彼の声68

2008年

9月30日

 昨日は昨日で何も思いつかなかったようだ。そしてすでに今日になっている。今日は今日で何もできず、今はさらに二日後だ。笑える話はその後どういう風に進展したわけでもない。話の結末は未来にありそうで、今はまだそこまでたどり着いていないようだ。相変わらず意識が過去の時間帯で止まっている。そんな現状を切り崩すことができない。虚無の防御は万全のようで、話は予定調和の展開を繰り返すばかりだ。そこから外へ言葉が出られない。もがけばもがくほど誰かは無駄に言葉を浪費して、さらに話の中で身動きが取れなくなる。架空の人格が何を考えているのか知らないが、誰かはそれを続ける以外にやりようがなく、他のどんな話を構成するわけにもいかないのだろう。試してみれば信じられない話の展開などいくらでも想像可能だが、実際はそうはならず、いつもの日常がひたすら繰り返され、誰もそこから逸脱できない。言葉を記す段階で不具合を抱えているのかもしれず、意識が違う話の展開を拒絶してしまい、現実の暮らしから遠ざかることができない。それでも言葉を記すゲームに参加していないと世界から見放されたような気になる。それは実質的には何のゲームでもなく、ただそこで生き残りたいだけのようだが、その生き残り方に誤りがあるのかもしれず、生き残るためにはさらなる悪あがきを繰り返す必要がありそうで、それは勝手な思い込みに過ぎないが、勘違いなことをいつまでも述べていないと、記している話の内容が嘘になってしまう。たぶんそんなはずがない。何を否定しているのかわからなくなり、わざとそんなふうに述べているのだろうが、それで何か語っているような気分になり、それを押し進めてさらなる言葉のもつれ具合をさらしてしまうだろう。実際には何を述べているのでもない。もともと意味不明なのに、さらに意味不明になりそうだ。自らが何を語っているのかわからないのも困り者だ。だがそれ以上に何をもたらしても仕方ないだろう。ただそこには虚無がもたらされていて、空疎な語りを演出しているようだが、具体的に何がどうなっているのか意味不明のようだ。まだ風邪が治りきっていない。何かが緩慢に推移している。心がどこかですり減っている。そういう表現は間違っている。時間感覚がおかしい。別に過去にさかのぼっているわけではないが、それはいつか見た光景に違いない。記憶に何かが残っているようだ。物質ではなく、雰囲気か何かかもしれない。その場の印象だ。それを覚えている。誰かが昔の記憶を思い出す。それが作り話の内容になるらしい。君にはできないことだ。そんなつもりではないのだろう。誰かが何かを煽っている。何かが危機状態のようだ。深刻な事態に毎日遭遇しているらしい。話の上ではそうなのだろう。君には何も信じられない。病はまだ軽い。そう思っていて差し支えないだろう。やがて思い違いだったことに気づくはずだ。作り話の中ではそういう成り行きが多い。実際にもそうなのかもしれない。経過がゆっくり過ぎるのだ。何もかもがその途上にあるようだ。はっきりした結論がなかなか出てこない。じわじわと何か得体の知れぬものに苦しめられているみたいだ。夕方になると止まらぬ咳に悩まされる。何でもないことなのに、やる気を失わせるいいわけとして機能するのだが、やる気がないわけではないことはわかっているはずだ。年がら年中がそんなことの連続のような気がする。そんな精神状態で困難を乗り切れるはずがない。困難を困難だと認識していないのかもしれず、何でもないことの続きとしてしか理解できないのかもしれない。それでは何でもない。何でもなければ困難ではない。なぜそう述べてしまうのか理解できない。実際に体調が悪いはずなのに何でもないのだ。君は自らが困難に直面していることに死ぬまで気づかないのかもしれず、当然死んでから気づくはずもないから、やはりそれは困難とは見なせず、何でもないことだ。そんなふうに言葉を記していると本当にわけがわからなくなる。君はまた無駄で意味のないことを述べているようだ。精神に異常を来しているかもしれず、確かに冗談としてはそうだが、生身の人間が耐えられないようなことを述べているのかもしれない。そんなはずがない。それとは違う可能性に言及しなければならない。何かに幻想を抱くべきだ。誰かがほしがっている商品には魅力がつまっているように感じられる。その時点では無限の可能性を秘めているはずだが、いったん買ってしまえば、そこに限界があることに気づくはずだ。賞味期限付きの商品ならなおさらだ。買う前には気づかなかったことが買った後から浮き出てくる。そしてあきらめが肝心であることを悟らされる。その程度で妥協しなければならないことに気づく。飽きたらまた別の商品を買えばいいことでしかない。人は金と命が続く限り商品を買い続け、それが何でもないことだと悟る。何でもなくはないと主張するなら、幻想を抱けばいい。宣伝文句に踊らされるのも一興だ。買って使って満足して、また買いたくなればいいだろう。何も恐れることはない。だが買ってばかりでは手持ちの資金が減るばかりだ。資金を増やすには何かを売らなければならない。そんなわけで誰かは何かを売っている。売れるものなら何でもかまわない。たぶん売れないものはゴミだ。


9月29日

 今日は何かできそうな気もするが、できないような気もする。何が気に入らないからといって、それについての批判を書き記したところでどうなるものでもないらしい。楽しい気分からはほど遠い。それでかまわないのだろう。そういう宿命なのだから仕方がない。そう述べて何を割り切っているわけでもなく、反省すべきことを反省しているだけのようだ。客観的に自らの文章を評価できない。評価できるようなことは何も述べてこなかったのかもしれない。わからなくなっているようだ。今日も何ももたらせないのだろう。そんな気がしている。何となく何について述べたらいいのかわからなくなってきたようだ。それはいつものことには違いないが、いつものことだからこそやりきれなくなる。つまらないこだわりに惑わされ、狭い範囲で何かの事象を捉えようとする。何かを否定したり肯定したりするわけだ。その辺が限界なのだろう。別に大恐慌になってもならなくても、それでどうなるわけでもない。なるならなった方がいいと思うが、意外としぶといような気もする。言葉に踊らされるのは決まってそれを真に受ける人たちだ。人為的な恐慌なのだから、落ち着くところに落ち着くしかないだろう。株価の激しい下落や上昇につられて信用収縮に陥ったらおもしろそうだ。信用収縮が起こるから株価が下落するわけだろう。君の見解はいい加減の極みだ。それでも何かの本で読んだ記憶がよみがえってくる。確か一度目は悲劇に終わって、二度目は笑劇になるとかいう話だったように覚えているのだが、それらの何を笑えばいいのかわからない。例えば第一次世界大戦が悲劇で第二次世界大戦が笑劇だとはとても思えない。物事を深刻に受け止められないのは君の資質によるらしい。もしかしたら二十世紀が悲劇の世紀で二十一世紀が笑劇の世紀なのかもしれない。冗談はともかく、株価の下落や上昇に一喜一憂しているほどのめり込んでいるわけではなく、上場株を一株も持っていないのにそんなふうに思うのはおかしいだろう。深夜に浮かれている場合ではなく、我田引水的に何かをこちら側へ持ってこなければ話にならないようだ。株価が下落したら、そら見たことか、と警鐘を鳴らしてみせたり、上昇したら、思った通りだ、と自らの予測の正確さを誇ってみせなければならず、それが本当か嘘か知らないが、そこで目の当たりにした現象や動向を、自らの言説に巻き込んでいかなければ、事後的に説得力を得られない。そう述べて何かを茶化しているようだ。何か元の木阿弥のような案配になってきた。現状をまじめに語れなくなり、気がつけば破れかぶれ気味になっている。冗談では済まなくなっているのだろう。自滅の兆候がある。数日後の曇り空の下で何を想うでもなく、そんな決まり文句に退屈しているようだが、それでも何か適当なことを述べているつもりになりたいのだろう。それでも何を否定しているわけでもない。君はそこから飛翔できない。地べたに張りついたまま身動きがとれなくなっているようだ。きっとそれも嘘なのだろう。何を思い込んでいるわけでもない。言葉が宙を舞っているような気がするだけだ。述べている内容が独りよがりなのだろう。それでもかまわないとすれば、それを超える水準を達成することはできない。それを何とかごまかそうとしている。見え透いていて、いつもの悪あがきだ。何ももたらせないに違いない。結果から判断すればそういうことになり、人は絶えず未来の利益を先取りしようとして、信用取り引きにのめり込み、未来が現実になった時に見込み違いに気づくようだが、気づいた時にはもう遅い。資本主義は本質的にギャンブルだ。遠い場所で安く買い入れて、運んできた場所で高く売りつける。原材料を安く買い入れ、従業員を安くこき使って作った製品を高く売りつける。それを買ってくれる者がいなければ成り立たない。その製品を買う者が安くこき使った従業員だったりする時はとりとめがない。安月給で買えなければローンを組んで買わなければならなくなる。ローンを払っているうちはそれで済んでしまうのだろうが、そう都合よく予定調和とはならず、絶えず破綻の危機に直面している。何らかの事情が生じて借金を払えなければ破産する。金を貸す方は返す能力があることを信じるしかないが、本当に返せるかどうかは、返す時になってみなければわからない。たとえ職を失っても、経済成長が続いている間はそれなりに働き口もあり、そこで金を稼いで返す可能性はあるが、持続的な経済成長は国家が抱く幻想であり、そうなるようにいくら制度を整備しても、必ず後退局面が訪れる。いつの時代でも利潤の追求が行き過ぎた時に破滅が待っている。しかし利潤を追求しない資本主義はあり得ない。未来は不透明であり、稼げる時に稼いでおかないと、いつ稼げなくなる時が来るかわからない。だから決してほどほどの儲けでは終わらせないわけだ。二十世紀の場合は不況で国家が行き詰まれば戦争するしかなかったようだが、すでに戦争できる場所は限られた辺境地域しかなくなっている。もはや暴力を行使して多数の死傷者を出して、うやむやのうちに不況をリセットするような具合にはいかないような気がするのだが、実際のところはよくわからない。そうなってみないことには何ともいえないが、何か別の方策が確立されつつあるのかもしれない。冗談を述べるなら、働かなくても生きてゆける社会が実現すればすべてが解決するだろう。そうなったらなったで別の問題が生じることは明らかだが、それでもそうなったらおもしろいと思う。


9月28日

 昨日とは違ってまだ気力が残っている。それがいつまで続くかわからないが、とりあえずやらなければならない。探せば言葉が頭のどこかに詰まっているはずだ。そういうわけで誰かの気力が何かをもたらそうとしている。何かをつかんでいるような感覚で考えている。君に何を語らせようとしているのではなく、言葉を記している誰かが自ら記しつつある文章に語らせる。何でもかまわないからとりあえず中身のあることを語ってほしい。わけがわからないではつまらない。しかしなりふり構わないのも考えものだ。神は何を救うつもりもなかったらしい。結果的に何が合意されることもなかった。それは二日後のことだろう。誰かは出来事に遅れて言葉を記している。先取りしているわけではない。それでも誰かの利益が守られているのだろう。損得勘定だけで物事を理解しようとするのは虚しいことだが、利益がないよりはあった方がマシだろうから、それはそれで避けられないことだ。君はその結果を真摯に受け止めなければならない。勘だけではまともな結果を得られないことを思い知らされる。だがそれが本当だとは思えない。ならば何の理由もなく、またいつもの嘘に逆戻りだ。何かが性急すぎる。話になっていない。話にならない方がマシだ。言葉によって状況を否定してみせるのはわざとらしい。それは何かの結果に沿った結論だ。聴いている音楽が邪魔になる。気に障るらしい。冗談の続きがどこかで演じられている。君のことではない。テレビ画面の向こう側で何かが演じられている。そういう付け足しは蛇足だ。邪魔な言葉がどこまでも連なっているようだ。気に入らないのはそういうことだ。だから何とかそこから抜け出ようとしている。面倒くさがってばかりいてはだめなのだろう。本当にその通りのことを語っている。鼻が曲がりそうだ。意味不明な嘘をついている。この世界からはじき出されようとしているのは君だ。他に何を断言しているわけでもない。勝手な妄想に取り込まれている。まだそこから引き返すことはできる。それがその時点での選択肢のひとつだ。疑念を抱いている暇があったら言葉の連なりを前進させてほしいが、なかなかそこから先へ進めない。君はつまらない現状に飽き飽きしている。前からそうなのだろうから、今さらそんなことを述べるには及ばない。だが他に何を述べたらいいのかわからない。しかしそれで精神が高揚するはずがない。では何か事件が起こる兆しでも感じているのだろうか。そういう話の運びは不自然だ。何か苦し紛れのような印象がする。誰かがこの世界で現実に起こっている現象や事件について述べようとするが、それが文章を構成する上で悩ましいところだ。興味を抱けない。興味のないことについて語るのは苦痛だ。たぶんそういうことではないのだろう。そう思いたい。今はそれでもかまわないとも思いたい。どうでもいいことだ。驚くような出来事に巡り会えない。些細なことに無理して驚くことはない。何も感じないふりをしているだけだ。本当は内心動揺していて、それを悟られないように、必死に平静を装っている。そんな嘘をついても虚しいだけだ。君はどこから生還を果たしたとも思えない。気づいていないだけかもしれない。努力の甲斐があってそういう成り行きに巻き込まれていることに気づかない。気づかなくてもかまわないのだ。無理に気づいたふりをする必要はない。気づかないまま死んでいってもかまわない。そこまでいかないにしても、何となく無意識のうちに気づかぬように振る舞っているのかもしれない。実際何に気づけばいいのかわからない。話の内容が見当たらないことには気づいているはずだ。当てのない旅路に何を想うわけもない。過去は振り返らない主義なら楽しそうだ。君が恐れている事態がそこで起こるはずがない。そう思っていれば驚く機会に巡り会えるだろう。思いもしなかったところに窮地に陥る。四面楚歌を聴いてみたくなった。不意に何かを思いついたらしい。君に求められているのは画期的な発明をもたらすことではない。物語の登場人物として振る舞うこともできずに、自暴自棄になることでもなく、この世界から遠ざかることでもない。だが何もできないわけではない。言葉を連ねることに飽きている。わかっているのはそういうことだ。それ以外は何もない。誰かがそこで自滅しているわけだ。どこまでも自滅し続ける。だが何をもって自滅と見なすのかわからない。衰えていることは確かなようだが、それでもまだ何か述べているはずだ。何も述べられずに沈黙してしまった時が、真の意味でくたばってしまったことになるだろう。それまではまだかろうじて息をしていることになるらしい。まだ完全には死んでいないのだ。しかしそんな状況に陥ってしまったことを後悔しているわけではない。すでに目的を果たしてしまったはずだ。君が知らないうちに何かを達成してしまったわけだ。達成されないことをしているわけではない。やることがなくなってしまっただけかもしれない。なぜかそう思われてしまう今日この頃だ。そんな嘘をついてみても虚しいだけかもしれないが、何となく今はそんな気分でいられるらしい。この世界では君に課せられた使命など何もない。フィクションの中にも行動すべき内容が書き込まれていないようだ。だからこれからどうしたらいいわけでもない。


9月27日

 何か画期的なことを思いつくこともなく、今は何をやり遂げようとも思わない。心が安定しているようだ。また音楽を聴いている。君の芸術ではない。そこにはおかしなねじ曲げがある。何かを逸脱する力だ。外れているのだ。直感力が何かを外している。君を裏切っているのかもしれない。実際に裏切られている。語るべきはそういうことだ。計画を知らず、推敲を知らない。でたらめだとは思わない。冗談ではないのだろう。説明を欠いているようだ。残酷な仕打ちだ。やはり感情がない。成し遂げるべきことではないらしい。確かにそうなのだろう。水準を外れている。いかれているのかもしれない。頭がいかれている。君はそれを知っている。誰もが知っている。知られているのかもしれない。興味深い話だ。導かれるべきなのは君でない。君が導くのだ。誰かを導く。間違った方向へと導く。そして何かを思い出す。何か夢を見ていたらしい。今はそう思っている。いつまでもそう思っていたわけではない。どこまでも違っているようだ。間違っていたのだろう。その感覚がある。期待に応えるわけにはいかないらしい。外れてしまうべきなのだ。パフォーマーの物語に魅せられてしまったのだろう。信じることの残酷さに感動する。もう少し何かやりようがありそうだ。考えるべきなのはそういうことだ。知る機会もなく、アイディアが抜け落ちている。だからやめるべきだったのだ。結論に至らない。馬鹿げている。たぶんそういうことなのだ。何かを説明しなければならない。何も説明できなければそれでもかまわないが、とりあえず説明する努力を怠ってはならないようだ。しかし何について説明しようとしているのかわからない。記そうとする言葉が説明から外れている。すでにそんな状態だ。言葉が心に響いてこない。努力を怠っているわけではないが、そうではないと思うしかない。何も思いつかないのだから仕方がない。だがこうなってしまったのは誰のせいでもない。今はそう思いたいだけのようだ。風邪が治りかけている。少しは以前の感覚を取り戻さなければならないが、取り立てて何を考えているわけでもない。君はそこで動かなくなり、やがて死んでしまうだろう。それはでたらめな予言になるだろう。作り話の中では確かにそうだ。君にはもう期待していない。できれば何も語らずに、さっさと消え去ってほしい。誰の意識に向かって何を問うているとも思えない。言葉を記すことで窮地を脱することは叶わない。二日後の夕方になって、やっと正気に戻ったようだ。その間に何があったわけでもない。そのときはひたすら言葉を記していたはずだった。過去を思い出せないのは今に始まったことではない。風邪の治り際の咳がおさまったようだ。治り際だと思いたいのだろうが、本当のところはよくわからない。そういえば戦後教育が何やらかんやら述べていた人はもう大臣を辞めてしまったらしい。日付的には明日の出来事になる。確か諸悪の根源が教員たちの労働組合である日教組にあるとか述べていたはずだ。もう二日後の段階では忘れられた存在かもしれない。世の中の悪い兆候のすべてが教育のせいだとは思えないが、そういう論理に乗っかって述べるなら、戦前の教育が何をもたらしたかといえば、戦争と国家の滅亡だ。アメリカと全面戦争をやったあげくに大日本帝国は滅亡したはずだ。それに対して戦後の教育がもたらしたものは、平和と国家の経済的な繁栄になる。戦前と戦後のどちらの教育がいいのかといえば、やはり戦後の方だろう。その戦後教育の大半を押し進めてきたのは他ならぬ自民党政権のはずだ。それを今さら否定して、悪いのはすべて日教組のせいだと主張するのは筋の通らぬ話だ。今や右翼の標的は北朝鮮と日教組しかないのだから致し方ないところだが、場所とタイミングわきまえずに本気でそんなことを主張している姿が滑稽に見えてしまうのは自業自得だろう。たぶんそういう道化者は本質から外れたところに自らの居場所を確保していて、そこで独りよがりなことを主張していられるだけ幸せ者なのだろうが、それがこの世界に影響を及ぼすことはない。別に影響を及ぼさなくても生きていられるのだから、それはそれで楽な立場なのかもしれず、しかも自らが正しい主張をしていると思い込んでいるのだろうから、まったくところ無敵なのだ。他の誰の反論などに耳を貸す必要はなく、彼がガンと見なしている日教組の撲滅のためにその生涯をかけて取り組んでいればそれで満足なのだ。そんなわけで人は虚しいところで凝り固まることができるようで、その哀しい例が彼になる。ああいう人でも他山の石ぐらいには存在価値がありそうだが、あそこまでなれる人はそう滅多にいないはずだ。君にはついてゆけない雰囲気があり、それに接した大半の人と同じように、ただ呆れ返るしかないが、彼の他にも本音の部分でつながっている人が大勢いるとすれば、ああいう論理がまかり通ってしまうような世の中は恐ろしい。何でもないことかもしれないが、何らかの社会現象を否定する時、何か特定の人物や団体を、そうなってしまったことの諸悪の根源として糾弾する人の姿は暴力的に見える。日教組に入っている人たちも同じ人間なのに、あそこまで過激に悪と断言してしまうのは、何か特定の思想によって洗脳されている証だ。


9月26日

 たぶん何も出てこない。大山鳴動してなんとやらだ。今は危機の時ではない。アメリカの金融危機も結果から見れば何でもない。貧乏人は相変わらず貧乏のままで、一部の金持ちが大損したかもしれないが、大半の人は何事もなかったかのように生活している。そしてここには何もありはしない。それが誰の感情を逆撫でしているわけではない。テレビをつければ娯楽番組ばかりだ。誰かがテレビを消して音楽を聴いている。ありふれた音楽だ。世界はひとつに結びついている。死に行く者は確実に死に絶えるかもしれないが、生き残る者はうまく立ち回って生き残る。ことの善し悪しではなく、何かを引き寄せる能力があるかないかの差だ。そこに何か一定の基準があるわけではない。最悪の状態が最悪ではなかったりするわけだ。どう転んでもただでは起き上がらない。君にはできない芸当をこともなくこなしてしまう者もいる。失敗したらそこから教訓めいた反省でも導き出せばいい。大銀行が破綻してもそれを伝えるメディア各社は倒産しない。どこかの都市で自爆テロが起こって、多数の人が死傷しても、その出来事を伝えている者がいるわけだ。そこに当たり前のことを当たり前のように捉えている意識がある。それは驚異的なことではない。何が矛盾しているわけでもない。君は何かの漂流者なのだろう。誰もが情報の漂流者なのかもしれない。危機感を煽りたい気持ちはよくわかる。だが本当に深刻な危機に陥ってもかまわないのだ。それをおもしろかしく伝えている者がいる限り、そんなのは危機ではない。野次馬いるだけ余裕があるわけだ。野次馬商売が成り立っているうちは、まだこの世界は安泰に違いない。そこには秩序を維持したい者や団体があり、それらがなんやかんやと方策を打ち出している間は、大したことではない。いよいよ行き詰まってきたら、何もできなくなるだろうし、打つ手がなくなってきたら本当の危機が到来するだろう。その時が楽しみだ。たとえそうなっても誰もが破滅するわけではない。我関せずで、平然と高みの見物を決め込む者がいるはずだ。何となくそれほど不快感はなく、市販の風邪薬が効いているらしい。そんな気でいてもかまわないのだろう。何でもない夜だ。非業の最期を遂げる者が時代劇の中で断末魔の叫びを発する。誰かがテレビでも見ているのだろう。急な場面転換でわざとらしく我を失い、誰でもない者が何か適当なことを考えていることにするが、言葉がまとまらなくなる。視界不良に陥ってしまったらしい。もとから何が見えていたわけではない。ただ妄想を抱いていたようだ。何かが砕け散る。いずれはそうなるだろう。君はその砕け散った何かを空想している。誰かがネット上で画像を検索している。そして隠された誰かの素顔を発見したつもりになる。何かが急速に姿を消しつつあるらしい。変貌しつつある地球環境に関して危機感を抱いている者などいくらでもいるはずだ。他の何を危惧しているわけでもなく、それらの変化の速度が問題となっているわけだ。しかし君にはわからない。一方では世界的な金融危機であって、もう一方では地球の温暖化だ。両者の間に興味を引くような関連性は見出せないだろう。何をこじつけようとしているのでもない。それでも馬鹿げた妄想を抱いている。ゆっくりと移動していけば、その時々で何かひらめくかもしれない。たとえつまらぬ冗談でもそれを受け入れるつもりなのだ。何をあきらめているわけでもない。ひたすら言葉を記そうとしているのは、冗談を語るためにそうしている。嘘に決まっている。だがそれで誰も知らないことを見つけたつもりになれる。ただの思い違いだろう。何を見つけたわけでもなく、ただ言葉を記しているだけだ。しかしそう述べて何をあきらめているわけでもない。たとえ希望が絶望に変わろうと、そんなのは無視するまでだ。そして何を無視しているわけでもなく、音楽を聴きながらひたすら画面を眺めている。時々咳き込むが、まったく意に介さない。頭を抱えている場合ではない。その先に偶然の巡り合わせが待ち構えているはずだ。独りよがりの思い違いを抱え込んでいようと、そこに可能性を見出したい。体調が優れないのは誰のせいでもありはしない。それは誰かの勝手な思い込みに違いない。すぐに良くなることを願って、今はひたすら耐えるまでだ。だが君に本当のところはわからない。その先に何が待ち構えているのかもわからない。落とし穴にはまっている自らを想像する。決して抜け出ることが不可能なあり地獄の穴だ。君は昆虫のたぐいではない。空想自体に無理がありそうだ。マヤのピラミッドの上で心臓をえぐりとられているわけでもない。寒いのだろう。寒気を感じている。だんだん悪くなっているような気がしてくるが、それだけ明日に近づいたということだ。聞く耳を持たないような感覚に襲われ、それが自滅の兆候であることを思い知る。自分が自分であって、自分でないように思われる。ただ矛盾しているようだ。実際には君ではないのだろう。そんな意味不明に心の空洞が満たされている。それでももうすぐ終わるはずだ。終わってしまったら明日になるだけであり、明日になったらまた仕事をこなしている自分に出会う。変調を来している体調のことを忘れてしまうのだろう。そして夜になったら思い出す。また思い出して後悔している。


9月25日

 気がつけば思考が停滞しているようだが、悩んでいる暇はない。だが暇を持て余しているようでいても、何もできはしない。たぶんそこで何かを思い出さなければならず、誰かが昔の記憶をたぐり寄せる。昨日はそんなことができるような気がした。今日はそうは思わない。それは勘違いではないようだ。何かの罠にはまっていたのだろう。それは冗談か何かだ。冗談の罠にはまっている。冗談のついでに誰かが何かいい加減なことを告げている。もはや君には未来がない。作り話の中ではそれも冗談だと思っているが、実際は少し違うようだ。何も予言の言葉ではない。君が何を予想しているわけでもない。たぶん何かの岐路に立たされているのだろう。致命的な過ちを犯すように、究極の選択を迫られている。むろん冗談でそんなことを述べているつもりだ。他に何を承知しているわけではない。迫られているそれが死ぬか生きるかではないと思う。何かの禁句に遭遇しているのかもしれないが、あわてて思い直して、やはり何でもないことのような気がする。無理にそう思っているわけだ。フィクションの中ではたとえそれが自らの死であったとしても何でもないことだ。実際に実在する誰が死ぬわけでもなく、架空の死の直前に、何でもない人生について何を語ればいいのかわからなくなるが、とりあえずそれは波瀾万丈からはほど遠い。何か適当に嘘をついているようだ。何も語れない君はフィクションにはいない。なぜそれで持ちこたえているのかわからない。咳が止まらないのに、そんな体調でも平気のようだ。君は乗り切れてしまえるような予感がしているらしい。それが勘違いであることを自らが死を悟るのと同時に気づいたりするわけだが、やはりそれはあり得ない話だ。君はとりあえずその時が来るまで待たなければならない。ひたすら待ちに待って、結果がわかるその時まで待ち続ける必要がある。しかし待つ理由がわからない。死の原因もはっきりしない。汗ばんできたのは熱いお茶を飲んだからだ。それが死と直接関係があるとは思えないが、君は自らの死については鈍感なのだろう。すでに死んでしまっているのに、それに気づいていないのかもしれない。だがそれを知る必要があるとは思えない。フィクションの中ではそうだ。今は何も知らなくてもかまわないのだろう。機が熟していないのかもしれないが、もしかしたら深刻な危機かもしれないのに、その危機を無視していても一向にかまわないような気がする。それは架空の危機かもしれない。作り話的には理由もなく誰かが自らの死に直面している。そんなのはあり得ないが、病にかかっているのかもしれない。たぶん風邪のたぐいだろう。案外不治の病だったら笑ってしまう。それがどのような思い違いであってもかまわないが、誰かがその時が来てしまったことを実感している。もう長くないだろう。それが作り話だと思いたいが、そうでなかったら本当に長くない。しかしそれでも短い一生ではなかったような気もしてくる。なぜそんな予感がするのかわからない。たとえそれが深刻な事態であっても、容易に乗り切れる気がしているようだが、たぶん根拠など何もない。意味もなく動揺していても、それは直接言葉にはむすびつかず、何でもかまわないような気がして、それに合わせてくだらぬことばかり口走る。それでも感覚的には、ただの風邪でないことだけは確かだ。実際にかなり長引いている。良くなる兆候も悪くなる兆候も感じられず、そのままの状態がいつまでも続いているようで、やはりもう長くはないように感じられてしまうらしい。誰かが抱いている妄想の中にも滅びの兆候がある。そしてそれを感じても何とも思わない。もはや何か起こっても驚くような心境ではなく、覚悟ができていて、あきらめているのかもしれない。手遅れならそれでもかまわない。ならばあきらめたついでに気分転換でもしてみればいい。もう秋だが何を想うこともない。過去は過去で今は今だ。このまま何もせずに終わってしまいそうだ。たぶん終わってしかるべきであり、終わらなければならないのだろう。しかし終わる理由がわからない。またいつものように言葉が循環している。文章の表面で何かの逡巡が起こっている。残り時間がないのに何ももたらせない。いらだっているのだろう。それな弱音だ。誰かが弱音を吐いているらしい。もう君は終わりだ。そう断言し続けているのだが、ひたすらその先に言葉を記そうとしている。なぜそこから退こうとしないのかわからないが、それでも誰かの冗談だと思いたいようだ。何も語っていないのに、それが君の思うつぼなのだ。言葉を記すためには何も語らない必要がある。黙して語らず、意味不明気味に同じような言葉をひたすら連ね、それでありふれた語りから逸脱している気になるが、実際のところ、何を記してもそれは自己言及もどきとなる。そんなことはもとから承知しているのだろう。ただ休みたい。休むためには死ななければならない。そんな嘘をついてしまいたくなるくらい、休んでいない気がしている。近頃は自己防御機構が働いているようで、本当に風邪を引いているとしても、何も感じないようになっているらしい。肺炎の一歩手前で気づく自信がない。もしかしたら死んでも気づかないのではないか。かなり無理をしているのだろう。無理をしすぎて無理をしている感覚さえすり減ってしまったのかもしれない。


9月24日

 またわからないことを述べているようだ。他に何を求めているわけでもなく、ただひたすら語ろうとしているらしいが、何について語っているわけでもない。そして言葉を適当に組み合わせて並べようとしている。文字の羅列になりそうだ。それでも平静を装わなければならない。だが何を探していたのか忘れてしまったようだ。君がそれを見つけ出すことはないだろう。その代わりにみかんが食べたくなる。それとこれとは無関係だ。まともなことを述べるための準備が整っていないようだ。また虚無を導こうとしているのではない。それは何かの計算式ではなく、計算づくの結果というより、何かの単純なアレルギー反応かもしれない。誰が何をやっても今まで以上の結果を得られる可能性は低いが、今さら奇跡に期待しても虚しいだけだ。首相の首をすげ替えただけでは意味がない。しかしそれ以上の変化を期待する方がおかしいのかもしれない。たぶん今まで通りでもかまわないのだろう。不景気だから景気対策でもやってお茶を濁していれば、国民もあきらめてくれるだろう。何か特別な政治力の発現を期待するのは荒唐無稽もいいところだ。それでも何かやっていれば保守系の評論家のたぐいが言葉で飾り立ててくれるような気もする。実感は何もわいてこないだろうが、とりあえずは一生懸命努力していることになるのだろう。この状況で何か画期的で衝撃的なことをやれというのは無理強いであり、呆れた無い物ねだりだ。たぶんこのままでもかまわないのではないか。政治に幻滅したままの方が冷静でいられると思う。意味もなく内閣支持率が高くなってしまうのは、かえって危険な兆候を示していることになる。あの程度の政治家を本気で支持するような人々はかなりヤバそうだ。ここ数十年は何をやってもうまくいかないのがこの国の政治なのだから、あの程度の政治家もそれを踏襲するのが必然というものだ。それでも選挙になれば多くの人が投票してくれるのだから、うまくいかないことをありがたがるべきだ。何か適当にやっていれば評論家のたぐいが彼の長所を必ず発見してくれるだろう。安倍氏でも福田氏でもほめていたのだから麻生氏をほめないはずがない。それがその手の政治評論家の義務と化している。彼が無能だろうが有能だろうが、不能だろうが、とりあえずそれをほめるべきで、あとは小泉流のはったりでもかませば大喜びだろう。彼と彼の内閣がやるべきことはニュース番組が彼に成り代わって示してくれているはずだから、黙ってそれに沿ったことをやっていればいいだろう。そういうことをやっていればそれほど悲惨な世論調査結果は出ないだろう。やっていることが無効か有効かはニュース番組が判断することで、やってみた結果が無効だと批判されたら、どうすれば有効になるのかお伺いをたててみたらいい。たぶんその程度のことで済んでしまうのがこの時代のこの国の政治なのだ。ロシアや中国のように政治家や党に主導権があるのではない。主導権がはっきりと特定の人物にあるのは、その人物が独裁権を有しているということであり、強権的な傾向がある。それがないだけでも当たり障りがなくて、可もなく不可もなく、毒にも薬にもならないような状況で、この国に合っているのだろう。馬鹿げた野望を抱けなくて結構なことだ。それもこの世界が何でもないことの表れだ。そんな現実は動かし難い。特定の個人の指導力がどうであれ、そんなものではどうにもならない。どうにもならないが、どうにかする姿勢を示していればいい。とりあえず君には関心がない。たぶん関心を持たない方が良心的だ。どうでもいいことに無理矢理関心を抱かせるのは悪質きわまりない。あとは選挙になって国民がどうするかが問題となる。多くの人が投票に行くのだろうが、案外投票しても何も変わらないような状況を目指して投票してしまうのかもしれず、君は有権者の投票についても無関心だから、何を期待しているわけでもないらしい。国民が何か目新しい政治状況になることを期待しているとは思えないのだ。そしてそれが杞憂に終わってほしいとも思っている。たぶんこれからも退屈で何でもない出来事が続いてゆくのだろう。それについて何も思ってもどうにもならないような状況がひたすら続くわけだ。飽き飽きして呆れてくるのだろうが、それでも人々は変わらない。君も変わらず誰かも変わらない。そしてそんな予想が裏切られることを願っているが、現実はそう甘くはないだろう。たぶんどうでもいいような紆余曲折の連続から、思っても見なかったような結果が導き出されて、大笑いの結末が待っていたりして、何となく誰かを楽しませてほしいのだが、それはそれで筋違いの期待なのかもしれない。とにかく世界の中で日本は国家としてはどうでもいい存在だ。これからも生温いことを冗談のように行使しつつ、何でもない国家として存在してほしい。たぶんこの国に傑出した政治家など要らないだろう。危機感を煽っている言説自体が冗談そのものであり、無責任極まりない無内容だ。このまま行政も司法も立法も何もかもが形骸化してしまえば、国民が国民でなくなってしまうかもしれない。そんな嘘を述べてしまえるほど、冗談のような政治状況だ。そしてそれがまったくの勘違いだとは思えないのが怖いところだが、それでも笑っていられる。


9月23日

 何かの紋切り型に沿った内容なのだろう。それに関しては様々な手法があり、その中のひとつとしてそういうやり方がある。君はそれが気に入らない。だからそこから外れようとして、無理な言説のねじ曲げを試みるが、今のところはそれがうまく機能していないようだ。そこで何を想定しているとも思えず、何について語っているのかはっきりしないまま、そんな雰囲気を漂わせつつ、適当に言葉を弄んでいるようで、それで何を主張したいのかわからず、ただその場の流れに逆らうこともせず、ひたすら意味の分からないことを述べ続け、そのあやふやさのただ中に、無意識の意図が立ち現れているように装いたいのかもしれないが、やはり何のことやらわからない。確かに意識せずにその人格に特有な癖が出てしまうこともあり得るが、それを意図的に制御しているつもりになるのは勘違いだろう。そんなやり方では何を語っていることにもなりはしないが、それでかまわないような気もしていて、まともなことを述べるのを断念しているようでいて、本当にそうなのか疑わしいところだ。とりあえずはっきりしたことは何も述べられない。やはりそれもひとつの手法なのだろう。現状の捉え方に欠陥があるようだ。正しいやり方など知るつもりもないが、表面上は平静を装いたいのだろう。画面に向かってどんな表情を浮かべているわけでもない。それでも何となく一時的な危機を脱したように思われ、これから生じるだろう不具合に対しても一応は心の準備ができているようだが、その時になってみないことには何ともいえない。今はそれでかまわない。その時になったらそれなりの対処をすればいいことだ。今はそこまで考えが回らない。だがすでにその時のことを想定しているはずだ。無意識がそうさせている。またくだらぬ推測を働かせようとしているらしい。そしてすでにそこでわからなくなっていて、いったい何を語ろうとしていたのかわからない。少し先に起こるであろう未来の出来事についてあれこれ想像していたはずだ。虚しい思索が発動している。晴れた空の下に住宅街が広がり、宅地と宅地の間に点在する田畑に作物が実っている。稲刈りの季節が近づいているのだろう。さっきまでそんな光景を目にしていた。それは未来ではなく過去だが、また目にするかもしれないから、未来の光景でもある。要するに何でもない風景の中に視線が迷い込んでいる。分譲地に建てかけの住宅が数件見える。土地を狭く区切って敷地ぎりぎりまで住宅を密集させて建てているわけだ。やがて庭のほとんどない同じような建て売り住宅が数千万円で売りに出され、数十年のローンを組んで誰かが買うのだろう。それが当たり前の成り行きであり、何でもない。この世は何でもないことの集合体によって構成されている。不動産業者も儲けが出るようなことをやらないとつぶれてしまう。現状ではそういうやり方が一般的なのだ。そういう住宅に住んで中途半端に満足を強いられる者がその地域の大半を占めるのだろう。住んでみればそれでも快適だと思うだろう。中途半端だなんて思いもしないのかもしれない。そういう住宅街ではそうであり、アパートやマンションばかりの地域ではもっと狭い範囲内で満足を強いられ、そこに住めばそれで快適な気分になるのだろう。それで満足できない一握りの金持ちたちなら、マッチ箱ハウスの数倍の家の敷地面積よりも庭の方がさらに広い高級住宅街に住んでいるかもしれない。そういう地域ならそれが当たり前になる。そしてそういう地域に住んでいる者の方がマッチ箱ハウスに住んでいる者よりも格付け的に上に位置されるのかもしれない。資産や財産をより多く持っているわけだ。しかしそれがどうしたわけでもない。それに応じた基準を設定すれば何となくそこに人間的な上下関係を構成できるが、それはあくまでも相対的なものだ。さらに広大な宮殿に住んでいるアラブの大富豪的な者を基準にすれば、マッチ箱ハウス群に住んでいる者たちも高級住宅街に住んでいる者たちも大して変わらない。みんな日々あくせく働いている労働者としか見なさないだろう。やはりこの世は何でもないことにこだわりや幻想を抱かないと生きてはいけない世界のようだ。別に宮殿に住んでいる者がうらやましいとは思わない。そこで召使いの身分で働いている使用人たちが悲惨に思われてしまう。主人と召使いの格差は絶望的だ。マッチ箱ハウス街と高級住宅街の比ではない。もちろんそこで暮らしている召使いたちにとってはそれが当たり前のことであり、何も絶望などしていないだろう。それとは無関係な地域に暮らしている者が眺めればそう思われるだけで、宮殿内には宮殿独自の安定的な人間関係が築かれている。一生使用人として生きていてもかまわないような人間が暮らしているわけで、その者にはその者のこだわりがあり、案外ご立派なご主人様に仕えることに誇りを持って暮らしているのかもしれない。いわゆる主従関係に染まった者にはそれに耐えられるだけの精神的な馴致が施されているわけだ。要するにそれも何でもないことの範疇に入る。おそらくそういう水準で考えを巡らしているとこの世界は何でもないことが果てしなく広がっているように思えてしまう。それはそれでかまわないことだ。かまわないと思うのが気に入らないなら、それとは何か違う基準でも設けたら、世界が魅惑のワンダーランドのように思えてくるようなこともあり得るかもしれないが、やはりそれも何でもないことの延長かもしれず、何でもないことに幻滅しないためにも、そこにこだわりや幻想を抱かざるを得なくなる。


9月22日

 一時的に何を語っているのかわからなくなる。今は移動中の車内で、あと数時間もすれば部屋の中だ。だからその続きを部屋の中でやればいいわけだが、何となくここである程度の目星を付けておきたい。何しろ君には時間がない。それは思い込みかもしれないが、そう思っていないと、いざという時になってからじたばたしても、もはや手遅れだからだ。その時がいつ来るかわからないから、今のうちに作業を進めておかなければならない。なぜか蒸し暑くなる。気候的にはまだそんな状態なのだろう。まだ夏が過ぎ去っていないようだ。あと一ヶ月ぐらいは時々思い出したように蒸し暑さがぶり返してくるだろう。そしてたぶん蒸し暑くなるにつれてだらけてくる。感覚が鈍くなり、思考力が減退してきて、何を考えているのかわからなくなり、鬱陶しい気分が増してくる。そして何となくくだらなくなり、投げやりな気持ちになり、どうでもよくなってしまう。何を語ってもかまわないのだろう。その内容が空疎でくだらなくてもかまわない。たまにまともなことを述べそうになって、一時的に正気に戻ったような気がするのだが、今はくだらない。くだらなくてもかまわないと思っている。それしかないからだ。それしかないからそれを語ってその場しのぎになる。なぜそうなってしまうのかわかっているのだから、そうするしかない。その流れに逆らうことはできない。そういう成り行きに言葉を合わせるまでだ。言説の対象を探しているゆとりがないらしい。君はそんなふうにその場を取り繕っている。あり得ない状況だ。嘘に決まっているだろう。だからその空疎な言説をねじ曲げて、無理矢理目新しい言説のように見せかけなければならない。冗談でそんなことを述べているつもりだ。わかっていることをわかっているように述べる。今回は意味不明ではない。ただの戯れ言を遠回しに顕揚してみせる。言葉が違っているかもしれない。勘違いのなせる業だ。正気ではないのだろう。何のことを語っているのかわかっているはずだ。そういう季節の変わり目なのだから致し方ない。空き家の周りに猫が群れている。誰かが定期的にエサをやりにくる。飼い主が入院してしまい、放ってはおけないようだ。それでも飼い猫には違いない。首輪がおかしなぐあいに絡まって、そこが擦れて傷になり、化膿して腐臭を放っているのを、何とか捕まえて外してやったら、数日後には傷口が塞がってかさぶたとなり、何とか危機を脱したようだ。まったくなつかないがエサをやるとよってくる。それだけのことだ。それは何かの挿話だろうか。空疎の中に何でもない話が差し挟まれる。そこから先はもとの空疎が続いてしまうらしい。そしてどうもそれを段落で区切る気がしないらしく、不自然な接合部をそのままにして、強引にそのあとに言葉を続けてしまう。それは関係のない言葉だ。誰とも関係がない。そして君はどこで何をやっているわけでもなく、部屋の中で言葉を記している。ひたすら無駄な作業をやっている。それをやめようとしない。いつやめてもかまわないのに、一向にやめようとしない。だがそろそろその辺で行き詰まるだろう。同じような言葉が循環し始める。その場しのぎのごまかしなど通用するわけがない。見渡せばどこまでも平坦な地面が広がっている。地平線の彼方に低い山並みがかすんで見えるが、理由もなくそれを肯定するわけにはいかないようだ。ことの顛末をまだ語っていないはずだ。誰の理解を要するような出来事でもなく、意味不明でかまわない。君だけでなく、誰にとっても意味不明なのだ。まだその出来事について語っていないことに気づくが、今はもうその必要もなさそうだ。勝手にそう判断されてはさらに意味不明になってしまうが、それでも結構だ。君は一段落した蒸し暑さを名残惜しいとは思わず、そのとき何を嫌っていたのか忘れてしまったらしい。自らの言動の何を正当化することもできない。たぶんその時がすぐそこまで迫っていたのだろう。それをどうやってかわしたのか覚えていないのだが、端から眺めていた誰かには、何となくその場にひざまずき、終わりの時を疑似体験していたように思われる。何かの幻影に違いない。今はそう思うしかないようだ。まだこうして生きている事実を重視する必要がありそうで、何かの作り話の中のエピソードとして、そんなこともあった程度に捉えるしかない。そこからさらに話を突き詰めるには及ばず、さらっと受け流して終わりとしておこう。君には適当な未来を残しておくとしよう。何かの切れ端のような体験はこの際きれいさっぱり忘れ去られるべきで、誰もあの時のことは何も覚えていないとしらを切る必要もなく、出来事自体がなかったことにしておけば万事がまるくおさまるはずだ。しかし現時点では誰が何をおさめようとしているのかわからず、君は相変わらず幻影の正体をつかめずにいるようだ。すでにあの時の夢の中身を失っている。何かを約束させられたような気がするのだが、それが思い出せないらしい。いったいそこで何をどうすればよかったのかもわからず、それらの光景を眺めるばかりだ。語りかけているのは君ではない。声の主は誰でもなく、天の声でもありはしない。ただ低く地を這うように響き渡り、それを聞いた者は一瞬その場に立ち尽くすが、次の瞬間には何事もなかったかのように立ち去ってしまう。そして誰の記憶にも残らず、何でもなかったような気になる。


9月21日

 仕事以外は何もやらないうちにまた夜になった。言葉を記すのが面倒になる。嫌になっているのかもしれない。以前からその兆候はあったようだが、いよいよ本格的に嫌になってしまったらしい。何ももたらせないことに落胆して嫌気がさしてくる。ならばそこでやめてしまえばいい。述べるだけなら簡単に結論が導き出されるが、本当にそうなるかどうかはわからない。本心から述べていないのかもしれず、作り話の中では他の者が記していることになっているので、現実の世界で活動している君には何もわからない。だからやめる決断を下せない。それは嘘だろうが、実際にそういう能力がないようだ。能力とはやめる能力のことで、君はいったんやり始めるとやめられない能力を有しているらしい。それも嘘かもしれない。今気になっているのはそういうことではない。本当に以前から無関心だったのかもしれない。だが空疎なことを語るのにも限界がありそうだ。そろそろ限界が近づいてくる。まだそこまで達していないうちにそうなのだ。そのときどこに達しようとしていたのかわからないが、意味もなくもどかしさを覚えているのは君ではない。誰かはいつも意味不明について語ろうとする。たぶんそこにどんな理由があるわけでもないのだろう。何かをごまかそうとするのはその場の成り行きに従った結果だ。述べていることが支離滅裂なのは、誰かの感情が現状を認めようとしない結果から来ている。文章に欠陥や欠点があるのは承知している。内容が空疎なこともわかっている。否定すべき要素など無限にありそうだ。この世界は一心同体なのであり、その一部分を否定して別の部分を賞賛するのには無理がある。サブプライムローンを基準にして、比較的損害の大きそうな欧米の資本主義を否定して、損害の小さそうな日本のそれを賞賛するのは勘違いも甚だしい。例えば教育に関しては北欧を賞賛して日本を否定してみたり、自動車産業ではアメリカを否定して日本を賞賛したり、確かにその時の情勢に照らし合わせて、そういう言説を用いて、何らかの事実を物語ろうとするやり方に、ある程度の有効性はあるのだろう。だからといって否定する対象にまったく魅力がないわけではない。世界のどこかに賞賛したり否定したりする対象があるとして、それを我田引水的に持論を正当化するために利用するのはくだらない。しかしそれ以外の正当化を知らないとすれば、自らの言説を正当化する行為そのものが間違っているのかもしれない。だがそれを否定してみても仕方がない。自己主張とは絶えず自らの立場ややり方を正当化するために行うものだ。君が君自身の何を否定したいのか理解に苦しむが、そこでどのように言説をねじ曲げようと、無理が生じていることは明らかだ。君は何かを否定しつつ、その否定している立場や姿勢を正当化しているわけだ。何を否定しても言葉を操っている限り、その言葉によって構成された言説は、言説自体の存在を正当化せざるを得ず、何かを否定しながら否定している自らを正当化する行為にやましさが宿っているはずだ。それが自己言及への入り口となり、そこから繰り返し自己否定に言い及ぶにつれて、やがてそれがどうにも止まらなくなり、何を語ろうと自己言及の無限循環に及んでしまい、言説を延長すればするほど、それは自己言及の繰り返しとなるだろう。他に語る対象を見出せないわけだ。それは何かの病に違いない。どこかで何かが外れてしまっている。そういう言説のねじ曲げ方に何の意味があるとも思えない。だからといって世界経済の現状について何をもの申したいわけでもない。それどころか冗談でそんなことを述べているのかもしれない。君には関係のないことだろう。他の誰かは嘘でもかまわないから何かしら関係を築きたいのかもしれないが、その言説が欧米を否定して日本を賞賛するような浅はかさに陥ってしまってはくだらなすぎるだろう。世界全体が資本主義に染まっている以上は、どの地域であっても、効率的な金儲けの手段を追求しようとすれば、ザブプライムローン的な無理をやってしまうのが必然であり、当然の帰結のような気がするのだが、後追い的に行政や議会が規制する法律を制定しても、世界各地のマネーゲーマーたちは手を替え品を替えて、新手のやり方でしかけてくるだろうことは火を見るより明らかだ。現状では振込詐欺が一向に衰えないのと同じことだ。資本主義は世界最強の宗教であり、拝金教にはまって成功すれば確かに幸福になれる。金持ちになる夢を抱くのは個人の自由であり、宝くじをやめるわけにはいかないように、そんな宗教を捨てるわけにはいかないだろう。何しろ国家公認なのだからそこから背を向ける方が罪なことかもしれない。現状ではそれに勝る宗教はあり得ない。だからこそ世界を席巻しているわけだ。国家はその暴走を一時的に食い止めようとはするが、根絶やしにするわけにはいかない。国家自身が資本主義という宗教を必要としているのだ。国家とその維持継続に携わっている者たちは、それを飼いならして有効活用したいわけだ。なぜ活用したいかといえば、それが統治の手段となるからであり、統治下の人々を労働に参加させて、適切に税金を搾り取って、全体としては生かさず殺さず、各自の夢に向かって努力させていれば、それで平穏無事に国家を維持継続させることができる。


9月20日

 それほどのことだとは思わないが、続けるつもりらしい。見定めるべきものなど何もない。暗めの曲を聴いている。紅茶の香りがかすかに漂う。現状を維持したいのだろう。誰もがそう思っている。出会いなど何もないだろう。虚無に遭遇している。もはや声ではない。文字が勝手に連なっている。何かを一瞬で見失うが、何も後悔していないようだ。興味がなかったのだろう。退屈なのだ。舞っているのは心でも埃でも雨でもない。不自然な言葉の振る舞いに疑念を抱く。それが試練だとは思わない。怠惰になる。君はそれの存在を知り得ない。君とは関係のないところから影響を及ぼしている。遠ざかるべきところで遠ざかれなくなる。もう手遅れなのだろう。手の届かないところに何かがある。冒険したいとは思わない。現状ではできないはずだ。何もできない現状にいらだつが、それでかまわないわけだ。そこから何かがわかるはずだ。そうなってしまった理由を知りたい。完璧な答えを求めている。逸脱している。君は忘れているのだ。何かの感情が表に出る寸前で止めるが、すでに表情を読み取られている。怪訝な顔を隠さない。何かを知らせているのだろう。昨日の段階を維持できそうもない。理解する前に疑問を抱く。そこまで達しないうちに弱音を吐いている。何かを保護しなければならないが、どのような脅威を感じているのかわからない。対処できる範囲内で何か適当に対策を講じようしている。だがすべては空疎だ。具体的な話に進展しないようだ。誰かは何かを語っているつもりになる。それが無理なのかもしれない。そのつもりにもなれないだろう。それは未来の時空でなる現象であり、そうなるまで語っているつもりにならなければならず、たぶんもう少しの辛抱だ。やがて虚無の地にたどり着き、それらの空疎な語りが終わりを迎えるだろう。そうなるまで何かを見つめ続けるつもりだ。何かとはこの世界のすべてであり、何でもない光景になる。無駄に言葉を費やして、自らが得るものは何もない状況下にあることを知る。今さら何を語っても無駄だろう。無駄に言葉を連ねる。この世界では何も君に課せられた使命とはならない。それらのどこにも戦術らしき兆候を見出せず、ただ惰性でそんなことを述べているとしか思えない。わざとそうしているのだろう。何のためにそうしているのではなく、わざとそうしているわけであり、そこにわかりやすい答えなどありはしない。重大な事実もなく、あるのは皮相な意味だけだ。心はいつも浅はかな領域にとどまろうとして、物事を深く考えようとする意志をそこへ押しとどめる。幻想を抱かないようにしているのかもしれない。何もなく、何も思わない状況を耐え忍ぶ必要がありそうだが、そうする理由はどこにもない。理由もないのにそうせざるを得ないわけだ。嘘に決まっているだろう。嘘でなければ語り方を誤っているのだろう。それでもわからないが、今のところはその程度で済んでいる。そこからどのように話を発展させようとしているのでもない。ただそんなことを述べ続けているだけのようだ。空疎な内容を維持しようとしている。今はまだ試作の段階なのかもしれない。永久にその状態へとどまろうとしていて、完成することがないが、それでも終わる時は終わるのだろう。そのとき何かの寿命が尽きている。様々な関係や結びつきの上にそれらの話は成り立っている。時には成り立っていないのかもしれず、常に破綻しているように感じられる時もある。読み返して修正する気がない。何を述べても嘘になり、嘘だからこそより真実に近づくわけだが、近づくことはあっても、嘘と真実が完全に重なることはない。人々はあまりにも夢を見すぎている。安易に将来のビジョンを語り、バラ色の未来を描き出してみせるが、それがあまりにも紋切り型に影響されている。他の誰かが語ったようなことを無自覚に繰り返していることに気づかない。君はそれに気づいているようで、さかんに自ら編み出した紋切り型を飽きもせずなぞっているようで、そんなつまらない作業をひたすら続け、ついにはつまらなくもおもしろくも思わなくなってしまったようで、何を述べても何とも思わなくなって、それを苦にすることもなくなっているらしい。やはりそんなのは嘘だろう。必死に精神的な苦痛に耐える日々のはずだ。だからそれが嘘だと思いたい。冗談でそんなことを述べているつもりだ。今はそれでかまわない。今でなければそんなことを語る必然性を感じなくなってしまうだろう。しかし今でなくてもかまわない。やはり理由などありはしない。何を語る理由も知らない。どのように語ってもそうなってしまうようだが、今はどのようにも語れず、そんなふうにしか語れないわけだ。それが気に入らないと思いたい。実際には満足しているのに、拒否する理由もなく、ただ受け入れ難いと思いたい。思っているだけで、現実には受け入れ難い無内容を記している。当たり前のように矛盾しているが、それでかまわない。語って当然のことを語っているまでだ。そう思うしかない心境でいるらしい。君にはわからないことだ。誰もがそれを求めているとは思えないが、わからないから楽しくなってしまう可能性も出てくる。何もかもわかってしまったら、もはや誰もわかろうとしなくなってしまうだろう。


9月19日

 何かが起こるのを期待している。終わりを否定したいわけではない。出来事が意識に影響を及ぼし、身体は何かに巻き込まれているようだが、今はそんなふうには思えない。出来事を意識することができない。誰かの期待を裏切るように今日は昨日になる。それでどうしたわけでもない。理由を導き出せないまま、明日になってしまう。何か適当なことを述べる理由が見当たらない。何も述べなくてもかまわないような気がする。終わってしまったようだ。言葉から自由になり、何かの拘束から精神が解き放たれる。ここは無意識が支配する世界だ。そこで感性が暴走しているとは思えない。自意識が世界を包み込むことはない。神ではないのだろう。世界ではないのかもしれない。それは聴いたことのある曲だ。他に何かを見つけている。見つめている対象を知りたくなる。何がそうさせるわけでもなく、間違って言葉を記しているのだろう。運勢を占っている。これから何がどうなって、こうなってそうなるらしい。その中身がわからないが、大したことではない。誰かが飄々と振る舞いながら死んでしまうのだろう。もうすぐお別れの時間だ。何もどうにもならないまま、そうなってしまうらしいが、それをなかなか認めようとしない。誰が認めなくてもいずれはそうなる。避けることはできない。それを避けるにはそれ相応の危険が伴うらしい。何のことやらわからない。気分が乗ってこないようだ。言葉だけではらちがあかず、他に何か気になることを探してみるが、何も見つからない。話題などどこにもありはしない。ただ興味を示さないだけで、実際にはいくらでもあるのだろうが、それがまったく引っかかってこない。どんな話題も目の前を素通りしてしまうような感覚にとらわれる。もはや君の手法にはついていけないようだ。語り方がワンパターンすぎる。近頃はそればかりで、まともな内容に結びつかず、いらだちばかりが増してくる。本心からそうは思わないのだろうが、心の底から何かがわいてくる。邪念のたぐいだろう。君はそれをつかみ取ることができない。見えない糸をたぐり寄せているわけではなく、その前段階でどのような行為が行われたのか知りたくなるが、それがわからないわけで、わかりようのないことを記すことはできない。何も行われなかったのだろう。少し機械が加熱しているらしい。それ以降はどうにもならず、一時的にやめざるを得なくなる。それは君が期待していた終わり方ではない。誰かは語ることに疲れていて、必要以上に苦痛を長引かせている。もうやめた方がいい。今思っているのはそういうことだ。誰かが思っていることとは多少ずれているようで、そのずれを文章を記すことによって修正したいのだが、架空の話の中に意識が入っていけないようだ。そこまで語ってはいけないらしい。無理に語ることは自己言及をもたらし、自らが嘘をついていることに気づいてしまうだろう。嘘を長引かせ過ぎだ。何に対して嘘をついているのではなく、それ自体が嘘だ。本当はその場の真実を語り続けているのだろう。何もないということだ。それは以前にも述べている。この世界には何もない。どの世界にも何もないだろう。そう述べてしまうと何もなくなってしまう。それは君の思うつぼだ。ふと見上げれば板の間に何かのぬいぐるみがつり下げられているようだ。思いついたのはそんな光景ではなく、ただ誰かが画面を眺めている。知らないうちに風邪を引いてしまったのかもしれない。肺炎に発展して何かが終わってしまうのだろう。そんな話を思いついたのでもない。実際にそうなのだろう。まだその続きを眺めていたいようだが、君が思っていることと誰かが思っていることの間には何もない。たぶん何の関係も見つけられないだろう。それが事実であるなら、君と誰かは別人になる。当たり前のことを述べているようだ。なぜそんなことを記してしまうのかわからない。フィクションを構築できなくなっているらしい。すでに何かが失われている。きっかけを求めているような時間帯ではない。時も場所も違っている。記されようとしている言葉を理解できず、自らが風邪だと悟るならば、薬局に行って風邪薬でも買ってくればいい。冷房にやられてしまったのだろう。残された時間はまだあるはずだ。すぐに死ぬわけではない。たとえ死ぬと決まっていても、こだわりを捨てられるはずもない。何かを語るとはそういうことなのだろう。何でもないことを語ることで、何かをわかったふりをする。それは無意識とも意識とも関係なく、成り行きとしてそういう過程を踏まなければ何も記せない。だからどうだというわけでもないが、そんなことを記している現状の中に何かが埋没しているようで、それを語ることで救い出そうとしているようだが、何となくそれは荒唐無稽のような気がして、自らが間違ったことを述べていると思われ、では正しいことは何だといえば、それはやはり何でもないことだ。しかし何でもないことは語りようがない。感性を素通りしてしまうような出来事について語れるはずがない。君は困惑しているようだ。何も語れないなら語らなければいいだろう。少なくとも語っている部類に含まれないようなことを語っている事実が矛盾を呼び込んでいるのだ。だが今のところはそれを避けることができない。


9月18日

 何もやらずに追い込まれているらしい。じり貧状態だ。仕事に追われているわけではない。何でもないようだが、意識はまた昨日の時空に迷い込む。記しているのはただの日付だ。それだけのことだが、こだわりを捨てきれない。日付が連続する意味を知りたい。日記だからだろう。簡単に答えが導き出されるが、納得していない。雑草が空き地に繁茂する。そんな光景を眺めている。一時の間だけだろう。語っているのはそういうことで、記しているのはそれだけのことだ。背骨が曲がっているようだ。わざとねじ曲げているのだろう。ついでに首も曲がっている。猫の背骨が曲がっている。背を丸めているだけだ。だからどうしたわけでもなく、やはりただそんなことを記している。たぶん語り方がおかしいのだろう。言わんとすることが欠けている。君はそれがわからないとは思わない。他がわからないだけだ。他とは何でもない。他に誰がいるわけでもなく、やはりそれは何でもないことだろう。要するに架空の誰かが語ることは何でもない。語らないことも何でもないが、語らないことはできない。今のところそれは選択肢に入ってない。冗談なのだろう。試しにすべては冗談だと投げやりに言い放ちたくなり、それで何になるわけでもないと思いとどまったつもりになる。実際は何もやっていない。行動の紆余曲折さえない。どこにも指針が見当たらず、やる気がしないのはいつものことだ。余裕でそうなのだ。どこの誰が不眠不休で何をやっているとは思えない。ただ記している内容が不連続で、何かを不規則に語っている。それはあり得ないことだ。あり得ないことだが、それを実現させようとしている。意味がわからないが、それもあり得ないことの続きに違いない。それでも何も語ってないと思いたいのだ。それに対するどのような反論を期待しているのでもない。何も出現しない。それは人ではない。何も語っていないのは君ではない。ただの言葉の連なりになる。意味を求めようとしていないのだろう。意識がその場を通り過ぎるにまかせる。語らないとはそういうことだ。記された言葉が君を裏切る。有頂天を目指さない。何も目指していない。今日という日を乗り切るまでは何も語らない。それは何の目標にもならない。急に耳が遠くなる。文が短すぎるのだ。気がつけばそういうことになっている。何かの話題に追従している意識があり、それを誰かが拒否しているのだろう。何かの積み重ねがそういう見解に結びつき、何を語っているのかわからないほど混乱を来しているとも思えないが、着実に前進させているつもりなのだろう。空疎な雰囲気を言葉にまとわせている。何を語ろうとしても、自然とそうなってしまうのだからどうしようもない。そしてそんな状況に何を当てはめようと思っているのでもない。でたらめに近いがかろうじて意味を封じ込めようとしている。言葉の薮を形成しているようだが、それは仕事でも労働でもなく、ただの気休めだ。そして荒んだ気分になる。何もなくても、何も語らないわけにはいかないらしい。それはわかりきったことだ。文章は言葉のパズルではない。何か主張があるならわかりやすく述べれば済むことだ。何もなければそれが主張となり、何もないと述べれば済むことだ。それで済まなくなる理由を知りたくなる。回りくどくわかりにくく、ごまかしそのもののように述べてしまう理由を知りたい。自己言及の罠にはまっているのだろう。空疎でくだらないことだ。まだそんな水準には達していない。思い込むのは勝手だが、それを誰に押しつける当てもないはずだ。君はそこで右往左往している。焦っているのだ。確かにそうだが、それでも余裕がある。そう思っているだけだろう。君には余裕などありはしない。余裕があるのは君以外の誰かなのだ。それは冗談のつもりなのだろうが、つまらない。切り捨てるべき言葉の連なりだ。学習の成果がまるで出ていないようだ。勉強したつもりはないが、どこかで何か経験を積んで、知らず知らずのうちに学習した成果がその程度なのだ。資本主義と国家は相互に補完し合い、そこに暮らす人々を完全に支配しているつもりでいる。身も心も逃れることはできない。夢を見させている当のものをいくら否定しても無効だ。物事の捉え方が間違っているのだろう。しかしわからない。突破口などありはしない。成り行きが自然なのだ。言葉ではなく、行動している当人が何も語らなくても結果を示している。要するに行き詰まっているわけだ。貧困に喘いでいるわけではなく、不治の病に冒されているわけでもなく、至って健康で日々働いている。それの何が行き詰まりなのか理解に苦しむ。どこにも出口がない。そこから抜け出ようとしているのではないのだから、それは当然のことだが、それでも出口がない。映画も読み物も音楽も幻想をもたらす。つまらない日常に埋もれていてはいけないらしいが、それ以外の選択肢を見出せず、拒否すべき状況がまともな暮らしだとすると、人々は間違った行為に導かれるしかないだろう。そういう意味で犯罪者は正しい。正しいからこそ違法行為に染まらなければならない。いつもの逆説に過ぎないが、たぶん出口とはそういうところにあるのだろう。そして出口の先には刑務所の入り口があるのかもしれず、場合によっては死刑台の先に天国が待ち構えているのかもしれない。国家と資本主義がもたらす夢から覚めたら、目の前には廃墟が広がっている。無人の広野というわけにはいかないらしい。


9月17日

 世界的な混乱という言葉が流行っている。良くなる可能性が見えてこない。可能性とは何かが見えてくる可能性だ。場合によっては混乱が終息に向かう可能性もあるらしい。言説的にはそうだ。だから人々や国家は混乱を終息させなければならないと思うだろう。本音は違うかもしれないが、あえて表明するとすればそういうことになるだろう。資本主義は未来に対する幻想によって成り立っている。借りた金を返すまでの間に利益を出せばいいわけだ。それが利益を出すどころか、損をして、返す金さえなくなってしまったら、今度は返すための金をさらに借りなければならなくなる。そんなことが当たり前のように行われているのだから、破綻はつきものなのだろう。事業家や投資家は日々賭けに出ているわけだ。儲かる見込みがあってそうしているのだろうが、目算が狂えば借金を返せなくなって、事業が破綻したり融資が焦げ付いたりする。そうなる危険を冒してまで、常に新たな金儲けの手段や方法を編み出さなければならない。それが資本主義に染まった者の進むべき道なのであり、現にそういう者たちがビジネスチャンスを求めて世界中を飛び回っているのだろう。しかし君にはわからない。君の周りにそんな者などいるはずがない。君はありふれた物語にとらわれている。心を奪い去られているのだ。テレビを見ながらそこから発せられる予言の言葉に恐れおののく。今は気にしていないはずだ。何かのバランスが崩れているのだろう。まったくやる気がわいてこない。何も考えられなくなっている。君にはわかっていることだ。絵空事ではない。たぶん理論的でもない。何かの勘が働いているらしい。勘だけなのだ。だから意味不明なのだろう。そうではないような気がする。すべては自然の成り行きなのだ。何を止めることもできはしない。相変わらず蒸し暑い空気のただ中で何かを思い出そうとしているようだが、それは未来に起こる出来事ではない。雰囲気的におかしい。別に何を知らしめようとしていたわけではない。ただ苦し紛れで回りくどくなる。それは真実の言葉だ。本当のことを述べている。誰かがそうしているのだろう。過ちの原因はいくらでもありそうだ。自然の成り行きに身も心も絡めとられている。蔦が全身に絡み付いている。実質的には情報か何かだろう。何かの残りかすのような情報だ。埃にまみれて作業を続けている。たぶん何もうまくいっていないはずだ。彼はいつまでたっても浅はかだ。言葉に踊らされている。そして散漫な気持ちのまま言葉を記している。気分次第で今までの行いを懺悔してみせる。眠気を振り払うことができないようだ。語っていることがくだらなすぎる。沈黙を守っているうちに日が沈み、そして長い年月が過ぎ去ってしまった。昨日のことだろう。そんなのは嘘に決まっている。無駄話が過ぎるようだ。近頃はそればかりのはずだ。そんなことばかり述べていてはらちがあかない。それらは虚しい宗教だ。何を信じているわけでもなく、未来に対する漠然とした期待に寄りかかっている。そうしなければやっていけないのだろう。これから何かわくわくするようなことが起こりそうだ。君の努力次第で未来は変えられる。暇つぶしをやっているうちに、今日はどこかへ行ってしまったらしい。過去に飲み込まれてしまったのかもしれない。誰かは昨日の時点でそんなことを考えていた。君の出る幕ではない。場面に時間差がありそうだ。それは何かの試練に違いない。どこかに出口があり、そこに向かって風が吹いているはずだ。だから風向きを見極める必要がある。やはり何かの宗教にはまってそれを信じる必要もありそうだ。それが資本主義なのだろう。人が作り出す構築物はすべて商品になる必要があり、それを売り買いして利益を出さなければならず、その利益を使って他の商品を買う必要も出てくる。しかも未来にもたらされるであろう利益までも前借りして商品を買う必要があるのが現代社会の欠陥だ。だが誰もがローンだらけの人生を送っている現状はおかしい。今や資本主義はそんな夢という名の未来を食い尽くしているとしか思えない。国家自体が国債を大量発行して自縄自縛の自業自得で身動きがとれなくなっている。何もかもが可能性の限度を超えているわけだ。のるかそるか一か八かという危険な賭けに出ていることに無自覚すぎるのだろう。節度をわきまえず、無造作に危ういことをやっている。失敗した後のことまで考えが及ばず、心にゆとりがなく、誰よりも先に目先の利益を確保しなければならず、そのための競争にしのぎを削りながら、未来への可能性まで削ってしまっているわけだ。スポーツ的に身も心も削りすぎて、結局そのどちらをも壊してしまい、そんな故障だらけの心身を抱いたまま、人生の晩年を送らなければならず、夢を追い求めることが、結果的な虚無的な心境に至り、どんなに努力しても、それが水泡に帰すような感覚を得て、何も感じられなくなり、そこから自らの終わりを悟り、もしその先まで寿命が続くならば、そこから進化して、さらにどうしようもなく幼児的な退嬰を体験することとなるだろう。しかしそれが誰の予言になることもなく、君は焦燥感に包まれることもなくすべてを忘れ去り、ついにはすべてをなかったことにしてしまい、黙ってその場から退いてゆく。


9月16日

 たぶん今日も今日のような気がする。少なくとも明日ではない。空は曇り時折雨が降ってくる。君はそこで何を考えているわけでもなく、何となく外を眺めているようだ。何も思いつかず、それでも言葉を記すが、やはりそれは何でもないことだ。何を想うこともなく、過去の記憶をたぐり寄せることもできず、言葉の断片以外に手元には何も残っていない。それらには空疎な響きが含まれている。矛盾しているのはわかっている。何がそうなのではなく、いいわけなど何も思いつかず、ただそれらの風景の中に誰かの意識が溶け込んでいる。いつかの歌声は記憶の彼方へ遠ざかり、それは今聴いている音楽とは違い、何か懐かしい印象をもたらし、記憶はそれをつかみ損ねて忘れかけるが、いつか思い出す時のために、かすかな残りかすのようなものを感じ取っているのだろう。そういうことを語るのは、今以外にはないような気がして、やがて失われるその場の雰囲気を、言葉にすることはかなわぬようだ。それでも何か適当に言葉を並べてみるが、たぶんそういう試みは常に失敗してしまうのだろう。冗談に逃げるなら、その内容はいつまでも冗談にとどまる。しかしそれの何が冗談のかわからず、無理にわかろうとしてはならないのだろう。今は急ぐ時ではない。疑念を抱く時でもない。機会を捉えて言葉を繰り出しているような気になる。あり得ないことだが、そんな思い込みにとらわれているようで、何があり得ないのかわからない。そういう言い回しがあり得ないのだろう。まだそこから離れられずにいるらしく、こだわりを捨てきれない。たぶん何か適当な言い回しにこだわっているのだろう。それで言説を構成しようとしている。批判しているのではない。それは君自身が決めることだ。だが何をやめようとしているのかわからない。そこで何かが途切れているらしい。何を続けるのにも不連続がつきものだ。昼の感覚はもう忘れてしまったらしい。肝心の中身がない。それでは話にならないだろう。しかしそれでかまわないのであり、その辺が潮時なのかもしれない。誰かはいつもそれらの作業をやめたがっていた。だが過去においてはそうであったとしても、今も未来もわからない。誰かが画面上からこちらを見ている。それはただの画像だろう。どこの誰が四面楚歌というわけでもない。誰の意識が虚無に囲まれているとも思わない。何かを探しあぐねているのだろう。たぶん外れているのだ。そしてすべては君にゆだねられている。何がそうなのかわからないが、すべてはそういうことだ。何かをはっきり語ることができないのだろう。素人の言説なのかもしれない。君はそれで満足できないが、それしかない。絶えず何かを逃し続け、今見逃している何かを思い出そうとしている。過去にあるわけがないのに、それを探し出すつもりでいる。誰かが直面している無理とはそういうことだ。君にはそれの何が無理なのかわからない。誰にもわからないことかもしれず、そんなことを考えたりひけらかしたりするのはおかしいと思われる。そして何について考えていたのか思い出せなくなり、どうでもよくなってしまう。言葉とともにだいぶ無駄な時を過ごしてしまったようだ。わざとそんなことを述べている。また意味をなさないことを語ろうとしているらしい。何かの途中から気分がおかしくなっている。たぶん感動を追い求めてはいけないのだろう。無理をすればそれの反動は大きい。だから今はそれでかまわない。何かに対してアレルギー反応があるようだ。それは何でもないことの延長上にある。そこで何かを見失ってしまったらしいが、それが何だかわからない。画面がぼやけているようだ。目の焦点が合っていないのかもしれない。たぶんそういうことではないのだろう。どういうことでもなく、やはりそういうことになる。そしてそういうことではない。要するにどういうことでもいいのだろう。それが何でもないことの空疎な中身だ。何を記してもかまわないが、そのことごとくがどうでもいいことだ。何がショックだとも思わない。誰が衝撃を受けたわけでもない。大したことはない。誰かはかやの外に存在しているつもりになり、国家に見捨てられたマネーゲーマーを哀れむこともない。何らかの対策を期待しているわけでもない。すでに賽は振られた。あとはどんな目が出ても、それを冷静に受け止めるまでだ。それらの出来事はお祭り騒ぎにはなじまない。今さらリベンジだの何だのと騒ぎ立てても虚しいだけであり、何か教訓めいた言説を弄する気にもなれない。とりあえず小さなことの連鎖で大きな事件に発展して、何となくその方面の人々の間には楽しげな雰囲気が漂っているらしいが、他人事である以上は、あまり騒ぐ気にも批判する気にもなれない。もはや昔の君ではなく、知ったかぶりして何かをエキセントリックに語る愚を犯すこともないだろう。そんなことをしても言葉に強度が伴わず、うわべだけでメディア上に行き交っている言葉をつなぎ合わせているだけのような気がしてしまう。それの何が気に入らないわけではないが、そういうのは別のところで別の誰かが語るべきなのだろう。ここではがらくたのような言葉がお似合いなのだ。何かの残骸のような言説が求められているのかもしれず、まだしばらくはそういうことになりそうだ。


9月15日

 そして今日になる。別に今日を目指していたわけではないが、とりあえず昨日の時間帯から抜け出ることができたような気がしている。だが今日になってもいい加減なことを述べている。たぶん明日になってもそのままであり、中身のあることは何も語ることがない。わざとそうしているのではなく、そうなるしかないのだろう。ひたすら怠惰な試みが持続しているようだ。そういう成り行きになっている。それについては何の幻想も抱けず、ただ言葉を記しているだけのことにどんな感慨も抱けない。そしてそんな成り行きの中で何を思うこともない。誰かはそれを惰性で続けたいらしい。それではだめなことはわかっていて、機会を捉えてはそこから遠ざかろうとしているわけだが、気がつけば元の木阿弥のように戻ってきている。できることならそれとは違うことを述べてみたいが、心を包み込んでいる虚無がそうさせてくれない。そんないいわけもでたらめである。実質的には何も語れないだけだろう。飽きもせずひたすら言葉を記しているつもりだが、その内容は空疎そのものだ。そしてそんなことはわかりきっていて、それの何がかまわないとも思わないが、実際はかまわないような成り行きの中にいるらしい。そしてそこに誰がいるわけでもなく、架空の君がいるようなつもりでいるが、何のことやらわからなくなる。要するにいくら思い悩んでも、それらの状況は何でもないことなのだろう。今のところはそれ以外にはあり得ない。本当に何もありそうにない。それらの文章はすべて空洞から構成されていて、誰かはそれを何とも思わないように自己を制御しているらしいが、そんな自己催眠がいつまで続くかわからず、何かのきっかけでそれに気づいたふりをして、そこから一気に自己変革を敢行して、自らの思い通りの文章を構成して、そんな架空の成果に感動している夢を見ているのかもしれない。だがそれは浅はかな夢だ。今までもそう思いつつも、そういう成り行きにはならなかったことが、誰かの思い過ごしであることを裏付けていて、誰かがどうにもならない宿命にとらわれてしまっている事実を、くだらぬ幻想によって忘れようとしているだけで、それが無理であることを無理して認めようとしないことが、どうしようもない焦燥感や煩悶を招いていることに気づいていながら、それをやめようとしない。いったいいつまでそれらのやせ我慢が持続するのかわからないが、いつしかそんな自己言及もどきの告白にもマンネリ感が漂い、架空の君をうんざりさせているようだ。だがそれ以外に誰かが何を思いつくわけもなく、何も思いつかないからこそ、そんなことを述べている現状から抜け出ることができないわけで、それを続けようとすればするほど、そんなつまらない語りにはまってゆくわけだ。それらの語りはもはや誰かには止められない行為と化していて、そこから抜け出られない状況に嫌悪感を抱き、自らが自らを精神的に追いつめているような鬱状態となっているようで、それでも何か記している事実に寄りかかりながらも、それを押し進めようとしていることが、取り返しのつかない過ちとなっているのかもしれない。正しい行いを求めるならば、直ちにそれをやめるべきなのだろうが、現にやめられないのだから、それらの誤った試みを押し進める以外にはあり得ないのだろう。とりあえず今のところはそういうことだ。これから何らかの外部的な要因によって、それらの継続を無理矢理断ち切られる時が来るまで、それを惰性で続けてしまうのだろう。むろんそういう認識も誤っているのかもしれないが、今は何とも言えない。とりあえずそんな精神的な位相に誰かの言説があるらしく、そこからさほど遠くないところに架空の君が存在している。今日はいつもにもまして回りくどいことを述べていて、読み返していてかなり鬱陶しい。下界はまだ蒸し暑いようだ。そう思うのは誰かの気分次第だ。たぶん何かをなかったことにしたいのだろう。誰かはそれを省いてその先に進みたいらしいが、それでは虫がよすぎるようで、虚無が誰かの無謀な前進を阻んでいる。そんなふうに思いたいだけなのだろう。だいぶご都合主義に染まっているようだが、現実はそうではない。ではどういうことかというと、よくわからないが、また嘘をついているようだ。誰かは君に誰かの影として何かを期待していたらしいが、今はそれを誰が思い出そうとしているのもなく、誰の期待も忘却の彼方へと捨て去り、やりかけの何もかもを放り出して、物語の中へとダイブするつもりはないが、誰かは自分だけの隠された物語を後生大事に保持しているようだ。それがふとした拍子に脳裏を横切るような幻覚に襲われるが、それはきっと気のせいだろう。誰かは今日も冗談でそんなことを記しているようだ。しかしまだ言葉が足りない。肝心の物語はどこで誰が語っているのかわからず、それを探すそぶりも見せず、ただ延々と無駄な言葉を連ねながら、時折本音ともとれる台詞をでたらめの中に忍ばせているつもりらしいが、君にとってはいつも何が何だかわからずじまいだ。言葉は終始そんな調子で連なろうとする。君はもう疲れてしまったのだろう。誰かを無視して虚無の饒舌を断ち切り、その場にうずくまり、気がついたら眠っていて、翌朝に目覚め、また昨日と同じ一日を過ごして何とも思わない。


9月14日

 何となく誰かが言葉を記している。たぶん記しているのは今日ではないのだろう。そしてどうやら深刻な事態になるのは避けられたようだ。一時はどうなるかと思ったようだが、何とかそこで踏みとどまったらしい。その証拠にまだ誰かは生きている。そうなった原因や結果がどうしたわけでもなく、なぜというわけではないが、途中を省いて、今はかろうじて気力が続いているようだ。とりあえずまだこの世界の中で思考作用が働いているらしく、正気を保っているようだ。そして誰かは何かを続けることで、どこか適当な場所へたどり着いたようだが、やはりそこから先がよくわからない。たぶんまともな内容を目指すべきなのだろう。だが長らくいい加減に語ることばかりだったので、簡単にそれをやめることはできず、何をどう語ったらまともになるのかわからなくなっているようだ。ではまともに語るのは断念して、今まで通りにいい加減に語るべきだ。しかし方向転換が早すぎるだろう。それでも一時陥った胸の息苦しさからは解放されて、病は少し改善したようで、今のところは小康状態のような、そうでないような、実感としてはよくわからなくなっている。またぶり返してきたら、今度こそ終わりなのかもしれないが、今はそんな気がしないようだ。作り話的にはそういうことなのだろう。実際には何がどうなっているのかわからない。時間的には翌日の夜だが、それがどうしたわけでもない。どこをどうやってそこまでやってきたのか知らないが、そういうことらしく、夏の蒸し暑さも完全に去ってしまったようで、とりあえず気分は爽快に近い。そんなわけで気分次第で何がどうなるのか知らないが、やはり今のところはいい加減に語るしかないらしく、何を語っているでもなく、ただ言葉を記す成り行きに行為を絡めとられ、他に何をやるでもなく、何もできずに何でもないことを記している。そこで何がどうなっているわけでもない。少し何か適当に考え込んでいるようだ。それは何も語れないことのいいわけのようにも響く。そんなことを述べているうちにも時は過ぎ行き、虚無は何でもない状況を続けようとさせ、誰も何とも思わないような成り行きを維持している。君はこれからどこへ行こうとしているのでもなく、どこへも行かないわけでもない。たぶんどこへも行けない代わりに何でもないこの世界に幻想を抱いている。単純なことなら述べられる。例えば世の中が良くなるとは、君の思い通りになるということだ。そこから逸脱する答えを求めるのは難しい。それを探るのは虚しいことだ。他に虚しいことなどいくらでもあるだろうが、それもどうしたわけでもない状況に結びつく。そういう試みが予定調和だと述べたいらしい。そんなわけでいくら考えても、そういう成り行きを脱することはできないだろう。だからひたすら無駄に考え続けているようだ。それはまったく理由になっていない。虚無を退けるつもりはない。そして前言を欺くように、電車が関東地方を南下するに従って蒸し暑くなり、誰かはその途中で何か適当なことを思いつく。作り話の中ではそうだ。人は自らが絡めとられている成り行きから逃れられない。その結末がどんなふうになるにしろ、とりあえずなろうとする結末を目指して行動している。それを端から眺めて馬鹿にしてもどうなるわけでもなく、行動している当人はそうすることに専念しているのだろう。時にはそれを命がけだと思い込んでしまうこともあるのかもしれないが、そんな言葉で自らを鼓舞しないとやっていられないようなことをやっていたりする。生きていることに充実感でも付け加えたいのだろう。何かをやらなければならないと思うことは、そこにいかなる理由があろうと、それをやっている間は遊び半分ではないのだろう。中には使命感に燃えている者もいるらしい。それを馬鹿にしたいわけではない。君もかつてはそういう時期があったはずだ。今は遊び半分で語っている。だらけてしまっているわけだ。この世界が人間の活動によってどうにかなっているのかもしれないが、それが良くなるとは、やはり誰かの思い通りになることだ。君は言葉によって他の誰かを何処へと導こうとしているとは思わない。とりあえず何かを適当に説明しているのかもしれない。その説明が怪しくあやふやではっきりしない。それを説明とは言わないのかもしれない。誰かにとってはそうなのだろう。誰でもない誰かにとってもそうだ。無駄に誰かという言葉を繰り返し記そうとしている。君はそこでやめなければならない。何となくそう思ってしまう。何を語ろうと誰かには関係のないことだ。それはいいわけではない。人は自らが行動する理由を探している。使命感に燃えて、それだけに専念したくなるのだろう。君が絡めとられている成り行きはそうではない。何をやろうと、そこに切実な理由は見当たらず、使命感に燃えるような幻想を抱けない。ただ生きているのであり、目の前の作業をこなしていかなければならない。そんな日々を送っているうちに、何も感じなくなってくる。何のために生きているのでもなく、どんな幻想が生き抜くための原動力となっているのでもない。ただ生かされているのであり、それ以外には考えようのないどうしようもなさを実感するしかない。要するに物語から完全に外れてしまっているわけだ。


9月13日

 黙っていても何も始まらない。目の前にあるのは虚無ではない。ただの画面だろう。何について述べているのでもなく、たぶん何かについて述べているのだろう。くだらない。そう思いたい。本当は何とも思っていないようだ。案の定の成り行きになる。マンネリを恐れていたわけではない。何の意味もないことだ。それは冗談の続きではなかった。何を語るのも気に入らないらしい。睡眠不足なのかもしれない。根拠があるわけではないが、免疫機能が低下している。たぶん何らかの理由があるのだろう。相変わらず話が何も進展していない。そんな決めつけは役に立たない。役に立とうとしているのではない。それ以前に何を述べていたのだろう。信じられないのだ。言葉が何かの役に立つということが信じられない。無駄なことを語るために言葉がある。そんな現状には飽き足らない意識が誰かに何かを語らせようとさせる。無理に決まっている。額がかゆくなり、気が散って何も思いつかなくなる。それも逃亡のたぐいだ。いいわけがくだらなすぎる。それでも君は何かを知っているつもりなのだろう。皮肉など通用するわけがない。何に対する反論にもならない。人々は何か生活とは関係のないところに逃げている。語っている内容が空疎で、回りくどく、なかなか本音に至らない。それどころか語っている内容が嘘だと思いたいのだ。そこへ至ろうとする気がない。そんなはぐらかしの連続に嫌気がさしている。気がついたらそんなことを述べている。現状からはみ出るわけにはいかないらしい。はみ出ようとしているわけではない。それについて語るのが億劫なのだ。ならばもう終わりだ。語らなければ終わってしまうだろう。自覚症状がない。少なくとも今はそうだ。これからどうなるかわからない。果たして生還している自らの姿を思い描いている。それはないだろう。すでに迷路の中でもがいているはずだ。そんな気がしているだけで本当のところはわからない。何を語っているのかもわからず、ただ途方に暮れているわけにもいかないらしい。とりあえず今がその時なのだろう。何となく生き残るつもりらしいが、なぜそう思われてしまうのかは謎だ。状況はすぐにでも死んでしまいそうなのに、なぜかそんな気がしないわけだ。たぶんそれはどういうことでもなく、ここに来てなおのこと誰かの将来に明るい展望が開けているような気がして、そんな気持ちに沿って前向きにそれらの状況を捉えてゆかなければならない。夏とともに何かが終わろうとしている。死がその直前で終わり、生の方向へ運命の針が振れているらしい。そんな予感がしている。絶えず何かを克服しようとしているその努力が報われ、何となくすべてが良い方向に転がって行ってしまう。まだ運気が君を守ってくれている。現状ではあり得ないことだが、そういうことらしい。この調子でいけば何とかなるだろう。そんな気にさせる早朝の気分に水を差されないうちに、何かを忘れたままに、ひたすら適当に言葉を記しているみたいだ。もはや何もなくても何について語らなくても、常に言葉を記し続ける。あり得ないことだがそういうことなのだ。現実に誰かを牽引している虚無とは無関係を装わなければならず、そこから何か適当なことを述べているわけで、その現実を受け止めなければならない。やはり何を述べているのでもないらしく、本当の恐れているのは誰かの死だ。本当に死んでしまう可能性がある。そうなったらそこで終わりかもしれないが、死が現実に顕在化する前に何か手を打っておかなければならず、その方策を考えあぐねる前に、それらの作業を終わらせる必要がありそうだ。そこに何らかのヒントやきっかけがあるのかもしれない。そことはそう思っているすべての時間だ。すべての時間と場所において何かが施されていて、精神が破綻しないように、暴走を押さえるための何らかの安全装置が働いている。そして思い出したように原点に回帰し、リセットされて出発するまさにその場所と時間へと戻ってくる。たぶんそれは何でもないことなのだろう。以前と同じ過ちを繰り返しているのに、その時点では何とも思わない。たぶん何かが加熱状態で、制御が十分に利かず、機構の一部が勝手に作動し続けているのだろうが、意識の方はそれでかまわないと思っていて、君は我関せずの態度を取り続け、その状態をそのまま放置し続けている。それが今のようだ。やはりまずいことになっている。しかし今さらそれに気づいてももう遅い。もうそこまで何かが迫っていて、それが自らの死でない保証はどこにもない。だから意味もなく焦っていて、何かをやり遂げなければならないような気がしているのだろうが、そこから先には進まない。言葉が出てこなくなり、そこで停滞してしまうらしい。だからもう手遅れだろう。機械が壊れかけている。さびてぼろぼろになっていて、それに輪をかけて金属疲労の箇所がある。そのどちらもが自壊寸前にまで及んでいて、どうにもならない。そして誰かがそんな状況を察知しているようで、乾いた笑いがどこかともなく響いてくる。もう終わりにしたらどうか。終わらないのなら、誰か他の者が無理矢理終わらせてしまうだろう。そうなる前に自らが自らの作業を終わらせるべきだ。そうならなければ何かがおかしい。まさか気が狂っているわけでもあるまい。


9月12日

 何か今日も冗談の続きがあるらしい。理性が働かない。膝が限界らしい。理性は何かを遠ざけている。君には用がないらしい。絶えず何かを遠ざけている。だが何かとは何でもない何かだ。時が勝手に過ぎ行き、誰かの心を過去に置き去りにしたまま、心の代わりに何もない空洞がうがたれ、誰かはただの物質に還元され、何も思わず感じることがないままに働き続け、自らが年老いたことに気づかず、いつの間にかいなくなって、この世界から消え去ったことにも気づかれない。それでも誰かが言葉を記している。誰でもないのに誰かなのだ。君はそんな光景を眺めている。目の前には画面しかない。無駄なことをやっているらしい。そんな風に記しながら、次第に自己言及にはまっていく。他に何を求めているとも思えないが、お茶でも飲みたくなってきた。だからその辺で一息ついて、怠惰な心を復活させようとしている。何をやろうとしても無駄なような気がしてくる。だから無駄なことを述べているつもりだ。君はそんな夢を見ていたらしい。そして相変わらず何かを知らずにいる。途中でリセットされていたわけだ。喉が渇いている。だからお茶を飲んでいる。だが今日はそんなに時間的な余裕はないはずだ。すぐに明日になってしまうだろう。それも成り行きなのだからかまわないが、努力を放棄しようとしているのではない。何とか適当に言葉を組み合わせながら記して、それでその場を取り繕うつもりなのだ。見え透いた言い草になりそうだ。言葉がわざとらしくそれに追従する。嘘をついているつもりなのだろうが、まったく話になっていない。それは完璧な虚無を再現しようとしているからだ。くだらぬことを述べているようだ。何かの副作用かもしれない。終わりの時が近い。確実に何かが早まっている。君は架空の鼓動を聴いているようだ。それは音楽ではない。何でもない音だ。そう自分に言い聞かせている。君は体調の異変に気づいているはずだ。肺炎のたぐいだろう。作り話ではなく、嘘かもしれないが、何かがそう語りかけてくる。君には関係のないことだと言い放つが、作り話の中でそういう成り行きとなっているのか、現実にそういうことなのか、文章の中でははっきりしないようだ。何かが入り組みながら入り込んでくる。誰かの心中を察しながらもひたすらかき乱しているらしい。そして話の内容を把握しない。何を語っているのかわからなくなるように語っているようだ。それでもごまかしなのであり、夜になってもまだ暑い。まだ我慢や辛抱のただ中にいるらしい。だがそれで何を意識していることにもならないだろう。そこに誰かがいる。心が揺れ動いている。ぶれがある。それがわからない。心が乾いているのだ。渇いているのではない。何も求めていない。空疎なことを述べている。何も思いつかないのだろう。図星のようだ。唐突にそんな思いつきを記してみるが、何も起こらない。ため息が出る。そうなってしまった理由を知りたくなる。その必要がなかったのだ。でたらめな意見だ。おかしくて笑っているわけではない。何もおかしくないから笑ってしまう。何かを笑いでごまかそうとしているのだろうが、切羽詰まってしまうと笑うしかない。それ以外に何も思いつかないのだから仕方がない。それでもかまわないわけで、ただ何も思いつかないと述べているわけで、それは何でもないことだ。疲れている。だいぶそうなのかもしれない。気に入らないことは他にもありそうだが、眠たくなるのでその辺で止めておくべきだろう。止まらないのは言葉を記す作業だ。眠たくてしょうがないのに、それでもなぜかそれを続けている。そして時間が来たようだ。何を知るためにそうしているのでもなく、逆にわからなくなり、空疎な言葉以外は何も記せなくなってしまう。そうなることを承知でそんな風に語ろうとしているのだろう。そういう状況以外には何ももたらされない。言葉に詰まってそこから退く。何かを記し尽くしてしまったのだ。その先はあり得ない作業になるだろう。それで何を予言しているわけでもない。それは相変わらず何でもないことであり、何かがその先で待っているはずだ。君は自らの終わりを知らされていなかった。亡霊がそんなことを語っている。もはや影ではない。何も理由になっていない。何を語る気も起こらず、執拗に言葉を記しているのが馬鹿らしくなり、怠惰を呼び込むばかりの何もかもが気晴らしではなくなってしまう。虚無は真剣にでたらめを演じようとしているが、それは嘘だろう。それが虚無ではないことを確かめたい。そして誰でもない誰かに何を託すこともなく、虚無に託されている虚無の言葉にどのような感情が塗り込まれているとも思えず、そんなでたらめを記している誰かには理解不能な言葉の連なりをどう解釈する気もなく、まともに解釈しようとしない誰かの意識を破棄することもできず、ただそれらの言葉が君を悩まそうとして無視される。まったく読み返す気が起こらない。それは記すための文章ではあっても読むためのそれではない。たぶんその辺に誰かのこだわりがあるのかもしれないが、それは意味のないこだわりであり、意味をもたらそうとする気のない試みになるだろう。そしてそれがどうしたわけでもなく、何をどうやってもそこから抜け出ることはできない。


9月11日

 なぜかそんなことを記している。言葉がどこにも届かない。嘘に決まっている。嘘でもなければ記す言葉がない。たぶん何か適当なことを思いつくのを待っているのだろう。返す言葉がない。使う場所を間違っている。何かを並べているようだ。抽象的に思われるが、すべてはでたらめに違いない。君が操作している。何かを操っているのだろう。水が足りない。わかっていることをわかっているように述べるが、すべてを承知しているわけではない。ごまかし以外にはあり得ない。部分的にはそうだ。しかし可能性はどこまでも可能性の水準にとどまり、何かができるような気にさせるわけだ。果たしてそれをやっている現在がある。乾いているのだろう。のどの奥がかゆい。何かを見逃してしまったらしい。白黒写真を眺めている。別の時間帯だ。呼吸が荒くなる。時間の無駄のようだ。何も語っている気がしない。わからないのだ。何を語っているのかわからない。何も問いかけようとしない。君は見ている。それを見ているようだ。耳が遠くなっている。唐突に何かが痛い。皮膚のどこかに違和感がある。時が経ち、作り話にもならないそれらの言葉の連なりに嫌気がさして、予定調和気味に投げやりな気分となる。その結果がこれだ。それほど苦心しているわけではない。ピアノの音色は心地よい。そう思わせる演奏だ。くだらないのかもしれない。他に何をくだらせるつもりでもない。そんな風に言葉を併置させる。想いを巡らせてもどこへもたどり着かない。そんな気分なのだろう。もうすぐ時間らしい。抽象的な音楽を聴いている場合ではない。それに対する感想みたいだ。何かから遠ざかるためにはそれが必要なのだろう。まばゆい光に照らされているわけではない。ただそこでそんな風に思っているわけだが、まだ目鼻立ちがはっきりしないようだ。何を知りたいとは思わない。我慢が必要なのだろう。我慢しすぎてわけがわからなくなり、語りすぎて空疎な内容を得る。いつものことには違いないが、そこまで期待できない事情がありそうだ。雨上がりの水たまりに誰かの後ろ姿が映る。関係のないことだろう。確かに聴いている音楽には関係ない。明日のことを考えるにはまだ時間が足りないようだ。額がかゆい。水分を補給しなければならない。たぶん正気ではなく冗談なのだろう。やはりまだ暑いのだ。夜になっても暑い。あと半月ぐらい経たないと涼しい季節にはならないようだ。一時的な涼しさに油断して、風邪でもひいてしまったのかもしれない。体がだるくてやる気が起こらない。気晴らしからはほど遠い言葉の並びにげんなりする。なぜかそういう結果が導かれてしまい、誰かをさらに鬱状態へと追い込む。そこで何がどうなっているかなんて百も承知しているはずだが、わかっていてもそうなってしまうのが予定調和の怖いところだ。心の影の部分がわざとマンネリ気味に語ってみせる。君ではないらしい。嘘をついているに決まっている。君を差し置いて気を狂わせるような言葉の並びを記せない。それも嘘なのだ。何かと何かが相容れないらしく、矛盾とは違った意味でその場の気分を害している。公的な人は失言によって自滅するらしい。理性的に振る舞おうとすればするほど、ちょっとしたきっかけでその場にそぐわない言葉を発してしまう。内輪の冗談話なら何ともないのだが、公的な場でそれをやってしまうと、彼を取り巻くメディアから非難の集中砲火を浴びてしまうわけだ。メディアは絶えずその機会をうかがっていて、一時の気の迷いから、うっかりそれをやってしまうと、ここぞとばかりに執拗な攻撃を加えられる。それを眺めている一般人にはそれがおもしろくて仕方がない。有名人の足を引っ張って、スポットライトを浴びている舞台から引きずりおろそうとするメディアに拍手喝采だ。しかし彼を持ち上げて有名にしたのも、他ならぬマスメディアであり、意にそぐわぬ発言をしたので非難を浴びせかけて、引きずりおろそうとしているのも、他ならぬマスメディアだ。だからどうだと云うわけではないが、それがマッチポンプだと紋切り型的に嘲笑するのもおかしいだろう。それは何も恐ろしいことではなく、昔ながらの冗談には違いないが、その冗談を真に受ける必要もないことも確かだ。冗談のついでに物事の本質を見誤ってはいけない。失言は失言として受け止める必要があり、それを嗤っている自らもその程度の失言を口にしてしまう機会などいくらでもありそうだからだ。だからメディアに誘導されるがままに、一緒になって攻撃を加えているつもりになっていると、自分で自分の首を絞めていることを忘れてしまう。それはそれでそういうことでしかなく、それ以上でも以下でもない。たぶんその程度の水準から遠ざかるべきなのだろう。そういうところに何か目的や目標を設定してもくだらない。何とかそれとは別の水準で何か適当なことを述べていた方が気楽だ。だから自然とわけがわからない言葉の連なりになってしまうわけだ。それがいいわけにも理由にもなっていないようなことを述べているつもりなのだが、本当のところは何が何だかわからないわけではなく、何となくまともなことを述べてしまうのを避けている印象があり、自己言及的にそうなってしまうことを反省するような言説になっているらしい。


9月10日

 天国への道がどこかにあるらしい。唐突にそんな曲を聴いている。夜にはまだ相当時間がありそうだが、面倒な用事があって、それも自由にはいかない。ままならない世の中だ。しかしオバマやクリントンではなく、保守的な老人のマケインがアメリカの大統領になってしまったら、世界中のメディアががっかりするかもしれない。話題性に乏しい。そんなこのところのつまらない情勢に、アメリカ的なつまらないジョークでも付け加えるなら、子供のおもちゃならトイザラスにあるが、老人のおもちゃはホワイトハウスそのものだ。合衆国そのものが老人のおもちゃと化すだろう。そんな老人のためにイラクやアフガニスタンで前途有望な(?)若者たちが次々と命を落とす。君は合衆国民ではないのだから、どこの誰が大統領になろうとなるまいと、そんなのはどうでもいいことだろうが、日本の首相に誰がなろうとなるまいと、それもどうでもいいことのはずだ。まったくどこの国の首相選びも大統領選びも茶番劇には過ぎないが、政治自体が真の意味で祭事そのものとなっているような気がする。形骸化しているのであり、みんなでお祭り騒ぎをやって、メディア的に無理矢理盛り上げに盛り上げた末に選ばれた者が、どこにでもいそうなつまらない老人であったりするわけで、人々ががっかりするような者が選ばれてしまう事自体が、世界的な政治の行き詰まりを物語っているのだろう。だがそれがどうしたわけでもなく、少なくとも愉快ではないが、もとから大して期待していないのだから、それもそういうこととして受け止めるだけだ。果たして政治家に何ができるかという問い自体に大した意味はない。その場で何か重大な決断を迫られるような状況が皆無なのかもしれず、誰が何をやっても同じような結果にしか至らないのが、昨今の政治や経済の情勢なのだろう。要するに予定調和なのだ。景気対策で予算をばらまけば、借金が膨らんで、財政収支が悪化する。構造改革による行政機構のスリム化や効率化を目指せば、官僚機構の頑強な抵抗に遭い、結局骨太ならぬ骨抜きの改革案しか出てこない。そんな現状が執拗に維持されているだけだ。そういう閉塞状況をごまかすために一年ごとに首相の首がすげ替えられる。今回も同じことの繰り返しになるらしいが、閉塞状況を打破するためには何をやったらいいかなんてわかりきったことだ。そのわかりきったことができないから、いつまでも現状維持に汲々としているわけだ。手を替え品を替えて、似たような言葉を使って同じようなことを主張しているだけで、何の新鮮味もありはしない。それでかまわないのだろう。これからは夢も希望も幻想も抱けないような世界になりつつあるのかもしれない。人々は暇つぶしの娯楽にうつつを抜かすばかりで、世界中が遊園地となり、バンジージャンプやらジェットコースターやらで何かを味わったような気分になって、日頃の憂さを晴らしていれば、やがて人としての寿命が尽き、何でもないただの物質に還元されてしまうだろう。それ以外にはあり得ないような成り行きなのだ。もはや何も考える必要のない世界が目の前に広がっていて、これこそがユートピアそのもののような気がする。君はそんな嘘をついていてもかまわないような雰囲気に包まれ、その減退した思考力をもついには放棄しようとしているらしく、何を感じることもなく、ただ画面の前に座り続け、黙ってそれらの言葉の連なりを読まずに眺めている。他に何か言いたげなのかもしれないが、今のところはその場の状況に見合った言葉が出てこないようで、それについては何の感慨もわいてこない。言説が捉える範囲が狭すぎるのかもしれないが、この時点ではそう述べるしかなく、そうなると明らかに間違った方向に向かって述べていることになるだろうが、たぶん述べている内容が間違っていてほしいのかもしれず、実際にはそうならずに、晴れ晴れとした気分に導くために、あえて間違ったことを述べている可能性もあり、架空の誰かはそうではない未来になることを願っているのかもしれない。それはくだらぬ幻想だ。まったくのでたらめに違いない。だが意味不明ではない。君には自らが何を述べているのかわかっているはずだ。ただ言葉が足りない。著しく足りないようでいて、それでもかまわないのかもしれない。説明不足でもかまわない。つまらない雰囲気に嫌気がさしていて、それを少しでも和らげるためにあえて冗談を述べているとは考えられない。しかし語っている途中でわけがわからなくなっている。君はさっきまで語っていた内容のすべてを打ち消したくなり、さらに言葉を連ねようとするが、気持ちが続かない。無理に語ろうとすれば自己言及に陥るのは当然だとしても、それ以外の成り行きを知らない。君はそこで力つきるのだろう。しばらく押し黙ったまま、苦痛を感じている。無駄なことを述べたくないのに、さらに言葉を連ねてしまうことに矛盾を感じ、それをやめさせようとするが、やめられなくなっている。浅はかなことを述べすぎている現状を変えられない。気分次第というわけではないのだろうが、やはり何かがおかしい。どうにもならないような成り行きをどうにもならないような言葉の連なりで後追いしているみたいだ。それは愚かな試みとなっているかもしれない。


9月9日

 またいつもの通りになってしまってご機嫌斜めのようだ。しかし他にやりようがない。世の中の出来事に接しているとは思えず、まったく現実感がない。そんな精神状態で何を語っても無駄だろう。そういう勝手な思い込みがそもそも間違っている。今回はそれほど切羽詰まっているわけではない。ならば嘘でもかまわないから何かの物語を記せばそれで済んでしまうような気もするのだが、とりあえずやってみなければわからないだろう。だがこの状況をどう評価するまでもなく、今がそれを記している最中だ。君はどうも思っていない。何に関しても取り立てて興味を示さない。たぶん結果として記されるそれは、何の物語でもないだろう。何かを裏切っていて、何かとは誰のことでもなく、だから物語にならないわけだ。それで済んでしまうのだから、そんな空疎な内容でもかまわないわけだ。ひたすら時間と言葉を浪費していればいい。そんな風に語っているのだから、それはそれでそういうことだ。この状況でも何をやっているわけでもないと言い張っている。暇つぶしに本でも読んでいればそれでかまわないはずだが、何について大げさに考える気も起こらず、それがどうしたわけでもない。何かの本筋からかなりずれているのだろう。暇つぶしする暇があるのに考える暇がないわけだ。やはりそれはあり得ないことだろう。成り行きでそうなってしまっているのだから、それはそれで仕方がない。とりあえず空疎なことを語らなければならず、それをひたすら続けている状況に寄りかかって、何かを考えようとしているが、そういう芸当に無理があることは承知している。言葉を記しながらもふと立ち止まって、これでいいとは思わないつもりなのだが、気がつけばさっきまでの続きを記しているようで、いったん記してしまえば、終わりまでそれを続けてしまう。それが誰かの性分らしい。たぶん芸術とは無関係であり、それに起因する喜怒哀楽の感情がわいてこない。そんな状態で何を語っても嘘になる。しかも嘘をついても平然としていられるのは文章上でのことに過ぎず、実際には嘘をつくまでもなく、何もやっていない。自らがそうなのだから、他の何を批判しても無駄だろう。アメリカの選挙で試みられるネガティブキャンペーンなど子供だましもいいところなのだろうが、そういうのが誰かの深層心理に働きかけ、実際に功を奏して世論調査の支持率が上がったり下がったりしてしまうところがくだらない感じがして、合法的な範囲なら何でもありというやり方自体に功利主義的なせせこましさを覚え、そういう報道に接する度に嫌な感じがする。しかもそれを何とも思わない人たちが大勢いて、それ自体が選挙には必要不可欠だと思っている人までいることを思うと、やはりそういう事象からは遠ざかるしかないようだ。人は様々な水準で闘争を繰り広げているらしい。中には人々や社会を良い方向へ導く方法を模索している者がいたりするのかもしれないが、実際にいたらご苦労なことだ。しかしそれを皮肉まじりに馬鹿にする気にはなれず、君自身も多少はそういう傾向があることを自覚しながら、一方で世界の現状に絶望しているふうを装い、何やらそれらしき言説を弄んでいる時も過去にはあったらしいが、今はただ漠然とした思いにとらわれる。だがそれは思いでも想いでもありはしないのかもしれず、気のせいにしてもかまわないような曖昧さの中で何かを記しているだけなのだろう。そうやって君という言葉を使って無駄に自問自答を繰り返し、何か気が利いた結論を得ることもたまにはありそうだが、君は選挙自体が嫌いだ。できるならば無投票で責任を回避しているつもりになりたいこともある。そしてそう述べていることの真意がどこにあるのかわからず、それらの文章全体にどんな主張があるのか把握できなくなっているようだが、やはりそれを読んでみればそういうことでしかないだろう。誰もが納得する結論などありはしない。だからひたすら迷路の中で迷っていてもかまわないと思われる。どうやら君は部分的にしかそこへ近づこうとしないようだ。全体としての景観を得ることを拒否しているようにも思われ、それが景色や風景となってしまったらフィクションと変わらなくなってしまうことを知っているのかもしれない。かなり回りくどくて欠陥だらけの言い回しだが、云わんとしているのはそういうことなのだろう。それでも理論を拒否しているわけではなく、何かいい方法を模索し続けていることも確かであり、それ以上に何を求めているわけでもなく、しかも何も求まらなくても、それでかまわないとさえ思っているはずだ。それ自体がやり方であり、最良ではなくともひとつの方法なのだろう。そしてどうも人を笑わすために用いられる突飛な意見には飽きているようだ。何かと何かを短絡させればそういう意見が出来上がるのだが、人を笑わせる目的にはかなっているのかもしれないが、ただの荒唐無稽に過ぎないといえばそうで、実践とは無関係のような気がする。そういうのを追求することは現状の改善には結びつかないだろう。ただの気休めでしかない。世の中をあざ笑ってばかりでは現状維持に貢献しているだけで、常にあざ笑うためにも現状が維持されなければならない、というパラドックスにはまるわけだ。


9月8日

 目が死んでいる。乾いているのだろう。秋の到来を実感できる。膝の痛みも増してくる。たぶんどうしたらいいわけでもない。恐怖感を求めているのは漫画の中の人物だ。そこで何かを思い出している。いったん見失ってしまったものを再び視界に捉えられそうだ。そんな気がするだけで、その気もないのに何かを試そうとしている。たぶんその調子なのだろう。それで何を肯定しているわけでもない。その先が見えてこない。意味不明なほのめかしに翻弄されているのは架空の人格に違いない。たぶん気に入らないのだろう。不協和音が連続する。ルールを定めているのは君ではない。具体的に何を語っているとも思えない。ただの雰囲気が何かを語りかける。人ではなく架空の人格でもない。空洞内にこだましている言葉を聞き取ろうとしているらしい。生意気だと思っているのだろう。そして理由を確定させたい。何をやるにも理由が必要だ。面倒くさいからそんなことを考えている。今さっきまで見聞していたそれが忘却の対象となる。何を期待しているのでもなく、そこから離れようとしている。あえて何を逆手に取ることもないだろう。順調に言葉数を増やしていけばそれで満足なのだ。見出そうとしているのではなく、見つけ出そうとしているのだ。似たようなことだ。似たような何かを感じさせる、君はそれを知っている。無意識のうちに感じ取っている。不快に感じるとはそういうことだ。どうにもならない。感情とはそういうものだ。自分の都合に世の中の状況をあわせようとしている。そんな虚しい努力がやがて復讐心へと成長を遂げる。その時点で君は理解しているはずだ。そしてそのすべてを肯定したくなる。何かのやり取りに発展しているらしい。些細な感情の応酬だった。勘違いがそこから始まり、亀裂が深まる。誰かはそれが物語だと思っている。まったくその通りだろう。何も語っていない現状を忘れさせる何かだ。出来事が起こった後からそれに対する感情を構成する。それは言葉でしかない。その時点で何かを思ったことにしたい。話のつじつま合わせを済ませておきたい。取り急ぎそんなことを述べてみる。飛躍的に何かが集中している。何かの映像を思い浮かべて、それをきっかけとして忘れかけていたことを思い出そうとする。馬鹿げたことを述べているようで、翌朝の記憶をここで先取りしているらしい。気に入らないことは他でもない。どこかに至ってしまうのを水際で食い止めているようだ。そして何かが表現として成立している。それが架空の物語となり、それを語っている誰かが何かに気づく。まだ昨日の時間帯だ。今日になっていない。不都合を感じられるわけがない。空疎な感覚をその場に満たすことはできない。アーカイブはやがて大げさな記録映像に仕立て上げられ、君の知るところとなるだろう。その時点では何のことやらわからないが、そこから遠ざかる算段もつかないままに、誰かの努力は踏みにじられてしまうらしい。違和感を覚える暇もありはしない。隙がないのだ。君が言葉を差し挟む隙を探しているわけではないが、かたくなな感情は何も受けつけない。それを無理矢理はがしてしまわないと先へ進めないのだろう。欠如を過剰と言い換えて、何か知ったかぶりを述べているように装い、その実終わりの準備に余念がない。亀裂を修復してしまうつもりなのだ。誰の許可を得ているわけでもなく、勝手に仕掛けてくる。わざと罠にはまっているわけではない。主語が不在だ。たぶんどうにもならないだろう。だが脳死状態というわけでもなさそうだ。まだかすかに意識がありそうだ。精神が分裂しつつある。嘘なのかもしれず、何を述べても嘘のような気がする。翌日はさわやかな秋晴れのようだ。誰にそれを訊きたいのでもないが、尋ねる相手を間違っているのかもしれない。乾いた空気が新鮮な感覚を呼び込み、何か新しい言葉の連なりをもたらすかもしれない。誰かが何かを期待しているようだ。ひらめきか何かをもたらしてほしい。さらにでたらめなことを述べている。またそうではないと思いたいのだろう。まだあきらめるわけにはいかないらしいが、実情がわからない。頭の中で何かが循環しているようだ。苦し紛れに何か適当な言葉を記している。どうやら立ち直れないらしい。何をどう述べても言葉がつながらない。そして現状はどこまでも現状だ。堕落の極みにあるのかもしれないが、上下が逆さまであり、極みではなく谷底なのかもしれず、君はそこから這い上がることができない。だがそんな風に語っているすべては空想の中だ。誰が空想しているのではなく、文章中に記されている。そして内容がどこにも見当たらない。あるのは文章の中ではなく、それを読んでいる者の頭の中だ。それを知りたい。君はその内容を拒むことができない。拒む理由が見当たらない。無視することはできるだろう。たとえ無視しても最終的には受け入れざるを得ない。君そこから立ち去らなければならないのだ。そして君は私にならなければならない。それは君には受け入れ難い結末であり、君の死そのものである。すでにそんな結果が出ているのに、君はそれを拒否しようとしている。無駄な悪あがきだろう。もはや語ることさえできないのに、どうすることもできないだろう。これ以上何をやるわけでもない。ひたすらそれを拒否しているだけだ。


9月7日

 相変わらず晴れて暑い。昼はそうだ。何かを忘れている。そう述べるのが癖なのだ。たぶん何を思いついたわけでもないのだろう。そこに何があるわけでもない。誰かの言葉に反発しているようだが、それを真に受ける必要はない。またくだらないことでも述べてしまう雲行きになってきた。それが発動するのを阻止するために何をどうしているでもなく、ただの成り行きまかせになってしまうらしい。思考力が欠如している。他に何をもたらそうとしているわけでもないが、ひたすら空疎なことを述べているのにも限界がありそうだ。それほど忍耐が続かない。しかしまともなことは何も述べられない。何となく今はその気分ではない。だからもうしばらく空疎なことを述べていたい。何も見つからないようだ。何も語るべきではないのだろう。何も期待できない。何も感じたくないのかもしれない。つまらない。虚しいことばかりだ。世の中に対する不平不満ばかりでは確かにそうだ。あきらめてしまうのだろう。君とは感覚が違う。誰もそんなことは思わない。何に抵抗しているわけではなさそうだ。だからもうあきらめてしまってもかまわないのだ。誰に言い聞かせているわけでもなく、誰かが他の誰かに向かってそう述べているわけでもない。ただそんなことが記される。君はもうわかっているはずだ。そんなやり方が気に入らないのも承知している。誰もがその場から離れたくないのだろう。気づいてほしい。誰かが何かをやっている。そこではない別の場所では気づかれない。誰かは自由の大地へと直行したいらしい。そんなことを述べている人もいる。賭け事の連続に嫌気がさしているとも思えず、いつ何時でも勝負事にうつつを抜かしている人々に向かって何を訴えかけようとも思わない。勝負に勝って浮かれ気分になりたいばかりの人々にどんな忠告もありはしない。ただ言葉を記している。思いついているのはそういうことだ。どうしようもなく大人げない。それらの現象を受け入れ難い。気分的にはそうなのだ。そこに何があるわけでもないが、何もないわけではない。それは誰かの感情だ。ひたすら努力したいとは思わない。どうしようもなくそこにいるらしい。この世に存在していることは確かだ。それは誰の意識でもなく、そう思っていること自体がそうなのだ。たぶんあきらめなければならないのだろう。いずれはそうなってしまう。何を語ろうとしても無駄だ。その時が確実に近づいている。その時になってから悪あがきをするのだろう。そんなのはわかりきったことであり、そうせずにはいられない状況になるのだろう。だから今があるわけだ。今はあきらめるための時間だ。何かを悟らなければならない。さらに辛抱しようとしている。それでどうなるわけでもないのに辛抱している。我慢の限界はとっくに越している。そこから先にはさらなる忍耐の時が待ち受けている。夢を見ているわけではなく、それが現実なのだ。何かの予知夢なのかもしれないが、はっきりしたことはわからない。昨日の記憶が何かを暗示しているらしい。君は誰かを助けようとしているが、君が助かるわけではない。傍観者のふりをしていられないのだろう。多くの者たちが虫けらのように死んでゆく。君もその中の一人だ。悔しいとか残念だとか思ういとまもありはしない。虫けらなのだから何も思うこともない。それが残酷だとか何だとかいう意識もなく、ただそういう成り行きの中に多くの者たちが投げ込まれているらしい。そこで何をあっけにとられることもなく、音楽を聴いている。何も共感を得られない。それは話でさえない。何かの断片には違いないが、その続きがない。唐突に何かを感じ取ってしまったらしい。予感はそこで終わりだ。その先に何が待ち受けているとも思わない。言葉の連なりは相変わらず空疎そのものだ。そして時が過ぎ行き、何を語ることもなく、虚空に向かってうつろな顔が何を語りかけているとも思えない。画面を見つめるまなざしもうつろだ。それでも今日中に終わらせようとしている。現状を何とかしなければならない。何かとともに秋の気配が忍び寄る。また一年が終わろうとしている。それはいくら嘘をついても動かしようのないことだ。そんな中でも文章は刻一刻と意味の定かでない終わりに近づいている。何も述べることがないわけだ。君にはどうしようもないことだ。この先何を思っても思わなくても、いずれ寒気が降りてきて、冬の到来を期待させるだろう。そんな中でも君は意味もなく音楽を聴き続け、誰かの思考を遠ざける。どんな思惑があろうとなかろうと、何かから遠ざかる意識を止めることはできない。たとえ遠ざかりつつ近づいてこようと、それを簡単に退けてしまうだろう。君は無敵の人ではない。そういう意味では自らの敗北も快く受け入れている。勝とうとしていないのだから負けるしかない。ごり押しではつまらない。無理に勝っても意味がないが、自然に負けても意味を獲得することはできず、それでかまわないと思うだけだ。そこでどんな困難を感じているわけでもなく、世の流行り廃りの中に、君の意識がある以上、そこから遠ざかりはしても、完全に無視するわけにもいかず、そのせいぜいが負け組に属することぐらいしかできないだろう。そしてそれでかまわないわけだ。勝ち組になってしまったらそこでおしまいだ。おしまいということは幸せになることであり、それでもかまわないのだが、そうはならないだけのことだ。


9月6日

 果たして今日は明日のようだ。実際には何が果たされているのでもない。誰に何を約束しているわけでもなく、約束を果たした覚えもない。たぶんそれで誰が何を勝ち誇っているわけでもないし、自己満足に浸っているわけでもない。ただ明日にならないうちに明日のことを書き記したいわけだ。むろん内容は嘘に決まっている。そしてそれの何が正気とは思えないわけではない。述べているのはただの冗談に違いなく、まったく本気になれない。そんなことは語らない方がいいのかもしれず、それでも無理に語ろうとすればいい加減な内容となり、それは君自身を窮地に追い込むどころか、くだらぬ論争に巻き込まれるのを阻んでいる。でたらめな文章が君を守ってくれているわけだ。その代わりに誰からも相手にされない。良い面もあれば悪い面もある。だがそれほど痛し痒しというわけでもなく、何も思いつかないよりはマシだ。本当は何も思いついていない。それが嘘だと思うならそれでもかまわない。君は自分自身に嘘をついていることになる。そしてそんな風に思ってしまうのはその場の気まぐれに違いない。心の中で何かを遠ざけているのだ。それは何でもない何かであり、何でもないから遠ざけなければならない。いつものように理由になってない。このままでは何ももたらせない。たぶんそれが定めなのだ。そんな定めから抜け出られず、何を語ることもかなわない。何を語りたいのでもないらしい。ただ言葉を記している。単調なことを述べているので眠ってしまいそうになる。そんな嘘をつく根拠を示せない。何を否定しているのかわからなくなる。それは些細なことに違いなく、どうでもいいことなのだろう。他には何もわからない。君にはわからない。それは誰にもわからないことだ。わかろうとしないことが何かの逃げ道となっているようだ。そしてそんなことをここで非難する気もなく、相変わらずわからないことを嘆いている誰かを無視し続け、黙って言葉を記し続けるようだ。すでに明日になってしまったらしく、今日が明日ではなく、明日が今日になってしまい、要するに今日の日付で今日のことを記している。そう思ってもらって結構だ。君には何も考えられず、自然の成り行きは誰にも思考することを許さない。その場に居合わせた者たちが恐怖で凍りつく。それは誰かの幻想であり、まったくのでたらめだ。語ろうとしていることとはだいぶ内容が違う。昨日から始めていることだろう。衝撃の事実とか戦慄の結末とか、そういうのとは関係ない。わざとでたらめなことを述べる理由などありはぜず、君はそうなってしまうような成り行きの中で何かを記しているわけだ。他人がやっていることは批判できても、自分のやっていることについては何も語れない。だから気を取り直して、今まで述べてきたこととは関係のないことを述べるべきなのだ。なぜそういう結論に行き着くのかわからないが、それもその場の成り行きに沿ったことなのだろう。語っているうちにどこかがずれてくる。頭の片隅で計算中の何かが突然ご破算になる。今となってはそれが何だかわからないが、確かに何かをやっていた感触はある。それがあるにはあるのだが、残念ながら記憶に残らない。思い出そうとすべきかどうか迷っているうちに、夜空が一瞬明るくなり、遠くで雷が鳴っている。また聴いている音楽はマイルス・デイビスのまねごとだ。まったく言い逃れにもなりはしない。誰かの言動はどこかがずれているようだ。たぶんそこから結果に至るまでの最短距離を通ろうとしてはいけないのだろう。どこまでも回り道を選んで迂回し続けるべきなのだ。言葉を選んでいる暇などなく、ただ無駄に言葉数を費やして、わけのわからない内容にしてしまうべきだ。正しいことを述べてはならない。それが間違ったことを述べるための秘訣かもしれない。ただしそれは目的となってはならない。秘密の物語などどこにもありはせず、ただそんな音楽を聴いているに過ぎない。でたらめでばらばらなことを述べているようで、まったくひとつの話にまとまらない。真実とはそういうことだ。真実ではあるが、本心からそれを信じられない。信じているふうを装うことはできる。すぐに何を信じようとしていたのか思い出せなくなり、次いでそんなことはどうでもいいように思われてくる。勇み足的には突拍子もないことを述べるかもしれないが、全体の印象としては苦し紛れの感を否めない。頭をかきながら照れ隠しとも受け取られかねない仕草を期待しているのかもしれず、それで何を語ろうとしているのか意味不明だが、雰囲気としては無内容なのだろう。何となく言葉が停滞し続けているのはいつもの通りで、それは言葉とも意識ともいえるが、そんなことを述べているそばから、何が停滞しているのでもないように思えてきて、要するに何でもないような気がしてくる。誰が語っているのでもないのだろう。ひたすら何でもないことのように思えてくる。さっきから同じようなことを述べている。打ち解けられず、折り合いを付けられないらしい。言葉と意識がシンクロできない。気がつけば何を述べているのでもないうちに終わってしまいそうだ。それでかまわない。真実とはそんなものだ。語る必要のないことを語り、文章にする必要のないことを記している。それ以外にどんな真実があるわけでもない。


9月5日

 何も考えられない。以前からそうなのかもしれない。政治には興味を持てないし、期待していない。何もやらない方がマシかもしれない。それは何も表明しないことに対してのかなり苦しいいいわけだ。人はいついかなる時でも終わることを拒否している。苦しい言い逃れならいくらでもできる。現時点でできることは限られている。とんちんかんなことを主張しているつもりになれるかもしれない。やはり冗談でそんなことを述べているようだ。それで弱ってしまったらしい。メディアがいくら騒いでも人は生きている。以前と同じように平然と暮らしている。たぶん誰かが貧困に喘いでいるのだろう。それは報道が伝えていることだ。そんな風にして危機感を煽られているのに、それをまったく真に受けない。笛を吹いても誰も踊らないだろう。制度を変革したい人たちは正攻法で戦いを挑んでゆけばいい。もちろん戦わなくてもかまわない。無理にメディアウケなど狙う必要はない。その辺が勘違いしてほしくないところだ。選挙など勝っても負けてもかまわないのだから、何も浮き足立つ必要はない。それから有権者の良識など期待すべきではない。くだらぬ固定観念としがらみにとらわれているだけで、目先の利害以外は眼中にない者が大半を占める。国民の平均的なメンタリティなどは、例えば大分県で教育委員会の幹部に商品券を贈って、自分の子供を採用試験に受からせようとしていた教師たちのそれと、さほど変わらないだろう。そういう人々に何を説いても馬耳東風状態なのであって、一時的に神妙な面持ちで反省の態度を示すかもしれないが、のど元過ぎればなんとやらで、そういう問題が話題にならなくなってきた時点で、性懲りもなく似たようなことが手を替え品を替えて行われるだろう。公共事業で談合がなくならないのが何よりの証拠だ。しかしだから何をどうすればいいかなんてわかりきったことだ。政治家がやるべきことなどメディアを通じて誰もが知っているはずだ。それがうまくいかないから昨今の政治状況となっているわけで、それどころかなぜうまくいかないのかもわかっているはずで、うまくいくにはどうしたらいいのかもわかっているはずであり、わかっていながらそれができない理由もわかっている。だから現状が維持されているわけだ。現状とは今ある政治状況のことで、そういう状況をさらに続けようとしている人々が、現状維持を画策しているわけで、辞任した者の後がまを選ぶためのお祭り騒ぎを派手にやりたいようだ。偽りの選択肢を本物のように見せかけるためのメディア戦略に余念がなく、ここ数年で何度目かの政党内選挙で似非民主主義を演出しているつもりなのだろう。そんな代物を大げさに騒ぎ立てて人々の関心を惹いて、騒ぎのどさくさにまぎれて何かをうやむやにしたいらしいが、馬鹿な国民はさらにだまされて、この国の将来に漠然とした幻想を抱き続け、馬鹿の一つ覚えのような夢に向かって努力するたぐいの目的意識を植え付けられて、人生の感動的なフィナーレに向かって歩み続けているわけだが、どこかにいるかもしれない誰かにはそれが楽しくて仕方がないように思われ、他のまともな神経の誰かには、メディアを通じて語られている予定調和の物語の何もかもが信じられず、さらに呆れてものも言えない心境に陥っている。たぶん彼らはいつまでもそれらの呆れた茶番劇にうつつを抜かし続けるのだろう。馬鹿げたことだがそれがまかり通っている現状が続く限り、それらの三文芝居はいくらでも繰り返され、行き詰まる度に似たような後がまが登場して、財政再建だの構造改革だのと主張し続ける。放っておけばいくらでも後がまが登場し続け、我が党はどこかの党と違い人材に事欠かない、とか豪語しているつもりになって、前任者と同じようなことをいつまでもやっていることだろう。豊富な人材がそろいもそろって同じ題目を唱え続ける愚を犯し続けてしまうことを矛盾とは感じないようだ。それが茶番だとも何とも思わず、無視するわけにもいかない人々の善意に支えられ、ひたすらそういう政治状況が保たれていること自体が冗談でなくして何なのかと問うならば、愚の骨頂だとでも言い放てば溜飲でも下がって、その場に漂っている絶望感を一時でも忘れ去ることができるかもしれない。そんなわけで少し飛ばし過ぎかもしれないが、どうせ来る時が来たら遅れてしまうだろうから、やれる時にやっておかなければならない。それは今日かもしれないし明日かもしれない。明日になったらその次の日が待ち遠しくなり、さらに明後日が待ち遠しくなる。だがなぜ待ち遠しいのか理由がわからず、そういう嘘の使い方はおかしいかもしれないが、その先にさらなる空虚をもたらすためならやむを得ず、そんな目的そのものが空疎で意味不明に思われる。日本語として意味が通じないようだ。何を肯定しているのかわからず、すべてを否定しているようにも思えてくるが、それがどうしたわけでもなく、逆にどうもしないから、そこから先に言葉を連ねられなくなる。そんな空疎な語りは早く切り上げ、何か具体的な出来事について語りたくなるが、それを感知することも遭遇することもできない。どうしようもなくなったら作り話をねつ造するしかないのかもしれないが、そこまでやる気力がない。それどころか今も現に何もできなくなっている。それは冗談であって冗談ではないのだろう。要するに蛇足的に状況が意味不明なのだ。


9月4日

 たぶんそれは予知夢のようなものだった。ひたすら何か適当なことを述べなければならない。どうやら休んでいる暇はないようだ。過ぎ行く時に先んじて言葉で釘を刺している。理由はわかっているはずだ。現状を何とかしなければならない。いずれ停滞してしまうことは目に見えていて、その時までに何とかしなければならず、今が何とかしている最中なのかもしれないが、無駄に言葉を記せば記すほど、さらに何もなくなってしまう。すでにそのほとんどが真空状態なのだ。もうこれ以上の継続は無理だろう。しかしそこで止まってしまうわけにはいかず、何とかその先に言葉を連ねようとしているようだが、そこで目が覚める。夢の中で何かを語ろうとしていたらしく、まったく進んでいないことに気づく。君はそこで自ら思考を閉じて機械的な動作を繰り返すだろう。毎日が同じことの連続だ。また嘘をついているらしいが、嘘をつく必要性を感じない。何を述べても嘘になってしまうのだから、いちいち嘘だと断わる必要はない。それでも嘘をついていると述べておこう。暇つぶし的にはその方がおもしろいだろう。空は晴れ渡り、秋の気配を感じている。この世界はどこまでもこの世界だ。幻想の抱く気にはなれないが、無意味な幻想ならそれも可能となり、おもしろければそれでかまわない。人はこの世界と同じようにどこまでも愚かだ。愚かに見せかけているのではなく、たぶん本当に愚かなのだろう。愚かに振る舞うことしかできない。誰もが道化のたぐいになる。調子づいてしまうわけだ。それが楽しいのだろう。楽しくなければ生きていくことはできないらしい。落ち込んでばかりでは鬱病になり、やがて自殺してしまうだろうが、そんな風にして他人が死んでも気に病むことはない。死ねばやがてその存在は忘れ去られ、そんな死が繰り返されても忘却作用に逆らうことはできない。人が死ぬことに価値を見出しても仕方がない。それは生き残ることに価値を見出せないのとは違うかもしれないが、どちらにしろ生きるか死ぬかで、そんなことはここでは問題とはならない。どこか別の場で価値を見出せば済むことだ。人がこの世界で何をやっていようと、それが自己満足に結びつくか、時には他人を喜ばせたり悲しませたりするかもしれないが、たとえ自己満足に浸っていようと、または現状に飽き足らず、絶えず変革を求めていようと、そこにどんなもっともらしい動機を見出そうとしても、それらがどうしたというのか。どうかしているとしか言いようがない。そういう水準で物事を判断するのは虚しいことだ。君は目的意識というのが理解できない。それらは何でもないことではないのかもしれないが、どうも世の中のどんな事象を強調しても仕方がないような気がしてくる。この世界にいくら画期的な発明がもたらされても、そうならざるを得ない成り行きに感動する気にはなれない。たぶんそれも嘘になるとしても、そこから生じる驚くべき現象にいったん感動して、結局その先に飽きがくるわけだ。君は冗談でそんなことを述べているのだろう。いつものことであり、そろそろそんな語り方にも飽きてきた頃だろうが、それでもまだ冗談が足りないらしく、尻切れとんぼ気味に何かを探りつつ探している最中のようで、さかんに言葉を巡らして文章を構成しようとしている。それはやがて悪あがきになるだろう。今がそのやがてを体験中であり、いつもの苦し紛れで、何かをいい加減に否定したい気になってくるようだが、人の死を否定した後に人の生を否定したら、後には何も残らない。生と死の狭間に虚無が横たわり、その虚無の中に何でもない出来事が詰め込まれていて、学者もどきがそれが歴史だと勘違いするわけだ。君は何が何でも否定して、それで溜飲でも下げようとしているのかもしれないが、そんな似非復讐心もどきははやらない。冗談にすら至れないだろう。それでは何を述べているのかと言えば、わざと間違ったことを述べている。言説が正しさをまとうことを拒否しているようで、それはまるでだだっ子のようなやり方だろう。たぶん狂気ではあり得ない。至って正気のつもりで言葉を記しているようで、たぶん正しい認識ではないかもしれないが、くだらない現状が本当にくだらないとは思えず、その辺に誰かの本音が隠れているのだろう。しかし曲芸的に言葉を組み合わせてもどうなるわけではない。実践的にはそれで済んでしまうのかもしれないが、やはりそれでは何かが欠けている。そう思いたいだけかもしれない。たぶん君は何もわかっていない。それもそう思いたいだけだろうが、取り立てて何をわかろうとしているわけでもないことも確かで、わかっていないということは部分的には正しい。たぶん取り乱しているのだ。このところは散々な目に遭っているのかもしれない。それで何となくやる気をなくして投げやりなことを述べ続け、そんな作り話もそれなりに説得力を持つような状況だ。何かの渦中にでもそれを乗り切るためのヒントでも見つけられるかもしれないが、今はそんなところまで出向いていられず、他にやることが山積している。そしてついに言葉を連ねるのも終わりに近づき、今さら何をいいわけしても仕方がないが、わけもなくそんな状況に陥ってしまったことを残念に思う。


9月3日

 つまらないことを述べている。深夜だ。急に何かが違っているように思われ、それを正しい方向へと軌道修正しようとしている。しかし世の出来事からは遠く離れてしまった。まったく興味を抱けない。何がどうなっても仕方がないように思われる。すべての現象や出来事がどうなってもかまわない。そして虚無の罠にはまりつつある。そんな気がしているだけで、実際はどうかわからない。だがこうなってしまったらどうしようもない。てこでもここから動かないような気がする。何でもないことは限りなく何でもないことだ。今ならすべてを肯定できる。思い直すようなことは何もない。そんな嘘をついてどうするわけでもないが、やはり何となくそんなことを述べているわけだ。何かからの影響ではない。ただの戯れ言に違いない。見る見るうちに感傷的になる。空想の世界だ。とらえどころがわからない。言葉を記しているのではないのかもしれない。それが理解できないらしく、何を述べても違っているような気になるが、それらの感覚をわかる術などないのだろう。どのように考えることもできず、言葉そのものの作用を信じられなくなる。この世界の有り様を信じようとしていないのだろう。だが君は君自身の感覚をわかっていて、誰かも薄々感づいているかもしれないが、信じているものが違うらしい。世の中がでたらめになっていることに気づいている。昔からそうなのだ。たぶん秩序らしき概念が幻想に過ぎず、すべてがはじめから混沌としていたわけだ。そこから感覚を遠ざけるわけにはいかない。気がつけば気が遠くなりかけている。耳も遠くなり、やがて何も聞こえなくなるだろう。今までが幻想に浸かりすぎていたわけだ。どこまでそうなのかわからないが、空疎なことばかり述べているようで、それが世界の反映だとしたら、それらの文章は虚無そのものだ。わざとそんな風に語ろうとしている。近頃は語彙が少ない。やはりそんなことを述べてしまい、それは以前と変わらない言説になるが、もはや言説とは言えないだろう。何かを打ち消そうとしているわけだ。くだらぬ心理的境地を獲得してしまったのかもしれない。もういいのだろう。そんなことを述べていてかまわないのだ。完全に何かをあきらめている。まともなことを述べるのをあきらめているのかもしれないが、それが大きな勘違いになっているのだろう。すでにいくらでも語ってきたはずだ。それも思い違いの続きかもしれない。いずれにしろ、今の段階では何とも言えない。客観的な視点を導入できない。そこに何かが足りないことはわかっていて、それが疑念や疑問であることも知っているが、しかしそれを語っていては間違っていることになる。それが足りないままの方がより真実に近い。だが無理に正しいことを語ろうとしているのではない。何もそこまで語る必要性を感じないのだ。彼でも誰でも君でもかまわないのだが、まるでそれらの人格の間に自己顕示欲が生じてこないようで、たぶん彼らにとってそんなことはどうでもいいのだろう。適当に言葉が連なればそれでかまわないのかもしれず、その程度のことにいちいちこだわってはいられないのかもしれない。時間の経過とともに何かが確実に移り変わっていて、意識もくだらぬこだわりを捨てて前進しようとしている。何となく嘘だとしても前向きなことを述べてもかまわないのだろう。本当は停滞しているのかもしれないが、やはり何となくそれでもかまわないのだろう。そんな風にして語っていくしかなく、まともな内容など求めるには及ばず、わざと間違ったことを述べていようと、その辺は適当にこなしていかなければならない。本気でそんな風に思っているのではないようだが、何か他に述べることがあるかというと、今のところは何も思い当たらず、ただ馬鹿げた世界の中で、人が何をしていようとかまわないのであり、何かのしがらみに拘束されながらも、漫画的に都合よく救いの手が差し伸べられるのを期待するわけにもいかず、そこで自らのやれる範囲内のことをやるまでなのだが、それをやっていくとしても何の救いも感じられず、ただ漠然と作業をこなして、日々を生きていくしかないようだ。それ以外に何があろうとなかろうと、とても日常の世界に幻想を抱く気にはなれず、ただの気休めや気晴らしの娯楽にうつつを抜かしているのもそれなりに楽しいのだろうが、たぶんそれは現状肯定にしか結びつかないことが明らかであり、よりいっそう退屈を持て余すばかりとなるだろう。何を体験しようと、それが繰り返されれば必ず飽きてしまい、また別の娯楽を探しても、次から次へと新しい娯楽を体験するだけだ。たまたま同じ娯楽が感性に合って、それを繰り返し体験しても飽きないならば、そこから先は同じ娯楽の無限循環となるだけだ。たぶんそう述べるのは間違っているのだろう。向上心とともに体験するなら、その度に新鮮な気分を味わうことができるかもしれないが、それがどうしたというわけでもなく、仕事も娯楽も人をそこへ押しとどめておくための装置でしかない。要するに何をどう述べても、そこに否定的な解釈を導入すれば、すべてはつまらないこととなり、そうやってすべてを否定することがその者の仕事や娯楽の一環になるだけだ。やはり今日は気分がおかしい。様々な出来事が立て続けに起こりつつあるようで、常にそんな予感がしている。


9月2日

 ある気分と別の気分の境目に文章が記される。そういう時間帯に別の時間帯が食い込んでくる。そこで何かを知らなければならない。別に技巧を凝らしているわけではない。特別な人間にはわからないことだ。あらかじめ批判を回避している。そういうものだと思わせることが、君にとっての過ちなのだ。誰かにとってはどうでもいいことかもしれないが、他の誰かには死活問題のように思えてくる。ある日の出来事になる。別々の成り行きがどこかで交わろうとして、お互いの接点を探り合う。簡単には認めることができない。砂利道が雨水でえぐられ、赤茶けた表土をのぞかせる。道が道でなくなる瞬間に立ち会っているとも思えない。誰の意識でもない。神が降臨する余地など何もない。未だに宗教も糞もありはせず、異国の大地に芥子の花が咲き乱れる。想像したことがない。胸をかきむしられるような気分でもなく、意味を解さない言葉の連なりに、誰が感動するわけでもなく、見つめている画面が不意に暗くなり、時が過ぎ去り続けていることを実感させる。今はそんな気分ではない。何か楽しいことでも空想しているらしく、夢見がちな顔で、何食わぬ顔を眺めているつもりだ。何かが間違っている。違った雰囲気を想像している。そして何を考えているわけでもなく、夜から遠ざかるつもりもなく、それ風の音楽を聴きながら、そよ風に吹かれ、でたらめな言葉の連なりに何を思うこともなく、そこに記された文字を読まないようにしている。気にしているのにわざと無視する。それでもかまわないのだろう。その代わりに今日は何だかという何かを読む。それもでたらめの続きのようだが、語っているつもりの当人は、それほど嘘をついているとは思わない。日が経ち枯葉も緑に埋もれ、それが何だかわからなくなっている。当時はこけおどしのたぐいだったそれを、今になって眺めると、どんな感慨もわいてこないようで、夏の名残りを感じつつ、何も思わない誰かの影を作り話の中に導入していることが馬鹿らしくなってくる。それは当時の記憶ではない。居眠り中の人が手に持った酒をこぼしている。あたりに酒の匂いが漂い、不快感をあらわにするのをためらっている人もいるようだ。そして場面転換の必要性を痛切に感じることもなく、何かを痛切に感じることの意味と必要性と理由を理解しようとするが、何となくその場では面倒くさいらしい。そういうやり方に限界を感じているのだろう。眠ったふりをするのは良くない。冷気がそれを悟らせる。文章はますますでたらめの度を深めているようで、思ったことをそのまま記すたぐいの作業を忘れさせ、恣意的にどんなことを記してみても、偶然に出てくる言葉の連なりにはかなわないことを思い知らされる。やはりそれは何でもないことであり、自らが感じたままの文章とは明らかに違う。言文一致など過去の異物だ。そう述べてわざと勘違いを誘っているかのように思われ、実際に嘘をついているのかもしれず、その嘘に沿って言葉を展開させても、そんな文章にはならないだろう。誰かがそこから走り去っているのだ。それは時間ではなく、場所を特定することもできない。邪念が邪魔なのは当たり前のことだが、正しい認識を求めようとすると、自らが自らに嘘をついていることに思い当たる。それが邪念ではない。君の認識はそこで何かを知ることになるだろうが、それで正解を得たつもりにはなれず、絶えず何かを探求し続けていないと不安になり、一時でも問題を意識しない時はない。問題とはそこか始まる疑念の連続だ。それをあえて避けて通ろうとすると意味不明に陥り、そんなことを述べている誰かが何かを忘れてしまうが、それとこれとは関係ないだろう。妥協点はそういう場所にある。君をそれほど悪意を持ってだましているわけではない。抱いているのが幻想に過ぎないなら、それを信じ続けることが肝心なのだろう。要するに調子に乗りすぎているのだ。言葉が方々へ散っているのにも関わらず、それとあたかもひとまとめにしているかのように振る舞うつもりなのだ。それが誰かの文章をどこか得体の知れない場所に導く。そのつもりなのだろうが、闇の心が同意しない。何かを認めようとせず、ひたすら無視しまくり、そういう行為自体が何かの意志を持っているかのように思われ、そこから言葉が一人歩きをして、どこへ行き着くわけでもない深淵の彼方へと、意味不明になるまで変化し続け、結局なんでもないことに成り果てて、誰かの心を空虚の虜にする。そんな成り行きを否定するわけにもいかないだろう。それが一定の真実を含んでいる以上、一時でもそれを体験しているつもりにならなければ、これまでに語ってきたことが水泡に帰すような気もしてくるが、そうなったらそうなったらで、それも何でもないことの一部となるだけだ。それらの文章は何でもない。それはそこでの結論となるだろう。どこかの街の夜景を眺めながら、誰が何を思っているわけでもないが、何となくそれで何かを語ったような気にはなれないらしく、さらなる言葉の並びを模索しているつもりになりながらも、そんなことはどうでもいいとも思っていて、やはりそんな気分を今さら繰り返し記すのはくだらない。それは何かの映画の一場面などではなく、決して感動的な光景を誘発することはないだろう。だから何でもないのであり、あえて適当な表現で示すならば、それは蛇足の集合体だ。


9月1日

 仕方のないことだが、まだ蒸し暑い。昼はそうだが、夜になればいくらか涼しいはずだ。そして夜になる。感覚が誰かに合っていない。楽をしているわけではない。何かを活用してない。雨が降ってくる。幻想は思考の深さにあるようだ。正面から向き合っていないようだ。意識はどこにでもある。抽象的なことを述べようとしている。言葉は便利ではない。大したことはない。自分らしさをいかに表現するかという紋切り型を脳科学者が強調する。君には自分がない。冗談でそんなことを述べてみるが、それがどうしたわけでもなく、何となくその辺で何かを忘れようとしている。何かとは何かのことだ。だらけているようだ。興味がない。魅力を感じない。正しい意見を表明している者は退屈だ。それ以上に間違うことはないだろう。にわか雨が降ってから涼しくなってきた。冷房のおかげだろう。しばらく雑なことを述べていたらしい。語るべき何かが欠けている。気が散っているのかもしれない。しかし目的がない。何かを述べるのも記すのも目的とはなり得ず、考えることを省いてどこへ至ろうとしているのでもなさそうだが、やはり何も考えられない。目的なくしてどこへも至れないだろう。それでも意識はどこかへ赴くつもりらしい。何が矛盾しているわけでもなく、何となくそこへ行き着く。架空の目的をねつ造できるほど頭が冴えているとも思えない。何か適当に試行錯誤しているうちに、何かに気づくだろう。明日も蒸し暑いらしい。すでに翌朝の時間帯にいるようだ。やはり苦し紛れに何をどうやっても何もやっていないことになる。結果的にそうなのだから、それでも努力しているつもりになるのは当然のことだ。何とかしたいのだろう。何もできないがどうにかしたいらしい。心は無駄に何かを追求するが、自己を責めているわけではない。ただまったく文章が読めていないようで、理解できないのに無理に言葉を弄して墓穴を掘る。今はそれでかまわないのだろう。それ以外に言葉の連なりを前進させる方法はない。語っているすべての内容は気休めに違いなく、いくらそれを間延びさせようと、さらにみっともない結果にはならないだろう。わざとそんなことを述べているわけだ。すでに語られている内容からはみ出て、何か違う方向性を獲得すべく、適当な努力が施され、それをしばらく続けることによって、文章を以前とは違った結果に導きたいが、意識の中で何かが外れているらしく、眠気を催したついでに、この際そんなことは忘れてしまおうと思う。やる気が持続しない。一眠りしたら何かを思いついている。誰かの記憶が崩壊中だ。言葉の組み合わせを考慮していないようだ。たぶんまた何を語っていることにもならないはずだ。思いついたのはそんなことであり、冗談に冗談をかぶせ、それで偽りの仮面を作ろうとして、それに何かを語らせているつもりらしいが、そんな嘘は簡単に見破られてしまうだろう。たぶんそこで言葉以外の何をもたらす気はなく、読む気も失せるような無内容を提示しているわけだ。実際に記されている文章と思い描いているそれとはかなりのずれが生じているようだが、今はそれでもかまわないと思いたい。どうも何を把握しきれなくてもそれなりに言葉を記すことができてしまうので、そういう低レベルの内容ならできそうな気がする。とりあえず何かいい加減なことを述べなければならない。君にどんな主張があるわけではなく、何か適当な幻想すら思い浮かばず、結局何をいい加減に述べることもできなくなり、言葉を記すのを中断せざるを得なくなる。そして今は正気ではないと思いたい。戯れにそんなことを思ったりするが、やはりそれがどうしたわけではない。君は何かが気に入らないのだろう。人はただ生きている。動植物も細菌のたぐいも生きていることになっている。それを肯定したいわけではない。わけもなく否定することもできないが、拒否すべき状況とはどういうことでもない。人は仕事をしている。できれば遊んでいる人になりたいが、そういう成り行きの中に誰がいるわけでもない。まるででたらめなことを述べていたいが、今はそうでもないらしく、これからまともなことを述べるつもりのようだ。本当に何かが実現するとは思っていない。心が揺れていて、地面も揺れている。何を否定したかったのか忘れてしまったようだ。この世に興味をなくしてしまった理由を探している。どこかに何かが転がっているようだが、それは石ころのたぐいだろうか。画面では人が人のように振る舞っているのが滑稽に映る。そして何を語ってもピンとこない。語るためのヒントや秘訣を教えてほしい。たぶんそう述べて、君が嘘をつく環境を整えているのだろう。許し難い行為などどこにも見当たらない。死刑になりたくて人を殺すのは大いに結構なことだ。そういう気持ちがどこから出てくるのかわからないが、進んで面倒な事件を起こすのに理由など要らないだろう。たぶん誰の本音を語っているのでもない。ここからはあまりにも遠すぎて、どこかで誰が叫んでいるのか判別できないが、やはりそれでかまわないらしく、誰かはひたすら沈黙を守り、でたらめな文章を記し続けるようで、レールの上を移動中の電車から、夜の景色を眺めながら、何も思いつかないことを後悔することもなく、さらに躊躇なくそんなことを記してしまうらしい。それはまったくどうでもいいことだ。


8月31日

 この世は基本的に因果応報なのだろうが、確実にどこかで何かと何かがつながっている。そこまでやる必要はない。わかっているつもりのことはたぶんわかっているのだろう。時間が迫っている。お別れの時間か出会いの時間だ。かなり派手にやられた。感覚が釣り合わず、それに見合った意味を探している。思い起こせばそこでどうにかなっている。そういう成り行きなのだろう。だから何かをあきらめなければならない。参っているらしく、意味もなく深夜にテレビを見ている。意志の力でどうなるものでもない。そんなところから崩れていくわけだ。著しく具体性を欠いているが、何をやろうとしているわけでもないらしい。その一連の行動に動機など要らない。危機的な状況なのに、なぜか冷静さを失わない。焦る感覚を忘れてしまったらしい。本当はどうでもいいことなのだろう。夏の終わりは虫さされが多い。そこら中がかゆい。深夜の時間帯ならなおさらだ。どこに原因を求めても仕方のないことだ。哀しくも虚しくもあり、その程度の意識なのだからどうしようもない。呪われた館なのであり、呪われた一族なのだろう。冗談を述べるならそういうことだ。狭い範囲で何を考えても、つまらぬ感情ばかりが表面化してくる。そして誰もがそれを認めたくない。いったんそうなってしまったら、もはや取り返しがつかないのであって、後は自然の治癒力に期待するしかない。どこまでも寛容になれるわけもなく、ひどい言葉が飛び交い、それに見合った欲求を満たしてくれるのだろう。人はどこまでも愚劣だ。過ちはいついかなる時でもやってくる。それによって当初に思い描いていた筋書きやシナリオに狂いが生じても、それが何かの報いだと考えてしまうわけにはいかないようだ。絶えず予感がしている。うまくいくような気がする。得られた情報は情報として活用できる。活用しているつもりになれば気が済むはずだ。それほど異様なたたずまいということもないだろう。見た目がどうであれ、そこに存在しているのだから、それはそれで認めなければならず、それを否定するにしろ肯定するにしろ、大したことはないような気がする。芸術は人を狂わすが、人が狂うのは芸術のおかげなのだ。未体験ゾーンまで人を導いてくれる。それがいかにくだらない結果に結びつこうと、そんな体験を認識すべきだ。今さら否定しても無駄だ。たとえそこから衝撃を受けてもどうということはない。すべてはありふれた日常の続きなのだ。肯定すべき要素がまったく見当たらなくても、それはひとつの事件なのだろう。結果的に何かに乗り遅れているとしても、そこにとどまるには理由が要る。ひどい蒸し暑さだった。それだけのことだ。自然の猛威というわけでもない。あきらめるべきことを当然のことのようにあきらめている。すべては後の祭りなのであって、後から何をどう非難してもそうなってしまったことに変わりはない。それを理解できなくても無視するわけにはいかない。何かに秀でていることがもろ刃の剣であることは火を見るよりも明らかだ。もう何が何だかわからないわけではない。そんな事態になってしまったことを承知せざるを得ない。些細なことは些細なこととして処理しなければならないが、それを大げさに解釈してしまいがちになってしまうのは、人の弱さなのだろう。もう完全に目覚めている。何とか一段落つけなければならないようだが、そこまで持っていけるかどうかは自信がない。あくまでも何について述べているのでもないことにしておきたいのだろう。そこで様々な感情が交錯している。すでにけじめはついているはずだ。そういう線でいけるところまでいくつもりなのだろう。また同じ曲がかかっている。引っかかりを感じているらしい。予感がしていたのだろうが、何かのスイッチが入ってから、それが真実に違いないと思うようになる。どうにもならないことは他にいくらでもあるだろう。いくらでもあると思わせるような何かに見舞われ、そこからそんな認識を得ている。経験の積み重ねがそういう心理状態を招いているらしく、何事にも動じないような気にさせるようだ。人には人それぞれの行動形態がある。それがいかに突飛なものであろうと、人並みはずれて強烈なものであろうと、そのことごとくが類推できる範囲内におさまっているはずだ。人が人である限りにおいて、それを超えることはできない。そんなことを述べているうちに眠くなる。すべては過ぎ去り、意識を超えて過去の遺物に結合して、そのまま化石化してしまう。何でもない記憶に成り果ててしまうのだ。そこからどこへ向かっているわけでもない。他の形態はあり得ず、いったん意識に捉えられてしまうと、ひたすら無効化するしかない。そこから生還してきたのだから、それも運命だったのだろう。そして今は一段落がついてしまったらしく、それについて何をどう述べても過去のことだ。未来にはまったく必要とされていない。過去の出来事を書き留める作業には無力感が伴う。そこから希望を導き出すのは偽善のなせる業だ。人はすぐにそんな浅はかさに魅了されてしまうだろう。幻想を抱きたいのだ。何かためになるようなことを見出したいのであり、何かを成し遂げているような気分でいたいのだろう。それを非難しても仕方がない。否定すべき事柄ではなく、むしろ気休めや気晴らしのたぐいとしては推奨すべき行為なのだろう。


8月30日

 心の闇は思いのほか深い。利用すべきはそういうことだ。かなり回りくどく語っているようだが、それについての説明が省かれている。その時点ですでにそんな状況なのだ。どこからともなく誰かが強引にやってくるが、そういう状況に動揺しているわけではない。それは予知夢のたぐいだったのかもしれず、それに合わせて記されたでたらめな言葉の配列を気にしているわけでもない。ただそんな風にしか感じられず、そんなことを思っているうちに周りの状況を把握できなくなる。何かにかまけてその先を記すのを忘れていたらしい。この世はまだ二十一世紀なのだ。そこから時間をさかのぼろうとしているわけではない。何かが到来する予感を探ろうとしているが、今のところはまだその気配すら感じられないようだ。一方時空のどこかでは信じられない事態に陥っている。生身の体には毒が回っている。何かの隠喩が場面転換の言葉なのかを指し示しているわけではなく、そこで怠惰な気分を停滞させている要因を探るべく、誰かが思索を巡らせている。どうやら今回は冗談ではないようだ。たぶん次回の冒頭で何か結果らしき認識が示されることだろう。そんな嘘をつきながら久しぶりに晴れ渡った空を眺めているみたいだが、そこで何を考えていようと、それは誰の意識が考えているでもなく、君を介してどんな言葉が送り届けられているわけでもない。今はそういう話の展開ではない。誰かの意識はさらにそこから逸脱しようとしているのだ。ごまかしにごまかしを重ね、何のことやらさっぱりわからなくなるほど変節を繰り返して、今に至ってなお横道に逸れようとしている。そしていつものように困惑の度が深まっている。何をどうしたらいいのかわからない。気がつけばそればかりだ。それで何がわかるわけでもなく、頭の中の思考作用が完全に止まっている。それでも何とかしたいのだから、やはり無理というものだ。そこに疑念など差し挟む余地はない。どう語ってもそうなってしまうらしい。そんなわけで人はどこまでも愚かだが、愚かでなければ人ではなく、神か何かのたぐいになるだろう。人は賢く生きるべきではないらしい。すべてを巻き込んで不幸な成り行きが誰かの物語を奏でる。低く鳴り響いているのは声ではなく、地鳴りの音だ。地中で何かが崩壊している。どこまでも述べても限界が見えてこないのは、すでに正気を失っている証拠だ。嘘だろう。そこで何を決めつけているとも思えない。何が評価の対象となっているわけでもない。言葉はどこへも行き着かず、ひたすら限界を避けているのだ。虚無の周りをぐるぐる回っているのかもしれない。そこには心を狂わせるものがある。冗談でそんなことを述べていたいらしい。いつまでもそうなのだ。どこまでもぐるぐる回って、気がつけばどうなっているわけでもなく、取り立てて何を語っているわけでもない。過ぎ行く時が君のこだわりを見放している。言葉は君以外の何ものも示しはしない。そこで何かが爆発しているのだが、芸術が爆発していたのは二十世紀でのことだ。それも特定の芸術家の心の内でのことであって、すでにそこから遠ざかってしまった君には関係のないことだろう。たぶん二十一世紀は芸術の世紀ではない。たぶん何もない世紀なのだ。空白の百年であったりする。そして今はもう時代などあり得ず、すべては過去の蒸し返しになり、新しいことなど何も起こらない。嘘か冗談だろう。誰かがどこかでそう思い込んでいるようだが、それが何を物語っているわけでもなく、何かの紋切り型なのかもしれず、わざと間違ったことを述べて、他の誰かを挑発しているつもりなのだろう。君は何かの指示通りに動いているだけだ。誰の使いでもなく、具体的にどんな指示が下されているわけでもないが、それも指示通りだと思い込んでいる。どこかで誰かが笑い転げているらしい。だがそれの何が被害妄想だと見なされているわけではない。それでも何かに導かれてそこまで述べてきたことだけは確かだ。たとえわけがわからなくとも、何かしら述べている誰かにとっては考えさせられる現実だが、まさか虚無に導かれているわけでもないだろう。何も語らせないために存在する力が虚無だ。そしてそれは見当違いの認識になるだろう。たとえ君が虚無そのものだとしても、君には君の役割が備わっている。絶えず何かを述べている必要があり、その述べている言葉が記されている間は誰かの気配を感じることができる。それが何になるとも思えないが、何かのために言葉を記す必要はない。ただそこにつまずきの石がおいてある。君はそこでわざとらしく躓いてみせるはずだ。たぶん成り行きとはそういうものだ。予想通りの話の展開に安堵して、自らがそこで何を演じなければならないかをあらかじめ察知しているようで、誰かの期待に応えるべく、あえて躓いてみせる。こんな風に転んでみれば物笑いの種になり、何となくそれで世間に暇つぶしの話題を提供できたような気になり、自虐的な満足感を得て、その場で馬鹿踊りに興じている。そんなお調子者はだいぶお疲れのようだ。つられて君も疲れている。月末の忙しい時に思いがけない事件が起こり、それの事後処理に追われ、まるまる一日がつぶれてしまい、それが一段落ついた頃には夜になっていて、ようやく帰路につくが、すでに何もやりたくなくなっている。


8月29日

 何かの状況が君を後押ししている。そしてぬるま湯に浸かりながら誰かがもがき苦しんでいる。それでも死にものぐるいというわけにはいかないらしく、動きがわざとらしくも緩慢だ。それにつられて発想が貧困を極め、やはりいつものように何を述べているかわからなくなる。力つきてしまったらしい。言葉が続かなくなり、はったりも通用しなくなる。甘くない。ほのかに甘い。何かを訂正しているらしい。けれども自由な発想からはほど遠い。いつものように説明が足りないのだ。何について語っているのかわからない。それでも前進させようとしている。虚しい試みだ。冗談でそんなことを述べているのだろう。何かが壊れかけている。確実にそれが進行中のようだ。そんな危うさとともに言葉の連なりが記され、不安でたまらなくなる。だからそんな嘘をついている場合ではない。やはり何とかしなければならない。感じたままの何かに操られ、心が動揺して、何を忘れているのか思い出せなくなり、勘に頼って過ちを増幅させ、驚喜の瞬間に立ち入る機会を逃し、ひたすら何でもない日々を送り、それが普通であることを思い知らされる。もう何もときめかないのだ。冗談を述べるなら、すべてはそういう成り行きに含まれる。成り行きなどではなく、ただの推移でしかないのかもしれない。単調な風景にアクセントを加えようとしているだけだ。誰もそんなことは思いつかない。肩の力が抜けているのだ。何かの後始末の最中のようだ。何も驚くにはあたらない。つまらないことにこだわりすぎている。やはりそれらの試みは何でもなかったようだ。結果など記すつもりはない。何も覚えていないのだ。紆余曲折ではない。すべては簡単なことだ。空疎なことを記していればそれで不思議な印象を得られる。何かの勘違いかもしれないが、何となくそう思われてしまうのだから、それはそれで認められるべき感覚に違いない。何かを超越したつもりになることはない。それ以下の低空飛行から、やがて墜落してしまえばいい。何が飛んでいるわけでもなく、言葉でそう記されているに過ぎない。架空の出来事さえ示されない。そしてそんな案配にめげているわけでもなく、ただ何が何だかわからない。文章になっていないのだろう。誰かはそれを認めざるを得ない。誰かだけではなく、君も困惑しているつもりになるが、それが白々しい演技であることは百も承知だ。どうしてもそこから遠ざかるわけにはいかないのだろう。それで何とか踏みとどまっている気になりたいのだ。冗談に違いないが、笑っている場合ではない。しかしいつまでも笑い転げているのは誰でもない。しかもそれが何だか狂おしいほどに嘘っぽく、誰でもない誰かについて誰が語ろうとしているわけでもないのだが、君は完全に呆れている。冷や汗をかいているとはとても思えないし、何について述べようとしているのでもないらしく、ただ呆れているのだ。そんな風にして言葉を連ねているだけのようだ。それが何のアクセントになっているかは、誰かの想像にまかせよう。しかし何を想像するかは誰かの自由であり、興味のないことに首を突っ込むつもりはさらさらなく、何を避けるかも誰かの気分次第となるだろう。ちなみにその時の気分を話してほしいが、それは文章に反映されることはない。画面が暗く色調がそれに追従している。君の思い通りの雰囲気に近づく。そんなのは嘘だろう。何の根拠も示されず、何を理解した証拠もない。いくら言葉を連ねても何一つわからないだろう。だからそんなことを述べているわけだ。そんなことははじめから承知していて、しかもわざとわからないふりもせず、何となくそのままの無内容をさらけ出している。やはりそれは何でもないことなのであり、すべてが馬鹿げているわけではない。馬鹿げているのではなく、何でもないということだ。さらにどうでもいいといえるかもしれず、何が起ころうとまるで意に介さないような怒濤の意味不明だ。すべてを無視したついでに自らが記している文章すら無視している。そんな嘘をついて悦に入っているわけで、それこそが意味不明の最たるものだろう。そんなことを述べている一方で、君は確実に何かをあきらめている。まともなことを述べる意欲が著しく減退しているようで、何かから遠ざかることもあきらめている。気がつけばそんな心理状態のまま、どこか遠くへ逃げるでもなく、部屋の中で苦悶の表情を浮かべているわけでもなく、笑い転げているのでもなく、作り話の中に住まう誰かに何を述べさせることもなく、遠くを見つめているふりをしながら、何も思い出せずにいる。過去が意識の中で消失していて、やる気が失せるのと言葉を記すのがリンクしているようで、なぜそうなっているのかわからないが、そんな風に語ってしまうことに否定も肯定もできないような心境を迎えているらしい。ただ何かを語っているのだ。ひたすら語っているつもりでいる。自己肯定できないが、それとこれとは関係ないだろう。自らはそこで何をやっているわけでもなく、画面を眺めている誰かに向かってどんなメッセージを発しているわけでもなく、たぶんメッセージなど受け取る資格のある者など、この地上のどこを探してもいるはずがなく、すべての人類は下等生物に違いない。


8月28日

 土砂降りに打たれて目を閉じていると、何か適当なことを思いついたようだ。そんなひらめきはいつもの冗談に違いない。あえて誤訳すれば、道を横切るのが誰かの人生だ。意味がわからないが、君はそんな誰かの姿を知らない。しかしそれが虚無に結びつく。やはりそれは何でもないことだ。今度は冗談ではない。それだけでは意味がわからないが、そこから何か適当な説明をしなければならなくなる。君は気まぐれで、誰かは自らの影を持て余し気味だ。そんな冗談では誰も動かない。何が冗談なのかわからない。そんな言葉が繰り返されて、わけがわからなくなる。それは予定調和の展開に違いない。誰かはそういうやり方が好きなのだ。怠惰が邪魔をして、いつまでたってもそういうやり方から抜け出ることができない。だからこの世は楽しいのだ。まるでだまされているような気がする。悪い夢でも見させられているのかもしれない。そしていつまでも誰かが笑っている。もう一息なのだ。息の根を止めようとしているらしいが、それでも完全にしとめるまでには至っていない。何がそれを阻んでいるわけでもないはずだ。明らかに無内容だ。言葉を記している事実をないがしろにしているようだが、それはどういうことでもない。現状がそこまで至っていないわけだ。それどころかさらなる虚無を導こうとしている。何かをわかる手間を省いている。その場の雰囲気に流されていれば、そうなるより他にない。どこかで何かを断ち切らなければ抜け出ることは叶わないが、自意識が冗談の連鎖に魅了されているらしい。また目つきがうつろだ。どこに目の焦点が合わさっているわけでもなさそうだ。君はどこまでも気まぐれなのだ。気まぐれなのは君ではないのかもしれず、それは誰かの思い込みの方だ。今日もわざとそんなことを述べている。相変わらずまともなことを述べられない。述べようとする気配すら感じられない。誰でもない誰かがそんなことを記している。それは馬鹿げている。だがそれでこの世がどうなっているわけでもない。それらの言葉が何のために記されているのでもないことはわかっているはずだ。それはただの継続そのものであり、そしてただのこけおどしに決まっている。こけおどしになっていないような気もするのだが、いい気になるにはまだ言葉が足りない。君に暴力と技術の違いを説明してくれないか。また冗談でそんなことを述べているのだろう。暴力も技術に取り込まれる要素だ。いかに機会を捉えて暴力に訴えるかが技術的な見せ所なのだろう。何の話をしているわけでもない。だが負けが決まってから暴力を行使するのはいただけない。しかし君が何に対して負けているとも思えず、そこで何が矛盾しているわけでもない。それは架空の暴力だ。相変わらず話が馬鹿げている。語りかけている対象を見出せず、暴力も何もあったものではない。どこまでも空疎だ。たぶん何か他のことを語りたかったのだろう。自意識が何かを伝えようとしている。まだ決心がついていないらしい。気休めなのだろう。何が気休めなのかわからない。見たまま感じたままのすべてがそうなのだ。問いかけることを忘れているらしい。すべてが気休めなのではない。きっと何かに逆らいたいのだろう。何かとは誰かの自意識のことだ。ならばはじめからそう述べれば済むことかもしれないが、その時点では何かが何なのかはっきりせず、次いで当てずっぽうでそれをさす言葉を当てはめてみる。そんなのは嘘に決まっている。そしてそれが袋小路での出来事を思い起こさせ、何でもないことを何でもないことのように述べている自らの内に何が起こっているわけでもなく、文章から除外された言葉を再度組み合わせて、何やら文章らしき言葉の連なりを記している誰かに、青天の霹靂めいた思いつきがもたらされるとは思えず、やはりそれは袋小路での出来事ではなかったような気にさせる。実質的に何も述べていないようだ。楽しめないらしい。それが君の目的とはなり難く、誰のために何をやっているわけでもなく、そのままのことがそのままではないように思えてきて、そこで何かの水準を突破して、まったくのでたらめであるように感じられ、やる気をなくしている気持ちが文章に乗り移り、そんな空疎感を醸し出しているのだろう。君はそこですべてを理解している気になる。やけくそ気味にそんなことを述べているのだが、無茶を言ってはならない。それ以上の何を求めているわけではない。それ以下ならいくらでも可能かもしれないが、試してみればそれもできないことがわかるはずだ。とらわれているそれは狂気ではない。平常心の成れの果てが空疎な気持ちになる。何もないのに疲れている。どこから圧力が加えられているわけでもなく、ひょっとすると真空状態なのかもしれず、何も感じないとはそういうことなのだろう。何かの力を借りてここまできたわけではない。それどころかまったく力が入らないのだ。湿度が高すぎて頭の中にカビが生えてきそうだ。まったくそれが冗談にもならず、本当にそんなことを思っている誰かに何がわかっているわけでもない。それは理解できない現象だ。考える対象からずり落ちてしまい、何について考えていたのかわからなくなり、いや増す虚無感に押しつぶされそうになっているかもしれないが、それでも言葉が連なっている現実に気づく。


8月27日

 誰かには他に望むことがあるらしいが、君とは関係がない。それでもそれがきっかけとなり、気がつけばそこから抜け出ていることだろう。誰かは日頃からそんな夢物語を抱いているようだが、意味がわからない。たぶん通常の夢物語ではないのだろう。君がその内容を知ることはないが、それが深刻な問題とはならないだろう。すでに君は誰かの影ではなく、誰かはある水準を超えて言葉を記し続けている。近頃ではそれが気休めになっているようで、そんな経験に寄りかかりながら何か適当な無内容を記しているつもりなのだろうが、問題となっているのは誰かが抱いている夢物語などではない。現実に目の前にある虚無が問題だと思っている。それがあると思っているのがそもそもの勘違いなのかもしれないが、それが誰かに幻想を抱かせる。虚無は誰かに何かを語っていると思わせ、どこかに導かれていると実感させるが、現実にはそれが物語になっていない。もともとその場での物語の定義が不明確で、現状では何が物語なのかわからず、それは誰かと君の物語なのかもしれないが、具体的に君や誰かがどこで何をやっているのか明らかになっていないばかりか、言葉の記す以外に何をやっているのかまったくわからない。それが物語であるはずがなく、何か適当でいい加減なことを述べているだけだろう。しかしそれで誰が呆れているわけでもなく、どんな非難にさらされているわけでもない。要するに何でもないことなのだ。それが目下の結論に違いないが、ただわけがわからず、誰がそこで何を述べているのかもわからない。そして一日が経つ。あれから何の進展もない。語るのが面倒になってしまったようだ。ひたすら何でもないことを述べ続けるのが精神的に負担となってきたのかもしれないが、それ以外を知らないので、今後もそれを続けるしかなく、現実に何でもないようなことを述べているのだろう。誰かはそれが気に入らず、即興で思いついた作り話の中では、誰が何を続けようとしているわけでもなく、何もない空間の中に誰もいない状況が果てしなく続いている。いちいちそんな嘘をついてしまうのも、言葉を連ねることに結びついている現状に落胆して、本当に何も語れないことを自覚するためには必要なことで、やがてそれらの空疎な内容のすべてが自らに返ってくる。記されているのはそういうことであり、今のところはそういうことの他に何もない。そんな語りによって誰かは煩悶させられているわけで、一方でそういう馬鹿げた状況を笑っている。まったく冗談ではない。実際は冗談なのだろう。思っていることと実情が真逆なのかもしれない。それも笑うべきことには違いないが、今は笑っている場合ではないだろう。だがそんなことを述べている現状がそれらの作業を支えているわけだから、君はまさに目の前の画面に映っている虚無の連なりに魅了されているのだ。そしてそういう間違った断定も、それらの言葉の連なりの継続の糧となり、虚無的な内容に結びついているのだろう。誰かはわざとそんなことを述べて、別の誰かの感覚を惑わそうとしているわけだが、そんなごまかしが現実に通用しているとは思えない。君にはそんな試みが退屈に思えて、もっと何か具体的な現象について述べている状況を夢想せずにはいられない。それが気に入らないなら実際にそうしてみたらいい。嘘に決まっている。誰がそう述べたところで、誰が誰に向かって何をそそのかそうとしているわけでもない。今の君にはどんな言葉も通じない。だがそこであきらめるわけにはいかないらしく、虚無的な文章が何とかまともな内容を伴った言説に生まれ変わるように努力している最中のようで、そのための方策を必死になって探している。それも冗談だろう。誰かには本気でそうしているとは思えないのだが、なぜそんなことを述べてしまうのかわからない。何やら意識は奇妙な言葉の連なりに遭遇している。それだけのことなのに、しきりに何でもないと思い込もうとしている。何かの破綻を恐れているのかもしれないが、何かとは誰かの精神状態のことだろう。今のところは杞憂に終わっているが、いつ何かの発作が起こるかわからない。たぶんその時になったらしらけている。期待はずれなのだ。何のための錯乱なのかわからない。話がどこかで行き詰まっている。すべてが行き詰まっているかのような成り行きに思われる。きっと気のせいだろう。嘘をつくのもいい加減にやめてほしい。すでに現状はどうにもならなくなっているはずだ。どうにもならないから今に至っている。今とは現状を示している今だ。それが今になり、要するに現状が今を構成している。わかったようなわからないようなことを述べているが、でたらめなのかもしれず、ただの意味不明なのかもしれない。元の木阿弥気味に同じような言葉が返ってくる。それが現状なのだろう。いくら言葉を連ねても何の進展ももたらせない。何をどうやってもそうなってしまうのだから、それはそれでそういう現状なのだろう。だからもうあきらめたらどうだ。話の中で自己免疫機構が破壊されているのだ。完全に虚無の思うがままに操られ、何の内容も記せないようになっている。そういうことがわかったらしいが、わかったからといって何がどうなるわけでもなく、どうにもならないから、そんな言葉の連なりが続いているわけだ。


8月26日

 やはり何とかしなければならない。また少しずつ遅れているようだ。何かが違っているのだろう。違っているから遅れ出す。やがて何もできなくなる。それは死後の世界でのことだ。たぶんそうはならないと思う。それは思い違いの勘違いだと思い込もうとするが、現実が誰かの思いを裏切っている。何かを確実に裏切り続けているのだ。そして他にやることがないのだろう。やってしまったらそこで終わりだ。終わってしまったからそんな場所でくすぶっている。そこで終わらせなければならなくなる。終わってしまったのに終わらせなければならない。性懲りもなく同じ言葉が巡回しているようだ。それは偽りの終わりを巡る言説もどきだ。相変わらず内容がない。わざとそう述べているのだろう。そこから先は自己言及の言説だ。冗談ではない。何を嫌っているわけでもなく、嫌っているふりをしているだけだ。今度はご都合主義的にそう思い込もうとする。そして何かが著しくずれているように思われ、その何かを言葉で示さなければならなくなるが、それがわからない。ずれているのは百も承知で、劣悪なことを述べているのもわかっている。だがそこから抜け出られなくなっているわけで、抜け出る方策が見つからない。実質が何もないのだろう。あるのは無駄に言葉を連ねてきた経験だけだ。それで何とかしようとするから、そんな言葉が循環してしまう。ひっきりなしにそれが繰り返され、それに嫌気がさして、しばしばやる気を失って中断してしまうらしい。それでもそれをやろうとしている現状があり、気がつけばひたすら言葉が連なっている。それが自己言及もどきの一部始終だ。他に何を語っているわけではない。君はいつも何とかしようとしてそんな悪循環にはまっている。今も疲れ果てて眠って目覚めて深夜の時間帯に言葉を記している。それを続けようとしているわけだ。まったくご苦労なことで頭がおかしいようだ。そう思いたければ思うしかない。誰かがそういう成り行きを作っている。誰かが遅れていて他の誰かが進んでいるわけではない。すべてがそういう成り行きの中にあり、そういう空気に操られてどこかをつれ回され、そしてだまされているわけだ。君はそれが冗談だと思っている。そんな嘘をついているわけだ。何が嘘だかわからない。わざと矛盾したことを述べようとしている。それが実現しているらしい。わかったようなわからないようなことが誰かの言説を構成している。他の何に気づいているわけではない。とりあえずそういうことなのだ。どこまでもそういうことであり、いつまでもそういうことなのだろうが、それ以外にやりようがない。ひたすら続けることが肝心のようだ。常に生じくる言葉の連なりが考えるいとまを与えない。それにかかりっきりにさせるわけで、それ以外には何できないような成り行きを呼び込んで、その場に意識を拘束している。終わるまではそれを続けさせ、決してそれをやめさせようとしないだろう。誰がそうしているのか知らないが、現状はそういうことの積み重なりの上に築かれている。それが誰かの目に映っている現実だ。それを幻影だと思いたい。何かの風景だとは思いたくないようで、何か別の幻想を抱いていた時を思い起こそうとしている。必死なのだろう。その先のことに言及しようとするたびに、それが思い違いだと思いたくなり、それとは別の言説を生じさせようとして、いつもそこで躓き、結果的に何かを断念せざるを得なくなり、それに関していくら皮肉を述べても無駄だ。きっと耳を貸そうとしないだろう。この世は分からず屋がはびこり跋扈する場所だ。それで何かの均衡がとれているのだろう。常に釣り合いを取ろうとしているわけで、そのバランスが崩れると、その先には動乱の時代がやってくる。誰かはそうなってほしいと思っている。安定していて退屈な世界には飽き飽きしている。だが人々が求めているのはそれだ。平和な世の中を築くために誰もが努力していることになっている。表向きはそうなのだろう。そういう建前を掲げていないと世間のつまはじき者となってしまい、要するにテロリストかそれのたぐいと見なされてしまう。唯一許されているのが、スタジアムの中でルールに則って暴れ回る見せ物としてのスポーツや格闘技のたぐいだ。君たちはだまされているわけだ。牙を抜かれた暴力に見とれているだけだ。もちろんだまされていた方が世界の平和に貢献していることになるのだから、それは良いことのはずだ。結果的に平和なのだから確かに良いことだが気に入らない。多くの人たちが何かまやかしのような見せ物に酔いしれているの見ているとだんだん腹が立ってくる。お前らだまされているぞ!と叫びたくなってくる。そういうのは冗談には違いないが、何か誰かの本音らしきものも含まれているのかもしれない。何かをおもしろおかしく述べようとすると、とたんにそれは違うと心の叫びが聞こえてくるようだ。そんなのはごまかしに過ぎず、本質から著しく外れている。君のは他にやることがあるだろう。しかし誰かには他に述べることがない。それができないのだ。できないから同じような言葉の循環を受け入れなければならず、そこに安住することを強いられ、そんなことばかり述べていると、例えば江戸時代のような予定調和的な社会を肯定しなければならなくなる。誰かは時代劇について述べているようだが、それも本質から外れた見方だ。


8月25日

 たぶん何とかしなければならないのだろう。誰もが何とかならないと思っているが、何とかなるようなやり方を知らない。冗談で語るならそういうことだ。相変わらず本気になれない。毎日人が事故で死ぬ。それは当たり前のことだ。そういう日常を変えることはできない。現時点ではそうだろう。何かに気をとられているようで、話が前に進まない。それとは裏腹に、テレビの映画は時間的にそろそろクライマックスを迎えつつある。そろそろ終わるのだろう。そういう話なのだからそういうことだ。誰かが記憶の中に生き続ける。そんな台詞が記憶に残るが、やがて忘れ去られる。どんなにがんばってもそういうことだ。君ががんばっているわけではなく、他の誰かががんばっているのだ。いつまでも過去につきあってばかりはいられず、そろそろ将来のことを考えなければならない。どこまでも勘が頼りだ。本気でそう思っている。破滅一歩手前でもそう思っているのだろう。そして破滅して今に至る。今は未来らしい。そんなことはあり得ない。過去ではないが未来でもない。そんな風に思って当たり前のことを確認したいらしい。つまらない話になりそうだ。そして何とかおとしまえをつけるべく、その地点へと向かう。今回は冗談では済まないようだ。早く何かを出さなければ死んでしまうだろう。作り話の中ではそうだった。今は関係ないと思い、実際にその通りになった。気がつけばいつもの冗談を述べている。どこへ行ってもそればかりだ。そこからどれほど心が隔たっているとも思わない。いつまでも何とかしようと思い続け、無理を重ねているつもりなのに、気がつけば翌朝となっている。だからその辺で妥協しておかなければ死んでしまうだろう。膝はもう限界だ。それで死ぬことはないだろうが、今は他の何かで危なくなっているようだ。それが冗談だと思いたい。何とかその先の風景を眺めている未来を空想する。どこまでも君から遠ざかるわけにはいかないようだ。虚無がその後についてくる。執拗にそれを眺め続け、それでも飽き足らない何かを感じているらしいが、それが何だかわからない。何に真っ向から反対しているわけではない。相手に勝つためには手段を選ばず、努力を欠かさないのもわかる。それなりの戦略や戦術も必要なのだろう。戦争もそのための手段となる。戦争自体が目的とならない段階ではそうだろう。それを無駄な行為だとは思わない。時と場合によってはやむを得ないこともありそうだ。だから何とかそれを回避させなければならない。やむを得ない段階に至る成り行きを転換させる必要が出てくる。君はそんなことを述べていて虚しくならないようだ。いつかの誰かとは違う。前提が違うらしい。すでに戦争が起こった後からそんなことを述べていて、まるっきり無駄な言説を構成しようとしている。眠ってしまったら終わりだ。そして何かを終わらせようとしている。野心を抱いているわけではない。相手に先んじて何かを争奪しようとする野心が間違っているわけではない。スポーツ感覚で戦争を遂行中なのかもしれない。いつの時代でもそうであり、そこに利害関係が生じているのだろう。敵の人命がどれほど失われようと顧みる必要はない。苦しいのはわかっている。それでも誰かは何とかしたいのだろう。誰かが事業を継続したがっている。まずは利益を生み出すようにしなければならない。何とかするとはそういうことだ。そこから遠ざかるわけにはいかないらしい。意地でも続ける気でいる。どんな災難が降りかかろうと後には退けない。そして何かを達成しようとして死にものぐるいでがんばっている誰かが本当に死んでしまうらしい。そんな結末を予感させる何かがあるが、それはこれから語られる作り話の中での冗談になるだろう。冗談でなければ嘘になる。嘘になったら本気になる。翌朝の君は頭がおかしい。何を述べても苦し紛れだ。暗い雨空の下でひたすらそこから遠ざかろうとしている。そして自己言及気味に無駄に言葉を連ねて嫌悪感を増幅させる。すべてはゲームであり、ルールが定かでなく、わけのわからないその場しのぎの特別ルールを有力参加者の都合に合わせて適用し続けることでここまで至っているわけで、要するにこの世はまったくのでたらめなのだ。秩序もへったくれもありはしない。そんなのを公正さを欠いていると批判しても無駄だ。結局はやりたい放題やりたいわけで、それができないから妥協の産物としてルールを適用せざるを得なくなる。そしてそういう水準で何を述べても無効なのだ。当たり前のことを当たり前のように述べているだけだ。そしてそれだけでは格好がつかないから、何か人を驚かせるようなことを述べなければならず、自然とそこから冗談が出てくる。他人の死を笑い飛ばし、その悲惨な境遇を喜劇仕立てで語ろうとして、わかる人にはわかってもらいたいという、これまたご都合主義的な感情を話の中に出現させようとするわけだ。誰かはそんな予定調和のやり方を捨てられず、気がつけば以前と同じような言葉を駆使して、繰り返しそんなことを述べている。君ができるのはそういうことだ。君とは別人の誰かにしても事情は同じだ。誰もがそこから遠ざかれない。ひたすらその場にとどまり続け、同じ目標なき目標に向かって言葉を連ねている。現実には何を指し示しているわけでもない虚空に何か幻影のようなものがあると思い込んでいる。


8月24日

 まだ何か語る気があるようだ。たぶん回りくどいことを述べている。語っていることがわからないのだ。それが気に入らないらしい。誰もそんなことは思わない。思えないのかもしれない。何もないからそういうことになるのだろう。そんな状況の中で気分を害しているらしい。今日は何を語るつもりもない。だから言葉を記しているわけだ。そんなわけで何かが適当に矛盾しているようだ。そこから一目散に走って逃げる。幻想に浸っている。これから伸びすぎた足の爪を切らなければならない。誰かが何かを見ている。それは風景ではない。何でもない。気が向かないようだ。それでは話にならない。話にならないから何でもないのだろう。聴いているのは音楽だが、外から虫の羽音も聞こえてくる。とてもグルジア情勢がどうたらこうたら述べる気にはならない。君にはまったく関係がない。現地で多数の人命が失われようと、そんなのはどうでもいいことだ。そこから疑念が生じてこないようだ。何とも思わない。誰かが部屋の中でお茶を飲んでいる。鬱陶しいスポーツの祭典も終わってホッと一息だ。君にとっては何でもないことだろう。メダルの数がどうたらこうたら言っている人も急激にいなくなるだろう。あんな馬鹿騒ぎを数年に一度の周期でやっているうちに、人々はどんどん愚かになる。その間に世代交替だの何だのとやっていくうちに、そうやって生き急ぐ人々は老いて亡くなってしまう。中には過去の栄光にすがりつく人もいるのかもしれないが、それがどうしたわけでもない。すがりつき語り継いでいれば、それでその人の人生が終わってしまうわけだ。それはつまらないことに違いないが、君がそう思っているだけで、当人にとってはおもしろいのかもしれず、そういう人が後を絶たないのかもしれない。未だに太平洋戦争の体験を語り継ごうとしている人もいる。もうすぐ死ぬだろう。後何年でもない。だから今のうちに言葉や映像に残して、絶やさないようにしなければならないようだ。ご苦労なことだ。そんな悪あがきに接していると虚無的な気分になる。世の中に恒久不滅なものなどありはしない。どのような体験も忘れ去られなければならない。やがてそうなるはずだ。君はそれで何かを述べているつもりになる。たわいないことだ。中には過去を研究している学者もいる。日本の中世について何か適当なことを述べている。それが誰かの物語に結びつく。平板なことを述べるのはつまらないそうだ。たぶん以前の君が語っていたのはそういうことではない。まだだいぶ言葉が足りないようだが、そう否定してばかりではくだらなすぎる。君は何かの物語を肯定しなければならない。近頃の君は粗雑なことばかり述べている。例えば人間の習性か何かを肯定する気がないようだ。その必要性を感じない。真剣になれない。何かのためにそうなければならない人もいるらしい。遊ぶことに命がけにならなければならない人もいる。それが仕事や商売なら許されるのだろう。どこかの誰かは命がけでスポーツをやっているそうだ。今どき命がけは流行らない。命がけでないと金メダルは取れない。すべてがそういうわけでもないだろう。メディアは命がけであることに価値を見出そうとする。何かの宣伝文句に使えるらしい。そう述べて命がけの価値を貶めようとするのは卑怯なことだ。やるなら命がけだろうと何だろうとやってもらおうではないか。実際に命がけでやってしまったわけだろう。そういうことになっている。君は依然として黙って音楽を聴いている。何となく馬鹿らしいと思っているようだ。おそらく誰かはひねくれ者なのだろう。そういう結論を安易に出して、その場を切り抜けようとする。安易なやり方に違いない。誰かが水分を補給している。すべてが的外れで季節外れだろう。何についてそう述べているわけではなく、すべてがそうなのだ。冗談でそんなことを述べている。それらはすべて無駄な言葉だ。もはやあきらめが肝心だろうか。何をあきらめればいいのかわからない。外は涼しく、数日後にやってくる残暑に気が滅入っているのかもしれない。このまま涼しくなってしまうわけにはいかないようだ。たぶん文脈を無視している。さらにどうにかならないと気が動転してしまい、錯乱状態となって、意味不明なことを口走っているはずだ。それは苦し紛れの嘘だろうが、たぶん人が人であるためにやらなければならないことを放棄すると、その人は仙人にでもなれるかもしれない。それは人であることを拒絶して、孤高の存在となることだ。また冗談でそんなことを述べている。仙人などどこにでもいる。河川敷に行けば、その手の人たちがブルーシートに覆われて暮らしているはずだ。君がそうなるわけではないらしい。今のところはその予定はないようで、それどころか密かに一軒家でも手に入れる算段をしているのかもしれず、その時がきたら何とかしようと思っているのだろう。それはくだらぬ夢に違いないが、その前にやらなければならないことが山積み状態だ。様々な何とかしなければならないことに囲まれて暮らしているようだ。だからいつも切羽詰まっていて、精神的に追い込まれている。そんなことでは長生きできそうもないが、掌の生命線は意外と長い。今さら手相も何もあったものではないが、気休め程度なら希望が持てる。たぶんそれも冗談の続きなのだろう。


8月23日

 たぶん馬鹿げている。この世界は馬鹿げている。そう思われてしまうのだから、そこに何か原因があるのだろう。すべてが原因で馬鹿げているように思われるのかもしれない。その中の何かなのではなく、すべてなのだ。この世のすべてが馬鹿げている。そんな妄想を抱いていると、誰かが何かを知らせてきた。君は間違っているそうだ。間違っているからすべてが馬鹿げていると思われる。正しければどうなるわけでもないが、ただそれは間違っているのだ。だからそれについて考える時間が欲しい。他に何を述べようとも思わない。翌日はひたすら雨が降っている。一日中降り続けるそうだ。それ以外には何ももたらされない。焦って言葉を記そうとすれば無駄な問いかけに終始するだろう。そこからまともなことを述べることにはならない。可能性がどんどん削られているようだ。それはどうなる可能性でもありはしない。ただ雨が降り、水がたまっていくようなものだ。そのたまった雨水が無駄な排水をもたらし、何かを押し流している。そしてこの世界はどうにもなっていない。まるっきりのでたらめな言葉の連なりがもたらされているが、それは君の才能ではない。君には何もない。そういう段階ではないだろう。理由がわからない。そうなってしまった理由をわかろうとしない。そして理解不能な何かを述べなければならない。それは言葉ではないだろう。少なくとも予言の言葉ではない。たぶんすべてがでたらめなのだ。小心者の誰かはすぐにでたらめに逃げている。わざと意味不明な言葉の組み合わせを試しているようだ。それがわからない。かなり突拍子もないことを述べているのだろう。そんな気がしているだけで、本当のところは何が何だかわからないようだが、何となく雰囲気ぐらいは伝わっているかもしれない。長続きはしないだろう。くだらないのだ。何となくそう思われるようで、後から読む気がしなくなるだろう。読み返す手間が煩わしい。それでも何か適当な続きを語っていたいが、次第に自己言及の罠にはまりつつあるようだ。まったく発想が先細りなのかもしれない。気がつけば語っていることについて語っている状況がある。そんなのはおもしろいわけがないが、そんな風にしか語れないのだからどうしようもなく、今回はそれで押し切ってしまう気らしい。まったく愚かなことだ。愚かだが、その愚かさを誰かは疑っている。本当は愚かではないと思いたい。ただ虚無に包まれているだけだ。それが愚かだというのだ。それはまるで千日手のような繰り返しになるが、別に誰と誰が将棋を指しているわけでもないだろう。そうやって君は危難を逃れるつもりなのだろうが、まったくのお笑いぐさだ。何となくそう思われる。いったいどこまでいい加減になればいいのかわからなくなる。すでに気力も限界に近づきつつあるが、何がどうなってそうなってしまうのかを知りたくなる。おそらくそれに対する返答はどこからもないだろう。君はだいぶ弱ってきているらしく、気が滅入る日々を恐る恐る過ごしているのかもしれない。何をそんなに恐れているとも思えないが、誰かの背後から何かの終わりが迫ってきていることだけは確かなようだ。その終わりは具体的な終わりではなく、常に何かの終わりであって、何の終わりなのか当人にはまったくわからず、気づかないうちに絶えず何かが終わり続けているようで、それは君に関する何かではないのだろう。そんなわけで君はそこで何を告げられているわけでもなく、どこに存在することもなく、今も架空の迷路の中を右往左往しているのかもしれない。別に焦っているわけではない。君が不在でも言葉はつながっていく。おもしろくてもつまらなくてもかまわないのだ。まったく堪え性がない。精神の集中と緊張を維持できず、気がつけば冗談に逃げているようで、何一つまともなことを述べていない自らに気づき、そこから遠ざかろうとしても遠ざかれない現状に嫌気がさして、いくら逃げても逃げ切れないことに意気消沈している振りをしながらも、裏に回って薄ら笑いを浮かべながら、何をどう語ることもなく、そんなどうにもならない言葉の連なりの至る所に誰かの本音が紛れ込んでいると思い込み、それを探しまわって徒労感を味わい、それも冗談のたぐいだと思い当たるが、まったく笑えない自らをどこへ移動したいわけでもなく、やはりそんなことを述べながらも、その場にとどまり続けているわけだ。それが冗談でなくして何なのか、と自問自答しているわけではない。自らは何も語らず、それらの言葉の循環に身をまかせているわけでもない。君には何もわからない。だからいつまでもあきらめきれずにそんなことをやっている。どこからか、恥を知れという的外れな言葉が飛んでくるかもしれないが、そんなていたらくを野放しにしていることにさしたる理由は見出せない。今のところはそうなのだろう。今でなければやりきれないようなことを述べているわけだ。たぶんひたすらそのままでそこにとどまり続けるのだろう。まるでだだっ子のように意地を張って、その身を滅ぼすつもりのようだ。それは冗談ではないと思う。だが冗談でなければ何でもないだろう。意味不明でさえない。当然わけがわからないわけではない。それが君の本音だとしたら、架空の話はどこで転機を迎えるのかを知ることとなる。そんなのは嘘に決まっている。


8月22日

 今日は何も語れないので明日になってしまうらしい。さっきまでテレビに見とれていたわけだ。だから出だしから話になっていないようだ。だからというわけではないが、そんなわけで人は簡単に破滅する。それが現実の破滅とは言い難いが、漫画やアニメの中ではそうだ。劇的な話の展開では極端な事例しか示されないだろう。いつも命がけであり、話の中で多くの人が命を落としたりするが、それが事の深刻さを醸し出しているわけで、それを読んでいる者には無関係な運命なのだろうが、端から眺めているとおもしろい。一方現実の世界では誰かが誰かを助けようとしているようだが、そこで別の誰かが破滅している。そこで破滅している君は誰でもない誰かのようだ。君は何を説明しようとしているのでもなく、今日もつぎはぎだらけで不連続な文章になってしまうようだが、それは君のせいではない。誰かの物語はそういう虚構に根ざしている。物語としては何も示されず、唐突にそれは違うと思われてしまい、夢の中で意識が何かに引き寄せられる。そんな都合良く夢の中に迷い込んでしまえるわけがない。ならば今は夢ではなく、そこで何かの力を感じているらしいが、その力のありかを探そうとすると、迷路に迷い込んだように、どこへ向かっても行き止まりとなり、それこそご都合主義もいいところだが、いつもながらの意味不明に出くわして、途方にくれ、わけがわからないふりをするしかなくなり、今は深夜で虚無の力が強すぎるのだ、と自分に言い聞かせているうちに眠くなり、気がつけば早朝の時間帯に言葉を記している。それが現時点での誰かの実感に違いないが、何か思い違いをしているのかもしれない。そして他の誰かが何かの源泉を掘り当てたようだが、言葉が湧き出る泉はとうに枯れてしまった。それは虚構の源泉に違いない。現実には何を聞いても話がまったく分からない。だからそこからどんな話にも至らないだろうが、何も進展せず、すぐに関心が薄れてしまうそれが、虚無の思うつぼにはまっている証拠となる。早くそんなたちの悪い妄想から抜け出なければならない。誰かがどこかでそんな成り行きを空想するが、君にとっては話の中身が一向に見えてこない。そこで何を語っているわけでもなく、たぶん誰かが語りたかったのはそんな話ではなかったのだろう。本当は何も思いついていない。心の中ではまだ夏が続いているようだが、それとは関係なく、誰かが不条理な物語を構成しているつもりになりたいようだが、そこに記されているのは相変わらずの支離滅裂だ。今君が読んでいるそれは物語ではない。明らかにそうだが、その内容の不条理さ故に魅力を得ているのだろう。それがわからない。不条理ではなく、ただのでたらめだと思われ、君はそれをわかろうとしていて、たぶんいずれわかってしまうのだろう。そしてわかってしまえば魅力がなくなってしまう。君はもうわかってしまっているのだろう。わかっているから余裕こいてうそぶいていられる。すべてはでたらめであり、その時点で君はもう終わりなのだ。それらの文章を読み終わっているから何も思いつかない。話の中では誰かの生死も定かでない。その志を継ぐ者などこの世にはいない。たぶんそれでかまわないのだろうし、そういう話なのだから仕方がない。どういう話とも思われず、その空疎な無内容は誰かの意志の表れでもなく、自然の成り行きがそうさせているのだ。何となく記しているそれが君を破滅させている。そしてそう思っているのは君ではなく、虚構の君には関係のないことだ。君自身のことなのに関係ないわけだ。何となくそれは違うのだろう。実際には支離滅裂というわけではないだろうが、何となくそういうことのようだ。たぶん鹿げている。ふざけているのではないらしく、本当に何も思いつかないようだ。言葉を記すタイミングを間違えているのかもしれない。そしてそういう嘘を平気で記しているところがわざとらしく、君の興味はそこから遠ざかる。そして何も思いつかない君に未来はないだろう。そして未来がなくても何も困らないわけだ。そんな状況が未来そのものなのだから、そこから遠ざかった末にそんな未来を獲得したことになるわけで、何か矛盾しているようだが、君の未来には光明が射している。陽の光を求めなくても明るいのだ。そんなわけで未来は昼の世界であり、昼がくれば、やがてその日も暮れて夜になり、深夜の時間帯にまた言葉を記す作業が再開されて、誰かを悩ますこととなる。現実はそんなことの繰り返しなのだ。そこから逃れられずに嫌気がさす。退屈な感動の押し売りにもやがて終わりの時が来るだろう。まだテレビをつければそればかりだ。君は未だにそこから完全には遠ざかれていないようだ。見るのをやめれば押しつけがましい感動とは無縁になれるだろう。それで何がもたらされるわけでもないが、静かな気分で平静を装うことはできる。たぶん現実の不具合を何のせいにしても、それは間違っていると思う。正しい判断ができていないようだ。早朝はかなり冷えてきたようで、快適な季節に近づきつつあり、もうオリンピックとともに鬱陶しい夏も終わってほしいが、しばらくは蒸し暑さもぶり返してくるのかもしれず、それを耐えているうちに秋になったことに気づくはずだ。そして虚しさでも募ってきて、何の進展ももたらさないそれらの文章を記していることに絶望するわけだ。


8月21日

 白夜の季節はとうに過ぎ去った。誰かがいつかの冬にそんなことを述べていた。今は関係ないだろう。何でもないということは何でもないことだ。同じ言葉を連ねてみただけのようだ。気休めになっていない。だがそれはつらいことではない。呆れているのかもしれない。何を述べてもしっくり来ない。たぶんそれは違っていると思う。何も述べられないのがそこでの実態だ。それでも何かしら言葉を記そうとする。今はそれだけのことに時間を費やしている。そして何かがおかしいと思われる。時代の潮流に逆らっているのだろう。そんな大げさことではない。誰かによれば、無駄な抵抗はやめて、早く降参してほしいそうだ。そこで終わってほしいのだろう。確かにそれらの試みは無駄な抵抗に結びつく。何を試みているとも思わないが、ひたすら何かを説明しなければならない。それで状況がどうなっているわけでもなく、説明すること自体には何の意味もないが、すでにそんなことは説明済みだ。そして他に何があるわけでもない。そうやって無駄に言葉が費やされる。それだけのことだろう。他人にこびるつもりはない。だがそれは君の台詞ではなさそうだ。誰でもないような気がする。気負いが感じられず、誰に何を挑んでいるのでもないのだろう。たぶん嘘をついているのでもなさそうで、何か物議をかもすようなことをこれから述べることもないだろう。時が経てば忘れ去られるようなことを述べている。テレビからもたらされる感動の何を否定しても始まらない。そこから何を始めようとしているのでもない。何も始まらないから言葉を連ねているようだが、それも嘘に違いない。嘘ではないのに嘘に違いないと思い込もうとしている。そしてそれも何でもないことの一部をなしているようだ。内容がどこにも見当たらず、意識がそこで何を見つけようとしているのでもない。もう何がおかしいのかわかっているはずだ。わかっているがそんなことしか述べられない。後がつながらないようだ。空気が淀んでいる。意識がそこから遠ざかりたいのだろう。気が遠くなり、気絶してしまうわけか。現状ではあり得ないことだ。冗談でそんなことを述べるしかない。実際は冗談ではないのに、相変わらずそんなことを述べている現状があり、そこから適当に言葉をつなげようとしている。まったく意識と記された言葉の連なりがかみ合っていない。何かが裏腹なのであり、結果から何かが遠ざかり過ぎているのだろう。そしてそれは結果ではなく原因だ。それとはそれのことだ。それが何だかわからず、それとしか言いようのないそれについて何か適当なことを述べているつもりになり、わけのわからない言葉の連なりが結果として記されている。君はいつもそんな風に述べて何かをごまかしている。君ではなく誰かだろう。すべてが冗談なのだから、そんな結果についても冗談で片付けてしまえばいいのだ。ここに至ってまだ蒸し暑い。そう思っているのだから、それが冗談であろうとなかろうと、それと蒸し暑さはつながっているのかもしれない。そして何かが調子に乗ってきて、文章的なつながりを無視して強引に何かをもたらそうとする。何かは自らが進化を遂げて、一人前の人格を己のうちに構成しようとしている。何かとは何でもないのに、誰かは何かについて執拗に記そうとして、よりいっそう文章を意味不明にしてしまう。わざとそんなことを述べているわけだ。北方の地域ではまだ白夜の季節が続いているのかもしれず、冬のオーロラを眺めているのは虚構の中で息づいているつもりの誰かのまなざしであるわけもなく、そんな作り話になっていない作り話もどきを語りながら、結果としてどのような心境ももたらせず、その場の雰囲気にのまれ損なっている冷静な誰かの意識をすりつぶして何を醸し出そうとしているのでもないはずだ。意味がわからない。言葉がでたらめ以外は何ももたらしていないのは誰のせいでもない。要するにそこに続ける意志が介在しているのだ。何を続けるか迷っているのではなく、迷いながら停滞を繰り返す作業に没頭している誰かをどうしようとしているわけでもない。どうしようもできないからそんな言葉が連なってしまうのだ。もはやその成り行きは誰かのご都合主義を遥かに凌駕しているかのように思われ、それらの意志に逆らっているのではなく、意志とは関係なく言葉が繰り出されているのだ。それでも意志を保持しようとする意識を、そこへ至る遥か手前のゴミ箱へ投げ入れ、何事もなかったかのように虚無をばらまき、すべてを断片化しようと企み、実際にある程度それらの文章の中で実現させている言葉の連なりをさらに細かく砕いているような作業の中に、ついでにばらばらになって辺り一面にまき散らされた意識の断片をも持ち込もうとしている。そんなものをいくらかき混ぜても何の意味ももたらせない。ただの濁り水のごとき何かが出来上がるだけだ。酸性度が著しく高く、排水基準に達していないのに、それを垂れ流し続け、その結果河川を汚染して、負の連鎖を招いているようだ。そういうことではないと思いたいが、そこではその場の思いつきが優先していて、君のままごと遊び的な文章構成をぶちこわしにして、いったい何をもたらそうというのかと言えば、それはやはり何でもないことに決まっているだろう。


8月20日

 昔話に影が差す。疑惑を向けられているのは物語の主人公だ。誰かの鋭い眼光が漫画の中に描かれている。別に何に感動しているわけではないが、君は何かを思い出す。何かのきっかけでやっと当時の約束を思い出したようだ。やっとその時に近づいたようだ。どこまでも静かな世界だ。やせ細った人間がこちらを向いている。目と目が合う前にやることがあるらしい。何かを無視して前に進み出る。そんな光景を想像してみよう。それがどうしたわけでもないが、何でもないことを思い描く。そして何かを受け入れなければならない。そんなことを述べているうちにやる気が失せる。眠気を催してきて、そこで言葉を記す作業を中断してしまう。今日の日付に追いついたとたんに怠け心が頭をもたげてくる。そんなわけで今日を追い越すのは無理かもしれない。それが目的とはならない。そこで見失っているのはその場しのぎの目的ではない。たとえ何を見失っていようと、それが致命傷とはならないはずだが、それで何をうろたえているわけでもない。それが勘違いだとしてもかまわない。致命傷を負っているならそのまま死んでしまえばいい。そうやってまた誰かが嘘をついているようだ。すべては虚構の範囲内で、致命傷という言葉がそのままの意味で現実の状況を表現しているわけではないことは明らかだ。何やら回りくどいが、そこで言葉通りの事態に遭遇しているわけではない。そんないいわけの中に本質を見出すことはできず、さらにこんがらがった言い回しの中に何かの冗談を発見して、わざとらしく驚くべきか否かは、本来的に誰かの自由だろう。要するにそこでふざけたことを述べている。そしてそれは違うと思う。何が違っているのかわからないが、とにかく違うと思い込む。そんなおかしな気分を文章に取り込み、それで何か適当なことを述べているようなつもりになるが、そんな文章には虚無感が付着している。ただの出来事の中に誰かの意識が入り込み、そこからもたらされる情報を操作しようとしている。作り話の中で何を目撃したわけでもない。それらの風景は額縁に縁取られる運命だ。意味的なつながりを無視してあやふやな情報を披露しようとしている。唐突に思いついたのだから仕方がない。確かに何か思いついたようだが、それが文章に反映されることはない。もう忘れてしまったのかもしれない。あれからどれほど時が経ったわけでもないが、何となく今となっては思い出せない。その間に土砂降りの雨に打たれた。君が忘れていたのはそういうことだ。後からエピソードを付け加えようとしている。この世界はどうなっているのか。作り話に覆われた世界の中で、虚構でない話を探すのは困難を極める。現実に起こった出来事でさえ後から作り話に取り込まれ、作者の都合に合わせて変容する。そしてそんな虚構に接した誰かは、そこに構成された言葉や音声や映像にだまされて感動してしまうわけだ。ただの風景でしかないものに興味を抱かせられ、雰囲気にのまれて容易く心を操られてしまうわけだ。そしてさらに状況は馬鹿げてくる。もとからそういう話なのだから仕方がない。すでに何かの迷路にはまり込んでいる。迷いに迷ってなかなか結論が出てこない。君たちは本当に最低だ。君たちとは君の複数形だ。それが何のことやらわからなくなり、いらだっている誰かをあざ笑うように、同じような映像が退屈に繰り返され、誰かを馬鹿にした伝聞が手元に届き、君はそこで何かを読み返している。どうやら子供相手におふざけの時間のようだ。そして誰かに笑われ、そんな自らを笑い、何でもないこの世界を空疎な言葉で盛り上げているつもりになっている。だがそれらはどこにも届かない言葉に違いない。それら文章は誰の真意を汲み取ろうとしているのでもなく、それらは気持ち以前の感情を冗談に変容させようとしている。しかし気持ち以前にも以後にも冗談など入り込む余地はなく、命がけという言葉とともに、勝手に虚無相手に真剣勝負を挑んでいるようなばかばかしさを露呈させ、周囲を取り囲む意識たちをしらけさせ、まともな反応を得る機会を奪い去る。もはや空気を読めないどころではなく、しらけた空気を生じさせているだけのようだ。そんな今の君に何を期待しても裏切られるだけのようだが、君自身が誰かの影でしかないのだから、期待する方が間違っているといわざるを得ず、そんな作り話を信じている他の誰かも愚かだ。本当はそんな話ではなかったはずだ。言葉を記そうとしている者の脳みそがふやけて、スポンジ状になっている。それも想像上のことだ。やはり本当はそうではない。状況は君に何も語らせはしない。誰かもそのことは承知しているはずだが、さかんに君が何かを語るような雰囲気に持っていって、その直前で否定してみせる。そんな風に言葉を記している意図が分からない。誰にとってもそれはわからないことであり、君がわからないのはもちろんのこと、誰かにとってもそれは想定外の出来事のようだ。要するに語る主体を見出せないのだろう。君に語らせようと試みるが、肝心の君がそこには不在なのだ。それはいつも誰でもない誰かになってしまい、君以外の誰かが何かを語っている現状が作り話の中に構成されてしまうらしい。そして次いでそんなのは嘘だと言い放っているような事態となる。やけくそ気味に誰かがそんなことを述べているだけなのだろうが、そんな状況下で語る理由など示せるわけがない。


8月19日

 もうこれ以上こんなことは続けられない。なぜか今日が今日であるために無駄な時間と言葉をかなり費やしてきた。今のところはそれの犠牲となった出来事を知らない。今日は晴れで暑いらしい。まだ夏だから仕方がない。誰かはあわててもと来た道を引き返す。何か重大な事に気づいたのだろう。君にとってはどうでもいいことだ。早くそこからはなれたい。それができないから意識がどうにかなっている。眠たくもあり、さっさとそれを済ましてしまわなければならないが、遅々として作業は進まず、少し焦りを覚えながらも、毎度のことのように妥協点を探る。どこまでやってもきりがない。いくらか手を抜いて無難な線を狙っていこう。それが仁義に反していることは承知しているが、何も思いつかずに眠ってしまうよりはマシだ。だからさらに言葉を並べようとしている。半分眠りながらもそれをやめようとしない。いつまでもそんな調子らしい。意識は夢心地の居眠り状態だ。できないのに無理にやろうとすればこのざまだ。たぶん今朝あたりが限界だったのだろう。まだそれを続けようとすれば無内容に拍車がかかる。だがいったんやめればそれっきりとなるだろう。またずるずる遅れ始め、気がつけば数日前の日付で停滞している。だがそれをどうしようとしても無理なものは無理に決まっている。現状に対する打開策などありはせず、今は黙って居眠りを続けていればそれでかまわないのだろう。しゃくに障るが自然の摂理には逆らえない。そんなことを思っているうちにも、見ている風景はどんどん移り変わり、やがて終着点が見えてくる。そこで時間切れとなってしまうのだろう。そこまでやっただけでも大したものだ。今さら自分で自分をほめても何も出てこないが、とりあえずそんな案配でそこから退場するとしよう。やはり外は晴れていて残暑の季節を感じさせる。気を抜いている暇はないが、頭がクラクラしながらも、おぼつかない足取りで歩き出す。もはや老人のそれのような歩き方しかできない。人は移動しながら考える。街中は人が密集し過ぎていて息苦しい。郊外には田畑が広がり、所々に耕作が放棄された草地が点在している。そんな雑草が生い茂る場所に小動物が暮らしているらしく、分け入れば昆虫や蛙が飛び出す。それがどうしたわけでもない。ただそんなことを述べてしまえる成り行きなのだ。他に何もないからそうなってしまい、何かあったとしてもそれについて語る気がしない。眠気には勝てず、音楽を聴きながら眠気を紛らし、かろうじて自己言及気味に言葉を連ねているようだ。それにしても退屈な音楽だ。郊外に建ち並ぶマッチ箱ハウスの中にも人の生活があり、それらの文章とは無関係な人々を馬鹿にする気にはなれないが、ささやかな夢を実現するために日々仕事に励んでいる者たちを差し置いて、何か利いた風な紋切り型の言説を連ねたところで、何がどうなるわけでもないことは承知している。そんな枠内にはおさまりきれない豪快な輩には、オリンピックなどの特別な活躍するための場が提供されるべきなのだろうが、それとても過ぎ去った後から述べるならば、一過性の世迷い言に堕するしかないようだ。少なくとも人が何かのために生きているのは確実なところだろうが、そういう生き様が他の人々に何をもたらしているとも思えず、人は人に対して優越感に浸りたいだけなのかもしれず、そんな者たちを応援している手合いにも、何かしら至福の時を向かえて、喜びをみんなで分かち合いたいのだろう。そこから幸せな気分が導き出される。それにしても少し前の意識がない。うとうとしていたようだが、その時のことを何も思い出せないわけではない。たぶんその時点で終わっているのだろう。冗談にもほどがあるようだ。事の真相などまったく明らかにしないで、ただその場の雰囲気を記し続け、何について語っているのかわからないようにしている。それで何がどうしたわけでもないことは明らかだが、何をどうやって伝えたいのかわからない。空疎な気分以外は何も伝えたくないのかもしれず、ただそこには何もないことが明らかになるばかりのようだが、それでもかまわないのだろう。そこに言葉の連なりがある。誰も読もうとしない無内容を携えて存在し続けている。それを記すことにどんな意義があるのかわからず、むやみやたらと言葉を加え続け、何を記しているのかわからなくなるほどの虚無感を醸し出しているつもりらしいが、やはりそんなのは思い違い以外の何ものでもない。君たちがこびている対象を無視しながらも、偽りの孤独感に遭遇しているわけでもなく、他の何と向き合うつもりもなく、ただ何かを述べているような気がしているわけだ。本当のところはわからないが、それでもそこから遠ざかれたような気になりたいのだろう。それらのどこに罠が張られているわけでもなく、どのような状況に陥っているわけでもないが、今日の曇り空の下で誰が生きているらしく、その誰かの心に巣くう君には何も感じないような出来事とともに暮らしているわけだ。ここに至ってなお何について述べているのか不明のままに、何について述べているのでもないような気になりながらも、そこに何かがあることは確からしく、その何かについて述べているつもりで、同時にその何かから逸脱しながら、誰かはそれとは関係のないことを述べているようだ。君には何のことやらさっぱりわからないだろう。


8月18日

 何となくそんな風に思っている。お前は何もわかっていない。どこからかそんな声が聞こえてくる。それと同じような経験をしたことが以前にもあったかもしれない。たぶんわかっていないのだろう。何かしらわかっていることもあるようだが、わかっていないこともある。そんな風に語るべきではないかもしれないが、事実としてはそうなのだろう。しかし魅力を感じない。それ以上に何かをわかりたい。誰かはすべてをわかりたいと思っている。そう願っているのかもしれない。それで何かがわかるような気がして、わかりたいと思えばわかるようなことをわかるのかもしれない。それではつまらない。それでなくてもつまらない。わかりたくもないことをわからなければつまらない。思い通りに行かないのがこの世の中だ。だがそれも違うと思われる。思い通りになるように努力しなければならない。他の誰かがそれを実践している。それで思い通りになるとは思えない。思い通りにいくことが信じられない。実際に思い通りにいっている。すべては順調だ。そんな思い込みを自らに信じ込ませようとしているだけだ。そしてわからなくなる。君が何を思っているのか知りたくなる。知りたいのは君自身だ。君が君自身について考える。そこで何かの手違いがあったようだ。そういう逃げも信じられない。君はまだそこから遠ざかれていないようだ。それが思い通りにいっていない証拠となる。何を考えているのかわからなくなり、自分が何も考えていないような気がしてくるが、それも気のせいだろう。そんな風に言葉を記すべきではない。またそんな声が聞こえてくる。誰かが何かを指図したいようだ。目の前の虚無を指し示す。君がそうしているのではない。君以外の誰かに何かしら思うところがあるようだ。まさしく現状は誰かの思おうつぼだ。やはりそんな風に語るべきではないのだろう。それでも強引にそれを押し進めていくと、何かが見えてくる。何かの終わりが見えてくる。それは何かの光明かもしれない。トンネルの出口のような気がして、あるいはもうすぐ迷路を抜けられるような気がして、そこに引き寄せられるように近づいていく。気がつけば自然に問いかけることをやめている。いつまたぶり返すかわからないが、今のところはそうだ。わかったようなわからないようなことを述べているわけだ。それでかまわないとも思っている。それらの光景は見渡す限り何もない。そう思っているだけで、現実の光景には何かがすべて整っているかのように存在している。もとからそこにあった事物かもしれない。そこに到達しそうな誰かを待ち受けていたかのような光景だ。言葉にできない。それは嘘で、そういう言葉が連なっている。言葉にできないという嘘を貫き通せない。そんな光景の中に身を置いている。そう思っていて正解なのだろう。間違っていてもかまわない。歌っているのではない。しゃべっているのでもない。言葉を記していることが言葉にできないとは思えないだけだ。その気もないのにそんなことを述べているようだ。ただそれだけのことなのだろう。そしてそこから遠ざかり、次に見えてくる風景を我が物として、言葉で示そうとしているわけで、それに成功したら、またさらに次の光景を目指す。そんなことの繰り返しが誰かの行動となって、何かを目指している理由を構成しているらしいが、それは嘘だと思いたい。理由に拘束されるのが面倒なのだ。何かから自由でありたいと願っているのかもしれない。決して制限されることのない自由などどこにもありはしないが、君はそれを目指している振りをしながら、一方で何かを裏切っているようだ。要するに何も目指していないと嘘をついているのだ。そこに理由を付け足すのが億劫でならない。ただわけがわからない心境にとどまりたいが、それも嘘で、常に何かをわかろうとしている一方で、たぶんわからないだろうとも思っている。わかっているのはそれらの勘違いだ。本当は何もわかっていないと嘘をつきたいのだ。わかっていながらそんな嘘を繰り返し、そしてさらに何かをわかろうとしている。それが矛盾していることをよしとしたいのだろう。矛盾していなければ嘘になるだろう。そんな嘘でもかまわないが、嘘をついている現実をどこかに移動させ、そのあとにさらに別の嘘を放り込んでおきたい。そんな欲張りなことを考えている。別にそれほど欲が深いわけではない。それも何かの嘘なのだろう。そんなわけで何かを嘘で塗り固めているようだが、それも嘘に違いない。冗談でそんなことを述べているようだ。そしてそういうことを語っている事実が誰かを苦しめているようで、もっと何か具体的なことを述べたいと思わせるが、君がそれを許さない。君こそがそれらの冗談の源泉なのだから、そんな君を文章から排除しなければ、まともなことは述べられない。それも何かの思い込みだ。何かとは君であり誰かでもあり、実質的には何でもないのかもしれないが、そんな風に語っているつもりの誰かにとっては邪魔な存在であって、そういう目障りな言葉を文章から取り除く方法を探っているのだろうが、今のところはそれを果たしていないようで、それどころかそれらの言葉に助けられながら、それらの文章を構成しているのが目下の現状だ。言葉と言葉がお互いに依存し合いながら記されている。


8月17日

 ちょっと寝て起きて、また無理なことをやっている。さらに頭がおかしくなり、目の前が突然真っ暗になる。停電か何かだろう。何かと別の何かがどこかで違っているらしい。それは気分の問題だ。問題以前の問題に違いない。そして挫けているのはやる気とその気だ。しかしそれで何か別の問題が起きているわけではない。誰かにとってそれは気のせいだ。ただわけがわからなければそれでかまわないのかもしれない。闇の彼方に別の闇があるのと同じことで、それでわけがわからなくなりそうだ。口からでまかせというやつだろう。そんな嘘にも心は動じない。ただそれが誰の心なのか知りようがない。少なくとも君の心ではない。何を語っても心がこもっていないわけだ。どのように語っても遊び半分の冗談半分であり、その先に意味不明な何かがある。今回はなぜかそれで苦にならない。開き直りもここに極まれりだ。文法的におかしいのかもしれないが、そんな響きであったと思う。別に気が動転しているわけではないが、それも意味不明な言葉のつながりだ。だいぶ前から魔が差しているのかもしれない。それはおかしな言い草だ。おかしすぎて他に何も思い浮かばなくなる。何か気が利いているような気がするのだが、君が気づいているのは今が深夜だということだ。そして相変わらず目的が見出せない。だからいきなりそんなことを述べるしかない。それがすべてだろう。他には何もない。他がなければ他以外もない。体調が悪く、どうやら何かの病気らしく、病名がわからないが、少なくとも仮病ではない。それがそんなことを述べているいいわけのひとつとして選ばれる。選んだのはその場で言葉を記している誰かだ。今の君にはそういうやり方が似合っている。別にそれほど悲壮感が漂っているわけではない。やらねばならねばというわけでもなく、そんな風に何かをやっているつもりの誰かが作り話の中で言葉を記しているわけだ。それがその場で思いついた口からでまかせかもしれないが、その後にどのような言葉が続くのか思いつかない。それがそれらの文章が君の仕業でない証拠だ。今日はそんな嘘までまかり通ってしまう。投げやりな気分を通り越して、どんな気分でいるのかわからないが、その場を包み込んでいる不気味な沈黙がそうさせているようだ。そんな気がしているだけだろう。面倒くさいからそんなことを述べているのだ。もうどうにでもなってほしいのだろう。語り過ぎているのかもしれないが、その結末は誰も知らない。知ったところで何がどうなるわけでもない。その場の成り行きがその場しのぎの文章を生じさせているのだろうが、それで何をしのいでいるのかわからない。わかっていてもわからないことにしておこう。まるでぬるま湯につかっているみたいだが、真綿で首を絞められている気分とはそういうことかもしれない。針のむしろに座らされているのとは明らかに違う。しかしそこにどんな非難が届くとしても、それで君を君たらしめている意味不明を崩すことはできない。それは明らかにおかしい。何かを間違っているようだが、間違っているそれを改めるつもりはないようで、とりあえずそんな風に語るのはおかしいのだろう。そういうことにしておかないと、さらにおかしな成り行きを呼び込んでしまうかもしれない。目の前に生じている闇に向かって問いかけてはならない。虚無の思うつぼだ。その代わりにそこで一休みしてもかまわないだろうが、誰から何を促されているわけでもない。その代わりというわけでもない。何を語っても許されるのは、それが自らの許すところだからだ。中途半端に終わるわけにはいかないようだが、それが許される理由となっているわけではない。何をどう述べても許されないのかもしれない。それが無内容である限りにおいて許されない。言葉を記している以上はそこに内容がないとおかしい。さっきから何かがおかしいと思っているそれはそういうことのようだ。たわいないことだ。明らかに虚無をないがしろにしている。どこからかそういう声が聞こえてきて、良心の呵責を覚えさせようとしているのかもしれない。きっとそれも何かの作り話なのだろう。嘘に決まっている。遊び半分の冗談半分でそこまで思い詰めることはできない。本当のところは誰にもわからない。誰かが突然自己嫌悪に陥っているようだ。そういうことにしておこう。やはり脈絡を感じられない。突然とか唐突とか、そんな風にしか表現できない成り行きがそこにあるらしい。それは心の病なのだろう。作り話の中では確かにそうだった。君はそれが嘘であることを願っているようだ。精神的に追いつめられている自らを何によって救い出そうとしているわけでもなく、ただ何かを記すことによってのみ、そこから脱出することができると思い込んでいる。それは勘違いの思い違いだろう。だが勘違いでも思い違いでもなく、実際にそうなってしまうのが作り話の怖いところだ。実際はそうでもないのに、妄想上に構築された虚構の中では、かたくなにそうだと信じ込んでいるわけだ。たとえ架空の君でも不在の誰かでも、そうなってしまうことを避けられず、気がつけば何かの一歩手前まで追い込まれ、それが何だかわからないままに、そんな現象に引きずり込まれてしまい、身動きが取れなくなり、そんなことばかりにかかりきりとなっているわけで、他に何もできなくなってしまう。


8月16日

 またその続きをやろうとしている。空疎でうつろな瞳が誰かを睨みつけているようだ。きっとそれは作り話の中での出来事だ。これから誰かが作り話を記そうとしている。何かの植物に赤い花が咲く。草木のたぐいなのだろう。こけやカビではない。部屋の中を埃が漂う一瞬を思い浮かべ、そこに言葉をかぶせようとしている。わざとわけのわからないことを述べているのだろう。急いでメモでもとっておくべきだ。語りかけの文章の中に塵が差し挟まれる。嫌みのたぐいに違いない。漫画の中では罵声が飛び交い、オリンピックの競技場では国家主義がはびこり、人の醜い一面がかいま見られ、それを感動で覆い隠そうとするメディアが、みすぼらしい語彙を駆使して何かを騙り続け、何となくごり押し気味に事が運ばれてゆくのだろう。君はバスケットボールを見たかったはずだが、深夜に一度アメリカの試合を見ただけに終わっている。なぜか彼らを見ると笑ってしまう。別にオリンピックでなくても彼らはああなのだ。国家単位で選手たちを区切ることの愚かさを見せつけている。たぶんオリンピックから滑稽な国旗や国歌が取り除かれたとき、この世界に真の平和が訪れることだろう。現時点ではあり得ない話だろうが、せめて決勝戦ぐらいはまともな時間帯で見たいものだが、たぶん偶然の巡り合わせがないと見ることは叶わないだろう。また冗談で何かが片付くとは思わない。それらの真剣なまなざしが何かを訴えかけていることは確かだが、君はあえてそれらの真実を考慮に入れないで、誤った意見を述べ続け、読む者を不快に陥れているのかもしれない。それは現時点では誤っているとしか言いようのない意見だ。だいたい君にはスポーツなんて必要ないはずだ。気晴らしの娯楽に夢中になっている余裕などありはしない。音楽を聴いているだけで十分だ。熱狂とは無縁の生活を送っている。そして無意味な問いかけを控えればまともなことを述べられる。そんなことはわかりきったことだが、それをやめられない事情もあるらしい。要するにいつも苦し紛れの状況に追い込まれているわけだ。切羽詰まってから言葉を無理矢理繰り出そうとするからそうなってしまうのだ。そんなことを繰り返しているうちに、気がつけば無駄に同じようなことを問い続けている。悪循環にはまっているのだろう。だから今は冷静に言葉をつなげる必要に迫られている。それらの悪循環から抜け出そうとしているわけだ。たぶんこの世界が暴力の応酬から抜け出すには、それと同じような何かが必要なのだ。それとは何かと問う必要はない。問う前に行動すべきだ。その場の状況に応じた多種多様な行動が求められているのだろう。暴力には至らないやり方を絶えず模索すべきだ。暴力を暴力で制しようとしたら、世界中がアフガニスタンになってしまうだろう。しかし月並みでつまらないことを述べているようだ。今まさにそれとは違う語り方を模索しなければならない。今は思いつかないが、何かの巡り合わせでその機会がやってくることを願っている。それもまた冗談のたぐいになってしまうような予感がしているが、そうなったらなったでかまわない。そういうことを述べていればいいわけだ。実際に述べている。行き詰まっていることは確かだが、それでかまわないのだ。そのまま行き詰まっていればいい。そこで黙っていれば道が開けるとしたら、そこから先は神秘主義が支配する世界だろう。言葉が現実から遊離してしまう。そうならないためにはそこで行き詰まっていればいい。それがまぎれもない現実なのだから仕方ない。後は音楽でも聴いて気を紛らしていればいい。気まぐれの偶然をつかみ損ねているだけだ。何かから逃げているのだろう。さらにどこまでも逃げ続け、気がつけば逃げてきたとうの場が目の前にある。そして気が動転して、しばらく錯乱状態となるが、そんな嘘を差し置いて、バランス感覚が働き、心の中にうごめく複数の意識が精神の均衡を保とうとして、互いに協力し合い、何とかひとつの人格を構成するように努力することだろう。冗談の続きはそういう作り話につながっていくようだ。今のところはそれでかまわないのだろう。あからさまに文章の欠陥をさらしているわけだが、無理に言葉をつなげようとして、それなりに苦心しているわけだ。何かが心の中でもがいている。そういう欠陥がないと安心してしまうのだろう。絶えず不安定でいるべきで、それが吉か凶かどちらに転んでもかまわないような状態を保たなければならない。そしてまるでとってつけたような不自然さをそのまま提示してしまってもかまわない。逆にそれを避けて洗練してしまうと、妙にこじんまりとまとまってしまい、ひたすらこぎれいなことを述べているだけとなる。そうなってしまったら、読んで安心されて、大衆にこびていると思われてしまい、何のことはない人気者気取りとなってしまう危険性がある。一過性で終わらせてもかまわないならそれでもいいのだろうが、そういう正しいやり方は人畜無害でつまらない。語っていることに毒があるとかないとかではなくて、そういう嘘をついていること自体が冗談の一部と化しているようなことを述べなければならず、何でもないようでいて、その実何でもないことを述べていてもかまわないが、それがどうしたわけでもない。要するに毎度おなじみでわけがわからないのだ。無い物ねだりをしているようだ。


8月15日

 別にどういうことでもないが、少し寝たら目が覚めた。まだ数日前の日付を記している。どこかで思考が止まっているらしい。今さら見せびらかすような知識でもないだろう。さらに馬鹿げているような気がする。何から語ればいいのかわからないが、まずは何も脈絡が感じられないような成り行きに合わせて、でたらめな言葉の羅列に終始する。そこで始まったとたんに終わっている。もう興味はないだろう。何かの外に意識がはじき出され、そこに残った空洞に言葉を詰め込んでいく。たぶんそれは何でもないことだ。さっきまで飲んでいたコーヒーに含まれるカフェインの影響で、頭がくらくらしてくるが、それは何かの思い込みだろう。たぶん何でもないことのはずだ。そして気づかないうちに何かを思い出している。そのとき眺めていた光景を思い出す。別にそこから離脱する必要はない。抜け出すのは簡単なことだ。改めて何かを知る必要がある。何か気が利いたことを語りたくなる。その後にまともな言葉を付け加えたい。ただの作り話では飽き足らなくなる。そんなのは嘘だろう。本当は紋切り型の羅列でかまわないのだ。コーヒーには飽きているはずだ。脈絡を感じさせない言葉の連なりにも飽きている。でたらめだけでは間が持たない。だがそれも嘘に決まっている。本当は嘘でも本当でもどちらでもかまわない。まともな内容をもたらせなくてもかまわない。つまらなくても結構だ。君はその辺で妥協しようとしている。思い出したのはその辺のさじ加減かもしれない。今さらそれはないだろう。意識の中で何かが暴発しているようだ。次いで気が抜けてくる。何も語れなくなり、意気消沈しているつもりになりたい。現実にはそんなことを語っているわけだ。その機会をみすみす逃す手はないだろう。現実に追いつくための準備ができつつある。そんな思い込みをどこまでも持続させたいらしい。無理に決まっている。決まっているからそれを破ろうとしているわけだ。どこかに突き抜けてしまった時のこと空想する。あやふやなことを述べているようだ。できない話ではない。できる限りできそうなことを述べていこう。それが自らの首を絞めていることになろうと、何かをそこで語らなければならない。それがくだらぬ妄想に堕そうともかまわない。別の面で何かが大いに結構な具合になるだろう。そしてそんなことの繰り返しによって窮地を脱するつもりだ。ごまかしには違いない。人々は休日にわけもなく街中をさまよう。君が歩きながら眺めていた光景とはそれだ。さっきまでの光景とは無関係なのだろう。そこで何かが敗れ去っている。それも関係のないことだ。見ている光景など何であってもかまわない。それを糧として語ることができればいいわけだ。そこにどうしようもない紆余曲折が生じていようと、結果的に何について語っているのでもなければ、それは別の誰かが記した文章となるしかない。わけがわからないことを誰かが述べているようだ。語っているのはそういうことだ。それ以外についてはまた別の誰かが語っていることだ。さらにわけがわからなくなるだろうが、そんなのも嘘だろう。嘘で片付ければ一件落着なのだ。塵掃除と一緒に言葉も打ち捨てられ、塵となって舞い上がり、空の青さに溶け込んでゆく。誰かはそんな妄想を抱いているらしい。君にはわからないことだ。君たちにとっても関係のないことだろう。わざとそんなことを述べている。別に書店で漫画雑誌を立ち読みしているわけではない。やはりそれとこれとは関係ない。そこから遠ざかっているわけでもなく、近づいているわけでもない。何かと何かがねじれの位置にあり、互いの接点を見出せないだけだ。そして気がつけば寿命が著しく縮んでいる。それは見かけ上でのことだ。この期に及んで強気でいるらしい。強気でいることに何の根拠も裏付けもない。理由がどこにも見当たらない。またいつものごまかしのようだが、何かそれでかまわないような雰囲気を感じている。もう何でもありだろう。それ以上のいいわけを示せない。開き直って無駄に言葉を費やすしかないらしい。君はそこでいたたまれなくなるようだが、すべては誰かの意地がそうさせているわけだ。ひたすらつまらないことをやっている。それで楽しい気分を演出しているつもりだ。やはりわざとそんなことを述べているようだが、それでもそれが真っ正直な試みだと思っている。嘘でもかまわないからそう思い込みたいのだろう。それで反省している。やはりいくら無駄に言葉を費やしても今日という日付には遠すぎるようだ。それが冗談だと思えば思うほど、何かを急激に成し遂げようとするが、内容を求めないのは失敗と言わざるを得ない。今の誰かに求められているのはそれとは正反対の言説に違いない。ならばせめてもの罪滅ぼしに、何か利いた風なことを述べている誰かを想像してもらいたい。そうすれば空想の世界で何かが取り戻されるはずだ。そう願っているようだが、実際にはそれも嘘やごまかしとして片付けられる。まったく心がこもっていない。何かを成し遂げようと言う気概が感じられない。現実には軽薄のそしりを免れないようなことを述べている。それは何かの思い違いかもしれない。終わりそうになってから、あわてて前言を取り消そうとしているようだが、今さら何を打ち消しても元の木阿弥以外にはならないだろう。そんな語り方が冗談半分なのだ。


8月14日

 そこで何について考えているのか。今はとりあえずわからないと述べておこう。何かに迷っているとしたらそれは何だろう。何かの迷宮に入り込んでいるわけではないが、今日もいつもの問いかけから無意味な問答が始まる。さっきまで何かを考えていたところだ。そして今はもう忘れている。だからわからないことになる。かなり眠たいようだ。人と人は対話する機会を探しているようだが、防御本能がそうさせないらしい。君は君自身から遠ざかるために何をやっているのか。あまりにも退屈なので、あくびをしている。それがやめるための理由になることはない。人はどうやって年老いるのか。自然のままではいけないのだろうか。何か年老いる理由を導き出したいのか。昼下がりの午後に、誰かが居眠りの最中を利用して、虚無が何かの機構を作動させている。何か他にやることがあるのかもしれないが、少なくとも完成させたいのではないらしい。君は何かをあきらめさせようとしているのか。誰かがあきらめかけていることは確からしい。君がそうさせているのではなく、何となくそういう成り行きになっているのだろう。だがそれで何を導き出しているのでもない。たとえあきらめてしまっても終わりが導き出されるわけではない。あきらめることと終わることは、作り話の中ではつながっていないようだ。終わるどころか、気がつけば同じような言葉が延々と記されている。そういう状況に誰かが立ち会っているようだ。やる気がないのにそこに佇む。やる気がないからそうなってしまうのだろう。かなり無責任に何かを述べている。遠くを見つめるまなざしには目的がない。それの何が驚異的な現象なのだろうか。人々がどこかのスタジアムでうごめいているようだ。メディアはそこに何か積極的な目的を見出したい。誰もが納得する答えを導き出したい。君はそこで何を笑っているのか。何も否定できない自らに嫌気がさしたのか。いったい何について否と言い放つべきなのか。それらの現象は何でもないことだろう。確かそれは数年に一度の暇つぶしだったはずだ。時が経てば下火になる一過性のイベントのはずだ。それで似ついて誰かが何かを述べている。経済効果がどうのこうの言っている者もいる。捕らぬ狸の皮算用と述べたら勘違いになるだろうか。どこかのエコノミストは税金を減らして小さな政府にしろと悲鳴を上げているが、官僚機構は現状維持に余念がない。それらの何がせめぎ合いなのか。何と何が絡み合うとおかしくなってしまうのだろうか。我田引水的な言説に終始したいわけではない。まだ何も述べていないはずだが、言葉だけは無駄に連なってしまう。なぜ人は仕事をやらなければならないのか。それがおかしな制度だと思っているのは誰なのか。それらの社会のどこに矛盾が潜んでいるのか。潜んでいるのではなく、あからさまにむき出しになっているのではないか。そういう意味では社会の矛盾をえぐり出しているつもりの言説は滑稽きわまりない。すべては形而上学的な傾向を目指しているのかもしれず、何か特権的な立場でもの申したいのだろう。何も魅力的でないが、何について述べても無効なのだからより無責任になれるのかも知れない。それらの理論を追求する試みはその後どうなったのか。よくアメリカ合衆国を現代のローマ帝国になぞらえる言説が紋切り型的に成立しているが、それを言うなら中国もロシアもローマ帝国的であり、おおよそこの世界には三つのローマ帝国が存在していることとなり、それらの帝国の対抗勢力としては、例えばヨーロッパ共同体などはかつてのポリスの連合体としての古代ギリシアのようなものか。しかしそう述べて何がわかったのか。そこからどんな認識を得ようと、すべては時代遅れだ。過去との類似点を語ろうとしているわけだから、それは当たり前のことだが、君たちはそこから何を導き出そうとしているのか、何か適当なことを言い放ったとして、それで終わりなのだろうか。そこで終わらなければそこから先には大げさな予言が待ち受けている。このままでは世界が危ない人類が滅亡するとか言い放ちたいのだ。それも紋切り型的な成り行きには違いなく、何の驚きも感じないが、逆にそういう昔ながらの大予言的な言説に出会って安堵するのかもしれない。何かには待ってましたと言わんばかりの反応を期待する向きもあるようだが、この際何に対しても無感動を装いたい者たちにとっては馬耳東風的な警告に思われてしまうだろうか。やはりそれでも気休め的な気晴らしにはなるようで、そこに群がる者たちはまるで示し合わせていたかのように訳知り顔を装い、それが誰の作り話であろうとなかろうと、そういう言説の循環を繰り返し反芻することによって、その場をやり過ごそうとしているのだろう。暑苦しい夏も時が経てば過ぎ去り、やがて秋がやってくるように、忘れた頃にまた新鮮な気分で同じ季節を体験したいだけなのではないか。虚構の中では歴史も季節も繰り返しやってくる。君はそんな言説の繰り返しには飽きがきているのかもしれないが、それでもまだ辛抱強くそこにとどまろうとしているようで、それらの光景に溶け込みながらも、何を見出そうとしているわけではなく、ただ眺めているだけの世界にどんな驚きをねつ造したいわけでもない。しかしさっきから何をにやけているのだろうか。そう見えるだけで、ただ呆れているだけか。


8月13日

 休むべき時には休まなければならない。今がその時なのか。その時だとしても、何がどうなっているわけでもない。君に何がわかるのか。何かの気配でも察知したのだろうか。それでも影は何かを射程の範囲内に捉えつつある。作り話の中で何を狙っているのだろう。誰かが抱いている妄想か何かか。誰にもそれはわからない。言葉の連なりは相変わらず意味不明に終始しているようだ。なぜかもう一息がままならない。そういうことではないだろう。まともなことを述べられなくなってから久しい。日付的にも数日遅れのままだ。君はベランダの植物を土の上に還したいが、微妙に資金が足りないらしい。無理をすれば可能かも知れないが、一文の徳にもならないことをするのに、果たして無理をする必要があるのだろうか。まったくわけがわからないようだ。とりあえず何かの導きがあれば、そういう成り行きになってしまうのかもしれないが、今のところは何とも言えない状況だ。少なくとも君が何か決断を下すような成り行きにはならないと思う。そして誰かはさらに言葉を連ねることしか眼中にないようで、ひたすら不毛なことを述べ続けるだけのようだ。その場で思いついた言葉を適当に組み合わせるばかりで、文章としてのつながりをまったく無視して、何のためらいもなしに記し続ける。美しさもへったくれもありはしない。何がそんなにおかしいのか。笑ってばかりではらちがあかないだろう。呆れてものも言えないか。何に呆れているのかもわからないのか。何に対して盲目というわけでもないだろうが、たぶん模索すべき方向性が間違っているのだろう。そんなわけで誰かは身も心も壊れているようだが、それは架空の現実だ。あくまでも作り話の範囲内だと思っているのだろうか。そういう話の展開を君はどう思っているのか。どうも思いはしないという予定調和の返答を期待しながらも、そんな期待も架空の期待だとしたら、それはごまかし以外の何ものでもなくなるだろう。そんなことを記していると、何を語っているのかわけがわからなくなり、それらの空疎な言葉の並びにあっけにとられながらも、何かをやろうとすることから生じる目的の虚構性を再認識するはめに陥るだろうか。まず目的ありきというわけにはいかないようだ。また今やっていることが何かの手段となっているように思えるのも勘違いのたぐいだろう。目的があったり手段があったりするのは、作り話の中でしか成立しないのではないか。物語の登場人物ならそんなことをやっていても許されるのかもしれないが、現実の世界では虚無的な意味不明が目的や手段を圧倒してしまい、何が目的なのか手段なのか判別できなくなるほど、その他の無駄で無関係な作用が及ぼされ、何か行為しているつもりの人格を分解する方向での過渡現象が必ず起こり、人はしばしば茫然自失するしかないような場面に立ち会うこととなる。自分が何をやるべきか判断を下せなくなり、その後に作り話が続かなくなる。しかし物語とは何だろう。誰がそれを語っているのか。誰もそんなことは覚えていない。いったいそれはいつの話だったのか。誰かが君に何を語っているわけでもない。そこには無駄な文章が記されているだけだが、では君は何に気づいていないことになるのか。たぶんそういう話ではないのだろう。そこで意識的に逃げているようだ。できない話をしようとして、途中で挫折してしまう。まったく馬鹿げた話であり、話以前にくだらない。それで何を卑下しているわけでもなく、ただ眺めている文字列からそんな雰囲気が漂ってくる。そこで君は何をもたらそうとしているのだろう。それらの空疎な雰囲気を打ち破る術でも思いついたのか。何も思いつかず、まったくできはしない。文章の体をなしていないようだ。それでも語りつつあるのはいつまでもどこまでも自己言及もどきとなるしかない。しかしそこでの自己とは誰の自己なのか。何が自己をして君を語らしめようとしているのか。またおかしなことを述べてしまうようだ。それはつまらないという意味でおかしい。それでも内心笑っている。してやったりというわけでもないのに笑うしかない。だがそんな現状を憂うことはない。すぐにそれらのつまらない語りも終わってしまうだろう。他人を楽しませるそぶりなどみじんも感じない。それと同時に自分も楽しめないのではないか。それでは誰かは何に落胆したいのか。わざとそう述べてしまっているつもりになりたいだけかもしれないが、それで何がどうしたわけでもなく、他の誰を驚かそうとしているのでもなく、逆に安堵させたいのでもない。ただそれを記している誰かの存在を否定したいのか。またそれらの文章を拒否したいのかもしれない。どこへも向かわずにひたすら内向きに語りかけるだけのそれらを消去したいらしい。無理に決まっている。一度存在してしまったものを、容易にこの世界から取り除くことはできない。苦悩や葛藤なくしてそこへは至らない。だからすべてが馬鹿げていると思われてしまう。なぜそんなものをもたらしてしまうのだろう。その場の成り行きだから仕方がないのか。そうだとしても、もう少しまともな文章にならないものか。最低限でもこの世界について何か具体的なことを述べてもらいたいが、それが果たせない代わりにもたらされたものがそういう言葉の連なりなのだから、やはりそれらは否定せざるを得ない。しかし本当に何について語っていることになるのだろうか。


8月12日

 どういうわけか堕落しているようだ。君はそれは違うと思う。ではふざけるのもいい加減にしてもらいたいか。それはいいわけじみた言葉の並びだ。わざとそうしているのだからそれは当然だろう。どんなわけでもなくそんなわけで、たぶんどういうわけでもないが、やはり何を語っているのでもないらしい。どうもまともなことを語る成り行きにはならないようで、そこで持っていくには今ひとつ気力が足りないらしいが、そんな精神論だけでは乗り越えられない何かがある。何がどこにあるというのか。何があるのではなく、言葉がないだけなのではないか。そういうことではないと思いたいが、当てが外れて意気消沈か。なぜそうなってしまうのだろう。どのような当てがあったのかわからないが、結局のところ君は何を知りたかったのか。なぜそれについて何も語れなくなってしまったのか。理由は何だろう。そういう疑問こそが嘘なのか。要するに毎度おなじみの状況にはまっているわけか。要するに何について語っているのでもないらしい。それでかまわないと思っている。たぶんそれでかまわないのだろう。君に何がわかるというのか。わかるはずのないことをわかろうとしている。誰もがそんな風に思っているわけか。誰もではなく誰かか。誰かとは誰なのだろう。それは君自身かもしれない。そこから先には何もない。それとこれとは関係ないだろう。たぶん何もないことを認めなければならないのだ。記すべき言葉が何もない。ならば言葉を記すのはやめた方がいい。それがやめられないわけか。馬鹿げている。かなり馬鹿げている。なぜそんなに馬鹿げているのか。いったいそこから何を説明する必要があるのか。結局要らぬ言葉ばかり記して何も話が進展しない。それが君のせいだというのか。君とは誰だろう。そういうことを語りたいのではない。完全に行き詰まっているようだ。目がうつろだ。視線に力がこもっていない。その目つきは何を問いかけているのか。誰かが鏡を覗き込みながらうなだれている。それは作り話に違いない。まだ話にもなっていないだろう。何かに見とれている場合ではない。画面全体を占めるそれは暗闇のたぐいだろうか。気がついたら深夜になっているのかもしれない。それで何を見ているのだろうか。テレビか何かか。昨夜はそうだったはずだ。それだけでは済まないだろう。何が済まないのか。他に何かやることがあるわけか。スポーツをやる理由がわからない。ならばスポーツを見る理由ならわかるのか。誰もが感動したいのだろうか。驚異的な瞬間に立ち会っていたいか。ただ見ているだけで、他は何もやらなくてもいいわけでもないだろう。ひいきのチームや選手を応援しなければならない。誰が何を応援しているのか。それをやっているのを無理にやめさせようとしているのではない。言説がそこから逃げているわけではないが、たぶんこれから逃げるつもりなのだろう。何か矛盾していないか。何かに感動したいのか。何か煮付けて感動したがっているなら、オリンピックでも見ていればいいだろう。言われなくても誰かが見ているはずだ。そんなことを述べて何になるのか。何かについて言及せざる得なくなるが、それをやめてそこに踏みとどまりたくなる。あり得ない話だ。なぜか知らないがあり得ない。たぶん馬鹿げている。やはりそうなのかもしれない。馬鹿げているとしか言えない状況なのだろうか。君はそう述べて何を拒否しているのか。何を拒否しているのでも述べているのでもない。ただそこから遠ざかりたいわけか。理由がわからない。遠ざかって何を述べられるのか。遠ざかろうとしているそことはどこだろうか。またそんな予定調和の問いが繰り返される。君は行き詰まったままその先へ言葉をつなげようとしている。どう考えてもそれは馬鹿げた行為に違いない。それ以前にくどすぎる。なぜそこまで無内容なのか。ただ単に何もないからだ。何について語ることもできないからそうなってしまう。だからやめた方がよくなってしまうわけか。それを回避するにはどうしたらいいのだろう。肩肘張らずにいい加減なことを述べたらいい。本当は何もないわけではない。安易に語るなら、今巷で話題となっている出来事について語ってみればいい。なぜそれについて語ろうとしないのか。例えばさっきはオリンピックについて何か述べかけていたではないか。なぜその続きを語らずに、いつもの自己言及もどきへと大きく舵を切ってしまうのか。その辺の心境が理解できない。もしかしたらまともに語る自信がないのではないか。まともに語れなければいい加減に語ればいい。今語っているそれがいい加減に語っている当のものか。ならばそれでなぞが解けたことになるのか。どうもそれは違うらしい。誰かはいつもそれは違うと思っている。そう思うしか正気を保つ方法がないのかもしれない。しかし誰かが正気でいられなくなる事情とは何だろう。それをこれから述べる必要があるだろうか。すでに事実を語れなくなっているようで、その先は嘘と作り話の世界だ。架空の誰かに事実も何もありはしない。数日の土砂降りの雨の中で何を思うこともない。今はそういう心境ではないらしい。今でなくても未来永劫そういう心境にはなれそうもない。要するに本気になれないわけで、それもいつもの予定調和の範囲内の言説に含まれる言葉だ。誰かはさらに馬鹿げたことを述べているらしい。


8月11日

 頭を抱えている状況だろうか。何かが進展を見ないまま、すでに数日後の時間帯に身を置いている。そんなことを述べても無駄だが、なぜか厳しい局面を迎えているようで、それを他人事として装う必要があるだろうか。何をどう扱うつもりもない。やはりだいぶ説明が足りないようだ。わざとそうしているのだろうか。本当は何でもない。説明などできはせず、確かにどこかではそうなのだろうが、それがどうしたわけではなく、他に何を説明する気にもなれない。そんな話などもとからなかったのだ。今さら何を疑うこともない。それは何の話だったのか。すべてが順調だったわけではない。それでどうしたのか。そこで何が終わってしまうのか。誰かがそんなことを述べている。そして誰かが気づくだろう。今は気づくわけがない。では何を気づかせるべきなのか。何も終わっていないことか。ではこれからも続いてゆくのだろうか。何が続いてゆくのか。何かが続いてゆく。中には終わることもあるだろう。君にとっては何でもないことだ。相変わらず何を語っているのかわからないが、くじけているわけではない。言葉はどうにでもなるが、文章はどうにもならない。心は鬱状態か。何をねじ曲げているのか。記している中で事実はどこにもない。夕暮れ時に雷鳴が轟いている。そこで気づいたのは微妙なことだ。さっきまで何かに見とれていたようで、気がつけば数時間が経過している。未だ何を語っているつもりにもなれない。やはりなぜそうなってしまうのかわからないようだ。君はだいぶ疲れているようだ。誰かがやり残した作業を引き継ぐ気にならない。ならばそこで作業が中断してしまうのだろうか。どうということはないだろう。もとから何に期待をかけていたわけでもない。自己陶酔にはまるほどのこともないだろう。偉大な前進など未来永劫ありはせず、そこで停滞しているのが誰かの性分なのだから、今はそれに従うしかあるまい。何ももたらせないことを悔いる必要はない。ことさらに自分を責める展開とはならないだろう。力を抜いていい加減なことを述べていればいいのだ。そのすべては馬鹿げた内容だ。何をどうしようと歯止めが利かないようだ。君に何を期待していたわけではない。その存在をどうしようとしていたわけでもなく、すべては感性が不在のままに執り行われていたことだ。それを今さら改めることはできない。どうにもならないことをどうにもならないままに放置して、そこからどんな変化が起こるというのか。もとから何を求めていたわけでもなかった。たぶんそれでかまわないのだろう。その場では何も生まれてこない。見たままの現実を言葉が拒絶している。そんなことはあり得ないか。君にはそれができない。そこには君自身が不在だからか。そんなこともあり得ないだろうか。君は何かを隠している。誰かが君を捜している。それとこれとはどんな関係にあるのか。にわかには何も思いつかないが、でたらめであってもかまわないから、今はただひたすら語り続けるべきなのか。何の理由も見出せず、語る必然性をもたらせないようだ。得体の知れぬ影が背後から迫っている。何かの事件に巻き込まれようとしているのか。それは君の知るところではない。誰も知らない秘密がどこかで語られているらしい。作り話の中の事件とは何だろう。簡単には説明できないようなことなのか。いきなりどうでもいいようなことを思いついている。本当に君が語ろうとしているのだろうか。なかなか本題に入れないようだが、どうしたものか。本題を思いつけないようだ。それを省いたまま終わりたい。その辺が精神の耐えうる限界なのだろう。要するに無理というわけか。確かにやる気がしないのだから無理に決まっている。無理に決まっているとすれば、そこで終わりとなって、その先に言葉を連ねる必要がなくなるわけか。本当にそうなってくれるとありがたいか。それ以上無駄な努力をやらなくて済むわけだ。君はそうなることを期待しているわけか。しかし現状はどうなのか。期待とは裏腹に、必死になって言葉をつなげようとしているのではないか。無理に決まっているのになぜかそれを継続させようとしている。そんな毎日無駄な努力を欠かさない現状に嫌気がさしてくる。ただそう思いたいだけだろう。君の意志はこの際無視される。いちいち泣き言を尊重しているわけにはいかないらしい。どうしてもそれをやり遂げなければならない理由などどこにもないが、いくら自己言及にはまろうと、それをやっている現状を変えるわけにはいかないのか。いくら疑念を抱いても無駄か。何をどう語ればいいのか理解できないし、その先の展開がわからないが、とりあえずはそんなことを語り続けているようで、そういう現状をさらに押し進めなければならないらしく、それは何かに対して盲目である証なのかも知れないが、その気づいていない何かを探る手段を思いつけないようだ。たぶんそれがわかるまで無駄な努力を続けなければならないのだろう。そしてたとえわかったとしても、それは何かの思い違いと見なされてしまい、決して気づくことはなく、絶えずやり過ごされ、見過ごされているそれに向かうことはない。やはりそれは何かの冗談なのだろうか。事の真相を見極める必要が生じているのにも関わらず、これまでに何一つ成し遂げられない焦りから、それにわざと気づかないような成り行きを受け入れてしまうわけか。


8月10日

 今はその時期ではないらしい。夜の気分がおかしい。なぜこれほどまでに蒸し暑いのか。昼は冷房にうたれる。そういうことではない。悩み抜いたあげくにまたここまできてしまったようだ。何かの冗談に違いない。やるのかやらないのかわからなくなる。やらなくてもかまわないのだろうか。言葉が死んでいるようだ。わけがわからなくなるとすぐに意味不明という言葉を使いたくなる。いったい何を考えているのだろうか。つまらぬ詮索はなしにしよう。それはこちらが聞きたいところだ。尋ねるべき言葉が見当たらない。何を質問しているのでもないらしい。すべてが虚無の時間帯というわけではない。何かしら考える時間がありそうだ。だがそこで何を待てばいいのかわからなくなる。いったい何が到来するというのか。嵐の予感がしているわけでもない。ただ音楽を聴いているだけのようだ。そして時はさらに流れ去り、気がつけば何をやっているのかわからなくなるらしい。忙しすぎるのだろうか。急な気分転換の機会をやり過ごし、また来年に期待するしかないようだが、今のところはそうなる気配を感じている。ただ何を語っているのでもないことは確かなようで、話がまとまるような成り行きとはなり難いが、ならばその時に感じた予感とは何だったのか。やはりこれから何かが起こるのだろうか。それを誰が待っているというのか。君でないことは確からしく、誰かは言葉を操作して何を醸し出そうとしているわけでもなく、何かがもたらされる機会を演出しているわけではない。依然として適当な何かが語られているようだ。そしてそれも君には関係のないことらしく、まとまりのあることを何も述べられない。焦ってはならないのだろう。またの機会を乞うご期待ということか。だが決してそれは何かの予告編ではあり得ない。語るべき言葉を見失っているのだ。視界が閉じられているようで、かたくなに言葉を記そうとする気力を虚無が押さえ込もうとしている。しかしそれで何を述べていることになるのだろう。君には関係のない言葉の連なりが君をどこか遠くへ連れ去ろうとしているわけか。そんなのは嘘に決まっている。だがあり得ない成り行きむかついているのは誰なのか。やはり君ではないのだろうか。いったい文章は誰を想定しながら話を進めているのか。そういうことではないらしい。どういうことでもなく、誰かの意表をついているわけでもなく、不意にやってきて何か得体の知れない事象を言葉によってつかみ取ろうとしているわけでもない。それは何の確証もない予感に基づいた言葉の並びだ。意図してそうなっているとは思えず、成り行きがどうなっているわけでもなく、そんな成り行き以前に思惑の欠如によってその場にある雰囲気がもたらされていて、意識は何かの深淵に至ろうとしているようだが、言葉の連なりはその表面上で方向感覚を狂わされて、どこかどうでもいい範囲内を行ったり来たりしているだけのようだ。そんな状況が君を惑わせ、そこが迷路のような錯覚にとらわれ、ただの直線路をどこまでも進んでいる事実をねじ曲げ、何か魅惑的な回り道を歩んでいるような気にさせるが、それで何がどうしたというのか。君はそこで何を眺めていることになるのだろう。右往左往しながらも結果的にどこかへ至っているようだが、そこには何もなく、自らが何を求めていたわけでもないことに気づかせられ、無駄な回り道を歩んでいた記憶をどこかへ捨て去ろうとするが、そんなことができるはずもなく、忘れられない何かにいつまでもつきまとわれ、心の大半を占有するそれらの経験に束縛され、自らが不自由な感性の持ち主であることを改めて思い知らされ、それらの無駄な回り道が君の心を構成している事実を突きつけられ、さらに困惑の度を深める。だがそれで言葉を記す行為が途絶えることはないようで、そんなやり方に寄りかかりながらどんな認識に至ろうとも、それが何かの変革をもたらしているとは思えず、それを読んだだけでは何のことやらさっぱりわからない何かに引きずられながら、いつまでもそんな現状と格闘しながらも結果的にそれを維持しているわけだ。そんな代わり映えのしない言説に嫌気がさしているわけか。果たしてそれは誰の本音だと受け取られるのだろうか。ただ呆れ返っているだけか。感覚的に受け入れ難いのかもしれない。そして誰かはさらに馬鹿げた言葉の並びを期待しているのだが、その誰かを欺くにはどのような言説が構成されるべきなのか。そこから先にどんな言葉を導入すべきなのか。そんな風に思っているふりをしていること自体がすでに馬鹿げているだろうか。わざとそんなことを述べているわけだ。ひたすらそこにとどまり続け、そこから退場する術を知らないらしく、どのように振る舞えばそれらのくびきから脱することができるのかわからないようだ。だから機会が到来するのを待つしかないのだろう。何かのきっかけを利用して、そこから遠ざかる日がやってくるのを密かに待ちわびているのかもしれず、誰かに気づかれないように用心しながらも、今からその日のための準備に余念がないのかもしれない。しかし一向に目的が見えてこないようで、実際にそこを離れてしまったら何をやればいいのかわからない。果たしてその先に至っても意識の連続性を保てるのだろうか。もしかしたらそこから離脱してしまったら、もはややることは何もなくなってしまい、そこで終わりなのかもしれない。


8月9日

 それらの文章の中で、何がそれの気休めを表しているのか。それとは何だろう。たぶん教育とは大人が自己満足を得るための娯楽なのだろう。子供たちに何か良いことを施したつもりになりたいのか。自分たちの教え子がより良い未来を築けるように導いてあげなければならないと思っている。そのためには教育が必要不可欠だと思い込んでいる。それは使命感のようなものか。場合によっては要らぬおせっかいのようなものかもしれないが、現代の宣教師たちはどこまで本気なのだろうか。具体的に何をどうすればより良い未来を築けるのか。その辺から怪しくなってくるのかもしれないが、果たしてよかれと思ってやっていることのどこまでが有効に機能しているのか。それらはすべて冗談のたぐいだとは思わないが、本気になっている人々に対しては滑稽な印象しか抱けない。たぶんそれらの馬鹿げた振る舞いを真に受けてはならないのだろう。しかし何が馬鹿げているのだろうか。すべてが馬鹿げているか。そう思う他ないのかもしれないが、やはりいつものようにそれをどうでもいいことだと斬って捨てれば、そこで話が終わりとなってしまうだろう。終わりにしてしまってかまわないのだろうか。基本的にはかまわない。それはそれでそういう話なのだからそういうことだ。他人に教えることを職業としている人たちにとってはそれが現実なのだ。金をもらって教えているのだから時には真剣にならざるを得ない。教えることがすべてならそうなるだろう。もしかしたらそういう人は気の毒な人たちなのかもしれず、そんなのはすべて無駄な行為だと言い放ってみても、馬耳東風に決まっているだろうが、たぶん無駄は無駄なりにそれをやらざるを得ないことが必然的な成り行きになっている以上、これからもそれをやり続けるしかないのだろう。何か役に立つようなことを教えていると思い込んでみても、別に確証を得ようと努力するには及ばない。役に立とうが立つまいが、そういう成り行きの中に身を置いている者はそれをやらなければならない。それが仕事なのだから仕方ない。それは何か検討を要することなのか。たぶんこの世界の未来はそのような教育によってもたらされるのだろう。それが良いか悪いかではなく、そういう成り行きがひとつの要素や要因としてある。過去から連綿と受け継がれてきた教育の結果として今ある社会がこうなっている。それだけでこうなったわけではないが、少なからず何らかの影響を被ってこうなっているわけだ。君はそれをどう評価したらいいのか。やはり別に何でもないことか。たぶん君のような架空の存在にとっては何でもないことなのだろう。では現実にこの世界に暮らしている人たちにとってはどうなのか。どうもしないと思いたいか。それがこの文章が意図するところなのか。たぶんどうもしていないはずだ。浅はかな人間は必ず復讐心を抱く。自らの不遇を社会のせいにしたがるものだ。だがそれも織り込み済みだろう。中にはそういう人もいなければ社会の多様性を保てないか。しかし多様性を保ってどうするのか。皆が同じことをやっていないだけでも教育が功を奏した証になるだろうか。何も教えなくてもそうなっていたかも知れず、それは確かにそうだが、少なくとも大人たちが子供たちに教育を施した結果としてこのような現状があることだけは真実なのだろう。それの何が問題なのではない。問題など探せばいくらでも出てくるかもしれないが、そういう問題の中の何を検討するつもりもなく、ただそういう問題がある事自体が、これからそれを改善していこうとする気を起こさせる役割を担っているわけか。そしてたゆまぬ努力によって、その中のいくつかの問題を解決したつもりになっていると、また別の問題が視界に浮上してきて、またそれに取り組む気を起こさせるわけか。そんなことが繰り返されているうちに、それに伴って世の中も移り変わっていくのだろう。ただそれだけのことか。それだけのことと認識しては何かまずいだろうか。何か重大なことだと思い込んでいれば、真剣になってそれらの枝葉末節な問題に取り組めるのではないか。だから枝葉末節だと思ってはならない。何事にも大げさに驚いてみなければ本気にはなれないか。いったい彼ら何を心配しているのだろうか。すべてが何でもないことだと思ってしまってはまずいのだ。この世界の出来事にまったく興味を抱けなくなってしまう。要するに無気力無感動な精神状態になってしまうことを恐れているわけだ。だから教育によって子供たちに積極性を植え付けなければならない。では何かを積極的にやるようにしむけるにはどうすればいいのか。目の前に人参をぶら下げて走らせるようなことが教育なのか。場合によってはそうかもしれないが、もっと何か幻想などを抱かせるようなやり方が実践されているのかもしれず、例えば漠然とした未来に鮮明な設計図を当てはめるのが教育の役割となっているのかも知れない。教育によって自らの描いた設計図通りに自らの在り方を作り上げさせるわけだ。要するに何となく高尚なことをやっているような気にさせるのが教育の魔力というわけか。それを魔力と言ったら冗談になるかもしれない。


8月8日

 確かに何かがどうかしている。知らないうちに言葉が連なっているようだが、まったく内容を得られない。無理に何かを書き記そうとしていると、意識がそこから遠ざかってしまう。この世界には興味を引くような固有名が見当たらない。君は何を知らなすぎるのか。何も知らないわけではないが、知っていることについて記す気が起こらない。別にそんなことはないだろうが、文法的に何かおかしいのだろうか。たぶんそうではないと思いたいのだろう。実際には何も思いつかないだけか。それでもどこかで何かがどうかしているように思われる。それはそれでこれはこれだ。それでも何か語っているつもりのようだ。実際に架空の誰かがそんなことを述べている。嘘に決まっているかもしれないが、取り立ててそれが気に入らないというわけではなく、何となくそんなことを記しているつもりの誰かが仮想空間の中にいるらしい。しかし語り方がやけに回りくどい。やはりそれは結局何でもないことになってしまうのだろうか。ならば具体的に何を語っているつもりなのか。空疎なことを語っていることが気に入らないわけか。誰かはいつものように何も語らずに言葉を記していると思い込んでいるだけか。それは夢の中での出来事に違いない。そうやってまた嘘をついているようだが、何も語っていないつもりの沈黙に何の意味があるのだろう。君は本当にこのまま何も語らないつもりなのか。何を驚いているわけでもない。誰に何を話しているのでもなく、話の入り口で無駄に言葉を弄しているだけのようだ。そしてどうしてもそこから先へ進めない。今さら何を語っても驚きを伴わず、言葉の新鮮な響きから意識が遠ざかり、新たな言葉が何も出てこないようで、実態としてはいつもと同じような言説が繰り返されている。それの何が気に入らないのだろう。そういうおなじみの問いかけに答えぬまま、君は終わってしまうわけか。君の何が終わってしまうのだろう。何を終わらせようとしているのでもなく、ただ命脈がそこで尽きているというわけか。それは何の話でもありはしない。誰かが意図的に君自身の未来へと意識を移動させようとしているだけか。意味がわからない。そこで何かの焦点が合っていないようだ。話の論点をどこにも見出せず、何について語っているのかわからない。そしてそれでどうしたわけでもないらしい。議論を進めるようなことではなく、何もかみ合っていないようで、誰と誰が討論しているのでもなく、その前提すら成り立たない状況の中で文章がもがいているようで、意識は何とかそこから抜け出したいのだろうが、時間的にも状況的にもどうにもならず、思考が制約された範囲内で無駄に言葉を並べることしかできないようだ。それで何を述べていることになるのか。何を述べていないとすると、それらの言葉の連なりに意味はないだろう。まったく内容を見出せない。たぶんそれではだめなのだろう。だめなのはもとからわかっていて、だめだからこそそんなことを述べている。そこで状況に対する否定が一回りして、そんな循環の中に誰かの意志があるらしい。それをそのまま続けるつもりなのか。しかし他に何を述べる必要があるだろう。それを思いつかなければそういう調子でいつまでたってもそのままになってしまう。そのままではまずいわけか。まずくなければどうなるのだろう。何かわかったようなわからないようなことを具体的な事例を出して説明する必要でもあるだろうか。しかしそれは何のための説明なのか。架空の事例に対する架空の説明になってしまえば、内容のおもしろさを云々する以前に虚しくなるだけか。しかしそれ以外の何を説明する気なのだろう。それが作り話なら何でもかまわないのではないか。何を語ろうと君の勝手なのかもしれないが、何を語るかについての方針らしきものがあるわけではなく、語っていること自体がつまらない内容に結びついているようで、それも自己言及もどきになるが、本当にその辺が今のところはどうにもならないことは確かなようだ。そうならないような話の展開に持っていけないもどかしさを覚えながらも、取り立てて何をどうするのでもなく、ただ無駄に言葉を記し続けることしかできない現状があり、それがどうしたわけでもないが、わざとらしく現実がどうにかなってしまったような気になり、何か適当に現状を嘆いているのかもしれず、それも冗談のたぐいだろう。そうだとすればそれでかまわないのではないか。開き直ってそればかりを述べていれば、やがて飽きがきて、そこから自ずから逸脱していくかも知れず、そう願っているのは誰でもなく、誰かでもない。おそらく君でもないのだろう。誰でもない誰かがそんな風に思っているだけか。そういういい加減な結論に至ろうと、やはりそんなこともどうでもいいことか。どうでもよければどうなるわけでもない。ならば現状をどうにかしようとしているのは誰なのか。話が何も進展しなければどうなってしまうのだろう。どうにもならずにそのまま果てしなく言葉を記し続けるはめになるだけか。そうだとしたらやはりそれはどうでもいいことに違いない。それをそのまま続けていく以外に前進はないだろう。果たしてそれが前進と言えるかどうかは疑問だが、とりあえずそういう成り行きに誰かがその身をかませているらしい。


8月7日

 たぶん冗談ではない。神経がすり減らされて、言葉が使い古されているのだ。誰かが苦悩していた当時の痕跡を探している。今はそうではないと思う。しかし何に対してへりくだる必要があるのだろうか。雰囲気だけはそうだ。内容が馬鹿げているのはお互い様か。何を批判しているのでもない。批判の対象が周囲に見当たらないだけだろう。いつものようにわけがわからない。ただそれだけのことだ。それも何でもないことなのか。誰かがそんなことを述べている。誰もがそこから遠ざかろうとしている。馬鹿げているからそうなってしまう。言葉が何かを裏切っているからか。たぶんそうに違いない。いつまでもくだらぬことを述べているわけにはいかなくなる。それで何が終わってしまうのか。やりきれなくなってしまうらしい。それは何かの自家中毒か。意味がわからないが、それでかまわないのだ。文章として意味が通らない。わざとそうしているのだからそういうことだ。映像に興味があるわけではない。どこかのテレビ画面から遠ざかっているらしい。はじめはそういう話ではなかった。それでもわからないだろう。たぶんそうではない。君たちがいなくても事足りるのだ。それらの映像が無駄というわけではないが、何となく遠ざかっているような気になる。使い古された表現をどうしようというのか。さまよい人なら無責任に振る舞えるだろうが、誰がそれを求めているわけでもない。君はこの世界の中でさまよっているつもりなのか。いくらさまよっているつもりでも何ももたらせないだろう。結局の結論はそういうことなのか。嘘に決まっている。誰もそれを語る資格がない。もとから資格などあり得ず、現にさっきから何も語っていないはずだが、意味不明な雰囲気とともに言葉だけが先行しているようだ。意志は何を知ろうとしているのでもなく、そこに目的があるわけではない。たぶん何かを暗示させようとしているのだろう。秘密がどこにあるわけでもない。その場の偶然と気分でそんなことを述べているだけだろう。内容は何もない。感性はそんなごまかしを嫌っているようだが、そうなるしかない状況を黙って眺めているしかないらしい。ただわけがわからない。夜は蒸し暑く、翌朝になればいくらか涼しくなるかもしれないが、昼になれば耐えられないほどの暑さに包まれていることだろう。語っているのはそういうことだ。何を考えようと、それは君自身の思い込みに違いない。まだ何も行き詰まっていないはずだ。それ自体が行き詰まった結果から生じている文章か。それを読み返してどうするのか。それがだめなら、他に何をもたらせるというのか。どうもきっかけをつかめない。何を語ろうとしても中途半端なまま終わってしまう。なぜそうなってしまうのか。誰かは何を監視しているのだろう。そういうことではないはずか。それは何かの思い過ごしだろうか。たぶんその時が来るまでつまらないことを述べていないとならないのだろう。きっかけを逃すとそういうことになるらしい。そして今は真夜中か。いくらか気分が乗ってきただろうか。たぶんそれで何を語ろうとしているのでもない。気に入らない展開の連続で嫌気がさす。何かの勝ち負けにこだわるような成り行きではない。ならば眠ってしまってかまわないのだろうか。そしてまた翌朝になっている。君はそこで何を語っていたのか。それは昨日のことだ。確かに昨日のことだが覚えていない。何もやっていなかったのではなかったか。そういうことにしておいてもさほど不都合はない。ただできないことをやろうとしていただけだろう。そして明日になり、後悔先に立たずということになるわけか。それでもかまわない。君は言葉ばかり記して何も語ろうとしない。心が歪んでいるだろうか。やり方に無理があるのか。それがやり方ではないということか。胃に穴があく。そういう妄想にとらわれるほど胃が痛くなるか。実際には何も感じないようだ。何を述べても嘘になる。健康に不安はない。それも嘘なのか。心配事は山ほどあるはずだ。そしてそこから先に進まない。また馬鹿げたことを述べているようだ。何を述べても無理なのか。誰かは深夜にバスケットボールを見ていた。数日後のことだ。何に呆れていたのか。まともなことを述べられなくなる。それはいつものことだろう。たぶんその先で誰かの感性が花開く場面に遭遇するはずだ。そんな風に語るのは何かの可能性をつかんだからか。確信に至るべきではない。それに足下をすくわれてしまうか。またしても勘違いのなせる業か。そうだとしたら絶望すべきなのか。破れかぶれの行動に出るべきなのか。それとも何かのとばっちりを受けてしまうのか。将来のことはわからない。そこで何かがリセットされてしまうのかもしれず、そんな危険を冒してまで行動に出なければならないのだろうか。それでも確信を得たいのだろう。石橋を叩いて渡りたいところを、無謀な冒険に置き換えたいのだ。果たしてそれで何がわかるだろうか。ただ散財するだけか。そして一文無しになり、悔やんでも悔やみきれない事態に遭遇するのだろう。それでも冒険を選んでしまう。無謀なやり方にロマンを感じてしまうわけか。最初から万が一の可能性もありはしないのに、あえてそれを実行してしまうのか。それにはまってやけくそ気味に滅んでしまった者が後を絶たないか。そういう話の展開が物語を奏でるのだろうが、果たして君もそれにはまってしまうのだろうか。


8月6日

 誰かが惨めなことを語っている。君が語っているのではないらしい。誰かが何かを求めている。まともな内容を求めている。だがそういう内容ではない。何をやる気になっているわけでもなく、やりたくてもできないのではないか。確かにそれはたたみかけるような攻撃ではない。少し休んだ方がいいだろう。そういうやり方でその場を切り抜けようとしているわけか。何かがそこまで出てきている。それが何かの言葉なのだろうか。吃音のたぐいかもしれず、気分的に立ち直れていないようだ。それの何が現実なのか。何を求めているわけではない。無駄なことを述べているようだ。まだこんな時間だ。また今日も言葉を記すつもりらしいが、無理に決まっている。日付にこだわっていたはずだが、まだ今日になっていない。この際そんなことはどうでもいいか。君に何を尋ねているのでもなさそうだ。また答えの返ってこない問いかけを多用するつもりなのか。そこで何がどうなっているわけでもなく、すべてが時代遅れであり、時代遅れという言葉自体も時代遅れとなっている。ならば代わりにどんな言葉を使えばいいのか。時代遅れを拒否してはならない。流行り廃りに敏感である必要はない。どんな言葉も時代には合っていないようだ。すべては過去とつながっていて、その時点で時代遅れなのは当たり前のことだ。それ以上は今という時間に近づけない。別にそれでかまわないのではないか。まともな内容を探す必要もない。そのまま言葉を並べてゆけばいい。ひたすら空疎な言葉を記していればいいのだ。それで何を肯定していることになるのか。やる気がなくてもかまわないということか。どのように解釈してもかまわず、誰かの都合のいいように受け取るべきだろう。この世のすべては何でもないことだ。そう思えば何でもないのだろう。思いたくなければ何か特別な何かを見つけられるはずか。見つけたところでそれは幻想に過ぎない。君はそう述べて何をあきらめているのか。幻想でも幻影でもない真の事物を見つけられるだろうか。見つけたところでそれはただの事物に過ぎない。ただの事物では満足できないか。それが何か特別なものでなければならないのはどうしたわけなのか。何のこだわりももたらさないようなものでは困るだろうか。誰かは自らが何か特別な存在でありたいと願っている。人間である限り、それは不可能なことか。どんなに大げさなことになろうと、それは人間である限りのことでしかなく、決してそれを超えることはない。人がそれ以上を目指せばどうなるのか。誇大妄想の虜となり、その手の漫画の中に精神が住まうような気にでもなるわけか。それでもかまわないのかもしれない。気が触れているなら、それなりの施設内で生きていけばいい。そういう精神状態を馬鹿にしてもかまわないが、そうなってしまうことが人間である証しとなっているのだから、明日は我が身と思っていればいいわけか。冗談でならそんな風に述べられるが、いったん本気になってしまうと、そこから先は狂気の世界だ。それが楽しくて仕方ないような案配で、どこか遠くへ行ってしまいそうなるのを我慢して、何とかその先が狂気でないような方向を模索しなければならない。まだ正気を保っているような気がしている。そんな君には何が欠けているのか。文章構成力か何かが必要なのだろうか。わざとらしくいい加減なことを述べているつもりらしい。そういうやり方でかまわないのか。エアコンの音が子守唄のように聞こえてくる。夢を見ればいいのか。その前に眠らなければならない。そして流行歌を聴いているのか。わからなくなる。でたらめに言葉を並べているだけか。何をどう並べてもでたらめになってしまうらしい。もとからでたらめな内容だったのだから、そうなって当然か。何かのきっかけでまともになるような気がしたのだが、他力本願ではどうしようもなく、結局はでたらめのまま終始してしまうらしい。それでもかまわないのだろう。何がどうなってそうなったわけではなく、それは自然の成り行きなのだ。だがそう結論づけてしまうとますますやる気がしなくなり、さらに投げやり的にでたらめを垂れ流し続けるようになってしまうのだろう。それは何かの予想か。冗談でなければそういうことだ。冗談であってもそういうことだろう。どちらでもかまわないということか。何と何が競争しているわけではない。すべては曖昧であり、勝ったり負けたりするのはその場しのぎの何なのか。何も思いつかなければそのままの気分を保っていればいい。それがすべてではないということか。もうそこで無理なのだろう。何もできはせず、急にやる気がなくなり、そこで眠ってしまう。そして翌朝になり、あわてて言葉を記すのを再開するが、もう遅い。いつものように何かが欠けているのだろう。ぎりぎりのところでかろうじてそれを達成するが、何のことはなく、それはいつもの虚無に遭遇しているだけか。どこから抜け出ようとしていたのは誰でもなかったようだ。そんな日常を何かが奏でている。たぶん演奏ではあり得ないのだろうが、それでも奏でているとしか言い表せないような捉え方しかできず、間違っても何かを語っていることにはならないだろう。無理矢理何かを語っているとしたら、やはりそれは何でもないことか。何でもないとすればそれを語っているわけではなくなる。


8月5日

 人は誰でも自分を裏切って生きて死ぬ。そこに何が生じているわけでもない。見当違いも甚だしいが、軽率に言葉を連ねてしまうのがいつもの成り行きなのだから、そんな風に語ってしまってかまわないのだろうか。いくら冗談と嘘で文章を構成しようと、きっとどこかに出口があるはずか。心の片隅に良心がくすぶっているような言い回しだが、どうもそれは違うような気がする。君は何もわかっていない。君とは誰だろう。そんなことすらわからないのか。冗談でそんなことを述べているようだ。わざと何かをはぐらかそうとしているようだが、当てが外れている。君にとっては冗談かもしれないが、架空の誰かにとってはチンプンカンプンだ。他にどんな存在を想定しているわけでもなく、誰もそこにいないのはもちろんのこと、君が何を読もうとしているのでもない。それは決して読まれることのない文章であり、誰にとっても不必要な存在なのだ。誰かが不在のまま言葉が記されている。勘に頼ってそんなことを述べていると足下をすくわれてしまい、意味不明の烙印を押されてしまう。それも架空の話なのだから、誰にとっても無関係だが、そんな風に言葉を記していると不思議な気分になる。何が君をそこに引きつけているのだろうか。当てが外れているのは誰なのか。誰でもなければ君でもない。君でなければ話にならないか。では誰が話を継続させようとしているのか。君にとっては関係のない話に違いない。だがそこから遠ざかるためには架空の話が必要なのではないのか。誰にとって必要なのか。架空の誰かにとって架空の作り話が必要なのかもしれないが、それではわけがわからない。いくら話を継続させても無意味なのではないか。そうなることが誰かの狙いなのか。意味を導き出せずに苦労するよりは、無意味のまま誰からも無視され、それによってその場を無難に切り抜けようとしているのではないか。しかしその場とはどんな場なのだろう。誰もが自らを目立たせるためにしのぎを削っている場なのか。そんなのはテレビにまかせておけば事足りるだろう。君は黙って我関せずの態度を貫き通せばいいわけだ。そうすればその場がまるくおさまり、何事もなかったかのように日々を平凡に暮らしていけるはずだ。それで何をもたらせるというのか。君にもたらせるようなものは何もない。誰かによって記された言葉は常に君を飛び越えて虚空の彼方へと遠ざかる。それは誰もつかみようのない事態であり、それについて何を記せばいいのかわからなくなる。ただの幻影として片付けたくなるが、それに興味を抱くわけにはいかないようだ。ではいったい何について語ればいいのか。誰がそれについて語ろうとしているのか。君は自分の他に何を裏切っているのだろう。そしてさっきから立て続けに何を問いかけているのか。それで自己言及から遠ざかれたと思いたいのか。勘違いもいい加減にやめてもらいたいか。そうやってたたみかけるように虚無がもたらされ、言葉が意識を置き去りにしている。やはりそれは何でもないことか。誰がどこに導かれているのだろうか。理屈ではわかっていることも感情が曇らせる。何かがそこから遠ざかり、忘れてしまえばひどいことになるのだろう。ひどいことになればいいと思うようになる。そんな心が許せないのか。そう思いながらも君は過去から遠ざかる。忘れてしまえば何かが存在しなくなるだろう。いったい何が不在なのか。どこに不在の原因があるのか。君にはわからない。何を述べているのかわからないのだからわかるわけがない。本当にそれを知ろうとしているのだろうか。知らないままでもかまわないのではないか。なぜそうなってしまうのか。いくら問いかけても答えは出てこない。ただひたすら無駄に問いかけるばかりのようだ。そんな風に語るしかない。語るために問いかけているのであり、それは答えを出すための問いかけではない。君にはそれがわかっているはずだが、あえてわからないふりをするしかない。わからないと述べることで文章を継続させている。そういうやり方を繰り返しながらここまでやってきた。これからどこへ行くかはわからないが、どこへ行っても文章を継続させるためにひたすら問いかけているのだろう。いつまでもどこまでも無駄で無意味な問いかけが繰り返され、それらの文章はこの世界に対する誰かの興味や関心を削ぐために必要な空疎をはらんでいるのかもしれれない。しかしなぜそんな文章が存在しなければならないのか。それは何かの必然なのだろうか。語り続けようとすればするほど、何も語ることがない事実に気づいてしまう。必要もないのに語っている現状に心が押しつぶされそうになる。良心がとがめるわけか。何を冗談だと思っているのか。そういうやり方のどこがいけないのか。問いかけてしまうこと自体が間違っているのだろうか。それが苦し紛れなのだろう。考えるいとまを与えないほど問いかけ続ける。必死なのかもしれないが、必死であればあるほど内容が空疎に近づき、そんな空疎を言葉によって示し続け、さらなる空疎を文章の中に呼び込み、虚無に近づこうとしているのかもしれないが、近づけば近づくほど、何を述べているのかわからなくなり、それが近づきつつある虚無からの作用であると考えるようになるが、本当にそうなのだろうか。


8月4日

 何を振り返っているわけではないが、それでも振り返れば何かを感じる。それの何が苦し紛れなのか。君はそんなところで何をやっているのか。何もやっていないとすれば、作り話の内容が空疎になる。それはいつものパターンかもしれないが、たぶんどれほど忍耐が続くか試されているのだろう。神が誰かに試練を与えているのではない。そういう発想が場当たり的に思えてしまい、誰かを呆れさせるようだ。しらけた気分に合わせて言葉が連なり、また誰かが夕暮れ時に蝉の鳴き声を聞きながらテレビを見ている。それのどこがおかしいのだろうか。別に誰が笑い転げているわけではなく、何の変哲もない状況で、何もおかしくはないが、何かが途切れている。それは記憶か何かだろうか。それからもう四日後だ。近頃は仕事以外は何をやってもうまくいかないようで、何もできない成り行きの中で、投げやりな気分が次第に増してくる。そんな気がしているだけで、本当にそんなことを思っているわけではない。それはただの作り話であり、そこに記されているのは余分な言葉だ。何でもないことだが、たぶん適切ではなく、他によけいなことしか述べられなくなるが、それでも何とかしなければいけない。そんな無理な要求の中に意識がとらわれている。誰が何を要求しているのでも、何を強いているわけでもなく、誰かが言葉を記しながら勝手に行き詰まっているだけのようだ。不可能な状況とはそういうことか。誰にとって不可能なのか。君にはそれが理解できない。なぜそうなってしまったのか。別に神秘主義に毒されているわけではないが、たぶん心の中で何かが違っているのだろう。そんなはずではなかった、と思いたいのだ。それを言葉でごまかすわけにはいかないのだろうか。ごまかす気にならないようで、心の中で何かが弱ってしまったらしい。精神的な衰弱も甚だしいか。冷房を止めると蒸し暑いが、誰かがそれを求めているようだ。幻聴ではなく、急に誰かの声が聞こえてくる。それは昨晩のことだろう。どんなわけでもないが、そんなわけで作り話の中では、またあり得ない展開が求められているようだ。それにあわせていったい何を語ろうとしているのだろう。この期に及んで語らなければならないことなど何もないはずだ。それを確かめるために何を語ろうとしているのか。わけもわからずただひたすら語ろうとしているようだが、とりあえず内面からは何も出てこない。その代わりに自然と空疎な言葉が連なってしまうらしく、いつまでもそうなのだから、それをやめることなど考えられず、現に何もやっていないのだから、それが惰性であろうとごまかしであろうと、それをやり遂げなければならない。だから何をやり遂げようとしているのでもない、と述べているわけだ。何か矛盾しているだろうか。それはわざとらしいとぼけ方か。今さらそこから退くことなどあり得ない。だから自然と虚無に近づいてしまうわけだ。連なっている言葉に魂を引き抜かれているようで、感性の衰退に歯止めが利かない。そして空疎な文章以外に何ももたらせず、苦悩するばかりだ。だからそれでどうなるわけでもなく、苦悩すらあっという間に冗談にすり替わる。もうろくするにはまだ早いか。しかし現状が冗談じみているのだから、その精神的な貧窮状態を真摯に受け止めなければならない。君自身は現状をどう受け止めているのか。冗談として受け止めているだけのようだ。嘘であるならその通りだろう。それでも今日という日付にこだわるのはおかしいか。それとこれとは無関係かもしれないが、今日という日付に徐々に近づくことなどできはしない。そんなに日付にこだわりたいのなら、いっそのこと今日を飛び越して、三日後ぐらいまでの気分を先取りしてみないか。少し言葉を記すともう飽きてしまい、横になるとそのまま眠ってしまい、そして気がつけば翌朝になってしまう。そんな状況下で何ができるというのか。もはや疲れていることをいいわけにできるような状況ではなく、完全に怠惰に心身共に支配されているのかもしれない。そんなことでは結局いつまでたっても何も成し遂げられないだろう。そしてすべてが消え去る運命なのか。それは冗談に違いない。冗談でなければ嘘に決まっている、消え去るのが運命でなければ、現実に何が消え去っているのか。過去が目の前を通り過ぎて今に至る。意味がわからないが、そこにどんな可能性があるのだろう。記されつつあるすべての言葉が飽和状態で、何を語っても過去に語った内容と変わらない。だがそこでようやく薮の中を抜け出して、広い草原に出てしまったようで、遥か遠くの山並みまで見通せるようになるが、それの何があり得ない現実なのか。そこで誰が何を問われているわけではない。この世界ではすべての人間が無責任に振る舞ってもかまわないのであり、自らの欲望に忠実であることが肝心なのだ。それが行動する上での大前提か。そこから何がもたらされるのか。君はそうすることによって何をないがしろにしたいのか。人間たちの社会は妥協の産物である。それを構成する各人の利害や思惑が交錯して、結果的に妥協せざるを得なくなる。わかりきっているのはそこまでだ。そしてそれだけで言説を展開するのは無理だ。不十分であり、肝心なことが欠けている。それは何だろう。


8月3日

 困り果てて頭を抱えているわけではない。ただそんな調子なのだ。辺りが暗くなってから何かを考えている。相変わらず何と戦っているわけでもない。導入すべき言葉を思いつかずにいる。それの何が悪戦苦闘だというのか。何かを考えていたのは三日前のことか。今はどうなのか。それとは何だろう。どうやら梃入れが失敗に終わったらしく、それについて誰に何を尋問されているわけでもないが、雑なことを述べている誰かの実体がよりいっそう不鮮明になるような成り行きらしい。確実に何かから遠ざかっている。そんな誰かを遠くから見る限り、挙動不審というわけでもなさそうだが、それ以外に何かわけがわからないことをつぶやいているというわけでもない。たぶんまた何かを語り損ねているのだろう。それほど的外れだとは思わないが、記された文字がかすれているわけでもない。文字がいくぶんにじんでいるようだが、今は書道か何かの時間か。ここは学校ではない。そして時間帯では何かのついでに声が出なくなる。それは君とはまったく関係のないことか。それはいつもの嘘に違いない。嘘以前のでたらめだ。それを黙っているだけだ。そしてそれが魅惑の現実なのではない。やはりまたしても意味不明なことを述べている。何かを語っている実態がどこにも反映されない。それが文章の中の出来事であり、現実ではないからそうなのか。果たしてそれが何の理由になっているのか知らず、誰かは考えられないことをいつまでも考えようとしているのだろうか。他に何をやる気になっているとも思えない。だが本当に何もできないのだろうか。誰の仕業なのか。誰もが事の真相を知りたがっているが、なぜか植木が枯れている。いったい君は何をはぐらかしているのか。作り話の中ではそうだ。何をさらしているのでもなく、さらされている現状の中には何もない。何事にも興味がわいてこない。君の目が動かない。胸の鼓動がどうしたわけでもない。架空の顔も心もそのままだ。心臓がどこにあるのか。何かの剥製が部屋の中にある。君はわけがわからない。何かの亡霊が誰かを手招きしているようだが、これからどちらへ向かうつもりなのだろうか。どこか行き先が複数あるとは思えない。その辺がはっきりとはわからないが、夢の中で誰かがどこかへ行こうとしているらしい。それが疲れる原因なのか。働いているから疲れるだけだ。君はその意味がわからず、何を語ればいいのかわからない。誰が君の理解の手助けをしようとしているのでもなく、そんな誰かの気遣いがおかしい。回りくどいことをひたすら記しているようで、そうやってその場に生じている虚無を文章に反映させようとしているらしいが、誰かはそういうやり方に限界を感じているはずだ。やはりそれでは何も語っていないのと同じだろうか。どうやらこのままではじり貧状態になってしまうらしい。いつもながらの予定調和の言語的展開か。誰かはそれが楽しくてたまらないようだ。またしても嘘をついている。君は自分に対して正直になるべきだ。そのやり方の何が間違っているのか。今は今であり、少なくとも過去ではない。今の自分を思い出してどうするのか。今どころではなく、未来の自分を思い出そうとしている。あり得ない話だろう。くだらぬ自己矛盾を演出しきれていないようだ。言葉が君から遠ざかり、何でもないことに呼応している。またおかしくなっているらしい。頭がおかしいのではなく、他の何かがおかしいのだろうが、何がおかしいのかわからないのに、なぜおかしいと思われてしまうのか。夢の中では電車に間に合わず、乗り換えがはっきりせず、どこを目指しているのかわからなくなっていたらしいが、たぶんそれがどういうことでもないのだろう。躊躇しているとそこで言葉が止まってしまい、その先に進めなくなってしまう。なぜ進もうとしているのか。今は数日後の深夜だが、そこから何を醸し出そうとしているのか。。立て続けに襲ってくる睡魔のおかげで、目算が完全に狂ってしまったらしい。それでもなお言葉を連ねようとしているのか。わからない。いくらでもわからなくなってしまうが、いくらわからなくても、なおわからなくなりそうだ。顔がむくんでいるようだが、冷房を必要としない。何とか首の皮一枚つながっているような気がして、その先に言葉をつなげようとしている。産みの苦しみというのではなく、惰性の続きなのだろうが、何とか慣性の法則を利用しているみたいだ。ただの説明なのだろう。部屋の天井についている蛍光灯がまぶしくて目覚めてしまったらしい。それで何とかつながっているわけだ。何がつながっているのか。投げやりな雰囲気が漂ってくる。眠らなければばててしまいそうで、先を急がなければならないと思っている。静寂が支配しているとは言い難い。虫さされが化膿してできた傷が治りかけている。深夜に水を飲みながら、その先を模索し続けるが、出てくるのはゲップのような文章か。気に入らないのだろうか。わかっていることは限られていて、その範囲内でしか言葉を操作できない。だから以前と同じような展開ばかりに遭遇してしまい、まったく面白みに欠け、気がつけばテレビを眺めている誰かを見下しているようだ。意味がわからないだろう。


8月2日

 目的を見失ってから久しい。目標ならあるだろう。たぶんそれは何でもないことだ。それとは何か。またしてもそんなことを述べてしまう。そういうやり方は好ましくない。好ましくないが、それを見失っているのだから仕方がない。今日もそんな周知の事実を知ることとなる。わざとそんな風に語っているのだろう。そして事実を歪曲して何かを伝えようとしているわけか。歪曲するほど器用ではない。では何がそれの限界なのか。限界を打ち破ろうとしているのではない。その前に何かがブレーキの役目を果たしているようだ。急ブレーキを踏んで危ういところで止まったらしい。意識は何を止めたのだろうか。止まっていたなかったらどうなっていたのか。何が止まったのか。誰かの呼吸が止まっている。ならば数日後には葬式か。ぼろぼろの何かに火がついて燃え上がる。焼却炉の中で炭素化が進んでいるようだ。君はそこで何を試そうとしているのか。君とは無関係に何かが試されている。いったい何が試されているのだろう。それがわからなければ、何も語りようがない。だからこれ以上は何も語れないわけがない。そんな風に語れるわけだ。馬鹿げている。馬鹿げているがそんな風に語り続けて、ひたすら意味のないことを語っている。それで何を否定しているのだろうか。意味がないことが許せないのだろうか。要するに何も語れないという事実を認められないらしい。果たしてそれは事実なのだろうか。たぶんそうに違いない。現に何も語っていないではないか。ただ言葉が適当に連なっているだけだ。それは見解の相違か。そうに決まっている。誰が自分に言い聞かせているのか。誰もそこにはいない。その代わりに虚無が過剰に言葉を摂取しているようだ。何かの中毒症状がでている。薬がまったく効かない精神状態だ。病的なまでに栄養補給を心がけているようだが、だがある種の言葉に対してアレルギー反応があるのかもしれない。だから何もできなくなっているわけか。そんなでたらめな理由では真実味を醸し出せないが、それ以外の理由が思いつかないのだから、今はそれが暫定的な理由となるだろうか。くだらぬ冗談なのだろう。おかげで何をしようとしていたのか忘れている。そうやって君は自分をだまし続けているのかもしれない。そして真実を導き出せなくなった。それはあり得ないことか。あり得ない真実を偽りとして提示しようとしている。しかし何が偽りの真実なのか。君はいつまでも文章の中に不在のまま存在している。確かにそんなのはあり得ない。そんな簡単に結論が導き出せるはずがない。何が結論なのだろう。何がおかしいかはわかっている。結論になっていないところがおかしい。そこで結論を提示する必要性を感じられず、もともと結論という言葉の使用法を間違っているのではないか。何かはぐらかされているような気がするのだが、本来ならそんな風に語るべきではないのだろう。本来という状態が何なのかわからないまま、強引に言葉を連ねようとしている。やはりいつまでたってもそれなのだ。まったく進歩がない。君は何のためにそうしているのか。たぶん何かを続けようとしているのだろう。そんな風に語ってしまってかまわないようだ。さっきとは気が変わったらしい。そして何か態度がおかしい。作り話の中ではそうだ。ばらばらの心がさらにばらばらになる。心の中で何かが細分化されている。それは心ではない。それで技巧を凝らしているつもりのようだ。他に気に入らないことはいくらでもありそうだ。わざと何かがありふれている。そこから虚無が溢れ出している。あり得ないことか。あり得なければすべてが虚構に違いない。作り話なのだからそれは当然だろう。それでも何を語っているのでもないと言えるだろうか。言えるのかもしれない。何も正しいことを言わなくてもかまわない。それが間違っていてもかまわないなら、たぶんそういうことなのだろう。そして何を語っても嘘になる。言葉を繰り出すのが億劫になり、何も語らなければそれでかまわないと思うようになり、そこから先に文章がつながらなくなる。終わってしまうわけだ。実際に何かが終わっている。終わりようがないのにそこで終わりとなっている。まさしく今終わってしまったわけだ。だがいったい何が終わってしまったのか。語ることをあきらめてしまったらしい。それはついさっき起こった出来事か。それについて君は何を語れるだろうか。また否定的な見解が述べられてしまうのか。それはもう終わってしまったことだ。終わってしまったから後から評価できる。何かのいいわけを付け加えられ、そうならなかった可能性を模索することができる。なぜそんなことを想像しているのか。想像しているのではなく記しているのだ。ただ言葉を付け加え、説明しようとしている。それは何でもないことだ。何でもないから内容がない。誰かはそれが嘘だと認識しているが、わかっていながらさらに嘘をついている。どこまでも嘘をつき通し、決して本心を明かさない。かたくなに空疎なことを述べ続け、それ以外の言葉を記そうとはしない。だから虚しくなって、どうでもよくなってしまい、何もかもが馬鹿げているように思えてきて、さらに虚無的な雰囲気を弄んで、結局は何の結果も残せなくなり、ただ言葉が並んでいるだけの文章となってしまう。それも嘘なのだろうか。誰の見解でもありはしない。


8月1日

 なぜか今月に入ったら趣も風向きも変わってしまったらしい。何かが違うようだ。取り立てて誰がどのように趣向を凝らしているわけではなく、それに我慢がならないというのでもない。ただひたすら話がまとまらない。相変わらず言葉のすべてが断片化しているようだ。まったく話になっていない。そしてやる気がしない。こういう状況下で、他人は何を考えているのか。免疫機能が低下している。ところで今はいつの時代なのか。誰かのあざとい歌詞もその時代の雰囲気を捉えていたのだろう。キッチュな歌謡曲が数十年前に流行していたようだが、その作詞家ももうこの世にはいない。今とその時代は言説的に結びつかないだろう。君が語りたいのは昔話のたぐいではない。それでも君には何もわからないだろう。別にその時代の流行歌に興味があるわけではない。なぜ大勢の人がひとつの話題や出来事に夢中にならなければならないのか。世の中の流行り廃りに敏感でなければ、他人との一体感に浸っているような気になれないからか。それとこれとは関係なく、誰がそんな風に思っているわけでもなく、他の何を語りたいわけでもない。ただくだらぬ想像力が勘違いをもたらしているようだ。だからこれ以上はいい加減に語ることをあきらめた方がいいのかもしれない。いつものように理由になっていないようだ。あきらめてしまったら何でもなくなってしまうだろう。だからそこで君はあきらめようとしている。本当に何でもなくなってしまうだろうか。試してみなければ何でもなくなるかどうかわからないか。だから今ここで試しているのではないか。誰かはわざわざ試してみなくてもわかるようなことを試している。そして何をやっているのかわからなくなるだろう。やがて何も語ることができなくなる。しかしそれの何が冗談なのだろうか。それ以外に何ができるとも思えない。実際に誰かがやっているそれは、ひたすら何かを記していることでしかない。そしてその内容はいつも期待はずれに終わるだろう。最近はただ無駄に言葉を連ねるばかりのようだ。それが無駄だと思わないようにするためにはどうしたらいいのだろうか。今さらごまかしはきかない。他に何をきかせようというのでもない。もはや何もかもが無効になってしまったらしい。泣き言にすらなっていない。君はそこで何に敗れ去っているのだろう。時の流れに言葉がついてゆけなくなっている。そして本当に何もなくなってしまったらしいが、それでも言葉を連ねようとしている。結局まだあきらめていないようなのだ。あきらめかけているのに、そこから先に意識が進めないようだ。世の中があまりにも空疎に感じられ、たぶん何らかの事象があるのだろうが、それを心が感知できずにいるらしい。何が起こってもどうということはないように感じられてしまうわけだ。この世界では起こって当たり前のようなことしか起こらないらしい。そこに驚きや感動はない。どうせまた数日したら巷ではオリンピック騒ぎであり、メダルがどうたらこうたら言いたがる輩が大量発生するのだろう。なぜ人はそれらの運動会もどきで盛り上がれるのか。他に騒ぐようなイベントが見当たらないからか。イベントで騒ぐこと自体が何でもないことだ。だがそういう否定的なことを述べてしまうのはひねくれ者のたぐいだ。できればそういう輩の存在は無視して先に進みたい。先に進んでどこへ行こうとしているのか。進むべき先がどこにも見当たらない。おそらくそれも何かの冗談だろう。何も語れなくなって、苦し紛れにそんなことを述べているに過ぎず、そんな自己言及もどきも違うと思われる。本心からかけ離れている。とりあえずテレビでオリンピックでも見ていれば、何かに感動することはできるだろう。君はそういう感動が気に入らないのか。自らがオリンピックに感動するような常識人であることを自覚するのが我慢がならないか。そんな些細なことなどどうでもいいではないか。ただそういう成り行きに身をまかせていればそれなりに時が過ぎ行き、気がつけばオリンピックも終わっていて、今度はパラリンピックがいいわけがましく話題となるだけだ。メディアは無理矢理身体障害者の祭典に言及しなければならなくなり、それによって自分たちが良識を備えていることの踏み絵的な試練をくぐり抜けるわけだ。君はそれについてどう思っているのか。いくらひねくれ者であってもそんな嫌みなことを表明すべきではない。もう少しおおらかな気持ちで言葉を組み合わせられないものか。現状はそういう内容からほど遠い。そこに人間的な見識の狭さが浮き出てくる。そして自己嫌悪にでもなれば誰かが満足するわけか。何を落ち込む要素が記されているというのか。何でもないことは限りなく何でもないように続いてゆくしかないだろう。それらの文章がどんな内容であろうとなかろうと、誰にとってもそんなことは無視すべき事柄となるだろうか。ただそこに文字が記されていればいい。それを無理に読む必要はなく、画面上にそれらの文字の連なりが醸し出す模様を眺めていれば、それで満足してしまう。何となく何かをやり遂げたような気になり、ひと安心してしまうわけだ。そして誰かは何となく何かを述べたような気になっているのだろう。