彼の声84

2011年

5月31日

 長くは持たないか。何もやりたくなければ、もう思い切って休んでしまえばいいのではないか。今日は曇っているようで、気分も乗ってこない。それでも何か語るつもりらしく、実際に言葉を記していて、その執拗な衝動には呆れている。だが飽くなき探究心にも限度があり、怠惰に敗れ去るのが常だろう。何のことを述べているのかわからないが、今やればどうなってしまうのだろうか。たぶんどうにもならない。どうにかなるような状況ではなく、実際に何も思いつかないようだ。無理なことははじめからわかっていた。無理なのにやろうとするから挫折する。やる前に周到な準備が必要なのではないか。別の作業ではそれをやっているはずか。なぜここでは行き当たりばったりなのだろうか。仕事ではないからか。気の向くままに言葉を並べ、意味不明な内容でもかまわないと思っている。だからでたらめでもいいわけか。その辺がよくわからないのだが、とにかく内容のあるに越したことはないはずだが、実際に語ろうとすると、そうでもなくなってしまい、やはりどうでもいいようなことを平気で記していることに気づき、何やら暗澹とした思いにとらわれ、まともに語ろうと努力するのが馬鹿げたことのように思われ、くだらないならくだらないなりに、それ風のことを述べていればいいように思われてしまう。だからそれでかまわないとなるわけか。そう思っていること自体が怠惰な証しか。たぶんそういうことなのだろうが、本当にそれでかまわないのか。君はそこからどんな反論を画策しているのか。それは君自身が知ったことではないか。

 すべてはその場の成り行き次第だ。君の進むべき道などどこにもありはしない。道なき道を進んでいるのだから、もとから道などない。たぶんそこは薮の中なのだろう。行く手を阻まれているのかもしれない。そしてそれが何の話にも結びつかないところが、それらのことごとくが何でもないことの所以か。実際に何も語ってないはずだ。どこかからどこかへ移動の最中で、そのどこかが目的地ではないとしたら、君はどこへ向かって進んでいるのだろう。どこへも向かわずに、絶えずその途中で何かを語ろうとして果たせず、また無駄に言葉を並べている最中か。それは語る代わりなどではなく、ただ言葉を並べているのだ。そしてそんな何でもないことを延々とやっている。どこまでもそうなのだから、君にこの先語る機会など訪れるはずがない。そう思うならそういうことでかまわないのではないか。たぶんそうやって言葉を並べていれば、それが文章を構成する作業と思われ、とりあえず何かやっていると実感できるだろう。それで満足すべきなのだ。またそんな嘘をついて何かをはぐらかすつもりなのか。本当はそうでないことはわかりきっているはずだ。では現実に語っているのは誰なのだろう。まさか私が語っているのか。それは禁句のたぐいかもしれず、彼にとっては私でも君でもない誰かが語っているように見せかけたいのではないか。だがそんな嘘はとうに見破られているはずで、誰に見破られているわけでもないのに、そういうフィクションに持っていこうとしているわけだ。それはどういう思惑でそういうことを述べているのか。何でもないのにそういうわけのわからないことを述べても大丈夫なのか。

 しかしこのままでは話がどうなってしまうのか。どうにもならずに破綻しているのはいつもの通りで、でたらめに語ろうとしているのだから、そうなって当然であり、別にそれが間違っているとも思えず、もしかしたらある意味では正しいことを述べているのかもしれない。しかしある意味とはどういう意味なのか。それはでたらめな意味ということか。だからたぶんでたらめに語るのが正しい行為なら、それはそれで真っ当な結果が導きだされていて、その通りに語っているのだから、でたらめなことは何も述べていないのではないか。わざとそういうことを述べているだけか。そして気が狂っているのだろう。画面の前で笑っているのが何よりの証拠だ。たぶんそれは冗談ではなく、本気でそんなことを語ろうとした結果であり、以前からその兆候があったかもしれないが、今や君は完全におかしくなってしまったらしい。少なくとも誰かが記しているフィクションの中ではそうだ。そしてそれは今記しつつある文章の中での話となっていて、そんなことを述べながらも、君は至って平然としているようで、それがさも当然のことのように振る舞い、もはや後戻りできない成り行きの中で、さらに言葉を並べて、内容の空疎さを際立たせようとしているわけか。さあそれはどうなのだろう。もしかしたらそんなふうに語りながらも、どこかで救いを求めているのではないか。わざと意味不明な薄ら笑いを文章の中から外へと押し出そうとしているようだが、それが何かの演技であることははっきりしていて、別にわざと狂人を演じているわけでもなく、結果としてそんなニュアンスの言葉を多用しているだけで、たぶん誰かが忘れた頃に、何かのきっかけをつかみ、誰も思いもしなかったような言説へと、言葉の連なりを進化させようとしているのかもしれない。だがいったいいつになったらその兆しを見出せるのか。


5月30日

 わざと話を壊しているらしい。そう述べてしまうことに何か問題でもあるのだろうか。何もないことに気づいている。現状では問題だらけだが、君にはそれの何が問題なのかわからない。それはなぜだろう。わからないということが問題なのか。問題ではない。それどころか問題などどこにもありはしない。そういう話ならそれでいいではないか。ところで君はそれらの何に共感したのか。何も共感せず、何でもないのに突然寒気がしてくる。それとこれとは関係ないだろう。その辺が問題なのだろうか。しかしなぜ問題にこだわるのか。他に何もないからか。では何もないことが問題なのか。そんなことを語っているうちに、語っている自らに呆れてきて、そして興味が薄れ、眠たくなってくる。そういうのはもうやめた方がいい。言葉を繰り出すのにもタイミングがあり、それを逃してしまうと、その先がどうなってしまうのだろうか。結果的にはこうなっているのではないか。実際にくだらないことになっている。しかしそれがどうしたわけではなく、また平然とくだらぬことを語ろうとしているのではないか。だからその辺が問題なのだろうか。それの何が問題なのだろう。また問題か。冗談にしてもくだらなすぎないか。そして気がつけば、どうやらそういう問答から抜け出せなくなっている。そうやって君は立ち直る機会を逃している。だから立ち直れなくなっているのだろう。しかし立ち直ってどうしようというのか。今さらそれはないだろうか。何も語らないうちに、もうこんな時間だ。

 何とかそんなことを語っている現状があり、かろうじてテレビを消して、言葉が記された画面に向き直ることができたらしいが、そこからどうすればいいのか。まずはコーヒーでも飲むか。だが時間がない。どうやら眠気には勝てず、あきらめてしまいそうな気分になっているようで、意識が踏みとどまることができないらしい。だからそんな冗談はさておいて、なぜ近頃の君は漫画を読まなくなってしまったのか。何か馬鹿にしていないか。何を馬鹿にしているのか。何となく腕時計に目をやり、時間に興味があるのではなく、そのデザインに興味があるらしいが、惹かれているそれは安物に違いなく、何でもないようなそれを見やりながら、何を馬鹿にしようと思っているのでもないことに気づき、その代わりに幻想を抱いているのかもしれず、その幻想がくだらない結果を招き寄せようと、それでかまわないと虚勢を張るつもりなのか。だがそれで強がっているつもりになれるだろうか。君は用心深く言葉を並べ、決して本心を悟られないようにしているのかもしれず、間違ってもそれで何かわかったような気にはなるまいと誓い、それに関しては無知あることを恐れず、様々な犠牲の上にそれらの認識や理解が得られたことを悟るべきなのだろうが、たぶん感謝するようなことを知ったわけではないことを思い出すべきなのだろう。それらは知ろうとして知ったわけではなく、要するに思い知らされたたぐいのことばかりなのだ。今や身につけた知識は、何に関してもそうであり、否応なく身につけざるを得なかったことばかりとなり、そんな思い通りにならないことの積み重なりが、人格として何者かの歴史を物語っているようで、それを度外視して、何やら知ったかぶりなことを述べても、まったく現実感の希薄な語りとなるしかないのだろう。

 そして君はそこに至り、何もわからなくなるわけか。いったいそれの何があり得ないことなのだろう。何かを得られただけ代償があり、それでプラスマイナスゼロになるどころか、今や大幅にマイナスか。たとえそうだとしても、それらのマイナスにはエネルギーがあり、それは何かを帳消しにするのように働くのではなく、プラスやマイナスに振れながらも、総体としてどこかそれとは垂直方向に働き、そこから何かを押し上げているのか押し下げているのか知らないが、何となく螺旋的に動き、当初に定められた方向から大きく逸脱して、非意味のような言葉の連なりを実現させるように作用しているのかもしれず、それが嘘や冗談だとしても、いくらナンセンスだと感じられても、電池を入れ替えたばかりの数十年前のクォーツ時計のように、そんなでたらめなたとえを無視するかのように、淡々と時を刻み、過ぎ行く時を懐かしむこともなく、記憶は傷として刻まれ、それが己自身を無視していることを思い出すこともなく、そのままどこかの暗闇に置き去りにされてしまうのか。しかし記憶はどうしたのだろう。君はそんな無秩序な言葉の連なりの中で何を思い出そうとしているのか。かつて今よりさらにでたらめだった時期などなかったはずか。語ろうとしているのはそういうことではなく、何かの映像に見とれている暇などなく、たぶん意識は未来を目指しているのではなく、ひたすら過去を思い出そうとしているのであり、そんな後ろ向きの意識を時が無情に見放しているだけで、君がそれを望んだのではなく、誰も望まないような状況を目指しているのは、今や君の影でさえないということか。では何がそれを目指しているのか。


5月29日

 体の節々が痛むようだが、要するに疲れているのだろう。また音楽を聴いている。それだけのことだ。言葉を記すのが億劫になる。気乗りがしないらしい。そんなことを思っている以前に、こうして言葉を記しているではないか。それでも気分が乗ってこない。いつもそうなのではないか。反論する余地がない。何を語る余地もないのではないか。だから沈黙を守らなければならないのか。そんなはずがない。心の中で何かが壊れているようだが、それもいつものことだと思えば大したことはない。そしてなぜそんなことを語るのか理解できない。理解できないようなことではないのではないか。だからいつものことだろう。それで済ましてしまうつもりらしく、何を済ますようなことでもないのに、そんなことを述べていて、それが何だかわからない。単に状況を把握しようとしていないだけか。どうせわざとそんなことを述べているのだ。それに関して明確なことを何も語らないのはいつものことか。すべては冗談なのだから、それでかまわないだろう。それに関して語るのが面倒くさいので、そういうことにしておきたい。それでは済まないか。必要もないのに無駄に言葉を記し、それだけならまだしも、わかったような利いた風な主張を並べ立てられてはたまったものではないか。それでかまわないのではないか。だがかまわないのにそんなことを延々と述べている。そんな現状に嫌気がさして、他に何を語ろうとしているのか。それで済むはずがなく、さらに同じようなことを述べてしまい、結局はうんざりしてしまうのか。それが予定調和の結果なのだろうか。まだそこまでは行っていないか。

 相変わらず同じようなことを述べている。具体的に何かを語るまでが一苦労なのか。君はそれが何だか知っているはずだ。すでに気づいているとは思えないが、雨音にまぎれて次第に聞こえてくる音がありそうだ。それがどうしたというのか。雑音のたぐいだろう。そこで追求をおしまいにするわけにはいかないのか。具体的に何を追求しているわけでもないか。それが何かを理解を君から隔てているのだ。そしてまた何やらわかったようなわからないようなことを述べようとしている。それ自体がそうなのではないか。何がそれ自体なのだろう。今語りつつあるそれだが、それとは何か。なるほどそういうところに持っていくわけか。たぶんそれとは何でもない。あえて述べるならそれは気まぐれに出てくるフレーズのたぐいだ。それだけのことだから始末が悪く、何でもないのに、気がつくとそんなことを述べていて、何の必然性も感じられぬまま、そんなことを述べているわけだ。それでかまわないのだろう。またそれか。それもそのたぐいではないのか。そんな説明は不要か。何を説明しようとしているとも思えず、ただ適当に語ろうとしているだけのようだ。そしてそれが本当に適当かどうか判断できず、間違っているようにも思え、もう後戻りができない段階で、何となく後悔しているようで、それは愚かなことかもしれないが、愚かでもかまわない。何でもかまわないのだからそういうことだ。だが今回は無駄に無意味なことを語り過ぎだろう。何でもないことを延々と語り、それでかまわないと居直ってみせる。まったく愚かにもほどがあるか。

 しかしアフリカとは何か。いきなりおかしなことを述べようとしている感もなくはないが、やはりアフリカとは何なのだろうか。耳が少し遠くなっているようだ。骸骨の横顔の形をしているのがアフリカ大陸だ。地形的にはそういうことで、その中身は何なのか。世界は新大陸と旧大陸にわかれていて、旧大陸のひとつがアフリカ大陸で、もうひとつはユーラシア大陸か。地理的にはそういうことだろう。人類発祥の地か。生物学的にはそういうことか。君はわざとはぐらかしているようだ。だがもとから論点など何もないはずか。君が何を探っているのでもないことは明らかだ。もう宝などどこにもありはせず、冒険の時代ではない。お宝を満載した沈没船がどこかに沈んでいて、それを誰かが探しまわっているのかもしれないが、それは大したことではなく、興味を惹くようなことでもない。別にそこで首を傾げてみても、何の疑問も出てこないはずだ。アフリカの奥地や南米の奥地に黄金郷があろうとなかろうと、あるいは中国の奥地に桃源郷があろうとなかろうと、誰が何を探しまわっても、大したものはもう見つからないだろう。まさかそこに旧人や原人や猿人が暮らしていたとしても、それが求めている宝ではないはずか。しかしそれはずいぶんと遠回しな言い草だ。いったいそこから何を導きだしたいのか。言葉があちこちにとっちらかっているだけで、そんなことを述べている意図がまったくこちら側に伝わってこない。もういい加減に語りたいことを語ってほしいか。それがなければどうなるというのか。確か昔読んだ漫画によれば、この世界には聖剣が十本あるはずで、その中の何本かを特定の誰かが所有しているらしいが、そんなのは嘘だろう。またわけのわからぬことを述べようとしているようだが、残念ながらもう終わりだ。


5月28日

 疲れた目に何かが映る。カラスがこちらを見ている。何かを理解しているようだ。そして判断しているのだろう。たぶんそこで話が終わりとなり、何も語らずにその場を立ち去り、それから誰かはどうなったのだろうか。今に至っている。頭がクラクラするらしい。一日に三杯もコーヒーを飲んだからか。笑っている場合か。ここから何とかしなければならない。なぜなのだろうか。理由はわからない。雨音がしているようだ。時折通りを車が通る。雨が降っているようだ。雨粒が屋根を叩いている。何を思っているのでもない。話がつながらない。語ろうとしていないからか。たぶん何も語らないだろう。その代わりに誰が語るのだろうか。それでも語ろうとしているはずだ。無理に何かを語ろうとしている。何かについて語るつもりなのだろう。君が嘘をついているとは思えない。物語の中ではそうだ。そうだったはずだが、実際は冗談の連続で、どこかで笑い転げて、そのまま奈落の底へと転落してしまったわけか。いったいそれは何の話なのか。何の話でもなく、ただのでまかせのでたらめか。それでかまわないと思っている。本気で先行きを心配しているのだろうか。何がまかり通っているわけではない。通用していないから話になっていないのだろう。それで誰かが困っているわけだ。そしてわざとでたらめを語っている。それでも語らないよりはマシか。マシでないから困った事態となっているのではないか。馬鹿げたことだと思う。馬鹿げたことでないと語れない。それが困った事態の一部始終となるのか。まさかそれで済むとは思えない。

 少し横なったら気分が優れたのか。外では雨が降り続いているようだ。まったくどうにもならない。何がそうなのかわからない。それにしてもまだ残された希望があるのだろか。いったい何を望んでいるのか。この世界がどうなってほしいのだろう。このままでかまわないのだろうか。たぶんそうだ。すでにどうにかなっているのだから、これ以上どうにかなっても同じことか。君はそんな現状をふまえてどうすればいいのか。君もそのままでかまわないのか。今まで通りに振る舞っていればいいわけか。そうすればどうにかなるだろう。それはすでにどうにかなっている上に、さらにどうにかなってしまうということか。たぶんそういうことだ。あきらめてはいけない。あきらめてしまってもいいような気もするが、それでもかまわないのだろうが、それでいいなら、あきらめてはいけないと思っていてもかまわない。本当はどちらでもかまわないのだろう。まだ何も決めていないのではないか。何を語るかも決めていない。だから何にも語っていないのか。語っているではないか。すでに自問自答の範囲内でなら語っているはずだ。実際にこんなふうに語っている。それではだめだと気づいているのに、それを裏切りながら語っているはずだ。なぜそうなってしまうのか。それは無理矢理語っているからだ。そう思っていれば簡単に語ることができるわけか。実際にそうなっているではないか。そうなってしまってはまずいのに、そうなっている。それが困った事態の一部始終なのか。またそんな言葉が繰り返され、もはやそこから抜け出せなくなっているようだ。しかし君はそれでかまわないと思っているのだろう。

 いやに簡単にここまで語ってきた。まずいと思いつつも、安易な自問自答を繰り返し、それが語る糧となり、無駄で無意味な語りを支えているわけだ。それは間違った解釈だろうか。その場の都合に合わせて、躊躇なく言葉を記し、それが間違ったことを述べているような雰囲気を醸し出しているようだが、たぶんこの場面では、間違ったことを述べるのが正しいやり方となっているのだろう。物語的には誰かが間違わないと、それと比較される形で正しいことがまかり通らなくなり、誰かが正しいことをやるために、他の誰かが間違ったことをやらなければならず、そうしないと、正しい行いが正しいことだと理解されなくなってしまうわけか。だがそれが虚構だとどうして気づくのか。実際にはそういうふうな展開にはならず、どのような結果に至ろうとも、それが正しかったり間違っていたりしても、そんなことはおかまいなしに、人はすぐにその先へと歩を進め、当時を振り返って、それが正しかったの間違っていたのと判断しても、もう遅いのか。たとえ間違っていようと、そんな間違いなど簡単に乗り越えられてしまい、教訓だの反省材料だのとなるしかなく、その経験を今後に生かそうと生かすまいと、そんなのは誰の勝手でもなく、その時の気分次第と偶然の巡り合わせで、どうにでもなってしまうわけか。まさか君はそうなることを期待しているわけか。だが何を期待しようと期待外れに終わろうと、君とは無関係な誰かにとってはどうでもいいことだ。誰かはただ言葉を記して文章を構成するだけで、その内容にまでは立ち入る必要もなく、君の語りなど無視しようと思えば簡単に無視してしまえる立場にあり、それとは無関係な何かを記すことさえ可能で、必要とあらば容易にそんなことを記しているはずだ。


5月27日

 また天気の話か。台風が近づき、梅雨前線も活発になり、これから雨脚が次第に激しくなるらしい。そんなことを天気予報士がテレビ画面上で語っていたはずか。くだらぬ内容でもないだろう。君はそれが何だか知っているはずだ。ただの空気か。そこで誰が窒息死したわけでもない。持っている物で何を計ろうとしているのではない。ただ何かがうらやましいのか。そこからまともな言説を引き出せるとは思わない。無理矢理引き出されるのは何だろう。何でもなければまたしても誰かの負けか。わざと負けてあげる代わりに何か欲しいのか。わざとではないとすると、それらの振る舞いは何なのか。誰かがどこかでどうにかなってしまい、気を病んで、船は暗礁に乗り上げ、そこで壊れてしまったのだろうか。意味不明なことを述べているようだ。君はそれらが反古にされたのを知っている。約束違反だろうか。しかしどんな約束が交わされたいたというのか。さらにわけがわからなくなってきた。どこかの岩盤に亀裂が走り、割れ目から温泉でも吹き出したらおもしろいかもしれないが、ゴールドラッシュが去り、見捨てられ、荒れ果てた廃墟の街に、誰かの足音が響いたように感じられるが、風化作用が及んでいるらしく、吹きすさぶ砂塵が何かをかき消しているようだ。君はもうその辺であきらめてしまうのか。それらのでたらめの中からどんな言説も救い出せず、面倒くさくなって、それらを途中で放棄して、寝てしまう。やめた方が身のためか。誰かが甲高い声で叫んでいるようで、何かが間近に迫っているらしい。それは何の話だったのか。

 わざとそんなまとまりのないことを述べているのだろう。とりとめがなく漠然としているのは、それが君の性に合っているからか。目を閉じれば真っ暗闇が迫ってくる。それは当たり前のことだろうか。またどこかでさまよっている。何がそうなのかわからない。それとも何やらごてごてした言葉の並びが気に入っているのか。しかし摩擦とは何だろう。何かと何かが相殺されて、思いもよらぬ結果となってしまうことが期待されている。やはりその辺がむちゃくちゃか。だからわざとそんなことを述べていて、誰がそれについて何を推測してみても、ありふれた結果しか予想できず、それを裏切るように、結果は自ずから意味不明へと導かれ、すべての憶測を振り払い、どうでもいいようなことを理解させ、期待外れが唯一の真実であることを物語る。もはや笑うしかないような結末を誰が予想しただろうか。君が予想していたはずか。嘘に決まっている。確かにフィクションの中ではそうだった。そして何だかついてゆけない話の展開となっているのかもしれず、呆れとあきらめを通り越して、やはり笑うしかないのだろうか。それは別にもがき苦しむような状況ではなく、気が抜け力が入らず、何を語っているのかもわからず、ただ淡々とその場の成り行きを見守るばかりなのか。だが現実には成り行きなど何もなく、記された言葉が延々と連なり、それを読もうとする者を受けつけないような雰囲気を漂わせ、さらにおかしくなってゆくみたいだ。焦っているわけか。誰がそうなっているのだろう。とりあえずまだ時間がある。

 その辺で更生させるべきか。いったい誰が間違った行いをしているのか。しばらくそれに気づかなかったようで、気づいた時には手遅れで、すでにここまで言葉を記してしまったらしい。この期に及んでわかっているのはそういうことか。君が決めつけるようなことではない。どうやらとことん無駄なことをやらなければ気が済まないらしく、その先にはさらなる意味不明が控えているようだ。君はそれらの幻想に染まりすぎている。何とかなると思い込んでいるようで、無理に言葉を引き回して、デフォルメを繰り返し、歪んだ表現を弄び、単なるおふざけとしか思われないようなことを語り、それで得意になるほど安易ではないようだが、それではだめだとわかっているのに、どうしてもそういうやり方を捨てきれず、相変わらず後を引いているようで、くだらぬ言説に心を絡めとられ、到底承服しがたい結果を己に招き寄せ、嫌な思いをしながらも、それらのどこかに欠陥があることを見抜きたいらしく、ひたすら画面を凝視しているようだが、結局は何も見つからず、がっかりしているように見せかけながらも、内心では笑いが止まらないらしい。なぜそうなってしまうのか。君はわざと嘘偽りを語っているに過ぎないのか。緑茶を飲んだのに眠たくてたまらず、何が笑止千万なのか理解できず、片腹痛がっている誰かを出し抜きたくて、盛んに何かを仕掛けてくるが、そのことごとくが空振りに終わり、後は無駄な努力だと悟るしかないのだろうか。そうならないうちに眠ってしまえばしめたものか。しかしなぜそこから逃げて眠ってしまうのか。まだ全然語り足りないのではないか。だがあきらめが肝心な時もあるらしく、今がその時なのかどうかはわかりようがないが、とにかくその辺で終わるとしよう。


5月26日

 それが何かの機会だったのだろうか。だが君に課された使命ではない。語るべきでないことを語ろうとしているのだろうか。そんな大それた内容ではないか。今となってはわかりようのないことかもしれない。誰にそれをわからせようとしているのでもない。君にはそれが苦痛か。何を苦々しく思っているのだろう。たぶん君はそれを知っている。知っているから苦痛なのか。あまりそれを掘り下げて考えるには及ばない。必要ないからか。また地震だ。いったいいつになったら治まるのか。それは頭痛の種だろうか。まだそんなことがわからないらしい。本気になる必要がないだろうか。何が洗練された印象を与えているわけでもない。ただ意味がわからないだけのことか。それだけでなぜ語ろうとするのか。ふざけるのにもほどがあるか。だが誰が愚かなのでもなく、君が天才なのでもなく、誰もそこには至れないのだ。それはどういうことなのか。記憶が曖昧だ。昨夜どんな夢を見たのか忘れてしまったらしい。しかし話になっていないようで、相変わらず何を語っているのか判然とせず、要するにでたらめなのか。そうかもしれないが、もう少し言葉を並べて様子をうかがってみようと思う。どうも最近はでたらめすぎて気が触れているようだ。そこでは誰が使命感に燃えているわけでもなく、何をやろうとしているわけでもない。ただくだらぬつぶやきはやめた方がいいようで、その代わりに気が狂ったような言説を展開させるべきなのかもしれず、そこまでいく勇気がなくても、とりあえずは無難な線で言葉をまとめて、何やら内容があるようなないようなことを述べていれば、それでかまわないのかもしれない。

 実際に何となくここまでやってきた。そんな実感とともに、気が散っているようで、度々ネット検索にはまり、なかなかここまで戻って来れなくなってしまい、ただ笑っているばかりで、具体的に何を述べようとしていたのか忘れてしまったらしい。果たしてニコラ・コンテとは何者なのか。知っているようで知っていないような名前か。誰かはかつてジャザノヴァとガリアーノの関係が知りたかったようだが、それはこれとは違うのではないか。しかしiPodの中に三千数百曲も入っているのに、近頃はコルトレーンばかり選曲してしまうようで、本当はそれほどの頻度では出てこないのに、彼のサックスばかりが印象に残るのか。本当のところはよくわからないが、ところでジャザノヴァはなぜドイツで活動しているのか。別にドイツ語で歌っているわけでもなく、それどころかヴォーカルが入っている曲は英語ばかりだ。またIdea 6をquasimodeがやっているのも、何となく聴いたことのある曲だと思っただけか。しかし一時期ダラー・ブランドばかり聴いていたのはどういうわけなのか。彼がアブドゥーラ・イブラヒムで、ダグ・カーンという別人がアブドゥル・ラヒム・イブラハムなわけで、両者を同一人物だとかなり長い間勘違いしていたわけだが、まったく違う音楽を同じ人間がやっていることに感動していたのかもしれず、そんなわけで述べていることにまったくまとまりがなく、何について語りたいのかわからず、とりあえず聴いている曲についてあれこれ述べてみたようだが、やはり意味不明のようで、語れば語るほど頭の中が混沌としてくるようだ。だからそれでかまわないのだろう。

 しかしダラー・ブランドにしろダグ・カーンにしろ、日本でやっている音楽の範囲外でやっている音楽であることは確かだ。こういう音楽は日本ではやっていない。日本でやっている音楽は、偏差値が平均値よりやや上の位置にあり、要するに計測可能な音楽が多いような印象を受ける。こぎれいにまとまっていて、聴いていて心地いいが、そこからはみ出す部分が少ない。それに対して先に名前を挙げた二人の音楽は、そこから大幅にはみ出ていて、特定の価値基準では計れないような音楽をやっている。まあそこから飛躍して、ありふれたことを述べれば、日本では同じような人が大勢住んでいて、人の種類も均質化されているのかもしれないが、一方で世界は広く、世界にはまだまだそれらとはまったく異質な人間があちらこちらに存在しているということか。案外日本にもそういう価値基準に収まらない人間があちらこちらにいるのかもしれず、たまたまそういう人たちが社会の表面に顕在化してこないだけか。だがそんなことはどうでもいいような気もしてくる。別に日本という国家の区切りでどうこう述べても仕方がなく、音楽に国境など要らないし、震災で多くの人が死んだから、原発事故が起こって多くの周辺住民が困っているから、日本人が一致団結してがんばらなければならない、というのもわけのわからない論理だと思うし、そんないい加減なことを平然と述べている誰かが、何かと何かを混同していることは明らかなのだが、何となくそんなことを述べながらも、イスラエルのオズ・ノイが奏でるギターを聴きながら、イスラエル政府のパレスチナ人に対する弾圧を非難しても、それはお門違いも甚だしいか。


5月25日

 何を見通すつもりなのかはっきりしないが、とりあえず今日も晴れているようだ。君のせいではない。冗談のつもりが、的外れな台詞を引き出してしまい、何となく気まずい雰囲気になり、そんなことがかつてあったような記憶がある。わざとそこで何かを外しているのは明白か。なぜ意味不明なことを語ろうとするのか。ひたすら記述を優先した結果がこれか。そうも思えず、他に何かを怠っていたような気もする。確実に言えることは何もなく、すべてがあやふやで曖昧模糊としていて、だから不必要に語ろうとしなければいいのだ。できないことを己に課すことはできない。そんなものだと安易にあきらめてしまえば、そういう水準で考えるしかなく、理想を追い求めれば独りよがりとなりそうだ。ではどうしたらいいのだろう。気休めに音楽を聴いている。わけがわからな馬までもいいのではないか。しかしそれで何をあきらめているのかわからず、まだ心に余裕があるような気がして、何とか前向きに考えようとしているようで、普通にそれを語らなければならないと思っている。嘘ではだめなのだろうか。それの何が嘘なのかわからない。たぶん嘘ではなく、実際にそうなっているのだろう。何かが起こると誰かがしゃしゃり出てきて、利いた風なことを主張するのはよくあるパターンだ。世の中はそんなふうにしか進んでゆかない。実際には穏当な結果をもたらすのかもしれないが、そこに至るまでが百家争鳴で、その辺で様々な議論が交わされ、論壇が活気づくのかもしれず、まあそれもそういうことでしかないのだろう。

 ところで君は黙っているのだろうか。別に何を見守っているわけではなく、日々の作業をこなしているだけか。どうもそこから飛躍できず、画期的な何かを導きだすという具合にはいかないようだ。人はなぜそんな結果を望むのか。今暮らしている状況が窮屈に感じているのだろうか。完膚なきまでに叩きのめされるのはフィクションの中でのことで、現実には痛み分けといかないまでも、たぶんそれ以前にそういう対決に至るのを回避しているのだろう。あるいは各種のゲームやそれに含まれる競技スポーツで、何やら勝ち負けの決着がついた場面に出くわすかもしれしないが、当事者たちが勝利の美酒に酔いしれるのは一瞬のことで、また時期がくれば勝利を目指して努力し続けなければならず、まったくご苦労なことだが、そんなことを引退するまで繰り返すのだから、たぶん彼らは庶民に娯楽を提供するための消耗品のたぐいで、まあそれなりの報酬をもらわなければ割が合わないことはわかりきったことで、それでも一瞬の栄光を夢見てがんばっているのだろうか。たぶん人は何のために生きているのでもなく、ただ幻想を追い求めることしかできないのかもしれない。神の存在を否定している物理学者のホーキング辺りが、何やら生きる目的を単純化して説いているらしいが、あまり説得力があるとは思えず、彼が主張していることも、神の存在と同じく幻想に過ぎないのではないかとも思われ、人は結局そういう幻想を信じていないと生きられないのかもしれず、彼自身が難病と闘いながら生きていること自体がそういうことなのだろうか。

 しかし今日も数カ所で起こった人身事故で列車が遅れ、あげくの果てにはホームで人が倒れて、だめ押しのような展開となり、何やらそれがいつも通りなのが不思議でたまらないようで、昔はそんなことは滅多に起きなかったような気がするが、実際はどうなのだろうか。だがそれでも至って平和な世の中であり、リビアやシリア辺りでは内戦状態なのだろうが、かの地にいけばそれが当たり前で、日常の一部と化しているのかもしれないが、やはりこの辺の地域では平和なのだろう。震災で多くの人が死んだにも関わらず、現状ではそれがどうしたわけでもなく、いつもの日常が淡々と続き、それに関しては何も思わなくてもいいような成り行きになっていて、それは恐ろしいことだろうか。別にそんなふうに思わなくても済んでしまうところが恐ろしいのか。やはりその辺が今ひとつピンとこないようで、たぶん何かの惰性にはまっていて、津波のような具体的な実感もないまま、押し流されていってしまっているのかもしれず、その流れに乗って、否応なく行き着いた先でどうにかなってしまうのだろうが、そのどうにかなってしまった結果自体も気に留めず、そんなことに気づく余裕もなく、さらにどんどん流され、何も気づかずに老いて死んでしまうことだってありうるかもしれないが、まさかその途中で踏みとどまり、不意にこんなことではだめだと思い立ち、心機一転何か新たな生き方を模索するような機会が巡ってきてほしいのだろうか。そんな転機が実際に訪れたら、そのとき君はどうするのだろうか。もしかしたら勘違い的にいつもそれが今だと思っているのでもないだろうが、何となくそれも現状に嫌気がさした時に生じる幻想のたぐいだと思っているかもしれず、どうも今のところは真に受ける兆候は感じられない。


5月24日

 外は晴れている。心の中までは見通せない。樹木には緑色の葉が生い茂り、視界のすべてを覆っている。また道に迷ってしまったのだろうか。何かの低周波音を感知しているわけではない。カーナビが壊れてしまったらしい。あり得ないことだろうか。ふと見た写真の中の光景も晴れているようだ。何を見逃しているのか。時計の電池を入れ替える。さっきまでは止まっていた。見渡す限りの何かだ。わざとそんな光景の中にいるのだろう。だが心がそこから外れていて、何か違うことを思っているらしい。気持ちが何かを反射する。光ではない。その辺で一休みだ。言葉を記すのにも時間がかかる。どうも乗り気でないのだろう。気が触れる予兆かもしれない。怖いことを語りたがる。それではまずい。何とか正気に戻さなければならず、いつもの調子で冗談でもかまして、いい加減に言葉を並べるべきだ。だがそれができない時がある。今がそうらしい。よく見れば画面が何かを反射しているようで、雑音がそこから聞こえてくる。それもあり得ないことか。何とかなるには時間がかかるらしい。要するにこれでも努力しているつもりだった。それは的外れなのかもしれない。誰かの口調がそれを物語る。トタン屋根が錆びている。穴でも空いているのか。そこからネズミが飛び出したように見えたのは錯覚か。窮鼠猫を噛む。そんなことわざが思い出される。その場の状況とは無関係だ。前線が南に下がり、つかの間の晴れ間だ。別にそれほど気が触れているとは思えない。ただ作り話の中では暴風雨だったのだろうか。それも意味のないことか。

 そういえばここ数年は虫歯が痛まない。何かを思い出したようにそんなことを述べてみるが、まるでリアリティをまとえない。完全に現実を無視している。心がどこにあるのかわからないが、意識ならここにありそうで、ここから何かを考え、それが不自然に思われようと、何かの雑音が反射して、君を惑わそうとしているとも思えず、この世界の現状はこんな具合なのだろう。君をそこから隔てている夢物語も、たぶんこの世界から生じている幻想のたぐいだ。誰もが上を向いて歩いているわけでもないが、何に気づいていないかを知ろうとする者など誰もいない。人々は何をやっているのか。大半は仕事の最中か。別にそれが幻聴だなんて、いちいち気にしていたらきりがなく、それを気にする者は心身症のたぐいにかかっているのかもしれないが、それでも現実は現実だ。君はさらに言葉を並べて、虚構の何かに近づき、そこから誰かをののしろうとしているのでもなく、至って無感覚であり、そこで何も見出せないのは、そこには誰もいないからだ。今さらそんな嘘をついてどうするのか。ここに至って何を説明する気にもならない。たぶんそれはなぜでもなく、どうしてそうなったのでもない。それらは完全な虚構であり、それを記している誰かの存在ですら、その記された虚構の中に含まれ、何を記しているわけでもないのに、誰かがそれを記していることになっていて、そんな説明が嘘であることも承知しているはずだが、君はそんな説明で納得するはずがなく、どうせ何かのでまかせだろうと高をくくっているらしいが、君という言葉でさえ何かのでまかせから生じていることに納得するだろうか。別に誰を納得させたくてそんなことを述べているのでもないか。要するにその調子なのか。しかし何がそうなのか。

 何かの途中からそんな調子になってきたようで、それでは元の木阿弥になってしまうかもしれないが、やはりその調子で言葉を記さないとどうにもならず、何かをどうにかするためには必然的にそうなってしまうのだろうが、その辺が歯がゆいところか。そうまでして語る気にはなれないのが本音かもしれず、それでもそういう具合になってしまうのだから、そこはあきらめて、そういう言葉の並びが過ぎ去るのを待つしかないようだ。まさか前人未到の地に来ているわけでもないだろうが、いったん暑くなってからまた清々しいよう気になると、なぜか疲れがどっと出て、物事が一向に進まなくなり、しばらく横になるとそのまま横になりっぱなしで、立ち上がることが困難になるらしい。そして眠気とともに怠惰な気分になり、そこでやめてしまうのだろうか。そんなレベルでやめられたら幸せだ。実際にはそこからが果てしなく、目標とする地点などいきなり消え去り、何をどうしたらいいのかわからなくなるのはむろんのこと、何をどう語ってもどこへも行き着かなくなるのはどうしたことだ。外の日差しが強すぎて、まぶしすぎて何も見えなくなったわけでもないが、やはり盲目に近く、かつて見据えていた事物が見えなくなり、意識はどのような思考からも遠ざかり、何をどう考えたらいいのかわからなくなり、自分独自の考え方などにすがりつきたくはないが、気がついたらそういう思い込みの中でものを考えていて、要するに独りよがりなやり方に陥り、それまでに積み重ねてきた努力のすべてを台無しにしてしまうのか。だからそうならないようにすべきなのだろう。言うは易しで行うは難しということか。わかっているのならそうすればいいではないか。それができないから悩んでいるのか。そういうことではないような気もするのか。


5月23日

 なぜそんなやり方を押し通すのか。こだわる必要を感じない。しかしこだわっているのではないか。こだわりすぎて盲目的に追従しているようで、やがておかしくなってしまうのかもしれない。いったい何がどうなっているのだろうか。なぜ状況を把握しようとしないのか。誰かが邪魔をしているわけか。君のせいではない。誰もそんなことは望んでいない。ただ結果がそうなってしまっただけのことだ。ではもう先がないわけか。そんなことはその先へ行ってみないことにはわからないことか。だから先を急いでいるわけでもなく、何となく途中で立ち止まり、今までのことを振り返り、別に何を反省しているわけでもないが、とりとめのない思いにとらわれ、先に進まなくてもいいようにも思われ、もう苦労したくはないのかもしれないが、どうせこの先も苦労の連続なのだろうから、その辺は割り切って、半分あきらめ気味で、それでも理由もなく前進しようとしているようだ。そんなはずがないか。いつまでも笑っているばかりでは埒が明かない。君はそれでもかまわないのかもしれないが、どうしても気が済まない時はどうしたらいいのだろう。答えを探すのは気が進まず、問い続けるだけでもかまわないような気がしてきて、そんな怠惰な態度を改めることができず、そのまま惰性で問い続け、答えを導きだすことを怠り、結局どうにもならなくなり、そこから先はどうなってしまうのか。たぶんどうにもならず、どうにかなるきっかけもつかめず、いつまで待っても機会も訪れず、もうあきらめてしまった頃だと思われるが、それでも密かに闘志を燃やし、暗い顔して努力を続け、何らかの結果を導きだそうとしているのかもしれない。

 まさか冗談でそんなことを述べているのだろうか。確かに笑いが止まらなくなるが、それはわざとそうやっているのであって、それらの演技からは何を考えているのか伺い知れず、案外何も考えていないのかもしれないが、とにかく苦いコーヒーを飲みながら、何やら暗中模索の最中らしく、それも演技の一部をなしているのだろうが、実際のところはよくわからない。コーヒーを一気に飲み干し、さてこれから何をやろうかと思い、そんな思いとは裏腹にテレビをつけ、天気予報でも見ようとするが、まだ早いか。すでに時間が過ぎていたらしい。夜が更けるにつれて次第に雨音がうるさくなり、何でもないことは何でもないまま、何かを思ってみるが、思っていることが言葉にならず、別にそれで途方に暮れるわけもなく、淡々と無駄に言葉を費やして、何かを記しているつもりになり、どうも往生際が悪いようで、それで死んでしまうとも思えず、時折弱くなる雨脚に合わせて、くだらぬ台詞を繰り出すでもなく、読んでいるのは何かの脚本でもなく、ただの何かだったりするのだろうが、何のことやらわからないままで、それでもかまわないと思い続け、次いで何を思い続けていたのか忘れ、なんでもないような雰囲気の中で、再びそれでかまわないと思う。だから何を語っているのでもないことは明白であり、それが明白だからこそ、何かを語っているように見せかけ、画面に言葉が連なり、それを読んでいる者を惑わす。本当にそうだろうか。あるいはそうでもないと思いたいのか。またそこから話の進展を狙っているのか。だからどうとでも思い、何も感じないように語るわけか。果たしてそんなことが可能だろうか。

 心はそこにない。たぶんそれでいいのだ。何を見せびらかさなくてもわかるのではないか。わかる人にはわかってしまい、それらの薄っぺらいやり口が丸見えか。別にかまわないだろう。それはそれで仕方のないことだ。そんなふうにしか語れない現状があり、私はここにはいない。君はそう思っているはずだ。ではどこにいるのだろう。この世にはいないということか。では誰が死んでいるのか。確かにフィクションの中で私が死んでしまったはずだが、私とは誰なのか。白髪の老人なら数年前に現実の世界で死んだはずか。今では誰も覚えていないだろう。人は死んだら忘れ去られる運命なのだ。では私もすでに忘れ去られているのか。誰かがわざとそういう話に持っていきたいだけで、実際にはそんなことなどどうでもよく、この世に存在しない者のことなど思い出しても虚しいだけか。それは人によるだろう。中でも死者を利用して一儲け企んでいる輩にしてみれば、死者はなるべく有名人であってほしい。あるいは生前は無名であっても、死後に有名になったら、死んだ当人には関係なく、誰かがそれを利用できるだろうか。何かその人について語って、その人の偉業をたたえ、それについての書物でも著し、それがヒットしたら、二十世紀的な社会現象を巻き起こしたりするだろうか。どうもそんな幻想を抱く時代ではなさそうだ。そして誰もいなくなった時代なのだから、どうでもいいことに変わりなく、その辺で君は至って冷静になっているようで、たぶん何を望まなくてもかまわないのだろう。ありふれたことを思い、どうでもいいようなことにこだわり、それが日常の一部と化しているのだから、後は周りの風景を眺めていればいいわけか。


5月22日

 今日は正気に戻っているのだろうか。それともまだ何かが足りないか。足りない何かとは何か。ゲームか何かで気晴らしがしたいのか。何を思っているのかよくわからないようだ。わからないように振る舞っている。そういうことではないだろう。また無駄に言葉が記されている。気がついたらそういうことになっているわけで、だからそのままでいいのではないか。結局は何も語らずに語り終えてしまうのだろう。そして自己嫌悪に陥ってしまうわけか。たぶん冗談はそのくらいにしておいて、もう少し具体的な言説へと軌道修正したくなるが、それについて語っている限りは、こういう具合に自己言及的な語りの繰り返しから抜け出ることはできない。別にそれでかまわないではないか。他に何か語りたいことでもあるのだろうか。それは疑問を感じるようなことではなく、自らにそんなことを問いかけてどうするのか。君は語りたいように語ればいい。それができなければ語らなければよく、語りようがなければそこでおしまいか。それでも語っている場合はどうすればいいのか。君の知ったことではない。誰の知ったことでもないだろう。そこで語っているのは誰でもなく、ただ言葉が並んでいるだけか。たぶん君が語っているのだ。フィクションの中ではそういうことになっていて、そのフィクションがどこに記されているかは知らないが、誰かの空想の中では確実に君が語っているのかもしれない。空想なのだから確実ではないだろう。少なくともそういう話はどこにも記されていないようだ。ではそれらは何なのか。問われるようなことでもないというわけか。それでかまわないと思われ、それ以上は何とも言いようがなく、それで済んでしまう。

 本当にそれで済ませられるのか。虚構の中だからかまわないのではないか。それらの何が虚構なのだろうか。それらとは何か。そこに連ねられている言葉は現実に記されていて、そしてそれを実際に読み、それについて語っているのが君なのか。そういう話でもかまわないが、具体的にそこには何が記されているのか。またいつものように回り道の最中らしい。だがそんなに迂回してしまうと、どこへも行き着かないのではないか。そうなっても想定内だとうそぶくつもりか。実際は想定内も想定外もなく、ただ言葉を並べているだけではないのか。だがそれだけでは文章にならないだろう。そうであってもかまわないのかもしれず、何となく何を記しても、なぜか上の空で、あまり身が入らず、興味の外にそれらの文字列が続いているだけのような気がして、当初は何かを語ろうとしていたらしいのだが、言葉を記していくうちにどうでもよくなり、そのままどこか得体の知れぬ地帯へと流されていってしまうようだ。言葉を記している当人には何が流されているのかわからないのだが、それを端から眺めていると、思いとか印象ではなく、言葉を記している画面そのものがどうにかなっているように見え、もう用済みとなったゴミくずのように感じられ、それ以上いくら言葉を記しても、それを覆せなくなっているように思われ、だからもうだめなのではないかと思い、そのままやめてしまいそうになるが、まさかそれも誰かが記す作り話の中で述べていることなのか。そうだとしても、そんな嘘をついてでも続けようとしても、たぶん無駄なのだろう。心はすでにそこから離れ、それとは全く関係のないことを考えている。

 そういえば311とか言うロックバンドの311とは素数だったのか。むろん今年の3月11日に何があったかは周知の通りだが、10年前の9月11日に何が起こったかも周知の通りで、まさか911も素数なのだろうか。もしかして近い将来の何月11日に何かが起こり、まさか君がそれを予言しようとしているわけでもないだろうが、単なる数字遊びのたぐいで、人類が滅亡する日でも言い当てたらおもしろいか。iPodのパチスロゲームのやり過ぎで目がチカチカしてくる。それでだいぶ時間を浪費してしまったらしく、かなり眠たくなってきたようだ。そういえばノストラダムスの大予言には東日本大震災を予言する記述でも書かれていただろうか。誰かがこれからこじつけを駆使してそんな解釈を披露するかもしれない。ノストラダムスがだめならマヤの予言書でもいいか。あるいは有名な霊媒師とやらが、すでに地震の数年前に予言していたとか主張したりしてくるか。昼間ふとそんなことを思い、夜になってそんなことを思っていたことを思い出す。そういえばポルシェは911という車を作っていたはずだが、311という車をどこかのメーカーが作っていただろうか。ミクスチャー系の311を聴きながら、何やら話があっちこっちさまよいながらも、たぶんそれも冗談のたぐいなのだろうが、その程度の話でかまわないのか。何でもありなのだろうから、たがが外れて、でたらめなことを述べているのもいつものことだし、そんなふうになってしまうのも致し方のないことか。今の君にそれ以上の何を導きだせるというのか。くだらないと思えばくだらないことなのだろうが、たとえくだらなくても、とりあえずはそうやって何とか継続を達成して、それで一安心といきたいところだろうが、何となく呆れてくるような内容か。


5月21日

 ふとした拍子につまらない動作が出る。機械ではないのだから、もう少し気の利いた対応ができないものか。それは無理だ。無茶なことをやらないだけでも、その辺で気が利いていると見なさなければならないか。別に評価など後回しでかまわない。それ以前に何の話なのか定かでないのは毎度のこととしても、ただのでたらめかもしれないし、話のつじつまを無視して、いい加減に言葉を並べているだけかもしれない。だから何だというのだろう。すでに機械的な動作を超えて、何やらおかしな事態となっているのだろうか。何がそうなのかわからないが、そういう話なら他でやってもらいたいか。別に何がつまらないのではなく、話自体が意味不明だ。だからそれはいつものことだろう。いつもそんな調子ででたらめなことを語ろうとしているはずだ。今日もその口か。だったらもうあきらめて、今さら不平不満を口走らないでほしいか。君がやろうとしていることはそれとは違うのか。何かを錯綜させて、誰かの頭を混乱させるつもりか。そうならそうでもっとおもしろいことを語ってみたらどうか。もしそれが可能なら語っているところか。実際にそんなことを語っている間に時間が経ち、ゲームに興じているうちに目がチカチカしてきて、言葉を記すのを忘れ、まったくやる気を失い、周囲にくだらぬ気配が漂ってきて、睡眠時間が近づいてきたようだ。それらの何かはもうお役御免なのだろうか。もとからまともな役割を担っていたわけではない。ではただの時間稼ぎのために無駄死にする運命なのか。いつでも斬られ役というわけでもないだろう。

 君が何を読んでいるとも思えない。それは書物ではなく、何かの短い文章か。ブログか何かだろうか。誰かはあめをなめながら、暗闇を見つめ、想像力を働かせて、何とかつじつまの合う話を構成したいらしいが、今となっては無理なのか。何が無理なのだろうか。何も思いつかず、何も語れなくなり、眠たくなって寝てしまい、起きたら翌朝になっているだけか。君は想像力が貧困だ。そういうことを語りたいわけでもないのに語り、語った後から語ってしまったことを悔やみ、語っている内容が以前のままで、何の進歩も伴っていないことを嘆き、意識が絶望の淵に追いやられるまで、それを繰り返すつもりか。だからそれからどうしたのか。安易に言葉を並べてみたものの、何が何だかわからなくなり、そこから先は意味不明に終始させるつもりか。今はそうならないことを祈るとしよう。しかしなぜ祈るのか。祈る対象が間違っている。そう思うならどうすればいいのだろう。気が散っているのだ。それでどうすればいいのか。どうもせず、そのままでもかまわないのだろうか。今さら何をどう修正しても、まともな言説にはほど遠い。だからもうあきらめた方がいいのではないか。こうなった以上は腹をくくり、ここでの成り行き通りに、でたらめに終始するしかない。そう思うのはまだ早いか。まだこれから先が山あり谷ありなのだ。そこからわけのわからない紆余曲折を経て、やっとのことで語り終えるのだろうか。それはいつになるのか。どうやらまだ先が長いらしく、まだあきらめる段階ではないようだ。では今は何をする段階なのか。まさか自らが記した文章をひたすら読み返すはめに陥るのか。それはそれでよい心がけか。冗談に決まっている。また画面の前で笑っているようだ。

 投げやりな気持ちになるのは痛いほどよくわかるか。しかし今さらそんな嘘をつく必要があるのだろうか。要するに投げやりな気持ちになっているように装いたいのだろう。そうやって誰かの同情を誘いたいのか。そんな単純で理由では先が思いやられるか。適当に理由をねつ造するのはいいが、もっと工夫が欲しいところか。その場限りの冗談ばかりでは先細りだ。言葉の組み合わせは無限にあるのに、特定の言葉ばかり多用するのはいかがなものか。それだけではないと思いたいだけでは話にならず、それでも話を続けようとすれば、やはり同じ言葉の繰り返しとなってしまい、そこで行き詰まっているのは、もはや否定しようがない。だからそういう段階に至ったわけだ。感無量か。冗談ではないと思いたいが、他に言葉が出てこないようで、今はそんなことを語るしかないらしい。笑ってしまうが、もうお手上げのようだ。たぶんそこから先には何もなく、後は引き返すだけなのか。だが後戻りできないとしたら、どうすればいいのだろか。まさかそこにいつまでもとどまり続け、同じようなことを延々と語るわけか。今まさにそうしている最中なのかもしれず、さらにそんなことを延々と繰り返してしまうのかもしれないが、どこまでそれを繰り返すのかわからない。限界はとっくの昔に超えているはずだ。しかし仕事とは何なのか。なぜ人は同じようなことを延々と繰り返すのか。それが仕事なら仕方がないわけか。まったく飽きもせず、毎日毎日同じことの繰り返しの中に埋もれて、退屈にやられて発狂しないのだろうか。君はそれについてどう思っているのだろう。至る必要のないところに至ってしまい、どうしていいかわからず、途方に暮れる以前に、そんなことを語る必要はないのかもしれない。


5月20日

 わざと聞こえないふりをしているのかもしれないが、言葉が届いていないようだ。どんな言葉を投げかけるべきか悩んでいる。話の中身が見えてこない。また語るべき内容を見出せないのか。君はよくやっているはずだ。これまではそうだったが、これからもそうだろうか。それはわからないが、たぶんそういうことになるのだろう。たぶん苦労したと思っているのだろう。だから何だというわけでもないが、何でもなければ何でもないことなのだろうか。今さらそれはない。少なくとも何かあるはずで、すでに何らかの報いを受けているはずだ。ではなぜ今もなお平然としていられるのか。たぶん特異体質なのだろう。虚構の中ではそう思っている。実際の世界ではどうなのか。普通に暮らしているのだろう。何がどこでどうなったわけでもなく、ただの日々を送り、淡々と仕事をして、そのまま老いてゆく。それが誰かの人生なのだろうか。誰でもありはしない。今聴いている曲は月光だ。なぜサックスでそれをやっているのか。ジョシュア・レッドマンだからか。別に笑うタイミングではない。その証拠に何を見出そうとしているわけではなく、他に何もありはしないだろう。そういう雰囲気なのだから、それはそういうことだと思っていればいい。もらったiPodにも傷が目立ってきた。腕時計と同じで使っていれば傷だらけになる。だがそれをありがたがる必要もない。ただの機械だ。壊れたら修理するか新しいのを買えばいい。もうそこまでお迎えが来ているのだろか。その気になったらあの世行きか。たぶんそうならないようにしているのだろう。何とかそこで持ちこたえているつもりなのだが、本当のところはよくわからない。

 君が何を思っていても、すべては無に帰す運命だ。やがて何もなくなってしまうだろう。だからそこでは何も思わないのか。思っているのはそういうことではない。たぶんそこで思い違いをしているのではないか。まだゲームは始まったばかりだ。そこで降りるのは早すぎないか。何の話なのかわからないが、もう少し辛抱した方がいい。嘘でもかまわないから、そんなことを述べて、時間稼ぎでもしていれば、やがて自ずから理解に至るだろう。しかし何がわかるというのか。理解しきれていないことはいくらでもありそうだ。だから迷っているのではないか。だが理解していることだっていくらでもあり、それを利用しながら今に至ったはずだ。しかしやっとのことでたどり着いた先には何があったのか。何もありはしないか。少なくとも何かあったはずだ。何かあったからこんな状況になっているのだ。だが別に惨状というわけでもない。ただ普通に暮らしているだけのことだ。何もないと思っているのは思い違いで、そこには何もかもがあるから、それ以外の何かがないだけか。だから何かとは何なのか。それは君の知らない何かだ。君はいつまで経ってもそれを知り得ないのか。そうかもしれないし、そうではないかもしれない。それはその時になってみればわからないことか。わかろうと思えばわかることかもしれないが、それは思い違いかもしれない。では何なのか。何でもないでは済まない何かか。ますますわからなくなってきたようだ。言葉の配置がそのように仕向けているのだろう。そのとき君は冗談でそんなことを述べていたのではないか。

 わかっているなら、それを追求することはない。黙ってこれから移ろい行く言葉の並びを眺めていれば、それなりの理解に達するだろう。それが嘘か真か知らないが、今はそれが思い違いでないことを祈るとしよう。君にはそんなふうに語る権利でもあるのか。権利などありはせず、何となくそこでめまいがしているような気がするだけで、それが語る権利なら、それはでたらめと同義語となる。ならばそれはこの世界で起こっていることなのか。それを注意深く読み返してみなければならないが、少なくとも読者は独りよがりに読んでいて、それを記述している者の気持ちなど読み取るつもりはなさそうだ。では今まで君は何を読んできたのか。読み取ることのない読みとはいったいなんだろう。それは斜め読みのたぐいだろうか。意味をはき違えている、たぶんわざとそうしているのだろうが、そういう語り方が見え透いていないか。それはいつものことであり、それでも何かそれについて語っている気でいるのではないか。確かにそこには言葉が並んでいて、それが何らかの文章となっているように思え、それを読んでいる最中のような気がするが、それにしても今は何もない。確かに具体的には何もありはせず、そんなふうに語ること自体が墓穴を掘っている気がしてならないが、ならばどうしたらいいのだろう。さらに言葉を並べて語っているつもりになればいいのか。そうすれば、そのうち虚無や影が何か適当でいい加減なことを語りだすだろう。そしてそれは今語っているのとは違う何かに突き当たり、それで新たに語っているつもりになればいい。それでしばらくはごまかせるのではないか。だが別にごまかすつもりで語っているわけではない。ひねくれた心がそう思いたいだけで、実際はごまかしの連続となっているのではないか。ならばここではいったい何をごまかしているのか。君は何も語っていないのに、他の誰かが語っているふりをしているだけか。それでも君が語っていることになるのか。その辺が意味不明でわけがわからないが、そんなわけで誰かはただ闇雲に言葉を並べ、それで文章を構成しているつもりになっているようで、実際はそうではなく、記された文章とは関係なく、ただ適当に言葉を並べていると思いたいようだが、しかしそれではますます意味不明だろう。


5月19日

 そしてまた今日になった。なぜか話の途中から何かを語りそうな気配がする。だが取り立てて何もないだろう。君がそれに気づき、慌てて軌道修正を図る。違うような気がするが、そういうことでもいいのではないか。他人がどうしたのか。いきなり介入してくるわけがない。だがなぜ高をくくって油断してしまうのか。その辺が間抜けなところかもしれないが、誰かがそれを望んでいるのかもしれない。たぶんそういうことだ。なぜか知らないが、そういうことにしたいのか。しかし今回はまだ一向に話が見えてこない。何も起こらず終わってしまうのはいつものパターンかもしれないが。そうではないような気がして、言葉を記していくうちに、何かを語ってしまうような気もしているらしい。洗濯乾燥機の振動音以外は静かな時間帯だ。だからそれがうるさいのかもしれないが、気にしているのはそんなことではない。人と人がわかり合えるのは同じ勘違いを共有しているからか。幻想を信じる余裕があるのだろう。だが決まり事に拘束されているのも、共同幻想のなせる業か。そう思ってるのだから、そういうことにしておきたいのだろうか。その方が事がスムーズに運ぶから、それは許容限度の範囲内として我慢ができるというわけか。だが君はそこで何を我慢しているのだ。別に気が狂う一歩手前まで追い込まれているわけではない。たぶんそれも何かの思い違いだ。本当はそのまま通り過ぎてもかまわないのに、不意の気まぐれで立ち止まり、その辺で起こっている何らかの出来事を興味深く感じているようで、試しに誰かに声をかけ、それに介入しようとしているのか。やめた方がいいだろう。

 やめられなくなったら大やけどか。さあ結果がどうなるのか分からないが、どうせフィクションの中で行われているゲームだ。そこで君がどうなろうと、誰の知ったことでもありはしない。別に国家や世界に戦いを挑んでいるわけでもなく、戦う前に逃げてしまっているのだから、そこでは何も起こらず、何に関して語るつもりもなく、結局は傍観者気取りで、何やら現状に対して批判めいた言説を弄して、それでおしまいにしたいところか。言うは易し行うは難しか。その範囲内で思いついた言葉と戯れ、何か冗談のようなことを本気で論じてしまうところが、誰かの欠点であるのは承知しているが、そこからさらに踏み込んだ発言を控えているのは、それが賢い態度だと思っているところが浅はかで、要するに卑怯だと思われ、そんな限界を打ち破る勇気も器量もなく、その辺にとどまろうとして、せこく立ち回り、あわよくばそこから金銭的な見返りを期待して、まったく冗談のような生き方を貫こうとしているのだから、呆れ返る以前に哀れに思われ、奇特にもそういうことをやりたいのだから、やらせておけばいいだけで、後は見放される時がくるまで、せいぜい馬鹿げた踊りを滑稽に踊っていればいいのかもしれない。たぶん君は道化師にはなれないだろう。それで何を批判しているわけでもなく、何について語っているとも思えないが、何となくそこで行われている馬鹿げたゲームの雰囲気だけは伝えられたと思い込み、言葉と言葉をつなぎ合わせて文を作るのも一苦労だろうが、それで済んでしまうところが、安易で浅はかな傾向を示しているのだろう。たぶん現実はそれとはまったく異なると思われる。

 君は冗談の中で生きているのか。そう思えばそういうことになるかもしれないが、そう思わなければ、それとは違う認識に至るのか。しかし具体的には何を語っているのか。誰かが記している内容がまったく理解できなくなり、何となく途中でやめてしまいそうになっているのかもしれない。だからあのときやめた方がいいと忠告したのか。それは天啓か何かだろうか。少なくとも何かではない。では天啓なのだろうか。また笑っているようだ。どうせ虚構なのだろうから、何を真に受けることもないような気がして、それらをフィクションとして楽しめば、それでいいのではないかと思い、それはそれとして、そういうことにしておきたくなるが、それもそれでおかしなことかもしれず、それらの成り行きをもっと注意深く見守る必要がありそうだ。そうすれば何か画期的な認識を得るに至るのか。そう思い通りに行くとは思えないが、別に致死量の放射線を浴びているわけでもないのだから、その辺はもっといい加減に思っていてかまわないのではないか。大した出来事に巻き込まれているわけでもなく、必死になって取り組まなければならない作業でもない。そこで君は油断しまくりで、そこにつけ込まれて誰かのいいように振り回され、あげくの果てには用済みのぼろぞうきんのように捨てられる運命なのかもしれず、そんなはかない立場なのだから、せいぜいそこに広がる虚構の世界を楽しめばいいのであって、現時点では何も心配することはない。だから黙ってそれらの光景を眺めているだけではもったいないように思われ、やはりゲームに参加して、そこで何らかの人格をまとって、与えられたキャラクターを演じてみなければ、それらの世界を堪能したことにならないのではないか。だから今からでも遅くないから、それをやってみればいい。


5月18日

 無駄なことを記しつつも今日になり、状況は何も変わっていないようだ。何をそんなに急いでいるのか。それは君が語ろうとしていることではない。わかりきっているのはそういうことか。何をわかっているわけでもなく、わかっていないことさえわからない。そしてそんなふうに言葉を組み合わせることがこの場での停滞を招いているわけだ。冗談がきつすぎるだろうか。何が冗談なのかもわからない。冗談だと思われているそれらはすべてごまかしのたぐいになる。要するに何かをごまかすために言葉を駆使して、それによって偽りの前進を成し遂げようとしているのだ。またわからないことを語ろうとするのか。しかし前進とは何だろう。言葉が先へ連なることが前進なのか。だが内容が伴わなければ無内容の繰り返しだ。しかし内容とは何か。何か語るべき内容があるのだろうか。何も思いつかなければ空疎のままだ。しかし君はそんなことを述べて何を突き詰めようとしているのか。その必要がないと困るわけか。たぶん何の必要もありはしない。必要がないから無駄なことしか述べられないのだろう。必要もなく無駄に語ろうとしているから行き詰まるのはわかりきったことか。わかっていながらなぜ語ろうとするのか。ただ語りたいのだろう。理由もなく必要もなく語りたいのか。そんな嘘がどこで通用すると思っているのか。嘘だと思わなければいい。だがそれはひどい開き直りだ。笑っている場合ではないか。嘘だと思うなら、そのまま語り続ければいい。どうせ行き詰まり、やがて何も語れなくなるだろう。しかしこの現状は何なのか。

 冗談にもほどがあると述べて、ごまかすわけにはいかないのか。とりあえずその場を取り繕うことはできそうだ。耳を澄ませば鳥のさえずりが聞こえてきて、心を和ます。それも嘘のたぐいか。だが同じ嘘ならもっと具体的なことを述べたらどうか。それで問題が解決するとは思わない。だがそれの何が問題なのだろう。何が問題なのかわからない。たぶんそれも独り言と見なせばどうということはない。誰に何を伝えようとしているのでもなく、ただ独り言をつぶやき続け、延々とそれを繰り返し、もうだいぶそれにも飽きているのに、執拗につぶやき続け、つぶやいている当人は、つぶやけばつぶやくほどその中身が空っぽとなっていく。それがツイッターの本質か。そんなつぶやきが流行れば流行るほど、中身のない空疎な人間が大量発生することとなる。なるほどそういう冗談をかませば、ツイッターをやっている人たちに嫌われてしまうわけか。笑っている場合ではないだろう。何とかツイッターのフォローをしなければ、ツイッターをやっている虚無的な人たちから嫌われてしまうではないか。だから全然フォローになっていないようだ。君はひねくれているのか。それはもとからそうなのかもしれれないが、あながちそれが欠点とはなっていない面もありそうだ。何とかそうやって嘘でも冗談でもかまわないから、適当にいい加減に言葉をつなげて、文章を構成するに至り、自らのひねくれ体質も、時には有効に機能することもあるらしい。だがそれはぬか喜びというやつで、ひねくれているからいつも決まって貧乏くじを引いて、正直者が普通に享受している何らかの利益にありつけていないのではないか。

 何となく何もないから苦しくなり、苦し紛れに嘘をついたり冗談をかましたりして、一時的にその場の困難を切り抜けたつもりになっているようだが、実際には切り抜けたどころか、ますます言葉を連ねるのが困難になりつつあるように感じられ、気のせいかもしれないが、言葉が並んだ画面を見入る表情も、次第に険しくなってきているのではないか。だから笑っている場合ではないだろう。そんな嘘を平気で述べてしまうのだから、まったく懲りていないようだ。しかしその内容が空疎になればなるほど愉快な気分となり、画面の前で思わず笑ってしまうのはどうしたことか。ようするにそれは、何だそれと思ってしまうからなんだろうか。なぜそんな何でもない理由で笑ってしまえるのか。何となく真剣に向き合えず、そこで何かを受け流し、あるいはいなして、真正面から問題に取り組む姿勢とはならないようで、真顔で語る雰囲気を見出せず、たぶん何かのついでにそんなことを述べているに過ぎず、それが冗談体質を生み、真摯な態度からかけ離れ、そこから先はどうしようというのか。やはり行き当たりばったりで適当に言葉を連ね、たまに冗談や嘘でごまかし、後は自問自答の繰り返しか。たぶんそうなってしまうのであり、現にそれを延々と繰り返しているわけか。何とかしなければと思っているようだが、今のところは埒が明かず、たぶんこのペースで記述していること自体に無理があると思われるが、やはりそれでも何かを語ろうとしているのだから、それを可能な限りは続けざるを得ず、意義も理由も定かでないような作業を、さらに続けようとしているわけか。まったくご苦労なことだ。だから笑っている場合ではないだろう。


5月17日

 翌日はどうなっているのだろうか。君の思い通りにならないだけだ。だが君は何をどうしようとしているのでもなく、ただ機会が巡ってくるのを待っている。相変わらずご苦労なことだ。本気でそう思っているのか。いったい何が本気なのだろう。そうじゃないはずだ。そういう自問自答が退屈なのか。それをしなければその先に進めないと思うのも、たぶん間違っているのだろう。予定調和の自問自答はその場にとどまるために必要なのであり、そうやって延々と同じことを繰り返している。君はそれが不満で、あえて語らずに黙っている。そういうことでもないような気もするが、基本的には何も語れない状況となっているようだ。語る術を知らない。しかしこの低周波振動のようなうなり声は何なのか。耳を澄ませば微かに聞こえてくるようだが、何やら故障の兆候でもあるのだろうか。そうだとしてももう手遅れだ。そのまま機械を使うしかなく、壊れたら修理するしかない。何やら途中から違う話が混信してしまったようだが、ようはそういうことだ。人間の脳は修理できないらしいが、たと壊れても惰性で生きていけるのだろう。その気になったら延々とそれを繰り返していてもかまわない。たぶんその辺が限界なのだろう。そこからいくら語ってもかまわないが、どうせ同じ内容の繰り返しなのだから、そこから先は読まなくてもいいのではないか。だがそれでわかった気になるのは早合点もいいところか。ではまだそれらの無味乾燥した内容の中に魅力的な何かが隠されているのだろうか。それは冗談のたぐいではないか。君はそこで相変わらずできないことをやろうとしていて、挫折が目に見えているのにごり押しして、そうやって何か以前とは違う状況をもたらそうとしている。

 本当にそんなことをやろうと思っているのだろうか。まだ何か信じられないような顔をしているのかもしれないが、その先に何かあっと驚く仕掛けでも用意されているわけか。結果的に出てくるのはどんな出来事でも現象でもなく、要するにがっかりさせるような話か。それが思い違いに気づいた証しとでもなって、そこで落胆と絶望が入り交じった感慨をもよおし、乾いた笑いで強がってみせるが、焦りの色を隠せず、何か裏切られたような気になり、言葉が出てこなくなる。それが今の状況か。またずいぶんと話を込み入らせている。わざとそうして誰かを煙に巻くつもりなのだろうが、それらの嘘が見え透いていて、信じようとしても信じられず、どうやら話の全体がどうでもよくなってきたらしく、フィクションの体をなしていない印象を受ける。それでもまだその先に言葉を記していくつもりなのか。たぶん成り行き的にはそのようで、それらを把握できないまま、さらに語り続け、結局わけのわからぬことを述べていることになるわけか。そうだとしてもそれでかまわないのだろうか。たぶんそういう具合にしかならないはずで、気がつけばそんなことを述べている状況に変わりなく、そんな言葉の停滞と話の袋小路から抜け出せずに、そのまま終わってしまうような気配を感じているようだ。果たして結果はどうなることやら、その先に言葉を記して確かめてみればいいではないか。実際にそうやっているのだろう。要するに君ができる範囲内はたかが知れているのだ。それを超えて語るわけにはいかず、いくら語ってもその範囲内に収まり、そこからの飛躍をあきらめるしかなくなるわけか。それならそれでかまわないのだろうか。

 たぶんそういうことだろう。語る上でその語りを成り立たせているの前提条件を無視して、人はどこからでも勝手に語り、時には途中から強引に話をねじ曲げながらも、思い通りに語ろうとするわけだが、今やそれが行き詰まり、どうにもならなくなっているのだろうか。そうだとしても現状ではそれについて語っているはずだ。もはやそれを止めることができない。そういう流れを意志の力を持ってしても変えることができず、そのまま流され、そんなことを延々と語っている状況が続いているようだ。何だか笑ってしまうが、どうもそういうことについてはいくらでも語っていることができるようで、本当に言葉の記述が止まらなくなっている。いったいどうしたものか。自らの意志に反してそういうことを延々と語っていいものなのか。君は気が狂っているのだろか。そうだとしてもどうしようもなく語り続けている。まったく歯止めがかからず、このまま終わりまで行ってしまうようだ。できれば何とかしたいところだが、もはやどうにもならないらしく。そんなことを述べているうちにもさらに言葉が連なり、君を置き去りにしながら語りが進行してしまう。それは無駄で意味のない語りか。そう思ってそれを否定しても無駄か。それを否定していると述べているに過ぎず、それも言葉の連なりの一部として記されてしまうだけで、それらの語りには何の影響も及ぼさず、それどころかそれらが継続する上で欠かせない糧となり、それらを否定したり否認したり批判したり非難したりしながらも、そういう語りが延々と続いてしまうわけだ。だからもはや君が主体的に語っているのではなく、誰かによって記された言葉通りに君が語らされているのかもしれない。たぶん今やそれだけで文章が構成されてしまうのだ。


5月16日

 どうも思わぬところで躓いてしまったらしく、疲れて寝て起きたら翌朝になっていた。そんなわけで久々の一日遅れか。それでもこれから挽回を狙っているようで、呆れてわき上がってくる笑いをかみ殺しながらも、誰かは平然と言葉を記しているらしく、またどうせ空疎な無内容になってしまうのに、かまわず闇雲に記述を続けてしまうのか。結果など恐れる必要はない。もうすでにそんな結果が出ているではないか。何かを記す前からそれではだめなことがわかってしまう。だからもうすでに記しつつある言葉の連なりがそういう兆候を示しているわけで、それを改められるわけがなく、たぶんそのままの内容で終わってしまうのだろう。終わってしまってはまずいのか。果たしてそれを打ち破る気力が今の君に残っているだろうか。それがわからないが、翌日は時折雨が降ってくる。それは関係のないことか。君のやる気はその日の天候に左右されるのかもしれず、雨空を見上げながら、誰かはそんなことを思っているらしく、どうも今ひとつやる気が出ないようだ。辺りは静かだ。洗濯乾燥機の振動音ばかり響いてきて、とうに花が散って、緑の若葉が茂る桜の樹を眺めている誰かの心をかき乱し、そんなことに影響されてしまうのはおかしいかもしれないが、それで何となく憂鬱な気分になり、そこから先はどうなってしまったのか定かでない。何が定かでないのだろう。仕事の最中にそんなことを記している場合ではないのか。それも違うような気がして、たぶんもっとまともなことを語らなければならないのかもしれない。

 だがこの時代にこの時間帯にこの世界で何を語れというのか。そういう前提がおかしいのか。それは何の意味もありはしない前提か。意味があるないではなく、語りたいことを語ればいいのだろうが、それが思いつかなくても語ろうとするからこうなってしまい、あげくの果てにはどうなってしまったのか。別にあげくの果てに至ったわけでもなく、今はその途中の段階かもしれず、何かの途中経過を語っている最中かもしれない。しかし何かとは何なのか。どこがその途中経過なのだろう。たぶん時間的にそうなのではないか。君がそこで過ごしつつある時間が、君自身をどこかに追いつめ、執拗に何かを語るようにせき立て、何も語らないという選択肢を君から奪っているのではないか。君はそういう理不尽な要求をはねのけることができず、結果的に何もないのにそこから語ろうとして、挫折してしまうわけか。語っているつもりになっている限りは、挫折しているとはいえないのではないか。確かに語ることには挫折していないが、語らないことには挫折していて、語る必要ないことを必死で語っているつもりになり、その結果として神経をすり減らし、疲れ続け、心を消耗させているわけだ。しかし笑いながらそんなことを記している誰かは、何を思っているのか。たぶん虚無からの要求は執拗かつ際限がないのだろう。いくらでも言葉を求め続け、いつまでも語っていることを強いる。そんな要求にさらされ続け、もはや君は身も心もぼろぼろか。だから誰かは笑いながらそんなことを記し、冗談でそんなことを述べていると思っているのだろう。要するに君は嘘をついているのだ。本気ではないのが何よりの証拠か。

 なぜ本気になれないのか。本気とはどういう状況をいうのか。たぶんその辺が冗談なのかもしれず、その辺で何かが違っていて、その違っている何かをそのままにしながら、さらに語ろうとするから、さらにおかしくなってくるのか。そうだとしたら、どうすればそういう状況を改めることができるだろうか。そんなふうに考えるのもおかしいのかもしれない。そんなことを記しているうちに、もう夕方となってしまい、それ以上の模索を断念しなければならず、考えるのをやめて、そのままの状態で終わりまで記してしまうことになるのだろうか。そうだとしてもおかしいままで、何も改善されず、何の進歩もないような気がするが、それでかまわないのか。たぶんそういうことになる。そんな状況に追い立てられてここまでやってきたのだから、それはそのままそうなってしまうしかなく、それ以上の進展は望めないだろう。それでも語っているのであり、話になっているはずか。確かに誰かが語っているらしく、それを実際に記しているからそんな文章となり、読み返す気もなく書き散らし、書き散らしたそれはその場に放置されるだけで、省みられる機会など巡ってくるはずがなく、要するに君はそんなふうにして無駄で無意味な時を過ごし、そこで何かを浪費しているわけだ。そしてそれももはや残り少なくなってきたようで、ろうそくが溶けてなくなるように、君の人生も終わりが近いか。だからそれはありふれた物語の中で起こる現象だろう。例えば幸せに暮らしている誰かが突然末期がんになるとかいう話だ。そして余命数ヶ月と宣告されて、自らがこれまでにたどってきた人生を省みるとかなるはずだ。君にもそういう物語が必要なのか。それともそういう冗談にはつきあっていられないか。


5月15日

 その後何とかiPod touchに入っている昔のIDで買った733曲を削除せずに済んだようだ。iPodをMacBook Proにつないで、昔のIDの認証確認が出る以前に、認証が解除されていて、認証を再び有効にするか否かの確認が出ていて、ここで今のIDのパスワードを入力すれば、昔のIDの認証確認は出てこないので、それで済んでしまうらしい。なるほどね。これで一件落着なのか。

 これでいいとは思わないが、何が悪いわけでもなく、まだその先に何か出来事があるのかもしれず、それが起こることを願っているのだろう。別にそれが災難だとは思えない。いつもそればかりではないはずか。しかしこのところはそんな出来事ばかりではないのか。そうだとしても今回は違うと思う。そう思いたいだけかもしれない。だがそれで何を心配することもないだろう。君はそこで何を考えているのだろうか。くだらぬ事件に巻き込まれているとは思えず、気を取り直してまともなことを語ろうとしているのかもしれないが、それがいつものパターンに陥るのは目に見えているはずだ。要するに何も思い浮かばず、語ることが何もないのに語ろうとしているわけだ。そしてその結果が目に見えているとなるわけか。そうだとしても語ろうとしているようだ。フィクションの中ではきっとそうなのだろう。それは誰かが記している最中の虚構でさえなく、君の妄想の中にある話でしかなく、そこで何が語られているわけでもないのはわかりきったことか。それでも自力で何とかしようとして、どこか得体の知れぬ場所へと突入を開始している最中か。そういう語り方は何かその手のテレビの見過ぎが影響しているわけか。何を見すぎているわけでもないような気がするが、君が見ているつもりなのは現実の光景ではなく、文字が並ぶ偽りの平面だ。それは三次元の空間でさえないわけか。何だかまたでたらめをどこかに忍ばせていたらしく、それを急に引き出してきて、何となくつなぎ合わせて、それで何かを語っているように取り繕いたいのか。そういうやり方がわけがわからない。

 そんなわけでまたいつものように何かの迷宮に心が入り込み、また例によってそこから先はおかしな言葉の配列が続いてしまうわけか。いったいそんな言葉の連なりを誰が読むのか。たぶん君はそうではないと主張したいのだろう。確かにそうではなく、今に至り、ようやくまともなことを語ろうとしている。だがそれは本当だろうか。今からまともなことを語れば本当になり、語れなければ嘘になる。ならば嘘でもかまわないだろうか。それで気が済むならそうすればいい。

 依然としてなぜそうなってしまうのかわからない。それにしてももう時間がない。どうも何かを語るだけの時間が君には残されていないようだ。もとから時間などなかったのではないか。少なくとも限られていたはずで、その時間内に何かまともなことを語るのは無理と思われていたはずだ。まさかそれであきらめてしまったわけではあるまい。君は今何をあきらめているのか。語ることをあきらめているのだろうか。そうだとしたらどうだというのか。誰かはがっかりして、早めに言葉を記すのを切り上げ、さっさと就寝してしまうだろうか。そうだとしても何の不都合も感じない。

 そんなことを述べているうちにも夜が更けてきたようだ。時間の経過は君から何かを奪い去り、沈黙を強いて、何も語らせまいとするが、それに立ち向かう勇気と気力が今の君に残されていないことは明白で、君はだらしなくうなだれ、ただ音楽を聴いているだけか。別にもとから何に歯向かうつもりもなかったのだろう。誰かが驚いた顔を思い浮かべながらも、そこから何が出てくるはずもないと思い、何やら安心しきっているようだが、今日は何だか蒸し暑い。上着を脱いで、さらに文字が並ぶ画面を見入り、何かがおかしいと気づいたふりをして、そこに大きな謎が横たわっているような気になり、それがどういうことなのかわからないが、とりあえずは謎解きに取り組んでいるような誰かを演じつつも、それがフィクションの中で演じられていることにしたいらしいが、相変わらずリアリティをもたらせず、話になっていない話を記している自らが言葉を記すことについて、何の根拠も必然性もないことを悟り、そうするだけの理由を見出せず、それはいつものことだと知りながら、やはりそれに気づいて驚いたように装いたいのだろう。だがそれはどういうことなのか。そんなでたらめなことを記しながらも、何か焦れったくならないか。本当は語りたいことがあるのに、それを容易には語りださない自らを、君はどうしたいのだろう。まったくそれは冗談では済まない状況なのだろうか。


5月14日

 またこんなところまでやってきたのか。猫が道を歩いている。ところで君はいったい何に向かって話しかけているのだろう。もちろんそこには誰もいない。別に君の影が誰を捜しているわけでもなく、魂の行き着く先には何もなく、到達すべき地点が定まっているわけでもないだろう。ではなぜこんなところでさまよっているのか。それが虚構だからか。理由になっていないのは毎度のことだ。だからそこからどのように語ろうとしても無駄だ。そこに特別な何かがあるわけではなく、他に何もないわけでもない。身につけているそれは何かの装飾品であり、ただそれを眺めているだけでは何ももたらさず、そこに至った背景を考えてみなければならないのだろうが、相変わらず何のことやらわからず、何をどうしたらいいのかも皆目見当がつかない。ではまたあきらめてしまうのだろうか。冗談でそんなことを述べている。そして誰が何をあきらめたのかわからず、そこから不在の誰かを念頭に置いた議論を展開するわけでもなく、さらに冗談に拍車がかかっているだけのような気がして、もはやそれらの内容をまともに取り上げる気さえ起こらないか。ではそこから先はどうしたらいいのか。それを決めるのは誰なのだろうか。君に決まっているだろう。君とは誰なのか。そういう問い方がくだらないのか。わかっているなら問わなければいい。またどこかで何かが外れている。たがが外れて、形をなしていないのかもしれず、たぶん何も求めずにそこへ佇み、何かに流されているのを実感している。だからいくら言葉をこねくり回しても、まともな内容に行き着かず、頭が壊れたまま、空想の中の廃墟に引きこもり、そこで心を閉ざしているのだろう。そんな嘘をついていると楽しいか。君がそんな状況の到来を求めているとは思えない。

 ただ気が進まないのか。そんなことを語る必要はないのかもしれない。それはわかりきったことだ。だがそれでも無駄に言葉を記して文章を構成したいのだろう。そしてそれが無駄ではないことを証明したいか。どうやらそこにくだらぬ願望が介在しているらしく、そこに人としての欲望が生じているのかもしれないが、別にそれを振り払って修行僧のようになることもないだろう。前提は前提として、前提条件によって制約を受けながらも、そこから出発しなければならず、それは理想状態からはほど遠い環境であり、様々な困難や障害が待ち受けている中での出発となるわけだ。しかしそれがどうしたのだろうか。そんなことはわかりきっているわけか。だとしても語るには順序があり、そういうことを語らなければその次へ進めないのではないか。ではその次とは何か。何が君をそこまで導いてきたのか。だからそういうことではなく、君が自発的にここまでやってきたのだろう。ではこことはどこか。いったいどこまで話者はひねくれているのだろうか。だが問わなければ話が前に進まないのではないか。しかし前に進まずに循環しているようで、毎回毎回うんざりするような自問自答の果てにたどり着くのは、決まって出発点だ。君たちはそこで延々と同じような自問自答を繰り返していて、文章はそんなことの説明に終始しているだけで、話が前に進むどころか、出発点にとどまり続け、そこであれこれ実現性のないことを画策して、妄想を膨らましているだけで、具体的には何も語っていないのではないか。

 それは何かの中毒症状に似ている。嘘をつくならもっとマシな嘘をついたらどうか。それは具体的にどんな嘘なのだろうか。また何かを外そうとしているらしい。話の腰を折り、そこから勝手な逸脱を押し進めようとしているようだが、そううまく事が運ぶわけがなく、どうせ途中で行き詰まり、苦し紛れのいいわけだとか泣き言を差し挟むようになるしかなく、それがそういう文章となって、君を戸惑わせ、何かをあきらめさせ、虚無的な何かを呼び込み、その何かによって辺り一面が満たされ、そうなったら絶望でもしたらいいのだろうか。たぶんそれは冗談のたぐいだろう。その証拠に内心ほくそ笑み、してやったりとまでは思わないにしても、そんな予定調和の結果に満足して、後はその場を立ち去り、この世界から不在となればしめたものか。しかし意味がわからない。不在とはどのような状態をいうのか。いったい何をもって不在となるのか。そしてなぜ不在でなければならないのか。君がこの世界の中に存在していては何が困るのか。その辺が理解に苦しむところで、文章の中での不在という言葉の意味と用法が果たして正しいのかどうかよくわからず、どうしても意味不明ででたらめなことを述べているような気になり、それがごく真っ当な解釈で正しい認識のように思われ、だからいつも冗談として片づけてしまうのかもしれず、要するに自らが述べようとしていることに自信が持てず、そんなことを述べている自らを自らが信用しきれていないのだろうが、果たして信じていいのだろうか。しかし本気でそんなことを述べているのだろうか。もしかしたらそれも誰かが構成しようとしている虚構の一部を構成するエピソードのひとつかもしれない。だがそうだとしてもそれはどういうことなのか。やはりそれはちんぷんかんぷんな話か。


5月13日

 なぜ忘れてしまったのだろう。パスワードを忘れてしまったらしいが、それがどうかしたのか。たぶんどうかしてしまったのかもしれず、昔のパスワードが思い出せず、昔のIDで買っていた700曲超がiPodから削除されてしまった。出たての頃に買ったMacBookが、二度の修理を経てもなお使っていたのだが、動画再生やグーグルアースの時ファンが回りだしてうるさいのが嫌で、新たにMacBook Proを買って、バックアップから同期して、以前と同じ環境を移し替えたと思ったのに、こういう落とし穴があったとは、まったくうんざりしてしまう。それでまた昔のMacBookを立ち上げて、iPodをつないで、削除された700曲超をコピーし直したわけだが、せっかく買ったMacBook ProとiPodをつなぐ度に、昔のIDでiTunesから買った700曲超が削除されてしまうわけか。しかも昔のIDのメールアドレスはもうとっくに存在せず、自力でパスワードを思い出さない限り、どうにもならない。それにしてもくだらないトラブルに巻き込まれているような気がして、思い出せないことは思い出せず、別に700曲超が失われても、それほど大したことはなく、この際そんなことは無視して、さっさとその先へ進んでしまえばいいのだろうが、その先とは何か。どうしても気になるなら、それについて語ればいいのであって、実際こうして語っているわけだが、しかしそれはもういいのではないか。それはいつのことだったのか。今となっては思い出せない。だが遠い昔のことではないはずだ。何を思い出そうとしているわけでもなく、ただそんなことを記している。ひたすらそうなのだろうか。何がそうなのか。そこに何か思い違いのようなものがあり、君を惑わせているようだが、やはり大したことはなく、またいい加減な気持ちで冗談をかましているだけかもしれず、それ以外に何を語ろうとしているのでもなさそうだ。たぶん気が散って考えがまとまらないのだろう。そしてわからない。どうも何かが足りない。足りないのはパスワードか?まさかそれが原因で、ストレスで心筋梗塞になってしまったわけではないだろうに。

 まあいい。約3200曲が約2500曲に減るだけだ。しかし自分で買った曲が自分で聴けないのがしゃくに障るか。1曲150円だとすると、かける700で10万5千円か。だが持っているCDの半分も入れていないのだから、それを入れたら逆に5000曲ぐらいにはなるのではないか。しかしそれを入れているだけの根気と時間がないか。だからそんなことにこだわるのはよくない。結局インターネット経由の音楽配信なんてこの程度のことでしかないのだ。たわいないものか。画面の前で苦笑いの最中だろうか。それでも闇雲に前進しなければならない。また冗談でそんなことを述べているのだろうが、しかし前進した先には何が待ち受けているのか。さっきからまったく歩を前に進めていないような気がするが、いくら昔を振り返っても思い出せないものは思い出せず、たぶんそのうちにわかることを期待しているのかもしれず、とりあえずそれまではiTunes Storeで曲を買うのは控えようとは思うが、どうせまた何かのきっかけで買ってしまうのだろう。何となくその辺は意志薄弱で、困ったものだが、まさかこれからは昔のようにCDばかりを買う気にもなれないし、iTunes以外の他の音楽配信サービスでも探ってみようとも思っているが、この際Sonyのウォークマンでも買えば、案外問題が解決してしまったりするだろうか。試してみるのも一興か。だがたぶんiTunes Storeから買った曲はiPodでないと再生不可能なのだろう。アップルはあくまでも私企業であり、公共機関などでは決してなく、まずは自社の利益を最優先で確保しなければならず、その点ではソニーやグーグルなども変わりないか。

 しかしなぜこんなことを延々と語っているのだろうか。地震や津波や原発事故やリビアのカダフィ大佐やアルカイダのビンラディン氏などに関しては、もう語り飽きたのか。それほど語っていないような気もするが、まあ世間話的にはまだ話題になっているのかもしれず、それらは現在進行形で語られていて、それに関して利いた風なことを論じてみせるのが、一時的な流行現象となっているのかもしれず、たぶん君もすでに語っているはずだろうが、しかし眠い。さっきからあくびばかり出ている。どうやら限界が近づいているらしく、精神の集中が切れてきたようで、何となく投げやりなことを延々と述べている自らに気づき、このままではいけないと思いつつも、そういう語りも予定調和の自己言及に過ぎず、どう語ってももはやまともにならないようなので、この辺がやめる潮時なのだろうが、なぜかまだ粘っている現実があり、その現実をどう処理したらいいのか考えあぐねているようで、結局はどうすることもできずに、記された言葉に引きずられてどこかに至り、そこで無駄なことを記しているように思われ、後悔してしまうのかもしれないが、それでもあくびが止まらないのと同じように、記述と語りも止められず、それに伴って文章が長くなり、そんなことを記している誰かは、自らの頭がどうかしているように思われ、精神に異常を来すまではいかないとしても、何か尋常ではないことをやっているような気がするみたいで、次第に心が動揺して、画面に映り込んでいる顔の表情は、焦りの色を隠せなくなっているかもしれないが、今さらながらそんなのは知ったことでないか。いったい誰がそれを知り得るのか。少なくともそれは君でなく、将来にわたっても、誰も知り得ないようなことが暗示されているのではないか。


5月12日

 何か先入観にとらわれすぎているようだ。時が経つにつれて、何となくそんな気がしてきたのだろうが、それでよかったのか。よかったのだろう。とりあえず今はそう思っているはずだ。そういうことだ。たぶんそれでかまわないに違いない。そこまで何かを求めることもない。しかし何かとは何なのか。君はその何かの呼び名を求めていたのだろうか。具体的にそれは何と呼ばれているのか。それがわからないのだからどうしようもないが、それ以前にわかろうとしていないのではないか。いったい何をわかろうとしないのか。それがそれであることが認められないとでも思っているわけか。だからそれとは何なのか。結局はそうやって振り出しに戻ってしまい、それが何だかわからずじまいとなり、そのうちうやむやとなって、そんなことを問うこと自体がおかしく、それはそれでいいのではないと思い、その件はしばらくそのままとなり、またいつか蒸し返される時までは不問とされ、それについては忘れたふりをしなければならないのだろう。果たしてそれでいいのだろうか。いいに決まっているだろう。途中からいつもの自問自答に陥り、何となく際限なくそれが繰り返されてしまった感もあるが、それでもそれでよかったのだろう。そんなふうに語ってしまう以上は、そうなることを承知しておかなければならない。実際にそうなっているではないか。そしてどうにもならなくなっているようで、困った事態となり、自分で自分の後始末をつけるはめに陥り、要するに自爆テロ気味の行為に及んで、自滅してしまうわけか。それともそこからしぶとく生き残ってしまうのか。万が一にもそうなったところで、もう誰からも相手にされなくなっているはずか。だからその場を去り、またどこかで同じような愚行を繰り返してしまうわけか。

 誰かは間違っても君がそうならないことを願っているようで、それがフィクションの中であるにも関わらず、架空の時空で心配しているようだが、果たしてそれで心配していることになるかどうかは微妙で、わざとそんなでたらめなことを述べながらも、何かその辺に誰かの本音が転がっていないか探りを入れている最中かもしれず、誰がそうしているのか定かでないが、少なくとも君は何とも思っていないようで、何となくさらにでたらめが進行してしまう気配を感じつつも、そんな感じそのものもでたらめなような気がして、結局いったい何を述べているのかよくわからなくなり、その途中で言葉を記すのをためらっておけばよかったと後悔しているようだ。君もそう思っているのだろうか。あまりのでたらめさ加減にめまいがしてきて、誰かは言葉を記していて気が変になりそうか。それは自業自得だろうか。どうも何かの歯止めが利かなくなってきているようで、さらに言葉を記せば、さらなるでたらめが記されてしまい、要するに何が何だかわからなくなってしまうのだろうか。今でさえそうではないか。わざとそうしているのだろう。そんなわけでやはりいつものパターンにはまっているようで、どうにもこうにも話の内容にとりとめがなく、自問自答も際限なく繰り返され、焦燥感が募り、絶望に打ち拉がれ、なぜそんな状況でも笑っているのか理由がわからないが、ここ至ってなお何とかなると楽観しているわけでもないが、どうも誰かの本心はそのつもりらしく、そんな結果を見据えて、それに合わせた言葉を配置しているのかもしれず、それによってしたたかだと思わせたいのか、あるいは単なる強がりかわからないが、実際にそうなってしまっていることは確からしい。嘘でもいいからそう思い込みたいのか。

 誰かは呪われているのだろうか。誰かだけではなくこの世界全体が呪われているのかもしれず、それは何か被害妄想のような気がするが、たぶんその通りなのだろう。要するに不幸な境遇にある誰もがこの世界を呪っているわけか。そうだとしてもまだ呪い足りないような気もするが、逆にいくら呪ってみたところで、たぶん何がどうなるわけでもなく、それによって何かがどうにかなったところで、誰にとっても大したことはなく、それが大したことだと思ったところで、そんなことはすぐに忘れ去られ、また何事もなかったようになってしまうのだろう。実際に死んだ老人が今をどう思っているのでもなく、まだ生まれていない人が何を思うわけでもなく、今を生きる人々がどんなことを思っているのでもない。少なくともそれについては何とも思わず、現実に思っているのは些細な身の回りの出来事についてでしかない。そして思っているそこには何もないのだ。君たちは空疎な世界のただ中にさえ存在しておらず、自らがこの世界の中で生きていると思い込んでいるだけだ。しかしそんな嘘をつくと楽しくなってしまうのだろうか。なぜかわからないが、また慣れるのに時間がかかるのかもしれないが、慣れたところで自らの不在をどうすることもできはせず、どこかに漂っている群衆心理の一部として何かが構成されようとしている何かが、君に対しては何の作用も及ぼさないというのも、かなりの眉唾物的な認識かもしれないが、それでも君には関係ないとでも思いたいらしく、そんなことに関わり合いになるのはまっぴらごめんで、君が早々にその場を退散して、夜になればすぐに横なって眠ってしまい、どうせまた朝に目覚め、昨日のことなどきれいさっぱり忘れ、何食わぬ顔をして、ありふれた日常の中で暮らしているのだろう。


5月11日

 たぶんそれで合っている。そんなふうに語っているのだから、それは確かなことだ。そう思っているのなら、そうすればいい。たとえそんなはずがないと思う時が来ても、とりあえずはそのまま続けていればよく、いつかどうにかなるだろう。もちろんどうにもならなくなってもかまわないのであり、そうなったらなったで、そういうことだと思っていればいい。どこへ逃げることもなく、逃げていないと思っていても逃げている場合もあり、結果的にどこかへ逃げていようと、逃げた先でそう思っていればいい。それがそういう成り行きの果てに出た結論とはなりがたいが、途中で思いついたことには違いなく、それがまたどんな変化を被ろうとも、たとえ思い違いであろうとも、やはりその時点ではそう思っていればよく、後で変えようと思えばいくらでも変えられるようにしておけばいい。時折雨粒が落ちてくる曇り空の下で、誰かがそんなことを思い、それをどこかで記しているらしいが、君がそれを真に受けることもない。すべては誰かの思い込みで、そこには特有の偏見や身勝手な都合が入っていて、その辺は割り引いて考えなければならず、そんなことを考慮した上で、なお信じられるような内容なら、自らの責任で信じればいいだろう。たとえ信じたところで何がどうなるわけではなく、他に何を信じ込んでいようと、そこではただの日常が延々と続いてゆくに過ぎず、それらの現実の中ではそれ以外の要素が見当たらず、そこにどんな空想や妄想を介在させたところで、それはフィクションの範囲内に収まるような効果しかなく、それらの現実を変えるには至らないだろう。

 そんなわけで君は果てしなくそんなことを思い続け、自らが置かれた境遇を呪っている余裕もなく、ただ待つのみなので、何を期待することもできない。そしてこの先何が起ころうと、それが何かの到来であったり、どのような変化であったりすることはなさそうで、思いもよらぬ結末となることもない。ただ想定内で物事が予定調和の変遷を経て、そこに至り、結果にがっかりするでもなく、何となくため息をつく程度のことかもしれないが、そことは他のどこでもなく、君が現実にいるであろうそこだ。周りの環境がいくら変化して、そこで様々なことが起ころうとも、やはり君はそこで待っている。待つことに何の理由もなく、何の目的もないのに、ただひたすら待ち続け、たぶん自らが何を待っているのかわからなくなるほど待っているはずだ。実際にそうなってしまったら、もはや待っているとはいえなくなってしまい、たぶん意識の中では完全に忘れてしまっているはずだが、それでも待っている。君は終始待つ人なのか。そんなフィクションがどこに記されているというのか。どこにも記されていないとしても、結果的にはそういうことなのか。ならばその結果とは何なのか。いったい何がどうなった結果としてそういう状況が生じているのか。現時点でそんなことなどわかりようがなく、そうなってしまう結果は、今から遥か未来にもたらされるのか。それは今ももたらされている。現に君はここで何かを待っているのではないか。何を待っているのかわからないが、とにかく待ち続け、延々と待っているはずか。ではそれが何をもたらしているのだろうか。虚無と空疎と退屈か。そんなふうに物事を否定的に捉えるのはおかしいか。

 言葉を記している誰かにしてみれば、別に何がおかしくてもかまわないと思うだろう。効率だとか利害を優先すれば、倫理がなおざりになり、人心も社会も荒んでしまうかもしれないが、倫理を強調しすぎててきれいごとばかり主張していれば、利潤追求が制限され、競争心が抑制され、社会そのものが停滞してしまうか。それでもかまわないのか。たぶんそうなったらなったで、また別の道を探ればいいのだろうし、実際にはそうはならず、社会も人も常に公共の利益と自らの利益との狭間で揺れ動き、どちらか一方に振り切れてしまうようなことはなく、一方に持っていこうとすれば、作用反作用の法則で、後から必ず揺り戻しが起こり、見えざる神の手ではないだろうが、両者の間で均衡をとるように、振り子のごとく行ったり来たりしているのだろうか。そうだとしても、それでかまわないと思うと同時に、それが気に入らないと感じられてしまうのが人の常であり、そういう者が人や社会や国家や世界に対して戦いを挑んでくるわけだ。おそらくその中の一人がビンラディンなのだろう。彼自身はすでに抹殺されてしまったが、彼と同じような挑戦者はいくらでもいるし、これからも多数出現するだろう。君もいつまでも待っているばかりでは飽きてくるだろうから、うんざりしてどうにもこうにも気が済まなくなったら、伊達や酔狂で、あるいは本気でテロリストにでもなった方がいいのではないか。むろん冗談でそんなことを述べているのは承知しているが、しかしひたすら待つ身は退屈そうだ。たとえそれが虚構だろうと、もうそんなに待たなくてもいいのではないかと思ってしまう。まったく君は何でそんなに忍耐強く待っているのか。


5月10日

 違うんじゃないか。実際に闇の中で何を見ているわけでもない。たぶんそれが似合っているのだろう。空洞の中で虚ろに言葉が響く。それはどういうことなのか。さっきまでは疲れているのではなかったのか。確かに疲れているのだろうが、明日はもっと疲れる。なぜかその辺で何かが壊れているようだ。ならばもう限界か。限界を超えるわけにはいかないのか。そう思うなら超えてみればいい。山脈を越え、それが違うと思うが、そんな言葉遣いを好み、何が何だかわからなくなり、そう思い込みたいのだろう。それはいつもの言葉の並びだ。では何を焦っているのか。たぶんそういうことなのだ。焦りたくて焦っているように装い、それが芝居だと確信し、そんな嘘をついている自ら誇るわけでもなく、何が何だかわからないように見せかけ、それも嘘の類だと見なしたいのだろうし、そこで何をどう見なしたいとも思わず、そんな冗談のような言葉の並びに感動することもなく、やはりそれは違うと思う。確かに違うだろうが、一方でそんなことを記している現実もありそうで、何か瞬発力のようなものが、言葉を記す上で働いているのかもしれないが、何のことはなく、その代わりに何かをあきらめているだけで、そんなあきらめが後を引きずり、未来のどこかで悔やまれる時がやってくるのかもしれないが、それもそういう成り行きだとあきらめ、今はそんな流れに乗っかって、さらに言葉を記すとすれば、取り返しのつかぬ事態となるだろうか。それは誰にとってそうなのだろうか。誰にでも当てはまるような過ちか。そうならそれほど深刻な事態ではない。また後で取り返そうとするだろう。そうなると取り返しのつかぬ事態ではなくなり、些細なケアレスミスだと思えばいいわけか。

 しかしそんなことを述べてかまわないのか。何がかまわないわけではなく、それで済んでしまうような話となり、要するにどうでもいいことだと思ってしまって、また痛い目を見損ない、何となく狡いような気もするが、別にその代償があくびの連発だというわけでもないが、そういうことを述べていること自体が間違っているのだろう。そう思われて仕方がなく、本当のところが分からない原因となっているのかもしれず、結果的にそれを探る機会を逃しているわけか。そうだとしてもなおのこと好都合か。だからそれらが冗談の続きとして機能して、そんなことを述べ続け、それが心の余裕を生み、また新たに言葉の配置を模索する機会を得て、その結果として事がうまく運んで今日にいたり、何かうきうきしてくるようだが、その辺でフィクションの中に突入してしまったことに気づかず、後で重大な過ちに気づいた時にはもう遅く、すでにかなり行き過ぎていて、後戻りできなくなるくらい道に迷っているわけだ。確かにそうなってしまってからではもう遅いか。ならばそこでどうしたらいいのか。相変わらず誰が誰に問うているのではなく、要するに自問自答の中で答えを探し出そうとしているのだから、まともな答えが見つかるとは思えず、どうせその代わりに見当はずれなことを思いつき、それをどう扱っていいのかわからなくなり、何かの巡り合わせから得られた言葉が冗談のたぐいだと勘違いして、さらに何かを見失い、どうにもならなくなってしまうのだろうか。もうその時点では何かをどうにかしようとは思わないだろう。

 そして君は迷うことをあきらめ、その場に座り込み、疲労が蓄積していることを実感して、後はどうなってしまうのだろうか。だが作り話の中でいくら迷っても、そういう迷い方が嘘っぽく感じられ、疲れていなくても迷うことをやめてしまうのではないか。いったい君は何のために迷っているのか。そもそもそういう問い方がおかしいのか。何のためではなく、何かのためでもなく、ただ迷っているだけではないのか。そう思うならそれはそういうことになり、迷いがなくなり、機会を捉え、そこで最善を尽くすようになり、そうやって難局を切り抜ける術を身につけ、実際に今にいたり、君が不在から脱して実在を勝ち得て、この世界に存在していることを実感するわけか。だがそれではあまりにもうまく事が運びすぎているように思われ、何だか拍子抜けの感を否めないか。そうなったらなったで何か達成感のようなものが欲しいか。それは贅沢で、そこを脱することができただけでも儲けもので、それ以上は何を望むべくもなく、ただそんな成り行きの中でそうなったことを、天や神にでも感謝すべきか。でもそれではありふれた対応になってしまい、それも何だか拍子抜けにつながってしまうのではないか。もちろんそれでかまわない。誰かには安らぎと睡眠が必要で、やることをやったらさっさと休んで、次なる何かに備えて英気を養わなければならず、そんなことを述べていること自体が冗談かもしれないが、やはりそれでかまわず、そのままの状態を保たなければならないようで、いずれやってくる正念場を想定して、今から何か準備するようなことはせず、その時はその時だと思って、とにかく今は休んでいればいいだろう。


5月9日

 今日も暑かった。明日は涼しくなるだろう。疲れたようだ。疲れているのだろう。しかしここから言葉を記している。笑いながら音楽を聴き、その理由がわからないまま、何となくそんなことを語っているつもりだ。誰がそうしているわけではなく、君は無言だ。君ではないのだろう。部屋の中には誰もいない。君はそんなことを思っている。君がそう思っているのではない。そしてわけがわからないのではなく、当人は状況を把握しているつもりになり、誰が当人なのかわからないが、とにかく言葉を連ねて、その先に話を進め、何かを構成するとしよう。それは文章ではないのか。では誰がそれを記しているのか。そもそもそう問うこと自体が間違っているのだ。理由がわからないようだが、それでかまわないのだろうか。たぶんそうだ。そうでなければ話にならないか。もとから話になっていないのではないか。そう思うならそこでやめた方がいいのではないか。たぶん君はやめる理由を見出せないだろう。それは君が語っているのではないからか。たぶんそれでかまわないと思う。語っていなくてもかまわないのか。必ずしも語る必要はなく、誰かが言葉を連ねていればそれでいいのかもしれない。そんな現状の中でそんなことを述べているわけか。いったいどんなことを述べているというのか。だからそれはそんなことか。たぶん君には興味のないことかもしれない。そこで誰かが無駄で無意味なことを記している。それ以外に何があるというのか。それをこれから記そうとしているのだろう。

 面倒くさいか。語るのが面倒くさい。語れないからそんなことを述べている。それでも語ろうとしているのだろう。画面をよく覗き込めば、誰かが街中を歩いているようだ。君はこれからどこへ向かうつもりなのか。コーヒーをすすりながら画面を眺め、視線の先に何もないことに気づく。またそんなことを述べている。めまいがしてくる。しばらく横になるとしよう。無理に語ろうとするととりとめがなくなり、何を語っているのかわからなくなり、次いで何も語っていないような気にもなり、笑いが腹の底からこみ上げてくるが、そうなる原因や理由がわからない。街中を歩いていた誰かはその後どうなったのか。君が車で移動の最中にその誰かを見かけただけか。それは誰でもない誰かで、君が語ろうとしていることとは無関係なのではないか。確かに話にとりとめがない。気持ちが散漫なのかもしれないが、それでかまわない理由を見出せず、もっと何かまともに語った方がいいとも思うが、結果として出てきたのはこういう話だ。身を切るような冬の北風が恋しいほど蒸し暑いか。さっきまではそう思って冷房を利かせていたはずだが、何となくエアコンを切り、そうではないようなことを語ろうとしているらしい。だがすでに語っているこれは何なのか。何でもないのはいつもの決め言葉かもしれないが、そうならないような言葉のつながりを模索しているようで、それに成功するとは思えないが、それはそれでそういうことになるだろう。要するにそれはそういうこと以外の何かになる。それがこれか。

 君はまたそこから外れて、この世界に別の何かを見出そうとしているのか。少なくともそれは言葉ではない。言葉はすでに記されており、それを読み返しながらも、それをふまえてさらにその先に展開させるような話とはなりがたく、そういう乗り切り方がくだらなく思えてきて、それが深刻な危機だとは到底思えないように、何がどうなっても、それに対して批判を繰り返すような愚は避けたいが、その場に世界地図を広げて、どこかの異国へと思いを馳せても、何となく大した幻想も抱けない自らを肯定したくなり、世界のどこへ行っても、そこで人が暮らしており、生きるため、生きる糧を得るために精一杯働いていようと、あるいはどこかのスタジアムで行われている球技を眺めている人々が抱く不満が、もっともな理由を伴っていようと、君がそうした贅沢に同調できかねるとしても、心はそこから外れ、遠ざかるばかりとなり、ハーグローヴのトランペットを聴きながら、一時的に癒されたような気分になるが、やはりそんなことに何の意味もないように思われ、人々が興味を抱いている対象を馬鹿にしたくなるようだが、そんな嘘をつく理由も見当たらず、どこかの時代において社会の中で悪戦苦闘している詩人を哀れむこともなく、あるいは達観するような心境にはなれず、人が無意味で無駄な存在でいる限りは、そこから何かが生まれるのだろうし、逆に何も生まれなければ、それは得られる金銭と引き替えにして労働に縛られ、それによって満ち足りた余暇を目指していることの証拠とでもなるのだろうか。たぶん暇を持て余して世界中を旅する人ほど悲惨な人はいないか。たぶんそういう人は自らの盲目に気づかないのだ。


5月8日

 たぶんそういうことだ。なぜか今日は暑い。頭がクラクラするか。もう夏なのだろうか。まだこの先に梅雨があるだろう。でも夜になったらいつもと同じか。何が同じなのかわからないが、それもいつものことに違いない。いつもそうなのだ。何がわからなくても、そんなことは気にせず、その先に言葉が連なり、意識はわけもなくそこから遠ざかり、記されたそれは意味の通らない文章となってしまう。きっとわざとそうしているのだろう。運が悪かったのか。そういうことではない。理由など何もなく、またいくらでもあり、そこからさらに遠ざかる理由さえあるらしいが、それが明らかにされることはない。また冗談でそんなくだらぬことを述べているつもりなのか。君がそれを知ったところで、何がどうしたわけでもない。きっとそんなことには興味がないはずか。だが誰がそう思っているわけでもなく、その場の気まぐれで誰かが記していることに過ぎず、他に何を連想させることもない。別に想像力を働かせて、誰かの意図を推し量ってほしいとは思わないだろうし、実際に何の意図も思惑もなく、成り行きまかせでそんなことを述べているだけかもしれず、他の誰がそんな成り行きに困惑しているとも思えず、何かの範囲内で、そういう成り行きを受け入れてしまったのだろうから、今はそれに従うことしかできないはずか。それにしても何かはまってしまい、そこから逃れられなくなってしまうことほど恐ろしいことはないか。だが本当にそう思っているのだろうか。誰が何を思っていようと、そんなことなどおかまいなしに、何かを適当にいい加減に語っている現状があるのではないか。

 しかし何を説明してみても、それはそんなことを語っていることについての説明でしかなく、具体的に何がどうしたわけではなく、相変わらず何かの内側で延々と同じようなことの繰り返しが行われているに過ぎない。いったい君はいつなったらまともに語りだすのか。少なくとも今がそうではないようだ。そう思っているのなら、今度こそそれを裏切らなければならないだろうか。そのためには何か努力しなければならないわけか。たぶんそう述べている時点で本気ではないような気がする。その辺で君はまたしても期待を裏切り、いつものパターンを延々と繰り返し、そういう嫌な流れの中で、自足しきっているのかもしれず、そんな状況から抜け出せないと嘆きながらも、内心安堵しているに違いない。だが本当にそうなのだろうか。そう述べて何を蒸し返そうとしているのか。何が気がかりなことでもあるのだろうか。そうではなく、他に述べることがないから、盛んにそんなことを繰り返し述べているのではないか。そうだとしてもなお疑問が残るか。それはどんな疑問なのか。それがわからないのに疑問が残ると記してしまうのはおかしいか。だから言葉を記せば記すほど、内容がおかしくなっていってしまうのではないか。そうだとしてもなおのことを言葉を記して、その先に言葉を連ねていって、どうでもいいような文章を構成してしまうらしい。どうもそれは何らかの病の兆候を示しているような気もするが、そこから先に何が記されようと、何の驚きも感じないだろうことは想像がつく。要するにそれも冗談のたぐいなのだろう。

 誰がそこで謎の死を遂げたわけではない。テレビドラマの見過ぎだろうか。サスペンスやらミステリーやら、そこでは決まって誰かが謎の死を遂げ、それを探偵やら刑事やらが、死んだ原因やら理由やらを推理して、最後にはその予定調和の謎解きを得意になって披露するわけか。だが実際にはそれを演じている俳優が死んだふりをしているだけで、得意の謎解きも台本どおりで、わかっている人にとっては謎でも何でもなく、毎週飽くことなく放送される単なる粗製濫造の話か。ではそれを見ている視聴者たちも粗製濫造された一般市民なのか。そういうことを述べてはいけない。それも気晴らしにはちょうど良い話で、見せてはいけないものが映し出されることもなく、安心してわくわくドキドキを体験できるのだから、良心的な娯楽の一種なのだろう。別に君はそれの何を批判しようとしているわけでもなく、何も視聴者の期待を裏切るようなものを作れと言っているわけではないはずか。実際に君はそんなテレビドラマを見ているわけではなく、どう考えても、何かの上っ面を引っ掻くようなことを述べているだけで、毒にも薬にもならないことを語って、それを暇つぶしとして語っているはずだ。だからそんなことに興味があるわけではなく、何も知ったかぶりをして、何か鬼の首を取ったように語っているわけでもなく、ただその場の思いつきが偶然の巡り合わせで、誰かによって記されているだけか。まさかそれを君が語っているように見せかけたいのか。それではまったく冗談にもほどがあるだろうか。しかしそれらの何が冗談なのか。わかっているくせにあえて問うてみせるところが冗談なのか。たとえそうであったとしても、それがどうしたわけでもなく、文章がそんなふうに語ってしまうのだから、それはそれで仕方のないことだ。


5月7日

 何がどうなったのかはっきりしないが、またもやそんなところから外れてしまう。感覚が摩耗している。でもそんな認識が正しいとは思わない。何とでもいえるだろう。テレビの野球中継を眺めているうちにもうこんな時間だ。別に興味があったわけではない。何を語ろうとも思わない。しかしもう夜だ。別に荒唐無稽な妄想の最中でもないのだろうが、何を抱いているわけでもなく、また違うことを考えていて、言葉がまとまらず、散漫なことしか記せなくなる。今はそれでいいのだろうか。いいわけがないかもしれないが、そんなことしか記せず、そのまま何かを語ろうとしてしまうのだろう。実際に語っているではないか。それは無駄で無意味なことか。いったい何について言及しているのか。だいぶ無駄に語っているようだ。何かに語らされているとも思えないが、そこに誰かの意志が介入してきて、何かが大幅に軌道修正を施される気配を感じ取り、実際にそれを目の当たりにして、冗談ではないと思ってしまう。それは単なるでたらめか。違うはずで、そうであってほしいと思っているが、本当はそうかもしれない。しかしそれが本当だとしても、相変わらずわけがわからない。何かとは何なのか。またそれだ。それはそれらの文章のことか。だがそこで何を卑下しているわけでもないだろう。ではちゃんと語っているはずか。それはおかしい。たぶん誰かにしてみれば、何も語っていないのと同じことのように思われるのだろうし、ただ言葉を記しているにすぎず、実際にそれだけだ。それだけでは不都合か。それが不快なのではないか。少なくとも愉快な状況ではない。ならばそこからどう巻き返すのか。君は嘘をついている。それは毎度のことだ。まったく飽きもせずそんなことばかり述べていて、何だか腹立たしくなる。それが嘘なのか。

 結果的にはそれも何かのごまかしとなり、さらに何かがおかしくなってしまうようだ。途中から言葉を記せなくなり、少し横になったら、起き上がることさえ困難となって、そのままあの世ゆきか。そんなことを述べながらも、実際に言葉を記しているではないか。ならばそれはどういうことなのか。どうもせず、結果的にそうなっているだけか。気が抜け、何となくそう思っている。だがまだその先を記さなければならず、途中であきらめるわけにはいかず、実際にそんな作業にのめり込んでいるようで、気を病んでるふりをしながらも、本当にそうではないかと疑い、何とかそこで踏みとどまり、あちら側の世界に足を踏み入れる手前で意識を取り戻し、ここに至り、こことはどこなのかなどと問うのをためらい、他に何を問うこともせずに、ひたすら言葉を記したいと思っているようだが、ままならず、やはり気落ちして、今日はこの辺でやめておこうと思い、そのまま寝入ってしまう。それは実際とは違うのではないか。まだ何とかしようとしているようだが、さらなる困難が待ち受けていて、気がつけばこうなっている。結果的には軌道修正など無理なのか。何が結果的なのか。そんな言葉ばかりが記され、結果が君を裏切り、それがまったくのでたらめだと思い知る。ではもう打つ手なしなのだろうか。何かが飽和状態になっていることは確かで、そこが限界なのだろうが、なぜかそれを打ち破るでもなく、そのままそういうことをやり続け、まるで気が触れたように、延々とそんなことを記しているわけか。そんな大げさなことではなく、深刻な精神状態だとは思えず、だから冗談でそんなことをやっていると思い込みたいのか。

 そんなわけでまたこうなってしまったようだが、笑ってしまうだろうか。呆れているのではないか。どちらも同時にそうなってしまい、何も語らずにそうなってしまったことを嘆くわけもなく、ただ黙ってそれらの光景を眺め続け、無言でその続きを模索しているようだ。奇声でも発して、唐突に暴れ回るべきなのか。今さら奇をてらうのは見え透いているか。やりもしないことを思い浮かべても虚しいだけか。それははじめからそうなのではないか。そう思うなら、その辺でやめるべきだろう。やった後からいくらいらついても、後の祭りだ。すでに抜け殻状態か。だがそれらに対する有効な対策など何もなく、いったん言葉を記し始めたら、必ず終わりまで記さなければならなくなり、記し終わってから虚脱状態になろうと、それが無駄骨に終わったと感じようと、もう遅い。すでにこんなところまで来てしまったのだから、事後処理を丁寧に行うつもりで、何とか一区切りつけなければならず、それができないうちは、まだ終わっていないのだ。何もかもが中途半端なまま、その場に放置され、後片付けもままならず、まったくやりくりがつかなくなってしまい、気持ちが焦るばかりで、何も手につかなくなってしまい、どうしていいかわからず、途方に暮れてしまうか。しかしそれがいつものパターンなのではないか。だから結果的にそうなっていることに安堵して、ざまあみろと思わないまでも、それに近い気分で、それができている自らの力量を信頼しているようで、何のことはなく、何とかなっていることを見届けながらも、それがごまかしであることを無視しながら、何かを不問しておいて、自らに嘘をついているように装い、何でもないことを何でもないように思い、それが何でもないことだと再認識して、要するにけりを付け、さっさとその場を立ち去りたくなっているようで、それが何のことなのかわからないが、そういうことだと思い込み、それで済まそうとしているのだろう。


5月6日

 誰かは澄ました顔をしてスーパーで買い物の最中らしい。まあ腹の内まではわからないが、何をやっても平然としていたことだけは確かだ。別にいいではないか。誰でもスーパーに買い物ぐらい行くだろう。現実の世界ではそうだが、フィクションの中ではどうなのか。ここで別にゲームをしているわけではない。何を連想させるにも至らず、それはそういうことで済んでしまい、後は誰かの心がけ次第か。どうせ懲りずにまた同じようなことを繰り返すのだろう。だがそれで何を予想しているわけでもなく、何となくそういう気配を感じさせるだけで、特定の誰について述べているわけでもない。誰かは誰かのままであり、フィクションの中ではどのような感情も持ち合わせておらず、それが苦し紛れのいいわけだとしても、現実の世界では容易に言い逃れできないような成り行きとなっていて、そのためこの先に過酷な運命が待ち受けていようと、それは誰のせいでもなく、ただそういう成り行きの中で暮らしているわけだから、自らに訪れる運命を受け入れざるを得ないのだ。それは何も深刻な状況になるとも思われず、端から眺めている限りにおいて、要するに喜劇的な悲劇であり、おめでたいことなのかもしれない。だが依然として特定の誰を馬鹿にしているのではなく、何となくそういう人がどこかにいるらしいことを感じているわけだ。そしてその辺で何を語っているのかわからなくなり、そこから先は相変わらずの意味のない言葉の連なりに終始してしまうような気がしてくるが、たぶんそれでいいのだろう。

 たぶん何もなく、何を気にしているわけでもない。たとえ画面から見つめられても、目をそらすだけか。要するに面倒くさいのか。そうかもしれないが、何となくやる気になっているようだ。さらに言葉を記してしまうつもりらしく、語り得ないことを語ろうとしていることは確かで、内容など関係ないのだろう。ただおかしいだけか。頭がおかしいのだろうか。それは誰の頭でもなく、文の中で頭という言葉の位置がおかしいのではないか。それはおかしな言い草か。しかし君はその時のことを覚えているのか。別に何を言い放ったわけでもないし、誰と誰が言い争いをしていたわけでもない。話になっていないだけか。別にネアンデルタール人に話しかけているわけでもないだろう。それは何かの冗談なのか。イスマエルという曲を聴いているはずだった。それは久しぶりのアブドゥーラ・イブラヒムなのか。あるいは誰かのカヴァーなのか。そんなふうに述べながらも、それがいつものごまかしだと気づく。また苦し紛れなのか。たぶんそうに違いないが、今はもう別の曲を聴いていて、そのとき何を語ろうとしていたのか忘れてしまったらしく、もしかしたら何も語ろうとはしていなかったのかもしれない。面倒くさいから、きっとそうに違いないと思うが、少し無責任か。だがそんなこととは無関係に、目の前では何かが揺れているらしい。めまいがしているのだろうか。そうだとしても、もうそんなことはどうでもいいか。君はネアンデルタール人が現代でも生きていてほしかったと思っているのか。そんなテレビ番組を見ていたおかげで、語るのが遅れてしまったわけか。それもどうでもいいことだろうが、今となってはもう手遅れのようだ。

 久しぶりのミンガスか。まだ音楽を聴いていたらしい。まさか今日中に言葉を記しきってしまうつもりか。だがこのまま無内容で押し通してかまわないのだろうか。それで何になるのだろう。何となくそんなことを思っているだけか。たぶんそのつもりらしく、またそんなことを述べながら、相変わらずの無内容を黙認しているようで、それらの文章は放置されたままになり、行くあてのない状況になる。本当にそう思っているのだろうか。何がそうなのかわからず、何もそうではないような感じもしているようで、本当のところはよくわからず、本当でないところでもわからない。そして就寝時間が近づいている。もうすぐ明日になり、寝て起きて朝から仕事をやっているわけか。そんな毎日なのだから、それをくぐり抜けなければ夜にはならず、夜になったところで何をやるわけでもなく、テレビでも見て音楽を聴き、その合間に言葉を記しているうちに、またとりとめのないことになり、眠くなって寝てしまい、また目が覚めれば朝になっているだけで、たぶんそれが日常のすべてなのかもしれず、誰かが記そうとしている虚構の中でもそんな案配なのだ。そんなわけですべてが偽りの中にあり、それらが偽りである理由が示されぬまま、何となくそう思っているだけでそうなってしまい、そういうことで、誰かが嘘をついているように思われ、何を悩んでいるのかわからないが、なぜかその辺から意味もなく調子に乗って、ちょっとひねくれ気味に語ろうとして、結果的には失敗してしまうのかもしれないが、それでへこたれる要素もないようで、軽い気持ちで冗談をかましながら、それが取り返しのつかぬ結果を招いているとも知らず、馬鹿げた言い回しを並べて、それがまともな内容を含んだ文章だと信じ込もうとしているようだが、気のせいか。


5月5日

 誰かはまたくだらないことを述べているのか。今日も今日で通常の一日だ。休日だろうと祝日だろうと関係なく、昼は仕事の最中らしい。どこかの話者は誰を馬鹿にしたいわけでもなく、何を語りたいわけでもない。ただ無目的気味に言葉を記しているだけか。そうだとしてもそれ特有の意図や思惑を持ち合わせているのだろう。それにしても世の中は広くて狭くて広い。ふとした拍子に誰かに巡り会うわけでもなく巡り会ったりする。何が言いたいのか。そこから先は誰かの想像にまかせるのか。無責任だろうか。何の話にもなりはせず、無駄に言葉が連なっていくだけのことか。別にそれでがっかりしなくてもいいだろう。面倒くさがりながらも、一応は言葉を記しているのだから、それでノルマを果たす気があるのかもしれず、それらの何がくだらぬ話であったとしても、そんなふうに語っている誰かにしてみれば、それはそれで許容できる範囲内で語っていることになるのかもしれない。馬鹿げたことか。何がそうなのか。反論する気にもならないか。どうも考えようとするといけないらしい。何がいけないのか。そこで人が危機に陥っているようだ。笑っている場合だろうか。フィクションでしかないのだから、笑っている場合なのだろう。そんなわけで笑いながらそれらの惨状を眺めている。ゲームとはそういうものだ。またどこかの誰かが利いた風なことを述べているようだ。そしてどこからともなく天の声が聞こえてきて、文学風の皮肉とともに、何だか洒落た風情を醸し出そうとしているようだが、思い違いも甚だしいか。いったいそれは何の話なのか。君は夢でも見ているのだろうか。たぶんでたらめで、そうではないと思っているはずだ。

 おそらくそれはごまかしのたぐいだろう。何も語る気がしないので、技法的にでたらめを駆使しながら、何か語っているように見せかけたいのだろう。しかしそんなごまかしが通用するとは思えない。では通用しないなら、何をどうしたらいいのだろうか。すぐに自己言及に逃げないで、何かもっと工夫を凝らすべきか。具体的に何をどうしたらいいのか。それがわかれば苦労はしないだろうが、矛盾しているようだが、とにかくわからないことを語ればいい。また誰かがおかしなことを述べて、それと読む者たちを煙に巻く気でいるようだが、いつまでもごまかしが通用するとは思えず、それでも何かを語りたければ、正攻法で語りたいことを語ればいいではないか。それができないからごまかしを駆使してしまうのだろうが、しかし一筋縄ではいかないのは毎度のことで、それに関して何をどう語ってもごまかしとなってしまうのはどうしたことか。どうしたわけでもなく、ただそんなことを語り、言葉を記しているだけではないのか。それもそうだが、気がつけば架空の対話が語られ、それもごまかしのたぐいのだろうが、何となくそれで済まそうとすること自体が、何だか何なのか、何でもないといえば何でもないのだろうが、要するにため息が出るような話の流れとなっているようだ。そのため息の理由がわからないか。呆れているのかもしれず、もうあきらめてしまったのかもしれない。だからそのままの流れを踏襲して、くだらぬことを延々と記してしまうはずか。誰かはそんな予想を覆そうとも思わず、さらに意固地になり、どうにもこうにもそこから出られなくなり、こうなったらそのままの姿勢を貫こうとしてしまうのか。

 しかし何か他にないものか。済んでしまえばどうということはなく、後はどうにかしようとしているだけで、退屈な事後処理をやりつつ、思いは遥か未来へと向かい、それが現実からの逃避であることも承知しつつも、何となく終わってしまったような気でいるらしく、気が抜け、隙だらけの姿をさらしているようにも見え、こんな時に何かの急襲を受けたらひとたまりもないと思い、まさか自分もビンラディンのように仕留められてしまうのかと心配し、それがフィクションの中であることも忘れ、どうしたらいいのかわからず、仕事が手につかなくなってしまうだろうか。だからそれも作り話の中での心境のはずだ。それはどういうことなのか。たぶんどういうことでもなく、話がまったく見えてこないようで、わざとそう語っているのはわかるが、何かそんなごまかし具合に呆れ、そんなことを続けていては、どこからも相手にされなくなってしまうのではないか。まあそんな危惧は杞憂で、はじめから相手にされていないのだから、もう何をどう語ってもかまわないのではないか。すでにわけのわからぬことを延々と語っているではないか。そして君は自らを制御できていないようで、言葉を記すがままに、それらの状況を放置し、整理整頓を怠り、それがどうしたと開き直り、心の中では延々と笑い続け、気が触れたふりをしているではないか。まさかそれもフィクションの中で述べていることなのか。わからないがそういうことだとすると、現実には何をどう思い、これからそれらの話をどこへ持っていこうとしているのか。たぶんそこでおしまいで、もうどこへも持っていけないだろう。そんなやり方で固定されてしまっていて、これからどんなに工夫を凝らそうとも、気がつけばそうなっているのではないか。それではくだらなすぎるか。そう思うなら、今からでも遅くないから、まともな方向へと舵を切るべきか。できればやっているところか。


5月4日

 やはり何かの限界を超えているようだ。何も語り尽くしていないのに、無駄に語りすぎている。そしてそれがどうしたわけでもないのに、何かの限界を感じている。しかし何かとは何なのか。それがわかれば何がどうなるのか。だがそんなことがわかってどうするのか。知り得ないことを知ってどうするのだろう。わかるわけがないし、知り得るわけもないのに、なぜ問うのだろう。まったくこの世界はどうなっているのか。疑念が尽きないようで、何らまともな答えを導きだせない状態が続いている。それは思い違いで、すでにまともな答えが出ていて、それに基づいて対処しているのに、それをやっている当人がそれに気づかないだけなのか。あるいはそうやっておいて、さらなる理解を得るために、絶えず問い続けているのか。仮にそうだとしても疑念を払拭しきれていないのだから、結果として何がどうなっているわけでもないような気がする。君はそれを理解し得ないのだ。しかしそれとは何なのか。そんな問いを投げかけて、何を長引かせようとしているのか。語りを長引かせようとしていることは間違いないが、それによって何がもたらされるのだろう。そういうやり方に精神が耐えられなくなっている。本当にそうだろうか。どれくらい耐えられるかが試されているのかもしれず、耐え抜いたとしても、何がどうなるわけでもないのだろうが、やはりそれが続いていってしまうのだろう。そしてそのような成り行きの中で、何かを感じ取っていて、それらの一部始終を理解した気になれるが、それでもとりとめがなく、何を語ろうとしているのかわからず、ただ延々と言葉が連なっているだけに思われ、途方に暮れてしまうか。

 何かを突き抜けようとしているわけでもなく、そこにとどまろうとしているわけでもない。では何なのか。それがわからないまま、何かからの影響を受けながら、それについて語ろうとするが、どうしても自己主張の範疇で語っているようで、たぶん地震にしても津波にしても原発事故にしても、単にそれらは語るための題材に過ぎず、事件や事故を利用して自らの考えを世に広めようとしているとしか思われず、語れば語るほど、自己顕示欲が表に出てきてしまうらしい。それはそれで仕方のないことなのか。それでもそこから何か得るものがあれば、それをありがたく受け取るしかないのだろうか。たぶんその辺が語る限界なのだろうが、別にそれでも語り続けなければならないとは思わないだろう。もし思ってしまうなら、語り続ければいいだろうし、そうやって延々とそれについて語っていれば、いつか何らかの理解に至り、それで何かをわかったつもりになれるだろうか。だがたとえわかったところで問うことをやめられない。絶えず問い続けていないと心配で仕方がないか。いったい何が心配なのか。理解していないことがバレたら恥ずかしいのか。また冗談でそんなことを述べてしまう。それ以前に何を理解したいのかがわからず、どのような理解に至れば満足できるのかもわからない。たぶん理解に至りたい目に問うているのではないのだろう。問い続けている姿勢が、自らに安心感をもたらしているのではないか。そこに至る過程を延々と体験し続けている状態を保ちたくて、いつまでも問い続け、問い続けているうちはその先があると思っている。ありもしない答えにたどり着くまでは、まだ自らの人生が終わっていないと思いたい。

 では自らを終わらせないために問い続けているわけか。そう思えば問い続けることが馬鹿らしくなってくるだろうか。そうなればしめたものか。何がしめたものなのだろうか。君がしめたと思うわけか。しかし君とは誰なのか。ただ文章読んでいる意識の持ち主にしか過ぎない存在が君という言葉で表されているわけか。そうだとしても何のことはない。逆にそうでなければ君は誰なのか。誰でもない誰かが君なら、何がどうしたわけでもないだろう。たぶんそこから先は蛇足で、これ以降は延々と余分な言葉が連なり、架空の君をうんざりさせてしまうだろう。そうなればしめたものか。いったい何がそうなのか。そんなことが繰り返されていることがそうなのか。そしてそれでかまわないのだろう。誰もが自己主張したいのだから、それはやらなければならないことであり、通過儀礼の一部として、理解に至るためには、自らの思いや考えを表に吐き出して、それが外部から何らかの評価を受けなければ、思い知ることができないわけだ。人は痛い目にあわなければわからず、痛い目にあってなおそれを受け流し続けると、次第に他の誰からも相手にされなくなり、何を言っても無駄だと悟られてしまうと、そこで終わってしまうわけか。しかし終わってしまっても、なおもその先で生き続けている人などいくらでもいるではないか。だからそんなことなど何でもないことなのか。確かに何でもないと思っていれば、いくらでも我を通すことができ、仮に通らなくても、通したつもりになっていれば、そんな思い込みのうちに生き続けることはできるが、いったいそういう人はどうなってしまうのだろうか。どうにもならないだろう。今回はあっさり答えが導きだされてしまったらしく、要するに人はどうにでもなるし、どうにもならない時もあるということだ。もちろんそんな答えでは君は納得できないだろうが。


5月3日

 雨が降っているようだ。すぐにやんでしまうのだろうか。やんでしまえばいい。そう述べる意図がわからないが、きっと何かの気まぐれでそんなことを述べているのだろう。意味も意図もありはしない。そこで何かを食い止めたいのか。ますますわからなくなり、まったくのでたらめに近づいているのではないか。まともに言説を構築しようとしていない。投げやりな気分になっているのだろうか。何がどうなっているのでもないらしい。現状ではそうだ。どこまでもくだらない気分となり、心の動揺を隠せなくなり、そんなふうに思っても、それは違うような気がするらしいが、それ以上考えるのが面倒くさくなり、どこまでもそんなことを語る気にはなれず、煮え切らないまま中途半端に終わらせる気になっている。わかりきっていることはいくらでもあり、その中のひとつが現状に対する認識の違いか。ではどんな認識を持ち合わせているというのか。それらの何が現状なのだろう。またそれか。辺りは静かだ。そこで何を思い出すわけでもなく、静けさに埋もれ、何もせずに黙り続け、それについて考えるふりをしている。それとは何だろうか。君はそこで何を考えているのだろうか。いくら問うても何も出てこないようで、あきらめてしまいそうになり、その先に言葉を連ねるのが困難となり、やはり途中でやめてしまいそうな気配か。言葉を分散させ、意図も意味も担わせずに、またでたらめなことを記そうとしているのか。それ自体がでたらめで、それでかまわないと思うなら、そんなふうになり、それ以上は何を求めても無駄になるだろうか。

 君は何かの途中でそんなことを考え、それが誰の考えにも当てはまらないように思われ、それでかまわないと思い、何かはっきりしない語り方の中に、考えていることとは違う何かを見出そうとして、偶然に記された言葉を追い求めているような気もしてきて、それを用いて何を語ろうとも思わないようだが、とりあえずでたらめに何かを記している気になれば、何となくそれが気晴らしのように感じられ、はっきりした目標を見出せないまま、何かを語り、何かを記し、それについて何か思っているような気になっていて、それでいいとは思わないが、そうなるより他ない成り行きの中で、そんな言葉の並びを受け入れ、それらを眺めながら、そこでまた何かを思っているのかもしれない。だがそれがどういうことなのかわからないままで、そんなことを繰り返しているうちに、以前も同じようなことを思い、同じようなことを記していたように思われ、もしかしたらそれは惰性か何かでやっているのではないかと思い当たり、自らが気づかないうちに、そうした繰り返しが生じてしまっていることを嘆くわけでもないだろうが、何となく不確かなことばかり述べているように思われ、やはりはっきりしたことは何もわからず、気づかないうちにそうなってしまう現状について、何かはっきりした原因のようなことやものを思いつかず、そのまま惰性で続けてしまうことを憂うわけでもないが、現実にそうなってしまっていることについては、いささかの迷いも差し挟まれることもなく、とにかくそれでかまわないと述べるしかなく、やけくそで開き直っているとも思えないが、そんなふうに語ってしまう現状をどうすることもできずにいる。

 だからそれがどうしたわけでもなく、それが良かったり悪かったりする以前の問題として、何が問題となっているとも思えず、何を問題としているのでもないことが、かえってそこでの問題を浮きだたせ、それについて考えなければならないと思うこともなく、そんなことより遥かに重要な問題を想起させるわけでもなく、やはりそこでは何が問題となっているわけでもないことを悟らせ、何の問題もないのに、何か問題があるかのごとき素振りを誘発するような何かについて考えさせるのか。それもあり得ないことだ。君は現状に対処しつつあり、それが問題なのではなく、他に何ももたらさず、何も思いつかないような状況の中で、やはり何かを考えようとして、その何かが何なのかわからないまま、それについて記そうとしてしまい、それらがあやふやではっきりせず、わかりにくいことばかり述べている現状が、君自身の不在を最大の原因として生じている事実を、やはり不在の君は理解し得ないだろう。そんなふうに思ってしまうこと自体がおかしいのだろうが、それがおかしいで済んでしまうと、ただおかしいと述べれば終わってしまうだろうか。だから終わりたければ勝手に終わってしまって結構なのではないか。他に何か不都合な点でもあるのだろうか。何が不都合といえばすべてが不都合であり、そう述べてしまうとすべてが単純化され、すべてが不都合だと述べれば済んでしまうのだろうが、そこで何が済んでしまうのかは、たぶん何かが済んでしまうのだろうとしか言いようがなく、それについてあれこれ思案して考えてみても、やはり何がどうなるわけでもなく、依然として君はそこにとどまり続け、誰が不在であるわけでもないことを証明してみせようとするのだろうが、どう説明すればそれが証明になるのかはわからないままだ。


5月2日

 何が果たされたわけでもないだろうが、ここから何を語るつもりだ。他の誰に問うているのでもない。何もかもが途中から始まり、君を惑わせ、何かの目くらましだと思わせている当のものが、たぶん重要なヒントを与えていることに気づかず、君には何のことやらわからないまま、そこを通り過ぎてしまう。いつものくだらぬ冗談だ。他の何に見とれているわけでもなく、他に語ることもない。だからつまらないのか。何がだからなのだろうか。そんなことを記している時点で何も思いついていないようで、さらに言葉を記そうとしていることに矛盾を感じているはずだが、無理なことはやめた方がいいか。それがどうしたわけでもなく、言葉を記したければ勝手に記せばいいだけだ。だからくだらぬことをこうして延々と記しているわけか。まだ延々と記している段階ではないだろう。どうせそのうち気が触れておかしくなってしまうのが関の山か。だがそう記しても誰が狂うわけでもなく、ただそう記しているに過ぎず、誰かの気まぐれと気分次第でそんなことを記しているだけだ。そう思い込みたいのだろう。何の理由があるわけでもないが、そう思っていると気がまぎれるのか。そんなはずがなく、たぶん無駄に言葉を連ねたい一心でそんなことを述べているはずか。とってつけたような理由で、俄には信じがたいが、別に信じさせようとしてそんなことを述べているわけではないのだろう。ではそれらは単なる気晴らしの一環でやっていることか。そんなふうに思ってもらって結構で、どう思ってもらっても結構で、同時に何が結構でもなく、そんなことを述べているうちに嫌になってくるか。

 無駄に言葉を記しているうちに、もうこんな時間か。どんな時間なのか。それが無駄な問いかけであることは百も承知で、なおも執拗に問いかけてしまうのがいつものパターンだろうが、たぶん気に入らないのはそういうことが繰り返される現状にあるのだろう。だったらやめればいいのだろうが、やめられないから、さらによりいっそう気に入らなくなり、険悪な雰囲気が漂いだすまでそれをやめようとしない。果たしてそんなことができるだろうか。まさか津波に乗ってサーフィンというわけにもいかないか。そういう発想がおかしいのか。もうすぐ夜明けという時間帯でもない。それは何の話なのか。続きのない話になりそうだ。いつも話の途中で終わってしまい、何を終わらせようとしていたのか定かでなくなり、それで終わりではなく、まだ話の途中であることを強調しようとするが、何が何だかわからず、もういいのではないかと思ってしまい、そこから先はどうでもよくなってしまうのだろう。本当にどうでもいい話になりそうで、意味も理由もないようなことを延々と述べている気がしてくる。そうなったらしめたものか。それがチャンスだと思うのは勘違いだろうか。そうだとしてもそうなる理由を知らず、どのような経緯でそうなってしまったのか理解できず、その辺が限界だと悟り、できればなかったことにしたい心境となるが、やはり何がそうなのかわからないままか。何がかまわないわけでもなく、眠たくなってきたようだ。もう理解するのをあきらめてしまったわけか。そんなわけで今君は不幸な状況のただ中にいるらしい。嘘か。

 どうやらまだ先がありそうだ。そんな予感がしているのか。ビンラディン氏も殺害されてしまったようだが、国際テロ組織に未来があるだろうか。一応は先がありそうだ。だがそんな話でもないだろう。ふざけているのか。まだふざけている段階ではない。では何だろう。君はさらにその先を見据えて言葉を繰り出さなければならない。何だかそれは嘘っぽい。要はタイミングなのだろう。またそんなあやふやことを主張しようとしている。何だかおかしい。そんなことを述べている場合ではないだろうに。でもいったんそうなってしまった成り行きを変えることはできず、それらの貧困な発想に従って話を進めなければならず、たとえ途中で飽きて、そこから先の展開を放棄しようとしても、話は話のままにとどまり、どうにもならないように思われても、そこでどうにかしてしまうのが、誰の腕の見せ所でもないが、何となくそこから何か適当なことを語りたくなり、まだ話足りないような気がして、それが嘘であることに気づかず、わざと気づかないふりをしているのかもしれないが、なぜそうなってしまうのかわからず、そうならざるを得ないとは思わないが、ともかくそこから先に言葉を連ね、何だか虚しい気分とともに、それらの行く末を想像してしまい、別に立ち直れなくなってもかまわないが、それを押し進め、結果的にくだらぬ内容になろうとなるまいと、自己満足に浸ってはならないと思いつつも、それらのどうにもできない成り行きを押しとどめられずに、今に至り、首を傾げながらも、それが照れ隠しにならない程度に、目を背け、視線をずらして何とかその場を取り繕ったつもりになり、それが冗談でないことを確かめようとする。


5月1日

 何が問題なのか。自意識は平穏な毎日の中で何を思うのか。君の自意識ではない。誰がそんなことを思っているのか。問うべきことではないだろう。それどころか何も問われていないのではないか。風が強い。もう夜になっている。それまでに君は何をやっていたのか。昼間は仕事をしていたはずだが、君のはずがない。そこには誰もいない。ではそれらの風景を眺めているのは誰なのか。だからそれは君ではない。言葉の連なりが君の存在を否定しているわけか。賽は投げられ、出た目が何かを暗示させるが、それで謎が深まるわけでもなく、単に何を語りたいのか理解できないだけか。それならそれでそういうことになるだろう。君が何を理解しているわけではなく、誰が何を理解したいわけでもない。理解している現状とはそれらの虚構そのものだ。だが誰がそれを理解しているのか。それを理解する上で、誰の手助けが必要とされているわけか。また話がおかしな成り行きをまねているようだ。本気ではないのだろう。たとえそう思っていようと、これから何かを経験しなければならないようだ。いったい何がどうなることが求められているのだろう。それがわかったら何がどうなるというのか。たぶんどこかへとずれていってしまうのだろう。それが誰の手にゆだねられているとも思えず、言葉を記している誰かは、本来の意味を伴った自由とは無縁の何かを感じ、それに逆らわずに、従うつもりもなく、何となく成り行きまかせなのは確からしいが、感じているのはそういう成り行きとは異なる何かに導かれている流れか。そんなわけで現状を受け入れようと思い、それが君の意志とは無関係であることを確認しながら、そんなことを語ろうとしている。しかしそれはどういうことなのか。

 いったい誰かは何を語りだそうとしているのだろう。おそらく語りつつある当人には皆目見当のつかぬことを語ろうとしているのだ。要するにこの感覚なのだろう。未経験の感覚か。それは嘘かもしれないが、虚構の中ではそういうことにしておいて、それが架空の虚構であることも承知しながら、本質的には何も語らずに語ろうとしているようで、たぶんわけがわからないのだろうが、いつものようにそれでかまわないと思い、何かに流されながらも、正気を保っているつもりで、そのままそんな言葉の連なりを記し、考えているようだ。すでに次ぎなる賽は振られ、さらに出た目の数だけ進み、それらの双六もどきを堪能しているふりをしているようで、実際には空想の中に住まう人格を退ける術を学ぼうとして、それが果たせたかどうかは、まだその先まで進んでみないことには何ともいえないが、何となくそれでいいと思っているようで、もう覚悟は決まっていて、何の迷いもなく、そのままのやり方を貫いてしまうのかもしれない。君にはそれが理解できないのだろうが、そんなことを思っているうちにも賽が振られ続け、誰かはさらにそこから遠ざかり、誰の視界からも消えようとしている。かつて目標としていた地点はすでに通り過ぎ、未開の荒野どころではなく、わけがわからないとしかいえないような成り行きの途上で、不意に振り返れば、そこには誰の影も見当たらず、何かの物語からも遠ざかりすぎているようで、語っているのは語り得ないことであり、そういうジャンルではないことを悟り、何だかわからないが、さらに言葉を連ねて、ますますわけがわからなくなりつつあるらしい。

 たぶんそれでいいのだ。いくら語っても、いくらでもない距離を踏破したことにもなりはせず、どうでもいいことをどうでもいいように語ろうと、それで何を語っていることにもならずとも、やはり何かを語るとはそういうことなのだ。君は待っていればいい。すでに架空の存在でしかないのだから、待つことが苦にならない程度に待っていればいいのかもしれず、待つのに飽きたら、待っている当の何かを置いてきぼりにしたらいい。それができたらの話だが、できなかったらどうしようか。おそらくどうもせず、そんな成り行きの中で別の何かを探し求め、たとえそれが見つからなくとも、探しているふりをしつつも、さらに違う何かを新たに探そうとするのだろう。そしてそれも見つからず、何となく探すのに飽きて、ただ周りの風景を眺めるにとどめ、それで何とか事なきを得たいのかもしれず、それが無難な対処の仕方だと思い込み、次いでそういう行為自体をなかったことにして、何食わぬ顔してありもしないことを語り続け、あたかもそれを語り尽くしたように振る舞いながら、次なる一手を模索しているのかもしれないが、何はともあれ、わけがわからないことに変わりなく、そんな状況から抜け出ていないのかもしれず、次第に誰かが苛立ちを隠しきれなくなって、思わず何かを口走ってしまうのかもしれないが、その何かが何なのか明らかにされないまま、それから話はどうなってしまうのか。見ての通り読んでの通りになるしかなく、それがここでの成り行きだったのだから、今ここで明らかになっているのはそういうことであり、何もないのに語れば、自ずからそうなってしまうのだろうが、そこには不在の君はそれを受け入れるしかないのか。他に誰が何を受け入れようと、状況など変わるはずがない。


4月30日

 取り立てて何を語ろうとしているわけでもないだろうが、ここからが正念場か。いつもここからが正念場だと思っていて、毎日が正念場続きでくたびれてしまったようで、夢の続きがいつまでも続くわけがなく、ならばそんなことはどうでもいいと思い、そんなことを繰り返しているうちに、何が正念場なのかわからなくなり、とりあえず今はくだらぬことを記しているようで、それが君を戸惑わせ、そんなこんなで今に至り、たぶんそれは偽りの今であり、過去の時間帯に属している今なのだ。そしてそれがどうしたわけではないが、苦し紛れに語る術はそんなところから生じているらしい。まったく馬鹿げているだろうか。そう思うなら、そんなふうには語らなければいい。できればそうしたいところか。だがそれができないから、そんなふうに語っている現状の中で、何やら語っている自らを正当化したいのかもしれない。それは無理というものだ。君はその無理にかこつけて、何かいいわけじみた言説を繰り出そうとするが、おそらく途中で行き詰まり、また来た道を戻り、それまでに語ってきたすべてを台無しにしてしまい、何やら一仕事終わったような気になっている。それは何かの錯覚から生じている現象だろうか。たぶん無駄に言葉を組み合わせ、それで何か文章を構成しているような気になっているのだろうが、君はそこで何か思い違いをしているのだろうか。またそんな問答の繰り返しだ。いつまで経ってもそれは変わらず、何の進歩ももたらし得ない。それでかまわないではないか。それがいつもの返答か。いったい何を強がっているのか。

 誰かは未来を見通すことができ、それが誰の未来なのかはっきりしないようだが、少なくとも誰かが思い描いた通りに、他の誰かがその悪さの終焉を迎えている。なぜそうなってしまうのか。やはり無理をしすぎてしまったのか。いったい誰がそうなってしまったのだろう。それは当人以外は誰もわからず、どこかでひっそりと自滅していってしまったらしく、何ともお粗末な結末となってしまったらしい。君はそれを眺めて何を思っているのだろう。何かの物語には違いない。皮肉を言いたくなるような成り行きに思えてくるが、ごり押し体質の当人とは裏腹に、極めて自然な成り行きの中で、至極当然の結果がもたらされ、その結果に周囲の誰もが納得するような、終わってみればたわいないことだったように思えてくる。当人にしてみればうまく立ち回っていたつもりが、単なる空回りを繰り返していただけで、他人の迷惑を顧みず、それをひたすらごり押ししていただけでは、道も開けてこないのは当たり前のことで、砦の外堀からひとつひとつ埋められて、最後はどうにもこうにもごり押しすらできなくなり、袋小路に追いつめられて、自ら白旗を掲げて降参してしまったわけか。周りを引っ掻き回すだけ引っ掻き回していた割には、あげくの果てがあっけなさ過ぎるような気もするが、どだい無理なことをごり押ししていたのだから、それも当然の結果だろうが、おそらく今までに他でそんなことを延々と繰り返したわけだから、何とも進歩がない話か。

 それで何となくお粗末様ということらしく、君は君でそんな話題からすぐに遠ざかろうとして、もう何を語ろうとしていたのか忘れ、他に何を思い出そうとしているのでもなく、そのまま無駄に言葉を記して、何かごまかしのような文章を構成しようとしているのかもしれないが、誰かはそんなことには関心がなく、自らの可能性を追求しようとしているのかもしれず、死ぬ数週間前に将来の抱負を語っていたどこかの哲学者のようにはいかないまでも、何とかまともな内容になるように努力しているつもりだろうが、時すでに遅しか。すでにここまで語ってしまい、毎度のことだが、後悔先に立たずで、そんな現状を前にしてあきらめムードが漂い、まさかそれでもかまわないと強がってみせるのも恥ずかしく思え、ならばどうしたものかと思案の最中かもしれないが、打開策は何も思いつかず、そんなこんなでそのままでいいのではないかと思い、終わりまでそれを押し通すつもりになって、何だかそれが君特有のごり押しのような気もしないではないが、この場合は誰かとは異なり、何を語っても誰に迷惑をかけるような気もしないので、そのまま自己言及を続け、それで今回は終わりとしたいのだろうが、何だかそれがうまくいっているような気がしないのは、どこかに羞恥心とか良心の呵責とかが引っかかっている証拠だろうか。まあそれも想定内だと高をくくり、何とかここまでこぎ着けたことでよしとしようか。まだまだおかしさとひねくれ具合が足りないか。だがそこまでやる必要を感じないことも確かで、ほどほどのところでとどめておくのが、まだわずかに残っている倫理観の欠片にかなっていると思うらしい。


4月29日

 それらの外れ具合はどこか奇妙な何かを感じさせる。またどこかでおかしくなっているのか。そこで誰かが何か不快なことを語っているかもしれないが、大目に見るとしよう。それでは意味がないか。では何がそうなのだろうか。また言葉の連なりはいつもの意味不明なパターンに陥る。だが抜け出すのも簡単なはずだ。気分は次第にそこから遠ざかり、そんなことはすぐに忘れ、後はどうすればいいのかわからないが、何となくその場に誰かが立ちすくんでいるようだ。何かの深淵を覗き込んでいるのだろうか。嘘だろう。では君はそこで何を求めているのか。遠い日に誰かが歌う。それはこの世に存在しないものなのか。だから嘘だと述べているではないか。いったいそれの何が嘘なのか。そういう問答に魅力はない。誰がそんなことを述べているわけでもなく、それはわかりきったことだろう。ではわざとわかりきったことを述べているのが不快なのか。その辺の解釈は誰かにまかせよう。たぶん解釈ではなく、心はもうそこから離れ、それとは別の何かを探している。たぶんそこは迷路ではない。路などどこにもありはせず、とげだらけの樹木が生えているだけか。それと路とは関係ないだろう。意識はどこを歩んでいるのでもなく、どこかの空を浮遊しているのでもない。意識とは別に何かを見ているだけのようだ。それはどういうことでもなく、音楽を聴くのと同じことか。違うに決まっているだろう。それらの迂回はわざとらしい。記された言葉の外れ方が不自然だ。何を狙っているのでもなく、どのような効果を期待しているのでもなさそうだ。くだらなく思えてくるだけか。ならばその辺でやめた方がいいのか。

 しかしまだ意識がある。何かがつっかえている。それで目が覚めたわけか。この世にやり残したことがあるらしい。それは違うか。大げさで嘘っぽい。まだそこまで語っていないではないか。本当は何も語ってない。だが何が本当なのかはっきりせず、本当に誰が語っているのかもわからなくなり、気がついたらこんな時間だ。もはや巻き返しは無理だろう。何もないのに語る必要があるのか。頭がクラクラするみたいだが、地震で大地が揺れているわけでもなく、気温の激しい変化に体ついてゆけないらしい。それでどうかしてしまったのか。なぜか離れようとしている。無理なのではないか。もうすぐ明日になりそうだ。だからそれが無理だと述べているのではないか。急いで言葉を記そうとするが、今さらそんなことを試みても遅い。君はそのとき何が無理なのか気づいていないようだ。内容が空疎だ。それはいつものことで、それ以外に何があるのかわからないのもいつものことになりそうで、要するにそうではないような気がしているだけで、何の裏付けも根拠もなく、ただそう思っているに過ぎないことを、いかに信じていようと、そこから先が出てこないのだから、何がつっかえているのかはわからないまま。それでもどうにかしなければならない。文章が長過ぎるのではないか。それでそこへ至るまでの間に無駄なことを述べすぎているわけか。だがそれがすべてであり、無駄がすべてなのだ。いったいそれ以外に何があるというのか。それはすでに述べている内容のはずだ。だからわからなくなり、いつも苦し紛れに語ろうとしてしまうわけだ。

 今はそれでかまわないと思うしかなく、やるべきことはやれることでしかなく、できる範囲内でできることをやり、それが空疎な結果に結びついていることも百も承知で、なおもそこから語ってしまうのもいつものことに違いなく、それ以外に何か問わなければならないとしたら、それはありふれた内容にならざるを得ず、それを語ってしまえば、他は何もなくなり、それだけのことを延々と語り、歳月の経過とともに、それだけ無駄な年月を積み重ねてここに至り、もはや後戻りができなくなっていることも承知せざるを得ず、本当にできることが限られてしまっている現状を認めざるを得ず、それが嘘であることもわかりすぎるぐらいわかっていて、何となくそれが嘘かもしれないと思いつつも、状況の変化が心境の変化をまねていることは確かなような気がしてくるが、それが自らの限界を露呈していることは断じて認められないか。認めているではないか。認めざるを得ないと述べている。わかっているならそういうことにしておけばいい。いつか気まぐれにそれを打ち破る時が来るかもしれず、何かの巡り合わせを期待しつつ、偶然にそうなってしまうと、何だか他力本願のような気がしてきて、それで気分を害しているのかもしれないが、今さら背に腹は代えられず、そうなったらなったで、そういう成り行きを歓迎しなければならない。また本当は別の成り行きを求めているのだろうが、それはフィクションの中で構成すればいいだけで、それとは裏腹な現実がどうあれ、うまく立ち回って何とかすればいいだけの話で、現実に何とかしようとしているみたいで、君はそんな成り行きにうまく乗っかって、それ状況をどうにかしようとして、実際にこうなってしまったのだろうか。それならそれでかまわないとはこういうことを言うらしい。


4月28日

 わからないがそういうことらしい。何がそうなのだろうか。だからそう問うのが間違っているというわけか。その結果がどうしたわけでもないが、何かの作用で不快に感じているようだ。感情の問題か。だがそうなってしまうのが当然の成り行きかもしれない。今日は無理だろうか。そうなってしまうのかもしれず、何となくあきらめ気味に言葉を記しながらも、そのまま終わってしまってはまずいような気がしてきて、何とか気を取り直し、そんな自己言及でもかまわないから、何かを継続させる気でいるらしい。馬鹿げているだろうか。何がそうなのだろう。そんなはずがないだろう。どうせこれから語る気でいるのだろうが、空疎なことしか語れないだろう。はじめからそれでは期待薄か。でも仕方がない。こんなふうに語るしかないのかもしれず、他に何も思いつかなければこのままだ。限界を感じないか。感じているからそういうことを語ってしまうのだろう。そして思っていることはそれとは無関係だ。何かと裏腹なのだろうか。何がそうなのかわからないが、とにかくそんなことを語りながら、何らかの内容に至るのを待つことにしよう。待つしかないのか。待っていてもだめならそのままだ。そうなったらそれでかまわないから、とりあえず今は待つしかないようで、画面をにらみながら、何かが降りてくるのを待っている段階かもしれない。そんな時の君は虚無的な雰囲気を漂わせ、それが嘘であり、君自身もこの世界で不在なのかもしれないが、たぶんそれも何かの思い違いなのだろう。

 では虚構の中の君はそこからどこへ向かったのか。黄泉の国へと旅立ったわけでもなく、どこかで行き倒れとなっている様子もなく、まだ画面の前に座っているだけかもしれない。そしてまた音楽を聴いているのか。そのとき何を考えていたのか忘れてしまったらしい。聴いているのはそんな曲か。意味がわからないことを述べているようだが、わざとそんなことを記して、何かをごまかしているかのように思われ、それが誰かの気を惹くためなのかわからないが、言葉を記している誰かはそれに気づかず、どこかを素通りして、また目的の定かでないことをやろうとする。それが気に入らないようだが、君にはどうすることもできず、そこからさらに語っているつもりになりたいらしい。本当は何を語っているのだろうか。君はだまされている。何かに惑わされ、それが作り話であることを信じ込まされている。たぶんそういう話ではないのだろう。その場の思いつきはあまりにも唐突におかしなことを語らせるが、その大概は話に至らず、その代わりに言葉の断片として分散して記され、それが別の何かを想像させ、苦し紛れに何かいい加減なことを述べようとしていること以外では、信じるに足る何かを見出せずにいるらしく、それがもっともらしい理由だとか意味だとかを形成する以前に、言葉を記している誰かが、それ以上の詮索を怠り、結果として意味不明で空疎なだけの文章が示されるにとどまる。君は本当にそう思っているのか。別に今さらまともなことを述べようとしているとは思えず、その代わりがこれだとするなら、これについて何かもっともらしい存在理由を示せるというのか。いったい誰がそれを示そうとしているのか。

 そんなわけで何を語っている気にもならずにここまでやってきたようで、なぜそうなってしまったのかはわかっているつもりだろうが、君はそれについては何も語らず、その代わりに大きなあくびをして、それからどうしたのか。誰かの魂が君から抜け出して、どこか遠くへ旅立ってしまったらおもしろいか。そんなあり得ないことを記すとおもしろいか。くだらぬことを述べているような気がして、何となく自己嫌悪に陥り、言葉を記すのが嫌になるか。それは何と裏腹なのか。もう深夜に近い。時間的には明日に近くなっている。それでこれか。本当に嫌になってしまったらしく、しばらく画面から目をそらし、横になってそのまま眠ってしまおうとするが、蛍光灯がやけにまぶしく、それも何かの経験なのだろうと思い、頭をかきながら、また思い出したように画面に向き合い、何やら言葉を記し始め、相変わらずなことを述べているつもりになるが、それでかまわないのか。誰に同意や同情を求めているとも思えず、ひたすら孤独で、どこまでも独りよがりなことを語り、それらの試みにはまったく進歩がないと思うが、実質的にはどうなのか。何とかさばけているようで、独り言のようなことはいくらでも述べることができ、それではだめだと思いつつも、苦しくなればそれに頼らざるを得ず、たとえ内容が空疎でつまらなくても、それなりに文章として記すことができるから、やはりそれをやって、やり終えて一安心がしたいらしく、現に今まさにそういう状況になりつつあり、嫌悪感を抱きつつも、それでかまわないと思い、君はそこから足早に退散する準備をしているようだ。だがそこを立ち去ってからどこへ行くのか。行くあてなどどこにもなさそうだ。


4月27日

 どうも何をやるのにも、やっている自分だけで自己完結してはいけないらしい。そこで終わってしまうのか。ただ枯れてしまうだけか。それでもかまわないのではないか。確かにかまわないが、後は消え去るのみだ。消え去ってもかまわないのではないか。たぶんそれでかまうかまわないの問題なら、それでかまわないのだろうが、たとえかまわなくても、その先がないと、やはりそこで終わってしまう。その先にやっていることを持続させたいのなら、それでかまわないでは済まないはずか。しかしなぜ続けなければならないのか。理由が見当たらなくても続ける必要があるのだろうか。たぶん理由の有る無しに関わらず、その先に続いてしまっているのなら、別にそれをやめる理由もないだろう。たとえやめる理由があったとしても、やめなくてもかまわない。理由の有る無しに関わらず、結果としてその先に続いてしまっているのなら、それを無理にやめる必要はないだろう。現状に対する認識としてはそれでかまわないのだろうか。しかしそれの何が現状なのか。そういうことを述べている現状があるではないか。以前誰かが、このままでは日本が危ない、と警告を発していたのかもしれないが、今がまさにその危ない状況なのだろう。地震と津波と原発事故で本当にヤバくなっている、とメディア上で誰かがぎゃーぎゃーわめいているのではないか。どうせ君はおもしろがっているのだろう。まったく真に受けていないような気もしてくる。そのヤバくなっている状況そのものがおもしろいわけか。実際ぎゃーぎゃーわめいている輩もおもしろがっているのではないか。国難だ何だのと、大げさに騒ぎ立てたいのだろうが、強がりとは関係なく、純粋に笑ってしまうか。ならば笑っていればいい。

 たぶん傍観者たちはがんばらなくてもいいのだ。関係のない者までがんばってしまえば疲れるだけか。実際に疲れているのではないか。君が見つめる先には曇り空があり、君が何とも思わないように仕向けているはずだ。何がそうさせるのだろうか。たぶんそれらは流行り廃りの問題なのだろう。目の前を過ぎ去る風景が君を引き止めておくわけがなく、放っておかれ、黙っていればどんどん時間が経過して、君も過ぎ去る風景の一部と化してしまう。結局は置いてきぼりなのか。ならば君は放置された屍のような存在か。そうならないようにするにはどうしたらいいのだろう。過ぎ去る風景の中に何かを見出すべきなのか。興味を惹かなければ過ぎ去るだけで、何はともあれおもしろがる対象を見出さなければならない。本気でそう思っているとも思えないが、気になることとか本当にないのだろうか。そんなことを思っているうちにも、どんどん風景が過ぎ去り、君はさらに遅れ、もはや追いつけなくなっている。途中でくたばってしまったのか。だがそれでは放置された死体ではないか。また冗談でそんなことを述べているのだろうか。別に何に負けてもかまわない。別がないからそれでかまわないのか。しかし何に負けているのか。それがわからないのだから、何に負けているわけでもないのかもしれず、別に置いてきぼりを食っているわけでもないし、そこからどうやって抜け出そうとしているわけでもなく、何も画策しないで、無理せずそのままの成り行きに従い、自然とここまでやってきたはずだ。

 現状で何ができるとも思えない。実際にやっていることは大したことではなく、淡々と何かをこなしていて、それで何とかなっていると思い、不快な気分でいるわけでもなく、ありのままの現状を受け入れているのかもしれない。君はそんな状況の中で暮らしているわけか。たぶんそのまま遠回りをしながら、何も見出せずに、何を思うこともなく、そこから遠ざかりつつも、その場にとどまっている気でいるのかもしれず、黙って過ぎ去る風景を眺めながらも、興味も抱けないようなそれらのなすがままになっているのだろう。だがやられまくりというわけでもなく、負け続けながらも、何か起死回生の大逆転を狙っているわけでもなく、その気もないのに、負け惜しみをほのめかしているとも思えない。たぶんそれでかまわないのだ。そんな嘘をつきながらも、間に合わせの何かを組み合わせ、何とか対処しているつもりになっているのかもしれない。実際にそうなのではないか。うまく立ち回って何を引き出しているわけでもないのに、目の前では言葉が連なり、勝手に文章が構成され、それが誰を満足させる内容ともなり得ないのに、何となくそれでかまわないように思われてしまい、君はそんなふうにしてさりげなくその場を取り繕っているわけだ。実際に何を述べているわけでもないのに、そうなってしまい、君はそんな現状を利用しながら、さらにその先へと進んでしまい、気がついたら、どこかへ到達してしまっているのだろう。その行き着いた先に何はあるわけでもないのだろうが、何もなくても、何ももたらされなくても、それでかまわないと思っている。自己満足とは無縁の何かが誰かの思いとなっているのだろう。


4月26日

 何か語るにあたってヒントがないものか。語るきっかけが欲しいのか。しかし何を目指しているのかはっきりしない。自分では気づいていないかもしれないが、最終的には何も語れなくなることを目指しているのではないか。誰がそれを目指しているのだろう。またそこから外れようとしている。気がついたらそういうことになっていて、何もない虚無に至るために語っているように思われてきて、それではまずいから何か他のことを語ろうとして、何とかその場の体裁を取り繕うとするが、何のためにそうしているのかわからなくなり、しばらくそんなことを考えるのをやめようとする。そういうことではないだろう。確かにそういうことではないのだろうが、何について述べているのかわからない。またそれか。強引に語りすぎているのだろうか。だから何を語っているというのか。さっきまではそんなことを語っていたはずだが、そんなこととはどんなことなのか。そういう問答が退屈だ。もうそんなことを問わなくても済むような語り方をした方がいい。冗談でそんなことを述べているようだ。そんなことを語るのはどこまでも愚かか。そうだとしたらきりのいいところでやめなければならない。本当にやめなければならないのだろうか。また虚空に向かって問いかけているようで、そんな案配でとりとめのないまま、何かごちゃごちゃした気分のまま、ついうとうととしてしまったようで、はっとして我にかえり、虚構の中で周囲を見渡し、自分がこの世界に存在することを確認して、何かそれとは別のことを考えようとしている。それはいつものごまかしだろうか。果たして今日は何をごまかそうと画策しているのか。

 それが嘘か真かどちらでもかまわないが、足の指を怪我したらしい。ただそれだけのことで何を語ろうというのか。何かを軽くいなして、そこで何をこなすわけでもなく、ただ眠たくなり、それが昨晩のことだったらしい。それはごまかしようのない事実か。そうだとしても至ってそれだけのことだ。語る必要すらないことか。ただの事実には違いない。そしてそれがどうしたわけでもないが、痛かっただけのことは確かか。そして迷っているはずだ。何を迷っているのかわからないが、確かに迷っている。なぜそんなことを述べているのだろう。迷いながらも決断しなければならず、何を決断したらいいのかわからないまま、やはり決断しなければならない。そんなことがあり得るだろうか。たぶんそういうことの繰り返しの中で迷っているのであり、迷わずに前進しなければならず、さらに前へ進むことを決断しなければならない。今の君はかなりおかしなことを述べているのだろうか。おかしくてもかまわないのか。何かを語るとはそういうことでしかない。だからそういう決めつけは良くないと思う。ではどう語ったらいいのか。そういう架空の問答が問題か。それしかないのだから、そうならざるを得ないのではないか。誰かにとってはそんなことなどどうでもいいことの範疇かもしれないが、やはり何かがおかしい。なぜそんなこと述べるために言葉が費やされるのか理解できない。別に理解を求めているわけでもなく、ただそれを読んで何とも思わなければそれでかまわないのではないか。しかし他に何をどう思ったらいいのだろう。

 しかし彼らは何を伝えようとしているのか。この世界には何があり、他に何がないのだろうか。君にはそれを見極める権利でもあるのか。わからないとしか言いようのないことを、わかったような気になり、ただ漠然とそれらの光景を眺めているだけで、何か特別なことを体験したつもりになれるだろうか。それを特別と思うことがありふれているのか。今の君に何か理解できるようなことがもたらされているのか。別にそれを知りたいわけでもないはずだ。ではなぜそれがわかるのか。突き詰めて考えてみても、何の理解にも至らない場合、それをどう解釈すべきなのか。わかっているのはそんなことではない。ではまた振り出しに戻ってしまう。何か堂々巡りのような気がしてくるが、さらに何を述べようとしているのだろう。この期に至って述べることなど何もないのが現状か。そうだとしても述べているわけで、何もなければ以前と同じようなことを述べていて、またそれでかまわないと思うしかなくなり、それ以外の選択肢を見失い、何を語ればいいのかわからなくなる。そうやって振り出しに戻ってきて、その出発点からまた迷路をたどって、目的地もゴール地点も確認できぬまま、相変わらず以前と同じようなことを述べているわけか。語っているのはそれだけのことだろうか。君は本当にそう思うわけか。だが他に誰がそう思っているとしても、そんなことは関係のないことであり、君自身がどう思うかが、ここでの最重要事項だとも思えず、では何だといえば、何でもないとしか答えられなくなり、何となくそこで意識が自己崩壊しているような気になる。もはややる気がないとかそういうことではなく、いかにして語るかが問題であり、たとえ空疎で無意味であろうと、何やら語っていないと気が済まないのだから、それは病と化しているのかもしれず、出口のない迷路の中で、ひたすら行ったり来たりしているだけのようだ。


4月25日

 しかしこの状況は何なのか。何かそわそわして、自らが浮き足立っていると思っていても、それを改めることはできず、何だか正気とは思えないようなことをやっているわけでもないが、何となくその辺で感覚がおかしくなっているのかもしれない。それの何が冗談なのか。人々は何をどうしたいのか。ただ漠然と幸せになれればいいとでも思っているのか。そうではないだろう。誰の願望を投影したわけでもないフィクションの中で、何となく謎解きごっこをしながら暇つぶしの最中らしく、終わりの手前でそれがうまくいって一件落着となればいいが、たぶんそれがまともなフィクションだと、謎は謎のまま終わり、何も解き明かされないまま、話が終わらないうちに、何かが雲散霧消しているただ中で、中途半端なまま中断を余儀なくされて、後はそれっきりということになりそうだ。君の好みとしてはそういう感じのフィクションを望んでいるわけか。またわけがわからない嘘をついているようだが、実際にそういうことになれば、未完成のままの方がいいことになりそうで、無理に話を終わらせない方がリアリティを醸し出せるわけか。だがそれでどうするのか。その先には何があるのだろうか。終わりなき彷徨でも神によって用意されているわけか。それも何だかありふれているような気がして、ただの日常でもかまわないのではないかと思い、今に至り、気がつけば普通の暮らしをしていて、大げさな事件や出来事に遭遇することもなく、そのまま平穏無事に一生を送ってしまうらしく、たぶんその死後は誰からも忘れられた存在となるのだろう。

 それが望まれているフィクションなのだろうか。たぶんそこに至っても、何の話にもなり得ないだろう。君は自身の考えを示さない。それは無理難題だろうか。いったい何がそうなのか。人それぞれで違うような気がするが、そこで誰が自らの望みを表明しているわけでもなく、何を望んでもそうはならないとあきらめているわけでもない。たぶん人はひたすら生きているのだ。それだけのことで、誰もがさすらう人になれるわけでもない。何を望んでもそこには届かない高みがあり、達し得ないからそれを夢想するのであり、だからといってつまらない夢を捨てる気にもなれず、やはりそこへ到達できるように努力してしまうのだろう。それが無駄で無意味な努力なのか。またそんな嘘をついて、冗談と無気力を混ぜ合わせて、何やらおかしなことを語ろうとするが、実際には何がどうなっているのか。君はその辺を明らかにできないようで、その代わりにそれとは無関係な言葉をつなぎ合わせ、何やら理性と感情がごちゃ混ぜになるようにしたいらしく、たぶんそれで何がどうなるわけでもないが、ごまかしのようでごまかしでないようなことを語りたいようだ。だがそんなことを語っている時点で、すでに何かをごまかしているはずだが、やはりそれでかまわないのだろう。語っているそばからそれを否定しても、始めからそうなのだから、それらはそういう語りだと思っていればよく、それを用いてこの世界の何を馬鹿にしているわけでもないし、他の誰を批判しているとも思えない。ただそういうことを述べているだけのことか。その辺もよくわからないが、要するに何を語りたいのかもよくわからないということらしい。

 そして言葉が尽き、誰かが沈黙を装いながらも、それとは無関係な言葉を繰り出し、どこかに何かの幻想を構成して、それについて語ろうとするが、それは地震の話であったり、原発事故の話であったりしても、おそらくフィクションの範囲内でそういうことを語っているのであり、話の内容は現実の何と関係があるわけでもなく、そんなことを語って君を戸惑わせようとする意図もない。原発の周辺住民とともにそこから遠く離れようとしているのは、誰の思いでも感慨でもなく、ただの空気か。それはどういうことなのか。人は遠ざかり、やがて忘れられてしまうだろう。そこに誰が住んでいたかなんてどうでもいいことになり、楽しい思い出も悲しい思い出も、誰かとは無関係に消え去るだけか。それでいいではないか。君は他に何を見出したのか。意識がこの世から遠く離れているわけではない。誰の意識も大地から離れられず、そこで何かにこだわり、何とか自分の存在をアピールしたくて、あの手この手で自己主張の最中かもしれないが、あるとき神がそれをご破算にしたくなり、何やら企んでいたらしく、その企画された一大イベントが、君たちの期待を一身に集めたそれだったのだろうが、それとは何か。地震と津波と原発事故を引き起こしたそれか。それが冗談だとは思えないが、本当は何だったのか。別にきつい冗談と皮肉を効果的に繰り出そうとしていたとも思えず、何やら人助けに結びつくようなきっかけを作ったとも思えない。まさか人が危機に瀕しないと人助けが劇的な効果を伴わないから、やるとすればなるべく大げさなことをやりたかったわけでもあるまいが、何となくその辺で誰かがしらけているようで、それに対する人々の対応も通り一遍の感を拭えず、まあ何が起こってもその程度のことでしかない、とあきらめかけているのかもしれない。しかしそれでかまわないのだろうか。


4月24日

 何やらさらなる何かが積み重なってしまったらしく、何かが重みを増して動きづらくなっている。だが何にこだわっているのでもない、と嘘をつきながらも、それらのこだわりから離れられず、また今日になってしまったらしい。それはおかしな成り行きだろうか。たぶん当たり前のことだ。昨日から今日へと時間が流れてきただけで、そして今がある。今の他に何があるというのか。何もないから今があるのか。何もないわけがない。語っているだけの時間があり、時間の無駄になっている。そんな問答自体が無駄なのか。何がそうさせるわけでもないが、とりあえずはそんなことを語っている。それが無駄なのだろう。そんなことはわかりきっているが、どうしても無駄に語らなければならないらしい。そうしないと何も出てこないのか。何かが出てきたら、それは嘘になるだろう。君は嘘っぽいのが嫌いか。現状では何もないのだから、そんな空疎なことを記している現実が、もっとも真実に近いのだろう。たぶんそれはフィクションではなく、今ここで出現している状況か。だがそれで我慢できるのか。何を我慢しているというのか。虚構を記した方がおもしろくなりそうだ。それもわかりきったことか。しかしやる気にならない。興味がわかないのだろうか。いったい何を語ればいいのか、それがわからない。近頃思うのはそればかりのようだ。そんなわけでもはや何も語れなくなってから久しい。それは嘘だろう。そんなつまらない嘘をつくくらいなら、その気になってまともなことを語った方がいいのではないか。それを語れないことがわかっているのに、なぜそんなことを述べてしまうのか。

 内容のない話の流れにしたがって述べるなら、すべては冗談で記していることだ。またそんな嘘をついて、何となくくだらない気分となり、さらに語る気をなくして、そのままやめてしまうのだろうか。それはさらなる嘘か。君が行き詰まっているのは痛いほどわかるが、やはりそんなことを語るべきではない。では何を語ったらいいのだろう。またそれだ。影は言葉の泥沼の中で何をやっているのか。そんな泥沼があるとは思えないが、それが何のたとえにもなっていないように思われ、言葉の組み合わせを間違っているのではないかとも感じられ、やはりそんなことを語るべきではないと強く思う。それでも語っているではないか。それはいつもの矛盾だ。だからもういいのではないか。何がいいのかわからないが、それでかまわないと述べる他ないらしい。だが今それを許してしまえば、さらに空疎な内容になってしまう。だからそれでかまわないのではないか。いつまでも奇をてらったことばかり述べるわけにはいかない。だがそれがないと続かないだろう。最近はそれだけだったのではなかったか。それで何を卑下することもない。やり方を修正する必要も感じないか。ならばまたいつものように奇をてらって、くだらぬことを語ってみたらいい。しかし今をそれを実行しているとは到底思えず、実際に語っている内容はといえば、相変わらずの語り方がどうのこうのとか、つまらなくてわかりやすい自己言及だけではないか。それで奇をてらっていることになるのだろうか。君にはわからず、誰かにとっても理解できないことか。それでも何かしら語っていることには違いないか。だがそれで満足しているわけでもないだろう。君にはそんな自問自答の対話もどきがもどかしく思えて仕方がないのか。そうだとしてもそれしかない。

 そしてまたここまでやってきた。もうすぐ明日になり、朝になればそんなことは忘れて、何事もなく仕事をしているはずか。それでも何かあるだろう。昨日の記憶を無理やり引き出して、反省でもするのか。あるとしても、あまり前向きなことではなさそうだ。だいいちそんなことを記している現状がおかしいのではないか。では第二は何なのか。そうではなく、それらのおかしな現状を何とかしなければ、まともに語れないと思いたいのか。それも違うと思う。では何がどう違うのか。ただ気まぐれにまかせてそんなことを問いかけているだけではないのか。だが何を問いただしても、それらは予定調和の自問自答で、自己言及以外は何も出てこない。だからそう述べてしまうことがそもそも間違っているのではないか。そこから話が広がらなくなり、発せられた言葉は絶えず自らに戻ってきてしまい、その重力圏外に出られずに、結果的に誰にも伝わらず、自己の内部だけで完結してしまう。それではだめなのか。だめだから間違っていると思われるのではないか。しかしそれでもそうやって言葉が連なっていて、それを可能としているのが、それらの自己完結的な記述なのだから、それを肯定すべきか。だがいったん認めたら歯止めが利かなくなり、今度はそればかりとなって、それを読み返す度に否応なく不快感がましてゆき、そんなことがきっかけで、記述をやめてしまいかねなくなるだろうか。そうなったら幸せになるのではないか。何も語らずに言葉を記す不幸から逃れることができるように思われ、現実にそうなったら喜んでしまうか。ならばそれでいいのではないか。よかったら早速実行に移してみよう。とても本気だとは思えないが、試しにやってみたらいい。たぶんそうやって自らを偽っているだけになるだろう。


4月23日

 外は荒れた天気だ。時折風雨が強まったりしている。だが気分がそれでどうなるわけでもなく、他の何がどうなるのも気分次第ではない。誰がそんなことを考えているわけではない。では何を考えているのか。そこには誰もいない。またそれか。そもそもそういう語り方がだめなのではないか。そんなのはわかりきったことか。わかっているからあえてそんなことを述べているのだろう。しかしなぜそうなってしまうのだろうか。とりあえずその辺がどうにもならず、下手な悪あがきを繰り返してどうにもならなくなり、結局そんなふうになってしまい、それを読み返すと、誰かはくだらない気分となるらしい。だからだめだと思い、憂鬱な気分となり、そこから先はどうなってしまうのか。とりあえずはその辺を何とかしなければならないが、そのままでは何をどう修正してもだめだろう。また内容のないことを延々と語ってしまったらしい。まったく何の役にも立たぬ言説を繰り返している。だが人は何か社会の役に立たなければだめなのだろうか。そういう思いが目指しているのは社会貢献というやつか。何を馬鹿にしたいわけでもなく、そう述べているそばから何かが崩れつつあり、抑制の利かぬことを述べてしまっているようだ。その辺が君の欠点か。誰の欠点でもなく、もちろん長所でもなく、ただそういう成り行きになってしまっているだけのようだ。ならばそこで何かがショートして、ヒステリックに何かを批判しなければ気が済まなくなるのか。そんなことではないだろう。また何かの冗談が記されている。そこで何かが働いているらしい。

 ところで今君は何を考えているのか。明日は晴れるそうだが、晴れても雨が降っても、そこから何か適当に話が展開するわけでもなく、さらにくだらないことを述べてしまいそうな気配を感じ、いったん休憩することにする。急須から注ぐのを忘れて濃くて苦くなったお茶をすすりながら、誰かは画面の前でしばらく考え込んでいるようだ。考えるに当たって大切にしなければならないと思われることは何もない。でも何かに留意する必要があるのではないか。なぜそれがわからないのか。考えていることにとりとめがない。そしてその場の雰囲気に飲まれている。そう思いたいのなら、そういうことにしておこう。また強がっているわけか。強がる理由がわからない。深呼吸すると気が遠くなり、そのままあの世に逝ってしまいそうか。冗談に逃げても無駄だ。何かつぎはぎだらけの気分でボロボロになってしまったわけではないが、そう述べている意味がわからないことも確からしい。失われた青がその後どうなったのか。そんな関係のない言葉を差し挟み、何とか正気を保とうと試みるが、その試みそのものが意味不明だ。まるで要領を得ず、ただ闇雲に言葉をつなぎ合わせているだけではないか。言葉を記す環境を変えたところで、それがどうなるわけでもなく、結局何も思いつかず、焦れば焦るほどさらに意味不明がひどくなるばかりか。それは何かのアレルギーだろうか。それはわかっている。この世界では常に人と人の間で闘争が繰り広げられていて、その結果として勝ったの負けたのと騒ぎ立てたいらしい。それを何とかしたいのか。別に何を改めようとしても、無理なことに変わりはなく、執拗に攻撃を加えたい輩が大勢いる。君は負け犬なのか。唐突に言い放ったその言葉は意味不明だ。

 できないことをやるものではない。それができないからといって、何を見失うわけでもなく、それによってどこから励まされているわけでもないらしく、そのことで取り立てて何か損害を被っているわけでもない。ではそこから何を考えたらいいのか。例えば災害か何かで、これまでに築き上げてきたすべてが君の前から消え去り、君自身もこの世から消え去ったとき、そのあとには何が残るのか。何も残らなければしめたものか。何を心配することもなく、安心してあの世に旅立てるだろうか。だが語ろうとしているのはそういう話ではないはずだ。それらの何をあげつらっても、何も酬われず、それが言葉から自由である証かもしれないが、別にがんじがらめに縛られ、身動きがとれなくなりそうになっているわけでもないので、少しは不自由なところもあった方がいいのではないか。そこから外れて、何か適当なことを考えるには、それが必要だ。虚無に近すぎても何も見えてこないし、遠すぎるとなおのこと見えないようなものを、君は見ようとしているのではないか。そしてまだそれが何だかわからない段階で、必死になってそれを見極めようとしているようで、執拗に観察しているのかもしれないが、未だ何も見えてこないのはどういうわけなのか。見ようとしている事物を実際に見ていないのでないか。では現実に見えているそれは何なのか。ただの画面だ。そこに映っているのは言葉の連なりで、君はそれを読み、何か感じようとしているのかも知れず、その感じようとしているのが、それなのだろうか。ならばそれとは何か。そうではないだろう。実際にはそんな作り話の中で語っていてはだめだと感じているはずか。それも違う。そうではないはずだ。しかしなぜ簡単にそれを否定してしまうのか。否定しているそれとは何なのか。


4月22日

 ごまかしが通じない。それがいいのではないか。何をごまかしているわけでもないだろう。だがごまかしている。言葉を記す行為そのものがごまかしか。では他に何をやったらいいのか。仕事をしているではないか。それだけか。それだけで何か不満があるのだろうか。不満だらけかもしれないが、その不満を解消するために努力するのが、誰かの生きる道か。あるいは人生そのものなのではないか。馬鹿げているだろうか。かなり馬鹿げている。誰かは今日もくだらないことにかかりきりだ。しかしなぜそれがくだらないことだと思うのか。思わない方法があったら教えてほしいか。たぶんそんなふうに感じていること自体が間違っているのだ。わかっているならそれを改めるべきか。改められないから現状があるのだろう。君はそんな現状の中で生きているはずだ。しかし君とは誰なのか。誰でもなければそんな現状も作り話の中で語られている現状に過ぎない。それでかまわないではないか。しかしそこには決定的な言葉がない。決め台詞というやつか。ならば神の視点から見下しながら、言い放ってみればいい。お前は破滅だ。笑っている場合ではないだろう。冗談のたぐいだと思っているのかもしれない。君はそれが冗談だとは思えないのか。誰に向かって、お前は破滅だ、と言い放っているわけでもないだろう。誰もそこにはいない。現状ではそうだ。だから飽きもせず下らぬことを記しているのだろう。そして虚無に敗れ去り、疲れて眠ってしまう。

 君はそこで何を理解しているのか。この世界のどこに神秘があるというのか。資本主義の神秘を解き明かすために、他の誰かが奮闘中のはずだが、未だ説得力のある答えに至っていないようだ。人には説明不可能なのが資本主義の主義たる所以か。そんなはずがないと思うなら、君もそれらの謎を解き明かすべきだ。いったいそれのどこが謎なのか。君はそれを知っている。知っているから避けているのだ。答えたくないのだろう。なぜ答えたくないのかといえば、それがわからないからだ。ならば知っていることにならないのではないか。だが知っていると言い張ることはできる。何だかその辺で何かが破綻しているらしく、それ以上の追求を阻む何かがあるらしい。たぶんはじめから説明の仕方が間違っているのだろう。だから答えに至らない。ならばそれをどう説明したらいいのだろう。それらの根本にある動物的な生存競争をやめるわけにはいかず、それをやっている限りは、富める者と貧しき者が出現してしまい、その強者である富める者から、弱者である貧しき者へ富を再分配するのが、国家の役割なのか。君はどうもそういうのが信じられないようで、もっと何か別の画期的な社会システムを構築できないものか、それを考えているわけか。まったくわけがわからない。なぜそんなものを考える必要があるのだろう。君はどちらかといえば従来のシステムの中でうまくやっている側に属しているはずで、それほど致命的な貧困にも遭遇せずに生きてきたはずだ。ならば君には必要のないことを考えるのがおかしいわけか。しかし往々にしてそういうことを考えているのは、貧困とは無縁の生活を送っている側であり、経済的な弱者は日々の生活に追われて心に余裕がなく、そんなところにまで頭が回らないはずだ。だがそれは弱者に対する偏見以外の何ものでもないだろう。

 ならばどうしたらいいのか。やはり必要に迫られているわけでもないが、それを考えるべきなのか。しかし本当に考えているのだろうか。ただそんな夢のシステムを夢想しているだけにとどめているのではないか。では君は嘘をついているのだろうか。たぶんそうだ。今も画面の前で笑っているはずだ。なぜそんなくだらないことを述べているのだろう。本当は経済的な貧富の格差なんてどうでもいいことか。君は絶望的な貧窮を体験していないからそう思うのか。ならばそう思っていればいいだろう。何にしても現状から考えるしかなく、そこから離れれば離れるほど虚構となり、どうでもいいような荒唐無稽な話となる。結果的にそうなることを覚悟して、それでもあえて考えなければならないとすれば、それはどういうことなのか。現状が気に入らないからそういうことを考えようとするわけか。しかし言葉の連なりはその入り口で立ち往生しているではないか。まったくそれについての記述が出てこない。いったい何を記したらいいのか。その内容を見出せずにいるのかもしれず、未だにそれについては具体的に何も語っていないようだ。たぶんこれから何かのきっかけで、自然と社会がそういう方向へと進んでいくのかもしれず、現にすでにそのきっかけが出現していて、そのきっかけとなるのが大地震や原発事故だとしたら、何やらそれについて利いた風なことを述べられそうだが、果たしてそれでかまわないのだろうか。君はそういう成り行きが気に入らないのではないか。ならばどうするのか。まさかそれをこれから考えようとしているわけでもあるまい。どうやらまた君は画面の前でニヤニヤ笑っているようだ。


4月21日

 何やらまた余白に言葉が散らばっている。おそらく何を語ろうとしているのでもない。それが君の見解なのか。もっとおもしろそうなことを述べてみたらどうか。それは無理だ。何がおもしろそうなのかわからない。本当はわかっているくせに、白々しくもそんなことを述べている。誰が述べているのだろうか。君ではない。風に流されて、風に吹かれて、川に流されて、海に流されて、そこから先が出てこないようだ。流行らなければ、そんなことを気にかけるわけがない。では何を無視したらいいのだろう。この世のすべてか。そうだとしても、なおのこと残ってくるものがあり、誰かにつきまとい、絡み付き、必死でしがみついてきたりするのだろうか。別に何かの濁流に流されているわけでもないだろう。黄河の水は黄色く濁っているのだろうか。誰に問いかけているとも思えない。平和な時こそ備えが必要か。何を準備しているわけでもないか。そこには泥水がたまっていて、水面に青空と雲が映っていて、それを猫が眺めている。何の情景でもない。くだらぬ空想の産物だろうか。くだらないのが余分だ。そこで外れているのは心ではない。そこからさらに遠ざかろうとしているのも誰でもない。人はどこでも躓き、人心を失い、目先の現象に心を奪われ、見えていないものを見ようとしている。語れない原因がそんなところにあるとは思わないが、やはり何かが違っているのだろう。何を気取らなくても、それが気取っている証しとなり、しょうもないことを気取っている誰かを苦しめる。それの何が矛盾しているわけでもないが、何となく無理なように感じられ、タイヤがパンクしたようにやる気が失われ、後はどうでもよくなってしまう。

 何をやるつもりもないのに、それをやらなければ先に進めない。できれば矛盾を解消して、論理的な言説をどこかで構成したいのか。無理を求めないでほしいか。ひたすらそれをやってきたではないか。だがその結果がそれだとすると、何か馬鹿げているように感じられ、やらなくてもいいことをやってきたように思われてしまう。ならば今からでも遅くないから、やめたらいい。まだ三途の川を渡りきっていないはずだ。そういう話ではない。君は途中で引き返すつもりなのか。いったいどこへ引き返そうとしているのか。引き返す先もわからないのに、とりあえず引き返そうとする素振りを見せ、誰かの動揺を誘うつもりなのだろうか。しかし誰かは神ではない。いくら動揺させても何も出てこない。君はそれらの力を軽視しすぎていて、軽はずみな行為に及ぼうしているらしく、それが躓きの原因となるのかもしれないが、ともかくその先まで行って、実際に躓いてみないと、経験として蓄積されず、いつまで経ってもそこから先へ勧めないのではないか。だからわざと躓くこともないか。要するに躓いたふりをして、心配をかけたいのだろう。それはどういうことなのか。君にとっての目先の利益とは何なのか。いったいどこから何を引き出そうとしているのだろう。たとえ引き出したとして、それでどんな利益が得られるのだろう。何かをわかったふりをしつつ、何もわかっていないことを悟られないように振る舞うつもりらしいが、現状ではかなりの無理がありそうだ。そんなことをやったところで、簡単にばれて軽蔑されるだけで、結果的には何の利益にもならないだろうに、ひたすらごり押し的にそれを繰り返すのは見苦しすぎるか。

 しかし何の話をしているのか。中身が具体的でないのはいつものことで、何の話でもないのかもしれないが、とりあえずは後しばらくは語らなければならず、語っているうちに次第に何かが明らかとなりつつあるのならば、それはそれで結構なことだと思う。だがそうなるきっかけを見つけられず、何が何だかわからなくなり、そんなことを述べているうちに、次第に焦ったりあきらめたりして、結局は投げやりな気分になるのが、ここでのパターンだ。今もそうなりそうになっているはずだ。ではこのまま流れに身をまかせ、そういう成り行きとなってしまうのだろうか。それもいいだろう。もうすでに語りすぎている。この辺で引き返すことはかなり難しく、気がつけばそんな自己言及に陥っていて、息切れ状態だ。言葉の散らばりがなくなり、同じようなことを延々と語っているのではないか。だからそれが流れなのであり、それでかまわないのだろう。その辺が君の限界なのであり、それ以上のことはできっこないか。まさか何やら少年漫画的にどこかで過酷な修行をして、苦難の末に自らの限界を克服して、結果としてひとまわりでかい力を得て、何か将来ものすごいことをしでかしたりするのだろうか。そんなうまくいくはずがなく、そういう話にはならないところが、この世界の世界たる所以か。しかしそんなことを思うと愉快になり、結果的に気晴らしとなり、何やら自己満足的に達成感を得たりしてしまうわけか。それでもいいのだろう。そう語りながら誰かは朗らかな気分となり、笑いが止まらなくなる。まったく馬鹿げたことだろうか。たぶんそうに違いない。まともなことは何も語らずにそんな気分となってしまうのだから、それは馬鹿げたことだ。


4月20日

 落ち着かない雰囲気の中、また外を眺めている。興味深い景色が目の前に広がっているわけではなく、見慣れた風景の中に何があるわけでもなく、ただ何となく眺めている。そんな説明が不要なのか。君が見ている光景はこの世界の一部だ。電車の中で眼帯をしている人に出会い、すれ違い様声をかけるわけでもなく、赤の他人でしかない人から遠ざかり、席に座り、車窓から外を眺めている。別に眼帯をしている人のことを記す必要がないではないか。ただそこに乗り合わせただけで、他に意味を見出せない。空は晴れ渡り、他に思うところもなく、音楽を聴きながら、やはり何を思うこともない。すべては空想の世界か。思いもしないことを思っているように装う。そして何事もなかったかのようにその場を立ち去り、本当に何事もなかったのに、思わせぶりなことを記そうとするが、どうもままならないようだ。鉄道にも信号があり、赤信号しかないらしく、運転手は点灯する位置の違いで状況を見分けているわけか。たぶん低速で近づいてくる貨物列車に飛び乗るのは違法行為なのだろう。アメリカ辺りではそういうことをやって旅をする人々がいるらしく、それについてのドキュメンタリーをテレビで見たことがあるが、それがどうしたわけでもないのはわかりきったことか。相変わらず語る理由が見当たらない。人の記憶も有限だ。鉄道沿いに人家が建ち並び、騒音とともに毎日暮らしているわけか。案外苦にならないのかもしれない。だがそこで君は何を思い出したのか。かつてそんなことを語ったことがある。

 それがどうしたのか。聴いている音楽は、ファンクサウンドに乗って何か呪文のようなラップを重ね合わせ、それで独特の雰囲気を醸し出しているのかもしれないが、それとこれとは関係ない。人は国家と結びついたつもりになって、歯向かってくる者たちを弾圧する。それが習性なのだろうが、国家という幻想を同じメンタリティーを共有する仲間たちと一緒に守りたいのだ。カダフィ氏などはその典型だろうか。彼と彼の取り巻きたちは固い絆で結びついているかもしれないが、絆とは奴隷と主人の関係を保つために必要なのか。たぶんそれも幻想なのだ。地震の人道支援を口する人たちが、そんなどぎつい言葉を平気で使うのが理解できないが、たぶん散歩の時に犬と主人を結びつける首輪と綱が、絆という言葉にはふさわしい。違うか。それも違った意味となってしまうかもしれず、何となく言葉を使い方を考えなければならなくなる。だが考えれば考えるほどわからなくなるだけだろう。しかし何を考えているのか。君は君自身を思い出してほしいのか。誰もが簡単に忘れ去られてしまうことを容認できずにいるようだが、時の流れに逆らうなんてできっこない。その人の名を覚えている人なんているはずがない。いや覚えているが、その名を口にすることがはばかられているわけか。その名がイエスというわけでもない。冗談のたぐいだろう。別に何もかもが幻想の絆で結びついているわけではなく、実利で結びついているのかもしれない。カダフィ氏とその取り巻きの場合は石油か。では災害ボランティアと被災者との結びつきは何なのか。

 すべては変奏されるのか。曲としてはそうだ。だから変奏曲なのだろう。別に眠れるように奏でたのではない。では何に安心したいのか。何もかもを結びつけようとは思わない。言葉の特性がそうだろうと、離れて散らばることもある。辺りに蒔かれて芽を出して、それを収穫の時まで育てようとしているのか。人の勝手な都合だろう。何かを収穫してそれを売り、金を得たいのだ。そうしなければ生きてゆけない人もいる。ただ風景を眺めているだけで生きていられる人はいない。生活の糧がないとどうしようもないわけだ。それは面倒なことか。それが当たり前なのだから、面倒だなど言っていられず、職を得て金を稼がなければならないのだろう。いつまでも幻想に浸っている暇などないか。だが君の場合は、得るものが何もないのに言葉を記しているのだから、それはおめでたいことか。その辺で矛盾を感じているわけだろうが、たぶんそれはそれで余興のたぐいで、本気でそんなことを述べているわけではないのだろう。何かの戯れに違いなく、わずかな達成感と自己満足のために言葉を記している誰かを見習うべきかもしれない。しかし君と誰かとはどんな絆で結びついているのだろう。それは絆などではないと思いたいのか。また風景を眺めながら音楽を聴いている。ロックもジャズも気晴らしのたぐいに思われ、聴いている分には命がけとかとは無縁に感じられ、気晴らしでかまわないと思っているようだが、たぶんそういうことなのだ。そんなことを記しているうちに空も曇ってきて、薄曇りに薄日が射して、心を取り巻いているあやふや思いを肯定したくなり、結果的には何を肯定しているのでもないことを実感させられる。それも幻想か。


4月19日

 雨が本降りだ。心を落ち着けて、何も思わない状態からどこへ持っていくつもりもないが、何を持っていくのだろう。辺りは静まり返っている。こだまもやまびこも返ってこない。誰が返答を期待しているわけでもなく、問いかけの内容を理解しようとも思わない。ところで君は何を問いかけているのか。誰に向かっているわけでもなく、世界を相手にしているとも思えない。鳥のさえずりが遠くから聞こえてくる。後は時折激しくなる雨音か。それも一時のことで、明日は明日で晴れるのだろう。そう思うととりとめがなくなり、何について語っているのかわからなくなり、たぶんそれについて語っているのだろうが、それとは何か。わざとらしく予定調和を導いているわけか。話はまだ終わっていないだろう。では何を始めようとしているのか。ハエの死骸とゴキブリの死骸を比較しているわけでもないか。ハエをカエルが食べ、ゴキブリをトカゲが食べる。ではネズミは何を食べているのか。誰の想像にまかせているわけでもなく、人は家畜の肉を食べている。それはおぞましいことだろうか。何はともあれがんばらなければならないようで、盛んに誰かが励ましの言葉を連呼する。それとこれとはどのような関係にあるのか。君が知っているのはそんなことではない。この世界の因果応報を考えると、いったい何がわかってくるのだろうか。そこから遠ざかるべきだ。あるいは近づきすぎるのを回避すべきか。すでに近づいているわけか。別にそこで何を予言したいわけでもないだろう。終末の時が近づいている。誰かがそう言い放ち、そして無視される。

 誰かがブログで何か書いているようだ。たわいない内容であり、どうでもいいようなことだが、ところでそこから外れて心はどこへ行くのだろう。冥土の土産というわけでもないだろう。人は一度に大量死するらしい。増えすぎるとそうなるのか。他の動物でも事情は同じか。君は人がやっていることに違和感を感じているようだが、その理由を探るつもりがない。確かにフィクションの中では因果関係がはっきりしていたり、理由に基づいて行動したりもするのだろうが、現実の世界ではそう簡単にいかず、何やら漠然とした思いにとらわれ、とりとめのないことをやっていたりもして、なぜそんなことをやっているのかわからないことの方が多く、その場の成り行きや場当たり的にとりあえず行動したり思考したりしているらしい。そしてわけがわからないままに、それがいつの間にか終息していたり、気がつけば別のことをやっていたり、当初は思いもしなかったようなことを考えていたりするわけだ。そういうわけでサンデル教授あたりが主張していることは、どうもそれはフィクションとしてしか通用しないことではないのか。確かに世の中で起こっている様々な現象を言葉で説明すれば、理由と結果などの因果関係がはっきりしていることしか説明できない。それを学問的なアプローチで解説しているわけだから、そうなるより他はあり得ず、結果的に正しい認識や答えが導きだされても、それはそういうことになるだろう。たぶんそれに対して反論を試みようとする者が挫折するような高水準で述べているのだろう。だがそれは哲学という虚構の中で成立ことでしかなく、現実の世界では無視されても仕方のないことだ。

 クイズ番組でもない限りは誰も正しい答えが出されることなど期待してはおらず、間違っていようが卑怯なやり方であろうが、結果として思い通りになればそれでかまわないのであり、その気になってやりたい放題ごまかし放題のことを平然とやっている者など掃いて捨てるほどいるだろう。そういう人たちの行動や言動をいかに説得力のある論述で解説しても、それは学問の範囲内で聴衆や学生を満足させるだけで、たぶん現実とは無縁なのかもしれない。無縁ではなく、たとえ現実に何かの役に立つとしても、そういうことでしかない。人々はなぜそんなことをやらなければならないのか。別に理由など必要ない。ただやっているのであり、偶然の巡り合わせとその場の成り行きで恐ろしいことや間違ったことを平気でやっている。たとえ自らが恐ろしいとことや間違っていることをやっていると自覚していようと、それをやめない者などいくらでもいて、やめられずに破滅しても、なおもやりたがる輩までいる。死ぬまでやめられず、たとえ自らが死んでも、自分の子供たちがやってくれると期待している者までいる。簡単に考えれば何をやっていようと、やりたいことをやっていても、やりたくないことをやらされていても、やっている理由など後回しで、とにかく何か適当にいい加減にやっていたりするわけで、どこかでそのやっていることの理由付けを正しく解説されても、そんなことは知ったことではなく、知ったところでもはや手遅れだったりするわけで、後付けの知識によって自らを制御したところで、焼け石に水で、いいわけじみてしまうだけだ。要するにそれをやってしまった時点で取り返しがつかないということだ。


4月18日

 乾いた大地に雨が降り、土と水が入り交じった香りが漂う。コーヒーの香りも漂っていないか。きっと過去の記憶で、気のせいなのだ。さっきまではコーヒーを飲んでいたではないか。それとこれとは関係ないか。何を待っているわけではない。ただ空気を吸っているようだ。それは煙草ではない。ではなぜそこまで気を使うのだろう。話が見えてこないが、どんな意図があるとも思えないし、言葉を散らして、真意を読まれないようにしているわけでもない。結局何も語っていないのではないか。あれこれ考えあぐねたあげくにそれはない。理想とする状態には遠く及ばず、それが何を意味するのかわからず、戸惑うばかりで先へ進まない。何がそうなのだろか。自分で何かを考えている気がしないようだ。では何に考えさせられているのか。状況は状況であり、意識がそこへ入り込む余地がないほど疎外されている。何かの思い違いか。別にそれについて語るほどのこともない。ではどうしたらいいのだろう。言葉を記しているではないか。無駄に語り、無駄に言葉を記しているはずか。そうは思いたくないのだろう。取り立てて何を期待しているわけでも望んでいるわけでもない。ならばそれでいいはずだ。いいはずなのに、そうではないようなことをやりたがり、結果的に失敗して、何かの後始末を寂しそうにやっている。そんなはずではなかった。またそう思いたいのであり、現実に起こっていることを認めたがらず、気がつけば空想の世界で自足しているわけか。それも違うと思いたいのか。

 たぶんそれが自然の成り行きなのだろう。ささやき声で目を覚まし、意味を理解できずに何をやろうとしているのか。言葉は宙に舞い、舞ったついでにあり得ないことを記そうとするが、それが躓きの石なのか。奇をてらっている。いつもの成り行きだろう。それでも自ずから出てくる言葉を書き留めなければ意味をなさないか。それでかまわないのだ。もはや語る必要はない。言葉などいくらでも散らばり、文章を構成するまでもない。要するに何も語れなくなったということか。そう思うならそこでやめればいい。道を歩いている。疲れているのだろう。何かをやり遂げようとしているような気がしたらしいが、それは昨晩の夢だったのか。そこで何を記しているのかはっきりせず、しっくりこないのは仕方のないことだ。違和感が残っているのは自然の感覚だ。心的外傷などどうでもいいことか。何を乗り越えようとしているわけでもないし、がんばろうとしているわけでもない。ましてや誰に励まされているわけでもない。何を貶められようとしても、それがわからないのだから、誰かの意図に反して平気なのか。君はそれでも何かをたぐり寄せようとしている。自然とわかってしまうのか。理解する前にわかってしまっているのだから、そんなことを理解する必要さえなく、虚勢を張って強がる必要もない。たぶん痩せ我慢とも無縁なのだろうし、至って平然と事をこなし、何事もなくやり遂げてしまい、それが当たり前のように感じられてしまい、大した努力もせず、達成感も感動も伴わず、何がどうしたわけでもないのか。

 別にそうなってしまったわけでもないだろう。力を抜いているのか。手抜きで他人の努力をいなして、当人は何かそれとは関係のないことを考え、その考えに基づいて何を実践しようとしているわけでもなく、とりあえず言葉を浪費しながら、記述の核心へと誘われているとも思えないが、確実に何かを悟っているのだろう。この先どこへ行っても同じことか。そうではないが、どこへ行こうとしているわけでもなく、行き当たりばったりで何を体験しているとも思えない。それはすでに記憶に照らし合わせて思いついた虚構だ。別にそれ以上の夢を見ているわけでもなく、現状を呪うほど復讐心に凝り固まっているわけでもなく、とにかく何事もなく過ぎ去ってしまった日々を懐かしんでいるほどの余裕が感じられず、ただ音楽を聴き、言葉を記して、それでどこへ至ろうとも思わないが、何かしら救いを求める心境にはなれない。今は今であり、今やっていることがそこでのすべてなのか。全力で何かにぶつかっているわけではないだろうが、そんな闘争心とは無縁の悟りの境地には到達できず、達しようとは思わない境地を目指しているわけでもなく、ただ首を傾げて不思議に思っているそれは、何かのフィクションではなく、紛れもなくこの世界で起こっている現象の一部であり、それを体験していると思いたいのだろうが、別に夢の中でそう感じているのでもかまわないのではないか。君は到達すべき地点を計りかねているようで、目標など無視して、どこへでも行ってしまいたいのでもないのだろうが、現状ではそこにとどまっている。


4月17日

 一日の終わりに何を思うわけでもなく、どこかの作り話の中でも、一日が終わろうとしている。誰かの心がそんな雰囲気を察知しているわけか。そうではないだろう。まだ時間があるのではないか。少なくとも言葉を記す時間はありそうだ。実際にそうしているではないか。君にはそうする義務でもあるのか。そうかも知れず、わざとそうしている場合もありそうだ。君はそうやって何かの説明に終始する。それが何かの戦略だとはとても思えない。とりあえず行き当たりばったりで何かを記しているのだろう。大事なことは記し損ねて、その代わりにくだらぬことばかりが記され、誰かを唖然とさせる。驚きはしない。だいいちそんなはずがないか。何を語っているのかわからないのは毎度のことだ。たぶんそれ以外は何も思いつかないだろう。それは何かの成り行きに従った結果なのか。君は運命を受け入れなければならない。それが天啓だとは思えないが、何が運命なのかわからない。またそこで笑い出し、そんなのは関係のないことだとうそぶきたくなる。それほど結果にこだわっているわけではなく、何に唖然としているわけでもない。そして何を否定しようとしているわけでもなく、要するに矛盾したことを述べているわけか。それもいつものことだ。内容を見出せないままに語りだし、途中で後戻りできなくなってしまうわけだ。では今日もそのままのパターンに落ち着いているわけか。そうならないようにしたいのだろうが、うまくいっていないことは確かなようだ。

 それらのどこに関心があるのか。たぶん実際に体験してみなければわからないこともあるのだろうが、一応は想像力を働かせて、何か適当なことを考えようとしている。まったくどうかしているのではないか。何を考えているのかわからない。そのまま話が終わってしまうのだろう。そうかも知れない。だがまだ何も語っていないようだ。冗談だろう。言葉は記しているはずだ。だがそれだけだろう。それに関して何か問題でもあるのか。だからそういうことではない。何か馬鹿げていないか。勘違いではないか。それの何がそうなのだろう。君はすでに気づいている。意識がそこから遠ざかりつつあり、わざと無関心を装い、それについては語らないつもりらしい。しかしそれとは何なのか。語らなければわからないだろう。語れないのだろうか。何もないから語れないわけか。それではいつもと変わらない。壁が崩れ落ちたのはあるか昔のことだ。それはベルリンかどこかでの出来事だったかもしれないが、君には関係のないことだ。では原子炉建屋の壁が崩れ落ちた映像を見ながら、君は何に驚いたのか。君が驚いたわけではなく、君が無関心であることに誰かが驚いたのではなかったか。それも君にとっては無関心の内容か。では話の内容は何だったのか。それらのすべてが大した出来事ではないと思っているらしいが、何か違うような気がするだけか。相変わらず誰かは空疎なことを語っているらしいが、それを君が批判したいわけでもないのだろう。

 それは素数となるらしい。ロックバンドの名前か何かだ。そんなロックを聴いているようだ。311がそんなに興味深い数だろうか。それらの果てしない世界の片隅で何が行われようとしているのだろう。祈りか何かか。あるいは何かの設備を修復しようとしているわけか。この世界はとりとめがない。そう思っているからまとまりの欠ける文章になるのだ。それでも何かを語ろうとしているのだろう。苦しみ焦りながらも、まともなことを語っているつもりになりたいらしい。いつか行き詰まりが解消され、何ごともなかったかのように日々を過ごしている時がやってくる。早く忘れたいのか。何を忘れようとしているのか。君にはそれがわかっているはずだ。何とかしなければならないこともわかっている。だから焦っているのだろうか。そこに反論する余地があるとは思わない。何に対して何を主張したいのか。わかる必要はなく、わかるように努力する必要もない。自ずからわかってしまうことだ。何をどう考えてもそこに行き着き、それをどうにかしなければならないと思うはずか。それができなくても、考えてしまうのだから、その時点でもう何かの渦中に意識が絡めとられているということだ。そのよう精神作用をどうすることもできず、君はそれについて考えなければならず、実際に今それを考えているようだ。なぜ人々はそこから抜け出せないのか。それは集団意識というやつか。誰もがそれについて考えるように強要されているわけか。いったい何がそれを強いているのか。まさかその場の雰囲気ではあるまい。


4月16日

 なるほど普通の腕時計で秒針に当たる部分がクロノグラフでは六十秒計で、クロノグラフでは小ちゃく丸い部分のひとつが秒針だったのか。どおりで先日電車の中で見たロレックス・デイトナの秒針だと思っていた針が十二時を指して止まっていたわけだ。それで先日デイトナを見てしまったからなのか、クロノが無性に欲しくなって、悩んだあげく、ネットで質流れの(モーリスラクロアのマスターピースクロノグローブとかいうやつ)を買ってしまって、それが今日届いて、箱を開けてみたら、秒針だと思っていた針がちゃんと十二時の位置で止まっていて、付属の説明書を読んだらそういうことだった。だからどうしたわけでもないか。どうせまた違うやつが欲しくなるのだろう。馬鹿げているだろうか。たぶんそういうことだ。それが普通なのか。馬鹿げているが普通なのか。普通なのにおかしいような気もして、どうせ金は無駄遣いするためにあるのだろうから、負い目を感じたら、少しは地震の義援金でも送った方がいいのではないか。また何かの冗談でそんなことを述べているような気がしてならないが、どうも本気になれないのは毎度のことで、改めて何を語るわけにもいかなくなり、このままぐずぐずの話なき話的な話の展開となっていくのだろうが、たぶんそれでいいのだろう。今の君にはそれしかできない。そういう決めつけは良くないかもしれないが、何となくそう思われてしまうのだから、そういうことにしておこう。君にとってはどうでもいいことだ。何か突き放されて、どうにもならなくなっているのかもしれない。

 そして夜になり、今日も何も思わなかったことにして、眠ってしまうのだろう。そんなことがあり得るだろうか。実際にそうなのではないか。茶を飲んで、しばらく考え込んでいるようにも見えるが、何か一日の中の適当な時間帯を振り返っているのかもしれず、それのどこまでがフィクションなのかわからない。別に取り立てて何を語っているわけでもないだろう。それでも適当に言葉が連なっているではないか。それを否定してはいけない。では何も語っていないことを肯定すべきなのか。そんなことを語っている現状があるだけだ。だからそんなことではいけないと思っているわけか。だが君の辞書に反省という文字が記されることはないだろう。ならばそんな嘘がどれほどおもしろいというのか。単につまらないだけか。ではそれだけだとしたらどうだというのか。また何か記さなければならなくなるだろう。それが今なのではないか。そして実際に何か記しているはずだが、依然として内容がない。何も思いつかないのだから、それは当然の成り行きか。茶がだんだん渋くなってきた。それも当然の成り行きだろうか。北風が強く、明日の朝は冷えるそうだが、そんなことを語っていていいのだろうか。だめだと思うなら、何かまともに思われるようなことを語ればいい。またそれか。耳を澄ませば誰かの叫び声が聞こえてこないか。君はなぜそんなことを語ろうとするのか。聴こえてくるのはギターの音色か。君たちはがんばらなくてもいい。それが誰のメッセージ対する反論なのかわかりかねるが、何かがこだまのように響いているのかもしれない。

 砂上の楼閣ではないが、さらさらと砂が舞っているようだ。辺りはほこりっぽくなってきた。何かが崩壊する前兆だろうか。作り話にしては何かリアリティが感じられ、嘘ではないような気がしてくるが、果たして君は何を語っているのか。たぶんそういう話ではないだろう。そこで何を語りたいとも思わないし、何か漠然としているようで、なぜか言葉のつらなしが具体性をまとえないようになっている。君がそうしているのだろう。またわざと意味不明を装うつもりなのか。果たしてそれが可能なのか。何も果たされてないではないか。何か約束した覚えもない。だから特別なことは何も起こらず、特段興味を惹くような現象も起こらず、君は何を眺めているわけでもなく、ただ事態の推移を見守っているだけか。そんなはずがないと思うが、それ以上の何を求めているわけでもないはずか。別にそれほど荒唐無稽なことを述べているわけではなく、至って普通に語ろうとしてきたはずだが、やはりどこかずれているような気がしてならないのだろう。根本的に間違っているのではないか。そうだとしてもかまわないと思うのだから、それに対するどんな反論が期待されているわけではなく、ただ黙って眺めているだけか。それにしても疲れているのはどういうわけなのか。それは君に限ったことではなく、誰もが疲れきっているのだろう。確かに特定の地域ではそうかもしれないが、君にとってそれはどうでもいいことか。本当に疲れているのなら、疲れていればいいだけの話か。寝て起きれば疲れが取れるはずか。しかしそれだけの話ではつまらないのだろう。だがつまらなくてもかまわないのなら、そのまま語ればいいだけの話か。


4月15日

 たぶんどこかに見落としがあることは確かなようで、それを今から探し出そうとしているわけでもないが、気分の問題かもしれず、どうもすっきりしない。季節外れ的に蒸し暑すぎるのがすっきりしない原因か。また何かをずらそうとしているようだ。いつのもごまかしか。それ以外は何も出てこないのだろう。今の君にそれを否定する力などのこっていないはずで、君自身が心の中で希薄化している。君はそんな現状を受け入れなければならず、そのままこの世界から姿を消してもかまわないと思っているらしいが、それが嘘であることはわかりきっていて、不在の君がどうやって姿を消すのか、語っている内容に無理があるようだが、本質的には何を語っているわけでもないか。だからそれでかまわないと述べているではないか。誰かがそんなことを記している一方で、架空の君が何やら不満を抱いているような気がして、急いで違うことを述べようとするが、毎度おなじみでもう遅い。すでに外れたことを語っているはずで、意識が何を押しとどめようとしているのかわからず、しばらく黙って画面を見つめ、それから目をそらし、やはり無理だと悟り、何が無理なのかわかっているつもりで、それをやめようと決意して、決意が折れないうちに、まともなことを語ろうとして、新たに言葉を記して、また何かの冗談のように笑いながら、そんなことを述べている事実を覆い隠す。果たしてそれが誠実な対応だろうか。わかりきっていることか。

 終わってしまったことは仕方がないが、だから何とかしなければならない。しかし何が非難されるべきなのか。君はそのセンスを疑われているわけか。誰の感情に訴えかけているわけでもないだろうに、何となくその手の語りには辟易させられ、やめてほしいとさえ思うか。だがそこで何について語っているのか。結果を見れば明らかになるようなことではない。君はその結果を知っているのだろう。別に見ているだけで何もやらなかったことを悔い改めるつもりはなく、それどころか積極的に何もやらないつもりか。しかしなぜそこで猫背となってしまうのか。またわけのわからないことを述べようとしているらしい。やめた方がいいのだろう。無理に奇をてらうよりはそのままの方がいい。君はそうなることが許せないらしいが、成り行き的にそうなってしまうのだから、流れに逆らうことはできない。別に津波のように何かが押し寄せているわけでもないだろう。慎重に事を運び、うまく立ち回って、何とかここまでこぎ着けてきたはずか。それを今さら水泡に帰するわけにはいかないか。だから君は黙って事態の推移を見守っていればそれでいいわけか。たゆまぬ努力の成果が今につながり、何とかなっているわけだ。ならばもっと現状を肯定すべきだろうか。肯定しきれないとすれば、いったい何が気に入らないのか。そんなふうに語るべきではないのかもしれず、君はその時点で過ちを犯しているわけか。別にそういう話にしなくてもかまわないのだろうが、何となくそうではないような気がするようで、率直に喜べない原因がそんなところにあるらしい。では何をどうしたら現状を肯定できるのか。

 本当に君たちは心をひとつにしてがんばらなければならないのだろうか。いったい何を励まされているのかわからない。君にはわからなくて当然であり、無関係なのだから無理に励まさなくてもかまわないのではないか。そんなわかりきったことを述べながらも、別に後ろめたさに気分を害しているわけでもなく、押しつけがましいコマーシャルもどきに嫌気がさしているわけでもない。君には絆など邪魔か。赤の他人だろう。実際縁もゆかりもありはせず、ただそれらを外側から眺めているに過ぎず、連帯などまったく必要としないで、この世界での不在状態を定着させようとしているだけか。だから今は孤独などというおせっかいな言葉は打ち捨てられるべきで、ただ単に不在なのであり、その存在を主張しないばかりか、語られること自体を迷惑がっているわけか。そんなわけでまだエンジンがかかっておらず、そのまま不完全燃焼にも至らずに、それらの語りを終わらせるべきかもしれないが、まだしばらくは残りかすを利用して、それらの言葉をつなげ、文章を構成しているつもりになりたいらしく、きっとそれ以上の何かを求めているように装いたいのだ。現実がどうあれ、理想を追い求める心を捨て去るのは惜しいような気がして、何とかそんな言語的な水準にしがみつき、何か語っているつもりになりたいのだろうが、君にはまだ経験が足りない。だからさらに記された言葉を連なりを眺めることが必要とされ、そこで何かをつかみ取らなければならないのか。そういうことではないような気もするが、とりあえずはまだ先があるらしい。


4月14日

 またいつもの日のいつもの時間帯だ。毎日がそうなのではないか。君はいつもそう思っている。そして今は何も思っていないはずだ。またそんな嘘をついているわけか。そこで何を悟ったのだろうか。自らには限界があり、それを補うために架空の登場人物がフィクションの中に出現するのだろう。それも嘘かもしれず、それ自体が虚構であり、それが誰を戸惑わせているわけでもなく、ただ何となくそういうことを語っている現状があり、君にはそれが鬱陶しく感じられ、馬鹿げているように思われるのか。そうかもしれないし、そうではないかもしれない。いったいどちらなのだろう。どちらともいえず、その両方が心の中で何らかの均衡を保っているのかもしれない。誰かがどこかで不信感を抱いているようだが、君にはそういうことが信じられるらしい。そうしなければ何もどうにもならなくなり、言葉が無駄に連ならなくなる。それならなおのこといいのではないか。何かの作用で、そういう成り行きの中にいて、それに従わざるを得なくなり、要するに君にはそれをどうすることもできないから、信じるしかないのではないか。信じられなければ、信じなくてもかまわないのだろうが、そうなると誰かが困ってしまうのだろうか。なぜ困るのか。まだ薮をかき分けて道なき道を進んでいる段階か。ふとどこか遠くに目をやると、何を発見したわけでもなく、これまで通ってきた過程が明らかになるわけでもなく、それはただの気晴らしかもしれないが、心が和んだつもりになって、また画面に目を向けるが、話が何も進展していないことに気づく。

 それから君はどうなったのか。何も示せずに語るのをあきらめてしまったのか。誰かによって言葉が記されるがままになり、すでに君は置いてきぼりを食っている。だからもうそこから何を語ろうとしても無理で、手遅れとなっている。そういう成り行きの中で疲れ、神経をすり減らし、何となく投げやりな気分となってくるようだが、そんな殺風景の中に心がとどまっていて、そこから抜け出す機会が訪れるのをひたすら待ち望み、いつまで待っても待ちぼうけで、次第に固まってくるが、何が固まってくるのか定かでないが、要するに心の自由が利かなくなってくるように思われ、君は戸惑い、どうにかしてその場所から遠ざかろうとするが、遠ざかれば遠ざかるほど、その場所にとどまっていることに気づき、なぜそうなってしまうのかわからないまま、さらに遠ざかろうとしていることに気づく。何か矛盾していないか。わざとそう語っているのではないか。それどころか君自身がそうなってしまうことを望んでいるのではないか。しかしそこまで語ると、何を待ち望んでいたのかわからなくなり、それも虚構の一部で、誰かがそんなことを記している現状を、他の誰かが変えることを望んでいるのでもなく、君自身もそこには存在していないようで、誰もいない部屋の中に架空の画面があり、その画面上に言葉の連なりが映し出されていて、それは誰に読まれることも必要とされない文章のように思われ、誰がそれを記しているのでもなく、前もって映し出されているだけで、誰の意志と無関係な内容を伴っているようにも思われる。それは本当なのか。

 誰かは言葉を記しながら、何かくだらないイメージを振りまいているようだ。確かに虚構には違いないが、物語を伴っていないから空疎なのか。誰がどうして何をやったわけでもなく、ただそんなことが記されていて、何かの重荷のように重力を持ちながら、自らの重みで奈落の底へと下ってゆき、そこで何に出会うわけでもなく、さらなる下へと降りてゆき、そこにも何もなく、見上げれば遥か上に何かの表層が見え、今度はそこまで昇ってゆかなければならないと思いながらも、なぜそうするのか理解できず、心は睡眠中にそんな意味のない夢でも見ているのではないかと疑い、何とか正気に戻ろうと試みるが、今の精神状態が正気ではないかとも思い、何かどっちつかずで、どちらでもないような気もして、何と何がどちらなのかも定かでないようにも思われ、やはりそういうふうに言葉を記してゆくと、わけがわからなくなってくるのかもしれず、そんな毎度おなじみのワンパターンにのめり込み、どうせまた収拾がつかなくなって、混乱の状態のまま終わってしまうのだろうと高をくくりながらも、それでばかりではつまらないと思い、何とか話をまとめようとするが、まとめられるはずもなく、それらの意味不明をどうすることもできず、そこで君があきらめてしまっていることは明白で、今やそれを認めざるを得ず、そうしてまたもや虚無に屈してしまっていることに気づき、予定調和のごとく絶望した後はどうなるのか。そこから先は思いつかないようで、しばらく苦悶しているようだが、結局は投げやりになって、もとから話になっていないようなので、それでかまわないと思うしかない。だからそれでかまわないと述べているではないか。


4月13日

 長い目で見た場合、わけもなく無闇矢鱈に急いでも仕方がないように思われ、先が見通せない以上は、目先の利害を追求しても、疲れるだけのように感じられ、なぜか知らないが、今は何もやらなくてもかまわないような気がしてくる。だがなぜそう思うのか、はっきりしたことがわかっているわけではない。たぶん誰のためでもないことをやっているはずだ。むろん自分のためでもない。自分のためなら、もう少しどん欲に何かを追い求めるはずであり、それがないのだから、たぶんそれは自分のためにやっていることではない。過ぎ去る風景を眺めているだけのような気もしてくるが、しばらくは待つことも大事なような気がして、何となくこちらから仕掛けたくはないらしい。別に何かの自滅を願っているわけでもないだろうが、他の何が滅んでしまっても、君がどうなるわけでもないだろう。錆び付いた線路のそばに薄汚れたプレハブハウスがあり、何かの事務所として使われているらしいが、そんな光景を簡単に素通りして、砂利道のわきで一休みしているわけではなく、ただ画面に向かって言葉を記しているだけか。君はそこで何を考えているのか。誰かが何かを主張していたような気がするが、それはテレビでの話か。別にそこで何を見ていたわけでもないだろう。何を考えていたわけでもなく、目の前を過ぎ去る風景とともに、君自身も自らの目の前から過ぎ去ってしまうのだろうか。要するにこの世では不在となるわけか。

 何かの分岐点にさしかかっているのだろうか。それともすでに通過してしまったのか。通り過ぎてしまったのなら、どうせまた別の分岐点にさしかかるだろうから、そこで進むべき道を選べばいいということか。選べなかったらどうするのか。選ぶ手間がかからないだけ楽か。しかし何を述べても具体性に欠けている。実際に何をどうしたのかが示されていない。君はそういうことには興味がないのだろうか。少し耳が遠くなっているようだ。そんな精神状態では何を語ろうとしても無駄か。別にナーバスになっているとも思えない。しばらくの間は意識がどこかへ飛んでいたらしい。今まで語ろうとしてきたことがそういうことではなかったらしい。しかし何を語ってきたのだろうか。何も語ってこなかったような気がする。しかし現状では何と何が関係しているのか。南の方では相変わらず桜が咲いている。別にそれほど季節が移り変わっているわけではなく、まだ春の真っただ中だろう。だから先を急ぐべきではないと感じているのか。耳が一時的に遠くなったのは、イヤホンに水分がしみ込んでいたせいか。別のやつに替えたらまたいつもの調子に戻っている。しばらく言葉を記すのをやめて、周りの景色を眺めていたら、別に何を思いついたわけでもないが、何を叫びたくなったわけでもなく、気が狂いそうになっているわけでもなく、やはり何も思いつかないことに気づき、さらにそこからなにを語ろうとしているわけでもないことにも気づく。まったくこの世には何もない。すべてがあるのに何もないとはどういうことなのか。

 魅力のない人ならいくらでもいる。また冗談でそう述べているのか。たぶん立ち止まったらそのままになってしまうのだろう。要するにそのままになってしまった人が多いということか。だがそれを拒否してしまったらおしまいか。だから立ち止まったまま、徐々に枯れていくのだろう。君も立ち止まって枯れつつあるのだろうか。そうかもしれないし、周りの風景が過ぎ去ろうとしているのを感じているのだから、立ち止まっているわけだ。だがそういう姿勢にこだわってはならない。様式美を追求してしまってはきりがなくなり、ひたすら何かを愛でる毎日が待ち受けている。それは盆栽いじりのことを述べているのだろうか。だがそういう語り方自体が盆栽いじりの域を出ないのではないか。そうだとしてもそれを受け入れられるだろうか。それしかできないのなら、それを受け止め、そこから改善を図る以外にはあり得ない。誰がこの世界にどのような影響力を行使しようと、それは常に限定的なものにとどまるしかなく、それを受け入れられない輩が自己満足に浸っているだけで、何か自分が世の中を動かしているような気分になりたいのだろうが、それは漫画の中の話であることが多く、話が大げさであればあるほど、ありふれたフィクションに近くなり、その荒唐無稽さが、勘違い的に高揚感をもたらし、自分が踊らされている何かを見えなくしているのではないか。では君には何が見えていないのだろうか。別にそこには絶えず操作している者がいるわけではなく、何か陰謀を巡らしている者がいるとしても、そういう黒幕が大したことをやっているわけではなく、黒幕自身も足下から虚無の侵入を許しているわけだ。誰も偶然の巡り会わせには勝てず、簡単に足下をすくわれ、無様な醜態をさらしてしまうことが多い。


4月12日

 原発事故もとうとうチェルノブイリと同じレベル7に引き上げられたようで、深刻な大事故と認めてしまったらしい。周辺に住んでいた多くの人が避難を余儀なくされたのだから、まあそういうことなのだろう。とりあえずしばらくは事故った原発に周囲にはほとんど無人の荒野が広がるわけか。まさかそれが求めていた荒野の風景というわけではないだろうが、誰がそれを求めていたとも思えず、そこにロマンを感じる人もいないだろうし、何となく何か喪失感のごとき思いがこみ上げてきたりするのだろうか。また君は冗談でそんなことを思っている。いつものようにそんな嘘をつき、どこかへ他人の関心を惹き付けようとしているのだろうか。それは誰かが思っているほど冗談ではないらしく、現実に君は何も思わない。ではフィクションの中でそう思っているのだろうか。君が思っているほど誰かが無関心を貫いているわけではなく、誰もそんなことは思わないように仕向けているのかもしれず、そのためにいい加減に言葉を記して、それを読む者を煙に巻こうとしているわけか。だがそれも何だか気乗りがしないのかもしれず、ただ漠然とした気分で、何を語る気も起こらないのかもしれない。何かに気持ちをかき乱されているのか。風が強すぎるのだろうか。久しぶりの北風に寒気を感じているのかもしれず、そこから先に言葉が続かない原因がそうだとも思えないが、そんなことを思っているうちにも、勝手に言葉が連なり、君の思いなど無視して、さらなる混迷を招き寄せるような成り行きが期待されているのだろうか。

 いくら考えてもそうなるとは思えないが、外では桜の季節も過ぎ去ろうとしているらしい。そして馬鹿げたことはいくらでもあるようで、呆れながらも正気を保とうとして、そんなふうに思わない誰かとともに、それを一部として含みながらも、君はそこからの退場を余儀なくされてしまうのだろう。しかしこの世界からどうやって退けるというのか。それもフィクションの中での話か。誰が何を空想しているのか知らないが、その心中は穏やかでなく、別に焦っているのでもないだろうが、何かを急かされて、均衡が徐々に崩れつつあるようだ。だがそれは何の均衡なのか。その場の思いつきで祈祷な何かを思いつこうとするが、それが出かかっているのになかなか出てこないようで、たぶん誰かが思いつかないような何かの均衡が崩れつつあるのだということにして、その場はそれで切り抜けたくなってくるが、どうもそういうわけにも行かず、未だに何かを思いつこうとしている。いったい何がどうなっているのか。さっきから気分が優れず、何となく中途半端な心境のままでいるようだ。たぶんそういう自問自答も、何かの計算のうちであり、そうなることを予感しながらも、それをうまく利用して、それらの目標でも達成しようとしているのか。だからそれらの目標とは何なのか。そんなことを述べているうちに何かがおかしくなって、次第にじり貧の様相を呈してきて、たぶん今日も虚無に負けているらしく、それでかまわないと思いながらも、何だか釈然としない気分となり、それで記述を放棄してしまいたくなってくるが、実際はどうなのか。

 とりあえず君は人々の行動の何が気に入らないのか。自然の猛威に翻弄されている姿が哀れに感じているのだろうか。人も自然の一部なのだから、それは仕方がないとしても、たぶん自然についてではなく、他の何かについて語れば、それなりの内容をまとうことができるのかもしれず、それでかまわないと思いつつも、何だかそれではごまかしでしかないような気も一方ではしていて、少しはその手の理論武装も必要だと思いつつも、そういう書物を読んでいる暇がなく、暇を作るつもりもなく、それではだめだと思いつつも、だめなままでもいいじゃないかとも思い、どっちつかずの思いで、そのまま無駄に過ごしてしまうのが、いつものパターンなのだろうが、どうせまたそれではいけないと思うのだろう。結局そうやって堂々巡りを繰り返し、そんなこんなでその場を収めて、また何ごともなかったかのように言葉を記す日々の中にいるらしく、飽きもせず無駄で無意味なことを述べながらも、震災で大変な思いをしている人々とは違う日々が、自らの体験を形成していることを、どう思うわけでもなく、それはそれでそういうことでしかなく、それ以外の可能性を見出し得ないことを残念がっているわけでもなく、そのままそこで暮らしている自分とは距離を置きながら、フィクションの中で君が何をどう思ってみても、それを記している誰かには関係のないことで、君はそこで自らの無力さを痛感したつもりになり、そこからどんな行動に出るのか見物でもないが、至ってそれが楽しげに思われ、何もないのに何かがあるように語るのが、君にはおもしろおかしく感じられるのだろうか。別に今さらそんな嘘をつかなくてもいいだろうに。


4月11日

 何がわからないのかわからないのはいつものことだが、それでもわからないと述べるしかないわけで、なぜそうなってしまうのかわからない。そうではないような気がするのだが、そうでもあるような気もして、何がそうでもあるのか考えてみると、やはりそれがわからなくなる。そうやってただ無駄に言葉を記していることは確からしいが、そういう記述にも何らかの必然性があるのだろうか。そういうのを経由しないと、何も語れなくなる。実際に語っていないではないか。語り得ないのであり、無理に語ろうとしていることも確からしいが、やはり語れていないようだ。いったい何を語ればいいのか。老人が何か言っている。それが君の興味の範疇には入らないことだ。だからつまらないのか。人はどこへでも行ってしまい、そこで暮らしている人もいる。別に大冒険の果てにたどり着いた場所ではないが、勝手気ままに引っ越しを繰り返しているわけでもなく、何かの成り行きでそうなってしまったのだろう。それでも人はそこで暮らしている。中には不平不満が心にたまって、そういう顔つきになってしまった人もいるらしいが、それは自業自得というものだ。中国からの亡命者がパリに暮らしているらしい。民主活動家のたぐいで、そこで小さなコミュニティでも形成しているのだろう。別にそれが敗残者たちの集まりだとは思わない。ただそういうことなのだ。どこへでも漂流していけるわけでもなく、何かの成り行きでそうなってしまったのだ。

 しかしそこからどう立ち上がればいいのか。別に誰がどこで立ち上がろうとしているわけでもなく、立ち上がれ日本とかいう政党を支援しているわけでもない。しかし小さな政府とはどういう政府だろうか。それ以前に自由主義とは何か。それにしても独裁者のカダフィ氏はしぶとい。人には独自のこだわりがあり、容易には譲れず捨てられないこだわりがあるらしい。それが他の人たちの邪魔をして、事は簡単には進まない。君にはそれがわかりすぎるくらいにわかっているはずだ。君にも譲れない一線というものがあるわけか。ともかく先行きが不透明で、容易には決断までこぎ着けず、そこに至るまでには様々な障害が待ち受けていて、君の行く先々で行く手を阻んでいるわけか。そして障害を乗り越えたり避けたりしながら、目的地を目指しているつもりが、途中から目的そのものが雲散霧消してしまい、どこへ行けばいいのかわからなくなり、困り果て、そんなことをしているうちに、薮から棒に躓いて、すってん転んだ拍子に我にかえり、その頃には当初に抱いていた目的などどうでもよくなって、またそこからわけのわからぬ回り道をたどりながらも、疲れ果てて、歩みを止め、歩くのが面倒くさくなり、立ち止まって辺りを見回しているだけで、いつしか傍観者のように振る舞っていることに気づき、これではいけないと思うのだが、相変わらず自分が何をやったらいいのかわからないままか。

 面倒くさがらずに、この世界から学ぶべきか。ただ漠然とそう思いたいのか。状況から絶えず学んでいるではないか。では具体的には何を学んだのか。どこへも到達しようとせずに、絶えずどっちつかずの中途半端にとどまり、そのままの状態を保とうとしているのだろうか。だがそれで何かを学んだことになるのか。何かとは何か。そう問いかけても答えを出さないようにしている。それも学んだことのひとつになるのだろうか。どうもそれらの共通していることは、とても肯定できるようなことではないということだ。否定はしないが肯定もしない立場など、いつまでもとり続けていられるはずもないだろうが、とりあえずはそういう思いでいるらしい。どう考えても答えを出してしまうとおかしくなる。実際にはっきり答えてしまった人はおかしくなっている。いつまでも答えを保持していると、その答えにとらわれ、そこで止まってしまい、どんどん置いてきぼりにされてしまうわけだ。絶えず変化できなくなり、状況にあわせて立ち振る舞えなくなって、やはりそこで終わってしまう。固定観念にとらわれた人は悲惨だ。要するに正しい答えにしがみつこうとしているわけだ。答えを持っていることで安心したい。しかし事はそんな簡単なことだろうか。それもひとつの答えであり、どうもそれが違うような気がしてきて、何か変な気分となり、そういう答えから次第に遠ざかりつつあることを実感して、またどこからともなくありふれた迷路が目の前に現れて、君を惑わし、そこで迷うことを強いるのか。たぶんそれでかまわないのだ。


4月10日

 誰かは遠い場所からどこかへ戻ってきた。あざとい物語的な話の展開に呆れているのか。たぶん感動はしないだろう。誰かがスクリーン上で謎解きの最中か。確かに映画だから、上映当時はそうだったはずだが、今はテレビ画面上でやっているはずだ。それも昨晩に解決したはずで、一夜明ければ、もう記憶の片隅からも追いやられようとしているエピソードに違いない。それをいくら大げさに語っても大したことではないか。画面上では簡単に人が死に、時間内に問題が解決して、そして終わり間際の大どんでん返しと相場が決まっていて、それ以外には何があったのか。いくらでもあったはずだが、思い出そうとしていないだけか。しかし現実の世界では問題が解決していない。人は簡単には死なず、大どんでん返しもないか。まれにはあるのかもしれないが、そう簡単に覆せない成り行きがあり、どうにもならないまま、延々と続く退屈な状況の中で、人はくたびれ、神経をすり減らし、次第に無気力無感動になってゆく、そしていつ何が起こっても、それがどうしたわけでもないと思うようになり、ただ目の前で起こっている現象を眺めるばかりになる。そうやって君はくだらぬ人間となってしまったのか。そうならそれでかまわないが、そうではないとしたら、今の君にはどのような可能性が残されているのだろうか。今それを語っているのは誰なのか。君ではないとすれば、他の誰なのか。誰でもかまわないはずだ。

 別に投げやりな態度に出ているわけではない。今日も現状を改善するために、あの手この手で努力していたではないか。だがそれと語ることとは何の関係もなさそうだ。では君は何も語りたくないのか。だから君が語るのではなく、誰かが言葉を記すのではないか。それが問題とはならないはずだ。そして問題とは無関係に、君はそこで何かを見届けようとしていた。何かの終わりを実感したかったのか。世の中は至って平和だ。そう思いたいだけなのだろう。たぶん人は簡単に死ぬ時もあるのだろう。現に地震による津波で大勢死んだはずか。それらの地域は復興しなければならないらしいが、何がそうさせるのだろうか。たぶん何かがそうなり、結果的にそうさせようとする機運で盛り上がってしまうのだろう。しかしそこで君は何を見ているのだろうか。それらの風景は何なのか。とりあえず君はそこから動こうとせず、ただ眺めているようだ。その身を取り巻くすべては日常の風景なのか。何に酔いしれているわけでもなく、ロマンを感じることもなく、ありふれた景色の中で目線をどこかに漂わせている。君は驚きたくないのか。なぜ感動とは無縁でいたいのか。何かだまされたような気になっているのだろうか。要するにすべてが拍子抜けのたぐいか。しかしなぜそれが馬鹿げていると思うのだろう。何やら冷めた思いで、何かを見つめているようだが、その何かが興味を抱くような何かではあり得ない。それはただの何かであり、何でもないといえば何でもないが、それでも何かには違いなく、たわいない何かであり、取り立てて語る必要のない何かなのかもしれない。

 では君は語る必要のない何かについて語ろうとしていたわけか。たぶんそこから外れて語ることはできないと思っているのだろう。だから現実に何かを語ろうとしているのではないか。たとえそれが語れない何かであっても、語ろうとすることはできるのであり、結果的に語れなくても、そこに至る語りは確かに記されているはずだ。それがこれなのか。何か馬鹿げていないか。君にはそれがわからず、誰にとってもよくわからない内容となり、それでも誰かが何かを記そうとしており、それがこれなのだ。そうでなければ、何も語れなくなってしまうだろうか。そういう仮定の話ではなく、現実に何を語っているかが問題となっていて、それをはぐらかすわけにはいかなくなっているようで、本当に語らなければならないことを語ろうとして、果たせずに終わり、結局その代わりに、何を語っているのかもわからないようなことを語り、それで当面の間に合わせとしたいのだろうが、間に合うわけがなく、たぶん馬鹿げたことだと感じられ、そんな語りを放棄したくなるようで、実際にやめていた時期があったのかもしれず、それが架空の期間であろうとなかろうと、何となくそんなことを思いつつ、それらの空疎に歯止めを利かせられないようで、馬鹿げたことの続きとしてそこに記された言葉の連なりから、何をつかみ取ろうとしても、明確に述べられている箇所などどこにもなく、そんなわけで君はそれについて語るのを断念せざるを得ず、また間に合わせでいい加減なことを述べているようだ。そういうところでは君はまったく懲りていないようで、ここぞとばかりに見え透いたごまかしを多用して、何かを煙に巻きたいのだろうが、その何かが何だかわからないのだから、そう述べている時点で失敗しているのだ。


4月9日

 今日は言葉を記せるだろうか。意味がないではないか。もう夜だ。いつものようにやる気がしないのだろうか。それは毎度のことか。確かに毎度のことだろうが、何とかしなければならない。だが今日はちょっと無理ではないのか。こんなことを語っていること自体がおかしいか。では何か別のことを語らなければならない。人は何に執着しているのか。君は何をあきらめてしまったのか。何かを見損なっているのかもしれない。すぐに動かなくなる。それが機械だからか。理由などあり得ず、面倒くさいから意味を担うこともない。そんな語り方ではだめなのだろう。勘が乱れ、先が見通せなくなり、それが違うと思うようになり、ますます迷ってしまい、もう何が何だかわからなくなってしまうか。しかしそれでも勘は勘だ。なぜかそれに頼ってしまい、結果として取り返しのつかない過ちを犯してしまうわけか。君は何に甘えているのか。そうなってしまった結果に甘えているのだろうか。どうもそんな気はしないらしく、最終的にはうまくいきそうに思えてきて、さらなる過ちを犯してしまうのだろうか。それでかまわないのだろうか。たぶんはっきりしたことは何もわからず、どうにもならなくなって初めてそれに気づくのか。わからないが、どう考えてもおかしく、そのおかしいと思う感覚に従えば、その判断は過ちではないように思われ、それは正しい判断だったように感じられ、やはりその判断を信じて、それ以降はうまく事を運ばなければならないと思うしかないようだ。だからそのままの感覚でいるつもりなのか。

 別に開き直っているわけでも、投げやりになっているわけでもなく、事ここに至ったそういう成り行きに乗って、そこから後戻りができそうにないように思われ、もはや覆す事が不可能な段階にまできてしまったのではないか。だからこうなってしまったからには、そのままの流れに従うしかないだろう。下手に逆らっても、さらに傷口を広げてしまい、致命傷に至りかねず、やはりここから引き返すのは無理だ。だからこうなってしまったのではないか。それを無視して、あるいは水に流して、関係を元通りに修復するなんてできっこないように思われ、信頼を失ってしまうことがいかに深刻な事態なのか、身にしみてわかったような気がする。しかしなぜそれほどまでに不用意なのか。人はなぜ取り返しのつかない欠陥を抱えているのだろうか。社会の構造がそういう人を作り出してしまうのだろうか。しかし勘とは何なのか。君はそんなあやふやな感覚に左右されて判断してしまい、しかもそれを信じている。君はそれが何をもたらしたのか知っているはずだ。要するにここに至ったわけか。そして意識はフィクションの中へと落ち込んでゆき、眠りの中で目覚め、何となく何かを想像しながら、虚無はそんな嘘をついている誰かを軽蔑しているわけか。君ならどうするのか。もはや意味不明では済まないと述べていたはずだ。

 何か感じていないか。揺れているのは何かの地震が原因なのだろう。だがそれは過去の記憶ではないか。テレビを見ていたら何かを心理的な洗脳広告に出くわし、その力に逆らう術を身につけていることに気づき、たぶん人の感情に訴えかけてきているのだろうが、そのかすかな洗脳力が何かを考えさせないようにしているらしく、それによって正しい認識から遠ざかるように仕向けているのではないか。だが本当に君は逆らえるのか。何に逆らおうとしているのかわかっているのだろうか。君は神に逆らうつもりか。フィクションの中ではそういうことになっている。そしてその身を滅ぼして、その後はどうなってしまうのだろう。その後があるとは思えないが、なぜか話はその後にまで続いてしまい、不在の君をどこかに置き去りにしたまま、誰かがそこで語っているらしい。いったい君はこの世界のどこで死んでしまったのか。今さら自らの死を悔やんでみても仕方がないか。笑っている場合ではないだろう。君は死んでしまったのに笑っている。それはそこに横たわっている屍が君のものではないからか。では君はどこへ行ってしまったのか。最初から不在だったのではないか。君はそこで黙って見ていたはずだ。何を見ていたのだろう。それはただのテレビ画面だったはずで、画面に映っていた映像に取り立てて興味はなかったはずだ。そこに何か隠された暗号でもあるのだろうか。それは映画の見過ぎで、書物の読み過ぎではないのか。


4月8日

 なぜそれについて語らないのか。語りようがないから語らないのか。たぶんどうしたわけでもないのだろうが、それでも人はくだらないことにこだわり、そうするあまり他のことがなおざりにされ、気がつかないうちに窮地に追い込まれる。それと気づかず出口を見失い。たわいない仕掛けにだまされ、結果としてとんでもない遠回りを強いられ、あげくの果てに寿命が残り少なくなっているわけだ。君には死ぬ手前でそれに気づこうとしているのか。そうではないと思いたいのか。その割には必死さが足りないのではないか。ではもっと悪あがきをした方がいいのか。それが無駄だとわかっているなら、黙ってそういう成り行きを受け入れるべきではないのか。そうだとしても、なおのこと手遅れの感を否めない。何をどうやってもそこから逃れる術を知らず、知らない割には平然と知ったかぶりをして、何か方法があるかのごとくほのめかし、虚勢を張りながらも、内心びくびくしているのだろうか。何はともあれここまでやってきた。だがそこから見渡しても、見慣れた景色以外は何一つ興味を惹かず、つまらないことにかかりきりで、感性をすり減らし、外界からどんな刺激を加えられても無反応を装い、そんなねじれた心を正すこともできず、さらにどうにもならないような状況の中で、何をしようとも思わず、それでも何とかなると楽観しているのだから、おめでたいのだろうか。そうかもしれないが、それでかまわないと思っているのだろう。

 それで立ち直るきっかけをつかんだつもりになる。なぜ立ち直らなければならないのか。そのままでもかまわないのなら、無理して立ち直ろうとしなくてもいいのに、なぜか無理に前を向き、そこから歩みだそうとしている。そんなのは嘘に決まっているか。そうだと一安心なのだが、そういうわけでもなく、やはり何とかして現状を打開しようとしているようで、実際に何か語り始めているようだ。この世では何がどうなればいいのか。たぶんそれがわからないところだ。笑ってばかりではごまかしているのと同じことか。少なくとも何か斜に構えて、皮肉を言うことはできそうだ。それではだめなのだろう。君は匿名性の中に埋もれ、どこで何をやっているのかわからない上に、何かはっきりした主張も持ち合わせていないらしい。人はこの世界に何を望んでいるのだろうか。しぶとい人間はいくらでもしぶとく生き残ろうとして、その人が生き残るために犠牲となった屍の上であぐらをかき、そうしていることの正当性を声高に叫び、ことある度に盛んにそういう自己主張を繰り返す。いつかなる時でも自分が生きている限りは、自分がこれまでに行ってきたことは正しい。その何よりの証拠は、自らがこうやって生きているということだ。そして生き残るためにはこれからも手段を選ばず、自分のやり方を貫き通して、自らの正義を主張し続け、歯向かってくる奴は容赦しない。どこかの国の独裁者なら、そんなことを思っているのだろうか。

 君はどうなのか。何かうまいやり方でも思いついたのか。それより今やっているやり方のどこがまずいのか。あくびをかみ殺しながらも、何となく自らの力に限界を感じていないか。退屈なのだろうか。なぜそう思うのか。思っていることにとりとめがなく、ただ漠然とそう思っているだけのような気がするが、それは制御不能の心理状態か。心はどんな物語も受けつけず、すべての話を馬鹿にしたい傾向にあり、何とか従来からある紋切り型に当てはめようとして、それで一件落着としたいらしいが、そこからこぼれ落ちる話は無視してもかまわないのだろうか。いったい何がそうなのか。具体的に語ることはせず、ひたすら何を馬鹿にするつもりなのか。別にできないことをやろうとしているわけでもないだろう。要は自らのやりたいことを明確に示せばいいだけか。だが相変わらず何をやろうとしているわけでもなく、どこかで何かを見物しているだけのようで、要するにテレビを見ながら暇つぶしの最中なのだろうか。仕事以外ではそうか。ならば人はなぜそうしているのか。君は違うと思いたいのか。それに関しても明確な答えがない。漠然とした問いかけには答えようがなく、それが漠然としていることで、何かをごまかす余地が生まれているわけか。しかし何かとは何か。その何かがごまかしている当の何かなのではないか。君はそれが何だかわからないと思っているようで、あえて答えを出さないようにしているのではないか。出したくても出せないのかもしれないが、ともかくどこまでも見物人でいたいようだ。


4月7日

 ところで君の目は節穴か。それでいったい何を見逃してしまったのか。わざと見逃しているのかもしれず、見て見ぬふりをしているのかもしれない。だがそこから何がどうなってしまったのか。至って平静を装い、何ごともなかったかのように振る舞い続け、そんなことはもう忘れているように思われ、本当は忘れるはずがないのだろうが、それでも知らぬ存ぜぬを押し通し、記憶にないという台詞を連発して、何やらその場を丸く収めようとしているのかもしれないが、いったいそれは何の話なのだろうか。また君には関係のない話なのか。それとも今回はそうもいえず、全面的に関係のある話か。まだ何を話しているわけでもないだろう。あるいはここまで話しておいてそれはないか。では何をここまで話したのだろう。実際にくだらないことを話していたかもしれないが、今となってはその内容までは思い出せず、取り立てて何について語っていたわけでもなかったようにも思われ、ただの世間話といえばそうかもしれないが、何となくその辺でその話についてはやめたくなってきたようで、もういいのではないかと思い、後から思い出せば、そんなことを話していたかもしれないと思えば、それでいいような気がしてきて、それ以上の詮索は勘弁してほしいとでも思っていれば、それで済んでしまうようなことなのか。相変わらず具体性に欠けるらしく、何かをうやむやにしたまま、何とかその場を収めて、それで一件落着にしたかっただけではないか、と当時のことを思い起こして、そこから先に続くはずだった言及をやめてしまう。

 結局どこまで述べても話の核心には至らず、そんなわけで当面は差し迫った問題とはならず、そのまま伏せておいても、気にならないようなことだろう。だがどうしてそんなことを語っているのか、その理由が定かでなく、何かの手違いからそういう方向へ言葉を連ねてしまったのか、その辺がよくわからないのだが、何となくあやふやなまま行き詰まる前に、どこかで方向転換して、語りやすいことを語っているようにしたいのかもしれないが、なぜか実際にはそうなっておらず、まだ延々とそれらの雰囲気を引きずっているようで、言葉を記していくうちに嫌になり、何かをいったん中断してしまいそうになるが、別にそこで思いとどまる必要はないか。まだそれについて語ろうとするなら、また別の機会があるような気がするが、なぜか迷っているようで、現実に迷いながらも、急に胃が痛くなり、何か語ってはならないことを語り始めていることに対する警告というわけでもないのだろうが、それについて何か思い当たる節でもあるのだろうか。その辺で君は調子に乗りすぎているようだ。少しは力を温存しておかないと、後でネタ切れとなってからでは、事態の収拾がつかなくなってしまう。しかしそれほど危ない橋を渡っているとも思えず、また石橋を叩いて渡るほどの用心深さが求められているとも思えない。では今から君はどうしたらいいのだろうか。それは君自身が判断することで、言葉を記している誰かに尋ねられても、迷惑なことか。

 何かおかしくないか。とりあえず何かがおかしいだろう。だがおかしいと思っても、そのおかしさを正すことはできず、おかしいままに、さらなる言葉が連なり、どうにもこうにも後戻りができないほどのおかしさが、そのまま記され、何ごともなかったかのように読まれ、次いで平然と忘れられ、そのままとなってしまうようだが、なぜそのおかしさがそのまま放置されるがままになってしまうのか。君はそうなる理由でも探り当てたのか。それがわからなければ説明しようがない。だがそこで何を説明したらいいのか。何がおかしいのかを指摘できていないのではないか。ではいったい何がおかしいのだろうか。そんなふうに語ることのおかしさが、理解できる範囲内でおかしいのだろうか。たぶんその辺で行き詰まりかけているのかもしれないが、なぜかかまわず語り、その語っていることについてさらに語り、もう何がおかしいのかわからないように語っているのかもしれず、あるいはわかっていながら、あえてそれを無視しながら語っているのかもしれず、そんなふうに延々と語っていることについて、たぶんそれがおかしいのだと思い当たるのだろうが、実際に言葉を記している誰かにとっては、それがどうしたわけでもなく、どうもしないまま、さらに言葉を連ねて、そんなふうにして記された文章を無表情で眺め、何の感慨にも至れないようだが、果たしてそれでいいのか。良くはないだろうが、そんな現状を何かの病として片づけるわけにもいかないようで、何をどう捉えたらいいのかわからないが、とにかくそんな結果がもたらされ、それで何を惑わしているのでもないだろうが、今に至っても何をどう考えたらいいのかわからないようだ。


4月6日

 誰かに見てほしいのだろうか。高級な何かを所持している人は、それを他人に見せびらかしたいのかもしれない。電車の中で見かけた銀縁眼鏡の若者は、仕立て屋で仕立ててもらったらしい太いストライブでポケットが余分についた明るい色のスーツの襟には、弁護士か何かのバッチをつけ、左手の薬指に結婚指輪をして、右腕にロレックスのデイトナを巻き、時計の秒針は十二時の位置に固定しておいて、代わりにクロノグラフの六十秒計を回している。当人は意識していなくても、端から見ればこれ見よがしだと思われても仕方がないか。まあ地方の農村で農家のおじいさんが運転している白い軽トラの新車と同じ値段の腕時計をしていると思えば笑ってしまうだろうが、どうせ銀縁眼鏡の若者なら、それの十倍くらいするベンツかBMWかレクサスあたりを乗っているのだろう。そこから思い出してしまったのだが、山奥に大規模な産廃処分場を持っていて、何もしなくても毎日金ががっぽり入ってくるという噂の建設会社の社長さんは、常時数カ所の道路工事現場や養鶏場とか養豚場とかの建設現場を抱えていて、新車が出る度に買い替えているベンツやレクサスを運転しながら、毎日現場視察にやってきて、それが今日はベンツで明日はレクサスという具合に来るので、現場の人にはやはりこれ見よがしなんだろうなと思われていた。さらにそこから思い出してしまったのだが、かなり大規模な養豚場を経営している人がいて、その人はフェラーリとかジャガーとかを持っているという噂で、一時期その県のフェラーリ会の会長をやっていたとかいう話を聞いたことがあるが、その人もこれ見よがしな人だと見られていて、当人はどこかの経営セミナーのたぐいで、何やら慈善事業に多額の寄付したとか宣伝したりして、一方で成功者に対する嫉妬心もあるのだろうが、その人の強引な会社経営が災いしているらしく、陰では悪評が絶えない。

 人は誰でも社会の中で自分の存在を認めてほしいと思っている。できれば社会的に成功して、その成功を他人から妬まれるほどの存在として、周りの多くの人から認めてもらいたいのだろう。それは恐ろしいことだろうか。それとも虚しいことなのだろうか。実質的に成功しているのだから、虚栄心に支配され、我を忘れているともいえないだろうが、自分が限られた一握りの者にしかできないことをやっているという実感を抱いていて、何やら優越感に浸っているのかもしれない。まさか君もそうなりたいのか。それともあきらめて地味な人間として普通に生きたいのか。それ以前の問題として、人をそういう価値基準や評価尺度に当てはめるのが、そもそも大きな間違いか。どうもあまり積極的に人そのものを評価したくないのかもしれず、誰が金持ちだろうとブランド病だろうと、そんなことは人それぞれでかまわないのではないかと思うが、やはりあからさまに高級ブランドなどを身につけている人を見てしまうと、心の中で笑ってしまうのは、そういう人を馬鹿にしながらも、内心うらやましがっていることの裏返しだろうか。

 しかし変だ。あからさまではなく、何かさりげなく自然にフィットするようにならないものか。たぶんそう見えてしまう人は、まだ何か不自然に感じられてしまうのであり、身につけている高級ブランド品が身の丈に合っていないから、これ見よがしに見えてしまうのではないか。ではどうすれば自然に見えるかといえば、言葉を記している誰かはそういうたぐいの人間ではなく、そういう人とも親交がないから何ともいえないようだが、この人なら高級ブランドを身にまとっていても、また高級自動車に乗っていても、何か当然であり自然に見えてしまうような人が、世の中にはいるのではないか。それは金持ちであってもなくてもかまわないのかもしれず、人として気品が感じられる人がいるとすれば、たぶん何を身につけていようと、どんな車に乗っていようと、それがごく自然に見えてしまうのかもしれない。そしてそういう人を見ても、心の中で笑ったり馬鹿にしたりしないだろう。まあそれも成金趣味と紙一重なのかもしれないが、その紙一重分が、笑われたり馬鹿にされたりするか、あるいは尊敬されたり憧れられたりするのかの差となって、どちらに転ぶかはその人の心がけ次第ということか。そんなわけで何となくわかったようなごまかしのような結論となってしまったが、それを記している当人にとってはあまり関係のないことかもしれず、これからもそういう方面で判断される人間にはなりがたいような気がするのだが。


4月5日

 黙っていると心の片隅である疑念が湧いてくるか。君にはまだこの世でやるべきことが残っているのだろうか。それが誰に当てはまるわけでもなく、誰の使命でもないことをやれというのか。そうではないと虚無が答えるが、そんなものなど存在するわけがないと思い、また何かの虚構が空想上で生じていると感じられる。それも何かの嘘だろうか。しかしそれで工夫を凝らしているつもりか。その辺の意図がわかりかねるが、要するにまともな内容ではない。そんなことだけでは確かなようで、それではだめだと思いつつも、一方でそれしかできないと半ばあきらめ気味に感じるが、いくらその手の技巧を凝らしても、不自然な文章であることは免れようがなく、たぶんそういう奇形的な趣をどうとらえても、やはり否定するしかないか。肯定できるまではいっていないのだろうし、そういう水準に達していないように思われるのだから、そう読んでも肯定しようがない文章となっているわけか。それでもまだこれからだと思っているのか。何かの保険に入っているわけでもなく、このままの水準で何が維持される保証もなく、そんなことを述べるべきではないのかもしれないが、ともかくそれを前向きに語る気にはなれないようだ。それとは何なのか。それはさっきまで思っていたことなのだろうか。だからそうではなく、もう全神経を集中させる時間帯ではないということか。またおかしなことを述べようとしているが、どこかで間違えて期待外れに終わりそうで、そんなふうに語るのはやめにしようと思う。またそんな嘘をつく。

 まったく意味がないだろう。それでも少しは意味があるか。そう思うなら、もっと肯定的にそれらの文章を捉えてみたらどうか。たとえ内容がなくとも、少しは何かを語っているはずで、その少し語っている何かについて説明してみたらどうか。いったい何を語っているのか。他人はそこから何を求めているのか。それを想像してみると楽しくなるか。何かためになるような内容を求めているのかもしれず、それがおもしろかったらなおのこといいのか。だがおもしろくてためになるようなことを誰かが語れると思うか。語れなくてもかまわないが、現実の語っているそれは何なのか。人が地上のどこかでうごめいている。その人の胸の内にあるものをさらけ出そうとはせず、ひたすら動き回り、何かをやっているのだろう。むき出しの地面ではアリがエサを求めて動き回り、人の群れも途中はアリよりは複雑な動きをするが、最終的にはエサを求めて動き回っていることになるのか。そんなふうに語るのはおかしいだろうか。ならば人が求める利益とは何だろう。幻影のたぐいか。ダイヤモンドダは石ころで、金は金属で、紙幣は紙か。そこに意味があり価値があるのではないか。だが話が短絡的すぎる。もっと何か人の精神に訴えかけるような意味や解釈の広がりが欲しいところか。それを簡単に語ろうとしてはまずいのか。ならば人は愚かだ。理由もなく愚かで、生きていること自体が愚かで、自死することも愚かだ。何から何まで愚かなのか。

 雑なことを述べているうちに眠たくなってきたか。限界を打ち破ろうとして、そんなことを述べているのではない。むしろそれは怠惰の延長上にあり、他の動作を打ち消すためにあえてそんなことを述べているわけか。ではどうしたらいいのだろう。何に期待しているわけでもなく、たまたま気まぐれで目を閉じて、闇の世界を体験する。それが闇なら、闇に何の意味もありはせず、それで何が気休めとなっているわけでもないが、とりあえず今日は暖かいことに気づく。何がどうなってそうなったとも思えず、ただ言葉が勝手に並んで、それが文章だと思うなら、そんなやり方を肯定すべきなのか。それならそれでかまわないのかもしれず、積極的にそんなことをやり続け、気がつけばそんな文章が形成されていることになるだろう。でもそれは無駄で無意味な行為のたぐいか。それでかまわないというならそういうことだ。そこには何かの限界があり、ただの好き嫌いで物事の存在を肯定したり否定したりするのも、それと同じことだろうか。例えば複雑な機械設備ほど不気味な存在感を伴い、それが何のたとえにもなっていないと思われるが、絵画であれ文章であれ、たゆまぬ努力によって生じた複雑怪奇なそれは、何か得体の知れぬ荘厳さを身につけ、誰かの空想をかき立てる何かがあり、君はそれを求めて世界中を行ったり来たりしたいのかもしれないが、実際にはそれができておらず、どこかの狭い地域に行動を限定され、やむなくそこから、テレビやインターネットで何かを探ろうとしているのではないか。それで何が見つかったというのか。現実には何も見つかっていないのではないか。


4月4日

 ここまできてやる気がしないのか。無理もない。わからないからそう思ってしまうのか。何かがなじんできたのだろうか。だが君にはそれがわからない。この先どうなっていくのだろうか。何を利用しようとしているのだろうか。君にはわからない。だがそれをわかりやすく説明したくない。今世の中はどうなっているのだろうか。本気でそう思っているわけではなく、何を問いかけようとしているわけでもない。問わなければ生きていけないわけでもなく、黙っていても昼間は仕事をしているはずか。くだらない行為に対する感性が鈍っているのだろうか。ところで明日は気温が上がるそうだ。そんなことを知りたいわけではない。途中で眠ってしまって、その先は明日記していることになるのではないか。そうなったとしても、それでかまわないと思いたいのか。かまわないなら正気ではないか。別そうであろうとなかろうと、そんなことは関係ない。では何なのか。そんなことは語らなくてもいいというわけか。そう思ってもらってもかまわない。君がどう思っても、その先には君とは無関係な言葉が連なり、君を落胆させるでもなく、何かを迂回するように、そこから話が進んでいくだろう。そして君は黙ってしまい、何を思うこともなく、その場を立ち去り、去り際に適当なことをつぶやき、その内容がどこに記されることもなく、誰がどこで何をつぶやいたのかも忘れられ、何ごともなかったかのように、それらの風景の中に誰かの消失点が示されるわけでもなく、何でもないという表現形態があらわになることもない。

 それがどういうことでもないのはわかりきったことかもしれない。君に何を期待していたわけでもなく、何を語らせようとしたわけでもない。何かが中だるみに陥っているかもしれないが、そんなことは気にせず、誰かは黙々と言葉を記し、文章を構成しているつもりらしく、そんな自己言及などものともせずに、強引に話を進め、何が話なのかもわからないままに、そこから先を語ってしまえるわけか。そう簡単にいくとは思わないが、簡単にそれを継続させようとして、またごまかしに手を染めてしまうのか。それでも言葉は言葉で、文章は文章だろう。気に入らないらしいが、どうすることもできず、記された言葉の連なりを読むしかないだろうか。要するに黙らせるわけか。何をそうさせるのか。もう手遅れなのは周知の事実か。それはもはや今ではなく、過去の時点となり、そこまでさかのぼれないから、もはや手遅れと判断するしかないのだろう。すでにそういう前提そのものが織り込み済みであり、それをふまえた上で、さらなる語りを繰り広げる必要が生じている。しかしそんなことを述べながらも、なぜか笑ってしまうのであり、どうしても深刻ぶることができず、もう何をどう語ってもかまわないのではないか、と思ってしまう。たとえ空疎だろうと虚無的だろうと、とりあえず語っていればそれでかまわないのではないか。だがそれでは元の木阿弥だ。せっかく何か改善を施そうとしているのに、一夜明ければどうでもよくなってしまう。

 そしてまたいつものように言葉を記して、どこかで行き詰まり、このままではいけないと思ってしまうのだろう。それは予定調和の成り行きか。そう思うなら、何かそれとは違う成り行きにしようとすればいいだろう。実際にやっていることがそれか。それ以外には何もなく、そういう語り方そのものが予定調和のワンパターンであり、そこから抜け出すのは至難の業か。では抜け出すのをあきらめるつもりなのか。ならばそれでもかまわないのではないか。どうやっても君にはできないことであり、できなければそれでかまわないと思うしかないか。それならそれでかまわない。だからそういうふうに述べているではないか。すべてがそんな案配で進行していくだけで、それ以上はいくら語っても状況が変わらず、相変わらず自己が語っていることについて語るという自己言及に終始するしかない。君はそこから抜け出られないのが苦しいのか。かえって居心地が良くなっていないか。考えてみれば、それ以外は何も語っていないのだから、こんなに楽なことはないような気がするのだが、なぜそういう語りを自己が嫌悪するのだろう。どうしてそれではだめなのか。そんなことはわかりきっていると思われ、わかりきっているからこそ、なおのことをそうならざるを得ず、さらにうんざりしてくるのだろうが、一方ではそれでかまわないと思っていて、それは矛盾しているのかもしれないが、やはり矛盾していてもかまわないと思ってしまい、結局は何をどう語ってもかまわないとなってしまい、それが元の木阿弥であることを証しているわけか。


4月3日

 何とかしなければと思いつつも、何もできずにお手上げ状態か。だがその余裕は何なのか。本気ではなさそうに見える。なぜ焦らないのか。いくら焦っても、急ごうとしても、そこへとどまり、回りの風景を眺めている誰かが動こうとしない。一向に懲りる様子もなく、相変わらずそうしている。もう夜だろう。何かがずれていないか。電波時計がずれているのは、電波を発信している場所が福島にあり、原発事故で人が避難して閉鎖されてしまったからか。そういうことではなく、君の感覚が何かおかしく、通常とどこかずれているのではないか。たぶんそうではないと思っているのだろう。誰かが歌っているブルーセットを聴いている。それの何に感動したわけでもないだろう。ではただの事後報告か。確かに昼間は仕事をしていたはずで、そこで何かのこつを会得しようとしていた。はげたおっさんと髭もじゃの若者がニヤつきながら見つめ合う。それが何を意味しているのだろうか。もう当たりかまわずでたらめとともに言葉を連ねて、何を装うつもりなのか。それは達観しているのではなく、やけくそでやっていることではないか。誰の批判にも当たらない。君にとってはそれで十分なのだ。語っているふりをしていればいい。あきらめるのは簡単なことだが、あきらめきれずに努力するのも簡単なことだ。だから誰かはあきらめながらも、無駄な努力を繰り返し、さらに悪あがきをしているつもりで、本当は冷静沈着でいる。いったい君は何をあきらめてしまったのだろうか。またそんな嘘をついて自らの意志をごまかすつもりか。本当はどうでもいいなんて思っていないのだろう。そう思っているふりをしながら、何を狙っているのか。

 どこかで誇大妄想を溜め込んでいるのかもしれない。溜め込みすぎていつか破裂する危険性でもあるのだろうか。魚はどこを泳いでいるのか。川か海か。では君はどこを泳いでいるのか。なぜかさっきまで居眠りの最中だった。やはり話とは無縁の言葉の連なりとなっている。しかしそれの何を話す必要があるのか。どこまで話したのかわかっていないようで、何も話していなかったような気もしてくるが、たぶんそうではないのだろう。どこまで無駄な努力を繰り返すかが問題なのか。そうでもないと思っている。きっかけをつかんで、タイミングよく言葉を連ねることが重要なのではないか。まったく間違っているだろうか。話の内容が問題なのであって、興味を抱いていることを素直に語ってみせることが肝心なのか。しかし本当はそれらのどれにも当てはまらないと思っているのではないか。無駄であるだけでかまわない。空疎なだけでもかまわない。常にそれを否定していれば良いのか。それとは何か、と問うことが肝要だ。またそんな嘘をつきながらも、あまり本気に受け取っていないようだ。やはりそんなことはどうでもいいのだろうか。何に感動しているわけでもなく、ありふれたことを思っているだけか。そうかもしれず、そしてさらに無駄なことを記さなければならない。しかしそれがいつまでもつだろうか。何が崩壊寸前なのか。君がそう思っているわけではなく、たぶん誰もそうは思わないだろう。

 君は相変わらずそこから外れて、別のことを語ろうとしている。それとは別のことか。だから今さら何を述べても無駄で、述べれば述べるほど何かが空回りする。君にはそうなることが前もってわかっていた。予測がついていたはずか。では何に関してそうだったのか。どこかで風に吹かれて風車がからから音を立てて回り続ける。そんな光景を空想しながら、それがどんな話の断片だったのかわかりかけている。それは鳥葬か何かの光景だったかもしれない。テレビカメラは見せてはならぬものを映してしまったのか。そういうことを語り始めると興味を抱く人もいるらしいが、あくまでも断片は断片のままで、鳥にとっては死体も食料のたぐいでしかない。そんなわけで何かがねじ曲がって、急におかしな具合となってしまい、その辺でやめておきたいのかもしれないが、君はそこで戸惑い、その代わりに読んだつもりの漫画の感想でも語ろうとしている。たぶんどこかの架空の地域で何かが行われ、宗教だとか、スポーツだとか、政治の話だとか、どこかのアナウンサーが用意された原稿を読み上げ、それが誰かの頭に響き、それらの何に反発するでもなく、他に何を語っているつもりでも、テレビから背を向け、窓の外の闇を凝視するでもなく、どうせ興味のないことを語っている自らが、この世界から疎外されているとでも思いたいのだろうが、それが何の勘違いなのかわからず、他に何を真に受けたらいいのかもわからず、ただいつもの夜に音楽を聴いているだけのようだ。


4月2日

 こんなはずではなかったか。そう思うなら、もっとマシなことを語ればいい。それにしても今月はさらに遅れてしまう気配となってきてしまったようだ。数日後の外は冬型の気圧配置で、晴れて風が強く吹いている。世の中は難儀なことだらけだが、ひどいことはひどいこととして、ひどい理由があるのだから、何とかそれを改善していかなければならないのだろうが、一朝一夕にはできないことが多く、それを何とか少しずつやっていくしかなく、時間がかかるようだ。忍耐と根気を要するようなことばかりか。そうだとしても、やらざるを得ないような成り行きとなり、途中で何もかも放棄して、どこか遠くへ逃げ出したくなってくるかもしれないが、まあそうなったら、その時にそれも選択肢のひとつして考慮するしかないか。しかし君は何を考えているのだろうか。要するにそんなことをいくら述べても何も埒が明かないか。何を語るかではなく、実際に何をやるかが問題で、何もやらずにいくらやりたいことを語っても、それは意味のないことか。だからそういう話ではないだろう。何かその辺で思い違いがあるだろうか。わざとそうしているのではなかったか。それを思い出して笑っているのは、架空の意識がそうしているからだろうか。それともそんなことを述べているうちに、話の内容を把握できなくなってきたのか。君が馬鹿げたことを述べようとしている。そしてわけがわからなくなるらしい。

 どう述べてもそこから意識が外れてしまうようだ。それでも無理に言葉を記そうとすれば、わけのわからない言葉の並びとなり、文章が意味不明となってしまい、行き詰まってしまうわけか。またそんな嘘をついて、何かを述べることから逃げてしまうのか。たぶんその意識的に逃げている何かが、今語るべき何かなのだ。またそんな見え透いた嘘をついてしまうところが、語るべきことが何もない証拠となってしまうのか。依然として外は晴れていて、何も思わせないように強風が吹き荒れている。そういうことではないだろう。ではどういうことなのか。このまま何も起こらなければ、何も語ることがない状態が続くわけか。そうかもしれず、君はそこで黙るしかないのかもしれない。外界で何が起ころうとも、君には関係のないことなのか。たぶん君が求めているのはそういう状況ではなく、何かの事件に巻き込まれ、後からそれについて語りたくなるような出来事を体験することなのか。それではあまりにも他力本願だ。そうなることは滅多になく、そう都合よく興味深い出来事に遭遇することもない。だからそれをフィクションで補うことが求められ、誰もがおもしろおかしいことをねつ造しようとするわけか。君もそうすればいいではないか。君はそれをやろうとしないばかりか、なぜかつまらないことを延々と述べようとするのは、どういうわけなのか。わけなど何もなく、ただその場の流れで述べていることが、たまたまそういうことでしかないのだろうか。今はそれしかできないのなら、そういうつまらないことを延々と述べていればいい。

 どうやらさらにつまらないことを述べようとしているらしい。そんなふうに語っている時の君は執拗だ。外ではカラスが鳴いていて、晴れて雲もほとんどない空にアクセントを加えている。さっきまでは風に吹かれて空ばかり眺めていて、それも嘘だと思うが、そういう光景を想像しながら、何も思わず、遠くに見える岩山のさらに向こうに久しぶりに八ヶ岳が見えていること思い出し、風の音を聞きながら、そちらに目をやるが、今は霞んで見えなくなっているようだ。しかしそんなことを語っていること自体が、何だか語ろうとせずに語っていることのようで、何かの間に合わせでそんなことを述べている感が強く、たぶん読む人を欺いているように思われ、心苦しくなり、何かもっとマシな内容にしなければと思いつつも、気がつけば不意に風が止んで、静けさの中に意識があるように感じられ、そういえば最近は停電とは無縁で、風邪で体調を崩してからは、まともに言葉を記していなかったが、ようやくある程度の長さにまで言葉の連なりを延長できる感触を得て、ここから何か適当に述べて、それふうの内容にできるような気になって、そうやって自信を取り戻し、うまく立ち回って何とかしたいのだろうが、現に記していることといえば、こんな具合で、まだ何かにはほど遠く、何となくその辺で自己嫌悪に陥っているのだろうが、たぶんそれでいいのではないか。どうやら少しはやる気になっているようで、それを前向きに捉えて、何か気が利いた作り話でもねつ造して、その場の間に合わせとしたいようだが、果たしてそこまでたどり着けるだろうか。その気になれば何とかなるはずか。しかしその気にならなければどうしたものか。


4月1日

 何を理解しているのか定かでないが、今回は割とスムーズに事が運んだらしい。そう思うならそれに越したことはない。だがそれもつかの間のことだ。やがて何かがおかしくなるだろう。誰かはその時がくるのを待っているのか。待ちくたびれて飽きてしまうだろうから、その必要はない。ならば君はどこに隠れているのか。意味がわからなくなるか。何かの内部で葛藤があるらしく、何とか普通の言葉の並びにしたいようだ。だからそれが無理だから困っているのではないか。誰が困っているのか。わかっているのはそんなところだ。だからあまりヒステリックになってはならない。追求すべきはそこではない。ではどこなのか。それがわかったところで、その気にはなれないだろう。どうせまた途中で飽きて、心が外れてしまうのか。きっとどこかで浮遊しているはずだ。もう眠ってしまったらしく、いつものように翌朝に目覚め、何を思ったか知らないが、そこで昨晩の眠りを振り返る。そんなはずがない。そう思い、まだ夢の中から意識が抜けきれていないことを実感する。だからそんなはずがない。また嘘をついているのだろうか。嘘ばかりではごまかしがきかなくなる。そう思えば合点がいくだろうか。だが変に話のつじつまを合わせようとしても、そこに話などないのではないか。そう思えばそんな気がしてきて、無駄に言葉を並べている誰かをそこで消去してしまいたくなるが、シュールレアリスムではないのだから、何を狙ってそうしているとも思えず、何とか普通の何かに言葉の連なりを近づけようとして、かなりおかしくなってしまった言葉の連なりを、今一度再構築しなければならないと思うようになる。だがその辺で軌道修正が利くだろうか。たぶん無理だろう。

 やってみたらいいのか。何だか知らないが、こんなふうに述べていること自体をやめて、もっと自然な感覚で言葉を記したらいいのか。それがなかなか難しいところで、気がつけばこうなっているのをやめられるわけがない。そう思うと何だか言葉を記している現状がおかしな具合になっていることが明らかになり、かなり意図的な工夫をしないとどうにもならないような気がしてくる。君にそれができるだろうか。まずはそう問うのをやめる必要がありそうだ。だがすでに問いすぎているではないか。無駄に問いすぎているというのか。だがそうしないと文章にならない。笑っている場合ではない。どうやら君は記された言葉の連なりを話にするつもりがないらしい。君はいつ何時でも傍観を決め込む。それしかできないのだ。それしかできなくて苦しいか。何を苦々しく思っているのか。安易な言葉の選択が何を招いているのだろう。話を見えなくしている。意図して何を隠しているわけではないが、何となくそれについては語りたくないようだ。そう思えて仕方がない。そしてそれとは関係ないが、胃が重い。また話をこんがらがらせようとする。さっきまでは何を語ろうとしていたのか。君がそうしたかったわけではなく、偶然の気まぐれに誘われて、何か適当な文字列が求められていると感じられてしまうのか。別に何かの罠にはまっているわけではない。何とかここまでたどり着いたのだから、最低でも終わりまでは語らなければならないのだろう。

 しかしなぜ気が重いのか。別に気が触れているわけでもないだろう。外では風が強まっている。明日の朝は冷えるのだろうか。日付上の朝は暖かかったはずだ。やる気をなくしているうちに何かを失ってしまったらしい。君にはそれが必要だったのか。本当にひつだったのなら、なぜ簡単に手放してしまったのか。ステンレスの表面に細かい傷がつくように、次第に輝きを失い、何かが尻すぼまり気味に終息へと向かっているらしいが、なかったことはなかったことだ。がらんとした空間が、君に何を教えているのか。行為の理由を探すには及ばない。まだそんなことを述べている段階ではなく、考え続け、模索すべきなのか。誰かの意識は遠ざかりつつある当の姿をまだ完全には捉えきれていないはずだ。思考の対象とも思っていないわけか。そんなことだから勘が働かず、何か重大な事実を見逃していて、今さら右往左往して、行ったり来たりしながら何かを思い出そうとしたところで、もう遅いのだ。その感覚を思い出せないうちに、君はその場から退散させられてしまうだろう。そんなのは誰の知ったことでもないとうそぶいてみても、誰も振り返ってはくれず、振り向き様にあらぬ方角へと視線を向け、何かを思い出した仕草をしてみても、何となく辟易させられた過去がよみがえってきて、知らない振りをされるまでだ。だからその時点で気づくべきだったのか。果たして何に気づくべきだったのだろう。まったく誰かの気まぐれにはついてゆけないものがあり、気分次第でいくらでも変節可能なでたらめさには呆れ返るしかないか。