別にタイタニック号に乗っているわけでもないだろう。ではこの先何が沈没するというのか。だからすべてが目論見通りとなり、君は破滅する。君とは誰なのか。たぶん破滅する誰かが君になるだろう。だから今の君が破滅するわけではなく、どこかにいる君が破滅するときには、ここにいる君は君ではなくなり、君は君でなくなることによって破滅から逃れるわけだ。だがそんな都合良く事態が進行するのだろうか。だからそうなるように策略を巡らして、他の誰かを罠にはめなければならず、君の身代わりとなる未来の君を捜し出して、犠牲者に仕立て上げなければならない。果たしてそんなことが可能だろうか。まだ見ぬ誰かに思いを巡らして、その誰かに関する物語でも構成しようとしているわけか。嘘に決まっているだろうか。それでもかまわないのか。ならばいい加減なでたらめでも語っていることになるわけか。もちろんそれでもかまわないと思っているのだろう。誰かがそう思っているようだが、それが君である証拠がどこにあるというのか。

 どうもおかしな具合に話が展開しているようで、どこかで何かがこじれているらしい。しかし何が最大の危機だったのだろうか。なぜ君はそれを乗り切ってしまったのか。それともまだこれからが危機の本番で、君はそこでひどい目にあって、二度と立ち直れなくなってしまうのだろうか。要するに破滅するわけか。なぜそう思うのだろう。何だか気持ちがふわふわしていて、リアリティが伴わなくなっているようだが、これで大丈夫なのか。何かを見失っているのではないか。そしてそれが何だかわからないまま破滅してしまうわけか。でも現実はどうなのだろう。どう考えてもうまく難局を切り抜けている。攻撃を加えている側も相当焦っているはずだ。いくら嫌がらせをやってもうまくいかず、その度ごとになぜか想定外の出来事が起こってしまい、それで何事もなかったかのように事態が推移してしまうのだ。かなりの打撃となっているはずが、どういうわけかそんなことも織り込み済みの成り行きになってしまう。いったいそれはどういうことなのだろうか。もともとまだいくらかの余裕があったわけで、その余裕の範囲内で小波乱が起こっているだけで、相当な被害を与えたと思っていることが勘違いに他ならず、その辺で目算を誤っているのだろうが、それがまだわかっていないらしく、要するに攻撃を加えている側が世間知らずなのだろうか。あるいは世間や世界に対する認識が浅すぎるのか。何だかわからないが、どうやってもうまくいかないことは確かなようで、うまくいったとしても、大したことにはならないのではないか。どう考えてもその程度のことに他ならないようであり、この世界自体が浅はかな人たちの認識を遥かに超える何かによって制御されているのであり、彼らの思いもよらぬところで不可思議な作用が働いて、ぬか喜びを誘発させて、油断を生じさせているのかもしれず、その油断が逆に災いを招き寄せていることを気づかなくさせているのかもしれない。では彼らの方がいずれ破滅する運命なのだろうか。要するに物語的には彼らが君になり、君が破滅するという予言が、彼らが君になることによって実現してしまうわけか。しかしそんな予言が誰によってなされたのだろうか。それは誰にとっても身に覚えのないことか。その辺がよくわからないのだろうが、ともかく事態はそんな成り行きになりつつあるようだ。


3月5日

 なぜかうんざりしているようだ。何だかごちゃごちゃした経緯を経てここに至ったようだが、結果として君は何を得たのだろうか。人は周りから様々な影響を受けながら存在している。そんなありふれた認識を今さらながら抱いて、それがどうしたわけでもないと思いつつも、結局単純化すればそれだけなのだろうか。単純化しなければいいではないか。状況の様々な段階で、それに応じた対処の仕方があるのかもしれないが、そんなことを今さら肝に銘じているわけでもないだろう。呆れてものも言えなくなるか。そんな思いに逆らって物申して、そしてどうなったのだろうか。何がどうしたわけでもなく、人がその辺で右往左往しているだけか。まったく本気になれない。それほど馬鹿げているわけでもないのに、何となく冷めた気分でそれらの成り行きを眺めている。損得勘定を超えてそんな思いが募っているらしい。せこく立ち回ってわずかな利益を得て、それで喜んでいるわけでもない。だが別にばくちに打って出ようというわけでもない。何もしていないわけではないが、大したことはやっていないというわけか。それでかまわないではないか。世の中のすべてがくだらなく思えてくるわけでもないのだろうが、それに近い印象を抱きながらも、それを否定して、そんな思いを振り払うしかないとも感じられ、少しは前向きに生きてゆかないとこの先ヤバいのではないかと思い、それなりに気持ちを切り替えようとしているみたいだが、今ひとつしっくり来ないようだ。厭世観に心を支配されているのかもしれないが、それは昔からそうだったはずだ。別に心を入れ替えて今から何を追い求める気もないくせに、前向きも何もありはしないか。曇り空の下でありふれた街並を眺めている。しかし夢を追い求めるとはどういうことなのだろうか。君はすぐさまそれをくだらないことだと否定できる。否定する理由などないが、何となくそういうやり方が嫌なのか。そんなことを主題とした物語を嫌悪しているわけか。人は人で様々に生きていて、それらの生き様に関心を抱けないのだろうか。今ある現状を変えるべく努力しているのだろうが、脇目も振らずひたすらがんばる姿が尊ばれ、マスメディアが盛んにそんな姿を伝えている。やはりそうならなければならないらしいが、なぜそんな姿を演じたがるのだろうか。それは人が動物だからか。エサを求めて動き回り、繁殖の機会をうかがい、増殖と死滅を繰り返す。

 何が馬鹿げているわけでもないだろうが、何事も単純化すれば馬鹿げた結果に至るようだ。それでかまわないのだろうか。それで済んでしまえばそれに越したことはない。そこに至る必要すらないのかもしれない。そんなことに関してあまり考えるのはおかしい。たとえ性根が腐って心がねじ曲がってしまっても、それでも生きていけるのだろうから、それでいいわけだ。哀しいことかもしれないが、そんなふうになってしまう人などいくらでもいるはずで、たぶんまともな神経の持ち主なら、そうならないように努力すべきなのかもしれず、君も何とか寛容の心を養ってゆきたいようで、たとえ嫌なことがあっても、そうなる一歩手前で耐えているはずだ。だがそれがどうしたわけでもないようで、やはり人それぞれなのであり、はらわたが煮えくり返っている人に何を諭したり諌めても無駄だとは理解できる。中にはそうなるようにもってゆきたいような人もいるらしく、そんな人を怒らせて喜んでいるような人に、何を言っても無駄だとは思うが、そういう攻撃的な性格て固まっている人が、身の回りにいると感じられること自体が腹立たしく、何かにつけ神経を逆撫でされているようで我慢がならないのだろうか。そういう思い込み自体が精神的なストレスの原因なのだろうが、嫌な世の中だと思ってしまうのも、そういうところからきているのだろう。そういう世の中に嫌気がさして、山奥で自給自足の生活を夢見る人の気持ちもわかるのではないか。ともかくそうなってしまう原因もいろいろあって、様々な事情から根性がねじ曲がった人たちも最終的には救われなければならず、そのために宗教など癒しのシステムが存在するわけで、年老いてからそういうものにのめり込んでしまう人の気持ちもわかるだろうか。しかしそれでもそんな世の中で生きていることに変わりはないわけで、そう思ってしまうと何だかやりきれない気分になってしまうようで、そういうもめ事の渦中から遠ざかり、しばらく目を背けていてもいいように思われてくるが、いつまでも現実逃避しているわけにも行かず、そんな成り行きの中へ分け入っていて、それなりの役割を果たさなければならなくなり、また嫌な思いをすることになってしまうのだろう。この世の中に生きている限りは、現実離れした趣味の世界にも宗教の世界にもあまり長くは浸っていられないのだろうが、まともな神経の持ち主ならばつかの間の癒し程度で我慢すべきなのだろう。


3月4日

 またこんな時間だ。これから何をやろうというのか。また言葉を記すだけのようだが、終わりまでたどり着けるかどうかはわからない。そんなことは誰の知ったことでもないが、君も何を期待しているわけでもなく、何を記しても同じようになるだけで、それで何がどうなるわけでもないのは承知の上で、懲りずに言葉を記そうとしているのだから、それはそれでそういうことでしかない。今回も何に関しても無関心を装うつもりなのか。何が問題となっているわけでもなく、政治がどうなっているとも思えず、経済は相変わらずで、この先好転するとしてもたかが知れている。未来に向かって何をやるにしても、たぶんやる前から幻想に浸ることはできるだろうが、実際に何をやっても不具合続出で、山積みの問題をひとつひとつ解決しながら、何かを成し遂げるために悪戦苦闘しているうちに人生が終わってしまい、後から思えば、その悪戦苦闘こそがその人の人生だったということになり、それでかまわないなら、そんな結果を受け入れるしかない。君はそれでかまわないのだろうか。君も悪戦苦闘の最中なのか。幻想など抱く余裕はないらしい。それでも何かをやらなければならないのだろうが、虚しくならないか。なったところで抜け出られるわけもなく、否応なく対処していかなければならず、それがうんざりするような労役なのか、はたまた生き甲斐を感じさせる仕事なのか、どちらでもかまわないのかもしれないが、とにかくそんな成り行きのただ中で、そんなことをやっている自らを突き放して眺めつつ、ご苦労なことだと思いながらも、もっと何か愉快な気分になれないものかと無い物ねだりしてみるが、やはり現実は甘くないようで、わけがわからないうちに巻き込まれているそれらの現象に翻弄され、不快な思いをしながらも、何とか正気を保ち、できればそこから抜け出たいと思うが、ままならないことは承知していて、そんな状況に押し流されながらも、その所々で姿勢を制御して、何とか自分のペースに持ち込もうとしているようだが、やはりままならないようで、結局は偶然の巡り合わせを期待するしかないようで、今もそれを利用して言葉を記している最中なのだろうが、たぶんそれがどうしたわけでもないのだろう。君はそれでかまわないと思うしかない。

 実際にかまわないのではないか。以前と同じような内容でもかまわない。それしかできないのだから仕方がない。そんな成り行きに逆らったところでどうなるものでもなく、また言葉が記せなくなるだけで、それを無理に記そうとすれば、空疎な内容になるしかない。今記しているそれがそうなのか。まだマシな方かもしれず、少しはまともな内容になっているのではないか。時には気休めも必要で、自己否定も少しの間は封印しておかないと、気が滅入ってふさぎ込んで、やはり何も記せなくなってしまうだろうか。それでもかまわないのだろうが、そうやっていくら自分を追いつめても、憂鬱以外の何がもたらされるわけでもなく、そうならないためにも記述の継続が欠かせないのか。そう述べて何を正当化したいのか。自らの怠惰な歩みを肯定してみても虚しいだけか。また自己否定の連続となりそうで、嫌になってしまうが、それ以外に何をもたらせるのだろうか。そんな言葉の連なりでは不満なのか。不満だろうと何だろうと、そこにもたらされているのはそれしかない。ではそんな現状を受け入れるべきなのか。すでに受け入れているではないか。それ以外には何も記せないと思っている時点で負けか。では己の敗北を認めよう。誰が己なのかわからないが、とりあえずはそこから出発しなければならず、いったん出発したら、もっと違う成り行きを求めて右往左往しなければならず、そうしながらも新たなやり方を模索して、早くそういうやり方を確立して、そちらへ移行していかなければならない。君にやり方を変える機会が訪れるだろうか。君でなくても、他の誰にとっても新たなやり方を見出せるだろうか。なぜそれを求めているのか。今までやってきたことがマンネリ化しているから、そういう方面で模索が求められているのだろうか。だが実際には誰が何を求めているのでもなく、そこにいるほとんどの者が同じような物語を求め、それを享受するのを楽しみにしているのではないか。何だか苦労の末に何かを会得して、それを利用して現状を打開して、かつて自らが夢見ていた状況を実現させたいのではないか。結局のところそんなことでしかなく、それが紋切り型の結末であろうとなかろうと、たぶんそういう結果を受け入れたいのだろう。


3月3日

 何かが足りない。ようやくその気になって言葉を記し始めるが、いったい何を記したらいいのだろうか。それだからだめなのか。君には冗談が通じないらしい。今はそれでかまわないのだろう。ここから何を見ているわけでもなく、記された言葉の断片が画面上に並んでいるだけだ。別にそれが走馬灯のように見えるわけでもない。その意味もわかりはしないのに、君が見ているのは幻影に過ぎないと思う。実際には何が見えているのでもなさそうだ。目が疲れているようだが、また眠くなり、結局眠ってしまうのだろうか。何もせずにそれはないだろう。言葉を記しているのは誰なのか。寝て起きたら翌朝だ。そんなことには目もくれず、仕事をしていれば夕方になり、またいつもの夜がやってくる。今日もただ言葉を記しているだけか。昨日は眠ってしまったではないか。相変わらずつまらない内容だ。わざとそうしているのだろう。寒いのか。まだつまらぬ冗談は言っていない。これからだろう。しかしなぜできないのか。これで三日目か。三日経ってもここまでしか記せなくなってしまったらしい。ついにスランプに陥り、やがて何も記せなくなってしまうのか。そうなったら怖いのか。それはわからないが、とりあえずここまでやってきたことを見つめ直すいい機会なのかもしれず、これからいったいどうしたいのかわかりたいところか。わかるはずがない。そう一方的に決めつけるのはおかしいだろう。おかしいだろうが、おかしいからこそ言葉を記しているのではないか。それも何の根拠もない決めつけだ。だが何かを決めてかからないと、何もできなくなってしまい、強引であろうが無理であろうが、言葉を記していけば何かしら結果を得られるはずだ。それがたとえ無内容の結果であってもかまわないのではないか。とにかく何か記して、それで気休めや気晴らしになってくれればかまわないのではないか。君の認識では、記述とはその程度のことなのか。だからそうであってもかまわないと思っている。アレルギー体質なのだから仕方がない。だがそれは理由になっていないのではないか。

 意味不明にもっていこうとしているのが見え透いているか。だからそうであってもかまわない。そういうやり方の中からしか言葉を記せないのだから、そうするしかないのではないか。今はそれでかまわないと思うしかない。それでかまわないのなら、そんなことを記していればいいわけか。何がわけでもないが、君はそこから言葉の連なりを導き出そうとして、実際にそう述べているわけだ。それはどういうことなのか。そういう問いを発して、いい加減な答えを導き出すための方法なのかもしれず、そういうやり方によって、それらの言葉の連なりは成り立っており、それ以外の内容になることはなく、ひたすらそんなことが繰り返させていて、それが君をうんざりさせているのだろうが、いくらうんざりしてもどうなるわけでもなく、ひとたび言葉を記せばそうなってしまうのだから、もうそれを続けるしかし方のない状況なのかもしれない。君に他の選択肢などありはせず、今は黙ってそれを続けるしかないのだろう。続けているではないか。嫌々続け、うんざりしながらも同じような言葉を記し、嫌悪感を募らせ、ますます泥沼にはまってしまう。強がって薄ら笑いを浮かべても無駄だ。いったいそれ以外に何ができるというのか。たぶんやらなければならないのだろう。同じような内容を記しながら考え続けなければならない。ひたすら考えているではないか。そのつもりであり、いつまで経ってもそのつもりなのだろう。それ以外のつもりなどなく、つもりもなくてもそのつもりなのだ。言葉で記されているのはあくまでもそのつもりで記している内容であり、それ以外にはあり得ず、それが嫌だろうが何だろうが、強制的にそのつもりで言葉を記さなければならない。それはどういうことなのか。そう問うのもそのつもりだからか。そういうことであり、それは君がそのつもりでひたすら言葉を記していることの証しとなり、一方でそんな狂態を黙って眺めている誰かがいて、それを肯定も否定もせずに、ただ眺めているわけだ。君はそんな言葉が記された画面を眺めても何とも思わず、ただああそうかとうなずくばかりか。とても正気とは思えないだろうか。


3月2日

 誰かが暇つぶしに書物を読んでいる。なるほどそんなところで出会いがあったわけか。病ではない。君には無関係のような気がするが、なぜそうなってしまうのか。爪を切るのを忘れていたようだ。昨日の夕方に伸びすぎた爪を切り、そして今はどうなったのか。いつもの意味不明か。何となく言葉の運びが性急すぎるような気がする。そんなふうに語る必要はないが、何も語っていないではないか。急に何も語れなくなって、どうしたのだろうか。わからなくなってしまったのだろう。それはわかっている。でもわからないなりに語ってきたではないか。それもそろそろ限界か。ではわかっているのにやめようとしないのはなぜなのか。限界を乗り越えられるとでも思っているわけか。何を思っているのでもなく、これまでもそんなふうに語ってきただけだ。要するにそれは予定調和の自問自答か。わかっているではないか。いつでも自分独自の何かを得たいと思っている。それはややこしいことだ。なぜそう思うのだろうか。時が過ぎ、やがて何か悟る機会でも訪れるのだろうか。その時がきたらわかることか。では待つとしよう。何を待っているのかわからなくなってしまうのかもしれないが、とにかく待つしかないらしい。無理なのだろうか。言葉を記すのが無理になって、他に何をやる気もなく、寝てしまうしかなさそうだ。夜だから仕方がないだろう。君は疲れている。誰も君を助けてくれない。助けようがないからそれは仕方のないことだ。助けられるようなことではない。たぶん何が差し迫っているのでもない。アレルギー体質なのだから仕方がない。そして何も語れなくなり、切羽詰まって書物を読み、あまりおもしろくないと思い、それでも無理して読み続け、何かを得ようとするが、得られるはずもなく、あるのは無名の人々が普通に生きている様子だけか。それがこの世界の有様なのだから、何が興味深いわけでもない。たぶん興味深い内容だったのだろう。気まぐれなのだろうか。面倒くさいのであって、何を考える気も起こらないのだ。ならばそのまま眠ってしまえばいいことか。

 こらえきれずに何を思うわけでもなく、腕のしびれを気にしながらも、ベッドに横になり、明かりを消してしばらく考え込むが、目が覚めたら翌朝になっているはずだ。嫌になってしまったのだろうか。気力が足りないようだ。また遅れてしまったらしい。どうも言葉を記す気になれず、窓から外を眺めている。何かが流動的に推移しているようで、気持ちがどこかへ向かうつもりもない。この感覚は何なのだろうか。何かが違っているのはいつもの通りだろうが、それが何なのかわからないのもいつものことか。やりたい放題やりたい人が後を絶たない。そうやって権力を握りたいのだろうが、互いに己の自己主張を戦わせたいのだろうが、何となく心が退けてしまう。ともかくうまく立ち回って、戦わずして自らの主張を通したいのだろうが、どうも善良な市民という幻想を追い求めるわけにはいかないらしい。人それぞれで社会的な立場というものがあり、それに伴って利害が絡んでくると、たちまち利己的な行為に及んでしまう。そして何かのきっかけでそんなことがエスカレートしてくると、場合によっては殺傷沙汰になったりするのだろうが、そこまで行かなくても怨恨が残ったりして、気まずい関係のまま、長い間隣近所でいがみ合いになることなどありふれているわけか。そんな一見平和な市民社会に嫌悪感を抱いている誰かが、やはり何かのきっかけからそういうフィクションを構成しようとしているのかもしれず、出来上がったそれが小説と呼ばれ、そんな小説をまた別の誰かが読み、ありふれた感慨を抱き、それが気晴らしの娯楽に過ぎないことを自覚しながらも、そこから何かを得て、その得た何かをうまく立ち回るための糧として使いたいのかもしれないが、そう都合よく事が運ぶとは思えず、何だかその辺で夢から覚めたように感じられ、そんなどうでもいいことについて何か述べている自らを持て余しているようで、だがそんな感想も織り込み済みでフィクションの一部となり、全体としてそれらが作り話を構成しているのかもしれず、それについて何を思ってみても、その思ったことがすでに記されていて、君は文章に記されていたことを思っているだけの、やはりそんな物語の登場人物に過ぎなくなり、そんなことを思っているうちに、徐々にリアリティが希薄になってしまうのだろうか。


3月1日

 何かをこねくり回している。なぜやらないのか。やれないのではないか。できない相談か。また書物を読むつもりらしい。それで何かわかるのだろうか。読解力のなさがわかるのか。それもあるだろうが、他に何かないと寂しいのか。別に何を隠しているわけでもない。でも依然としてわからないままだ。なぜかわからない。何がわからないのかわからない。しかしなぜそこから出て行かないのだろうか。無理なのではないのか。完全な抜け殻になれないようだ。コーヒーがまずくなる。不機嫌なのだろうか。またどこかへ外れているわけではない。ここからやる気を出して何とかするつもりなのだろう。確かに正念場だが、虚無と戦えるはずもないか。別の何かと戦っているのではないか。フィクションの中ではそうだが、たとえその戦いに勝ったとしても、それらのすべてを所有できるわけではない。だが漫画の中ではすべてを支配したい輩が登場する。その強大な力に立ち向かうのが我らが主人公というわけか。それはありふれた成り行きだろうか。そうなってしまうのだから仕方がない。でも君とは無関係だ。君はどこかにはまったまま身動きが取れないようで、それで何を支配しようとしているわけでもないらしい。でもなぜそう思うのだろうか。それが違っていることはわかるようだが、なぜ違っているのかその理由がわからない。それは空間だ。時間感覚が欠如していて、君はそこで知識を得ようとする。何かを知りたがっているらしい。そこに取り残されてしまうのが恐ろしいのか。すでにそうなっているではないか。結局のところそうなるしかないらしい。それでは道端に転がっている石ころと同じことか。何が同じなのだろう。偶然にけり飛ばされて、側溝に転がり落ち、見えなくなってしまう。誰がそれを探しているわけでもなく、君が見つかるように祈っているわけでもない。なぜ祈るのか。それは何かの宗教か。でたらめに拍車がかかっているようだ。アレルギー体質なのか。極められるようなものではない。だからそこから遠ざかることさえできないのか。何を述べているのか意味がわからない。相変わらずのでたらめなのだろうか。そうであってほしいか。なぜそう思う。とりとめがないようだ。このままではまともな内容など望めそうもない。たぶん違っているのだ。病んでいるのだろうか。それもありそうだ。できないのだから仕方がない。何かがどこかへ行ってしまいそうだ。

 どうにもならなくなり、何も収拾がつかなくなる。止めどなく出てくるのは誰かの妄想に違いない。どうやらもうしばらくおとなしくしていた方がよさそうだ。花粉症に拍車がかかり、気分は最悪か。そんなはずがない。では何を思ってそんなふうに語ろうとするのか。何かが消耗している。疲れているのだろうか。どこをほっつき歩いていたわけではない。今誰かが戻ってきたところか。ならばこれから何をやろうか。今まで語っていたのは何だったのか。別に何でもなかったらしく、ただ言葉をでたらめに並べていただけだったのか。だからそんなはずがない。今さら何を語っているのか。何も語ろうとしていなかったのだろう。もうだめだとあきらめていたはずだが、でたらめでもかまわないから、とりあえずは適当に言葉を記して、何かを語っているように見せかけたいのだろう。そのつもりで言葉を記してきたはずだ。そしてなぜか知らないが、ここまで記してきたようで、あと少しで届きそうな気になっているようだが、何をどこへ届かせる気なのかわからない。そういう話ではなかったはずだ。何もできないとは思えない。確か他の語り方があったはずで、それをここで試そうとしていたはずだ。その話はどこへ行ってしまったのか。今のところは入力が見当たらず、意味のない何かが出力されるばかりで、それは偶然の巡り合わせだと思うが、その巡り合わせがないと、ここまで来られなかったはずだ。そしてまだその先があると思っているようで、勘違いもいい加減にしてもらいたいところだが、やはりいい加減に言葉をつなげて文章を構成しようとしている。なぜあきらめないのだろうか。それ以外に何もできないからか。ではそれもやめてしまったらどうなるのだろうか。完全に廃人化してしまうか。それでも仕事はしているのだろう。それは言葉を記しているのとは別人だろう。またそんな嘘をついて何かをはぐらかそうとするが、意味不明に変わりはない。なぜなのか。だめなことがわかっていて、あえてだめなことを記している。もう無理なのではないか。ではやめたらいい。そうやっていくらでも記せるからだめなのか。それがわかっていながら記し続けている。何だか終わりの予感がしているのだろうが、まだ記して続けているらしい。おかしな気分だ。


2月29日

 人は衝撃を求めている。確かにそうだ。ところでどこでそれを確かめたのか。漫画でも読んでそう思っただけか。他に何があるのだろうか。人は金儲けを企んでいる。中には大損した人もいるのではないか。だからそこから何がわかるというのだろう。人それぞれで、何か適当なことをやっているというわけか。時には互いに連携したりしているのだろう。それで何をやっているのか。何かをやっているに違いない。少なくとも何もやっていないわけではない。くだらぬことを思っているのかもしれない。君がそう思っているのではないか。雨が降っているようだ。朝から雪だったはずだ。雪が溶けているのではないか。心も溶けかかっている。唐突にそんな表現を思いついたが、脈絡がない。関係ないのだろう。残り物には福があるそうだ。ピアノが何を思い出しているのだろうか。メロディを思い出しているそうだ。心が何かに流されているようだ。それは聴いている曲かもしれない。またわからなくなってきたようだ。たぶんわからないままなのだろう。琴線に触れられないらしい。なぜわからないのだろうか。自滅への道を歩んでいるのかもしれないし、そんなところまで探ろうとしなくてもいいのかもしれない。興味がないと言えばそういうことだ。誰がやっていることも正気でやっているとは思えないのかもしれず、馬鹿げていると言えばそうなのかもしれない。だがなぜそう思われてしまうのだろうか。普通ではないからか。何事もやり過ぎは良くないらしいが、やり過ぎてしまうのが人の業なのかもしれない。君は呆れているのだろうか。誰でも呆れるようなことだ。呆れるほどに業が深いのか。まあありふれていると言えばありふれている。そんなことをやれば、きっと後で報いを受けることになるとわかっているのに、要するにやりたい放題なことを平気でやっている。まったく悲惨なことかもしれないが、その悲惨さがやっている当人にはわかっていないらしいが、たぶんそれでもかまわないのだろう。わからないままでまったくかまわないのだ。わからないまま一生を終えてもいい。本当にそうなったとしても、それは仕方のないことだ。それはそういうことでしかない。

 いい音色だ。チェロでも聴いていたのだろうか。穏やかな気持ちになる。それは嘘かもしれないが、何となく虚しい気分でいるのかもしれない。努力は無駄に終わるものか。それでもかまわないと思わなければならないのだろうか。気休めに時計の時刻を合わせてみる。それの何が気休めなのか。人の醜い心を感じ取ってしまったのがそんなに嫌か。別にそれをどうしようと言うのではないし、実際どうしようもできない。でも残念ながら君の方が得をしているのではないか。結果的にはそういうことだ。誰に後ろ指を指されることもなく、うまくやり抜けようとしている。本当にうまくいくのだろうか。今のところはうまくいっていると思っているだけで、後から思えば、それほど得をしたことにもならないのではないか。別に損得勘定だけが重要なのではなく、たとえ無駄に大金を使っても、それで気が済めばいいのではないだろうか。そういうことなら何も他人を悪く言うことはないだろう。あれはあれでああいうことなのだろうから、もう済んでしまったことを後悔しても仕方がない。君は君でうまいきっかけを探り当てたはずだ。そしてそれを利用して今に至っている。だから何も後悔していない。そういうことでかまわないのではないか。実際に何を根に持っているわけではなく、かえってすっきりしているはずだ。そんなことでしかない。ではなぜそんなことを述べているのか。他に述べることがないからそんなことを述べているわけか。それも真実には違いない。だがそれにしても退屈を持て余しているのではないか。この世界では何が起きているわけではなく、何かが起きているのだろうが、たぶんそのほとんどが君には関係のないことだとしても、ニュースでも見れば、それらの無関係な出来事にも関心を持つのだろう。昔ニュースでそんな出来事について多事争論とか言って何か語っていた老人がいたが、あれは何だったのか。もう忘れてしまったのかもしれない。歳月の経過は残酷だ。何も残りようがなく、忘却作用によって何もかもが消え去る。別にそれがきっかけになったわけでもないのだろうが、気晴らしに百数十年前の小説など読んでみれば、何か心に残るような何かに出くわすだろうか。まさかそれでフロベールの『感情教育』などを読んでみる気になったわけではあるまいが、それも冗談のたぐいなのか。


2月28日

 誰かは執拗な攻撃に晒されているわけか。何かにつきまとわれ、うんざりしているのだろうか。こうなったらこうなるしかないだろう。それだけのことであり、他に何があるわけでもなく、今は黙って言葉を記していればいいわけか。確かに何がどうなっているわけでもない。記された言葉が君を苦しめている。そういうことなのであり、それをやめない限りはこれからもそういうことになる。かなり馬鹿げているだろうか。そう思うなら確かに馬鹿げていることになるのだろうが、そんなことを平然とやっているのだから、やはりそれはそういうことでしかないのか。そんな経験が何になるとも思えないが、とりあえず経験しなければならないようで、馬鹿げていると思いつつも、そんな世の中なのだから仕方がないのだろうし、割り切れない思いを募らせながらも、何とかこらえているのだろうか。たぶんそれの何が虚構なのでもなく、それらのすべてが現実に起こっていることに違いないが、そういうことをこれからも目の当たりにして、何を思うこともなく、ただ嫌な感じがしているだけで、それ以上にどんな思いに至ることもないのだろうが、要するに不快なのだろうか。そんな出来事が君に何をもたらしているのか。誰かは音楽を聴いている。そうなるしかないと思うしかないようだ。人は何をどうしたいのだろうか。現状を何とかしたいのか。結局やっているのはそんなことばかりで、他に何もありはしない。不快な人々は不快なことをやり続け、そんな不快さのただ中で生きてゆくしかない。そんな人々の人生が歴史という幻想を形作っているのだろうか。悲惨なのかもしれないが、悲惨だろうと何だろうと、悲惨な境遇をバネとして、成り上がろうとする人もいるのかもしれない。だがそれも大したことはない。そう思えばそういうことだ。そうではないと思えばそういうことにもなるのだろうが、現状ではとてもそうは思えないのはどういうわけなのか。はっきりしたわけがあるわけでもないのか。わけなどどうでもよく、ただそんなふうにして事態は推移してゆき、何となくそういうことが行われるがままに、気がつけばだいぶ時が経っていて、人も社会も様変わりしているだけなのではないか。ではそこで君はまたしても置いてきぼりを食ってしまうのか。そうなればなったで、また傍観者でも演じていればいいだけか。

 空は相変わらず晴れている。今日のところはそのままか。午後には曇ってくるはずだ。そして明日は雨か雪でも降るわけか。天気の移り変わりと時代の移り変わりと社会の移り変わりの間にどんな相関関係があるとも思えないが、そんなことを考えていれば暇つぶしにでもなるのかもしれず、いい加減なこじつけでおかしな説でも唱えてみれば、何となく愉快な気分になるのかもしれない。君はそれによってどんな利益を得るのだろう。誰かを詐欺かペテンに引っ掛けようとでもしているのか。そんなはずはないと思いたい。だがなぜかそのとき発した言葉を聞き逃しているようだ。君は何を言っていたのか。なぜそう思うのか理解できない。まだそんな状況ではない。終わりの始まりが幕を開けたに過ぎないのか。だがそれが何の最終章となるわけではなく、たぶんどこにも至らないような断片しか用意されていないのだろう。言葉は君を裏切り続けるしかないようで、君の思いとは真逆の何かをもたらそうとして、今日も執拗に記され、どんどん空疎な内容を積み重ね、それらの文章を塵や芥の集積物と化し、心を遠ざけるだけ遠ざけ、この世界とは似て非なる架空の世界を夢想させようとするのだろうが、今までのところはうまくいったためしはなく、いつもどこかで現実に引き戻され、現実の何かを標的とするような言説の構築を強要されて、結果として誰かの試みが打ち砕かれてしまうわけか。何を試みていようと、そんなふうにはなりはしないし、そんな言説を構築できるならそれでかまわないし、たぶんそんな大げさなことではなく、いい加減に記されたそれらの文字列を文章だと思い込むことによって生じた幻想に過ぎないのだろう。実質的には何の中身もない。少なくとも君はそう思っているわけだ。他の誰が思っているのだろうか。虚構の物語の中では何も思っていない。別にフィクションの中で問いかけているのではない。誰も問いかけていないはずで、誰に向かって問いかけられているのでもない。もう無意味な問いは退屈なだけか。それが紋切り型だと思うわけか。だから何なのだろう。ひたすらそんなことを述べている。


2月27日

 それからどうなったのだろう。その件については片がついたのか。わからないがそういうことになりそうな気配はする。だからといってどうなるものでもないだろう。君は君で君のままだし、誰かもひたすら言葉を記そうとしているまでのことで、そこから物語など奏でられるわけでもない。いつまでもどこまでも話は平行線をたどるしかないだろう。いったいそれ以外にどんな可能性があるというのか。今回の件で少しは肩の荷が下りたと思っているわけか。別に何を追求しているわけでもないだろう。この世界はこの世界であり、誰かがいくら言葉を記したところで、状況が好転するとは到底思えない。相変わらず人々はいがみ合い、自らの思い通りに事が運ぶように、あれこれ勝手に策略を巡らし、さらに事態を込み入らせ、もう何が何だかわからなくなるほど複雑怪奇の様相を呈しているはずだ。別にそのすべてが計算通りのわけがなく、常に想定外の事態に変貌しているはずで、君がいくら罠を仕掛けても、それに引っかかるのは雑魚ばかりで、そこから何がわかるわけもなく、状況など把握できるはずもなく、途方に暮れさせるような結果しかもたらされず、それでうまく立ち回ったなどと思うのは勘違いもいいところか。それでもそう思わざるを得ないのではないか。そう思い込んでいないと気が狂いそうか。それほどのことでもないだろうが、たぶん影はこの時を待っていたのだろう。自らはうまくやったと思っているらしく、澄ました顔して自然に振る舞っている気でいるらしいが、ふとした拍子に思わず顔がゆるみ、心の底からわき上がってくる喜びを抑えきれなくなる。では有頂天状態なのか。そうだとしても決して手の内のすべてを明かしてはならないらしい。たぶん本当は違うのだろうし、実質的にもそれとは似て非なる状況となっているのかもしれず、それらを取り巻く様々な関係の中で、もたらされた結果のどれが良くてどれが悪いと見なしても意味はなく、すべては虚しいことでしかなく、自分ではうまく立ち回ったと思い込んでいても、要するにそれはその場の状況に踊らされているに過ぎず、どこかに客観的な視点などあるわけでもないだろうが、たぶん実質的には元いた地点から大して移動していないはずで、そこで何かを成し遂げたと思っても、それはそれがどうしたわけでもないような何かでしかない。事態は何も変わっていないわけだ。

 それでも何かが変わったと思い込みたいわけで、君は何とか以前とは違う光景の中で生きていると実感したいのだろうが、そういう思い込みが実質を伴うことはなく、要するに幻想を抱いているわけなのだろうが、たぶんそうなるより他はあり得ないのだろう。できることなら心をその場から他のどこかへ移したいのだろうが、場所を変えていつもとは違う角度から以前と同じ風景を眺めても、何だか代わり映えしないような気がするのだろう。そういうやり方が間違っているのだろか。では他にどういうやり方があるというのか。他に何ができるというのか。またそれを誰が模索しているのか。答えなど出てくるわけがない。その場にある何もかもが君を裏切っていて、決して君を助けようとはしないだろう。君がもがき苦しむさまを見ながら喜んでいるわけか。まさか現実はそれほどまでに意地悪なのだろうか。いったい君が何をやったというのか。真面目に働いて何が悪いのか。たぶんそういう成り行きならいくらでもありそうだが、まったくこたえていないのだろう。それがどうしたとうそぶくしかなく、それが周囲の反感を呼んでいることも無視しながら、さらに独りよがりになって何かをやり抜こうとしている。実際にやり抜いていると思い込んでいて、これからも自分なりにそういう努力を継続させて、何らかの自己満足を得ようと心がけており、たぶんさらに深刻な事態を招いてしまうのだろうが、それでも思い通りの結果に至ったと思い込みたいのだ。君はそういう意志に支配されている。誰でもない君が君であり続けるためには、是が非でも譲れないこだわりがその辺に渦巻いているわけか。やがてそこから心が抜け落ちてしまうなどとは夢にも思っていないようで、たぶん自らが何かの抜け殻になっても気づかないはずだ。すでに何かが形骸化した姿をしているはずで、そのうち無色透明になって、その存在すらどこにも見当たらないようになり、何かの亡霊となって、その変わり果てた姿を誰にさらすこともなく、完全にこの世から消滅してしまうのではないか。だがそれは遠からず誰の身にも訪れる宿命であり、君に限った特殊事情などではなく、要するにありふれた運命をその仮の身に背負わされているだけで、取り立てて奇怪なことではなく、それは君自身がありふれた存在であり、同時に不在であることを示しているだけのことか。だが別にそれでがっかりすることもないだろう。理由など何もないが、おそらくそれでかまわないのだ。


2月26日

 何となく気が抜けているようだ。もう何かが過ぎ去ってしまったのだろうか。たぶんそうだ。過ぎ去るべくして過ぎ去っているのだ。そしてどこからも逃れられなくなり、君はすべてを失う。だが君にはまだ名がない。それは何かの地名だろうか。今はどこを通り過ぎているところなのか。この感覚は何なのか。君が何を呼び寄せているわけではなく、あちらから何かが到来しているのだろうか。それは何なのか。病原菌かウイルスのたぐいか。わからないが、どこかで窮地に陥っているらしい。それはそれとして、何だか度胸試しをされているような気がしてくる。しかし何とも思わないのはどういうことなのか。どういうことでもないのだろうか。ただそういうことであり、何ら窮地に陥っていないばかりか、かえってチャンスが到来しているのかもしれず、今が巡ってきた機会が到来している最中なのだろうか。それにしてはおかくしくないか。客観的に捉えるならば、ピンチの連続のような気がするのだが、なぜそれを何とも思わないのか。本当の窮地に陥った時はそういうものなのだろうか。焦って右往左往しているわけでもなく、心も体も至って健康で、今も冷静に対処しているではないか。いったいこの感覚は何なのか。それとも後どれくらい経ったら焦り出すのだろうか。まさか焦り出さないまま終わってしまったりするのだろうか。そうだとしてもなおのこと恐ろしい事態に至ってしまうのか。どうもその辺が何だかわからないうちに、それと気づかないまま破滅してしまうのかもしれず、そうなったらなったでお笑いぐさになって、どこかで笑い話の種になってしまうのかもしれないが、それもそれでそういうことでしかなく、すべては通過儀礼的に通り過ぎ、時が経てば何とも思わなくなってしまうのだろう。もう当事者でさえ思い出せなくなってしまうのかもしれず、過去に何かあった程度のことで、痛みも伴わないような思い出のひとつとなり、いずれは忘却の彼方で消滅してしまう運命なのだろう。君には何もできなくなる。誰かはそれで満足してくれるだろうか。別にしてやったりとは思わないのかもしれない。それでも調子に乗って高飛車に出れば、手痛いしっぺ返しでも待ち受けているわけか。

 たぶんいくら状況が悪化しても何とも思わないのだろう。君にとってはもはや終わったことなのか。別にそこで誰が何をたぐり寄せているわけでもないだろう。何がどうなろうと、状況が悪化しようと好転しようと、どちらに転んでもそれが運命なのだろうから、君はそれを受け入れるだけなのか。受け入れられないわけがないか。確かに君にとってはどうにもできない事態だ。そこで君がどう思ってみても、どんどん状況は移り変わり、そんなことに心を奪われているうちに、気がつけば置いてきぼりを食っている。君はそこで迷子になったような気分になり、周囲を不安げに見回すが、誰が気にかけてくれるわけでもなく、赤の他人がさっさとその場を通り過ぎてゆくばかりで、そんな光景の中で呆然としているだけだろう。何もできずに立ち尽くすばかりのようで、君には他にやることが何もない。本当にそれだけのことなのだろうか。別に救われたいわけでもないのだろうから、それはそれとして、そういう姿勢でいればいいだけで、何も焦る必要はなく、焦れば焦るほど事態が泥沼化するだけで、たぶん超然としていればそれでかまわないのかもしれない。要するに気のもちようか。気休めには違いないが、それでもかまわないだろう。できれば何とかしたいのだろうが、それができないのだからどうしようもない。この期に及んでいったい君に何ができるというのか。まだこの期に及んでいないのかもしれない。ではまだその先があるわけか。その先には何が待ち構えているのだろうか。それはその先までたどり着いたらわかることだ。では今はまだそこに至る途中なのだろうか。いったいここからどこへ至るつもりなのか。もうすでに地獄なのだろうか。何かの地獄には違いないが、それがどうしたわけでもない。そうなることはわかっていたはずだ。だからこうなってしまったのだろう。では今さらどうあがいても無駄なのだろうか。それならそれでかまわないではないか。この際どうにかなってしまって、何かが通り過ぎるのを待っていた方がいい。それは避けられない事態だったのだ。では君はすでにあきらめているのだろうか。たぶんそうだ。そういうわけでそんなことをいつまでも述べている。まったく執拗に同じような言葉が繰り返し記されている。それだけのことだろう。君はそれでかまわないのか。


2月25日

 まるで誰でもないみたいだ。のっぺらぼうのようだ。何がそうなのかわからない。誰が苦難の歴史を振り返っているわけでもない。拝火教徒が何をやったというのか。君は黄ばんだ表紙の書物を火にくべる気でいる。嘘だろう。何かずれているような気がするが、おなしな言葉の並びに感動して、何かを失い、それが平衡感覚だと気づく。それも嘘だろうか。当たるはずがないか。先日買った宝くじについて述べているのか。冗談の次には何がくるのだろうか。世界平和が訪れる。なぜそう思うのだろう。どうも近頃レイカーズのロン・アーテストが出ていないと思っていたら、なぜか彼はワールドピースという名前に改名したらしく、実況のアナウンサーがその名前を出す度に笑いが止まらなくなり、怖くなってテレビを消してしまった。そういえばアメフトの選手でオチョシンコとか言うへんてこりんな名前に改名した人もいたのを思い出した。日本では漫才コンビのバカルディがさまぁ〜ずになり、海砂利水魚がくりぃむしちゅーになったりして、それがどうしたわけでもないが、そんなことを思っているのがおかしくてたまらなくなっているわけでもなく、何となくどうでもいいような気分となり、またテレビをつけてみるが、やはりワールドピースという名前には笑ってしまって、まともにバスケットボールの試合を見ていられない。どうやらもう今シーズンはレイカーズの試合を見るのは無理そうだ。そして笑い疲れてしまったようで、言葉を記す気力が失われ、なぜか短いが今回はこの辺でやめておこう。


2月24日

 もういいのではないか。しかしなぜ今さらそれなのか。そこで何をやっているのだろう。誰かが言葉を記している。それだけのことだ。ではもはや完全にノイローゼか。誰がそうなのか。そうでもないか。でもその危険性はある。君はそれについて何かの兆しを感じ取っているのだろうか。何がどうなってそうなったわけでもないだろう。でもきっとそうに違いない。わけがわからないのではないか。いつもそうなのだろう。いつでもそうであるわけがないか。それはきっと違うと思う。わけが違うのだろうか。何を述べているのか自分でもわからなくなり、嫌になってやめてしまいたくなるか。もうやめているではないか。しかし言葉を記すのはやめようがない。それは呼吸するのと同じことか。本当だろうか。実態としてはそうでもないらしい。言葉を記すのが苦しくないか。息苦しいはずだ。呼吸とは逆で、記せば記すほど苦しくなってゆく。ではもう何も記せないのか。記しているではないか。苦しくなっているのに記している。まったくご苦労なことか。本当に苦労している。馬鹿げていないか。たぶんそうだ。そういうことになっている。記している内容が馬鹿げているのだ。馬鹿げているのではなく無内容なのではないか。それもそうだが、気がつくと自問自答の無限ループになっているのには呆れ返るばかりか。だからそんなことを説明している場合ではなく、何か中身のあることを記さなければならないのではないか。それができないからこうなっているわけか。できないはずがないか。だがやっているのはそれとは違う。違うから悩んでいるわけか。いくら問うても自問自答でしかない。どこまでもそうなのだから、そこから抜け出せないことが明らかとなっているわけか。そうだとしてもなおも問うしかないのか。君が問うているのではない。それはわかっている。わかっているから誰かが語っているのではないか。だが語っている意味がわからない。なぜそんなことを語ろうとするのか。そんなこととはどんなことなのか。こんなことに違いない。要するに馬鹿げたことを繰り返し記している。それだけのことだ。それがこんなことなのだ。ではやめるべきだろうか。何か違うことを述べてみたらいいのか。悩む必要のないことを述べるべきか。言葉を記しているうちに苦しくならないようにしたい。

 しかし何がおかしいのだろうか。記すことがないのに記しているからか。そう述べて何を蒸し返しているのか。とにかくどうにかしなければならない。何か適当な話題などあるだろうか。くしゃみしか出てこないか。それでかまわないのではないか。無理して倒錯したことを述べなくてもかまわない。すでに愚かなのだから、愚かなことを述べていればいい。すでに述べているではないか。今日も昨日もそんなことの繰り返しだ。それ以外にはあり得ないのか。たぶんあり得るのかもしれないが、今のところはそれが出てこない。出てこないから困っている。そういう語り方は何も出てこないのだろう。ではどういう語り方をしたらいいのか。自問自答で自閉しているだけではだめなことはわかっているはずだ。でもいくら語ってもそのままだ。やはり心の病に蝕まれていて、語り方がその兆候を示しているのか。そうだとしたらどうすればいいのだろうか。誰がそれを強要しているのでもない。語るも語らないも、そもそも誰かの自由だろう。君はそれを眺めているだけのはずだ。なぜそうなのか。また問うのか。君は何に見放されているのか。言葉が出てこない。まだそんな嘘をついている。それだけではないだろう。今は夜なのか。さっきまではそうだった。だから今もそうだ。別に夜明けに近いわけではない。それほど何にこだわっているのでもない。だが他の何かがそれを許さないのではなかったか。影が何かにこだわっているのか。心はそうは思わない。君の影が語るはずがない。それは誰の影でもなく、君自身とは無関係なのではないか。では誰かは何におびえているのか。そんなはずがなく、きっと破れかぶれで述べていることで、要するにでたらめなのだ。抽象画を意識しているわけではない。ただ言葉が連なっているだけだ。それだけのことだと思い込もうとしている。実際にはそうではないかもしれないのに、誰かは自らが記した文章を卑下しているのか。それでも無内容に変わりはないだろう。その部分はいつまで経っても変わりようがない。わざとそうしているのではないか。まさか自然にそうなってしまうとでも思い込んでいるわけか。その辺が心の病を感じさせるところか。できればそうではないと思いたい。もうやめたいのだろうか。いつやめてもかまわないはずだ。


2月23日

 強風が吹き荒れている。昨日はそうだった。そんな表現でかまわないのか。他に何も思い浮かばない。今の君に何ができるわけでもない。誰にもそんなことはできないだろう。それは君への道ではない。聴いているのはただの曲か。何だか持て余し気味だ。ここから何が加わるわけでもない。出て行くことなどいつでも可能か。どこへ出てゆくのか。まったく意味を担えなくなってきたらしい。だから何だというわけでもない。そんなふうに語るのは良くない。どんなふうにも語れなくなり、また一段とおかしくなる。内容がおかしいのだろうか。単なる無内容だ。そこで何を見ていたのだろうか。何も見ていない。眠っていた時間帯だ。そんなふうに語るのはおかしい。ではいつ目覚めたのか。わかっているはずではなかったのか。ではまた一眠りするとしよう。どんなに言葉を並べ替えてもおかしさに変わりない。意味がわからない。何もできはしない。だからそんなふうに語るべきではないのか。未だにそれが理解できない。何を隠そうとしているのか。何も隠しきれないだろう。ただ言葉が記される。それだけのことだ。たぶん何に関連づけているわけではない。要するに意味的なつながりを欠いているのか。今日の誰かはどうかしている。君ではないからそんなことが言えるのか。何も言っていないではないか。相変わらず語っているのは誰でもないようで、そんなことを述べているうちに、また意識がどこかへ外れそうになっている。そして翌日になり、落胆の色を隠せなくなるわけか。どうしても今日という日付にならないようだ。まったく笑ってしまうが、笑える状況ではない。ともかくそんなことを述べながらも、何とかしようとしているわけだが、今のところは何ともなっていないようだ。相変わらずの無内容で、そこから抜け出せないようだ。どうしてもそうなってしまい、そうなる以外はあり得ない。そう思い込んでしまったのか。誰が思い込んでいるのか。また誰でもない誰かか。それでは話が前へ進まない。話も何もないだろう。確かにそこにあるのは話ではない。単なる文字列のたぐいか。読めなければそれでもかまわない。もしそれが読めるとしたらただの文章になるだろうか。今のところはどちらともいえない。

 仕事のし過ぎで疲れているのだろうか。休みがない。確か一週間のうちで半日だけ休んでいるはずだ。それでかまわないのだろうか。たぶんかまわないのだろう。冗談のつもりで生きているのだから、それでもかまわないはずだ。しかしフィクションの中では話が進まない。進みようがなく、フィクションの体裁を整えていないのだから、実質的に何の話にもなっていないはずだ。興味がないのだから仕方がない。唯一興味があるのは少年漫画でのバトルだけか。またそんな漫画を立ち読みしていたのか。そうだとしても暇つぶしになるだけではなく、気晴らしになりそうだ。まったく君の頭の中は空っぽなのか。それでもかまわないだろう。君はそこで何かに感動しているのではないか。漫画を読んで感動しているはずだ。毎週毎週わくわくドキドキしているわけか。きっとそうに違いない。そうならざるを得ないのだろう。感動するようにできているのだから、感動するしかない。それはある意味すごいことだ。つまらない読み物ではいけないのであり、おもしろい内容で人気が出ないと打ち切りになってしまうのだから、おもしろくなるしかなく、おもしろければ人気が出る。そういう話のはずだ。しかしそれとは対照的に、ここで記されている文章はなぜつまらないのか。つまらなくてもかまわないのだろうか。かまうわけがない。何というか、つまらないかおもしろいかの基準では割り切れないようなことを記しているのではないか。意味不明だが何かを伝えたいのだろう。その辺で当たり前のように矛盾してきてしまうのだろうが、やはり何が何だかわからないようなことを述べていなければ気が済まないようだ。その辺に漂っている違和感が伝わればいいのだろうが、どうも伝わっていないようで、ただのつまらない意味不明のままで終わってしまいそうで、それでは困るのだろうが、やはり何とかしなければならないのか。たぶん現状では何ともなっていないようで、いくら言葉を並べても、ことごとく失敗に終わっているのかもしれないが、試み続けなければ前進はあり得ないので、こうして何らかの文章が構成されるがままに、何かが推移しているようで、君がそれについて興味を持っているふうはないが、ともかく言葉が記されている。要するにそれだけのことなのだ。


2月22日

 わかっていながら過ちを繰り返してしまう。この感覚は何なのか。何か困ったことでもあるのだろうか。まだそこまで語っていない。冗談が通じないらしい。冗談ではないのだろう。大真面目で誰かと議論がしたいようだ。過去にそんな話もあったかもしれないが、今回は違う。取り立てて何を語りたいのでもないのはいつもの通りか。そうではない。そんなことを述べてみたかったのか。それも違う。ではなぜそんなことをやっているのか。同じ過ちを繰り返しているわけか。本当にそう思っているのなら、どんどん繰り返してみればいい。そこから何かがわかるはずだ。わかっているのは自らの愚かさだけか。そんなことはない。何よりもそういう問答が気に入らない。誰も何も答えていないではないか。それがおかしいのだろうか。君に何がわかるというのか。それも違っているはずだ。結局何が違うのかわからなくなり、何も語れずに同じようなことを記している。それがおかしいのだろうか。何を考えているわけでもなく、たぶんそういうことでしかないのだろう。実質的にはどういうことでもありはしないが、そういうことなわけだ。何とかなったと思いたいのだろう。でもそれで逃げ切ったと思ったら大間違いか。無理には違いない。困難に直面していて、どうにもならなくなっているのだろうが、対処しているようで暗中模索なのはいつもの通りだが、何だか疲れているらしい。述べていることが支離滅裂だ。おかしな内容であることがわかっているのに、それを改められない。どうということはないのだろうが、それが気に入らないらしく、何とか修正しようとして躍起になっている。だが焦れば焦るほど紋切り型の泥沼にはまり、どうにもこうにも収拾がつかなくなり、さらにおかしくなってしまうようだ。どうしたものなのか。やり方がわかっているのに、それを実行する勇気に欠けているわけか。別にやめればいいとは思っていないはずで、何とかしたいのだろうし、何とかしている最中なのだろうが、結局こんな具合となってしまい、いつものパターンにはまっているわけだ。冗談にもほどがあるだろうか。それもいつもの紋切り型的な受け答えか。たぶんできないものはできないのであり、あきらめてそれを押し通すしかやりようがないのかもしれない。ごり押しというやつか。

 そういうことならそれでかまわないだろう。何か他に述べなければならないことなどあるはずがない。何があるか探してみればいいのか。他人様のやっていることに口出しするわけか。そうなるしかない。勝手で無責任なことを言いたい放題というわけか。そうならないようにすればいい。でも反発を食らうことは必死な情勢か。馬鹿にするようなことを述べるからそうなる。だがそれしかできないのではないか。なぜ他人様のやっていることを褒めないのだろうか。褒めるようなことに巡り会えないのか。その辺がよくわからず、当惑してしまうようだが、上から目線で何かについて語り、要するにそういう語り方が反発を招くのだろうか。だがどうも本気でそんなことを述べているわけではなく、それも冗談の一種で、いくら反発を食らっても、まったく懲りていないのかもしれない。たぶん塵や芥のような側から述べているに過ぎないようなことなのだろうから、別に無視し得るレベルの言説でしかないのだろう。後は意味不明でわけがわからないだけで、何かのたわ言のようにしか受け取られていないのかもしれず、そんなところで妙に謙虚になったところで仕方がなく、要するに虫けらのたぐいは罵詈雑言でしか語りようがないのではないか。ではそうならないようにするにはどうしたらいいのだろうか。別に卑屈になるようなものでもないのではないか。どうやっても褒めることなど無理なのだろうから、要するに罵詈雑言的に語ることしかできないはずだ。ではそうすればいい。くだらぬ自問自答の果てにたどり着いた答えは、結局のところ自らの都合が反映した結論に達する以外にはあり得ないということか。それではあまりにも馬鹿げているだろうか。そうなるより他ないと述べていたわけだから、そうなって当然というわけか。では何のための逡巡だったのか。単なる字数稼ぎのために、ああでもないこうでもないと予定調和的に語っていたのか。それにしては無駄に語りすぎていないか。無駄に語ることがここでの本分なのだろうから、それはそれでよしとして、次回からはもっとまともに語れるように努力しなければならない。どうもそれも本気で述べているとも思えず、どうせ同じように語ってしまうような気がしてならないのだが、果たしてそれで自己満足に浸れるのか。それは無理だ。別に自己満足に浸るために言葉を記しているのではないし、では何のためかと問うならば、それがわからないと答えるしかなく、たぶんわからないから問い続けるしかなく、要するに問い続ける限りは何も終わらないわけだ。


2月21日

 どうもだんだんおかしくなっているようだ。そんな薄ら笑いを許せないのか。では何を狙っているのか。どこにも何もありはしない。何に興味を持っていたのか。ありきたりの状況でしかない。しかし何を追求しているのか。わからない。少し精神状態が不安定なのか。何だかわからないだけのようだ。さっきまで何かに見とれていたらしい。目が痛い。それにしてもひどい話だ。話でないのではないか。また嫌になってしまったのだろうか。なぜそうなってしまうのだろう。たぶん何を批判するわけにもいかないのだ。では満身創痍状態なのか。身も心もボロボロに違いない。それでも言葉を記そうとしている。呆れてしまうか。嫌になってしまったことは確からしいが、それがどうしたというのか。かなり限界のようだ。何かを思い知らされたようだ。君にはそれが嫌というほどわかっている。それで疲れてしまったのだろうか。確かに馬鹿げた話だ。しかしそんなことでしかなかったのか。所詮はそういうことなのだ。心が傷ついている。笑ってしまうだろうか。ではなぜそんなふうに思われてしまうのだろう。それは乗り越えられない何かだ。正気の沙汰でない。たぶんそういうことなのだ。どんどんひどいことになってゆくだけのようだ。真面目にやろうとすればするほど妨害が入り、結果としてやる気をなくすような成り行きになるわけだが、それでもやらなければならず、うんざりするような気持ちのままでやらなければならない。今それをやっている最中なのだろうか。昼間はそうだったはずだ。今もそうなのか。ただそれらの作業とは別に言葉を記しているだけか。では何を記しているのか。これまでと同じような内容だ。そして状況も変わらない。それで何がどうなったというのか。何かの中毒なのだろう。気が滅入っている。完全に鬱状態かもしれない。それでも言葉を記している。何だかおかしな具合だ。笑ってしまっているのかもしれない。どうやら今年も苦難の年となるらしい。君はこの状況をどうにもできない。別にどうにかできるとは思っていないのだろう。たぶんそのままでかまわないのだ。どうにもできないのだから、そうなるしかないだろう。それをどうこうしろとは言えない。

 それでも何とかなる。何ともならなければ、それで何とかなったことにしておこう。どうでもいいことなのに、本当は深刻な状況なのだろう。やらなければならないのに、何も手につかず、どうにもこうにもできなくなってしまったらしく、苦悩しているのだろうか。それともまた嘘をついているのか。嘘ではないが、嘘をついていることにしておきたいのか。ではそれも強がりのたぐいなのか。身も心もボロボロなのに、なおも強がってみせたいのだろうか。それこそが嘘か。ともかく悩みの種が尽きない。それは本当のところだろう。花粉症の季節なのも悩みの種だ。何かのついでにそう思っているのか。それが何のついでなのかわからない。わかるわけがないだろう。今のところは誰かが延々と独り言モードを続けている。内容がつまらないはずだ。それでかまわないと思いたいところだが、何とかならないのだろうか。何ともならず、どうにもならないから、こうなっているのではないか。確かにそれはそういうことであり、当然の成り行きなのだろうが、それでも言葉を記している。記せば記すほど無内容になってゆくのだろうが、やはり記さなければならず、記すべきことを記していないのに、ひたすら記さなくてもいいようなことばかり記しているのに、やはりそれでも記しているわけだ。それらは意味も中身もない記述に過ぎないのだろうか。無駄で無意味か。そうならざるを得ないのだから、それを肯定するしかないのではないか。それは一種の開き直りだ。一種でもある種でもなく、開き直りそのものか。悪い意味でもそうなのではないか。ではやめた方がいいわけか。やめられないから開き直るしかないのではないか。だからそうならないようにしなければならないのだろう。今さら無理かもしれないが、常に努力しているふりぐらいはしておいた方がいいのではないか。見え透いているかもしれないが、やっておいて損はないか。別に損得勘定でやっているわけでもないだろうが、嫌気がさしてどうにもこうにもやっていられなくなる前に、何とかしなければならず、それには現状を変える必要がありそうだが、どうすれば変えられるのかわからない。まったくいつもそうだ。すでに呆れ返っているのに、それがやめられず、いつまで経っても同じようなことばかり記している。


2月20日

 何を考えているのだろうか。何も考えていないとは言わせないか。別にそれでもかまわない。何でもかまわないのであり、とにかく言葉を記していればいいわけか。そんなはずがない。では窮地に陥っているのは誰なのか。少なくともそれは君でなく、どこかのフィクションの中で、物語の主人公が窮地に陥っているわけか。そういう話ならそれを暇つぶしに読んでみればいい。漫画の中ではしょっちゅうそうなっているはずだ。顔から汗が吹き出て、焦って自問自答を繰り返しているわけか。しかし君はそれの何を馬鹿にしたいのか。冷静になって考えてみる。別にそれでかまわないのだろう。焦る必要はない。考える必要もないか。冷静になる必要もなく、それを否定する必要もない。黙って音楽を聴いている。何がおかしいわけでもない。笑っている場合ではないか。正気ではないのかもしれないが、黙ってそれらを眺めているつもりのようだ。馬鹿げているのだから仕方がない。今はそう思うしかないらしい。どうしてもそう思えないとしたら、君は何か思い違いをしていることになるのだろうか。そうだとしてもわかるわけがない。何が違っているのかわかるはずがない。だから戸惑う必要もないのだろうか。いつもの一日が過ぎ去ろうとしているようで、誰かも仕事の最中で、他に何を考えているわけでもなく、ただ淡々と作業をこなしているはずだ。君は何を思っているのだろうか。何を待っているわけでもなく、何が起こることを期待しているわけでもない。すでに何かが起こっているのではないか。君には興味のないことかもしれないが、それが誰かにとっては重大な何かであり、成り行き次第では命取りになりかねない危険を内包しているとしても、たぶんそれは虚構の中で起こっていると見なしてかまわないのだろうか。うまく立ち回るつもりはないのだろうから、黙って見ていれば済むようなことだと思っているわけか。ある意味ではその通りに違いないが、君にはどうすることもできない。やはり黙って見ているだけか。誰かと誰かが争っている間に割って入る気にはなれないということか。たぶんそれらの出来事を何かの役に立てようとすること自体が間違っているのだ。それはそれでそういうことであり、それとは別の水準で何かが起こっているとしても、それもそれでそういうことになるのだろう。

 付け入る隙を見つけたらそこへ向かって一直線という根性がさもしいのか。それだけのことでしかないのかもしれず、何というか違和感を感じざるを得ないのだが、人は人で、そういう人などいくらでもいるのだろうが、とりあえず事なかれ主義であったり、無関心を装ったりして、心はそこから遠ざかろうとしているのかもしれない。意味がわからないだろうか。そうなるより他ない。君はそこで何について語っているのか。たぶんそういうことについて語っているのだろう。それで何とか凌いでいる。切り抜けられるわけがないと思いつつも、全面対決に至らないようにしなければならず、その辺でうまく立ち回りたいのだろうが、たぶん本気でそうしているわけではない。本気になれないからそうなってしまうのか。ある意味ではそうだ。そんな状況だと思っているのかもしれないが、かわしきれないことは明白で、無傷でいることはできず、とりあえずある程度は被害を被らないと、たぶんうまく事が運ばないだろう。その辺は何とかするとして、問題はいかにして深刻さを装うかだが、あまりわざとらしくなってしまうと見え透いた演技だと思われて、気分を害してしまうだろうから、その辺のさじ加減が微妙なところか。別にこれから改めて何をやろうとしているわけでもなく、自然に振る舞っているうちに、自ずからにじみ出てきてしまい、そんなことを悟られようとどうしようと、それはそれでそういうことでしかなく、バレてしまってもバレたままでいいのであって、居直ることもなく、逆ギレする気もなく、至って平然としていれば済んでしまうようなことでしかなく、やはりどうということはないような気がしているのだろうが、それは君が決めるようなことではない。積極的にゲームに参加しているのでもない限りは、これまで通りに黙って見物していればいいだけのことでしかない。出しゃばっていって意見するような状況とは思えない。そういえば久しぶりに暖かくなったような気がして、このまま春になってくれればありがたいのだが、どうせまた寒くなり、忘れた頃に風邪でもひいて、嫌な思いをするのかもしれない。とりあえずはそんなことで、自己顕示欲を自らの内に収めて、それとなく悟らせるつもりで事態に対処していくしかないようだ。


2月19日

 もう夜になっている。相変わらず意識が遠ざかっているようだ。何を語る気もない。ただ言葉を記す。誰がそう思っているわけでもないらしい。実際に言葉を記しているようだ。それだけのことだ。何かが壊れかかっているのか。なぜそう思うのか。そう思わなければならない理由などありはせず、実際に心が壊れている。では壊れかけているのは何だろう。思い当たるものなどない。それでかまわないと思いたいだけか。今は何となくそう思う。それがどうしたわけでもないはずだ。そして何を語っているのでもない。また何かが外れているのだろうか。たがが外れているのか。そう思いたければ思えばいい。実際にそう思っているはずだ。何を思っているのでもないが、何となくそう記している。それは何に起因しているのか。言葉を記そうとして、実際に記しているに過ぎない。それはつまらないことかもしれず、このままでは何となくどこかで何かに出会うような気がする。終わりの予感がしているのだろうか。すでに終わっていたらありがたいか。実質的にはそうではないのか。たぶん何かが違っているのだ。そこで違いがわからなくなっている。自分と影の区別がつかない。影とは何か。自分の影が何を語り出すのか。幻影には違いない。虚構だと思っていてもかまわない。とにかく抜け出さなければならない。思い込みが激しすぎるか。それはどのような思い込みなのだろうか。自分が自分でないような気がする。今はそう思いたいのか。では今度はどんな嘘をついたら納得がいくのか。何に納得しているわけでもない。結果に納得せず、さらなる高みを目指しているのでもないだろうが、ともかく歩いてゆかなければならないようだ。その場を立ち去りたい衝動に駆られているのか。そういう気にならないから困っているのだろう。立ち去りがたい場所などありはせず、容易にその場を立ち去れるからこそ、その場に貴重な何かがあると思っているのだろう。君はそれを見つけられなかった。君に見つけられるはずがない。何もないのだから見つけることができないのか。何かがあると述べているではないか。それを離れたところから見ているわけでもないが、何となく気がかりな何かがあるらしい。

 今日は短く済ませたい。できればそうしたいところだが、手短に説明すると、やはり何が何だかわからなくなり、どのように説明してもそうなのかもしれないが、では説明など不要かというと、そうなると文章にならなくなってしまうだろう。たぶん君はそれでかまわないと思いたいのだが、そう思ってしまうと、自ずから制約が生じるようで、省くわけにはいかないことを省いてしまうこととなり、やはりそこから先は意味不明になってしまう。そうならないようにするためにはどうしたらいいのか。どうもしなくてもいいのかもしれず、どう語っても君は依然として追われる身でも追う身でもない。何も追い求められないから、空疎な内容となってしまうのか。目標が定まらず、それについて語る気が起こらないのではないか。それとは目標のことなのか。そんなことを述べているうちに眠たくなってくる。それだけではないと感じているはずだが、何か予感でもするのだろうか。この先何も起こらないのに、起こりえない出来事を夢想しながら、きっと何かが起こると思い込むふりをしながら、宝くじでも買ってみたらいいのだろうか。その気なのだろう。明日あたり買う気でいるのだろうか。買ってみたらいい。当たらなかったらどうするのか。そら見たことかと思えばいいだけか。別に後悔しているわけでもない。悔やんでも悔やみきれないのは、未練がましくどこかにしがみついている誰かの行動か。なぜ間違ってしまうのか。用心しながら石橋を叩いて渡っていたはずだったが、結局そこから落ちてどうなってしまったのか。紋切り型的には君の知ったことではない。それは誰にも知り得ないようなことだ。その先で何が起ころうと、そこまで行ってみないことには、何を体験できるわけでもなく、他の何を体験したと思っても、それは虚構の中で思うことだ。実際には何も起こらず、君がそれについて何を語ろうとしているわけでもない。どこまでもこの世界が続いていて、いくらここから遠ざかっても、何から抜け出たことにもならず、相変わらずフィクションの住人であり続け、そこでひたすら語っているつもりになっても、所詮は言葉が記されている範囲内で語っているに過ぎず、それ以外の何ももたらせず、君が実体を伴った存在になることはない。


2月18日

 説明が相変わらず不足しているようだ。そこで何かが省かれていて、唐突に誰かが語り出す。わけのわからない成り行きや紆余曲折の果てに、結局何がどうなって誰がどこに至ったのかわからないが、ここに至ってもこんな状況だ。やる気が失せているのか。あるいはやはり心が何かから遠ざかってしまったのだろうか。だが他に何ができるわけでもない。意識が何から遠ざかっているのは確かかもしれない。だがそれは自意識ではない。では誰の意識なのか。そもそもそういう予定調和の問答がくだらなすぎるのか。今は眠らなければならないと思う。誰の都合でそう思っているのでもないが、休息が必要なことは確からしい。でも休んでばかりもいられない。さっさと作業を終わらせて、皮肉の一つも言ってみたくなるところだろうが、批判する相手などどこにもいはしない。またそんな嘘をついて、特定の固有名が省かれて、内容の意味不明に拍車がかかってしまうか。そうならないようにしなければならなかったのではないか。では特定の誰を批判するつもりだったのか。その名前が思い出せず、そんなことを考えているうちにどうでもよくなって、記すべき言葉を見失い、気がついてみたら、また元の木阿弥になっている。失われた断片をつなぎ合わせるつもりで探しているわけではないだろうが、君はそこで何を戻そうとしているのか。それ以前に取り戻すべき何かを知っているのか。それは知り得ない何かだろうか。何を知ろうとしているわけでもないのに、フィクションの中では何かを探し求めているようで、あわよくばそれを知ろうとしていることになっているのは、どういうことなのか。だから誰かがそういう物語を構想しているのだろう。しかしそれの何が物語になるのか。どうもその辺で何かが破綻を来しているようで、何かを省いて一足飛びに成し遂げられるわけもないのに、あり得ない妄想を募らせ、思わせぶりなことを述べたがるのだろうが、それがそもそも違っているのだろうか。勘違いにもほどがあるのか。何だかあやふやなままでいようとしているみたいで、いずれその辺が明らかになる機会がくるのかもしれないが、それまでの間ははっきりしないまま、何だか延々とそんなことを繰り返し、何かを語っているようで語っていないようなことを、うだうだ記しているつもりなのだろうか。

 ただ何も決着がついていない。つけるつもりもないのだろうが、頭の中では靄が巻いている。どうも違うのだろう。なぜか知らないが、そういうことなのだろう。何事もそのままでいいはずがないことはわかっているものの、どこをどう修正したらはっきりとしてくるのかがわからない。本当にわからなければ、そのままでもかまわないのだろうか。できなければそうならざるを得ない。どうも先日書物を買って読んだのも、結局は不発に終わってしまったのかもしれず、そこから何が得られたわけでもなく、君がおかれている状況とは別世界で何かが語られていただけかもしれない。ではあれらの試みは結局のところなんだったのか。何が試みられていたわけでもなく、要するにごまかしのたぐいだったわけか。まったく君には良心のかけらもないようで、いったん用済みになったら、さっさと打ち捨てられるがままになり、後は忘れられて、何の痕跡も見つからなくなってしまうだけのことなのか。そういうところがよくわからないのであり、何を述べようとしているのかもはっきりしないまま、どんどん言葉を記していってしまい、そのとき抱いた思いも置いてきぼりにされて、どうでもよくなり、それは自らが語りつつある内容すらもそうで、忘却作用を免れず、どうにもこうにもおかしくなって、後は野となれ山となれといった具合にそれらの事態は進行し、置いてきぼりにされた思いが重しとなることもなく、まるで道端の石ころを蹴飛ばすように、草むらの中に蹴り込まれて行方不明となるだけで、後は何もどうにもならない現実がその場を覆い、思考停止のまま居座り続け、誰かは精神的なストレスからノイローゼ一歩手前まで追い込まれるのかもしれないが、やはりそんなことなどおかまいなしに、どんどん記された言葉が先行して、それを記している者すらもついてゆけない事態となり、それに気づいたときにはすでに手遅れで、もはやいかなる制御も受けつけない暴走状態となっており、そんな事態に嫌気がさして、君は当事者から傍観者へと位置をずらし、後は知らぬ存ぜぬとしらを切り、事なかれ主義に徹しているわけだ。本当にそうなのか。だいたい何について述べているのかもわからないままに、いくらそんなことを記しても、何の驚きも感動ももたらせないのではないか。だから今さらわかりきったことを述べるべきではない。君が述べているのだろう。


2月17日

 何かの具合でなぜか眠れなくなり、少し言葉を記しているつもりらしい。意識はしっかりしているのだろうか。目が疲れてきたのでやめておこう。無理して言葉を記しても、どうせまともな内容にはなりはしない。なぜも何もありはせず、ただ何もない。それでも言葉を選んでいるつもりなのか。何を語っているわけでもなく、深夜に目が覚めているだけで、他は何もない。なぜそう思うのかわからない。どうかしているはずだ。これから何か恐ろしいことになるのか。果たして大丈夫なのか。何が大丈夫なのでもなく、病的なまなざしで画面を覗き込んでいる。そんなのは嘘だろう。できればそう願いたいところだが、何となくそう思い、相変わらずそれでもかまわないのだろう。それは誰かの紋切り型なのか。できないことはない。そんなやり方なのだから、そういうことにしかならないだろう。君はいつでもそういうことなのだ。君でなくてもかまわないのは無論だ。何の問題もありはせず、そうなればなったで、至って順調なのだ。正気を疑っているようだが、それでかまわないのだ。何を述べようとしてもそんなふうにしかならず、半ばあきれ顔で、いくらでもそんなことを記して、本当に呆れてしまうわけだ。馬鹿げているだろうか。たぶんそういうことなのだろう。何がどうなろうと、そういうことにしかならず、無駄で無意味なことばかり記しているようだ。だから正気でないのは当然で、わざとそう述べているのだから、そんなふうにしかならないのだろう。そしてそれは冗談ではない。開き直っているのかもしれず、止めることのできない暴走になりつつあるのだろうが、それだけで、他に何があるわけでもなく、他がないからそうなってしまうのであり、その辺で同じような言葉が循環していて、そろそろそれも限界に近づいているのだろうが、画面の前で首を傾げながらも、それも以前と同じような動作であることに気づき、そんなはずではなかったのかもしれないが、そんな当初の目論見など途中で吹き飛んでしまったらしく、さらに暴走気味に言葉を記しているようだ。もう終わりなのか。終わらないからこうなっているのだろう。終われないわけか。そうではない。それを否定するだけの気力が残っているようだ。たぶんそれだけでもだめなのだろうが、とりあえずは否定してみるしかなく、後は野となれ山となれ、ということでもないだろう。別にかまわないのに、一応は強がってみせるわけだ。

 まさか本当に最後の気力を振り絞っているのだろうか。何だかまずい展開になってきたようだ。このままではおかしくなってしまうだろうか。何がそうなってしまうのか。わかるはずがないが、とりあえずは続けて言葉を記している。そこで何かが続いているようだが、それが何だかわかっているわけか。少なくとも君にはできないことがわかっている。だからもう終わらなければならず、本当にこれ以上は無理で、そろそろだめになってきた。眠ってしまう。そして朝になり、さらに言葉を記す。なぜなのか。今日はできないからか。無理なのではないか。何が無理なのか。いつも無理だと思っている。暇があれば休んだ方がいい。あまり根を詰めると死んでしまうのではないか。しかしわからない。何もないのにそれはないか。確かにない。マインドコントロールか何かか。何がそうなのか。もうすぐ何が絶滅するというのだろうか。きっと嘘に違いない。確かに何かが絶滅したかもしれないが、それは過去の話だ。これから何が絶滅するとしても、それは絶滅した後からしかわからないことだ。だから今ここで危機感を抱く必要はないということか。しかし何の話をしているのだろうか。何について語っているのか、一向に具体的な話の対象が見えてこない。それでかまわないのだろう。なぜそれを肯定するのかわからないが、それで何とかしようとしているのだから、いい加減極まりなく、たぶん何の話でもないのだろうが、時折言葉の組み合わせと偶然の巡り会わせによって、何か語っているような雰囲気を感じてしまうのだろう。きっとそれは勘違いであり、思い違いなのだろうが、後から何かこじつけようと思えば、できない話でもないはずか。君はそれを狙っているのだろうか。思惑などありはせず、やはり行き当たりばったりで適当に言葉を記しているに過ぎず、それで済まそうとしているのだから、人を馬鹿にするにもほどがあるか。だがそれで別に怒っているわけでもないのだろう。むしろでたらめな言葉の並びを楽しんでいるのであり、後から話をこじつけるにしても、そこで想像力やら構成力が試されているのだから、まんざらでもないような気分で、調子に乗ってさらに話のでたらめさに拍車がかかってしまうのかもしれないが、そうならないうちに程々にしておいた方がいいのではないか。君はまだ本気ではないはずで、本気になれないからこそ、あまりのめり込まずに、その程度の倒錯で済んでいるのだろう。


2月16日

 しかしなぜこんなに遅れてしまったのか。今日の日付に追いつくには、まだ気が遠くなるほど先は長い道のりが必要だ。本当にそう思っているのなら、さっさと言葉を記せばいいではないか。もう二度と追いつけないのではないか。半ばあきらめているみたいだが、本当にそう思っているのかどうか、いつになったらそれがわかるだろうか。あきらめてやめてしまったあとにわかるのではないか。今さら何を批判するつもりもないが、何も批判できないわけでもないだろう。それはどういうことなのか。眠たくなってくるが、君は何を批判するつもりなのか。何を待っているのか。時はやって来ない。何も巡ってこないだろう。それでも待っているのだろうか。誰が日本人なのでもない。君が何をよみがえらせようとしても、何がよみがえるわけでもない。現時点での君は空疎そのものだ。今となってはそれだけが君の本性だったのだろう。昔の目撃情報だったのか。そのとき誰かは何を見たのか。闇そのものだ。それだけであり、たぶんそこには何もなかったのだろう。実際に何もありはせず、何の痕跡も残っていないはずだ。それで何が切り札なのか。持ち札がないではないか。話の内容も空疎そのものだ。だから何を語っているのでもないわけか。それがどうしたわけでもない。急ぐには及ばないというわけか。どこにも及んでいないし、至らないことばかりのはずだ。それで何を語っているつもりになれるのだろう。何かの断片がでたらめに組み合わさって、得体の知れない集合体になるだけだ。君はそれについてどう思っているのか。そんなふうに記された通りに思っているだけか。それで何かがわかるらしい。嘘をつくならもっともらしい嘘をついてみたらどうか。はじめからでたらめでは嘘とはいえない。では何なのだろうか。ただのでたらめに過ぎないのか。そう思ってもらって結構だ。たぶんどんなに工夫してもそれ以外にはなりようがない。面倒くさいからそういうことにしておきたいのだろう。気がつけば貧乏揺すりの最中だった。いらついているのだろうか。そうだとしてもそれがどうしたわけではなく、そこから何がどうなる要素もないだろう。闇に浮かぶ鬼の形相が、空想上の何を物語っているわけでもなく、現実の何を物語ろうとしているわけでもない。それはそれでそういうことでしかなく、君がその何でもない何かを顕揚しているのでもない。

 時はさらに過ぎ去ってしまうらしい。何ももたらさずにどこへ誘うのでもない。確かにそれで何を否定していることにもならず、否定する対象がないのかもしれない。そんな事態はすでに予見できたはずだ。君がそれを阻んでいただけなのか。そこで空疎な何かについて語ろうとしていたはずだが、実際はどうなってしまったのか。君が結果など知るよしもなく、君が与り知らないところで何かがどうにかなってしまったはずだ。それをもって何かが一段落して、それで済んでしまったのだから、君は完全に蚊帳の外だ。確かにその時点ではそうだった。いったい君は何を望んでいたのだ。今さら尋ねてみても、まともな返答など期待できないことは承知の上か。きっとどこまでもいつまでも沈黙を貫き通すのだろうし、それが返答といえば返答なのだろうが、形式的にはそれで何かを承諾したことになっている。あとから文句を付けても無駄であることも承知しているはずだ。だから今こそ語り出さなければならないのではないか。何をおいても語り続けなければならず、それが自身の存在を外部に知らしめているはずだ。だが現実はそんなに甘くなく、要するに無視された終わりなのだ。そして今まさに終わってしまっているはずだ。それらの何が内容を形成しているはずもない。誰かが真夜中のオアシスについて歌っている。そんなふうに感じたはずだが、実際のところはどうなのか。それについては何も語らなくてもかまわないのか。何の話でもあり得ないようなことを積極的に記すべきなのか。だがそれがまともな文章だとは思えず、戯れのたぐいで、冗談にも至らず、さらに貧乏揺すりが増すばかりだ。君はさらにいらついているのだろうか。無言でいるのが辛くなってきたのだろうか。そうならないうちに何とかしなければならなかったのか。もう遅い。すでに何が終わる一歩手前まできてしまったようだ。別にそれで終わらせようとは思っていない。少なくとも何らかの継続は維持されるだろう。それで気が済むならそういうことになり、君も一安心かもしれないが、喜ぶのはまだ早い。もしかしたら近々それらの作業に区切りを付け、それで虚無との関係を清算して、一応の決着をつけるつもりでいたのかもしれず、そのための準備期間がそれらの流れの中で設けられていたのかもしれない。そんな大事なことに今頃になって気づくのはおかしいか。誰かは大ボケ体質なのだろうか。すでに手遅れだ。


2月15日

 どこかで誰かが叫んでいるわけではない。だがまだ正気を取り戻していないらしく、くだらぬ妄想を抱きながら、何か得体の知れぬ幻影を追い求めているのかもしれない。なぜそこから抜け出せないのか。積極的に抜け出そうとしていないからか。別に夢の中から抜け出そうとしているのでもないはずだ。それに抜け出そうと思えばすぐにでも抜け出せるはずで、たぶん今がその時ではないのだろう。そんな予感がしているだけかもしれないが、誰かは待っていれば必ず何かが起こると信じている。何かとは何か。それは自らの死か。いずれはそれもあるだろうが、それ以外の何かが起こるはずで、その起こりうる事態にもはや対処しようがなく、手遅れかもしれないが、その時が来るまで何とか言葉をつないでいくつもりらしい。なぜそうしなければならないのか理由が定かでないが、果たしてそんなやり方でかまわないのか。かまわないはずがないだろう。それではだめだから行き詰まっているのではないか。しかし誰が何を待っているのか。それが特定されなければフィクションが成り立たなくなってしまうだろうか。なぜそれがフィクションなのだろう。実際に誰が何を構想しているわけでもなく、また例によって行き当たりばったりで、いい加減に言葉を記しているだけではないのか。そしてそれでかまわないと思っている。フィクションにならなくてもかまわないようで、たぶんそれに関して何がどうなっているわけでもないはずだ。ではなぜ虚構の語りにこだわっているのか。誰かがそんなことを思っているのだろうか。そんなふうにしていくら問答を繰り返しても、埒が明かないのはもちろんのこと、そればかりではいつまで経ってもそれらの行き詰まりから抜け出せないではないか。いつものようにそれでかまわないと思っているわけか。君はその件についてはどう思っているのか。どの件なのかわからないのはもちろんのこと、何がもちろんなのかもわからないだろう。少なくともそこで誰が何を追い求めているのでもなく、それに代わる何が提示されているわけでもない。ただ誰かがどこかで行き詰まっているに過ぎない。それだけのことであり、それで何がどうなるわけでもなく、他にどんなことが語られるわけでもない。

 君はさっきから何も語っていないではないか。別にそれが変わったことでもなく、いつもの通りだろうが、なぜそんなことを指摘しなければならないのか。もうフィクションの中だからか。そこで誰が何を記しているのだろう。そんなことを問う必要ない。確かにそうだが、今はそんなことしか問えないのではないか。他に何を問えばいいのか。君はそんなことを述べて、それによって誰の記憶に残りたいのか。何を望んでいるわけではない。何も残りはしない。何を残そうと思っているのでもない。だからといって何もかもが消えてなくなってほしいわけではなく、残る残らないに関わらず、とにかく言葉を記さなければならない。理由など何もないのにそう思っている。君がそう思いたからそう思っていることにしたいのか。それが理由になるとは思えない。理由など何でもかまわないのではなかったか。そう思っている時期もあったらしいが、今は違うのか。それとも今は違うことにしたいのか。そんなことを記しても無駄か。何が無駄だと思っているわけでもないのだろう。それなのに、どうしてそんなことを記してしまうのか。なぜそう思う。なぜそうやって理由を求めているのか。言葉を記すのに理由などいらない。そう思っていればいい。すでに何かを語ること自体が意味不明なのだ。架空の存在にとってはそうであり、君にとっても同じようなことだ。まるででたらめなのだから、今さら意味が通るように言葉の配置を並べ替える必要はない。そんなふうに語っている限りはそうなって当然だ。実際にそうなっているではないか。どこまで語っても結果は同じことだ。もうすでに虚無から逃れられなくなっているはずだ。君は無駄に時を過ごし、あとから悔やんでも悔やみきれないほどの過ちを犯している。本当にそうだろうか。疑念を抱いているのなら、どうすればそれを解消できるのか考えてみた方がいい。またそんな冗談で誰かを困惑させようとしている。もうその手には乗らないつもりか。でもそれがなければ言葉を記せないのではないか。現に今日も虚無を利用して無内容に終始しているではないか。それで済むはずがない。では何が待ち受けているのか。自らの破滅と死か。いずれはそうなるだろうが、今はまだ過渡的な状態だろう。ここから少しは状況が好転してほしいとでも思っているわけか。そうなったらどうするつもりなのか。また延々と意味もなく言葉を記したいのだろうか。


2月14日

 それはいつのことなのか。今は夜に決まっている。かなり焦っているようだが、いくら焦っても無駄だ。そんな状況下で何を取り返す気になっているのだろうか。君はそこで何を理解しているのだろう。どうも実態としてはかなり言葉を記すのが遅れてしまったらしい。ここから挽回できるだろうか。無理か。いくらなんでもそれは無理だろう。確かに無理だろうが、そんなことはどうでもいいことだ。だがそれがどうでもいいことと思えば、頭の中で何かがつまらなくなる。何がつまらないのかわからないのだが、その何かがつまらなくなると、気がとっ散らかってしまって、考えがまとまらなくなり、結果としてどこかで何が散らばってしまうらしい。だから何が散らばってしまうのか。その辺が意味不明のようで、それについて考えていると、急に頭がおかしくなり、意識の中で何かが痙攣してしまうのかもしれず、ともかく本でも読んで気持ちを落ち着けようとするが、この間から読んでいた本はとっくに読み終わってしまって、また偶然の巡り合わせを待たないことには、書物など買う機会は訪れないだろう。それに読めばまた言葉を記すのが遅れてしまう。なぜそうなってしまうのか。自ら記している内容に自信を持てないからか。あるいは現時点では何も語れないからか。今はその通りだと思う。だが実際にはそんなふうにして、誰かが何かを語っているではないか。その内容がつまらないから自信を失ってしまうのだろうか。しかし少なくとも語っているのは君ではない。それで誰かが不都合でも感じているわけか。別に語っているのが君でなくてもかまわないだろう。それもその通りだが、実態としてはそこで誰も何も語っていないのではないか。それはさっきからそうであり、これからもきっとそうだ。それはどういうことなのか。矛盾していないか。いつものことだ。暖かくなったと思ったら急に冷えてきた。そして誰かが体調を崩してしまったのだろうか。別にそれでやる気をなくしたわけでもないだろう。逆境の中で何かを成し遂げなければならないのは、今も昔も変わらないはずで、そんな逆境の一環として現状があるわけだろう。ではその中で君は何を語りたいのか。少なくともそれは今誰かが記しているような無内容ではないはずだ。でも今はそれを記さざるを得ない。そういう成り行きなのだから仕方がない。

 何かを成し遂げるためにはそういう回り道も必要なのか。それの何が回り道なのか。君はそう感じるのならそういうことになる。それについて誰かは異論を持ち合わせてないらしく、まったくその通りだとも思ってしまい、何となく自己嫌悪に陥ってしまいそうだが、そうなりつつも言葉を記さなければならない宿命を呪っているわけでもないが、とにかく前進させて、何とか遅れを少しでも取り戻すつもりらしく、まさか必死の形相というわけでもないだろうが、そこに言葉を記している誰かがいるらしい。渋い紅茶を飲みながら、その辺を自問自答しているみたいだが、いったい何が存在しているといえるのか。君自身だ。そう思うならそういうことだろう。やっと素直になって自らについて語ろうとしているわけか。そんなはずがなく、それについてどんな幻想を抱いているのでもない。そう思いたいだけなのではないか。ところで書物はそれを読む者にどのような幻想をもたらすのか。君は本を読んでどんな幻想を抱くに至ったのか。それがわかれば苦労はしない。どうやら君はそれについて語るのが面倒くさいらしい。本当だろうか。君は書物を読んで何をしたいのか。読書を何の役に立てたいのか。それがわからないが、何か教養でも広げたいのだろうか。しかし教養とは何だろう。花粉症か何かで目がかゆくなっている。漫画を読んでも教養は身につきそうだ。たぶんそういう話ではないのだろう。具体的にどんな書物を読んで、それについて何を思ったのかを記さなければならない。それができないならば、読む意味がないか。まったくないわけではないが、まさか読書を自らの記述に利用したいだけだとすると、それはさもしい心がけになるだろうか。そうであってもかまわない。そうしたいのなら、どうぞ勝手にやってみればいい。そこから何かがわかるだろうし、何もわからなくてもかまわないのではないか。書物の何が必要不可欠というわけでもなく、何が書物だろうと、興味を抱いたら読んでみればいいだけのことでしかない。実際に誰かがそうしているのではないか。君も本を読む暇があったらそうしてみればいい。それが何に結びつくかは、読んだあとからわかることか。別にわからなくてもかまわないのではないか。何を狙っているのでもなく、英会話学校のように何かの役に立てたくてそんなことをやっているわけではないはずだ。少なくとも今はそうだ。


2月13日

 またどこかで何かが外れているらしい。君の知ったことではなく、そんなことなど気にせず、また適当にいい加減に語ればいいだけなのかもしれないが、それでは誰かの紋切り型と同じような内容になるしかないか。それでかまわないのだろう。それこそが君の紋切り型なのだから、そこからそれを延々と繰り返せばいいだけのことでしかなく、そんなふうにして誰かの文章が構成されるのだろうから、君は黙ってそれを眺めていればいいだけのことでしかない。現にそうなっているのではないか。そこで何かが泥仕合の様相を呈しているとしても、今も無表情で眺めているはずだ。何を考えているのか。たぶん何も考えていないはずで、興味がないのかもしれず、興味がないこと自体が逆に心配となってくるのかもしれないが、たぶん杞憂に過ぎず、何も心配することはないのであり、どうせまた適当な頃合いを見計らって立ち直り、そんなふうに装いながらも、内心計算のうちのような気分で、気がつけばそんなことを語り続けていて、相も変わらず無表情でそれらの光景を眺めている。まだ興味が湧いてこないのか。何についてもそんな案配になるしかなく、それを超える事態に陥っても、それがどうしたわけでもないように装うしかないらしく、別に演技をしているわけでもないのだろうが、内心ほくそ笑むような状況でもなく、さらなる労働を強いられていることに変わりはなく、フィクションの中の登場人物のように、何かの事件に巻き込まれて探偵気取りになるような状況でもなく、仕事の合間にそんな虚構に接して、それが気晴らしのたぐいになるか否かはその場の気分次第だろうが、やはりそれとは関係のない現実に振り回されながらも、何とか臨機応変に対応しながら一日を乗り切り、あとは疲れて眠ってしまうだけのようだ。しかしそれで何がどうなったわけでもなく、そんなことを繰り返しながら、次第に老いていってしまい、だんだん残された時間が少なくなるにつれて、焦燥感が募ってきて、そのどうにもならない現実に逆らう気力も失せ、結局あきらめの境地に達して、ついには終わってしまうのだろうか。実際には何が終わるわけでもなく、もとから何も始まっていなかったような気もしてきて、何となく無駄で無意味な時を過ごしてしまったような気になり、さらに落ち込んでしまうわけか。

 君はそうならないように努力しなければならないのだろうか。また冗談でそんなことを述べている。何も述べていないのにそれはないか。誰かと誰かが世間話の最中だ。すっかりシェーンベルクを持っていたことを忘れていたようで、いつ買ったのかも思い出せない。改めて聴いてみればジャズ的な雰囲気だが、それは演奏形態にもよるのだろう。また何か外れていないか。気にするようなことでもない。人は争いごとを見ているのが好きで、自ら好んで加わろうとは思わないようだが、とりあえず傍観している。それが殺し合いに発展する前に、誰かが勇気を出して仲裁に入らなければならないのかもしれないが、フィクションの中なのだから、何をやるまでもなく、そんな物語の進行過程を楽しんでいるようだ。少なくともその手の物語は争いごとをその主要な題材としているのだから、それが行われないわけがなく、ひとたび殺人事件が発生すれば、刑事やら検事やら弁護士やら探偵やらが登場するしかない。そしていつものように謎解きが始まってしまうわけで、見ている者や読んでいる者はその謎に興味を惹きつけられ、作者や制作者の思惑通りとなってしまうわけか。それで君は満足なのか。なぜそう思うのか。それともそんなありきたりな説明では不十分だと感じているわけか。たぶん何をやっているのでもなく、暇な時間に何かを読んでいる。そして虚しく思う。この世は馬鹿げている。それは昔からそうだ。何も今に始まったことではない。自己顕示欲をあらわにした連中が入れ替わり立ち替わり登場しては忘れ去られ、そんなことが延々と繰り返されている現状がどう変わるとも思えず、気がつけばまた同じような奴らが自己主張をこれ見よがしにしていて、そんなことをやっている自分を見せびらかし、どうだといわんばかりに見栄を切る。それがどうしたのだろうか。以前に見かけた連中と比べていくらか何かが進歩したのか。たぶんそういうところを見てほしいのだろうが、その斬新そうで一目を驚かせる手法が以前の連中と同じか。だからそれでかまわないと思っているのではないか。何かの泡が次第に大きくなって次々にはねるだけのことか。次から次へとそんな案配なのだから、君は黙ってそれらを眺めているしかないようだ。別に自ら手を下す必要もなく、次々に生まれては弾けるのがバブルの特性だ。


2月12日

 まるで関係のないところで難儀している。なぜだろう。答えなどわかっているのだから、それを実行すれば済むことなのだろうが、実行してみると結構疲れる。もうくたくたで何もやる気にならず、そのまま眠ってしまいそうだ。なぜそうなってしまうのか。まさか答えが間違っているのだろうか。そんなはずがないと思いつつも、用心深く他のやり方を試してみるが、やはりそういうことなのだ。それ以外に答えが見当たらず、その疲れるやり方を今後も続けていく以外になさそうだ。いったいいつになったら終わるのかも見当がつかないまま、ひたすらそれをやり続ける以外になさそうで、想像するだけでぞっとしてしまうが、自然と作業をこなして、ようやくここまでやってきた。でも結局何とかなっているはずだ。何かをうまくすり抜けたのだろうか。危険を回避したわけか。そうはいっても、また次から次へと危険が迫ってきているはずだ。それもそのはずで、それはその場に居合わせた者でない限りはよくわからないだろうが、何となく月並みな表現を用いて拍子抜けしてしまいそうになるほど、まあどうということはないのだろう。君はその場で死んでもかまわないのか。そんなはずがない。どうせ君の代わりに別人が死んでしまうのだ。フィクションなのだから仕方のないことか。虚構の中では誰も命がけで行動しないと傍観者の心を引き寄せられないのか。まさかそれが自己顕示欲から派生したこうでもないだろう。誰が北斗神拳の伝承者なのでもない。要するに冗談の次は意味不明なのか。何だかその場の状況が破れかぶれの様相を呈しているのかもしれない。できればそうなる手前で立ち止まって、今までにやってきたことを省みて、そこから教訓を導き出し、今後はもっとマシな何かを構成しようと心がけたいものだが、何となく余裕がないようで、急いで言葉を記してそれで済ませたい気持ちが先行しているようで、今はそれに従うしかないらしい。なし崩し的に何かが行われ、誰かがそんな成り行きに巻き込まれながらも、たぶんそれ以上の何かを探し求めているのだろうが、なかなかそれが見つからず、結局妥協の産物としての文章が記され、そんな結果を渋々受け入れざるを得ず、もう少し何とかできたはずかもしれないが、要するに力が及ばなかったのだろう。

 そんなところで妥協しておくしかないらしい。あまり根を詰めると、またどうにもならなくなって、そのしわ寄せを受けて、言葉を記すのがさらに遅れてしまう。そうならないためにも、今がんばっておかなければならないわけか。でも冗談なのだろう。そんなことなどおかまいなしに、勝手に物語が暴走して、その中で躍動する予定だった主人公すら振り落とし、どこかおかしな言葉の組み合わせを実現すべく、突拍子もないことを妄想しながら、どんどん現実の世界から遠ざかり、夜空に輝く星座を見下ろすような高みを目指して、どこまでも意味不明気味に何かが上昇し続けているようだ。それは軌道エレベーターか何かのたとえなのか。またおかしくなっている。ただ闇雲に言葉をつなげればいいというものでもないだろう。君はどこか上の空で考え込んでいるようだが、いくら考えてもそれらの構想はまとまらないだろうし、誰かがどこまでも言葉をつなげても、それは何かの断片にしかならず、全体としての物語を構成できはしない。言葉がつなぎ合わさった総体としての文章に何を当てはめてみても、そこに何が見出されるわけでもなく、考えがまとまらないまま困惑するだけか。なぜそんなことを述べているのだろうか。少なくとも君はそこで何かを語ろうとしていたはずだが、いつの間にかそれは、その架空の語りに対する説明へと移行していて、そこで何が語られていたかもわからないまま、必死にそれらの意味不明を説明しようとして行き詰まり、誰かがまともな内容からはほど遠いそれらの文字列を眺めているだけで、心はそこから逸脱しようとしてもがいているのかもしれないが、結果としてどこから抜け出せたとも思えず、相変わらずそれらの奥底へと引き込まれようとしている。何かがそうなのかわからないのが致命的か。だがなぜそこで命を落とす展開が待ち受けているのか。そうなってしまう前に、何かそうならないような方法を考えたらどうか。どうすればそういう宿命から逃れられるのだろうか。実質的に何について語っているわけでもないのに、どうして深刻ぶることができようか。とりあえずまだ何かの瀬戸際まで至っていないはずだ。危険を察知したらそこから引き返せばいいだけのことだ。いつまでも張りつめた気持ちでいるのは精神衛生上よくないことか。


2月11日

 油断していたわけではないが、ある意味必然的に二日遅れとなってしまったようだ。無理なのだろうか。当たり前のことか。ではいったい何を教えたらいいのか。誰に向かって話しかけているのか。とてもこれからだとは思えない。それが批評だとは到底思えず、単なる雑文のたぐいに違いないが、どうもそれしかできないようにも思われ、何やら見切り発車的に出過ぎた真似をしているだけのようにも思われる。もっとじっくり考えがまとまるまで待たなければならないのだろうか。まとまるはずがないか。今のままではそうだ。ならば今以上の何ができるというのか。何もできはしない。ならあきらめてしまえばいい。実際にだいぶ前からあきらめているのではないか。何をあきらめたのだろうか。まともに言葉を記すことか。あるいはまともな内容で文章を構成することだろうか。だが何がまともなのだろうか。それがわからないまま、いくら考えてもわからないことから生じる焦燥感によって言葉を記しているのではないか。君は焦りに助けられながら語っているつもりなのか。そう思って差し支えないだろう。ではなぜそんなことをやるのだろう。時間がないと思われるからか。それは杞憂に違いない。誰もそうは思わないのか。時間などいくらでもあり、いくらでもあるからかえって何もできなくなり、何もできないことのいいわけとして、時間がなかったと嘘をつく、それならそうでかまわないではないか。そんなふうに語っていれば、空白が記された言葉で埋まり、結果的に何らかの文章が出来上がる。君はそういう成り行きが気に入らないのだろうか。だが他に何も記すことがなければ、結果的にそうなって当然なのではないか。だからそれでかまわないとなるわけか。誰がかまわないと思っているのだろうか。君がそう思っていると嘘をついてみる。誰が嘘をついているのだろう。君自身が自らに嘘をついていると思い込ませているのだろうか。そんな芸当ができるわけがないか。それらの全体が架空の話なら可能か。フィクションの中で君は自らが嘘をついていると思い込んでいる。それを記している誰かがそういうことにしておきたいのか。それも冗談のたぐいか。反論するのが面倒くさいのでそういうことにしておこう。

 それですべてがうまくいくのなら、架空の存在でしかない君も納得してくれるだろうか。しかし何がすべてなのか。誰かは何をうまくいかせようとしているのか。そういう問いに意味はない。誰も答えを返さないからか。そこには何もなく、何がすべてでもないから、それに対するどんな返答もあり得ない。そんなはずはないだろう。たぶんそこには自然の流れがあり、その流れに沿いながら自然と言葉が連なっているはずで、それが記されているすべてであり、そのすべてをうまく組み合わせて文章を構成しようとしているのだろう。なるほど考えれば返答を思いつけるではないか。それで何かを考えていることになるのか。その問いにはどう答えるつもりなのか。問いに対する返答を考えていたはずで、無意識のうちに返答へたどり着いたから、結果としてそう記されているのだろう。君はそれが不満なのだろうか。なぜそう思うのか。そこで実際に同じような成り行きが繰り返されている。それが気に入らないわけか。だがそういう紋切り型なしではいかなる文章も構成され得ない。そう思うなら今後も同じようなことを記せばいい。なぜそう思うのだろうか。それ以外に何も思いつかないからか。それは違うだろう。君は何かに影響を受けてそんなことを思っているのだ。そこには何もないわけではなく、誰かによって記された文章があり、君がそれを読むことによって影響を受け、その結果が誰かが記している文章に反映されてしまう。だがそういうわけのわからない作り話に信憑性があるだろうか。誰に信じてもらおうとは思わないか。では他に何を信じたらいいのか。君は君自身をもっと信じるべきか。別に過信するほど信じろとはいわないが、とりあえず語っている自らに、まともに語る能力があることを信じなければ、何もちゃんと語れなくなってしまうか。しかし何を述べているのだろう。この期に及んでそれはないのではないか。無駄に言葉を記し過ぎか、あるいはつまらぬことにこだわりすぎているのか。そのどちらでもないことを祈りたい気分だが、何となく自信がないようで、いくら言葉を記しても馬鹿げた内容に終始してしまうことを危惧しているようだ。実際にそうなのではないか。何もそうではないと思いたいところだが、何となく何かに流されているようにも思われる。


2月10日

 なぜやらないのか。時間的に遅すぎるか。どうやら翌日になってしまったらしい。どうせまた遅れてしまうのだ。普通の日の普通の夜だ。週末なのだろうか。終末ではないのか。数年前には今年が世界最終年ではなかったのか。最後の審判でもあるわけか。でも君はキリスト教徒ではない。書物の収集家は相変わらず書物の中で自慢気味に語っている。それを誰かが読み、ありふれた感覚ではおもしろいと思うが、どうせまた何かが違っていると感じてしまうのだろう。たぶんそこには驚きが欠けているのだ。確かに歴史に残る作品に対する当時の評価は、辛辣かつ皮肉混じりの酷評ばかりだ。そしてそんな批判に終始していた人たちは忘れ去られ、彼らが馬鹿にしていた作品が今日では名作として残っている。だがそれが驚くべきことなのだろうか。あるいはありふれた結果に過ぎないことなのか。どちらでもかまわない。とにかくその作品を読んでから正当な評価を下すべきことなのか。別に評価など下す必要もないのではないか。調子に乗って上から目線で批評しようとすれば、今では忘れ去られた当時の批評家と変わらなくなる。だが別に何を批評しようとしているわけでもないだろう。そんなことが述べられている本を読んでいるだけか。ではそれは読書感想文のたぐいなのか。わからない。それ以外のことも述べられているので、何となく何か語っているような気にさせる何かでしかない。誰にも自己顕示欲があるらしい。結果として歴史に名を残す残さない以前に、自らの存在を世間に知らしめたいと思っているわけか。たぶん上から目線で他人やその作品を馬鹿にしている人たちは、その他大勢の中の一人として以外は何も残らないのだろうが、それでも売れている書物とか音楽とかを馬鹿にせざるを得ないのだろうか。他のみんなが注目しているものは、とりあえず馬鹿にしておかないと気が済まないのか。でもそれが空振りに終わっている場合はどうするのだろう。今や趣味や好みが多様化していて、大勢の人々が必ずしも一つの書物とか音楽とか映画とか絵画とかに、関心を寄せなくなってきているのかも知れない。

 というか一応はヒット作品とかベストセラーとかはあるだろうが、そうものに対する思い入れが昔ほどはなくなっているような気はする。例えば大の大人がハリー・ポッターを読んで興奮したりするだろうか。一部のマニアならそうなるかもしれないが、また漫画のワンピースやナルトをたまにコンビニで週刊誌の立ち読みで読んだりして、また単行本も書店で買って読んだりしている人もいるのかもしれないが、それらの漫画はそれを読んでいる人たちにどのような影響を与えているのだろうか。まさか読んでいる人たちが魔法使いや海賊や忍者になりたがるわけではないだろうし、それらの主人公の生き様に深い感銘を受けて、気持ちだけでも同じようになりたいとでも思っているのだろうか。どうもそうではないような気がしていて、要するにそれらを読んでいる自分は自分であり、フィクションの外側に存在していて、まるでスポーツ観戦のごとくに、その中で行われている命がけのバトルをおもしろがって傍観しているに過ぎないのであり、例えばそれは古代ローマの円形闘技場で行われていた剣闘士たちの殺し合いを客席から見ていたローマ市民と同じような立場でしかないのではないか。まあそれだけということもないのだろうが、たぶん真に人々に影響を与える作品とは、そういうものとは違う種類の何かなのだろう。もちろん影響など与えなくても受け取らなくてもかまわないし、そういう水準で何か利いた風なことを述べてもつまらないだけかもしれない。では何を語りたいのか。単に利いた風なことを語るのが面倒くさいだけなのか。たぶん君はそういうたぐいのことを語れないだけではないのか。映画を見たり書物を読んだり音楽を聴いたりすることそのものが、そういう経験としてあるだけで、それについていちいち良いだの悪いだの感動しただのくだらないだのと述べることは可能だろうが、それはそういうことでしかなく、そういう経験が何かのためになると考えればその通りなのかもしれない。だが一方でそれがどうしたわけでもないと思えば、それもその通りだ。どちらでもかまわないといえば、それもその通りで、要するにそれも気休めの娯楽でしかないのか。でも馬鹿にするようなことでもないはずだ。


2月9日

 たぶんそれに関しては何も語りようがない。ではまたもや不可能に挑戦中なのか。今さらそんな嘘をついてどうするのか。ただ何も語ることがないだけか。それだけなら大したことはない。ではもっと何か別の理由を探すとしようか。なぜそんなことを語らなければならないのか。語ることが何もないからか。君はそれを知っているのだろうか。何を知りたいのか。誰かが何かを知っているかどうかを知りたい。誰がそれを知りたいのか。君に決まっているだろう。君は誰も知り得ないことを知りたいらしい。それは何なのか。さっきまで誰かが語っていたことか。何の話でもない。では知り得なくて当然ではないか。でもそれを知りたいらしい。誰かがそんなことを語っている。それは何かのごまかしか。誰かが世界地図を眺めている。目的も意図も思惑もありはしない。これから君は何をやればいいのだろうか。そこで何かが無駄になっているらしい。誰かが無駄な塵や芥を集めている。当人は思っていないことだ。何とも何も思っていない。それでかまわないのだろう。自らの行いを省みる必然性がない。いくら地図を眺めていても、将来そこへ出向く機会などありはしない。君には情熱が欠けているみたいだ。ほしいものは何もなく、塵や芥さえ集められない。ではどうしたらいいのだろうか。そのままこの世界から消え去るのみか。たぶん書物はそれを読む者に託されているのだろう。本当にそれは自己表現のためのツールなのだろうか。それぞれの読者には同じ文字列が平等に記されているだけだが、読む者の読み方によってその内容が変わってくる。それは当たり前のことかもしれないが、そんなことに改めて気づかされてどうしたというのか。どうもしないが、駄作だろうと何だろうと、興味深い内容ならそれについて語る者が出てきて、そんなことがきっかけとして広く世間に認知されていくのかもしれない。君はそこで何を語ろうとしていたのか。そしてなぜそれを忘れているのか。何だかいいわけじみてきたようだ。何の反論もできなくなっている。たぶんもっと謙虚になって書物を読んだ方がいい。真摯な気分で書物に接しないと、また浅はかなことを述べてしまうか。実際それでもかまわないのだろう。おもしろいことを述べられたらそれで満足なのか。そういうことだ。

 しかし書物を読んで何になるというのか。暇つぶしか何かか。それはわざとらしく発せられた否定的な見解で、たぶん本当は何かの探求になるとでも思っているのだろう。だが探求してどうするのか。別に他の何に役立てようとも思わない。では無駄ではないか。拙速に結論を出すべきではない。探求がどこにも至らないことが重要なのか。君は何を考えているのだろうか。書物について独自の意見でも述べたいのか。そうではないようだ。ただ読んでみればいいのだろう。読みたければ読めばいいだけで、読んでみれば何かがわかるかもしれないが、わかったところでどうしたわけではない。具体的に何を知りたくて読んでいるわけでもなく、仮に思いもよらぬことがわかったとしても、そこで驚くだけか。それ以外の何が知りたいのか。やはり自らが知り得ないことを書物を読むことによって知りたいわけか。そんなはずがないと思いつつも、さらに読んでいるようだ。別にむさぼるように読んでいるわけでもないが、とにかく暇を見つけては読んでいる。そういうことにしておきたいのではないか。実際にはどうなのか。誰かが言葉を記しているようだが、自らが読んだ書物から影響を受けた内容を記しているわけか。そうだとしても何のことやらわからない。何がわかり得ないのだろうか。また無駄に言葉を弄して同じようなことを述べているみたいだ。他に何もないのだから、そうなる他ないのかもしれない。しかしなぜ何も語れなくなってしまうのか。まともに語るのが面倒くさいのだろう。それに夜が寒すぎるのか。どうも精神の集中が長続きしないらしく、すぐに途中から横道に逸れて、ネットで検索している。ちなみにさっきまでは漫画の登場人物を検索していたようだが、それで一時間くらいつぶれてしまって、気を取り直して、ようやく作業に戻ってきたときには、何を記すべきかわからなくなっている。書物に関する話はどうなってしまったのだろうか。読みかけの書物はまだ半分までしか読み進んでいないようで、あと二百ページが残っているようだが、それも間を見つけては少しずつ読み進むことになるのだろう。でももう律儀に最後まで読まなくてもいいような気がしていて、何となく読む気が薄れてきている。


2月8日

 今さら何をどうしろというのだろう。ここから何ができるだろうか。君は誰に問いかけているのか。まったく返答など期待していないようだ。いつものように答えのない問いか。空は曇っているようだ。何にしても収集家というのは無駄で無意味なものばかり集める。集めている最中が楽しいのだろう。集め終わったらそれで終わりか。保存しておきたいのだろう。私設博物館でも美術館でも建てたいのか。金を集められたらそうしたいところか。そんな金持ちの収集家目当てで古物商やら投機家やらが暗躍するわけか。オークションで値をつり上げて、高値で売抜けたいのだろう。人はこの世界で何をやっているのだろうか。賢い連中はマネーゲームで巨万の富を築き上げ、愚かな連中は低賃金の3K労働によって心がねじ曲がり、世間に対する復讐心のかたまりとなる。そして中間層は家族と仕事とローンでがんじがらめの束縛人生か。悪く言えばそういうことになるが、そんな憂さを忘れるために娯楽があるわけか。アメリカ人はワールドシリーズやスーパーボウルで熱狂したりしているのだろうか。ブラジル人はリオのカーニバルやワールドカップで熱狂したりしているのだろうか。そんな浅はかな認識を披露してどうするのか。物事を否定的に捉えたらきりがない。もっと肯定的にこの世界をとらえられないものか。公園でどこかの親子が遊んでいる。遊んでいる間は楽しいのではないか。なぜそうやって突き放して見てしまうのか。君には関係のないことだからか。誰とも関係ないと強がってみせたいのだろうか。どうでもいいことには違いない。たぶんそこを何とかする必要もないのだろう。人がやれることは限られていて、そのほとんどはどうでもいいことだ。趣味に生きるのはそれほど愚かなことではない。みんなが趣味に凝り固まってしまえば、平和な世の中になるだろうか。お互いの趣味を自慢し合って、相手の趣味を否定したりしたら険悪な雰囲気になり、場合によっては諍いに発展するのではないか。人が人と対峙している限りは、そこで競争が起こり、相手を蹴落とすための策略やらがたくまれたら、平和ではなくなってしまうか。ではそうならないためにも、教育によって互いを尊重するための心が養われならないか。だが一方で受験などで競争心が養われているではないか。ではスポーツ的に、ルールの範囲内で互いを尊重しつつの競争が奨励されればいいわけか。でもやるとなったら手段を選ばないのが、本気であることの証しではないのか。その辺がまったく矛盾しているわけか。

 要するにさじ加減なのだろう。表向きはルールの範囲内で競争しているように装いつつも、裏では利益のためなら手段を選ばないやり方が横行している。そんなふうにして賢くうまく立ち回った者が栄華を極めたりするわけだ。高級感を求めて贅沢品で身を包み、豪邸を建てて高級車を乗り回し、自家用ジェットや豪華客船で世界旅行に出かけ、後は何をやったらいいのだろうか、財団を設立して恵まれない人たちに寄付をしたり、美術館や博物館に世界中からかき集めたお宝を寄贈したりすればいいのか。そして歴史に名を残し、大成功の人生に幕を閉じれば、将来伝記が出版されたり、それが映画化されたりして、ますますその名声が高まるというものだ。何だかそう語ってしまうと馬鹿げているように思われるか。だから今の君には関係のない話なのだろう。過去に誰かがそんなことをやっていたのであり、欧米ではその手の大富豪がいくらでもいるのではないか。今でも若くしてネットビジネスで巨万の富を築き上げた人とか結構いるのだろう。フェイスブックの創業者などがその代表例だろうが、それにしてもそんなふうにして人は何を目指しているのか。新たにそんなツールが生み出されて、世の中がいくら便利になったところで、今度はそれと比例して煩わしさも増えていってしまい、例えば人と人とのコミュニケーション手段が増えれば、より多くの人とコミュニケーションをとらなければならなくなり、どんどんそんなことに時間をとられ、忙しくなる一方になりはしないか。面倒くさくなったらやめてしまえばいいわけか。でもやめたらこもりきりになり、世間からも時代からも取り残され、孤独な生涯を送ってしまうだろうか。そんな極端に自閉することもないだろう。隣近所の人たちとうわべだけつきあっていればいいではないか。新聞を読んだりテレビでニュースを見たりしていれば、世間とのつながりも確保されるか。だから要はさじ加減で、その辺でバランス感覚を失わなければ、それほどおかしな人間にはならないはずだが、何となくそれではつまらないような気もして、どうしても常識から思いっきり外れたことをやりたくなってくるのが人の業というものか。やればいいではないか。結果的に犯罪にならない範囲内でやれば大丈夫だ。大丈夫でなければやり方を改めればいい。やりたい放題やって日頃の憂さ晴らしとすればいいのか。君にできるわけがないことはわかっている。


2月7日

 なぜか慌ただしく、我を忘れている感覚で、急いで電車に乗り込む。もう夜だ。何だか体と頭の両方を鍛えられているような日常だ。ここにきてそれはないか。機転を利かさないとうまく一日を乗り切れない。何でそうなってしまうのだろうか。もう少し安定した生活を送りたいと思うが、状況がそうさせてくれない。何に困っているわけでもないのに、目一杯時間と労力を費やして、何とかここまでたどり着く。まさか気が狂っているのだろうか。客観的に考えてみて、どうもそうではないらしいのだが、なぜか片時も気を抜けず、ちょっとでも上の空だと、すぐに手痛いしっぺ返しを受けて、嫌な思いをしてしまう。本当はもっと余裕しゃくしゃくで日々を送ってもかまわないような気がするのだが、現状はほど遠く、日々不快感と隣り合わせで過ごさなければならない。冗談だろうか。たぶん冗談でもかまわないのだろう。嘘をついてもどうということはない。しかしよく何事もなく生きていられると思われ、本当は何事だらけなのだろうが、平然と受け流すしかないような立場に追いやられていて、時には激高したり憤慨したりして、怒鳴り散らしてもかまわないのかもしれないが、なぜか無表情でいられるようになってしまったらしい。まったく思い通りになっていないのに、自然とそんな状況に対応してしまい、それで済んでしまうような成り行きに身をまかせ、どうにかこうにか一日が終わり、翌日になればまたうんざりするようなことの連続になるのだろうが、そんな日々に馴れてしまっている。そのうち体のどこかが悪くなり、早死にしてしまうのだろうか。幸い酒も煙草もやっていないので、まだそれが救いとなっているのかもしれないが、そんなふうに思いながらも、密かに起死回生の何かを狙っているのだろう。弱音を吐いているように見せかけたいだけか。たぶんそうではない。それも現実の一部であり、そんなふうに思っている誰かがそこにいるだけで、君がそれに関して何を思っても、そんなことはおかまいなしにこの世界はあり続け、そこに存在している誰もが生きて死ぬに過ぎず、そうなったとしてもどうしたわけでもない。すべての時間は止めどなく経過し続け、死んで不在となった意識など忘却の彼方へと遠ざかるだけだ。君もやがて消え去る運命か。

 しかし自意識はこの世界で何を思ったらいいのだろうか。何も思わなくてもかまわないのか。何か適当にいい加減に思っていればいいのかもしれず、何を思っているとしても、それを表明したりしなかったりしていれば、やがてそんなふうに何かが過ぎ去り、終わってしまうわけか。そこで何が終わるというのか。すべてが終わり、この宇宙が終末の時を迎えるかもしれないが、それは気が遠くなるほど先のことか。誰も生きてはいないだろう。そういう水準で物事を考えてしまうと、もう何もかもがどうでもよくなってしまうだろうか。むろん君の知ったことではない。かなり馬鹿げている。人類の文化だの文明だのがどうのこうの言っている水準で物事を考えなければ、何も語れなくなってしまうか。もっと下世話であってもかまわないのだろうが、たぶん誰かは冗談でそんなふうに思っているだけなのだ。彼の主張を真に受けるのは馬鹿げている。誰が何を主張しているのだろうか。それは誰の主張でもなく、真に受けるようなことは何も述べられていないはずか。ではすべては冗談なのか。冗談でさえなく、主張でさえもない。ただ何かを受け流しているのであり、無い物ねだりをすることもなく、黙って貧窮の時を過ごしているのか。今も音楽を聴いているではないか。それを理解するのが面倒くさいのだろう。本気になれないのは毎度のことであり、どうも笑ってしまうような案配なのだろう。体験している何もかもが馬鹿げているのだろうか。別にそう思っているわけではなく、無理に平静を装っているわけでもなく、時には狼狽してみたり、焦って吃音になってみたりしているわけだから、だいぶ痛い目に遭っていて、現に胃が痛い。かなり神経をすり減らしていて、心の病を発症する一歩手前か。仮にそうだとしてもなおのこと笑ってしまいがちで、もうやっていられないと思っているのに、何とか作業をこなしているのではないか。不快感を示すこともできないのに、それで済んでいて、何かが鬱積しているのに、平然としていて、ストレスで心身ともに弱っているのに、そんなことは他人事で、無視しながらも無視できないのに、あっけらかんとしているはずだ。そんなことをやっているうちにいつかすべてが総崩れとなってしまうのか。そうなったらなったで、そういうことだと思うしかない。


2月6日

 なぜそう思えるのだろうか。何がそうであるわけがない。君はそれを否定できないばかりか、肯定すらできない。ただ認めがたい。そしてそんなふうに語るべきではないとも思う。語るべきことなどどこにもありはせず、何もないのに無理に語ろうとして、何だかわけがわからなくなり、そして語ることに挫折してしまうのだろうか。君はそれを知り得る立場にはないらしい。知ることすらできないのに、なぜそれについて語ろうとするのか。ネットで検索して調べてみればいいではないか。その程度のことだとは思えない。たぶんそれについてどこかで何か表明しなければならないのだろうが、表明する勇気がない。またそんな嘘をつく。苦し紛れにしては切羽詰まっているふうを装えない。それも嘘の一部なのか。そうならないためにも、まずはこの世界の有り様を理解すべきか。おせっかいな謎解き探偵ごっこを馬鹿にしている場合ではない。そうしなければ事件に関われないのだろうし、だいいち話にならないのだ。何かを語る手法の一つとして、そういう手順を踏まないと、何も前へ進んでゆかないのだ。目下のところ君は関係者でも部外者でもなく、それどころか傍観者にさえなれず、結果として何もやることがない。そんなことをやっている場合ではないのであり、何もやっていないのに、何かをやっている場合ではない。果たしてそれでフィクションが成り立つのだろうか。だから検閲とも統制とも無縁で、それ以前に何も語っていないようで、自由も不自由も関係なく、政治的な立場も表明できず、何をどうしたらいいのかわからないまま、ただ何気ない何かを眺めているだけだ。どうやら相変わらずすべてが君とは無関係のままで、虚無が君に何も語らせまいとしているのではなく、君自身が虚無そのものなのかもしれず、動機も定かでない何らかの行為を遂行すべきか否かを、誰の決定にまかせているわけでもなく、どこにもお呼びでないような立場を維持しているとも思えないが、何となく孤独に怠惰が加わったような状態を保ちつつ、そこから外へ一歩も踏み出せないような状況に陥っているのかもしれない。君はそこで何を考えているのか。何も考えられないはずがないだろうが、一向にそれを明らかにするつもりがないようで、ただ意識がどこか遠くへと流されている。

 本を読んでいたら、そこに特定の固有名詞が頻繁に登場していることに驚き、語っている当人がそれで何か語っているように思い込んでいるようで、何だかおかしな感覚を覚える。誰が良いだの誰が悪いだの、誰に才能があって誰が無能で、誰の映画が傑作で誰の小説が読むに堪えなくて、そんなことを延々に語っている文章自体が、退屈で読むに堪えないのだが、それはどういうことなのか。そういうのを必死に読まないといけないのか。君は何となくそこから降りてしまっている。もういいのではないか。別に特定の芸術作品がこの世界から忘れ去られてしまってもかまわないような気がしてくる。その時の状況と偶然の巡り合わせで、残ったり残らなかったりするのなら、それでかまわないのではないか。その方面に影響力のある人が、その作品や作者について語り続けていれば、そういう場がその影響下にある限りは残るのだろうし、それを受け継ぐ人がその後何世代にも渡って現れ続ければ、執拗に残り続けるわけだろうが、いったん忘れられても、何かのきっかけで将来のある時期に再評価の気運がわき上がってくれば、また忘却の深淵からの帰還を果たしたりして、それぞれの事情によっていろいろな場合があるのかもしれない。だから別にどこかの偉そうな権威が、未来へ残すべきものと残す必要のないものを選り分けたりすること自体、不要な作業でしかなく、そんなことをやらなくても残るものは残るし、いくらその手の権威が絶賛しようと残らないものは残らず、さっさと忘れ去られるしかない。要するにそんなことを考えること自体が余計なお世話なのだろうし、まあどこかの役所が巨費を投じて貴重と思われる伝統芸能やら手工芸やらを保存する仕組みなどもあるのだろうが、そんなことをやって何になるとは言わないが、それはそれで仕方のないことなのだろうが、それが悪あがきだと悟るまではそんなことをやり続けるしかないのだろう。おそらく文化とは無駄で無意味なことに巨額の金を使う目的で存在しているわけで、それを継続することに意義があるのかもしれない。それは誰かの冗談ではなく、時々本気でそう思いたくなるようだが、たぶんそこで誰がそんなことを思っているのでもなく、ましてや誰の独り言でもないのだろう。


2月5日

 何となく面倒くさい。どうも興味がないらしい。情けないのか。そういうことではないだろう。では何なのか。適当な言葉が見当たらない。だが大した障害ではない。たぶん心は何かを求めているのだろう。静かに求めている。本当だろうか。疑問を抱いているのなら、それは手に入らない何かだ。なぜそう思うのか。そんなはずがないと思いたいのか。それが違っているのではないか。何が違っているのか。やはりそんなはずがない。今日の君は何も語れない。昨日もそうだったのではないか。そんな状況から抜け出したいのだろうか。今がその機会なのか。そう思うならさっさと抜け出して、何か別のことをやっていればいい。何が良いとか悪いとか、そんなことが決められるわけがない。何に関心があるのだろうか。自分自身ではない。中身などあり得ない。その他があるだけか。ではそれは何かの抜け殻か。失敗の中から光明が見えてくる。あり得ないことだろうか。何も思いつかないのだから、それでかまわないのではないか。なぜか指先が痛む。しびれているのだろうか。君には関係のないことだ。生身の肉体がどこかへ行ってしまったのか。現状ではそんなはずがない。そうならなければいい。空疎なことを述べている。誰かの期待を裏切っているわけか。昨日もそうだったはずだ。それに関して議論を戦わせるつもりはない。何が最強というわけでもない。ただ外れている。たがが外れているのか。それだけではない。何となく面倒くさい。語るのが面倒なのか。語らなければいい。実際にそうしている。音楽を聴いているだけか。こうして言葉を記しているではないか。誰かがそうしている。君ではない。面倒くさいので、そういうことにしておきたい。またいつもの悪い癖が出ている。そうなってしまうのだから仕方のないことだ。馬鹿げたことを語っているらしい。何が待っているわけでもない。遠い未来に死が待ち受けているのかもしれないが、それが今でないことは確からしい。君は死ぬのが面倒くさいようだ。フィクションの中ではそういうことになっている。またそんな嘘をつく。本来ならもっとマシなことを語るべきなのだろうが、あいにく何も思いつかず、こうして誰かがいい加減に言葉を記して、何かの時間稼ぎでもしているわけか。そうでないことを祈ろう。それが嘘なのではないか。

 自己満足でかまわないのではないか。他人の文章や対談を馬鹿にしている場合ではない。自分という存在さえままならず、何を語っているのかよくわからない。何を語ろうとしても、結局のところはそうなってしまい、そこで何かがうやむやのうちに流されているのを理解する。そんなはずがない。無理に書物を読んでも意味がないが、無理に言葉を記すのも意味のないことか。どちらも同時にやっていることだ。その辺がおかしいのかもしれないが、一方でそれでもかまわないと思い続け、何が一方なのかもわからないまま、自らがどこを向いているのかもわからなくなる。それは単なる暇つぶしなのか。本気でそう思っているのかもしれない。今なら本気になれそうだ。ぬるい茶をすすりながら、そんなことを考えている。考えていることにはならないだろう。ではその場の思いつきか。忘れることは良いことだ。くだらぬことなど忘れてしまえばいい。大事なことだってついでに忘れ、何もかもが思い出せなくなり、物忘れの極みに至りそうだ。そんなはずがない。もっとまじめに物事を考えた方がいい。深刻になりすぎるのは良くないが、そろそろそういう水準から抜け出すべきだ。何からも抜け切れていないのに、それはないだろうか。だが何もないわけではなく、何となく批評もどきのような文章を記している場合もありそうだ。気まぐれなのか。今はそれでかまわないと思う他ない。また何かの機会が巡ってきたときに、それを試してみたらわかることだ。わからなければわからないままでもかまわず、そうなればなったで楽しいか。楽な気分になれそうだ。そういういい加減な感じが疲れた心を和ませる。それだけでもかまわないのに、他に何を付け足す必要があるだろうか。いくらでも付け足されているではないか。付け足されたそれらは無駄で無意味な言葉の数々か。そうなれば愉快な気分になれそうだ。実際にはどうなっているのか。見た通り読んだ通りの無内容か。笑ってしまえるほどのそれなのか。できればもう一押しが必要かもしれない。ではもっとおかしくなればいいわけか。今以上のおかしさに至ることができるだろうか。何もおかしくない。そう思えばそういうことだ。では思わなければいい。面倒くさいのでそういうことにしておこう。またそんな嘘をつく。いくらでも嘘をつけばいいことでしかない。しかしそれ以外に何が求められているのか。やはり求められているのはそれ以外のすべてなのか。


2月4日

 またつまらないことに時間をかけている。どうでもいいことのはずが、何となくそうでもないことに気づき、また何かを蒸し返そうとしている。ところで君は『薔薇の名前』という書物を読んだことがあるだろうか。確か中世のイタリアでシャーロック・ホームズ気取りの修道士が、教会で起こった殺人事件をネタにして、謎解き探偵ごっこをやるわけだ。なぜそんなふうに語って、かつて一世を風靡したベストセラー小説を馬鹿にするのか。水谷豊主演の人気テレビドラマシリーズに、記号学とかいう胡散臭い学問もどきを加味して、もっと複雑にうんちく満載にすれば、そんな小説になるのかもしれない。わからないが、その著者の名前を書店で発見して、何となく買ってしまった軽い内容の書物をさらに読んでいるようだ。そういえば近年それと似たような雰囲気のベストセラー小説と映画がセットになった作品があったはずで、確か『ダ・ヴィンチ・コード』とか『天使と悪魔』とかいう、『薔薇の名前』や『フーコーの振り子』などの物語がかすむほどの、もっと大げさで派手な謎解き探偵ごっこがあったはずだ。それももう半分世間から忘れ去られようとしているが、どうせ手を替え品を替えて、忘れた頃に似たような物語が再登場して、小説がベストセラーになったり映画が大ヒットしたりして、メディアが一定期間騒ぎ立て、それに便乗したテレビ番組などが作られたりして、そしてそれもやがて忘れ去られ、今後もそんなことがNHKの大河ドラマのように延々と繰り返されるのかもしれないが、どうも人はその手のちょっと知的な雰囲気を漂わせる大衆娯楽に自尊心をくすぐられて、安易に受け入れてしまう傾向にあるらしい。なぜ君はそんなことを思いながら愉快な気分になれるのだろうか。かつての小説の作者で今や大学お偉い先生となった老人が、必死にうんちくを並べ立てながら、何だか焦燥感をあらわにしつつ、誰かと対談している。別におもしろいことを述べているわけではないのだが、その知識の空回り感がユーモラスで笑えるのかもしれない。たぶん当人は空回りなど断じてしていないと思っているのだろうが、無意識のうちに懸命に博学をひけらかしながら、気丈に振る舞いながらも、一方で現代に対する異議申し立てがしたくてたまらない、という老人特有の焦りが、述べている言葉と言葉の間から滲み出てくる。それがなぜユーモラスに感じられるのか。例えばアルツハイマー病に関するうんちくを一通りたれた後、「なるほど。それでは、私も詩を暗踊するのはやめて、毎日ウイスキーをボトルで二本飲むとしよう。希望を与えてくれてありがとう。ユビュ王じゃないけど、「くそったれ!」ですよ。」と言っている。当人はユーモアのつもりで言っているのだろうが、だから何だということにしかならず、要するに空回りしているように感じられてしまう。この感覚は何なのか。彼はなぜそれほどインターネットを脅威に感じているのか。玉石混淆で味噌も糞も一緒くたにあらゆる情報が行き交っている状況がそんなに憂うべきことなのか。まさにそれは、この世界の秩序が瓦解しようとする時に抱く知識人特有の危機感なのだろうか。でもそれは確か蓮實重彦辺りが指摘したように、ヴァレリーやサルトルなどのある時代を代表する知識人たちが、例えば第一次世界大戦や第二次世界大戦が終わったときに抱いた、紋切り型的な危機感と同じたぐいのそれではないのか。やはりそんなことを思い出しながら、何となく愉快な気分となっている。


2月3日

 ちょっと気を抜くとすぐに遅れてしまう。まあ疲れているので仕方のないことだろうが、何となくまともに対処できなくなっている。つまらないのだろうか。何がつまらないわけでもないが、この世にはいろいろな意味でどうにもならないことがあるらしい。それについて語らなければいけないのだろうか。別に語る義務があるわけでもない。語ることで支障を来さない限りは語っておいてかまわないのではないか。たぶん君はそのことで危機感を抱いているわけではないらしいが、要するにつまらないのか。ならば語らなければいいではないか。そんなところで逡巡しているうちに、もう語るべきことなど忘れてしまったようだ。馬鹿げている。どうも人はつまらないこだわりを捨てられないようだ。他人と戦うのが好きなのだろう。他人を力づくで屈服させたい。だがそうして得られた結果は大したことはなく、くだらぬことでしかない。では戦っている過程が楽しいのか。勝つか負けるかのどちらかわからない時の気分が最高なのか。のるかそるか一か八かの一瞬を味わいたいのか。ここが運命の分かれ道なのだろうか。どうでもいいのではないか。実際にはもう通り過ぎているはずで、何かが起こった後から、都合のいいように解釈しているに過ぎないのではないか。それでもかまわないのだろう。勝負などどうでもよく、そんな作り話などとっくに打ち捨てられているはずだ。なぜそう思ってしまうのだろう。夕暮れ時に久しぶりの富士山だ。大宮付近で見えるらしい。たぶんもっと広範囲で見ることができるのだろうが、何となく久しぶりに見ると、そんなことを述べてみたくなるようだ。馬鹿げたことか。何でもないに違いない。どうでもいいことだ。要するにその時間帯にそこにいることがまれなのだ。そしてどうも何かのついでに久しぶりに書物を買ってしまったらしい。ウンベルト・エーコと誰かの対談集が紀伊国屋の新刊コーナーで平積みになっていたので、その名前を確認して半分馬鹿にしたふうを装いながらも、読めば何かの足しになると思い、買った後からそう思ったのかもしれないが、買って帰りの電車の中で暇つぶしに読んでいる。書物は滅びないそうだ。

 インターネットや電子書籍の発達とともに、浅はかなジャーナリズムが予定調和的に紙に印刷された書物の滅亡を予言したとかしないとか、というこれまた毎度おなじみの問題提起に対して、書物は滅びないという立場から何か述べているようだ。まあ乱暴かつ粗雑に要約すればそういうことだろうが、対談でそんなことを述べていて楽しいだろうか。たぶん違う。語るべきことを間違っているのかもしれない。まだ数十ページ読んだだけでそれはないか。たぶん語るべきは書物についてではなく、その書物に記されている中身についてだ。それは電子書籍についても同じことで、媒体としての電子書籍そのものについてではなく、そこに記されている内容について述べなければならない。それだけのことでしかなく、また優れた作品はいつまでも読まれるから残り、くだらない作品はすぐに忘れ去られるというわけでもなく、たぶん偶然に残った作品の中に優れたものとそうでないものがあるだけで、あまり不朽の名作とやらの存在価値を過大評価してはまずいのではないだろうか。たぶん当時優れていると評価された作品の多くは今日では残っていないはずで、またその当時においてはくだらない作品と見なされていたものが、今日では優れていると評価されているものもあるのではないか。そしてある作品が優れているとかくだらないとか評価するのではなく、その作品についてああだこうだと語られていることこそ、語っている者がその作品について興味があることの証しであり、たぶん何らかの評価を下す以前に、誰かが語っているその作品を読みたくなってくるわけで、なぜその作品について語ろうとするのかにも興味を覚え、それについて語っている内容がおもしろいからそうなるのだろうが、そんな批評を読むだけでも楽しい。だから書物のメディアとしての機能やその限界などいくら語っても、大しておもしろい内容とはならず、語っている当人が興味を持った書物の内容について語らなければ、たぶん何を語っていることにもならないのではないか。


2月2日

 何かが機能を停止している。なぜさっきから首を傾げているのか。不思議な感覚なのでもないはずだ。別に約束を果たしたわけでもない。ところで何かやるべきことがあったのか。とりあえずは言葉を記すべきか。君が知り得るようなことではない。人跡未踏の地にきているわけでもない。機械の音がうるさい。何があったわけでもないだろう。誰かがそこから外れようとしている。それを察知しているのは誰の意識なのか。推し量るべきことではないだろう。では他に何を推測しているのか。苛立っているのだろうか。なぜそう思うのか。何かを思いついたようだ。誰かが何かを発見したのか。言葉の羅列には違いない。君はそこで謎を解き明かそうとしているのだろうか。それらの何が謎なのか。たぶん今日は何もできない日なのだろう。何か思いついたのにもう忘れている。たぶん今日が今日であるためには、何かの忘却が必要なのだろう。そこで誰かの願いが叶えられ、喜び勇んでそこから遠ざかる。何のことだろうか。何が遂げられたわけでもない。相変わらず何もやっていない。君との約束は完全に反古にされてしまうのか。その場の状況次第だろう。何かの巡り合わせが良ければ、叶えてやらないでもないが、ややこしい事態になれば、とりあえず身の安全を確保しなければならないので、それどころではなくなってしまう。あまりおかしなところでこだわってしまうと、どこかへ吹き飛ばされていってしまいそうか。誰かは竜巻の中で何をやろうとしているのか。そんなことを空想しているだけか。ともかくそこから逸脱しないようにしているつもりが、そこがどこだかわからなくなっているのだから、すでに頭がおかしくなっているのだろう。誰かはそんな脳死状態から脱却したいのだろうか。誰が脳死なのか。話を聞きつけ、臓器泥棒が喜び勇んでやってきそうだ。しかしそこでは誰がコーディネーターとなるのだろうか。我ながらわけがわからない。我は我とは無関係なのか。少なくともそれらの意識が宿っているのは君ではない。だから語り始めからおかしいのか。まだ何も始まっていないのに語ろうとするから、そうなってしまう。ではもう少し準備期間が必要だったのか。何を準備していたわけでもない。

 楽な過程ではない。もう少し何とかならなかったのか。今さら遅いだろう。もうこんなところまできてしまったようだ。とっくに引き返せなくなっている。ならばこのままで何とかけりを付けるとしよう。何を蹴飛ばそうとしているのでもないが、石ころがあちこちに転がっている。誰が後始末をつけるわけでもないだろうが、まだ何とかなると思っているのだろう。ようはどんどんそこから遠ざかってしまえばいいわけで、遠ざかれば遠ざかるほど目標が分散して、争いごとが起こせなくなってくるということか。これまでが余りにも近視眼的な目標設定にこだわるあまり、誰もが同じことをしすぎていたのではないか。それに対する反省もないまま、また何かどうでもいいようなことに凝り固まり、そこへ人を集めたがり、みんな同じ方向を向かせて、ヨーイドンで走らせたいのだろうが、それは余りにも安易な発想だ。もうみんな疲れているはずで、走りたいなら、どうぞ一人で勝手に走ってもらって結構であり、それに無関係な他人まで巻き込むのはやめてほしいか。何とか注意をこちらへ向けさせて、他の誰もが関心を持ってほしいのはわかるほどわかるが、それにしてはあまりにも貧相な舞台装置ではないか。それで他の連中まで踊らせるのは、よほどの馬鹿かお人好しでない限りは無理であり、そうもその辺で自覚が足りないというか、何か勘違いしているように思えて仕方がなく、そんな惨状ではどこかの皮肉屋にからかわれるのがオチで、他の誰からも見向きもされないまま、できればそのままフェードアウトしてほしい気もしてくる。君はそこで何を語りたかったのか。語り聴かせるには内容が空疎すぎるか。無理に内容を詰め込むこともないだろうが、もう少し具体的なことを語ってほしいところか。誰かが記す文章ではその辺がわかりにくく、わざとそうしているのかもしれないが、本当に何もないのであり、何も語ることがないからそんな言葉を並べて、何か語っているふうを装いたいだけなのかもしれないが、本当のところは誰かにもよくわからないらしく、君は何かに語らされているような感覚になっているようで、その何かが何なのか、わかろうとすればするほどわけがわからなくなり、結局そんな案配でそんな結果を受け入れざるを得なくなる。


2月1日

 誰かが辺りを見回しているようだが、君はすでに何を見つけたわけでもない。空は晴れているようだ。空には空気の他に何もありはしないが、微量の塵が含まれているはずで、まさかそれが気を生み出しているわけでもないだろう。君はそこで何を見出そうとしているのか。そういう問いはここでの紋切り型だ。別にかまわないだろう。それだけが言葉と言葉をつなぐやり方なのか。何かと何かがごっちゃになっているようだ。それでうまくいかないはわかっていることか。それで何をまねているつもりなのか。君が君自身をまねる時、それで私の誕生となるのだろうか。わけがわからない。相変わらず当てずっぽうでいい加減なことを述べている。川沿いに集合住宅が建ち並ぶ。恐ろしい風景だろうか。意味がわからなくなる。線路沿いには狭い住宅が密集している。そんな風景を眺めながら、誰かは何を思うだろう。そこで膨大な数の私が混み合いへし合い暮らしているわけだ。トラブルが起こらないわけがないか。少しは目が覚めただろうか。別に反省するまでもないだろう。目が覚めるも何も、何をきっかけとしてそうなっているのかわからない。そこに至る様々な成り行きや手続きを前提として、それらをすべて経た上でそうなっているのであり、そこまでの過程をすべて省いて批判してもリアリティがない。たぶん相手を打ち負かそうとしてそうなるのだろうが、もう怒られ馴れているので、何を言われても無表情で、馬耳東風でしかない。結局死ぬか生きるかの水準まで追い込まれてしまうと、平和な社会の中で普通に振る舞えなくなってしまうのだろう。実際に犯罪が多発しているのだから、何が平和なのかそれも曖昧なところかもしれないが、すべては相対的に捉えなければならず、あまりにも一方的に言い負かそうとしても、言い負かそうとしている側がある一線を越えてしまって、かえって正当性を失いかねない。スポーツではないのだから、ことさらその場の勝ち負けにこだわるべきではないのだろう。場合によっては負けたつもりになってもかまわない。逆ギレしたり逆上したりするのは面倒か。演技としてもいただけない。本当はもう少しスマートに振る舞いたいのだろうが、やはりそんな成り行きになってしまうこともある。なるべくそうならないように、やり取りを持っていかなければならない。

 ここまでくるのにどれほどの苦難を乗り越えてきたのか。自慢するようなことではないだろう。どこへ行ってもそんな成り行きに遭遇するだけのことだ。当たり前のことであり、ありきたりなことでしかない。どうあっても画期的な見解など求めようがないか。自然とそんな結果がもたらされる。常識にとらわれない意見など受け入れようがない。だからそれを受け入れさせるには困難が伴うのだろう。たとえそれが後の時代では正しい認識になったとしても、少なくともこの時代では非常識であり、周りの無理解に押しつぶされて、それを主張し続ける人は不遇を託つけているように思われてしまう。たぶんそういうのもありふれていることなのだろう。大したことではない。今を生きているのだから、戦略的にこの時代と歩調を合わせているように振る舞う必要もあるのかもしれない。もちろん本気になる必要はないのだろうが、その辺で述べていることからは漏れてしまうようなニュアンスを受け取ってもらえれば幸いだろうが、別にそんなことは気にしなくてもかまわない。どうでもいいといえばどうでもいいことであり、そのままそれらの成り行きに流されていればそれでもかまわない。やり方などいくらでもあり、別に時代の最先端で勝負しているような勘違いに至らなければ、何とか普通に暮らしてゆけるのだろう。これから何ができるわけでもなく、何もできないわけでもないのだろうが、できることは限られていて、その限られていることをやるか否かも、誰次第でもなく、君の心がけ次第でもない。面倒くさければさっさとそこから降りてしまえばいいことでしかない。それができればだが、降りる勇気が出てこないなら、そのままだらだら惰性でやり続けるしかないだろう。君がフィクションの中でそうやっているわけか。何も語っていないのに語っていることになっていて、そんなことを誰かが記しているわけだ。架空の君はそれで飽き足らないのだろうか。誰かのようにコンビニで漫画を立ち読みしたいのだろうか。それはわざと違うだろう。それだけで終わらずに、そこから何か架空の出来事が続いて起こり、だんだん話が膨らんでゆかなければ、フィクションとして成り立たなくなってしまうか。なぜそこで終わってしまうのか。話を続けるのが面倒くさいのだろうか。そんな理由からそうなっているのでは話にならないか。だから実際に話になっていないのか。