彼の声49

2005年

7月31日

 たぶんそれらの画像は魅力的なのだろう。ストーリーも読ませる内容にはなっている。そんな見下した述べ方が憚られるほどに人々の心を捉えているのかも知れない。そこにはそれなりの技術の集積があるらしい。しかし君はそれの何が不満なのか。不満なのではなくそれらの見せ物に魅了されてしまっているのではないか。たぶんそれはそれでそういうことなのであり、そういうことでしかないわけではなく、感知している以上のものがあるのだろう。しかしそんなものに心を奪われているうちに何かを怠っていることに気づかなくなってしまうのかも知れない。人々は何を怠っているというのか。自分たちがありふれた世界に暮らしていることに気づかなくなる。ただ普通に暮らし普通に生きている現実を意識できなくなる。自らが単純な価値基準に依存していることを忘れている。単に無知であるのではなく、知っているのに知らないふりをしていることを忘れている。知っていながらそれを無視して、さかんに知り得ないこと知ろうとしているわけだ。そんなことはどうでもいいということを、わざと忘れたふりをして、自らの感性に嘘をつきながら、それがどうでもよくないことであるように思い込みたい。それがフィクションを形成しているのだろう。自らのやっていることや、魅力的に感じることが、何らかの価値を持っていると思っていたいのだ。そんな思い込みが何でもないことだなんて思ってもみないのかも知れないが、もし何かのきっかけで本当は何でもないことだと悟った時、それ以降は何をやればいいのだろうか。何もできなくなるのかも知れないが、何もできなければ死んでしまうだろうか。だが死ぬことさえできないとしたらどうだろう。いったいそこから何が生じてくるのか。まだ何かをやるつもりらしく、別にやり残したことがあるわけではないようだが、やる気もないのにまだやめるわけにはいかないらしい。それらの言葉の連なりが保持しているつもりの意識が、何を思っているのかわからない。君と意思疎通を図るには距離が遠すぎるのだろうか。別に実体を操っているわけではないが、何かしらそこには周りの時空から滲み出てくるものがあるらしい。それが言葉以前の雰囲気だとすると、それにはどんな意識が宿っているのだろうか。実体がないのに意識などあるわけもないか。しかしその場の成り行きに合わせて言葉を操っているように思われ、常に先を読むこともできるらしい。何がそれを構成しているのかわからないが、あるいは何ができるわけでもないように思われるが、実体を持っている意識に対して何らかの作用を及ぼしていることは確かなようで、その作用によって実体はそこにある事物の存在を感じ取ることができるのかも知れない。ところでさっきから何について述べているのだろう。なぜ君はそんなことを述べながらもそう思うのか。それを否定することができるだろうか。それは何かの妄想が言葉として出力しているだけなのか。君はそこで言葉と意味以外の何と何を近づけたいのか。またそんな風に述べてしまうことに関して、何かやむにやまれぬ事情でもあるのだろうか。何とか具体的な話題へと話の矛先を向けたいらしいが、なぜかそこから言葉がつながらないようだ。君は何かを見て見ぬふりをしている。話が破綻しているらしいことはわかっているつもりのようだ。どうやらその辺で限界に近づいているのかも知れず、現実に生じている虚無をどうすることもできずにいる。それらのどこにどんな精神状態を設定しようと、それが誰かの思い描いている架空の物語に影響を及ぼすことはないだろう。語りの対象がどんな話なのか特定されることを恐れているのかも知れないが、なぜそうするのかは不明だ。そこまでは誰かの意識が述べようとすることを、読み切れていないのかも知れない。たぶん読んでいるつもりのものに文字が記されているわけではなく、どのような言葉が生じているわけでもない。またそれ以外は取り立てて何を説明しているわけでもないらしいが、内面の空洞の中で虚無が膨らみ続けているようだ。そこで誰かが君の脳裏にささやきかける。そんな風に思うのはやめた方がいい。たとえこの先何が起ころうと大したことはないのだろうし、いつもと代わり映えのしない精神状態を保ちつつ、そんなことを思っていることの真偽を確かめられるわけがないとも感じている。そんな風に感じられるのはおかしいだろうか。まだ完全に頭がいかれているわけではない。これからさらなる言葉の襲来を受け止めなければならないが、どこで何をやっているわけでもなく、そこにどんな備えが整っているわけでもない。意識はまだ先月の時空を彷徨っているらしいが、いくら彷徨ってもどうなるものでもないだろう。そこに現れているのは取り扱い不明の言葉の束でしかないか。どう述べても何かが違っているように思えてきて、そこで彷徨っているつもりの意識を言葉が捉えきれていないようだ。やはり何を語っているわけでもないのだろうか。いつまで経っても語っていることの意味がわからず、そしてそれはいつものように決まり文句と化している。なぜそんな思考に凝り固まっているのだろう。そこから何を考え出そうとしているのか。すでに連ねられている言葉に先行して何を考えられるわけもない。できるなら思考より言葉の出現が先に起こる状態を改められないのだろうか。だが今さら時事的にどんな問題を導き出せるわけもないか。考えるべき問題などありはしないし、絶えず考えられないようなことについて考えざるを得なくなってしまっている現状を、どうすることもできずにいるらしい。架空の君にとってはそんな問いかけも想定の範囲内だろうか。今さら君に向かって何を述べても無駄かも知れない。何か途方もないいい加減さに取り憑かれているような気がしてくる。確かに何もないからそんなことを述べざるを得ないのだろうが、本当に何もないわけではなく、そこで意識が感知している事象に関心がないだけか。しかし意識以外の何が関心がないといえるのか。確か以前にもそんな言説が繰り返されていたように思われ、そうなってしまう理由がないわけではないが、ひたすら作業が遅れ続けている理由を、そこからどう説明できるだろうか。別にそんなことを説明したいわけでもないが、何を説明しようとしてそんなことを述べているわけでもなく、それがどうかしていることの説明になっているのかも知れない。そしてそこからさらなる続きをもたらそうとしているのかも知れず、ただ誰かは泥縄的に文章を長引かせていきたいだけのように思われ、その時点ではそんなことをやり続ける以外にやりようがなかったのか。だがそれも過去の話でしかないようだ。


7月30日

 この期に及んで何を断言すればしっくり来るだろうか。君に未来などありはしない。しかし未だにそんな時と場所でもがいているのか。その辺でもういい加減にあきらめたらどうか。何もないのに空白に言葉を並べる必要などありはしないだろうが、それでもそれをやるに当たって何か持ち合わせているつもりなのか。文章を構成するためには言葉以外に何が必要なのだろう。そこで経験はどんな邪魔を用意しているのか。誰が何を思い何を考えているつもりなのか。当然のことながら、まだ何も導き出されてはいないようだ。しかしそこに出現しつつあるのは導き出そうとしているものではない。何が出現しつつあるのか、また何を導き出そうとしているのか、そんなことを誰がどうやって知ることができるのだろうか。だが知る手がかりが何もないわけではない。ただの空虚ならすでにあるのではないか。しかし空虚から何がわかるというのか。君はそこに何もないことをわかっているはずだ。空虚以外の何が出現しつつあるわけでもない。言葉の連なりは空虚以外の何なのか。まだ意識は空虚に代わる肯定的な概念を見出せないでいるのだろうか。そんなものを見出すことは未来永劫あり得ないか。今のままではそうなのかも知れない。では今のままでなくなる状況を想像できるか。なぜその先に思考が及ばないのだろう。思考の代わりに内面から滲み出てくるのは決まって妄想の類か。例えばあるとき誰かは、バラ色の未来を思い描きながら現実から逃避したいらしく、しきりに人間一般の幸せについて論じているように思われるが、はたしてそれは冗談で述べていることなのだろうか。誰がそんなことを述べているわけではない。たとえ話には嘘がつきものなのだろうか。何もないのだから何を述べても嘘になるだろうか。それが嘘では誰が困るというのか。本当に何もなくて困り果てているのなら、やめてしまえばいいだろう。それはそんなことなどできるわけがない、と高をくくった言い草か。まさかそこで話すのをやめてしまえる勇気が湧いてきたわけでもあるまい。いったいやめてしまうことを前提としてそのような話を進めていいのか。そういう述べ方はまだるっこしくないか。そんな風に思っているのなら、どうすればそれをやめられるのか、それを示すことができるだろうか。どこかのアニメのように暴力でけりをつけたくなるか。誰もいないのに暴力をふるう担い手をどう出現させればいいのだろう。とりあえずその手の映像にはアクションが欠かせない。何もかもが絶えず動いていないと話にならないわけだ。静止画像だけでは間が持たないのかも知れないが、やはりそんな付け焼きのはぐらかしでは、話にならないだろう。しかし何を当たり前のことを述べているのか。どうもいつまで経っても話の核心へ入っていけないようだ。いったい何を語りたかったのか、あるいは何を忘れているのかわからないが、たぶんそれに関してひらめきは何もないだろう。何のアイデアも持ち合わせていない。だから何を述べているのかわからなくなる。君は何をやめさせようとしているのか。まさか君が神ではあるまい。そんな疑念がどこから生じてくるのかわからない。わかっていたらもっとマシな話の内容を提示できるだろうか。だいぶ無駄に語ってしまったらしい。しかしなぜそこに到達できないのだろう。近づくどころかなぜかどんどん遠ざかっているような気がするのだが、なぜそうなってしまうのか。そうなってしまう理由や原因を導き出せるだろうか。説明は無理かも知れない。説明できないからそうなってしまうわけか。逆に説明できたら文章が壊れてしまうのではないか。たぶんそれを説明しようとしているわけではないのだろう。だからどこまでもだらだらと内容のない文章が続いてしまうのか。とりとめがないとはこういうことをいうのだろうか。放っておけばいつまでも続いていってしまうから、どこかでそれを断ち切らなくてはならなくなるか。今がそのときなのか。そのときだとするとこれからどうなってしまうわけか。どうにもならないのかも知れない。どうにもならない理由がどこにあるのだろう。理由のあるなしはそれらの文章の継続には関係ないのか。そんなことを述べ続けていると、何となくじれったくなってくるが、それはそれで同時に心地よさも醸し出しているのかも知れない。それを続けるためには一時的な迷いも必要な通過儀礼なのかも知れず、今の状態はまさに避けては通れないところを、通り過ぎている最中なのかも知れないが、はたしてそれでいいのかどうか、それについてわざとらしく疑念を抱いているところなのか。しかしいったいそこには何があるというのだろう。ただ単に何かが繰り返し述べられているだけなのか。時計の針が数日前から止まっているようだが、そんな表現はありふれていて、退屈さを醸し出しているようだが、それをはじめからやり直すわけには行かないのかも知れない。だからそこで時間が止まっているように装いたいのか。それは言い逃れもいいところで、何が止まっているわけもなく、それらの言葉はこの世界の何を反映しているわけでもなく、そこからさらに嘘をつき通すならば、時間が止まる前の世界の中に、そんな現象を暴くためのヒントでも潜んでいるわけか。しかし今はなぜ時間が止まっていると感じるのだろう。何がそんな風に感じさせているのか。そんな風に感じていること自体が何となくおかしいとは思わないか。現実にそこで立ち止まることができるだろうか。立ち止まれなければどうなるというのか。何を顧みる必要があるのだろう。何も見出されはしないだろうか。逃れられない道筋を通っているのかも知れない。どうにもならないことをやり続けているらしく、そんな風に思ってしまうのにも理由がありそうだが、やはりそれを導き出せるわけもないように思われ、あきらめるのはまだ早いかも知れないが、そんな風に述べていること自体が、あきらめてしまっている証になるだろうか。しかしそれでも続いていってしまうのだろう。何が続いてしまうのかわかりかけているような気がするのだが、まだその続いている言葉の連なりを断ち切る勇気は湧いてこないようで、今やめるわけにはいかないように思われ、それでもかまわないらしい。たぶんかまわないからそうなってしまうのだろうが、そうやって同じ言葉が繰り出される状況の中に居続けることは、マンネリ化の危険を伴っているのだろうか。すでにそういう状態なのかも知れず、君にはそこから抜け出ようとする必死さが足りないのではないか。他に何がそこで抜けているのか。すべてが抜けているような気もするが、それでは大げさすぎるような気もしてくる。まだ耐えなければならない状況が残されているらしく、もしそれもなくなってしまったら、そのときはもはや何もできなくなってしまうだろう。まさかそんな状況になることを夢見ているのだろうか。それは実際にはありもしない状況かも知れないが、まったく叶わない夢ではないと思うのはどういうことなのか。何かその辺で矛盾していないか。たぶん矛盾を感じながらも、今はその成り行きに身をまかせている最中なのかも知れない。そしてそれはいつか恐るべき野望になってしまうかも知れない。


7月29日

 まだ何も始まっていないらしい。何かが氷漬けのまま中に止まっているように思えるが、それは嘘で何がそうなっているのか思いつかない。出だしからわけがわからなくなっているようで、どこかに妥協するきっかけを設けたいのだが、誰かはそれらのどこに差し挟むべき言葉を見出しているのだろうか。つながりのある言葉など何も見出されず、それでも文章を構成しようとして叶わず、何やら頭が壊れたまま意識も壊れ文章も壊れているのかも知れない。結局何がどうなっているのか意味不明だが、壊れたままで先を急いでもかまわないだろうか。それができればの話だが、別に君は病を患っているわけではない。ただ夜の間中投げやりな気分でいたいだけなのかも知れない。もう少し真面目なったらそれらの文章がまとまってくるだろうか。しかし君とは別の意識は、そんなことを期待しているわけではない。他人が何を期待しているかなんてわかるはずがないが、君でさえ他人なのかも知れないのだから、そんなことを述べていること自体がおかしいのではないか。ではこれから何かおもしろいことでも起こりそうか。なぜそうなってしまうのか。そんなことを述べても何も起こりはしないだろう。ところで君は何について語りたいのか。そんな問いかけを誰に向かって発しているわけでもなく、語るべき内容を見出せないのはいつものことかも知れないが、それでもそれなりに言葉をつなげようとしているらしく、そこにどんなシステムが作動しているわけでもないだろうが、ありふれたことを述べるならば、結果として導き出される文章は妥協の産物なのかも知れない。とりあえずうんざりするような言葉と言葉のせめぎ合いの中に、何か建設的な話し合いのきっかけでも見出されるのだろうか。見え透いた嘘をつかないでほしいか。誰と誰が文章の中で話し合っているのか。モノローグの中で話し合うことはあり得ない。だがそんなあり得ない話の中に君と誰かを存在させたいらしい。二つの意識を存在させて話し合っているように文章を構成すれば、それがありきたりのフィクションでもなるだろうか。今のところそれとは違う言葉を見出せないようだが、それでも自らの稚拙な文章表現が、壁にでもぶち当たっているのかも知れず、その壁を乗り越えて、何か利いた風な言葉の連なりを獲得しようとしているわけでもなさそうだが、それでも何かしら自然に言葉が湧き出てくるような成り行きに身をまかせて、それが誰を念頭に置いた嘘なのかわからないが、行く当てのない話の中身はおのれ自身で何かをやり遂げようとしているのかも知れない。しかしそれの何が嘘になるのだろうか。そこでは言葉以外の何が彷徨っているのか。未知の意識が言葉を繰り出すためには何を経験しなければならないのか。唐突に出現した未知の意識とは何なのか。それはその場限りのいい加減なつじつま合わせから導き出された意識かも知れないが、それでも辻褄が合っていないように思えるのはどういうことなのだろう。それらの何がつじつま合わせなのかわかっていないらしい。ではそれらのわけのわからない経験によって、文章はどのような領域へと至ることができるのだろう。現状ではどこへも至らずに、それでも言葉と言葉をつなげようと意識は強情を張って、無理を押し通してそこへとどまろうとしているだけか。しかし無理が無理でなくなるために、絶えず工夫しながらやるべきことを成し遂げなければならない。誰がそう思っているのかわからないが、誰かは確実にそこに無関係な言葉の連なりをねじ込んでいるようで、例えば想い出の中で夜通し降り続いた雨はすでに止んでいる。なぜそんなことを述べるのか。過去の時間において君は何を避けているのだろう。先が見えてくるとなりふり構わずやり遂げてしまいたくなり、いったんは避けていたやり方を試したくなるらしい。そしてどういうわけか作業を再開しようとしていた直前に、気が変わってしまったらしく、いつまで経ってもそれをやろうとしない。そんな見え透いた矛盾を楽しんでいるのだろうか。なかなか当初に抱いていたことをやる気にはならず、その結果として過去の意識の思い通りにはいかないようで、ここ数日はほとんど作業がはかどっていないらしい。だからなおのことをいい加減に振る舞いたくなるのだろうか。要するに自暴自棄を装いたいのか。すでに引き金を引いているような感じで、あとは意識が切れるのを待つのみか。そのときの意識はまるで衝動的な犯罪者のような気分になりたいのか。しかしそれで何ができるというのだろう。たぶん何もやれるはずもなく、君は君以外に誰もいない部屋の中で、ただつまらない作業を黙々と行っている。それ以外に誰が何をやろうとしているわけでもないが、架空の話の中では、誰かが興味深い何かを発見している最中かも知れず、その何かが何なのかを言葉で示してみたい、という妄想を抱いているのかも知れない。たぶんそんなまわりくどい表現の途中で言葉が滞っているのかも知れず、いったんそう述べてしまえば、それらの停滞は避けて通ることのできない成り行きだろうが、神はそこから何をどうしろというのだろう。信じていない神を信じられるきっかけでも巡ってきてほしいか。それはあまりにも馬鹿げたことか。宗教の崩壊した内面のそこにはまだ何かが残っているのだろうか。ここ数日の暑さで体力を消耗しているのかも知れない。それで何も思わないのは当たり前のことなのだろうか。体力など寝て起きればすぐに回復するだろう。それが原因や理由にはならないか。こだわりがないのだろうか。またつまらないことを述べてしまったような気がする。何をやるのにも積極性とは無縁なのだろうか。何もないことに焦りを感じて、どこかへ飛んでいってしまいそうになるか。君には翼がないが、翼は鳥類に備わっている。やはり何を述べているのかわからなくなるようだ。それの何が馬鹿らしいと思われるのか。何かあるように思われるのは気のせいか。書くべきことなど何もありはしない。何を述べているのかわからないのはいつものことなのだろう。何となく行き詰まりが長引いているようだが、長すぎるのは行き詰まりばかりではなさそうに思われる。無理なものは無理でしかなく、できないものはできないのだろう。それとは別にあきれ顔で何かささやいているのかも知れない。君はまだそんなことをやっているのか。だが言葉としての実体はそこにない。つぶやき声として発せられているように聞こえるそれは、言葉ではなく言葉以前の何かだろうか。それに関してわかっていることは、わからないことと渾然一体となって、文章の中に提示されているように思われるが、何を述べているのかわからなくなるようなことを述べているらしい。それ以上のことは何も述べられないのかも知れないが、その避けて通ることのできない意味不明を受け入れる理由がそれらの文章のどこにあるのか。


7月28日

 なぜそんなことを繰り返すのか、まだ何を述べているのでもないような気がするが、何事も否定的に捉えてはいけない。ひねくれて捉えようとするのはさらにやってはいけないことか。しかし何を捉えようとしているのか未だ定かではない。別にそんなことについて何を考えようとしているわけではない。まだ機会を捉えていないような気がする。あまりその場の気まぐれだけの思考を利用してはいけないのかも知れない。そのような雰囲気の中では何を思っても考えてもだめなのか。機会などやってくるはずがない。それが何をどうする機会なのかわからないが、案外今がその機会なのかも知れない。何もわからないのに、なぜそんなことを思いつくのだろうか。そんなこととはどんなことなのか、本当に何もわかっていないのではないか。わからないからそんなことを述べているのかも知れない。それがわかっていたらもう少しマシなをことでも述べているところか。何がどのようにマシなのかわからない。それについて何をどう思えるというのだろう。それについて何をどのように思うにしろ、とりあえず夏の暑さは著しく体力を消耗させるものらしい。その強烈な日差しの下にいると、何となく寿命が縮む思いがしてくる。幻影として死の影でも見ている感じか。そこで死という言葉が安易に導き出されているように思われるが、死について深く考えるのは危険な兆しだろうか。別にそれほど深く考え込んでいるわけではないが、自らの死について思考する者は自殺する危険性でもあるのか。死にたいわけでもないのに、死んでしまうことがあり得るだろうか。まさか疲れ果てている君の顔には死相が浮き出ているわけでもないだろう。だがここは疲労を回復させるためにももう少し安全なことを述べておくべきではないか。思考する意識をこわばらせている神経を解きほぐして、リラックスしているような気にさせておかないと、この先が持たないような気がしてくる。例えば死は死でもそれが他人の死なら、気楽に思考の対象とすることができるか。ただいくぶん無責任な気分にはなれそうな気配がするだろうか。しかしその後が続いてゆかない。何がそこでの死を構成しているのだろう。それはただの言葉が死を醸し出しているに過ぎないのかも知れない。そんな架空の死の世界には何らかの変容がもたらされているのだろうか。死を表現しようとする言葉の束が死を変容させている。そこには静寂が訪れているはずだが、それは具体的な誰かの死から来ているわけではない。誰も死んでいないのに、誰かが死んだように述べることは可能だろう。別にそこで現実の死を記述しているわけではない。今こそ決断を下さなければならないのかも知れず、どこかで妥協しなければならないのかも知れない。死に関する決まり文句とはどのようにしてもたらされるのだろう。それによって物事の上っ面だけかすめて何かを述べているような気になりたいのか。その唐突の変化は君の精神にどのような影響を及ぼそうとしているのだろう。誰かは今どこで何をしているつもりになりたいのか。たぶん何をやっているのか定かでないのだろう。やる気はどこかへ消え去ってしまったのか。そんなことを述べながら誰が忘却の彼方から登場しようとしているわけでもない。もう作り事の世界には飽き飽きしている頃だろうか。それでもまだその続きを何とかしなければならないのだろうか。君はそこで何を問いかけているのだろう。この世界には何がもたらされているのか。たぶんそれは死だけではなく、今までに見聞してきた物事をはるかに超えるすべてがもたらされているのだろう。人々はなぜそのわけのわからない事態に驚かないのだろうか。それがごく当たり前のことだからか。わけがわからないにもかかわらず、それらのすべては当たり前のようにもたらされているということか。それをわかりかけているのかも知れないが、まだ完全にはわかっていないのかも知れない。そのすべてをわかることなどできはしないのかも知れないが、無意識のうちにそれを悟っているのかも知れず、それが意識の表面上に昇ってくることはないだろうが、決して何もわかっていないわけではなさそうな気はしている。そんな風に語りながらも現実に作用を及ぼしている何かを捉えているのかも知れない。それは誰かがその言葉の連なりを読めば伝わるようなことだろうか。君は誰かが何を述べているのか理解できるだろうか。理解しようとする気がなければ何もわからないか。理解できないわけではないが、それが誰かが述べようとしていたことであるかどうか、それを確信するまでには至らないだろう。少なくとも何かを述べている気はしているのかも知れないが、相変わらずその内容について不可解に思われる箇所が多すぎるような気がしている。なぜそれを明確にできないのだろうか。ではそうすることによって、誰が利益を得たり逆に不利益を被ったりするのだろうか。それに関して人々は何を知りたがっているのだろうか。人々ではなく君は何を知りたがっているのか。君にそれを知る権利があるとは思えないか。誰がそう思えないのかわからないが、そんなことを述べているうちに知ろうとする意欲が著しく減退してくる。また何かをごまかそうとしているのか。しかしそうやって君は何を説明しているつもりなのか。それらの説明とはいったい何なのか。はたしてそれが何かの説明になっているのか疑問に思うが、説明になっていようといまいと、何でもないのかも知れない。何でもないから何の感慨も抱けないのか。しかしそこに生じているつもりの感慨とは何だろう。なぜ感慨に耽るような状況がもたらされているのか。君はできもしないことができると思うか。誰がそう思っているのか。また君は文章の中に架空の登場人物を紛れ込ませようとしているのか。それを架空ではなく現実の誰かだと思えるのはどうしてなのか。それ自体が嘘なのかも知れない。ではその場の偶然から生じた世界に存在しているらしい誰かは、どんなことを思っているのだろう。何を思っていることにしたいのか。いったい自分は何者として生きているのだろうか。もしやり方に過ちがあるのなら、もし可能であるならば、今後それの何を修正することができるだろうか。黙って自然の成り行きに従うべきか。自然現象を利用しつつ、それを介して文章が記されるのだろうが、未だにまともな内容が見当たらない。できることなら蒸し暑い夏の日の午後には何も起こってほしくない。季節の巡りが早まって、明日からでもすぐに秋になってほしいか。不快さのただ中で何を見出したつもりになれるのか。それらの成り行きに意識の介在を見出せるだろうか。とりあえず唐突に結論に至ろうとするなら、誰かの感覚を基に構成された文章によると、この世界は漠然とした雰囲気に包まれているらしい。そんなわけで君は今日も当たり障りのないことを述べようとしている。またそこに何が足りないのかはわかっているつもりだ。


7月27日

 冷静になろうとしているのかも知れないが、冷静にはなりたくない。平静を保つことは無理かも知れないが、平静でいられるような気がする。君にとって冷静と平静はどう違うのだろう。たぶんもうそこには何もありはしない。何かあるとしたらそれは感知できない何かだ。それでもなお何も導き出せないのはよくあることだとうそぶいていられるだろうか。それが平静を装っていることになるわけか。確かに冷静であるはずがない。いくら言葉を並べてもそのつながりが皆無のように思われ、いつものことだが何を語っているのかよくわからなくなる。それがわからないのに、さっきまで何を語ろうとしていたのだろうか。冷静でいられないのなら、どこかで休息を取った方がいいのだろうか。不安を感じているうちに、何やら自らが破綻しているような気になってくる。自らの何が破綻しているのかはわからないが、とりあえず君という言葉は不必要な存在かも知れない。だがもとから言葉などどこに存在しているわけでなく、それはいつ何時でも不在という形態をとり続けることしかできないのではないか。不意にそんなことを思うが、それは思うより前にどこかの文章の中で述べられていることか。いったい物語はどこへ行ってしまったのだろう。今さら物語があるはずがないか。では他に何を信じられるのか。君は言葉の他に何を求めているのだろうか。それは何かの実体なのか。実体なら誰かの周囲にいくらでもあるだろう。確かに周りを見渡せば実体だらけの世界に暮らしているはずなのだが、それでは不満なのだろうか。実体の他に何があるのか。君の心の内には空虚がある。だがそれは存在とは無縁の想像上の概念でしかないだろう。そんなことを思っている誰かの意識は、何かに囚われているようだ。安易に空虚という言葉を使ってしまったことを後悔しているのかも知れない。正体のわからない何かを言葉で表そうとしているが、それで何を述べているのでもないような気がしてくる。まさか空虚を利用して周囲を取り巻いている退屈な実体を覆そうとしているのか。それは何かの冗談ではないか。結果として何を覆そうとしていることにもならないだろう。何でもない何かによって何ができるはずもない。要するに無駄で無意味であり、それでもそうすることが何らかの気休めをもたらしてくれると思うなら、それは今までに述べてきたことのすべてであってほしいか。本当に無駄なことばかりをやってきたのだろうか。どんなに言葉を弄しても、それは求めていた文章ではないような気がする。それを認めてしまっては、もう何も述べられなくなってしまうのかも知れないが、それでも闇雲に言葉を弄しながら先を急いでいるように思われる。なぜか語っているうちにどこへもたどり着けなくなっているらしい。いったいおまえはどこにたどり着こうと欲しているのか。たぶんそれは神の声ではなさそうだ。誰がこの先の未来を見通しているわけではないが、そんなことをやりながらも、とりあえず君はいつか死ぬだろう。もはややることのなくなった誰かは死ぬ運命にあると思われるわけか。だが生きているうちはあまり死ぬ実感が湧いてこない。神はどこで何をやっているのか。神の話をしているわけではない。では君にとってそれは死に神であってほしいか。久しぶりに鏡をのぞき込めば、まるで死に神に取り憑かれたような顔つきをしている。そこから何かの物語でも生じてくるかも知れないが、そんなつまらない話は受け入れられないだろうか。神が君向かって何を告げているのでもないと思い込む時、何もない心の内側では何が告げられているのだろうか。そこで誰が何を告げているのか。それは君自身による終わりの宣告か何かか。そうやって君はこれからまた無理なことを述べようとしているのか。そこにはどんな状況がもたらされているのだろうか。終わろうとしてその終わりを長引かせているように思われる。そこに生じている脈絡のない言葉の束をつかみ損ねているようだ。それが文章となることはないのか。文章にならなければ終わりはやってこないだろう。それを構築できないから終われないのか。君はそこで何も見ようとせず、何も見えないから何も考えられないと思い込んでいる。そんな都合良く文章を終わらせられるのか。暗闇の中では何も見えなくて当然であって、君が終わりを拒んでいるうちは、絶えず話の途中から別の話が割り込んでくる。君とは別人の誰かが勝手に話しかけてきたように感じられるが、それは君自身の自問自答が文章に反映されているだけだろう。やはりそんな引き延ばしは見え透いているか。どんなに努力しても何も報われないことを悟った時、誰かは自らがそこに書き連ねつつある虚構の世界に、救いを求めているように思われる。報われないとそれによって救われるような気がするのはどういうことなのだろう。報酬を求めない無為の行為は無責任に思われるからか。無責任でいられるから救われたつもりになれるわけか。しかしそれが何もないことの言い訳になるだろうか。しかしそこで何もない虚無的な言葉にすがりついて、何を望んでいるつもりになれるのか。ただ救われたいだけだとしたら、それこそ出来の悪い宗教に染まっているのではないか。しかしそれ以外に何があるというのか。いったいどんな結末がお望みなのだろうか。要するに思い通りの結末に至りたいのか。なぜさっきから君はそれについては黙ったままなのだろうか。その沈黙のわけを知りたいか。君が黙っているのではなく、誰かが君を黙らせているのだろう。どんなにそこから外れようと君は何も思いはせず、何も思わないから何も言葉を発しないが、それでも君は何を思っている最中なのかと問い続けることはできる。そんな見え透いた問いは無効だろうが、そうやって誰かは何か目新しい言葉でも追い求めているのだろう。しかし新しい言葉を授かるには新しい経験が必要だ。誰もそんな風には思わないか。そこで何を疑っているのだろうか。利いた風なことを述べた後には、すぐにそれは何かの勘違いではないかと疑いたくなる。自分の述べていることに自信がないのか。自らがやっていることに自信を持つのは欺瞞につながるように思われるのか。それでは良くないから逆にそれで良いと思いたくなる。語調が強まった時は過ちを悟った瞬間か。それを認めたくないから、焦ってさらに言葉を付け足そうとする。そんな悪循環を好んで使いたいのだろうか。しかし皮肉だけでは何ももたらされない。頭の中が現実離れしているのかも知れない。だがそれを信じてどうするのか。皮肉がだめなら気休めだけでも何かもたらされないだろうか。それも無駄なら何を反省しなければならないのか。君はわからないことをわからないままにしておいて、しかもそのわからないことについて述べようとしている。それは無理なのではないか。


7月26日

 迷い続けるのはそれほどおかしなことではない。自らが何を語りたいのかわからないのは当然ことかも知れない。語る以前に意味の定かでないことを語りすぎていて、そこで無駄に言葉を浪費してしまって、すでに言葉は尽きているのではないだろうか。それが原因かどうかわからないが、ここ数時間はなぜかそこから先へ言葉をつなげられずにいるようで、何も語れない状態がいつもより長引いているような気がする。いったいそこで感性は何を躊躇しているのか。躊躇しているのではなく、案外本当に行き詰まってしまったのかも知れない。しかしどうして君はそんなことを述べているのだろうか。これから何かを語るはずの意識はどこで何をやっているのだろう。何をやっているわけでもなく、理由は定かでないが、知らないうちにそんなことを語っている現状があり、不意をつかれた君は一瞬焦りを覚えたようだが、すぐに平静を取り戻して、それでもかまわないように思っているふりをする。君の宿主はこれまでにも無駄で無意味なことをいくらでも語ってきてわけだから、あまり自己嫌悪的に気にするようなことでもないだろう。ならばついでにこれから述べようとしていることが、以前と同じことの繰り返しになってしまうのも素直に認めざるを得ないか。結局それらの文章は、手法的な行き詰まりとともに、内容的にも以前に記されたものと同じような状況について述べられているのだから、若干言葉の並びが異なろうと、語っている内容に新鮮味は感じられないだろう。そのすべてがフィクションではないのだから、そう都合良く思い通りに事が運ぶとは考えにくい。言葉は絶えず外界からもたらされる現実の作用を被って生成されるのであって、文章もその痕跡を多少はとどめているのだろう。しかしそれでも空を引き裂いて何か得体の知れない幻影が降りてくることがあるだろうか。単にわけのわからない妄想を利用しながらそう記しているだけだろう。そんな前後の脈絡を感じさせない文章の断片だけでは心は動かないか。君はその場の偶然から生じたいい加減さと戯れているだけか。何が空気以外に何もない空を引き裂くことができるのだろう。夜のうちに巨大な雲の渦は東の海に逸れてしまったようだが、それでもまだ大自然の驚異を利用して何か語れると思っているのだろうか。往生際の悪さは今に始まったことではない。終わりはそんな風にして訪れるのだろう。それが何の終わりなのか定かでないが、空想と現実が混ぜ合わされたそれらの光景をよく見ると、雲の切れ間から神が下界をのぞき込んでいるように見える。神話は人々の心にどのような言葉を響かせるのだろうか。たぶんそれらの光景が展開されている壁画は、もはやその役割を終えているのかも知れない。誰も気にもとめないその色あせた表面は、長年にわたる風雨にさらされ所々がはがれ落ち、全体に汚れがこびりついている。しかし何を君は空想している最中なのか。誰かの頭蓋骨の内側にはカビが生えているのだろうか。頭の中で再構成されたでたらめな空想をわざとぶつけて、触りようのない誰かの心の内を推し量ろうとしているのかも知れないが、その結果がどのような文章の中に記されるべきか考えあぐねている。誰かはそうやって架空の心理状態を言葉で表現しているつもりなのか。何やらさらに述べていることが嘘っぽくなってきたように感じられるが、例えば何がそこでの心理状態なのだろう。実際に考えあぐねている内容はそんなことではないのかも知れず、現実に感じている何かが、それらの文章からは抜け落ちているのかも知れない。それはすでに忘れ去られている何かだろうか。それらのすべてを忘れてしまったわけではなく、まだそれの残り滓のようなものは覚えているかも知れないが、それを素材としてこれからどのように言葉を連ねてみても、必然的にそうなってしまうだろうそのどうでもいいような語りは、あまり歓迎されていないことはわかっている。しかしそこから見え透いた嘘をつくかのようにメディア的な現象へと逃げるのはつまらないだろう。ではその逃げようのない袋小路から何を述べようとしているのか。そうやって話を勝手に切羽詰まらせるのはいかがなものか。自らを闇雲に追い込んでもまともな結果を得られるわけでもなく、必要もないのにすぐに背水の陣を引くのは浅はかなことかも知れない。しかし誰にとっても自らに危機感を煽るのは心地よいらしく、往々にしてそんな浅はかなやり方は乱用される傾向にあり、ときには馬鹿のひとつ覚えのように繰り返され、その有効性をうまく結果に結びつけられずに、行き詰まりを手の施しようのない状態までに悪化させ、そうなるともはや何をやっても無駄に思われてきて、無気力の蔓延を招くことにでもなるだろうか。現実にそんな停滞状況の中で多くの人々は暮らしているのかも知れない。だがそれが長引けば長引くほど、次第にその状況が当たり前のように思われてきて、それでもそれなりにやっていけていることから、それが的はずれな自信につながり、そうなった時点で行き詰まりはあまり問題視されなくなる。怠惰にかまけて同じことの繰り返しをやっている状況が、そこでの日常生活そのものとなるのかも知れない。そんな暮らしが続いてゆく限り、人は飽きもせずひたすらそれをやり続けるだろう。夢から覚めなければ、たとえ内心ではそれに飽きていても、日常の日々を送り続けることによって生じる経験的な堆積がもたらす惰性が、それをやめさせようとはせず、知らないうちにそれの虜になっていることを気づかせない。元来それが人間の生物的な習性なのかも知れず、社会的な安定とはそのようなところから生じているのかも知れないが、君はそれを繰り返すのが気に入らないようだが、たとえ気に入らなくてもそのような状況下においては、君の意思や感情を押し殺す形で、嫌でも状況がそれをやり続けさせてしまうのではないか。たぶんそこから心理的なストレスが生じ、有形無形のストレスによってもたらされる、解消しようない疲労感が蓄積され続け、それを放置し続けると病魔に冒されたりしてしまうわけか。それを避けるにはどうしたらいいのか。君は無意識のうちにそんな成り行きから逃れる術を探しているのだろうか。そのような作用から完全に逃れ去るのは無理なのだろう。たとえそうだとしても絶えず模索し続けることに気休め的な意義でも見出したいのか。それが求めていることのすべてではないはずだ。何を求めているわけでもないとさえ言い放つことも可能か。要するに君はまたそんなことはどうでもいいことだと嘘をつくわけか。そうであるならそれまでに述べてきたことは何だったのか。何でもないがそれでも少しは何らかの効果がもたらされることを期待しているのだろうか。


7月25日

 どうもまたわけのわからないことを述べているように思われる。まっとうなことを述べようとする意気込みは人一倍あったらしいが、やはり試行錯誤の結果としてのそれは、それほど大したことを述べているわけではないらしく、ごく当たり前の内容を稚拙な語り口でたどたどしく述べているに過ぎない。別に誰も聞いたことのないような画期的なことを述べようとしていたわけではないので、結果としてはそれでもかまわないのだろうか。とりあえず自らが抱いていた疑問を、なんとかそれに関連することを述べることによって、自分なりの答えを探し出そうとしていたのかも知れない。だがそれはどんな答えだったのか。未だ具体的には何も明らかになっていないか。明らかにしようと思えば簡単にできそうなことなのか。たぶん明らかにできない理由は何もない。ではただ明らかにしようとしていないだけか。何を明らかにしなければならないのか。簡単に明らかにできてしまってはまずいわけか。なぜかそんなことを述べていると虚しくなってくる。どうもそれは違うような気がしてくる。そんな風に述べてはいけないのではないか。やる気をなくしてため息と眠気が同時に襲ってくる。何を聴いているのだろう。君はその音楽の何に惹かれるのだろう。それについて感じている印象を自前の言葉で表現できるだろうか。自前では借り物の言葉しか持ち合わせていないか。ではオリジナリティの欠如は由々しき問題だろうか。たぶんそうではないと思うのだろう。オリジナリティばかりでは話にならないとさえ思われる。しかし誰がどう思ってみても話は一向に進展しない。進展させる気があるのかどうかさえわからない。虚無に覆われているつもりの意識は、稚拙でありふれた内容にはまったく引っかかってこないようだ。君は気位が高いのか。罠を仕掛けるのならもう少し工夫を凝らしてほしいか。しかし誰に向かって挑発しているわけでもない。実際には何もありはしないだろう。架空の話がどこかで展開中なのだろうか。見知らぬ場所で見知らぬ人々が、その場では不可思議に思われる出来事を巡って、適当に絡み合っているのかも知れない。しかしそれで争っているつもりなのか。互いに争わなければならない理由を見出せるだろうか。まだそれほど絶望的な状況でもないだろう。勝ち負けがはっきりしたら、負けを悟った側は絶望的になるのだろうか。しかし互いの意思疎通はどこへ行ったのか。意思疎通とはどのような状況下で行われるものなのか。別に対話の相手と同じ言葉を共有しているわけではない。迷っているのなら眠りにつけばいい。迷えば迷うほど眠れなくなるか。眠れないのなら言葉を弄して君なりの文章を模索すればいい。誰かの日常の中にその人なりの言葉が埋め込まれているのだろう。そうやって何が完成すると思うのか。日常の暮らしの何がそこでの作品となっているのだろうか。どうやらあり得ないことを語る気分にはなれそうもない。無理にそうする必要はないだろう。不可能を求めるのは幻想に感染している証拠か。苦労して無理なことをやっても長続きはしないだろう。それでも一時的に到来する達成感に酔いしれて、何となくその場に漂っている雰囲気を肯定してみたいか。それらの幻想はどこから到来するのだろう。物語の中から自然と湧き出てくるのだろうか。空想から導き出された幻影の姿を言葉で表すことがそれほど有意義だとは思わないが、言葉で構成された幻影そのものに投影されている誰かの感情を、少しは文章の中に取り込んでみたいような気はするが、それで何を述べていることにもならないか。しかしそれでも何かを語っているような気分に寄りかかりながら、そこから一種の気休めを取り出したつもりになり、何かをやり終えたつもりになってリラックスしたい気になる。しかしそんなややこしい言葉による迂回を経てなお、何を語っているのでもないように思われてくる。どうもそれだけでは居心地の悪さを感じてしまう。そこに出現している虚無の正体を見極められないことからくる不安感を抑えきれていないのか。すぐにそんな不安は別の言葉で打ち消したくなるが、それができるはずがないと思いたくなるのはどうしてなのか。まだ自らの負けを認められないのだろうか。もうとっくの昔に勝負はついているのではないか。この期に及んで何を強がって見せようとしているのだろう。できもしないことをやろうとして、試行錯誤の末にそれができないと悟ったら、今度ははじめから何もやろうとしていなかったと嘘をつく。そんな嘘は無視されて当然か。それまでの語りを台無しにしたくてしょうがないか。ならばそれを実行してみるがいい。誰に向かって言い放っているのでもないらしい。すべてをぶちこわしにする前に、まだやらなければならないことでもあるのだろうか。誰かはぶっきらぼうにギターを弾いて、淡々と歌っているつもりらしいが、それらのどこに演奏技術の確かさが隠れているのか。意図的に隠されているわけではなく、隠れているような気がするだけか。そこで君は言葉遣いを間違えているのかも知れない。言葉遣いだけでなく語り方も間違えている。互いにまったく無関係な別々の趣旨をひとつにまとめることなど不可能か。では他にまともなやり方があるのだろうか。何をやろうとしているのかがわからない。ではそれ以上は何もできないと思われるのはなぜだろう。そこからどうやって言葉をつなげようとしているのか。それで何を述べていることになるのだろう。たぶん何かが見出されているのだろう。それをそのままに放置して、またそこから新たに語ろうとしている。だが相変わらず同じような調子で言葉が連なっているのは、読み返すまでもなく一目瞭然か。だから昨夜のことは何も思い出せず、そのときの記憶がリセットされてしまったように感じるのか。そこで起こったつまらない出来事をもう忘れてしまったらしい。すでに傷口がふさがってしまったのか。時が経つにつれて少しずつ思い出されてくるのかも知れないが、君はそこで何を賭けていたのか。しかしその後が続かないのはどうしたわけだろう。賭けに敗れたからそうなってしまったのだろうか。ではそのときの状況が意識にどんな作用を及ぼしているのか。敗れ去ったからにはもう何もやらなくていいのだろうか。雨雲が上空を通り過ぎている最中なのかも知れない。それ以外に何がもたらされているわけでもなく、君は賭け事の勝敗には関係なく、相変わらずつまらないことを続けている。どれほどの精神的な圧迫を受けようと、未だにそれを終わらせられない。君一人では終わらせることは不可能なのだ。それらのどこに区切りをつけていいのかわからない。ではまだどこまでも続いていってしまうのか。なぜそうなってしまうのだろうか。そんな思い込みから生じている先入観を抜けきれていないようだ。君は実際には何をやっているのかわかっていないようだ。


7月24日

 どうも迷いが生じているらしい。それについてどう述べればいいのだろう。何を戸惑っているのか。夢の中での君は、何かの宗教性についてしきりに語りたがっているようだが、夢から覚めたらなぜそれが資本主義なってしまうのだろう。その理由を別に時間帯の中で必死に探しだそうとするが、焦る心とは裏腹に、君はそれについて何も語ることができないようだ。資本主義という得体の知れない主義にさえならない主義について、何をどう述べればいいのかわからない。例えばそれを拝金主義というと、完全に否定的な意味を伴い、それ相応にわかりやすくなってしまうが、そんな言葉を用いて資本主義を批判しても無駄なことはわかっている。否定的な側面ばかり強調しても、現実にそれでうまくいっている状況がある限り、あまり説得力を得ることはないだろう。それらの仕組みから来る制度に従うならば、自らが保有している資産を増やすことが肯定されるのは当然であるが、資産を増やすことが目的化すれば、誰もがそればかりを追及することによって、この世界はどうなってしまうのだろう。それと宗教性とはどう結びつくのか。誰もが莫大な富を我がものとできるわけではない。実際に金持ちになれるのはほんのひとにぎりの人たちだが、それでも誰もが贅沢三昧の暮らしを夢見ているとすると、それらの妄想と現実とのギャップから不満が生じるのは当たり前のことか。だが世の中のすべての人が大金持ちになってしまった状況を誰が想像できるか。なぜそうならないといえるのか。経済学は必然的に貧乏人が生まれてしまう原因を解明することができるだろうか。例えば国家がどのような政策を実施すれば貧乏人が生まれなくなるのか。まさか貧乏人を片っ端から殺してゆけば貧乏人はいなくなるだろうか。そんな理不尽なことができるはずもないだろうが、では資本主義にとって貧乏人の存在はどのような役割を担っているのだろうか。とりあえずありふれたどこかの宗教指導者が、神を信じていれば誰もが救われるといくら説いてまわっても、実際はそうはならないのと同じように、いくら頑なに資本主義を信じていても、それだけで誰もが金持ちになれるわけではない。少なくとも大金持ちの家に生まれたとか、何かのはずみで高額な宝くじにでも当たらない限り、金持ちになるためには日々努力を重ねなければ無理なことはわかりきっているが、それはいくつかの宗教が救われるための修行を前提としているのと同じことか。では努力すれば救われるというごくまっとうで当たり前の教義には、それなりに少しは信憑性があるだろうか。中にはそうやって金持ちになった人もいるだろう。実際に貧乏な境遇から這い上がって金持ちになった人に尋ねてみれば、ほとんどの人が日々の努力が欠かせないと答えるかも知れない。だが中には日々の努力を欠かさなくても貧乏人のままの人もいるのではないか。それは神をひたすら信じていても不幸のままの人がいるだろうことを想像できるのと同じことか。とりあえず宗教信者にも幸福になれる人と不幸になってしまう人がいるのと同じように、資本主義を信じている人にも金持ちになれる人と貧乏人になってしまう人が出てくるということか。そして宗教も資本主義も信じているだけではだめで、そうなるために努力しなければならないというのもごもっともなことかも知れないが、中には努力しても思うようにいかない人も出てきてしまうのも当然のことかも知れないが、それは努力の仕方に問題があったということにでもなるだろうか。そこで努力が結果に結びつくように、努力の仕方についてそのノウハウを伝授する指導者の役割を担う人々が登場してくるのかも知れない。例えばそれは財テク本の著者であったり、株式投資におけるファンドマネージャーであったりするわけか。だがしかし指導者の言うことを聞いてその通りの努力をしたとしても、なおそこから成功するケースと失敗するケースが出てくるだろう。失敗してしまったのは運が悪かったことにでもすれば、それで一件落着するだろうか。とりあえず宗教にしても資本主義にしても、それらを推し進める人たちが喧伝していることといえば、その大抵は自分たちの言うことを聞いて、言った通りに努力すればうまくいくはず、という内容でしかないが、彼らの言う通りにやっても、うまくいく場合とうまくいかない場合がある、という結論も前もって用意されているような気がする。そこから運が良かったとか不運だったとかいう言い訳が導き出されてくる。たぶんそこにその場の成り行きや出来事の、不確実で偶然性を伴った絡み合いが考慮されなければならないのだろう。要するに客観的には確実なことはほとんど何も言えない状態で、それでもなおのことそこで、確実に儲かるようなことを述べて、自らの信者を勧誘しなければならなくなるということか。そんな風にして浅はかな人々を嘘や詐欺によって誘い込んで虜にしなければ、それらは立ち行かなくなってしまうのだろうか。もちろんそれで失敗してしまう人に対しては、前もって自己責任という言い訳が用意されており、その辺の言い逃れは用意周到なのだが、それでも儲かるかも知れないという甘い期待に胸を躍らせて、それらの宗教もどきにはまってしまう人は後を絶たないのだろう。だがそうであるならばなおのこと宗教も資本主義も否定されるべきものなのか。そんなものをいくら否定しても無駄かも知れない。それが否定されたら別の宗教が出てくるだけか。たとえば二十世紀的成り行きからは社会主義や共産主義とかいう時代遅れの宗教が出てくるだろうし、二十一世紀的には科学やメディアやインターネットとかいう宗教も出てくるはずか。しかし何でもかんでも宗教に還元してしまっても話に説得力がなくなってしまうだろう。とりあえず現時点でもっとも強力でもっとも広まっている究極の宗教が資本主義であることは確かなようだ。それは否定するのも憚られるほどの力を持っているのかも知れないが、それに対抗できるようなものがはたしてあるのだろうか。何をもって宗教に対抗しても無駄で無意味か。そんなことはイスラム過激派にでもまかせておけばそれで済むことかも知れないが、現代において資本主義の次に成功している宗教がイスラム教なのだろうか。少なくとも自らが信じている宗教に対する思い入れの強さは、他の宗教の信者よりかなり強いのではないか。なぜそうなのかといえば、欧米中心の世界支配に唯一対抗しているのがイスラム教徒であるという自負でもあるのだろうか。あるいはかつての栄光をヨーロッパ諸国に海賊さながらの略奪行為によって踏みにじられた過去に対する復讐心がそうさせているのか。


7月23日

 心が渇いているのは誰のせいなのか。何を渇望しているのか。君に心当たりは何もない。いつもはそれで切り抜けてきたはずだ。似たようなことを述べてしまう体質が染みついている。いつもと同じ想像力はいつもと同じ行程を経て、いつもと同じ文章を導き出す。それについてどう思おうと、それを否定したい思いを無視して、相変わらずそんな問いかけを発している。いったい君は何を求めているのだろうか。そこからどうやってはみ出ることができるだろう。たどり着いた場所には何もない。それはまだたどり着いていないということか。そこに何かなければたどり着いたことにならないとしたら、いったいどうすればたどり着けるのだろう。そこにはいかなる試行錯誤が用意されているのか。そこから逸脱しようとする試みが何に結びつくというのか。なぜ君はあらゆる言葉からずれたことを述べようとするのか。本当にそんなことをやろうとしているわけではない。またその場の成り行きから導かれてしまった嘘を述べているわけか。言葉の組み合わせ的にそんな風に述べてみたかったのかも知れないが、過去に何をどう述べたかったのかなんて、この際どうでもいいことだろう。気がつけば蝉の鳴き声がうるさい。そこから強引に語る対象を見出すことなどできはしないか。そんな状況をどうやり過ごせばいいのか。それで何を避けているつもりなのか。真夏の日差しを避けられるわけがない。それは今から数日後の出来事になるらしい。だがそんな些細な出来事だけが、言葉を文章上につなぎ止めるための手段だとしたら、それはかなりくだらない状況なのではないか。しかし世の中にはさらにくだらない状況が蔓延していると思っているのか。それがまたどうしようもない思い上がりを形成しつつあるらしい。だが意識はさらにその先へと進んでいかなければならないようだ。そうしなければそこで何かが終わってしまう。君はそこで何を信じているのだろう。なぜそこでお終いにすることができないのか。そんなわかりきってことを誰もいない虚空に向かって尋ねないでほしいか。問い求める対象もないのに問い続けるのはおかしいのではないか。おかしかったら試しに笑ってみればいい。それに対する反応が何も返ってこなかったら、やはりそこには誰もいないということだ。しかしそことはどこのことなのか。虚空に誰かいたらその方がおかしいのではないか。そもそも虚空とは何を指しているのだろう。それは自問自答の果てにたどり着いた何もない空間か何かか。誰がそんな説明で納得すると思うか。そもそもそこには誰もいないのだから、納得するしないの問題ではなく、君の他に誰が納得しようとしまいと、そんなことは君にとってはどうでもいいことなのではないか。そんなことより君が君である理由がどこにあるかを知りたい。またずいぶんわけのわからない展開になりそうな言葉が出現したようだ。そんなことを述べながら君は何をあきらめているのか。何となく先が思いやられてため息をつきたくなってくるが、それをこらえて何かしら言葉を繰り出そうとしているらしい。君はあきらめてしまったようだが、誰かの意識はまだ継続をあきらめきれないでいるようだ。展開のわけのわからなさに嫌気がしながらも、そんな自己言及によってかろうじて文章をつないでいるわけか。そうしているうちにも微かに見えていたものがだんだん鮮明に見えるようになる。それは何か折り返し点だろうか。そこを通り過ぎれば峠を越えたつもりになれるだろうか。たぶんそこで何かが見えているのだろう。何が見えているかは誰かの想像にまかせるとしようか。本当は何も見えていないのかも知れないが、とりあえず文章の中に存在しているつもりの意識には何かが見えているらしい。しかしそんなでたらめのごまかしのようなことで誰を納得させるつもりなのだろう。また納得という言葉が出てしまったらしい。君は納得が嫌いなのか。納得がいかないから延々と言葉を費やして、それでも納得からは程遠い現状について、何をどう思えば納得すると思うか。そうやって何が見えていたのかが見過ごされてしまったらしい。もうそんなことはとっくの昔に忘れてしまったことにしておこう。そんな風に述べているうちにだんだん投げやりな気分に染まってきたようだ。なぜそうなってしまうのか。それは自らのいい加減に寄りかかった君の自業自得というものだ。今度はすんなり答えが導かれたようだ。たぶん一見何もないように思われるが、そこにあるのは紛れもなく空疎な言葉の連なりなのだろう。今度は月並みな結論が導かれた。思考は今どこで彷徨っているのだろうか。何もなさそうに思われるそこで何を考えればいいのだろう。くたびれた意識はいかにしてそこへたどり着いたのか。くたびれてしまったから何も見出せなくなり、何も見出せないから何もないと思い込み、何もないからそこは虚空だと思われるのかも知れない。そんな論法が通じると思うか。常にその場のいい加減な思いつきに言葉の成り立ちを依存している。だから嫌になってくるのだろう。できることならそこから遠くへ飛んでいってしまいたくなる。現状では地べたをはいつくばりながら、かろうじて言葉を繰り出し、それで文章らしき連なりを維持継続させているだけで、その上に語るべき対象を求めるのは無理もいいところか。しかしそこから思考とそこから導き出された言葉を、飛翔させるきっかけがなかなかつかめない現状があることも確かなところか。だからいつまで経っても意識は、下層階の狭い部屋の中で同じ場所を動き回るにとどまり続けている。そこからどうやって抜け出られるのかを知りたいか。それは誰にきいてもわからないだろう。誰もそこにはいないのだからきけるはずもないが、それでも意識はそこで立ち腐れる覚悟ができているわけではないらしく、絶えず抜け出す可能性を模索する毎日を送っているようだ。いつか空は晴れ渡り、そんな空を見上げながら鼻歌交じりにどこかを散策する日々がやってくるだろうか。またくだらぬ幻想に逃げている。それとこれとは関係ないだろう。もちろんあえて何を述べているのでもないと述べざるを得ない現状をどうすることもできず、そんな現状の中に存在し続けていることに、はっきりした自覚があるわけもなく、そこで何かが起こるかも知れないとも思わず、そんな架空の胸騒ぎの無効性を認めながらも、それでも何かが起こるかも知れないという期待感を断ち切ることにはためらいを感じつつ、そんなくだらぬ感覚を利用しながら、これからも何かしら述べていくことしかできないのだろうか。そうだとしたらどうだというのか。もしその状態を抜け出たら、それ以外の何ができるというのだろう。また同じことをやっているようなら、抜け出ていないことになってしまうのだろうか。


7月22日

 たぶんそれは冗談だろう。冗談でなら何を述べてもかまわないのか。しかしなぜ人は争うのだろう。なぜそんなわかりきった問いを発するのか。それについて何を述べようとしているわけではない。たとえそこから嫌な思いが生じようと、争いを避けようとは思わない。避けられないものをそのまま受け止めなければ、そこを通過することは叶わぬらしい。抑えきれない感情を抑えたつもりになって、誰かは必死に無表情を装っているようだが、そう見えてしまっている時点で負けを認めざるを得ない。平静を保つことができずに、わかりやすい成り行きに身をまかせ、あとは予定調和の結末を呼び込むだけか。しかし何を予想しているつもりなのか。架空の眼差しは安易な暴力が世界の隅々にまで蔓延っている様を眺めているが、そこに予想しなければならない状況は何もない。すでに世界中かそんな状況になっているようだ。もはやあり得ない状況などどこにもありはしない。別に誰もが平和を望んでいるわけではないのは明らかになりつつあるようだが、誰かがそこで主張しようとしているあり得ない平和とはいかなるものか。それは日本国憲法が目指している、理念の中に埋め込まれている恒久的な平和だろうか。そんな平和にどんな力が宿っているというのか。それは力ではなく平和という言葉そのものかも知れない。だがそれで何をはぐらかした気になれるだろうか。君は誰が何を目指しているのかを知り得る立場にあるのか。君は君のことで精一杯で、他の誰が何を目指していようと、そんなことにまで関心が向かないか。今も自分が何を述べようとしていたのかを、必死に思い出そうとしている最中らしい。現状では何も思い出せず、煩悶が長引いているかも知れない。だが別に記憶喪失を演じているわけではない。何のふりをしているわけでもなく、その場の思いつきを一掃しようとしているのかも知れない。即興的な言葉遣いに頼るばかりでなく、少しは物事について深く考えを巡らせてみたらどうか。しかし考えるべき対象が物事なのだろうか。それは具体的にどんな物事なのか。どのようにして文章を構成すべきか悩んでいる。それでは埒が明かないだろう。唐突にわけのわからぬことを述べるべきではないか。君は自らの運命に従わなければならない。それらの映像は発想が貧困だと思われる。だがもう後戻りはできない。後戻りできなければ早送りでもしてみようか。だがそんなことをやって気が済むのだろうか。やれないことをやろうとするふりをするのは、欺瞞以外の何ものでもないか。無駄な悪あがきは控えるべきで、君は黙って画面の前で何を見定めなければならないのか。そこにはどんな光景が広がっているのだろうか。ありふれた人間模様の中に興味を惹く出来事でも展開されているのか。誰かが世の中で成功を勝ち取ろうしているらしい。自らの死に様と引き替えにして、多くの人々の関心を惹きつけたつもりになっている。死につつある自己をさらけ出して、それを感知した人々から励まされることを拒否しつつも、それを糧として文章を書き、同情を誘いながらも同情を拒否して、自らはそれに勇気づけられながら、それを利用して何かをやり遂げたつもりになっている。そんな風にして死につつある者を批判してはいけないのだろうか。彼は自ら死に商品価値があることに気づいて、それをいかにして売り込むかに残り少ない生のすべてを注ぎ込んでいたわけだ。作家幻想に身も心も毒されている。やはりそんな悲惨な生からは目を背けたくなるか。とりあえずそれは自分とは無関係なことであり、これからもそうであり続けたいと願わずにはいられない。それはどういうことなのか。自分は至って健康であり、不治の病などを利用して大衆に媚びなくても済む状況にあるということか。だから幻想の虜にはならないらしく、今もかろうじてありふれた真実の側に属しているようだ。たぶんこの世界に語る対象など何もありはしない。だが何もないから語らなければならない、なんて思うのは傲慢すぎるか。病気になれば病気について語るのが、ごく自然の成り行きなのだろうし、無理に病気を隠す必要もなく、それに無関心な者にとっては、誰が病気であろうとどうでもいいことでしかない。そんな当たり前のことに感動してどうするのか。他人の不幸や幸福な状況に感動するのが、感動という概念の使い道のひとつなのだろう。だがそんな感動とともに誰がその時代を生きていようと、そんな誰かはすぐに忘れ去られてしまうだろう。その時代に適合してしまった人間は、次の時代には忘れられてしまう宿命なのか。すべてがそうとも言い切れないが、君はどの時代とも適合できないだろうから、その架空の存在ははじめから無視されているだけだろう。だがもうその手の格好だけの虚無的な言い草はたくさんか。不幸でも幸福でもないのに、誰がそれを思い出す必要もなく、また誰に忘れ去られることもない。実際に経験しつつある不幸あるいは幸福な状況を書き綴った文章に、ありふれたコメント寄せるその他大勢の人々こそが、忘却の対象となりうるのかも知れず、感動的な文章とともに時代の彼方へと消えゆくのかも知れない。いくら死にかけている当人がそれを望まず、それに逆らうようなこと述べ続けても、それを取り巻く周りの状況と、そんな状況を構成している人々が、そんな強がりを受け入れるはずもなく、当人がネット上で見せびらかしている文章に、月並みな感動しました勇気ももらいました的な文章で、返答することしかできないのは当然の成り行きだが、それがごく当たり前の反応であり自然現象だとすれば、君がわざわざそんな自然の摂理に逆らってまで、それを批判するには及ばないだろうし、一方でそれは情けない状況なのかも知れないが、人ひとりの死がいかに情けなく見えようと、くだらぬ虚飾を廃して、それはそれとしてそのままの形で受け止めるしかないだろう。人が惜しまれつつ死んだら、もっと生きていてほしかったと述べる以外にあり得ないのであり、そんなことを述べている連中は紋切り型の言葉によって人の死を弔いつつ冒涜しているのかも知れないが、それ以外の言葉はその場面ではあり得ないのだろう。そして恥知らずな人々は死ぬ前から死ぬまでの、死につつある状況を援用しながら、人の命がどうのこうの語りたがるのかも知れない。ところで君はそんなことを述べてそれで気が済んだのか。嫌なものを見せられて憤慨しているだけか。どうあってもそれらの思いをまともに受け止めるわけにはいかないようだが、それでも人の運命とはそういうものなのだろう。そんなことをやってしまう人間が存在したことは確からしい。自らの生き様と死に様を言葉で見せびらかすのがそこでの文学なのだろうか。そんなやり方が多くの人々の共感を呼ぶらしいが、そんな現象を否定してみても始まらない。それでその手の商売が成り立つのなら、それはそれで結構なことだと思うだけであり、それ以外にどう述べてみても仕方のないことかも知れない。


7月21日

 渡りに船とはこのことか。このこととはどのことなのか。やはりこのことについては何も述べないつもりなのだろうか。しかし何がやはりなのだろう。どうもはじめから壊れているのかも知れない。誰かはどこからどこへ渡ろうとしているのか。渡るべき海や川などがあったらおもしろくなるかも知れないが、たぶんそんなことを述べようとしているのではないのだろう。それは何かの罠なのだろうか。何を用心しているのか。何も述べていないうちから、また無理なことを述べようとしている。意識的にはそんなはずはないと思うが、何を述べても結果は同じかも知れない。やる気が出ないのはそういう事情があるのか。結果が同じなら何を述べても無駄か。虚無感に覆われた心はさらに乾燥しているらしいが、それは違うのではないか。わざと違うと述べている。違う根拠が見当たらないだろう。やはり言葉はどこへ至りそうにもないようだ。なぜそうなってしまうのか。理由などいくらでもねつ造可能か。そこに何が隠されていようとそれは秘密ではない。何かを隠蔽することによってかえってそれを際立たせる、そんなやり方に感動する筋合いはないだろう。冗談でそんなことを述べているのならまだしも、本気でいつまでもそんなことを信じていていいのだろうか。それは詐欺か何かの類なのか。何を信じていいのかわからなくなる。本当は何も信じていないのかも知れない。あるいは何か些細なことを信じているのかも知れないが、そんなことがそれほど重要だとは思えず、何を信じていようといまいと、やはりそんなことはどうでもいいことか。だがそう述べてしまうと、今度は別の意識がそれに反発して、何かを頑なに信じたくなり、生活の大半をそれへの信仰に費やしたくなるか。宗教とはそういうものなのだろうか。だがそれで宗教を馬鹿にしているつもりか。何かを信じていなければ生きて行けない人々を批判する必要があるだろうか。しかしそれが資本主義なら現代的には願ったり叶ったりなのではないか。資本主義を信じることに誰も疑念を抱かないだろう。資本主義が宗教だなんて誰にとっても信じられないことかも知れない。君は資本主義の宗教性をどうやって説明するつもりなのか。それはまだ批判にさえならない代物でしかない。そんなことを述べてはいけないのかも知れない。まだ何も述べていないのではないか。これから述べることにたがをはめようとしているわけか。前もって何を述べておこうと、それは無視されるか裏切られるかのどちらかにしかならないか。実際そんな結果になるとは思ってもみなかった。それはまだ述べていないことに対する感想か何かか。君はそこで何を裏切ろうとしているつもりなのか。そんなどうでもいいことをこれから思いつけるだろうか。もし思いついたとして、はたしてそれで意味をなすような文章になるだろうか。それがどのようになるにしろ、文章が何らかの意味を持つことは間違いないか。しかしそれが気に入らないようだ。何かを語ろうとすると眠くなる。たぶん本当に眠いわけではないのだろうが、偽りの眠気を振り払っているわけでもない。だがなぜそんな見え透いた嘘をつく必要があるのか。それほど見え透いていないのではないか。とりあえずそんなことを述べていくほどに、なぜか何らかの束縛から解き放たれているような気がしてくる。たぶんそれは気のせいに違いない。しかしその気のせいがとんでもない誤解を招き寄せたらおもしろいか。それは偶然のなせる業かも知れない。しかし何の偶然でそうなってしまったのか。まだ水分が足りないのだろうか。あるいは背中が痒いか。それとこれとは別問題か。それでは理由になっていないのはもちろんことだが、では水分の不足や背中のかゆみに換わる言葉を見出すことができるだろうか。何も理由が見あたらないから、そうやってわざと間違ったことを述べているのではないだろうか。そして君はそれでかまわないと思っている。どうもおだてられるとその気になる性分なのかも知れない。話的には誰におだてられていることになっているか。誰がその気になっているのかも明らかにできないのか。たぶんそれが誰だか思いつけないのだろう。あるいは君は単にそんな人物を知らないだけか。ならばそこからどうすればまともな文章に移行できるのか。もはや手遅れかも知れないが、まだ完全にあきらめてはいないようだ。何をあきらめきれていないのかわからない。あきらめる必要があるのだろうか。今さら何にしがみついているのか。それはどんな希望であり願いなのだろうか。冗談で何を述べているのだろうか。冗談にさえならずに、意味不明になっているだけだろうか。だが何が意味不明なのかわかりようがない。何をどのように語ろうと、それが勘違いのように思えるのはどういうわけなのだろう。別にわけなど何もなく、語っている内容と語っている意識の間にずれがあるだけか。当初は何かを語ろうとしていたのに、語っているうちに何も語っていないように思われてくる。それでも語っていることは事実かも知れないが、やはりそれでは何も語っていないのと同じことのように思われ、要するにそこに内容を見出せなくなっているのかも知れない。しかしそれでもそんなことの繰り返しによって、それなりに言葉が連なり続けているように思われ、それが何かを語っているような幻想をもたらすわけか。語ろうとする意識は語りつつある意識に食らいつき、それについて語ろうとして、絶えず自らについて語る無限の循環を形成しようとする。それをどこかで断ち切らないと内容には至れないのかも知れず、自分以外に語る対象を見出せなくなってしまうのだろう。そんな自己言及ばかりではつまらないが、君はそれ以外の何について語ることができるのか。そんなことばかり繰り返しているから、内容はいつも無内容の虚無に至ってしまうのだろうか。それは文章の生成に関して不可思議な成り行きを示していて。要するに何もないのに無理に語ろうとすると、語っている自らの内に巣くう虚無に行き着くしかないということか。はたしてそれで良いのだろうか。それで良いか悪いかは悪いに決まっているのかも知れないが、それでも執拗にその状態にとどまろうとしてしまうのはどういうことなのか。ただそういう成り行きの果てには、そうなるしかない必然性でもあるのだろうか。やはりそれで何を述べているのでもないように思われるのだが、やはり結果として何かしら述べていることになってしまうのか。それをさらに継続させてしまってはまずいのだろうか。まずいと思うのならやめればいいことでしかないが、それでもなぜか続けてしまうのはどういうことなのか。続けられるから続けてしまっているだけか。ではそれを続けられるうちは続けなくてはならないのか。しかしそれを続けてどうするのか。どうするもこうするもなく、続けるならただそんな風に続いてしまうだけでしかないだろう。それ以外の選択肢はあり得ず、選ぶ選ばないの問題ではなく、実際にそうやってしまっている現状があるらしい。


7月20日

 今日は何が気に入らないのだろう。それは冗談で述べていることか。いつまでも同じような言葉をひねり出そうと姿勢が目障りか。だがもはや目障りなことをやる気力が残っていない。しかしそんな現実を単純に否定することはできない。それについてしばらく考える時間が必要か。考えても結論など出るわけもなく、どのような行動に結びつくこともないだろう。頭ごなしに否定するのは生産的でないか。何もかも投げ捨ててどこかへ飛んでいってしまいそうになる。それは以前と同じ状況だろうか。そんな風に思われてしまうことについて、何を考慮に入れて考える必要があるのか。何が君の能力を構成しているのだろうか。人ひとりが持っている能力はたかが知れている。だがそれは能力とはいえないのではないか。言葉を繰り出して文章を構成する能力に欠けている。そんな嘘をつくと気分がいいか。たぶん誰が過激なことをやっているわけでもないのだろう。君とって過激なことはつまらないことか。思想や行動の過激さにあこがれるのは、若者特有の幻想だろうか。だがいつまでも非常識のままでは心身が持たない。彼らが過激でなければならない理由は、現状に不満を抱いているからか。気に入らないことに囲まれていると、いつかそれを破壊したくなるのかも知れない。衝動的な暴力への渇望を抑えきれなくなり、そんな思いをなかなか果たせないことから、次第に虚無感が増してくる。彼らを地域社会に拘束しているしがらみにも鬱陶しく思えてくるか。退屈な日常からの出口を求めることが、暴力による憂さ晴らしに結びつくのだろうか。それをやればやるほど憂さ晴らし程度では済まなくなるか。過激であることを維持継続させるには、絶えず暴力をエスカレートさせていかなければならなくなる。だから過激であり続けようとする思いは破滅に至るわけか。しかしそんな結論のどこがおもしろいのか。別におもしろくなくてもかまわないだろう。君はその程度のことを記すのに四苦八苦している。暴力ばかりが問題ではないのかも知れない。しかしそこにどんな問題があろうと、今の君には関係のないことではないのか。問題について語る立場にはない。それの何が問題なのかわからないのだろう。今それを考えている最中か。何といい加減な場当たり的な対応なのか。その場の雰囲気に合わせてあやふやなことを述べ続けると、また何が何だかわからなくなり、気がつけば迷路の中に逆戻りか。言葉に詰まるとやはりそんなくだらぬことを述べてしまうのか。何がくだらないことなのだろう。現在の日付からだいぶ外れてしまい、どうでもよくなって気が抜けているらしい。だいぶ前からしきりに抱いていた幻想の場所には何があるのか。偽りの対決の中に誰かの物語でも介在させたいのだろうか。それ以前に本当にそこは場所なのか。それほど晴れがましい場所ではないだろうが、そこで誰が調子に乗っているように語らなければならないのか。そうやって誰かはまた君とは無関係なことを語っているらしいが、何かを語ることによって、そこに構築されつつある架空の世界が揺れ動いているわけではない。確かに世界と君とは固く結びついているわけではないが、その世界に晴れがましいと思える場所があるだろうか。そんな場所を誰が探しているのか。たぶんそれは場所ではないのだろう。本当の場所ではなく言葉として記された場所か。そんなわかりきった嘘がいつまでも通用するわけもなく、たぶん今この時点でも通用していないのだろう。さっきから何が晴れがましいのかわからないままに、語り続けているような気がするが、そんなことはどうでもいいことで、ただ語りを継続させるきっかけにさえなれば、それでかまわないのかも知れない。状況の晴れがましさに意味があるわけではない。では君はそこから何を得ようとしているのだろう。簡単に結論へ到達しないでほしいか。気まぐれに哀しい気分になりたいとは思わないか。そんなはぐらかしにも意味はない。その言葉に何が併置されているわけでもない。まずは何を語ろうとしているのかを明らかにしなければならないのかも知れないが、そんなことが簡単にわかったら苦労はないだろう。まずは何を語っているのかわからなくなり、次いでわかることを断念する時期がいつ到来するのだろうか。そんなことが予定調和的に到来するはずがないか。いったい世界はどこを中心にして回っているのだろう。君の意識に中心はあり得るのか。中心があろうとなかろうと、世界はそれを無視しながら変動し続ける。それはまるででたらめな軌跡を描くとでも思い込みたい気分か。しかしそれで何か述べている気になれるだろうか。誰かは気分次第で適当なことを述べているつもりなのか。しかしその中に語られるべき物語はどこへ行ってしまったのだろう。架空の物語の成り行きはどうなっているのだろうか。そんな風に語ることが、その場の成り行きに従っていると思われるだろうか。誰が何を語ろうと、また言葉を弄しながらどうあがいても、そうはならならないような気がするが、まだ君はそれがどんな成り行きに従って語り進められるのか、それを事前に考えていなかったようだ。そこで何が起こっているかも知らずに、いったい何を語れるというのか。いつもの嘘ならもうたくさんか。ゲップが出そうになり、何かそれとともにこみ上げてくるものもあるらしい。そしてそろそろそれの実体を確かめる時が近づいているのかも知れず、君の頭がどれほどいかれているのか、それをどうやって知ろうとしているのか知らないが、はたしてそれが誰にわかるというのか。君は誰にもわからないことを語っているつもりなのだろうか。ならばそんな風に語りながら何をはぐらかしているつもりなのか。ない頭をどうひねってみても、首の骨と筋肉が痛くなるだけだろう。とにかく君には休養が必要なのかも知れないが、休養できない時に限って休養が必要となる。そんなことはありふれた状況だろう。切羽詰まって何を語ればいいのかわからなくなるのもありふれた状況か。そのとき君は怠惰以外の何と闘っているのか。そういえば近頃は虚無が姿を見せなくなってきたように思われる。では今や懐かしくなってしまった感のある虚無にはどんな姿がふさわしいだろうか。そこにあると思われるのは言葉としての虚無でしかなく、はたしてそれが虚無であるかどうかは疑念を抱かざるを得ない。そしてそれはおかしな言語表現かも知れない。たぶん言葉としての虚無は実体としての虚無を求めているのだろう。本当にすべてが虚無に染まってほしいのだ。いつもそれがあり得ないだけでは済まなくなる事態に至って、本当の虚無が到来してもらいたいのかも知れない。しかしそれがどういうことなのか。何か想像を絶する光景の中に存在してみたいのか。


7月19日

 また述べていることがいつもと同じ内容になっているかも知れない。それは語れば語るほどつまらない言い訳に終始するようになるだろうか。しかしなぜ君が君について語らなければならないのか。君は文章の中に君の意志を反映させたくないのか。はたして君に意志らしい意志があるのだろうか。なぜ君は君の意志を自らが記しつつ文章の中で明らかにしないのか。君が何をどう述べようと、それがどうしたわけではないことは承知しているが、君がいくら何を述べようとそれは同じことなのか。何と同じことなのだろう。何も述べていないのと同じことか。確かに君が何を述べていようといまいと、ありふれた現象はいつでもそこに生じている。例えばそれは風が吹き雲が流れ鳥がさえずり人が動き車が動く。それの何が不満なのだろう。それらの現象の中にに意識が入り込めないことが、どうしようもないもどかしさを生じさせているのかも知れず、そこでどのように語ればいいのかわからなくなる。それ以前の問題として語る必要がないのかも知れない。語らなくてもいいのに語ろうとするから、そこに無理や困難が生じてしまう。君はそんな風に語りながら何をどうしたいのか。どうにもできないからそれについて語らざるを得なくなっているわけか。繰り返されているのかそんなことばかりだろうか。いったいそこでは何が繰り返されているのだろうか。それはすでに語ったことだろう。そのどうしようもなく何かが繰り返されていることが気に入らないのはわかっている。わかっているが君にはどうにもできはしない。目の前にはそんな光景が広がっていて、ただそれを言葉で表現すればいいだけのように思われるのだが、見たとおりの光景を言葉にしただけでは、何も述べていないのと同じことか。しかしそれは見たとおりの光景とは似てもにつかないただの文章でしかない。そこに記された言葉のどれひとつとして、それらの光景から導き出されてはいない。世の中の慣習がそれらの文章を構成しているに過ぎないか。君はその文章の中に何ひとつオリジナルな表現を持ち込めないでいるのだろうか。ならば君の文章から導き出される結論としては、この世界は同じような出来事ばかりが連続しているように思われる。それがはたしてありのままの現実からかけ離れた結論になってしまうだろうか。同じような出来事の連続が現実を構成しているのでは、何か不都合でもあるのだろうか。それが嘘だと思いたい理由は何なのか。あまり同じようなことばかり述べていると、あるとき唐突にそれとは違うことを述べたくなるだろう。だが君はそんな風には思いたくないようだ。何かが途中から劣化していくように感じられて、それ以上同じことは続けられないような気がしてくる。しかし誰かはそうではないと思っている。君はそれが気にくわないらしい。そうなっている現実を認めるわけにはいかないようだ。なぜそれほどまでにこだわるのか理由がわからないのだが、なぜそれを認めたくないのだろうか。もう終わってしまったそれらの出来事を覆そうとでも考えているわけか。言葉によって覆そうとすれば、それは嘘になるだけだろう。もはや何も言葉がないことを忘れてしまったのか。なぜ繰り出す言葉が尽きてしまったことを認めざるを得ないのか。ならば今さら何を付け加えたいのだろうか。どんな言葉を欲しているのか。欲しているのは言葉ではなく実体ではないのか。しかし言葉もないのに実体もあり得ないか。何もないからそれを言葉で表現できないのだろう。では今こそ何もないことを認めざるを得ないのだろうか。また否定が連続しているそうだ。漢字仮名交じり文に変換するとき、否定が連続していてはまずいわけか。それは文法的に禁止事項なのだろうか。またわざとらしく横道に逸れようとしているらしいが、なぜ君はそうは思わないのだろうか。自らの誤りを認めたくないのだろうか。認めたくないのに誰がそれを認めさせようとしているのだろう。どういう意味においてそれを認めさせたいのか。いったい君は誰に何を認めさせたいのだろうか。そんなことの繰り返しによって飽きていることかもしれないが、それは意味のない繰り返しだと思いたいわけか。では何か他に繰り返しにならないようなことを述べることが可能だろうか。例えば昨夜の記憶を手繰り寄せて何を語り出すつもりなのか。背景と話の内容に不一致が見出されるだけかも知れない。そのことについてどう語ればいいのかわからない。面倒なのでそんなことは見過ごしてしまったことにしておきたいようだが、はたしてそれをそのままにしておけるだろうか。たぶんそこにはあからさまに力を行使する者に対して、それに逆らうのではなく、力の行使をかわしながらもそれを利用し、自らの糧として吸収しようとする者の存在を見出せるのかも知れない。対決が成り立たなくなるようなねじれの位置関係を描き出そうとしているのかも知れず、今ひとつ描ききれていないことは確かだが、お互いの視線が交わらないようにするための配慮は、この世の中の至る所で行われていることであり、それは生き残るために必要なひとつのテクニックなのだろうか。無用な対決を避けるために自然とそうなってしまう傾向にあるのかも知れない。争いごととそれに伴う破壊行為から変化が生じてきたとするなら、互いの方向性の違いによる無視の関係からそれが生じてきたのだろう。それは人間がやっている様々な生き方のバリエーションが維持されていることの証だろうか。そんなことを考えていると眠くなってくる。眠気によってその先に思考を巡らせなくなる。何を考えなければならないのかわからなくなり、そのまま眠ってしまったらしく、寝て起きたらまた別の用事を済まさなければならなくなり、さらに言葉を記す状況ではなくなり、作業は遅れに遅れてしまうらしい。そんなことはどうでもいいことか。しかし正々堂々の直接的な対決ではなく、なぜ互いをかわしながらのねじれの関係を維持継続させなければならないのか。対決によって強引に関係を断ち切るのが怖いのか。しかしそれが長続きするだろうか。長続きさせようと意図などさらさらなく、とりあえずつかの間の措置に過ぎず、それにいつまでもこだわっている気はないようだ。それどころかそのような関係の継続をうやむやのうちに忘れ去ろうとさえしているのかも知れない。ねじれの関係を忘れたついでに、対決に至ろうとする可能性も忘れ去ろうとしている。そうやって危機をやり過ごしたつもりになりたいのだろうか。いつの日かその先へ一歩を踏み出していることに気づく機会が訪れるのか。たぶんそのときその先の状況の中へ投げ込まれようとしているのだろう。とりあえずそんな風に思っているうちに、可能性として想定されていた対決の局面ははるか彼方へ遠ざかってしまったのか。今はどうなってしまったのだろう。誰かが横たわって寝息を立てているが、それは昨晩のことだろうか。夢想の時が通り過ぎようとしているらしく、その先に夜明けの時が到来してしまうわけか。それについてわからないのにわかったつもりになり、君は何を考えようとしているのだろう。どうも話の内容的には誰かは力による支配へ到達できないようだ。誰も知らないうちに状況はそこから大きくずれて、現状では大げさな言葉ばかりが先行するばかりのようだが、もはや忘れ去られた人々が予言した、その言葉通りの危機が訪れるはずもなく、現実はいつも期待外れのはぐらかしを用意しているようで、それらの状況が告げているのは、思い通りにいくはずがないということでしかないらしい。ところで誰かはそれらの状況がもたらす何に悩み苦しんでいるのだろうか。そんなことが君にわかるはずがないか。


7月18日

 なぜ当たり前のことが当たり前のように繰り返されるのだろう。話の中で死ぬべき人間は死に、生き残るべき人間は生き残る。それの何が不条理だと思われるのか。記憶は多くの者たちが闘争の最中の映像を捉えているが、そこで何が流行っているのかわからない。いったい架空の人々は何を求めているのだろう。これから見ようとするスペクタクルについて誰かは偏見を抱いているのかも知れない。たぶん意識はまだそこからあまり遠くへ離れていないだろう。否定的な感情が視界から完全に見えなくなってしまうことを恐れているのだろうか。あるいは感覚の目新しさを求めて、絶えず好奇心を作動させていたいのか。それでも何かが変わりつつあるのだろうか。意識は変わるかも知れないが、状況はそのままだろう。このままでは身体の増殖が長続きしない。また苦し紛れの意味不明らしいが、それらの症状は少しずつ転換点に近づいているのかも知れない。しかし予感は思い過ごしの可能性もある。そんな簡単に前言を否定してもいいだろうか。そんな風にしか思うことができないのは、心が不自由であることの証かも知れないが、それでもどこかに事態を改善させるきっかけがあるはずか。でも何かを探している感覚ではない。昨日のことはもう忘れてしまったのか。もうそこから二日も時間が経過してしまっている。それを見ることから何がもたらされているのだろう。たぶんやるべきことはわかっているつもりだが、それをやって何が見えてくるのか。たぶん君には批判することしかできないだろう。何もしなくてもいいのなら、それに越したことはない。しかし見出されたのはそんな感覚を受容できる状況なのか。いったいそれらの袋小路はいつまで出現し続けるのか。君はそれでも何もわからない風を装えるだろうか。どうしてそれがわからないわけがあろうか。わかっていながらわからないふりをするのもおかしな話か。ではもう前方に何か見えてきてもいい頃か。何が見えているのかわからない。まさか盲目を装うわけにもいかないか。見えているのではなく感じているのではないだろうか。では何を感じているのだろう。いつものように誰かが破滅する予感でも感じているのか。誰がどこでいかにして破滅するというのだろう。君に他人の破滅まで予言する義理はないか。なぜかそれはフィクションの一部であるような気がしているのだが、そこから状況がよくなるきっかけをつかめるとは思えない。たぶん破滅は破滅であって、破滅以外の何ものでもないだろう。また以前と同じようなことを述べている状況に変わりはなさそうに思われる。どんなに同じ言葉の繰り返しを回避しようと試みても無駄だろうか。無駄にならなければ破滅に結びつくしかなく、それを回避できないからこそ、誰かはそこで破滅してしまうわけだ。要するにどちらにしても誰かはそこで破滅してしまう定めのようだ。目下のところそれ以外の選択肢はあり得ない。しかし何が選択肢として眼前に浮上しているのかわからない。宿命とは選択すら許さない運命のことをいうのかも知れない。そこからどこへ行けるわけでもなく、どこへ逃げようと運命は後からついてくるだろう。もはや運命から逃れる術はない。それは何かの脅迫だろうか。誰が誰を脅迫していることになっているのか。その辺の話の筋書きが今ひとつつかめていないらしい。君はそうやって決定的な方向へ突き進んでいってしまうのを、すんでのところで食い止めているつもりなのか。そんな見え透いたはぐらかしによって、誰かの破滅を回避させたつもりなのか。つもりではなく現実に食い止めているように思われ、誰かは君の心変わりによって破滅の危機から救い出された気になっている。誰かは運がいいのだろうか。しかしそんな作り話の中で、誰の運命が変節を被っているというのだろうか。またおかしな話の成り行きに、飽きれを通り越してあきらめの境地に近づいているようだ。いつの間にか誰かの宿命が話の筋から取り除かれて、筋のない話になろうとしているわけでもないが、それとは別の筋を導入できずにいるらしい。そんな話がもとからあるわけがないだろう。なぜそうやって話を否定しようとするのか。それはどういう話なのか。それ以上に何かを話すのが面倒になってしまったのだろうか。面倒で話さないのではなく、話がないので話すことができないだけなのではないか。似非ジャズ的な即興がもはや通用しなくなっているのかも知れない。そして何を通用させようとしているでもないと述べてしまうだろう。何も通用させることができないから話にならないのか。かろうじて話になっている部分を捨て去っているようだ。それはどのような話になろうとしているのか。映像の過剰さにはついて行けないものがある。視覚的かつ聴覚的な効果を極限にまで引き出そうとすれば、肝心の話が空疎な内容となってしまうのはどういうことなのか。状況的に混乱を極める背景がまったく見えてこない。過度な映像と音響によって何かが覆い隠されている。例えばジャーナリストは戦争の惨状を伝えようとする自らの行動に疑念を抱いていないのだろうか。そこにどのような意味も意義もありはしない。隠されている何かを白日の下にさらすことが、誰の役割となっているわけではない。たぶん事実を伝えようと欲する感情は、そうすることによってそれを覆い隠そうとする意志に対して復讐心をかき立てているのかも知れないが、現実にはそこに誰の意志が反映されているわけでもなく、結果的にそうなってしまう成り行きがそこでの慣習となっている場合が多い。その慣習に逆らって秘密を暴き立てようとする者は、慣習に従って暮らしているその他大勢の人々には受け入れられないだろう。だからそれを封じ込めようとする保守主義が優勢となってしまうのか。しかし君はそんな結論には満足できない。秘密を暴き立てる側にもそれを守ろうとする側にも、そのどちらの側にも属したくはないのかも知れないが、そうなってしまうと自ずから居場所が社会のどこにもなくなってしまうのではないか。では居場所のない者はどうなってしまうのか。居場所がないから君はいつまでも架空の存在であり続けようとするわけか。そんな論理は通用しがたいか。別に通用させようとしているのではなく、居場所を求めているわけでもなく、ではどうしたいのかといえば、どうにかしようとする意図はさらさらないと述べるしかないか。もちろんそんなごまかしが通用するとは思っていない。この世の中に何を通用させたいのでもなく、何をやっているつもりになりたいのでもない。何ができるとも思わず、そうかといって何もできないとも思わず、ただタイミングを計りながら、適当に言葉を並べているに過ぎないのかも知れない。それで何かをやっているとは到底思えないのだろう。


7月17日

 そんなことは認められないし、認めようがないだろうか。この世界には容易には感知できない仕組みがあるらしい。そんな仕組みなど知らなくても生きて行けるだろう。大げさな見せ物に心を奪われている感性では、何も感知できなくて当然かも知れないが、君はそれ以外の感性を知らず、そのような感性を変えようとも思わない。何も知らないことは喜ばしいことであり、何かを知っていると思い込むのは危険な兆しだろうか。なぜそこから話が広がっていかないのか。不吉な予感とともに不可思議な印象を抱いている。それ以上その件について語ることは叶わぬように思われるが、まだ何も語っていないではないか。語りようがないから語れないのだろうか。いつもながらの理由になっていない見解を述べているらしい。確かに使われなくなった事物は博物館に展示される。観光化されてしまった都市は廃墟と同じだろうか。ただの見せ物には魂が抜き取られている。気休めの娯楽を見物している者は死んでいるのと同じだろうか。しかしそんな挑発が何の役に立つのか。何かを見て感動してしまう感性は人畜無害でしかないか。ではいったいどうしたらいいのだろうか。それに対する答えを求めること自体が間違っているのではないだろうか。人が生きているとはどのような状態をいうのだろう。あり得ない状態を想像できるだろうか。すべての人間が死んでいるわけではない。すべての人間が死にゆく定めだとしても、とりあえず今のところは生きている人間も微かに存在しているらしい。微かではなく何十億もの人々が生きているのではないか。それが微かだといえるだろうか。数の問題ではないのか。生きている人々は人間ではないのかも知れない。人間とは見なされないとしたら、それらの生き物はどのような定義を受け入れる必要があるのだろうか。そんなことは君の知ったことではないか。君が知っていることといえば、自らが架空の存在であるということぐらいか。そんな嘘は聞き飽きただろうか。たぶんそこから遠ざからなければならないのだろう。そんなことはわかりきったことかも知れないが、わかっていながら未だにその状態を抜け出るには至っていないようだ。そんな風に述べること自体が意味不明な印象を振りまいている。やはり疑わしいことを述べ続けている。何がやはりなのだろう。映像にはくだらぬ力が満ちあふれている。ニュースにはありふれた過ちが満ちあふれている。そんな風に思われる感性が気に入らないのだろうか。彼らは何に気づこうとしていないのか。そこにどんな落とし穴が待ちかまえているわけでもない。気に入らないと思われるのは何かの勘違いなのではないか。単純で早急な断定こそが信用できるだろうか。ではどんな断定が君のお望みなのか。死人をよみがえらせる術でも会得したいのか。それはどんな奥義なのだろうか。そうではないとすると、では何におびえ、どんな事態に危機感を募らせているのだろう。誰も振り向いてくれないのがそんなに怖いことだろうか。たぶん死人は振り向かないのかも知れない。文章の中に黄泉の国があるとしても、そこに至るのは選ばれたひとにぎりの人物しかいないだろう。だが何に選ばれて黄泉の国に入れるわけもなく、その場の成り行きで文章に記されるには限りがあるということでしかない。そして別にその黄泉の国がどうというわけもなく、そんな文章を読んだ人がいるとしたら、それは何かの偶然からそうなっただけだろう。その場の成り行きとはそういうことでしかなく、やはりそれがどうしたわけでもない。そこから君は冗談に逃げ込もうとしているらしいが、そんな見え透いたやり方では何ももたらせないか。何を述べようとしているわけでもないのはいつものことなのだろうが、何かしら言葉を繰り出さないと気が済まないのもいつものことだ。だからそれがどうしたわけでもなく、どうにもできない状況のただ中に言葉の連なりが現前しているらしいが、それもまたどうしたわけでもないようだ。文章からもたらされようとして、それがすんでのところで挫折してしまう内容も、それほど画期的な内容ではないのかも知れない。だから君は高をくくってくだらぬ冗談で時間稼ぎをしながら、ひたすらそれが忘れられ去られてしまう時の到来を待っているわけか。なぜそうまでしてわざと挫折を呼び込みながら、結果的に文章を破綻させてしまうのだろう。本気になってしまうのがそんなに怖いか。あるいはそうやって自ら記した文章に踊らされてしまうのを防いでいるわけか。馬鹿げた感性の持ち主にはなりたくないのか。それらの文章によってもたらされようとする感性のどこが馬鹿げているのだろう。現実の出来事と身も心も同化してしまうわけにはいかないらしい。そこに存在している事物の有様を伝えようとして、不用意に感情移入してしまったらお終いか。そこに醸し出されている状況に絡め取られてしまったら、それらの事物から語られようとする言葉奴隷となってしまうだろう。いったんそうなってしまえば、それについてひたすら語り続けなければ気が済まなくなってしまう。できればそんな状況はごめん被りたいか。空疎な語りによって滅びたくはないか。だがすでに架空の存在となってしまったのだから、君はとうにその身を滅ぼしているのではないだろうか。しかし別に誰かは君のことを語っているわけではない。それでも君について語っていると受け止めるならば、それはすべて勘違いになるだろうか。そんな風に思いたければ思うがいい。だが誰がそう述べているのでもなく、誰もそんなことは述べていないことにしておこう。ついでに冗談には際限がないということにもしておこう。やはりそんなこともどうでもいいことだろうか。君にとっては何もかもがどうでもいいことなのかも知れないが、それでもまだその先へ言葉をつなげて行かなければならない。そうする理由が何もないわけではないが、やはりその理由もどうでもいいことなのか。しかしそのどうでもいいことの繰り返し状態から抜け出ようとする気にはなれそうもない。そうすることにどのような理由を見出したら気が済むのか。さっきからだいぶ無駄なことを述べているようだが、それをやりだすと止まらなくなる。そこにも何らかの理由があるらしい。理由があるのにその理由を述べようとしない。そこにそれらの文章の欠陥があるのかも知れない。というか文章を記している意識そのものに欠陥があるようだ。君はその欠陥をそのままにしておいて平気なのか。平気も何も君という存在自体がその欠陥からもたらされているのではないか。欠陥を放置しながら無責任なことを述べるために、君という言葉が利用されているのだろう。君自身はそんなあり方では気に入らないのだろうか。


7月16日

 少しは頭を冷やしたらどうなのか。何もない場所で何を思い浮かべられるだろうか。何かしら思い浮かべられるかも知れないが、そのことについてあからさまに何を批判しても無駄かも知れない。人々はそこで何を求めているのだろうか。たぶん現実に求めているそれらは宗教の一種なのだろう。思い浮かぶのはいつもそこにはないものだ。それを思うたびに人々から感覚が奪い去られていく。だがボロ雑巾をいくら絞っても泥水以外は何も出てこない。では今こそ何かに気づかなければならないのだろうか。資本主義という宗教の性質について、どこかの偉い学者の意見にでも耳を傾けるべきか。経験も体験も心身から遠ざかって行くように思われるが、今はそれについて考えている暇がないのか、あるいは心の内でそれに代わる何かが練り上げられているのだろうか。たぶんそれは違うのだろう。はじめから心が壊れているのかも知れない。ではもうお遊びはその辺で終わりにした方が良さそうか。君は何もないのに何に驚いているのか。そんなことを述べてしまうこと自体が驚異的なことだとでも思うわけか。誰かの意識はこの世界から徐々に遠ざかっているのかも知れない。身体のどこかから危険信号が発せられているのだろうか。それはどんな幻想なのだろう。例えば天空に浮かぶ島々から音楽が降ってくる。だがそんな虚仮威しの言葉は長続きせず、その時々に気分次第で抱く言葉は、どこまでも分散していってしまう傾向にある。夕暮れ時になっても空が赤く染まっているわけではないが、誰かの近くから遠くを眺めている意識に気づく。そこからどんな幻想が導き出せるだろうか。君が求めているのは映像から生じる幻想ではなく、現実の出来事なのではないか。風景の中に雲が浮いているように見える。風景は空の中にあるらしいが、そんなことが求めている出来事ではないのだろう。気休めに文章の中に気まぐれでも導入したいのか。何を述べたいのかわからないが、暑さに負けて心がよろめいて、何でよろめいたのかわからなくなる。それは暑さのせいではないのだろうか。そんなつまらないことはすぐに忘れようとするが、それでも言葉の連なりはつまらないままに推移して、それ以降は何が何だからわからないふりをしつつ、後からわざとらしく気がついてみると、何がつまらないのかわからなくなっている。いったい君は何に気づいたつもりになっているのか。それは間違った言葉の用法だろうか。別に誰がそんなことを述べたいわけでもないのだが、フィクション的には意識の感度がいかれていることにしておきたい気分か。だがそのいかれた頭脳が感知しているのは、いつ何時でもどこまでもおかしな世界だ。それらのどこに現実の出来事との接点があるというのか。そのとき君はどんよりした空気に包まれて、生彩を欠いた希薄な意識は、どのような現実感を探しているのだろうか。何を探知できるはずもなく、ただの日常の中に埋もれたまま、そんな状況自体が現実そのものであることを思い知る。そんな現実を体験しつつある状況の何が気に入らないのだろう。今さらわかりきったことを訊かないで欲しいか。誰が誰に尋ねているのかわからなくなってしまうか。そこで言葉の配列に狂いが生じているのだろうか。そんな風に述べること自体がだいぶおかしな成り行きになっているように思われる。誰かは架空の自己をもてあそびながら、そんな自己について何を述べているのだろう。ただいい加減に意味のあやふやな言葉を弄しているだけか。そしてそんな風に思われる現状の何を肯定したいわけではなく、ただ時間をかければかけた分だけ、時間から取り残されてしまうだろう。そしてそのような成り行きによって置き去りにされてしまった意識にとって、自らが属している過去のどんな出来事も、賞賛するに値しなくなってしまうのだろうか。なぜ過去の体験を賞賛する必要があるのか。たぶんそんな風に述べること自体に嫌気が差して、そこからできるだけ遠くへ離れてしまいたいのかも知れない。だがそこには意識を遠ざけている実体が何もないように思われ、その実体に関して確かなことは何もわかっていない。しかしどうして体験や出来事に実体がないのか。それ以外には何もないのに、いったい何を遠ざけようとしているのか。自らが述べていることの意味に気づかないようだ。君はどうしてもそんな風に述べてしまうことを許せないらしいが、なぜ許せないのか、その理由を知り得ない自らに腹を立てているように思われる。そんな風に語っているつもりの自らが滑稽に感じられるのか。何かそう述べていることの中に、誤りが潜んでいるように思われ、その誤りを利用してさらに文章をわけのわからないものにしようとする魂胆が透けて見えてくるか。冗長さを求めるのは今に始まったことではなく、昔から自らがもたらしたわけのわからない感覚に酔いしれているつもりになって、そこにわかりやすく述べようとする善意が欠けているのはいうまでもなく、一方でそんな風に自己言及気味に語ることに飽きているのかもしれない。いつになったらその賞賛しがたい成り行きから抜け出ることができるのか。しかしなぜそこから抜け出ようとしなければならないのか。またもやそうする理由が欠けているわけか。読解力不足で理由を語るところまで持って行けないだけなのかも知れない。結局それを語ることができずに、それを無視しつつそこから逃げ出してしまい、次いでそれとは無関係かつ脈絡の感じられないことを、苦し紛れに述べてしまうようだ。例えばその場の気まぐれで思い描いた架空の窓には、蜘蛛の巣が張り巡らされているように思われ、蜘蛛の糸に絡め取られてもがいている虫は、生物学的には何も考えていないことになっているらしい。そうやってわざと無理矢理無関係な言葉を弄している意識は、やはり他のどのような状況を体験しているわけではない。そんな意識が記しているつもりの文章から、はたして君はどれほど遠ざかることができたのか。見ている事物と感じていることとの間に、どれほどの隔たりが形成されているのだろう。言葉が先行し続けるのとは裏腹に、何を感じ取っているのでもないらしい。それでも眠たいのなら眠ってしまえばいいのだろうか。夢でも見れば別の何かがもたらされた気になるかも知れないが、それでは今までに語ってきたことのすべてが水の泡となってしまうだろうか。どうしてそんな嘘を簡単に述べられるのか。何をどんなに語ろうと、そこには語っている実体が何もないように感じられてしまい、誰が何を語っているのでもないように思われる。そしてなぜそんな風に感じられてしまうのか、その原因や理由を探る気になれないわけか。何となく馬鹿らしく思われるのかも知れない。


7月15日

 君はそれをやり続けることによって、この世界に何をもたらしたいのか。そんな大それたことではないだろう。では何を見極めたいのか。世界の形状を見定めたい。たぶん本気でそんなことを述べているのではない。それで何を主張したいのかわからない。すでに嫌というほどこの世界のありのままの姿を見てきているはずだ。しかし見てきた範囲は限られて、世界のすべてを見てきたわけでもないし、一人の人間がすべてを見ることなどできはしないだろう。それでも安易に現状を否定するのは簡単なことだろうか。なぜ否定しなければならないのか。君は何に興味があってそんなことを述べているのか。君たちには気休めや気晴らし以外に何があるのだろう。現状の何が気に入らないのか知り得ないが、もう君の言動には何も期待できない。だが今さらそんな嘘をついてどうするのか。どうもしないがそれでもどうにかするつもりのようだが、それとは関係なく一通り雷が鳴り終わった後に夜の静寂が訪れる。しかしそんなどうでもいいことを述べても無駄だろう。何が無駄なのかわからないか。誰かの意識はいつものように何を求めているわけでもなさそうだ。いつまでも言葉を弄して文章を記し続ける。しかしそれは求めていることではなさそうだ。例えばそこで求められているのは疲れを癒やすための休息だろうか。それで素直さを言葉で表現しているつもりなのか。だがそれでも何を思っているわけでもない。では言葉を繰り出すことで思っていることを振り払おうとしているのだろうか。いったい誰がそんなことをやっているつもりになれるだろうか。もういい加減につまらない文章の外へ出たいとは思わないか。外から書きかけの文章を眺めていても、何がもたらされるわけでもない。しかしそうしていると何か気づかないか。そこには何が見あたらないのだろうか。そんなことに気づこうとしているわけではない。何を思っているのかわからなくなる。やはり何もできないと述べるのは無理なのだろうか。何かやっていながらそう述べるのはおかしいか。何もできないはずがないと思われてしまうだろうか。それは何かの勘違いだろうか。またしばらく映像に見とれていたらしい。どうということはない風景がどこかに映し出されている。思っていることを忘れさせるきっかけが、それらのどこかに醸し出されている。本当にそう思っているのか。そう思うことに何か不都合でも感じているのだろうか。今すぐ軌道修正しなければ、また何も導き出せなくなってしまうかも知れない。だがそんな風に思っているのは君ではない。それは何も語らせまいとして、語る代わりに構成された文章なのだろうか。どうやら君はまだ過去の出来事のすべてを思い出したわけではないらしい。しかし君がいつ記憶喪失になったわけでもない。何かを健忘症気味に忘れたつもりになっているだけか。では今こそ何を思い出せばいいのだろう。あるいは何も思い出すべきではなく、何をやろうとしなくてもいいのかも知れない。やるべきことは誰か他の者がやってくれるはずか。君は何も直接に手を下す立場にはない。一定の時間内で物語が完結するように映像が構成されている。だがそれではだめなのかも知れない。時間や文字数に制約された物語では気に入らないのか。人は絶えず何かを感知して、それについて考え、その考えに基づいて行動していれば、それで人間らしく振る舞えるはずか。なぜ唐突にそんなことを思うのだろう。それは他の誰かの受け売りかも知れない。わざと前後の文章の食い違いを生じさせているのか。述べたいことを言葉でわかりやすく示せないのだろう。それはどういうことなのだろうか。どういうことでもなく、そういうことでもない。そこに何か象徴的な症状が現れているだろうか。ただやる気がしないだけなのか。やはりいつまでたってもそれではどうしようもないだろう。君はその辺であきらめかけているのかも知れない。何も語れない状態を抜け出すことができないのか。もはやこの世界に語るべきことは何もないのだろうか。そんな傲慢な思い込みがいつか打ち砕かれてほしいようだが、未だその兆しや気配すらないのはどういうことなのか。別にどうもこうもなく、それはもうあきらめて沈黙してほしいという誰かの願いが実現しつつある証拠だろうか。実際に沈黙しているのではないだろうか。内容が何もない文章を書き記しながら、ひたすら沈黙を継続しているではないか。誰かはそれの何が不満なのか。苦悩とは無縁のケセラセラでは気に入らないか。被害妄想の誰かにはそんな風に感じられてしまうらしい。だから今さら何を述べても無駄なのか。無駄だからこそひたすらそんな文章が生じているのだろう。誰が生じさせているわけでもなく、君もその件については無関心を装い、一向に責任を取ろうとしないようだ。だからさらなる誰かの憤りを呼び込んでいるわけか。突っつけばたちまち過剰反応の雨あられとなってしまうのだろうか。そんなに痛いところをつかれたわけでもないだろう。まさか君はそれを楽しんでいるのだろうか。叩けばちりもほこりも出てこない体質なのかも知れない。その架空の人格には誰からも無視されていることを逆手にとって何かをやる気力すら失われている。もはやリベンジなどという言葉は聞き飽きただろうか。それはゲームの世界での話に過ぎず、世界の外から誰かをめがけて撃ち込まれる弾丸には対処できない。対処できるような武器や防御機構は、内部の世界には何も用意されていないようだ。内面は脆く傷つきやすいのが相場だろうか。至って何も述べないことで、それらの内面がどのように傷ついてしまうのか。それらの存在に外部からの視線もいい加減に気づいてほしいか。何もなくても何かを語っている事実を認めてほしいか。ないものをあるように見せかけるのが言葉だとは思わないか。そんな見え透いた意見には賛同できないか。何が見え透いているのだろうか。そう述べることにどんな意図が透けて見えるのだろうか。そこに何かがあるように見せかけたい思惑が、見え透いた嘘を生じさせているわけか。それが嘘でなければ何になるというのだろう。それ以外の何が醸し出されたら満足できるだろうか。すでに連ねられている言葉の中から何を見出したつもりになりたいのか。例えばその中に希望のごとき気休めでも見つけられるだろうか。君は君が事ある度に批判しているつもりの夢や希望に寄りかかりすぎているとは思わないか。絶えず何かに寄りかかっていないと何も述べられなくなってしまうだろうか。四六時中メディアがばらまく餌に飛びついていたら疲れてしまうか。それらの大半は飛びついても得ることができない幻影でしかないか。だがそれで何を批判しているつもりもないだろう。


7月14日

 何もできないことの腹いせに、解けない謎でも提示してみようか。気がつけば爪がだいぶ伸びているようだ。君はそこで何をやっているのか。何もやっていないとすれば、それは君ではないのかも知れない。周りを見渡せば石材の欠片があちらこちらに転がっている。よく見ればその他にも何かが転がっているようだが、たぶんそれは人の生首ではないだろう。誰かの首塚の傍らに手向けの花が供えられている。それはいつの時代の話なのか。本当はそんなことなどどうでもいいことだと述べたいところだが、そうやっていつまでも冗談にすがりついているのは良くないことかも知れず、どこまでも本気になろうとしていないのは、それが君の述べていることではないからか。しかし本気でそんなことを思っているわけではない。だがどこまで冗談を口走れば気が済むのか。そんな台詞は聞き飽きただろうか。現実に聞いているのはそんな言葉ではない。相変わらず何を語っているのかわからないが、君の性格について誰が興味を抱いているのだろうか。たぶんそれも違うと思う。気まぐれに繰り出された言葉はすべて間違っている。しかし間違わない言葉など誰も使わないだろう。それでは今日の出来事に結びつかない。霊柩車は今日も走り続けている。君の言動と霊柩車は関係ないだろう。ただわけがわからないだけだろうか。何かを見失ってからひさしい。いつものことだが何もできなくなっているのかも知れない。何をしているのかわからなくなる。とうとう君はだめになってしまったのか。ただまとまりを欠いている。それらのどこに意識があるのか。正攻法で攻めてもだめのようだ。何がだめなのかわからないだろう。君は遠くからつまらない光景を眺めている。まだ何が始まろうとしているわけでもない。そこからどうやって抜け出せるだろうか。暑さに耐えられないようだ。全身を襲うかゆみにも耐えられない。どうかしているらしいが、さらにどうにかなってしまいそうにもなっている。気がつけばおかしなことを述べているようだ。脳みそもかゆいのか。それで終わりまで行けるはずがないか。今はそんなことを思っているらしいが、別の今ではどんなことを思っているわけでもない。そこでわざとらしく何かが矛盾しているのだろう。そんな見え透いた嘘はどんなタイミングで発せられるべきなのか。これから言葉で説明しようとしている何を把握しているわけでもない。まだ体調が戻っていないのかも知れないが、最近は健康という概念が意味をなさないような状況なのかも知れない。それは心の病という言い訳で説明できるだろうか。やはりそれを本気で述べているわけではないようだが、戯れで適当なことを語っているだけなのだろうか。そんな状況を外から眺めていると、だんだん虚しくなってくるか。誰が窓越しにのぞき込んでいるわけでもない。夜の暗闇の中で猫が鳴いている。数時間前には昼の日差しの中で烏が鳴いていた。切羽詰まれば人も何か適当な叫び声でも発するのだろう。例えばスポーツの中でそれらの叫び声は共鳴しあっている。怒鳴らないと意思疎通がおろそかにでもなるのか。奇声を発しているのはそれを見ている観客の方か。静かな部屋の中でテレビを消してエアコンのうなり声に耳を傾ける。それが静かであるはずがないか。それは君の思っていることではない。まだやる気になるには程遠い精神状態なのだろうか。それでも何もできないわけではないらしいが、心は無駄に言葉を弄して何を探求しているつもりなのか。探求していることの意味を知りたいか。知りたいのではなくすでに知っているのではないのか。意味が何ももたらされないことを証明しようとしているのではない。実際に意味ではなく疲れやだるさがもたらされている。この世界には他に何もありはしない。それでもそこに何かがあると思われるのは、何もないと思うと寂しいからなのか。実際に何もないわけではないだろう。確かによく探せば何かがあるかも知れないが、それでも心の中には何もありはしない。意識はその何もない中に何かが存在していることを突き止めたいようだが、そこに何かがあると思われることから何かが生じるわけではない。そんな風に述べていることの意味や理由がわかりづらいか。あるいはまるっきりわからないわけでもないということなのか。そんな風に言葉を繰り出しながら、何かを知り得る状況に持っていきたいのかも知れないが、そこからどのような結論が導き出されるべきなのか。たぶん何が存在しているかがあやふやなままに言葉が先行しすぎているのかも知れない。それで意識はわけのわからないことを述べている気になっているのだろう。その結果としてそれらの存在は出現できなくなっているようだが、それでも君はそこから強引に何を出現させようとしているのか。具体的に何を生じさせようとしているのか。はたしてそれで何が生じるのだろうか。それをまともな言葉で表すのは無理と思われる。しかし君は無理を承知でそこまで述べてきた。それはつまらないことなのだろうか。ただわかりづらいだけかも知れない。それほどまでに無理を積み重ねても、相変わらず何をやっているとも思えないし、何が語られているとも感じられない。ただどうでもいいような言葉が執拗に繰り返され、意味を伴う言葉以前の何かが行ったり来たりしているだけみたいだ。やはり継続が無理なことは当人にも痛いほどわかっているらしいが、そんなことをやりながら結果的に何かが達成されているとでも思いこめれば、それで救われた気になるのだろうか。儀式とはそういうものなのだろう。君は内容のない現実を真の現実として受け止めるために、ただひたすら言葉を繰り出すことをやめないのかも知れず、無意識のうちにそれを生き残るための手段として利用している。そうすることがせめてもの罪滅ぼしとでも思い、それを継続させることで、すでにやめてしまった人や忘れられてしまった人を、故人と見なして偲んでいるつもりになりたいわけでもないのだろうが、君もそうなってしまうのを食い止めているつもりになっているのかも知れず、要するにまだ生き残ることをあきらめていないらしい。たぶん君にはあきらめきれない理由があると思っている。いつの日か言葉の連なりが意味を持つようになって、そこで語られている事物の存在を浮き彫りにしなければならない。それが言葉の真の役割なのではないか。はじめからそれを放棄してしまったら、やはり何を述べているのでもないことになってしまうだろう。だが今のところは何を述べているのでもなく、またいつもの誤りを言葉でなぞっているだけのようだが、言葉を連ねていくに従って、次第に何を述べているかが明らかになり、それがまっとうな文章としての体をなすような具合に持っていきたいのだろうか。本当にそうなったらおもしろいだろうか。


7月13日

 君は自分自身の力を疑っているのか。いったいどんな力が宿っているというのか。それは漫画に出てくるような超人的な力だろうか。たぶんその手の漫画やアニメや映画のすべてが間違っていることは、世界を征服しようと欲している者たちのことごとくが、超人的な力を身につけようとしていることだ。人一人が神秘的かつ超人的な力をいくら身につけようと、世界がどうなるものでもないだろう。しかもそれが暴力的な力である限りにおいて、そのような力を有した者は、支配者になるのではなく、そのせいぜいが支配者の傭兵程度の役割しか与えられないだろう。破壊的な力を授かった者が支配するのではなく、そうした者たちを利用する者たちが支配するのであり、次いでそうした支配者による支配という概念自体が変質を被ることになり、あからさまな支配とはならないような支配形態が、世の中の主流となっていくことだろう。性的な倒錯者でない限り、支配という形態自体から利益を得られるとは思われない。経済的な利益を望むならば支配よりは自由を推進するだろう。とりあえず支配されているつもりの人々が圧迫を感じていて、精神的に萎縮してしまっているならば、そこから得られる利益はたかが知れている。そういう人々にはあまり利用価値がないのであり、もっと伸びやかに自由を謳歌し満喫しているように思わせないと、生産効率も上がらないだろうし、支配者気取りの人たちについてこなくなってしまうだろう。そのような意味での真の支配形態とは、人々に欲望や幻想を追い求めさせて、支配されていることに無自覚にさせなければならないということになるだろう。要するに人々を支配したければ、逆に人々を支配から遠ざけなければならない、という矛盾を受け入れると同時に利用しなければ、真に人々を支配したことにはならない。しかしそれにはどうしたらいいのだろうか。魅惑的な映像でも繰り返し見せて幻想の虜にしながら、現実に対して盲目にしてしまえばいいのだろうか。とりあえずそれらの映像に見とれているうちは、それらの映像の支配を受け入れていることになるだろうか。そのようなパートタイム的な支配なら、喜んで受け入れる人は大勢いることだろう。たぶんそれが支配の今日的なあり方のひとつなのだろう。そしてそこに紛れもなく超人的な力が現前している。映像の中にそれらの力がフィクションとして息づいているわけだ。要するにその手の映像の制作者たちが、幻影として存在する超人的な力の体現者たちを利用しながら、パートタイム的にそのつかの間の映像に見とれている人々を支配していることになり、そしてさらにその映像を見る人の数が多ければ多いほど、映像の制作に携わった者たちに利益がもたらされる仕組みになっている。支配によって利益が出なければ、どんなに強力な支配体制を構築しようと、そのような支配が成功しているとはいえなくなってしまう。そんなわけで直接人々に暴力をふるいながら支配するのは、大した成功には結びつかず、そこでひとひねりを利かせて、その暴力をふるっている光景を人々に見せて、暴力から恍惚を得るということにおいては共犯関係を構築しながら、それを見ることの虜にするような支配ならば、古くは古代ローマにおける剣闘士ショーでも実証されているように、より広大な範囲での支配に役立つのではないか。現代ではその手の映像は大衆を支配するための道具になっているのだろう。そして映像による支配は支配される者に快楽をもたらすという意味において、従来から思い込まれている支配に対する固定観念を変容させているのかも知れない。今日では例えば北朝鮮などで行われているような、あからさまな圧政的な支配はあまり流行っていないように思われ、絶えず観客という無責任な立場をあてがわれ続ける、支配されているという実感を伴わないような支配形態が、世界の隅々にまで蔓延っているのではないだろうか。そこで観客は見ている光景に直接介入することはできず、できることといえばスポーツで顕著になっているように、ただそこでやっている人々を応援することだけだ。多くの人々にはそれを支持するから支持しないかの二者択一しか残されてない。それが嫌なら見に行かなければいいだけでしかない。実際に見せ物の舞台の上でパフォーマンスを許されているのは、過酷な競争によって篩を掛けられて、その中で勝ち上がってきたごくひとにぎりの人々だけだ。それを見るかそこでやるかの間には大きな違いがあるのだろう。彼らはそれを催す興行師や制作者の商売道具であり、絶えず心身をすり減らして命がけのパフォーマンスを求められる奴隷のような境遇なのかも知れないが、そこでの奴隷という概念も昔ながらの奴隷からは隔絶した立場や役割を有しており、やはり今日的な支配が支配という言葉から遠ざかっているように、今日的な奴隷も従来の奴隷という言葉からはほど遠い位置に存在しているのであって、何よりも今日にでは奴隷は人々の上に立つ存在となっていて、またマスメディアからもたらされる作用によって、人々の尊敬を一身に集めるヒーロー的な存在にもなっている。そんなわけで今日では支配が支配ではなくなって、奴隷が奴隷ではなくなってしまっているわけだ。支配も奴隷もそれらの言葉から連想される悲惨さから解放されて、支配は映画鑑賞やらスポーツ鑑賞やらに成り代わり、奴隷は俳優だとかスポーツ選手だとかに変容していて、要するに暇つぶしの娯楽の対象となっているわけだ。それは単なる言葉による言い換えに過ぎないのだろうか。実質的にもそこからより多くの利益を生み出すために改良を施された結果がそれなのかも知れない。確かに圧政で苦しむよりは、幻想の虜になっている方が楽しいし、自由を奪われ死ぬまでこき使われるのと、高額の収入を得て世間の注目を浴びているのとは天国と地獄ほどの落差があるだろう。しかしはたしてそれでいいのだろうか。君は奴隷による見せ物の支配を甘んじて受け入れることができないわけか。テレビをつければ嫌でも目と心を奪われて、それを受け入れてしまうだろう。それが気に入らないなら、何をどうすればいいのだろうか。すでにやっていることが、それに対する拒否の姿勢を示しているのかも知れない。しかし拒否するからといって、その拒否は支配や奴隷と同じように、従来からある拒否とは少々趣が異なっているのかも知れない。拒否しつつも受け入れ、受け入れつつも拒否しながら、つまり拒否も受容も同時に行わなければならない。片方の立場だけを貫けば、それについて硬直化したことしか述べられなくなってしまい、同じ言葉の繰り返しによって疲弊し先細りになるだけだろう。だから絶えず立場を移動しながら、以前とは違うことを述べ続けなければならないということになるだろうか。


7月12日

 今の君には何が欠けているのだろう。過去の君にも何かが欠けていて、未来の君にも何かが欠けていることだろう。そんな語り方が気にくわないか。ではどこで何がどうなっているのだろう。この世界について何を述べればいいのだろうか。君はそんな長すぎる前置きに嫌気が差してくるかも知れないが、前置きだけで終わってしまうかも知れない。曇り空の下でそんな空模様とは無関係なことを思う。相変わらず自分が何を思っているのかわからないようだ。少なくともこれから曇り空について何を述べようとするのでもないらしい。語る前からわかりきっていたことかも知れないが、たぶんそんなことはどうでもいいことなのだろう。自分が何を思っていて、この世界には何があるのか。そんなことをわかろうとしているわけでもないらしい。自意識と世界とのつながりについて、お互いが作用を及ぼしあっているように感じられる微細な地点で、それらの構造が何となくわかりかけてきたように思われるのだが、それを簡単に述べようとすると、奇をてらっているように思われるだろうか。奇をてらっているか否かではなく、今はそのわかりかけてきた世界の構造について語る努力をすべきか。だが努力は絶えずそこからずれていってしまうだろう。言葉への意味不明な渇望と、そのわけのわからない衝動を理解しようとする異様な精神状態が、それらの言葉の連なりには反映されているのかも知れないが、自意識はそんな風には思いたくはないのに、そこで誰かが発したつもりのどんな言葉を聞き逃しているのだろうか。何を聞き逃していようと、探求しようとする事柄はそれとは別のところにあるのではないか。それについて何か語ろうとしているのだろうか。それは的を射ていないと思われる。たぶん文章と文章の間に差し挟むべき説明が省かれているのだろう。正確には省かれているのではなく、そのように思われるだけで、実際にはそれらの間に説明不能に陥ってしまうような作用が働いているのかも知れない。だからそれについて語っているうちに、次第にわけがわからなくなって意味不明に思われるようになる。それが誰かの狙い目なのだろうか。何を狙っているというのか。誰かはそこにどんな効果が発揮されることを期待しているのだろうか。自らの説明不足に対する言い訳として、この世界には意味不明に思われることが充満しているように思わせたいのか。誰がそんなことを思うだろう。ただの支離滅裂としか思われないような気もするのだが、いったいどこの誰が何を読んでそんなことを思うのだろう。それも君の勘違いのひとつになるのだろうか。意味のないことに意味があるように思えるのはよくあることであり、また信じがたいことを信じがたいと思うことに、何らかの勘違いが生じているのかも知れないが、それを信じていないという実感が、ある種の負い目をもたらしているのだろうか。しかしそんなあり得ないことをことさらに顕揚してみせることが、それがあたかも重要な出来事であるかのような誤解を生じさせているのかも知れない。実際のところそこで君は何について述べているのか。ちゃんとしたわかりやすい説明を介在させないことには、やはりそれはいつものように何も述べていないことになってしまうように思われ、少なくとも適当に言葉が連なっている事実は認めなければならないが、それでも何も述べていないと思われてしまうと、例えば結果的にそれらの言葉の連なりが、誰の意識から生じているのでもないということになるだろうか。ただそんな風に思われたいだけなのかも知れないが、そんなことがあり得るはずがないか。しかしそこでそれらの文章を記した人物を特定することに、どんな意味があるのだろう。特定するまでもなくそんなことはわかりきっていることではないのか。それでもそれが誰かが記した文章であるかということに、どのような価値や意義を設定できるだろうか。別に価値や意義を文章に伴わせたいわけでもないだろう。そしてはじめからそんなことを述べようとしていたわけではない。やはり最初に掲げた問いが、言葉を弄するにつれて忘れられ、次第に見えなくなっている。言葉の連なりが先へ伸びるにつれて遠くなってしまうわけか。そんな風にして何かを執拗に述べていくと、述べている内容が最初に述べていた内容からどんどんずれていって、ここに至って最初に述べていたことなどどうでもよくなってきたように思われて、その代わりにその時点で述べている内容が、そこでの話の中心に据えられていることに気づくが、その内容自体が最初に述べていた内容とどのような関係にあるかといえば、もしかしたらまったく無関係なのかも知れない。またそれは始めに述べていたこととの間に、修復不可能な矛盾を形成しているかも知れず、そこでそれらの文章は破綻を来しているのかも知れない。それは文章を記している者の把握力が不足している証か。もう一度自らの記した文章を読み返して、話の始めから終わりにいたる流れの中で、全体的な内容の整合性を維持確保しなければならないだろうか。だがはたして限られた時間の中でそんなことができるだろうか。気がつけばだいぶ雑なことを述べているようで、そのいい加減さにそれを読んでいる意識が耐えられなくなりつつあるらしい。やはりその辺で言葉を繰り出す能力に限界が見えているのかも知れない。だからいつまでたってもその先へ進むことができないわけか。しかし言葉を連ねつつある自らにそんな風に思われてしまうのはどういうことなのか。しかしなぜそうやってわざとらしく自己言及に逃げ込んで、語っている対象について語ることに簡単に挫折してしまうのだろうか。それで何に挫折したつもりになれるのだろうか。冗談でならそこからさらにおかしなことも述べられるかも知れない。しかしそんな風にわけのわからない話を進めていっていいのだろうか。それ以外にどうしろというのか。そこで間違っているのかも知れない。他に何も述べることがなくなってしまったように思える時、それでもその先にさらなる言葉をつなげていこうとするならば、やはりそれまでに述べてきたこととは逆のことを述べていかなければならないのだろうか。逆のこととはどういうことなのか。精神の集中を切らしてだいぶいい加減なことを述べているようだ。言葉をつなげていくことが目的と化してしまうなら、そこにまっとうな内容を求めることは不可能となってしまうだろう。だからさらにそれに対する言い訳によって言葉をつなげていかなければならなくなる。要するにそればかりになってしまうと虚しい作業の連続になるだろう。だがそれ以外にどうすればいいのかわからない。


7月11日

 なぜそれほどまでに言葉と言葉をつなぎ合わせようとするのか。それはまるでパッチワークのような作業になりつつあるらしく、そこでは何もかもが日常とは違って見えているのかも知れない。しかしたぶんそれは嘘だろう。相変わらずそんな風には思わないと述べたいのか。実際そんな風に述べつつそこから無理に遠ざかろうとするが、遠ざかろうとすればするほど、ただ無駄に言葉を弄するばかりで、なかなか始まりの言葉が出てこないようだが、あきらめて何もせずにじっとしていると、眠気とともに立ちくらみがしてくる。要するにそれ以外に何もできないのか。しかし何もできない状態でなぜそこまでやる必要があるのか。そこまでとはどこまでのことなのか。そこまでもどこまでもなく、何もできないのに何をやっているつもりになることもないということか。しかし何もやらなければそこで終わってしまうのではないか。また君は終わりという言葉に逃げ込もうとしている。もういい加減そんな嘘は放っておいて、それとは違う展開に活路を見出すべきではないのか。しかし積極的にどんな話をねつ造する気にもなれないようで、一向に中身が何もない状況から抜け出ようとはしていないらしい。それでも何かしら語っていることは確かかも知れないが、ところで我々は今から何をやろうとしているのか。なぜ唐突に我々という言葉を使わなければならないのか。それにもっともらしい理由がなければ気に入らないのか。適当な理由を導き出せなければ、そこから先の話の展開がわからなくなってしまうだろうか。理由を導き出すのが面倒なので、ついでに理由もなくありふれたことを述べるとするなら、我々はどこから来てどこへ向かおうとしているのだろう。苦し紛れにそんないい加減なことを述べている誰かは、どこをどう通ってどこを歩んでいるのだろうか。別に歩むことが歩むこと以外の喩えとして歩んでいるわけではなく、ただ地上に張り巡らされた現実の道を、過去においてはその場の成り行きに合わせて、それなりに歩んできただけかも知れないが、今誰かが歩んでいるのはそれらの歩みではなく、たとえばフィクションに登場するような、劇的で何か重要な意味を担った道だろうか。そこで出会いがなければフィクションの道としては説話論的に失格だろうか。そんな道ばかりがフィクションの中に出てくるわけもないが、誰かと誰かが出会うために道という存在が設定されている場合が多いだろうか。要するに何らかの出会いがなければフィクションは成り立たないのかも知れない。まさか君はそんな当たり前のことに今まで気づかずに、それらのフィクションを構成しようとしていたのか。そうだとするとそこから俄然話がおもしろくなってくるだろうか。そんなわざとらしくも意味のない嘘もおかしい。別に今さら何をおもしろがっているわけでもないか。すでに話的にはお手上げ状態なのに、まだ無理矢理言葉を繰り出そうとして、やはり今回も何を述べているのか把握できなくなってくる。理解しようとする意識を無視して暴走しようとして、それで暴走していることになるのかもわからず、どういうわけかもうそれ以上は為す術がなく、そこに立ち現れている状況に見合った言葉を導き出せぬままに、何となくそこからどこかへ向かって退いてしまいそうにもなるが、それは誰かが目指していた行き先とは別の方角へ向かっていることになるのだろうか。あらぬ方角などに目指すべき言葉を関係づけることはできない。方位の意味するところとそれらの話の成り行きとは無関係なのではないか。そして当然のことながら、話が向かう先に何があるわけでもないらしい。ただ誰かは適当かついい加減に語っている。そこにどんな主張が展開されているわけでもないが、どのような知識によってそれらの主張なき主張を正当化できるわけもなく、そんなに高慢ちきな知ったかぶりを目指しているわけでもないだろう。たぶんいつものように何を述べようとしているわけでもなく、そこに何があるわけでもなく、その場の成り行きまかせに言葉が連なっているに過ぎないのだろう。それはどういうことなのか。そんないつものワンパターン的な問いかけに引っかかるような言葉の連なりではなく、ごく自然にどういうことでもなく、それらの文章が形成されつつある経緯から見れば、その存在はそれほど不可解なことではないが、それ以前にそれについて何を把握しようとしているのでもない。やはりそこには何もありはしない。あるいは何かがあるとすればそれは空虚だろうか。しかしそれもいつものことでしかなく、いつものこと以外に何があると問うならば、そんな問いかけを無視して誰かは雨空を眺めながら何を思い出そうとしているのか。もはや言葉を繰り出す動作が限界を超えているのだろうか。それを認めざるを得なくなるような状況とは思えない。容易には認めがたい成り行きを、なぜ簡単に認めてしまう必然性があるだろうか。いったい何がざるを得ないことになるのだろうか。認めがたいその状況がそこでのすべてなのだから、それを認めざるを得ないと述べることは欺瞞か。ではそんなことはどうでもいいことだと述べていれば、それで事態は丸く収まるだろうか。だがそこではどんな事態が進行中なのだろうか。それが見ての通り読んでの通りの事態であることに、誰かは何が不都合でも感じているわけか。たぶん大いに不都合なのだろうし、どんなに言葉を弄してみても、それ風の話にならないことが不快なのだろう。つまりそれが現時点での限界なのか。そこでの限界とは何のことなのか。限界について現時点では何もわかっていないのだから、それがわかるまでそれを継続させなければならないと強弁したくなる。それを継続させる理由などもとから何もありはしないが、気休めに誰かはそこに表されているすべての言葉を否定するような言葉を求めているのかも知れず、それが逆説的にそれらの成り行きを肯定していることにでもなるのだろうか。だがその辺で述べていることの意味がよくわからなくなる。面倒なので思考の対象となる何かがずれてしまっていることにでもしておこうか。焦点がぼやけて何を述べているのかわからなくなる。そんな風に述べてしまう誰かは馬鹿なのかも知れないが、何がそこで問題となっているわけでもないらしい。何もしなければ言葉を繰り出す理由もなくなってしまうだろう。それで済むのならそれに越したことはないが、たぶんそれ以外にはあり得ないのだろう。君はそんな風には思わないか、と誰かに問いかけられても、やはりそこで誰がそう思っているわけでもない。そんなわけでどんなわけでもないが、とりあえずだんだん嫌気が差してきたので、さっきまで何を述べていたのか忘れてしまったことにしておこう。たぶんそれが嫌気の原因ではないのだろうが、それについて相変わらず無関心を装う君は、それらの結果から何を推測しようとしているのだろうか。


7月10日

 どうにもならないことをどうにかしようとして、頭の中では何か適当な出来事が起こりつつあるらしいが、また架空の話をでっち上げようとしているのだろうか。何かが巡ってきたように感じられるが、それは君のための機会ではない。そこで出会うべきなのは他の誰かかも知れない。できればそんなことは忘れたままの方がいいのかも知れないが、いったい何を忘れてしまったのか。何について述べるべきなのか。できれば何も述べたくないか。またできることならそれ以外のことを知りたいか。誰かは何のために生きているのか。雨の中で何かを見ているつもりだが、現実には何を見ているわけでもないらしい。しかしどこをどう修正したらまっとうな内容になるのか。もはや何も修正できないのではないか。では無理に語ることによって何がもたらされているのだろうか。そこで終わることを恐れてはいけないようだが、どうも思惑が外れてしまったらしい。言葉を繰り出すタイミングが思いの外遅れてしまっていて、今さらどんな修正を試みようと、すでに手遅れなのはもちろんのこと、君はその遅れていることについて、どんな感慨を抱いているのでもないらしい。どう考えてもそれを命がけでやる気にはならない。誰かはそこで何を思っているのだろう。またどんな希望を持ち合わせているのか。ありふれたことを訊かないで欲しいか。ただ作業が遅れに遅れてやる気が出ないだけだろう。そういえばまだ死者に対する鎮魂歌を聴いていなかった。まだ生きているのだから、歌を聴いて魂が鎮まるはずもないだろう。ではその代わりに誰かは意表をついたことでも述べたいのか。しぶとく生き残っていることについて、何か気の利いた感慨でも抱けないだろうか。別にそこまでやる気もなく、君にはできないようなことが実現されているわけでもない。とりあえずそこであくびでもすれば天井が見えるだろう。上を向けは青空が見える。今は昼なのだろうか。それが君の限界か。そこに存在しているのはどうでもいいような事物ばかりか。他に何がもたらされれば満足するのか。すでに退屈な言葉の連なりがもたらされている。この世界に対する要望など何もない。何かが壊れているのかも知れない。そこで何が壊れているのか想像できるだろうか。何が壊れていてほしいのか。何が壊れていても君には関係ないだろう。それを修復するつもりもない。壊れたままでいられるような気がしている。本当に壊れているわけではないのではないか。壊れたふりをしているだけか。それ以上に何がどうなっているわけでもない。そんな風にしか語れないのだとしたら、それはただの戯れ言にしか過ぎなくなる。そしてそれもかまわないのだとしたら、それはそこで終わりなのではないだろうか。終われないのに終わってしまうわけか。本当にそれで君はかまわないのか。現実にそうなってしまったら、そこから先にどう話を展開させればいいのだろうか。終わってしまったのだとすれば、その必要はないということになるだろう。だが必要がないのにそこから話を続けようとしているらしい。無茶なことをやるのが性分なのか、はたまた終わってしまってもなお、そこから何かに導かれているような気がしてならないのか。そんな風に思われるのはどうしてなのだろう。現実に続けようとしているから、それらの終わりを実感できないだけなのかも知れない。それについての言い訳は何もなさそうに思える。それが生き残る道なのだろう。いくら無内容になろうと、そこでやめるわけにはいかないようだ。その先に内容のある文章が続くことを願いながら、さらに無駄を承知で言葉を繰り出すつもりらしい。それが誰かの宿命なのかも知れない。そんな風に述べていること自体がおかしいのだろうが、おかしなこと以外に何を述べているわけでもない状況のただ中で、さらに言葉を弄してそれを推し進めようとしているのか。しかしそれが同時に気に入らない状況を招いているのかも知れず、その気に入らない状況こそが、すでに終わっているのに終われない矛盾を形成しているのだろう。だがそれは本当に矛盾なのか。そもそも悪あがきとはそういうものなのではないだろうか。それ以上に何がどうなっているわけでもないだろう。断続的に雨が降り続いていることを利用して、その雨を言葉にたとえながら、まるでごまかしの文章を構成しているみたいに思われる。またそんなはずがないと思いながらも、それが間違いや勘違いであろうとなかろうと、そんな意味のないことを利用しなければ、それらの継続を図ることは不可能であるような気がしてくる。たぶんそれが君のやり方なのだろう。言葉につまった時には自己言及でごまかそうとするわけだ。そしてそれらのわざとらしい自己言及に終始した後から、今度は予定調和的に自己嫌悪が頭をもたげてくる番だ。それでいいのだろうか。良くなければ他に何をやろうというのか。そこからどうやって逸脱させるつもりなのか。やる気があるうちに先を急いでみよう。本当にやる気があればの話だが、やる気があろうとなかろうとすぐさま前言を遮り、それとは違った無関係なことを述べてみたくなる。それがそこでの乗り越えなければならない壁になっているのかも知れない。冗談でならそれもありだろうか。何がそこでの冗談を形成しているのだろうか。ただ投げやりにその場しのぎの言葉を繰り出すばかりか。わざと駆け足気味に同じような言葉を並べて、その場を取り繕っているだけのようだ。しかしそれがいかなる結果をもたらそうとしているのだろうか。それはそれでその場でのパフォーマンスの一種でしかないのか。そこから先で何か違う展開に至るのは無理なのかも知れず、いくら言葉を弄してみても、それは相変わらず自己言及の範囲内で推移しているに過ぎず、そこから逸脱しようとしているにもかかわらず、そうしようとすればするほどかえってその場の宿命に絡め取られてしまう結果になっているのかも知れない。たぶんそこでの自己言及は、出るに出られない蟻地獄のような構造になっているのだろう。そしてそんな状況をふまえた上で、なおもそこから出ようとして、盛んに逸脱するための策を弄しているつもりのようだが、はたしてそれが成功しようが失敗しようが、それをやっているうちはそれで継続が図られているような気がしてしまうらしい。やはりそれで良いのか悪いのかわからないのだが、そうなってしまうこと自体は止めようがないのかも知れず、それはそれとしてそのまま提示する以外に他はあり得ないのだろう。そう思ってしまえばそれを認めざるを得なくなり、いったんそうなってしまった流れに乗って、現実にそのような文章を構成しているような気がしてくる。それが誰かが現に述べている話の中身なのか。要するにそれがここに現前しているのだろうか。


7月9日

 安易に自らを律しようというのではないが、誰かは今さら心身を鍛えて何をやろうというのだろう。そんなことをやっても何がもたらされるわけでもない。やる前から何を否定しているつもりなのか。それを行うことによって、何かから解き放たれなければならない。解き放たれるのではなく、自らを律するということは、自ら定めた規律によって束縛されることだ。理由もなく心身を鍛えるということは、独りよがりに従うということか。自らが自虐的な笑いを容認するということか。そんな精神状態のただ中で必死に耐えている自らとは何なのか。君はそれを何でもないことにつなげたいようだが、それだけでは微笑みはどこからももたらされない。しかしなぜそこで微笑みたいのかがわからない。君のしたいことが誰かにはわかっていないのかも知れない。確かにわかっていないのだろうが、別に微笑みをもたらしたいわけでもないのだろう。体調を崩して以来、何かが狂っているような気がしてならない。誰かは近々死ぬ運命なのだろうか。縁起でもないことを記すと本当にそうなってしまうかも知れない。それは誰の運命でもないことを祈ろう。人の死が微笑みとともに到来したらおもしろいか。それは到来するのではなく、逝ってしまうのではないか。死は訪れるのことの逆の現象だろうか。だからといって死について語りたいわけではない。死のターゲットとなっている人は、まだ過去の時間帯で彷徨っている。そのついでにまた話の始まりにおいて躓いている。それはカフェインの力ではどうにもならない状況なのだろうか。そこで何を否定しているつもりなのか。君が述べたかったのはそんなことではない。これから語ろうとしていたのはそんな話ではなかったはずか。まだ話の方向が定まらないようだが、はたしてそれは必要なことなのか。方向などどこを向いていてもかまわないのではないか。しかしなぜそこから複雑に言葉を組み合わせようとするのか。そうしないとその先に文章をつなげられないように思われるからか。だがその一方で、そこで行き詰まってやる気が失せているのは誰なのか。それは誰でもないように思われる。自らは自らのことを誰でもないように語りたいらしいが、そんな嘘は君自身にはどうでもいいことなのか。頭の片隅でありふれた意味とともにそれを表す文字が躍っている。現実にはそこで滞っているような気がするのだが、架空の君はそこで何を思うことになっているのか。たぶん何も思わないことにしておきたいのだろう。その方が話の都合上手間が省けるか。そこに何の都合があるわけもないだろう。ただ翌日の夜に適当でいい加減なことを記しているだけのようだ。そして気がつけばまた誰かは夜空を眺めている。今は本当に夏なんだろうか。いつまでたっても同じようなことばかり語り続けていると、話に季節感が伴わないのはもちろんのこと、定まらない視線と結びつかない言葉との間で、具体的には何を語っているのか、そんなことも余り重要ではないように思われてくるが、なぜかおかしな雲行きを感じている。何を想像しているのだろうか。それが何になるのかわからないが、何かつまらないフィクションでも読んだのだろうか。読んだのではなく映像を堪能したのではないか。架空の誰かはまさか嘘で身を滅ぼすことになろうとは思ってもみなかった。病状はごく短期間のうちに深刻な状態に陥り、それに関して決定的な宣告を受けてなおも、まだ死ぬと決まったわけではないと思いつつも、現実に死に直面している衝撃から、そんな作り話も虚ろに放棄されてしまいそうになる。それがだいぶ以前から飽きているのはわかっていたはずか。同じことを繰り返すとだんだんつまらなくなってくるのはわかっていたが、それ以外には何もできない現実をいかんともしがたく、気を紛らすためにテレビ画面に見とれているだけで、何もしていないようだが、それでもまだ継続をあきらめていないのだろうか。何もできずに焦っているだけのようだ。そんな焦りから生じる行動様式は幼稚に見える。最善のことをやろうとして、出来うると思われることしかやろうとしない。善悪の判断がつくような話には興味を持てないか。いつもはそれとは違う内容を求めているのかも知れないが、今生じつつあるそれらの作り話は、現状では何を裏切っているのだろうか。少なくともそれが真実に近づくことはないだろう。真実を語ることに価値を見出しているわけではない。目で見た風景をそのまま描き出そうとしているわけではない。ではそこには何が広がっているのか。何も求めずひたすら何もやろうとしていないだけなのか。単に寝て起きてすぐにまた寝て起きる毎日だろうか。そんなことを繰り返しながら何を求めているわけでもないが、それを語っているつもりの君は、そこで意味もなく言葉を求め、文章を形成しようとしているらしい。そして意味もなく無表情を装い、現実にはどんなにわけのわからないことを述べていようと、怪訝な顔つきになることはないらしい。今はそれ以外に何もないのだから仕方がないのだろうか。何もないはずがないと思いたいところだが、何かあると面倒なので、何もないことにしておいた方が無難な気がしているようだ。しかしまだその先で述べておきたいところがあるのではないか。未だ君には内容がもたらされていない。だから途方に暮れているのではないか。だが何もしていないとは思えず、何かしら述べているつもりになり、それでノルマをクリアしているような、または義務を果たしているような気になっている。それでは気に入らないか。君は死の直前かも知れないのに、まだ何もやり遂げていないかも知れないこの現状について、いかなる説明を施そうとしているのか。もはや架空の死などに興味はないか。もちろん本物の死を体験するような事態に陥ってしまうのは避けなければならない。だからそうやって終わりを引き延ばしているのだろうか。何も見出せないのに何かを見出したつもりになり、空疎な話についての説明を別の言葉でごまかしながら、それをひたすら遅延させながら述べ続けている。だがそんなことははじめからわかりきっていたことだったのではないか。わかっていながらそれとは違うことができずにいるだけか。しかし違うことができないから、そればかりやっていられるのかも知れない。その状態はそれを継続させようとする意思からすれば喜ぶべきことであり、それとは違うもっとまっとうなことを述べようとしている意思からすれば呪うべき状況なのかも知れない。しかしそれらの意思とは違い力が作用して、それらの文章が構成されようとしていることについては、どちらの意思も認めようがないし、それは思考の範囲外から及ぼされる力なのかも知れず、その何だかわからない力がそれらの作業を継続させていることを、君は否定しながらもそれに依存してしまっている現実を、隠そうとして隠しきれていないようだ。


7月8日

 まだ何も述べていない。さっきからまったく作業がはかどっていないようだ。それでは埒が明かないだろう。しかしなぜ言葉を弄するほどに眠たくなってくるのか。それは眠気を催すような作業なのだろうか。眠気が思考を鈍らせ、文章全体を把握できなくさせる。やはりどうにもならないらしいが、もう迷いは吹っ切れたのか。そこでやめてはいけないのだろうか。まだ何が見出されているわけでもない。ただどうでもいいような言葉が繰り出されている。それでは気に入らないのだろうが、はたしてそこでは何をやろうとしていたのかが明らかになっているのだろうか。おそらくそれは装飾美的な戦争なのだろう。フィクションの中での戦いは美しくなければならない。劇的な展開ばかりが期待され、いったん勝ち誇ったような言動に身を委ねる者はしばらく後に敗れ去る。それらの映像を鑑賞しているつもりの人々は、何に酔いしれているのだろうか。感動はどこからもたらされるのか。君の内部にも外部にもそんなものはありはしない。はたしてそこでつかの間の映像に魅了されている人々は、例えば頭が良かったり悪かったりするのだろうか。たぶんどこから見ても同じような脳みそなのだろう。なぜ君はそこで踏みこたえられるのか。君は躓きを提示できるだろうか。とりあえず何かが争われなければならない。人々は現実においてもフィクションにおいても、他の誰かや自分自身の思い込みと絶えず闘争を繰り返している。争いごとが止むことがないのが、この世界の現状を形成している。そんな風に思い込まれているのであり、現実にそんな風にしか感じられないのかも知れない。しかしそれは何を見た後に抱かれる感想なのだろう。君はしばらくの間つまらない幻影の虜となっていたらしい。だがそれがつまらないとは感じられないのに、なぜつまらないと述べてしまうのか。述べていることと感じていることが違っていることに、何か言い訳じみた言説を差し挟むことができるだろうか。つまらないと思うこととつまらなくはないと思うことの間に、どのような差異があるのか。違っているのに違っていないと強弁すれば事足りるだろうか。かなりおかしなことを述べているのかも知れない。別にそんなつまらない話がもてはやされているわけではない。毎日のようにおかしなことを述べているつもりでも、それをやり終えた時には、ある種の達成感がもたらされるようだ。それらのどこかに矛盾やほころびが見受けられようと、そんなことにいちいち目くじらを立てる気にはなれない。そこに存在する欠点や欠陥を容易に修正できたら、はじめからそんなことは述べていないだろう。たぶん欠点や欠陥によってそれらの文章は形成されているのだ。それがなければ何も存在しないのと同じことか。しかしそんな言い訳じみた言説が有効に機能しているとは思えないか。そこで有効に機能するとはどういうことなのか。何か感動がもたらされれば、それが有効に機能していることになるのだろうか。そんな嘘をついて安易に結論を急ぐべきではない。まだすべてが台無しになるような結論には達していないはずか。誰かはその結論の先に達したいと願っている。結論が一時的なものであることを示したいのか。ではなぜそれを忘れようとしているのだろう。それとはどのような結論なのか。まだ完全に見放されてしまったわけではないが、現在の時刻に追いつこうとして、いくらがんばってみても、気づいた時には一日遅れの現状を受け入れている。要するにまた結論は明日に持ち越されてしまうわけだ。そして今まさに明日の時間の中で言葉を弄しているらしい。そしてそんな見え透いた嘘にわざとらしく気がついたふりをしていると、翌日の夕暮れ時には屋根を叩く雨音が激しくなり、それとは別の騒音が聞こえなくなる。雨にやられて頭の中に巣くう狂気はやる気をなくしてしまったのか。それらの何が狂気だと思えるのだろう。どこかの樹木の幹を穿つ洞に巣くっている鳥は何を考えているのだろうか。そのような述べ方は話し言葉から逸脱している。記述を要する文章はどのような形態でも許容の範囲内なのか。上空ではおかしな風が吹いているようで、それを地上から見上げているつもりの君は、何に配慮しながらいい加減な想像力を働かせているのだろうか。それが何に対する言い訳として機能するのかわからず、それについてこれから何を説明しようとしているのでもなさそうだが、そのような苦し紛れ的な言葉の組み合わせが、気まぐれな誰かの心に閉塞感をもたしているらしい。誰に何を期待されているわけでもないが、誰かは自分自身がそこからどうなることを期待していたのか。たぶんそこで聞こえていた耳障りな騒音は、他の誰かが君の内面を利用して発していた心叫びだったのかも知れないが、そんな風にただ闇雲にありふれた言葉を弄してみても、何を述べているのかわからなくなるだけか。そこで誰かが何かを勘違いしているのかわからないが、作り話的には話の筋が見え透いていて、それらの何に感動すべきなのか迷うところか。またそうやってわざと間違ったことを述べつつも、たぶんその程度では終わりたくないのだろうが、意外と世間ではその程度が求められているのかも知れない。気軽な気休めで結構なのかも知れず、今のままではその程度にも至らないのかも知れないが、これからそれらの言説に何らかの工夫を重ねれば、一時的にしろ画期的だと思われるような勘違いを構成することができるかも知れない。たぶんそんなことを述べているうちに、また何も見出せなくなるのだろう。周囲を霧に包まれているわけでもないが、一向に何も見えてこないつもりになりたいか。そこで誰の批判にさらされなければならないのか。同じような文句で同じような効果を期待するのは愚かなことか。他人を憎むことは楽しいか。魂の解脱とは何なのか。そのような心境からどうやって脱するつもりなのか。それらすべては君に生じていることではないらしい。無用な憤りに導かれ、呆れた顛末を経験するかも知れない。つまらない映画を見ようとしているのかも知れない。操り人形は演劇空間の中で活躍すべきか。何らかの意識を持った物体同士が対決するのを見ると心躍るだろうか。言説空間の中で述べられている内容は、活動する心身の動きを言葉で固定しようとする試みにあるらしく、それは間違った用法かも知れない。現実には何も書き写されていない。ではそこから学ぶべきことは学んではいけないことなのか。本当にそれらの意識を持った物体が人間だとしたら、彼らはどんな欠陥を内包しているのだろう。君には何もわからないだろう。君に感じ取れるのはそれらが醸し出す印象だけか。なぜ話をそこから先へ進めないのか。説明が説明になっていないような気がする。


7月7日

 それについては誰もが至って平静を装っているらしい。はたして状況は悪化の一途を辿っているのだろうか。そんなことを述べて誰を脅しているつもりなのか。また何をそんなに騒いでいるのか。冗談で人が死ぬだろうか。だがいくら騒いでも後に尾を引くような出来事ではない。しかし君はそんな風に述べるのが面倒臭いようだ。おそらくおもしろくないことはつまらないことなのだろう。だがそんな当たり前の内容で何を語りたいのか。つまらないことで多くの人が死んでいるようだが、いくら人が死んでもかまわないのだろうか。彼らは誰と、あるいは何と戦っているつもりなのか。それについて誰かは、不特定多数の人々に向けてつまらないことを訴えかけている。暴力による脅しに屈してはならないそうだ。わかりきったことを訴えかけないでほしいか。彼が国家の代表者ならば、公にはテロなどに屈しなくても大丈夫なのだろう。それが一般人なら、簡単にやくざの脅しに屈してしまうところか。暴力にもその時々の状況によって、屈してしまうものと屈しなくても済むものがあるのか。罪のない多くの人々の命が失われたといって、では罪のある人たちの命が失われることについては、黙認していいのだろうか。君たちはそんな屁理屈にも屈しないか。現実に多くの人が死んでしまうことについて、死ななかったその他大勢の人々にはどんな不安が生じているのだろうか。いつか自分も巻き添えを食って死んでしまったらどうしよう。そんな架空の思いの何がおかしいのか。何をゲラゲラ笑っているのだろう。何が笑えて何が笑えない状況なのか、そこに何かはっきりした基準でも設けてほしいか。誰もつまらない感情と感覚から生じた作り話には興味を示さないだろう。それでも君たちはひたすら深刻ぶって、現実とフィクションをごちゃ混ぜにしながら訴えかけてくる。世の中は暴力による連鎖によってどこへ向かおうとしているわけでもない。たどり着こうとしている場所には何ありはしないだろう。それでも老人は気力と体力が続く限りそこへとどまろうとしている。そしてそれに対して相変わらず君は意味のないことに意味を与えようとしているようだが、例えば暴力の意味がどこにあるのだろうか。いくら言葉を弄してもなかなかまっとうな意味に至らないようだが、君はそこで意味という言葉の用法を間違えているのではないか。とりあえずはっきりしたことは何もわからないし、何もわかろうとしていないのかも知れない。それがわかってしまえば何も語る必要はなくなるだろうか。しかしそれをわかろうとしないことによって、困難な状況を切り抜けたつもりになるのはおかしいか。何がそこでの困難を形成しているのか。何もないのに文章を適当に長引かせるのはよくない。この期に及んでまだ何かをやろうとしているのは狂っている証拠か。何もしないでじっとしていると、自然と何かが湧いて出てくるが、それがのどを潤す湧き水でないことはわかっている。そんな話に夢中になれるとは思わない。もう観念してやめてしまったらどうか。やめてしまったら何も残らないが、やめなくても消え去るのみだとしたら、いったいどちらを選べばいいのだろう。そんな仮定自体が無効なのだろうか。もし今後何も語らないのだとすれば負けを認めたことになるのか。ではどうすれば勝てるというのか。何に勝とうとしているのでもないし、これは間違ってもスポーツなどではない。ただ言葉をもてあそんでいるだけか。しかしそんなことを述べたいわけでもなく、ことさらに何を述べたいわけでもなく、かといって何も述べたくないわけでもない。何かしら言葉を繰り出すことによって、何もないのに何かを感じ取っているつもりになりたいのだろうか。しかしそんな風に述べながらも何に言及しているつもりなのか。はたしてテロリズムが政治的目的を叶える手段となりうるだろうか。それらの幻想を可能としているのは何なのか。幻想ではなく現実に政治を動かしているのかも知れない。テロが軍事力を行使する口実となっていることは確かだ。アメリカはテロを利用してアフガニスタンとイラクの体制を崩壊に導くことができた。そういう意味で暴力にはまだまだ利用価値があるといえるのかも知れない。今後もその傾向は変わらないだろうか。とりあえずテロリズムは国家を崩壊に導くきっかけになり得るかも知れない。しかしそれは限定的な範囲内での出来事だ。独裁だの圧政だので無理を押し通している国家は脆く、経済的な繁栄に依存している国家はしぶとく存続していくのかも知れない。政治が経済の陰に隠れてしまえば、政治的な主義主張は無効となってしまい、要するに現状を追認し続けることが、政治に携わる者たちの役割や仕事となってしまうだろう。彼らに残された主な仕事は、世の中がうまく回っていくように、システムの不具合を解消することぐらいか。そんな彼らに大言壮語は似合わないのではないか。昔ながらの青雲の志という概念が、時代にマッチしていないことはいうまでもなく、また功名心だとか立身出世だとかいう概念も、まともな価値観を担えなくなっているような気がする。他人がどんなことをやっていようと、自分に直接の影響が及ばない限り、それはどうでもいいことであり、何をやろうと許容の範囲内となってしまうのかも知れない。他人などどうでもいい存在であり、そんな思いの自分すらどうでもいい存在であるような気がしてくるのではないか。無関心の究極の形態は自らに無関心であるということか。要するに容易には共感を得がたい社会になりつつあるのかも知れない。例えばメディアが誘導しようとする喜怒哀楽の感情が、どのような仕組みから発せられているのか、そのカラクリが白日の下にさらされていることによって、それを知っている大半の人々を覚めた態度に導いている。そういう人たちはただ刹那的な笑いを気休めの手段としている。たぶんすべては仕組まれた感動を前提として成り立っているのかも知れない。人々を感動させようとして言葉や音や映像を操作しすぎているのだろう。人々の心に訴えかけようとしすぎているのだろう。自分たちの言動や行動が、自分たちの目的に依存しすぎているのだ。もちろん偶然を考慮に入れることなど不可能だろうが、考慮することばかりにかまけていると、思いがけぬ現象を感知できなくなる。そこで見過ごされていることにまで考えが及ばなくなる。必死であることはすでに負けていることになる。そこで何に負けているのかといえば、たぶんその必死の形相を無視しているこの世界に負けているのだ。何をどうやろうと、死ぬような思いをしてまでどんなに努力しようと、いずれすべてが水泡に帰す瞬間が訪れることは覚悟しておかなければならない。


7月6日

 君は世界全体が退嬰しつつあると感じている。それは何かの冗談なのだろうか。たぶん本気ではないのだろうが、主体の定かでない曖昧な意識は、またわけのわからないことを語ろうとしているらしい。そのとき自らの目は何を見ているのだろうか。述べているうちに焦点が定まらなくなってきて、何かを見ようとしているのに、それについて言葉を弄しながら語ろうとしている自らに気づくが、それに関して何も思わないのはどういうことなのか。そんな風に語ろうとする自らの意図がわからない。何となく挑発的な言葉を用いて、新鮮な感覚を求めようとしていたらしいが、結果的にはどうも愚かなことを述べているらしく、語るべき対象が定まらないまま、一向に具体的な内容に至りそうもない。君が生じさせようとしている言葉の連なりでは、精神の均衡を取り返せないだろう。やはりそれ以上の遡行は無理なのであって、君がそれを悟っているとすれば、すべては冗談だと述べることで、早急にその状況から退きたくなるだろうか。過去に発せられた言葉を取り戻すのは容易なことではなさそうだ。しかしなぜ君は過去にこだわるのだろう。過去の何にこだわっているのかわからないが、君はそれについてどんな認識を持ち合わせているのか。それは九月十一日の出来事なのか。それを邪推するのは面倒か。たぶん何のために語っているわけでもなく、またそれに対してどのような反論を期待しているわけでもないのだろう。それらの文章を誰が理解できるというのか。まともな神経の持ち主なら、すでに語ってしまった過去の時間を取り返そうとは思わないか。君がこだわりたい過去とは、現在に対してどのような作用を及ぼしているのだろうか。それを言葉で突き止められないとすると、架空の意識の中で、過去から今を見つめているつもりの眼差しは、そこで何を見過ごしているのだろうか。視線は物質的な厚みを伴って示されているそれらの表現を、透過してしまう傾向にあるようだ。誰かの眼はそれ自体を見ようとせず、その代わりにそれが周りの状況と反応することによって醸し出されている、意味や概念を見ようとして、それが自らに理解可能な言葉に翻訳されて、誰かの意識はわかったつもりになる。だがそんな嘘がどこで通用すると思っているのか。誰もそんなことは思っていないし、君も思わないかも知れない。またここに至ってまだ何を述べているのでもないのかも知れない。君の内面を覆っている表象装置には違和感を感じるようだが、それは誰かの視線を惹きつけようとする架空の技術なのだろうか。そんな述べ方にあからさまに目立たせようとする意図を感じながらも、その方面においてはある種の表現形態であることを認めざるを得ないだろう。またそう述べていることに何の文句があるわけでもないらしい。ただそこに表示されているそれらの言葉が、誰にとっても重要だとは思わないが、無視できる内容であるとも思えない。そこから君は何を述べようとしているのだろうか。まだ何の問題も解決されていないのだろうが、それと同時に問題がどこにあるとも思われないか。まだ何も述べられなくなってしまったわけではない。言葉は相変わらず出力されているし、わけがわからないなりにも君は何かを語ろうとしているはずか。それはいつものことかも知れないし、別に神秘的な体験をしているわけではない。無理なことをやっているのはわかっている。無駄なこともやっているのかも知れない。結局文字として記されたそれらの言葉の並びは意味をなさないのではないか。そして君は自らが語りつつある話の辻褄を合わせられなくなる。何かが狂っていることは確かだが、以前と何も変わっていないのも確かなことか。たぶんいつものようにどうかしているのだろうし、どうかしていなければそれほどの継続は不可能か。しかしその一方で何がそこで継続されているのかわからず、要するに君はそこで継続されている何かを知ろうとしていないのか。そしてそのような行為を否定したいわけか。また述べている内容が矛盾しているのもわかりきっていることかも知れない。君はそこで何かを使い切ってしまったのだろうか。まだ残っている感覚がない。いい加減に雑なことを述べているだけなのかも知れない。それはつまらないことだろうか。述べていることの何がおかしいのかはわかっているつもりだが、わざと違うことを述べているようだ。しかしそれが間違いにつながるとは限らない。しかし別に間違っていてもかまわないのではないか。すでにかなり間違ったことを述べているのだろう。わざと間違っているのだろう。しかしそれではつまらないのかも知れない。それについて何を述べていいのかわからない。いくら何を述べても嘘になってしまうのだろうか。嘘ではない現実はあまりにも生々しいと思われる。何が生々しく思われるのか。世の中には様々な出来事が渦巻いていて、そのどれをとっても何らかの形で君に関係しているのかも知れない。その関係する出来事のすべてが、言葉によって表されるわけではないが、出来事ではないことについて無用な言葉が費やされ、それを嬉々として語っている君は、それらの出来事から見放されているのではないだろうか。君の存在は無視され、世界が君を見捨てている。君は様々な出来事から遠ざけられて、それに関わらせてもらえず、君自身の存在が隠蔽されている。それはどのような妄想なのだろう。たぶん君は焦っているのかも知れない。またそれは誰もが焦るような状況なのかも知れない。しかし誰が焦ろうとそれらの出来事は執拗に繰り返されるだろう。誰が間違っているのでもなく、間違い自体がそれらの出来事なのだろう。誰もがそれらの出来事を間違っていると思い込みたいのだろう。そう思わなければやっていられないか。しかし執拗に続いてしまうのは、そのやっていられない状況なのかも知れない。馬鹿らしくも愚かしくもそんな出来事が起こり続けなければ、そこ世界は存在し得ないのかも知れない。善良な人間の思い通りになるような世界ではないし、誰が善良な人間であるわけでもないらしい。善良であろうとなかろうと、気候の変動による寒暖の激しさに心身がついて行けないようで、体調を崩してしまったのだろうか。周囲の何事も君にとってはマイナスにふれているのかも知れず、マイナスにマイナスが重なり、マイナスが増幅されているような気になって、気が滅入ってしまっているようだ。たぶんその方面ではうまくいっていないのだろうが、別の方面ではどうなのか。別の方面とはどの方面のことなのか。また何かのアレルギーが再発してきたのだろうか。そこに至ってなおのことやり続けようとしているらしく、状況がマイナスに振れれば振れるほど、ますますやる気が出てくるのはどういうわけなのだろう。


7月5日

 まだ何か配慮が足りないのだろうか。誰に対してどんな配慮をしているつもりなのか。このままでは何を述べてもフィクションにならざるを得ない。だがそれで何か問題でもあるのだろうか。たぶんそれは嘘なのだろう。真実を述べるのが面倒なので嘘をついているだけか。そんなことはそれらの文章では当たり前のことかも知れないが、世の中には様々な立場や、それに付随して様々な思考が生じていることは確かで、多くの人々がひとつの意見や考え方に賛同できないことは、誰もが承知しているつもりのことかも知れないが、何事においてもまた何をやるにしても、それを思いのままに押し通して達成にこぎ着けるには、程度の差こそあれ様々な困難がつきまとい、やる前からそんなこともわかりきっていることではあるが、それでも思い通りにいかないことから生じる焦燥を乗り越えようとして、強引に半ばごり押し気味にやり遂げようとする多く試みは、それに携わる者たちの間で、互いの思考と動作とその場での思惑がかみ合っていない場合が多いようだ。それでもそれをやらなければならない状況に追い込まれてしまう者にとって、それを達成するためには半端な努力では済まなくなるのは当然のことで、まさにのるかそるかの試練を乗り越えなければ、その先が見えてこない場合も少なくないか。たぶん君はそれが気に入らないのだろう。なぜそこまでやらなければ目的を達成できないのか。そこまでやって目的を達成できたからどうしたというのか。それは単なるいちゃもんをつけているだけなのか。それのどこが悪いのだろう。今の君はそんな状況とは無関係でありたいと思っているわけか。これから何を述べようとしているのか知らないが、今さらそんなことを述べても無駄だろう。それほどまでに言葉を弄してみても、やはり君が何を述べているかわからないのか。わかっていないことにしておきたいだけなのではないか。君は絶えず襲ってくる眠気に耐えながら、カフェインの力でそれを紛らしながら、そのわけのわからない何かを語ろうとしているらしいが、それを外から眺めているつもりの誰かは、そこに繰り広げられている惨状の何に同情しているつもりなのだろうか。なぜそれが惨状だと決めつけるのか。やはり内容が何ももたらされていないことに落胆の色を隠せないようで、そこから逃げ出しそうになるのはいつものことかも知れないが、どうやって逃げ出したらいいのだろう。すでにそれらの文章はうち捨てようがないほど入り組んでいて、容易に修正することも叶わず、まったくやり直しの利かない状態になっている。たぶんそこであきらめるわけにはいかないのだろう。蚊に刺されたかゆみがしばらく退きそうもないが、そんな不快感を催しているのは誰でもない。あくびとともに涙が出てくる。喫煙可能な車両に半時間いただけで、衣服に煙草の匂いが染みついて、それが気になって仕方がなくなり、しばらく匂いも不快感もとれそうにないようだ。喫煙習慣のない誰かはそんな些細なことにも腹を立てているのか。それが健康である証なのだろうか。あるいは少し強迫神経症気味なのか。そのどちらでもないような気もするが、君はなぜそれらの状況をことさら否定したがるのか。そこでいくら何を否定しようと、それでもこの世界では何がどうなっているわけでもないように思える。君が何を述べようと別の君の知ったことではないだろう。煙草の煙を見て不快感を感じるほど神経質になる必要はないだろうか。ただその場から遠ざかろうとしているだけかも知れない。しかしそこで何か独り言をつぶやいているのは誰なのか。何を否定し続けようと、それは聴く必要のない雑音のようなものか。またそこから何も聞き取れないのだとしたら、雑音でさえないのかも知れない。とりあえずそれほど頭の中が混乱しているわけでもないらしいが、それでどんな状況を把握しているつもりなのか。それらの何が馬鹿らしく思えるのか。君にそんなことがわかるわけがない。では君にはそれがどんな光景に見えるのだろうか。相変わらず誰かは同じようなことを述べているだけなのか。そしてそんな言動のすべてがみすぼらしく見えてしまうのだろうか。しかし君には何を見ているのか言葉で示すことができない。それは示す必要がないから示せないわけではなく、君の眼前には何の事物も示されていないのかも知れない。そこに何もないのに何かを述べているのだとすれば、それでは何を述べているのでもないことになってしまうだろうか。やはりそんな嘘は見え透いているか。何もかもあり過ぎるほど、君の目の前にはすべてが示されている。それを君の把握力が掬い取れないだけなのではないか。それでも君は現状に対する否定を繰り返すつもりなのか。いったい君には何が見えているのだろう。外では梅雨空が続いているらしいが、そんな君の存在を無視し続ける限り、憂慮すべきことは何もないように思える。起こっている出来事のことごとくがそれでいいとしか思えない。だがそれらの出来事のすべてが冗談をもとにして構成されているような気がしてならない。中には救いようのない悲惨な出来事があるにもかかわらず、やはりそれは冗談とともに語られているようで、今や人の死すらが真摯な心から遠ざかりつつある。君にとってはそれらすべてが真に受ける対象から除外されているらしく、思考する気も失せて、まったく興味を惹かぬ現象と成り果てているようだ。気がつけば雨が止んでいる。そんなことで不必要に騒ぎたくないのかも知れず、それが必要とされているか否かは重要な問題ではないような気がしていて、賛否の選択を受けつけないような気分が醸し出されているらしく、それがどちらでもいいのはもちろんのこと、仮にそのような出来事に遭遇したとしても、今さらどんな反応を示したらいいのかわからない。それはそれでそういうことでしかないと思われるだけか。しかしなぜそんなつまらないことを述べなければならないのだろうか。今はその理由を見出そうとする気力すらないらしく、物語的にそこからどんな成り行きを構成する気も起こらないようだ。要するにすべてはとうの昔に終わってしまったということなのか。何もなければ苦し紛れに終わりが持ち出されてくるのは紋切り型だろうか。しかし終わりの他に何を提示することができるだろうか。そこで蔓延している怠惰に付き従うとすれば、それは終わり以外にあり得ないのだろう。しかし君はそんな避けようのない終わり自体も否定したいようだ。君の存在を無視している誰かが終わらせようとしないのかも知れない。そこで終わってしまったら、それ以降は君を無視することができなくなってしまうか。そこに何かが存在しているからこそ、その何かを無視することに価値を見出せるというわけか。


7月4日

 真昼の眠気に苛まれながらも、何を苦しんでいるのだろうか。眠たいことがそんなに苦しいか。眠たくても眠れない状況だから苦しいのだろう。ではなぜ眠ることができないのか。体験しつつあるそれがいつもの行き詰まりにすぎないからか。理由になっていないような気がするが、そんなどうでもいい問いかけに、まともに答える義理はないだろう。その時間帯の中では誰が眠たいわけでもなく、眠れないことに苦しんでいた時間帯はとうに過ぎ去ってしまったようだ。そんな困難とも思わない困難を簡単に切り抜けて、君はまたいつものように無駄なことを述べている。もちろんそうしなければならない理由があるわけではない。ただ成り行き的にそうなっているだけか。そして他に述べることが何もなくなってしまったように思えるとき、意識の内部に穿たれた虚無の空洞から、突然わけのわからない叫び声が鳴り響いているようにも感じられ、信心深い誰かにとっては、それが神から発せられた何かの警告であるように思われるかも知れないが、無神論者の君には当然無効であり、たとえそれが何らかの警告であろうと、その内容が理解できるはずもなく、とりあえず幻聴のようにその叫び声が聞こえたとしても、何をどうしていいのかわからないうちに、叫び声によって生じた振動によって、空洞の内壁からさらに無駄な言葉が過剰に滲み出てくる光景を、黙って眺めているしかやりようがないようだ。たぶんそんなことの繰り返しの上にそれらの文章は生じているのだろうが、相変わらずそれらの言葉が何を意味するのかわからないままで、そんな状態を放置しながら、それをどこで取り返そうとする気もなく、自らがそんなことを述べていること自体がわけがわからないことを、面倒臭く思われるようで、それをどのような状態へ改変しようとするつもりもなく、またそれを忘れ去ろうとしているわけでもなく、結果的に忘れてしまったら、それはそれでそのままにしておこうとして、また他のいい加減な言葉の連なりを構成しようとするだけだろう。要するに頭脳の内部に構築されている神経回路上では、怠惰といい加減さから怪しげな論理がまかり通っているようで、論理の体をなさない論理を援用しながら、誰かはまたおかしなことを述べているようだ。それらの文章が機械的に出力されているのだとしたら、その文章を構成しているつもりの人は、何かの機械なのだろうか。たぶんその様々な動作の中で、人は動きしゃべり言葉を記す。そんなやり方は人には似合わないか。人に割り振られた動作はそんなものしかないような気もするのだが、人はそんな限られた自らの動作によって、世界へ向けて何を伝えようとしているのだろうか。しかしいつの時代においても、世界は人の存在をことごとく無視しているのではないか。世界が人を助けたりするわけがない。また人の方も世界から発せられた意志など、まったく無視し続けているようで、自らの都合とは無関係な、そんな世界の有り様を無視しながらも、当の世界について自らを主人公のように装いながらしきりに語りたがるが、やはり世界はそんな独りよがりな語りに、いっさい視線を注ごうとせず、世界の一部を構成しているだけの、ちっぽけな存在である人に向かって、何も語りかけようとはしない。そして人は何の返答も期待できない空に向かって、自らの感情を投げかけることばかりに、虚しい自己満足を求め続ける。そんな意味のない世界の中で、君は何をしようとしているのだろう。やはり君は何もしようとせず、何もしないついでにそこで眠りにつきたいだけなのか。夢の中で魅力的な幻影に出会いたいか。それが世界が君に示すすべてだろうか。それがすべてではないのだろうが、それらの機械的な動作が示す特性が、人という生き物を構成していることは確からしい。だからそこで眠りたいのなら眠ってしまえばいいのかも知れない。たぶんそれらの夢の中に人の感性は眠っているのだろう。そして眠りながらも目覚めているように装い、何とか自らの存在を肯定できるような物語を言葉によって生成させようとして、夢の中で必死に努力し続ける。そんな行為を繰り返している人々は幸せになりたいのだろう。それがそれらの人々にとっての目標であり出口でもある。そしてその出口は逃げ道に通じているのかも知れない。絶えず同じ信仰にとどまっていられるように、互いに励まし合いながら、出口へ向かって歩んで行くことをやめようとしない。そこで迷っていては幸せになれないのだから、自らに夢や目標が付与されていることを、頑なに信じなければならなくなる。夢や目標を見失って迷路のただ中で迷っている人々は、他の人々から励まされることによって、逃げ道を見出したつもりになれるかも知れない。きれいごと的にも実質的にも、人は一人では生きて行けないのであり、他の誰かに励まされることによって、見失っていた自らを再び見つけ出すことができるのだろう。その見つけ出された自己とは、夢や目標に向かって努力し続ける、昔ながらの安心感を伴った自己なのかも知れない。人々はそんな気分で肯定的に生きていることを、誇りに思っているのかも知れないが、またそれを実践していることが、何か免罪符のように機能してほしいとでも思っているのだろうか。それは虫のよすぎる願望だろうか。そんな風に安易に夢や希望や目標について、批判的に語ってはいけないのかも知れない。語っているうちにそれは違うような気がしてきて、言葉の並びが醸し出した安易な成り行きに乗っかって、途中で横道に逸れてしまった可能性について言及したくなる。だが昨日の夜はとうに明けている。見えているものの存在を認めたがらないのはよくあることだろうか。その存在を認めて受け入れることは無理なのか。だが何がそこで存在しているというのか。何かしら存在していることは確かなようだが、その存在をどのような言葉で表現すればいいのかわからない。なぜわからないのだろうか。わかろうとしないからわからないのか、あるいはそれがもとから存在していないからか。しかしわからなければ存在していないことになってしまうのはおかしい。また何が存在していようと、そんなことはどうでもいいことか。そんな風にして存在という言葉の周囲に、それに関係しようとする言葉が群がるが、そこで何が語られているわけでもなさそうだ。いったい誰がそうさせているのか。何を意図してそこから文章を生じさせようとしているのだろうか。文章が具体的に存在しているものを提示できないならば、その内容は不在の事物を巡って述べられているように思われる。あたかもそれが存在しているように装いたいのに、一向にそれは言葉で示されることがないわけか。ならばやはりそこには何もないのだろうか。しかし何もないことについて言葉を弄するのはおかしいのではないか。


7月3日

 やはり何かが壊れかけているのだろうか。何もないのにこれから何を述べようとしているのか。何を述べてもどんなに言葉を弄しても、空虚な思いが増すばかりで、そんな虚無感が深まるにつれて、それに関連する何かを経験しつつあるように感じられるかも知れないが、その何かが何なのかわかるはずもなく、一方で言葉はますます支離滅裂に分散していってしまうようだ。もはや文章の中で何が語られているのかさっぱりわからなくなってきたようだが、いったい君はそこで何をやろうとしているのか。別に見えないものを見ようとしているわけではないらしいが、それはどういうことなのだろうか。それもごまかしの一種だろうか。君は何に対して返答しようとしているのか。そこで何が問いかけられているのだろう。どのような文章を構成するにしても、過剰な文章表現は忌み嫌われる傾向にあるようだが、一方で語る対象の有無にかかわらず、何かを語るという行為自体が余計な行為なのかも知れず、語りすぎればそれだけ余計な言葉が生じてしまうわけだから、そんな語りにならざるを得ない成り行きを否定することはできない。まとまりに欠ける思考の断片を強引に言葉で結びつけようとすれば、そんな間に合わせの言葉による過剰な表出は避けられず、他にどのような言説を用いてそれを言い表せばいいのかわからなくなる。そしてそんな風に語れば語るほど、わかっていることがわかりきったことではないように思われ、わかっていること以外に何が語られようとしているのか、それをどう述べていいのかわからなくなり、自らがそんな語り方に対して不快感を覚えているとすると、君はそこで何と戦っていることになるのだろうか。君は何かおかしなことを述べていないか。そんなことはわかりきっている。別に何と戦っているわけでもないように思えるが、それ以降の語り方によっては、そこに白々しい問いかけが発せられる余地が残されているのかも知れない。それはどういうことなのだろう。例えば我が闘争とは誰のための闘争だったのだろう。そんなわかりきったことを問いかけないでほしいか。しかしそれは誰にとってわかりきったことなのか。まだ君の内部には、それらの闘争を継続する余地が残されているだろうか。そして闘争を継続することは、これまでの状況をどのように変える可能性になるのか。だがそんな風に述べているうちに、何かがずれているような気がしてこないか。そこでやめてしまっては、永久に立ち直れないような気がしてくる。しかし相変わらず君が何を述べているのかよくわからない。わからなければ想像してみればいい。そこから何らかの情景が思い浮かんでくるかも知れない。あるとき誰かが歩いている道は、降りしきる雨でぬかるんでいるように見えるが、それが何を示しているわけでもなく、そんな情景とは無関係に、君は今どの辺で迷っているのか。そこで迷いながらも生成される意識や感情は、周りから滲み出てくる言葉と言葉をつなげながら、何を述べようとしているのだろう。そこで何を述べても意味不明に思われてしまうのはどういうわけなのか。これからそれらの語りはどうなってしまうだろうか。別に話の展開を予想しているわけではなく、そこで君の意識は単純であからさまな構造の中に閉じ込まれているように感じられるのだが、どうやってそれらの状況がもたらしている困難を回避できるだろうか。何が単純であからさまなのかが明らかにされていない状況で、誰かはそこで何をしようとしているのか。そこで何が問いかけられているのか明らかにすることは困難だろうか。それらの困難は困難のままに継続され、いつまでたっても困難であり続ける。それは文法的には誤っているのかも知れないが、はたして文章のいわんとしていることが誰かに伝わっているのだろうか。別に抽象的なことを考えているわけでもなさそうだが、ただ水分が過剰に補給されているようで、誰かは有り余るほどの水に取り囲まれて困り果てている。要するに雨が降っているということか。それは何かの冗談を述べていることになるのだろうか。ますますわけがわからなくなってしまいそうか。ありふれた表現でそこから逃げるとするなら、君は言葉の迷宮で迷い血迷い、次いでそんな嘘を強引に押し通し、苦し紛れに誰かの狂気に寄りかかりつつ頼りながら、そうやって毎度おなじみの無責任な意味不明を、文章上に定着させようとしているだけなのかも知れない。そんなことしかできないとすると、周囲からの失望されることにでもなるだろうか。そんな言い訳が通用するはずがないことは、百も承知しているつもりだが、その程度のことを真に受けるわけにはいかないのはもちろんのこと、それほど無理を重ねているわけでもないのに、心身共に疲弊しているように感じられるのはどういうことなのか。いったい君はそこで何について述べているつもりなのか。そんなつもりはさらさらないような言葉を弄して、自分が述べている意味がわからないことから生じる錯乱を、受け流しつつ装いながらも、そこから生じる混乱状態のどさくさに紛れて、そこからあからさまに逃げようとしているらしく、その一方で事態を収拾すべく、それについて具体的に何をどう述べるべきかわかりかねるが、何となくそんなやり方に呆れ果て、気分的に退いてしまっているようだ。多少なりとも小銭でも貯まって、虚栄心にかぶれている余裕でも生まれたのか。しかし実質的には何もないのに、うわべだけで何を飾り立てればいいのか。何らかの蓄積によって経済的に豊かになったかのような錯覚を抱き、一時的に空腹感から解放されたつもりの意識は、すでにそれらの文章の継続をあきらめてしまったのだろうか。それならそれでその先は以前よりだいぶ楽になれるだろう。そしてそんな嘘でも何か述べているような気にはなれるらしい。そんな君を誰かは軽蔑しているはずか。相変わらず君は自分が何を語りたいのかわかっていない。降り続く雨に濡れながら、文章の生成はさらに遅れてしまいそうな雲行きになる。それでも意識は無為に過ぎ去る時間には無関心を装い、そこからどんな嘘を述べればいいか思案している最中のようだ。そんなやり方ではその先に言葉を連ねることは無理かも知れず、繰り出された言葉には何の意味も宿らないだろう。それでも誰かは言葉を生かしたいと思っている。精神的に追いつめられているのに、そこから言葉が生きるように文章を構成することができるだろうか。あるいはわけがわからず意味不明のままに死んでしまうのか。何が死にたいはずもないか。言葉を生かし続けることによって死をかわそうとは思わない。避けられない死をどのようにしたいわけでもないらしい。避けようがないのだからどうにもできないだろう。そこに言葉のどのような可能性を想定しているのだろう。簡単に何を述べられるわけもないが、何も述べられないわけでもない。本当にそんな風に思っているのだろうか。単に何も思わないのに何かを思っているように装わせたいだけか。他に何を語ろうとしているわけでもないらしい。他がないのだからそれ以外には何も語れないのか。そういうわけで何も語れないと語っている。そして何も語れないはずがないことを、何も語れないと語ることで証明しているわけか。そんな証明が何になるというのだろう。何にもならないとしたらどうするのか。架空の君がどうにかするかも知れない。すでにどうにかなっているはずだ。実際そのように述べていると、どうにでもできるような気がしてくる。


7月2日

 君たちはなぜ貧困を撲滅しなければならないのか。有名人になれば当たり前のことを主張しなければならないのかも知れないが、そんな主張が精神の貧困を招いていることは知るよしもない。貧困を撲滅するためには金が必要だろう。金がない者の中には、強盗にでもなって金品を奪おうとしなければならなくなる者も出てくるだろう。要するに金のあるなしが貧困を招いているわけだ。しかし人それぞれで金があったりなかったりしなければ、今の人間社会は根底から成り立たなくなってしまうだろう。社会の中で人々は絶えず裕福であったり貧乏であったりして、そこから何かをやろうとする動機が生じてくる。もしそのどちらでもなくなってしまえば、生きている意味がなくなってしまうだろうか。例えば高額の賞金がかかっていなければプロスポーツは存在し得ないし、結果的に大金を手にした者が有名人になり、そのような価値観を体現する者が成功者であるという定義が成り立たなくなる。生きるためには金が必要だし、金を得るためには仕事をしなければならず、仕事を維持継続するためにも金が必要になり、その仕事が大規模になるほど多額の資金を調達しなければならなくなる。そうやって金は成功を目指す者たちの下に集中する傾向になり、そのような金の流れから取り残された者たちは、相対的に貧乏になるより仕方がないだろう。しかし夢を叶えるとはそういうことなのだろうか。まさか子供たちが大人になったら貧乏人のホームレスになりたいとは思わないだろう。そんな子供が抱く夢からはかけ離れた生活をしている者は、経済的に悲惨な境遇にある場合が多いか。それは程度の差ということになるだろうか。すべての子供が将来大金を手にして、成功者になりたいと思っているわけでもないだろう。中には普通のサラリーマンになりたい子供もいるはずで、また自分たちの身近に存在する保育士や教師になりたい者もいるのだろう。それほど多くの大金を手にすることができなくても、それなりに生きられればそれでもかまわないということか。あるいはそれらの職業に否定的な印象を抱いていないからかも知れない。大人が普通に生きていれば、子供も大人と同じような未来を受け入れるだろう。それとは逆に身近にいる大人が悲惨な生活のただ中にいると思われたら、それとは違う未来を求めるようになるのだろうか。君はアフリカの紛争地帯で飢えて餓死寸前の境遇にある人々のことをどう思えばいいのか。なぜ世界はそのような状況を招いているのだろうか。なぜそうなってしまうのか、本当のところは誰にもわからないのかも知れないが、ただそのような状況を憂う人々の中で、高額の収入と多額の資産を保持している有名人たちが、大がかりなイベントを企画して、それを取材するために群がってくるマスコミ関係者に向けて、貧困を撲滅しなければならないと訴えている。忘れた頃にそのようなイベントが再燃するようで、有名人たちは事ある度にそれをやらなければ気が済まないようだが、それはこの世界の恐ろしくも救いがたい矛盾を示しているだろうか。あなた方が富を独占しているおかげで、貧しさにあえいでいる者たちが出てくるのだ、とそれらの行為に及んでいる有名人たちを非難するわけにはいかないだろうか。たぶんそれは間違いであり、要するに結果から原因に至ることはできない。それが一部の有名人のせいではないことは明白であって、そのような悲惨な状況が現にあるからこそ、誰かが立ち上がって訴えかけなければならなくなってしまうのであり、その訴えかけに際しては、名もない一般人よりは、名のある有名人が訴えかけた方が、各方面に影響力があると思えてしまうのだろう。だが本当にそれで貧困が撲滅できると思うか。例えば今貧困のただ中にいる者は、機会さえあればそこから這い上がって富を独占したいと思っている。年齢的にまだ人生をあきらめきれない若者ほど、その思いは強く激しいのかも知れず、いつか成功して大金を手にして、自分も有名人になりたいと切実に渇望しているのではないか。またそんな身の程知らずの誇大妄想的な夢を抱きながら、それに向かって死にものぐるいで努力している最中の者もいるのではないだろうか。要するにそういう者たちは、現実に体験している貧しい境遇があるからこそ、大げさな夢に向かって死にものぐるいになれるのかも知れない。貧困は一方で金の亡者を作り出しているということになるのだろうか。そんなわけで貧困の撲滅を叫ぶ有名人たちは、実際に貧乏な子供たちの夢となり目標となっているわけか。しかし万が一そんな者たちが成功を手にしたら、貧困から抜け出られるのはほんのひとにぎりの者たちだけで、他の大多数の人々は相変わらず貧困にあえいでいるだけかも知れない。それでは冗談にもほどがあるだろうか。しかしそれはどのような類の冗談なのか。その場限りのいい加減な思いつきから生じた出来の悪いフィクションだろうか。そしてそれらのフィクションの中で、架空の登場人物たちが世界中に蔓延している貧困と戦っているという筋書きか。君はなぜそんな話に本気になれないのだろうか。理由については何も思い浮かばないふりをしつつも、そのときの思いつきは気まぐれに発せられた言葉の後からついてくる、と高をくくっている風を装うが、現実にはそんな余裕もなさそうに見える。誰が何を追いかけているわけでもなく、そこで夢を追いかけているのは幻影の群れなのかも知れない。そしてその先の成り行きを予想しているわけでもないが、このままでたぶん一日の遅れが二日になり、さらに三日になり四日になったところで我慢の限界に達して、後は感極まって感情が爆発して、バラバラに飛び散ったそれらの出来事の破片が、辺り一面に散開しながら浮遊し続けるだけか。しかしそれは後から何の話になるのだろうか。それ風の言葉が成り行きまかせに繰り出されているだけで、その場の気まぐれで思いついた話の出だしに、その後から何が続くわけがないと感じられ、気休めに生じたどうでもいいような憤りの後に、何を続かせようとする気も起こらないことを祈ろう。その先に来るはずの状況を見定める義理は誰にもないだろう。だがそこからいい加減に逸脱していってしまうわけにもいかないか。何を根拠にそんなことを述べているわけでもない。まだ何を語っているわけでもないだろう。また誰と何を競っているわけでもない。しかしそれでも何もないわけではないらしい。そこでは何が差異化されているのだろう。ある特定の人物や組織にしかできないことが、何らかの価値を形成している場合、その価値をどれだけ信じていいのかわからない。信じることが何につながるというのか。その価値観を全面に押し立てて、他の事業者に対して勝負を挑んでいるつもりになれるのだろうか。しかしなぜそこでは同じ目標に向かって多くの競争が繰り広げられているのか。簡単にそんなことを述べてしまうべきではないのかも知れない。理論を構築することと、その理論に基づいて実践することを分けて考えることはできないが、その結果から分析者は何を判断しようとしているのか。できることとできないことがあるのは仕方のないことなのか。さっきからわざと話が方々へ飛んでいる。だんだん面倒になってきたので、いい加減に行方がつかめないように語りたいのかも知れない。そしてそこで何を引き当てているつもりなのだろう。それが当たりくじである根拠がどこにあるというのか。


7月1日

 何も始まらないのに何かを始めようとするのはおかしいだろうか。それに関して君と誰かが共感を分かち合うのは不可能かも知れない。もはや理解に至るのをあきらめてしまったのか。いったい君はそこで何を語っているつもりになれるのだろうか。雲の流れを追っていた視線が突然部屋の中に転じられ、遠近法的な事物の配置を無視して、わざとらしくも極端なゆがみを彫琢しているような気になり、一方でそんなくだらぬ作り話にはつき合っていられないと思うが、なぜか目の前にはおかしな顔が連なっている。そこで君は死の淵にでも立っているのか。誰かはそれが君の嘘であることを知りながらも、反論するのが面倒なので、それを真に受けたつもりになって、わざとらしく沈痛な面持ちを装うが、それらの顔の表情から喜怒哀楽の兆しが見えてこないことを訝しく思う。そこで何かを考えているのかさっぱりわからないように思われ、そう述べながらも何か探りを入れようとしているわけでもなく、そこから時が経つほどそこで感知される何もかもが薄れてきてしまい、次第にそんなことはどうでもいいように思われてくる。なぜか昼間から眠気に逆らえなくなってしまうらしく、気がつけばさっきまでしていた話の途中から、何の脈絡もなく別の話が割り込んできたように感じられ、そんな現象が度重なるにつれて、それ以前に何を語っていたのかも覚えていられなくなっていくように感じられ、そんな成り行きに誰のどんな思惑が潜んでいるとも思えず、そこにどのような意思が介在しているわけでもないのだろうが、誰かが気まぐれにそれを語り続けている者の気配を消し去っているように思われ、次いで煙幕が張られているかのように君の視界は遮られ、たぶんその先が見えなくなっているのだろう。意識はそれを眺めているつもりなのだろうか。眺めているのではなく語っているつもりになっているのではないか。いつものように何も語らずに、それとは無関係なことを語っている。それについて何を述べてみても無駄かも知れないが、それでもそこに誰かが出現している状況から、受動的に何かを見出したつもりになれるだろうか。そんなとらえどころのない状況の中で、いつの間にか意識は虚しさに取り憑かれ、それらの文章はまるで廃墟や残骸のような光景になるかも知れない。それはいつの光景になるのだろうか。文章を眺めているつもりの君には何が必要なのだろう。はたしてそれを読んで理解する必要があるのだろうか。理解することが必要なのではなく、ただそれを読んで何も思わないことが必要なのかも知れない。なぜ何も思ってはいけないのだろうか。そこには何もかもが過剰にありすぎて、その過剰な何かを知ろうとすればするほど、そのような試みのことごとくは、思い違いや勘違いにしか至らないということかも知れない。そこでは何も語られていないという事実に気づくべきなのか。そんなことを述べているうちに、どうもまた日付に追いつけなくなってしまったようだ。思い悩めば悩むほど過ぎゆく時間から取り残され、結局君はまた何もできなかった過去と同じような状況に陥っているのだろうか。いつまでもそれをそのままにはしておけないと思いながらも、まともな文章になるようにすべく、言葉こねくり回して何かを取り逃がしてしまう。いくら言葉を連ねつないでみても、何を述べていることにもならないことを思い知って、そこで行き詰まったまま身動きがとれなくなってしまう。周囲を空疎な言葉で取り囲まれ、思考がその先へ突き抜けられなくなってしまう。そこからどうやって立ち直ることができるというのか。そんなやり方がいつまでも長続きするはずもないが、それでもそこに示されているありふれた表現は何かを示していると思いたい。光から見放された闇に覆われた大地は何も語らないが、そこで生息している人の足の裏には地面が貼り付いていることが多い。魂の宿らない人形は台座に固定され続けている。仮に翼を取り付けても接着剤で固定された台座が邪魔で飛び立つことはできない。そして君はどんよりした曇り空を見上げながら、ふとした拍子にまだその先を述べていなかったことに気づく。そんな都合よく事が運ぶと思っているのか。いつの間にか意識はフィクションのただ中に存在しているつもりのようだ。別にそこからまっとうなことを述べようとしているわけではない。面倒なのか退屈なのか、あるいは君は病気のふりをしているのか。あるいは本当に病気なのかも知れない。闇夜が醸し出す静寂さのただ中で、断続的に襲ってくる心の痛みに耐えられるわけもなく、耐えられなくなったら外出すればいいだけだと思われ、簡単に痛みから解放されたつもりになって、面倒なので昨日ことはすべて忘れてしまおうと思うようになる。そんなわけで誰かは真夜中に何をやろうとしているのか。君の他に誰もいないのに、誰かも彼もいるはずがないと思いたい。真夜中に昼の太陽を呪ってみても仕方がない。まだそんな無駄な言葉を弄してみせる気力が残っていたのか。そんな君の意志とは関係なく外では鶏が鳴いている。いったいこの世界の他にどこに何が存在すると思われているのか。誰も何も思わずに、ただいつもの馬鹿騒ぎが繰り返されているだけなのだろうか。それは何年前の感覚なのだろう。だがそこでどのような感覚を選んでしまったわけではない。あやふやな感覚など簡単に忘れ去られて、正気か狂気かの分かれ道はとうの昔に通り過ぎてしまったらしい。意識はそこから後戻りして何をやっているつもりなのか。何か気になることでもあるのだろうか。川は流れているようだが時が流れているわけがない。ただ時間が経過しているように思える。ではそこから何が見出されようとしているのか。文章は破綻を来して真面目な者は破滅するだろう。ちりばめられた手がかりを基としてすべてを解決に導こうとする意図はない。ところで何かが存在していると思われるそことはどこなのだろう。そこには何かその場所を特定できるような目印のようなものがあるのか。そこから君はさらに言葉を連ねようとしているようだが、わざと言葉を入り組ませて何を表現しようというのか。何がそこでの紆余曲折を構成しているのだろうか。単に気まぐれな成り行きを言葉でなぞっているだけらしく、それに対して今さら何を深刻ぶっているわけでもないが、要するに何となくいつものように嘘をついてみたくなっただけなのだろうか。それらの言葉はやけくそ気味に陽気な気分でも醸し出そうとしているようだ。そんな風に述べてどうするつもりなのか。君の目的はわかりきっている。今日も今日でそれなりに適当な文章を構成したいらしい。できうる限りそれらの言葉をつなげてみたいわけか。ついでにそれが目的でないように装いたいか。そんな見え透いた目的を見破られたくないらしい。だが次第に無理な話になろうとしている。いったいそこからどんな内容を文章の中に盛り込みたいのか。


6月30日

 やる気がしないのはいつものことかも知れないが、やる気になろうとする気が起きないのは深刻なことだろうか。できることならそんな風には語りたくないのだが、仮に深刻な事態に陥ってしまったからといって、誰も何をどう改善しようとするつもりもないようだ。どうも本気でそんなことを述べているのではないらしい。不確かなことをそのときの気分を利用しながらいい加減に語り始めているようだ。確か昨日の今頃は雨が止んで雲間から青空が覗いていた。君はそこで誰と出会っていたのか。どうやら未知のとの遭遇の前に、既知との遭遇が待ちかまえていたようだ。そのとき君は自分が何者なのか覚えていたのか。それを覚えていたとして、それが事実とは異なる記憶だとしたどうするのか。別にどうもしはしないし、そこから自分探しの話や誰かの感動的な身の上話が始まるわけでもない。そんなやり方は正当性を欠いているだろうか。何をそこに認めようと云うのか。誰かは今日も適当に言葉を弄しながら、蒸し暑い夕暮れ時を乗り切ったつもりになり、対話によって生じた齟齬を、過去の気まずい雰囲気に重ねつつ、それをそのまま引きずってゆき、ついでにかぶれや虫刺されのかゆみに耐えながら、またそこからそれに関して何を語ろうというのでもなく、面倒なのでそれとは無関係なことさえも語ろうとせず、そうやってそのときの気分をわざとやり過ごして、そこからすでに到来しているくだらぬ出来事も受け流して、とりあえず昨晩のことは忘れたふりをしつつ、モラトリアム的に眠りについてしまいたいようだ。そんなわけで昨日は何となくやる気がなくなってしまったように思われるのだが、それでも状況は刻一刻と変化し続け、その存在の周囲からあらゆることが過剰に湧き出てくるように感じられ、例えば雨は嫌なるほど降り続き、何の有効性も皆無のどうでもいいような言葉も、そんな状況からうんざりするほど大量に湧き出てくるらしい。わざとそうしているのだろうか。誰がそうしているわけでもないだろう。またそれとこれとは違う話なのではないか。例えば世間ではまっとうな人たちが、少子高齢化がどうのこうの云っているようだが、今でさえ人余り状態なのに、いったいそれの何が不満なのだろうか。たとえ人が減って税収が減ろうと、これ以上無駄に人を増やすべきではないのは、世界の中でも比較的自殺者の数の多い風土であることを考慮するなら、火を見るより明らかなのではないか。いくら人を増やそうとしても増やした分だけ自殺してしまえば同じことだろう。自殺するだけ葬儀の経費が余分にかかるだけか。たぶん余分な人間は要らないのであり、現実に人が減って衰退を味わった方が、今馬鹿騒ぎしている人たちも少しは正気に戻るのではないか。そう述べてしまうことにもっともらしい根拠があるわけでもないが、とりあえず人口は今の半分以下になってほしい気がする。そうなればあくせく生き急ぐ人も減って、のんびりゆったり暮らせるかも知れず、それにつれて穏やかな気質な人も増えて行くのではないか。またいったん衰退したらしたで、しばらくそこから立ち直らないままでもいいのではないだろうか。そうなれば近隣諸国も軍国主義の復活だ何だのといちゃもんを付けることもなくなるだろう。しかし必死の形相で演説をぶっている人にしてみれば、今の世の中の何が狂っていると思われるのか。すべてが狂っているのだろうか。すべてとは何なのだろう。そこで見受けられたり感じられたりするすべてが、狂っているすべてということなのか。だがいくら言葉を弄してみても、状況は何も答えてくれない。そこに存在している人も物も何も答えられない。たぶんそれが君の作り話だから、話の中に登場する者や物たちには発言の機会が与えられていないのではないか。しかしそんな嘘を真に受けることのできない誰かは、それらの行き詰まりの中から何を学んだつもりになれるだろうか。だがそれも君の嘘の続きなのではないか。それが嘘であろうとなかろうと、いつもそこから導き出される気分は、怠惰と疲弊を示しているようだが、そんな状態で自らの私生活を売り物にする芸能人たちを見習う気にはなれないか。なぜ彼らはいつもそればかりなのだろう。なぜという言葉は彼らには通用しないのではないか。それが習慣となっている者たちになぜもどうしてもありはしない。他に何もないというわけでもないのだろうが、また別にそんなあり方を批判しようとも思わないが、そんなキャラクターが存在していること自体が、それを見聞する人々の間ではおもしろいと思われているのだろうから、それらの私生活は絶えず暴露され続けるべきなのかも知れない。大衆と呼ばれる人たちは他に何を知りたいわけでもないらしい。後はクイズ番組から知識と教養を得られればそれでいいのだろう。そんな現象を軽蔑するでもなく横目で見ながら、君もそんなやり方を部分的に見習っているようにも思われ、君に意識の大半を占有されている誰かは、書物を読む機会を失っている。書物からも見放されてしまった誰かは、これから何をやればいいのだろうか。いくら見慣れた風景を気晴らしに眺めていても、得るものは何もないか。何かを得ようとして眺めているわけでもないだろう。仮にそんなことばかりであったとしても、そうすることが目的と化しているとは限らないか。そこから何も得られなくてもかまわない場合もあり得るだろうか。得るものが何かあれば幸いだと思うこと自体が卑しいのではないか。だから見慣れた風景も飽きもせず眺め続けることは無償の行為といえるだろうか。とりあえずそうやりながらそこで生きているだけなのかも知れないが、何も飽きるまでそこに居続けなくても、どこへ行っても生きて行くことぐらいはできそうに思われる。ではそこに存在している必然性は何もないのだろうか。何もなくはないが、そこに存在することがそれほど重要だとは思われない。たまたま何かの成り行きと偶然が作用して、そこに存在しているわけか。そんなことを述べているうちに、そこに何が存在しているのかはっきりしなくなっていることに気づく。何らかの意見やそれが醸し出す雰囲気とともに、本当に誰かがそこに存在しているのだろうか。そんなまわりくどい述べ方では、何を述べようとしているのかよくわからなくなるか。実際に何を述べようとしているのか。すでに何か述べているのだから、今後も何も述べられないはずがないと思われる。しかし現実に誰かは何を述べているのだろう。確かに何かしら述べているのだろうが、それで良いか悪いかはよくわからない。良くても悪くてもどちらでもいいのかも知れないのだろうが、とりあえず何か述べているらしい。


6月29日

 誰かがどこかで演説をぶっている。我々は勝利するまで戦い続けるそうだ。我々とは我々のことではない。どこかの外国では我々は今後も戦い続けるらしい。だがこちらでは戦うどころの騒ぎではない。戦う以前に戦う相手がいない。ただ黙って文字の連なりが映っている画面を見ている。そこで誰が騒いでいるわけでもないように思える。格好のいいことをやっている人々は幸せそうに見えるらしい。具体的に何がかっこいいのだろうか。君は何を見ているつもりなのか。君は何も見えていないのかも知れない。それを見ているのは君ではないかも知れない。可能性は様々な語り方をもたらす。そのすべてがあやふやな憶測を基にして語られる。君はそれらの可能性のすべてを否定してしまえるだろうか。もたらされた文章のすべてを捨て去ることができるだろうか。そんなことを述べているわけではない。実際に述べているのは君ではないということか。わざと混乱させようとしている。つまらない現状をさらにつまらなくしようとしているのか。そうではないと思われる。誰にとってそう思われるのかわからない。人はつまらない言葉の羅列には興味を惹かないだろうか。もしそうだとすると、君は人を相手に言葉を並べているわけではなさそうだ。それらの言葉は誰に向かって発せられているのか。今さらそんなことを気にする必要もないだろう。たぶん君は自らも含めて誰に語りかけているわけでもないのだろう。語りかけるべき対象など想定できそうにない。何を語っているのかわからない。そこには何もないというのなら、そこに至った経緯が明らかでない。それでも以前と比べたら深化していると思い込みたいか。何が深まっていると思いたいのか。より語り方が巧妙になったとでも勘違いしているわけか。過去の夢から遠ざかってしまっただけだろう。たとえそこで何を語っているにしても、それはやりたかったことでもやりたくなかったことでもありはしない。そんな感情とは無縁に言葉を連ねているだけか。それらの内容は思ったことでも思いもしなかったことでもなく、そんな思いとははじめから無関係なのかも知れない。それは他人が眺めるような文字の並びではない。しかし自らは何を眺めているのか。あるいは眺めていないものを眺めようとしているのか。物語の中の君はそんなことなど知るよしもない立場にあるようだ。できることならそこからさらに遠くまで思考の対象を広げて行きたい。少なくともそれらの言葉は思考とは無縁に成立しているわけではない。だからその先を目指しているつもりになれるのか。それはくだらぬ目標には違いない。別にオリンピックで金メダルを取ることを人生の目標に掲げているわけではない。架空の君に人生などありはしない。まるでお経を唱えているようなラップだ。感じていることと思っていることと語っていることが、それぞれ異なっていて当然だろう。要するに何を述べているのでもない。嘘とはそういうことなのかも知れない。何を語っているのでもないと嘘をつくことが嘘の本質なのか。本質ではないから嘘になってしまうのではないか。そう述べて安心するのはまだ早いか。その先で本質が語られようとしているわけではない。それらの何が本質なのかわからないか。本質の正確な意味を無視しながら、その言葉をいい加減に使用しているのだろう。だからいつまで経っても本質からは程遠いことを述べている。そんな風にして本質から遠ざかってしまう。それはどうでもいい言葉だったのかも知れない。使う必要がなかったのだろうか。必要のあるなしには関係なく使用していたのだろうか。他のどんな言葉を使ってもよかったのだが、たまたまその場の成り行きで、本質という言葉が記されることとなった。その成り行き自体に何も本質的な意味など宿っていなかったのかも知れない。君はそのときの経緯をもう忘れてしまったらしい。それを思い出そうとする気も、その箇所を読み返そうとする気にもなれない。いつの間にか周りが見えなくなってしまったらしい。そうかといって何に集中しているわけでもない。それらの試みは当初に抱いていた思いを突き破って、意識も意図も思惑もない地平へと突き進んでしまったらしい。そこには何もありはしない。何もないから言葉が現れ出でる。欲しているのではなく勝手に記されている。そんなことをやろうと思っていたわけではなく、他に何をやろうとしていたわけでもない。ただそんな風にやり続けられているようだ。それ以外に何がどうなっているわけでもない。それは無駄で余計なことかも知れない。そうでなければそこまでやり続けられないのではないか。無駄で余計なものだからこそ、そこに出現しているのかも知れない。それ以外にそこへ出現できる条件はあり得ないのか。そう思われるのはどうしてなのか。本当に必要であるならば、そんな風には語らないのではないか。そんな風とはどんな風なのだろう。外では雨が降っているだけで、風が吹いているわけではなさそうだが、例えばそんな文章が無駄で余計に思われるのかも知れない。しかし雨が止んだら風が吹くかも知れない。そこで風の流れを感じたら、それまでに降っていた雨の必要性でも実感できるだろうか。なぜ雨が必要なのか。雨を利用している者にとっては必要なのだろう。雨を利用して文章を構成しようとする者にとっては、雨は必要不可欠な要素であるかも知れない。だから今雨が降っていることは好都合なのだろうか。雨を眺めながら雨音を聞きながら、雨という言葉を利用しながら文章を記している。雨がそこでの本質を形成しているのだろうか。そう思えば納得がいくか。しかしそれに納得してどうするのか。納得できたら安心できるだろうか。安心できたらどうなるのだろう。さらに安心したくなるか。いくら安心したつもりになっても、不安をぬぐい去ることはできないか。なぜそこから不安が生じているのだろうか。安心してしまうことに精神が抗っているわけか。安心してしまうことに不安を抱いているのかも知れない。安易に安心してはいけないとでも思いたいのか。しかしそうやって何を用心しようとしているのだろうか。それらのどこに注意を向けているのだろう。常に現状がおかしいと思っているようだ。疑念を抱いていないと気が済まないのだろうか。疑っていないと安心できないのかも知れないが、安心するために疑っているという思われてしまうことが不安に拍車をかける。別にそれほど安心したくはないのに、現状の有様を疑うことで安心感が得られてしまうことに、不満と不安を抱きざるを得なくなるらしい。絶えず疑っていればそれでいいのだろうか。それで何か述べていることになるのだろうか。何かしら述べていることは確かかも知れないが、決してそれで満足することはないだろうし、満足したいがために述べているのでもない。


6月28日

 時間に追われるままに今日も一日が過ぎ去ろうとしている。外はもう夜になっているらしく、夜の闇を眺めながら、意識はまたいつもの文章に拘束されているようだ。そのどうにもなりそうもない言葉の連なりをどうにかしようとして、いい加減な試行錯誤を繰り返しているようだが、またいつものように無駄に終わってしまうのか。だが無駄に終わろうとどうなろうと、今の君には関係のないことなのかも知れない。君は暑さに負けて風邪を引いてしまったらしい。風邪と文章とは無関係か。風邪を引こうがどうしようが、また風邪を引くまで努力しようと、無内容の現状を変えることはできず、それで君の思い通りの文章になるはずもなく、そうかといって思いがけない結末にも至らずに、うだるような蒸し暑さのただ中で、飽きもせず同じようなフレーズを繰り返しているだけのようだ。そしてそれでいいはずがないことはわかっているつもりだが、わかっていてもそこから抜け出ることはできないようで、それに関して君は失語症でも患っているのだろうか。もちろんそれは本当の失語症ではなく、そんな言葉が醸し出す雰囲気に浸っていたいだけなのかも知れない。そんな風にして出来事の核心に至るようなことは何も語らずに、またいつもの虚無が心を覆い始めるが、誰かにはそれがおかしいと思われる。誰がおかしいと思っているのだろう。そこからできるだけ状況を真実に近づけるなら、そんな風に語っている当人がそう思っているのだろうか。それは間違いのないことかも知れない。君は本当にそれがおかしいと思っている。なぜ人は働かなければいけないのだろう。唐突にそんな設問に逃げるのもおかしいか。ニートと呼ばれる働こうとしない若者や中高年にも、なにがしかの言い分はありそうだ。たぶん働こうとしないことは、自らに正直である証なのかも知れない。たとえそれがアルバイトであれ、何度も面接に出かけていっては、そのたびに断られたら自尊心が傷つくというものだ。大した仕事の内容でもないのに、そうまでして仕事を得る必要があるのだろうか。労働によって金を得ることは、それだけ大変なことかも知れないが、仮に首尾よく仕事にありつけたとしても、今度は職場での人間関係にもうんざりさせられるかも知れない。なぜそんな苦労をしてまで働かなければならないのか、疑問に思うのは当然のことかも知れない。それらの人々が仕事をやりたがらないのは、仕事に魅力を感じないからだ。嫌な思いをしながらつまらない仕事をやるのは精神的に耐えられない。ごく普通の神経の持ち主ならば、そんな風に思うのは当然のことかも知れない。仕事をやりたがらない人に仕事をやらせようとするのは、余計なお世話で拷問を課しているようなものか。たぶんやる気の失せるような仕事ばかりが求人の対象となっているのだろう。そんな状況を考慮せずに、定職に就かない人々について批判的に論じるのは、空理空論に陥っている危険性があるだろう。そんな状況を否定的に扱ってはいけないのかも知れない。それらの人々にとって仕事をやるのは耐え難いことなのであって、耐え難いことをを無理にやらせる必要がどこにあるだろうか。そのままで生きていけるなら生きていってもらえばいいし、それで生きられないときは、死ぬか改心して仕事を探すかのどちらかを選んでもらえばいいだけだ。もちろん仕事が見つからなければ死ぬしかないが、案外捨てる神あれば拾う神ありで、そのときになってみればどうにかなる可能性もなきにしもあらずか。現代はそういう人々がいて当然の社会状況の中にあるのかも知れず、そんな状況をことさら憂うのはおかしいのではないか。そういうことを論じている者たちは、それが仕事なのだからそこから糧を得ているわけで、そんな予定調和的に憂う成り行きの中に生息している人々に過ぎない。要するにそこで彼らがそれについてどう論じてみても、そこに脅し文句的に醸し出されているつもりの、このままではこの国は危ないという事の深刻さが、それを論じている者にとってはまったく関係のないことなのであって、彼らが彼らのやりたい仕事として、そういう何かについて論じることによって糧を得る職業に就いている限り、彼らは働いている側の人間であり、働いている者が働きたくない人々の気持ちなどわかるわけがないと思われる。それについて論じる者は、論じている対象となる人々とは別次元の中に生きている、といってもそれほど過言とはならないのではないか。両者の間には埋めがたい溝が横たわっていて、そこには絶えず感覚と価値観の差異が生じている。そのような意味で彼らが語っている内容は、語れば語るほど働いている側の彼らの意向ばかりが反映されたフィクションに近づいていってしまうだろう。うまく語ろうと努力すればするほど、言葉はその対象を突き抜けて、対象とされているつもりの人物たちが、彼らが構成する物語の中に登場する同姓同名の架空の人物と成り果てるように作用する。おそらく彼らはそこから彼らなりの感動を生じさせたいのだろうし、現実の対象たちが彼らが求める感動とは無縁だとしても、彼らの職業的に確立された構成術によって、時として無理矢理感動的なお涙ちょうだい話に仕立て上げられてしまうかも知れない。そこに視聴者や読者が意識されているとしたら、制作者的な意向によってそのような話に持っていってしまう危険性は十二分にあり得るだろう。もしかしたら始めに結果ありきで、前もって提示された青写真通りに、論じる対象となる人物たちが行動しているように語られて、他に山ほどあるそれに類する話と似たような成り行きを経て、その話を見たり聴いたりする者たちを安心させるような結末が、前もって用意されていたりする場合もあるだろうか。そして本当にそんな風に語られてしまった時点で、それは現実から背離しながら、話の対象となっている人々にとってはどうでもいい作り話になってしまい、どうでもよくないのはそれを語る者たちとその語りに感動する者たちの間に成り立つ、共感と呼ばれる自己満足の強い結びつきだけになる。要するにそこで論じられている働きたくない人々は、それについて論じる者たちの食い物となり、その論じられた作品に感動する者たちの慰みものと化すわけだ。そしてそういう意味においてそれらの働きたくない人々は、それが商売の対象となる限りにおいて曲がりなりにも社会に貢献していて、その存在意義を認められているのではないか。それはホームレスを主人公に据えたドキュメンタリー番組と似たような効果を期待されているのだろう。しかしホームレスの身の上話に哀れみの感情を催させるような残酷なやり口には吐き気がする。要するにそこから差別が始まるのであり、哀れみとともにその対象となる人々を見下す感情が形成されるわけだ。そんなホームレスやニートと呼ばれる人々に対する弱い者いじめが公然とまかり通るような状況を、それらの語りは助長する傾向にあるのかも知れない。


6月27日

 これまでにどれほど多くの言葉を費やしてきたのだろう。いくら述べても何の理解にも至らない。そう思ってしまうのは間違いだろうか。そこに思考を集中させてみれば、何らかの理解を得られるかも知れない。だがそれが理解だといえるだろうか。何を理解しようとしているのか。思考を集中させる対象が見あたらないか。それを見つけようとしていないのではないか。見つけるつもりもないのかも知れない。何を考えていいのかわからない。何かを述べようとすると、決まってその対象を否定しにかかっているような気がする。どうやら君は語り得ぬことについて語ろうとしているらしい。たぶん君には愛が欠けているのだろう。それはあまりにも安易で単純な結論になるだろうか。すでにそうなっているのではないか。簡単に述べるならば、君は愛を否定しているということにしておこう。その理由は何もなさそうだ。そこからどうやって語り続けたらいいのかわからない。思考はどこに迷い込もうとしているのか。あまりにもわかりづらく語ろうとしているのかも知れない。そこからどこへ行けるはずもない。行こうとしているのは君ではない。何かをやり遂げるには、途中で過ちに気づかなければならない。そんな法則がそれらの文章のどの部分に働いているのか。自由を得るにはひたすら言葉を費やさなければならないのか。言葉に束縛されている。カフェインの作用で心の中を覆っていたもやが消えてしまったのか。耳を澄ませば心臓の鼓動がやけに早く大きく聞こえてくる。その先に言葉をつなげてしまってかまわないのだろうか。はたしてそこからどんな成り行きが導かれようとしているのか。以前に述べていたことはもう忘れてしまっている。いったん忘れてしまったことはどうでもいいことのように感じられ、取り立ててそれほど思い出したくもないようにも感じられる。それは誰の予感を構成している文章になるのだろうか。わざと意味がつかめないようなことを述べている。まだ死にたくはないだろう。作り出そうとしている雰囲気には不釣り合いな思考を持ち合わせている。それを導き出そうとは思わない。真実はそうではないのだろうか。実態はどうなっているのだろう。予定調和にはなりがたい。そこでそれ以上の表現を求めているのか。詩的な内容に意味はない。その時点ですでに理性は崩れ去ろうとしている。君はそれでも予感を感じているのか。それは思い通りになると感じているわけか。君の意向を無視する形で、結果として思い通りになっているように感じられるのだろうか。それはどういう思い通りなのだろう。そこで奏でられている楽器の音色が抽象的な雰囲気を醸し出しているのか。誰かの意識はその意味不明な旋律とともに、またどこかへ逸脱していこうとしているらしい。そんな簡単にそこを抜け出ることができたらさぞや愉快な気分でいられるだろう。君はそこでしてやったりと思いたいのか。軽はずみなことを口走るべきではない。安易な行き詰まりにうつつを抜かして深刻ぶってみせるのはよくないか。そこで何かの中毒を経験しているのかも知れない。だがそれを安易に言葉中毒だとは見なしたくないようだ。意識はそう述べながら簡単に結論に達しようとしているわけか。しかしそれを封印してしまうとすると、その先にどんな言葉をつなげたらいいのか。つながらなくてもかまわないだろうか。つなげられないから文章がそこでぎくしゃくしてしまうわけか。いくら努力しても君にはそれをできそうもないと思われる。だからそこでいつまでも足踏みを繰り返しているのだろうか。その先へ進めないことはわかっている。わかっているからこそ、その先の文章を想定する必要がないと思われるのか。誰がそう思っているのだろう。誰もそんなことを思っている暇は与えられていない。現にその意に反して君の活躍の場は、その先の文章の中に著されるのだろう。そこで君の活躍に関して伝えようとする文字が躍っているはずか。そんな嘘の思い込みに助けられて、架空の文章が形成されようとしている。どこに形成されるはずなのだろう。なぜ君がそんなことについて語らなければならないのか。君はただ現実を嘘のように言い表すことしかできはしない。そのときの君はフィクションの語り手ではなく、ひたすら語られた文章の中に存在しようとしながら、叫び声を虚空に響かせようとしているのかも知れない。ではそこでひたすら何を叫んでいるのか。そんなことは実際に叫んでみなければわからない。少なくともその叫び声は、叫んでいる途中でつっかえてしまうだろう。激高しすぎてどもってしまうのかも知れない。叫ぶ以前に何を叫ぶべきか検討していたわけもない。それは何の前触れもなく突然やってくる。内容は大したことではないだろう。何ももたらされはしないだろう。誰もが叫んだ後に意気消沈してしまうか。すぐにそんなはずではなかったと思い込みたいのかも知れない。次いで気恥ずかしくなり、前言を取り消したくなってくる。しかしそこで何を述べていたのか忘れている自身に気づくことになる。無意識に何を忘れようとしていたのか。忘れてしまった後からそれを詮索するのはおかしい。誰かは言葉をかみしめることにも飽きたらずに、反芻を繰り返していたいのかも知れない。まるで草食獣のように文章の中に生えている言葉に食らいつく。そんな表現ではおもしろくないようだ。だが先を急いではならないような気もしてくる。かといってそこで立ち止まり、ひたすら水辺でたたずんでいるわけにもいかないか。ではその先に言葉を連ねる余地があるのか。言葉を連ねることとその先へ進むことは矛盾しないだろうか。立ち止まって言葉を掘り起こす作業を続けなければ、それらはまともな文章として成り立ち得ないか。しかしそれらのどこをどう修正すればいいのかわからない。わからないのではなく、意識がわかろうとする心理状態に至らないのかも知れない。その辺でやめておくことができないのか。やめたければいつでもやめていいように思われることが、かえってやるのをためらわせるように思われるが、実態としてはまだ決められた分量に達していないだけかも知れない。誰がそれを事前に決めるのかわからないが、その場の気まぐれでやめてしまうわけにもいかないような気もして、とりあえずは納得がいくまでは続けようとしてしまうわけか。どこまで続けてしまうのだろう。そして文章はそこで誰を納得させようとしているのだろう。何について言及しているつもりなのか。そこから何が発せられているのか。まさか後光など見えはしない。幻想など何も抱けない。周りはすべて敵なのか。そんな思い込みに納得するはずもなく、それでも無理に納得しようとは思わないだろう。今のところはわからないことはわからないままでもかまわないと思っているらしい。


6月26日

 そんなことはどうでもいいことかも知れない。言葉に行き詰まると決まってやけくそ気味な言動に及んでしまうのだろうか。書きたい内容に巡り会えないのは今に始まったことではない。それらの思いが何に還元されることもない。この期に及んで無理矢理嘘をつくとすれば、この世界に人間などという存在はあり得ないか。人間がこの世界で何をやっているというのか。例えば昆虫のやっていることとどれほど違うというのだろう。まるで虫けらみたいに惑星の地表面に絡め取られているだけか。政治家の述べていることを真に受けることができるだろうか。政治家と虫けらにはどのような習性があるのか。関連性は何もなさそうだ。そこにどのような真実が宿っているわけでもなく、ただ曖昧な言葉で現実に直面しつつある問題を忘れようとしている。そんな風には思いたくないだけなのかも知れない。では人間はどうやってきているのか。ただ笑っているだけでは何も解決しないことはわかっているが、他に何もできないのなら笑わずにはいられなくなる。それでその場が丸く収まるなら、それでもかまわないのかも知れない。気がゆるんでいるのだろうか。本気になれないのはいつものことだろう。しかしそれでも本気になっているつもりなのだ。本気で本気にはなれないと述べている。そんな風に述べながらしばしば正気を失いがちになる。人間とはそういうものだろうか。たぶんそこから先に何かがあるのだろう。気晴らしに映画でも鑑賞したいところか。気晴らしの慰めものに本気になってはまずいだろうか。それとは無関係にスティービー・ワンダーが何かを歌っているらしい。後からその歌詞の日本語訳を読んでみると大したことは歌われてないことに気がつくが、大したことが歌われているような歌がはたして必要なのかどうか疑問に思う。たぶんそれはそれでそういうことなのだろう。普通のことが普通に歌われていればそれでかまわないのかも知れない。それ以外に何が必要とされているわけでもない。またそれらの感性が物語として一冊の本の中に閉じられることは、それを読むことが必要とされていないからなのかも知れない。いつの時代も人々は読む必要のない文章を読むことになる。それが必要があると思うのは勘違いもいいところか。必要があるとすれば書物など読んでいる暇はないだろう。必要なことは実践されなければならないし、行動に駆り立てられなければならない。君が必要とされているのは、仕事をやる上で欠かせない人物であると思われているからか。ある意味ではそれも思い違いの一種なのかも知れないが、そう思われているうちはそれらの仕事と呼ばれる行動形態に絡め取られていなければならないようだ。たぶんそこから気苦労と過ちが増殖して行くのだろう。そしてそれについて述べようとする上で必要な言葉も次第に増えて行く。何を述べているわけでもないのに、君とは別の感性の持ち主から適当な言語がもたらされているようだが、それらの感性には何らかの障害が生じているのだろうか。何かがつっかえているようで、そこから先に言葉がつながらなくなる。誰かはそこで迷っているのかも知れない。迷っているうちに適切な文章のつながりを失いつつあるらしく、そこからどの方向へ語りを進めて行くべきかわからなくなる。そこからどう語るべきか、それは自分で決めることではないのかも知れないが、何も決められない状況をそのままにしておくことはできないだろうか。それ以上の継続は無理なのかも知れないが、簡単になされることは何もない。それ以上に語ることが無理だとしても、それ以外に何ができるわけもないだろう。できないものはできないし、できなくてもやらなければいけないのだとしたら、そこで破滅してしまうわけか。そんな当たり前の結末には納得できないか。それでも何もかも否定してしまっては、何もできなくなってしまうだろうし、そうであるならば、いよいよ行き詰まりの度が深刻さを増していることになる。だがそれも受け入れるべき宿命であって、そんな成り行きに抗うのは疲れるだけだから、それはそこでやめておくべきなのかも知れず、それが君の本音であったなら、君に毎日攻撃を加えている誰かにしてみれば、それはそれで大変喜ばしいことか。君の方でもだいぶ投げやりな気分に浸食されているようで、すぐにでもそうなってしまえばいいと思っているのかも知れない。しかし誰かはそこから逸れていかなければならなくなるだろう。新しい攻撃対象として、別の君を捜さなければならなくなる。しかしネット上に現実の君が存在するはずもなく、生身の人間を求めて、仮想空間から現実の世界へと踏み出さなければならなくなるだろう。そこでウェブという迷路とはお別れか。誰かの幻想はそれらのどこで見失われたのか。そして夢から覚めたら何をやればいいのだろう。それらの息苦しさは何によってもたらされているのか。沈みつつ船の中で目覚めたら、死ぬまでの短い時間の中でどのような出来事を体験できるだろうか。耳の中に水が入る。寝耳に水とはどのような意味なのだろう。何らかの驚きを表現しているのかも知れないが、現状では驚愕するような出来事などに巡り会うはずもないか。そう述べてしまうと、いつかそれを覆すような出来事に遭遇してしまうのかも知れない。不安に思っても仕方ないだろう。そんな風に思っているわけではなく、恐れていることが現実に起きてほしいと願っているのかも知れない。しかし何を恐れているのかはっきりしない。思い通りに事が運ばないのはわかっているが、何とか困難を切り抜けて、うまくやっていることと生じている現象を適合させたい気はする。状況に合わせて言葉を繰り出しているつもりなのか。君は君でそんなことをやっている。それはあり得ない話になるだろうか。それで何が示されるわけもないだろう。言葉の連なりによって示されている内容のことを述べているわけではない。それが無理なことはわかっているはずだ。思考がそこまで及ばない。過ぎたるは及ばざるがごとしということか。何を述べようとしているのかわからなくなってしまったらしい。近頃はそんなことばかりのようだ。言葉に結びつくような出来事など何もありはしない。風はそよぐが空っぽの心は何も感じない。その先に何があるというのか。アレルギーで体中が痒くなるか。暑すぎる日々で頭がおかしくなってしまったのか。そんな言い訳は無効になるだろう。なぜそうやって徐々に追いつめられているのだろうか。考えられないような事態に遭遇しているのだろうか。いったい何を考えていたのか。それでもできると思っていたわけか。やりようのないことをやっている自覚に欠けていたのかも知れない。そして今になって苦しんでいる。


6月25日

 君はそれがおかしいと思っている。何となく何かが煮詰まってしまったのだろうか。しかしこの期に及んで何を打ち明けようとしているのか。また別に何を笑い飛ばそうとしているわけでもないらしい。笑えない状況の中で、自分が何を述べようとしているのかわからない。それでも事は少しずつ前進しているような気がするのだが、それは君の思い違いで、本当はもう何も述べられなくなってしまったのではないか。なぜそんな風になってしまったのだろう。まだそうなったかどうかわからないか。それと同時に虚しさがこみ上げてくる。何をやるにも闘うことが前提となっているのだろうか。君は何と闘っているつもりなのだろう。そこにはどんな現状があるのだろうか。自分のやり方を押し通すには、他の誰かを納得させなければならなくなる。それが面倒な手続きをもたらしているのだろうか。過去の君はそれらの複雑さに気づいていなかった。今は気づいていないふりをしている。しかし互いに相容れない主張を闘わせて、そこからどんな結果が得られると思っているのか。打算的には何らかの返答が期待されているのかも知れないが、結果として何がもたらされたわけでもなく、文章の内容的には何が語られているわけでもなく、また実際に何をやっているわけでもない。双方が妥協できなければいずれは暴力の応酬となってしまうのかも知れないが、時としてそんな成り行きになってしまう場合もあるのだろう。だが心はそんな状況の中にはなく、ただひたすら無関心を装い、絶えずそれとは別のことを述べようとしている。意図的に現実に生じている出来事を避けて、それらの不寛容がもたらす深刻な亀裂を修復しようともせず、ただ無視しながら放置するばかりのようだ。たぶんそれがどこかのテレビ番組なら、そこからありふれた物語が始められるのかも知れない。本当に始められるだろうか。その手のテレビ番組とは無関係を装っているので、そこからはフィクション的にもノンフィクション的にも、具体的な話の内容は何も明かされないだろう。君ははじめからありもしないことについて語っているのではないか。それまでに述べられた言葉から、それらの状況をうかがい知ることは不可能だろう。そしてその不可能を不可能なままに放置しながら、それとはまったく関係のないことを述べようとするだろう。例えば誰かが迷路をさまよい歩いている。それは妄想のただ中に生きているということか。そこで誰かが探偵を気取って、その光景の中に隠されている暗号を解読したいのか。そして後から訳知り顔的に真犯人を指さしてみたいわけか。アニメ的な展開としてはそれもありだろう。だが安易に先を急いではならない。そんな単純な成り行きでは、周囲から注ぐ複数の視線に興ざめをもたらしてしまうだろうか。目指しているのは目指されていない結果に至ることか。それは結果とは見なされない。だからいつまで経っても何も明らかにはならないだろう。たぶんそれ以降は何を述べても無駄になるような地点に至らなければならない。わざと骨折り損のくたびれもうけを装うべきなのか。もはや呆れを通り越して、何の感慨を抱くこともできず、かといって茫然自失というわけでもなく、意識や感情とは無関係なことを、自分とは別人が述べているようにしなければならないのか。もちろんそこにおいてしなければならないことなど何もありはしない。しなければならないことをしなければならない必然性は何もない。要するにそこで述べられているしなければならないことは、特定の誰に向かって発せされているわけでもないように思える。文章の構成上、そこでしなければならないと語りざるを得ない展開を招いているだけなのかも知れない。それに関してあまりの深追いは禁物だ。藪の中で出口を見失う。歩むほどに移りゆく光景に見とれていては何もできなくなる。そんなわけでまだ別の無関係な言葉を繰り出す気力があるらしい。君は導き出されたそれらの言説の何に驚くべきなのか。その中には語り得なかった茶番劇が封印されているのかも知れないが、それを今さら語り直そうとは思わないか。地面から何を掘り起こそうとしているわけでもない。それを避けて通ることができたのだから、そのくだらぬ顛末は埋もれたままにしておくのが賢明な選択となるだろうか。別にそのように語ることを選んだわけでもなく、何も選びようがないままに、自然とそうなってしまったのだから、それに関して今さらどう述べてみても、仕方のないことかも知れない。しかしそれは述べたかったことではない。もっと具体的な話の内容を提示したかったのではないか。それがそれらの語りの中に不条理でも形成していると思っているのか。仮にそれがあるとしても、誰がそれらの不条理に攻撃を加えたいのだろうか。いったい君は何と闘っているつもりなのか。誰が誰と闘おうといずれ邪魔者は消えていなくなる。その存在が気に入らないのだから、それを消そうとするのは当然のことか。そうやって具体的な事実に向かおうとする意識をはぐらかしながら、何か意味が通るような文章になろうとする展開に抵抗しているのかも知れない。そうなること以外に何を述べているわけでもない。それでは意味不明だろうか。それはそれでそういうことでしかないか。もしかしたら君は昆虫の頭脳を持ち合わせているのかも知れない。そんな突飛な嘘で笑いを取ろうとしているのではないらしいが、そこでそれまでの文脈からの逸脱を躊躇していたら何もできなくなる。意識はそう述べながら、何を顕揚しようとしているわけでもないのだから、ばかばかしさからそれをあきらめてしまったら、それらの作り話には嘘が足りなくなってしまうだろう。しかしだからどうだというのだろうか。そこで足りていると思われるのは何だろう。とりあえず雰囲気的には空虚という言葉が足りすぎている。その言葉は飽きるほど繰り返されている。では今度はそれを封印しようというのか。空虚に満たされていると思うのはやめにしないか。とりあえず他の何に満たされているわけでもないが、そう思ってそこから逃げ出したくなるわけでもなく、あるいは突然見たこともない光景が迫り来るわけでもなく、それとこれとは無関係だろうが、理屈で何を考えようとしているのでもなく、屁理屈を並べ立てようとしているのでもない。感じたままを言葉で表現しているとは思わないが、まだそこから抜け出ることができないようで、具体的に何を述べようとしているのかわからなくなるのは当然だとしても、その辺で考えがまとまらずに、文章にすることができずにいるようで、相変わらずそこには話のとっかかりが見あたらない。昨夜は何を考えていたのか覚えていないようだ。たぶんそんなことを述べたかったわけでもないのだろう。


6月24日

 窓の外を眺めながら何を思うわけもないが、それでもどこか遠くを見つめ続けているように見える。別に空模様を気にしているわけではないが、暑さにでも負けてしまったのか、まるでやる気がしないのは暑さのせいなのだろうか。しかしそんな思いを抱いているのはいつのことなのか。今は何も思っていないらしいが、空虚とはどんな状態をいうのだろう。まだうつろな気分から抜けきれていないようで、それ以上に何を思っているのかよくわからない。昨日の出来事として思い出されるのは、そんなことではないはずか。テレビ画面上で報道されている事件はどこで起きているのか。それとこれとは関係のないことか。そこから先は完全に挫折している。そんな風には思わないようにしているのだが、君が語ろうとしているのはそういう話ではないということらしい。いつものように何を語っているのかわからない。気がつけば自然と首が傾いているのを思い出す。それは誰かの癖なのだろうか。語っている内容が断片化して、方々へ散らばってしまい、収拾がつかなくなってしまったらしい。その場の空気をつかむために、誰かが背後から近づいている。なぜそんなことをやらなければならないのか。気配を悟られたくないわけか。だがそこまでやる必要があるのだろうか。何かの障害で動作が限られているのかも知れない。そのロボット的なぎこちない動きには、滑らかさが欠けていて、そこで構成されているぎくしゃくした文章に合っているのかも知れない。しかしその文章は途中まで読んだのだが、近頃は読んでいる暇がなく、読みかけのまま放棄されてしまっている。そこにはどのような意図が介在しているのか。目の前にある書物は、それとは違う思惑を有しているのだろうか。君が何もできないように思われている間に、何とかしなければならような気もしているのだが、心が空虚であることをどこまで推し進められるのか、そんなことを推し進めるのは虚しいだろう。別にそれによって他人を驚かそうとしているわけでもない。だからそれ以上の空虚を求めているわけか。理由になっていないが、それでどうにかなっているわけではない。何も見出せないから、その代わりにわけのわからない文章を構成しているわけか。それ以上に何が見えているのか。誰かはそれらの文章では何も見出せないと述べているらしい。それを正当化しようとは思わない。正当化できるようなことは何一つ述べていないような気がする。ならば否定しなければいけないのか。しかしそれをそのままにして、その先へ言葉を進めていいものかどうか迷うところだが、どこまで続いていってしまうのか。君はそうなることを夢見ていたのかも知れないが、意味をなさないことを述べている現状について、何か説得力のある申し開きができるだろうか。なぜ弁解する必要があるのだろう。それについて弁明の余地は何もないように思われる。何をどう言い訳すればいいのかわかりかねる。わからないからどうにかしようとするらしいが、それがわかっていればどうにもする必要もないか。そんな風に思っている時点で、すでにどうにかなっているのではないか。しかしどうにかなっているとしても、それでいいはずがないように思えるのはどうしてなのだろうか。まだ何も語っているようには思えないからか。それでもそこから語ろうとしているようだ。なぜそこまでやろうとするのか。未来においては失われてしまうものが過去にはあるらしい。しかし過去に回帰することはできない。そこで立ち止まっていても、時は絶えず過ぎ去りつつあるだけなのだから、意識は否応なく未来に向かうしかないだろう。まだ間に合うと思っているのか。だが何に追いつこうとしているわけでもない。追いつこうとして追いつけるものではない。それを見出そうとしているのでもなさそうだ。忘れられない光景を忘れようとしている。誰の意志でそんなことをやっているわけでもない。意志は何ももたらしはしないだろう。君はそれらの文章に内在する欠陥を承知している。それを知りつつもそんなやり方を押し通そうとするのか。気がつけば空虚はそんな段階まで浸食しつつあるようだ。しかしそれを認めてどうするのだろう。そうではないと反論する気力も残っていないのか。たぶんそれではつまらないのだろう。何かを説明しているのかも知れないが、それが説明になっていないように思われる。そんな印象を信じていいのだろうか。そこでやめてしまうのか。やめられると思っているのか。まだ躊躇しているだけの間が残されているのかも知れない。それでも語り続けていることに対して、君には何ができるというのか。現時点でそれをやめさせることなど不可能だ。不可能だがやめさせてもらわなければならないのか。しかしそこから何を見ているのだろう。そこからどこへ行くつもりなのか。どこへも行けないから、そこで何かを語りつつあるのだろうか。それは仕方のないことかも知れない。仕方がないように思いながらも、仕方がないなりに語っている現状があるのだろう。しかし何もないのにまだその先を目指している。それ以上に何をどうすればいいのだろうか。そんな状態に終止符を打つことができるのか。できるとは思っていないから、それ以上にやり続けることにかけているのだろう。他人のやっていることにけちをつけているように思われているのか。だがそのことについて君に意見を述べる権利があるのか。意見もないのに意見を述べているように装うことができるだろうか。実際に意見など何もありはしない。ではなぜそれについて執拗に語り続けているのか。現状を否定しきれていないからか。君は否定すべき現状の中で考え、そうすることしかできない自らについて悩んでいるのかも知れない。なぜそこには何もないのだろうか。そこでは普通ではないことが普通に述べられているだけか。それ以外に何が残っているのか。それらの破綻した文章の所々に雷雨の兆しでも見受けられるだろうか。そこで見出されているのはその程度のものなのか。階段で躓いて何を悟ったわけでもない。何もできないから何を語っているわけでもない。そこにはその場に合わせた気分が示されている。たぶん何の関心も示されないのだろう。なぜそんな風に思うのかわからない。関心を示さない意識は空虚をそのうちに抱え込んでいる。そして現状がつまらないことはわかりきっている。君は世の中に蔓延している嘘を知っている。またそんなことを述べても無駄であることを悟っているのだろうか。それでも言葉によって現状を肯定したいのか。ただその場しのぎでうやむやのままに肯定できるだろうか。そうまでして肯定しなければその先には進めないのか。なぜそうしなければならないのかわからないのに、それでもそうしなければならないと思うのはなぜだろう。それ以外には何もできない現状があるからか。現状では何をどう述べてみても、文章がその先へ進んでいるとは思えない。どうしようもなくそこで言葉が停滞しているようだ。いつまでも同じようなことを繰り返しているような気がする。しかしなぜそんなことを繰り返さなければならないのか。ただ無駄に言葉を費やしている現状をどうしたいのか。どうにもできないからそのままの現状が継続されている。それでいいわけはないが、それをどうすることもできないことも確かなようだ。それでは気に入らないのだろうか。見え透いた予定調和になっている。気に入らないのは当たり前のことだが、どうすれば気に入るようになるかなんてわかるはずもない。ただ闇雲に言葉を繰り出してみてから、その結果として生じた文章を読んでみてから、それを判断する以外にやりようがないのか。


6月23日

 今までとは何が違うのか。それは違うと思う。君はそこから離れられないし逃れられない。だがそんなことを述べて何になるのだろう。それで何を述べているつもりになるのか。何も述べていないようでいて、それでいて何か述べているようでもあるらしい。それでは今まで同じことなのではないか。そこで焦りでも感じているように思われ、たぶんその焦りから急に何か別のことが思い出されて、気休め的に自らが思い違いをしていたことに気づいたりするのかも知れないが、面倒臭いから今はそんな風には思いたくないのだろうか。たぶんそんな思いとは裏腹に面倒臭いことを述べているのだろう。思いたくないのに思っている現実が重荷となって、さらにその地点から身動きがとれなくなっている。それをどうにかできないものか。文章の出だしからそうなってしまったのだから仕方がないだろう。そんなわけで脳みそは相変わらず弛緩しきっている。しかしそう述べても誰の頭の状態を確かめたわけでもない。そんな状態でいったいこれから何について語らなければならないのか。いつものように状況はまた振り出しに戻っている。なぜそういうあやふやな成り行きで話が進行して行くのか。進行していっているのではなく、そこで停滞しているだけでしかない。そうやって自らにわざと嘘をついて、意味のない逡巡を用いながら意識からやる気を削ぎたいのだろうか。結果として何をやろうとしているわけではない。その場での心理状態がなかなか定まらず、絶えずその形が変貌し続ける影は、自らの宿主を求めてせわしなく動き回っているようだが、自らの変化に見合うだけの言葉を見出せず、それに付随しているはずの確実な意味を導き出せずにいるようだ。君の影はそんな説明の言葉とともに存在したいのか。しかも話がわかりやすい内容になることを恐れているのか。そんな心配は取り越し苦労か。何をどう語ろうと君の知ったことではない。そこには内容が何もないかのように装いたいのに、それでも言葉を繰り出そうとするかぎり、そこには何かが生じてしまうわけだから、簡単にはわかりやすくはならないだろう。その場しのぎのいい加減な言葉が適当に連なっているだけであっても、結果的に何かしら語っていることになる。だから今日もそんな途中で放棄された出来損ないの文章を眺めながら、どんな感慨に至ろうとしているわけでもなく、ただ遠くから眺めるだけで、近づいてそこに並べられている言葉の連なりを読む気にはならないが、そこには近寄りがたい雰囲気でも醸し出されているわけもなく、嘘をつくならもう少しマシな嘘をついてほしいが、それで何の話になっているというのか。そんなつまらない疑念を抱くことがわざとらしいのだろう。話の途中でつまらないことに気づいたつもりになるのもわざとらしいか。心のどこかで言葉をまとめようとしているようだ。君はまだあきらめきれずに道に迷っているのか。君以外の誰がそこで彷徨っているのでもない。誰も君が何を眺めているのかわからない。まだ具体的に何を述べているわけでもないように感じられる。それは心の中に巣くう不安の現れだろうか。そんな不安に突き動かされながらも、人にはその人なりにそこまで辿ってきた道筋があるのかも知れない。君はそこからどこへ向かって歩んで行くつもりなのか。もちろんそんなことをわかろうとしているわけでもなく、そう述べながらモラトリアム的に時間稼ぎを繰り返しているだけなのだろう。そして次いでそこでは何が見受けられるかということになる。例えばそれは砂の上に刻まれた小さな痕跡は虫の足跡だろうか。別にそれを実際に見かけたわけではなく、たまたまそこで耳にした英語の曲名から、そんな光景を想像してみただけか。しかしそれは光景でさえなく、現実に存在するCDのジャケットそのものだろう。そこからどう話を飛躍させるつもりなのか。あるいはそこからかけ離れようとしているのか。まだ意識はそんな現状に今ひとつ馴染めないようだが、たぶんそう述べた先に何らかのきっかけがあるのだろう。だがなぜ真夜中にそんなことを述べているのだろう。真夜中と述べている内容に関係はなさそうに思える。そしてそう思いながらもまだ話の内容をつかめていないようだが、君はその話の結末を知っているはずだ。だから依然としてその話の内容を理解しようとしない。前もって結果を知っていれば、そこに至る途中の内容など理解するには及ばないか。ただとりとめもなく余計なことを延々と述べているようにしか感じられないか。結果として生じるそんな思いには、はじめからそれを理解する上で必要な何かが省略されている。理解せずに一方的に決めつけているだけか。なぜそれを知ろうとしないのだろう。知らなくてもいいことを知ろうとしてはいけないのだろうか。なぜそれが知らなくてもいいことだと思われるのだろう。それ以上に何を知っているつもりなのか。それを知っているとしたらどうにかなってしまうのか。すでにどうにかなっているのかも知れないが、知っているという事実を君に押しつける気にはなれない。そこで押しつけられているのは、知っていることを知ろうとしていないかのように装うことであり、それによって文章の引き延ばしが図られているという事実だろうか。そんな風に思えるのはどういうわけなのか、というしらばっくれによってしばしばそれは引き延ばされている。そしてまたそう述べることが、結果的に自己言及になっているようにも思われ、そんな自己言及的な思いよっても、それらの文章は無用に引き延ばされているのだろう。まさにそれについての説明がそれ自身の説明につながって、さらなるモノローグのためのモノローグを形成して、他人の視線をいっさい無視して成り立っている、自分による自分自身のためだけの文章になってしまっているのかも知れない。なぜそうやって他者を遠ざけようとするのか。ただ他人と関わり合いたくないのだろうか。しかし何かを探すには他人に尋ねなければならないだろう。他人の助言なくしては何の探求にもならないのではないか。それを否定することはできない。文章は絶えず他人の文章の模倣から始まり、模倣しながらもその文体は、絶えず他人から別の他人へと移動を繰り返している。それを感知し得ないとしたら、心の中で何かが衰退し続けていることの証となるか。何が衰退で何が証なのかわからない。その辺が意味不明に思われるところかも知れないが、もしかしたら君はそこから浮上する手がかりを探しているのだろうか。なぜそれが手がかりとなるのかわからないのだが、それがわからないままに語り続けながらも、それを知ろうとしているらしく、要するに手探り状態で何かを探しつつ、その探している状態そのものを語っているのかも知れない。しかしそれで何になるというのか。


6月22日

 先端が長く伸びすぎだろうか。そこから言葉が滑り落ちている。それはまるで滝のようか。愚鈍であることは書くことに有利に働くだろうか。今は繊細さの欠片もない。何を考えているのかわからない。ただ闇雲にその先へと言葉をつなげているだけのようだ。もうすでに迷路の外側に出てしまったのかも知れない。そこから中へ入って行けなくなってしまったようだ。言葉はどこにも見あたらない。無が辺りを支配しているように感じられて、それが思い違いであって欲しいのだが、どうやら当たらずとも遠からずの雰囲気に満たされているようだ。言葉以外の何が出てきているのか。何か他に考えられるだろうか。出会いはいつも空疎な気分を醸し出している。まだ何にも出会っていないのではないか。誰がそれらの出会いを準備しているのだろう。どのような感覚に満たされているのだろうか。それに関してまだ何も考えられないのか。折り返し点を通り過ぎていない。何かが途切れているのかも知れない。君は何を考えているのだろう。誰かは金のことをわかっていない。金銭もそれが為替市場などで売り買いされる限り、ひとつの商品には違いない。それ以外に何が売り買いの対象となっているのだろう。商品を商品とは思わない傾向にある。それらの何が商品なのだろう。できうる限り売り買いを長続きさせようとしているらしいが、それはおかしいと思う。日頃の鍛錬が無駄になるか。亀裂を生じさせているのかも知れない。轟音をとどろかせながら空を稲妻が走り去る。それは違う種類の表現か。蒸し暑さに耐えかねて、何をやろうとしているわけでもなく、何もやる気がしないからといって、何が不満なわけでもない。冷房の涼しい風に当たって頭痛がしてくるか。もうしばらくしたらそれは嘘になるだろう。君は程度というものを知らないらしい。だが冷房を切れば蒸し暑さがぶり返してくるだろう。まだ切り抜けられていないようだ。思い込みは思わぬ誤解を招いてしまう。それは思いもしなかった事態に引き込まれているということか。何が何だかわからないのだろうか。わかっていることを述べればいいのではないか。わかっていることはそれとは違うのか。それ以外の何を述べようとしていたのか。それはそれでしかなく、それ以外の何ものでもないから、そんな風になってしまっているのではないだろうか。結局は何も述べていないのにもかかわらず、あやふやなことが述べられている。そこまでやる必要はないのかも知れない。できもしないことをやろうとしているわけではなく、すでにできつつある文章に言葉を付け足していっているだけだろう。仕事に様々な種類があり、安い商品を作り出している現場では、そこで働く者たちに地獄のような毎日を強いている場合もあり得るかも知れない。たぶん世の中が乱れているように感じるのは、糧を得るために働いているその内容が、荒んでいることに起因しているのかも知れない。そんなつまらなくも退屈なことをやりながらも生きて行かなければならないことに、絶望を通り越してあきらめにも至らないような空虚感が漂っているらしい。仕事をやるには夢を詰め込みすぎてしまっているのかも知れない。メディアを通じてもたらされた荒唐無稽な期待や希望が、現実に行っている退屈な仕事との落差を感じさせ、何となくそんな仕事で日々汲々としている自らに、間違っても誇りなど抱きようがない卑屈な感情をもたらしているわけか。自らのやっていることを正当化できるはずもなく、何かに挑戦して敗れ去る以前にすでに敗れ去っているような感覚に囚われ、その挑戦権自体を持ち合わせていないような情けない思いを強いられているのだろうか。そんな思い込みから脱することは現状が許さないだろう。現状を否定することは世の中から否定されることかも知れれない。否定されてしまったらどうやって生きて行けばいいのだろう。生きて行けないから失踪するわけか。その時点ですでに殺されているのかも知れない。殺されて山の中にでも埋められて、そんな事件が明るみに出るまでは日の目を見ることはなく、仮にそれが明らかになったとしても、腐りかけたり白骨化した状態で地中から掘り起こされるに過ぎない。そして掘り起こされたら検死解剖されてから焼かれて灰になるだけか。そんな者たちが日々生産され続けているのだとしたら、そんな生涯のどこに救いを見出せばいいのだろうか。まだ呼吸していた頃は少しは幸せな気分でも持ち合わせていたのか。つかの間の成功を夢見て何をやったというのか。そこにはどんな思い込みが生じていたのだろう。何か気休めをもたらすような出来事に遭遇していたかも知れない。何のせいでそうなってしまったのでもなく、誰のせいでそんな成り行きを経験せざるを得なかったのでもない、と思い込みたいのだろうし、そう思い込んでいなければやって行かれなかったのかも知れない。そしてそれは過去の話ではなく、今現在も進行中の話である場合もありそうだ。そんな繰り返しの上に、それらの犠牲者たちの屍が積み重なった上に、何となくこの世の中が形成されているのだろうか。やはりそれではとりとめもなく漠然としすぎているように思われる。それは狂っているのではあり得ない。それが当たり前のことなのであり、そうなっていることが至って当然の成り行きなのだ。それ以外にはあり得ないと言っても過言ではないのかも知れない。そしてそこにも競争原理が働いていて、勝手に他の者たちを競合し競争していると思い込みながらも、それに勝ち抜いてひとにぎりの成功者しか手に入れることのできない栄光を得るために、日々現実と闘っているつもりでいるらしい。しかし誰がそんなことをやっているのだろう。そうなる以前にそこからふるい落とされてしまった者が大半を占めているような気がするのだが、その闘う権利すら持ち合わせていない者たちは日々何をやっていればいいのか。ひとにぎりの闘うために選ばれた勇者たちを、観客席から眺めていればそれで気が済むのだろうか。何か情けないような気持ちになりはしないか。なぜそんな場所で他人の振る舞いを眺めてそれを楽しんでいるつもりになっているのか。君は騙されているとは感じないのか。税金を取られながら商品を買わされて、それでただ生きているだけではあまりにも馬鹿らしくないか。そんな疑念を抱かせないようにするのが、学校教育をはじめとする大衆の統治に関わってくるごまかし術なのかも知れないが、そこには真に受けるような技術は何もないように思われ、またどんな期待や希望もありはしないと感じられるのだが、いったいそれ以上に何がもたらされているのか。


6月21日

 その時間帯に存在しているつもりの感覚は何を求めているのか。それも何らかのフィクションなのかも知れず、誰かの心の中に気休め以外の何が存在するわけもないのかも知れないが、実際に蒸し暑い夜に蒸し暑さ以外の何を感じるわけもないか。少なくともそんなことを述べたいわけではないのだろう。では何を述べたいとも思わない時間帯に、今そこに存在しているらしい目は、画面に映し出されている文字以外の何を見ているわけでもないのだろうが、それでは気が紛れないらしく、過去の記憶と想像力を混ぜ合わせて、何か幻想でも抱いているつもりなりたいのだろうか。たぶんそれとは別の日付を有する時間帯においては、例えば誰にとっても物珍しそうに思えるような光景が、どこかの球面上に広がっていて、その表面を多額の費用をかけたどこかの国の探査機械がなぞりつつある出来事を、つかの間の映像や画像として興味深く眺めていたかも知れない。しかしそれでは説明が長すぎるだろうか。ただそこで興味を惹くのは言葉ではなく、映像や画像の集合体だと思われるが、そこに映し出されていたそれらの大地は、今のところは誰の思惑も受けつけていないように感じられる。それはここから遠すぎて生身の肉体がたどり着くのが困難だからか。それともそこに人が住んでいないからか。あるいはそこにコンビニがないからだろうか。誰かの思惑が反映されるには何が必要なのだろう。そこに宇宙人でも出現すればその手の商売が成り立つだろうか。中には生命の痕跡を見つけ出したい人もいるだろう。それは絶えず虚しい試みを誘発させる天体なのかも知れない。だがたとえ虚しい結果に終わろうと、誰もがそこへ行きたいと感じる理由は、この世界から構成されているその者の意識が、ただひたすら未知を既知の側におびき寄せようとしているからか。それで何を知ったつもりになれるのだろうか。それについて語ろうとする意識のうちには、今のところ興味深い現象は何も見出されないようだが、ならば想像力の助けを借りて、ありもしない物語をそれらの大地を舞台として構成してみたいか。だがそういうやり方はありふれていて、それをやればやるほどすでに他人の手あかにまみれた試みになってしまうだろう。もはやSFと呼ばれるジャンルは言葉の対象とはなりがたいのかも知れない。なぜそのような試みを拒否してしまうのか。それが過去の遺物だと思われるからだろうか。たとえ遺物であっても興味深い場合もあるだろう。それは根拠の皆無な言いがかりでももたらしているのだろうか。君の意識を拒絶するそれが、君に対して闘争の形態を準備しているをわけでもないだろうが、そうすることによって無意識のうちに相手を打ち負かそうとしているように思われ、意識もないのに無意識もありはしないが、ありふれた幻影の中では、なぜか相手を倒すための武器や技が必要とされるらしい。もちろんいつものように君はそれとこれとは無関係を装いたいのだろうが、それらの登場人物たちがいつも安易な闘いの中にその身を投じていることに、それがあたかも現実から目を逸らすための言い訳として機能しているように思われ、一方でそんな現実を忘れるために物語を求めている、という浅はかな問題設定に対して、まだそれでは言葉が足りないような気がしてくるのだが、真夜中の闇の中で利いた風な言葉に逃げながら、それで何を述べていることにもならないように思われてしまうことについて、そんな疑念のただ中で、おそらく何かが違っているという思いも生じ始めているのだろうか。だがそこで思っていることは君が考えていることではない。そこまでは考える以前にもたらされていることでしかない。たぶんそれでは君が持ち合わせている何を説明していることにもなりはしないだろう。それが君のやり方なのだ。遠くから微かに聞こえているつもりの風の音を聞きながら、だんだんと文章らしくなっていけばそれでいいと思っているだけか。誰かはそこであきらめてしまう。結果的に君とは無関係な文章がそこに構成されていれば、暫定的にそれでよしとしておこう。しかしそれでは未だ内容を知らないことになる。それが何の内容なのか君には知り得ない。それがすべてではないとは思うが、まだその一部を知ったことにもならない。しかしたぶんそれは疑問とはならないだろう。すでに君は何も考えていないし、過去に抱いたどんな思いも捨て去ってしまったのかも知れない。そして何もなくなってしまった空虚な時空から、君の存在を知らぬ言葉の連なりが出現しつつあるのかも知れないが、それらの言葉と言葉の間に何かが抜けているように思われるのはいつものことか。そんな風にまた以前と同じようなことを述べている。とりあえずテレビは報道されつつある事件の現場とは違う場所に設置されているのではないか。場所と時間が無関係であることを知らせているのか。また別の時空の中で気がつけば、無表情な顔が電車の中に並んでいる。それらどう見ても夢見る顔ではないか。彼らは何を見ているのだろう。それらの視線はどこを舞っているのか。視線とつながっている脳は何を思っているのだろう。架空の世界では架空の話に架空の思いが反映されているらしいが、そんな嘘に誰が食指を動かすだろうか。まだその架空の話の内容を述べていないだろう。これから何を述べたらいいのかわからない。では何がわかっているのか。毎度のことのように繰り返されるそういう話の展開には飽きただろうか。かなりうんざりしているのかも知れない。いったい真夜中に何を取り返そうとしているのだろう。どこかで繰り広げられているメロドラマのように、忘れてしまった記憶が都合の良いときに思い出されてほしいのか。偽りの記憶喪失は偽りの事件に利用されるらしい。では空想と妄想の助けを借りて、ありもしない記憶をねつ造してみたいか。それを誰かの頭の中に注入して狂わせたいのか。すでに多くの人々がそれらの幻影によって狂わされているのかも知れない。しかしいったい何に狂っているというのだろう。幻影を売り込んで金銭の亡者と成り果てたいのか。そこまで行かなくても中には趣味に狂う人もいるようだ。何々狂という類は世の中に掃いて捨てるほど生息している。そんな状況がおもしろいと思うか。おもしろければ何をやっても許されるのか。たとえそれが犯罪だとしても大目に見てもらえるかも知れない。そこにはそれ特有の音楽が響き渡っている。要するにそれらのほとんどは紋切り型だと思われるのか。そんな風に語りながら少しずつ終わりに近づいているように思われる。やはりこれからも同じようなことをやらざるを得ないのか。たぶんそこで言葉が繰り返されている。そこからどこへ至ればいいのだろう。まだ途中の段階にとどまっているのだろう。それでは物足りないのだろうか。いったい誰が物足りないと感じているのか。


6月20日

 内容は昨日と同じになってしまうのか。それは無理なのかも知れない。別に言い表せない思いを言葉に記そうとしているわけでもないが、誰かの精神は何かにかぶれているのか。かぶれているつもりの何かを知り得ない。君の立場はどうなってしまうのだろう。何が託されているわけもなさそうに思える。とりあえずそんな語り方はつまらないと思う。それに関して幾分ややこしいことを述べるなら、見る者を何らかの感情の発露へと誘導しようとする意図を鬱陶しく思い、またその場の光景に合わせた何らかの雰囲気を醸し出そうとする演出に嫌気が差して、君はそれらのわざとらしい映像から目を背け、そのとりとめのない物語の山場を構成する場面を素通りして、通り過ぎた先には何もないことに気づき焦りながらも、本当はそんな風に思っているわけではないことを確かめたくなる。確かめる手段などない。さらに語り続けること以外に、何もありはしないだろう。無理を承知でそんなことを述べているわけではない。もう少し肩肘を張らないように心がけるべきか。当然のことながらそんな助言に抗いつつも、必死に気負っているわけではないと思い込もうとしているようだ。そこから先にフィクションでも続いているのだろうか。そうはならないような言葉の緩さが、そのまま淡い思いを醸し出す。意志が薄弱なふりを装う誰かが、何を思っているのか定かでないように語らなければならない。それは冗談でしかないだろう。冗談に逃げてはまずいか。そこで何が驚きをもたらしているのだろうか。何に驚いているわけでもない。記されている言葉は至ってまともに思われ、それらの文章が何に逆らいつつ構成されているとは思えない。ただ今の彼にとっては、気に入らないことは山ほどあるらしい。しかし彼自身がそう思っているのではなく、彼について語っているつもりの誰かもそうは思わないだろう。彼は何を語ろうとしているのか。彼が語ろうとしているわけではない。その目はブラインド越しに見え隠れする赤い月を見ているつもりのようだが、そんな現実の光景がフィクションを拒絶できるだろうか。わざとそんなことを述べているようだ。なぜ世界は君を無視するのか。それが世界だとは思えない。君自身はそんな風に思っているのではないのかも知れない。やはりまだ何か物足りないような気がしてくる。それが気のせいであることは承知しているが、気晴らしにそこで聴いている音楽は、それ以外の何を想像させるのか。連想する光景とそれについて述べている動作がマッチしていない。君はそれに関してどんな文章を構成しようとしているのか。常套句的なありふれた言葉の連なりに、何をどう思えばいいのだろう。ドラマの中では犯人はまだそんなに遠くへ逃げてはいないはずか。そう述べている時点で偽りの逃亡者は君自身となるだろう。偶然に聴いているシェーンベルクの退屈な音楽をどう解釈すべきか。削除した方が気が休まるだろうか。何をどう解釈したらいいのだろう。そんな決まり文句を意識は見捨てようとしているのだろうか。そのとき君はありふれたことが起こる瞬間を見逃しているが、それでも何を思っているわけでもないと思いたい。それがそこでの決まり文句になるらしい。そこから遠ざかりたいからそれとは違うことを述べようとしているわけか。例えば昼の空は白く光っていたように思えた。覆っている雲が薄いのだろうか。それに気づいた時にはそんなことかと思う。遠くから微かに雷の鳴る音が聞こえてくる。蒸し暑さはにわか雨でももたらすのだろうか。すでに雨が降ってきたようだ。気まぐれに雨を降らしながら、神は何を待っているのだろう。雨乞いの儀式を待っているわけにはいかないのか。奇をてらうのはわざとらしい。だが自然と言葉が連なるのを待ち続けることなどできはしない。神は気が短いらしい。それからどれほど時が経ったのか。結果的に何を待っていたわけではないことになる。待つことは空振りに終わってしまったらしい。そのときとは状況が一変してしまったのだろうか。何が様変わりしているのか。何を恐れているのだろう。またその先に何を述べようと無駄に思われてくる。明確な目的は何もない。自己を見失っているのは悪いことではない。自己などどこにもありはしない、と思うのはおかしなことではなく、そこに自意識があると思われるのは、学校教育がもたらした思い過ごしに過ぎないだろう。しかしそんな風に述べて何を挑発しているつもりなのか。本気にはなれないような気がしてくる。次第にそこから興味が離れていってしまう。そんな風に述べれば述べるほど、その述べている現実から遠ざかろうとしてしまう。まだ生きることに意味を求めているのだろうか。考えがそこまで及ばないのかも知れない。明日は晴れるだろう。何を予想しているわけでもない。君はそれを見てしまったわけではない。神は明日の光景を思い描いている。未来には無責任さがつきまとう。そこに神など存在しているはずがないか。そこがどこなのか誰にわかりようもない。そんな風に語りたいのかも知れない。まだ君が語りたいことがそこに出てきていないはずか。だからそことはどこなのか。まるで千日手のような展開を望んでいるのだろうか。少なくとも望んでいるのは神の出現ではない。ではそれらの語りが空虚に満たされることを望んでいるのか。いつか語ったような内容を袋小路におびき寄せているつもりのようだ。しかし何がそこでの罠として機能しているのだろう。赤い月が窓の端から反対側の端へと移動し続けている。まだそれほど時間は経っていないと思うが、君はそれとは違うことを思っているのだろうか。まだ機会を逃してはいないように思われるらしい。だから無駄ではないような気がするのか。なぜそう思って差し支えないのだろうか。言葉が死んでいるわけではない。まだ何かを説明したいらしい。すでに部外者には無駄だと思われるのに、文章の内部では誰かが希望を捨てていないようだ。この期に及んでまだ何かを説明できると思っている。できることならそれは明日へ後回しにできないものか。もういい加減にくたびれた頃か。君の思いとは裏腹に、言葉は何を示しているのでもないらしい。もうそれを説明する余地が残されていないようだ。君はそこで挫折したいのか。なぜこの世界の本質を言葉で説明できないのだろう。説明しようとすれば虚無が嘘を呼び込んで、文章的に収拾がつかなくなり、その周りを取り巻いている世界から遠ざかり、そこに生じている迷いがどこへ突き抜けることできず、何を述べているわけでもないような無秩序を装う混乱とともに、実態としてはただの自己言及を招いているだけなのか。


6月19日

 なぜ人は争い戦うのか。そんな問いに答えようとしているわけではない。すべては散り散りの断片であり、決してひとつにまとまることはない。時折それをまとめ上げようとする者が出現して、その者が醸し出す不可思議な作用によってまとまったと勘違いするだけか。それは悪い意味で詐欺と呼ばれる現象だろうか。それによって幸せを感じている人々は、その勘違いに甘んじていればいいのかも知れないが、それを信じられない者は不幸になるだけだろうか。君はまたおかしなことを述べようとしている。想像力が構成するカンバスには、色鮮やかな絵の具がしたたり落ちているようで、放っておけばすぐにでもそれに付随している誰かによって、きれいな風景が描き上げられるような錯覚を抱いているらしいが、なぜ現実にはそれが絵にならないのか。稚拙な技量しか持ち合わせていない素人が何を描こうと、そんなものに美術的な価値が宿るはずもない。なぜ君はそうやって人のやる気をくじくようなことを述べるのか。いくら描いてみても、確かにそれは実体の伴わぬ、見果てぬ夢以外の何ものでもないだろうが、自己満足の領域ではそうではないらしい。君に逆らいながら君自身はつまらぬ現実をはね除けて、そうなることを頑なに信じている。では客観性を装う誰かの視線は、そこで何をあきらめようとしているのか。破れた夢の中に過去の意識が取り残されているように思われ、君にとってそれは意味をなさないものかも知れないが、なぜそれで終わりとはならないのだろう。疲労が蓄積していて、終わりまでたどり着けないのだろうか。そんなわけで今のところはまだ、文章のねつ造が続いているようだ。しかもそこにはかろうじて何かが見出されている。まるで接ぎ木のように言葉に別の言葉をつなげながら、自らの文章を生きながらえさせている意識は、それが自由だと思っているわけか。しかしそこで自由が話のオチになることはなさそうだ。あるとき昼の明るい部屋の中で生じた空想的な過去も未来も、今ではそれについて説明しようとする意志とともに、閉じた閉塞空間の中に囚われているらしい。そこから外へ出られないことから生じるストレスによって、思考も想像力も衰弱しつつあるようだ。それが現実ではないことはいうまでもない。そして文法的にはそこで否定が連続しているそうだ。君は不吉な予感を感じたことがあるだろうか。君はいかなるきっかけからそんな認識に達し得たのか。だが唐突にそんなことはどうでもいいことだと思いたくなってくる。音楽の前ではすべての言葉は敗れ去るのみか。言葉は何を否定しつつあったのだろうか。君とは別の意識は、何やらそこに物語の断片らしきものを見出しつつあるらしいが、今ではそれは誰の意見となっているのだろう。いつかそこに登場しかけた偽りの精神科医は、誰の自己について語っていたわけではない。そのとき君は無駄だと悟りつつも、何に対して頑なに自己主張を展開していたのか。どんなに詳しく説明しようと逆効果であり、常に患者が自分自身であることは承伏しかねるようだが、狂気の同僚によって下された診断結果を記述した文章の内容が、どこまで本気なのかわかりかねるらしい。たぶん君がそんなことを述べているのではない。怖くなって気の迷いから繰り出された戯れ言をすぐに取り下げて、それで安易に気を取り直したつもりになって、意識をそこから意図的に遠ざけながら、その代わりに気休めにとりとめもないことを思っているふりを装う。だが意識の中では誰がそれを装うつもりもない。その人の意識の中では複数の人格が分裂状態にあるらしく、文字によって写し取られた夢が、その中の誰から生じたのかわかりようもない。それは嘘なのだろう。たぶん現実はそれ以外のところにあるのだろう。そんな風に思い込みたいらしい。そんな思い込みが障害となって、現状ではそこから先に言葉を連ねるのに苦労しているのだろうか。それでも何かを語っているつもりになれるだろう。そこから意識と目を転じてみれば、テレビ画面上に映っている蛇は、人のおかげで獲物を逃してしまったらしい。そこに人と蛇との因果が生じている。少なくとも蛇に飲み込まれてしまう事態が残酷に感じられるのだろう。そんな感情が獣の気配を遠ざけ、獣の死滅を夢想させるのかも知れない。だが蛇は獣以下の存在か。蛇を食らうのが獣なら、時として人も獣に回帰できるだろう。しかし蛇と獣と人を隔てている境界は、人が策定している幻想に過ぎない。そんな自作自演の愚かさが人という概念を形成しているらしい。そしてそんな風に思ってしまうと、またさらに気が遠くなったような感覚を得られるだろうか。それこそが単なる気のせいなのだろうか。ついさっきまで長い間テレビを見続けていたように思う。しかしそこで誰が迷っているのでもない。さっさとテレビ画面をのぞき込んでいる視線を見捨てて、それとは無関係な作業を再開しなければならない。またどこかで彷徨うつもりなのか。意識は過去にどこかで漂泊の時を過ごしたことがあると思い込んでいる。行ったこともない土地で何をやっているつもりになれるというのか。例えば目の前にあると思い込んでいる鍾乳石は湿っていて、紙の表面に貼り付いている鍾乳洞は湿度が高いらしい。紙の表面に水滴が落ちているように思われるわけか。またさらにそこに記したつもりの文字が滲んでいるような気になる。そこで作り話の中の登場人物は何をやっているつもりなのだろう。それらの言葉はわざとらしく迷っている風を装う。それをやるべきかやめるべきか、今の意識はどちらへ傾いているのだろうか。夜の闇の中にとどまりたいのか、あるいは昼の光の中に踏み出したいのか。そんな夜と昼の稜線から、どちらかの斜面を滑り降りて、そこに付け足された架空の身は、嘘っぽく屋根から転げ落ちている最中に、話がややこしくなってきたように思い、また内容的に文章が破綻を来していることに気づくだろうか。それでも外では雨が降っているらしい。そこで当然のことながら、雨とそれらの荒唐無稽な作り話は何の関係もありはしないが、そこでそう述べる意図が、それを述べている自分でもわからない。何がそれでも雨が降っているなのか。そこに何か思いもしないような思惑でもあるのだろうか。それがわからないと嘘でもついて時間稼ぎをしているわけか。何のための時間稼ぎなのだろう。それは雨のことではない。それとは何だろう。それが何でもかまわないとすれば、雨でもかまわないだろうか。現実に雨が降っている。たぶんそれは現実の出来事なのだろう。その他に余計なフィクションが多すぎるようだが、ただ外で雨が降っているだけでは物足りないらしい。


6月18日

 不意に目の前を蠅が通り過ぎる。そんなことはどうでもいいことだろう。湿気を含んで空気が重たくなっているようだ。空気の重さを感知できるだろうか。そういう測定器があるだろうか。何を妥協すればいいのだろう。まだ何も述べていないのに、今さら何をどう述べてみても無駄に思われるのはなぜなのか。すでに何かしら述べているのではないか。その程度では物足りないと感じているようだ。そこに限界が生じていることは分かっている。そんなやり方ではだめだということも分かりきっている。分かりきっていながら、なぜそれをやめようとしないのか。分かっていながら他にどうすることもできないことも分かりきっている。そんなことを分かりきっているはずもないか。何も分かっていないのに、分かりきっていると嘘をついているだけか。たぶんその辺に限界があるのだろう。なぜかそうなってしまうらしい。どこへも行き着かない話はつまらないか。何かの拍子にどこかに行き着いてしまえば、そこで終わりとなってしまうではないか。終わってしまうことを恐れているのだろうか。その辺の煮えきらなさがあやふやで中途半端に感じられるのだろうか。ではそこからどうすればいいのだろう。何か違う言葉を添加できるだろうか。しかし言葉はすべて同じだ。そこには言葉以外の何が混ぜ合わされているわけでもない。そこでどんなことが述べられていようと、それはただの文章でしかないだろう。そこから抜け出すことなど不可能だ。君は文章の中に連ねられている言葉と言葉の間から、外へ出ようとしているのか。次元が違うだろう。そんな表現はおかしいとは思わないか。何となくそこから何かを感じ始める。突然体中が痒くなる。言葉もその種類によってアレルギー反応が出るのだろうか。君はそんな嘘によって何を言い表そうとしているのか。言葉では言い表せない現象を文章の中に出現させようとしているのか。だからそんなことは不可能だと述べたばかりではないか。いったい今日は何を述べるつもりだったのか。エイドリアン・ブリューの壊れた音楽が聞こえてくる。曲順的にはそろそろ出る頃だったのか。その先が見えてこないようだ。まだ昨日のことが思い出せないのだろうか。昨日は昨日で、その時間帯に何があったとしても、一夜明ければいつもの曇り空に巡り会う。空を見上げながら何も思わないのは不満だろうか。そこに何が残っているのか。昨日との連続性を保とうとしているのなら、翌日の天候を昨日の出来事に関連づけるのはおかしいか。それもひとつのやり方なのかも知れない。曇り空に飽きたなら晴れている日を思い出してみればいい。思い出せなければ空想してみよう。それでどうなるわけでもないが、はじめからそうではないことは承知していて、わざとそんなどうでもいいようなことを述べているだけなのかも知れない。そこに他意はなさそうだ。できすぎた感動話には吐き気を催す。何が君の上昇を阻んでいるのだろう。雲は厚みを増してきて、いつ雨が降り出しても不思議はないが、それがどうしたわけでもないと感じるのは当然のことだろうが、そんな雲行きから他に何がもたらされようと、やはりそれがどうしたわけでもない。ただそんな成り行きによって、長すぎる段落と時期的には梅雨時の雨がもたらされるだろう。それ以外に到達可能な地点などありはしないか。そんな戯れ言の何もかもが吹き飛ばされてしまうような嵐の夜など永久にやってきそうもない。だがそんなつまらない状況の中で、息を潜めて何かの到来を待ち続けている。またいつもの思わせぶりで時間稼ぎをしているらしい。そう述べて何に腐心しているつもりなのか。あるいは心配しているわけではないと強がってみたいのか。しかしそんな文章の内容ではおかしいだろうか。そこでは何が反復され続けているのだろうか。未だに靖国神社に参拝するのしないのが問題となっていること自体、かなり滑稽な状況なのかもしれない。いったいそれはいつの時代の話なのか。まさか今から百年経ってもそんなことをやっている人がいるのだろうか。そこで過ぎ去ろうとしているのは、時間だけではないような気がするのだが、他に何が過ぎ去ろうとしているのか分からない。それは時間に関係する何かか。それをどのような言葉で言い表せばいいのか分からない。ただそんなことではないような気がしているだけか。そんなことを唐突に述べるつもりなどさらさらなかった。たぶんそれは違うのだろう。たまには気分転換が必要なのかも知れない。気分転換で気が済むようなことなのか。中にはそれに関して、冗談では済まされないようなことをやろうとしている人もいるのだろう。しかしそれらの過激さには退屈な紋切り型がつきまとう。ところでさっきまで何を述べようとしていたのか。何かを語ることをあきらめなければならないのか。心から苛立ちの感情を取り除くことはできない。だが何もできないわけではないだろう。そんな言葉遣いがそもそもおかしいのだろうか。それは話し言葉として通用しない。そんな言葉を聞きたくはない。そのときの印象を言葉で表すことはできない。大衆文化はいつか忘れ去られる運命と引き替えにして、相対的に多額な金銭を享受しているわけか。それで身も心も豊かになったつもりになれる。誰もが忘れてはいけないのはそんなことなのか。そんなこととはどんなことなのだろう。君は言葉の連なり具合を鑑賞するためにわざと入り組ませている。はたしてそれでいいのだろうか。それを見聞して何かを表面的に知ったつもりになり、そんな心境からどこを経巡って何を受け取ろうとしているのか。何か無駄で無益なことやものを、まるで宝石のように珍重しているのかも知れず、捨てられたゴミを拾い集めて、何かをやっているつもりなのだろうが、そこから持ち帰ろうとしているものは、本当にすべてゴミなのだろうか。述べ始めてから時間がかなり経っているようだ。たとえそれがゴミであったとしても、その中に含まれている何かに感動せざるを得ないか。感動とは何だろう。感動するからその対象が美しかったり力強かったりするのか。誰かは美や力と感動の結びつきに疑念を抱いている。たぶんそこには何もありはしない。人々はそこに何かがあるように思い込んでいる。その何かに意味がなければ、それはおかしいことなのだろうか。例えばスポーツには意味がないのでおかしいと思うか。意味などいくらでも付け加えることが可能だろうが、いくら付け加えても無駄かも知れない。言葉には何も宿らない。そこに意味を宿らせようとしてはいけない。それがなぜかは知らないが、意味や意義が生きる支えとなっている人はみすぼらしく見える。


6月17日

 誰がそこで踊っているのだろう。それは今の君の姿ではない。その容貌は数十年前のものだ。誰を見てそう思うのか。それは誰の写真なのだろう。誰かの若かりし頃の映像に驚いているのは君ではない。知りたくもないことを知ったつもりになって、憤慨しているわけでもない。いったい何に踊らされているというのか。誰がそこで何を説明しているのか知らないが、その混乱状態からどうやって逃げ出せたのだろうか。今さら他人の寿命など知りたくはない。ところで君は数年前には何を思っていたのだろう。そこに至る過程で何が省略されているのか。そこには何が映し出されているのだろうか。過去のどこかで偶然に見いだされた時は、いい加減にねつ造されたフィクションの中にある。だが疑問を感じるのはその瞬間ではない。今の君にそんなわざとらしい物語など要りはしないが、確か過去の物語の中では、誰かが石畳の通りで敷石の境目に躓き、そのよろめいた瞬間に何を悟ったというのだろう。それはつまらない悟りに違いない。ただのつまらない出来事が積み重なっているだけか。君はそれからかなり後になって、そんなつまらないことを思いだしたのか。だが君の物語はそれからどうなったのか。わけのわからない成り行きの末に、かろうじて立ち直りかけてから、ふとした拍子にどんな光景を目にしたと思ったのか。それを後から詳細に検討してみると、それは誰かの裏切りに思えるらしい。だがそんなことは今の気には関係のないことだ。肌寒い冬の日に、曇り空からふり降りてきた悲しみに逆らって、誰かは見たこともない幻影の姿を思い描いたつもりになる。それ以外にどんな荒唐無稽な光景も妄想できると思いこむ。そんなのは嘘に決まっているが、正気と狂気の境目から何が出現するわけもないだろう。昔と今とでは状況がかなり異なるが、今も昔も不完全な言葉のただ中に意識があるらしい。昔の幻影を思い出すまでもなく、今ではすっかりその心象風景が様変わりしてしまったらしいが、それらの文章の中では、それがいつの話なのか定かではないことは変わりない。確かに昔は何かを悟りつつあった時期もあったらしいが、今では悟り自体が消え失せている。それについて何も話さない期間が長引き、そんなどうでもいいような紆余曲折を尻目に、他の誰かによって語り継がれてきたつもりの物語に、自分のうちにはない輝きを認めざるを得なくなり、怠惰にかまけた意識による、いい加減な言語表現の繰り返しから生じているそれらの文章が、何か途方もない負債を背負っているような気になる。その取り返しのつかないマイナスを、どうやってプラスに転じようとしているのか。もはや手遅れなのだろうか。まだ受け入れられない事態を迎えつつあるわけでもないだろう。しかし当時はまだそうすることに必然性があると思っていたようだが、今となってはそれが単なる思い違いだったと認めざるを得ないか。ならば今さら何をどうすればいいのだろう。どこにそれに対する返答を期待できるだろうか。去りゆく時間は何も語らない。時間はただの時間であって、過去とは無縁を装う時間の意識が、ただ過ぎ去るだけの別の時間に抗って、何を語ろうとしているわけでもないし、そのほかに誰が何を語っているわけでもないだろう。だがそれでうまくいっている、と思いこもうとしているわけでもない。ただそう思っているだけで、無理に何を思いこむ必要などありはしないのか。そんな風に思っているふりをしているだけなのかもしれないが、何を思っているのか相変わらず明らかではない。それはかなりおかしな事態か。何かそれらの意味不明に対するいいわけはないだろうか。流れ去る時間に取り残された過去の意識は、次第に記憶から消え去りながらも何を語っていたのだろう。今も何かしら語っている。確かに語っているが、すでに終わっているのかもしれない。誰からも見向きもされないような過去を表出することが、それをまともな文章に作り替える上で、有効に機能するはずもないか。ではどうでもいいような過去を消し去りながら、明日は何を思うのか。明日の記憶など今このときに存在するはずもない。まだ明日の風景にとけ込むには早すぎるだろうか。そういうことではなく、単に述べていることの意味がわからなくなっているだけか。だからさらなる無駄な言葉が導き出され、黄昏色に染まった空を見上げながら、そのほかに何が顕在化しているのか見極められない。それも違うと思われる。それはここから遠く隔たった空の下に出現しているのかもしれない。残念ながらそれも嘘だろう。またいつもの幻影について語りたくなったのか。それ以外に何があるというのか。周りを見渡せば何が出てくるだろうか。静けさが四方の壁からにじみ出てくるような、奥行きのある空間に囲まれている。透明な空気が辺りを漂っている。そんな風に感じられるように、言葉を選んで述べなければならないだろうか。最初から躓いているのはいつものことか。何に躓かされているのか。空気を読んでいないような気がする。それはその場に漂っている空気ではないが、それで何をしくじったわけでもない。誰を見てものをいっているのか。自己主張はどこからどこまで行き渡っているのか。問題がどこにあるというのか。誰がそこで利用されているのだろうか。本当にやりたいことがどこにあるのだろう。それは嘘かもしれない。嘘であったらおもしろいだろうか。わざとらしい演技の先には感動がある。感動の源泉には何かがつきものなのだろう。それは皮肉だろうか。皮肉だけではあまりにも哀しすぎるか。それはあいにくなことか。おあいにくさまなのは君の方かもしれない。話的には立ち直りが早すぎるだろう。早すぎるだけで遅すぎはしないか。いい加減な逆説にはもうこりごりだろうか。それにうんざりしているのは君ではない。嘘は君の方を向いているわけではない。嘘はすでに立ち直っているようで、それがただの嘘になろうとしているらしい。雨が降ってきたのかもしれない。それは影ではない。夜景はどこから見たら美しい勘違いになるだろうか。何が反面教師の役割を担えるのだろう。それらのどこに利害関係が生じているのか。それでも誰かはいつものようにおかしなことを述べている。物語的な話の筋が欠けている。何に抗っているのか。珍奇なことばかり述べるような成り行きに従っているだけか。たぶん誰かは昨夜の思いを忘れている。大げさな感動は一夜明ければ何とも思わないようになる。


6月16日

 これから何かやらなければならない義務でもあるのか。誰かは不機嫌なのか。だが何を強制されているわけでもないだろう。重荷を背負っているわけでもない。その場の気まぐれでくだらぬことを述べているらしい。それがいつものやり方なのだろう。出だしがぎこちない。ぎこちないのもいつものことか。揺れ動く心に宿っているはずの迷いを、どんな言葉で表現することもできず、絶えずいいわけまじりにそれとは別のことを述べようとしている。なぜそうなってしまうのかはわかっている。そんなのは嘘で、迷いなど何もありはしない。そんなせりふを期待していたわけではない。そうやって記された内容を否定したいだけのようだ。絶えずそうではないと思いたいのか。ならばそこからどこへ行けばいいのだろう。それ以上はどこへも行けないとしたら、いつまでも前言を否定し続けることしかできないのだろうか。否定しながらわざとらしく語りを長引かせている。そんな現実は受け入れがたいか。しかしそこからどこへ行っても結果は同じだ。できればそんな常套手段には見切りをつけたいところだが、それで何がどうなっているわけでもないらしい。その辺の語りが意味不明のようだ。またカフェインの助けを借りて語り続けようとしているのか。どんなに思い通りにいこうと、人の感情はとどまることを知らない。そのままではいられずに、どこへ行こうとしているのだろうか。いつの間にか和解することなどあり得ないような状況に追い込まれている。だからそれを忘れようとしているわけか。いやなことは水に流して一件落着を装いたいのか。たとえそうなってしまっても、やはりそこから何がどうなるわけでもないのだろう。どうしようもなくしがらみがまとわりついて離れない。そんな状態で誰が何をどうしようと思っているのか。どうにもできそうにないから、人は悩み苦しむわけか。それでもどうにかしようとするのだろう。そしてそんな思いなど簡単に受け流されてしまうような事態に遭遇して、さらに悩み苦しみ、そしてまたそんな煩悶とは関係のないところで、それらの事態は思いがけない方向へと進行してしまうだろう。おまえが何をやろうと認めるわけにはいかぬ。たとえそれが世のため人のために役立とうと、そんなものはすべて無視だ。おまえなどこの世の中にはいないも同然なのだ。無視されてしかるべき立場であることをわきまえるべきだ。生意気なことを述べる権利などありはしない。偉そうに小難しい言説を繰り出す行為が気に入らない。だからおまえのすべてを無視しよう。おまえは虚無の塊だ。おまえの心は空疎そのものだ。些細なことに目くじらを立て、みみっちい感情を後生大事に保持している。そんなおまえが何を述べているのか。それは勘違いのなせる技か。思わぬきっかけからそれまでの状況が、あらぬ方向へ移り変わってしまうらしい。何をどうやってもどうにもならなかったことが、何かの拍子に流動的に動いてしまい、そこで事態が事前に思い描いていた解決に至る過程を、まったく意に介さないような成り行きを経て、それまでとはかけ離れた様相を呈していることに気づく。なぜそうなってしまったのだろうか。せこい思惑とくだらぬ思いが、予期せぬ出来事によって打ち砕かれる。偶然からもたらされた成り行きに翻弄され、意識を無視して作用する何かの力に太刀打ちできそうもない。それが当たり前のことだと思うことを強要されている。それも冗談だとうそぶいてしまうことができるだろうか。君は本気になれないと思いこみたいのだろう。何とか平常心をねつ造しなければならない。嘘でもいいから嘘をついていると述べようとする。だがそのとき何を想定していたのか忘れてしまうほど、意識はわけのわからない事態の中に投げ込まれている。それがフィクションならおもしろいか。そこから都合良く以前の意識を再構築することなどできはしないか。それをやってみせるのがそれらの意味不明な言説なのだろうか。すでに賽は振られて、それとは別の目が出ているではないか。そんなものは否定してしまえばいい。それで済むなら、それは君の思い通りに事が運んでいるということだ。今こそそんなことは想定内だと強弁しようではないか。おまえに何がわかるというのか。本当にそれらの成り行きがおかしいとは思わないのか。たとえおかしいと思っても何もできはしないだろう。ただそういうことでしかないのかもしれない。そのような状況で浅はかな策を弄しても無駄か。簡単にはねのけられて、結果的に無用な誤解を招いてしまうだけだろうか。では今さら何を述べても無駄なのか。無益な徒労が繰り返されるだけなのだろうか。自らの不徳の致すところなのだろうか。何をトーンダウンしているのだろう。そこから逃げてはだめなのだろう。どのようにも逃げようがないし、逃げても向こうから執拗に追いかけてくる。それこそ向こうの思うつぼだろう。だからそれがどうしたというのだろう。思うつぼだからこそおもしろがっているのだろうか。そこに気休めや気晴らしはないのか。どんなに攻撃を加えようと、それはそれでその程度のことなのかもしれない。何も深刻には考えられない。こちらからはどうにもできないが、それによってこちらがどうにかなってしまうわけでもない。言葉でどうにかしようとする試みには限界があるらしい。言葉は言葉しかもたらさないが、それに抗って幻想を抱いてしまうことが、心身におかしな動作をもたらすのだろうが、それで何を説明していることになるのか。たぶん説明からそらすための言葉が連ねられているのかもしれない。それをわかりやすく説明してしまえばつまらなくなる。説明から遠ざかり、成り行きまかせの意味不明を装っているうちは、誰かの興味をつなぎ止めておくことができるわけか。そこに設定された感情は、うやむやのうちにむき出しにされ、方々へ飛び散り、その飛散の軌跡を言葉で追うことから文章が生じる。しかもそこで誰が何を述べているのでもない。それが嘘だというのなら、たぶんそれは嘘になるだろう。嘘でもかまわないから真実を明かす必要に迫られているわけでもないだろう。


6月15日

 それは何のたとえなのだろう。何かの均衡が崩れている。そこで崩れ落ちているのは何なのか。ビルの外壁でも崩れたのだろうか。そこで養われた知識とともに何かが落下しつつある。誰もがそんなことを知りたいのだろうか。ある特定の日付を割り振られた一日のどこかの時間帯で、誰かがそんな映像を見ていたらしい。そんな話ではつまらないか。それ以前に何を話しているのか理解できない。君は暇をもてあましているのか。暇であるはずもなく、無理に暇を作って誰かを困らせているのかもしれない。そういう行動が理解できない。君はそんな光景を見ているうちにいたたまれなくなってきて、そこから目を転じて外をみれば、眼下には山があり谷があり、その先に平地が広がっている。実際にそんな風景を見たことがあるかもしれない。別にそれがどうしたわけではないが、架空の夢はまだその先に続いてしまいそうだ。目覚めたときに何を覚えているだろう。あるいはそのとき君は何を叫んでいたのか。またあるいは何を思っているのか。おかしな言語表現になっている。退屈を紛らわすために、君の代わりに他の誰かが叫んでいれば好都合か。ある特定の状況下で発せられた叫びは、誰かの狂気を呼び込んでしまうだろうか。虚構の中で発せられた叫びは、そんな状況を意に介さないようで、辺り一帯に不気味なうなり声が鳴り響いてしまう。それを無視してさらに違ったことを述べてしまえるだろうか。そこには間違った記憶が生じているのではないか。それを小手先の変更や修正でごまかすことは無理で、君の力ではどうにもなりそうにないから悩んでいるのか。だがそれで悩んでいることになるだろうか。誰が悩んでいるのか。架空の君を含む意識は何を考えているのだろう。不意に白夜の光景を思い出す。それは違うか。それとこれとは何の関連もなさそうだ。他に何もないから関係のない言葉が連なってしまうのか。はたしてそれでさらなる文章の形成に結びつくのだろうか。その先に言葉を記す理由は何もないように思える。しかし安易に意味不明を装うのは良くないか。今さら苦し紛れの死にものぐるいは通用しない。誰がそう判断しているのだろうか。そしてそれが意味不明に思われるのはどうしてなのか。何が気に入らないのか知らないが、もっと気に入らないことが他にあるのではないか。誰がそう思っているのだろう。それが気に入らないから、ひたすらその気に入らない現状に抗おうとするのだろうか。それは悲しむべきことか。そして悲しむべきことは喜ばしいことに転換できるだろうか。そこで誰かが悲しみに抗っているように感じるのはなぜだろう。それによってどんな現実を覆い隠そうとしているのか。誰が誰に向かって何を問いかけているのだろうか。不在の誰かに何を語りかけようと無駄なのではないか。そのような試みはどこから生じているのだろう。文章には誰の意識が働いているのか。そこには何が出現しているのか。まだそれらの物語は始まったばかりではないのか。何が始まったのか知り得ない。また始まる前にとうの昔に終わってしまったのではないか。話の途中はどこへ行ってしまったのか。途中の語りを省くわけにはいかないが、安易な物語の成り行きをねつ造しても何も始まらないだろう。意識は絶えずそれ以外を求めている。具体的な事物とそれに関する説明が、気の利いた文章で示されるわけがない。そんなことを述べたいわけではなく、そこで何をやろうとしても、やる気は絶えずどこかへ逃げていこうとする。気が抜けてしまうらしい。それは蜃気楼のような幻影だろうか。実体のない幻影は何を期待しているのか。どうなってほしいのだろうか。誰かに期待されていることは承知している。仮想空間でそれは何らかの情報を伴って流通しているらしい。絶えず何が起こることが期待されているのだろうか。だがなぜそれを他の誰かに伝えなければならないのか。この国には情報を伝える者や組織が多すぎるのかもしれない。広告収入を当てにして商売している者ばかりで、それが商品の製造コストに跳ね返ってきているわけか。なぜ彼らは同じような情報を繰り返し伝えなければならないのか。繰り返しているのと同時に、同じようなことをやっている他の者たちと競合して、互いに競争しているわけか。だがそんな情報を受け取ることがそれほど必要なことなのだろうか。ことあるたびにそれを伝えようとするジャーナリズムに、正当な存在意義を割り当てることが可能だろうか。また唐突に何を述べているのだろう。存在意義を必要としない存在が、それを真に受けることのできない言葉とともにどこかに漂っているのか。彼らは誰に向かって何を語りかけているのだろう。自分たちが属している国家の中で暮らしている人々には、どんな情報が必要とされているのだろう。彼らはどのような情報を送り届ける必要性を感じているのか。何を伝える義務があるのだろう。そんなおおざっぱな枠組みの中で、言葉を受け取るに足る対象を捉えるのは不可能だろうか。本当に伝えるべき情報など何もありはしない。その存在意義も理由も定かでないのだから、それらの情報に人々は群がっているように感じるのは思い違いだろう。軽薄な意識にはただ漠然とおもしろそうに思われるだけで、いつも何かを期待させてしまうような宣伝文句にだまされている。そしてそんな状況が進行していけば、中には安易な情報に踊らされて滑稽な行動に及んでしまう人も出てくるだろう。すでにそんな人ばかりが生じているのかもしれない。それが君たちのねらいだったのか。君たちとはどのような人々のことなのだろうか。それがはたしてジャーナリストを指しているのだろうか。それに携わっている誰もが、そんな大げさな呼び名は拒否したいのか。たぶんそれを否定してはいけないのだろう。老人のプライドがそうさせないのだろうか。案外君たちとは誰からも相手にされない人々のことをいうのかもしれない。ならばそれは架空の人々なのだろうか。そんな人々が存在するわけがないか。そんな風に思うこと自体が勘違いなのか。同じような情報を様々なメディアを介して、何度も繰り返して受け取っている君の方がおかしいのか。


6月14日

 そこまでやる必要があるだろうか。どうもしっくりこない。いい加減なことを考えている。他人は何を思っているのだろう。少なくとも誰かは何かを思っている。だがその思っていることが、言葉となり文章を形成するには至らないようだ。そこまでやる必要のない状況の中で生きている人が大半だろうか。そんな風になってしまう前に、また別のことを思っているのではないだろうか。人は絶えず様々なことを思い続けている。中には自らの立場が有利に運ぶように、技巧を弄して言葉を並べている者もいるのかもしれない。手段としてはそんなやり方もありだろうか。それが成功するための手段となっているわけか。君は何によって成功したいのか。現状では何やら成功とは無縁の戯れ言を述べているようだが、そんな分かり切ったことは述べないでほしいか。それを述べているつもりの意識を無視したいか。そこに連ねられている言葉の形式を打ち破って、何か他のことを述べたいのだろう。その過程であわよくば新しい地平に到達したいのか。冗談を述べている場合ではない。また嘘をついているのだろうか。そこに何が省略されているのだろう。とりあえず以前とは違うことを述べているつもりになりたいようだ。本気でそう思っているのではないが、同じようなことばかり述べている現状にうんざりしていることは確かなようだ。それ以外の言説を実現できていないのだから、それはそれで仕方がないことか。わざとそうしているわけではないが、わざとそうしているようにほのめかして、それによって何とか体面を保っていたいのかもしれない。それが浅はかで思慮が足りないことの要因となっているのだろう。ではそんな過ちは早急に是正されなければならないだろうか。それほどの過ちだとは思っていない。もしかしたら誰かはそこに戦術らしきにおいをかぎ取っていて、その後の展開や成り行きに期待したいのか。そこから何かあっと驚く事態にでもなるわけか。それは本当に冗談ではないのだろうか。その辺で何か今ひとつ本気になれない気分が漂っているらしい。またそんなことはどうでもいいと述べて、投げやりな気分でそこから逃げてしまいたくなる。それでその場の空気をつかんでいるつもりなのか。状況の推移に合わせて行動しているつもりなのか。そのまま逃げ切れると思っているのか。何か勘違いをしていないだろうか。そこにどのような戦術や戦略が見受けられるわけでもない。ただ何となく微かな風の流れを感じているのかもしれず、それを利用しようというのでもなく、ただそれをそれとして受け止めたいだけなのかもしれない。そこから自らの思い通りになるとは思えない。今後何かの拍子にどうにかなってしまう事態に陥ろうと、それではそれでそういうことでしかない。そこから何を読み解こうとしているのでもなく、そんな現象を受け流しているつもりになっている。受け流すとはどういうことなのか。何もしないということか。何もしていないわけではないだろう。それ以外には何もできていないのかもしれない。だがそれ以外のそれが何なのかわからない。わからないからわかろうとする。そしてわかろうとしている間はわからないということか。しかしいったんわかったと思ったら、それは勘違いである場合が多いかもしれない。そうやってまた以前と同じことを述べている。何かを繰り返すこと以外にやりようがないのかもしれないが、それではつまらないだろうか。結果としてつまらないと感じる以前の問題として、具体的に何を語れるのというのだろう。何かを語れるかについて語っていてはまずいか。何も語れないのかもしれず、また何を語っている気にもなれない。だがそこから切り返さないとならない。何かを語っているように装うのか。無内容を逆手にとっているつもりなのか。また微妙な状況に入ってゆくようだ。何が微妙なのだろう。過ぎ去った出来事をどう評価したいのか、評価する必要はないのかもしれないが、執拗にそのことについて問いただしたい人がいるようだ。なぜそこまでやらなければならないのか、その動機に何らかの理由が付随しているのかどうか、それを君は知りたいわけか。その考古学的な過去から、現代に通じるどのような事柄が導き出されるのか。それを知ってどうするのだろう。その者が記した書物を読んでみたいか。すでに読んでしまっているのかもしれないが、一度読んだだけでは内容を理解した気になれない。だからまたそれを読もうとしているわけか。それは無駄な年月になり、読み終わろうと途中で挫折しようと、何ももたらされないかもしれない。読むことが書くことの糧となっていることは承知しているつもりだが、なぜそうしなければならないのかわかりかねる。書くことはそれを誰かに読ませることにつながっているわけか。ではそのような一連の営みによって、何がどうなるというのか。ただそこから抜け出られなくなるだけなのではないだろうか。それ以外に何か肯定的な効用を述べることができるだろうか。救済の言葉に導かれてはならないのだろう。何となく救われてはいけないような気がしている。救われないことは不幸なことではない。物事を単純に理解するつもりはない。それで理解したような気にはなれない。我々に必要なのは憎むことではなく愛することなんだ、と簡単に歌ってしまえる人もいるだろう。現実にはそうならないことの方が多いかもしれないが、そうあってほしいと願う人もいるのだろう。なぜ簡単なことが述べられないのだろう。そう述べてしまうと格好が悪いからか。他人の言っていることを鸚鵡返しに述べるわけにはいかないからか。そうではなく、本当にそう述べてしまうことがくだらなく思えてしまうのだろうか。それが気に入らないと感じたら、素直に否定すればいいことか。彼は簡単なことを簡単に歌っている。そんな風に述べる勇気がない君は、他に何も述べられないとを悟りつつも、身の回りに何もないことをつまらなそうに語り始める。それでも何かがあるはずだと思いこみたいのか。何もないところから何を述べているつもりなのか。何もないと思いこんでいること自体が勘違いなのか。


6月13日

 架空の世界で意外な言葉が粘土板に記される。それが現代的な表現なら、Tシャツにくさび形文字が印されることになるだろうか。述べられている意味がわからないが、たぶん意外な言葉はくさび形文字で表されているかもしれない。君には誰かが正気とは思えない妄想を抱いているように思われる。そろそろ正気に戻った方がいい。いつもとは違うことを述べているつもりが、的はずれになっていると思われるが、的がどこにあるというのか。的を意識すればするほど自由な言語表現からはほど遠くなる。それも的はずれな思いの一部になるだろうか。ぎこちなくちぐはぐなことを述べているようだ。障害がありそれを乗り越えなければ、まともなことは何も述べられないのだろうか。まだ精進が足りないのかもしれない。さらに努力と精進を重ねたら、その先はどうなってしまうのか。その道を究めるとはどういうことなのだろう。それがいいことなのかどうか疑問を感じるのはなぜなのか。まだ究めていないからそう感じるのだろうか。道を究めることが本人の自己満足を生み、そこから生じた作品によって他の人々が感動するのだから、それはいいことなのではないか。しかしその道だけで満足すると思うか。別の道もあり得たかもしれない。だが可能性は無用な期待を生むだけで、期待だけでは生きてゆけない。二兎を追う者は一兎も得られずで、何も得られなければ生きてはゆけないから、その中からひとつの道を選び取ってしまい、そればかりをやっていると、中にはそれで大成する者も出てきて、その者があたかもその道を究めたように見えるわけか。だがそれで何か述べているつもりなのか。それでは気に入らないか。具体的にどんなことを究めた者について語りたいのだろう。誰が何を究めたというのか。たぶんそんなことを語りたいわけでもないのだろう。そこで行き詰まってしまい、語るのをあきらめてしまうのか。行き詰まってしまったら、その行き詰まりを解消しなければ、その道を究めたことにはならないか。たとえばいくら現役時代に強かったとしても、テレビ番組の司会者に人間的に未熟だと受け取られたら、相撲道を究めたことにはならないわけか。たぶん人間的に未熟な印象を受けることと相撲道とは別物なのかもしれない。そんなことを述べているうちは、考えが浅はかだと思われても仕方がないだろうか。何を述べようとしているのだろう。自らがつかみ取らなければならない内容とはそんなものなのか。まだ何もつかみ取ってはいないような気がするのだが、ではその間に述べられてきた言葉は何なのか。つかみ取ろうとしている内容とは無関係な言葉の連なりなのだろうか。たぶん何を求めているのでもないし、何も得られないようなことを述べているのだろう。だがそんなことを述べてしまうとやる気をなくすだろう。ではそれに対してつまらない返答を求めているのか。はじめからつまらないと述べてしまうとやはりやり気をなくすか。返す言葉も見つからなくなってしまう。しかし気休めはいらない。心の中では気休めでもいいから、気の利いた言い回しを求めているのだろう。それについてわかっていることはいくらでもありそうだ。それとは何なのかもわかっているつもりか。わかってはいるが、相変わらずそれについては何も述べられないわけか。それは雑草のようなものなのだろう。いくら刈り払ってもそこから生えてくる。あるいは害虫のようなものか。いくら駆除しても執拗に湧いて出てくる。何をやってもいたちごっこになってしまうようだ。そんな現象に何を思えばいいのだろう。何も思わずにはいられないか。それでも何か思っているはずだ。疲れを感じているのかもしれない。決着などつけられるはずがない。いつまでもうんざりするほど続いてしまうのだろう。意識が追いつけるはずもない。取り残されてしまったのかもしれない。すでにそれらの現象は遠く離れてしまっていて、そこで何が述べられているかも定かではないらしい。もう君には関係のないことなのか。浅はかな考えが原因でそうなってしまったのか。それらの何が浅はかに思われるのだろう。少なくとも何も思わないわけではないらしい。何かしら思っているのだろう。ただその思いが文章に反映されないだけか。誰かの思いとは違うことが記されているわけなのか。そんなことを記して何になるのだろう。何かになるのだろう。その何かが何なのかわかるはずもないか。そこから離れられないわけがない。そんな思い込みとは裏腹に、離れようにも離れていく先が見あたらない。行く当てのない彷徨に身をまかせて、どこまでもさまよい歩くわけにもいかなくなり、足の痛さに耐えかねて、その場に腰を下ろす。しゃがみ込んでうずくまり、荒くなった呼吸を整えて、そこからどう立ち直ればいいものか、しばらく考えを巡らしているふりを装うが、何が思い浮かぶわけもなく、それはただの休息にすぎなかったことに気づき、相変わらず何の転機も訪れていないことに落胆してしまうのか。そこから見上げてみれば、いつもの日常の中にいつもの風景が広がっている。そのほかには何もありはしないのだろう。他に何を求めてみても仕方がないのかもしれない。求めようとして何が求まるわけでもない。空虚の他に何が得られるのだろう。何か他に気の利いたものがあるはずか。あるはずのないものを追い求めているのだろうか。なくてはならないものなど、どこにでも転がっているはずか。そんなものを得ようとすること自体が馬鹿らしいか。そんなものとはどんなものなのか。そんなこともわからずにそんなものもないか。それは空気や水のようなものだろうか。それは何かの雰囲気なのかもしれない。ではすでに手に入っているものがそんなものなのか。手に入れたものが期待はずれでがっかりしているわけか。もう無い物ねだりもいい加減にやめてほしいか。何を欲しているのだろう。まだ何か不満があるのだろうか。不満などいくらでもあり、ほしいものなどいくらでもあるのだろう。しかしやはりそんなことはどうでもいいことなのかもしれない。そんなものに気をとられている場合ではないか。


6月12日

 やはりそれはいつものことなのだろうか。誰かは意味のないことを述べているらしい。現実を忘れるために妄想や幻想を抱かないわけにはいかない。現実の世界で生きていることに自信を持てないのだろうか。それがどんな自信なのかわからない。誰が何を自慢しているのか。たとえ疲労困憊していようと満身創痍であるはずがない。ただ感覚がいつもとは少し違っているのかもしれない。画面には現実の光景が映し出されているのに、それが現実だとは思えない。それが現実なのだろう。現実だからこそそれを拒否したいのか。見ることを拒否して音楽を聴いている。気乗りがしないのなら外の風景でも眺めながら音楽を聴いていればいい。だが何となく今はその気になれないようだ。それでもはやりのジャズを聴いている。パリで死んだ画家の絵には希少価値があるらしい。なぜ特定の都市の風景を命がけで描かなければならなかったのか。そこで死ぬほどの思い入れを抱かせるような光景には巡り会えそうもない。光の中にはどんな魔力が秘められているのだろう。魔力は視覚の対象となる事物の中にではなく、それを見ているつもりの意識の中に、狂気として宿っているのだろうか。誰かは狂おしい疼きとともにそれを見ているわけか。ただの虫さされを勘違いしているだけかもしれない。そこから説明が冗談に移行してしまうのか。何を冷ややかな気持ちを利用しながら眺めているのだろう。君はそれらの絵画を馬鹿にしているのか。見る対象が絵画にはなっていないのかもしれない。思い出の中に見てそれについて述べようとする対象があるわけではない。そこには何もないと思いこむことから、どのような対象が浮かび上がってくるのだろうか。目に映っているつもりの何に色彩を感じているのだろう。それが現実からもたらされている感覚だと思いこみたいわけか。現実がなんなのか言葉で説明できるだろうか。何でもないからそれが現実だと思えるのか。何でもないわけがないだろう。では無理矢理何に感動したいのだろう。恣意的に何かを顕揚したいわけか。だがそれが佐伯祐三の絵だなんて思いたくはないか。その手のメディアで取り上げられすぎていて、その名を語ること自体気恥ずかしさを覚えずにはいられなくなる。人物の生涯と絵が物語的に融合しすぎているような気がする。たぶんそれはゴッホやゴーギャンについてもいえるだろう。やはり言葉が理性的に振る舞うことのできる画家は、絵描きの商売が成り立っていて、死ぬ前に名声を勝ち得ていて、ある程度は権威となってしまった人たちに限られそうだ。だがそれがどうしたわけでもない。絵とそれについて述べることの間に、同等の価値や関連を確立しようとしているわけではないし、両者はまるで関係のないことだと見なされてもかまわない。別に絵や画家について語ろうとしているわけではなかったのだろう。その場の雰囲気は文章を読むことによって導かれている。まさかそんな行為によってひねくれた性根をたたき直そうとしているわけでもないか。きっかけをつかむとはそのようなことなのだろうか。それがどのようなきっかけなのかよくわからないが、少なくとも言葉を記し並べ立てるきっかけにはなっているのだろう。つかの間の安らぎを得るためにそうしているのかもしれない。本当に安らいでいるのだろうか。有名な絵画を眺めてそんな思いにとらわれているわけか。そんな思いとこだわりから抜け切れていないようだ。絶えず以前に述べた内容に回帰したいらしい。流動的に逸脱を繰り返しながらも、結局はもといた地点に戻ってきてしまう。そこで何に躓いているのだろうか。なぜそこから降りようとしないのか。降りたくても降りることのできない事情でもあるわけか。それしかないのかもしれない。繰り出そうとする言葉を現状に近づけたい。意識は現状にとどまりたいようだ。別にそこから飛翔したいとは思わないのだろう。しかし現実に存在している事物に言葉が近づいているわけではない。ただ何やらよくわからないことが述べられているだけかもしれない。事物を対象とは見なさないのだろうか。ただそうは思わないだけか。あやふやなまま移ろいゆく気分を、それについて記しているつもりの言葉が、正確に捉え切れていないように思われる。気分と言葉が交わることがあるのだろうか。何かしら説明していることは確かだ。それと同時にわざと間違いやずれを導入している。それもひとつの技術なのか。詐欺ではないのか。詐欺も技術とみなしてかまわないか。たぶん何について述べているつもりもないが、それでも何かについて述べているのだろう。気まぐれにその場の成り行きで絵や画家について述べてしまったらしいが、そこで聴いていた音楽はどこへ行ってしまったのか。まだ何かの曲が流れている。では意識はどこをさまよっているのだろう。さまよっている行程が作品に結実するわけもないか。気がつけばまた利いた風なことを述べている。そんな風に述べながら、その述べている内容を否認しようとする。拒否したくてもできない現状の中で、そうではないと思い込みながら否認を繰り返す。要するに気持ちが空回りを繰り返しているようだ。しかしそんな空回りも認めがたい。だがその認めがたい状況が、それらの否定的な現実を構成しているのではないか。そしてそんなことを述べているうちに行き詰まりと打算が到来する。もうその辺で勘弁してもらいたくなるわけだ。妥協して明日に持ち越してしまおうとするわけだが、明日になればなったで、その続きをやるつもりがなくなってしまうのだろう。それらの言説はいつも中途半端なままに放置され続ける。行き過ぎと物足りなさを醸し出して、誰かの嫌気を誘っているのかもしれない。そこまで述べる必要はないだろうとも思う。だがそれでもとどまることを知らない衝動に突き動かされながら、そんなことをやり続ける気になれるだろうか。死ぬまでそれをやり通すつもりなのか。いったい誰に向かって問いかけているのか。それはいつもの冗談に行き着いてしまうのかもしれない。そんなことはどうでもいいことだと虚勢を張る気になってしまうわけか。それでは予定調和か。


6月11日

 誰かが曇り空の下でつぶやいている。もうそんな作り話を語ることには飽きてしまった。しかし誰が倦怠感を抱いていようと、まだそこには話の断片すらねつ造されていない。それを放置し続ければ、何も記されていない真っ白な平面が眼前に迫り来るようになる。誰かの強迫観念がそんな光景を妄想させるらしい。しかし何の恐怖も感じられないのはどうしたことか。まだ苦悩が足りないわけか。いくら悩み苦しもうと、何がもたらされるわけもなく、そんなことにこだわっているうちに、無駄に歳月が流れ去るだけか。そんなことに気がつく前に、寿命が尽きて死んでしまうだろう。どんなに言葉を並べてみても、悲惨な状況は変わらない。ところで語るきっかけはもうつかんだのか。これ以上どうなるきっかけが必要なのだろうか。なぜそんなところから語ろうとしているのだろう。無理なのではないか。現に記された言葉を別の言葉でつなげて、意味の通る文章にすることができずに、頭の中が混乱の極みに達しているようだが、たとえばそこから上昇するきっかけなどあり得るのか。上昇するとはどういうことなのか。上昇する以前に迷路から抜け出なければならない。しかし迷路がどこにあるのか。目の前には真っ白な画面以外に何もありはしない。それは嘘だろう。気を取り直して画面をのぞき込んでみると、画面には何かの模様が映っているようで、それをよく見ているうちに、そこにはおびただしい数の小さな言葉が果てしなく連なっているように感じられる。そんな思いこみによって上昇できるだろうか。ただ漠然と今よりいくらか状況が良くなることを期待しているわけか。良くなるきっかけが何もないのに期待しても仕方がないか。確かに安易な期待は、期待として機能しないかもしれないが、とりあえず今より良くなることを信じたいのだろう。そうなるように願っているわけか。本当にそれを信じているのだろうか。信じていないのにそれを受け入れるわけにはいかないか。そんなことはなく、たとえ受け入れられなくても信じることは可能かもしれない。気休めに良くなることを期待してる。そしてそのついでに、誰かのひねくれた期待が裏切られることも期待している。これ以上破滅を呼び込むわけにはないか。だがいつの間にかそんなことを述べている誰かは、いつ自らの滑稽さに気づくのだろうか。それを述べている誰かの声がかれているのかもしれない。なぜそれを演じているのだろう。演じているつもりなのだろう。ただ混乱に拍車がかかっているように思われる。そんな意味不明に対するいいわけはもう通用しないように思われるが、中にはそのしゃがれた声に魅力を感じる人もいるらしい。しかし誰の声でもないだろう。声ではなく言葉にすぎない。君はそれが気に入らないのか。気に入らないが、問題は常に空虚の彼方からこちらへ投げ返されてくる。誰が何を投げたのか、小石がどこかに飛んでゆく。水をはじいて何度か飛び跳ねる。河原で何をやっているのだろう。意識は何を求めているのか。そんな気まぐれに差し挟まれた記憶は、文章の中で有効には機能しないだろう。そんな作り話では満足できないわけか。満足するしないの話ではなく、はじめから話が破綻しているだけか。たぶん明日になればそこで語られていた何を覚えているわけでもない。覚えているのは慣習的な動作といつもの語り口だけか。あやふやなことを述べようとするとすぐに行き詰まり、話のはじめから躓いているように思われ、それをやり通せるはずがないとも思えてくる。でっち上げようとする物語がどこにも見あたらない。語ろうとしているのはそんなことではないはずだ。結局何を求めていたのかわからなくなる。気がつけば蒸し暑くていらだちを隠せない。いらだっている原因は他のところにもあるらしい。そんなわけで何もかもがうまくいかないと思いたいのだろうか。理由を知りたいか。だがうまくいかない原因を知ってどうするのか。しかし他に何を知ろうとしているつもりなのか。知りたくても知りようがないと思うから、うまくいかないだけだろう。だが君はすでにそれを知っている。すくなとも知りようがないことを知っているつもりのようだ。それではだめなのか。本当に知っているとすれば、その知っていることが障害となって、その先はうまくいくはずがない。その一方で知らないから知ろうとするのであって、知ろうとする限りにおいて、それを知るための努力が継続するのだ。いったんそれを知ってしまったら、そこでお終いなのか。物語は架空の人物がそれを知ろうとする行為のただ中にあり、その終わりにおいて、その人物が知りたがっていた何かが明らかにされる場合が多い。その人物とは誰のことなのだろう。それは河原で小石を投げていた人物のことではなさそうだ。またそれはおまえのことではない。おまえは過去において知りすぎていたらしい。あまりに知りすぎてしまうと、かえってわからなくなるのだろうか。知りすぎた者は消されてしまう。だからかろうじて生きながらえる者は、自らが何を知ろうとしているのかさえわからないのか。何を知ろうとしているかはわかっているつもりらしい。では要するに君は読者なのか。そんなオチではつまらないだろうか。まだオチていないような気がする。話の終わりまで生きながらえる可能性があるのは、読者だけではないだろう。君はまたつまらない役をあてがわれたと思いこんでいる。君をほったらかしにしながら、誰かは執拗にわかりにくいことを述べているつもりらしい。だが君はそれを知っている。知りすぎるほど知っているのかもしれない。だからそうなってしまうことも知っていた。どんなことを知っていたのか。あらかじめそんな結末を予感していたのかもしれない。だからその通りに行動していたのだろう。それが感性の赴くままの行動だったのかは知りようがないが、今となってはそんなことはどうでもいいことかもしれないが、それらの行動をどう評価したらいいのかわかりかねる。今はただ結果だけが提示されているような気がする。しかし結果とは何なのか。それらの惨状は君の行動が招いた結果だったのだろうか。それらの何が惨状なのだろう。悲惨な状況などではないと思いたいのか。たぶんそこで思い違いをしているのだろう。それについて君は何を思っているのだろう。誰かはそうやって言葉の調子に抑揚や強弱をつけているだけだ。そのほかには何もありはしない。何もないかもしれないが、まだ話は終わらないらしい。誰かが終わらせようとしない。


6月10日

 いつの間にか夜明けを通り過ぎて、せわしない鳥の鳴き声と通りを行き交う車の音に、何を感じるでもなく、漠然としているような意識をどこにしまい込むこともできず、そんな何もないすかすかな状態から、空白に言葉を差し挟んで、何を表現しようというのか。何かしら言葉のようなものが繰り出されているのだろう。ただわからないと思う。わかろうとしないからわからないのか。遠くから微かに聞こえてくるざわめきのようなものは、どんな思惑を宿しているのでもないのだろう。はっきりしたことは何もわからない。何をひけらかそうとしているのでもないような気がする。何を読んでいたのか忘れてしまったらしい。忘れるはずのないことを、思い出す必要のない慣習に置き換えようとしているのでもない。安易なことが語られているだろうか。また自然に生じてしまう常套句的な言葉の連なりから逃れようとしているのか。無理をしない方がいい。無理に言葉をこねくり回してわけがわからなくなる。そこでお終いなのか。何と安易な展開をなぞっているのか。耳を澄ませばまだ鳥のさえずりが聞こえてくるはずだ。それに気づかないのは、それに関心の矛先を向けるつもりがないからか。それに関して何がいえるだろうか。続きようがないことをさらに続けるつもりなのか。そこから遠くへゆくつもりはない。すさんだ雰囲気の中に意識があるらしい。そんな風に思えば虚無的になれるだろうか。言葉の意味がわからない。真の言葉はそんなところにはないのだろう。本心ではないと思いたいのか。誰の本心なのかわからないし、何が本心なのかもわからない。ついでに何を述べようとしていたのかも忘れてしまった。そうやって語ることを放棄したように装いながらも、それについて語りつつある現状がある。現状は表現の安易さからもたらされているわけか。テレビドラマの安易さにはかなわないだろう。俳優が病院の屋上でたたずんでいれば、それは飛び降り自殺への懸念を暗示させてしまうわけか。昨晩は何を見ていたのだろうか。何かを見ていたらしいが、それとは無関係に今は何を聴いているのか。ジャズも安易な音楽だろうか。表面的な安易さの中にも厳しさがあるか。何を述べているのでもない。音楽については語り得ないのかもしれない。音楽は本質的には言葉ではなく音で表現されるものだろうか。言葉はどこで表現されているのか。書物の中の言葉をどう解釈すべきなのか。まだそれを読みもしないうちから、その書物の外で宣伝されている内容を鵜呑みにしてはいけないのか。世の中は広告がすべてなのだろうか。何が宣伝されているのだろう。誰かが誰も読まないようなことを記している。たぶん何を伝えようとしているのかわからないのだろう。それでも何も伝わらないとは思いたくないか。何も伝わらなければ言葉を繰り出している意味がない。意味がなければ何を述べてもいいのか。何を述べているわけでもないと解釈される。単調な物言いになっているだろうか。もたらされているのはそんな言葉でしかなく、そんな状態に嫌気が差して、絶えずそこから逸脱しようとしているらしいが、いくら逸れていったつもりでも、気がつけばまた以前と同じようなことを述べているのかもしれない。誰がやっていることも変わりないのだろうか。人々は何に熱狂しているのか。それがおかしいと思われるらしい。観戦用のスポーツに興味がないとはいわせない。それがつまらないわけがないという先入観があるのかもしれない。たぶんいくらかは国家や協賛する企業が介在していて、それを報道するメディアとともに盛り上げているのだろう。たぶんそれが気に入らないわけではない。結局そこから導き出されるのは同胞意識というやつか。そんな陳腐な言葉からは漏れ出てしまうような概念が、スポーツには含まれているだろうか。君にはそれが違うと思われるらしい。何らかの対象に寄りかかることから快楽を得ている人にとっては、心からその対象を応援せざるを得ないのではないか。その感情移入する対象と苦楽をともにしているつもりになって、それに対する熱狂的な応援の度合いに応じて、対象の活動からもたらされた喜ばしい結果によって励まされたような気になる。他人の一時的な成功を喜ぶには、そんな迂回路を通らなければ喜べないわけか。だがそこから刹那的に形成されているように思われる同胞と呼ばれる概念は、何の到来を妨げているのだろうか。スポーツの応援を通して生じる一時的な集団意識よって、そこからバラバラに飛び散ろうとする個人の意識をつなぎ止めているわけか。なぜ飛び散ってゆかなければならないのか。そんな風になる必要も必然性もありはしない。同胞など幻想にすぎない。しかしその幻想を追い求めることから国家が形成されているのかもしれない。現実はそんなところにはないのだろう。君たちはサーカスを見ているのだ。あるいは他人がやっているゲームの画面を野次馬的にのぞき込んでいる。または電車の中で少年漫画雑誌を立ち読みしている。そんな風に述べながらスポーツから遠ざかろうとしている。現実について述べているつもりが、現実から遠く離れてフィクションの闇に飲み込まれようとしている。そしてそれが何かを語っている現実だとも思われてしまう。何を醸し出そうとしているのだろう。君はスポーツそのものについて語っているわけではない。それが集団的な見せ物である限りにおいて、それを見ている人々の間に同胞意識が生まれて当然だろう。そしてその同胞意識を本気にしてはいけないような気がする。その場限りであってほしいと思うわけか。無理に持続させることはないのだろう。誰もが執拗に一体感や臨場感を求めているわけではない。中にはそんなことに夢中になっている人々を冷ややかに見ている人もいるようだ。しかしそんなひねくれた視点を維持継続するのも馬鹿らしい。たぶんそれは楽しい思い出として懐かしんでいればいいことでしかない。後から反省しても何も始まらないだろう。多数のメディアによる集中砲火的な報道が何もかも忘れさせてくれるだろうし、同時に飽きさせてくれる。それでもすがりつけるだろうか。


6月9日

 気がつけばいつもの言説が繰り返されているようで、それらの何を評価すればいいのかわからないが、それは評価以前の問題だろうか。また安易な思考にとらわれているようだ。いい加減なことを述べているらしい。述べた後からうんざりするようなそこを通り抜けないと、まともな言説には到達できないのか。それについて何を反省すればいいのだろう。すでに反省するようなことを述べているのだろうか。何について述べているのだろう。述べているそれはいつもながらの自己言及なのか。君は嘘をついている。君は動揺しているのか。何を述べているのでもないのに、なぜそうなってしまうのだろう。そこからどこに逃げられるわけでもない。それ以上述べるのは無理なんだろうか。無理ならさまよい歩けばいいだろう。都市空間は空虚を醸し出している。それを写真などで見るときれいに思われるのだが、実際に現地を歩いてみると、生まれながらに廃墟となっていることに気づく。人気のまばらな真昼の公園には雑草が生い茂る。育ちきっていない貧弱な樹木の上を高層ビルと曇り空が覆っている。時折吹きつける強風は人工的に作り出されているのだろうか。ビルに行く手を遮られて舞っているだけか。空から舞い降りてくるのは雪ではない。季節的にあり得ないことを述べようとしているのはどういうわけか。精神の集中がとぎれつつあるのかもしれない。以前にもそんなことを述べていた。冗談ではないと思うか。それも以前と同じか。妙に言葉をねじっている。何を選んでいるのだろう。どのようなルールに則って述べているのか。意識は何と共鳴しているのだろう。思想はどこにあるのか。目的が見いだされない。弱さと繊細さは紙一重で接しているわけか。目指している先にはいつも空虚が漂っているらしい。砂漠にも希望があるのだろうか。砂漠の中にオアシスがあるわけか。それは安易でいい加減な希望になるだろう。誰がそれを求めているわけではない。文章の行く末をどう見ているのか。徐々にゆっくりと成長していると思っているのか。人はいくらでもいるらしい。文章を構成しようとする者はいくらでも生まれてくる。仕事がそれであったなら幸いなのか。それが作品となりうるだろうか。結果は後からついてくると思いたいか。ただそうなる理由は何もなく、それらのすべては見放され、遺棄されてしまうのかもしれない。世界の中に埋もれて、見失われてしまうわけか。徹底して悲惨さを醸し出してしまうような雰囲気に近づいている。それを打ち消したいのなら、いつもの嘘をついてみればいい。何の到来を期待しているわけでもないのだろう。世界が自らを終わらせることなどできはしない。世界の先に自らを出現させようとしているわけでもない。具体的な説明は常套句の中に埋め込まれている。過去と縁を切ることなど不可能だろう。そこでさまよい続けているのは君自身ではなく、空虚から生じた言葉の群れか。だが意識から導き出されているのはそんなことではない。そう思いたいだけなのかもしれず、そんな虫のいい話はあり得ないか。努力しなければならないし、少なくとも努力し続けているつもりでいなければ、世の中から見捨てられてしまうだろうか。君は何を見てきたつもりなのか。世の中のどんな現象にとらわれているのだろうか。なぜそこから外へ出ようとしないのか。そこが迷路のただ中だから出ようにも出られないのか。まるでとってつけたような理由か。わざとらしいいいわけのようにも思われる。そこがどこなのかわからない。破滅とはどういうことなのか。それは誰に対する啓示なのだろうか。意識の奥底から何が掘り起こされようとしているのか。朽ち果て薄汚れた過去の残骸が姿を現すだろうか。それを美化するわけにもいかないだろう。世界は君に何をやらせようとしているのか。あるいは何をやらせまいとしているのか。大げさな嘘がどこに転がっているのか。馬鹿げたことを述べている現実が冗談であってほしいか。とぎれてしまいそうな文章の継続をどこまで引っ張ってゆくつもりなのか。たぶんそれについて誰が何を応えてくれるわけもないだろう。作用も反作用もありはしない。あるのはただの空虚ばかりのようだ。そうやっていつまでも余計なことを述べ続けている。それがそこでの現状なのだろうか。現状ではなく理由になるだろうか。どのような理由で語っているつもりなのか。根拠など示す状況ではないだろう。言葉はどんどん意識から離れていってしまう。迷路から見上げれば、遠くにアパートの窓が見える。窓に映っているのは誰の顔だろう。誰がそこから見下ろしているのか。誰が何を見ているのか。花壇の花は雑草に囲まれている。蟻が葉の表面をせわしなく動き回っている。コンクリートに囲まれた川には鴨が泳いでいる。そんなところにも縄張りが張り巡らされているらしい。やはり馬鹿な話だろうか。心に余裕がないと馬鹿な話もままならないが、まだその先があったりするのか。そこは砂漠でも荒野でもなく、ただの市街地にすぎない。大自然は市街地の風景も浸食し続け、そこにじゃまな生物を送り込んでくる。人間はそうやって生かされている。おまえらに生き残る余地はない。余地がないから建物を建てて道路を張り巡らせて、それによって生息領域をかろうじて確保しているわけか。浅ましいのはどちらの方だろう。何に駆り立てられているのか。どこを見ているわけでもなく、視線が定まる気配はない。心は常に移ろいゆき、どこまでも延長されてゆくことを望み、ただ遠くまで行ってみたい、という思いとともに存在したいらしい。公園の噴水に意味を求めようとしないように、それらの言葉の連なりに必然性を付加するわけにはいかないだろうか。どこに結末が想定されているのか。終わりは何を求めているのだろう。どんな言葉が出現すれば終わりになるのだろうか。それを望んでいるわけではない。ただ破滅ではないと思っている。蟻にとっては植木鉢の中が迷路なのかもしれないが、人にとって碁盤上の街路が迷路になるわけがないと思っている。それが思い違いを形成する要因になっているのだろうか。


6月8日

 思い違いはどこから生じているのだろうか。なぜそれをやらないのか。やらないのならやめてしまえばいいだろう、と思いつつも、実質的にはまだそれをやめようとしていないらしい。どうしてそんなことを述べなければならないのか。興味深いと思われることは何もないようだ。そこで見いだされているのはくだらぬ誘惑だけなのか。そんな見え透いた嘘にだまされた方がいいのだろうか。それをやらない理由はただ面倒くさいだけか。その気もないのにそんなことを述べる理由は何もない。しかし無理にそれ以外のことを述べられるはずもない。それでも無理を承知で述べようとしていることは確かだが、ではいったい何を述べているつもりなのだろう。この世界の現状について何か言いたいことでもあるのか。そんな大げさなことではないような気がするのだが、一方でそんなおおざっぱでいい加減なことしか述べられないような気もしてくる。とりあえずそんなことは、この世界がどうなっていようと、君の知ったことではない、と述べてしまえばそれでお終いになってしまうようなことでしかないが、この世界について何を知っているのかといえば、まともに述べられるようなことは何も知っていないのではないか、という漠然とした思いが行く手に立ちふさがっているらしく、どうしてもそんな設問から逃げてしまいそうになる。今この時代の世界について何を語れるというのだろう。世界に生じている現象や出来事のどこから語っていいのかわからない。あまりにも様々な出来事や現象が生じているのかもしれないが、それは昔からそうだったような気もするのだが、では昔はそれらの何について語っていたのかといえば、はたしてそれらはそのときの世界について語っていたのか疑問に思われ、今から思えばそれは思い違いだったのかもしれない。だいぶ前から資本主義の国境を越えたグローバル化が言われて久しいが、一方で未だにその国や地域特有の言語や風習、あるいは宗教に基づいた国家の枠組みも健在で、アメリカにしろ日本にしろ中国にしろEUにしろ、自分たちの国や地域内の経済を優先して維持発展させる必要に迫られていて、政府が様々な保護政策を打ち出していることも確かだ。自国民や地域住民の機嫌を損ねないためにも、それは必要不可欠なことなのだろうが、またその一方で、自国や地域の発展とともに世界全体が発展するような政策も求められていて、それが自国民や地域住民の自尊心をくすぐることを目指しているのは疑いの余地のないことで、世界全体が経済的に発展すれば、現在国家間や地域間に生じている貧富の格差も縮まって、誰もが豊かな生活を享受できれば、それはそれで結構なことなのだろう。それで結構ならかまわないのではないか。その結構なことが気に入らないというのなら、ではそこにどのような矛盾が潜んでいるのだろう。何かそこから違うことでも述べられるのか。矛盾など何もありはしない。それはどこから見てもけちのつけようがないスローガンを形成している。だがそんなことを述べていていいのだろうか。誰がそれにけちをつけるのか。世界全体が発展すれば化石燃料の大量消費によって地球が温暖化してしまうか。化石燃料はいずれ枯渇するだろうし、枯渇したら太陽光や風力などのクリーンなエネルギーを使えばいいし、温暖化が一方的に悪いわけでもなく、温暖化によって氷河期の到来を遅らせているわけだから、人類全体とってそれは願ったり叶ったりということか。そんな風にして物事をいいように解釈してゆけば、それで何の問題もないように思えてくるのだが、もしかしたらそこには何らかの矛盾が生じていて、それを覆い隠すために様々なごまかしや言い逃れが生じているのかもしれないが、そう思うのならなぜその矛盾を明らかにしないのか。そしてそれを言葉で糾弾しないのだろうか。そういうやり方が無効だと思われるからか。矛盾など何もないと述べておこう。糾弾するような内容ではないし、人々の意識はそんなところへ向いていない。たとえそんなことに関心があるとしても、それは個人の力ではどうにもできないことか。教育関係者は子供たちをそそのかして、この地球を環境破壊から救おう、などというスローガンを含んだポスターを描かせたり、それに類する作文を書かせたりして、自己満足に浸る傾向があるようだが、たぶんそれで何か良い行いをしたという気になってしまうのだろうが、それもそれで結構なことなのかもしれない。彼らにはそれ以外に何ができるというのか。そこにはどのような皮肉が含まれているのだろうか。それについて何か気の利いた説明ができると思うか。そのような現象の何が気に入らないのか。君はそういう気休め的な試みが嫌いなのか。なぜそれが気休めだと思えるのか。気休めではないとすると、そのような試みによって、どのような効果が上がってるのだろうか。それによって人々の環境問題に対する理解が深まったとか思えるわけか。たぶんそうなのかもしれない。それはそれでそういうことなのだろう。そのような問題提起は大いに結構なことなのだ。しかしそれでそれらの現象を肯定しているつもりなのか。それに対して結構だと述べることが肯定していることになるのだろうか。何かが違うような気がするわけなのか。それが違うとすると、そう思う原因はどこにあるのだろう。それがわかることなどあり得るだろうか。君は自らが理解できないような違和感について語っているわけか。あるいはそれは君とは無関係なことなのか。そんな現状を肯定していてかまわないのだろうか。何を肯定しているのかわからないか。人々の関心はどこにあるのだろう。そんなきれい事を語っていること自体が許されないことなのか。理性に基づいているつもりの精神が気にくわないか。すべては人間の欲望から発生している幻想だと思わないとならないわけか。しかしそれがはたして悪いことなのだろうか。単純明快な結論に達しないと、結局何を述べているのかよくわからないことになってしまうか。たぶん結論には達し得ないだろう。そうしたいのではなく、そうなってしまうのだから仕方がない。


6月7日

 生き残りを画策しているわけではない。すでに生き残っているのではないか。一時的に生き残っているだけだろう。それで生きているつもりなのか。それでも生きている。生きていることはあまり重要ではないのかもしれない。ただそれは最低限の前提にすぎないことか。それでも何とか生きている。疑問を感じないわけではないが、それはそれでそういうことでしかないだろう。生きていることから何が生み出されるのだろうか。すでにその存在が生じているのではないか。そこには何かがあるらしい。誰かが何かをやっている。そしてそのやっている何かを他の誰かが評価したりするわけか。評価を免れるような行為もあるだろう。無視という評価が下される。評価からはあまりにも遠い行為は忘れ去られる。にわかには判断を下せないらしい。何を判断しなければいけないのだろうか。判断する材料に乏しいか。だからそれらの行為をどう評価していいものかわかりかねる。何もないのかもしれない。未来永劫評価の対象になることはあり得ないのではないか。そこには不安が生じているわけか。それは忘れ去られることに対する不安なのか。何が忘れられているのだろう。忘却の彼方で何かを語っている。誰にも届かない言葉の連なりが生成され続け、それでいいのか悪いのかわからない。床が傾いているのかもしれない。その傾斜を利用してどこかへ滑っていこうとしているのか。他人の評価とは何だろう。他人とは違うことを述べているつもりなのか。自らが正気ではないと思いこみたいわけか。アバンギャルドをそれに対応する日本語の意味に還元できるだろうか。前衛とは何だろう。それは冗談の一種に違いない。何を馬鹿にしているわけでもない。ただ何となく語ることが馬鹿らしく思える。それでは何も生み出し得ないだろう。生き残っている意味がないか。神経が行き届いていないのかもしれない。それを音楽でごまかすことなどあり得ないか。その代わりに沈黙を聴いているとでも言いたいわけか。音楽の代わりに何があるというのか。またそこから逃れようとしているのか。逃れる先などありはしない。ただひたすらその状態にとどまり続けることしかできない。それが何をもたらすかはわからない。わかり得ないことについて思いを巡らせても無駄か。それらの何を評価していいのかわからない。答えはいつも書物の中にしかないのだろうか。それに対して現実に生成しつつある事象の中には、疑問や疑念ばかりが生じている。そんな風に思われるだけなのかもしれない。そんな思いこみを打ち砕くような出来事に巡り会えるだろうか。すでに巡り会い、打ち砕かれて残骸となりはてている。そんな未来を先取りしているわけではない。それは苦しい言い逃れになっている。無理に状況を引き寄せようとしている。やはりそれは無理だろう。待つしかないらしい。ただひたすら待っている。何を待っているかも忘れてしまうほど待っている。それは長い年月に思われる。嫌気が差していることすら忘れている。中には忘れられない思い出とかあるだろうか。長い年月の間にはそれを思い出せるかもしれない。思い出してどうするわけでもないが、そんな出来事に触発されて、さらに言葉をつなげるきっかけでもつかめるかもしれない。思い出しているのはそんなことではないか。何を思いだしているのかが述べられていないだろう。苦い思い出を語る気になれないのか。それ以外に何を語れば気が済むのか。何も語れないわけではないが、何を語ればいいのかわからない。そこから先へは行けないらしい。誰が行こうとしているのか。そこがどこなのかも示されていないのだから、それ以降に進めないのは当然のことか。そこはどこなのだろう。場所的にも年代的にも特定不可能なのだろうか。そんな大げさなことではない。ただ理由がないからわからないだけだ。そこへ至るには様々な行程を経なければならない。そして今はその途中で、わけがわからず途方に暮れている最中なのか。人ひとりが生まれてから死ぬまでの道のりは、それがどんなに長く険しくても、またどんなに短く平坦であったとしても、あるいは長く平坦であったり短く険しくても、何がそのような感慨を抱かせるのか、そんな疑念にもならない冗談とともに、何がそこでの冗談なのかわからないが、やはりそんな表現は破棄したくなってしまうらしい。破棄したくてもできないからそこに存在しているのではないか。そこにはそれが存在していることに対する反発とともに、存在を容認せざるを得ない事情に妥協してしまったという挫折感が共存しながら漂っている。なぜそうなってしまうのだろう。廃墟の中から何を叫んでいるのだろうか。地の果ての砂漠から叫んでいるわけではない。たぶん地の果てには海が広がっているはずだ。海を渡るには異国の言葉が必要か。なぜここにとどまり続けているのかといえば、その理由のひとつは異国の言葉を知らないことにあるのかもしれない。それはその場所特有の風土なのだろうか。何らかの要因によって何かを阻まれているらしいが、そんなことはよくあることかもしれず、それを乗り越えることはできなくもないのだろう。容易ではないかもしれないが、いつの日にか必ず障害を乗り越えたり突き破ったりして、その先へ進むことができるかもしれない。だから今は消耗戦や持久戦を伴うようなゲームに参加するつもりはない。どこでそんなゲームが行われているのか。すでに社会全体がゲーム的な様相を呈しているのかもしれない。至る所に競争を誘発する機構が待ちかまえていて、いったんそんな機構に絡め取られてしまうと、知らないうちにゲームに参加していることになってしまい、閉じられた競技場的な時空間で延々と見知らぬ誰かと闘わなければならず、誰と闘っているかもはっきりしないままに、ただひたすら神経や感性をすり減らしているように思われ、心身が壊れるまで執拗な攻撃にさらされているような感覚に襲われる。たぶんそれは被害妄想なのだろうが、そんな馬鹿げた被害妄想を抱くようにし向けられているのかもしれず、わけのわからないゲームに参加しているという思いこみが、すでに罠にはまっている証なのかもしれない。そんな成り行きを感じつつも、やはりそこから遠ざかろうとしているのだろうか。


6月6日

 おかしな言いぐさだ。それがすべてではないと思いたい。すべての思いはどこに通じているのか。まっとうに生きるなら目的が必要だ。まっとうではないと思いたいのか。機会を捉えていないのだろう。まっとうになる機会があるのだろうか。無理なことをやろうとしているらしい。無理ではないと思いたい。存在感はない。存在していないのかもしれない。そこに存在したいのだろうか。どこかにきっかけがあるはずだ、存在するためのきっかけがある。それがそこでの思いこみを形成している。はたして思うことは存在することに通じるだろうか。そうなることを目指している。それが目的となるだろう。そこから逃げてはいけないようだ。逃げようがないが、言葉は思いを裏切るかもしれない。目的を離れ、空虚に向かってずれてゆく。まるで重力がそこに生じているかのように、そこへ引き寄せられてゆく。やはり逃げられないのだろうか。張りつめていた緊張の糸はいつの間にか切れている。何もかもがどうでもよくなるには早すぎるだろう。それを持続させることなど不可能だ。不可能ではないと思いたい。すでにそこから逸れているのだ。目的は的はずれな言葉を射抜く。言葉はそれが目的ではないことをわからせたいのか。なぜ目の前の画面から目を背けるのか。そこには果てしない虚無と徒労の光景が広がっている。見ている光景はそれとは違うだろう。平面には深みがない。立体感を感じさせるのは、それが嘘偽りの技術だからか。深くはないが、浅さの領域にとどまれるはずもない。浅く表面にふれる仕草を忘れている。それは抽象的な物言いに他ならない。違うような気がするのだろうか。ずれてしまっていることを確かめたいのか。そこまでの話の本筋は何だったのか。一時的に言葉が緩くまとまっていたのかもしれない。同じ姿勢を保つことはできない。時の流れの中に変化する兆しを見つけようとしている。模索しつつあるのは一定の形式なのか。安定的な言葉の供給源でも探しているのだろうか。遠く離れたそこから何がもたらされようとしているのか。意識はすでに虚無を通り過ぎてしまったようだ。たどり着いたそこが虚無の場所ではないことを証明できるだろうか。言葉を積み重ねることは何につながるのだろう。まだ到達しつつある途上なのだろうか。到達すべき目標はどこにあるのか。逃げてはならない理由がどこにあるのか。現状が逃げている途中に思えてくる。放っておけばそのまま逃げ続ける。その逃走を止める手だてを思いつかない。たぶん途中から作り話の断片が紛れ込んでいるのだろう。目的を見失わせるために、あれやこれやの対策が講じられているのかもしれない。妄想が到来するような予感がしている。話が生きているわけではない。話を生かそうとしているのだろうか。現実には何の効果も期待されていない。君は現実に存在するどのような現象について語っているのだろうか。それは何らかの精神作用についてなのか。またそれについて何らかの判断が示されているのだろうか。安易な誘惑に導かれつつある。嘘でもいいからわざとらしいことを述べてみたい。もたらされた情報を真に受けることは不可能だ。すべてが同じような内容で埋め尽くされている。言葉に生気が感じられない。はじめから死んだものとして生み出されているからか。どうもとってつけたような判断が連なっている。そのことごとくに根拠の希薄さが漂っている。現状に馴染めないのかもしれない。見苦しいいいわけを述べているのだろうか。見苦しいと思うなら、それに居直っていてはまずいのか。居直りが長続きするはずがない。居直っているうちに取り残されてしまう。時が経って周りを見渡せば、もうそこには何も残っていないのだろうか。何かの残骸さえ見つけられない。見つけ出そうとする努力が足りないのかもしれない。しかし残骸を見つけてどうするのだろう。文章の内容として再利用できるだろうか。仮にできたとしても、残骸のような文章では情けないのではないか。それで批判が成り立つと思うか。残骸によって何を批判したいのだろう。たとえばそれは把握不可能な出来事についてだろうか。なぜ無理なものを批判しようとするのか。残骸が目指しているものが不可能な事柄だからか。目指しているのではなく、残骸の存在様態自体がはじめから不可能に根ざしているのではないか。そこにはなくてもいいものであって、あっても何の役にも立ちそうもないものから、批判の言葉を引き出すのはほとんど不可能だろう。批判しようのない言葉を用いて、批判しようのないものを批判することなど、無理もいいところか。だいいちそもそも残骸とは何なのか。行き詰まったまま放置された昔の文章か何かだろうか。昔の文章だけでなく、今書き連ねつつある文章も残骸の一種か。それが残骸だとしたら、書くことの救いはどこにあるのだろう。目指しているのは救いではなく、書く試みの中にある現実との隔たりそのものか。だが隔たりを感じ取ることが何になるというのか。言葉を書き連ねていることが現実そのものなのではないか。そうすると現実とは余分な事象なのだろうか。何にとって余分だと思われるのか。虚無にとってそこに何かしら存在している限り、それはすべて余分だと見なされるのだろうか。たとえそれががらくただろうが残骸だろうが、何かが存在していることが、虚無がすべてを覆い尽くす上での妨げとなっているわけか。ではそれが見苦しいいいわけであってもいいわけか。それによって虚無の完全な支配から逃れていることになっているのだろうか。しかし何もなくなるはずがないだろう。今のところは何かが存在しているらしく、それについて述べているつもりになっているようだ。君はさっきまで虚無について述べていたのではなかったのか。そこに虚無が巣くっているとしても、それについて語ることから言葉の連なりが生じてしまい、それもひとつの存在形態だと思われてしまうので、何となくその程度のことで気休めになってしまうわけか。


6月5日

 あからさまに何を非難させれているわけでもないらしい。暇なのにせっぱ詰まっているように思いたいのだろう。今さらどのような状況に追い込まれているというのか。言葉が繰り出される順序に脈絡を感じられないが、とりあえず何かを述べているようだ。闇の中で何かが点滅している。遠くで何かが燃えているのだろうか。心に迷いが生じている。それはいつもの嘘であって、君はそんな光景を眺めているわけではない。誰かは君がどこにいるかを知り得ないだろう。ただもう何の当てもなくさまようことに疲れているようだ。それでも何を探しているわけでもない。いつまでも空疎な物語に巻き込まれているとは思えない。事件は君の遙か手前で起きている。それを知ることができないもどかしさを感じているようだ。ただそれが君に関わるような事件だとは思えない。何を思い何を考えようと、それらの思考は常に無意識が繰り出すいい加減な言葉とは相容れない筋書きを求めている。あやふやで意味のない文章から逃れたくて仕方がないようで、いつもそれを説明しながら葬り去ろうとしているのかもしれないが、そんな思考の都合で世界が回っているわけもなく、そこには無意識がはき出したさらにわけのわからない文章が横たわっているのかもしれない。気がつけばどうしても理解しがたいようなことを述べている。文章をまとめようとする試みはその都度からぶりに終わってしまう。そこで意識は挫折してしまうのだろうか。できることならそんな風には思いたくないが、それでもそんな思考を無視して、誰かは定められた運命に従って生きているらしい。誰がそれを定めたのか。君がそれを定めたわけか。誰にも知り得ないような作用によって、その人の運命は宿命となってしまうのかもしれない。そんな風にして君は誰も知るよしもないことを知りたいとは思わないか。はたして宿命に抗うことができるのか。それはおかしいと思うだけか。何か不親切なことを述べているだろうか。だがそこから先はさらに入り組んでしまうようで、かなり面倒なことになりそうだ。それで何となく気分がすっきりしないのか。いったいそこでは何が起こっているのだろうか。君はそれを知りたいとは思わないのか。なぜ知りたいのかがわからないが、そんなことは君には関係のないことだろう。誰かはいったいいつの話をしているのだろうか。それでも話をまとめようとしなければならないのか。ではたとえばそれらの出来事の中に、話の核心をいうものを見いだせるだろうか。なぜ思考は核心に至りたいのか。何もなくて期待はずれに終わりたくてそうしたいわけでもないだろう。では未だに誰かは何を述べているつもりなのだろう。それについて何をどう言いくるめてみても嘘になってしまい、それをどう修正することもできず、すでに今となっては仕方のないことになりつつあるのではないのか。そのようにして分かり切っていることはいつまでも繰り返される宿命のようだ。誰もがわかっていることは過去の出来事でしかなく、それはもうとっくの昔に片が付いた問題でしかなく、なぜ彼らが過去を執拗に蒸し返し、それを今の言葉によって覆そうとそうとするのか理解できないのだが、それでも彼らが死ぬまでそれをやり続けるらしいことは容易に察しがつく。第二次世界大戦からどれほどの年月が経過したのだろうか。いつまで経ってもそれについて語っている者たちには戦死者の亡霊でも取り憑いているのか。亡霊にも賞味期限がありそうなものだが、それを馬鹿らしいと思えば馬鹿らしいことでしかないが、現状はどうなっているのだろうか。まだ何か述べようとしているわけか。国同士が些細な利害をもとにして争っている現状は変わりないか。昔はそれがよりあからさまで、今から思えば幼稚な思想に寄りかかりながら、戦争によって多数の命が失われたということか。だがなぜ安易にそんな結論を提示できるのか。どうしてそうなってしまうのか、思考の道筋がわからないが、そんなことなどどうでもいいと思いながらも、それでも何となく語ってしまう、という矛盾した思いのままに、誰かが日々を過ごしていることは確かなようで、つまらないと感じている思いの中で何かが繰り返されているらしい。それが過去の話であるわけがないだろう。また何もないのに続けて語ろうとしているわけか。語るべきことがどこにあるわけでもない。いつまでも意味不明では気に入らないらしいが、では具体的に何について語ろうとしているのか。何もない空虚な心境のうちでも自らに正直でありたいのか。答えはすでに提示されている。そんな答えでは気に入らないか。何かを求めようとしてはいけないのだろうか。何を求めているわけでもない、と嘘をつくことにも飽きてしまったのか。それでは反論になっていないだろう。無意識の痛みに耐えきれず、そんな痛みなどあるはずがないと思う。何もなければ空虚に満たされているわけでもない。そこには何かがあるはずで、絶えず生成し続ける何かがあるはずだ。いつもとは言葉を繰り出す感覚が違うのではないか。しかし何が違っているのかはっきりとは感じ取れない。たぶん気のせいで片づけるわけにもいかない程度の違いなのだろうが、何か伝えたいような体験でもあるのか。そのことと体験とは別なのではないか。本当は何も感じ取っていないのかもしれず、普段と何も変わりがないのかもしれない。気のせいかもしれないが、それで片づけてしまって何の不都合もないのだろう。そこからどのようにも変わり得ないように感じられる。すでに忘れてしまったのか。もう何も覚えていないのだろうか。まだそのことについては何も語っていないだろう。わかっていないのではないか。そこを通り抜けてしまってはいけないのか。そこに何がもたらされているわけではない。いつまでも気に入らないのならやめてしまえばいい。さらに先を急がなくてはならない。まだやらなければならないことがあるようだ。語るためのヒントなどどこにでも転がっているだろう。


6月4日

 数年前のわけのわからない文章を読んでみると、何か心が病んでいるような印象を受ける。それは誰のことを述べているのだろう。今の誰かはどうなのか。今も昔も変わらないのかもしれない。そんなことを述べていると喉の調子がいがらっぽくなる。本気で述べているのではないのだろう。あの時点からはだいぶ遠くへ来てしまったような気もする。それが思い違いでないことを祈りつつ、さらに何かを述べていかなければならないのだろうか。信じられるものは何もない。信じようとしないからそうなってしまうのか。いつまでも無意識のいい加減さに頼っていても、まともなものは何も生まれてこないだろう。別にいい加減に考えているわけではないと思う。しかし無意識が精神にどのような作用を及ぼしているかなんてわかるわけがないか。できもしないことをやろうとしているわけではなく、素人が精神分析をしようとしているわけでもないはずか。いったいそれは誰の精神なのか。誰かの精神は誰に向かって何を語りかけているのか。そのように述べることは、いつもの通り道に入り込んでいるということか。誰かの精神はそこを通ってどこへ行こうとしているのか。そこからどこへ行けるわけもないか。ではさらにそこへとどまり続けるのだろうか。何もわからないのになぜとどまり続けるのだ。わかろうとしないからそこへとどまっていられるのかもしれない。しかしとどまり続けても、空虚の他には何ももたらされないのではないか。では結果的に誰かは空虚を求めていることになるのだろうか。結果から説明しようとすれば嘘になるだろう。嘘を求めていることになってしまうか。だがそれではさらに現状から遠ざかってしまう。まるでわざと間違っているようだ。では誰かは間違いを求めているのだろうか。そうやってさらに過ちを繰り返して何になるのか。しかしそこから抜け出そうと試みるのは馬鹿げている。馬鹿げていると思う理由など何もありはしない。馬鹿げているのではなく、壊れているのかもしれない。何が壊れているのだろう。壊れながらも何に導かれているのだろう。壊れていると思われる当の事物を発見できないのか。それに関して何か思いつくことはないか。たとえば時事的に述べるとすれば、国会が壊れていたり学校が壊れていたり社会が壊れていたりするわけか。そんなコメントを年がら年中発している人もいるかもしれない。たぶん壊れているからうまくいっているのだろう。何がうまくいっているのか。壊れていることを利用して商売をやっている者にとってはそうなのかもしれない。このままいけばそのうち恐ろしいことになってしまうだろうか。それはもう数十年前からそうなのかもしれない。では今の状態がその恐ろしいことのまっただ中なのか。ぜんぜん恐ろしいとは思えないのか。たぶん中には恐ろしいことを体験している人もいるだろうし、それは数十年前も今とは違った種類の恐ろしい体験をしていた人がいたのだろう。だがそんなことを述べていて精神は大丈夫なのか。危機感を危機感と感じられなくなってしまったら、もうそれらの人々はお終いなのではないだろうか。お終いになってしまったら、またそれとは別のことを始めればいいのか。何をこれから始めようとしているのか。そんなことはそれらの人々に訊いてみればいいことでしかない。すでに何かを語りつつある誰かにとっては、ほとんど興味を引かないようなことをやり始めているのかもしれない。では何に無関心を催しているのだろう。執拗に何を問い続けようとしているのか。それに関してはやはり何となく理由もなく馬鹿げているように思える。何か根拠のない言葉が宙を舞っているような印象を受ける。そう思えてしまう原因はどこにあるのか。原因を探るつもりもないのにそう述べてしまうことが、そうなってしまう原因の一翼を担っているのではないだろうか。その辺から何やら笑いがこみ上げてくるのだが、それが吐き気でないとどうしていえるのか。それらの言葉をまともに受け取れないし、真剣になれないので、たぶんおう吐を催すようなことは述べていないのだろう。そんな風に思っていれば、幾分気が楽になったような感じになる。いったいこの世界では何が壊れているのか。創造と破壊を繰り返すのは人ではなく神の領分だろうか。今や人類はバベルの塔状態に再帰しつつあるのか。そんなことは昔からそうなのではないか。誰も本当の状態など把握できるわけがない。しかしそう思うのと同時に、意識は絶えず現状を把握しようと躍起になっている。それらの精神作用の中で何が矛盾していようと、そうせざるを得ないと思い続けることから、人は何らかの精神状態に至るようだ。それは強迫神経症のたぐいだろうか。安易にいい加減な病名を口にすべきではないか。世界が馬鹿げていて、人類の所業も馬鹿げていることは分かり切っていることであり、そのすべてが馬鹿げていると思うなら、それはそれでその通りなのだろう。だがそれでも人々は生きているし、たまに死ぬこともあるらしい。だから人々は生きている限り、飽きもせず馬鹿げたことを繰り返し、それに飽きたら別の馬鹿げたことを繰り返す定めになっているのだろう。それをやりたければいつまでもやってもらうしかないのかもしれない。そしてその馬鹿な所業に及んでいる自らが狂人であることを悟っている人は、まだ謙虚さを持ち合わせているのかもしれないが、多くの人々はそれに気づいていないように思われ、理性とも感情とも損得勘定とも呼ばれる、その時々の状況によってまるで賽の目のようにころころと名称を変える、根拠が希薄でいい加減な精神作用に惑わされながら、あるときは思い通りにいったように思われて有頂天になったり、またあるときはなかなか思い通りにいかずにうち沈み、そんな機嫌が悪い精神状態を持続させながら、それに伴って生じる復讐心などをふくらませて、その結果として愚かな行為に及んで身の破滅を呼び寄せたりするらしい。


6月3日

 そこで何が述べられていようと、安易に他人の言葉には同調できない。なぜそうなのかわからないのだが、それはどのような言葉なのだろうか。それを表現するにはまだ思慮が足りないのか。文章によって表現するには至っていないということか。しかしなぜそんなことにこだわるのだろう。それが見え透いた嘘に思われるからこだわるのだろうか。それでは理由にはならないか。では単にそうではないと思っているだけなのか。なるべくこだわらないように心がけているつもりでも、しかし妙に後から思い出されて、それらの言葉が心から離れていかないように思われる。だがそれはもうとっくの昔に過ぎ去ってしまった出来事にすぎないだろう。それでもそこからある種の感情やこだわりが生じていることは確かなようだが、何となくそんな心理状態を嫌って、そこから無理に意識を変えようとしているのかもしれない。誰かはそれが気に入らないらしく、君はまただいぶ余計なことを述べているように思われる。それらの無駄な言葉を文章から取り除くには、さらに余分な経験を積まなければならないだろうか。なぜそれが余分だといえるのか。また実際には取り去るのではなく、忘れ去ろうとしているだけのように感じられる。無意識のうちに現れる言い回しとか癖を、意識して取り去ることなどそう簡単にできはしないだろうし、またそれを一時的には忘れ去ったつもりでも、いつの日にかまた、知らず知らずのうちにそんなことを述べている現実を思い出すこともあるだろうか。だからそれを思い出す暇を与えないためにも、それに見合うだけの余分な経験が必要なのか。経験で経験を打ち消し覆い尽くすことなどできるのか。またそんなやり方でうまくいくと思うか。経験を積めば積むほど当初に抱いていて思いは摩耗し薄れてきて、ついにはそのとき何をしようとしていたのかさえ思い出せなくなるときが本当に来るだろうか。また仮にそれを偶然に思い出したところで、そんなことはもはやどうでもいいことのように思われてくるかもしれない。それがありふれた精神的な成長というやつか。しかし本当にそれでいいのだろうか。その辺で何か思い違いをしていないか。あるいは何か見落としていないか。なぜそういつまでも過去の出来事とそこから生じた思いにこだわっているのだろう。いったい君はそこで何と闘っているつもりなのか。心には一向に闘っている対象が思い浮かんでこないのだが、だからといってその疑念を簡単に消し去ったり否定したりすることはできないようで、何となくその存在を疑いつつもそこに生じているらしい自我に従って言葉が連ねられているようだが、そのような自我がそこで何を示そうとしているのだろうか。そこに言葉の連なりとして構成されている文章を読めばそれがわかるか。そこでは何と何が闘っているのか。闘っているつもりの君とは何なのか。君はいつからそこで闘っていて、その結果として何が生じているのだろうか。それは君の自我ではないのか。誰の自我なんだろう。だが闘いの決着はすでについてしまっているのかもしれず、もうだいぶ以前から言葉に行き詰まり、次の一手を繰り出せずにいる君は自らの負けを悟っているように思われる。そして闘いに敗れ去ってしまったのだから、ことさら過去の出来事を思い出す必要もないのかもしれない。過去を思い出しそれを総括して自己反省すれば、まだその闘いに勝つ可能性があったのだろうか。そんなことは今となってはどうでもいいことかもしれないが、敗れているにもかかわらず、それでもまだ架空のフィクションの中で君は生きているではないか。それは人の生死とは関係のない闘いだったのだろうか。たとえばそれは何かゲームのようなものか。そしてまだそのゲームは続いているのようにも思われるのだが、そう思うのなら君にはさらなる忘却が必要か。何を忘れ去る必要があるのか。すでに決着がついてしまっていて、君が闘いに敗れ去ってしまった事実を忘れてしまえば、まだそこからゲームに参加しているような幻想を得ることができるのか。君がそのゲームから何を期待しているのか知らないが、期待は過去の忘却の中から生まれてくると考えるのは間違っているのではないか。間違っていようといまいと、まだ何もかも捨て去ってしまったわけではないと思うのは、君の未練がましさのなせる技か。未練があるうちは忘却したとはいえないだろう。それでもまだ自尊心が残っているのなら、すべてを忘れ去ったつもりになる前に説明しなければならない。そんな義務がどこから生じてくるのか理解できないか。なぜ状況の説明がそこで絡んでくるのかわからない。いったいそれはどんな状況なのか。それについて何をどう考えていいのかわからない。そんな逃げ腰的な言い回しでも、逆説的にそれらの耐えられない状況を説明しているといえるのなら、ではどうしてそんな説明にならないような説明をしているのか、そのわけをますます知りたくなるところか。たぶんどうしてやなぜなのではなく、単にまだ気持ちの整理がついていないようで、説明する行為にこぎ着けられないのかもしれない。今はそれ以前のそれとは別の余計な説明が無駄に延々と繰り返されているだけなのか。しかし現状でそれ以外にどんな説明があるというのか。いったい他に何を説明したらいいのだろう。やはりそれでは説明になっていないか。そこでわざとらしく嘘をつくとすれば、何を説明しようとしていたのか忘れてしまったらしい。そんな冗談はまったくの無効だろうが、一方ではそれでかまわないのかもしれず、それで文章としての体裁をなしているのなら、それも一つのやり方には違いないか。そこからどんな結論へ導こうというのでもなく、ただつまらぬ戯れ言を繰り返しているだけなのかもしれないが、いったんそうなってしまったものを、はじめからやり直すわけにはいかないのはもちろんのこと、知らず知らずのうちにそんな風になってしまう成り行きも、一つの経験として通過しなければならなかった、と思いこむより仕方がないのかもしれない。


6月2日

 意味がわからない。悲しんでいるのではなく、苦しんでいるのではないか。それは似たような意味を伴っているだろうか。鬱状態になっているのかもしれない。何をそんなに苦しんでいるのだろう。だから意味がわからない。わかるはずのないことをわかろうとしている。とぎれそうになっているのかもしれない。しばらく寝て考えよう。隙間が開きすぎている。間には何もないだろう。言葉はどこにあるのか。どこにもなかったらおかしいと思うか。では感情は何を示すのか。焦りを呼び込んでいる。この世界が広いことは承知している。だが歩んでいく範囲は限られている。それは何かの罠だろうか。何に遭遇しているのか。何かを見て、何かを読んだはずだ。その程度のことに汲々としているわけだ。心は身体から抜け出て、それからどうしたのか。曇り空を見上げながら何を思っていいのかわからなくなる。それでも視線は動かない。動かしてしまえばいいだろう。何かを見ていれば気が晴れるだろうか。失われた何かを探し出そうとは思わないのか。失われたままでも一向に差し支えないのだろうか。何に抗っているのだろう。今はそんな気分ではない。それは最悪なのか最低なのか。そのどちらでもなければ、少しは気休めになるだろうか。何を見つめているのだろう。さっきまでは曇り空を眺めていたような気がする。すきま風はどこから吹いてくるのだろう。それは何を意味するのかわかりようがない。そろそろ語彙が尽きかける頃だろうか。そんな心配をしていたのか。何かをわかろうとしてはいけないのかもしれない。それほどわかり得ないことについて考えているわけでもないだろう。繰り出された言葉が何を語りかけているわけでもない。そこから結論を導き出せないのなら、別の方面に思考を延ばしていくしかない。しかしもとから考えていたことは何だったのか。なぜそれをわかりやすく説明できないのか。それがすべてではないはずか。何かがなおざりにされているような気がするのだが、それを示せないことが歯がゆさを覚えさせる。いっそのこと何も考えていなかったことにすればいいのかもしれないが、それではそれらの文章は何なのか。また振り出しに戻ったような気になる。君には気晴らしが必要なのだろう。十分すぎるくらい気晴らしの機会はあるのに、なぜそれを利用しないのか。その辺で矛盾を感じているらしい。やりきれない思いでいるのかもしれない。しかし何がやりきれないのかわからない。わかりかけていることは次から次へと忘れてしまう。わかりかけているような気がするだけで、本当は何もわかっていないのだろうか。何もわかっていないとすれば、それはそれでこれからわかろうとすればいいわけで、わかろうとしているうちは、わかる可能性を信じていられるのだろう。信じることは一種の気休めをもたらすかもしれないが、それに挫折した時点で、またやりきれない思いに逆戻りになってしまう。振り出しに戻ってしまう。それでもわかろうとしなければならない。それをあきらめてしまったらどうなるのだろう。うちひしがれて立ち直れなくなるか。時が経つのを待つしかなくなる。すべては忘却作用にゆだねられる。そして忘れた頃にまたわかろうとするわけか。いったい何度それを繰り返してきたのか。どこかへ行ってしまうべきなのか。どこへ行く当てもないだろう。そこで何を見ているわけでもない。少し前までは曇り空を眺めていたのかもしれない。今見ている空も曇っているだろう。時はどれほど経ったのか。その間に言葉の連なりはどれほどの長さになったのか。君はそのことについてどう思っているのか。何もわかりはしないと思いたいのか。状況に抗えば抗うほど、状況はみるみるうちに脱出不可能な迷路を打ちたてようとする。被害妄想とはそんなものだろうか。何の被害に遭っているわけでもない。それは自意識過剰が作り出した幻影に違いない。無理にそう思いこんで、幻影の迷路から脱出を試みているわけか。しかしまだ必死さが足りないだろう。まだそんなところに引っかかっているのか。いったい誰が外部から高みの見物を決め込んでいるのか。そんな余裕がどこにあるのだろう。そう思いながらも、そこから視線をそらすことなどできはしないか。たとえ反対側を向いても同じことだ。すでにそこには迷路が先回りをして設置されている。それが冗談であったなら、何をその先につなげられるだろう。それでも言葉をつなごうとするわけか。それは取り返しのつかない過ちを招いているのかもしれない。冗談であろうと本気であろうと、迷路を構築しているのは君自身ではないのか。そんな結論を導き出せたら満足なのか。それで気が済んだのか。まだ言葉が足りないと思っているのだろう。君はどこまでも愚かな人間のようだ。そこまでやる必要がどこにあるのか。どこにもないように思えるから、そこまでやってまだ足りないと思ってしまうのだろうか。それは何かのへりくつかもしれないが、やり続けることに根拠などいらないのだろうか。何かが違うような気がするのだが、それとは別の側面では何も違っていないのかもしれない。思うことに側面も何もありはしないだろう。ただわからないと思う。それだけなのかもしれず、そう思うと同時にそれだけではないような気もしてくる。要するにあやふやなことを述べているわけか。分かり切ったことを言葉にしないでほしいか。ところで目の前に広がっていたつもりの迷路はどこへ行ったのか。いつまでも迷路についてくどくど述べるのが馬鹿らしいから、適当な頃合いを見計らって引っ込めてしまったのか。では迷路は何のために必要だったのだろう。言葉を繰り出すための方便にすぎないのだろうか。それでは誰かの期待を裏切ることになりはしまいか。真剣に述べられないのは今に始まったことではないだろう。それもこれも誰のせいにもできないことでしかない。それ以上に何かを述べようとすると、もはや冗談でごまかす以外に手だてはないのかもしれない。


6月1日

 何を悲しんでいるのだろう。それはテレビの向こう側から届いた映像にすぎない。見つめているのはそんな光景ではないか。何も見ずに、本当に何も見ていないのだろうか。誰が何を見ているつもりになっているのか。誰かはわき上がる感情と闘っているらしい。それを必死に拒否している。そんな風には思いたくないのだろう。悲しみは他のところにある。空白には文字が記される。それを読むわけか。読んでどうするのだ。誰に向かって訊ねているのか。それを読んで何を思えばいいのだろう。読みたくないのなら、読むのをやめればいい。そんな簡単なことが困難を誘い込む。なぜ読むのをやめられないのだろう。読みたくないわけではないからか。何を否定しているのかわかっているつもりなのだろうか。何も否定できはしないと思いたい。それが嘘になったとき、誰かの振る舞いはぎこちなくなる。昔からそうだったのではないか。思いがどこかでつっかえているのかもしれない。引っかかりを取り除くことはできないのか。喉の奥から言葉が発せられそうになるが、出るすんでの所で飲み込んでしまう。あの言葉は何だったのだろう。後から思えば、思い出せなくなるだろう。それは思い出すべき言葉ではないのかもしれない。何を思い出そうともしていないのに、無理に思い出そうと すれば、それは作り話になってしまうか。そんなことはあり得ないか。どこから感情が漏れ出ているのか。それは言葉によって何を表現したいのか。わけのわからないことを叫びたいのか。その程度で気が済むのならどんなに楽なことか。では君は苦しんでいるのか。誰が苦しんでいるのだろう。誰も苦しみから解放されるわけがない。苦しみは絶えず供給され続けている。それはどこから来るのか。内部から外部から、すべての内と外から断続的に送り届けられているのだろうか。そんな風には思いたくない。思う思わないは苦しみにとってはどうでもいいことだ。ただ苦しんでいることを確認すればそれでいいわけか。よくはないし、いいわけもないと思っているのは誰なのか。誰かはいつまでたっても誰かのままにとどまるらしい。それは苦しみではなく眠気だろう。そんなはぐらかしが通用したらおもしろいか。文章はどこへ向かって書き連ねられているのか。そこに記されている内容を読む気がしないか。そんな風に思いたいのだろうか。言葉に操られた感情はどんな人格を生み出すのだろう。言葉によって何を整えようとしているのか。それが君の姿なのか。幻影とは何か。幻影でないとしたらただの影になるだろうか。日差しがまぶしいほどになれば、その影も濃く地面に貼り付くだろうか。誰かが動けば貼り付いた影も移動できる。それがどうしたというのか。何となくそれを見ていると楽しくなってくるのか。しかし悲しみは楽しさのどこに影を落としているのか。そんなことで楽しくなること自体が悲しむべき事なのか。そんな説明は余分だろう。余白には何も記されない。黙っていれば何も思うことはない。思っているのは君ではないはずか。君に対して何を命令しているわけでもない。どうなってほしいわけでもない、誰かならそんな風に思うところか。それはあくまでも想像の域を出ない話だ。それでは困るのか。誰が困るというのか。何か他に気の利いた話題がほしいか。そんな風に思えないのはどうしたことだろう。人々には何がもたらされているのか。死者の言葉を援用しながら何を述べたいのだろう。それはどんな教訓話なのか。それで人々の心をつかもうとするのは厚かましすぎるか。今の社会に教訓をもたらす出来事など何もないか。教訓自体が無効だと思いたいか。何の怒りも湧いてこないだろう。すべては変わってしまったのだろうか。あるときはそう思いたいのであり、またあるときは現実は何も変わっていないとも思いたいのであって、その場の都合に合わせて両者を使い分けていれば、何となく世の中の流れに乗っているような気になるのかもしれない。小説の登場人物は作者の意向に逆らわなければ、登場人物としての資質に欠けるだろうか。なぜそうならなければならないのだろう。そんな風に読めるところから勘違いの幻想がもたらされるのかもしれない。それではだめなのだろうか。では何やら人間味あふれ、人格に奥行きのあるキャラクターが、読者を喜ばせるような行動や言動を繰り広げれば、何となくそれでいいことになるらしいのだが、それでは読者を心地よいフィクションでだましていることになりはしないか。確かにそんな小説ばかり読んでいれば至福の時を過ごせるのかもしれない。それに抗う君は小説など読む必要はないのだろう。なぜ登場人物が作者の意向に逆らい、また読者の期待を裏切らなければならないのか。それでは読者も作者も不幸になるだけではないのか。実際にそんな作者は、小難しい批評家以外にまともな読者を獲得できず、結局は悲惨な境遇の中で悲惨な死に方をすることしかできないのではないだろうか。死後に伝説の作家にでもなりたいのか。そんな作り話があったらおもしろいだろうか。実際に狂った人や自殺した人とかが過去に存在するわけか。それがでまかせの冗談だったらおもしろいか。君はそこから何を救い出したいのか。救い出されなければならないのは、登場人物としての君の方だろうか。そこには何らかの技巧が介在しているかもしれないが、君にとってはそれが疎ましく思われる。要するにそんな話の展開が気に入らないわけか。たとえそれが冗談であったとしても、もう少し気の利いたことを述べられないだろうか。誰もが思い通りに事が運んでいると感じたら、それは出来の悪いフィクションでしかないだろう。そんな幻想に本気になるような輩は、幸せになるより他はあり得ない。そして幸せになることはよいことなのだから、そこから外へ出る必要はなくなり、外の世界を知ることもなく、幸せの内部で自足した人生を歩んでいれば、それはそれで結構なことだろう。たぶんそれ自体が出来の悪いフィクションに違いない。現実にそうなることはあり得ないか。そこには必ず何かしら不具合が生じていて、その不具合を作者も読者も感知できないだけなのかもしれない。それは悲しむべき事なのではないか。