彼の声87

2011年

11月30日

 ようやくここまできたか。まだ早いはずだが、それが何を意味するとも思えず、そんなことを記すはめになる。どうでもいいことか。他人のくだらないこだわりによって自らの行動を左右されてしまうのか。そんなことばかりだ。だからおもしろいのか。強がってみても状況は変わらない。だが冗談でかわすわけにもいかないか。何をかわそうとしているのか。真剣になる必要はないのかもしれず、何に挑んでいるわけでもないのだろう。では野望とは何か。冗談のたぐいだろうか。仮想の世界では何を求めているわけでもない。現実の世界ではどうなのか。おもしろがる必要を感じられない。政治とは何か。挑むべき対象を間違っている。そこで思考が止まっているらしい。何かの終わりを予感させるが、本気でそう思っているわけではない。そこでの表現とは無関係だ。では何を求めているのか。言葉が記されている間に何か思うが、思っているだけで、それ以上の動作を伴わず、思いはどこにも至らないようだ。それが文章として構成されるわけでもない。では何をやっているのか。仕事をしているだけのようだ。暇な時には物思いに耽っているのではないか。そういう場合もあるだろう。その場に居合わせた誰もそれを否定できない。誰もいないのではないか。たぶん誰かが記しているつもりのフィクションの中では、複数の登場人物がどこかで鉢合わせしているのではないか。しかしそれがどうしたわけでもなく、その前後の経緯が語られていないようで、要するに話になっていないのだろう。果たしてそれでかまわないのだろうか。果たしても何もなく、ただそんなことを記しているわけか。

 だがいつものようにそれだけでは物足りない。何か具体的な話題が必要とされているらしいが、思いつかないのだからどうしようもないか。無理にどこかの国の政治体制を批判することもないだろう。いかれているのは万国共通だ。マネーゲームで巨額の資金を動かしている人々を非難する気も起こらない。そういうのはそのあおりを受けて貧乏暮らしを強いられていると思っている人々がやることか。何を強いられているとも思えず、たぶん何かしら強いられているのだろうが、強いている対象に歯向かう気も起こらない。ではどうしたらいいのか。与えられた状況の中でうまく立ち回ろうとすればいいのだろうか。君はそうしているのか。誰がそうしているわけでもなく、誰かがそんなことを記しているだけか。他に何を記せばいいのか。たとえば日本国の財政再建のためには何が必要とされているのだろう。興味がない。消費税が十パーセントに上がったとして、それで何か不都合を感じるのか。反対している人にとっては不都合なことかもしれない。税率が上がった分だけ物の値段も上がるだろうか。一番の不都合はそれか。では反対運動に立ち上がらなければならないか。それをやっている暇がなさそうだ。面倒くさいからやらないと、ますます状況が悪化してしまうだろうか。それは何の状況なのか。たぶん何かの状況なのだろう。税率を上げないと慢性的な財政赤字の状況が一段と悪化すると政治家が言っているではないか。では賛成運動に立ち上がらなければならないのだろうか。首相も財務大臣も賛成しているのだから、別に君がわざわざ賛成運動をするまでもないだろう。それ以前に興味がないか。国家財政などさっさと破綻してほしいか。

 なんだかんだ言っても、またここまでやってきてしまったらしい。君は架空の登山でも楽しんでいるのか。誰かが記しているつもりのフィクションの中ではそうかもしれない。しかし登山が何のたとえとなっているのかがわからない。わかる必要がないのではないか。わかってもわからなくても数日後は寒すぎる。それとこれとは無関係かもしれないが、とにかく寒い。別にそれほどややこしい事態となっているわけでもないのだろうが、変なところでこだわっている人に接していると疲れる。そんな人ばかりだと、自分の主義主張から一歩も譲ろうとしないので、何も回っていかないのではないか。誰かが妥協しなければならず、そこに合理的な理由を付け加える必要も出てきて、その辺で交渉術みたいなのが必要となってくるわけか。でも最期は自分の主義主張を曲げずにごり押しした側の勝ちとなってしまう。そしてそんな不条理にうんざりして、さらにいっそう疲れてくるわけだ。やっていられないと思いながらも、何とかその場からの離脱を思いとどまりながらも、今日に至っているわけで、そこで忍耐力が試されているわけか。誰が試しているのだろう。ごり押ししている輩が試しているわけか。他人を思いやる気があればそんなことはやらないのだろうが、やはり自らの利益を追求している人たちは情け容赦しないようで、必ずそのあおりを食ってうんざりしている人が周囲にいるはずだ。もういい加減にしてほしいと思いながらも、他人のわがままに自らの行動を左右されながら、そこでじっと耐えているのだろうか。そうならないようにするためにも、ここはうまく立ち回って、そういう人たちに巻き込まれないようにするための術を学ばなければならない。だが本当に君はそう思っているのだろうか。案外好き勝手にやりたい放題やっている当人が君ではないのか。


11月29日

 気がつけば眠たくなっていて、またたぶん疲れてきたようだ。まだそんなところで喘いでいるのか。もう無理なのだからやめてしまえばいい。また冗談で言っているつもりなのか。冗談ではなく本心なのではないか。そうだとしてもやめられないか。理由など何もなく、ただここでやめるわけにはいかないらしい。意地を通そうとしているだけか。それが理由ならくだらないか。何がくだらないのだろう。そういう自問がくだらない。そう思うならくだらない自問自答はやめた方がいい。だが今の君にはそれしかない。なぜそう思うのか。どうやら新しい話題を探さなければなくなってきたようだ。そう簡単に見つかるとは思えない。ところで私は君を覚えているだろうか。そうではない。君は私を覚えているだろうか。もはや何を改めても無駄か。いったい何を語ろうとしているのか。またもやそれは君には関係のないことなのか。本気になれないのはいつもの通りで、馬耳東風状態が長引いている。自分でそう思っているのだから救いようがない。別に地震の被害とは無関係なのだろうから、絆を深める必要はない。その気になればそうなってしまい、それが勘違いの原因となるのかもしれないが、たぶんそれでもかまわないのだろう。結果として記述が続いていればそれでかまわないのか。そうなったらおしまいか。現実にそうなっているではないか。何を批判したいのでも馬鹿にしたいのでもなく、それを肯定したいのでも認めたいのでもない。ただいいわけを聞き流す。なかったことにしたいのだろうか。何がそうなのか。何もなくても何でもないというわけか。それでかまわないのなら、そんなふうにしかならないだろう。

 何か事後処理のような内容になってきたらしいが、それでもうまくいくと思っている。たとえうまくいかなくてもうまくいったことにしたいのか。なぜなのか。君にはその辺が理解しがたいようだ。誰かは興味がないのにそんなことをやっているが、ストレスにならないのだろうか。仕事だから仕方がないのだろうか。嫌な仕事だからといってやめるわけにはいかないらしい。気が進まないか。さっきまで眠っていたではないか。居眠りの最中だった。それで今はどうなったのだろう。まだその続きがあるのか。今は夜だからそれはない。後は寝るだけか。そうならないから困っているわけか。何とかしたいのではないか。何ともならないからそう思う。翌朝に目を覚まし、さらに遅れてしまったことを知るが、どうしようもなく、できない時はできないのだろう。他の用事が立て続けにあると、どうしても言葉を記す時間を確保できなくなってしまう。結局先月の日付で停滞中であり、なかなかその先へ向かうことができないようだ。そして語ることがないのが致命的で、出てくる言葉はいいわけばかりになってしまい、それを記している誰かが自己嫌悪に陥るしかないらしい。他に何も記せないのだから、それは致し方のないことか。それでも言葉を記そうとしているのだから、端から眺めている君は呆れるばかりか。誰が眺めているのでもない。君という言葉が記されると、すかさずその存在を否定することになるのはどうしてなのか。何が問われているわけではない。またそれか。どうあってもそうではないと思いたいらしい。そこには誰もいないのではないか。それがわかっていながら、あたかもそこに君がいるかのような仄めかしが記されるのはおかしいか。

 あるいはつまらない紆余曲折が記されるのには納得がいかないか。そうでもしない限り、何も思いつかない状況下では何も記せないのではないか。本当にそう思っているわけか。またもや自問自答か。時折雪やみぞれがちらつく曇り空の下ではカラスが鳴いている。何の感慨もない。すでに季節は冬だろう。しかし大阪市長と大阪府知事の関係は、ロシアのプーチン首相とメドベージェフ大統領の関係に似ている。まさか二人で市長と府知事を交代しながら長期政権を狙っているわけでもあるまいが、大阪を欧米の有名な諸都市と勝負できる都市にするとかいう主張も、大阪をロシアに都市を国家に置き換えれば、そのままプーチン氏やメドベージェフ氏の国家主義と重なり合う部分が多い。競争を勝ち抜いてきた人が思うことは、洋の東西や政治体制を問わず、みんな似たような考えに行き着くのかもしれない。まあ大阪もロシアも豪腕な人が行政のトップに立ってやっているのだから、それなりの成果を上げているのだろうし、今後もその線で世の中の注目を集め続けるのかもしれないが、やはり君には関係のないことなのか。彼らが狙っている世界の中での国家や都市の地位向上というものも、ある種の幻想には違いないが、政治や行政の主導で暮らしやすい社会を作り上げるという考え方自体は当たり前のことで、そういう成り行きの上にしか政治や行政の存在意義はあり得ないのかもしれないが、君はそこにある種の違和感を感じているようで、そういう主張を全面に押し立てざるを得ない状況というのが、何だかこれから窮屈な社会になってゆきそうな気配を感じてしまうのだろうか。


11月28日

 それは違うだろう。意味の病にかかっているわけではなく、代わりに無意味を愛でているとも思えず、意味と無意味のどちら側へ振れているわけでもなく、それは何でもないことかもしれない。またそれなのか。相変わらず何を語ろうとしているのかわからない。語らなくてもかまわないのに語ろうとするからそうなってしまう。時にはそんな嘘をついてみるが、何がどうなっているわけでもない。どうせまたでたらめなことを記そうとしているのだろう。君はそう思って何をあきらめているのか。誰がそう思っているわけではない。君もそうは思っていないだろう。そしてなぜか胃が痛いようだ。それとこれとは無関係か。漫画の中で誰かと誰かが戦っている最中のようだ。よくある話か。君がそう思っているのではなく、誰がどう思っているのでもない。そんな言葉が繰り返され、いつしか語るのに飽きてくるが、何を語っているとも思えない。それで何を否定しているつもりなのか。何を否定しても、何も語っていない事実は動かしようがないか。しかしそれの何が事実なのか。こうして言葉を記していることは確かだが、他に何があるというのか。何かならいくらでもありそうだが、その何かが何なのかがわからない。たぶんそれで語っていることにはならないのだろう。言葉を記しているが、何も語っていない。君の頭の中ではそうだ。それは誰の頭の中でもないのだろうが、君という言葉が記されていることは確かか。わかっているのはそれだけか。いったい誰がそれを知りたがっているというのか。君ではない。誰でもないだろうか。そんなことを知る必要はないのか。誰にとってもそういうことだ。

 やめておいた方がよさそうだ。無駄に語ろうとしている。だができることはそれだけか。そう思うならなおさらやめておいた方がいい。これ以上無駄に語れば自らの品位をおとしめることにでもつながるわけか。そうであってもかまわないだろうか。そんなふうにしか語れないならそうなってしまうだろう。始めからそういう宿命だったのだ。では予定調和的にそんな語りに終始していればいいのか。無理強いはしないようだが、それをやるかやらないかは、君以外の誰が決めることでもなく、自らで判断すればいいだけのことだ。自らとは誰のことを指すのか。そういう問答に終始したいらしい。くだらなすぎるだろうか。意識が何かに押し流されていってしまい、今は頭の中に空洞ができているようだ。そんなはずがないだろう。心が折れるか。なぜそう思うのか。今さら何を思っているわけでもなく、さっさと続きを記せばいいことでしかない。できればそうしたいところだが、無理なのかもしれない。結局そんなことを記しているだけで、他には何も語れない状況の中で行き詰まり、それらの記述を放置したまま、どこかへ行ってしまいそうになるが、それの何が嘘なのか。偽らざる心境をそれらの記述が物語っているわけでもあるまい。では語っているすべてはフィクションか。そんなはずがない。思っていることをそのまま記しているはずだ。しかしそれが虚構の本質なのではないか。本当は思いもしなかったことを記さなければならないのに、何やら嘘偽りなく本心から思っていることを、正確かつ正直に記しているつもりになっていること自体が、大きな勘違いなのだろうか。そんなはずがないと思いたいが、本当のところはわからない。

 心の中で何かが妨げているようだ。そんな記述ではだめだと訴えかける。他に何もできないはずだが、それではだめなのか。何を説明していることにもならない。説明しているではないか。何も語れない状況について説明しているはずだ。君はそれを眺めているだけだ。誰かが苦悩する姿を無表情で眺めているのか。もう何を思うこともないだろう。誰がそう思っているのだろうか。君ではない。誰でもなく、誰が言葉を記しているのでもない。またそんな嘘をつくが、後が続きそうもない。絶えず何かを考えているふりをしているようだが、何も出てこない。ではもう本当にだめなのか。そこがわからないのだが、そんなくだらぬ自問自答で切り抜けたところで、その先には空疎が待ち受けていて、君を自己嫌悪に陥らせる。君ではないだろう。では私なのか。間違ってもそれはない。では気が済むまでそんな自問自答を繰り返していればいいだろうか。それでは気が済まないから苦悩しているのか。突然しゃっくりが出る。それがどうしたのか。偶然の巡り会わせに身をまかせるべきだ。いったい何が巡ってくるのだろう。そんな現実か。どんな現実なのか。しきりにそれを問い続けているわけだ。そして何の答えも導き出せていない現実がある。虚構ではないのか。君は虚構の中で何かを語っているつもりでいるわけか。それが嘘なのだろうか。どうやらそれ以上の追求は無理そうで、どんどんそこから気持ちが逸れてゆき、終いには頭がおかしくなりそうだ。無理矢理何かを引きはがそうとしているのかもしれず、それに失敗しているから痛みを伴っているのか。そんなことがわかるはずがなく、心に痛みを覚えていること自体が虚構なのではないか。そんなことを語って、今の心境を言い表そうとしているのかもしれないが、それはまったくの的外れになって、その代わりに心にもない言葉が虚構の口をついて出る。それはどんな言葉なのか。


11月27日

 それは何の問答集なのだろうか。くしゃみが止まらなくなる。一時的なことだろう。気持ちが散漫なのはいつものことだ。それももうすぐ終わりか。途切れているようだ。それを直す術は思いついた。使い物にならないわけではないが、うんざりしていることは確かなようだ。しかし言葉がつながらない。意味がわからない。説明が粗雑だ。だが無理に説明しようとするとおかしくなる。何を承知しているわけでもないだろう。気分が乗ってこない。それだけのことだ。面倒くさいのだろうか。何をするのがそうなのか。何が知ったことでもなく、何も知らないわけでもない。君が知り得ないことなどに興味はないか。では何について語ろうとしているのか。それもわからないではやりようがない。とりあえず言葉を記していることは確かだ。それだけことか。どうかしている。頭が虚無と同化しているのだろうか。それとも疲れているだけか。いくら考えても無駄だ。それでもフェードアウトするのは早いか。すでにそうかもしれないが、一応は続けるつもりらしいが、そのままで続けられるとは思っていない。初期の頃からと比較するとかなりの変容を被っている。だからもうだめだと思ってしまうのか。またそんな嘘をつく。初期の頃がだめだったのではないか。しかしそれは何の初期なのか。それに関してはわからず、またいつものでまかせで述べていることかもしれない。たぶん何でもないのだ。本当は知っているくせにそれはないか。知っていることを知らないように装いたいのだろうが、それでは余りにも見え透いていないか。一応はそれでかまわないと思い、その先はさらに言葉を連ねるつもりなのだろう。

 しかしわからないものはわからない。何を語ればいいのだろうか。空疎な思いにとらわれているのか。ありふれたことを思い、ありふれた気分となり、ありふれたことを考えている。そしてありふれた人生を送るつもりなのか。今でさえそうではないのではないか。細部においては何もありふれていない。すべてが独特の形状を示し、そこに至る成り行きも、それ固有の道筋を通ってきたのではないか。だがそれがどうしたのか。そこに何かこだわりがあるとは思えない。人は人であり、人特有の行動形態の範疇で暮らしているはずで、そこに固有の特徴が認められるにしても、それは人として生きている範囲内に収まる程度のことだ。その人がいかに社会の中で独特の存在形態を維持していようと、所詮は周囲が許容できる限りの存在でしかなく、結局はその人の自己満足の範疇で成り立っているだけか。自意識過剰の虚栄心ばかりが先走って、それを自らの個性だと錯覚している。いや個性こそがそういう錯覚のたぐいなのかもしれず、端から見れば他と同じようなものとしか感じられないのに、当人にしてみれば、何か他人とはひと味違うようなことをやっていると思い込んでいるわけだ。問題はそれをどう捉えるかなのだろうが、何か自分独自のことをやっているように思い込み、そんなことをやっている自らを肯定的に捉え、自己満足に浸り、それから君は何を思うのか。あらぬ妄想の最中にとんでもないひらめきにでも出くわすのか。そうなったらおもしろいが、その大半はくだらぬ勘違いを引き起こすだけか。でもそれを否定的に捉えるのはよそう。そんなことの繰り返しの中で、何か画期的なアイデアでも思いつくかもしれない。

 君は本当にそう思っているのか。何となく息切れ状態に陥りそうだ。急に視界から言葉を記した画面が消え去り、頭の中で危険信号が点滅し出し、それが何を意味するのかわからないが、動悸がしているようで、汗が体中から噴き出し、その場に昏倒してしまう。そうなったらおもしろいか。君はそこで臨終の時を迎えたのか。あるいはそんな夢を見ただけか。おそらくフィクションの中でそんなことが起こったことにしたいのだろう。たぶんそれも嘘に決まっているのだろうが、時間がない。それが理由でないこともわかりきったことかもしれないが、何となくそんなことを記しながら、話の断片を想像したいのかもしれない。何も記さないよりはいくらかマシだろうか。そんな比較自体がおかしい。いったい何を語ろうとしているのか。何も語れないことの代わりに記している内容がそれか。何となくごまかしの香りがしてくるが、先を急ぐとしよう。個性とは何か。そこに戻る理由を知りたい。自己満足を得るために自らの内に個性があると信じ込むことが必要となる。わざと回りくどく説明したいのだろうか。それが君の個性だとするならば、誰がそれを信じ込んでいるのか。他に説明することなどありはしない。だが何を説明したいのではなく、ただ言葉を記して文章を構成したいだけで、その内容など何でもかまわないような気がするのは、偽らざる実感であり、その辺で何かがおかしいのだろうが、それをそのまま放置しながらさらに言葉を記し続けていくと、その先に見えてくるのはどんな光景になるのか。それもどうでもいいことの一部分を構成するしかないのだろうか。そうだとしてもなおのこと興味深く思われ、さらに継続してしまいそうな気配がするが、それは馬鹿げた行為の上塗り状態となるのか。


11月26日

 無理をしない方がいい。お前は何をやっているのだ。目の前に誰かが現れ、何かを問いただそうとしている。そんなのは嘘だろう。二日遅れが定着してしまうのか。何も思い浮かばない。そこで何を語ろうとしているのか。今は夏ではない。夏の歌を聴いているのか。それでもベストを尽くしているのか。気が抜けているからそうでもないのだろう。空模様はわからない。夜だからか。君は退屈なのか。誰に語りかけているのでもない。ならばそこで終わりか。何が終わっているのか。それはすべてだ。そういうことにしておこう。気分が乗ってこない。だからそうなってしまう。街の明かりをたどって、どこまで歩を進める気なのか。別に将棋をやっているわけではない。今は電車に乗っている。それで満足なのか。気休めに言葉を記してみるが、それが気休めになっていないのはもちろんのこと、気が散って話にならない。そんなはずがない。何を打ち消しているわけでもない。人は抑制が利かないらしい。人ではないからそんなこととは無関係か。君は外れているのだ。どこからともなく夜の闇が迫っている。さっきまではそうだった。今は無関係だ。どうあっても話にならないような言葉の並びにしたいらしい。文章が長過ぎるのか。そういう問題ではない。気乗りがしないのはいつものことだろう。だからそんなふうに語るべきではない。君の前に誰かが現れて以来、何かがおかしくなっている。別に何を諭しにきたわけでもないのだろうが、君は何かを改めなければならないようだ。そこで何かのからくりでも解き明かそうとしているわけか。君は謎解き探偵などではない。ところで何を語ろうとしていたのか。この世界の未来について語っているつもりだろうか。あり得ないことか。

 ハイカラとは何か。いきなりそれか。何かの常套手段によって継続を保とうとしている。誰かがそこでピエロになろうとしている。馬鹿踊りを踊っているのは誰だろう。実際に踊っているそれは盆踊りのたぐいか。夏の日の夕暮れ時にそんな光景を目にしたようだ。今は冬だ。きっと一年後も冬になる。そこで誰かと誰かが闘争を繰り返す。ハリーポッターと誰かがそういう話になっているわけか。多くの人が夢中になっていたわけか。たぶん十年後には忘れ去られ、代わりに似たような話に夢中になる輩がいたりするのか。まだそこで足踏み状態というわけではない。以前より少しは前進したのではないか。そうあってほしい。迷路の具合はどうなっているのだろう。まだそこで誰かが迷っているわけか。そういう話でもかまわない。君は何とか前進しようとしている。這いつくばっているわけでもないか。しかし空を引き裂いて誰が現れたのか。空模様の縫い目を目で追っていたのは誰だったのだろう。何を眺めていることにもならない。この世界は不条理に満ちている。それだけの話ではない。そこで何が見せびらかされているわけでもなく、誰を出し抜いて何が行われようとしているわけでもない。ただ行事に出向いて誰かに会って立ち話でもするだけか。それだけのために多大な労力を要するわけでもあるまい。君はこの世界から遠ざかるために、不在を返上してわざわざここまでやってきた。それで何か収穫があったのか。取り立てて何もない。今のところはそうだろう。無意識の赴くままにさまよい、何のあてもなく、ただ道の上を歩いて、どこかへ至ろうとしているだけだ。それでかまわないと思っているのだろう。欲はある。何もないわけではない。やり方ならいくらでもありそうだ。何のやり方なのかわからないが、とにかくそこから遠ざかろうとしている。君はそれだけのために存在しているのか。

 それは余りにも回りくどい。なかなかまともに語らせてくれないようだ。状況がそうさせない。君はわけのわからない紆余曲折を経て、ひたすら冷静に作業をこなそうとするが、なぜそうするのかわからないままだ。目の前に現れた誰かがそうしろと命令しているわけか。誰の指図に従っているとも思えない。意志が弱い、すぐにやめそうになり、思いとどまるのに一苦労か。相変わらず何の話でもない。それでも語っているつもりなのだろうか。だんだん眠たくなってきて、居眠り運転で交通事故でも起こそうとしているわけか。どこかで誰かがそうなってしまうのか。人によっては悪運が強く、事故を起こしても罪に問われない場合もあり得る。君の場合はどうだったのか。夜の闇にまぎれて指名手配犯でも逃走中なのか。無実の罪を着せられるのがドラマ的な典型となるだろうか。そんな話をどこかで聞いた覚えがありそうだが、冤罪を晴らすためにはどうしたらいいのだろうか。逮捕されてから弁護士にでも相談すればいいのか。逃亡者のままでは、映画ではないのだから、やがて捕まってしまうのがオチだろうか。そうならないように誰かが必死に逃げている際中なのだろうか。そんな話がどこにあるというのか。何とか南海の孤島にまでたどり着いて、そこで行き倒れとなって、数十年後に白骨死体で発見されてしまうのか。君は身元不明者か。そうならないように犯罪に手を染めるのはよそうか。当人の意志に関係なく、偶然に巻き込まれてしまうのが映画的な話の成り行きになるだろうか。そして逃亡者となって、有名俳優が演じる刑事さんと追いかけっこでもするのか。君が映画の主人公なら、君も有名俳優のたぐいとなるだろう。君とは誰なのか。テレビで見かける芸能人のたぐいか。今日も誰かがトーク番組で世間話をしている。それはクイズ番組のたぐいだったのではないか。


11月25日

 今日はピンチなのだろうか。すでに今日ではなく、二日後になっている。たぶんそれがどうということはないが、言葉を記すのがまた遅れてしまうだけか。誰がそうなることを望んでいるわけでもない。理由はわかりきっているが、何の話でもなく、夢を見ているわけでもない。物事の捉え方が違っているようだ。落日の時か。いつの時間帯なのか。夕方に決まっている。ただそうではないような気がするだけだろう。これからどこへ行くわけでもない。いつもの場所へ行くだけだ。魂が不在であるわけではなく、何が魂なのかわからないだけだ。君が知っていることもたかが知れているのだろうか。何を知ろうとしているのか。そんなはずがない。意識はでたらめな言葉の並びに困惑している。画面に映し出されているのは言葉ではなく写真か。複製技術の粋を集めて、何が表現されているとも思えず、何かが偶然に写っているだけのことか。それがすべてではない。君がそれを導き出しているわけでもなく、虚無がすべてを導き出そうとしているわけだ。何がそうなのかわからないが、でたらめ的にはそういうことになり、すべてがでたらめの一部を構成しているのかもしれないが、嘘だろうか。確かなことは何もなく、取り立てて何を語ろうとしていないことも確からしい。どうせそこでつまらないことを述べているのだろう。それでも少しは謙虚になったのだろうか。不遜な態度ばかりでは周りから人がいなくなる。まさかそれも君の狙いか。だがそれで何とかできるとは思っていないはずで、地道な努力によって少しずつ前進するのみだ。今やっていることがそうか。君がそれを知っているから、何とか精神の均衡がとれているのではないか。

 それだけではないと思いたい。しばらく前に分岐点を通過したらしい。そして今はそれ以上を目指しているはずだ。しかしそう述べながらも、何を目指しているのかわからない。それはいつものことだろう。ならばそう述べて何を裏切ろうとしているのか。何か期待を裏切るようなことを語ろうとしているわけか。誰からも期待されていないのではないか。このままではじり貧のようだが、すでにそうなっているのかもしれない。君は君自身の期待を裏切っている。そして今は何も語れないようで、そうこうしているうちに、次第に眠たくなっている。ではもう就寝時間なのか。遅れを取り戻せないうちにそれはないか。何とかしなければならない。それができないから困っているのに、それでも何とかしなければならない。この期に及んでそんなことを思っているようでは、先が思いやられる。もう遅れを取り戻すのは無理だろうか。それがすべてではない。無理しなくてもいいのだろうか。無理して強引に言葉を記すのは要領を得ないやり方だ。今はそうならないように努力すべきだろう。それこそ無理で、もはや焦るしかないようだ。やめた方がいい。そこにはあらゆる可能性があり、その中の一つがやめることか。では君は語ることをやめなければならないのか。そう思うならやめてしまえばいい。しかし何がそんなに気に入らないのか。そんなふうに語っていればいいのではないか。それで何かを語っていることになるなら、そういうことでかまわないのではないか。そうでなければどうなるというのか。ぐだぐだとつまらないことを述べているだけのようだが、何とかしたいのだろうが、そこから抜け出せずにいるらしい。それだけのことなのか。

 何について考えようとしていたのか。何にこだわろうとしていたわけではない。ならばこれからどうしようというのか。悲惨な人々に取り囲まれて、自らも悲惨な境遇に陥ろうとしているのか。すでにそうか。誰かが死に、誰かが生まれ、誰かが生き残ろうとしているが、誰が天才なのだろうか。天才を前にしてありふれたたとえ話を持ち出してしまうわけか。たぶん違うのだろう。それに関して誰の評価を聞きたいわけでもなさそうだ。天才はすでに故人か。他の誰かが誰かを天才だと言っていただけか。もう死んでいるのだからそういうことでもいいのではないか。生きている頃はどう思われていたのだろうか。茶が渋い。何とかここまでたどり着いたようだが、天才の話はどうなってしまったのか。誰かは立川談志の落語がいいとは思えない。落語が嫌いなのではないか。苦労して語っている雰囲気が嫌なのか。癌になればそうなるのではないか。君は全盛時の談志を見たことがないのではないか。芸を極めようとしている姿が窮屈な印象を与えているのだろか。寄席に通うほどの落語ファンでもなく、その手のものにそれほど興味を覚えないのだろうか。とにかくアクが強そうな人とは関わり合いになりたくないようだ。ならば君は一人で部屋に閉じこもって読書でもしていればいい。自らは本気でやるつもりもないことを、他人にやってみろと勧めているとも思えないが、噺家には独特の話し方があり、それが名人芸のようになると、聞いていて思わず引き込まれそうになるのだろうが、テレビで見ている分にはチャンネルを変えればいいだけのことでしかない。どうやら君は談志の落語を最期まで聞いていられなかったようだ。まだそれほど年老いていない頃の映像だったはずだが、何か理由でもあるのだろうか。たぶん弟子の志らくや談春なら安心して聞いていられるはずだが、談志はその存在そのものが不快なのだ。その辺が弟子の二人が秀才のたぐいだとすると、師匠が天才であることの証しなのだろうか。何の理由にもなっていない。


11月24日

 また昨日の話だ。何が正義なのではなく、不用意に間違ったことを述べているだけか。それだけではない。たぶん人余りなのであり、嫌な仕事ならいくらでもありそうだが、それに耐え抜く精神を持ち合わせている人は少ない。だから人余りなのか。ではどうやって生きてゆけばいいのか。その人次第だ。ならばいったい豊かさとは何なのか。今さらそれはない。人には勘と経験が必要とされる。いつになってもそればかりだ。それらを駆使しながらうまく立ち回って利益を得られたら幸いだ。そうやって生き延びようとしているわけか。パフォーマンスとしては大勢で言いたいことを主張するデモも必要だが、メディアはあてにならない。彼らは無責任であり、所詮は出来事を伝えるだけの人たちだ。シリア辺りでそれをやれば命を落とす。では君はこの世界にどんな可能性があると思っているのか。良くなる可能性など何もない。そんな嘘をついても大丈夫なのか。今は誰かの予言通りの世の中になっているそうだ。かつてそんな予言者がいたのだろうか。君の知ったことではない。そんなことは誰も知りはしない。誰かは作家の戯れ言を本当に信じていたわけか。誰かとは誰なのか。少なくとも君ではない。今では誰もそんなことなど覚えていない。だがなぜ一つの意見に集約しなければならないのか。同じことを大勢で主張すれば、それが社会を変える力となるのだろうか。それで原発反対か。あるいは我々は99パーセントの側か。残りの1パーセントの側に属する人々が、世の中の富を独り占めしているわけだ。そのたぐいの統計調査によるとそうなるわけか。それで君はどちら側に属しているわけなのだ。

 人々はお互いの絆を深めて、助け合わなければならないそうだ。君は最近ウィキペディアに寄付をしなかったか。何かの気まぐれだったのだろう。でもユニセフへの寄付は滞っているのではないか。それも気まぐれでやっていた時期があったということか。慈善団体に寄付などしている場合ではないのではないか。では何をしている場合なのか。なぜかウィキペディアは広告収入の活用を頑なに拒んでいるようだ。その団体なりのポリシーがあって、そういうこだわりを守っていないと、結局その他大勢の似たようなことをやっている団体と同一視されてしまうわけか。しかし結果としてそれが何をもたらしているのか。君はまだそれを知り得ていないようだ。知る必要もないのだろう。何を知ろうとしているのかもわからない。なぜそう思うのか。風邪のひきはじめか。そんな感じがするだけのようだ。だがそれでうまくごまかしたことにはなりそうもなく、何だかおかしな具合となってきた。いったい何について語りたかったのか。そうではなく、語りたいことなど何もなく、それでも言葉を記しているうちに気持ちが散漫になり、それ以前からそうだったのかもしれないが、語っていることがどうでもよくなり、次第に言葉を記すのが面倒くさくなってきて、そんなことを語る必要がないのはわかりきっているのだろうが、なおも語ろうとして、何となくそれが行き詰まっているような気になり、何か気力の減退を覚え、そこでやめてしまいそうになるが、それでいいのだろうか。意識をそこから引きはがすのは困難だ。またできないことをやろうとしているのだろうか。無意識のうちにそんなことを思うが、何がそうなのかわからなくなっていて、なぜそう思うのか理解できなくなる。

 それでも何とかここまでこぎ着けてきたようだ。だがそれが何を意味するのかわからない。どうでもいいことだと思っていればいいのかもしれないが、何か引っかかるものを感じて、考えを巡らすが、今のところは何も思いつかず、ただそんなことを記すのみにとどまっているようで、次第に心苦しくなり、どこか得体の知れぬところへと追いつめられていってしまうのだろうか。なぜそんな気分になるのか。そんなふうに思ってしまうことがおかしく感じられ、何かがずれているような気がして、まともな話の進め方ではないのは当然としても、もう少し何とかできないものか。それが無理だからそうなっているのだろう。ではもうあきらめて、開き直ってそれを押し進めればいいのだろうか。今はその気がない。そこで固まっている。何が固まっているのか。しばらく考え込んでいるような気になるが、実際にはそうでもないらしく、さらに言葉を記して、空疎なことを述べているような気になり、そのつもりで終わりまで突き進もうとしているみたいだ。なぜそうなってしまうのか。それ以降は単なる中身のない付け足しに過ぎないのだろうか。君はそれでかまわないと思っているようだ。何も思いつかないのだから仕方がないだろう。君は周期的に気が変になるらしい。だがそれでは語れないことのいいわけとはなりがたい。ではまだ語るつもりでいるのだろうか。何だかわからないが、成り行き的にはそうなってしまい、さっきからだいぶ無駄に話を長引かせているようだが、それは本当に蛇足なのか。そう思うならそれでもかまわないのではないか。そしてかまわないついでに、さらに長引いてしまいそうな気配もあるが、もういい加減にやめておいた方が身のためか。誰のためでもありはせず、君は自分のためにならないことをやり続け、結局自業自得気味に破滅してしまうのか。そうなったらおもしろい。


11月23日

 だからそんな問答には飽きている。そこで何をあきらめているのか。無理に問わなくてもいいだろう。まだやることが残っているはずだが、それがやれると思っているのだろうから、やってみたらいいだろう。それで実際にやっているのは言葉を記すことだけか。それ以外にも何かやっているはずだが、それが記述に反映されることはない。ではそこで何に見とれているのか。それらの光景には興味がない。ならば何を問いかけても無反応か。そんなことに返答するのが面倒くさい。無理に答えようとすれば、意味のない答えになってしまう。結局君には何も答えられないだろう。まともに答えるつもりがないのだから、もう放っておいてほしいか。何を考えようとしても、何も思い浮かばないのかもしれない。だから記すことなど何もないのか。そうではなく、何かしら記している現実があり、それを何とか中身のある内容に持っていきたいわけだ。では君は不可能を可能にしたいわけか。そんな大げさことではなく、ただ普通に語ろうとしているのかもしれない。工夫を凝らして込み入らせたいのではなく、自然に語っているようにしたいわけか。そんなふうに語っていること自体が不自然極まりないが、そう思うならどうすればいいのか。そのままでもかまわない。そのまま語ればいいのではないか。それが自然の成り行きだ。そしてそこでやめるのも自然の成り行きか。そうならないように工夫を凝らせば不自然になる。だからそれでかまわないのだろう、実際に何も語らなくてもかまわない。現に語っていないのだからそういうことになる。やる気がないのだろうか。言葉を記しているではないか。語る気がないようだが、言葉を記している。

 いつものようにそれだけのことなのだろう。テレビでも見ていたのか。欧米では財政赤字で国家が行き詰まっているらしい。日本でも事情は同じことか。中にはマネーゲームで儲けている人もいるではないか。誰かは正義の味方気取りか。大した問題ではない。何かが込み入っているだけのことだ。諸事情が複雑に絡み合っているわけだ。そうまでして国家という形態を維持したいわけだ。競争すれば勝ち残るのは一握りの者だけで、それに参加した大部分の者たちは敗者となる。そんな当たり前のことを理解できないはずがない。そしてその他大勢の敗者たちは格差社会是正を求めてデモをするだけか。実際にデモをしているのはほんの一部に過ぎないだろう。君はどうすればいいのか。デモなどする必要などないか。では君は競争に勝ち抜いた勝者なのか。そんなことはなく、競争などあまり意識せず、適当にいい加減に暮らしているだけか。まだ追い込まれた状況に至っていないのではないか。あるいはこれまでに何度かあったかもしれないが、その度ごとにうまく切り抜けてきたわけか。社会やメディアが振りまいている夢に対して鈍感だったのかもしれない。特に世の中の流れに逆らってきたわけでもないだろうが、流れに積極的に乗ろうとしてこなかったのではないか。たぶんそれらの夢があまり魅力的には見えなかったのかもしれず、その夢を追いかけている人たちの末路もある程度予想できたから、それを真に受けることもなく、何となく生きてこられたのだろう。別にそれらの人々の末路が悲惨だとは思わないが、夢に向かって努力して、苦労して何らかの成功をつかみ取った人でも、例えばそれらの光景を眺めていただけの傍観者との間で、いったいどのような差異が生じているというのか。

 君は傍観者なのか。ある面においてはそうだろう。だが別の面においては、必死に努力してきたと捉えても差し支えないのではないか。物事の捉え方が少しずれているだけか。君は状況に押し出されてそうなった。その表現は何を意味するのか。要するになるようになっただけか。機会を捉えてうまく立ち回ったつもりなのか。それはそうなった成り行きの捉え方にもよるだろう。君はそれまでの経験からそういうやり方を会得したはずだ。別にそれを極めたわけではなく、たぶん隙だらけでその場しのぎのいい加減な動作もあり、まったく何かの底が抜けているというか、間抜けなふりをして相手を油断させようとしているのではなく、本当に間抜けであり、その間抜けぶりを自分で笑っている余裕が、さらなる間抜けな結果を呼び込み、それをおもしろがっているのだから始末に負えない。どうにもこうにも虚脱状態から抜けられないようだ。本当はそうでもないのに、あえてそんな表現で何かを醸し出そうとしているのかもしれないが、たぶん理解されないだろう。本気ではないのは事実だ。本気になれないのだから仕方がない。それも嘘かもしれないが、何となくそう述べておかないとまずいような気がしてくる。別に世の中の誰が成功しても失敗しても破滅してもかまわないのではないか。それは大した成功でも失敗でも破滅でもない。それを経験した当人が思っているほど大したことではなく、結果のバリエーションが成功であったり失敗であったり破滅であったりするだけだ。要するによくあるパターンなのだ。人は誰でもそうなる可能性があり、そういう結果に一喜一憂していても、それだけのことなのだ。何がどうなったわけでもなく、ただそうなってしまっただけでしかない。人がおかれた境遇自体がどうでもいいことなのではないか。


11月22日

 まだすべてを語っているわけではない。あきらめが肝心なのかもしれないが、まだあきらめるには早すぎるだろうか。何をあきらめようとしているわけでもない。何となくかみ合っていないようだ。すれ違いであったり行き違いであったり、やっていることとその結果がちぐはぐなのか。思い通りの結果が得られることは皆無で、必ずおかしな成り行きに巻き込まれ、結果としてはどうにかなるのだが、そこに至る過程で必ず紆余曲折があり、わけのわからない遠回りと、うんざりするような邪魔が次々と入り、いつもそうだから半ば感動してしまうのだが、もう自分の力ではどうにもならないような案配で、他人の出方をうまく取り込んで、複数のそれらを総動員しながら、ようやく結果にこぎ着けるわけだ。それらを省くことはできず、いきなり結果に至りたいのだろうが、途中で我慢を強いられ、降りかかる試練を辛抱強く切り抜け乗り越え、ひたすら耐え続けたあげくの結果なのだろうが、やはりそれはどうでもいいような結果なのであり、なぜそんな多大な苦労してまで、どうでもいいような結果を得なければならないのか理解に苦しむが、そういう成り行きなのだから逃れようがなく、そんなことの繰り返しの中で心身ともに消耗してしまうのはいつものことだが、いつまで経っても楽になれない現状に業を煮やし、心機一転すべてをご破算にして、また新たな生き方を模索したいところなのだろう。それができないから苦労が絶えないわけか。そうだとしても今が我慢のしどころだとも思っているのは、何か遥か遠くに光明でも見えている気がしているからか。まさか夜に蜃気楼が見えているはずもない。

 しかし経験は必要だ。そして今体験しつつあることを、後に活かさななければならないのかもしれないが、残り少ない人生だったらどうするのか。ならば今を精一杯生きなければならず、休んでいる暇はないか。それは冗談に違いない。もはや走ることさえできないほど衰えている。君はそれに関してどんな未来を予見しているのか。この先まだ生きながらえることができるのだろうか。それは君次第か。だが君が誰の命運を握っているわけでもないだろう。人身事故が発生したそうだ。自動車を運転すれば渋滞の連続で、電車に乗れば人身事故で停車中か。ついていない時はとことんついていないようだ。いったいいつになったら帰れるのか。そんなにしてまで遅らせようというのか。まさかこの先に何が待ち構えているというのか。まったく意味がわからない。おそらく何の意味もなく、たまたま偶然が重なっただけなのだろうが、そしてドラムソロが延々と続く。運に見放されるのも一興か。これが巡ってきた機会なのだろうか。確かに言葉を記す機会が巡ってきたようだが、冗談にもほどがある。疲れ果てて何も語りたくない時に言葉を記さなければならない。そんなはずがないと思いつつも、実際に言葉を記しているようで、そこからうんざりするような遅延に巻き込まれ、身動きが利かない電車の中で、それらの文章を記述するはめに陥っているわけか。椅子に座っているのだから、贅沢など言っていられず、その何かの巡り会わせに逆らうのはやめにした方がいいのだろうか。確かに今日はトラブル続きだった。

 君が何を呼び寄せているわけではない。天に見放されたわけでもない。まだ少しは良くなる可能性が残っているはずだ。とりあえず音楽を聴きながら気を落ち着けて、これからのことでも考えるとしよう。それで何を考えているつもりなのか。何を蒸し返そうとしているのでもない。オペラ座の怪人の仮面が電車の窓ガラスに貼り付いている。劇団四季はJRと提携しているのだろう。ようやく運転するそうだ。大宮の手間の宮原で止まっていて、人身事故は進行方向とは正反対のところで起こっているのだから、さっさと大宮まで運転してもらえば埼京線が利用できるのに、なぜもっと早くできないのか。要するに先がつっかえて電車が玉突き状態だったわけか。確かに駅ごとに電車が止まっていれば、先の駅から順に電車が発車しないと、次の駅へは行けないか。大宮に着いて埼京線に乗り換えて、さらに南下している時に気づいたことを今記している。まったくおかしな具合だ。本当はそれ以前にもいろいろあって、今日は考えさせられることが多くて参ったが、人と人があちらこちらでぶつかり合って、消耗戦の様相を呈しているみたいで、身につまされる。やはり人身事故というからには飛び込み自殺でもあったのだろうか。自殺する方も大変だろうが、その後始末も大変そうだ。しかし年がら年中そればかりでは嫌になってしまうことも確かだ。生きていることに至上の価値を見出せない世の中なのかもしれず、嫌になれば自死すればいいことに気づいてしまうのだろうか。それは簡単な話だ。


11月21日

 まだどうなるかもわからないのに、あれこれ想像を膨らましても虚しいだけか。そうなる前にやらなければならないことがあるらしく、それを今やっている最中なのか。だがそれをやり遂げたところでどうということはないように思われる。ではどうしたらいいのだろうか。どうも努力した結果に期待する気にはなれないようだ。別にそれによって一攫千金を得られるわけでもないのに、なぜ損得勘定抜きでそんなことをやろうとするのか。どうやらやり続けることに飽きてきたらしい。そんなのはだいぶ前からそうかもしれないが、一方でそんなはずがなく、それをやり続けることによって、何かをもたらそうと思っていた時期があったかもしれないが、何かとは何なのか。いつもそこで行き詰まってしまい、それが勘違いなのはわかりきったことで、君がそこでなぜやめようとしないのか、その理由を知りたいところだが、今さら自問自答しても埒が明かないのもわかり切ったことか。そんな言い草が今さら発せられるとは思わなかった。本当はそうではないだろう。では何を求めているのか。それがわかれば苦労はしない。そういうことが繰り返された結果がそれなのだから、それはそういうことでしかない。ではそういうこととはどういうことなのか。まだその辺で何とかしようとしているのか。今さらそれはできない相談だ。別に誰に相談しているわけでもないが、そこで何を見損なっているのか。

 それほどあからさまにごまかしているわけではない。だが真摯に向き合うべき問題なのか。今のところは何の問題もないではないか。なるほど途中からそんな冗談が入っているのか。何が冗談なのだろう。実際に何を差し挟んでいるわけではなく、他の何に見とれているわけでもない。ただ画面に映し出された文字列を眺めているだけか。まだそんなふうには思っていないはずだ。では何をどう思えば信じてもらえるのか。現実にこの世界で行われている何を信じたらいいのか。それは儀式か洗脳か。どちらでもありはしない。寓話でさえなく、これから苦し紛れに何を語ろうと、まったく何のたとえにもなっていないようだ。君には未来を予見する能力がない。それで音楽を聴いているわけでもないだろう。もちろんそれとこれとは無関係で、それについて何を思っているわけでもなく、そんなでたらめなことを記していること自体が許せないのか。まだそこまで意識がいっていないだろう。何がどこまでいっているわけでもなく、何を語ろうとしているわけでもない。だからまだ何とかできると思っているのだ。とっくに行き詰まっているのに、いつもの悪い癖が出て、それに寄りかかりながらでたらめを語り、それで済まそうとしているわけか。そうだとしてもかまわないと思いたい。

 まったく何も済んでいないからあくびが出る。眠たいようだ。それは昨日の時間帯での感覚で、では寝てしまった方がいいと思っていたはずだ。それ以上のでたらめはいったんやめて、少し冷静になった方がいいのではないか。無意識のうちに無理なことをやろうとしていたわけか。そして何とかしようとしていることが裏目に出ているのか。いくらでたらめなことを述べても、それが無視以外の何をもたらしているわけでもなく、結果として無用な誤解を招いているのではないか。それは誤解ではなく、そう捉えるのが正解なのではないか。だからもうやめた方がいい。それ以上はできない。だからそれが昨晩の状況だった。今はそこからまる一日が経っていて、昨日より少しはやる気になっているはずだが、結果としてはどうなのだろう。まだそれ以上を目指しているわけか。自らが自らを超えられるわけがない。自らの影でしかない存在が何を語ろうとしても、そこに内容が宿るとは思えない。ではそんな嘘をついても無駄なのか。結果的に言葉がさらに連なるではないか。それの何が不満なのだろうか。無駄に空疎に語りすぎている。それだけが取り柄なのだろう。別に欠点が取り柄だとしても何の問題もなく、それが気晴らしや気休めになればしめたものだ。別に退屈を持て余しているわけではないが、何とかしなければと思っているのだから、それで何とかなったと思えばいい。そんなふうに感じられるのだから、実際に何とかなっているのだろう。たぶんそれがここで語ることができるすべてなのだ。それ以外は何もない。


11月20日

 何かが目一杯のようだ。もうだめか。そう思うならやめておいた方がいい。どうせ疲れているのだろう。案の定翌日に言葉を記している。空は晴れ渡り、ようやく本格的な冬が到来しているようだ。そう感じるのならそういうことか。別にそれらの気象をどう思ってみてもかまわず、確か昨日は夏のような暑さだったはずだ。まったく何がどうなっているのかわからないが、急に寒くなってきたのだから、もうすぐ雪でも降るわけか。すでにどこかで雪が降っている。天気に何を求めているのでもないが、たぶん他に何かを求めているのだろうし、その求めている何かを無理に獲得しようとして、どこかで誰かが悪戦苦闘の最中かもしれないが、結果としてこの世界に何がもたらされているのだろうか。繁栄と荒廃の両極端の間で右往左往しているわけか。君はそうならないように努力しているのではないか。それがどういう努力なのかわからない。何もしないという努力はあり得ないだろうか。そんなのは努力のうちに入らず、絶えず何かやっていなければ努力していることにならないというのなら、いったい君はそこで何をやっているのか。誰かが言葉を記しているようだが、それは努力のうちに入るのか。たぶん向上心がなければだめで、現状維持では努力のうちに入らないのだろう。しかしそれなりにがんばっているが、結果として現状維持にしかならない場合はどうしたらいいのか。それ以上の努力が求められているということか。馬鹿げている。別にそんなノルマを達成しようとは思っていないのだろう。結果としてそうなってしまったら、それはそれで結構なことだが、そうならなかったとしても、別にどうなるわけでもなく、そんな現状を受け入れて、そのままのやり方で済ましてしまえばいいわけか。現にそうやっているではないか。それ以上の何ができるというのか。

 君はそれ以上を目指してがんばっているはずだが、それはフィクションの中でのことか。ここに現実の世界などあり得ない。こことはどこだろう。ありもしない仮想の世界が記された言葉によって構成されているわけか。そんな世界を誰かが空想しているのかもしれず、それを実現するためにこうして言葉を記していることになるのだろうか。そうだとしても、未だ実現の見通しすら立っていない現状について、君はどう思っているのだろうか。たぶん何がフィクションでもなく、誰がそれをやり遂げようとしているのでもなく。何かの思いつきが不意に文章として現れ、それについてああだこうだ言っても始まらないような何かが、それらを覆っていて、それらとはここで記されている言葉の連なりに他ならないわけだろうが、今まさにそれについて誰かが説明している最中なのかもしれず、延々とそんなことを述べながらも、いくら言葉を費やしてもどこへも至らず、それについて語っているつもりが、途中から目標を見失い、結果的に何も語っていないような気がしてくるのはなぜだろう。たぶん君にはわからないのだ。その有り様が理解できない領域へとはみ出ているのではないか。実際にはそうではないと思うが、そんなことを語るのを可能としてしまうでたらめさの中で、たぶんわざと何かを込み入らせて、話をできるだけ長くしようと画策しているのかもしれず、その内容が空疎なのを無視しながら、ひたすら言葉を継ぎ足して、何か語っているようなふうを装い、それで語っているつもりの当人が自己満足に浸れるようにしているわけか。すべてがそんなことでもないのだろうが、言葉を記しているうちに焦点がぼやけてきて、話にとりとめがなくなっているように思われ、やはり何を語っているのでもなく、ただ言葉を記す作業を惰性で続けていて、それだけのことに時間を費やして、要するに無駄に何かを長引かせているだけで、それを止める術を持たず、どうにもならなくなっているのではないか。

 しかし誰がそんなことを思っているのだろう。誰かがそれを記していることは確かだが、記している当人がそう思っているかどうかはわからず、誰かが思っていると記しても、それは嘘かもしれず、フィクションの中で架空の誰かがそう思っていることだってあり得るが、そんなことを考えていること自体も疑わしく、そんな嘘をつく必要があるのかどうかも不明か。君はそうは思わない。いきなりそれはないかもしれず、面倒くさいからとりあえずそう思っていることにしておきたいのかもしれないが、そう思っている時点ですでに、何をどう思いたいのかがわからなくなっていて、それもついている嘘の一部かもしれないが、たぶんそれについても、何をどう考えればいいのかわからなくなっているのだろう。そういえば思うと考えるの違いを説明できていないようだが、君はそこで何と何を混同しているのか。そういう逃げ方は不自然だ。何から逃げているのかわからないではないか。別にそれを記す必要はないのだろうか。そう思うなら思っていればよく、それで何とか不都合な矛盾を忘れたつもりになっていればいい。しかしそういうやり方は卑怯かもしれず、何に関してそうなのかはっきりとわかりやすく説明する必要が生じているのだろう。だがそれは本当だろうか。何かの途中からわけがわからなくなっていることは事実で、なぜそんなことを述べてしまうのかも理由がわからず、実際にそう述べていることがおかしくてたまらないようで、何だか笑い出してしまいそうになっているようだが、笑いをこらえる必要があるのだろうか。そういう話ではないような気がするが、そこから何をどう語ればいいのかわからない。何となくおかしな具合のまま、ここまできてしまい、どうもしっくりこないようで、何がおかしいのかわからないのにおかしく感じられ、何かの全体を把握できないまま、それでも強引に言葉を記し続けている現状が理解できず、さらに迷い道から抜け出られなくなってしまったような気がする。


11月19日

 夜になっても雨が降り続いている。耳が聞こえないのか。屋根を叩く雨音が聞こえているではないか。音楽も聴いている。では何が聞こえていないのか。面倒くさいから聞こえていることにしておこう。誰かが語りかけているようだが、聞こえているふりをしているらしい。耳の中がかゆいのか。風邪の前兆か。思わぬところでやる気を削がれ、無駄に時を費やしてしまったようだ。そんな状況で果たして何か語れるのだろうか。今語っているそれではだめなのか。験担ぎに腕時計でもしてみようか。なぜそうなのか。わからないが腕時計を腕に巻くと、何か言葉が出てくるような気がするらしい。本気で信じているとは思えないが、画面に誰かの亡霊が映っている。嘘に決まっているだろう。さっきはコーヒーを飲んでいたから、今度は烏龍茶か。まさかカフェインの作用で眠れなくなってしまうか。それでも何とかなるだろうか。明日も仕事だ。だめならでたらめに語ればいい。今そうしているではないか。なぜ人はそこで語らなければならないのか。その必要はない。状況を把握できず、それを理解できないようだ。そんなふうに思っているのだろうか。ならば適当に言葉を記してみればいい。そういう状況なのだから、それにあわせて言葉を記してみればいい。何にあわせているのかわからない。それは現状とは違うのか。何でもないことだ。理由がわからないが、とにかく言葉を記して、何かを打開するとしよう。不可能だと思われても、道を切り開かなければ何もついてこない。それで運がついてきたりするわけでもないが、横目で窓に映る人影でも見ているのだろうか。きっとそれが誰かの亡霊なのだ。しかしいったいそれは何の話なのか。意味がまったくわからない。確かそうならないように努力するはずだったのに、何かが邪魔をしているらしい。君が邪魔をしているのか。さっきから誰かの亡霊は黙ったままだ。

 どうも気が進まないらしい。また無駄に時間が経ち、どんどん追いつめられているような気もしてきて、何とかしなければと思うが、どうにもならない時はどうにもならず、くだらないことしか記せないようだ。いつものことか。そう思うならそうなるしかない。ではどう思ったらいいのか。あくびが立て続けに出てきて、就寝時間が近づいていることを知らせているわけか。過去の話だ。何がそうなのか。これからそれを語り出すはずもなく、君がそれを求めているわけでもない。君は何も語りたくないはずだ。まだそこまで達していない。それはどういうことなのか。今から数十年前に何があったわけではなく、ウッドストックで音楽フェスティバルがあったかもしれないが、それを歌った曲を聴いていただけか。だがもう違う曲に移っている。別にそれについて語れるほどの知識は持ち合わせていないはずで、他に何について語りたいわけでもなく、ただ言葉を記して、何かを語っているふりをしたいだけか。そうは思えないが、実際にやっていることはそうなのではないか。それが気に入らないのなら、それとは違う状況にすればいい。やめたらいいのだろうか。そうなる近道かもしれないが、どうせ意味もなく遠回りがしたいのだろう。だから何かを語ろうとしているわけか。そうなるように努力しているつもりか。だが結果がついてこない。ため息が出かかり、慌てて軌道修正しようとするが、相変わらず何がそうなのかわからず、別にそこで途方に暮れているわけでもないのだろうが、とにかく何とかしなければ、このままの状況が固定化され、容易には抜け出られなくなってしまいそうだ。そうなってしまってもかまわないのか。まったく真に受けることができずに、頭の中のねじが数本抜けているような状態か。実際にねじがあるわけでもないだろうが、何となくそんな感じがしているようで、どうでもいいのかもしれず、それを受け入れる以外にあり得ないような気もしてきて、そのまま引きずられていってしまいそうだ。

 誰かがそうなっている光景を眺めながら、君は何を思うのか。やっていられない。何がそうなのだろうか。目がだいぶ悪くなっているようで、近づいてみないと文字を判別できず、それが何を意味するわけでもないが、別に眼鏡をかけようとも思わず、物悲しい調べとともに、何かの終わりを予感することもなく、わざとそう思っているのかもしれないが、どうも本気になれないのは毎度のことのようで、今さらそれはないだろうが、そうなってしまう成り行きを容認できず、この感覚が何なのかわからないようで、いつものことなのに、そう語ってしまうことに抗いながらも、その中途半端な抵抗感がそうさせているような気もして、何かの惰性には違いないのだろうが、やはり抜け出せないようで、それが続いていってしまい、そんな現状を拒否しながらも容認せざるを得ず、結果的にそうなってしまう現状をどうすることもできないようで、さらに言葉をつなげて、だめ押し的な状況を作り出そうとしているらしく、要するにそれらの文章は君をあきらめさせるために記されているみたいで、誰かのだめさ加減を見せしめて、もう何も反論できないほど徹底的に空疎を塗固め、まともなことは何も語れないようにしてしまうのかもしれず、それに抗えば抗うほど、倍返しが待ち受けているようだ。そんなことの繰り返しによって、誰かは二度と立ち直れなくなってしまうのだろうか。そうなればしめたものか。君がそう思っているわけではなく、誰もそうは思わないのだろうが、この調子なら今日もそれをやり遂げてしまいそうな気配がしていて、何だか嫌な予感がしてきたが、今の君にはどうすることもできず、黙ってそれらの光景を眺めているしかないようで、そんな誰かの徒労をやめさせることもできず、今はそこに佇んで、あらぬ方角に視線を向け、それとは無関係なことを考えているふりを装うが、それが冗談だとは思えず、どうも今ひとつ演技に身が入らないようだ。別に何を演じる必要も感じてないのではないか。ただあるがままの状況を受け入れ、それにあわせた振る舞いを心がければ、自然な態度を会得できるだろうか。


11月18日

 ちょっとタイミングを逸しているらしい。そうではないような気がするのか。たぶん無理に語ることもないのだろうが、それでも言葉を記したいのだろうか。君の知ったことではない。架空の意識が他人事だと思っているだけで、これからありもしない作り話を語る気にはなれないが、語っていくうちにフィクションとなってしまうのか。そうなるとは思えず、実際にはたわいない空疎に文章全体が覆われ、とりとめのないことを延々と記している状況にうんざりしてしまうわけか。そうならないように努力すべきか。今さらそれはない。もうそんなことを記し始めているではないか。まったくとりとめがなく、何を記せばいいのかわからないが、仙台は大都会だ。駅前が広大で新しいからそう感じてしまうのかもしれず、例えばそれと比較すると、東京のJR渋谷駅のハチ公前辺りなどはこじんまりしていて、周囲の建物や路上の敷石なども古かったりして、何だか田舎のような風情がある。もちろん渋谷駅の回りをぐるっと一周すれば、煙草を吸いながら待ち合わせているみたいなビジネスマンの集団がいたり、路上生活者の段ボールがガード下に並んでいたりして、否定的な意味での都会的な風情があるわけだが、きれいに整備された仙台駅の周辺は、いかにも地方の政令指定都市的な雰囲気に満ちていて、それが日本の行政が望む日本的な大都市の典型といえなくもないが、一方で東京の無秩序で雑然とした混沌が、制御不能な人間の欲望を象徴しているように思え、そこに人間味というか、常に秩序をもたらそうとしている役所の行政が及ばない何かがあるようにも感じられ、たぶん何らかのリアリティが顕在化しているのだろう。

 しかし都市論とは何か。評論家の暇つぶしなのだろうか。いったいそのフィクションの中で誰が評論家なのか。たぶん何も浮かばれず、何とも思わないような何かにとって、そこでどんな現象が起こっていようと、それが何を意味するのか見極めようとしている意識が常にあり、そこから何らかの見解を導き出そうとしているのだろうが、たぶんそれらに関して何を述べたところで、それで何が報われるとも思えず、それは語りっぱなしのままで済んでしまうような何かなのだろう。たぶんそこからは何も求まらないのだ。遠くを眺めれば、山の頂は雪で白くなっていて、それに感動しているわけでもないのだろうが、何かが確実に移り変わっているような気がして、誰かはそれにつられて何とかしなければと焦るのかもしれないが、君ができることは限られていて、この世界に及ぼす力の範囲も限定されていて、その辺で自らの矮小さを悟らざるを得ないのだろうが、そんな自覚とは無関係に、心の中に巣食うくだらぬ妄想が膨らみ続け、その中に住まうありもしない作り話の中の主人公を気取る意識を鬱陶しく思っているわけだろうが、近頃はそれが自らが感じている自らの限界に反比例して増大する傾向にあり、それが暴走してしまうのを恐れているわけだろうが、その危険水域を超えないように押さえつければ押さえつけるほど、自家撞着気味にわけがわからなくなり、結局自分が何をやりたいのか、あるいはかつて何をやりたかったのかわからず、それをわかろうとすればするほど、次第にそんなことはどうでもよくなってしまい、そんなことをやっても無駄だと思いながらも、一方で未練がましくそんな実現しなかった夢にすがりつこうとしているのか。要するにそれが心の支えというやつなのか。

 別にそこで誰が何をあきらめようとも思っていないのだろうが、君はそれ以上の努力を必要としているのか。空は曇っていて、やがて雨でも降ってきそうな気配がしているが、宇都宮の次は大宮か。もといた場所にもだんだん近づいてきて、何かの終わりが近いことを感じさせる。それが何の終わりでもかまわないのだろうが、見慣れた風景の中で暮らし、そしてどうなっていくにしても、どうにかなろうとどうにもならなくなろうと、そういう成り行きの中で何を学ぶにしても学ばないにしても、当分は今とそれほど変わらないようにも感じられ、変わったところでたかが知れているのだろうが、そんなふうに思っていると虚しくなり、とりとめがなく漠然とした思いにとらわれ、何かがそこで尽きているようにも思われ、黄昏れているようにも感じられ、まだそんな時期でもないのだろうが、いつ終わってもかまわないように思われてしまう。遠からずそんな未来が到来してしまうのだろうか。しかしそこで誰がフィクションの結末を待っているわけでもない。それらの中でいったい何が作り話となるのか。まさか事実に基づいて本当のことを述べているのだろうか。それに関して何を思っているわけでもないだろう。では何に関して何を思いたいのか。かつてすがりつこうとしていた夢とは何なのか。今となっては何も思い出せず、誰が作り話の中で息づいていようと、そんな誰かを無視しながら言葉を記し、それとは関係のないことを延々と述べ続け、もはや何も見えなくなるほどそこから遠ざかり、たぶん君はそこに佇んでいるのだろう。相変わらず無言で何かを眺め、何の感慨もなく、あてのない彷徨のただ中で何を思うこともなく、その辺でうごめいている人々に関わるつもりもなく、ただひたすら飽きもせず眺め続けているのだ。それがそこでの宿命なのか。いったい誰にもたらされた宿命なのだろうか。


11月17日

 何を考えているのか。何とも思わない。それだけのことだろう。たぶんそんなことを語るべきではないのだろう。では他に何を語ればいいのか。またいつもの逡巡が始まり、くだらないことさえ語れなくなってしまうのか。だからそんなことを語っているわけで、たぶんどうでもよくなってしまい、周りの風景に見とれているふりをしながら、さらに空疎な言葉を連ねて、取り返しがつかなくなった頃に、また考えることになる。要するに今はどうでもいいことを考え、くだらぬことを記しているわけか。そう思うならそれでかまわないことになるのではないか。いつものことでしかない。そして何も思いつかないまま、どこか得体の知れぬ場所へと至るはずだが、それは作り話の中でのことで、実際には特定の場所から特定の場所へと移動しているだけだ。君はそこで何を考えているのだろう。それは様々なことであり、別にそれについて語る必要のないことばかりで、だから何を考えていようと、それらの文章には何も反映されず、記された文章はいつまで経っても空疎で虚無的な無内容となる。それは本当だろうか。嘘をついているのかもしれないが、そんなことはこの際どうでもよく、言葉が記されている事実があればそれでかまわないのではないか。それではあまりにも無責任か。何がそうなのかわからないが、何となくそう思われるだけで、それはそれでそういうことでしかないのだから、そんなことを語っている事実を受け入れなければならないか。誰がそれを受け入れる必要があるのだろう。

 たぶん何を考えているわけでもなさそうだ。風景を眺めていることは確かだが、見慣れぬ風景だから興味深いのか。いつもとは違う地域の中にいて、それが物珍しいとまでは思わないにしても、頭の中の地図と照らし合わせて、その位置関係から周りに見える山の名前を確認しているようで、そんなことが気晴らしのたぐいとなっているのかもしれず、新幹線が山岳地帯の脇を通っているので、時折トンネルらしき暗闇も通過しながら、次第に原発事故現場も近くなってきたから、放射能の数値が高くなっているのだろうか。長いトンネルに入ったようだ。トンネルを抜ければ福島か。紅葉が始まっているようだ。北海道岩手に続いて日本で三番目に広い都道府県だろうが、山だらけの過疎地帯かもしれず、のどかな山村が方々へ点在しているだろうから、いかにも日本人好みの美しい風景が広がっていて、原発事故さえなければ観光に訪れる人も多かったのかもしれない。県内のどこかの地域で取れた米に放射性物質が含まれていて、出荷停止になったらしく、車内の電光掲示板にそんな記事が出ていた。別にそんなことはどうでもいいことかもしれないが、そんなことを記しているうちに郡山を通り過ぎ、あと三十分ぐらいで仙台に到着だ。左手に見えるのが蔵王なのだろうか。位置的にはそんな感じがするが、間違っているのかもしれない。その手前の山か。もう夕暮れ時だ。人は住めるところならどこにでも暮らしていて、そこで生まれ、生きて死んでいくのだろう。また長いトンネルだ。トンネルを抜けると宮城県か。まだ福島だったようで、さっき見かけた山は蔵王でもその手前の山でもなかったようだ。

 人はなぜ言葉を使って何かを表現しようとするのか。別に問うようなことではない。音楽を聴きながらそんなことを思い、人はなぜ音楽を聴いているのかと問う。それも別に問うようなことではないだろう。誰かがそこで言葉を記しながら音楽を聴いている。それだけのことだ。たぶんそれをやっている時が至福の時にでもなるのかもしれないが、今はどうなのだろう。どうも仙台に着くまでに語り終えることはできないようで、続きはホテルの部屋でやるとしよう。できればの話だろうが、やる気になれなかったらまた明日にずれ込んでしまうのだろう。夕闇が近づいているようだ。暗闇の中で何を考えているのか。さっきから黙ったまま、頭上の蛍光灯を眺めているようだ。鏡があり、誰かが自分の顔を眺めている。蔵王なら白石蔵王駅で見たではないか。スキー場が数カ所見えたはずだ。それで満足なのか。いったい何を満足しているのか。君の知ったことではなく、それがつい一時間前の出来事で、今はホテルの部屋で言葉を記しながら、何を考えているのだろう。何も考えていないのではないか。今のところは取り立てて何もなく、それでも語ろうとすれば空疎な内容になるしかないだろう。だがこれからやることなど何もなく、宴会に参加して一泊したら、またもといた場所へと戻るだけだ。それだけのためになぜここまできたのだろうか。それが付き合いだからか。まったく難儀なことでもないが、何となくどうでもいいことでありながらも、そんなことをやっているのだから、半ば呆れつつも、そういう成り行きなのだから仕方が無いとも思っているのだろうか。たぶんそんな感じで時が経ち、それが当然のような成り行きの中で、普通に生きているのだろう。たぶんいつものようにそれでかまわないと思うしかない。


11月16日

 なぜそうなってしまうのか。そう問うからそうなってしまう。そしてそんな問答が繰り返され、そのうち飽きてやめてしまうわけか。そうなったらいい。それは晴れ渡り、冬が到来しているようだ。もうしばらくは暑くならないだろうか。うんざりするような蒸し暑さに苦しめられることもないか。しかしそれで何がどうなったというのか。ただ時が経ったわけか。周期的に季節が移り変わり、その間に人はどんどん老いてゆく。それと同時進行でまた新たに生まれてくるのだろう。それだけのことだ。そして大地の上を忙しなく動き回り、飛行機に乗っかって空を飛び交い、船に乗って荷物を運んだり漁をしたりしている。どこかで些細ないざこざが起これば殺し合い、年がら年中国家間で紛争が絶えないか。中にはおかしな宗教を信仰していて、他の宗徒を目の敵にしている場合もある。また自分たちが信奉する価値観や政治体制を温存する一方で、他国には自分たちの価値観を押し付けてきて、それに従わなければ敵視する。だいたいやっていることはそんなところだ。社会の様々な水準で同じようなことが起こっていて、それに対する反応も似たようなものか。何かをあまりにも単純化しすぎているだろうか。ではそれ以外に何があるのか。いくらでもあるのだろうが、興味が湧かないだけか。個々の事情についていちいち考えるのが面倒くさいのかもしれず、それらを一緒くたにして、それについてありふれたことを述べる方が楽なのだ。しかし愛はどこへ行ってしまったのか。あるいは寛容の心はどうなったのか。

 取り立てて何を指摘したいわけでもなく、そこで生じている不具合を告発する気にもなれない。見過ごされていることを蒸し返そうとも思わない。すべては過ぎ去り、やがて忘れ去られてしまうだろう。そこでいくらこだわっても、遠からずそんなことはどうでもよくなってしまい、すべては雲散霧消して、いったん忘れ去られた後から、過去の歴史として後世において面白おかしく語られるだけだ。中には未練がましくたらればで都合良く曲解される場合もあり、もし龍馬が生きていたらとか得意になって語り出す輩もいるのだろう。それもありふれた現象のたぐいだ。それではだめなのか。だめではないが、何となくそうではないようなことを語りたくなり、もう少し何か気が利いたことを語れるようにしたいらしいが、出てきた結果はでたらめばかりか。そうだとしてもそれが楽しいのではないか。とりあえずは愉快な気分になれるようで、頭痛の種も一時忘れ、まるで現実逃避のためのでたらめのような気もしてくるが、果たしてそれでいいのだろうか。満足のいく結果からはほど遠いそれらの文章を前にして、ため息をついているわけでもなく、何を目指しているわけでもないことを思い出して、それ以上の都合もなく、それだけの何かをことさらに追求する気にもなれず、それはそれでそういうことだとして納得したつもりになり、その先にさらなる言葉を記す気でいるようだ。どうせ大したことにはならないだろう。この時代において君が知り得るのはそんなことで、それで以上はわからず、わからなくてもかまわないような気がしてくるのだろう。

 いったいその先には何が待ち受けているのか。何が待ち受けていようと、驚くには至らないだろう。そう思っていれば思いがけない事態に遭遇してうろたえるのかもしれないが、そこでうろたえたところで、さらにその先があるのだろうし、山あり谷ありの後に、断崖絶壁やら暴風雨やらが待ち構えていて、言葉を記している誰かを楽しませてくれるのかもしれず、それが気休めだったり気晴らしだったりして、そんな暇つぶしのうちに終わってしまうのかもしれないが、たぶん終わった後にもまた別の終わりや始まりがあり、君が思っているほど道は平坦ではないのかもしれず、そんなことなどこれっぽちも思っていないのかもしれないが、とりあえずはそんな成り行きの中で何かを考え、何らかの行動に出たりして、それなりの結果を得て、納得したり納得がいかなかったりしたりして、そんな結果に促されて、また適当にいい加減に試行錯誤を繰り返し、また別の結果を導き出して、そこから別の判断に至り、さらなる試行錯誤と紆余曲折を経て、どこかへと至るのだろうが、至った先でもあれこれ模索しているようで、そんな試練を乗り越えたところで、何か得るものも得られないものもあったりして、それについてどう思っても、思ったようにはいかない場合もあり、その時点でもあれこれ考えなければならず、そんなとりとめのない思索と実践の果てに、何か結果のようなものを得たり得られなかったりして、何となく次第に疲れてきて、何かをあきらめたりあきらめきれなかったりして、そうやりながら遠くまでたどり着いたような気になり、そこまでの過程を振り返り、満足するか否かはその時になってみないことにはわからないだろうが、要するにそんなことをやりながら、人はどんどん老いてゆくのだろう。


11月15日

 わめいているのだろうか。だが何を聴いているわけでもない。魂の叫びなのか。たぶん冗談だ。笑っているようだ。どんな光景を眺めているのだろう。誰にそれを知らせたいわけでもなく、知らしめたいようなこともない。それに関して知らないことなど何もなく、知っていることについて語っているのだから、それは当然のことだとしても、相変わらず何を語っているのか示されていない。示さなくても雰囲気でわかりそうなものか。それでわかるならあえて語ることもない。何も語らずにそれらの光景を眺めていればいいのだ。ただのありふれた風景の中に誰かが佇み、何か声をかけようとしているみたいだが、それは何かの映像で、過去の時間に属しており、君が応答することもなく、関わる必要もなく、それを眺めているつもりの意識はどこかへ流れさり、今では何を語ろうとしていたのかも忘れ、自らがそこで何ももたらせなかったことについても、何ら後悔する気もなく、何を惜しんでいるわけでもないらしい。ちなみに今は何を眺めているのか。君がそれを知ろうとしているのではなく、誰に向かって何を問いかけようとしているのでもない。たぶん何かの弾みで言葉を記しているのだ。きっかけとはそういうもので、そこに偶然の巡り合わせがあるらしい。だから機会を逃してしまうと、もう二度と巡り会えないようなことになる。どうせそれでもかまわないと思っているのだろう。何がどうなっているわけでもなく、この世界ではありふれた風景の中にありふれた思いが溶け込んでいる。

 そして何について語っているのでもなく、それらの光景の中で塵や芥と言葉が混じり合い、どうでもいいような雰囲気をもたらそうとしているようだが、それらの現実に心が耐えようとしているのでもなく、すべては許容の範囲内に収まり、くだらぬ内容を記しているつもりで、そんなふうに何かが推移している状況をやり過ごし、その先で立ち止まって、何かまともなことを語る気でいるようだが、もう手遅れか。そうなったとしても、それはいつものことだろう。すでに心の準備はできている。ではこれから何に耐えようとしているのか。そのつもりがないようで、いつか見た夢の中で、他の誰かが語っていたように、君の過去の時空の中で何かについて説明していたらしい。そこではもう無理だと思っていたはずだが、それが何を意味していたのか。そんなことを問うまでもなく、問われていた意味を超えて、何らかの記述がもたらされ、その記述について内容を問いたいのだろうが、そんなところまで思考が追いついていないようで、まだその前の段階で迷っているのではないか。未だに何を語るべきか迷い、迷いながらも言葉を記し、結果的に何だかわからないような内容の文章になっているようで、失敗を自覚しながらも、それでかまわないと思い込もうとしているのはいつものことであり、そこから何を目指しているわけでもなく、何に関して説明するつもりもないようだが、何かについて説明していることは確からしく、その何かによりかかり、そんなことを述べ続け、いつまで経ってもそこから外れようとしない。

 しかし自意識はなぜそこから逸脱しようと目論んでいるのか。他にどんな解決方法があるというのか。それ以前に何を解き明かそうとしているのか。解くべき問いなど何もなく、解かなくてもかまわないようなことを、ことさらに問題視しているわけでもなく、そこで何が見出されようとしているのでもない。ならばこれまでに語ってきたことはすべて嘘か。そんなふうに問うこと自体がそもそも誤り以外の何ものでもない。だがそう問うことこそが記述を継続させる方法なのだろう。それはあり得ない答えか。何がそうなのだろうか。今述べていることそのものが、君を惑わせ、それに関して幻想を抱かせ、そんな幻想の中に住まうことを願い、そこに生じている意識を保とうとしているわけだ。だがそんな説明もいい加減な思い込みに根ざしていて、本当に正しいことを述べているはずがなく、あやふやで曖昧なことを延々と語っている中の一部に過ぎず、それ自体をどうこう言っても始まらないようなことばかり述べているわけで、そんな言説が存在すること自体が、何かを危うくさせていて、君自身の不在を前提とするような何かを肯定しているみたいで、そんなことはないと反論したいのだろうが、何が危ういのかもわからない段階で、いかに反論を試みても、そのすべては空振りに終わり、その必然性自体が疑わしく、どうやらそれ以降はどんどんでたらめなことを語っていってしまう傾向があり、そんな状況で体勢を立て直す機会など訪れず、何かが傾いたまま、首を傾げながら、こんなはずではと思ってももう手遅れで、後は終わりの言葉を記すだけか。まさかこれにて一件落着とは思わないか。


11月14日

 また何だかわからなくなっているようだ。何がどうなっているわけでもないが、何かの呪いなのだろうか。そう考えれば気が楽になりそうだが、あまり合理的な理由や原因を追及しない方がよさそうで、それはそれでそんなものだと理解して、とりあえずはそこでやめてみようとしている。正解ではないが、妥協しなければならないようだ。わからないからその辺でやめるべきなのか。それも合理的な理由ではない。だがそれをことさら求めているわけではなく、他に何を求めているわけでもない。もっと単純に考えた方がいいだろう。起こっている事態に対処し続けているだけか。そういわれればそういうことになるだろう。それだけのことか。そうかもしれないし、それでかまわないのかもしれない。ではそれで何をあきらめたことになるのか。実質的には何もあきらめていないように思われ、以前と同じようなことを延々とやっている。要するにそこから変化することを断念してしまったのか。ならば変わらなければならない理由とは何か。そこで何をやめなければならないのか。とりあえずそういう問いかけの繰り返しをやめなければならず、自問自答の予定調和から脱却しなければならない。君にそれができると思うのか。やろうとしているのでは君ではなく、目下のところは誰でもない。そうであるならどうしようもないだろう。これまで通りに一難去ってまた一難の繰り返しが待ち受けている。現に今もそうだ。

 だがそうなる必然性が感じられない。その必要がないからそうなってしまう。眠たくなっているのか。そうかもしれないが、この際そんなことは関係ないだろう。わざとねじれている。別にひねくれているわけではなく、素直になろうとすると心がねじれてしまう。そんなわけでおかしくなっているようだから、始めからやり直そう。それができれば苦労はしない。ではどうしたらいいのか。どうもせずに続けているのが実態だ。そして避けようのないマンネリ化を招いているらしい。そしてもうこんな時間だ。結局何も語れないまま、君はどこで何をやっているのだろう。君なしでは話がフィクションとして成り立っていないようだ。話になっていないということか。そういう成り行きなのだから仕方がない。君はいつもそんな成り行きまかせを重視しているようだが、それは本当だろうか。何が本当なのか理解不能だが、少なくとも冗談ではないと思っているのか。たぶんそうではなく、他で何かを語らなくてはならないと思っているらしい。実際にそんなありもしない虚構の中で何を語れるだろうか。またわけがわからなくなるだけか。だからそんなのは嘘だろう。嘘だと思うなら思っていればいい。そう思わないのなら、それらのフィクションのが存在することを信じていればいい。だがどちらにしても何も前進していないようだ。君がそう思いたいだけなのではないか。現実には誰もそんなことは信じていない。ではいったい何を信じたらいいのだろう。そんなことを語らなければいい。しかしそれが何を意味するのだろうか。まさかそこで語りの終わりを意味するわけか。

 語りの終わりが何を意味するわけでもなく、そしてさらにわからなくなり、それがいつものことのように思われ、たぶんそこで誰かがあらぬ幻想を抱いているのだ。意識がどこかへと飛んでいるわけか。まあそんなわけのわからぬ嘘をつきながらも、体勢を立て直そうと思っているようで、そこで意識を集中させようとしているみたいだが、なかなか思うようにいかないようで、気が散ってうまく言葉を組み合わせることができなくなり、それも嘘かもしれないが、何とか踏みとどまり、どうにかこうにか言葉を記して、何とかそれをやり遂げようとしているわけか。虚しい努力だ。そう思うならやめてしまえばいい。どこからか人をからかっているような声が聞こえてくるが、それは自問自答の成れの果てか。またしても意味不明だが、何をもってそれを認めるかは、誰の判断にまかされているのだろうか。そこで何を託しているわけでもなく、何も託されていないから判断のしようがなく、誰もそれに関しては断定的な言葉を引き出すことができず、ただ戸惑うばかりで、何も語れなくなり、文章としてもわけがわからない代物となり、そこで何を述べているのかわからず、チンプンカンプンとなりそうだが、それでも無理に言葉を記そうとすれば、そこから道が開けるわけでもなく、ますます閉塞感に苛まれ、ついには心を病んだ人となってしまうような気もしてくるが、誰がそうなるのかはっきりせず、君はそこで何を語ろうとしているのでもなく、相変わらずそれらの様子を眺めているだけで、自ら介入する気が起こらないようだ。だからなし崩し的にそれらの文章は空疎と虚無に支配されようとしているのか。だからそう思うなら思っていればいい。


11月13日

 調子を崩しているのか。風邪が治らないうちにまた風邪を引いてしまったのか。そんなはずがない。困っているのだろうか。何が足りないのか。まだなんとかなるだろう。そう思うならさっさとやればいい。そんなわけでわけもわからず言葉を記しているわけではないが、実際にやっているのはそういうことだ。だがそれで何かを語っているつもりになれるだろうか。またそれか。そんなことの繰り返しが空疎な文章を生み出して、誰かを落胆させているのではないか。それは実に愉快なことだ。なぜ思いとは正反対のことを記すのか。そうではないと思っておこう。それについて語るのが面倒くさいのだろうか。それに関しては何も思いつかないのではないか。だいいち何に関してなのかわからない。それでは話にならず、何を語っているのかもわからない。またそんな嘘をついて何かをごまかそうとしているらしいが、そこで行き詰まってしまうのではないか。いつものことだろう。それ自体がごまかしであり、そんなふうに語るのがいつものパターンなのだ。

 そう述べて君は何かを裏切っているようにも思える。だがそのまま裏切りっぱなしというわけにもいかないだろう。遅かれ早かれまともに語らなければならなくなり、その内容で勝負することになる。そんな勝負などするわけがないし、それが何の勝負なのかも見当がつかない。君はそう述べて誰を笑わせようとしているのか。少なくとも君自身は笑っていないのではないか。自分が何を述べているのかもわからないくせに、笑う水準に達していないのはもちろんのこと、何について笑いたいのかもわからないが、さっきからそんなことばかりが繰り返されていること自体がおかしいのではないか。ならばやめたらいい。まさかおかしいことが笑えるわけでもないだろう。

 君は幻想を抱いているのだろう。もっと何かが良くなると思っているはずで、それが勘違いなのか思い違いなのかはっきりしないが、ともかく思いつきの計画らしき成り行きがうまくいくような気がしている。だがそれが何なのか明かされたことはなく、何かをやっている最中なのは確かで、様々なことが同時進行で動いていて、そこに君の思惑が介在しているようで、たぶん状況を操作しているような気になっているのだろうが、行き当たりばったりでやっているに過ぎないことが、君が操作した結果だといえるのか。本当にそう思っているのならおめでたいことか。ならば嘘でもかまわないから、それとは違うことを思えばいい。何が幻想かもわからないうちからそれはないだろう。いったい何について語ろうとしていたのか。たぶん何が虚無でもなく、空疎なことを語ろうとしているわけでもなく、語ることそのものを拒否しているのではないか。いったいそれはどういうことなのか。その場限りの当てずっぽうか。意味がわからず、わけも理由もないのだろう。

 語る必然性がないのだ。そんなことを語っている場合ではないが、他に何があるというのか。それだけはおかしいか。安易に開き直るべきではない。何もない。そう思っているだけだろう。本当に何もないらしい。そこで何かが終わっているようだ。終わっているなら無理に終わらせる必要はないのではないか。労力の無駄遣いか。だから無理に語るべきではないのか。語れないのにそれはないのかもしれず、語らなくても言葉を記せるのではないか。現実にそれが積み重なってこうなっているわけか。またそんな嘘をついてくだらぬ気分でふさぎ込んでいるわけでもないのだろうが、それほど愉快に思っているとも思えず、とりあえずいい加減に自意識をあしらいながら、何ができるふうも装わず、ハッタリをかましているわけでもないし、何かの惰性で記された文章はいつもの無内容であり、別にそれを誇っているわけでもないのだろうが、ふざけているわけでもなく、そんな嘘を真に受けるふうもなく、何を語っているとも思えず、そんなことをいくら記しても無駄なのかもしれず、たぶんそれはそれだけのことなのだろうと思い、その辺でうまく何を調整しているのかもしれない。だからそんなに虚無が出しゃばってくることもない。

 ならばその辺で終わりにしておいた方がいいのではないか。現実は現実に過ぎないのか。そこで別に何を聴きたいわけでもないが、とりあえず音楽を聴きながら、それがジャズとヒップホップのミックスだろうと感動するには及ばない。それが当たり前なのだから、今さら目新しさをひけらかすべきではないのはもちろんのこと、これまでに築き上げた地道な努力の成果を隠蔽しながらも、それを適当に応用して、他人に気づかれないうちに何かを成し遂げてしまうべきなのだ。そんな冗談のついでに述べていることが重要だとは思えないが、何が冗談なのかわからないままに、そこで紡がれている言葉の糸が編み込まれた文章をどうするかは、君次第でも誰次第でもなく、ともかく偶然の巡り会わせに委ねられるべきではないのか。君はそんなふうにしてここへたどり着いたはずだ。ここがどこかといえば、出発地点と標高も場所もさほど変わらない場所であり、またそこからどこかへ向かって歩み出られる可能性のあるところで、どこかの頂点でないことは確かだ。


11月12日

 違和感があるのか。たぶん何に関しても違うのだろう。何もかもが違っている。それについて語ろうと思えば語れるような気がするが、それがわからないのはいつものことで、わからないまま語ろうとしていることは確かで、その辺が違和感を覚えている原因なのだろうが、嘘をついているのかもしれない。抽象的な表現でごまかそうとしているのか。馬鹿げているのかもしれず、国益がどうのこうの議論には興味が湧いてこない。どこが主導しているとか何と何が対立しているだとか、そんなのはどうでもいいことではないのか。まったく蚊帳の外にいるわけではないのだろうが、積極的に関わっているとは思っておらず、あくまでもそれは間接的なつながりでしかなく、それに関しては何とも語りようがない。たぶん何かを語ろうとすると、他と同じようなことしか語れないのではないか。例えば国民の議論がないとか、説明が足りないとか、そういうことを平気で言っている人がいて、たぶん自らが何を言っているのか理解していないのだろうが、要するにそれはメディア報道に誘導されて、そこで流通している言葉をおうむ返しに言っているだけなのに、それが自らの主張だと錯覚しているわけであり、そんなふうにして形成された世論というのも、結局は虚構の産物に過ぎないのではないか。だからそんなものに本気に反応する気にはなれない。

 しかしリアリティとは何なのか。それもフィクションのたぐいなのか。あるいはそんな言葉を記したとたんにそうなってしまうのか。たぶんそんなことを思ってしまう君が勘違いしているのだろう。誰がそんなことを思っているのだろう。意識がそこへ踏みとどまれず、どんどん流動していってしまい、どこへ向かって流れさるのかわからないまま、やがてそんなことはどうでもよくなってしまい、それに関するすべての思考がリセットされて、気がつけばまた違うことを考えているようだ。たぶんそれでかまわないのだろうが、何だかまとまりを欠いているようで、時には支離滅裂になり、思わずそこから遠ざかってしまいそうになるのだろう。やっていられないからやめてしまうのか。君ならそれでもかまわないと思うだろうか。相変わらず誰が思っているわけでもなく、ただそう記されているに過ぎなのだろうが、何となく馬鹿げているように感じられ、そんなやり方ではだめだとも思うのだろうが、一方でそれしかないとも思われて、やはりそのまま惰性で続けていくしかないようにも思われる。それではどこかの廃墟で何かの残骸を集めて文章を構成しているようなものか。だからそれでかまわないと思ってしまうのであり、それが自然な成り行きだとも思うわけだ。まったく呆れてしまうか。

 それでもそれらの経験が誰かを支えていて、何とかこの世界に実体として存在させているのかもしれない。たぶん君と違って仮想の存在ではないが、そんなことは何の救いにもならず、何だか誰かは追いつめられているみたいで、それ以上の記述を阻まれているようだ。


11月11日

 今日は今日だが、たぶん明日になってしまうのだろう。なぜかそう思い、明日のことを考えているらしい。君は何についてどう考えているのか。そのことについて誰の判断を待つまでもないだろう。君は君でよかれと思ってやっていることだ。それについて後からどう言われてみても、対処しようがないのではないか。実際に何もやりようがなく、まったくどうにもならないようだ。それでも何とかしようとしているのだろうか。現状ではそういうことか。何がそうなっているわけでもないが、何とかしなければならないと思っているだけで、実際には何ともなっていないのかもしれないが、君はそれでもかまわないと思っている。フィクションの中ではそういうことか。実際にもそうではないのか。でも誰かが言葉を記しているではないか。それは何とかするためにそうしているのだろうか。君はそう思っているはずだ。気休めに過ぎないかもしれないが、とりあえずは前向きに状況を捉えようとしているらしい。それでかまわないのか。君がそう思っているのなら、それでかまわないのではないか。だがそんなことはどうでもよく、さらにどうでもよくてもかまわないと思っている。だから結局何も語れないのではないか。

 まさかいつものように一難去ってまた一難なのか。まだこれから何かあるのだろうか。別に君がそれを求めているわけでもない。誰もそうは思っていないのかもしれず、すべては成り行き次第でどうにもなり、そこに君の意向が反映することはないのかもしれず、偶然の神が賽子を振って、出た目の数だけ強制的に前に進まなければならないわけか。たとえそうだろうと、前に進んだところで何に出会うわけでもないのではないか。君は無人の荒野を突き進んでいるわけか。実際にはそういうわけでもないだろう。たとえそこで誰が空疎なことを語っていようと、そこにはわずかながらも何かがあり、その何かについて語っている気になりたいのかもしれず、たぶんそれが障害物になるにしろ、避けたりぶつかってみたりするうちに、そこから何らかの理解に達することもあるのではないか。そんな思いが君を突き動かし、さらに前進する糧となり。時にはくだらない思いにとらわれながらも、何とかここまでこぎ着けたはずであり、またその先にも歩みを進める気にもなっているのだろう。

 それにしてもそんなことをうまく説明できたためしはなく、いつも中途半端なままで途切れ、その先は次回に持ち越しとなってしまうのだろうが、別に言葉が出てこずに苦悶して、七転八倒することもなく、何となく何かを記している現状に変わりはなく、それに磨きをかけようとしているわけでもなく、名文家のごとき存在を目指しているわけでもないのだろうが、言葉を記すことの先には何の目的もないような気もしているらしく、要するに惰性で言葉を記し、その分量がある程度になったら満足し、さらにその先に言葉を記し、たぶんそれだけのことの繰り返しとなっているのだろうが、その先に何があるというのか。何かがあってほしいのではないか。では誰がそんなあやふやなことを期待しているのか。それは文章の語り手がそう思っているのではないか。言葉を記していくと自然にそういう意識が芽生え、記せば記すほどそれが自意識に組み込まれてゆき、あらぬ期待を抱いてしまうに至るのかもしれず、そんな何かを記すことによって生じる作用に心を支配されてしまうと、そこから何らかの野望らしき意志が働き、言葉の記すのに費やされた時間と労力に見合った、それ相応の報いを受けたいと願うようになるのではないか。それが罠なのか。

 だが実際にそれらの行為はどこまでも無償の行為でなければならず、その何でもないことの代償として空疎な自由を得ているのではないか。自由とはどこまでも空疎でなければならず、それが何かのきっかけで実利を伴うようになったら、自由はたちまちのうちに束縛へと転じ、要するに何かのために言葉を記すことになり、その何かを得るための手段としての記述となるのだろう。たぶんそれはそれで大変なことであり、場合によっては有益なこととなるのだろうが、そうなると何でもないでは済まなくなり、ちゃんとした内容を伴った文章を構成しなければならなくなるのだろう。君はいつかはそうなりたいのか。誰がなりたいと願っているのか。その辺がわからず、別にそうならなくてもかまわないような気もしてきて、逆にそういう目標を持ってしまってはだめなのではないかとも思い、さらにそこから遠く離れて言葉を記すようにもなり、要するに面倒くさいのだろうが、どうもその辺からそれらのフィクションがつまらなくなって、次いで意味不明気味にどこかへ突き抜け、気がつけばどうでもよくなっていて、そんなこととは関係なく、それ以前の段階で躓いているような気にもなり、すべてがあやふやなまま、それらの記述を終えようとしてしまう。


11月10日

 不必要に水増しされた言葉が記されているようだ。いつものことか。何も思いつかないのではないか。確かにそうだ。時間が限られている。そして何もかもが空疎に感じられ、何も記すことはないような気がしてくる。また咳が止まらなくなり、不吉な予感が脳裏をよぎる。君はまだどこかで生きているのだろうか。たぶんそのはずだが、君に関して何を語る気にもなれず、文中に記された君が君でないように、それを記している誰かも君ではない。それは嘘だろう。また間違っているようで、それ以上は何も記すべきではない。問題がどこにも見当たらず、何に関して疑念を抱けばいいのかわからなくなり、そんなふうに言葉を記してはまずいような気がしてくる。君が語ろうとしているのはそういうことではない。では何を語ればいいのだろうか。

 膝の腫れがだいぶ退いてきたようだ。砂利道に膝を打ちつけてから数ヶ月が経っている。何を語ろうとしても、それは違うのかもしれず、語らなくていいことを語っているに過ぎない。意識はどこへ働いているのか。作用するところが違っているわけか。満たされていないようで、心の底から何もわき上がってこない。そういう表現がおかしい。五月でもないのいハエが五月蝿く飛び回り、ただの空想で技巧を凝らすつもりもなく、朝晩がめっきり寒くなり、やっと蒸し暑さから解放されたと思ったのもつかの間、一難去ってまた一難というわけになるやも知れず、何となく慌ただしくなっているようで、次から次へと煩わしい予定が入り、それをこなしているだけで精一杯で、ゆとりのない生活を強いられているわけか。どうせそれでもかまわないだろうと強がっているわけで、どこかで起死回生の何かを狙っているようで、思いつくのはそんな一発逆転の誇大妄想でしかない。それではまずいのだろうか。

 何かに飽きているようだ。その何かにうんざりさせられているわけか。そうとも思えるが、子供染みたこだわりが心の中で芽生え、何としてもそれを実現させたいようで、はりきっているわけでもないのだろうが、そんな嘘をつきながらも、本当は密かに期待しているのかもしれず、今のところは何がどうなってほしいのかわからず、目的もはっきりしていないようで、ただなすがままになっているそれらをうまく整理整頓して、一つの文章にまとめあげ、それをやってからどうしたらいいのかわからないのだろうが、とりあえず何かを達成したような気になりたいのだろう。

 本当に何をどう言い表したらいいのかわからないようで、何も語れなくなっているのだろうが、しかしこれまでに語ってきたのは誰なのか。それがわからないと嘘をついてみるが、たぶん語ってきたのは誰でもないのだろうし、特定の誰かが語っているようにはなっていないような気がして、それも嘘かもしれないが、どうあってもそれを続けたければ、そのままのやり方を押し通す以外にはあり得ないのではないか。それが大きな勘違いであることを承知しつつも、一向に改めようとせず、たぶん違うとは思っているのだろうが、何となくそうなっていて、ある意味ではそれが成り行きまかせなのかもしれず、自然な対応が積み重なって、結果的にそうなってしまっているのだろうが、本当にそれでかまわないのだろうか。それは君にしかわからないことなのか。唐突にそれはないか。何に関してそう述べているのではなく、すべてに関してそうなっているようで、要するにやることなすことそうなっているわけだ。

 君は筋が通らないことが嫌いなのか。別に何がそうなっているわけでもなく、たぶん一方的にそう思っているだけで、端から見ればどうということはないのだろうが、それも一つの成り行きであり、君は自然の流れに逆らうつもりはなく、至って冷静に対処しているつもりなのかもしれず、その結果がたとえおかしな事態を招いていようと、君のせいではないのかもしれず、君の周りで不自然な行動をとっている者たちからの作用で、そういう結果が生み出されているのかもしれないが、そんなのは誰の知ったことでもなく、そうなっていること自体が自然なことであり、それについてどう思ってみても、それに対して何を批判しようと、それは動かしようのない事実でしかなく、それを受け止める側がいくら文句を言っても、何も始まりはしない。そういうことなのだから、それはそうなのだろう。


11月9日

 何やらまた言葉を記すのが遅れてしまうような成り行きの中にあり、できれば遅れないようにした方がいいのか、あるいはそのまま遅れるにまかせた方がいいのか、どちらを選ぶか迷うところだが、どちらを選んだところでそうなる保証はなく、その場の成り行き次第でどちらにも転びそうな気配もするが、ともかく言葉を記してみよう。今さら無理なのはわかっている。無理でなければやる気にならないか。そんな矛盾した言い草が予定調和の成り行きを招いてしまうようで、それが誰の狙いになるわけでもなく、たまたまそうなってしまったかのように装うつもりもなく、ただそんなことを述べているらしい。それでかまわないのか。誰に同意を求めているわけでもないだろう。また風邪を引いてしまったのかもしれず、のどの奥が痛いようだ。前の風邪の名残りなのか、時々咳も止まらなくなり、まさかとは思うが、そろそろ死期が近いのだろうか。無理をしすぎて寿命を縮めてしまっているのか。その辺は何ともいえないところだろうが、くたびれていることだけは確からしい。どうかしているのだろう。

 何もかもがそうなのかもしれず、どうしようもないような気もするが、そういえば雑誌の広告で見かけたのだが、TPPの交渉に参加すれば、日本は開国ならぬ壊国するらしい。どうせなら世界のすべての国々が壊国した方がいいような気もするが、たとえ日本が壊国しても、アメリカは大丈夫なのかもしれず、その辺がどうにかならないものか思案のしどころかもしれず、すべての国が壊国するにはどうしたらいいか考える必要があるだろうか。別に冗談でそんなことを考えているわけではなく、壊国したら国境がなくなり、人も物も金も情報も自由に行き交うような状況になってほしいところだ。

 ところで現状はどうなのか。国家のほとんどは政治的にも財政的にも行き詰まっている。民主主義を標榜しているのだから、それは当然のことだが、だからといって特定の個人が独裁体制を敷けばいいわけでもなく、いかにその内実がひどくても、議会制民主主義のままでかまわないのではないか。ではそのまま形骸化していればどうなってしまうのだろう。現状のような案配になるわけか。それに関しては各方面で侃々諤々と意見を戦わせているふうもあるのかもしれず、大いにやってもらいたいような気もするが、本気でそう思っているわけでもないらしい。いくらニュース解説などでコメンテーターがもっともらしいことを主張しても、たぶんそれがどうしたわけでもなく、何もどうにもならないような結果を招いてしまうのかもしれず、それが無力感の蔓延を招いているのかもしれないが、民主主義だから仕方がないだろう。逆にそれが現状のすごいところで、天は人に向かって、その限界を思い知らせたいのだろうか。お前たちが選んだ政治家がやっていることにいくら文句をつけても、その不満のすべてはお前たち自身の存在に起因しているのだ。行き詰まりをどうにかしたいのなら、それはお前たちがやるべきことだ。だがお前たちとは誰のことなのか。

 お前たちは何に参加しているつもりなのか。マネーゲームのたぐいか。それだけではないだろう。たとえば選挙で投票にいくなら、政治ゲームにも参加していることになるのか。ならば近頃流行りのデモに参加している人たちはどうなのか。あれは何ゲームなのだろうか。権利主張ゲームか。そんなゲームがあるとは思えない。まあ何でもかんでもゲームのたぐいだと見なすのにも無理がありそうだ。とりあえずゲームでも何でもかまわないから、そこで自己主張して、日頃の不平不満を解消しようとすればいいのではないか。そんなものを溜め込んでいるから不健康になり、心身のバランスが崩れ、挙げ句の果てに癌か何かになってしまうのではないか。


11月8日

 今日は何を否定しているのか。まだ何も思いつかない。たぶん間違っている。これから語ろうとする内容がそうなのか。何となく空洞に空疎な響きがこだまする。それを想像しているのだろうか。君がか。誰が何を想像していようと、君には関係のないことだ。昔からそんなことを言い放っていたような気がするが、きっと気のせいだ。夜の闇が君を迷わせているわけではない。戸惑っているのは誰なのか。何も語らないうちからそれはない。だが妙な気分だ。その時だけはそうだろう。別の時ならそれが当たり前だと思うのではないか。何を述べているのだろうか。嘘をついているわけではない。誰がそんなことを思うのだろう。そんなことを想像できずにいるらしい。すべては戯れ言の範疇か。何を感じているのだろうか。まだ嫌気がさしているわけではない。君はそこから出られずにいる。相変わらずそうなのだ。別に死んでいるわけではない。では何をやっているのか。誰かが言葉を記している。横目で移り変わる風景を眺めている。またそんな嘘をついて、理由もわからずそんなことを述べていると思う。まったくとりとめがない。まともに語ろうとしていない。何かが聞こえてくるが、他の誰がつぶやいているのかもしれない。誰の悪口を言っているのか。まるで話にならないようだ。とりあえずのことか。それだけが連なり、それが文章となっているわけだ。他に何を記しているわけではない。片言の日本語をしゃべっているのは、記憶の中の外国人だろうか。そこで何を指摘していたのか。英語でしゃべらないとどうなるというのか。そんなテレビ番組もあったかもしれない。

 まだ改行するのは早すぎる。誰の知ったことでもなく、意味もわからず、そんなことを語るべきではない。だからそれが否定され、途中で遮られ、その時の気分が忘れられようとしている。神々の話はその後どうなったのか。それらの神話を誰が語ることになっていたのだろう。バベルの塔がどうなったというのか。他国の言語を欠陥品のようにあげつらう。どうも意思疎通が取れていないようだ。会話が成り立たず、誤解を招いているようで、険悪な雰囲気となっている。そんな過去もあったかもしれない。作り話の方がまとまっている。支離滅裂ではだめか。わざとそうしているのだろう。その辺はいつものことのようで、客観的に何を語っているのでもなく、それらが何を主張していようと、そんなのは無視されるに決まっている。要するに語るのが面倒くさいのだろう。またそれか。まったく呆れてものもいえなくなってしまうだろうか。そんな状況を招いていること自体が、君の思惑通りというわけか。またいつもの負け惜しみに違いない。他に何を語るつもりもなく、それをそのまま記しているつもりで、その気になって予定調和の何かを打破しようとしているのだろうが、それもいつものことだ。何となくそこで限界を感じているはずで、気がつけばいつもの成り行きの中で言葉を記しているわけで、そうならないように工夫を凝らしたつもりが、後から読み返してみれば、文章がそんな空疎を抱え込んでいることに気づく。それに関しては何も思い当たらないだろう。無意識のうちに導かれ、そんな場所にたどり着いているのだ。そして何かの囲い込まれ、身動きできなくなっている。

 そうならないようにしなければならない。しかし今度があるのだろうか。そこで何を修正しようとしているのか。潮が満ちてくるように虚無が押し寄せてくる。何の幻影におびえているのか。そういう問答ではない。そうではないような気分を求め、どこかを徘徊しているわけでもなく、誰かがどこかで俳句に興じているわけでもなく、それらの風景を愛でているわけでもなく、憎悪の念を抱いているわけでもなく、ただ何でもないのだろうか。そう思うのが無難なところか。眠たくなってきたようだ。言葉が尽きたらしく、記すべきことが見当たらない。見栄を張るために語ろうとしているわけではない。だから何でもかまわないのではないか。それ以上に何を語りたいわけでもなく、音楽を聴きながら、思っていることのすべてを記そうとしているわけでもなく、たぶん苦し紛れに嘘でもついて、それでかまわないと思い込み、どうにかなるのを回避しつつ、本当はどうにもならないように思われ、そんな思いとは裏腹に、どんどん事態が進行していってしまい、心が置き去りにされ、思い出すのは昔のことばかりとなってしまい、それが当然だと思い、それ以上の詮索をやめて、仕事に励んでいるつもりになり、本当はそうでもないのに、何だか満ち足りたつもりになり、その程度で我慢しようとするが、耐えられなくなったらどうなるのだろうか。その時は本当にどうにかなってしまうのかもしれないが、何とかそうなる一歩手前で踏みとどまっている気でいるようで、実際にはすでに奈落の底へと落ちてゆく最中なのかもしれないが、やはり面倒くさいのでそんなことは考えず、ただ成り行きまかせを装い、何とか場当たり的に凌いで、ごまかしていることは承知で、そんな事態に対処しているわけだ。


11月7日

 なぜか議論の余地がない。何に関して争っているわけでもない。それは何の話なのか。まるで筋がない。だがそれが現実だろう。そこから人が物語をねつ造して、起承転結にまとめるだけか。そんなわけで結局何かについて語ろうとすると、その話はフィクションとなってしまい、独断と偏見に基づいて平気で現実にはあり得ないことを語り出す。しかもそれが事実について語っていると思い込んでいて、自らは正直に真実を語り、決して嘘をついているわけではないと主張する。君は本当にそう思っているわけか。国家こそが虚構であり、多くの人々が実在していると思っているが、それは共同幻想の産物に過ぎず、本気で神を崇めていた古代の人々が壮大な神殿を建てたように、国会議事堂やら首相官邸やらを建てて、そこに国家があると思い込もうとしているわけだ。そして役所や議会や裁判所などを作り、そこに人員を配置して、その中で役割分担をしながら多くの人が国のために働いている。それは当たり前のことだ。まさか君がねつ造したフィクションの内容がそれなのか。たぶんそういうことだ。他に何を語っているわけでもない。何よりも語る気力がない。たぶん本当のことを述べているのだろうが、本気ではない。それはどういうことなのか。途中までは何やらまともに語ろうとしていたのではないか。それがなぜか面倒くさくなり、そこで語るのをやめて、その代わりにどうでもいいようなことを延々と記そうとしている。なぜそうなってしまうのか。本気ではないからか。理由になっていないようだ。時が経ってしまったのだろう。そして語る気をなくして、どうでもよくなってしまう。

 別にそこに正しい根拠や客観的な価値基準があるわけではない。世界的なプロ・スポーツ選手の年俸や映画俳優の出演料が数十億円もするのと同じことか。それに見合うだけの金が実際に入るのだから、それはそれでおかしなことではない。娯楽に平等や公平などあり得ず、人気さえあれば、それに見合うだけの金が入れば、一攫千金も夢ではないわけだ。そういう成り行きの何が間違っているのか。ゲームの中でうまく立ち回れば大金を手にすることができ、それが下手な者たちは貧乏暮らしを強いられ、強引な勝負に出て、運に見放されたら破滅する。そんな世の中でかまわないのだろうか。現状がそれか。嫌ならゲームから降りればいいわけか。始めから参加しなければいい。しかしゲームに始まりなどなく、気がついたらゲームのただ中で賽を振っている。そんな君は間抜けなのだろうか。それとも自らはうまく立ち回っているつもりなのか。その辺がよくわからないのだが、他人と同じことをやっていてはその他大勢に呑み込まれ、目立つことができない。しかし他人より目立ってどうするのか。目立たないように用心深く立ち回って、見栄を張るなどの虚栄心さえ捨て去れば、こっそり生きていることだってできるはずだ。それが思い通りの生き方だと思っていればいいのではないか。だが別に自己満足に浸りたいわけでもないだろう。不満だらけでもかまわないのか。それならそれで不満をなくすために現状と格闘していれば、そういう生き方になり、絶えず現状を改善しながら生きていればいいのではないか。それが人本来の生き方だと思っていればいい。そうでなくてもかまわないだろうが、そういう成り行きならそういう流れに逆らう気にはなれない。

 しかし本当の現状はどうなっているのだろうか。見ての通りか。何がそうなのかわからず、暗中模索の連続で、先が見通せない状況のただ中で、何となくうごめいているようでもがいていて、場当たり的に何かをやっているようだが、それがうまくいったりいかなかったりするわけだ。別にそれが正しかったり間違っていたりするわけではなく、そもそも何が正しくて何が間違っているのかがわからない。自らが下した判断に自信が持てず、絶えず迷いながらも中途半端な決断を迫られ、後悔しながらもそうならざるを得ないことを悟り、そんなことの繰り返しの中で生きてゆくしかなく、そこから外れて既存の正しさにすがりついたらおしまいだと思っている。だからその時々で自ら判断せざるを得ないのは、たとえそれが誤った判断であろうと、それを真摯に受け止めて、その後の行為の中で活かさなければならず、そのための試練に絶えず晒されていることの証しなのだ。まさかそれも冗談で思っていることではないだろう。たとえそうであろうとなかろうと、強いられていることは確かなようで、どのように考えを巡らしてみても、今のところはそれ以外のやり方に巡り会えず、そんなやり方に固執しているわけでもないだろうが、物事に真面目に取り組もうとする意志をうまくいなして、何となく隙だらけを装っているような気分になり、余裕もないのにそんな風情で行動しているようで、気が抜けているといえばそういうことかもしれないが、それもそれ特有の幻想に浸っていることの証しか。そうでもなければ息が詰まって生きていけないか。とても本気だとは思えないが、冗談だとしてももっとましな語り方がないものかと思い、その辺を何とか改善したいようだが、今のところはうまくいったためしがないらしい。


11月6日

 一瞬理解したと思ったのだが、面倒くさいので取り消しておこう。それでも何かがわかりかけていることは確かだ。今のところはそれが明確な説明に結びつかないようだが、いつか説明できるようになるだろうか。今こうして説明しているのと何が違うのか。そういう説明とは異質な説明か。説明と説明の違いをうまく説明できないようだ。だからそういう説明には限界がある。ではいつもの意味不明か。そうならないように努力すべきだ。本当にそう思っているのだろうか。そう問われると嘘かもしれない。また冗談でそんなことを記しているのだろうか。心を奪われているのは虚無ではないのかもしれず、何に対しても心ここにあらずか。本当に何も感じられなくなっているらしい。それはフィクションではなく現実なのだろうか。それとは何だろう。君はふざけているのか。たぶんそうだ。何も語れなくなってから久しく、このままではだめだと感じながらも、そこから抜け出られなくなっている。今から三十年前は良い時代だったのだろうか。唐突にそれはないか。しかしなぜか今も生きている。何について断片的に語っているわけでもないのだろうが、何となく思い出され、突然そんなことを記してみるが、やはり意味が伴っていないようだ。いったいこの世はどうなっているのか。まだ手遅れではないとすると、これから何をやったらいいのか。ニール・ヤングは1970年に何を歌っていたのだろうか。今から四十年も前のことだ。ゴールドラッシュの後には何が待ち受けていたのか。確かに彼は甲高い声で何かを訴えかけているようだ。

 別に昔が思い出されているわけではなく、ただ昔から何もやってこなかったような気がしているだけか。何かのデモに参加しているわけでもなく、命がけで何かをやっているわけでもない。だがなぜそれでかまわないと思うのか。もう何もやることはない。そう思うならそれでかまわないが、後で取り返しのつかない事態に陥っても、誰の知ったことでもない。君自身がそうなってしまっているのではないか。身も心も固まっていて、伸び代がなくなり、細胞内のテロメアも短くなっているわけか。そうならそうでかまわない。今から何ができるとも思えず、後は目一杯後ろ向きに暮らしていくだけか。だがそれが何を意味するのかわかっていないはずで、また冗談でそんなことを述べているに過ぎず、本気で本心からそう思っているわけがなく、どうせそれとは反対に何かを企んでいるに違いない。君はまだ何も使い切っていないはずで、勝負に出ているとも思えず、ただ黙って眺めている光景の中に何を見出しているわけでもないらしい。見過ごしているのでもなく、見逃しているのでもない。興味がないだけか。またそんな嘘をついてとぼけているようだが、一向に埒が明かず、胃が痛くなってきて、やめてしまいそうになるが、ここで持ちこたえなければならないのか。なぜそこまでやる気になっているのだろうか。どうでもいいことではないのか。誰にとってもそうだろう。君にはもう時間がなかったはずだ。そんなところで立ち止まる必要もない。ではどうしたらいいのだろう。無駄に語りすぎている。それだけのことか。

 たぶんそういうことになり、いつまで経ってもそんなことでしかない。もうそれ以上がないのだから、どこまでもそういうことでしかない。残念ながらそうなってしまうのか。無理なのだろう。無理だからそうなっている。そして気がつくと部屋の床が傾いていて、首を傾げながら横になり、そのまま眠ってしまう。黄昏れているのだろうか。冗談でならそんなところだろうが、いったいいつになったら本気になるのだろうか。時が経ちすぎていて、もう忘れてしまったのかもしれない。何を忘れているのかさえわからない。君は語る必要のないことを語ろうとしていたのではなかったか。確かにその時はそう思っていたかもしれないが、今となってはどうでもよく、もはや何を語っても差し支えないのだろうが、何も語れなくなってからではどうしようもない。本当にどうでもいいが、また風邪を引いてしまったのだろうか。なぜか昼間汗をかいてから体調が悪化している。天皇も体調を崩して入院してしまったらしい。それとこれとは関係がないのかもしれないが、今年は天候がおかしく、全般的に暑すぎるのだろうか。何がどうなっているとも思えないが、人は死ぬ時は簡単に死んでしまうので気をつけなければならない。そう述べて誰の心配をしているのか。心配なのは自分の体調だろうが、それにしては深刻さが欠けている。まるで何かの冗談みたいに、いつ死んでもかまわないように感じられ、そうなったらなったで自らの死が自らとは無関係となってしまい、それが他人の死でも自分の死でもないように思われるのだろうか。死んでから何を思うこともないだろう。ではただの戯れ言で述べていることか。そう思うならそういうことだ。


11月5日

 これでいいのだろう。つまらないままでかまわない。明日もまた仕事か。たぶんいつまで経ってもそういうことだ。君にはそれがわかっている。そう思っているのだからそういうことだろう。他にどう思えばいいのか。何をジャンル分けしても意味不明だ。そうする理由がわからない。わかっているのにそう述べてしまう。だからわけがわからなくなるのか。まだこの先があるのだろうか。君は何について語ろうとしているのか。何にこだわっているとも思えない。そうではないからそうなってしまうのか。それはどういうことなのか。無駄に何かを費やしているようで、その結果として余分な言葉が並んでいるようだ。当てが外れている。そんな案配ではまずいのだろう。記すべき言葉ではない。嫌になってまた眠ってしまうのだろうか。誰がそうなるのか。誰もそうはならず、誰の行為も評価に値しない。それがどのような評価を求めているのかわからない。いったい君たちはそこで何をやっているのか。君はそれを必要としていないようだ。またわざとそんなことを述べて、わけがわからないようにしているらしい。無駄に意味不明なことを語っているようだ。眠れないのだろうか。すべては過ぎ去ったことか。何かが邪魔をしているのかもしれない。語れないようにしているわけか。例えばそれは邪念か何かか。邪念とは何か。また意味不明なことを述べようとしている。どうも烏龍茶が濃すぎて眠れなくなってしまうかもしれない。そういうことではないだろう。どうやら体勢を立て直すいとまがないようだ。

 頭の中ががらくた状態か。気が抜けていることは確かだが、何だかわけがわからない。言葉を記すのが億劫なのか。面倒くさいからがらくたのような文章になってしまうわけではないだろう。そこにはきっと原因があるはずだ。何事も前向きに捉えないと気が折れてしまうか。それほど深刻な状況ではない。でも何かが違っている。それが何だかわからないが、確かに違っているようだ。くだらないことなのだろうか。簡単に断言してはまずいだろう。拙速に事を運ぶべきではない。まだ時間があるようだから、注意深く言葉を並べて、なるべくまともな内容になるようにすべきか。しかしこの時点ですでにおかしくなっている。君は何を考えているのか。常に状況から学んでいるはずだ。だがその学んだ結果がこれだ。がらくたのようなことをひたすら述べている。それでも人はなぜ生きているのか。そういう問い自体に意味はない。自分が自分でないような感覚に襲われ、そこで何をかいま見ているわけでもなく、ただそんなことを述べている自分に気づき、これではいけないと思うが、同時にこれ以外にはあり得ないとも思う。要するにそこから一歩も外へ踏み出せないのだ。そこで立ち止まり、立ちすくみ、何も考えられなくなる。それだけではないとも思うが、言葉が並んだ結果がそんな無内容となってしまい、ただ意味不明に思われ、そこですべてを放棄したくなる。やはりそんなことの繰り返しにしかならないらしい。そして今回はそれでかまわないとは思えず、それとは違うことを語ろうとするが、結果は同じことの繰り返しとなってしまうのだろうか。まだわからないか。すでにわかっているとは思うが、一応は期待を持たせたいので、そういうことにしておこうか。どういうことなのだろうか。

 唐突に思い出すのはそういうことか。語る対象がない。それについて語ろうとしても、それがないわけか。いったい何がそれなのだろう。それ自体がそれなのか。だからそれについて語っている最中となり、盛んにそれとは何かと問うてみるが、一向にそれが何だかわからず、あきらめてしまいそうになる。述べている内容がくだらなすぎるのか。そうではなく意味不明なのか。何だかわからないままここまできてしまったらしい。頭の中がごちゃごちゃしていて、まともに語れなくなっている。笑っている場合ではないだろう。人はなぜそんなところでうごめいているのか。おもしろいとは思わないようだ。そんな映像には飽き飽きしているのか。テレビを消して文字が記された画面に向き合い、さらに言葉を連ねようとしているらしいが、それが馬鹿らしいことなのか。わけがわからなくなってからだいぶ経つ。それに関してチルファドを聴きながら何を思うだろう。そんなごまかしが通用しないらしい。心がそこから外れていることは確かだ。それではやる気がしないのも当然のことか。だが言葉を並べて文章を構成しようとしている。そうではないような気分となりたいのかもしれないが、なかなかそこまで気持ちを持っていけず、いつも途中でやめてしまい、語ることをあきらめてしまうのだろうか。そんな君の判断はいつだって間違っていなかった。なぜそう思うのか。くだらぬことを語りたくないようだが、その代わりに意味のない無内容になってしまっていないか。それでもかまわないとは思いたくないらしい。ではどうしたらいいのだろう。やめてしまえばいいのか。それはいつだって思っていることだ。いつもそう思っているのにやめられず、気がつけばそんなことを記述している。


11月4日

 ここからできるだろうか。結果的には掟破りになってしまうわけか。だがそんな掟を誰が守ってきたわけでもない。その掟の内容が知りたいところだ。ただ掟破りという言葉を記してみたかっただけか。堕落しているようだ。いったい人は何のために生きているのだろうか。君には何が見えているのか。くだらぬ問い掛けには答えようがない。それの何がくだらないのか。軽い気持ちでくだらないことを語ろうとしているようだ。だが内容が見当たらない。その辺に言葉の断片でも転がっているわけか。たとえがよくないようだ。それでは何のたとえにもならないだろう。そんなことを記しているうちに急に咳き込み、その拍子にさっきまで考えていたことを忘れてしまう。何かきっかけがほしいところだ。何のきっかけでもかまわないか。では語るきっかけがほしい。誰に答えてほしいのか。神の啓示でもほしいところか。無人の空洞から何を問いかけてみても、誰も答えてはくれないらしい。それは当たり前のことだろう。もう少し問答が続くようなフィクションにしなければだめか。冗談に違いない。それがそうなのか。何もそうではない。何を否定しているのでもないのに、それはないだろうか。問いかけの内容が間違っているのではないか。確かに掟も何もありはせず、結局何も語っていないことになってしまいそうだ。しかし何をどう説明したらいいのだろうか。意味不明になってしまうのは毎度のことかもしれないが、どうしようもなくそうなってしまうのなら、かえってそのままでもかまわないのではないか。

 そんなわけでまたしてもここで停滞してしまう。だから意味不明なのだろうか。いつまで経っても状況を把握できず、自らが述べている内容を理解できずにいるらしい。頭の中に靄がかかっているのかもしれず、それで視界不良なのだろうか。だが誰の視界が不良なわけでもないだろう。少なくとも盲目ではないが、見えてないものがあるわけか。見えているはずだ。文字などいくらでも見えていて、それを読むことができる。では読んでも理解できないというのはどういうことなのか。その辺がよくわからない。いったい君は何を読んでいるのか。それが自ら記した文章だとはとても思えないか。では誰がそれらを記しているのだろう。誰かに決まっているだろう。それは誰でもない誰かではなく、特定の誰かだ。何となくその辺をはっきりさせるのが面倒なのか。それでも何がどうなっているとも思えず、何も語らず、何も記していないような気がするわけだ。なぜそんな気がするのか。終わりが近いのだろう。それが何の終わりなのかわからないようだが、とにかく終わりが近い。何の終わりかは、実際に終わってからでないとわからないのかもしれない。だからこの先何かが終わったと感じたら、それが近いと感じていた終わりであり、もしかしたら君とは無関係の終わりかもしれず、要するにそれがどうしたわけでもない終わりが近づいていることを感じているのかもしれない。やはりそんなことを記すのは意味不明か。確かにそれを記している誰かは頭がおかしいようだ。もはやその頭は冗談では片づかないほど狂っているのか。それともそれもありふれた冗談のたぐいなのだろうか。なぜそう思うのか。

 しかし冗談にもほどがある。そんなことをいくら述べても意味不明だ。何かもう少し意味のあることを語りたいようだが、現状ではうまくいっていないらしい。いったいこの世界はどうなっているのか。人々が夢中になっている冗談のようなマネーゲームの他に何があるというのか。働いているつもりになっているのかもしれない。実際に働いているのだろう。金儲けをしなければならない。そういう言い方に語弊があるのかもしれないが、たぶんそういうことだ。しかしマネーゲームとは何なのか。働いて金を稼ぐことがマネーゲームなのか。それは極めて当然の行為なのではないか。当たり前のことかもしれないが、なぜかそれがおかしいと思われ、そんな捉え方の中に何か考えるきっかけでも含まれているのだろうか。しかしいったいそれはどんな捉え方なのか。何でもかんでも一緒くたにして、それをマネーゲームと捉えること自体がおかしい。あり得ない捉え方か。では労働とは何だろう。それの何が馬鹿げていると思われるのか。それも違うと思われる。馬鹿げているわけではなく、働くのは当たり前のことだ。当たり前のことなのに馬鹿げているわけか。何だか意味がない。嫌なことをやらなければならなくなったり、うんざりするような不具合に遭遇したり、そんなことに気を取られているうちに老いて、場合によっては寿命が尽きて死んでしまったりして、やはりそういう成り行きになってしまうと馬鹿げているのではないか。君はそんな馬鹿げた人生を送っている最中なのか。架空の存在だからそれはないだろう。君は君であり、人間社会と何の接点もなく、ただ文中に記された言葉だ。それだけでも接点があるのではないか。誰かが記している文章の中に記されているのだから、君という言葉自体が社会的な存在か。嘘だろう。


11月3日

 またしても何の話でもない。何か希望があるわけでもないし、何を期待しているわけでもない。これは望まない状況であり、期待外れの結果か。そんなはずもないだろう。自然の成り行きでこうなった。どうなったのだろうか。どうにもなっていないが、こうなってしまったらしい。こんな状況の中で生きている自らを信じなければならないか。他に何を信じたらいいのだろうか。何も信じていないわけでもない。君は神の存在を信じているのだろうか。どちらともいえないか。神という言葉が指し示す対象がわからない。わかっているのにそれはない。何でもいいのかもしれない。どこかの細部に神が宿っているわけか。またそんな嘘をついている。くだらぬ自問自答ではどこまでいっても話は平行線のままだ。何か納得のいく結論が出ることはない。断言する勇気に欠けているわけか。それでもかまわないのではないか。いつもならそう述べるところだろう。それで何を述べていることになるのか。何も述べていない。そう思いたいのか。ならばそれでかまわない。何を認めたわけでもないのにそうなってしまう。本当は現状の何も受け入れるつもりはないのではないか。では否定し否認し続ければいい。しかし現状とは何か。今あるすべてが現状なのだろうか。何がすべてなのだろう。この世界のすべてがここでの現状を構成している。それを認めようが否認しようが、現状は現状のままにここにある。ここに何があるのだろうか。現状がある。ただ現状という言葉が循環しているだけで、それで何を説明したことになるのか。何も説明していないというなら、そういうことでもかまわない。それが現状なのだから仕方がないだろう。

 ところでさっきから戯れ言を述べていないか。それが戯れ言ならそういうことであり、それでもかまわない。何がかまわないのだろうか。戯れ言を繰り返し述べていてもかまわないということか。そういうことになるだろう。そしてくだらない気分となり、君はどこかへ消え失せようとしている。それでもかまわないのか。誰に同意を求めているのか。君自身に同意を求めようとしても、肝心の君がこの世界では不在なのだから、言葉は宙に浮き、意味不明になってしまうだろうか。それでもかまわないのか。いったい誰を脅しているのか。誰かがそんな強迫観念に取り憑かれているわけか。それとこれとは違うだろう。違っていてもかまわないのか。何もかまわないわけではない。そう述べたらそうなるだけだ。かまわないからそれ以外は何ももたらせないのだ。何の物語にもなりはしない。それらはフィクション以前の現実だ。そしてそんな作り話にも限界を感じていて、何も語っていないような気がしてきて、俄に特定の出来事について語りたくなるようだが、それは何だろう。突然ヨーロッパの金融危機について語ったらおかしいだろうか。たぶんそういうのはあり得ない。ギリシアが債務不履行に陥ったら、何かがどうにかなるわけか。金を貸している側が困るだけだろう。それだけのことだ。それだけではないとどこかの解説者が述べているではないか。そんなのは無視だ。別に君が無視しようが、そんなことはどうでもいいのではないか。だからどうでもいいから無視なのか。もともと何を語っているわけではないし、興味がないから語らないだけか。嘘でもかまわないからそういうことにしておこう。だが意味不明だ。

 君は自分が述べている意味を知りたいのか。誰がそれを教えてくれるのか。誰も教えてくれなければどうなってしまうのか。何がどうなるわけでもなく、依然として君はそれを知り得ないままだ。そして君は途方に暮れる。それでかまわないのだろう。もとからそんな現状だったのだから、今さらそれを改めるには及ばない。ではこれからどうしたらいいのだろう。それを知ろうとしなければならないのか。知り得ないそれを知ろうとしても知り得ないままか。だから努力して何とか結論を得なければならない。知っているつもりになりたいのか。あるいは知っているように装いたいのか。本当は知りたいのだろう。知りたいのに知り得ないから思い悩む。いったい何を悩んでいるのだろう。だからそういうことだ。冗談にしてはわかりすぎるような冗談だ。わからないままの方がいいのだろうか。それは時と場合にもよるだろう。たぶんある日突然わかる機会がやってきて、天啓のようにそれを知ってしまうわけだ。天が君にそれを告知してしまうわけか。だからそれは冗談だろう。君は嘘をついているのであり、本当はそれを知っているはずだ。自らが語る意味を知っているのに、あえてそれを明かさない。そんなやり方は見え透いているだろうか。どんなやり方でもなく、ただそんな雰囲気に浸っていて、自らが何か重大な真実について語っているように思い込みたいのか。そんな大げさなことではなく、それも嘘の一部として構成される文章の中で、君があたかもそれを語っているかのように装いたいのではないか。なるほどそんな立場を占めることが君の最終目標だったのか。何が最終目標でもなく、付け焼き的に偽りの目標を設けて、そんな話を装いたいだけか。それも嘘に違いない。


11月2日

 たぶんそれは間違いだ。でも気晴らしに何を語ろうとしているのか。天気の話はもういいだろうか。それでも晴れているようだ。何だか体調が回復傾向にあるようだ。気のせいかもしれないが、気分が軽くなる。何が原因でもないのだろうが、何かが違っているらしい。間違いではなく、単なる差異のたぐいかもしれないが、違っていることは確からしい。たぶん何がかまわないわけでもない。あまり深く考えずにこうなってしまったことについて、それでかまわないと思うしかないようだが、金網越しに見える風景がどうしたわけでもないのに、それについて記そうとしていること自体がおかしいのかもしれず、しばらく黙ったまま眺めているようで、そこで何かを思い出そうと試みるが、何も思い出せず、そんな気分で再び黙り、空を見上げながらとりとめのないことを思い、それで何が前へ進んでいるのかわからなくなる。たぶん何も進んでいないわけではないのだから、後はそんな流れに身をまかせているだけでかまわないのかもしれない。しかし今後どうなってしまうのだろうか。最終的にはどうにかなるのだろうが、どうもそれらの成り行きは、君をこの世から抹殺するように事が運んでいるらしく、そうなってしまえば、それらの中身のないフィクションも終わりとなってしまうのかもしれず、言葉を記している誰かも肩の荷が下りて、だいぶ楽な立場となってしまい、もう何もやることがなくなってしまうのだろうか。そうなったら他の誰がしめたものだと思うのか。たぶん何でもないことに違いない。どうということはなく、残骸の後始末をする必要もなくなるわけか。

 ここにあるのは言葉の残骸なのだろうか。何かの廃墟であることは確かか。君がそれを求めていたのか。それらの何が疫病神を引き寄せたのだろうか。他の誰に乗り移っていったわけでもなく、今もここに取り憑いたままなのか。誰かが懐かしい曲を聴いている。それとこれとが関係あるとも思えないが、なぜそんなことを述べているのか理由は定かでない。余分な言葉を記そうとしているらしい。邪魔なのだろうか。それがないと正気を保てないとも思えない。面倒なら捨ててしまえば済むことだろうが、なぜか捨てられず、未だにがらくた集めをしているのかもしれず、それどころかそうすることが生き甲斐となっているようにも思えてきて、おかしな気分となっている。そうしているうちにも何かを通り過ぎて、さらにどこか得体の知れぬ場所へと突き進んでいるようにも思われ、立ち止まってこれまで通ってきた過程を振り返る気にもなれず、ただ延々と続く道でもないのだろうが、途中で眠たくなってきたようで、居眠りの最中に気づいたことはといえば、今体験しているのは夢ではないということぐらいか。だからやめた方がいいだろう。何をやめたがっているのか。軽はずみな行動に出るべきではなく、常に思い直す機会が与えられているはずで、手遅れにならないうちに、何かを改める必要に迫られているわけか。まるで眼球の奥まで日差しに照らされているようなまぶしさだ。何をごまかしているわけでもないのに、すんでのところでかわされて、標的を見失い、何を狙っていたのか思い出せなくなる。

 何に耐えているとも思えない。また未確認飛行物体に遭遇しているわけでもない。見えているのはいつもの光景であり、心はその中に溶け込んで、それらの一部と化すように振る舞わなければならず、人として生きるとはそういうことなのか。それともそれも冗談のたぐいなのか。冗談だろうとなんだろうと、そういう成り行きの中で生きているのだから、そうならざるを得ず、そこから外れて好き勝手やりたい放題となるのは不可能で、そこに限界があり、やれることの範囲内でやるしかなく、いくら誇大妄想を膨らませてみても虚しいだけで、自らの矮小さを実感することにしかならないようだ。ではあきらめてしまうわけか。何をあきらめようとしているのか。それがわからないのにあきらめられるわけもないのだろうが、そんなふうに思ってしまうのはなぜなのか。いくら疑問に思ってみてもわからないことはわからない。きっとそのうちにわかる時が来るだろう。そしてわかった時には手遅れとなっていて、取り返しのつかない事態となっていて、後は死を待つのみか。そういう物語を語りたいわけでもないだろう。たぶん何が君を痛めつけているのでもない。それどころか君は運がいいのかもしれず、うまく立ち回って、そこから得られる最大限の利益を確保しようとしているのかもしれない。今まさに幸運の女神に導かれているというわけか。それもよくある物語の一場面を空想させるが、少なくともそこで学習効果が発動していて、過去から学んだ教訓らしき認識を活用して、うまく事を運んでいる最中なのかもしれない。それが事実なら何だかほっとするが、なにしろ無意識にやっていることだから、はっきりとはせず、それでもかまわないと思うしかないようだ。


11月1日

 君にはそれらの結末がわかっているようだ。いったいどうなってしまうのか。何が知りたいのだ。何の話でもない。相手にしてみれば運が悪かったらしいが、やはり何の話でもなく、ただの意味不明だ。話にならないのだろうか。その時のせこい損得勘定が、後々仇となってしまうわけか。わからないが、気が済むまでそうやっていればいいのだろうか。限度というものがあるのかもしれない。いくらやっても個人がやっていることなどたかが知れている。カジノで数十億使った大企業の御曹司がいるらしいが、それにしても大したことはないのだろう。金などあるところにはいくらでもあるし、ないところには何もないのだろうが、金がなくとも自給自足で生きている人もいるだろうし、要するにそれらのすべてはマネーゲームのたぐいなのであり、たとえ国の借金が数百兆円あろうと、あまり真に受けるべきではないのかもしれない。そういう人が作り出したシステムの中で、だいぶ前から収支の均衡が保たれなくなっていて、結果的にそうなってしまっているだけで、だからといって誰が責任を取るふうもなく、どうしようもないことなのだろう。そして今後どうなろうと、そんなことは誰の知ったことでもなく、どこまでいっても、そういうことでしかないということだ。人はくだらないこだわりを捨てられずに生きている。それが人の特性なのだろうから、愚かといえばどこまでも愚かであり、愚かであるから正気を保っていられるのだろう。時には鈍感であることも必要で、その辺であまりにも頭が良すぎると、かえって気が触れておかしくなってしまうのかもしれない。

 君は気が変になってしまったのだろうか。フィクションの中ではそれもありか。作り話の世界ではよくあることだ。しかし現実の世界ではどうなのか。君自身が依然として不在のままで、話にもなりはしない。それも誰かの作り話の中で語られていることなのか。何でもいいだろう。そんなことにこだわるべきではなく、君が不在だろうとかまいはしない。君は君であり、君という言葉で記された何者であってもかまわない。特定の誰でなくてもかまわないのだ。それで文章が成り立っていればいいわけか。成り立ってさえいないのかもしれない。それでもかまわないだろう。でたらめのままでいいはずだ。あまり真っ当な内容にしたくない。わけがわからないことを述べているのがいいわけか。そういうことにしておきたいのか。面倒くさいからそうなってしまうのだろうか。何か語ろうとすると、記された言葉が邪魔をして、空疎な文章を延々と記すことになってしまうらしい。それもおかしな話か。ではわざとそうやっているのだろうか。その場の気分でそうなってしまうのであり、何が悪いわけでもなく、そこで自己正当化する気も起こらず、いいわけがましく説明する気にもなれない。だからそれでかまわないのだろうか。それではまずいのか。では何を語ればいいのだろうか。今語っているつもりのそれでかまわない。どうやら君は本当に頭がおかしいようだが、現実の世界ではその君が不在なのだから、誰の頭がおかしいわけでもなく、そんなことをいくら語ったところで、何がどうなるわけでもない。

 では何を改めるべきなのか。気が済むようなことを述べていればいい。だがそれがわからない。わからなければでたらめでかまわないだろう。それにしても腰が痛い。体にガタがきているようだが、話の中では誰の体でもない。君がそれを記しているのではなく、誰かが記しているだけで、それを君が読んでいるわけでもない。たぶん不在とはそういうことなのだろう。誰もそこにはいないようで、どこかの空洞に風が吹き込むが、反応は何もない。誰にとっても興味のない話か。ここは無人の荒野だ。そんな嘘をついたところは部屋の中だ。その気になったらそう思うのかもしれないが、何を思い込んでいるのでもなく、やはりただのゲームに過ぎないことに、感情的になって逆上する気にもなれない。いったい怒りの矛先に何があるというのか。空間も時間もありはしないか。何もないから真空というわけでもなく、真空から働く力が宇宙に作用して、この世界を成り立たせているのだろう。感覚的にはそういうことであり、誰がどういう思惑からそういうことをやっていようと、君にはどうすることもできず、どんな反応を示すこともなく、黙りを決め込んでいるわけでもないのに、沈黙の中で不在を装い、ひたすら空疎をつかみ取ろうとしているわけでもなく、君の無表情を想像している誰かの期待を裏切っているのでもない。結果的にそうなってしまうのだから、それはそれでそういうことだと認識するしかなく、それ以上好き勝手にやりたければ、やってもらって結構なのかもしれないが、所詮ゲームでしかないことだから、ゲームの外では何の影響もなく、実質的に何がもたらされているわけでもないらしい。


10月31日

 それがお約束の結末なのか。相変わらずとりとめがない。もう夜だ。何を語ろうとしているのでもない。そこまではいつもと同じことだ。ここからがいつもとは違うわけもなく、何をどう語ろうといつもの通りだ。結局何も語らずに終わってしまうわけか。君にそれを改める機会が与えられているわけでもなく、何がどうなろうとそのままになる。まだこの世の終わりが到来していないのだろうか。その時が来るまでジャズでも聴きながら暇をつぶしていればいいわけか。それ以前に毎日仕事に追われているのではないか。そこで何を思い出したのか。今日は晴れていた。昨日は雨でも降っていたわけか。記憶にないらしい。人は何を求めているのだろう。今よりマシな暮らしができればそれでいいのか。たぶん誰もがそう思っているはずだ。そして誰もがそこを動きたくない。そんなはずがないだろう。君はそれを認めざるを得ないのではないか。またテレビでも見ているのだろうか。それで何がわかるのか。何もわかりはしない。天気予報を見れば明日の天気がわかりそうなものだが、それだけでは不満が残るか。ではお前は何を知りたいのだ。取り立てて知りたいことなどありはしないか。でも教えてくれるならそれを知ってもいい。誰がそれを教えてくれるのか。誰も知り得ないことなど教えてくれるわけがなく、それを知りたければ、自分で知ろうとすればいい。別に知りたくなくても知ってしまうことだってあるはずだ。そしてそんなことを語っていれば、やがて何かを知ったつもりになれるのかもしれない。

 君が知っていることはたかが知れている。でも知り得ないことの中にも、どうでもいいことが多いはずだ。しかし何が知りたいのだろうか。この世の終わりが近づいている。それは誰かの予言だろうか。あるいは冗談でそんなことを述べているのか。いつでもそうだったはずだ。いつもの通りならそういうことになりそうだ。そう語ることに何の目的も見出せず、そこから何が導き出されるとも思えず、なぜそんなことを語っているのかわからない。いくら目の前に広がる闇を凝視しても、何も思いつきはしない。人は相変わらず地上でうごめいていて、何がどうなっているのでもない現状を肯定しているわけでもなく、ただ何らかの認識を持っているのかもしれないが、それが何の役に立つとも思えず、たとえ役に立つようなことを知っていたところで、それが何になるというのか。少し頭が痛いか。何が馬鹿げているわけではないが、すべてが馬鹿げているように思え、そんな認識が何かの役に立つとしても、そんなどうでもいいことはさっさと忘れてしまいそうで、たとえ忘れてしまってもかまわないような気がして、やはり君はどうでもいいことについて語ろうとしているようだ。なぜそうなってしまうのかわからないが、なぜかそうなってしまう成り行きの中で、何を思っているわけでもなく、淡々と言葉を記し、それについて何の感慨も抱けず、そうなってしまう現状を肯定するつもりもなく、かといって否定したところでどうなるとも思えず、どっちつかず以前の混沌をどう捉えているわけでもなく、やはり自然な気分で対処しているつもりだ。

 それは偽りの頭痛なのか。偽りでも何でもなく、ただ頭が痛いと感じているだけか。しかし変だ。何が変なのかわからないが、変な気分で言葉を記している。きっとそれは気のせいだろうが、あくびの合間に何か適当に思い、それを反芻するわけでもなく、それとは何の関係もない言葉が画面上に並び、それを読むでもなく、眺めていることは確からしいが、それで何がどうなったわけでもなく、感慨も感想もなく、要するにそんな感じなのだ。どんな感じでもないのにそんな感じなのか。それでは話にならない。そんなことは承知の上で、さらに言葉を記すならば、それらのどうしようもない気分をどうすることもできずに、そのままやり過ごすわけにもいかないようで、頭がおかしいわけでもなく、正気のまま狂気を弄んでいるわけでもないだろうが、たぶんそんなことを語るつもりで言葉を記しているとも思えない。まともに語るのが面倒くさいのか。語れないからなおさら歯がゆい思いが募り、そんなすっきりしない気分のままでいることに耐えられず、どこか遠くへと何かが離れていってしまいそうだが、なぜかかろうじて踏みとどまっているようにも感じられ、それが何を意味するのかわからないが、そんな現状のままでもかまわないような気がして、それ以上の何を求めているわけではないのはもちろんのこと、そんなふうに語っていればそれでいいのかもしれないが、それ以外に何がありうるのかもわからず、あり得ない妄想を抱く気にもなれず、現実の有り様を認めつつも、それを受け入れながらも、気に入らないから否定するしかないようで、そんなどうでもいいような現状をどこかに打ち捨てて、何とかすっきりしたいところだろうが、そうもいかないのが現実であり、そんな現実に阻まれて、他に何も抱けずにいるらしい。


10月30日

 誰かはその原因を心の病だと割り切ってしまう。いったい他の何が原因なのか。止まらない自問自答が原因なのか。本当は知っているはずだ。君にはそれがわかってしまう。君だけではないだろう。誰もが知っている事実をあえて隠す必要はない。では事実とは何なのか。話の中身がない。それだけのことなのだろうか。それは知り得ないことではない。君は何を知ろうとしているのか。つまらない自問自答を延々と続けている理由を知りたい。つまらないわけではない。興味がないだけか。言葉を記すことに興味がない。気休めにそんな嘘をついてみる。気休めになっていないだろう。だから嘘だと述べているのか。興味のない言葉を記している。それでおしまいか。おしまいになっていない。何かが続いているらしい。無理に続けているのだろう。それがわかっているのにやめられず、やめられないから続いてしまう。当たり前のことか。何がそうなのか。それは何でもないことだ。そういうことではないはずなのに、結局そういうことになってしまいそうだ。だから無闇矢鱈と語るべきではないのか。君がそうしているのだろう。誰がそうしているのか。誰もそこにはいないではないか。君もいない。そこは場所ではない。場所でなければ何なのか。任意の空間か。ますますわかりにくくなりそうだ。何でもないのにそれはないだろう。ではそこには何かがあるということにしておこう。面倒くさいから、そこには虚無があり、興味深い振る舞いを見せている。またそんな嘘をついて、何を語ろうとしているのか。

 君はその先を目指している。君には守るべき場所がない。立場もなく、何を占有しているわけでもない。まったく意味不明か。それを把握しているわけか。誰が何を把握しているのか。それとは何か。何でもなければそれでもない。たぶんそれらは止まらない自問自答の集積であり、意味のない問答集と化していて、ひたすらつまらないことを問いただしていて、それが嘘であることを見破っているつもりが、何が見破られているのでもないことを悟らせる。そんなのも嘘のたぐいか。そうならないからそうなってしまっているのであり、そうなる必然性がないから、それについての説明が見当たらず、何を説明しようとしているのかもわからず、説明が不要であるように感じられ、従ってそれらの説明は無効となり、誰の心にも響かず、それは無視しうる誤差の範囲内で発せられているメッセージなのだろうか。いったい何のことを語っているつもりになれるのか。無理なのはわかっているつもりだ。眠たくなってきたらしい。そして実際に無理になってきたようで、くだらない気分となる。もうやめた方がいいのではないか。確かにそうするのが正解だろう。でも間違ってしまってもいいような気もしてくる。ならばやり続けてみればいい。そうすることでわかってくることもあるだろう。

 だがその辺が限界のようだ。体調を考えれば、本当にやめた方がいい。そうまでしてやる必要がどこにあるのだろうか。本当に病気なのか。たぶんそうだ。気が狂っている。それはフィクションの中でそうなっているということか。それの何が気休めなのだろうか。何も気休めとはならず、君の心を蝕んでいる何かがそこであらわとなっているはずで、それを見逃してはならないか。すでに見逃しているのではないか。ではそれに代わって何が優先されているのだろうか。言葉を記すことに違いない。さっきからひたすらそうしているはずだ。それのフィクションの中でやっていることなのだろうか。実際にそうなっている。まどろんでいたのほんの一瞬で、次の瞬間には正気に戻り、後はひたすら記述作業に没頭しているはずか。そうなってくれればありがたい。本当にそうなっているのだろうか。結果を見れば明らかとなりそうだ。君に結果が見えているのだろうか。その過程で見えてくる何かがありそうで、それを言葉にして示さなければならない。君にそれができるのか。実際にやっているそれがそうなのではないか。正気で言っているとはとても思えない。辺りは沈黙が支配している。それが嘘だとは思えない。冗談のたぐいではないのか。何をどうすればそう思えるのだろうか。どうもせずに、ただ言葉を記すことにその精神を集中しているつもりか。だからそれが冗談なのではないか。具体的に何について述べているのか。またもやそれは自問自答の罠にはまろうとしているわけか。そう思うならそう思っていて差し支えない。しかしそれらの文章の中で、君はいったい何を求めているのだろうか。問うだけなら簡単に問えるが、答えなど見つかるわけがなく、ただ問うことのみでそれらの文章が成り立ってしまっているのだろう。それではだめなのだろうか。


10月29日

 ちょっとピンチなのだろうか。まさかそんな気配ではないが、何となく失敗しているようだ。どこでもうまくいっていないらしい。きっと異常気象なのだろう。いつものことだ。人類滅亡の前兆か。冗談がくだらない。君の見解ではいつも滅亡の危機に瀕しているのではないか。物語の中ではそうだ。いつの話なのか。今ここで語っているつもりなのか。くだらない内容になりつつあり、焦りの色を隠せない。またそんな嘘をつく。いったい何を語るつもりなのか。何も語れない。それでも言葉を記そうとしているのはいつもの通りか。馬鹿げているだろうか。きっとそうだ。でも逃げているわけではない。無理なのにそれはないか。何をそんなに恐れているのか。そう述べた時点で終わっているはずだ。でたらめにもほどがあるだろう。あり得ない気分のまま、さらにでたらめを語りそうになるが、すんでの所で思いとどまることが可能だろうか。まだその先があるはずだろう。きっとそう思っているはずだ。今はそうでもないが、それほど調子に乗る場面でもない。何だか調子が出ない。そう思い込みたいのだ。気がつけばまたおかしな具合となっている。そしてその後どうなったのか覚えていないようだが、目覚めたら朝になっていたらしい。

 また二日遅れのようだ。それで何がどうなったのだろうか。雨上がりの昼は晴れて暑い。やる気がしないか。いつもそうだが、それではどうにもならないか。もう夜になっている。気晴らしにテレビなど見ている場合ではない。では何をやっている場合なのか。言葉を記しているではないか。呆れてしまうか。それでも何とかここまでやってきた。何に浮かれているわけでもなく、ただ何とかしようとして、そんなことを述べているのかもしれないが、内容がない。世の中のどんな現象にも興味を持てず、語ることが何もなくなってしまったらしい。またそんな嘘をついて、実際に興味を惹いている出来事については語るまいとしている。その頑さはどこから来ているのか。語りたくないのならそれでかまわないか。それで何を狙っているのか。ただのくだらぬ自問自答ばかりでは嫌になってしまわないか。それ自体がそうなのに、それをやめようとしないのはいかなる理由からか。それらの際限のない自問自答だけで文章を構成しようとしているわけか。そうする理由がわからない。つまらなくなるだけだろう。それでかまわない理由が知りたいのか。それしかできないからそればかりなのだろうか。そうだとしてもそれを止めるわけにはいかないようだ。止められないのであり、止めることができないのだ。他に理由などありはせず、単に自問自答が止まらない。

 それしかできないのではないか。そうだとしたらおもしろいか。他に何を思いつくというのか。何も思いつかないからそうなってしまい、延々とそんなことを述べているわけだ。それは馬鹿げたことのように思えるが、それしかできない。何かが邪魔をしているようで、君を考えさせないようにしているらしい。考えたら何か妙案が思い浮かぶのか。そうだとしたらおもしろいか。おもしろいからといって、それがどうしたわけでもないだろう。何もおもしろくもないのに、おもしろいと嘘をついているだけだ。なぜそう思うのか。君はそういう予定調和の自問自答が許せないのか。それ自体がそうだ。それはさっきから述べていることであり、延々とそんな問答を繰り返している。いったい何がそうなのだろうか。何をとぼけているのか。それだけではだめなはずだが、それをやめようとしない。飽きもせずそんなことを繰り返し、本当は飽きているのにやめられず、やめるわけにはいかないらしい。では終わりまでそれなのか。時折後ろを向いてテレビを見ている。それだけではない。音楽を聴いているようで、それだけではないことを誰かに知らせたいらしい。嘘かもしれない。嘘でなくてもかまわないのではないか。だがそういう語り方はつまらない。では面白おかしく語らなければならないのか。そうではない。どういうわけでもなく、でたらめであってもかまわず、どんなことを語ろうと、語っている者の勝手か。君はそれだけではないと思いたいのだろう。誰もがそうは思わない。誰に同意を求めているのか。遥か彼方からモアイ像がこちらを向いて語りかけ、それを肯定するように促しているわけか。たぶんそれは意味不明だ。


10月28日

 感覚が鈍っていたようだ。そんなのは嘘だろうが、それに関する説明がないのはいつものことだ。あまり字数にこだわるべきではない。そんなふうに思わなければいいのだ。では何にこだわっているのだろうか。続けることか。それは無理だろう。無理だと思わなければいい。やる気がでないようだ。何も語っていないではないか。そんなはずがないが、そういうことだ。どちらなのだろうか。どちらでもなければ正解か。問題ではなく、何を問うているのでもない。野球でも見ているのか。ただのゲームだ。盛り上がっているではないか。見ているだけなら楽だ。それ以外に何ができるというのか。テレビを見ているだけでは何もできない。そういう仕組みなのだろう。君には何もやらせないつもりなのか。いったい何をやりたいのか。それがわからない。たぶん何もやりたくないのだろう。それでは話にならない。誰が困っているのか。二日後は雨が降っている。何がどうなっているわけではない。気が変になっているのだろうか。そんなはずがなく、至ってまともなのかもしれず、何を考えているわけでもないもいつものことか。

 この世界で誰が苦しんでいるのか。そういうことではなく、君は苦しんでいないのか。時と場所にもよるだろう。苦しんでいる時もあれば、そうでない時もあり、どこかで苦しんでいるのかもしれないが、他ではそうでもなかったりする。だが量子力学ではないのだから、意識が同時に複数の地点に存在するはずがない。では他に誰が苦しんでいるのだろうか。たぶんそういうことではないのだろう。しかし何を否定したいのか。何が過大評価されているはずもなく、それで何を語ろうとしているわけでもない。結局君は何も否定できないようだ。そしていつもの行き詰まりを招き寄せ、偽りの窮地に陥ったつもりになって、深刻そうな顔をして、うつむいたまま考え込んでいるのかもしれないが、それで何がどうなったわけでもない。どうにもなりはせず、そこからどんな見解が導き出されるわけもなく、すべては放置されたまま、やがて見向きもされなくなる。

 それで何がかまわないのか。何をそんなに苦しんでいるのか。だからそれが嘘だと述べているではないか。では誰がそんな嘘をついているのか。そこには君しかいないはずだ。だが君には何が嘘なのかわからない。誰も嘘などついていないように思われ、ただ沈黙に支配された場に、誰かの意識が漂っているだけか。それもおかしな話だ。語っているどれもこれもがおかしいが、別にそれでかまわないのだろうか。誰に尋ねているのでもない。それどころか誰もそんなことなど知ったことではない。知り得ないことなど知らなくてもかまわないのだ。誰もが関心を持っているのは、気晴らしの娯楽だ。とりあえずはそういうことにしておいて、本当はそうでもないと語りたいのか。それにしては何も持ち合わせがない。反論の材料すら何もありはせず、何を肯定したいわけでもないのだろうが、そんな気分でもかまわないと思いたいのだろうか。気分の問題ではないか。誰かの気質がそういう言説を招いているのか。言説ですらない。

 単純に無駄なことを述べている。それが率直な捉え方か。そう考えれば無難な見解になりそうだ。他に何をまとめようとしているのでもないだろうが、別にセシウム入りの茶がうまいわけでもない。では何なのだろうか。冗談を述べているのかもしれない。すべては気休めで語っていることだ。本当は違うと思いたいのだろうか。現状を変えるような言語表現に至ったわけでもなく、さらにおかしくなっているだけのようにも思われ、何がおかしいのかもわからず、ひたすら言葉を記していけば、やがて終わりの時が訪れ、君の意識は黄泉の世界へと旅立ってしまうわけか。そうなればハッピーエンドかもしれないが、ハッピーエンドの曲を今さら聴いているのは、何かのまじないと連動した心境の変化を伴っている証拠か。そんな大げさなことでもないだろう。何かの巡り会わせて、偶然がたまたま作用して、そんな気分とともにそれらを聴きながら、言葉の使い方に新鮮な驚きでもたらされるのだろうか。たぶんそれでもかまわないのだろう。


10月27日

 誰かはそれらの現象に関わるのが嫌なようで、一歩下がって様子見を決め込み、そのうちに眠たくなり、意識を失う。夢でも見ていたのだろうか。そんなはずがない。どんなはずでもなく、映像を見ていただけだ。他には何も見えていない。外は闇に包まれていて、心を不安に陥れる。記憶喪失に拍車がかかっているのだろうか。だからそんなはずがないと述べていたではないか。幻想を抱いていたのか。的外れにもほどがある。どうも事を進められない。待った方がいいのだろうか。そんな気分で数ヶ月が経とうとしている。知らないうちにフィクションに入っているのか。そんな意識ではない。影は何を求めているのだろう。あてがなさそうだ。語る対象を知らない。どこへ入っていくつもりなのだろうか。茶に渋みと甘みを感じる。意味のないことだ。記すことが可能な言葉なら何でもかまわないのか。何を知ろうとしているのだろう。その先が知りたいのか。それは死後の世界か。君は触れてはならない領域で言葉を弄ぶつもりなのか。そういうつもりではない。影はそんなことを語ろうとするが、君はさっきから黙ったまま動かない。どうせ深夜に目を覚ますのだろう。猫の話ではなさそうだ。根気よく執念深く、念入りに準備しながら、たぶん何をやろうとしているのでもないのだろう。それ以上の何も導き出せないようだ。さらに言葉が散らばり、あてもなくどこかへと連なっていってしまうらしいが、何をうらやんでいるわけでもない。できないことはいくらでもありそうだ。外れるだけ外れ、好き勝手やっているふうを装い、現実にはそうでもないことを悟らせないようにしているわけか。

 たぶんそんな成り行きにはなり得ないような状況なのだろう。いくら心配しても、そんなことは意に介さず、ただ無視されるだけされて、挙げ句の果てにどうなってしまったのか。少なくとも現状はこうなっている。膝の腫れが数か月経っても退かない。それでも徐々に治ってきていることは確かだが、治るのにかなりかかるようだ。思いのほか重症だったのか。平然としているところが不思議か。何に引っかかっているわけでもない。罠にはまっているとも思えず、それでかまわないような気がしているだけで、眠たくなっている。もう限界なのか。すでに翌日の昼だ。それで感無量のはずがない。なぜそうやって意味のない言葉を並べたがるのか。まったく関係がないと言えるのか。何と何の関係を疑っているのか。よくわからないが、そのうち何か思い出すのではないか。ちょっと語り方を変えなければならない。従来の殻を打ち破る必要があるのだろうか。何が殻なのか。面倒くさいから考えないようにしよう。

 死人の音楽を聴いているのか。こだわる必要はない。ただ面倒なだけでそれはないか。いったい何が重症だったのか。別に吹っ切れたわけではないが、何となく軽い気持ちでいい加減に記している。それでかまわないのだろう。今はそういうことにしておこう。水彩画で青空を描いているのか。何かの途中からそんなことを述べている。別に苦し紛れというわけでもないか。それで割り切れるとも思えない。ただ制約や制限を取り除けば、自由になるというわけでもない。抽象的な概念の虜となっていたのかもしれない。でもそれなりに語っていたはずだが、それが行き詰まりを招いていたのではないか。そう思うならそれをやめればいいのだろうか。

 やはり面倒くさいからいい加減に言葉を記したいようで、実際にそうなりつつあり、それで何かの束縛から解放されて自由になったと錯覚したいのか。錯覚だろうと勘違いだろうとかまわない。今はそんなことしか語れないのだから、もう少し開き直って、いい加減に語るべきか。実際に語っているではないか。それでかまわないと思いたいのだろう。そして何だか少しエンジンがかかってきたような気になり、さらに言葉を記している。どんどんいい加減になってきているのだろうか。そうだとしてもそれは仕方のないことだ。できないことをやろうとしているわけではなく、何かのこだわりから解放されたいだけなのかもしれず、もう疲れてしまったようだ。要するに突っ張れなくなってしまったのか。別に不良になっていたわけではない。たぶんまともに語ろうとしていたのであり、そうなるように努力していたはずだが、現実は意味のないこだわりでがんじがらめになっていたのかもしれない。


10月26日

 なぜか数日後は晴れている。疲れているのは毎度のことだ。そればかりでは埒が明かない。語ることがないのはわかっている。それは嘘だろう。何とかしようとしているのだろう。気が散っているのだろうか。見栄を張っている場合ではない。さっさと語ればいいのではないか。では何を語ればいいのだろうか。そういう問いを発していれば字数稼ぎでもできるわけか。何だかつまらないことの繰り返しのような気がして、笑ってしまう状況でもないが、何となくおかしい。何を思い出そうとしているのか。語る術を忘れ、わからなくなっていることは確かだ。たぶん何かを繰り返していれば、空白に文字が埋まり、それらしい文章が出来上がるのかもしれないが、そういうごまかしが気に入らないようで、もう少し何か中身のありそうな文章の構築を目指しているのかもしれず、そのために考えを巡らして試行錯誤を繰り返したいのかもしれないが、現状ではこんな具合だ。もうすでに飽きているのかもしれない。それらの試行錯誤では何の実りももたらせない。現時点では何も解決していない。どこへも至らず、その辺をぐるぐる経巡っているだけだ。それが試行錯誤と言えるのか。単なる言葉遊びのたぐいだろうか。空模様がどうしたわけでもなく、語彙が不足しているのか。語彙とは何だろう。意味がわからないのか。辞書で調べてみればいい。長くならないうちに一区切りつけるとしようか。何がそうなのかわからないのはいつものことだ。

 それがどうしたのか。どうもできないからそうなってしまう。すでにどうにもならないような気がする。でも現実にどうにかなっているのではないか。結果的にはそうだが、それでかまわないのだろうか。たぶんそれが自然の成り行きなのだ。そして何も語ることがなくなってしまい、君は沈黙することになったわけだ。今度ばかりは年貢の納め時で、冗談も休み休みというわけではない。何かにはまっているのだろうか。罠なのか。人為的な罠などではなく、やはり自然の成り行きなのだろうか。強引なごまかしも通じなくなった。時間を浪費している。運も使い果たし、もう何もない。それでかまわないのか。実際にはそうなっていないのではないか。ではなぜ下手な作り話などを記さなければならないのか。何も記していないような気がする。記された文章がそう語り、もはやごまかしがきかない状況となっていて、要するに追いつめられているのだろうか。フィクションの中ではそうだ。そんな嘘をついてどうするのか。何が見え透いているのだろうか。そうではないような気がするだけだ。君はそこから遠ざかるだけで、それらの困難を克服したつもりになっており、そこに生じている不具合を見て見ぬ振りをして、そこから目を背けつつ、別の方角からも危機が迫っていることに気づく。あり得ないのではないか。では免れることはできないのか。しかし何を承知しているのだろう。闇雲な言葉の記述から泥縄式で結果を導き出そうとしている。だからそういうやり方がおかしいのだ。

 それがわかっていながら、なおもやり続けているから、そこで無理が生じている。何をやり続けているのか。誰がそう思っているわけでもなく、たぶん悲惨な結果になることを期待しているのだろう。誰もそうは思わない。結局君は何も思い出していないようだ。たぶん何が最善のやり方なのでもなく、何に熱狂しようとしているわけでもない。サッカーやベースボールに酔っているわけでもなく、酒を飲んで酔っぱらっているわけでもない。意味がわからないのか。それはもとからそうだ。本気になってはいけないのだろう。何かに熱狂するような精神状態にはなれない。感情のすべてが過ぎ去り、嘘も方便かもしれないが、必要以上に多用するわけにはいかず、つかの間の高揚を求めているわけでもなく、見捨てられているわけでもない。すべては円滑に動作するしかないのだろうか。そういう意志や思想に基づいてシステムを作り上げれば、そうなる確率が高まるのかもしれない。だが君がそれを目指しているわけでもないのは一目瞭然で、常にぎくしゃくしていて、時にはぶっ壊れ、収拾がつかなくなり、そのまま長い間放置されてしまうことだってあり得る。そうならないように努力しているつもりが、実際にそうなってしまうと、やはりあきらめたくなってしまうのか。しかし何をあきらめているのだろうか。あきらめきれないから未練がましくそこにとどまり、もはや手遅れなのに、そこから何とかしようとしているのではないか。では今は悪あがきの最中なのだろうか。そう思うなら思わせておけばよく、後は誰かがどうにかしてくれるかもしれないが、最期まで自らの責任を全うするつもりはないようで、適当にいいわけを並べたあげくに、機会を捉えて立ち去ってしまえばいいのかもしれない。


10月25日

 ここからが昨日だ。そして何かがうまくいかなくなり、何となく困ってしまうが、それが思惑通りなのか。困ったふりをしているのだろうか。何を強がっているのか。平常心を保ちたいのか。たぶんどこかに欠陥があるのだろう。それに関して語るべき何かを逸している。機会を捉え切れていないのだ。いつ訪れるかわからない機会を捉えて、それについて適切に語るのは至難の業か。また冗談でそんなことを述べているのだろうか。どうも本気だとは思えない。馬鹿げているだろうか。何がそうなのではなく、何となく一日遅れとなってしまい、今ではそれが当然の成り行きとなりつつあり、それがどうしたわけでもないが、とりあえずそこから抜け出ようと試みている。無理なのだろうか。何も語れない日々が続いている限りは無理なのかもしれず、何について語りたいのかわからないまま、ただひたすら言葉を記すのには無理がありそうだが、とりあえずはそれをやらざるを得ないようだ。要するにごまかしか。いったい何をごまかしているのだろうか。何も語れないことを言葉を記すことによってごまかしている。それがごまかしと言えるのだろうか。誰かには今ひとつピンとこないようだが、そうすることによってそれらを継続させていることは確かで、ごまかしだからといって、今さらやめるわけにはいかないか。

 しかしTPPに反対している農協系の団体には嫌な感じがする。結局彼らも官僚機構であり、農家の利益をピンハネすることで、職員たちを養っているに過ぎないわけで、確かに農家がいなくなれば自分たちの仕事もなくなり、農協という組織が崩壊してしまうかもしれないから、強硬に反対しているのだろうが、だいたい日本の農業をだめにした張本人が、農水省と農協という気がしないでもないので、要するに彼らの組織を維持継続させるために、TPPに反対している姿勢が見え見えなのが、嫌な感じを抱かせるわけだ。それらの農業関連団体のやり口としては、国から農業関連の補助金を引っ張ってきて、補助金を受け取る対象者や団体からは、事務手数料の名目でピンハネして、補助金を受け取る者が多ければ多いほど潤うわけだが、そういうことをやればやるほど、農業生産者は補助金漬けで農産物の価格競争力は失われ、一方それらの農業関連団体は補助金のピンハネによって肥え太り、社畜のような能力の低い職員ばかりが増える結果となる。そしてそういうふざけた連中が、日本の農業を守り、農家を指導していくとか思っているわけだから、実におめでたい話だ。そういう農家の吸血鬼のような連中が、賛同する与野党の政治家を招いて、TPP反対集会をやっているわけで、やはりそういう光景をテレビのニュースで目にすると、嫌な感じがこみ上げてくる。


10月24日

 いよいよどうにもならなくなってきたらしいが、この期に及んでまだ続ける可能性を探ろうとしている。心を病んでいるのではないか。安易にそう考えるのは現実逃避か。ならば至って正気だ。別にどうでもいいではないか。どうでもいいからここまでやってきたが、いいわけにもなりはしない。相変わらずそんなことにこだわり、さらに言葉を連ね、そこに内容をもたらそうとしている。本当に実現するつもりなのか。結果を見てから判断した方がよさそうだ。結果ならすでに出ている頃だ。それでどうなったのか。何かがどうにかなっている反面、その何かについて語っていない。奇をてらいすぎている。相変わらずそんな案配か。そしてもう眠くなってきたらしい。カフェインを取るのを忘れてしまったらしい。今さら遅いか。まさかここからきついノルマが課せられるはずもなく、ここは黙って引き下がった方がよさそうだ。語るのは面倒くさくなり、あくびが出たのをきっかけにやめてしまう。そんなやり方ではまずいのだろうか。反省しても後が続かない。また別の方面から語る材料を探り当てる必要がありそうだ。ごまかしに過ぎない。本心から語ることを欲しているわけではない。それは何かの間に合わせなのか。そうだとしてももう遅いか。

 遅すぎるに失しているわけではないが、今さら何に気づいたのか。それとも何か重大な事実に気づいたふりをしているだけか。誰かが知らないうちにそんなことが物語られて、他の誰を惑わしているわけでもないが、何だかおかしな話の展開となってきたらしい。誰が何を話しているとも思えない。いったい何について語ろうとしているのか。そう問いたいだけのようだ。今はそれでもかまわない。今さらそれはないだろうが、いつものように何かが違っていると思われ、その違っている何かに惑わされ、それについて語れなくなってしまう。そんな嘘でもかまわないのか。何がかまわないわけでもないが、そんなふうに語っていること自体がでたらめなのか。今はそれを認めるしかなく、認めた上で、なおもそれを続けようとすればいいのであって、その辺から話がどこかくだらぬ方向へと逸脱していってしまうらしい。もとからそうだろう。それにしても語ることがない。嘘をついていることに対するいいわけがそれだとしても、何か釈然としないのは当たり前のことで、そういう語り方で語れてしまうところが、何だか馬鹿げているように思われ、それでかまわないとすれば何でもありなのはもちろんのこと、今後ともそればかりとなってしまいそうに思われ、そんな現状に直面して、何となく危機感を抱かざるを得ないか。冗談だろう。

 君はまだその先があると思っているようだが、それが幻想に過ぎないことを、この際語っている誰かが明かす必要があるのだろうか。そうは思わないだけでは、そんな成り行きを覆せないか。だが何に強いられてそうなっているわけではなく、自然とそうなっているのであり、どこに力を入れているわけでもないのに、あるいは心が虚脱状態というわけでもないのに、なぜかいつまで経っても成り行きまかせでかまわないと思われてしまい、そこからさらに一工夫する気にならす、そのままで最期まで行ってしまいそうに思われ、またそれでかまわないとも思い、取り立てて他に何を語る気にもならないのだろうが、やはりそればかりだと意識の中で良心の居心地が悪いようで、そんなやり方ばかりが身についてしまうと、他に何も語りようがなくなってしまうような気がして、それが危機感を抱かせる原因となってしまうわけだろうが、それが何をもたらしているとも思えず、現実にもたらされている記述の停滞状況が、やはり自然の成り行きとしか思われず、なぜそれでかまわないのかわからないようだが、理由の詮索など後回しにして、やはりそれでかまわないと思われてしまい、それ以上の探求を省いて、そこにもたらされている何かの均衡状態を、そのまま保持しつつ、それをいかにして長引かせるかが、それらの継続の鍵を握っているような気がして、今さらそれをやめるわけにもいかなくなってしまうのだろうか。

 しかしそれらはどこまで続いていってしまうのか。まだやる気になっているようで、誰かはそんなことを記しながらも、そんな自分にあきれ果てているようにも思われ、その呆れ具合が愉快な気分をもたらし、さらなる継続を可能としているのだろうか。まったく馬鹿げているが、その辺でやめておかないと、何かの泥沼にはまってしまい、二度と抜け出られなくなってしまうか。すでにそういう状態のようで、気がつけばそんなことばかり記していて、まともなことは何も記せない状況となっているようだが、やはり君はそれでかまわないと思うわけか。たぶんそうだ。君はそんな具合に記された言葉の連なりを眺めているばかりで、何も感じていないようで、ただ飽きもせず眺め続ける。誰かはそんなフィクションを語っているつもりになりたいのか。すでに言葉を記しながら語っているのではないか。虚構の世界ではそういうことになっているわけか。現実の世界でもそうなりつつあり、もはやそれを止める手だてが失われつつもあり、そういう状況が危機感を抱かせているのだろう。だからさっきから警鐘を鳴らしているわけだ。冗談ではない。冗談だと思っているのだろうが、それが勘違いのなせる業であることを自覚すべきか。だが君はそう思っているわけではなく、誰かがそう記しているに過ぎず、それが本当かどうかは、それらが記された結果から判断する以外になさそうだが、誰かが本当にそう思っているのかどうかはわからない。


10月23日

 翌日は曇っている。それでも翌日のままだが、何も思いつかず、書き記すべきことなど何もなさそうに思われる。相変わらずのことか。夕方には雨が降り出してきたようだ。誰が何を求めているわけではない。そこには何もなく、誰もいない。この世界では誰も必要とされていないのか。そういう次元ではそうだ。誰が死んでもかまわない。君でもかまわないし、他の誰でもかまわないというわけだ。では実際に誰が死ぬのか。どこかで誰かが死んでいる。君が生きているなら、死ぬのは君ではなかったということか。そう思ってもらって結構だが、これからどうなるかは、君の運次第だ。誰かが語っているフィクションの中ではどうなってしまうのだろうか。相変わらず押し黙ったまま、何もやらずに佇んでいるだけか。それでもかまわないだろう。何も思いつかないのだから仕方のないことか。だが割り切ってしまってかまわないのだろうか。そんな単純なことではないと思われるのか。誰がそう思っているのだろう。そういう迂回はただの無駄か。だが他に何があるというのか。何もないからそんな無駄で意味のないことを述べているのだろう。

 そうではないと思いたいのか。他の誰かがそう思っているのかもしれない。それでも何とかしたいのだろう。やる気もないのに言葉を記し、何か適当なことを語ろうとしている。本当だろうか。このまま何も語らず、ぐだぐだのままに終わらせてしまう場合もあり得るか。そうでもかまわないだろうか。それは君の勝手だが、君は誰でもない。あくびが出ている。そして何が何だかわからないまま、誰かが言葉を記している。また現状確認か。窓の外を見れば、闇の奥から誰かが手招きしている。虚構の幻影か。ところで君は君自身に向かって何を問いかけているのか。すべての意志に対して否と応じている。そうではないと思うわけか。君は君ではないと思っている。君には私という言葉が抜けているのだ。今さらそんなわかり切ったことを蒸し返してどうするのか。まさかそれを今から改めようとしているのだろうか。気まぐれにそんなことを述べている。気まぐれでなくとも、苦し紛れに出そうな台詞がありそうだが、今にも出かかっているそれを押し殺して、無理にそれとは違うことを語ろうとしているのかもしれない。

 いったい何がそれを語らせているのだろうか。またそうではないような気がしてくる。以前にも増してでたらめな気分を保とうとしているようだが、そこで言葉を切り出そうとしている誰かを差し置いて、何を阻んでいるつもりなのか。そこから逃げ出したい気分か。もう寝てしまったのではないか。さらに言葉を記そうとするが、目覚めたら二日後だ。手遅れとなっている。これから何をやろうというのか。仕事か。合間に言葉を記すつもりのようだが、うまくいくだろうか。人は何かを考えなければならず、その考えに基づいて行動しなければならない。また冗談でそんなことを語ろうとするが、本気で語る気はなさそうだ。そこから意識がなくなり、気がついたらどうなっているのだろうか。相変わらずそんなことを述べているようだが、何か葛藤らしきものがあるのではないか。またいいわけじみていないか。たぶん理由を求めているのだろう。そんな心境に至った理由を導き出したい。そこから何がわかるわけでもないが、そうなってしまった理由が知りたい。まだ取り返しがつくような気がする。そこに至る成り行きの中で、誰が過ちを犯したとも思えず、それなりの努力をした結果がそうなってしまったわけで、悪いことをしたとはこれっぽちも思っていないのだろう。

 ではそこからどうやったら離れることができるのか。安易にやめたらいいわけではなく、やめずに同時進行で続けられるシステムを構築しなければならず、今度はそれを模索しなければならないのだろう。そう述べて、また自らにとって都合の良いことを語ろうとしている。それが気に入らないわけか。気に入らなくても君はそれをやり遂げてしまうだろう。そしてどうなるのか。どうにもならずにあきらめてしまう。どうやら妨害工作が通じなかったようだ。結果的にそういう成り行きだったのだから仕方がない。そしてそれ以上の詮索は無用であり、言葉が適当に記され、それらのどうでもいいような文章が出来上がってしまう。取り立てて何がどうなったわけでもなく、今までと同じパターンで、誰かがそんなことを述べている。君はがっかりしているのか。別に落胆したふうも見せずに、黙ってそれを眺めながら、何の感慨もないようで、その場を立ち去ろうとするが、誰かに呼び止められてそちらを向く。何か言いたいことがあるのではないか。それはきっと気のせいだ。何を思っているのでもなく、どんな主張があるのでもない。ただここまでたどり着けたのだから、それはよしとしなければならない。またあくびが出てきて眠たくなり、言葉を記すのが面倒くさくなってくる。ならばもういいだろう。さっさと終わらせて、仕事の続きをやるとしよう。


10月22日

 蒸し暑い。この時期で蒸し暑いのは異常か。昨日ことではないが、今日の日付では記述しない。おかしなこだわりだ。なぜそうなってしまうのか。くだらないと思われ、思わなければその通りだと思う。それだけのことだ。それ以外ではない。それ以上でもないだろう。堕落しているのだろうか。始めからそうだ。だが何を始めているわけでもない。ただ言葉を記している。それだけのことだろう。以前にも述べたはずだ。それ以外に何ができるというのか。たぶん何もできはしない。できないから言葉を記しているわけか。他に何もやろうとしていないではないか。言葉を記しながら音楽を聴いている。別に変わったことではない。語る必要のないことか。何も必要ではないのかもしれない。また面倒くさいのか。では雑なことを語ればいい。それができれば大したものだ。できなければどうなるのか。空疎な内容になるだけか。そればかりでは話にならず、話ではないことを記すはめになる。要するにそれはでたらめか。

 別に自分のやっていることを卑下する必要はない。面倒くさいのだからそうなって当然だ。何も語る気にならず、それでも言葉を記そうとするからおかしくなる。やめた方がいいだろうか。やめる気がないことはわかっている。それでも問うのだからおかしい。誰に向かって問いかけているわけでもなく、自らに向かっては無言であろうとする。あり得ないことか。さらに記述が遅れて、あくびをしながら画面を覗き込んでいるようだが、二日後になってしまったようだ。少しはやる気になるべきではないのか。やる気になっているではないか。深夜に目を覚まして、誰かが言葉を記している。そんなことにこだわっているから、そうなってしまうのはわかりきっている。やめた方がいい。あきらめれば幸せになれるはずだ。だが誰がそれを信じようか。ひたすら言葉を記して何を目指しているのか。いつかどうにかなる気なのだろうか。いったいどうなってしまうのか。強がって冗談をかますべきではない。真摯な態度が見られないようだ。

 安易に改行のし過ぎだろうか。君に責任があるわけではない。黙ってそれらの愚劣な行為を眺めていればいいはずだ。何もしなくてもいいのだろうか。関与すべきではないのかもしれない。下手に犯人探しをして、こちらに危害が及んでしまうのは避けなければならない。すべては馬鹿げているのだ。人のやることなんてそんなものだろう。誰が何をやってもかまわないのだ。だからやれるものならやりたい放題やってみればいい。いくらやっても自業自得なのだ。そのせいぜいが窮鼠猫を噛む程度の効果しかない。世の中はそんなに甘くないか。でもほどほどのところでやめておくことも肝心だ。危ない橋を渡り損ねて、その後がどうなってしまうかは、他の誰かの想像にまかせるしかないのかもしれないが、うまい具合に立ち回るのは至難の業だ。君は何かの妄想に取り憑かれているのかもしれない。その妄想から逃れる術を知らず、きりのいいところでやめて、ほどほどのところで退散する術も知らず、何事も必要以上にやり過ぎてしまうのか。それが失敗の原因となっているのだろうが、それを改められないのも仕方のないところか。

 何を改める必要があるだろうか。君はその存在自体が必要から見放されていて、そこで何を語ろうと君の勝手なのだろうが、いくら勝手に語ったところで、何がもたらされるわけでもない。虚しさ以外の何ももたらされず、不快な気分でやり場のない憤りを抱えたまま、ひたすらそこに立ち尽くすのみか。そうなればしめたものだと思う。それで目的のほとんどは達成されたも同然だ。嘘なのだろうか。それは誰の目的でもありはせず、目的という言葉が記され、そんな意味を想像させるような何かがあるとも思えず、ともかく全力を尽くしたりせずに、力を行使したりしないように振る舞うことが肝心で、自然に収まるべきところに収まるように仕向け、他の誰が自己主張しようとしまいと、そんな行為とは無関係に事態を推移させなければならない。どのような結果がもたらされようと、君の知ったことではなく、誰の責任でもなく、そういう成り行きに逆らうようなこともせずに、ただ黙って事態を静観するのみか。君にどうしろというのか。今さらどうもできはしないか。どうにもならないようなことなのだろうから、それでかまわないような気がしてくる。たとえそれが間違った認識であろうと、そのままでいいように思われてしまうのは仕方のないことか。


10月21日

 昨日もここまでやってきた。ここで歩みが止まっていた。崖の上か下か。部屋の中だ。心はどこへ行ってしまったのか。ただ面倒くさい。何もしないまま時を過ごす。風邪は治ったのだろうか。薬は飲んだ。今は画面の前で腕を組んでいる。なぜそこから遠ざかってしまったのか。何を問いかけているのかわからないが、今のところ理由はない。相変わらず何も語ろうとしない。何かを分散させようとしているのか。気分が乗ってこない。記すことがないような気がする。冗談なのだろうか。君は記す必要のないことを記しているのか。もとから必要などありはせず、誰かが必要もないのに語り、記す必要もないことを記しているはずだ。そういう水準で語ろうとしてはまずいか。また行き詰まっているようだ。そういう方向へ語ってしまうのがおかしいのか。では何とか軌道修正しなければならない。

 カダフィ大佐が殺された。ボコボコに殴る蹴るの暴行を受けたあげくに頭を撃たれて絶命してしまったようだ。悲惨な最期か。別にそこから教訓を導き出そうとしているわけではない。人は英雄になってはいけないのだろうか。英雄にもほどがあるということか。スポーツ界の英雄ぐらいが無難なところか。ナポレオン的な英雄の最期は悲惨だ。英雄は独裁者にならなければならない。独裁者になってしまうと、逆らう者たちを弾圧しなければならなくなり、殺すか殺されるかの二者択一を迫られる。そして殺せば殺すほど弾圧している民衆の間に憎悪や復讐の念が高まり、結局ろくな死に方はしない。カダフィ氏も英雄になってから四十数年間もその座を死守してきたのだから、それなりに運もあり、才能に恵まれていたのだろうか。長髪に帽子をかぶっていたが、死ぬ直前の暴行を受けている映像から察すると、帽子を取ったらその頭ははげていたようだ。気づいたのはそんなところか。

 やはり気分が乗ってこないようだ。いつものことには違いない。確かムッソリーニは銃殺された後に、その遺体は街中で逆さ吊りされて晒されたようだ。しかしオバマは何をやっているのか。大統領になってから、何か政治的な成果を上げたのだろうか。わけがわからないうちにノーベル平和賞をもらったらしいが、彼は何か世界平和に貢献したのだろうか。ブッシュ親子が始めた戦争を彼なりに終結させようとしているわけか。そういえばビンラディンも殺されたが、まったく血なまぐさい男だ。アメリカの軍事力は侮りがたく、それを打ち破って世界征服を成し遂げるのは至難の業か。いったい誰が世界征服の野望を抱いているのだろう。フィクションの中でならいくらでもいそうだが、現実の世界では特定の人物が見当たらない。そういうことではないのだろう。みかんが食べたくなってきたらしい。別に個人が独裁者となってこの世界に君臨する必要はないのかも知れない。面倒くさいだけか。

 すべての人間が好き勝手に生きられるなら、この世は天国となるのかもしれないが、それはあり得ないことだ。様々な社会的制約があり、その限界の内側で暮らしているのが実態か。たぶんその限界を打ち破ろうとしているのが英雄なのだ。英雄にも限界があるだろう。カダフィ氏のように。ビンラディンもアメリカに戦いを挑んだ英雄か。ある意味ではそうだ。メッシなどとは次元が違うか。そういえばモンゴルの英雄チンギス・ハーンも人を殺しまくっていたようだ。英雄は野蛮なのだろうか。メッシはサッカーをやっているだけだ。英雄になろうとは思わないか。人々の賞賛と嫉妬をその一身に浴び、一瞬の栄光の中で何かの頂点に立ったと自覚するわけか。そして破滅がすぐそこに待ち受けていて、奈落の底へと突き落とされて、断末魔のうめき声を上げながら、この世から抹殺されてしまうわけか。すべての英雄がそうとは限らないだろう。かつての英雄が幸せな余生を送っている例などいくらでもありそうだ。君は英雄になれないのだろうか。現状ではあり得ない話か。ではそんなフィクションでも記してみたらいい。


10月20日

 どこか遠い感覚だ。大したことではない。一石二鳥を狙っていたらしいが、どうでもよくなってしまう。やるならやってみろという態度はよくない。なぜ人は強がってしまうのか。とりあえず事務的な話で済ませようとしている。他人の感情にまで立ち入りたくないか。何を逆なでしているわけでもないだろう。誰の逆鱗に触れているわけでもない。つまらない意地を張って墓穴を掘ってしまうのが愉快か。皮肉にもなりはしない。しかしこの感覚は何なのか。まるで他人事だ。別にそれでかまわないのだろう。本気になれるわけがなく、それで強がっているのでもないのだろうが、どうも気が抜けてしまうらしい。心の中で何かが外れているようだ。たがが外れているのか。それとももっと深刻な事態に陥ろうとしているわけか。わけがわからない。いつものようにそういうことであり、何を楽観視しているわけでもないのだろうが、それはそういうことでしかない。そのことについて取り立てて語る気も起こらず、黙って素通りすれば、それで済んでしまいそうだ。君が考えているほど世の中は甘くないのかもしれないが、やはり突き放して見てしまい、そのことでいくら損害を被ろうと、大したことはないような気がしてくる。軽い気持ちで何かのゲームに参加しているだけなのか。ともかく欲や色気を出さなければ、どうということはない結果に導かれそうだ。たぶんこれまでやってきたことの積み重ねが、大した結果ももたらさなかったように、これからいくらやり続けても、これまでと同じようなことの繰り返しにしかならず、そこから大きく飛躍するようなことにはならないような気がしてくる。たぶんそんな気分が延々と続いてゆくのだ。今さらそれについてどうこう言っても始まらないか。何が始まるとも思えない。たとえそれが終わりの始まりであろうと、黙って受け入れるしかないのではないか。だが受け入れたとしても、それも冗談の一部となってしまうだろう。理由はない。ただそう思うだけだ。いくら語っても無駄なのか。何について語っているわけでもないから、そんな語りは無効か。しかし何に対して語りが有効に働くのだろうか。語っている意味がわからない。何も語っていないと思っているのだから、意味がわからないのは当然のことか。

 語っている途中で嫌になってしまったらしいが、我を失い、意識がどこかへ吹っ飛び、そんなことはあり得ないのだろうが、画面の前で笑っているのは君ではない。でたらめを記している最中に正気を取り戻せるだろうか。依然として意味がわからないが、無理もないか。わけがわからなくなるのはいつものことだが、そればかりではしょうがない。だが何に関して語っているわけでもないようで、言葉を適当に並べているうちに、自然と何かについて語っているような気になるだけで、中身は相変わらず何もないが、本当は何か具体的な出来事について語っているような気もしてきて、そんな思い込みを信じて、なおも言葉を並べていくようだ。それが誰かの本分なのか。誰に頼まれたわけでもないのにそれはないだろう。義務だろうと何だろうと、そんなことはおかまいなしにでたらめを語るはずだ。それは誰のことでもない。誰も語っていないのであり、そのあり得ない場では誰もが沈黙している。では街角の道では何が起こっているのだろう。またいきなり意味不明だ。さっきまで語っていた誰かがいなくなり、代わって虚無に覆われた何かが出現して、その場に沈黙を押し付ける。君はあり得ないことを述べているつもりなのか。文章になっていないようで、虚無はそれ以上の何を望んでいるわけでもない。誰が虚無を呼び寄せているわけでもなく、何かを得られないから虚無的な響きがこだましているだけで、他に何もありはしないのに、あえて言葉を付け加えるとすると、それがでたらめで意味不明な内容となってしまい、もうその辺でやめた方がいいのに、やめられないからそうなってしまうのであり、そこでわざとらしく錯乱状態を演出する意図もないのだろうが、結果として導きだされた言葉の並びがそうなっているわけだ。君は嘘をついているのか。何に関して説明しているとも思えない。そんなことをいくら語ったところで、何がどうなるわけでもなく、戯れ言のたぐいとして片付けられてしまうのがオチだろうが、何となくそれがやめられず、懲りないようで、またずいぶんと遠回りしているみたいだ。だからいい加減にそういう言葉のお遊びはやめた方がいい。


10月19日

 どうもうまくいかないようだ。大概はそんなことでしかない。いつものことだ。がっかりしてまた疲れてしまったのか。それはわからない。人は何を必要としているのか。そこに何があるわけではない。何もないわけではないが、興味のないことばかりか。それでかまわないとは思わないが、それしかないのだから、無い物ねだりしても無駄か。しかし何を求めているのかわからない。本当に必要なものとは何なのか。あるわけがない。だから無い物ねだりとなってしまうのだろうか。とにかくそれらの文章にはまともな内容がほしい。それはできない相談だ。誰に相談しているのかもわからず、要するに自問自答に陥ろうとしているわけか。それもいつものことだ。では代わり映えのしない無内容を記しているわけだ。それは本当にがっかりだろうか。なぜか肩の力が抜けているようだ。そしてそれでかまわないと思い込む。また強がっているのかもしれない。君は曲がったことが嫌いらしい。いきなり何の脈絡もなく、たぶんそれは嘘だろう。何もないから苦し紛れに言葉を記している。そうだとしてもかまわない。無い物ねだりよりはまだマシか。しかしみっともないだろうか。何を糧としているのか。働いているではないか。たぶんそうではなく、何を語ろうとしているのでもないのは毎度のことだ。ではなぜ言葉を記しているのか。そういう次元で語ろうとしているのではない。具体的な事柄について語りたいのではないか。君もそれを求めているはずだ。だがいくら考えても、それが何だかわからない。君は何について語りたいのか。この世界の何が興味深いのだろうか。人は何のために生きているのでもないところが興味深いか。本当にそう思っているのだろうか。それに関して安易なことならいくらでもいえるはずだ。人は愛のために生きている。冗談ではない。それが冗談だと思い込みたいのだろう。人は人のために生きている。それも冗談のたぐいだろうか。たぶん何のために生きているのでもいいのだ。何でもかまわず、とりあえず格好がつけばそれでかまわない。普段はそんなことまで考えていないはずで、軽はずみに愛のために生きているとかいう台詞を発して、フィクションの中でその気になっているわけだ。

 誰かが何かのために生きてようといまいと、それで何がどうなるわけでもなく、君は身の回りを取り巻く空疎を言葉に置き換えるために生きている。時にはそんな嘘もついてみたくなるか。それが嘘でないとすると、それらの文章はどうなってしまうのか。どうにもならずに、誰かによってひたすら記されるだけか。胃が荒れているのに胃薬を飲むのを忘れてしまったらしく、調子が思わしくない。フィクションの中ではそういうことなのかもしれない。現実の世界では何がそうなのか。自らが記している無内容に自信が持てないのか。まともな内容にしなければならない。本当にそんなことを思っているのだろうか。それにしては相変わらずであり、今のところはそれしか語っていない。なぜそうなってしまうのだろう。他の誰かに魂を抜き取られてしまったのだろうか。君のどこに魂があったのか。どこにもありはせず、あるのは君という言葉でしかない。それが記され、文の中に組み込まれ、何らかの内容を示しているのかもしれないが、君にはピンとこないようだ。本当にそれでかまわないのか。そんな文章ではだめだろうか。誰がだめだと思っているのか。それは君自身が一番よくわかっているはずだ。すべてはごまかしでしかなく、否定するしかないようなことを延々と述べている。それで何を語っているとも見なせず、何も語っていないといえばその通りで、その何も語っていないこと自体について語っていることは確かなのだろうが、そういうごまかしが通用しないこともよくわかっているはずか。だがわかっているのになぜそれを続けようとしているのか。それしかできないから、それをごり押しするしかないのだろうか。そう考えると変な気分になり、またそんな嘘をついていることについてどう思っているわけでもないが、なにげに窓の外を眺めると、暗闇の中に何が見えているわけでもなく、星空が見える状況でもなく、では何なのかと問うならば、何でもないとしか答えようがなく、やはりその何でもないに行き着いて、そういうごまかしの語りが限界に近づいていることを自覚せざるを得ないか。そんな大げさなことでもなく、ただの酔狂でやっていることだと思い込み、それで自分を納得させようとするが、疑いが晴れることはなく、何を疑っているのかといえば、言葉を記す行為そのものだろうか。たぶんそれは冗談のたぐいに違いない。


10月18日

 いつものように疲れているのだろうか。まだ限界というわけでもないか。君は何かをやりかけていたはずだ。そこでゲームオーバーか。そんなやり方ではない。もっとスマートにできないだろうか。何を画策しているわけではない。だがその次があるとは思えない。では今やらなければならないのだろうか。たぶんやっているはずだ。言葉を記している。それだけではだめか。なぜだめなのだろうか。行き詰まりから抜け出せていない。君がやるべきことは他にありそうだ。そういう逃げ道もある。だからいったんそれをやめてみてはどうか。そういう説得の仕方もありそうだ。しかしなぜやめないのだろうか。君はそれにかけているのか。疲労以外に何ももたらさない作業のどこに可能性があるのか。いったいどうなりたいのか。それは改めて問うまでもないことだ。そうなるしかないようなことをやっていて、実際にそうなっている。心は虚無に満たされ、他に何も思いつかないような状況となっている。それが望んだ結果なのか。そして今まさにそんな出来事に遭遇しているわけだ。いくら求めても何もありはしない。しかしなぜそれがフィクションなのか。どうしてそこで強がる必要があるのだろうか。間違っている。それだけのことか。しかしその間違いを改められず、間違ったまま生き続けようとしている。まさかそれも嘘だと思いたいのか。すべては相対的な誤差の範囲内にある。たとえ間違っていようと、それを抱えたままでいられるわけで、それを改める機会が巡ってこなければ、そのまま過ごせてしまえるわけだ。そして取り返しのつかないことになるのだろうが、もうそこで心身ともに固まってしまって、それ以上の変化は望めなくなってしまい、それ以降が余生となる。だがそんな単純化した認識も誤りに違いない。ではまだ変化する可能性が残されているというのか。君はこれから何をやろうとしているのか。今やっているそれではだめなのだろうか。そうに違いない。現状が気に入らないのだろう。だが一方で人は小さく狭い範囲でまとまろうとして、そこにささやかな幸せを見つけようとしている。どこかの山奥で自給自足の生活を夢見ていれば、少しは心が癒やされるのではないか。そうはいかないのが現実かもしれないが、それに向かって努力している間は満たされた気になるのかもしれない。

 たぶんそれだけではなく、忘れていることがありそうだ。きっと誰もが特性のない人間になるだろう。普通に暮らしていればそれでかまわないのだが、何が普通なのか基準がなく、どこかで右往左往するにも場所もなく、定められた手順で何かをやっているだけで満足するつもりもないのだから、本当に何もやりようがないようで、自主的に逸脱してしまうしか抗えなくなっているのかもしれない。本当にそこには何もない。この世界は虚無に支配されている。冗談でそう述べているのかもしれない。だがそれの何が冗談なのかわからず、本当にそうではないかと思ってしまった方が気持ちが楽になり、本きて抵抗を試みるのはやめた方がいいように感じられ、そんなわけでまた普通の日常の中に埋没しかけ、これではいけないと思いつつも、そんな成り行きに押し流され、気がつけばどうにもならなくなっているようで、やはりあきらめてしまうのだろうか。しかし何をあきらめられるのか。あきらめられないから思い悩み、日々苦悩の連続に嫌気がさして、きっと幸せになろうとしてしまうのだろうが、まさか君はそこで踏みとどまるつもりなのか。果たしてそんなことができるのか。できなければさらに思い悩むだけだろうか。ともかく何かの流れを利用しなければならない。そうなってしまう成り行きの中に機会が埋もれていて、状況を注意深く観察しながら、それを見つけたらしめたものなのか。後はうまく立ち回ってそこから抜け出し、何とか新しい道を切り開けるようにしなければならず、その気もないのにそんなことを述べている理由がわからないが、君はフィクションの中でそれを実現しようとしているのかもしれず、どうも現実にはあり得ないような話の展開を夢想していて、それが実現できるように努力しているわけでもなく、ただ想像を巡らせて、そうなる可能性ばかりを模索しているようで、まるで夢遊病者のようにそれを追い求めているわけでもないのだろうが、いつかどこかでどうにかなると信じている節もあり、その辺で俄には判断できないが、無意識の計画やら思惑やらが介在しているような、何ともいえない気分を抱いているわけか。それ以上考えるとますますわけがわからなくなってしまいそうだが、何となくその辺に出口がありそうで、虚構の中で誰かがそれを探している最中なのかもしれない。


10月17日

 また遅れてしまったらしい。その目はそこで何を見ているのか。あるいは何も見ていないのか。誰かが盲目のふりをしている。そんなはずがないだろう。君には未来が見えているはずだ。大したことはない出来事に遭遇している未来の姿が見えている。そこに自分がいるのだろうか。自分の姿がわからないのか。たぶんそこには誰もいない。それは千年後の世界か。冗談ではない。では見える範囲をもっと広げてみよう。範囲ではなくもっと期近な未来を見てみよう。やはり冗談でそんなことを述べているつもりのようだ。ならばもう何も見えはしないことにしておこう。今は翌日の夜だ。そしてようやくそこへたどり着き、相変わらず意味のない記述作業の最中か。作業などではなく、もう少し何かクリエイティブなことをやっているのではないか。格好をつけたいのか。格好をつけてどうするのだろう。それなりのことを語りたいのではないか。今のままではだめなのか。格好がつかないか。面子が立たず、面目丸つぶれか。そしてくだらない気分になる。嘘でしかない。語れるはずがないのに語ろうとする。それだけのことだ。そして言葉を記して自己満足に浸ろうとしているのか。わけがわからない。語らなければならないのに、風邪を引いてしまって思うようにならない。それでも言葉を記しているではないか。暇つぶしにか。強がっている場合ではなく、何とかしなければならないはずだ。だがその気にならない。何もないのだから仕方がない。それとも何かあるのだろうか。何もないが、その何もないがありそうだ。それは屁理屈のたぐいか。たぶんそれ以外ではない。何だか胃が荒れているみたいだ。コーヒーとカップラーメンと風邪薬の組み合わせがよくなかったみたいだ。そして目が覚めたら二日後の朝になっている。まともなことは何も語っていない。この世界はどうなっているのか。人が作り上げたシステムの中であがいている。どうせ大した結果は得られない。音楽を聴いているのか。君が導きだそうとしている言葉の連なりには期待できない。ではもう何もしなくてもいいのだろうか。あきらめてしまうのは簡単だ。

 あきらめきれないから今があるのだろう。そこに悪あがきをやっている最中の誰かがいて、それが言葉を記しつつある誰かだとしたら、その誰かが君になるだろうか。そういう君が何を語ろうとしているのか。どういう君でもなく、何がどうなっているのでもない。では何も語れないのか。そういうことにしておきたいらしい。ご都合主義に染まっているようだ。それでも何とかしたいのだろう。何とかできると思っている。何を楽観しているのか。何でもないから、何がそうであるわけでもない。語るのが面倒くさいのか。ではなぜそんなことをやってしまうのだろうか。呼吸しているから生きているのではないか。それは当たり前のことか。何を語ろうとしているのでもないからそうなってしまう。それが当たり前のことだとは思えないのなら、この状況をどう捉えたらいいのか。無理に言葉を記し、語っているふりをしている。そんなふうに思えば合点が行くだろうか。しかしなぜそれがやめられないのだろうか。無駄に言葉を記しているだけなら、そんなことはさっさとやめて、他にやらなければならないことがあれば、それをやった方がいいのではないか。だがそれが思いつかず、結局さらに言葉を連ね、空疎なことを語っているつもりになる。なぜそうなってしまうのか。それを問うような状況にはないのに、無駄に問い続け、さらなる記述をもたらそうとしている。そんなことをやって何になるのか。たぶんそこから飛躍しなければならないのだ。妄想の世界にか?それでも語る必要があるのか。フィクションではない。まりにも単純化しすぎているようだ。まだ経験が足りないのだろうか。これからそれを経験するのではないか。まだ先がありそうで、何か決定的な出来事に遭遇しないと、その先を記せないのではないか。できることなら何かの糧となるようなことを経験したいのか。何かとは何か。どうも結局その袋小路に行き着いてしまうらしい。本当に何かと何なのだろうか。君は本当にその何かを求めているのか。それは何でもないような何かでしかないのではないか。空疎で虚無的な何かだ。そして何かは何かでしかない。それ以外ではないのだから、無理に求める必要もないし、自然に手に入る何かだろう。そしてもうすでに手に入れているかもしれない何かだ。ならば改めてそれについて言及する必要がない。


10月16日

 砂の岬か。誰かがつぶやいていた。脈絡がない。疲れている。いつもそうだ。今から何を記せるだろうか。無理なのかもしれない。その気がない。調子が悪いのだろうか。昼が暑すぎたようだ。まだ夏か。一時的にはそうなのかもしれない。その気になっていないだけか。何か適当に語ればいいだけだ。そして言葉を記せばいい。現にそうしているではないか。君はそれでかまわないと思っている。それがすべてだ。そう言い切ってもかまわない。どうせでたらめだからかまわないのか。嘘だと思うなら確かめてみればいい。確かめる方法を思いつくとは思えない。ただそれに対処するだけか。状況の変化を感じ取っているつもりになり、それに対処していると思い込み、罠にはまっていることに気づかないらしい。それは本当だろうか。相手の思い通りになっていると思わせたらしめたものだ。それが君の狙いなのか。ただの思い込みに違いない。果たして君はだまされているのだろうか。そうだとしてもかまわないと思いたいのか。すべては成り行きだ。うまく流れに乗っかって、身をまかせていればどこかへ行き着くだろう。たとえ後悔しようと、結果がどうなってもかまわないと思いたい。その気になって言葉を記してゆけば、何か適当なことを語っていることになるだろうか。そんなことはどうでもいいのだろう。本気になれず、冗談でも命がけという事態になりかねないのに、それでも遊び半分のふうを装う。虚構の中ではそういうことか。現実の世界では慎重に事を運ぼうして、石橋を叩いて渡っているうちに出遅れてしまい、気がつけば、そこには誰もいない。そこで君は何を目指していたのだろうか。それは何かのたとえで、事実をありのままに語る勇気がないのか。つまらない話だ。何が欠けているわけでもなく、それらのすべてがそれなのだから、たぶん虚構の中で作り話でも語りたいだけなのだろう。そうやって何かをごまかしているようだが、それでかまわないのだろう。そんなふうにしか語れないのではないか。できないことをやろうとしているわけではなく、現に語りつつある現状が記されているわけか。それだけでしかないからごまかしなのか。それ以外に何があるのだろうか。

 もうこだわりなどどうでもいいのだろうか。何にこだわっていたのか。今もこだわっているのではないか。後にも先にも何について語っている気もせず、それが嘘であることは百も承知でそんなことを述べているわけだが、いったい何について述べているつもりなのか。それが冗談の続きだとはどうしても思えない。では何をどう思っているのだろうか。それがわからない。何とも思っていないのかもしれない。語る術を見出せず、何だか途方に暮れているような気になっている。馬鹿げたことを考えていたらしいが、語っていたわけではない。でも言葉を記していたではないか。それらは誰のための文章なのだろう。誰かの記憶がそこに記されているかもしれない。では何を思い出そうとしているのか。嘘をつくならもっとマシな嘘をついた方がいい。まだこんな時間だ。今から方向転換ができると思っているわけか。そして翌日になってしまったらしい。君はまだそこにいるのだろうか。そことは闇の中か。安易な設定に呆れてしまうか。それ以前に意味不明のようだ。無駄な言葉が文章を作り、意味の定かでない言い回しが誰かの怠惰を象徴する。わざとそうしているのだろう。わざわざ説明する必要のないことだ。では改めて何を問うているのか。人々はネットを通して何を呼びかけているのか。世の中の富を独占している一握りの金持ちが許せないのか。しかし現行の制度では富の再分配はできない相談だ。いくらデモを呼びかけても社会制度を変えない限りは現状が維持されるだけだ。しかし世界中に蔓延している貧富の格差はどのようにすれば解消できるのだろうか。たぶん競争しなければいいのだろう。それもできない相談か。物質的な豊かさを追求しなければ、誰もが程々の生活をすることができるのではないか。でもそうなると今ある資本主義が成り立たなくなってしまうだろうか。ともかく現状を肯定するなら、貧富の格差が生じるのは当然で、一握りの金持ちに富の大部分が集中するのは致し方のないことか。仕事の種類や会社内の役職によってもらえる給料に格差があるのだから、いっぱいもらえる人は金持ちになるし、少ししかもらえない人は生活するのがやっとになるだろう。そして仕事がなければ失業して、生活保護を受けられなければ路上生活者だ。そんな現状をどうすれば変えられるというのか。


10月15日

 またこんなところで迷っているのか。いったいどこまでやってきたのだろう。誰かとは感性が違うようだ。それでも何とかしようとしているのだろう。そしてそういうことになってしまったらしい。まったく馬鹿げているだろうか。またやる気がなくなってしまったのか。これから気を取り直す機会が訪れるだろうか。たぶん何でもないのだろう。もう休んでもかまわないだろうか。また何かが途切れてしまうらしい。酸素不足か。何がそうなのだろうか。馬鹿げていることは確かだ。いつもそうなのだから、常に馬鹿げているのだろう。そんなふうに思われ、そうでもないような気もするが、大したことではない。意味が通らなくてもかまわない。肩が痛いらしい。何もかもが痛いのではないか。どうしてそうなってしまうのだろう。筋肉痛か何かか。もっと深刻な状態だと思いたいが、フィクションの中ではどうでもいいと思っている。しかし本当はどうなのか。すべては崩壊の一歩手前まできているのではないか。誰もがそう思いたいのだ。明日ですべてが終わってほしいと思っている。それは単純な理屈からきている思いだ。要するに生きていくのが面倒くさいのだろう。他の誰かは絶対にそうは思わない。思いたくないだけで、思っているのに嘘をついているわけか。冗談でそんなことを述べてみるが、そんなことはどうでもよくて、明日も生きているのだろう。死なない限りは生きている。だが横道にそれているのではないか。だからまっすぐに進むのが面倒くさいのだ。だがこのままではどこへも到達できない。どこで向かおうとしているわけでもない。目標がないのか。もとからそうだ。そんなことを思っていると、また息苦しくなってくる。君は何を成そうとしているのか。何も成し得ないのではないか。ともかくそんなことを語っている。それだけのことだろう。本当にそれだけなのか。それ以外に何があるというのか。ただ言葉を記している。それが記述の本質だ。だがそれだけでは意味がないように思われる。それだけなのだからそういうことだ。そういうことになるだけだ。何か不満なのだろうか。不満などあるわけがなく、そうなってしまった不幸を呪うこともなく、不幸だとも思わす、受け入れようとしているのかもしれず、たとえ消極的であろうと、そんなことを語っているわけだ。

 そんなわけでまたどこかへ逆戻りしているような気になり、それとは別の何かを求めているようにも思われ、必死になってそれを見出そうとしているしているのかもしれないが、それが何の話と連動しているというのか。なぜそう考えるのか。何もないのに話などありはしないが、少しは語れそうだ。語れる根拠など何も持ち合わせていないが、何となくそう思い、そんなことを語っているようで、どうせそれはつまらない内容へ結びつくのだろうが、やはりそれでもかまわないと思っている。気がつけばそうなってしまっていて、もはやどうすることもできないような成り行きとなっていて、半ば強制的にそんなことをやらされているような気になり、何となくそれが嫌になり、やめてしまいそうになるが、そこで毎度のことのように踏みとどまり、さらに言葉を連ねて、調子が持ち直すことを期待しながら、それをやり続ける。はたしてそれは冗談でないのだろうか。今さら何をごまかす必要があろうか。すでにごまかしすぎていて、後戻りができないほどごまかしまくりではないだろうか。そうだとしてもそんなやり方を否定することはできず、今日もいいわけをしながらごまかしている。そして眠たくなり、あくびを繰り返しながら、どこかへたどり着こうとするが、そこは夢の中ではありはしない。闇の中で何を思うこともなく、催してくる眠気にさらうつもりもなく、その辺でやめてもかまわないと思いつつも、さらに言葉を記して、それらの取り返しのつかない過ちを黙認して、それでは収まりがつかない何かを見つけ出そうとしているようだ。だがもう翌日になっている。今のところはまだ何も終わっていないのではないか。何も終わりようがなく、何の変哲もない一日が過ぎ去るだけで、何がどうなったわけでもなく、時が経ち、誰かが老いて、くだらぬ妄想に取り憑かれ、思い込みの中でもだえ苦しむのか。そうなったら愉快か。虚構の中ではそれでもいいのかもしれないが、現実の世界ではどうなのか。何がどうなっているわけでもなく、適当な出来事ともに、心境の変化に遭遇して、くだらぬ思い込みも色あせ、またどうでもいいような気分になり、そこから精神的に成長するわけでもなく、普段と変わらぬ何かを確認するだけに終始して、やはり時が経ったことを実感するだけか。


10月14日

 雨が降っているようだ。他に何があるとも思えず、たぶん謎があるわけではない。では何を探しているのか。誰かが失われた何かを探している。眠っていたらしい。翌朝に目が覚め、それが何だかわからないことに気づく。いつものことなのだろうか。語るあてがないのかもしれない。あてがないとはどういうことなのか。記された文章は意味をなさず、意識はどこかで迷子にでもなっているのだろうか。わけがわからないのも毎度のことだ。話すことなど何もありはせず、ただ黙ってしまうばかりでは埒が明かないのかもしれないが、今はそうなるしかないらしい。それでも努力しているつもりなのか。たぶんそうだ。そうでなければそんなことなど語りはしない。だがそれが何だかわからないのはどういうことなのか。君の頭がおかしいだけか。気が向いたらそんなことを語ってみようとしていただけか。だから何を語っているのか。ここに記されていることを誰が語っているのだろうか。君ではない。何も語れず、何も記せない立場なのだろうか。謎解きに夢中になっているフィクションの中の探偵がうらやましいか。すべては泡沫のような存在だ。忘れ去られるために他人と同じような自己主張を繰り返しているのだ。だからそんな虚構をうらやむこともないだろう。誰かは今ここでやれることをやっている。もう雨はやんでいる。夜になったらしい。窓の外を暗闇が覆い尽くす。当たり前の光景だ。それについて何を思うわけでもなく、ただ眺めるだけで、他に何もない。そんな感覚が好きなのか。冗談のたぐいだ。そのついでに何か適当に語ろうとしていたようだが、もう忘れてしまったらしい。そこで何を語ろうとしていたのか。今となっては何も思い出せないか。たぶんそんなことではないのだ。何も思いついていないようだ。意識の中で何かが消え去ろうとしている。そんなはずがないだろう。では何なのか。何でもないのだろう。語る必要がないようだ。それはいつものことか。君はどこまで本気なのか。ロバータ・フラックの歌声が聴こえてくる。何の目的があるわけではない。ただ無闇矢鱈と語りたかったのだろうか。意味をなさない理由となりそうだ。それでもかまわないのか。

 見せかけだけの何かに感動しているわけではない。ただのスポーツだろう。ニュースにはスポーツがつきものか。そんなことを話したいわけではない。音楽を聴いている。何の関連もありはしないだろうか。それで語っていることになるのか。この時期として蒸し暑いようだ。そんなことを記しているが、それで気分が壮快とはいいがたい。見え透いたごまかしだからか。革新的な記述とはとても思えない。もとからそんなものでないことは明らかか。そんなことどうでもいいことを語りながらも、自らに呆れてくるか。常に期待外れなのだ。それでも君は何とかしようとしているのだろう。その場ではそう思うが、時が経つとそうでもなくなり、いい加減に語って済まそうとしてしまう。それが悪い癖だとは思わない。それ以前のことで、たぶんでたらめに心を支配されている。それでかまわないと思っているのだから、でたらめのやりたい放題にまかせているのだろう。言葉を記すぐらいならそれでかまわない。何の実害もなく、勝手なことを語らせておけばそれでかまわない。君もそれで納得しているはずだ。確かにフィクションの中ではそういうことになるのだろうが、現実の世界ではどうなのか。正気の沙汰でないか。そうであってもかまわない。それでなければならないようなことなど何もなく、人など生きていようと死んでいようとどちらでもかまわないのだから、君が幽霊であっても何の不思議もなく、誰の影であってもかまわないはずだ。何かについて語るとはそういうことではないのか。それはまったくのでたらめか。何に抗っているのかわからず、自然の流れを無視しているわけでもないようで、何となくそんなことを記しながらも、気のない素振りで画面を斜めから眺め、それらの何に修正を加えるつもりもないようで、そんなことを記している現状を変えるつもりもなく、それらのどうでもよさが、今思っていることのすべてを反映した結果なのかもしれず、君はそこから遠ざかれずにいるらしく、それらの他に何を語る気もないようで、何かのなすがままに状況が推移するしかなく、それは自由と不自由の二項対立を超えた真の自由を獲得しようとする試みではないのかもしれないが、何となく弛緩しきった心のありのままを表現しているような、そんな言葉の連なりに酔っているわけでもないだろうが、それでもかまわないような気がしている。まさかそれが冗談のすべてなのか。


10月13日

 今日も何もありはしない。それでは文章にならないだろう。何かあると嘘をつけばいいのか。たぶん何かあるのだろう。その何かによって言葉を記すはめになる。動機とは何だろう。それが何かをやるきっかけとなるのだろうか。確かに何かをやっているではないか。なぜか顔を背けている。嫌なのだろうか。くだらないことにこだわるべきではない。それがくだらないことなのか。何を見ているのか。何も見ていない。画面と向き合い、言葉を記している。しかし何もできない現状に変わりない。そう思い込んでいるのだろう。何もできないのにそう思っている。本当ではないのかもしれないが、そういうことにしておきたいのかもしれない。それはどういうことなのか。それでもかまわないと思っている。ますますわけがわからなくなる。何について語ろうとしているのか。たぶん語っているはずだ。それを語っている。そういうことにしておきたいのだろう。君は自分が何かを語っていると思い込みたいのだ。くだらぬ何かに心を縛られている。そう思い込みたいのだ。そんな嘘をついて、それが嘘でないと思い込みたい。本当にそうだろうか。何がそうさせるのか。自らに何も強いていないような気がする。その辺が限界なのか。そんなことを考えていること自体がおかしいのか。そうならそうで、それはわかりきったことか。君はそこから遠ざかれない。それを知りたいからそう思うのだろう。何を知りたいのか。だからそれを知りたいのだ。その辺が限界だと思っている。考えているのはそんなことでしかない。そんなにそれにこだわる必要を感じられないが、実際にこだわっているのはそういうことだ。恐ろしいことか。何かだまされていないか。だまされているとしても、そういう成り行きなのだから仕方ない。君は結局それを受け入れざるを得ず、紆余曲折を経ても、なおのことそうなってしまうのだろう。そうならないようなやり方を模索すべきかもしれないが、実際にそうなっている以上は、そうなってしまっていることを前提として、そこから何をやるかを考えなければならない。君もすでに考えていて、考えが固まりつつあるのではないか。どう見ても弱くなっている。弱っているからそうするのか。そうかもしれないが、それ以外に何か原因を突き止められるだろうか。

 冷静になって考えてみなければ、それらの誤りに気づかないか。それらとは何か。どうやら気づいていないらしく、それに気づかないふりをしているようだ。まったく念には念を入れ、そんなことまでやる必要はないのに、そればかりを気にかけ、年がら年中考え続け、片時も頭から離れずにいるらしいが、なぜそうなってしまうのか。やるべきことが他にあるとは思えない。何かの均衡が崩れているのであり、その崩れた均衡を元に戻すことができないでいるのだろうが、元に戻す気があるとも思えず、どうせ戻せないのだから、それはそれでそういうことにしておいて、そうなって当たり前だと思い込み、もうあきらめてしまってもいいのではないだろうか。それでもそれにこだわっていることに変わりなく、あきらめたつもりでもまだそれにこだわり続け、どうしても成し遂げなければならないことがあるかのように振る舞い、それを頑なにやり続け、いつかどこかに突き抜けることを期待し、さらにやり続けようとしているのかもしれないが、きっと徒労に終わるだろう。それが愉快な結末だと思われる。何もかもが水泡に帰さないと気が済まない性分なのかもしれず、そうなって初めて納得するのだろう。だから完全にあきらめるまでは相当の紆余曲折と回り道を要し、そこに至るまでは多大な気苦労と精神的な苦痛を伴い、うんざりするような成り行きの中で虚無と格闘して敗れ去り、心身ともにボロボロになりながらも、なおそんなことをやり続け、そんな馬鹿げた行為の果てに、やっとのことでどこかへたどり着き、何かが失敗したことを悟り、後は静かに負けを認め、彼方へと退くだけなのかもしれないが、本当にそれで終わったことになるのだろうか。誰かにとってはそれで終わりかもしれないが、その意志を引き継いでいるつもりの架空の人物にとっては、そこからが始まりなのかもしれず、どこかに記されつつあるフィクションの中で、その続きをやっているつもりになり、その気になって遠大な目標へ向かい、今まさにそれを成し遂げるために努力している最中なのだろうか。冗談の続きはそんな内容になるだろうか。誰がそれを目指していたわけではなく、偶然の巡り会わせに違いないが、それでもそういう成り行きを受け入れる度量が君にあるとは思えない。でも実際に受け入れているのはいかなる理由からなのか。


10月12日

 何を考えているのだろうか。相変わらず夜になるになると調子が悪い。めまいがしてきてやる気を失い、少し横になると起き上がれなくなる。本当だろうか。それほどでもない。どれほどでもないだろう。たぶん君はひねくれているのだ。そういうことにしておきたい。他に何か性格設定があるだろうか。冗談でそんなことを語りたいのか。たぶん違うと思われる。では語りたくないことを語ろうとしているわけか。そういう語り方もありかもしれない。また冗談でそんなことを述べているのだろう。さっきとは違う結果が出た。さっきまでは何を思っていたのか。それは語ろうとしていることではない。誰かがその計画を語る。人類再生化計画か。そんな計画がどこで練られているのか。どうせでまかせのでたらめに違いない。いい加減な思いつきにはつきあいきれないか。その場で何を思いついたのか。どの場でもない。またそれだ。文章になっていないのではないか。それでも形式的には文章の体をなしているはずか。だからさっきから冗談だと述べているのか。だからそれの何が冗談なのだろう。また頭の中がごちゃごちゃしてきたようで、君は将来に対する明確な展望を示せずにいるらしいが、またもや面倒くさいからそれでかまわないと思っているのか。そう思えば展望が開けるだろうか。たぶん逆の結果に導かれ、何も示せずに、結局あきらめてしまうのだろう。ついさっきもそんなことを述べていたようだ。いつまで経っても本気になれないのは毎度のことで、そんな嘘をつきながら、本当はどこかで努力しているのかもしれないが、いつまで経ってもそれが実を結ぶには至らず、半ばあきらめ気味の君は、静かにその機会が訪れるのを待つしかないようだ。いったいその時になったら何が訪れるのだろうか。自らの死か。短絡的にそう考えるのも楽しいことだが、もう少し建設的な未来を考えてほしいところか。前向きに生きていかないと明るい明日は訪れず、心は闇に包まれたまま、そこから先はどうなってしまうのだろうか。だからそんな否定的なことばかり考えていると、後は自らの死が訪れるのみとなってしまい、そこに至るまでは寂しい人生となってしまうだろうか。たぶんそれも冗談に違いない。要するに無理に冗談だと思い込んで、それで強がっているつもりなのか。

 そうだとしてもなおのこと面倒くさい。そんな未来が気に入らないのか。君が選んだ未来だ。そこに誰もが納得するような結末が用意されているはずで、君はそれを否応なく受け入れなければならない。そんな宿命なのだろうか。少なくとも誰かが記しているつもりのフィクションの中ではそうだ。だがそんないい加減な説明がどこで通用しているのか。現時点では誰もフィクションなど記していない。それがその場での真実なのだろうか。どの場なのだろうか。よく見れば画面が黄色くなっている。画面の色と話とは直接関係ないだろう。そこでずれているようだ。くだらぬ紆余曲折にはまっているわけでもない。それはそれであり、これはこれでしかなく、それもこれも君とは無関係だ。そうであるならありがたいところだが、まだ何か語ることでもあるのか。心に余裕が感じられず、唐突に他人を驚かすことばりに気を取られ、言葉と言葉が自然につながらず、何だかぎくしゃくした話の運びとなっている。それが何の説明なのかわからないことが、君をますます苛立たせているのかもしれないが、まだそれとは無関係な話の続きがあるらしく、さらに君をうんざりさせてしまうのかもしれない。だからさっきからそれでかまわないと述べているではないか。またそれか。何だかダースベイダーのテーマが流れてきそうな雰囲気だ。なぜそう思うのか。でたらめにそれを記しているに過ぎない。違うだろう。メディアが何かを単純化して伝え、それを真に受けてその通りに考えてしまう者が出てきて、そこからくだらぬ流行り廃りが生じてしまうわけで、それはそれでそういう現象と捉え、そこで見落とされている事象について考察すべきなのか。それが何に関する話なのかわからず、君はいきなりの言葉を前にして途方に暮れてしまうかもしれないが、とにかくあまりにがんばりすぎると短命に終わってしまう。それでもかまわないのならそうすればいいことでしかないが、何となくそこで違和感を覚えるなら、死んだ後からスティーブ・ジョブズを賞賛してみせる人々を疑ってみる必要がある。かなりおかしいのではないか。賞賛する前に彼の暗黒面を語る必要があるのだろう。ヤバい面とすばらしい面の両方を語らなければ、その明らかな自己矛盾を含む人間を語っていることにならない。


10月11日

 何を考えているのか。そこで何を想像しているのか。思い描いていることは誰も何も語らない。そんな光景を想像している。語っているのはただの言葉だ。そう思わないのか。何となくわざとらしく、少しくどいようだ。だからただの文章でしかない。それ以外の想像はすべて嘘か。それでも何とかなると思っているのだろう。実際に言葉を記している。それだけのことだ。だが無理なのではないか。何を思っているのか。何に関して何を思っているわけではない。では言葉を記している理由は何なのか。そんなことを問題にしているわけではない。たぶん何の問題もないのだろう。言葉を記すのに理由もわけもありはしない。そう思いたいだけで、本当はわけも理由も必要か。そればかりを求めているわけでもないが、やはり必要なことに違いはない。それがないと続けられないのだ。そう思うならそれらを探せばいい。君にとってはどうでもいいことかもしれないが、それらを求めている者にとっては切実な問題だ。本当にそれがないとなると、何も語れなくなってしまうだろうか。それでもかまわないのではないか。もうくたびれてしまって、積極的に何かを問題提起する気にならない。なぜそうなってしまうのか。何もないからなりようがなく、どうにもならずにそこから心が外れてしまいそうだ。病気か何かだろうか。そうかもしれないし、そうだとすると深刻な状態なのかもしれない。終わりなんだろうか。そんな予感がして、無気力のまま、何も語らずに記述を終えそうだ。めっきり容姿が老け込んだと思ったら、たちまちあの世行きか。その方が面倒がなくて楽だろうか。もうややこしい紆余曲折の繰り返しにはうんざりだ。そう思うのだから、終わりが近いのかもしれない。後は安らかに永眠するだけか。本当にそうなってしまったらどうするのか。どうもこうもありはせず、あっけなくこの世から消滅するだけのことだ。とりあえず君はそうならないようにしたいようだが、どうすればそれを避けられるのだろうか。誰か宿命から逃れる術を教えてほしいか。君にわかるはずがなく、そんなことは誰にもわからない。

 もういい加減に飽きてきたところだ。それにどこか悪いことは確実な状況で、心配の種も着実に増えている。だから冗談では済まなくなってきているのかもしれない。近頃は無理をしすぎているのだろう。疲れがたまって疲労がピークに近づいている。それでも何とかなるのだろうか。何とかしようとしているのだろう。それができないことがわかりきっているのにそれか。そうは思わないのだから、そう思っているうちはまだ気力がつながっているはずで、努力も継続されるのだろう。だがすでに翌朝になっている。だから何だというわけでもないが、またつまらないことを記してしまったらしい。やはり冗談がきつすぎるか。それの何が冗談なのか。一夜明けたら体調が良くなっていて、昨夜のあれは何だったのか、今となってはよくわからない状態となっていて、なぜかすっきりしてしまったらしく、ここからまた状態が悪くなることは考えづらいが、やはりおかしくなってしまうのだろうか。そうなったらなったでそういうことでしかないが、何となく達観しているとも思えず、心のどこかをほじくれば、心配事など山ほど出てきそうだ。その時の気分は当てにならないようで、今も何か耳の奥で警報音のようなブザーが鳴っていて、それがだんだん遠ざかっていて、しばらくしたら聞こえなくなったが、それが何を意味しているとも思えず、そういうことでしかないのだろうが、それと入れ替わりに冷蔵庫の音が気になりだし、嘘かもしれないが、まさか自律神経失調症というわけでもないだろう。でも何かの均衡が崩れているようで、また耳鳴りがしてきて、確実に何かがおかしくなっているようだが、なぜそんな嘘をつくのか。虚構の中では正気とは思えず、現実の世界では虚構を語っているつもりなのだろうが、語る必然性を感じられず、語らなくてもいいことを必死で語っているとも思えないが、何となくそんな成り行きのようで、それが何を意味するのかわからないのはもちろんのこと、何について語っているのかもわからず、たぶん自らの病状のつもりで、架空の病について語ろうとしているのかもしれず、それが架空から現実へと変貌するのが怖くなり、無意識のうちに歯止めがかかり、結果として中途半端でわけがわからない内容となりつつあるのだろうが、今回はその辺でやめてもかまわないのではないか。


10月10日

 なぜそう思うのだろうか。君がそれにふさわしいとはとても思えない。この世界の表層に何を刻み込もうとしているのか。そんなはずがない。誰もそんなことはできはしないだろう。死ねばどんどん忘れ去られ、生きているうちは無視され、生まれてきてもその他大勢の中の一人でしかなく、人の存在なんて誰かの思い込みの中の幻影に過ぎず、それ以上を求めれば求めるほど、虚栄心が増すばかりだ。それでも誰かが生きている。君ではなく誰かでしかないが、ともかく生きていて、何かを語ろうとしているらしいが、そこでつかみ取ろうとしている結果が、君を苦しめていることは確かだ。なにしろやめたくてもやめられず、語ることがないのに語らなければならなくなり、その結果として空疎な無内容ばかりが記され、君をうんざりさせるかもしれないが、誰かはそれでかまわないと思っているのだ。本当だろうか。何が本当なのかわからない。だからわからなくてかまわないのだ。そしてそれで終わってしまってもかまわないのに、なぜかその先に言葉を記そうとしている。だから言葉を記すのに理由など不要だ。ではどうすればいいのか。そのまま言葉を記していけばよく、それで何とかなるのなら、そのまま続けてしまってかまわないのではないか。だから続けているではないか。そして続ければ続けるほど苦しくなり、要するに不幸になっていくわけだ。それでもかまわないのだろう。もはや何がどうなろうと知ったことではなく、何もどうにもならなくても知ったことではない。そんなことを語っているつもりでいれば、やがて余白に言葉が適当に記され、それで自己満足に浸れることもないだろうが、とりあえずは作業の継続が可能となるだけでもありがたいと思うのかもしれない。本当にそう思っているのかどうかは知ったことではない。ともかくそんなことが記されていればいいわけだ。またそんな嘘をついているのかもしれないが、それでかまわないとなると、そんなことばかりが繰り返され、さらに無内容でどうでもいいような気分となってしまい、もはや後戻りができなくなるほど、虚無の内部へと意識が取り込まれてしまうのではないか。だからそれでかまわないと述べている。冗談にしてはおかしすぎるか。

 すでに眠たくなっている。この世界がどのような様相を呈しているとしても、君にはどうすることもできないはずだが、それでも語ろうとするにはわけが必要だろうか。わけもなく語る必要はない。だがどんな理由も思いつかず、それが何かの集大成へと向かうはずもないような成り行きの中で、ただ淡々とそんなことを述べ続け、いつ終わるとも知れないような何かを続けているだけで、それで満足するはずもなく、できればそれ以上の結果がもたらされるように語りたいのだろうが、叶うはずのない願いとともに、そんな思いは無視され続け、かといって常に落胆とあきらめをもたらすそれらの作業をやめるつもりもなく、そんな中途半端な気持ちを抱き続けることが誰かの宿命かもしれないが、それでも粘り強く続けながら、いつかどこかへたどり着く気でいるわけか。思いはどこにも届かず、願いが叶う気配さえなく、ひたすらそれらのうんざりするような作業を続けるしかないようで、その結果君は疲れ果てているのに、その自らの寿命を縮めるような行為をやめられなくなる。そんなフィクションがどこに記されているのだろうか。どこかに記されているとしても、それは君の話ではないだろう。この世界のどの場所でも君は不在のままとどまり、そこで停滞するだけ停滞し続け、他に何も得られないような言葉の連なりの中に君として記され、ただ読まれるだけの言葉に過ぎず、それが不在である証拠なのだろうが、そんな状態から抜け出られるはずもなく、君は黙ってそれらを眺めることしかできず、それらの馬鹿らしくも愉快な行為に加担しているつもりで、それに同化して、それらの一部と化している言葉が君であることにも気づき、そんな文字列に絡めとられている自らの境遇を呪うこともなく、ただ語られるがままに記され、文句も言わずに言葉として存在していて、そんな自らについて何を思うこともなく、何を残念がっているわけでもなく、そんな宿命を喜んで受け入れているふうを装い、それは嘘に違いないと思っている誰かに付き従っているようにも装いながら、肝心なところで、その誰かを裏切っているようにも見られ、たぶんそれが真実なのかもしれないが、そんな真実についても何とも思わず、そうなっている状態の中に、君という言葉が記されているだけなのか。嘘かもしれないがきっとそうに違いない。


10月9日

 漫画の話か。小説は読んだのか。何も読んでなさそうだ。きっと疲れているのだ。どうでもいいように思われる。言葉を記さなければならない。そう思うだけだ。記す内容もないのにそう思っている。できもしないことをやろうとするのはおかしい。やってみなければわからないではないか。何を諭されようと、そんなことに従うつもりはない。要するに自己満足に浸りたいのか。そうだとしてもそれを曲げる気はないらしい。思えばかなり遠くまできてしまったらしい。何を思っているのか定かでない。君は絆という言葉が大嫌いなのだ。人と人とが精神的につながる必要はない。それは冗談のたぐいだろう。そう述べてわざと反感を買いたいのか。君はそうではないような関係を構築したい。そんなのは嘘に決まっている。だが誰かが構成しようとしているフィクションの中では、そうなって当然のような成り行きの中で君が存在しているのではないか。そんなはずがない。君はそこで何かに取り憑かれているのではないか。誰かは幽霊か何かのたぐいなのだろうか。そうではない。君に取り憑いているのは誰かではなく、君という言葉そのものだ。そして誰かの中身は機械そのものだ。人は機械のたぐいなのだろうか。なぜそんなふうにでたらめを介して飛躍しようとするのか。話になっていない。またわざとそうしているのだろうか。成り行き的にそうなってしまうから、そうならざるを得ない。またそんな嘘をついて、それについての説明を省こうとする。説明する必要などなく、でたらめなのだからそれを説明したところで、でたらめを脱してまともな文章になることもなく、そこで焦れば焦るほど、そんなでたらめの中に埋没していってしまうだけだ。それでもかまわないのだろうか。たぶん間違っているのだろう。語り方が根本的におかしい。そうやって周囲の人々を困らせているわけか。気に入らないなら放っておいてほしいか。またそれだ。そうではないようなやり方を模索している最中なのに、すぐにあきらめて、心がそこから離れていってしまい、何でもないような些細な細部にこだわり、すべてを台無しにするような語り方をしてしまう。まさかそれが君の持ち味だとでもうそぶくつもりなのか。もはや呆れてものも言えなくなってしまうだろうか。それならそれで、そういうことだと思うしかない。

 赤煉瓦を聴きながら、それが誰かの曲だということを思い出して、他に何を思うこともなく、ただ音楽を聴いている。他の誰かがそう思っているようだ。他に何もありはせず、君は呆れてものも言えなくなってしまうかもしれないが、誰かは平然と言葉を記し続け、それを文章に見せかけることに全精力を注ぎ込む。そんなはずがない。何がそうであるはずもなく、何だか部屋の中が蒸し暑いように思われ、エアコンをつけるが、今度は寒くなり、まだ季節が秋になりきっていないことを実感するが、ぼやぼやしていると冬になってしまいそうだ。だがそんな関係のないことを述べている場合ではないだろう。しかし何と関係のあることを述べなければならないのか。他に何を語ろうとしているわけでもなく、何も語らずに言葉を記している現状を認めざるを得ず、それに関しては何とも思っていないはずだ。気に入らないのではないのか。そうだとしても何とも思わないことにしておきたい理由を求めているわけでもなく、何を思っているとしても、その思っていることが文章に反映されるとは限らず、何でもないようなことを何でもないように記す一方で、肝心なことは何も記されずに終わってもかまわないような気がしてきて、その辺で破れかぶれになっているのかもしれないが、なぜそうなってしまうのか理由が見当たらず、そんなことはどうでもいいようにも思われ、そんなわけのわからない思い込みに影響されながら、何かを語ろうとしているわけで、だからでたらめなことを語っていることを正当化したいわけでもないのだろうが、何となくそんなことを記して、それで済ます気でいるのかもしれず、今ひとつ本気になれない原因もその辺にあるのかもしれないが、それで何とかする気でいるのだから、たとえそれが無謀な行為であろうと、それはそれでそういうことだと割り切って、そんな語りを継続させながら、君は君でそれらを眺め、何か感慨らしき内容を語りたいのかもしれない。嘘かもしれないが、そんなふうに思うならそれでもかまわないと思いつつも、そこで何かがずれているような気もして、本心からそんな疑念を抱いているとも思えず、何かの付け足しとしての意識がそう語らせているだけで、やはり何とも思わず、それらの言葉が連なっている画面を眺め、よくもまあこんなところまで記してきたことに感動しているのかもしれない。また嘘をついているのか。


10月8日

 別に切羽詰まっているわけではない。まだこんな時間だ。何とかなりそうだ。きっとそう思っている。でも実際には何もできはしない。記すべき言葉はどどこかへ消え去り、今記している言葉が何なのかわからず、記しているのが言葉でしかないことなど無視したまま、またでたらめなことを記そうとしている。そしていつものように疲れている。何もやる気がしない。冗談でしかないだろう。楽しい状況なのかもしれない。しかし愉快だと思っているのは君ではない。誰が何を思っているとしても、たぶん大したことはないだろう。ニューヨークで大規模なデモが起こっている。だから何だというのか。経済効率を考えれば、物を動かして金を儲けるより、情報を動かして金を儲けたり、直接金を動かして金を儲ける方が、よりいっそう儲かることは当たり前だ。世界各国の政府がすべての金融業を国有化でもして、金利ゼロで貸し付けでもしない限り、すべての富は最終的には金融業界に集中するだろう。まあそれは冗談と言えば冗談でしかなく、そんなことが実現するわけもなく、また何かの荒唐無稽に違いないが、だからといってそれを覆すような力が働くとも思えない。そこに人々がいて、物を作ってそれを売ったり買ったりして、そういう基礎の上に情報通信産業やら金融業やらがあり、またサービス業的な分野も成り立っているのだろうが、もはや汗水たらして働いていること自体が、低賃金で搾取される側に属していることの証しなのだから、それらの資本主義的なシステムを温存しながら、低賃金労働者たちを救済するのは無理に違いない。これまではメディアを通じた目くらまし的な娯楽の提供によって、何とか彼らの不満を抑えてきた経緯があり、テレビや映画やスポーツを見ている間は、それを忘れていられたのだろうが、今やそれもだんだん通用しなくなっているのだろうか。まあすべてが冗談のような世界なのだから、自分たちの不遇の責任を金持ち連中に転嫁したくなる気もわからないではないが、デモ行進したところで何がどうなる見通しも立っていないような気配も感じられ、結局のところ彼らが夢見ているアメリカンドリームとは、一握りの成功者と大多数の敗残者を生み出すシステムのことで、そういう単純化も避けなければならないところだが、彼らは実際に何を求めているのだろうか。

 君は他人を応援する気がないらしい。それは自らの未来もあきらめているからそうなってしまうのか。何がしたのかわからず、何を語りたいのかもはっきりせず、心の奥底でくすぶっている何かを取り出すこともできはしない。きっと何もありはしないのだろう。何もないから楽しくなり、そんな嘘をついている現状が気に入らなくなる。本当だろうか。本当でないから嘘というわけでもないか。では何なのか。とにかく解決策を模索しなければならず、それをどこかへ向かって提案する機会を作り出さなければ、現状は何も変わらない。またずいぶんとわかりきったことを述べているではないか。本気でそう思っているのか。冗談ならいつまで経っても変化など起こらない。そうも言い切れないのではないか。ならば何をどうしたらいいのか。それがわかったら実践するつもりなのか。そうする気もないのに、何を模索しても無駄か。だからそうならないように努力するとしよう。現状を何とかしなければならない。何とかしようとしているではないか。それがそうなのか。君の力ではどうにもならないこともある。今それに直面しているところか。人が生きていくためには何が必要なのだろうか。衣食住だけでは不満か。なぜ人にはやりたいことがあるのだろうか。しかもそのやりたいことをやらせないようにさせる力が加わっていて、それでもやりたければ、その力を押しのけてでもやらなければならず、そんな困難に打ち勝たなければやりたいことができない成り行きになっているわけで、どうもそういうのが面倒くさくてたまらず、根気が続かないからそこであきらめてしまいがちになる。それでもかまわないか。そもそもやりたいことをやろうとすること自体が傲慢な行為で、他人を押しのけてまでやらなければならない理由などどこにもなく、その辺で簡単に妥協したらいいのかもしれず、実際にやりたくもないことをやらされて、ストレスがたまって病気になってしまうのがオチなのかもしれないが、君はそうなってもかまわないと思っているわけか。たぶんかまわないのだろう。嫌気がさしているのかもしれないが、それでかまわないと思うしかない状況の中で生きているらしい。もう何をやるのも面倒くさくて、そのうち生きているのも面倒くさくなってしまうのかもしれないが、無理に死ぬこともないわけで、ともかく嫌々生きていくしかないような気分で、この世界が押し付けてくるくだらぬ宿命と戯れるだけか。


10月7日

 君は常識的な範囲内でそんなことを語ろうとしている。それが間違っていることは明白だ。でもそれでかまわないと思っているのも毎度のことで、君自身の問題なのに、それを他人事のように感じることしかできず、立て続けにあくびが出てきたところで、もう潮時だと思っているらしいが、まだ時間があるらしい。本当に語るつもりなのか。問わなくてもすでに語っているはずだ。人は何をやっているわけでもなく、この世界の中でうごめいているだけだ。またそれか。そういう認識に至る理由を知りたいところだが、理由などないに決まっている。たぶんそろそろヤバいのだろう。気まぐれの次は気晴らしとなるのだろうか。次に何が出てくるわけでもなく、ただ息苦しい。やはり終わりが近いようだ。闇が続いた後に明かりに照らされ、誰かの姿がそこに浮かび上がる。それに何の意味があるのか。まさかそこからとっておきを出したいわけでもあるまい。実際にはさらなる迷い道になり、暇つぶしのたぐいで、それで何とか急場を凌いだつもりになる。おかしいだろうか。おかしいに決まっているか。何がおかしいと思うのだろう。それらの何かをかいくぐって、そこに何かの存在を示したいのだろうか。別に妨害工作が施されているわけではない。たぶん時間がないのだ。言葉を記す時間が不足している。それはわかりきったことかもしれないが、工夫を凝らせばどうにかなることだ。しかしそれらの支離滅裂はどうにもならないことかもしれない。話にまとめるのが面倒くさいのだ。だから話にならず、何かの羅列に終始して、記された言葉と言葉が意味的につながらなくなる。そんなはずがないと思いつつも、そんな状態を放置しているわけか。ただ闇雲にそうしているわけでもないのだろうが、一方で何となくそれでもかまわないと思っているらしい。だからどう見ても画面は画面であり、そこに記された文字列を読み返す気にはならず、修正を施すつもりもないらしい。君はいつもそんなふうに思い、何かをなおざりにして、よくなる兆しを感じられなくなり、さらに荒んだ気持ちになってしまうのか。冗談だろう。冗談には違いないが、それを受け止めるつもりはないのだろう。真摯に取り組む気になれないのか。

 問いかけるだけがすべてではない。しかし何が物事なのか。現象とは何か。君が今うわべだけ体験しつつあるすべてがそうなのだろうか。それがフィクションでないことを確かめる方法が思いつかないが、何かの作り話の中で生きているわけでもないか。それにしては実感が湧いてこないのはどういうわけなのか。わけも理由もないわけではないか。言葉を記す理由が見当たらない。語る内容がない。そんなはずがないか。すでに語っているではないか。それでかまわないのか。その判断は君に任せる。君とは誰なのか。実質的には誰にまかされているわけでもなく、そこには誰もいないはずだ。君の不在がそれを実証している。またそんな嘘をついて、何かをごまかそうとしているわけか。だがそれはごまかしようのない事実なのではないか。すでに何かをごまかしているのではないか。本心から語っていないはずだ。語れないのだろう。何も語れず、語ろうとしない。では行き詰まりなのか。いつものことか。くだらないことを記しているようで、そこから急いで離れようとするが、うまくいかないようだ。他人はどう思っているのか。なぜ人は生きているのか。生きることに目的でもあるのだろうか。俄には判断しがたい。どうやら君の破滅には興味がないらしい。気が散って考えがまとまらず、天気予報を見ながら、少し気分を落ち着けようとして、何をやっているわけでもないが、何となく音楽を聴きながら言葉を記し、内容を気にする必要を感じられないような成り行きの中で、お前はすでに死んでいると宣告されているわけか。過去の漫画を思い出すが、そんなでたらめに走るにしても、何となくやる気が感じられない。つまらないことだ。かなり衰弱しているようだ。もう終わりか。本当に終わってしまうとすれば、それは君にとって喜ばしいことか。近頃はしぶとさが影を潜め、それに代わってすぐにあきらめてしまう傾向が顕著になりつつあり、それが何かを終わりを予感させる原因となっているかもしれないが、本当に終われるのだろうか。いったい何を終えようとしているのか。現実には何も終わらない。君が終わらせないようにしているわけか。なぜそれを妨害しているのだろうか。そんな話ではない。どんな話でもなく、君自身がそれを忘れているだけかもしれない。それとは何だろう。


10月6日

 そんなはずがない。まだ日付は昨日か。昨日は何を語っていたのだろうか。そんな内容ではないはずだ。何を語っていたのか。まだそこまで至らない。語る必要のないことだ。君は疲れている。誰もがそうだ。それはただの思い違いだろうか。心をかき乱される。そしてやる気を失い、そのまま黙ってしまい、言葉を記せなくなる。そして翌日になり、さらに二日も遅れてしまったことに気づく。焦っているのだろうか。まだこんな段階だ。どうもここからが進まない。語る気にならないようだ。組織的な隠蔽工作でも行われているわけか。いったい何の話なのか。何かの断片には違いないが、君とは無関係だろう。では何について語ればいいのか。何かひらめいたかもしれないが、すぐに忘れてしまったらしい。本気になれないのは毎度のことだ。そこから逃れるためにそうしているのか。そうだとしてももう遅い。すでに空疎なことを語り、それを継続させようとしている。これまでの努力のすべてが空回りしているわけか。そんなわけでもないだろうが、何となく放心状態に近い。またそんな嘘をついて、そこから何か適当な言葉を引き出そうとしているわけか。馬鹿げているだろうか。何がそうなのかわからない。カリスマが亡くなると、そんなに動揺するのか。それも嘘の一部になりそうだ。君の未来はもう閉ざされていて、これからやれることは限られているわけか。そう思っても何も出てこない。だがどこから逃げているわけでもない。ちゃんと言葉を記しているつもりか。それが無駄か。何がそうなのかわからない。君でなくてもそんなことは理解できるはずで、こんな精神状態が何を意味するかわかるはずだ。なぜ惜しいと思わないのか。どうでもいいとしか思えないのはなぜだろう。やはり君はそこから外れようとしているらしい。別にそれが幽体離脱などではないのだろうが、何となく君から君が離れ、誰が君なのかわかりたくなり、その固有名を思わず発したくなっているようだが、まだ沈黙の力が強く、押し黙ったまま、そこを動こうとしない。それは金縛りか何かか。冗談でそんなことを述べているだけかもしれない。

 もはやすべては解決済みになりつつある。そうならないように努力すべきか。でも何が雲散霧消しつつあるのか。君にわかるわけがない。誰かの感覚がおかしいのだ。何かがおかしい。たぶん世間の一般常識から著しく外れているのではないか。それはわかりきったことだ。だがそれでかまわないと思ってきたはずで、今でもそう思っているのだろう。だからそれで誰が困るわけでもないだろう。その辺が問題で、君は誰かを困らせようとしているのではないか。その気がなくても困っているはずだ。だからそれが問題なのだろうし、そしてそんな問題など無視していてもかまわないと思っている。それが問題なのではないか。なるほどそう記してみると、そういうことだと理解できるか。嘘かもしれないが、そういうことにしておきたいのかもしれず、本当はそうではないのに、そう思い込みたいのかもしれない。だからそれは何なのか。君にはそれが理解できず、知ることができないから苛立っているのではないか。誰が苛立っているのかもわからない。わざとそんなことを述べて、何をかく乱させようとしているのかもわからず、ただでたらめな気分に流されているだけなのかもしれず、気分はそれで最高であるはずもないのだが、最低でもなく、高揚しているはずもなく、そういう意味不明なことを述べるべきではないとも思わないか。誰が何を思っているわけでもないのはいつもの通りだ。そこで何かがなおざりにされていることは確かなのだろうが、それでもかまわないと思っているのもいつもの通りで、どうしてもそんな案配で、おかしなことを記しながら、何も思いつかない状態が長引いているようで、こんなことではだめだと思いつつも、そんなこと以外は何も語ろうとしていないのは明白で、なぜかそれがこれからも延々と続いていってしまう気配さえも漂ってきて、いよいよ終わりが近いことを予感させるみたいだが、そこからなおも続けてしまうことが果たして可能なのだろうか。画面をよく見ると、その表面上からこちらを見ている人影があり、それが誰なのかはわかりきったことなのだろうが、それでもひたすら君という言葉を使い続ける理由も定かでなく、要するに記し慣れてしまったのかもしれないが、そんな状況から抜け出すつもりがないのが不思議でたまらないようで、その辺で感覚が鈍っているのかもしれない。また画面に映る顔が笑っているではないか。まったく性懲りもない。


10月5日

 相変わらず君の話ではない。誰もそんなことは語らない。そこには何もないのか。何かあるはずで、それを誰かが探しているのではないか。語る必要がそこから生じて、それについて語らなければならなくなり、誰かがそんな成り行きを求めているのかもしれないが、一向にその気配はなく、君の周りにあるのは空疎な出来事ばかりか。実際にはそんなことはなく、特に探さなくても、語る題材などいくらでもあり、それについて面白おかしく語ればいいのだろうが、やはり現実にはそうはならず、誰かが語っている内容は空疎のままだ。それでかまわないのだろうか。たぶんそうだ。いったいそれ以外に何について語ればいいのか。だからそう問わない方がいいのだ。自然に語っていればそれでかまわない。またそんな気休めが出てくるが、放っておけばさらにぎくしゃくしてきて、どうにもこうにもまとまりに欠ける内容となってしまうだろう。わざとそうしているのではないか。何もないからそうせざるを得ないのか。そんなことを改めて問う必要はない。だが気に入らないことはそれだけではないだろう。いったい何が気に入らないのか。今度はそうきたか。誰も何も持ち合わせていないようだ。君は冗談でそんなことを述べているのだろうか。確か前にもそんなことを述べていたはずだが、そこからまったく語り方に進歩がないということか。そうなるならそれでかまわないか。またそれだ。しかしこの世界はどうなっているのか。いきなりそれか。何とかそういう紋切り型的な問いから解放されたいと願っているのかもしれず、それなりの模索があるのかもしれないが、今のところはとっ散らかった無内容に終始しているようだ。それでは何か違うのだろうか。たぶん違うのだろうが、違ったままでもかまわないと思っているようだ。そんなスタイルなのか。君には他に語るべきことがある。なぜそれについて語らないのだ。忘れてしまったのだろうか。自らの使命を忘れるとは何事だ。そんなはずがない。ではそれも違うのだろうか。そのとき彼が喜びの歌を歌っていたはずがないが、ベートーベンの合唱を思い出す。

 その辺でやめた方がいい。何をトチ狂ってそんなことを述べているのか。別に調子に乗ってきたわけでもないか。だがあれも違うこれも違うでは話にならない。それでも話にしようとしているのだから、困難が伴って当然か。だが冗談ではない。何がそうなのか。君が語ろうとしていることがそうなる他ないのだろうか。これから何を語ろうとしているわけでもない。何も語らなくてもかまわないのだから、語るはずがない。外は闇だ。夜だから当然か。それは何かのまじないだろうか。この期に及んで何を唱えているのか。魔法が通じるとは思えないか。言葉の断片がそんなことを夢想させるのか。だからそんなことは語らなくてもいいのか。余計なお世話なのだろうか。そうだとしてもここまでやってきたのだから、なるべく詳しくそれについて記さなければならない。君はそんな紆余曲折を経ないとたどり着けないのだ。語る気にならないわけか。だからそうならないように気分をそこまで持っていかなければならず、その気になった時に語りだせば、語っている内容も自ずからまともになりそうだ。君はそれを信じているのか。神の存在を信じる用意ができているのだろうか。そうではない。何ものにもとらわれず、どこからもかけ離れた自由という状態を手にする勇気が備わっているだろうか。そんなことではない。だができないことではない。そんなでたらめなことを語っている状態がそれなのか。だからそうではないはずだ。そうならないから、さらにそれを追い求めているのであり、できないことをやろうとしてしまうのだ。今の君のように、生身の肉体を持たない亡霊と化しているわけか。それはあり得ないことだ。君にはさらなる困難が待ち構えているはずで、フィクションの中でそれに立ち向かわなければならない。だが実際には逃げている。そうならないように周到な準備を怠らず、うまく立ち回ってそれを回避する手だてを用意しているはずだ。本当だろうか。まさかそれも何かの冗談なのか。現実の世界ではどうなのだろう。君がそこで生きられる余地があるのだろうか。たぶん競争を勝ち抜いて、生き残ろうとは思っていないはずだ。しかし競争とは何なのか。そこで誰と競争しなければならないのか。


10月4日

 なぜそんなことにこだわるのか。いつものことに加えて新たな迂回が加わり、いつまでも追いつけない状況になりそうだ。それで楽しいか。他人の苦しみを理解できない。そんなのは嘘だろう。翌日は雨だ。どこまでもそうらしいが、まだ何かにたどり着く可能性があるのだろうか。何かとは何なのか。それはある特定の形式か何かか。まさか独自のスタイルのごとき何かではあるまい。しかしなぜそんなことに拘泥するのか。言葉を変えても意味は変わらず、そんな言葉が繰り返されているだけだ。それが君独自のこだわりだとは思えない。では何なのか。ならばそういう自問自答がそうなのか。誰が関わっているわけでもないだろう。君はそこで右往左往している。突然なぜそうなるのかわからない。また心が外れているのか。人々の意識はメディア社会に組み込まれ、そこから逸脱することができない。その必要がないからだ。ではその虚ろな目つきは何なのか。そういう語り方ではだめだというわけか。誰もそんなことは指摘していないではないか。自分でそう思っているのだろう。自分とは誰なのか。君のことではない。ではなぜここまできたのか。どこまできたわけでもないか。そういう語り方には嫌気がさしていたはずか。君はそれを語っているのではないだろう。では誰が語っているのか。それは君自身であり彼自身でもあり、他の誰かでもある。君でなくてもかまわないのか。そういうことだ。要するにそれが自問自答なのだろう。それ以外ではないはずだ。誰でもないというわけか。君が誰でもないということか。わかりきったことを今さら確認するまでもないが、君はそこで朽ち果ててしまうのか。理由もないのにそれはないだろう。理由がないから朽ち果ててしまうのではないか。そんな成り行きでもかまわないはずだ。でもそういうことにはならないかもしれず、何となく成り行きまかせでもかまわないのかもしれない。だがそれは希望的観測だろう。現実は甘くないはずだ。でも後戻りはできないのではないか。だからそういう自問自答が誰かをうんざりさせるのではないか。どこまでもそうなってしまうだけだ。

 しかしなぜそこでやめてしまうのか。君はそこで何を引き寄せてしまうのか。どんなに問いを発しても、返ってくるのは空疎な何かでしかない。本当にそうだろうか。また何か重大な事実を見逃しているわけか。だがそれがわかってしまったらおもしろくないではないか。別に面白おかしくしようとしているわけでもない。では何がそうなのか。つまらぬこだわりが君をそうさせているわけだ。それもわかりきったことだろうか。だがそこから逸脱しなければならないのではないか。なぜそうする必要があるのか。そんな予定調和の成り行きが許せないからか。どんな理由でもかまわない。ともかくそこから一刻も早く逃げ出したいのではないか。そうだとしても今がある。今ここで生きていることが自体が問題なのか。君は彼らに何を求めているのか。何も求めていないわけでもないはずだ。要するに思い通りの成り行きになってほしいだけか。そうならないから思いがけない紆余曲折があり、わけのわからない停滞や逡巡の時があり、そこで何かが繰り返され、うんざりするような事態に直面して、時には寿命を縮めるような思いをして、それで予定調和的な波瀾万丈とはいかないまでも、たぶんそれ以上の何かを求めているのだろうし、遭遇した出来事に驚きたいのかもしれず、そんな成り行きの中で何かを学び取りたいのかもしれないが、すべてがそうでなくてもかまわないのではないか。君は気休めを求めているのか。君は誰でもないのだから、誰が何を求めているわけでもなく、誰かがそんなことを語りたいだけではないのか。いくら問うても答えなど何も出てこない矛盾した問答もどきを記したいのだ。そうだとしても疲れている。もう長くはないだろう。できないことをやろうとすればそうなってしまう。君はどこかで挫折しているのか。素直に喜べないのかもしれない。そんな結果に満足するつもりもないのだろうが、別にその上を目指すつもりもないのだろうから、どっちつかずの気分で、ただそんな成り行きを外から眺めているつもりでいたいのかもしれない。しかしそれはどういうことなのか。なぜそんなことを語ろうとするのだろう。要するに君は君で、そんなこととは関係なく生きていると思いたいのだ。


10月3日

 どうやら追いつけない。何かが急速に視界を覆い尽くす。眠ってしまったのか。夢の中で何を追いかけていたのか。そんなことを思っていたわけでもないが、もう夜だ。慌ただしい一日の最後にこれか。そんなことを考えている余裕はない。いったい何を考えていたのか。まだ何も考えていない。それとこれとは違うだろう。それもこれも何もない。そんなはずがないだろうが、何となくそれでもかまわないような気になり、そのままでたらめを記さなければならないのか。現実に今こうして記しているではないか。なるほどそれがこれだったわけか。ならばそれもこれもでたらめに違いない。しかしいったい君は何を語っているのか。今まさに不毛なことを語りそうになっているところだ。そんなはずがないか。ではどんなはずだったのか。確かにそういう問いは不毛だ。不毛というのは坊主頭なのかはげ頭なのか。またおかしなことを語ろうとしている。すでに何も語れないはずだ。この期に及んで何を拒絶しているのか。それとも認めがたいことを認めざるを得なくなっているのか。君はもう終わりだ。年貢の納め時というわけか。まだ何も語っていないのに、終わりも何もないはずだ。まだ始まってさえいない。でも何も始められないのだから、すでに始まる前に終わっているということだ。そうだとしても誰かが何かを語ろうとしているわけだ。なぜそう思うのか。誰も何も語っていないではないか。語る場がない。だがそんな嘘をついても何も始まらず、何を始めようとしているわけでもなく、すでに語ってしまっているそれをどうすることもできず、やれることはそれを継続させる以外にあり得ない。君はそうやって何かを語っているつもりになりたいのか。そんなはずがない。相変わらず何も語っていないではないか。誰かが言葉を記しているだけか。そんなことが記されているわけだ。それではつまらないだろうか。わざとつまらなくしているわけではなく、自然とそうなってしまうのだからどうしようもない。別にそこで文字が踊っているわけではない。だからそれとこれとは無関係なのだろうか。

 やる気がしないのはいつものことで、聴いている音楽に合わせて誰が踊りだすわけでもなく、恐ろしい状況になっているわけでもない。至って何でもないのだ。うっかり何かを見過ごしてしまうところか。緊張感に欠けている。居眠りの最中に何を思ったか知らないが、カフェインの量が足りないらしい。それでもここまで記してきたではないか。ではあともう少しの辛抱か。君は何に耐えているのだろうか。そこは場所ではない。場所でなければ何なのか。誰も耐えていないのではないか。耐えられないからそこから離れようとする。どんどん離れていってしまうわけだ。気に入らないことが多すぎるのだ。しかし誰が気に入るというのか。この世界は気に入らないことばかりか。そういうことではない。お前が愚かなのだ。今までに何度同じ過ちを繰り返しているのか。たぶんこれからも無限に繰り返す。生きている限りはそれが宿命なのだ。またそんな冗談を繰り返して誰かの笑いを誘う。それで笑えるだろうか。きっと笑える。それだけのことか。たぶんそれは冗談ではない。冗談でさえない。では何でもないのか。そんなわけがない。それを手に入れようとすると危険を伴う。それはありふれた見解だ。虎穴に入らずんば虎子を得ずというわけか。しかし君はどんなリスクを冒しているのか。命がけで何をやっているのか。膝に水がたまっているようだ。それは怪我をしているだけだ。やはりそれとこれとは無関係か。もう二度と戻れない。そんな気がしてくるが、現実の世界では違うのではないか。何とかしようとしているはずで、こうして戻ってこられたではないか。それでかまわないのだろう。それ以上のどんな結果もあり得ない。だからそれで満足すべきか。だがもう少しなんとかならないものか。まだ余裕があるはずで、力を入れていない領域がありそうだ。何とかなっている以上は、どこかで手を抜いていて、不可能を突き詰めていないことになる。うまく立ち回っている証拠か。まったく誰かは狡い。賢くはないが、狡いことを平気でやっている。要するに見え透いているのだろうか。だがそれで何を語ったことになるのだろうか。その辺は誰かの想像にまかせるしかないようだ。


10月2日

 たぶんそういうことだ。それが破滅への前兆なのか、はたまた取り越し苦労なのか、君にはよくわからないが、なぜかそれでもかまわないように思えてきて、何だか怖い感じがする。もしかしてすでに終わっているのか。そうだとしたらおもしろい。そうなるべくしてなったように思われてきて、それは正しい判断だったのかもしれず、そういう成り行きに身をまかせていれば、最終的にはどうにかなるのかもしれないが、それにしても大丈夫なのか。途中で怖くなってきて、精神的に耐えられなくなり、本当に気が触れてしまう危険性もなきにしもあらずだが、なぜそれでかまわないような気がしてしまうのか。別に破れかぶれというわけでもない。何らかの思惑や企図があり、それに沿って行動していて、結果としてそうなってしまったのだから、それはそれで想定内の出来事でしかなく、君自身も納得しているはずだが、やはりこの調子でやっていくと、何だか恐ろしいことになってしまうような気がして、果たしてこれでいいのだろうか。勘に狂いがないと思われるのは危険な兆候なのだろうか。嫌な感じがするが、まあ何とかなるだろう。それは君が背負うべき責任ではない。何をごまかしているわけではないはずだ。実際に何もごまかさず、ありのままに語っている。時にはそんな嘘をつきながらも、それらの何かを続けている。たぶん語っているのだ。冗談ではなく、それは本当のことだ。だがそんなことを強調するのはおかしいだろう。何を語っているかが問われているわけか。誰が何を問われているのだろうか。少し馬鹿げていないか。内容もないのにそれはないか。だがそれが君の持ち味だ。意味が違うのではないか。でたらめなことを述べている。少し気が抜けているようだ。緊張感がない。また息苦しくなってきたのか。何とか気を取り直して、その続きをやろうとしている。今さら無理か。何をやろうとしているのかわからなくなり、そんなことはどうでもいいように思われてきて、途中で投げ捨ててしまいそうになり、かろうじて思いとどまっているところか。そんなはずがない。

 できないことは確かだ。できないからこんな状況となっている。そしてまともな内容を見出せないわけか。何を見出しているわけでもなく、ただ画面を見ている。何も進んでいない。ため息が出てきて、やる気が出ないことを自覚する。しかし何を聴いているのか。笑っている場合ではないだろう。それは何が誰にくだされた仕打ちでもなく、どんな罠にはまっているのでもない。そういう作り話はなしにしよう。まだ話になっていないではないか。何も語っていないはずか。だが言葉を記しているではないか。近頃はそればかりのはずだ。いつもそうだろう。そんなことしかできはしない。実際にやっていることがそれなのか。ここはフィクションの中ではない。現実の世界で言葉を記しているはずで、時折嫌になりながらも、かろうじてそんなことを述べている。もう賞味期限切れか。今まさに自爆テロに遭遇しているわけではない。危機は去ってしまったのだろうか。まだ完全には去っていないはずだ。現に何も記せないでいる。そんなことはない。空疎なことならいくらでも記せる。ではそればかりなのだろうか。かなりおかしいのではないか。こだわりが何かに反映しているわけか。何かとは何なのか。何かと記すことがこだわりなのだろうか。考えていることが勘違いみたいだ。それはわかっているようだが、それでかまわないのか。偏頭痛がしている。そんなはずがないだろう。目が痛いのではないか。また息苦しくなっているようだ。まだ立ち直るだけの余白が残されているだろうか。いったいどこで立ち直りたいのだろうか。今ここでか。それは無理というものだ。どうやらこのまま虚無に押し切られてしまうらしく、中身は何も得られないまま終わってしまうかもしれない。だが現状では何とかここまでたどり着けただけでも上出来だ。言葉を記しているだけでも奇跡的だ。そうやって君は現状を何とか変えようとしている。どこかへたどり着きたいのか。君はどこをどう通ってここまできたのかわからない。途中の記憶が飛んでいるみたいだ。それでも何とかここまでやってきて、こうして言葉を記しているではないか。今回はそれだけのことなのだ。それ以外には何もなく、何の内容もありはしない。君の流儀ではそれでもかまわないはずだ。そうなってしまったものはどうしようもない。


10月1日

 なぜか目が覚めたらまたこんな時間だ。蛍光灯に照らされて眠っていたので目がおかしい。君は死にそうになっているのだろうか。まだ死ぬはずがない。死ねないはずか。では何を知っているのだろうか。それに関して批判する術を知らない。何に関しているわけでもないか。何がそうさせているのでもない。気がついたらこんなことになっている。辛抱強く言葉を記していかなければならないが、そうする理由を知らないのは本当だろうか。誰がそうさせているわけではない。自らがそれを望んでいるわけでもない。誰もそんなことは望んでいないだろう。君はそうなってほしいのだろうか。それについて何かこれ見よがしなレッテルでも貼りたいのだろうか。たぶん変革は容易ではないのだろう。変わることがあり得ないとは思えないが、なかなか変われないことも確かだ。変わるためには期限を区切って、いつまでに変わるべく努力すべきか。そうしたところで約束が守られる保証はない。そのスタイルが定着するまでには、相当の長い年月と紆余曲折を経ないことには無理だろう。だがなぜそうしたいのかがわからないのだ。君はやる必要のないことをやろうとしているのだろうか。そうだとしてもやるしかないだろう。やってやれないことはなく、実際にやれてしまうのだから、やはりやってしまうしかないようだ。何とかしなければならないのか。何とかしようとしているではないか。状況もそういう方向へ動いている。君が動かしているのだろう。他の誰が動かそうとしているわけでもない。君は君でそういうやり方しかできないのだから、その不器用さを活かさなければならない。器用に立ち振る舞っているつもりではないのか。それに関して客観的な評価を下す立場にはないし、そういう立ち振る舞いが器用か不器用かよくわからず、ただぎくしゃくしているように思われ、融通が利かないようにも感じられ、そういう見方からすれば不器用な立ち振る舞いになっているのかもしれないが、どうもそれを押し通すつもりらしく、押し通せるかどうか疑問でもあるが、ともかくやり抜くつもりらしく、やり抜けるように努力するまでなのだろう。別にそれを阻むための妨害工作が行われているわけでもない。

 しかしそれをやり続ければ、本当にそこから抜け出られるのか。そもそもそことはどこなのか。どこでもないのにそことはならないだろう。ではどこかにそこがあるのだろうか。そうだとしてもそこまではたどり着けないか。ではたどり着けないような地点を目指しているわけか。別にエベレストの頂上まで登っていくようなつもりもないはずだ。では何なのか。たとえがおかしいだけか。ではどんなたとえならしっくりくるのだろうか。別にたとえを探しているわけではなく、そこがどこなのかということだ。目指すべき地点が定まらないまま、ただ闇雲に動き回っているわけか。だが動き回っているのは君ではなく、たぶん誰でもないのだろう。フィクションの中ではそういうことだ。現実の世界ではどうなのか。君はそこで何を探しているのか。探しているものなどいくらでもありそうだ。そしてどこかへ戻ろうとしているのかもしれない。どうやらそこで考えがまとまらないようだ。意味の定かでないことを探ろうとしている。漠然としたことだ。今さらしどろもどろでもないだろう。しかしなぜそうなってしまうのか。途中まではまともに語ろうとしていたのに、もう飽きてしまったのか。ごちゃごちゃした頭の中を整理できず、見切り発車的に言葉を記して、何が何だかわからなくなってしまったらしい。もう翌日の昼だ。何もなくなり、もう語る気が失せたか。しかしここからがどうするかだ。どうにもならず、何も語れなくなり、ただ言葉を記して文章らしきでたらめを構築するのみか。そんなふうになるならそれでもかまわないのではないか。実際にそうなっている。昨晩の辛抱強さはどこへ行ったのか。どこへ行ったとしても、何がどうなるわけでもなく、そんなふうに語るしかないだろう。その辺で限界なのか。そんなくだらないことを述べているのだから限界に違いないが、それでも無理に語り続けるとすれば、今後それらの語りはどうなってゆくのだろうか。だからこんなふうに無駄で余分な言葉が延々と連なってゆき、空疎な無内容でそれらの空白が埋め尽くされ、それは取り返しのつかない事態となってしまうのか。何がそうなのかわからないようで、別にそれでもかまわないと思うしかなく、もうその辺であきらめなければならないのではないか。