彼の声50

2005年

9月30日

 まったく事態を把握できなくなる。狂気に支配されているのだろうか。やはりおかしいのだろうか。俄に述べている内容が信じられなくなる。完全にわけがわからなくなってしまったようだ。言葉はまだ続いているようだが、そんな意味不明はそろそろ継続を終わりにしなければならないか。空虚を体現している文章は、何らかの雰囲気に包まれているのだろうか。それは雰囲気ではないだろう。言葉を使う場所を間違っているように思われる。それらの文章が必要としている主語を思いつかないようだ。またそんなわけのわからないことを述べているのか。さらに内容が空疎で意味不明となっているのかも知れない。いったい文章とは何なのか。それらのどこから文章という言葉が出てくるのか。まるで話の展開がつかめていない。そんな文章の何を肯定したらいいのか。それらの何を気にかけているのだろうか。いくら述べても何を述べているのかわからない。述べれば述べるほど、意味不明に近づいているように感じてしまう。すでにかなりのわけのわからなさを体現しているのかも知れない。述べたくて述べているわけでもないのに、そんなわけのわからない内容なき無内容状態となってしまうのだから、もはやそれは手の施しようないところまで来てしまっているのだろうか。それらの文章を読みながら、君はどんな妄想を抱いているのだろうか。さっきから冷や汗をかきながら繰り返し読んでいるようだが、妄想はどこまで膨らんだのか。何を膨らましているわけでもないか。意味も言葉もどこか得体の知れぬ時空へ飛んでいるらしい。まるで何かが空中分解してしまったように感じられるが、膨らみすぎて破裂してしまったのだろうか。しかしそんな表現がそれらの文章のどこに当てはまるのか。まったく的を射ていないか。それは単なる思い違いでしかないだろうか。しかし何が違っているわけでもないだろう。違っていること自体がどうでもいいことなのかも知れない。これまでに違っていないことを述べた例しがあっただろうか。何をどう述べても違いすぎるような内容ばかりではなかったか。それについて何か思い当たる節はないだろうか。たぶん思い出そうとしているのはそんなことではあるまい。少なくとも成り行きそのものが違っているのかも知れないが、一時的にもたらされているその場の情景は、そのときの気分次第でいくらでも取り替え可能か。しかしどんな景色を選んでみても、それはいつもの成り行きにしかならないような気もするのだが、たどり着いたそこは静かな場所なのだろうか。なぜ唐突に静けさを求めるのだろうか。静けさが何の役に立つのか。わざとそんな風に述べている意図がわからない。それはわざとではなく、偶然にそうなってしまっただけなのではないか。別にそんなことを述べたかったわけでもないのだが、その場が静かならそれ残したことはないだろう。静かな場所でいくら言葉を並べ立てても、何の騒ぎも起こらないし、それで何を述べているような気もしてこない。それらの状況に何か問題でもあるのか。そんなことを述べている場合ではないか。しかしどんなことを述べる場合なのかわからないか。たぶんそれ以外のことを述べなければならないのだろう。なぜ急に何の理由も根拠もなくそれがわかるのか。ただ何となくそんな気がするだけか。だがそんなことが簡単にできるわけもなく、すでに半ばあきらめかけている意識は、何かから降りてしまっているのかも知れない。語るべきことを語っていないような気がする。なぜそれを語らないのだろうか。それがわからないのに、語らなければならないはないだろう。それでももしそれを語らなくても済んでしまうとしら、もはやそれは語るべきことなどではないのではないか。しかしそれによって何かを見失っているような気もしてくる。単に語るべきことを見失っているだけだろう。しかし見失っているのになぜ語っているのだろうか。それは語るべき内容ではないのではないか。ただ何も語れないのに無理に語っているだけなのか。要するにそこで行き詰まっているわけか。では行き詰まったらどうすればいいのだろうか。たぶん君は音楽を聴かなければならないのだろう。しかしそれとこれとはどういう関係にあるか、などということは考えなくてもいいのかも知れない。何となく面倒臭くなってきて、たぶん言葉も気持ちもそこからずれてしまっているのかも知れない。なぜそうなるのかはわからないが、別にそうならなくてもかまわないのではないか。それは君の勝手な思い込みなのだろう。ではそれらの何を批判しなければならないのか。間違ったことを述べていることに対して、何か批判するような状況にあるのだろうか。他人のやっていることをとやかく批判する筋合いはないか。君が他人なのだろうか。それが自分に及んでいると思い込んだ時、たとえそれが勘違いであろうと、何か批判しなければならないのだろうか。なぜ君の意識が自らに及んでいるのか。それを試みる勇気に欠けているのだろうか。何を試みているつもりなのか。わざと意味不明なことを述べることについて、そこにどのような勇気が必要なのだろうか。ただ単にそんな作り話はつまらないだけか。しかしそんな逃げ方はないだろう。だが逃げるに際して何を批判される筋合いもないか。しかしそれで批判をかわしたつもりなのか。君はそう述べて振り出しに戻りたいようだが、そこへ戻って何をやろうというのか。やろうとしているのではなく、何もやれないことを言葉で示そうとしているのではないか。たぶん実際に何もやれはしないのだろう。何もやれないからこそ、こうして無駄なことを語っているわけか。しかしそれが語る理由になるだろうか。そうやって何を語っているのだろう。少なくともそこでは何も語られていないように思われる。何を語ればいいのかわからなくなってしまったようだ。それははじめからそうなのではないか。どこかのドラマのように、そこに登場する人々がつまらぬ抗争に明け暮れていないと話にならないのだろうか。そこに醸し出されている意識同士が何らかの対決に至らないと物語にはならないか。適当に齟齬や葛藤がないと困るわけか。君はそんな成り行きが気に入らないようだ。しかしそれらの何が物語なのだろうか。そんな風に述べて何を否定しているわけでもないか。ではなぜ話にならないのだろうか。そんなことをいくら述べても謎が解けることはない。それは謎ではないからだ。それは簡単な答えか。ところで架空の話はどこまで進んだのだろう。そこで何を感じているのだろう。さっきから同じようなことばかり述べていないか。それに関して今は何も聞かなくてもいいだろう。何もないのだから何もあり得ないか。しかしそれで君は満足しているのか。あるいは何か思い出したのかも知れないが、それは気のせいだろうか。


9月29日

 とうとう何もできなくなってしまったようだ。意識と動作のタイミングが合っていないのだろうか。話の辻褄も合わないような気もするのだが、他に何が合っていないのだろうか。すべてがずれているような気もしてくる。しかしそれはいつものことだろう。他に何がもたらされているわけでもない。相変わらず馬鹿なことを述べているのだろうか。何かを語るには、気分が今ひとつ乗ってこないのかも知れないが、他に何もありはしない。何がないのではなく、何もありはしないわけか。それとこれと何がどう違うのだろうか。要するに他に何も述べられなくなっているのかも知れない。そこには他がないということか。言葉以外に何があればいいのか。しかしそれですべてが存在していると思っているわけか。すべての存在を求めているわけもなく、それどころか何を求めているのかもわかろうとしてないのかも知れず、そこで何を察知しているわけでもないのだろう。見上げれば夜空がどこまでも広がっているようだ。それらのどこに何が届くわけもない。君は何もわかっていないようだ。そして届けるあてのない言葉の連なりは、今日もそこで静かに増殖し続けているようだ。そこで何が見出されようとしているわけでもなく、それは執拗な問いかけの繰り返しでしかないのだろう。それ以上にそれらの試みを続けられるのか。語る内容を見出せない。それはどうにもならないことのように思われる。たぶん何かのきっかけがあったのかも知れないが、そこから何も見出せなくなってしまったのかも知れない。それでいいのだろうか。彼らは何を騒いでいるのだろう。画面上に映る光景を見ながら虚しさが募ってくる。世の中の流れに同調できずに取り残されてしまっているのだろうか。そんなことは君には関係のないことだろう。君は寝て起きて作業を執り行えばそれでかまわないのではないか。だがそんなことの繰り返しでは気が滅入ってしまうかも知れない。いったい誰の心配をしているつもりなのか。大きなお世話だといいたいわけか。モノローグで対話を再現するのは馬鹿げている。何が再現されているわけでもなく、見せかけの虚構があらわになるだけか。君はそれで満足しているのか。気に入らなければどうすればいいのだろう。どうもせずにそのまま続けるつもりなのか。しかし何を続けていることになるのだろうか。たぶん適当に文章が続いているのだろう。はじめはぎくしゃくしていたようだが、ここに来てようやくいつもの紋切り型的な表現に近づいてきたのか。しかしなぜそれを繰り返しているのか。飽きているのにやめようとしないのはどうしてなのか、要するにそれしかできないということか。それは何となくわかりやすいようなわかりにくいような成り行きになっている。そのどちらでもないのかも知れず、どのような成り行きにも当てはまらないのかも知れない。それは嘘だろうか。そう述べてしまいたくなる気持ちは本当なのかも知れない。本心からどうでもよくなっているのかも知れない。だがそのかも知れないと述べていることに対して、なぜはっきりとはわからないのか。はっきりしたことは何も述べられなくなっているのかも知れない。話的には誰が述べていることになっているのでもない。だがそんなことがあり得るだろうか。それがフィクションなら何の問題もないだろう。そして本気でそう思っているわけでもなく、そこにどんな内容を提示しようとしているのでもない。そんなことを述べているうちに、いつの間にか朝になってしまっているわけだ。近所の鶏の鳴き声がうるさく、それで目が覚めてしまって、こうして言葉を記す時間が生じているだけのように思われる。昨晩は腰の痛みに耐えきれずに、書くことをやめてしまったわけだが、一晩寝ればこうして復活することができたわけか。たぶんそんなのは嘘に決まっている。そんな作り話がおもしろいか。そこには誰もいないのに、誰に向かって問いかけているのか。別におもしろい対象を探しているわけでもないだろう。おもしろく思うことと、それを文章にすることの間には、そのようなつながりがあるのだろうか。そこにはどんな関係が打ち立てられているのだろうか、またわざとずれたことを述べようとしているらしい。どうも素直に語るのが面倒なのか。なぜそんなことしか語れないのだろうか。そんなこととはどんなことなのだろう。そこに何もなければ、何を述べることもあり得ないのか。それでも述べようとするなら、そこにはどのような想像力が働いているのか。そんなやり方は好ましく思われないか。誰に思われないのだろうか。そうやってすぐに何かを否定したいらしいが、否定しようとしている対象が曖昧なまま、否定しきれずに何を述べているのかわからなくなる。たぶんそれが君のやり方なのだろう。何かをまともに語るのが馬鹿らしく思えてくるらしい。本気になればなるほど、その反対にどうでもいいように思えてきてしまうようだ。どんどんそんな思いから現状が背離してしきてしまい、そんな思いなど無視してもかまわないような成り行きの中で、なおそんなことを思っていることが馬鹿らしく思われてくる。しかし思うことのすべてがどうでもいいことではないような気もするのだが、それをどう解釈しようと、どうでもいいように思えてしまう状況を否定することはできない。それでは済まないのかも知れないが、そのときはそれで済ましてしまい、それを忘れた頃になって、またそれと同じような状況が蒸し返されてくるように思われ、そこでまた以前と同じよう思いがこみ上げてきて、そんなことの繰り返しに虚しさばかりが募ってしまうらしい。はたしてそれ以外はあり得ないのだろうか。そこに君は何を見落としているのだろう。同じ轍をいくらでも踏んでしまうことによって、何がもたらされているのか。それらの文章における似たような無内容について、何をどう修正すれば以前とは異なった内容になるのか。そんなことを考えていると背中が痛くなってくるか。だいぶ外が明るくなってきたようだが、それでも何がもたらされているわけでもない。ただ焦りばかりがもたらされているだけか。何を焦ってもさらに焦るだけだろう。君はいつもそんなことばかりやっている。そんな状況に追い込まれて嫌気が差しているでもなく、何となく呆れてしまって、心は上の空なのかも知れない。今日はこれから何をやればいいのだろうか。やることは決まり切っているではないか。その決まり切ったことをこなしていけば、やがて夕方になり、作業も一時的に中断するだろう。そして寝て起きれば明日になり、明日もまた昨日と同じようなことをやればいいわけか。そんなことの繰り返しによって時が経ち、いつかそれをやめる日を夢見ながら、それでも同じようなことを繰り返しているのかも知れない。時間の経過などどうでもよくなってしまうわけか。


9月28日

 また眼には何が映っているのだろうか。心は何も見えていないとしたらどうなのか。どうもしなくはないか。しかしどうしたらそれが見えるようになるのか。そんなわけのわからないことをいくら述べようと、心は何も揺れ動かないが、たぶんそこで迷っているのは確かなのだろう。いくらでもそこで迷っていればいいのかも知れないが、そんな意味のない堂々巡りがいつまで続くのだろうか。いくら述べてもどこに出口があるとも思えない。まだいくらも述べていないはずか。それでもすでにわけのわからないことを述べているようだが、そこからどうやって戻ってくるつもりなのか。どこから戻ってこようとしているのだろうか。それを今から探しているところか。どこへも行っていないのに、どこから戻ってくるわけもないか。周りを見渡せば、果てしない地平線の向こう側に虚無の暗黒大陸が広がっている。それはどんなフィクションにつながっていくのだろうか。唐突に関係のないことを述べているらしいが、もはやそんなどうでもいいような妄想には飽きている。それに対して何を返答することもできずに、言葉に詰まって息切れ状態の君は、さっきから疲れを紛らすための深呼吸を繰り返している。深呼吸で疲労が取れるだろうか。しかし何をそんなに焦っているのか。今さらそんなことを述べても無駄だろう。何となく自らの述べていることがわからなくなってきたようだ。もとから何もわかっていないのではないか。だがわからないのに今は何を語っているのだろう。誰かはすでに語ることに嫌気が差して、意味もなく執拗に語り続ける君を見捨ててしまったのだろうか。なぜ影にそんなことがわかるのか。別に影が何を理解しているわけでもない。では誰がそんなことを述べているのだろう。心の内に巣くう虚無が語っているらしい。言葉以外の何を求めているわけではないが、虚無がなぜそんな風に語っているのか。なぜそれが虚無だとわかるのだろうか。ただそれを虚無と呼んでいるだけか。実際そこには誰もいないのに、誰かは何を語っているつもりなのだろうか。不在の誰かは何を語っているわけでもないと述べたいのか。だがそれはいつものパターンでしかないか。たぶんそうなのかも知れないが、それをそのまま続けてゆく気がしなくなってしまったらしい。その気がなくても続いてゆくのがそれらの成り行きなのではないか。そんなことは当然であり、無駄な言葉の連なりを無理に構成するのにも、もういい加減うんざりしてきた頃か。何かいつも現状に対してうんざりしているような気がするのだが、とりあえずそんな言動はとりとめがなさ過ぎる。君が存在しているつもりのこの世界は、いったいどういうことになっているのか。君はそこで何を求めているつもりなのだろう。そこからどうやって抜け出すつもりなのか。なぜすべてがつもりのままになってしまうのか。まだその機会はやってこないようだ。抜け出す機会を求めてどこかを彷徨っている最中なのだろうか。他の誰かは虚しさに打ち勝つ方法を求めているのかも知れないが、君はそれらの空虚が醸し出す虚しさに染まりすぎていて、そこから抜け出そうとする気力すら失ってしまったのかも知れない。いったい意志はどこで何をやっているのか。何が具体性の出現を阻んでいるのだろう。何も語ることがないという事実を、どうやって覆そうとしているのか。それを否定しようとは思わない。誰がそんなことを思っているのか知らないが、何を否定しようとしているわけではない。だがなぜそんなことが述べられるのか、不思議で仕方がないのかも知れない。たぶんそこで何を述べるにしても、まだその機会ではないのだろう。君は自らの意志を無視して言葉が連なってしまう現状が気に入らないようだ。別の誰かはそんな風には思っていないのだが、そこにそんな成り行きがあり、そのわけのわからない成り行きに従って、適当に言葉が連なってしまうことについて、別にそれを止める手だてを考えているわけではない。君が何を考えているわけもないことは承知している。しかしそれを誰が承知していることになるのか。誰が承知しているわけでもなく、ただ何も考えずにおかしなことを述べているだけなのだろうか。だがおかしなことを述べているのは誰なのか。そんな問いかけは見え透いている。単なる文章の引き延ばしでしかないか。そこから得るものは何もない。何を得ようとしているわけでもないが、そこから何かが見えてくる。それはそんな光景なのだろう。たぶん君が求めているのはそれではない。そんな心理状態はすでに経験済みのはずか。まるで雲をつかむような話だ。できもしないことをできるかのように装っているわけでもないが、すでに何を語るべきか迷いが生じていて、また何も語らないうちからそれを忘れてしまいそうになる。そこまで思いが届くだろうか。何を思っているのだろう。誰が何を思っているのか。そこから先が一向に見えてこないようだが、もはや何もかもわからなくなってしまったのだろうか。また同じようなことを述べているらしい。だが何がおかしいわけでもない。そういう成り行きの中では、何を述べてもそうなってしまうのかも知れない。だがそれでも何も述べられないわけではないか。それに少しはわかっていることもあるはずか。それでわかっていることにはならないのかも知れないが、とりあえずはそんなことを述べているようだ。しかしまだ何かやる気なのだろうか。もう何もできはしないだろう。それ以前に何を述べているのかわからないだろう。それはただ同じような言葉が繰り返されている現象でしかなく、それ以外の何を述べているのでもない。そしてそんなことばかり述べて何になるわけでもなく、どうでもいいことでしかないのかも知れないが、それでもやはりそれを繰り返して述べてしまう現状があるのかも知れない。他に何も述べようがないのかも知れない。やはり何もないのだから、そうなってしまうのは仕方のないことなのか。それはまったく承伏しがたいようなことになっている。いったいいつまでそんなことをやっているのだろう。何をいくら述べようとそうなってしまうわけなのか。それで何を述べていることになるのだろうか。何かを述べながらそんな述べ方を否定し続けているだけか。それ以外に考えられないようなことを述べている。現状ではいくら考えてもそれ以外には述べられないだろう。だがそれをどうしたいわけでもなく、そんな現状をひたすら放置し続けているような気がするのだが、なぜそうなってしまうのか。それを打開する糸口すら見つからないのだろうか、見つけようとして何を見つけているわけでもないか。何も見つけようとしていないのに、それが自然に見つかるとでも思っているのだろうか。そんな虫のいい話はないか。しかしそうせざるを得ないような状況に直面していて、そんな意味不明に自らの周囲を覆われているのかも知れない。


9月27日

 昨晩は何を述べていたのか。感覚が鈍ったまま、もう夜になってしまったらしい。昼の間は忙しかったのだろうか。誰かはかなり疲れているのかも知れない。だが今は君以外の誰に思いを馳せているのだろうか。暗闇に向かって何を問いかけているのでも、夜が誰のことを想像しているわけでもない。何も述べていないのであり、偶然に導き出されたそれはただの文章でしかない。ではそこに記されていることは何なのか。読んだとおりの内容なのだろう。また誰かがつまらないことを述べているのだろうか。話的にはそういうことになっているのかも知れず、今回もそれ以外の内容は見当たらないのだろうか。またそんなことを語りたかったわけではない、ということになってしまうのかも知れない。たぶん出だしから間違っているのだろう。なぜそうなってしまうのか、そんなことがわかるわけもなく、またそれがわからなければ、いつまで経ってもそんな話になったままになってしまうのかも知れない。しかし今はそれで十分なのだろうか。君はそこであきらめてしまうつもりなのか。何をあきらめようとしているのだろうか。少なくとも中身のない話の継続はあきらめていないのではないか。それはあきらめるとかあきらめないとかいう次元で継続していることではなく、ただ何かを語ろうとすると、自然にそうなってしまうのだから、要するにどうしようもなくそんな話にならざるを得ない状況となっているらしく、それをそのまま放置し続けている限り、それをどうしたらいいのかという展開にはならないような気がする。そうなるべくしてそうなってしまっているわけか。とりあえず今のところはそれをどうすることもできないようだ。だが他の誰かはそれでもどうにかしようとしているらしく、いつも無駄な悪あがきを繰り返しているようで、そんな往生際の悪さが、ここまで続ける原動力となっているのかも知れないが、やはりいくら語っても話の中身が見当たらないことに変わりはない。しかし積極的にどんな中身を求めているのでもなく、何も思い浮かばずに、そんな心に何もない状態を、そのまま述べているだけなのかも知れない。しかし本当に何もないのだろうか。いつまでも同じようなことを語りすぎているのかも知れないが、そんなことは先刻承知しているのであって、それがわかっていながらも、さらに同じことを語り続けている現状に、何の変化を期待すればいいのだろうか。それでも絶えず変わり続けていると強弁できるだろうか。少しは以前と違うことを述べているつもりなのか。だがそこで何を言い張っているわけでもないだろう。主張したいことは何もないはずか。では何を認めざるを得なくなっているのか。それは今述べている内容がつまらないことを認めているわけか。だがそんな成り行きに逆らって、そこから別の時空へ弾け飛んで、まったく別のことを思い描けるようになれるだろうか。しかし君は本当にそうなってほしいわけか。架空の本心はそうではないような気もするのだが、嘘でもいいからそうなってしまっているつもりになりたいのかも知れない。しかし何を述べているのかわけがわからない。要するにだめになってしまったのか。何を否定しているつもりなのか。否定できるような内容さえないのではないか。誰かはそれについてどう判断していいのかわからない。そもそも判断する材料に欠けた文章になっている。そんなことをいちいち否定していても何も始まらないだろうか。そこではすでに何かが始まっていて、その始まっている何かには、物語の構築に必要なすべての要素が欠けている。今さらわかりきったことを述べないでほしいか。しかしそれでどうしろというのだろう。やはりどうにもできないのにどうにかしようとして、無駄な努力を繰り返していることになっているのだろうか。ひたすらどうでもいいことを述べ続けているのかも知れない。たぶん君にはそれが似合っているのだろう。そしてそんなどうでもいいことを語っていることで、現実の何もなさと折り合いをつけているのかも知れない。何もないことに寄りかかりつつ、それを糧として言葉をつなげているらしい。だがそれでは何となく虚しくならないか。それは以前にも述べたことで、そんなことは言わずもがなでしかなく、今はそれ以外のことを語る必要に迫られているのに、それができないからそうなってしまっているだけなのだろう。そこから逃れる術が未だに見つかっていないようだ。だからいつまでも徒労の繰り返しに甘んじている結果となっている。そして気がつけば翌朝になっているらしい。まったく呆れてものもいえない現実に、返す言葉は何もないのだろうか。そこで君は何を見ているのだろう。明け方の冷気と闇の他に何があるのか。闇に向かって文章を引き延ばしているような感覚で、その先端に架空の感覚を配置しているらしく、そこから何かの触手が方々へ伸びているのだろうか。しかしそんな想像は荒唐無稽だろうか。空想までが君の意識に逆らっているように思われ、逆らいつつわけがわからなくなっているのかも知れず、何を述べていいのかもわからずに、それでも何かしら述べようとするから、おかしなことを述べてしまうわけか。そしてその述べたことについての感想らしき文章がその後に続く成り行きになっているらしい。それでいいのだろうか。それ以外に何を述べたらいいのだろう。耳を澄ませば遠くから何かが聞こえてこないか。それを文章にしてどうするのか。気休め以外の何ものでもないような文章ができあがるかも知れない。そうやってその場の感覚を否定しつつも、それとは別の言葉を見出せるわけでもなく、ついでに聞こえてくる虫の鳴き声をうるさいとも思わず、ようやく白み始めた空を見上げて、目はその鳴き声につられて烏の姿でも探しているのだろうか。何を追っているわけでもないだろう。その代わりに時間が追いかけてくるような妄想を振り払いたいか。どこにそうなるきっかけが潜んでいるのか。どうやったらまともな文章を導き出せるのか。そんなことを考えあぐねているわけでもないか。また冗談に逃げようとしているのだろうか。それらの何が冗談なのだろう。まだそんなことを述べていること自体が冗談以外の何ものでもないか。そこから立ち去りたい気持ちをかろうじて抑え込んで、さらに言葉を連ねようとしている。それでは無駄に文章を長引かせているだけだろう。素直にそれを認めがたいようだが、まだ何か語ることでもあるのだろうか。何も語りたくはないが、それでも何かを語っているらしく、そんな行為に嫌気が差しているようにも思われ、ならばそこでやめればいいのに、何かやめられない事情でもあるのだろうか。見え透いた嘘でもついているつもりなのかもしれない。そしてそれが苦し紛れにやっていることだとしたら、やはりそこから徒労感が生じてしまうのだろう。


9月26日

 それは思い違いだろうか。それこそ思い違いだろう。いよいよわからなくなってきてしまったのか。文章を読み返す気力が失せて、また今日になってしまったらしいが、昨日は昨日だったのだろうか。そして明日は明日になるのか。今日も昨日も明日も同じことを語っているようだ。たぶんそれは当たり前のことなのだろう。当たり前のように当たり前の現象が起こる。だがそれが何を意味するのかわからない。今日の日付には何の意味があるのだろうか。それに何か適当な意味を付与できるだろうか。意味はそれらの現象にもたらすことができるのか。はたしてそれらは現象なのだろうか。何に疑念を抱いているのかわからないか。何となくとりとめのないことを述べているように感じられるが、それがどうしたわけでもない。それらの何が悪いのか、あるいはそれでも良いのだろうか。たぶん心は何も思わないだろう。何か思うとすれば、それは文章には反映されない何かになる。心と文章は離れすぎているようだ。しかしそれでいいのかも知れない。君はそれらの文章が、自らの思いとは別の内容になってほしいと願っているのだろうか。そんなことを思っているわけではなく、ただそんな風に述べているだけなのだろう。思っていることと述べていることは違うわけか。だが本当にそんなことを述べていいのだろうか。何かが違っているような気がするが、それがわからないのか。君は違いのわかる人間ではないらしい。現実は何も変わらないのかも知れない。それはフィクションの世界でも同じことか。だが何がそこでのフィクションになっているのだろう。物語がどこにあるというのか。今さら何を物語ればいいのだろうか。何が今さらなのだろうか。今さらそんなことを述べる意味がないということか。またいつものはぐらかしなのか。まともなことは何も述べられずに、それらの言説は苦し紛れのはぐらかしになるしかないのだろうか。そこから遠ざかりたいのに遠ざかれない。その代わりに何が近づいているのだろうか。いかさま予言者風に終末が近づいているとつぶやけば様になっているだろうか。終末は誰もが望んでいる未来のあるべき姿なのかも知れない。終わりの時がやってこないと気が済まないか。君はなぜそんなに急いでいるのだろう。別に生き急いでいるわけではない。終末の話などしている場合ではないか。まだ何も語っていないのではないか。具体的に終末の何について話したいのか。終末の中に何があるのだろう。それはただの終末でしかないだろう。終末は終末でしかなく、終末以外の何ものでもないか。その中にも終末しかないわけか。しかしそれでは何を述べたことにもならないのではないか。それもはぐらかしの一種なのか。君は何も語らずにここまで言葉を並べてきたつもりなのか。何を先回りした物言いになっているのか。そんな風に語りながらも、これから語ろうとすることを前もって削除するつもりなのだろうか。だがそれをどうやって削除できるというのか。まだ語ろうとしていることを何も思いついていないのではないか。それとも何かしら思いついたところなのだろうか。まさかこれから言葉が果てしなく続いてゆくわけもないか。思いついたのはそんなことか。何を安心したらいいのだろう。そう語るのは大した技術ではない。わざとわけがわからないようにしているだけか。たぶんそうやってひたすら遠回りをしているつもりなのだろう。もちろんそんなことをやり続ける理由などありはしない。しかしそれではいつもと同じ展開ではないか。だがそのような毎度おなじみの展開の中に何かを感じ取っていないか。それは終わりの予感か何かか。何が終わろうとしているのかわからない。いつまで経っても終わらない展開が終わりを迎えつつあるのか。しかしどこへ向かっているかもわからないのに、そのまま終わっていいのだろうか。それともまだ終わるような気配はないか。終わっても終わらなくてもどちらでもかまわないだろうか。それはいつもの言い草でしかなく、ただの意味不明しかもたらさないだろう。またそこから逃げてしまうのだろうか。何となくそんなことを述べている状況ではないような気がする。心がどこで迷っているのかわからないか。まだ何も決めていないのだろう。なぜそこには何もないのだろう。それは君の台詞ではない。そんな述べ方自体が気に入らない。いつまでも勘に頼っていては何も考えられなくなってしまうか。なぜ言葉がつながらなくなってしまったのだろう。次の言葉が出てこない。いつの間にか何も述べられなくなっている。何を語っていいのかわからない。それはもとからそうだったのではないか。何もないのだから仕方がないのか、いつか読んだような話の展開になっているだろうか。以前と同じようなことしか述べられない。繰り返されているのはそんな言説でしかない。何かを語ることをあきらめているように感じられる。何も語れないのだからそれはそうだろう。本当の終末が近づいているのかも知れない。だが本当に終わってしまっていいのだろうか。誰が終わらせようとしているわけでもなさそうだ。自らの精神が瓦解しそうになっているわけか。そんなものはとっくの昔にうち捨てられている。それを語っているのは精神ではない。君自身は誰かの抜け殻に過ぎない。その空っぽの空洞の中から語っているらしく、空洞に適当な言葉が響いているだけかも知れない。それは荒唐無稽でおかしな表現でしかないか。いい加減な言い表しに頼らないとその先へ進めないらしい。そうまでして継続にこだわるのは愚かなことか。そんな愚かさを糧として続いているのかも知れない。わけのわからない夢から覚めて気づいてみれば、またいつもの朝になっている。昨夜は何を語っていたのか思い出せないようだ。何を語っていたのでもないらしいが、それでもここまで言葉が連なっていることに驚く。わざと驚いているのか。本当は驚いていないのに、驚いていると言葉を記さないと、その場の成り行きから外れていると思ってしまうらしい。誰がそれを思っているのかわからないが、そんな文章にしないと気が済まないのだろう。相変わらずそんなことの繰り返しなのか。まったく何の進歩もないような気がしてくるが、それでも継続を確保したつもりになっているのだろうか。それで自己嫌悪に陥らないのが不思議か。たぶん自己嫌悪もそれが続きすぎると何も感じなくなってしまうのだろう。自らの行いを批判しすぎて、それだけしかできなくなってしまったようだ。何かが繰り返され続けると、それとは違う展開を忘れてしまうらしく、ただひたすら同じことの繰り返しをやり続けてしまうようだ。今はそんな堂々巡りの最中なのかも知れない。しかしそれをいくらやってもきりがなさそうで、いくらでも続けられそうな気がするのだが、実態としてそればかりになってしまい、それでは何をやっているのかわからなくなってしまうだろうか。そんなことはわかりきったことか。


9月25日

 そんなことは時が経てば忘れてしまうだろう。何を忘れようとしているわけではないが、気がつけば何もわからなくなりかけているようだ。だがその何もが何なのかわからない。しかし語る内容がそんなものばかりでは嫌になってしまわないのか。何に対しても興味が湧いてこないのだから、それは仕方のないことだろう。何となくそんな現状がくだらなく感じてしまうわけだが、世の中には馬鹿げたことがあふれかえっているのだろうか。それだけではないような気もするのだが、今のところはそれに巡り会えていないのかも知れない。ありふれた日常に埋もれたまま、感性が磨り減っていってしまうのか。そんな理由で書けないわけではないはずだ。何かしら書いているのに中身がないだけか。中身はあるにはあるが、その中身が気に入らないわけか。そこで何が予定調和の展開となっているのだろう。何を戸惑わせようとしているのか。ありふれた成り行きに君は戸惑いを隠せないようだが、それが何の話になるのだろうか。たぶん別の時空では何かが語られているのだろう。それを知らない君は、未来のどこかでそんな成り行きになることを知っていたように思われる。わざとそんな風に思っているだけなのかも知れないが、それは予定調和だと思わないか。そこから先にどんな言葉を連ねるかは、君の出方次第になるだろうか。もう何もかも忘れてしまったというのなら、君に何を語る資格もありはしないか。いったい何を語るつもりだったのだろう。何も語る気がしなかったのではないか。そのときはそんな風に思っていたのかも知れないが、今は何か語る気になっているのだろうか。そこから語り出すためには何を思い出せばいいのか。道に迷っていたあの日のことでも思い出してみようか。しかしそれがそのまま文章になるわけでもなく、たぶんそんなことは何も語られないだろう。君は依然として何も語る気がしないようだ。君が語る気がないことを誰かが記しているわけか。そんなまわりくどいことを述べなくてもいいだろう。誰か不必要なことを述べているらしい。述べる必要のないことを述べ続けている。内容がないと思われる原因がそれだろうか。ではそんな状況から離れなければならないか。離れようとして離れられるわけでもないか。そんなことを述べている場合ではないのかも知れない。しかし何を述べようとしているわけでもない。述べようとしていなくても述べている現状があるらしい。君はその辺で躓いている。何かを述べること以外に何もできはしないのに、その述べている現状をも否定しようと試みている。それでは何も導き出せないだろう。それでもかろうじて導き出されているのは、誰の興味も惹かないような言葉の連なりだけか。それらの文章が気に入らないのだろうか。その有り様に変化の兆しはないようだ。何を変化させようとしているのかわからない。そんなことを述べているようでは何が変わるわけでもないだろう。だいいち何をどう変えようとしているのかがわからない。それがわからないから変わるとでも思っているのだろうか。見方や思いようによっては、以前と比べて確かに何かが変わっているのかも知れないが、それがどうしたというのか。依然として何を述べているのでもない状況に変わりはないようだ。その状況をどうすることもできはしないらしい。しかし述べていることはそれだけなのだろうか。気休めに何か違うことを述べる気にならないのか。述べる気になっても実際に述べられなければどうしようもないか。だがそれは嘘なのかも知れない。今そこで述べているそれは、本当に嘘なのだろうか。そこに不吉な響きでも宿っていると思われるのか。宿っているだけではつまらないか。何かを実行しなければいけないのだろうか。それに関して言葉の連なりは何を示しているわけでもない。ただいつものように語っているだけか。物語の不在が語り続けている。何も語ってはいけないように語り続ける。それで君は満足なのか。別に君が語っているわけではないのだろう。君以外の誰が語っているのでもない。誰も語っていないわけでもない。それがそれらの言葉の連なりなのだろうか。そんなことはあり得ないか。あり得ないから語り手が不在のまま存在しようとしているのだろうか。それらのどこにそんな意志が宿っているわけでもないか。それは誰も何も思わないようなことかも知れない。何かが連なろうとしているだけなのか。不在の何かが不在のままにあろうとしているわけか。それではただわけがわからないだけではないのか。要するに意味不明であり、そこに特定の意味が付与されていないということか。そんなことがあり得るわけがないか。そこには何もありはしないだろうか。何かがあろうとしていないのかも知れない。どうでもいいようなことがごちゃごちゃ述べられている。君はそれを止めることができないわけか。止められないから続いているわけだが、それは何かのごまかしでしかないだろうか。何も述べられないからそんな風に続いているわけだ。意味のない連続が止むことはない。意味があったらいつか止むはずか。そのいつかをいつまで待てばいいのだろうか。いつまでも待ち続けなければならないのだろうか。待っていなくても続いてしまうだろう。それは何か病なのかも知れないが、病という言葉に逃げるのは誰かの意志に反するだろうか。それをやり始めた誰かの意思を尊重しなければならないのか。意志と意思はどう違うのか。そんなところまで気を配る余裕はないか。ただその辺で適当に迷っているらしく、それは何ら本質を突いてはいないのかも知れない。ただそのとき誰かが何かを述べ始めてしまっただけか。それでここまで続いているわけか。曲の中では狼が吠えているらしい。どこかで犬の遠吠えでも呼応しているのだろうか。それは救急車のサイレンの音に違いない。何を連想しているわけでもない。ただそこから遠ざかれないのだ。そこから遠ざかる方法を誰も教えてはくれないが、誰が知っているわけでもない。そこに思想などあるわけもなく、思考はいつも虚無に向かって開かれている。本当にそこから遠ざかるべきなのか。なぜ続いているのか明らかにしないまま、なぜそこから遠ざかれるのか。いったいどんな義務感からそこにとどまり続けるのか。とどまっているのは君ではないのだろうか。誰かはそこで何を述べたいのだろうか。なぜいつまでもそんなことを述べ続けているのか。もういい加減にやめにしないか。今はいったいいつの時間帯なのだろう。それらの時間帯の中からどこを選んで述べているのだ。何か選択の余地が残っているのだろうか。そこで何を選べばそれを終わらせることができるのか。終わりたいのに終われない時はどうすればいいのだろうか。ただ自然の成り行きにまかせておけばそれでいいわけか。しかしそれで何を述べたことになるのだろう。


9月24日

 真夜中に目が覚めてしまったようだ。外は曇っているのだろうか。夜空に星は見えない。それは昨晩のことだろう。なぜ唐突にそんなことを述べてしまうのか。何も述べられないと張り合いがないのか。その意味を理解していないのかも知れない。それは理解を超えた状況なのだろうか。誰に理解してもらいたいのだろう。少なくとも夢にまで見た状況ではないらしい。あくび交じりに現状のやるせなさにでも気づいてみるか。そんな風には思いたくないわけか。別にそんなことを思っているわけではないのだろう。言葉の文とはどんな雰囲気の時に使われるべきなのか。どうも相変わらず意味を伴う状況からは程遠い文章となっているようだ。そこからどう述べればいいのかわからなくなる。何を目指しているわけでもないが、たぶんいつか目指していることが明らかになるのだろう。そのとき誰が何を目指していることになるのだろうか。そんなことを今ここで知りたいわけでもないか。何を知りたいわけでもないのに、そんなことを述べてどうするのだろう。もう少し意味のある話をした方がいいと思われる。だがそれは無理な話か。無理な理由はどこにあるのだろう。そんな台詞は聞き飽きたか。理由の話ばかりしているわりには何も理由が明らかにならないようだが、端から理由など語るつもりはないのかも知れない。そのわけを知りたいのか。何をそこで循環させようとしているのだろう。底の浅い思考形態が好きなのかも知れないが、そこであきらめてはまずいことになる。辛抱強く地道に言葉を並べてゆかなければならない。だが気が散って何もできはしない。何がそうさせているのだろうか。自らがそうしようと思っているのか。いったい君は何がやりたいのだろう。やりたくてもできないことをやってみたいか。ではその願いは聞き入れられないだろう。しかし誰が聞いてくれることになっていたのか。それで文章の意味が通っているのだろうか。君が神の存在を信じられないというのなら、他に誰もその願いを聞き入れてくれる者などいはしないか。それでもいるとすれば、それは悪魔の類になるだろうか。少年漫画的にはそんな成り行きなるのかも知れない。それは遠い過去の記憶になるだろうか。過ぎ去った未来はあり得ない。遠くから見つめているのは誰の眼差しでもない。その道をどこまで行ってもそんな成り行きなのか。やる気がしなくなるだろうか。やる気がしなくても言葉は連なってゆくだろう。もはや君は君自身ではなく、他の誰かでもなく、君が誰かなんてわかるわけがない。その言葉が誰に向かって発せられているのかもわからないのに、誰がそれに答えようとするのか。今のところ親切心を発揮して答える者が出てくる気配はないようだが、何をどう答えればいいのかわからないか。それに答えるためには心身共にリラックスしている必要があるだろう。だがなぜそういうことを述べられるのか。外はもう夜になっている。闇夜に包まれて何を考えているわけでもないが、そこからどんな言葉を連ねようとしているのだろう。なぜ何も述べずにそうなってしまうのか。そんな風に述べられる根拠を求めているわけでもないが、それはさっき述べたことと意味が重なっていることに気づく。君はそこから逃げ出したくなる。何もない状況に耐えられなくなっているらしい。しかしそこからどうやって抜け出せるというのか。それは以前にも述べたことではなかったか。そのとき何を述べていたのだろうか。君に未来などあり得ない。それは未来ではなく過去でしかない。ただ未来に向かって過去が繰り返されているだけなのだろう。しかしそれが過去であろうと未来であろうと、道はどこまでも続いている。そして過去を繰り返しつつもそこで生きている意識があるらしい。これ以上同じようなことを述べるのには耐えられないだろうか。何に耐えているのでもないか。なぜそうやって簡単に前言を否定してしまうのか。否定できることはとりあえず否定しておくべきなのか。それが君の信条なのだろうか。しかしそれで何を否定したことになるのだろう。何を否定していたかなんてとっくに忘れているのかも知れない。たぶんそれは空虚そのものなのだろう。そこが空虚で満たされていることを否定したいわけか。そんな風に思えば確かにそう感じてしまうのかも知れないが、なぜそう思ってしまうのだろうか。そんな風にしか思えないのか。何かの先入観がそうさせているのか。君はそこで何を感じているつもりなのか。そこにどんな油断が生じているのだろうか。何を油断して空虚に包まれてしまったのか。それ以外には何を思うこともないようだが、それでは何も導き出せないので、他のことを思うように意識をどこかに誘導しているのかも知れず、興味を空虚から逸らして、それとは別の方向へ歩み出すように仕向けているのかも知れない。だがそんなことをいくら述べてみたところで、まともな内容には結びつかないばかりか、さらなる空虚を心の内に呼び込むだけか。なぜそうなってしまうのかはわからないが、そこには虚しさばかりが蓄積されているのかも知れない。それでつまらなくなってしまうわけか。言葉を繰り出すたびに自己嫌悪に陥るか。しかしそれらの困難を乗り切ろうとするならば、そんな風には思わない方が身のためか。乗り切れるはずのない困難に直面しているのかも知れない。状況が悪い方へ向かうと考えがちになっている。わざとそんな悲観論に染まろうとしている。言葉を繰り出すためなら手段を選ばないのか。あらゆるやり方を総動員して、なおそれを完成させることができないのだろうか。なぜそうなってしまうのかはわからないが、そうなるほかないのかも知れず、それ以外の成り行きは考えられないのかも知れない。そんな風にして君はそこに行き詰まりを形成しているらしいが、それと同時にそこを乗り越える算段も欠かせないか。いつものように述べていることの意味がわからなくなっているのだろうか。行き詰まりを一時的に忘れ去れば、それで困難を乗り切れたつもりになれるだろうか。そんな安易なことで済むのなら、それまでに述べてきたことは何だったのか。それなりに暇つぶしにでもなっているのだろうか。そうだとすればどうなのか。どうもしないでそこでお終いになるだろうか。それともただ何を述べているのかわからなくなってくるだけか。なぜそうまでして継続を計ろうとしてしまうのだろう。意味のないことをそれほどまでに繰り返して、結果的に何をもたらそうとしているのか。やはりそこには空虚がもたらされているだけなのか。さっきからそんなことばかり述べていないか。他のことを述べる術を知らないのかも知れないが、それでも無駄に言葉を弄して、見せかけだけの危機を脱しつつあるのかも知れず、それで気が済むわけでもないが、何となく何かを達成しつつあることは確かなようだ。


9月23日

 いつまでもそんなことにこだわっていても仕方ないだろう。まだ何がわからないのかがわからないのだろうか。誰がわからないふりをしているわけでもない。君にはそれがわかっているはずか。なぜそこから立ち去らないのだろう。わかっているはずのことをさらにわかろうとしても無駄か。わかりすぎることはどのような結果を招くのか。わかっているのにわからないふりをしたいだけなのだろうか。それ以上に何を述べたいわけでもないらしい。会話において受け答えの方向がねじれの位置にある時、その会話はすれ違いに終わるだろう。しかしそこでそんな説明は無用か。そこは説明するために用意された時空ではないのか。そんな時空がどこにあるというのか。そしてそんな風に語れば少しは気分が落ち着くだろうか。まるで述べたいことを語っていないらしい。まだ蒸し暑い季節なのだろうか。その蒸し暑さを理由にして、わけのわからないことを述べていていいのだろうか。そんなことを理由にすること自体がおかしいか。別に語れないことを語っているわけでもないだろう。しかし語ろうとしているのはそんなことではないはずだ。何を勘違いしているのか。勘違いしているのはそんなことを述べている君の方か。君でないとすると、いったい誰が勘違いしているのだろう。そこには君以外の誰の意識も存在しないはずだ。しかし意識のある場所がそこでないとすると、いったい誰の意識がそれらの文章の構成に介在しているのだろう。それが君でない理由を求めているのだろうか。その根拠は希薄なのかも知れないが、それ以外の何を指し示そうとしているわけでもないらしい。君はそうやってあやふやなことを述べ続けているようだ。それはどのような技巧を使って構築されようとしているのか。どこかの誰かはそれを知りたくなるはずか。だが次第に知ろうとしても知り得ない内容になりつつあるのかも知れない。君の美意識はそんなところにはない。見出された何もかもが虚構である時、その虚構をどう活用すべきなのか、その辺で迷いが生じているのかも知れない。そのすべてを嘘として捨て去っていいものかどうか。しかしそれで何を否定しているわけでもない。それらすべてをいくらでも捨て去ってかまわないのかも知れない。それらは捨てきれないほどのすべてなのだろうか。だがそれで具体的に何を語っているつもりなのか。すべては言葉で示されている限りのことでしかないか。それらが無限ではあり得ない。疲労困憊していて無限の状態にたどり着けないのか。どこにたどり着こうとしているわけでもないのだろうか。それは無理な話でしかないだろう。そこからどうあがいてみても、どこへもたどり着けないだろう。君にはそんな定めがまとわりついて離れようとしないらしい。何をいつまでもまわりくどく語り続けているのだろう。いくらやってもそこから離れられない。虚無が言葉ごときに動じる気配はない。そして君はそれらの文章をまともに読めはしない。定めとはそういうことなのか。そういうこと以外に何がどうなってほしいのか。何を望んでみてもどうにもなりはしないだろう。そういう言葉遣いは好かないか。誰と誰が会話をしているわけでもない。そこには誰もいないことになっているらしい。ではもう理由を求める必要はないのだろうか。もはや何もかもが捨て去られて、存在しなくなってしまったのだろうか。そのときどこからかつぶやきが聞こえてくる。それのどこがおもしろいのか。またタイミングを逸してしまったのかも知れない。しかしそれが語りを見失うタイミングであるはずがない。そこで見失っているのはどんな風景なのだろう。言葉の連なりを断ち切る必要がどこにあるのだろう。終わるはずのない連続を忘れ去ることなどできはしない。だがそこで何が連続しているというのか。わけのわからない意味不明なことを述べているつもりなのだろうか。そんな文章でも継続可能なのか。君にできないことは何もありはしないが、それはすべてフィクションの中での話か。そんな光景を誰に見せつけているつもりなのだろう。何を語っているつもりもないのだろうか。ではそこから次第に遠ざかりつつあるのは誰の意識なのか。もうかなり呆れられているのかも知れない。少し前から精神の集中を保てなくなってしまったらしいが、そうなればいつもの破れかぶれしかないのだろうか。急に心臓の鼓動が激しくなり、何かを否定する仕草を繰り返している。おまえは何を述べているのでもないだろう。何かに見下されているような気がしてくる。何が揺れ動いているのか認識できずに、それが地震だと思うわけもなく、自らが小刻みに貧乏揺すりをしている事実に気づかない。それは誰かが焦っている証拠になるだろうか。君はその真相を知らないし、それを知り得る立場にはないのかも知れない。それらの文章に何が省略されているか、なんて知りたくもないか。そう思う以前に語っているのは君の本心からではないのだろう。その代わりにつかみ所のない話でもしているつもりなのか。だがそれで悦に入ることはできないだろう。はじめから筋の通った話にならないことは承知している。周りの状況と成り行きがそうさせてくれないのか。あるいは自分の側に責任があるのだろうか。どこまで述べても何か到来するわけでもないだろう。そこに見出されているのはそんなことばかりか。そんなこととはどんなことなのか。それをしらばっくれてどうするつもりなのか。何か他に嘘をつく理由がほしいところか。まだ何もないことの理由を求めているのだろうか。それはどこかずれた響きをもたらしていないだろうか。何がそこで外れているのか。そこにぶち当たった感触は何を物語ろうとしているのか。頓死とはどういうことをいうのだろうか。何は動乱でも起こればそういう現象が多くなるのかも知れないが、今の君では何に巡り会う機会ももたらされないだろう。ただ棺桶の中で動かなくなるだけだろうか。どこで間違ったのか気づく暇さえ与えられない。そこでどんな状況を思い描いているわけでもなく、文章がいつもの成り行きに収束しつつあるだけなのだろう。何とか辻褄を合わせたいのだが、君を取り巻く状況がそれを許さない。ただそんな風に思い込んでいるだけで、実際にはどういうわけでもないのかも知れないが、何となくそのままでもかまわないと感じられ、読み返して誤りを訂正する気力を失っているようだ。だからそのままわけがわからなくとも、それで何がどうなるわけがないだろう。そんなことにいつまでもかかずらっているのは時間の無駄か。何かに拘泥することはそれほどまでに厄介なことなのか。いったんできあがってしまったものを元に戻すには、否応なく嫌気の差すような徒労を覚悟しなければならないのかも知れない。そしてもうこりごりだと思いつつも、一夜明ければまた同じことを繰り返しているのだろうか。だがそれが単なる消耗戦だとは思いたくないらしく、無用な戦いを避けながらも、心は虚無の深淵へと誘われているのかも知れない。要するにそこには何もありはしないのだ。


9月22日

 またどこかで躓いているようで、徹底的につまらなくなる。だがそれで逆に何をおもしろがっているのか。特に何をおもしろがらせてほしいわけでもないらしい。意識はそれらの成り行きに乗り切れていないのかも知れない。それとは何の脈絡も感じられない曲は、君の心に何を訴えかけてくるのだろう。彼らはなぜそこで歌わなければならないのだろうか。それが退屈に思われるのだとしたら、それは毎度おなじみのとりとめのなさに由来しているのだろうか。ジャズにはそういう側面もあるのだろう。何が感じられているのかはわかっている。今さらなぜそんなことを語らなければならないのかわからない。だいぶ無為な時間を費やして、つながる見込みのない言葉と格闘しているつもりのようだが、それでも虚無の文章に囚われた心は、何も変わりようがない。変化を望んでいるのはそちらとは違う方面の人々なのかも知れず、それは君とは無関係なことに携わっている者たちなのだろうか。何かのざわめきが遠くから聞こえてきて、たぶんそんな状況を真に受けることができないのかも知れないが、どうもだらけているらしく、それから何をどうやればいいのかわからなくなる。どうしていいのかわからないはずがないだろう。君はそれらの文章についてどう思っているのか。何となく完成させることをあきらめかけているような気がするのだが、何事も為せば成るわけでもないらしく、そこに固定されている物事がそう簡単に変わるわけにはいかないようだ。それらの成り行きは、不動の道筋を通って空虚の谷底へと流れ落ちてゆくわけか。何が流れ落ちてゆくの不明のまま、そこに滝のようなものあることを誰が確認できるわけもなく、そんな妄想の輪郭を言葉によって浮かび上がらせるには、まだ文章を構成する能力に欠けているのかも知れない。なぜそこから言葉が出てこないのだろうか。どうしてその後に文章が続いてゆかないのか。だいぶ前から何も思い浮かばない状態がいつまでも続いているらしく、まだそんなことを述べている自らを訝しく思っている。いったいいつまで同じような内容を繰り返すのか。たぶんその場ではそんな成り行きなのだろう。いったいそこにはどんな意図が介在しているのだろう。そうすることについてどのような思惑があるのか。またそんなことを述べているうちに眠たくなってくるのだろうか。確かにようやく日付的に追いついたが、まだ何をやる気になっているわけでもないらしい。やるべきことは決まり切っているようで、実際にやっていることもあまり代わり映えがしない。なぜそこで言葉の配列が決まってしまうのか、いったいそこでどんな決定がなされているのだろうか。日付に追いついたら、後は遅れるだけということが決まり切っているわけか。誰にそんなことがわかるのだろうか。ただそう思っているだけだろうか。ただそれがわかりきっているというのなら、そんなことはどうでもいいことかも知れない。ではどうでもいいことを述べていることもわかりきっているだろうか。これからもたぶんそんなことを述べてしまうのだろうが、それはこれからやるすべてのことに当てはまるようなことだろうか。状況的にはそんなことしか述べられないのかも知れない。そしてすべてが遅れてしまうのだろうか。何をさっきからまわりくどいことを述べているのか。要するにその状態は長続きしないということか。外は雨が降っているのだろうか。虫の鳴き声がうるさい。実際にはうるさく感じないのに、それ以外の表現を思いつかないのでうるさいと記している。そんないい加減な意識が作用して、いい加減な文章が空白に記される。そんな言葉が繰り返されると、それを記している当人にもつまらなく感じられてしまうらしい。しかもそれしかできないというのだから、なおのこと苛ついてくるか。それを端から眺めている誰かにしてみれば、それでもかまわないのだろうか。どこの誰が困惑していようと、そんなことで継続を中断させるわけにはいかないか。いつの間にか言葉と言葉の間に生じていたらしいきしみがなくなり、緊張感が失せたからそういうことになってしまう。このままでは何も述べられなくなってしまうだろうか。すでに何を述べているわけでもないのではないか。しかしそれで過去に述べた無内容との整合性が保たれているのかも知れない。しかしなぜいつまで経ってもそれが無内容だと思われるのか。そこに何らかの内容が出現していることに気づいてしまうのが怖いのか。どこに何が出現しているというのだろう。君はまだその出現に気づいていないつもりなのか。それに気づかぬうちにまた翌朝が来て、明日になってしまったようだ。どうも日付に追いついたのはほんの一瞬だったらしい。結局はまた遅れてしまったようだ。遅れながらもかろうじてそこで踏みとどまることができるのだろうか。それはやってみなければわからないのではないか。実際にやっている現状がこれなのか。また何かの言い訳が始まっているのだろうか。うまくいかないことの恨み辛みが延々と続いてしまうのかも知れない。そんな状況に精神が耐えうるはずがないか。ではどうすればいいのだろうか。どうにもできずにまた元の木阿弥に戻ってしまうわけか。そうなってしまったらおもしろいか。どこの誰がおもしろがっているのだろう。他人の不幸に喜んでいる輩は許せないか。それが世の中というものだろう。それ以上でも以下でもないのがこの世界なのではないか。しかしそれでも君は等身大の自己を認められずに、肥大して膨張し続ける自らの妄想に付き従うことになるのか。それが君が望むことなら致し方ないだろう。具体的に何を望んでいるのだろうか。自らがどうなることを欲しているのか。ただそんな状態から抜け出たいだけなのか。しかしどうなればそこから抜け出られたことになるのだろう。いったいどのような結果がもたらされたら、それが望んで得られた結果になるのだろうか。そんな結果など現状ではあり得ないだろうか。自らが何を望んでいるのかがわからないか。どうなってほしいのだろうか。将来に向けて明確なビジョンなどありはしないのが普通なのか。ただ普通に生きているだけで、何ら特別なことをやっているわけでもない。それではなぜだめなのかわからない。理由など何もないような気がしてくる。たぶんそこに自らの意志は存在しないのではないか。絶えず何かをやろうとしているのかも知れないが、そのやろうとしていることが、結果を求めていることとは違っているのだろうか。何となくやっていることに結果などついてくるわけもないか。それはただの継続に違いない。ただ執拗に続けているだけなのかも知れない。それは結果にたどり着けない試みのようだ。それで良いか悪いかは判断を保留するしかないが、ともかくそんなことをやっている現状があるのだろう。


9月21日

 なぜ無理だとわかっていてもその先に言葉をつなげてしまうのか。これ以上ありもしない話をでっち上げたいわけでもないだろう。誰かは本当にあり得ないことを述べていたいのかも知れないが、それらの内容の何があり得ないのかわからない。執拗にそんなことばかりを述べていると、ただやる気が失せてくるだけだろうか。やる気がなくなったらそこで終わりとなってかえって好都合か。つまらぬことを考えるものではないか。やはり何を述べているのかわからない。そのときの気まぐれで、思いついたことを文章にしようとすると、とたんに別の心がそれに逆らってきて、それとは矛盾するようなことを述べようとしてしまうらしい。それが今日思いついた嘘なのだろうか。それは昨日も聴いた曲だろう。曲と嘘は関係ないか。それが嘘でないのなら作り話になるだろうか。作り話とは何なのか。意味不明なその中では何かが角張っているらしく、その角張った角に頭をぶつけてしまって、そこから意識が飛んでしまったのだろうか。さらにわけがわからないか。そんなフィクションではだめだろうか、まだ語りの端緒を見出せない状態であり、何がだめなのかまだわかる段階ではないと思うが、何となく誰かはそれとは違うことを述べようとしているらしく、今述べたことを取り消したいのかも知れないが、君はそれで何を述べているつもりなのか。それはいつもの無内容に違いないが、見上げれば相変わらずの曇り空のようで、本当に今日は日付的に今日なのか、それに関して若干の疑念を抱いているようだが、本当に今日は今日なのか。今日が今日であることが信じられないのか。たぶんそれ以上はやる気がないので、それらの文章の完成は明日にずれ込んでしまうのかも知れないが、今この時点では確かに今日らしい。それは驚くべきことだろうか。数週間前の段階では考えられなかったことかも知れない。しかしそこから何をそんなに努力してしまったのだろうか。取り立てて何か報いがもたらされているわけではないのにもかかわらず、平然と努力してしまうことが不思議に思われるか。無駄な努力もすれば気晴らしぐらいにはなるのかも知れず、馬鹿げたことを繰り返すだけでも気楽になってしまうのだろうか。そんな自らの愚かさを自覚することが、それほどまでに肝要なのだろうか。その愚かな状況から脱して賢くなろうとは思わないのか。それが世に蔓延っている愚か者の目標となっているのかも知れないが、その目標という言葉を使用しただけで、急にその目標に逆らいたくなってくるのは、自らがひねくれ者である証だろうか。では愚かなひねくれ者はさらに愚かになろうとしてしまうのだろうか。どうやったらもっと愚かになれるのだろう。それは賢人が冗談で思うことかも知れないが、とりあえず信じられないくらいに賢くなったら、その反動で救いようのない愚かさを身につけることができるのかも知れない。しかしそれはどういう論理なのだろう。単なるでたらめだとは思うが、賢い人ほど逆に愚かさに最も近い場所にいるのかも知れず、またその人の状態が愚かであったり賢くあったりすることが、その人にとってはかなり危険な状態にあるのかも知れない。あまり普通の状態からかけ離れてはいけないということか。しかし普通の状態ばかりでは退屈だから、人は絶えず愚かさや賢さのどちらかへ振れる傾向にあるのであり、要するに無意識のうちに人は賢さや愚かさを身につけて、それらの行き過ぎによって自らの破滅を求めていることになるのだろうか。自らの努力によって賢くなろうとしたり、逆に怠惰によって愚かになってしまうことで、人は絶えず自らの身を危険にさらし続けていることになるのかも知れないが、危険を冒さないと、それ以上の状態を身につけることは不可能なのかも知れない。そこで命がけの飛躍を試みないと、その状態にとどまり続けることになってしまうのか。そこで終わりとはそういうことなのだろうか。では終わらないためには絶えず何かにチャレンジし続ける必要があるわけか。何かそれはスポーツの論理に似ていないか。何となくスポーツという言葉を聞いただけで嫌な感じがしてしまうだろうか。ではやはりそういうやり方は避けて通るべきなのか。避けて通れるわけがないか。何かをやろうとすれば、必ずそれをうまくやろうとするために向上心が生まれ、その向上心に引きずられながらの無理な努力や、その結果として生じる、向上心に負けてしまう挫折を経験するしかなく、そうなって初めて、それが身を削るような消耗作用を及ぼしていることを思い知ることとなり、やればやるほど自らを死に近づけていることに気づくだろう。そこから逃れる術はないのだろうか。しかしその成果としてもたらされる富や栄誉に救いを求めることは、慎まなければならないだろう。それでは世の中を支配する制度の思うつぼなのではないか。富や栄誉という餌に飛びつこうとする人々を糧として成立しているそれらの制度は、そこで熾烈な競争を繰り広げる人々の激しい生き様を顕揚しつつ賞讃しながら、競争に敗れ去った者たちの犠牲の上に自らの繁栄を謳歌する、という恐ろしい仕組みを見せびらかしながらも、刹那的な衝撃力を求める浅はかな人々を魅了しているわけだが、それらの人々をいくら非難したところでどうなるわけでもないか。そこに言い訳など何もありはしない。それは人を魅了するために開発された動作なのだから、人々はそれを見て感動するしかないだろう。それらの人々がそこから抜け出ることは不可能なのであり、別にそれらの人々に落ち度があるわけではない。それどころかそれは当然の行為なのかも知れず、それに異を唱えること自体が間違いなのかも知れないが、ここは積極的に間違ったことを述べておかなければ、ひねくれ者の虫が治まらないだろう。何を述べてもかまわないのなら、結局は世の中の流れに逆らうようなことを述べるのが、当然の成り行きなのではないか。そうでなければ、なぜわけのわからないことを述べているのか、その根拠や理由が皆無となってしまうか。もちろんそんなものなどもとからありはしないのだが、何となく他人のやっていることにけちをつけなければ気が済まない性分なのかも知れない。しかしそんなことをいつまで続けられるのか。現にここしばらくは何も続けていないのではないか。すべてがどうでもいいことに思えてきて、何を語る気にもなれなかったのではないだろうか。なぜここに来て急に反社会的なことを語る気になってしまったのだろうか。単なる偶然にもたらされた気まぐれの一種だろうか。しかしそれで何かおもしろいと思ったか。中途半端に尻切れとんぼ気味な印象を受けるだけか。それでかまわないのかも知れない。それもすべては冗談の一種なのだろう。あり得ないことをつかの間述べてみただけなのか。


9月20日

 そこにどのような思想が隠されているのだろう。隠されているものを無理に探り当てようとは思わないか。隠されているのなら隠されたままでいいのではないか。そんな思想など知らなくてもかまわないか。誰がそれに興味を持っているのでもなさそうに思われるが、それを知るには様々な経験が必要なのかも知れない。ではいったいそれはどんな経験をした後でしか知り得ないのか。そこで言葉に詰まってしまうだろうか。すでに何か経験しているはずだろう。そして思想などありふれているだろうか。そう述べてさっさとそこから逃げ出そうとしているらしい。空が曇ってきたようだ。曇りがちな心にはうってつけの天気かも知れないが、誰の心が曇りがちになっているわけでもなく、空模様に逃げたつもりになっても、後から誰かの思想が追いかけてくる。そんなわけはないだろう。そして何から逃れようとしているのか不明確なような気もしてくるが、何を述べているのか曖昧なままにしておいていいのだろうか。曖昧にしておかなければその先へ進めないのかも知れず、何かを明確に断言したらそこで終わりなのかも知れない。では君はそれらの語りが終わらないように、あえて不明確に語り続けているわけか。しかしそうやってその場での状況を明確に説明しようとしているのではないか。だが話が矛盾しているはいつものことだろう。説明している内容が明確だろうが不明確だろうが、そのどちらでもかまわないのもいつものことか。そしてそれによって何を語ろうとしているのでもないのもいつものことだ。しかし何を断言しているのか。断言したらそこで終わりではなかったのか。それが終わりなら終わりと呼んでかまわないのではないか。終わった後からまた話を再開させればそれでいいことか。だがそれではそこで終わりと断言したことが嘘にならないか。嘘であってもかまわないか。語るに際して何を述べてはいけないかの禁止事項など何もありはしないのだから、それが嘘であろうが本当であろうが、どちらでもかまわないということもいつも通りなのだろう。どんなに工夫を凝らして言葉の配置を変更しても、結局は以前と同じようなことを述べているわけか。それで工夫を凝らしていることになるのだろうか。まだ工夫が足りないか。しかしそこからどうやって語りを続けていこうとしているのか。そんな心配など杞憂に終わってしまうのかも知れず、続ける意志さえあれば内容はどうあれどうにでも続けていけるのかも知れない。要はそのときの気分次第で、機会が巡ってきていることを感知できるかどうかということかも知れない。何かを述べる機会などいくらでもありそうだが、それを感じ取れないことの方が多いのかも知れない。そして何を述べるにしても、そのときの気分次第で内容はいくらでも変わってきてしまう。それは何を思うかどうかということよりも、どれほど思いもしなかったことを語れるかどうかで、それを記したり読んだりした後で感じる驚きにも差が出るだろう。なぜそんなことを述べているのだろう、と感じてしまうことが、少しは自ら述べたことに驚いている証となるだろうか。しかしそれでどうなるというのか。単に自らの記した文章に驚いているだけでは不満なのか。ではどうすればいいのだろう。面倒なのでどうもしなくてもかまわないか。しかしどうもしなければ何の驚きももたらされないのではないか。別に自らの記した文章にいちいち驚かなくてもかまわないだろう。驚いているだけでは不満なら、今度は驚かなければいいということになるらしい。そんな結論はごまかしに過ぎないか。しかしそこでごまかさないと、その先に話を進めていくことが困難になってしまうかも知れない。しかしそうまでして話を進めていく必要がどこにあるのか。そんな話ならもう結構か。くだらぬことを語っているうちに、呆れてものもいえなくなり、次第にその呆れも通り越して、あきらめの境地に達してしまうだろうか。そうなったらなったで、それも結構なことだろう。どのような結果に導かれようと、それは以前に至った道筋に過ぎないか。しかしすべての結果が想定の範囲内だとすれば、もう君は何に対しても驚かなくなってしまうだろう。何かを語ってきたことの結果として、そうなってしまったのだとすれば、それはそうなっても本望だとでも悟れば気が済むことか。はたしてそれでかまわないのだろうか。何がかまわないのか理解できないか。結果のすべてが想定の範囲内であるはずがないか。そう思い込むことは可能かも知れないが、現実にはそうはなっていないのであり、君はただそれらがもたらす驚きを無視しているに過ぎないのかも知れず、見て見ぬふりをしているがごとくに思っているのだろう。そんなことが可能ならおもしろいか。あるいはそれは見え透いた嘘で、それらの言説はすべて仮定の範囲内で、実際にはそうならないことは百も承知なのか。要するにそんな風に述べてしまえることも想定の範囲内なのだろうか。それらの言説のどこに真実があるわけでもないか。ではもう何を述べても無駄なのだろうか。なぜそんなことを思うのだろう。あるいは思っているのではなく、思いもしないことを述べているだけなのか。そのどちらでもかまわないし、どちらでなくてもかまわないのだろう。やはりそんなことはどうでもいいことなのか。どうでもいいこと以外に語れないのだろうか。まともなことを述べるだけの余裕がないか。ここは余裕などあった例しがないと嘘をついておこうか。なぜそうやって気まぐれに話の辻褄を合わせようとするのか。それでうまくいくような気がするだけか。何がうまくいくのかわからないが、とりあえずは言葉がつながっているらしい。しかしそれで満足できるだろうか。不満ならそこでやめてみないか。やめる勇気もないのに、満足も不満もありはしないか。だが勇気と満足か不満かとの間にどのような関連性があるのだろう。それは意味不明で驚くべき文章だろうか。誰が何に驚いているつもりなのか。君はそんなことでは動じない神経の持ち主なのか。今度は誰に問いかけているのだろう。君などいくらでも存在可能であり、その中の誰が本当の君であろうと、本当の君にどのような言葉を投げかけているのでもないような気がする。それらは他の誰にも向かわずに、ただ自らの内で循環し続ける言葉でしかないのではないか。それらの言葉の連なりは誰にも到達し得ない文章でしかないのかも知れない。だからすべてが予定調和に感じられてしまうのか。やはりそんな文章では気に入らないのだろうか。気に入らなければどうするのだ。意に反してそこでやめるつもりなのか。そんなことができたらおもしろいだろうか。おもしろければそれでかまわないわけではないか。ではその他に何が必要とされているのだろうか。それではつまらぬ台詞の寄せ集めになってしまうか。


9月19日

 それは何の比喩でもなくようやく目が覚めたようだ。しかし目が覚めたからといって何をやるわけでもない。ただ自らの目を覚ましたかっただけなのか。自らの意志で目を覚ましたわけでもないだろう。では偶然に目が覚めて、それに付随する意識を適当にねつ造しているだけか。その辺に自らの意志が作用しているわけか。だが意識にはそんなはずがないと思われるのはどうしてなのか。わざと話をこんがらがせて何かを語ったつもりになりたいのかも知れない。しかしすでにそう語ることがわけがわからなくさせている。そこからさらに述べると、何がわけがわからないのかわからなくなっているようにも思われてきて、結局話の内容を意味不明に導きたいのだろうか。別にそうしたいわけではなく、何となく思いがけなくそうなってしまっているのかも知れないが、なぜかそのような成り行きが予定調和に思えてくる。そんな風に述べながらも、まだ何も述べていないような気がしてきて、その場の即興で何か適当な話の内容をねつ造しようとするが、すぐには何も思いつかずに、結局その試みは挫折してしまっているような気になるらしい。気づいてみるともう朝が来ているようだ。それは何かの事実だろうか。いつの間にか意識は現実の世界に戻っているのだろうか。しかしさっきまでいた場所は何だったのだろう。目が覚めていたのだから夢の中ではない。どこかあり得ない場所について語ることができるだろうか。それは妄想の類になるのかも知れないが、例えば見ている映像の中にいるような気になれば、そのような気分でいられるかも知れない。では君はその場の気分で何かを語っていることになるのだろうか。そうだったら気が楽になれるだろうか。しかしなぜそこでリラックスしたいのか。君はその場に何をもたらしたいのか。それはいつもの文字列でしかないのだろうか。そんなものを誰が読みたいのか。君はそれを読みたいとは思わないのだろうか。読めない文字列を読もうと試みているわけでもないだろう。そんな難しい文章ではないはずか。それほど難しいことを語っているわけではない。誰がそう思うだろうか。まだ読みもしていない文章について何を思えるのか。本当に何を述べているつもりなのだろうか。そんなことがわかるわけがないか。では自分でもわからないことについて述べているつもりなのか。そうだとしたらおもしろいだろうか。しかし何がおもしろいのかわからないだろうか。わかるはずのないことがおもしろいわけがないか。ではそこからどうしたらいいのだろう。気分的にはそれで楽になるだろうか。わからないと気分が楽なのか。ではわかってしまったらどうなのか。未来永劫わかるはずがないと高をくくって述べているのだろうか。何となくそれがわからなくてもかまわないのかも知れない。かまうかまわないの問題ではなく、もとから問題など何もありはしないのだが、何か適当な問題をねつ造したくて仕方がないのかも知れず、何か事ある度に前言を否定したくなってしまうのかも知れない。それが実感として何も述べられない原因だろうか。ではそれにどう対処していくつもりなのか。それをそのままにしておいてかまわないのだろうか。そんなことを考えているうちに、君の思いとは無関係に勝手に文字が連なってしまうか。そんな風にしてそれは誰が記しているのでもない文章になってしまうのだろうか。本当にそうだとしたらおもしろいだろうか。また君はつまらない嘘をついていると言いたいのか。誰がそれを言いたいのかがわからない。それもいつもの嘘かも知れない。どこまで述べてもそれは嘘なのだろうか。案外それを読んで誰かは破滅に追い込まれているのかも知れないが、それはあらぬ想像の類だろうか。面倒なのでそこから先は述べずにおきたいのだが、たぶん嘘なのかも知れない。さっきから嘘ばかりついているように思われる。それで何を述べていることにもならないのかも知れないが、とりあえずそんな文章になりざるを得ないようで、それを受けいるかどうかはそれを読んでいる者に任されているのだろう。君にとってそんなことはどうでもいいことなのか。どうでもいいのならそれに越したことはないのかも知れないが、何となくそんな気分から虚しさが漂ってくるのはどうしたわけなのか。それが何の達成感ももたらされないような文章だからか。それでもかまわないと思っているのかも知れないが、誰がそう思っているのかはわからないままだ。ため息交じりに何を思うわけもないが、それでも何かの成り行きに従って述べているのかも知れず、そのよくわからない成り行きに身をまかせているうちは、そのままの状態で状況は推移してしまうのだろうか。それでよければ誰も苦労はしないか。だがそれではよくないと思ったとたんに、その先はどうなってしまうのだろうか。誰もついてこれないようなことを語ってしまえるだろうか。それは具体的にどういうことなのか。何をどうすればそうなれるのだろうか。そんなことがわかるはずもなく、それがわからない理由を求めようとはしないか。ことさらに何を述べたいわけでもないらしいが、では何を述べたいのかを問うなら、そこからは何も答えが導き定されないような気がしてくる。やはり何を述べているわけでもないらしい。相変わらず何も述べずに文章を構成しているようだ。そんな芸当がはたして可能なのか。現実にはそれが不可能だとすると、君はまた嘘をついていることになる。しかし何もかも嘘で片づけていたら、そういうやり方も嘘になってしまうような気がするのだが、本当のところはどうなっているのか。嘘だとか本当だとでは、そんな言葉からは実態が何も明らかにならないだろうか。ではどのように語ればいいのだろうか。もうすでにかなりの分量を語り続けているのに、今さらそれはないだろう。いくらそんなことを述べても語っている現状に変わりはない。そのままどこまでも語り続けてしまえるのかも知れないが、それでどうするのだろうか。本当にそのままでかまわないのか。もちろん誰にそんなことを問いかけているわけもなく、それはただ文章上での煩悶に過ぎないのかも知れず、それを述べている不在の本人が本当に悩んでいるわけでもない。要するにそういう述べ方が確立されてしまっているのかも知れない。何もないのにその何もなさについていくらでも説明できてしまえるわけだ。やはりそれでは何を述べていることにもならないのだろうか。そんなのもここではありなのだろうか。実際にそう述べているのだから、それはそれでそういうことでしかないのかも知れないが、たぶん君はそれが気に入らないのだろう。できることならもっと具体的な内容で語ってほしいか。だがいつまでも無い物ねだりをしていても仕方がないか。そこにあるものといえば具体性の不在だけなのかも知れない。


9月18日

 それらのどこに秘密があるのだろう。それを知っているのにわからない。知っていながらわかろうとしていないのかも知れない。いつまでそんな状態を保っているつもりなのか。何かが消え去ろうとしているのか。それはいつかの経験から生じている言葉かも知れない。何を覚えているわけでもなく、そこから何を知り得たわけでもない。ただそんな風に存在しているだけか。何を導けるわけもないか。そうなるには何が必要なのだろう。何が必要とされているわけでもない。それを知るためには知識など必要ない。ただ知っていることだけが知ることになるのだろうか。何を知っているわけでもないのに、知ろうとしているらしい。知ることは不可能なのではないか。そしていったんそれを知ってしまったら、何も知らないことになってしまう。またいい加減な嘘をついているのだろうか。誰が嘘をついているのか知りたくないか。嘘に関する言説をずらし続けようとする。あてもない道行きに導かれたいのか。それはどういうことなのだろうか。ただの迷路に過ぎないが、そこから抜け出ることができずにいるだけか。別に道に迷っていてもかまわないのかも知れない。今の君にとってそんなことは知ったことではないか。優先されるべきなのは、迷いから解き放たれることではなく、迷い続けながらも言葉を記し続けることか。しかしそんなことを述べても無駄だろう。それが何のためになるのかわからないか。たぶん何のために述べているのでもなく、何のために言葉を記しているのでもないのだろう。そんなことははじめからわかりきっていることか。また何を述べようとしていたのか忘れてしまったらしい。それはその場つなぎの嘘なのではないか。君はその先が見えていないようだ。それもその場しのぎの嘘か。何も見えていないわけではないだろう。見えているものに興味を持てないだけか。見たいものが見えていないのかも知れない。あるいは見たいものすらないのか。それでは何のために生きているのかわからないではないか。だからさっきから何のためでもないと述べているではないか。どうやらその辺で言葉が行き詰まってしまうのかも知れない。何のためでもない文章などあり得るだろうか。君には述べたいことがないのか。それがあれば苦労はしないか。明確な目的は何もなくなってしまったのかも知れない。だが今さらそんなことを述べてどうするのだろう。いくらわかりきったことを述べ続けても、同じような言説の繰り返しになるだけか。ではそこから何をどうしたいのか。それがわからないのならば、そうなり続けるより他になり得ないのではないか。それはおかしな言い草だろうか。何を述べているのでもないのだから、そんな風になるより他はない。それが嫌なら唐突に何を思いだしたつもりになれるだろうか。それでも道が果てしなく続いているつもりになれるか。だがそれが何の道なのかわからない。君は何をとぼけているのか。何か得体の知れない状況に到達したいのではないか。そこで何らかの達成感を得たいのではないか。しかしそれが何だかわからないことに変わりはないだろう。いくら述べても明らかにはならないのかも知れない。それをどこまでやってもそのままなのか。そこから何を語っている状況に持っていきたいのかも知れないが、それらの試みのことごとくは失敗に終わっているのかも知れない。そうなってしまう原因は、何も語りたくないのに語っていることにあるのかも知れないが、それ以外に何をどうしたいのかわからないか。それらのどこにも抜け道はないのかも知れず、通り抜けられないのに無理矢理通り抜けようとしているだけなのかも知れない。それはどういうことなのだろう。そんなことはすでに述べたことではないか。いつものように何を述べているわけではないらしい。それとも何か述べているつもりなのだろうか。気の利いたことを述べているわけではなさそうだ。またいつものつまらない冗談なのかも知れないが、まだその状態を保とうとしているのだろうか。いつものパターンにはまっているようだ。それで何をやっているつもりなのだろう。未だに何かを述べているらしいが、本当にやりたいことはそれではないような気がしてくる。どこかへ旅立たなければならなくなっているのかも知れない。そうする理由は何も何も思いつかないが、そこから遠ざからないと何も見えてこないのかも知れない。だいぶ以前から何となくそんなことを思い続けている。だが別にその理由を求めているわけではなく、そうなるきっかけを探しているわけでもない。たぶん忘れた頃にそうなってしまうのかも知れない。偶然に何もかも忘れ去ってしまうことを期待しているのか。そのきっかけは永遠にやってこないだろう。なぜ期待を打ち消すようなことを述べるのか。別の誰かは本当にそうなってしまうのが気に入らないのだろうか。何をそんなに恐れているのか。継続が途切れてしまうのは受け入れがたいのか。しかしそれは何のための継続なのだろう。そう述べてまた不在の目的に突き当たってしまうらしい。何のためでもなく、目的など何もありはしない。そしてそれが白々しい嘘だということもわかっているようで、その嘘を打ち消すためには、やはりそこから可能な限り遠ざからなければならず、そうしなければまともなことは何も述べられないのだろう。なるほど嘘を打ち消すためにそこから遠ざからなければならないのか。遠ざかるとはどういうことなのだろう。すでにそこから遠ざかっているではないか。かなり遠ざかっている。遠ざかりすぎて何から遠ざかっているのかわからなくなってしまったらしい。実際にそんなことがあり得るのだろうか。別にそれほど嘘をついているわけでもないらしい。いくら嘘をつこうと、そんなことはどうでもいいことか。それを真に受けることの方が馬鹿げている。だが冗談でそんなことを述べているわけでもないらしい。そんなことを繰り返して何になるというのか。君はいつからそんなことを述べるようになってしまったのか。立ち直る機会を完全に見失っている。そのタイミングを逸して、どこまでもそこから遠ざかっていってしまうだろう。時間を元に戻すことはできないらしい。では君はその後の時間をどのように活用すればいいのだろうか。そんなことを誰が知っているわけでもない。誰も知りはしないことを知りたいか。何を知ろうとしているわけでもないだろう。ただそこで何かを述べようとしているだけか。まだそんなところでねばっている。いくら言葉を連ねてみても、それ以上は何もできはしないか。そこから何ができるとも思わない。本当は何もやっていないのではないか。それでも何かしらやっているつもりなのか。今何かを思い出しているところか。急に何を語りだしているのだろうか。それはいつもの意味不明とどう違うのか。


9月17日

 まだあきらめてはいないようだが、いつまで経っても躓いてしまうのは仕方のないことなのか。また何も思いつかず、その代わりにどうでもいいようなことを述べてしまいそうになっているのかも知れないが、何となくそれでもかまわないように思われる。いくら述べてもまともな内容にはたどり着けそうもない。そしてでたらめな文章をまともに修正する気が起こらない。なぜいつもそこに戻ってきてしまうのだろうか。その状態はそれでもう終わってしまったはずなのに、何かこの世に未練でもあるのか。いったい何が終わってしまったのだろう。それはわざとらしい問いかけになるだろうか。わかるはずのないことを問いかけてみても仕方がないか。性懲りもなく嘘をつくとすれば、誰かは病を克服できずに死んでしまったのか。しかしそんな嘘が誰に当てはまるのか。つまらない冗談はもうやめにしないか。そんなわけでなぜそうなってしまうのかわからないが、とりあえずまだ堂々巡りは終わっていなかったようで、何が終わっていないのかわからないままに、ただそこには以前と同じような言葉が連なっているらしい。それでも日付的にはだいぶ今に近づいてきたようで、何となくそのまま続けていれば、遅れを解消できるかも知れないが、そんなやり方で時間に追いついてどうしようというのか。そこから何をやろうとしているのだろう。惰性で続けていることに何の意味があるのか。遅れを取り戻すのがそんなに急務となっているのか。その状態が気に入らないというのなら、いったい今後それらの文章がどうなれば気が済むのか。将来のことなどわかるわけがないが、君はそこからさらにいい加減な言葉を積み重ねて、さらに救いようのない愚かさをその身に纏うつもりなのか。だがそんな貧相な言語表現では歯止めにならないだろう。そんなことをやって何を阻止しようとしているのか。それが終わりであるはずがないが、そのような状況について何を思わないのか。何を思えばいいのかわからないのだろうが、なぜ何も思わないのに言葉を連ねようとしているのか。もうそんな述べ方はうんざりするほど繰り返されてきたような気がするのだが、まだその続きがあるのだろうか。まったく強情にも程があるが、その無表情からは何も読み取れない。しかしそれは昨日の話だろう。今は別にそんな話をしたいのではないし、またそこから抜け出ようととも思わない。賽はとっくの昔に振られていて、後は出た目の数だけ進めばいいだけなのかも知れない。しかし誰が双六をやっているわけでもない。そんなことを述べながらも、君はまだ至って正気でいるつもりのようだが、端から見ればどう思われているのだろう。誰がそのありさまを見ているわけでもないだろう。また別の誰かが見ようとしているのも、そんなものではないはずで、多くの人々はそれとは関係のない光景を眺めている。それはこの世に存在するものなのだろうか。それはその人なりに経験し続ける日常の光景なのだろうが、君はそんなものを取り去った後に出現する空虚に興味があるようだ。それは言葉では言い表せないような状況なのかも知れない。取り立てて何を思っているわけでもないのだが、それでも何かの存在を感じ続けているらしく、そんなわけのわからない思い込みに果てはないようだ。いくらそんな風に思い込んでみても物足りないのではないか。人間が感じ取ることのできるものは限定されている。その限定された存在に興味を持てないのはどういうわけなのか。それだけでは何も解決しないからそう思うのか。ではそんなことは思わない方が身のためか。身のために思うことなど何もありはしない。何かを思うことは、それによって気分を害することにつながってしまうのだろうか。もしそうなってしまったら、誰も幸せになれないではないか。では一方の心の内ではそんなはずはないと思い続けたらいいのか。しかしそんな風に思ったからどうだというのか。たぶん何をどう思ってみてもどうもしないのだろう。どうにかなってしまうのが面倒なのか。それが面倒なら何も思わなければいいだろう。そんな風になるはずがないか。何がどうなってほしいのかわからなくなる。そこで思考が瓦解して、言葉がどこかへ散らばってしまうようだ。文章が意味をなさなくなるように心がけているのか。それではまるで君の考えていることがわからない。影はそれについて何を思っているのだろうか。何かしら思っているのだろうか。それを言葉にして出力してほしいか。言葉を慎重に選んで、どうでもいいような内容にしなければならない。それが望まれた結果ならそうせざるを得なくなる。そこから話をずらそうとしているようだ。話をはぐらかそうとしているらしい。そうまでして嘘をつきたいのか。わざとらしく何をそうまでしているのだろう。さっきの話はどこまで進んでいるのか。さっきの話とは何なのか。すでにさっきとは別の話になっているのかも知れない。君がそんな成り行きが気に入らないことは承知しているが、予定調和的にまとめる以外に、話の出口が見つからなくなる。君はそんなやり方に我慢できないようだが、本当にそんな成り行きは許されざることなのか。誰も何も許してくれないような状況だと思われるのだろうか。それでもそのままの姿勢を保っていなければ気に入らないのか。しかし道はいくらでもあるだろう。それらの道をどのように進んでいこうと、それは誰かの勝手だろう。君はそこで何を述べているのだろうか。誰が道の話をしているのか。たぶんいくら試みてもそこを突破できないだろう。そこから強引に語ろうとしても、使える言葉には限りがある。その場の成り行きに沿った内容でないと意味不明になってしまうか。だから君は適当な言葉が思い浮かばずに困り果てているのか。しかしそうなることを悟ったのはいつのことなのか。そんな無駄話でもかまわないが、できることならもう少し素直に語れないものか。無理を承知で何を遠回しに述べているのだろう。それほど無茶なことを述べているとは思わないが、そういう語り方がかなり無茶なのではないか。これまでに何かを述べることで、嫌な思いを数知れず体験したようだが、だかといってそんなにひねくれなくてもわかることだろう。何を特権化したいわけでもないが、特定の出来事について語りたくはないようだ。そこで何を述べたいわけでもなく、ただ何かしら述べていたいだけなのかも知れない。もはや述べるために必要とされる対象などあり得ないか。君はそんな風に語りたいのではなく、そんな風に語っている現実がそこにあるだけなのかも知れない。君が何を意図しているわけでもなく、思惑の外で何かが述べられているだけか。しかしそんな無理なことを述べても何にもならないのではないか。普通に述べることができればそれに越したことはないだろう。


9月16日

 一度言葉に詰まるとその後が続かなくなる。さっきから何かの深みにはまっているのかも知れない。述べていることが意味不明になっているだろうか。わけがわからないのはいつものことだろうが、また闇雲に何を語っているつもりなのだろうか。時にはだるそうに何か述べているようでいて、何となくその場には投げやりな雰囲気が漂っている。やる気がないのもいつものことだろうが、今回はそれに上乗せして、無駄で無意味な問いかけが延々と続いているらしい。やりにくそうに言葉を操作しているようで、なぜそうなってしまうのかはよくわからないが、すでに何かを述べる前から話が破綻しているようにも感じられる。しかしいきなり君は何を述べているのだろうか。何かはじめから破れかぶれのような気がするのだが、そうなってしまう原因を今ひとつつかみ切れていないようだ。だが原因を突き止めたところでどうなるわけもないか。話的にはわけのわからない成り行きになっていて、それ以上は語る気がないようにも思われ、そこで語りが途切れようとしているのかも知れない。なぜ続けなければならないのだろうか。そんな風に思うようならもうだめなのかも知れない。だが何をあきらめかけているのだろうか。一方ですべて予定通りに話しにが進んでいるようにも思われる。それは本当のことなのか。何を疑おうとしているのか。バランスが崩れているのかも知れない。それは何のバランスなのだろうか。なぜやり直そうとしているのだ。せっかく書き記した文章を削除してしまっていいのだろうか。言葉のバランスを気にしているだけでは、文章の仕上がりからは程遠いか。いつまでも試行錯誤を繰り返している余裕はないのではないか。どこかへ散り散りに離れていったそれぞれの思いを、今さら寄せ集めて一つにまとめようとは思わない。ここには君しかいないわけではないはずだ。では誰を捜し求めているのだろう。それとともにどんな物を探しているのか。何を取り戻そうとしているのか。腕時計のメッキがはがれている。錆びついて汚れた表面を眺めながら、何を空想しているのか。なぜそこで挫折してしまったのだろう。わざと挫折を装っているわけでもなく、本当に挫折してしまったのだろうか。そんな嘘をついて何が楽しいのか。具体的にどんなことをおもしろがっているのだろうか。それについて何も語ろうとしないのはどういうわけなのか。もとからそんなものなどありはしないからか。だから嘘をついていることになるのだろうか。分岐点はまだ先になるのだろうか。君は迷路の中で分かれ道を探しているのかも知れない。さらに迷うために自らの方向感覚をわからなくさせて、さらなるでたらめな道を進もうとしている。どうしたらそんな成り行きへ持って行けるのだろう。なぜそこを抜け出そうとしないのか。今の君は迷うことしか知らないようだ。他に何を知ろうとしているわけではない。わざとわけのわからないことを述べようとしている。それが話をつまらなくしている原因かも知れない。もういい加減に目を覚ましたらどうか。今こそその場限りのごまかしから決別すべきなのか。確かにそこから立ち直るきっかけはまだつかめていないようだが、それは違うと思う。まともな文章にしようとすることの何が間違っているのだろうか。誰が何を求めているわけでもないのに、いったい君は誰に戦いを挑んでいるのか。まったく戦っているつもりになれないのに、なぜそんなことをやっているのだろう。やはりそんなことを述べても何もできはしないのか。別に真夜中に何をやろうとしていたわけでもないが、見上げれば夜空に月が輝いている。それは今から数時間前のことか。今は何を見ているわけでもない。確かフィクションの中ではまだつまらない戦いが繰り広げられており、それを見て誰かが感動しているのかも知れないが、それで誰が何を見ていることになるのだろうか。それはただの人畜無害な幻影だろうか。画面上の何に感動しようと、それだけでは人は動かない。言葉によって人を動かそうとする試みこそが有害きわまりない。そして有害であるからこそこの上もなく甘美なのかも知れない。そんな心地よい言説に騙される人々は浅はかなのかも知れないが、多数決を取れば騙される人の方が圧倒的に多いのかも知れない。何でそうなってしまうのだろう。そんなはずではなかったのに、結果的にそうなってしまうのはどうしてなのだろうか。しかし今さらそんなことを述べてどうするのか。君はまだ何も述べていないのではないか。君自身の主張は何も示されていない。君にしてみれば、どこかでタイミングを見計らって自らの考えを述べるつもりであったのかも知れないが、たぶんどこかで成り行きが変わってしまったのだろう。誰かは好きこのんで月の話やフィクションの話をしているわけではない。では話をそこで終わらせようとしているのか。なぜそこで終わりの話に近づこうとするのか。終わらせる理由など何もないはずか。確かにそこには夜明け前の薄暗がりがある。急に風が吹いてきて、それに気づいた誰かは、鶏の鳴き声とともに話をそこから逸らせて、またいつものパターンに持っていこうとしているのか。あるいは虚無に飲み込まれて何も語れなくなってしまうのか。別に言葉の装飾美を追究しているわけではない。何を飾り立てているわけでもないだろう。ではもう一度まともに語るチャンスを与えてくれないか。誰に語りかけているのか。別に今から何を語りたいわけでもないが、それでもそこから適当な文章が生み出されてしまうように思われ、そんな思い込みに突き動かされて、無意識のうちに何かを述べている風を装っているようだが、相変わらずそうなる理由は何もないようだ。今のところは理由が見つからないだけか。たぶんその辺が分岐点になっているのかも知れず、そこから逸脱するならば、ありもしない理由を利用しているつもりになって、今までとは微妙にニュアンスの異なることを述べられるかも知れず、現に述べようとしているらしく、まだ何を語り始めたわけでもないが、どうしても語り始められないわけはないだろうと思い込んでいるようだ。だがそんなことを語って何になるのか。ふと空を見上げれば、さっきより月が遠ざかっているように見える。あくびが出てくるがまだやるつもりなのか。あるいはまたいつものように何をやっていたか忘れてしまうのか。それでもう気が済んだのだろうか。ますます何をやっているのかわからなくなってくる。誰かの意識は気の向くままに、どこにでも行ってしまうらしく、話の内容もそれにつれて変わってくる。しかし何が内容なのかわからないか。そこからどう話の内容を修正していくつもりなのか。何もないのに内容をどうしたいのか。はたしてそれで困難を切り抜けたことになるのだろうか。


9月15日

 またそんなことをやっている。そしてそれがどんなことなのかわからない。ではそんなことを述べても仕方ないか。何も述べようがないのかも知れない。はじめから困難に直面してどうするのだろうか。君には何もわからないが、誰かにとってもそれは同じことか。そこにあるのは何もないという事実だけなのか。それはおもしろい状況ではないか。何をおもしろがっているのだろう。何となく頭痛がしてくる。ついでに吐き気を催せば、毎度おきまりのパターンに持ち込めるか。そんな風にして虚構をねつ造したい。何も述べたくはない。できることならそうしたいところだが、そうなってしまってはさらにつまらなくなるか。何を考えているのか。君は誰のことを思い出したいのか。もう動かなくていいのだろうか。何を動かそうとしていたのか。動かせない状況の中に何があるのだろう。それを動かそうとしている。何かが錆びついていて動かないはずか。それは機械ではない。目の前の物体が機械であってほしいのか。君はもうここにはいない。思い込みがそうさせているのか。本気になってはいけないのだろうか。何を思っているのかわからないのは毎度のことか。何を問いかけているわけでもない。答えを求めない問いかけは無駄の極みだろうか。何を目指しているつもりなのか。それは目指しようのないものだろう。何も目指さない意識をこれからどう保持していけるのか。誰がそんなことを思っているわけでもない。誰も思わないようなことを書き記しているのだろうか。だが表現の複雑さからは遠ざかっているらしい。それは誰かの勇み足に近い。策略を練っている暇があったら、偶然に身をまかせるべきか。だがそれで何を述べているわけでもない。そこへ近づくことは無理なのかも知れない。だがそれでも当初の目的を達しつつある。目的を忘れ去るには目的が必要なのだろうか。誰かはそんなことを考えているらしい。何かほころびが見受けられる。なぜ君は真正面から論争を挑まないのか。何かがバラバラに作用しているらしいが、そのほころびをどうやって修復したいのか。誰かの意図が偶然に作用している。君はそれを誰の意図とも思わず、自らの意識に含まれると思い込んでいる。何がほころびを見せているのだろうか。使えない言葉などありはしない。そこにあるのはただの空虚でしない言葉の群れか。それらのがらくたを使う人の気が知れないか。たぶんがらくたにもそれなりの活用法があるのだろう。だからそこに文章が生じているわけか。それ以外に何を生じさせているわけでもないらしい。ため息交じりに何を述べているのだろうか。まだ何も見出されてはいないのではないか。ではいくら言葉を弄してみても無駄なのか。短絡的に結論を急ぐべきでない。まだそこから先に道が続いているような気がしてくる。遅々と進まぬ作業に半ば愛想を尽かしながらも、それでもやり続けることからしか文章を見出せないのだろうか。しかし何を構成しているつもりなのか。なぜそんなに焦れているのだろう。貧乏人に希望は必要だろうか。貧乏人にも人それぞれに事情があるはずか。ではなぜ人は成長しなければいけないのか。いけないのではなく、現実に成長してしまうのだろう。では貧乏人は成長して金持ちになれるだろうか。そういうことを述べているわけではない。あって当然の格差を乗り越えることは不可能だ。希望を持てない社会がこの国にはふさわしい。だがそんなことを誰が述べているわけでもない。たぶんくだらない思考に染まり、そこから抜け出られない者たちが多すぎるのかも知れない。わかりやすい言葉に染まってはならない。論理のわかりやすさに騙されたらそこで終わりなのか。水準や次元の違う問題をいっしょくたにして述べているのかも知れない。その馬鹿さ加減に気づかない人が多すぎるのだろうか。誰もいい加減な論理に反論できずにいるらしい。君は具体的に何を述べているのか。そしてそれをわかってもらおうとは思わないのはなぜなのか。マクロ的にはその通りなのかも知れないが、なぜそんな甘っちょろいことを平気で述べられるのか。誰が誰に希望を持たせようとしているのか。そんな簡単に切り札を明かして何がおもしろいのだろうか。明かしたところで何が切り札なのかわからないか。何をやっているわけでもなさそうに思われる。ただつまらないことを述べている。感情はそれらの文章の中には見当たらない。意識はどこで何をやっているのだろう。誰が社会を作り上げているわけでもないらしい。フィクションの中では簡単なことか。可能だが手間のかかることかも知れない。そんな風には思わない人もいるようだ。そこから君が登場していいのか。登場するはずのないタイミングで何を考えているのだろう。それは語の用法的におかしいか。だがかまわずに話を進めてみよう。もう何を語ってきたのか忘れかけているようだ。それらの思い込みは誰の責任を示しているわけもなさそうだ。何の責任を取らなければならないのか。無為に語ることがそんなに罪深いことなのか。崩れ去るのは誰の責任でもない。そこに生じさせようとしていたのはフィクションではない。何も肯定できない気持ちがそうされるのか。説明を放棄している。何を説明しなければならないのだろうか。なぜそんな風には思わないのか。まともに語る気にならないのはどうしてなのか。君には鬱陶しい幻影がつきまとっているようだ。その影が君に従うはずもない。誰かはいつも他の誰かに見下されているような気になるらしい。それは背が低いからそう思うのか。君はその誰かではないはずか。そういう次元で話をしたいわけではない。高貴なこころざしはどこへ行ってしまったのだろう。何が高貴であるわけでもない。何も持ち合わせていないのに、握った手を開いてみれば、そこに芥子の実でも出現していたらおもしろいか。出現というほどのものでもないだろう。君の代わりに誰がそこに出現しているのか。そんなことは知りたくもないのが、そこでの解答となりうるだろうか。実際に見ている光景とはまったく違っている。言葉から何を想像しているわけでもない。まだそこにとどまり続けているようだ。なぜ離れられないのか。眠気を催す状況が好きなのかも知れない。まったくいつでもどこでも眠っていたいらしい。外部に向かって心を閉ざして内側で自足していたい。そんなことを思わせるのは怠惰のなせる業か。そう思えば気が楽になるか。そんな態度では何も解決しないだろう。だから解決しない状態を続けていられる。解決に至るのをいつまでも猶予されていたいのだろうか。それで済むのならそれに越したことはないか。だがやがて時が経ち、いずれ今まで送ってきたぬるま湯生活を清算する時がやってくる。そのときにいたって何を思えばいいのか。そんなことを今から考えておかなくてもいいだろう。


9月14日

 どうしてそれをそのままにしておくのか。そのままにしておけない理由が見当たらない。理由など何でもかまわないだろう。何かをやるのに理由など要らないか。そういう次元で何かを述べようとしているらしいが、それが話をつまらなくさせる原因となっているようだ。君はそれに関して何か決定的な証拠でもつかんでいるのか。そういうことを語りたいわけではない。誰が悪いとも思わない。気味が悪い文章になりつつある。それを自覚しているのなら、もう少し誰かの意識に気を遣うべきではないのか。何から遠ざかろうとしているのかわからなくなる。現実を捉えきれていないようだ。言葉はどこにあるのだろう。そこで空虚と戯れているのは君ではないのか。誰かの眼差しはどこを向いているのだろう。いくぶん目つきが悪そうに映っているが、別に鏡をのぞき込んでいるわけではない。脱皮を繰り返すのは蛇の類かも知れないが、その抜け殻の中から何かが這い出てくるように見える。そこで外部から邪魔が入ってしまうらしい。移りゆく季節の中で誰かが取り残されているのかも知れない。誰かは俳句が好かないのだろうか。その言葉は何かの季語を表しているのだろうか。ただいい加減に言葉を並べ立てているだけだろう。そして今日も何を述べているのでもないらしく、また何を眺めているのでもない。そして何を否定してるのかわからない。本当に何を述べているのだろうか。少し前までは正気でいられたようだが、今は違うと感じている。言葉に詰まって狂喜する。そんなことはあり得ないか。何を述べればいいってものでもないか。その辺を少しは考えたらどうか。考えてどうにかなるものなら、とっくに考えているだろうか。何をどう考えたら窮地を脱することができるのだろう。それが窮地かどうかもわからないのに、なぜ窮地を脱することができるのか。そもそもそれとはいったい何なのか。それはそれでしかないのだろうか。言葉としてのそれでしかないらしい。では窮地も言葉として繰り出された窮地でしかないわけか。フィクションの中の窮地とはそういうものなのか。その物語の中へのめり込めなければ、窮地を窮地と感じることはできないだろう。またたとえそれが現実の窮地であろうと、思い違いをしていれば窮地ではなくなる。何が窮地なのかわからないと述べていれば、たとえ窮地に陥っているとしても、そんなことはどうでもいいことなのかも知れない。しかし君は本気でそんなことを述べているのだろうか。君にとっては何もかもがどうでもいいことに思われるのかも知れない。要するに君はそこで嘘をついているわけか。そして君にとってはそんな嘘なら許せる範囲内か。だが許されないこととは具体的にどんなことだろうか。それらの継続をやめてしまうのが何よりも許されないことなのか。実際にやめてしまえば、それは許されないことかどうかわかるかも知れない。しかし許されなくてもやめてしまえば、そんなことはどうでもいいことになってしまうのではないか。そしていったんどうでもいいことになってしまえば、それは許されざることなどではなくなってしまうだろう。ではそれをいつやめてもかまわないのだろうか。やめるのはいつでもかまわないのになぜやめないのだ。実際にやめてみるまではそんなことはわからない。結果的にどうにかなってしまうまでは、それがどうかということは不確定のままなのかも知れない。そんなわけで君はまだ窮地に陥ったままなのか、あるいは窮地を脱して一息ついているのかは、まだもうしばらく様子を見てみないとわからないだろう。しかしなぜそれで通用しているのだろうか。どこで何が通用しているといえるのか。未だに何も語っていないような気がしてくる。それで良いのか悪いのかわからないが、ただ適当に言葉が連なっているだけのような気がしている。それでも一応は文章になっているのだろうか。そんなことを述べたいわけでもないのに、なぜそんなことを述べているのか。相変わらずいい加減なことを述べているらしい。そうやって何とかその場を取り繕っているようだ。なぜそうなってしまうのだろう。他に何も述べることがないからそうなってしまうのか。そうではないと思いたいところだが、述べていることさえも述べる必要のないことではないのだろうか。そう思うと何となく虚無の深みにはまっているような気もしてくる。ならばそれは窮地に陥っていることにでもなるのだろうか。そうだとしらどうなのか。どうもしないのだとしたら、窮地に陥っていることは何でもないのか。何でもないのに窮地に陥っているらしい。何かその辺で矛盾していないか。矛盾していても別にかまわないだろう。それでも何かしら述べる口実になっているのだから、それはそれで結構なことなのではないか。また君はわざとらしく嘘をついているつもりなのだろうか。それで嘘をついているといえるだろうか。ではなぜ嘘をついていることにならないのか。何をどう述べれば嘘をついていることになるのだろう。何が嘘で何が本当なのか。その辺の区別がつけられるとは到底思えない。では結果的に何を述べているのでもないことになってしまうわけか。だが何を述べていないわけでもなさそうにも思える。そのどちらでもかまわないというのなら、やはりそんなことはどうでもいいことになってしまうか。いったい何を述べているのだろうか。何も述べていないわけでもないだろう。そんなことはわかっているが、他に何を述べているのか。何を述べたらいいのかわからなくなっているのかも知れない。さっきまでいったい何を述べていたのだろうか。少なくとも何も述べていなかったわけではないはずだ。何かしら述べていたのだろうが、それを思い出せなくなってしまったらしい。それを思い出したければ、今までに記してきた文章を読み返してみればいいのではないか。思い出したくないのであれば、もうそこで述べるのをやめたらいい。しかしそれが誰に向かって発せられているのかがわからない。しかしそんなわかりきったことをとぼけていられるのはどうしてなのだろう。なぜそんな見え透いたことを述べていられるのか。それを述べているつもりの誰かの神経はどうなっているのだろうか。その精神構造がどのようなものであろうと、それだけではそんなことは述べられないか。そこにそんなことを述べざるを得ない成り行きがあるから、その成り行きに従ってそのようなどうでもいいことを述べているのだろう。それは意外と楽な作業なのかも知れない。決して行き詰まりを伴うような思考の深みにはまることもなく、淡々とどうでもいいような言葉を並べ立てているだけのような気がしてくる。それを後から読み返してみれば、何の中身も伴わない形だけの文章となっていることに気づくのだろうか。しかしたとえそんな結果に気づいたところで、何がどうなるわけでもない。


9月13日

 まだそこから逃れられないようだ。永久にそんなことをやっている最中なのかも知れないが、やっていることはいつも変わらない。相変わらず誰かが何かを眺めているだけか。たぶん何か勘違いをしているのだろう。過ちの中に誰かの意識が生じているらしい。それは過ちからしか生み出されないものなのか。そうだとすればそこから何がもたらされるのか。何か誰かにとって都合の良い状況でも到来するのだろうか。それは見込み違いになるだろう。何を予言しているつもりなのか。それも過ちの一種なのだろうか。そんな風に言葉を連ねてはいけないのかも知れない。またそこにあり得ない幻想が生まれ、幻想から毎度おなじみの妄想が滲み出てくる。そのとき君はどこかへ飛んでいってしまいたくなる。あらぬ方角へ矢が放たれてしまう。それはどこか別の世界なのかも知れない。もう我慢の限界が近づいているのだろうか。しかし誰がそこで我慢しているのだろう。また誰もいないのに誰かが我慢しているつもりで言葉を並べているわけか。そんな嘘はつまらないだろうか。誰がつまらないと思うのか。君はまだあきらめきれないのか。誰かは君に何をあきらめてほしいのだろう。だがあきらめきれないからそんなことを述べている。なぜそう思うのだろうか。どうしてすべての継続を保とうとするのだろう。時計はまだ動いているだろうか。そのうちのいくつかは電池を交換した。別に他人に自慢するために腕時計を収集しているわけでもないのだろうが、壊れたら買い、また壊れたら安いものを買い、そんなことを繰り返しているうちに、安物のがらくた腕時計がたまってゆく。そんな現状をどうしたいわけでもなく、捨てるのがもったいないから、修理に出したり電池交換をしたりして、そのほとんどが今も動いているようだ。そこからどんな教訓が得られるわけでもないが、そこで腐っているわけでもないだろう。何が腐っていれば誰かにとっては好都合なのだろうか。教訓と腐敗とは何の関係もないことではないのか。ただそんなことを述べている誰かの真意を測りかねるだろうか。それはさっき飲んだコーヒーに含まれているカフェインによる効果かも知れない。ではどのような効果によってそのような言説が生じてしまうのだろう。そんなことがわかるわけはないのだろうが、何となく何かのせいにしていないと、やっていられないようなことを述べているのかも知れない。何となくまた馬鹿げたことを述べているらしい。だが君は別に自らの趣味嗜好について語っているわけではない。それが他の誰かに関する内容なのかも知れない。なぜそんなことを思うのかわからないが、自らが述べている言葉に拘束されている気分とはどんなものだろうか。絶えず有言実行していなければ他人を裏切ることになってしまうわけか。しかしなぜそれが不言実行にならないのだろう。はたして造語はどちらなのか。わかりきったことを誰に問いかけているわけでもない。それでは誰も満足し得ないのかも知れない。少なくともそれで何を語っているわけでもないはずか。あれこれ述べる必要もないのだろう。その代わりに無駄なことをやりたがっているのか。だが現実にやっていることの何が無駄なのかわかりはしない。誰も何も思わないだろう。そこで誰かは何を思えばいいのか。話が何もないのだから思いようがないか。そこに何か台本らしきものが転がっていないか。よく探してみれば何か見つかるかも知れない。誰かはそこで何か告白したいことでもあるのだろうか。今からでも遅くはないのか。なぜもう手遅れだと思ってしまうのだろう。まだ何も明らかになっていないはずか。何を導き出そうとしているわけでもない。ただあらぬ方向へ流れていこうとしているだけか。ただ時が流れ去るだけなのだろうか。過ぎゆく成り行きをどう言い表せばいいのだろう。それについて誰も言葉を発しないのはどういうわけなのか。そこで仕組まれている策謀を見破ることはできない。きっかけは思わぬタイミングでやってくるものだ。それに乗り遅れたら死ぬまで後悔し続けたりするのだろうか。なぜあのときあれをやっておかなかったのか。しかし実際には何をやろうとしていたわけでもない。機会を逸してつまらぬこだわりを押し通そうとしているだけだ。ではその代わりに何がもたらされたのか。占い師の妄言に耳を傾ける必要でもあるのだろうか。理由の定かでない言葉を真に受けて、その通りのことを実現させようとしているらしい。それが浅はかな行為ではないとすると、他のどのような行為が浅はかと見なされるのか。何かを述べることがそれほど大切なことなのか。それらの言説はもはや君の思惑をはるかに超えて、誰かの心に作用を及ぼし続けている。気が狂うような体験を求めているわけではない。ただ単にそこから遠ざかりたいだけなのかも知れず、遠ざかったついでに忘れてしまいたいのか。そんな虫のいい話は通用しないか。忘れようとしても忘れられないのが、現実の世界で起こっている出来事なのだろうか。そんな述べ方も大げさすぎるだろうか。それらは本質的な問題なのではなく、枝葉末節ばかりを構成するような事象なのかも知れない。現にそれらのことごとくを跳ね返してきたではないか。今までにやってきたことはそれの積み重ねなのではないか。それを今さら否定することはできないはずか。完全に否定して捨て去ろうというのではなく、それらの言説に新たな言葉を付け加えたいだけか。そんなことをやって何になるのだろう。とりあえず利用できるものは何でも利用したいらしく、たとえそれがゴミくず同然のものであっても、そこから何らかの言説を構築しようとしているらしい。やはり君は誰もが納得するような意味を求めているのだろう。そしてそのような言説を構築した先に、今までに思いもしなかったような言葉と、それを基に構成された文章を獲得できると信じている。たまにはそんな前向きな嘘もついてみるものか。だが嘘という言葉によって何を否定しようとしているわけでもなく、何かを信じていると述べることが、一種の気休めになっているのかも知れず、それが気休めで終わらないように、あえて嘘と述べながら気を引き締めているのだろうか。だがそんなことをやって何になるのか。何にもならなくてもそれはそれでいいのかも知れず、とりあえず何かを述べていることを実感できて、何とか精神の均衡を保っているつもりになりたいのかも知れない。実態はよくわからないが、それをことさら知ろうとも思わないし、知らなくても利いた風な台詞などすぐに繰り出せるし、適当な言葉を導き出すことは可能なのかも知れない。君はそれが何かの思い上がりでないことを祈るべきか。そんなわけで心にもないことを述べるのは気恥ずかしさが伴うようだが、そこでの成り行きに沿うならば、おおかたそんなことしか述べられないだろう。


9月12日

 今眺めているのは何日後の風景なのか。誰かがわけのわからないことを述べているようだが、他の誰もそんなことには無関心だ。しかし誰がそこにいるわけでもなく、そこに現れているつもりの誰かたちは何かも亡霊なのだろうか。気休めに何を想像しているのか。何が気休めとなるのだろう。妄想を抱くことが気休めになるのだろうか。君はそう述べて、そこに展開されようとしている文章に逆らっているつもりらしいが、それも文章には違いない。では不可能なことを書き記そうとしているわけか。それが不可能だと思えるのだろうか。思いもしないことを書き記しているのではないか。しかしそれも不可能かも知れない。あり得ないとはどういうことなのか。ただそれはあり得ないと思いたいだけなのだろうか。それがあることを信じられないというわけか。信じられないのならば、どうすればいいのだろう。なるべく信じるように心がけることが肝心か。しかしそれでは宗教と変わらないだろう。宗教ではいけないのだろうか。神憑りで何が解決するのか。他でも解決しないから神憑りになってしまうわけか。君は神憑りの意味を理解していない。神に本質的な中身があるのだろうか。何もなければ神ではないか。たぶん君の中身は何もないのだろう。君は神ではないはずか。では誰が神なのだろうか。別に君は神を探しているわけではないし、その姿を見たいと思っているわけでもない。そこに醸し出されているのはそんな雰囲気からは程遠い。何の変哲もない日常が過ぎゆくばかりのようだ。しかしそれは誰の日常でもないらしく、ただ君がそんなことを語っているだけらしい。だからそれらのどこに救いがあるわけではない。そこでは誰も救われないのだから、神などいなくてもかまわないのだろう。君が神であるはずがないのも当然のことか。ではどこの誰が神を名乗っているのか。実際はそういう話ではなさそうだ。またわざと言葉をずらせている。そんな話でうまくいくはずがないだろう。ではどんな話ならうまくいくというのか。どのような結果を得られればうまくいったことになるのだろう。それに対する適切な返答などあり得ないか。わからないことを訊かれても答えようがない。いったい誰が答えればいいのか。誰もいないのに答えようがないか。無人の空洞にわけのわからない問いかけが、いつまでも響き渡っているのだろうか。そんな状況を空想してどうするのか。なぜ神は人の苦しみを放っておくのか。君は本音を語らない。何が神によってもたらされた試練なのか。乗り越えるべき試練などどこにもありはしないか。何に対処しているわけでもなく、どんな出来事によって窮地に陥っているわけでもない。君は絶えずそこから先へ語りたいらしい。しかし語ることによって何を顕揚しているわけでもない。それらの出来事は君とは無関係なのか。では何がそれらの出来事を構成しているのだろうか。言葉が循環しているだけなのかも知れない。苦しくなるとそうなってしまうようだ。またわざと誰かを困らせようとしているのか。それはそこだけでしか通用しないルールらしい。君に内在しているルールは君だけにしか通用しないのだろう。君は君一人で存在している。他に君を支えている者などいはしない。そんな話ならおもしろいか。それ以前に何の話なのかわからない。またとりとめのないことばかり語っているのだろうか。空疎と戯れながらいつもの展開を言葉でなぞっているようだ。今さらそんな見解は不必要か。不必要だというのなら、それらの語りのすべてが不必要だろう。しかしそれでは話にならなくなってしまうから、記す必要のない言葉で間に合わせの文章を構成しているわけか。それから辺り一帯は長い間沈黙が支配している。さっきまでは何を述べていたのか。もう秋が間近に迫っているのかも知れないが、そこには季節の話題など含まれていなかったはずだ。君が主に取り上げているのは視覚的な効果ばかりか。何かを見ているつもりにならないと気が済まないのか。そんな場所でのたうち回るのは、わざとらしい演技と映るだろうか。もがき苦しんで死にそうな風を装うのも嘘なのか。君はそこで何に騙されているのだろう。それが君が取り上げようとしている話題ではないのかも知れない。そのうち自らの過ちに気づくことになるのだろうか。心はそこから遠ざかっている。その奥底から響いてくるのは音ではない。君が見つめている地平からはさらに遠ざかる。何が遠ざかっているのか見えなくなるまで遠ざかってしまうのか。それをわかろうとしていないのだろう。それが何を指す言葉なのかを説明していないような気がするが、まだとどめを刺されたわけもないのだろう。まだ執拗に愚かな行為を繰り返しているのか。それは誰のことを述べているのだろうか。そんなことを知ってどうするのだ。どうもしないのなら知る必要はないか。それとも今まさにどうにかしている最中なのだろうか。そしてそんなことを述べていること自体が、結果的にどうにもならなくなってしまった証拠かも知れない。そんなことよりそろそろ眠気を催す時間帯だろう。最後の追い込みをやらずにそのまま寝てしまうのだろうか。天井に取り付けられている蛍光灯の明かりは、すでに消されてしまったようだ。ではもう再開させることはできないのか。それはできないのではなく、単にやらないだけなのであり、やらないからその結果としてできないことになってしまう。それで気が済むはずがないか。できないままにしておくのが気に入らないのか。ならばそのまま続けていればいいだろう。続けられる限り続けていれば、そのうち続けられなくなるだろう。そうなってしまうことが君のねらいなのか。本当にそうなってほしいのだろうか。どん底から奇跡的に立ち直る話に毒されていないだろうか。どん底とはどのような状態のことなのか。それも知らずにそんな言葉を安易に使うのは不注意か。だが少なくともその言葉から何かを連想していることは確かなようだ。浅はかなことを述べているらしい。浅はかなコメントを浅はかな人たちが真に受ける。昔から変わっていないのはそんなことか。では何が変わってきているのだろうか。それなりに時間が経過してきているはずか。時が経ち人も入れ替わるが、そんな風になるまで待っていられるのか。君にそこまでの辛抱強さは備わっていないだろう。では何かを変えるべく行動を起こさなければならないというわけか。しかし何を変えたいのかはここでは明らかにはならない。少なくとも何も変えたくないわけでもないのだろう。たぶん変えようと努力しているのかも知れない。そのためにこうして言葉を連ねているわけか。そんな目的をねつ造してどうするのか。どうもしないがどうにかなっているのかも知れない。確かにどうにかなってしまったように思われる。


9月11日

 何をトチ狂っているのだ。そんなことをやって何がおもしろいのか。何となくギャグっぽい成り行きになってきたのかも知れないが、ことの顛末はここでは明らかにはならないだろう。何となくそれいいのかも知れない。それ以外は何も思いたくないように思われる。誰が思いたくなくて、そう思っているのは誰なのか。それはいい加減な言葉遊びに違いない。誰がそんなことを思っているわけではなく、何も思ってはいないのかも知れない。誰にも見向きもされないことをやっていたいのか。それは神経衰弱の類だろうか。次から次へと奇抜な方法を思いつくわけもないが、それが愉快でたまらないような雰囲気になっているのかも知れない。やっていることが狂気じみているだろうか。でもおもしろいのだから許してくれないだろうか。誰に許しを請うているのかわからないか。別に許しもらうほどの罪を犯したわけでもないだろう。しかしそれを信じていいのだろうか。自らのやっていることを自らが信じていていいのだろうか。それは信じられないことなのではないか。ではなぜ自らの行いを信じられないと思うのか。何がそう思わせるのだろうか。何もそう思わせようとしているわけではないのだろう。それは見当はずれの思い込みでしかないか。別にそれでどうなるわけでもないが、どうにもならないなりに愉快な気分をもたらしてくれる。ただそれだけのことなのだろうか。何がそんなにおもしろいのだろうか。どうしてそんなことがおかしいのか。いったい何がもたらされているのだろう。それは見込み違いなのだろうか。何を勘違いしているのか。勘違いだけで済むことなのか。だが深刻ぶるには真剣さが欠けている。ほんの冗談のつもりでそんなことをやっているらしい。君にはそれが馬鹿げたことに思われるらしいが、そんなところで自足していて何がおもしろいのか。これが笑わずにいられようか。それは誰の台詞なのだろう。君は黙して何も語らないし、その件についてはそれで解決済みなのではないか。ではそのわざと語らない話題からはもう遠ざかるべきなのか。そこから遠ざかれば代わりに何がもたらされるのだろう。何ももたらされはしないことが信じられないのか。ならばきっと何かがもたらされるはずか。思いがけない出来事に遭遇して感動してしまうか。そんな妄想は打ち砕かれるべきか。しかしなぜそんなことを思いつくのだろうか。それは起死回生のやり方なのか、あるいは破滅を呼び込む悪手なのか。とりあえずしばらくは様子見の段階にとどめておくしかない。相手の出方はこちらの手に取るようにわかってしまう仕組みとなっているので、それはそれで安心して他人任せにしておけるか。だがそのとき君は嘘をついているらしい。本気でそんな嘘をついているわけではなく、冗談で嘘をついているわけでもない。真剣にも軽薄にもなりたくはない。要するに君は馬鹿なのか。どうしてそんな結論に達するのか、そうなる経緯がまったくわからないか。たぶんわかろうとしていないのだろうが、どうすればわかろうとする気になれるのか、その辺のやり方を是非教えてほしいか。しかし教えを請うふりをしながら薄ら笑いを浮かべているのはどういうわけなのだろう。わけがあるわけではない。ただわけもなく薄ら笑いを浮かべているだけか。呆れてものも言えないか。呆れているのは誰なのか。どこの誰が冗談を吐いているのだろう。げろを吐くよりはマシだろうか。そんな風に述べてしまうと、さらにやる気をなくしてしまうらしく、疲労感と脱力感がさらに深まってくる。もう二度と立ち上がれないほどの疲れ具合なのか。しかしまだその先に言葉をつなげたいのだろう。まったく無理なことばかりやっているようだ。仮にそこで意に反して終わってしまうなら、何をもってそれらの締めとすればいいのかわからない。終わりの言葉が見つからないようだ。だがそれ以上がんばっても仕方がないだろう。何のために眠気に逆らって言葉を連ねているのかわからない。わからないから言葉を連ねているのだろう。君が思っていることはその逆なのではないか。言葉を連ねているから何を思っているのかわからなくなってしまうのだ。自らが記した文章を読んでいるうちに、それらの言葉に引きずられてしまうようで、言葉を記す以前に何を思っていたのかわからなくなってしまう。しかしそれで何か不都合でも生じているのか。それらのどこまでが本当の意識なのだろうか。何をもってそれが意識だと言えるのか。それはただの書かれた文章でしかないか。誰の意識でもなく、誰が思っていることでもないのか。ただ文章の成り行きに従って、その状況に置ける最適な言葉が導き出されているだけなのだろうか。最適ではないだろう。絶えず文章がいわんとしたいことからずれているのかも知れない。だから意味不明になってしまうわけか。それにいわんとしたいことなどありはしない。それはただの言葉の連なりに過ぎず、そこから何らかの思考や思想が生じているわけではない。それでもそこに何かがあるように思えるとすれば、それはそれを読んだ者が抱く思い込みに過ぎないだろう。たぶん読者の思い込みから思考や思想が生じているだけなのであって、そこにもとから何かがあるわけでもないのかも知れない。そんな風に述べればそれを書く者の責任逃れになるだろうか。それでも一応は言葉の連なりなのだから、それなりに意味のあることが書かれていて当然であり、それを否定できるはずもないか。嘘ならいくらでも否定することは可能なのか。だが否定したところで何もないわけでもない。少なくともそこには文字が生じていて、その文字を読むことが可能なら、それを読んだ者の意識に意味が生じるのは当たり前のことか。要するにそれを読むことができる限り、それらの文章は他者によって何らかの存在として認められるわけだ。それを否定したければしてもかまわないが、その否定は何かの冗談としか受け取られないかも知れない。別に誰にどのように思われようとして、文章を構成しているわけでもないが、それらが文章として構成されている限り、それを読むことが可能となってしまうのだろう。読んで何を思うかは読んだ者の勝手なのか。それを書く者が制御しようと試みるのは傲慢すぎるか。そんなことが通用するわけがないか。だが通用しなくともそれを試みようとする者は後を絶たない。なるべく作者のいわんとしたいことを読者が理解してほしくて、作者はあれやこれやと策を弄しているわけか。しかしそれは実態として本当のことだろうか。君はそんな風に考えるのが嫌なのか。ではそれらの文章がどんな風に思われたいのか。ただの意味不明だと思われれば満足するわけか。そうだとするのならば、なぜ意味が通るように文章を構成しようとしているのだろう。何となくその辺が矛盾しているのかも知れない。


9月10日

 偶然性に寄りかかって何かを述べているのかも知れない。数日後の外は晴れて日差しが強いことも何かの偶然が作用してそうなっているのだろうか。だが出来事の中身が貧相に感じられるのは、どういうわけなのだろうか。安易にわけを求めても、どんなわけがもたらされるわけでもないだろう。また何をどう求めようと、気に入った結果がもたらされるわけでもない。しかしそれは何に対する返答なのか。誰が誰に対して何を問いかけ、結果としてどのような返答がもたらされたことになるのだろうか。そのすべてが不明確ではっきりしていないように思われるのだが、それがそれらの文章に内在している欠陥の一つなのかも知れず、他の様々な欠陥と連動しながら、そこで述べられていることをわかりにくくしているのかも知れないが、それがその文章を構成している誰かの思惑通りならば、それはそれで予定調和気味に当然の成り行きなのだろうか。そうだとすればそれはそれで仕方のないことかも知れないが、何かそれではつまらないような気がするので、誰かは絶えずそれとは違うやり方を模索しているのかも知れないが、今のところはそれらの予定調和の範囲内でしか、話を進められずにいるのかも知れない。要するに誰かが気に入らない原因はそういうことになるようだ。だがそんな風にしかやりようがないことも確かであり、いくらそれとは違うやり方を試みようとしても、結局は言葉に詰まり、もと黙阿弥的に以前と同じようなことを述べている自身に気づくことになってしまうのだろう。そしてそれがそれらの予定調和をさらに確固なものとしてしまうのかも知れない。そんなわけでそこから逃れる術はなさそうに思われてしまい、逆にだからそれらの文章をいつまでも継続することが可能となっているらしい。しかし何を語っているのだろう。そんなことを語りたくはなかったのもいつものことかも知れないが、なぜどうしようもなくそんなことを語ってしまうのか。その理由はすでに述べられているのかも知れないが、そんなことしか述べられないことも確かなようだ。たぶんそれは偶然ではなく、それらの語りの必然的な帰結なのかも知れない。偶然に言葉を繰り出しているつもりが、いつの間にか毎度おなじみの言葉の連なりを再現し続けているように思われてくる。いつまでもそんなことをやっていていいのだろうか。いいはずがないと思うが、たぶん語っている分量と時間的なゆとりのなさが、それを許さないのだろう。そのような分量と時間で語り続けるなら、そんなことしか語れなくなってしまうのかも知れない。ではそれを改めるにはどうしたらいいのだろう。もうやめた方がいいのか。やめられるならとっくの昔にやめているところか。やめられないからそんな結果を招いているのだとすれば、では他にどのようなやり方によってそれらの状況を改善できるだろうか。君はそうやっていつも冗談を述べているらしい。何が冗談となっているのか。それが冗談である根拠は何なのか。何かを述べているうちに、その述べている内容が馬鹿らしく思えてくるのは、それが冗談だからなのか。まったく冗談もいい加減にしてほしいか。いい加減に冗談を述べているわけではないのか。そんなわけでそれらの言説を冗談と思い込むことが、それらの言説からの逃げ道となっているらしいが、はたしてそんなやり方が通用しているのだろうか。どこで何が通用していると思われるのだろう。どこの誰に通用しているわけでもないのかも知れないが、とりあえずそんなことを語っている現状がそこにあるらしく、それについて何か適当なことを述べている現状もそこにあるようだが、そんなことを語り続けて何になるのだろうか。それはまったく無駄でどうでもいいことなのだろうか。どうでもいいことであり、しかしそれがそこでの言葉の連なりなのだろう。そんな風に語っている状況は変わらないし、容易には変えられないのだろう。だからそれによって言葉の連なりは文章として継続してゆくのだろう。それを語っているつもりの誰かは、それらの文章を構成することによってそこに存在している。その文章がなければ誰かの存在など他のどこにもありはしないか。他の場所に存在しているかも知れない誰かは、おそらくそれらの文章とともに存在しているらしい誰かとは別人なのかも知れない。それは名もなきただの一般人として、どこか適当な場所ににとどまっている誰かになるだろうか。その誰かにしてみればそれでは不満なのだろうか。その不満を利用して何をやっているのだろう。そして自らが不満とともに存在している環境を、何かを適当にやることによって、それを満足すべき環境に変えようとしているのだろうか。そういう水準で述べてしまえば、人のやっていることは大なり小なりそんなことばかりなのではないか。それが場合によっては他の人の不快感を誘発しているのかも知れない。君はその不快感をそのままにしてはおけず、それを解消させるために日々あれこれ策を弄しているはずだ。だがそんなことばかりしていては虚しくならないだろうか。ではそこから生じている虚しさをどうやって解消すればいいのか。たぶん何をどのようにやろうとある程度は虚しさがつきまとうのも仕方がないのかも知れない。絶えずそこに残り続ける虚しさに耐え続けなくては、その先への継続は立ち行かなくなってしまうのではないだろうか。もちろん実際に文章が継続されているのだから、誰かは自らが感じている虚しさに耐え続けているのではないか。しかしそんなことをやり続けているために、無駄でつまらない時を過ごしているのではないか。嫌ならやめればいいことでしかないが、嫌でも無駄でもつまらなくても継続させている現状があるらしく、そうまでしてなぜ続けなければならないのか、理由が何も見当たらない現状もあるようだ。もうだいぶ以前から嫌気が差しているのもわかりきったことだが、やはりその先に文章を継続させてしまうのかも知れず、そこには君とはまったく関わり合いのない無駄な言葉が、延々と連なっているのかも知れない。はたしてそれで何が語られていることになるのか。何も語られていなくとも、それらの文章が存在し続ければそれでかまわないのだろうか。しかし君には誰がかまわないのかがわからない。そんな相変わらずの展開に呆れを通り越して、もはや何をどう感じていいのかわからなくなっているのかも知れない。そんなことを感じても無駄なのか。別に君は君について語っているわけではないので、君の思いなど文章にとってはどうでもいいことか。そんなわけで君の思いも誰かの存在も、それらの文章から無視されているのかも知れないが、それで何がどうなっているわけでもないのだろう。たとえそれを記しても読んでみても、何もどうにもならないことが、それらの文章における唯一の存在理由なのかも知れない。


9月9日

 言葉に詰まると何がどうなってしまうのだろう。どうもまた矛盾したことを述べているように思われる。一方では何も知りたくはないと述べておいて、他方では何をそんなに知りたがっているのか。それはこの世界では何がどうなっているのか、ということではないのかも知れない。そんなことは知る必要のないことなのか。確かにその必要はないかも知れないが、絶えずそれを知りたがっており、時にはそんなことばかり知ろうと思っている。なぜ知る必要がないのか、その理由を知りたいのか。それは意識して知ろうと心がけていなくても、何かを知ろうとすることのすべてがそれなのだから、知ろうとすればそれは自ずからそういうことでしかない。しかしそれで理由になるのだろうか。理由にならないようなことを述べているのかも知れないか。君が日頃から思っていることはそんなことではなく、何かそれとは無関係なことで、それは知ろうとして知り得ないようなことではないだろうか。要するに思ってもみなかったことを思いつく瞬間に至りたいのかも知れない。だが意図してそんな瞬間に至れるわけでもないだろう。またそんな偶然を必然に変えたところで、偶然ではなくなることによって、それは違う種類のものに変化してしまい、知ろうとして知り得ないものではなく、単なる既知の事象でしかなくなってしまうだろう。それではつまらないのだろうか。誰がつまらないと思っているのか。それはいつもの悪い癖でしかない。だがそんなことを思いついた時に、それについて何をどう思えばいいのか。ただ驚いたり感動したりして、それで終わりにして後は忘れるにまかせておけば、また忘れた頃に思いもしない出来事に遭遇して、またそれに驚いたり感動することを繰り返せばいいわけか。しかしそんなことばかりでは虚しくならないものか。その時点では驚きや感動がもたらされるのだから、それはそれでいいのではないか。そんな風にそれを否定的に語ってしまうから虚しくなるだけか。では他に何か虚しくならないような語り方を編み出したらいいのだろうか。それを簡単に思いつけたらおもしろいか。何となくそれはおかしいと思われる。なぜそんなことを思うのだろう。それまでの文章の成り行きで、そんな風に述べるような状況になってしまっているのかも知れないが、それは意味のないことだろうか。何か納得がいかないようなことを述べているようだ。ではそんなことを思う以外に、何をどう思えば納得がいくのか。やはりいつものくだらないことしか考えられないのか。そのいつものくだらないこととはどんな内容になるのだろう。今述べているそれがそのものだと思わないか。今はわからないことにしておきたいところだが、その程度では暇つぶしにすらならないか。まだそれらの文章のどこにも具体的な事物が出てこないように思われる。なぜ何もないのに現実の事物にこだわるのかがわからない。そこには何か彼なりの計算らしきものが働いているらしく、何もないのに何を計算しているつもりのようだが、今さら何を計算したところで、それが言葉となって文章に反映されることはないか。そんなことを述べるのは今日は初めてではないはずか。それらのどこに立ち直るきっかけがあるわけでもない。そうすること以外は何もできないのなら、何かをやることのすべてがそうすることになってしまうのだろうか。だがなぜそんなつまらないことにこだわっているのか。たぶんそんなこだわりは一瞬のことで、それらのこだわりの中で後から思い出されることなど何もないのではないか。しかしそんな風に思ってみても仕方がないのかも知れないが、そう思うことの他に何も思い浮かばないのならば、それも仕方のないことになるのだろうか。だが仕方がなければ何も述べなければいいだろう。では何か他に付け足すことはないのだろうか。やはり具体的な事物にふれないような話ではつまらないか。つまらなければつまらないなりの話でかまわないだろう。そこ簡単に退いてあきらめるわけにはいかない事情でもあるのかも知れず、今はそこから何としても続けるきっかけを見出さなければならない状況になっているのかも知れない。ただそんな風に思い込んでいるだけで、またそんな風に思い込んでいるように見せかけるための言葉を記しているに過ぎない。しかしなぜそんなつまらないことしか思いつかないのか。今後どんなに努力したところで、その程度の段階にとどまるしかあり得ないのだろうか。それではまずいのか。誰がまずいと思っているのか。それでまずければ、そこから先にはどのような言葉をつなげてゆけばいいのだろうか。すでにそんなことを述べ続けている現状の中で、たぶんそれでも何らかの手順を踏んで言葉を繰り出している最中なのかも知れないが、その過程においてどうでもいいような何かを述べていることになっているらしく、その最中において若干嫌気が差しているのかも知れないが、そこを否応なく通過しないと、次の段階へはいけないのかも知れない。しかしその次の段階が一向に見えてこないように思われる。そんなことばかり述べているのだから、それはそれで当然の成り行きかも知れないが、とりあえず今の君には物を書く時の基準がないように思われる。常にそれが書くに値するかどうかの判断がつかないようだ。そこに立ち現れているらしき事物や出来事に対して、それについて書くべきか否かの判断が停止している。判断を停止させたまま、その状態に耐えきれなくなり、今度はただ闇雲にそこから遠ざかろうとして、そこから遠ざかるための言葉を延々と連ねようとしている。だからそれについてどう書いていいのかわからなくなってしまうのだろうか。いった君は何について語りたかったのだろうか。もうそこには何もないでは済まなくなっているのだろうか。そう述べているうちにも時間が刻々と迫っているようだ。では君はそこでやめたいのか。やめるつもりもないのにやめたいのかと述べてしまうことが、そこでやめることから遠ざかろうとしている証だろうか。何かをやっている途中で、その行為自体を否定したくなってくるのはどういうことなのか。そこにはどのような疑念が働いているのだろう。常にこんなことをやっていていいのだろうかと思いたいのか。あるいはそれは違うと思うことで、そこから逃れられるとでも思っているわけか。それらはすべて言葉の上での話でしかない。何かを述べていること自体は行為のうちに入らないのかも知れず、絶えず前言を否定しておけば、それはそれで済んでしまうのかも知れない。まだ何もやっていないうちから、何かいい加減なことを述べているだけでは、それで何をやっていることにもなりはしないだろう。だからその程度にとどまっていられるのであり、取り返しのつかないことをやるに至る成り行きを、言葉によって阻止しているのかも知れない。


9月8日

 そんな質問には何も答えようがない。君はいつそこへやってきたのだろうか。そして何しにやってきたのだろうか。そんなことがわかるはずもないか。それはいつものつまらない問いかけでしかない。では昨日は何をやっていたのか。それも答えるあてのない問いかけに違いない。ならば明日も何かをやらなければならなくなるのだろうか。明日になれば何かしらやっているかも知れない。しかしそれで終わるはずがないだろう。ではそんな意味のない問いかけをまだ執拗に続けるつもりなのか。まだ正気に戻るには程遠いか。それが通常の精神状態なのかも知れない。そんな風にして君は生きているのだ。それ以外にどう生きれば結果にたどり着くのか。結果が何も見えてこないはどういうわけなのか。今はそうではないと思いたい。まだ君にはやるべきことがあるらしい。やれることはすべてやったつもりでいるわけではないが、その他に何かやれることはないだろうか。まだその先があると思っているわけか。いつまでそんな無内容を繰り返しているのだ。そこにはまともな内容の他に何が足りないのだろうか。そういう話の展開には飽きている。そんなことをやっても何がどうなるわけでもないだろう。ただ無駄に言葉が連なるだけか。だがそこが君が登場する機会のようだ。しかしなぜ執拗に君という言葉を使うのだろうか。ただ君という言葉が個人的に気に入っているだけか。そんな風には語りたくないのだろう。もっと魅力的に語ってほしいのか。しかしさっきから誰にそんなことを問いかけているのだろう。問いかけている対象が不在なのだから、返答が何もなくても仕方ないか。そんなことを訊いているのではない。そんな論理は空虚の中では通用しない。しかし空虚を作り上げることはできないだろう。その文章でしかしの意味がわからないか。それはここに作り上げられているものとは違うのだろうか。それはどういうことなのか。なぜ自らがわからないことを述べてしまうのか。頭の中で整理ができていないうちに次々と言葉が繰り出されてしまうらしい。本当にそんな具合だったら苦労はしないか。どうも実際には文章一つ記すのにだいぶ手こずっているようだ。なんでそうころころと状況が変わってしまうのか。何か適当なことを述べている状況には変わりないのではないか。君はそこで何を述べているつもりなのだろうか。別にそんなことを知る必要はないだろう。そんなことはそれらの文章を読んでみればわかることか。読まなくても君が述べようとすることぐらいわかっているつもりか。つもりでもなく本当にわかっているのかも知れない。何も知らないわけがないか。何かを知っているはずだ。ではおまえはそれを知りたいのか。何も語らなければ知られるはずがないだろう。なぜ知りたいことを語らないのか。そういう話ではないからか。どういう話でもなくそんな話でもない。結局何かがずれていて、それを後から修正できずにいるということらしいが、それはどういうことなのだろう。それについて君は何を語りたいのだろうか。なぜ肝心なことを話さないのか。その話には肝心なことがないのか、あるいはそのどうでもいいような内容のすべてが肝心なことだと思っているのか。本当のところはその辺がよくわからないようだ。なぜ本当のことを話さないのか。よくわからないから話さないだけなのか。だがなぜそんな簡単に話さない理由を述べてしまうのだろう。理由がわからないのがここでの決まり事ではなかったのか。いつからそんな決まり事が設けられたのだろう。たぶんその場の思いつきは軽薄なのかも知れないが、それで話を長引かせているつもりなのか。やはりそんなことを述べたかったわけではないのだろう。だが何を求めているわけでもない。何を述べようとそれが述べたかったことにはならないのか。毎度のことのように同じようなことを述べていては、うんざりするのも当然か。そしてそんなうんざりするようなことばかり述べていると、さらにやる気をなくしてしまうか。しかし別に何をやる気になっているわけでもないだろう。だがやる気もないのに言葉を弄していていいのだろうか。そんな状態から何をどうするつもりなのか。何もどうにもできないとしたら、その先はどうなってしまうのだろう。それでもどうにかなってしまうのだとしたら、そこに何らかの作用が働いていて、適当な文字列を生成していることにでもなるわけか。それがそこにもたらされた結果なのだろうか。君がそんな馬鹿げた結果に満足するわけもないか。君はそこから遠ざかりたかったのに、何かを述べようとするとそうなってしまうらしい。誰かはそんな話はもうやめてほしいと思っているようだが、やめられない事情でもあるのだろうか。それは事情というほどのものでもなく、ただ惰性で続けているに過ぎないのかも知れないが、その惰性をいつまで続けられるのか。それを続けているうちは可能だということだろう。続けられなくなればそこで終わりとなるのだろうか。本当に終わってしまったらおもしろいか。それは子供だましのようなものだったのか。結局は何もしないで、何も終わらずに、そのうち意味不明のうちに消えてなくなってしまうだろう。そうなってほしいのだろうか。被害妄想の思い込みには際限がないようだ。誰のためにそんなことを語っているわけでもないが、誰がそこで歌っているわけでもなく、どこからかFM波でも混信しているのかも知れない。頭蓋骨の内側には音楽が響いているようだ。そんなことを述べながら誰を騙しているのでもないらしい。何となくそれらの音楽を聴いている。音楽を聴くのに理由など不要か。それと同じわけでもないが、生きているのに理由は要らないだろうか。ただそんな成り行きにしたがって生きているらしく、たぶんそれ以外でも生きて行けるのかも知れないが、何のために生きているわけでもないのだろう。それは暇つぶしなどではないだろうが、たまには生き抜きも必要なのだろう。だが必要だからといってそれを求めているわけでもなく、何も求めずに何かをもたらそうとしているのかも知れないが、そんなことは不可能だと思われる。しかし不可能だからといって、それをあきらめているわけではない。それは必要だろうが不必要だろうが、あるいは可能だろうが不可能だろうが、そんなことは毎度おなじみのように、どうでもいいことなのかも知れず、ただし善に言葉を繰り出して文章を構成していれば、それでかまわないのかも知れない。だが本当にそんなことをやっているとは思えないのも確かところか。そこで繰り広げられている何事にも本気にはなれないし、それが君の言葉で語られているとは到底思えない。どこかの誰かが気休めに何かを述べているだけなのか。


9月7日

 誰がそこに倒れているのだろうか。生死の定かでない表情には何も感じられない。君が考えていることは浅はかに思われる。何もかもがあやふやなままに推移していくように感じられ、はっきりしない意識をはっきりさせる術を忘れて、なぜ今さらそんなことを述べているのだろう。また話の具体性から遠ざかりたくなってきたのか。何となくそれでいいような気がしてくるが、それらの文章の中で何がおかしいのかわからないのか。気持ちだけが支離滅裂の状況の中で、何かを見なければ気が済まないのか。それは妄想から生じた幻影になるだろうか。何となくそれは決まり切った語り方だと思うが、そんな風にしか語れないのだから仕方ない。また焦りながらも、偽りの心に魅惑されて、たぶんいつものように何かがおかしいと思うが、何をはしゃいでいるのだろうか。この世界に未来があるとすると、まだ話にはその続きがあるのだろうか。だが君はごまかしだけで語り続けられると思っているのか。それとも気が散って何も語れなくなってしまうのか。それは何らかの技術体系の一部なのだろう。ふざけ半分ならそのように語ることも可能だということか。だがどんな出来事が起ころうと、そんなことに関心はないのかも知れない。どう考えてもそれは無理だろう。それの何が無理だと思われるのか。それがそれだけでしかないことが具体性に欠けるのかも知れないが、何事も誰かの思い通りにいってしまってはつまらないか。しかし何が思い通りなのかわからないようだ。依然としてここでは誰が何を思っているわけではない。ただ負け惜しみ気味にそう思いたいだけなのかも知れないが、誰が誰に負けたのかも定かではない。たぶんこれから何を思うこともないだろう。それは嘘であることはわかりきったことかも知れないが、他に何も思い出せなくなっているのかも知れない。物語的には思い出したいことはすでに忘れてしまったようだ。それを忘れてしまったのだから、それが何の物語なのかわかるはずもない。そういう筋書きだと、物語について何も語らなくてもいいから、好都合なのかも知れない。ところでこの時期は雨が降りやすいのだろうか。台風はいつ通過したのか。実際の日付の上での、数日前の記憶は曖昧だ。まだそんなところで語っているのだから、それは仕方のないことかも知れないが、たぶん数日後の天気も雨なのだろう。あてずっほうに語っているのだから、そういう語り方になりざるを得ず、それで良いのか悪いのかわからないが、現実の時空の中では、はっきりしない意識で君は外を眺めているようだ。まだ何かをやる気があるのなら、これから何をやればいいか、そんなことを考えても無駄なような気がするが、案外何もやらなくてもいいのかも知れない。そんな成り行きに推移してくれれば、気が楽になれるかも知れない。この期に及んでの問いかけとしてわざとらしいが、もはやそれ以上の継続は不可能なのか。それはいつもの嘘なのだろうが、嘘をついていながらそれをやめる気はさらさらなく、そこからさらに偽りの語りを続けるつもりなのだろう。歯止めが利かないので、結局どこまでも嘘偽りを続けようとしてしまうらしい。そんなことをやっていて何がおもしろいのだろうか。今さら誰の心配をしているわけでもないらしいが、まともなことは何一つ述べられない状況は、この先へ執拗に続いていってしまう気配のようだ。それでも何の話をしているわけでもない。しらばっくれるのもいい加減にしてもらいたいが、たぶん他に何も話せないのだろう。誰かはそんな状態を気に入っているわけでもないが、じれったくなって、思わず本音を漏らしてしまうところか。もはや何をどう語っても、まともな話に戻すのは不可能なのかも知れないが、君は自らが何を述べているのかわかっていない状況で、いったいこれから何を述べようとしているのか。例えばそれはどんなことなのだろう。とりあえずそんなことを述べている現実があるらしいが、そんなことは毎度おなじみのどうでもいいことなのだろうか。どうでもよくはないのに、無理矢理どうでもいいと述べているだけのようだ。そんなことの繰り返しでは、話の新しい外観を提示するのは至難の業か。たぶんそんなことをしたいわけでもなく、何を述べているのでもないような気がするのも、いつものことかも知れないが、そんな風にしてひたすら無内容を貫き通せば、何かを凌駕できるかも知れない。だがそれが何もわからないうちに凌駕してどうするのか。何だかわからないものを凌駕できるわけもないか。もったいぶって具体的な事物にふれることを避けているようだ。その代わりに空疎な言葉だけが過剰に表出している。それが言葉遊びの実体なのだろうか。君はそこでどんな文章を読んでいるわけでもない。本当に君はそれらの文章を読んでいるのだろうか。それでは意味がつながらないだろう。いったい何をあきらめてしまったのか。わざとらしく髪の毛をかきむしっているが、今さら何を悩んでいるはずもないだろう。それが何のポーズなのか知らないが、心当たりは何もないようだ。たぶんそうではないのかも知れないが、もうさっきまで考えていたことを忘れている。実態としては無駄なことを延々と述べているだけらしい。まるで虚空に言葉がバラバラにちりばめられているように感じられる。君はそこに連なっている文章から何を発見したのだろう。過去において何も発見できなかったとすれば、それらの文章は何のために記されているのか。ただ何の理由もなく記されているのだとすれば、君はそれについてどう思えばいいのか。またもや君の知ったことではないか。別に状況を打開するための糸口を見出したいわけではないが、どうもまた何かが邪魔をしているように思えるのだが、何も見出せないのはそのせいではないだろう。安易に理由を求めすぎている。可能な限りそこから遠ざかりたくなってくる。もう何も語れなくなってもいいような気がしてくる。またさらに現在の日付から遠ざかってしまうのか。それは今から何日前の出来事なのか。はたしてそれを思い出すことができるのだろうか。何がそこに立ち現れているのか。ただの文字列を眺めているに過ぎないのだろうか。それらの言葉の意味を知りたくなってくる。夜が明けて何も見出せないことに気づいてみる。気づこうとして気づいているのではないらしい。それを知るきっかけを探している。そんなやり方ではだめなことはわかっているが、それ以外の方法を知らないから、そこで行き詰まってしまうのか。確かにそれ以外に何も述べようがない。語りたいことは何もないらしい。むやみやたらと言葉を繰り出してきた結果がそれなのか。それでも風を感じることができるだろうか。その音を聞き取ることが可能なのか。それでも君には何かが見えているらしい。


9月6日

 少し休んだ方が身のためか。頭の中で何かが膨張しつつあるようだ。それで何を想像しているのだろう。例えば空間が膨張している。そんなことには興味がないか。意識は空間の膨張とともに分散しつつあるらしい。今さらそんなことを述べても無駄なのかも知れない。ふと見れば蜘蛛が壁を這っている。何か後戻りしているような気がするのだが、今は過去ではない。しかし日付的には過去の話になってしまっているのではないか。どこかに時間を元に戻すきっかけが転がっているはずだが、それは誰かの死体か。それが死体であるはずがない。だがそれから話はどうしたのだろう。君は誰かの死体から何かを採取しているのだろうか。干からびた屍から言葉のエキスを絞り出せるわけもない。死体はまだ腐っていないのだろうか。そうなってしまったことについて、怒りなど何も湧いてこないが、蛆なら湧いて出るかも知れない。蛭に血を吸われているような気になるか。作り話の中ではそんな嘘をつくことも可能だ。それで何か述べたつもりなのか。それから話の続きはどうしたのだろうか。何がそれからなのかわからないが、とりあえず何かが適当に続いているのだろう。外はだいぶ静かになってしまったようだ。虫の羽音以外は何も聞こえてこない。しかしそれが静かだと言えるだろうか。それが蠅や蚊ならうるさいか。もう秋なのかも知れない。昼は蒸し暑かったが、夜は涼しくなっているのだろうか。それはどういうことなのだろう。頭の中で何かが鳴っている。それは目覚まし時計のやかましいベルの音かも知れない。それは今朝目覚めるきっかけとなった音ではないか。今は今朝ではないのだろうか。君は何がおもしろくてそんなことを述べているのだろうか。たぶんすべてがおもしろいのだろう。特定の何がおもしろいわけではない。それ見え透いた嘘かも知れないが、少なくともつまらなくはないのではないか。つまらなくはないからそんなことを述べているわけか。しかしどうやってここまで来てしまったのかわからない。まだ道に迷っているのだろうか。たぶん疲れていて正常な判断が下せないのだろう。そこで何を知ろうとしているのかがわからない。君はすべてを知っているわけではないが、何も知らないわけでもない。では何を知っているのかといえば、別にそんなことを知りたいわけでもないらしい。君が何を知っているかなんて誰にわかるわけもないだろう。そんな風にして誰かは自らが知りたいことをはぐらかそうとしている。しかし何を知りたかったのだろうか。愉快な気分に至るにはまだ程遠いか。別におもしろそうなことをやっているとは思わない。ただ眠たいだけなのかも知れない。いつものように何をやっているわけでもないと思いたいのか。何を述べていいのかわからなくなっているだけか。今の君には世の中で起こっている何もかもが無関係のように思えるらしく、それらの出来事にまったく興味を惹かないようだ。時間的なずれがそうさせているような気もするのだが、そればかりは現時点ではどうしようもできない。遅れを取り戻すには時間がなさ過ぎるか。だがそんなことはどうでもいいことか。そんなことを述べたいわけでもないのだろう。何を述べたいわけでもなさそうか。その姿はどんな風に見えるのだろうか。何を見ているわけでもないだろう。それは誰の台詞でもなさそうだ。それについて何を思っているわけでもない。ただ馬鹿げたことなのかも知れない。話の内容が見当たらないが、それは悲しむべきことではないと思っている。彼の地では何やら仲間割れが起きているのかも知れないが、そんなことは君の知ったことではないか。偶然に耳にしたことなどすぐに忘れてしまうだろう。もはや無表情を装うのは無理らしい。もうつまらない騙し合いはやめにしないか。そんな台詞がどこから発せられるはずもないか。ではもう耳鳴りは治まったのか。それらの文章には常にわからない部分があるようだ。しかし何をもったいぶっているのか。やりたければさっさとやればいい。やりたくなければやめればいいのか。やりたくないのにやるのは精神衛生上好ましいことではないか。ではそこで君は終わりなのだろうか。なぜいきなり終わってしまう必要があるのだろうか。ではそこからさらに続けるつもりなのか。そんな話をしたいわけではない。要するに今は目が覚めてしまったということだろうか。ふざけるのはいい加減にしてほしいか。何をふざけているのかわからないか。もしかしたらふざけていないのかも知れず、至って真面目に述べているのかも知れない。それが真面目だというのなら、ふざけているとはどのような状態なのか。何をもってふざけていることにしたいのか。別にふざけているわけではない。ただそんな話など聞き飽きたと言いたいらしいが、誰がそんなことを言いたいのか。誰が誰に向かって述べているのかわからないが、そんな風にして話は進行していくらしく、それでも話は続いてしまうようだ。そしていつものように内容が何もないわけか。それだけではないだろうか。今は夜明け前なのだろうか。揺れる梢を眺めながら、なぜ風を感じようとしているのか。外へ飛び出して、そのままどこかへ行ってしまいたくなるか。君には吹きつける風の冷たさが必要なのかも知れない。今感じたいのはそんなことなのか。それでどうやってそこから先を見据えられるのか。何を求めているのかわからないようだ。わかるはずのないことをわかろうとしても虚しいだけだろう。さっきから述べていることは嘘ばかりのように感じられる。そんな状況から遠ざかりたくなってくるが、そこから目を背けるわけにはいかないのか。他に何が見出されているのか。すぐに結論へ至って、そこで終わりにしたくなる。終われないからそんなことを夢想しているわけだ。続けることは苦痛を伴うらしく、もはやその苦痛を真正面から受け止められなくなっているのかも知れず、襲ってくるそれらから逃れつつ受け流したいのだろうか。何となくそれは無理なのかも知れない。では苦痛に耐えながらじり貧のやりきれなさを味わうしかないのか。それで君は満足するはずもない。それどころか投げやりにそのままやっていることを放棄してしまいたくなるか。そこに放置されたままの話を今さら言葉にしようとは思わないか。ならばどうやってその先へ進めるのか。もうその先へは進めないのかも知れない。どのように述べてもそれは違うと思われるが、違っているのは何なのか。それはただの行き詰まりに過ぎないのか、それとも話がそこで終わっていることに気づいていないだけか。終わりに気づかないから、さらに話を続けてしまうわけか。そんな話はないだろうか。では今話しているつもりの話はどうなのか。本当にそこで終わってしまっていいのだろうか。良くも悪くも終わらせられたら幸いか。


9月5日

 完全にずれてしまっているらしい。話がどこかで食い違っている。あるいは脈絡が何もないように思える。何かが崩れ去ってからというもの、さらに言葉の配置が分散してきてしまったようだ。またまわりくどい言い回しになってしまうが、どうも意識は何を求めているのでもないような気がしてきたらしい。それらの文章に内容など何もないのかも知れない。しかし君は世の中を動かしている事物や現象の流行り廃りには関心がないのか。それらが世の中の何を動かしていると思うのか。それで何かが動いているとして、それがどうしたわけなのか。どうしたわけでもないとすると、それについて何とも思わなくて当然だろう。君はそうやって世の中から遠ざかっていく。そして遠ざかりつつも、そんなはずはないと思い込もうとする。そこから外れてしまうことを認めたくないのだろうか。はるかな場所から誰かが声を発している。私はここにいる。そんなことはわかっている。君がそれを認めるはずがない。昔そんな歌があったらしい。それは歌ではなく声そのものか。誰かがそこにいるのだろう。その誰かには何があるのだろうか。きっと何かがあるのだろう。投げやりな言葉とともに夜は更けてゆくらしい。そこで何を感じているのだろうか。それは何かが起こる予兆なのか。しかし誰かはそんな話の展開には飽き飽きしているところか。誰の心の内を推し量ろうとしているわけでもないが、別にそこから抜け出そうとする必要はないのかも知れない。自らがこの世界のどこに引っかかっているのかわからないのか。何を問いかけているのかわからない。それは君の台詞ではないのかも知れない。そこで君に台詞が割り当てられているとは思えないか。そんな話ではないはずか。何も話を進めていないのに、勝手に言葉が連なってしまうのはいつものことだ。それは愚かな行為だろうか。また何かをずらして意味不明を装うつもりか。別にそこに巧妙な仕掛けが設けられているわけでもない。ただバラバラに何かを思い続けている。何がバラバラなのだろうか。述べていることと思っていることが食い違っているのか。それについては何も思いつかないだろう。まるでゴミのような文章に思える。文章の中の何がゴミなのかわからないことがゴミなのか。それではまるでゴミのような精神か。言葉の集合体が文章になっていないということだろうか。それはまるで天国にいるような気分だろうか。そんなやり方でかまわないのか。それとはまったく関係のないことを思っている。たぶん単なる間違いなのかも知れない。間違ったことを述べるのがそんなに楽しいか。何をどこから語ればいいのだろう。元の木阿弥とはどういうことなのか。知らず知らずのうちに空虚の中心部へと導かれているのかも知れないが、そこに何もないのは当然だとしても、何もないのに何かを見出そうとしているようで、それが無駄だと知りながら、格好だけはそれを装っているのはどういうわけなのか。何を装っているのか知りたくないのだろうか。しかしそこにどんな秘密があるのだろう。別に秘密を知ろうとしているわけではなく、そこで知り得ることを知ればそれでかまわないのだろうか。知らなくてもいいことまで知ろうとは思わないか。それを知ってしまえばすべてを知ったことになるわけでもない。知らないことは他にいくらでもありそうだ。そこで何を知ろうとしているわけでもない。なぜ知ろうとしないのか。何を知ればいいのか知りたくないのか。たぶんそんなことを述べていると眠たくなってしまうのだろう。それは眠気を催すような文章なのか。それは何かの自然現象だろうか。自然に言葉が湧いて出て、その言葉が複雑に絡み合って文章を形成する。そんな風に思うと創作の苦労を忘れてしまうか。忘れてしまえたらどんなに楽なことか。君は君自身が何を見ているかを知りたい。そんなまやかしは通用しないだろう。どこで通用させようとしているわけでもない。片腹痛いとはどういうことなのか。そこにどんな文章を形成すれば気が済むのか。誰がそれらの文章を記しているのだろうか。もう後戻りはできないのか。何を述べているのかわからない状況に変わりはないようだ。どこまでどのように述べても変わらない。それがそれらの文章の定めなのかも知れない。まるで何かの魔法にかかってしまったかのように話の無内容を継続させている。誰がそれを続けているというのか。心が荒廃してしまったのか。何が退廃しているのだろうか。それをどこまで認めてもかまわないのか。もはやどうにもなりはしないだろう。誰もがそれを認めているのかも知れない。どうにかしようとしているのは誰の意志でもない。それで君は満足しているのか。今さら嘘をついても仕方がないだろう。その辺で何をごまかせばさらに続けられるだろうか。さらに何を続けようとしているのか。そんなことはわかりきったことで、ここでそれを明らかにできるわけもないか。明らかにしてしまえば話が続かなくなるだろうか。そんな風に思いたいのは誰なのか。誰が何を想定しながら語っているわけでもないだろう。ただわざとずらして的はずれなことを語っていたいのかも知れない。結果としてそうなっているだけか。まだそこまで至っていないのかも知れず、無理してそこに至ろうとしているのでもないはずか。そこに至るのははじめから無理だったのではないか。君はそれが気に入らないのか。結果的に君には何ももたらされはしないだろう。そんな予測はあてにならないか。何の根拠に基づいて予測しているわけでもなく、ただのその場の思いつきに過ぎないものが予測であるはずもない。しかし今はそれでもかまわないのか。ただいい加減なことを述べていたいだけなのかも知れず、そこから先へは何も語れないのかも知れない。それはただの効果音に過ぎないのか。今は何を聴いているのだろう。気がつけば頭の中で何かが外れているのかも知れない。それで気づいたことになるのか。血が騒ぐわけではなく、静寂が訪れているわけでもないが、それらの言葉の連なりには違和感が伴うか。そんな文字の連なりを眺めながら、他に何を読んでいるわけでもないらしい。それでも何かが着実に進化していると思いたいところか。それがただの勘違いであってもかまわないのだが、勘違いなら勘違いなりに、それなりの順序と過程を経て勘違いに至ってほしいか。では君は何を勘違いしているつもりになりたいのだろうか。そこで何を知ろうとしても無駄であり、何を問いかけてみても、まともな返答は何一つ返ってこない。そんな現状を体感しながらも、それでも無駄に問いかけ続け、意味のない返答のひとつひとつを文字として記し、それで文章の体裁を取り繕っているつもりならば、それはそれで結構なことではないのだろうか。それで何か不満が残るのなら、君はその先に何を語り続けていけばいいのだろうか。


9月4日

 眠気に逆らうつもりはない。誰かの美しき人生に眠気を催しているわけでもないか。今日はそんな風には感じていないのかも知れないが、なぜか目の前に映っているごちゃごちゃした言葉の並びにうんざりしてくる。感じていないことを述べて何がおもしろいのか。別におもしろそうなことを述べようとしているわけではない。ただ結果的にいい加減なことを述べていることになるのかも知れないが、どうも勘だけを頼って、無計画に言葉を繰り出してもうまくはいかないようだ。そんなことはわかりきったことだろう。今まではそれでうまくいっているつもりだったのか。それで困難を切り抜けたつもりになっているようなら、現実にはさらなる困難を呼び寄せていることだろう。現に今も行き詰まっている最中なのではないか。それは何か我慢比べの様相を呈しているのかも知れないが、それで何かをやったつもりになれるだろうか。つもりになりたいわけではなく、言葉を繰り出すことで得られる具体的な成果を実感したいのかも知れないが、その程度でしてやったりなどと思うのはお粗末きわまりないか。君は誰かの言動のお粗末さには慣れているはずだ。そこで誰に話しかけているわけでもなく、何の話をしているわけでもなく、そこには延々と言葉が連なっているだけのように感じられ、それを眺めているだけで眠たくなってくる。しかし眠ってしまっては言葉がその先へ続かなくなってしまう。だからこうして何もない空間に意識は舞い戻ってきているのだろう。だからどうしたというのか。たぶん何もないというのは嘘だろう。何もないことにしておかないと、何か困ることでもあるのだろうか。何もなければ困らないどころではないだろう。少なくとも何かがなくては話にならないのではないか。だからたぶんそこには何かがあるのだろう。何かがあるからかろうじて話になっているのかも知れないが、誰がそんなことを思っているのか。誰かがそう思っていると記したかっただけなのかも知れない。それでも一応は話になっているのだろうか。わけのわからない内容であっても話には違いない。そうなるとそれは馬鹿げた話にでもなるだろうか。馬鹿げている以前にわけがわからないのか、あるいはわけがわからないから馬鹿げているのか、そんなことを詮索しても仕方がないかも知れないが、それでも何かを語っているらしいことは事実なのかも知れない。ただそこから話がつながらないようだ。だから話をつなげようとして、さっきから音楽を聴いているのか。だがそれとこれとは無関係だろう。確かに関係ないのだが、誰かの意識はそれでいいと思っている。別に誰かは気が狂っているわけではないのだろうが、なぜかそれらの音楽は気が狂ったように聞こえてくるらしく、君にはそれがどこから聞こえているのかわからないのだが、それを聴きながら誰かは何を理解しようとしているのか。いつものように何もないのに、まだ続けようとしているらしい。それが誰かの偽らざる本音かも知れないが、きっと何を続けているのかわからなくなるだろう。それでも今さらやめるわけにはいかないようで、必死になって言葉を繰り出しているつもりなのだろうが、たぶんまともな継続は無理だろう。現に何を述べているのかわけがわからない。ではそれをやめなければならないのだろうか。しかしどう考えてもそれをやめてうまくいくはずがない。君とは無関係で無神経な民は、そこで何をやめようとしているのだろう。話の方向を逸らしてはまずいだろう。やめたくないのにやめる必要はないか。それを続けながらやめるわけにはいかないか。それではただの矛盾になってしまうか。そんなことを述べながら、またどこかへ流されていってしまうようだ。また何が何に流されているのかわからない。例えば風に流されてスーパーのレジ袋が飛んでゆく。遠くを眺めてみれば、流れる雲に何を思うこともないらしい。誰かが思っているのはそんなことではない。それはもっと低レベルのことか。君はその件については何も思わないのか。何かを思いたければ、外へ出て他の人に接触してみればいい。そうすればどんなことを思うのだろうか。そこでは現実に何が起こっているのだろう。適当な会話が始まっているかも知れない。そしてそれはどこまでも適当な会話であり、その適当さからは決して逸脱することのない会話になるだろう。他人と本気で会話する気にはなれないのかも知れない。君が本気になったらどうなるのだろうか。爪が割れて血が噴き出すか。それは過去の傷かも知れない。過去の傷を眺めても何も思わないか。そんなことを述べているうちに、見知らぬ誰かは他人と会う約束でも取り付けたのか、君は部屋の中で腕時計をまいている。君と誰かはどういう関係にあるのだろう。君と誰かの関係は単なる文章上の誤謬に過ぎないことか。ところで今は何時なのか。なぜ腕時計をのぞき込みながら時間を気にしているのか。別に何かが腕に取り付けられている感覚を求めていたわけでもないだろうが、それは願っていた状況ではない。甘い缶コーヒーばかり飲んでいると、カフェインの作用で頭が変になるか。糖分とカフェインの関係には何があるのだろう。何もなければ何を述べていることにもならないか。それでも誰かは何かしら述べているのかも知れないが、その内容は依然としてわけがわからないようだ。いつまでもそうなのだろうか。そんなことはどうでもいいことであって、とりあえず何かしら語っていれば気が済むのだろうか。確か昔はそんな風ではなかったらしい。何か見え透いたこころざしらしきものをねつ造していたのだろうか。しかし君の望みはすでに達成されてしまったのではないか。君だけがそれを知らないのかも知れない。それが君の感じ取っている世界のすべてなのか。それとは何なのか。そんなものが君の望みであるはずがない、と誰かは思っているようだが、そんな風にして現実を否定せざるを得ない理由とは何なのか。誰が何を否定せざるを得ないのだろうか。そこにあるのはどんな現実なのだろう。あまり陰険な感情を刺激しない方が身のためか。そんなことを述べている理由を知りたくなってくるが、文章の中では誰が知りたいわけでもないのだろう。そこには誰一人存在しないのだから、理由を知るという行為自体が成り立たないのではないか。では誰かは誰に向かって何を述べているつもりなのか。そんな話自体が虚構でしかないらしいが、ついでにそれを読んで誰がおもしろがるのか。いったい何を述べているのだろうか。またどうにもならないような内容になってしまっているのではないか。それをどうにかしたいと思うのは、勘違いもいいところか。そこからいくら修正を加えても、さらにどうにもならなくなってしまうのがオチだろうか。しかしなんでそんな具合になってしまうのか。わざとらしく気が付いてみれば、何を語りたかったのかわからなくなっている。それ以外にこの世界には何があるのだろう。何もないと思いたいのか。


9月3日

 君は何に興味があるのだろう。それは何かの前置きなのか。また暇もないのに君は何を述べているのだろうか。性懲りもなく何かをやり直そうとしているのかも知れないが、そんなことをいくら繰り返しても、前置きばかりが長くなってしまうだけか。そしてこれから何を述べようと、どうせいつの間にかわけがわからなくなってしまうのかも知れないが、それでも架空の世界では見知らぬ誰かが、何かいい加減なことをやる気になっているようだ。だが君が見知らぬ誰かであるはずもなく、君について語っている意識の持ち主が、見知らぬ誰かになるのかも知れないが、君は誰を想定してそんなことを述べているわけでもなく、誰かもそんな無駄で長ったらしい前置きを述べたいわけではないはずか。やはりそこには誰もいないのだろうか。君はそのにいるはずもない誰かの姿でも探し求めているわけか。それはどのような幻影なのか。はじめから何も想定していないのだから、そんなものなどありはしないか。だがそう述べて何を否定しているわけでもなく、そこではあらゆる物事が虚構であり、何かを否定することすら嘘になってしまうのかも知れず、要するにそこには肯定も否定も何もありはしないということになるのだろうか。本当にそうなら、それは否定も肯定もしようのない状況なのかも知れない。だがそんなごまかしの言葉で表現されているものが現実の世界なのだろうか。世界とは本当にそんなものなのだろうか。現実にそれらの意識が体験しつつある世界はみすぼらしい。そこには何もかもがあるのに、そのすべてが興味を惹きそうにない。君は今までに何を見てきたのだろうか。なぜそれらのほとんどを見飽きてしまったのか。傍観者的に見ているだけではなく、その身で体験している現象もあるはずか。では体験した結果として、何がそこには生じているのだろう。少しは賢くなったのか。何もないのにすべてがある、という矛盾した感覚の何が賢さを示すのか。それは単に文章表現としての過ちなのか。そんな語り方では何も明らかにはならないし、そんな状況をいつまでも放置しておいては、何もできはしないだろう。ただ何かをやっているのに、何もできていないと思い込んでいるだけでしかない。それでどのような理解を得られるのか。それともそれはただの嘘なのだろうか。ではそこで君はあきらめてしまうわけか。何をあきらめようとしているのか。あきらめきれないからそんなことを述べているのだろう。だがそれらの意識に現実の世界との接点は何もない。具体的な体験が何も記されていないとすれば、そんなことを語りつつある意識とはいったい何なのか。この世界から生じているのが意識ではないのだろうか。そこで何かを空想しているとすれば、それはこの世界とのつながりの中で空想しているのであって、それを行っているのが意識だとすれば、それはこの世界の中から生じているはずだろう。すべては空想の中で起こっていることでしかないが、そこには何らかの実感が伴っているらしく、その空想の世界の中で、あてもなく彷徨っているような気がしてくることが、世界の有り様を実感していることにならないだろうか。そんなに都合良くこの世界を実感できると思うか。実際にはそこで特定の誰の意識が生じているわけでもないのだが、その意識の所有者の存在に直接結びつくような具体性に、こだわってしまう理由でもあるのだろうか。だがそこでいつまでも彷徨い続けることは、その存在を希薄さを示しているのであり、そこからあまり多くの場所に立ち戻るべきではないのかも知れないが、誰かはその架空の場所で、何に遭遇していると思いこめるのか。具体的にどんな事物に出会っているのだろう。君はその辺で何かが違うような気がしてくるらしい。だがそんなあやふやなことを述べていること自体がおかしいか。そんなことに思いを巡らしつつ、いつの間にか現実の世界に舞い戻っている自分に、わざとらしく気づいたふりでもしたいのか。しかし君とは誰なんだろう。君が誰でもない誰かであるはずがないが、誰でもない誰かがこの世界に存在するはずもない。たぶん君はそんなわけのわからない表現から遠ざかりたいのだろうが、その先にそんな場所が待ちかまえていることを知るよしもないだろう。だがそんな場所とはどんな場所なのだろうか。それを今から思いつくところか。君の意識が行おうとする想像には限りがある。たぶんこの場所に限定されているのだろうが、この場所とはこの世界の中にある場所なのだろうか。なぜこの場所が特定できないのか。特定できるはずのない場所がこの場所と呼ばれているだけなのか。あるいはどの場所でもないからこの場所なのかも知れない。しかしそこから先へ話が進みそうもない。進められないのに言葉は適当に連なってしまうようだが、それはどういう話になっているのだろうか。どういう話でもなく、そういう話でしかないのかも知れないが、それではつまらないのではないか。時間はいくらでもあるのに、今はそれらの文章を修正する時間がない。それはおかしな矛盾を含んでいるようだが、なぜ修正できないのか。修正するには通常の時間とは違う何か特別な時間が必要なのか。時間に特別も通常もないだろう。たぶんまわりくどい紆余曲折を経ないとうまくはいかないのかも知れない。ただ言葉を闇雲に弄して、それで何を修正しているわけでもないのだが、ではなぜ修正不可能な前言をいとも簡単に撤回しようとしているのか。何を修正しようとしていたのだろう。またわざとわけをわからなくして、その場をごまかしているだけか。現に何を述べているのかわけがわからなくなっている。君の意識が内容を把握できていないだけなのかも知れない。まったく欠陥だらけの文章とその内容が連続している。わざと欠陥だらけにして、どうにかなってしまうことを避けているのかも知れない。自らをどうにもならない状況に意図して陥らせているように思われるのだが、そんなことをやって何になるのだろう。そこからどのようにして立ち直ろうとしているのか。そしてそれらの何もかもが予定調和に思えるのはどうしてなのだろう。無理して予定調和に見せかけているのか。何が予定調和だと思えるのか。未だに過ちを修正できていないところが予定調和か。それ以外には何も物語れないように思われる。それはただの空虚であり、それらの内容は虚無そのものか。しかし空虚と虚無の違いは何なのだろう。口の中が切れて血の味がしている。ガムを噛み過ぎなのかも知れない。それを歯並びの悪さのせいにしても仕方がないだろう。君が思っているのはそんなことではないらしい。だがそれでそれらの文章を修正したことになるのだろうか。単に最後の最後になって、申し訳程度に具体的な出来事を記しているようだが、その前の文章とはまったくつながっていないだろう。


9月2日

 それはどういうことなのだろう。なぜつまらない話ばかり続けるのか。ではどんな話ならおもしろいと感じるのか。例えば謎に包まれた話なら、誰もが興味を持ちそうに思われる。そこでは何が謎を形成しているのだろう。だがまだ何を述べているのでもないので、謎に包まれた話にはなっていないのではないか。話すら形成されていない段階で、それは話にならないような言葉の連なりとなっている。君は話から見放されているのだろうか。そんな話をしているわけではない。わざとそんな風に語っているだけなのだろう。いつものように何を語っているわけでもないらしく、それが君のスタイルなのだろう。おかしな風の吹き回しだ。何かが渦を巻いているように思いたい。それでおもしろくなるのならその方がいいだろう。そこから何らかのこだわりが生じてしまうのかも知れないが、それについて君が何を語ろうとしているわけでもないのだろう。すでにわけがわからなくなっているのもいつもの通りか。何か述べたいことを探そうとすると、決まって虚無に突き当たり、そこから先へ述べられなくなる。考えを巡らすだけ無駄なのだろうか。その無駄を乗り越えようとして、苦し紛れにこの世界の有様を観察しようとすると、言葉に詰まって何も述べられなくなる。現状は君の存在とは無関係に推移している。君は現状に対して何一つ関わることはないだろう。言葉だけでは何ももたらされないのか。その他に何を犠牲に供すれば事態を打開できるだろうか。それがどんな事態に陥っているかもわからないのに、その場に何をもたらしたいのか。何となく述べていることがずれているだろうか。まだそんなことを述べているのか。遠くへ行きたいのは誰の願いだったのか。それは唐突にやってきて、何もわからないうちに過ぎ去ってしまうだろう。事態を把握することを許さない。つまらない物語の中に埋もれて、作者と読者の思い通りの展開に身をまかせ、際限なく戦い続ける者は、作者に巨額の富をもたらすのだろう。それが虚構ではなく現実の物語ならば、誰かはプロスポーツ選手にでもなっているところか。くだらぬ競争が待ち受けているのだろう。年がら年中競争やら闘争やらに明け暮れて、気がついてみれば年老いてお払い箱なのか。つかの間の栄光は感動でももたらすだろうか。そこで君は何を想像しているのだろう。漫画の中で闘っている超人たちのみすぼらしさに同情する必要があるだろうか。言葉の中の君はみすぼらしくないのか。それ以前に何もありはしないから、判断できずにいるのかも知れない。何をどう解釈したらいいのだろうか。どこからどう外れてしまったのか。何が外れてしまったのだろう。まるで常軌を逸しているように語っているわけか。そんなことを述べて何がおもしろいのか。たぶん徹底して手加減がされているのだろう。話にならなければ、たとえそれが現実であったとしても、それはつまらないエピソードとなってしまうか。そんな風に語りたいわけでもないのに、やはりそんな風に語らなければ話にならなくなってしまうのかも知れない。何かを読ませるとは、そのような技術の集積なのだろう。しかし手法におぼれていないか。感性の鈍い者たちなら簡単にだませるだろうが、そんなことが繰り返されてきた経緯を知っている者にとって、それはどこまでも退屈な二番煎じにしか過ぎないだろうか。では経験は話をつまらなくしているのか。そんな現実と闘っていないと話にならない。戦いを放棄するのも戦いのうちか。それらの驚異的な力は、誰の精神に作用し続けているのか。そしてそのような話の展開にまったく動じないのはどういうことなのか。なぜそうやって現実を否定しにかかるのだろう。本当につまらないことばかりなら、そんなことは無視して、そんなものは読まなければいいのだろうが、なぜか紙資源の無駄遣い気味にそれらの雑誌を読んでいる。それが気休めなのか気晴らしなのかわからないが、まだそこから遠くへ行くわけにはいかないようだ。何かやり残したことでもあるのか。少なくともそれは言葉を弄することではないらしく、文章を紡ぎ出す行為とはまったく無関係のようだ。しかし目下のところ、それ以外には何も思いつかないだろう。そんなことをやっている場合ではないのに、そんなことばかりやっている現実に押しつぶされている。それが誰の感性に由来しているのかわからないが、そんなことを思っている君は愚かさの極みにあるのかも知れない。くだらぬ妄想の中に誰かがいるらしい。誰もいないと思っていても、誰かという言葉を使わざるを得ない状況に追い込まれていて、そこからしか文章が成立しないような状況をどうすることもできずにいるようだ。それが誰かの存在理由だと思うか。存在し得ない誰かが存在しているかのように語らなければならず、それが絵となり文字となり映像となり、自己実現の手段と化しているわけか。誰かはそこで何を思っているのだろう。やはり馬鹿らしいと思っているのだろうか。思いたければ思っていればいいのかも知れないが、君はそれが侮れない作用を人の心に及ぼしていることを見落としている。わざと見落としているのだ。そうしないと君も妄想の虜となってしまうのか。何が妄想なのかわかっていないのかも知れないが、それらの妄想を見落としているわけではない。わからないのにそれについて語っているつもりらしい。そうやってわざと間違ったことを述べながらも、かろうじて状況を言葉で捉えることに成功しているわけか。何がどうなってそうなっているわけでもないが、それはそれでそういうことを語っていることは確かなようだ。要するにわけがわからないということか。今は冗談には違いないが、いつかそれが真実に転じると思っている。何を語っているわけでもないのに、そこには確信に近い感触があるのだろう。暗闇の中での手探り状態を体験しているのかも知れないが、はたしてそれでいいのだろうか。それしかできないのだからそうするより仕方がないのか。どうやらまだ迷いがあるらしく、容易には吹っ切れないようだ。今まで述べてきた積み重ねのすべてを投げ捨てて、そこからどこへ向かおうとしているのか。何もない空間をつかみ取ろうとして、それが徒労であることを自覚しつつも、そんな行為しか残されていないことを悟っているようだ。やはりそれは馬鹿げたことなのかも知れないが、近頃は寝ても起きてもそればかりに囚われている。まったくそこから先へ進めなくなってしまったように思われるのだが、まだそれをやり足りないと感じているらしい。だからこうして無駄で無意味なことを語り続けている。そしてそんな成り行きをただ傍観していたい衝動に駆られるのはどうしたわけなのか。何が気に入らなくて自らを破壊し続けているのだろうか。もしかしたらそれが自らではないと思っているのかも知れない。


9月1日

 いつまで停滞し続けるのだろうか。もはや限界を超えているのかも知れない。現実の世界では飛ぶように時間が過ぎ去っているのかも知れないが、やはりまだそんなところでもがき苦しんでいる。それでもなぜか今頃になって、何とか月は越えたらしいが、今さらながら遅すぎるだろう。それは仕方のないことなのだろうか。無理な状況がこれから果てしなく続いていくのかも知れないが、今はいったいいつなのか。いつであってもかまわないような内容にはなっているようだが、その中では時間が消失しているのかも知れない。しかしその中とはどの中でもない。そのどこでもない場所について何を語ろうとしているのか。その不在の場所のどこからどこまでが、君の意識が及ぶ範囲なのかわからないが、そこでもまだ君の意識は動作しているのだろうか。今がいつなのか確実なことは何もわからないが、たぶん今も意識は何かを語り続けているのだろう。しかし君とは無関係な誰かは、相変わらず同じようなことを述べている。その世界には言葉では通用しないものがあるらしい。確かにいくら言葉を弄しても動かない事物はある。その事物が言葉を繰り出す上で障害となっているのか。だが言葉によって何を動かそうとしているわけではない。ただむやみやたらと語りたいだけなのか。それとも無難な内容で体裁を取り繕いたいのか。たぶんどこへも移動できないのかも知れない。そこからさらに遠ざかりたいわけではなく、またよりいっそう近づきたいわけでもない。ただそこから一定の距離感を保っていたいのか。それは意表をついているかもしれない。何がそうなのかよくわからないのだが、思いがけないことを語っている。しかしそこで驚いたふりをする必要があろうか。いつもながら何を語っているのか、わけがわからなくなっているだけか。いつものように繰り出された言葉がつながりに欠けているのだろうか。安易な抽象性にはまっているのかも知れない。たぶんまた何もなくなってしまうのだろう。しかしそこから逃れたくなってくる。もう語ることに飽きてしまったのか。なぜそこで躊躇しているのだろう。何をためらっているのか。苦し紛れに頭から手足が生えてくるか。そんな嘘は突拍子もないか。なぜそんな嘘をつくのか。それがきれいに見えるのからか。まったく理由になっていないが、それは植物が繁茂するように変化するらしい。どこから養分を吸い取っているのだろう。当初の目的がずれて、それに従って話の筋もずれてきて、いずれそれが話にならなくなる時が来るらしいが、そうなれば心が安らぐだろうか。できることならもう何も話したくないのかも知れない。誰そんなことを思っているのか。誰が思っていようと、それは安易な願いかも知れない。それ以外に何を否定すれば気が済むのだろうか。なぜそれを説明しなければならないのか。言葉が多すぎるのだろうか。もはや文章を体をなしていないのではないか。やはり一人では何もできないのか。しかしいつも一人で何かをやろうとしている。そんなことを語ろうとする頭のどこに言葉が詰まっているのだろうか。多すぎる言葉なんて意識のどこにも見当たらないが、君は話し相手もいないのに、一人だけで何を語ろうとしているのか。少なくとも思っていることは語っていることではない。もしかしたら語ろうとしているのは君ではなく、それどころか誰でもないのかも知れない。今の君には何も語れないだろう。昔の君でも語るのは難しいか。そこで語られている内容は君には関係のないことのように思われる。誰かはただ何も語らずに話の中へ溶け込んでゆくばかりのようだが、誰かの体は液状化しているのか。誰に問われて君が何を答えているわけでもない。問い続けていると同時に関係のない内容を答え続けている。しかしそれでも追いつけずにいるらしい。もはや日付的に追いつくのは無理なのかも知れない。どこまで語り続けても今のままなのだろうか。それどころか現状維持もままならずに、さらに遅れてしまうのか。君はそれらの困難を克服できずにいるらしく、実際にいつまでたっても克服できない。もうあきらめてしまって克服する気にならないのか。それは嘘だろう。嘘であってほしいか。嘘ならどうするのか。そんな嘘は無視して、さっさと終わりにしないか。誰かが楽しげにささやきかけている。誰にささやきかけているのだろうか。ささやきかけている対象などありはしない。誰がささやいているのでもなく、そんな文章が記されているだけなのかも知れない。それ以外に何があるというのか。誰かの思いが文章に乗り移っているとでも述べれば、それを読む者の感覚を迷わせることができるだろうか。迷わせてどうするのだろう。そんな言葉で迷うはずもないか。ではどうすることもできなければどうするのか。すでにどうにかしているのではないか。君は何もできないのに、とりあえず文章の中に存在し続けているらしい。しかしそれでどうにかしていることになるのか。すでに誰かが君について語っている。だがそれがどうにかしていることになるのか。あてもなく言葉を連ねることで何がもたらされているのだろうか。少なくとも自己満足程度の効用はあるのではないか。はたして君に満足すべき自己があるのだろうか。文章の中にでも自己満足するような意識でも紛れ込ませたいのか。そう述べれば満足するのか。誰がそこで満足しているのか。そう述べながら自然に話を込み入らせて、わけがわからなくしたいようだが、そんなわざとらしいはぐらかしも、予定調和の範囲内だろうか。そんなやり方で困惑と混乱状態から抜け出られたつもりになってもらっては困るか。君は誰を困らせようとしているのだろうか。迷わせようとして失敗した後は、困らせようとしているのか。なぜそれで困るのか。そんなことを繰り返して何がおもしろいのだろう。誰をおもしろがらせているわけでもないか。では君はそこで何をしているのか。何もせず文章の中に存在し続けているだけなのか。確かに言葉は連なっているが、何も語っていないのかも知れない。そしてつまらない意地を張り通そうとしている。いつまでたってもそれだけで生きているらしい。誰かの興味をつなぎ止めるために四苦八苦しているようだが、それだけでは無理かも知れない。すでに君の意識はそれらの文章から遠ざかりつつある。そしてまた呆れてものも言えないような状況にもなりつつある。もうそこであきらめてしまうのか。意識はだいぶ以前から終わりの言葉を探している。まだ終わりもしないうちから終わった時のことを考えているのか。本当にそれで終われるのだろうか。実際に終わってみなければわからないか。しかしそれが終わったことを誰が確かめるのだろう。すべての者たちがそこから消え去ってしまえば、誰もそれを確かめられなくなるか。たぶん本当の終わりは確かめようのないものなのかも知れない。


8月31日

 それらの何が間違っているのだろう。君は無理なことを無理なようにやろうとしているだけではないのか。大地には何もなくても草木が生えてくる。君は何をそこで見落としているのだろう。それでもかろうじて持ちこたえていると思っているのか。相変わらず無理をしているような気がする。何か先行きの見通しが立たなくなり、誰かの言説はつまらないところで躓き、そこで足止めを食っているようだ。それは何かを述べる過程において、細心の注意を怠った結果なのか。今までに述べてきたことの中で、君は何を修正したいのか。それは体質的な問題かも知れないが、たとえ今からどのように文章を構成し直そうと、そこでできることは限られているのかも知れないが、それでもやらなければ気が済まないようで、そうすることがそこでの躓きの要因となっているのか。躓きながらも途中からさらに何かを述べようとして、結果的に意味不明に陥っている。要するに行き詰まっているのであり、そこでできることといえば、またいつもの意味のない問答の繰り返しだけになってしまうのか。なぜそんな風に今から述べようとする内容を事前に決めつけるのか。だがなぜそんなことがわかり、それ以外のことがわからないのだろうか。だがそんなこととはどんなことなのか。それがどんなことでもなければ、わからなくて当然だろうか。だからいつまでもわからないことを述べているのかも知れない。述べていることの何がわからなくなっているのだろうか。そこに何があるのかわからないのだが、今さらそんな見え透いた嘘ではつまらないか。それは誰の意見としてつまらないと述べられているのか。別に嘘をついているわけではなく、君が述べているつもりの内容が嘘に思えるだけか。誰がそんなことを思っているのだろう。そんなことは誰でもいいのかも知れず、それだけではないと思いたいのに、そう思いたい心を信じ切れない。しかし心の中には嘘以外に何があるというのか。なぜそれほどまでに嘘にこだわるのだろうか。それが嘘であること明らかにしないと気が済まないのか。なぜ嘘だと思わせたいのだろう。実際に嘘だと思うからか。他に何かあるはずかも知れないが、その一方でそんなことがわかるはずがない、と思うから信じられなくなる。実体のない自らが何を述べているのかわからないのに、それで何がわかるというのか。わからないことがわかったりしたらまずいだろうか。そんなことを述べている真意を知りたいところか。実際には何を知りたいわけでもないらしいが、その実際とはどんな実際なのだろうか。虚構の中で語られている実際のことか。そしてやはりそれではだめだと思うわけか。しかしだめだと思えば何もできなくなる。だがそれは気のせいであり、だめだと思いながら何かしら語っている現実がある。だからまともに語ることを夢見ている精神が、そんなどうしようもない現実に耐えきれなくなり、それ以上は続ける気になれなくなってしまうようだ。ではもはやいったん終わらなければ仕方がなくなっているのだろうか。もしそうだとすれば、終われないのに倫理的には終わらなければならないのかも知れないが、やはりそれは無理かも知れない。今さら倫理などという言葉を持ち出す必然性がどこにあるのか。いい加減な語りを続けるより、たとえ毎日でなくとも、自らが納得のいく文章を提示しなければならないと思うわけか。ではそのためにはどうすればいいのだろう。それほどどうにかしようとは思っていないのではないか。確かにどうもにもできないのなら、どうにかしようなどとは思わない方がいい。しかしそれでは元の木阿弥で、何もやらないうちからあきらめてしまってはまずいのではないか。それのどこがまずいのだろう。どうもそこまで述べてきた文章のいわんとしていることを把握できていないのかも知れず、それ以外のことについては何とも思っていないようだが、白々しくそんなことを述べていて、文章上にわざとらしいはぐらかしが連続していることを、気にもとめていないのかも知れない。なぜそんな風になってしまうのだろう。確かにそんなことばかり述べていれば、そこから遠くへは行けないだろう。同じ言説の繰り返しばかりでは、そこからどこまでも遠ざかるわけにはいかなくなる。しかしそれはどういう理由で遠ざかれなくなっているのか。そんなことばかり述べながらも、それと同時に遠ざかるわけにはいかないのか。すでに過去に述べていたことからは、ずいぶんと内容も形式も遠ざかっているような気もするのだが、今の君はなぜその事実を認めようとしないのか。認めたらそこで終わりになってしまうからか。そうなってしまうことを恐れているのだろうか。たとえ終わりになってしまったとしても、その事実を真摯に受け止め、それを前向きに考えられないものか。終わりを前向きに捉えて、そこからどうやって話を進められるのだろう。話が終わってしまった後から、さらにその話を進められるだろうか。冗談にもならないつまらない冗談はなしにしてもらいたいか。つまらない冗談は冗談に入らないのか。たぶんそれは冗談ではないと思いたいのだろう。しかしそんな話ばかりではつまらなすぎないか。つまらないからそこで終わりたくなるのか。本当に終わりたいのだろうか。本心からそんなことを述べているわけではないような気がするのだが、なぜそんな気を利用してその先に文章を延長させようとするのだろうか。終わりたいことと終わらせないようにしたい感情が、そこでせめぎ合いをしているわけか。なぜそんな風になってしまうのかよくわからないが、そこからどっちつかずの思いが生じているのかも知れず、どうにもやりようのない停滞をもたらしているのかも知れない。そんな状況から抜け出られずにいるのかも知れない。そこから遠ざかりつつまともなことを述べたいのにそれができずにいる。君はそこであきらめなければいけないのか、あるいはあきらめようのない状況に陥っているのか、またはそのどちらでもないのだろうか。気まぐれにどうでもいいことを冗長気味に語りたいのか。そんなことを述べながらも、結局何を語っているのでもなく、何について述べているのでもないような気になってくるのだが、それはこの世界に生きていることの虚しさを醸し出しているのだろうか。もはや生きる意欲など必要ではないのか。その場限りの安易な希望などうち捨ててしまった方がいいのか。しかしそれらの状況のどこに希望が潜んでいるというのか。それでも何か前向きに述べているつもりなのだろうか。その辺に嘘と欺瞞が潜んでいるのかも知れないが、そう述べざるを得ないような何かが、それらの成り行きの中にはあるのかも知れず、たとえ無内容であっても、何かしら述べている限り、それは前向きな試みの一種かのかも知れない。気休めにそんなことを述べているのか。


8月30日

 それらの広告は何を告げているのだろうか。それは何かの宣伝だろうか。誰が何を伝えようとしているのか。どうも実際はそうではないらしく、そんなわけにはいないようだ。そんな生易しいものではないのかも知れず、それの前に立っていると、その中に飲み込まれてしまうような気になる。内部で消化されて跡形もなく溶けて吸収されてしまうか。何がそうなってしまうのか。君が思い描いている世界はよくわからない。いったいどういう経緯で何が提示されているのだろうか。それは説明するつもりで繰り出された言葉だけではわからないようなものなのか。言葉足らずなのか、わかりやすく説明する能力に欠けているのか知らないが、どうやらそこで伝えられているのは、得体の知れない事物の雰囲気だけのようだ。矛盾をはらんだ言葉から形成された、欠陥だらけの文章をいくら読んでも、何を連想できるわけもなく、そこにいくら言葉を連ねても、何に突き当たるわけでもないらしい。それでも何も伝わらないわけではないが、伝えようとしている対象をつかみ切れていないことは確かなようだ。早朝に風が吹いているのは、これから何かが起こる兆しなのだろうか。いったい何が起こることを期待しているのか。そんなこともわからずに、期待という言葉だけを示すのはおかしいか。きっと何かが起こるのだろう。待っていれば何かしら起こり、それについて驚いたりそうでなかったりする。そんな風に思うのはおかしいのかも知れないが、その辺で君の妄想も尽きているのかも知れない。何も明確には説明できないらしい。頭の中は霧で視界が利かないのか。そんなわけのわからない表現はないだろう。何かを説明する精神状態にはないのだろうか。何かの助けを借りなければ、それ以降の継続は困難になるだろうか。その何かを積極的に探し求めているわけでもないので、君はそこで終わってしまうのだろうか。何としても終わらせたいのか。終わりようのない雰囲気の中でいかにして終われるだろうか。そんな雰囲気がどこに漂っているのだろう。それはまたいつもの嘘が発せられている証か。そこで終わるにしろ終わらないにしろ、君はそこから抜け出ることばかり考えているのかも知れない。確かに過去に存在した君はそれだけだったような気がする。今は君がどこにいるのかさえわからなくなっている。そこには誰もないのに君という言葉を執拗に使い続けているようだ。誰がそんなことをやっているのか。それもまた嘘なのだろうか。何となく語り方が見え透いているような気がしてくる。それは単なるわざとらしい引き延ばしに過ぎないのだろうか。終わろうとして終われないのではなく、終わりを絶えず引き延ばしているだけか。しかしそんなことはわかりきったことではないのか。そんなことを述べたかったわけではないのだが、気づいてみれば他に何も述べられないような成り行きになっている。そしてなぜそんなことしか述べられないのだろうと思ってしまうわけか。いつまでそんな予定調和の展開に甘えているのか。いい加減に他のことを述べなければならない状況にでもなっているのだろうか。やはりそんなところで終わらせるわけにはいかなくなってくるか。それでは何をどう述べればいいのだろう。今さら述べることなんて何もありはしないのではないか。また何もないから何かしら述べなければならないなんて強がってみせるのにも飽きている。そしてそれは何かの冗談でもなく、少なくともその場の真実であり、否定しようがない現実なのかも知れないが、それでも何かを述べようとしているらしく、現実にそんなことを述べている現状があるようだ。またそのついでに、それではだめだということもわかっている。たぶんだめなのだろう。誰に対してではなく語彙そのものが貧困に堕している。それを否定することはできないか。何をそこで拒否しているのか。なぜ安易にそれを続けてしまえるのか。なぜいつも都合良く試練が待ち受けているのだろう。それは連載漫画だからだ。述べている対象が突然変わっていないか。この際そんなことはどうでもいいことだろう。何を語っているつもりなのか。それを知りたくてそんなことを述べているわけでもないか。知りたいことは他にもあるみたいだが、何も明かされないのがこれまでの展開だったはずか。しかし謎は深まりもせず、そのまま放置されてしまうことばかりが繰り返されてきた。そこで述べている内容はそんなことばかりなのか。よくそれで語りを続けていられるか。それが語りだといえるだろうか。語りでなければ何なのだろう。ただの文字の連なりでありわけのわからない文章なのかも知れず、誰の興味もそそらないつまらない内容なのだろうか。たぶんそうなのかも知れないが、それを述べている現実をどうすることもできない。要するにそれが予定調和を形成しているわけか。いつまでもそんなことを述べているわけだ。述べていて冷や汗が滲み出てくるか。誰がそこで暴れているのだろう。それは何かのリズムを刻んでいるのだろうか。それがジャズであるわけがない。もうそこで息切れなのか。いくらどんな風に語っても、それはそれ以上に展開することはない。それより先には何もありはしない。だからその方向ではそれが打ち止めなのか。一人ではそこが限界なのかも知れない。しかし多数の意識が結束しても、それ相応の限界が待ち受けていることだろう。それはすでに外部の世界との接点を失っているのかも知れず、自足してしまった内部の中で、利害関係を築き上げているだけなのかも知れない。しかしそれでもこの世界で手に入れなければならないものがあるらしく、その宝を巡って予定調和のゲームが毎日のように繰り返されている。しかしそれは何の話なのか。なぜか馬鹿げた内容がいつまでも続いているような気がするが、それがどこまで続いてゆくのかわからない。そしてもういい加減にあきらめたらどうかということになるらしい。あきらめきれないのにあきらめるわけがないだろう。ではまだ無駄に言葉を重ねるつもりなのか。いったい終わりやそれに伴う休息の時はいつ訪れるのだろう。なぜそこから外へはみ出さないのか。はみ出してどうするのか。はみ出すだけでそれを忘れてしまえるだろうか。実際にはみ出してみれば、それがどういうことかわかるかも知れないが、いったんはみ出してしまえば、もうそこから後戻りができなくなるのだろうか。いったいはみ出すとはどういうことなのだろう。カーブを曲がりきれずに対向車と正面衝突してしまうということか。それでは死んでしまうかも知れない。そこで死なないためにはどうすればいいのだろう。はみ出さないことが何よりも必要だが、それではつまらなすぎるように思えてくる。対向車が来ない時にはみ出してみればいい。しかしそれで工夫したつもりになれるだろうか。何か不満でもあるのか。


8月29日

 そんな内容ではどんなに繰り返しても無駄だろう。もう完全にだめになってしまったのだろうか。そんな風にしか思えないのはどうしたことなのか。自らの周りを取り巻く状況に押しつぶされているのだろうか。時間はまだ無限にあるだろう。その時間を使えるかどうか疑問か。疑問を抱いているのは君だけではない。君と取り囲んでいる他の意識たちも心配でならないのかも知れない。何を心配していると思い込みたいのか。それがジャズだからか。またしても意味不明になる。水の中でおぼれかかっているのかも知れない。まだ水死体にはなりたくないか。いつかはそうなってしまうのだろうか。そうなってしまった時の誰かの顔が思い浮かぶか。過去から未来を見通したつもりになっているわけではないが、絶えずそうではないと思っている。夢が繰り返すわけがない。そこで繰り返されているのは物語なのかも知れない。何が地平線から離れているわけでもない。君はそれが月だとは思わないのか。では誰かは複雑に入り組んだ迷路を作り上げたいのか。そこでの理由とは何だろう。なぜ地平は斜めに傾いているのか。秘境的な文章表現を目指しているのか。しかしそこから遠ざかろうとして、わざと意味を取り違えているのかも知れない。それがどんな意味なのかわからない。怠惰が邪魔をして視界を遮っているのかも知れない。それでも地平線は水平線へとつながり、どこまでも続いているような気がしてくるか。何を眺めていたのか忘れてしまったらしい。何をどのように述べてもきりがない。もうその辺でやめた方がいいのではないか。何をつまらなそうに述べているのか。つまらないのではなく飽きてきたのではないか。それ以上は精神的に持ちこたえられないか。精神など必要ないと思えばいい。たとえ必要なくてもあるのが精神論か。必要なのではなく、必要であると思い込ませるのが精神論の類かも知れない。それらの立場はいつでも微妙な関係にある。精神論は精神を腐らせ、人の心を蝕んで空っぽにしてしまう。そして空洞となった心の中では、ただ統率者の命令だけが虚ろに響いている。しかし他に何を獲得しなくてはならないのか。目標を達成しなければならないのか。それはその場限りの馬鹿げた目標だろうか。君の目標とは何なのだろう。それをひたすら続けることが、君の終わりのない到達不可能な目標なのか。そんな目標がどこにあるのか。ここには何もありはしない。目標などねつ造するまでもなく、はじめから無視されているのかも知れない。強くなりたいのでも弱くなりたいのでもこのままでいたいのでもなく、思いはそこにはないのだろうか。何を知りたいのでもなく、もはや知り得ないことを知りたいのでもないらしい。その時点では確かにそうなのだろう。しかし過去においてはそうではなかったはずだ。何かを知ろうとするどん欲さは、どこで置き去りにされてしまったのか。いったいどの時点で変節してしまったのか。それは良い兆候だとは思えないわけか。何を思っているわけでもない。何を考えているわけでもありはしない。そこではただ眠たいだけなのかも知れない。誰が何を笑いたいのでもなく、ひたすら眠りにつきたいのかもしれない。では笑い疲れて眠ることが可能だろうか。可能性はそんなところにはありはしないだろう。しかしそんなことを断言できる根拠がどこにあるのか。可能性はどこにでもあるかも知れないが、それらの可能性が可能となり、何らかの出現とともに実現することはまれにしか起こらない。何がこの世界に現れようとしているのか、なんて誰にわかるわけもない。そこでわかっていることはただひとつ、ひたすら眠たいだけか。まるでそこから先に言葉を連ねてはいけないかのように、睡魔が思いついた言葉の連なりを消し去ろうとしている。それから何時間が経過したのか、正気に戻ったつもりになれば、辺りは真っ暗になっていることに気づく。いつの間にか夜になっていたらしく、秋が近いのか虫の鳴き声がやけにうるさく聞こえてくる。ここは夢の中だろうか。冗談でそんなことを述べているのか。数時間前も夜だったことはわかっているはずだ。何かのスイッチが入ったらしく、真夜中に目が覚めてまた数時間前の続きをやり始めたらしいが、考えを巡らす余裕を与えては何もできなくなるから、考える前に言葉を繰り出す必要に迫られている。なぜそうなるのかはわからないが、それがそこでのやり方なのだろう。そうしなければそこで止まってしまうらしい。考えることと言葉を記すことが連動できない。何か結びつかないような気がする。そうこうしているうちに闇に目が慣れてきて、周りが見えるようになり、次第にいつものわけのわからなさが戻ってくるように感じられる。結局は何を述べているのでもないと記さないと気が済まないのか。それがそこでのスタイルなのか。意味のない無駄なことを述べているように装っている。実際にもそうなのかも知れないが、別にそれを逆手にとって何を述べているわけでもない。そんな気配すら感じられず、利いた風なことを述べる状況ではないのだろう。要するにそんなことをやっている余裕がないらしい。今はただひたすらに述べ続けなければならない状況なのか。今回はそうする理由も必然もあるようだ。そうしていなければ闇の中に溶け込み始めてしまうような恐怖感にでも包まれているのか。それは何となく嘘っぽい気がしてくるが、闇の中に何が住まうわけもなく、それが理由でもないのだろう。理由をあからさまに述べる状況ではないのかも知れない。だから気分がおかしいのではないか。どこか体の具合が変なのか。なぜそんなことを述べなければならないのか。しかし不思議な感覚に包まれているわけでもないらしく、至って普通に時が過ぎゆくばかりのように思われ、何の変哲もない夜には違いない。君の周囲がおかしいのではなく、君の体の内部がおかしいのでもなく、精神的に不安定であるはずもなく、ただ何かがおかしいと思っているようだ。いったい何がおかしいのか。そんなことを述べていること自体がおかしいとは思わないのか。それがおかしいのなら以前からずっとおかしいだろう。それらのおかしな文章の中で架空の君は息づいてきたわけだろう。そんな君自身の存在形態のおかしさも相変わらずのはずだ。そこで何を述べているのでもないと思うのは当然のことだろう。そう思うことの何がおかしいのか。少なくとも何かを述べているはずだ。それで何も述べていないはずがない。ではそこから何を述べていけばいいのか。そんなことは述べてみないとわからないことか。では何を述べているのだろうか。そんなところで行き詰まっているわけにはいかないか。しかし君はそう述べている他に何を述べることができるのか。少なくとも何も述べられないわけでもないか。だからそれがおかしいという結論はないだろう。


8月28日

 安易な話にのめり込む君は疑り深い。それ以上に何を述べているのかを知りたいらしい。誰かは何を述べているのだろうか。それは知ろうとしても知り得ないことなのだろうか。案外知るのは簡単なことかも知れない。もしかしたら今から語ることがそれなのか。誰かが誰なのか特定できないのに、そんないい加減なことを述べていいのだろうか。たぶんフィクションだろうから、たとえ辻褄が合わなくてもかまわないか。だがそんなことを述べたいわけではなかったのではないか。そんな風に述べながらも、自らがまだ正気でいるような気がするのだが、いつものように何を述べているのかわからなくなる。予定調和とはそのようなものなのか。だが君はそれとは別の予定調和を知りたいはずだ。本当に知りたいのはそんなことではないだろう。君は自身が何を語りたいのかを知りたい。だがそれも予定調和の一種なのか。やはりそれを知り得ないから、やる気を阻まれて何もできなくなってしまうのだろうか。それとも知りもしないのに、まだやる気があるのだろうか。それにしては無用な中断が長すぎないか。やる気なのかやる気がないのか、現時点ではよくわからないが、たぶんそれなりにやっていることは確かなようだ。また意識はそんなことを述べている現状に埋もれつつあるらしい。そんなことを述べながらも何を知ることができるというのか。自らが何かを述べているという現実を知ることができるか。そんなことはわかりきったことではないか。またわざとはぐらかしているようだ。君は知ろうとしていることを知ることができない状態のままでいたいわけか。それで何かの執行猶予にでもなるのだろうか。いったい何の執行が猶予されているのだろう。現実を知ってしまうことが避けられているのかも知れない。自らがみすぼらしさのただ中にいることを知り得ないのは幸いだろうか。知ってしまったらどうなるのだろう。それを自覚してしまった者たちが集団自殺で世間を騒がせているわけか。何かに気づくとは恐ろしいことなのか。人によっては恐ろしい結末を招くこともあるのかも知れないが、例えば自殺する当人たちにとっては少しも恐ろしいことではなく、むしろそれによって救われたつもりになれるのかも知れない。もちろん自殺しない人々にとってそれは愚かな行為と映るのだろうが、何らかの行動に及ぶにはそれなりの理由がないと困ってしまうか。たぶん君はそれに関して浅はかなことでも考えているのだろう。要するに君の行動には理由がないと言いたいのだろう。理由など後からいくらでもつけられるだろう。では理由とは後からねつ造されるものなのか。はじめに理由ありきではつまらないか。目標を定めてそれに向かって行動するのでは予定調和か。通常はそんなつまらない行動も大いにありだろう。それを否定していたら何もできなくなってしまうか。だから君は何もできないのか。ただ何もできないふりをしているに過ぎないか。そんなふりがどこで通用しているのか。通用していないから疑念を抱いているわけか。たぶん君はそんなことに気づいているわけでないのだろう。それどころか何に気づいているふりすらできずにいるように見えるが、誰がそれを見ているわけでもなく、もはや君のことなどどうでもよく、ただ言葉がそこに連なっていれば、それでかまわないのかも知れない。文章の内容など誰も気にはしないだろう。たぶん君はそんな安易さに嫌気が差しているのかも知れないが、成り行きまかせの展開に意識がついて行けなくなっているのだろうか。だがそれを受け入れるしか道は残されていないのかも知れない。ではそこで観念してしまった方が身のためか。そんな風にしか語れないことを素直に認めようか。それを認めてどうするのか。もし認めたらどうにかなるのだろうか。どうにもならないからこそ、いつまでもそんな成り行きに引きずられるがままになっているのではないか。では君はそれをわかって述べているのか。何をそこでしらばっくれているのだろう。それにしても何がわからないのかわからない。わかり得ないことをわかろうとしているのだろうか。たぶんそういうつまらない話ではないのだろう。意識はそこからさらに語らなければならないと感じているようだが、今さら何を続けろというのか。現実に続けているではないか。しかしいつまでそんな語りを続けられるのか。そんな自問自答を飽きもせず続けるのはわざとらしいか。ではそうでないことを続けなければならないのか。しかしどうすればそうではなくなるのだろう。もう君はそれに気づいているのだろうか。いくら考えを巡らしてみても、思い当たる節は何もないか。気づいているのにしらばっくれるのは、もうやめにしないか。それに関してさっきから言葉に詰まって沈黙が続いている。はたして君はそれらの沈黙に気づいているのだろうか。気づいていないのならば、沈黙を破って言葉を発する必要はないか。さらに未来永劫沈黙し続けることが可能だろうか。なぜ一時の沈黙をそれほどまでに引き延ばす必要があるのか。君は何の必然性もないことを唐突に述べているのだろうか。たぶんそれで正解なのかも知れず、もはやそんな風にしなければ、それらの文章を続けられなくなっているのかも知れない。それがそこでのとりあえずの結論なのか。それに関して思い当たる節は何もない。いい加減な結論などすぐに忘れてしまおう。そして忘却の彼方で平行線が交わる錯覚をねつ造してみよう。ますますわざとらしくわけがわからなくしている。それは何も導き出せないことの裏返しか。途中のどこで行き先を間違えてしまったのだろうか。そんないいわけはもはや通用しないか。はじめから通用していないだろう。それはいいわけなどではなく、その場の真実なのかも知れない。しかし過ぎ去った途中には二度と引き返せない。では今はただ前進あるのみなのか。平面上を後退することもできるかも知れない。つまらない平面から飛び去ることも可能だろうか。誰かは平面に穴を開けて下へ掘り進んでいるのかもしない。抽象的にはそれも可能かも知れないが、そこは現実の地上ではない。そこで実際にやっていることなど何もありはしない。そこにあるのは言葉の連なりだけか。君はそれを読まなければならないのだろうか。それを読んでどうするのか。つまらないと思えばそこで終わりとなるだろうか。ならばつまらないと思ってほしいのかも知れない。つまらないことを理由としてそこで終わりたいのかも知れない。他に何か理由があるのだろうか。ちょうど文章がそれにふさわしい分量となってきたので、それを理由として一時的にそこで終わりとしたいわけか。君は何とまわりくどいことを述べているのだろう。まさかそういう述べ方がおもしろいとは思わないだろうが、誰かはそれでも無理しておもしろがっているふりをしているようだ。


8月27日

 なぜか思いがけない状況に遭遇しているらしい。誰かが複雑に入り組んだ成り行きの中でもがいているのか。何をもったいぶって語ろうとしているのか。取り立てて何を語ろうとしているわけでもない。そのときどんな状況に遭遇していたのだろうか。もう忘れてしまったのか。何を忘れてしまったのだろう。あるいは何を思い出そうとしているのか。何も思い出せないのなら、何を空想しているのか。だめになった時のことを思い浮かべているのかも知れない。まだだめになっていないのだろうか。何をだめにしようとしているのだろう。もはやご破算になりつつあるわけか。それはどういうことなのだ。単なる言葉遊びの段階でしかないか。何かのたがが外れてしまっているのかも知れないが、それを外してどうするのだろう。何をどうしようとまだ何も見えてこない。しかしどうにもならないはずがないか。どうにかしようとしているのだろうか。確かに適当な言葉が連なっているらしい。それはその場の雰囲気にマッチしているのだろうか。そんなことを知りたいわけでもないか。では何を知ろうとしているのだろう。このまま続けられるとでも思っているわけか。どんどん外れていってしまうらしい。それでかまわないのならそのままのペースを保っていこう。別に走っているわけではない。走り出したら止まらないのは昔気質の暴走族の走りか。あれは何年前の出来事だろうか。それはただの出来事ではなかったが、出来事ですらなかったのかも知れない。何を覚えていると言い張るつもりなのか。誰に向かって問いかけているのだろうか。誰を標的にして語り出したいのか。そんな批判はあり得ないだろうか。まだ何も語り出していないうちから、批判も何もあったものではないか。誰を批判したいわけでもないらしい。誰から批判されたいわけでもない。それらのどこに批判の糸口が潜んでいるのか。きっかけなどどこにもありはしない。何を探しているわけでもないようだ。ではすでに何も語れなくなってしまったのだろうか。それは誰かにとっては喜ばしいことか。もうどこからも批判される筋合いはないらしい。そんなことを述べてしまって後から悔やまないだろうか。もっと批判されておけばよかったと思うわけか。誰がそんなことを思う立場にあるのか。誰に立場が付与されているのだろう。まだものを言える立場にはないか。誰もそんなことは思わないだろう。藪の中からウサギが飛び出す。蛇が壁に貼り付いている。それは誰の所有物なのか。この世界は誰のものなのか。そんな愚問は闇から闇へ葬り去られるようなものでもないか。そこで常套句の使い方を間違えているのかも知れない。爪が伸びすぎてキーボードを叩きづらくなる。では他に伸びすぎているものといえば何なのか。不意にもたらされた設問には答えようがない。それを即興で返せば嘘になる。それらがフィクションであることがばれてしまう。もとからそんなのはバレバレだろう。ばれていることは先刻承知で、別にそれを気にしているわけではない。何となく投げやりな気分に近づきつつあるのかも知れない。ついでに疲労感も漂っているのか。その場の雰囲気など執拗に語る類のことではないか。では今さら何を述べれば気が済むというのか。ただ状況がわからないだけかも知れない。現状を把握できずに、何をやっているのか知ることができないでいるわけか。誰が何をやっているのかわからない。しかしそんな風に語ること自体が意味不明なのではないか。意味不明でもかまわないか。それらの文章にそれほどの思い入れはない。いい加減に語り適当に言葉を連ねている。そんなやり方では何の印象も残らないか。誰の印象に残りたいのか。それはいつものように誰でもない誰かになるのだろうか。あるいは誰をそこで待たせているのか。そしてそれでは文章の前後が意味的につながらなくなっているのではないか。意味がどこにあるのだろう。誰が文章に意味を求めているのだろうか。君は意味を求めてはいないのか。それらの文章を理解したくないのか。何を理解しようとしているのか。理解できるような言葉の並びではない。そこから感じ取れるのはただの投げやりな姿勢か。確かにいい加減なことを述べているらしい。しかしそうなってしまったのにはそれなりの事情がありそうだ。その事情を知りたくはないのか。知っているくせに知らないふりをするのはいただけないか。そのわざとらしい態度の裏にはどのような計略がくすぶっているのだろう。そんな風に語り進めてくると、それが何となくまともなフィクションに思えてくるか。しかし中身が何もないことに変わりはない。なぜそこでやる気を打ち砕こうとするのか。生意気には君には二度と立ち直れないような挫折をもたらそう。だが神がそんなことをやっていいのだろうか。善人に試練を課すのは旧約聖書にありがちな物語展開か。しかしそれは旧約聖書ではなく、その中で神が何を告げているわけでもないか。誰かはいつものように何も導き出せずに、悪あがきを繰り返すばかりで、ただ無駄に言葉を弄している。だがそれが君の狙い目なのだろう。結果としては君の目論見通りに話が展開している。何の話か意味不明だが、それでも話は話なのかも知れず、そのわけのわからない話の中で、君の意識は何かを語り続けているつもりになれるらしい。では君はそれで満足なのか。満足しているのは君ではなく、君自身の影そのものだろうか。だがそれが影である理由は何もありはしない。なぜそこで影という言葉を使うのか、それ自体がまったくの意味不明なのではないか。しかし意味不明だと思うことが、そこで誰かが意図したことだとしたら、それ以降にどんな言葉を並べればいいのだろうか。それ以前と同じようなことを述べていればいいだけなのか。何をわかったつもりになっているのか。たぶんわからないままなのではないだろうか。そしてそんなことを述べているうちに背景がせり上がってきて、記された文字が遠ざかり、何を読んでいるのかわからなくなってしまうだろう。それはどのような背景を伴っているのか。君は闇の向こうに何を見ているのか。今は本当に夜なのだろうか。何も見えなくなってしまったのは夜で闇に包まれているからか。そんな簡単な理由を導き出してはならないか。それでも文章を繰り返し読み続けている。たとえキーボードを叩きすぎて腱鞘炎にかかろうと、画面に映し出されたそれらの文章を読むことはできるはずだ。そしてそれを読んで何をするわけでもなく、ただひたすら読み続け、読むことだけに全神経を集中させている。ただそんな風に思いたいだけなのかも知れない。何かを必死にやっているような気になりだけなのか。しかし今の君にはその必死さが足りない。なぜか余裕がありすぎるように思われるのかも知れない。


8月26日

 それをどうやって知ることができるだろうか。また途中から始めようとしているらしい。話の途中から語り始めることにどのような効用があるのか。始まりのきっかけをつかめないから、始めを省略しているのか。そんな話に始めも終わりもありはしないか。耳障りなファンクビートをうるさく感じながら何を述べているのか。そこでは何かが二重に述べられていないだろうか。それを説明するのが面倒臭いか。何を面倒くさがっているのだろう。説明すること以外に何が必要なのか。どうしても話の始めの部分を述べなければならないのだろうか。しかしどうやってそれをねつ造すればいいのか。そんなことをやっている暇がないか。今は他のことを語っていて、とてもそこまで手が回らないのかも知れない。だが語っているのは君ではないはずだ。君ではない誰かが君とは関係のないことについて語っているらしいが、今さらそんな説明は不用だろう。いつもそんな説明をして、語ろうとしている意識を挫いてしまうようだが、語ろうとしていることなど何もないので、君にとってそれは願ったり叶ったりなのだろうか。そんなことを述べていて虚しくならないか。さらに風景が飛んでいる。それにつれて記憶も飛んでしまうか。しかし説明とは何なのだろうか。ずいぶんまわりくどいことをやっている気がするのだが、いったいそれで何の説明になっているのか。たぶんそこで一休みしたいのだろう。述べていることが意味不明になって、わけがわからなくなったら、そこで中断してみればいい。それで正気に戻るわけでもないが、少しは時間稼ぎができるはずだ。時間を稼いで何かうまくいくのか。時が経てばそんなことは忘れてしまうだろう。忘れてしまえばまた始めからやり直せば済むことか。だがその始まりをつかめていないはずだろう。きっかけを見出せずに困り果てるか。困っているのは君ではないはずだ。いったい誰が困っているというのか。君は困っていないのだろうか。誰がそれを君に尋ねることができるのか。誰かは何も尋ねられないが、君の返答を期待しているわけでもない。だがそれについて何も思わないとすれば、誰かは何のために存在しているのか。何のためでもなく、どこに存在しているのでもなく、それはただの言葉でしかないか。君にとっては誰かなど誰でもかまわないのであり、誰でもない誰かでも誰でもある誰かでも、そこには誰かという言葉が記されているに過ぎないが、それが何だというのか。何でもないようでいて、その何でもないことを記している誰かには、どんな思いが去来しているのだろう。何でもないことを何でもないように記すことがはたして可能だろうか。それとも何かを記している限り、そこには何らかの内容が生じているのだろうか。さらに風景は過ぎ去り、時間も経過している。それでも意識は空っぽのままのように思われる。何も獲得できずに何も導き出せないように思われる。そんなことを過去に述べたこともあったようにも思われるが、今はそれで機能しているらしく、わりとスムーズに言葉が繰り出されているような気もするのだが、それはいつもの幻想に過ぎないのか。そんなときに限って時間が足りなくなってしまうのか。何も述べていないのに何かを述べる時間がほしいのは矛盾していないか。矛盾していようといまいと、何もないのと同時に何でもありなので、何となくそれでかまわないような気がしてくる。それは君の勝手な思い込みに過ぎないだろう。架空の皮膚で風を感じているのも君の思い込みか。それとこれとは無関係なのだろうが、それで何か吹っ切れたような思い込みを得ているらしい。思い込みなどいくらでもねつ造可能なのか。言葉を記すのに何の制限もなければ、確かにそれはそうなのかも知れないが、はたしてそれでかまわないのだろうか。かまうかまわないの問題ではないか。だが事態がそれほど切迫しているとは到底思えない雰囲気のただ中に意識はあるらしい。要するにそこに展開されている言葉の連なりが、それを記していると思っている意識を取り巻いている環境にマッチしているわけか。だがいくらなんでも状況は、そんなまわりくどいことを述べなくても済むようなことではないのか。必要もないのにそう述べていれば気が済むのだろうか。ではとりあえずそれはそれで認めなくてはならないだろうか。誰がそれを認めようとしているのか。君にとってそれは誰でもない誰かになるわけか。実態としては誰にそれを認めさせようとしているのでもないらしく、それどころか誰にも認められないようなことを、意識して述べているのかも知れない。そんな風に語ってしまう状況に包まれている。もはやそうなる他ないような雰囲気の中で言葉を記しているのか。いつからそんな嘘を平気でつけるようになってしまったのか。それも言い逃れ的に冗談だと述べたいわけか。何を述べたいわけでもなく、ただ自意識とは無関係にそんなことを述べているだけか。そこには何らかの成り行きがあって、その成り行きに従って述べていくと、そんな内容のないような内容になってしまうわけか。やはりそれでは何も述べていないのと同じことか。君はそれでもかまわないのだろうか。君がかまわないのではなく、君を取り巻いている状況がかまわないと述べさせているだけかも知れないが、それでも君はかまわないのか。そんなことをいくら述べても、同じことの繰り返しにしかならないか。そんな成り行きを眺めながらも通り過ぎて、意識を感じさせない意識らしき精神作用は、どこへ向かって何を述べているのだろうか。この世界にはわざわざ言葉を弄するに値する出来事などが存在するのだろうか。何がそこには実在しているのか。君が述べているつもりの言葉には何も引っかかってこないのはなぜだろう。言葉と言葉をつなぐ編み目が粗すぎて、現象がそこを通過してしまうのだろうか。今さらそんな利いた風な表現はくだらないか。そこにあるのは風景だけではないはずだ。意識が何も述べられないつもりではあり得ない。それどころか常に何かを述べようとしていて、たとえ何もないと感じていても、その何もないことについて言葉を連ねているらしい。それ以外はあり得ないのであって、しかもそれ以外を探し回り、そうではない可能性を模索し続け、そうはならないことについて述べようとする。そんな風に述べることを許しているのが意識であり、述べた後から思考を働かせて、絶えずそれとは別の可能性を探り続ける。そこには何もないのではなく、何かがあるように見せかけるための策略が張り巡らされていて、それが映像であれ文字であれ、それが意図しているところのものをはるかに超える思惑をねつ造し続けているのだろう。そしてそれは誰の意図でも思惑でもなく、それを取り巻いている様々な意識の混合物なのかも知れない。


8月25日

 目が覚めたら相変わらずの世界が視界に広がっている。これから何をやればいいのだろう。やることは決まっていて、それはやりたいことではない。そんな予定調和の成り行きに気力を吸い取られ、朝から廃人と化している。わざとらしい嘘もいい加減にやめてほしいか。しゃくに障る世の中だとは思わないなら、シャクヤクのエキスを飲むこともあるまい。その薬草は胃薬とは無関係か。君は駄洒落気味に何を述べているのだろう。他に何も述べられないならば、そんなのでもかまわないのだろうか。実質的にはいつものように何を述べているわけでもないのか。そんなやり方でかろうじて息継ぎをしている最中か。しかし何もないことに変わりはなさそうだ。日付的に追いつけないのも当然の状況なのだろう。やはりそれ以上は無理なのかも知れず、無理をおしてやり続ければ、何もないことがあからさまになるだけか。だが君にしてみればそれがおもしろいところか。しかしそんな状況をおもしろがっていていいのだろうか。本当におもしろがっているのか。それは強がりや痩せ我慢の類ではないのか。確かにそうかも知れないが、そこではそんな風にしか表現できないのだから、今はそれでもかまわないのかも知れない。それがそこでの限界であり、そんな風に述べていることは、そこから何かを改善しなければならない、と思わせるように導く啓示かも知れない。だが君は神など信じるはずもない。しかし啓示が神のものではないと主張するならば、それは誰からもたらされた啓示なのか。君自身が自問自答の中から、自らに向かって何かを知らせようとしているだけではないのか。しかしその知らせようとしているつもりの何かが、一向にわからないのはどういうことなのか。いったい自らに何を知らしめようとしているのだろうか。それはもう終わっているだとか、何を述べても無駄だとかいうこと以外の何なのか。それだけのような気もするし、場合によってはそれだけではないような気もしてくる。それはただあやふやではっきりしていないというより、はっきりさせたくないのかも知れず、それがはっきりわかった時点で君はだめになってしまうのかも知れない。なぜだめになってしまうのか、その理由や根拠など現時点では何も示せないが、ただ何となくそんな風に思っているようで、そのはっきりしない思いをそのままにして、自らをだましだまししながら、それらの作業をやり続けているのだろうか。あるいは本当はわかりすぎるくらいにわかっているくせに、それを言葉にする一歩手前であえてはぐらかしているのか。はぐらかしていないとそこで終わってしまうか。だが終わってしまうのもおもしろいか。そこで最後の言葉を発して、きれいさっぱり終わってしまったら、それはそれで気分爽快になれるかも知れず、必死になって継続を模索している一方で、そんな終わりを夢想し続けているのかも知れない。しかし続けたり終わったりしてしまうこと自体がおもしろいと思うか。またそこで強がって述べれば、続けるのも終わるのもどちらでもかまわないとなるわけか。どちらにしてそうなる必然性は何もありはしないのではないか。何もないのにそんなことを述べているだけのようだが、それでも述べられるのだから、それはそれでそういうことなのだろう。要するにそういうことしかなく、他のどういうことでもないらしい。そんな風に述べながらも、実質的には何を述べているのでもない。それが君のやり方なのか。そんなやり方をいつまで続けるつもりなのだろう。終わるまで続けるつもりなのか。しかも続けてどうするわけもなく、ただ続けているだけらしい。言葉によって惰性の成り行きでも表現しているのだろうか。そんな現状を苦々しく思っている以上に痛快に感じている。たぶんそれは何かの冗談だろう。あるいは冗談以上の何かになる可能性でも夢想しているのか。確かに冗談では収まりきらない何かを伴っているかも知れないが、それはそこで展開されている冗談もどきを弱める効果があるのではないか。絶えず冗談ではないという思いを抱きながら、それらの文章を展開させているような気もする。何となく知性的に振る舞うことを捨て切れていないのかも知れず、君もまた文学などというまやかしを心の底では信じているのではないだろうか。完全には信じ切れてはいないのだろうが、わずかながらもそこに救いを求めているようにも感じられ、そこから何か尊敬を勝ち得るような文章を構成したいと願っているのかも知れない。現状の何もなさを鑑みれば、それは浅はかな思いかも知れないが、それがなければ封印されていたお笑いが噴出して、その場限りのウケねらいばかりが出力されてしまうだろうか。なぜそれではだめなのか。笑いで注目されようという魂胆が卑しいか。文章で他人を笑わせることは難しい。そのような行為は何よりも格好が悪いのかも知れない。テレビをつければ他人を笑わせることで世間の注目を集めようとしている人だらけで、そればかりだとやはり虚しくなってくる。他に何かやることがないのだろうか。何もないなら何もやらなくてもいいのだろうか。何もやらなくてもいいのかも知れないが、それでも何かをやっている現状があるらしい。何もなくても何かをやらざるを得なくなってしまうのだろうか。しかしそれで何をやっているのかといえば、ただ他人を笑わせようとしているわけか。それはおもしろい試みかも知れない。冗談でならそうなのだろう。冗談で他人を笑わせているのだから、それはそれで筋が通っている。しかしそれ以外で他人は笑うだろうか。体をくすぐれば笑うだろう。だがそれでは笑うと同時に怒り出すかも知れない。いきなりやるのではなく、これから笑わすという合図が必要なのかも知れない。だが笑わせようとして笑わせることに成功したらそれでおもしろいのか。笑わせることに成功したものは自己満足を得て、失敗したらへこむわけか。しかしそれでおもしろいと思うのか。ならば笑う状況でないところで、思いがけず大爆笑を誘うような出来事に遭遇したらおもしろいだろうか。たぶんそれが一番おもしろいのかも知れないが、それで満足するわけもないだろう。今度はそれを人工的に再現しようとするのが、笑いを生業とする者たちがやろうとしていることかも知れない。人はそんなことばかり追求している。自分たちで自分たちの思いのままに、他人の喜怒哀楽の感情を制御したい誘惑に魅せられて、さかんにそうするための試行錯誤が繰り返されていて、結局それらの夢を振りまく産業がやろうとしていることは、そんなことばかりなのかも知れない。そこには絶えず偽装と欺瞞が渦巻いていて、嘘で塗り固められた物語がこれでもかと提供されている。いったいそこには何が欠けているのだろうか。


8月24日

 いつまで粘っているのだろう。何ももたらされないのに往生際が悪いか。考えれば考えるほど何も考えられなくなり、言葉からさらに遠ざかっていってしまう。同じことの繰り返しから抜け出られなくなる。それがリズムなのだろうか。バリエーションが自然に固まってきてしまうようだ。ある一定の方向で同じようなことしか述べられなくなってしまう。それではだめなのか。誰がだめだと思っているのだろう。なぜそれが単なる勘違いだと思わないのか。そう思い込むことによって何を守ろうとしているのか。守られているつもりのものは守るべきものなのか。そこからどんな風に話を展開させるつもりなのか。守るべきものが見当たらないか。守るべきなのはそこで述べられているそれ自身だろう。それの継続を保持したいのか。そんなことを述べているうちに朝になってしまう。朝になることとそれらの文章継続は関係ないだろう。そこで何と何を関係させなければならないのか。思考と言葉を関係づけることが可能だろうか。それをやってどうするのだろう。そうすればさらにそれらの文章を継続させられるはずか。それは無理かも知れない。何となくそれだけでは無理そうに思われる。君はどうにもならないことをやっているのかも知れない。どんなにそれを求めようと、求めれば求めるほど遠ざかってしまう。形のないものをつかもうとしても、常に手からすり抜けてしまうらしい。結果的に何をつかんでいるのでもないことになってしまう。つかみ取ろうとしている過程においては、何らかの感触を得たつもりになるが、何かを握った手を開いてみれば、いつもそこには何もありはしない。取り逃がしたと思い、もう一度つかみ取ろうとするが、やはりそこには何もありはしない。だから逃したつもりのそれをいつまでも探し回るが、何も得られずに徒労を重ねている。それがそこでの実態なのか。さらに精進しなければならないのだろうか。何のためにそこまでやってしまうのか。別にやりたくもないことをやっているわけでもないだろう。やりたいことをやり、その結果として徒労に終わってしまうのだから、それはそれで仕方のないことか。できれば仕方のある結果を導きたいか。ならばさらにやるしかないのではないか。現にそうやって何かをやり続けているようだが、それで何を得られているのだろうか。それが虚無でしかないのなら、なぜそこであきらめないのか。あきらめて別のやり方を模索するわけにはいかないのだろうか。たぶんそんな風に述べるのは簡単かも知れないが、実際にやるとなると、やっている最中かも知れないが、そう簡単に語る方向を変えることはできない。今までに述べてきたことが習慣と化していて、容易には違う方向へ進むことができなくなっている。だから何かを述べるには困難が伴うのだろうか。気がつけば何かわかったようなわからないようなことを述べている。そんな現状に嫌気が差してしまうのも、いつものことかも知れないが、それでも気を取り直してさらに何かを述べようとしてしまうのも、いつものことかも知れない。結局はいつものやり方に縛られて、他にやりようのない現状のただ中で身動きがとれなくなってしまうのか。やはりそんな現状は気に入らないので打破しなければならないのか。おそらくそれは無理だろう。君はそんな現状に守られているのかも知れない。そこから外れれば瓦解してしまうところを、嫌気が差しながらもかろうじて以前と同じような文章の中にとどまっているわけだ。そこにとどまっていられるからそんなことを述べ続けられる。ではそこから外れたら本当にそれらの文章は瓦解してしまうのだろうか。外れてみればわかるだろうが、今のところは外れられないからわからないか。何やらややこしいことを述べているらしく、君にはそれが理解できないのかも知れない。何を理解させようとしているわけでもなく、何かを述べることによって誰を理解に導こうとしているわけでもない。ただ戸惑わせさらに迷わせるような文章を形成しようとしているのか。そんな意図があるわけもないが、結果としてそうなっているのだとすれば、やはりそれはそれで仕方のないことなのだろうか。だが仕方がなければそれで済んでしまうわけでもないだろう。それでは済まないからいつまで経ってもそこから抜け出られないのか。そしていつまでも仕方のないことの繰り返しとなってしまうわけか。さっきから何を述べているのかわからない。それはいつものパターンにはまっている証拠か。ついでにやる気がないのもいつものことかも知れないが、さっきまで何について述べていたのだろうか。別に述べている中身など何もないのかも知れない。自分でも何を述べているのかを知らぬ間にそこまでやってきたらしい。何がそこまでやってきてしまったのか。それは死に神か何かか。必要でない時に死に神はやってくるものだろうか。しかし君はなぜ生きたいのか。もはやこの世に未練など何もないのではないか。そんな話を即興ででっち上げてしまうのは虚しいことかも知れない。そこでは誰が死のうとしているのでもないらしい。誰も生きてはいないのだから、誰も死ぬはずはなく、もとから誰もないのだから、誰の意識が漂っているわけではない。そんな言説空間を構築してみたいか。だがそれは空間などではなく、ただの平面にしか見えないのはなぜだろう。それが紛れもない現実であり、君はその平面に映し出された文字を読んでいるに過ぎない。文章中に存在しているつもりの君には、そんな現実は認めがたいか。内部の世界の住人は外の世界を知らない。そこではそれがすべてなのだ。すべてだからこそそれに安住し、そこから外れてしまうことを恐れる。しかし外れてしまったらどうなるのだろうか。君は何になるというのか。すでに灰燼に帰しているのではないか。でたらめなことを述べているような気がする。何の役にも立たず、癒やされることもない言葉の連なりを読んでいるわけか。それを読んでどうするのか。読んでいるのではなく書いているのではないだろうか。読みながら書いているのか。あるいは読みもせず書きもしない時間帯もあるだろう。ただそこに存在する平面を眺め続ける。眺め続けながらあくびが出る。眠たくなってしまったらしいが、眠るわけにもいかず、眠る環境を目指して移動し続ける。今は移動している最中なのだ。またいつものようにどうでもいいことを思いだしたのか。思い出しているのではなく書いているのではないか。それでもそんなやり方もあったということを思い出した。たぶんそれがそこでのきっかけとなっているのだろう。何かをやるきっかけを探していたようだが、それは眠るきっかけだったのかも知れない。寝て起きてみればそれに気づくはずだ。だが目が覚めたら明日になっていて、明日になればそんなことは忘れているだろう。


8月23日

 まだ何かやり足りないような気がしているようだが、あまり無理をしない方が身のためか。無理を承知でやり続けているのだから、それは仕方のないことなのだろうか。だが無茶をしても相変わらず同じようなことを述べているのだから、それはいつもの負け惜しみになってしまうか。まともなことを述べられないのがしゃくに障るか。秋も近いので、もう暑さにせいにすることができないだろうか。蒸し暑さは和らいで、少しは涼しくなっているはずだが、我慢が利かない体質になってしまったらしい。だが精神などを鍛えたからといって、そう簡単に無の境地に至れるわけもなく、一時的にそうなったとしても、それが長続きするはずもない。状況も精神状態も常に流動的に推移していて、上がり下がりの程度の差こそあれ、揺れ動く心に隙が生まれるのは避けがたい。つけいる隙などいくらでもあるということか。気がつけばどうにもならなくなっている。そこからどうやって挽回すればいいのだろう。挽回不可能な地点から何を述べているのか。何も述べられないかそうなってしまったのだろう。それがどうにもならない事態なのかも知れない。だがいつまでもきっかけがつかめないわけもないか。そんなわけで何とかしようとはしているらしいが、それで何とかなっているといえるのだろうか。やっていられなくなる。確かに気分が乗ってこないようだが、そこであきらめてしまったら元も子もないだろう。だがこれがあきらめずにいられるだろうか。あきらめてしまった方がいいに決まっている。君には何が見えているのだろうか。どんな行く末を感じ取っているのか。何も感じないことはないだろう。何かが起こる兆候を感じているはずか。だがそれを文章上に反映させることはできないようだ。反映させてどうするのか。毎度毎度同じようなことを述べている現状には飽き飽きしている。そこからどうやって変化させればいいのだろう。相変わらずつまらないことを述べているのかも知れない。できることならそんな成り行きから外れてみたいか。外れたところで何ができるわけもないだろうか。外れてみなければわからないだろう。外れられないならわかるわけがない。わからないままでもかまわないのではないか。かまわなければ外れる必要もないか。それで逡巡から一回りしたつもりか。ではもう一回りしたくなるのか。そんな展開にうんざりしているのは誰だろう。しかしその程度で精神状態が常軌を逸したつもりになれるのか。外れるとは常軌を逸することなのだろうか。そんなつまらないまとめ方では満足できないか。何を批評しているつもりなのだろう。君は無意識のうちに誰かを惑わそうとして、自らが発した言葉に惑わされている。それは何かの幻影だろうか。君のどこに幻影が取り憑いているのか。幻影は何となくわかったようなわからないようなことを述べているらしい。述べているのは君自身ではないのか。そんなことはどうでもいいことかも知れず、どこで君と君の幻影はどこかで重なり合っているのかも知れない。別に君が君の幻影について述べているわけではない。君が君の幻影におびえる必要はない。君自身が君の幻影なのかも知れないのだから、君が実体を伴っているとは限らない。そして実体があろうとなかろうと、それ自体は文章上に存在しているつもりの君には関係のないことだ。前にもそれと似たようなことを語っていたかも知れない。誰かはどうやってもそんな語りから外れることはできないようだ。似たような語りを繰り返すことしかできはしない。なぜそれほどまでに強く結びついているのだろう。決まり切った言葉の配列から似たような文章が生成しているだけか。それならそれでかまわないが、その仕方のない成り行きをどうにかしたい気持ちも一方にはあるらしく、何とかその相反する成り行きと思いに折り合いをつけたいのだろうか。そこではそんな説明で妥協して、さらに語りを進めていかなければならなくなる。なぜそうしなければならないのかわからないが、とりあえずはそんな成り行きに逆らうつもりはないようだ。君はそんな風にしてそれらがもたらす言葉の束縛を受け入れながら、思いは束縛の外に広がる現実の世界を夢想する。それがいつものパターンに違いない。しかしそれでは予定調和のような気がする。そんなことを気にしても無駄か。そんな風にしか語れないのだから、それを素直に受け入れるべきではないのか。しかしつまらないことに変わりはない。つまらないことも受け入れるべきではないのか。つまらないなりにつまらないことを述べていけばいいのではないか。しかし何をつまらないことを述べているのだろう。そんな現状を認めざるを得ないか。認められないことを認めてどうするのか。認められないということを認めているわけか。何を繰り返して述べているのか。その辺で息抜きでもしているつもりなのか。息を抜いて気を抜いて、それからあとは何を抜けばそこから外れることができるだろうか。どうにもならない状況の中で胃が痛むか。胃が痛くてもそこから外れることはできない。何があっても外れることは不可能だから、そこから外れたいと願うのかも知れない。あとは死ぬしかないのかも知れないが、つまらぬ意地を張って死んでしまってはつまらないか。死ねないからそこから外れられない。そんな理由を即興でねつ造してどうするつもりなのか。誰かが死ねないとつぶやきながら死んでしまう物語の最中か。死に神はそんなよくある話を誰にあてがうつもりなのだろう。誰が物語の主人公であるわけもない。そんな成り行きは想定していなかったようだ。だから何を述べているのでもないことになるのかも知れない。ただ誰かが意地を張り通しているだけのように感じられ、何とかそれで言葉をつなぎ止めているつもりらしいが、何か的はずれなことを述べているだろうか。何と闘っているのかわからないか。なぜ闘うことから外れることができないのか。それは闘いの中で生きているから闘うしかないのだろう。どの物語でも結局はそういう成り行きになってしまうのかも知れない。ではそれ以外はあり得ないのだろうか。争いや諍いがないと話にならないのではないか。話そのものが異なる意識間に生じる争い事なのかも知れない。だからすべての登場人物たちはそれを肯定すべきなのだろうか。争いのない平和な世の中の実現を夢想する者たちこそが、争いによって自らの夢を実現させようとしている。そして誰もがそんな行為が矛盾しているとは思わないのだろう。それがそれらの物語が成立する大前提となっているのかも知れない。そしてそこには何もないわけではなく、そこに登場する各個人やそれを束ねている組織や団体固有の思惑が交錯している。異なっていたりずれていたりするそれぞれの思惑を、ひとつに統一させることを目指して、それらの争い事が勃発しているわけか。要するにはじめから実現不可能なことを目指しているわけだ。


8月22日

 それは思い描いたとおりの成り行きなのではないか。ならばそこで狙っていた獲物を捕らえることができたのか。まだそんな段階ではなさそうで、これからハンティングにチャレンジするところか。そんなどうでもいい話はスキップして、語り手は別の話題に取りかかろうとしているようだが、そんなのは嘘に決まっているだろう。奇をてらいすぎているのかも知れない。それは取り越し苦労だろうか。何を心配しているのだろう。何もできなくなるのがそんなにいやなのか。まだそうなると決まったわけではない。人は死ぬのだからいずれはそうなるだろう。死んでもやらなければならないか。やるべきことは死後にやってくるわけか。それはキリスト教的には最後の審判か何かだろうか。そこからどんな物語を紡ぎ出そうとしているのか。できるわけがないだろう。だが理由は定かでない。それは冗談で述べていることかも知れないが、冗談以外にどのような解釈が可能なのか。何をどのように解釈したいのだろうか。それらの状況をどのように解釈すべきなのか。ただ何かを語ろうとしているだけなのか。その何かが何なのかわからない。それでは相変わらずの意味不明だろう。状況に対して皮肉のひとつも繰り出せない。いつからそんな情けない状況に陥ってしまったのか。何もかもを状況にせいにしても始まらないか。何を始めようとしているのか。すでに意味不明な冗談ばかり繰り出しているのではないか。それの何が冗談なのだろう。そんなことを述べながらも、次第に何かの本質を突き止めようとしているのだろうか。突き止めるべきなのは何かではなく、君自身の存在理由か存在原因か。たぶん原因も理由もありはしない。そんなものがあったらそんな風には語らないのではないか。ではどんな風に語っているところなのか。語りもしないのにそんなことがわかるわけがないか。ならばそこで行き詰まるしかないか。すでにはるか以前から行き詰まり続けている。それがそこでの状況の本質だろうか。行き詰まっていなければそんな風には語り続けないか。ではどんな風に語り続けたいのだ。そもそもできることならそれらの鬱陶しい語りを止めたいのかも知れない。しかし止められないからそこに至っている現状がある。ではその現状を前提として、そこからどうやって話を展開させたいのだろう。やはりそんな話などまやかしに過ぎないと思っているのだろうか。そうやって必ず前言を否定しようとするのが、いつもの成り行きなのだろう。要するにそこには出口がないのだ。いくらでも問いかけることはできるが、何も解決に至らない。だから安心していくらでも問いかけることができるわけだ。なぜそうなってしまうのだろうか。行ったり来たりの逡巡を終わらせたくないからそうなるのであり、それをいつまでも継続させたいからそうなるのかも知れない。それは冗談では終わらせられないようだが、誰かは冗談以外に何を持ち合わせているのだろうか。誰かとは誰なのだろう。誰でもない誰かはそれについて何も語らないのではなかったか。それはいつの記憶なのか。過去においてそんなことを述べていたことがあったのかも知れないが、それがいつなのかなんてどうでもいいことか。ではなぜそのどうでもいいことについて言及しているのか。それ以外に述べられないから述べているだけなのではないか。そうだとすればそれはすでに終わりを意味しているのではないか。終わってしまったからそれ以外に何も述べられなくなっているのだろう。しかし終わった後に続いているその語りは何なのか。それもただの冗談の一種だということにしておけば、それでその場は丸く収まるだろうか。無理に無理を重ねているような気がしてくる。しかしすでに終わってしまっているのだから、終わった後に何を語ろうと君の勝手であり、それでかまわないのではないだろうか。しかしそれでは言い逃れに聞こえてしまうだろう。それを誰が言っているのでもないのだろうが、結果的にそれで何を逃れているはずもなく、苦し紛れにどんなに言葉をつなげてみても、終わりを逃れることなど不可能か。そして別にその不可能を可能に転じようとしているわけでもないが、そこで何が終わったのか知らないが、言葉をつなげて文章を構成しようとする試みは、なぜか継続中のようだ。内容を何も見出せないのに文章は存在し続け、一向に途切れる気配はないのかも知れない。なぜそうなってしまうのか。それはいつか発した台詞か。そんな台詞は嫌いだろうか。まだ過去から尾を引いている感情でも残っているのかも知れない。君の内面はまるっきり空洞であるわけでもないらしい。その架空の空洞の中ではもう夜なのか。なぜ現実の夜を空洞の内部に投影しようとするのだろう。それは過去の属する時間帯の今が夜だからか。しかしなぜ夜であることが文章に関係するのだろう。他に何も述べることがないので、強引に夜の話へ持っていこうとしているのか。そんな行き当たりばったりのいい加減さの中に、君の感情が構成されているのかも知れない。そんな空想を思い描くことが、わけのわからない成り行きの中で正気を保つ秘訣か。なぜ妄想のただ中で正気でいなければならないのか。そんなことを述べている者が正気であるわけがないか。だが君は自らが者であることを認めようとしないだろう。では何者でもないのが君であることの証なのか。そんな証などその場のいい加減な思いつきに過ぎないのだろうが、成り行きまかせに偶然性を取り入れて、かろうじて言葉を繰り出している。それがそこでの現状には違いない。たぶんそこには哲学などありはしないのだろう。しかしなぜそこで哲学という言葉を出現させる必要があるのか。だから以前から言葉の存在理由などありはしないと述べているのではないか。だがそれがどうしたというのか。何となくその辺に不自然な屈折感をかいま見ることができるだろうか。何かコンプレックスでも抱いているのか。そこで話を終わらせたいのに、成り行きはそこからさらに話を続かせてしまうらしい。内容のない話を執拗に繰り返したい衝動にでも駆られているのだろうか。誰がそんな衝動の虜になっているのだろう。君はいつものようにそれを否定したいらしく、衝動に駆られている者などどこにもいはしないと述べたいのだろう。何かを述べれば必ずそれを否定したいのはいつものことか。そんな風に述べているから話が終わらないのか。あるいはすでに終わっている話を、それの否定によってリセットしながら反復させているのか。しかしそれは何の説明になるのだろう。説明している当の話はどこで語られているのか。それは今語っているつもりの話ではないのだろうか。しかしそれは何の話なのだろう。やはりただの冗談でしかないのか。


8月21日

 そんなことがわかるわけがない。今から数日後の状況はどうなっているのか。すでに日付的には数日後になっているはずか。何となくそんなことを語っているとため息が出てくる。気を取り直してさらに話にならないような話を続けていくと、まだ状況的には何の変化もなさそうだが、いったい現状がどのように変化してほしいのか。何事にも前向きに対応できるような心境の変化でも期待しているのだろうか。少なくとも未だにそんなことを述べていることに変わりはないようだ。その件についてはもはや終わってしまったのではなかったか。ある意味ではすでに終わってしまったのだろうが、君はそのある意味がどんな意味なのか知らずにいるのかも知れない。ある意味は永久にある意味以外ではあり得ないということか。しかしそんな言葉遊び的な述べ方には誰も動じないだろう。別に誰を動揺させたいわけでもないか。動揺しているはそんなことを述べている君自身か。わざとらしくわけのわからないことを述べながらも、そんな述べ方が可能なことに驚いているのだろうか。たぶんそれは動じないのではなく、まったく話が通じていないのではないか。何を通じさせようとしているわけでもないか。強風が吹きつけてきて、何かが吹き飛ばされてしまったような幻想を抱く。首が曲がっているらしい。傾いた床を斜めから眺めている。そこで言葉を繰り出すのをあきらめてしまうのか。それ以上に何を目指しているのだろう。それらの文章において意味が通るようにしたいのだろうか。それが出来るとは思わないが、現状で感知している何を否定したいのか。そんなわけのわからない述べ方は、真っ先に否定されなければならないか。それを拒否しようとは思わないが、どうなることを拒否しているのか。そうは思わないのに、結果的にそうなることを拒否してしまう。どうにもならないのにどうにかしたいらしいが、それは無理というものかも知れない。それでも時間の許す限り少しでも話を前進させておきたいのか。できないことをやろうとしてどうするのか。何もできなくて落胆を装ってしまうわけか。ではなぜできないのだろうか。落胆する前にもう少し工夫してみたらどうか。何をどう工夫すればいいのか。実際に中身のない話を継続させるために、いろいろな工夫をしているのではないか。そこが崖っぷちなのか。そこから誰に突き落とされてしまうのだろうか。それはどうも違うのではないか。すでに突き落とされて奈落の底から語り続けている。それは即興で思いついたフィクションに過ぎないが、なぜかフィクションの中で何が語られているのかを知らずに、それについて批評しなければならなくなる。しかしそんな嘘ではおもしろくないのかも知れない。そんなことを語っているうちにそうではないような気がしてくる。そしてそのついでに首がさらに曲がってくる。しばらくして曲がった首を立て直して、他に何をしたらいいのかわからなくなる。首が曲がっていたのではなく、ただ寝ころんでいただけではないのか。他にやることがないから、寝ころんでテレビでも見ていたのだろう。ありがちな日常のひとこまとしては、そんなことの方が説得力を持つのではないか。しかしそんな些細なことに説得力を持たせることに、いかなる意味や意義があるというのか。蒸し暑くて何も考えたくなくなってきたのかも知れない。誰かは今日も馬鹿げたことを語っていて、それを利用して絶えず何かをもたらそうとしている。どちらが勝っても負けてもどうということはないのに、条件反射的に騒がずにはいられない人々は馬鹿げているか。君はそこで選挙の話をしているわけではない。論理的に語ろうとするとそこで起こっている出来事のほとんどが、おかしな振る舞いを見せていることに気づくだろうか。あり得ないのはあり得ないことなどではなく、そこで現実に起こっている出来事の方だ。現実に起こっている出来事に対して、それはあり得ないとつぶやいている。あり得ないわけがないか。そんなつぶやきはあり得ない。すべては嘘なのだろうか。嘘であったら楽しいか。無理に楽しく振る舞おうとするのは芝居によくある現象かも知れないが、そんな芝居はあり得ないと思う。それがどんな内容の芝居なのか説明しないうちから、あり得ないはないだろう。政治も芝居の一種に過ぎないだろうか。なぜ人は他の人にその存在を認められたいのだろう。無視されているよりは認めてもらった方が気分がいいか。他人に認められることで、自尊心でもくすぐられたような気になるのか。では君は君のやり方を他の誰かに認めてほしいのだろうか。眠気をこらえて本心を明かす気にでもなっているのだろうか。架空の存在の君に本心などあるわけもないだろうが、それでも誰かは君の本心をどのような文章で表現するつもりなのか。本心をねつ造してどうするのだろう。そこに本心などありはしない。あるとすればそれはいい加減な出来心か。ではそこで悪さをしようとしているのは誰なのか。世論調査の結果に勝てないマスメディアの識者か、あるいは国民を批判できない政治家だろうか。心身の内側から無力感がこみ上げてくるか。何がこみ上げてこようと、それ以上でも以下でもないとしたら、そこに存在しているつもりの心身に何ができるというのか。馬鹿げた行動とくだらぬ言動しかあり得ないのか。それでもあるだけマシなのだろうか。何がマシだと思ってみても、それは単なる思い過ごしかも知れないが、そこに君の本心がねつ造されているとしたら、それはそれでこれから何かを語る上での指標となるだろう。とりあえずもたらされたそれに基づいて文章を構成してみるのもいいのではないか。それで気が済むならそうすればいい。君はそんな風にして構成された文章の中で息づいていることになるだろう。そしてその文章の意図していることが、君の本心そのものになるだろうか。そこに何らかの人格が生じているように思われてくるわけか。それでいいのか。それでよければそれはそれで結構なことか。それで何かを述べている気分になれそうか。そんな気分でいればその先も続いていけるだろうか。君はさらにその文章に乗っかって、自己を延長させてゆきたいらしいが、文章の中でどのような出来事に遭遇しているのか。そこには何らかの具体性が醸し出されているのだろうか。なぜ君の行動が書き込まれていないのか。君は文章の中で何をやっているつもりなのか。それはそれを記しているつもりの誰かが述べることではないのか。それを述べたくないのなら、その理由でも探り出したくなるだろうか。述べたくないのではなく述べられないのかも知れない。しかしいったいそれらの文章はどこに存在しているのか。少なくともそこにあるのはそれらとは似てもにつかない、君の物語からはかけ離れた、どうでもいいような文章でしかないか。


8月20日

 そんなものを見ている場合ではない。テレビを見ながらいつものように何を迷っているのだろうか。別に不可能に挑戦しているわけでもないのだろうが、数日前から文章の継続が中断したままのようだ。君はそこで自らの文章表現に限界でも感じているのか。何かを書こうとして果たせぬまま、意識の中のやる気はだんだん後退を余儀なくされているようだ。何となくギブアップの時が近いのかも知れない。数日後の曇り空を眺めながら、数日前の天候を思い出せないことに気づく。このままの状態でどんどん遠ざかっていって、ついには何もできなくなってしまうのだろうか。そしてそうなってしまった時が終わりの時なのか。しかしこのまま終わってしまっていいのだろうか。どうもそこから言葉が続いてゆかないようだが、要するに何もできなくなってしまったわけか。それがどうしたのだろう。いつもながらのそういう述べ方に呆れている以外は、何も感じていないのかも知れないが、実感として寝不足気味の他に何か理由をねつ造できるだろうか。ねつ造してまで何もできない理由を述べたいわけではないか。何もなければ何もしなければいい。何も述べられないのなら何も述べなければいい。あきらめてしまえば不安を抱くこともないだろう。それでも往生際が悪いのなら、何もないことを何もできないことの言い訳にでもできるかも知れない。かも知れないではなく、実際にそんなことばかり述べているのではないか。しかし今さら何を言い訳できるというのか。終わってしまうことについて、何か不安に思っていることでもあるのだろうか。その不安について君はどう思っているのか。不安に思っていると語ること自体が、得体の知れぬ不安感に襲われていることの表れだろうか。しかしそこで使っている言葉の用法が間違っているのではないか。何をわけのわからないことを述べているのだろうか。それを些細な間違いのせいにしてどうするのか。君は自らが抱いているその思いを、不安と呼んでいいものか迷っているのかも知れない。なぜそれを不安と呼ばなければならないのかわからない。わからないのに不安としか捉えられない精神状態を、客観的にどう解釈すべきなのか。やはりわけのわからないことを述べているようだ。なぜそんなことを語っているのだろう。今さらそんな風に語ろうとする理由など知りたくもないか。ただ苦し紛れに意味不明を装っているだけではないのか。何をどのように問いかけようと、問いかけている対象がはっきりしない限り、その問いかけ自体が無意味で無駄なことなのではないか。それがわかっていながら、なお執拗に問いかけている現状をどうしろというのか。誰が何をどうしなければならないのか。そんな風に語っているうちに、本心からそんなことを知ろうとはしていないことに気づく。ただ投げやり気味に無意味な問いかけを繰り返しているだけか。少なくとも何かを知りたかったのかも知れないが、今の時間帯においては、何を知りたいのか忘れてしまったらしい、などと嘘をつくのはなおのことわざとらしく感じるが、本当に何を忘れているのだろうか。たぶんそんなことを述べていてはだめなのかも知れない。確かにそれではだめなのかも知れないが、それ以外には何も述べられない現状の中にいるらしい。別にやる気をどこかに吸い取られているわけもないが、ただもう何も述べられないような気がしてくる。それでも何も述べられないと繰り返す気はあるらしい。現実にはそのような状況なのかも知れないが、それがどうだというのか。それもいつもながらの判断停止状態か。良いか悪いか決めかねているのがもどかしいのか。それで困ってしまったわけか。誰が困っているのだろうか。君はそれでもそれなりに語っているのだから困っていないのではないか。語りたかったのはそんな話ではなかったはずだろう。本当は何も語りたくはなかったのではないか。たぶんそれが図星かも知れないが、ではなぜ意に反してそんなどうでもいいようなことを語っているのか。暇つぶしにそのわけを知りたくなるのだろうか。さあいったいなぜなのだろう。暇で他に何もやることがないから、そんなことを語っているだけか。あるいはそんなわけではなく、適当に暇で同時に適当に忙しいのが、今の状況なのかも知れず、確かに状況をそう捉えれば、その通りかも知れないが、その適当さ加減が気に入らないのかも知れない。気に入らないと同時に、その加減がわからないのではないか。ところでもう少し中身のあることを述べられないものか。自らが記してきたことを後から読み返してみれば、その愚かさに気づき、少しは正気に戻って、まともなことを語ろうとするようになるか。だがそんな期待を踏みにじってきたのが、ここまでの成り行きだったのかも知れない。そんな過去を振り返ってみても虚しくなるだけだろうか。しかし状況はここに至り、もはやそんなことを述べている場合ではないのかも知れず、だがそれでもそんな風にでも語らなければ、何も語れなくなってしまうのかも知れない。要するにどうにもならなくなっているということなのか。たぶん誰かはそんな風には思っていないのだろう。では何かがどこかで微妙にずれているのだろうか。語る機会を外してしまっているのかも知れない。君はそこで何を語ればいいのかわからない。この世の中に存在する具体的な何かを批判したいのに、批判を展開させる糸口がつかめなくなってしまったらしい。何を批判すれば気が済むのか。気が済むから批判するわけでもないだろう。では何も批判できないのが気にくわないのか。気にくわなくても批判できないのだから仕方がないだろう。そしてそんな風にして語っていること自体も気にくわないのではないか。まさに現状は気にくわないことだらけなのに、それについて何も批判できない。ではなぜそうまでして語らなければならないのか。それがわかったら苦労はしないだろうが、ただわからないだけではだめなのであり、わからなければわからないと語らなければ気が済まないらしい。そんな風に語りながらも、語っているつもりの顔に何らかの表情が貼り付いている。そのにやけた表情が気に入らないのであり、君はそんな現実を認めるわけにはいかないか。それは疲れの表情か何かのつもりか。人々はフィクションの中での争い事に興味を持っているようだ。現実には何と争っているわけでもなく、ただその馬鹿馬鹿しさに呆れ返っているだけかも知れない。馬鹿馬鹿しいと思っていないと、周りを取り巻いている虚無に取り込まれてしまう。できることならそれが何かの思い違いであってほしいとも思っているが、それほどまでに苦労して、君はいったい何をやっているのだろう。それが無意味な行為だとは思わないのか。


8月19日

 現状に対して何も思わないのだが、それはなぜなのだろう。たぶんそれは嘘なのではないか。この世の中に生じている物事について、どのような疑問を抱いているのでもないが、なぜか何とも思っていないのに、それはなぜなのだろうとしか述べられなくなる。そんな成り行きに嫌気が差しているのだろうか。だが実際に他に何も述べようがないらしく、たとえ君が何を述べようと、誰もがつまらないことで騒いでいる現状は変わりないようだが、何となくそんな状況に違和感を抱いているらしい。しかし違和感とは何なのか。別に指先にしびれが残っている原因を知りたいわけではないが、君が気づいていないところで、何かが限界に近づいているのかも知れない。焦っているのだろうか。それが焦りを覚えるほどの状況なのか。たぶん焦っているのは事実なのだろう。しかもその焦りを解消することはできない。焦り続けていることが日常の一部と化している。焦っていないと何もできないのだろうか。何もできないから焦っているのではないか。何かをやりながら、それが思い通りに行かずに焦りを覚えているのかも知れない。しかし他に焦る理由などいくらでもありそうだ。焦っていること自体はどうということはないのかも知れない。確かにそんなことはどうでもいいことかも知れないが、今は焦り以外に述べることがないのだろうか。他に何を述べようとしているのか。数日後の空は曇っているようだが、まだ雨が降ってくるような気配はなく、別にそんなことを述べたからといって、この先誰かの行動にどのような影響を及ぼすこともないのだろうが、つまりそんなことを述べても無駄なことなのかも知れず、無駄なことしか述べられない現状に焦りを覚えるらしい。また焦りながらも他にどのようなことを述べられるだろうか。指先がしびれているのはキーボードの叩き過ぎか、あるいは重いものを持ち上げる時に必要以上に力を入れすぎたのか知らないが、それも述べる必要のない無駄なことなのかも知れず、やはりそんな現状に君は焦りを覚えるらしい。しかしそれがどうしたというのだろう。できないことをやろうとしているわけでもないが、何となくできなくはないように思われることができない現実に直面しているのかも知れず、そのような状況にやはり焦りを覚えているのかも知れない。やろうと思えばできるようなことができなくなってしまうらしいが、君はそこで何をやろうとしていたのか。やろうとしていたそれがわかれば、やることができるのだろうか。わかることと実際にやれることとは次元が違うかも知れないが、現実にやっていることがそれではないのだろうか。今やっていること以外に何をやれというのか。誰がそんな指令を発しているのだろう。しかしそれはいつものパターンで、誰もそんなことは要求していないし、それ以外にやることなど何もないのではないか。なぜか予定調和気味にそんなことを述べていると虚しくなってくる。そしてそんな状況に焦りを覚えているのわけか。それは強引な辻褄合わせかも知れないが、そんな風に述べていないと、それ以上は何も述べられなくなってしまうだろうか。何を心配しているわけでもないが、とりあえずそれでもかまわないのかも知れず、そんな風に述べている現状を変えようとは思わないのかも知れない。しかし誰が何を思っているのだろう。君はそれについてどう思っているのか。君の返答など端から期待はしていない。現世に存在しない君に期待することなど何もないか。君は過去に存在していた者なのか。それとも過去にも未来にも存在し得ない者なのか。誰かは君について何を想像しているのだろう。戦い方がうまいと思う。それはさっきまで読んでいた漫画についての感想なのではないか。何よりも飽きさせないための工夫がある。興味を引き寄せる術を心得ているわけか。意表をついているのかもしれない。内容に驚きが伴っているのはすばらしいことだろうか。それをいかにして忘れられるだろうか。なぜ忘れなければならないのか。おもしろすぎるものは忘れるに限るか。なぜか忘れてしまいたくなる。幻想的なフィクションの虜となっている意識の一部を切り捨てたくなる。もはやそんなおもしろすぎるものにかまってはいられなくなる。しかしそれは矛盾しているのではないか。おもしろそうなものを求めて、それを手に入れて賞味したら、今度はそれを捨て去りたくなる。なぜそんなことをしなければならなくなるのだろう。ただ気に入らないだけなのか。何が気に入らないのだろうか。何が気に入らないのかわからないのが気に入らないのだろうか。それを敷衍することはできない。だが気に入らないことはそれ以外ではなさそうだ。それ以外を導き出すことはできないのだろうか。なぜそれ以外を求めているのか。それを求めることは許されないのだろうか。だが何を求めているわけでもないような気もしてくる。それ以外は何もないのかも知れないが、何かあるように見せかけることにも失敗しているのかも知れない。この期に至ってそんな小細工は通用しないか。だが他に何が通用しているわけでもなさそうに思える。そこで何を通用させたいのだろうか。意味のない無駄なことをやっていることを認めてほしいわけか。そんなことが認められるはずもなく、それ以外にはやりようもないとしたら、そこから何をやればいいのだろう。何もできないから文章を記しているのかも知れないが、その文章の内容すらも認められないとしたら、そこから先にはどうやって生きて行けばいいのだろうか。何もやらずに生きて行けると思うか。それでは生きていることにならないだろう。たぶん現実に生きているはずがないのかも知れない。実際に誰がそこで生きているわけでもなさそうだ。そこには何も存在しない。確かに存在しないが、あり得ない意識を存在させているつもりになりたい。誰がそれを望んでいるのか。意識の存在を求めているのは誰なのだろう。そんな風に語っていること自体がおかしいか。あり得ないことをあり得ないように語っているのかも知れず、架空の意識はそれを理解することができずに、途方に暮れているふりをしている。そんなのは嘘に決まっているだろうか。だが嘘であろうとなかろうと、そんな風にしか述べられない状況の中に、誰かの実体は存在しているのかも知れない。要するに君はそこであり得ないことを語っているわけか。あり得ないと同時に理解できないようだ。理解できないようなことをやっているようだが、なぜそんなことしかできないのだろう。現実には他にいろいろなことをやっているはずだ。ではなぜそんなことしかできないと嘘をつくのか。嘘をつかないと話が先へ進まないからか。しかしいかにそれで話を継続させようと、そんなやり方では虚しくなるばかりのような気がするのだが、それでかまわないのだろうか。かまうはずもなくかまわないわけもなさそうだ。どちらでもないしまたどちらであってもかまわない。


8月18日

 どうも感覚にずれが生じているようだ。たぶん数日後の天気は曇っているのだろうが、君はそこで何を眺めているのだろう。そういう述べ方では嘘になるだろうか。夕暮れ時の空を眺めて何を思っているのか。いったい今はいつなのか。そんなわかりきったことを誰に向かって問いかけているのか。数日後ならそれは今なのだろうが、過去に属する日時においては、それは未来の時空に存在していて、未来と過去の狭間で今を見失っているのというわけか。現状としては時間だけがどんどん先に進んでしまい、文章の方は過去の時間帯に置いてきぼり状態のようだが、そこで君は何をやっているのか。確か文章を記す作業をひたすら継続させているらしいが、内容としては何が述べられているわけでもないように思われる。確かに何かしら述べているらしいが、何かが分散状態のままで、それ以上は言葉の断片を寄り集めることができない。要するにそれを継続させることが困難になりつつあるのだろう。そんなこともわかりきったことかも知れないが、君はそのとりとめのない文章をどうするつもりなのか。読んでいるうちに眠たくなってこないか。なぜ君は眠っているのに目が覚めたふりをしているのだろう。そんな嘘もわざとらしく響くばかりのようで、君にそんな芸当ができるはずもないが、実際には眠っているのでも目覚めているのでもないようだ。眠っていたり目覚めているという状態を担っている主体がそこには存在しない。もとからそこには誰もいないのだからそれは当然のことか。しかしそんな論理は通用しないだろう。それらのどこに論理があるのだろうか。誰もいないのに、そこで眠っているとか目覚めているとかいう文章を記すのはおかしいのではないか。誰もいなければ何も生じないか。虚無の中に言葉などありはしないだろう。しかしそれがどうしたというのだろう。どうしたわけでもないが、いつものように君はそれが気に入らないようだ。だが今さらそんなことを述べてみても仕方がないのではないか。いくら現状が気に入らなくても、何も語ることがないのだからどうしようもない。何もないように思っているだけなのかも知れない。何もなくても君には幻想があるはずか。荒唐無稽な妄想に従って文章を紡いでみせればそれでいいのではないか。それでいいはずもないが、それ以外にやりようがないような気がしているのではないか。しかしそれでは敗北を認めてしまうようなものだろう。だからそんな妄想に逆らって、わざとそこから幻想の物語に移行できないように語っているのかも知れない。誰が文章の中で行動しているわけでもなく、そこからどのような物語が始まるわけでもないが、やはりそれでは文章が続いてゆかないか。それは文章の種類にもよるだろうが、そこで意識から現実に感じている事物が遠のき、その代わりに何も述べられなくなり、妄想を心から排除することが、思考の停止と感性の石化を招くのだろうか。厳密には何を述べているのでもないが、そこに醸し出されている雰囲気は、君の嫌いな理性の支配と、感情の紋切り型的な出現を思い起こさせるのかも知れない。しかし例えばテレビの中で奏でられている言葉遣いの醜さを心から排除できるだろうか。君はわかりやすくて簡潔な言語表現が嫌いなのか。そこに誰もいなければそれでかまわないのではないか。いったいそこに誰が存在していると思っているのか。何を今さら白々しいことを述べているのか。何となくそれではつまらないような気がするのだが、やはりさっきから何を述べているのでもないのだろうか。何かを述べることが困難なことには変わりがないようだが、何をいくら述べていようと、君の存在を否定したい誰かは、そんな風には思わないように心がけているのかも知れない。それも何かの方便だと見なせば、それで済むことかも知れないが、ところで誰がそんな思いを抱いているのだろう。それが誰であるにしろ、もう少し素直に、あるいはあからさまに述べた方がいいのではないか。途中から何を述べているのかわからなくなっていることを率直に認めなければならないだろうか。だが自らが何を述べているのかわけがわからなくても、それでも冷静でいられるのはどういう風の吹き回しなのか。その愚かな言い回しを風のせいにすることはできない。つまらない理由をどこに投げかけているつもりなのか。そこにどのような逃げ道を設けているのだろう。なぜ逃げようとしていることを認めようとしないのか。君の文章が誰かには認められない理由を知り得ないのはなぜだろう。その誰が誰だかわからないから、理由など知りようがないのだろうか。たぶんそんなことを知りたいとは思っていないのだろう。ではなぜそんな風に思いもしないことを語ってしまうのか。知りたいことは別のところで述べているのかも知れない。そこで君はいい加減なことばかり知りたくなっているように思われる。だがそれも嘘なのだろう。そこからどのような成り行きに持ってゆきたいのか。嫌なことはすぐに忘れてしまいたいのか。それ以前に嫌なことを思い出せない。ではそこで何をやっているつもりなのか。何をやっているつもりもない。ならばそこで何も見出せないのは嘘なのか。では嫌なことを忘れているのなら、誰がそこで苛ついているわけでもなさそうか。さらにおかしなことを述べているようだ。君は何に気づいていないのだろう。どうでもいいようなことを述べている事実に気づかない。だがそこから何をどう取り繕うつもりなのか。何も見出せないふりをしているらしいのは、大した誤謬とは思えないようだが、さらに大きな誤りに気づくことはないだろう。本当に目が覚めているのだろうか。何かしら述べているのだから少なくとも目は覚めているのだろう。しかしそんな風に述べてはいけないのかも知れない。何を気にしているのかわからなくなる。君に尋ねたかった内容はそんなことではなかったのか。何がどこで生じているのかを知りたくなるが、それがまともな文章であるとは限らないだろう。ではいつものようにわざとおかしなことを述べているのだろうか。話の辻褄が合わないように思われるのは気のせいか。また何を述べているのでもないように思われるのも、何かの勘違いなのか。どうもそれは違うような気がしてきた。なぜそんな風に語ってしまうのかを知りたいのではなく、それについて何を語りたいわけでもない。語っているのは君ではないのかも知れない。その点に関して誰かの予測は完全に外れている。何をどういじってもそれらの破綻を避けることはできない。まだまだ調整不足なのだろうか。あくびとともに目が覚めたようなつもりになる。別にことさらに矛盾したことを述べようとしているわけではないが、君はまだ夜の世界に属しているのだろうか。しかしそこからどうやって戻ってくるつもりなのか。昼のまぶしさに生身の身体が溶けてしまいそうになるわけもなく、ただ昼の世界に未練があるだけか。そんなわけでわざと意味の食い違うことを述べているのか。それはどんなわけでもなさそうだ。それらの意味など知りたくもないか。だがそこから走って逃げる気はしない。疲れてしまって走る気力も残っていないのか。


8月17日

 騒ぎ屋が騒いでそれに乗り気の人たちが一緒になって騒いでいるだけか。そして誰かは依然として同じようなことを述べている。何を述べているのかわからないのは相変わらずのようだが、それで何かを述べたつもりなのか。それともまだ何も述べていないことになっているのだろうか。昨日も似たようなことを述べていたのかも知れない。しかしなぜいつまで経ってもそんな状況から抜け出られないのだろうか。どこへ向かって何が語られているのか。そんなことを述べたいわけではないが、そんな風にしか述べられない状況を変えることはできない。さっきから何が気になっているのだろうか。誰かが何かささやいているような気がしてくる。そんな嘘をついてその先に何を続けようとしているのか。そこには何もないと思われるのは、単なる勘違い以上の何がそう思わせるのだろう。それは髪の毛の質や髪型の問題だろうか。君はなんて馬鹿なことをやっているのか。だが架空の君が何をやろうと、生身の誰かには関係のないことかも知れないが、理性的に振る舞おうとしているのに、テレビドラマの登場人物に感情移入してどうするのだろうか。意識はそこからどこかへ移行すべきなのかも知れない。そこに生じている感性の中の何を移行させればうまくいくのか。いったい政治家は何を変革させようとしているのだろう。案外またいつもの嘘をついているのかもしれないが、君は本気でそんなことを述べているのではないらしい。そんな風に述べることによって、どのような未来がもたらされるわけでもないらしい。何の予感もしないのだろうか。それでもその場には何かがもたらされているのだろうか。何がもたらされているように思われるのか。わかりきったことを問いかけないでほしいか。誰に向かって問いかけているのかわかっているつもりか。君は少々悪のりしすぎなのかも知れないが、そんな状況に直面した誰かは、それについてどう述べていいのかわからなくなる。君にはその困難な現状に関してどの程度の分析能力が備わっているのだろう。それを分析してどうするのか。そこから何がわかるというのだろうか。何もわかりはしないか。何をわかろうとしたいのかわからない。君は現状の何もわかろうとしていないのではないか。状況に感覚を合わせられないのかも知れない。すぐにそれがどうしたと思ってしまう。どうもしないように思えることについて、他に何を思えばいいのだろう。ただわからなくなるばかりのようだ。そしてわからなくなってそこで行き詰まってしまう。そんなことの繰り返しの中から抜け出ることは不可能なのか。いったい君には何が見えているのだろう。何も見えていないわけではないだろうが、ただ何かしら見えているそれに興味を抱けないのか。ならばそこからいかにして文章を構成しようとしているのか。すでに何か適当な内容を記しているのだろう。しかし君はそれで満足しているのか。誰がそれで満足しているのだろう。では何をつまらないと感じているのか。世の中がつまらないのではなく、君自身の述べていることがつまらないのではないか。たぶんそれも勘違いの一種かも知れない。そんな君の思いとは関係なく、どこかの政治家が世の中を変えようとしているらしいが、政治で変えられる範囲にも限りがあるのかも知れない。今さらそれの何を批判しても仕方がない。誰かは今の政治がそれほどひどいとは思わないし、それを伝えるメディアの伝え方もそれほどひどいとは思わない。ただ退屈に思われるだけだろうか。要するにそんなことはどうでもいいことなのかも知れない。たぶん誰かは焦っているのだろう。メディアの報道に惑わされて道理を見失い、化けの皮がはぎ取られてしまったのか。どうもこれからもつまらない世の中が続いていくような気配になってきたようだ。結局は誰も真実を語り得なかったのかも知れない。この世界の真実とは何なのだろう。すべての人々が自らの考えの浅はかさを隠そうとしている。自らが馬鹿である事実に耐えられないのだろうか。君はもう終わりかも知れない。しかし架空の存在が終わりとなっても、誰の懐も痛まないし、それで一向に差し支えないのではないか。ではそこから何を述べても無駄なのだろうか。それで君は架空の相手の裏をかいているつもりなのか。この期に及んでなぜそんなわけのわからないことを述べているのか。やはり誰かは馬鹿なのではないだろうか。だが馬鹿の何が悪いのだろう。今馬鹿であればこれから利口になる可能性があるか。しかし馬鹿から利口になってどうするのか。馬鹿のままでも仕方がないか。だが馬鹿が利口になろうとすることほど愚かなことはない。なぜそう決めつけるのだろうか。何を決めつけようとしているのか。馬鹿であったり利口であったり愚かであったりすることが、それほど重要なことだとは思えないのはどういうわけか。たぶんどういうわけでもなく、他人や自分を馬鹿だとか利口だとか愚かだとかそう簡単に決めつけられないのではないか。そのように見なす理由がどこにも見当たらない。そのついでに君が何を語ろうとしているのか理解できない。やはり君は現状の何も把握していないのか。そこからどこへ行こうとしているのか。行き先もわからずに行けるはずもないだろう。意識は行く当てもなく文章の中で言葉を繰り出しながら彷徨っているだけなのだろうか。君にどんな役割があるわけでもない。君はわざと無様な敗北を演じようとしているだけかも知れない。愚かな人々を道連れにして、あえて罠にはまってみせるつもりなのか。そんな役目が誰に割り当てられているわけでもないだろうに。たぶん誰かの興味はそんなところにはなく、とりあえずこれを機会に騒ぎ屋の信用が地に落ちてほしいのかも知れない。いつまでも騒ぎ屋の言うことを真に受けていては、現状の改善など何も見込めないだろうか。しかし現状が改善されてどうするのか。何がどう改善されたら気が済むのだろう。現状とはどのような現状なのだろう。何も見えていない視界が見えるようになってほしいか。君は世界がどのような具合に見えてほしいのか。なぜ君の望むとおりに見えてしまってはいけないのだろうか。それでは予定調和になってしまうからつまらないか。見えてしまうことがおもしろかったりつまらなかったりすることがおかしいような気もする。もしかしたらどんな風にも見えてほしくはないのかも知れない。何も見えていなくても一向にかまわないか。それでも何かしら見えているはずで、実際に何かしら見えているように感じられる。君の前にはそんな視界が開けているのだろう。それが存在する根拠も理由も求めず、見えているものをそのまま見ているだけなのかも知れない。それ以外にどのような視界が必要なのか。


8月16日

 暇にまかせてまた安易なことを考えている。たぶんそんなことはわかりきっているのかも知れない。そんな決まり文句で心が動くわけもないが、それに対応して誰が誰のために何をやっているわけでもない。君はまだそんな場所に留まっているのか。しかしそこで何を見ているのだろう。そこでは具体的に何がどうなっているのだろうか。この世界に興味を惹く事物は何も存在し得ないのだろうか。何をわけのわからないことを述べているのだろう。わかっていることはいくらでもあるはずか。とりあえず君の心の内に喜怒哀楽を感じ取ることができない。だが同じようなことをやっているのは君だけではないはずか。何の継続が無理になっているのだろうか。現実にそれを続けることが困難になりつつある。実際にかなり無理なことをやっているらしく、そしてそれをやり続けようとしているようだ。君はそれをやり続けることによってどのような状況をもたらしたいのか。何をもたらしたいわけでもなく、もはや不可能に直面し続けるだけの気力が残っていないのかも知れないが、それでもそれはつまらない達成感にでも結びつくのだろうか。いつまでも屁理屈をこね回しているメディアが述べていることを真似るつもりはないが、それでも苦し紛れに何を計算しているのか。いくら計算してみても達成できる見込みはなさそうに思われる。もはやそこには何も残っていないのではないか。そこから逃げ出したくなる気持ちを必死に押さえ込んで、意識はわけのわからない状態のままに、いくら試みても何も思いつかないが、それでもねばり強く言葉を並べている。現状はそんなところだろうか。だがそのような状態がいつまで持つのか。なぜそれを継続させようとしているのだろう。そんなことをいくら続けても、何も述べていないことに変わりはないのではないか。意識はそんな状況にいつまで耐えられるだろうか。無意識のうちに悲鳴を上げているような気がする。しかし一方でそんな思いを無視して、誰かが言葉を並べている状況になっているのかも知れない。しかし結果的に何がどうなっているわけでもない。この期に及んでいつもながらの虚しさを呼び込んでも無駄だろう。ではいったい何を感じているのか。そこで感じているつもりの違和感とは何なのか。そんなものを感じているわけもなく、ただ何でもないようなことばかり述べようとしているだけか。昨日の誰かが鶏の鳴き声に気づいて目が覚めているようだ。別にそれがどうしたわけではないが、たぶんどうにもならないことについて何を述べてみても始まらないだろう。たぶん何を述べようとしているわけでもなさそうだ。その場に漂っているおかしさの中に見えていない部分がありそうだ。本当にこの世は馬鹿な人々によって牛耳られているのだろうか。わざとらしく話題をねつ造しようとする人々の気が知れないが、それがなければ他に何ももたらされないのではないか。本当にそうであるならば、逆に何もないということはすばらしいことなのかも知れない。いくら無理に述べようとしても無理なものは無理でしかなく、そんな無理を承知でさらにそんなことを述べているのだから、確かにそれは無理には違いないが、その無理な状況をことさらどうにかしようとしているわけでもなさそうだ。いくら述べてもそんなことを肯定できはしないか。肯定する代わりに偽りの否定を辺り一面にまき散らしているだけのようだ。だがそんな風にして無理に何をやろうとしても、状況がそれを受けつけない。その時点でもはやどうにもならないことに変わりはない。そしてどうにもならなくてもどうにかしようとしていることにも変わりはない。そんな地点で二種類の虚無がせめぎ合いをしているようだが、唐突に記された二種類の虚無とは何なのか。虚無に種類があるわけもないか。それこそが偽りの否定に属する文章表現なのかも知れない。だが結果的にはわけのわからないことを述べていて、そんなことなどどうでもいいことであって、どうにもならないようなことを述べているのだろうか。それはどういうことなのだろう。そこで何をあきらめようとしているのか。文章のわかりやすさなどとうにあきらめてしまったことではなかったのか。それとも今頃になって、つまらないことで意地を張っているわけか。だがいくら意地を張ってみても、できないものはできないのではないか。その実態としてただ無駄に言葉を並べている現状があるわけか。もしかしたらそれこそが虚無に過ぎないのだろうか。仮にそれが虚無であったとして、それがどうしたというのだろう。どうにもできないからそうなってしまったのか。それで何となく話の辻褄が合うだろうか。辻褄が合ったとして、それがどうしたというのか。いつまでもそんなことを述べていても無駄だということなのか。そこで踏みとどまらなければならないか。しかし何のために踏みとどまろうとするでもなく、ただそこで踏みとどまっていたいだけかも知れない。そうすることで満足感でも得られるのだろうか。その辺がわからないところだが、それは単に言葉の迷路で彷徨っているだけかも知れず、それらの文章の中にそれを記している者が伝えたい内容など何もないのかも知れない。少なくとも記している者自身がそれを感知できていないのかも知れず、それでも読者に作者のあずかり知らない何かを感じてほしいのだろうか。しかしなぜ想定されている架空の内容に作者が関与していないといえるのか。いちいち読者の思い込みなどに関心を持つのは面倒臭いのか。そんな次元の話ではなかったはずか。やはりいつものように疲れてしまったのかも知れない。また何となく語るのが馬鹿馬鹿しくなってきたように思われる。そこから降りたくなってくる。早急に何か対策を講じなければならないか。だがいったん怠惰に傾いてしまった意識を元に戻すのは難しい。さっきからそれらの文章の全体を把握できなくなっているのかも知れない。安易なアニメ話に呆れてものもいえなくなってしまったのか。この際そんな話などどうでもいいことだろう。またいつものように全体主義的な統治に立ち向かう自由の戦士に関する話になってしまうわけか。いつまでそんな話を繰り返せば気が済むのだろうか。そこで演じられているそれらの美学は、全体主義という体制が存在しない限り輝くことはない。要するにそれらの戦いのすべては予定調和でしかないわけだ。六十年前の全体主義を今に再現してもリアリティなどありはしないが、それに気づかない愚か者が多すぎないか。すべてがそのような雰囲気に流されている。話の成り行きが安易すぎるのかも知れない。そしてその安易さを真に受ける愚か者が多すぎるのだ。そのような全体主義を取り去った後に生じたとりとめのなさが、今の世界を覆っていることに気づかない愚か者が多すぎる。


8月15日

 なぜいつまで経っても始まらないのだろう。始まりたくても始まれないのだろうか。選挙なんて君にはまったく関係のないことか。また雨が降ってきたらしい。相変わらず誰かは間違ったことを述べているようだ。たぶんその先もつまらない内容になるだろう。確かに君にとってはつまらないことかも知れないが、それが誰にとってもつまらないこととは限らないだろう。ではこれからさらにつまらないことでも述べてみようか。何をひねくれているのか。何となくあり得ないことを述べているらしい。そんな状態で何もない空虚に耐えている。本当にこの先には何もないのだろうか。何もないことはどれほどの苦しみを伴うのか。そこからどうやって逸れることができるのだろう。そうやって本当は何もないわけではないのに、わざとらしく何もないと嘘をついているわけか。ならばそんなくだらない言葉遊びはもうたくさんか。どうもすでにそこから逃げているのかも知れない。そんな嘘をついて、逃げられないのに逃げる振りを繰り返している。案外本当に逃げようとしているのではないか。いくら逃げているつもりでも、逃げた先で出会うのは、生身の体験とは無縁の気休めの映像でしかなく、そのすべては娯楽でしかなさそうに思われる。そんな馬鹿げた状況の中で、君は何も考えていないようだ。考えられないのかも知れない。娯楽にしてみれば考えさせるわけにはいかないのか。そんな状況の中で考えることは無理なのだろうか。ただあり得ないことをあり得ないように思っているだけのようだ。それは当たり前のことではないのか。何を当たり前のように思っているのだろうか。考えること以外は何も思っていないと思いたいわけか。そんな思いを二重に重ねようと、それではだめだということになっている。何が君をだめにしているのだろう。君自身が君を腐らせている。何をすらすら述べているつもりなのだろう。しかし考えようとすると、とたんに言葉に詰まってしまい、世間的な話題に近づこうとすると、どういうわけか眠たくなってしまう。世の中は君の想像をはるかに超えて動いているのかも知れない。その世の中からはじき出されたつもりの君は、また馬鹿なことを述べようとしているらしい。馬鹿なことしか述べられないのだろうか。今の君にはそれ以上を求めてはいけないのかも知れない。何もできないことによって時間稼ぎをしているわけか。何をする時間を稼いでいるつもりなのか。時間稼ぎをする必然性を導き出せない。では今回はそこで行き詰まってしまうのか。しかし本当にそこで言葉遊びは終わりになるのだろうか。何となくそれだけでは物足りないか。それだけでは子供だましの一種にしかならないだろうか。しかしそんなことばかり述べていても仕方ない。でも世の中にはそんな状況が満ちあふれているように感じる。たぶん今の君の力ではそこから遠くへは行けないのかも知れない。ならばもうその辺であきらめたらどうなのか。所詮何もなければやりようがないか。仮にそこに目標があるとすれば、それは遠すぎて何だか判別できないような目標になるのかも知れない。その架空の目標へ到達するのはエベレストへ登るよりも難しいとは思わないが、その姿がはっきりと捉えられないので、今のところ何が目標なのかわからない。しかしそれでは目標ではないのではないか。また何かを述べようとすると、述べている途中からそれが違うような気がしてきてしまい、結果的にそうではないように思われてしまうらしい。そんな風に思われるのはどうしてなのか。それはどういうことでもなく、ただそういうことでしかないのだろうが、それでは何の説明にもなっていない。それ以前に何を説明しようとしているのかわからない。いつものようにわけがわからなくなっているようだが、混乱の極みにでも達してみたいのか。しかしそれでは当然のことのように、無駄で無意味なことを述べていることになってしまうか。それはそれでかまわないが、そんな状態から一向に抜け出られないことは確かであり、いくら言葉を弄しても無意味であって、以前と同じようなことを述べている現状に変わりはない。もちろんそれで満足するはずがないが、そこから安易なわかりやすさに傾いてしまうのは、何としても避けなければならないか。しかしそうする理由など何もなく、ただそんな風に感じているだけかも知れないが、そんな風にして脈絡のないことを述べている現状をどうすることもできない。やはりそれではだめなのだろうか。そんなことばかり述べながら、悪戦苦闘している当の状況から見放されている。君はそこで何と闘っているつもりなのか。相手もいないのに闘ってどうするのだろう。しかし闘う相手が明確であるのはおかしな状況かも知れない。例えば格闘技系の試合の中で、リングの中で闘っている者たちは、相手との闘いや自分との闘いやルールとの闘いや観客との闘いの中で、それ以外の何と闘っているのだろう。何をわかりきったことを述べようとしているのか。そこで意味不明なことを述べるなら、彼らはいつも冗談との闘いに敗れている。それとは関係のない時空で繰り出された言葉に負けているのかも知れない。彼らはそこでやる必要のないことをやっている感覚を忘れている。やるべきことばかりやろうとして、精神に余裕が感じられない。意味のないことをやらされていることに無自覚なのかも知れない。見せ物という実態の希薄な成り行きなの中で、虚無を否定しながら朽ち果てようとしている。結果的に馬鹿なことをやっているのだろう。選挙もそれと同じことだろうか。どうでもいい人々の中から勝者を選ばなければならないのが馬鹿馬鹿しく感じられるが、どうでもよくない人など存在し得ないように思われることが、そんな現状が冗談のように思われるだろうか。世の中はおとぎ話の中の登場人物だらけなのか。誰もそんな状況を笑えるはずがないか。しかし君はそこで何を述べているのだろうか。選挙によって社会がどうなってほしいのだろう。君はつまらない制度に従うことに疲れているのかも知れない。またつまらない人々に同調することに苦痛を感じているのかも知れない。なぜそれらのメディアが嫌な感じをもたらすのか、その原因を探ろうとは思わないが、理由のわからない嫌気が差していることだけは確かなようで、疲労とともにやはりそこから精神的に逃げているのだろうか。何となくそこで終わりとなってしまうような予感もしている。終わりたければ終わりにしてしまえばいいのかも知れないが、素直に終われるかどうかはわからない。もしかしたら文章の途中から何かの萌芽が生じているのかも知れないが、それについて何を述べようとしているわけでもなく、本気でそんなことを述べようとしているのかどうかはわからないが、案外今は笑ってしまうような状況なのかも知れない。事態を深刻に捉えることはできない。どう考えてもそれは他人事なのだろうか。何となくそう思われてしまう点で、メディアは過ちを犯しているのかも知れない。


8月14日

 何を探しているのかわからない。世界のどこに何があるわけでもない。例えばアフリカには何もないと感じるのは、勘違いには違いないが、何も神秘主義的な言葉を繰り出すまでもなく、また目の前を何も思わない意識が通り過ぎてゆく。誰の意識でもない意識が誰かの心の壁をすり抜け、空気以外に何もない空間の中に染み込んでいくように感じられ、いつの間にかそこで消散してしまったらしい。どうも何を述べているわけでもない状況に変わりはないようだ。いつまで経ってもそんな風にしか思われないようで、たぶんそこからある程度は紆余曲折を経なければならないのだろうが、またうんざりするような回り道を通りながらも、結果的にうまく事が運んでくれたりするのだろうか。世の中にはやむを得ない状況というものがあるらしく、いつものように言葉以外に何も見出せない君は、そこで相変わらず理由もなく迷っているようで、また苦し紛れにわざとらしい演技をするとすれば、混乱のただ中で動揺の色を隠せないのはわかっている。それはありもしない仮定であり、つまらない嘘になるだろうか。君はそれでもまだ文章の中で生きようとしているのか。しかしその状況ではまともに呼吸することさえできないだろう。もっとも架空の人格には呼吸など不必要か。それ以外に何が要らないのかを知りたいとは思わないが、そんなはずはないと思いながらも、そこから先に言葉をつなげられないことに気づく。この意味のない世界の中で、何を闘わせようとしているわけでもないが、弱点はいくらでもありそうだ。事物の本質を捉えきれていない。弱点があるのはそれらの事物ではないのか。遠からず朽ち果てる運命にあるのはどちらの方なのだろう。何と何を比較しているのかわからない。何をいかにして語ろうと、物語のすべてはご都合主義に覆われているのかも知れないが、その中で何が不自由となっているのか。もはや何もできないように思われる。またそんな嘘を打ち消しながらも、そこからどうやっていつもの感覚を取り戻そうか。生還するための努力を惜しんでいるつもりはない。しかし今さらそんな感覚など必要ないか。理由もなく持ちこたえようとしているわけでもなく、たぶん絶えず壊れながらも、その都度感覚が更新されていってしまい、特定の感覚を保持することなどもとから不可能なのかも知れない。君はやはりそんな風に思いながらも、今ある現実を見失い続ける。それが誰にとってもおかしいと思われるのは当然のことだろうか。普段とは明らかに感覚が違っているように思われるが、それ以前に持っていた感覚と今の有り様との類似点にでも気づいたのか、そこから何やら思いもよらぬ転調をもくろんでいるらしい。いったい何がそれと似ているというのか。たぶん数年前と状況が酷似しているような気がするのだが、過去の君は意味を伴う言葉に飢えていたのではなく、その使い道を誤っていただけなのかも知れない。ただわけがわからないように語りたかっただけなのだろうか。そこで揺れ動いているのは心などではなく、失敗を恐れて臆病風に吹かれていただけなのかも知れない。何かを取り違えているのは以前からわかりきっていたことであり、なぜそれが勘違いだと思われるのか、その理由を探ろうとさえしなかった。それでうまくいくはずもなく、無理に状況を動かそうとして動くようなものでもないだろう。心は何を操っているのでもないらしい。いつまでも操作する対象を見つけられないのか。操作方法を知らなければ操作できないだろうが、それは操作するようなものでもないのかも知れないが、それでも君は言葉を用いて何かを操作しているつもりになりたいようだ。だが何を操っているとしても、そんなやり方ではまともな効果を期待できないだろう。ではなぜそんなことをやっているのか。それは無駄だと思っていてもやらなければいけないことでもあるのだろうか。過ちを繰り返さなければ、また何度でも痛い目に遭わなければ、なかなか状況の本質を明らかにはできないのかも知れない。そしてそれが隠れていた何かが明らかになったとしても、それで誰が救われるわけでもないらしい。ただ一時的に何かが明らかになったように思われるだけかも知れない。しかしそこからどうやって飛び立つことができるのだろう。朽ち果てた思いの残り滓から何を構築するつもりなのか。そう述べるのはありふれているだろうか。またいい加減な幻想を抱き、実現不可能な夢を追い求め、何もないのに何かがあるように装い、愚かさの上塗りばかりをやりたがる。闘っている相手は漫画に出てくるような予定調和を備えているわけではない。それどころか相手など誰もいないのかも知れない。目の前の空虚につかみかかろうとして果たせないだけではないか。そんなことをやって何を学べるわけもないか。状況とは常にそういうものなのだろうか。しかしそれが無駄だとわかることはないだろう。それをやり続けている限り、それの虜となったままなのかも知れない。しかもそれをやめることは自らの存在を否定することにつながるような気がしてくる。そして今や君はやめることを恐れている。やめられないままにそこで朽ち果てようとしている。どうしてそんな状況の中にいることを認められないのか。なぜそこから救いを見出そうとしているのか。救われないことが救いだというのなら、それは単なる言葉遊びにしかならないだろう。また言葉に付随しているつもりの意味を否定するのなら、もはや何を語っているのでもなくなってしまうだろうか。そんな文章の存在が許されていること自体が誤りなのか。しかしそれ以外の何がそこに存在しているというのか。それは何らかの集団的な意識が寄り合わさった結果だろうか。無用な人が当然のことのように有り余っている。そんな世の中ではだめなのかも知れないが、だめなままに継続されようとしているのも確かで、誰がだめだと思っているわけもなく、何がだめなのかも誰も知り得ない状況にあるのかも知れない。そんなどうでもいいような状況の中で、君はどうも本気にはなれない。臨機応変の対応がとれずにいる。今のところはそれでかまわないのかも知れないが、いずれ何かをやらなければならなくなってくるのかも知れないが、今はそれをやろうとする気力に欠けているように思われ、わざわざそんなことをやる必要性が感じられないのかも知れない。つまらない演技に惑わされることなく、その場を避けて通りたい衝動に駆られてしまう。馬鹿な波に乗ることなく、老人のたわごとに耳を貸すつもりもなく、至って平穏に暮らしているように装い、要するに君は傍観者をふりをしていたいのだろうか。目先の変化を望んでいるわけではない。


8月13日

 何を予想したいのでもないが、予想したくなるように仕向けられているように感じられ、誰もがそれについて予想するように強いられているのかも知れない。誰がそんな指令を発しているのだろうか。それは誰でもないのかも知れないが、とりあえずそんな雰囲気に包まれているのかも知れない。君はそれを無視するふりをしながらも、その実興味を抱いていて、人知れずそれとはわからない形でそれについて何かを述べようとしているらしい。はたしてそんなことが可能だろうか。それは君が述べる台詞ではないだろう。何かが頭の中で旋回を開始したらしい。ぐるぐる回って目が回るか。そうやって何を忘れようとしているのだろう。忘れられないことなどたかが知れているが、忘れてしまっては困ることも多いはずだ。だから必死に忘れないようにがんばっているわけか。なぜそこでがんばる必要があるのだろうか。無理にがんばらなくても、自然の成り行きに身をまかせておけば、何もかもなるようになるのではないか。それでは不満だから努力したいのだろうか。何も好きこのんで努力したいわけではないが、今のところ努力するには少々気力が乏しいように思われる。そんなことを述べながら、次第にあくびとともに眠気に逆らえなくなる。君はそれからどうしたのだろう。どうもせずに意識は消えゆくのみか。それならそれで手間が省けて結構なことか。しかし君の代わりに他の誰かが言葉を繰り出さなければならなくなる。誰に頼まれたわけでもないのに、はたしてそんなお節介をかってでる者がいるだろうか。君はそれについてどう思っているのだろう。意識のない誰が君に何を尋ねているつもりなのか。君はすでに死んでしまっているのか。またそんな嘘をついて何をもたらしたいのか。今のところは言葉以外に何ももたらされていないのではないか。だが今はそれでかまわないのかも知れない。何か気の利いたことを語る状況ではない。つまらないこと以外は何も思い浮かばないのだから仕方がないだろう。しかしそこから語り続けたいと思っているらしく、また誰かは執拗に言葉を繰り出そうとしているようだ。要するに君は何もない状況の中で実況中継でもしているつもりなのか。たぶんそこから迂回を重ねなければならないのだろう。目的のない無目的にたどり着かないように、わざと話を込み入らせながら、無駄な右往左往と逡巡を繰り返さなければならなくなる。そして結果的にそこには無内容が醸し出されている。そんなことを繰り返していて虚しさがこみ上げてこないか。しかしそれ以外にやりようがないのではないか。だからそこで迷い続けるわけか。そのまま続けていってかまわないのだろうか。それとも何か顧みる必要でもあるのか。何を反省したいのだろう。反省したくないからひたすら無駄に言葉を連ねているのではないか。そうする暇を与えないつもりか。何となくそんな雰囲気に流されているように感じられ、そこから後戻りはしたくないらしい。そうやってどこまでも過ぎ去るにまかせておいてほしいのかも知れない。それをひたすら求め続けているように思われる。それとは何なのか。そのような状況とは何なのだろうか。なぜそうやっていくらでも行き詰まろうとしているのか。何もないことをいいことにやりたい放題やっているわけでもないだろう。どのような状況になればやりたい放題なのかわからないが、とりあえず君にとって現状は気に入らない状況になりつつあるらしく、それを打開しようとして、何かしら状況に働きかけているのかも知れないが、そんなことをやって何がどうなるわけでもないように思われ、たぶん無駄で無意味なことをやっているのかも知れない。そしてまたそんなことを述べながら行き詰まりつつあるようだ。やはりそれではだめなのだろうか。だめだとしたら他に何をやればいいのだろう。何をやれると思っているのか。あるいは何もやれるはずがないとでも思っているのか。たぶんそんな思いなどことごとく無視されて、それとは無関係に言葉が連なり続けているのかも知れない。何を述べているわけでもないように思われ、またそれについてどのようにも語っているようにも思われる。いくらでもそれについて話が尽きないように思われるのは、単なる妄想の類だろうか。何も話していないのに、文章の中では話にさえならない話以前の話が展開されている。そういうことになっているわけだ。そしてそれがどうしたわけでもないらしく、そんな言い訳にさえならない言い訳じみた内容が、そこから先に果てしなく続いていくのだろうか。しかしそうなったからといって、君がどこかに出現できるわけもなく、君ではない君の影が君の代わりを果たせるわけもなく、ただ必要以上に君という言葉が立て続けに記されているだけのようだ。そんなやり方は好ましくないか。だが背に腹は代えられず、それはそのままのやり方で、いけるところまで突っ走っていくだけのようだ。何かが違っているのはわかっているつもりだが、その違っているやり方で誰かの感性や意識が保持されていることは疑いようがない。今やそんなやり方が文章上で偽りの救いを形成しているのかも知れない。だがそこで何が救われているのだろうか。それによってかろうじて継続への意思を生き延びさせようとしている。完全にやめてしまってもかまわないのに、そんな思いをありもしない方向へ逸らして、またありもしない物語の存在をほのめかしつつ、結局は何も述べていないように装いつつも、それを文章上に具現化しているつもりになる。それでうまくいくはずがないかも知れないが、それをやり続ける以外にやりようがないようで、どうしようもなくそれらの継続につき合わされているようだ。もはや呆れてものも言えない精神状態にありながらも、そこから自然の成り行きが生じているように感じられ、それに逆らうでも従うでもなく、そんな思いを超えた地点から誰かに見下ろされているような気配を感じ取り、気配がしている方角を見向きもせず、ただひたすら周囲の雰囲気に同化しながら、何を思うでもなく何を記すつもりもなく、誰かは言葉が記されている場所を凝視し続けることしかできないようだ。それ以外に何ができるというのか。何もできないからこそそんな状況を招いているのではないか。そして誰が招いているのでもない状況の中で、誰でもない誰かが何をやっているわけでもなく、ただ意味不明なことを述べ続けているように装っているのかも知れない。そこに醸し出されているのはそのようなことだけなのか。だからそれがそこに存在する虚無の正体となるわけか。そんな偽りの内容を信じられるだろうか。偽りである以前におかしいのではないか。無内容がそれらの内容であることについて、そんな風に述べていること自体が間違っているのかも知れない。


8月12日

 虚無に勝てるわけがないだろう。急に弱気になってしまっているようだ。迷いが晴れずにさらに何も述べられなくなってしまう。このままではまずいと思い続けることが、泥沼のような停滞を招いているのかも知れない。そこにどのよう罠が口を開けて待っているのだろうか。自らが設けたルールが足かせとなって、そこから先に進めなくなる。どうにもならなくなっているようだ。安易に言葉を使いすぎてわけがわからなくなる。それらの内容はでたらめに近いように思われるが、それでも何か述べていることになっているのだろうか。後から読み返してみればわかることかも知れないが、たぶん君が述べていることはおかしいと感じるだろう。それはもとからそうだったのかも知れないが、そこで何を犠牲にしているのか。わかりやすく述べようとする姿勢を放棄してしまっては、どうにもならなくなってしまうだろう。くだらぬこだわりや妄想を捨てて、少しは謙虚になったらどうなのか。状況的には最悪なのではないか。それを感じられないのはどういうことなのか。なぜ君は選挙に行きたくないのだろう。関心がありながらも、それでも意識して政治的になる必要性を感じないのはなぜなのか。確かにあまり魅力的な制度だとは思えない。しかしそれで何に逆らおうとしているのか。君はメディアが伝えていることを真に受ける覚悟ができているのか。そんな風に思っているとすれば、いつから君は真面目になってしまったのだろうか。まだ袋小路に追い込まれているわけでもなく、それほど先を急ぐつもりはないように思われるが、偶然に何かつまらないものを発見してしまって、そのつまらない何かにこだわっているうちに、さらなる窮地に陥ってしまったのかも知れないが、それでも何とも思わないのはどういうわけなのか。その程度の窮地など簡単に抜け出られるとでも思っているのか。見込みもないのにそんな予感がしているのは、たぶん勘違いの一種だろうか。本当にそうなのかもはっきりせず、はっきりさせようとする気がまったく湧いてこないようで、それが事実かどうかも、今のところは何も結論を出せずにいるのかも知れないが、結論など適当な時期を見計らって申し訳程度に提示すれば、それでかまわないのかも知れない。とりあえず今はそうではないような感じがしているらしいが、それもいつものことなのだろう。いくらやっても元の木阿弥にならなければいいのだが、何となく少しはマシになっているのかも知れない。しかしそこからどんな結論を導き出せるのか。できるはずもないことをやろうとしているようだ。今の君にそんな技量があるとは到底思えない。ただわざとそんなことを述べていることは確からしく、そうしながらもそこに何かを醸し出そうとしている。何かが挟まっているようだ。それの何がつまらないわけでもないが、何を心配しているのだろう。壊れているのは君と彼のどちらの方なのか。なぜ意味もなく唐突に彼を使うのか。彼ではそれらの窮地を脱することは不可能だろう。ただの時間稼ぎにしかならない。しかし時間稼ぎによって窮地を脱することができるとしたら、それはそれでそれしかできない今の君にとっては好都合なのではないか。それ以外に何ができるというのか。文章と文章の間に別の文章を差し挟もうとしている。今頃になってそんなことをやっても手遅れか。君にまだ残された時間があるのだろうか。仮にあったところで何をやれるわけもないか。限られた時間を有効活用する術を知らない。そして時はまるで凍りついたように動かない。早朝の曇り空を眺めながら体が固まっているようだが、例えばそれは寺の仏像かも知れない。仏に魂が宿っているわけがないか。そんなことを述べながらも、何を述べているわけでもなく、それは矛盾しているらしいが、ただ自らの思惑がわからなくなり、そんな精神状態でやる気がないのはわかりきっていることかも知れない。しかしそれでも風を感じているのはどういうわけなのか。別に扇風機の風に当たりながら、風のそよぎ具合を調節しようとしているわけではないが、誰かが人知れず発しているだろう合図を見落としながらも、それらの言葉が出現する時に生じる呼吸の規則性を感知できたつもりになれるだろうか。なぜそうやってわけのわからないようなことを述べているのか。それはそれらの文章の行き詰まりを反映しているのか。どうもそれらの風景から生じているつもりの文章にはどこにもつけいる隙がなさそうだ。少なくともそんなことを述べていてはだめだということはわかっている。そして何を見ているわけでもないのに、何かが眼前に迫ってくる妄想に取り憑かれながら、それは透明な空虚だろうと思い込めばやり過ごせるだろうか。そこで風を感じているのは気のせいなのか。たぶんこのままでは何も見出せない状態が続いていってしまうのだろう。いくら探してもそこには何もない。探し出そうとする事物を見出せない。状況が何も見えていないのかも知れない。意識はそれとは別の状況の中にいることを望んでいるのか。そこで何を見損なってしまったのだろうか。さらに何もできなくなり、その度合いがますます顕著になって、何かに引かれていってしまいそうになる。虚無に引きずられている感覚を味わう。心から思う存分に消極性を引き出されているようだ。また以前と同じようなことを語っているのだろうか。そうだとしたらそれは何かの病気なのではないか。またつまらないことを述べたくなってきたらしい。しかしそこでは何が問題となっているのだろうか。君は今まで通りの世界が続いていくことを望んでいるようだが、一方でなぜそれではつまらないと思っているのだろうか。この世界でつまらないと思い続けたいだけか。だが具体的に何がどうつまらないのだろう。分かり切っている範囲内でしか行動できないことが不満なのだろうか。それの何がつまらないわけでもないか。なぜそうやって打ち消そうとするのか。いい加減な結論としては、この世はつまらなくもなくおもしろくもない。そしてそんな風に述べていることが、わざと話の辻褄が合わなくさせている。現実に多くの人々が現状維持を図りながら、またそれではつまらないと思っているらしく、別に矛盾しているのは君だけではないようだ。保守的な感性は今ある状況から逸れていってしまいたくないのだが、やがてそれだけでは物足りなさを感じてくるらしい。しかしそんな無い物ねだりの感性をどうすれば満足させることができるのか、それを知ろうとは思わない。何となくまた述べていることがわからなくなってきたようだ。どうもこの世の中の仕組みが気に入らないことは確かなのだが、すぐにそんなことはどうでもいいと思うようになり、それらの思いをどうするつもりにもなれなくなる。どうすることもできないのなら、例えば君が批判している当のものを体験してみる必要があるだろうか。だがなぜそういう成り行きになってしまうのだろう。


8月11日

 何も導き出せないのに、何をもったいぶっているのか。粘りがなくなってきているのかも知れない。考えていることが軽すぎて、どこかへ飛んでいってしまうのだろうか。何が飛んでいってしまうのか知らないが、何かに邪魔をされているような妄想を抱いている。そこに蓄積された記憶にはどんな作用があるのか。君は記憶からどのような過去を構成してみたいのだろう。なぜそれがありもしない話になってしまうのか。今までにありもない話を構成できた例しがあっただろうか。何かを語ろうとして、その途中で横道に逸れて、結局何を語っているのかわからなくなるようなことばかりだったのではないか。それが過去の記憶に起因した話の内容なのか。まだ何も話してないだろう。そしていつものように何も話せないのではないか。話しているのは君ではなく、君に操られた影が何かを話し始めるが、それでも誰が何を操っているわけではないと思い込んでいる。うるさいジャズの演奏が二十分ほど続いた後、再び君は君の影を見出せるだろうか。きっとそのころにはそんなことは忘れているかも知れない。激しい土砂降りの雨音以外に何も聞こえなくなる。それは今から三日後の出来事になるだろうか。この際確かな日時など気にしている場合ではないだろう。この際とはどの際なのか。不意に光った稲光の音で何が目覚めてしまったのか。消毒槽には死んだ蛙が浮かんでいる。夏の暑い午後に蛇をひき殺してしまったらしい。心には何のよどみもありはしない。それは土砂崩れの前兆だろうか。何かの前触れには違いないようだが、君には関係のないことかも知れない。確かにそれらのすべてがフィクションであるはずがないが、何を語っているわけでもないように思えるのはなぜなのか。ただ互いに無関係な文章が羅列されているだけか。そこから何が抽出されるわけもないか。誰かは自然の過酷さでも明らかにしたいわけなのか。いったい何が過酷なのだろう。容赦してくれないのは人間の方だろう。だが容赦しようとするのも人間の方か。人間がやること以外の何が過酷なのか。人間がり出した制度も容赦がない。手加減することで生じる報いの方が恐ろしいか。自らの思いを押し通すことの酷薄さを理解するわけにはいかないらしい。徹底抗戦とは馬鹿げたことかも知れない。語気を荒げて何かを主張することの浅はかさを老人になっても理解できない人が多すぎるか。それらのリラックスすることの皆無な言説の群れが、誰かの眼前に迫り来る成り行きになっているのだろうか。そんな状況下で救いを求めるの狂気の沙汰かも知れない。そんなことは承知の上で、なおのこと無言を貫くつもりなのか。たぶんつまらないことを述べすぎているのだろう。魅力に乏しいことを選挙が来るたびに主張しなければならない人たちは、制度の奴隷と化しているのだろうか。特定の誰のことを述べているわけでもないらしいが、その代わりにすべての人々に言えることかも知れない。そんなことを述べるべきではないだろう。それについては沈黙を貫き通すべきなのか。言葉の用法が間違っているのかも知れない。しかし間違っているのはそれだけではないような気がしてくる。最初からボタンの掛け違いが生じているのかも知れない。主張すべきことが立場によって異なるのはよくあることだが、時には何も主張しない方が良い場合があったりするのだろうか。主張すべきことなど何もないのは良いことなのか。しかしなぜそうなってしまうのか。何に言及しようとしているわけでもないのだから、そこから特定の主張が生じるはずもない。そんなわけで何を述べようとしているわけでもなく、その代わりにどんなことを語りたいわけでもなく、また久しぶりに仰ぎ見る夜空に何を探しているわけもなく、別に星空を眺めているわけでもない。つぎはぎだらけの文章となってしまいそうだ。美的表現を無視しているのだろうか。美しさを知らないのかも知れない。心には相変わらず何もありはしない。何かが途切れてしまったらしいが、また数日後にでも飽きもせず再開されるのだろうか。下弦の月はどちらへ向かって移動しているのか。見上げているのはそんな眼差しではないようだ。誰の目が何を語っているわけでもない。ではそこからどうやって語り続ける気なのか。語り続けるのは無理なのではないだろうか。君とは別人の複数の眼差しは、気休めにあらぬ方角を凝視している。それらの文章は君とはまったく無関係となってしまったらしい。たぶん何を述べているのでもないのだろう。要するに何も述べられないわけなのか。またそこで挫折しようとしているのか。いったい今は何日前の時空に存在しているのだろう。どこかで何かが腐りかけているようだ。冷凍庫の奥の方で要らないものがたまり続けている。行き詰まりを打開すべく、無理にでもどこかへ行こうとすると、無駄な記憶が障害物となって行く手を遮る。君はそこから何をどうしようというのだろう。切り札がどこにあるわけでもないらしく、そんなことを述べているうちに、次第に言葉の連なりを支えきれなくなってくる。何となくある程度は結果を割り切らなければならなくなってきたようだ。その辺で何をどうするつもりだったのか。そこまでやって何に近づいたというのか。話の行く先は一向に見えてこないが、自然にまかせていたら怠ける一方になってしまうのか。それでも生き残らなければならない。何もやらずに生きているわけにはいかないが、本当に何もできなくなってしまいそうに思えてくる。長期的な戦略を欠いていつまでも続けていられるわけがない。だから同じ場所でいつまでも旋回し続けている。やはりそんなことをやり続けながら敗れ去る運命なのか。このままでは何もやらずに何かをひたすら考え続けることしかできはしないだろう。構造的にどこかがおかしいのだろう。それがそれらの文章の弱点なのかも知れない。だが本当にそれがわかっているのだろうか。わかりかけているのはそれとは違うことかも知れない。それ以上は無理なのに、なおそこから逃げおおせることばかり考えているようだが、それで何をやり遂げたことになるのか。どうも言葉が不自由になりつつあるようだ。気づいてみれば、最低レベルのことしかできなくなっている。それが日記になるはずがない。何を記しているのかわからなくなる。だいぶ以前につかみかけていたものを手放してしまったのだろうか。わけのわからない状況を招いているらしい。そこからどこへ進まなければならないのか。敗れ去ってしまったのはだいぶ以前のことなのか。それから君はどこで何をやっていたのだろう。何も続かなくなっているのはどうしたわけなのか。もはや何も続けられなくなっているのだろうか。複眼のレンズが曇っている。それはつながりようのない言葉かも知れない。架空の思いがどこに生じているわけでもないが、述べていることのすべてが戯れ言に思えてくる。それでもそこから抜け出そうとしているのか。見えている景色が言葉になるわけではない。見えていないものを想像する時、自然とそこから言葉が生まれてくるのかも知れない。


8月10日

 まだ悩み足りないらしい。なぜそうなってしまうのか。何も見えていないような気がする。何も考えていないのではないか。やはり馬鹿げている。何について述べているのだろう。そんなことはどうでもいいか。他人事であるとは思えないのはなぜだろう。何が他人事なのか。それを今から考えなければならないのだろうか。どうも意識の中で何かが壊れたままになっているのかも知れない。悲劇や惨劇に対してあまり情緒的にはなりたくないが、近頃はその何周年だとか何十周年だとかがあまりにも多すぎないか。そのうち毎日が何らかの出来事の記念日と化してしまうだろう。それらの過去ばかり振り返ろうとする意識は、メディアを通じて何を訴えかけようとしているのか。何を想像する気にもなれない。それらについてどのような言及すればいいのかわからない。なぜ馬鹿らしいとは思わないのだろうか。たぶん他に伝えるべきことがないのだろう。それは君に伝えるようなことではないのかも知れない。何かが違っているような気がするが、その違いについて何を述べられるだろうか。それがわかることとわからないままでいることとの間にどのような差異があるというのか。それに関して何を伝えたいわけでもないのかも知れない。現実に伝えようとしていることが何も見当たらない。だから君には何も伝わらないだろう。だがそれで意表をついているといえるだろうか。なぜそこで立ち往生しているのか。人々はどんなことに興味を持っているのだろう。そしてなぜ興味を抱いている対象を無視しようとしているのか。それはただ単につまらないからか。つまらないと思うなら、そこから離れていけばいいことでしかないか。たぶん世界は老いているのかも知れない。何らかの出来事について語ろうとする者たちが老いているのだろう。世界にもそれらの老人たちにも未来がないのかも知れない。未来がないからといって過去のことばかり語っても仕方がないか。そんな過去は茶化したくなる。人々には想い出に残る過去が必要なのだ。しかし君は過去の想い出の中で息づいているわけではない。君の心を覆っている幻影は何の邪魔をしているのだろうか。思考の妨げとなっているに過ぎないのか。いくら遭遇した出来事についておもしろおかしく伝えたところで、その場限りの笑いを誘うだけで、すぐに忘れ去れてしまうことはわかりきっているが、それはそれでその場がおもしろければかまわないのだろう。だがそんなものには興味を持てないか。時の経過とともにそれを伝えた文章が記されている紙が酸化して色あせてしまう。それは関係のないことかも知れないが、否定すべきことでもないのかも知れない。急にわけのわからないことを述べようとしている。なぜそんなに苦しみもがいているのか。それは誰の台詞なのだろう。どのような意識を想定して語ろうとしているのか。どうもそれも違うような気がしてくる。思考力が衰えてしまったのだろうか。語っている時間が長すぎるのかも知れない。もう忘れてしまっている。雷交じりの雨はいつまでも降り続き、慣れてしまったらしくそれが気にならなくなっているようだ。何を忘れていたのだろうか。次第に過去に語っていた内容が思い出されてくる。またそれをやり直そうとしているのか。しかしもはや批判する対象が見当たらない。つまらないことに目くじらを立てていた昔が懐かしく思われる。どこで道を誤ってしまったのか。遠くまで来てしまったらしい。さらに遠くまで歩んでいこうとしているのか。意識は何を把握しているのだ。意識に問いかけているわけではない。意識からどこまでも遠ざかろうとしている。後戻りができなくなるまで遠ざかろうとしているのだろうか。そこから何が見えているのか。何もかもが見えなくなるまで歩んでいかなければならないのか。そんなことをやって何の意味がある。意味がないことは幸いなのだろうか。まだ何を述べているわけではない。これから何かを述べようとしているのかも知れない。つまらないことに時間を取りすぎている。だから何も把握できなくなる。それで困っているのは誰だろう。やる気を削ぐようなことを述べないでほしい。君にはできることとできないことがあるらしいが、できることをやろうとしていないのかも知れない。そしてまた恐ろしい罠にはまろうとしているわけか。言葉を弄するほど幻想が尽きなくなる。さっきからわけのわからないことばかり述べないでほしいか。それでもまだ何を述べているわけでもないような気がするのはなぜだろう。実際に何も述べていないのに、それ以上に何を述べることができるのか。そんなことばかり述べているから、つまらなくなってしまうのではないか。つまらなくてもおもしろいふりでもしたいのか。あるいはそんな述べ方では気に入らないのか。君は誰かの過去を知っているのかも知れないが、何かばらせばおもしろいような秘密を握っているわけではない。たぶんそこから何かが導き出されているのだろう。空疎なことを述べているだけなのかも知れないが、述べていることの中身が何もない方が、述べていて気楽な気分になれるだろうか。気楽であると同時に虚しくなってくる。この世界はいったいどうなってしまったのか。世界ではなくそんな風に述べている意識がどうにかなってしまったのか。至って冷静でいるつもりらしいが、焦りがないのは危険な兆候かも知れないが、今さら何を焦ってみても仕方がない。どうにもならないことがどうにかなろうとしている。それは奇跡でも何でもなくて、成り行き通りに事が運んでいるだけなのかも知れない。そこに君の誤算があり、誰かの目論見通りでもある。しかし君と誰かの間に見解の相違など何もなく、そこには何もないことで認識は一致しているようだ。確かに何もありはしないが、それでも言葉が連なっていることは事実か。別に自らのプライバシーなどを切り売りするつもりはないし、目下のところ売り物など何もなく、売りようのない言葉が自然と連なっているに過ぎないのかも知れず、そんな無内容の内容がいつまでもどこまでも続いていこうとしているだけかも知れないが、それでもそこから何かしら得体の知れない思いが生じているらしい。案外何かをつかみかけているのかも知れない。無駄に言葉を弄しつつも、何か不確かなことを伝えようとしているのだろうか。それは何なのだろう。眠気をこらえてでも示さなければならないことなのか。君の意識はどんな幻影の虜となっているのだろう。まだ続いてしまうことについてどんな幻想を抱いているのだろうか。ますます自らが何を述べているのかわからなくなってしまうことを心配しているだけか。そんな心配は杞憂に終わってほしいが、現に今のところはまだまともなことは何も述べていないような気がしている。


8月9日

 またいつもの映像が繰り返されている。考え方が間違っているのかも知れないが、さらに考え続けることで、決断を下すことを回避しようとしている。何か不吉な予感でもしているのだろうか。無意識がそうさせているのか、無意識そのものが意識がねつ造したフィクションなのかも知れないが、何となく意識と無意識を混同した神秘主義に染まりつつある。そこで誰が何を問いかけているのかわからない。そこという場所がどこにあるのかもわからない。場所などどこにもありはしないだろう。そう述べるのはいつものパターンのように思えるが、そこから先に何をどう述べようとしているのか。何を否定しようとしているのかわからない。繰り出された言葉のすべてがフィクションだとしても、もっと軽く嘘がつけないものか。まだありもしないそこには何が見出されているわけでもない。いくら言葉を繰り出そうとそこには何もない。述べられないようなことを述べようとするのはおかしい。そんな思いの外にそこには何が積み重なっているのだろう。何もないことになっているのに、なぜ何かを生み出そうとするのか。それらの状況を打ち破りたいのかも知れないが、しばらく時が経てばどうでもいいことになってしまうのだろう。要するに何を考えているわけでもないのだろうか。この世界にはつまらないことばかりが起こっているように思われるとすれば、それは何かを見落としている証だろうか。いったい何を見落としているのか。なぜ興味を覚えないのか。何に興味を覚えたらいいのだろう。何を述べているのだろうか。君は人類が何千年もかけて築き上げてきた文明を馬鹿にしているのか。そこには興味を抱かずにはいられない対象があるはずか。そんな風には思わないだろう。文明は結果であり過程ではない。文明とはいえない過渡現象にこそ何かがあるのだろうか。また嘘をつきたくなってきたのか。おもしろくも何ともないことを述べようとしているらしい。文章の構造を理解不可能なほど複雑にしようとしているのかも知れない。何かが読解を妨げている。何も有効に活用することはできないだろう。わかりやすさを放棄している。そんな感性に頼りきっていて、言葉以外に何も語る対象を見出せない。だがそんなのは嘘に決まっている。それでも何かの片鱗でもうかがわせるところがあるのだろうか。腐りかけの餌を誰に食わせようというのだろう。いったい何がどうなってほしいのか、あるいはどうなってほしくもないのか。やはりそこから逃げ出したくなってくるらしい。メディアに操られながら考える能力を失ってしまった人々のことを君はどう思っているのか。馬鹿になれば幸せになれるのかも知れない。しかし今さらそんな嘘をついてどうするのか。現状はその先を行っているのではないだろうか。もはやそのようになってしまう成り行きに、誰の思惑が介在しているわけでもないし、そこに物語などあるはずがない。あるとすればそれはすべて嘘なのか。嘘以前の嘘にさえならない作り話の残骸でしかないか。しかしそんなことばかり語っていても一向に埒が明かない。まだ雨が止む気配はないが、見切り発車で対応しなければならなくなる。なぜこうまでして邪魔が入るのだろう。それは邪魔なのではなく、善意からやめさせようとしているのではないか。だがそれに逆らって何とかしなければならないらしい。たぶん意味など何もないのだろう。かろうじて困難を乗り切っているのかも知れない。成り行き的にそんな定めなのだろうか。いつもそんな状況から文章を紡ぎ出さなければならないらしい。しかし内容はどこにあるのか。不可能を可能としているわけではないが、可能性の中心とやらは一向に見えてこない。何かの周囲をぐるぐる巡っているだけかも知れないが、それでもなおそれをやめられないようだ。たぶん無駄なことを繰り返しているのだろう。それが無意味ではないと感じられる理由は何なのか。そこへ否応なく押し戻されてしまうのはどうしてなのだろう。なぜそれを馬鹿らしいと思うのだろうか。そんなことを述べながら何を感じ取っているのか。なぜそれが終わりの気配ではないのか。やはり終わらせようとしていないらしい。まだ一縷の望みを抱いているのか。それが終わろうとしないわけになるのだろうか。ただ無駄に言葉を弄しているだけだろう。だがそれで気が済むのならそれでかまわないのかも知れない。だから気が済むまでやらなければならなくなる。何か矛盾していないか。その矛盾を明らかにすることができるのか。その先を述べてしまってはいけないのかも知れない。まだ雨は止んでいないだろう。雨が止まないうちに終わらせることが可能なのか。やはり理由など何もありはしない。すでに雨は止みそうだ。雨音交じりに蝉の鳴き声が聞こえてくる。雨が止んだら何をしようというのか。一致しない理由と希望のすり合わせでもやるつもりなのか。何かを述べているように装いたいらしい。だからそうやって言葉を弄しているのではないか。やはり無駄なことをやっているのだろう。無駄で無意味なのはわかりきっていることか。気休めに以前とは鳴いている蝉の種類が違うことにでも気づいてみるか。何が気休めになっているわけでもない。誰もが正気でいるわけではないようだが、それらの何が狂気を含んでいるわけでもない。君は狂気という言葉を使いながら何に酔っているのだろう。安手のホラー映画でも見ていたいのか。いつまでもつまらない目的に縛られながら人々は生きていかなければならないのか。手持ちの金を増やすことや生き甲斐を見つけることが目的だといえるだろうか。会社に入れば出世したいし、責任のある仕事をまかせてもらいたいのが、既存の教育制度を通過してきた者たちが抱く当然の望みなのだろう。とりあえず仕事をやりたい気持ちにならなければドロップアウトするしかなさそうだ。そのような成り行きを打ち破る必要があるのか。とりあえずはそれをやり過ごさなければならないだろう。それらの制度的な精神がつまらないことに変わりはない。そんな当たり前の思いをどうこうしようとしてはいけないのかも知れない。それはそれとしてそのような環境なのだから、それを変化させようとするには至らない。至り得ない状態を目指しても仕方がないか。たぶんそれは空気の中で呼吸しているようなものか。雨がまた降ってきたようで、またそれを続けられるような気配になってきたようだ。どうやらその先があるらしい。止めどない時間の流れに飲み込まれそうになる。何を述べても嘘も方便となるわけか。要するに何を述べているわけでもないことになってしまうのだろうか。そんな風に思えるのなら、その先にはどう述べたらいいのだろうか。何か気の利いた冗談でもあるだろうか。たとえそれを思いついたとしても、そんなことを述べたかったわけもないのだろう。


8月8日

 どうもとっかかりがつかめない。とりとめのないことばかり体験しつつあるのだろうか。それらの出来事によって、世界は君に何を伝えようとしているわけでもないように思われる。実際に何が伝わっているのだろうか。別に世の中がどうにかなっているわけでもないらしく、状況が閉塞的であるわけでもなく、誰がやりようないことをやろうとしているわけでもなく、誰かに伝えたいメッセージが自然と湧き上がってくるわけでもないが、それでも何かを述べようとしている。実際に何を述べているのだろうか。述べるべきことが何もないことについて何か述べているのか。世の中のすべてが仕事と娯楽のどちらかだとしたら、君はそれ以外に何を付け加えられるというのか。例えば何かを学ぶことも娯楽の一種かも知れず、生涯学習という気休めによって、何かを学んでいるつもりになれるのは、幸せな状況かも知れない。それをさらに突き詰めるとすれば、仕事も娯楽の一種になれるだろうか。自分のやっている仕事が楽しいと感じているのなら、それは娯楽と変わらないだろう。やっていることの何もかもが娯楽だとするならば、君はそれ以外の何を付け加えることができるだろうか。誰かは苦痛をもたらしたいと感じているのだろうか。嫌な思いをしてみたいのか。生活も仕事もうまくいかなくなったらおもしろいか。あるいは何かに驚いてみたいか。また悲しんだり憎んだりしてみたいのか。君は何と安易なことを語っているのだろう。わざと投げやりなことを述べているのだろうか。また現状ではそんな風にしか述べられないのだとしたら、それをどれくらい続けることができるだろうか。それを続けようと思っているわけではない。人間とは何なのだろう。人間などこの世界には存在し得ないというのなら、君は人間ではないのか。人間は言葉によってどんな定義が施されているのだろう。何をもって人間だとされているのか。そんなことを人間の大半は考えようとしないだろう。単に娯楽の対象として人間という存在が認知されているだけなのか。なぜ人は優劣をつけたがるのか。それも娯楽の一種だからなのか。何でもかんでも娯楽ということで片づけられるだろうか。そんな風にひとつの言葉ですべてを言い表そうとすればおもしろいか。ただ馬鹿だと思われるだけだろうか。すべては気の赴くままに推移しているように感じられる。別にそれでもかまわないのかも知れないが、それらの問いかけには何一つ答えられない。本気にはなれないのだろう。物事について本気で考えるのが馬鹿らしいのか。適当にその場で思いついた言葉と戯れていれば、それで暇つぶしにはなるだろうか。何かについて反対だとか賛成だとか主張できないのはどうしてなのだろう。その主張を受け入れる土壌が全くないのかも知れない。それについて何となくおかしいとは思っているが、今の君にはどうすることもできないような気がしている。だから何を述べても無駄に思われてくるのかも知れない。何かが違っていて、何かに気づいていないのかも知れないが、それを見つけ出す手だてを知らず、何もできずに途方に暮れながらも、それなりにその場の状況について説明しているのかも知れない。要するにそんな風に生きているわけだが、君はそれの何が娯楽だと思っているのだろう。なぜ無理に楽しもうとしなければならないのか。楽しめないのならそれでかまわないのではないか。また何に苦しまなければならないのか。無理に苦しんでいる風を装わなくても、何も感じないのならそれでかまわないのではないか。別にそれが馬鹿げたことでもないだろう。馬鹿げているとしたら、それは馬鹿げていることの意味が従来とは違ってきているのではないか。今や馬鹿馬鹿しいことが当たり前のように論じられ、それについて真剣に討議されているだけなのではないだろうか。たぶんそれについて反対やら賛成やらの立場を主張すること自体が、娯楽というゲームに参加することになるわけだ。何でそんなことで楽しんでいるのか理解できないが、いったんそれに参加してしまえば、それなりに楽しかったり苦しかったりするのかも知れない。そういうわけでこことは別の場所では、何か思わぬ展開に突入しているような気がするが、それに驚いて浮き足立っている誰かは、それらの状況の大げさな伝えられ方に騙されているようで、自らが何かの出来事に巻き込まれているのを楽しみながらも、自らの行く末をあまり楽観できないように思われるのはどうしてなのか。まだ幻影の虜となるには早すぎるか。人はいくらでも残酷になれるものだ。人があらゆる可能性を試したがるのは、これまでの歴史が物語っていることだが、今回もそのような状況に陥ってしまえばしめたものか。だがそれらの文章の中で君の目論見が明らかにされることはないだろう。いったい君は何を感じているのだろうか。どんな予感がもたらされたのか。さらに作業が遅れるのは火を見るより明らかなことか。また何もやれなくなってしまうらしい。疲れていれば何もできはしないだろう。無理してやろうとすれば消耗する。そうなることを知りながら無理を重ねているのだろうか。疲れが抜けきらないうちに翌朝になってしまったようだが、どうも後先を考えていなかったらしく、そこからどうやって体勢を立て直すのか考えていなかったようだ。だがなぜ立て直そうとするのか。立て直せないままではなぜいけないのだろうか。君は立ち直りたくないのか。現状では立ち直れないままに、そこに立ち止まり続けているようだが、なぜそこからまったく動こうとしないのか。動こうにも動けないのだろうか。君はそこで死んでしまったのかも知れない。だが死んでしまえば何も語れなくなってしまうだろう。では前言を翻して死ななかったことにでもしておこうか。死んでも死ななくてもどちらでもかまわないか。まさかそれで死と戯れているなんて思うわけもないが、それで何の問題もないのなら、とりあえずは君は死んでしまったことにしておこう。君がいなくなれば君とは別の君を登場させればいいだけでしかない。そしてその君と死んだことになっている君との間には何の差異もありはしないから、君が死んでしまったのは嘘になる。そんなごまかしは見え透いていて呆れてしまうか。フィクションの中で誰が死のうと、その死にどんなリアリティが宿っていても、それは虚構の死でしかないのはわかりきっていることだが、たとえそれが現実の死であっても、その死人に何の面識もなければ、それはフィクションの中での死とあまり変わらないかも知れない。そして死にリアリティがあろうとなかろうと、その死に直面した者に何らかの感情が生じるだけで、それを今さらどうこういっても仕方がないか。そんな風にして死をやり過ごすことができるだろうか。やり過ごしてどうするのか。そんなありふれた出来事を通り過ぎても何も思わない。何も思わなければ出来事など無視することも可能か。いったいそれで君は何を無視しているつもりなのか。


8月7日

 ここまで来てなお事を穏便に済ますわけにはいかないのか。何を突っ張っているのだろうか。いくら言葉を弄してみても、ただわけのわからないことを述べているだけかも知れないが、そんなことを述べている自らを卑下してみても仕方がないだろうか。ただそれらの文章には、何に対して苛立っているのかが示されていない。そんな不在の対象を利用しながら何を述べているのか。それはそれで誰にもできない行為なのかも知れず、誰もやろうとしていないことをやっているように思われることが、ある意味でそれをやる気にさせているのではないか。だがそれでいいのだろうか。判断基準など何も設定されていないので、良いとも悪いとも思わないが、それでも何かをやっていることは確からしい。ではそれはどういうことなのだろう。どういうことでもないとしたら、なおのことそれでどうなのか。どうにもならないということになるだろうか。かなりうんざりしながらも、滑らかな平面上を金属の重い球が転がり続けるように言葉を弄している。気を紛らすために何となくそんな光景を思い浮かべてみる。そこから無理に意味をもたらそうとするならば、少なくともそれは何を暗示させるのだろう。何がそこへ到来しているのだろうか。半ばやけくそ気味な疾走感でも醸し出したいのか。車窓の外では次々に風景が飛び去って、無謀な運転によって追突事故でも起こそうものなら、生き残るのが面倒なので、花畑のただ中にいるような幻想を得るが、死にかけの霊魂はまだあの世へ向かうトンネルの中で立ち往生している。どうもさっきから映像が途中で止まっているらしい。誰かがそんな臨死体験のような光景をねつ造しているらしく、それをあくびをかみ殺しながら眺めている風をため息交じりに装うが、何か的はずれなように思えてくる。しかしわざと的を外した矢が何を物語っているわけでもない。それはただのはずれでしかない。そんなはずれを見込んで、矢を辺り構わず放ち続けているのは誰なのか。たぶん自暴自棄になっているのは誰でもなく、そんな雰囲気をその手のメディアが醸し出しているだけなのだろう。しかしそれでは逃げの態度をあからさまに表現しているだけではないのか。君は何から逃げているつもりなのだろうか。そこから逃げられないのに逃げようとしているのはおかしいか。しかも逃げようとしているのに逃げ出す手だてを見出せないのは悲惨なことか。だがいったい何から逃げ出そうとしているつもりなのか。逃げようとしている君が、何から逃げようとしているのかを一向に知り得ないのはどういうわけなのか。その辺で君の行動は破綻を来しているのかも知れない。ただ漠然と逃げているだけでは逃げていることにならないのではないか。急いで何から逃げているのかをねつ造する必要に迫られているようだが、逃走の対象をまったく見出せないのはどういうわけなのか。おそらくそこにいるだけでは何もわからないのだろう。ではそこから逃げ出すことはできないのか。逃げ出せないから行き詰まってしまうのだろうか。君は本当に逃げ出そうとしているのだろうか。誰がそんな疑念を抱いているのか。誰が何を思っているわけでもないようだが、そこにはどんな配慮が働いているのだろう。別に何を思わせないように語っているわけでもない。やりすぎはよくないことかも知れず、疑念を抱きすぎているのもわざとらしく感じられる。何もない状態で何を疑ってみても、何が解き明かされるわけもなく、ただひたすら疑い続けているだけでは、いつまで経っても疑いは晴れずに答えも見出せず、そこから逃げ出すこともできはしない。なるほどそんな風にして、やっと逃げそうとしている状況に思い当たったようだが、そんな思いを得るまでに、いったいどれほどの疑念の矢を放たなければならなかったのか。そしてそれらの矢は何に向かって放たれていたのだろうか。またいつものようにそれが虚空であったり虚無であったりするのにはうんざりしてしまうか。否応なくそうなってしまう成り行きに嫌気が差している。精神の集中と緊張の糸が切れてしまうと、とたんにそこには虚無や虚空が出現してしまうようだが、たぶんそんな状況を避けることはできないのかも知れない。避けようにも避けられないから、そんな言葉を使う羽目に陥ってしまう。そして君はいつものようにそれが気に入らないと思うわけか。繰り出すことの可能な言葉はそれだけではないと思うが、否応なくそんな言葉に引き寄せられて、どうしようもなくそんなことを使用してしまうのだが、確かにそれだけではないにしても、他の言葉に魅力を感じないのはどういうわけなのか。またしてもそれはどういうわけでもないように思われる。繰り返されている状況にそれなりの対処が行われている結果として、そういうことになっているだけなのかも知れず、それでも何とか困難を乗り越えようとしていることになるらしい。その乗り越える過程において虚空とか虚無とかの文字が記されているわけか。しかしそれで乗り越えていることになるのだろうか。それで良いのか悪いのかわからないが、意識はとりあえずその先を目指しているのかも知れず、現状で示されているそれが、その先だとは到底思えないが、客観的には語り進んで行く先がその先なのであって、君にはそれが信じられないようだが、別にそれらの文章には君の信仰が反映されているわけではないので、ではいったい何が述べられているかといえば、それは何もない虚無だとか虚空を見やるどうでもいいような視線について述べられているのだろう。要するにそれらのすべてがでたらめで無意味なことだとは思わないが、現状ではそれ以外については何も興味が湧かないようで、それはかなり恐ろしいことかも知れないが、それに対して否定的な見解を持ち合わせているとしても、それを完全に取り去るわけにはいかないようだ。それでも困難を乗り越えていることになるのだろうか。またこの期に及んでそんな疑念を抱いてしまうのはどういうことなのか。やはりそれも執拗にどういうわけでもなく、簡単に述べるならば、そうやって何かをごまかそうとしているだけか。何もないことをごまかそうとしているらしいが、それをごまかしきれていないどころか、何もないことなどごまかす以前にわかりきっていることであり、それではごまかしていることにはならないだろう。ごまかしようがないからこそ、そんなことを述べているのではないか。本当のところは何もわからなくなっているのかも知れない。それ以外の言葉を見出せないらしく、何に対しても判断停止状態にあるのだろうか。何かを肯定したり否定したりすることが馬鹿らしく思える。判断を下すべき対象が見当たらないのはもちろんのこと、判断材料が何もないのだから、そんな風に述べながら、今までに述べてきたすべてを否定しているのかも知れないが、それが否定になっていないところが矛盾しているようだ。否定しつつもそれらの行為を継続している現実が、述べている否定をはぐらかしている。


8月6日

 まだそこからさらに遠くへ行きたいと思うか。いくら行っても何があるわけでもないだろう。そこは砂漠でも海の上でもない。何もなければつまらないだろうか。どこを探しても何もないわけではない。見つけようとしないから何もないように思われるのか。しかしなぜそうやって油断したいのか。別に油断していたわけではなく、それが油断していることだとは思わないだけか。今はそんなことを思っている場合ではないだろう。だが厳密には今は今ではないのだから、過ぎ去った今について後から何を思ってみても何も始まらないか。始まらなくてもすでにそれらの物語は始まっているはずだ。また何もないのに何かあるように見せかけなければならなくなるのか。いつそんなことをやっていたのか。今までに何を見せかけているつもりだったのか。あからさまに何も語ってこなかったような気がするのだが、それでも語り続けようとしているのだから、それは何かの冗談なのかも知れず、冗談でなければそんな無茶なことなどやっていられないのかも知れない。だが本当にそれらの試みを冗談で片づけてしまっていいのだろうか。なぜそうやってわざとらしく自問自答を繰り返すのか。本当は冗談ではないと思いたいのではないか。それをいったん冗談だと見なすと、すぐさまそうではないと思いたくなる。しかしそうではないとすると何なのかと問えば、やはり冗談の一種だと述べざるを得なくなる。だがそれが冗談であったりなかったりする理由も根拠も何もありはしない。要するにそこには語るべき物語などもとからありはしないのだ。ならばすでに始まっているはずの物語とはいったい何なのかといえば、それはいつもの嘘に違いないのだろうか。そしてそんなことを述べているうちに、何を述べているのかわからなくなってくる。他に何か興味深い物語はないだろうか。何か適当な光景を思い浮かべようとする。海に魅せられたカメラマンが、イルカと同じ視線の映像を数年がかりで撮ろうとしている。そんな映画が深夜のテレビで紹介されていた。それは君のライフワークとはまったく無関係か。ライフワークとはどのような仕事のことをいうのか。そんな言葉をまともに使うのは気恥ずかしいか。世俗的な宗教に頭を冒されている。人知れずライフワークに勤しんでいる者たちは、それが生前であれ死後であれ、世俗的な成功を夢見ているのかも知れない。いつかは認められたいと願う思いが、彼らのライフワークを支えているのだろうか。そんなものを目指していたら成し遂げられなくなってしまうかも知れない。何をそこで恐れているのか。自らのやっていることに酔っていてはいけないのだろうか。自らのつまらない動作に酔いしれて、知らないうちに誰もがそこで墓穴を掘っているらしい。愛という言葉をあからさまに口にする者は、すでに愛から見放されている。どういう経緯でそうなるのかは省略されてしまうようだが、何となくロックという音楽を勘違いしながら解釈しているのかも知れない。美意識におぼれて現実を見失いがちになっている。たぶんそこで顧みなければならなくなるのかも知れないが、もはやそれらの大部分は手遅れとなっているのかも知れない。今さらやり直しなどできっこないか。しかし無理を承知でそれをやり遂げようとするならば、何らかの結果が見出されるかも知れないが、やはりそこには何がもたらされているわけでもないようだ。そこに至っても何も思い浮かばないというわけか。途中でわざと行き先を間違えている。文章は自ずから救われようとして、言葉を記す者を操作しようともくろんでいる節がある。ひたすら虚無に向かって突き進もうとする意識を、何らかの手段ではぐらかさなければ救いはやってこない。もちろん書き手に直接作用を及ぼすことができないのだから、文章の目論見が成就することはないだろうが、後からそんな文章を読み返しているうちに、自らが記した文章に操られて、新たに同じような文章を書き連ねているような幻覚を覚えるのは危険な兆しだろうか。はたしてそれは君が思っていることなのだろうか。だがそこで終わらせてはならない。誰かが何かをささやきかけているように感じられる。窓の外を覆う暗闇から手招きされているように感じられる。それも何かの冗談のつもりなのか。街灯の下で君はうずくまっている。人工的な光に照らされて、そこから生じた影に心身を絡め取られている。しかし身動きがとれなくなっているわけでもない。それどころかどんどん君はその先へ移動していって、動作が速すぎて何もつかみ取ることもできないのに、手ぶらのままでも何かしら満足を得たつもりになりたいらしく、さかんに虚空に向かって声のでない叫びを発しているようだ。何かをつかみ取った動作を繰り返し、それが何かの演技であることを強調したい気持ちでいっぱいになる。しかし何に満たされているわけでもなく、何を獲得したわけでもないが、それでも何らかの動作を経験したような気になって、それなりの達成感がもたらされたように感じている。それで君は満足なのか。誰がそんなことを問いかけてくるのだろうか。それでは気に入らないと述べているのは君自身ではないのか。だが途中で逸れてしまったことを今さら後悔しても始まらないか。虚無に至ろうとして、それが虚無からはかけ離れていることに気づく。しかし虚無に至ろうとしている意識がどこにあるかを君は知らない。それは君自身の意識ではないらしいが、では誰の意識が虚無に至ろうとしているのだろうか。そこに顕在化し得ない物語が隠れていて、その物語の中に息づいている架空の意識が、虚無を目指しているとでもしたら、何となくそれがとりあえずの解決策であるかのように、装うことができそうだが、そんな見え透いた作り話を誰が真に受けるだろう。たとえそれがつまらない嘘であったとしても、それでその場を切り抜けたつもりになってしまうのはどういうわけなのか。君は馬鹿なのか。君以外の誰が馬鹿だとしても、君がその馬鹿さ加減を認めるわけにはいかないほどの馬鹿であったなら、それもありということになるだろうか。また何を述べているのか定かではなくなってきたようだ。それはその場限りの意味不明なのかも知れない。いくら切羽詰まっていようと、それを後から読み返す気になりたくない。何かが破綻を来していることは確かなようだが、その何かが何なのかを述べることができないのは、その何かを知らない証になるだろうか。無意識のうちには知っているのかも知れないが、それを意識には知らせたくないのかも知れない。そういえば物語はどこへ行ってしまったのか。何かの映画について述べようとしていたような気がするのだが、それは過去の意識であって、今の意識には継承されなかったのだろうか。やはり途中で虚無から大きく逸れてしまったらしい。


8月5日

 確かに何もそこまでやる必要はないだろう。君がそこに存在している理由は何もない。そこはまだ内部の世界だ。たぶんそこから抜け出なくてはならないのだろう。何をためらっているのか。しばらくの間、その後に言葉が続かない。それは本当にしばらくの間なのだろうか。何の根拠もない存在のために記されているのは、ただの言葉でしかなさそうだ。そこで記されているのは意味のない言葉ばかりなのだろうか。相変わらず気力が減退していて、何とはなしにそれらの風景から遠ざかりつつある。だが今の君が見つめているのは風景ではないのかも知れない。ぼんやりした意識の内部に、風景から連想した言葉が立ち現れているように思われるが、それは幻想に過ぎないのかも知れない。何かがあるようで、そこへ行ってみると何も見当たらない。そんな意味から見放された不自由な文章からは、それ以上は何ももたらされないように思われ、嫌気とともに疲れた気分に浸されて、誰かはしばらく何も考えずにまどろんでいたらしい。それは本当にしばらくの間なのだろうか。そうやってわざと同じ文章を差し挟んだつもりのようだが、まさかそれでしてやったりとでも思っているわけか。そんなことを思う気力がどこに残っているのか。誰と何を競い合っているわけでもないだろう。そんなことを思うのはどこかのスポーツ選手にでもまかせておけばいいことでしかないか。それらの状況についてどんな風に思うにしても、君には君のやり方があるらしい。しかしそのやり方をどうやって知ることができるというのか。たぶんそういう風に述べるのが君のやり方なのだろう。そんなわざとらしいやり方をくぐり抜けなければまともな文章には到達できないのか。それをくぐり抜けても相変わらずの繰り返しになってしまう場合もあり得るだろう。誰かはそれが気に入らないらしいが、それを止められないことも苛立ちを増幅させているようだ。何もできないくせに、苛立ちばかり心にため込んでも健康に悪いだけだろうに。しかしいつからそんな言い草を書き記せるようになったのか。はぐらかすにはもってこいの述べ方だろうか。何を発見しているわけでもなく、ただ強引にその先を述べたいだけなのかも知れず、それを実現させるには、まだしばらくそれが尽きるまで無内容の繰り返しが必要なのだろうか。しかしそれの何が無内容なのだろう。文章そのものが病んでいるのだろうか。それが健全な内容の文章か否か、その基準を示すことができるわけもないが、そんなことを述べている場合ではなさそうな気もしてくる。もういい加減に自己言及も打ち止めにしたいのだが、気がつくとそんなことを述べていることについて語っている現状があるらしいが、いつもそんな風に語りたくなってしまう意識を拒否しつつも、拒否することがそのような語りへと向かってしまうきっかけとなっているのだろうか。ただそんな気がするだけで、実際には何がどうなっているわけでもないと思いたいが、いちいちそんなことについて思考を巡らせるのが面倒なのかも知れず、そんな文章を記しているうちに嫌気が差してくるが、状況的にはさらにそれしかできないように意識が追い込まれてくる。そしてそんなこんなで、その先にはそれでも続けるか否かの、苦渋の選択でも待ちかまえているのだろうか。たぶん君はそれでもまだやろうとするのだろう。もはや惰性でそんなことを繰り返している。そのときの君の意識はもうついて行けないと思い始めているが、文章の方はそんな意識にはかまっていられないようで、ただひたすら意味のない言葉をつなげていってしまうように思われ、君の意識は完全に置いてきぼりを食ってしまったようだ。たぶんそれは駄文以下の代物だろう。しかしそう述べつつもそれを否定している気がしないのはどういうことなのか。自らが記しつつある文章を駄文と断じながらも、その駄文のままにさらにその先を記し続けている。だからますますわけがわからなくなるのは当然のこととしても、そこから先をどうするつもりなのか。それは昨日の記憶ではないが、やけにさっきから蝉の鳴き声がうるさく、たぶんそれとは関係ないが、何をつなぎ合わせようとしているのかわからないままに、時の流れと状況の推移に言葉を合わせようとしているのかも知れず、やがて蝉の鳴き声は夕立の音にかき消され、その夕立もいつの間にか止んでいて、誰かの妄想から生じた架空の世界で、そのどこにいるわけでもない君は、ニュースで知った白骨死体と化した自殺志願者のことをどう思うわけもなく、自殺したかったのに騙されて哀れだとも思わず、哀れなのは自殺志願者を殺して、死ぬ間際の苦痛から快楽を享受した者の方かも知れないが、君は他の誰に騙されたのかを知ろうともせずに、ただひたすらに何かを記し続けているだけのように思われる。たぶん誰かが見つめているのはそんな風景ではないのだろう。またそこから目を転じて、何を遠ざけようとしているわけでもなく、どこから自身が遠ざかろうとしているわけでもないらしい。明日に朝に目が覚めて意識が戻って来るにつれて、いつもと変わらぬ風景の中に、君とは無関係な誰かの意識が、ありふれた日常につなぎ止められていることに気づくのだろうが、たぶんそれではつまらないのだろう。そしてつまらないと思うから、無理にそれとは違うことを述べようとするが、そんなことの繰り返しで今まで間に合わせてきたことに嫌気が差していて、さらに違う成り行きと新たな言葉の出現を模索しているようだが、もはやそれではどうにもできない地点まで来てしまったのかも知れない。できることならそれでもどうにか出来ると思っていたいらしいが、そこで言葉が尽きていることを認めたくないのか。無理にどうにかなろうとしているらしい。もう少し遠くへ行って今とは違う風景を見てみたい気がするらしいが、そんなわがままを誰が叶えてくれるだろう。誰ではなく君自身がそうしたいのだろう。他人に頼ろうとしているわけではないが、自力でいける範囲は限られていて、すべてが尽きて何もないからそこまで来てしまったのかも知れず、それが自力でやってきた結果なのかも知れない。はたして自らはこの世界のどこに位置しているのだろう。誰がそれを教えてくれるわけもないようだが、位置は相対的なものでしかなく、まずは基準となるものがなければ、そこからどれほど離れているのか計測できないだろうし、正確な位置など確定できるわけがない。またそれがどのような種類の位置なのかもあやふやのままで、位置がどうのこうの述べてみても仕方がないだろう。要するにただ漠然とそんなことを思っているだけのようで、やはり何を述べようとしているわけでもないのかも知れない。だがそれで夏を乗り切れるだろうか。またそうやって何かをはぐらかしているらしいが、夏の暑さなど時期が過ぎれば消えてしまうだろう。では乗り切ろうとしているのは何なのか。とりあえず遅れを取り戻したいらしい。


8月4日

 遠くから何かがやってきて、そんなことはあり得ないと思わせる。何をそんなに苦しんでいるのか。苦しんでいるのではなく焦っているのではないか。あるいは苦しみも焦りもなかったことにしたいのかも知れない。そんな風に思いながら君の意識はどのような状態に対応しようとしているのだろう。状態とは何の状態なのだろうか。それは誰かの精神状態のことか。状態などどこにもありはしないと思いたい。では君は数日遅れの今日の時において、どんな話をでっち上げようとしているのか。出だしからそんなことを述べてしまったことを後悔しているのかも知れず、でっち上げようとしている意識をどこにも見出せない。やってきたつもりの何かはすでに退き始めている。それはいつもの行ったり来たりの繰り返しに移行しようとしているらしいが、はたしてそれらの逡巡のすべては真実なのだろうか。真実であろうとなかろうと、ただわけがわからないようなことを述べている。そんな風にして構築されようとしているいい加減な作り話の中では、まだ何もまともな言葉がもたらされてはないようだ。思い通りにいっていないらしい。だから何かが散らばり始める。だからではなく理由など何も見出せないだけのようだ。気が散ってそれどころではなくなっているらしいが、それらのどうでもいいような言葉の連なりに、どんな内容の話を付け加えればいいのだろうか。まさかこのまま無内容のままでは、精神的に耐えられそうもない。そんな気乗りしないフィクションの中では、だいぶ意識が不機嫌のようだが、何か不愉快な体験でもしたのか。そういう語り方が不愉快そのものを醸し出している。では何か適当な不幸がなければ、もっともらしい物語は生成されないのだろうか。それは安易な発想かも知れないが、そんなものが相も変わらず巷にあふれかえっているのだろう。そんな外部のくだらなさを尻目に、たぶん誰かの内面には何もありはしないのだろうが、何となくまた君はおかしなことを述べているようだ。なぜそう思うのかわからないが、六十年前の出来事を特権化したがる人の気が知れないか。何もない今の時代こそ、六十年前をはるかに超える未曾有の時期なのかも知れない。いったいこの時代には何が語られているというのだろう。今さら誰が戦争を恐れているというのか。戦争になったりその戦争を体験したりすれば、戦争の悲惨さでも目の当たりにして、戦争を恐れて戦争が二度と起こって欲しくないように思うだろうか。だがそこに示されているのは、誰もが伝えたがる惨劇の恐ろしさではなく、その体験を伝えようとしている人々の愚かさかも知れず、それらの蝉の抜け殻のようなイベントの何が本質的だとも思えないが、君以外の誰がそれを批判しているわけでもなさそうだ。無知な右翼以外は誰もそんなものを批判できないのであり、それらはそれで伝統としてやらなければならないイベントであり、それを執り行っている人々には様々なしがらみがあって、そういうしがらみに心身を拘束されている人々が中心になって、それらは毎年決まった時期になると行わなければならない、祭りのような慣習となっているのだろう。記念式典とはそういう性格のものなのかも知れない。しかし君はそれで何を否定しているつもりなのか。ただ当たり前のことを当たり前のように語っているだけではないのか。否定しようとしてためらっているのだろうか。ためらいなどあるわけもなく、要するにそんなものを否定してみても仕方がないと思うだけか。だが仕方がなければそれ以降は何も語れなくなってしまうのではないか。君はそれでもかまわないのか。かまわないから何も語れなくなってしまったのではないか。なぜその状態が語れなくなった状態なのだろう。まだ何も語れなくなってしまったわけではないか。とりあえずそんなことを語っている場合ではなさそうに思われる。そこにどんな思惑や目的があるのか知らないが、あるいは知っていて知らないふりをしているのかも知れないが、なぜこうも遅れてしまうのだろう。それは記すには無謀で無理な分量だからか。ではもう二度と今の時間帯へは戻ってこられないのだろうか。いきなりそれほど深刻な状況へ陥ってしまうわけもなく、そんなことを述べながらも、今までに何度も同じ場所へ戻ってきていたような気もするが、今度ばかりはお手上げ状態だろうか。だからお手上げ状態も何もなく、確かに何とはなしにうまくいっていないようでいて、結果としてはいくらかは前進しているような気もしているらしい。しかしそれが前進なら後退も前進の一種となってしまうだろう。それは野球選手のひげのはやし方がみんな同じような気がするのとどう違うのか。それとこれとは何の関係もないような気がしてくる。ではそれで何か冗談でも述べたつもりになれるだろうか。相変わらず意味不明なことならすぐに述べられるらしいが、まともなことは何も述べられない。なぜそれをまともなことだとは思わないのか。そんなことはどうでもいいことなのかも知れない。あまりどうでもいいような理由など求めたくはないが、そんなことを述べ続けていくこと以外に、その先へ進む手だてはなさそうにも思える。進んでいこうとする先が間違っているような気もするが、間違っていようといまいと、その歩みののろさでは、いつまで経っても過去の時間帯でもがいている状態を抜けられないのではないか。もちろんそんなこともどうしたわけでもないだろうが、少なくともそれでうまくいっているはずがないか。だがたとえうまくいっていなくても、別に今のところは難病に冒されているわけでも、死にそうなわけでもなく、たぶんこれからもそんな状態のままになってしまうことを、意識が信じられないだけなのかも知れない。今さら将来のことをあれこれ心配しても仕方がないらしく、絶えず賽は振られ続け、偶然に出た目の数だけ様々な状況に直面するだけなのかも知れない。しかしそれで話を終わらせるわけにはいかないか。いつまでも中途半端のままでは終わりようがないか。だがいつかは終わるかも知れない。君が自らの繰り出した言葉の連なりに対してどんな幻想を抱いていようと、いずれ時が経てばそれらに幻滅して何も述べられなくなる。だから今は少しでも長く幻想に浸っていたいのか。そうやって幻滅に至る時を先送りしようとしているのかも知れない。いったい君は何について語っていたのか。現状の何に幻想を抱いていたのか。とりあえずこれからもいくらでも人は死に続けるのだろうし、その死に方についてあれこれ述べてみても虚しいだけではないのか。誰かが生きていることに希望を見出そうとは思わないし、誰かの死によって何が清算されるわけでもない。


8月3日

 どうも始まりがうまくいかない。人々は何をやっているのだろうか。たぶんそれぞれに何かしらやっているのかも知れないが、なぜそんなことを述べているのか。君は政治について興味はないのか。郵政事業の民営化についてどんな異論があるというのか。民営化されたら郵政族議員にとっては死活問題なのだろうか。採算の合わない郵便局が統廃合されて、過疎地域に住んでいる人々は郵便局がなくなって不便になってしまうか。今の時代に特定郵便局長の世襲制というのもおかしなことかも知れない。とりあえずその手の不透明は公務員もどきはなくしてしまった方がすっきりするとは思うが、選挙のときには自民党の集票マシーンとして役に立つらしい。成功するにしろ失敗するにしろ、過去のしがらみを断ち切るには民営化した方がいいのではないか。議員の誰が反対するとかしないとかにはあまり興味はないが、行政に関わる公的なシステムは、すっきりしたわかりやすいものにした方がいいだろう。しかし郵政法案が参議院で否決されて、首相が衆議院を解散して総選挙になった時、誰に投票したらいいのかわからない。政権交代でも実現すれば少しは風通しが良くなるだろうから、今回もそれを期待して投票するしかないのかも知れないが、今の野党は郵政法案には反対している。しかし彼らが反対しなければ解散総選挙は先延ばしになってしまう。まあ誰が政治をやってもそれほど変わらないとは思うので、またそれほど反権力意識もないので、感情的に反自民という気分で選挙に臨むこともないだろう。それどころかもしかしたら投票にさえ行かないかも知れない。理由は何もないのだが、何となく投票に行かないような予感もしてくる。そんなことはどうでもいいことか。前後の文章がつながらないままになってしまったらしく、要するに何が要するになのか意味不明だが、とりあえず夏は戦争体験を語り継ごうとする老人たちと炎天下で野球をする高校生たちが主役なのだろう。その理由も何もなさそうだ。そしてニュースではそんなことばかり伝えられているようだが、君は一向に感心がないらしい。まあ老人たちが悲惨な戦争を繰り返すなと訴えかけている一方で、高校生たちは甲子園という戦地で悲惨な戦争を繰り広げているわけだが、何もそこまでやらなくてもいいのではと思うが、やりたい人々はやりたいのだろうし、応援したい人たちも大勢いるのだろうから、やりたければ気が済むまでやってもらうしかないのだろう。そんなわけでどんなわけでもないが、また停滞気味に状況が推移しているようだが、それの何が不満なのだろうか。なぜいつもそんな状態から始めなければならないのだろう。八方ふさがりとはそういうことなのだろうか。またどこかの生態系に危機が訪れていて、その原因となっている人間たちが相も変わらぬ環境破壊報道にうつつを抜かしている。君はそんな風に皮肉を述べれば満足するのか。だが自殺志願者はこの世の何に未練があるのか。いい加減に言葉を並べ立てれば、それで何とか理由になるのかも知れない。なぜか執拗に繰り返されていたことが途切れてしまったらしく、小康状態にでもなってしまったのかも知れないが、まさかもうまっとうなことを述べるのをあきらめてしまったのだろうか。そこで何を断念しているのかわからないが、まだ続きがあるのかも知れない。悲劇は何度でも繰り返されるから悲劇なのだから、彼らはさらなる悲劇を演じ続けなければならない義務でも生じているのだろうか。そしてもうこれ以上は根も葉もないことを述べるべきではないか。相変わらずの暑い日々がまだしばらく続くらしいが、それを無理に誰かに教えようとしても無駄か。そんなことをいくら主張しても、いつかは忘れ去られてしまうことでしかない。惨劇を伝えようとする人は時間に見捨てられてしまい、世の中からも忘れ去られてしまうだろう。伝えようとして伝わるような物事などすぐに忘れるべきなのかも知れない。また忘れられないから良いとは限らない。忘れられない想い出などそのほとんどはフィクションに違いない。そこに誰もが関心を持つべき事象などありはしないか。しかしそことはどこなのか。それはこの世界のすべてを対象としているのだろうか。たぶん誰かはそんなことを述べたいわけではないく、本音としては何も述べたくないのかも知れない。それは考えられないようなことが繰り返されているからなのだろうか。しかし依然として何を考えているのかわからないか。それを考えようとしていることが無理なのかも知れない。考える必要がないのに考えようとしているわけか。考える以前に何について考えなければならないのか、まずはそれを考えなければならないかも知れないが、その次元では考える対象が見当たらないように思われる。考える対象がなければ、何を述べることもできなくなるだろうか。そしてそこから逃げ出したなくなるか。そんな風にしてまでまた以前を同じようなことを述べようとするのか。どうもそんな現状が変化する兆しを感じられない。事実とは何だろう。話し合いが不調に終わることもひとつの成果なのかも知れない。話し合いに至り実際に話し合った事実が成果といえるだろうか。相手を話し合いの対象として認めていること自体が、有無を言わさぬ強硬措置に至るのを防いでいるからか。しかしそれで何を考えていることになるのだろうか。なぜ事実を伝えなければならないのか。伝えることが慣習と化してしまったら、それは機械的な現状報告となってしまうだろうか。何の実態も伴っていない。そこで何を意識しているのだろうか。物語の登場人物なら事実には無関心を装えるかも知れない。事実は事実として当たり前の事実であって、そこに何の驚きも感じられないとしたら、やはり生身の君は形式的な現状報告にとどめるべきだろうか。だがそこから他人の興味を惹きたいと思うなら、でっち上げやねつ造を多用したフィクションへと、話の内容を移行させるしかないか。人は他人の興味を惹きたいがために、あることないことを語りたがる傾向にあるらしい。しかしそんな当たり前の見解で他人の興味を惹くことができるだろうか。では思考を巡らしてそれとは異なる見解を導き出したいのか。君は君自身が何を考えているのかわからないようだが、それをわからなければ嘘になるのだろうか。嘘だからわからないのではないか。しかしわからないこととそれが嘘だということがわかることは矛盾していないか。何をわかろうとしていたのかわからなくなってきたように思われる。言葉を入り組ませて思考を戸惑わせているような気がするが、なぜそうなってしまうのだろう。たぶん何かを語っていたいのだろうが、何を語ったらいいのかわからないのかも知れない。それはやりたいこととやっていることの食い違いを示しているのだろうか。実態はそれとは少し違っているのかも知れない。


8月2日

 何をやろうと試みても、大したことは何もできはしないだろう。何もできないから何かを語ろうとしている。しかし結果としては何も語れない。なぜいつまで経っても語れないのか。語る必要がないから語れないのだろう。近頃は息切ればかりが続いている。数十前に吸い込んだアスベストの影響か。小学校の頃、増設された校舎には階段の裏側に綿状のふわふわした素材が吹きつけられていて、それが手抜き工事だったのか、しばらくしたら大量にはがれ落ちてきた光景が思い出される。もしそれがアスベストだったとすれば、自分も含めて数百人の生徒が毎日吸い込んでいたことになる。ある日突然それらの人々が大量に死にだしたら話題になるかも知れない。確かもうそろそろあの時期から三十年が経過しようとしている。そうだとするとあと十年以内に死ぬ運命にあるわけか。本当にそうなってしまったらおもしろいか。おもしろいというよりやばいのではないか。確かにやばいかも知れないが、もう手遅れなのではないか。何か冗談のように思われてくるのだが、現実には冗談では済まないのかも知れない。それが冗談か否かは今後十年以内には明らかになるだろう。案外そうなったとしても、因果関係がわからないうちに、同じ年代の人々が大量に死んでしまうのかも知れない。メディアに気づかれないうちにそうなってしまったらおもしろいだろうか。ただ単に世間に知られないだけか。本当に自分がそうなってしまったら、死ぬ直前にでも誰かに打ち明けてみようか。すでにこうして死なないうちに打ち明けているのではないか。何となくそんなことを述べているうちに、意味不明な表情が顔面に貼り付いている。面倒なので虚無的な笑いがこみ上げてくるか。面倒だからそうなるわけでもないだろう。では他に何を知ろうとしているのか。それに気づいてから、何も知らないうちに数日が経過している。それはそれでそういうことでしかないだろう。それ以上のことを知りたければ、知りようがないことを知ろうとしていることになるのだろうか。そんなことを知ろうとしても無駄であり、それ以上は何も述べようがないのだから、無理に述べようとする無内容になるだろう。何か予感がしているのかも知れない。死ぬ時にはその予兆を感知できるような気がしている。ただ今は無知を装っているだけかも知れない。ではそれらの無知は何を招いているのだろうか。それは招かざる状況なのか。何を招いているわけでもなく、別に君が夏の蒸し暑さを招いているわけでもないか。今日も朝から蒸し暑い。だいぶ夏の暑さになれてきたのかも知れないが、またいつの間にかつまらないことを述べている。知らないうちにそんなことを述べているようだが、いったい君はこの世界の何を知っているというのか。たぶん何かしら知っていることがあるかも知れない。ではその知っていることについて語っているのだろうか。知っていることはつまらないことばかりなのだろうか。まさか知り得ないことについてばかり語りたがる性分なわけもないか。そんな風にしていつまでも奇をてらっているわけにもいかないか。誰がそんなことを思っているわけでもないが、人はそれらの何に驚かなければならないのか。それらとは何なのか。何でもないことがそれらであるはずがないか。たぶん君はいつでもそれは違うと思っているはずだ。派手に雷鳴がとどろいている最中に、別にそんなどうでもいいことを述べるつもりではなかったのかも知れないが、実際に誰かは何を述べていることになっているのだろうか。いつものようにまだ何も語っていないのかも知れない。そして何も語りたがらないのかも知れない。何を探しているわけでもないのに、語る理由を見つけ出せるだろうか。だがその反対に語らない理由がどこにあるのか。そんな風にして語ってしまうことに、どのような高揚感を伴わせたいのか。わざとらしく気持ちの高ぶりを利用して語っているわけでもないだろう。では至って冷静なのか。心が虚無に取り込まれようとしているのに、冷静でいられるはずもないか。それはどのような幻想なのか。言葉で表せないものをどう説明できるというのか。説明を要するものを抱えているわけではない。実体を伴ったものは何も抱えていないように思える。何がそこに存在しているのだろう。いったい言葉を用いて何を提示しなければならないのか。それを成し遂げるには、必要以上のことが必要とされているのかも知れない。つまり何もかもが過剰に用いられなければ、それを説明することはできないのだろうか。そこで何が作用しているのか。暗闇に向かってかざされた指先に、闇とは別の影がまとわりつく。その影は何を物語っているのか。安易に言葉をもてあそびすぎだろうか。もてあそんでいるつもりがもてあそばれているような気がしてならない。まるでとってつけたような言葉遣いになっているようだ。その時点では具体的に何が過剰なのかわからないのだろうが、後から何かに気づいてしまうこともあるだろう。例えばそこで見受けられるのは言葉が過剰か。戯れにいい加減なことを述べているようだが、時が経てば誰もそんなことに興味を示さなくなるだろう。だが今そう述べることでどんな未来がもたらされるのだろうか。何ももたらされはしないだろう。それでも何かがもたらされるとしたら、それとは別の要因からもたらされるかも知れないが、いくら何がもたらされようと、そんなことは今はどうでもいいことになるだろうか。今の時間帯において必要とされているのは、少なくとも将来に対する漠然とした不安などではない。今は今でやり遂げなければならないノルマに追い立てられている最中か。何を今さら達成しなければならないのか。陽が昇り沈む時間内においては何も求められていなかったはずか。何もやる必要もないのに、ひたすら言葉を弄しているような気がする。何がそうさせるかなんてわかるわけもない。ただとりあえずはそんな風に述べてみる必要があったのかも知れないが、それが誰から求められていることでもないことも承知しているはずだろう。要するに何を述べているにしても、まだ先が長いということか。根拠など何もないのに、ただ先が長いと思い込もうとしている。今知らなければならないことを、先延ばしにしておいてもいいのだろうか。なぜ急にそんなことを思うのか。そしてどうしてそんなことを述べてしまうのか。それは何かの付け足しの一種なのか。何となくそうしたいだけのようにも思える。そこから何がもたらされるわけでもないだろう。やる気のなさがもたらされている。そのやる気のなさはどこからもたらされているのか。何ももたらされていないからやる気がないのではないか。そしてそれ以上は何も述べられないのに、さらに何かしら述べようとしている。


8月1日

 久しぶりの吃音で意識の本体が目を覚ます。はたして彼が本当の神なのか。それは今に始まったことではないらしい。まるでおかしな成り行きに遭遇しているわけでもないが、なぜか読もうとしている文字が透けて見えるようになってしまい、文字の向こう側に別の言葉を見つけたように思えてしまう。それは勘違いもいいところだろうか。なぜ君がそんなことを語るのかよくわからないのだが、それとは無関係に少しは現実の時刻へ近づいたらしく、まだ遅れを完全に解消するには至っていないが、とりあえずは今月に入って一安心なのだろうか。だが仮にこれから作業がはかどって、時間的な遅れを一時的に解消できたとしても、またいつ何かのきっかけで遅れてしまう事態に陥ってしまうかも知れないが、これまでもそんなことばかりだったような気がするし、そんな風に述べているそれが、近況報告の類にでもなるのだろうか。そんなわけのわからない嘘をついてどうするのか。今日はあまりわざとらしい嘘はついていないような気がするが、別にそれが騒ぐようなことではないだろう。猫も杓子も漫画やアニメの中で闘っている現状を、どう解釈したらいいのかわからないが、そんな中でも創意工夫を感じられるものはそれなりにおもしろいのだろうが、何となく今に始まったわけではないそれらの状況を、あまり好意的には見ていないように思われる。たぶんそれを作っている側も、それを見たり読んだりしている側も、あまりにも自らの欲望に正直すぎるのであり、それが安易な印象を与えているわけか。誰もがその程度を越える内容を求めなくなっているのかも知れない。要するに以前よりは馬鹿になってしまったわけか。以前もそれなりに馬鹿だったのかも知れないが、それが今日に至り、より巧妙な馬鹿に近づきつつあるのだろうか。手法的あるいは技術的に洗練された馬鹿になっているように思われる。彼らは刹那的に今を求めすぎているのであり、その今において戦いの演出ばかりに工夫を凝らし続けている。それは絶えず登場人物が死の一歩手前にまで追い込まれながらも、危機一髪のところで奇跡的な生還を果たすという、毎度おなじみの紋切り型に構造的に支えられているわけだが、そんな前もって提示されたフォーマットの中で、絶体絶命の状況に追い込まれる追い込まれ方と、奇跡の生還を果たす果たし方のバリエーションを競い合っているだけで、その場の雰囲気に流されずに、よく見たり読んだりすれば、そんなことはわかりきったことかも知れないが、その刹那的なカタルシスを得るためにのみ対決漫画やアニメを読んだり見たりすることが、何となく愚かしくも退嬰的に思えてくるらしい。安易な必殺技的なものの連発になぜ飽きが来ないのだろうか。そんなものに心を奪われている現状は、結果的にどのような方向へ人々の関心を向けさせているのだろう。物語的な安易さのただ中で充足感を味わっていることが、現実のどのような行動や行為や思考を招いているのか。彼らは何を見失い、何を忘れ去り、またそれによってどのような能力を獲得しているのだろうか。フィクションの中にもたらされている暴力的で安易な死を、現実の世界に当てはめるのもまたありふれているだろうか。人々は我慢することを知らなくなっているのかも知れない。例えば漫画を数ページ読み進むだけで、登場人物が身につけてしまう驚異的な能力について、それをその場で真に受けてしまう人は、現実に存在するインチキ宗教や詐欺の類に簡単に引っかかりやすいか。だが君はそんなありふれたことを述べたかったわけではないはずだ。一瞬でついてしまいそうな勝負が、延々と数週間から数ヶ月にも渡って長引いてしまうのも退屈だが、そこへ関心や興味を引き留めておくやり方に、欺瞞の本質がむき出しになって提示されているようにも思われる。刺激の少ないありふれた生活の中に、あり得ない過剰な刺激をもたらそうとしているように感じられ、そのありふれた現実の生活を一時的にしろ忘れさせることで、現実に体験しつつある世界を見失わせているのではないだろうか。現実の世界ではうまくいかないことが、フィクションの中ではうまくいってしまうことを、それを見たり読んだりしている人々はちゃんと感知できているのだろうか。闘いの中で闘っている相手と語らいながら、それによって状況を説明してしまう荒唐無稽さをわかっているのか。そこにはまるで解説つきのスポーツ中継を当然のことと思うような錯覚が生じているのかも知れないが、それらの人々に現実を理解させるには、たぶん必要以上に装飾過多に語らなければ、何もわかってくれないのかも知れない。しかしそんな風に語ればそれは現実から遠く離れ、フィクションになるしかないか。現実を理解させるには必要以上の言葉が費やされなければならないかも知れないが、それこそが作り話そのものなのだろう。現実は理解するために存在しているのではなく、現実を理解しようとすれば現実から離れていってしまうだろうか。では理解する以前のそれが現実そのものなのか。そんな現実がどこにあるのだろう。言葉によって説明されたそれは現実ではないわけか。それもひとつの現実であり、現実について語っている現実があるのだろうが、それが作り話を形成していることも確かかも知れない。言葉と言葉をつなげてそれを組み合わせて文章を構成しているわけだから、それは作り話以外の何ものでもないだろう。しかしそれを一方的にフィクションと見なしていいものかどうか。それがフィクションでないとすると、何をもってフィクションから隔てられているのだろうか。現実の出来事について語っていれば、それはジャンル的にはノンフィクションになるか。だがそうやって作り話をフィクションとノンフィクションとに分けることに何の意味があるのだろう。そのどちらかを顕揚したところでそれがどうしたというのか。そんなことはどうでもいい話にしかならないかも知れない。たぶん現実は現実でしかなく、その現実から作り話が生じてしまうことも、仕方のないことかも知れないが、そんな作り話が自らのご都合主義によって、現実離れしてはいけないような気がするのだが、たとえそれが作り話であったとしても、現実に根ざしていない作り話は、刹那的に欲望を煽り立てて商業的に成功したとしても、それを作っている側と読んだり見たりしている側の間で、自閉してしまっているだけではないのか。それが良いとか悪いとかではなく、隠しようのない欺瞞が見えてしまうらしい。何もそのような話の展開に持って行かなくてもいいのに、読んだり見たりしている者たちを裏切るのが怖くて、必要以上に媚びているように思われる。やはりそんな作り話に満足してはいけないか。