彼の声77

2010年

3月31日

 日付も意識もまだ先月だ。何もできないことに変わりないが、あと何年でもないようだ。誰かの寿命がか。どこかで名も知れぬ誰かが死んでいることは確かだ。それは当たり前のことだろう。だから君もいつかは死ぬのか。それがどうしたわけでもない。相変わらず語っている内容が空疎だ。それもどうしたわけでもないが、笑いながら画面を眺めているのは誰なのか。たぶん君ではない。それは何かの幻影だろう。誰かがフィクションの中でそう思っている。だがそんな嘘をついても虚しいだけか。虚しくてもかまわないのではないか。どうせ記しているのは空疎な言葉の羅列に過ぎない。まったく誰かは心にもないことを述べているようだ。そしてうろたえたふりをする。意味もわからないのにそれはないだろう。それに関してはまともに語るのが面倒なのだ。

 どうも何かにそぐわないようだ。語りだしたとたんにそんなことを述べて意気消沈してしまう。どうやらそれも違っているわけか。やはり何を語りたいのでもないらしい。今さらそれはないだろう。それを何とかしなければならなくなる。そもそもそれは何のための文章だったのか。自己顕示欲を満足させるために言葉を記していたわけではない。言葉を記して何も語らないことが肝心か。できるわけがないだろう。ならばただわけがわからなかっただけかもしれず、相変わらず何について語っているわけでもない。気がつけばそこへ逆戻りだ。

 あの頃の誰かは何について語っていたのか。急に思い出せなくなるのはどういうわけなのか。それとは無関係だが、ウーロン茶が渋すぎる。どうも気が散って話にならないようだ。本当は何を気にしているわけでもなく、単に言葉を記すのが億劫なのだ。あれこれ理由をつけてはそこから離れようとしている。だが何はともあれ残された時間はあとわずかだ。それの範囲内で何かを収めなければならず、そのためには相変わらず必死さが足りないか。何の理由にもなっていないようだが、それでも当人は何とかしているつもりなのだろう。君はそれでかまわないのか。何をかまうはずもない。

 言葉が足りないのはわかっている。たぶんそこから外れているのもわかっているはずか。何もかもを承知しているわけでもないだろうが、それほど格好をつけたいとも思わず、ひたすら言葉を記しているつもりにもなれず、ただそうではないような気がするだけで、どんどん意識がそこから離れていってしまうらしい。どだい間に合わせの主張など受け入れがたいのだ。いったんそうなってしまうと収拾がつかなくなり、どこまでも怠惰に流され、何を語っても上の空となるだろう。それが何かが違うと思う原因となっているのか。それに関してはまったくわからなくなる。

 本当は何が違っているわけでもなく、話の内容は空疎を装いつつも、意識は何かの核心に近づきつつあるようだ。そこに避けては通れない虚無があり、その何でもないような時間帯のただ中に何かの理由が横たわっているらしい。それは虚しい嘘だ。嘘が虚しくないなんてあり得ないことか。今語りつつあるのがそういうことなのだから、いくら拒否しても最終的には何かを受け入れざるを得なくなり、それは今ある現状から生じている何かだ。それを放っておけば、言葉を記すのがどんどん遅れていってしまうだろう。そこで何が期待されているのでもないだろうが、とにかく何かを語らなければ文章とはなりがたく、そういうことをわかっているとしても、なおのこと語るのが難しくなっているようで、もはや何もないような虚無の大地を踏みしめながらも、そんなたとえそのものが馬鹿げていることを承知しつつ、そんなふうにしか語れない現状に嫌気がさしていることは間違いないか。


3月30日

 誰かはまたずいぶんと支離滅裂なことを記している。かなり頭がいかれているように感じられるが、印象としてはまったく文章になっていないようだ。そこから修正するにはだいぶまともな領域から逸脱していて、誰かもそれをやる気がしないようで、やけくそになってでたらめなことばかり述べている。そして思考力が減退しているらしく、正常な状況判断ができないらしい。それは孤独な誰かにとっては致命的か。だが今さら何が欠陥でもないだろう。もうそうなった時点であきらめているのではないか。何をあきらめているのかは定かでないが、とにかく何かをあきらめているらしい。どうせフィクションの中でもそういうことになっているのだろう。まったくくだらない状況に腹が立つだろうか。それとも嘘をつくのもいい加減にしてほしいか。いい加減なことを述べているから眠たくなる。眠たくなった時点でおしまいか。それでもかまわない。ここは格好を付けるべきではないのかもしれず、泥水をすすってでも前進すべきか。何が泥水なのか。そんな状況でないことはわかっているだろうが、現時点では何のたとえにもなっていない。ではなぜそうなってしまうのか。くたびれてしまって、何かの病にかかっているみたいだ。しかしそんなフィクションがどこに記されているというのか。現状では何を語ろうと何でもないのだから、少しは筋の通った話にすべきところを、まったくのでたらめで意味のつながらない文字列となっている。要するに君は何も語れなくなっている。君にとってはそれがどうしたわけでもないが、内容があまりにもつまらないので、そう思っている意識が邪魔になる。

 とにかく今は問題山積状態だ。状況的にそれは当たり前のことであり、おそらくどこでもそうだろう。そして問題を解決することに生き甲斐を感じている者ならいくらでもいる。答えを見つけたければ、適当なコンサルタントにでも相談してみればいいわけか。冗談はそのくらいにして、たぶん誰かは避けることのできない何かに直面しているのだろう。心が怠惰に負けているようで、問題を解決する気が起こらない。今さら無い物ねだりもないだろうが、見聞するすべてに魅力を感じない。翌日は曇っているが、それがどうしたわけでもない。つまりそんなことなら述べられるが、他に何も出てこない。確かにそれが現状のようだ。そしてそうなってしまったことを利用して、虚無的な雰囲気に身を任せようとしているわけか。何のことやらさっぱりわからず、何がどうなった状態がそういうことなのか皆目見当もつかず、ただでたらめに言葉を並べて、それが運良く文章として成り立っているようなら、それで済ますつもりなのだ。

 そんなことがあり得るだろうか。何がそうなのかわからない。だからそういう予定調和の問答が退屈であることは百も承知しておきながら、性懲りもなくそれを繰り返すのが問題なのか。山積している問題のひとつがそれか。では他にどんな問題があるのだろうか。君は嘘をついている。それはいつものことだが、それが何の嘘なのかわからない。語っているすべてが嘘なのだろうか。そうだとしても、だからどうしたわけでもない。どうしたわけでもないのが問題か。嘘をつく理由がなければ嘘にならないだろうか。そんなはずもないが、理由もなく嘘をつく理由がどこにあるのか。だから嘘をつく理由がないと述べているではないか。それが問題といえば問題だが、だから何だというわけでもないのも問題か。別に問題であろうとなかろうと、そんなことはどうでもいいことであるのも問題か。たぶんそういうやり方は退屈で無内容だ。だがそんなふうに語ることが不気味な印象を与えているというわけでもないだろう。別に誰もそんなことは述べていないではないか。

 そしてそういう逃げ方はおかしく、結果として逃げていることにならない。別に逃げようとしているでもないか。何から逃げても現実がそこにあり、そんな現実に嫌気がさして、いくらでもそんな現実が身に降りかかってくるので、そこから逃げるのをあきらめてしまう。あきらめた先には何があるのだろう。だから誰かは開き直って何かを語っているのではないか。そういうわけで誰かが何かを語っている現実があるらしく、そこから何を導きだそうとも思わないだろうが、ひたすら言葉を並べてどうするわけでもなく、並べられた言葉を読んで何を思っているわけでもない。要するに君は何もしていないということか。実際に何もしていないが、何かをしたいと思っているのではないか。しかしそういう推測が誰によってなされているのか定かでない。


3月29日

 作り話的にはまだ昨日の時空に属している。そんなのは嘘に決まっているのだろうが、とりあえず翌朝は晴れていて、そういう成り行きに逆らっている理由はないだろう。何をどう語っても、それは避けては通れない停滞か。実際に何も思いつかないのだからそれは尊重しなければならないか。しかし話が空疎に堕していることを尊重してどうするのだ。要するのそのまま空疎なことを語りつづければいいということか。それがそこでの成り行きであり、延々とそんなことを述べている現状をどうすることもできない。誰かはそんなふうにして文章を構成する。そして何が嘘か本当かわからなくなり、さらに頭の中が混乱を来し、どうにもこうにも収拾がつかなくなるだろうか。そうなってくれると誰かがありがたがる。そういう冗談なのだからそうなるのは当然のことか。そう思えるのならそれも致し方のないことだ。だが思ったところで何がどうなるわけでもないだろう。現状は何も変わらず、何の変哲もない日々が続くばかりか。すべては予定どおりにいかないようだが、もとから何の予定もなかったはずか。予定は予定ではっきりした予定があったかもしれない。だがそれを思い出せずにいるらしい。わざと思い出さずにいるのではないか。そんなことができるだろうか。

 どうも話の内容を把握できていないようだ。思考が何かの袋小路で立ち往生しているわけか。それが何のたとえにもなっていない。果たしてそれで済むことなのか。何が済んでしまったわけでもない。また語り得ないことを語っている。そう思っているだけで、本当は語ることが可能なはずだ。何を語ることが可能なのか。現に語っているつもりのそれは空疎でとりとめがない。たぶんそれで嫌気がさしているのだろう。だがそれでもそこから何かを記そうとしている。どうしようもないのにどうにかしようとしているわけだ。だからそれで何が可能なのか。何について語りたいわけでもなく、実際に語っていないはずだ。たぶんそれがおかしいのであり、おかしいのを承知でそれを続け、さらに事態をおかしくしている。それで何を成し遂げようとしているのか。たぶんそれは挫折につながり、破綻を予感させる。だがそれを通過しないとその先へは進めない。しかしその先に何があるのかはっきりせず、何もそこまでいかなくてもいいような気がして、そこで迷いつつも停滞し続け、そうしているうちに何が何だかわからなくなり、やはり予定調和的に挫折するしかないようだ。そしてそれも一つの結果に違いなく、それを受け入れざるを得ない現状なのだろう。

 たぶん現時点でわかっているのはそういうことだ。日々もたらされる情報は渾然一体となっていて、それらの何を活用できるのかわからないまま忘れ去られ、取捨選択もできずに、ただ様々な情報が意識の中へと無駄に流れ込んでくる。そこから何をどう判断したらいいのだろうか。そんな日々を楽しめばいい。楽しめなければどうするのか。どうもしなければいい。ひたすら悩み苦しんでいればいいのだ。そして何もできないことを呪い、頭がどうにかなってしまえばいいのか。すでにその兆候が日々の言動や行動の端々に見受けられるか。そうだとしたら何なのか。すべては仮定の域を出ない話か。だから現実にそうだと指摘しているではないか。誰かはそれを何かの冗談だと受け止めているらしい。そしてそれの何が無理もない話なのでもなく、そこから何をどう語りたいわけでもない。要するに無視しているわけだ。やがてその無視が後悔を生み、取り返しがつかなくなってからどうにかしようとするのだろうが、どうにかできるわけもなく、手遅れであることを実感させられるわけだが、何となくそれでもかまわないと思ってしまうのだろう。誰かとは無関係な君にとってそんなことはどうでもいいことだ。ならば誰かは君に見捨てられてしまったわけか。もとから誰かを救うつもりなど毛頭なかったのだろう。

 それは誰の裏切りとも関係なく、そんな被害妄想など簡単に退けられ、ただの自滅として片付けられてしまうだろう。だがそれでも何かがおかしい。自滅してしまった誰かはそれからどうなったのか。そこまで話を思いつかなかったのだろうか。要するにその先の話が不在なのかもしれず、フィクションの中では確かに自滅したのだろうが、そこで話が途切れてしまったのかもしれない。そんなわけで確かに誰かは誰かのことをフィクションの中で語っていたのだが、途中で語るのが面倒くさくなり、そこで放棄されてしまったのかもしれない。君がそれを理解できないのも無理もない話か。だからと言って関係ないはないか。無関係なのだから仕方がないにしても、せっかく何かを語っているつもりなのだから、それに関して何かコメントでも付け加えてみたらどうか。たぶん誰かは冗談でそんなことを述べているのだろう。そしてその何でもない話をどう改良するつもりもなく、そのままの姿で文章として提示するだけで、他に何を語ることもしないらしい。要するに退屈なのだろう。暇にまかせてそんなことを述べているわけでもないのだろうが、やはりどことなく本気ではない雰囲気を感じさせ、それが何かの冗談には違いないようだ。ならばそれはそれとしてそういうものだととらえておけばそれで済んでしまうわけか。つまりそれでかまわず、かまわないから何でもないこととなりうるのであり、何でもないから無視の対象となっているわけか。今はそういうことだと述べておこう。


3月28日

 何となく昨日の日付になっていることに気づく。わざとらしく気づいたふりをしているだけか。それもフィクションの中で誰かが演じているだけかもしれない。そして眠たくなったふりをしながら、誰かがどこかで消失する。そんなことがあり得るだろうか。フィクションの中では何でもありか。そこで何を語りたいわけでもなく、何がどうしたわけでもないが、とりあえずはいつものように言葉を並べて文章を構成しているわけか。別にそこで君がおかしくなってしまったわけでもなく、何となくそういうことが行われていて、そこで誰がまともなことを語ろうとしているらしいが、結果として何がどうなったかは誰が知っているわけでもない。たぶん文中のどこかに誰かの主張が記されているのだ。そしてそれは誰にとっても無視できてしまうような内容なのだろう。実際に無視されているのではないか。実際には何が無視されているわけでもなく、他の誰かがそれを読み、賛同したり反発したりしているわけか。しかしそこで君は何を批判しようとしているのか。それは今のところは誰にもわからないことであり、またいったんわかってしまえば、どうでもいいようなことに違いない。だから君は誰かの主張を理解するのが面倒くさいのか。理解するも何も、まだ何も開かされていないではないか。それともそれとこれとは無関係か。

 言葉を記しているうちに目が疲れてくる。もうこの辺が限界なのだろう。何を思ってそういう成り行きになるのか。何を思えばそういうことになるのか。まだ話はフィクションの中で語られていることだ。そうに違いないと思い込もうとしている。誰もがややこしい作業を嫌っている。要するに面倒くさいのか。かなり面倒なのかもしれない。語らなくてもいいことまで語るのは骨が折れるか。だがそうでなければ語りようがない。まったくどうにもならないからそうなってしまうのだ。何も語れないからそういう成り行きになる。この世はどうにもならないことばかりだと思いたいだけか。だがそれで何を悲観しているとも思えない。悲劇と笑劇は紙一重か。他人の不幸を笑うのは当たり前のことであり、それは動物の生存競争に基づいている。他人の身に不幸が降りかかって競争から脱落して、少しでも競争相手が減ってほしいと願っているわけか。だがそれが何をもたらすわけでもないだろう。明日は我が身ということか。実際にそこでつまずいている。何につまずいたとも思えないのに、現実に足がもつれて転んでいるわけだ。そして起き上がってあたりを見回すが何もない。そんな夢でもみていたのかもしれない。

 誰かは何かを思っている。そして語るべきことは何もないとも思う。語っているのは語るべきことではない。語らなくてもいいことまで語ろうとしている。そして言葉に詰まり、何も語れなくなってしまう。だがそんなことが繰り返されながらも、さらに言葉が連なってしまうようだ。もはや語っているのではなく、記しているのだ。それが当たり前のことなのに、語っているというフィクションを信じられなくなる。だから今や君は何も語ってない。もとからそうかもしれないが、それは何かの終わりだろうか。何も終わっていない。当時と何も変わっていないようだ。君はそこで何を見てきたのだろう。たぶんそこに何があったわけでもなく、何かを指し示そうとすると、それが幻影であることに気づいてしまう。意識の中では形あるものが何もなく、感知できる事物を遠ざけ、その代わりに得体の知れぬ何かの感触を得て、それで実感を抱いているような気になっているのかもしれない。そしてそれの何が間違っているとも思えず、どこで墓穴を掘っているわけでもない。いったい誰がそうなのか。たぶん何もそうではないのだろう。この世に語り得ないことなどない。嘘でもかまわないからそう思っていれば、それで済んでしまう。

 そして気がつけば翌朝か。二日前であることに変わりはないようだ。ここからどうやって体勢を立て直すのか。何がどうなろうと誰の知ったことでもないだろう。ならば破れかぶれで言葉を並べて、それで文章としたらいいのだろうか。それに関しては何の異論もなく、黙って言葉を記すのみか。実際にそうしているのではないか。そうしているから今があり、今があるから煩悶が続いている。冗談だろう。たぶんそうやって墓穴を堀りながら生きている誰かが心の中に存在するわけだ。また誰かはそんな嘘をついているのだろうか。そんな嘘とはどんな嘘でもなく、ただそう記されている。それが文章なのだからそれの存在を認めざるを得ない。少なくとも今はそういうことだ。どういうことでもなくそういうことなのか。できればそれとは違う状況に身を置いて語りたいのだろうが、それができないから今はあるわけだ。その今に向き合い、今に関して語っていると思いたいが、実際はそうではないかもしれず、そんな現状から目を背け、何か別の理想状態のごとき妄想と心が戯れているのかもしれず、そんな妄想家ら抜けきれていないから、今あるどうしようもない惨状を放置しつづけているのだろう。果たしてそれが真実なのだろうか。


3月27日

 相変わらずとりとめのない思いで心が覆われているようだ。そして何となくどうでもよくなってきたころから言葉を記し始める。やっていることは同じで、今ひとつ気分が乗ってこないようだが、それでもそんなことを述べている。つまらない内容に落胆する。君はなぜそれを語らないのだろうか。それらの何がとっておきでもないからか。いい加減にそんなことを述べているだけのようだ。だがそれで気が済んでいるわけではない。もっとまともなことを述べなければならないと思っているはずだ。それは本当だろうか。嘘だと思うならそれでもかまわない。もっといい加減なことを語ることができたなら、それがまともな内容に違いない。架空の存在でしかない誰かは本気でそう思っている。そういうフィクションにしておけばいいはずだ。フィクションの中では誰が何を思ってもかまわないのか。現実の世界でもそうだ。ただ思っていることを実行に移すときに、それが違法性を帯びているとヤバいことになりそうだ。ただしフィクションの中では誰の知ったことでもない。そう述べている誰かは何と何を混同しているのか。言葉が何を思っているわけではない。それは冗談か何かか。

 もう時間がないので先を急がなければならなくなり、内容がでたらめのまま語りだしてしまう。今さら焦っても遅い。さらに遅れてしまうことが確定して、闇が君をあきらめさせようとする。そんなのは誰かの妄想だろう。外では雨が降っているようだ。何か物足りないような気配を感じるが、確かに満ち足りている状況ではない。思っていることを言葉で表現できないだけか。それだけではないはずだ。過ちを何度も繰り返すうちに何かに気づき、そこから自然と何かが身につく。君は運が良い。それは何かの勘違いかもしれないが、とにかくそういうことにしておこう。ここはフィクションの中ではない。何でもないのに何かがあるらしく、その何かに操られてここまでやってきたことになっている。それも嘘かもしれないが、とりあえずそういうことにしておきたいのだろう。君はどこから外れてここに至ったのか。ここは至り得ない場所だ。どこでもないからここなのか。そう思ってしまえばそうなるしかない。そしてなおのこと君は何も語れなくなり、ありふれた沈黙の中にそれらの意識が置き去りにされている。ならば何も語っていない証拠がどこにあるのだろう。

 誰かは深夜に映画でもみているのだろうか。夢の中で冥界から誰かが舞い戻り、そこでありきたりのフィクションを語りだす。フィクションの中でフィクションを語っているだけか。だがここでフィクションなどあり得ない。そんなどうもいいことを述べているうちに、もうすぐ日付が二日遅れとなってしまう。それでもそういう状況から逃れられないようだ。なぜここに来てしまったのか。どこへ至ったわけでもない。どこを目指していたわけでもない。もとから目的地などありはせず、ただだらだらと言葉を並べている。見方によってはそれは違うと思われるかもしれないが、この時空での現状は紛れもなくそうなっている。ならばそういう現状を変える必要があるのだろうか。無理に変えようとしているわけではなく、実際に何を変えられるとも思えない。いったい君は現状の何を変えようとしているのか。できることならそういう意味のない問いかけをやめたいか。意味はあるだろう。問い続けることに意味はあるはずだ。それはどういう意味なのか。にわかには思いつかないが、たぶん何らかの意味があり、後々になってそれがわかったりするのではないか。しかしそう述べて何を期待しているのか。何がどうなってほしいのだろう。

 確かこれは以前にも述べたことかもしれないが、まっとうな解決方法としては簡単なやり方がある。確かにやり方は簡単かもしれないが、おそらく誰にもできないだろう。要するに米軍基地問題をすっきり解決する方法は国民投票以外にあり得ないということだ。日米安保条約の賛否を国民投票で決めればいいのであって、実際に投票してみて、賛成票が過半数を得たら、日米安保を継続させる見返りとして、賛成票の比率がもっとも高かった都道府県に沖縄から米軍基地を移設する、と事前に取り決めておけば、誰も文句は言えないはずだ。日米安保は米軍基地とセットで機能する条約であり、それに賛成するなら米軍基地の存在を認めるのは当たり前のことだ。その意味で日米安保には賛成だが、米軍基地があっては困るというのはまったくの矛盾であり、米軍がいなくて有事の際にどうやってアメリカが日本を守れるというのか。せっかく在日米軍のあり方が問題となっているときなのだから、今こそそれをはっきりさせておいた方がいいのではないか。そして国民投票で反対票が過半数を上回った場合、当然のことながら日米安保はやめて、アメリカ政府に対して期限を区切って、日本国内からのアメリカ軍の撤退を申し入れればいいだけだ。そうなればそれが日本国民の意志なのだから、何も政治家たちが思い悩む必要もないだろう。


3月26日

 また翌日になっているらしい。昼間は仕事をしていたのだろう。誰かがどこかで何か適当なことをつぶやいているらしいが、君はそれを無視している。無視しているのは君ではないのかもしれない。だから何だというのか。何でもないからそんなことを述べているだけか。意味をなさない。何も述べていないのと同じことだ。そして胡散臭い雰囲気を漂わせている。いったい誰がそうなのか。そういうことではないだろう。まともに語らなければならない。何を語るかも決まっていないのにそれはないか。それが思い違いで、すでにまともに語っているのではないか。嘘に決まっている。だが嘘をついているのは君ではない。それは当たり前のことだ。だがそれではないのではないか。何をこんがらがっているのだろう。頭の中で何かが錯綜している。そんなふりをしているつもりなのか。あるいはまったくわけがわからないと思いたいのか。いずれにしてもどうでもいいことに違いはない。いったい心の中で何が満たされていないのだろう。それがわかっているのに記されない。すべては空白なのだ。何がすべてなのかわからない。要するにまったくのでたらめなのだろう。

 憤りでも覚えるだろうか。それほどのことでもない。むしろ呆れていると言った方がその場の成り行きに合っているか。それが呆れるような状況だろうか。君はそこで何がわからなくなっているのか。そんな精神状態だからだめなのだろうか。いったい何がだめなのか。昨日よりとりとめがない。まるで何かに挫折しているようで、まともなことが何も述べられなくなっている。そんな夢をみているわけか。では今は眠っているのだろうか。誰が睡眠中なのか。別にうつ病ではない。頭の中で何かが誤作動しているのだろう。君は何かそれに関する映画でもみたのか。その中で誰かの死を悼んでいるようだ。またいつもの作り話を妄想している。そしてそれこそが嘘の全容かもしれない。だがそこで何が忘れられているのだろうか。まだ文章としておかしいだろうか。今も誰かは他の誰かの心の中で生きているのだから、何も作り話の中で蘇らせなくてもいいだろう。そんなわけでまたいつもの時間帯に入ってきたらしい。誰かが冥界でおどけているのだろうか。そういう話ではない。誰も何もわかりはしないということか。そうに決まっているだろう。

 たぶんそこから何かがおもしろくなっていくのだ。だがそれは語られている話ではなく、語ろうとしている話でもない。ではこれから何を語るのか。今までに語ってきたことの続きか。だからそうに決まっていると述べているではないか。感覚がおかしいのは今に始まったことではない。何もつながらないのも同じことか。文と文が意味的につながらない。そう思っているのはあながち勘違いとも思えない。ならばそれから君はどうしたのだろう。それは何かの物語なのか。何を問いかけているのかわからない。だからすべてがでたらめなのだろう。何と何を組み合わせているのでもなく、言葉と言葉を組み合わせて文章を構成しているつもりもなく、それが嘘であることにも気づかない。そして急に心臓が痛み出して、もんどりうって床にたおれ、手足をばたつかせながら断末魔の叫びが口から漏れる。そんな場面を空想しているわけでもないか。では誰かは君がどうなってほしいのか。誰の知ったことでもなく、誰かの知ったことでもないのかもしれないが、だからすべてがでたらめだと述べているではないか。君はどこでそれを知ったのだろう。

 今ならまだ間に合うつもりでいるようだ。それらの記述は何に間に合っているわけでもなく、どうせ明日になってしまうのだろう。いくら修正を加えようと、それらは未だに失敗作だ。だからおもしろいのではないか。どうやら君の頭は完全にいかれているようだ。だがその証拠を誰が探しているわけではない。証拠など何もなく、文章中に記された内容は空疎ででたらめばかりになるだろう。また誰かがそう思いたいのか。なぜそういうふうに文が構成されてしまうのだろうか。気に入らないなら、また別の内容を模索してみたらどうか。どうせできはしないのだろう。だが君はまだそうなる可能性を捨てていない。何かを信じているのだ。いつかはそうなることを信じている。いったいどうなるのだろう。すでにこうなっているではないか。どうにもならずにこうなっている。何かの間に合わせで言葉を連ねて文章を構成している。そして意味もわからず空疎な気分になっている。それがその場の雰囲気なのだ。それはまったく馬鹿げているだろうか。


3月25日

 くだらないことを述べているわけではない。誰かはそう思いたいのだろう。思いたいだけで実際は違うか。あるいは思っているのは誰でもない架空の誰かか。冗談には違いないが、その辺がどうも判断が間違っているようだ。しかし具体的には何がどうなっているのか。実際の世界では翌朝に目が覚めただけのようで、寝過ごしたおかげで、何かが遅れてしまうことが確定してしまったらしい。二日ぐらいは覚悟しておかなければならない。そしてわからなくなる。いつものことのようだが、それをどうすることもできない。頭の中がリセットされてしまったのだろう。そしてまたどうでもいいようなことを述べている。疲れているのだからそれが理由でかまわないはずだ。しかし理由とは何だろう。何が理由でそうなってしまったのか。それが理由だからか。それとは何だろう。何でもないからそれなのではないか。そこには何もない。何もないからそうなってしまうのだ。それを君は認められない。認められないから闇雲に言葉を連ねて、無意味な文章を構成したいのだろう。しかし無意味な文章などあり得ず、実際には文章を記す理由も意味もある。だがその理由と意味が気に入らないのではないか。

 翌朝は晴れているようだ。晴れた空の下で誰かは働いている。当たり前のことだろう。そして夜になり、明日が近づいてくる。ところで君はそこで誰に学んだのか。何を学んだのだろう。たとえかなり難しい内容であるとしても、学んだ者の中から誰かしらそれを役立てる者が出てくる。そしてそれによって何かが前進していくわけか。果たして君はそこから何を学んだのか。何かを教えようとする者の善意を汲み取ることができただろうか。あるいはお前らなんかにわかるわけがないという悪意でも夢想しているわけか。どちらにしろそんなことはどうでもいいことで、学んだ内容を理解しているか否かが問題となるのだろうか。そうだとしたらその内容とは何なのか。それはここでは語られないことになるだろう。いつものように君には興味がないようだ。誰かはそこで怖気づき、何かを教えようとする者の意図や思惑を越えて、そこで何か思っていること自体が貴重な体験となるだろうか。その場に居合わせた者でないとわからない雰囲気もありそうだ。誰かがその場の雰囲気に呑まれて、何を思う間もなく感動しているだけかもしれず、ほとんど内容を理解できていないのだろう。それで何を学んだことになるのか。

 なぜ君は学ばなければならないのか。何を学ばなければならないのだろうか。果たしてそれをわかる必要があるのか。それがわからなければ学んだことにはならないのだろうか。教える側はそうであってほしいと願っているのかもしれない。学ぶ側の気持ちなどわからないか。そんなのは嘘に決まっている。何もかも承知で教えているのではないだろうか。教育を馬鹿にする者は教育によってどうなるのだろう。真剣に教えている者にはそれなりの教える必然性があるわけか。その場に居合わせた者はそれを汲み取らなければならず、教える者の善意を理解すべきか。たとえそれを教える必然性がなくても、そういう認識は誤りであると理解すべきか。しかしそれでも教える者が何を演じているとも思えず、その場がどのような空気で満たされていようと、それらの真剣な眼差しから察してしかるべきことがありそうだ。だから君はその場に居合わせたのだろう。何か目的があったわけではなく、浅はかな者が勘ぐってしまいがちな紋切り型的な思考を打ち破って、その向こう側にある何かを獲得すべきなのだろうか。そうだとしたら今さら何を思い出す必要もなく、すでに理解したつもりのそれらをもう一度考え直してみるべきか。

 もしそれを本当に理解できたらどうなってしまうのか。本当にそうなってしまったら何かがもたらされ、君はそれを顕揚することなく、自然と身についているそれらを意識することもないだろう。そして何かを理解していることに気づかず、それを役立ててしまう。そういう流れとなれば、結果的に以前よりは賢くなったわけか。そうだとしても安心してはならず、そこで止まってしまってはいけないらしい。要は日夜努力を惜しまないことが肝心で、常に学ぶ姿勢を維持していなければならず、そしてその身を燃焼し尽して人生を終えなければならないのか。そうだとしたら恐ろしい話だ。生きることにはどんな目的があるのだろうか。目的など何もないとうそぶくことはできる。しかし一方でそういうシニカルな愚か者を無視しながら一心不乱に学び教える者たちがいる。何を馬鹿しようと冷笑しようと、その時点で皮肉屋は敗北を喫している。自らの浅はかさに気づかないのだ。相手がどのような人間であろうとなかろうと、まずは相手の身になって考えてみないと足元をすくわれてしまうか。学び教える者たちはまずは謙虚だ。その場にとどまっている限り他人を馬鹿にできないことを知っている。


3月24日

 なぜそれが話題となっているのか。気に入らないことはそこにはない。それらの空白にはまだ何も記されていないようだ。そこで何を選べばいいのだろうか。誰かは夢でも見ているわけか。言葉がつながらない。それは何もないからか。君がわかることではない。ありふれたことを思い、未だ知り得ないことを知ろうとしている。他に何が可能だとも思わないが、何をやろうとしているわけでもなく、何ができるとも思っていないようだ。今さらそれはないか。何が今さらなのか。たぶん何でもなければ今さらでもない。結局は何も語っていないのと同じことらしい。無駄に言葉を連ねて、それがいつもの悪い癖であることを確認する。そしてさらなる虚無感とやるせなさでも醸し出しているつもりか。本気だとは思えない。冗談のつもりでもないのだろうが、真剣に何を語っているとも思えないから、それはその辺でやめておいたらどうか。何をやめる気もないくせにそんなことを述べてしまうところがいい加減か。誰のせいでもない。

 しかし何を自虐的になる必要があるのだろう。別に君に限ったことではなく、愚かなのは誰もがそうだ。何を被っているわけでもないのに愚かだ。そしてそれが楽しい。意味もなく馬鹿げている自らを自らが笑っている。本当にわけがわからないが、なぜかおかしくてたまらない。何も語っていないのにおかしい。語らずに言葉を記しているからか。今さらそんな嘘をついてもわけがわからないが、何も語っていないことは確かだ。ますます語ることができなくなっているようだ。それは君のことではなく、誰のことでもない。本当にそうだろうか。そこに物語がないと何も語れない。何もありはしないのにそんな悠長なことを述べている。そこにあるのは君が語ることではなく、誰が語ることでもない。誰も語っていないのだから、それは物語ではない。では何なのか。また何でもないことを文章として構成しているわけか。本当はそうではないことを祈りつつも、そういうつまらないやり方にはうんざりさせられるが、もう無理だからまともな内容はあきらめた方がいい。

 完全に意識が心から弾き出されてしまったらしく、その抜け殻のような心では何も思えない。君にとっては何でもないことだろう。何でもないから焦っているようで、まともな文章を構築できなくなり、何を述べているのかわからなくなる。無意識でやっていることかもしれない。そんなことばかりでは遠からず身の破滅を招くだろうか。それほどのことでもないだろう。すでに破綻を来していることは確かか。国家財政などではないのだから、やはりそれほどのことではない。何を語らなくても語っていることになる。文章上ではそうだ。また眠たくなってきたのか。将来に対する見通しでも模索しているのか。しかし何をどう考えたらいいのだろう。見通しが立っていないとは思えない。君は君でそれなりに努力しているではないか。それは過ちだとは思えず、正しい認識のもとに正しい行為を遂行中だ。笑いながらもそう思っているわけか。しかしまったく本気でないのはどういうわけなのか。少なくともそれらの雰囲気は真剣なまなざしが必要とされてない。何かからかけ離れている印象を得る。

 それでも君は苦しんでいる。何を苦にしているとも思えず、何がそうなのかわからないが、四苦八苦しながらも文章を構成している誰かにはそう見える。それが勘違いだとは思えず。そのひたむきな姿勢が好印象をもたらして、事態が好転してほしいのだろうか。狙っているのはそんなことではない。たぶんそうであり、そこから遠くない将来へ向けて、そこで何かの足しになるような言説の構築を目指しているのだろうか。君が理解するようなことではない。理解できないわけではないが、別に何かのきっかけでそうでなくなってもかまわない。それにしても眠たい。とにかく眠たくても内容がなくてもやっておかなければならず、そのためにそういうことを述べているのではないか。それはどういうことなのだろうか。そういう意味のない問いかけが無駄なのか。君が歯を食いしばっている誰かの姿を空想しようと、それはフィクションの中でなされていることだ。実際の君には無関係なのだ。だからいくら虚無的に語っても無駄というわけではないが、無駄と見なさなければ何でもないことになりそうだ。それでかまわないのではないか。少なくとも君はかまわない。


3月23日

 たぶん少しずつ状況は上向いている。そう思いたいだけで、実際はどうかわからないが、何となくそういうことにしておきたいらしい。それはどうでもいいような思い込みのたぐいか。何がどうなっているわけでもないことは明らかだ。誰かが何か妄想を抱いているようだが、それがどうしたわけでもなく、すべては相対的な損得勘定によって動いている。それが普通だ。誰もがありふれた慣習の支配下にあり、そこから抜け出ようと思うのもありふれている。その程度でかまわない。かまわないから情けなくなるのだろうが、そうではない状況を妄想するのも馬鹿げている。あり得ないことをいくら思い描いても無駄か。では意識は何に満たされているのか。満たされていないからあれこれ空想を試みるのか。だからそれでかまわない。そうしていれば暇つぶしになりそうだ。君はそういうのが気に入らないようだが、そうだからといって何もできはしない。

 今さら何を焦って試みても無駄か。無駄だと思っているうちは無駄なのかもしれない。君はそういう水準では何もわかっていないようだ。そこから感性を飛翔させる術を知らない。誰かの思考はそこからどこへ届こうとしているのか。届かぬ願いはどこへも至らないだろう。では何を願っているというのか。この世界において何が優位を占めているとも思えない。そういう視点と立場を維持したいだけで、実際は違っているはずだ。遭遇するそれぞれの場面で、その場を占有する思考を感じ取っている。誰かはその場ではそれに従わざるを得なくなる。それが気に入らないとすれば、それはどうでもいいことだ。拒否反応を表面化させずに、従っているような振りをすればいい。それが何につながるとも思えないなら、それはそれでそういう成り行きになるしかないだろう。そうなればそういうことで、そういう結果をもたらすに過ぎず、それを受け入れればいいだけだ。

 そんなわけでそういう成り行きの中で何かをやろうとしても自ずから限界が見えてくる。限界は限界として認めて受け入れるべきか。すでに受け入れているではないか。平静を保ちつつも、そういうことが気に入らないとは思わせないように、何となく無表情を装っているような雰囲気が醸し出されているはずだ。そして相変わらずそれがどうしたわけでもなく、あくびが出てくるのをそのままにして、退屈しのぎに何か別のことを考えているらしい。本心では呆れているのだろうか。嘘をつくのにも疲れてしまったわけか。自らに嘘をつきながらも、そこから先にあてのない言葉を連ねている。具体的に何を示しているわけではなく、音楽を聴きながら何も考えず、何かを考えているふりを繰り返している。果たしてそんなことが可能か。君は不自然な疑念を感じているようだ。まだそこから外れるわけにはいかず、だいぶ我慢強くなってきたようで、また自己言及に陥りかけながらも、何かを語っているふうを装い、やる気もないのにやっていることを誰かは正当化したいようで、それがまんざら嘘ではないような言葉の並びを模索する。

 かなり戯れ言を述べてしまったようだ。それで誰も語ろうとしないことを語っている気になる。だが言説はいつまでたっても飛翔できない。いったい何がどこへ向かって飛び立つというのか。言葉は鳥ではないだろう。何のたとえにもなっていないようだ。ただ景色を眺め、それが何でもないことだと悟る。いつもそういう成り行きになってしまう。老人が骨董品を愛でているのと同じことか。しかしそれの何が馬鹿げているわけでもないだろう。人には人特有の動作があり、それの中のそれがそういうたぐいの動作なのだ。だから何かを所有するのは虚しいことだ。人それぞれでそれに対する感じ方が異なるかもしれないが、そういう物事に接していると、そういう気分になり、それでいいような気になってしまうと、もはやあきらめの境地に至ってしまうわけか。画面を眺めながら次第にあくびの回数が増してゆき、睡眠の必要性を実感する。本当にそう思うならそれで正解だろう。ここはそう述べるだけで済ますべきで、さっさと引き下がって、何事もなかったかのようにその場を立ち去る。


3月22日

 誰かは何かをやめなければならないのだろうか。唐突に何を思いついたのか知らないが、結果的には何もやめられない。どこかで奏でられたフィクションの中ではそういうことになっている。相変わらず面倒くさいのだろうか。何かをやめるのがそんなに面倒なのか。それ以前に何かとは何なのだろうか。その辺が定かでないので、意味のない話になってしまう。だから何も乗り気でない。何をやろうとしているのでもないのだろう。しかしどうしたら納得がいくのか。解せないのはわかるが、何をどう考えたらいいのかわからない。指針となるべき見解がどこにも見当たらず、ただ闇雲にアメリカとの同盟関係ばかりを重視したり、周辺諸国との戦争の可能性など皆無なのに、安全保障ばかり声高に主張して、もし有事となればどうするのか、という仮定の下に、その際にアメリカとの連携ばかりを模索しようとする。そのたらればのために沖縄の人々の暮らしを犠牲にしようとする。その辺が根本的におかしいのだろうが、なぜそこから変えようとしないのか。変えようとしたが、結果的に無理だったのか。情けないにもほどがありそうだ。

 そんなわけでまったくくだらない状況のようだが、そういう状況下でまともなことを主張するとすれば、それは何だろう。要するにアメリが軍はテロが相次ぐイラクやアフガニスタンより先に、平和な日本から即刻撤退してほしいということだ。もう何十年も平和なのになぜ駐留し続けるのだろう。そしてヤクザの恐喝のごとくに、駐留経費として毎年数千億もの金を日本政府から巻き上げている。つまり巷でささやかれている中国脅威論やロシア脅威論や北朝鮮脅威論などよりも、実質的に数千億の損害を与え続けているアメリカが日本にとっては一番の脅威なのだ。

 そんな現状から君は何を考えているのか。いったんそういうことを述べてしまうと、いつもの冗談では済まなくなってしまいそうになる。たぶん今さら国家の進むべき道などない。在日米軍基地が近所に来てくれると困るなら、日米安保などやめてしまえばいいと思われるが、その辺が不快な人々の姑息な論理で、日米安保は存続してほしいが、在日米軍基地の近くには住みたくないということだ。それは原発は危険だから近所にあるのは困るが、原発をなくすわけにはいかないのと同じことか。何よりもそういうたぐいの論理を見え透いたごまかしとともにメディアを通じて正論ぶって語る輩が不快なのだが、なぜ人々はそれに気づかないのか。誰もが気づいているが、それが表面化しないような配慮がメディア上に巡らされているのか。

 たぶん真の意味での正論が通用しない世の中なのだろう。何事においても相対的な損得勘定が優先される。もし中国やロシアや北朝鮮が攻めてきたら怖いから、虎の威を借る狐のごとくにアメリカ軍にはいてほしいというみっともない論理の他にも、騒音問題や米兵の暴力沙汰には我慢しつつも、一応は世界一の強国と同盟関係を維持しておけば、世界中で何かと商売もやりやすくなるというわけで、もちろんそういう本音は語らずに、やはり東アジアの軍事バランスだとか安全保障だとかいう、格好の良いことをこれ見よがしに語りつつも、結局は在日米軍は必要だという予定調和の結論に持っていくのが、その手の専門家という愚か者たちの論理なのだろうが、そういうくだらぬ論理を流通させているメディアにはうんざりさせられるか。それとも君の知ったことではないか。

 たぶん国家は誰のための国家なのでもなく、国家のための国家なのだろう。それが国民にとって幻想の共同体だろうと何だろうと、国家間の同盟関係を維持しようとすれば、国民が犠牲を強いられ、それが国民のためではなく国家のために必要であればあるほど、さらなる不合理によって国民が苦しめられることになり、国家が栄えれば栄えるほど、国民はその繁栄のために、徴税や兵役などの重荷を背負わされるわけだ。そうだとすれば結局国民は国家に奉仕する奴隷のような存在か。たとえ実質的にそうであったとしても、そうは思わせないようにしなければならず、そのためにメディアが幻想を振りまき、欲望を煽って夢を見させなければならないのだろうか。笑ってしまうか。それこそ冗談なのかもしれない。


3月21日

 君はそのときのことを覚えているだろうか。そういう曲だった。誰がそんな声を発しているわけではない。では君は何を探しているのか。まさか腕時計のたぐいではあるまい。図星だろうか。そうだとしても目的がありふれた宝探しのたぐいではつまらないではないか。もっと何か夢のある事物を探した方がいい。それがこの世に見当たらないから困っているのではないか。おそらくあの世にもないだろう。ではそれはがらくたのたぐいではないか。そう思うなら誰かが正気でいる証拠になるだろうか。今が悲惨な時代だと思うなら、それはすべての時代のことを指している。そこに複数の人がいる限り、争いごとが起こって悲惨な結果を招いてしまうわけだ。だがそういうことを述べたいわけではないはずか。そこからもう少し踏み込んで、具体的な出来事について語ろうとしていたのではなかったか。それはどういうことなのか。

 たぶんそこから何も出てこない。話にならないのかもしれず、話にしたくないのだろうか。君の宝探しゲームはまだ続く。そして何かのきっかけで手に入れたおもちゃのような宝物を眺めることだけが誰かの生き甲斐となるだろう。そういうフィクションならそれなりにまともな内容となるだろうか。だからまだその続きを語っていないのではないか。まさかこの期に及んで語らずにおくつもりなのか。そうかもしれないし、そうでなければ何も語る気になれないのかもしれない。それはそういうことなのだろう。たぶん頭の中が何かでいっぱいになり、飽和状態なのだ。だから今さらながら何について語っても嘘に思えてしまう。本当のことを語っていないのではないか。そんな疑念が何よりも先行してしまうので、そこから先に言葉がつながらなくなり、何かが途切れて行き止まりとなり、そこで引き返すこともできなくなっていることに気づき、途方に暮れ、そこから何をどうすればいいのかわからなくなる。そんな嘘をつけば気が済むのだろうか。

 事実とは何か。あまりにも性急に結論を求めている。だからそこで終わりとなるわけか。終わってしまったら魔力が消えてしまう。それでかまわないのだろう。何を語っているのでもないのだから、それで終わりで何の問題もないではないか。誰に魔力が宿っているわけでもない。君はそこで何を信じているのだろう。それは魔法か何かになるだろうか。しかし何かとは何なのか。その辺から疑念が生じて、誰かの記述内容が疑わしく思えてくる。何を記述しているわけでもないか。なぜそんな不必要な嘘をつくのか。その辺が理解不能だが、何に苦悩しているのだろうか。現実感が欠けている。何について語らなくてもかまわないのではないだろうか。ただ言葉を並べて文章を構成しているつもりになっていればいい。それだけで目的を果たしていることにならないか。本当にそう思うなら、その先に具体的な内容などいらない。文章中に事実など記される必要はない。しかしそれでは自殺行為だ。何を投げやりになっているのか。冗談にもほどがあり、記す言葉の範囲を狭めているだけだ。要するに自業自得なのだろう。

 しかし君は何について語ろうとしているのか。具体的に何を語っているのか。たとえばあるときは自らの内にある空疎について語り、またあるときは他の何かについて語っているのだろうか。実態としてはただ空疎について語っているだけで、それ以外は何もない。何もないから内容が空疎なのだろうか。それと同時に空疎だから何もない。くだらぬ言葉の循環に堕している。そんなことがひたすら繰り返されている。そうだとしたらもうどうしようもないのではないか。どうしようもなければどうするのか。たぶんどうもしないだろう。どうもしないからそんなふうになっている。別に何に傾注しているわけでもなく、他に何を思っているわけでもない。ただそこから何もしないで何も成し遂げようとしていない。それだけのことなのだろうか。そうだとしたらそれらの言葉の連なりは何なのか。やはり何でもないということか。


3月20日

 そこで何を飾り立てようとしても、何を語っていることにもならない。確かにそれに関しては何も語っていないが、現時点でわかっていることは何だろう。何もわからない。そう述べた時点でだめなのかもしれない。それとは何だろう。それがわからなければ何もわからない。どうでもいいことをわかる必要はないか。たぶんそういうことだ。何も考えられなくなってから久しい。人は今日もどこかで誰かと戦っているのだろうか。少なくとも漫画の中ではそうだ。君はどうなのだ。そこで何と戦っているのか。別に悪戦苦闘しているとは思っていない。それ以前に何と戦っているのだろうか。もしかしたら戦っていないのではないか。では戦わずして何をやっているのだろう。何もやっていないのではないか。世の中を傍観している。それはあり得ないことか。何かに関わっているのだろう。どうでもいいような何かに関わっているはずだ。誰かはそう思いたいのだ。何に関してもむ責任を装いたい。それは無理なことか。無理にしても適当に言葉を並べて文章を構成していかなければならない。それがそこでの意味のない思い込みか。

 どう修正しても変だ。言葉がまったく意味を担えなくなり、そこで何を述べているのかわからなくなる。ただの機械だ。機械を眺めているようだが、その機械がどのような役割を担っているのかわからない。しかしそれらの言葉の連なりは何を表現しようとしているのか。そういうことではないのかもしれない。文章の中の言葉がひたすら分散と集積を繰り返しながら、特定の形式として定まらず、やがて何かの均衡が失われ、乱雑さが増大しすぎて崩壊する。そんなことの繰り返しから何を学べばいいのだろうか。学ぶことなど何もなく、それがこの否定すべき現状を形作っているはずだが、普通の感覚から逸脱しすぎているのではないか。その証拠にそこから先に言葉が連ならない。すぐに行き詰まってしまったらしい。そこから先に何を述べたらいいのだろうか。

 そうでないことはわかっている。何かが違っているのだ。それもわかっていながら、そこから先が出てこない。人は生きる術を模索しているわけではない。言葉は人とは関係ないのだろうか。関係あるに決まっているだろう。言葉を操って何か作品らしきものを形作ろうとしているのが人だ。では作品とは何か。何かしら人を介して形作られるもののことを作品と呼ぶのだろうか。そうだとしたらどうだというのか。どうもしないが、作品について何を語ろうとしているのか。それは具体的にどんな作品なのだろうか。君はそれらの言葉の連なりが誰かの作品だと思っているわけか。それでも作品なのだろうか。だからそうでないことはわかっているはずで、それらは何でもなく、ことによったら文章でもないのかもしれない。言葉の連なりが文章でなければ何なのか。少なくとも他の誰かが奏でるギターの音色とは無関係だ。それもわかっていながら、そこから先にはでたらめな成り行きしか用意されていないようだ。

 いつの間にか誰かは土に還る。それはもといた場所からは遠くはなれて、どこでもないどこか定かでない場所で消失してしまう。本当にそうなったらおもしろい。ひたすら以前と同じ大地につながれているにも飽きている。だが鳥ではないので飛翔することはできず、あらかじめ定められた範囲内を移動するだけの人生には嫌気がさしているはずだが、いつか違う展開が待ち受けているような気がして、今度はひたすらそれを待つ日々が続いているのだろうか。冗談にもほどがある。君は自らの意志で行動しなければならない。現にそうしているではないか。そうした結果がこれか。それの何が予定調和であるはずがない。しかし頑なに物語を排するのはなぜか。君にはそれがわかっているはずだ。何を拒絶しているわけでもなく、そうならないために努力しているわけでもない。ただ面倒くさい。物語は鬱陶しい。


3月19日

 何かが遅れ始めたようだ。それは大げさなことではなく、いつものことだろう。相変わらず何かが違っているらしい。君は何も思いつかず、何ももたらせない。寝不足なのか。言葉はすでに出尽くしている。そして何も語れなくなるが、それでも誰かが言葉を連ねて文章を構成しようとする。それは馬鹿げている。そう思いたいのか。何を思っても虚しくなる。何も思いつかないからそうなのか。その時点で何かを思いついているはずだ。しかし文章には反映されない。本当は何も思いついていないからそうなってしまうのか。ではなぜ虚しくなってしまうのだろうか。意味のないことを語ろうとしている。それに関する情報はいくらでももたらされる。テレビでも見ていればいいのだ。そうすればそういう情報がもたらされ、それについて何か思いつき、それに関する文章が構成される。それの何が不満なのか。気に入らない君には読書が必要だろうか。それもメディアのたぐいだろう。メディアから情報を得て、それに関して誰かが何かを語ろうとする。

 君はそのときを待っていたわけか。そのときとはどのときか。誰が時間を気にしているわけではない。気が変わっただけか。やはり書物を読んでそこから何かを得る必要がありそうだ。本気でそう述べているわけではないような気がするが、気が変わったのだから他に思惑でもあるのかもしれない。何はともあれ所詮はそこから情報を得るためにメディアがあるわけだ。そして得られた情報を使って何か適当なことを語らなければ話にならない。別に話にならなくてもかまわないが、何かを語ろうとしているのだから、一応は話としての体裁が整った方が気休めにはなりそうだ。いつまでも支離滅裂なことばかり述べているのも気が退けるか。そうであってもかまわないのだろうが、何となく成り行き次第でまともなことを述べてしまってもかまわないだろう。しかし何を語っているのだろうか。今さらのごとくくどくどと語る方法論のごときことを述べている。もしかしたらそれも自己言及のたぐいかもしれない。

 たぶん何に対する言及にもならない。今の時点ではそうかもしれず、相変わらず何も語っていないのではないか。実質的にはそうだ。つまらないがそれでかまわないのか。誰かは何も語る気がしないらしい。誰かではなく君はどうなのか。君と誰かは同一人物だ。そう思いたければそれでかまわないだろう。どう思ってもらってもかまわない。対話にも会話にもなっていないようだが、何となくそういうことのようだ。何がそうなのかわからないが、そんなふうにして自然と言葉が連なってしまい、空疎な内容が延々と続いてしまうらしい。しかしそれは今記されつつある文章についての言及なのだろうか。そうだとしたらまさにそれが自己言及になるのだろうか。しかし自己とは何か。何らかのパラドックスでも己の中に抱え込んでいるのか。面倒くさいからそこから先は深く考えたくはないようだ。だが誰が考えたくないのかわからない。君はその件についてはどう思っているのだろう。君は君ではない。誰かはそんなことはわかっているはずで、わかっていながらそういう問いかけを記してみせる。やはりくだらないだろうか。

 しかし延々とそんなことを述べている現状がおかしすぎる。まるで正気ではないような気がするのだが、フィクション的にはそれでかまわないのかもしれない。では実際はどうなのか。まったくわからない。誰にとってそうなのかわかりかねる。ただでたらめに語っていればそれでいいのか。そうかもしれないし、そうではないのかもしれないが、それもどうでもいいことであり、現状がどうであってもかまわないのか。実質的には心の病なのかもしれない。誰がそうなのでもなく、それらの空疎な文章から、それを記している誰かが心の病であることが推測されてしまうわけか。そうだとしたらおもしろい。おもしろいと述べることによって強がっているのだろう。本当は正気を保ちたいのであり、気が狂うことを恐れているのだ。そうだとしてもおもしろい。つまらなくてもおもしろいと述べてみせる。そう述べる意図がわからないが、やはりここはそういうことの羅列で何かをごまかしているのかもしれず、そのごまかしようのない空疎がそのようなごまかしを誘発しているのだろう。だから君は自らが正気であることを頑に信じ込もうとする。


3月18日

 何となくそれはナンセンスな話だと思われる。何に流されているわけでもないが、脳みそに何かがインプットされているようで、そのスイッチが入るといつもの行動に出るらしい。要するに人間には機械的な動作が可能なのだ。それがちょうどいいタイミングで繰り出されると、何となく効果を発したように思われる。それでいいのだろうか。疑念を差し挟む余地はない。これまでもそうしてきたではないか。それは何かの思い違いか。まあ何とでも思うがいい。思っているうちはそれで済んでしまうはずだ。思わなくなったら忘れてしまったということだ。だからどうしたわけでもないが、何となく今はそう思っているらしく、それについて説明する気にはなれないが、そうなったいきさつはちゃんと述べられていると思う。今さらそんな嘘をつくのもおかしなことだが、そういうことでその場は収まってしまう。だからもうその件についてはいいのではないか。何も付け加えることはない。

 しかし君はそのとき何について語ろうとしていたのか。誰が何と言おうと何もない。そういうことではないだろう。たぶん認識が異なるのだろうが、誰が見ても普通のありふれた光景だ。目を背ければそんなことは気にしなくて済んでしまうのか。そうだとしたらそれとは何か。そういう問い自体がそうなのではないか。君はひたすら何かを問いかけるが、答えを求めているのではない。ただわからないという意思表示をしたいだけか。それがナンセンスなのだろうか。そうだと思っていれば済んでしまう。何が済んでしまうのでもないだろうが、とりあえずそういうことを述べておいた方がいいような気がするらしい。だからそれがナンセンスだと思うわけだ。ただ同じような言葉が循環しているようだが、君はそれでかまわないと思っている。そう思いたいのだろう。そう思わなければ気が済まない。

 空疎なことを述べているようだが、それでも何かを語っているつもりだ。だから何を語っているのだろう。本当は何も思いつかず、言葉を適当な並べているだけではないか。それもありだろう。それを誰かが眺めている。あらかじめ記された文章を読んでいるわけではない。それは気の迷いだろうか。何がそうなってこうなってしまったのか。君はそこで何か適当なことを思っている。それで果たして良かったのだろうか。何が良かったわけでもなく、実際にそれに遭遇してから新たに思うこともあるはずだ。今は何を改めようとしているわけではない。耳を塞いで何かから遠ざかり、その代わりにいつもの言葉を連ねる。それがどうかしたのか。どうもしないからそんなことを述べているのだろう。それの何が気に入らないわけでもなく、何をあきらめているわけでもない。簡単にそこから外れてしまったことを後悔しているのか。では何か苦渋の選択でもあった方が良かったのだろうか。だが今時のるかそるかなんてあり得ず、少なくとも今が勝負の時ではない。

 何がどうなろうと今があり、今があるからどうしたわけでもない。今がなければ何なのか。今でなければやれないことでもやっているのだろうか。たぶんそうだ。そしてそれが重荷になって他のことをやれずにいる。そんなはずがないと思いたいのだから、この重苦しい雰囲気はどこから来ているのだろう。またそう思いたいのか。その辺で作り話の限界が見えてくるだろうか。何を作っているわけでもないはずだが、どこかに偏見が潜んでいないか。それがそうではないと思える瞬間に立ち会いたいのか。そうやってまたおかしなことを述べているようだ。枯れた風情を求めていたわけではない。さらに文と文が意味的につながらなくなり、そんなていたらくではもはや誰かに見放されたも同然か。それでも悩んでいるふうに思われたら狙い通りなのだろうか。しかし何をそんなに悩んでいるのか。


3月17日

 何かが違う。相変わらずそんなことを述べているようだが、何がどうなってそうなっているわけでもない。何かの思い違いで、実際にはそんなことはないだろう。何ももたらせないとしても誰の世界でもない。どこかで何かの対立が起こっている。一色触発なのではなく、すでにどうにかなっているのだろうか。どうなろうとどうもしないようで、何も動きはしない。やる気がしないのはわかっている。君の思惑ではなく、結果的にそういうふうに思っていて、そう思うように仕向けられているだけか。それは誰にもわからないようなことであり、別にそれでかまわないのだろう。今はまだそういう段階なのかもしれず、やがて時がきたら、何かの手遅れとなってその全貌が明らかになるはずだ。だがそうなったところで、何でもないことに変わりはないだろうが、誰かにはそれがわかっているのだろうか。今は何とも言えないか。

 誰が何を語っているわけではない。それはいつもの言葉か。目の焦点が合っていないようだ。それもいつものことだろうか。何をやっているのか。心の動揺を隠せない。そして語っているのは戯れ言でしかないようだ。ますますわからなくなってしまったが、誰かは本能の赴くままに動いているのだろうか。人を悪く言ってはいけない。他人であってもそれは同じことか。君はそれらの光景を見飽きている。もはや情報など無価値か。情報にもよるだろう。知らないうちに宝が集まっていて、それは誰かの思い違いではないらしい。だがそれがどうしたのか。宝も無価値だと思うのか。ならばこの世のすべてが無価値だ。それは立場にもよるだろう。宝探しを強いられている者にとってそれは至上の価値を持つ。しかし誰が宝探しをしているというのか。今やそういう水準で行動するのはおかしいのではないか。だが具体的に何が宝探しに該当する行為なのか。また話をくだらない方向へねじ曲げようとしている。

 それで何か不都合なのか。何も論理的でないのがここでの内容だ。いきなりそう決めつけるのもおかしいか。強引に何を語ろうとしているのでもない。たぶんすべてがありふれていて、まるでおもちゃのような事物しか存在できない世界なのだろうか。この世界はこの世界だ。君はまだ世界のすべてを知っているわけではない。だから可能性にすがりつく。それは何がどうなる可能性なのだろうか。たぶんフィクションには謎がつきものだ。現実の世界でもそうなのではないか。現実の世界では興味がなければ謎など簡単に無視されてしまうが、フィクションでは謎を巡って語られているのだから、興味がある者だけがそれを求めていて、謎を謎と思わない者がそんなフィクションなど求めない。そういうものはフィクションの外に存在しているわけで、フィクションに魅せられ入り込んで盛り上がっている者たちとは無縁なのだ。たぶん君の勘違いはそういうところからきているのだろう。いったい君に何が必要なのか。

 君はそれをわかっているのだろうか。何も必要としていないのに何を求めているのか。それが作り話の中で語られているすべてか。すべてではないが、何がすべてなのでもなく、すべてを必要としないのかもしれず、どういう水準で行動しようと、何に結びつくとも思えない。行動に結びつくべき結果とは何だろう。パレスチナで暴動を起こしている人々は絶望的な状況下で行動している。それを誰も見て見ぬ振りはできないはずだが、結果的にはそういうことになる。なぜそれがおかしいと思うのか。世の中は矛盾していて、当事者でなければ無視していてもかまわないはずか。実際何のお咎めもない。誰かがアメリカを嫌っているのは、イスラエルを支えていることからきているのか。ユダヤ人とは何か。そういうごまかしは倫理的に許されないか。だが君には君の物語があるはずだ。それをどこで奏でたらいいのだろう。何もないのに無理に決まっているのではないか。何かが確実にあるはずだ。少し遠回りしているようだが、確実に何かに近づいている。


3月16日

 誰が何を求めているわけではなく、誰かが何かを求めている。何かありふれたフィクションの中で行われる宝探しでもやるつもりなのか。そんな前置きが鬱陶しくもわざとらしい。たぶん何でもなく、何も行われないだろう。別に心が虚無に支配されているわけでもなく、現状では行くあてのない旅などあり得ない。しかしそうやって何を否定しても無駄に決まっているのだろうが、何もないというのはどういうことなのか。今がそうなのではない。では何かを早く終わらせるつもりなのか。そうと決まったわけでもないだろう。現状の何が不満なのでもなく、不満だらけの現状を変えようとも思わないだけか。何をどう変えられるというのか。たとえ気に入らないことが山積していようと、ただひたすら耐えるのみなのだろうか。何かがおかしいとは思わないのか。しかし理想は理想であり、何の不満もない理想的な世界の構築を目指すなんて夢物語もいいところか。いったい誰がそれを目指しているというのか。その辺が出来損ないのフィクションのいい加減なところか。まったく君の冗談には呆れるばかりか。それでも作り話の中で誰かが人知れず努力し続ける。それは何のためでもない無為の試みになるだろう。

 そして足下から罠にはまっているわけか。そんなことはないと思ってみてもすでに遅い。誰かは罠の中で悪あがきの最中のようだ。なぜ簡単にはまってしまうのか。どうにも後戻りができないようだ。たちまち不快さが増してくる。何でもないことなのに気に入らない。そして平静を取り戻せなくなり、焦りながらさらなる罠の深みに沈み込み、その先に待ち受けているのは破滅か何かか。そうだとしてもフィクションだ。虚構の中で何が起ころうとそれを構成している者の勝手だろう。しかし誰がそれを記しているのだろうか。誰でもなければ君ではない。実際にそんないい加減なことを記している誰かにとっては、自らが書き記す内容がどうなろうと知ったことではないらしい。だから呆れてものも言えなくなってしまうのだろう。そして君は黙っている。もう何も言うことなどないようだが、それはもとからそうだ。君には関係のないことだからか。別に関係があろうとなかろうと、君はそこで黙ることしかできない。何も語る気がしなくなっている。

 確かにそれとは関係のないところで何かが活況を呈していようと、君がそこまで出向いてそれらのイベントに参加することはないだろう。それはフィクションの中でも同じことか。もう後戻りができない罠など罠のうちに入らない。誰が罠にはまっていようと無関心だ。誰もそこから助け出しはしない。破滅するまで放っておかれるのがこの世の定めだ。そんなわけでいつの間にか平静を取り戻し、静かに罠の中で意識が消滅しようとしている。もとから誰の意識でもありはせず、虚構の話の中に記された言葉のたぐいだ。そしてそんな説明自体がいい加減で無効なのかもしれず、やはりそれは誰かの知ったことではないのだろう。勝手に言葉が並んで文章が形成されているとしか思えない。もちろん実際に誰がそれを思っているのでもなく、そこには誰もいないのに、何かがそう思っていることになっているわけだ。そんなことがフィクションの中ではあり得るということか。そうだとしても納得がいかないわけではない。何がどうなろうと知ったことではないのだから、そういうのもありなのだろう。

 そこから何を眺めているのでもない。車窓から景色に目をやっている誰かがそう記す。そう記すのには抵抗感があるようだが、それも何でもないことの一部をなしていて、この世界の有様を眺めているだけでは、どんな事物に接していようと意味がない。だが意味があっても仕方がないのではないか。その意味を理解してどうしようというのか。君には何もできないではないか。ならばあきらめていればいいのだろうか。しかし何をあきらめているつもりになれるのか。それ以前にどんな希望を抱いてきたのか。君はこの世界に何を期待していたのか。何がどうなってほしかったのだろう。現状では何が不満なのか。なぜそれらの問いかけに返答しないのだろうか。返答しようのない精神状態なのか。もとから何もなかったわけではない。そこには何かがあって、その何かを手にして何かをやろうとしていたはずか。その何かとは何だったのだろう。今では思い出せない何かが過去にあったのだろうか。そんなことなど誰が知る由もなく、今では君は文章上に記された単なる言葉と化しているようだ。


3月15日

 何かが規則的に変化している。別にそんな妄想に取り憑かれているわけではないが、それはどんな妄想なのだろう。君にそれがわかるはずがない。誰が何を抱いているわけでもなく、ただそんなことを述べている。それだけではどうしようもないだろう。ならばうまくいかないのはわかっているか。誰がそれを理解しているのか。君ではない。誰もそんなことはわからない。そんなことがどんなことでもないからか。人は自らを飾り立てたい。そんなことはわかりきったことか。わかっているなら話が早そうだ。よく見せたいのはありふれた願望となり、何やらそれ相応の見栄を張っているようだ。君にはそれがたまらなく鬱陶しく感じられるのか。どうでもいいことだろう。他人から自慢話を聞かせられて感動する手合いはいない。それも時と場合によってはわからないか。だが君の冗談話は底が浅い。しかしまだそのたぐいは何も話していないはずだ。ではこれから何を語るのだろうか。今さらそれはない。

 人はこの世界で何をやりたいのだろう。少年漫画の世界では殴り合いのけんかがしたいようだ。すぐに衝突してそういう展開となる。そしてその辺から大げさな必殺技が繰り出されて、それを食らった相手が吹っ飛び、血だるまになったり痣だらけになったりして、時と場合によっては死んでしまったりする。たぶんそれらは現実からかけ離れている世界だ。確かにこの世界の一部でもそういうことが行われているのだろうが、生身の体はもろく、漫画のように年がら年中戦っているわけにはいかないはずだ。たぶんこの世界はそういう成り行きからはかけ離れているようで、要するに沈黙が支配する世界なのかもしれない。なぜ本質的にそうなのか。人は絶えず黙っていて、他人と会話することもまれだ。多くの場合は自分の殻に閉じこもっている。そうする理由を知りたいか。心の中に土足で踏み込まれるのがいやなのだろう。そしてあり得ない妄想の世界で自足している。そんなはずがないと思いたいか。ならばそんなはずがない。そう思っていればいいのだ。

 しかし何があり得ないことなのか。例えば原発のない日本はあり得ないし、在日米軍のいない日本もあり得ない。なぜそれをなくすることができないのか。おそらくそこに利害関係が複雑に絡み合っているのだろう。それらを簡単に退けるわけにはいかない事情がありそうだ。多くの人々が原発や米軍基地の近くで暮らしたくないのは明らかだが、そんなわかりきったことを実現しようとすると、なぜかできなくなってしまう。嫌で嫌で仕方がないのにそれらの存在を抹消できない。そこにはどのような力が働いているのか。嫌な存在と共存しなければならない宿命を変えられない理由は何なのか。人々の沈黙がそれを許している。君はそれは違うとでも言うのだろうか。黙っておいた方が身のためだ。黙って耐えていれば普通に生活できるだろう。どうしても嫌なら、できるだけ遠く離れた土地に引っ越せば済むことか。要するにそうやって敗北を受け入れなければならない。嫌な存在から目を背けるのは簡単なことだ。

 君はそれで黙ってしまう。何を拒否しているのでも何に反対しているのでもない。ただそういう成り行きを黙って眺めている。それに関しては何の感慨もありはせず、嫌な存在をそのまま野放しにしているつもりで、本当は何もしていない。それらの存在を肯定する人には人の言い分があり、もっともらしい言説となって、メディア上を流通していて、現状維持の状況を堅固に補強しつつあるようだが、いったい君は誰の味方なのか。不快な現状を見て見ぬ振りをしている。果たしてそれで何がどうなってしまうのだろう。そもそも何が問題だったのだろうか。そんなことはもう忘れてしまったらしい。たぶん別の仕事にかかりきりなのだろう。そしてこの先何がどうなろうと、君は君で何とも思わず、自分なりの理解を頭の中に叩き込んで、それでその件は終わりにしたいのだ。他に何を語るのも面倒だが、君に現状を変える力などありはしない。あるのは日々の作業に追われている時間だけだ。他にやることが山ほどあり、それをこなしているうちに老いてしまう。そして忘れた頃にこの世から消滅しているのだろう。


3月14日

 またできないことをやろうとしているのか。語り損ねないうちにさっさと語るべきだ。いつものごまかしになってしまいそうだが、当分はワンパターンから逸脱するつもりはなさそうだ。要するにどこまで語っても自己言及なのだ。どこをどう語っても空疎のままか。それは誰かの思い違いだろうか。それが癖なのだから仕方ないだろう。しかしまったく何といういいわけなのか。語れないことのいいわけにはならない。実際に空疎ではあるが、曲がりなりにも何かを語っているではないか。それが気に入らないとすれば、他にどう語ればいいのだろうか。他がないからそうなってしまう。しかし他とは何だろう。例えば世界情勢について語らなければならないことでもあるわけか。冗談も程々にしてほしいか。ほどほどにできないから困っているのではないか。

 たぶんそういう成り行きになってはまずいのだろう。だから今はまずい流れになっている。なぜおもちゃが必要なのか。子供ではない。わざと意味不明気味に語ろうとしているわけか。もうそういうごまかしには飽きているはずだ。あえて無茶なことを語っているわけか。わざとらしい。何をどう語ってもわけがわからないままだ。しかしそれで何を否定しているつもりなのか。何も語っていないことに変わりはないだろう。ただ言葉を並べている。それだけのことで手一杯なのか。それではくだらなすぎないか。そうであってもかまわないが、勘違いであることも変わりないだろう。君はそんなふうにして何かをあきらめているのか。あきらめかけている当のものを、改めて求めるわけにはいかないのだろうか。そんな悠長なことをやっていられない。心に余裕が感じられないようで、仕方がないとわかっていながらも、さらに無駄なアイテムを手に入れようとする。それはどうしようもないことか。

 それでも何とかしようとしているわけか。だから誰かは言葉を記しているのだろう。頭の中の何かが破壊されている。そんなことを述べているだけか。意識がそこから出られないのだ。そういう範囲で語るしかないと思い込んでいるようだ。本当は違う。何かのきっかけでこれまでとはまったく違ってしまうこともあり得る。誰かは自然とそうなるのを待つつもりか。それ以前の成り行きの中でどうにかなっている。すでにこうなっているはずだが、これが何を示しているとも思えない。しかしこれとはどんな状況なのか。そうではなく、ただの成り行きに過ぎないのか。そうだとしてもこれはどんな成り行きなのか。同じような言葉が延々と記されつつあることに変わりはない。誰かにとってそれは認めがたいことだろうか。しかし現にこうなっている。こうなっているから現状を変えられないのであり、これが現状なのだから変えようがない。そんなことはないか。心がくじけているようだ。

 ただ何かをそこから外そうとしている。それをやろうとして失敗の繰り返しを招いているのだ。それは永遠の頸木になるだろうか。外そうとして外れないのだからそういうことか。それを簡単に外して、誰かは何を笑っているのか。そんな光景を空想しているのだろう。気休めの嘘からそういう成り行きが乗じてしまったらしい。だがそれで誰が困っているわけでもない。現実を見た方がいい。まだ何も成し遂げていないうちにこの世から消え去ろうとしている。それも空想のたぐいになるだろうか。決まりきった行動の範囲内で何をするわけでもなく、何もせずに窓から庭を眺めているわけでもない。そこには理由がある。ありふれた矛盾もあって、わざと頭がどうかしているように振る舞うこともできる。それで何がわかるのか。何もわからなければどうなってしまうのか。またはじめからやり直せばよく、納得するまでやり直しを続ければいいだろう。そのうち飽きて別のことに興味を持ち始め、時が経てばその当時に何をやっていたかなんて思い出せなくなる。


3月13日

 何かを見ているうちに何かを思う。腹立たしいか。それに関しては何も思わないだろう。だがそれでも疑念が生じてくるのはどういうわけか。何も言わないことにしよう。それはどういうことでもなく、人が抱いている通常の感覚だ。だからまだ何も終わっていないはずだ。ここから語る必要があり、必要もないのにそんなことを述べている。何かの中毒症状なのだろう。それもここで終わりか。文章になっていないようだ。探さなければわからない。別に宝探しの最中でもないだろう。何かの音が聞こえなくなり、不意に強風が吹き荒れる。それは誰かの空想に違いない。どうやら頭の中で何かがバラバラに分解している。目が痛くなってきたのか。何のことだろう。ことではなくものなのか。どちらでもかまわないだろう。どちらでもないのかもしれず、そんなことはどうでもいいのかもしれない。

 やる気がしない理由を探しているわけではない。どうあってもそれが違うと思われるのだろう。それで以前より少し視野が広がったことは確からしいが、果たしてそれでかまわないのか。途中で横道に逸れないでほしい。気が散って何も思い浮かばなくなり、苛立たしい。そんな嘘をついているのだろうか。何に反感を抱いているとも思えない。何に対しても興味がないのではないか。誰かはいつか世間から認められたいとでも思っているのか。おそらくそんなふうに思っているはずだ。他に何を思っているのだろう。他があるとは思えないが、それはありふれた作用に操られた結果から生じていることか。そんなふうに思いたいのだろうか。それは心に巣くう虚無のたぐいだ。君はそこから言葉を導きだしたいのだろう。そして何の意味も担えない言葉を連ねたいのか。

 何かの生き残りが目の前で何かを繰り広げる。見え透いた行為になるだろう。おそらく誰が見てもそうだ。わけもわからずその場を立ち去る。そんなふうにそれらの光景が見えてしまうらしい。しかし美しいことは良いことなのか。時と場合によって異なる。そう思っていればいい。何の回答にもなりはしないだろう。何に対する返答にもならず、何を気にしているのかも不明か。だからそう思っていればいい。誰かはまだあきらめていないはずだ。センスなど気にしていたら何もできなくなる。本当に何もできていないのではないか。まだその前段階だと思われる。とにかく何かをやろうとして、実際にその最中なのではないか。しかし何かとは何なのか。それが何だかわからず、もどかしいのだろうか。そうだとしてもそれを続けていることは確かか。何でもないのにそうなってしまい、それが誰かを戸惑わせ、さらに何でもないような気分となる。そんなのは嘘か。

 何かを気にしているが、それは残り時間か何かか。だから何かとは何だろう。何ゴテゴテしているような質感があり、それだけのことなのに、妙に気になってしまうようだ。そしてそれがわからなくなっている。胸が痛むか。理由が定かでない。病のたぐいかもしれず、緊急を要する状態のようだ。それは嘘かもしれないが、何も流行らない。風邪でもないはずか。体調が悪いのは誰のせいでもない。ただ不摂生がたたっているだけか。わからないがそういうことになりそうな気配だ。何がそうなのかもわからぬまま、やがて死んでしまうのだろうか。まだそこまではいかないはずだ。ただやせてきた。二十数年前に質流れ市で買った背広が着られるようになった。きっと気のせいだろう。そう思う。思いたいのではなく、思っているのだ。本当は何かがおかしいのではなく、頭がおかしいのではないか。安易に考えるならそういうことになるだろうが、それで納得するはずがない。まだ賽が振られたばかりなのに、もう終わりということもない。


3月12日

 それの何が答えなのだろうか。今日は今日らしく今日であるような気がしてきた。君は何に見とれて、何を忘れているのだろう。またいつもの癖が出てしまったらしい。おかげでまったく作業が進まない。まったくどこをほっつき歩いているのか。偶然に見出された何かが誰の魂でもない。何のことでもありはせず、まったくのでたらめに違いない。そしてまた何かに見とれている。どうやら何もままならないようだ。そして眠ってしまう。疲れているのだろう。やっていることは何も効率的ではないらしい。まったく馬鹿げた話だ。そう思うならどうすればいいのだろうか。どうせどうもしないのだろう。それで正解だ。たぶんそういうことなのだ。

 それでかまわない。どこまでもそういうことになる。それはどういうことなのか。そういうことなのだろう。どこかに競争原理が働いている。虚しいことだ。何を飾り立てているわけでもない。たとえ君が他人の真似をしようとどうしようと、文章上ではそれとは違うことが述べられている。誰が何を述べているのでもない。そういう逃げ口上がおかしいのか。しかしそれ以外に何が用意されているわけでもないだろう。前もって逃げ道を設けておくほど用意周到ではないか。しかし依然として何を述べているわけでもない。現実がそうなのだから、虚構の世界ではなおさらのことか。だが依然として君が何を語っているとも思えない。誰かが言葉を並べているだけか。

 しかし何をあきらめているのか。まだ話は始まったばかりだろう。取り立てて何を語っているわけでもない。そしてそのまま終わってしまうのか。なぜ何も語らないうちから話の終わりを気にするのか。何かを語っているはずだ。それが意味不明であってもかまわない。おそらく君は眠たいのだ。何かの作用でそうなってしまったらしい。ストレスでもたまっているのだろうか。ありふれたことか。それでも誰もが何かをわかりかけていて、彼らを取り巻く何かが変わりかけている。そう思わずにはいられないのだろう。現状があまりにも馬鹿げていて、考えることすら億劫になっているようだが、それでもそれについて考えなければいけない。何かが違っていることは確からしい。それだけは探せば信じるにたる証拠でもありそうだ。面倒だから探していないだけか。だが語りたいのはそんなことではない。

 本当は何も語りたくなかったのではないか。本当の気持ちなど語りはしない。ではすべては嘘なのか。そうではなく、そうなってしまうとすべてが嘘になる。何がそうなってしまうのだろう。そうなったらつまらないと思われる。相変わらず何を語っているわけではないらしいが、何も語らずにいるとストレスがたまるのではないか。ただ言葉を並べている。文章とはそういうものだろう。だがそれの何が文章なのではない。それこそがそうなのだろう。ならばそれはつまらない言葉遊びのたぐいだろうか。そう思ってもらって結構か。少なくとも今はそう思いたいはずか。別に今でなくてもかまわないのではないか。そんなふうにして現状に対する認識を新たにして、誰かは何を思うだろう。

 現状は枯れた風情といったところか。いい加減に嘘をついている。だから何がたぐいまれなのでもないだろう。まるで現状に合わぬ言葉の方向性だ。でたらめに違いなく、それ以上に馬鹿げているのはわかっているだろうが、それでも何も述べられない。そうやってだいぶ無駄に言葉を弄したつもりだが、未だにこの有様だ。なぜそうなってしまうのかわからぬまま、何かに導かれているようで、次第に何かがわかりかけてくる。しかし何かとは何なのか。そこで何かがわからなくなり、何でもないような気がしてくるが、それでも何かは何かのままなのだろう。そのように問答を繰り返したところで、それは紛れもなく何かなのだ。それ以外ではなく、それ以上に特別な意味を伴うわけでもない。そしてそれは記され、何かの文章となり、それを読み返す気が削がれ、やはりそれは何でもない何かのままにとどまろうとする。


3月11日

 これが答えなのだろうか。たぶんそうではない。それで何を探し当てたとも思えない。自然に何かが出てきた感じか。別にあきらめの境地というわけではないが、なぜ自らを飾り立てなければいけないのか。しかしこれとは何だろう。この世界を平和に導くために誰かが何か包括的な枠組みでも提唱しているわけか。そういう話ではないような気がするが、何をごまかすためにそんなことを述べているとも思えない。ならば誰かは何を主張したいのか。それは主張ではない。主張でなければ何なのか。そこに言葉が並んでいるようだが、それは目の錯覚だろうか。たぶん違うのだろう。何が違うわけでもないのに違っている。

 違ってしまうのはいつものことであり、冗談で述べているのもいつものことだろう。だから文章が空疎になる。しかしそれが理由ではない。なぜ君は理由を探しているのか。それは何をする理由でもなく、どうにかなってしまった理由でもない。では理由とは何なのか。それはそう問いかけるために必要な理由だろうか。だが目の前の闇に向かって何を問いかけようと、当然のごとく何の返答もない。あたりは沈黙に支配されている。そう思っているだけか。嘘だろう。思ってもいないのではないか。現にさっきから音楽を聴いているはずだ。

 さっきまでは何について語っていたのか。今となってはわからないか。君のことではなく、誰のことでもないだろう。たぶん語るべきことがない時間帯なのだ。嘘かもしれないが、本当にそんな時間帯があるとして、なぜ誰かはその時間帯に言葉を記しているのだろうか。その場の流れでそういう成り行きになってしまったのだから致し方ない。また冗談でそんなことを述べている。頭の中がごちゃごちゃしているのだろうか。有形無形の様々な圧力を感じていて、どうしようもないらしい。なぜそうなってしまうのか。それもまたそういう成り行きなのだからあきらめるべきか。それがわからない。

 何を考えているわけでもなく、ただリラックスしているのだろう。そう思いたいところだが、不意に頭の芯が痛くなり、まさか脳梗塞の前触れでもあるまいが、何となく不安になる。左目の奥の方が痛いのだろうか。君にはその辺がわからないのだろうが、作り話の中では誰かが幻影でも見ていることになっているのか。また外れているようだ。誰かはいったいどこにあぐらをかいていたのか。なぜ誰もが死に物狂いにならなければいけないのか。たぶん必死なのだろう。誰かは何かを見ているのだ。今までに何かを見てきたはずだ。その見てきた何かがそういう具合になっている。

 しかしまだ間に合うのだろうか。何かを見ながらそれは違うと思っている。それだけのことに違いない。誰かはそれが気に入らない。違っていてはまずいのか。違うと思うのだから、違っていることは確かなのだろう。今はそれを認めなければならない。だがここに何があるというのだろう。何もないと思いたい。嘘でもかまわないからそういうことにしておきたい。それも冗談の続きで述べていることか。思い詰めていることなんて何もない。気分は散漫だ。さっきまではリラックスしていたはずだ。だから変わらなければならないことなんて何もありはせず、ただそこにある状況を把握していればいい。イベントなど過ぎてしまえば忘れ去られるだけか。別にそこで自己顕示欲を満たそうなどと思ってはいけない。

 何かの感覚が違っているのだろう。いつもとは少しずれているはずだ。少しどころではないか。その辺に見解の違いがあるのかもしれないが、とりあえず今は何とか平静を保っているようだ。君がどこから外れようと、それらの状況がどう変わるわけでもなく、変わるきっかけなどどこにも見出せず、ただ延々とそういうことが繰り広げられ、それについて何か適当なことを述べている輩もいくらでもいそうだ。そういう意味で救いなど何もないのだろう。誰も言葉などで救ってほしいとは思わない。だから誰に声をかけているわけでもなく、無言のまま言葉を記し、いいわけが利かぬ状況をやり過ごすこともできない。未だに君はそれでかまわないと思いたいのか。だがそうなってしまうことの何が問題でもなく、何もやり過ごせぬままでもかまわない。


3月10日

 何かは至って順調に推移しているようだ。まだ正気であることは確かなようだが、この先気が狂うとは思えないので、楽観的な将来像を信じようとしているのかもしれない。何かの仕組みを解き明かしたつもりになりたいようだが、それが不完全であることも承知している。しかし何を解き明かしたつもりになろうと、得られるものは何もないらしい。それが自由でいることの代償となる。誰かは孤独なのか。それとも誰もが孤独だと思いたいのか。それは誰もが思うことか。そんな言葉の配置に感動するのもおかしい。君は何がおかしいかもわからず、ただ雪景色を眺める。それも違うのではないか。何が違っているとも思えないが、見飽きた風景を愛でているわけでもない。すべては目の前を通過するにまかせている。時の流れなのだろうか。歳月の積み重なり方に疑念を抱いても仕方がない。人はどこまでも老いる。たまたま老いた先に死が待ち構えているだけか。たまたまではなく必然だろう。そんなあらかじめ決まっている終わりを目前にしているのだろうか。それで何を納得したつもりになれるのか。誰かの心がそこから遠ざかろうとする。

 まったく何を自慢しても虚しいだけだが、それを自慢せざるを得ないのも哀しい現実か。自己顕示欲が空回りしている。そんな光景を目撃しているわけではなく、空想しているに過ぎない。過去においてそんな光景を目にしていたのかもしれないが、どうでもいい記憶はどうでもいいままにとどまり、そこから何が引き出されることもなく、ただ淡々と通過儀礼的に興味のないことが述べられてしまうだけか。しかし誰かの関心がどこを向いているかは定かでない。依然として四方八方からもたらされる情報をそのまま聞き流しているような状況なのか。何を意図してそんなことを述べてしまうのか。そうした自問自答がそれらの文章の糧となり、かろうじてそれによって記述が成り立っているようだが、それでもどこかにがたがきている。何かが壊れようとしているのかもしれない。継続しようとすればするほどどこかに変調を来し、それに加えてやる気を削ぐような出来事に遭遇して、まるで風前の灯のような局面を迎え、そこでわざとらしく踏ん張ってみせるのだが、何となく本気ではないような気がして、どうでもいいような気分となる。

 ではすでに誰かは堕落してやる気を失ってしまったのだろうか。誰もがそんなはずがないだろうと思うだろう。確かにそんなはずがないが、それが確かだと確かめる方法はない。本当に方法がないだろうか。何となくそう思っているだけで、実際に試している方法が少なすぎないか。何を試しているというのだろう。何も模索していないのかもしれない。ならばそれは運か宿命のたぐいか。君はたまたま好運に恵まれたいのか。そんなことでは望み薄の見解をもたらすしかないようだが、どうやら誰かはそこから飛翔するつもりのようで、とんだ勘違いなのかもしれない。実際にそれで何がもたらされたのだろう。もたらされたものは無用な言葉ばかりで、わざとそう思いながらも、何かを狙っているのかもしれず、おそらくそれは一発逆転とはならないだろうが、何となくそこから逸脱するような何かが、空疎な作り話の中にもたらされているわけだ。少なくとも誰かはそう思いたい。たぶんそんなふうにして言葉を連ねているのだ。ひたすらそういうことを述べている。

 それは居心地の悪い空間に違いない。別にそこで修行しているわけでもないのだろうが、取り立てて何のためにそうしているわけでもない。ただ何かを見極めようとしているのかもしれない。それが叶わぬとしてもそれをやめるわけにはいかないのか。それとは何だろう。まるで決まり文句のようにそういうことが記される。いったい何をあきらめきれないのか。そう思わせるような言葉の並びには違いない。おそらく何かのふりをしているのだ。そう述べて他人の関心を引きたいわけでもないのだろうが、そんな嘘が通用しているとも思えない。誰が何を述べるにしろ、記された言葉の連なりは他人に読まれたいのだろう。そしてそれが何について言及されているのかと言えば、言葉を記しているつもりの自己に言及していることは確からしく、その確からしさが自己を欺いていることも確からしい。本当は本当ではないのかもしれないが、自己という虚構がそれらの文章そのものなのかもしれない。自己について語っているつもりの文章がそこでの自己なのか。そうだとしたら本当の自己などあり得ず、それは存在できない虚構の作り話なのだろう。それともそれも嘘のたぐいか。


3月9日

 またここまできてしまったようだが、それは予期せぬ出来事になるだろうか。あるいは虚構に属する地点で思っていることか。架空の誰かがそう思っていれば勝手に言葉が連なるだろう。それもフィクションなのだろうが、今はそう思いたい。その場に居合わせた架空の誰もがそんなことにまで気をまわさないようだが、何となく夢の中で何を見ているわけでもないのに、誰かは至福の気分を味わっている。またあり得ないことを述べているようだ。それにしても気がつけばもうこんな時間のようだ。だからどうしたわけでもなく、またここに至っていつものようにどうでもいいようなことを述べている。君はそんな気がして仕方がないようだ。なぜそうなってしまったのか。それは答えのない疑念だ。どのような紆余曲折を経ても、そういう成り行きが変更されなかっただけか。確かに生身の体はどこかに至ったのに、心はどこにも至らない。何かを受け入れるのを拒否しながらひたすらそう思い込んでいる。まだ言葉が足りないと思っているだろうか。そう思うなら、さらに言葉を記してゆけばいい。やがてどこか得体の知れぬ心境に突き当たるはずで、突き当たったそこが言葉の限界点なのだろう。また性懲りもなくいい加減なことを述べているようだが、では実際に行き着いたら、そこから先に言葉を連ねられなくなってしまうのか。誰に問うているのだろう。そこで何が問われているわけではなく、誰が何を問うているわけでもなく、ただ誰かがそんな言葉を記している。それはどこまでもそういうことなのか。そうだとしたら、その先にどんな言葉を記せばいいのか。結果的に記されたそれがそこで記された言葉だ。要するにそれは空疎そのものになるだろう。

 君にはそれがわかっているはずだ。君には何も持ち合わせがないことを承知していながら、さらに何を要求しようとしているのだろう。追い求めているそれは欲望の充足などではない。それどころか何も追い求めていないのかもしれない。だから君はそこから出られない。何かを追い求めているような幻想を抱かないといけないのだろうか。どこかへ行こうとしない限り、どこへも行けないだろうか。そんな幻想を抱かない限り、偶然に流れ着いた南海の孤島などあり得ないか。この世界で誰が漂流しているとも思えず、確固とした意志に従って行動している輩はほんの一握りの人たちであって、そういう先導者的な逸材に付き従っているつもりのその他大勢もあまりいないのではないか。だからすべては虚構で、そういう話は冗談のたぐいになるのだろうか。だが君はそう述べて何を馬鹿にしようとしているのだろう。何か間違っていないか。もし間違っていたところで何をどうしようとしているのでもなく、間違ったままそんなことを述べ続けるまでか。しかしそうした冗談の先には何があるのだろう。今さら何を知りたいわけでもないだろう。どうせ話は遠からず行き詰まってしまうのだ。

 この地域では珍しいことだ。雪景色の中を電車が走っている。年に何回もあるわけではない。そんなことを唐突に述べているようだが、気分がどうかしているわけではない。もちろんそこから話を膨らまそうというのでもないだろう。ただ寒い。何に言及しようと無駄だ。別に無駄であることを誇っているわけでもないが、何となくそう述べざるを得ない雰囲気なのかもしれない。そういう思い込みがそれらの文章を構成させるのか。そうであったとしても、それを変える気は起こらず、そのまま惰性で何かいい加減なことを述べ続けるのかもしれない。何がどうあれそれで済ましてしまうこと自体がおかしいのだろう。おかしいから笑ってしまうか。そんな誰かの思考は偏向した思い込みによって成り立っているのだろうか。この世界のどこかにとんでもない秘密や秘宝のたぐいが隠されていて、それを探し当て手にした者に絶大な富と栄光がもたらされる。そんな誰もが思いつくような物語を信じていいものか。結果的に誰かがそれを手にするにしろし損なうにしろ、そこに至る過程をおもしろおかしく語ればいいのだろうか。だがそう述べて君は何を馬鹿にしているのか。たぶんそこで何かを読み解こうとしているのだろう。


3月8日

 心は何かの抜け殻をとらえ、それに合う言葉を当てはめようとするらしい。合うはずがないか。両者はまったく別の事物だ。それを指す言葉が見つかるなんておかしいか。実際にそういう成り行きなっているではないか。だから君の方こそどうかしている。たぶん何か勘違いを犯しているのだろう。話を難しい方向へ持っていくことはできない。その場でまともな内容などを期待するのは馬鹿げている。空洞には何も残っていない。すべてが抜け殻なのだ。それについて語ることなどあり得ない。すでに語ってしまったのではないか。確かに語ってしまったらしい。それでも誰かはさらなる語りを披露したいらしい。嘘をついているのかもしれないが、至って平静を装う。何とか平常心を保っているつもりらしい。しかし何をそんなに動揺する必要があるのか。思いがけず何を思いついたのだろう。何を思いついているとも思えないが、とにかくそれについて述べてみる必要がありそうだが、未だそこに至っていない。

 誰かは何かのイベントに参加している。そこでは出来事が起こっている。その気もないのにそんなふうに物語る。それは誰の思いになるだろうか。簡単にあきらめるべきではなく、粘り強く交渉する必要がありそうだ。物語の中で誰かがそう思う。しかし誰がそれを語るのか。無理に語る必要はなく、そこから何も得られないならば、そこで引き下がるべきなのか。結果がそれを裏切っているのかもしれない。得られた結果ではなかったかもしれないが、君はそこで何かを空想しているのだ。君はつぶやきの内容を聞き取れなかったのかもしれない。誰かが何かつぶやいていたような気がしただけか。そこで議論は平行線をたどり、そこから先はうんざりするような繰り返しだ。みんなそこであきらめてしまうのだろう。もはや言うべきことは何もない。だから引き下がってしまうのか。それで何とか危機を乗り切ったつもりになれる。そんなわけで誰かはいつまでたっても何でもないことを述べ続け、それでかまわないと思わせるような執拗さでそれを繰り返し、他の者たちをあきらめの境地へと誘い込む。それが戦略だとしたらお粗末か。

 君はそれでも何とかしようとしている。すでに物語っているつもりのそれらは何でもない。そう思っているうちに何かを達成してしまったらしい。難局をすり抜け、何事もなかったかのように言葉を連ね、それが誰かの仕業と思い込ませようとしている。そんなことをやって何の得があるのだろう。損得勘定など無関係か。何をどう考えようと、そこから何が出てくるわけでもなく、記された言葉の連なりには誰の意図や意向が反映されているわけでもない。だから無理をすべきではないのかもしれない。その辺をかけずり回って憔悴しきっても何も得られない。では何もせずに黙っているべきなのだろうか。それが必要ならそれでもかまわない。あとは無意識の行為が解決してくれるだろう。必要とあらばそのあとから理由をねつ造すれば済むことだ。君にはそれを語る必然性がありそうだ。少なくともそう思い込んでいれば、あとから必然性がついてくる。何かを物語るとはその程度のことのようだ。だから語ることに幻想を抱いてはいけないのか。別にそれでもかまわないが、必ずその幻想によってそれらの語りから逸脱していってしまうだろう。だがそれが君の狙いではなかったのか。

 そのままじっとしていてもかまわない。心は何の到来を期待しているのでもなく、何を待っているのでもない。待っていなくても明日がやってくる。時は流れ、誰を置いてきぼりにすることもなく、誰もが老いてもうろくしてしまう。絶えず快楽を追い求める者たちは疲れ、顔にしわが刻まれて、自らの行いの報いをその身で体現させられる。たぶんそれがひとつの結果なのだ。君が日頃から求めていた虚無とは違う結果だ。彼らは何を苦労しているのか。何が思い通りにいかないのだろう。君にはそれがわかっているはずだ。心の傷などもう癒えてしまった。だから冗談でそんな嘘をつく。記された言葉の連なりは何を想像させることもなく、淡々とその場の成り行きをなぞり、何が記されているわけでもないのに、その何かを君の胸元に突きつける。話の内容が無効だ。そう思いたければ思うがいい。あとでほえ面をかくこともない。もたらされているものは雰囲気でさえなく、何を表現しているわけでもない。意図するところなどありはしない。ただの文字列を読むまでもなく、それらにどんなレッテルを貼るにも至らないだろう。おそらくそれでかまわないのだ。


3月7日

 この世界では誰もが日々命をすり減らしている。架空の視線によって端から見ていて、そんな気がするのはなぜか。とにかく過剰に快楽を求めすぎて、結果的に寿命を縮めている人が多い。例えばそれは過度の飲酒や飲食や喫煙、あるいはゴルフや麻雀やパチンコや風俗などの遊興にのめり込むことによって、そうなるのかもしれないが、たぶん誰もがそれに気づきながらもやめられない。いったい誰が具体的にそうなのか。少なくとも君ではないようだ。しかし多くの人がそうやって老いてゆく宿命にあるようで、その先に遠からず待っているのは死であることは言うまでもないが、果たしてそれ以外の生き方を肯定する必要があるのだろうか。やりたい放題やれる範囲内で太く短く生きようとするのならそれでかまわないではないか。そのことに意識的であるか否かはこの際どうでもよく、無意識のうちに本能の赴くまま生きていたら、たまたまそういう具合になってしまうのなら、それもかまわない。どのように生きようとその人の勝手であり、案外誰もがそれ以外の生き方などあり得ないような状況下で生きているのかもしれない。

 この世界は至って静かだ。誰がどこで騒いでいようと、やがて静かになる。それは時間の問題だろうか。人の活動期間は数十年から長くても百年をやっと超えるくらいの範囲に落ち着くらしい。だからうるさい人もやがて黙る時が来るだろう。永眠という沈黙がその身に訪れる。それだけのことに感動している。それの何が気に入らないわけでもない。気に入らないと思う人には永眠してもらおうではないか。しかしなぜ人は死んでしまうのか。冗談にもほどがある。本気でそう思っているとも思えないが、君がそれほどひねくれているとも思えない。しかし冗談の次に死がやってくるとも思えない。漫画の中の死は安易か。読者を感動させるために主要な登場人物の死が描かれる。それだけのことだ。それだけのことに感動してしまうわけか。たぶんそれだけのことではないと思いたいのだろう。思い入れのある読者にはそう思われるのかもしれない。だが人は何のために生きているのでもない。漫画の中でもそれは同じだ。だからそれらの死に戸惑ってしまうのだろうか。君には関係のないことでありながらも、そういう死を否定したくなる。それはどういう死なのか。それらの環境では生死をかけた極限の戦いばかりが行われているではないか。そういうのが見え透いているように思われ、どうしてもそこで描かれる死には必然性がまとわりつき、主要な登場人物が大げさな最期を遂げてしまう。たぶんそれが馬鹿げていることのすべてかも知れない。

 現実の世界ではその多くがたわいなく死を迎える。偶然の巡り合わせで死んでしまい、その死さえもさっさと忘れ去られ、何事もなかったかのようにこの世界はあり続けている。それらの死に涙する近親者たちは、おそらく物語的な幻覚作用に操られて涙するのだろう。その忘れ得ぬ故人には思い出がつまっていて、ともに生きて同じ感情を分かち合った仲間の死を悲しまなければおかしいだろう。そういう思い込みの中に物語があるわけだ。生まれてから死ぬまでの間に成し遂げた数々の業績のごときものが走馬灯のように脳裏によみがえってきたりするわけか。しかしそんな冗談で誰が笑えるだろうか。それの何が冗談なのだろうか。たぶん今は冗談について述べているわけではないはずだが、これが笑わずにいられようか。たぶん笑っている者など誰もいないだろう。わざとひねくれたことを述べているのは言うまでもないか。そして誰かはそれでかまわないと思っているはずだ。何について述べているわけではなく、その中で取り立てて強調すべきことも何もない。ただ人が死に、そしてその死が忘れ去られ、何事もなかったかのようにこの世界があり続ける。そんな当たり前のことを拒否する理由もない。人はそんな忘却の彼方にあり続けるべきなのか。存在とはそういうものだ。


3月6日

 話の出だしがままならない。そんな気がしているだけか。その気もないのに語りだそうとしているからだ。相変わらず何も語れなくなっているようだ。そんなわけで何も変わらない。天候に何が左右されているわけでもなく、内容は至って空疎だ。そして何を述べているわけでもない。要するにさっきから同じようなことを延々と述べている。それで何を述べていることになるのか。たぶん何も述べていないのだろう。だからいやな気分になるのか。それと何かプレッシャーを感じているのではないか。理由もないのに言葉を記さなければならない。それが嘘であることを承知しつつもそう述べてしまう。なぜそうなってしまったのか。だから理由などないと嘘をついているではないか。それの何が不満なのか。

 誰かはふざけているのではないか。そう思うならどうしたらいいのだろう。どうもせずに何とも思わないか。それだけでは不満なのは当然だとしても、では何ができるかといえば何もできはしない。だから苛立っているのではないか。その気持ちもわからないではないが、わかりすぎるくらいわかるほど何もできない。だから苛立つ他ないような状況なのだろう。そしてそれが何だかわからない。もちろんそれも嘘に決まっている。やはり今日もそんなことを延々と述べているのか。実際にそういうことのようで、そればかりでは本当に馬鹿げているような気になり、そんな気になるのも認めざるを得なくなる。だから何だというのだろう。

 堕落しているのだろうか。それともすでにすべては言い尽くされていて、もう述べることなど何もないのだろうか。そう思ってしまえばそこで終わりだ。だから終わっているのだろう。そして終わった後に空疎で意味不明気味の文字列が続いているわけか。そう思ってもらって差し支えない。君はふざけているのかもしれない。たぶんそうだ。そうでなければ何なのか。やはりそこで何でもないと述べておかなければならないようだが、本当にそうなのだろうか。そうでなければどうにもなっていないだろう。だがどうにもならないからこんなことを述べているのではないか。そうだというならそういうことだろう。そしてそうではないと否定するならそこで終わってしまう。それは嘘かもしれない。

 何かが狂っていることは確からしい。感覚がおかしいのかもしれない。君はどうかしている。作り話の中ではそういうことにしておこう。しかしこれが作り話のたぐいなのか。そこで何が作られているのだろう。それは話ではないような気がする。ただ言葉が並び、文章が連なり、それで何を述べていることになるのだろう。何も述べていない。実際にそうだ。そう思い込んでいる。それは心の病だろうか。そう思っていればいい。君はもうおしまいだ。本当に終わっているのだろうか。君はそれを否定できない。本当は終わっていないと思いたいのか。

 誰かがどこかに出没しているらしい。そんな噂が作り話の中で語られる。それがどうしたわけでもないが、何となく不愉快な気分となり、それでどうしたわけでもないが、そこで話が終わりとなる。本当に終わってしまったのだろうか。君は何を意図してそんなことを語るのか。意図も理由もないと嘘をつくのはどういうわけなのか。だからわけなど何もありはせず、ただの苦し紛れにそんなことを述べている。何が苦しいのだろう。誰かは言葉を記すのが苦しいらしい。そしてそんな現状を苦々しく思っているはずか。だから何なのだろう。なぜそれが何でもないことなのか。それがわからないからそうなってしまっているのではないか。


3月5日

 相変わらず何もわからない。とりあえずそう述べておかないとなぜか落ち着かないようだ。何となく馬鹿げていると思われるが、そういう決まり文句にはうんざりしているだろうか。架空の世界では誰もがそう思う。そう述べる意図がわからないが、わざとらしく嘘をついているのだからそれでもかまわないだろう。誰かは今日もそんなふうに語っている。このままではいつかの話よりさらに空疎な内容になりそうだ。それでもかまわないだろう。誰も納得していないようだが、このまま空疎な語りが続いてゆくしかない。そう思っているならそれでもかまわないだろう。だからさっきからそう思っているではないか。何でもかまわないと思っているはずだ。

 そして何も語れなくなり、面倒くさいので眠ってしまい、翌朝に起きてみれば、二日後の光景に出くわすだろうか。現実にそうなった。外は雨だ。やがて雪に変わるだろうか。それに関して何を思っているわけでもない。何を大切にしているのだろう。何とかしなければと思っている。この状況をどうしたものだろうか。逃げ道が塞がれている。どこへ逃げようとしていたのだろう。逃げるあてなどどこにもない。だから何を語ろうとしても行き詰まってしまい、何も出てこないようで、そこから先に言葉が連ならない。それが楽しいのだろうか。何かが違っている。またもやそう思いたいのだろう。

 語っている内容が空疎なのは良い兆しなのかもしれない。虚無の他に何もなければそれでかまわないはずか。そこで生きようとする者は何も思わず、自らの意志以外の何も示せない。この世界のどこに暗黒の大地があるとも思えない。未開の土地には何もない。ならば人は人が住んでいる範囲内で行動すべきか。現にそうしているではないか。それ以外の土地がこの世界のどこかにあるとは思えない。しかし何の話をしているのか。途中から意味不明になっているようだが、それは何の話の途中なのだろうか。君にはわからない。誰にもわかるはずがない。

 なぜか気持ちが散漫になっているようで、まともに思考が働かない。現状ではそう述べるのが精一杯か。いったい何について語っているのだろう。何かを語ろうとしている君にはわからないことか。実際には何も語ろうとしていないのではないか。たとえ何をどう語っても、短絡的に何を断定することもできない。結論に至れないということか。それが結論ではない。要するに何でもないのだ。何も語らず、何も示さない。積極的に提示するものは何もない。

 使い古された表現形態を保っている。他に何が示されているわけではない。他があるわけでもない。何もないからおかしいのかもしれず、何もおかしくないからそう思うのだろう。気分はいつでも矛盾する。何かおかしくないか。おかしいからそう述べているのだろう。しかしいったい何がおかしいのか。そう述べていること自体がおかしい。この世の中がおかしいのか、そう思っている誰かの頭がおかしいのかわからないが、とにかく何かがおかしい。

 人は人であって人でない。時にはその場の都合に合わせて物であったりする。物が死んだりするのか。時にはそういうことになり、死んでから急に人間扱いされたりするらしいが、人とは何だろう。なぜ君はその場を占有しているのか。誰の差し金でやっていることでもない。ところで君はどこで何を知り得たのか。それは人から得た知識ではないはずだ。何について語っているつもりなのか。そこで語っていることではなく、どこで語っていることでもない。いつの時空でも何も語っていないのかもしれない。そこでは何も語られず、誰かはそれに関して何も記さない。たぶんそれは何でもないことだったのだろう。少なくとも君にとってはそうだ。


3月4日

 誰かが架空の時空で自らの存在理由を探し出そうとしている。そんな話を空想しているわけだ。話にならない。嘘かもしれないが、嘘に決まっているだろうか。話の中で何を決めているわけでもなく、何について語られているとも思えない。では何のための話なのか。誰かが記しているのは何の話でもないのかもしれない。それではいつもと変わらない。誰かはノイローゼか鬱病か。そういう話だったら興味深い。だがすべてはフィクションだ。君は現実と虚構の区別もつかないのか。ありふれた見解には違いないが、それで何をうれしがっているのだろう。それも嘘に違いない。それはいつも思うことだが、どうも何かが違っているようだ。

 なぜ晴れているのだろう。翌日にそう思う。晴れて暑いか。そこには何もなく、空疎な思いだけが心に残っている。何も思っていないのかもしれない。なぜそうなってしまうのかわからない。そしてそれだけのことで悩んでいる。また誰かは嘘をついているのだろう。きっとそうだ。何に関して何を思っているわけでもなく、困り果てている理由に心当たりもない。誰かは金属アレルギーなのだ。ただそれだけのことで悩んでいるのだろうか。それ以外では軽く放った冗談の続きが何かを示している。それでどこにたどり着いたのか。ここは何かの極北というわけでもない。

 まだ何かが外れている。そこで何かが連なっているようだが、終わりまでは至らない。途中で投げ出されて何かの所在が不明になり、それについては何も語れなくなってしまう。いったい人はどこで何をやっているのか。それの何が謎めいているわけでもない。ただ続かず、持続しない語りは無駄になる。それだけのことなのだ。必要もないのに迷い悩むこともない。君はそこから外れて息絶える。虚構の中でそうなるだけのことだ。本当はどこまでも生き続け、飽きるほど暇を持て余していて、何もやることがないのだろう。一度そういう身分になってみたいものか。それでも君は何か追いつめられていると思っているのか。それともそれも冗談の続きなのか。

 何がわからないのかわからないが、最近はそういうことばかり述べているようだ。それが気に入らないのは承知している。だがそれ以外にはあり得ないこともわかっている。だから困っているわけか。それ以外を語りたいのに語れないことに苛立っているのかもしれない。しかしそれだけだろうか。なぜそれだけではないと思いたいのか。たぶん何に苛立っているのでもない。それは何物にも代え難い何かだ。要するに何でもないというわけか。だからこの先何が起ころうとどうということはない。

 だんだん何も述べられなくなっているようだ。ここは何もない世界なのか。誰かの狂態を眺めているわけでもない。それが画面上で起こっていることか。酒の席での出来事かもしれない。人はまともに考えられない部分を抱えている。それはどこから来ているのでもなく、自らの内部からわき上がってくるのだ。そう思い込みたいのだろう。実際は外部と内部がつながっていて、外部から影響を受けながら内部が意識の中で構成されつつあるのだろうが、そのようにして構成されて思い込みが自らを操り、何か得体の知れない心境を伴いながら、独りよがりの結論がもたらされるのだろう。それをどう扱ったらいいのか。

 何について述べているのかわからないのだが、それでかまわないのだろうか。たぶんそれらの文章は何かについての記述なのだろう。それが何だかわからないが、その何かについて述べていることは確からしい。しかしその何かとは何だろう。それがわからないからそういうわからない内容になっていて、それは決して無内容ではないのかもしれない。だが無内容の方が自由だろう。何も語る必要がないのは楽しいことか。しかしこんなところで行き詰まってどうするのか。


3月3日

 頭の中で何かが腐っている。それは中身が豆腐か何かだろうか。たぶんそういうことではない。君がわからないだけだろう。誰もそうとは思わないだろうが、誰かがそれを知っている。君はそれを知りたがっているのだ。それを誰かが知っている。それはどういうことでもない。だからわからないのだろう。それは単なる言葉遊びに過ぎず、それに対するいいわけは何もない。そして誰かがそれを語っているというのは嘘なのだろう。誰も何も語らず、そこで何かが沈黙する。この世はその何かに支配されているのだろうか。そうは思わない。では何かとは何なのか。

 いったいこの世界では何が起こっているのか。それは疑問ではない。それほどおかしいことを述べているとは思えないが、何が起こっているのかわかっているのに、そういうことを述べていて、それがわざとらしい雰囲気を漂わせている。それの何がかまわないのだろう。本当にそれでかまわないのか。たぶん悩みながらも結局はそういうことになり、そのまま空疎なことを述べ続けるのがいつものパターンだ。それを今まさにやめようとしているわけか。誰かにやめられるはずがない。そしてそれも冗談のたぐいになりそうだ。

 今の誰かはまったく何も述べていないような気になっている。あたりは沈黙に支配され、人影もない。しかし何がまばらなのだろう。唐突にしては意味がわからない。やはりそれもわざと記していることか。それでも何に見とれているわけではなく、ただ無駄に言葉を連ねて、わけのわからぬ文章をひねり出すまでだ。たぶんそんなことは不可能だろうが、実際に導きだされたそれは何なのか。言葉のコレクションか何かか。だがそれらのバリエーションに規則性は見当たらず、それも嘘かもしれないが、ただのワンパターンにならないように努力しているつもりか。だがそういう無駄な努力はまともな内容には結びつかず、今にも心を覆う虚無に押しつぶされそうになる。そういう圧迫感にどこまで耐えられるだろうか。それともそれも冗談で述べていることの続きなのか。

 実質的には何の続きでもありはせず、その都度やる気を失い、やろうとするたびに何かを削がれているような気がする。気分が乗ってこないようだ。何もないのに気分が乗ってくるはずがない。探せば何かあるはずだが、何も探そうとしてない。では目の前の画面とにらめっこか。

 しかしそろそろやる気を出さないとまずいのではないか。このまま終わってしまいそうだ。それでもとりあえず言葉を記したからかまわないのか。ごまかしにもほどがありそうだが、誰かは何をごまかしているとも思わない。それが身の丈に合った程度の文章なのだ。文才がなさ過ぎる。それは冗談だろう。それ以前の問題として、文章を構成する必然性が感じられない。いったい君は何を語りたいのか。またそれか。それでは不満なのだろうか。決まっているだろう。願わくはもう少し気が利いたことを述べてほしいか。それができないからこういうことになっている。

 翌日の夜は雨が降っている。とりあえず何に落胆しているわけでもないが、それらの独白もどきの主語を担うはずの存在を知りたくなる。誰がふさわしいのか。そんなことを考えてどうするわけでもないのだろう。何を当てはめようとも思わず、ただ適当にいい加減にそれに見合った雰囲気を漂わせ、それで何かを述べているつもりになりたい。むろんそんなのはごまかしに違いないが、それ以外に何があるというのか。何に呆れているわけでもない。ただできそうなことをやっているに過ぎず、それが不可能だとは思えないから試しているのだろう。要するに記しつつある文章に言及しようとしているらしいが、別にそれがどうしたわけでもない。ただ馬鹿げている。


3月2日

 その場所で何か適当な時間帯があるだろうか。何もないならどうするのか。今がそうだ。たぶん何でもないことの続きとしてそういう状況下にあるのだろう。これも冗談の類だろうか。しかし笑えない。おかしいのにおかしくないとはどういうことなのか。何でもかんでも問いに結びつけるのが間違っている。だからつまらないことの続きとなってしまい、それ以外は何も導き出せなくなってしまう。そんな言葉が誰かを苦しめているとしたら、自業自得もいいところか。できればそれを解消したいところだが、目下のところは何がそうなっているわけでもなく、何をどう記そうと、自業自得ぎみに心が虚無に包まれているのは因果応報のなせる業か。だが過去においてどんな過ちを犯してきたというのか。それをいちいち一つ一つ数え上げたらきりがない。誰でもあることだが、誰もが虚無と戯れているわけでもないか。しかしそれは何かの強がりなのか。誰かは何を強がっているのか。何かのどん底から這い上がってくるような演技はくどすぎる。だからそこで虚無とはおさらばしようというのか。

 たぶん君は間違っているのだろうが、いつもそう思うのはどういうことなのか。自らの行いが正しいことを拒否しているつもりなのか、はたまた間違っていると思い込むのが正しい認識なのか。おそらくどちらも間違っているのだろう。何かが正しかったり間違っていたりするのはおかしい。それがおかしいと思うことも間違っているのだろうか。ただ何も語っていないだけのようだ。何かについて語るとはそういうことではないような気がしているわけか。他の誰に問いかけているのでもなく、あくまでも自問自答の範囲内でそういうことを述べているのだ。そして迷っている。何を迷っているのかわからないが、とにかく迷っている。正しい行いではないことを確信しながらも、ひたすら迷っているようだ。そして迷ってばかりで行動に移れない。冗談でそんなことを述べているのはわかる。今さら何をどう語ってもそういうことの続きにしかならないだろう。それが気に入らないといえば気に入らないのだろうが、それ以外にどう語ればいいのかわからず、その先は迷うしかないようだ。

 そんなわけで君は何を迷っているのか。どんなわけなのだろう。どんなわけでもないのに迷っているのか。ひたすらそう思っているだけだろう。だがそれで何が言い尽くされたわけでもなく、君が語る内容に限界が生じているのだ。人はいくらでも死に、いくらでも生まれてきて、世の中は移り変わり、その中で誰が何を思ってみても、そんなことは忘れ去られるだけで、自らが永遠の存在でないことを思い知るだけか。永遠の存在でないとまずいこともない。要するにそんな思考の不完全性に意識が破れ去っているのだろう。だから何を思っても無駄だと感じてしまう。しかし無駄でないといけないわけでもなく、無駄であってもなくても、そう語っている限りはどちらでもかまわなくなってしまい、それは何の目的もないことから生じる非決定性に由来する現象かもしれない。だが安易に目的を設定すれば、その目的に縛られて思考の自由度を失ってしまうが、そうなってもそれはそれで語りの有効性を得るためには当然のなり行きなのだろう。しかし積極的にそうしないのはどういうわけなのか。何かが見え透いているような気がする。ただそれだけの感覚で無目的で無効な文章を記しているのかもしれない。

 確かに何もないことは気楽で楽しい気分をもたらす。何もないなんて嘘に決まっているのにそう述べてしまう。この世界は物質で満たされていると同時に真空でも満たされているのだから、何でもありでしかも何もないということか。それでも確実に何かがあるのだろう。目に飛び込む光があり、耳の鼓膜を振るわせる音がある。手で触れると物質の存在を実感できて、頭で思えば虚無を妄想できる。たとえ幻想と幻影によって人間社会が成り立っていようと、それとは違う何かが確実に存在しているわけだ。そして人々がそれを忌み嫌い、遠ざけようとしても、それは何かの摩擦のようなものとして感じられるのかもしれず、何かの抵抗として絶えず感じ取られているそれによってこの世界はありつづけるのではないか。しかし誰かはそんな結論を安易に受け入れる気でいるのだろうか。君にわかるはずもないか。


3月1日

 それは安易な選択だ。誰かがそう思っている。もちろん何がそうなのか文章には示されず、何のことやらさっぱりわからなくなるのだろうが、君にとってはそれでかまわないのだろう。誰にとっても実感がなく、何を読んでもそういうことになるだろう。何とは何だろう。何とは冗談の類かもしれず、無用な冗談をかまして、それが安易な選択になるように言葉を配置する。それが文章の真髄なのだろうか。それともそれも安易な冗談の続きなのか。どうでもいいことには違いない。ならばはじめからそんなことを述べる必要はないだろう。必要がないからそれらの文章があり、誰がそれを語ろうとしているのでもない。そしてそんな状況に落胆しているわけか。無理もない話ではない。話に無理があるから無理もないのではないか。だがそれで何を述べているのだろう。

 他に何かがある。たぶん何かがあり、他に何でもないことがあるわけではない。確かに何かがあるのだろう。それがここにあり、そこかしこにある。たぶん冗談の続きがそこにある。それだけではない。そこで言葉が記されている。眠たくなっても言葉を記している。それだけのことが冗談だとは思わない。人はどこへ向かって歩んでいるのか。いつかそれは虚しい歩みになる。誰も報われず、救われた例もない。では君はどこで何をやっているのか。なぜそこから遠ざかっているのだろう。何も信じられず、信じようとしない。ならば愛はどうなってしまったのか。それは何に対する愛なのだろう。偏愛ではない。そんなことを尋ねられているわけでもないが、どこかの舞台の上に演劇空間がある。そこから何が生じているわけでもないが、とりあえずそんなことがあるらしい。それは誰も感知していないことだろうか。君がそれに関して何を知っているわけでもなく、知りたいこともないだろう。だから何ももたらせないのか。だが焦る必要はない。

 君は何かを知っているはずだ。例えば世の中には金で買えないものがある。それは誰かの愛であり命であり信用か。冗談にもほどがあるだろう。どこかでしたり顔の誰かがつぶやいている。金で買えないものにろくなものはない。やはりそういう言葉も架空の演劇空間で述べられていることなのか。そこに至る経緯が見えてこない。それらは見ようとして見えるものではない。だが君は何かを忘れていないか。いくらでも忘れているはずか。とても覚えきれる情報量ではないが、その中の何について語るはずだったのか。まだ何かを語るつもりだったのだろうか。言葉の処理の仕方が曖昧だ。誰のせいでもない。では君は何を愛しているのだろう。まさかこのとりとめのない言葉の連なりを愛しているわけでもないか。何かを愛するのに理由が必要だろうか。他に何があるというのか。

 心にゆとりがないようだ。なぜかせわしない。この先君が何を求めようとしても虚しいだけか。それでも何か得たいの知れないものを求めているはずだ。しかし何を幻想しているのか。君ではないのかもしれない。そこに原因はない。結果を求めていないのに原因も何もあったものではない。ただそこでつまずいているだけか。どこかの空洞で吃音が鳴り響く。そんな光景を幻想しているのか。くだらぬ妄想に違いない。いったい何について語っていたのだろう。昼の時間帯に考えていたことか。誰かがどこかで演技をしているらしい。何かを演じているつもりになる。何もないのにそれはないだろうか。思っているのとは別のところで何かを考えている。アイデアも何もありもしないのに、それについて語らないでほしいか。君が語りたかったのはそういうことか。そういうこととはどういうことなのか。相変わらずそこには何も記されていないようだ。


2月28日

 つかの間の晴れだ。空が晴れている。そして空っぽの心が朽ち果てようとしている。文章としてつながらない。誰かはまたそうではないと主張したいようだ。しかしそれが何も反論になってないことは明白で、何に対する不快感を示そうとしているのでもない。人はいくらでも死に、いくらでも生まれてくる。そう思いたいのだろう。でたらめなことを述べているのだろうか。君はそうなってしまった原因を知っているはずだ。どこかで感覚にぶれが生じているのかもしれない。だがそんなのは何の原因ともならないだろう。相変わらず何について語っているのでもない。それらはただの雰囲気だけのようだ。

 君は何を待ちきれないのだろうか。何を期待しているわけでもない。また冗談を述べているつもりになるが、それが何を意味するのかわからない。たぶんそれはどういうことでもなく、無意味な行為だ。誰かがそんなことを記しているようだが、意味に至らない言葉の連なりを読む気がしなくなる。それは記されるための文章であって、読むためのそれではない。だから読む気がしないのは当然だとしても、それが何の役にも立たないことも明白か。それ以外の何が明白なのか。ただわからない。わかろうとしていないからわからないのだろうが、なぜそれをわかろうとしないのか。わかろうとしないのが君だからか。まったく理由になってないようだ。

 君は他にどんな理由を導きだそうとしているのか。何か動機がないとそれを続けてはいけないのだろうか。何を続けているのだろう。途切れ途切れに言葉を連ねる。そんなはずがないと思うが、何を想っているのでもない。そして何が幻想であるはずもない。目に映る光景はすべてが違っている。そう思っているのだからいかれている。では何を試されているのか。それがわかったらおかしいだろう。何を語っているわけでもない。そう思いたいのだ。現実は違っていて、でたらめなことを述べているつもりになりたい。まさかそれが叶わぬ願いというわけでもない。意表を突いているとは思えないが、何がまさかなのか。どこで何が外れているのだろう。意識が戻っているわけでもない。だが完全に夢遊病にかかっているとも思えない。

 誰かはそれをわかっていると思われる。何が気がかりなのでもない。そして完全に的を外れているらしい。偶然の巡り合わせなのでもない。何かの必然に違いなく、それらの言葉は規則正しく並んでいるのだろう。しかし並んでいるからといって読めるわけではなく、何か特定の意味があるわけでもない。やはりそれは何でもないことなのだろうか。それは当然であり、実際に何を思いついているわけではない。だからこうして無駄に言葉を連ねているわけか。しかしそれをいつまでも続けられるだろうか。実際に続けているのは何なのか。とても文章を記しているとは思えない。では記しているのは何なのか。それは誰かの似顔絵か。そうでないことを祈ろう。

 誰かはどちらを向いているのか。何に流されているのだろうか。何も興味を持てないのはどうしたことか。何について述べているのだろう。寒暖の差が激しい。だが相変わらず何がどうなっているわけでもなく、わけもなく眠たくなるが、それは嘘かもしれない。要するにそれも何でもないことなのだ。だからわけがわからなくなり、途方に暮れて何も述べられなくなるが、それでも言葉を記していることに変わりはない。その際原因も結果もその通りになり、何がそうなのかわかりかねるが、たぶんそういうことなのだろう。君はコーヒーアレルギーだ。そんなのがあるのだろうか。誰がそれを証明しているわけでもなく、それは何かの勘違いになる。


2月27日

 今はどんな状況でもないが、こんな状況でまた誰かが何かを思いつこうとしているらしい。いつものように嘘に決まっているか。どうせ今回もそうではないと思いたいのだろう。確かに君にとってはそうではないが、誰かにとってはそういうことだ。本当は何も思いついていない。逆に何も思いつかないから、こうして無駄に言葉を並べられるのか。そうかもしれず、それでかまわないのかもしれない。だから何かが違っていておかしいと思うわけだ。確かに現状はおかしい。ならばわざとらしく笑ってしまうか。それでかまわないだろう。

 相変わらず何について述べているのでもないらしい。まともに語るにはまだ相当無駄で無意味なことを述べ続ける必要がありそうだ。そうやっていかれた頭を疲れさせないと、誰かの本音にはたどり着けないようで、何かを意表をついて語りださないと、そういうわけにはいかないのだろう。今も不意に語りだそうとしているが、無駄な言葉が邪魔をして、そこまで行かないうちに違うことを述べてしまう。どういうわけか無駄で無意味な語りの方が優先されてしまうらしい。それでは致し方ないだろう。まだしばらくそれを続けていればいい。そうしないと正気を保てないのだろう。

 なぜ君はそうやって正気を保とうとするのか。いくら述べている内容が空疎だろうと、そういうくだらぬ内容を思いついたいかれ頭を隠す必要はないだろう。無理に隠そうとしても、文章を読めばたちまちばれてしまうはずだ。何も述べていないことが一目瞭然だろうか。そうだとしたらそれを改めるべきなのか。しかしそれを誰に問うているのだろうか。誰もいない空洞に向かって問うのは、それ自体が無駄で無意味な行為ではないのか。たぶん実質的には何を問いかけているのでもなく、誰に尋ねているわけでもない。そういう問いかけ自体がわざとらしくもくだらないのだろう。だから改めるべきはそういう行為自体だろう。本当にもうやめてほしいか。

 やめろと言われてやめるようなことはなく、また誰にやめろと言われているわけでもない。ただそういう語り方を飽きもせず繰り返している。そんな現状に意識が埋もれていて、なかなかまともな意見を表明できずにいるらしい。何がまともなのかもわからなくなっている。そう思っているのは誰の意識でもないのかもしれず、そこに意識などが入り込む余地さえなく、ただひたすら言葉を連ねる動作にその場は支配されていて、それ以外の行為が成り立つ状況にはないのだろう。それはどういうことなのか。いつものようにどういうことでもなく、無駄に言葉を並べているだけだ。

 君はそこで何をやっているのか。言葉を記しているのは君ではないのか。誰かが白々しくそういうことを述べてしまうのを改める必要性を感じていないわけではない。しかしそれはどうにもならないことであり、どうしてもそれを通過しないと光明が見えてこないのだろうか。では今はトンネルの暗闇の中で右往左往している最中なのか。他にどういう状況を思い浮かべられるだろうか。だからその必要性を感じられないと述べているのではないか。まったく馬鹿げているようで、それもいつものことになってしまうのだろうが、やはりそれ以上の何かに言及するには、目の前に広がる虚無の荒野を通り抜ける必要がありそうだ。

 しかし本当に今が暗中模索の最中だとは到底思えない。実際に何も述べていないではないか。それに対するいいわけや反論などもあり得ないはずで、何も見出せずに煩悶しているばかりで、何かそれは良心の呵責に苛まれているような様相を呈しているのではないか。嘘に決まっている。何を笑っているのか。これが笑わずにいられようか。ただわけもわからずに笑い転げている誰かを連想させるような雰囲気に包まれている。それも本当だろうか。しかし誰かはフィクションの中で何を述べているのだろう。まだフィクションにも至っていないのかもしれない。


2月26日

 雨が降っている。ただそれだけのことなのに雨が降っている。どういうわけかそういうことだ。夜に雨が降っている。他に何が降っているわけでもない。そんなふうにして誰かが記しているのはくだらぬ言葉遊びだろうか。そうだとしたら笑ってしまうか。そうは思わない。誰がそう思っているのだろうか。そういうことを述べているのではない。何がそういうことでもないはずか。そして何でもないからそういうことになる。述べているのは意味不明のようだ。今日もそこから抜け出られない。

 君にその不自由さを理解してほしいとは思わない。誰かは誰かとぶつかっているようだ。それが何かの宿命なのだろう。何かわかったようなことを述べているわけではない。そして何を理解しているとも思えない。屋根をたたく雨音を聴きながら、何を感じ取っているわけでもなく、ただ何となくそんな状況下にいることを理解したつもりになり、何がどうなっているわけでもないことに不満を抱いているのか。確実に何かがどうにかなっていることを感知できないのだ。

 そのときはそう思っていたはずだ。実験的なアプローチではない。何がそうさせるのだろう。そうではない。たぶんそういうことだ。では具体的にどういうことなのか。わからない。わからないからそんなことを述べているのではないか。そしてさらにわからなくなり、どうでもいいような心境になる。要するに失敗しているのだ。何が失敗しているのかと言えば、それはすべてだ。そこで試みられたすべてが失敗しているのだ。たぶんそう思わなければ正気を保てないのだろう。

 君は徐々にそれを理解し始めているはずだ。だがあきらめがつかないのだろう。いったい何をあきらめなければならないのか。それがわからない。わからないから迷っているのだ。そして迷いながらも結論を出そうとしている。それはどういう結論になるのか。もうあきらめて何かに降参してしまうのか。何がそういう流れを導いているのだろうか。フィクションの中ではそこへ至る必然性が示されているはずだ。誰かがそこで失態を演じているはずだ。脚本通りかもしれない。しかしそこで誰が何を読んでいるわけでもない。

 何かが一気に決着へと導かれ、それがなかったことになりそうだ。結局は何の結論にも至りそうにない。誰もそこで何も述べられなくなり、誰が多重人格を所有しているわけでもなく、どこで架空の対話が成立していることにもならず、やはりそれらの文章は意味不明のままにとどまる。話に何の進展も伴わず、何について語っているのでもない。だから感覚の何が研ぎすまされているわけでもなく、ただの鈍感な振る舞いによって何かが成り立っているようだ。そしてその成り立ち具合が滑稽に思われてくる。

 君はそれが何か知っている。誰もが知っている現象に違いない。しかしまだ時間がある。そこから逃げられると思っているはずで、そのタイミングを計りながら適当に振る舞っているはずだ。何だかそわそわしていないか。それが誰のためにもならないことも承知しているはずで、そんなふうにも思いながらも、とりあえずはそれをやり遂げようとしている。それが結果的に何を演じていることにもならないと知りながらも、やはりそのふりをして、架空の対話を構成しようとしているわけか。それが何になるのかわからないが、何を語っているわけでもないことなるのが口惜しいか。


2月25日

 現状では何かと何かがあまりにもかけ離れているように思われるが、それは理想と現実か。そこから先は簡単な話になりそうだ。だが別の状況下では違うだろう。それが気に入らなければ話が簡単ではなくなり、瞬く間に理解不能に陥り、次いで興味を失ってつまらなくなり、結局はどうでもよくなってしまう。いったい何が気に入らないのか。何がそうではないのだろう。言葉が尽きていて、何を述べたいのかわからなくなる。それでもただの話だ。実際に述べている内容がそうでないということがあり得るだろうか。さらにややこしくなりそうだ。どうせわざと何かを込み入らせているのであり、それは冗談の続きだろう。しかしどこから何が続いてきたのか。だからそれが冗談の続きなのだ。なぜか今は理由もわからずにそう思っているはずだ。そして嘘かもしれないが、それは毎度おなじみの感覚で、それがどうしたわけでもないが、何となくそれでかまわないような気がしていて、それも毎度おなじみの感覚になる。

 そんなことを記しているうちに眠たくなってきたようで、馬鹿げたことを述べているように思われ、さらに気落ちしてしまうのか。冗談だろう。やはり何を語っているのでもなく、実質的には何も語ってないはずだ。だからおかしくなってしまうのだ。何かがおかしい。それはいつも述べていることだろうが、そこから話が進展しないのもおかしいか。おかしければ笑えばいい。理由もないのに笑うこと自体がおかしい。おかしいから笑っているのではないか。しかし何をそんなに繰り返したいのか。おかしいついでに何かを間違っていることも明らかだ。誰かは言葉の連ね方を間違っているようだ。また苦し紛れにそう思いたいらしいが、実際に何がどうなっているわけでもなく、ただそんなことを書き記している現状がある。

 どうやら今回もまともな言説から外れて、何がまともかわからないようなことを述べている。そしてそれらの何がおかしいかわかっているつもりのはずだが、あえてそれに言及することはない。何がどうなろうと言葉の流れを変えられず、実際にどうなっているとも思えず、淡々と言葉を記し続け、そうする理由を見出せずにいるようだ。そこで見出そうとしているのはどんな理由なのか。そうではないと思う。ただつまらないことを述べるのに理由などいらないはずだ。しかしそれらの何がつまらないのか。君がつまらないと思っているのはそういうことではない。ではどういうことなのだろう。ただそうではないと思いたい。それはなぜだろうか。また誰かが理由をさがしているようだ。

 その辺で負の連鎖を断ち切らなければならない。それは無理だろう。誰かがおもしろ半分にささやく。まったく必死さを感じられず、切実な問題ではないらしい。だらけているのかもしれず、そこから抜け出す気が起こらない。そしてそこから堕落が始まってしまうのか。そんなに大げさなことだとは思えないが、いったいいつになったらまともな言説が記されるのか。まだその可能性を模索しているつもりなのだろうか。堕落したままでもかまわない。そう思っていないのなら、それは仕方のないことだ。誰がそう思っているのか。君はどう思っているのだろう。粗雑な文章で無内容にもほどがあるか。

 誰かがありふれたことを思う。何を求めても虚しいと思う。虚構の中でそう思っているのだろうか。それらの何がフィクションなのか。雨が降っているようだ。雨に打たれて何を思うのだろう。それほどの状況ではなく、今は部屋の中だ。別に何が腹立たしいわけではない。その気ものないのにその気になっているわけでもなく、どんな気分でいるとも思えない。作り話の中ではそう思いたいのだろう。たぶん思っているのは君ではない。そうではなく、なにがそうでもなく、何かが適当に記されている現状がたまらなくおかしい。だからおかしいと思っているのか。ならば果たしてそれが理由になるだろうか。


2月24日

 何に見とれていたのだろうか。まだ懲りていないようだ。何が明かされているわけでもない。現時点では何も明らかになっていないということか。何を明らかにしようとしているわけでもない。それどころか何も語っていないのではないか。現時点ではそうだ。そう述べてまた嘘をついているのかもしれない。それはどういうことなのか。何を問うているわけではない。ただ言葉を記しているだけで、そんなことはわかりきっている。まだ何も語っていないのもいつもの通りで、今回もそれで済ますつもりのようだ。だからまったく懲りていないのだろう。

 まったく呆れてものも言えないか。それでも君は何を語ろうとしているのか。無理な話だ。何が無理なのかわかりかねるが、とりあえずそういうことにしておこう。おそらく何も思いつかず、途方に暮れてしまうのだろうが、そういう嘘偽りを記せば、何となく何か適当なことを述べているような気になるのか。それではだめなのだろうか。人は極め付きの何かを見ないことには気が済まない。誰かがそれに気づいているとして、他の誰がそれを提供できるのか。別に誰が何をもたらそうとしているわけではない。

 架空の時空にもたらされたすべてが架空の出来事ではない。ではそれらの文章は何を求めているのか。虚無と空疎の他にもたらされているのは何か。はじめから何かがおかしいことは承知しているつもりだ。聴いているのは普通のジャズか。それ以上の何を求めているのか。心理的に余裕がないのだろう。それはどういうことなのか。単にそう思いたいだけかもしれず、別に何を気にしているわけでもないのだろう。だから何ももたらされなくてもかまわないのだ。それがここでの結論になりそうだ。しかしおかしい。何となくそう思い、言葉が連なるにつれてそれが確信に変わる。

 今日は何もなく、それは昨日の日付でも変わらない。だからそれがどうしたのか。どうもしないから困っているのではないか。では何をどうにかしてほしいのか。そういう問答をやめてほしいのかもしれない。だからわかりきったことはわかりきったままになる。どうやら誰かは過去の経緯を切り捨てられないようで、ある地点にとどまったままぐずぐずしているうちに何もできなくなる。そんなたとえがここでは何を意味するだろうか。またそういう問答になってしまい、話の出口を見失っていることに気づくが、そんなのもどうでもいいことのたぐいになるだろうか。そうだとしたらその先に待っているのは何かの終わりになりそうだ。

 しかし終わりとは何か。唐突に終わってしまう理由を知りたくなるが、頭のどこかで何かがこんがらがっていてほしいとも思う。惰性で続けるのに疲れてしまったらしい。わざとらしい嘘だ。なぜかそれが嘘だと思いたい。この際そう思う理由などさがす気にはなれず、誰かはさらに言葉を連ねて暴走気味に何かをどこかへうっちゃりたいようだ。それはどういうことなのか。理由もなくそうではないと述べておこう。何がそうでないわけでもなく、そうであるべきなのかもしれず、それが惰性でやっていることに変わりないように思われ、何となくその辺で停滞しているようだ。そしてその後に何かが続くが、そんなこともどうでもいいような気分がもたらされる。

 どうやら何か思いつくまでにかなりの量の無駄な言葉を記さなければならないようだ。今もその過程にあるわけか。そしてたまに何かを思いつくまでひたすら待つ。いったい何を待っているのだろう。わかりきっているようだが、それも技法的な問題になるだろうか。架空の意識はそんなことを思っている。フィクションだから仕方がないだろう。むろん本当のことではなく、本心から述べているとは思えない。何がどうなっているのでもないのは以前からそうだ。それを今さらどうしようと言うのではなく、すでに遅い。取り返しがつかないわけか。


2月23日

 誰かの戯言は今日も続いているようだ。久しぶりに言葉を記す環境を変えたので、少し新鮮な気分となっているらしい。それが思い違いでないことを祈るが、何がどうなっているわけでもないのは、いつものことでしかない。そんなわけで誰かは相変わらずふざけているみたいだ。それを目の当たりにしている君には、なぜかそうする理由がわからず、それに関して何をどう語ったらいいのかもわからない。たぶんそんなイベントなどなかったことになるのかもしれない。この場合はそれとは何か。誰かにとってそれはオリンピックか何かのことだろうか。何かとは何なのか。そこまで食い下がられるとつまらなくなるだろう。何でもかまわないのではないか。そういうことにしておきたい気分か。やはり何がそうなのかわからない。たぶんそれは何でもないことの続きなのかもしれず、そのことに関してはあまり深く掘り下げる気にはなれないのだろう。しかしそのこととは何なのか。何かの冗談に違いない。そういうことにしておこう。そして何事もなく時は流れ、また数年がたち、同じことが繰り返され、毎度お馴染みの面々が顔を揃えるわけか。本当はそうなってほしくはないのではないか。今さら何を批判しても始まらない。

 誰かはもうあきらめてしまったらしい。だから割と簡単に引き下がり、それ以降は無言を貫き通す。今回は何もなかったことにしておきたいのか。ならば何も批判せず、そんなイベントさえなかったかのように振る舞わねばならず、何について語っているのでもないようなことを延々と述べているはずだ。だから何がわからないわけでもなく、少なくともそうなることはわかっていた。わかりきっているような結果に唖然としていたわけではない。彼らは力まかせの動作ばかりに頼っている一方で、重大な何かを忘れている。そんな物語もいつかは終わってしまうのだ。終わってしまったら何も残らない。たぶんそういうことでしかなく、そうなる以前の状況に戻れないことが、何を意味するかわかっていないはずだ。だからすべてがああなってしまうのだろう。話がああなってはいけない。何かの限度を越えるとああいうことになってしまうのは百も承知のはずだ。しかし君は何がわからないのか。そういうのを読んでいながらそういう意味不明なことを述べている。君にはそういうまやかしを受け入れるだけの用意ができているようだ。しかしそれは本当にまやかしだろうか。未だにそんなことを述べているのだから、それは当然だろう。

 具体的には何も明らかにしないでここまでやってきた。本当は何もなかったのではないか。そう思いたいところが、本当にそうかもしれない。実際に何もないからそうなってしまうのか。そうだとしたらその先にどのように言葉を連ねていったらいいのか。誰がそれを問われているわけでもなく、答えなどどこにもありはしないだろう。語っている感覚がおかしく、何も語れていない。それはどういうことなのか。そういうことだ。また悪いくせがでてしまったらしく、何でもないことを延々と語っているつもりになり、完全に常軌を逸して言葉を連ねてしまったらしい。そしてそれが何なのか理解できていない。だから何がどうなっているのでもない。何を理解しようとも思わない。この期に及んでそれはないか。無駄に延々と言葉を連ねた末に何を述べているのか。何をあきらめてしまったわけではないらしい。ひたすら空疎なことを述べているわりにはあきらめていないようだ。だからここまでやってきたはずか。しかしそういう行為も何かのごまかしかもしれず、まともに語れないから自己言及の多用でごまかしているのではないか。要するに語ること自体を語っているだけで、それ以外は何も語っていないのだ。しかしまったく反省していない。つまらないことを延々と述べてきているのにそうだ。なぜそうなってしまうのか。だから何もないからそうなってしまい、そんなことははじめからわかりきっていることではないか。


2月22日

 琴線とは何か。果たして言葉の連なりは心の琴線に触れているだろうか。何をもってそう思うのかわからない。今から何を明かにしたいのか。何をそんなに問うているのか。だんだんわけがわからなくなるのはいつものことで、君はそこから前進できずにいるらしい。だからもうやめた方がいいと思う。それもいつも思っていることだろうか。ならばこれからどうすればいいのか。それもいつも思っていることに違いないが、本当に今はそう思っているのだろうか。まだ今ではないだろう。今にならないうちに昨日になり、あっという間に二日前になってしまう。そこから脱出してつもりになっても、いつの間にかそうなってしまう。君の意識は永久に過去の時空に属しているのか。そうだとしたら何なのか。君がそこから外れたいのはわかっている。それはかなわぬ夢となり、今も外へ出ていない。何かの内側で囚われの身となっていて、何ひとつ実現できない境遇にあるらしい。そういうフィクションなのだろうか。そんなことは誰にもわかりはしない。

 今日の誰かはそのままふざけたことを述べているだけなのか。何だかあり得ないことを夢想しているのかもしれない。本当はこの世がどうなってほしいのか。そうではないような気がするだけのようだ。たぶんそれはどういうことでもない。君は何がどうなってもかまわないわけではなさそうだ。君がそこから出られないわけではなく、出ようとしてないのはわかっている。いつまでも続けられるわけがない。ならばいつかはやめなければならないのだろうか。そうなった時に何を思えばいいのだろう。その時になったらわかるだろう。何かがかみ合っていないのはわかっている。そういうことを書き記しているのだから、それは仕方のないことか。何かが残り、何かが消え去って、それとは違う光景が出現したとしても、まだそんなことを語っているわけか。それが近い将来に起こる出来事だとは思えない。

 何がどうなってそうなっているわけでもなく、何もどうにもならないから、そんな現状が続いているのだ。そして誰かが落胆して沈黙する。現状は以前と何も変わっていない。君はますます寡黙になり、誰が話しかけても何も返ってこなくなる。それがフィクションの中で生じている事態だとは思えない。だが誰がそう思っているのか。誰が思っていようと関係がないのではないか。それは誰にとっても無関係なのだろうか。それでも君が考えていることはわかっているはずか。今がそうなのだ。何事もなく、自然とどこかへたどり着いているのではないか。感覚がそれを知らせているはずだ。それはこれから長く続く停滞期の始まりだろうか。なぜそんなことを思うのか。今さらそれはないだろうか。何が今さらだと思っているのか。それは何かの蛇足に違いない。

 また何かの空白がそれを呼んでいる。誰かその言葉を知らないか。その言葉とは何か。何ももたらされていない。現状ではそうだ。まだその気になっていないのではないか。たぶん後から忘れたころにやってくるだろう。それは破滅の時ではなく、始まりの時だ。物語でも語り始められるわけか。空疎な語りがまた始まっているようだ。そしてもうすでに終わりかかっている。虚しい一時にそんなことを述べているからそうなる。それが理由ではないだろう。本当の理由を知りたいか。誰が知ろうとしているわけではない。知りたくもないからでたらめに語り、わけのわからぬ結果が文章として記される。そんなわけでたぶん何を知ろうとしているのでもないらしい。また何かを知り得るまでに至っていないのだ。頭の中で整理がついていないうちに、闇雲に語り始めてしまったからだろうか。何を焦っているわけでもないのに、そんなふうに語ってしまう。それで墓穴を掘ってしまったわけか。何がそうなのだろう。要するにまだ何かが出現する気配を感じ取れていないのだ。


2月21日

 相変わらず状況は変わらず、わざとらしくも二日遅れか。それに関して何を思っているわけでもない。君も何も思わないだろう。時間的は通常の心境になれるときか。他に何も思うこともないだろう。この世界はどこまでもこの世界のままで、煩わしい手続きが延々と続き、そんなことに心奪われているうちに年老いてしまうのだろう。だがそれがどうしたわけでもなく、自然の摂理の何に逆らうこともなく、ただ流されるままに、やはり何を思うこともない。君はどこかで忘却の彼方があると思っているかもしれないが、そこまでたどり着ける気はしないはずだ。途中でもうろくしてしまうわけか。そうなる過程でこぼれ落ちてしまう記憶をすくい取ることはできないだろう。だから今があり、何かを空想している時間帯があるのではないか。しかしそれで何が酬われているとは思えない。どこまでいっても報酬など期待しない方が身のためだ。架空の存在でしかない君には何ももたらされないだろう。

 おそらくこの世に本物の事物などあり得ない。いつのころからかすべてが複製であり、それを見ながら人の意識が構成されているわけだ。そういう意味で人々に複製を見聞させるメディア社会は確固たるシステムを維持しつづけ、何の疑念も抱かせずに済まそうとしているのだろう。だからいくらテロや戦争が起ころうとも、この世界には何の変化ももたらさない。それは人々が暇つぶしに見物するためのスペクタクルの類でしかなく、たとえそれを見聞しながら喜怒哀楽の感情を生じさせても、それは決して本物の出来事を体験しているわけではない。しかしそれでかまわないのではないか。疑似体験で済ますことができるのは幸運なことだ。現実の天災や人災で被害を被るのはほんのひと握りの人々でしかなく、その他大勢がただの見物人でしかないのは、この世界が平和な証かもしれない。

 しかしわからない。人々は本当に平和な世界の実現を熱望しているのだろうか。平和とは何のか。どのような状態が平和だといえるのか。すでに実現しているこの状態が平和なのか。部分的にはそうだろう。平和な地域に済んでいる人から見れば、悲惨な境遇にある人はまだ大勢いるのかもしれないが、それでもそれが平和であることを否定するような気にはなれない。人々はそんな風景の中にいることを実感しているはずで、それに関して何を思っているわけでも考えているわけでもないが、気晴らしの娯楽はいくらでもあり、それで癒されているつもりになれる。それは哀しい事実でも悲惨な現実でもなく、ただそうなっているにすぎない。別にどうなっているわけでもないが、ありのままの現実がこれだ。それ以外には何もなく、何かあるとすればそれは幻影の類になるだろう。あり得ない状況を妄想して、それを架空の時空で展開するフィクションを見聞することぐらいが関の山だ。そこで君は何を見ているのか。

 状況はどこまでも状況に過ぎない。現実は現実でしかなく、それがこの先どう変化しようと、それはこの世界で起こっていることだ。君がそこで何を語ろうと、語っている内容に何か画期的な変化が起こるとも思えない。その辺が君の限界なのだ。おそらく君は君の限界を打ち破ることはできないだろう。仮に打ち破ったと実感しても、現実の君はどこまでも君のままであり、君以外の誰になれたわけでもなく、君を取り囲む世界はこの世界のままだ。では君は何かをあきらめなければならないのか。何をあきらめたら何を実感できるのか。要するにそうではないと思いたいのだろう。何かを否定するのはたやすいが、簡単に否定すれば否定するほど、否定的な気分ばかりの実感は変わらず、それは君が以前と何も変わっていない事実を証明するばかりになり、そんな状況から何がもたらされることもなく、そこにはありのままの現実があるだけだ。それがこの世界の有り様なのだ。


2月20日

 また二日遅れでこの場面に遭遇する。これは何かのお遊びに違いない。だがそれにしても何か言葉が抜けていないか。何と何の間がそうなのか。とりあえずどこかで不連続となっている。何がそうなのだろうか。そのままの時間がそのまま流れているはずで、それでもどこかで記憶が途切れているとでも思いたいのか。どうやらご都合主義に汚染されているのは君に限ったことではないらしい。いったいそこで何を認め難いのか。どうせ思い通りにはいかないだろう。だから今があり、誰かがそこで苦悩しているのではないか。そして冗談にもほどがあると思う。冗談ではないからそう思いたいのだろう。本当に冗談ではないようだ。少なくとも誰かはそれに関してそう思っているはずだ。本当だろうか。疑うような状況にはない。実際に何を疑っているわけでもない。ならばそれはそれでそういうことでおしまいか。

 そうならそうでかまわないのではないか。だが何をあきらめているのだろうか。もはやそれに関しては正気でいることすら困難になってきたのか。しかし何に関して正気でいたいのか。具体的には何の内容もなく、ただ思わせぶりに振る舞っているだけではないのか。そしてそれがどうしたわけでもなく、どうもしないから今に至っているわけか。このままでは何のことやらさっぱりわからない。それでたぶん君は困っているのだろう。ところで君とは誰なのか。誰でもなければ誰が困っているわけでもなさそうだ。君が誰でもなければ話のつじつまが合わないか。誰かはそんなふうに語りたいのではない。しかし実際には何も語れない。そこにジレンマがあるのだろうか。要するに言葉を記しているのに何も語っていないということか。

 しかしそれで何がわかったことになるのか。わかっているのに、そのわかっていることが示されない。そんなはずがないだろう。すでにわかっているはずで、実際にそれらの文章の欠陥について述べている。何も語っていないということだ。確かにそんなふうに語っていた。だが相変わらずそういうことでしかなく、そんなふうに語ってもどういうことにもならない。自分がひたすら何かを語っている現実を認め難いようだ。今も何かを語っている。空疎で虚無的な何かを語っているはずだ。そう思い込みたいだけで、実際には何も語っていないのか。それでも何かを語っている。今も何かに言及している最中だ。空疎で虚無的な何かに言及している。だがそれが嘘でない証拠がどこにあるのだろうか。別に証拠を探しているわけではない。それどころか嘘であってもかまわないはずだ。何でもないのだから、たとえ嘘であろうとかまわない。

 そして今は二日後の夜になっている。何も関係ないだろう。日付などいくら遅れてもかまわない。ただ内容がない。それもかまわないのではないか。かまわないが、それに抵抗しているのは誰なのか。誰かは心を虚無に覆われているのに、それでも無内容になるのを阻もうとしている。阻止できるのだろうか。現状ではできていないような気がするらしいが、それでもかまわないわけか。わけではないだろう。わけもなくわけを明らかにすることはできない。ではそこには何かわけがありそうか。わけなどいくらでも捏造できそうだが、何も捏造しなくてもかまわないのではないか。それでもそこにわけがある。それでかまわないのであり、わけが明らかにならなくてもかまわない。もとから何もないのだ。そういうことになっていた。だがそれではおかしいと気づき、そうなったわけを探っているつもりなのだろうが、今のところはあまり説得力のあるわけを得られていないようだ。


2月19日

 何か一難去ってまた一難というところだ。そんな理由でやる気がしないか。確かに今はやる気がしない状況だ。そんな精神状態でできるわけがないか。いったいこれから何をやろうというのか。言葉を記すだけだろう。しかし記された言葉が何を意味するわけでもない。誰が問われているわけでもなく、問うているのでもない。何もないからおかしいのだ。何かがおかしい。それは以前からわかっていることだ。虚脱感を覚える。どんな思惑があるわけでもなく、何を語りたいのでもなく、さらに言葉を記している。何を記したいのでもない。では何をどうしたいのか。それは君が知っていることだろう。何もどうもせずに、誰かが言葉を記しているわけだ。やっているのはそれだけのことか。そういうことだ。別に誰と勝負をしているのでもないが、何か決め手を欠いている。誰かに技を仕掛けているのでもなさそうだ。何かを書き記すのと格闘技とは関係ないが、何と格闘していないともいえないはずか。たぶんそれは馬鹿げている。

 現世の何に疑念を抱いているわけではない。何とは何なのか。なぜそれが文章にならないのか。気分だけででたらめなことを述べているようだ。そこで君は何に気づいたのだろう。何かに決まっている。スピーカーの振動によって聞こえてくるのは何かの読経だったかもしれない。それも音楽の類に違いないが、それ以上は何も具体的でない。語るのが嫌いになったのか。そういうことではないはずだ。このままではそこに素晴らしい明日があるとは思えない。それは何かの幻想だろうか。

 まったく述べている意図が読めなくなってきたようだ。あらゆる可能性を考慮しているわけでもなく、そんなものなどもとからないのではないか。ただわけがわからないだけかもしれず、この先は何がどうなってもわからないままだろう。とりあえず形ある物は朽ち果て、やがて無に帰す。では将来はどうなるのだろう。壊れて動かなくなる度に、君は新たに物を手に入れるか、さもなければ既存の物を修理して使うしかない。それが物の宿命か。人が物ではないと思うこと自体が幻想に過ぎず、そんなありふれた見解がはびこるに許すだけのようだが、それでも心は何かを語りたい。そんな誰かの気持ちを理解しようとは思わない。それも冗談の類に違いない。

 君はその先の話を覚えていないようだが、そこから何を受け取っているのだろうか。見えているのは夜の闇だけで、誰かの眼差しはそこにどのような事物を見出しているわけでもない。何を目論んでいるわけでもなく、わけもなく言葉を記しているのでもなさそうだ。案外何も知ろうとは思っていないのではないか。だからすべては知り得ないことであり、知ろうとしてはいけないことなのかもしれない。そんなわけでそこに何があるわけでもなく、何があろうと何もなかったと思わなければならない。それが今回の意味不明な嘘なのか。だからそう述べている意図がわからない。

 君は何から逃げている。いつもそうであり、何かをはっきりさせるのを怖がっているようにも感じられ、それが無限に言葉を記すためには必要なことかもしれず、本当かどうかわかっているわけでもないが、やはりそこで誰かは混乱している。なぜそんな風に言葉を記してしまうのか。それがわからないまま、さらに何かを語っているふりをして、結果的に混乱に拍車がかかってしまうようだ。それがどうしたのだろう。どうもしないからさらに困った事態に直面しているわけか。だからそれがどうしたのか。それでもそこから抜け出そうとしているのかもしれない。だが何が錯乱しているとも思えない。


2月18日

 言葉と言葉がうまく組み合わさらず、不用意に意味不明なことを述べてしまう。少し頭がおかしいのかもしれない。だがそれは誰の頭でもない。しかし誰かは何を語りそうになっているのか。ここから何か説得力のある説明を入れなければならなくなる。そんなのは無理だろう。そこで誰が誰を騙しているのだろうか。そういうことではなさそうで、実態は何もない。たぶんそういうことだろう。別に誰が高度な政治判断を強いられているわけでもない。見ているすべては幻影だ。何が幻影なのか。だからすべてだ。何がだからなのか。すべてが映像なのか。そうではないと思う。君は現実の光景を見ている。夜の闇の中にいるはずだ。何がそうなっているのか。それがこれから語ろうとするフィクションだからか。だが未だに何も語っていない。無駄に言葉を費やしているだけか。

 君は何もわかっていない。商売によってこの世界が成り立っていることを忘れている。誰のためでもなく、ただそんな仕組みが成り立っている。頭の中身が空洞化しているのか。そこから何を説明するつもりなのか。何も思いつかず、自分が何を語りたいのかもわからない。それでも意識は循環し続ける。今何か思いつかなかったか。心の中が曇っている。なぜだろうか。ビジョンがない。それも幻影の類だろうか。いったい何が幻影なのだろうか。目に映るすべての事物が幻影だと思いたいのか。大げさな物言いだ。誰もそんなふうには思わない。現実はその逆で、幻影こそが人が作り出した真実ではないか。大掛かりな装置を駆使して幻影が作り出されているのが現代文明そのものだ。それが映画であれスポーツであれニュースであれ、メディアが伝える言葉と映像によって幻影が人々の脳裏に焼き付いているわけだ。それが些細な出来事であれ大規模なイベントであれ、否応なくそれらに注目せざるを得ない状況に追い込まれている。

 しかし人々のもとには幻影の他に何がもたらされているのか。君はそれに関して何も批判できなくなっている。幻影を受け取るのを拒否できないのだ。いつのころからか人々は幻影なしには生きられなくなっている。それは社会がそうした幻影とともに成立しているからか。だがそれだけでは安易で軽はずみな主張にしかならない。誰かにはその先の説明が求められているのかもしれず、それを語らない限り、言説の内容は空疎のままに留まるのだろう。いったい誰かは何を幻想しているのか。何も空想の域を出ないばかりか、現時点ではその空想すらも言葉に結びつかない。語られているのは相変わらずフィクションの中での粗雑な物言いに限られている。このままではやはりこの世界の有り様の何も批判できないのだろうか。

 政治とは何なのか。人々に幻想を抱かせ、幻影を見させて、それで自己満足に誘い込むのが政治なのだろうか。幸福を追求するとは基本的にはそういうことかもしれないが、何となくそれでは浅はかきわまりないように思われ、幻滅した人々はそれ以外の可能性を政治以外に見出そうとするだろう。しかし仕事と娯楽だけの世の中で他に何があるというのか。そこからどのような結論が導き出されるのだろう。人々は何のために生きているのでもない。それは受け入れ難い結論だろうが、真実とはそういうものだ。何のためにでもなく、ただ生きるために生きているのであって、そこで何かが競われているとすれば、それは動物的な生存競争の類でしかない。同じような特性を共有する者たちが、同じような価値観を巡って競い、その価値観が実現する人間像により近い者が価値の具現者となり、富や名誉を付与されて勝利者となるだけのことであり、例えばオリンピックのメダリストなどはその最たる者だ。


2月17日

 唐突に語りだしても驚かない。誰もいないのにそれはないだろう。誰かがある日のことを話そうとしている。ある日とは明日のことか。話す順番が違うのではないか。それはどういうことなのだろう。いつもの嘘なのか。ところで現状では何がわかっているのだろうか。心がどこから外れているのでもない。君は君自身から外れているのではないか。確実に何かが脱臼している。誰かが架空の時空でそんなことを思っているらしい。それも嘘に決まっているだろうか。語る以前にほとんど話になっていないようだ。君は頑なに何を拒否しているのか。誰かが何かを記そうとしているようだが、それも違う話か。どうやら誰かが語っている内容とは違う話をしているようだ。そんなはずがない。それはそのままの話だ。いつもの空疎だろう。何も語らずにただ言葉を記しているだけか。沈黙の中で文章が記される。それがどうしたわけでもないのに、そんなことを語らなければその先が出てこない。たぶんその先も空疎だ。そしてそれだけに固執するわけにはいかず、何か他に活路を求めようとして、適当に思い悩むが、やはりそれで何がどうなっているわけでもない。

 いったいどこでつまずいているのか。なぜ転ぶのか。転ぼうとして転んでいるのではない。少なくともわざとではないはずか。しかし転んだ後に何を語ろうとしているのか。作り話の中では転びもしない君には何もわからないはずか。淡々と言葉を記しつつある誰かにも転んだときの痛ささえわからない。君は何もしていないのではないか。別に語り得ないことを語ろうとしているわけではない。そしてそこに見出し得ない差異を見出したのでもない。だからそれより先は何を語っても無駄なのだ。無駄だからさらに語りざるを得なくなるようだが、それでも無駄であることに変わりはない。しかし無駄でない話がどこに記されているというのか。いったいいつからそれらの空疎な話が無駄になってしまってしまったのか。空疎だから無駄なのか。そう語って何を狙っているのか。虚無は何も狙いはしないだろう。君の頭はどこかおかしい。必要もないのに語りすぎている。それの何がおかしいのか。何かが違っているからか。何かとは何なのか。それがいつもの問いだ。やっと思い出したらしいが、その問いには答えられない。答えなどもとからありはせず、それは問うために問われていることだからだ。だがそれはどういうことなのか。

 依然として何でもないことに変わりはない。何をどう語ってもそうなってしまう。この世に何でもないことなんてあり得ない。だから語っているのはフィクションになる。そして眠たくなり、眠ってしまうようだ。今日はまったく何も語れなかった。君に語ろうにも語れない苦しみがわかるか。あくびをかみしめているわけではない。実際の動作が違っていて、そんなことなど夢にも思わずに、何かがどうにかなってしまうようだ。しかし他に何を語ればいいのか。何も語らずにここまで言葉を記してきたはずか。現実にはあり得ないが、フィクションだからそういうことだ。そういう嘘はどうしようもなく大人げないか。誰に向かって問うているのでもないだろう。今の君には冗談が通じないようだ。それで何を語っているというのか。ただ何となくそういうことのようだ。それで苦しんでいるとはいえないだろう。本当にくるし見抜いた結果がそれなのか。気がついたら自己言及以外は何も語らずに、ひたすら空疎な内容になっている。それがわかりきったことのようで、そのついでに何を付け足す気にもならない。そこで文章が閉じているようだ。それの何があり得ないことなのか。


2月16日

 なぜか今日は忙しない。それがどういう兆候を示しているのか、フィクションの内部からは知りようがないだろうが、何となくそんな気でいるようで、誰かが記しつつある文章上には、相変わらず無駄な言葉が連なっているようだ。現状がそうなのだから仕方がなさそうだ。それ以外にどんな話の展開を期待しているわけでもない。そういうわけでたわけたことを述べている。現実的な問題としてそれらの空疎をどうにもできはせず、誰かがやることができる範囲は限られていて、そのひとつがこうしていいわけ気味に語ることなのか。そうだとしたらこの先もそんなふうにしか語れないのだろうか。ならばわかりきったことを今さら繰り返す必要はないのではないか。要するに執拗に言葉が並び、そのすべてが空疎だと思われ、現実には不可能なことの羅列でしかないというわけか。そんな嘘をついてどういう気になれるわけもないだろう。

 この世にはできることとできないことがあるらしい。誰かにとってそういう区分が何を意味するとも思えないが、そんなくだらぬ話の水準にとどまりながらも、何かをかろうじて継続させている現状があり、そこからどんな可能性が導きだされると思っているのか。何もかもが仮定の話でしかないようだ。だが何が何もかもとも思えず、誰が何もかもについて語っているわけでもない。何もすべてを語ることを目指しているわけでもないだろう。今さらそれはないか。では何について語っているかと言えば、それは何についてでもなく、何かについてでもあり、あまり語る対象について焦点が定まっていないような気がしているらしく、具体的に何に言及しているのかと言えば、誰かが語っている語りについて語っているのではないか。それが自己言及的なくだらなさを呈しているようで、それにうんざりしているのだろう。それはわかりきったことか。

 結局は何もわかっていないようだ。要するに結論としてはそういうことになり、何かをわかろうとする素振りすら空振りに終わっているのだろうか。現時点ではそうだろう。何かが不快な雰囲気を醸し出しているようだが、この世界で起こっていることの問題点とは何か。現実には競い合いの動物的な弱肉強食ばかりなのに、そこから平等意識や博愛精神を導きだそうとする行為が偽善的な試みにつながっているわけか。人々は自らの内に虚栄心を育て、見栄えの良さを競い合い、自らを飾り立てることに腐心しているようで、そういう水準で世間体を気にするのは良いことになる。そして誰もがそれを変える必要性を感じないらしい。そんなのは当たり前のことか。そうだとしたら誰かはそれをどうしたらいいのだろうか。なぜそういうことを語ってしまうのだろう。どうにもならないことについていくら語っても無駄なのではないか。

 いったい君は何をどうしたいのか。何をそんなに焦っているのか。語ることが何もないのは良いことだ。そんな嘘をついて強がってみせるのも、世間体を気にしている証拠になるだろうか。その辺でわざとわからなくなるようだ。わかりきったことをわかろうとしない。人はその程度の水準にとどまるしかなく、それが真実だと思いたい。事実なのだから仕方ないだろう。人は常に欲望の赴くまま、動物的な行動に駆り立てられているのであり、それ以外にどんな行動が想定されているわけでもなく、それ以外の何が許されているわけでもない。何となくそれだけではくだらなく思われるのだが、それを感じ取っている知性とは何なのか。またもやそれもわかりきっていることだろうか。それは自らに利益をもたらすために使われる。そしてその自らの延長上にあるのが、これまたありふれた認識であり、例えばそれは世のために人のために知性を活用することか。


2月15日

 現世とは何か。君がそこから遠ざかるのは毎度のことだ。誰かが構成するフィクションの中ではいつもそうなってしまう。結局何が述べたいのか。何も述べたくなければ何も語らないはずか。だが何から何まで矛盾しているのが世の常だろう。そんな話は聞いたことがない。君の言動の何が矛盾しているのか。どこかに何かの綻びが見え隠れしているらしい。そんなのは嘘だろう。要するにそう思いたいのだ。何でもないのにそんなふうにしておきたいのだろう。精神が不安定なのか。そう思いたければ思っていればいい。別に思わなくても一向にかまわず、何をどう思っていようと、そんなのは無視か。無視できないような成り行きにはならないはずか。しかしそこからどんな自信が生まれているのか。誰かは何を過信しているのか。神が偉大なのではなく、人が愚かなのでもなく、誰も神にも人にもなれないということか。それは理屈の通らない話だ。いつから冗談でそんなことを語っていたのか。

 わけがわからぬままに誰かを見下しているのではなく、見下さざるを得ないような行為に及んでしまったわけか。そんな話も聞いたことがない。そんな嘘をついても冗談にしかならず、それは君がこの世界に存在している限りはつきまとう嘘に違いない。誰かはそれを受け流し、それに関しては何も語らずにおく余裕があるらしいが、そんな嘘も見え透いているだろうか。たぶんそれで何を語っていることにもならず、わざと具体的なことを語らずにいるようだが、それが不可能であることも承知しているはずだ。そんなわけで誰かは何も語れない。本当は何を夢想しているわけでもなく、何を想っているのでもない。誰かには過去がないのだろうか。自らに何を言い聞かせているのか。それは何かの暗示か、あるいは催眠術のたぐいだろうか。冗談にもほどがあるか。冗談ではないとしたら誰かが驚くだろうか。何の驚きにも至らないだろう。ではやはりそれらの語りは無駄でどうでもいいことか。

 意識がこの世界から外れているのかもしれない。唐突にそんなことを思っていることにしておきたい。別に理由はないが、何か突拍子もないことを述べてみたいのか。そういうのはおおよそ無理に決まっている。当たり障りがなく、ありふれたことを語りたいのかもしれない。だがそれで何が明らかとなるのか。そこでは誰も何も語っていないということか。では彼らは何を脅されているのか。何がそんなに怖いのか。君にはその辺が理解できないようだ。なぜそれほどまでに現状維持にこだわるのか。いったい何のための行為だったのだろう。どこまでも軌道修正している。今はそれでもかまわないかもしれないが、いずれは破綻してしまうだろう。それがわかっていながら、何が正しい行為だと思っていたのだろう。馬鹿にするのにもほどがあるか。しかしわからない。何がどうしてああなってしまうのか理解できない。やはり一度どうにかなってしまった方が身のためなのかもしれない。

 軍事力とは何なのか。なぜアメリカ軍は沖縄に居座り続けようとするのか。それの何が抑止力なのだろう。何を抑止しているのか皆目見当がつかない、と嘘をついてみる。しかしそこにはどのような論理が働いているのだろうか。何か馬鹿げていないか。こうなったらテロリストに期待するしかないのだろうか。そんなのは所詮無理に決まっているから、いよいよ精神的に追い込まれて頭がおかしくなったら、自分が沖縄のアメリカ軍にテロを行うわけか。またそんな嘘をついて誰かの無力さを噛みしめようというのか。アメリカの圧力に簡単に屈してしまったらまずいと思うが、それは何かの策略か。誰かは何かの可能性を模索しているのかもしれない。少なくともこの世の誰もが偽善者だということは理解しているつもりだ。おそらくオバマもその中の一人なのだろう。軍隊は誰のためにあるのでもなく、この世に軍隊が存在するために存在している。軍事力によって勝ちたいのだろう。何に勝ちたいかは不明か。だが断じて標的がアルカイダであるわけがない。それは何かの口実であり、戦争ごっこをするためにはアルカイダが必要なのだ。それも何かの嘘だろうか。


2月14日

 たぶん考え込む前に言葉を並べて、文章を構成している既成事実を積み上げてゆかないと、そこで行き詰まってしまうのだろう。それはどういうことなのか。相変わらずくだらないことを語っている。なぜか笑えないが、笑えるような状況にないのだろうか。笑う気がないのだから無理に笑うことはない。それにそういうことを語りたいのでもない。もう何も語りたくないのではないか。その気になったら語るかもしれず、今は語る気がないのだろう。それでも誰かが言葉を記しているわけか。ますますわけがわからなくなってくる。現状とは何なのか。それが現状なのだからそういうものなのだろう。その目は何を見ているのか。それらの光景が現状だと思っているわけか。だったらそれをどうしようというのか。何も語れなくなっているはずだ。見えているのは目の前の光景ではない。いつものように嘘をついているのか。

 おかしな付け足しだ。不用意に並べられた言葉がそれを示しているようで、その言葉の並びを誰かが見ている。それがフィクションの中で見えている光景なのか。あるいはおかしな虚構か。どちらにしてもくだらなすぎる。誰かはそう思いたいのであり、あるいは何も思いたくないのだろう。どちらにしても意味不明に違いない。人はなぜそんなことを思うのか。どうでもいいことなのかもしれない。理由など何もないのはいつもの通りで、ただいい加減に言葉を記して文章を構成しようとしている。それが虚無の他に何をもたらしているわけでもなく、虚しく思っていることがそこでの真実なのだろうか。とりあえずフィクションの中ではそうだ。他には何もなく、現実である他ないような虚構の中で、どうしようもなく語らざるを得ないのだろう。しかし何を語っているのか。どうでもいいことの他に何か内容があるのか。

 世間では誰かの行為に注目せざるを得ない。それが何なのか問うてみる必要が見当たらないのだが、何か他に興味を引く話題を見つけたわけでもない。ところでスポーツとは何か。冗談のたぐいだろう。メディアはそれを伝えることによって見る者たちを感動させたいのだ。君はだいぶひねくれているようで、自らが何に逆らっているのかわからぬまま、誰かがそんなことを述べている現状を容認する。要するにそれはどういうことなのか。知る必要のないことかもしれない。おそらく面倒くさいからそんなことを平気で述べているのだ。それに関する具体的な説明などに興味はないらしい。相変わらず外れている。何が外れているのかもわからないほど外れているようだ。頭の中から何かがこぼれ落ちる。それは何かの記憶だろうか。抽象的でわかりにくいことかもしれないが、とにかくそういう状況に浸かっているのだろう。

 外れたついでに壊れてしまったようだ。何かの秩序が壊れている。誰かはそこで何を妄想しているのか。夢想の内容を文章を読む限りは知り得ない。誰かがそれを知っているはずがない。誰かは誰かではなく、ましてや君ですらない。それがどうしたというのか。何を問うても無駄か。本気で問いかけることはないだろう。依然としてこの世界はこの世界のままであり、どの世界でもありはせず、この世界がどう変わるわけでもなく、この世界のままに推移して、それが推移とはいえないような変わりようを期待しても無駄だ。結果的にそうなったとしても思い通りではなく、とにかく真実は現実から微妙にずれている。それはどういうことなのか。説明できなければどうなってしまうのか。現時点では説明しようのない現象のただ中にいるらしい。誰かはそんな状況を夢想しているのだろうか。要するにそれはただのごまかしであり、結果的には何でもないことか。


2月13日

 いったん二日遅れとなったが、また性懲りもなく昨日の日付に戻ってきた。そしてまた何を述べたらいいのかわからなくなり、夕暮れ時にぼんやりしながら、誰かは買う気もないのにネットでロレックスのカタログを見ていた。ロレックスにもピンからキリまであるようで、数十万円クラスのステンレス時計などを買っても、まったく目立ちそうにないだろうが、見る人が見ればそれと気づくわけか。さりげなく見栄を張って自己満足に浸る趣味はないようだが、スイス辺りの派手なデザインの時計をこれ見よがしに腕に巻いている人の気も知らないわけではなさそうだ。結局人はそういうところで他人に差をつけたいのだろう。もっともそれがどうしたわけでもなく、そういう行為を否定も肯定もせず、見栄を張りたければできる範囲内でいくらでも張ってほしいと思いたい。

 しかし今日は何があったのだろう。誰にとっても何もなかったはずだ。君がこの世界を作ったわけではない。だから君の意志がこの世界に反映しているとは思えない。今世紀に入って人はすでに何でもない断片に分解しているはずか。だから謎の言葉など理解できない。それが理由となっているわけではないが、それでも君は言語との関わりを保っている。世界の中で語っているつもりなのだろう。そして世界の中で生成している何かの現象を読み取ろうとしているのか。もう昼の世界ではない。だから何を語っていないわけでもないだろう。すべてがでたらめであることは語る理由になっていない。君は偶然に何かを発見したつもりになっている。それがこの世界なのだろうか。

 何がこの世界の例外として存在しているのだろう。文字が記された場所が誰かを戸惑わせているのだろうか。しかしそれの何が例外的な存在なのだ。偶然が廃棄されているようで、言葉がどこまでも意味を担っている。それはまったくのでたらめだろう。何かがずれているのだ。それがわからないままとなっている。さっきまでは何かの忘却について語っていたはずだ。では何を忘れていたのか。何も覚えていない。誰がそうなのだろう。誰もそうではない。何も覚えていないのは誰でもない。そしてどこかへ沈む。日が沈むのだろう。それは何かの日没か。当たり前のことを夕暮れ時に述べているのだろうか。今度は嘘をついているようだ。本気ではない。君は何かを見たこともなく、これからもお目にかかることはないだろう。そしてそれがどうしたわけでもなく、そんなこととは無関係に他の何かに興味を抱いている。

 気がついたら言葉が途切れていたようだ。眠くて仕方がない。ならばそこで終わりだろう。何が終わるというのか。何も終わらないのがこの世界の定めか。その件については屁理屈をこねてみたくなる。だから何も変わっていないのか。わかっていないのかもしれない。わからないことに変わりはない。いつまでたってもそうであり、どこまでいってもそういうことだ。そして理解できないことを述べている現状があり、その現状に逆らえないようだ。だからわけがわからないのだろう。君はそれでも何かを語っているのか。一向に埒が明かない。そう思っているからそういうことになる。いつまでもそういう思い込みにとらわれ、そこから何も語れなくなり、途方に暮れ、何も見出せず、否定的な気持ちに心が満たされ、何となくそれでもかまわないと思い、それが誰かが記しているフィクションであることを忘れ、ことさらに空疎な気分に入り込もうとする。

 いったい出口はどこにあるのか。現状では何に行き詰まっているつもりになれるのか。聡明でいられるはずもなく、愚かなことを述べているとも思えない。何が逆でもなく、変なことを述べている以前に、それを本気で述べているとも思えない。終わらせるつもりがないようだ。まだその気になれないのか。何をどう終わらせたら気が済むのだろう。何か勘違いしていないか。もとからそうに決まっている。わざとそうしているのだろう。誰かが構成するフィクションの中ではそうだ。ならばそういう嘘もフィクションの中で語られていることか。そうだとしたら他に何を付け加える必要があるのか。少なくともそれは冗談ではない。そう思いたいだけで、実際に何を語っているかはそれを読む者次第だ。それをどう受け取ってもかまわず、好き勝手に想像するがままに、何がどうなってしまうわけでもなく、いつまでも現状は不変か。何が不滅なのでもない。


2月12日

 何かの成り行きで何かが後回しとなり、言葉を記す空白が完全に昨日の日付となってしまったようだ。相変わらず回りくどいことを述べている。何を語っているわけでもなく、何が語られていないわけでもない。無駄なのか。そうに決まっているだろう。無駄だから行き詰まってしまうのか。それでは元の木阿弥か。何も理解できなくなっているようだ。昨日からそうなのではないか。だから何を理解できなくても、何を求めているのでもないのだ。それはどういうことなのか。そこから外れることはない。何がどうなっているわけでもなく、何もどうにもなってないわけでもない。何も語っていないということか。文章から言葉が外れている。はじめからそういう話だったのだろうか。それは何の始まりだったのか。むろん話の始まりだ。

 しかし何かが外れてから話が進展していない。何かを怠って、何かが抜けてしまう。そこから何を連想させようとしているのか。語りたかったのはそういう話ではない。何も語りたくなかったのではないか。もう忘れてしまったのか。何を忘れてしまったのだろう。それは何かのバリエーションだったかもしれず、それらの範囲内に存在している何かだったのか。そうだとしたらこれから話はどうなるのだろうか。誰かがそんなことを思っている。まるっきり外れているわけでもなさそうだが、当初は何から外れていると思われたのか。それは明日の天気か何かだろうか。何かが的を外れている。それに気づいているのに言葉の並びがおかしい。いったいいつからそうなってしまったのだろう。確かにそれが何かの始まりだった。

 やる気がないのだろうか。それでも言葉を記している現状があり、何かのいいわけが記される。眠ってしまったらそこで終わりか。それ以上の何を求めているのでもない。だからさらに言葉が外れて、文章が無意味に終わってしまいそうだ。きっと誰かは夢を見ていたのだ。さっきまではそうだった。今はわからない。何を思っているのか定かでない。それでも何かを思いついていると思われる。そう思っているのだろう。それだけのことか。きっと何かが外れている。わだかまりが残っているようで、何となく気分がさっぱりしない。人々は何を目指しているのだろう。それは動物的な人生か。それの何がおかしいのか。思い出し笑いか。やはり何かを忘れているようだ。まだそれが終わっていない。

 どうしようもなくそれを続けている。それで気が済んだのだろうか。何がそういうことではないのか。きっと違うのだろう。そんなことを思っているうちに二日が経ってしまったようだ。たぶんやる気がないのだろうが、それでも誰かは言葉を記してゆく。理由もなくそれをやめるわけにはいかないか。実際に何をやめようとしているわけでもないだろう。ただちょっとだれてしまっただけか。何かを見失っている。誰かはそこで立ち止まり、とりとめもないことを考えている。なぜそうなってしまうのか。それは何もないからか。もとからそうだ。そう思い込んでいる。そしてまたしても心が外れてしまう。ところで心外とはどういう意味だったのか。何を残念がっているわけでもないはずか。それでどうしたのか。

 人は様々な水準で生きている。馬鹿丸出しでも生きており、何とか聡明に見えるように、必死で取り繕っている場合もありそうだ。なぜそうしなければいけないのか。彼は他人から馬鹿にされたくないのだろうか。誰もがそうかも知れない。それは何かの冗談に違いない。言葉に詰まるとすぐに冗談で済まそうとするのは悪い癖か。しかしおかしい。何も語っていないつもりなのに何かしら語っている。実際にそうだ。現実に語り得ないのではないか。何かはいつまでたっても何かのままであり、具体的に何が何を示しているのでもない。そんなわけで誰かは何かについて語っているようだが、その何かがまったく見えてこない。今さらながら何かとは何なのか。それはくだらない言葉遊びの末に見出されるべき何かなのだろうか。それが見出されなければ誰にも理解できない文章となってしまうか。


2月11日

 またいい加減に言葉を連ねて何かの帳尻を合わせるつもりか。そうだとしてもそんなふうにしか語れない事情があるのかもしれない。それでも実質的には相変わらず何も語っていないのだろう。みぞれ混じりの雨の中を這いずり回っているわけでもない。そうすぐ雪になりそうだ。それがどうしたわけでもないが、何となくじっと夜の闇を見つめ、何を思うこともなくブラインドを閉じる。誰かはそんなふうに語っている。やはりそれがどうしたのだろうか。どうかしなければいけないのだろうか。頭がどうかしていないか。何も思いつかないからそう思いたいのだろう。別に漫画とともに何を感じ取りたいわけではない。ただ退屈を持て余しているわけでもなく、何となく空疎な気分に浸かっているのかもしれない。それで何を語りたいわけでもないのだろう。

 意識の中で何かがまどろんでいるのかもしれない。そんな気がしているだけで、やはりそれも何でもないことの続きか。たぶんそうだ。何も考えられず、その場に立ち尽くしているわけではないが、何となくそんな光景を思い浮かべてみる。相変わらず理由など何もなく、誰が何を想っているのでもないらしい。わからないと語りたいのか。語っているのではないらしい。誰もそんなことは思っていない。それは嘘だろう。ここは幻想の世界ではない。ではどこにリアリティがあるのか。そんなものなど誰も求めていない。わざと何かをずらしてきた。誰かがどこかに出かけていたのだろうか。まだあきらめていないようだ。そこら辺に出口でもあったのだろう。今は出口から出られて爽快な気分か。そう願いたいものだ。

 どうでもいいと言えばどうでもいいことになる。それは何かの魔法だろうか。忍術も魔法も変わりない。漫画の中ではそうだろう。事実ではなく、それ以外を求めているわけだ。では何が事実なのだろうか。誰かがどこかにいる。そしてそんなふうに思っているのだろう。いつものことだ。どこにもいないから誰かになってしまうのだろう。それはどういうことでもなく、必要以上に語るべきことではない。執拗に何かが戻ってきているのかもしれず、その繰り返し戻ってきた何かをつかみ損ねているようだ。それは誰の意志でもなく、自らの意志で何をやろうとしているのでもない。人の意志はどこまでも外れている。それはどういうことなのか。何か思いがけない行為を引き起こしているだけか。それはどういうことなのか。ただ眠い。

 少し短い間の出来事だった。今はもう何も覚えていないようで、また明日に先送りされてしまうような案配だ。目を閉じればどんな光景が思い出されるのか。ただ眠っている。今日はその辺が限界のようだ。また機会が巡ってくるまで一休みしておいた方が良さそうだ。誰かはそこで心が外れていることを願って止まない。だから頭がおかしいのであって、それが理由になっていないところの行為が誰かの心を満たしている。いったいその先には何があるのだろうか。待ち構えているのがくだらぬいいわけだったらどうだろう。がっかりするだけか。しかしがっかりしたついでに何を語れるのか。時間が迫ってくる。そのまま眠ってしまって翌朝になる。

 何が馬鹿げているのか。そんなことはわかりきっている。だがわかりきっているからわからないのだ。わかりきっているだけに、何をどうしたらいいのかわからない。だから馬鹿げているのか。それは何かの屁理屈ぐらいにはつながるだろうか。だがそれでどうするのか。どうもしないから馬鹿げている。それでは馬鹿げている状態から抜け出せないではないか。ではどうしたらいいのか。結局はそこに戻ってきてしまう。だから馬鹿げている。そんなふうに語るのはやめた方がいいだろう。どこまで語ってもきりがない。まったく何を語っても馬鹿げていることになる。わざとそうなるように語っているのではないか。まともに語れないからそうなってしまう。そしていつまでも空笑いが止まらなくなるか。たぶんそこから先はフィクションなのだろう。


2月10日

 何とか今日の日付に追いついたのに、また言葉を記す機会がなくなってしまう成り行きだ。他の作業が立て込んでいて、こちらまでやる時間がないらしい。そこで君は何を体験しようとしているのか。世の中は間に合わないことだらけか。それでもアフガニスタンで戦死するのよりはマシか。彼の地では殺し合いをしているのだから、一方的に欧米人だけが死なないはずがないか。現状では誰も何も納得していないはずだ。それはどういうわけなのか。どうもしないから納得していないのだろう。理由になっていない。納得できる理由が不必要なのか。そんな現状なのかもしれない。病み上がりにコーヒーを飲んだらきつかった。体調は今もその影響下にあるらしい。そしてそれに追い討ちをかけるように問題の山積み状態に直面する。冗談ではないのだろう。それが紛れもない実感だと思われる。そんなことを述べているうちに理由が見つかったではないか。ストレスから体調を崩しているのではないか。だがそれもフィクションの中で起こっていることだとうそぶきたいわけだ。まったく誰かの強がりもいい加減にしてもらいたいか。

 だから何を強がってもできないものはできない。笑ってしまうが、誰かは本当はやる必要ないことをやっているばかりか、逆にやってはだめなことをやろうとしているのかもしれず、何かの成り行きに逆らっているような気もするのが、このまま強情を張り通すと、取り返しのつかない事態となってしまうだろうか。最悪の場合は死に至るだろう。そうだとしたらこれからどうすればいいのだろうか。結局どうもできはしない。だからやるしかないということか。これからできないことをやるわけだ。この先どうなるか知らないが、誰の知ったことではなく、それが流れなのだから、たとえ間違っていようとやっていくしかないらしい。まったく冗談にもほどがあるだろう。無理なのはわかっているはずだが、そんな状態で何を引き延ばそうとしているのか。文章が間延びしているようで、何を語っているのかわからなくなってしまう。そして気がつけばすでに何かの期限が迫っているはずだ。ならばわかっているのはそんなことか。わかっていないから困っているのではないか。それもわかっている。何をどう述べてもしっくりこないのもわかっている。確かにわかっているが、依然としてそれをできない。

 何か違うような気がするのはいつものことだ。何も違っていないのにそれはないだろうか。たぶん何かが違っているのにそれがわからないのだ。それでも一方では何も違っていないような気もする。どちらにしろわからないのだから、どちらでもかまわないのではないか。何を迷っていようと所詮その程度のことでしかなく、それはそれでそういうことでしかない。いつまでもそんなことを述べていると、次第に文章の内容が空疎になってくる。実際にそうなっているようだが、それでもかまわないのではないか。ここではかまわないと述べておこう。話の流れとしてはそれ以外はあり得ない。あり得ないから今のそれがあるわけか。ならばそれが結果であり、どうしようもなく導きだされた結論に違いない。だからその結論を尊重しなければいけないのか。それも冗談のたぐいだろうか。なぜ本気になれないのだろう。無駄に言葉を費やして意味不明になっている。だから君はもう語るのをやめた方がいい。

 誰かは曇り空の下で何をやっているのだろうか。いつものように仕事をしているようで、その合間に何を思うこともなく、作業に専念しているようだ。人は人で人それぞれにやらなければならないことでもあるのだろう。そういう成り行きになっている。それがこの世の煩わしいことか。やりたいことをやろうというのではなく、やらなければならないことが当人の意思に関係なくあるのだろうか。そんなことを思っているうちに雨が降ってきたようだ。そして何も何でもないわけではなくなってきたらしく、慌ただしく言葉を記しながら、何とかそれを終わらせようとしているのか。それは何かの悪あがきになるだろうか。そうだと思っておいて差し支えないようで、顔を引きつらせて何かに間に合わせるために何かを記している。何かとは何か。それは言葉そのものなのだろうか。では言葉にもならないそれらの気持ちはどうなってしまうのか。君の知ったことではなく、君は君でそれらの作業を黙って見守るしかない。要するに君には何もできないのだ。


2月9日

 何を考えているのだろう。そう考えている。それは悪い癖だ。空が晴れているからそうなのではない。たぶんわかりきっているからそうなのでもない。そういうことでしかないということか。そうだとすればそれはどういうことなのか。何も語ろうとしていないようだ。そういう罠にはまっている。そう思いたいならそう思っていればいい。誰かは孤独なのだろうか。にわかに導きだされたそういう結論もあながち間違っているとも言えないだろう。では何を遠回しに述べても無駄か。無駄なのはそういう言説だ。何をどう述べてもそうなってしまうのだろう。だがそれが散文の特徴というわけでもないか。君は韻文を知らないのではないか。しかし知識とは何なのか。そう思うなら思っているのはそういうことだ。何がそうなのではなく、そういうことを述べている。それで誰が満足するのか。だからそういうことではない。そう思いたいのだろう。

 気まずい雰囲気は嫌いだろうか。それを耐えているとは思えない。もうすぐ何かががらりと変わり、そんな雰囲気を感じられなくなり、そこから先は誰かが記すフィクションになるのだろうか。たぶんそれがどうしたわけではない。誰かが語っているのはそういうことか。書物を読んでそこから何らかの影響を受けている。そう思ってくれれば差し支えない。語るのはそんなことだろう。これから語るのもそういうことだ。おそらくそうに決まっている。ならばそういう語り方が身についてしまったのだろうか。そうだとしたら何なのか。ただわからなくなる。それだけのことだとしたらそういうことか。だがそれで何を確認しているのか。あくびが出てくるか。今それを確認したらしいが、必要のないことかもしれない。目に見える光景には立体感があるらしい。ついでに確認したのはそういうことだ。それも必要のないことだろうか。しかし誰がそれに驚いているのか。画面上に映るそれがそうなら驚くだろう。そういうことでしかない。

 白黒映画から色を認識している。誰かがそんなことを語っていた。きっとそれはフィクション中に登場する誰でもない誰かだろう。そこで何かの対話が成り立っているらしく、誰かは感動について語っている。一方聴いている音楽には同じようなフレーズが繰り返され、執拗に感覚を刺激し続ける。それが何をもたらしているのか。誰かが死ぬまで踊っている。誰もがそうなのかもしれず、メディアに刺激されながら踊らされているのかもしれない。それが人間の性か。少なくとも現代人はそうだ。自分だけは違うと思ってはいけないらしい。それこそが罠なのか。自分には誰にもまねできない個性があり、それをよりどころとして、得意になって自分独自の生き方というやつを追求していると思ったら大間違いか。では彼は何を探求しているのだろうか。それは他人の真似という毎度おなじみのそれか。そうだとしたらとんだ勘違いなのか。そうでもないと思いたい。人は常に誰かの複製でしかないようだ。それはその誰かが人間だからか。

 理由とはそういうものだろうか。理由になっていないがそれが理由らしい。そんなわけで何とか理由にたどり着き、それは人が生きている理由となっているわけか。人は他から引用して、それを活用しながら生きている。引用する動機は単純だ。それしかできないから引用するのか。それだけではないと思いたいか。そうだとしたらそれはどういうことなのか。人間は他人の複製として成り立っている。様々な複製がくみ合わさって、何となくそれがオリジナルであることを実感しているわけか。複製にはそんな効果があるのかもしれず、人の心にそんなオリジナル幻想を呼び込んでいるようだが、ところで君は本物というやつを見たことがあるのだろうか。それが何か特権的な体験だとは思えないか。何か適当な説明に言いくるめられているような気がするが、それで何が解決したとも思えない。とりあえずの結論はあくまでもとりあえずのものでしかなく、それがどうしたわけでもないだろうが、何となくその気になって何かを断言したつもりになったとしても、ソウイウは過ち以外の何ものでもないような気がするだけか。


2月8日

 言葉の連なりが何かに追いつこうとしている。快速電車に乗り込もうとして、誰かと誰かが駅のホーム上で走り出す。君は乗らなくていいのか。わからないと答えておこう。その気がないなら各駅停車でゆっくりくつろいでいるべきか。その気になれない気分だ。急ぐのに疲れている。だから黙って待っていればいい。何かの機会が巡ってこなくてもそれでかまわないはずだ。何を待たなくてもいいのだ。現状がしっくりこないなら、しっくりくるまで待てばいいのか。しっくりこないままでもかまわない。何を求めているのでもないはずか。何ももたらせない。誰が何をやっているわけでもない。フィクションの中でもそんな感じだろうか。君がそう思いたいだけだろう。他の誰もそうは思わないか。しかし今は夜だ。それがどうしたのだろう。今気づいたわけでもなく、気づいたことを述べたわけでもない。ただ何となく言葉に詰まっているのかもしれない。

 誰かがそこで行き詰まっている。そういうフィクションなのかもしれないが、内容が空疎だ。何を語っているわけでもないのに、何か語っている気になり、それが現状を維持しているような気になる。しかし現状とは何だろう。そんなことを述べている現状があり、何となくその状態を維持しているつもりだ。それがどうしたわけでもなく、それはそういうこと以外の何ものでもない。そして意味がわからなくなり、どうでもよくなってしまうのだろうか。ならば至って空疎なのは良いことかもしれない。意味もなくそう思っている誰かが心の中にいるような気がして、何となくそんな気にさせているのだろうか。だから別にそれは何でもないことだろう。何でもないからそんな気になっているのか。それでは出発地点に戻ってきたようなものかも知れないが、そこから何が始まるわけでもなく、ただむやみやたらと言葉が並び、それを読み返す気もないのに、さらに言葉を並べて何をどうしようとする気なのか。ただそうしているだけだろう。

 それで何を確認しているわけでもないだろうが、何となくそんなふうに言葉を記せることだけは確からしい。しかし誰がそれを求めているのだろう。なぜそうなってほしいのか。誰もそうは思わない。たぶんそういうことだ。そういうことだが実際にそうなっているわけで、誰かにはそれを止められない。そうなるがままに言葉を記している。それがそのときの気分なのだろうか。だから何だというのか。気分がそうだとしても、それはやってはいけないことではないのか。誰がそう決めたのだろう。わからないが、何となく虚無の束縛から解放されたいのかもしれない。しかし虚無とは何だろう。君がそれを知りたがっているとは思えない。別に何を知りたいわけでもなく、それでも虚無とは何だろうと問うている。単にそう問いたいのか。そうだとしたら何なのか。何でもないからそう問うているのではないか。しかしそんな結論が何を物語っているのだろうか。

 文章などフィクションの中ではあり得ない。何も物語れていないのに、フィクションも何もないだろう。ではそれは何かの冗談なのか。それも違うような気がして、要するに何でもないというわけか。何が何でもないのだろう。何もかもが何でもない。事実も虚構もなんでもない。嘘をついても何でもなく、本当のことを述べても何でもない。だから何でもないということだ。しかしそんな結論でいいのだろうか。それでもかまわないなら、やはりそれも何でもないことになってしまうわけか。たぶんそういうことだ。何でもないからそういうことになり、それ以外にはあり得ないからなんでもない。それはどういうこともでなくこういうことでもない。何でもないことだ。そう述べて君は何でもない存在となり、何かに帰すというより、どこかへ消え去ってしまうだろう。そして忘れ去られ、何でもないこととなる。この世はそんなことの繰り返しの上に成り立っている。


2月7日

 たぶん今は黄昏時だ。もうすぐいつもの夜になるだろう。誰かがそれを待っている。待つ理由もなく待ち、待ちくたびれて眠りにつくまで待っている。相変わらず空疎なことを語っているようだが、それがフィクションのフィクションたる所以か。まだ何も語っていないだろう。何も語らないうちに真夜中だ。また疲れて眠ってしまったらしい。相変わらず何を語っているのでもない。たぶんそのままなのだろう。そこで何かが執拗に繰り返されているようだが、やはりそれも空疎そのものになっている。調子が上がらない。そんな調子でしかないのだろう。そしておかしいのはわかっている。冗談ではないが冗談でしかない。誰かが語っているのはそんなことだ。それでは何も語っていないのと同じことなのだろう。

 まだ早かったようだ。腕時計を巻いたら腕がかゆくなる。金属アレルギーだろうか。今さらそんなことに気づいたのか。何となくもう大丈夫だと思っていたらとんでもないことになった。それも何かの嘘なのか。現実を直視できない。それでかまわないのだろう。いつものことであり、どこかでやり直しがきくはずだ。どこで何を語っているのでもないらしい。それはそれで意味不明な話の内容に過ぎず、それ以外は何も語られていないはずだ。だからまだやめるべきではないのだろう。そんなふうにして何かがどうにかなってしまうのだ。愉快なことだ。今は黄昏時ではない。すでに精神状態はどうにかなっているはずだ。実際にはどうにもなっていない。

 ここまでやってきたのだから、それでかまわないはずだ。時間的に余裕があるわけではない。もう翌日の夜になっているはずだが、依然としてくだらないことばかり述べている。それでかまわないのだろう。何も心配する必要はない。冗談のついでに何を語っているわけではないが、たぶんそれも空疎な語りの続きなのだろう。どうも金属アレルギーというのではなくて、腕時計で腕を締め付けるとかゆくなるらしい。しかしじんましんのようになるのはあまりいい気はしない、だが何となくプラスチックのバンドの腕時計を腕に巻いている。何となくそういう成り行きなのだから仕方のないことで、ゆるく巻いてもかゆくなるのだからどうしようもなく、そんなことについてあれこれ述べているのはおかしな気分をもたらすようだ。本当にそれでかまわないのだろうか。おかしいといえば、風邪の後の喘息もおかしい。それは結核か何かか。たぶんそうではない。

 君はどこまでも影の段階にとどまり、この世界で実体を獲得できずにいるらしい。そんな物語の断片でも読んだことがあるのか。そういうことではなさそうだ。理由も何もなく、そういうことではないのだろう。夜の闇にまぎれて何を語りたいわけでもない。気が抜けている。心の中では誰も何も考えていないようだ。別に多重人格というわけではない。何となく嘘でもかまわないから、そんな気でいたいだけなのだろう。いかれているようだ。何となくそう思う。原因があり結果があるわけではない。何かの現象のただ中にいることだけは確かなようだが、何を気にしているわけではない。仕事とは何か。朝早くから夕方まで昼休みもろにとらずに仕事をやっていたらしい。それで何がわかったのか。きりがないということか。そういう時期もあるのだろう。だから何を得られたわけでもなく、病み上がりで疲れも知らず、何となく復活しているような気になっているが、それは後先がない証しか。そうだとしたらどうなのだろうか。

 何となく風邪も治ったのに咳が止まらなくなり、いやな気分でいるらしい。それだけのことだろう。それが何を予感させることもない。今まで通りの成り行きの中で言葉を記しているはずだ。誰かは世界の時間的あるいは空間的な連続性を感じているわけか。つまらない冗談か。他に何が出てくるはずもなく、ただ面倒くさいことを述べているつもりもない。だから空疎な文章を記しているわけか。何がだからなのだろうか。やはり考えるのが面倒くさいようだ。空疎であろうとなかろうと、どうでもいいことのようだ。今はそう思われるらしい。やはりそれでかまわないのか。やけくそ気味というわけでもないだろう。何も考えられないだけか。考える気がないのではないか。それでも考えていることになるのだろうか。だが本当に何もなく、何もないからそんなことばかり述べているのではないか。要するに退屈なのだ。それだけのことだろう。


2月6日

 誰かは死刑制度に賛成する人々が嫌いだ。何となく知性がないような印象を持っているらしい。人を裁判にかけて殺してどうするのか。人を殺しても何の解決にもならず、近頃は逆に死刑になりたくて人を多数殺傷しようとする人が増えているような気もするのだが、そのことについて死刑制度に賛成する人々はどう思っているのだろうか。それでも人を殺めた者は裁判でさらし者にしてから合法的に殺されなければ気が済まないか。まったく愚かな人々が多すぎる。世の中に殺傷事件が横行しているのも、人々が死刑という合法的な殺人を容認していることの裏返しだろうか。何も人殺しまで殺すことはないだろうに、死刑制度はこの国の殺伐とした世相を助長しているのだろう。それはまるで自業自得気味に自分で自分の首を絞めているようなものだ。

 まさかそれが神の意志というわけではあるまいが、もう少しおおらか気持ちになれないものだろうか。ぎすぎすとした競争社会にあって、少しでも状況が自分に有利に働くように、せこく立ち回る一方で、他人がしでかした過ちは絶対に許さないような、了見の狭い心持ちの人ばかりなのだろうか。それとも人々は他の何かに洗脳されているわけか。例えばそれは世間とかいう宗教のたぐいか。そういえばメディアの中で生息する司会進行者のたぐいは、裁判で被告が反省や謝罪の気がないと、それをことさら強調して、否定的に伝えようとするのはどういう了見なのか。世間に迷惑をかけるのがそんなに許しがたいことなのか。メディアのスポークスマンというか宗教指導者たちには、何かそれについての判断基準があって、それに合致しない態度の被告は、とことん否定的に取り扱ってもかまわない権限でも彼らには与えられているのだろうか。

 だいたい人が人を裁くなんていやなことでしかなく、たぶん人は罰せられるべきではない。何をやってもそうだ。許しがたいことを平気でやった者も最終的には許されるべきなのだ。そうなると社会の秩序が崩壊してしまうかもしれないが、それが正しいと思われるなら、崩壊してもかまわないだfろう。だから死刑制度をやめて、それに代わる制度として、罪を犯した誰もが最終的には許される仕組みを作るべきなのだ。たぶん奉仕活動でもさせればいいのではないか。簡単に言うならそうなる。言うは易し行うは難しなのだろうが、やらせてみればそれでかまわない。もちろん現状では不可能だろう。しかしそれを実現させるために試行錯誤しなければ、いつまでたっても大量殺人=大量死刑時代は終わらない。

 たぶん誰かはいつものように冗談でそんなことを述べているのだろう。それは人を笑わせるような冗談ではないかもしれないが、何となくそんな未来を思い描いているうちに朗らかな気持ちになれるのかもしれず、世間の常識をすぐに口にして、荒唐無稽な考えを封じ込めようとする洗脳者たちの存在を一時でも忘れることができるのだろう。そういう意味では常識にとらわれるのはかなり悲惨なことではないだろうか。死刑制度に賛成している大多数の人々は悲惨な人々なのか。いつ自分の身に降りかかるかもしれない殺人の恐怖に震えながら、そういうことをやる不埒な輩は絶対に許さず、みんな合法的に殺してしまえばいいとでも思っているのかもしれず、どうせ死刑になりたくて人を殺したとうそぶく者などは言語道断なのだろう。そういう者たちこそ、かつて自分たちと同類だったなんて考えが及ばないところか。

 ところでアウシュビッツとは何だったのか。ユダヤ人たちがそこへ送られるのに協力した人たちは善良な市民だったはずだ。今から思えば善良な市民たちは洗脳されていたはずだったが、そう人たちは今の世の中で堂々と死刑に賛成している人たちとどこが違っていたのだろうか。どちらも人が殺されているだけなのに、どちらが良くてどちらが悪いという基準というやつが、論理的整合性を伴って存在しているのだろうが、当時のユダヤ人大量虐殺にも明確な論理的整合性があったはずだ。そうでなければあれほど多くの人命が迅速に奪われるはずがない。結局は感情に流されているのではないか。人殺しは悪いことであり、悪いことをやったやつは殺してしまえばいい、という単純明快な論理を頑に信じようとしていて、憎しみの感情がそうさせているのであって、反対に悪人を許すという論理的破綻は頑として認められない。たぶんどこかの誰かなら簡単に冗談と嘘でそういうことを語ってしまうのだろうが。それが本当かどうかはこの際どうでもいいことか。


2月5日

 また昨日と同じ時間帯がやってきたようだ。ところで誰かは何に惹かれているのか。にわかには思い浮かばないのがいつものパターンなのだろうが、今日もそうかもしれず、何をどう語ればいいのか考えあぐねているようで、たぶんまた無駄に言葉を弄して、空疎な無内容となってしまいそうな気配だ。実際にそうなっているのではないか。誰に問うているのでもなく、何を質しているのでもない。くだらないことを述べているだけか。それだけではないと思いたいが、実際はどうなのだろうか。今のところは実際もそうらしい。たぶんまだ何も語っていない。そんな嘘をつきながらも実際にそうだ。しかし実際に何が快適なのか。それは違う話の中に出てくる言葉か。

 だからもうその辺でやめておいた方がいい。どこかでとりとめがつかなくなる。ならばその辺で戯れ事の抽出が終わりか。どこから抽出しているつもりだったのか。君はマラルメの詩など知らないはずだ。ではそれらの何が空疎なのか。君に何を尋ねているのではないということか。それで何かを二重に否定しているのだとしたら、それこそ何かの間違いになってしまうだろうか。そもそも語っていること自体が間違っている。だがそれで何を早合点しているとも思えず、とりあえずは何かしら語っているつもりなのだろうが、さらに内容がなくなっていくような気がする。だから日頃から常々それでかまわないと述べているではないか。今や君はそれさえも耐えられなくなりつつあるのか。そして次第に呆れてくる。

 いったいそれがどこまで続くのだろうか。まったく冗談もいい加減にやめてほしいか。それどころかもはや冗談ではなくなっているのではないだろうか。いくら何でもそれは安易すぎないか。それらの何が安易な話の展開なのだろう。全然話になっていない。意識がどこかへ吹き飛ばされてしまったらしい。何かそれふうの書物を読んで影響されてしまったのか。そうかもしれないが、それにしてはお粗末すぎないか。お粗末だろうと何だろうと、そういう話の流れなのだからそういうことを語るしかない。そして嫌気がさしてくるはずだ。本当にそうなっているのだろうか。何だか余裕綽々の雰囲気だが、それは何を意味しているのか。ただやる気がしない。そういうことでしかない。だから何だというわけでもなく、そういうことなのだ。

 何がそういうことでもない。また嘘をついているのだろうか。嘘でも何でもないからそう記しているのだろう。何でもないことばかりが記され、さらに興味の外に言葉の連なりが導かれていくようだ。君はそれによって生き残るつもりなのか。なぜ生き残れるのかわからないが、何となくそんなことを述べている現実がある。そしてあくびが出て眠たくなってくる。もういやになっている。語るのが億劫だ。たぶん空疎な文章はどこまでも空疎なのだろう。それを自覚しつつも、内心どこかに救いのきっかけがあると思っている。まったく能天気だ。軽はずみに言葉を記し、引っ込みがつかなくなり、さらに意味のない言葉を繰り返し記す。それが言葉のつらなりとなっているのだ。だがそんなことで開き直ってどうするのか。もう少しまともな内容を文章にまとわせなければつまらない。

 君にそれができると思うだろうか。君とは誰なのか。そんな問いかけの対象が君なのか。馬鹿げている。そして馬鹿げていてもかまわないのだろう、それでまともになるはずがない。君にとってそんなことは自業自得の結果のひとつに過ぎない。問いかけている対象が君ではないのだから笑止千万か。だからすべてが嘘に決まっている。もとからこの世界は無理で覆われているのであり、人は無理なことばかり求め、それを実現させるために情熱を注いでいるのだろうが、そういうありふれた見解がくだらなすぎる。いったいそれの何が無理なのか。君はそこで何をやろうとしているのか。見たまま聞いたままのことを書き記しているわけではあり得ない。もし本当にそういうことをやりたいのであればどうすればいいのだろう。そのためにはひたすら金銭を浪費すべきか。なぜそういう結論に持っていくのか。失敗しなければわからないことばかりだ。


2月4日

 結局今はいつになるのだろうか。彼は二日前に何をやっていたのか。誰でもない彼だ。そんな嘘をつきながらも、誰かが何かを記している。興味がないのだろうか。今さら誰に興味があるというのか。たぶんそういう話ではない。現実はフィクションだ。実感もフィクションからきているようだ。それが事実だと思っているようで、今さらそれはないと思いたいのだが、やはりそんなことを述べているのがおかしく感じられるようで、それが実感として心を揺り動かしている。しかしそれが何の説明になるのか。気分はどこまでも空疎だ。それは何かの扉だったかもしれず、そこから何かを引き出そうとしていたなら、それは箪笥のたぐいだったのかもしれない。要するに何でもない意見がそれらの説明によって示されているのか。

 それはあり得ない仕草かもしれない。しかしなぜ架空のそれを説明しようとしているのだろう。何も問われていないようだ。何も語れなくなってしまったのか。すでに語っているではないか。それとこれとはどう違うのか。それらの文章には何かが過剰に抜け落ちている。誰かがそう思っているのだろう。何かが繰り返されているだけかもしれない。そしてそこで立ち止まり、何らかの意見を表明したい。それができないからその代わりに言葉を記しているのではないか。現実はそうかもしれず、そこで立ち止まらざるを得ない。さっきまでの眠りの最中に見ていた夢の断片を見失う。たぶん映像に付随している色も音声も余分な要素なのだろう。ましてやわざわざそれを見るために専用の眼鏡をかけて立体感まで体験する必要はないのかもしれない。その程度のことでしかない。

 騒ぐにほど遠い内容だが、それが現実なのだ。君はそこで力を使うべきではない。居眠りの最中に何を思いついたわけではないが、誰かはそれを実感しているらしい。だから脱力感に包まれているわけか。虚構の戯れに心奪われ、それで何を体験したことにもなりはしない、と強がることもできず、それらの奥底にある何を見つけ出して顕揚することもなく、何かの粗悪な複製を見て楽しむわけでもなく、ただわざと調子を乱しているようだ。何かの抑揚がまったくない。人はまだその必要性を見出していないのか。本当はそうではないのかもしれない。たぶん君にとっては何でもないことだ。見えているものが人とは違うのだ。だがそれだけで片がついてしまうとしたら、それとはいったい何なのか。ただの戯れ事のたぐいか。そうだと思ってしまったら、少しがっかりするかもしれない。

 人は今でもくだらないことにかかりきりだ。そうならざるを得ない状況にいらついている。ご都合主義もいいところだが、それを招いた責任を取ろうとしないのも、別に誰の知ったこともでもないのだろう。さらに時は流れ、そんなことなど何でもなかったような気になった時、果たしてそれについて何を考えられるのだろう。君はそこでまどろんでいる。本当にどうでもよかったのだろうか。たぶん今となっては思えないはずだ。では貴重な時間を無駄に浪費してしまったわけか。趣味の問題かもしれない。そこまで深刻に悩むこともない。実際悩んでいないだろう。だが何が快適というわけでもなく、何となく居心地の悪さを感じているのではないだろうか。しかしそれがどうしたわけでもないだろう。そこで開き直ってどうするのか。冗談ではないと思いたい気持ちもわからないではないが、もう少しの辛抱か。まったく馬鹿げている。

 しかしそうまでして何を語りたいのだろう。その辺が余分でつまらない結果をもたらしている。すでに余分な言葉が連なっているのではないか。わけがわからずに迷い込んでいるにしては確信犯的な様相を呈している。そうまでして体面を保ちたいのか。その辺がよくわからないところだが、まだ引き返す機会が巡ってきそうな気がしているので、その辺で戯れていれば、やがて虚無がどこか見知らぬ土地へとその身を誘ってくれるだろう。それとは何の関係もない音楽を聴きながら、何かのナレーションに耳を傾け、空想しているそれらの情景をどうしていいものか考えあぐねるが、たぶんそれは誰の欲望を反映したものにもなりそうもない。やはりまだそこまで語るに至っていないとことだ。くだらぬことが当然のことのように繰り返され、一方では災害で多くの人命が失われようと、そんなことはおかまいなしに、それらの続きが延々と繰り返されているのが、この世界のすべてのような気がしてくる。


2月3日

 また昨日の日付で言葉を記している。体調を崩してどうにもならなくなり、それがフィクションとは違う実感をもたらしていることに感動する。君は誰なのか。そこから唐突に私が出現する可能性がどれほどあるのか。言葉と言葉の間に雑音が差し挟まれ、その雑音の源が私か。誰かにはそれが理解できないようだ。架空の登場人物としては実感がわいてこないのだろう。ともかくこのままずるずる遅れないうちに言葉を記していかなければならず、それが良いことか悪いことかわからないが、たとえくだらない内容になろうと、理由もなしに適当に文章を構成すべきか。そんなわけでますます頭がおかしくなってきそうだが、そういう話ではなかったはずで、何となく気が抜けているようだ。たぶんつまらない話になっている。やる気がしないのだろう。

 つまらない話に変わりはないようで、自然とあくびが出てくる。放っておいたらさらに遅れてしまうだろう。しかし今は放っておくしかない。自然に言葉が出てくるまでは、つまらない内容でつなげてゆかなくては、そこで言葉の連なりが途切れてしまい、その先はどうなってしまうのだろうか。だからやめてしまえばいい。だがそれがどうしたのだろうか。少し冷静になった方が良さそうだが、何をどうしたいのでもないのだろう。ヒステリックに主張したいこともない。どう考えても何もないので、やはり言葉を記す必要性を感じなくなり、脱力してしまう。だからそこでやめた方がいい。ここで思うのはそういうことか。今回はわけがわからないわけではないだろう。

 ごまかしはやめにして、そんなことを述べている誰かがいる。心の中でそうなっているのでもなく、たぶんそれもフィクションなのだろう。だから文章に内容があるように装うのはやめた方がいい。現実はそうではないと思っていればいいのだろうか。要するに今できるのは無意味な自問自答の繰り返しだ。何を問うているのでもなく、何が問われているのでもないと思うことが、何も答えられないことを生み出しているのだろうが、それでも自問自答を繰り返そうとしている。その辺がおかしいのは承知しているつもりだが、なぜかそれをやめようとしないばかりか、それに依存しながら文章を形成しつつある。そんな馬鹿なことがあるだろか。それがあるから今があり、今があるからくだらないことを述べているわけだ。

 何やら開き直っているようだが、それが何をもたらしているわけでもなく、心はもはやあきらめの境地に入ってしまったかのように感じられ、そういう心境でいるうちに言葉の連なりを先へ延ばすことも可能らしいが、それでいいのかと問うことも忘れまい。結局何かを語るとはそういうことなのか。それは何かのごまかしに違いなく、そんなことはわかりきったことだろうが、それしかできない現状をどうすることもできない。そして果たしてそれでいいのかと問うことも忘れない。そんな予定調和の問いを発しながらも、そういうやり方の上にそんな話を構成しているようだ。だからそれはどういうことでもなく、誰かはそこで何かのフィクションを語っているだけなのかもしれない。ここはそういうことにしておきたいのだろう。

 要するにそういうことでしかない。何がどうなっているのでもなく、常に何かがどうにかなっているはずで、そのどうにかなっていることの結果が、そうした自問自答の自己言及なのだろうか。そう思っておいて間違いはない。それ以外に何があるというのか。たぶん何もなければ何もなさそうだ。だから行き詰まっていて、新たな語る対象を見出せず、以前と同じようなことを盛んに言い立てて、それで満足できるはずもなく、そんな現状に不満だからこそ、苛立っているのだろうか。しかし何を苛立っていようと無駄で、そんなことばかり述べている誰かがいることによって、それらのフィクションが成り立っているのであり、例えば安易に時事問題へと関心が移ることを防いでいるのかもしれず、それについて利いた風なことを述べて悦に入るのも阻止しているのだろう。


2月2日

 冗談のような話の無内容によって、日付的にはやっと今日にたどり着いたようだが、それでノルマを果たしたといえるだろうか。神と交わした約束は守られ、すべては順風満帆か。それも嘘なのかもしれない。嘘でなければ真実だ。何かの呪いが退けられ、何となくそれを打ち破ったような気分になる。それも嘘か勘違いのたぐいか。何かの収まりがつかない。誰がそれを読んでいるわけでもなく、おそらく君も読もうとしない。もうすでに終わってしまったことだ。それが誰かの実力なのだろうか。疑念を抱く余地はなさそうだ。たとえ疑問を差し挟んだところで無益な行為にも結びつかず、まだそんな心境でしかなく、昨日のことはもう忘れている。どこへも行き着かぬことが肝心で、その場にとどまり続けることが何かを続ける秘訣となるらしいが、とても信じられるような状況にはなく、一刻も早くそこから立ち去りたい気分だ。何かのついでにそういうことを考える機会が巡ってくるようだが、まったく真に受けられず、本気になるどころの騒ぎでもなく、騒がず慌てず着実に前進するのみか。しかし馬鹿げている。

 状況はどうなっているのだろう。明らかに何かが暴走しているようだ。どこかで立ち止まらなければ、何かを見失ってしまうかも知れないが、ブレーキが利かない。それはよくありがちな夢の中の話だ。そして今は目が覚めているはずか。しかし何を説明しているのか。いくらせき立てられても言葉はいつもの通りの並びで、結局はそういう話になってしまい、無益な行為に没頭するのも疲れるだけか。疲れたら寝てしまえばいい。そうすればそこで終わりとなるだろう。そこに何かの欠陥でも横たわっているのか。そういう話にもならないような気もする。ならばそれで話はどうなったのか。未だにつまらないこだわりを捨てられない。それの何に魅力を感じているのか。何かを偉そうに説明することはできる。そんな説明ばかりが流行っている。しかし何を異議申し立てしたいのか。それに関してはさらにわからなくなりそうだ。

 どうやら何も出てきそうにないらしい。疲れて一眠りした後にどうなるか。またいつもの明日がやってきて、誰かが記した文章の日付が昨日になるだけか。そして書く目的がない。今さらそれはないだろう。そんな言葉が繰り返されて、さらにやる気が失せる。それがいつものパターンに他ならないことを誰かは自覚しているはずだ。それがいつ自画自賛に結びつくのか。またわけがわからなくなる。鏡を覗き込んだら目が死んでいるはずだ。何について語っているのでもない。もっと大胆に語らなければならないが、そんな気分ではない。とても本気で述べているとも思えず、どこかへ突き抜けているわけでもない。まったくのでたらめなのだ。わざとそうしている。かなり外れているようだ。話の本筋から外れているのはいいことか。本筋も何もありはせず、それらの話は枝葉末節のみで構成されている。フィクションの中ではそう思いたい。しかし実際とは明らかに違って見える。

 誰かの怨念がこもっているのだろうか。そう思わせたいのかもしれない。何とも思っていないとすると、何だか拍子抜けしてしまいそうだ。たぶん君はそれらの仕掛けをわかっているはずだ。深読みすればするほど勘違いになる。フィクションの中で人は考えようとして、さらに勘違いを増幅させてしまうわけだ。そんな思い込みだけの人々がお互いに他人に対する妄想を膨らませながら暮らしているとすると、どうなってしまうのだろうか。だからこんな世界なのか。それらの勝手な思い込みの中で芽生えた憎悪の念が、齟齬の感情とともに次第に蓄積されてゆき、あるときちょっとした事件が引き金となって、一気に暴発したらおもしろいか。それはよくあるパターンだろうか。おそらく君は真っ当な人間ではなく、ひねくれすぎていて、何事も斜め後方からしか見ようとしていない。そんな君が何かを真正面から語ることは不可能のようだ。


2月1日

 何の感慨もなくこんな状況だ。相変わらず何を語っているとも思えず、それでも語っているとすれば、それはやはり冗談のたぐいか。だからもうあきらめてしまった方がいいだろう。だが何をあきらめたらいいのかわからないのもいつものことだ。事実は事実としてそういうことだろうか。何でもないのに、そんな認識の中に何かあると思っている。人はどこまでもそうだとは思わない。何かに同意できない性分らしく、その辺のこだわりが探求の執念深さを物語っているのか。それは的外れな探求に違いない。探求する対象が不在なのに探求しようとする。そんなふうに思われてしまい、何となくやる気を失ってしまうが、何をやろうとしていたのか思い出せない。そうではないのかもしれない。何がそうではないのか。そんな自問自答の繰り返しがそうではないのか。そんなことをいくらやってもきりがないだろう。

 それが君の狙いなのか。何を狙っているのか。後から仕入れた知識が活かされていないようだ。ではここから先は単調に言葉の連なりが推移するだけか。それでは先が見えている。それを誰が物語っているのだろう。そういう話ではあり得ないはずだ。何かの存在が邪魔なのか。それだけでは説明がつかないだろう。言葉の前にことがあり、言葉の後に言葉ある。それは文章だから仕方のないことだ。文章でない文章などあり得ない。それで何をつぶやいているのでもなく、言葉を記しているのか。何も厄介ではなく、どこかへ厄介払いされた身でもない。ただそれでは誰かが承知しないのだろう。もう少し具体的な事項へと踏み込んで物語らなければわけがわからない。それで気が済むならそうしているところだ。君はその手の話の展開を好まないはずだ。それは勝手な言い分だろうか。だが何も身勝手に振る舞っているわけではない。

 君はその次の機会を狙って言葉を連ねているはずだ。次とは何か。どんな機会が巡ってくるというのか。ただ面倒くさくて気が進まないだけでは理由にならない。ではその次には何がくるのだろうか。負の連鎖が今日の状況をもたらしているのはわかりきったことか。自爆テロがどうしたわけでもない。そんなことを本気でやってもらっては困るのだろうか。本気でないなら自爆などしないはずか。それで誰を困らせているわけでもない。要するにみんな本気になりすぎているということか。そうならざるを得ない状況というものがあるのかもしれないが、それで世界が終わるとも思えない。努力すべきことが他にあるのかもしれないが、努力できない状況に陥っておるのかもしれない。そんなのは君の知ったことではないか。何かの求めに応じて人はそういう行為のただ中に吸い寄せられ、何となくそういうことになってしまうわけか。

 君はそこに安易な願いを読み取る。抵抗運動とは何か。問題はいくらでもありそうだ。問題があるからそれを解決しなければならないのだろうが、それがどこかの政治家の仕事となってしまうわけか。安易な仕事だが、馬鹿にしてはいけない。ともかく時間が必要だ。頭を冷やしてよく考えてみることも重要か。君がそれをやろうとするなら、何事もそういうことになるだろう。だが何がそうなのではない。君はそこから先へ問題の解決を先延ばしにするつもりか。だからいったい何が問題なのか。何に逆らっているわけでもない。どうやらはじめから間違っているようだ。それは問題ではなく、何かの気まぐれに発せられた回答か。それこそ嘘の最たるものか。しかし疑念はどこで何を準備しているのか。そこで君は行き詰まっているようだ。そして結局何も語らずに言葉の連なりを終えてしまい、何の役にも立たない認識に至る。この世界には虚無がありそうだ。そんな嘘をついていること自体がその証拠となるだろうか。呆れてものもいえなくなりそうだ。