彼の声86

2011年

9月30日

 なぜ逆らうのか。いったい何に逆らっているのだろうか。たぶん何かに逆らっているのであり、その逆らい方が大人げなくてひんしゅくを買っている。それもまたいつもの演技なのか。そうではなく、本気でそんなことを語ろうとしているわけか。何を語らずにいるわけでもなく、たぶん何も語れないのかもしれないが、ともかく正気ではない。そういうことになっているようだ。心身ともに疲れきっているのだろうか。だから君が語るようなことでもないのかもしれず、誰も何も語らなくてもいいのかもしれないが、そんなことが記され、いつの間にか眠ってしまったらしく、気がつけば何もできなくなっている。そういうことではないのか。それの何が違っているのか。何も違っていなければ、それが何の証拠となるのか。君が正気でないとは思えなくなる。それはどういうことなのか。そんな自問自答が白々しく響き、どこで響いているのかよくわからないが、何となく深夜に音楽を聴きながら、そんなことを記し、そんなことを記しながら、音楽を聴いているわけか。何だかおかしい。記している内容が空疎であればあるほど笑ってしまい、それでかまわないような気がしてきて、さらにそんなことを続け、何かが止まらなくなり、とりとめがないようなことを思いながら、それ以上の何かを探して、実際には何も探していないのに、そんなことを延々と述べているような気になる。それはどういうことでもないのだろうか。誰かがそう述べて何を否定しているのか。フィクションにもならない話だ。そういう水準にないようだ。そういう水準では語れないのだろう。だからひたすらそんなことを語っているつもりなのか。たぶんそれももう終わってしまうのだろう。そろそろ限界のように感じられ、嫌気がさしているのに無理矢理何かを押し進めているような気になり、そういう行為が自己嫌悪を心の内に呼び込み、何だから呆れながらも仕方がないような気分で、それをさらに続けてしまうのだろうが、それらはどこまでもたわいないことなのか。そう思うならやめた方がいい。

 やめなければどうなってしまうのだろうか。何を心配しているのでもないのだろうが、そんなふうに語ってしまう現状が正気ではないような気がして、その加減がそれらの何かに関わってくるのかもしれない。たぶん紆余曲折などものともせずに、まっすぐに向かっている行き先が、それらの文章が目指すところなのかもしれないが、それにしてはそれが何だかわからないところが、かなりいい加減でおかしいように思われ、本当は何も目指していないのではないかと思わせ、ただ思いつき記し続ける言葉と戯れ、そこから感じられる何かのリズムに心を通わせ、それが何だかわかろうとするが、たぶんいつまで経ってもわかり得ないのであり、次第に何を述べているのか定かでなくなってしまい、それでもそれを続けて、さらにわけがわからなくなり、記述が止まらなくなっていることに気づきながらも、それをやめられなくなって、やはりそんな行為から自らの正気を疑い、冗談でそんなことを述べていることにしたくなり、そんな嘘をつきながらも、そこからさらなる模索や探求の余地があるかのごとくに錯覚して、絶えずその先を求め、それをやり続ける理由を見出そうするのだろうが、そんなことを述べている誰かがどこまで本気かはわからず、本当はどうでもいいような気でいるのかもしれない。だからどうでもよければさっさとやめたらいいのだろうが、それができない理由を知りたいか。たぶんこれまでに続けてきたことから生じている惰性が誰かを突き動かし、さらなる記述の継続へと導いているのかもしれず、そんな現状が言葉を記している当人を戸惑わせ、何だか怖いような気にさせ、それをそのまま続けていって、その行き着く先に待ち受けているのが、正気とは無縁の境地なのか、はたまたそんな危惧を覆すような何かなのかわからないが、ともかくここまで記してきて、そんな行為が報われる時が来るとは到底思えず、そのまま何の成果ももたらせないまま、ただ忘れ去られ、消え去るのみのような気がする時、果たして君はそこからどのような救いを求めようとしているのか。

 まさかその続きがあるとは思えない。たぶんそれはそこで終わりだろう。だが是が非でも終わらせなければならないのか。なぜそう思うのだろうか。何も思っていないのかもしれない。本当は何とも思っていないのだ。逃げ場がないのかもしれず、どこへも逃げられないから言葉を記すしかないのだろう。だがなぜそんなことを思うのか。そんなことを思う必要がないとは思えず、そう思わなければやっていられないと感じるのはなぜなのか。やっていられなければやめたらいいだろう。それでもやめられないのはなぜなのだろうか。そんな記述が繰り返されている現状がそれをやめさせないわけか。それは本当だろうか。何が本当だと思っているのか。君は本当に現状を把握しているのだろうか。本当は何を把握しているわけでもなく、それはただの思い違いか勘違いなのかもしれない。だがそれでもそういう思い込みのままに努力するしかないようで、たぶんそれしかできないのではないか。それでは開き直り以外の何ものでもないか。ではそれをわかろうとしなければならないわけか。しかしそれは何のための探求なのか。ただ続けるために続けようとしているとしか思えず、本質的なところでそんな単純化に行き着いて、それが理由なら、別にそれほどまでに遠回りする必要はなく、もっと素直に紋切り型的な内容を繰り返せばいいはずなのだろうが、それができない理由は何なのか。できるはずがないからそんなことを考えているのだろうか。やってできないわけがないとは思えず、たぶんできないことをやろうとしているのだろうが、逆に簡単にできるようなことはやりたがらないのかもしれず、何やら不可能に挑戦しているように思い込みたいのだろうし、それが困難に打ち勝って何かを達成したいというありふれた思いからきているのだろう。それではだめか。だめならどうすればいいのだろうか。たぶんそれを繰り返せばいいのだ。いつまでも繰り返して、あきらめがつくまで繰り返せば、たとえうまくいかなくても、何か爽快な気分になれるか。まさかそんな気分を求めているわけでもないだろうが、そんなふうに語るとそう思われてきて、それでもかまわないような気になるのはなぜだろう。


9月29日

 何をやっているのだろうか。今が底だと思っていると、さらに落ち込んでしまう時が来るかもしれない。まさかそれで青ざめているわけでもないか。たぶん強がっているのだろう。そして何とも思っていないふうを装っているのか。そうだとしてもくだらぬ現状には違いない。君は相変わらず世の中を馬鹿にしている。うぬぼれが強いのか。大した能力もないのに、大変なことをやっている人たちを批判し、傍観者気取りで自分だけは安全地帯でぬくぬく生きていると思っている。そんなはずがないか。かなり苦労しているのだろう。思い通りにいかないことばかりでうんざりしているはずだ。それはそうだろうが、そんな気になる時は誰もがそうであり、そう思う時などいくらでもあるだろう。だがそれにしても馬鹿げていないか。何が馬鹿げているのかはっきりしないが、要するにただ漠然と馬鹿げているような気がするだけで、こんなことやっているうちに、老いて寿命がきて死んでしまうだけのような気がして、それだけではないのだろうが、何とかそうなるまでに成し遂げるつもりのことでもあれば、成し遂げられるように努力し続ければいいのかもしれず、要するに夢に向かって云々的なことやっていれば、暇つぶしとしての人生を歩めるのではないか。だからそういう言い回しが誰かをうんざりさせるらしい。これ以上くだらぬことを述べたくなければ、もう少し前向きにそういうたぐいの努力を評価すべきか。本当は何も馬鹿にしたくはない。またそんな嘘をついて、表面的に取り繕うつもりかも知れないが、すでに取り返しのつかない失態を犯しているだろう。何がそうなのかわからないが、しらばっくれる気はなく、ありのままの心の変遷を記述しているように装い、たぶんフィクションとしては、そんな気分でうまくまとめたつもりでいるらしいが、いったい何をまとめたのだろうか。自意識は何をまとめようとしているのでもなく、まとめるつもりもないようだ。何だもう嫌気がさしたのか。それほどのことではないだろう。まだ道半ばか。もう終わっているのではないか。

 別にそうであってもかまわない。ただのカフェイン中毒だが、関係ないだろう。少なくとも君の関係ではない。では誰の関係なのか。そういう話はしたくないだけか。面倒くさいようだ。善意なのか見せびらかしなのかわからない。だから面倒くさいと言っている。ではそれに関しては何も語れないではないか。語らない方がいいのかもしれない。では別のことを語るとしよう。君は誰と対話しているのか。架空の誰かではない。自問自答だけでもないはずで、そこに誰かがいるはずだ。フィクションの中での対話なら、架空の人物を登場させればいい。本当にそれをやるとも思えないが、何をやっているわけではなく、これからやるつもりもなく、ただじっと耐えているだけなのだろうか。そうだとしてもまだ余裕がありそうで、何がどうなっていようと、それ以上の何かを期待するわけにはいかず、何も出てこないのであり、何も出さずにそんなことを述べながら、さらにそこから先へ何かを記しているようだが、そんなことをいくらやっても無駄だろう。どうやら君の負けらしい。何に負けているのか知らないが、とりあえずは負けたことになっていて、そんな作り話の中では少なくとも負けている。そしてそこから何がどうなったわけでもなく、話になっていないようで、そんな話をどうするわけでもなく、何をどうしたいのでもなく、どうしようもなくそんなふうに語り、何らかのまとまりを得ようとしているのかもしれないが、それはただの空疎でしかないのではないか。そしてその空疎を糧として言葉の連なりを構築しようとして、そんなやり方にはまり、それしかできなくなってしまったのであり、君はそれ以上を求められなくなり、そればかり語ろうとして、本当にそれだけとなってしまったのであり、今やそんな空疎な言葉の連なりに何もかもを支配されているわけだ。そして君はどこかへと去ってゆくわけか。そんな都合良く話がまとまるわけがなく、相変わらず支離滅裂で、何を語っているのかよくわからないようだ。いったい何がそこで問題となっているのか。

 別にそこで何に耐える術を学んでいるわけでもなく、どこから何を得ようとしているのでもないようで、やっていることはもっぱらそんな語りを実践しているだけだ。それだけでしかないのか。時間的も空間的にも限界がある。心に余裕がなく、近視眼的になっているのだろうか。視野が狭いか。だがそんな目にまつわるたとえをいくら記しても、何を語っているのか定かにはならず、どこへも至らずにそんなことを語りながら、君はどこかで空疎なたとえ話の中に埋没してしまい、それそのものを語る機会を失い、それが何を意味するわけでもなく、何も意味しないような何かが記され、具体的な出来事とは無縁の何かを獲得しつつあるかのように、延々とそんな何かが記され、君は唖然としながらも、そんな結果を受け入れざるを得ず、黙ってそれを眺めるしかないようで、ため息をつきながらも、相変わらずそれ以上の内容を求めているわけだ。要するに無い物ねだりを繰り返し、そこへ至るやり方も思いつかないのにそれを夢想し、現実と理想の落差を埋めることができず、そこでうんざりしてしまうのだろうが、うんざりするだけでは何ももたらされず、やはり相変わらずの状況の中で、何がどうなっているとも思えないまま、それらの成り行きの中で何かを見失い、見失ったついでに、そこで見出される虚無を自らが取り込んでいるような幻想を抱き、本当にそうなっているわけでもないのに、やはりそんなこと語りたいようで、要するに何か得体の知れない事物に対峙しているような気分に浸りたいのかもしれず、それが幻影であることはわかりきっているのに、やはりそんな幻影について語りたいのだろうが、実際に語っているそれは、それ以上の何かを目指す上で必要不可欠のような気にさせる何かであり、それを文中から排除するわけにはいかないのだろう。だから同時に新たな可能性を模索しながらも苦しんでいて、そんな苦しみが文中に反映しているようで、重苦しい雰囲気が読み取られてしまうようで、敬遠されがちになっているようだ。君はそうやって最終的には何を見出そうとしているのか。たぶん何でもないわけがないだろう。


9月28日

 なぜそうなってしまうのかわからないが、あえてわからないと述べているだけで、本当は薄々気づいているのかもしれないが、何かの転機が近づいているようだ。そうなってほしいとも思っているのだろうが、本当にそうなるのだろうか。時が経てばわかることかもしれず、その時になったらそれに気づくだろう。気づかなければどうなるわけでもなく、今まで通りだと思っているのかもしれない。それでもかまわないか。何も語れない現状に変わりがない。君は本当にそう思っているのか。誰でもない君が何を思うはずもなく、言葉を記している誰かが君という言葉を記しているだけか。それはわかっていることだ。改めてそんなことを繰り返すまでもない。もうそこから外れて、他のどこかへ向かっているのだろう。だからそんな心境になっているのだろうか。たぶんそうだ。そして何も思いつかず、何も語れなくなり、君は途方に暮れてしまう。またそれか。何をどのように語ろうとも、結局はそうなってしまう。そう述べて何に逆らっているのでもない。ただそうではないような気がするだけか。何がそうなのかわからない。ちょっとまた意味不明気味になってきたようで、何について述べているのかはっきりしなくなった。何だかまた迷っているみたいだが、ふざけているのか。ふざけているわけではなく、迷っているのだろう。それはわかっている。わかっていながらふざけていると感じられるのはなぜだろう。何がどうあってもそうなってしまい、ただ眠いだけなのに眠れず、不快な気分で言葉を記して、記した内容が気に入らなくなり、さらに不快さが増してくるのは、言葉を記している当人がノイローゼか何かである証拠だろうか。しかしそれがおかしく思われ、笑ってしまうような気分であることも、何だか冗談のようになっている原因かもしれず、その辺でますますよくわからなくなってくるようで、たぶん頭の中で何かが狂っているのかもしれない。意図的にそうなのか、無意識のうちにはまってしまっているのか。

 よくわからないのかもしれず、あるいはわかっていても意地を張っていて、それを変えるわけにはいかないのかもしれない。だから何かの悪循環に陥っているようで、それが愉快な気分を引き出して、君を笑わせているのだろうか。そうであったとしても酷な話か。だが当人は何がそうなのかわからないのではないか。そして誰がそれをわからせようとしているのでもなく、わからないままでもかまわないような気になっていて、それ以上は問題点を追求するつもりがなく、後は成り行きまかせにそんなことばかり語り、そんな停滞状況の中にとどまろうとしているのかもしれず、それでいいなら文句を言う筋合いがなくなって、そのまま放置され続けるのだろうが、たぶんその辺であきらめてしまっているのかもしれない。どんなに努力してもそんなふうにしかならないのだろうか。そんな気がしてくるとやる気が失せ、もうどうなってもかまわないような気分で、さらに支離滅裂なことを述べてしまうのかもしれず、どうやらそれ以降は悪あがきにしかならないようで、そんな悪あがきの繰り返しによって、それらの文章が構成されていくしかないようで、そんなやり方ばかりだから自己嫌悪に陥ってしまうのだろうが、果たしてそこから光明を見出すことなどできるのだろうか。それもこれも君次第か。だから画面の前で笑っている場合ではないだろう。しかしこれが笑わずにいられようか。まったく何もかもが滑稽に思われ、もしかして気が狂っているのではないだろうか。そうだとしても、それもまた一興か。どうしても真に受けるわけにはいかないようで、本気になれないのはいつものことで、これまでの成り行きもそんなことの繰り返しでしかないのに、そこから新たな発見でも期待しているとしたら、愚かにもほどがあるだろうか。どう考えても改善の余地などありはしないのに、ひたすら努力していて、そんなのは無駄な努力だとあきらめているのに、それをやめられず、惰性か何かでそれを続けられるようになっているのかもしれないが、やはりそうではないようなやり方を模索しているつもりになっているのだ。

 それはまさに病的な傾向を示しているのだろうか。そうだとしても一方で愉快な気分でいられるのはおかしな具合だ。要するにそれでかまわないような気がしてきて、そのままでも生きていられることが、逆に自信に結びついたりして、自らがどんな境遇であっても、逆境をはねのけるのではなく、はねのけなくてもかまわないような気になっているのであり、その辺がおかしなところなのだろうが、まさかそんなところに思い違いがあり、何か世間の一般常識に逆らっているような気にさせ、そんなことを述べている自らが、この世界の中で何か特別な存在であるかのごとき勘違いを生じさせているのだろうか。たぶんそうではないのだろう。では誰もがおかしいのか。おかしいという意味が本来とは違う意味で用いられているのなら、たぶんそういうことだ。要するにおかしいことが当たり前で、おかしくなければ人ではないように思われるなら、それはそういうことになるだろう。しかしそんな認識でかまわないのだろうか。他の誰がそう思っているわけでもないのだろうから、君自身が何を思っていてもかまわないことは確かだが、そう思っていること自体が、気が狂っている証しとなるだろうか。そうだとしたら笑ってしまうか。別にそれを誰が問題視しているわけでもなく、何か重大な認識というわけでもないのだろうから、それはそういうことでしかないように思われ、思いたければ思っていてもかまわないようなことなのだろうが、何となく本気でそう思っているわけでもないような気がしてくるのはなぜなのか。やはり言葉を記していくうちに、そんな思い込みの内にフィクションが構成されていて、その中の架空の登場人物がそう思っているかのごとき案配になっているのかもしれない。しかしいったい何を述べて何を記している気でいるのか。そしてそれも冗談のたぐいとして、文章中で機能し始めているようにも思われ、どうしてもその辺の認識がおかしく思われ、やはり笑ってしまって、何を憂う気にもなれず、本気でそんなことを考える気にもなれず、そのままなし崩し的に日常の中へと溶け込んでいってしまうのだろう。


9月27日

 何をやりたがっているわけでもないのに、向こうからやってきて、事件が起こり、くだらぬ成り行きに巻き込まれ、うんざりしてしまうのか。それは当事者の勝手な言い分か。均衡が失われているようだ。くだらないと感じられるのは、どういう意味でそうなのか。そんなこだわりは捨ててしまえばいい。まったく損な役回りを一身に引き受けている。そんな話には無関係でありたいのか。だから一難去ってまた一難ということになり、そういうフィクションの中で活躍しているわけでもないが、何となく成り行きまかせでそんなことを述べている。どうせまた一日遅れとなってしまうのだろう。他にやらなければならないことがあるのだろうから、そうなって当然で、言葉を記している暇がなかっただけのことで、それがいいわけになるとも思えず、素直にそんな境遇を受け入れるとしよう。たぶんまたどこかで取り返す機会が巡ってくることを期待しながら、空疎な内容を連ねながら、そんなことを思っているようだ。そしてどうにかなってしまうのだろう。心境的には実際にそうなっているはずだ。相変わらず何も語らないつもりなのか。意識がそこから遠ざかり、言葉を記そうとしている誰かを戸惑わせ、たぶんそんなはずでなかったと思わせるのだろうが、それ以上の何を模索するわけでもなく、あくびが自然に出て、眠くなってきたことを悟り、そろそろ限界だと思うが、未だに何を投げかけているわけではなく、まともに語ろうとせず、君はどこまでもそんな感じで、語る気を失いかけている。それにしても夜は長い。それをどうしようというわけでもなく、ただ過ごしているだけで、それ以外に何ができるとも思えず、そんな心境の中にどこかあきらめの気持ちもあるのかもしれず、できないことはできず、やろうとしても叶わないような何かがあり、それにしても新幹線の自由席は蒸し暑く、とても快適とは言いがたいが、目的までの時間短縮ができるだけでもありがたがった方がいいのだろうか。君にはまだやらなければならないことがあるのではないか。だから先を急いでいるのだろう。

 そして途中で何を思うこともなく、音楽を聴きながら、車内の蒸し暑さを忘れようとして、長袖をまくり上げたりせず、もう少しで降りられることを期待しながら、ひたすら耐えているわけか。しかしこの時期の在来線は涼しい。新幹線の中でかいた汗もすぐに退き、冷たいガラス窓に寄りかかりながら一息つくが、そんなことを記している状況を後から思い出して、何となく笑ってしまうが、笑う理由がわからない。たぶん何とかしようとしているのだろう。それで何とかなっているかどうかは、読む者の見解が分かれるところでもなく、だめに決まっているのかもしれないが、それでもかまわないと思ってしまうのはいつもことか。だからそんなことを語っている場合ではないだろう。では何を語ればいいのかという話になってしまうが、たぶん何も思いつかない。たぶんそれは大したことではないのだ。驚くべきことではなく、感動を誘うような内容でもなく、要するに興味深いことは何も語られていない。語るつもりもないのだろう。そんなつまらないことを記しているときが楽しいのか。少なくとも愉快ではないだろうが、それで済ますことができるところが、心に余裕が生まれている証拠だろうか。そんなはずがない。否定しても無駄か。何を否定しているのかわからなくなり、逆にそんな心境を肯定したくなってしまうか。ではどんな心境なのか。それがわからなければ肯定しようがない。君は嘘をついているのだろうか。白々しいことを述べているのかもしれないが、やはりそれで済ましてしまう気でいるようだ。果たしてうまくいくだろうか。どうせうまくいかなくても、やはりうまくいないままで済ましてしまう気でいるのだろうか。だからどんな結果にも対応するつもりでいるらしいが、たとえ対応できなくても、やはりそれで済ましてしまうつもりなのだろうが、そんなやり方はごまかし以外の何ものでもないか。ごまかしであってもかまわないような気でいるらしく、そんなふうにして言葉を記している現状を、そのまま放置しながら、何かが立ち現れる時を待っているのだろうか。

 もうすぐで目的地だ。どんな目的があるのか知らないが、何となく心がうきうきしてくるか。たぶんフィクションの中ではそうだろうが、実際には何でもなく、やっとのことでここに着き、何の感慨もないことを確かめ、もしかしたらここは目的地とは違うのではないかと思う。達成感とは無縁であり、ここがここである理由もなく、どこであってもかまわないのに、たまたまここにいて、ここで暮らしているわけでもないのにここにとどまり、長居は無用かもしれないが、現実にここから離れようとしている。それはどういうことなのだろうか。話にもなっていないのに、話のつじつまが合わないようにも思われ、そんなことはおかまいなしにさらなる言葉を記して、内容の意味不明に拍車をかけ、何かをどうにかしたいのかもしれないが、それについてはっきりとしたことを語らず、それ以上の何が明らかになるわけでもなく、たぶん何も語れないのだろうが、面倒くさいのでその辺は受け流して、さらに言葉を記して、その次に出てくる何かをつかもうとするが、それが言葉とは限らない。言葉でなければ何なのか。それ以外では何も記せないか。別に記す必要はないだろう。何だかその場の雰囲気にのまれているような気がするが、そんな場違いなことを思っていてかまわないのか。思うぐらいならかまわないのではないか。行動を起こさなければどうということはない。だが何を思って、どんな行動に出るのをためらっているのかわからない。そんなことは記す必要のないのか。その場の雰囲気から自ずと浮き出てくるようなことなのかもしれないが、君が何を察して黙り続ける理由なども、後々わかってくるのだろうか。現時点では何ともいえないところだ。だいたい何を語るつもりでいたのか。そういう問いが何かをリセットしてしまい、ますますわけがわからなくなる原因となっているのだろうが、やはり言葉に詰まると、苦し紛れにそんな問いを発してしまい、何かの均衡を保とうとしてしまうのだろうが、それはくだらぬ自己防衛のたぐいで、より深いところまで踏み込んでしまうのが怖いのかもしれない。


9月26日

 またそんなことを語ろうとしている。息苦しいのは肺がんか何かが原因か。別に癌というわけでもないだろう。ただそんな気がしているだけで、冗談半分なのかもしれないが、夜には息苦しさが治まっている。いったいそれは何なのか。何でもないのかもしれないし、何かに関して何を心配しているのでもない。何もどうにもならないわけではなく、それは君自身が一番よくわかっていることか。何もわからないのにそれはないか。では何をわかろうとしているのか。君自身のすべてか。それは当人にもわからないことか。ならば誰が当人なのか。君ではない。だがそれでは語りようがないから、そこから先は何をどう述べたらいいのかわからない。またそれか。何がそれなんだろうか。そんなことは知らない。誰が知らないのか。君が知らないわけではなく、誰かが知っているわけでもない。君は何を求めているのだろうか。この世がどうなってほしいのか。そんな大それたことではなく、ただ何かを思い出そうとしているのだ。君はそれが叶ってほしいと思っている。何のことやらさっぱりわからず、意味不明に拍車をかけているみたいだが、それでも言葉を記している現状に変わりなく、誰かが自らの信念を貫き通そうとしているのだろうか。それはどういうことなのか。君がそれについて何を思っているわけではなく、何について語っているわけでもない。ではそれらの話の中身は何なのか。空疎そのものか。そうであってもかまわないと思っているのだろうか。たぶん何かに耐えているのだろう。そして耐え続けた先に光明を見出したいのか。そんなうまくいくはずがなく、いくら機転を利かせても、たぶん現状は現状のままだ。君の周りのすべてが君をあきらめさせようとしている。そんな状況でも君が必死に努力しているつもりなのか。現状を改善するために何をやろうとしているのだろうか。今実際にやっていることがそれに結びつくとは思えない。ではどうすればいいのだろうか。だからあきらめるべきなのか。

 いくら意地を張ったところで先は見えている。しかしなぜそうなってしまうのか。君はそんな状況から何を学び取ろうとしているのか。君は君自身を裏切るように振る舞おうとしている。それが正解なのだ。たぶんそうやって迫りくる何かをかわそうとしているのだろう。だがそれに成功しているとは思えない。うまくいっていないからそうなってしまうのであり、うまくいく可能性がないからあきらめようとしているのか。どうせまたあきらめたふりをするつもりなのか。そうだとしてもそれで何とかしようとしているはずで、それはまだあきらめていない証拠となっているのだろうか。君に結果がもたらされるわけがない。そうならないからこそ、そこにすべてがあり、すべてとはこの世界のことか。どの世界でもなく、今ここにあるすべてがそうなのか。わかりきったことを改めて尋ねるわけにはいかないか。ならばどう尋ねたらいいのか。知るはずのないことを知っているとも思えず、知っていることはすべてここにある。そのすべてがこれらで、これらとはこの世界のことか。そう思いたければ思うがいい。そう思うなら、思っている君は間違っている。その認識の何が間違っているのだろうか。何となく間違っているように思われるだけか。しかし君はどこで躓いているのだろうか。答えに窮している現状を変えられないのはなぜなのか。嘘をついているからそうなのだろうか。それだけではないと思う。それが思っていることのすべてではない。ならばすべてとは何なのか。それとこれとは無関係なのだろう。無関係だからこそを関係を夢想してしまい、オカルト的な力の存在を信じようとしてしまう。魔力の源泉がそこにあり、そんな神秘主義的な思考に屈してしまう弱さがさらけ出されている。ではもっと先に進みたければ、それを捨て去らねばならないのだろうか。どうやったら捨て去ることができ、そこから抜け出せるのだろうか。あるいは無理に抜け出す必要はなく、それと戯れながらそれに染まってしまい、そんなことばかり考えていればいいのか。そうならそうでかまわない。

 そういうことになり、そうなってしまい、そこから先へは進めず、そんな思考の持ち主として定まり、要するに人格が固まってしまうわけか。それならそれでかまわないだろうか。実際にどうなのか。あきらめかけているのに、なぜか言葉を記し続け、そのままやり遂げようとしているみたいだが、何となくまた息苦しくなってきたようで、何かがおかしいと感じ始め、何やら心配になってくるが、どうすることもできないようで、そんな成り行きに、まだ知り得ない運命のようなものを想像してしまうが、現実にはどうなってしまうのか。そこで君は生き残る術を身につけられるだろうか。たぶんそんな話ではない。何とかしなければならないのはそういうことではなく、それ以上の何が示されているわけでもなく、それらの成り行きは変えられず、どうあがいても、それを免れることはできず、それを受け入れざるを得ないのだ。だからそんなに思い悩んでいるのだろうか。どうしていいのかわからず、途方に暮れる余裕も与えられず、ただ呆然とするのみで、呆れてものもいえないどころか、黙って事態の推移を眺めているしかなく、むろん何もやっていないわけではないが、やっていることのことごとくが裏目に出て、やればやるほどどこかの瀬戸際に追いつめられてゆき、そんな体験はまたとない機会なのだろうが、思う存分味わい、それらのくだらない成り行きから何かを導きだして、それを糧として、何らかの結果をもたらそうとしているようで、たぶんそういう意味で君はうまくやっているのだろう。そうやって他人をくだらぬ境遇の中に閉じ込めているのか。それにかかりきりにさせ、愚かな者をさらに愚かにしているのかもしれず、罪悪感すら漂っているようだが、それが君の狙いなのか。誰の狙いでもなく、どういうわけかそんな巡り合わせなのであり、何かの偶然が組み合わさって、そうなってしまったのだろうか。そうだとしても不愉快すぎるか。だがとりあえずはそんな現実を受け止めなければならないし、実際に受け止めているはずだ。だからそれがそこでのすべてなのだ。


9月25日

 何もやることがないわけではない。昼は仕事をしていたではないか。その選択は正しかったのだろうか。もっと前向きに捉えなければならないだろう。状況の変化に対応しなければならない。君は何を見ているのか。また漠然とした思いにとらわれる。いったいこれから何をやったらいいのだろうか。たぶんやるべきことははっきりしていて、要するに言葉を記して文章を構成すればいいのだ。それ以外に何があるというのか。そうではないと思う。面倒だからそれをやらないだけか。今はそうかもしれないが、ではいつやるのかを尋ねられれば、気が向いた時としか答えられないか。また嘘をついている。それをやるには自らを制御しなければならない。気の向くままではやることができないのか。だから冗談だと述べているだろう。そうやってそんな精神状態から離れようとしているわけだ。どうやら日頃から充電しておかないと、いざ使う時になった時に使えないようだ。君はそれについてどう思っているのか。もっと意味的に首尾一貫したことを述べなければならないのではないか。それはそうだが、なぜそんなことを語らなければならないのか。しかしこの期に及んでなぜ語る理由を求めるのか。理由を探そうとしていないから、支離滅裂でまとまりの欠けた言説となり、読む者と記す者を戸惑わせているのではないか。では何を読み、何を記しているのか。そういうわけのわからない問いに答えるつもりはなさそうで、心ここにあらずなのだから、知ったことではないのかもしれない。そして精神の集中を欠き、散漫な気持ちで言葉を記し、ただ漠然とそんなことを思っているだけか。それで何を成し遂げられるのか。そう述べて誰かは何を馬鹿にしようとしているのか。そういうことではないはずか。まったく本心が明かされず、どんな思惑でそんなことを述べているのかも分からず、もしかしたらそんなことを述べていること自体が虚構かもしれず、そんな嘘をつきながらも、そういうことを語り、何を語っているのかも明かされぬまま、誰かはそんなことを記しているらしい。いったいそれはどういうことなのか。

 どうやらそこで何かが暴走しているみたいで、それも嘘かもしれないが、そんなことを記してみたくなり、そこから何がどうつながるのかに興味があるようなふりをしながら、相変わらずわけがわからないように装い、それで何かを裏切っているような気になり、たぶん長く言葉を記しすぎているのだろうが、そんなことをやればやるほど文章の中身が空疎になることも承知していて、その辺で何かの手綱を緩めなければならないのだろうが、別に乗馬しているわけでもないので、くだらぬことを述べていると思いながらも、どういうわけかそれをやめる気配が感じられず、そんなことをやる必要もないのかもしれず、何もやる必要性を感じられないまま、ただ言葉を記して、それで自己満足に浸っているつもりになっているようだが、それが何かの自業自得気味に作用して、君を自滅に導いているのだろうか。そうだとしたら愉快なことかもしれないが、誰がそう思っているわけでもなく、たぶん強がり痩せ我慢のたぐいかもしれず、自らの内にこもっている空疎を誇らしげに見せびらかそうとしているわけでもないが、それと似たような印象を受け、何やら危なげでもろそうな心を外界に晒しているような気になり、そこから急に引きこもろうとするが、すでに遅すぎたようで、だいぶ前から自己崩壊が始まっているようだ。できればそうであってほしいか。そうでなければあの時のざまあみろが効果を発揮しないか。何がそうなのか覚えていないようだが、誰がそれを覚えているわけがなく、たぶん空想上のフィクションの中で誰かがこの世界に向かって叫んだ台詞かもしれない。しかしなぜそんな回りくどい設定にしないと叫んだことにならないのか。本当は何も叫んではおらず、誰も何も存在せず、すべてが無に帰した時になって初めて、そんな台詞を叫ぶことができるのではないか。だからそんなことはあり得ず、いくら天に向かってざまあみろと叫んだところで、自分の境遇に返ってくるだけか。ならばそれがこだまのたぐいか。そうだと思うなら、君は何を返したらいいのだろうか。返す言葉がどこにも見当たらないか。

 そんなわけでまた何かが暗躍しているらしく、誰かが誰かを陰で誹謗中傷しているらしいが、そんなことはいっさい気にせず、すべてが虚構の世界であるように振る舞い、自らの内にくすぶっている復讐心を隠蔽しつつ、わざとらしく冗談を口にして、それに対する返答を無視しながら、君が君であるために必要な影をまとい、そこからどれほど遠くに離れられるかを他の誰と競うわけでもなく、ただ自らの内に課している何かに従う素振りを見せ、それが何かのルールとして顕在化するのを阻んで、そんなことを語っているうちに、その先に記すべき言葉を見失い、そうではないような状況を夢想して、自らの想像力の貧困さを憂い、それを補う形で記された内容が何かを示していることに気づき、それを受け止めるべくその場に向かい、たどり着いた場所がここか。そんなことはあり得ない。何かを語ってもまだその途中の段階で、どこにもたどり着かずに、途中の迷路で右往左往している最中で、なかなか出口を見出せずに焦っているところか。そうだとしてもすぐそこまで何かが迫っているのではないか。それは君としての人生の終わりか何かか。そんなはずがないと思いつつも、本当に終わってしまった時のことを考えるとぞっとしてしまうか。そうなってもかまわないようにするために今があるのだ。それは本当だろうか。現実に何がどうなっているとも思えず、何にうろたえているわけでもないのだろうが、何事もなし得ないまま終わってしまうのは、悔やんでも悔やみきれないほど悔しいことか。誰かがまるで冗談みたいにそんなことを記しながらも、一向に動じる気配も見せずに、かまわず続けて言葉を記して、でたらめをよりいっそう錯綜させ、虚無として現実にからませようとしているのが見え見えで、その辺のわざとらしさに辟易するが、それでもそれが誰かの個性の表れだとあきらめて、それに対して架空の君が突っ込みを入れる隙も与えず、さらに何かをおかしくさせようとしているみたいだが、もうその辺でいいのではないか。気がつけば何もかもがお開きの時間帯か。だがそれでかまわないのだろうか。まだ何か言い残したことでもあるのか。それが遺言とならないことを祈りつつ、その辺で一応の区切りを付けて、ここはいったん終わることとしよう。


9月24日

 やる気をなくしてしまったのか。今日はそういう日だ。どういう日でもない。なぜそういう成り行きになってしまうのだろうか。追い込まれないとやる気がしない。そんな当たり前のことが現実となり、今はやる気にならないらしい。それはどういうことなのか。なぜ気が退けてしまうのか。何が気になっているわけではない。たぶん何でもないのだ。いつものことか。それでは以前と同じではないか。何を語っているのでもない。どうやらちゃんとしたことを述べられないようだ。空疎なことを語りすぎているのか。何事もやってみなければわからない。しかし調子が狂ってしまう。そんなふうに語られていること自体がおかしいのか。誰かが死ぬ一年前に釣りをする光景が映し出され、それがなぜかみすぼらしく見えてしまう。その釣りをしながら語っている言葉を、どんなにナレーションや関係者が賞賛しようと、何となく空疎に思われる。その時から今までに過ぎ去った歳月が、誰かを過去の遺物のように仕立て上げてしまったのか。きっとそうに違いなく、それがどうということはない釣り道楽でしかないのに、なぜかそれを周りの関係者が無理矢理文学に結びつけようとしているだけみたいに感じられ、偉大な文学者というレッテルを貼り、それでもはや忘れ去られつつある者を、何とか文学の歴史という虚構の中に、その居場所を確保させようとしているわけか。そうだとしてもそれが成功するとは到底思えず、著名な誰かが道楽で釣りをするテレビ番組や、その時の体験を文章と写真で再構成して出版したりすることが、何らかの価値を持っていた時代があったということでしかなく、今では無名の誰かが、当時と比べて内容の質が圧倒的に落ちるかもしれないが、とりあえず同じようなことをどこかのブログでやっているのかもしれず、そんなブログを検索して覗いてみる気も起こらないだろうが、どうせ何やら大物を釣り上げた時の感動がこれ見よがしに語られているのだろうし、釣りに関するうんちくなども、釣り仲間の間で通用する程度には事細かに記されているのではないか。いったいそれとこれとの間でどのような差異が生じているのだろうか。要するにプロとアマチュアの違いか。

 だがアマチュア側の誰かが、そんなことを述べていてかまわないのだろうか。それで何を馬鹿にしていることになるのか。ただそういうことを語っているだけで、何となくそういう光景を目にして、それに関して思うところを記しているだけではないのか。要するにこれもどうということはない語りのたぐいか。何をやる気にならないのではなく、そんなことしか語る気にならない状況があり、それを感動的な何かに押し上げられずにいるようで、低レベルのままにとどまり、そこであきらめて眠ってしまうのだろうか。そうならないように努力したらどうか。君がそうなることを知っていたとは思えない。ではなぜそこに先回りしていたのだろうか。誰に出くわしたわけではなく、苦し紛れにそんなことを語りながら、できないことをやろうとしている。語る必要がないのにあえて語り、眠気に打ち勝てないのに、それをやり遂げようとしてテロメアを縮め、無駄に何かを浪費しているわけか。正気ではないのかもしれず、何がそういうわけでもないのに、何とかそこから努力して、それらの何かを続け、たぶんそうではないのに、ブレーキがかからず、何かが暗闇のどこかへ突っ込んでいってしまうのか。後から悔やんでも遅いか。ならば後悔しないように、今ここで努力すべきだ。それはわかりきったことではないか。しかし何に挑んでいるのかわからない。ビンラディンはアメリカに挑み、いくつかのテロを成功させ、反撃を受け、追跡され、やがて潜伏先で殺された。彼とは無関係の部外者にとってはリアリティのない話だ。なぜそうなってしまうのか。ではリアリティのある話とは何なのか。例えば日米首脳会談で、相変わらずのことをアメリカの大統領に申し上げている野田総理は不快か。なぜ日本は未だにアメリカに追従していなければならないのか。中国やロシアや北朝鮮が脅威だからか。またアメリカで行われているアメフトや野球やゴルフを見ながら、あるいはハリウッド映画を見ながら、さらにジャズを聴きながら、かの地で機能している何か大掛かりな国家装置を想像できるだろうか。世界にとってアメリカは必要不可欠な国家なのだろうか。あるいは邪魔で目障りな存在なのか。少なくとも在日米軍はそうだ。


9月23日

 やはりここからが問題なのか。できるはずがない。そう思っているのだから、実際にできないのだろう。それでも言葉を記しているではないか。何かの偶然か、たまたまなのかわからないが、とりあえず言葉を記しているようで、それが何につながるのか知らないが、それでも言葉を記していることは確からしく、誰かはできないことをやろうとしているらしい。それも冗談の一部には違いないが、ともかくそこから遠ざかろうとして、こうして言葉を連ねて、何かを語ろうとしているらしく、実際に語っているつもりなのだろうが、いったい何を語っているのか。つまらないことだ。そして大したことではない。それだけのことだろう。たぶんそういうことだ。それだけでは不満なのか。それは当然で、できればおもしろそうなことを語りたいか。贅沢な望みだ。他に何もないのだから、つまらなくてもかまわないではないか。たぶんそうだ。だからこうしてつまらそうなことを語っている。また嘘をついているわけか。そう思いたければそれでもかまわないが、本心からそう述べているのかもしれず、たぶんそれで正解なのだろう。ではそれで終わりなのか。何がおしまいなのか。そうではないと思いたいのか。実際にそうではない。何もないところからそう思いたいのだ。君がやろうとしていることは、何かの目論見から外れている。反抗したいのだろうか。思いとは逆の結果を導きたいのか。そんなはずがなく、思い通りに言葉を記して、そこで何か適当なことを語っているように見せかけ、それで自己満足に浸りたいはずだ。きっとそれも嘘の類だろう。誰かの心は記されたでたらめの中に埋もれてしまい、それらの中の何が本心なのか判別できずにいるらしい。別に本心から語らなくてもかまわないが、他に気に入らないことは山ほどありそうで、たぶんその中の一つが先ほどの嘘で、そこに何か目論見があるように見せかけていること自体が嘘なのではないか。いったい君は何を企んでいるのか。転んだ拍子に地べたへ打ちつけた膝が腫れ上がったままだ。痛みは退いているが、どうもおかしな感覚が治らないようで、かなり重症なのかもしれない。だがそれがどうかしているとも思えず、やがて明らかになることもないだろう。

 根性が曲がったまま、ひねくれきっているようで、何がそうなのか定かでないが、何とかしなければならないらしく、君はそこからどこまでも遠ざかろうとしている。人々は実際の感触を求めているようだ。だからそれでは満足しないのだろう。ここからどうなるかなんて知ったことではないのかもしれない。しかしなぜそこから逃げようとしているのか。何かヤバい雰囲気でも感じ取っているのだろうか。でもそれで何もかも失ってしまったらどうするつもりなのか。だからそんなことは君の知ったことではないのか。くだらぬ人たちが震災症候群にかかり、大げさなことを主張しているらしいが、なぜそれがくだらぬことだと確信してしまうのか。くだらぬ人たちなどではなく、真摯な人たちなのではないか。十年前の同時多発テロで被害妄想症候群にかかった人たちに関しても、同じことがいえるだろうか。何だかそれは違うような気がして、何はともあれとりあえずは国家の側に組するのは避けたいところで、その存在は認めつつも、そういう制度に絡めとられている現実も受け入れつつも、国家権力によって人々を救うことなどできない事実を理解すべきか。救われないからこそ、人々はその存在がくだらぬ幻想によって支えられていることをわかるべきだ。批判することなどいくらでも可能なことが行われている現実を十分ふまえながらも、そこから先で何を考えるべきなのか。現状を追認するだけではなく、現状において大したことが行われているわけではないことを理解すべきで、それはこれからもそうであり、そこから利益を得ようとしても、それが大した行為ではないこともわかりきっているはずだ。できることは限られていて、しかもそれは浅はかな憶測や偏見によってゆがめられ、たぶん何でもないようなことが、あたかも危機的状況だと認識され、狼少年の警鐘を真に受けている人が多すぎないか。しかしなぜ君はそうではないような気がしてしまうのか。そしてどこまでもそこから遠ざかろうとしてしまうのか。それはかなり馬鹿げたことのように感じられ、そんな光景が滑稽に見えてしまうのはなぜだろうか。

 しかし実質的に何を述べているのだろうか。まだそこまで達していないのかもしれず、本質的なことは何も語っていないのかもしれない、それでかまわないのか。そんなふうにしか語れない。だからかまわないとは思えないが、今はそんなところか。そんな段階で何を述べても、何も心に響かない。そしてそれは冗談なのかもしれない。だがでたらめなことを述べて何をごまかそうとしているのか。語り得ないことを語ろうとしている。それで狙っているものを手に入れるつもりらしい。まったくわけがわからないか。それによって何がそうなってしまうのだろう。別にそうならなくてもいい。何がどうなってもかまわないが、何もどうならなくてもかまわない。別にそうならないように努力しているつもりはなく、なったらなったで、対処できる範囲内で対処すればいいだけのことでしかなく、誰がそれをまかされているわけではなく、他の誰が何をやろうとしているわけでもなく、たぶん誰もがくだらぬこだわりを捨てきれないのであり、それを失いたくないから、いつまでもそこにとどまろうとして、無駄な労力を費やし、何とか自らの立場を守ろうとして、どんどん老いていってしまうわけだ。君はそれにどこまで耐えられるのか。耐えなくてもかまわないのに耐え続けようとして、それらの悲惨な境遇を全うしようとしている。別にそれが悲惨だなんて夢にも思わないだろうが、端から見ればそういうことであり、そう思わないからこそ、そんな場所にしがみつき、それに成功している気になって、それを何十年もやり続けている自らを誇ってみせたりしている。そしてこの世界の至る所にそういう人がいて、いわゆる保守層を構成して、自由を求める人たちを窒息死に追いやろうとしているわけだ。それが気に入らないわけか。だから何だというのだろう。そこにはそうしなければならない必然性があり、あると思っているのだからてこでも動かず、ますます周囲の人たちを疲れさせ、それに巻き込まれた人々をうんざりさせているわけか。たぶんそれでかまわないのだ。それが意地の張り合いを招こうと、あるいは消耗戦を繰り広げていようと、そういうゲームなのだから仕方ないのではないか。


9月22日

 またこんな状況になる。ここからがうまくいかないわけか。そうであったとしてもかまわないだろう。他に気に入らないことはいくらでもありそうだ。確か前にもそんなことを述べていた。そして何かがおかしくなり、何だか知らないが、息苦しさのうちに、何となくそれをやめてしまうわけか。そんなわけでまた誰かがフィクションの中で死にそうになっているのだろうか。そうだとしても君には関係のないことか。いつもそうであり、君はそこで何かを語ろうとしているだろうが、それが誰かが死にそうになっている話でないことは確からしく、それとは無関係なのに、なぜかそんなことを述べてしまい、意味不明気味に焦燥感を募らせ、そんなはずがないと思うしかない。しかし本当にそれとはまったく関係がないといえるのか。もとからそんな話なのだから、仕方がないといえば仕方がないようで、そして相変わらず話の中で誰かが死にかかっていて、それに関して君は何とも思わず、何とも思わないように装いながら、さっさとそこから退散してしまうのか。それでは話にならないではないか。たぶんそれでかまわないと思っているのだろうが、君には別の何かが見えていて、先回りしてどこかへ至れば、そこから話がつながって、君に関する話も誰かに関する話も、同じ一つの話として語られる時が来るかも知れず、その時のために今から伏線を張っているわけなのか。ならばそこで何がどうなってしまうのか。その時になったら、君と誰かが同一人物と見なされたりするわけか。別にそうであってもかまわないのではないか。それで君がどうなるわけでもなく、誰かがどうなることもなく、相変わらずそんな話が続いてゆくだけで、君も誰かも他の誰でもなく、そんな話の中で君と呼ばれたり、別の場面では誰かと呼ばれたりしているだけで、何の実体も特定の固有名も伴わず、そんなふうに語られながら、誰かのあくびとともに記され、次いで読まれ、後は忘れ去られるだけか。そうであっても何ら不都合はないのだろう。誰が嫌な思いをするわけでもなく、君が忘れ去られてしまうことを残念がっているわけでもない。

 しかし相変わらずまったく話になっていないのではないか。いったいそこで誰が何をやっているのか。胸の息苦しさは解消されたみたいだが、原因は何だったのか。別に酸素不足だったわけではない。ではなぜそうなってしまうのか。たまたまか。それならそれでいい。それほど執拗に理由を探っているわけではないし、原因が何であろうと、深刻な状態なら、手遅れになった頃にでもわかるだろうから、その時になって後悔すればいいだけか。なぜもっと早く病院で検査なり何なりをやらなかったのか。そういう話ならいくらでもありそうで、後はありふれた病魔との格闘場面が語られ、病を克服したらその時の感動秘話でも明かされ、克服できずに亡くなってしまったら、残された家族への遺言に涙してしまうわけか。それではふざけていることになるか。どうもそういうことを語ってしまうところが他人を不快にさせ、ふざけていると思われてしまう原因となっているのだろうか。なりほど息苦しさの原因がこんなところにあったとは、まったく意外で、当初のもくろみからは想定外だったかもしれないが、そんな大げさなことでもないだろうし、何がもくろみであるはずもなく、いつものように行き当たりばったりででたらめなことを述べているだけかもしれないが、日付上の明日はおかしな天候だ。晴れたと思ったら雨がぱらつき、急に蒸し暑くなったと思ったら心地よい風が吹き、夕日に照らされて虹が一瞬見えたりして、誰かの支離滅裂に呼応しているみたいで、何となく愉快な気分で、それほどストレスを感じているふうもなく、ただ淡々とその日一日を過ごしているようで、昼の息苦しさとは無縁そうに思われるのだが、それが何かの小康状態で、ある時期を境として、急激に何かが悪化して、やはり手遅れとなってから気づいて、その後はありふれた経過を辿って、誰かはどこか遠くへと旅立ち、君もいよいよ誰とも関係のない言葉になり、何を惑わすこともなくなり、至って自然な文章の中に記されることになるのだろうか。そうなったらしめたものかもしれないが、誰がそう思っているかは不明のままだ。

 とりあえずそんなでたらめが記され、それとは無関係に、何十年も前に有名な作家兼釣り人が、テレビの中で得意げに大魚を釣り上げ、それを同行した料理人が調理して、食べた当人はじきに食道がんが発覚したみたいで、ほどなくして亡くなったようだが、その名前をネットで検索して調べると、彼が亡くなってから数年後に、その長女が鉄道で自殺したらしく、なるほどそこからどこかの伝記ライターが興味を持ちそうな物語を想像してしまうが、やはりそれはそういうことでしかないのだろうか。たぶんワイドショー的興味とはそういうところから生じるのかもしれず、人は何やら有名人の生き様とかを、そういう情報をもとにして組み立て、そこに感動的な何かを味付けしたりして、ドラマ仕立てで楽しみの対象とかにするのだろうか。君がそこで何を馬鹿にしたいわけではないだろうが、現代のメディア的有り様をそんなふうにして語ってゆくと、何だか嫌な感じが醸し出されてしまうみたいで、それが誰かを不快にさせる原因となっているかもしれず、なるほどそんなところに誰かを息苦しくしている原因があったとは、語り始めた頃は思いもしなかったことかもしれないが、また冗談でそんなふうに述べてしまうところが、さらなる嫌悪感を増幅させ、誰かをうんざりさせているのかもしれず、そろそろそういうやり方とは決別しなければとは思うが、本気でそう思っているわけでもないようで、言葉を記していくうちに、成り行きまかせで思わずそんなことを述べているだけで、同時にまったく懲りていないようにも思われ、後は何のことやらわからなくしている感じで、そのまま終わりまで突っ走って、それで何かをごまかしたつもりになりたいようだが、そんなもくろみが果たして通用するのかしないのか、言葉を記している当人にはまったくわからず、わからないふりをしているだけかもしれないが、とりあえずそれで何を述べているとも思えないので、そんなやり方がまかり通ってしまう現状をどう思ってみても、それは後の祭りで、すでに記された言葉を連なりを後から修正する気にはなれないようだが、まだその先があるような気がするので、いったんは矛を収め、それでお開きにしようと思っているらしい。


9月21日

 どうやらそんなことを語っているらしいが、その続きがあるとは思えない。何を続けようとしているのでもないような気がしている。それでかまわないのだろう。蛍光灯がまぶしいのか。だがそこから何かを語らなければ昨日のままだ。たまにそんなことを述べてみるが、まったく本気になれず、それをまともに受け止める気にならない。そこまで行ったのだから、その先まで行ってみればいいのか。そこは神社の境内か何かか。闇が支配しているのは時間帯が夜である証拠か。なぜそうやってわかりきったことを語ろうとするのか。いったいそれの何がヤバいのか。別に停電しているわけではない。地震が起こっている。あくびとともにそんな出来事に遭遇して、何とも思わずに明かりを消し、眠ってしまうのだろうか。大して揺れなかったのだから、どうということはないのだろう。たぶんそれは昨日の出来事に違いない。しかし翌日の時間帯に何を記しているのだろうか。どうも昼はやる気がでない。別にそれでもかまわないのだろう。何かが過ぎ去り、また一雨きて、だいぶ涼しくなったではないか。そんなふうにしてまた時が流れ、何もやらないうちに季節が移り変わり、どんどん歳月が経過してしまう。そして最終的にはどうなるのか。終わりがないからどうにもならないか。たぶん昨晩は何かを語りかけていたのだろう。中途半端なまま眠ってしまい、その続きを記せなくなってしまったのか。君はそこから遠ざかるはずではなかったか。その意味がわからないが、前後に何らかの説明を挿入すれば、何かの物語となるのだろうか。そうしようとすると必ず邪魔が入り、断片の寄せ集めのようになって、何について語っているのかわからなくなってしまうか。そんなはずがないと思いたいところだが、どうしても何かから遠ざかろうとしているだけで、その何かが思いつかず、それが適当な何かであってほしいのだが、なぜ遠ざからなければならないのもわからず、すぐにそう記してしまう理由もわからない。もしかして冗談で述べていることなのだろうか。あるいは単なる意味不明を装っているわけか。

 そういう語り方自体がおかしいか。いったい何について語ろうとしているのか。やはりそういう問いを発してしまうのが弱点なのかもしれないが、弱点とは何だろう。何か克服しなければならないことでもあるのか。しかしゲームとは何か。唐突にそれはない。暇つぶしが人生のすべてなら、年がら年中ゲームをやっていればいい。暇つぶしでない人生などありはせず、ゲームを楽しむのに一生を費やしていられたら、それはそれで幸せだ。しかしそんな簡単に答えに行き着いてしまってかまわないのか。答えとは何だろう。答えた通りに生きなければならないのか。それもまたおかしいような気がするが、将棋とか囲碁とかの棋士なら、そんな答えでかまわないのか。しかし彼らは暇つぶしでやっているわけではないだろう。例えばサラリーマンが電車の中で暇つぶしの携帯ゲームをやっているのとは質が違うか。ではゲームとは何なのか。そういう問いを唐突に発する話の脈絡ではないだろう。まるで取ってつけたように、強引に脈絡を無視しながら話を進めているつもりかもしれないが、どうもその辺が解せないが、誰かは暇つぶしでそんなことを記しているのか。何を語っているとも思えない。話のつじつまが合っていないのはもちろんのこと、何を語りたいのかがわからないのは致命的な欠陥か。なるほど弱点の次には欠陥が出てきて、何やら少しずつそれらの問題点があぶり出されてきたのかもしれず、要するに克服すべきは、それらの弱点や欠陥なのだろうか。それを改めればまともな文章となるだろうか。別に文章のまともさを目指しているわけでもなく、何かを語っている状況を作り出したいのでもないはずで、要するにそれらが暇つぶし以前の何かを得るためには何をすべきかということか。またわけのわからぬでたらめを語ろうとしているようで、その場の思いつきでそんなことを述べてはみたものの、どうしたらそうなるのか皆目見当がつかず、そんなすぐにも打ち捨てられるべき結論など掃いて捨てるほど記してきたのかもしれず、また何かの冗談でそんなことを述べているだけなのだろう。そしてどうせまたそれでかまわないと思いたいのだ。要ずるに改められるべきはそうした安易な思い込みか。

 ところでこれからどうしようというのか。言葉を記すに決まっているだろう。そしてつまらぬ思いにとらわれ、どうにもならずに、何かをあきらめて眠ってしまい、目が覚めたら明日になってしまうわけか。君は何を信じ込もうとしているのか。そんなはずがない。では何を否定しようとしているのか。だから誰かがそんなはずがないと記している。たぶんアホくさいのであり、馬鹿げているのはいつものことのようだが、それ以外に何があるというのか。何もありはしないと答えなければならない義務でもあるわけか。そう思うならその通りにすればいい。心ここにあらずなのか。ではどこにあるのだろうか。そんなことを語るべきではないと思っている。誰かがそう思っていることにしておこう。かつて誰かがどこかで人生を縮めていたらしい。しかし酒と煙草で縮むのか。どうせ癌にでもなってさっさと死ぬパターンなのだろう。睡眠不足というのもあり得る話か。中には長生きする人もいるのだろうが、生きることに意味を見出せないのだろうか。しかし生きる意味を見つけることが生きることにつながるとは思えない。要するに意味や意義を見出せなくても生きていけるし、そんなことを信じ込もうとする人間はつまらぬ人生を送るのではないか。もちろんそれでもかまわないのだろうが、別におもしろおかしく健康に気遣いながら生きようとしても、短命に終わることだってありうるし、短かったり長かったりすることが意味を持たない場合もあり得る。そんなわけでことさらに意味を取り去ることもないだろうし、意味を見出せないことに苛立つ必要もないが、そんなどうでもいいことを述べていること自体が無意味だったりするわけで、それで何かを実践しているつもりになれないのはもちろんのこと、つまらぬことに幻想を抱くのも、どこか違うような気がして、これから何をどうやろうとも、どんなことを語るつもりになっていようと、それで何がわかるわけでもないような気がして、そうすることによって何を理解したいわけでもないような気がしているはずだ。そんなことを述べているうちにゲームオーバーなのか。


9月20日

 誰も何も見ていないようだ。君は盲目なのか。誰かが暗闇に向かって何かを問いかけ、それに呼応して暗闇がでたらめなことを述べているわけがない。だがフィクションの中だから仕方がないだろう。いったい何がどうなっているのか。現実の世界で何か思っているらしい。本当は何も思っていないと述べたいところだが、たぶんそうではないのだろう。翌日は台風が近づいているようで、時折横殴りの雨で、心がうきうきしてくるか。それは嘘かもしれない。なぜかそんな心境を想像してしまい、本当にそんな気がしてくるのだろうが、大きなホテルのような建物の中をさまよっている夢を覚えているのはなぜなのか。たぶんそれとこれとは関係ないか。君は断崖絶壁の上から何を眺めていたのか。エレベーターで昇ってゆくと、途中の階で他の人たちも乗り込んできて、混んでくるが、目的の階に止まった時は誰も降りずに、視線がそれを外から眺めているような気がして、何か違和感を覚えながら、部屋に戻ると、いつものメンバーがたむろしているはずなのに、その中の誰とも面識がないのはどういうわけなのか。過去に出会ったことがあっただろうか。君は何を覚えていないのか。大事なこととは思えず、そこでにこやかに談笑しているようで、誰かに向かって何かしゃべっているらしいが、聞き覚えのない声だ。混み合う通路をやっとの思いで抜け出て、ここにたどり着いたのに、どういうわけかそれらの会話に入り込めずにいるらしく、何を話していいのかわからないまま、目が覚めてしまったらしいが、これまでに経験した記憶がごっちゃになって混じり合い、何が何だかわからない夢を見たらしく、それがどうしたわけでもないのだろうが、冷えた朝は妙に眠く、膝が痛み、なかなか起き上がれず、それでもやっとのことで起き上がったら、外では雨が降っていて、傘をさしながらバス停まで向かい、バスに乗り込んで駅へ向かい、駅で電車に乗り換え、そこから先の記憶も定かでないか。そんなはずがないだろうが、途中で考えごとをしていたようで、気分が優れないまま今に至っている。

 何か調子が悪そうで、その間の記憶が飛んでいて、どうしたらそれがなるのか、皆目見当がつかないまま、外を見やるとまた雨脚が強まっているようで、先が思いやられるが、行かなければならないことは確かで、実際にそうしているわけで、その途中で何がどうなっているわけではないが、何となくそんなことを考えながらも、眠気が去っていることに気づく、疲れているのだろうか。それは当然のことだ。またあくびが立て続けに出ている。もうあの時には戻れない。あの時がどの時なのかもわからず、どの時でもないような気がするが、そんなことを述べているわけで、翌日も取り立てて何もないようだ。ともかく台風が通り過ぎるまではそんな案配で、気が抜けたまま過ごして、時が経つのを待ち続け、機会が巡ってくるように祈るとしよう。本当だろうか。それでも語る必要がありそうに思われ、あの時の気分を思い出して、さらに言葉を記そうとして、もうだめだとも思わず、嫌になっているふうを装うが、どうやら眠気が去ったらしく、それなりに立ち直ってきたようで、それをやる気にならないのはいつものことかもしれないが、すでに夜だ。もう昼間のことなど覚えていないか。君に課せられた何かを成し遂げられないまま、こうして時間が経ち、いつものようにどうでもよくなってしまうのだろうが、これから何をやったらいいのか。誰かが言葉を記しているはずだ。それを読んでいるわけではないが、そこから馬鹿げたこだわりが生まれ、そんなくだらぬことにこだわっているうちに、何かを見失い、何かの均衡が崩れ、またわざとらしくおかしくなってしまうのだろうか。まだそこから遠ざかる気はないのだろう。何の話なのかさっぱりわからないか。それでも君はどこかで何とかしようとしている。嫌気がさしているわけか。コーヒーを飲まずにはいられないか。そんなはずがないことは承知しながらも、何だかおかしくなっている。歯止めが利かないらしい。ではそこから先には転落の人生が待ち受けているわけか。冗談も休み休みにしてほしいわけでもなく、無駄なことをやっているだけのようだが、それが愉快でたまらないか。そんなはずがない。だが何が否定されているわけでもないだろう。

 何だかおかしいのは気分だけではないらしく、そこで何かが壊れているようだ。できればやめてほしいのだが、それをやめるわけにはいかないようで、止めどなく壊れていって、すべてが灰燼に帰すのがよくあるパターンで、そうなってからかつての栄華を懐かしみ、感傷的な気分を弄んでいるのだろう。まさか君はそんな芸術を求めているわけか。人はどこまでも愚かだ。愚かだからこそ愛おしいのか。そういうのもよくあるパターンだろう。そこまできたらもう末期なのだ。終わりが近く、後はくだらぬ情念に凝り固まって、一気に人生のゴールまで突っ走るまでか。まさか君が暴走ぼけ老人の真似をすることもないだろう。君は目指すべき着地点を誤っていて、途方もない妄想を抱き、それに向かわずに努力もせず、どこかでひねくれて、乾いた笑いとともに皮肉の言葉を虚空に投げかけ、それで何か語っているつもりになり、本当は何も成し遂げていないことを理解しようとしないばかりか、さらなる虚無と空疎を求め、どこまでも退嬰的なやり方を追求して、どんどんおかしくなってしまうのかもしれないが、そんなのは嘘に決まっている。実際にそうなっていないからそんなことを記しているのであって、ありもしない精神状態を文章中に醸し出そうとしているからおかしくなってしまうのだ。だがそれはわかっていることであり、君はわからないことを語りたいのだろう。誰にも理解不可能なことを言葉で構成したいのであり、それは無意味と非意味の間にあり、それもでまかせのたぐいだろうが、そんな息苦しさが肺がんの兆候を示しているわけでもなく、さらにでたらめになろうとするのを必死で食い止めようとも思わず、なすがままいい加減な成り行きを愛でているようで、それらがまったく心に響かないようなことを述べているのかもしれないが、それで技巧を凝らしているといえるのだろうか。なぜそうしなければならないのか理解できず、たぶん何かの勘に頼り切りだからそんな案配になってしまうのだろうし、それをやめたら何もなくなってしまうからそうせざるを得ず、要するに空疎な語りの上にそれらの文章が構築されなければならない必然性があるわけだ。だからもう少し放っておいてほしいか。


9月19日

 君は誰を呪っているわけではない。だから別に神を呪っているわけではない。唐突にそんなことを述べてみるが、意味がわからない。何とかしたいのはやまやまなのだろう。だが本当にそうだろうか。何ともなってない現実が、どれほど君を苦しめていることか。たぶん照れ隠しに冗談を口走りたいのだ。それは嘘だろうか。嘘でなければ何なのか。もはや昨日の出来事ではない。では今日ここで何をやっているのだろうか。言葉を記しているはずで、雨の明日に、何やらどうしようもないやるせなさでも感じているわけか。それはきっと思い違いだ。そんな脈絡のないことなど思っているわけがなく、何を差し置いても、それらをやり遂げなければならないわけでもなく、何もやらない日々を送り、そのまま朽ち果ててしまってもかまわないはずで、またそんな嘘をついていることについては何を思うこともなく、どうでもいいと思いつつ、本当はどうでもよくはないのだろうが、一方でそんなことを述べている現状を受け入れ、さらにそれをよりいっそう押し進めてもかまわないような気もしていて、本当にそうなるかどうかは、そこから先の成り行き次第で、そうなったらなったでかまわないのだろうが、そうならない選択肢も温存しつつ、本当はどちらでもかまわないのに、そこで何やら迷っているような素振りを見せつつも、最終的にはどっちつかずの態度のまま、そこから遠ざかろうとしているようで、要するにそこから逃げたいのだろうが、そうやって絶えず二者択一を放棄していることが、逆にそういう態度を選んでいることになり、それが第三の道なのかどうかは見解の別れるところだが、そんなことはおかまいなしに、それらを置き去りにしたまま、先を急ぎ、何のための急ぎ旅なのかわからないが、旅ではないような気もしていて、本当は何とも思っていないのだろうが、便宜的にそんなことの繰り返しを演じ、それの何が便宜的なのかもわからないが、とりあえずの方策として、そんなふうに振る舞いながら、それで済まそうとしていることは明らかで、それもごまかしのたぐいだとわかりそうなもので、ここはそういうことにしておきたくなり、要するに思い違いでも勘違いでもかまわないのだろう。

 何やらそれは筋違いの主張かもしれない。どこかで意識がずれまくっているのだろうか。そうだとしたら何なのか。何とかしたいからそうしているのだろう。だがそれで何とかなっているのか。たぶんそうだ。言葉を記している意識の中で何かのスイッチが入り、要するに暴走し始めている。たぶんそうやって何かの均衡を保とうとしているのであり、それで差し引きゼロにしようとしているのであり、そんなことは本当にできるのか信じていないようだが、それもフィクションの一部と見ればそういうことになり、君もそれでかまわないと思っているはずで、たぶん何がかまわないのかわかっていないのに、かまわないことにしておきたいのだろう。だからそれも冗談の続きでそう思っているのであり、作り話の中ではそういうことになる。この際現実の世界で何を思っていようと、そんなことはいっさい気にせず、何を語ってもかまわないのだから、ひたすら空疎なことを語り続けていてもかまわないはずで、もはや開きなりながら、そんなことを延々と語っているのだろうし、それを止めようとも思わず、後は自然にそうなるのを待つしかなく、そうならなくなったらそこでまともになればいいのであって、まともにならなければそのままでもかまわないのだろう。そしてそれはひたすら続き、どこまでもそのままで、そういうことを記している誰かが、呆れてやめるまで続けられるのだろうか。そうなったらおもしろいだろうが、おそらくおもしろいというのは嘘で、本当は何とも思っていないのだろうし、何とも思いようがなく、何をどう思ってみても、それは仕方のないことであり、延々とそれが続いている最中に何を思ってみても、それらの記述には何も反映されず、それらはただ自動的に記された何かの一部として、そんな文章が構成されていて、それについて何を思うこともなく、君は飽きもせず眺めるだけで、読もうとは思わず、なるべく深入りしないように心がけているのかもしれず、それはそのままに推移するしかないのだろう。

 ならばそれで終わりなのか。いったい何が終わりなのか。だがでたらめの続きなどありはせず、続いていないからでたらめなのであり、何も語らずに何かを記しているだけで、そんな嘘をついている現状が、それらの文章を構成させているのだろうが、それでいいわけがなく、気が済まないのはもちろんのこと、どうにかしてそれらの文章をまともな内容へと変貌させたいのだろうが、時すでに遅しで、誰かは匙を投げ、君は後ろを向き、またテレビでも見ているのかもしれず、そんなことを想像しながらも、それが何かの物語に結びつく機会を探りながら、さらに無人の荒野を突っ走り、そのつもりで疾走しているつもりなのだろうが、何に気をとめているのでもないようで、何を無視しているのでもないだろうが、そんな素振りをしながら、それ以外の何を導きだすつもりもなく、何も導きだされているわけでもないと思いたいようで、実際にもたらされたそれらの成果を無視しつつも、何事もなかったかのように装うのも気が退け、本当はうまく立ち回っている現状を把握しながらも、しめしめと思わないようにしているらしく、何やら大失敗しているかのごとき仕草で、わざとらしくうなだれ、うつむいたままにやけているのかもしれず、そんな作り話を信じるか信じないかは誰次第でもなく、まったく信じていないのだろうし、信じようとしないのはいつものことで、信じるという動作を封印しながら、何やら分からず屋的な表情で、ひっきりなしに問いを発して、誰を困らせようとしているわけでもなく、それも予定調和の自問自答なのだろうが、それも演技の一部としてどこかで演じられなければならないのか。だがここまで言葉を記してきても、相変わらず何を語っているとも思えないのはもちろんのこと、何も語らずとも言葉を記せることを証明しようとしているのでもなく、本当はまともに語りたいのだろうし、内容のあることを記したいのだろうが、どこまで語ってもどこまで記しても、変わらない現状に阻まれ、実質的に何を語っているのでもないことを認められずに、そんな現状に嫌気がさしているわけでもないが、やはりこうなってしまったことを残念に思い、同時に呆れていることも確からしい。


9月18日

 何となくそんな予感がして、笑ってしまうような結果がもたらされるのかもしれないが、数日後は雨が降っていて涼しい。そしていつものように取り立てて語ることもなく、ただ適当に言葉を記して、それで自己満足に浸れるはずもなく、面倒くさそうに語ろうとするが、それで何がどうなるわけでもなく、やる気がしなくなるだけか。空疎なことは語らない方がいいのだろうが、それしか語れないとすれば、やはり語るしかないのだろうか。そうならないように努力すべきか。だから今努力している最中なわけか。過ぎ去ったことは忘れるしかない。それをなぜそれを思い出そうとするのか。二度と繰り返してはならない過ちだから、いつまでも忘れずに覚えていなければならないのだろうか。肝に銘じておかなければならないことなんてあるのか。それを思い出す必要があるとは思えない。では今まで語ってきたそれは何だったのか。そこには山があり、谷があり、川が流れていて、そして人が住んでいる。それだけのことだ。そこにどんな物語があるというのか。そういう語り方はおかしいのではないか。そこで何か事件でも起こって、それについて誰かが語らなければ、話にならないし、物語とはならないだろう。それは安易な見解か。君がそう思うなら、きっと誰かもそう思うだろう。そんな言葉を信じてもかまわないのか。何を信じようと君の勝手だろう。他の誰の勝手でもなく、誰が責任を取るわけでもない。すべてはとりとめがなく、特定の何かにこだわらなければ、何も語らずに済んでしまいそうだ。しかしこだわりを見出せない。いったい何にこだわったら、そこからフィクションを生じさせることができるのか。別に生じさせる必要はないだろう。だからその必要がないから、何も語れなくなってしまうのだ。そして夜になり、誰かはさらに言葉を記そうとして、何やら惰性でそれを続ける気になっているようだが、果たしてうまくいくだろうか。今は音楽を聴いていないはずだ。どうせまたくだらないことにかかりきりになってしまうのだろう。いったい何がそれらの弱点なのか。

 そこには何が示されているのか。別に月の表面を見ているわけではない。天体望遠鏡などを手に入れるつもりなのか。それともまたいつものでまかせに乗っかって、ありもしない気分で、途方もない何かに接近しようとしているのか。また馬鹿げたことを述べている。そしてそこからどこかへ遠ざかろうとして、失敗しているわけか。自身は何を述べているのかわからないはずだが、そこから遠くない日々のうちに、何かきっかけをつかみ、どこかへ飛躍する機会でも伺っているわけか。それは誰の人生でもなく、己のものでもありはしない。成り行き次第でどこへでも赴き、そこでさまよい歩き、何も得られずに無駄足だったことを悟り、またいつもの場所へ舞い戻ってきて、くだらぬ何かを記しながら、それでどうにかこうにか人並みになったような気がして、さらなる彷徨へと歩を進めるのか。そんなことなどできはしない。活動時間が限られていて、そんなに遠くまで行けないはずで、どうせまた途中で疲れて立ち止まり、それ以上進むのをあきらめ、慌ててどこかに舞い戻り、それで九死に一生を得たような気になっているようだが、まだ危険が去っていないことも自覚していて、何かに支えられてかろうじて生きている自らの境遇を呪い、そんな嘘をついて、実際はそうではないような気にもなり、ただの遠出でしかなく、何の目的もなく、どこへ行くあてもないのに、ただそこから遠ざかることだけで、それで気が済むとも思えないが、そうするしかないようで、それ以上の何を求めているわけでもなく、それ以外の行動などあり得ず、何の意外性もない一本道を歩み、何の障害物にも出会わずに、簡単に目的地に着き、そこが本当に目的であることを信じられず、黙って通り過ぎようとするが、簡単に引き戻され、なぜそうなるのかわからないが、要するに無目的の彷徨などなかったようで、ある地点から別のある地点へと、最短時間と最短距離で移動しただけで、それについて何の感慨も得られず、達成感すらないみたいだ。

 そんなわけで何はともあれ一安心を装い、君はどこかで何かを見つけ、その見つけた宝物を後生大事に持ち歩き、やがてなくしてしまうのだろうが、それがお宝の宿命だと気づき、何となくそれでよかったような気になり、また新たな何かを探しまわっているようで、たぶんそこから何かを得たいのだろうが、得られるものは物欲だけか。あるいはそんな欲は打ち捨てて、何らかの精神的な悟りに至りたいのか。それでも何の話にもならず、心はどんどん離れていって、もう何もほしくはなくなり、食欲も減退してやせ細り、やがて餓死してしまうのか。そうなったらおもしろいだろうが、現実の世界では君など存在せず、誰かがお菓子を食べながら、君という言葉を記しているだけで、誰が君なのでもなく、誰かもそんなことを気にかけているわけでもなく、要するに適当な長さの文章になれば、それでかまわないような案配で、それにかまけてひたすら言葉を記して、何かを語っているような気分で、しかも同時に何も語っていないような気分にもなり、そんな二律背反を楽しみ、矛盾しているどころか、それが誰かが求めている精神状態なのかもしれず、そんな嘘もついてみればそんな気になり、あたかも無意識のうちに何かを思っていたかのような成り行きに、気分を持っていきたいのだろうが、そんなことがあるはずもなく、要するにすべてはでたらめだと高をくくり、それらをより深いところまで探求せず、うわべだけ感じ取り、それで理解したような気にはなれないが、少なくとも言葉を連ねて、何かしら語っている気になりたいのだろうが、果たしてそれでうまくいっていることになるのか。うまくいっているとは思えないが、君は誰かがそんなでたらめを記していることについてどう思っているのか。どうも思っていないのかもしれず、どうにもならないとも思っていないようで、誰かは何かを成し遂げている気になって、そこから少しは前向きな言説を構成しようとしているように思われ、その成果がそれらの文章だとは思わないが、そのきっかけぐらいにはなっているのではないだろうか。逆にそう思わなければやっていられないだろう。どうやら君は何か思い違いをしているらしい。


9月17日

 そろそろ涼しくなる頃だが、どうも今年は最後の最後まで暑いらしい。だいいち最後というのがいつになるのかわからない。この調子で来月になってもなお暑ければ、その時になったらどうなるのか。その時とはどの時なのか。とりあえずまた暑さがぶり返したらその時なのだろう。そしてうんざりしてしまう。それだけのことだろう。そんなに嫌ならどこかへ移住してみたらいい。できれば一年中快適な気候の地域で暮らしてみたいが、それはどの地域なのだろうか。サンフランシスコとかオークランドとかシアトルとかバンクーバー辺りなら快適か。夏が涼しくて冬に雪が降らない地域なら快適だろうか。南半球ならタスマニアとかニュージーランド辺りか。だが現状ではそれらの地域とはまったく縁がなさそうで、どうせ死ぬまで一年の半分が蒸し暑い地域に縛られているのだろうが、いったいそこで何をやっているのか。たぶんそこでいつまで経っても世間と折り合いをつけられない誰かが、思うようにならない現状と日々格闘しながら、たまには苛立ち紛れにどこかへ八つ当たりしたりして、そこから生じる不平不満を絶えず自分自身にぶつけながら暮らしているわけか。それはまったく疲れる生き方で、そういう暮らし方は最低最悪で、またそこが愉快なところなのかもしれないが、どうあっても大人にはなれず、要するに仏陀的な悟りからは凄まじくかけ離れているわけで、たぶん語っている途中からフィクションの世界へと意識が移行しているのかもしれないが、勝手にしやがれと思いながら、勝手なことをできない現状に苛立ち、ストレスで神経をすり減らし、後は自業自得気味に自滅してしまえばいっちょ上がりとなるのだろうが、そこまでいかない中途半端なところで助け舟を出されたりして、不快な思いをしながらも何とかかんとか生きているわけか。そしてこれでもかとやってくる蒸し暑い日々に耐え続け、今に至り、次いで明日へと至るのだろうが、そこから何か状況の変化をもたらせないものか。すでに手は打ってあるはずだが、それが後々になって響いてきて、うまく立ち回って良い結果を得られればしめたものか。

 だがもうそんなことはどうでもよさそうだ。面倒くさくなって、やめてしまいそうになる。わけがわからないからそうなってしまうのだろうか。いったい何を語ろうとしていたのか。適当にいい加減に何かを空想しているだけか。本当はそれを知りたいのかもしれないが、何を知りたいのでもないと嘘をつき、その先に続く言葉を遮断して、しばらく虚ろな気分でテレビを眺めているが、目に映る何も記憶に残らず、何も頭に入ってこないようで、興味を失い、言葉が並んだ画面を見入るが、それについて語る気がしないようで、そこでやる気を失い、軽い頭痛を覚えて横になり、なぜか眠ってしまい、またすぐに目を覚まして、さらに遅れてしまうような気配を感じるが、それが嫌なので無理に言葉を記そうとしている。気が散っているらしく、誰かが言葉を記せなくなり、誰もそこに出現できなくなる。フィクションとはそういうものなのか。もとから何を記しているわけでもないだろう。作り話を記そうとして、それとは違うことを語ろうとしていることに気づかず、何を記すべきかわからないまま、まとまらない言葉の連なりをどこへも持ってゆけず、あくびしか出てこないようで、眠たくなっていることに気づき、何もできない現状を呪いながらも、これでかまわないと思うしかないようだ。できないものはできない。だから困り果てるだけ困り果て、眠たくなったら寝てしまえばいいのに、まだ何か語ろうとしているようで、何も語れないのにそんなふうに語り、それで自己満足に浸ろうとしているのかもしれないが、そうなるはずもなく、苦悩しながら苦悩し続け、それが嘘だと思いながらも、嘘でない現実をどうしようもできずにいるらしく、何も返られずに自己嫌悪に陥っているのだろうか。君はまた嫌になったようで、誰かの意識の中から消え、今や作り話の中にも登場し得ないか。そうなったら重荷がなくなって気分爽快かもしれないが、それでもそこには言葉が連なっていて、それらの記述を続行させたくて、画面を見ればそこに連なっているようだが、それが誰が記した言葉なのか。

 まさかそれ以上の継続を求めているわけではないはずだ。すでに危険水域に入っているはずで、気を抜くとどこかに意識を持っていかれ、何かの抜け殻のような存在となってしまい、そこから先に言葉を記せなくなってしまうか。実際に記しているのは何なのか。言葉の幻影というわけでもなく、ただの言葉に過ぎない。それでは面白みに欠けているか。そんなことなどおかまいなしに、さらなるでたらめを目指しているようにも思われ、それ以上の何を語るつもりもなく、ただのでたらめならかまわないのだろうが、そこに至るには自意識の抵抗があり、虚無的なでたらめに抗って、何とかまともなことを記そうとしているらしく、それが苦悩の原因となり、できないことをやろうとしているようにも思われ、できればそこから外れて、もっと気楽に言葉を記しながら、それで癒やされるような優しさを醸し出したいとも思うが、それの何が嘘なのだろうか。嘘ではないと嘘をつくことの意味不明さをわかっているはずだが、どうしてもそれを求めてしまい、さらに苦悩の度を深め、嫌になり、どこかへ逃げてしまいそうになるが、誰かが記しているフィクションの中ではすでに逃げてしまっているようで、そこに君の影はなく、誰かもそれ以上の詮索をやめているようで、どこに誰かがいて、どこかで君が不在であろうとなかろうと、それとは無関係に話を進め、とにかくそれらの文章を完成させるために気を集中させているらしく、冗談を述べている暇はないようだが、君はそこから脱出することができるだろうか。その気になってみなければわからないか。まさか性懲りもなく何かと何かの間にくだらぬ冗談をかませて、誰かが気を逸らせた隙に、どこか遠くへ逃げてしまうつもりなのだろうか。それが何の話なのかわからないが、どのような状況下で何をやっているつもりなのか。画面を見ながら言葉を記し、記された言葉の連なりを読みながら、さらに言葉をつなげて文章を構成していること以外に、君は音楽を聴いているはずで、それだけで手一杯というわけでもないだろうが、今できることは一応やっているようで、それで自己満足に浸るつもりはないのだろうが、そんなやり方をこれからも続けるしかないのか。


9月16日

 まだ数日後は暑い。また明日も暑くなるらしく、それがようやく今年最後の暑い日になりそうな気配だが、この嫌になるほどの暑さは何なのか。エアコンがあるのに余計に暑く感じられるのだから、逆効果そのものだ。しかも今年はいったん涼しくなったことが、その後の暑さを余計に長引かせることにつながっているのかもしれず、まったく執拗な嫌がらせを受けているような気分になるが、そんな被害妄想気味になっている意識の方がおかしいのか。語っている途中から誇張が入っている。本当はそれほどでもないはずで、実際に今年は風邪も引かずに夏を乗り切ってしまったではないか。熱中症にもならなかったのだから、どうということはないはずだ。それでも暑いのはこたえるか。もう夜になっているからそれほどでもないだろう。何も手につかずに夜になってしまったらしく、テレビばかり見ていたようで、また遅れを解消できずに明日になってしまうらしい。自業自得だろうか。どうせそれでもかまわないと思っているのだろう。そんなことを思っているうちに頭がクラクラしてくる。調子が悪そうだ。本調子でないことは確かだが、本調子になったときのことを覚えていない。だから冗談なのだろうか。何が冗談なのか。何が冗談であろうとなかろうと、君の知ったことではないのはもちろんのこと、何も冗談ではないかもしれないし、別にそれでもかまわないのかもしれない。たぶんそうではないのだろう。他に何を語りたいのでもなく、実質的に何も語っていないのかもしれない。それだけのことだ。堕落の極みに達しているのか。そうだとしても若干余裕があるのではないか。何でもないと思いたいのか。これしきのことでへこたれるわけがないと思っているのか。だから冗談だろう。何もできはしない。そういうことだ。そこで何かが止まって、言葉を記す作業も止まっている。作業ではないと思いたいのか。雑なことを語っているつもりらしいが、何も語っていないのと同じことか。そうだとしてもそれでかまわないのだろう。そのうちなんとかなるだろう。何とかならなくてもかまわないのだから、どうということはない。

 そして眠たくなり、その後はどうするつもりなのだろう。時間を無駄に使って、何を浪費することもなく、結局何もやっていないということか。取り立てて批判する対象などありはせず、心は響かず、暗闇の中に何が現れるのを期待しているわけでもない。そんなふうに語ってはだめなのか。たぶんそういうことだ。何に魅入られているわけでもない。くだらぬ作り話の内容に心を奪われているわけでもなく、それをこれから語ろうとしているわけでもない。いくら腕時計を覗き込んでも何も起こらず、時間の経過を知るだけか。現実の世界では魔法や超能力が発揮される気配も感じられず、たぶん冗談でそんなことを述べているのだろうが、確かなことは何も見出せないまま、次から次へと頭の中に何かが立ち現れては消え、気が散って仕方がないと思っているようだが、本当はどうでもいいと思っているのだろう。誰かは何ももたらせていないことにいらつき、語っている途中で話すのをやめてしまいそうになるが、実際に何の話をしているわけでもなく、とりとめのないことばかり語ろうとしているようで、それだけで間に合わせようとして、自らの躓きをごまかそうとしているのかもしれない。人には時間がなく、君にも時間がないらしい。だいぶ寄り道をしてしまったらしく、気がついたら明日が近い。ここからどう語ればいいのかわからないが、とりあえずは何かについて語るとしよう。人はどこまでも愚かなのか。人でなくても愚かであり、誰でもなくても愚かかもしれず、どうもその辺で収拾がつかなくなっているようで、それ以上の言及を避けなければならない。君はなぜそうなってしまうのか。まだ何も語っていないようだが、またそれか。さっきから同じ言葉が繰り返し記されているような気がして、沈黙の原因がその辺にあるのかもしれない。だから君は黙りこくって、やがて眠ってしまうのか。君でなければどうなることやらかもしれないが、言葉を記すのが誰であっても何もない事情は同じか。そんなふうに語っているのだから何もない。では何もないのはそれらの語りのせいか。そうだとしても語らない理由はない。

 実際にそれを続けているのだから、それが君にとっての飽くなき探求なのだろう。そしてそこから遠ざかれずに、逆に虚無に近づきすぎているような気もしていて、何だかその辺がヤバそうな雰囲気だが、それをそのまま続けようとしているようで、内容の空疎に拍車がかかりそうだ。ちなみに君はそれらの空洞化についてどう思っているのか。なかなか楽しくなってきそうだ。どうせそれだけではないと主張したいのだろうが、内容が伴っていないことは確からしい。また何かの限界に突き当たっているのかもしれないが、何が何だかわからないふりをしながら、その何かについて探求を深めようとしているのが、でたらめの最たる顕われか。いったい何を主張したいのだろうか。別にこの期に及んででもないか。たぶん何もないのにそういうことになってしまっていることについての説明が足りないのかもしれず、またでまかせ状態になりつつある。それを把握できないばかりか、ちゃんとした説明もできず、自らが記したことについての理解もあやふやだ。これではだめだ。それ以上の何かを導きだせない現状があるわけで、要するにそこが限界なのだろうが、それでもそこから何かを語ろうとして、言葉を記し、その内容を記述しようとしているのだろう。虚しい努力か。そうだとしてもやらないわけにはいかず、途中で挫折しそうになりながらも、それらをやり遂げようとしているわけで、実際にそういう成り行きになっているらしく、どうでもいいし、どうしようもないようだが、そんな作業につきあわされて、何だか疲労困憊して、かなり嫌になっているようで、昼間の暑さを思い出しながら、そろそろ休んだ方がいいような気がしてくるが、果たしてそこで終わってしまってかまわないのか。なぜそう思うのだろう。もう少しの辛抱か。だがもうやる気が失せているはずだ。君はその時が来るのを待ち続け、もういい加減に迷路遊びに飽き飽きしている自らを、正々堂々と正式な出口から外へ出したい気でいっぱいのようだが、そうは問屋が卸さないようで、なかなかくだらないお遊戯から解放してくれないようで、またあきらめかけているような気配を漂わせ、囲碁や将棋のように最終的に決着がつくようなゲーム展開に持っていきたいのだろうが、今のところはうまくいっていないようだ。


9月15日

 またこんなところまできてしまったらしい。嘘だろう。あれから数日後は暑さも和らぎ、時々小雨がぱらつき、そんな曇り空の下で、わずかに吹いている風を受けながら、ただ普通に働き、普通に暮らしている。それだけのことなのだろう。それではまったく話にならないか。何を空想しているのでもないようだ。聞き逃した曲でもあったのだろうか。そういうことではない。まだ蒸し暑いのか。どうやら数日後の明日がピークのようだ。天気予報士がそんなことを語っていたはずだが、それがどうしたというのか。二日後には涼しくなるらしい。だから何とか明日を乗り切らなければならない。そしてありもしないことについて語り、それ溜飲を下げられるわけでもなく、相変わらず気に入らないことばかりとなっている現状をどうすることもできずに、ただその場にとどまるだけで精一杯なのだろうか。まったく余裕が感じられず、焦るばかりでまともに言葉が繰り出せないか。そうだとしてもなおのこと語ろうとしてしまうようだが、実態としては相変わらず無内容に終始している。それでかまわないのか。かまうわけがない。それはどういうことでもなく、そこからエンジンがかかるように、一気にくだらぬ文字列が記され、誰かを戸惑わせるのかもしれないが、それでかまわないのだろうか。何を語っているわけでもなく、何を語らないことを目指しているわけでもないのに、結果としてはそうなってしまい、さらに焦燥感を深めているわけか。冗談ではない。冗談でないからそうなってしまうのか。でもそれで君は語っているつもりになりたいのかもしれず、何も語っていないのに、そういう気分で何かを成し遂げている最中のような高揚感に浸ることができるだろうか。蒸し暑さと冷房の狭間で、ちょうど良い快適な気分とはなりがたく、それがもとでそうなってしまったわけでもないのだろうが、何となく中途半端なまま、いい加減に言葉を記しているうちに、たぶん何が通用しているわけでもないことを噛みしめ、それに抗うことの虚しさを味わっているのかもしれないが、それがいつまで続くのかは今のところわからない。

 何が違うわけでもない。何と何を比較して何を論じようとしても、何となく我田引水的にならざるを得ず、それを承知で何かを述べようとすると、たちまちどうなってしまうのか。その先に待ち受けている顛末は誰もが知っているはずか。この世界のどこかで大企業同士が製品開発と販売で競い合っているかのごとき幻想を共有しようとは思わない。もはやアップル社とソニーを比較することは無意味なのではないか。アップル社はMac OSが搭載された唯一のパソコンを製造している世界で唯一の企業で、ソニーはWindowsが搭載されたPCを製造しているその他大勢の企業の中の一つに過ぎない。またアップル社はiPodやiPadやiPhoneを製造している世界で唯一の企業で、残念ながらソニーが製造しているウォークマンもタブレット端末も携帯電話も、その他大勢の企業が製造しているものと一緒くたに見られている。唯一ソニー独自の製品と見なされているゲーム機のプレイステーションも他にニンテンドーやXboxがあるし、近頃は携帯やスマートフォン上でやるゲームの方が流行っているように見られているから、アップル社のようなステータスを得ているわけではない。もちろん企業にも栄枯盛衰があるだろうから、いつまでアップル社の優位性が保たれるかわからないが、現時点でアップル社とその他大勢の中のソニーを比較して、企業としてのソニーを批判するのはかなり酷なのではないか。そしてまさかそこから日米の企業比較などということを論じるのはかなりおかしいだろう。今ならLinuxという選択肢がわずかにあるだろうが、日本のみならず欧米のメーカーもみんなWindowsに右へ倣えだったのに、アップル社だけが自社のOSに固執して、いつ倒産してもおかしくなかったのに、実際にOS2だのアミガだのBeOSだのは、みんな消えてなくなっている中で、アップル教信者が大勢いるとしても、ここまでやってきたのだから、最初からWindowsに右へ倣えのソニーが、いくらVAIOとかいうパソコンのブランドをおしゃれ系で売り出そうとしても、その他大勢から抜け出すことなど無理だろう。


9月14日

 以前もそんなことを述べていたではないか。誰に向かって問いかけているわけでもないのに、そんなことを語っているうちに、何だか気分がおかしくなって、一瞬よろめいて転びそうになるが、何とか気力を振り絞って立ち上がり、そのつもりでその先に歩を進めようとしている。たぶん意識は誰かが著したフィクションを想定しながら、実際にはやってないことを語ろうとしているのだろうが、その先で何かに気づき、何がそうなのかわからないが、何かに気づいたふりをしながら、自らが何に気づいたのか確かめようとして、あらぬ空想を巡らしてどこかにたどり着こうとするが、結局は何も思いつかない。いつものことには違いない。これまでにもそんなことを述べていたはずだ。ではそこで何を語っていたのか。恣意的で作為的な言葉の並びとなっている。だがそんなことは語るまでもない。どんなことでもなかったのだろうから、当時はそれに気づかなかっただけだ。どのような水準においても、そんなことを語っている時点で終わっている。勘違いなのか思い違いなのかわからないが、そうではないと思う。出口や結論にたどり着けないようだ。語る術を知らないのか。語っているではないか。確かにそうだが、それ以上に知らないことが多すぎる。たぶん何とかしたいと思っているのだろう。そういうやり方ではだめなのかもしれないが、それを押し進めようとしているらしく、たとえ間違っていようと、やり方は変えられない。変えている時間がないのだろうか。では何を急いでいるのか。そこから先がどうしてもわからず、何かあてが外れたような気になり、困惑の度を深めてしまうのか。外れているわけではなく、正しすぎるのではないか。だがその根拠が何も示されていないではないか。いったい何が外れていて、何が正しいのか。それ以前に語られていないことが多すぎる。これではフィクションにすらなっていないか。それに関しては何も語ることがなく、無理に語ろうとしても、途中でしどろもどろになり、結局は何を語っているのかわからなくなって、そこであきらめざるを得なくなってしまうわけか。

 たぶん君はそんなはずがないと思っているのだろうが、実際のところはそれらのすべてを把握できずにいるようで、要するに空疎なことを語りすぎているのではないか。そうだとしてもなおのことおかしく感じられ、そのおかしさを利用してさらに語りたくなるのだろうが、そんな調子でどこまで語っても意味不明だ。そして今回はそれが愉快だとも思わず、もう少しまともに語ろうとしたいはずで、実際にその気になって語っているつもりなのだろう。それは本当だろうか。では何を蒸し返す気でいるのか。本当も何も、語っているそれがすべてのはずだ。だがそれだけでは困るのだろう。君は絶えずそれ以外の何かを求めているはずで、新たに加わる予定の何かについて語りたいのだろう。では何を加えようとしているのか。その辺がどうもうまく説明できないようで、それは誰かの興味の範疇に入らないような対象だろうか。人は誰かを買いかぶり過ぎで、誰もがそれを改めようとはせず、買いかぶり過ぎのまま、破綻するまでそれを続けてしまう。メディア自体がそういう資質の持ち主を求めていたのだから、それはそれで自業自得なのか、あるいはいったんはちやほや持ち上げておいて、賞味期限が切れた頃に、一気に地べたへ投げ落とすパターンなのか知らないが、そういうやり方はそろそろやめてほしいと思っているようだが、誰がそう思っているのかも知らず、調子に乗っていつまでもやり続けていると、将来が恐ろしいことにでもなるのだろうか。たぶんどうなるわけでもなく、それをどうしようとしているのでもなく、そのままの状況が長続きするのだろうし、そういう成り行きだから、この世界はこの世界のままに存在し続けるのだろう。それがこの世界で生きている人たちが抱く唯一の希望なのだろうか。それもかなりおかしいのではないか。誰が何を意識しているわけでもないし、それについて何を語ろうとしているわけでもないのに、誰もそんな希望を抱いているわけでもないとも思われ、ではなぜそれが唯一の希望なのか、その根拠を示せと言われても、まったく答えようがなく、何も示せないのだろうが、なぜか君はそう思っているらしく、これから起こるすべての出来事の手前でそう思っているようだ。

 それはどういうことなのか。何でもないといえば何でもなく、何かあると思えばあるのかもしれないが、その何かについて語ろうとすると、たちまちおかしくなってしまい、何を語っているのかわからなくなり、語っている途中でどこかにそれていって、結局は意味不明なことが記されている現実だけが残る。そしてそんなことが実際にあり得ていることが不可思議に思われ、なぜそうなってしまうのか理解できず、そんな現実が受け入れられずに、そうではないと思い込もうとして、ますます頭の中がこんがらがって、そんなことを考えていること自体が奇妙に思われ、気が狂う一歩手前まできているわけでもないのに、同じような雰囲気を宿している気配の中で、何をやっているわけでもなく、何も手につかないわけでもなく、言葉を記している現実をどうするわけでもなく、それがどうにもならない現実だとも思えないが、大げさなことにならないうちに退散したいのか。そうなった時にでも考えるとしようか。どうせ考えられないだろう。何も考えず勘に頼り、失敗してしまうのがオチか。たぶんそうなってもかまわないと思っているのだろう。どうせ何もできないのだから、傍観しているだけでもかまわないのだろうが、眺めている対象を見出せず、誰が何を眺めているのかさえはっきりしなくなり、要するにそんなことを語っていること自体が虚構なのかもしれず、相変わらず誰かが嘘をついているようで、その嘘が記され、それを読んでいる別の誰かが何を思っているわけでもなく、何を語っているのでもないと感じられ、それを記していること自体も虚構なのかもしれず、本当は何も記されていないのかもしれない。そしてそれが嘘か否かなどということが問題となるはずがなく、何が問題とされているとも思えず、それがどのような指摘を受けるとしても、何を解決しようとしているのでない限りは、問題視されることはないだろう。それがそこで述べられている冗談に対する認識なのか、あるいは何でもないことなのか、そんなことはどうでもいいのだろうか。当初は何とかそれについて語ろうとしてたようだが、結果を見る限り、何を語っているとも思えず、やはり無理な試みだったようだ。


9月13日

 また晴れて暑いのか。すべては様式であり形式か。君はそこで何を見ているのか。よくわからないものを見ているのか。輪郭が定かでないようだが、何を想像しているわけでもないらしい。それはどういうことなのか。もう語ることなど何もないのだろうか。語っているではないか。確かにそんなことを語っているようで、今日の君は不健康に見える。架空の世界でそう思っているのだろうから、そんなの嘘っぱちに決まっているようだが、何となくそれで愉快な気持ちになる。それも嘘なのか。そんなことでへこたれてはいけないようだ。だがすでに目が死んでいる。それはどんな気分なのか。別に負け惜しみを言っているわけではない。紅茶がまずいのか。味覚が変だ。そこで何かがつながっていないのかもしれない。気力が失われ、もうだめだと思った瞬間に、大げさに迂回してくる何かが目に映り、間一髪で避けたと思ったのに、そこから先の記憶がない。作り話の中ではそうだったのか。どこかの老人はわかっていなかったらしく、自らの死後に何が起ころうと、そんなことまで気が及ばないことはわかりきったことで、そこから何が透けて見えるわけではなく、墓の骨壺の中は暗闇に支配され、焼けた骨のかけらが残っているだけか。君の場合はどうなのか。灰が海にまかれて魚の餌になってしまったのだろうか。結局どこへも行かないだろう。それは誰の魂でもない。どこから飛び降りたのだろうか。まったく記憶にないか。それはどんな内容だったのか。何とかしなければならない。どうにもならないのだろうか。それが何を意味するのかわからない。言葉が出てこないのか。そういうわけではなく、あまりにもそこから外れていて、どんな言葉を当てはめたらいいのかわからなくなっていて、そんな気もしていないのに、そういうことにしておく気になり、何となく心のずれを解消できずにいるのかもしれず、聞いたことがない曲を聴きながら、そんな感じだったと過去を懐かしみ、嘘でも本当でも、そんなことはどうでもよく、ちょっと寝不足気味の明日のことを思い、そんな気がしただけだと安心して、さっさと眠ってしまうかもしれないが、冗談の続きで何を思うこともないのだろうが、それがフィクションだとは思えない。

 そんな紙芝居を見たことがあるだろうか。なぜ黄金バットは骸骨なのか。そういうことを語りたいのではない。では大滝詠一はなぜあんな声で歌っていたのか。いずれも君の知ったことではないが、それらはすべて後からねつ造された過去なのか。そんなことはないだろう。それは君自身が一番よく知っていることだ。架空の存在でしかないのは君自身だが、実際の過去はネットで検索することで確かめられる。それが事実かどうかなど君の知ったことではない。ともかく過去に関する記述があるという事実がおもしろいわけか。そんなことはどうでもいいことかもしれず、本当に誰の知ったことではないのかもしれないが、過去にメディアを震撼させたいわゆる大きな事件が起こったとして、毎年その日がくる度に何かの一つ覚えみたいに過去を呼び起こすような真似をしていること自体が、要するに愚かなことではないのか。要するに彼らは大きな物語としての歴史を語りたいのであり、メディアを通してその大げさな語り口を誇ってみせたいのであって、自らがその大げさな歴史的転機に立ち会ったことを自慢したいのだろう。そしてその大事件を契機に社会が変わり人々の意識も変わり時代も変わったとこれ見よがしに言い放ってみたいのだ。やれベルリンの壁が崩壊したのやら、ニューヨークの超高層ビルにテロリストに乗っ取られた旅客機が突っ込んだのやら、地震と津波で福島の原発が事故ったのやらと、そういういわゆる大事件によって世界が変わったと思い込みたいのだ。しかし本当に変わったのだろうか。変わったのではないか。少しは変わったのだろうか。メディア上でそういう語り口でそういうことが述べられているのだから、何かが少しは変わったのではないか。少し変わっただけなのだろうか。人によっては大きく変わったと思われるかもしれず、メディア上での原発推進キャンペーンがめっきり鳴りを潜めた程度には変わったのではないか。でもそれで今が新時代の幕開けなのか。時代が変わった程度のことは歴史上よくあることで、大したことではないだろう。またメディアを震撼させた大事件などもありふれたことで、何が震撼しようがしまいが、震撼という大げさな表現自体がメディアがよく使う常套句に含まれるのではないか。だからいくら震撼しようと君の知ったことではないのかもしれず、それも大したことではない。そしてこれまでの歴史が終焉に向かい、ここから新たな歴史が始まるとかいうのも、よくある言い回しに違いない。では君は何に驚かなければならないのか。そういう誇張表現のオンパレードを日常茶飯事のごとくに感じてしまうことが、驚くべきことなのか。あるいは驚くべきことがありふれている事態に驚かなければならないのだろうか。


9月12日

 また二日前の日付になったらしく、何とかここまではいくのだが、ここから先がうまくいかないようで、どうせ跳ね返されて、気がついたら数日遅れとなっているのかもしれない。そしてあきらめ気味に冗談の一つや二つ記して、それで済ました気になりたいのか。現に無理なのだから仕方がない。君はそれ以上の何を望むのか。もうおしまいになってほしいのだろうか。なぜそう思うのか。それに対して返答は期待できず、現実に何も返ってこないようで、もはや対話の体をなしていないようだが、もとからそのつもりはなく、たぶんそれらは何かの残骸から構成された文章で、そこで何も語り得ないことが何よりの証拠で、どうにもならずに放棄され、以降は何も記されない日々が待っているのかもしれず、他の誰かがそうなるのを期待しながらも、たぶんそうはならないだろうと高をくくり、何でもかまわないから適当にいい加減に言葉を記していればそれでかまわないと思いつつ、そのくせ実際にそうなってしまうのが気に入らないようで、何とかそれ以外の何かを書き記そうとしているのかもしれず、何も思いつかないのに、そんな妄想に頭を支配されていているから、焦燥感ばかりが生じてしまうのであり、もっと何か自然体で事に当たるべきで、それができなければいつまで経ってもそのままで、本当にまともな言説をあきらめざるを得なくなってしまうのではないか。しかし君は本気でそう思っているのだろうか。そろそろ我慢の限界か。いったい何を我慢しているのか。たぶん何でもないことを我慢している。そう思いたいのだろう。別に思わなくてもかまわないのに、何かを我慢していると思い込み、必死でこらえているつもりなのか。だからそれが冗談のたぐいなのか。そうだとしてもそれはそういうことでしかない。それが嫌ならそうならないように努力すべきか。君の知ったことではない。確かにそうかもしれないが、何とかしなければならないと思っていれば、自然とそういう方向へ意識が向かうのではないか。だから何も無理してでたらめばかり記すことはないか。

 そして数日後かの翌朝は相変わらず晴れ渡り、くだらぬ気分で今日一日も乗り切ろうとしているのかもしれないが、うまくいかなかったりうまくいったりして、気がつけば夜になっていて、また仕事以外は何もやらないうちに一日が終わってしまうわけか。音楽を聴いている。ただそれだけの暇なのか。それ以外などあり得ず、いつも決まってそれだけのことで終わってしまうらしいが、それをどうにかしたいわけではなく、やはりあきらめているのだろうか。あきらめざるを得ないのであり、本当は違うのかもしれないが、何となくそんな気分でそれらの成り行きを眺めながら、何かをやる隙をうかがっているのかもしれないが、それと同時にどうも違うような気もするようで、本当はそうではないのではないかという疑念とともに、一方で何でもありなのだろうから、それでもかまわないのではないかと思い、気持ちを切り替えて、それらの環境に適応しようと試みながらも、たぶんそうではないような成り行きになるように、密かに企みを遂行中なのかもしれず、無意識が何をやっているのか現時点では知るよしもないが、たぶん時が経てばそれらの全貌が明らかになる時がくるのかもしれず、それを期待しながら、今はそういう成り行きに順応して、とりとめのない感覚になりながらも、何とかその場で生きているらしい。それが語っている冗談の一部始終なのかわからないが、ともかく結果として言葉が記されていればそれでいいのかもしれず、そんな嘘をつきながらも、それはそういうことだとあきらめるしかないのかもしれないが、まだ何か記すことがあるだろうか。たぶん何もないのだろうが、別に何も記さなくてもかまわないのかもしれないが、勝手に決められた分量に達していないので、さらに何か述べるとすれば、架空の目に映る光景でも語ればいいのかもしれず、そこにはあらゆる何かあり、すべてをご破算にしたいような気分で、でたらめに語れば、それで済んでしまうようなことでしかないのだろう。そして君はどこか遠くへ旅立ち、そのまま消えていなくなってしまうが、後に残された影が続けて語るのかもしれない。

 その内容は大したことはないだろうが、それは何の内容なのではなく、これから語る架空の内容か。架空ではない。実際に誰かが語っているのだから、そういうことにしておかないとどうなるわけでもないが、ともかく何かを語っていることにしておきたいのであって、それ以上の何を求めているわけでもなく、それ以外の誰かが語っているつもりになって、そんなありもしないことを述べているつもりの誰かを困惑させ、そのすべてを一人でできるとは思えないし、その必要もないことは承知しているつもりのようだが、たぶん作者という虚構の存在を成り立たせるための文章ではないのかもしれず、語られている内容のでたらめさを引き受ける人物が、どこかのフィクションの中に登場する気配は今のところなく、それでいて強引に言葉を配置して、何か中身がありそうな文章にしようとする意志も薄弱で、その辺で何をどうしたらいいのかわかりかねるが、何も妙案が思いつかなければそのままでもかまわないのだろうが、どうも何かが足りないような気がしているようで、その足りない何かを探し求めて君が旅立ったわけでもないのだろうが、そんな架空の話を信じる気もないようで、君がわかりかけているそれをそのままにすることができない性分かどうかはわからないが、ともかくそんなふうにして語り継いでいるそれらの文章をどうにもできず、どうするめども立っていない現状を変えられずに、そのまま何かをうやむやにしつつ、泥縄式に言葉を繰り出して、何とかそれらの連なりを紡ぎ上げている気でいるようだが、本当のところは何でもないようで、理解してもらえないようなことを続けながら、それらの成り立ちについて気が利いたようなことは何も語れずに、その代わりにひねり出されるのは、いつも決まって意味不明なのだろうが、君はそれをどうすることもできずに、ただ眺めているようで、それらが空疎で虚無的だと思う以外に、これといった感慨には至らず、それをそのままにしておく以外に方策らしき方策はあり得ず、それが方策でないことも承知しつつも、それ以上の詮索をやめていることも確からしい。


9月11日

 また遅れてしまうらしい。しかし暑い一週間だ。まだ夏なのだろうか。生身の体は疲れている。たぶん何もやる気にならないだろう。語れないようで、言葉を記せなくなる日も近いか。それでも語ろうとしているではないか。とにかく語ろうとしていて、言葉を記そうとしながらも、どこかあきらめている雰囲気も感じられ、どうせくだらないことしか語れないと思っているらしいが、たぶん何かの偶然が作用して、千回に一回ぐらいはまともに語れるような気もしてきて、まったくその根拠がわからないが、偶然に語ってしまうことに賭けているのかもしれない。君は本気なのか。冗談で何か語っているように感じられるか。まだ何も語っていないではないか。それが現実であり、君がもたらした空疎だ。どうも目がかすんでいるようで、何かが悪化しているように思われ、それにかこつけて責任逃れの算段でもしているのかもしれず、おかしな方向へ行ってしまいそうになるが、踏みとどまれるだろうか。この期に及んで悪あがきもいい加減にやめてほしいか。それ以外に今さら何をどうしようというのか。たぶん君は何とかできると思っているのだろう。それで何とかできたためしがないのはどういうわけなのか。思うだけ思っておいて、思わぬ方向へ話が進んでしまっても、それを放置したままとんずらこいて、後は逃げの一手か。そうならないための努力がなされているのだろう。それはそうかもしれないが、できるとは思えない。できたためしがないのだからそれは仕方のないことか。その時々でやればできると思っていても、実際にやろうとすると、様々な困難が待ち構えていて、それをひとつひとつクリアしていくうちに、どういうわけか当初に抱いていたこととは別のことをやっていることに気づき、それでもムキになってやればやるほど、どんどん目標からそれていってしまい、どこか得体の知れない場所へと、それらの努力が君を導いていってしまうわけか。だから冗談だと思うしかないようで、そこへたどり着くことをあきらめてしまいそうになる。

 君はそこで何にくじけているのか。人はくだらないことにかかりきりになると、やっていることを放棄して、どこか遠くへ旅立とうとするが、それが嘘だと気づかないわけではなく、自らにそんな嘘をつきながらも、何とかそこへしがみつこうとして、いつまでもその場にいることを望み、それが自己主張だと思っているみたいで、それがどれほどくだらないことであろうと、それを放棄したらおしまいだと思っているようで、半ば意地になっているのであり、いくら圧力がかかろうと、頑なに自己流を押し通して、無理を承知で思いを遂げようとするわけか。そうならないためにはどうしたらいいだろうか。それは簡単なことだ。やめたらいい。すぐにそうなってしまいそうだが、踏みとどまることができるだろうか。それとも別にやめてもかまわないのか。うそぶいたり強がってみせたり痩せ我慢するなら、たぶんそんなことを述べてしまった後からつまらない結果がついてくるのだろうが、なるべくならそうならない方がいいのかもしれない。そこで君は何かを目指しているはずで、それがでまかせでなければ、いずれ何らかの結末がもたらされるのかもしれないが、今のところはでまかせでもかまわないような気がして、本当は何も求めていないようで、そのままでも何の不都合も感じない現状があり、そのままそこで朽ち果てても、誰からも見向きもされないだろうが、そんな枯れ枝が積み重なって腐葉土でも形成しているのかもしれず、それはそれなりに何らかの作用に貢献しているのであり、そこで何かが成り立っていて、その成り立ちを説明しようとすると、それらがまともな言説を構成しているように思われてしまうのかもしれない。まさかそれがこれではないだろうが、そんな言説を読んでいた過去が思い出され、それとこれを読み比べると天と地ほどの差があるとは思わないが、何だか本気で語っていないのは明らかで、どこかで適当にいい加減にごまかしていて、それでかまわないわけがないと感じられるが、それも冗談のたぐいなのか。そうだとするとおしまいにしたいと述べていたのは本音だったのか。

 しかし冗談の続きはそれからどうなってしまったのだろう。まだその気があるなら、もっといい加減でめちゃくちゃなことを述べてみた方がいいのではないか。もちろん本心からそう思っているわけではなく、相変わらず強がっているみたいで、そこで何かが見え透いている印象を受けるのだが、何もないのに何かあるように装いたいのであり、そうだとすればそれが当たり前のことだと思うしかなく、そこで繰り返されている何かをやめさせるには、疲れるまでしばらく放置しておくしかなく、そうすればそのうち嫌になってやめてしまうだろうし、そうなったらしめたもので、そこで急いで言葉を再構成して、何とかまともな内容に持っていかなければならない。果たしてそんなことができるだろうか。できなくてもかまわないのではないか。君はそこで中途半端な何かが生成されることを望み、常に失敗していてもかまわないと思い、たぶんそこから妙案がひねり出されることは避けたいのかもしれず、そのまま何も思いつかず、そこから先は延々とだらだらした内容が続き、嫌になるほどそれが繰り返され、もう誰からも見向きもされないような言葉が連なり、やがて嫌気がさして誰かが言葉を記すのをやめてしまうことを願っているのかもしれず、そうなるように日々妨害工作でも行っているのか。冗談には違いない。そうでなくとも蒸し暑さにうんざりしているのに、それ以上の何があるのか。もうそれだけでへばっていて、他は何もやる気にならないわけで、何もやらなくてもすでに君の願いが成就されそうな気配であり、もう勝ち誇ってもかまわないのに、まだ何かあるのだろうか。何もなければしめたものというわけではないが、そこから何らかのアクションがあってもいいタイミングで、相変わらず言葉が適当に記されている現状がいかんともしがたく、君を苛立たせているのかもしれないが、まだ何か文句でもあるのだろうか。あるならさっさと主張され、それについての返答が期待されてもいいはずなのだが、なぜか依然として沈黙したままで、それ以上の関与は受けつけないような態度が見え隠れしているのかもしれない。


9月10日

 それは誰かの発言か。視線が風を感じる。奇妙な形式だ。空想上の作用だろう。しかし何が歴史の必然なのか。とりあえずは思い込みと偏見によってそんなことを考えてしまうのだろうが、そこから先が何もなく、とりあえずは何も記さずに、何かが壊れていることに気づき、今はその後始末をしている最中か。まさか冗談の続きがそれか。どうも壊れているわけではないようだ。頭も壊れていない。心はどこでいったのだろう。何も語らずにそれはないか。またくだらないことを語るつもりでいたらしいが、そこにとどまっていてはならないのだろうか。気が散っているようで、どうもたどり着くべき地点を見失ってしまったらしい。その証拠に相変わらず何を語っているわけでもない。それが何を意味するのかわからないが、とにかくそこから離れなければならないらしく、遠く離れてどこへ向かうのかはっきりしないが、行き着いた先で何を探そうとしているのだろうか。別におかしな観念に凝り固まっているわけでもないだろう。くだらぬ文明論を展開しようというのでもない。しかしうさんくさくない文明論というのがあるとは思えず、その辺でいい加減なことを語りたい輩がひしめいているのではないか。案外君もその中の一人なのだろうか。しかし同時多発テロ十周年記念的にキリスト文明とイスラム文明の衝突などという大げさなことを語りだすのはかなりおかしいのではないか。テロはテロで宗教は宗教でしかなく、テロリストが宗教を利用して自爆テロ志願者を集めているだけで、たまたまイスラム教が戒律によって信徒の生活全般を縛る性質があるから、利用されやすいわけで、それはかつてのオウム真理教みたいな状況と似ていて、要するに戒律が厳しい宗教ほど、その信徒は自らが属する宗派や団体に心まで支配されやすく、その中で崇め奉られている指導者的存在に盲従してしまうのであり、命がけの行動を促す命令にも従ってしまうわけだ。どのような宗教であれ洗脳思想であれ、それが狂信的になれば自ずから過激なことをやりたがり、ブレーキが利かなくなって、凄惨なことでも平気でやってしまうのだろう。

 まあ普通に説明してしまえばそうなるのだろうが、親兄弟を戦争で亡くしたり、極貧の中で打ち拉がれている者などが、自爆テロの捨て駒として使われている一方で、わけ知り顔の若きエリート学生なども感化されやすいようで、そういう者は、テロによって世界を救う、とかいうでたらめな使命感に燃えてしまうので、さらに始末に負えないのかもしれず、それがテロ組織内での権力闘争に勝ち抜いて、長生きすれば、次世代のニューリーダーとなって、将来組織の中核メンバーとなるのかもしれず、どのような組織や団体であれ、最終的には頭のいいやつがトップの座につくのかもしれないが、なぜそういう者たちはテロを自己主張の手段として使うのか。冗談のたぐいだろう。本気になれないのか。そんなことを考えているわけではなく、もっと何か別の効果を狙っているのではないか。君は不器用なのだろうか。別に破滅の美学に酔っているわけではなく、もっと実務的な仕事の一種だと思っているのではないか。そして時には焦燥感に駆られたりして、精神的に追い込まれているのではないか。それも楽しいことの一部なのか。何かの断片には違いないが、勝てる見込みのない戦いの最中に、いったい何を考えているのだろうか。たぶん国家としてのアメリカには勝てない。現時点では確かにそうだが、将来的には勝つ見込みがあるのだろうか。肝心なところは何をもって勝ちとするかだが、とりあえずテロ組織が存在しているうちは負けていないとなるだろうか。負けていないが勝つ見込みはない。そこにジレンマがあるわけか。しかしそれは何のためのテロなのか。本気でアメリカに勝つためにやっているとも思えず、何かの冗談のように、忘れた頃に世界各地で自爆テロが起こり、テロの脅威という認識を抱かせ、テロとの戦いという姿勢を継続させている。ともかくニューヨークの秋は静けさに包まれ、その中で誰一人として君のことなど思いもしないだろう。そんなわけで君は無視されて怒り心頭か。冗談の続きとしてはそういうことかもしれず、ビンラディンの骸骨が空想の世界で不気味に踊る。

 なぜそこから遠ざからないのだろうか。どこが思い出の地でもない。答えはすでに出ているではないか。君はそれを知っているはずで、誰彼ともなくそんなことを言いふらしたいようで、この世界の終わりを予言しつつ、それが嘘だと叫びながら、誰かが海岸通りの車道を逆走して、車にはねられ、比較的短い一生を終えてしまうわけか。そんな話がどこで語られるわけもなく、その場の思いつきにしてはお粗末すぎるか。もっと自信を持って語った方がいいのではないか。それ以外の何が語られているわけでもなく、語ろうとしていることを忘れ、誰でもない誰かとなって、虚構の世界で宙に舞い、誰かの意味不明を表現したいわけでもないのに、簡単にそうなって、ツインタワーが建っていた窪地の水たまりで寒中水泳がしたいわけでもないだろうに、死者を冒涜したいわけでもないのに、不愉快と愉快の中間で笑い転げたくして仕方がないようで、何だかどうしようもなく名もなきテロリストたちを擁護したくなってくるのだが、君はアメリカを愛しているわけでもないのに、そこに国家と対峙している何かを見出そうとしているようで、それは自由でも平等精神でもなく、何かすべてが混在しているでたらめな力のようなもので、様々な出来事や事物の複合的な混じり合いなのかもしれない。そういう意味からもテロリストたちの行為は極めて当然の成り行きに基づいていて、むしろテロリストたちの方が秩序だっていて、その攻撃対象のアメリカをひとくくりにして、悪の帝国と見なしてしまうところが、秩序の側に属していることを伺わせ、でたらめで矛盾だらけの存在たちを束ねた総称としてのアメリカを認めがたいのだ。そこには何があるわけでもなく、同時にすべてがあり、狂気と理性が混在していて、それらをどのように解釈してもしっくりこないような過剰があり、スポーツの狂気が受け入れられていて、ありとあらゆるすべての娯楽が渾然一体となって成立しているように思われるのに、実際にあるのは空疎だけであり、要するに何もないのだ。学問でさえスポーツと同じような競争原理で成り立っていて、様々なことが研究され探求され、その成果を実社会に活かそうとする努力が絶え間なく払われているのだが、それが実を結んでいるように見えるのは、そこにいる人々が共有している大掛かりな錯覚のおかげかもしれない。本当は無人の荒野なのに、誰もそんな現実を信じておらず、実態としては、そこに漂う幽霊たちが自然に立ちのぼる幻想を貪り食っているだけかもしれない。


9月9日

 とりあえず夜は涼しい。目が疲れているのか。たぶんよくないことなのだろう。それでも時は流れ、放っておけばどこかで取り残されてしまうか。何を放っておくのか。それは君が知っていることだ。あくびが出る。誰もそんなことは知らない。そしてまだそこで言葉を記している。もうとっくに忘れられてしまったかと思ったが、一応はそんなことをやっている。それで楽しいのか。何がそうなのか。目が疲れたから、明かりを消すとしよう。そしてまた翌日になり、昼はうんざりするほど暑い。ふと見かけたテレビの中の旅人は何をやっているのか。グラウンドゼロに行って何やら感慨に耽っている。高層ビルが自爆テロで倒壊して、三千人ぐらい死んだ場所だ。テロとしては大成功だったが、その後十年間も戦争に明け暮れ、その間人々は何をやっていたのか。テロとの戦いの前に無力感でも味わったのか。そんなことはない。もうすべては終わりだ。嘘だろう。そんなことはないか。でも他に何もない。そこで誰が被害を被ったわけではない。実際にはそうだろうか。またわざと間違ったことを述べている。たぶん何を主張したいわけでもないのだろうが、何の感慨もない。君はそれを知っていて、何の反応も示さないだろう。別に幻想を抱いていたわけではないが、何となく拍子抜けしているようで、何にがっかりしているのか示さないままに、何となく二日遅れになってしまいそうな気配が漂いながらも、そこで踏みとどまろうとしているようだが、たぶん無理だ。おそらく巻き返せない。暑くて冷房が強すぎるのか。矛盾しているが、暑さも冷房もどちらも苦手なのか。もうすぐ同時多発テロから十年が経つらしいが、それがどうしたのか。当時と何も変わっていないとは思わない。何かが変わり、風俗低俗なのはいつもの通りなのかもしれないが、相変わらずどこかの大臣によって失言が繰り返され、誰かの思うつぼの展開になっているようで、笑ってしまうが、それが紛れもない現実か。それいったい何が変わったのか。

 君は十年前と比べて少しは精神的に成長したのか。退化したような気もするが、きっとそれは気のせいだ。軽はずみに嘘をつくべきではないと思うが、何となくそんなことを述べているようで、それが何だかわからないが、要するにそういうことなのであり、何がどうなってそうなったわけでもなく、何かの必然でそうなってしまったのだ。でも実質的にはどうなったわけでもなく、相変わらずそんなこと述べているらしい。それでも君は知っているのだろう。何を知っているのか。末期の視線が見つめる方角に何があるというのか。何が末期なのだろうか。癌か何かか。誰かは烏龍茶を飲みながら画面を見つめる。他意は何もなく、おもしろがっているわけではない。別に勝ち誇るような場面ではないだろう。では何に負けているのか。そういう勝負とは無縁の成り行きか。しかし冗談の続きが行き詰まっているようだ。それらの何が冗談につながるのかは誰かの想像にまかせるとして、それほど調子に乗りたいわけではなく、むしろ停滞のただ中にとどまり、そこで居眠りでもしていたいのかもしれないが、惰眠をむさぼることが、どのような成り行きをもたらすのか知りたいような気もして、それらのすべてがフィクションの中で起こっているとも思えず、少しは現実の世界に影響を及ぼしてほしいような気にもなり、たぶんそこで何かを構成して、人々の心に訴えかける気でいるのかもしれず、そのために何かを模索している最中なのかもしれないが、実態としては誰もそこから動かないのであり、自らの立場を守るために汲々としているのだろうし、せこく立ち回って、自分の利害が絡むことだけには敏感に反応して、そういう小さな人たちがひしめき合っているのが世の中なのかもしれず、そういう狭いところに入り込んでゆく気にならず、遠くから眺めるばかりで、それで済んでしまえばかまわないような気になってしまうようで、何となくその辺で進歩がないような気がしているが、それでかまわないのだろうか。それでいいと思うなら、そんなふうにしていればいいのではないか。

 要するにアホくさいことをやっていられない性格なのかもしれないが、誰がそんなことを言っているわけでもなく、誰かがそんなことを記している実態に変わりはなく、やはりそんなことはどうでもいいのであって、どうでもいいついでにそんなことが記されていて、何となくしらけてくるようで、もう少し何かちゃんとしたことがやりたいのかもしれないが、要するに大局的な見地に立ちたいのだろうか。それはどういうことなのか。どこかの大臣の失言に過剰反応して、蜂の巣をつついたような大騒ぎに発展させたりするのではなく、そういうことを除いたら何もないような政治情勢なのかもしれないが、そういうところで人々に人間的な深みだとか懐の深さだとかがなくなって久しいことは承知しつつも、そういうことではなく、もっと普通にやるべきことをやってほしいような気もしていて、たぶん彼らはそれをやろうとしているのだろうし、やってもらえばいいだけなのだろうが、それ以前の段階で軒並み躓いてしまうところが、面白おかしくも馬鹿げていて、もしかして何かの祟りではないかと訝しんでいるのだろうか。しかし画面に向かって笑いながらそれはないだろう。君はやはり冗談でそんなことを述べているのだろうか。そうであるなら何なのか。何を述べても何でもなく、どう述べようと誰かの自由で、その自由を享受できない心の持ち主が悲惨なのか。とりあえずはその手のユーモア精神を理解できない輩が多すぎるように思われ、その辺で本気になって事に当たってしまうと、そういう無粋なペースに巻き込まれ、くだらないことにかかずらっているうちに、ミイラ取りがミイラになってしまうように、小さな世間人の仲間入りをしているのだろう。どうせ当人たちはそれに気づかず、お互いに足の引っ張り合いをしているうちに、何も成し遂げられないまま、そこからの退場を余儀なくされ、後は同じような他人が入れ替わり立ち替わり出現して、そんなことばかりが繰り返される成り行きとなってしまうわけか。


9月8日

 これで前回と同じ状態か。今日はもう少しできるような気がする。いつものアレルギーだろう。抗生物質を取り扱うとアレルギー症状が出る。わかっていながら手を出しざるを得ない。君はそれを知っているはずだ。そうなることを知っているのに、それをやってしまう。仕事だから仕方ないだろう。わざとそれを説明しなかったのか。わかりやすくしたくないのか。だが今日が今日でないことぐらいわかりそうなものだ。いったい何を勘違いしていたのか。そうではないと思う。空想の世界で何かが飛び跳ねている。記された言葉でないことは確かだ。それをこれから語ろうというのでもない。わかっている。頭が痛いのか。膝の痛み比べれば大したことはないが、別に満身創痍というわけでもない。何かを吸収しているようだが、それは水分のたぐいだろうか。ため息が出る。今はその理由を探しているわけではない。それにしてもまた蒸し暑さが戻ってくるらしい。天気予報でそんなことを言っていた。うんざりするような夏が逆襲を仕掛けているのか。あるいは最後の悪あがきか。もういい加減にしてもらいたいか。別にかまわないだろう。そういう成り行きなのだから仕方がない。そんなことしか記せないのか。そうではないような何かを語ろうとしているはずだ。またそんな嘘をついている。いつものことなのか。そうである限りはそうに違いない。君は手段を選ばないのだろう。成り行きまかせでそんなことを述べているだけか。やる時はやり、やらない時はやらない。語るべき時に語っていないではないか。それは何かのおまけだろう。要するに余分なのだろうか。何が余分なのだろうか。その辺があやふやなまま、どこかを通り過ぎ、また記述が翌日に持ち越しとなってしまったようで、時間が空いてしまったので、何を語っているにかわからなくなり、どうでもよくなって、たぶんいい加減に語ればいいのだろうが、なんとなくそれでかまわないような雰囲気が漂ってしまうのが、許せなくなってしまうようで、それが馬鹿げていると思いつつも、その気になっているのが愚かしいか。

 だがそんなことを気にしていたら、何もできなくなってしまうだろう。何もできないから語っているのではないか。そのことについてしばらく考えてみるが、結論は出てこないようで、見切り発車的にさらに言葉を記してゆく気になり、まただらだらとおかしなことを述べている誰かを想像しながら、そうではないと思い続け、そんなくだらないことを延々と語っている誰かを擁護する気にはなれず、どうでもいいに越したことはないが、そう述べる前に語らなければならないことがあるのではないかと思い、考えを巡らせてそれを探り当てようとしているみたいだが、今のところは何も見つからない。この世界はいったいどうなっているのか。金儲けの見込みがあるなら、何でもかんでも投機の対象となり、マネーゲームで巨額の金が動き、そんな情勢に一喜一憂する立場ではない人々は、普通に暮らしているわけだ。しかし普通とは何だろう。普通であることに何か肯定すべき価値があるのか。たぶんそういう方向で思考を働かせようとするのは暇つぶし以外の何ものでもない。要するに君には関係のないことか。しかしそこで試行錯誤をしないうちに降りてしまってかまわないのか。それではゲーム参加する意志がないと見なされてしまうではないか。だがそれは何のゲームなのだろうか。どうも本気になれないようだ。そういうことをやっている輩が存在していることが信じられず、ニュースで株や為替の値動きを詳細に伝えようとしている場面に出くわしても、そういう情報を享受する立場にある人たちがいったいどれほどいるのか、と疑問を感じざるを得ず、テレビや新聞や雑誌の紙上で政治経済について論じられている内容自体にリアリティを感じられないのは、どういうわけなのか。どうも実際のところは何がどうなっているわけでもなく、そこでは誰も画期的な意見を主張しているわけではなく、要するにこれまでの延長上で、それ特有の用語を駆使しながら、当たり前のことを当たり前のように述べているだけではないのか。だからそれがどうしたわけではないと思うしかないのだろう。

 そんなわけで君たちは何でもないことを何でもないように語るが、別にそれで何がどうなるわけでもなく、その内容が面白おかしいだけで、それで何がどうなるわけでもなく、ただその場で消費され、そして跡形もなく消え去り、忘れた頃にまた蒸し返され、またああだこうだと議論されるのだろうが、それもその場で消費され、時が経てば跡形もなく消え去り、また忘れられた頃に蒸し返され、そんなことが繰り返されているうちに月日が流れ、いつの間にかそういうことを語っている人たちも世代交代していて、新たな顔ぶれが以前と同じようなことを主張しながら、何やらその場を占有しているようで、ああみんな退屈しのぎにそんなことを主張し合っているのだな、と半ば呆れ気味に納得するしかないようで、君自身も年を取ったことを実感してしまうわけか。とりあえず今は幻想を抱かせるような物語には巡り会えず、同じようなことが延々と繰り返されている現状に疲れているのかもしれず、もういいのではないかと思いつつも、それをあきらめながらも見聞していることが、その場に居合わせた者に課せられた使命とは思わないが、そういうことの連続のうちに、何かそれとは違う成り行きになりそうな兆しを感じ取らなければならないのかもしれず、それを感じ取れなければ、延々とそういうぬるま湯状態に浸かったまま、その他大勢の人々ともに忘却の彼方へと旅立たなければならないのだろうか。その辺がよくわからないところだが、君自身は結果的にうまく立ち回っていることになるのだろうか。別にそうなったとしても、どうなるわけでもなく、依然としてそんなことに関わり合いながら年を取っていくだけで、それ以上のどんな立場へと昇格できるわけでもなく、ひたすら現状と折り合いをつけようとしているだけで、そのための努力を常に強いられ、何とか対応するだけで精一杯の状況が続いていて、とてもそれ以外のことまでは手が回らず、心にまったく余裕がないのだろうか。まさかそのままそれをやり続けているうちにすべてが終わってしまうのだろうか。


9月7日

 それを続けるためには何か犠牲が必要なのか。なぜかそこで立ち止まっている。誰のためでも自分のためでもありはしない。そんなくだらぬ主張に耳を傾けている。また見当違いのことを述べているようだ。本当はわかっているのだろう。確かにそうではないことはわかるが、ではどうすればいいのか。そこで止まっているはずだ。またあくびが出てくる。どうも同じような無内容になってしまいそうな気配が漂っている。そうならないための秘策でもあるわけか。何も思いつかないようだ。君は知っているのだろう。そうならないためにはやめればいい。わかりきったことだ。それ以外には方法がないわけか。そうだとしてもやめるわけにはいかないか。それはわからない。そういうことではないのかもしれず、それ以上の何かを求めているのかもしれない。実際とは違うことを考えている。やめなければそのままだ。それでかまわないと思えばいい。要するに君には語る対象が与えられていないのだ。わかりきったことを繰り返す必要があるのか。そんな自問自答も語る対象とはなりがたく、この世界のどこかに不幸な境遇の誰かがいるとしても、別にジャーナリストでもないだろうから、首を突っ込む気もなく、そんなことが歌われている曲を聴いているだけか。それでかまわないのか。かまうもかまわないも、君には関係のないことだろう。フィクションの世界では誰とも無関係か。そういうことではなく、さっきまでは語る対象を探していたはずで、それについて語ろうとしていたのではなかったか。現実に語っているではないか。何について語っているのか。語る対象と求めていて、そう語っているわけだ。それでは不満か。いつものパターンだ。要するに自問自答か。何がそうなのだろうか。とぼけるのもいい加減にしてほしいか。だからそういうのがだめだと思っているわけだ。それは解決しがたい問題か。やめたらいい。またそれだ。それでも何とかしようとして、実際に何とかしつつあると思っている。

 もう少しの辛抱だ。やがて秋がきて、夜は冷え、エアコンいらずになりそうで、それまでの辛抱か。だがまだ昼は暑い。それの何が堪え難いのだ。暑いからか。ではそこで終わればいい。もうくだらぬ作り話は終わりにしよう。話になっていない。話になるようにすればいい。もういい加減に飽きてきた頃だ。もっと楽な生き方がないものか。それらのどこが食い違っているのだろうか。世の中は苦しみで満ちている。苦しいと思うなら、苦しんでいればいい。それが正しいと思うなら、それを押し進めればいい。自己中心的に考えるなら、何となくそれによって苦しみ、とりあえず苦しんでいれば、いつかその苦しみが糧となり、さらに苦しむことになるだろう。それが正しい生き方か。またどうせ冗談でそんなことを述べているのだろう。まだ目覚めるわけにはいかないか。誰かの身に何が降りかかっているわけではない。では君の宿命が君自身に何をもたらそうとしているのか。虚構をもたらしている。ならば探しているのは虚構の世界か。その辺にわだかまりがあり、こだわりを守ろうとすれば苦しみ、こだわりから解放されようとすれば苦しみ、たぶん君はその苦しみによって生きながらえる。そんな嘘をどこで語ればいいのだろう。もう誰かがここで語っているではないか。うまくいかないのは誰のせいでもなく、それは極めて当然の成り行きなのか。うまくいかないからこそ、それを語っているわけだ。うまくいっていれば、あえてそれを語る必要などありはせず、黙って自己満足に浸っていれば、それでいいはずだ。君はそんな語る苦しみから解放されたいのだろうか。眠たくなってきたようだ。寝てしまったのか。深夜に目覚めるが、もうやる気にはならないようで、そのまま寝てしまい、続きは翌日に持ち越しになってしまう。そして目覚めたら朝が寒い。ようやく夏が過ぎようとしているのを実感できる気温になってきたようだ。気分は優れないが、何とかそれを終わらせて、次へ進もうとしている。

 体調が思わしくないようだ。平衡感覚がおかしいようで、首を傾げながら、何だか不思議に思われるが、それを表現する言葉が思いつかず、語彙が貧困なのかもしれないが、要するにそういうことになり、何がそうなのかわからないまま、そこから無理に語り進めようとしているらしく、そんな気分は置き去りにしたつもりで、しばらくそのことに精神を集中させているようだ。頭が痛くなるか。そうではなく、他に何かないだろうか。もはや泥縄式も限界なのかもしれないが、それでも誰かは何かを成し遂げようとしている。そうした努力が実を結ぶとどうなるのか。どうにもならないだろう。それ以前にもうそれらの言葉は君のものではなく、誰のものでもありはせず、誰によって記されたものでもなくなり、想像の世界で砕け散り、粉々に粉砕されて、元の白紙に戻ってしまうか。なぜそんなでたらめを述べるのか。どうでもいいからそうなってしまうのだろうか。よく見れば、どこかに人々が群がっているようだ。何かのイベントに押し掛けているわけか。そこで何を求めているのだろうか。安売りの商品か何かか。なぜそんなことをやらなければならないのか。それは愚問だ。儲けたいからそういうことをやるのであり、少しでも安い商品を手に入れたいから群がるのだろう。そこでやる側とくる側の利害が一致しているわけか。だが他の店で売れなくなってしまうだろう。どうせ他の店でも安売りを仕掛けるだろうから、どっちもどっちか。中には高くても質の良い商品を売る店もある。それで儲かればそれに越したことはないか。誰かは面倒くさいから近くのスーパーで買い物を済ませてしまい、高かろうが安かろうが、それがすべてというわけでもないようで、気にならない範囲ならどうでもよく、要するにそういうことにはあまりのめり込めない性格のようで、それほど経済的に切羽詰まっていないということか。せこく切り詰めた生活を送ると、せこい人間となってしまうか。それでもかまわないのだろうが、そこまでやるほどの根気がなく、適当なところでいい加減に生きていたいのかもしれない。


9月6日

 それほど気まずい雰囲気を漂わせているわけではないが、何かを考えあぐねたあげく、誰かがそんな心境に至り、数日ぶりの青空を見上げながら、あれらの生きた心地がしなかった日々を思うこともなく、フィクションの中で言葉を記し、誰の琴線に触れているふうも装わず、当たり障りのないことを語ろうとして、どこかでふと立ち止まり、またしばらく考え事の最中のようで、それから辺りの風景を眺め、細かな家々が立ち並び、今さらながら一分の隙間もないことに気づき、その一見無駄を省いているようでいて、実はそれらのすべてが無駄でしかないことに気づかないばかりか、後はひたすら同じことの繰り返しにしかならない状況について、何やら社会構造の限界と文明の恐ろしさを感じざるを得ないか。同じ場所にとどまれば、同じことの繰り返しにしかならず、それに飽きたら旅に出るしかないらしく、忍耐と気晴らしの期間が交互に訪れないと、人は気が狂ってしまうのだろうか。たぶん正気を保つことができないのであり、それらの不自然な営みから逃れようとして果たせず、もうあきらめているのかもしれないが、何とか虚構の中で、それらとは違う世界を構築しようとして、あるいは他の誰かがそれを疑似体験しようとしているらしく、世の中はそんな試みで満ちあふれているようで、絶えずそれを超える何かをもたらそうとしている。要するに虚構の世界では絶えず現実から離れようとして、現実の世界で強いられる不自由を忘れようとしているのだろうか。そういう意味で虚構の世界はいつもご都合主義に染まっていて、放っておけばあり得ないことが平気で実現できるような思い込みが蔓延して、現実との背離が著しくなってしまうのだろうが、たぶん誰かが追い求めていた夢とはそういうものなのではないか。そういうわけで人はいつでも現実とは違う何かを追い求め、その思いが叶うときを夢想するが、それのどこまでが現実とつながっているのかわからず、そんなことを思っているうちにブレーキがかかる。

 君はそんな現実についてどんな疑念を抱いているのか。フィクションを語ろうとしていること自体が紛れもない現実だ。だが眠たくて話にならない。そこから先はどういうことを述べたらいいのだろうか。もうすでに語ってしまって、何も語る必要を感じない。そうならそうで語らなくてもいいのに、そこから語りだそうとして、蛇足になってしまうのを承知で、さらに言葉を連ね、それが実際にやっていることだと自覚しながらも、それを何とかフィクションにつなげようとしているのか。やる必要を感じないのにやろうとすれば、そこから先はどうなってしまうのか。指先に何か細かなとげがめり込んでいて、痛みを感じる。放っておいてもかまわないのか。取れないから放っておくしかないようだ。そんなこと思っているうちに眠気が去り、同じことの繰り返しから脱却しようとしているみたいで、さらにそれを続けようとしてとりとめがなくなり、それがいつものパターンであることを自覚しながらも、同時にそれ以外のやり方を模索しているのか。まさか実現するわけがないか。だが着実に言葉を記しているようで、そのままの流れでかまわないような気がしてくるが、それは罠か何かか。実際にやり通してみればわかることだ。そしてそれを超える何かをつかみ取ったと思えば、それが虚構のかけらかもしれず、要するにフィクションの中でそんなことを述べていることに気づいてしまうのか。あり得ない。また何かの冗談かもしれないが、思い通りにいかないのは毎度のことだ。それをどうにかやり通して、何とかなったと勘違いしつつも、それだけでは気が済まず、さらに途方もない企みをねつ造しようとして、どんどん現実から離れていって、次第に地に足がつかなくなって、それとともに絶えず押し寄せてくるわけのわからない浮遊感に戸惑い、これ以上病状が進行してしまうことに、恐れを抱くようになり、どうにかして適当なところで妥協して、正気を取り戻そうとするが、そうなってしまった時点で手遅れなのか。あるいは少冗談が過ぎるだろうか。ただ単におかしいだけか。いったい何がおかしいのか。それはその次に語らなければならないが、できるわけがない。ならば今語るべきなのか。

 たぶんそんな成り行きではないのだろう。もっと簡単に考えたらどうか。考えられないようだ。何をどう考えればいいのか。そしてもう忘れている。そんなことはどうでもよくなっている。どうも懲りないようで、少しめまいがするが、何とか立ち直り、その先に言葉を記しているようだが、内容は至って空疎か。どうやっても君の思うようにはいかないらしい。何について述べているわけでもないのに、それだけのことにかかりきりになり、他のことがおろそかになって、周りに迷惑が及んでしまうだろうか。しかし自由とは何なのか。そんな状況でも語る自由が確保されなければならないのか。現実には何も語っていない。ではそれらのすべては無に帰す運命なのだろうか。安易な見解は的外れもいいところだ。何もありはしない。それに関して言葉など記すには及ばないだろう。その代わりに出てくるのはあくびばかりだ。そしてわからなくなり、何がわからなくなったのかもわからなくなり、ただ漠然と言葉を記している自分にも気づかず、何をどうしたらいいのかわからないままに、それが作り話なのかどうかさえどうでもよくなって、嘘か本当かもわからず、何となく黄昏れた気分になり、誰かがそこで朽ち果てているようなつもりとなって、枯れ木に水をくれる気も起こらず、黙って夕日を見つめながら、話の途中からフィクションの中に意識が埋没してしまったように思われて、そんなことなどどうでもよくなっているわけでもなく、ひたすら言葉を記していることに気づくだけか。またいつものように嘘をついているのだろうか。本音では何も語らず、架空の誰かを通して何かの裏返しのようなことを述べて、それで何がどうなったのかわからないが、とりあえずはそこから逸脱して、何か適当なことを語る術でも身につけたいのかもしれないが、結果としてそれがうまくいっているかどうかはわからない。たぶんそれとは違うことなのかもしれず、それがいつもの意味不明を招いているかどうかはともかく、もしかしたらそれそのものを語っていることに気づかないのではないか。


9月5日

 たぶんもうそこから離れているはずだ。君にはもう先が見えている。たぶんその辺で終わりだろう。そこへ未来への可能性がなくなり、扉が閉ざされ、後はもときた道を引き返すか、その場で朽ち果てるかのどちらかだ。まさか唐突に二者択一の機会が訪れるとは思わなかったが、そんなのは嘘に決まっていて、たとえそうだとしても無視するしかなく、どちらも選ばずに、そこからあらぬ方角へ視線を向け、それが目指すべき方向だとは思わないが、そんなふりをしながらも、まずはそちらへちらりと目配せして、何か思うところがあるように装い、それから何となくそんなことを思いながら、どうしたものかと途方に暮れたふりをするわけか。やはりこの期に及んで何も語らないつもりらしく、本当はまともに語りたいのかもしれないが、今のところはそういう成り行きになっていないようで、ただひたすら無駄に無意味なことを語り続け、それで何とか記述を済まそうとしているのかもしれず、いったいいつまで続くのか、半ば呆れ気味だが、それでも一向に容赦しないようで、それと気づかないうちに、それをやめるきっかけさえつかめなくなってしまったらしい。そんなことがあり得るだろうか。今実際に語っているそれは何なのか。何でもないというのは嘘なのだろうか。実際にかなり疲れているはずで、精神的に参っている。虚空に言葉を散らかすことがそんなに苦痛を伴うのだろうか。そういう表現自体がでたらめに思われ、誰かの理性を痛めつけているわけか。別にそれが皮肉に思われるわけではなく、ただ率直にとりとめがなく、ひねくれることさえ忘れているようにも思われ、何もつかみ取れないまま、それでも闇の中で何かをつかみ取ろうとしているのかもしれないが、蛍光灯に照らされている状況下で、何が闇でもないような気もして、それがフィクションであることも考慮に入れながら、さらに言葉をつなげるとすると、冗談のついでに語るべきことが思いつくかもしれず、別にそれを切実に求めているわけでもないのに、何となくそこに何かから抜け出る出口が開いているような気がして、そこへ向かって走っていくが、向かった先に何があったかは、誰かの想像にまかせるとしよう。

 本当は何もないくせに、馬鹿に気を持たせるではないか。オペラ座の怪人がどうしたのか。まさかそれも劇団四季か。別に身の毛がよだつわけではないが、そんな広告を電車の中で見かけ、まさかライオンキングをまだやっているわけでもないだろうとは思うが、世の中には恐ろしい人々がいるらしいことは確かなようで、毎度おなじみを年がら年中繰り返し、何となくそれが誰かの文章との共通点を連想させるわけでもないだろうが、毎度おなじみの水戸黄門も終わるらしい。たぶん君はこの世界のどこかで誰かに出会うのかもしれないが、なぜかいつも肩すかしを食らい、こんなはずではなかったとがっかりするのかもしれない。君はそれらの儀式についてどう思っているのか。たぶんその辺でくだらぬ儀式を終わらせなければならないと思っているのかもしれず、そのために何をやろうとしているのでもないだろうが、ともかく傍観者でいることに飽き足らないようなら、その場で何かを主張しなければならず、たとえそれがでたらめと紙一重だろうと、何らかの説得力をまとうように工夫を凝らさなければならないのだろうか。そのための努力を怠ってしまうと、いつまで経ってもでたらめのようなことしか主張できず、周りから頭がおかしいと思われるだけか。たぶんそうであってもかまわないのだろう。現状で他に何が主張できるのか。たぶんくだらないことはどこまでもくだらないだろうし、まともに語る必要があるようなことなどどこにもありはしないと思っていれば、そういう内容になってしまうだろう。だからそれが君の狙いなのだろう。何もないのに強がってみせようとすればそうなるしかない。語ることに関してなら、限界などどこにもなく、いくら語ってもそんなことばかり語っているとすれば、それは延々と続くしかないだろう。そういう語り方に終わりはなく、その先には何も用意されてないのだから、終わりなどあるわけがなく、あるのは空疎な言葉の連なりだけか。

 それがなければ続かない。別に続けたいわけでもないのだろう。そんな嘘をつきながら何を狙っているわけではなく、ただそんなことを思っているだけか。思ってもいないのではないか。何かの成り行きからそんなことが記されているだけのようで、そんな説明では納得できないだろうが、足下がふらついている。地震か何かだろうか。何でもなく、そんなことを気まぐれで記したまでのことか。しかし君に何がわかるというのか。君は知っているはずだ。そこで誰が語っているか知っている。たぶん誰かが語っているのだろう。では何を語っているのか。答えられないか。たぶんそこからが問題なのだ。テレビで明日の天気について語っているのは天気予報士か。そういう逃げ方はおかしい。大地が揺れている。それについて語るのか。たぶんそうではない。それはいつのことなのか。そういうことではない。たぶんよくわからないのだろう。言葉の組み合わせに工夫を凝らせないようだ。なぜそうなってしまうのか。もうとっくに限界を超えているからか。それは何の限界なのだろう。語ることが可能な領域を超えている。だがそこから語ろうとしているのだろう。そうでなければ終わらない。話にならない話が終わらないのはいつものことか。納得しがたいからそんなことを述べているのだろう。何に納得していないのか。執拗にそれを続けていることに納得していない。もういいのではないか。ではやめるべきか。くだらないことで迷っているらしいが、それも何かの嘘なのか。たぶんそうだ。どうでもいいのにそんなことを記し、それで何とか間に合わせようとして、説明になっていないような説明を記し、やはりそんなことの繰り返しによって文章を構成しようとしている。意味がないか。もとから無意味な行為の連続なのではないか。別にそれで非難されているわけではなく、そういう紆余曲折を経ないと、まともな何かにはたどり着けない。だが何かとは何なのか。またそれか。そればかりでうんざりしているわけか。そんな自問自答にもうんざりしているはずだ。頭の中で何かが暴走しているのだろう。そういうことにしておこう。本当は違うかもしれないが、それも何らかの成り行きに沿った語りなのだろう。


9月4日

 暗闇の中で何に見とれているわけでもなく、夜に雨音を聞いているのも昨日と同じか。夜だから仕方がない。しかし雨音がうるさい。大雨にもいい加減にうんざりか。自然の猛威なのだから、それはそれで自然な成り行きだ。でも何かおかしくないか。きっと気のせいだ。でも気になることがあるはずで、それをないがしろにはできないはずだ。ではどうしたらいいのか。音楽を聴いていればそれで済んでしまう。そんなはずがないだろう。でも雨が降り続き、それでもうんざりするほど降り続き、ニュースでは各地で被害が出ていると報じている。人も死んでいる。だがそんなこととは関係なく、君は相変わらず頭がどうかしているようだ。そういう話題ではだめなのか。全く興味がないが、他に何の話題もなく、一夜明けて、外は久しぶりに晴れている。それ以外に何があるわけでもないか。語ることが何もないようだ。目が疲れているのだろうか。少し休んだ方がよさそうだ。そんなわけで少し休んだが、どうなったわけでもなく、だらけた文字列が続いているようで、そんなことしか記せず、中身のないことを述べているのは相変わらずで、まったくとりとめがないようだ。そういえばさっきから蝉の鳴き声が聞こえている。まあ疑心暗鬼になったり被害妄想を膨らませて、感情的になってはいけないのだろうが、そんなくだらない何かを振り払い、その先を目指しているのかもしれないが、その先とはどの先なのか、その辺が漠然としていて、話にならないようで、目標も目的も定かでなく、述べているのはそんなことばかりのようで、いささか呆れている次第で、それもいつものことだと思うと、それ以外が何もないような気がして、どうもその辺でおかしいことがわかっているのに、それを改善できず、そのきっかけさえつかめないままに、どうにかなってしまうのかもしれないが、果たしてどうなってしまったのか。

 たぶんこうなっているのだろうが、これのどこが気に入らないのか。そういう語り方がそもそも気に入らず、もっと何か具体的な事柄について述べていたいのに、なかなかそういうわけにはいかず、他に何も思いつかないのだから仕方がないのだろうが、居直るわけにもいかず、絶え間なく出てくるあくびにまかせて、取り立てて何を語るわけでもなく、何ももたらせないことにいらつく仕草とともに、君はそんなことを語っているつもりなのだろう。またそうやってはぐらかそうとするのか。そういうつもりではないのだろうが、結果的にはそうなってしまい、そうならざるを得ないような成り行きの中で、何となく嫌気がさしているのかもしれず、できることならそんなことに関わりたくはなく、さっさとそこから立ち去りたい気分なのだろう。それができればどんなに楽なことか。できないから鬱陶しいのだろうか。その辺もよくわからないのだが、まったく嫌がらせにもほどがありそうか。そうも言っていられず、何が何だかわからないままに、気がつけばそこから遠く離れ、時が経てば何でもなくなってしまうのかもしれず、そうなることを期待しながら、君は相変わらず冗談のような日々を過ごしているのかもしれないが、それは君のせいではない。そんないい加減なことを記している誰かの責任か。そうだとしても、よりいっそう無責任に記さなければならないだろう。そうしなければ気晴らしにならず、不快な何かを提示する気になれない。その気もないのにそんなことを述べてもかまわないのか。何を語ってもかまわないのではないか。それはそこで言葉を記している者の自由なのかもしれないが、やはりそれは誰の知ったことでもなく、現に不自由な語り方で、どうしようもなく押し出されているような言葉の連なりが記されていて、それの何が自由意志と関係があるのかわからない有様となっていて、そういう成り行きに従いながらそんなことを述べているに過ぎず、実際のところ何も自由ではない。何よりも軽やかさとは無縁で、どこかに這いつくばりながら何かの重みに耐えているような案配で、かなりしんどいことを述べている。なにしろ何も語ることがないと嘘をつかなければならず、それ以上は語り得ないのだ。

 だからそんなのは嘘だと言い放ち、それで何かから解放されたいとは思わないが、曲がりなりにもここまで語ってきて、その事実を肯定できず、やはりそれらを否定しながらそんなことを述べていくこと以外にやりようがないようで、そんなことしか語れないことが、何やらうんざりしている原因であることは明白なのだが、いったいどうやればそれらの苦痛から解放されるのだろうか。それを模索しているわけでもないのに、ひたすらそんなことを語りながらも、いつかそこから抜け出られるような気がして、やはりそれを延々と続けていくしかなさそうで、君にはそれがお似合いなのかもしれないが、君とは誰でもなく、ただ君と記されている言葉でしかなく、そこからどこかいい加減な横道に逸れようとは思わないが、何から逸れようとしているのかわからず、どこから逸脱しようとしているのかも定かでないが、とりあえずはその続きがありそうで、どんな続きなのかはいつもの通りで、ひたすら空疎なことを記していく以外になく、それ以外を求めているのに、そこから抜け出せずに、どうあがいてもそれだけのことでしかないのがしゃくだが、今はをそれを認めるしかなく、それ以外の何ももたらせていない事実を否認するわけにはいかないようで、どうしようもなくそうなっているわけだ。たぶんそれがどうしたわけもないのは毎度のことなのだろうが、もういい加減に別のことを述べた方がいいのではないか。できればそうしているところか。たぶん君には何もできはしない。そんなことを記している誰かもそう思う。いつまでもそんな語り方でかまわないのか。いいわけがないのはわかりきったことかもしれないが、やはり君に何ができるわけもなく、うんざりしながらも、そんな話につきあわされ、それももうすぐ終わるからもうしばらくの我慢だと思うが、果たしていつまで我慢することになるのだろうか。もうほとんどこらえきれずにその場を立ち去りそうになっているのだろうか。そうした方がいい。嫌ならさっさといなくなればいいだけのことか。だからそれができればとっくの昔にいなくなっているはずだ。


9月3日

 しかし何でそんな状況に陥っているのか。誰に問いかけているのではない。では相変わらずの自問自答か。ならばなぜ自問自答に陥っているのか。もう語ることに飽きてしまったのだろうか。少なくとも自問自答には飽きているはずだ。どうせ本気ではないのだろう。そう述べていること自体が強がっていることの証しであり、傲慢さの表れである。それがわかっているのになぜ本気で語れないのか。気に入らないのだろうか。当たり前だろう。勘違いもここに極まり、あえて真実を語ろうとしないことが、そこでの怠惰を招いている。それは本当だろうか。いったい何が真実なのか。何だかわざとわけがわからないように語ろうとしていないか。なぜかその辺で話が停滞しているようで、何を語りたかったのかわからなくなっているようだが、いったいその時の記憶はどこへ行ってしまったのか。そういうことでもないだろう。では何がどうなっているのか。何もどうもなっていないのかもしれず、ひたすらそんなことを述べているだけか。また迷っているのだろうか。何を迷っているのか。頭の中がまとまっていないのに、無理に語り始めているから、そうなってしまうのか。指先がしびれているようだが、それは何かの予兆を示しているわけか。関係のないことだ。たぶんそれも何かの攻撃的な感情の表れかもしれず、わざと関係のないことを述べているようだ。それについていくら想像力を働かせてみても、自分に都合のいいようにしか捉えられず、そこから何らかの勘違いが発生しているのだろうが、そうならないためにはどうしたらいいのか。空想していることと生きつつある現実が背離してしまうのは、思い通りの結果が出てこないからか。そしていわゆるボタンの掛け違い的な事態に直面して、ますます悩ましい状況となってしまうようで、語ろうとしているのとは別の方面から思わぬ作用が働き、何だかそこですべてが水泡に帰さなければ気が済まないような思惑が空想され、それに沿う形で出来事が次から次へと起こり、もはやこちらからは何も手出しできないような様相を呈していて、それ自体が自立的に動いているようだ。

 そんなわけでもはやお手上げ状態で、ただ黙ってそれらの推移を眺め、あれこれ口出しする気も起こらず、本当にどうでもよくなってしまい、何だか聾桟敷におかれているみたいだが、それはそれでよいことなのだろうか。これ以上は疲れたくないから、そこから脱落したままで、やるべきことをやらず、何かをさぼっているように装えばいいわけか。現状ではそういうことになっているようだが、それも思い違いのたぐいだろうか。どこかへ行き着くために様々な手順を踏んでいる最中に、無意識が勝手に情報処理しているだけで、何もやっていないように思い込んでいても、実際には頭を働かせ、うまい具合になるように絶えず何かを微調整しているわけか。やっているのはそういうことばかりのようで、何かの背後から何かを操りつつも、自らは何も手を下していないように装い、その辺でうまく責任逃れをやっているわけか。別にそれでやましさがこみ上げてくるわけでもなく、それも一つの関与であり、そういう形でしか状況に関われないのだろうから、それ以上表舞台に足を踏み出すわけにもいかないのだろう。だからそれはそれでその場の状況に応じたやり方で、適切な判断に基づいてやっていることであり、それでうまくいけばそれに越したことはないとなるのだろうが、そんなふうに語っていること自体が、何かの袋小路に迷い込んでいるような感じで、具体的なことは何も語っていないのに、何かについて延々と述べているように装いながらも、その肝心要の何かをごまかしているようで、どうしてそうなってしまうのかよくわからないが、本当に語ることなど何もなく、語る必要もないのに語っているからそうなってしまうのか。あるいは本当は語るべきことがあり、それについて語らなければならないのに、それを語ってしまうとそこで終わってしまうから、なぜ終わってしまうのかわからないが、とりあえずはそれの周辺をぐるぐる回るような語り方で、ひたすら語っているふりを繰り返しているだけなのか。

 そうだとしてもおかしい。なぜそんな嘘をついているのだろうか。何が嘘なのだろう。何が嘘でもないか。今さら何を語っても違うと思われ、わざとそんなことを述べているだけであり、その辺で行き詰まっているだけのような気がして、それ以上闇雲に言葉を連ねようとすれば、やはりそんなことの繰り返しとなり、いつまで経っても空疎なことを語り続けているのかもしれないが、それがいつまでも続くと思っていること自体が、勘違いもいいところか。それでも語ろうとしているではないか。実際に時間をかけてひたすら語っているはずだ。要するにそんなことを語っている。そして考えているわけか。こんなことをこのまま続けていってかまわないのか。あるいはもっとうまく語る方法を模索しなければならないのか。そんな努力をしようとすること自体が馬鹿げているのではないか。ではどうすればいいのだろう。さらに語ればいい。いくらでも言葉を連ね、言葉を記す練習をしなければならない。冗談でそんなことを述べているのだろうか。誰が述べているのでもなく、誰かがそれを記しているのだ。そしてその誰かが勘違いしている。君は誰かの物語でも記しているつもりなのか。他に誰がいるのだろう。君ではない。誰でもないが、そこで何を記しているのか。そんなことばかり記してどうするのか。どうもせず、ただそんなことばかり記している。それだけのことだろう。それだけのことなのに、どうしてそんなに苦労しているのか。本来なら言葉を記すのはもっと簡単なことではないのか。別に内容にこだわっているわけでもなく、むしろそのほとんどが無内容に近いのに、なぜかをそれを記すのに難儀しているようで、本来ならもっとでたらめなことを記そうとしていて、実際にそうしようとしているのに、良心の呵責からそれを躊躇しているだけではないのか。だからおかしな具合となって、中途半端なことを延々といいわけがましく述べているだけで、何のおもしろみもない内容となり、その結果自己嫌悪に陥り、ますますふさぎ込んでいるのではないか。冗談だろう。嘘に決まっている。


9月2日

 翌日の昼に何を考えているのか。風が強い。どこかの大地に強風が吹きつけている。それは架空の物語の中でのことか。でも実際の台風はどうなってしまったのか。数日後には跡形もないか。そして別にそれがどうしたわけでもない。いつもの台詞に呆れているだけか。あるいは眠たいのか。もう夜になっている。確かに眠たいのだろう。疲れているのだろうか。だが疲れていることがいいわけにも理由にもなりがたい状況のようだ。相変わらず何を語っているのでもない。君は何もやっていないのではないか。ただ眠っているだけか。誰かが昼の間に仕事をしていたはずだが、それが君に何を疲労以外のもたらしているわけではない。いったいそれの何が革命なのか。唐突にいつのことを語ろうとしているのか。時と場所が分からないではない。わかる必要がないのだろう。記された言葉の連なりが意味を担えないのを利用して、わざとそういうことを述べている。そしてどこかで何かが砕け散っている。何がそうなっているのだろうか。ごまかしの上塗りかもしれないが、今だってそれはそうだ。少なくともさっきまではそうだった。ではたぶんこれからもそうだろう。そんなことを述べていると虚しくなってしまい、やる気が失せ、いつもの意味不明で凌ぐしかなくなって、別に何を凌いでいるわけでもない認識に行き着き、何でもなかったような気になり、その場では誰が神でもないことが、何のいいわけにもなりそうもないことに気づき、他にどんな問題を抱えているわけでもなく、至って単純明快に、それではだめだと思っている。そんなわけでもう言葉のお遊びは終わりか。あるいはまだまだこれからなのだろうか。まだ何かが始まったばかりで、要するにこれから何とかしなければならないと思っているのだろうが、すでにここまでわけのわからないことを記してしまったのだから、時すでに遅しか。

 別に一発逆転を狙っているわけではないはずだ。そしてそれはそれでそういうことになり、何がどうなったのか知らないが、君はその顛末を知っているはずで、愚かしくも馬鹿らしいこだわりが災禍を招いていることは明白であり、何だか違うような気がしているだけか。それはどういうことなのだろうか。素直になれない理由でもあるわけか。要するに成り行きまかせに生きているということだろう。確かにその場その場では的確な判断を下そうとしているようだが、それらの総体として間違っているのではないか。勘違いに基づいた認識で事を運ぼうとしているから、結果としてそうなってしまうのだ。それはないと思いたいのだろうが、順序だてて経過を追っていくと、残念ながらそういうことになってしまい、やはりやめた方がいいということになりそうで、最終的には間違ったことをやっていると思われる。だからそれはそれでそういうことで、平然とそのままそれをやり続け、間違ったことを最後まで押し通すつもりなのかもしれず、そんなこだわりが身の破滅をもたらそうとも、それでかまわないと思ってしまうのだろうか。たぶん人ひとりがどうなろうとどうということはなく、宇宙全体から見れば、人類が滅びようがどうしようが、どうということもないだろうし、その辺で小さなことにこだわり、ねじれたことをやり通そうとして、身の破滅を呼び寄せているとしても、やはりそれがどうしたわけでもないとしか思えないところが、何か頭のどこかで故障が発生しているような気がして、しかしそれでも平然と暮らしているのだろうから、それはそれでそういうことでしかなく、要するに何でもないことなのだろうが、そういう人間を前にすると、普通の神経の持ち主なら苛立ち、ふざけるなと思い、時と場合によっては怒り、罵声を浴びせてしまうところか。でもそうなったとしても、何ら怯まず、マイペースで生きていけるかもしれず、要するに本気になるのが面倒くさいのであり、いつも隙だらけの風情で、ただ何も考えずにその日を暮らしている。なぜそうなってしまったのか。君は嘘をついている。

 虚構の中で何を述べているのか。それを語るのは誰でもない。沈黙が言葉を記し、影がそれを語るらしい。まったくのでたらめだ。やる気がないのならそういうことにしておけばいい。その気もなく、嘘をつく気もなく、何かの気まぐれでそんなことを述べているのかもしれず、そんな気分に浸りながら、何を語るべきか迷っているのかもしれず、語る内容もないのに迷うも何もないような気もするが、そんなことを語るのをためらい、語ってしまった後から悔やんでいるわけか。だがそれは冗談に過ぎない。そんなふうに語るのはおかしいのではないか。もとからおかしいはずで、今さら蒸し返す必要のないことを蒸し返そうとしているわけだ。だからそれではだめなのか。だめに決まっているだろう。ではどうしたらいいのだろうか。それについて語ればいい。何について語るのか。それがわからないというのは嘘だ。それ以外は何も嘘ではない。では何を語っているのだろうか。正気ではない。では冗談の続きか。誰と会話しているのでもなさそうだ。だから正気ではないと言っているだろう。ならばわからないことにしておこう。興味がないのか。何に対しても興味が湧かないか。そうではないが、そういうことにしておきたい。その理由は何なのか。語るためには興味がない方がいいわけか。また冗談を述べているのだろうか。興味がないことにしておきたい理由などありはしない。たぶんそれだけではないはずだ。では他に何があるのか。外では風が吹いている。たぶん何の勝ち負けなど知ったことではないのだろうが、テレビを見ながら時を無駄に費やして、何が挙げ句の果てにどうなってしまったわけでもなく、他の何がどうなってそうなってしまったのかも興味のないところか。さっきまでは何かの結果を気にしていたではないか。たぶんそこには夢があるのだろう。それは誰の夢でもなく、他人の夢だ。別に何に洗脳されているわけではなく、君はいつでも他人の夢を見ている。それが夢のすべてなのか。冗談でなければそういうことになる。君はそこから外れたいのか。今となっては無理だろう。


9月1日

 何となくどうもしないようだが、時折雨が激しく降ってくる状況に変わりない。台風が過ぎ去るまではこんな状況のようだ。しかし何を語ろうとしているのかわからず、心がここにないようにも思われ、こことはどこなのかも知らず、それが嘘であることはかろうじてわかるが、そうなるべくしてなっているような気もして、それが当然のこととして、さらに言葉を連ねてゆくと、行き着く先には何があるのかといえば、果たして何があるのだろうか。今まで問い続けてきたことに対する答えでも用意されているのか。誰かが著した物語の中でなら、何かしら解答のごとき結論が用意されていてもいいような気もするが、これが現実の世界での話となると、問いはそのまま放置され、やがて問いかけていたこと自体が忘れられ、それに纏わる意味も意図も思惑もどうでもよくなり、結局摩耗して、何でもなくなってしまうのがオチのようだ。今となってはいったい何が問題だったのかさえ思い出せず、当時いくら真剣になって何度も試行錯誤を繰り返していようと、今ではそんなことなど何の役にも立っていないように思われ、当時のそれとはまったく関係のないことを平気でやっていたりして、その時の苦労など知ったことではないような案配なのだ。要するに時と場所が違えば、やっていることの意義や価値がなくなってしまったりするのは当然のことなのか。君は何に関してそう思っているのか。かつては世間の注目を集めて隆盛を誇り、今では完全に廃れてしまった興行とか催し物などがそうか。まあ今流行っている何かが将来そうなるかどうかはわからないが、自らがやっていることに、どのような意義や価値を見出すにしても、やはり時と場所が違えば、そんなことはどうでもよくなってしまうような気がして、それをやり続けることに、積極的な動機を見出すことができず、ではやめてしまえばいいということになるのだろうが、やはり惰性で続けているから容易にはやめられず、このままずるずると続けてしまいそうな雰囲気か。

 そんなわけで今さらやり続けることに意義や意味や価値を見出すのはおかしいか。おかしくはないだろうが、それらを見出せないからやる気がしないのか。しかしやる気がしなくてもやっているのはどういうことなのか。やる気がしないというのは嘘なのだろうか。嘘かもしれないし、本当にやる気がしないのかもしれず、あるいはフィクションの中でやる気がしないと述べているだけなのかもしれない。もしかしたらやる気の有無自体がどうでもいいことで、そういうことには関わりなく、ただそれを続けているだけなのかもしれない。要するに続けているうちはそれでいいのであって、続けられなくなった時、それでも続けるかどうかの選択を迫られ、続けようとすれば何かの障害が立ちふさがり、続けることが困難となるのだろうが、そんな困難を乗り越えて続けられたら、何らかの達成感を得るのだろう。しかしやがてそれもどうでもいいこととなり、あの時の達成感は何だったのか、と遠い過去を懐かしみながら、その後はどうなってしまうのか。何らかの物語が虚構として続いてゆくのだろうか。そうなるかどうかは、それを語ろうとしている君の努力次第か。誰が努力しているのだろうか。きっとどこかで誰かが何かを語ろうとしているのではないか。そう思えば少しは救われた気分になるだろうか。そう思うならそうだろうが、別に君が思っているわけではなく、実際に誰がそう思っているわけでもない。ではなぜそんなことを述べるのか。またいつもの冗談か。どうせ本気ではないのだろう。悪い癖が出てしまったらしく、くだらないことをひたすら語り、収拾がつかなくなっているようで、それでかまわないと思うしかないのだろうか。今はそう思うしかないのだろう。ではその先はどうするのか。またでたらめなことを記して、それらの行き詰まり状態をごまかし、後は何事もなかったかのように黙ってその場を立ち去るしかないのだろうか。だが実際にそうならないから今があるわけで、何かにこだわっているから、ひたすら言葉を記しているのだろう。だからそれでかまわないわけがない。

 そしてまた何とかしようとしているのであり、翌日の強風が誰かの心のうちに何をもたらしているわけでもないが、そんな言葉の連なりが不信感を抱かせ、まともに語ろうとしていないように感じさせ、要するにまた何かをごまかしているように思わせるのか。だからそういうことだ。もう言葉が出てこない。ため息ばかりで、酸素不足のようにも思われ、次第に眠たくなってくるが、別に一酸化炭素中毒というわけでもないだろう。なぜそういう方向へとずれるのか。息苦しくなって、苦し紛れにそんな言葉を記しているだけか。だがそれでも出口がどこかにあると思っているのだろう。そのつもりで言葉を記しているはずだ。いくら追い込まれようと、それをやめようとしない理由などあるわけがなく、やめてもかまわないのにやめないことが、どれほどの不条理をもたらしているとも思えず、そう述べて当然のことを述べているに過ぎないように思われ、それが間違いだとしても、なおのことそんなふうになってしまうのであり、台風が近づき、蒸し暑い夜に閉口しながらも、何とか終わりまでたどり着くために言葉を記し続け、そんな終わりなどあり得ないのに、架空のそれを信じきっているふりをしながら、わざと横道に逸れ、意味不明気味に別のことを語ろうとするが、それらすべてはどこかで関連し合い、未来のある地点で交差させる気でいるのかもしれず、たぶんそれらの主張に呼応する形で、そこで起こる様々な出来事がお互いに結びつきながら、一つの物語として構成されることを願い、それが嘘ではないと思い込み、そういう思い込みがそれ以外ではないことを証明しようとして、何を画策しているわけでもないのだろうが、何となくそれらの結びつきを言葉で説明する機会が巡ってくるような未来があることを信じているようで、何とかその時が来るまでそれらを継続させたいのかもしれない。果たしてそうなるだろうか。誰かはあまり期待していないようだが、君はどうなのか。相変わらず黙して語らずの姿勢を崩さないのか。


8月31日

 いつもの月末で慌ただしく、かなり疲れているようだが、いつものようにどうでもいいことばかり記していれば、何とか終わりまでたどり着けるだろうか。無理なことはわかっている。たぶんできないのだろう。台風の影響で激しく雨が降っている。それだけのことだが、深夜に目覚めたらそうなっていた。もう翌月になってしまったようで、他に何も記すことがなく、それでかまわないような気もするが、本当に何も思いつかないのか。昨日のことだろう。日付的にはそうだが、真実にも事実にも突き当たらない。虚構の世界から意識を引きはがせないのか。何に夢中というわけでもなく、要するに何を語りたいわけでもないのに、性懲りもなく言葉を記している。語るとは語れないことを語ろうとする行為なのだろうか。なぜそんなふうにひねくれてしまうのか。語りたいことを語ればいいだけで、何も語りたくないのなら、語らなければいいだけだ。語りたいのに語れないという状況がおかしいのであり、矛盾した思いにとらわれている。しかしそれでも語ろうとしているのは、いかなる理由でそうしたいのか。理由などあるわけがない、と嘘をつくばかりか。そんなわけで語りたくないことはあるらしく、要するに都合の良いことばかり語りたいのかもしれず、しかも何が都合がいいのかもわからず、わかっているのは都合の悪いことばかりのようだ。では思い通りには何も語れないではないか。だから語りたいことが思い浮かばないのだろう。それはまったく馬鹿げたことか。そうだとしてもなおも言葉を連ね、何か語っているふうを装いたいのだろう。要するに語っているふりをしたいだけなのか。たぶん真実はそういうことなのではないか。だがそれが紛れもない真実だとしても、そこで心にもないことを語らなければならない。もはや君は何も語っていないはずだ。君が誰だかわからないが、フィクションの中では君が黙して語らない。何かについてではなく、すべての事象について語らない。何がすべてだかわからないだろう。そんなことがわかっていようものなら、本当に語る必要はないのではないか。

 たぶんそうだ。そうでなければどうなるわけでもないが、いい加減い言葉を連ね、それで済まそうとしている。なぜやる気がでないのだろう。それに関して何か思い当たることはないか。ところで何を今さらというわけでもないが、君はドッペルゲンガーなのか。それとも影がそうなのか。誰かが他の誰かに向かってそう問いかけるが、そこには誰も実在していないことが明らかとなり、何もない空洞の中で、不在の声が響き渡っているだけなのかもしれない。君や影という言葉が何を想像させるわけでもないだろうが、そんなことを記しながら、誰かは何を空想しているのだろうか。まさかそこからフィクションの世界へと突入するわけでもないか。君はなぜそんなことを語りたがるのだろうか。しかも誰でもないのに君という言葉を当てはめ、そこにそもそも無理があり、矛盾をはらんでいるかもしれないのに、なぜ執拗にそんなことを記してしまうのか。別に何が執拗に記されているとも思えないか。どうもわざとそんなことを述べているようだ。わけがわからないように語りたいのか。今さらなぜそう思うのか。何が今さらなのか。その辺の言葉のつながり具合がいい加減なのか。ただの意味不明ではない。では何なのか。根気が続かないように思われる。とことん嫌になっているのかもしれず、そんなことを語るべきではないのかもしれないが、いったいそこで何を語っているのか。まだ何も語っていない。そんな嘘をつく理由はないのかもしれないが、理由を求めているわけではなく、何を錯綜させようとしているのでもない。では他に何を語ろうとしているのだろうか。語りたくないのではないか。そう語りながら意識がどこかへ逸れていってしまい、気がつけばわけがわからなくなっている。冗談だろう。たぶん冗談なのだ。それ以外は語っていない。ならばそこで行き詰まっているわけか。そうかもしれず、そうだからこそ、なおも言葉を記そうとしているのか。別に意地を張る場面ではない。

 うまく立ち回れば、それでかまわないのではないか。だがいったい何に関してそうなのか。それについての説明が欠けているのは承知しているはずだが、どうも詳しく説明する気にならず、その辺をわざとなおざりにしながら、面倒くさいのでそのままおかしな具合を保ち、中途半端な気分で何かへと移行して、やはりその辺がうまく言い表せないようだが、何となくそれでかまわないような気にもなり、またいい加減な話の展開になってしまう。いったいそれは何の話なのか。話になっていないのはもちろんのこと、話にまとめる気が希薄で、そんなふうに語るのが馬鹿らしくなってくる。ならやめた方がいいのではないか。なぜそこまで語る必要があるのか。散漫な気分で何を記そうとしているのか。何となくその辺で何度目かの行き詰まりを経験しているようで、そこから自己言及へと逃れる手もあるのだろうが、何が自己言及なのかはっきりせず、何をはっきりさせようとしているのでもないことにも気づかず、結局何も語ろうとしていないようにも思われ、そこから話がまったく進展せず、苦し紛れにそんなことばかり記しているようで、そんなことを記しながらも何かを思い知るのだろうが、それらのどこに自らの限界があるというのか。吃音ばかりでは限界があるか。それらの何が吃音を連想させるのだろうか。それらとは何だろう。それでは単なる字数稼ぎだ。それでもかまわないのかもしれない。とりあえず些細なこだわりを積み重ねてはいけないのかもしれず、それ以上に固定観念に凝り固まっていてもまずいのだろうが、気がつけばそうなっていることが多く、何事も一筋縄ではうまくいかず、同時に複数の手を打っておかないと、それらの事象には対処しがたいのかもしれない。しかし疲れていないか。それはそうだが、成り行きがそうなってしまうのだから仕方がないだろう。そして自分一人では何ともしがたいことは承知しているのだが、結局自分一人で後始末をつけるはめに陥ってしまい、何とかそれをこなしているのだろうが、やはり疲れるのだ。


8月30日

 今日は夕日が見られたはずだ。その気もないのにそんなことを記し、何となく何か語っているような気分になり、それでかまわないと思い込み、そんな嘘をつきながらも、実際に夕焼け空でも眺めているのだろうか。しかし回りくどい。言葉をこねくり回しているような気になる。別にうどんをこねているわけではない。画面が暗くなり、少し考え込んでいたようだが、その内容が明らかになることはなく、その代わりでもないのだろうが、記されるのはもっぱら空疎そのものだ。そういう思い込みも時として便利に使えるか。その気もないのに何を記しているのか。何も記していない気になり、真っ白な画面をいつまでも覗き込んでいるような気にもなるが、それも嘘の類で、何となく聴いている音楽に記している言葉が影響を受けているのかもしれず、そんな気がしているだけで真偽のほどは定かでない。そんなことはどうでもいいように思われ、何を記してもかまわないような気もするが、そんな気分は素通りして、どこか遠くへ意識が漂い出て、空っぽな抜け殻のような身体をまとい、そこからどこへ動き出そうとしているのかわからない。ただ部屋の中で机の前に座っているに過ぎない。それはいつものことだろうか。真面目に語れないのはわかっている。昨今の政治情勢に興味があるふりをするのも見え透いている。どうせ利いた風な意見を開陳したいのだろう。独りよがりにもほどがあるか。いったい誰がそうなのか。君はそれについて何を考えているのだろうか。単純明快なことを語ろうとしているのは誰なのか。何に耐えているわけででもなく、ただ夜空を眺め、その場の空気に何かが吸収されていっているようで、大したことを考えているわけでもないことがわかったような気がする。やはりそれでかまわないのか。誰に尋ねているわけでもないのはいつもの通りだ。そして急に辺りが暗くなり、夜になったことを知る。それだけでかまわないのだろうか。他に何を語れるというのか。

 要するに思い浮かぶのは紋切り型ばかりということになるだろうか。何かの争いごとがノーサイドになったり、これからは全員野球をやることになったり、みんなが汗を流す体制を作ろうとしたりすることか。青春メロドラマ的な何かを連想させるが、そこには出会いと別れがあり、そんなことの繰り返しの中でどこかの若者が大人に成長して、やがてささやかな幸せをつかみ取るのかもしれないが、君には関係のないことだろうか。アレルギー体質があらわになる。面倒くさいのか。たぶんそういう人たちががんばって、今の世の中を作り上げているのだろう。それ自体が恐ろしいことに違いない。他に何があるわけではない。かえって何もない方がまだマシなような気もするが、とりあえずそこには何かがありそうだ。どこからともなく誰かがやってきて、不意打ちを食らわせてくれれば愉快だが、そうはならず、メディア関係者の毎度おなじみが披露され、しらけた気分になるのかもしれない。たぶんそれらの行事はそういうことでしかないのだろう。そして期待が失望に変わり、足の引っ張り合いが始まるわけか。そうであっても仕方のないところだ。君はそれらの紋切り型的な成り行きに甘えているのではないか。はじめからあきらめていてはだめだ。これ見よがしな呆れ方もなっていない。たぶん大きな出来事を経験すると、それに寄りかかって何かを語ろうとしてしまうのだ。そしていつまでも未曾有の惨事について感傷的な言葉を弄し、その気になってそれらの地域に肩入れして、そこに感情移入してしまうわけか。困っている人たちがいて、自分が助けに行かなければ気が済まなくなり、いても立ってもいられず、誰かは何をしにいくつもりなのか。たぶんそれらの何を批判したいのでもないのだろう。今は夜だ。誰かはお粗末すぎたのか。まさか世間知らずだったわけでもあるまい。ともかく何事かを成し得たという自覚があり、やるべきことはやったという達成感まであるそうだ。別におめでたい人ではないのだろうが、それなりに意地があるのではないか。

 他人のそら似というわけではない。ドッペルゲンガー症候群というわけでもない。そんな病名などありはしないだろうし、では何がどうなってそうなってしまったのか。一向に事態は改善せず、どうもならずに眠たくなってきただけか。それらの何が造語をもたらすとも思えず、何に期待してそんな光景を眺めていたのかも思い出せず、そこにあるがままの宇宙を見ているとも思わない。では何なのかといえば、要するに退屈なのだ。世界的にそうだ。そうでない地域などありはせず、他の誰かが思い描いている虚構の中身も退屈なのだ。だから他に何かがあるなんて信じるつもりはなく、とりあえずすべてがここにあると思っておいてかまわないらしい。人々は退屈で死にそうなのだ。中には本当に死んでしまう人だっている。つまらない内容を繰り返していることに原因があるとは思えないが、いったいそこで何が永劫回帰しているのか。それも間違った言葉の用法か。そう述べてどこへたどり着こうとしているのでもないだろうが、なぜそんな嘘をつくのかわからず、何がそれに影響を及ぼしているのかを知ろうとしているわけでもなく、心はひたすらそこから遠ざかろうとしている。今日も誰かが雄弁に何かを語ろうとしているようだが、いくら語ってみたところで賞味期限は驚くほど短く、あっという間に忘れ去られ、後は言葉の揚げ足取りと、消耗戦的なつぶし合いが繰り返されるだけなのか。彼に対する要求は無限にあり、ちょっとでも足を踏み外しようものなら、メディアによって非難の一斉射撃が開始され、また一年持てばいい方だということになりかねず、そんな状況を作り上げているのが他ならぬ大衆と呼ばれる人たちなのかどうかは定かでないが、彼らが暇つぶし気味に必要としているのが、マスメディアと呼ばれる言論機関であり、本当に必要なのか定かでないところが、付け入る隙を与え、彼らが日々繰り出す紋切り型的な言説によって、大衆を支配しようとしているのかどうかも定かでないが、冗談と面白半分でそれらの主張を展開しようとすれば、何となく愉快な気分となりそうだ。


8月29日

 なぜそうなるのかわからない。しかしそうなってしまった現状は受け入れざるを得ないようだ。ではこれからどうなるのだろうか。要するにバカボンのパパが日本の総理大臣になるわけか。これでいいノダというわけだ。でも顔だけなら馬淵氏の方が似ていたはずだが、なぜかそういうことになってしまったらしい。君の知ったことではないだろう。別に何を突き放しているわけでもなく、そうなってしまった事実をどうしようというのでもなく、面倒くさそうだから、その件はそれで終わりにしたいようだ。たぶん正気で述べているのだろう。そしてどこかへ行ってしまう。何のことでもないはずだ。語らないことがそこでのやり方なのか。いつもながらのごまかしには違いない。まったくため息が出る。何の理由でもなく、ただそういうことなのだ。これでいいわけがないか。しかし鬱陶しい気候だ。眠れなくなってしまうので、嫌になる。でもこうして何かの時間が取れている。まったくわけがわからないが、何となく言葉を記して、何かの気晴らしとしているのだろうか。何でもないではないか。気晴らしでさえない。では何なのかと問えば、何でもないと答えるしかないだろう。心が折れる。そういう状況でもないのに、そういうことになる。それが結果なのだから仕方がないだろう。君はそうやってこれまでも何かを切り抜けてきたはずだ。眠っている場合ではないのか。なら不眠症で死んでしまうか。冗談でそんなことを述べているのかもしれず、本当は冗談ではないのだろうが、そんな案配であくびをしながら画面に向き合い、何か無意識のうちに言葉を記しているような感覚を覚え、それは頭の中で何かのスイッチが入っている証拠だろうか。そう思えば思うがいい。いくら言葉を記しても何がもたらされるわけではなく、相変わらずの無内容で、呆れてしまうような空疎な何かが記されているはずだ。だが何かとは何だろう。今のところは何かでしかない。いつまで経ってもそれだけで、それ以外は何ももたらさない何かだ。たぶんそこでは何も語られてないのだろうし、語る気もないのだろう。それでかまわないのだ。

 それがそれだけの正体だ。何を含んでいるわけでもなく、どんな望みを抱いているのでもない。君にはそれがわかっているはずだが、今ひとつよくわからないことがあり、それがそうしている理由となるだろうか。誰かはそこで何をやっているのか。まさか地道な努力が功を奏したわけでもないだろう。いつものように努力は無に帰す運命で、忘れ去られ無視され続ける宿命なのだ。だからそれは何の結果にも結びつかず、低空飛行の末に墜落し、どこかの山肌に残骸を残し、そのまま朽ち果ててしまっているのではないか。いったい何がそうなのか。別に何を連想しているわけでもなく、夏山の崖から落ちて死んだ登山者を弔うつもりもなく、そんなことを記しながらも、根拠の定かでない何かが存在しているような気になり、それが君を記述へと駆り立てているわけか。君ではなく他の誰かが記しているのではないか。そういう話になっているようだが、面倒くさいので、そんな決まり事は無視して、久しぶりに私が言葉を記している設定にしてみようか。それは冗談か。何をどう取り繕ってみても、そういう成り行きにはならず、冗談では済まないようなことを述べるつもりもなく、特定の誰を非難したりはしないのが、ここでのマナーとなっているのだろうか。だから冗談ではないと述べているわけか。そうではないだろう。君は調子に乗りすぎて少々勇み足気味だ。それが何を意味することもないだろうが、そんな気がしてならないようで、何か予感でもしているのかもしれず、何に立ち向かうこともなく、そんなことを成し遂げ、それがここでの記述が達成した成果というわけでもないが、そこで分ちがたくくっついているのは何と何でもなく、そんな幻想を抱きようものなら、何がどうなるとも思えず、言葉を記している途中でどうでもよくなってしまい、そこから先に何が記されようと、別にその内容が気がかりというわけでもなく、何やらほったらかしにして、そこから早々と退き、何でもなかったのごとくにそれを簡単にやめ、やめたついでにまた記し、そんなことを繰り返しているに過ぎないのか。

 力を使っているのだろうか。なぜそう思うのか。ただ面倒なことになっている。それがそういうことでしかないのはわかっているが、やはりそればかりだと嫌になり、どうあがいてもそればかりとなってしまうのだが、君はそれをどうにかしたいのであり、どうにかしようとしているのだろうが、いったいどうなってしまっているのか。まだそこから先へと言葉を記し、それらの作業を継続しようとしているのか。そうだとしてももはや限界で、先が見えているようにも思われ、それらの思いつきを超えて、それ以上の成果を期待するわけにもいかず、結局はそうなるだけで、君はそこで何かをあきらめざるを得ないのか。現実にあきらめているのではないか。やっているのはそれだけでしかない。それではまずいのか。どうあがいてもそればかりではないか。だからそれを認めざるを得ないし、そこから一歩も外へ出られないはずで、まったく正気とは思われず、何がそうなのかわからないが、何もそうではなく、何かをそうであるように見なすと、それが思い違いであるように感じられ、やはりそこで迷い、迷ってばかりではどうにもならず、勘違いでも思い違いでもかまわないから、とりあえずはそれに基づいて行動しなければならず、それが浅はかな結果をもたらそうと、そんな結果に甘んじていなければならず、それの善し悪しが何を示すわけでもなく、そうなるしかないような成り行きにしかならないようで、そんなやり方をいくらでも敷衍して、それを利用しながら言葉を記し、それによって新たな認識へと至り、そこからさらに記述を押し進めて、結果としてそれをつかみ取り、それが何だかわからないだろうが、もしかしたら何らかの成果なのかもしれず、それによって君自身が救われるのかもしれないが、果たしてそこまでそれらの何かを持ってゆくことができるだろうか。何が託されているとも思えないが、そんなわけでこれからもそれを続けてゆかなければならないわけか。別にやめてしまってもかまわないのだろうが、今のところはそうはいかないようで、とりあえずは気が済むまで何とか続けるつもりなのだろう。


8月28日

 どうも違うのではないか。別に何を語りたいわけでもなく、くだらぬ批判を繰り返すつもりもなく、結局何の実感も伴わず、後は黙って引き下がるだけか。しかし何がわからないのか。そんなことを語るべきではないのか。すでに語ってしまったではないか。それも冗談半分で語っていることらしく、負い目でも感じているわけか。だから冗談だろう。今はそれしかないらしい。冗談について語っているわけでもないのに、それが冗談だと思っている。要するにそれは勘違いのなせる業なのか。そうだと思っても、今ひとつ納得がいかず、事実や真実を探ろうとしてしまうが、何がそうなのかわからないままだ。そんなわけでまたとりとめのないことを述べてしまうのかもしれず、とにかく今日はだめらしい。きっと明日もままならず、今月は鬱状態のまま終わってしまうのかもしれない。それでかまわないのだろうか。誰に了解を取ろうとしているわけでもないことはいつもの通りだろうが、なぜそう述べてしまうのかよくわからない。そんなふうに語るべきでないことはわかっているつもりか。他に何をわかろうとしているわけではない。ただ何となくそういうことを述べながら、時間稼ぎでもしているのだろうか。そうやって何かが到来するのを待っているわけか。だがいくら待っても何もやってこず、待ちぼうけを食らって、ますますやる気が失せ、嫌になったまま、それらを終えてしまうのかもしれない。何がとっておきなのでもなく、必殺技も何もありはせず、ただ言葉を連ねているだけで、これといって起伏もなく、ただ淡々とここまで何かを記してきて、それ以上の何かが求まるはずもないことを承知しているのかいないのか。あるいはそんなことはどうでもいいのかよくないのか。たぶんそれは語る必要のないことだろう。それでも語りたければどうなってしまうのか。たぶん現状がそれを示しているはずだ。何もできはしない。なぜ追いつめられているのか。そんなこともわかりはしない。

 何か息苦しくはないか。君は死ぬ一歩手前なのか。相変わらずそんなことを考えている。そうではないと思いたいのだろう。文章のが長過ぎるのか。それが無理である証拠となっている。たぶんそうではないのだろう。わざと不器用に振る舞っているわけでもあるまい。それしきのことでへこたれている。それだけのことか。ちゃんと休んだ方が身のためだ。休めるならそうしているところか。実際には休めず、やはり追い込まれているのだろうか。それにしては愉快な気分だ。作り話の中ではそうなのだろう。実際には違っている。やはり追い込まれているのだろうか。そうに決まっているのではないか。だがそうだとしても、なおのこと愉快だ。たぶんそういうことでしかない。何事も出たとこ勝負で、やってみないとわからない。君はそれでかまわないと思っている。何ともならなければそうなるしかない。それでかまわないはずだ。君はそうならなければならないのだ。それはありふれた結論か。そうであってもなおのことそうならなければならない。要するに災禍をぎりぎりのところでかわさなければならないというわけか。そうなっていないから苦労しているのだろう。そして何事もうまくいっていないはずで、君は疲れている。そしてその先はどうなってしまうのか。どうもこうもありはしない。それ以上の状況をもたらすために、自力で何とかしなければならないのだろうか。他力本願ではまずいのか。そうだとしても自力には限界がある。そんなわけで何とかしなければならないのはわかっているが、何ともならないような兆しを感じているようで、ここはどうにかしなければならない予感がしているはずだ。君もそうしたいのではないか。誰かの助けを借りて、難局を切り抜けようとしているはずだ。後から思えば、そんなことは何でもなかったように思われるのだろうが、今が肝心な時だ。今をどうにかしなければ後がなくなり、後がなければ終わるしかないだろう。果たしてそれでかまわないのか。

 何となくそれを考えなければならない時が近づいているようだ。それとは何だろう。わかっているくせに、何をしらばっくれているのか。本当はわかっていないのではないか。たとえわかっていなくても、何も心配することはないだろう。何とかしようとしてこうなっているのだから、たぶんそれは正しい行いなのだ。そうだからそれをやり遂げ、それで何とかしたことにしたいのだ。だがそれではごまかしなのではないか。ごまかしだからそれでかまわないのか。それではあまりにも無責任かついい加減か。だがなんだかんだ言っても結局はそうなってしまうのだから、そういう成り行きを受け入れなければならないのではないか。どこの誰が受け入れるのか。それが君であるはずがない。たぶんそこに受け入れる対象となる人物が不在なのだろう。誰かがわざとそうしているのであり、それで責任逃れのごまかしを通そうしている。しかしそんなことを貫き通してどうなるのか。誰がどうなるわけでもないだろう。君がそうなるわけでもない。要するにそんな現実から逃避したいだけではないのか。それならそれでそうするしかない。誰がそうするわけではなく、君もそうしないだろうが、文章上ではそうするしかないと述べているだけで、そういうことを記している事実があるだけか。実際には誰も何もせず、そんなふうにしかならない事実をどうするわけでもなく、何事も成り行き次第で、そんな成り行きの中で言葉が記され、空疎な文章が構成されているに過ぎず、それもいつものことなのか知れないが、君は至って動じないだろう。そういう成り行きの中で何かをどうにかしようとしているのだから、そういう流れに乗っかって、何もどうにもならない状態を楽しむしかないだろう。そうやって何かが通り過ぎるのを黙って見守っているわけか。誰が何を見守っているのか。それらのていたらくなのだろうが、それは悲惨でも何でもなく、ただの喜劇であり、間抜けなことばかりが起き、何となく底抜けな明るさを見せているようにも思われ、それで何とかしようとしているのだから、要するにおめでたいことなのかもしれず、そんなふうにして君はどこかへ遠ざかっていってしまうのだろう。


8月27日

 何も見えていないのだろうか。それは比喩か何かか。何でもないのかもしれず、見えていなくてもかまわないのかもしれない。ただ前を向いて、ひたすら前進するのみか。実際には後退しているのではないか。別に虚構の中での前進でもかまわないだろう。語るに値しない人物のようだが、誰について述べているのかわからない。ネット上では馬鹿な誰かが日本人には哲学がないとかわけのわからないことを記している。いつもながらの西洋との比較に終始しているようで、要するに哲学がないのはそんな空疎なことを記している当人なのはわかりきったことだが、別になくてもかまわないのも当然のことで、たぶん大部分の西洋人にも哲学などありはしないだろうし、大部分の中国人にもアジア人にもアフリカ人にもありはせず、例えば哲学を教えることを職業としているどこかの大学教授にも哲学などありはしないだろう。哲学という言葉が指している物事自体が虚構なのではないか。いったいこの世界の何が哲学という言葉を担っているのか。君にわかるはずがないか。ニーチェにはどんな哲学があったのか。あるいはハーバードの講談師みたいなサンデル教授にはどんな哲学があるのか。それは誰にとっても興味があるようなことなのだろうか。別に一般人が哲学者と呼ばれる人たちの話を理解する必要があるとは思えず、それらはごく限られた人たちの間で通用する専門用語の集積物と化している代物でしかないのではないか。まさかそれでも誰かは哲学と呼ばれるジャンルを擁護することが可能だと思っているわけか。たぶん何が冗談なわけがないだろうが、冗談でもかまわないのかもしれず、君は冗談でそんな門外漢のごとき無関心を装っているだけではないのか。そうだとしても救いようがない現実に変わりがなく、何かを否定したくて仕方がないような案配で、それらの続きを記そうとしているらしく、要するに楽なパターンへと空疎な言説を持ち込みたいのだ。それが逃げの姿勢であることは承知しつつも、虚無から逃げなければ人格崩壊が必至な情勢なのかもしれないが、一方でそんなことはどうでもいいと思っている。

 たぶん哲学を頭の体操程度に捉えるなら、そんなふうにしてそれなりの知識を身につけ、それについて利いた風なことでも語れるようになるのだろうし、どこかでそれにまつわる知識でもひけらかして、優越感に浸ることも可能だろうが、その程度では学んだことにはならないのかもしれず、自らが生きつつある現実の中でそれを活かさなければ、意味のないことかもしれないが、やはりそうでなくてもかまわないような気もしていて、クイズ番組などで通用する程度の水準で、教養の一部として身につけておけば、何かと知的な雰囲気をまとえるのだろうか。では哲学もファッションの一部なのだろうか。それに関して一流のデザイナーなら、その人なりの哲学を有しているのかもしれず、そういうものを哲学と捉えるなら、それはそういう水準でそういうことになるだろう。それでかまわないのなら、誰かが語ろうとしている冗談にも誰かなりの哲学があるのかもしれず、それについて語ろうとすれば、そんな感じでそれふうの言説を構築することができるだろうか。だがまさに今語っていること自体が冗談で、何かのユーモアのごとき様相を呈しているみたいに思われ、まったく本気ではないような気がしてきて、逆に本気て哲学について論じようとすると、すぐさま狂気の世界に突入してしまうような危うさが感じられ、あまり深入りせずに、表面に軽く触れるか触れない程度に済ませておかないと、たちまち馬脚を現してしまい、それに関する中途半端な知識では限界があり、たぶんそれについて語っていることにはなりがたいのだろう。しかしそれでかまわないのであり、それについてまともに語れるように勉強してしまうと、どこかの大学教授の受け売りみたいなみっともない言説となってしまい、哲学とは無縁の小難しいたとえ話のようなくだらぬ内容になってしまいそうだ。それではまずいのだろうか。君は似非哲学のような教育関係者的な話が嫌いなのか。たぶん一般的にはそれでもかまわないのだろうが、何となくそれでは詐欺を広めているような感じがして、哲学に対して負い目を感じるようになるのではないか。

 たぶんそんな大げさなことではない。かしこまらずにもっと普通に考えればそれでかまわないようなことであるのに、どうしてもそんなことを述べている者たちの背後から不意の突っ込みを入れてしまいそうになり、その辺でおかしな気分となってしまうようだ。何を馬鹿なことを述べているのか。もう少し真剣なふりをしつつ、それらの虚構と戯れてみてはどうか。それができるならそんなことを述べてはいないはずか。たぶん安易な気分で常識にとらわれているから、日本人が戦時中に本気で鬼畜米英などというスローガンを信じていたかのごとき誤りに気づかなくなるのだろう。むろんそれでもかまわないのだろうが、戦前からジャズや野球を通してアメリが好きな人などいくらでもいて、それが戦後のアメリカ礼賛に結びついたかどうか知らないが、別に特定の外国を礼賛しようがしまいが、そんなことなどお構いなしに、ただの野球好きやジャズ好きアメ車好きなどいくらでもいて、別にアップル社の製品を使っている人がみんなアップル教信者でもないだろうし、ベースボール教徒やジャズ教徒やアメ車教徒が、みんなアメリカを礼賛しているわけでもないだろうし、その辺を混同してしまうと、ちゃちなことを平気で語ってしまう結果に陥り、欧米人には哲学があり、日本人には哲学がない、とかいうメディア的単純化がまかり通り、まともな人たちからは呆れられ、まさに哲学のない日本人がそんな空疎なことを本気で語っているかのごとき倒錯した事態を、語っている当人がその身をもって体現していることになってしまい、周りの人たちは大笑いだろうが、当人がそれに気づかないことが悲劇的あるいは喜劇的で、そんなことを不特定多数の人目にさらされるネット上に平気で公開してしまっている事実が、何となく日本的なお粗末さを知らしめているようで、一見知的なふうを装っているが、よく読むと紋切り型的な底の浅さを露呈しているだけの、要するによくあるパターンなのだろう。


8月26日

 またこんな時間だ。何に追い込まれているのかと言えば、それは時間か。だがそんな気がない。どうせまた疲れているのだろう。きっかけがほしいところだが、それはどうなるきっかけなのか。まだわからないようだ。なぜかどこかでそう思っている。それはどこでもなく部屋の中か。エアコンの冷気に当たりながら、何を考えているわけでもないのはいつもの通りで、暗闇の中で画面を見つめながら、取り立てて語ることもないことに気づき、毎度おなじみのいつものパターンに陥っているようにも思われ、相変わらずの膝の痛みを覚え、それがどうしたわけでもないのだろうが、何とかしなければならないのだろう。寝て起きてそういうことになっているわけだ。今が朝なのだろうか。別に目が見えないわけでもなく、辺りが明るくなっているのだから朝に決まっている。今ここで起こっていることは当たり前の出来事だ。テレビをつければニュースをやっていて、街角で市民が昨今の政治情勢について、メディアで語られている主張をおうむ返しに主張し、それを受けてコメンテーターのごとき人物がまた同じことを主張する。そんなことの繰り返しによって世論が形成されてゆくのだから、どうということはないメディア社会の中で、同じような人々が同じような考え方に縛られながら、同じように暮らしているだけなのかもしれず、そういう世の中が馬鹿げているように思われるのだが、一方でそれが当たり前の状況なのだろう。いったいそれ以外に何があるのだろうか。どこかにそれ以外があるのかもしれないが、君の知ったことではない。誰の知ったことでもないのかもしれず、それはそれでかまわないのだろう。どうもこの世界に大した感動はなさそうだ。探せばあるのかもしれないが、手間暇かけて探している余裕がなく、いつも忙しなく退屈な日々が過ぎ去り、何も得られないまま、歳月が流れ去っているような気がする。

 しかし本当のところはわかっていないだろうに、メディア上で誰かが利いた風なことを語りながら、政治批判を繰り返しているように見えてしまうのはなぜだろうか。確か昔そんな批判を繰り返していた人たちが、今実際に政治家になってあれこれやっているような気がするのだが、今メディア上で何やら勇ましいことを言っている人たちの中からも、この先何年かしたら政治家になって、また今度はメディア上で批判される立場になる人が出るのではないか。要するにそんなことが繰り返されながらも、世の中が動いていって、時代が移り変わっていくのだろうが、そういう成り行きに今ひとつ魅力を感じないのはなぜだろうか。もはや国家単位ではこれ以上の改善は望めないというわけか。これから社会の改善が望めるのは今発展途上にある国だけで、欧米や日本などはすでに停滞期あるいは衰退期に入っているのではないだろうか。別にそうだとしてもかまわないか。君にとって国家がどうなろうと知ったことではないか。架空の人格も定かでない不在なのだろうから、もはや登場人物でさえないのかもしれず、何も考えていないのはもちろんのこと、そもそも誰でもなく、ただの君という言葉でしかないのだから、確かに知ったことではないのだろう。だから何だというのか。意味不明なのは当たり前で、それ以上でも以下でもなく、何がそうなのかもわからないまま、そんなことを記していること自体が虚構の行為でしかないのかもしれず、頭の中で何かが暴走しているようで、言葉の連なりがあらぬ方角へ向かおうとしているのだろうか。嘘に決まっているだろうが、たとえ嘘だとしてもそれをやめようとせず、それが何かの引き延ばしのようになってしまっても、かまわないような気になっているようで、要するに無駄に言葉を記して、それで何かをごまかそうとしているのだろう。しかし何かとは何なのか。それは言わずもがなで、本当は知らないのに知っているつもりになり、何かそれについて語ろうとしているようだが、果たしてうまくいくだろうか。そんなはずがないだろう。

 たぶん何も考えていないはずで、本当は何も記せないのに、架空のどこかでは記しているつもりなのだろう。またそんな呆れるような嘘をつきながら、さらに意味不明なことを記しつつ、それによって何を打ち消そうとしているのか定かでなく、そういうことではないはずなのに、さらに語ろうとしているようで、何を語ろうとしているのか定かでないが、とにかく言葉を記さなければならず、一向に逸脱することに飽きる気配を見せず、一心不乱というわけでもないのだろうが、暇を見つけては記述を積み重ね、とうとうこんな分量になったらしく、それもどうということはない。ひたすら空疎なことを記しているだけか。いったい君はそれらのとっ散らかりようをどうするつもりなのか。もはや限界とかいうのではなく、根本的に無理なのではないか。たぶんそういうことだ。そういうことなのに続けようとしている。無理なのに言葉を記そうとして、実際に言葉を記しつつある。馬鹿げたことには違いないが、その先には何もないことがわかっているようで、空疎な内容に終始するしかなく、いくら続けてもそれだけにしかならないのに、やはり続けてしまうようで、何となくそれが愉快に思われ、時には冗談のようにも思われ、さらに爽快な気分からはほど遠い状況なのに、残り少ない分量の中で何を語るつもりなのか。今語っているそればかりではつまらないだろう。しかしそれしかなさそうで、それとこれとは関係なのだろうが、そこから何をどうするつもりもなく、そんなことを続け、すべてを台無しにしようとしているのか。もとからそうだろう。何を続けても最後にはそうなってしまうのかもしれない。うやむやのうちに尻すぼみ気味に語れなくなり、次いで何が何だかわからなくなり、わざとそうしていることを忘れ、自らが悲劇の主人公から遠く離れた不在であることを、誰もがそれを信じているわけでもなく、何を信じようとしているわけでもなく、それが何かのかけらであり、石ころか何かでもあり、ただの何かでしかなく、それらが何でもないことはわかりきっているはずだ。君はそれでかまわないのだろう。


8月25日

 とうとうどこかに追い込まれ、後はどうにかなってしまうだけのようだが、それがフィクションでなければどうなるのだろう。いったい現実の世界ではそれらはどうなっているのか。こうなっているに決まっているだろう。だが実際には何も決まっていない。眠いのだろうか。誰のせいでもない。たぶん冗談でしかないだろう。基準など何もない。では何を判断しているのだろうか。ことの善し悪しではない。では何なのか。何でもないと言えば嘘になりそうだ。嘘でもかまわないか。何を批判したいのでもない。たぶんそれでかまわないのだろう。指先が自然に動き、言葉を記していくが、何も込めていないようだ。別にそれでかまわないのではないか。語る必要もなく語り、記す必要のないことを記す。それが語りであり記述なのだろう。言葉は言葉として、語られ記される。君はそれ以上を望んでいるのか。テレビ画面上で誰かが国難に立ち向かうとか言っているが、別に立ち向かわなくてもいいだろう。命がけでなくてもかまわない。冗談半分でそんなことを言い放ってもかまわないか。たぶん許される風土があるのだろう。架空の世界ではそうだ。それが誰かの思い込みか。そう決めつけるのはまだ早すぎるだろうか。しかし現実の世界では状況がどうなっているのか。何が起こっているわけでもなく、いつもの成り行きが進行中か。別にそんなことを思う必要はないのか知れず、いつものようにわけのわからないことを語ろうとしていればいい。しかし誰がそんなことを言っているのか。それは天の声か何かか。別に窮地に陥っているわけではないが、今さら天啓も何もなく、神に従うつもりもないようで、何がそうさせているわけでもないらしく、ただそんなことを思っているだけか。現実には何とも思っていないようで、言葉を記しながら、何かの気まぐれでそんなことを思っているふうを装い、誰が装っているとも思えないが、たぶんそれは誰でもなく、フィクションの中で何を出現させているのでもないらしい。

 誰かはありふれたことを語るのが億劫になってしまったのか。別に臆病風に吹かれたわけでもなく、それとこれとは無関係のように思われるだけで、そんなことを記していることで、何か感覚が変になったように感じられるが、別に気のせいではなく、わざとやっているわけでもないのだろうが、それにしても意味不明すぎはしないか。何を語っているのか意識が把握できず、自身でもわからないようで、そうなる理由も原因も思いつかず、どうなってしまったのかも理解できない精神状態のまま、そこからいったい何を語りだそうとしているのか。君が知ることのできるレベルにはないはずだ。またそんな嘘をついて、大げさに物事を考えようとしているのか。そうでもないような気もするが、エアコンから吐き出される冷気の直撃を長時間食らい続け、体調がおかしくなってしまいそうか。またわざと関係のないことを記して、ねじれた何かを作動させようとする。そんなことができるわけがないだろう。そして二日が経ち、何とか深夜に言葉を記す機会を得て、そこから巻き返すつもりなのかもしれないが、うまくいくわけもないか。うまくいかなくとも何とかするつもりらしく、君はそのつもりで言葉を記し、疲れているのかもしれないが、そこから内容に至ろうとしている。無内容ではだめなのか。だめなのは当たり前だとしても、何にこだわろうとしているわけでもなく、他にやり方が見当たらない限りは、苦し紛れにそんなやり方が繰り返されてしまうだろうし、それをやめさせる手だてがなければ、そればかりとなってしまうだろう。君はそうなることを避けなければならないのか。君でなくても他の誰かが避けなければならないのかもしれず、そのつもりで言葉を記しているつもりらしいが、その結果どうなってしまったのだろう。実際にこうなっていることについて何かいいわけめいたことでも語りたいのか。君が語っているとは思わない。では誰がそんなことを語っているのか。たぶんそうではないのだろうが、それとは違う機会を得て、そこで何か適当なことを語っているのかもしれず、たぶんそこでどうにかなっているのだ。

 誰かの思い込みの中ではそういうことになっているみたいだが、実際に何がどうなっているとも思えず、そんな思い込みの中に入る君にとって、その外部から今起こっている事態を把握することはできず、もっぱら内部で誰かの独りよがりに抗って、そこからまともな内容に至ろうとするばかりで、たぶんそういう試みの有効性に疑問を抱きざるを得ないのかもしれず、できればもう少し見通しの利く場所へと移動して、そこからそこで行われている行為の全体を把握したいのだろうが、今まではなかなかそういう機会に恵まれず、誰かがパゾリーニ風のピアノ演奏に耳を傾けながら、そこからどんなひらめきが起こるのを期待しているわけでもないのだろうが、何となくそんな調子でそれらを迂回しつつ、遠回しに何かを避けているふうを装い、そこで意味不明気味に難解な説明を披露しそうになっているのかもしれないが、たぶん失敗に終わり、冗談のような何かをつかみ損ねてバランスを失い、また何を語っているのかわからなくなり、それではだめだと思っているのだろうが、それとは裏腹に愉快な気分が満ちてきて、たぶんそれらの意味不明の中に心のオアシスが出現しているのかもしれないが、果たしてそれを押し進めてしまってかまわないのかどうか、俄には判断がつかず、そういうやり方の何が興味深いのか表現するのが難しいようで、そんなふうに言葉を記していくうちに、何やら現実から背離していってしまうような気がしてきて、さらにいっそう愉快になり、そこに何かの効用があるように感じられ、それでかまわないのかもしれないが、そればかりを押し進めていくと、ますます意味不明に陥り、何を述べているのかわからなくなり、何となく困った事態になって、困りながらもそれが愉快なのだろうが、その背反する思いが、逆にそこでの現実感を醸し出しているのかもしれず、たぶんそう述べることによって気持ち的には何らかの救いを得ているのだろうが、ことの善し悪しには関係がないようにも思われ、やはりうまく言い表せないのかもしれないが、そのまだるっこさを解消する気にはなれない。


8月24日

 今日が今日であることは察しがつきそうだが、なぜそうなってしまったかはわからない。また性懲りもなく疑念を抱いている。いくら語ってもそうなってしまうことはわかるが、もういい加減に切り上げてしまったらどうか。何を切り上げる必要があるのだろう。まだ君は可能性に賭けているのか。宝くじにでも当たって億万長者にでもなりたいのか。そうなったら楽になれるのかもしれないが、そうなる確率が低すぎる。しかし確率の高そうなやり方を模索する気にはなれず、その辺で何かが違っているような気がするだけで、そんな現実を真に受けることもできず、何となくいい加減に語ろうとするばかりで、そんなやり方が現状を招いているような気がするが、やはりそれでかまわないと思うしかないのだろうか。それではこの先何がどうなることもないだろう。だがそうであったとしても、なおいっそうそれでもかまわないと思ってしまいそうで、どうもそういうやり方からは何の進展も引き出せそうもなく、それ以上を求めるわけにはいかないようだ。それでもかまわないのだろうか。そうなってしまうならそうなるしかないだろう。逆にそうならなければ継続は不可能なのではないか。それがそういうやり方の限界なのであり、それ以上を求めるなら、いったんそういうやり方を破棄しなければならず、それができないのなら、それを甘受しなければならない。要するに君にはそれしかできないのだ。そう思えば今やっているそれを肯定できるだろうか。実際は何を肯定しようとも思わず、強硬に否定するわけでもないだろうが、ただ弱めの拒否を繰り返すばかりか。弱めとはどの程度なのか。積極的に認めるわけではないが、全面的に否定するわけでもない程度か。しかし何がそうなのか定かでない。どうもそれを明らかにできないらしく、それがそこでの躓きの原因となっていて、それ以上の何かを模索する上での足かせとなり、何とかそれを解消して、次の段階へと進まなければならないだろうか。またわけがわからなくなりそうだ。

 たぶんそうではない。それと地続きなのであり、それこそがそのものなのではないか。またわけがわからなくしようとしているのか。それとは何なのか。これから語ろうとしている対象がそれなのだろうか。では何を語ろうとしているのか。現実に引き戻されているわけではない。そういう成り行きなのだろう。北へ向かうにつれて空は曇り、気温も低くなり、何だか過ごしやすくなってきたような気がするが、そんなことを述べたいのではないことはわかっている。また泥の水たまりにはまってしまったのか。そこまでの悪路を走っているわけでもないだろう。実際には電車に乗っているのに、なぜぬかるんだ山道で車を走らせているような状況を思い浮かべてしまうのか。またいつもの虚構症候群が発症している。そんなことはあり得ない。だから君は虚構の中で語っているような気がするらしいが、冗談なのかもしれず、それを真に受けるわけにはいかないようだ。それを記している誰かは君の空想を信じられずにいるらしく、途中ですぐに現実の世界に引き戻し、何かを言い改めるようなことを繰り返すが、それは冗談ではなく、至って普通の降るまいなのか。だがそれで何がどうなるわけでもなく、いつもの無内容が延長されるばかりのようで、それ以上の何を求めるわけにもいかず、そんな記述の低空飛行を支えているのは、誰かの怠惰にあるらしい。そして音楽を聴きながらひたすらそれに耐えているのは、他の誰かになるらしく、その辺がかろうじて他のフィクションとの類似を指摘できそうだが、そうしたところで何をもたらせるわけでもなく、延々と続くそれらを眺めながら、正気でいられるのが不思議に思われ、要するに大したことではないのではないかと高をくくり、そこで消えてしまいそうな気力を振り絞っているのが馬鹿らしく思えるほど、自業自得ぎみにしょうもないことを語っているのかもしれず、そうではないような何かを求めることなど不可能に思えてくる。しかしそれでもまだ語るつもりのようで、まったく呆れを通り越して正気の沙汰でないような気配を感じて、何だか怖くなってきたようで、そのまま続けるべきかどうか迷うところだが、もしかしたら君は嘘をついているのだろうか。

 どうも部屋の中で誰かが首を傾げているようだ。こんなはずではなかったか。基本的にはどんなはずでもなかったようで、どのような話の結末を思い描いていたわけでもなく、成り行きまかせに言葉を記して、それである程度の分量に達すれば良かったはずだが、馬鹿げているのだろうか。急速にやる気をなくしているようで、何がこんなはずだったのか思い出せなくなり、あれからだいぶ時間が経ってしまったらしいことを実感させられ、ここから何を記すべきか迷い、迷っている割には何も思いつかないが、たぶん頭の中で何かと何かが矛盾していて、その何かと何かとの関係を言葉を使って説明しようとするが、これがなかなかうまく説明できないようで、今のところはわかりやすい文章として結実しないようで、それはそれとして保持しつつも、別のことでも語ろうとしなければならないような気がしているようで、またそれもかなり回りくどい言い回しに終始してしまいそうで、何だか語ろうとする度に迷いが邪魔をして、次第に何も語れなくなってしまっているようだが、それも嘘の類なのか。少なくともいいわけのようにして語れば、それほどの困難は伴わないような気がするのだが、未だに何も出てこないところを見ると、本当に何も語れなくなっているのではないかと不安になり、冗談にもほどがあるように、適当なところで妥協して、それなりの語りで勘弁してもらった方がいいのではないかとも思い、それを実行に移そうとしているところかもしれないが、それではいったい何を語っているのかといえば、そんなふうにこんなふうに言葉を記しているだけで、何を語っているとも思えず、要するに君は君自身を裏切っているのであり、何か自分に対して負い目を感じているのかもしれず、そんなわけがわからない感情を振り払わない限りは、まともに語る状況にはなりがたいのではないかと思うが、そう思っているのは君ではなく、誰がそう思っているのかも明らかにならないまま、やはりそんな中途半端なところで、それらの言葉の連なりはいったん途切れてしまうらしく、それも予定調和の展開の内に入るのかもしれないが、たぶん言葉を記している誰かにとってそんなことはどうでもいいことなのだろう。


8月23日

 心の中で何かが外れている。こんなやり方ではだめらしい。今はそう思うしかない。それが偽らざる気持ちなのかどうかわからないが、とりあえずはそんなことを記して、そう思い込みたいのかもしれない。膝が痛む。なぜそうなってしまうのだろう。そしてそれがフィクションの中で述べているような気がするのはなぜだろう。本当だとはとても思えず、まだ意識がもうろうとしているみたいだ。どうやら今日は晴れているようで、それが昨日の日付で記している点を除けば、現実の世界へ戻ってきたようで、フィクションの中で語ろうとしているのではないらしい。しかしまともに語れるとは思えない。相変わらず語る対象がない。なぜそれでも語ろうとするのか。それは素直な疑問になるだろうか。なったところでどうなるわけでもなく、何もない状況に変わりはない。何かがあるという事態が信じられず、そうなった時に果たしてそれについて語れるのかといえば、たぶん無理だろう。今でさえ語れないのだから、いつになっても語れないような気がして、またそれでかまわないような気になる。ではこのまま空疎な内容でかまわないのだろうか。たぶんそういうふうに語っているうちはそうなるしかなく、そうならないためには、まずは意識改革が必要で、何に対しても積極的に関わろうとする姿勢が求められるのだろうか。しかし今の気分ではそうなるきっかけさえつかめそうにない。またわざとそんなことを語っているのか。別にわざとというわけではなく、そんなふうに語らざるを得ない状況なのではないか。まったくあり得ないことだ。何がそうなのではなく、馬鹿げているのだろうか。何がそうなのか。何もそうではないが、他に何もないからそんなことしか述べられないのか。そうでもかまわないのではないか。だからまったくどうしようもなく、それ以上は何も語れなくなり、その辺でいったんやめて、気晴らしに他のことでも考えようとするが、何だかそれと気づかないうちに、また作り話の中で語っているような気になる。

 しかしフィクションと言っても他に誰が登場するわけでもなく、たまに君という言葉で何か気のない問いかけがなされるようで、それに誰が答えることもなく、君が語っているふりをしているわけでもなく、小説もどきにもならず、要するに何でもないようなことがひたすら記され、何だかそれが延々と続いてしまうような気配を感じるのだが、やはりそれもいつものことの延長上にあるということなのだろうか。そうだとしてもこのままそれを続けていっていいとも思われず、途中で考えを改め、何かいつもとは違う話の展開にしていかなければならないような気になるのだが、いつまで経ってもそうならないのはどういうわけなのか。このままでかまわない方が楽だからか。そうならそうでかまわないとあきらめるしかないのだろうか。あきらめてしまったら終わりだろうか。だが本当に終わるとは思えない。未だに終わらないことがそう思わせるのかもしれないが、いつまでも続くとも思えず、そろそろ何かの終わりに立ち会う場面に出くわすような予感もしないではないが、本当にそうなった時、君は何をどう思うのか。君ではなく、誰かはどう思うのか。どうもそこに思うべき人格を当てはめられずにいるらしく、誰が何を思うとしても、虚構の中でそう思っているだけのような気がして、そんなことが言葉になって記された時点で、それは現実のことではなくなってしまうような気がするのだが、それについて語ろうとすることが、虚構しか生み出さず、それが現実に起こったことではないような気にさせ、たぶんそうやって嘘をついてしまうこと自体がおかしいのであって、例えば具体的な出来事について語ろうとすれば、それが現実を語っているように思われるのだろうが、なぜかそういう成り行きになることがほとんどなく、語っていくにつれて、どんどんありもしないことについて、延々と語り続けているような成り行きになり、それを受け入れるしか語り続けることができなくなってしまうのだろうか。まったくあり得ないことだ。

 だが現実に起こっている出来事に興味がないわけではないだろう。たぶんこれは想像の世界ではない。しかしこれとは何か。そんなふうに問いかけて、わざとそこで行き詰まらせている。では真実とは何か。またそれか。冗談ではないことは確かだ。では何がそうなのか。たぶん何もそうではなく、ここにいること自体が現実なのだ。しかし記していることが何をもたらしているのか。現実の世界に関わりのあることなのか。そうだとしてもなおのこと嘘をついていないか。よりいっそう虚構に近づきつつあるのではないか。もはや君は現実の世界の存在を信じられなくなっている。またそんな冗談をかまして、いったい何を狙っているのだろうか。無意識が作動して、何かの機構が働き、正気を保つために狂気でも押さえ込んでいるわけか。またあり得ないことを語ろうとする。だか別に呆れ返ることはないだろう。そんな根拠の定かでない記述に振り回されることはない。君が語ろうとしているのは虚構の中だ。現実の世界ではない。それが誰かの逃げ口上であることは承知しているが、それでもそれなりに何とかしようとしているのであり、その結果がこれなのであって、これが何だかわからないが、それもこれも同じような物事であるのは想像がつきそうだ。しかしまったく冗談にもほどがあるだろう。やはり何が冗談なのかわからないようで、なぜそんなことを述べなければならないのか理由もわからず、やはりそうではないような気がしてくるようで、何となくうんざりしてくるのでそこから先は放棄して、やめてしまいそうになるようだが、それも虚構の中で述べていることなのか。そんなふうに思うと、やはり本気にはなれず、嘘をついているとしか思えず、そうではないような現実を想像してみるが、それは可能性の世界での話であり、そうであり得たかもしれないことでしかなく、どうも本気になるどころの話ではなく、冗談でそんなことを述べているだけのように思われ、どうやら行き詰まったままここまで書き記し、事態を一向に改善できずにそれらの記述を終えようとしているみたいだ。


8月22日

 それは何の因果でもない。ただそうなっている。そんなわけでまた夜になってしまった。そうなる前に何かやりたいことでもあったのか。別に何があったわけでもない。思いを巡らして、そこから何を探し出そうとしても、何が見つかるわけでもなく、そういうことを記そうとしていたのでもないことに気づく。たぶんそうではないのだろう。君が知りたいのはそんなことではない。そして何が知りたかったわけでもないことに気づき、別に愕然とするわけでもなく、それが当たり前のような気がして、そんなことに異議を唱えるのはおかしいような気もして、そのままなおざりにしてもかまわないような気になってくるが、軋轢を生じさせてしまうのは覚悟の上で、それを強引にやり通し、何とかここまでやってきたわけだが、それもそろそろ限界なのだろうか。具体的な対象を定めて、それについて何かを物語ろうとすれば、それなりに語れるかもしれないが、なぜかその対象に魅力を感じないようで、そういう対象を探し求めていた時期もあったかもしれないが、それについて無理に語ろうとするとどうなっただろうか。そんなことはもはや覚えていないか。しかし何について語らなければならないのか。今さらそれはない。知らず知らずのうちにそこを通り過ぎ、何やら何も見当たらないような場所に出てしまって、そこから先はひたすら空疎な言葉が連なり、語ろうとしている当人をも困惑させ、記された言葉の連なりが、何も語らせないように作用して、そんな成り行きの中で編み出されたやり方がそれらを生み出しているのだろうか。冗談には違いないが、何となくその気になってそんなことを述べてみると、そうかもしれないような気がして、そんな嘘を信じてしまいそうになるようで、そのぎこちない言葉の並びに真実が宿っているような気になり、そこからありもしない幻想を抱きたくなって、何だかおかしな気分になるらしい。それが冗談だとも嘘だとも思えなくなってしまうのか。だがその時点が話者が超に乗りすぎているように思われ、ちょっとひと呼吸入れたくなるわけか。

 そんな嘘八百のついでに思うことは、気味が悪いほど頭の中が空っぽのような気がして、それも嘘の類だろうが、そこから先に何を記そうとも、そこで誰が語っているのでもなく、すべての意識が沈黙を装うような狂気の世界に、目指すべき終着点があるとも思えず、なぜ途中からそうではないと思うのかわからないが、あえてそこを避けて通り、それによって正気を保ちたいのかもしれないが、そんなことでさえ虚構の中で述べているに過ぎないのではないかと疑念を抱かざるを得ず、たぶん言葉を記して何か語っているように装うこと自体がフィクションそのものなのであり、そんな前提を受け入れながらも、そこからいかにしてリアリティにたどり着くかが、そこで求められていることなのかもしれず、語らなければならないのはそういうことであり、実際に語っているのもそういうことだと思いたいが、一方でそんなくだらぬ嘘をついて、いったい何を主張したいのか、その辺の思惑を計りきれず、何か途方もない企みの途中にそれらの言葉が連なっているのか、と勘違いしたくもなり、何事も良い方に受け取ろうとすることが、そこでの気休めなのかもしれず、そんなことを記しながらも、ちゃんと意味の通った文章になっているかどうかわからず、全体としてそれらの内容を把握できなくなっているのかもしれず、またいつものように意味不明なことを述べているように感じられ、それが誰かの狙いなのかもしれないが、なぜそうなのかが今ひとつ定かでなく、はっきりしたことは何も言えない状況の中にそれらがあり、たぶんそれは自己言及の一種かもしれないが、それしかできないとも思えず、それ以外のやり方を試すべきなのかもしれないが、どういうわけか今はできない状況にあるようで、言葉を記しながら別のことに思いを巡らし、まったくそれとは無関係なことを考えているのかもしれず、なぜかいつものようにそれを記さず、実際に記しているのはもっぱら空疎なことばかりで、なぜそういうことになってしまうのかわからず、何やら呆れ気味にあきらめているのだろうが、これからもそんなやり方に終始してしまうのか。

 そんなことを述べているうちに、どうやらもう先が見えてきたようで、終わらなければならないような成り行きになってきて、君をがっかりさせてしまうかもしれないが、それも試練なのだろうか。冗談ではないか。それが誰かの口癖だとも思えず、まったく関係のないところで、そんな思いにとらわれているのは、誰でもない誰かかもしれないが、それは無駄で無意味な言葉の並びか。わざとそうやっているわけか。いったい誰かは何を打ち壊しにしようとしているのだろう。だがそんなのは君にとってはどうでもいいことかもしれず、わざとらしく遠回りや迂回を繰り返していないで、早くそれらの真相を明らかにしてほしいところか。何が真相なのでもなく、積極的に誰が何を語っているのでもなく、誰を戸惑わせているのでもない。たぶんあらかじめ定まった思惑など何もなく、それ以上に何を狙っているのでもなく、どうにもならないことをどうにかしようとしているのでもない。ただそこに言葉が連なっていて、そんなふうにしか語れないような何かがあり、その何かについて語っているつもりが、そもそも勘違いなのか。何もないのに何かがあるような気がしているだけで、それについて語ろうとしているつもりが、実際にはそれとはまったく関係のないことを語ろうとしていて、実際に語っている内容は空疎で何もなく、気がつけばそればかりを飽きもせず繰り返しているわけか。そして君はそうではないと思いたいわけだ。それらは空疎なだけではなく、その空疎とともに言葉が記されていて、記された言葉が幻想を生み出し、そんな幻想の中に語ろうとしている何かがあり、そしてその何かについて語ろうとしているわけだ。それは何かの冗談なのだろうか。それとも冗談でさえなく、何でもないような何かでしかなく、ただ無駄に不必要な言葉を記しながら、それで何とかできるような錯覚を利用しながら、それらのごまかしをちりばめようとしているのであり、それが何をもたらしているのかもわからず、自ら墓穴を掘っているようにも思われ、なぜそれでかまわないのかわからなくなる。


8月21日

 別にここからが正念場というわけでもないだろうが、何となくそんなふうに感じる一方で、それらの行為を肯定したくないような気がして、またさらにそこから遠ざかり、どこか遠くから何かを眺めているふうを装い、身の安全を確保した上で何かについて論じたいのかもしれず、そんなことができるわけがないとは思うが、何となくその辺でうまくやっているような気になり、身の程知らずなのは承知しつつも、突然の思いつきで何かの真正面へ向かって突進して、予定調和のごとく跳ね返されて、その後はどうなったのだろうか。もはや行方知れずとなってしまったのか。知ろうとしているのは誰の消息でもなく、それについて語りたいのでもなく、そこから誰かがどうなったのでもない。ただ言葉を並べ、そんな話を作って、そこから話にならないような何かを導きだしたいのか。まったく話になっていないではないか。それで何かを批判したつもりか。ここはそうではないと述べておこう。相変わらず理由はわからない。語るべきはそんなことではないのはわかっているつもりか。そうではないとしたら何なのか。どこからともなく誰かが現れて、そうなった経緯を語りつつ、唐突に話が違うと憤り、何が何だかわからないまま、ドアを激しく叩き閉め、その場を立ち去ったのは嘘か幻か。部屋のどこに誰かの感情が漂っているわけでもない。現に今は静けさが辺りを支配し、冷静に物事を順序だてて再考する機会ではないのか。たぶんそんな雰囲気ではなかったのだろう。そんなわけで過去を振り返りつつ、何か考察の最中なのかもしれないが、いつものようにその内容が記されることはない。たぶん面倒くさいのだろう。何がそうなのかわかっているつもりだが、それを明らかにしたくはないのかもしれず、その代わりにやっていることはといえば、わけのわからない言葉の並びを構成して、それを読む気にさせず、要するに他の誰かを煙に巻いて、それがうまくいったら悦に入り、自己満足に浸りたいのではないか。

 だがそこに至るまでの道のりが長過ぎる。いくら言葉を記し続けても、時間的な遅れを解消できず、他のことに気を取られているうちに、さらに遅れ、遅れを取り戻そうとすれば邪魔が入り、追い討ちをかけるようなトラブルに巻き込まれ、その後作業がどこまで進展したのかわからないが、何となくやっていられなくなっているのではないか。そして今はまたどこかで迷い、信じられないような事態に直面し、驚き嘆き、冗談ではないと思い、そこから遠ざかろうとして、必死になって障害物を取り除いている最中か。そうだとしたらどうなのか。たぶんそれも作り話の一部なのではないか。別にそこで君が行方知れずとなっているとも思えず、至って何でもないように振る舞いながら、そんな作業をこなして、また慌ただしい一日を終えようとしているのだろう。今はそうなってしかるべき状況なのだろうから、そのまま無難に立ち回り、できれば問題を起こさないように退散したいところだが、そうは問屋が卸さないのか。気晴らしに独り言でもぶつぶつつぶやいていれば、他の誰もかまってくれないのではないか。実際に起こっているのはそんな事態ではなく、自然の流れに身を任せ、そこに引っかかろうとする枯れ枝のたぐいをすくいあげ、他は何事もなく平穏無事な状態を保っているつもりで、面倒な成り行きにならないように、腫れ物に触るようなことはせず、そこを素通りして、やっとのことでどこかにたどり着こうとしているようだが、たどり着いた後も気が抜けないようで、しきりに辺りを見回し、隙をつかれないように防御の体勢を崩さず、そんなことはあり得ないかもしれないが、あり得ないことなど語る必要はないのかもしれないが、やはり面倒くさいのでそんなことは語らず、とりあえずそこで一息ついているようで、もういいのではないかと思ってしまい、言葉を記すのをやめたくなってきて、そこから解放された気分を味わいたくて、中腰の姿勢のまま、意識がどこかへ飛んでいってしまい、君自身がどうでもいいような状況の中で、それらの言葉を放り出して、その次へと進んでしまいたくなる。

 まだこの世にやり残したことがあるのではないか。臨終の床で誰かがそう問う。そんな未来がいつやってきてもおかしくはないか。たぶんそんな話ではなかったはずだが、そこから遠くへいく度にそう思い、そんな嘘をつきながらも、そんな感じがしなくもないみたいだが、君がそこで何をどう思い、どう振る舞っているつもりでも、時が流れ、そんなことなどどうでもよくなってしまう時が訪れ、すべての努力が無に帰すのかもしれず、それでも何かをやらざるを得ず、それが何を示しているわけでもないのだろうが、やはりそこから何かが始まり、その始まった何かに影響を受け、変化を被りながらも、それまでに身についたこだわりが邪魔をして、中途半端な理解へと導かれ、そこで何かをわかったつもりになってはまずいのだろうが、たとえ勘違いであろうとなかろうと、何らかの理解を得た前提の上に、さらなる思考が積み重なり、結果としてどうにもならない状況をどうにかしていくのだろうか。どうにかできればの話だが、君はそこから何を得たのだろうか。得られたそれらの中で何が利益となるのか。それは誰の取り分でもなく、皆の共有財産でもなく、負債でもありはせず、要するにただの虚無でしかないらしい。利益を得ようとする以前に、そのような行為を無効にするような何かだ。そんな何かに心を満たされ、何かに酔いしれる気持ちも起こらず、ただひたすらに眠いだけのようで、首の上で頭をぐるぐると回しながら、何か妙案を思いつくような予感もせず、まだ黄昏れるには時間がありそうで、かといってこれから新たな何かを試みる気にもならず、今まで通りにそれらの維持継続に努める他ないようで、そう思うと何だかつまらなくなって、もう何もかも投げ出して、どこかへ旅立ってしまう気にもなりたいが、それを思いとどまるような機会にも恵まれず、ではどうしたかといえば、どうもせず、中途半端に煮え切らない思いのまま、そこにとどまり、性懲りもなく言葉を記しながら、ただ時が経つのを感じながら、それ以上でも以下でもないような気分でいるらしい。


8月20日

 まだ雨音が聞こえている。そこに何が隠されているのだろう。何でもないと思うなら、少し眠たくなってしまうか。世界を覆う闇は夜にもたらされる。当たり前のことだろう。心が折れかかっている。なぜそうなってしまうのか。そんなことまで語る必要がないからか。理由になっていない。それはいつものことだ。別に何を探ろうとしているのではない。ただ語りたいだけか。何もない。なぜ語らないのか。そういう語り方ではだめなのか。そういう問いかけが無効なのだろうか。だが実質的には何も問いかけておらず、それら文章を構成するための形式的な問いかけに過ぎず、答えなど必要としない問いかけだ。実際のところ君には何も答えられない。君に向かった問いかけではないのかもしれず、やはりそれは虚空に向けてひたすら無駄な問いかけがつぶやかれているに過ぎない。そしていつの間にか眠ってしまったらしく、誰かのつぶやきが幻聴として記憶に残っているわけでもなく、さらに遅れてしまう気配を感じつつも、またいつものように言葉を記し、その気がないなりにそれらの作業をこなしている気で、今日もまた一日が過ぎ行く。どうせまた夜になってしまうのだろう。何かそれが残念に思われ、やり残したことがいくらでもあるような気がして、この世界から遠ざかれなくなってしまい、なぜそうなるのかわからなくなり、そんなとりとめのない語り方が、自然の成り行きでそうなっているのかもしれず、たぶん意志の力でそれに逆らうわけにもいかず、おかしな具合だと気づきながらも、そんなふうに語っているつもりになり、それがそこでの妥協点であるわけでもないだろうが、ともかく誰かがそう記しているようで、君にとって何がどうなったわけでもなく、平然とそれらの行為を眺めながら、何を思うこともない。ここはそういうやり方なのだから仕方がないだろうか。相変わらずそれを誰に尋ねているのでもないだろうが、語っているつもりの当人は納得しているようで、くだらぬことだと呆れながらも、そうなるより他ないような成り行きに従わざるを得ないみたいだ。たぶんそれは嘘に決まっている。

 しかしそこで何を語っているのか。それは改めて問うまでもなく、虚無について語っているつもりのようで、それが嘘だと知りながらも、ともかく文章として読めるようにしなければならず、一応は意味を担っているように言葉を構成して、それで何とか勘弁してもらいたいようで、そんなことはお構いなしにでたらめに終始するわけにもいかず、誰かは行儀よくそれらの言葉を並べ、何に答えているわけでもないふうを装いながら、どこまでも続く何かを追い求め、その何かが終わらないように工夫を凝らして、それでも疑念を抱かせるような結果に満足せず、そこでの試みを永続できないことを承知で、そんなことを述べているのだろうか。少し意味不明だろうか。それに何の意味があるとも思えず、そうすることでどうにもならなくなってしまったことに憤っているわけでもなく、あくまで淡々と言葉を記し、そこに否定的な感情が宿らないようにしたいのかもしれず、そんなことを述べている意識が何を考えているのか定かでないが、その定かでない思考をどうしようというのでもなく、たぶん君はそれ以上の何かを望んでいるのだろうし、何がそれ以上なのかわからないまま、それについて語り続けている現状が、君にどんな影響を及ぼしているのかも定かでないが、やはり延々と語っている事実には、どんな思惑も関与していないのだろうし、単なる惰性以外の何ものでもないようなそれらの試みが、どんな意義を伴っているとも思えず、ただそうやって記された言葉の連なりについて、君はどんな感慨を抱こうと、それが誰の告白となって文章に記されようと、相変わらず君は無関心を装い、それを黙って眺めるばかりで、そこから問答無用の何かが導きだされるとも思えず、要するに決定的な理解が欠けていることは否めず、だらだらと連なるそれらの言葉たちが、どこかで再構成される機会は永遠に訪れないだろうし、きっとそのままの状態で忘却されるだけで、たぶんどこにも残らない言葉の連なりとなるしかないのだろう。

 また心にもないことを語りながら、そんなことを記して、一方でそれを裏切るような結果を期待し、どうでもいいいような何かを守りつつ、それで何が変わったのかわからないが、数々の失敗を重ね、少しは謙虚になったようにも感じられ、その調子で言葉を記していけばいいのだろうが、怠惰な心には勝てず、たぶんその怠け心がそれらの作業を遅らせ、やる気を削ぎ、こんな状況へと導いているのか。いったい誰が君をここまで導いてきたのか。その辺のところがフィクションのどこにも説明がない。フィクション自体があり得ないのではないか。誰がそれを記しているのか。君自身ではないのか。誰もそこまで到達していないようだが、誰が迷路を造っているわけではなく、記された言葉の並びが何を表しているとも思えず、何を基準に他の何を評価しているわけではなく、そういうことではないと思っているだけで、そこから先に言葉を記せなくなり、それから君がどうなったのか、それを物語れなくなってしまうだろうか。誰かの空想の中で、他の誰がそれを語っているのか。君がそれを知らずにいられるはずがなく、やがて自らの秘密を知ってしまうだろう。そんなものがあったらの話だろうが、どこにも存在しない君の話をこれから語る必要があるかどうかも定かでなく、なぜそんなことを語ろうとするのかも理解できず、たぶんそんな作り話を記す機会は訪れないのだろうが、依然として何でそうなってしまうのか不思議に思われ、他に何を企んでいるのでもないのに、誰かの思惑に行動を左右されてしまうのが不可解でならず、それが何かの罠にはまっている証拠ではないかと疑いたくなってくるが、とりあえずは不愉快を装いながらも、そんな気分でそこから遠ざかり、何かの扉を開けてその先へ歩き出そうとするが、まさか睡眠中に夢でも見ているのだろうか。そうではないことを祈りながら、自分がどうなろうとしているのかわからないが、それが何かの気晴らしの続きだとしたら、君の言い分にも耳を傾けておかなければならないだろうか。今はそんな必要はないと諭すのみか。


8月19日

 すべては隠されているのか。雨が降っているようだ。成り行き的にはそういうことか。他に何が見出されているわけではない。そんなはずがないだろう。だが何を否定しているのかわからない。そんなふうに語るのはおかしく思われ、ごまかしの兆候があるだろうか。いつもながらのそれでしかないだろう。君はそれについてどう思っているのだろうか。何やら説明できず、その気になれない理由もわからない。心の扉を開くと暗黒の空間が広がっている。それはフィクションに過ぎないだろう。どこかでくだらぬ空想を働かせ、現実逃避に走っているわけか。それが思いもよらぬ結果をもたらすとは思えない。ではどんな結果をもたらしているのか。見た通りで読んだ通りの結果に違いないが、そんな結果に誰が満足しているとも思えず、思い通りの結果を残すにはさらなる精進が必要か。馬鹿げている。わからないのではないか。別に思い通りでなくてもかまわないはずか。それ以前に何が思い通りなのかわからない。そんなことを語るべきではないのかもしれない。なぜそういう話になってしまうのだろう。何も話していないのではないか。そこで安易に勝負すべきではない。それは話の断片なのか。聞き覚えはない。君はそこで何を語っているのか。はっきりしたことは何もわからず、誰かの記述は相変わらずの無内容だ。そしてそこから逃れようとしている。一刻も早く遠ざかりたいのか。たぶん理詰めで行動してはまずいのだろう。ではここも勘が頼りとなってしまうのか。まったくくだらなく思えてくるが、君にはそれしかないのだろうか。誰もがそうだ。何も持ち合わせてないのは同じことか。それでうまく立ち回ろうとするから無理が生じる。しかしわかりきっていることなのに、何でそうなってしまうのか。なるべくしてそうなってしまうらしい。それ以外には何もない。そして相変わらずの何かに急かされ、さらにぎこちなく言葉を記そうとして、その辺で何かがおかしくなっているようだ。

 そして決断する。何を決断したのか不明のようで、それが記されることもない。それは誰かのまなざしに違いない。何を見ているわけでもなく、誰に見られているわけでもなく、誰のための文章を記しているわけでもない。果たしてそれだけのことなのだろうか。どうやら得体の知れぬ場所へ迷い込んでしまったらしい。なぜそう思うのか。出口が見当たらない。それが出口なのだろうか。何がそうなのかわからない。またそんなことを述べているようだが、何を述べているのかわからない。近頃はそればかりだ。さっきから屋根を叩く雨音を聞いている。いつもそうだろう。かつてそんなことを記していたはずだ。いつも雨が降っているわけではないが、記しているのはそんなことだ。音楽を聴きながら、そんなことを記しているようだ。そればかりでは飽きてしまうだろう。それしかないから飽きるも何もなく、ひたすらそうなのだ。出口はそこにある。君が見えていないだけで、そこから出るのは簡単なことだ。やめればいいのか。すでに誰かが言葉を記すのをやめているはずだ。そしてそんなふうに語っている。それでもここまで語ってきたではないか。何も語らずにここまで語ってきた。何に驚いているわけでもなく、それは当たり前のことで、これまでやってきた積み重ねの成果か。それが虚無を生み出している。それは不可抗力などではなく、明らかに人為的なものだ。きっと何かの巡り合わせなのだろう。そしてそれが君の心を覆っている。君はそれのせいで何も考えられなくなっていて、どこかで躓き、転んで怪我でもしているわけか。それは虚構の中での出来事となるだろう。実際には椅子に座って机の上の画面を見入る。何か文字列が奇妙な並びになっているのがわかるのか。それはきっと気のせいだ。君はそれ以上の何かを求めているのに、実際に導きだされるのはいつもの無内容だ。それが気に入らないのはいうまでもなく、どうにかしてそれ以外のまともな内容に至ろうとしているのだろうが、語っているのは相変わらずのそれだ。それ以外には何も見当たらず、依然として屋根を叩く雨音混じりの何かを聞いている。

 まさか唐突に偶然の巡り合わせで、何かの岐路に立たされているのだろうか。何の岐路なのだろうか。分かれ道には違いない。だがその分かれ道に意味などありはしない。どちらへ向かっても大して代わり映えしないのではないか。現状は現状のままで、ならば分かれ道など必要ないではないかと思うが、とりあえずはそんな分かれ道をフィクションの中に設けてみよう。冗談に違いない。結論としては冗談なのか。何が冗談なのでもないのだろうが、なぜかそうなってしまい、そうならざるを得ないような成り行きの中で、誰かが思い悩み、自らが作り話の中で悩んでいることに気づかない。そんなことはあり得ない。あり得ないからフィクションなのか。しかしなぜそんなつまらない言葉の並びとなってしまうのか。もういい加減にやめた方がいい。行き詰まるとそんないつもの言葉が記され、何かの終わりが近いことを予感させるが、たぶんそんな予感を裏切るような何かを文章の中に提示しようとして、結局それからどうなったのかはっきりしないまま、さらに意味不明気味に言葉を並べ、それで満足するはずもないのだろうが、とりあえずの終わり方としては、そんな語りが記され、何となくその辺で妥協しようとしているのだろう。それともまだそこでは無理なのだろうか。それを語るのが無理であることは以前からわかっているはずか。それとは何か。そんな問いばかりで、それが何だかわからないまま、それを明らかにすることもできず、何かのジレンマに陥り続け、そこから抜け出る方法も思いつかず、強引に突破する勇気もありはせず、嫌な板挟み状態がいつまでも続き、心を病んでしまうような予感に襲われ、このままではだめだとの結論に至り、どういうわけが突然決心がつき、それを実行に移そうとしているらしいが、果たしてそれが成功するだろうか。とりあえずやってみなければ結論には至らず、それをやる気でいるらしい。まさか君はそれを阻むような邪魔が入ることを期待しているのか。


8月18日

 なぜそうなってしまうのか。何がどうなっているのでもないはずだ。今までにくだらないことばかり語ってきたような気がして、気がとがめるのか。冗談だろう。冗談ではないとすると、これから何を語ろうとしているのか。そんなふうに語ろうとしていることが冗談ではないのか。またわざとらしくおかしくなっているようだ。時が経ち、やがてどうにもならなくなってしまうのかもしれない。何がどうにもならなくなっているのか。さっきから言葉を記しているはずだ。たぶん何かについて語ると、それがすぐさまフィクションとなってしまうところが、どうにもならないことなのか。それだけではないはずだ。言葉が方々へ散らばって、文章として意味を担えなくなっている。そんなことはないだろう。いくら空疎でも意味ならいくらでもありそうだ。意味がないというのが嘘なのか。文章の中身が虚構なのだから、嘘でも何でもかまわないか。実際にはそうならないところが歯がゆいか。君は未だに特定の何かについて語っている。内容など何でもかまわないのに、実際に語っていることはそればかりだ。だからつまらなくなってしまうのだろうか。滝の上から下を覗き込んだ映像だろうか。滝壺から何か得体の知れない物体がせり上がってきて、それが何だかわからないうちに映像が途切れてしまう。君はそこで何を空想しているのだろう。それとはまったく関係がないことを述べているわけか。なぜそうなるのかわからない。別に語るなら何でもよかったはずだ。何かの途中から唐突に意味不明なことを語りだしてもいい。そして記しているのが文章として意味が通らなくてもかまわないはずだ。いったいそれが何を意味するのか。何も語る気がしないわけか。言葉が足りないのだろう。それを思いつけなくなっている。それだけではない。何かを構築しようとする気力に欠けている。それは到底物語までたどり着けない。それを拒否しているのではなく、話を構成する力がないのだ。だから何でもありとなって、結局支離滅裂なことを語り、意味不明な言葉の並びを肯定するしかなくなり、でたらめなことを記しているわけだ。

 だがそれで気が済むはずもなく、どうせ利いた風なことを主張して、それまでのぎこちなさとはおさらばしつつ、溜飲を下げたつもりになりたいのだろう。そんな成り行きになるはずがない。今のままでこんな具合になるしかない。無理なことはわかっている。理由など示すまでもない。それについて語れないことが致命的だ。それとは何だろう。いつまでもそんな問いかけにとどまっていて、まったくその先に進めない。それだけのことかもしれないが、それ以外には何も語れないわけか。怠惰がそんなていたらくをもたらしているのか。それは君自身に原因があるのだろう。そう思いたければ思っていればいい。何か反論に値する材料でも探し当てたか。それも唐突で不自然な何かだ。何かではない。では何を否定したいのか。それも違うと思われる。そんなやり方ではまずいのだろう。だからもう少し先まででたらめの続きを記すべきか。そうすればいつの間にかわかってくるだろうか。そうなることを誰が願っているわけでもないだろうが、とりあえずはそれを記すとしよう。実際には何を記しているとも思えないが、そういうことを記しながら、どこかへたどり着こうとしているのかもしれず、たどり着いた先に何があるとも思えないが、相変わらずそういうことを記しながら、そこへたどり着こうとしているようだ。そんな感じでかまわないのか。誰がうなずくわけでもない。そこで軽く会釈しているのは、画面上の登場人物か。君とは無関係だろうが、それでも何かしらヒントやきっかけを与えてくれると勘違いしたいようで、あり得ない意味や意義を汲み取りつつ、無駄な思考を働かせ、そこで架空の成り行きを思い描き、あたかも自分が物語の中に紛れ込んだような気になり、その中の登場人物として振る舞っている情景を思い浮かべるが、どうも今ひとつ乗り気でないようで、何かのきっかけで簡単に現実へと引き戻され、そんなありもしないことを記しながら、少し変な気になるが、一方でそうではないような何かが、架空の誰かをそこから連れ去っているようにも思われ、さっさと正気に戻って言葉を記さなければと思う。

 やはり話になっていないようで、語ろうとする意図がどこにも伝わっていないようなことを述べているのかもしれず、それでもかまわないのだろうが、なぜかまわないのかはわからないことにして、その先へ何か適当に言葉をちりばめ、いい加減に話をねつ造しようとしているのかもしれないが、今までにそれがうまくいったためしはなさそうで、いつも言葉のつながりが中途半端なまま、結局まともなことは何も語れずに終わり、そこへ行き着くまでには至らず、そこがどこかもわからないようで、何を語ろうとしているのかも忘れ、そんなこと語っているうちにどうでもよくなり、それを導きだせないことが、後から苛立ちとなって誰かを苦しめ、そんなのは嘘だと思いつつも、そういう外し方がわざとらしく感じられ、やはりそこから何かを装うこともしなくなり、そんなやり方で妥協せざるを得なくなって、そこから先はつまらない語りに終始してしまうようだが、果たしてそれで語っていることになるのか。そういうまとめ方が気に入らないか。君はそこで何を無視しているのだろうか。話の筋が通るようにしなければならないようだが、そんなことははなからあきらめているはずだ。たぶん何の話にもなっていないのだろう。何かをまとめるつもりもないらしく、話になっていないのはかえって好都合かもしれない。なぜそんなことを思うのか。でたらめに終始しているのがそんなに愉快か。いったんそれをあきらめてしまうと、歯止めが利かなくなり、何とか食い止めようとしているのだろうが、たぶんその辺で無理があるのだろう。たとえ予定調和の自問自答をやめても、それに代わるやり方などいくらでもありそうで、現にこうしてそんなことを語りながら、あきらめの廃墟を形成しつつあるわけだ。何かを語ろうとして何も語れなくなるのは愉快なことではないが、それでもかまわないと思うしかないのは、それが嘘だとしても、そこに何らかの真実が含まれているように思われてしまうのかもしれない。


8月17日

 それをどう表現したらいいのだろうか。またくだらないことを考えているのかもしれない。それがわからないのか。眠たくなっているようだ。どうも理解を得られない。納得がいかないようで、いつまでもそうではないと思っている。なぜか興味を抱けない。大したことではないのかもしれないのだが、些細な違いにこだわろうとする。どうしてもそうなってしまうようだ。アカペラを聴きながら、やはり何を思うわけでもない。断片的な考察でさえない。また散らばってしまうのだろうか。巡り会うのはもっぱら誰でもない。話にならないではないか。たぶんそうなる必然性がないのだろう。存在しない。誰の自画像でもないのではないか。そんなことを語る必要はないのか。今さらそれはない。語らなくてもいいことなどいくらでも語ってきたはずではないか。だからそこまで語る必要を感じないというわけか。理由があるわけではなく、君にとって必要がないと感じているだけだ。それだけでかまわないのだろう。何か違うことに気を取られているのか。たぶんそうだ。しかしなぜそう思うのだろうか。きっと気のせいに違いない。だが気のせいにしても、それほど悩んでいるのだから、そこにはきっと何かがあるはずだ。いったい何があるのか。何もないわけがないと思い込んでいるだけか。そうかもしれないが、一方でそれでもかまわないような気もしているようで、なぜそう思うのか、その理由を探るつもりもなく、ただそれでかまわないような気がするだけで、そこはそんなふうに思いながら通り過ぎようとしているが、それでかまわないのだろか。何か他に思うところがあるはずで、それがうまく表現できないのだろうが、君はそうではないような状況になることを狙って、その辺をうまく受け流しているのではないか。そうやりながら、別の方面で何かに至ろうとしているような気がする。今のところはそれが何だかわからないが、そのうちなんとかなって、そうなってしまうかもしれないが、いったいどうなるのか。

 危うくまたくだらぬ冗談でごまかしてしまうところだったが、かろうじて持ちこたえて、そこから先にさらに言葉をつなげることができたらしいが、相変わらずの空疎で意味不明か。それでかまうはずもないのだろうが、とりあえずのところはそんなふうに語っている。たぶん何に耐えているとも思えず、くだらぬことにこだわりすぎているようで、そこから何も進まなくなり、あきらめて寝てしまったようだ。近頃はそんなことの繰り返しか。たぶんそれだけでは済まないだろう。数日後は急に涼しくなってきたようで、久しぶりに蒸し暑さから解放され、今にも雨が降ってきそうな曇り空を眺めながら、今の世の中で何か不都合なことでもあるのか、と虚空に向かって問いかけてみるが、何も返ってこないようで、特定の政治家や政党に向かって、いつもながらの無い物ねだりを投げかけるメディア関係者を、あざ笑うつもりはないが、果たして国家としての日本に何ができるのかと問うなら、別に何もやらなくてもかまわないような気がしてきて、山積している問題などいっさい無視してもいいようにも思え、行き詰まったかに見える現状など、そのまま放置しておいてかまわないような気もしてくるのだが、なぜ馬鹿の一つ覚えのように同じことの繰り返しとなってしまうのだろうか。それはそれでかまわないからであり、人々は毎度おなじみのそれを求めているのだろう。考えることを怠っていれば、別になんとも思わないのであって、いつまで経っても救世主願望のごとき架空のヒーローが出現するのを望んでいれば、それで事足りてしまうのだろう。数日後の今日も、馬鹿なライターもどきが、幕末と今の状況を比べて、何やら利いた風なことを述べながら、昨今の政治状況を批判している文章をネット上で見かけ、馬鹿はいつまで経っても馬鹿なのかと呆れ返っているかもしれないが、たぶんそれでかまわないのだ。別に世界中で日本だけに問題があるわけでもなく、欧米やロシアや中国、中東やアフリカや中南米や東南アジアなどでも、全世界的に問題だらけの国家ばかりではないか。

 要するに世界中に国家があること自体に問題があるのであり、そこから様々な行き詰まり状況が生まれているのだろう。欧米や日本における慢性的な財政赤字の問題、ロシアや中国や中東などにおける人権弾圧の問題、アフリカや中南米や東南アジアにおける貧困の問題など、たぶん国家単独では解決不可能な問題を抱えており、これからは国家を超えて個人や団体が連携し合い、問題を解決しようとするのではなく、たぶん問題に対処するような行動を起こす以外に、方法は見当たらないのではないか。使命感にかられて問題と格闘したり戯れたりすると、結局は問題の虜となって、問題以外には何も考えられなくなって、さらに別の問題を引き起こすことになりかねず、それはそれで問題の無限循環に陥るしかない。例えば慢性的な財政赤字を解消するために、有効な景気対策施して税収の増加を計ろうとすれば、もしそれに成功したとしても、好調な経済を背景にして貿易黒字が増大したりすると、貿易相手国の経常収支が大幅な赤字となったりして、自国が利益を得る一方で他国に損害をもたらしていることにしかならず、安易な問題の解決が新たな問題を引き起こして、国家間の紛争の原因を作ってしまうわけだ。では問題を解決するのではなく、問題に対処するとはどのようなことなのか。要するに様々な事情からその国で暮らしていけなくなったら、移民となって外国へ渡っていくしかないということだ。もちろんそれも問題であり、具体的にアメリカでは中南米からの移民に悩まされ、ヨーロッパでは中東やアフリカからの移民に悩まされ、それに伴って移民の排除を主張する国家主義右翼の台頭を許しているわけだろうが、そうやって元から住んでいた人々と新たに流入してきた人々との間で軋轢が生じつつも、数百年から数千年単位の長い目で見れば、そんなことの繰り返しによって人類の歴史が作られてきたわけだから、それは自然の流れであって、ごく当たり前のことでしかないのではないか。そういうことを考慮すれば、今国家が抱え込んでいる解決困難な諸問題など、どうでもいいこととは思わないが、国家主義者気取りとなってあまり深刻にとらえるようなことでもないとも思われる。


8月16日

 相変わらずそれがどうしたわけでもないが、またこんな案配だ。何か思うところでもあるのか。そんなはずがない。その状況を否定する理由が見当たらない。では他に何を否定しようとしていたのか。蒸し暑い。そういうことだ。まだ夏だから仕方がないだろう。しかし何を明らかにすべきなのか。積極的に探し出そうとしない限り、この世には何もない。しかし必死になって探し出そうとする行為が幻想を生み、どうでもいいような事物に至上の価値を見出そうとしてしまう。それでかまわないのではないか。誰かは妄想の世界に迷い込んでいるのだろうか。おおよそ探求とはそういうものだ。またそんな嘘をついてそれらの行為をおとしめようとしているのか。しかし何が探求なのか。そんな問いも現時点ではわけがわからない。問う必要のないことを問いかけ、語ろうとしつつある何かを逸らそうとしている。そこで何を語ろうとしていたのか。無理に語らなくてもかまわないような気がするが、語るべきか否か悩んでいるとも思えず、あまり考え込むと面倒なことになりそうなので、そのままそんな状況を素通りして、別の機会を捉えようとするが、一度逃してしまうと、なかなか次の機会がやってこないようで、また難儀なことになりそうだ。そんなことを思っているうちに眠たくなってきて、言葉を記そうとする気が失せ、さっきまで居眠りの最中だったようだ。たぶん気を取り直すには及ばないだろう。そのままでかまわないのだ。いったい人はこの地球上で何をやっているのか。大げさなことではない。それほどくだらないことでもないか。その評価は人それぞれで異なるか。別にそんなことを積極的に評価しようとも思わないが、馬鹿げたことではないらしい。たぶんそうなのだろう。時と場合によってはそうでもないのか。中にはエジプトで過去の遺物を掘り出している人もいるらしい。考古学という分野で研究している人もいるのだろう。人は過去に何をやっていたのか。今と同じようなことか。

 自然から法則のようなものを導きだして、それに照らし合わせて、そこに見出される様々事物を恣意的につなぎ合わせ、何らかの秩序を構想して、それによって自然を理解したと思い込み、自らや自らが属する集団が他と比べて有利になるように、自然に対して何らかの働きかけを行う。儀式のたぐいか。そうやって人は人と対峙するしかなく、そこに相対的な差異に基づく階層構造でも築き上げようとしているのか。それで何がわかるのか。事を急ぐべきではない。安易な理解に達する前にやらなければならないことでもあるのだろうか。外は晴れて蒸し暑い。どうやら限界が近づいている。かつてそんな物語もあったかもしれないが、今はそうではないような気がする。やはりそこに何があるわけでもなく、宝物とかの幻想を追い求めるべきではないのかもしれず、何も導きだせないことを認めるしかないのかもしれない。何事も起死回生というわけにはいかないようで、次第に衰弱していくばかりで、そんな成り行きを認め、自らに訪れようとしている緩慢な死を受け入れるべきなのか。いったいそれとこれとはどういう関係にあるのか。またいつもの支離滅裂で何かをごまかそうとしているわけか。それは自らがやっていることに魅力を感じないことの表れだろうか。たぶんわからなくなっているのだろう。何を語るべきかわからない。今さらそんな嘘をついてどうするのか。語る必要がないのはもとからわかっていたはずだ。それでも語ろうとしてきたのだから、無理があり、ごり押し気味に事を進めないと、前進もままならないこともわかっていたはずで、そこでいくら弱音を吐いてみても、そんなのはわかりきっていることだ。そうなるしかない状況に自らを追い込んでいるのであり、そこから逃れたければやめたらいいだけで、逆にやめるわけにはいかないと思っているから、そんな袋小路に迷い込んでいるのだ。だからどうしたらいいのかも百も承知で、それを頑なに拒否し続ければ、そんな苦境に追い込まれるのは当然のことだ。ではどうしたらいいのだろう。どうにもならないのにどうしたらいいも何もありはしない。

 たぶんそれでも語ろうとするのだろう。誰が何を目指してそんなことをやっているのか定かでないが、それが嘘ではないことは確かで、たぶん言葉を記しながらくだらぬ妄想を抱いているのだろうが、そのろくでもないメンタリティーにどんな人格を当てはめたらいいのか。別に君は架空の登場人物ではないはずか。しかし物語はどこにあるのだろう。それは誰のことを述べているのか。それとは何か。またそこで何かが停滞してしまうが、いったいそれは何を意味するものなのか。ものではなくことか。あるいはそのいずれでもなく、その辺でわからなくなり、行き詰まってしまうのかもしれないが、後は適当にごまかすとしよう。それはまったく馬鹿げたことか。冗談に過ぎず、語る必要のないことかもしれない。君はそうやってくだらぬ何かを続け、その場を取り繕い、何事もなかったのように済ませようとしているが、それらの行為は何を意味するのか。君にはそれらがすべてまがい物のように思われ、何もないことをごまかすために、そこで何かが演じられ、それを演じることによって、その場に居合わせた者たちが自己満足に至るのかもしれず、達成感を得て、それで納得してしまうのだろう。それが儀式の本質だろうか。いわゆる文化一般とは、そういった物事の蓄積から生じ、それが人々の心の中に幻想の楼閣を形成しているのであり、そこに何かがあるように錯覚してしまうのではないか。では文明とは蜃気楼のようなものか。いきなりそうやって論理的な飛躍を被ってしまうようだが、客観的に見ればむちゃくちゃなことを語っているわけか。それでもかまわないか。そういう語り方では単純すぎて、その中に含まれる個々の事物の特性を見落としていることになるだろうか。たぶんそうであってもかまわない。記された言葉の連なりは常に現実から飛躍して、あり得ないでたらめを表現しようとするのだろうし、そんな意味不明が時として誰かを驚かせ、何だかやりきれない思いにさせ、他の誰かのつぶやきを招き寄せる。要するにそれでいいのだろうし、それでかまわないのだ。


8月15日

 何が語り得ないのではなく、単に語らないだけか。相変わらず語ろうとしていないようだ。何も語らず、語れないらしい。それだけのことなのだろうか。そうではないと思いたいのか。またくだらないことを述べている。それだけのことだ。それ以外に何があるというのか。そういう語り方では無理なのか。ではどう語ったらいいのだろう。なぜそうなってしまうのかわからない。わかっているくせにそういうことを述べてしまい、自ら墓穴を掘っていることになるのだろうか。そうだとしてもおかしい。ではそのおかしいついでに、言葉によって何を描写したいのか。そういうことではない。たぶんそういうことなのだろう。逆接的にそうなのではなく、本当にそれでいいのだろうか。何が本当なのかわからない。何も語ることがないというのは本当に嘘なのか。だからそういうことではなく、たぶん何かを語っているのだろうし、語ることがないからそんなことを語っているのだ。そして窓から外を眺め、それがどうしたわけでもないのに、そんなことを語っているのだ。それは気晴らしでも暇つぶしでもなく、ただひたすらそんなことを語っている。別にジャズについて語りたいわけではないが、聴いているのはジャズか。人はどこまでも人らしい。人でなくなれば何になるのだろうか。人の死体か。死体が腐ったら腐臭を放ち、それをかいだ人を嫌な気分にさせる。だがそれが生きている人に向けた死体の嫌がらせだとは思えない。誰もそんなふうには思わないか。またアレルギーで皮膚がかゆくなり、薬を服用しているので外見からはわからないが、紛れもなく尋常乾鮮であることに気づく。だがそれとこれとがどのような関係にあるのだろう。気分が優れない原因がこんなところにあったのか。そういうわけでもないと思う。何も語っていないようだ。そう思いたいだけで、そんな思いが空回りして、それからどうなってしまったのか。昨日の夜になり、蒸し暑さに耐えられなくなり、やはりそれがどうしたわけでもないことに気づき、そんなことをひたすら語っているわけだ。

 遠くに見える高圧鉄塔が、夕暮れ時の薄暗がりの中で、次第に見えなくなってゆくが、そこからどんな話に持っていこうとしているわけでもなく、至って空疎で、それ以外は何も語らないように用心しているとも思えず、たまに意外性が垣間見えるようにしたいわけでもなく、その辺で面倒くさくなり、いつもの自問自答でごまかしたいのかもしれず、そうなる前に何とかしたいのだろう。何ともなりはしないか。この世界がどうなってもかまわないのか。それは誰の台詞なのか。アルカイダの指導者が何かのついでにそんなことを表明したいのだろうか。たぶんどうなってもかまわない。どうにかなるという前提でそんなことを述べているのか。そうだとしてもどういうことでもない。なぜか画面が傾いている。それがどうしたわけでもないが、膝の上に乗せてキーボードを叩いているからそうなってしまうのだ。やはりそれもそういうことに過ぎず、現状が他に何をもたらそうとしているわけでもない。何ももたらせずに、意識はくだらぬ空想の中に迷い込んでいる。そう思うなら、嘘でもかまわないからそんなことを語ってみせればいい。すでに語っているそれではだめなのか。もうこんな時間だ。結局言葉は誰とも巡り会えず、どこかに散らばりながら、何とか体裁を取り繕うとしているのだろうが、どうもそのセンスでは大したことにはならないようだ。何かとの差異を際立たせるのにも失敗しているようで、ひたすらてい徊趣味のごとくに、どのような些事をも文章に含ませられず、それからどうなってしまったのだろう。それ自体がフィクションで、その中で何かを語ろうとしているらしく、話の中に誰かが現れ、そこで何かをやろうとしているのだろうか。まさかどこかの都市で自爆テロでもやるのか。そういう物騒な話ではなさそうで、夕暮れ時からしばらくして、唐突には何も起こらず、拍子抜けの感を拭えず、誰かがどこかでくつろいでいる。何だかそれも違うような気がするが、とりあえずはテレビでも見ているのが無難な線か。

 どうやら話はどこへも行き着かないようで、まともな方向へ持っていけなかったようだ。今は月夜の晩なのだろうか。それが誰の空想とも結びつかないようで、遠くに何が見えているわけでもなく、それについて語ろうとしているわけでもない。そこでは何も語られず、語らないことに意味や意義があるとも思えず、ただそうなっているに過ぎず、誰かはがっかりして、その場を立ち去り、自らが架空の存在であることを忘れ、それらの語りに何を期待していたのかわからなくなり、そして何かを記そうとするが、それがこれなのか。何でもないのにこれとは何か。なぜそれが存在すると思うのか。それとは虚無のことか。それもこれも同じ存在には違いなく、この世界に何が存在していようと、これがそれになり、さらにあれになるように、成り行きが推移して、何かが何かへと変化して、それにつれて呼び名が変わり、誰かを戸惑わせ、これまでの常識が通用しなくなったことに気づいたりして、また新たなやり方を模索して、新たに編み出したそんなやり方が世間に通用したら、それなりにやっていけるのだろうが、それから君はどうなったのか。ただ椅子に腰掛け、画面の眺めているだけか。石化しているようだ。このままでは化石となってしまう。そんなはずがないだろうが、どこかに立っている石像が、誰の成れの果てなのか知らないが、そんな石像巡りをフィクションの中でしたい気がしているのは嘘で、話がまとまらないままに、苦し紛れに語っているような気がして、できれば一刻も早くそこから退散したいようで、さっさと言葉を連ねて、それでおしまいにしたいのだろうが、なかなか先が見えてこない。たぶん人には感情があり、それにまかせて争いごとでもすれば、何やらそれらしい話になるのだろうが、そういう話に興味を持てないのは致命的か。他に何があるのだろうか。たぶんそこで語られているのはそういう話なのだろう。面倒くさいからそういうことにしておきたいようで、君はそれで何かを語っているように装いたいのか。実際に語っているのではないか。今はそれを認めがたいのか。


8月14日

 どこから外れているとも思いたくない。本当はそうなっているはずだ。何を批判したいわけでもないが、ここから何をやるのか。まだ昨日の日付ではないか。君はまだ迷信を信じているのだろうか。語りたいのはそんな話ではない。そういうことではない。何を否定しているのかわからない。そんなものでしかないらしい。語ることによって何を求めているのか。結果がもたらされているようだが、何がそうなのかわからない。誰かは自由になることを目指している。それがわかりにくいのか。いったいそれらの何を馬鹿にしたいのか。それは世界そのものではないのか。ここにその一部がある。それは何かのかけらか。そうやって君は語れないことを語ろうとしているようだが、無理に決まっているだろう。本当に語り得ないのか。君はアフリカ・バンバータを知っているだろうか。そういうことではない。別にクロノス・カルテットと共演したわけでもないか。古い話に違いない。君はあり得ないことしか思い出せず、それが空想だとは気づかず、思い出すふりをしながら想像して、その後が続かなくしている。他に何を提示すべきか迷っているはずだ。相変わらず文章になっていないようだ。いつもの自問自答はどうしたのか。別に誰がそれを求めているわけでもないだろう。とりとめがないのはいつもの通りに違いない。別にそこから何が見出されるわけでもなく、かなり的外れなことを述べているようだ。疲れが出ているのだろう。君に反論する機会など与えられず、いつものように沈黙するばかりで、そこから何を語りだそうとする素振りも見せず、ひたすら黙りこくる。それがせめてもの救いだろうか。何が救いなのかわからないのもいつものことか。君はそんなふうに語るしか術を知らず、黙りこくりながら語り、それはあり得ないことかもしれないが、フィクションの中では可能か。今日は冗談で済ますわけにはいかないのだろうか。それでもそこからどうにかしたいようで、君はそれ以上の何かを求めているはずだが、果たしてそれを語ることが可能だろうか。だから冗談で済ますわけにはいかないのか。

 まだその先があるはずだろう。それを語ればいいではないか。受け入れがたいのはどういうことだろう。そんな状況になってみなければわからない。そういえばジャングル大帝は何を食べて生きていたのか。やはりライオン・キングは周りに暮らす草食獣を食べていたのだろうか。その辺は虚構の話だから、踏み込みがたいところだろうか。眠たくなってきたようだ。くだらないことを記しているうちに眠ってしまったらしく、翌朝に起きて、昨晩何を考えていたのか思い出せなくなり、それもいつものことかもしれず、気にする素振りも見せずに仕事に励んでいるつもりになりそうになり、それも冗談に違いないとも思われ、いったい自分が何を考えているのかわからなくなっていることにも気づく、すべては嘘だろうか。何が嘘なのか。すべてだ。すべてとは何だろう。くだらない問答になってきたようだが、わざとそんなことを述べているのかもしれない。ならばそれが冗談のすべてか。あまり安易に見解を示さない方がよさそうだ。だがそうなってしまった以上は後戻りができない。それが嘘なのだろうか。何が嘘なのかわからない。それとは何か。何でもなければそれですらないということか。おかしな理屈以前の屁理屈を口走りそうになっているのかもしれない。だがそれは理屈以前ではなく、以降でも以後でもなく、ただの意味不明か。しかしそう述べてどこへ逃げるつもりなのか。逃げ場などどこにもなく、逃げられないから苦し紛れの嘘をついてしまうのではないか。だがそうだとしても、なおのこと意味不明だ。どうも自分で記した文章の内容を把握できなくなっているようで、自分が誰なのかもわからなくなってくる。まったく君がどこまで本気なのかわかりかねるが、何を記しているのでもない現状に変わりがないようで、ついでに適当でいい加減なことを記し、そんなことを記している当人を戸惑わせ、やはりそこで途方に暮れてしまうのか。現にそうなっているではないか。なにしろ昼が暑すぎて、そこで体力を消耗してしまい、そんないいわけが通用しなくなるほど疲れているわけか。そうではない。

 たぶんそういうことではなく、何がどうなっているのでもなく、何もどうもならず、代わりに頭がどうかしているのでもない。ただひたすら空疎なのだ。それが理由にならないほどやる気がしない。またそんな嘘をつきながら、ひたすら言葉を記し、その内容が空疎で虚無的であることを知りながら、そんなのは嘘だと思い、そう思い込んでいる誰かが、さらにそれを続けようとしているらしく、もはや歯止めが利かなくなっているようで、そんなことを記している現状だけが果てしなく続いてしまう気配もしてくるが、本当にそうなってしまうのだろうか。そうなっているとしたら何なのか。君はそれを認めざるを得ず、自らのとりとめのなさを嘆くしかないのだろうか。その辺は何ともいえないようだが、とりあえずは続けてしまうようで、何かそれが嫌な感じを招いているかもしれないが、それを止めるわけにもいかず、無理には止められないのであり、止めようとしても止まらない。君はそこから離脱したいのだろうか。現状では絡めとられているではないか。別に虚無が君を絡めとろうとしているのではない。では何なのか。何でもないから何も思わず、何も思わないから、何も記せず、何も記せないから、実際に記されているそれが嘘なのか。またおかしなことを述べているようで、わざとそうしているにも関わらず、そんなやり方に絡めとられ、そこから逸脱できずにいるようだ。でもその必要がないからそうなっているだけではないのか。そうかもしれないが、そういうやり方が気に入らないことだけは確からしく、嫌なのにそうなってしまうことが、逆に何かの呪縛のように思われ、そこから果てしなく言葉が連なるとすれば、それは虚無の言葉であり、何やらこけおどし的な言語表現になってしまいそうだが、何も語れないことから生じる虚無が君自身を形成しているような気になり、言葉が言葉を生み出すがごとくに、言葉と言葉の間にある空隙がまた別の空隙を生み出し、それがどんどん左右に広がろうとすると、その間にまた別の言葉が生み出され、言葉と言葉に挟まれた空隙が次々と生まれ、そんな言葉と空隙の連なりが止めどなく広がってゆき、そこからフィクションとしての文章が生まれるわけか。もちろんそんなのは嘘に決まっているのだろうが、そんなでたらめな説明でもかまわないような気がするのはなぜだろう。要するに説明などどうでもよく、ただ実態としてそんなふうになっていればいいのか。


8月13日

 気になっているわけではないが、遠雷とにわか雨か。本降りになってきたようだ。そして時が経ち、いつもの静けさが戻ってきた。そんなふうに語ればいいのだろうか。君がそれを知っているとは思わない。何も思っていない。今がそうなのか。果たして文章になっているのだろうか。何がそうなのかわからないが、雨が小やみになり、そろそろ終わりが近いことを予感させる。それは誰の終わりなのだろうか。気分が乗ってこないようだ。そして翌日の翌日になってしまい、言葉を記すタイミングを失い、さらに遅れそうな気配となる。しかしそれでも記そうとしているのだから難儀なことだ。いったい記述とは何なのか。君にとっては必要のないことだ。要するに必要な時に記せばいいのであって、必要でなくても記すとなると、それはもはやフィクションでしかないのだろうか。しかし事実として今まさに記述の最中だ。たぶんそれを誰かが必要としているのではないか。君は何かに守られている。それが確かな事実だとしても、このざまは何なのか。何でもなく、何とも思わないというわけで、何がわけなのかわからないが、わけがわからないわけではないらしく、誰かがそこで何かを記そうとして、その内容が君の思いと重なる部分があるのかないのかわからないが、ともかく何か適当なことを述べているつもりとなり、そんなことを記している誰かを困惑させ、何だか必要のないことを記しているような気にさせる。それでかまわないのだろう。確かにそのようで、現実にそんなことを記しているのだから、そういう内容でかまわないはずだ。しかし納得できないか。もっと何かもっともらしい内容を記せたら、その気になって上機嫌となるのかもしれないが、なぜか現状ではあまりにも空疎な内容で、そんなことは述べる必要がないように思われてしまう。それで困惑しているわけか。そうだとしてもそんな現状を受け入れるべきなのか。他に何もないのだから、受け入れざるを得ないということか。

しかし君はそうやって何を受け入れているのだろう。君ではなく、他の誰かが受け入れていることなのか。誰が何を受け入れようと、君には関係のないことか。何となくそんなことを記しながら、それが意味の通った文章とはかけ離れたでたらめのように思えてくるが、ついでにそんなでたらめも受け入れてほしいところか。後からそれを読み返そうとして、読み得ないことに愕然としたりするのだろうか。そういうこと以前に、読むに耐えないと感じてしまうか。しかし読書とは何か。人は何を読んだらいいのか。必要に迫られて任意の文章を読めばいいだけだろう。そして必要がないと思ったら読まなければいい。たぶんそれは簡単な理屈なのだろうが、必要があったりなかったりするのはどういうわけなのか。必要がなくても読んでしまうことだってあり得るはずだ。そうやって君は文学作品でも読む口実を得たいのか。しかしいったい何が文学作品なのか。まさかそれを読んで教養を高めようとでもしているのか。どうやらその辺から冗談となってしまうらしい。たぶん何が文学作品でもなく、読む気もないのにそんな言葉を使って、何やら知ったかぶったことを述べようとしているみたいだが、そうは問屋が卸さないか。いったい君は今まで何を読んできたのか。書物を読むよりテレビを見ていた時間の方が長いのではないか。そうだとしても何の救いにもならず、音楽を聴きながら書物を読み、テレビを見ながら何をやっていたのか。たぶんその辺でわからなくなってしまうのであり、何もやらずに無駄な時を過ごしていただけかもしれず、何やらためになる内容だと思っても、すぐに忘れ、まったく記憶に残らないような映像を興味深く眺めていたのかもしれない。果たしてそんなことがあり得るだろうか。例えばエベレストの山頂から眺められる風景をテレビを通してみた時、君はそれに感動したりするわけか。たぶんそうだ。ではそれは君にとって必要なことなのか。必要ではないかもしれないが、人によっては興味深い風景であったりするのだろう。そんなことを思うと、どうやらまた書物を読まなければならないと思うらしい。

 なぜそうなってしまうのだろう。読まなければならない根拠が示されていないではないか。テレビと読書は何の関係もないか。どうやら最近は近眼が悪化しているのかもしれず、遠くの文字が判別しにくい。やはりそれとこれとは無関係か。またわざとそんなことを述べているわけか。誰かを煙に巻いたりはぐらかそうとしているのかもしれず、何となくその辺にごまかしのにおいがして、真に受けてはならない事態となっているようだ。ではやはり冗談にもほどがあるのだろうか。ほども何も、何が冗談なのかわからず、そこにどんな思惑や意図が隠されているのかも皆目見当がつかず、そんなふうに述べながらも、要するに単なる暇つぶしのたぐいだと割り切ってしまえば、それでおしまいなのかもしれないが、まだ終わらせるには早すぎるようで、もう少し時間稼ぎでも必要なのだろうか。そういうわけで何が必要かといえば、それが間を持たせるために必要なのであり、たぶん無駄に言葉を記すことが、暇つぶしとして必要なようで、なぜ暇つぶしが必要なのかといえば、それは暇を持て余しているからなのかもしれず、忙しいのに暇つぶしをしていること自体が矛盾しているところだが、やはり暇そうにしていないと、心に余裕が生まれないということかもしれない。やはりそれはまったくの筋違いで、冗談にもほどがあるか。たぶんわざとでたらめに語ろうとしているのであり、他意はなく、純粋にそんなことを語っていたいのかもしれず、そんなふうに語っていないとやりきれなくなるか。何がやりきれないのかわからないが、気分的にはそういうことであり、そんな気分ででたらめなことを語っていると、何だか気分転換となるわけか。別に気分転換がしたいとは思わないかもしれないが、とりあえずはそんな成り行きで気分転換となれば、それでかまわないのだろう。何がどうあってもそんなふうにして、君はそこから逃れたいようで、馬鹿げた現場からさっさと退散したいのかもしれない。


8月12日

 また昨日になっているようだ。しかし言葉を記している事実に変わりはない。君は幻想を抱いている。そこで何を目指していたのだろうか。どうなってほしかったのか。君は間違っている。それは当然のことで、成り行き的にも当然だ。では何が間違っているのか。なぜかそれがわからないようだ。間違っているのは君ではないかもしれない。ではなぜ君が間違っていると記したのか。それがそもそもの間違いではないのか。しかしそう記したのは誰なのか。なぜかそれがわからない。そんなのは嘘に決まっているだろうが、それで何を語っている気にもなれず、そうしているうちにも時が経ち、短期間で老いるとも思えないが、何となく年を取ったような気がして、そんな事態を冷静に見つめ直そうとしているような、あるいは何なのか。それがわからなくなり、そんなふうに語るのはよそうと思い立ち、それを実践するつもりが、こんな具合となってしまい、理解できない何かをつかもうとしているようで、それを理解しようとしているようで、何を理解しようとしているのかわからなくて前で、かろうじてつかみ取ったそれが、やはりその何かなのだろうか。君にそれがわかるはずがない。なぜそう思うのか。なぜかわからないが、わからなくてもかまわないような気がして、無理にわかろうとする気にはならないようだ。無理もないことか。ひたすらそうなってしまうのだから、何を語ろうとしても無駄なのかもしれない。すべては悪あがきに過ぎず、いくらもがいても抜け出られない罠にはまっているのだろうか。そうだとしても冗談にもほどがあるか。君は馬鹿げたことを語りすぎている。本当にそうなのだろうか。何を疑問に感じているのか。どうもそこから抜け出すのが億劫になっているようにも思われ、なかなか話が進まず、気がつけばそんなことばかり述べているようで、ただ無駄に言葉を並べているに過ぎないような成り行きになっている。だからまったく冗談にもほどがあるのか。

 たぶんどこかに語る対象が隠れているわけでもないのだろう。バラク・フセイン・オバマがどうしたわけでもないが、政治家とはああいうものではないのか。やっていることのすべては妥協の産物で、それをマスメディアに批判されているだけか。それ以外に何ができるというのか。たぶん偉大でも何でもなく、時として弁が立つ政治家というだけの存在か。それでも彼なりによくやっているのではないか。しかしかつてマーティン・ルーサー・キングが語った夢とはいかなるものだったのか。今のオバマとは全く関係のない内容だったのか。それはそれとしてあり、これはこれとしてこういう成り行きになっているということか。おそらくキング牧師が大統領になったとしても、何が変わるわけでもなかっただろう。そうではなく、キング牧師が生きていた時代では、彼が大統領などになれるような状況ではなかったのであり、なろうとも思わなかっただろうし、そういう状況の中で彼は彼なりに何かと戦っていたのだろうが、当時のありがちなパターンとして志半ばで暗殺されてしまったのだろう。そしてそういう死に方をすれば、当然のことながらマスメディアが彼をもてはやし、要するに彼やマルコムXがヒーローだった時代があったということか。一部の人たちにとっては今でもヒーローなのだろうが、そういう語り方では通り一遍すぎて、本当に興味がないように思われてしまうかもしれないが、たぶんそうに違いない。今の君には関係のないことだ。過去にもそんなことを述べていたのではないか。誰が何を述べていようと、アメリカがどうしたわけでもないし、オバマがどうなろうと知ったことではないのはもちろんのこと、大統領という職業が何をもたらすわけでもない。彼も限られた任期内においてそれなりの業績を残すのだろうが、それによって何かが劇的に変化するわけでもなく、たぶんこの世界はこの世界のままで、人の認識では相変わらず世界は国ごとに分割されていて、国家間で経済競争やら、時と場合によっては戦争やらを遂行中なのであり、あるいはテロとの戦いの最中なのだろうか。

 やはりそんなふうに語るのはおかしい。本気で語っていないばかりか、どうもしっくりこない内容になっている。それでも空疎な語りに属するだろうか。何を見出そうとしているのでもなく、どんな結論に至ろうとしているのでもない。ただBobby Womackが歌うAmerican Dreamの中で、キング牧師がI Have a Dream !と叫ぶわけだ。たぶんその絞り出すように発せられる声の力に圧倒され、感動させられてしまうのだろうし、それに続いて訴えかけている内容などはどうでもよく、ともかくそれを聴くと鳥肌が立つようなこともあったかもしれない。でも同じ台詞をどこかのラッパーがサンプリングして繰り返し曲の中で使っているのを聴くと、同じ声なのに何となく笑いがこみ上げてくる。君はそんな冗談が好きなのか。それの何が冗談というわけでもないだろうし、真面目な内容をラッパーが語っているのかもしれないが、やはりどうでもいいことに属する曲でしかないようで、本当は違うのかもしれないが、話の成り行きでそんなことを語っているに過ぎず、まったくそんなのはどうでもいいことかもしれず、その場で思いついたことを恣意的につなぎ合わせ、何やら適当に語っているように装いたいのだろう。そしてそれが何をもたらすわけでもないことを知っていながら、あえて知ったかぶりなことを述べようとする。今さらそんな嘘をついてどうするのか。それの何が嘘でもないのだろうが、何やら気が利いたことを述べようとしている時間もあったようで、実際にそんなふうに述べているつもりが、途中からしらけてきたようで、尻切れとんぼ気味に、照れ隠しにもなっていないのに、何かに逆らって、そんなことを述べながらも、たぶんまたそうではないような気がするのだろうし、その違っている何かについて利いた風なことを述べようとするのだろうが、それがうまくいったためしがないようで、相変わらずの意味不明で、何を述べているのかわけがわからないようなことを述べて、それでよしとしなければならないのだろう。そしてそれに対するいいわけとして、そこから先にどう進展するかもわからないようなことを語ろうとするわけか。たぶん昔からそうなっていたわけでもないのだろうが、少なくとも今はそうか。


8月11日

 何がそうなってしまうわけでもないが、なぜそんな嘘を記すのか。確かにそれは日付的には昨日のことになる。それはいつものことでしかない。しかし他に記すべきことがなく、記す必要のないことまで記している現状があり、それは無駄で無意味かもしれないが、記している誰かにとっては必要な迂回となるのだろうか。たぶん気休めのたぐいだろうが、それも必要なことかもしれず、語るべきことを知らない君にとって、何かを語るとは、気休めや気晴らしにそうすることで、何もやらないよりは多少なりとも充実した気分になれるのだろうか。しかしそれだけのことなのか。逆にそうでなければ何があるというのか。例えば時代劇ではチャンバラがあり、そんな暴力を用いて、他の誰かと勝負したり、暴力でなくとも、囲碁や将棋で同じようなことが繰り広げられ、そんな勝負を眺めながら、その結果に一喜一憂したり、そういうのが娯楽の本道なのではないか。君はなぜそういうものを避けて通ろうとするのだろう。あるいはそれは嘘で、テレビのスポーツ中継などをよく見ているではないか。またあるいはクイズ番組などが娯楽の対象か。たぶんそうではない。それ以外が無限にありそうだ。しかしなぜそこまで堕落してしまったのか。それも違うか。いったい何がそうなのか。たぶんそうではなく、何かが違っているのにそれに気づかないことの方が問題なのではないか。では人々は何に気づいていないのだろう。やはりそういうことではない。そんなことを述べているうちにおかしくなっている。それが自然な成り行きなのだろうか。しかしなぜそんなところで迷っているのか。何がそんなにおかしいのか。確かに記すべきはそんなことではない。なのにどうしてそんなどうでもいいことを記してしまうのか。他にやるべきことがあるのではないか。それらの幻覚について語らなければならない。またそんな嘘をつく。ではそれは何かの病気なのか。それも嘘かもしれない。たぶん真実などどこにもありはしないのだろう。

 ではそれで一件落着なのか。そうだとしてもどういうわけでもなく、相変わらずわけがわからないように思われ、そうやってひたすら言葉を記し、君自身を何か途方もない何かに譲り渡そうとしているようにも思われ、そこから悲劇や喜劇が生み出されるとしても、たぶん大したことにはならないだろうし、いつも大惨事は別のところで起こっていて、君はそれをテレビを通して眺めるありふれた傍観者のうちの一人に過ぎない。実際にどこかで人が大勢死傷しているようだ。それで君はどうしたのか。なぜどうもしないのだろう。感性がそちらに向かっていかないようで、そんなことはどうでもいいと思っている。だからそうではないと述べる他ないのか。何かの表層で意識が漂っているようで、そこから深く潜るつもりはないらしく、それについて語る勇気がない。それとは何なのか。そこでとどまって、それが何なのか説明するつもりがないらしい。説明できないだけか。現実にわからないのだから説明しようがない。いったいそれとは何なのか。そんな問いばかりが発せられ、そこから先が何もない。君はそれが何だか知っているのか。誰に問うているのでもないらしい。ならばそれは君にとって必要な事物なのだろうか。まさかそれこそが今記しつつある空疎な文章そのものなのか。そんなはずはないと思いたいところだが、安易な解答として、それも選択肢のうちの一つにはなりそうだ。しかし本当にそれでかまわないのか。当初はそういう話ではなかったはずか。では他の選択肢としては何が思いつくのだろうか。何も思いつかなければ、それが唯一無二の答えとなってしまう。そんなはずがないか。別にそれでもかまわないのではないか。話の流れとしてはそういうことになり、そんな成り行きの中で君という言葉が記されているのだから、その君が話の中に出現するには、君という言葉が記された文章が必要不可欠だ。だがそういう水準で話が成り立っているわけではないはずで、もっと何か切実な答えを求めようとしているはずか。

 だが他に何が切実なのだろう。あるいは最終的にはそれも冗談のたぐいとなってしまうのだろうか。それ以前に意味の通った文章となっていないようで、何かを説明しかけて、途中でしどろもどろとなってしまい、後は面倒だからでたらめを押し通すような案配となり、それらの文章はまったく読むに耐えず、言葉を記していることがやましくなり、その辺でやめてしまいたくなるようで、しばらく言葉が途中まで記された画面から遠ざかってしまうが、あるとき不意に思い出したように戻ってきて、画面の前に座り、その続きを記しているようだが、後は粗雑な付け足しにしかならないだろうか。そうだとしてかまわないような気がするが、それでは気が済まないなら、残り少ない部分で少しは気が利いたような内容にしてみればいいだろう。それができればの話だが、今のところはこんな案配で、どうもそれ以上の何かを求めるわけにはいかず、そんなところで勘弁してもらうしかないようで、もう限界であることに気づき、そんなことを語ろうとしている自らにも才能がないことは明白で、それがフィクションの中で語られていようと、どこで何が語られていようと、そんなこととは関係なく、何が関係がないのか定かでないようだが、そんな嘘もつきながらも、そんなごまかしがどこで通用するわけもないことは百も承知で、あえて述べるならば、あえて述べるほどでもないことに気づき、それが馬鹿げた引き延ばしのたぐいとなりかけていて、それもわざとそうしているのかもしれず、そこから何を結びつけるつもりなのかわからないが、缶コーヒーを飲みながら、うまくもまずくもないような気がしているようで、それでもどこかで妥協したいのだろうが、なかなか着地点が見つからず、そんなこんなでさらなる引き延ばしの中で、改めて何を思うわけでもなく、その辺でやめておいた方がいいような気がしてきて、そのつもりでここまでやってきたのはわかりきったことだが、やはり君はおかしなことを述べているようだ。


8月10日

 これくらいがちょうどいいのだろうか。相変わらず何も語っていないようだが、たぶんそれでかまわないのだ。語れないのだから語りようがなく、それでも語ろうとしているのだから、難儀なことになりそうだ。しかしなぜそれをやめないのか。何もやっていないのでやめようがない。ならばこれはフィクションなのか。何を語っているわけでもない。嘘をついているのだろう。しばらく考え込んでいたようだが、また気を取り直して言葉を記しているらしい。何も課せられていないことがそれらの結果をもたらしている。しかしなぜそうなる可能性を自ら閉ざしてしまうのか。この世界では何がどうなるべきなのだろうか。何を描写すべきでないのは明らかだ。その代わりにわけがわからないことを語ろうとしている。すでにでたらめに語っているではないか。君たちは血なまぐさい。何がそうさせるわけでもなく、何を語らせようとしているわけでもない。現に君は語っていない。このまま何も語らないつもりのようだ。そしてどうなるわけでもなく、そのままそんなことが記され、次第にどうにもならなくなってゆくのだろう。しかし才能とは何か。それは何かの技術的な裏付けがあって初めて成り立つものなのか。たぶんものではないのだろう。相変わらず外れている。君自身がわざとやっていることのように感じられ、そんな感覚が誰かを悩ませているわけでもないだろうが、とにかくきっかけをつかめず、言葉を記しているだけで、語りだすきっかけがどこにもないように思われる。すでに語りだしているのではないか。それはきっと気のせいで、現実には画面とにらめっこをするばかりで、一向に埒が明かないようだ。正直になれないようで、語りたくなければ、語らなくてもかまわないのだろうが、何も語らなければ、それはそれで都合が悪いように思われ、少なくとも何かの付け足し程度には語るつもりらしい。きっとそれでかまわないのだろう。実際にそんなふうに語っているのだろうから、今はそんなやり方を認めるべきだ。

 たぶん君が語っているのではない。それどころか誰も語っていないのかもしれず、それが嘘だとしても、フィクションの中でそう述べているつもりなのだろうから、それはそれでそういうことに違いない。そしてそんなふうに語り、他は何も語らずに、ただそれらの光景を眺めている。どこから影響を受けているわけでもないのだろうが、実際に何も思いつかないのだから、そういうことでしかなく、頭が痛いようで、鼻が詰まるようで、深夜にエアコンを切り、それが過酷な環境でないことをわかっているつもりが、何かのアレルギーであることも承知しつつ、唐突にそんなことを述べている状況を理解できないようで、なおも咳き込み、やっと変調に気づき、何かに思い当たろうとして、記憶をたどって、原因を思いついたつもりになり、それはフィクションでないことを理解する。とりあえず何とかここまでやってきたのだ。疲れているようだが、まだ大丈夫なようで、何とか生きているのだろう。あくびをしながらそんなことを思っている。別に死ぬような騒ぎではない。何とかそれをくぐり抜け、その先は順調に推移しているのかもしれず、そこに一縷の望みがありそうで、そんなことを期待しながら、続けて言葉を記しているのだろう。それで何とかわけがわからない状態を脱して、まともな精神状態へと持っていきたいようだが、どうもうまくいかないようで、何を語ったらいいのかわからない状態が続いている。読んでいた書物に吸い取られてしまったのだろうか。やる気がでないのを何かのせいにして、それで何がどうなるわけでもないのだろうが、そんなくだらない気分のまま、屋根にとまったカラスを見ている。それは朝のことだったかもしれない。どうやら作り話にもならないようで、その辺で言葉を適当に散らしながら、いい加減なことを述べているように装いたいのか。しかしそれで何を語っていることになるのだろうか。別に語らなくてもかまわない。何も語らない方が楽しいし、気も楽か。作り話的にはそれもありかもしれないし、実際にそうなっているとしても、何だか釈然としない。

 なぜ語らなければならないのか。それは勝手だろう。語りたくなれば語らない方がいい。そんなわかりきったことについて、あれこれ思案を巡らす必要はない。冗談だろう。冗談でなければ何だというのか。確かに冗談に違いない。ではすべてが冗談なのか。なぜ君はそういうふうに問いたいのか。答えるのが億劫になるように仕掛けているつもりか。つもりではなく、答えに窮するように問いたいのではないか。そうだとしてもわざと答えようとしているわけではない。では何なのか。微妙に言い回しをずらして、わざとねじれたことを述べようとしているのも、恣意的な気分が左右している結果だろうか。そしてわざと間違えたことを述べている。いったいそれの何が嘘なのだろう。文法的におかしいのではないか。そこまで考えが回らないようで、そんなことなどどうでもいいような気分で、ただ言葉を記して、それでそれらの作業をいったん終わらせたいみたいで、その際内容は何でもかまわないような気になり、そんな気分に流されながら言葉を記し、相変わらずの空疎を表現しているつもりになるが、本当はどんな気分でそれらの成り行きを見守っているのだろうか。とにかく何でもような気になるだけしか能がないようで、どうあってもそんなところに閉じこもって、それがどんなところなのか想像がつかないような気にさせたいらしく、夏の暑さに参りながらも、さらに何かを語ろうとしているようだが、それはいつまで経っても何かでしかなく、何か以外に何も思いつかず、本当は何も思いついていないのだろうが、何かを思いついたような気になり、それについて語ろうとしているのだろうが、それでは何も語っていないのと同じことで、それ以前に存在する特定の何かについて、それを具体的な固有名とともに語ることができず、だからいつまで経ってもそんな案配で、何も語らずに言葉を記しているつもりで、本当はそうではないのに、頑なにそれを信じながら、そうではないようなことをいつまでも述べているように装い、そんな嘘に突き動かされているように振る舞う。


8月9日

 しかしなぜそうなってしまうのか。誰に幻想を抱く気にもなれず、何を賞賛する気にもなれず、結局空疎なことを語るばかりのようで、それを止めることができなくなってしまう。そしてまたあきれ果て、強がってそれでかまわないと思い込もうとして、何となくしらけた気分となっているようだが、やはりそれでかまわないと思う他ないようで、そんなことを記しながらも、何となく浮かない表情で画面に向かい、どこかに行ってしまった心と意識を探そうとしているようだが、相変わらずどこにもないことに気づいてしまうのだろうか。これから探しにいく暇がないのか。たぶんそういう話にはなっていないのだろう。ではどんな話になろうとしているのか。こんな話に違いないが、いつものようにこれでいいとは到底思えず、他に何を思っているのか知らないが、世の中を単純化して語るのがメディアの役目だ。政治家や有名人などがちょっとでも失敗すれば、すぐに悪者呼ばわりして非難の集中砲火を開始してしまうわけか。それで世間の役に立つことをやれと言っても、たぶん無理だろう。何をやっても批判されてしまうのだから、何もやりようがなく、何もやらなくても批判されてしまうのだから、そのせいぜいが批判をかわしながら現状維持に邁進することぐらいが関の山か。そんな現状から何が導きだされるのか。馬鹿げた世の中なのだろうか。今も昔も変わらないのではないか。ただ昔はそれでも無知を利用して希望を抱くことができた。誰か優れた救世主みたいなのが登場して、腐った世の中を変えてくれることを願い、あわよくば自らも精進してそんな立場になろうとしなければならない、と幻想を抱いていたはずか。たぶんそういう物語が世間に流通していて、そんなフィクションがメディアによって一般大衆に提供され、それを志したかつての若者たちが、今の政治家になっているのだろう。そしてこんな現状となってしまったわけだ。要するにメディアが抱いていた夢が実現した現状がこれなのだろうが、果たしてこれでかまわないのか。君がかまわなくても、他の誰かが気に入らないのかもしれない。

 それでも何かが機能しなければならないのだろうか。所々に不具合や故障を抱えながらも、一応は最低限の機能はしているのだろうが、メディア関係者が主張していることは、相変わらず機能不全に陥っているというわけか。野党の政治家も異口同音にそういう紋切り型を口にして、たぶんそれらの機能不全が長期間にわたって常態化していて、だから誰もが指摘し得るのであり、もしそれが解消されてしまうと、彼らにとっては主張することがなくなってしまい、かえってまずいのではないか。まず解消することなどあり得ないから、いつまでもそんなことを言っていられるのだろうが、別にそういう状態になっていることを心配しているのではなく、何が機能不全に陥っていようと、それでかまわないような気もしているようで、中にはそれで本当に困っている人もいるのだろうが、とりあえず困っている人は困りっぱなしで、そんな状況がいつまでも放置され、何かのきっかけでそれをメディアが取り上げて、世間に向かって改善を訴えかけ、どうにかしなければならないという気運が盛り上がったりしてしまうと、結果的にどうにかなったりするのだろうか。結果的にどうなろうと、とりあえずはそれに関して抽象的なことしかいえないようで、君としては具体的に何がどうなっているわけでもなく、それでも少しはどうにかなったような気もすることもあるだろうが、何かにつけことある度に、何かが機能不全に陥っている、と相変わらずメディア上で誰かが訴えかけている現状は変わらないだろうし、たぶん何がどうなっても、とりあえずは機能不全に陥っていると主張しないと気が済まない輩が多すぎるようで、そういう輩はそう主張することで何がしかの利益を得ているわけで、結局社会の中で何が機能不全に陥っていようと、それ自体が儲けの対象となっていれば、どうということはないのかもしれないが、いずれにしろそれを問題視する者がいる限り、それに対する何らかのアクションがあるのかもしれず、それに賛同しようと無視しようと、君にはそれがどうでもいいことに思われてしまうことに変わりはなく、それらの機能不全ぶりをどれほど放置し続けても、君にとっては何ら問題ないようにも思われ、そういう意味では何だかいつでもどこでも傍観者気取りになってしまっているようだが、やはりそれでかまわないと思うしかないのだろうか。どうもマスメディアが主張していることに同調できないようで、すべての主張がそうではないのだろうが、何となくその辺でわからなくなっているようだ。

 だが具体的に何が機能不全に陥っているのだろうか。他の誰かが記している文章の内容がそうなのか。しかしそれらの文章がどんな機能を担うべきなのかわからない。君はそこから何か啓蒙活動にでもつなげたいのか。何も知らないし知り得ないのに、誰に何を教えようとしているのだろう。そういう前提が嘘っぽいか。一応は語っているのがフィクションなのだから仕方がないだろう。そんなはずはないか。たぶん何がどうなっていようと、何も語っていない状況に変わりはなく、何かを語る必要がないのかもしれず、言葉を記していれば自ずから文章が構成され、それで架空の誰かが何かを語っていることにはならないのかもしれないが、適当な分量で言葉が連なれば、それでよしとしなければならないのだろうか。それでいいならそうすればいい。他に何か語らなければならないことでもあるのか。君に何を問うても返答など期待できはしない。ではそうするとしよう。すでに誰かの語りは空疎で機能不全に陥っている。だいいち何に向かって語りかけようとしているのか不明だ。時が経てばわかることもあるのかもしれないが、今はわからないことにしておきたいようで、たぶんそれらの一時期に何かを述べていた者がいたらしいが、果たしてそれが君かどうかはわからず、誰でもいいような気もしないではないが、そこにどんな固有名を当てはめたらいいのかがわからず、とりあえずくだらぬ文章の作者など誰でもいいのであって、君が君でないように、誰かも誰でもなくてもかまわないのであり、その都度違う人格が語っているように見せかけてもかまわないような気がするが、本当にそんなことができるとも思えず、ただ無駄に言葉を記しているだけで、それでは不満だろうが、そんなふうにしか語れないのだろうから、それはそれでそういう結果として受け止めなければならないのか。だが本当にそれが結果なのだろうか。そうでなければ何なのか。たぶんそういう自問自答が無駄なのだ。


8月8日

 別に一安心しているわけではない。たぶんよくあるパターンなのだろう。君はそんなふうにしてそこから逃れ去るつもりなのか。予断は禁物のようだが、何となく先が見えてきたようで、たぶんそれでいいような気がする。人は誰でもそんな心境になることがあるのだろう。それにしても君に関係があるのかどうかわからないが、あるとすれば何なのか。空は広い。人にとっては地表面も広いはずだ。海も広いだろう。神にとってはどうなのか。そんなことなど知るよしもない。ともかく狭い範囲内でうごめいて、せこく立ち回ろうとするのが人の宿命だ。隙を見せれば、待ってましたとばかりに攻撃を仕掛けてくる。ほんのわずかな綻びを突いて、執拗に付きまとい、それに少しでも成功すればしてやったりで、得意になって繰り返し同じように攻め立ててくる。だがそれに失敗した場合はどうなるのか。そんなのは知ったことではないのだろうし、失敗したらしたで、さして懲りたふうも見せず、知らんぷりを装い、絶対に自分の非など認めず、開き直り気味に逆ギレしたりするが、どうせ気に入らないことなどすぐに忘れてしまうのだろう。そしてそれによって何がどうなったわけでもなく、時が経てば何事もなかったように、また同じような行為が繰り返され、それについてああだこうだ言ってみても、どこへ影響を及ぼすわけでもなく、何がわかるわけでもない。それはきっと気のせいだ。他に何ができるのだろう。精一杯の抵抗がそれか。確かに何かがどうにかなって、現実にこうなったわけだが、相変わらず君はこうして不在のまま、この世界とは無関係に佇んでいる。そんなことがあり得るだろうか。何があり得ないわけでもないだろう。そんなことを述べている限りはそうなってしまうのであり、その辺が相変わらずなところで、そんな語り方にも興味を持てないのか。それは人それぞれなのではないか。

 あらゆる方向から何を求めてきたとも思えない。なぜそう思うのだろう。君は何も求めてはいないのではないか。なぜ自己に有利になるように事を運ばなければならないのか。そんな当たり前のことが理解できない。そういうことに必死になっているとどうなってしまうのか。狭い範囲内で自己満足に浸れるわけか。そして幸せになってどうなるのだろう。それがそういう人の最終目標なのではないか。ならば実際に幸せを実現している人が世の中にどれほどいるのだろうか。いくらでも掃いて捨てるほどいるのではないか。そんなふうにして人は仕上がっていくのであり、日常の風景に同化していってしまい、やがて愛すべき人となる。ならば君もそうなってしまった方がいいのではないか。なぜそうなれないのだろう。たぶんそうなるのが面倒くさいのだ。そして積極的にそうなろうとすることがくだらないような気がする。たぶん実際はそういうことではないのだろう。そこで人は何を守ろうとしているのだろうか。少なくとも外敵から君を守ろうとしているわけではない。ではただ自己と自己が信奉する価値観を守ろうとしているだけか。それだけならマシな方だ。何よりもそういうものを必死になって守ろうとする行為がよくわからない。君たちは毎日戦場で暮らしているつもりなのか。実際には平和な地域で暮らしているはずなのに、なぜか見ず知らずの誰かが卑怯な手を使って、自分たちが築いた平和な家庭を壊しにやってくるような気がして、絶えず戦闘モードで他人と接しなければならないのだろうか。まさかそんな冗談が誰に通じるとも思えないが、笑っている場合ではなく、そういう水準で他人を判断してはまずいのかもしれず、もう少し知性的かつ理性的に物事を考えなければならないのだろう。要するに今の君はそれができる環境の中では暮らしていないのではないか。そうだとしてもなおのことそう振る舞う必要を感じてしまうのはどういうわけだろうか。あまりにも現状が馬鹿げているからか。

 しかしそれが普通なのだから、それはそれでそういうことでしかなく、仕方のないことなのだろうが、どうもその辺でよくわからなくなってしまい、そんなことを述べるのはやめにしようと思ってしまうわけだが、では他に何を述べたらいいのか。たぶんこんな水準で述べていてはまずいのだろう。馬鹿にしたりおちょくっていてばかりではだめなのであり、何かを積極的に肯定し、賞賛すべき対象を見出さなければならないのだろうが、いったいこの世界には何があるのか。人がいて社会があってそれを一部として含み取り巻く自然がある。その中で何を肯定したり賞賛しなければならないのか。何かそうするに値する物事を決める基準みたいなものがあるのだろうか。これは否定してあれは肯定して、これは批判してあれは賞賛しなければならない、という基準はどこにあるのだろう。君はそれに関して何かわかっていることがあるのだろうか。たぶん何もわからないわけではないのだろうが、何となくそうならないような成り行きの中に意識があるようで、俄には判断を下せないように思われ、それに関してはどう述べていいのかわからなくなっているのかもしれず、どう述べてみても、何か違っているような気になり、今ひとつしっくりこないようで、何といったらいいのかわからず、そこで架空の意識が口ごもるしかないようで、そこから先に言葉を記すことができないような気がしてくるが、実際にこうして記し、気に入らない内容を記述して、それに関して文句を述べているように装い、そんなごまかしによってかろうじて継続させている。そしてそんなことをやっているから後ろめたくなり、やがてそれもやめてしまうのだろう。君はそれでかまわないのだろうか。そう問うならかまわないと述べる他ないか。たぶんそう述べると思っているのだろうが、そこからどうやって思いを裏切ればいいのかわからなくなり、結局そんなことに言及しつつ、それでごまかし以外の何ものでもない文章を終えてしまうのか。


8月7日

 どうやらそういう流れなのだ。もとからそんなことはわかりきっているが、いつまでもそこにとどまろうとするからそうなってしまうのであり、いい加減に無駄な記述は切り上げて、さっさと別の何かをやればいいのか。しかし何かとは何か。何でもなければ何かでもなく、何かでないのに何かとは、いかなる何かなのか。ただわけがわからないだけか。それではいつものパターンだろう。どうしてもそうなってしまうのなら、それは何かの病気か。では病気を治すにはどうしたらいいのだろう。また冗談でそんなことを述べていること自体がおかしいのか。何がおかしいのだろう。本当は何もおかしくなく、おかしいのはそんなことを記している誰かの頭か。だがたとえ頭の中身がおかしかろうと、いったい誰かとは誰なのか。どこかで語られている架空の話の中で登場する架空の人物のことか。たぶんそうであってもかまわないのであり、私自身が誰かであっても同じことであり、私そのものが言葉でしかなく、他の誰が私でもなく、彼でも誰でもないような誰かが、誰でもない誰かであってもかまわないのであり、そんなことを述べていること自体が空疎な話の引き延ばしでしかなく、それ自体が虚しい行為なのか。そうだとしてもなぜそんなことを延々と述べてしまうのだろう。やはりそんなことを述べていること自体が頭がおかしい証拠となるだろうか。そうだとしてもそれをやめられず、そこから抜け出せなくなっていて、相変わらず延々とそんなことを述べている。どうもそれ自体には終わりがないようで、このまま無限の彼方へと言葉を連ねてゆかなければならない展開となってしまい、そうなっていること自体が冗談にもほどがあるが、今やいかなる抵抗をも跳ね返す力がそれらに宿っているようで、そんな言葉の呪縛に絡めとられ、まるで魂を抜かれたような気分で、さらに記述を続行しようとしているみたいで、笑ってしまうが、いくら笑っても気持ちは晴れず、それをやめない限りは面倒な呪縛から逃れられないのだろうか。

 たぶんあきらめた方がよさそうだ。そして何となくそれでかまわないような気分となり、開き直り気味にそれを続け、もはや行き着くところまで行き着かないとやめられないような気にもなり、さらにそれを続け、そんな記述の継続によって時間を浪費し、人生を棒に振っているような気にもなるが、本当のところはわからないままだ。好きでやっているのとはどう違うのか。それらは趣味の延長上に属する行為なのか。そうだとしてもそれにかかりきりで、他の何かを犠牲にしすぎているような気もするが、他の何かと何なのか。それが俄には思いつかず、たとえ思いついていても、それを記すわけにはいかないような成り行きになっていて、ここではこんなことしか記せないような状況なのか。それがおかしいのではないか。たぶんおかしいのであり、わざとそうしているのかもしれず、そうやって何かを隠蔽しつつ、話を引き延ばして、そんな文章にしようとしているのであり、そしてそんなわざとらしいやり方がおかしくてたまらず、どうにもこうにも本気になれないのではないか。たぶんそういうことなのであり、それらの成り行きに対してどんな感情も差し挟むわけにはいかないようで、そんな奇妙な文字列が映し出された画面を前にして、ただ唖然としつつも、薄ら笑いを浮かべるしかないのだろう。だがそんなありもしないことを述べていてかまわないのか。いったい何がそうなのか。何をとぼけているのだろう。またくだらないことでも語ろうとしているのだろう。しかし無内容に変わりはないようで、そんなことばかり述べていると、頭がおかしくなってしまうのではないか。すでにおかしくなっている。それも何かの冗談か。何とかしなければと思えば思うほどおかしくなり、別にそれが何を意味するわけでもないのだろうが、とにかく何とかしなければならず、そう思えば思うほど焦り、焦れば焦るほど同じ言葉の繰り返しとなってしまうわけか。まさに何かの悪循環だ、だがその何かとは何だろう。またそんな同じ問いが繰り返され、問いは問いのまま、問われるままに納得のいく答えなどどこにも見つからず、ひたすら問い続け、ひたすらわからないままとなり、出口などどこにもないことが明らかとなってしまうのか。


8月6日

 しかしこのでたらめな結末は何なのか。何でもないといえば何でもない。そしてそれの何を問題としているのかわからない。それ自体がおかしいのかもしれないが、そのおかしさを他の誰と共有しているわけでもなく、君はその結果の何がおかしいのかもわからず、何か釈然としないものを感じながらも、やはりわけがわからず、困惑しているのかもしれない。要するに何とかしようとしているのはわかるが、どういうわけか結果が伴っていないようだ。それが結果なのではないか。それは何をやった結果なのか。何もやっていなければ結果とはいえないのかもしれないが、仮にそうであったとしても、やはり結果は結果であり、そんな結果に直面して、そこから君が何を感じ取っていようと、誰かが記しつつあるそれらの文章に反映されることはない。なぜそう言い切れるのか。関係ないからか。それがわかるには、さらに機会が巡ってくるのを待たなければならないのだろうか。なぜそう思うのか。そうだとしても今わかりたいのではないか。そしてそうなってしまった理由を知りたいはずだろうが、どう考えても理由などあるわけがなく、あったとしてもすでに忘れてしまったのではないか。だからなぜそう思うのか。その理由をぜひとも明らかにしてほしいが、たぶん話の展開としてはそういうわけにはいかず、とにかくあらかじめ定まった理由も動機もありはせず、そんな君はどこまでも不在の状態で、一向にそれらの物語には介入できず、いつもそこで繰り広げられている愚かな行為を見守るだけか。だがそれらの何が愚かな行為なのか。そうやって君は何に関して疑問を感じているのか。またなぜそこでそれを明らかにしないのか。はじめから話が違っているのではないか。確かにそれとこれとはまったく違う。だがそれもこれも内容が明らかにされていない。なぜそれについてもこれについても説明しないのか。説明を怠っている理由がわからないが、おそらく何もないのだろう。それもこれも現実の世界ではありはせず、そこには言葉の連なり以外は何も記されておらず、それが当たり前のことである以外は、すべてが嘘偽りなのだろう。作り話の中で何かを語っているつもりなのだろうから、そんなことはわかり切ったことか。

 だが何も難しいことを述べようとしているのではなく、それらがすべてくだらぬ言表行為以外の何ものでもないように語っているわけでもなく、ただ言葉を適当に並べながら、そこからはみ出さない範囲内で語ろうとしているだけで、それが語る理由に結びつくことはないだろう。別に語る理由を探しているのではなく、結果的にそうなってしまった理由をねつ造しようとしているのでもなく、何を語っているのかわけがわからなくなる一歩手前で踏みとどまろうとしているのでもない。それらすべてがおかしいのであり、それらのすべてが気がかりなのだろうが、誰かが語りたいのはそういうことではなさそうだ。ではどういうことなのだろうか。できるだけ公平な立場で客観的に思えば、そこで何が語られているわけでもなく、ただ延々と空疎な内容を長引かせているだけで、いつまで経ってもそれを終わらせることができない。それはもはや君の日常の一部と化していて、どこまでも不在という有り様で存在していて、その中で熱狂とは無縁の何かが活性化されていて、そんな状況から何がもたらされているわけでもなく、それについてはすでにわかっていることであり、今もそう感じていることだ。気がつけば何も語ることができなくなっていて、いくら言葉を連ねてもまともな内容に至ることはなく、それが思い違いだとはどうしても思えず、そこから抜け出せなくなっている。それがいつもの状況なのだろうか。しかしわからない。なぜいつまでもそんな意味のないことを飽きもせず延々と語っているのか。もう飽きているはずだ。その辺が不可思議なところかもしれないが、さらに語りを長引かせているだけなら、もういい加減にやめた方がいい。だがやめられるものならとっくの昔にやめているところであり、やめたくてもやめられないから次第に苦しくなってしまい、それはわかりきったことで、わかりきっているから抜け出せず、そこから抜け出す方策を思いつかず、困り果てて途方に暮れるどころか、さらに続けて言葉を記そうとしているのであり、近頃はひたすらそうなっていて、本当にやめるきっかけを見失っているようで、どうにも止まらない状態となっている。それは本当なのか。まったく冗談がきつすぎるようだが、本当は紛れもなく冗談なのだろう。そしてそんなことを記している現状には、何の興味もありはせず、そこでいくら言葉を連ねても、そのすべてが他人事なのだ。


8月5日

 君の言い分は外れている。何が的外れなのだろう。わざとそうしているのではないか。そうかもしれないが、それでもかまわないと思っているのだろう。何がかまわないのかわからないが、とりあえずはそんなことを述べているわけで、今日も話などありはせず、後は言葉を適当につなげて、偽りの文章を構成するまでか。果たしてそれでいいのか。良くはないだろうが、何をやるにも何らかの妥協は必要で、要はきっかけを逃さないことが肝心のようだ。たぶんそういう心がけが今後も君を助けるのだろう。そしてそういう思い込みにとらわれているうちに手遅れとなり、人生を棒に振ってしまうわけか。確かに物語的にはそうなってしまうとおもしろい。どうやら今でも人生を棒に振っている際中のようで、それは笑い事では済まないのだろうが、今までは確実にそれで済ましてきたのであり、そうやって取り返しのつかない事態を招いてきたのだろう。君はそこから何を見出そうとしているのか。がらくたと何かの残滓だけではくだらなすぎるか。でも現実にはそうではないのか。本当にそうなってしまっているのだろうか。確かに他に手にしたものは何もない。それらすべては幻影であり、そんな幻影に幻想を抱いているに過ぎず、何の価値もないがらくたを苦労してかき集め、そんな行為に自足し、そんな結果に満足しているわけだ。何物にも代え難いというのは、要するに使い物にならないということだ。しかしそれを否定して何になるというのか。そうなったら今までにやってきたすべてが自己否定につながってしまうのではないか。またそれでかまわないと記したいのだろうが、それでは虚しいだけだ。だから君にとってはそれでかまわず、実際にそれで済んでしまっているのだろう。確かにそれが馬鹿げたことであり、ある意味で恐ろしいことだ。そればかりなのは仕方がないのかもしれないが、実際にそればかりであり、今もそんなことを述べていて、転んでもただでは起きないどころか、ひたすら躓き、転げ回っているわけだ。

 たぶん君は何かに賭けているのだ。その空疎で虚無的な何かに賭けているわけで、時間の無駄遣いによって何かをすり減らし、それでもすばらしいと思い込み、そこから馬鹿げた効果を得ようとして、結果的にはそれに失敗しながらも、これでいいのだと開き直ってみせる。そんな作り話がどこにあるというのか。これからそれを語りだそうとしているのだろうか。まったくもって不愉快なそれをどうやって導きだそうとしているのか。それの何が不愉快に感じられるわけでもなく、ただそんなことを述べてみたいだけでそう記し、それによって破綻をきたし、どこかで混乱を招いているわけでもなく、何となくそう述べているに過ぎず、そこから話がどこへ進展するとも思えず、また進展した先に何があるとも思えず、絶えずどこかで停滞していて、その滞ってしまった成り行きが君には心地よく、そんなぬるま湯に浸かりながら、そこで思考停止に陥っているのか。そうであるならどれほどすばらしいことか。またそうやって嘘をつき、それで強がっているつもりとなり、それが破滅の前兆だとも気づかず、心の中でぬくぬくと虚無が育っているようにも感じられ、そんなところに快楽の源泉を見出しているのだろうが、勘違いも甚だしいか。だがそれでも下を向いている場合ではない。どん底から見上げた空から無限の可能性が降り注いでいると思い込み、そんな思い違いを利用して、何とかそれらの作業を続け、それが無意味で役に立たない試みだと思いながらも、やはりそう思うことによって、そこから魅力を引き出そうとしているのであり、自己否定しながら、そういう自己を放置しつつ、自己とは違う何かを求め、それが何かの正体なのかもしれないが、たぶんそんな嘘も何かの一部に含まれ、総体として文章として記述され、意識は作品とは違う何かの雰囲気を感じ取ろうとしているようで、それがそこでもたらされた何かとなることを欲しているようだが、そんな望みはやがて限りのない忘却へと呑み込まれ、君から人間特有の表情を奪い去るのだろう。だからそれが冗談なのか。

 今日はやけに蒸し暑い。何がだからに結びつくのかわからないが、そのとき脳裏に何がひらめいているわけでもなく、たぶんさしあたって思いつくのは、これが何かの過渡現象中に起こった何かであり、これ自体では何の意味もないのだろうが、他の現象と連動することで、何らかの効果を発揮して、思っても見なかったような結果がもたらされ、何となくそこで愉快な気分となるのかもしれず、してやったりと思わないまでも、受動的ではあっても、多少なりとも自らがそれに関わっているような気になり、何らかの貢献をしたように思われるのであり、それらの現象が実際に何をもたらしているとしても、誰かのせいでそうなってしまったのではなく、その誰かの思惑をも一部に含んで、そんな自然の成り行きがそれらの現象を突き動かしているのであり、その中で巡ってくる機会とは、不意を突いて思う間もなく一撃を食らわさないことには、そこからは何も得られず、他人に気づかれないうちにそれを回収しないことには、やはりそれは幻影と同じになり、いつまでも幻想を抱きながら、抱いているそれが空疎な何かでしかないことに気づかなくなり、やがて他の誰かと同じようなやり方の虜となって、単なるその他大勢のうちの一人でしかないことにも気づかなくなり、そして最終的には墓の中で眠るカルシウムの残骸となるのだろうか。そうならないためにはどうしたらいいのだろうか。そういう問い自体が無効だ。誰もがそうなってしまうのに、そうならないための方策を探すこと自体が馬鹿げている。ではどうすればいいのか。その問いも無効か。だが成り行き的にはそう問わざるを得ないのであり、それでもそこから脱出する手段があると信じて、必至にそのきっかけを探し続け、まさか今日も誰かが不意に出現した壁の亀裂めがけて一撃を食らわす機会を狙っているわけか。そんな馬鹿げた行為を成功させるためには、何を鍛える必要があるのだろうか。今はそんな愚問の是非を議論している暇などありはしない。


8月4日

 そんなことはないだろう。でも何だかそんな予感がして、本当にそうなってしまったような気がして、何となくうまくいったような気になっている。しかしなぜ災い転じて福となすようなことになってしまうのか。わからないがそういう感じなのだ。単なる思い込みなのかもしれないが、そういうことは信じておいた方が、精神衛生上は良いことのようだ。それは誠に申し訳ないことかもしれないが、誰かに取り憑いていた疫病神が、ある出来事をきっかけにして、他の誰かに鞍替えしてしまったような案配で、新たに取り憑かれてしまった誰かにしてみれば、そこでうまく立ち回って最大限の利益を引き出したつもりが、逆にそのことが災いして、それとは別の方面から思わぬしっぺ返しを食らってしまうこととなり、それと気づかないまま、自らに取り憑いた疫病神によって、今後さらなる不幸に見舞われてしまうのだろうか。たとえそうなったとしても、赤の他人の君が助け舟を出すわけにもいかないだろう。まあその人にしてみれば疫病神の存在など信じていないのだろうが、恣意的な見方や感じ方によって、その人の運不運がある出来事をきっかけとして、一気に良い方あるいは悪い方に振れてしまうように思われ、そういう現象を目の当たりにしてしまうと、日頃は信心深くなくても、やはり自分の運気を上げるために、有名な神社仏閣とか、あるいは近頃流行りのパワースポットとかにお参りしたくなるのだろう。ところで君はどうなのか。どうということはない。それほどうまく立ち回っているわけでもない。ならば普通だろうか。普通の基準がわからないが、何となくそんな気がしていて、差し障りのない程度に振る舞ってくれれば、それでかまわないような気がするだけか。たぶんその辺で見解が別れるところかもしれない。やはり大前提として、人が何のために生きているのでもない限りは、何でもかまわないとなるだろうか。

 どれはどういう意味でもなく、わけがわからないのでもない。ビタミン剤を服用しすぎると寿命を縮めてしまうように、過剰な感情移入によってすべてをだめにしてしまうこともあり得るから、それらとはある程度距離を取りながらも、あるとき急に怒りだしたり、情緒不安定なふりをしながらも、結局はそんな素振りから解放されているようで、至って自由な気分となり、勝手気ままに暮らしたくなっているようで、何がそうなのかわからないが、難儀しつつも言葉を記し続けていること自体が馬鹿げているのか。そんな気分ではないようだ。どんな気分でもなく、何を記そうとしているのでもなく、何も記せなくなっているのでもなく、ただそうやって言葉を記しているだけのようで、それがどうしたわけでもないところが意味不明なのかもしれず、そこからどんな物語的な展開も不可能に思えるところが、何となくその場の空疎を表しているのかもしれないが、君がそれを同しようとしているのでもないことが、逆に何の逆なのかわからないが、とりあえずは文章として構成される言葉のつながりに託されており、そこで何を託しているのかわからないようで、何かを託された側も困ってしまうのかもしれない。だが困るも何も、別にそんなことを語っていればそれでかまわないのだろう。まあそういう開き直り気味の意見も、ある意味で的を射ているようにも思われるが、やはりここはもう少し建設的な意見や見解が期待されているのかもしれず、それに沿った形で言説が展開されていけば、何となくわかりやすいことを述べているような気になるのかもしれないが、どうしてもそうはならず、その代わりに記していることはといえば、ひたすら何でもないことに対する言い訳に終始しているような気がして、それ以上の何が示されているとも思えないことが、その辺であきらめムードが漂っているように感じられるのだろう。しかし何をあきらめているのか。ただひたすら言葉を記しているだけか。

 それ以外の何がわかるのだろう。何もわかりはしない。別にそうでないと困るわけではないだろうが、とにかくわからない。いったい何を語ればいいのだろう。それはいわゆるノイローゼ気味の何かか。誰がそうなのだろう。そういう話ではない。だからもう少し別の方面へ言葉の連なりを延ばしてゆけばいいのではないか。そうだとしてもそれはないだろう。何でもないわけがなく、極度の神経衰弱であるわけでもない。また何か語らなければならないという強迫観念にとらわれているわけでもないだろう。それでも語ろうとしているわけだ。実際に語っているではないか。実質的には何も語っていないのに、何か適当に語っているつもりになっている。君は思い込みが激しいようだ。そういう思い込みに心を支配され、それがもとで何かおかしな具合となっていて、どう考えても何も思いつかないのに、何かの助けを借りて、かろうじて語ろうとしている。その微細な何かをどう表現したらいいのだろう。その場の雰囲気がどうしたわけでもない。たぶんそんなふうに語る必要がないのだ。何かとはそんな何かであり、君をどこかにつなぎ止めておくことに貢献している何かか。そういうことなのか。たぶんわかっていないのではないか。本当のところはわからず、何が微細な差異を感知しているともいえず、それに関して語る術を知らず、言説として成り立つ水準ではない。できないことをやろうとすればそんなところだ。それでは何のおもしろみもないか。だがどうにかこうにか何かについて語っている最中なのだから、その辺は我慢しなければならず、考慮すべき点は考慮して、何とかその続きを記さなければならないのではないか。誰がそう思っているのではなく、言葉のつながり具合から、記された文章がそう判断しているのだろうか。あり得ない話だ。何がそうなのではなく、そういうことを述べていること自体が、誰の意向とも異なっているのではないか。ではそれも誰かの冗談で、ちょっとおふざけが過ぎているということか。


8月3日

 どういう意味なのだろう。そういう巡り合わせなのだ。何の不思議でもなく必然的な巡り合わせなのだろう。そんなことはないと思うなら、それでもかまわないが、何でもないといえばそうなってしまう。たぶんそんなことではなく、どんなことでもなく、そういうことになってしまうのだろう。それが必然なのか。何が必然なのだろうか。何かが違っているような気がするわけか。それはいつもの気のせいだ。客観的に見るなら、どうでもいいことはどうでもいいことで、どうでもいいという主観の何が客観なのかわからない。では主観的に見ればいい。まったく客観的な視点から遠ざかっていて、誰がそれを望んでいるとも思えず、何となく間違っているように思われ、気持ちにむらがあるようだ。たぶん終わらないだろう。言葉を記しているペースが遅すぎる。なぜそうなってしまうのかわからないまま、何となく気落ちしているようで、がっかりな話の展開になろうとしている。なぜ一日が三秒早くならなければならないのか。そういう設定なのだから、それが一つの目安となっているのではないか。だが何の話なのかわからない。そしていろいろあって遅れ、やはり何の話なのかわからないまま翌日に至り、何の話でもないことに気づき、何となくそんなこんなで、ここに至り、何となく言葉が出かかっているようだが、何となくそれを引っ込めて、別の何かを語りたくなり、やはりその何かが何なのか探ろうとしているみたいだが、なかなかそれに至らないらしく、思案を繰り返しているようだが、何も出てこないようで、それでもたぶん何か出てきているのかもしれないが、なぜかそれを記す気にならず、たぶんその辺に何らかの必然性があるのだろうが、その記す気にならない理由とは何なのか。何だかそれを記すことによって他人が不幸になるような気がしているのかもしれず、やはりこの際そういうのは避けるべきで、そうならないように努力すべきなのだろうが、実際のところはどうなのか。またしても意味不明でわけがわからない話に置き換えられてしまうのか。今はそうかもしれないし、場合によってはそうならないかもしれない。そしてそれが何だか違うような気がするのだろう。だから意味不明なのか。

 それにしてもそれらの言葉の連なりは不必要に長過ぎる。でもそうなることに何らかの必然性があるのだろうか。たぶんそうなる必然性があったのだろう。そんな出来事がなかったら、こうはならなかったはずだ。だがそれにしても思い込みにとらわれ、そんな心境に至ってしまうと、後は被害妄想一辺倒に至るのだろう。だがありふれたことでしかないのだろうが、こんな機会は滅多にない。なぜそうなったのかわからない。それでもそれは必然的な成り行きなのだろうか。何がそうなのでもないだろうが、また誰かが街中を歩いている光景に出くわし、これまでに歩んできた道を振り返ることになるかもしれない機会に巡り会ったわけでもないだろうが、何とかそこで踏ん張っているようで、奈落の底に落ちてしまうところをかろうじて回避したわけか。だがこれからが本当の地獄なのかもしれず、本当にそういう成り行きになったらどうしたわけでもないだろうが、どうしたわけでもあるようなことになったら、どうしたわけでもないと述べたことが悔やまれて仕方がなくなるのだろうか。だがそうなったとしても、君は何とも思わないだろう。何がどうなっても、君にとっては依然としてどうしたわけでもないのであり、たぶんそうなった原因をそのまま放置し、そうなるがままにしてしまうのだろう。君はそれでかまわないと思っているはずだ。だから状況は何も変わらず、君は君であり続け、君自身の不在を他の誰が補うわけでもなく、誰も補いきれないのであり、君は君という言葉でしかないのに、それらの文章では君という言葉が欠かせない。なぜなのかわからないのだが、苦し紛れなのかもしれず、そう記して何がどうなるわけでもないのだろうが、あくまでも君は君という言葉でしかなく、ただそう記されているだけで、君にはそれが何だかわからない。たぶん何でもないのだろうが、いくら言葉を記しても、君は君でしかない。

 しかしそれで文章になるのか。実際にこうして言葉が記されているではないか。記されたそれが文章ではないのか。だがいくらそう述べても、こちらの手の内がすべて明らかになったわけではない。ただ君と述べているだけで、その存在が明らかにされたわけではなく、それを明らかにしようとして君を多用しているわけでもなく、逆に謎を深めようとしてそんなことを述べているわけでもない。ではなぜそうなってしまうのかといえば、そういう成り行きになってしまうからそうなってしまうのであり、それが自然の成り行きか否かは不明だが、とりあえずそういう成り行きになり、その結果が君という言葉に結実しているようにも思われるが、架空の君がどうしたこうしたのではなく、ただ君という言葉を記して何を表現しようとしているのか。その辺がわからず、そこで誰が君を演じているのではなく、誰も君を演じられないから、それで何が不都合が生じているわけでもなく、逆に誰も演じようともしてないのであり、そこにどんな登場人物も出現せず、君でさえ登場人物にはなり得ず、従ってそれらの文章は物語とは無縁で、フィクションにさえならない。そしてそれがどうしたわけでもないのはむろんのこと、たぶんその辺でそれらの内容を把握できなくなっているようで、いったい何を述べているのか不思議に思えてくるのだろうが、またしても何かをひらめいたような気がして、それが何なのかわかろうとするのだが、どうしてもわからないように思われ、何となく今が夢の中のような気がするのだが、たぶん誰が睡眠中に夢を見ているわけでもなく、それらの文章がフィクションとは無関係で、物語的な要素も記されていないようなので、やはり何が何だかわからず、そのままわけがわからなくなりすぎて、話自体が打ち捨てられて、もはや正気を取り戻せないまま終わってしまうのではないか。しかしそこで何が終わってしまうのだろうか。君はそこで何を思い出そうとしているのか。唐突にそれはないだろうが、たぶん何かが原因となって、そこで何かが語られているのだろうし、それでかまわないのではないか。


8月2日

 一息ついて気づいてみれば、なぜか翌日の昼になっている。また夜になってしまうのだろうが、それがどうしたわけでもなく、いつもの繰り返しをやっているだけか。それだけで済んでしまうのだろうか。何をまくしたてられているわけでもない。急かされて焦っているわけでもないし、何となく切羽詰まっているわけでもないような気がしてくるが、それはどうしたことなのか。たぶん何でもないことなのだろうが、そこに引っかかる部分を見出せないのが不思議に思われる。すべてが目の前を素通りしていってしまい、何となくこの世界のすべてに見放されているような気になってしまうのかもしれず、そんなことはあり得ないのかもしれないが、何となく気に留めるような事象に巡り会えず、まるでこの地球とは無関係な宇宙人の気分か。それも誇大妄想の域を出ない話だろうが、それでもかまわないような気がしてくるのはどうしたわけか。わけもなくそんなことを記しながら、何かの冗談だと思いつつも、それ以上の何を見つけようとしているわけでもなく、ただ何となくそんな気分で、他に何も思わないだけのようだが、蝉の羽音がやけにうるさい。夏だからそうなっているのだろう。では夏でなければどうなっているわけでもなく、別に他の季節と夏を比較しようというのでもないが、たぶんそこから何かを引き出さなければ、それに関する文章を構成できないのであり、それで何を述べていることにもならないのだろう。だがそれでかまわないのではないか。何を述べるつもりもないのだから、ただ言葉を並べてそれふうの文章になっていれば、それでかまわないのではないか。その辺のところがよくわからないのであり、なぜそれらの思いを文章にして示さなければならないのか。ただ漠然としているだけだろう。何も思わないし、別にそれほど何か思いたいわけでもないのに、それを文章にすると、何か思わなければならず、思っていることにしないと空疎な内容となってしまうようだ。

 では何も思わないなら、思っているふりをしなければならないということか。だからそれが冗談だと思われ、まったく本気ではないような雰囲気が醸し出されて、何となくどうでもよくなってしまうのかもしれず、そしてそんなことを述べているうちに、自らが何を述べているのか理解できなくなり、本当にそうなのか否かも判断できなくなり、語りの途中で放り出したくなり、そこで一時中断してしまうのかもしれず、どうせまた気を取り直してやり始めるのだろうが、以前の繰り返しにしかならない状況に苛立ち、そこでお手上げ状態となるのだろうが、それでも言葉を記している現状に変わりはなく、なぜか延々とそんなことの連続となってしまい、もはやどうでもいいのにやり続けることに慣れきっているのかもしれず、そこから脱却しないと、空疎で虚無的なことしか記せなくなってしまうだろうか。すでにそうなっているのではないか。そしてそれでかまわないとも思っているはずだが、いったいどうすればそのような状況から抜け出ることができるだろうか。たぶんそう問うこと自体が目的と化していて、語る術として、そう問わざるを得ないのであり、要するに思い悩んでいるふりをしながら、そんなことをいつまでも問い続け、それでその種の語りを維持しているに過ぎないのではないか。だがそんな見解も語る術でしかなく、まずは問い、そして問うている理由を探り、そういう見解に至るという手順によって、その種の語りを維持継続させているのだ。だがそんな見解すらもそういう語りの一部として機能し、やはり語りを長引かせるためには、そういうことの繰り返しが必要となってくるのであり、この先いくらでもそうやって語りを引き延ばそうと思えば、そうなってしまうような状況となっていて、それをやめない限り、そんな悪循環から逃れられないのではないか。だからそれでかまわないと述べるしかないわけか。なぜそう思うのか。あるいは思っていないからそう述べざるを得ないのか。

 そうは思わない。そう述べてしまえばそうなってしまうかもしれないが、そうは思わない。ではどう思っているのか。君がやろうとしているのはそれとは別の分野だ。ではどんな分野なのか。さあそれはわからないが、たぶんどんな分野にも入らないようなことをやろうとしているのではないか。また曖昧な返答に終始したいらしく、何に答えようとしているのでもないようだ。いったい何に答えればいいのだろう。また忘れてしまったのか。答えられないからそんなとぼけ方をしているわけか。たぶん答えられないはずがなく、わからないと答えれば済んでしまうところを、その辺をややこしくかつ回りくどい言い訳に終始したいようで、そうやって言葉数を増やして、何か述べているように装いたいのだろう。図星だろうか。そういう嘘でもかまわないのかもしれず、そうでなくてもかまわないのだろうが、それが嘘か本当かなんてどちらでもかまわず、ただ執拗に言葉が連なっていればそれでかまわないのだろう。そこで集中が途切れているようで、散漫な気分となり、ちゃらんぽらんなことをやろうとしているようだが、他に何ができるというのか。また唐突にそうなってしまうのか。相変わらず何も語っていないようで、さらに言葉を連ねて、どうしようもない状況となりそうで、何がどうしようもないのか表現するのが億劫だが、たぶんその手の何かに躓いているのであり、何かとは相変わらず何でもない何かだろうが、ありふれたことを述べるなら、例えばそれは夜の蒸し暑さであり、昼の直射日光であったりして、それらは誰にとっても意味不明というわけでもないが、君はそういう何かに晒され続け、せこいプライドも面子も捨てざるを得ない状況に追い込まれ、そこから何かを引き出すことによって、かろうじて行動とそれに対する説明のつじつまを合わせようとしているのだ。それでうまく立ち回っているつもりになり、搦手によってそれを獲得して、他の誰もが納得済みの何かを平然と無視する。


8月1日

 いったいこれはどういうことなのか。それはいつもの台詞だ。どういうことでもなく、結局こうなってしまうのだから、やはりどういうことでもない。では何がどうなればいいのか。ただ言葉を記しているだけでかまわないのか。そうは思わないだろう。では何を記せばいいのだろう。言葉以外の何が記せるのか。絵でも描けばいいのではないか。なぜそう思う。何とも思っていないのではないか。だがなぜそうやって強がるのか。それは誰かの痩せ我慢に触発されているわけか。そんなでたらめは通用しない。ではどんなでたらめなら通用するのか。そもそもでたらめでは通用しないのではないか。それに現状でも何に通用しているわけでもなく、そんなやり方では世間に通用しないことがわかりきっていて、もっと具体的でまともな内容にしなければならないのではないか。なぜそう思うのか。それは何かの冗談か。何の冗談でもなく、内容がない語りが繰り広げられているだけか。何を語っているのでもない。何も語れないから言葉を記しているのではないか。またそんな嘘をついて何を狙っているわけでもなく、行き当たりばったりでそんなことを述べているだけのようだ。何の計画性もありはせず、いい加減な勘だけでそんなことを語っているだけか。それを頼りとしている限りはでたらめになるしかないだろう。ならばそれが君の狙いだとうそぶけばいいのか。できればそうならないように努力しなければならないが、それが何のための努力なのかわからず、ただ闇雲に工夫を凝らして文章を構成しようとしているだけのように思われ、そこに特定の狙いや目的などが紛れ込む余地はなさそうで、やはりそれは単なる記述的なパフォーマンスの域を出ない行為か。ならばもっとアクロバティックなことを語ればいいではないか。できればそう語りたいところだが、現実は現実で、君にも限界があり、言葉を記している誰かが己の限界を知っているかどうかはわからないが、要するに分相応な語りしか実現できず、それがこれではないのか。

 君はそこで一息つこうとしている。だいぶ疲れたようで、何で疲れたのかわからないが、とにかく疲れたふりでもして、一息つきたいのだろう。また漠然としてくる。もうさっぱりか。何がそうなのかわからないのはいつものことだが、何がそうさせるとも思えず、君自身がそうしているとも思えない。たぶんこれは冒険ではない。体験しているのは日常の延長上にある日常に過ぎず、いつものことが繰り返され、叶わぬ願いを抱いて、それとは別の何かを記し、それを想像しつつ、何も実現できないことを残念がっているわけでもなく、それでも願いが叶った日のことを空想しているわけか。それで別に不幸を招いているわけではなく、願いを叶えようとしない限りは、不幸になりたくてもなれない境遇にあるわけで、それをあきらめたら幸せになるだろうことは予想できるが、そんな素振りも見せずに何を思っているわけでもなく、ただ言葉を記しながら、何もない夜を過ごし、君はどこで躓く好運にも恵まれず、それがなぜ幸運なのか知るよしもなく、事件の目撃者にも首謀者にもなれず、いっさい関係のない通りすがりの誰かにしかなれないのかもしれないが、それでもそれらの風景を眺めていることは確かで、そんな風景の中で他の誰が活躍しようと、長続きはせず、次から次へとどんどん主役が交代させられ、一瞬の脚光と引き替えにして過去の人へと後退していく光景について、別に何の皮肉を述べたいわけでもないのだろうが、ともかく一瞬であっても、それらを楽しませてくれたことに感謝しなければならないのだろうが、相変わらず君は何とも思わず、関心が希薄で、それとは無関係を装える立場へと移行したいのかもしれず、そんなことを画策しようとまでは思わないのだろうが、やはり君には君の領分があると思っていて、それが大きな勘違いのもととなっているのかもしれないが、ともかくそこで語られている大まかな内容はそんなところで、当たらずとも遠からず的に、それらについて述べている気でいるらしいが、それが正直な感想に結びつくとは到底思えないのはいかなる理由か。

 しかしなぜここへきて唐突に感想を述べなければならないのか。またなぜそんなことを記さなければならないのか。やはりそれを誰に問うているとも思えないのだが、やはり苦し紛れの自問自答になってしまっているようで、いつもそうなのだろうが、何となくわざとらしく思われ、そんなやり方は好ましくないと思いつつも、やはりそれに頼って言葉をつなげようとして、どこかで見え透いた嘘が語られることは必至の展開かもしれないが、すでにそんな嘘をついているのかもしれず、それもその場で繰り広がられようとしているパフォーマンスの一部でしかなく、何だかさらにわざとらしさが増してきたように思われ、そんなふうに語りながらも、何を語っているのかわからなくなり、過去に記した言葉の連なりを読み返して、何とかそれとの継続性を維持できるように工夫しようとしているのだろう。そして別にうまく語ろうとしているわけではなく、すでに工夫の成果となって語られていることがこれ自体なのかもしれないが、何だか意味不明気味に思えてきて、言葉を記している誰かの真意をつかみきれていないようで、何となくいつもとは違うような成り行きになってきたように思え、そんな思っても見なかった展開を装いながらも、やはりここで相変わらずの問いを発せざるを得なくなる。いったい君は何を述べているのか。君が述べているのではなく、君に何かを述べさせようとしているのであり、その何かがわからずに思い悩み、その何かがわかるように言葉を配置して、そこから何かを読み取ってほしいと思っているのかもしれず、記述者はそんなおせっかいなことを記しつつ、たぶんまた別のことを考えているのだろうし、無駄に言葉を記して、それらの言説を無駄に膨らまし、全体として何か述べているように装わせたいのだろうか。たぶんその辺でわけがわからなくなっているのだろうが、そんなことをする意図が何なのかを探ろうとしているわけではなく、そのままそれらを放置して、いかようにも読み取れる内容を維持したいのかもしれず、そんなはっきりしないことを文章として構成し、作者として内容をわかりやすく説明する義務を放棄しているだけなのかもしれない。