彼の声7

1998年

7月28日

 しかしワールドカップもはるか昔の出来事となってしまいました。完全に書く時期を逸してしまいました。それにしてもジダンには決定力がありましたね。最後の最後で、しかも決勝戦でコーナーからヘッドで2ゴールも決めるなんて、まさにあれこそ絵に描いたような神業的なゴールですよ。まあ彼のゴールに関して、あとからいくらでも状況的あるいは技術的に説明することは出来るのでしょうが、なにかそういったものを超えているようなゴールだったんじゃないですか、あれは。あまり紋切型を言いたくはありませんが、これぞサッカーだ!これこそワールドカップだ!と叫んでお茶を濁しておきましょうか。ところで、彼は父親がアルジェリアだかチュニジアだかの出身でアラブ系フランス人だったんですね。日本でいえばさしずめ在日韓国朝鮮人二世といったところですか。その彼がフランスの国威発揚に大いに貢献したのですから、昔、北アフリカを植民地化したときの貯金がここにきて物を言ったということじゃないですか。日本もせいぜい朝鮮人学校から有望な人材を発掘してきて育てていかないと、せっかくの日韓併合時代が生んだ遺物が無駄になってしまいますぜ(笑)。

 話は変わって、先日、ドビュッシーのピアノ名曲集を買ったついでに、何気なしにジャズの試聴ブースにおいてあった変なCDを買ったんですが、これに結構ハマッています。「STRANGE GAMES AND THINGS」というタイトルで、ジャケットはターバンを巻いたアラブ人らしき人物が水キセルで阿片を吸っているらしく、何やら怪しげな雰囲気を醸し出しています。内容は全12曲を12人のミュージシャンあるいはグループが1曲ずつ演奏する構成になっていて、参加しているミュージシャンは自分にはまるでなじみのない知らない人ばかりなのですが、曲自体は、一曲目のLove Unlimited Orchestraというグループのやっているタイトル曲「Strange Games And Things」はかろうじてジャズなような感じはするのですが、他の曲は、自分の感覚からいうと、どう聴いても現代風ディスコソウルミュージックとしか聞こえません。別にこれはこれで嫌いではなく、現に近頃はこればかり聴いているのですが、何でこれがジャズなのかさっぱりわからないんですよね。確かに昔のソウルUソウルなんかから始まって、今でいえばD-INFLUENCEなんかが“アシッド・ジャズ”と呼ばれているらしいんですが、このCDもそれ風な曲調だし、ジャケットでは阿片吸っているし(笑)、これも“アシッド・ジャズ”なんでしょうかね。でもこれがジャズだというのならジャズっていったい何なんだ、と言いたくなってしまいます。やはり90年代に入ってからさっぱりポップミュージック事情に疎くなってしまって、今、巷(ロンドン・ニューヨークなど)では何が流行っているのかまるで関知しない人間になってしまったので、ようするに音楽に関しては流行遅れで時代遅れな感性の持ち主になってしまったのかもしれませんね。(笑)

 そういえば、今流行っているかどうか知りませんが去年あたりまでソニーのMDのCMに出ていたジャミロクワイとかいう奴なんか、アクの抜けたスティービー・ワンダーとしか聞こえません。でも、かといって昔のミュージシャンがそんなにすごいとも思えなくなってきたのも事実です。たとえばビートルズなんて、ビートルズ以前を知っている人から見れば、それ以前のポップミュージックの出来の悪い集大成でしかないんですよね。今から見ればフィル・スペクターなんかのほうが、はるかにクオリティーの高い革新的なことをやっていたわけだし、アメリカの黒人ソウル・ミュージシャンがイギリスまでいってドサまわり興行をやっていなけりゃ、ビートルズはおろかストーンズもエリック・クラプトンも存在していなかったわけですからね。若かりし彼らがドサまわりソウル・ミュージシャンの猿まね演奏をやったことから後年の一大ブリティッシュ・ムーヴメントが起こり、そのあおりを受けてアメリカのソウル・ミュージックが衰退してしまったわけですから。たとえば、エルヴィス・プレスリーのデビュー当時の存在価値とは、白人が黒人のように歌える(しかも彼よりうまく歌える黒人は山ほどいる)、このただ一点だったらしいです。もちろんただ一方的に白人がブラック・ミュージックをパクったわけではなく、相互に影響しあってそれぞれの音楽が融合しつつ現在に至っているわけですが、まあこんなふうにポップミュージックを見てしまうと、単なる相対主義に陥っていて個々のミュージシャンの素晴らしいところがまるで伝わってこないのですが、今の自分にとっては音楽は単なる気晴らし以外の何ものでもありませんし、あまり真剣に論じる対象ではないようです。しかし、では気晴らし以外に何がある、と自身に問い詰めてみると、気晴らし以外には何もない、としか言えません(笑)。何事にも真剣にはなれませんね。すべてはくだらない現実があるのみです。

 しかしドビュッシーはいいですねえ。恥ずかしい話ですが、自分はWin95のおまけのMidiファイルに付いてきたドビュッシーの「月の光」でドビュッシーのよさを再発見してしまいました。それで、何故ドビュッシーがこれほどよく思えてしまうのか理由を考えますと、それは子供の頃からいわゆる映画音楽的なものに馴れ親しんできたことにあるのではないかと思い当たるわけです。今映画音楽的なものといいましたが、たとえばテレビなどでよくやっている大自然の四季を伝えるドキュメンタリー番組みたいなもので、川のせせらぎや風の吹く森や海や空の風景、雨や雪や光の景色などが映し出されているときに、よく、現実の自然ではあり得ない、心の安らぎを誘うようなBGMが流れてきますよね。あのいかにも印象派的な水や空気の音を再現したようなBGMがドビュッシー風あるいはドビュッシーそのものの音楽ではないかと思うわけです。そういったものに小さい頃から映画やテレビなどで慣れ親しんでいると自然とこの手の音楽に快感を覚えるようになってしまうのではないでしょうか。それとも、これってやはり人間の心地よさをもたらす1/fゆらぎとかいわれるものなんですかね。まあどちらにしろ、自分はドビュッシーの音楽を聴いていると、そういった以前見た映像の記憶(原風景?)の断片が郷愁とともによみがえってくることは確かです。まさにその時ドビュッシーの音楽が風景の心地よいBGMとして機能するのです。しかし逆に、自分の音楽がBGMとしか扱われないドビュッシーは不幸な存在なのかも知れませんね。でも、BGMではなく音楽が音楽そのものとしてまじめに論じられること自体あまり音楽的なやり方とはいえません。音楽的な軽やかさが失われてしまいます。やはり音楽は気晴らしのBGMでいいのでしょうか。それとも、気休め的にもう少しマシな言い方で音楽を救い出しますか?


7月25日

 ありゃ、Javaのソースを公開して欲しいとメールしてきた人に返事を出したら、そんな人物はいない、と返事が戻ってきてしまいました。なぜなんだ、何かやましいことでもやっている人なのかな?…と書いてからもう一度メールを確かめたところ、どうも先方のメールアドレスの設定がおかしいことに気がつきました。メールに付いてきたアドレスとメールの中に実際に書かれているアドレスが違うじゃないですか(笑)。ということで、今度は実際に書かれてあるアドレスに送ってみました。今度はちゃんと送れたかな?はぁ〜…そんなこんなで、朝から二回も自分のページを更新してしまいました。なんだかな〜。


7月24日

 しかしここ数日の自民党総裁選挙に伴うマスコミの馬鹿騒ぎにはうんざりだったね。別に全国の有権者が投票するわけでもないのに、なんでそんなに必死になって盛り上げなけりゃならないのか理解に苦しむんだけれど、まさかこれからも政府自民党と癒着談合していくためのお礼奉公のつもりなのでしょうか。まったく、自民党総裁なんかに誰がなろうと日本の進路が決定するわけでもないし政治が変わるわけでもないでしょう。日本の政治を変えたけりゃ次の総選挙で自民党以外の候補者に投票するくらいしか可能性はないでしょう。もちろん、そんなことは今更指摘するまでもなくもう何年も前からわかりきっていることなんですけどね。それなのに人寄せパンダの小泉を持ち上げて、小泉が総理大臣になれば政治が変わるかのごとき幻想を撒き散らして自民党の延命に手を貸すようなやり口はやめろよ。小泉が主張していた、国会議員や公務員の数を半減するとかいう政策なんて単なる人気取り目当ての実現不可能な空手形でしかないのは明白でしょう。各省庁出身の元公務員の族議員が大半の自民党国会議員がそんなもんに賛成するはずもなく、猛反対でうやむやのうちになかったことになっちゃうのは眼に見えてることでしょう。ま、結果的に小渕が総裁になったのだから、マスコミの皆さんとそれに洗脳されて電話世論調査などで小泉への支持を表明した国民の皆さんは赤っ恥をかいたわけですけどね(笑)。馬鹿ですねえ。でも、それでも総選挙では自民党に投票する人もいるわけですからねえ。ようするに、この程度の国民にしてこの程度の政治家、ということですね。自民党の新総裁には冴えない顔の小渕がぴったりですよ。

 でも、何も自民党だけがだめなわけじゃなくて、かたや自民党とともに二大政党制を築いていこうとしている民主党も相当な大馬鹿ですぜ。せっかく参議院選では無党派層を味方につけて大躍進したのに、よりにもよって小沢一郎や創価学会系の政党と連携しようとしているのだからね。ファシストや宗教団体と手を組むなんて無党派層が一番嫌うパターンじゃないですか。宗教ファシズムであったオウムの教訓がまったく生かされていませんね。まあ無いものねだりをあまり言いたくはありませんが、同じく無党派層の支持で大躍進した共産党と連立を組めとまでは言いませんが、個別案件ごとに政策協議をするくらいの柔軟性や寛容さが必要なんじゃないですかね。日米安保などの基本政策の不一致なんかを言い訳にして今まで通り大馬鹿を貫き通していると時代に取り残されるだけですよ。今や日米ともに中国ともロシアとも友好関係にあるわけですから、敵対関係にあるのは北朝鮮一国だけじゃないですか。韓国ならいざ知らず北朝鮮なんていう貧乏国相手に金持ち国の日米軍事同盟が何の意味があるのかさっぱりわかりませんね。最近頻発している潜水艦侵入事件なんて、世界のどこからも相手にされないものだから、みんなぁボクちゃんのほうを振り向いてくれよぉ、とだだっ子が必死になって気を引こうとしているだけとしか見えませんからね。まあ、政治に民意を反映させたいのなら、国会での“共産党村八分状態”を解消しなければ“変化”なんてあり得ないでしょう。


7月17日

 おやおや、タブーなき言論機関であるはずの『噂の真相』にも自粛しなければならないタブーがあったわけですね(笑)。
 「噂の真相」編集部。佐高信氏と対談。司会を務めし岡留某氏曰く、僕の最近のPG回数より田中さんは少ないね、と胸を張る。ジャーナリズムに携わる者はすべからく真実を真摯に追究すべし、と改めて肝に銘じさせられる。ちなみに後日、ゲラ段階では忠実に採録されし2人の人物に関する僕の発言が、6月25日発売の別冊では蔭も形もなきは如何なる事情に基づいての「自主規制」か?

 冒頭、東京都小平市在住の人物が南の島にて珊瑚の映画を撮影せし際の逸話を僕は発言。麦酒が届いてないぞ、と本来は蒸留酒が十八番の企業の広報担当者にクランクイン当日、電話を掛け、即日、飛行機を乗り継いで持ち運ばせた、との。

 中盤、神戸市垂水区在住の人物に関しても発言。曰く、“科学史の逆遠近法”を今一度、学び直すべきでは、と。30年前なる時制に於いてはあるいは、てんかん持ちは運転すべからず、なる記述も許容範囲内、か。しかれども、90年代なる時制においては、明らかに科学史を無視したる弱肉強食的発言。しかして採録先は、再三に亘って氏が嘲弄の対象に設定せし国家「権力」の管理下に存する検定教科書。本来ならば採録を拒絶してこそ氏の真骨頂。

 と喝破するや、岡留某氏は色をなして弁護。曰く、国家「権力」の印刷物たればこそ修正無き採録を望んだのでは、と。呵々。天皇制への忌憚なき風刺文ならいざ知らず、氏の件の文章は、「在日」「同和」に象徴される「弱者の強者」とも目される集団とは異なり、未だ「弱者の弱者」に留まりたる人々への嘲り以外の何ものでもなし。例えたなら、石持て追いやるが如く、農協未加入の貝割れ製造者を一方的に叩きし2年前の魔女狩りと酷似。

 さすがは神戸市営空港に関して黙して語らざる、社会性溢るる人物ならでは、か。と発言せし箇所は、繰り返すが、ゲラ段階では存在すれど、発売時には全文削除。出前二人前を平らげ、足を投げ出し言いたい放題、とあたかも猪瀬直樹氏が乗り移ったかと見紛う記述で描写せし「噂の真相」は、司馬遼太郎氏はもとより松本清張氏に至るも未だ神聖不可侵を遵守の出版社を嗤う資格なし。(『噂の真相』八月号 田中康夫「東京ペログリ日記」5月12日(火)より)

 以上に紹介した文章の中で「東京都小平市在住の人物」が誰なのかちょっとはっきりわからないんですが(もしかして椎名誠か?でも彼は「本来は蒸留酒が十八番の企業」サントリーのビールのコマーシャルに出てたっけ?)、「神戸市垂水区在住の人物」は間違いなくあの“断筆”作家の筒井康隆ですよね(笑)。しかし、直接、筒井康隆とは書かずに、「神戸市垂水区在住の人物」と書いているのは、その部分を全文削除された田中康夫の皮肉交じりのまわりくどいユーモア表現なのだとは思いますが、案外もしかして、『噂の真相』誌上では筒井康隆を実名で批判してはならない、という「検定意見」が「岡留某氏」より下されたのかもしれませんね(笑)。うーむ、筒井康隆は恐れ多い高貴な身分の人なのか。

 その筒井康隆ですが、今月号から連載が再開されましたね。その題名が「狂犬楼の逆襲」(ロウという漢字の旧字がありましぇ〜ん)。以前の「笑犬楼よりの眺望」の続編だからこういう題名になったんでしょうが、どうもいかにもツツイ風な名づけ方でちょっとマンネリな感じがしてしまうのですが、もっとストレートな表現で、たとえば「狂犬病で廃人」とかにしたら結構カッコイイかと思うんですがどうですかね。でもこれじゃ以前の題名との関連性がまるで見えてこないからダメかな?あっ、そうか、もう一回“断筆”して、またほとぼりが冷めた頃に連載を再々開した時この題名にすればいいのか。

 それで、自分はそれほど古くからの読者ではないので、以前の連載の題名「笑犬楼よりの眺望」の由来が何なのかよくは分からないんですが(筒井康隆は愛犬家なのか?)、これは中国の昔話の「黄鶴楼の仙人」からきているんですかね?それとも、ジミ・ヘンドリクスの「監視塔からの眺め」(確かこんな曲名だったような…)とかいう曲からなのか。ジミヘンのこの曲を知っているようなら筒井康隆も結構ファンキーな奴かもしれませんぜ(笑)。

 で、狂犬病…じゃなくて「狂犬楼の逆襲」ですが、中でこんなことが書かれています。

…、断筆している間に出版状況が悪くなっていて、今や執筆活動だけでは今までの収入や作家としての体面を維持できなくなっていたのである。そこでホリプロの世話になり、タレント活動を始めたため、…
 これを読んでいた時、モーリス・ブランショのこの文章を思い出してしまいましたよ。
 無暴なふるまいの連続と、執筆の無責任な軽々しさによって引きおこされるつねにより一層重大なものとなる責任性とを、彼以上に身をもって示している人間がいただろうか?これ以上たやすくはじまったものはない。世間に教えを垂れるために書き、それと同時に、世間から快適な名声を受けとる。次いで、勝負に出て、いくらか世間を断念する。書かねばならず、身を隠しおのれを遠ざけねば書くことが出来ないからだ。結局のところ、「もはや何ひとつ可能なものはない。」裸になろうとする意志は、不本意な所有権剥奪と化する。誇り高い隠棲は、無限の移住放浪の不幸と化する。孤独なる散歩は、とどまることなく行ったり来たりせねばならぬという理解しえぬ必然と化する。「闇のなかに、さらに一層迷いこませるにせの路しか認められないような、この涯しない迷路」のなかでは、あのように自由の誘惑にかられたこの人物の最後の期待は、いったい何なのだろうか?(『来るべき書物』 II 文学的な問い 3ルソー 粟津則雄 訳 現代思潮社)
 もちろんここで、現時点で筒井康隆はルソー以下の存在と見なすことはできます。なぜならルソーのように破滅する前に筒井はこちら側に戻ってきたわけですから。「誇り高い隠棲は、無限の移住放浪の不幸と化する」のを回避したわけですから。そしてその行為自体は別に批判されるような筋合いのものでもないでしょう。破滅を避けるのは社会人として当然の行為でしょうから。しかし、筒井自身は否定するかもしれませんが、結果的に見るならば、筒井もルソーと同じように、「世間に教えを垂れるために書き、それと同時に、世間から快適な名声を受け」とり、「次いで」、“断筆”という「勝負に出て、いくらか世間を断念」したわけです。つまり、もうこの時点で筒井もはまっているわけです。ルソーとは違うレベルでルソーと同じように破滅しているわけです。もちろん破滅とは次のようなものです。
 作家が、すべてに先立つ一種の恥辱感に身をさらすということは、現代における負い目のひとつである。彼は、良心のやましさを覚えなければならず、他のすべての行為に先立って、自分があやまちに陥っていると感じなければならぬ。彼がものを書き始めるやいなや、誰かが楽しげな口調でこんなふうに語りかけるのを耳にするのだ。

 「さて、これで、おまえは破滅だ」―「それでは、私はやめなければならないのか?」―「そうではない、もしおまえがやめれば、おまえは破滅だ」。こんなふうにデーモンは語るのだが、このデーモンは、かつてゲーテにも語りかけ、ゲーテが自分自身を超えたかたちでの彼の生に触れるやいなや、彼を非人格的な、没落することの出来ぬ存在と化したのである。なぜなら、没落というこの至上の能力はすでに彼から失われていたからである。このデーモンの力は、その声を通して、きわめて異なったさまざな段階が語り、それゆえに「おまえは破滅だ」という言葉が何を意味するかけっしてわからぬという点にある。それは、あるときは世界であり、日常生活の世界であり、行動の必要性であり、労働の法則であり、人々に対する配慮であり、さまざまな欲求の追求である。世界がほろび去っているときに語るということが、語っている人間のなかに目覚めさせうるのは、おのれの軽薄さに対する疑念だけだ。せいぜいのところ、有用で真実で素朴な語を発言することによって、おのれの言葉を通して瞬間の持つ重々しさに、近づきたいという欲望だけだ、「おまえは破滅だ」とは、次のような意味なのである。「おまえは、何の必要もなく語り、かくて必要からのがれ去っている。空しい、のぼせあがった、有罪の言葉だ、ぜいたくで、しかもまずしい言葉だ。」―「それでは、私はやめなければならないのか?」―「そうではない、もしおまえがやめれば、おまえは破滅だ。」(『来るべき書物』 II 文学的な問い 1「幸福に世を終えられそうもない」)

 おそらく筒井の破滅が最終的に証明されるのは筒井の死後でしょうね。筒井を慕う有志の皆さんの手によって「筒井文学記念館」なるものが建設されて、神戸の地元財界人の皆さんの尽力によって「筒井文学賞」なるものも設立されることでしょう。このようにして筒井は「非人格的な、没落することの出来ぬ存在と化」するのです。これは筒井の日頃の行動や労働や「人々に対する配慮」の賜物なのです。では、筒井はそのような行為をやめなければならないのか?そうではない、もし筒井がやめれば、筒井は破滅だ(笑)。


7月8日

 うりゃ!ついに見ちゃいましたよ、ワールドカップで日本以外の試合を。やっと地上波でも準々決勝から中継をやり始めましたよ。で、オランダVSアルゼンチンの試合を見ましたぜ、感動しましたぜ。試合内容は圧倒的に白黒無国籍集団のオランダが押してたけど、アルゼンチンもカウンターからの一発をねらっているようで、気の抜けない試合展開で本当にどちらが勝ってもおかしくなかったね。結果的には、1−1からゴール前への縦パス一本をベルカンプが鮮やかな個人技で決勝ゴールを挙げてオランダが勝ったわけなんだけど、アルゼンチンもバティが決定的を外してしまった場面があって本当におしかったよね。

 ところで、オランダの決勝ゴールのきっかけを作ってしまったとされる、オルテガがオランダのキーパーの挑発に乗って頭突きを食らわせてレッドカードで退場させられた場面は考えさせられるものがあったよ。あれが日本人選手だったら、たちまち、軽率に相手の挑発に乗ってしまう未熟さ、経験不足、これが日本と世界の差等々、いかにも知ったかぶりの物言いが巷に溢れかえるところだよ。もちろん、オランダがオルテガに対してやったようなファール覚悟の執拗なマークを日本人選手にやるかどうかは疑問だけど、どうもそういうサッカーとは直接関係のない、ただ安直に世界と日本の比較しているつもりでその実内容のないいい加減なことを嬉々として語りたがる連中が多すぎやしないかい?そしてまた、日本のサポーターが試合が終わった後にゴミを拾って帰ったことが現地で誉められたらしいけど、そんな“礼儀正しい日本人”という毎度おなじみの紋切型なんかより、現地で暴れまくったイングランドのフーリガンやドイツのネオナチなんかのほうが、よっぽどサッカーというスポーツに近いと感じちゃうけどね。

 で、自分はオランダ−アルゼンチン戦が終わって寝ちゃったんだけど、朝方目が覚めてテレビをつけて驚いちゃったよ。クロアチアがドイツ相手に3−0で勝っているじゃないですか!すごいぜクロアチア!エースのボクシッチが怪我で出れなくてもベスト4進出だぜ!しかし、“ゲルマン魂”のドイツと“鉄の規律”(長髪ピアスの禁止、でも長髪の奴多し)のアルゼンチンという、いわゆる“精神”を強調したチームが相次いでベスト8で敗れ去ったことは実に良い傾向ですね。

てめーら!
くだらねー能書き垂れてねーでサッカーしろよっ!

ってことじゃないですかね。

 ということで、準決勝のブラジル−オランダ戦も見られそうです、楽しみです(笑)。


 話は変わって、先週は“ジジェク批判”を紹介しましたが、今週はそれにもめげずにジジェクの文章を紹介してゆきたいと思います(矛盾してないか?)。なにしろ自分にとってジジェクは書くネタを提供してくれる貴重な存在ですから、『批評空間』には今後ともジジェクの文章をどしどし掲載して欲しいですね(おいおい、先週の批判がぜんぜん反映されてねーじゃねーかよ!)。で、今回勝手に紹介する文章は次のようなものです。

 それでは、このグローバルな資本主義の時代において、どのように資本の宇宙は国民国家の形式と関係しているのであろうか。おそらく、この関係を「自己植民地化」と表現するのがもっとも適切かもしれない。資本の機能があからさまに多国籍的なものになるにつれて、本国対植民地というような標準的な対立は問題でなくなってくる。世界企業にしてみれば、いわば臍の緒で結ばれた母国との絆を断ち切っているので、本国とはたんに植民地化すべき別の領域にすぎない。ル・ペンからブキャナンに及ぶ愛国志向の強い右翼ポピュリストたちを困惑させているのが、まさにこの事実なのである。すなわち、新多国籍企業の態度は、フランスやアメリカ本国に居住する人々に対しても、メキシコ、ブラジル、台湾といった国に住む人々に対しても、何ら変わるところはないのだ。このような自己言及的な転回には、詩的正義(因果応報)めいたものが存在してはいないだろうか。かくして、国家資本主義とその国際主義的/植民地主義的段階のあとに、今日のグローバルな資本主義はふたたび、ある種の「否定の否定」となる。まず最初に(もちろん理念上の話だが)、国民国家の枠内で資本主義が存在し、それに付随した国際貿易(主権国家間での交易)がおこなわれる。すると次には植民地関係が生じてきて、宗主国が植民地化した国を(経済的、政治的、文化的に)搾取し従属させてしまう。このプロセスが行きつく最終段階では、まわりにあるのは植民地ばかりで、支配国はどこにも存在しないという事態が発生するのだ。つまり植民地権力を行使するのは、もはや国民国家ではなくて世界企業にほかならない。長期的にみるならば、われわれはバナナ共和国のシャツを着るにとどまらず、実際にバナナ共和国に住んでいるということになるだろう。

 言うまでもなく、こういったグローバルな資本主義にとって、イデオロギーの理想的形式となるのは多文化主義にほかならない。多文化主義とは、ある種の空虚でグローバルなポジションから、植民者が植民地化した民族に対するのと同じ態度で、あらゆるローカルな文化に接する。いわば、その慣習が注意深く「研究」され、なおかつ「尊敬」に値するような「原住民」として扱うのである。こうしてみると、伝統的な帝国主義的植民地主義とグローバルな資本主義的自己植民地化との関係は、西洋の文化帝国主義と多文化主義の関係にまったく等しい。つまり、グローバルな資本主義が、逆説的にも植民地建設のさいに本国となる国民国家を必要としないように、多文化主義は、特定の文化に依存することなく、ローカルな諸文化にたいして、いかにも庇護者然とした西欧中心主義的な距離そして/あるいは尊敬をとるのだ。別の言い方をするなら、多文化主義とは、否認され、転倒した、自己言及的な形式の人種差別であり、それも「ある距離をおいた人種差別」である。多文化主義者は<他者>のアイデンティティを「尊敬」し、<他者>を自足した「真正」の共同体とみなすが、そうした立場が可能になるのは、自分が特権的で普遍的なポジションを占有しているからである。多文化主義とは、自己の場所を空白にして、あらゆるポジティヴな内容を抜き取ったような人種差別であるが(多文化主義者は<他者>に対して、自分独自の文化の個別的価値を対立させるわけではないから、露骨な人種差別主義者とはいえない)、しかしそれにもかかわらず、自己のポジションを特権的な普遍性の空白点として保持しており、そのような立場から、他の個別の文化を理解したり(貶めたり)することが可能になるのだ。<他者>の独自性に対する多文化主義的な尊敬とは、とりもなおさず、自らの優越性を主張するための形式にほかならない。(「多文化主義、あるいは多国籍資本主義の文化の論理(承前)」 和田唯 訳 『批評空間』II−18 から)

 たとえば上の文章の中でいわれている「世界企業」にマイクロソフトを当てはめてみると、マイクロソフト社は、無知で従順な日本のユーザのみならず、「いわば臍の緒で結ばれた母国」のアメリカのユーザさえも、「その慣習が注意深く「研究」され、なおかつ「尊敬」に値するような「原住民」として取り扱」っているから、自らが「特権的で普遍的なポジションを占有している」と思いこんでいる在米の「西欧人」のプライドをいたく傷つけ、その結果としてアメリカの司法省や各州と対立している、ということになるのかな(笑)。さしずめ自分のページでリンクしている Show's Hot Corner や「がんばれ!!ゲイツ君」の作者さん達は、旧宗主国(アメリカ)になり代わって「植民地権力を行使する」「世界企業」に対して、個人の力で敢然と戦いを挑む偉大なる革命戦士(パルチザン)なんでしょうかね(激爆笑)。

 冗談はさておき、先週紹介した文章で盛んに批判されていた「否定神学」とはどのようなものなのかを指摘しておくと、上の文章のこの部分が「否定神学」であると思われます。

 まず最初に(もちろん理念上の話だが)、国民国家の枠内で資本主義が存在し、それに付随した国際貿易(主権国家間での交易)がおこなわれる。すると次には植民地関係が生じてきて、宗主国が植民地化した国を(経済的、政治的、文化的に)搾取し従属させてしまう。このプロセスが行きつく最終段階では、まわりにあるのは植民地ばかりで、支配国はどこにも存在しないという事態が発生するのだ。つまり植民地権力を行使するのは、もはや国民国家ではなくて世界企業にほかならない。
 その後に続いて登場する「バナナ共和国」とは、かつて(今はどうなのか知りませんが)中米でアメリカへの輸出用として果物(パイナップルなど)やサトウキビばかりを大規模なプランテーションで栽培していた国々を指していると思われます。もちろんその大規模プランテーションはアメリカの大企業が経営していて、自分達の意のままになるようにその国の上層部と癒着して国民を搾取していたわけで、そのような支配を革命によって打ち破って自分達の国を作り上げたのがキューバのカストロ氏になるのでしょうかね。じゃあ、たとえば中村正三郎氏は将来コンピュータ業界のゲバラかカストロになるのか(超激爆笑)。もちろんカストロのその後の軌跡は、先週紹介した柄谷行人の編集後記の言を借りるならば、「別の巨大な主権を作るだけなのに、近代国家の主権を解体するといってるような連中」の願望を皮肉にも実現して巨大な独裁体制を作り上げてしまったわけなんですが…。まさにこれはジジェクのいう「否定の否定」ですよね。

 冗談はさておき、話を「否定神学」に戻しますと、ジジェク自身「もちろん理念上の話だが」と断っているように、これは一つの神話であり物語でしかないのですが、前半部分の「国民国家の枠内で資本主義が存在し、それに付随した国際貿易(主権国家間での交易)がおこなわれる。すると次には植民地関係が生じてきて、宗主国が植民地国を(経済的、政治的、文化的に)搾取し従属させてしまう」プロセス自体は実際に学校の社会科の授業でもこのように教えられている通り、一見かなりの説得力があると思われます。しかしこのプロセス自体がすべての例に当てはまるわけではなく、歴史的に見るならば、これとはまったく逆のプロセスで、グローバルな資本主義が逆に国民国家を建設してしまう例もあるわけです。つまり、グローバルな資本主義の搾取から労働者の生活を守るために建国された「国民国家」がソヴィエト連邦であり、農民の生活を守るために建国された「国民国家」が中華人民共和国なのです。それに続くアジア・アフリカの植民地独立闘争の果てに建国された社会主義国は皆この例に当てはまるかと思われます。そして日本では、日本共産党がいまだに「大企業優先の自民党政治から国民の生活を守ろう」などと選挙の度に「国民」に向かって訴えているじゃありませんか(笑)。その意味では日本で今一番真剣に「国民」のことを考えているのは日本共産党ですね、せいぜい選挙では「国民」思いの日本共産党に投票しましょうね(爆笑)。

 ようするに、国民国家が成立する以前に、すでに商人達の間ではグローバルな国際交易が行われていて、その国際交易を制御して自国の利益に結びつける方向で植民地関係が生じ、その宗主国の内部では都市と農村、王侯貴族と平民、資本家と労働者、植民地ではそれらに加えて宗主国と現地人、植民者と先住民、奴隷と主人、といった具合に生じている様々な搾取する側と搾取される側の関係を止揚する(忘れさせる)幻想のイデオロギーとして、「国民国家」という概念が西欧で生まれて世界中に広まったわけですが、そのような関係は別に解消されたわけではなく、今日では世界企業と消費者の関係のように「国民国家」の境界を越えて拡大しているわけですね。でも、このような平板な説明では「否定神学以前のカルチュラル・スタディーズだ」と馬鹿にされるのがオチですね(笑)。

 で、引用した文章の後半で述べられている「多文化主義」の論理とは、たとえば、健常者が身体・精神障害者に同情をよせる例を説明すれば十分わかるでしょう。それは、どれほど親身になって障害者に対して思いやりやら同情をよせようと、そのように行為すること自体が逆説的に健常者の障害者に対する絶対的な優越性を証明することになってしまうということです。何しろ、逆に健常者は自分の身体や精神について障害者からの思いやりやら同情などぜんぜん必要としないし、実際そんなもの期待していないでしょうから。つまり、障害者はただ一方的に健常者からの思いやりやら同情やらの善意にさらされ続けるしかないんですよ。そういう善意にさらされる度に自らのハンディに対する劣等感に苛まれるわけです。これがジジェクのいう「<他者>の独自性に対する多文化主義的な尊敬とは、とりもなおさず、自らの優越性を主張するための形式にほかならない」ということですね。

 では、このような論理には何が欠けているのか。それは実際に名前を持ったどこにでもいる相対的な<他者>と自分との関係でしょう。つまり障害者と自分との関係ではなく、たとえばその人が山本という名前なら、山本さんと自分との関係でしょうかね。では実際にそのような相対的な<他者>と自分との間にはどのような関係が成り立つのか。それについて、自分は読んで感動した、モーリス・ブランショのこの文章を紹介しておきます。

 対話は希有のものだ、それが、容易なものだとか、幸福なものだとか考えてはならぬ。たとえば『辻公園』におけるあの単純な二つの声に耳をすましてみるがよい。議論の言葉は、論証から論証へという道を辿り、首尾一貫性という単純な作業を通してお互いの一致をみるに至るのだが、『辻公園』におけるあの声は、そのようなかたちでの意見の一致など求めてはいない。それらは、決定的な理解という、お互いに認めあうことでそれぞれ和らぎをうるあの状態を求めているとさえ言いうるだろうか?目標はあまりにも遠いのだ。おそらくそれらの声は、話すことしか求めていない。偶然によって与えられたがいつまでも自分のものであるかどうか確信のないこの最後の能力を使うことしか求めていない。最初に二言三言口にするだけで、すでにこの単純な対話にその重々しい性格を与えているのは、弱々しく、脅威にさらされた、この究極的な手段にほかならぬ。われわれは、この二人の人物にとって、とりわけその一方にとって、話すのに必要な空間と空気と可能性とが、まさに尽きかけようとしているのを、はっきりと感じている。この場合、まさしく或る対話が問題であるとすれば、おそらくわれわれは、この対話の持つ第一の特質を、この脅威の接近のうちに見出すのであり、沈黙と暴力とが、この脅威という境界の手前に、人間を閉じこめてしまうのである。誰かとともに話し始めるためには、壁に背をつけていなければならぬ。安楽さや気軽さや自制は、言葉を非個人的な伝達交流の形式にまで高めるのであり、このような形式においては、人々は、さまざまな問題をめぐって語り、それぞれは自分自身を断念して、束の間、談話一般を語らせるのである。あるいはまた、逆に、この境界が乗り越えられた場合、われわれは、あの孤独と流謫の言葉を見出すのである。これは中心を奪い去られ、それゆえに向かいあうことも出来ず、人称の喪失によって再び非人称的になった、極限の言葉である。近代文学は、この言葉をとらえ、開かせることに成功したのであり、これは深さなき深みの言葉にほかならぬ。

 マルグリット・デュラスは、その注意力の極度の鋭敏さによって、人間が対話を行いうるようになるまさしくその瞬間を追求し、おそらくはそれを把握した。それには、偶然的な出会いという機会が必要だ。また、この出会いの持つ単純さが必要だ。―この出会いは或る辻公園で行われるのであって、これ以上単純なことがあるだろうか―、そしてこの単純さは、この二人の人物が直面しなければならぬかくされた緊張と対照をなしているのだ。そしてさらにまた、かりにそこに緊張があるとしても、それが何ひとつ劇的な性格を持たず、何らかの大きな不幸とか罪とか特殊な不正とかいう眼に見える出来事と結びついておらず、ごく平凡な、何ら際立ったところのない、何の「利害関心」もかかわらぬ、それゆえにまったく単純でほとんど姿を消し去ったとも言うべきものであることから発するあのもうひとつの単純さが必要だ(人は、何らかの大きな不幸をもとにして対話することは出来ないし、また同様に、二つの大きな不幸はいっしょに会話をかわすことは出来ないだろう)。そして最後に、おそらくこれが本質的な点なのだが、この二人の人物は、きわめて異なったいくつかの理由によって共同世界からへだてられていながらしかもそこに住んでいる事実以外に何ひとつ共通な点を持たぬために、互いに関係づけられているのだ。

 このことは、このうえなく単純でこのうえなく必然的なかたちで表現されており、この必然性は、とりわけ、若い娘の口にする言葉のひとつひとつのなかに現前している。彼女が極度に控え目でつつましい態度で口にするいっさいのことのなかには、人々の生活の根底に潜み、彼女の境遇が一瞬ごとに彼女に感じさせるあの不可能性がある。この女中という職業は、職業でさえなく、病気とも奴隷以下の状態とも言うべきものであって、ここでは彼女は、誰とも現実的なつながりを持たぬ。主人に対してさえも、奴隷が主人に対し持つほどのつながりも持たぬ。自分自身に対してさえそうである。そして、この不可能性が、彼女固有の意志となった。彼女に対してその生活をより軽やかなものにしかねぬいっさいのもの、だがまた、この軽減化によって彼女にその生活が持つ不可能なものを忘れさせあの唯一の目的を見失わせるおそれのあるいっさいのもの、そういうものを拒否するあの荒々しく執拗なきびしさとなった。その唯一の目的とは、誰かとの出会いである。その誰かとは、彼女と結婚して彼女を自分の状態にまで引きあげ彼女を世間一般の人々と同じ人間にしてくれさえすれば、誰でもかまわないのだ。彼女の話相手は、静かな口調で、たとえ誰が相手でもたぶん彼女はひどく不幸になってしまうだろうと気付かせる。それでは、彼女は選ぶことはないのだろうか?土曜日は彼女の生活がそれにかかった唯一の肯定的な時であって、彼女は土曜日ごとに、あのクロワ・ニヴェールの舞踏会に出かけるのだが、この舞踏会に、彼女は、自分自身で、自分にいちばんぴったりした男を探しにいくことにはならないのだろうか?だがしかし、自分を存在させるために、まったくのところもはや他人の選択しかあてに出来ないほども、自分の眼から見て自分がほとんど存在していない場合、いったいどのように選択すればよいのか?「だって、もしわたしが、自分自身の選択に身をまかせていたら、どんな男の人でもみんな、ただちょっとわたしを欲しがってくれたというだけのことで、わたしにぴったりの人になってしまいますわ。」「世間並の」常識はこう答えるだろう、選ばれるのはそれほどむずかしいことではないし、このはたちの若い娘は、女中ではあるが美しい眼をしているから、必ず、結婚によってその不幸な境遇から抜け出し、世間一般と同じように幸福になったり不幸になったりするだろう、と。それは確かに本当だ、だが、これは、共通の世界にすでに所属している人間にとってのみ本当なのだ。ここに、困難が深く根をはっている。対話を形作っている緊張はここから生ずるのである。人が不可能なものを意識したとき、この不可能性が、もっとも通常の道を通ってそれを抜け出したいという欲求そのものに作用して、それを腐らせてしまう。「誰か男の人にダンスに誘われたとき、あなたはすぐに、その相手が自分と結婚するかも知れぬとお考えになるんですか?―ええ、そうなんです。わたしって実際家すぎるんでしょうね、困ったことが起るのはみなこのためなんです。でも、これ以外にどうしたらいいんでしょう?わたしは、自由の始まりを手に入れなければ、誰も愛せないような気がしますわ。そしてこの始まりをわたしに与えることが出来るのは、男の人だけなんです。」

 辻公園でのこの偶然の出会いから、生活をともにするというあの別のかたちの出会いが生ずるだろうという考えが最後に浮かんで来て、読者のこころに、おそらくは作者のこころにも、慰めを与えようとするのは自然なことだろう。たしかに、そのことを希望しなければならないが、それも、たいした希望を抱くことなしにである。なぜなら、むしろ行商人と言ったほうがいいような貧弱な外交員で、自分のトランクによってつねにさらに遠くまで引きずられながら、何の未来も何の夢も何の欲望も抱くことなく町から町へとめぐり歩いているこの話相手は、ひどく心の傷を負うた人間だからだ。若い娘の持つ力は、何ひとつ所有しないが彼女に他のすべてのものをのぞむことを許してくれるようなただひとつのものを欲している点にある。もっと正確に言えば、その場合彼女が、それをえたあとでこそさまざまな一般的な可能性に従って持ったり持たなかったりしはじめるような共通的な意志を借りうけているという点にある。この荒々しく英雄的で絶対的な欲求、この勇敢さ、これは彼女にとって出口なのだが、おそらく、彼女に対して出口を閉ざすものでもある。なぜなら、この欲求の持つ激しい力は、欲せられているものを不可能なものと化する。男の方はもっと賢明であり、ものを受け入れ何ものも求めることのないあの賢明さをそなえている。この見かけのうえの賢明さは孤独の持つ危険とかかわっており、それは、彼を満足させはしないが、言わば彼を満たしている。もはや彼に、他の事柄を期待するひまを与えないほどなのである。世間で言う言いかたによれば、彼は落伍者なのだろう。彼はあの貧弱な仕事に自分がすべり落ちるにまかせているが、この仕事は、その種のさまざまな仕事のなかのひとつというわけでもなく、あちこちさまよい歩きたいという欲望によって否応なく強いられたものだ。彼のこの欲求のなかに、彼に残された唯一の可能性、彼という人間を具現する唯一の可能性を見出している。彼が、若い娘を失望させまいとしてあらんかぎり慎重な態度で自分の考えを述べているにもかかわらず、彼女にとって、彼が、誘惑を体現しているように見えるのはこのためだ。すなわちそれは、何の未来も持たぬ未来の魅惑力であり、彼女は、そのことを思って突然黙って涙をこぼすのである。彼女と同様、彼も「人間のくずのくず」である。だが、彼は、たんに世間一般の幸福を奪い去られた人間であるばかりではない。彼は諸方を旅行しているあいだに、束の間の幸福な啓示を、かすかなきらめきを経験しており、親切心からそれを彼女に話してきかせる。彼女はそれらのことについてあれこれ彼にたずねるのだが、最初は、気のない、いやそれどころか敵意さえ見られるような態度である。だが、不幸にも、次いで好奇心がだんだん目覚めてきて、すっかり心を奪われるのである。私的な幸福が、孤独に属しながら束の間孤独を輝かせ消滅させる幸福がそこにはある。この場合、この幸福は、不可能性のもうひとつの形であり、不可能から、おそらくは眼もくらむほどのものではあるがおそらくは人目をあざむくごまかし的なものでもある或る輝きをえているのだ。

 しかしながら彼らは語る。互いに語りあうが、意見の一致をみることはない。彼らはお互いをまったく理解しあうことはない。彼らのあいだには、理解ということが実現される共通の空間が欠けている。彼らのいっさいの関係を支えているのは、自分たちは二人とも同じように、関係という共通の輪の外部にいるのだというきわめて強くきわめて単純な感情だけである。これだけでもたいしたことだ。このことは、一時的な身近さと、了解しあうことのない一種の完全な了解状態を作り出すのである。このような状態においては、言うべき事柄はただ一度しか言えず言わずにすますことも出来ないだけに、それだけいっそう、それぞれが相手に対して、より多くの注意を向けるようになる。より細心に、より辛抱強く真実を探りながら、自分の考えを表明するようになる。なぜなら、その場合、言うべきさまざまな事柄は、共同的な世間のなかで、真の対話の機会と苦悩がごく稀にしか与えられることのないこの世界のなかでわれわれがえているようなお互いの理解を利用しえぬと思われるからである。(『来るべき書物』III 未来なき芸術について 5対話の苦悩 粟津則雄 訳 現代思潮社)




7月1日

 先週やっとFreeBSDがネットにつながりました。でも、それまでに日本語環境設定で3回、インターネット接続の設定で2回、合計5回もOSの再インストールをしてしまいました。なんだかな〜、どうもスーパーユーザと一般ユーザの概念がよく分かっていなかったらしく、設定ファイルを全然関係のないディレクトリに作成しちゃったり、解説書の通りにやっているつもりがまるで違う操作をしていたみたいで、挙げ句の果てにわけの分からない英語のメッセージのmailが頻発してますます頭が混乱してしまって、結局、ついついWin95の習慣で再インストの繰り返し状態に突入しちゃったんですよね。はぁ〜疲れた。

 でもネットにつながって一安心です。一時はネットにつながっているのにパケットが届かない状態で、途方に暮れてプロバイダに問い合わせたりしたんですけど、結局原因が分からないままもう一度再インストしてはじめから設定をやり直したところ、今度はなぜかうまくいって思わずモニターの前でバンザイ三唱をしてしまいました。でもいまだに設定がうまくいっていない箇所もあるみたいです。ターミナルウインドウのktermを起動させるとktermそのものは起動するのですが、それと同時に何か変なメッセージも表示されてしまいます。何なんでしょうかね、どうもあまり英和辞典を片手にその内容を解読する気にはなれないので今のところほったらかし状態なんですが、なんだかその原因を探るために設定ファイルをいろいろいじっているうちにまたわけが分からなくなり、またもや再インストするはめに陥ってしまいそうでちょっと恐いです(笑)。

 しかしネットにつながったといっても、今のところtelnetでプロバイダのサーバにログインして喜んでいるだけで、これからメールソフトやらWWWブラウザやらをインストしなければならないんですが、どうなることやらです。また設定ではまっちゃうのかな(笑)。どうも自分はなにをやるにしても最初の取っ掛かりでつまずくことが多いようです。そういえば学生時代にも、コンピュータ室でハネウェルの大型コンピュータ(これが“メインフレーム”というやつなのかな?)の端末の操作方法の講義で、他の連中はちゃんとマニュアル通りに操作できているのに、自分ひとりがキーボードの打ち間違えだかなんだか忘れましたがおかしな操作でわけが分からなくなってしまい、講師の人を困らせてしまったことがあったっけ…。

 話は変わってワールドカップですが、ナイジェリアが決勝トーナメント一回戦でデンマークに負けてしまいました(1−4)。あーあ、応援していたナイジェリアの試合を一度も見ないままになっちゃいました(悲しい)。結局見たのは日本の3試合だけ(空しい)。しかも日本はジャマイカにも負けちゃって3連敗。やってくれましたね、“ハズシ屋”城の大活躍で3戦全敗ですかぁ(爆笑)。城を“柱”に起用したオカピーも敗戦翌日の記者会見では顔が引きつりながらも目が笑ってましたね(爆笑)。サポーターの皆さんもダフ屋から高い金をボッタクられた挙げ句に3戦全敗ではさぞかし怒り大爆発で泣きっ面に蜂ですよね(爆笑)。やっぱそれを笑いながら眺めているヒネクレモノのこちらとしては、こういう喜劇的で超間抜けな展開が結構快感なんですよ、愉快なんですよ。いや、感動的ですらありますよ。しかし、試合前にあれだけ日本の初勝利を煽っておいて、負けたら今度はすかさず懺悔大会やら反省会の真っ盛り状態なのはいただけませんねぇ。その変わり身の速さにはあきれてしまうし実に見苦しい限りですね。“一言おぢさん”のセルジオ越後さんもあちこちからひっぱりだこみたいで“ネガティヴ解説屋”の商売大繁盛で良かったね。

 でも、そんなにみんなが大袈裟に騒ぐほど日本と世界との間には歴然とした差があるのでしょうか?違うよね、中田君(笑)。だって、日本だって韓国だってサウジアラビアだってアメリカだって世界の一部じゃないですか、世界自身だよ。世界中には相対的にサッカーの強い国とか弱い国とかがいろいろな地域に偏って点在しているだけでしょ。“世界レベル”なんていうレベルなんて存在しない幻想だよ。ただサッカーの強い一握りの国々のチームに勝ちたい願望がそういった偏見を捏造させるだけさ。結果的には日本もスペインもコロンビアも決勝トーナメントへ進めなかったんだから同じレベルなのさ。そして、日本の初勝利やら初ゴールなんてものが歴史的に意味を持つのはせいぜい日本国内だけなのであり、そんなものは実際のワールドカップからは遠く離れた極めてローカルな価値でしかないよ。ワールドカップの歴史に残るのは優勝国と得点王だけでしょ。とまぁ、こんな気休めも言いたくなるようないやな雰囲気だよ、テレビでやっている“ワールドカップ大反省会”を見ているとね。

 で、またもや話は変わって、先週『批評空間』II‐18(太田出版)を買って読んだら、共同討議「トランスクリティークと(しての)脱構築」(東浩紀+大澤真幸+浅田彰+柄谷行人)で、何とあのスラヴォイ・ジジェクが批判にさらされているじゃありませんか(笑)。こりゃ愉快だ!以前この場でも取り上げたジジェクがどのように批判されているのか興味がある方もいらっしゃるでしょうから、その部分を勝手に紹介しておきます(詳しくは『批評空間』を買って読んでくださいね)。

浅田 東さんと大澤さんの差異ということで言うと、東さんの基調報告の〈a〉のところで、かなり明確なギャップがあると思う。大澤さんは、一貫して、諸身体の対のシステムが自分を根拠づけようとするときに、ゲーデル的なループから亀裂が生ずるから、その亀裂を埋めるために、超越(論)的な第三者があたかも最初からあったはずのものとしてあとから投射されるという、経済学で言うと価値形態論の論理をずっと展開しておられるでしょう。東さんの観点からすると、それは典型的な否定神学である。その大きな枠組みさえ決めてしまえば、アフリカの部族の話もできるし、オウムの話も酒鬼薔薇の話もできる。そういう空疎化された否定神学と社会学の共犯性というのが、ここで東さんの言われていることなんじゃないんですか。

大澤 そういう意味だったのか、この否定神学というのは。

浅田 いや、今ぼくが勝手にドラマタイズしただけかもしれないけれど(笑)。

柄谷 ぼくはジジェクみたいな言い方は拒否する。理解することを拒否する。マルクスがエンゲルス宛の書簡の中で、ヘーゲルに基づいて経済学を考えている連中のことを、「彼らは何一つ知らなくても全部わかってしまう」と言っているけれども、それと同じです。精神分析の現場を離れた精神分析の議論は、形而上学にすぎない。精神分析という実践の場所だけが、内省(単一システム)の形而上学を免れさせるのに、そこから離れたら終わりです。ジジェクがラカンでヘーゲルを理解するとき、たんにラカンをヘーゲル化しているだけだ。たとえば、彼は旧ユーゴスラヴィアのことでナショナリズムを論じたとき、それを、他人がジュイサンスを盗んでいるという感情から説明したけれど、それはふつう「嫉妬」といえば足りることです。ぼくにとって必要なのはむしろ、旧ユーゴスラヴィアは旧オーストリア=ハンガリー帝国から現在にいたるまでどういう歴史を経てきたのか、そういう具体的な話のほうなんです。それをまず知らなければいけない。ジジェク的な図式でやられたら、どこにでも当てはまるか知らないけれども、どこにでも当てはまる、ということは、何か間違っているということです。

浅田 その点は東さんの論文のなかでも触れられているわけで、デリダに対してそういうことが言われて、あの方法では何でもできると言われるけれど、そのように批判しているジジェクの方法でも何にでも当てはまる、何でも説明できるから何も説明したことにならない、と。

柄谷 ジジェクは、日本に来ても、ヤクザの小指の話しかしない(笑)。これで日本はもう全部説明できるわけだ。天皇も何もかも。まあ、好きなようにやってください。

浅田 東さんの〈a〉の部分に関するぼくの解釈はあれでいいの。

 否定神学と社会学のカップリングということでぼくが念頭に置いていたのは、まずジジェクですけどね。

大澤 ただ鈍重な事実の積み重ねの方が大切だということを説明抜きで言うと、それこそ、カルチュラル・スタディーズなどをやっている人で勘違いして喜んでしまう人が出るかもしれない。それこそ鈍重なカルチュラル・スタディーズの場合には、実は、基本的なフォーマットがあって、いくら細かいことをやっていても、実はみな同じで、ぜんぜん具体性ということになっていないのではないかと思うんです。

浅田 実際、新左翼くずれのカルチュラル・スタディーズのほうは、否定神学よりも、むしろある種の肯定性の思想のほうに親和性が高いと思うんです。ネグり的に単純化されたスピノザみたいなもの、つまり「今ここわれわれ」の力能を無媒介的に肯定する自律(アウトノミア)の思想といったものですね。そういう自律的なマイノリティが横につながっていけばいいのだ、と。確かに、ジジェクのように亀裂をもった者同士がまさしくその亀裂によってつながるとか、ナンシーのように分割(partage)されていること自体が共有(partage)されるとか、そういう共同体の否定神学のようなものもあるけれど、今やその程度の洗練さえ珍しくて、むしろ小さな肯定性の思想が細かい実証主義的研究や弱いアクティヴィズムと結びついている例のほうが多いんじゃないか。

 その点で、むしろ大澤さんの社会学のほうが、もっとも洗練された否定神学と結びついていると言えば言えると思うんです。諸身体の対のシステムが自分を根拠づけようとするとき、不在の超越論的シニファンとしての第三者が要請される。それはゼロ記号と言ってもいいし、ラカンやスペンサー=ブラウンのようにもっと洗練して虚数iと言ってもいい。そういうものを虚の焦点とするシステムという、非常に大きな枠組みをつくってしまえば、何でも説明できる、と。

大澤 もちろん、ぼくらの議論が否定神学と同じだと認めるわけにはいかない(笑)。ぼくは、スペンサー=ブラウンについて書いたときに、おまえの論文は前半と後半が分裂している言われたんです。

 確かに、スペンサー=ブラウンにかなり密着して書いている前半部分は、否定神学的にやっている、と言ってもいいと思う。否定神学ということであれば、ここでもう終わってるんです。それに対して、身体ということを積極的に導入している後半の議論には、否定神学とはとは異なるモチーフがある。それは、端的に言えば、コミュニケーションの問題です。意識的なコミュニケーション以前の他者との不可避的な共存へと人を巻き込むようなコミュニケーションの問題から、議論を上向かせたかったわけです。前半の議論と後半の議論の関係は、ネガとポジというか、石膏の型と石膏そのものの関係のようなものです。石膏の型を構築しておかなくては、石膏はつくれない。

 あるいは、あんまりうまい比喩ではないかもしれないけれども、東さんの論文の中の話題に託していえば、こんなふうに言うこともできるかもしれない。つまり、固有名というのは、対象を固定し、固定する固定指示子の一種ですね。しかし、固有名が固定指示子であって、確定記述ではないということは、東さんが言っているように、固有名というのは、他でもありえたということを、つまり偶有性や差異を伝達しているのだ、と見ることもできます。つまり、固有名は、同一性を指示しているまさにそのことによって、差異性を指示しているということができる。

 これと類比的な両面性を、論理として確立したかったわけです。一方では、否定神学論に見える(同一性の局面)が、まさにそのことにおいて、他方で、否定神学からの脱出になっているような議論(差異性の局面)にすることはできないか。そういう具合に、社会学を組み立てたいわけです。

浅田 トランスクリティークというのが、単にトランスヴァーサルである前にトランセンデンタルでなければいけないという意味において、そういう二重性は不可避だし、逆に言うと、たんにトランスヴァーサルな議論は非常にナイーヴな経験論になってしまうわけですからね。

大澤 たとえばカルチュラル・スタディーズというのは、多くの場合、否定神学以前ですよ。

浅田 そう、小さな肯定性に基づくマイノリティの横の連携でいいわけだから。

 ただ、否定神学と社会学のカップリングというのはそれ自体が流行しているというより、超越論的な話と経験的な話とを分割しつつ共存させる暗黙のイデオロギーだとぼくは捉えているんです。そしてそこで問題になってくるのは、ドゥルーズ&ガタリがラカンを批判して、ラカン的否定神学は結局大きな資本主義機械が要請している理論化にすぎないのだと言った、まさにその問題です。その批判はいまでも有効なわけですね。

浅田 だから、「否定神学が何故かくも好まれるのか」という東さんの問いに対する一つのざっくばらんな答えは、われわれが資本主義の中にいるからだということですよ。貨幣というゼロ記号がブラックホールとして欲望の整流器になっているような社会では、知の形態においてもそのような虚焦点をもった否定神学が支配的になる。

 そして実際に、ジジェクだと、その強力な世界貨幣を使って、次から次へと様々なサブカルチャーを統合していくわけですね。あれはまさに植民地主義だと思う。したがってそういうものに抵抗するときには、理論的にも違ったものを出していかなければならない。

浅田 それはその通りだと思う。だけど、他方で、もう少し短期的には、こういうこともある。さっき柄谷さんが冷戦が終わって思想の地平が変わったと言われたこととも関係するけれど、冷戦期がもっとも徹底して否定神学的だったわけでしょう。経済のみならず、政治においても、絶対あり得ない最終核戦争というのを虚の焦点として、それを無際限に繰り延べることによって世界秩序が成りたってきた―少なくともそういう建前になっていたわけじゃないですか。その意味で、冷戦期においては、経済や政治から思想に至るまで、なべて虚の焦点を不在の中心とする否定神学ということで、一貫性があった。それが八九〜九一年に崩壊したあと、ジジェクなんかは依然としてそれでずっとやり続けているわけで、それはそれで問題があるとしても、他方では妙にナイーヴな肯定性に戻ってしまっている、それがむしろ問題だと思うんです。

大澤 冷戦というのは否定神学を社会的に機能させる装置みたいなものですね。冷戦の下では、今、浅田さんが指摘された、起こらない最終戦争の反照として、たとえば「アメリカ」という「シニフィエなきシニファン」が何かポジティヴなものに見えてくる。冷戦の崩壊とともに、当然、そういう「シニフィエなきシニファン」がポジティヴィティを喪失してしまう。その結果として、たとえば民主主義の盛り上がりなんかもあるわけだけれども、知的な領域では、カルチュラル・スタディーズの流行なんかも、これとは無縁ではない構造になっているわけで……。

柄谷 しかし、そもそも、たんに頭が悪いんだと思うよ(笑)。一昔前なら、たんに実証主義的な学者になったような人が、カルスタをやっている。マルクス主義でも、ジジェクでもいい、一定の図式があれば、あとは調べものをすればいい。本人たちはまるで少数派のつもりでいるけど、この態度はつねに多数派です。

浅田 そりゃ、マイノリティはいくらでもあるし、複雑に交差しているからそれをいちいち追っていけば、論文はいくらでも書ける。

柄谷 そういう意味で、東さんの仕事は珍しい。ぼくは元気づけられた。おれは昔こんなことを気ちがいみたいにやっていたけれども、今でもやる人がいるなと思って(笑)。

 とにかく今のカルチュラル・スタディーズなりポストコロニアル・スタディーズなりというのは、経験的他者しかわかっていないわけでしょう。だからポジティヴ、つまり実証的かつ肯定的な神学なわけです。とりあえずそれ以前に超越論的他者をわかってもらわなければいけない。

浅田 ほんとうは、経験的他者ですらない、他者に投影された自己の像だね。

 とまあ、また例によってずいぶん長々と引用しちゃったけれど、ここで興味深いのは、否定神学として批判されているジジェクと共に、それと対立する概念として否定神学と同じ割合で批判されているカルチュラル・スタディーズ(カルスタ)のほうだね。そして、実際に「新左翼くずれのカルチュラル・スタディーズ」とはいったい誰のことを指しているのでしょうか?私の独断と偏見ですが、これは間違いなくあのブルセラ社会学者の宮台真司チェンチェイのことを指しているではないでしょうか(笑)。しかしそうだとすると、ジジェクのほうは批判はされているが一応曲がりなりにもちゃんと固有名で呼ばれているのに対して、宮台チェンチェイのほうはといえば名指ししてもらえないのはもちろんのこと、“カルスタ”と短縮型で呼ばれて馬鹿にされて片づけられちゃってるわけで、これじゃあんまりでちゅよね(笑)。世間一般では批判している彼らよりも宮台チェンチェイのほうがはるかにメジャーな存在にゃにょにね。

 で、そのあまりの批判ぶりに、自分の出版社が出すジジェクの本の売り上げに影響が出るかもしれないと危機感を抱いたのかどうか知りませんが、巻末で編集室の人がこのようにジジェクの擁護(共同討議に対する反論?)を展開しています(はははは)。

編集室より

*否定神学は少なくとも近代以降、おそらくわれわれのリアリズムの源泉の一つとして機能してきた。<リアルなもの>を可視化しようとする限り、精神分析であれ、資本主義であれ、文学作品における意匠であれ、その探求が辿り着くのが否定神学の構造であるということはおそらく今後とも変わらないはずだ。換言すれば<リアルなもの>を追求する限りにおいて、否定神学は真理であるとも言えるだろう。だが、それは一般論に終始するほかない。

 リアリズムと<リアルなもの>とは本性上異なる。リアリズムは、好むと好まざるとに拘わらず、歴史性を刻印された単独的なこの社会的空間にしか生じるものではない。だからリアリズムは転回しなければならない。そうだとすると、否定神学批判とは、<リアルなもの>のイデオロギー性(一般性)の論駁以上に、リアリズム(普遍性)の書き換え(転回)を企てずにはいないはずだ。「郵便空間」はその別称として、今後、新たな展開を見せてくれるだろう。

 スラヴォイ・ジジェクの「否定的なもののもとへの滞留」を批評空間叢書として上梓した。スロヴェニア出身のこの明晰な知性に教条的な否定神学者振りが顕著であるのは誰もが認めるところだが、壁崩壊後の政変を身を持って生き抜き、外国語で書くことを強いられたこの強力な自我の持ち主がかくも<リアルなもの>に憑かれるその理由を、リアリズムの転回点からいささかナイーヴに捉え直してみてはどうだろうか。(N)

 と、なかなか勇ましいアジテーションが書かれてあるわけですが、これ対してなのかどうかは定かではありませんが、柄谷行人も負けじとこんなことを書いています。
編集後記

 五月の連休の間、私は瀬戸内海にある佐木島の、鈴木了二が設計した保養所―新藤兼人の『裸の島』の舞台になった無人島が眼前に見える―で行われた、映画のシンポジウムに出かけた。映画に関して特別に言いたいことはない。しかし、日本の映画に欠けているのが「批評」であることは、明らかなことだ。映画への愛とか、快楽だとかいった、老人=幼児語がいまだに幅を利かせている。引用、記憶、インターテクスチュアリティなどが「創造的主体」の幻想をディコンストラクトしえた時代はとうに終わっている。今や、それはいかに自分が細かなことを知っているかという懐古趣味(歴史は終わった)を裏付けることにしかなっていない。

 しかし、このような態度は至るところに瀰漫している。彼らの多くが口にするのはドゥルーズであるが、ドゥルーズが一方で断固としたカント主義者・マルクス主義者であることを無視し、そのために、事実上ベルクソンに回帰してしまうようなドゥルーズ派は、たんに純粋痴性であるばかりでなく、戦前なら確実にファシストになったたぐいのオポチュニストである。つまり、市場経済が現実にやっていることを、否定的なポーズで支援しているだけだ。

 「中心」がすでにないのに、いつまでも中心を攻撃し、それであたかも何かいった気になっている連中。「創造」が現に存在しないのに、それを攻撃することが創造的であるかのように思っている連中。別の巨大な主権を作るだけなのに、近代国家の主権を解体するといっているような連中。自分は軽やかに飛翔していると思いこんでいる、彼らの鈍重さが、もともと地にへばりついた鈍重な言説を招き寄せ活気づけてしまう。批評は一つの立場ではない。俊敏なフットワーク(移動)がないようなものは批評ではない。(五月六日 柄谷行人)

 何やらこれも勇ましいアジテーションですね。しかも、これが還暦間近のじーさんの文章なんですよね(笑)。いずれにしろ、少なくともこちらのほうが『噂の真相』誌上での岡留編集長と本多勝一の対決よりは数百倍カッコイイですよ(爆笑)。


6月23日

 やっちゃったね中田君。へなちょこパスをインターセプトされて思いっきりゴール決められちゃいましたね、はははははっ!日本の勝利を願うサポーターとオカピーを絶望のどん底に突き落としてくれましたね(爆笑)!さすが中田君、心は勝利を目指してはいても体は大ボケをかまして笑わせてくれますね!中田君の天然ボケが日本に“世界の壁”という試練を与えてくださったのですね(笑)。いや、度重なるファインセーヴでいい気になっているナルシス状態の川口に“正義の鉄槌”を食らわして目を覚まさせたわけですか?うーむ、中田君のへなちょこサッカーは奥が深いですな。

 …と、一次リーグで敗退の日本サポーターの皆さんのヒンシュクを買うような冗談をかましちゃってますが、ともかくクロアチア戦はわれらが中田君のワンマンショーでしたよ。なにしろ、自分でボールを奪われておきながらそのボールを更に奪い返すプレーが何度もあったし(ひとりでボケとツッコミの両方を演じているわけですな)、せっかくゴール前まで走り込んでおきながら自分では一つもシュートを打たずにへなちょこパスの相手を探しているうちに周りを取り囲まれちゃうし(おいおい、迷子の子供みたいに不安そうに辺りをキョロキョロ見回すなよ)、まさに、敵も味方もサポーターも周りのすべてが真剣なのに、やんちゃな小学生がひとりでふざけまわっているとしか見えなかったんですけど、やはり、自分の絶妙のスルーパスを中山がゴール決めてくれなかったのでスネちゃったのでしょうか(笑)。やはり日本の敗戦原因は、だだっ子中田君をご機嫌斜めにしてしまったことによるのかな(説得力ゼロ)。

 それにしてもアルゼンチンはジャマイカ相手に鬼のようなゴールラッシュだったようですね(5−0)。どうやら日本戦での消化不良のような内容で溜まっていたものが一気に大爆発したみたいですね。それだけ日本の無意識の“嫌がらせ”が効いているということじゃないですか。もし、アルゼンチンが優勝できなかったら、それは日本のせいですよ(大嘘)。決勝トーナメントが楽しみです。まぁバティにはせいぜい得点王でも目指してもらおうじゃあ〜りませんか。

 日本はせいぜい度重なるボロ負け状態で意気消沈しちゃってるジャマイカ相手にワールドカップ初勝利でももぎ取ってくださいね。そうそう、ボロ負けといえば予選では日本より強かった韓国もボロ負け状態ですね、悲惨ですね、御愁傷様です。やっぱマジでサッカーしちゃうと、韓国もジャマイカもサッカー強国のオランダやアルゼンチンから見れば単なる“格下”としか映らないようですね。安心して弱肉強食の動物界のルールが働いて大量得点差になってしまうのでしょう。ま、日本対ジャマイカ戦はどうなることやらね。中田君もあんまり大ボケかましてひとりで遊んでないで、少しは日本の初勝利に貢献してオカピーを喜ばせてあげればいいんじゃないですか。オカピーもワールドカップが終わったら監督辞めるみたいだしね。

 なにはともあれ、自分としては応援しているナイジェリアが決勝トーナメントに進出できてよかったですよ。前の試合ではカヌも途中出場したみたいだし、このまま勢いに乗ってブラジルやアルゼンチンを打ち破ってアトランタ五輪の再現をやって欲しいですね。是非アフリカ勢のワールドカップ初優勝を実現させて欲しいですよ。あのサッカーのリズムは音楽的にはFUNKのリズムに近いノリがあると思います。ナイジェリアのサッカーを見ているとPARLLAMENTの「GIVE UP THE FUNK」がBGMで聞こえてくるんですよ(ヤバい、幻聴か?クスリのせいか?)。

 ナイジェリアといえば全員が黒人ですけど、サッカー先進国のオランダやフランスはFWにアフリカ系の選手を使っているんですよね。陸上競技やバスケットボールでもそうですけど、瞬発力やスピードが求められるポジションにはやはり黒人が最適なのでしょうかね。もちろん、同じくサッカーの盛んなドイツやアルゼンチンなどは全員白人で固めてますが、日本も来るべき2002年のためにブラジルやアフリカ辺りから活きのいいブラック系選手を引っ張ってきてFWの一方にでも使ったほうがいいのかもしれませんね(まあマジになってそこまでする必要ないかな)。ともかくこの二試合を見た限り、今の日本ではあまりにもゴールから遠すぎるように思えてしまったので、こんな人種差別的な考えも頭をよぎってしまいます。ただ走ってるだけなら“野人”岡野も結構速いんでしょうが、本当にただ走っているだけだもんね(今日電車の中で見たスポーツ新聞の大見出しに“岡野アヤックスへ”なんて出てたけどホントかよ(笑))。

 ってなわけで今回はワールドカップ特集でしたが、実際日本戦以外はほとんどニュースでしか試合を見ていません。あ〜あ、なんだか空しいな〜。やっぱNHKのBSは癌だよな〜。「BSは全部やる」けど他ではやらないんだよな。ともかく決勝トーナメントは地上波でもやってくれよな。でも受信料は払わないけどね(ひでー奴)。


6月17日

 ついにやっちゃったね、日本代表がアルゼンチンと“玉ころ遊び”をしちゃったよ(笑)。ボクちゃんは14インチのちっちゃなテレビで、実況とサポーターがあまりにうるさいので途中から音声を消してひとり孤独でニタニタ笑いながら見てたんだけど(キモチワリー)、これを読んでる皆さんはどうだったかな、応援団チョーの掛け声に合わせて「ニッポン!チャチャチャッ」なんて恥ずかしい応援をしちゃいながら少しは盛り上がりましたかね。

 でもすごかったね、日本代表は。最初から最後までずーと日本ペースだったじゃないですか。へなちょこパスにへなちょこフリーキック、へなちょこコーナーにへなちょこシュート(ゴールマウスの枠内にいったシュートあったっけ?)、まさに大ボケやりまくりのへなちょこサッカーの集大成だったですよ(笑)。しかも0−1で負けちゃうところがいかにもな感じですよ(なんで?)。あまりの大ボケぶりにアルゼンチンの選手の皆さんも途中から驚きやあきれを通り越して、何やら得体の知れない不安感に苛まれていたんじゃないですかね。

 彼らの気持ちを代弁するなら、

「おまえらホントに点取る気あんのかよ!」

「ホントに勝つ気あんのかよ!」

「ホントにやる気あんのかよ!」

「こいつら何考えてんだぁ?」

「ホントに本気でやっているつもりなのかぁ?」

「もしかしてオレたちナメられてるんじゃないのかぁ?」

ってな感じでしょうね。

 テレビで見ていた限りおいては、特にキーパーの川口は不気味でしたよ。バティストゥータに点取られた直後やロペスやオルテガなどのシュートをファインセーヴした時なんか、不自然に目が笑ってましたもんね。どーだ、今日の俺って結構活躍しちゃってるぜ、目立っているぜ、ってな感じでナルシス状態にはまっていたような…。そんな川口のヤバそうな雰囲気に押されてゴールを決めたバティのガッツポーズも心なしかぎこちなかったような…。城もなんだか意味不明のハニワ顔で終始ニヤニヤしていたような(なぜだ!試合中に何か面白いギャグでも思いついたのかぁ?カズや岡野とやった“デカビタじゃんけん”(デカビタポン!)が急に脳裏をかすめて思い出し笑いしてたのかぁ?)…。何かスタジアム全体が90分間みょーな空気に支配されていたと感じたのは私だけでしょうか。さらにいうなら、アルゼンチンのDFは、リズム感のまるでない日本サポーターのただ声がでかいだけのお経のように単調な応援(しかもなぜか不思議とみんな声がそろっているんですよね(おまえらゾンビかキョンシーか!))に調子を乱されて、中田君のスローモーションのようにのろいドリブルをなかなか止められなかったような…(笑)。

 ともかく、カズと北沢を外しておいて正解でしたね。彼ら二人はどちらかというとアルゼンチンの選手達に近いメンタリティの持ち主であり、マジになってサッカーやっちゃうようなタイプだと思うわけです。そんな二人が試合に出ちゃうとアルゼンチンから見れば自分達より相対的にへたくそなサッカーやってるだけとしか映らないから、格下相手に見下してサッカーしちゃって、安心しきって大量得点挙げちゃってるところだったでしょう。日本のサッカーが自分達のやってきたサッカーからは奇妙に逸脱していて、何かがずれているような感覚(気の抜けたビールのような感覚)が、そのままバティストゥータのこぼれダマゴールの1点だけにとどまる結果を招いたんじゃないですかね。それだけ“へなちょこ”と“へたくそ”の違いは大きいような気がするんですが、どんなもんでしょうかね。あまり説得力はありませんか?

 とまあ、今回も随分いーかげんなことを書いてきましたが、ようするに、一見勝つ気がないように見えちゃうところが日本サッカーの愉快なところであり、長所なんじゃないですか、というわけです。これからもこのまま間の抜けたまったりとした空気の中でふにゃもらなサッカーを是非やりつづけて欲しいですね。別に日本は勝たなくてもいいですよ、3連敗でも許しちゃいますよ。そんなもんでいいんじゃないの。あんまり“玉ころ遊び”なんかでマジになっていると悲惨な結末が待っていますからね、カズみたいに。

 しかし、ナイジェリア対スペイン戦は見たかった(3−2でナイジェリアが勝った、でもカヌは出てなかったような…)。日本以外の試合はBSでしかやらないのでしょうか。それとも決勝トーナメントからは総合でもやるのかな?NHKには受信料払ってないからあんまり文句は言えないんだけれど、頼むから地上波でも日本以外の試合を生放送で見せてチョー(ソンミン)!

 くだらねーダジャレ!今週も頭がうにだー!もうだめでちゅ、おわりでちゅ。


6月9日

 ついにワールドカップだね。ところで、先週ニュースでカズの代表落選の記者会見をチラッと見たんだけど、なんだかずいぶんとご立派なことを述べていたね、カズは。この後に及んでまだ、また新たな目標に向かってがんばる、とか言っていたようだけど、すごいね、さすがブラジル帰りのサッカーバカ一代!言うことが一味違うね。自分がカズと同じ立場だったら(そんなことあり得ないけど)記者会見で、オカピーのばかぁ!いじわるぅ!ボクちゃんいじけちゃう、すねちゃうぞー、って叫んで泣きじゃくっちゃうところだけどね(大嘘)。

 しかし、なんであんなに絵に描いたようなスポーツマンみたいに前向きなことしか言わないのかなぁ。少しは監督のオカピーや日本代表に対するネガティブな発言なんかがあってもいいところだし、それがないのなら、自らの限界とかのいわゆる“敗北宣言”なんかだってあってもいいじゃん、なんて余計なお世話を言いたくなるような空疎な建て前ばかりの記者会見だったね。まぁまだ引退しないのだからその辺は仕方ないのかもしれないけど、なんだか役人や政治家の国会答弁みたいでいやな感じがしたよ。

 それに、前から気になっているんだけど、カズの喋りって、どこかで聞いた風な紋切型の台詞を腹話術の人形が喋っているみたいなんだよね。思わず、おまえには自分の言葉ってものがないのか!なんてどこかの売れない劇団員口調でツッコミを入れたくなるよ。たとえば、「日本代表の誇りと魂は向こうにおいてきたつもりだ」とか言って自己陶酔に浸っているようだけど、それって、まるでどこかの熱血スポ根マンガの台詞そのまんまだよ。それもかなり古いパターンなんじゃないの。今どきのマンガなら、そういうクサい台詞を吐く奴は無視されるか頭の後ろをひっぱたかれるかのどちらかになるような気がするのだけれど。たとえば「スラムダンク」(これもちょっと古いけど、人気のあったバスケマンガ)なんかそうだったよね。

 でも、そういうカズや北沢なんかのクサい“決め台詞”多用の演劇的メロドラマ記者会見が、マスコミの推奨する「一つの目標(夢)に向かって努力する素晴らしさ」という「支配的イデオロギー」を温存させ、その残酷さや悲惨な側面を隠蔽しちゃうわけだ。しかし実際にカズは、高校中退してまで地球の裏側のブラジルまでサッカーやりに行って様々な血の滲むような努力を重ねた末に(そういえばカズより先にブラジル修行に行った水島武蔵は今どうしているのだろう)、イタリアのセリエAでのことや“ドーハの悲劇”と呼ばれる前回の最終予選での挫折を乗り越えた果てに、最後の最後でワールドカップが開かれるフランスを目前にして代表の座を追われたんだから、「一つの目標(夢)に向かって努力」してそれを叶えることができなかったわけでしょう。それのどこが素晴らしいのかな。つまり、そういう「支配的イデオロギー」の矛盾や破綻が今まさに白日のもとにさらされているわけでしょう。まさに現在のカズは残酷な仕打ちを受けて悲惨な境遇にあるわけでしょう。

 しかしそんなカズが、次の目標に向かって努力する、なんて強弁してみせて、それをマスコミが、がんばれカズ、と慰めのエールを送ってみせる、そんな予定調和の茶番劇をなぜ容認しなければいけないのか。残酷で悲惨な現実を無視して、今までのいきさつを安易に水に流してなかったかのように振る舞い、馬鹿のひとつおぼえみたいに、目標に向かって努力する、なんて繰り返してていいのかよ!カズ!てめーは自分の過去を冒涜しているぜ!てめーのブラジル修行は一体なんだったんだ?セリエAでの挫折は?ドーハの悲劇は?最終予選での苦悩の日々は?てめーのサッカーはその程度だったのか?そーじゃねーだろが!そんな記者会見なんかサッカーとは何の関係もない世間体を気にしているだけの単なる政治ショウだろがぁ!そんなくだらねーところで負け惜しみの見栄を張っててどーすんだぁ!ふざけんじゃねーよ!

 なんちゃって、ふざけているのはこんな要らぬお節介を書いている私ですね、はい。やっぱ、エラソーなことを書いた後はすかさずトーンダウンがお約束ですね(笑)。死者に鞭打つような書き方は止めましょう(既に書いてるじゃんかよ)。やっぱカズなんてどーでもいいや。せいぜい今後はそのクサい演技に更に磨きをかけて“宗教法人カズ教”の教祖様にでもなって“日本サッカー党”を旗揚げして国会議員選挙にでも立候補してください。北沢は“訳知り顔のアニキ”的なキャラクターを今まで通り演じて人気者の解説者やタレントにでもなってください(はっはっはっ、更にこれでもかこれでもかと書いてますね)。ボクちゃんも今まで通りこんな嫌みな文章を意地汚く書いて“嫌われ者”を演じてゆきたいと思います(笑)。

 ‥はぁ〜、何書いてんでしょうね。ったく、どこまで書いてもいやな奴全開状態だから今回はこの辺で止めときます(自己嫌悪)。


6月3日

 あれまあ、インドとパキスタンが仲良く(?)相次いで核実験ですか。何やら両国とも世界中の非難をものともせずにがんばっていらっしゃいますねえ、日本やアメリカなどの経済制裁なんかものともせずに気合いが入ってますよ。でも、ごく一部のオカルトファンに中には、非難とは違う感慨を抱いた方もいらっしゃるんじゃないですか。たとえば、そのニュースの報を聞いて、オカルト雑誌「ムー」(まだ存在するのかな?)の愛読者の皆さんが真っ先に思い浮かべたのが、古代インドの二大叙事詩のひとつ「マハーバーラタ」(もう一方は「ラーマーヤナ」)ではないでしょうか。「マハーバーラタ」には、今日の核兵器に相当するような大量殺戮兵器“鉄の雷電”が登場するんですよね。それがどのようなものであるかについてはこちらのページをご覧ください。

 もちろん、そのページに書かれてあることは今のところ説得力はないし、オカルト神秘主義の範囲内であり、古代インダス文明の中心都市であるモヘンジョダロの滅亡原因としては、公式見解に従うなら、都市の人口爆発に伴う食糧の確保のための農地の大量開墾や建築素材の焼煉瓦の製造に使う薪を大量確保するために、周りの森林を乱伐した結果、表土の流失や塩害が発生したことによるらしいですが、そういう無味乾燥で合理的な知識とは別の次元で、今まさに「マハーバーラタ」の地で核実験が行われたことに何やら不謹慎な期待感が高まって気分がワクワクしてきちゃうんですよ。そうですよ、もしこのままインドとパキスタンが核戦争でも起こせば“現代のマハーバーラタ”が実現するわけなんですよ。いや、「マハーバーラタ」自体が、来るべきインドとパキスタンの戦争を予告していたといえるのかもしれません、なんちゃって。うーん、なんだかその方面の方々と同じような思考形態になってきちゃいましたね(笑)。

 はっはっはっは!ヤバイですねえ、今回はこのままオカルト神秘主義路線になっちゃうのかあ。そうだぁ!アトランティス大陸がグリーンランドでムー大陸が南極大陸なんだぁ!グリーンランドと南極大陸の氷河の下には失われた超古代文明が眠っているんだぁ!(うっひゃー!)実はワタクシUFOに乗ったことがあります(おいおい)。その時、アルファケンタウリからやってきた宇宙人とも会いました(ホントかよ)。その宇宙人の友達の名前はボブ(アメリカ人かあ?)、彼によれば、インドとパキスタンはこのまま軍拡競争を続けて、来年1999年に全面戦争に突入するそうです。そしてそこにインドと国境の線引きで対立している中国がパキスタンの味方をしてインドに宣戦布告し、それにつられて大国ヅラしたアメリカとロシアも戦争に介入してきて第三次世界大戦に発展するそうです。やったー!世紀末のハルマゲドン到来だぁー!ボクちゃんカンゲキー!恐怖の大王モンゴリアンが空から降ってくるぅー!それが核ミサイルですね!いや、恐怖の大王モンゴリアンとは北朝鮮の金正日を指すという意見もあります(嘘)。しかしあの顔が空から降ってきたらさぞや鬱陶しいでしょうね(気持ち悪いか?)。

 はぁ〜、何書いてんですかね。しかし今回のインドとパキスタンの対立の原因は、現在インドが占領しているカシミール地方の帰属問題にあるそうですが、イスラム教徒の多いカシミールで、住民投票でインド、パキスタンのどちらの国に帰属するかを問えば、当然、ヒンドゥー教徒が多数派であるインドではなく、イスラム教国のパキスタンにカシミール地方は帰属するはずだ、というのがパキスタンの言い分みたいですが、何やら、住民投票で決めろ、というところがいかにも民主的な体裁なんでしょうが(金でロシアから北方領土を買おうとしている日本よりはましな主張か?)、このような、一つの宗教・民族で一つの国家を形成すべき、という前提そのものに抵抗を感じちゃいますね。でも考えてみれば、世界各地の地域紛争はこの手の問題ばかりなんですよね。旧ユーゴ、パレスチナ、クルド、タミル、チベット、クリミヤ、北アイルランド、朝鮮半島、ルワンダ、沖縄、ケベック、台湾、キプロス。これらの地域住民の感じている不利益(それぞれ程度の差はあるようですが)を解消するには、やはり、彼らが日頃から属していると感じている同じ宗派や民族で一つの国家を形成するしか方法はないんでしょうかね。

 まあともかく、当事者ではない自分には、それらの地域住民の“心の痛み”なんてわかりませんし、積極的に知ろうとも思わないですがね。ま、インドもパキスタンも「国民」の士気を鼓舞し国家としての団結力を保つためには核兵器が必要なんでしょう。実際、両国の「国民」は今回の核実験を熱烈に支持し歓迎しているようですし、それはそれでいいんじゃないですか。それから比べれば、長野五輪で国威発揚しているつもりの日本なんて人畜無害な国家かもしれません。しかしどちらにしろ、積極的にそういう「国民」になりたくはないですね。だって馬鹿じゃないですか、国家にしがみついて生きてゆくなんてカッコ悪いだけですよ。国家に利用されているだけですよ、そんなの。でもそれと同時に、本当はそんな「国民」なんて存在しないのではないか、マスコミがでっち上げた虚構なのではないか、とも思うわけです。あなたは自分が「日本国民」であることを認めますか?肯定しますか?私はいやです。