彼の声73

2009年

7月31日

 話の途中で急に雑音が割り込む。誰かには願ってもないチャンスだが、君に関係のあることだとは思えない。劇ではないので、劇的な話の展開にはならない。わかっているのはそういうことだろうか。誰に何がわかっていることでもない。さっきとは少し違うことを述べているようだ。だがそれがいつまでも続くわけがない。誰も知らないそれらの話の中で、君が何を演じることもない。誰かが疲れていることは確かだが、そんなことはおかまいなしに、何がどうなってこうなっているわけでもなく、そんなつまらない話の最中に、何か適当な事件が起こるわけだ。きっと話が違うのだろう。君は途方に暮れているのか。それほど困っているとは思えない。状況は状況であり、誰の行く末を案じてそんなことを告げているのでもない。それがおかしいのだろう。わざとそこから逸脱している。やはり言葉が違っているのだ。空疎な文章から抜け出るには工夫が足りない。だがわかっているのはそれだけではなく、まだ話の終わりが見えていないことだ。いったいいつになったらそれらの無駄話は完結を迎えるのか。何があり得ないことでもないが、その辺でやめなければならないのだろうか。

 たぶん何をわかろうとしているわけでもない。いくら終わろうとしても終われないわけではない。すでに終わっているのに何かを語り続けているのか。そしてそうではないと思いたい。何とかその先に光明を見いだしたいのだろう。終わりにふさわしい終わり方を模索しているわけか。だが大団円を迎えるにはそれ相応の物語が不可欠だ。劇ではないのでそれはないだろう。わざとつじつまの合わぬことを述べているに過ぎず、誰がそれらの終わりを本気で受け止めているわけではない。他の誰かがそうなのであって、語られている内容は他にもあるはずだ。何かがわざとねじれているのだろう。依然として誰かが正気に戻れないのかもしれず、そんな嘘をついている誰かが何かを語ろうとしているのだろう。その証拠にまったく何も見えていないようだ。それでまともなことを述べているつもりにはなれないか。つもりでなくともそのつもりであり、何がどんなつもりであろうとなかろうと、そんなことを語り続ける誰かがどこかに安住している。君にはそれがわからないのだ。何がどうなってもそうなってしまう話の無内容をどうすることもできず、後はひたすら途方に暮れるばかりか。それは考えてもみなかった冗談のような終わり方なのだろうか。

 とりあえずそんなわけで何かが終わっているとしても、その先はどうなっているのか。それはこれから示す言葉の連なりでは明らかにならないような気がする。たぶん冗談の中に何かが存在しているようで、その何かが誰の意識とつながり合っているとも思えず、何となくひたすら無駄に言葉がつながっていくような様相を呈しながらも、その中に誰かの心情が隠されているような気がしてならない。きっとそれは気のせいだ。それはそうだが、他に何があるというのか。何もなければ文章が成立しないわけではなく、こうしていい加減な言葉の連なりが生成している現状があるらしく、それがどうしたわけでもないが、そんな現状を受け止めようとしない限り、いつまでたっても何かから見放されたままになるだろう。それらの文章はそうした状況にどこまで耐え得るのか。何に耐えているとも思えず、結果としてどこかに刻まれている文字群が、何らかの文章として成り立つのは、それを読む者の意識次第だろうが、現状としてはそれがどうしたわけでもなく、ただそんなことが述べられているに過ぎず、それのどこがおかしいとも思えない。


7月30日

 わかりやすいことは誰にでもわかるだろう。それは一般論だ。君は何がわかりやすいのかわからない。行き当たりばったりで何を語ろうとしているのでもないが、どうもまた文章が行き詰まってきたらしい。無理を承知でなぜおもしろおかしなことを述べようとするのか。それは嘘だろう。実際にはつまらないことをひたすら述べている。それのどこがおもしろいのか。たぶんどこかおもしろそうなところがありそうだ。それも嘘の続きか。嘘でも何でもなく、おもしろくてもつまらなくても、そんなことには興味がない。では何をおもしろがっているのか。終わらない言葉の連なりが愉快だと思う。内容がなくてもおもしろい。そして何を求めているわけでもなく、どのような物語が語られているわけでもない。だから君には何もわからないのだ。いったい何をわかろうとしているのか。何もわかろうとしていないのであって、そんな実情がフィクションの中で語られているのがおもしろそうだ。それは現実にはあり得ない実情だ。

 たぶん誰かはわかったようなわからないようなことを述べている。それらの中では常に何かが余分なのだ。その余分な何かについて述べているのがそれらの文章か。そんなはずがなく、何も述べられていないのがそれらの文章だ。たぶんわけがわからないのだろう。言葉を記している当人にもわからない。何かを理解するのが面倒くさいのだろう。ひたすらおかしなことを述べているつもりになるが、本当のところはわからない。そんな実感は間違っているのかもしれない。ただ言葉がいつまでたっても内向きのベクトルを有しているようで、なかなか外へ出てゆかない。世の中はどうなっているのだろう。それについて何を語る必要があるのか。何か語らなければならない時期なのだろうか。冗談が過ぎる。ついでに何かの感情が脳裏をよぎり、それを言葉にしたい衝動に駆られるが、それは今ではないと思われる。だが今語らなければ何も変わらないだろう。そういう状況の到来を願っていたのか。それこそ冗談ではない。単なる意味不明だ。

 なぜそれほどまでに空疎なことを語らなければならないのか。世の中は何かで盛り上がっているはずだ。誰もがテレビのお笑い番組を見ながら大笑いか。他の何に興味があるのだろう。たぶんそうではない。夜の闇の中で沈黙が何かを物語る。それがどうしたのだろうか。どうもしなければ頭がどうかしている。たぶんそれでもどうにかなるのだろう。本当にどうにかなりそうな気配だが、それでどうにかなってしまうと、さらに文章の無内容に拍車がかかってしまう。それでもかまわないのだろうか。そういうことではなく、現実にそうなってしまっているわけであり、今さら何を問うても意味がない。たぶんそれは作文の練習のようなものに近づいているはずだ。それがそこでの現実なのであり、その現実を無視してそれらとはまったく異なる文章を記せるはずがなく、君はそこで内容のある文章をあきらめなければならず、何をどう工夫してもそうなってしまう現実を受け入れる必要がある。受け入れなければどうなってしまうのか。たぶんどうにもならないだろう。


7月29日

 見切りを付けるべきところを間違えている。だから何も出てこないのはどうしたわけでもない。たぶん我慢比べなどやっている場合ではないが、誰と何を比べ合っているのかがわからない。そんなのは嘘だろう。本当のことを語るのが嫌なのか。具体的に何について語っているとも思えない。何ももたらせないだろう。当たり前のことのように時が過ぎてゆく。どこから何が出てくるわけもない。もう言葉を記すのにも飽きてきた頃だ。それを続ける理由などありはしない。だが何もないのはもとからそうなのではないか。なぜそんなことにこだわっているのかわからない。何かを否定したいのだろう。この世界の中で肯定できる事象を見つけられないのだ。そしてそれが何かの冗談につながってゆく。違うのではないか。そうではないと思われる。それらは何かの付け足しに過ぎないはずだ。またできないことをやろうとしているのか。

 たぶん何も思い出せない。何の話でもないが、話の終わりが見えてこない。記している言葉が違っているのかもしれない。いくらやっても無駄だろう。誰もがそうではないと思いたいのだろうが、それらの作り話の中ではそういうことがまかり通り、闇雲に魅力を振りまこうとしている。しかし負の遺産とはどのようなものなのか。それに関しては何を説明する気にもなれない。たぶん誰かが抱いている妄想の一部として、そういう話が存在するわけだが、君にはそれが何だかわからない。まだ何も語られていないのだから、わかるわけがなく、しかもこれから語る予定もない。それも冗談の続きなのだろうか。たぶん何を語ろうとしているわけでもなく、語ろうとしていることから何かがずれている。それは誰かの気持ちだろうか。

 視界は良好なのに依然として何も見えてこないようだ。そして考えていることが言葉に結びつかない。わかりやすいスランプだろうか。本気になれないから馬鹿げている。何がどうなってしまったわけではない。ところでさっきから自身は何を考えているのだろう。自由とは何のか。謎の言葉ではないが、それに関して生成してくる様々な事象が、別の何かの出現を妨げている。心の空洞には出来事がどこにも見当たらない。そういう表現はおかしいだろうか。たぶん何を考えているのでもないはずだ。ただ言葉を記して空疎な文章を構成している。はじめからそのつもりだったのだろう。しかし冗談の次には何が記されるのか。頭がおかしいことはいいことか。雑なことを述べているようだ。ではその辺でお開きか。


7月28日

 またやる気があるのだろうか。言葉を記している誰かの気持ちまではわからないが、君はその先をどう考えているのか。言葉以外に何が連なっているのでもない。一向にやめる気がないようだ。どれほど続けてできるわけがない。無理に続けようとしても何も思いつかないのだろう。それは当たり前の成り行きだ。しかしそれらのどこに何があるのか。そう短絡的に思うべきではなく、そこで語るのをあきらめるのはおかしい。まだ努力すべきなのか。なぜかそこで踏みとどまろうとするが、言葉に詰まって文章が停滞してしまう。それが文章ではあり得ないか。ならばそれらの言葉の連なりは何なのか。空疎な内容だが、少なくとも何らかの文章には違いない。しかし君はそういう成り行きに耐えられるのか。他の誰が耐えているわけでもないだろう。ただ放置されるがままにここまでやってきただけだ。本当に他は何もありはしない。では何を買いかぶっていたのか。それはどういう意味だろう。わけがわからないならいつものことだ。

 君はそれらの何を信じているのだろう。たぶん宗教のたぐいではない。しかしそれらとは何なのか。この世界全体のことか。哲学的な意味でそうなのではない。ただの世界だ。誰がこの世界を変えようとしているのか。そういうのは愚問か。問われるべきはそういうことではない。では何を問いたいのか。果たしてこの世界に意味があるだろうか。それも愚問のたぐいか。何か見当違いのような気がする。何よりも馬鹿げていないか。何が問われているわけでもなく、問いを発すればそのすべてが愚問になるような文章だ。そういう成り行きの中に何かがあるらしいが、それが何なのかわからない。無理をしすぎているのかもしれない。いつも冗談でそんなことを述べていたのではないか。君にはそれがわかっているはずだが、そこで語っているのは君ではない。要するに冗談とはそういうことなのだ。誰かには何が冗談なのかがわかるだろうか。ただの意味不明ではないような気がする。きっとそれは気のせいなのだろうが、窓の外は雨だ。

 まだ運が残っているようだ。それは悪運のたぐいか。思っているのはそれとは違う。抱いている予感も語っている内容とは違う。何もかもが違っていてもかまわない。たぶん終わりの時が近づいているのだろう。だがそれが何の終わりなのかがわからない。たぶんどうでもいいことだ。誰かはそう思っていたいらしい。何のことやらまったくわからない。何について語ろうとしているのか。君に尋ねているのではない。では何を警戒しているのか。何かが終わってしまってはまずいのか。簡単にそうなってはいけない理由がどこにあるのだろう。やはり君にはわかっていることか。だが何を語ろうとしているわけではなく、一向に煮え切らない態度を取り続けている。わからないのだからそうなってしまうのは当然のことだ。では何を開き直っているのか。そういうことではないのはわかりきっている。誰が愚問を発しているわけでもなく、何が問われているわけでもない。ただ何もないからそうなってしまうだけだ。


7月27日

 気晴らしにまた何を語っているとも思えない。今日はそういう気配を感じられず、何となく真面目な気分でいられるような気がしてくるが、それが嘘でない保証はない。またいつもの冗談に逆戻りか。君は何を考えているのでもなく、何かについて考えているのかもしれない。だがそれは何かと同じことだ。そこから何を導きだそうとしているとも思えない。何かを空想している最中なのだろうか。そうではなく、記された文字を眺めている。それは印刷された文字とどのような違いがあるのだろうか。字体が違っている。どうでもいいことか。ついでに空は曇っているようだ。天気はどうでもいいことのついでのようだ。少なくともそれで何かを述べている。同時に何も述べずに言葉を記している。そして話は完全に冗談のたぐいになっている。なぜそんなことを気にするのか。話の質が低下気味だろうか。それはもとから最低レベルではないか。そしてくだらぬ作業にかかりきりになる。それも人生だろう。いきなり述べていることが意味不明に近づく。たぶん何でもないことのすべてはそれらの作業の中にありそうだ。それがくだらないことだと感じてしまうからそうなってしまう。

 何がそうであっても、それは違うと思われる。誰かの思いが何かに逆らいたいのだろうか。わからないが、常識的に考えればそういうことかもしれない。くだらぬせめぎ合いの中で消耗して、人心は荒んでいくのかもしれない。所詮は利益の奪い合いで、限られた範囲内でそれを繰り広げている。そんな中でも自分の立場を相手より優位に保ちたいのであり、指導者面してそれらしいことを他人にやらせようとする。もちろん他人の行動を制御するのは高圧的な命令口調では難しい。標的となっている当人も納得づくで行動に駆り立てられるようにさせなければならず、そのために説得という手段が用いられ、あめと鞭やら目の前に人参をぶら下げるやらの、あの手この手の説得工作が繰り広げられているわけだ。だからそれは違うだろうか。何が違うのか。面倒くさいからそういうくだらぬやり方からは遠ざかりたい。君はそんなことができると思っているのか。別にできなくてもかまわないだろう。

 そこで改めて問うならば、自由とは何か。何かの気休めだろうか。気休めでも気晴らしであってもかまわない。何となくそこから先は考えないようにしているらしい。君というキャラクターは冗談の上に成立しているのかもしれないが、何が冗談で何が冗談ではないかは、この際どうでもいいことか。気晴らしに自由について語っているのではない。まったく気にしていないと言ったら嘘になるかもしれないが、どうしてもそういう人間的な知恵が気に入らないのだろうか。しかし浅はか極まりないわけではないだろう。それなりにその状況に対応する形でそういう知恵が生じているはずだ。そんなことはわかりきったことかもしれないが、何となくそれに逆らいたくなるのも、そこから生じている感情のたぐいだろう。だからあまりそれを真に受けることはできず、どうでもいいような気分になってくる。しかしそこで踊らされているのは、当の他人を制御する立場を保ちたい側にあるのではないか。その時点ですでにそういう馬鹿踊りを踊っている自らに酔っているのかもしれず、そこから生じる甘美な欲求には逆らえず、よほどの自制心がなければ、とても冷静でいられるはずがない。


7月26日

 やはり今のところは何を語ろうとしているのでもない。もしかしたらいつか何かについて語りだすかもしれないが、その時が来てみないことにはわからない。とりあえずは何も語らずに言葉を連ねているようだ。そんな嘘をつきながらも、何を語っているのだろうか。愚かな人々はメディアが主張している意見に耳を傾けるのだろう。君もそうだ。誰もがそうかもしれない。しかし誰が愚かなのだろうか。君でないはずがない。それらの意見は千差万別か。では君は何について述べているのだ。いつものように空疎な内容を語っているのは誰なのか。それも君ではあり得ないか。誰でもないのかもしれず、誰であってもかまわないのかもしれない。君であってもかまわないはずだ。しかしそれで何を語っているつもりになれるだろう。誰でもない君について語る必要は感じられず、何を語ってもすべてが余分な言葉になる。それでも君は楽しんでいるのだろうか。言葉を記すことがそれほど楽しい作業だとは思えない。それらのほとんどはくだらないことだ。何がくだらないとも思えないが、とりあえずそう述べておけば事足りるような気がする。

 何がそうなのかわからないが、そういうことでその場は収まってしまう。何となく妄想を抱いていたのだろう。何かの可能性について思いを馳せていたのかもしれない。それが誰の意識なのかわからない。何がそうで何がそうでないかはこの際あまり重要なことではないか。それでは話にならないだろう。君はまた冗談を述べているのだろうか。粘り強く何かを続けているのかもしれない。狭い範囲で優劣を競ってしまうのが人間の習性だ。そうやって何かにのめり込んでゆき、我を失って破滅するのか。別にテレビドラマではないのだから、破滅しなくてもいいだろう。そういうことに情熱を傾けている間は幸せな気分でいられるのかもしれない。だがその一方で人はいつもずるい立場を求めている。傍観者気取りで評論家もどきの言葉を駆使して、何となくそれらの光景について語っていたい。そういう感情の発露がメディアの起源だ。

 君はそこから何を導きだしているのか。大げさなことではなく、別にたわいないことでかまわないのではないか。では何が馬鹿げているのか。したり顔や訳知り顔で、何かについて得意になって語りたいのだろうか。そういうのはどうにようもなく大人げないか。何となく勝ち誇ったように語るのは、漫画の中に登場する敵役のたぐいだろう。そういうキャラクターがいないと漫画やアニメそのものが成立しがたいか。俗にいうやられキャラだ。だがそういうのには読者も飽きているだろうから、今では流行らないパターンになっているかもしれない。そんな単純明快なストーリーの中に、作者が伝えたい良心的な本音が隠されているのかもしれないが、君にいわせればそういうのは冗談のたぐいだ。もちろんそう述べて何を批判しているわけでもなく、冗談こそが顕揚されるべき動作を引き起こしているとも思えないが、どうもその辺からわからなくなる。果たして君は空疎な内容でくだらないことを述べているのだろうか。今はそうではないと主張したいわけか。それこそが馬鹿げた動作を誘発しているのかもしれない。


7月25日

 何か適当にまともなことを述べようとしている。今日は何か違うだろうか。それともそれも冗談のたぐいか。何かを克服しなければならないのだろうが、その何かに行く手を遮られているとは思えず、それどころがそれを利用して言葉を連ねているような気がして、克服すべき何かに逆に生かされているのが実情なのではないか。しかしそう述べて何を語っている気になれるのか。そこで何が問われているとは思えない。相変わらず適当でいい加減なことを述べているのかもしれない。そこで知り得た何かを頑に信じているわけではないが、やはり何かが違っているのだろう。いったい何を知り得たのか。簡単に述べられるようなことではないはずだ。たぶんそういうことだ。どういうことでもなくそういうことなのだ。それは何かのごまかしか。ある種のごまかしには違いないが、ごまかさなければ何も述べられなくなる。現に何も述べていないではないか。それが方便のたぐいなのかもしれない。本気になってそんなことを述べるわけにはいかないのだろう。あえて知り得たことなど何もないと言ってもかまわないだろうか。

 確かに知り得たことなど何もなく、それを言葉にすればそういうことになるだろう。君は言葉にできない何かに心と思考を縛られている。その呪縛から逃れる術はない。すべてがおかしいのだ。虚無的な物言いにうつつを抜かしているだけかもしれないが、それでもかまわない。否定的なものも肯定しなければ何も見えてこない。たぶん肯定すべき対象を限定してはいけないのかもしれない。だから否定されるべきは肯定すべきであり、たとえそれが間違った行為であろうとなかろうと、そんなことをいちいち気にするようなことではないのかもしれない。だからすべては肯定されるべきか。その前にいったん否定されてみなければ、物事の本質が見えてこないだろうか。しかし何が本質なのか。冗談の次は真面目な検討に移るわけか。わからないがそういうことではなく、そういうことでもある。どちらにしろ結果は意味不明だ。それでかまわなかったのだろう。かつてはそうだった。今はどうなのか。その時の気分次第でどちらでもかまわないのではないか。ならば結果はかつてと同じになる。

 どこまでも愚かなのだろうか。何が愚かだと思っているのか。何を否定して何を肯定したらいいのだろうか。また振り出しに逆戻りか。面倒くさいからそんなことを述べている。相変わらず何がそうなのかわからない。言葉を急ぎ過ぎのようだ。怠け心が何かに勝っている。まだ勤勉さが足りないらしい。物足りなかったのはそういうことか。その場の思いつきにすぎず、結果的には何でもない。わからなくなっているのかもしれない。ただの付け足しだろう。無駄に言葉が付け足され、さらに意味不明に近づいているようだ。それは冗談では済まないことだろうか。済まされないことはないが。面倒くさいので済んでしまったりする。そういう言葉の付け足しが憩いの場を形成していて、せわしない世の中に疲れた心を和ませるわけか。君はそれが冗談だと受け止めたいのだろうが、本当のところはよくわからない。少なくともそれで済んでしまう状況下で言葉を記している誰かがいる。まったくご苦労なことだ。


7月24日

 何かが心持ち長くなっている。だがその辺が限界だろう。あまり長くなるとやりきれなくなり、さらに遅れてしまうだろう。ならばその程度の長さで満足すべきだ。すでにやりきれていないのかもしれない。夜になっている。何かが違っているのは毎度のことだが、それがわからずじまいになるのもいつものパターンだ。目的がはっきりしない。何を語ろうとしていたのだろうか。とにかくこの世界はとりとめがない。何か既存の秩序のようなものが崩壊している最中なのか。そんな気もしないではないが、そういう語り方自体が紋切り型の域を出ないのではないか。それでかまわないが、具体的にこの世界の中の何が崩壊しつつあるのかが不明のままだ。だから今が願ってもない機会が訪れているとは思えず、そんなわざとらしい意味不明が虚しさを募らせ、依然として何を語っているのでもないことが、どこかに重くのしかかってくる。冗談だろう。笑ってしまうだろうか。何を笑う必要があるのだろうか。語っているすべてがおかしいのではないか。

 さらなる崩壊現象に直面しているらしい。また何かの冗談が続いているのだろうか。まだ本気で語る気になれないようだ。君の頭と意識はどこかおかしい。何が冗談で何が本気なのかが正確につかめていないようだ。記している言葉が違っているのかもしれない。それはその時点での心理状態と結びついているわけではないが、何となくそれではだめのような気がする。だから君はそこで足踏み状態となり、無理に前進しようとすると横道に逸れて、わけのわからぬ迷路に迷い込み、思わぬ落とし穴にはまってしまうか。それこそ冗談ではないような気がするのだが、何となくそれでもかまわないような気もしてくる。何でもありの世の中ではないのだろうが、くだらぬことを述べている誰かを肯定したくなる。それを簡単に否定できるわけがないか。たぶんまだ迷路のただ中なのだろうが、そこから一向に出ようとする気配がないのは甘えそのものか。それでもかまわないのかも知れない。何が良くて何が悪いのかを判断する基準が失われているようだ。

 他に何か述べることがあるだろうか。とりあえず今は夜で、何を考えているのでもないらしい。人はいつもくだらぬことにかかりきりになる。それがこの社会の制度を反映した結果なのかもしれないが、いったい追求すべき利益とは何なのか。そこに基準を定めれば納得がいくのだろうが、それこそが制度のなせる業だろう。制度はいつも基準を設けて、基準に達していないものを排除するのであり、基準に適合したもののみを合法的に流通させる仕組みを作り上げる。人々はそこに何らかの価値観が存在することを幻想して、それを信じている自分たちを正当化したい。もちろんその価値観にそぐわないものは否定され、否定されるべき対象から離れている自分たちに正義があるとでも思っているのだろう。しかしそれを馬鹿にするわけにはいかないだろうか。なぜそういう仕組みがくだらないと思うのか。やはり君の頭はおかしい。


7月23日

 その目は何を見定めようしているのか。わからないのだろう。それで昨日と同じようにくだらぬ言葉が連なる。言葉を記している誰かの頭がどうかしているのだ。本当に何も思いつかず、誰が何を語っているのかわからない。またいつもの冗談か。どこまでそれを続けるつもりなのか。君はそこで何をもたらしているのだろう。空疎な言葉の並びと虚無そのものか。笑ってしまう。冗談に違いない。しかし冗談では済まない場合もあるだろう。今がその場合なのか。それも冗談のたぐいだ。まだ何も語っていない。創意工夫とは何なのか。そこに何か目的が介在しているわけか。気が抜けているようだ。それらの創意工夫が何かを奪い去る。利益を上げるとはどういうことなのか。悲惨な結末を予感させるものがありそうだ。人々はそれらの商品を求めている。何かに飛びついているわけだ。それの何が悲惨な結果なのか。やめた方がいいのかもしれない。人はそれでも自己満足を得たい。いくら軽薄なことを述べようとかまわない。目的のためには手段を選ばない。しかし今や君はそれを肯定しているはずだ。そんな簡単な成り行きにはならないだろう。

 それで何をやっているつもりなのか。かろうじて気力を振り絞って言葉を記しているつもりのようだ。また困難な局面にさしかかっている。それらの映像の何に驚く必要があるのだろう。君はわかっているはずだ。それが何でもないことだと気づいている。それだけでは何がまずいのか。君はその辺であきらめている。何でもないから何もやらなくていいわけではない。何も語ともそんな簡単な事情で事は運ばない。何でもなくてもそこから何か思わなければならないらしい。それが何でもないことに気づかなければ、いつまでもそれにこだわり続け、何でもないことにこだわることで一生を棒に振ることにでもなるのか。しかしそうだとしたらどうだというのか。それでもかまわないのではないか。事実くだらないことにこだわり続けた末に今がある。実際にそれは何でもなかったことだろう。何を語っているのでもなく、何を主張しているのでもない。しかしそれでも何かを語っていて、何か主張している。それはどういうことなのか。どういうことでもなく、こういうことのようだ。

 誰かは病んでいるのだろう。そんな結論は毎度のことだが、そう述べると気が晴れる。それは冗談でも嘘でもあり、気晴らしの言葉だ。まったく本気にはなれないが、とりあえずそういうことなのだ。何がそういうことでもないが、何でもないとはそういうことになるのだろう。空は曇り今にも雨が降ってきそうな気配だが、やはりそれがどうしたわけでもない。しかし自己主張とは何なのだろうか。自己は何を主張すべきなのか。何も主張していないわけでもないだろうが、何を主張しているのかわからない。主張しなければならないことなど何もない。それが嘘だと思うなら、本当の主張とは何なのか。たぶんそれに関しては何も思いつかないだろう。思いついたことはすべてに興味がわかないことか。しかしすべてとは何なのか。そこに何があるわけでもない。


7月22日

 今日は取り立てて語ることはない。わかっているのはそんなことか。昨日は何を語っていたのか思い出せず、翌朝に目覚め、それが毎日のことだと気づく。当たり前のことだろう。目覚めなければ死んでしまい、それが一生に一度の体験となるだろうが、そこから先に何があるというのか。誰かの葬式か。おそらく誰かは冗談でそんなことを述べているのだろう。語ることの本質を見失っているようだ。しかしわけもわからず自暴自棄になれるほどの気力はない。たぶんいくら語っても何も見いだせないはずだ。正気ではないのかもしれない。何と格闘している感じでもない。それでも地道な努力を怠ってはいけないのだろう。そこへ近づけていけばいいのだ。何か適当に語っている状態を保っていればいい。それ以外には何もないはずだ。自問自答の独白状態は予定調和となるしかないが、それだけのことなのだ。たぶんそれ以上を求めてはならないのだろう。目下のところそれを超える言説はあり得ない。現状では何も想像できないのではないか。

 昼は暑い。夜も蒸し暑いだろう。何に反応しているのでもなさそうだ。対応しきれないような忙しさからは一時的に離れている。そして夕立にあう。雨にぬれているのは誰でもない。窓から外を眺めているのは架空のまなざしか。おかしい。わざとそんなことを述べている。君はどこで何を見いだしたのか。そしてなぜそれを物語れないのだろうか。笑ってしまっては元も子もない。それはただの文章だ。何かの進化した形態とは思えない。では嘘なのか。何が嘘なのだろうか。何が見いだされているとも思えず、ひたすら言葉を書き記しているとも思えない。たぶん季節は夏だ。記憶違いではなく、忘却の彼方から何を持ち出してこようと、それは感動とは無縁の文章だ。タイミング的にはそのままそうなっているはずだ。機会を逃したわけでもない。何とかそれ以上の何かを探し出したいのだろう。そんな欲望を無視して、拍子抜けのように何でもないことが記される。それはまるで他人事のように思われ、実際に言葉を記している誰かを脱力感が包み込む。要するにそんなことはどうでもいいのだ。

 しかしそれらの言葉の並びは何なのか。君は何を読んでいるのだろう。誰が文章を構成しているのか。何かしらばっくれているような気がするのだが、自意識が何を考えているのか不明のまま、闇雲に言葉を記しているのだろう。その辺が君の見解とは異なるようだ。語っているのは誰でもない。そういう嘘が何をもたらしているとも思えないが、何となくやる気をなくして、数時間が経過した頃に再び言葉を記し始める。それが何になるというのか。精神的に追いつめられているわけがない。だが強がっているのではない。出てくるのはあくびばかりで眠気を覚え、次第にどうでもよくなってくる。何を語っているのでもないことが重荷となって、それらの文章から可動性を奪っているのだろうか。誰の魂をつなぎ止めているわけではない。別に見えない何かに操られているとも思えない。どこへ向かっているわけでもなく、ひたすらここにとどまっているのではないか。圧迫を感じているとしたら、それはまだまともな水準で語っていないからだ。


7月21日

 出だしから言葉が噛み合ない。理由はなく、どんなわけでもないが、そんなわけで今日も夜になったらしい。いつものことだ。誰かは相変わらずそんなことを述べている。記している言葉は退屈な気分をもたらし、憂鬱になるだろうか。君の知ったことではなさそうだ。誰も何も思わないことを知りたいとは思わない。そしてそういう言葉遊びが気に入らないのかも知れない。とりあえず勝手なことを述べているようだ。意味の通った文章になっていないような気がする。また何について述べているつもりなのか。君にわかるはずがない。誰かは誰にもわからないようなことを述べているつもりのようだが、肝心の内容が空疎だ。要するにそれだけのことなのだ。それ以外でも何でもない。そして君は理解する機会を逃し続け、何のことやらさっぱりわからなくなる。ただそれだけのことなのだろう。それが理解できたことのすべてだ。誰かはわざとそう述べている。

 くだらぬこだわりはどこから生じるのだろうか。何かの妄想から遠ざかり、正気を取り戻した気でいるようだ。それ以外に何があるというのか。何かを犠牲にしなければ手に入れることができないものをさがしているわけではない。宝探しはどこでも行われている遊戯だ。何かがどこかで発現している。誰の意識が命令しているのか。何かを沈めようとしている。記している言葉が違っているのかもしれない。ただわけがわからないだけだろうか。いらついているわけがない。それは誰の言葉でもなく、書き記そうとしているそれらの文章は何でもない。ではそう述べて何から逃げているのか。疲労困憊して眠っているようだ。だが意識が違う。何が違っているのかを問うているわけではなく、それらのどこに違いを認識しているとも思えない。述べていることを肯定できないらしいが、何について述べているのかを知りたいようだ。それは虚しい試みなのだろう。

 たぶん何かが見込み違いなのだ。推測している結果とは関係なく、まったくの逆効果を招き、それとは違う現象に関心を抱き、何かについて述べていると思うことが、虚しい努力の結晶となり、空疎な文章を構成する。だがそれは違うだろう。何について述べているのでもなく、ただの言葉が互いに無関係な連なりを形成している。それが延々と連なっているにすぎない。それでは意味を持ち得ないではないか。だから違うと感じているのだ。そこから一歩も前に進まない。さっきからそう述べているだけに終始している。それは完全なる失敗を示しているのかもしれず、良くなる兆しを感じられぬまま、つまらぬこだわりの中へと埋没してしまっているようだ。それが現状なのだろうか。それを認めるか否かは誰次第でもなく、ただ偶然の巡り会わせにかかっている。果たしてそんなことがあり得るだろうか。


7月20日

 たぶん焦っているのではない。しかし疲れているのだろう。現状では何ももたらせない。何かの時が到来しているらしいが、何も感じない。何かの予兆ではない。気まぐれで何か適当なことを述べようとしているようだが、もうそんなつまらないことはやめてもかまわないのだろうか。それで何を知り得たのか。君は何をやめようとしているのか。少なくとも生きるのをやめようとしているとは思えない。では何なのか。たぶんそれをやめても深刻な事態にはならないような何かなのだろう。たぶんたわいないことをやめようとしているはずだが、それは何でもないことか。今やっていることではなさそうだ。しかしとりとめがない。作り話の中で君は何を語っているのか。今さら何をどうしようと、すべては運命なのだ。それに従っていればどうにかなるだろう。その結果として不幸になろうと幸福になろうと、君にとってそんなのは関係のないことか。ならばそれは運命ではないのかもしれない。文章上に仮想される意識に運命などない。それ以前にそれらの文章は物語になっていない。実際に誰が何を語っているのでもない。

 君は相変わらず意味不明な君という言葉の中に閉じ込められているようだが、そこに何か特別な意志があるわけではない。何をどう記してもそれはただの言葉だ。だから開き直って何を記してもかまわないわけか。そこに自由がありそうだが、そんな自由ならいらないか。くだらなすぎるか。何か意味のあることを語らなければおかしい。おかしくてもかまわないならそれも自由だ。しかしおかしな言い草だ。なぜそんなどうでもいいような自由がもたらされてしまうのだろう。その場の成り行きが意味不明だからか。そんなくだらないことを述べている誰かを笑わせているわけではない。何を笑っているとも思えず、何に対して笑いを取ろうとしているのでもない。別にコントや漫才の最中なのではなく、テレビでその手の番組を見ているわけでもない。ただおかしいのだ。何をどう記してもおかしい。そして馬鹿げているような気がする。

 しかし何を記しているのか。言葉を記しているようだが、その中では何も語っていないような気がする。何もないので何も語れないのではないか。本来なら何かについて語らなければならないのに、その気になれないようで、いつまでたっても無駄に言葉を弄して、虚無の周りをぐるぐる回っているだけかもしれない。それは何の迂回路を形成しているのか。無駄で無意味であることに何の意義があるのだろう。ただそうではないと思いたいだけか。しかしそうなってもなおのこと何も感じない。何も深刻に受け取れないようだ。だから何ももたらせずにいらついているわけか。冗談ではない。たぶんそれでも冗談のたぐいを述べているつもりなのだろう。そしてそれで何が矛盾しているわけでもなく、何となくそういう成り行きで言葉を記して、それに逆らえないのだろう。逆らわなくてもかまわないのだ。何をどうやってもそんなことの繰り返しなのだから、そういう状況の中で生きていくしかない。


7月19日

 何を語っても話にならない。どういうことでもないだろう。実質的には何も語っていないからそうなのか。とりあえずそういうことだ。今さらわけのわからぬいいわけは禁物か。しかし時を無駄に費やして、誰かが文字を記している。そのつもりなのだろう。作り話の中で君は何を語っているのか。何か適当なことが語られているのだろう。君がそれを求めているのではない。誰も求めてはいない。君が求めているのは違う話を語ることだ。他に何を語りたかったのでもなく、虚無について語っているつもりだったのだろう。その時はそう思っていたようだ。そしてそれはいつの話でもなかったはずだ。自由とは何か。それは仕事とは無縁の人生を送っている時に感じる雰囲気だ。今の君は不自由か。本当に君は何を求めていたのか。気分が乗ってこないようだ。それについて語るのは気乗りがしないのだろう。

 なぜか気を取り直しているらしい。理由など何もない。何かのきっかけでそれとは違うことを考え始め、いつものように話がまとまらなくなり、次いでそんなことはどうでもよくなってしまう。とりとめがない。だがいつの間にか耳の聞こえも良くなっている。何に驚くこともなく、作業をこなしているようで、一通り適当に言葉を記してから、休息の時間がやってきたようだ。何かがどこかへ飛び火しているように思われ、焦っているのだろう。消火がままならないようだ。しかし話はそれからどうなったのか。何を語っていたのか忘れている。眠たくなってしまったのはいつのことだろう。その辺の記憶が曖昧のようだが、あまり真に受けるわけにはいかないようだ。何とかでたらめであっても言葉がつながっている。わざとそんなことを述べているわけか。まったく冗談にもならない雰囲気を感じる。

 誰かはいつまでたっても無言を貫いている。何に対して意見を述べればいいのかわからないのだろう。意見とは何か。文章の中に誰の意見が示されようとしているのか。そしてそれらのでたらめな言葉の並びから何を読み解こうとしているのか。君はそれに対して返答できない。我を失い言葉に窮している。嘘なのか。何が嘘になるのだろうか。何も語っていないことが嘘なのか。それらの何が本当だとも思えない。違っているのはそういうことではないか。だが君はその違いに気づかない。まったく話にならないことも気にしないで、ひたすらそれらの文章を読んでいる。文字を記しているのは君ではないのだろう。馬鹿げたことを語っているのに何も感じない。笑いもせずに言葉を記し続け、疲れているのに休まない。それで何が報われると思っているのか。何も欲しない。実際にそんなことはどうでもいい。でたらめのままでもかまわず、修正する気にもなれない。


7月18日

 もう言葉を記す必要はないだろう。なぜそこからやろうとするのだ。それは言葉ではないのか。何か適当に自問自答していないか。いい加減なことを述べているのかもしれない。心境としては間違っていない。だが相変わらずそんな内容なのだ。まったくの空疎だ。何がどうあっても空疎に違いない。違っているのはわかっているが、違うことを語るしかないような雰囲気に包まれている。それが違っているらしい。何をどう考えてもそうなのか。それとも何もどうにも考えられないのか。また何かの冗談でそんなことを述べているのだろうか。そんなわけのわからない言説によって何をもたらせるのか。たぶん何ももたらしてはいないのだろう。予想通りに空疎なことを述べている。たぶんそれだけのことだ。それ以上の何を求めているとは思えない。それ以下ならいくらでも述べられる。だからそれが今の状況なのだろう。現状ではそんなことしか述べられないということだ。

 なぜか何でもないことなのに笑ってしまう。感覚がぶれているのではない。わざとぶれているふりをしているのだろう。だがそれで何が言いたいのだ。作り話ならとうに終わっているはずだ。ならばまたこれから語ればいい。すでに何か語っているそれでは物足りないか。それとは何だろう。くだらぬ無内容に呆れ返り、もう何も言葉を記せなくなるが、それも嘘の一部を構成しているらしい。何をどう語ってもそれが違うような気になる。たぶんそういうことではない。

 気分転換に何を語ればいいのだろう。死の気配を感じていたのはいつのことか。作り話の中ではいつもそうだったはずだ。登場人物が死ぬ運命にあったのだろうか。別にどんなことを記していたわけではない。そこで見ていたのは青い画面だ。背景がそういう色だったのだろう。だが別にそんな画面には興味がないはずだ。それらの画面上に死の気配などありはしない。では何を勘違いしているのか。別に勘違いしているわけではなく、かつて青色以外は何も映らない画面を眺めていた時もあったということだ。それと自らの死は関係ないだろう。ならば死の気配なんて嘘に決まっている。それも何でもないことだが、そういう説明自体がつまらない。

 しかし何を逃げているのか。逃げ切れなくなって改行してしまい、ますます意味不明に陥る。語ろうとしていたのはそういうことではない。何でもないことを語るはずだった。それがこれではないのか。そうでないとしたら、いったい何を語るつもりだったのだろう。ただそれについてまともに語るのが面倒だ。それらの問題を解決するには他人にやり方を聞けばいい。安易なやり方だが、それは重要なことだ。要するにその程度のことなのであって、深刻で大げさな問題などはこの世界にあまりない。そういう問題はもとから解決不能なのであり、解決しようとして努力するようなことではないらしい。


7月17日

 頑なに拒否の態度を貫いているわけではない。すべてを受け入れているわけではないが、その中の何の受容を拒否しているとも思えない。行き当たりばったりで気の向くままに辺りをさまよい歩いているとも思えない。たぶんそれを簡単に語ることは可能だろう。少なくとも不可能ではない。君とってそれは不利な条件なのだろうか。ただ今日は眠い。ついうとうとしてしまい、気がついたら行き先とは違うどこかに行き着いて、そこで何かを忘れていたようだ。機転を利かせているつもりだったのだろうが、それが裏目に出てしまったらしい。思っていたのとは真逆の結果にあぜんとする。それも冗談のたぐいか。さすがにここに至って強がっているわけではないと思われる。しかし冗談の続きはいかがなものか。たぶんそれはおかしい。

 まだその辺で転がっているものがあるはずだ。では今さらそれを拾い集めて文章にするつもりなのか。言葉を記す理由になっていないようだ。車窓には田園地帯が透けて見えるが、それの何がおかしいのか。無理におもしろがるような心境にはなれない。だがそれがどこまでも違っているわけではなく、何となく的を射ている箇所もありそうで、それに気を良くして、またそれ以上の何かを見いだそうとしているのだろうか。調子に乗りすぎていないか。ではもう少し謙虚になった方が身のためか。何を犠牲にして真実に至ろうとしているわけではない。それどころかまったくの勘違いから、何か真新しい認識に至ろうとしているのかもしれず、それこそが勘違いの最たるものだろうが、なぜかそれでかまわないと思っている。まともに考えるのが面倒くさいのか。いったい何について考えているのか。

 何かの破綻が目に見えているわけではないが、何となくそこから逸脱して、それとは別の何かを見いだそうとしている。身勝手な幻想に浸っているのかもしれない。それを前にして冷静沈着であるはずがない。そうはならずに何を眺められようか。冗談の次は真面目に思考したいのか。何をかましているとも思えないが、たぶんそれが冗談だとは思っていないのだろう。本気で何かをやろうとしている。それが虚しい試みだとは思っていないらしい。まだその先があると思っているようで、持続的に真理へと近づく試みの最中だと思っている。だがそれが何を意味するのだろうか。少なくとも身の破滅を招いているわけではない。それがそれ以上の何かを含んでいるわけだ。少なくともそう思っている。だから虚しい努力を惜しまず、さらに言葉を記す試みを続ける。そしてそれが冗談ではないと思いたいらしい。だが本当はそれについてどう思っているのか。正直なところ何も実感がわいてこない。


7月16日

 それは何かの映像だろうか。無人の広野で何をやっているとも思えず、空の曇りが心の曇りに連動しているわけもない。少なくとも君とは無関係だろうが、誰かは幻影を追い求め、他の誰かは現世での利益を確保しようとしている。目前に迫りくる障害を巧みにかわしたつもりになる。できるわけがない。なぜその気になれないのか。まったく冗談が通じないようだ。ひたすら努力しているようだが、それがどんな結果に結びつくのかわからない。それだけではないはずだ。努力しながらそれをいいわけにして、他の何かを怠けているのか。いったい何を怠っているのだろう。それだけではないことを知っているはずだ。何も導きだせないわけではなく、いつか努力が実を結び、何か適当に報われる瞬間が訪れるかもしれないが、その時になって何を思うだろう。誰も何も思わないかもしれない。ではそれは何かの不条理がなされる瞬間か。いったい何が矛盾しているのだろう。たぶん何が問われているのでもない。

 この世のすべてが何でもないことの積み重なりのはずがないか。何を考えているのか。出来事はひっきりなしに起こり、それについていちいち何を考える間もなく、気がつけば過ぎ去っている。そして訪れるのが自らの死だ。そんな簡単に終わってかまわないのだろうか。作り話ならそれで済んでしまいそうだ。やはり君はそれについてまともに語るのを面倒くさがっているようだ。この世界がどのような方向へ行こうとしているとしても、たとえそれが破滅へ向かってまっしぐらであろうと、何をまともに語る必要があるだろうか。くだらぬ思いを抱いているらしい。確かにそのすべてが何でもないわけではなさそうだ。

 何となく血の巡りが悪い。思考力が減退しているようで、それについて何を考えているのでもないらしい。別にそこに至る必要はないのではないか。ぎりぎりの生活がどうしたというのか。しかし何を余裕くれているのか。わけがわからないわけではない。君はそれ以上の何かを持っている。ただそう思い込んでいるのだ。少なくとも作り話の中ではそうだ。どのようなフィクションを構成しているのでもないが、何かの幻想のただ中に、誰かのやりたいことがあるらしい。だからどうしたわけでもないが、とりあえず空疎な話を終わらせるわけにはいかないようだ。君はそこから先にも虚無的な雰囲気を醸し出したい。そしてすべてが無駄な試みであることを証明したい衝動に駆られている。それは虚しい欲望だろう。すべてをなかったことにはできない。何をどう考えても無理な話だ。


7月15日

 まだそれを続けるつもりだろうか。君は続けようのないことを続けようとしている。それは無為で無駄でどんな試みなのだろうか。何でもないということだ。何を語っても嘘になるような内容になるわけか。でたらめに違いない。何がそうなのかわからないが、行く当てもなくどこをさまよっているわけでもなく、たぶん目的がどこかにあるのだろう。それはくだらぬ目的であり、例えば世間的な成功であったりするのだろうが、誰がそれを求めようとしても、それは決まってつまらぬ結果を招くものだ。しかし嘘をついてどうしようというのか。少しうかつだったのか。何がどうなってそうなってしまったわけではなく、馬鹿げた試みのすべてをなかったことにしたいわけでもない。過ぎ去ったことはやがて忘れ去られ、誰にとっても何でもないこととなってしまうだろう。忘れ得ぬ光景や出会いこそが何でもないことなのだ。

 人々は絶えずそれ以上の何かを求めている。それは虚しい思いに結びつき、何でもないことをことさらに顕揚してみせるという愚行に結びつき、一過性の流行現象でももたらすだろうか。それはメディア的な特質なのだろう。それは例えば、ただ棒切れを振り回していることが、崇高な行為であるかのごとき錯覚をもたらすわけで、それで何がどうしたわけでもないのだろうが、そこで人々は何かを信じなければならない。何か偉大な業績が今まさに打ち立てられようとしている。まったく笑ってしまうが、それがスポーツの哀れな一面だ。周りからはやし立てられれば、ただ棒切れを振り回して球に当てる行為も、何かものすごいことをやっているような気にさせるのだろう。たぶんそれが忘れ得ぬ瞬間というものをねつ造して、何か冗談のような行為を正当化しながら、馬鹿げたことに夢中になれる自らからの羞恥心が消え去っていることに気づかない。

 しかしそれがどうしたのだろうか。君はこの世界から何を消し去ったつもりになれるだろう。もとから何もありはしない。あるのは人々が抱く幻想から生まれた幻影だけだ。もとからそんなものなど存在せず、すべては不在のただ中で信じられている幻にすぎず、自分たちがくだらぬ行為にかかりきりであることを、自ら気づかぬようにしているだけだ。それについて何をどう語ろうと、虚しい試み以外の何ものでもない。例えば人はどこから来てどこへ行くわけでもなく、ここにいて、絶えず幻想を抱き続け、どこかへ向かっているような気になっているにすぎない。確かに何かを否定的に述べるなら、すべてはそういう言説の中に閉じられてしまうだろう。しかしそれで誰が満足するのか。不満だからこそ絶えずそれ以外の何かを求め続け、幻想を抱いて幻影を追い求めているのか。


7月14日

 君はどこから逃避しているのか。そこで何を強いられているのか。そのくだらぬ行為の一部始終を見ていたわけではない。何ものにもとらわれぬ心というのがあるだろうか。たぶん何を夢見ているわけでもない。何を届けようというのでもない。もたらすのは虚無に決まっている。そんな語りしかできない。今はそういうことなのだろう。どういうことでもなく、何を語っているのでもない。たぶん何も語らないはずだ。語れないのではないか。ではまた馬鹿げた話となってしまうわけか。その辺でつまらない成り行きになっているようだが、やはりそれがどうしたわけでもなく、何をどう語っても、そういう成り行き以外には話が進まない。それ以上の何を求めているのでもなく、気まずい雰囲気を無理に醸し出そうとしているのでもない。ならばそれは何かの試みなのか。何か違うような気がするが、それはいつものことだろう。

 それ以上に誰が何を語ろうとしているわけでもない。やはり今は決まりきったことしか述べられないようだ。今も昔もそうだった。それは何かの結果論に結びつく言葉か。他に何をどうしたいわけでもなく、他があるとも思えない。やり方などいくらでもあるのだろうが、君が何をしたいわけでもない。何をするのも面倒くさいのだ。いつもそういうことだ。それ以外に何があるのだろう。だからそれが愚問なのだろうか。わかりきったことを問わないでほしい。それが君に残された選択肢ではないはずか。しかしそれとは何だろう。何でもないからそれなのか。それではないからそうなってしまうのだろう。要するに何でもないということか。しかしそれではいつもの結論になってしまうのではないか。ただ以前と同じような言葉が循環しているだけだ。

 今さら何にとらわれているのでもなく、つまらぬこだわりなど捨て去ったつもりが、何もないことに気づかぬふりをして、まだ適当に言葉を並べようとしている。それがわからないのかもしれず、誰にとっても謎のまま、何を語っているのでもない状況がさらに続いてゆくらしい。それが居心地の悪さを醸し出しているのかもしれないが、語っているのはどんな場所でもなく、そんな場所などどこにもあり得ず、ただ何もないというのは嘘になるしかないのだろう。語っているすべてが嘘に決まっているわけか。そんなはずがないと述べてみるが、それも嘘に違いないか。しかし何をどうすればそういう無駄ででたらめな語りをやめられるのか。それとも君に何を語らせようとしているのでもないところが致命傷となっているわけか。


7月13日

 興味がないのだろうか。どうも次第に文章にならなくなっているようだ。外は相変わらずの曇り空だ。意識は何かについて語ろうとしているのだろうが、実際に何を語っているのでもない。誰かは曇り空を眺めている。それは昨日の記憶だろう。そこに何があるわけでもない。どうあがいてもそこから先へ進めない気配だ。何を語ろうとしているのか定かでないが、何を語っているとも思えない。それの何が馬鹿げているのだろうか。何について語ろうとしているわけでもない。語らなければならないことはない。だから何も語れないのか。それはどういう理由でもないだろう。何か矛盾していないか。別にかまわない。何をどう語ってもしっくりこないのだから、それでかまわないのだろう。何かがずれているのであって、それで言葉が出てこないのだろう。たぶんそれは冗談だ。そんなのは嘘に決まっている。

 今日は夕闇が迫る頃に言葉を記しているはずだが、そんなことはどうでもいい。ならばどうでもいいことを語っているはずだ。何となく愉快な気分になる。そしてそんなこともどうでもいいのだろう。いったい何がどうでもよくないのか。言葉を記す行為が気に入らないのか。それは違うと思われる。では誰に向かって嘘をついているのだろう。どうでもよくはないことを知りたくなるが、相変わらず何も思いつかない。それでもこうして言葉を記しているのだから上出来ではないか。馬鹿げている。しかしまともに考える対象を見つけられない。何もかもが馬鹿げているのか。そんなことはないと思うが、なぜかすべてが思考の対象外だ。

 それらのすべてが儀礼的なことだとは思わない。ただ面倒くさいのだ。何を追い求めているわけでもない。あるべき状態というのが思いつかない。だからそれを達成するために努力することはないだろう。この世の何がくだらないわけではない。ただくだらないと思うことはいくらでもあり、それについてどうこう述べる気になれないのか。人は勝手気ままに旅に出る。それができない理由などいくらでもありそうだが、とりあえず旅立たなければならないのだろう。だが誰かにはそれが冗談だと思われる。旅立つ理由など決まりきっている。今の状況が退屈なのだ。決まりきった行動を強いられる毎日がつまらない。そんな理由で人は旅に出るのだろう。それの何が気に入らないのか。だからどうしたわけでもなく、いつものように君は傍観者でしかあり得ない。


7月12日

 たぶん何も思いつかないのだろう。思いつかなければ言葉を記せばいい。それは実に安易な行為だ。矛盾に満ちている。何も語らずにそんなことを述べている。さらに頭の中がこんがらがってしまったのか。そういうことではない。では以前と何が違っているのだろうか。記されているのは以前と同じような言葉だ。何が違っているのかわからない。それは以前にも述べられていたことだ。君にはわからないことが多すぎる。誰にとってもそれはわからないことだろう。だから何がわからないのかわからない。心はそんな空疎な語りに耐えている。しかしそんな心理状態で何を語ればいいのだろう。自己が不在なのに自己言及について語らなければならないのか。気乗りしない話の展開だ。ならばその辺でやめたらどうか。

 何をやめたらいいのだろうか。言葉を記すことはその選択肢の中に入っていないわけか。またいつもの冗談だ。何か他に出来事があるのだろうか。そうではない。どういうことでもなさそうだ。何かがどこかで外れている。的外れなことでも述べているのだろう。何もやめるべきではないが、語るのが面倒くさいのだ。そんなわけでまた眠ってしまったようだ。何かの悪循環にはまっている。何でもないのにそういうことのようだ。何かぎりぎりのところで持ちこたえているらしい。すでに何かがおかしいのだ。いつもの調子ではなく、冗談の続きではないような気がする。

 苦しんでいるのかもしれない。精神的に疲れているわけか。空は曇っている。空疎なことを述べている。何を連想しているのか。何が違っているかはわかっているはずだが、その次の言葉がでてこない。ありふれた気分に包まれている。わかっているのはそういうことではない。たぶんその調子なのだろう。どうやら何もやめなくてもかまわないようだ。それが継続のきっかけだったのだ。君は何かをつかんだらしい。何でもないことを述べるにはそれが必要なのだ。その調子で適当にいい加減なことを述べていれば、自然に空白が文字で埋まっていくはずだ。やはりそれは安易なやり方に違いないだろうが、そんなことしかできない現状があるらしい。


7月11日

 誰かは何かを待っている。何を待っているのか知らないが、とりあえず待っていることにしてみよう。君は誰でもない誰かだ。君でもない。しかし冗談で何かを語ろうとする。実際には何も語っていない。何をどう語っても無駄であることに変わりはないが、それでもまともな内容を求めているにことも変わりない。そういう語り方はおかしいか。語るのが不可能であるはずがない。ならば何を語ろうとしているのか。物語には何が必要なのか。そもそも文章が物語になっていない。何を語ってもそれは物語ではない。君は物語を嫌っているようだ。君ではないから君の気持ちなどわかるわけがないか。また冗談でそんなことを述べている。まったくどこまで語っても、言葉と言葉がねじれの位置にあるようだ。意識とその場の気持ちとの接点が見つからない。

 それは何かの説明に違いない。誰かはひたすら何かを説明している。そしてそれに関する言葉を記している。要するに説明について説明しているわけだ。それは馬鹿げた自己言及パラドックスか。だからどうしたというのだろう。説明する対象は説明そのものだ。だから馬鹿げていると述べているのではないか。いったい何がわからないのかわからない。話のつじつまが合わないわけではない。しかしそれを認めてどうしようというのか。ただその後に次の言葉をつなげようとしている。他に何の当てもありはしない。では退屈しのぎに言葉を記していることを認めなければならないのか。誰に問うているのだろう。何となくそれは違うような気がする。

 どうやら暇にまかせて何を語ろうとしているのでもないらしい。暇ではないのだろう。意味のない時間というものがあるだろうか。ではどこに意味を見いだそうとしているのか。語りださずに意味を見失う。何を語ろうとしているとも思えない。そこから語らなければならないのだろうか。また心にもないことを述べている。それだけのことなのだろう。そういうことなのだ。何がそうであるかを問うているわけではなく、やはり何でもないことを何でもないように語っている。何を語ろうとしてもそうなってしまうらしい。心はそれだけのことに固執しているようだ。だから君はそこで何を求めているのでもなく、どのような状況になることを願っているのでもない。何もないということを肯定しかかっているようだが、そこで踏みとどまれるだろうか。なぜ踏みとどまる必要があるのか。踏みとどまったからといってどうなるものでもないだろう。そしてどうにもならないからどうしたわけでもない。


7月10日

 だからそういう話はなかったことにしよう。話の途中で何を述べているのか。いつもの作り話だろう。君は何かを語るのが面倒くさいのだ。だからやり直しがきかない。しかしいったい何の話なのだろう。何かの雰囲気がそんな空疎なことを語らせる。何かをやる理由が見当たらない。語ろうとしている当人が疲れているのかもしれない。しかし語っているのは誰の意識でもない。たぶん無意識に語らせることはできない。物語は記されず、登場人物もいない。簡単に否定される内容を知らず、何を知り得ることもない。では何を語っているのか。何か適当に問いかけているだけだろうか。

 何を眺めているのか。何を眺めているわけでもなく、誰かは絶えず何かの仕組みを解明しようとしている。しかし何かとは何だろう。それを知りたいわけだ。では何に挫折しているのか。その断念している何かについて語る必要があるだろうか。そういうことではない。何もできずに外を眺めている。雨が降っているらしい。往生際の悪さは何を示しているわけでもなく、何となく踏ん切りがつかないだけのようだが、茶番劇や猿芝居に終わってほしくないような気がする。それで何を述べているつもりなのか。

 すべてを語るわけにはいかないらしいが、すべてとは何か。そういう問答が退屈な雰囲気を蔓延させている。では何を語れば退屈しのぎになるのだろう。何も語らなくてもいいのだ。ここでは沈黙が支配している。どこでも状況は変わらない。誰が何を語っても無駄だ。言葉は相変わらず空疎な内容をもたらしている。そんな状況で君に何ができるというのか。何もできないのかもしれないが、それで何か不都合なことでもあるのか。何となく白々しいことを述べている。何の展望もないのだろう。

 人は人でなくなることを欲しているのだろうか。それについて神は何を思うだろう。とりとめのない状況をどう思っているわけでもない。何が死活問題でもないはずだ。部外者にとってすべてが大したことではない。では何を右往左往しているのだろう。どこかで誰かが騒いでいる。騒いでいる人には、その人なりの正当性があるのかもしれないが、何を騒いでいようと無関心だ。では虚無的な意識にとって関心があるのは何なのか。それに対する返答が記されることはない。


7月9日

 今日は言葉がまとまらない。そうなってしまったきっかけは何だろう。冗談だけでは済まないはずか。そういうことではなく、何に衝撃を受けたわけでもない。それも違うだろう。君はその手の物語には無関心だ。だがなぜそれを拒絶するのかわからない。この世界では現実感が希薄だ。誰かの心の中で物語が忘れ去られる。君はいつまでもそこから遠ざかり続け、どこまでいっても同じ光景に浸っている。何がそうなのかわからない。その時の感覚はもう忘れてしまったのかもしれないが、それらのどこかに謎が隠されているはずだ。その隠されている何かをさがしているわけか。では誰が宝探しの最中なのか。誰かはそこで何を求めていたのか。少なくともそれはエアコンの冷気ではない。蒸し暑さに耐えられない。それは昨日ことだ。ならば君が耐えているのは殺伐とした世の中ではない。それこそ冗談に違いなく、わかっているのはそれ以上の何かだ。以下でもないだろう。心が錆び付いている。何を笑っているのか。誰かは見え透いたことを語ってくれる。何を我慢しているとも思えない。何が空隙を切り裂いているわけではない。だから何だというのか。今度はそういうことではないらしい。面倒くさいので今までに述べてきたことのすべてを否定したくなる。それで何が変わるわけでもない。

 たぶんそれは単純な理由だ。単にやる気がしないだけだろうが、動機が単純だからわけがわからない。そんなことはわかっているはずだが、何か適当な事件に巻き込まれているとは思えない。思いたいのではなく、それはいつもの冗談だろう。理由などわかりきっている。ただそれを継続したいだけだ。だが何を続けたいのかわからない。言葉を記すのを続けたいだけだ。だからたぶんそれが冗談なのだろう。現状では当たり前のことを当たり前のように述べてはまずいらしい。理由がわからないが、何となくそういうことなのだろう。とにかく無駄に言葉を並べて、いい加減に文章を形成しなければならない。馬鹿げている。それも冗談のたぐいだろうか。何か違っているような気がするのだが、なぜ君がそう述べるのか理由がわからない。それでかまわないのだろう。誰にとってもそれでかまわない。この世が馬鹿げた世の中と思うのは勝手だが、たぶんそう思うのは簡単なのだろう。その反対にこの世界がすばらしいと思うのは気恥ずかしい。否定的な主張ならいくらでもできるが、それを肯定するのは難しい。


7月8日

 空は薄曇りになる。雨の心配はないだろう。それをやめることができない。無為に無駄な時間を過ごしているのかもしれない。心はどこで何をやっているのだろうか。暇なはずがない。誰が何をやっているのでもなく、誰かは仕事に励んでいるのだろう。それの何が矛盾しているというのか。ただの気のせいだ。誰かはひたすら機会が到来するのを待たなければならない。それが何の機会なのか考える必要はなく、ただ待つことのみで人生が費やされてしまうだろう。それで何がどうなったというのか。何もどうならないが、ただ歳月が積み重なり、そこに何らかの歴史が生まれる。そういう作り話が何かを物語り、歴史の何たるかを明らかにしているような気もするが、やはりそれがどうしたわけでもないだろう。すべては語ることから生じた戯れ言のたぐいか。

 誰かがしがみついている現実は何かを覆すためのそれではない。現状維持とは何か。愚かさを限りなく増殖させることの何が現状の維持に貢献するだろうか。それを継続してどうするのか。何の目的があるとも思えない。何もなければそこまで行っていないはずだ。それとも行くべき場所を間違えているのか。そういうでたらめな話を維持継続できるとは思えない。ではいったい何が問題なのか。限りのない空疎が君を苛める。そんなのはわかりきったことだろう。それ以外に何もなく、ただそれだけがそこでのすべてなのだ。ひたすらそれについて語っている。もうやめてもらいたいほどそれだけだ。あくびとともに言葉が連なり、眠気が執拗に心を浸食している。何もまともには進行しない。虚無が注入されるたびに意識の外に言葉が弾き出されている。

 まだ語る内容を見いだせず、安らぎとは無縁の心理状態かもしれず、それが何を意味するわけでもないが、何かの代わりに見いだされるのは、背後からすべてを覆い尽くす世界だ。ただの世界だ。そしてもはやわけがわからないわけではないらしい。何もないわけではなく、この世界がある。ただの世界が何かを呑み込んでいる。一分の隙間もなくこの世界なのだ。見渡す限りこの世界のようだ。そこからどんな心境に至るわけでもなく、ただの世界にとりとめのない感覚を抱かせられ、何だかお手上げ状態のごとき感覚をもたらされている。

果たしてそれの続きがあるのだろうか。何を続けようとしているのか。言葉を記しているのではない。では居眠りの最中か。そこに居合わせたわけではないので、はっきりしたことはわからない。たぶん何を語っているのでもない。では何をあきらめているのか。文章がまともな内容を伴うのをあきらめている。いったい今はいつのことを記しているのか。日付と言葉とは無関係のようだ。まったくの無関係だ。では何を反省しているのか。冗談だろう。すべてが冗談だ。わけがわからないのはそれが冗談だからか。世界各地でトラブルが起こっている。それは毎度のことだ。テレビでニュースがそう伝えている。それの何がおかしいのだろう。どうやら君は冗談を述べても気が晴れないらしい。


7月7日

 君は何がわからないわけでもないらしい。たぶん君の正体がわからない。文章上では君は君でしかないだろう。それでわかったことになるなら、それはそういうことだ。君は君でしかなく、それは言葉のたぐいだ。なるほどそういう語り方があるらしい。だがそれが何を意味するのかわからない。何か意味のあることを述べているのだろうか。それも冗談のたぐいか。誰かは無意識のうちにくだらないことを述べているようだ。とりあえず翌朝は晴れている。空も誰かが記す冗談には飽きてしまったようだ。なぜ雨が降らないのか。どこかで降っている。君が語ろうとしているのは天気の話ではない。それは何かのきっかけで発せられた言葉についてか。君が見ている光景のどこかに言葉をもたらすきっかけがあるはずで、誰かはそれをさがして文章を構成しなければならない。馬鹿げた話になってしまうだろう。それはとりあえずのことではなく、決定的に愚かなのだ。常識からはみ出ている。だからどうしたというのか。何がどうしたわけでもなく、いつものように何でもないことを述べている現状がありそうだ。だからそれで何を述べていることになるのか。

 それでも何か目的がありそうだ。何もなくても成り行き的にはそういうことになる。その目的に関してひたすら面倒なことを語りたいらしい。そういう話からいかにして脱却できるだろうか。何か努力が足りないわけか。何もしないなら、止めどなく空疎なことを述べてしまいそうだ。それがこの現状なのだろう。他の何がそれを促しているわけではない。君にはそれが当然のことのように思われ、一向に抜け出すつもりはないらしい。自然に連なってしまう言葉の並びを改められない。誰かの限界がそこにあるようで、それをどうにかしたいらしいが、誰がどうにしたいのかわからない。果たして文章中に誰が登場しているというのか。何が果たされているというのだろう。何かを引っ張り過ぎだろう。それは現状が現状でなくなるような作用をもたらす。何かについて語っている現状が作り話の中に取り込まれようとしている。しかしそれの何が作り話なのか。君が見極めようとしているのは現状でも現実でもなく、ただの虚構に違いない。

 その辺でしばらく考え込んでいる。刺激を与えてはまずいらしい。このままどこへ行き着くかは誰かの運次第かもしれない。君にできることは限られていて、とりあえず言葉を並べることはできそうだ。だが内容が伴わない。それは致し方のないことだが、それでも何とかしなければいけないらしい。しかし眠気をこらえて何を語ろうというのか。ただ居眠りの最中だった。そして気がつけばここまで語っている。無理なのだろう。感性がすり減り、心が退屈にやられている。ではそれ以外に何を語れるというのか。人は風景に溶け込み、何の意識も感じられなくなり、それを取り巻く自然がそれに向かって何を語りかけているのでもないことに気づく、アレルギーのかゆさに耐えきれないのか。まだそこまで行ってしまったわけではない。だから空疎なことならいくらでも語れるはずだ。君はそれに頼り切っているようだ。だからもう何もない。


7月6日

 扉の向こうに出口がある。誰がそれに気づかないわけでもない。意識は何かしら状況から学んでいるようだ。特定の何を学んでいるとも思えないが、現状からわかることはそういうことらしい。要するにそんなふうにしていい加減なことを述べている。性懲りもなく言葉を並べている。まともなことを記しているわけではない。何がそうなのかわからないが、何かを記すにはそれ相応の理由が伴い、それが理由であることが事の深刻さを表している。冗談だろう。何か深刻ぶって大げさな命題について考えるべきか。だからそれが冗談なのだろう。にやけた顔で深刻ぶることなどできはしない。ならばもう手遅れだ。今さら君に何を託しても無駄だ。君にとってはこの世の終わりさえ冗談だ。何でもないことであり、すべてが冗談なのかもしれない。要するに冗談で片付けたいのだろう。それを真に受け取ってはまずいらしい。それとは何か。誰にとってもそれはそれだけでしかなく、文章の中にそれという言葉が記されている。どうやらまたそういう具合に逃げているようだ。他に何の思いつかないので、逃げることしかできないのだろう。

 たぶんそれに関して誰が何を知っているわけでもなく、何を知ろうとしているわけでもない。文章を読んでもそれがわかるとは限らない。文章中にそれという言葉が記されていることはわかる。ではそれだけで満足すべきか。そういう方向での話にまともな内容を期待するのはおかしいか。またいつもの悪い癖がでている。それは誰の見解とも思えないが、たぶんそういうことだ。誰が何を語っているとも思えない。苦し紛れに同じ言葉の繰り返しか。しかし君は誰の真意を文章上に浮かび上がらせたいのか。それが理由ではない。何も語る理由とはなり得ない。誰もそれを求めていないようだ。だから君は理由もわからず困惑するばかりなのだ。そしてそういう受け答えがおかしいと思われる。それがその気になれない主な理由になるだろうか。なぜその気もないのにその気になる必要があるのか。それもおかしいか。

 それでも誰かは自己流をひたすら押し通す。そこに答えがあるらしいからだ。そういう答えは何かのこじつけに決まっている。たぶん君はそれでかまわないと思っているのだろう。君なりの答えを出してみればわかることだ。たぶんそれが答えではなく、何かの問いであることに気づかされる。気がつけばひたすら問い続けている。何についてではなく、すべてについて問いただそうとする。わかったふりをしてはまずいのか。何をわかったつもりになれるだろうか。それについてではなく、すべてについてだ。また冗談を述べている。君が問えば、問われているすべてが冗談になってしまうだろう。君にとってはそれが意味不明であってもかまわないのだ。ひたすら問い続けるのが冗談のすべてなのだ。そうであってほしいのではなく、本当にそうなのだ。現に今のところは何を問うても冗談だ。まったく真に受けられない。君は何に対しても本気になれない。


7月5日

 それはどういうことなのか。どういうことでもなく、ただ眠たいだけのように思われる。それでもいつか夢が叶う。たわ言は聞き飽きたか。わけがわからないのは誰だろう。錆びた鉄を見つめ続けるのが夢か。意味不明なはぐらかしか。もったいぶってその先へ進めない。何がそうさせるのかわからないが、心ではないのだろう。これから何をやるにしても、まだ極め付きを見ていないはずだ。確かに死に対する実感は何もわいてこない。虚無的な目つきがどうしたわけでもないが、何も思いつかないのはお互い様か。鏡に映った顔を見つめているのは誰でもない。別に誰が画面とにらめっこなどをしているわけではないが、なぜかやる気がせず、言葉を記すのをやめる気もしない。それはいつものことに違いないが、やはり内容が伴っていないのだろう。空想しているのは目に見える光景ではない。苦し紛れにわけがわからないふりを装っているだけか。だが結果的には何でもないようだ。それもそれだけのことでしかないわけか。何が違うはずがない。何かのそら似だろうか。いずれにしろ難局を切り抜けるのは容易でない。しかし君が見ている光景の中に、君が知っている誰がいるのか。誰かの顔が見えないわけではない。謎ではなく、何を思っているのか知らないが、それは視線の先には何があるとも思えない。それは風景ではなく、どうやら面倒なことになりそうだ。

 思考の中で何かが瓦解している。まだそこまでいっていないのではないか。違っているのは何かの気まぐれかもしれない。だからそれが違うのではないか。自意識が何について語ろうとするわけでもなく、すでに誰かが語っているそれは、無駄な言葉のつらなりだ。何について述べているのでもなく、何か混乱しているような印象を受けるが、そもそもそれが勘違いのような気がする。しかし今日は晴れて暑い。といってもまだ数日後のことか。相変わらず日付が一週間以上遅れている。本音を言うなら、言葉を記すのが嫌になってしまった。少し前までは少しはやる気があったのだろうが、今はまた急激にやる気を失っているようだ。精神的に好不調の波が激しい。だがそういういい加減な作り話で語られる内容には信憑性がなく、ひたすら言葉を連ねているが、だいぶ以前から何も語っていなかったような気がする。君はなぜそんなふうに語ってしまうのだろう。理由があるとは思えない。少し風がでてきたようだ。そろそろこの世にも飽きている頃だろう。誰がそうなのかわかるはずがない。少なくとも話の中ではそうらしい。いい加減に思っている対象を特定するなら、たぶんそれは作り話の中に登場する誰かだ。


7月4日

 どういうことでもないが、たぶんわかっているのはそういうことだろう。よく考えてみれば当たり前のことなのに、誰もそれを認めようとしない。それに対して誰が何を思うだろう。当たり前のことが見過ごされている。だが君がそれについてそう思っても仕方のないことだ。誰も気づきはしないだろう。ちゃちな現実を前にして、誰が何を想っているのでもない。それはどこまでもそういうことなのだ。君はきっと信じている。この世がこの世以外ではないことを。それについては何とも思わない。それを超える結論を見いだせないらしい。たぶんひたすらに意味不明なのだろう。どれも同じ時間を示している。時計の針に神経を集中しているとも思えないが、見えているのはそれとは違う光景だろうか。だから君がそこから遠ざかることはない。何について語っているとも思えず、軽薄な内容だ。

 たぶん自信がないのだろう。自分の言動を信じられない。ギターの音がまばらな歓声と拍手を切り裂いているわけではない。そういういいわけはどこで無用なのか。たぶんいいわけではない。誰にとっても何でもないことだ。何が気に入らないわけでもなく、そこで何するわけでもない。違っているのはそういうことではない。面倒くさいからそうなってしまう。また眠ってしまったらしく、目が覚めたら真夜中だ。どこまでもそんな具合だろうか。何かが君を引き止めている。濃縮されたドロドロの液体を呑む。気休めに決まっている。何かが合っていないらしい。未だに遠ざかることができない。気休めの言葉はそれからどうなったのか。何が進展しているわけでもなく、そういう話ではないのだろう。

 意識を引き止めておく理由が見当たらない。だから寝てしまうのか。どうも継続がままないようだ。誰にとっても気に入らない話の展開だ。なぜテレビドラマの中に意識をおこうとするのか。のどの奥に何かがつっかえているような言い草になる。違和感とは何だろう。少なくともそれで爽快な気分には至らない。覚えているのはそんな情景ではない。何かが違っているのは毎度のことだ。しばらくしたらあくびとともに眠気が襲ってきたようだ。だからもうやる気がないのか。たぶんそんな理由ではない。気に入らないのはそういう現実ではない。どんなに言葉を加えてみても、それは違ったままだ。何がどうあっても気に入らないのだろう。それ以降に連なるのは余分な言葉ばかりのようだ。


7月3日

 ゆったり構えて太極拳でもやるつもりか。別に何を急かされているわけでもない。たぶん何かくだらないような気がしているだけだろう。言葉の羅列に拍車がかかる。冗談なのだろう。つまらないことを述べている。どこかに幻想があり、それを語るのを躊躇させる。何をためらっているのか。意味がわからないのかもしれない。知り得る範囲内で言葉を並べてみるが、どこか他人事のようだ。響きが違っているようだ。何かが違っていることはわかる。何を伝えるべきか迷うところか。そして実際には何も伝わっていない。現実の有り様を示しきれていないのだろう。言葉の配置と文章の構成がいい加減なのだ。だからますますわからなくなり、読む者を戸惑わせる。実際はそうではないのかもしれない。何がどうなってそうなのか。何でもないことに違いない。君がこだわるようなことではない。

 何となく視線が定まらない。それは視線ではないからか。安易ででたらめな理由だ。理由になっていないのではないか。理由などどうでもいいことだ。自らの正当性を主張してはいけない。正当性を主張するという行為がいけないのか。場合によってはそうしなければならない時もあるだろう。いつまでも卑屈な受け身の態勢ばかりではいけない時もあるはずだ。それで何を利用しようと思っているのか。言葉を利用して何か適当なことでも主張しているつもりになれるだろうか。それがこれか。甚だ疑問だ。内容がどこにも見当たらない。

 簡単な主張ならすぐにでもできそうだ。それは何だろう。それとは何でもない。それではおかしいのではないか。本当のところはわからない。言うは易し、行うは難しでは困る。国家の複数性が本当に必要だとは思わない。世界がひとつの行政単位に統一されてほしいとは思うが、どうすればそうなるだろうか。

 例えば日本とロシアの領土問題ほど馬鹿げたものはない。どちらももともとはどちらの国にも属さない土地に侵攻して、勝手に自分のものだと主張しているだけだ。先住民は日本人でもロシア人でもなかったはずだ。国家間のせめぎ合いとはそういうものだろう。とりあえずは北海道を占領しているのが日本で、千島列島と樺太を占領しているのがロシアなのだから、それがそのまま日本とロシアの力関係なのだろう。


7月2日

 何となく文章がめちゃくちゃか。架空の誰かが投げかけている疑問を捨て去り、そんなことができるものかと高をくくるが、事態は予想外の展開を見せる。お粗末すぎるだろうか。たぶん冗談ではないが、そういう成り行きはいつものことだろう。何かをやりかけのまま、また眠ってしまったらしい。結果的にそれは予想外でもなんでもなく、いつもの通りに事態は推移して、何でもないような様相を呈している。何を予想していたわけでもないが、翌朝は雨だったようだ。たぶんそれらのどこに不具合が生じているのかわかっているはずだ。だがわかっていてもそれがどうしたわけでもない。何が何を駆り立てているのでもなく、どのような衝動が働いているのでもない。ただ眠いだけかもしれない。やる気がしないわけだ。

 君はそれを制御できない。誰が誰の操り人形というわけではない。何かのしわ寄せがどこへ及んでいるとも思えない。相変わらず無駄口をたたいている。信じられないのはお互い様だが、作り話の中では登場人物が特定されないらしい。何について語っているのだろう。誰でもない誰かが問いかける。嘘に決まっているはずだが、それがどうしたわけでもない。君に何がわかるというのか。無関心を装いつつも、何かわかったふりをすることができるらしい。だがそれが誰の台詞でもないところが致命的か。それで死ぬはずがない。誰かが交差点のど真ん中で叫んでいる。いったい何を想像しているのだろう、わかっているはずがない。その辺に漂っている無意味をどうしようというのでもない。意を決しているとも思えず、告白の対象が神や司祭ではあり得ず、どこで何を否定しようとしているのでもない。

 戯れ言はもう終わりにしたらどうか。どこで遊んでいるのかわからない。カードゲームはくだらぬお遊戯か。それで何かの神髄をつかんだつもりになれるだろうか。君に問いかけているのではない。ただの言葉の羅列か。だから君に問いかけているのではない。同じ言葉が続いているだけか。冗談が通じない。表向きはそう思ってもらって結構だ。動作が鈍い。緩いのは生ぬるいからか。何がわからないのかわからないが、目下のところはそういうことでもいい。わざと意味不明らしい。それでも頑に拒否しているのはどういうわけなのか。何がそうなっているのでもなく、空想力が高じて、でたらめな妄想を抱いているのかもしれないが、それでも言葉と言葉のつなぎ目を隠すのに余念がない。それで嵐が通り過ぎるのを待っている。ますますわけがわからないような気がしてくる。


7月1日

 空は曇っている。感慨は何もない。何に対する感慨なのかわからない。冗談ではないのだろうか。悲劇はどこからもやってこない。それに関する文字が記されているのだろう。何もない。他がないということか。何が課題となっているわけでもない。君は何かを語る。そう思い込んでいるわけだ。そうこうしているうちに忙しい一日も終わり、今は夜だ。何となくそういうことのようだ。今日も朝から晩まで仕事に明け暮れていたようで、だいぶ疲れている。まともに休日がないのもいかがなものか。だからそういうことだと述べている。形式にこだわってどうするのだろう。まともにコメントする立場にないようだ。では何をどうしたらいいのだろう。また泥縄式に何かを導きだすつもりか。それがわからない。今やっているのがそうだろう。そうでなければ何だというのか。何でもなくてもそういうことだ。そう語ることが楽しさをもたらすだろうか。そういう表現形態ではなさそうだ。君はまだその先があると思っている。いずれ手遅れであることが知らされるだろうが、それでも何でもないとうそぶいているのかもしれない。

 期待を持たせるような内容ではない。抱いていることが誰かを苦しめる。だからわからないと述べているわけだが、何のことだかわかるわけがない。それとは何だろう。白々しい言葉の並びか。それ以上の何かを探る必要はない。何かの手違いか。何が違うと思っているのだろう。閉じた心を開くわけにはいかないか。闇の中を徘徊しているわけではない。ここは街中か。何の答えにもなっていない。問いかけているのは誰もなさそうだ。真面目に取り扱われないようだ。受け止め方がおかしい。中央分離帯に人が取り残される。信号など無視か。君がどちらを向いていようとおかまいなしだ。いったい何について語っているのだろう。まるっきりでたらめというわけでもあるまい。できればそう願いたいところだが、対象が定まらない。

 無理なことはやめよう。そこで行き詰まってしまう。軽い気持ちで改行して、さっきとは関係のないことを語ろうとする。それでもかまわないらしい。語る方向性を見誤っているのか。それでもかまわない。目を閉じれば眠気が一気に押し寄せる。なんという慌ただしさなのか。目が回ってその場に倒れ込むだろうか。誰の状況でもありはしない。誰かがリラックスしている。横になって永眠中か。死んでいるとは思えない。人は狂気にとらわれ、正気を見失ったつもりになるが、すべてが冗談だと悟った時、そこから道が開け、歩むべき方角を確信する。それこそ冗談だろう。本気になってはまずいのか。果たして今日は何をする日だったのか。そうではないと思いたい。何がそうではなく、何もそうではないのだ。見失っているのは目標でも夢でもない。そんなふうに語るのが嫌なのだろう。だからそうではないと述べているわけか。誰に尋ねているのか。質問するような内容ではない。


6月30日

 それについては今さら何を語っても無駄だろう。民族とは何か。何を語っても同じことだ。夢を追うのは勝手だが、そこにどのような後始末が必要なのか。人生に嫌気がさしたら、後は自暴自棄になるだけか。くだらないことはくだらないままだが、それでかまわないのだろう。執拗なやり方が誰かが好むところか。君はそれでは気に入らない。くだらぬ回り道は簡単に済ませたい。面倒くさいのは嫌いだ。回り道そのものが面倒くさいだろう。しかしそれが小さな羊飼いの話にはならない。ドビュッシーを聴いているのか。くだらぬところに首を突っ込んでいるようだ。品揃えが貧弱か。だがそれをからかってどうするのか。何の話をしているのでもなく、何かの作り話なのだろう。やはり誰が何を語っているのでもないらしいが、架空の誰かが何かを期待しているのかもしれない。わけのわからない成り行きだ。今回は冗談では済まないのか。冗談に決まっているだろう。本心から何を語りたいのでもないらしい。

 地図を見ながら音楽を聴いている。今さら何に迷うことがあるだろう。さっさと眠ってしまえばいい。目が覚めたら朝になっている。そしていつもと変わらぬ慌ただしい一日が始まるだけだ。君は途中でわけのわからない回り道を通って、やっと明日にたどり着こうとしているわけだ。まったくいつまでたっても何の進歩もない。堂々巡りの果てに疲れて寝てしまう。具体的に何を経験したことになるのか。まだ今日が終わったわけではない。やるべきことをやり遂げた後でないと寝てしまうわけにはいかないらしい。内容の定かでない言葉の並びだ。不満だろうが、誰かがそれを記して文章を構成している。それの何が無駄なのだろうか。何がそれらの進歩を阻んでいるのか。虚しい言葉だ。虚しすぎて感想も思いつかず、何を修正することもできない。そのままのでたらめがそこに記される。誰かはそれでかまわないと思っているのだろう。苦し紛れのウケ狙いでは疲れてしまう。そういう馬鹿げた成り行きは避けなければならない。何が遠のいているのでもなく、それどころか逆に近づいているような気がしてくる。何かを終わりと始まりが同時にやってくる。誰にとっても関係のない話になってしまうが、誰かはまだまともな言説の構築をあきらめていないようだ。何とか何かを説明しようとしているが、それは無駄な努力に終わるだろうか。

 悲惨な結末はどこからもやってこないようだ。至って平静だ。悲劇からも喜劇からも離れている。何も語り得ないことが何よりの証拠か。たぶんそれについて雄弁に語ってしまうのは悲惨この上ない。今や国家も民族も否定的な概念になりつつある。感情的な対立と理不尽な抑圧の象徴だろうか。そのような不快感から解放されるには、まずは世界中の国境を取り去って、風通しを良くすべきか。それが容易にはできないから困った紛争が世界各地で起きている。人々は安易な暴力による解決を求めているようで、流血の惨事が後を絶たない。平和を装う地域に暮らす誰かは、妥協案を模索すべきか。それもかなりの安易さでもたらされなければ誰もが納得しないだろう。無理な話に決まっている。


6月29日

 奇妙な現象に出くわしたわけではない。燃える朝焼けを眺めているわけでもないらしい。電車の中では窓の外を眺めている。何に興味がわいたわけでもない。視線の先には無色透明な空気がある。こだわりを捨ててしまったのか。もはやそれは何なのか。雑魚など蹴散らして、誰かが漫画の中に登場しているが、すぐにページをめくり、網棚の上に投げ捨て、スポーツ紙の上にかぶさる。売れ筋の小説なら書店に平積みだ。それが何でもないことの一部始終か。裏切られているわけでもなく、まだ救われる気持ちにはなれそうもない。何がどうなってそうなってしまったのでもなく、どうにもならないから眠ってしまったのかもしれない。そんな時期もかつてはあったらしい。遠回りの連続で疲れてしまったのだろうか。それも過去の一時期に属するエピソードだと思うのか。誰が思っているのだろう。何を想っているのでもなく、過去は遠ざかるだけの時空に属する。何も眼前に迫ってこない。それは巨大な崖のたぐいかもしれない。人はそういう高みから飛び降りる。助からなくても本望なのだろう。雑草はいくらでも生えてくる。人も雑草たぐいに違いない。

 何かのおまけで九死に一生を得る。冗談とはそういうことのようだ。読まれることの少ない書物の中に何か重大な事実でも隠れているのだろう。隠されているのではなく、ただ何かが障害となっていて、発見されないだけだ。別に無理に見つけてもらおうとは思わない。大げさな宣伝によって見せつけようとしているのは、それはそれで商売したい輩だけだ。そういう商業主義の中にも重大な事実が埋まっているのかもしれないが、見せつけようとしているのはおおかた虚構のたぐいに決まっている。幻想を抱かせたいのだろう。それを手に入れることによって救われると思い込ませたいわけだ。本当に救われるのか。本当でなくとも救われた気になってもらえば本望か。虚構なのだからそれは当然の成り行きになる。それはある種の気分であり、もういい加減にやめてほしいほどの執拗さで眼前に迫ってくるわけか。是が非でも買ってもらわなければ気が済まないようだ。そういうセールスマンの鬼気迫る表情にどう対処すべきなのか。そんなのは嘘に違いない。実際には違った話の展開もありそうだが、ここは適当にちゃかしを入れて、そこから足早に退散してしまう。誰がそこで立ち止まっていたわけでもない。

 間抜けなことをやり遂げるつもりはなさそうだ。もしそうなったら本当の馬鹿だろう。だから何かの冗談のついでに言葉を記す。理由になっていないのは毎度のことだ。何をどう語っても、空は次第に曇ってきて、午後からは雨模様になりそうだ。揺れているのは外を眺めているまなざしではなく、誰の心でもない。視線の先には何かがあり、それに興味を持つこともなく、次の目標を定めようとしている。ここからどこへ行こうか。さすらっているのは宮本武蔵の漫画の題名か。放浪者がバガボンドの意味なのだろう。言葉の意味はありふれている。だが誰がそれを否定しにかかっているのでもなく、何となくそんな意味ではつまらないと思いたい。たぶん何かの途中から飽きてしまったのだ。文章が長過ぎるだろうか。隣では居眠りの最中のようだ。庭ではまた雑草が伸びている。心はそんな自然から糧を得ようとしているらしいが、その意味がよくわからない。眺めていると心が和むだけだろうか。またしても冗談の続きでそんなことを述べているようだ。


6月28日

 誰かは誰と議論しているのか。他の誰でもないようだ。なぜか独り言の最中らしい。端から見ると危ない雰囲気が感じられる。何かありそうだが、何もないのかもしれない。何を想像できようか。穢れとは何だろう。汚れのたぐいだろう。空気が何かによって汚染されているとすれば、それは公害問題となるわけか。黄砂の季節ではないらしい。車の窓に火山灰が付着しているのは鹿児島辺りの特徴だろう。特性のない男はあるか昔の小説にいかれている。君は何を読んでいるのでもなく、誰かが記した文章の中に出現しているつもりになり、他の誰かにその繰り出した言葉の連なりを読まれているのかもしれない。わざとらしくも回りくどい。わざとそんな意味不明なことを述べている。誰かは誰かの真意を読み切れていない。おそらく冗談のついでにそんなことを述べているのだろう。君に関わり合いのあるような内容ではない。どこかで切羽詰まった状況に陥ったのだろうが、一夜明ければすべてがリセットしていることに気づく。なぜそうなってしまうのか。今からまた何かの渦中に巻き込まれにいく前の小休止状態なのかもしれない。

 あまり深追いすると収拾がつかなくなる。だから気分転換気味に改行しなければならない。どこへも行きたくないが、仕事なのだから仕方ないだろう。それがつまらない日常の続きとなるのだろうが、つまらなくてもかまわない。それほどおもしろおかしい状況下に身を置きたいとは思わない。必死でテレビ画面の中にとどまろうとするお笑い芸人は悲惨この上ない。そこにも生存競争があり、そういう仕組みの中に誰もが投げ込まれているようだ。たぶん何が原因でそうなっているわけでもない。単に需要と供給の関係で、供給過多になっているだけか。そうでないと競争が成り立たなくなってしまうので、たとえ供給過多でも絶えず供給し続ける必要がありそうだ。世の中はそういう必死の売り込みの上に成り立っているのだろう。気休めに褐色のセールスマンを検索してみよう。それで何を思いついたのか。ちなみに撃たれて散らばるのは誰の最後なのだろう。

 物語は遥か以前に終わっていたのかもしれない。語るのが面倒くさいのだろう。それはおかしな理由だ。しかし唐突に終わるには何が障害となっているのだろう。まだその段階ではないらしい。その前にやっておきたいことでもあるのか。死刑になりたい輩はいくらでもいそうだ。死刑が廃止されたら悔しがるだろうか。人殺しにも張り合いがなくなるのか。目の前をぐるぐる回っているのはハエではない。そこまで語る筋合いではないらしい。君は気まぐれに何を無視しているのか。狂気と正気に境目はない。たぶんどちらも冗談のたぐいなのだ。冗談で狂気に走り、冗談で正気に戻る。だが何も気休めにはならない。誰もが気休めを求めているとも限らず、気休めだけでは物足りなければ、何か他のことでもやってみればいい。かつての君は何かもっともらしい予言の言葉を発していたはずだが、それはどうなったのだろう。つまらないからやめてしまったのか。


6月27日

 それは先週のことだろうか。まだそんなに先ではないような気がするが、それほど遠くへ歩を進めているわけでもないらしい。そこにうずくまっているのは架空の意識だ。死んだ皮膚がはがれ落ちる。それほど壊疽しているのでもないようだ。今は夜だ。明日の夜にも意識があるだろう。そういう表現がおかしい。意味不明なのはわかっているが、それに関して何を説明する気もなれない。すでに限界なのだ。何かの限界を超えて、別の限界が眼前に迫ってくる。それもおかしいか。いちいちそんな感想は無用だ。だがそれで何かを説明している気になるらしく、何となく自己満足に浸っているのかもしれない。しかしこだわりは何もなく、それならそれでそういうことを述べていればいいのだ。他に何があるわけでもなく、何か画期的なアイデアを思いついたわけでもない。あるのはいつも風景だ。それが日常のすべてなのだろう。恐ろしいことか。だが何もないことにおびえても仕方がない。それ以上の何かを欲しているとは思えない。それだけのことにこだわっているわけではないが、実際にそれだけなのだろう。それ以上の何を感じることができるだろうか。果たしてこの世に虚構以外の現実があるだろうか。すべてが人工物であり。自然も言葉によって汚染されている。

 それはすばらしい認識に違いない。何を想像することもできない。そこからどこへ行く必要があるだろうか。どこかへ向かっている。誰もがそうであり、誰もそれを阻むことはできない。どのような回り道をたどろうと、結局そこへ至ってしまうのだ。それが嫌ならどうすればいいのだろう。そこへとどまり続ければいい。できるわけがないが、正しい答えになるだろう。傷が深すぎて命取りになりかねない。そこまでやる必要はないだろう。適当なところでやめてしまえばいい。やめられないなら、死ぬまで踊っていればいい。しかしそれは誰の決め台詞だったのか。どうやら向かっている場所が違うようだ。そこで道に迷うのはわざとらしい。迷わないとすぐに出口だ。そうなってしまってはまずいのか。まずいも何もありはしない。何もないのだからまずいこともない。だからそこから迷路を抜け出る。まだそこは夜の街だ。郊外の田園地帯ではない。何やら交響曲が聴こえてきそうか。だが冗談とは何だろう。誰かはそこで何を記していたのか。今となっては過去に属する話だ。何かの原型を感じ取る。何でもないのに、それが誰かの原風景のようだ。きっとそれは空想の産物なのだろう。誰の絵画を眺めているわけではない。何が心象風景ともならず、惹かれているのは空虚そのものだ。虚空は虚空そのものであり、虚無はどこまでも虚無をなぞる。言葉とはそういう作用を有している。何をわからせようとしているのでもなく、迷路の中でひたすら迷い続けることを欲する。原風景の中ではすべてがそれだけなのだ。風が吹いているわけではない。嵐の予感などするわけがない。


6月26日

 果たしてそこからどう抜け出るつもりなのか。何もしなかったわけではない。何か適当にやりつつ、軽い気持ちで苦境を乗り切ろうとしているのだから、まったく呆れてしまう。フィクションなのだから何を述べてもかまわないはずだ。何が気になっているのでもないらしく、前を向きながら言葉を記している。そして記している内容は何でもないことばかりだ。それしか記せないのだから、他があるわけがない。君は君のやり方で空虚に近づいている。そう思い込んでいるわけだ。本当のところはよくわからない。心の奥底から何かがわき上がってきて、誰かを裏切るように促す。たぶんそれは何かの物語なのだろう。話の中で安易に裏切りが横行するのは、それが物語だからだ。よく見ると皮膚の細胞が死につつある。関係のないことだ。何かの冗談に違いない。ある種の物語では生け贄が必要とされる。結末に至るには主要な登場人物の死が欠かせない。誰かはそうでないと納得しないらしい。話が大げさにならないと語っている気がしないようだ。それがいつもの成り行きなのか。彼にとってはそうらしい。しかし他の誰かが飽きてしまう。

 語りたいのはそんな話ではない。誰も何も何も語りたくなかったのではないか。それで何を否定しているのだろう。語りたいことが山ほどあったらおかしいか。よほどの寂しがりやなのだろう。勘違いもいい加減にしてほしいか。いい加減でないから勘違いになり、大げさなことを述べたくなるのではないか。誰かがどこかで叫んでいるようで、それを音楽として聴いている者もいるようだ。相変わらず言葉がつながらない。そして音がだんだん小さくなり、しばし静寂の時が訪れ、何かを反省しなければならなくなる。そんなのは嘘だろう。嘘だから虚構なのだ。フィクションなのだから呆れ返る必要はない。君はまだ当時と同じ台詞を覚えているだろうか。だから何なのか。何でもないから覚えているわけか。そういうことではない。たぶんそこに話の出口があるのだろう。しかし迷路から出てどうするのか。そこで話が終わってしまうだけか。

 勘違いの原因はその辺にありそうだ。君はまだその時のことを覚えているらしい。そこで誰かが黙ってテレビを見ている。それだけのことに何を驚けばいいのか。驚く必要はない。驚かないから無感覚に拍車がかかり、そんなはずがないと思い続け、別に過去の一時期を思い出しているのでもないことに気づき、やはり何でもないことだと悟るはずだ。だがそれでは何を悟っていることにもならず、無理に何かを語ることが愚かな行為だと思う。本当はそうではないのに、現実を見失い、誰かの後ろ姿が過去から遠ざかり、何を語っているのでもないことに気づかなくなる。誰かはまだその場所を確保しているのだろうか。そこに何があるとも思われない。君がどこにもたどり着けないのと同じように、誰かはどこへ行くつもりもなく、そこがどこなのかわかろうとしない。そんなふうに記された文章が間違っているのかもしれないが、たとえ何が間違っていようと、君に行く当てなど何もありはしない。そこはそこだけの話の中にあり、どこでもないといえば、現実に空疎なことを述べているそれになるだろう。


6月25日

 まだそこにとどまっている。意識がどこかの壁に貼り付いているようだ。視線はどこへ向かっているのか。そんな冗談ではつまらないか。では朝はいつやってくるのか。まるで関係のないことだ。気がつけば誰も語っていない。何に気づいたわけでもなく、もとから意識が不在だ。それは違うのだろうか。何を駆使しているわけでもない。嫌気がさしているようだ。何にでもなく、誰の立場でもない。何を占有することもできない。しかしいつ気が変わったのか。突然の変節とは思えない。言葉が違う方角を目指している。語るべきはそういうことではない。わかっているのはそれが違っていることだけか。何が違うのだろう。冗談がきつすぎるわけではない。ただそれ以外は何も語っていないだけだ。誰かはいつも空疎について言葉を記そうとする。

 他に何がわかってきたのか。いつも冷めているのはどういうことなのか。静かな時を過ごしているだけかもしれない。しかしそれが続くはずがない。長続きせずにどうなってしまうのだろう。誰が何を想っているのでもなく、想像上の成り行きでもない。妄想とは無関係のようだ。言葉が意識から解き放たれているようだ。要するに無関係ということか。わけがわからないだろうか。それを続けろという天命か何かか。大げさな物言いだ。それが冗談ではないことはわかっている。言葉と言葉を隔てようとしている。わけがわからない原因を作り出そうとしているわけだ。理詰めで事を運ぼうとしているわけではない。何を語りたいかは不問としているだけだ。ひたすら何でもないことを語っているわけだ。冗談とはそういう水準で発揮されるものだ。それはまったくの嘘になるかもしれないが、さらに余計なお世話を施したい。言説を意味不明に近づける。

 ことの顛末を知りたいらしい。自意識が功を焦って失敗しているのだろう。作り話だったのだ。すべてがそうではないが、知り得る限りの話はそこから生じている。そして何が何だかわからなくなる。やる気がしないようだ。しかしそこで終わっているわけではない。少なくとも終わらせようとしている。余計な意志がそこに生じてしまうらしい。どこまでもそれはつまらない対象となりうるだろう。意図が読めないようにしている。だがそんなことはどうでもいいのだ、それ以上の何かを求めているわけではない。視界が良好なうちにその先へ言葉を連ねたい。まるで意に介さないような何かを記しているようだ。無意識とは別の何かを感じ取っているのかもしれないが、それをどうしようというのではない。記されたそれらが読めない代物であってもかまわない。君が求めようとしなかった結果が導きだされる。それが妥協の産物なのだろうか。


6月24日

 内容はともかく、それは必要な記述だったかもしれない。つまらなくてくだらないが、そういうことのようだ。馬鹿げていることも確からしく、やらなくてもいいことを延々とやっている感覚だ。そんなわけで今日は晴れて暑そうだ。何を語ってもしっくりこないが、それでも語るつもりなのだろう。今さら語らなくてもいいことまで語るつもりのようだ。まったくご苦労なことで、難儀なことになりそうだ。しかしそれから何時間が経過したのか。夕暮れ時に何も語っていないことに気づく。別にそれがどうしたわけではないが、何となくそういうことらしい。何をおもしろがっているわけでもない。聴いたことのある曲ばかり聴いているような気がする。たぶん関係のないことだろう。何がどうなっているわけでもなく、誰かが無駄に言葉を並べている。やる気がしないのは毎度のことで、何をどう語っても虚しいだけのようだ。何かの呪縛から逃れることができない。

 しかし自民党の幹部は民主党の政策にいちゃもんをつけて、口を開けば、財源を明らかにしろ、の一点張りだが、そんなことを主張している政府自民党が推進してきた政策の財源といえば、過去数十年にわたって赤字国債ばかりだったはずだ。国の財政を借金漬けにして、破産寸前に追い込んできた政党の幹部が、財源の裏付けがない、などと他党の政策を批判するのは笑止千万だろう。

 人は変わり世も変わっていくらしい。だからどうしたわけでもないが、失われた過去は二度と戻ってこない。今や神の存在も忘却の彼方か。宗教関係者ならそんなことはないと反論するかもしれない。しかし宗教とはそもそも何なのか。神がこの世から消え去ったからこそ、その代替えとして宗教が成り立っているのではないか。神がいれば宗教などを介さずに、直接人前に姿を現して、神自身の意思を明らかにすればいいだけのことだ。

 何を語っても戯れ言の範疇に入る。本心からそんなことを述べているわけでないことは明らかだが、本当に何を信じているわけでもないらしい。気がつけばまたいつもの夜になっている。気が向くままではなく、気乗りしないことばかり述べているようだ。まったく本気になれない。何を語っても上の空だ。また寝て起きて気がついたら真夜中になってしまうのだろう。しかしそうまでして何を語ろうとしているのだろう。何をそうまでしているわけでもなく、ただの気晴らしでもなく、また逆に気が重くなっているのでもない。要するにくだらぬこと以外は何も語れないということだ。しかしそれの何がくだらないのか。語っているすべてがそうなのかもしれない。


6月23日

 何かの合図だったのだろうか。誰が仕掛けているとも思えない。何のことでもないらしい。具体的な表現が見当たらない。別にそんなことを述べる必要はないのだろう。何度も同じことを語る必要はないが、気がつけば同じ過ちを繰り返している。ならばもう飽き飽きか。そこまで語る必要性を感じない。くだらなすぎるだろうか。何がくだらないのかわからないか。それに関しては何も説明していないのではないか。時間はまだありそうだが、それは何かを説明する時間でない。では君は嘘をついているのだろう。的外れもいい加減にしてもらいたい。君に問うていることではないらしい。ただひたすら面倒くさい。本当はそうでないような気がするのだが、今は面倒くさいと述べなければならないようだ。話の内容を意味不明にしておきたいのか。

 君の語りはまったく違う。それを変えるべきではない。変えられないからこうなってしまったのだ。だから何だというのか。そういうことではないということか。何かが繰り返されているが、それは君とは無関係だ。ではその何かとは何だろう。文章になっていないようだ。でもそれで何に気づいたことになるのか。君が気づいているわけではない。面倒くさいので誰も気づいていないことにしておこう。だから話になっていないのか。

 冗談はそのくらいにしておいた方がいい。まだの先に話が続いているのではないか。君は何を読んでいるのか。これから読もうとしているのだろう。嘘かもしれないが、何か小説でも読もうと思っている。嘘かもしれないが、何となくそういうことにして、物色してみるか。ますます嘘っぽくなってきたが、来るべき書物は小説ではないような気がする。やりもしないことをやろうとしているわけではない。読みもしない小説について君はどう語るつもりなのか。

 何も語らないだろう。語れるはずがない。いつかそれについて語るかもしれないが、今のところはその予定がないらしい。また冗談でそんなことを述べている。それで話は終わりなのか。まだ何があるというのか。自業自得とはそういうことを言うのだろうが、相変わらず何がそうなのかわからない。しかしつまらない冗談だけではきつい。絶体絶命とはこういうことなのだろうか。ただそういう映画を見ているだけだろう。求めていたそれは小説ではなく、冗談のような映画か。


6月22日

 何かを思い出したように言葉を記し始めるが、それは違うと思う。ではそんなところで一時停止か。作為を感じたらおしまいか。理想とするのは無為自然なのかもしれないが、それはただ思いつきなのだろうか。振る舞っている意識は何でもない仕草を目指す。それの何が自然なのか。何かの隙間から何かが見え隠れするが、心象風景とは関係ないようだ。ごまかしだろう。一過性の流行現象を追っているわけではない。相変わらず語っていることが支離滅裂だが、何となくそんな雰囲気に心を浸されているようだ。やはりそういう状況は冗談で片付けるべきか。何を語ってもそうなってしまうのだから、基本的にはそれでかまわないのだ。それが冗談なのだろう。そんなわけで何かをまともに語ろうとすると、決まって冗談の邪魔が入るらしく、気がつけばそれについて説明している現実に直面している。無為自然とはこういう状況のことをいうのか。それは冗談だろう。

 テレビドラマを見逃している時間帯だ。気に入らないのはそういうことではない。だが気に入らないことを述べているのではない。たぶん何も述べていないのだろう。誰かがそれに気づいているようだが、黙って言葉を記す。君にはなぜ知識が必要なのか。何を繰り返しているのか。それはただの問いかけにすぎない。何かが面倒くさいから、きっとそんなことを述べているのだ。意味がわからない。果たしてそこから何を述べなければならないのか。今さら遠くへ行く必要はない。遠足程度のことだ。何をやるのも違うと思われ、何を思ってもそれは違うと思われる。それでは出口が見つからないではないか。しかし迷っているのではない。迷いたいのだが、迷路がどこにも見当たらない。

 それらの仕組みのどこにからくりがあるでもない。ではそこにあるのは何なのか。道でも何でもない。もう何も残っていないようだ。しかし後悔とは何だろう。何を悔やんでいるとも思えない。頭がそこで働かない。だから何なのか。それがわからないのだが、わかるような気がしない。川が流れている。ここから少し離れているのではないか。そことここは別の場所だろうか。何の謎解きをしているわけでもない。くだらぬ文章だ。そう思いたいのなら仕方がない。やはり何が気に入らないのかわからない。もうすべてが過ぎ去ってしまったのではないか。


6月21日

 ほんの気まぐれでやっていることだ。いつものように何がどうなっているわけでもないらしい。また眠ってしまうのだろう。君に課せられた仕事ではないようだ。課題は他にある。どこから手をつけたらいいのか皆目見当がつかないが、とりあえず思考を巡らしてみよう。別に死にものぐるいでやっていることではない。地上でうごめいている意識たちには関係のないことか。はじめからそれはないだろう。我慢の限度を超えているわけではない。それらを取り巻いている背景の中に真実が隠されているわけでもなく、ただそこに佇んでいるにすぎない。人はどのようにも生きようとする。悪あがきの繰り返しの中に人生があるらしい。だからそこでうずくまっているだけでは物足りないわけだ。ではさらに話を進めよう。冗談なら今のうちに引き返した方が良さそうだが、誰かはそこからどうするのだろうか。たぶん何が見えているわけでもない。君が導きだしたいのはそのような結果ではなかったはずだ。しかし結果とは何だろう。結果から原因でも求めようとしているのか。何を当たり前のことを述べようとしているのか。君にとっては何が当たり前だとも思えないようだが、そこに何が示されているわけではない。冗談以外の何があるというのか。どう考えても必死の問いかけとはなりがたいから、君には何もわからない。それは誰にもわからないことではないか。誰かはまだ何も記していないのか。それについては一言もふれていないはずだ。

 言葉がすぎている。無駄なことを語り過ぎか。ならば何を評価すべきなのか。何も美術作品を鑑賞しているわけではない。だいぶ語りたいことからずれている。君が語っていることではない。そのすべては何かの断片にすぎず、まともに通して語るには気力が足りないようだ。それで何を取り返すつもりなのか。失われた時は二度と戻ってこないはずだ。通り過ぎた場所には戻って来れる。それが同じ場所だと思い込んでいれば事足りる。だからこうしてかつて通り過ぎた森の前に戻ってきたのだ。でもまさかそこから語りだすはずがない。いくら待っても誰も現れないだろう。特定の誰を待っているわけでもなく、どのような出現を予想しているのでもない。気まぐれに曇り空を見上げる。しばらくした雨でも降ってくるのだろうか。冗談でそんなことを記しているとも思えない。すでに夜になって雨が降ってきたようだ。何が現実なのだろうか。何も思わないことの何がおかしいのかわからない。しかし画面に向かって笑っている誰かの気配を感じているらしい。


6月20日

 彼は他人の都合で生きているのではないらしい。君は彼ではないから他人のことなどわかりはしない。たぶんまた昨日とは違うことを述べようとしているのだろう。だがそれができないからこうなってしまう。わかっているのはそういうことではない。誰に何をわからせようとしているのでもなく、何もわからないからどうでもよくなってしまう。寝て起きたら少し頭が重い。今日は何を間違えているのか。たぶんそんな話ではない。語るには無理な内容だ。語り尽くせないようだ。肺に水がたまっているわけでもない。人は死ぬ。いつかはそうなるだろう。君の見ている世界はそれとは違うらしい。何も感じないのはそういうことだ。馬鹿げているように思われるのだろう。しかし正解はどこにあるのか。なぜそれが違っているように思われるのか。答えがもたらされるとは思えない。そんなわけでまともではないようだ。

 どうも語るべきことを語っていないらしい。近頃はすべてがそうなってしまう。ちょっとおかしい。たぶんその辺に不具合が生じているのだろう。勝手な要求は突っぱねるだけのようだ。それがどうしたわけでもなく、どんな夢を思いだしたのでもない。記憶が曖昧のようだ。なぜなのだろうか。そういうことではない。人に目的があるとしても、結果は違ったものとなるだろう。来るべき世界は永遠にやってこない。しかしなぜいきなりそう語るのか。それまでにそんなことは一言もふれていないではないか。そう語る理由も意味もわからない。それも冗談の一種か。

 たぶん何の目的もない。何か否定的な見解を述べるのが格好のいいことなのか。見解を述べる以前に意味不明だ。何について語っているのかわからない。別に何がどうなってこうなってしまったわけでもなく、何となく夕暮れ時に言葉を記す時間があっただけだ。それはあまりにも何でもないきっかけだったかもしれないが、とりあえずそんなことを述べている。何でもなさすぎるから意味不明なのかもしれない。

 現実は思いのままとは違うのか。フィクションではないらしい。物語の中で何から語られている。映像の中に真実がある。映画でも見たのだろうか。たぶん自意識が何をもたらしたのでもない。どうも粘り強さがないらしい。それを語るには根気が足りない。理由なき言説というわけでもないが、何となく言葉を記す理由を見いだせない。なぜ言葉を記す理由をねつ造しなければならないのか。それがわからないから躊躇しているのか。ためらっている割にはここまで記してきた。興味深いのは興味を抱けないことか。それがどうしたわけでもない。何となくそうしているようだ。


6月19日

 それが何と関係があるのかわからないが、とりあえず昼は曇っている。それが気に入らないのではない。冗談の類だと思われる、しかし同じ言葉に辟易する。うんざりしている理由がどこにあるのか。フィクションに違いない。それらの虚構の中に言葉が並べられている。それが空想の行き着いた先に現れた場所だろうか。ややこしい言葉の並びだ。そして眠ってしまう。起きたら深夜だ。雨が降っている。また何かが違っているのだろう。くだらぬことを考え過ぎている。そんな風に思うこと自体がくだらぬことか。何を語ろうとしているのかわからない。いつもの成り行きだ。たぶん何を味方につけているのでもない。そういう状況に持っていけないようだ。そういうことではない。

 話にならないようだ。ただの戯れ言か。無駄に言葉を連ねて、ふざけた雰囲気を感じさせ、それが嘘でないことをわからせようとするが。何を知っているわけでもなく、それ以外の成り行きにはならないようだ。何が嘘であることはわかっている。それがやる気のなさをもたらしているわけだ。眠ってしまったら終わりか。ならばもういいのではないか。何を語るのも君次第だ。だが内容がない。それは誰の言葉でもない。空疎な内容であることはわかっていた。だからそこで終わりのはずだ。なぜ終わらせようとしないのか。何かがつじつまの合わぬ冗談を形成しているのではないか。またその何かに話の継続を頼ろうとしているようだが、それがわからない。たぶんふざけているのではない。何かのふりをしているのだろう。

 それはつまらないからやめてしまおう。おかしなことだ。何となくそういう雰囲気になっている。そう思っているだけだろう。感じ取っているのはそれとは違うらしい。誰もいないのだから、誰の気配でもない。たぶん何がどうなってそうなっているのでもない。気に入らないだけか。現状をどう思ってもおかしい。そうではないような気がする。気力がない。話にならないのはいつものことだが、それ以上に何かがおかしい。無理なのではないか。何が無理なのだろうか。それでかまわないのか。たぶんつまらない状況になっているのだろう。心はどこへいってしまったのか。それでも君は眠らなければならない。そして目が覚めれば翌朝になっているはずだ。しかし今は昼だ。昼休みには休まないと疲れがとれないだろう。ならばやめた方がいい。


6月18日

 どうも何かを語る環境にない。途中で外れて、何か違うことを考えていた。頭がいかれているのかも知れない。何かの部品が外れてしまったのか。今はそれを考えている暇がないらしい。他に何も思いつかないわけではないが、何かの途中で途切れてしまうらしい。そういう成り行きが鬱陶しいのか。馬鹿げていることはどこまでも馬鹿げていて、気に入らないことはどこまでも気にいらないらしい。何も気にならないわけではない。しかし化けの皮が剥がされたわけでもない。何かをどうにかしようとしていることは確かだ。意識がそこから外れることはない。どうやっても違うと思われるのは向上心のあらわれか。そういうやり方を軽蔑しているわけではない。誰もそれを咎めたりしない。要するに努力するとはそういうことなのだ。何がどうなってそうなったわけではなく、何とかしようとしているのだろう。たぶん腑に落ちないのはそういうことではない。別に疑念を抱いているわけでもないし、そこから外れようとしているわけでもない。外れてしまっているのは君の方だ。今日は冗談ではないらしい。少なくとも今はそうだ。そこから外れるのが面倒くさいのだろう。そうなってしまう成り行きが違うのか。何かが違うことは確かなようだが、依然として何を求めているのでもない。君が語っているのは空疎そのものだ。

 結局何もわからなくなっているようだが、だからおもしろいのではないか。だからどうしたというのだろう。それが空疎な内容を助長させている。何でもなければ何でもないということだ。何を語ろうとしているのかわからないが、取り立てて何がどこにあるのでもないらしい。意味がどこにあるのか茂和からない。それらは無意味な作業なのか。わけがわからないのはいつものことだが、そればかりではらちがあかない。作業がはかどらない原因はわかっている。別のことを思い、別のことをやっている。何でもないことだ。それがわからない。いったい何がわからないのだろうか。また冗談でそんなことを述べているのか。迷路の中で何をやっているのでもない。路などどこにもありはしない。あるのはそこに記された言葉だけだ。そしてだから何がどうしたわけでもない。どうやら君は語る行為から見放されているようだ。他に何がどうしたわけでもなく、そこから被害妄想など生じる余地がない。君は何がどうあっても何かを語っているつもりらしい。

 心がねじ曲がっているわけではない。ただ何かを語ろうとしているだけだろうか。それらの作業の意味を好意的に解釈すればそういうことになるだろう。だがそれがどうしたのか。どうもしないから何でもないように思える。君は堕落しているのだろうか。それともただ単に語る内容が見当たらないだけか。君はこの世界から完全に背を向けてしまっている。フィクションとしてならそうだ。では実際にはどうなのだろうか。何を語っているわけでもない現状がそれを物語っていないか。きっとそれは気のせいだ。そう述べて注意を逸らそうとしている。姑息なやり方か。別に何とも思わないが、気休めに音楽を聴いていることだけは確かだ。遠浅の海辺に杭が林立しているようだ。それが何の役割を果たしているのかわからない。無関係なことだろう。わざとそう述べているのだ。その曲名とも無関係か。でたらめに拍車がかかる。そんなはずがないか。君にしてみればどうということはない。ならば結果は何を示しているのか。それらの何が結果なのか。何はともあれどうということはない。


6月17日

 朝から雨が降っている。平和なのだろうか。何が平和だと思っているわけもない。誰もそれらの風景の中にはいない。気分が晴れないのかもしれない。何も気晴らしにはならないだろう。それらは君に残された時間ではない。何かがまがい物であることは承知している。その何かとは何か。そういう語り方の中にまがい物が潜んでいるのか。たぶん何を述べているのかわからない。今も昔も変わらない。曇り空の下で何をしようとしているのでもない。君はそこから遠ざかるだろう。どこを目指しているのでもないらしい。そこから外れていることは確かだ。並べようとしていた言葉を見失い、記すべき内容を導き出せず、そこに何が生じているとも思えなくなる。すべては幻影なのか。何を見ているのでもない。本当にそれらは最後の悪あがきなのだろうか。誰の思うがままに事態が進行しているとも思えない。見聞しているつもりなのは、どのような出来事でもない。君はそれをどこで見失ったのか。何をそんなにあきらめているのか。まったくの意味不明というわけでもない。そこには何かしらあるらしく、ある時それは砕け散った心の断片であったりする。

 その場の状況によって君はどこかで生かされている。急に眠たくなったのも生きている証拠か。しかし誰によって生かされているのか。そういうことではないか。では何を勘違いしているのか。それに関して君が語る必要性を感じない。何が違っていようと、その違いを説明するには及ばないか。その証拠に言葉はどこにも及んでいない。何をどう語っても、まったくの無意味になるだろうか。それは君次第だ。居眠りの最中の誰かには関係のないことか。何かの響きが違うようで、間違っているのはいつものことだろう。何が違っているのか。それを記せないのもいつものことか。居眠りの最中なのは誰だったのか。やはりそういう話ではないということか。くだらぬ逡巡の果てに、何かいい加減な文章が出来上がる。その時君は何を迷っていたのだろうか。冗談で何を語ろうとしていたわけでもなく、逆に何を語ろうとしなかったわけでもない。この世界には言葉を遠ざける力がありそうだ。説明の必要がないのだろう。ではそれらの言葉の連なりは余分だったのだろうか。少なくともこの世界の説明ではない。

 君はひたすら遠ざかり、自意識も同様に遠ざかる。何から遠ざかっているのかわからないが、それは君には関係のないことだ。誰にも関係のないことかもしれない。とりあえずこの世界のすべてがそこから遠ざかる。そういうことにしておこう。それはただの意味不明だろうか。君はそれで満足なのか。言葉を記しているのが君でないからわからないか。たぶん何を見定めようとしているのでもない。そこにいるのは誰でもなく、君はそこで誰を捜しているのでもない。誰かが行方知れずのはずがない。誰かは未だにそういうことを記している。それは未だかつてなかったことにはならないだろう。すべてがあり、それがこの世界なのだから、どうしようもないだろう。つまりそれについて語っているのだ。ひたすらそうしている。言葉は何からも遠ざからず、何を遠ざけているのでもない。ただ面倒臭いからそんなことを述べているのだ。君がこの世界でどうなろうとお構いなしに、ひたすら言葉が連なろうとしている。それがどうしたのだろうか。たぶんどうもしないはずで、結果として何がどうなったわけでもない。


6月16日

 相変わらず何をもとらしているわけでもなさそうだ。断末魔の叫びを発しているどこかの国の総理大臣ではない。彼には彼のやり方があり、君には君のやり方がありそうだが、そんなのはどうでもいいことか。そう思いたければそう思っていればいい。さらに言葉をつなげれば、ついて行けないなり行きになりそうだ。勝手気ままにどこをほっつき歩いているわけでもないが、なぜか眠ってしまい、支離滅裂なことを述べている誰かには都合の悪い状況となって、まったく冗談ではないと思うようになるのがいつもの成り行きだ。おかしいだろう。気分が変だ。心にゆとりが感じられない。なぜそうなってしまうのか。今日は曇っているらしい。でたらめの中に君の真実がありそうだが、それをどう解釈すべきなのか。記された言葉が間違っているのだろうか。何を示しているのでもない。その場の気分が言葉の連なりに反映されているだけだ。やはりそれは何でもないことなのだ。恐ろしいことではありえないが、何でもないだけでは何ももたらせない。笑うこともできない。

 人々は世界の至る所で反目し合う。対立しあい憎しみを募らせる。そうなるのは簡単なことだ。自分を押し通し、他人を認めなければそうなる。他人もそうすればさらに一層そうなるだろう。妥協するのは容易でない。言葉による説得や実際の利益誘導によって、妥協した方が得であることをわからせなければならないが、感情がそれを許さないだろう。何をやるにも自分の側に主導権がないと気に入らない者は多い。それで結果的に損しようとどうしようと、自分が主体的に行動した結果でないと受け入れがたいか。だが身勝手な行為に及ぶことができる人は限られていて、そこには絶えずその身勝手な行動に振り回され、とばっちりを受ける犠牲者がつきものだ。いい思いをする一握りの者たちと嫌な思いをするその他大勢の者たちが生じてしまうわけだ。しかしそれが誰の物語と関係があるのか。そういう話しにはならない。君はありふれたことを語るのにどれほど努力しなければならないのか。

 社会の仕組みは複雑怪奇だ。テレビや新聞などの報道機関は、不況で就職できない人々に同情するような論調で、元派遣労働者などの悲惨な境遇を報道したりして、政府の対応や派遣斬りの企業を批判するが、じゃあテレビ局や新聞社がそういう人々を雇うかとなると、絶対に雇わないだろう。面接にも至らずに、門前払いかもしれない。同情するなら職よこせか。


6月15日

 今さらここに至って何を説明したいわけでもないが、何となく生身の体は夏の日差しに照らされていて、そんな状況下で言葉を記している。たぶんそんな状況もあったはずだ。運に見放されているわけでもない。それがそういう状況を呈しているだけだ。それとはそういうことだ。他がどういうことでもない。言葉に行き詰まっているのだろうか。それは君が考えていることではない。目下のところは誰も何も考えていない。ただひたすら待つばかりのようだが、何を待っているのでもない。状況が好転する兆しはないようだ。別に好転しなくてもかまわないか。どちらでもかまわないのだろう。君にとってはそういうことであり、さらに言葉を記す必要が感じられない。ではもう終わってしまってもかまわないわけか。その先に終わりが待ちかまえているとは思えない。君は終わりを拒否するわけか。それは何の終わりなのだろう。君の知ったことではないらしい。たぶん変なところで意地を張ってもしかたがないのだろう。終わるならさっさと終わればいい。

 何が終わろうとしているのか。言葉はまだ続いているようだ。それを誰かが記している。冗談だろう。そう思うなら思えばいい。思わなければ終わることができるだろう。そんな嘘をどこまで信じればいいのか。君にはまだ先があるらしい。それが君でないからか。それとは何なのか。もうすぐ何かがそんな具合になるようだ。言葉足らずだ。誰かはそうに違いないと思っている。そこまで語る必要がないのだろう。もう何も語らなくてもいいらしい。ではいきなり語るのをやめてしまうのか。それがそこでの終わりとなるだろう。何かが終わるとはそういうことなのだ。語っている内容はまったくの空疎だ。それでかまわない。今はそういうことだ。誰かが街中をさまよっている。それでさすらっているつもりのようだ。誰かは何を記しているのだろうか。疑念を表明しないと話が先へ進まない。それがそこでの継続なのだ。何を続けようとしているのか不明だ。わかっているのに不明なのだ。誰かがそう記している。

 誰も見ていないのにテレビがついている。そういう風景を絵にしよう。それだけではないはずだ。世の中が誰かを避けて通り、何がそうなっているのか不明になる。またいつもの嘘に決まっているだろうが、語っているのはそういうことだ。かゆみと痛みがぶり返してくる。何かが当然のことのように振る舞っている。君にはそこには何もないことがわかっている。そのつもりで何かを語るつもりらしいが、文章はひたすら空疎な説明に終始しているようだ。それでも君にはわかっているはずだ。窮地に追い込まれているのは君ではない。君とは無関係な時空で何かが繰り広げられているだけだろう。外れている。その外れた何かを取り戻さなければならない。無理な話だ。今さらそれはないだろう。何がないのかわからない。君特有の言語表現では限界がある。何を説明していることにもならない。追いかけている対象ではないようだ。語ろうとしているのはそれとは違い、何を語っているのでもないことから何かが生じているだけだ。


6月14日

 そこには詩がある。きみにはわからないことだ。誰が何を思っているのでもない。朝日が窓から差し込んでくる。ありふれた言語表現に頼っているわけではない。どこかへ出かけているのだろう。孤独のただ中で何を考えているとも思えない。誰が思考中なのか。冗談の次には何もないらしい。それは言葉ではない。それらの外に事物がある。体験しているのは何かの現実なのだろう。誰もそれらの真実をとらえきれていないようだ。君は何をもたらそうとしているのか。それは何も持ち合わせていない証拠だろうか。誰もそれを感じ取れない。だからそこに何があるわけでもなく、それはただの世界を示す言葉の連なりだ。君が何をとらえているのでもない。君はただ何でもないなり行きの中へと埋没して行く。そしてそこから浮上するきっかけを永遠につかめないだろう。それは何かの物語なのだろうか。世界は君に何を教えようとしているのでもない。まったくそこで感知する何もかもが謎のままなのだ。

 誰が立ち直れていないのだろうか。そういうことではないような気がする。人はそこに置かれた状況から構成されており、そこから切り離されて人格があるわけではない。それ以外に何がわかっているのでもなく、何がもたらされているわけでもないらしい。そこには君自身の痕跡がある。何を穿っているのでもなく、存在しているそれらは幻影を構成する材料にすぎない。そこで確実に君は何かを考えているのだろうが、それを文章の外からうかがい知ることはできず、何かに憑かれたように言葉を記しつづける誰かを止めることはできないようだ。とりあえずそういう行為の中に誰かの意識が介在しているらしい。さらに疲れているのだろうか。それとも何かの冗談なのか。たぶん君はそういう言葉の並びに飽き飽きしながらも、そんな状況から抜け出すことができずにいる。

 自由とは何か。誰かは何に不自由しているのか。この世界のどこで真剣になって議論したいわけではない。それは何かの気休めになるだろう。誰も把握できないような何かについて語ろうとして果たせない。そういう語り方が退屈なのか。だが何を考えようとしても、そこから先にはつながりそうもない。君は何に不自由しているのだろう。すべてかも知れない。何もかもが足りないようだ。だがそれは考えるようなことではない。いくら考えても足りないものは足りないらしい。そして手探り状態で何かが言葉を求めている。何かとは何なのか。いつもそれだ。何をどうかたろうとしても、その何かが何なのかわからない。そして君はそれを求めていない。わからなくてもかまわないらしい。

 では君は何を求めているのか。別に自らの死を求めているとは思えない。物語的にはありがちなパターンだろうが、死は物語には付きものだ。誰かの死によってそれに接している意識を感動させようとしているわけだ。それは退屈なやり方でもある。君はそれに接していないのか。誰が君の存在を認めているとも思えない。君にとっては死も冗談の類かも知れない。だが死とは無関係に存在する意識があるだろうか。死もフィクションではないのか。物語としての死はそうだ。中には語り継がれる死もある。それがどうしたわけでもないが、なぜ有名人の死に際して悲しむ必要があるのか。それはその人が死の物語りに引き込まれているからなのだろう。


6月13日

 どういうことでもないが、そういうことなのだ。そんなふうに語ってはいけないのだ。何がどうなっているわけでもなく、ただ無意味に言葉がならんでいる。それを誰かが眺めている。それは画面上の染みか何かか。それで何を卑下しているのか。そうではないと思う。何を思っているのかわからない。冗談ではないのだろう。まだ冗談にはつながらないようだ。冗談にはならないようだが、まったくわからない。本心からそう述べているわけではない。たぶんそういうことだ。しかし冗談の次には何がくるのだろうか。精神状態が不安定なのか。具体的には何も示されない。現実感が欠けているようだ。たぶんそういうことではない。苦し紛れかもしれないが、そうではないと思いたい。外は晴れている。部屋の中にも朝日が差し込んでくる。死とは何なのか。いきなりそれはない。言葉上の問題となるらしい。テレビ上で人がうごめいている。たぶん脳死状態ではないのだろう。しかし思考する余裕がないらしい。無理に考えなくてもいい。世の中の流れに乗っかって、そのまま流されていれば生きていられるはずだ。

 デザインとは何なのか。死とデザインとはどのような関係を持つのだろうか。機能的な死というものがあり得るだろうか。わざとわけがわからなくなるようなことを述べていたいらしい。なぜどうして何がそうなのか。それが冗談のようだ。居心地の良い空間の中に人の死がある。たぶんそういう発想に意味はないだろう。誰もなし得なかったような行為にはつながらないはずだ。たぶん何かの質感が絡んでいるので、そういう語り方になる。まったくのでたらめというわけではない。人には何かを作る能力があるらしいが、それが何か特別な能力とは思えない。外からもたらされる情報を文章の中に組み込もうとするが、相変わらず意味不明気味に言葉が並んでいる。君にはそれがおかしくてたまらないらしいが、そう思うことがある種の勘違いを生じさせている。何も述べていたないのに、何か述べているような気になっている。たぶんそんなふうに語ることで文章が形成される。そしてそれらの言葉の構成が君をある認識に至らせる。お前は何を主張しているのか。

 何らかの主張を幻想しているのかもしれない。それは妄想のたぐいではなく、何かの幻影をもたらしている。その何かとは何なのか。そう問いかける対象が何かなのだろうか。趣味の範囲内でそんなことを想像するのは馬鹿げているだろうか。空想にも限界があるわけか。誰の空想でもない。何らかの物体が何かの気配を感じさせるわけだ。それは部屋の中の家具かもしれないし、壁につり下げられた絵画かもしれない。だから思考の対象は読みかけの書物とはならない。そこに何らかの気分があるらしい。壮快とはいいがたいが、何か引っかかるものを感じることはない。ただの空間に空疎な雰囲気が漂ってくる。それを誰が感じているのではなく、空間が誰かの表情のような何かをもたらしているのだ。さらにわけがわからなくなってきただろうか。だがそれは誰の狙いでもなく、その場の成り行きなのか。また同じような言葉が繰り返されているらしい。


6月12日

 またわからないことを語ろうとする。呆れ返って何も語りたくないか。そういう話ではないらしい。文章になっていないのは毎度のことだ。何を焦っているのでもない。こういう状況なのだから、何をやってもこうなってしまうのだろう。君はそこで自らに呆れているはずだ。さらに何を語ろうというのでもないらしい。ただ無駄に言葉を並べ、そんな言葉の連なり方をおもしろがっている。それはちょっとだけの違いになるだろう。何が違っているのか相変わらずわからないが、とりあえず何かが違っているように感じられ、その何かが何なのか探ろうとしているわけではなく、ひたすら何かが違っていると表明し続ける。それがそもそも違っていると感じられる原因なのかもしれない。そしてそんな説明自体が余分で余計なことなのか。無駄の上塗りかもしれないが、そういう文章なのだから、それを受け入れないと先へ進めないようだ。まったく何を語っているのか。何か適当なことを語っているつもりになりたいが、たぶんそういう気分がおかしいのだろう。

 しかし冗談の先には何があるのだろうか。そこから先は未知の体験ではないようだ。話の展開はいつもの通りだ。たぶん呆れているのはそういう話の傾向なのだ。ひたすらそうなってしまうことに呆れている。だが何を躊躇しているのか。心配しているわけではない。なるようにしかならないのだから、それでもかまわないのだろう。今さら何を変えようとしても無駄か。それがわからない。変えようとして変えることは困難だが、何も思わなくても変わってしまうこともあり得るはずだ。しかしだから何だというのか。そこからどうすればいいのか。どうもしなければどうにかなるわけでもない。何も思い浮かばないようだ。それは何でもないことなのだ。自らにそう言い聞かせているわけではなく、現にそうなっている。君はそれらのなんでもないことの中に住まう。わけがわからないが、とにかくそこに住まう何かなのだろう。

 それで何かの正体を明かしたことになるのか。別に正体を求めているわけではないだろう。求めているのは誰かの正体とは別の何かか。誰かではなく、それなのだろう。しかしそれとは何なのか。それがわからないからそれはそれのままにとどまっている。まったく意味のない言葉の連なり具合を呈しているらしい。君はそれが何だかわかっているはずだ。わかっていてあえてそう問いかける。それとは何なのか。それとは虚無なのか。答えがすでに出ているではないか。それとは君自身が抱え込んでいるそれだ。それでもそれがわからない。わからないことにしておきたいらしい。本当にわからないのではないか。だから本当にわからない。やはり無意味に同じような言葉が繰り返し記される。君はそれがおかしくてたまらないようだが、実際に言葉を記しているのは誰なのか。君ではないとは思わない。君以外の誰かではないのだろう。しかしそれで君が行き詰まっているわけではなく、そういう成り行きを楽しんでいるのかもしれない。


6月11日

 それでは物足りないのだろうか。なにがそうなのか。何か適当な現実を知ることが日常の一コマとなっている。それは何でもないことであり、何でもないことは何でもないことにすぎず、それ以外の可能性を感じられない。結局どこへも至らないのだろう。たぶんくだらぬ状況を変えることはできず、落胆する日々が続いてゆく。何かが違っているのはいつものことだ。君はすでにそこから遠ざかっているはずだ。しかし遠ざかったそれは何だったのだ。虚無ではない。例えばそれは黄昏時だったかもしれない。見え透いた嘘をついている。まったく文章になっていないようだ。笑ってしまう事実にあきれるしかないようだ。誰かは何を記しているのだろうか。やはりそれは何でもないことなのか。限りなく空疎で意味不明のようだ。そして何を語っているのでもない。どうやら記しているのは実感が皆無の語りらしい。今はそれでかまわないわけか。誰に同意を求めているわけでもない。どうせ誰の知ったことでもない。誰にも知り得ない物語をどう語ればいいのだろうか。その内容は戯れ事に決まっている。わけがわからないような話ではない。時代劇の中ではいつも刀で斬り合いだ。そこに登場する者たちが簡単に斬り殺される。たぶん斬り合いにリアリティを出そうとすると映画になってしまうのだろう。それはまるで過去の時代に迷い込んだような気分になれるらしいが、まったく実感がわいてこない。相変わらず君は本気で語っていないようだ。たぶんそんなことを語ってはいけないのだろう。文章の中で言葉の配分を間違えている。そしてさらに迷い、何を語ればいいのかわからなくなる。

 何かから何かが引き出され、茶番劇が繰り広げられ、落胆の度が深まる。途中の成り行きが記されていないようだ。君はわかっているはずだ。それが何でもないことがわかっていて、あえてそれについて語らない。そんなのがありだろうか。卑怯だと思われる。だがそれが君のやり方なのだ。そんなのは嘘に決まっているだろうか。たぶん君はどこかで躓いているのだろう。罠にはまっている。そう思いたければそれでかまわない。それは何でもない躓きであり、なんでもない罠だ。ではそこで発せられたつぶやきは何なのか。もういい加減に終わったらどうか。それができない理由がどこにあるのだろうか。やめる理由がないからやめられない。果たしてそれが冗談の続きになるだろうか。何が君には関係のないことなのか。語るべきはそういうことではない。終わるべき時でもない。何が終わるのかわからない。何の成り行きも生じていないようだ。それが何だというのか。問われているのはそういうことではない。要するにまだそこで粘っている。理由もなく、話の内容もないのに、そのままの言葉の並びで続けてしまうらしい。それが何だといわれても答えようがないか。まともな回答を導きだせない。だからそれでかまわないのだろう。だからではないということだ。要するにそこではそういう冗談で乗り切ろうとしているわけだ。


6月10日

 ここで一休みしてはいけないらしいが、休んだとたんに何かが続かなくなり、何となく明日に持ち越しの気配が漂ってくる。だが休まずにはいられない。そしてわからなくなる。誰かの目的は何なのか。目的とは何なのだろうか。見え透いた疑念はごめんだ。偽りの疑念なのか。わかっているのにわからないふりをしている。しかし冗談の次は何を語るつもりなのか。たぶん冗談の次は冗談だろう。冗談ではないか。冗談だけではわからない。意味不明なのはもちろんのこと、別に無視してもかまわないような何かがどうなっているわけでもない。どうやらひょうたんから駒というわけにもいかないらしい。だから何なのだろう。何でもないような気がする。そこで誰が騒いでいるのでもないらしい。君は頭がおかしいのか。誰がそうなのか。まだ続ける気があるらしい。だがそれを続けるのは命取りか。それは嘘だと思う。嘘だがそれがどうしたわけでもない。まだ運から見放されていないのか。だから話の内容が見えてこない。

 何かがかまわないようだ。気分的にそうなのか。季節は夏に近づきつつある。では何を待っているのだろう。誰がそうなのか。その辺からわからなくなり、何を語っているのか意味不明になってくる。しかしそれはどういうことなのか。何もないということだ。何もないなんてあり得ない。疲れているのだろう。誰かが疲れていた。疲れて眠ってしまったのか。君は疲れている。誰もがそうだろう。炎天下の下で体力を消耗する。それが夏の記憶なのか。そうであったらどうなのか。何か適当なことを語っているつもりだ。適当でなければならない。そういうやり方が違う何かをもたらし、何が違っているのかわからなくなり、そういうことではなくなってしまう。それも君の冗談なのか。そうであったらどうなのか。どうにもならないことなんて知りはしない。どうにもならなければ今がないだけだ。それでもどうにかしたいのだろう。何かをどうにかしなければならない。そのために言葉の連なりがあるわけか。そういう泥縄式がおかしいのかもしれない。


6月9日

 今日も何を語ろうとしているのでもない。ただ言葉を並べて文章を構成しようとする。それだけのことに時間を取られているようだ。馬鹿げているだろうか。何が君を奮い立たせているのでもなく、ただ冗談だけが現実を意識させ、何もない現状をそのままにして、甘すぎるコーヒー牛乳を飲みながら、何を思いつくだろうか。思いついたのはそういう文章か。そんな現実をどう受け止めたらいいのかわからない。そんな嘘をついている。本当にどうでもいいことだ。すでに意識がそこから転げ落ちて、何を思うこともなく、またそんな嘘をついている。何をどう思ってもそれは嘘だ。要するに冗談でそんなことを述べているわけだ。そんな空疎な気分をどうすることもできない。だが君はそれらの荒野から離れられない。それも嘘なのか。嘘でなければ何なのか。いったいこの世の中に真実という状況があり得るだろうか。それらの何が真実なのか。案外これから君が語ろうとしているそれが真実かもしれない。それとは何だろう。

 たぶん何も思いつかない。他に何がどう感じられているわけでもなく、ただ何も思いつかないだけのようだ。夜に何も思うこともなく、それでも言葉を連ねようとしているだけで、他に何があるわけでもない。何事も思い通りには行かないものだ。そしてそれが愉快に感じられ、何となく楽しくなってくる。また君は嘘をついているわけか。いらないことを続けて述べてしまうといらついてしまうだろうか。まだ何も語っていないはずだ。誰が選択を迫られているわけではない。できないことをやろうとしているわけではない。では言葉を並べて何を構成しているつもりなのか。誰と誰が対話しているわけではない。だがそれができないことだとは思わず、何でもないことの内容とはそういうものなのだ。どういうものでもないということだ。それが矛盾していると思うなら、わざとそうしているのだろう。人はいつでもやりたい放題やっている自らを夢見る。何もかもが思い通りにいっている自らの姿を思い描き、それで偽りの自己満足に浸っているわけだ。

 足下がおぼつかない。まだ老人ではないだろう。では誰がそうなのか。そういう疑念は疑念のうちに入らない。ならばそこで何を問うべきなのか。問うべきことなど何もない。たぶんそれが君のやり方なのだ。何がやり方なのでもないのがやり方になるらしい。冗談の続きでそんなことを述べている。誰でもない誰かはそれをどう記しているのだろう。見ての通りで読んだ通りの内容になるだろう。喉が渇いたので必死で水分を補給する。この際利用できるものは何でも利用したらいい。たとえそれで墓穴を掘ろうとどうしようと、試してみることは必要なのか。いくら調子に乗って勝手なことをほざいていようと、いつか試練の時が訪れる。それでも懲りたふうはなく、君は泥縄式で結果を導きだすまでだ。それが君のやり方なのだろう。だがそろそろ忍耐も限界に近づいているはずで、何に耐え忍んでいるのかわからないが、何となくそれで何がどうなるわけでもないような気がするのだが、それもいつものパターンなのだろうか。わかっているならあえて否定する必要はないだろう。


6月8日

 他に何を語ろうとしているのか。言葉以外に何がもたらされているわけでもない。君が何をもたらそうとしているのでもないことはわかっている。少なくとも誰かはそう思っている。他の誰かが何かをもたらさなければならないわけではない。それはたぶん小さな物語になるだろう。何を予想しているとも思えないが、何も語っていないのは誰でもない。そういう意味不明がわざとらしい。君が語ろうとしているのは、君には語れないことだ。無理であり不可能なのだろう。そこからどうしていいのかわからなくなり、ただ言葉を並べるだけでは駄目だと思い知る。君がそういう認識に達したのではなく、どこかでそんなことが記されているのだ。誰かは無理なのにさらに遠くまで踏破しようとするが、行き止まりの先に何があるわけでもないことは承知しているはずだ。もとはそんな話ではなかった。砕け散っているのは誰の心でもない。どこまで遠ざかっても、山塊の全体が見えてこない。いったいそれの何を説明しなければならないのか。それらのどこからどこまでが説明可能なのか。そういうことではないのだろう。何かそこで勘違いしているのかも知れない。では思い違いの原因は何なのか。そこで意識が途切れる。また眠ってしまったらしい。語り得ないことはどこまでも語り得ない。何をどうしようと無理なのだ。だからあきらめるべきだ。せっかくそこまで語ってきたのに、それはないだろうか。

 果たしてそれでいいのだろうか。何も果たされていない。君は何も語ろうとせず、ただ数時間に渡ってテレビを見ていた。誰もそこにはいない。意味がないのだ。言葉ではない。何が言葉ではないのだろう。語っているのはそういうことではない。たぶん何を果たそうとしているのでもないのだろう。だから何も語り得ない。間違っているのはわかっていることだ。しかし何が間違っているのかわからない。冗談でそんなことを語っているわけではない。何がそうではないのか。たぶん何もそうではない。苦し紛れに語るようなタイミングでもない。誰かが知りたいのもそんなことではない。知りたいことはいつも知り得ない秘密だ。誰にとってもそうなのだ。間違っているのはどういうことなのか。すべてが間違っている。そう思うことも間違っている。聴いているのは安易な音楽だ。今さら何を誇示するつもりもない。原点に回帰しているわけでもない。すごろくの振り出しに戻るのはもうごめんか。すでに君はどこかへ至っているのだ。同一人物同士で互いにわかり得ないのに、何かわかっているつもりでいるらしい。まさか君と君が誰かと誰かになるはずがない。それで話になるとは思えない。まともに語っているのではないのだろう。つまずきの石はどこにでも転がっている。君がつまずこうとしているのはそこら辺に転がっている石ころなどではない。ただそう思いたいだけで、何を大げさに騒ぎ立てようとしているのではない。


6月7日

 とんだハプニングに巻き込まれてしまったのだろうか。それは昨日のことだ。たぶんそこからどんな話が展開されるわけもなく、何となくそれは収束に向かっているようだ。今日は何でもない。昨日のことは何も覚えていないことにしておこう。語るのが面倒くさいのか。何もなかったのかもしれない。たぶんそういうことだ。そして今日になり、相変わらず空は曇っている。つまらぬことにこだわっている暇はない。しかし何がつまっているのか。何もつまっていない。たぶんそういうことではない。どこかで話したいことから脱線してしまったらしい。それが予定調和のハプニングなのか。だがそれは昨日のことではない。今ここで起こっている精神的な混乱なのか。誰が何を語っているわけでもない。たぶん一昨日は何かを忘れていたのだろう。それが昨日の失態を招き、何となくそれがハプニングのように思われたのだ。ただそれだけのことだ。そして今日の君は相変わらず何を語っているのでもない。ただひたすら言葉を並べて世の中の情勢とは関係のないことを構成しようとする。それ何がどうなったのか。何がどうしたわけでもなく、いつもの台詞を口にしているだけか。かなり退屈だ。昨日もそうだった。それは冗談ではない。君はそれらの成り行きからはみ出て、何かどこかの薮の中でうずくまっているようだ。たぶんそれが何を意味するわけでもない。

 そう遠くない未来に何が起こり、誰かがどこかにやってくる。何でもないことだ。たぶん何でもない。抱いていることは実現せず、それが夢でないことを自覚させ、空想でも妄想でもなく、立ち止まる必要もない何かにつまずいているのでもない。ただ意味がわからない。意味などとっくにわかっているが、意味がわからないと記している。誰がどんな意図でそうしているのでもなく、何をどうしようというのでもない。取り合えずここには何もない。何がそうなのかわからず、何となくそこから遠ざかれずにいるようだ。君の仕業なのだろうか。何が仕掛けられているとも思えないが、一応は用心してかからなければならない。たぶんそこから何の物語にも発展しないだろう。君は君で何かから抜け出ようとしているらしいが、そこに語る動作は不要なのだろうか。安定した精神状態を求めているわけはない。何をどうしようとしても、それらの成り行きの範囲内で行動するしかない。タイミングを逸しているのかも知れない。それは言葉を繰り出すタイミングだろうか。果たして何をやろうとしていたのか。何も果たさなくてもかまわないのではないか。

 君がそこで何をやろうと、結果を動かすことはできない。何もかもが予定調和の範囲内だ。誰かがそんな成り行きを打ち砕こうとしているようだが、果たしてうまくいくだろうか。相変わらず何も果たされない。何かが終わらないようだ。終わらせようとしていない。何かを果たすにはいったん終わらせなければ次へ進めないのだろうか。どのような状況が終わりだとみなされるのか。君にわかるわけがない。わかるはずのないことをわかろうとしている。それで何がどうなったわけでもない。元の木阿弥にも達していないだろう。だがそれでも何を否定したいのでもない。むしろ逆にそれらの無駄で遠回しの言説を肯定したいのではないか。何でもないことについて何でもないように語り、何でもない結果をもたらしている。それだけのことなのに、なぜかそれでかまわないと思われ、それ以上の何かを求めようとしない。すでに君はあきらめているのだろう。その時点で終わっているのかも知れない。そして何も語れなくなり、記された文章も忘れ去られ、今はでは何も思い出せない。たぶん思い出そうとしなくてもかまわないのだろう。無理にそうする必要はない。


6月6日

 無駄なことをやっているのだろう。虚しい作業だが、やるしかないようだ。何もやらないよりはマシだとは思えないが、やってもやらなくても同じということではないらしい。何となくそんな感じがする。未だに冗談でそんなことを述べているわけで、さっきまでの眠気も去り、どういう風の吹き回しか知らないが、何となくそういうことらしい。少しは気分的に高揚しているわけか。麻薬の効用ではないだろう。食後の内服薬が眠気とだるさをもたらし、やる気が失せる。毎日がそうなのだから、言葉を記す時間帯ではないのかもしれない。だから今は何もしないよりはマシなのか。意味がわからない。筋が通らないといった方がいい。だがやけくそで言葉を記しているわけではない。では何なのだろう。君には一生わからないような言葉の並びか。もとから意味不明なのだろう。何を考慮しているとも思えず、たぶんわかりやすいことを述べているわけではない。画面を見つめていると目が疲れる。だから君には関係のない内容なのだ。気だるい感じの曲が流れている。クラプトンのギターを思い出す。なぜ彼には脱力していた時期があって、糸の切れた凧のような曲を弾いていたのか。今となってはどうでもいいことだ。誰に関する挿話に興味があるわけでもなく、ただ何となくそんな彼の曲を聴いて、そう思ってしまったまでのことだ。それほどコカイン中毒というわけでもないだろう。

 そこから何かの葛藤が生じる。他人の心の内側を覗き込んでいるわけではない。まだフィクションに対するこだわりが感じられず、そこに記されているのは著名な流行作家のごとき文章ではない。ただわけがわからず、話のつじつまが合わない。もう何も本心から語らなくてもいいのだろうか。そういうことでもない。では何がそこでのフィクションとなり得るのか。客観的に見ても何の話でもあり得ない。そこで語っているの破綻なるでたらめの類だ。そしてそれは不用意な断言になる。見る見るうちに心が退いて行き、もう何も述べているのでもないことに居直っているように思われ、何かが違っていることが、違ったままに振る舞いつづけ、誰かを困惑させ、予定調和の結末を予感させるが、君はそれで何を導き出したつもりになっているのか。虚無以外の何ものでもなければいつものとおりだ。ならばそこからさらに言葉を記し続ければどうなるのだろう。何か適当な認識にでも到達できるのか。たぶんそれが今感じてい認識なのだ。すべてがでたらめのように思われ、文章の中身が支離滅裂なのだ。そうでないとするなら何なのか。そうでなければならない理由などどこにもない。

 たぶんそこから何かが始まる予感がする。嘘でなければ冗談でもない。そこに何かがあるらしく、何もなければ何もないだろう。それが冗談だと思われる。冗談でなければ何なのだろう。だからそれを確かめている途中なのではないか。何かの途上にそんな言葉が差し挟まれ、他の可能性の芽を摘み取ってしまう。そう述べてしまわなければ何が可能だったのか。誰にわかるとも思えない。君にはちんぷんかんぷんのようだ。まるでそういうことではないような気もしてくる。無理やり言葉をつなげようとしているだけだ。それ以外に何があるというのか。何かがあり、何でもあり、要するに何でもないということになる。とりとめがない。意識はひたすらそんな言葉に包まれる。それの何が困った状態ではなく、それだけのことであるのが気に入らないのだ。もっと何か利いた風なことを述べているつもりになりたいのだろうが、そうはならずに、現状はわけがわからないだけのようだ。君には修正不能で制御不能な事態になっているようだ。しかしまだそこから先に言葉を記すつもりなのか。もういい加減にやめたらどうか。たぶんやめられないことはないだろう。


6月5日

 雨が降っている。いつものことのようだ。誰が気に留めているわけでもない。ただ雨が降っている。誰かは外を見つめているようだ。たぶん何の話でもないのだろう。他に何をあきらめているわけでもない。では何が手遅れなのか。何に身をゆだねているわけでもない。わざとそんなことを述べているようだ。だがそう述べる理由がわからない。無邪気に笑っているわけでもない。ただ何もせずに画面を眺めている。そんな時間帯もあったようだ。それで今は言葉を記しているわけか。相変わらず何を求めているのでもない。何かを求めて地上を這いずり回るのが面倒くさいのか。理由など何もない。それとも何か理由があったらまずいのだろうか。その逆で、何らかの理由や動機がないと話に説得力が伴わず、何かの冗談で述べているような気にさせるらしい。それでもかまわないのだろうが、何となく自らに嘘をついているような気になる。本気になれないのはいつものことだが、冗談だとも思えない。たぶん初めは何かについて語ろうと思っていたはずだ。今もそう思っている。梅雨の季節は蒸し暑い。だが気に留めているのは何の季節でもなかった。それが意味不明なのだ。何を語っているのでもないらしい。それの何が気に入らないのでもない。たぶん意味を求めようすると気が変になってしまうのだろう。冗談が通じない話の展開となるだろう。そして相変わらず語る理由を見出せず、どこかで途方に暮れているのだろうが、やはり気にも留めていないか。そういう言葉の使い方がおかしいのだ。

 何かにだまされているような気がする。それもいつものことなのだろうか。白装束の男女が奇妙な振り付けで踊る。それは何かの幻影だろうか。それとも苦し紛れのでたらめか。やる気がしないことは確からしく、今は居眠りの最中だ。そして目が覚める。まぶたが著しく重い。早くあきらめてくれといわんばかりの勢いを期待するのはお門違いか。では何をそんなに苦しんでいるのか。洞窟の手前で立ち止まり、しばし考え込む。今までに記してきた内容は何だったのだろう。無内容だ。そう決めつければ無駄に考え込まなくても済むことに違いない。だがそこから先に何があるというのか。何も待ち受けていないではないか。実際には少し違う。何が違うのかわからない。別に違いを見つけたいのではなく、何となくそう思うだけだ。本当は違いなど何もないのかもしれない。では君は何をそんなに恐れているのだ。ただ眠いだけか。まったく話のつじつまが合わないようだが、つじつまどころではなく、それに関しては何も思えないのかもしれない。だからその辺でギブアップなのか。そうであったら気が楽だ。それ以上の何を語ろうとしていたのか。それを導き出せず、その代わりにくだらないことを述べている。今はそんな気がしてくる。

 まだ状況を把握しきれていないのだろう。その必要がどこにあるのか。何かを打ち消す理由があるだろうか。でたらめに言葉を繰り出そうとする。いつもの苦し紛れだろう。それをどうしようというのでもなく、そのまま投げやりになすがままだ。やはり状況をつかめない。君はそれ以上の何かを追い求めていたはずだが、相変わらずそれが何だかわからない。それはそうだろう。すべてはでたらめなのだ。投げやりになるならそういうことだ。ではもうお手上げ状態なのか。気に入らなければそういうことになってしまう。現状の何が気に入らないのか。ふざけたことを述べている。笑みを浮かべながら何かを削除する。そうであってはならないのだろうが、面倒くさいのでそうなってしまう。他に何を語ろうとしているのでもなく、現状について語っているつもりであり、君がそんな現状を作り上げたのだ。やはり嘘をついていて、それを打ち破ることはできない。君の力では無理だ。少し寝不足のようだ。そこから先に話が進まない。たぶんそういう現状なのだ。架空の話ではない。それ以上の現状などない。舞踏はまだ続いているようだ。それの何が気休めだとも思えない。気がつけば真剣な眼差しに囲まれ、そこで立ち止まり、自問自答を繰り返すが、問いも答えも定かでない。


6月4日

 まだ空洞の中で叫んでいるわけか。では他に何を空想すればいいのだろうか。すべては作り話が示す結果かもしれない。とりあえずあまり張り切らないことが肝心のようだ。どうやら君にはまだ未来を体験する機会がありそうだ。しかしその先でまともな話を語れるだろうか。君に何がわかるというのか。しかしそれは何の決め台詞なのか。話の展開がないような気がする。さっきから何も考えていないのだろう。いつまでもそうだ。いつまでもやる気がしないようだ。そんな精神状態で誰を説得しようとしているのか。君にわかるはずがない。そこは誰もいない荒野になる。心は完全に空想の世界に入りつつあるようだ。だから君は君を許せないのだろう。そういう話ではない。たぶんどういう話でもないはずだ。それらは話になっていない文章なのかもしれない。君はどこでどうやってここまでやってきたのだ。ところで何を語ろうとしていたのか。君は何をやっていたのか。何かやけくそのような気配も漂ってくるが、いったい何が間違っているのだろう。たぶん何がわかっているわけでもないような気がする。そこまで考えるようなことではない。なぜそうなってしまうのだろうか。君は何かを知っている。この世界が何であるかについてある認識を持っているはずだ。だから今はその通りに思えばいい。何を見つめているのでもなければ、空想の視界に何が浮上してきたのでもない。君はただわからない。わからないだけのに困惑の度を深めている。それをわかっていながらわかるまいとしてがんばっているような気もする。いったいそのとき何について考えていたのか。何が終わりなのだろうか。すでに思考の限界を超えて思考し続けているのではないか。そんな限界などあるはずがなく、何についてどう思っているのでもない。すべてが冗談から派生した概念だ。言葉が真面目に連ならない。だがそれの何が心配なのか。何をどう感じ取っているのでもなく、そこからどのような話の展開が待ち受けているわけでもなく、ただ延々とつまらないことが述べられ、それでは不満なのに我慢を強いられているようだ。

 またいつもの悪い癖が出てしまったらしい。なぜそんなことを考えてしまうのか。そうではないと思いたいだけのようだが、そこから先に何が待ち受けているのでもないことは明白だ。ただひたすらそんなことを述べている。そんな現状を認められないのか。ではどうしたらいいのだろうか。そう思った時点ですでにだめのようだ。何も感じ取れずにあきらめてしまう。君はまだ運を使い切っていない。そう思うのは思い違いだろうか。何となくそう思うしかない状況のただ中にいるらしい。しかしなぜそうなってしまうのだろう。心配ならそこ行ってみればいいではないか。そこでの状況を確かめてきたらいい。どうなっているのだろうか。何がどうなってそうなってしまったのか。君はまだそれを確かめていない。結果を知るのが怖くなってしまったのか。ならばもうやめてしまえばいい。だがそう簡単にやめられるわけもなく、結局はそれを続ける気になっているようだ。今日はそれほど虚無と戯れているわけでもない。そう思うのはなぜだろう。語っていると緊張感がみなぎってくる。もうやめた方がいいのに、まだそれを続けようとして、何となくそれではいけないような気がするのだが、誰かはそれ以上の懸念を抱いているのだろう。君はそこで何かを間違っている。やるべきことを見失い、代わりにやらなくてもいいことを 必死でやっているような気がしてならない。では君はどうすればいいのだろうか。どうにもならない状況がそこから生じてしまっているのかもしれない。それが偶然の巡り合わせで生じてしまっていることなのか。わかっているならそれでかまわないのだろうか。かまわなければそうなるしかない。それが誰の終わりを招いていようと、君はそこに立ち尽くすことしかできないようだ。


6月3日

 何となく今日はぼけている。やる気がしないらしい。昨日は何を語っていたのだろうか。何か君は違っていたのだろうか。それは考え過ぎではないか。たぶん偽りの世界では正気でない。また何か適当な作り話を構成しようとしているのか。いったい神は君に何を託したのだろうか。それはあり得ない話だ。罠かもしれない。たぶん何でもないことだ。それが罠なのか。誰にとってもそうではない。面倒くさいので話にならない。語る理由がない。それは驚くべきことか。何に驚かなければならないのだろうか。それはそれではない。誰もそれの行き先を知らないようだ。何か今日は不思議な気分だ。フィクションの中で誰かがそんなことを述べていた。君はそれからどうなったのか。誰か君の行き先を知っていないか。空洞の中で誰に呼びかけているのでもないのに、誰かの言葉が跳ね返ってくる。冗談の近くに真実があるらしい。君はそれを知っているのだろうか。知っていてしらばっくれるほど意地悪ではないはずだ。だが何となくしっくりこない。きっと君はその出来事に気づいていないのだろう。だからといって話にならないわけではない。意味不明なら得意中の得意か。さらにわけがわからなくなり、途方に暮れるどころか、何となく楽しくなってくる。たぶん昨日はそんなことを述べていた。では一昨日はどうだったのか。そこまで記憶をさかのぼる気になれないか。少なくともそういう話ではなかったはずだ。何かについて述べていた。何かを沈静化させたいのか。君が何も語らなくても、言葉が勝手に連なってしまうだろう。君はそういう事実を受け入れられず、自分で言葉を記しているつもりになって、それらの文章を構成している気になるが、本当のところはわかっていないようだ。そこから何をどうするつもりでいたのか。目が覚めたら夜だった。それがどうしたわけでもないが、身の回りを取り巻く暗闇に感動している。それは今なんだろうか。今でなければいつなのか。また改行するのを忘れてしまったらしい。

 あわてて改行しても意味が通らない。いったい何について語るつもりだったのか。その時の意志を思い出せない。わかっているのはその代わりの出来事ではない。それも知らないのだ。たぶん知ろうとしていないのだろう。そして別の何かを急に思い出し、急いでそれについて言葉を連ねてみるが、相変わらずの意味不明だ。いったい何がどうなってそうなってしまったのか。そんなことを探求するわけにはいかない。できないことをやろうとしているらしい。まだその段階ではないのだろう。しかし段階とは何か。何かそこに至るために必要な手順という動作があるわけか。さらに回りくどい。わざと何かを迂回させて、その途中で逸脱させ、目的を忘れさせ、どうにもこうにもやりようがなくなるような、いい加減な意図を感じるが、それがどうしたというのか。どうもしないからしどろもどろになってしまうようだ。だからそれがどうしたのか。いくら問いただしてもまともな返答などかえってくるはずがない。やはりそれは予定調和の自問自答なのか。そうでないと反論したくなるが、誰が反論したくなっているわけではない。そこには誰もいないのだから、問いただす対象もそれに対して反論しようとする意志もありはせず、あるのはただの言葉のつらなりのみだ。そう思いたければ思っていて結構なのだ。この場では緊張感など皆無なのだから、いい加減なことをだらだら述べていれば事足りるのではないか。寝て起きて何が起ころうと、それは明日の出来事になるしかなく、それにどんな感慨を抱こうと、それは偶然の巡り会わせと気まぐれな思考が混じり合う現実の世界で起こっていることだ。そして今日も明日につながってゆき、明日からもたらされる架空の力が今日を活気づかせるはずもなく、冗談でそんなことを述べてみただけのような気がしてくるが、果たしてそれでかまわないのだろうか。


6月2日

 誰かはできないことをやろうとしているのか。大げさなことではない。たぶんそうだろう。宗教とは何だろう。争うために宗教がある。何か守るべきものがあるとすれば、それを脅かす存在と戦わなければならない。それは当たり前の成り行きだろうか。そんなわけで人々は互いに相争う宿命にあるらしい。生まれ育った環境が違えば、信じる対象も違ってくる。すべての人が同じ信仰を共有するわけにはいかないだろう。相容れないものがあるからこそ、地域的な多様性があるわけか。それが殺し合いに至るほどエスカレートするのは、ひどい環境の中で暮らしている人が大勢いるからか。世の中に気に入らないことはいくらでもあり、それを容認するか否かで対応も異なってくるのだろう。容認できなければ変革しなければならず、そこから先には血なまぐさい闘争が待っているのかもしれない。そうならないためにはどうしたらいいのか。個々の場合によって対処法が異なる。その時々で当事者たちが暴力的な闘争を回避するための方法を模索しなければならない。そんなことが果たして可能だろうか。可能である場合も可能でない場合もありそうだ。実際に非暴力を貫き通して変革を実現する場合もまれにはあるのだろう。しかし多くの場合そうはならず、流血の惨事になって多くの死傷者が出てしまう。それが人類が経験してきたこれまでの歴史だったのだろうか。そういう成り行きが嫌なら、今後は知恵を出し合って、そうならない方法を模索しながら、平和な変革を実現しなければならないわけか。言うは易しで行うは難しだ。

 たぶんあまり平和になってもらっては困る人たちも大勢いるだろう。彼らは何を争っているのか。気に入らないことがある限り、争う理由などいくらでもあり、その理由を正当化したいがために争う。我々は自ら信ずる正義のために争わなければならない。物語的にはそういうことだが、それはフィクションの世界で成立する概念かもしれない。現実の世の中が自分の思い取りになってしまってはまずいのかもしれない。なるはずがないから争っているのだ。未来永劫人々は互いに争い続けるだろう。それが宿命だからこそ、そういう成り行きの中で暮らしているわけだ。争わなくなってしまったら人は人でなくなる。人でなくなったら神にでもなるというのか。今この世で行われているのはくだらぬ生存競争だ。それの何がくだらないのかわからないが、何となくそう思ってしまう状況の中に意識がある。それでかまわないのだろう。そこから逃れる方法を模索しなければならないようだが、逃げてどうするのか。逃げるのが嫌なら戦うしかない。冗談を述べるならそういうことだ。何となくそうではないような気もしてくる。君は自分や他人と戦うのが面倒くさいらしい。それ以外にどんな状況が想定されるだろうか。ここには何もない。それは答えではなく、問いでもない。何もないから何も問われず、答えられない。それも冗談の続きなのか。何となく飽きてくる。争うのが面倒くさくなり、どうでもよくなってしまう。たぶんそれに関して何を述べているのでもないが、それとは何なのか。


6月1日

 何が何だかわからないまま、二十日遅れで今月に入ってしまったようだが、やはりまだ今日の日付に到達するまでの道のりは相当ありそうだ。しかし今は相当疲れている。そして語っているのは君のことではない。今や誰もそれを求めていないようだ。だから終わるのは難しい。終わり方がわからず、何を終えようとしているのか定かでないが、何かが終わりつつあるのは間違いない。君はそれを誰に知らせようとしているのか。それともやはりそういう話ではないということなのか。何をどう語ってもそれは違うと思われる。相変わらず話になっていないようだが、誰がそれを楽しんでいるのか。そこで終えようとしている話の内容が文章中に記されていないのはどういうわけなのか。もとから話など何もないということか。たぶんそういうことだろう。話など何もなく、ここまで語ってきたことはすべて無駄だったのだ。何のために記された文章でもないということだ。だから逆説的に楽しいのか。嘘に決まっているだろうが、虚無と戯れるのは楽しい。要するに何もないのに強がっているということか。君はそこで何をもたらしているつもりなのか。無理を押し通すには精神力が弱すぎるか。目的がないのにそれはない。

 また無駄に言葉を連ねてしまったらしいが、反省するほどのことでもないだろう。今さら何を妥協したらいいのだろうか。言葉を記すのをあきらめてしまえばそこで終わりだ。それができないから今がある。たぶん何がどうあってもそういうことらしく、そういうこととはどういうことでもない。ただ無駄に言葉を連ねるだけだ。この世界で問われているのは、何をすべきかではなく、そこにどんな動機があるかでもない。ただひたすら始まりも終わりも定かでない話を続けることが、どのような結果ももたらさない原因となっているわけで、それについてどのように語っても、何がどうなるわけでもないということだ。そこで何が語られているのでもなく、誰が何を語ろうとしているのでもない。今の君は何も語れない。記されている文章に関心がない。だから読めないわけか。自ら記した文章を読む気がしないようだ。別にそれでもかまわないだろう。誰が反論したいのかわからないが、とりあえずはそれで言葉が記される。君が語っているのはそういうことでしかない。それで誰が困るのか。君自身が困っているのではないか。本当はもっとまともな内容を求めているはずで、それが求まらないからこうなってしまうわけだ。

 どうもなかなか普通の話に至らないようだ。今世間では何に関心が向いているのか。苦し紛れにそんなことを考えてみる。たぶんこの世界がどうなってほしいわけでもない。日々の糧を得るために仕事をして、余暇は娯楽に興じている。それで何が悪いわけでもなく、至って平和な時空の中に意識があるらしい。それを君はどうしようというのだろう。君はテロリストでも犯罪者でもない。何をどう考えていいのかわからず、困惑するばかりか。そこに目的が見当たらないのは果たして良いことなのか。たぶんそれでかまわないのだろう。他の何に凝り固まっているわけでもない。感情的に何を嫌っているとも思えない。ただ語っているのはそういうことなのだ。それは語り得ないことだろうか。いったい何について語っているのか。語っているのはそれだけのことだ。曇り空の下で何が行われているわけでもない。何かしら行われているのだろう。君はそんなふうにして言葉を繰り出している。別に音楽を四六時中聴いているわけではない。沈黙とともにエアコンの音がうるさい。それの何が気に触るのか。鬱陶しい天候にいらだっているわけか。そうだとしたら何なのだろうか。誰がそれを解決してくれるのだろう。君は何を解き明かそうともしない。たぶんそれは問題ではない。ただの気休めか何かか。意図的に何かをずらしているようだ。