彼の声72

2009年

5月31日

 またこんな時間となってしまったようだ。どこをほっつき歩いていたわけでもない。ピアノの弾き方が粘着質のようだ。それを何気なく聴いている。また文章にならない。そういうわけだからそれはそういうことだ。たぶんくだらないと思っているのだろう。それでかまわない。流れがそういう方向へ行っている。改めようとしない。簡単に改行してしまってはまずいのか。君のこだわりがわからない。その辺で道草を食っている。あり得ない成り行きに違いない。こらえきれずに笑ってしまうらしい。意味がわからないだろう。時間が進みすぎてしまったのだろうか。まだそれはないだろう。だからどこで改行してもかまわないのだ。わかっているのはそういうことではなく、話の中身がないということか。それでもかまわない。進む方角に君の行き先が見当たらない。架空の話だからそうなってしまう。少なくとも今はそうだ。それであきらめてしまう。そこで終わりなのだろうか。たぶんそうなってしまうのだろう。だから何でもない。

 そういう機会だったのだ。何に巡り会ったのでもなく、途方に暮れて虚無感を抱いているのでもない。わかっているのはそれとは違う。ことでもものでもない何かとは何だろう。あるはずのない言葉を探る日々が待っているだけだ。虚無感はそういうところからは生じない。その場に何がみなぎっているわけでもない。空疎な思いなど何も思わないのと変わらない。だがそういう断言が嘘なのだ。わざと嘘をついて、見え透いた言葉の並びに退屈している。わかっているのはそういうことだ。そこで見つめあっているのは地面と空ではない。何を避けているのでもなく、回避できない状況になりつつあるのでもない。成り行きはいつも通りに通りすぎる。立ち止まってはいけないらしい。また見え透いたことを述べている。君にはわかっているはずだろう。何を見せかけているのでもないことが知れている。誰に知れているわけでもなく、和気など何もないことを承服しがたいようだ。誰に同意を迫っているのでもない。ただ頭がおかしい。そう思われたいのだろうか。勘違いが生じているの場で居眠りの最中だ。君にはそれがわからない。

 何を終わらせようとしているのか。まさにその時ではないか。今ではない。時間が今になろうとしていない。聴いているのはジャズなのか。読んでいるのは何だろう。誰に呼ばれているとも思えない。何かが違うのは毎度のことだ。君にはそれがわかっているはずだ。理解できないことなど何もない。嘘に決まっているが、そう思いたいわけだ。その先に言葉をつなげられるだろうか。そう思えばそうなるだろう。たぶんその先に言葉が連なっている画面を目にしているはずだ。歌でも詩でもない。ただの音楽だと思っているが、一方でひたすら沈黙している。それが理解できないのだろうか。何となく雰囲気をつかめそうな気がする。わかりたいのはそういうことなのか。誰がそれを理解したいのか。また違うことを思っている。誰かはそれを記して納得したいようだ。まったく理解しがたい。何でもなければそうなってしまうのだろう。しかし誰がそれに興味を抱いているのか。話がどこかに逸れている。わざと外しているようだ。だから何を語りたいわけでもないと思いたいのか。何が込み入っているわけではない。何かこことは違う環境をもたらしたい。そのための努力がそれなのか。そういうところが理解しがたいのだろう。それでもまだ先があると言えるだろうか。言ってみれば言っていることに気づくはずだ。誰かが言いたいのはそういうことではないと思うが、思っているだけで、思い違いであってもかまわない。


5月30日

 他に何か付け足すことがあるだろうか。まったく的を射ていない。どこからも外れているようだ。相変わらず何を語りたいのかわからない。架空の騒音によってそれほど気分が害されているわけではないが、何となくそういうことらしい。それはどういうことでもないだろう。君は何を考えているのだろうか。そんなふうに語るべきではないのだろう。だが誰がそれらの結果に困惑しているのではない。それも間違った語り方に属する。そう述べて何を正当化したいのか。何を想像してもそうではないと思う。言葉は何を求めているのでもない。目的がないのだから、ただ記されるしかないだろう。君は何も求めないのか。君ではないから求めようがない。だがそういうのはおかしい。毎度のことながら、まともに語ることから逃げているようだ。どうもその辺で語る方向性を改めなければ出口が見えてこないような気がする。だが意識すべきはそういうことではない。では他に何を語るつもりなのか。

 わからないということはどういうことでもなく、たぶんそういうことなのだろう。また何かをごまかしている。何かが違っていることはすでに承知しているはずだが、どこへも定まらない意識は、その違っている何かを言葉に結びつけられない。いったい何がどうなっているのか。それが知り得ない何かだとは思えないが、相変わらず何を知ろうとも思わず、そういう成り行きだとは思わないだけだ。ではどういう成り行きなのか。無駄に言葉を記している。近頃はひたすらそうだ。それは逃げ出したくなるほどのひどさだ。それとは何だろう。状況は過去のいつかと似通っている。文章がまともな水準に達しない。君はそれも承知しているはずだ。それを理解できない。何を理解しようとも思わないのだろう。そんな状況で何を批判したいのか。心が世界から外れている。そこから何を見出すべきなのか。誰に尋ねているわけでもない。

 居眠りの最中にふと思う。たぶんそれは何かの合間だった。今は調和のとれた世界の中に意識があるらしい。今はそう思っているが、いつかは違っていたはずだ。いつかとはいつなのか。わかるはずのない問いに意味はない。そして気がつけば文章になっていない。また無駄に言葉が連なっている。まったくはまりすぎるくらいに虚無にはまっている。そんな現状を君は理解できない。いったい自らが何を語っているのか判然とせず、ただ闇雲に言葉を並べて、意味不明なことをつぶやいているわけでもないことが不思議に思われ、それが何に関する言説であるべきなのか知りたくなってくるが、実際に知ろうとしているのは君の意識ではない。それは何かの冗談だろうか。そういう逃げ口上はおかしい。何が逃げ口上なのか。前もって用意されていた言葉とは違っているかも知れない。よくわからないのだが、何かがかみ合っていないことだけは確かなようだ。


5月29日

 感覚がおかしいのは毎度のことか。今はそういう感覚ではない。状況を把握していないわけでもないらしい。では何が足りないのだろうか。言葉がどこへつながっていこうとしているのか。それは君には知り得ないことだ。また同じ結果が用意されているようだが、それを裏切ってはまずいのだろうか。おそらく何も考えていないはずだ。知らないうちに無駄な問いが積み重なり、君は自らが何を語っているのか理解したくないらしい。退屈な言葉の並びに戸惑いを覚える。だが何を復活させるべきでもないのだろう。今さら文章に修正を施すつもりにはなれないようだ。それは簡単な動作を要求しているらしい。思いつくべきことはそんな話ではない。意味不明にはなれないようだ。彼らは何を悔しがっているのか。君たちに託されているのは何でもない振る舞いの何かにある動作だ。嘘をついているのだろうか。今さら苦し紛れということか。しどろもどろになっているようだが、そこから何をもたらそうとしているのか。そこには近づき得ない何かがあるようで、それが虚無だと述べてしまえば話が早いが、わかりやすさと引き換えにして話がつまらなくなり、何となくいつもの成り行きに従っているだけのようになるだろう。それではまずいのだろうか。

 危うい均衡の上に誰かの精神が築かれていて、その脆い心を打ち砕くには造作もない。しかしそれは何かの切れっ端だろう。だいいち話になっていないではないか。君は何について説明しようとしているのか。それでわざとらしい印象を拭えなければ、言葉の薮から飛び出して、理路整然とした物言いを目指せばいい。今さらわかりきったことを述べないでほしいか。君にはそれらの文章をどう取り扱えばいいのかわからない。たぶん何かに逆らいながら言葉を並べているのだ。誰かが記している。意味を見出せず、苦悩しているふりを繰り返す。そんな馬鹿げた行いの一部に何かが宿る。ひらめきがあるらしい。見上げているのは夜空ではない。何をどうすればそうなってしまうのかわからない。理解しようとしても無駄だ。必死の努力も水泡に帰すはずだ。まったくいつまで画面とにらめっこをしているのか。印象とは何だろう。その時の印象を言葉の連なりがとらえているとは思えない。やりたいことはそれとは違って、誰かを破滅させようと企んでいるのではない。まだそこまで計画が行っていないのだろう。何かの途上で横道に逸れ、常軌を逸しているわけではないが、何となくそれでかまわないと思っている。本当にまだその先に言葉が連なっているのだろうか。何が本当で何が嘘なのか。

 馬鹿げた行為に興じているらしい。別の時間帯ではそうなってしまい、今も正気に戻っているわけではない。苦しみとは何なのか。それらのどこに何があるのだろう。何かの管理下に言語的なシステムがあるということか。だが言葉が意味的につながらない。何を説明しているのでもない。わかりにくいのは文章として意味が通っていないことによる。主な原因はそういうことだ。だがそれだけで説明がつくだろうか。わざとそんなふうに述べているのではないか。いつまでたっても同じことの繰り返しだ。君には耐えられない状況か。退屈で死にそうか。何をどう語っても違うような気がする。ならばその辺でやめた方がいい。


5月28日

 静かな夜に誰かが音楽を聴いている。今日は苦し紛れの言葉ではないらしい。さらにメインストリームから外れてしまったのだろう。気まぐれに何を語っているのか。さっきから当てもなく言語空間を意識がさまよっている。それも嘘の類かもしれない。事の真相を知りたいわけではない。誰がそれを知っているとも思えず、何も知らないわけではないが、何を知っているわけでもない。知りたいことや知り得ないことに興味があるわけではないらしい。それは知りたいことではないらしいが、何となくその気もないのに知り得たことなのかもしれない。だからそれを語らなければならないというわけでもなく、何も語らなくてもかまわないのかもしれない。何かが足らない。気分は最悪か。そういうことではなく、語るべきことではない。雰囲気が違っているらしい。語るべき内容ではない。そういうことだろうか。それともそれも違っていると思いたいのか。それでも君には未来があるらしい。冗談の未来だ。他には何も見当たらない。君はそれで満足しているらしい。未来の何に満足しているのだろう。それは誰かの想像にまかせよう。

 ストレスを感じないうちに先を急ごう。君はどこからでも無関係な言葉を持ってくる。何を語っているのでも記しているのでもないが、とりあえずそれらの言葉を並べてみないことには何とも言えない。たぶん急ぎすぎているのだ。焦っている。そして何を語っているのか。この世界の中で何を優先すべきなのか。言葉を並べるのを何よりも優先させて、空疎な雰囲気をもたらす。何もとりとめがない。そんなはずではなかったと思いたいのか。頭の中で何かがずれているのだ。今までそれを放置してきた代償がこういう事態なのだ。何がそうなのかはっきりしないが、意識の中では怠惰に負けていることがはっきりしている。いつの間にか学ぶことを放棄しているらしい。気短になっているのだろう。いったい何を排除できないのか。意識的に何をどうしようとしているわけではない。馬鹿げた理由でそこを離れられないのだろう。事態を説明するだけではどうしようもない。語るべき方向性を誤っているのかも知れない。しかし何について語りたいのでもない。目下のところはそこが欠陥を構成しているわけだ。そことはどこだろう。そう述べてしまうことが間違いなのか。それでもかまわないと思っているようだ。

 たぶん学ぶべきはそういうことではない。君は自らの失敗から学ぶことを怠っているようだ。そう述べるのは簡単だが、実際に何を失敗しているのか。心当たりは何もない。本気でそんなことを述べているのではないようだ。何かに見限られているらしい。客観的に見ればそういうことだ。それでも君はそこから学ぼうとしている。さっきの言説とは矛盾しているのだろうが、結果的にはそういうことなのだ。今の君に何がわかるわけでもない。それは懐かしい響きに思えるが、どんな音楽を聴いているわけでもない。だからもうその辺でやめてしまったらどうか。またそのフレーズに出くわしてしまったらしい。もう聞き飽きた言葉か。そこで誰が何を問うているのか。問われるべき言動を知らず、どんな言説を操ろうとも、取り立てて何を主張しているのでもないようだ。君はそれで満足してしまっているのか。だからもう何を讃えようとも思わず、肯定すべき事象を知らず、ただの流行り廃りとしか見なさない。それでかまわないはずだ。すべては移ろい行くことしかできない。その時々で何を思ってみても忘れ去られるだけのようだ。


5月27日

 困っているのは他でもない。この世界はいつまでたってもこの世界のままだ。それが気に入らないのだろうか。君には何もわからないだろう。話になっていないからわからないのだ。たぶん話を省いているのだ。それが誰かの意図するところか。またわからなくなる。何かが違っているのだろう。わけがわからないようだ。考える能力が減退しているようだ。まだその先があるとは思えない。いったい人は何について考えるべきなのか。そういう問いが間違っていることは承知している。まだその先があると思うことがおかしいのだ。何もないのにそう思い込もうとしているわけだ。まさか国家や民族や宗派に分かれて対立や抗争を繰り広げている人々に同情したいわけではない。それが何もないこととどうつながるのか。実際に対立や抗争に明け暮れてみないとわからないのだ。当事者にとってそれは切実な問題であり、端からみればくだらぬこととしか思えないことであっても、そこに暮らす人々とっては命がけであったりするわけだ。それほどまでに不寛容にならないと、ある特定のアイデンティティーを維持できないのだろう。集団を形成して、その集団に対する帰属意識を持っていないと、その地域では暮らしていけないわけだ。それが不具合の最たるものだとみなすならば、そういう人間社会特有の構造を取り除くことが可能なのだろうか。なぜ取り除かなければならないのか。それが不具合だとは思わないから、取り除く必要性を感じないわけだ。ならばそこで行われている対立や抗争を人々は永続化させたいわけか。そうは思わず、誰もが平和な世界を望んでいるのだろうが、自分たちが持っている国家的民族的宗教的なこだわりを捨て去ることができないから、平和を実現することが困難となっている。

 人々は互いに何を競い合っているのだろう。それは何かのゲームの中で行われていることか。ゲームには違いない。そしてゲームに参加しなければ生きているとはみなされないのだ。それは浅はか極まりない認識には違いないが、君が何をどう思っていようと、否応なくゲームに参加させられている。そんな競い合いのゲームから降りてしまえば、また別のゲームに参加させられていることに気づくはずだ。それはいつまでもどこまでもエンドレスで続く競い合いなのだろうか。そう思っていればそういうことになるのだろう。そして次第にそれが冗談に思われてきて、何となく本気になれない自意識の有り様に気づかされる。たぶんそれはゲームではない。誰と何を競い合っているのでもなく、その代わりに君は何かをあきらめているのではないか。そこには何者にもなれない君がいる。この世はゲームではないのだ。


5月26日

 空は曇っているようだ。世界のどこかで洪水が起こっている。ニュースが伝えていた。ありふれているだろうか。眼差しは遠くへ向かうだけか。何を見ているのだろう。今さら何を選べるわけでもない。では誰かの情熱をどうしようというのか。影響を見定めている。これから何をどうしようというのだろう。教訓を学ぶべきではない。もたらされた結果が何かが起こるのを妨げている。いったい何がもたらされたのか。誰がそこで立ち往生しているわけでもない。では何か困ったことでもあるのだろうか。この世界に何をもたらそうとしているわけでもないことが気に入らないのか。君がそれを知りたいわけではない。誰もそんなことを知りたいわけでもない。たぶんいつものように面倒くさいのだろう。それを語るのが億劫だ。しかしそれで済むようなことではないらしく、そこで何かを提示しなければ話にならない。君はそこから何をどう語るつもりなのだろう。別に何を困っているわけでもない。

 どうも何を語ろうとしているわけでもないようだ。何も妙案を思いつかないだろう。そしてそんなふうに語っているわけだ。今は夜だ。昨日にも明日にも夜がある。そこに不具合が生じているとは思えない。たぶん何とも思わないのは君ではないのだろう。話になっていないようだ。それらの状況については何とも言えない。まだ日付的にはその時に来ていないのではないか。破滅はまだ先のことか。そういうことではない。それについて語らないことで、君は破滅し続けているのではないか。日々そうなのだ。結局は何について語っているのか不明のままだ。人はなぜ語るのか。人でなければ語れないわけか。気分がどこかをすり抜けて、どこへ行き着いたのか知らないが、取り合えずそんな按配で、誰かが言葉を記す。それが不満の原因を形作り、それではいけないと思う。どこかへ言葉が散っていくらしい。それはこの先の成り行きになるのだろうか。何だか楽しくないか。

 それが思い違いの原因なのだろうか。誰かは君に何を託しているのだろうか。継続への意志ではない。いったい何を続けようというのか。それが君にわかるだろうか。外では雨が降っている。たぶん君はそこから語りだすのだろう。偽りの成り行きではそうだ。何とかしようと思っている。できるものならやってみたらいい。しかし退屈で死にそうだ。それは誰かのつぶやきとしてはふさわしくない。君は常にそれを超えることを求めているはずで、何を超えようとしているのかわからないが、冗談には違いない。逃げているのだろうか。どこから逃げているのか。何からの逃亡者にもなれない。実際はそうだ。偽りの世界では違うと言うのか。誰の言説にもなりはせず、それらは意味不明な言葉の連なりとなるだろう。誰がそれを記しているわけでもない。ただそう思いたいだけかも知れず、それに関してはどのような判断もくだせないでいるらしい。またいつもの行き詰まりか。そう思ってもらって結構なのかもしれない。


5月25日

 まだ時間があるのだろうか。それは何をするための時間なのか。それは誰の時間でも何をやるための時間でもない。実際につまらないことを述べているようで、堪え性がない。急に意識が遠のいて、気がつけば翌朝になっている。昨日のことは忘れてもかまわないが、無理に忘れようとしているわけではない。ただわけもなくそんなことを述べている。誰が述べているわけでもなく、誰かがそんなことを記している。たぶんそれは違うと思っているのだろう。君は何を語りたかったのか。昨日のことは覚えていない。それは昨日ではなかったのかもしれない。心が現状に合っていないようだ。思っているのはそういうことではない。この世界のどこかで誰かが何かをやっている。何かを思い、何かを考えている。興味を覚えるようなことではない。

 いったい何が違うのか。何も違わない。そんなことではないのだろう。相変わらず架空の空は晴れている。それは朝のことで、昼には曇っている。それも嘘なのか。何が嘘だったのか。日々は来るべき未来とは違う。たぶんそこには何もない。そこは架空の場所だ。これからの世界には何も必要でない。すべてがフィクションだからか。自由とは何なのか。誰もがその場を行き来する。君にはそういう言葉の並びがまったく理解できない。それが何かを物語っている。誰もが盲目であるはずがない。誰かは何について何を語るつもりなのか。すでに語っているそれらは余分な何かだ。その何かによって別の何かがもたらされ、誰かを困惑させるだろう。さらに意味不明だが、君はすでにそれを語っているらしい。

 心の中では戯れ事の最中だ。誰かは言葉を記しているだけで、君は依然として話の中では誰でもない。はたしてそれも冗談の続きだろうか。実際には話など何もない。しかし画面の中からこちらをにらんでいるのは誰なのか。ファンキーな表情だ。トランペットを吹いている。それが誰かの顔なのだろうか。君に文章を構成する能力はない。だんだんそんな気がしてきて、あきらめてしまいたくなる。そんな話ではなかったのだろう。誰もそこから飛翔できずにいるようだ。結果はすでにわかっている。君はどこへも逃げられなくなり、それからどうなるのだろうか。


5月24日

 どうも言葉がまとまらないようだが、話の中では偽りの季節だ。面倒くさいのでいつもの台詞が記される。今日も何もない。今日ではないのだからそれでもかまわないか。それは技巧ではない。何でもないことだ。それらの何を語ろうとしているのでもない。どこかで誰かが返答に窮している。別にそれほどの行き詰まりでもないはずだ。それも偽りの話なのだろうか。何かが定まらないようだ。まともな返答を期待しているわけではなく、何を問いかけているのでもない。では何を語っているのか。それがわからなければそこでおしまいのようだ。空疎なことを記している。とりとめがないようだ。まったく言葉が出てこない。そういう話だからその通りなのだろう。何がそうなのではなく、ただそういうことなのだ。それで何を述べているのでもない。そこで君は何かを放棄している。何も語ろうとしないだけか。妄想など抱いている暇はない。

 簡単に話の継続をあきらめてしまう。いつも決まってそんなことを述べている。君は遠ざかる方向を間違えているようだ。本当は何をあきらめているわけでもなく、それらの不完全な文章を改めたいだけだ。それが嘘だと思われる。まったく話になっていないようだ。それが君にどんな勘違いを生じさせているというのか。たぶんそういう話でもない。ならばもう少し考えるための時間が必要なのか。いったいこの世界には何が必要とされているのか。それは唐突な印象を否めない。

 どこに目的があるわけでもなく、何を目的としているのでもない。ではなぜ人がドラマの中に出現するのか。ありふれた歴史上の登場人物として彼らは何を語っているのだろうか。そこには何らかの雰囲気があるらしい。予定調和の成り行きに染まりながらも、必死にそこから抜け出ようともがき苦しんでいるのだろうか。脚本通りに言葉を発しながらも、それらの演技によって何か適当なことを訴えかけているわけか。しかし主張とは何なのか。冗談の他に何がもたらされているのか。君はいつまでも単純な物語の成り行きに心を奪われている。たぶん他の誰かが何かに気づいて、それに関する見解でも表明するのだろうが、それがおもしろいか否かはこの際関係ない。君は君なりに試行錯誤を繰り返していればいい。


5月23日

 昨日と同じ感覚だ。それはあり得ない出来事かもしれない。誰かは曇り空の下で何を考えているのだろう。たぶんそれらの出来事についてではない。君はそこで立ち止まる。何とも思わないからそんな成り行きになってしまうのだ。何について述べているのかわからない。何を思うこともないだろう。それほど危惧すべき成り行きではない。またずいぶんと遠回りしてきたものだ。何も思いつかないのにここまで来た。来た意味がないではないか。だが他に誰がやってくることになっていたのか。さらに意味がわからなくなり、そのとき何を語っていたのか思い出せなくなる。たぶん君に関する話ではない。

 誰かが何かを葬り去ろうとしている。よくある話でテレビドラマになったりすることだ。しかしそれで何がわかるのか。君は誰に葬り去られているのか。誰でもない君なのだから不特定多数の君を想定してもかまわないだろう。また言葉がとっちらかってしまうわけか。そして空疎な話がさらに短くなってしまう。それははじめから想定していたことだろう。わからないのはそういうことではない。たぶん誰もがそこから外へ出られない。君は何かに気づいているはずだ。そうではないことに気づいている。

 メッセージとは何なのか。君たちは誰に何を伝えたいのだろうか。今さらわかりきったことを問わないでほしいか。君はそれらの話の続きを知っている。知っているからあえて話そうとしないのだろう。理解すべきなのはそういうことではない。何に浮かれているわけでもなく、楽しそうに画面を覗き込んでいるのは君とは別人だ。だからわかっているのはそういうことではないらしい。君にそれについて語る機会が巡ってくるとは思わない。

 もう少しマシなことを述べてみないか。建設的な提案を拒絶する理由をしりたいのか。それは誰の提案でもなく、気まぐれに思いついた何かの抜け殻だろう。中身がない。何を忘れてしまったのか。それは昨日の出来事になるだろうか。明日であってもかまわない。君が何を悩んでいるとも思えず、誰がそれを記しているとも思えない。知りたいのはそんなことではないらしい。人は他人を傷つけ喜んでいる。心はどこにあるのだろう。そういう話しかないようだ。しかしそれの何が残酷であるわけでもなく、楽しいのが気に入らないのはよくあることだ。


5月22日

 どうもそういう話ではない。やはりいつものパターンにはまってしまったらしい。それが何だかわからないが、わかっているのはそういうことだ。また内容が空疎になってしまうわけか。気が抜けているらしい。まったくこの世にはどうでもいいことが多すぎる。そのひとつがそれらの文字列か。だからといって何も自虐的になる必要はない。からかい半分で書き込んでしまうわけか。そのせいで精神の均衡を失いかけているようだ。まったく愚かな行為だ。しかしなぜそこでよろけてしまうのか。続けようとする意志が薄弱だ。だからあきらめてしまうわけか。そうなってしまったらおもしろい。そしてまたそんなところで立ち往生か。もう夜になっているようだ。わかりきったことを尋ねないでほしいか。何を語ろうとしていたのか。それほど何も思いつかないわけではない。だから君がそこに現れたのだろう。受け付ける質問は限られていて、それ以外は誰が答えるのか。

 持ち合わせている詩には限りがあるらしい。それは死ではない。ただそう思いたい。君が何を思っているのか定かでない。少なくとも今のところはそうだ。それは何かのだじゃれだろうか。架空の言葉に心が触れているわけではない。手のひらにかかれた文字は読み取れない。何かが消えかかっているのだろう。別にそこから何を読み取ろうとしているわけではない。ただそうする理由がわからないだけだ。なぜそんなふうに事態が推移してしまうのか。それらのトリックにもレトリックにも魅力を感じない。だからやめてしまったのだろう。そしてわけがわからなくなる。それがいつものパターンになってしまった原因のようだ。

 何を信じていたのだろう。皮肉な結果になってしまった原因を探りたい。誰がそんな疑念を抱いているのだろう。誰もがそう思うところか。何もないのだから疑念も何もありはしないが、架空の話だからそんな具合になってしまうのだろう。結局何もわからない。わからないからやめた方がいいのかもしれない。


5月21日

 話の途中でそれを思い出せなくなる。やはり何がどうなっているわけでもなく、相変わらず空疎でとりとめがない。意識がそう思っているのだろうか。そんな精神状態では、たぶん人が人でいられるはずがない。人でないからそうなってしまうのだろう。意味がわからないだろうか。記された言葉に矛盾を感じるからそうなってしまうのか。わざとそんなことを述べているのだろう。それでもその先に言葉が連なるようだが、それを可能としているのがそれらの意味不明か。だが君にはそれがわからず、わかりようがない。そういう成り行きを誰かが文章の中でねつ造していつようで、それに疑念を抱いた別の誰かはそれとは異なる方向性を模索する。まったく話になっていないようだが、それでかまわないのだろうか。そういうわけにはいかないだろう。どこにかに歯止めが必要となる。行き過ぎた空虚には何らかの埋め合わせが必要か。誰かはそれを望んでいるわけか。何を望んでいるわけでもなく、そう述べるのはただの字数稼ぎと思われるようで、そんなことを記している自らに対する嫌悪感が生じてしまう。ただわけがわからないという実感だけが何をもたらしているのだろうか。何かとは何なのか。

 そんなわけでまた予定調和の展開になるらしい。虚空にはさらなる空疎が出現している。それは文章だろう。それでも人は自らの言動によって利益をもたらせると信じているわけか。そもそもそれの何が間違っているのか。何が間違っているとしても、主張の正しさにこだわるほどの内容ではない。どこまでも空疎な文章だ。それどころか何も主張が見当たらない。君はそう思い込みたいだけなのだろう。本当は違う。ただ言葉を記す行為が誰かの想像力を奪っているだけだ。それはもはや末期的な状況だろうか。もう終わりが近いということか。だがそれは何の終わりなのだろう。言葉を記す行為の終わりか。そうなったらどうなるのか。しかし仮定の話ではつまらない。終わり得ない状態が終わりの時なのだ。真の終わりとはそういうことか。たぶんくだらぬ冗談なのだろう。終わりではなく始まりなのかもしれない。では何が始まっているのか。冗談の続きが始まっているらしい。そんなわけで君はひたすら空疎なことを述べている。

 それがねつ造され、もたらされた結末なのだろうか。何によってもたらされたのか。誰かは考えあぐねている。答えを導きだせない。焦っているのだろうか。焦りすぎて我を失い、それがフィクションであることを忘れ、そこから先に架空の世界が広がっていると思い込む。しかしその中身を見いだせず、何かを見失っていることから見えてしまう幻影とともに、ありふれた状況とともに空疎な内容をもたらす。君にはそれがわからないのだ。その場の安っぽい雰囲気に呑まれてしまっている。そしてくだらぬ感情に導かれ、自らが誰かに無視されていると思い込み、嫌な気分でその場を立ち去る。その後ろ姿が何を物語っているのか。それは馬鹿げた幻影を連想させ、物語の中へとその身を溶け込ませ、跡形もなく風景の一部と化すだろう。もはや心などありはしない。


5月20日

 なぜか判断の外に何かがあるらしい。また画面の前で架空の笑いが現れているようだが、それは意味不明な嘘だ。それの何がおかしいのか。誰かは朝から眠いのだろうか。だがすでにもう夜だ。昼は仕事をしていたはずだ。そんなことはわかっているが、未だに何を語ればいいのかわからない。誰かの代わりに架空の誰かが語っているように装いたい。たぶん無理だろう。仮に可能だろうと、それは定まった表現とはいえない。基本的に文章の内容が空疎だ。たぶんそれが基本ではないのだろう。それほどいらついているわけでもない。思うように言葉を繰り出せないか。たぶんそれがわからない。何もないのだからそういうことになる。気持ちが続かないようだ。やはりわからない。何を語っていたのだろうか。そういうことではない。たぶんどういうことでもないだろう。君がどうにかしなければならない。どうにかしてしまうらしい。誰かにはそういう能力があるのだろう。現実には誰でもないのに誰かという言葉を使って、何か適当なことを記している。それだけなのだろう。それ以外は何も語っていない。ただ単に言葉を並べているだけか。

 それであきらめてしまったのだろうか。別に命がけなどではないが、まともに語るのをあきらめてしまったのかもしれない。何かのバランスがとれていない。何がそうなのかわからない。言葉を並べるほど内容が空疎になる。それが偽りの嘆きを誘発しているわけか。それとも誰かはまだあきらめていなかったのだろうか。決して同じことの繰り返しではない。それは何かの幻想だ。意味不明のまま語り続ける。何がそうなのだろうか。君たちは何を主張しているのか。もういい加減にあきらめてほしいというわけか。ではそこにどういうわけがあるのか。無為自然を愛しているわけではない。たぶん恣意的な動作ばかりなのだろう。何とか思い通りに事が運ぶようにしたいらしい。それが浅はかなやり方をもたらしているのかもしれない。そして気がつけば取り返しがつかない過ちを犯して、どうにもならなくなり、結局は継続をあきらめてしまうわけだ。それが何の継続なのかは誰かの想像にまかせよう。そしてさらにいい加減な語りを試みている。それでも何かについて語ろうとしているようだ。君はそこから遠ざかれない。今はそれだけのことにかかりきりなのだ。それ以外に何も思いつかなければ何も語りようがないが、言葉を並べることは可能だ。実際にそうしているのだろう。今この世界にはそんな状況があるのだろう。そこには誰かに関する謎がつまっているのかもしれないが、今のところはどうしたこともない。そこで君が何を思いついたか知らないが、そんなことは無視されながら、言葉が闇雲に連なっているのだ。誰がそれを肯定しているのでもない。ただもうあきらめてしまったことだけは確からしい。


5月19日

 この世界には何もなく、誰も何ももたらせないだろう。そしてそれは貧窮の時を形成しているのではなく、そこで誰が何に耐えているのでもなく、誰かの意識が退屈にやられているわけでもない。また誰が勝手気ままに生きているわけでもない。まだ人々の意識がそこまでいっていないだけで、何をどうしようと、どのような試行錯誤を経ようとも、どこへも到達できないだろう。いったい君に何ができるというのか。無理してそれを知りたいとは思わないが、知らなくてもかまわない。君にも誰にも知り得ないことがあるらしい。曇り空にも理由がある。探そうと思えばそれなりの理由も出てくる。君は何を探しているのだろう。誰かが言葉を連ねる理由だろうか。言葉を記しているのはそれを続ける理由があるからだ。それがまともな理由かどうかわからないが、理由があるにはありそうで、それが明かにされないにしても、何となくわかる人にはわかってしまうかもしれない。誰かは今日の日付に追いつくために言葉を記しているのだろう。たとえそれが嘘であろうと、理由と仮定してもかまわないようなくだらなさをそれらの文章がまとっている。ただ単に意味がわからないだけだろう。誰かは意図していることを文章の中に示せない。そしてその結果としてわけがわからないことが記されている。

 たぶんわからない。わかりようがないのかもしれない。また言葉があらぬ方角へと迂回している。それはありえないことだが、一通り何かを無駄に記さなければ架空の意識が納得しないだろう。そんなわけで何かの途中から何かが適当に語り始める。往生際が悪すぎて、回りくどすぎる言葉の連なりになってしまうらしい。主観的にはそう思われるのだろう。あり得ないことがあり得ないように語られて、誰かを戸惑わせるが、それも予定調和の範囲内で繰り広げられている展開になるだろう。実質的には何を述べているのでもなさそうだが、それでもまともに語っているつもりなのだ。君はそこから退けないわけだ。その場から退場するわけにはいかないのだろう。ひたすら何かについて語っているつもりになりたいようだが、その何かが思いつかない何かであり、何でもない何かなのだろう。後に退けないことが空疎な語りを誘発する。何でもないことを何でもないように語るわけにはいかないらしい。語りたいのはそういう内容ではないのだろう。しかし同じような言葉が無駄に循環している現状をどうすることもできない。それはまるで同じ内容を繰り返し連呼しつづける地震速報のアナウンサーのようだ。たとえがずれているだろうか。それでも君にはわからないだろう。何がわかりようがあるのかを知りたいが、それはわかる必要のないことかも知れず、結果的にはどういうことでもないのだろう。だからその辺でやめておいた方が良さそうだ。


5月18日

 たぶん今日は何もできないだろう。そんな成り行きになってしまうような気がする。だから気が向いたらそんなことを述べてみたらどうか。いつもながら話になってない。それが違うと思われるか。君の勝手にはいかないということだ。誰の勝手にもなりはしないだろう。どこかで絶望的な戦いが繰り広げられているようだが、誰がそれを眺めているのでもなく、それも何かの冗談なのだろう。君はそんな言葉の連なり方をおもしろがっているようだ。まったく誰に何ができるわけでもない状況とはこういうことを言うらしい。だから話になっていないわけだ。それでも毎度のことながら言葉が連なる。何がそれを許しているのか。おそらく虚無ではない。君に許された時間をとっくに過ぎている。いったいどこに限界があるのだろう。それらの成り行きが何かの余裕を奪っているらしいが、意識はまた別のことを考えている。だがそこから何を語るわけでもない。今日の空は曇っているようだ。何かにかこつけてそんなことを述べているのではなく、ただ言葉を失うような成り行きでもない。気がついているのはそれとは無関係の雰囲気であり、それらの何が何でもないわけでもなく、たぶんさらに何を語ろうとしているわけでもないだろう。だからその辺でやめなければならない。

 意味のない話ならいつものとおりだ。滞りなくそんなことを語る。そんな成り行きの中に何か別の成り行きをもたらすきっかけが潜んでいるのだろう。だがあまり長くはもたない。どうも言葉のめぐり合わせが悪いようだ。他に何を繰り出しているとは思えないが、状況は君に何を語らせようとしているのか。たぶんそれはないだろう。何にこだわっていようと、それが何になるわけでもない。君を戸惑わせているのは、人の行為が人をどこかに追い込んでいることだ。なぜ人は思いもしないところに追い込まれてしまうのか。たぶんたいしたことではないのだろう。どこに追い込まれようと、それはひとりよがりにしか結びつかないからだ。くだらぬこだわりを捨てきれず、それが個性だなどと開き直って、何かをゴリ押ししてしまうのだろうが、結果はいつものとおりだ。くだらぬことをやっている自らに気づくだけか。気づくだけマシな方で、場合によっては気づかぬまま、ひたすら無駄な悪あがきを続けていることもある。

 しかしそこからどこへ行くのだろう。気の赴くままというわけには行きそうもない。それほどの自由度は感じられず、成り行きはいつも決まって同じようなことの繰り返しになってしまうが、それが何を意味するわけでもない。君はどこまでも君であり、君が語ろうとする内容も決まって空疎だ。それでかまわないわけだ。今でもいつでもいつかでも、語る意義を感じられず、語らない勇気もない。だから君はそこで挫折する。だがそれで何がどうなるわけでもなく、君は至って君のままで、誰かはいつまでも言葉を記す。誰の自意識は崩壊せず、今日も何を追求するわけでも探求するわけでもなく、それらの空疎な言説を記しつづけ、いつ果てるともわからないそれらの成り行きを黙って眺めている。まったく感動からは程遠いが、何に感動したいのかわからない。この世の出来事はくだらないままだ。自分たちの思いをゴリ押ししたい連中はいくらでもいて、盛んに感動の押し売り状態を維持しようと何かを画策している。たぶんそれを押し止めるには、誰かの力は及びそうもないだろうが、それで何がかまわないのか。


5月17日

 何かの先端をつかみ、指先に針が刺さる。痛いだろう。どうやらそれで目が覚めたらしい。急いで止血をして、慌てていい加減に考える。何を空想しているのか。またどこかで無理が生じているようだ。無理に言葉でも繰り出しているのだろう。それはいつものことだ。何か変わったことをしているわけではない。君には何ももたらせない。それが誰の口癖だとも思えない。それらのどこで何が止まっているとも思えない。この世界がどうなっているわけでもなく、君の頭がどうかしているとも思えない。まだそんな取り返しのつかないところまでいっていない気がする。それは誰かの思い違いだろうか。君はそこで何かを見逃しているはずだ。それは何かの現象なのか。しかし何をそんなに急いでいるのか。まだ何らかの可能性があるはずだ。それは何かが変わる兆しだろうか。何を感じ取っているとも思えない。怠惰にまかせて言葉を記している。たぶん語られているすべてはそういう話なのだろう。君はそこで挫折する。それはこの世界がどうなっているわけではなく、君がどうかしてしまったのでもなく、ただの沈黙が辺りを支配しているに過ぎないことだ。それがどうしたのか。そしてジャズを聴いている。素っ気ない音楽だ。だから言葉を記すのをやめて漫画を読むほどのことでもない。何も理由になっていないようだが、語るのに理由はいらない。内容が空疎ならなおさらだ。誰かが見極めようとしているのはそういうことではない。君の存在自体がどこまでも空疎なのだ。それで何がどうなるわけでもないが、やはり何を語るべきでもないのかも知れず、そこに何を生じさせるつもりもないだろう。

 そして期待は忘却に変わり、何もなかったことになってしまうだろう。本当はそういうわけにはいかないのだろうが、面倒くさいので今はそれでかまわないのだろう。これ以上は話など何もない。君は君であるために何をやっているのか。もう君ではないとは言わせない。冗談でそんなことを述べているわけだ。今は違うのだろう。何が違うのでもなく、そういうことを述べている現状があるらしい。だからそれが冗談なのだ。君が語っているのはそれの続きだ。何に続いてそういう成り行きになったわけでもなく、たぶんそれが続きなのだろう。誰が何を期待していたわけでもなく、そこに何があるわけでもない。そこにあるのは言葉だ。貧相な言葉が連なっている。君はそれで何を期待していたのだろう。言葉の他に何があるというのか。君はまだあきらめきれずに、その先に言葉をつなげようとするが、内容は空疎なままで、まったくの期待はずれだ。それでかまわないのだろうか。今はかまわないだろう。今でなくともかまわない。そういう成り行きなのだから、それを受け入れるしかない。君はそこで挫折する。


5月16日

 何となく何も思わないうちに時が流れ、無駄に時を過ごしているとは思えないが、夜になっているようだ。それでも何を後悔しているとも思えない。状況を把握していないわけでもないらしい。現状はわかっているはずだ。とりあえずいつものように言葉を連ねている。特定の誰が何を述べているとも思えないが、そんな風にして言葉が連なっていくわけで、それはいつもの成り行きに違いない。何を逸脱しているわけでもなく、ただの文章を記しているつもりになり、それがどうしたわけでもなく、心に重荷を背負っているとも思えない。それはおかしな表現だ。君はそこで何を把握している気でいるのか。たぶん冗談を述べているわけでもないのだろう。ごく当たり前のことを述べているようだ。そしてどんな反応を期待しているのでもない。だがそれは何に対する反応なのだろう。誰かは空疎な話の内容に関して何を述べられるだろうか。この世界には誰もいない。人がいるかもしれないが、それは幻影の類だ。だから何も驚くには値しないだろう。君はすでにそこから遠ざけられているのだ。たぶん今さら何を語る必要もない。ところでアレルギーの方はどうなったのか。快方に向かっているのだろうか。君が語る内容ではない。

 改行してからおかしい。言葉が続かないのに日付は更新される。それが当たり前の成り行きだとしたら、今までのあれはいったい何だったのだろうか。たぶん何ももたらせない状況に変わりはないのだろう。それでも誰かが記しているそれは文章である。そこにどんな秘密が隠されているわけでもなく、ただの言葉の連なりが記されているだけだ。要するにそんなことばかり述べている。足をひねったのだろうか。足首が痛い。誰かが他に気づいているのはそんなことだ。それで何をもたらすことができるだろうか。あきらめてはいけないらしいが、何もない現実に変わりはない。ところで国家に関する見解はそれからどうしたのだろう。興味を抱けない対象ではないはずか。誰かにとってはそうかもしれないが、君にとってはどうでもいいことの範疇に入りそうだ。では何を語っても仕方がない。君の見解など聞きたくもないか。ではいったい誰が語るのか。何を迷っているのだろう。冗談で何を語る気にもなれず、冗談ではないとは思えない。どっちでもかまわないのだろうが、どっちにしても興味を抱けない。だから今はそんな風に語るしかない。君にとってはどう語ってもリアリティを持ち得ない。ならばそこで終わりか。何を終わりにするつもりなのか。

 たぶんまたしても君はそこから遠ざかるつもりなのだろう。意味がわからないが、それは逃避願望か何かか。だが君にはそれ以上の何かが求められている。誰がそれを求めているわけでもないが、何か驚きが欠けているような気がする。語っていることのすべてが予定調和なのだ。しかしそれがわからない。具体的にそれはどういうことなのか。何か気晴らしにそんなことを述べているだけのような気がする。だからな荷も予定調和でない。空想しているのは些細な物語だ。その物語がどうなったわけではないが、誰かはそれらの空疎な内容に呆れている。なぜそうなってしまうのだろう。何も語らないうちから言葉が連なってしまう。そんな精神状態で、いったいこの世界の何ついて語ればいいのだろう。それでもこの世界はある。世界があることに何の理由も見出せないが、映画の中で誰かが何かから逃げている。よく見れば必死の形相だ。時間に追いつけないのは今に始まったことではない。それは時間なのだろうか。理由の定かでない問いが連なる。しかし何を手加減する必要があるのか。君は空疎な文章の中にも何かを見出すだろう。別にそこで眠気をこらえているわけではない。たぶんまだ救いの時がやってくると思っているのではないか。では何を信じているつもりなのか。神が存在する以前に虚無がある。


5月15日

 切羽詰まって追い込まれているのに、なぜそれほど冷静でいられるのか。もう誰かは継続をあきらめてしまったのかもしれず、それが勘違いや思い違いであるかもしれないが、あきらめたことでようやく虚無から遠ざかれたような気がするらしい。危機が間近に迫っているとは思えないが、映画の中では誰かが命乞いをしている。たぶんそれは夢に見た光景ではない。案外冗談の続きかもしれない。まだまともに映画の話をしていない。今誰かがテレビで見ているのだろう。それはまったくの冗談だ。面倒くさいからそうなってしまうのだろう。心を開いていない。それに関して何を考えているのでもない。他に何か気になることでもあるのだろうか。他ではなく、何も考えられないことが気になっている。時の流れを止めることはできない。それは架空の話だろう。何を思いついたわけではないが、なぜか笑っているようだ。おかしいのは誰のせいでもない。そして考えているのはそういうことだ。まだそこから言葉を連ねられるだろうか。何も語っていないわけではない。

 人々は制度によって生かされている。喜怒哀楽の感情も制度によって制御されている。しかし制度とは何だろう。それらの何が制度なのか。君は制度らしき概念について、何か利いた風な見解を持っているわけか。国家間における軍拡競争や経済競争やスポーツなどの競い合いは、それぞれ分けてその善し悪しを判断すべきか。スポーツや経済的な発展などの平和的な競い合いは大いにやるべきであり、一方で全人類を破滅に導きかねない軍拡競争は避けるべきか。簡単にそういう区別をつけられるだろうか。人々には何か自分たちが属する国家を繁栄させなければならない義務でもあるのだろうか。その辺に国家的なエゴイズムを正当化できる思想のごときものが共有されているわけか。しかしなぜ人類は自分たちが所属する国家に分かれて生存競争のごとき成り行きに巻き込まれなければならないのか。それは何か各クラスごとに競われる学校の運動会のごとき陳腐な競い合いの延長上にあるわけか。それとは直接関係ないように思われるかもしれないが、秋葉原で起こった通り魔事件について利いた風な見解を述べている通行者たちが何となく悲惨に思えてくる。


5月14日

 誰かが何かいい加減なことを考える。物語的には何かの神通力が薄れ、何をやっても失敗してしまう。誰かは作り話の中でそんな気でいる。現時点でそれは嘘になるのだろうか。相変わらずわけがわからないが、空は晴れている。何か気分が乗ってこないようだ。何について述べているのだろう。言葉が進まない。時間に見捨てられているようだ。そういう表現が意味不明かもしれない。かまわないだろう。意識がかろうじてそこで踏みとどまっているようだ。気力が欠けているらしく、何かを見失っていることは確かだ。それは誰の言葉でもなく、非人称的な何かとして、誰かが記した文章の一部を形成しているかもしれない。だからそういう語り方がわからない。虚空に向かって何をにらんでいるのか。またいつもの悪い癖が出ている。何が悪いとも思えないが、とにかく今はそこから遠ざからなければならないのだろう。ありふれた内容の言説では飽き足らないのはむろんだろうが、何ひとつ満足に説明できないのはどうしたことか。それがわかっていてそういうことを述べてしまい、気がつけば同じようなフレーズが繰り返されている。

 何かそんな気分だ。また無意識のうちに何か適当なことを述べている。さっきまでのやる気はどこへいったのだろう。気休めの気晴らしだとしたら、そんなふうに語るのが似合っている。簡単に終わらせるべきではないのかもしれない。文章はまだ続いていて、居眠りの最中に夢を見るが、君がそこで何を夢見たわけではない。当たり前の成り行きに異議を唱えるつもりか。すべてが制度なのだ。君にはそれがわかっていたはずだ。ゲーム感覚で生きていて何が悪いのか。誰かがそこで開き直ってみせる。まだ辛抱が足りないのだろう。何かの感覚を手元に引き寄せようとしているらしい。そういう動作が決まり事から逸脱している。事前に何を決めていたのか。誰が何を知りたがっているわけではない。誰の知ったことでもないのだろうか。何をやろうと手の内が知れている。今さらそれはないと思っているのだろうが、君が始めたゲームではない。誰が参加しているわけでもなく、フィクションの中で何が語られているわけでもない。それに関する言説が不在のようだ。話の中では終わっている。何がもたらされているとも思えず、自らを利するためにやっていることでもないらしい。

 とりとめがないことはわかっている。それでも画面を眺めているわけだ。時計を気にしている。何かと何かが同時にやってくる。それと意識が交差することはなく、何に興味を抱いているのかわからない。まだそこから離れられないようだ。画面を見ながら音楽を聴いている。そして画面が次第に暗くなり、闇に包まれた部屋の中で何も思いつかないことに気づくだろう。それが作り話だというのか。誰がそれを語っているのだろうか。現実はそれらとは関係のないことだ。聴いている音楽がどうあれ、君はそこで行き詰まるしかないだろう。何に行き詰まっているのでもなく、ただ言葉を繰り出すことに疲れ果て、要するに無言になる。そして何かを悟るはずだが、それが記されないことは当然であり、君がそれに関して何もわかっていないことも明かされない。そんなことはどうでもいいことなのか。本当にそうだろうか。そこで何をわかろうとしていなかったのか。それでも何かの存在を否定したいらしく、ただ冗談でそんなことを述べているだけのように装いたい。たぶんそれが冗談なのだろう。


5月13日

 わざと困らされているわけか。そう思うなら本当のことを語ればいい。それは違うと思う。たぶんそこから何かが見いだされる。それが時間の問題なのか。君はその場で身動きが取れなくなり、何を思うことにもならないだろう。そんなやり方ではらちがあかない。わかっていることはとりとめがなく、それを知ろうとしていたのではないことに気づく。君はそこから遠ざかるつもりだったのだ。おそらく何かのきっかけがあったのだろう。しかし効力が弱まっているようで、抗しきれずにずれていってしまう。たぶんそれは安易なやり方なのだ。挑発に乗ってはまずいらしいが、乗ったふりをするほど起用ではない。頑なに何かを演じているらしいが、下心が丸見えだろうか。そういう話ではない。そこで何かが逸脱しているようだ。だが話の本筋も何もあったものではないだろう。語っている内容は簡単だ。何もないわけではないらしい。できないことをやろうとしているのもいつものことだ。無駄に言葉を連ねている。話の設定が安易なのだ。しかし何について述べているのだろう。何かと何かを混同しているわけだ。それが言葉にならない話の何になるのだろうか。気まずい雰囲気ならいつもそうだったはずだ。それが一時的に快方に向かうことはない。それ以降に何を語る気も起こらないが、君には語る義務があるように思われ、それが勘違いであろうとなかろうと、とにかくそういうことなのだろう。

 わからないでは済まされない。では済まないからその先に言葉を連ねてくれないか。そこから何を持ち出してきたわけではない。簡単に語れるような気がするのは内容がでたらめだからだ。別にそれほど奥の手を繰り出しているつもりはないし、ただ状況の変化に対応しているだけだ。明らかに以前とは違うことを述べている。そんな気がしているだけで本当のところはわからない。そして何を付け加えようとしているのだろう。少なくとも別の文章ではない。今までと同じように適当なことを述べている。適当な表現ではないかもしれないが、そう述べればそういうことになってしまうだろう。退屈なのだ。君にはそれらの成り行きがどんな結果をもたらすのかわかっているはずだ。わかっていなかったらそうは述べないか。囮のたぐいなのだろう。罠を仕掛けている。見え透いた冗談でもかまわない。すでに君には前科がありそうだ。ここからヤクザな話になるわけではない。種明かしのない手品のたぐいでもない。決して明かされないのは別の何かだ。別ではないかもしれない。いったいどちらなのか。要するに語るのが面倒くさいから支離滅裂を装うつもりなのだ。何を語っているのかを明らかにするつもりはない。


5月12日

 末期症状とはこういうことを言うのか。調子に乗りすぎていないか。ランキングで競争を煽るやり方が見え透いていてくだらない。いったい何様のつもりなのか。それらの内容がくだらないのか。何に対して何を語ろうとしているのかわからない。何となく冗談でそんなことを述べてみるが、虚しさがこみ上げてくるだろうか。フィクションの中でならそれでもかまわない。現実の世界は精神的な貧困で覆われている。それでも幻想を抱いているのだろう。貧困のただ中で悲惨な未来を実現しようとする。だから実際にどうなったわけではない。すべては些細なことの連続にしかならず、人が人であるために必要なことをわかろうとしているだけだ。だから知るには及ばない。知り得ないことでなければ知るに値しない。矛盾しているがそういうことがまかり通っているのが世の中だ。だから君には受け入れがたい惨状を呈しているわけだ。語っていることのすべてが冗談から派生しているようで、何を真に受けていいのかわかりかねる。そんなふうにして何かをやり遂げてしまってかまわないのか。このままでは誰に何を問うているのでもないことになってしまいそうだ。

 それらの成り行きがどこへと続いているのかを知ろうとしているわけではない。結果ははじめからわかっている。それは結果とはいえないのかもしれないが、一応はそうなってしまうのだろう。何をやりすぎているとも思えず、ちょうどいい結末というのもあり得ない。すでに出来事のすべてが過ぎ去っているのだ。今はそんな未来のただ中にいるらしい。歴史とはいったい何だろう。過去を振り返ってそこから陳腐な物語しか見いだせないとしたら、それらはただの娯楽でしかないが、それで済ませてしまえるから歴史は歴史なのだろう。冗談を述べるならそういうことだが、冗談でなくてもそういうことかもしれない。人々はそこから教訓めいたものを導きだして、今後の生活に役立てなければならないわけか。それ以外に何が必要なのだろうか。かなりくだらない。


5月11日

 誰かが気まぐれに語りだす。そして何でもないことを記す。何もないから空白に言葉がある。あり得ないことだ。何かが違っているのは毎度のことだ。君には関係のない話になる。思いついたのはそういう内容だ。眠くなったのは薬のせいだろう。そこに何かがあるように見せかけているわけではない。たぶんそんな話ではない。調子が乗ってこない。だから挫折してしまうのか。今日は一日中曇っていた。語ろうとしていたのは天気の話ではないかもしれない。そこで笑っているのではないらしい。少なくとも今はそうだ。要するに関係のない話をしている。君はそこから逸脱しようとしているのだ。話も何もありはしない。ただそんなふうにして言葉を連ねているわけだ。そしてそれを継続させようとしている。決意は固いのだろう。断固たる決意か。笑ってしまうがそういうことらしい。他に何をやろうとしているのか。たぶんそれによって見失ってしまったことが数限りなくあるのだろう。それらを何とか馬鹿にしようとしている。人の精神構造とはそういうものだ。気に入らない物事を馬鹿にしたくて仕方がないのだ。

 たぶんそこから遠ざかることはできない。その代わりにやっていることはわかりやすい。何がどうあれそういうことなのだ。結果の質を問うているわけではない。やりたいことはできないことだと相場が決まっている。誰がそんなことを決めたのか知らないが、何かから遠ざかるためにはそういう成り行きが必要なのだろう。聞いいていないのはそういうことでしかない。何かの空似になるわけか。わけがわからないようなことを述べているわけだ。語るとはすべてがそういうことの連続だろう。誰が決めたわけでもなく、何も決まっていないのに、結局はそうなってしまうのだから不思議だ。どうやらそれは昨日の冗談の続きらしい。わかりかけていたことをやめてしまう。冗談でごまかしているのだろう。何がどうなろうと、それは冗談から生じた事件に違いない。そしてわけがわからないのは、君がそう思いたいからか。実際に何を思っているわけではない。たぶん気を取り直して継続への意思を明らかにしているだけなのだろう。それが原因でそういう成り行きとなってしまったらしく、今はその途上にある。その何かを見失わないうちに言葉を繰り出さなければならない。そしてそれは何でもないことの延長上にある。

 まだそこから文字を記すつもりのようだ。その気もないのにそんなことをやっているわけではない。結果的にそうなってしまうから今があり、今がそれを示している。その状態を継続させなければならない。目標とはそういうことであり、何のためにそれがあるわけでもない。それでも冗談の先にすべてがあると思っているわけか。それがすべてではないだろう。語ろうとする内容を言葉の連なりが示しているとは限らない。だがそれが思いもよらぬ結果をもたらしているわけではなく、たぶんそれは事前の予想の範囲内に収まっているはずだ。だから驚きがない。それらの何に感動しているわけでもなく、驚愕からはほど遠い内容の文字列だ。何について述べているわけでもないのだろう。それらからもたらされた空疎な内容に焦っているわけでもなく、冷静に受け止めなければならないことでもない。たぶん君は常識の範囲内でそんなことを述べているわけだ。そしてそれの何が気に入らないわけではなく、起こるべくして起こってしまった出来事をどう受け止めたいわけでもなく、それがどうしたわけでもない。要するにそんなふうに述べている理由を見いだせないのであり、わけでもないというわけだ。だからそれが冗談の続きだと見なされてしまうのだろう。それは君にとってわかりやすい結論だ。


5月10日

 別に自虐的な気分を肯定したいわけではない。画面を見つめる目と目が離れて、目と目の間から別の目が現れる。そんな嘘を記して何になるわけでもなく、目が二つしかない現実をどうしようとしているのでもないらしい。その二つしかない目によって誰かの心がかき乱されているわけでもなく、ただ淡々と言葉を記している誰かが何を思っているのかわからないが、冗談の続きでそんなことを述べても気が晴れるわけではない。ただそんなことを記している。簡単なことであり、つまらないことかもしれないが、たぶんそれでかまわないのだろう。言葉を繰り出すタイミングを探りつつ、それを逃してしまってもかまわないのであり、それの何が虚構でも現実でもなく、何とも思わないことが君をどうにかしてしまっているようだが、そこからも適当な修正が可能だ。それがそういうやり方をもたらしているのだから、今はそれに従うしかないだろう。たとえそれが自己言及の繰り返しになろうとも、そんな自己など放っておいて、今は何らかの気分を感じているらしい。それは君にもたらされた感覚ではないのかもしれないが、誰の感覚であろうとなかろうと、くだらぬ成り行きのただ中にこの世界が存在していることは確からしい。

 今見えているのはそんなことだろうか。合理的な判断からすれば、この世界は複数の国家からなる連合体としてではなく、一つの行政機構によって平和裏のうちに統一されなければならないのだろう。ただそこへ至る道筋が見えてこないだけで、国家間による国際協調を発展させていく試みしか、現時点ではなされていない。それでかまわないのか。そこから世界統一に至る長い道のりが残されていると認識していればいいのだろうか。そう思いたければそう思っていればいい。仮に今から何百年か後に世界統一が達成されたところで、そのとき君は存在していないだろう。とにかく今は経済格差やテロや戦争といった、世界が国家ごとに分裂していることから来る不幸によって多くの人たちが疲弊しているわけで、そこから生じている不具合をなくす努力が国家ごとになされてはいるが、人々が個々の国家に属しているから、それらの不幸が国家による世界の分裂によってもたらされていることに気づかないわけだ。そして経済や軍事やスポーツなどの国家間競争が、自己矛盾的に人々を世界の側にではなく国家の側にとどまらせようとする。そして人々を不幸にしている当のものに人々は熱狂するのだろう。

 君はそれらの言説によって何をわからせようとしているのか。たぶんそれらの言葉の連なりは意味不明ではあり得ない。時として何らかのメッセージを発している時もあり、それは誰かの気まぐれでしかないが、そこで何が間違っているかは承知しているつもりだ。そんなことを述べてはいけないわけで、まともな対応としては、ただひたすらふざけていなければならず、テレビの謎解き探偵ドラマでも眺めながら、些細な驚きにうつつを抜かして、何にとなく登場人物の大げさな身振りを真に受けて、そこから何か得たような気になって、退屈な日常をやり過ごさなければならず、時にわかったようなわからないようなことを口走りながらも、それで自らが気が利いていると勘違いしていてもかまわないわけで、そんなことの積み重ねによって人生を台無しにするのも受け入れる必要がありそうだ。たぶんそれで何を述べていることにもならず、ただ黙ってそれらの時間と日々をやり過ごしていることを何とも思わない。たぶん君はそれでかまわないと思っているはずだ。それで誰から咎められるわけでもないだろう。どうやら君には君の時間と思考があるらしい。


5月9日

 確かな根拠は何もない。そのとき誰かは何をやりたかったのか。たぶん何もできなくなってしまったらしい。現に言葉を繰り出すのが億劫になる。そんなことを求めていたのではなかった。推測のすべては当てずっぽうだ。意味もなく静かなのだ。心を落ち着けて冷静に振り返ってみなければ何もわからない。過去とは何なのか。君には何が託されているのだろう。君に何がわかるというのか。何について語っているのでもないのは毎度のことだ。しかし語るのは今においてない。またおかしなことを述べているのかもしれないが、そのままの精神状態でどんなことを述べる気なのだろうか。いつもの無内容に決まっている。すでに心は虚無を前にしてくだけ散って、何も思わなくなっている。本気になれないのもいつものことだ。何もない現状に背を向けて、幻想を語るならいくらでも語れそうだが、それで何を語っていることになるのだろう。だから自らが抱いている幻想について語ればいい。それで気が済むならいくらでも語ってみせればいいだろう。本当にそれができたらの話だが、何かそれに関する挿話の持ち合わせでもあるのか。たぶん君には思いつけない。

 たぶん言葉に行き詰まり、音にも行き詰まっている。音楽が二千数百曲で飽和状態だ。新たに求める気がしない。気力が減退しているのかもしれない。ちまたではどんな歌がはやっているのだろうか。聴く気もないのにそんなことを述べて、記す気もないことを記している現状がある。気が滅入ってしまっているのだろうか。今さら何を述べても無駄で、何も思いつかないのに思いつこうとしても無駄だ。だから言葉を執拗に記しているのだろう。現に音楽を聴きながら言葉を記しているようだ。どうやら君には選択の自由がない。複数の選択肢を見いだせずにいる。あれやこれやではなく、あれもこれも同じ結果をもたらしてしまう。だが至ろうとしてそこに至っているわけではない。冗談のついでにそんなことを述べているだけのようだ。そしてまったくおかまいなしに何もない暗闇が迫りきて、誰かの意識を睡眠へと導いて、何もなかったことにしたいらしい。それがあり得ないことの一部始終なのか。そんなのは嘘に違いないが、嘘だとわかっていても真実を導きだせるわけではない。どうでもいいような迂回路の途中で道草を食いながら、何を思うこともなく、新たな停滞の時を迎えようとしている。

 それでももう少しの辛抱だ。言説の長さを縮めたら、何となく虚無に至る道筋も短縮できたような気がする。ただわけがわからないだけだろう。いつものように意味不明であることは確かなところだ。誰かにはまだ瞬発力が備わっていたらしいが、それは程度の差であり、端から見れば大同小異なのだろう。以前のこだわりが別の形となって顕われているだけのような気もするが、それでうまくいくのなら、結果よければすべてよしと言ったところか。わけがわからないままにそんなことを述べながらも、それが違うことだけは再確認しつつ、とりあえず何かが違っていると思っていればいい。確かにそれではごまかしでしかなく、空疎なことを記している現状を変える気がしないのは、現状に対する甘え以外の何ものでもないのだろうが、何となくそれを承知しながら、画面を覗き込んでいる顔が笑っているようだ。実際に記しているのはくだらぬ冗談でもないのだろうが、それではこれから何を述べようとしているのか見当がつかない。それでも今感じていることはそんな言葉の連なりの中で表明されているのだろう。誰がそれについてどう思っているのか知らないが、それでかまわないのなら、そういうことが今後とも繰り返されるだけのような気がする。


5月8日

 林と住宅街を通り抜け、また何の変哲もない河原に出る。おかしな表現だ。何がありふれているのか。どのような心境でいれば納得するのだろうか。誰を納得させようとしているわけでもない。ただの独り言に違いない。つぶやきもなく記される。どうやらその辺が限界なのだろう。語れないことを語ろうとしても虚しいだけか。できもしないのにできたつもりになり、それ以上の何かをもたらそうとする。それが虚無からもたらされる効用なのか。まだ何がもたらされたとも思わない。何かの途中で別の何かを思いついただけだ。それができないことのすべてかもしれない。やりようがないからできないのだろう。だが実際にやっているそれはできているのか。できているといえばできているし、何かを成し遂げたつもりにはなれる。それが思い違い出なければそうなのだ。何かを語るとはそういうことらしい。冗談の続きでそう述べているわけではない。さらにそこから飛躍しようと思っている。それは冗談の類になりそうだが、何となくそれでもかまわないと思っている。結局は何を述べても忘れられるだけだ。人の記憶は永続せず、それらの出来事に遭遇する度にリセットされてしまう。それは地震の前触れだろうか。意味のない飛躍だ。

 何かが聞こえてきて、何かいい加減なスペクタクルの到来を期待させるが、冗談にもほどがありそうだ。今さら言葉の連なりに何を期待しているわけでもなく、それらは惰性で続けられている作業でしかない。言葉がどこに飛躍するというのか。頭が空っぽになり、その空洞を虚無が侵食していようと、さらに何かを述べつづけたいだけか。君がそうしたいわけではない。誰かはあり得ない内容を求めすぎている。奇をてらいすぎて自滅するだろう。それが楽しい時間の終わるきっかけになるかもしれないが、今はつまらないと思いたい。意味不明と矛盾だけではつまらない。それらの間に何か適当な空隙を挟む心の余裕が必要か。何がそうなのだろう。空が荒れて風雨が強まり、航空機や船舶の欠航が続いているわけではない。それも無駄な言葉の挿入になるだろうか。何よりもそういうやり方が意味不明でわざとらしい。本気で現状を改めようとする気概を感じられず、何か遊び半分で適当に思いついたことを並べているだけのような気がする。君がやろうとしていることが文章には反映されていないようだ。それもわざとやっていることだ。本気になれないのは今に始まったことではなく、この世界に対して幻想を抱く行為をやめたときから付きまとっている。現状の改善を目標として掲げているのは誰にとってもそうなのかもしれないが、その改善とか改悪とかいう変化を信じられないのだろう。いったい何が変わったといえるのか。何も変わっていないとは思わないが、それらは誰の思い通りにもならない変化だ。思い通りにしようとして思いもよらぬ変化をもたらす。そんな結果についてあれこれ考えても無駄なのか。無駄だと思うなら考えなければ良いのだろうが、それでも思わしい結果を導くように工夫しようとしている。誰もがそうしたいのだろう。認めがたい現状を認められるように努力しているらしい。


5月7日

 それらの現象は何かのアレルギーに違いないが、わかりやすいとはどういうことか。それらはわかりにくい冗談だ。そしてそれらは何でもない。そこには何も示されていない。いったいそれらの何が言葉なのか。さらに意味不明になってしまう。文章としては破綻しているようだ。それで何かに追い討ちをかけているつもりなのだろう。そして君は冗談を述べられなくなる。自己嫌悪なのだろうか。誰かはまだそこまで到達していないのではないか。執拗に同じ言葉を記しているつもりなのだろうが、やはりそれが違っている。同じにはなり得ないのであり、少しずつずれてきて、気がつけばだいぶそこから離れてしまっているようだ。そして何を語っているのかわからなくなり、結局継続をあきらめてしまう。それが誰かが記している嘘なのか。君にとって今までの成り行きは何のことやらわからない。少し過去を顧みる必要があるのではないか。それらの行為の原点は何だったのか。そこで誰かは何を語ろうとしていたのだろう。すでに忘れて久しいそれらの動機を探ってみないか。未だに冗談を述べているなら、君はどこまでも救いようがない。

 決まりごとを無視して言葉と言葉をつなげようとする。無理な話の最中に何を思いついたわけではない。ただそんな気がするだけでは何も語りようがない。冗談のついでに何を試そうとしているのか。気がつけば得体の知れぬ状況のただ中にいるのは、誰かが記そうとしているフィクションの中に巣食うガラクタの意識だ。だがそんな馬鹿げた思いつきが話につながらない。何をまともに語ろうとしているのでもなく、そこからこぼれ落ちてしまうどうしようもない何かの断片をつなぎ合わせて、何となく興味のない話以前の話を記しているわけか。何もそこまで回りくどくないだろう。しかし何かを語るとはそういうことになっているらしい。少なくとも誰かのフィクションの中ではそうだ。どこまでもいつまでも何を語っているつもりはないだろうが、何も語らないという行為が行為でないように、言葉を連ねることが文章を構成しているとは限らないようだ。何かがそこで違っていないか。意味が通らないと思いたい。しかし意味とは何だろう。別に改めて問うようなことではない。

 それをどうすべきなんて問うても無駄だ。どうもしていないのはもちろんのこと、どうもしていてないのにどうにかなってしまうのも通常の成り行きになるらしい。何がそれを当たり前の動作にしてしまっているのだろう。何が当たり前なのか。だから何を問うても返答を期待できない。この状況で何かを期待する方がおかしいが、この状況とはどんな状況なのか。説明するまでもなく、説明を必要とせず、説明するのが面倒臭くて、説明できない状況だ。本当は何でもない。そこでは何も生じていないのかも知れず、猿芝居も何もありはせず、どのような演技が見受けられるわけでもない。誰も何も演じられないのだろう。フィクションを記そうとしているのに話になっていない。それは誰のせいでもなく、誰が困っているのでもないが、話になっていないから言葉が連なっているのだろう。君はそれについて何を思うだろう。何も思わなければそれでかまわないが、何か適当に思っても同じことだ。


5月6日

 たぶん無理と悟るとなおのこと続けようとするのだろう。続けられないことを悟りつつ、それとは矛盾した動作に訴えるのが通常の意識だ。まったく冗談でかわすこともできない。現状から逃げきれていると思いたい。たとえ思い違いであろうとも、何となくそんな気分でいたいらしい。だから君は現状の何を変えようとも思わない。ありのままの現状を肯定しつつ否定したいのか。そういうことでもないだろう。どういうこともでなく、それが現状なのだろう。もちろんどれが現状でもなく、フィクションの中では現状も何もありはせず、冗談の続きには終わりがあるらしいが、それをどこまでも追認するわけにもいかず、それが現状であることを認めようとしないばかりか、ただそんな嘘をついているだけの現状がそこにあるらしい。冗談なのだから嘘でも本当でもかまわないが、何がかまわないのかわかろうとしなくてもかまわないのかもしれない。ただの無駄に言葉が連なっているようだ。それで現実から言葉をずらしているつもりなのだろう。何のためにずらしているのかわからないのだが、そこからどのような意図も読み取ろうとしない。別にそれでかまわないのではないか。何を勘違いしていようと、それによってどのような実害が生じていようと、どうも本気になれないのだから、それはそういうことでしかない。

 矛盾の続きで何がどうしたわけでもなく、今はそれだけを願っている。それとは何だろう。実際は何も願っていないわけだ。なぜそうなるのかわからない。たぶんこの世界はこの世界のままでありつづける。君は何をどうしようと、それはすべて織り込み済みだ。フィクションとはそういうものなのだ。都合の良いところで事件が解決したりしなかったりするだけで、そのことで何がどうなるわけでもない。架空の話が続いたり終わったりするわけだ。思いもよらぬ話の展開は誰かの思い通りの話の展開だ。それによって驚かせようとしているわけだ。サプライズが頻繁にないと、興味をつなぎ止められない。だからドラマチックなドラマはその手の驚きが散りばめられていて、見え透いた嘘が話のすべてに塗り込まれている。だが君にとってはそんな嘘がおもしろくて仕方がない。野次馬的に横から事件に介入してきて、鮮やかに解決して見せる。くだらない話の展開だが、それで溜飲でも下がるわけか。それでかまわないのだろう。そんなふうに語ればそれだけのことになり、それが話のすべてになる。そしてその後に何を続ける気も起きなくなり、それはそれで済んでしまうようだ。たぶんそれでかまわないのだ。他に何があるわけでもない。


5月5日

 約一カ月前の日付で言葉を記していることに気づくが、別に愕然としているわけではない。当然の成り行きでこうなってしまったようだ。今はそれをどうこうしたいとも思わなくなってしまったらしく、平然と何食わぬ顔で画面を眺めている。画面を眺めている君は誰なんだろうか。君でないことは確からしい。おそらくそれも日頃から繰り出している冗談の続きなのだろう。そしてその終わりも始まりも定かでない意味不明な語りの一部として、どこかの画面に表示されているはずだ。それを誰かが無表情で眺めているわけだが、たぶんそれが何を示しているわけでもなく、ただの記述が画面に映し出されているだけで、そこから何が読み取れるわけでもない。言葉が適当に並んでいるようだが、別にそれを読まなくてもかまわないのだろう。読むほどの内容ではなく、無内容に近いのかもしれない。戦術なき戦術的にはその通りだ。何が戦術なのか。現時点では誰が何と戦っているとも思えない。その辺がよくわからないが、急に戦術という言葉が思い浮かんだらしいが、話のつじつまを合わせようとしていない。君はそれをおもしろがっているだけのようだが、勘違いも甚だしいのではないか。だがその一方で誰かはそこから何かを理解しようとしている。それも意味不明な冗談の続きなのか。

 何かを終わらせるために虚無と戦っているのではない。誰がそういうことを思うだろうか。そういうこととはどういうことなのか。君の存在には理由がない。さらにわけがわからなくなるだけのようだ。語れば語るほど語れなくなる。そんなふうに思うと合点がいくか。何となく利いた風な台詞を思い出しそうになり、慌てて別のことを考えはじめ、それまでに思っていたことをリセットする。そんなことの繰り返しがそれらの文章を構成しているのだろうか。だがわけがわからないのは方便であり、本当はわかっているのに、わかっているそれを必死で忘れようとしているのかも知れない。まったくそんな馬鹿げた思い込みに心を支配されているようだ。たぶんそれも冗談の続きなのだろうが、どうしてもそれをやめられないらしい。今はそんな状況の中でもがき苦しんでいるふりをしているつもりだが、それはフィクションの中で語られていることの一部に過ぎず、実際に何がどうなっているわけでもなく、この世界の中で何をどうしようとしているわけでもないらしい。たぶんそれらの言葉の連なりは真実を含んでいるはずだ。冗談を述べるならそういうことになるのだろう。

 いったいこの世界では何がなされているのか。日々事件が起こり、それについて何か思う。まったくそれが馬鹿げた話ではないらしく、当たり前の事が当たり前のように起こっているだけのようだ。そして君はこの世界のただ中に存在している気になる。それも当たり前のことだろう。何もかもが当たり前のことであり、驚愕すべき出来事などに巡り会えるはずもない。それも冗談の続きなのか。君が語ろうとしている内容も同じようなことの繰り返しか。誰が同じようなことを語ろうとしているのか。別に何が問われているわけもなく、どのよう不具合が生じているとも思えない。要するに人々はそれが冗談だとは思えないのだ。その証拠に誰もそこから離れようとせず、この世界を興味深い対象とみなしつづけ、盛んに幻想を抱いて、幻想と現実を近づけるための努力を執拗に繰り返す。この世界が思い通りになってほしいわけだが、現状が思い通りになっていると思い込もうとして、そうではない事実を忘れようとしているのだろうか。そんな簡単なことではないだろう。誰かは何とか世界と折り合いをつけようとしているのか。たぶんそれは無駄な努力になるだろう。


5月4日

 君はそれから何を思い出したのか。まだ誰かの記憶が戻ったわけではない。そこから話が進展するとは思えない。少なくとも君の話にはならないだろう。空は曇っている。窓から外を眺めている。遠い空の下で何かがうごめいているようだが、その先に想像力が働くとは思えない。興味を抱けないのだろう。心が何を思っているわけもない。自意識がそう思いたいのだ。いつものようにわけがわからない。どうやら君には語りたいことがないらしい。たぶんそれは困った事態になった。真顔で何を指摘するつもりなのか。それとこれとは別の話か。話自体を思いつけない。しかしそれでは話もなにもなく、また無内容になってしまう。自業自得だろう。だがそれは悪い結果なのか。君に判断できるようなことではない。どうも頭の中がどうにかなってしまったらしい。それもフィクションの中で語られていることだろうか。誰がそれらの虚構を記しているのだろう。

 相変わらず君はそれを語ろうとしないが、それとは何だろう。何に魅了されているのか。虚無にか。使いすぎて魅力の乏しい言葉だ。この場ではそうだろう。スムーズな語りを妨げている。だからそれは違うと思う。何かが違うのだ。そうではないような気がするが、実際に違和感を伴っている限り、それは違うのだろう。君はそうなることを知っていたはずだ。文章の内容を理解できない。違うというのはそういうことだ。どういうことでもなく、それらは理解不能な文章なのだ。そして何かの当てが外れている。だからその辺でやめておいた方がよさそうだ。

 今日もまったくきっかけをつかめないうちに記述を終えようとしている。そういうやり方が気にくわないのだ。誰も自らの過ちを認めようとせず、そのまま失敗がうやむやになるのを待っている。苦境に耐えているつもりなのだろう。街が傾いている。きっと気のせいだろう。いつも君は何もないところから語らなければならず、それらわからないことのいいわけとして作用している。本当にそのつもりなのだからおめでたい。何も信じていない。要するに強情なのだ。そして分からず屋の君はいつまでもつまらないことにこだわりつづけ、自ら墓穴を掘っている当の成り行きにはなすがままに振る舞おうとする。いったいそれの何が気に入らないのか。気に入るはずのない状況を想像して、それについて何を語ろうと、それらはすべてフィクションに決まっている。たぶん誰かが文章の中で示したいのはそういうことだ。


5月3日

 何となくとりとめのないことを考えている。当たり前のことをことさらに問うのはおかしいのではないか。それでもくだらない推理ドラマは事件が起きなければ成り立たない。しかしそれの何がくだらないのかわからない。興味があるからくだらないと思うのだろうか。そう述べてわざと言葉を矛盾させている。だからどうしたわけでもないだろうが、本当は何に興味があるわけでもないだろう。そして何かが噛み合ず、さらにおかしなことを述べてしまう。くだらなければすぐに終わらせればいい。だが誰が何を終わらせようとしているのか定かでない。必要もないのに結論を急ぐなら、そんなのは嘘に決まっているだろう。苦し紛れに決め台詞を繰り出したかったのか。誰かは相変わらずつまらないことを述べているようだが、それを君がどう思っているわけでもなく、それどころかさらに意味不明な言葉の組み合わせを模索しているようで、たぶんそういう結果では満足するつもりもなく、ただ何かが違うような気がするだけだ。たぶんそういうことではないのだろう。どう考えてもそれは違うと思う。しかしそれとは何だろう。君はまだそれを思いつかない。要するにそれなど何もないわけだ。たぶん何を述べようとしているわけでもなく、自意識は何を思いつこうとしているわけでもないらしい。おそらく今は何も思いつけないのだろう。そんな状況ではないのかもしれず、それどころではなく、何か他のことで窮地に陥っているのかもしれない。そうだとしたらおもしろいだろうか。何について語っているとも思えないのでつまらない。そんなわけで君はまったく本気になれないようだ。

 それでも人はドラマを作りたい。話をドラマ仕立てにして、他の人たちに興味を抱かせたいのだろう。君が語りたいのはそういう話ではない。話ではないだろう。どういう話でもなく、実際に何が話されているわけでもない。それが誰の意図なのかわからない。そこでは話がまとまらないようだが、たぶん何も語っていない。それは話ではない。今の君には何も見えていないらしい。だがかつて君はこの世に存在していなかった。そんな昔の出来事ではない。それでも昔の出来事にしたいのだろう。無理矢理そうしたいようだ。語っているうちにどうでもよくなってきて、次第に投げやりな気分になる。たぶんその辺が退き時なのだろう。


5月2日

 どうも始まりの言葉が違うようだ。相変わらず君は言葉の使用法を間違っている。他に何を間違えているのか知らないが、とりあえずそういうことなのだろう。どういうことでもなく、ただそういうことなのだ。外では雨が降り続き、部屋の中ではテレビを見ている。そして述べていることは空疎で、意味のないことの連続のようだ。たわいなくおかしい。それらのどこからどこまでがどうということはない。そして確かに何かがおかしい。それ以外は何も思いつかないようだ。ここは間をあけた方がいいだろう。

 精神が耐えられる範囲内で言葉を記すべきだ。正気ではない証拠をつかむには及ばない。何が重荷になっているのかを明らかにする必要がありそうだ。さらに頑になるべきではない。それはどういうことでもなく、リラックスする要素はない。語れないことは無理に語るべきではないらしい。必ずその辺からわからなくなってしまうだろう。さらに違うと思われる。たぶん何かが違うのだが、それをわかろうとしていない。その必要はないのだろうか。違うのは君が述べていることではない。どこかで何かが違っているだけだ。そして気がつけばいつもと同じようなことを述べている。誰もそんなことは期待していないだろう。だがそういう成り行きになってしまうのだから仕方がない。そんなふうにしか語れないのだ。それは見込み違いであり、期待はずれなのだろう。

 君はつまらないことをつまらないように語る。それの何が間違っているのか。ただ面白おかしく語る才能がないらしい。内心そうではないと思っているようだが、そういう流れをどうすれば覆せるのか。そこから何を導きだそうというのではないらしい。まだ何も思いついていないのだろう。何も思いつけずにいるのだ。だから文章が縮んでしまうしかない。実際に導きだそうとしているのはそういう言葉の連なりではない。それは何をもってしても無理な話だ。

 誰かが深夜に目覚める。咳が止まらなくなったのだろう。しばらく画面を見つめているが、何を思っているのでもないらしい。そこから遠ざかれるわけもなく、部屋の中で黙って時を過ごす。何をどうしようというのでもないらしい。少なくともできないことではない。ただ言葉を並べるだけだ。君はひたすらそうなのだ。誰もそれを止められない。止める必要がないのだから、そのまま放置されるがままだ。君はどうにもならないだろう。それは君が君ではなく、君にさえなれないからか。くだらぬ理由につきまとわれている。実際はそんな話ではない。虚構の世界でもそれは違うと思われる。何がどうなっているわけでもなく、そういう話なのだろう。それ以上に何があるわけでもなく、誰かの意識はひたすらそれだけのことに固執しているわけだ。そして今はそれがどうなっているとも思えない。


5月1日

 気がつけば文章になっていないようで、またわけがわからなくなる。そしてまったく内容が見当たらなくなった。そんなのは嘘だと思うが、君にはそれを否定できない。関知していないのだから否定しようがないだろう。誰が何を否定しているのかわからない。人は簡単にいなくなってしまうらしい。だから間違ってはいけない。今度は何を間違っているのか。何も思いつかず、それが間違いであるはずもなく、それに対する率直な感想も繰り出せない。たださらにわけがわからなくなっているようだ。そのとき君は何を語ろうとしていたのか。ゲームの戦局を読み切っているとも思えない。生半可な思考力の持ち主では到底そんなことなどできはしない。だがそんなことを気にしていたら前進できない。語りを前進させるためには、とにかく言葉を並べなければならないが、そういうやり方が間違っていることは承知している。語るためには何か具体的な出来事について述べる必要があり、それを省いていきなり言葉を並べ始めると、当然のことながらわけがわからなくなり、そういうわけがわからない状況について説明しようとすると、自らが述べていることについて述べているという自己言及パラドックスに陥るしかないだろう。果たしてそういうやり方を押し進めているだけでいいのだろうか。目下のところはそれしかないのだから、それを述べるしかないだろう。それ以外にやり残したことはない。そしてそんな嘘をついていると取り返しのつかない事態になりそうだ。君の末路はすでに決まっている。

 誰がそれを決めたのか。それは作り話の作者が決めることであり、君にはどうすることもできない。そして何かが決まり、君は決められた通りの終わりを迎えるらしい。それが冗談と思われるのは、何かの思い違いだろう。ではそれがどのような思い違いなのか明らかにしなければならない。おそらくそれを語ろうとする者はふざけているはずだ。決められたことを決められた手順に従って行うことを拒否している。だから何を語っているのかわからなくなり、それを後から読み返すとふざけているように感じられ、そこからまともな結論に至るのが馬鹿らしく思われてくる。たぶん何かがおかしい。そして君はどこへも至ろうとしていないようだ。

 そんなわけでまったく行き先がわからなくなり、途方に暮れていると夜になる。夕暮れ時には何をしていたのか。それを誰が思い出そうとしているのでもなく、覚えていることをそのまま記そうとしているのでもない。昼の仕事で体力を使い果たしてしまったのか。それとこれとは無関係であることは言うまでもなく、実際に何を語っているのか把握できていないだけだ。そしてそれが誰の主張ともならない。わかっていることはそこから遠く離れていて、それを言葉で記す必要性を感じないから、それらの文章は空疎そのものだ。

 また目を覚ましながら何を夢見ているのか。くだらぬ問いかけはどこへ行ったのだろう。君がそれらの行く末を案じているわけでないことはわかっているが、文章は文章として提示しなければ何もなくなってしまい、何もなければそこから何を読み取るべきかわからなくなってしまうだろう。その必要がないと思えばそこで終わりだ。君にはそれらがまったくのでたらめだとは思えない。そこで何かを取り違えているのだ。果たして倫理的にはそれでかまわないのか。それは君が問うことではない。誰も何も問われていないのではないか。


4月30日

 まさかこんなことになるとは思わなかった。それが率直な感想だろうか。だが相変わらずわけがわからないことに変わりない。いったい冗談でどこまで続けられるというのか。何が冗談なのかわからないが、まともに語るのが面倒くさい。この世界はなぜこの世界なのか。それが知りたいわけではないが、他に何を語ろうとしているわけでもない。何も語れないと言ったら嘘になるかもしれないが、それに近い状況なのではないか。言葉を連ねるのと何かを語るのとでは根本的に何かが違う。何かとは何なのか。たぶん君はその何かを語ることを忘れているのだ。だから誰かは延々とそれとは別の言葉を連ねている。冗談で述べるなら現状はそういうことだ。他に何があるわけでもなく、何もないわけでもないが、何も思いつかなくても言葉が連なってしまう。今日は晴れて暑くなるらしい。かろうじて思いついたのは天気のことか。それでもかまわないのだろう。他に何があるわけでもなく、別に何かの映像に見とれているわけでもない。それはまったく関係のないことだ。確かに関係ないが、そんなふうに述べなければ先へ進めないようだ。何かの膿を出し切るように言葉を絞り出す必要がありそうだ。そういうたとえが現状とどんな関係にあるのかわからないが、語るとはそういうことになっているようだ。それでも本気で何を語っているとは思えない。それどころか本当はそうではないような気がしてくる。

 しかしどんな具合でそうなってしまったのか。それに関して何か思い当たることがあるわけでもなく、現状はどこまでも現状でしかない。人は人でしかなく、人として人のように振る舞っているだけだ。何かから勝手に役割を与えられて、その役割を全うしようと努力している。それは勝手な思い込みだろう。だがそれは人のあるべき姿であり、何か役割がある人はまともな社会人なのだ。役割がないなんてあり得ないことだ。生きている限り何らかの役割がつきまとう。勝手にそれを割り当てられて、それを拒否すればまた別の役割を割り当てられる。それを不快に感じるのはもっともなことだが、不快であろうとなかろうと、その不快さのただ中に生きている現状があるらしく、それを受け入れようと拒否しようと、そんなふうにして誰かは存在し続けるのだろう。この世界では不在のままでいることはできない。しかし不在とはどういうことなのか。何が君の不在を示しているのか。示すものなど何もありはしない。だから不在なのではないか。生きている限り誰も不在ではない。君は生きていないということか。それは文章の中にそう記されていることでしかない。実際には君も誰もどこに存在しているわけでもなく、不在だろうとなんだろうと、そんなことはおかまいなしに、それらの言葉は適当に記され、誰の了解も必要としないようなことが述べられている。誰もいないのだからそういうことになるのだろう。

 ところで彼は何を悩んでいるのか。さっきからまったく話になっていないではないか。それがフィクションだと思うと話が通じなくなり、何の話をしているのかわからなくなる。たぶんそれが何を示しているわけではない。別に雲行きが怪しくなっているわけではない。そういう話ではないだろう。もとから何を述べているのかもわからず、何を語っていたのでもなかったはずだ。たぶんそれは嘘でも何でもなかったのだろう。まったく中身が伴っていない。頭の中で言葉が空回りしている。言葉ではなく何かではなかったか。何でもないのだから、言葉でも何かでもなく、それらはすべて何かの残滓だったのかもしれない。記憶は過去を語らない。苦し紛れに言葉を繰り出しているわけでもなく、記された言葉がどのような状況をもたらしているわけでもない。意識がそこから遠ざかっているのだろう。何の興味もなく、それらは惰性で続けられていることだ。そして偽りの目が何かを眺めている。その何かがこの世界の一部なのだろうか。そのすべてを同時に眺めるわけにはいかないだろうが、一部を眺めて何を思うだろう。実際に思っているのはそういうことではない。たぶんどんなに言葉を連ねても、それに関しては何も思わない。誰かが構成するフィクションの中では誰がどう思うわけでもない。そしてとらえようによっては、それはフィクションでも何でもなく、ただの言葉のつらなりだ。誰かはただそれだけのことにかかりきりなのだ。それは言葉の無駄そのものだ。


4月29日

 どうもそれは違う。まさか岐路に立たされているとは思えない。それ以上は無理なのかもしれない。無理なのに語ろうとしているのはいつものことだが、その他に何があるというのか。君には語る理由が見つからない。何もないのだから見つかるわけがない。我慢も限界なのかもしれない。何を語れるわけもなく、茫然自失というわけでもない。そんなふうに語ってはいけないのだろう。たぶんそんなことを述べた時点で君は罠にはまってしまったのだ。それでも楽しければかまわないのか。そんなわけで君は継続をあきらめなければならなくなる。それは君と誰かとの別れを示しているのかもしれない。記された言葉がそういう成り行きになっているようだ。それ以降に言葉を続けられる気がしないが、状況は君の知ったことではなく、誰の知ったことでもないのだろう。そんなふうに言葉をつなげてしまえるわけだ。誰かは君の思惑に反して、徐々に何かをその内に取り込もうとしている。その何かとは何でもない何かだ。たぶん言葉を連ねるとはそういうことなのだろう。君もそれを理解しているはずだ。何でもないことがその場に生じてしまっている。それはどうにも取り返しのつかないことであり、

 また翌朝になってしまったらしい。今日は晴れている。明日も晴れるのだろう。そして夕方になり、今は夜だ。どこをどうやってここにきたわけでもないが、少なくとも迷路ではない。語るべきはそんなことではないのだろう。何やらうさんくさい雰囲気をまといながら誰がどこに登場するわけもないが、とりあえずそれは作り話の中での出来事になるだろう。君はそこで何事かに遭遇してしまうらしい。それが何を示すかわからないが、相変わらずそれとは無関係に言葉が連なり、誰を慌てさせるわけでもないが、たぶんそこから何らかの刺激を得ているのだろう。それが君を戸惑わせ、何か得体の知れぬ存在の登場を予感させるが、そんな嘘をついたところで、そこから先に誰が登場するわけもない。まるで話になっていない現状のただ中に誰かの意識があり、それが何でもない文章をもたらしていることが不思議でならないようだが、それも作りごとの感覚の一部なのかもしれない。実際には何を感じているのでもなく、何もない現状にあきれているわけでもなく、それでも君は何事かを語ろうとしている。何もないのにまったくご苦労なことだ。それは誰かに苦痛をもたらしているのだろうか。わけのわからない動作がそうさせるのだろう。まったく理由になってない。本気になってはいけないようだ。言葉はどこまでも誰かの存在を無視しながら、勝手気ままに連なっている。もちろんそんなのは嘘だろうが、何となく嘘でも本当でもかまわないような気がしてくる。

 そんなところで改行するのはおかしい。まったく何を語っているのでもない。心から言葉が外れていくようだ。たぶんそれはどうでもいいことなのだろう。不意にかすれた歌声が聞こえてくるが、幻聴ではない。誰もそんな歌声には興味がないらしい。イヤホンで音楽を聴いているだけだ。そしてたぶんわかっているのはそういうことではない。何をわかろうとしていたわけでもなく、それは過去でも未来でもない。たぶんこだわりはどこからもやってこないだろう。誰がそれを指し示そうとしているわけでもなく、他の何を理解しようとしているでもない。だからもうやめた方がいいのではないか。何かについて語るのはあきらめた方がいい。何も見いだせないのだから、そこで記述を放棄すべきだ。いったい何がどうなってそうなってしまうのか。たぶん苦悩のただ中にこそ何かのきっかけが潜んでいるのだろう。そこまで心を持っていかなければ、そこであきらめてしまう。それでもかまわないのだろうが、何かそれではいけないような気がするわけだが、相変わらずそれが何だかわからず、どうもこのままでは君がうろたえるような状況にはならないようだ。だから君はそこでやめるべきなのか。そんな結論がどこから出てくるのかわからない。たぶんそういうわけではないのだろう。あくびとともに無駄に言葉を弄するばかりで、退屈まぎれにいい加減な言説を構成しようとしているだけなのだ。そしてそれが何だかわからないわけではない。それはどこまでもただの文章なのだ。だから眠たくなってしまうのだろう。


4月28日

 やはりそれを忘れている。それに関して何を説明したらいいのだろうか。それがわからない。しかし何を否定する気もないらしい。今さらそれはないだろう。それがないからそれがわからない。それはただのへ理屈だ。まったく方向が定まらない。何を語っているのか定かでない。悩んでいるうちに翌朝になってしまったらしい。いったいそれとは何なのか。誰に向かってなされているのでもない。くだらぬ問いかけだ。少なくとも語りたいのはそういうことではなさそうだ。何かが心に絡みついているのはわかる。たぶんそこからどこへ行くこともない。君は相変わらずあきれたことを述べている。今さら国家間競争も何もあったものではなく、世界は平和的に統一されるのが、誰もが納得する合理的な決着方法なのだろうが、ただそこまでたどり着くのにだいぶ手間がかかるのだろう。面倒くさいことは誰もやりたがらない。君が冗談でそんなことを述べているのが疎ましいようだ。きっと誰かには誰か固有の考えがあるのだろう。それが話のどこかに記されているのかもしれない。それも冗談のたぐいだろうか。冗談でなければ何なのか。君が知りたいのはその辺の事情だろうか。たぶんそれはくだらぬ思わせぶりだ。

 誰かはそこから遠ざかるために言葉を記しているらしい。そことはどこなのか。今いるこの場所ではないのか。結果が見えている。語っているのは場所のことではない。何について語っているのでもない。またどこかで話がずれてしまっているようだ。おそらく心身が分裂しているのだろう。心が外れているのだ。だがそれが冗談になっていない。また突拍子もないことを思いつくものだ。何かがいかれているようで、何を述べてもそれは違うだろう。何が違っているかはわからないままだ。それは語るべきことではないのかもしれない。また冗談のついでにそんなことを述べてしまう。君はそれらの言説が無効であることをわかっているようで、何に対して無効なのか探りたいのだろうが、そういう説明が無効なのだ。だから延々と違うことを述べている。執拗にそれを感じ取り、まったく意味のない結果に導こうとしているわけだ。そしてあくまでもそれが冗談であることを示すつもりのようで、その辺に躓きの原因があるのだろう。その辺を何とかしたいのはやまやまだが、今さらつまらないことにこだわるべきではないのかもしれない。だからそこから先に言葉を記すには、その思いを断ち切らねばならないのだろう。

 人は誰でもその言動によって自身の品性を問われているのだろうか。それによって自らを律する必要があるわけか。何を述べるのも自由だ。誰に指図される筋合いもない。それが過ちを増幅させるようだ。誰もがそうなるわけではなく、そこで何を問いただそうとしているわけでもないらしい。つまらない言動に反感を抱いても仕方がない。くだらぬことはくだらぬままに推移させるべきだ。君はそこに何も見いだせないだろう。今さらそれについて何を語っても無駄なのだ。たぶんあるべき理想と現実が乖離しているのは、その理想に向かって現実を改善すべきということではなく、理想をあざ笑うために、正反対の現実がそこに展開されているのだろう。邪念にとらわれた人々は嫌がらせによって自らの願望を実現させようとするが、それが正しい選択なのかどうかは、結果が知らせてくれる。君はその結果を受け入れるべきなのか。判断は君自身に託されているのかもしれない。それらの嫌がらせを続けるべきか否かも、君自身が決めることだ。やがてそれ相応の報いがもたらさせるだろう。その時になって後悔しても、もう手遅れか。だからこの世は楽しいのではないか。すべてが冗談であったとしても、なおも自らを律することが必要らしい。それはどういうことなのか。今のところはどういうことでもなく、つまらぬ感情が心を覆っているのだろう。


4月27日

 今日もこだわりを捨ててつまらないことを記している。何がこだわりだったのか思い出せない。どこの誰がそんなことを思うだろう。それは誰に対する返答でもなく、くだらない内容はそのままに放置しておいた方が良さそうだ。それがまぎれもない現状なのだろうから、後から修正を加えるのはごまかしになってしまうだろう。それで本気になれるわけではないが、とりあえず文章を構成している事実に変わりはない。目的は文章を記すことにあり、それ以外は意味不明だ。意味不明はないだろう。そんなのは嘘に決まっているだろうが、やはり何も述べられない現実が心に重くのしかかってくる。それも嘘だと笑い飛ばす気がしない。別に笑い飛ばさなくてもいいだろう。何かが足りないようだ。その何かが見当たらず、それでも言葉を記さなければならないことからくる重圧に押しつぶされそうか。それの何が重圧なのか。趣味が悪い。関係ないだろう。ならばでたらめと意味不明はどう違うのか。リラックスしたいのかもしれない。まったく問いに対する答えになっていないようだが、それでも返答のつもりだ。何かに対する返答なのだろうが、その何かがわからない。嘘をついているようだ。

 それでも人は生きている。自らを肯定するわけにはいかず、その存在を否定したいのだろうが、いっそのことこの世界のすべてを否定してしまいたくなる。それは安易な気持ちに違いない。否定するならいくらでもできるだろう。簡単に否定できるのはその否定が無効だからだ。悔しかったらそれが有効に機能するようにしてみたらいい。どうすれば否定を有効に機能させることができるのだろう。いくら言説に工夫を凝らしても無駄だ。言説自体が無効なのか。そう思えば思うほど虚しくなる。たぶんそれが否定の力なのだ。世の中を否定する者は自らの無力感に苛まれ、自らの無力を呪うばかりで、有効な手だてを見いだせずにいるらしい。そんなふうに語ればおもしろいか。できることならそれが冗談であってほしいか。ならばまともな返答を期待する方がおかしい。君は君自身に幻滅しているのだろう。それが君における正常な動作なのだ。何がそうなのか理解しがたいようだが、何となく誰かがいわんとしていることは把握できそうだ。まったく嘘に決まっているだろう。誰かを煙に巻いて、その先に言葉を連ねるわけにはいかないのか。それは君次第だ。

 ならば冗談の続きを今から記してみようではないか。何がならばなのかよくわからないのだが、面倒くさいのでとりあえずそういうことにしておこう。君には他人の痛みがわからない。それとこれとは無関係だろうが、それもこれも記された言葉の一部だ。ますますどうでもよくなってくるようなことを述べてしまいそうだ。文章の工夫とはそういうことのためにすることか。たぶんそうなのだ。君はますますやる気がしなくなり、明らかに手を抜きながら、あくまでも物語にはまることを拒否している。くだらぬ登場人物による武勇伝などうんざりだ。何か出来事がなければ話が進展しないという制約が煩わしい。だから自由を求めるなら無内容にならざるを得ない。そんなのは嘘に決まっているのだろうが、何となくいい加減にそんなこと述べて、その場を切り抜けようとする。そんな君の愚かな振る舞いがどういう結果をもたらしているのだろう。意識が脱力感に覆われているようだ。もはやあきらめの境地か。そんなふうに述べてしまうなら、それはそういうことになるしかないようだ。もはや手の施しようがない。


4月26日

 だいぶ時が経ってしまい、何かの後回しにされてしまったようだが、何かのついでにそういうことを述べている。今の君には冗談が通じない。だから誰が冗談を述べているのでもない。君は誰でもないのだろう。こだわりが感じられない。目が覚めたら今までにこだわっていたことが雲散霧消してしまっている。それはすでにあり得ないことだろうか。たぶん何について述べているのでもない。相変わらずの文章に嫌気がさしてくるか。何を否定しても無駄だろう。やる気がしないのはいつものことだ。また気に入らなくなっているのだろう。語ろうとしていたのはそういうことではない。だがそれが先祖返りだとは思わない。また新たな段階へと話が進んでしまったのだ。そしてまたくだらぬことを述べている。そんなふうにしか語ろうとしないのだから、それはそれで仕方のないことだ。何がどうなってそうなったわけでもなく、ただそんなことを述べているだけだ。無理に話を虚無的に引き延ばそうとしているのではない。おそらく判断がつかないのだ。どうにもこうにも話の終わりを導きだせない。何について語っているのでもないのだから、それは当然の成り行きだ。終わって当然の文章なのだろう。終わって当然だからこそ終わりを導きだせない。誰がそれを終わらせようとしているのでもないからだ。それは苦しい言い逃れだ。そんなわけでやはり君には無理のようで、背負っている荷が重すぎるのだろう。

 冗談ではないが、誰かの負担を軽くしてやる必要がありそうだ。しかしそれの何が負担なのか。それがわからなければ、どうすれば軽くなるのかもわからないか。だが君が語っているつもりの内容はそれとは違うのだろう。それ以外のことを語っているつもりになりたいわけだ。そしてそれができないから困ってしまう。語りたくないのに空疎なことを語っている現状が気に入らないわけで、それをやめさせるために終わりを導入したいらしいが、それがうまくいかない。終わらせるのは無理なのかもしれない。今は無理なのだろう。だが無理だからといって、何がどうなるわけでもなく、ただ無駄に字数を費やしているだけではないか。それが何を示しているというのか。わからないから楽しい。やはり何を述べても冗談になってしまいそうだ。

 おもしろいじゃないか。何がおもしろいかって、君がそれらの楽しみを奪うつもりなのか。誰から奪うのだろう。言葉が君をどうにかしている。そんなのは嘘だろう。つまらないから嘘だと思う。それはそら似だろうか。誰に似ているわけでもない。咳が止まらない。いつものことだ。意識がくだらない脇道に逸れているようだ。じゃあ今日はそこで終わりにしよう。


4月25日

 誰かが息苦しく呼吸している。やっとのことで正気を保っているようだ。そこからどんな物語が導きだされるわけでもなく、ただのうわごとが受け流される。自らの終わりを認めるわけにはいかない。それが本音かどうか疑わしいが、そこで語られつつあるのはそういうことだ。何でもないのに何かであろうとする限り、君はそこでさまようこととなり、それが迷路でもなんでもないのに、いつも迷っているわけだ。迷う必然性もないのに迷うことしかできない。そしてそれ以外には何ももたらせないことに気づき、絶望するわけもなく、ただ淡々とした日々を送るだけで、話には何の進展もない。それも架空の話だ。たぶんフィクションがフィクションであろうとするわけがない。見たまま聞いたままの真実を内包しようとしているだけだ。まったく君はどこまでも浅はか極まりない。そんな君が愚劣であろうとするのは冗談以外の何ものでもない。本当にそれを導きだそうとしているのだろうか。あるいは何事も君とは無関係な話になってしまうのだろうか。君が君であろうとすることが、この世界にどのような影響を及ぼすことにもならないのだから、そんなことはどうでもいいことのはずなのに、それでもこだわっていることのほとんどがそういうことなのだから、まったく始末に負えない自意識過剰だ。だがそれらの何を呆れているわけではない。人は誰でもそういう側面を持っている。くだらぬことにこだわっていないとやっていけない状況の中に暮らしていて、そんな状況から抜け出ることはできない。何をやっても結局はそれが誰かの限界をもたらすわけだ。

 まだ何か忘れていないか。たぶんそういうことではない。誰かはそこで機能的な文章の構成法を見いだしたのではなく、でたらめに語ることを肯定していたのではなかったか。勝手に述べていることはそれとはまったく関係ないが、気が向いたら気が向くままに語るべきだ。内容が支離滅裂であってもかまわない。少なくともそれで正解になるようにしなければ何にもならない。何の話でもなくなってしまうだろう。すでにそういう成り行きのただ中にその身を置いていると思っている。それは君が理解できるようなことではない。それは納得しがたい結果だ。

 そういえばだいぶ前の話題だが、五月二日に忌野清志郎が死んだらしい。テレビのニュースでは通夜だか葬式だかのBGMに彼のいろいろな曲が流れていたらしいが、ところでそこであきれて物も言えないという曲は使われていたのだろうか。あの曲が流れていたらさぞや傑作だったろうに、それを思い出して、思い出し笑いしながら、今日iTunesでRCサクセションのあきれて物も言えないという曲をダウンロードしてしまったが、改めて聴いてみて、この曲ほど彼の死にふさわしい曲はないと思った。どっかの山師が俺が死んでるって言ったってさー!今やみんなが俺が死んでるって言ってるぜー!ベイビー!故人をきれいごとの賛辞によって忘却の彼方に押しやってしまうのは倫理的にまずいのかもしれない。そういえばついでにダウンロードしたヒッピーに捧ぐという曲も死に関する歌だ。空を切り裂いて君がやってきて僕らを救ってくれると言った。そんなことを言った君は、自らをキリストだと思っていたのだろうか。


4月24日

 語っているのはかなり馬鹿げた話だ。誰が何を語っているのでもないが、なぜか今さらわかっていることを再確認する。貧弱な語彙だ。どうもそれは違うのではないか。違うのではなく、そう思うことが間違っているのだろう。本当はそうではないのに、言葉を並べていくとそういう話になってしまう。自然にそうなってしまうのだろう。自然という言葉は不可思議だたぶんわからない。わからないのは意味ではないのかもしれない。それでもわからない。何も述べていなくてもかまわないらしい。君はそこで沈黙する。ただ画面を見ているだけだ。眠ってしまってかまわないようだ。誰かのつぶやきが薄れ行く意識の中でこだまする。今は何時だろうか。本格的に何かの機会が到来したらしいが、たぶんそれもわからない。面倒なのでそういうことにしておこう。ごまかしがきかなくなるほど何も思いつかず、まったく言葉が出てこないようだ。知らない間にそうなってしまっている。君が知らないのではなく、誰かが知らないのだろう。だが誰にも知り得ないようなことを語ろうとしているのではない。そう述べる意味がわからない。言葉の並びがぎこちない。文章になっていないのだろう。何も語れなくなってから、精神がどうにかなってしまったわけではない。そんなふうにして、ひたすらでたらめなことを語り続けている。文章がそうなっているだけだろう。誰にとやかく文句を言われる筋合いでもないが、何かを示そうとして言葉を記しているのだろう。

 話し方に少し癖があるようだが、何とかそんなことを述べている状況の中に架空の意識がある。ただわけがわからないだけだろう。君はそれらの語り方に難癖を付けるつもりはなく、誰かはただやりたいように言葉を記せばいい。すでに今日も語り得ない領域に入っている。別にそれを語りたくないのに語っているわけではない。何も語れなくなって、君が君でなくなり、誰かは沈黙するしかやりようがなくなってしまったらしい。そう記して内容の矛盾を放置する。何をやろうとしているのでもなく、読み返すつもりもない文章の内容を破棄できなくなる。それを修正することも叶わぬようだ。緊張感がない。ただ眠いだけのようだ。もはや廃墟から叫び声が聞こえてくることもない。誰が何を叫んでいるのでもなかったらしく、眠っているのも起きているのでもない状態がしばらく続いている。昼寝をしていたわけではないが、何となく目が覚めたまま夢を見ていたらしい。居眠りの最中に誰かが砂漠の中をさまよう。おそらくその手の映像でも見ていたのだろう。題名の定かでない書物は、予言者の言葉を忘れている。話の中では死が誰のもとにも訪れ、当たり前のように人の生と死が混在している世界を語ろうとする。そんな状況は誰にも起こりえることだ。しかし相変わらず文章になっていない。それらの意味がわからないのだから仕方のないことらしい。意味とは何のことだろう。意味でなければ理解できないのか。語っている何もかもが馬鹿げている。内容が支離滅裂なのだ。

 何かの動作が一定にならない。何かではなく、何でもないのだろう。いつものようにそんなことを述べているが、それ以上の何を記せるのか。そこに記された言葉の連なりはいつも誰かを裏切り続け、出来事を語らず、意識とは違う何かを表そうとするが、いつも失敗に終わっているようで、結局何も語らずに、理解不能の言葉の連なりが記されているだけだ。誰かは語り得ないことしか興味がないらしく、誰でもないのに誰かであろうとして、そこに介在している意識に固有名を付与できないのに、それらの文章は何者かの著名を必要としているように思われ、それが嘘でないことを必死で示そうとするが、それも無駄な悪あがきに終わるだろう。言葉以外の何が記されているわけではなく、そこに立ち入ることができるのは誰でもない誰かだけのように思われるが、それは誰も立ち入ることの不可能な場所だと勘違いしているだけかもしれず、誰が勘違いしているのでもなく、理路整然と文章を記しているわけでもない。要するに何でもないことが記されているにすぎないのであり、そこで終わらせないための方策がどこかに張り巡らされているのだろうが、どこかがどこである必要もなく、どこにもそんな場所はなく、必要ともされていないのであって、そんなふうに述べているつもりのすべてが嘘である。しかし嘘だと思うならどうすればいいのか。誰かの秘密を暴露すべきなのだろうか。誰でもないのだから、そこに秘密があるとも思えず、苦し紛れに何を問いかけようと、すべては空振りに終わるだろう。どうやら君はそこから飛翔できないようだ。なにやら意味不明な問いに対して提示された答えのことごとくが外れているようだ。だがそれらは外れるべくして外れているのであり、実際にまともな問いは一つとしてなく、それに対する答えのすべてが間に合わせの嘘だ。そんな状況の何が前向きな印象をまとえるだろうか。何も前向きなことを述べようとしているではない。そこにそんな意識は働かず、それ以外に述べていることといえば、要するに内容もないのに語りすぎているのであり、ひたすら無意味に語ろうとするから、わけがわからない言葉のつらなりとなっているのだ。しかしそんな結果を誰が反省することもなく、さらに語りすぎようとしているのだから、話の着地点を遥かに通り過ぎているようで、何について語っているのかわからないのも当然のことだろう。そこに何が介在しているとも思えず、それは意志でも意識でもなく、ただの惰性のなせる業だろう。


4月23日

 巻き返すつもりらしいが、決意のほどを表明しているわけではない。今さら継続することに何らかの理由付けが必要だろうか。それは誰の台詞でもないらしい。どうにもならない状況で、どういう風の吹き回しなのか。それが知りたいわけではない。何を考えているとも思えず、そこに何があるわけでもないのだろうが、少なくとも理由になっていない。それでも何か適当なことを記しているのだろう。それが何なのかを知りたい。君はそれを知ることができるはずだ。すでに知っている。少しやり方がくどすぎるだろうか。事実が重すぎる。そこから何について述べたらいいのか。君はそういう語り方を好まない。それは誰の断言なのか。誰かはそれを知りたい。それで物語になっているわけでもない。そんなことはわかっているはずだ。誰がそれをどうしようというのでもない。適当な文の長さを獲得すればそれでかまわないのだろう。それが確保すべき文章となる。君は気まぐれにそういうことを述べている気だ。気ではなく、実際にそういうことが記されている。誰かはそれが気に入らないというわけではない。だから気ではないと述べているのだろう。わけがわからないとはそういうことに違いない。何となくそのつもりでそこから話を展開させたい。そこには誰かの幻影が映っている。

 何かを知るとはそういうことだ。知らなくてもいいことまで知ろうとして、述べる必要のないことをさかんに述べている現状があるらしい。そしてそこから先を思いつけない。言葉の連なりがそこで途切れている。君はそんな事実を認めたくない。だいぶ雑なことを述べている。もとからそれはそうなのだ。いつもそんなことを述べている場合ではない。だからそれで述べていることのすべてを否定しているつもりなのだ。何かがそこで細切れになる。言葉ではないのだろう。君は何でも知っていて、それが嘘偽りであることも知っているはずだ。要するに何でもないことだ。何を述べているのでもない。ただ誰かが無駄に言葉を記している。心の中で誰かと君を使い分けているのだ。気にしないといえば嘘になるだろう。嫌がらせのたぐいになるだろうか。嘘でも何でもない。嘘という主題が構成されて、何かまともな文章になるような予感がしているわけでもない。それで誰の心に動揺が生じているはずがなく、心を揺り動かされるような出来事に遭遇したわけでもなさそうだ。ただそういうことを述べている。ただの戯れ言が記される。笑うほどのことでもない。やり方が汚いという批判を甘んじて受け取る。それも嘘に違いない。くだらなかったらそれでかまわないのか。君が問われている。誰も返答できないような内容ではない。しかしその辺が限界なのだ。軽薄な言説を多用する。誰も信じないようなことを述べていたい。君もそれを信じられず、誰がそれを記しているのでもなく、まったく内容を見いだせないようだ。そんなことをしなくてもかまわない。無理に語る必要はなさそうだ。その場の状況に応じて本音と建前を使い分けるべきか。それも何かの過程で生じていることだ。誰も知る必要はなく、結果はなるようにしかならない。そこが文章の終端部になるだろう。

 規則に則って言葉を記すのには抵抗があるらしい。それが制度だと思うが、今さらそれ以外の何をどう思っているわけでもない。できないことをやろうとしているのだろう。たぶんそれは簡単なことなのだ。気に入らないのはそういうことらしい。たぶんできない。いつまたそれを再開するとも限らないが、今は泥水をすすっているわけではない。冗談になっていないだけだ。述べていることが何でもないことだ。君はその一部始終を眺めているようだが、それは物語ではない。しかしそれの何を信じられないのか。何をどう思っているのでもないらしい。今はそうだと思うが、いつかはそうではないと思いたいのだろう。だから頑なにそれを否定する必要はない。否定すべきはこの世界全体だ。だがそれも嘘の一部となるだろう。相変わらず何を述べているのでもない。何も述べることがない。だから嘘をつくことしかできず、それも嘘の一部となるようだ。冗談でそんなことを述べているらしいが、わけがわからないわけではないのだろう。何を述べてもそうなってしまうのだから、それはそういうことでしかない。要するに何でもないのだろう。何でもなくてもそこに言葉が連なっていて、その中に何らかの意味があるらしい。そういうことではないのかもしれないが、やはりそういうことでしかなく、それが気に入らないなら、勝手に別のことを述べてみればいい。それができないからそうなってしまうのだろう。どこまで述べてもそういうことしか述べられない。これが笑わずして何がおかしいのか。何もおかしくはない。おかしくなくても笑ってしまうとすれば、おかしいから笑うわけではないということだ。すべてがそういうわけではない。どうも何かが違っているのは毎度のことだが、そんなふうに述べてしまうこと自体がおかしい。気がつけばそういうことしか述べていないようで、それではまずいのかもしれないが、それをやめるわけにはいかないらしく、やめられないにしても、そこから何か違う話の展開を模索しているようだが、たぶんそれは失敗に終わりそうだ。そんなくだらぬ冗談の連発は虚しさをもたらし、自己言及的に自己嫌悪しか示されないようだ。それでもそんなことを述べていれば楽しいか。まったく思いもしなかった展開で思いもしないことを述べているようだ。


4月22日

 誰かはつまらない話には興味を持てない。それは誰かではなく、君のことだ。今や誰かと君が同一人物であることが証明されようとしている。嘘に決まっている。それは過去の話ではない。嘘だと思うならどうすればいいのだろう。何も思わないことだ。また冗談でそんなことを述べているらしい。具体的にはそこからどうなったのだろう。テレビ画面の方を向いていないので、たぶん過去とは違ったアプローチが可能なのだろう。だがそれは真実に至る道ではなく、新たな嘘をつくための方策に違いない。しかしそれではまずいのではないか。何がまずいのか心の中でははっきりしないようだが、たぶん本気になる必要はなく、真に受けるべきはそれとは違う事象だ。どうも見当違いのことを述べているらしい。話が意味不明なだけでは物足りないか。そういう話ではない。それだけのことではないのだろう。そういうことではないと述べているだけだ。それだけだからつまらないのだろう。もっと従来の語り方とは違うことを試してみたらどうか。それが違う試みだとは到底思えない。

 それは違うと思われる。たぶん本当に違っているのだろう。本当は思い悩んでいるのだ。架空の誰かが思い悩み、その思い悩んでいることが文章の中に示されない。それは架空の文章ではないからだ。機能的にその機械はすべてに勝っているように思われる。すべてとはすべてのことだ。何でもないのではない。その辺で何か感覚の相違があるのだろう。過ちは二度も三度も繰り返されるべきだ。正しい行いを遠ざけ、すべてが過ちが生じるようにしなければならず、それで何がわかるわけでもないが、狭い範囲内で何かの優劣を競っているわけではない。すべての事象はこの世界から生じている。君はこれまでの行いを見つめ直し、今後の計画を再検討したい。またできないことをやるつもりになっていたのだろう。無理なのに当てもないことに挑戦しようとする。そして時間がない。不可能なのだろう。やろうと思うことが不可能だ。それはかなりくだらない結果を招くことだろう。やってみなければわからないと思うことが愚かなのだ。だが今はそう思うしかない。何事もやってみなければわからないのだ。やる前にあきらめてしまったら、何もできなくなってしまう。しかしそれらの言葉に励まされて何かをやろうとしているわけではない。傷口が閉じようとしているらしい。痛みがそこからにじみ出てくる。何かを取り逃がしているのだろう。言葉が君から遠ざかる。もう何も語れようにしたいわけか。

 誰かが遠くに見える岩山から飛び降りようとしているわけではない。くだらぬ想像力を働かせているようだが、たぶんそうならないためにそれらの文章があるのだ。しかし居心地が悪い。そんなことを語りたいわけでもないのに、無駄に言葉を弄して、それらの文章を構成しようとしているわけだ。もはやそれは何でもないことではなくなり、君を奈落の底に突き落とそうとしているわけでもなく、そこにどんな舞台があるわけでもない。ただの文章なのだろう。それを書き記し、読み返し、そして何でもないことだと思い、それが嘘だと気づく。何でもないのにそれはない。それがないから嘘ではない。面倒くさいから言葉を循環させている。たぶん意味がわからないのだろう。誰かは語るのをあきらめようとしている。その段落ではあきらめた方がいい。

 何かが先細りのままで続けられているらしい。それが遠くまで見通せる能力ではない。それは何の能力でもなく、ただ何もやらないためのいいわけにすぎない。文章の先祖返り状態だろうか。意味がわからないが、架空の冒険では君はすでにこの世の存在ではない。少し話が進みすぎたようだ。しかし本当にそれは付け焼きの知識なのだろうか。君が知っていたのはそういう経緯ではない。話はどこまでも意味不明でつじつまが合わない。何を語ってもそうなってしまうのだから、もはやその先で何を語っても無駄だ。がらくたに埋もれているようだ。心がどこにあるわけでもない。それは誰にとっても認められない状況なのだろう。もはや否定するしかないような話になってしまい、それ以上の話の展開を望めないような結果を導いている。君はかつて試みられたそれが失敗に終わってしまったことを覚えているはずだ。何もない荒野で誰かと誰かの戦いが繰り広げられているわけではない。そんな映像の中で誰かをいくら探したところで、見つからないこともわかっているはずだ。君には何も見つけられない。わかっているのになおも見つけようとすれば、誰かの幻影を妄想することしかできないだろう。ただくだらぬ未来を想像しているにすぎず、そこから無理に語られるのは、夢でも現実でもなく、言葉そのものについてだ。要するに中身がなく、何も語っていないのと同じことになりそうだが、それでも何とかしようとしている。それは虚しい試みだ。虚しいことだが、それがまぎれもない現状なのだろう。そしてそんな現状の中に誰かが記す作り話があり、まったく内容を伴っていない話が延々と続くのだろう。それがそこでのすべてなのだろうか。そういう問いかけが何を予感させるわけもなく、すべては絶望とは無縁の可能性を暗示しているように思われ、そこに誰のものでもない言葉の連なりが出現している。


4月21日

 幻想とは何だろう。そう問われるとわからなくなる。それに関して何を学んでいるわけではない。学んだことしか答えられないわけではないが、たぶんつまらないことを述べてしまうだろう。それが気に入らないことの原因となっている。それがわかっているなら、そうならないようにしなければならない。なぜベルニーニよりミケランジェロの彫刻の方がすごいのか。たぶん現代の技術を持ってすれば、ベルニーニよりさらにベルニーニ的なものが作れるだろう。ベルニーニが目指した表現を押し進めて、技術的により高度なものを創造できるということだ。しかしミケランジェロの彫像はそれとは違う。それは彫像そのものであり、絵画が写真とは違う表現形態であるのと同じようなことかもしれず、彫像を彫像以上によりリアルに見せようとするならば、彫像の代わりに生身の人間をそこに配置すれば良いわけで、表現のリアルさを求めるなら、そこにあるのが必ずしも彫像である必要はない。そしてそうなると別に彫像を眺める必要もなくなり、例えば通りを行き交う人々を眺めている方がより現実的だろう。だから彫像が彫像であるためにはより彫像であらねばならない。生身の人間とは違う存在としてそこに彫像が存在していることが、彫像が彫像であるための存在意義なのであって、彫像には生身の人間とは違う彫像独自の特徴があるわけで、たぶんミケランジェロが制作した彫像にはそれが備わっているのだろう。それに対してベルニーニのそれには、いわゆる物語的な軽薄さが含まれており、物語の中での劇的な一場面を示すために、静止している彫像に動的な躍動感をもたらそうとしているのだろうが、それが時代的な限界をその作品の内部に呼び込んでしまっている。現代においてそれは映像を見れば事足りることなのだ。映画でも見れば、物語の一場面ではなく、その一部始終を見ることができる。それに対してミケランジェロの彫像は静止している。ただ止まっているわけで、それは映像では表現できないことだ。止まったままの映像では作品として成り立たない。彫像はそこで時間を止めている。それが彫像の本質であり、生身の人間では代用できない。

 君はそこで何を期待していたのか。苦肉の策とは何なのだ。他に何か思いついたことでもあるのだろうか。語れることが限られていて、この世のすべての事象について語るわけにはいかないらしい。気がつけば文章が段落で細切れになってしまう。それが当たり前の成り行きだ。今こそ君はまともなことを語る必要がありそうだが、実際はどうなのか。何について述べている気になっているのだろう。あまりそういうことを気にしている場合ではなさそうだ。そしてそんな結果に納得するはずがない。何か吹っ切れたつもりになりたいらしいが、それがいつまで続くのかわからない。必要に迫られてそういう成り行きになったわけでもない。頭の中で何がフル回転しているとも思えず、機械ではないのだから、それほど同じような動作は期待できない。

 しかし人々はそこから何を感じ取っているのだろうか。何がしかしなのかわからないのだが、例えば音楽を聴いている時の誰かはどんな感覚に包まれているのだろうか。昆虫の動作と人間の動作は違う。ロボットの動作も違うといえば違うだろう。今までとはまったく関係のないことを語る時、果たしてそれは何を示しているのか。なぜか気まぐれにそういうことを述べている。意味がわからないのだが、話に何の脈絡も感じ取れないような気もする。君にはそれがわかる時もあるらしく、何かを理解した気になって、その先に言葉を連ねようとするだろう。しかしそれは物語ではない。何かが必死になって追いかけてくるわけではない。何かとは何だろう。何でもなければ何かではないのか。たぶんそれが何かでない時もあるのだろう。どうやらさっきからしきりに時間を気にしているらしく、何か今日という時間の範囲内に内容のない話が収まりきらなくなった場合を恐れているようだ。いったい誰が恐れているのか。無駄で無意味なことを語るのがそんなに楽しいか。別に感情を荒げているわけではない。まだその先にまともな中身を提示できるかもしれず、誰が期待しているわけでもない成り行きに何かの思いを馳せているらしいが、理想と現実は違う。だからもうその辺で終わってしまってかまわないのかもしれない。何事も自分でやり遂げられる範囲内でやり続けるべきだ。無理をしすぎて常軌を逸してしまってもかまわないが、誰も責任を負えないような結果を招いてしまってはどうしようもない。今の君はその一歩手前で困惑している。いつかの君ならそのはるか手前で引き返していたはずか。その時の気分がそうなのだから、今とあまり変わらない心境だったのだろう。だから誰かはそういう近頃ではあまり見かけなかった手法を再び試みてみたわけだ。たぶん忘れかけていたのはそういうことだったのだろう。それだけではどうしようもないだろうが、何とかその先には光明が見えているようだ。それで少しは出口に近づいたつもりになれる。あまり説得力を感じられないのだが、やはりそれでかまわないのだろう。何かについて語るとはそういうことだ。そして実際に何を思い出したのではなく、今ではそれは新たな試みになりつつあるようで、言葉を記している自らに何を言い聞かせているとも思えないが、テレビの表面を彩る派手なカーチェースを無視しながら、それが本質から外れていることを理解しようとずる。それらとはまったくの無関係で意味不明だが、何かを述べていることは確からしい。


4月20日

 まだわからないようだ。曇り空から何が降ってくるわけもない。夜になったら雨が降るだろう。そしてもうすでに夜だ。すでにかなりの時間が経過していて、君にはそれが取り返しのつかない時間と思われる。何かの皮膚がはがれ落ちて、別にそれの何に驚いているわけではないが、記された言葉は実際とは違うらしい。言葉が意味を担えない。何か扱いづらい局面に入りつつある。何をとらえようとしているのでもないが、とりあえず出来事は出来事なのだろう。人は人として当たり前のように考えている。それが何だかわからないのだろう。誰かはそれを手に取るようにわかりたいのだろうが、今のところは何を語っているのか意味不明気味だが、別に不気味な静けさの中にいるわけではない。まったく意味のつながらない文を一つに融合しているように思われ、思い違いかもしれないが、何かに意識を集中しなければそうはならない。ますますわからなくなるようだ。わざとそうしているのだろう。そんなふうに語ってもストレスを感じないようで、それらの言葉に何が託されているのかを知ろうと試みる。さらに何かから遠ざかっているようだ。いつものように何かが違っていることはわかっている。どこかで誰かが休息している。道はそんなに険しくない。もう少し前のめりに行動したら、新たな道が開けるような気がする。誰かがどこかへ走り去り、何かに対する幻想も自然に解消してしまう。季節が変わりそうに思われ、来るべき季節には誰かの意思が反映されていないように思われる。それを考えているわけではない。それはたぶん音楽のたぐいだろう。心は未だに幻想のただ中だ。それを何とかしたいのだろう。無理を承知で新たな試みを実行中だ。君にはそういうことしかできない。それが欠点なのか利点なのかはっきりしない。ただそういうことでしかないのかもしれず、そういうことをやっている誰かがどこにかにいるらしい。それが君でないことを祈ろう。君はそれらの言説から逃れようとしている。その対象になりたくないようだ。そこで眠ってしまっては元も子もない。そして何を解消しようというのでもないらしく、現実はいつまでたっても現状のままだ。それが嘘なのだろう。相変わらずくだらない。気分を害しているようで、その先に言葉の連なりを続けなければならなくなる。やる気がしないのはわかっている。語っているのに語ろうとしていない。視線があらぬ方角へ向いている。そういうたとえ話は嫌いのようだ。それでも何とかしようとしていることだけはわかってほしい。だから無理なのだろう。何かが傾いている。たぶんどこかで内戦状態なのだろう。語ることを拒否しているようだ。それがそこでの結論に近いが、その代わりに何が主張されているわけではない。何とかしたいが、何ももたらせない。それが言葉を連ねた結果なのだ。だがそれでも君が抱いている幻想が打ち砕かれたわけではない。まだ幻想を温存させて、その続きを探っていきたいらしい。たぶんどんな主張にもたどり着かないだろう。それらの言葉はとりとめのない無方向性を示している。語るとはそういうことなのだ。そして語ることは何を語っているのでもない。矛盾しているが、誰かはそこで言葉の習性をとらえているつもりなのだろう。嘘に決まっているだろうが、そんなことを記しているとそんなつもりになってしまう。最近は少し文章が長過ぎた。苦悩の原因はそんな些細なことにある。だからそれは少し短くすれば良かったのだろう。環境を変えたらそんなことでしかなかったことに気づき、そこが当たり前の決まり事に従った結果から求まる場所であることに思い当たる。だが何を思いついたわけでもなく、何かが現実の複数性を示していて、それぞれの結果が違ってしまっている事実も受け入れようとしている。だから矛盾しているのはわかっている。そこからはじき出された嘘が何かの事実を物語り、それに基づいた文章をもたらして、誰かを困惑させているようだが、かまわないのだろう。些細な相違にかまっている余裕はない。今は矛盾を含んだ現実をそのまま文章として構成しなければ、何を述べているのでもなくなってしまうだろう。実際に何を述べているのでもなく、それでも何かについて語っているつもりになっているのだから、それはそれとして、そういう現実を受け入れなければならない。果たしてその先に言葉が連なるかどうかは、その時の誰かの気分次第だろうが、君はそれだけではないと思っていて、偶然の巡り合わせから、思いもよらぬ言葉の連なりを導きだせると確信しているようで、その結果がこれなのだ。まったく馬鹿げているだろう。そこで決まっているのは決まっていないことであり、何がもたらされるかは、誰次第でもなく、君がそれについて何を語ろうとしているのでもない。だが現実を見つめ直すのはその先に設けられた課題ではなく、意味不明であることに焦りを感じてはいけないらしい。廃墟の中で何かの像が崩れ落ちる幻影を、言葉の連なりがもたらしているのかもしれないが、それは唐突に記された架空の出来事しかなく、それ自体には何の意味も宿らない。誰の意思を反映しているわけでもなく、他の誰が作り話の中で何をやろうとしているのでもないらしい。たぶん誰かはそこに漂っている虚無の学習能力に期待しているのだろう。まったく何を望んでいるのもないようで、現状を眺めて、そこからどんな言葉を繰り出そうとしているのでもない。否定の力はそういうところから発せられているようで、君には関係のないことだと思うかもしれないが、君自身を取り巻く状況はそれらの否定を受け入れるだろう。他に選択肢はないように思われ、それを否定する以外に出口はないらしい。今はそう思われるかもしれないが、その先は誰かの気分次第でどう変わるかも予測がつかず、ただそれらの成り行きを黙って見守り、タイミングをとらえて言葉を繰り出すしかないらしい。


4月19日

 どうも語る条件を満たしていない。毎度のことながら、それらの内容は至って空疎だ。だが意識がそれらを求めているのであり、語る環境にないのに言葉を連ねようとする。そしてそれらが君を裏切り、君とは関係のないことを文章の中に示そうとする。関係があったら誰が困るのか。そういうことではなく、心がどこにあるのかわからないのだろう。だがそれがどういうことなのかわからない。そこで誰かは何に気づいているわけでもなく、取り立てて何について語ろうとしているわけでもなく、それらのどこからが意味不明になっているわけでもない。すべてが意味不明であるように思われるだけで、冗談としてなら、何に気づいているのではなく、まさか心が傷ついているわけでもないだろう。理由がわからず、気が動転しているわけでもないが、確かにそれらはくだらぬ冗談だ。理由ではないのだろう。たださっきからまったく言葉が出てこないようだ。さっきとは昨日ことで、今日のさっきではない。そしてもうすぐ明日になる。たぶん明日になっても仕方のないことだ。知らず知らずのうちに意識がどこかに回帰している。環境を変えれば言葉も出なくなり、こちらのマシンの方が遥かに使いやすいのに、なぜか何も記せなくなる。理由は使いやすすぎて、何かのとっかかりが見いだせないのだろう。あらゆる方角から何かが押し寄せている感覚は幻想に決まっているのだろうが、一方でそれが嘘であることに気づいている。だから何を述べているのでもない状況の中に意識があるわけで、そんなわけでまったく笑ってしまっている状況で、何か結局はくだらないことを述べている自らに呆れ返っているみたいで、自意識はそれ以上にまともなことを述べるのが面倒くさいのだろう。そしてどうしてもそこから先へ進めない。それは話ではあり得ない。またどこかに膿がたまっているようだ。死に至る病ではないが、一応は病気なのだから仕方がない。そしてそれについてはそれ以上は語れない。それ以降に言葉を繰り出す必要はなく、そこで何かが止まっている。得体の知れぬ状況が適当な場所でつっかえているのだろう。意識がどこへと出向いているわけでもないだろうが、誰かが向かう先には砂利道が続いている。そう思っているだけで、何かの思い込みがそういう認識をもたらし、何かの動作が気にかかるが、それは昔のことで、今はアスファルトで舗装された道の上を車が走っている。それは何でもないことだ。そこで何かが違っているのはもとからそうだ。それをわかっていながら改められずにいる。だが本当にわかっているなら、それを明らかにしてみたらいいではないか。しかし何を怒っているのだろう。何かが適当に違っていて、それが誰かの感情を逆撫でしているのかもしれない。たぶんそれは架空の怒りであり、文章上にそんなありもしない感情が示されているにすぎないのだ。しかしそれの何が感情だと思われるのか。ただの文字が記されているにすぎない。そして気がつけば意味のない問いかけの悪循環が生じていて、特定の誰に問いかけているとも思えないが、それを必死に説明しようとしていて、結果として自己言及的な自問自答が繰り返され、それを記している誰かをうんざりさせる。まったく自業自得で述べている意味がわからない。そして眠たくなってくるのだが、そこであきらめてしまってかまわないのか。あきらめているからそうなってしまうのであり、まさに虚無のなすがままになる。しかしそこで強引に何かの痕跡を発見したつもりになり、ますます意味不明になった方がおもしろおかしくて楽しいような気がする。確かにそう述べてしまうと意味がわからなくなる。わざとそういうことを語りたかったのではないか。あるいはそうなる前に、できれば沈黙を守りたかったのだろう。今はそうでもないらしく、まんざらでもないような満足感を得ようとしているが、それも本心からそう思っているのでもないような気がする。そしてそんな語り方でも一応の文章には違いないと思うことが、何となくいいわけ気味に誰かの脳裏を横切り、あきらめかけていた継続への意志を再確認させるらしい。もともとはそういう話だったのだろう。だが実際にそれを記してみると、まったくもってどういう話でもなかったようだ。文章上に想像される架空の意識は何を目論んでいたわけでもなく、それはくだらぬ試みの続きであったはずだ。だからはじめから失敗が目に見えていて、だから改めてやらなければならないのだろう。すべては失敗するために試みられなければならない。そして失敗するために架空の君が存在するわけだ。そういう荒唐無稽な嘘は語っていて楽しい。本当に誰かは自らが記しているすべてが嘘だと思い込んでいるわけだ。確かに時が巡り、季節も巡り、あれから何年が過ぎ去ったわけでもないが、未だにあれが何なのか思い出せず、あれらの出来事は何でもなかったのかもしれないが、あの時の言説が架空の君に何をもたらそうとしているのでもないらしく、例えば誰が漫画の中で繰り広げられている戦いに巻き込まれているのでもないようだ。心は何かの邪魔をしているようで、まともなことを何も述べられないのはそのせいだろう。そしてそれは誰かの勝手な理由付けで、もとから理由など何でもかまわなかったのかもしれない。そんなことにこだわっていたわけではなく、ただ本当の理由がわからないだけで、なぜそんなふうになってしまうのかを、誰に問いかけているわけではなさそうだ。まったく誰もそんなことは思っていないようだ。だから言葉を記すのをあきらめてしまい、語る内容は空疎になる。しかしなぜそれほどまでに語ろうとするのか。ただ無駄に言葉を連ねているだけではないか。誰かにとってはそれがおもしろいのだろうが、それが自らの限界を醸し出している。そしてもうとっくに限界を超えているはずだが、なぜかそれでは気が済まないような気がするらしい。理由はわからないが、自分を信じるしかないようだ。しかしわからない。いったい何がわからないのか。


4月18日

 どうも新型インフルエンザの発生源として疑われているメキシコの養豚場は、世界最大の養豚屠畜業者であるスミスフィールドの養豚場らしい。そうなると真相はうやむやのままになる可能性がある。なにしろスミスフィールド一社が世界各地で飼育している豚の数は、現在日本で飼育されているすべての豚の数をも上まるほどだそうだから、スミスフィールドの農場が新型インフルエンザの発生源と特定されてしまうと、風評被害で同社の豚肉が売れなくなり、本拠地のあるアメリカの国益を損なうことになりかねない。どうやらメディアもその辺を心得ているようで、大騒ぎしているわりには、これまでにスミスフィールドという社名はほとんど口にされず、それが情報操作の一貫なのかどうかはわからないが、何となくそういうことらしい。どういうことでもないのだろうが、それがどうしたわけでもない。気まぐれにそんなことを述べてしまうと、何かその辺の事情通のごとき印象を持たれてしまうかもしれないが、それも冗談の一環と解釈してもらってかまわない。何が冗談なのかわからないが、本気ならはじめからそういう話題を選んで述べておけばよかったのだ。だが後から悔やんでも仕方がない。それはそれで一応の作業がこなせるのだから、そのままでかまわないのだ。君はその環境の中で続ければいい。そしてあり得ないことをあり得ないように語るのだろう。何があり得ないのかわからないが、何となくこの世の中ではまともなことを述べてはいけない風潮が蔓延している。例えば憲法改正派だとみなされると、すぐに第九条を改正して、日本も正式な軍隊を持つべきだ、というタカ派的な印象を持たれてしまうだろうが、そもそも問題なのは国民主権の憲法なのに、天皇に関する条項が優先されているということにあり、まず改正すべきは、天皇に関する条項の削除にあり、真の国民主権を実現するために、日本を天皇制から共和制に移行させなければならないのだ。天皇制を温存させたまま第九条だけ改正して軍隊を持ってしまうと、結局天皇という言葉を利用して勝手なことをやりたがる輩が出てくるに決まっている。などとまたどうでもいいような冗談を述べてしまっているが、もっと軽薄なことを述べるべきだ。少し前の話題だが、侍ジャパンの何が侍なのだろう。ただ野球をやっているだけで侍も何もあったものではない。それはキャッチフレーズか何かに利用されていたわけか。時代劇あたりからもたらされるイメージとしての侍には、何か強くてかっこいいという印象があるのだろう。何か当たり前のことを述べているようだが、それはスポーツ選手の印象とも重なるわけだ。それがどうしたわけでもなく、現実の侍やスポーツ選手がどうであれ、人々は試合に勝ったり負けたりしているだけのことに興味があるのだろう。それ以外にも色々あるだろうが、そういう語りには感心がない。誰がそうなのかはっきりしないが、それで何を述べていることになるのか。いつものようにそういう問いかけは無効だ。しかしそこで語られているのがそれぞれ別の話題なのに、なぜそれぞれの話題ごとに段落を区切らないのか。誰かの記述法がおかしいのか。紆余曲折を経た結果としてそういう記述法になってしまったのだから、それが間違っていようといまいと、そんなことはどうでもいい。やはり君が本気でそんなことを述べているとは思えない。君が語る内容はすべてどうでもいいことだ。どうでもいいことだが、そこは我慢しなければならない。そこで感じる違和感を省くわけにはいかないようだ。しかしすんでのところで失敗してしまう。他の事情が邪魔をして、どうしてもその先に言葉を連ねられないようだ。だからどうでもいいわけがないのかも知れない。くだらぬ主張には尾ひれがついている。そんなことがあるわけがなく、どうも語っている内容が日本語になっていないようだが、何かをやるにはそれに合ったタイミングがあるらしく、そのタイミングを一度のがしてしまうと、次の機会はなかなか訪れない。今がそのタイミングなのだろうか。タイミングを逃さないためには、何かを嗅ぎ分ける能力が必要らしく、それを身につけているかどうかは当人にはわからないようだ。すべては結果が物語る。その結果がこれだ。君はうまく危機を乗り切って、何か新た段階へとその魂を導いたつもりになり、その気になってまた小難しいことを述べようとするが、その結果がどうなったのかは、誰にも知り得ない。何かを語っているつもりの君には、言葉を記している誰かの苦痛を知らず、たぶんまた苦労しているのだろうが、いくら四苦八苦していようと、君はいつものように些細なことにこだわり、それで迷っているはずだ。迷っているからそこから先に言葉を連ねられない。何かが邪魔をしているようで、まったくにっちもさっちもいかないようで、何事も思い通りにはいかない。だから妥協しなければその先に言葉を記すことはできず、しかし一旦妥協したら、そこから先に記される言葉はたわいないものとなり、くだらぬ感情から生じる幻想に基づいた言説の後に続くのは、補足のような類の、ほんのつけ足しに過ぎず、結果的に何が述べられていてもかまわないのだろうが、やはり誰かはそれでは駄目だと思うだろう。つけ足しのような言説だけが記されている現状を改善することはできない。君もそれを望んでいるわけではない。たぶん冗談の連発だけでは限界がある。いつまでも皮肉な状況の継続を後押しするような薄ら笑いを浮かべているだけでは済まないはずだ。眠たくてあくびばかりなのは仕方のないことだが、君には荷が重い。そこに限界があるのはわかっていることだ。だからもう少し軽快に振る舞わなければならず、何ももたらせないのよりは、何か知ったかぶりの方がいくらかマシだろう。


4月17日

 今日もはじめから言葉が違っている。本当に何か違っているような気がする。例えばそこで詠われるのは詩ではない。誰も何も語ろうとしない。空は曇り、昼は仕事をして、そこ示される気分は何もない現状を物語っている。君はそれが気に入らない。この世界に関係しているのが君ではないから気に入らないのだ。語るべきはそれとは違うことだ。誰かはそこですべてが嘘だと思っている。曇り空と空っぽの気分とは無関係だ。どうやらまた誰かはおかしなことを述べているようだ。無理におかしな成り行きに持っていっているのだろう。だがそこで空っぽの気分を抱いているのは誰でもなく、批判されているのは誰のことでもない。また誰がどうしようとしているのでもない。何も語ろうとしない君は、それが当たり前のことだと思っている。それで何かをやっているつもりなのだろう。隙あらば人は他人を攻撃したい。他の誰かが自分より優れているのは、感情的に耐えられないのだろう。だがそれを君がどうしたいわけではない。思わず口走ってしまう言葉に、その人の否定的な感情が表れたりするが、たぶんそれは何でもないことなのだろう。調子にのって誰が何を攻撃しているわけでもない。眠たければ眠ってしまえばいい。君が語りたいのはそういうことではない。ただそこには何かがあり、その何かが何であるかを示さなければならないが、やれることは限られている。おそらく面倒臭いので何もやらないつもりだろう。実際にまだ君は何も述べていない。何もないので何も述べられないのだろう。だが今はそんないいわけが通用する状況ではない。何があるとも思えず、何か画期的なことをやって、くだらぬ栄光に彩られたいのでもなく、それとはまったく関係のないことを述べている。さっきからまるで文章になっていないようだ。誰かは何に精進しているのでもなく、それはくだらないことだ。無理に続けるようなことではない。そこに至る道筋を知らない。何を語っているわけでもなく、ただ眠い。それだけのことに気を取られ、まともなことは何も述べられない。何かを見出すのに言葉はいらない。外は静かだ。誰もいないようだ。誰も何も見ていないのだろう。誰がそう思っているのではなく、眠気を覚ますために何か適当な刺激がほしいのだろう。それでも結局眠ってしまうわけだ。眠らなければ本当に永眠してしまうか。ここではそういう話ではないはずだ。何も述べないために何か述べているような気にさせる。それは君を取り巻く虚無の仕業に違いない。コーヒーでも飲んでおけばよかった。気休めと気晴らしの間に何があるのかわからなくなる。そこで語られているつもりの無内容について、君が抱く感覚がそもそも勘違いなのかもしれない。だがそれで何を反省することもなく、誰かは黙って続きの言葉を記すだろう。この世界には興味を抱けない。ただ眠たくてしょうがない。たぶんそれは政治的退屈や宗教的退屈からきているのではない。誰もそんなことには興味を抱けない。もとから誰もいないのだから、興味云々以前の問題だ。だから眠いと述べているはずだ。それらの言葉の連なりは何かの範疇に入るような代物ではない。誰にもわからず、それに関しては何も語れない。誰かの作り話の中ではそういう設定なのだから、それに関してどんな異議を唱えてみても無駄だ。だからそんなことは君にとってはどうでもいいことだ。気に入らないならもう少し慎重に言葉を選んで説明すべきだ。今までのところは何に関して何を批判しているわけでもない。文章はただの意味不明に終始しているようで、それがまともに語ろうとしている誰かを悩ませている。しかし依然として誰かは冗談でそんなことを記している。そんな現状が変わる気配はない。たぶんこれからも変わらないだろう。今さら罵詈雑言というわけにはいかないらしい。何を批判したらいいのかわからない。ただひたすら冗談のつもりで述べている。何もかもがそういうわけだ。それ以外に何があるわけでもなく、何をどう述べようとしているのでもない。もしかしたら何も述べられないのかもしれない。もしかではなく、本当にそうだ。真実を知ってわざとらしく驚いて見せる。誰に見せているのでもない。大げさなのは嫌いなはずだ。誰の了解を得てそんなことを述べているわけでもない。不用意に違ったことを述べている。だがそれによってこの世界が変わるはずもなく、君も相変わらず君のままだ。それでも疑念を感じたいのなら、それは何かと別の何かを取り違えているのだ。君はその何かをわからないのであり、それについての言説を理解できないのだ。そしてその得体の知れぬ何かに過去のある時間帯において出会っているのに、それを思い出せない。今となってはすべては過去の幻だ。まさか今さら自由の大地に向かって一直線に翔り出すほど意味不明ではないが、そういう言葉自体が意味不明なのは重々承知しているのに、なぜかそんなことを唐突に述べてしまうのはどこかおかしい。わざとそう述べているのだろう。それ以外に何があるわけでもなく、ひたすらわざとらしい冗談を連発している。本当は何もないわけで、何もないから何もないようなことを述べているのであり、それ以外には何も述べられないからそうなってしまう。そんなことの繰り返しが退屈に思われるなら、その先に言葉を記す必要はない。必要もないのに記しているとすれば、それは何でもないことだ。それ以外に何があるわけでもなく、何もなければ何もないままに、さらなる空疎を構成すればいいのだろう。あとはどこまで精神が耐えられるかどうかが問題となってくる。すでに荒廃しているというのなら、それは精神ではなく、何でもない。また冗談でそんなことを述べているようだ。まったく本当にわけがわからず、途方に暮れたいところだが、実際にはどうもならず、淡々とした日常の中で何も思わない日々が続いている。


4月16日

 何に対してもリアリティを感じられない。頭の中で何かが出尽くしている。それは言葉ではない。そうは思いたくないのだろう。だが別のことに気を取られているうちに、また言葉を記すのが遅れてしまったらしい。そして相変わらず何もない。いつものようにできないことをやろうとしている。だが情緒不安定というわけでもない。なぜそう思うのかわからない。焦っているのだろう。これが焦らずにいられようだ。嘘だろう。いくら言葉を記すのが起これてしまっても、焦る必要はない。もう十分に遅れすぎている。遅れて当たり前の成り行きの中にその身をおいているわけだ。しかし遅れてもかまわないというわけではなく、できることならその遅れを取り返してほしい気もするが、何事も思い通りにはいかないようだ。うまくいっていないのだろう。それでも何かを語ろうとしていることは確かだ。それにしても時間がない。語る内容を導き出せずに誰かは焦っているようだ。やはり焦っている。これが焦らずにいられようか。焦っていられるはずがない。実際にはどちらなのだろう。君はどちらでもないと思いたいようだ。ありえないことを思っていたいのだ。フィクションの中で誰かがそんなことを思っている。それもありえないことだ。誰かがありえないとくちばs述べているつもりになり、くだらぬ気分でいい加減に書き記す。そういうことではない。誰もそんなことは思わない。意識の中で何かが錯綜しているようだが、言葉の連なりがどこへ向かっているわけでもない。そのまま虚無のただ中へ留まるつもりなのだろう。それがフィクションなのだ。だがそれがわからない。フィクションではないのかもしれない。その証拠にまるで話になっていない。何かを話していることは確からしいが、その何かがわからない。たぶんそれが作り話なのだろう。でたらめな話なのだ。話の筋がない。語るのが苦痛だ。それも作り話の一部になる。要するに自己崩壊に近づきつつある。そう思うならそれもいい。誰かが語っているのはそういうことだ。黄昏時にそんなことを考えている。まだわずかに正気を保っているらしい。たぶんそれは気のせいだ。そんなことを語っているのはおかしい。君は自らが語りつつある話の内容を把握していない。だがそれはにわかには認めがたいことだ。本当にそう思っているわけではなく、たぶん思いたくないことを思っているのだろう。君には終わりがあり、実際にもうすぐ終わりの時がやってくる。そしてそれは何でもないことだ。忘却の彼方から何がやってくるわけでもない。気がつけばまた違うことをやっているようだ。終わることをいやがっているのだろう。聴いている音楽は単調な曲だ。それだけではない。何がそれだけでもなく、ただそれだけではないと思いたい。それだけでしかないのに他に何かあると思い込みたい。それはご都合主義的な思い込みに違いないが、やはり人の精神的な弱さがその辺に出てくる。本当は他には何もないのだ。ただあるのはこの世界だけだ。それは認めがたいことであり、他に何かないと精神の均衡を保てないのだろう。この世界だけでは不十分であり、それだけでは自らの願望を成就できないのだ。だから人は妄想の世界へと足を踏み入れ、深入りしすぎるとそこから出てこれなくなる。君はそうなるのが怖いのだろう。ありえない話だ。何を強がっているのでもない。たぶん他の選択肢もあるはずだ。人は絶えず自らの度量の広さを試されている。それはありえない現象になるだろう。今後報われることは何もない。何もかもが出すぎている。たぶん出口はその辺にあるのだろう。君にはそれがわかっている。だから何事も穏便に済ませなければならない。浅はかな策略を巡らせて、自らの墓穴を掘るわけにはいかないらしい。何事も権力闘争に結びつけようというのもみっともなさそうだ。できる範囲内でやれることをやっているのが無難なところだ。だから君はそれ以上の改善を求めないのだろう。放っておけば人の欲望はとどまるところを知らず、やりたい放題の要求もエスカレートするばかりだ。だから君は沈黙する。面倒なことには関わりたくない。試されているのはそれだけではない。たぶんそれらの構造体を紋切り型的に捉えてはならないのだろう。わかっていることは他にもあり、それに気づいているか否かで、この世界に対する認識がまったく違ってくるのだろう。おそらく君はそれをわからなければならないのだ。だからわからないのにわかったふりをするのはよくない。しかし君はわからない。何がわからないのかもわからない。たぶん冗談でそんなことを述べているのだろう。本当はわかっているはずだ。生きるか死ぬかあるいはのるかかそるかの、究極の選択を求められているわけではない。何でもないことが何でもないように執り行われているだけで、そこでどのような変化が起こっているわけでもない。当たり前のようにただの日常が過ぎ行く。そして相変わらず君は君のままで、誰かは君という言葉が出てくる話を構成しようとしている。それ自体は無理な話ではない。それは何かの符牒なのだろう。たぶん語り得ない何かだ。それについて語っているのではなく、それをそのまま語ろうとして失敗しているわけだ。それもありえない話の一部を構成しているのだろうが、君には何となくその先にもたらされる結末がわかっているようだ。この世界のすべての事象は何でもないことに収斂する。人がどんなふうに感じようと、偏見や思い込みや先入観を取り去れば、どう見ても何でもないことだ。君にはそれがわかっているはずで、わかっているからこそ、そうは思いたくない。何でもなければそれ以上はそれについて語ることができなくなってしまう。君が恐れているのはそういうことだ。絶えずそれに気づいていながら、それを否定しつづけ、そうではないと嘘をついている。たぶんそれがそこでの真実なのだろう。


4月15日

 今日は晴れている。たぶんそれがどうしたわけでもないのだろう。雨が恋しいのでもなく、相変わらず何について語っているのでもないらしい。何かを否定しなければ言葉がつながらないだけだ。それは自己否定の兆候を示している。しかし何が自己なのでもなく、否定しようとする意思の所有者が不明だ。意思表示している主体が定かでない。それでわけがわからない嘘をついているつもりになる。何か間違っているようだ。たぶん間違っているのだろう。君はそれらの意味を知り得ないようだ。馬鹿げているかもしれない。何を語っているのかわからなくなり、間違っているような気がしてくる。何かが違っているのだろう。いつものことかもしれない。空を見上げるが、青空が落ちてくるわけがない。作り話の中で気が狂ったふりをしている。それが誰の動作にも行為にもならない。おかしな言葉を記しているようで、誰かの気分がおかしい。冗談の続きかもしれない。何でもないことを述べているのだろう。当分はそういうやり方になる。飽きてきたら別の展開を模索するのだろうが、新たに話を構築するには何かが欠けている。気分を一新してまたもなことを述べていたいが、まだかなりの紆余曲折と時間を要するのかもしれない。だからどうだというわけではないが、誰かにはそのやり方しかないようだ。なぜか機械が分解されている。誰かが夜中にやったのだろう。君は誰かがこれからやろうとしていることを知っているはずだ。だが眠ってしまって作業が進まない。昼の暑さにやられて疲れが出てしまったのだろう。まったくお粗末な成り行きに直面しているらしい。笑ってしまうような成り行きだ。何者かが君を避けて通る。夢の中の出来事のようだが、そこに意味を見出せず、夢から覚めても意識が判然としない。何かくつろいでいることは確からしい。やる気がしないようだが、いつものことで心配するには及ばない。誰かはそれを乗り越えられる。相変わらずまともな内容に巡り会えないようだ。それでも君はこの世界を目指して闇の中からやってくる。ありえないことだ。それらのすべては空想上の出来事になる。しっくりこない。自意識とは別の他人を想像している。やっていることの意味を導き出せないだけだろう。その時何かが脳裏を横切り、言葉が何か示そうとするが、君の意識が捉えきれていないようだ。だから何を語っているのでもない。だが悪戦苦闘の最中というほどのことではない。今も誰かが何かを記そうとしている。言葉を記すのは簡単な作業だ。ただ内容が伴っていないだけであり、それさえ気にかけなければ苦にするようなことではない。おそらくそれを克服したいのだろう。無理を承知で何とかしたい。具体的には何も述べていないのにそうしたいわけだ。確かに無理な話だ。どう考えても違うと思う。何をもたらそうとしているのでもない。それはあきらめの言葉だ。確実に何かをあきらめている。君にはそれがわからない。何かをわかるとはそういうことではない。たぶんそうなのだろう。それを理解するのは難しい。場合によっては絶対に認められないことかもしれない。誰もその先を見据えて行動していない。だからわけがわからなくなってしまうわけだ。だが君にはわかっているはずだ。それが自らの限界であることを承知している。気が散って何もできないことが多いが、それは誰のせいでもありはしない。君の探求はたわいない。いつもの幼稚なことをこれ見よがしに提示しようとする。それが何かの実態を反映しているとは思えないが、今はそれらの文章を何とかしなければならない。何か思いついている。冷静になってそれを構成してみよう。君にはその心に中に新たな理解が宿るはずだ。それらの文章のことだ。内容は知れている。その中で何かを述べるつもりだったのだろう。あとすんでのところでつかみかけていた何かあきらめ、それ以外も手放してしまえる状況にあるらしい。そして相変わらず意味不明を装う。君にはそれがわからないようだが、わかるわけがないだろう。わからせようとしていない文章をわかる必要はない。言葉を錯綜させて読む者を煙に巻こうとしているだけだ。やはりお粗末極まりないやり方を誰かが横行させているようだ。それに対して君は無難なことを考えようとしている。やりたければやらせておけばいい。あとは勝手に自己崩壊するだけだ。誰かは精神を病んでいる。君も同様になりたいわけではないはずだ。だがこれからどうしたいわけでもなく、何がどうなっているわけでもない。誰かがひたすら言葉を記しているだけだ。別に心を病んでいるとは思わない。ただ無理をしているだけで、心身ともにそんな現状に疲れている。ならばやめてしまえばいい。どこからともなくそんな返答がもたらされ、誰かを何もない時空へと誘い込むつもりらしいが、それもいい加減な妄想から生じた何でもないことだ。君には何もわからず、戸惑うばかりのようだが、くだらぬ結果に一喜一憂するつもりもなく、何をどうしようとしているのでもなく、手間のかかることはやらないようだ。どうにかして抜け出ようとしているのでもない。ただいつも気分は迷路で迷っていてもかまわない。何も苦にならず、そんな予定調和の気分でも何らかの効用はありそうだ。君のもとにもたらされたのは何かの宝ではない。言葉でも何かの印象でもなく、それは存在以前の気配だ。心にまとわりついて離れない。誰が何を述べているのでもないのに、それが勝手に語りだす。現実の世界ではありえないことだ。何かの印象がどこかの空洞でこだまする。それとは関係のない言葉が記され、他の誰かを戸惑わせるが、君はそれを無視して別のことを述べている。誰かが作り話を誰かの文章の中に構成しようとして失敗しているようだ。君はそれを読む気がしないのだろう。何かにのめり込むのは馬鹿らしい。だが何もしないよりははるかにマシだ。


4月14日

 別にうんざりしているわけではない。そんなことはわかっているが、いつまでも無駄に言葉を並べつづけていたらきりがない。それでも誰かはむやみやたらと語りたがる。誰かとは誰でもない誰かであり、それはどうしようもないことだ。だがその何が何でも語ろうとする強固な意志とは裏腹に、まったく内容が伴っていない。まったく笑ってしまう成り行きだが、それでも相変わらず空疎なことを語っているつもりらしい。しかし誰かが記しているつもりの作り話の中では違っているはずだ。そのとき君は午前の雨に打たれて気が変わるだろう。誰かにはそれがわからない。きまぐれと偶然のめぐり合わせによって、さっきまでとは違った気分となり、それが気まぐれに思っていることではないような気がして、さらに適当でいい加減なことを語り出すが、いつもとは何かが違っているような気がするのは気のせいだろう。とにかく機械の動作がおかしい。何かそんな感じがしている。それがどういうわけかわからないのだが、なぜか結果的にそうなってしまうようだ。それはそれでそういうことあって、そういう現実を受け入れてもかまわないのだろう。今ひとつ違和感が残るが、慣れればまた何か違った気分となることもあるだろう。それでも何かおかしいが、それはそういう動作なのだろう。君はそれを何とかしようとしている。それとは今ある現状のことであり、誰かが無駄に言葉を連ねている現状だ。まさにできないことをやろうとしている。そこからまともな内容に至るのは至難の技だ。夜の街を白黒写真の人物が歩いている。唐突に出くわしたわけではない。君ではないのだから仕方がない。それが誰かの影だとは思わない。まったく意味が通らないが、そういうことが現状を反映した結果なのだ。たぶんそれでかまわないのだろう。他に主張しすぎている者たちが掃いて捨てるほどいる。だから君は相変わらず無言であり、誰かは空疎なことを記している。人々はかつてどこかで主張されていたようなことを主張することしかできない。たぶん忘れたころにまた主張するのだろう。誰かはそういう主張が飽きもせず繰り返されていることに呆れている。君も自然と無口になるしかない。この世界を言葉で捉えきれていないようだ。神はそういう紋切り型を好んでいるらしい。人々は神の意のままにつまらないことを主張しあい、誰かを失望させる。しかしそれで誰もかまわないのだから、何がどうなってしまうわけでもない。誰が何を主張しても、この世界は相変わらずこの世界のままだ。君たちが述べていることは予定調和でつまらない。だがその先にどんな言葉を付け足しても無駄だ。何を変えることもままならない。何かを語れば紋切り型になる。気が利いているつもりでも、それは思い違いだ。君を感動させるには至らないだろう。もともと他人の言動に感動する必要はない。君が焦っても仕方がない。現状は現状のままで、動かしようのない現状なのだから、黙って眺めていればいいのだろう。この世界の現状に期待することはないはずだ。人の生き方など今のままでかまわない。誰が何を嘆いているわけでもない。問題となっているそれらはみな取るに足らないことだ。誰かはなぜ君がそう感じるのか理解できないらしいが、他の誰かは何とも思わないだろう。既に過去の記憶は破棄されていて、既知の事実をねじ曲げて、自らの立場を正当化するような言説に終始する。誰かができることといえばそういうことだ。そういう行為が他の誰かにつけ入る隙を与え、自己崩壊を招く原因となっているのかもしれない。君はその手の罠にはまっているわけではない。余分な言葉を記している誰かも同様だ。君は何を批判しているわけではない。実質的には何も述べていない。たぶん何も語る必要がないのだろう。批判に値するようなことは何も思いつかない。だからもうやめた方がいいのだろう。そんなわけで結論が出てしまっているようだ。その結論を否定できない。否定できるだけの気力がない。だからもう認めてしまおう。何も語ることができない。それで誰かは満足しているようだ。世界に対する敗北を認めたことが何を意味するとも思えないが、言葉を記す作業から解放されることを願っているのかもしれない。それで何を裏切っていることにもならないだろう。たぶんそうでないわけがない。君はそこで何かを諦めている。その諦念が何をもたらすとも思えないが、とにかく一刻も早くそこから抜け出さなければならないようだ。心を覆っている虚無から離れなければならない。君にそれができるとは思えない。誰が思っているのではなく、誰かがそう記している。たぶん何かが不在なのだろう。その不在の何かについて語らなければならないのに、君はいつまでたっても無言だ。意識して無言を貫いているわけでもないのに、相変わらず言葉を発しない。それができない理由を誰かは知らないようだ。無理であることを意に介さず、ひたすら言葉を記していて、それで何かを述べている代わりとしているらしいが、意味のない行為だ。心を虚無に取り込まれている。そんな状態で何を述べられるわけもなく、それがただの作り話であることを忘れさせ、現実を見失わせ、心に巣食う虚無に操られ、結果的に何をやっていることにもならないような何かをやっている。まったく意味のない話を構成している。もしかしたらそれらは話ですらないのかもしれず、何も語らずに言葉を記しているだけでしかないのかもしれない。それで誰が満足するわけもなく、他の誰の批判にさらされるわけもないだろう。やはりここまで言葉を記してきても、それらは相変わらず何でもないことなのだ。君には関係のない言葉が連なっているだけのことだ。それでこの世界がどうなっているわけでもない。君には何もわからず、誰かも何も理解していないようだ。しかしそれでも一応は文章のつもりだ。


4月13日

 誰かは忘れた頃に何かを思い出す。君はいつかの自分が何を語っていたのか思い出せない。いつかとは昨日のことではない。その代わりに何かの存在を感じているようだが、それは誰の存在でもなく、君がそれについて何を考えているわけでもない。だが君でなければ誰も何も考えていないだろう。君には誰が何を考えているのかわからない。面倒くさくなってきたので、今はそういうことにしておこう。現状では誰も何も考えていない。それは君も例外ではなく、何も思いつかないから幻想をもたらせない。だから何かを思っている架空の自分を文章の中に導きだせず、誰かは何かを記している自らを自己正当化できない。強引に我田引水的な行為にも出たられない。だがそれであきらめてしまったわけでもない。ただ一時わけがわからないだけだ。また何かわかるような時期が来るような気がする。そしてさっきから何も記述していないようだったが、さっきまでは他のことをやっていて、なかなかこちらへと関心が向かなかっただけだ。そして何かを思い出したように、今はわけのわからないことを記述している最中だ。やるべきなのはそういうことらしい。こうなってしまっては気を取り直す必要もないだろう。作り話の中では誰がそこで何を考えているのでもないのだから、君は何もやる必要がないはずだ。現に何の作業もしていない。何もせずに手持ち無沙汰なら、またいつもの遠回りをしていればいい。なかなか目的地に至ろうとせずに、途中で道草を食っているうちに、どこへ行こうとしていたのか忘れてしまう。だからいくらその道を歩んでもどこへもたどり着かないだろう。それは道ではないのかもしれない。道でなかったらそこから歩む必要を見いだせない。それはわけのわからない理由だ。だが他に何をやろうというのでもなく、君は君で君の道を歩んでいくだけだ。道ではないのに道だと思い込む。誰かが記述する作り話の中ではそういうことになっている。作り話の登場人物である君はそれを拒否できない。しかしその作り話の中では誰が主人公というわけでもない。作り話であるのに話になってないようだ。その中で君は誰でもなく、それを記している誰かも同様に誰でもない。誰かであるのが面倒くさい。そんなわけでそれはやはり何でもない話のようだ。君はそういうことしか述べられず、誰かもそういうことしか記せない。どうやらまた同じことの繰り返しのようだ。誰がそれを望んでいるわけでもないのにそうなってしまう。そんなわけで現状ではなかなか立ち直れないのだろう。誰の心がいかれているわけではなく、誰かを取り巻く状況がそうさせているわけだ。この世界は君に何も思わせず、誰かに何も記させない。すべてが何でもないことなのだから、取り立てて何を述べる状況でもないようだ。それが不満なら無理矢理いい加減なことを述べるしかない。無理なのは承知しているのに、無理だからできないというと、それで話が終わってしまうが、終わってしまってもかまわないなら、終わらせてみたらいい。それで終わらせられないなら、終わるのも無理ということだ。だが終わるどころか実際に遅々として作業が進まない。それは話を終わらせるための作業ではないのかもしれない。気がつけば言葉を記せなくなっている。そんなわけで終わりたくても終われない状況のただ中に意識があるらしく、それは嘘なのかもしれない。その辺で何となくそれは違うような気がしてきたらしいが、いつものようにそう思う理由や根拠を言葉で示せない。ただ当たり前のことなのにそう思ってしまう。何が当たり前なのかもわからないだろう。だから面倒くさいのでそれ以上の追求はやめて、また話にならずに何でもないことになってしまうようだ。そんなことはなかったことにしておこう。すべてはフィクションなのだからそれでもかまわない。明らかに話の途中からわけがわからなくなっている。まだ気力があればまた始めからやり直しかもしれず、実際をそれをやるやらないに関わらず、やはりどうやってもそれは違うと思うらしい。そしていつかそれがつまらないこだわりに基づいた無謀な行為だと思い知るだろう。だからそういう状況下では、もう誰にも何もできはしない。それは絶望的な状況だ。そう記すと一気にそういう気分となってしまうようだ。嘘かもしれないが、今はそういうことにしておこう。架空の君は何に絶望することもなく、誰かの醜態を黙って眺めているようだ。何が醜態というわけでもなく、何に絶望しているのでもないのだろうが、そんなふうに記すとそんな気になる。まったくどうかしているようだ。久しぶりに冗談を述べるならそういうことになるらしい。本当は冗談になっていないような気がするが、そんなことはもう覚えていない。それは昨日の出来事だ。また途中で眠ってしまったようで、本当のそれはいつの出来事でもなく、たぶん昨日というのは嘘だろう。たぶんやる気がしないというのは良いことだ。常に終わりが見えていて、意識はそこまで到達したいが、記された言葉がそれを阻んでいて、どうあっても回り道を選んでしまい、なかなかたどり着けないどころか、気がつけばそこから遠ざかっていたりする。そのまま早く目的地に至るのをあきらめてほしいようだ。だが君にそれができるとは思えない。誰が君のことを述べているのではなく、言葉を記しているのが君ではないから、君にはできないのだろう。仮に君であったとしても結果は同じことだ。君が君であろうとするほど、実際の君は君でなくなる。記された言葉が君を君でない誰かに変貌させてしまうわけで、だから君は何を述べているのかわからなくなり、無理矢理何を述べようとしても意味不明に思われ、要するにそれは他人事であり、君にとっては何でもないことになってしまう。そして述べているつもりの内容は、ただひたすら回りくどい。とにかく何かを忘れないうちに、意味不明でもかまわないから書き記さなければならない。しかし何かとは何でもないことであり、実体は何でもないように思われるが、君はその何でもない何かに心を奪われている。だからそこからどこへも行けはしないわけで、それが何かを突き止めるまでは行く必要がない。ただ誰かはそんな空疎な言葉を記している。それ以外は何もできはしないようだが、おそらくそんなのは嘘だろう。確かに嘘には違いないが、それでもかまわないようで、嘘でしかないような何でもないことを、ひたすら笑いながら述べている。何がおかしいわけでもなく、笑っていないと正気を保てないのかもしれないが、そんなのはどうでもいいことであり、それも嘘に違いない。嘘でもどうでもいいが、そこから話が進展していない。どうも誰かは夢の中で我を失っているらしい。何か道理が通らない。そんなふうに思うのは何か理由があるのかもしれず、それがわからないのはどういうわけでもない。気に入らないのはそういうわけではない。文法的におかしいのかもしれないが、それも違うと思う。だからどう考えてもそれは違うと思っている。わからないだけなのだろう。それ以外は何も感じない。意識が文章を全体として把握できなくなっている。話になっていないのだろう。


4月12日

 また意味のない話だが、誰かと誰かがそこで別れる。ただそれだけのことだ。それだけのことを誰かが記している。どうしようもないことらしい。外は昼の風景を迎えようとしている。数時間後には夜になる。それもどうしたわけでもない。技巧を凝らしすぎて内容が空疎になっていた。だがそんな無内容だからこそ、何かを避けることができたのだろう。君にはわからないことだ。それは何かの癖なのだろう。たぶん何かを間違えている。誰にも関係のない話になりつつある。言葉の過疎地帯を意識が横切ろうとしているらしい。その地点を通り過ぎれば何か適当なことを思いつくだろう。君にはわからないことを君が知ろうとしている。自分自身を裏切るつもりらしい。それは何かの冒険になりそうだ。いつまでたっても何かでしかない何かを探している。意味のわからない探求だ。それは誰にもできないことなのだろう。サックスとかすれた歌声が絡み合い、そんな音楽を形成しているらしい。そこで誰かが何かを聴いているのだろう。駅のホームで電車の写真を撮っている者もいるらしい。それは休日の光景だ。誰かが感じているのは何でもないような成り行きだ。君がそれを求めているのではない。誰にとってもどうでもいいことなのだろう。そしてどのような現象について語ろうと、どんな評価も受け取らない。君には常に有り余るほどの時間があり、せわしなく働いている誰かの現状とは対照的だ。だから何かから離れられるのだろう。その何かを模索することもできる。誰かは限られた時間内で言葉を記さなければならず、近頃はそれもままならずにだいぶ遅れてしまっている。しかし君にとってはどうでもいいことだ。平常心を保つ必要もなく、ただ勝手気ままにあたりをうろついている。フィクションの中ではそういうことで、たぶん誰かには理解できない現状があるのだろう。それらの自己言及だけは言い表せないことがあるらしい。そういう意味では文章の可動範囲が限られてしまっている。それができない原因もその辺りにありそうだが、ここでは原因を特定することに主眼をおいているわけではない。とりあえずは書き記せばいい。曇り空の下で何か適当なことを思いつけばなおさら好都合かもしれないが、思いつくまで記すのを待っていられない。だから無駄に無意味な言葉が話の脈絡を無視して連なってしまうのだろう。そしてそこで行き詰まる。精神の集中が持続せず、何を述べているのかわからなくなり、文章の継続をあきらめてしまう。この世界はどこまでもこの世界であり、人は相変わらず地上を右往左往している。そんな人たちの中に誰かがいる。そしていつものように仕事をして、余った時間を利用して言葉を記している。眠気が去ってからふと窓の外を眺めると、いつもの代わり映えしない世界の一部が広がっている。まったく何に耐えているのかわからない。影が何かを見いだしたかもしれないが、それは影特有のひらめきか何かだろう。何かとは何でもないことだ。君と影は誰かとジギルとハイドとは関係ない。何か間違えているかもしれないが、それは何かの三角関係を形成しているように思え、たわいないことに違いない。そこには何のこだわりもありはせず、おおよそつまらないことを述べているのだろう。できないことはできないに決まっていて、君たちは君たちで勝手なことを主張していればいい。意識がそこまでついてゆかないようだ。何も思いつかずに、何か拍子抜けのような気分でいる。人は功利主義に染まるしかないようだ。便利さや快適さを追求して、思わぬところで落とし穴に落ちて、痛い目に遭い、そこから薄っぺらな教訓話を導くのだろう。どこまでも浅はかな水準にとどまろうとする。それ自体が教訓話の一部を形成しているわけで、そんなことはどうでもいいわけではないようだ。そんなふうに述べてはいけないのだろう。人はどこまでも回り道を繰り返し、わけのわからない紆余曲折を経て、道に迷い、一本道を迷路と勘違いして、よそ見をしながら真理に至ろうとする。まったくそれらの成り行きは始めから終わりまで無理なのだ。時には道ではない道に突っ込んで、薮の中で途方に暮れ、苦し紛れに何かどうでもいいようなことを発見したつもりになり、それが画期的なことだと思い込もうとする。おそらくそんなことはわかりきったことだろう。そこで何かがちぐはぐなのかもしれないが、何とか頭の中を整理して、話に説得力を持たせようとする。それが無駄で無意味な努力にならないうちに、何かをどうにかしなければいけないと思うが、その何かが何なのかわからず、気がつけば自らが薮の中にいることを正当化しようとしている。それは何かの被害妄想だ。君はそこで虚無にさらされている。何も思いつかないわけではないことが、逆に話の空疎さに気づかされ、何となく意識を否定的な気分に引き寄せている。だがこれ以上は何を否定しようと同じことだ。すでにすべてが何でもない。語ろうとしていたことはすでに語ってしまっていて、これ以上は何を述べても無駄なのかもしれない。しかしそれでも何かをどうにかして言葉をそれらの文章の中に導こうとしている。たぶんそこから先は余分な作業となるだろう。だがそれをやらなければ気が済まないようで、だから何かの整合性がその辺から崩れる。いくら言葉を繰り出しても虚しいだけだろう。そして冗談でそんなことを述べているつもりになろうとするが、冗談になっていないことには気づいているので、やはり意味不明な状況になるしかないだろう。それでもそういう状態を維持しようとしているから、無理が生じて、そこで行き詰まるしかなく、それもいつもの成り行きの一部なのだろう。君はそれをわかっていながら、あえて口出しすることもなく、作り話の中でくつろいでいるようで、それが誰かの妄想でしかないことを忘れさせることもなく、何もない現状を肯定するつもりもなく、他に何を否定するでもなく、それが戯れ事であることを利用しながら、言葉の連なりのさらなる延長を画策しているようだが、くだらないことだ。誰かはどこまでも愚かなのだろう。そしてそれを放置し続けている。どんな思惑があるのかからないが、放置したとしても何ともないのだろうから、高をくくっているのかもしれない。本当に何ともないのだから、何をどうすべきでもなく、ただ言葉を記していればそれでかまわない。やっているのはきわめて単純なことで、誰かには他に語るべきことがない。それどころか今語っていること自体に内容が何もない。そうやって誰かは語るべきことが何もない現状を説明しているわけだ。それで何かを語っていることになる。要するにそれはごまかしにすぎず、それも自己嫌悪の要因になっているわけだ。それを本気でそう思っているとは思えないが、間に合わせの言葉を記述するいいわけとして、そういう心境も利用可能なのだろう。だが相変わらずそれで何を述べているとも思えず、間に合わせの言葉ではくだらない。だから何とかまともに語らなければならないのだろうが、なぜか今のところはその気になれず、いつまでもだらだらとつまらぬいいわけを並べているわけだ。


4月11日

 やはりそうではないと思う。取り立てて何の主張もなく、何か適当なことを思いつくでもなく、何も記すことがないので、文章の継続は困難を極めているようだ。率直な感想を述べるしかない。それでもそこで誰かが答えを見つけようとしている。答えは君の心のうちにありそうだ。現状としてそれらの文章はまるでつぎはぎだらけのパッチワークだが、何かがそう見えてしまう原因をもたらしている。答えを導きだすには原因を探らなければならない。たぶんわかっているのはそういうことであり、君はそういう説明にはまったく魅力を感じない。考えるのが面倒くさいのだろう。そして何か適当にごまかしている。何かとは窓の外に見える暗闇だ。嘘かもしれないが、現時点ではそれが見えている。朝になって辺りが明るくなったら見えなくなる。闇の記憶もどこかへ消え去ってしまうだろう。だがそれらのどこかに誰かの視点があり、それを見つけ出すのが答えを見つけることだ。そういう嘘もわざとらしい。そこで誰が何を見ているのでもない。答えは必ず暗闇のどこかにあるはずで、粘れば遠からず見つかってしまうはずだ。しかし君は見つけようとせずに眠ってしまう。それは何かの冗談かもしれない。答えそのものが冗談なのだろう。そしてそんな答えに君は満足しない。それどころか最近は何かの継続を完全にあきらめている。何かをあきらめてしまったら終わりが近い。それは二十年以上前の記憶だ。そうではないとどこかで述べていたはずだが、やる気がしないのは誰のせいでもなく、心境の変化かもしれない。もうこれ以上はやらなくてもいいのだ。ただ何かが違っているようだ。違っていてもかまわないだろう。語っていることが違っているのかも知れない。画面の文字が小さすぎて読むたびに目が疲れる。それとこれと関係ないが、ただそんな気がしているだけで、そんなことを述べてしまえるのが冗談なのだろう。そういうのはくだらない。だがくだらないと思うことが重要だ。そんなこともわかっている。わかっていることはわかっているはずで、わかっていること以外はわからない。わからないからわかろうとしないわけだ。今は何となくわからない心境に達している。何がそうなのかわからない。たぶん何かがそうなのだろう。そうではないかもしれないが、それ以上の探求は意味不明だ。あまり無理をしてはいけないらしい。まともに動かない機械をいつまでもいじり回しているのはおかしい。たぶんその辺で何か感覚が違っているのだろう。だが君にはその違いがわからない。機械はいつまでたっても同じ動作を繰り返す。そして君はわかっているのはそういうことではなく、わかろうとしているのもそれではないはずだ。何もわかっていないように振る舞っているらしいが、それがわからない。やはりわかる理由など何もありはしないのだろう。そう述べてわかるのをあきらめたふりをしながら、考えているのはそれとは別のことだ。作り話の中で言葉に踊らされているわけではない。そこで何を否定しているのでもない。たぶんそれがわからないのだろう。そして肝心なことは何も伝えていないようだ。人は故人を偲んで何かを理解する。死んでからでないと賛辞をおくれない。それでかまわない。素直な気持ちではないが、何となくわかるような気がする。今の君にとっては考えられないことだ。すべての人間は人間らしく生きるに値しない。たぶん人は人でないから人なのだろう。そして人は時として人になる。人でなくなるから人になろうとする。人であったものは今は死体となっている場合もありそうだ。その意味で棺桶の中の物体は人としての名残をとどめている。しかしそれでは冗談となっていない。とりあえずグロテスクな表現ではだめだそうだ。別に冗談を述べようとしているのでもないのに、なぜか冗談と受け取られてしまうようで、それが目下の状況を把握できない原因となっている。だからそれ以上は考えるのはやめた方がよさそうだ。それ以上述べてしまうと、君は二度と立ち直れない。作り話の中ではそれの方が好都合だ。実際にもそれでかまわないのだろう。その時の意識はどうしようもない状況の中にいるらしい。考えるよりも言葉を繰り出すので精一杯だ。しかし具体的に何がどうなっているのかが文章の中に記されることはない。だからそこで行き詰まってしまう。わざとそうしているのだろうが、それができない理由などいくらでもありそうだ。何ができないからわからず、それでも何かをやっている自覚もあるらしく、どうにもならない状況をどうにかしなければと思いながらも、一方で現実にはどうにかできている時もあるらしい。すべては結果でしかない。途中経過も結果のたぐいだ。とりあえず今はそういうことで、これからどうなるかは時が経ってみなければわからない。途中で意味不明な紆余曲折に見舞われて、何をどうやっても当初の思惑とはまったく関係のない状況の中に放り込まれ、それでも適切に対処しているような気になり、何かの渦中で何か狐につままれたような気分になる。とりあえずそれでいいとは思わないが、そういう現状なのだ。そんな状況の中で君は何もできず、誰かが無駄に言葉を連ねているのを無言で眺めている。それが困難な状況だとはとても思えず、誰かが記したそれらの言葉は、意味の代わりに記されているわけではない。ただよくわからない。それだけのことなのに、全体として文章になっていないようで、君にとっては何がそうなのかわからず、自意識の崩壊に歯止めがかからない。実際には何がそうなってどうなったわけでもなく、それらの話は君が述べていることではないということだ。その結果としてさらにわけがわからなくなってしまい、そういうことではないと思うようになる。それらの文章をどう読んでも、わけがわからなくなり、それ否定する意味でも、そうではないと思いたいらしい。だからそこから話が一向に進展しない。実際には何を語っているのでもないので、実際の行動と文章の内容とのギャップに戸惑い、現実とフィクションのどちらに意識を近づけたらいいのか迷い、それがいやで、どちらとも関係のないような立場を模索しているらしいが、そんな立場がどこにあるわけでもなく、それが何かの作り話でしかないことを忘れ、そこからさらに言葉をつなげようとしていること自体が、新たな意味不明をもたらしているのだろうが、それでも具体的に何を語ろうとしているのでもなく、何も語れない現状をどうしようというのでもないらしい。その先には予定調和のごとく虚無が待ち構えていて、そこで君も誰かも何でもなくなり、その存在を薄められ、どうでもいいような物体と化し、誰に向かって何を語っているのでもないような、いいわけもできないほどどうでもよくなり、黙ってその場を立ち去るようにしむけられ、それに従ってこの世界からの退場を強いられてしまうが、世界の出口を出たところがこの世界ではないというなら、そこから先にどんな世界が広がっているわけでもないことの理由など、何も求められないのはもちろんのこと、果たしてそれがフィクションなのか現実なのかという問い自体が無効なのかもしれない。


4月10日

 とりあえず画期的な気分ではない。そんなのがあるとは思えない。述べていることは以前と変わらず、相変わらず文章の中にまともな内容を見いだせない。それで何がよくなるわけでもないが、水をよく飲む。関係ないだろう。作り話の中では、誰かが何かをしくじっているようで、また文章が同じような言葉の羅列になる。やる気がしないのもいつものことだ。何か工夫しようとしているようだが、どうもそれは違うような気がする。言葉に凝れば凝るほど見慣れた風景がどうにかなってしまう。それは架空の風景であり、そこに表されている内容は君に託された未来を示しはしない。何かがどうにかなってしまったらしいが、現実の世界では何がどうなっているわけでもないし、今はまずい状況ではない。何かを試しているだけの話だ。たぶんまた空振りに終わるのだろう。まったくもって蒸し暑い。しかし結局元の木阿弥のごとく、何をやっているのかわからないが、何かをやっているふりをしているのかもしれない。君は誰でもない誰かだ。こういう結果になるのははじめから計算ずくだったようだ。無意識のうちにわかっていたらしい。君にはわけのわからない嗅覚が備わっているようだが、それをそのまま信じていいものかどうか迷うところだ。まあなるようになることはわかっている。現になるようになってしまったわけで、そういう成り行きには少し感動したが、それだけのことだ。他に何もない。冷静に考えてみればそういうことだ。まだそこから何とかしようとしているのだから、懲りずにそれをやり続ければいいだろう。それしか前進する道はなさそうだ。笑ってしまうがそういうことだ。それが現実なのだろう。何か適当に感覚がぶれて、述べていることが誰かの思惑とは無関係になりつつあるが、それでもこの世界の何と無縁であるわけでもない。たぶん真実が語られているのだろう。今や君が真実を語っているわけだ。あり得ない話だろう。確かにあり得ないが、嘘でもかまわないから真実について語っているわけだ。やはりそれはあり得ない。あり得ないが、それでもかまわないわけだ。執拗に同じことを繰り返し述べているような気がする。頭の中で把握できないことを把握しようとしているのだろう。それでわけがわからなくなるのもいつものことだ。君はそこで執拗に同じ言葉を循環させている。やっているのはそれだけのことだ。誰かとは無関係であり、感情の問題ではない。君だけの問題かもしれない。気が散って作業に集中できない。何も語ることがないのだから、それも仕方のないことだろう。わかっているのはそういうことだ。さっきから君は何もしていない。呼吸もせずに死んでいる。冗談だろう。架空の話なのだから、そういう冗談もあり得る。何かを利用しない手はないということだ。何もないのだから、わらをもすがる思いなのだろう。それは冗談ではない。面倒なので矛盾しているがそういうことだ。そして意に反してさらに面倒なことになってしまう。何も語っていない現状を何とかしたいが、まったく言葉が出てこない。だから今の君に期待するのはやめておこう。数時間前から他のことにかかりきりのようだが、何をやっても無駄だ。やはりそれはできないことなのだ。できるわけがない。心が淀んでいるようで、誰かは自己嫌悪の最中だ。しかしそんな嘘はわざとらしい。嘘ではないかもしれないが、嘘と述べるしかない。感情は嘘でないことを許さないようだ。何を手に入れているわけでもなく、それで何がどうしたわけでもない。何もどうしてもいないようだ。何とかしなければならないのだろうが、何でもないからやりようがない。そしてさらに時が虚しく過ぎてゆく。君にはどうしようもないことであり、ただ黙って時間の経過を体験するだけのようだ。しかしそれで危機を脱していることになる。そうすることで何かが破綻するのを避けているつもりのようだ。実際にどうなっているのか知りたいが、架空の存在でしかない君にそれがわかるはずがなく、誰かがそんなことを記しているのだとしたら、それは君とは無関係だ。それとはその場を取り巻いている虚無の印象に他ならず、そんなものが本当にあるのか定かでないが、にわかには信じがたいような感覚に襲われているわけでもなく、そこで誰が何に驚いているとも思えず。驚愕すべき秘密を心の中にしまい込んでいるのでもない。語っていることごとくが的外れであり、それらの言葉は誰の気分を反映しているのでもないようだ。それは何かの趣味なのであり、趣のある風景だとは思わないが、殺伐としているわけでもない。とりあえず記憶の中にそんな風景があり、それに関する言葉が頭の中に刻み込まれているようだ。そしてよくわからないが、そんなことを述べてしまう理由など何もなく、たぶん偶然の巡り合わせでそうなってしまうのだろうが、そこに何らかの記憶が介在しているようで、意味不明な成り行きの中でも何かしら思うところがあるらしく、その思いと過去の記憶が合体して、さらにわけのわからない言葉の連なりを生じさせているようだ。君には何も理解できないだろうし、理解できなくて当然なのだ。もはや文章を読めなくなっているのだろう。読む気がしないようで、それは言葉を記す気がしない誰かと連携して、迫りくる終わりに対する歯止めとして虚無を対峙させようとしている。それが有効だとは思わないだろうが、たとえ無駄であろうとなかろうと、何か対処しているように振る舞わなければ、張り合いがなくなり、やがて終わりに屈してしまうだろう、終わってしまって当たり前の成り行きなのだろうが、それにあらがう理由を欠きながらも、あらがい続けるのは至難の業だ。しかも睡魔も襲ってきて、今日中には仕上がりそうもなくなり、無念の中断を余儀なくされるが、それでもかまわない。しかしそれは君がかまわないのではなく、誰がかまわないのでもない。君にとっては嘘をついていることになる。そして嘘をついてもかまわないわけだ。もちろん矛盾していてもかまわない。何でもないのだから、何を述べてもかまわないのであり、何も述べなくてもかまわない。その時の君は不幸のどん底であったりするのかもしれないが、たとえ不幸であろうとなかろうと、誰かが語っている内容は君に関することではない。誰もが何も語っていないように思われ、誰かとは誰でもないのであって、虚無の総称かもしれないが、何が虚無であろうとなかろうと、君はそれに関して何とも思わないだろう。誰かは次第に何も語れなくなり、普通の人格を失い、事物を言葉でとらえきれていないことに気づくが、今さら修正は利かない。黙ってそのまま同じような言葉を連ねていくしかやりようがなく、それ以外のやり方を思いつかず、必死に何を探しまわろうと、風景の中に求めるものを見いだせず、まったくそれとは違う事情の中に、何かの理由が紛れ込んでいることに気づかない。何かとは何でもなく、何でもないからこそ何かが具体的な事物と一致することはない。どうやら誰かは何も語れないことにストレスを感じており、まともに語れないことで思い悩み、さらに冗談でごまかすしかないことに自己嫌悪を感じている。


4月9日

 何かがおしまいになってしまう。作り話の中でのことだ。まったく近頃は何を考えているのかよくわからない。いつもそうかもしれないが、現実の世界にも虚構の世界にもリアリティを感じられない。それは何かに幻惑されている証拠だ。しかし見えるものすべてが幻影で、思うことのすべてが幻想だと思ったらおしまいだが、誰かは安易にそう思ってもかまわないと感じている。世界はそう思うしかない成り行きに染まっている。もちろんそれは何かの思い違いなのだろう。ある時はどこかの街角で誰かがふとそう思い、またある時はフィクションの中で架空の登場人物がそう思っているわけだ。そしてそれも作り話になる。何かそれでは回りくどい。無駄な言葉を並べているだけのようで、たぶんそれも何かの気休めなのだろうが、それらの言葉が意味するところの何が真実であるとも思えず、次第にそれらについてまともに語るのが馬鹿らしくなってくる。たぶん誰かが何か不必要なことを思っていて、そこで述べているそれらとは、実際に見えているもののすべてであったり、またその時に思っていることのすべてであったりする。だからどうだというわけではないが、また誰かはできないことをやろうとしているようで、たぶんそれももう長くは持たないだろう。何かを無駄に語っているうちに飽きてしまったらしい。しかし他に何も思いつかず、他の誰が何を述べているわけでもない。作り話の中ではどこに窓があるわけでもないが、外は真昼で空は晴れているようだ。誰が何を見上げているわけでもない。そこに話が差し挟まれる。枯れ木がどこかで燃やされた。誰かが燃やしてしまったらしい。唐突な挿話はそこで語られている誰かを戸惑わせる。話とは無関係であり、誰とも無関係なのだろう。未だに意味不明なのだから、そのわけのわからない何かについて詳細に語る気もしない。時がきたらいずれ語られることもあるだろう。今は何が何だかわからない。誰かが語ろうとするが、それは昨日のことだった。何かがずれている。読むに耐えない文章だろう。結果的にそうなってしまうのは仕方のないことだ。何について語っているのでもなく、取り立てて語る対象もない。今は冬の時代だ。それは何かのおとぎ話かもしれない。冗談でそんなことを述べているのだろう。そしていつものように誰かが無駄で無意味なことを語ろうとしている。それは何に対する批判でもない。とりあえずそれらの言説を馬鹿にしているのではない。何を馬鹿にしているのでもないらしい。君にそれがわかるはずがない。そこで何かが途切れているようだ。もうこれ以上は何も語りたくないのだろう。そして眠ってしまう。目覚めたらもう翌月になっているようだ。何か気に入らないことでもあるのだろうか。やはりそれで終わりらしい。それはくだらない動作だ。そしてまたどうでもよくなってしまう。君にはわからないことだ。たぶん誰にもわからないことだ。君にそれをわからせようとしても無駄だろう。何かを忘れているのだろう。何も思い出せないわけではない。何となくそういうことを語っていたいらしい。それは意味のないことだ。できないことをやろうとしているのかもしれない。君にとってそれはいつものことで、何ら目新しい感覚を伴わない。そうではないと思いたいだけだ。やはりそれはできないことだ。何をどうやってもそうなってしまうのだから、今はそのまま眠ってしまった方が良さそうだ。やはりその辺が限界なのだろう。さっきから何も語ろうとしていない。それでも何かにこだわっていたいのかもしれないが、君にとってはそれが語ることのすべてらしく、ただ何かについて語っているつもりなのだろうが、その何かがわからない。確かにわからないのだろうが、わからなくてもそれについて語ろうとしてしまい、実際に語っているつもりなのだ。そしてそこから何かを得ているつもりらしい。結果的に何も得られなくてもそうなのだろう。そう思っている限りそうに違いない。君にはその辺の事情がわからない。わかり得ないことだろう。いくらわかろうとしても無駄だ。それ以上でも以下でもないような理解を求めても仕方がない。それはそれでそういうことでしかなく、もうその先には何もない。そこで終わっているわけだ。何かの構築が限界に達している。もはや崩壊寸前かもしれないが、繰り出された言葉にはそれを押しとどめるだけの力がない。いつも苦し紛れで、まったく余裕が感じられない。そうなってしまった原因を探るには知性が足りないようだ。要するに愚かなのだ。愚鈍といってもかまわない。何もかまわないような雰囲気があるらしい。そしてその辺で挫折してしまう。君のやっていることは君が語る範囲内では有効に機能している。そんなふうに思われるだけで、それ以外ではまったくの無効だ。そこから離れたら何でもないことだ。だから言葉が一定の距離を保ちながら、虚無の周りをぐるぐる回っているわけだ。それ以上は近づけないのだろう。吸い込まれそうになる。文章全体を把握しきれないのは理解できないからだ。君は虚無の何たるかをまったく理解せず、安易にその言葉を使って、何かの間に合わせ程度の効果を狙っている。それをどうしたらいいのかわからないのだろう。それに使い道などあるわけがない。ないのに使おうとするから行き詰まってしまうわけだ。そしてどこまでも無理を押し通そうとして必ず破綻してしまう。しかしそれでもあきらめずに同じ過ちをひたすら繰り返す。それをやり続けていればいつか出口に到達すると思い込んでいるのだ。いつまでたってもその虚しい試みから離れられないのだ。今日も躓いている。それは終わりを知らぬ言葉のつらなりだ。あまりにも漠然としていて手に負えない。それでも君は何かと向き合っている。何かとは何かを引き継ぐ何かである。何かとは何かでしかなく、要するに何でもないのだ。人はすぐに死んでしまうが、言葉はもとから死んでいる。何かはやがてバラバラになって消え去るだけだ。そして何かを忘れ去る。すでに何を主張したかったのか覚えていないはずだ。そこには何の主張もありはしない。だから後は終わりを待つだけとなる。意識はあきらめの言葉で覆われている。たぶん何をやっても、それなりに満足感を得ようとも、それは虚しいことだ。結果的に何をやっているのでもない。言葉は本質を表せない。語ろうとしているのは語り得ないことだ。そんな嘘がどこまで通用するかわからない。すでに見放されているのかもしれない。そしてそれはもう終わったことなのだろう。何も終わっていないのに終わらせたい。しかも終わらせる対象を見いだせない。何を語っても君には関係のないことだ。君は終わりを理解できない。だから何を終わらせようとしているのでもなく、同じような言葉をひたすら循環させているだけだ。現状はそういうことだ。それ以外の終わりを考えられない。終わりは同じような言葉の無限循環のうちにあるらしい。もう新たな表現形態を編み出せないのだ。そんなのはもとからあり得ないことであって、そこにあるのは以前と同じ印象をかたくなに保ちたいだけの強情な意志だ。


4月8日

 何やら回りくどいことになりそうだ。たぶんそれによってまた遅れてしまうのだろう。まったく冗談ではないが、それはまぎれもなく本当のことで、もうその時点でやる気をなくし、とりあえず面倒くさいのであきらめてしまう。何とかしなければいけないのだろうが、何とかなるようならここまで追い込まれていない。だが別に君が追い込まれているわけではない。すでに何をやろうとしていたのか思い出せない。そしてなぜか予定調和のような予感がする。何を述べているのでもない。君の気づかないところで何かが進行しているが、やはりそれは君の知ったことではないらしい。何がどうあってもこの世の中の仕組みとやらを批判してはいけないらしい。批判すればするほど予定調和の何かに取り込まれて、結局のところミイラ取りがミイラとなってしまう。しかし君はそうなってしまう成り行きを十分説明していない。確かな理由も現にそうなっている根拠も示されない。だから粗雑なことを述べていると受け取られても仕方がない。そうではないと思いたいのだろう。通常の感覚とはどこか違っている。それでも何かを感情的なまでに毛嫌いしているわけではない。そこに何かが出現していることだけは確からしいが、ただそれを認めることができないだけだ。誰かにはそういうわけのわからないこだわりがあるらしく、具体的にそれの存在については言及できないのに、何となく印象だけで何かをあやふやに表現しようとする。だから何について何を述べているのかわからない。それは何らかの戦略なのだろう。そうすることによって何らかの効果を期待しているわけだ。まったくのところ笑ってしまうような話だ。それの何を真に受けているとも思えない。そうやってまたいつものくだらぬ迷路遊びだ。道に迷って意味不明になる。たぶんそれが予定調和の展開だったのだろう。そしてそうなっても何にこだわっているのでもないらしい。それを強調したいようだ。たぶん多くの人々はそれらの予定調和に気づいていない。それが当たり前のことだと思っているのだろう。君はそこですぐに立ち止まってしまう。何に気づいてほしいわけでもないのに立ち止まる。誰もがそれを見捨てているようだ。そして相変わらず君には何もわからないが、それは何かの映像に違いない。記憶が定かでないが、そのとき君は何かいい加減で適当なことを語っていた。そして今は語っていたその内容を思い出そうとしていないようだ。思い出さなくてもかまわないと思っている。何に差し支えがあるとも思えない。だからその件については何も語ろうとしていないのだろう。要するに語ることをあきらめているわけだ。誰かはそれを何とかしなければいけないと感じている。自らの影にまともなことを語らせなければならない。あり得ないことだろう。フィクションならそれでもいいのかもしれない。その中で何を感じているのでもない。ありふれたことが淡々と語られているだけで、何も感動する要素がない。それでもそれらの文章を切って捨てるわけにはいかないようだ。誰かは心の中にゴミを溜め込んでいるようだ。それもあり得ない話だ。何を否定しているわけではなく、あり得ないことを否定している。話の内容なんてどうでもよかったのだろう。さっきと印象が違っているようだ。架空の顔つきも違ってくる。想像していたのはそんなことではないようだ。まったくのでたらめというわけでもないのだろう。誰かの主張にも一理はある。ただその主張を聞き逃してしまっただけだ。たぶん君には関係のないことだが、今度は聞き逃さないように細心の注意を払っている。しかしそれもあり得ないことの一部であり、話の内容がいっこうに見えてこないようだが、どこかで老人が風の音を聞いているはずだ。それもわからない。まったくの意味不明に違いない。そんなわけで誰かは何かの一線を飛び越えて、とりとめのないことをひたすら述べているようだ。別に迷路の中で出口がわからずに途方に暮れているわけではない。困っているのは君とは別の人格の方だ。出番がまったく回ってこない。そしてその状況を理解している。わざと自らの頭の中を混乱させているわけだ。今さら別の人格なんてあり得ない。だが虚構の世界ではそれもありだろう。またくだらぬことを空想しているようだ。そんなことをいくら考えても虚しいだけで、それらの意味不明は一向に解消されず、さらなる言葉の羅列を許しているだけだ。そして自暴自棄になり、虚構の中で何かを叫んでいるふりをしながら、実際にはそれらを記している。くだらないと思う。そんなふうにしか文章を構成できないことが腹立たしい。そんなわけでやはり君は嘘をついているようだが、どんなわけなのかわからない。わけなど何もありはしないのが真実だろう。気まぐれでそんなことを述べてみる。わざと述べていることだ。何が何だかわからず、わからない原因を探ろうとするが、それは自明のことだ。記している文章が長過ぎるのだ。何もないのにそんなに語るのはおかしい。そんなに難儀してまで語ることではないだろう。それでも君はよくやっていると思う。それは何に対しての感想でもないが、ただの言葉でしかないというと、少し違うような気がする。別に新しいことを述べているわけではない。今までと同じように何でもないことだ。感動とは無縁の言葉がひたすら連なっている。終わりも始まりもないつぶやきによって、意味も意義も価値もない文章を実現しているつもりなのだろう。君はそれを理解していない。誰かにとっては欠陥だらけの文章なのだろう。それが思い違いや勘違いでしかないならば、そこに何か希望が生まれてくるかもしれない。しかし何をしたかったわけでもなく、これから何をしようとも思わない。今やっていることがすべてなのかもしれない。誰かにとっての現状はそういうことなのだろう。そして今の君には何もない。もはやその存在も誰かの影から逸脱していて、この世界に対する不在の立場でもない。君たちは何か思い違いを犯していないか。それがわかったら何も語ることがなくなるだろう。思い違いや勘違いがなければこの世界について語ることはできない。この世界が示す真実は何でもないことだ。本当は何でもないのだから、それについては何も語りようがない。ただ何でもないと述べられるだけだ。誰にとっての真実も本当はそういうことなのだろう。そこで誰がどんなにがんばってみても、すべてはやがて水泡に帰すだろう。たわいないことであり、くだらない以前のただの現象にすぎない。君は気づかないが、誰かはそれに気づいている。それに気づくか気づかないかが分かれ道なのかもしれず、それに気づかなければ何をやっても無駄になる。しかし今さら気づいても無駄なのかもしれない。もうどうにもならない段階まできてしまっているらしく、何がきているのか不明だが、そのわけのわからない何かに操られてここまできてしまったのだろう。こことは今この時に存在している場所のことだ。しかしここには何もない。それどころか他の場所にも何もない。そして誰かはひたすらそんなことを記している。


4月7日

 真昼の気分が夜に戸惑う。それは数時間後のことだ。しかしわからない。今日も空は晴れている。誰かの気分とは裏腹に爽快な気候だ。別に誰かは気分を害しているのも鬱状態でもない。至って普通で、通常の生活を送っているらしい。要するにそれほどのことでもないわけだ。何がそうなのかわからないが、時には憂鬱な気分になることもあるのだろう。君がそれを気にかけているわけではない。どのように述べてもそれは違うと思うだけのようだ。いつもの成り行きに違いない。ただ眠い。それとこれとは関係ないが、無関係なことを記さないと済まない性分らしく、支離滅裂な内容になってしまうのを楽しんでいるようで、にやけたつらしてあくびをかみ殺しながら、誰かは言葉を記している。それが求めている状況かどうかは、記された文章の内容を読んでみなければわからないが、そこに何か目的のようなものを見いだせるとしたら、それは勘違いなのかもしれない。君はそれらの紆余曲折を無視したいのだ。そこに至るのが遅すぎるような気がしてしまう。そしてもう思い出せない。それは過去の記憶だ。今いるのは未来の時空ではない。未知の記憶などあるわけがないが、それは覚えていない出来事だ。何かが気になってしょうがないようだが、それは君のやることではない。誰かがそれをやるには長い歳月が必要とされる。そして誰もそれの完成した姿を見ることはないだろう。それが何だかわからない。この世界の中で何を探し出そうとしているのでもなく、偶然に見いだされた何かについて語りたいのでもない。何かがない。何かがこの世界の中にないことを知る。しかし何かについて語ろうとしているわけだ。無理な話だ。無理なのにそれについて述べようとしている。何かとは何でもないことだ。何でもないのに気分が悪い。何かを思い出せないからだろう。何かに関する情報が欲しい。君はその何かに遭遇したことがあるらしい。それは虚無ではない。そこに何かがあるらしく、その何でもない何かの存在に気づいている。それは心ではない。同じような画面だ。誰の心を映し出しているのでもない。そこから離れるべきなのだ。今すぐに離れるべきだ。そうやって何かを促されているようだ。しかし君には判断がつかない。何をどうしたらいいのかわからず、その場に立ち尽くすのみのようだ。そこに至る物語がない。さっきから何も話が進んでいないようだ。話を先に進めるためには何かが必要なのだ。だが君には話がわからない。どこで話が記されているのかも分からない。そして少し目が疲れてきたようだ。何も語れないうちに眠ってしまうらしい。意識には言葉がない。それはどういうことでもなく、何かの思いつきに違いないが、君にはわけがわからない。部屋の中を大きなハエが飛び回っている。夜なのにうるさい。君には何らかの感慨があるのだろう。過去の過ちを後悔している時もあるが、今はそうではない。それはただの何かだ。心の中で何かを変更したのだろう。つまらないこだわりがどこかへいってしまいそうになり、それを引き止めるつもりのようだ。過去を忘れてしまったらしい。忘れてしまいたかったのだろうが、それは一時的なものだ。何かを語るのは面倒になってしまったらしい。くじけてしまうようで、そして冗談になる。真面目に装うことができなくなり、ふざけたことを述べてしまう。何かを排しているのだろう。もう何も物語っていないようだ。気づくのが遅い。遅すぎて手遅れになってしまう。修正が利かないらしい。たぶん何かをもたらしてしまったのは君ではないのだろう。相変わらずこの世界には興味を持てない。だがそれはフィクションの中での話だ。そんな作り話は誰も求めていないだろうが、君はその内容を知らない。だが君は至って物静かだ。焦っていないらしい。焦らなくてもやがてその時が訪れる。今は何もわからないが、時がくれば、今までに語ろうとしてきた意味不明でいい加減なことが、何らかの理由を伴って整理整頓され、理路整然とした文章へと変貌を遂げるだろう。それもフィクションの中で語られていることだろうが、物語が架空であることとさほど変わりはなく、それも何らかの真実を含んでいるのだろう。とりあえず無理に焦らなくてもいいが、もうすぐ来月になってしまうのだから、少しは慌てている方が無難であり、今月を駆け足で踏破する気でいた方がいいだろう。君にはやがて終わりの時が訪れるとしても、誰かには文章を仕上げるだけの時間が用意されている。だから正気を保てると思っているのだろう。理由がまったくわからないが、それで不可能を可能にさせようというのではない。ただ何かがそれを強いているらしい。そこで何かが変わらなければならないのだろう。そうしなければ前進することができなくなり、いつまでもその場で足踏み状態となってしまう。誰かはそれを恐れているのかもしれない。そうなってしまったら後は固まるしかない。身も心も固まって、心の曇りを解消できなくなってしまう。それは嘘だろう。何も思いつかないからそんなことを述べてごまかしているのだ。無駄な時間と言葉が多すぎる。それだけ文章が長くなってしまうわけだが、それでかまわないと思っているのだろう。それはとんだ勘違いだ。だから楽しくなってしまう。何も語らずに楽しいわけだ。そうやってむやみやたらと互いに無関係な言葉をつなげて、何やら文章らしきものを構成しようとしている。だが君にはわからない。そこで自分が何を語ろうとしているのかわからない。まったく見込みがないらしい。フィクションの中でこれから誰が何を語るつもりなのかわからない。それでも人は生まれて死んでゆく。病気なのかもしれないが、それは何かの途中経過なのだろう。人は重い病にかかり、死にそうになってから何かを得るのだろう。君は病とは無関係なので、何も得るものがない。嘘に決まっているだろうが、誰かの影にしては意味不明だ。そう述べてしまうのも同様に意味不明だ。君にそれを意識することはできない。他に何を否定するわけでもないが、とりあえずはその存在を否定しなければならない。意識も実体もない。君と誰かとはもとから無関係なのだ。誰かとは誰でもない誰かであり、君は誰の影でもない。しかしわけがわからない。何かがおかしいと思う。さっきから何も語っていないのだ。ひたすら言葉を記している。そしてまだそれを続けるつもりらしい。実際に言葉を記している。しかもまったく物語になっていない。何を語るか定まっていない。はじめから欠陥があるわけだ。何も語る気がしないのに語りだしている。冗談だと思うが、なおもそれを続けようとしている。まったくの無駄かもしれないが、そこで何かを語っているわけだ。しかしそれはあくまでも何かであり、具体的にはどんな主題も含まない何かだ。だから取り立てて何を述べているわけでもないと思い込む。君は自らに嘘をついているのだ。そしてそんなことはわかりきっているのだろうが、それがやめられない。続ける理由もなく、やる気もしないのに、さらに何かくだらないことを述べようとする。それはまったくもって意味不明以外の何事でもない。


4月6日

 ありふれた日常の成り行きの中で、何かがずれているようだ。外れているのかもしれない。昨日は映画を見ていたわけではない。わざと意味不明なことを述べてみる。そこにも無意識の思惑があるのだろうが、君にそれがわかるわけがないし、誰がわかろうとしているわけでもない。誰かはファンタジーの中で暮らしているわけではないから、他の誰かとともに宝探しに出かけることはない。たぶん冒険ではない。記されていることはそれとは違う。だいいち語るのが面倒なのだ。障害があるとすればそういうことなのだろう。それは何か適当なことを語るためには必要な手順なのだろう。だが何がそこでのすべてなのでもなく、語ることなど何もありはしない。大げさな物語を語り始めているわけではない。むしろそれを否定したいのだろう。些細でささやかなことを語っていたいのだ。それがこれだ。何を肯定しているのかわからず、すべてを否定しているわけではないことが、せめてもの救いのように思われる。だがそれに関する何の挿話もありはしない。だが事件がどこかで起こっているはずだ。嘆きの言葉が空疎に拍車をかける。それに接してまともな精神状態でいられるわけがない。この世界には人がたくさん住んでいる。それらの人々を何らの行動に駆り立てているのが目的なのだ。そこで人は何かをしたいと思っている。誰かはすぐに眠ってしまいたいようだが、その場の状況がそれを許さない。闇の向こうから手招きされているようだが、どうしてもそこへ向かう気になれない。まだそこでやり残したことがあるらしい。それを仕上げてからでないと眠たくても眠れない。別にあまりにも熱中しすぎているというわけではないが、他の何かをするのを忘れているようだ。精神の集中などありはせず、ただひたすら緩慢な意識を使って言葉を連ねているようだが、何か他に話があるわけではない。まるで主張すべき内容をもたらせない。何がどうなっているわけでもなく、どういうわけでそうなっているのでもない。嘘があるのだろう。自らに嘘をついている。だがそれが決定的な負い目とはならない。むしろ嘘が勝手気ままな行動を促している。虚無からの重圧を嘘が軽減しているようだ。何ももたらせないことから生じる負い目を一時忘れさせ、空っぽの心の中に何かの幻影を意識させる。それがそこに生じているつもりの自己なのだ。自己とは己の存在を意識させる幻影であるが、それが実体を伴っていないからこそ、その者個人の都合に染まることができる。思い通りにならないから不快な感情が生まれ、その不快さを解消するために行動が生じ、人は行動している自らの存在を信じ込む。自ら目的に向かって行動していると思い込むわけだ。そしてそこに行動する理由をも見いだし、ますます自らの存在を確実なものと意識することができる。君にはそれが信じられない。それが何の説明となっているのかも理解できず、自らが何について語っているのかもわからない。何を読んでも身に入らず、間違ってもなるほどとは思えない。常にあらゆる存在を疑っている。目に映る光景のすべてが幻影だとしても、それで納得してしまうかもしれない。君にとっては実体こそが幻影なのだ。この世で実体を伴っている事物のすべてが幻影だと思いたい。君の都合とはそういうことだ。それは他の誰の都合とも一致しない。夢遊病者のそれでもなく、何か都合の良い夢を見ているわけでもない。世界のすべてが何でもないことだと確信しているのかもしれない。様々な紆余曲折を経て、そういう心境に至ってしまったわけだ。確かにこの世界は世界なのだろう。言葉で記せばそういうことになりそうだ。それ以上でも以下でもないような世界に人々は暮らしている。そしてこの何でもない世界に魅力があるとは到底思えない。魅力があるとすれば、それは誰かの嘘であり、勘違いや思い違いや見込み違いがもたらしているものだ。しかしそういう見解もいい加減な嘘八百の一部だろう。何を述べても嘘っぽい印象を免れないようだ。はじめから何について語ろうとしていたわけでもなく、何となく気の向くまま、勘に頼ってここまでいい加減に語ってきただけだ。それがどうしたわけでもないが、もうさっきまで述べていた内容を忘れてしまったらしい。そんなわけでいきなり話が別の方面へ飛んでしまうようだ。そうかといって意識はどこへ行く当てもなく、ただそこへとどまり、何かそれ以前とは違うことを述べようとするが、結局同じようなことを述べているのだろう。誰にとってもそこ場は無責任きわまりない態度でいられる場であるらしく、何を語ろうと自由なのだろうが、かえって何か特定の主題に束縛されていないとまともな話にならないのかもしれない。君にはそれはわかっているようだ。だがそこで誰が何を主張しようというのでもない。取り立てて主張することがないわけではないが、なぜかそれを主張しようとすると邪魔が入る。そして頭が混乱してわけがわからなくなり、結局何を主張しようとしていたのか思い出せなくなるわけだ。だが誰にそれを問いかけるわけにもいかないだろう。それとは誰かが主張しようとしていたことだ。その代わりに誰かは自らが以前に主張していたことを思い出そうとする。確かそこで何かを批判していたはずだ。たぶん日本の都道府県知事はすべてテレビタレントがやるべきだ。保守系の無所属候補で選挙を戦えば必ず当選するだろう。そして仮想敵を霞ヶ関の省庁に勤める官僚や、ヤミ専従で組合活動をしている地方公務員あたりに定め、毎日テレビ向けに感情むき出しの派手なパフォーマンスを繰り広げていれば、きっとそこに暮らす住民たちも支持してくれるだろう。そう述べればそれらの対象を批判していることになりそうだ。それらの対象とはその手の世間一般のことだ。そして今地方行政で問題となっていることなら、その手のメディアでいやというほど取り上げられているだろうから、それに乗っかって利いた風な意見を表明し続けていればいい。それで何かをやっていることになりそうだ。要するにこの世はお気楽な世界のようだ。何を語ってもかまわないが、真実を語れば誰からもかまってもらえない。だから少し間違ったことを述べなければならず、他人から馬鹿にされることによって笑いをもたらさなければならない。浅はかなやり方なのだろう。欠陥だらけの社会構造を肯定している。それが楽しいのだからさかんに欠陥を利用すべきだ。欠陥や不具合は誰かを利するためにもそれを保持しなければならない。君はそれで世間一般を馬鹿にしているつもりらしいが、そういうやり方が浅はかなのだ。何か切羽詰まって破れかぶれの印象を抱かせる。もう少し地に足をつけて、地道に問題を一つ一つ検証してゆく必要があるだろう。その問題の成り立ちや因果関係を探り、どうすれば解決できるかを考察し、わかりやすい説明によって提示しなければならない。そんなできもしないことをいいわけまじりに語ってみせる。どうやら面倒くさいので冗談で済ましてしまうつもりらしく、そこでわざと思考を停止しているようだ。誰かの主張にはほど遠いようだが、何となく世間を馬鹿にしていることぐらいは伝わってくる。


4月5日

 何かの印象が悪い。それは無駄な言葉だろう。いつものことだが、感覚的にそれはおかしな表現だ。問いかければ問いかけるほど文章が長くなる。それだけ字数が増えるのだから当然のことだ。それでも文章は文章で、一応は文章に違いないが、内容が空疎でくだらなすぎるか。そういう水準で文章を評価するのは馬鹿げている。評価されるべきは文章の長さではなく、あくまでもその内容になる。それがわかっていながら長さにこだわるのは馬鹿げている。しかし実際に長く書き記そうとしている。短いと不安なのかもしれない。だからわざとだらだら長引かせている。だがそれもはじめからわかっていることで、いちいち述べるまでもないことだが、結局そうやって同じことが繰り返して述べられてしまうわけで、それも馬鹿げたことに違いない。確かに馬鹿げたことだが、そう述べてしまう現状があるらしい。しかしおかしい。疑念を抱いているが、それを表明できない。いったん疑念を発したら、それに対する問いの無限連鎖に陥ってしまうだろう。意味のない無駄な問いが繰り返され、問いかけているうちに収拾がつかなくなり、何を問いたかったのかわからなくなる。しかしそれは説明でしかない。気がつけばひたすらそんなことを説明している。それではつまらない。つまらないから行き詰まってしまう。わからなくなっているようだ。やる気がしない。何を語ろうとしていたのかわからなくなる。言葉から意識が外れているようだ。大したことではない。君は言葉の意味を知りたいらしい。そこから飛躍したいようだ。あやふやな言葉の羅列だけでは物足りない。しかし心を求めているとは思えない。感情ではない。そこで気が変わったらしい。本当に何もやる気がしなくなり、その先に言葉がつながらなくなる。本気ではないのだろう。それはいつも通りの意味不明だ。そう思うしかないようだ。もときた道に戻ってきた。まともに考えようとするとらちがあかない。そして何も考えられなくなる。ただそんなことを記しているだけで時間が経ってしまうが、それでも何か記している。それがこれだ。それらもこれらになってしまうだろう。君はそれがどういうことかわかっているはずだ。自らの終わりが近いのだ。それは誰の終わりでもなく、君自身の終わりだ。物語的にはそういうことになってしまう。現実の世界でもそうだ。誰かがそう書き記す。意味のない終わりになるだろう。君にそれがわかるはずがなく、誰かにとってもはっきりした結論を見いだせない状況だ。だが確実に終わる。何かが確実に終わる。それは何かの幻想に違いない。君は言葉に逃げている。そこしか逃げ道がないのだろう。だから誰かは言葉を記し続ける。意味のない行為に違いないが、何かの惰性で行っていることなのだろう。君にはわからない。相変わらず君にはその意味がわからない。何かを取り違えているのかもしれない。その何かがわからない。考えることを省略している。言葉がそうしているのだろう。何かの思い違いかもしれないが、そういうことにしておきたいのだろう。人が生きていくには出来事が必要だ。ふざけている場合ではない。そこから先に言葉が出てこない。その先には何もないのかもしれない。現に今この場にも何もない。それとこれとは完全に一致している。それがこれでこれがそれなのだ。少しは二つの言葉を引き離したいが、そうする理由が不明だ。理由もわけも何もない。そんなふうに思い込んでいるわけだ。いつもとは違って君に関係のある話なのだろう。言葉から逃げるために言葉を記しているわけではない。逃げるための文章ではないはずだ。だが何を語るための文章でもない。何を伝えたいのでもないらしい。主張すべきことが見当たらない。それどころかすべての主張をこの世界から取り除きたいと思っている。たぶんすべての人がそれを望んでいるのだろう。些細なことで悩みたくないのだ。君の作り話の中ではそういうことになりそうだ。それはまったくのでたらめだろう。誰も何も望んでいないというのは嘘だ。君がそう思いたいだけだ。君の心は欠陥だらけだ。それは誰の心でもない。その存在が誰かの影を形成している。それは誰にとっても与り知らぬことだが、それでどうしたわけでもなく、ただそんな説明が誰かによって記されている。それが現状なのだろう。そんな馬鹿げた現状をどうすることもできず、ひたすら無内容を繰り返すしか能がない。それがまぎれもない現実であり、他には何もありはしない。だがそれでも小難しいことを述べようとしているわけで、要するに格好をつけたいのだろう。何か利いた風なことを主張したくなり、この世界の情勢を把握しようと試みる。それが無駄で無意味なことなのかもしれない。そうやって試みようとすることを片っ端から否定してまい、それが何も考えられないことの原因となっているようだが、君にはそれがわかっていない。いつものようにわかろうとしていないのだろう。理解できないと思い込んでいる。何を理解したらいいのかわからない。そこで何かがずれているようだ。この世界において人が何らかの役割があるとすれば、それはこの世界の一部として存在することだ。すでに存在していることに意味があるわけではない。ただそうなっているにすぎない。感情は自らの存在を正当化するためにある。目的をねつ造するのにも感情が必要だ。そこに何らかの必然性を設定しなければならず、自らの行為の必然性を主張しなければならなくなる。今まさに語らなければならないのだ。そして語っている内容を肯定しなければならない。この世界に暮らす人々は救われるべきではない。実際に救われないからそんなことを主張しているわけではなく、安易に救われてしまう人々が多すぎるからそう述べてしまうのだ。君は救われることの意味を見いだせず、唐突に救いという言葉を使ってしまったことを後悔している。そして今や君はそうではないと思いたい。語るべきはそういうことではないと思う。人はそれに関して何を思っているのでもないが、君にはそういうことにこだわる必然性がある。そう思い込んでいるわけだ。要するにこだわりとは思い込みなのだ。何がどうなってそうなってしまうのではなく、ただそんなことを述べている。君は長々ととりとめのないことを語ろうとする。それに対して誰かはひたすら言葉を記し続ける。意味など何も求めない。ただ言葉が連なってくれればそれでかまわないのだ。それが一時的に中断することがあっても終わることはない。終わりを知らない文章になってほしいようだ。そして君にとっての話とはそういうものだ。誰にとってもそれは受け入れがたい無内容にとなってほしい。何かしら内容があるように感じられてしまうのが我慢ならない。別にそこで話が入り組んでいるわけではない。誰もそんなことは求めていないし、わかりやすい内容で十分なのだろうが、その内容がない。ないと思い込んでいるだけだが、もしあったとしても、それが内容ではない。何が内容でもなく、君はそれらの結末を受け入れようとしないばかりか、さらに関係のないことを語ろうとしている。


4月4日

 今日も何も語ることがない。何もないと文章が複雑になり、途中からわけがわからなくなってしまう。そんなわけで相変わらず言葉が定まらないが、見えているのはそういう光景だ。それはどういう光景なのか。話的には誰が特定の何を眺めているのでもない。それは何の話なのか。あやふやな気分で説明にならない説明をしようとしているようだが、それらは全体として一つの風景なのだろう。ますますわけがわからない。要するに何でもないことなのだろう。その中で何か気になることでもあるのだろうか。気のせいかもしれないが、それは気のせいに違いない。度重なる同じ言葉の繰り返しはくだらなすぎるか。誰かはそんな言葉を記しながらもそうではないと思っている。たぶんそうではないのだろう。では何を騒いでいるのか。騒いでいるのではなく、疑っているのだろう。何を疑っているのか。疑うべきことを知らないわけがない。だがあまり疑う行為そのものに深入りしてしまうと話の収拾がつかなくなってしまう危険性がある。すでに話は破綻しているのではないか。ならばはじめからやり直せばいい。ところで今日は何を語ればいいのか。それは素朴な疑問になるだろうか。素朴かもしれないが現状では返答できない。君にとってはそれも違うと思われるのか。いったい何が違うのだろう。実際に語ってみれば、それが語っていることだ。別にスピーカーを振動させているうるさい音をいやがっているわけではない。むしろ楽しんでいるのだろう。ではそこから何を眺めているのか。いくらくだらないと感じても、この世の光景に違いない。たぶんそこでまた遠回りの用意ができている。君にとってはそれが憩いの時間帯なのだろう。どんなにわかりやすく説教されても、君には理解不能なことか。誰にとってもそうかもしれない。具体的には何も語っていないのだから、それを理解しようがない。それとは何だろう。ただふざけているだけのようだ。ならば今日は何も語るべきではない。ただ言葉を記すべきなのだ。現にそんな勝手な言い草を記している。何か挫折していないか。今はそうかもしれないが、いつかよくなるだろう。できないことをやろうとしているわけではない。現にできているではないか。今はそれを押し進めていい加減で意味不明な文章を構成すればいい。今やっていることがそれだ。実にくだらないことを述べているはずか。だからもうそういうのはやめた方がいいだろう。何か利いた風なことでかまわないから、昔語っていたように評論家もどきの意見でも述べてみたらどうか。しかし具体的に何について語ればいいのだろうか。語ればいいことなんて何も思いつかないが、何か語ってはいけないことを語るというのはどうだろうか。北朝鮮ではないのだから、語ってはいけないことなんて何もないはずか。むろんないことはないが、今さら右翼を刺激するようなことを語る気がしない。この国の政治に関する問題などはどうだろう。たぶん現時点では何の問題もない。まったくこの国に暮らしている人たちにふさわしい人たちが政治を執り行っているではないか。この程度の国民にはこの程度の政治家がお似合いなのは誰もが認めるところだろう。それに関して文句をたれる筋合いではない。語らないことで良心がとがめるわけでもないが、だから何も語れなくなってしまったのではないか。語れなくなった原因がそんなところにあるとしても、だからどうしたわけでもないだろう。良心の呵責に耐えなければならないわけか。だがいらぬおせっかいは禁物だ。それらの社会では何を指摘されても馬耳東風なのが真っ当な対応だ。絶対にそれを真に受けるわけにはいかないだろう。正義の味方を気取ったただのひねくれ者が、現実をねじ曲げて勝手なことを叫んでいるだけだ。そう受け取られても仕方がない。結局何を語ろうともそんな反応しか呼び起こさない風土なのだ。それはねじ曲がった認識というものか。いじけた意見に違いないが、それを何とか変えてゆかなければならないだろうか。何か希望を持てるようなことを語らなければならないか。現状ではかなり無理かもしれない。何も思いつけない現状を変える術を知らない。根本的にそれを何とかしなければ無理な話だろう。実際にこんなところで行き詰まっている。今日もまた途中で終わってしまいそうだ。たぶん続きは明日になってしまいそうだが、その時点でもまだやる気が残っているかどうか、そのときになってみないことには何ともいえないが、とりあえずすでに明日になってしまったらしい。まだ朝にはなっていないはずだが、睡眠をとらなければ仕事に応える。だからやめなければならないわけか。まだまともなことは何も述べていないはずだが、それをどうしようというのだろう。何かをどうにかしなければならないが、その何かが何なのか思いつかない。無理に思いつく必要はないのだろうか。君には思いつけるはずか。いつかは思いつくだろう。ただそのいつかがいつになるかはわからない。案外すぐそこまで機会が近づいているのかもしれないが、実際にそのときになってみないことには何ともいえない。今はただそうではないと思うしかないようで、さかんに何もない現状の否定を試みるばかりで、言葉を記すことが悪あがきと化している。たぶんそんなやり方で現状を打破することはできないだろう。できないがそうすることしかできないらしい。そんなことの繰り返しが空疎な文章を構成している事実を承知しているのにそれをやめられない。やめさせてもらえないような成り行きの中に意識があるらしい。それも過渡的な現象なのか。世の中は揺れ動きながら変動しているのかもしれないが、良い方向に行っているとは思えない。だが変化を否定しているだけでは何も語れなくなってしまう。今がその状況なのだろうか。何を肯定すればいいの変わらず、何もかも否定してしまいたくなるような感情に心を覆われているわけか。本当に絶望的な気分なのだろうか。絶望とはどのようなことなのか。なぜ絶望しているのにそれを続けようとしているのか。それは真の絶望ではないからか。絶望的な状況なのにそれさえも否定してしまうらしい。要するに絶望すらも信じられないような状況なのだ。それは何とも思わず、何もできず、それがどうしたわけでもない、というわけなのだろうか。それはどういうことなのか。ただ際限なく問いを繰り返すだけの状況らしいが、それを変えるにはどうしたらいいのだろう。何も問わなければいい。そうすれば無駄で無意味な問いの無限循環から解放されるだろう。しかし問わないとはどういうことなのか。どういうことなのかと問うのをやめることだ。それが答えなのか。それが答えなのかと問うのもやめなければ、無限循環からは逃れられない。君はそれらの無限循環から逃れたいようだ。今は本当にそう思っているのだろう。その気になればそうなってしまう。その気にならなければそうはならない。君はそんな簡単なことに気づくまでに、かなりの回り道を繰り返してきたはずだ。いつもそこから逃れようとして、そのまま直進するのを怖がり、その結果がそういう成り行きを招いてきたわけだ。


4月3日

 自意識はここからどこへ行くのか。相変わらず何を求めているのでもない。この世界はいつまでたってもこの世界のままだ。君には関係のない世界であり、何がどうなってそうなっているのでもなく、ただの戯れ言で片付いてしまうような認識を生じさせる。そして今は夜だ。夜以外の時間帯であったとしてもいずれは夜になる。当たり前のことだろう。この世界の中で人がどうなってほしいとも思わない。いろいろな人がいるだけか。そんなくだらない認識をもたらしている当の人々も、何がどうなってそういう存在に至ったわけでもなく、ただの成り行きが様々な人を生み出すにすぎない。そんなことに興味を持つのはおかしいか。君には他にどんな認識があるというのか。君がすべてではないはずか。誰もがすべてではない。たとえ神の視点を持とうとも、そんなことに何の意味があるとも思えない。誰にとってもすべては他人事だ。自分さえ理解できない。なぜそんな行動に及ぶのか理解できない。君のせいではないのだろう。誰のせいでもなく、何を思っているのでもない。すべての成り行きを把握しようとする試みは必ず挫折し、自分が何を理解したいわけでもないことに気づき、早くそこから遠ざかろうとする。もちろんそうする理由など何もなく、何となくそういう行動に及ぶまでか。だから君の知ったことではないのだろう。何も理解できずにそこで眠ってしまう。もうあきらめてしまったのだろうか。何をあきらめたつもりになれるのか。たぶんそれも君には関係のないことに違いない。寝て起きて君の意識はさらにでたらめになり、自分でも何を考えているのかわからなくなる。いったい何を考えているのか。たぶんこの世界のことだ。この世界の中で起きている現象について考えているはずだが、そこからどのような見解に至るわけでもなく、誰かの認識がまともな水準で言葉として書き記されるわけでもない。その代わりにただの意味不明が記されるだけか。それが認識の代わりになるとは思えないが、それでもかまわないと思い込み、強引にに言葉を連ねるための口実に使いたがる。それこそ意味不明か。とりあえず何でもかまわないのだろう。適当に言葉が記されていれば事足りるような気がする。それは君の意見ではないが、誰の意見ともならないだろう。利いた風な意見を述べるのが面倒なのかもしれず、そこから先に言葉を記すだけのことに煩わしい手順を踏む必要性を感じられない。だから意味不明でかまわないのか。不明ではないだろう。では意味があるなら勝手にそういう意味にしてほしいか。それはどういう意味で誰が定めた意味なのか。今さらそんなことを問うのはおかしいか。君がそう思っているわけではなく、誰も思わないようなことを書き記しているのでもない。ならばそれの何が変幻自在なのか。そこで言葉のつながりがわからなくなるが、何かのエンジンがかかってきたということかもしれない。そして何となく突っ走っているようだ。どうやら君にはさらなる言葉が必要らしく、それを模索しているつもりなのだろうが、それは作り話の中でのことで、実際には何をやっているのでもなく、何をどう思っているのでもない。ただ面倒くさいからそんなことを述べているまでのことか。君にはそれがわからないのだろう。無意識がそうさせているのを理解できない。だからいつも振り出しに戻ってしまうのか。何かを考えているのかもしれないが、それが文章に反映されず、何やら誰かの自己言及もどきばかりが記される。本当は何を考えているのだろうか。君はこの世界についてどのような見解を示したいのか。何か大げさな認識に至っているのか。たとえそうであろうとなかろうと、そんなことは何でもないことか。人が考えていることなどたかが知れていて、気を許せばすぐに功利主義的な結論に至るに決まっている。どうすれば自らに利益をもたらせるのかを考え、結局は他人との競争になるだけであり、そんな競い合いをおもしろおかしく伝えることにしのぎを削っている者たちまでいる始末だ。君にはそれがくだらないと思えるのか。たぶんくだらないことなのだろう。くだらないが避けては通れぬ成り行きだ。それどころか誰もがそんな水準で生きようとしているわけで、それ以外では生きられない世の中なのだろう。理想主義が掲げる絵空事では食っていけない。いったいそれの何がくだらないのか。人は誰でもリアリズムにはまるものだ。現実を見つめ、現状に適合した生き方を模索するしかない。死ぬのがいやならそうする以外にあり得ない。馬鹿は死んでも直らず、愚かさは未来永劫人につきまとい、何をどう考えようと、そこに人をとどまらせる。思考の自由を奪い、決して離そうとしない。愚かな行為に及ばないために人は国家によって管理されるべきだ。そんな安易さが真理として流通している。浅はかな水準にとどまるならそういうことになるのだろう。国家がやることは国民にとっての慈善事業であるべきか。生ぬるいことを述べるならその通りだろう。誰がそこでもがき苦しんでいるわけでもないが、何となくつまらないと思っている者が大勢いることは確からしい。自由とはどういう意味で文章中に配置すべきなのか。何をもって出口とすべきなのか。国家から解き放たれるとはどういう状況を指すのか。気がつけばわけがわからない状況になっているようで、何か適当なことを述べつつも、君にとっての答えに近づきつつあるようだが、それはここでの支離滅裂とどう関わってくるのか。だが別にそれで笑ってしまう事態とはならないようだ。今さら何をどう考えたら納得できるのか。納得するために考えているのではなく、迷い苦しむために考えているのだ。そんなのは嘘だろう。嘘に決まっているが、万が一嘘でなかったらおもしろいだろうか。君が思うことではない。あまりにもくだらなすぎるか。それの何がくだらないのか。そういうのがくだらない。無駄に言葉を繰り返している。それだけではないだろう。言葉を繰り返し記すことで何かを確認したいのか。何かとは何だろう。何でもなければ何かではない。だから何かとは何でもないことではなく、ただそれを思いつかないだけだ。そんなわけで君はひたすら迷い悩んでいるふりをしている。それは作り話の中で演じられている演技のつもりか。そういう話の設定にしてもいいが、いかにもとってつけたようであまりにも不自然な印象を拭えない。ならばその先はどうしたらいいのだろう。よくわからないが、それでもくだらなすぎるような気がしてくる。そこで語られるべき話とは何か。本来ならどう語られていたのか。本来も何もなく、どこでも何も語られていない。何かが違うような気がするだけだ。君にはそれらの後から付け足された言葉の連なりが不自然に思えて仕方がなく、可能ならその辺で終わりにしてほしいのだろうが、君の思い通りに事が運ぶわけがなく、事の成り行きをただ黙って眺めているしか能がない君に何ができるわけもない。しかしそれでも話の中に君が登場して、何か利いた風な意見を得意そうに述べている姿を思い浮かべていると、誰かの浅はかさが明らかになるだろうか。だが誰かは誰でもないはずか。


4月2日

 この遅れに遅れてしまった状況を何とかできるわけがない。それは馬鹿げたことか。くだらぬことにこだわっているらしい。無理を承知でそんなことを考えている。なぜそんなことをやってしまうのか。そんなこととはどんなことでもなく、そんなことを述べている現状があるらしい。それが無意味な行為だ。無意味で無駄だが、やらなければならない。やっていることが意味不明だか、要するにそれは言葉を記すことだ。そして文章の内容を問わないところが愚かなのだ。笑ってしまうだろうか。考えるのも馬鹿らしいか。何を考えているのでもない。しかし状況が君に味方しているらしく、時間を与えて何かをやらせるつもりのようで、そこで誰かが何かを語っている。何か語る必要があるのだろうか。それとも必要もないのに語るつもりか。だから笑ってしまうのだろう。別に何も語りたくないわけではないが、この世界には語るべき素材がない。何もなくても夕闇が迫る頃にでも何か適当なことを思いつくだろう。君の都合でそうなってしまう。もちろん内容は空疎に限られるが、それでも何も語らないよりはマシのはずか。心の持ちようが大事らしく、どうにもならない時こそリラックスすべきだ。本当にそれができるだろうか。それは君に語らせるようなことではない。その場で思いついたのはそれとは違うことか。違うタイミングで違う言葉を繰り出さなければならないか。今までに何をやってきたのだろう。何もやってこなかったわけではなく、心に侵入してくる虚無を払いのけて、何か意味のあることを述べようとしていたはずだ。ある時はそうだったのだろう。ではまたある時はどうだったかといえば、語っている内容を全面的に虚無に依存していたこともあった。ひたすら意味不明を記し、わけがわからないことをいいわけとして、無内容であることに甘えていたような気もする。だから何だというわけでもないが、結果としてつまらないことを記し、そうなっても仕方がないと居直っていた。ならば今はそれを反省しなければならないか。反省して何になるというのか。記している内容が改善されて、少しは内容のあるまともなことを語り始めているだろうか。それはいつの日のことか。今ではないようだ。自信が持てない。自信を持てるような内容ではない。何かその場でわき上がってくる感情を押さえ込んでいるようで、ひたすら理性的に振る舞おうとするが、それは何かのやせ我慢なのか。何に影響されてそうなってしまうのだろうか。頭にきている者はやることが違う。どうしようもないからそういうことを語ってしまうのだろう。必ずしも現状の何が肯定されるべきでもないが、そうなってしまってかえってよかったと思い込もうとしている。何か常に危機感を抱いていないと気が済まないのか。そんなはずがないが、それでも機会を逃さず、そこから脱出することができたのは、ただ運がよかっただけだろうか。そう思ってもらって差し支えないだろう。確かにそうかもしれない。だが結果としてそうなってしまったことは肯定していいのではないか。たぶん今の状況が君には合っているのだろう。言葉が無為に積み重なりすぎて、時間に追いつけなくなってしまった。そういう状況を肯定しようと否定しようと、何となくそれでかまわないような気がする。だから今は待つべきだ。ひたすら言葉を記しつつも、また別の機会が巡ってくるのをじっと待っている。そう思っているのは誰の意識でもないだろう。君はそこから離れようとしている。常識が支配する世界に別れを告げるわけにはいかないだろうが、その場にとどまり続け、同時に離れようとしている。君にできることはそういうことだ。体調が優れないのはわかっている。思わしくないなりに努力していることも承知している。おそらくそれでかまわないのだろう。すでに機会を捉えているはずだ。今はひたすら渦中の外部にとどまろうとしている。とどまれないのにとどまろうとしているわけだ。しかし渦中とは何だろう。そこで大勢の誰かたちが馬鹿踊りでも踊っているわけか。その気になってはまずいのだろう。豚もおだてりゃ木に昇るか。だがそうなってしまって何が悪いのか。悪いどころか実におめでたいことではないか。だからおめでたくなってしまってはまずいということか。その状況をどう捉えるにしろ、何となく不幸を不幸だとは思わないようにしているだけのように感じられてしまうが、一方で感じ方によってはそれがおめでたいことであり、幸せなことなのだろう。君はそれについて何をどう思っているわけではなく、ただ他人のそんな状況を受け流すだけのようで、何に同情しているのでもない。言葉を記している誰かにとってそれは、祝福されつつ馬鹿にされているようなほめ殺し状態を抜け出して、何か真っ当な気分をもたらすような成り行きになってほしいのだろうが、誰もがそこから行き過ぎの気配を感じ取り、顔は笑っているのに、心が退いてしまっていることを気づかれないように、ひたすら愛想笑いを浮かべているだけで、結局のところ何をどうすることもできはしない。身も心も固まった状態のまま、早く嵐が過ぎ去ってほしいと願っている。もうその辺で勘弁してくれないか。勘弁してくれなければどうなってしまうのだろう。そのままその場にとどまるしかないだろう。いつか状況が変化する兆しが顕われるまで、何となく苦難に耐えているふりをしていなければならず、本当は笑い転げて、ざまあみろと叫びたいのかもしれないが、それを許すだけの寛容さは持ち合わせていないようだ。とりあえずその場の雰囲気はそういうことらしく、そのことについて何か文句があるわけではないが、他に何もないのだから、他に何かあるように見せかけるのはおかしいか。しかしそれほどまでに言葉を連ねているのに、まだそこから離れられず、ただいつまでも離れようとする動作を繰り返しているわけだ。それの何がおかしいのか。何をそんなに笑い転げているのか。君の知ったことではないらしいが、君の未来に関係することだ。君が未来の時空で存在するためには越えなければならないハードルがある。そんなのはあり得ないだろう。たぶんあり得てしまうのだろう。現時点ではどちらが正しいとはいいがたいが、とにかく今はまともなことを述べなければならない。そのための努力がここにあり、何かの練習をやっている最中なのかもしれないが、そこでも現状を何とかしようとしている。絶望的な状況に陥らないために何とかしなければならず、努力し続けることで、何らかの希望を見いだそうとしているのだろう。そしてそれが無駄な努力に終わらないうちに、話に一定の方向性を定めなければならず、それらはそのための悪戦苦闘なのだろう。何かわかったようなわからないようなことを述べているのかもしれないが、そんなことを繰り返し述べることで、何か前向きになってきたような幻想を抱くわけだが、本当にそれでいいのだろうか。よくなければ改めて何をどうすべきなのか。それでは言葉の無限循環にはまっていないか。現時点ではわかりようがないか。


4月1日

 現状とは何か。何を考えているのだろう。気休めではなく、気晴らしでもなく、他に何でもないのか。ただ唐突にそんなことを考える。出口が見えてこない。君に語れるような話ではない。それを承知で何を語ろうとしているのか。語った後から言葉が生じるわけか。語る前からそうだったはずだ。君はそれがつまらないと感じている。作り話の中では袋小路とは無縁だったはずだが、どうも着地点が定まらない。嘘をついているのか。少なくとも冗談で述べているのではないのだろう。誰かの影が何を模索している。君にはそれがわかるだろうか。わかろうとしていないようだが、それでもわかってほしいか。興味がないのかもしれない。なぜそこまでやる必要があるのだろう。すべてはでたらめに近い。近すぎて見間違うほどの距離だ。だが何を眺めているわけでもなく、かたくなにそれを押し進めようとする。それが現時点の方法なのだろう。もちろん最善の方法ではない。そしてすでに限界を超えているはずだ。頭がついていっていない。だからわけがわからなくなる。何をどうしようとこのところの傾向は変わらず、相変わらず作業は遅れに遅れ、やっと日付が今月に入ったようだが、一安心している暇はなく、さっさと言葉を記さなければならないようだ。残された時間は無限ではない。無限どころかほとんどないのではないか。ではもうすぐ終わりなのか。いったいそこで何が終わってしまうのだろう。君に終わるような人生などない。君自身が君ではないのだから、それは当然のことか。要するにすべては戯れ言の延長上にある。何を述べているのでもないらしく、それらの言葉を記している誰かに何を期待することもないだろう。そしてそのことについて何を批判したいわけでもなく、ただ黙ってそこに展開される成り行きを見守ることしかできないようだ。まだ何か書き記す気があるのかどうか見届けなければならないわけだ。誰が何を語りたいのでもなく、何が語られているのでもない。ただそこに言葉が連なっていて、それを眺めている誰かの視線がある。そしてまた性懲りもなく嘘をついているように思われる。それ以上は何を述べても無駄だろう。気が済むまで空疎な文章について説明すればいい。そうすることによって誰の気が済むわけでもないが、とにかく言葉を連ねて文章を構成しているつもりでいるらしい。しかしこの世界に興味がわいてこない現状に変わりはなく、それに伴って怒りも感動も感じられない。いったい何に対して怒ったり感動したりすればいいのか。それらの対象のすべてがそうなって当たり前のようにしか感じられないのはどういうわけなのか。ただ何でもないことが何でもないように起こっている。すべての出来事は偶然であれ必然であれ、起こって当たり前のようにしか起こらないのか。それはその出来事に遭遇したものが抱く感じ方でしかない。ではなぜそんなふうにしか感じないのだ。それらの出来事に興味を感じられないからか。しかし具体的にどのような出来事について興味を抱けないのか。それがわからず、それについて論じているつもりなのにとりとめがない。何か漠然とそう思っているにすぎないようだ。たぶん適当な出来事に遭遇して、それについて何か語ろうとすれば、それで結果的に興味を引いたからそうなったことになるはずか。それでかまわないのか。あまり難しく考えなければ、そういうことになるだろう。しかし何について語ればいいのか。空疎や虚無について語っているのかもしれない。現に何もないことや何でもないことについて語っている。そういうたぐいのことばかり語っているから虚しくなってしまうのだろう。語るためには虚しくなってもかまわないか。本当にそういうことだろうか。晴れ晴れとした気持ちにはなれないが、外は晴れている。別に逃げ口上を述べているわけではない。そこに用意されているのは誰かの幻影か。そんなものではないが、何かに幻想を抱くわけにはいかないようだ。何かとは何なのか。何でもないから何かか。方便にもならないが、嘘ではないのだろう。何が嘘だといっているわけではなく、そこで述べられている何かが嘘なのかもしれないが、やはり嘘ではないのだろう。現状は現状なのであって、その現状に幻想を抱けない。それでも現状の何が悪いとも思えず、それでかまわないと思うしかないようだ。本当にかまわないのか。そう問われてみるとそうではないような気がしてくるが、一方でどちらでもかまわないような気もしてきて、何でもないといえば何でもないのだろうが、そんなふうに語ってしまうのが馬鹿らしく思えてくる。しかし何もないからそう語るしかない。何もないというのも嘘かもしれないが、何もないとしか思えない現状があるらしく、そういう現状に照らし合わせれば、やはり何もないということになるわけか。しかしそうやって何を言いくるめようとしているのか。誰をだまそうとしているのでもないはずか。だまされるような状況でもない。たぶん君はこの世界に幻想を抱けないのだ。何をどうすればいいというわけではない。ただあるがままの現状をどうすることもできない。そして世の中がなぜそうなってしまうのか理解できない。だがそう述べてしまうのも理解できない。世の中の何に憤っているわけでもないはずか。本当は何が理解できないわけでもないだろう。理解できてしまうから憤れないのだ。述べていることがくだらない。それも誰かがこれから述べようとする屁理屈の一部を構成する言葉に違いない。しかし他に何があったのだろうか。それ以外のことを語れる気がしない。だから君はひたすら空疎であるべきだ。何をどう語っても空疎になる。何もないのだから空疎なのか。そんなわかりきったことを述べても空疎だ。何も語ることができずに焦っているのかもしれないが、夜に何を思うこともない。ひたすら空疎なことを語るためにここまで言葉を連ねてきたのではない。それがわかっているのにそれを改められないようだ。だがそれで何を気にすることがあるだろう。では開き直ってそのままつまらないことを述べていればいいのだろうか。少なくとも君について述べているのではない。わざとそうなってしまうらしいが、それで楽しいだろうか。楽しかったら持続するはずか。時間がなく、心に余裕が感じられない。君はそれでも笑っていられるだろうか。もはや文章ではない。言葉と言葉を闇雲につなげている。それで文章になっていないようだ。では今こそあきらめるべきか。何をあきらめたらいいのだろう。他の誰かが自らを言葉とともに自意識を見せびらかす。くだらぬ物語的展開となっているらしい。君にそれがわかるのか。君を差し置いて誰かが行動に訴えることはない。世の中には暴力では片がつかない問題があるらしい。それが問題だと意識できるだろうか。君がわかっているのはそういうことではないのだろう。君は自らを終わらせるために何ができるだろう。何のために努力しているわけでもなく、特定の目標を掲げて、それに向かってがんばっているのでもない。それでも君は現状を認めているはずだ。誰かはただ意味不明なことを述べているつもりらしい。