彼の声42

2004年

5月31日

 あやふやな表現に走ってはいけない。別に走っているわけではないだろう。つまらないと思う意識は雨と風を感じている。そしてそれとは別の意識は言葉の用法を考えている。雨と風とは無関係なことを述べようとしているわけか。しかし風に揺れる竹林は何を連想させるだろう。心の移り変わりにでもたとえたい情景描写を導き出したいのか。それによって何を伝えたいのか。どのような状態からどのような状態へ心が移り変わるのだろう。何かを伝えることだけに生きている人は、この世界に何をもたらすだろう。そればかりの人は、たぶんそれが仕事なのだろう。では情報産業は世界に何をもたらしつつあるのだろう。それを知ってどうするのか。知らないことはいくらでもありそうだ。それらについて何を語っても無駄だと思う。君はそうは思わないか。もし思わないのなら、君は何を信じているのだろう。信じる者は、信じている対象が現前している、と思い込むことで救われるかもしれないが、語りかけている対象が、語りそのものに無頓着であることに気づかない。それらの意図や思惑を知ろうとしない。ただその場の気分で信じてしまう。また信じている対象が、何らかの権威をまとっていると思い込むことで、その権威をよりどころにして信じてしまう。しかし何かを信じるとはそういうことなのだろうか。例えば、述べていることの論理的整合性を信じるに足る判断基準とでもすれば、信じるという行為にもそれなりの説得力を持ち得るだろうか。君は論理的整合性などという概念が万能の効用があるとでも本当に思っているのだろうか。たぶんほとんどの人は論理的整合性を吟味する以前から信じているのだ。そして後からとってつけたように、論理的整合性という詭弁を強引に構成してみせる。政治家が述べていることの大半は、それに属する言説かもしれない。言葉を弄することの本質は、詭弁を構成することかもしれない。それが説得力を持ち得るか否かは、それを受け取る側の程度によるだろう。浅はかな人々はそれをすぐに真に受けてしまう。一方政治家の言うことなんてそんなものだと高をくくっている人々も、選挙になればそんな政治家と属している政党に投票するのだろう。政治家なんてそんなものだという思い込みに忠実なわけだ。たぶんそんな人々が、そんなことがまかり通る社会を支えているのだろう。そんな思い込みが崩れ去るのはいつのことか。まだ当分は無理のような気がする。結局は軽薄な議論に終始する人や、声の大きい人がもてはやされるわけだ。人々が安心して訳知り顔ができる程度の政治家でないと困るのだろう。テレビの討論番組で、芸能人から馬鹿にされたり呆れられたりするような人でないと困るわけだ。しかしそれ以外の政治家が存在できるのだろうか。やはりそれも制度的に無理だろうか。なにしろそんな人々によって選挙で選ばれるのだから、それに即した政治家が存在するのは当然のことかもしれない。政治家という職業自体が、そのような人でないとやっていかれないのかもしれない。しかしそれでは政治家なんてそんなものだという言説を裏付けてしまうのではないか。もう少し建設的な内容にならないものか。いったい政治家の誰について語ってきたのだろう。別に個々の政治家について具体的に語ろうとは思わない。それでは話が漠然としすぎているだろうか。とりとめがない。そんな話は信じられないか。それらの内容の中で、具体的に何を信じればいいのだろう。それらの内容によって世界を変えようとしているわけではないらしい。例えば有無をいわせぬ暴力の前で何を伝えようとしても無力だ。暴力を許しているのは一般市民なのであり、その暴力にさらされているのも一般市民なのだから、それらの自業自得の人々の間に理性を介在させることは難しい。簡単に破綻してしまうような、安易な夢や希望にすがりつくことが、暴力を助長している。やっていることがうまくいかなくなれば、すぐに暴力によって憂さを晴らしたくなるわけだ。そして無理を押し通すのにも暴力が用いられる。しかし暴力だけが問題なのでもない。他人をだまして出し抜くのもよくやる手口だ。嘘をついたりごまかしたりすることによって、やはり無理を押し通そうとするだろう。そんなことをやらなくても正々堂々と生きていける人は、すでに自らの立場が安泰なのだが、その安泰の立場を築くために、暴力やごまかしを手段として使うに人はいくらでもいる。


5月30日

 何がどうしたわけでもない。何も見えてこないのもいつものことか。見えていないわけではないだろう。十分によく見えているはずだ。視界はいたって良好だ。では何が見えてこないのか。何かが見えてこない。その何かを知りたい。何か途中にごまかしがあるのかもしれない。いったい意識は何を見たいのか。あるいは何も見たくないのか。いい加減に言葉遊びをやめさせたいのかもしれない。それらの何が言葉遊びだというのか。それを説明できるか。何を特定したら納得してもらえるだろうか。何がやりたいのだろう。ただ何かをやっている。ひたすらやっている。何をやっているかは人それぞれで違うだろうか。他人のやっていることには関心がないか。中には馬鹿なことをやっている人もいるだろう。それをやっているのが君だと思うわけか。誰が馬鹿なことをやってもかまわないだろう。馬鹿なことをやっている者は、別にそれが馬鹿なことだとは思わない。君もそうは思わないか。君のやっていることを、馬鹿なことだと誰が決めつけるのだろう。誰も君のやっていることなど気にもとめないか。何の利害関係もないのに、他人のやっていることにいちいち口を挟む気にはなれないか。しかし君は何をやっているのだろう。何を詮索しているのか。君自身のやっていることを知りたい。誰が知りたいのか。自分で自分のやっていることがわからないのか。そんな風には思わない。自問自答は避けたいところか。すでにやっているのではないか。では君のやっていることは、自問自答だということになるのだろうか。たとえそうであってもかまわないか。しかし誰にそれを問いかけているのか。君自身に決まっているだろう。君はそれらの問いには何も答えられない。それは答える気がないからか。何かそれとは違うことを述べてみたい。つまらないのだろう。つまらないと思う。おもしろくない。おもしろいとは思わない。どこかにおもしろい出来事があるかもしれない、とは思わないか。なぜそんな心境になれるのだろう。何もやっていないからか。つまらないこと以外は何もやっていないということだろうか。この世の中の何がおもしろいのか。おもしろそうに振る舞えば、自然とおもしろい心境になれるかもしれない。そんな心境になれないからつまらないのか。それはいい加減な推論か。つまらない原因など何でもかまわないだろう。なんとなくおもしろくなりたいとは思わない。今はつまらないままでもけっこうだ。なぜそう思うのかはわからない。なんとなくそう思うだけなのかもしれない。それ以上は詮索する気になれないようだ。もう十分に詮索しているではないか。つまらない原因はおもしろくないからだ。つまらないとおもしろくないの間が短絡されている。その間に何を差し入れたら納得するだろうか。どんな言葉を挿入しようと納得するつもりはない。なぜならつまらないからだ。そういうやり方がつまらない。ただいい加減なことを述べているだけなのかもしれない。気に入らないことについて気に入らないように語っているだけか。誰か画面を見て何を思えばいいのか教えて欲しいか。つまらないと思えば事足りるのだろうか。今はそうかもしれない。これからずーとそればかりではつまらないか。だからつまらないのだろう。ではおもしろくなりたいのなら、そればかりではないと思えばいいのか。それでおもしろくなったら世話ないか。しかし本当につまらないのだろうか。もしかしたら何も思っていないのかもしれない。つまらないともおもしろいとも思わない。いつしかおもしろくなくてもつまらなくなくても、どちらでもいいように思うようになるだろうか。何かおかしい。おかしくてもかまわないだろう。おもしろくなければつまらないのであり、つまらなくなければおもしろいのではないか。そんな風には思わないか。面倒なので論理的には考えたくないだけか。では他に何を考えているのだろう。それ以外の様々なことを考えている。なぜそれについては語らないのか。語るのが面倒だからか。込み入らせて語ることに疲れてしまったのか。簡単に分かりやすく語ればいいだろう。それができないから苦労しているわけか。できないとは思わないか。もうすでにやっているとは思わないのか。それも面倒なので肯定も否定もしようとは思わない。架空の存在である君には判断不能かもしれない。実在できないのだから判断しても仕方ないか。ではどうすれば君は実在できるのだろう。誰かから固有名でも授かればいいわけか。フィクションの中にも固有名はあるだろう。ならば君には生身の肉体が必要か。しかし君が実在してはつまらない。仮に実在するのなら名乗り出て欲しいが、そんなのは嘘だと思う。実際に出会っても君の実在を信じないだろう。出会うのもフィクションの中かもしれない。なんとなくそれは冗談のように思える。


5月29日

 何か主張したいことでもあるのだろうか。何が主張したいか考えてみる必要でもあるのだろうか。なんとなく冒頭から馬鹿らしく思えてくる。何があったか知らないが、もう少し陽気に振る舞えないものか。何かを主張するのと陽気に振る舞うのとは無関係だろう。暗闇の中に、ろうそくの炎に照らされて、暗い双眸が浮かび上がる。沈痛な面持ちで何を悩んでいるのだろう。意味がない。そんなのは嘘に決まっている。何やら映画の中の一シーンでも思い浮かべているつもりか。何を強引に差し入れているつもりなのか知らないが、そこにまともな主張は何一つない。それも主張とは無関係か。主張という言葉が気に入らない。過去の話題はすぐに忘れ去れ、メディアはその空虚な正体を隠すために、新たな出来事を探し回る。その一方で、気に入らないそれらの出来事を忘れ去ることなどできはしない。また北朝鮮か。またイラクか。そんなことには飽き飽きしている誰かは、何もかも忘れたふりをしている。そんな風にメディアを捉えるのは無益なことか。果たして善意はどこにあるのだろう。しかしそれ以上は述べたくない。たぶんどこかに突破口でもあるのだろう。その気もないふりを装いながらも、それを必死になって探し回っているのかもしれないが、面倒くさいので偽りの記憶喪失をもてあそぶ。実際には何をもてあそんでいるのでもないが、語りの中では、それが可能なふりをしているだけか。何を忘れたわけでもないのに、そんなことは忘れてしまった、が口癖になりそうな気配だ。また別に何を思い出そうとしているわけでもないのに、時はいくらでも過ぎ去る。君の記憶は風化の一途をたどるだけか。君の意識は忘却の彼方でもがき苦しむ。しかし文中の誰かとは何の面識もない。実際の意識は、相変わらず気の抜けた毎日を送っているようだが、それでいいのだろうか。それでいいわけがないか。そんなことはわかっているが、同時にわからないこともあるようだ。何がわからないのだろう。何がわからないのかわからないということか。ふざけている。そんなことが赤の他人にわかるわけがないだろう。だがわからなくともわかっているふりをすることは可能だろう。あるいはそれと同時にわからないふりも可能だ。さらに、わかるかわからないとは違う水準で、そのどちらとも無関係な態度を装うことも可能か。しかしそれでは、いつものように何を述べているのかわからないか。そして、わかっているのにわからないふりをしているのもいつものことか。そんな矛盾をわざと放置している。もう少し論理的に話を進めたらどうか。例えば起承転結の形式を導入してみたらいいのではないか。できるはずがないか。やはり何をふざけているのだろう。そうは思わないか。誰が思うのかわからない。また無駄な逡巡を繰り返す。陽気になるには、そこから脱出しなければならないか。脱出できるわけがない。すでに陽気な気分でいるらしい。陽気な気分であろうとなかろうと、何がどうなるわけでもない。その何とは何か。何にこだわっているのだろう。たぶん君がこだわっているものは意味不明だ。そのこだわり自体が意味不明なのか。それでもそんな形式にこだわっているのか。わかったりわからなかったりする状況の存在が信じられない。そこに何が存在しているわけでもない。そこには存在という言葉は当てはまらない。君の語りには欠陥がある。拭いがたい不信の念もある。君は過ちにしか反応せず、それらのよさを何も伝えようとはせず、ただ批判を繰り返すばかりだ。なぜ肯定できないのか。肯定できないはずがないか。世の中の矛盾とは何なのだろう。なぜ矛盾していると思うのか。満たされぬことの腹いせに批判しているわけか。たぶんそうではないと述べたいのだろうが、他に理由を捏造できるだろうか。捏造したいわけでもないだろう。どんな理由を並べ立てるにしても、それは捏造などではないと主張したいのだろう。できるだけ正直に、そして率直に語りたいわけか。何もできるはずのないことを述べているわけではないか。別にそれは自己批判などではないか。自己がどこにあるのかわからない、と嘘をつきたい気分になる。またそんなことはどうでもいいわけではない。どうでもいいことは他にあるようだ。例えばそれは何だろう。それは君自身の存在か。存在していても姿を現さないのが不特定多数の存在か。だがその存在をどうしようというのか。君にはどうにもできないか。ここでは結論が得られない。


5月28日

 これ以上何を述べても無駄か。まだこれ以上は述べていないだろう。これから何かを述べようとしているようだが、たぶん意識は無駄な言葉を導き出すだけだろう。時の流れには勢いが感じられない。時はどこへ向かって流れているのか。それは未来に決まっている。では君も未来へ向かって流されていると思っているのか。それとこれとは違う水準で推移している。無関係とはいわないまでも、関係を探すのが面倒だ。心が淀んでいるらしい。気持ちがふさぎ込んでしまっている。そんなわけでさっきから作業は中断している。そしていつものように、手遅れになってから過ちに気がつく。そんなよくある現象に悩まされる。もちろん本気で悩んでいるわけではない。悩んでいるように装わないと同情は得られないか。誰に同情して欲しいのか。とりあえず落ち着きを取り戻さなければならない。落ち着いていられるはずがないか。フィクションの中ではそういうことになっている。それは誰が構成した虚構なのだろう。それは君には関係のないことかも知れない。そればかりか、誰にとっても無関係なフィクションかも知れない。自分を飾り立てる意識が世界を見失わせる。そんな装飾的な試みが幻想をもたらす。しかしそんな幻想を通して世界が見えてくる。それは一時的に見失った世界とは別の世界のように感じられるが、実態は以前と何も変わっていない。視点も固定されたままだ。しかし君はこの世界の何を見ているのだろう。何も見ていないわけではない。だがそこから言葉をつなげるのが面倒なので、別の誰かが君の代わりに何かを思っているところだ。これから世の中はどうなるのだろう。そんな問いに答えようとは思わないか。予言者は予言の言葉を忘れてしまっている。誰が予言者なのか。未来が予言通りになってしまってはつまらないだろう。誰がそんなことを思っているのか。予言者に刃向かうものは神の呪いに苦しめられる。では、これで誰かは破滅か?君がそんなことを知る必要はないだろう。誰かは急いで言葉を選んで予言から遠ざかる。とっさに、やるべき事柄の優先順位を無視して、強引に適当な間合いを割り込ませる。しかしそれで何をやっているわけではない。わざとわけが分からない振りをしているだけか。目指していた動作はそんなものではなかったはずだ。そこで意識は立往生してしまったのだろうか。往生際の悪い誰かは、そうは思わないと思いたいか。とりあえずそれで何かが解決するわけもない。往時の真面目さはどこへ消えてしまったのだろうか。往時とはいつのことだろうか。遠ざかりつつある誰かの思いはいつ帰ってくるのだろうか。帰る場所などありはしない。その代わりに、何やら過去に聞いたことがありそうな台詞を耳にする。冬でもないのに冬眠中の動物には何も聞こえないだろう。言葉はちぐはぐな現れ方を好む。当分はこの調子なのだろうか。心の中には何もないのに、考え込んでいる振りをしている。だがそれで心は言葉に満たされているつもりなのだ。疲れているのかも知れない。疲れはありもしない状況を物語る。そのとき君は何かを繰り出すきっかけを忘れている。強風により出航を見合わせている。そんなアナウンスを聞いた覚えがあるだろうか。今すぐにもできることをやろうとはしない。辺りを覆う空虚には気力を見出せない。ただそれをやめなければならないと思う。それとは何か。パズルを組み合わせようとしないばかりか、組み合わせるべき断片をライターで燃やしてしまう。現状をそんな風には思わないか。意識は何を述べているのか分かろうとしていない。そんなわけで、誰かは思わせぶりな意見には耳を貸さない。なぜそう語るのか。そんな行為によって誰が何を悟って欲しいのだろう。神は用件を単刀直入に述べようとは思わないのか。それが神に対する精いっぱいの抵抗か。かなり雑なことを述べているように感じられる。そしてそんなつまらぬやり取りの後には、辺り一面にしばらく静寂の時が訪れる。やはり誰が何を述べているのでもなさそうだ。分かりやすさを望む誰かの意向を無視して、どこからともなく言葉が勝手に繰り出されているだけか。そんな結果を誰が予想していただろうか。だがいつまでも続けられるはずもないだろう。そんな台詞は聞き飽きたか。たぶん君はどこかで感性と事件の衝突に遭遇するかも知れないが、そうなったら自然とそれに合わせた言説が導き出されるはずか。だがはじめからそれを求めているわけではない。苦労してわざとらしさに至ろうとは思わない。


5月27日

 現状が気に入らない意識は批判の対象を模索する。だが何を語ってもどこへも至らないようだ。批判によってどこへ至ろうとしているのか。行き先はさっきから空洞を示している。空洞はどこにあるのだろう。至るところに空洞は存在している。だからそこに至ろうとしているのか。それが理由になるだろうか。例えばドーナツの真中に空いた穴の中に空洞がある。それを空洞とは呼ばないだろう。ところで否定作用はいつまで意識に影響を及ぼすのだろう。この先も何かを否定し続けるのか。もういい加減にして欲しいか。適当なところで妥協できないものだろうか。すでにある程度は妥協しているはずか。何を妥協しているのだろう。妥協せざるを得ない状況に陥っている。思い通りに行かないのはいつものことか。ここに至って何もない。妥協する材料が何も見当たらない。だがそれで妥協していないわけではない。だいぶ前から何か語るべき内容を探していたはずだ。いくら探しても何も見つからないので、結局はいつものように内容なしで語り始めてしまう。それが妥協の正体か。そして自己言及に至ってしまう。それが至った先になる。それでおしまいか。自己言及は空洞そのものか。冗談ではないか。あるいは冗談だろう。そのどちらでもかまわない。途中のどこかに言葉を挿入する気のようだ。それでも文章は意味を示そうとしている。では文章を生かすためには、意味に至るまで語り続ける必要があるか。適当なところで妥協して、意味不明のままにしておいてはいけないか。語り続ければいいだろう。語り続けている間は、情念を押え込んでいられるか。しかし情念は何を欲しているのだろうか。たぶん意味に至りたいのだろう。すっきりした分かりやすい文章によって、簡単な意味を提示してみたいのか。何を述べているのかはっきりしたい。そんなことが可能だろうか。情念はそれが困難であることに気づいていない。ここに至る過程において、さまざまな接ぎ木が行われながら、わけの分からない紆余曲折を経てきた事情を無視している。そしてそんな試行錯誤に疲れ果てて、内面のほとんどが空虚に覆われている現状から顔を背けている。誰が顔を背けているのだろう。情念に顔があるわけがないか。そんなことを述べているのではないか。意図的に語ろうとしている内容から語る方向をずらしているようだ。なぜそうしているのか君には分かるだろうか。語ろうとしている内容を見出せないからか。要するに意識は何らかの内容を構築しようとしながらも、結果的には無内容の回りをぐるぐる回っているだけかも知れない。メディアからもたらされる気休めの娯楽などでは満足できないか。しかし受身の態度では、いつまで経ってもそれ以外は何ももたらされないのではないか。自らが積極的に動き回らなければ何も発見できないだろう。だが動き回る範囲は自ずから限られる。ある場所と別の場所の間を行ったり来たりすることしかできない。そんなことでは行動が発見につながることにはならないか。だがいつまでも犬小屋に鎖でつなぎ止められた犬のような生活をしているわけには行かなくなるだろう。しかしそれは希望的観測といわれる気休めだろう。もちろんそこから抜け出す戦略がないわけではない。それは嘘だろう。やはり本気で述べているわけではないらしい。どうも現状はそれとは違うような気がする。本当は自由を満喫しているのではないか。それは言葉の上での自由だ。それ以外に自由はあり得ない。自由そのものが言葉によって構成されている。自由という言葉に勝手な実感を重ね合わせているにすぎない。そしてそんな実感に至ることを妄想している。自由になりたいと思うわけだ。現実には、その思っている自由な状態に至ることは決してあり得ない。いつも結果は決まって、こんなはずではなかったと落胆するばかりか。しかしそれでも、案外そうでもなさそうだ、と自らに嘘をつく。


5月26日

 なんとなく適当でいい加減な意見が続いてしまうような気がする。この際そんなことはどうでもいいか。何かに憑かれたように意味不明なままでいられるだろうか。なぜできるはずのないことを思うのだろう。意味はどこにでも貼りついてくる。何もなくても誰かが意味を見出してしまうだろう。そこから逃れることはできない。言葉は幻影にすぎないが、その幻影が物事に意味を付与しているわけだ。そんな粗雑で安易な解釈ではつまらないか。つまるつまらないの問題ではなく、根本的に間違っているだろうか。何が間違っているのか分からないか。間違っていようといまいと、そんな風にしか述べられない状況の中にいるらしい。誰かは疾走しているつもりなのだ。言葉をばらまきながら走っている。それは陳腐な表現か。比喩的にどうかしている。要するに何か気の利いたことが出てくるまでのつなぎとして述べていることだろうか。それを思いつくまで粘っているのかも知れない。だがそれでいいはずがないだろう。その場合、思い込みは勘違いと同義語になるだろうか。何かが近づいているように思われる。それが出口だと思われることが勘違いなのか。何を夢想しているのだろう。獲物を捕らえて逃さない工夫が欲しいところか。手の平から時間がこぼれ落ちる。何に追われているのか定かでない。しかしここからどこへ連れて行って欲しいのか。その辺に散らばっている言葉の断片をどうやって拾い集めたらいいのだろう。音楽はあてにならないか。だがそれしかないようだ。影は何を見抜いているのだろう。君は破滅から逃れ去るだろう。そして魅力的な生からも遠ざかる。破滅に近づくことが生きる喜びをもたらす。危険と隣合わせに生きなければ何も得られないだろう。そして死んでしまうわけだ。死して名を残すような人はそうやって破滅したわけだ。そんな誘いを拒絶することができるだろうか。拒絶したらそこでおしまいか。おしまいでもかまわないか。まるで何かに魅入られたかのように死への起動に乗っかってしまうのはごめん被りたいか。とりあえず今はそんな状況にはないはずか。それが出口とはならないだろう。死への入口を出口と見間違えている人は多いか。無理を重ね続けているとそれが分からなくなる。そこに救いを見出してしまうわけだ。別に誰が追い詰めているわけでもないのに、自分から勝手に追い詰められてしまう。終わりが見えてくるときはそんなものだろうか。しかしなぜそれで終われるのだろうか。いったい何を悩んでいるのだろう。ただ考える手間を省いているだけか。考えている間は終われないが、思考が途切れて行き詰まったときが危ないか。しかし死について考えるのはいかにもありふれているような気がしてくる。どこかの偉い坊さんのようにはなりたくないか。寺院という狭い範囲内でしか通用しないことを、もったいぶって話す姿には哀しいものがある。それを真に受けて信じられる人ほど、坊主としての位が高くなるのかも知れない。もちろん修行の初期は、一通り戒律などに反発するらしいが、いったんそれに染まって転向してしまうと、ある時期を堺に急に物分かりがよくなって、従順な態度になってしまうようだ。そして命がけの荒行などを平気でやるようになる。そして厳しい修行の末に偉くなると、何やら利いた風なことを弟子たちに向かって説教するようになる。そんなことが過去から連綿と繰り返されているらしい。それが洋の東西を問わず、さまざまな宗派で実践されている。しかしそれが何になるのだろう。何になるかなどと考えてはいけないのか。人間の生きる形態として、そんな生き方もありなのだろうか。何のためにではなく、ただそういうことのためだけに生きている人もいるわけだ。もちろん寺院の外に暮らす一般の人々向けには、救済という方便や口実があるわけだが、果たしてそれを信じている人がどれほどいるのだろうか。もちろん実際に坊さんたちの活動が世の中の役に立っている面もあるのだろうが、どうもそれを無批判に受け入れるわけにはいかないような気がする。


5月25日

 否定的な意見は否定する対象を故意におとしめる。君は人畜無害な結果に惹かれているのかも知れない。その一方で邪悪とされる存在を滑稽に扱おうとする。邪悪だと非難することが馬鹿らしく思われなければ気が済まない。そんなことに救いを求める行為が気に食わないのか。安易に救いを求めてはならない。それでは宗教の罠にはまるだけだろう。できれば救われない状態の中で生き続けるべきだと思う。頭が弛緩しないように少しは緊張していないと、なんとなくもったいないように思われる。幸せになってしまったらそれでおしまいだ。そこから先は何もできなくなるような気がする。目指しているものがそれとは違うのだろうか。建前上は何も目指していないことになっているはずだ。たぶんそれでもかまわないのだろう。目指すとか目指さないとか、そんな基準で語っているわけではないと思いたい。夢や望みなどを安易に表明すべきではない。そんな表明によって行き先が固定されてしまう。要するに君は何者にもなれない宿命なのか。たぶんそれ以前に何者かになっていることだろう。すでに何らかの立場を占有してしまっている。そしてその立場にしがみつこうとしているだろう。そんな卑しい性根を隠そうと必死の人もいることだろう。偽善者とはそういうものか。もちろん偽善者はそうではないと否定することしかできないだろう。誰もが無垢でいられるはずがない。嘘をつかないとやって行かれない場合がほとんどか。正直であろうとすれば必ず破綻するだろうか。状況が正直であろうとする態度を打ち破ってしまう。またひとたび他人を諭すようなことを述べれば、いつか自分が諭される番が回ってくるかも知れない。だから無防備のままで偉そうなことは述べられない。どこかに逃げ道を用意しておかないと、窮地に陥ることになるかも知れない。立派なことをやればやるほど、いい加減に振舞えなくなるか。周囲が認める自らに対する高い評価を裏切れなくなってしまうわけか。もちろん思わぬ不祥事の発覚によって化けの皮が剥がれてしまう場合も多いが、やはりそんな人々は滑稽に映るだろうか。中にはざまあみろと陰口を叩いている人もいるかも知れない。それでも有名になりたい人はあとをたたないだろうか。自分のやっていることを認めてくれる人が大勢欲しいか。そうならなければむくわれたことにはならないのだろうか。テレビ画面上から自己主張する人々は何やら脂ぎっている。いつもそんな人々でごったがえしている。他愛のないことに夢中になれる人は幸いである。そんな台詞を誰が発すればいいのだろう。それとも、わざとらしい感動の押しつけやお涙頂戴にはへき易させられるか。今さらそんなことを述べてみても始まらないだろう。君には始めから関係のないことかも知れない。君はすでに終わっている存在でしかない。何が終わっているのか知らないが、なんとなくそんなレッテルを貼られているような気がする。どこかの誰かは、一時期抱いていた幻想に完全に幻滅してしまったわけか。だが幻想は幻想を超えられない。それは現実以上に幻想的な想像力の発動を望んでいるが、幻想はどこまでも幻想の地平のこちら側で右往左往するしかないようだ。すでに終わっているのだからまた何か始められると思うのは大きな間違いか。しかし小さな間違いよりは大きな間違いの方が気分が良いのではないか。だがそもそも何が間違っているのか定かでないのに、間違いの大小を比較すること自体が間違っているだろう。たぶんそれもこれもどうでもいいような気がするだけで、いい加減な語りの回りを同じような言葉がぐるぐる回っているだけにすぎないか。だがそれで気が済むのならそれに越したことはないか。いったいそれで誰の気が済むのだろう。


5月24日

 さっきまで何をやっていたのだろう。わからない。画面上から闇の力の素晴らしさを見ていた。それは冗談かも知れない。冗談を述べている暇があるのか。暇があるわけではないが、暇がないわけでもない。実際にそんなことを述べている。まだそれを述べる時期ではないのかも知れない。しかし未来においては時期を逸しているだろう。だから冗談を述べている暇などない。何か言葉的にごまかされているような気がする。ところで闇の力の方はその後どうなったのだろう。有名な空想映画の中で怪しげな超能力として表現されているわけか。いつもそれは光と闇との戦いとなるだろう。なぜ闇に正義が宿らないのだろう。正義自体が光を目指しているわけか。誰かが調子に乗って叫んで見せる。正義は偽善だ!偽善の何が悪いのか。そんな反論もありだろうか。誰に問いかけているのか。そして誰が反論しているのか不明だ。それらの語りには内容が伴っていないようだ。何かしら争い事が生じる限りにおいて、当事者の誰もが自らに正義があると主張したくなる。自ら進んで悪を引き受ける者などいはしないだろう。悪いのはいつも相手側に決まっている。そういう意味で君は悪い人だ。それがどういう意味なのか明らかになっているだろうか。君が正義に対立する相手だからか。だが悪の化身は子ども向けのアニメの中に出現する安易なキャラクター以外にあり得ない。それと君とはどういう関係にあるのか。またずいぶんとまわりくどいこじつけではないか。それも冗談の範囲内になるのだろうか。闇の力は欲望に根ざしている。すべてを手に入れすべてを支配しようと欲する者から闇の力は発動するそうだ。それを実現させるための障害となる法や制度を打ち砕き、邪魔者や邪魔する組織や団体を暴力によって壊滅させ、この世のすべてを手中に収めるまでは極悪非道の限りを尽くす。だがそこまでやる必要性がどこから生じてくるのだろう。それは物語的な帰結として、そんな人物や組織を配置しないと、正義を体現する主人公が魅力に欠け、それを見聞する人々の興味を惹かないからか。劇的な展開にはそんな設定が欠かせないか。そしてそんな悪を体現する人物や組織は最後の最後で挫折してしまうわけだ。そうしないと物語は終われなくなる。要するにまずは極悪非道の者たちを適当な時空に配置し、そしてその者たちが正義の前に敗れ去るまでが、紋切り型的なファンタジーの一部始終となるわけだ。大枠としてはそうやっておいて、終わるまでの途中において、紆余曲折を伴った筋書きが時間稼ぎに挿入される。恋あり裏切りあり冒険あり謎解きありの、魅惑のおとぎ話になるわけだ。しかしそんなことは誰もが前もって承知していることではないのか。たぶんそれらを堪能する以前に安心しきっているのだろう。堪能するためには前もって安心しておかなければならないわけか。それがなければわざとらしくハラハラドキドキできないか。そんなわけはないか。それも冗談の一種だろうか。目ざとい者はそこからこぼれ落ちる部分に注目しなければならないか。さらに冗談を続けるなら、そこに感動の源泉が存在しているわけだ。個々の登場人物に思い入れをしなければならない。あるときは哀愁を帯びたキャラクターに恋心を抱き、またあるときはドジで間抜けで憎めない悪役に惹かれてしまったりするわけか。楽しみ方は人それぞれかも知れない。そうじゃないだろう。自然と笑いをこらえきれなくなる。なぜ君は低次元の話しかできないのだろう。では利いた風なことでも述べれば気が済むのか。例えば、感動する観客は、物語の中のエピソードに思い当たる節でもあるのだろうか。自分の生活とファンタジーがリンクしてリアリティを感じさせるわけか。それが我がことのように思われて、時として涙を誘ったりするだろうか。しかしそれがどうしたのだろう。それが精神的な昇華作用にでもつながるのだろうか。そんなわけ知り顔的な解釈は好きになれないか。


5月23日

 どこかで冗長ぎみに会話が交わされている。それをまともに聞いているわけでもないらしいが、次第にその内容に飽きてくる。何が始まるわけでもなく、何が終わるわけでもない。意識はそんな相変わらずの毎日に流される。世間話に聞き入っているように装いながらも、自らは無言のままでいるようだ。あまり積極的に話に加わらない。言葉を繰り出すきっかけはどこにあるのだろう。真面目なのではない。どうも始まりが見当たらないようだ。それはおかしいか。挙動不審に陥っているわけでもないだろう。警察から職務質問を受けているわけでもない。ただ言葉づかいが少しおかしいのかも知れない。おかしいことに自ら気づいて、それで気分がすっきりするのか。気分の問題ではないだろう。そんなことは以前から気づいていることだ。ではこれから何を否定するつもりなのか。否定すべき事柄を見出せない。冷汗が出る。そのときの気分はまともでない。まだ半分夢の中にいるようだ。ぼやけた意識を調整して正気に戻れるだろうか。正気か否かはどうでもいいことか。別に狂気に触れているわけでもない。身体は空気に触れている。ただ語りの内容がまともではない。だがそれもいつものことだろう。わざとらしくそんな風に思いたいだけか。そしてひねくれた性根がまともでない文章を構築したいだけか。本心からひねくれているとは思わないか。そしてまともか否かの基準などどこにもないと思うわけか。そんな目論見はあっさり砕かれる。実際には何を砕いているのだろう。それはハンマーで砕かれたラムネのビンか。それは思考の対象ではない。ガラスを砕くと砂になる。そこで物と意味が一致しないように思えるのは気のせいか。空気は物だろうか。微視的に見ればある程度は物質で満たされているのだろうが、そんな意味で空気という言葉を用いているわけではないだろう。それを用いて、いつものように空虚な気分を醸し出したいわけか。そうやって虚しさに浸りたいのだろうか。やはりそれでは意味がない。しかし意味を求めているわけでもないだろう。だがことさらに意味不明を構成したいわけでもない。この時点で何を求めているかなんて分かるはずがないか。何を分かりたいのかが不明だ。何も分からないが、分からない振りをしているだけのようにも思える。しかしそんな語りでどこへ到達したいのか。それは涅槃の境地か。返答に窮して、唐突に仏教用語に逃げている。そんなことをやっているうちにもどこかを通り過ぎている。ただ通り過ぎるだけで、意味をつかめずに対象を見失う。語っているうちに何かがかみ合わなくなる。頭の中が整理できていない。事態が錯綜しているように思えるが、それは気のせいだろうか。気のせいではなく、意識が混乱しているのかも知れない。神経回路が混線しているのか。そんな風に思うのは後から文章を読み返しているからか。その場の気分で書かれた文章を後から読み、それについて適当な見解を出したい。それで満足できるか。それは何らかの批評になるだろうか。読むのが面倒なので、そこから逃げ出したくなってくる。わけが分からず、やっていられなくなる。あまり本気にはなれない。それが逃げている証拠になるだろうか。嫌になると正気でない振りをする。しかし何を顧みているのだろう。ここから帰るあてはない。まともに戻る戻り道を探しているわけか。どこへ戻そうとしているのか。それらは過去とのつながりを見出せないようだが、この後に及んで、過去と同じような展開を模索すべきなのか。それで行き詰まりを打開できると思うか。思うならやってみればいいだろう。やる前に気持ちが萎縮しているようだ。たぶん飽きもせずつまらぬ行程が繰り返されている未来を予感させるのだろう。他人にとっては別にそれがつまらないわけではないだろうが、本人は納得できないらしい。納得したら、そこから先は紋切り型になるしかないか。


5月22日

 暇にまかせて何を見ているのか。それは不思議な光景だ。夕日はいつまで経っても夕日のままだ。いつになったら陽が沈むのか。それは風景画の一種かも知れない。君は不思議なことを述べている。暇にまかせて何をやっているわけでもないだろう。それでも作業は続いてゆく。何を続けているのか知らないが、いずれすべては飽和状態になる。もう何もできなくなるだろう。それはいつになるのだろう。たぶんそれは嘘になるだろう。何を述べているのか知らないが、何を続けているかは分かっていることだ。それも嘘かも知れない。何を述べているのかも分かっているはずか。くだらぬ時間稼ぎはいい加減にしてもらいたいか。時間稼ぎでもないのかも知れない。今や誰もがそれを知っている。それとは何だろう。それは何でもいいような何かだ。どうやら彼の頭の中では空虚が循環しているようだ。ありふれた日常の中でいつもながらの意味不明に苛まれる。そんなくだらなさのただ中に何を見いだせるだろうか。すでに意味不明を見いだしているではないか。見いだしているのではなく、そう思っているだけだろう。しかしなぜ現状をくだらないと思うのか。内向きの意識ではとりとめのない空想からは抜け出られない。それと同時に何を空想しているわけではないと思いたい。空想を言葉に変換するのが面倒か。それはおかしな思いつきだ。誰かの夢の中では遠くから光明が迫ってくる。過去にそんな文章を読んだことがあるらしい。今ごろになってなぜそれを思い出すのか分からないが、その程度の水準で語っている現状に飽きてくる。水準も何もあったものではないか。それでも相変わらず過去の時空で、誰かが適当な内容を語っているように感じられる。語り得ぬことについては沈黙しなければならない、と誰かが語っている。それが逆説になり得るだろうか。それ以外に何も見いだせないようだ。なぜ語り得ぬことについて語ろうとするのか。そしてなぜ沈黙したまま語っているつもりになれるのか。君には分からない。いったい何を読んでいるのだろう。雰囲気だけの勘違いを歓迎するが、それは勘違いでさえなく、始めから成り立たない推論を推し進めているだけかも知れない。テレビ画面に見入っている人々のことを思う。娯楽の対象について思考する必要は感じられないか。何をコメントしているのだろう。コメントしたからといってどうなるものでもないか。どうにかしなければならないのは、コメントしたからといってどうなるものでもない、という状況なのかも知れない。それを画面上の人々がどうにかできるわけもないか。どうにかできる範囲を逸脱している。彼らは語り得ぬことを語れる立場にはない。その代わりに他のことをいやと言うほど語っているのだから、そんなことにまで言及する必要はないだろう。都合の悪いことにまではなかなか言及できないのは、どこでも同じことか。それは誰の都合なのだろうか。別に誰のせいでもないのかも知れない。成行き上そうなってしまったのだからどうしようもないか。その結果、軽薄なことが軽薄に取り扱われるのは当然のことか。そんな状況が嫌になって、誰かがそこから身を退くのも自然の成行きかも知れない。しかしその中身が出てこない。語るべき内容が文章として構成されずにいる。なぜだろう。なぜその先に言及できないのか。分からないからか。あるいはそのことについて何も思わないからか。何を思えばいいのか分からない。何を語ればいいのか分からない。しかしそんなことはどうでもいいことか。中身は分からないが、語り方は分かりやすくなっているかも知れない。だが、かも知れない、はあやふやな述べ方か。とりあえずはっきりしたことは何も分からない。何かを語りながらも、何を語っているでもないことに気づく。別にそれが矛盾しているとは思わない。


5月21日

 気まぐれに何を振り返っているのか。たぶんそれらの内省と遡行は、過去を目指しているのだろうが、過ぎ去った日々を懐かしんで、いくら言葉を弄してみても、苦しみを和らげるには至らないだろう。それらの説明は何を説明しているわけでもない。説明しようにも適切な言葉が見つからないようだ。しかし唐突に何を述べているのか。その不自然な言葉のつながりをこれからどう修正していけばいいのだろう。下手に妄想を膨らまして述べれば、もはや文章として機能しなくなる。わけが分からなくなるだろう。それでも何かしら語っていればかまわないわけか。そんな何かが崩れ去る感覚を構成したいのか。それは嘘だと思う。何を否定したいのか分からないが、どうも無意識の意図が理解できないようだ。そんな意図などあるはずがないか。意図として形をなさないか。それは無意識ではなく、書かれた文章から読みとれる意図となるだろうか。誰も意図していなかった意図が、後からそれを読んだ者の意識の中で構成されようとしているわけか。その場の状況によって、それは幻影として機能するかも知れない。しかし現実には何が機能しているわけでもない。酔狂な意識がそんな風に思いだけのようのだ。ほんの些細な作用の中でも何かが機能していると思いたい。感覚の水準をわざと取り違えて、つまらぬものを恣意的に過大評価したい。意図的に語っている内容をわけが分からなくしたいのか。分かりやすく説明できないから、そんな風にしてごまかす。たぶんそれが装われた複雑さを見せかけるのだろう。もしかしたらそれ以外に中身は何もないのかも知れない。それがすべてなのか。意識はそうではないと思いたい。だから無理に説明しようとしているらしい。何を説明しようとしているのだろう。それらのわけの分からなさをわけの分からない語りで説明して、果たして読む者が理解できるだろうか。たぶん理解などまったく期待していないのだろう。無意味なことだ。意味と意味を重ねて、双方の意味が意味を打ち消しあい、結果として無意味が構成されることもあるだろうか。それが意図して企てられているはずもないか。わけの分からない無意味な言葉の連なりの中に、何らかの意図を読みとろうとすれば読みとれる可能性もないわけではないか。何やら不確かなことが述べられているようだ。そこからどこへ突き抜けられるだろう。意味のない停滞の中では嫌気がさしてくるか。堂々巡りの迷路の中から外へ出たいと思うのは当然の成行きか。何を思っても、そう簡単に思いがかなうわけではない。努力すればするほど、努力する目的が見失われてしまうだろう。何をやっているのか定かでなくなる。ただ惰性で続けているだけのように思われてくる。では当初に意図していたことはそんな結論を得ることだったのか。やはりそうではないと思いたいようだが、反論する材料が文章の中には見当たらないことに気づく。しかもそれらの語りはその内容によって、逆に語っている者の意図に反論しているように思われ、語り手の意識の存在さえも否定しているのかも知れない。意識してそんな文章を構成できるわけがない。設計図通りの語りなどどこにもありはしない。事前に思い描いていた設計図を超え、それを打ち破り、完全に否定する形で打ち立てられなければ面白くない。そこからしか思いがけない作用は生じないだろう。予定調和の語りでは自己満足を得るだけか。それでもかまわないか。なんとなくそれでもいいような気がしてくる。思いがけない結果には疲れるだけだ。何よりも意識を打ち砕かれることが苦痛に感じる。なぜそうなってしまうのだろう。なぜまともな文章を構築しようとしないのか。アバンギャルドなどという言葉は嫌いなはずだろう。思い通りに行かないことに酔いすぎているのかも知れない。それだけでは辛いが、結果的にはそうなるしかないらしい。なんとなくそんな状況が続いているようだ。


5月20日

 外ではまた雨が降っている。今日も自らは何を語るわけでもない。昨日も何かに頼って語っていた。他の誰かの語りに引きつけられている。そして誰かが繰り出した無意味な言葉の連なりに見とれている。詩人は誰のために朗読しているのでもないらしい。何を読んでいるのかはっきりしない。たぶん自分でも何を述べているのか分からないだろう。彼にとってそんなことはどうでもいいことか。それは君にとってもそうかも知れないが、他の誰かはそうは思わないだろう。中にはそれらの言葉の連なりに感動したい人種もいるらしい。君はそんな声を分かろうとしない。だいいち何をどうしたら満足するかを知らない。しかし満足してどうするのだろう。ただ満足するだけか。それらの語りは魅力に乏しいと思われる。他人の興味を惹くような内容ではない。それではどうすればいいのだろう。どうもしないか。どうにもできないのではないか。そんなことを思っているうちに急に頭が重くなる。疲れているのだろう。あれからあまり時間が経っていないようだ。何を病んでいるのかはっきりしない。何かしら病んでいるのかも知れないが、致命的な状態ではないのだろう。慢性的に疲労を覚えている振りをする。慢性的に腰が痛んでいるのかもしれない。なんとなくそんな嘘をつきたくなってくる。意図は何もないが、思いもしない効果を狙っているのだろうか。はたして効果が表れる未来まで覚えているだろうか。何を覚えていればいいのだろう。君が想像していた未来はすでに過ぎ去ってしまったのではないか。今ではもうその未来を通り越して新たな時空の中にいるらしい。しかしそこで何もできないでいる。何を思い何を考えたらいいのか分からず、いつものように途方に暮れているわけか。なんとなくそれではつまらないか。かつて君は何を思い描いていたのだろうか。どんな未来になることを望んでいたのか。誰もが望むように、君もありふれた成功を望んでいたわけか。今から思えばそんなことだったのかも知れない。ただ漠然を認められたかったのだろうか。いったい何を認めて欲しかったのか。ほとんど徒労に終わろうとしているそれらの努力を、誰に認めさせたかったのだろう。気がついてみれば誰もいなくなった。もうすでに認められるような代物ではなくなっているのかも知れない。ではこれからどうすればいいのか。もう一度自由になりたいか。かつて自由であった例しがあったのか。一時期自由を感じていたこともあったかも知れないが、それは単なる勘違いだったようだ。今はあやふやな気分でいる。このままでは自らが繰り出した言葉を裏切ることになるかも知れない。投げやりな気分のただ中で、もはや過去の言葉などどうでもいいと思っている。ところで何か約束を忘れていないか。忘れているとしたら思い出す必要はないだろう。何かを放棄してしまったのかも知れないが、打ち捨てられたものを今さら捜し出そうとは思わないか。それはどのような試みだったのか。ただ語ること以外に何をやろうとしていたのか。あのとき交わした約束が果たされるとき、この世界がどうなるわけでもないだろうが、個人的に何かしら将来への展望が開けることもあるだろうか。今となってはどうでもいいことになってしまったのかも知れない。君は誰もいない虚空で無内容の言葉を用いてただ語るだけか。誰にも届かないメッセージを訴えかけるでもなく、ただ淡々と語るばかりか。別に真実を見極めようというのでもなく、そうかといってフィクションを礼賛するわけでもなく、なんとなく中途半端なことを語っているように感じられる。ここは荒野ではない。荒れ地を耕しているわけでもない。誰かが語った内容を非難することもあるかも知れないが、それは本意ではなく、他に語ることがないから、その場凌ぎに述べているだけかも知れない。非難するような言説にはあまり本気にはなれないのだろう。そんな障害物を適当に避けて通り過ぎようとしているだけか。たぶんもう少しましな内容を期待していただけなのだろう。


5月19日

 また元の書物へと思考の対象が戻ってくる。そこから出発したわけでもないのに、なぜか興味を惹くようだ。意識を引きつける重力のようなものを感じる。際限なく語りが循環している。意識は次第に思いから離れ、思考の対象から逸れてゆく。感情に酔っている場合ではない。それらの感情は打ち砕かれ、辺りに四散してしまうだろう。そんな表現では足りないのか。何が足りないのか分からないか。言葉が足りない。意味をとらえきれていないようだ。理解することを許さない。無理に分かろうとすれば憤怒の形相をもたらす。誰が怒っているのでもない。ただ単に理解できないことに腹を立てているだけか。理解しようがない。それは感情とは異質の動作を必要としている。理解には至らない性質を有している。結果はどこへも行き着かない。それは結果に行き着くことを不可能としている。いつまでも途中に留まり続け、そこで循環を繰り返す。目的はあまりなさそうに思われる。迷わせることも彷徨わせることも目的とはならない。勝手にそうなってしまうだけだ。誰が頼んだわけでも、誰に頼まれたわけでもない。何を抱いているのか定かでない。それは感情とはいえないだろう。それ以前の段階で迷っている。何かの犠牲となっているわけではない。何かと取り引きしているのでもない。何も引き渡されはしない。それに接する者が勝手に思い考えるだけだ。本当に接しているのだろうか。それは何かの思い違いなのか。漠然とした不安を打ち消すことはできない。何が不安をもたらしているのか分からず、それが不安を誘っているのかも知れない。そんな述べ方はごまかしだろうか。どこかに思考するうえでの起点があるはずか。そこから思考が始まらなければならないと思うが、それ以前から始まっているような気がして、さらに始まりも終わりもないような気がしてくる。始まれないし、終われないと思い始めて、さらに不安が増してゆく。実際に何が始まり、何が終わろうとしているのか。そんな問いは無意味に思える。まだ始まってもいないのに、いつ始まったのかを探ろうとして、終わりもしないうちから、終わった後のことを考える。やはり始めから間違っているのだろうか。始まりがないのだから、間違いかどうかなど分かるわけがないか。それが分かれば未来を正しく予見できるだろうか。それとこれとは関係のないことか。ではなぜ始まらないのか。すでに始まっているから始まらない。またすでに終わっているから終わらない。しかしそれでは言葉遊びにしかならないのではないか。それが一つの結論となるだろうか。別に始まりが連続してもかまわないし、終わりがいくつ重なっても終わりには変わりない。そうやって前述の間違いが明らかになるか。間違いではなく、どちらも正しいかも知れないし、どちらも間違っている場合もあり得るだろうし、どちらか一方が正しい状況もありだろう。要するにそんなことはどうでもいいことだ。たぶんそれがもう一つの結論であるかも知れない。もちろん結論など思いつける範囲でいくらでも捏造可能か。しかしそんな結論など結論ではない。何も明らかにはなっていない。いっこうに何を述べているのかあやふやなままだ。始まりも終わりもあやふやなままに結論もはっきりしない。どうでもいいことをどうでもいいように語り、誰に何を語りかけているのでもないらしい。それは単に制度的な問題であり、一方では技術的な問題でもある。どのようにして空虚を長引かせるかが問題となっているのかも知れない。それは問題にさえならない問題か。そんな問題があるわけがない。急ごしらえで意味のない問題を捏造している。それと同時に他のことも考えている。これをやり終えたらどうしよう。そんなことも無意味だろう。やり終えるはずがないからだ。途中での中断はあっても、いくらやっても終わりにはたどり着けない。今のところ可能な状態は永久に中断してしまうことぐらいか。それが終わりではないのか。そんな風には到底思えないだけか。いつまでも終わりたくないのだから、決して自ら終わりを認めることはないだろう。もちろん第三者が終わりを宣告することもない。


5月18日

 誰か幻影をいらないか。求めているのはそんなものではない。リアリズムの嘘を見抜く力が欲しいか。それらは現実ではない。そんなことは分かりきったことだろう。別にそれが嘘であってもかまわないか。しかし君は嘘以外の確信が欲しい。信じられないことを信じてみたい。嘘を信じて、しかもそれが嘘であることも信じて疑わない。やはりそんなことも分かりきったことだろうか。何を醸し出しているわけでもない。すべては塵と化して欲しいか。しかし次の瞬間にはすべてはすべてでなくなるだろう。すべて以外にも他のすべてがあったわけだ。真のすべては、人の意識ではとらえきれない。人が意識していることがすべてではない。しかしそれだけでは言い足りないことも確かだ。いくら語っても足りることなどありはしない。だがいつかは足りる時がくることを信じて、その先へ語り続けないと終わりがやってくる。終わってくれればありがたい。それ以上無駄なことをやらずに済むからか。やらずに済むはずがないか。終わろうとして終われるわけがない。それが幻想であることを証明したいわけか。いったい誰が証明するのだろう。君以外の誰がやるというのか。終われない君に証明できるはずがない。躊躇してばかりの語りはどこかで循環しているようだ。なぜ苦しまなければならないのか。それが苦しみだと思っているうちは苦しまなければならない。読まれない文章は読まれないことを望んでいる。それが苦しみの原因だろう。読みたくもない文章を誰が読む気になれるだろうか。それも苦しみの原因かも知れない。老人のフォーク歌手がそんな内容を地下室で歌っていた。この世界では誰も救われない。君は安易に救われようとは思わない。つまらない言葉遊びは果てしなく続くだろう。それは誰がどこで歌おうと関係ない。そこからファンタジーの世界には入れないからか。心は常に外部の状況によって制御されている。一般的にそれを制御とは言わないだろう。何かを操ることができるような人格を欠いている。つまらないことをつまらないように語るのが誠実さの証なら、おもしろおかしくかつ興味深く語ることは不誠実の極みか。それが面白いかつまらないかは、ある程度それを受け取る他人まかせなのではないか。では語る側に誠実も不誠実も判断できないか。それは良心にしたがって語っているか否か、ということであって、要するに思い込みでしかないだろう。しかしそれで何を述べていることになるのか。他人を話題や価値観を共有していないと、客観的な判断は不可能になる。君の思い込みが君だけに固有なものなら、それは他人には理解不能であり、その思い込みに基づいてどんなに語っても、それはただの意味不明にしかならないだろう。すでにその意味不明の範疇で語っているのかも知れないが、今の君には判断不能だ。判断材料が何もない。材料を探す気がしないのかも知れない。それで十分だと思っている。周りの状況が見えていないのだ。そんなことは知ったことではないか。意味不明の中で自足してしまっている。幻想の現状で満足している。たぶんそんな振りをしているのだろう。他に語ることがないので虚無を装っている。虚無の深淵で意味に至ってしまう不安を鎮めようとしている。そんなはずはないか。難しそうな言語表現には意味を求めていない。ただの間違った表現でしかないのかも知れない。そんな心理状態を感知できるはずがない。無理に言葉で言い表せば嘘になる。もちろんそれが深刻な心理状態に陥っていることを示しはしない。うわべだけの言葉づかいに終始するだけだ。何を思っているかなんて、言葉にすればとたんに見当違いになってしまう。ただそうではないと思うだけかも知れない。たぶん語っている内容は、意識からすれば嘘としか思えないだろう。意識そのものは言葉以前の状態に留まり続ける。


5月17日

 黙っていては何も分からない。しかしその沈黙は暗黙にこれからの成行きを物語る。アドリブ的な演技や演奏は先が読めない。主張すべき内容をもたず、それを探すことばかりに無駄な時間を費す。そして今はただ何も語らずに遠くを見つめている。見つめるべき対象が見当たらない。何を求めているのか、さっきから誰かが呼びかけている。電話のベルが鳴りっぱなしだ。まともな返答は期待できないだろう。工事現場では、周囲の騒音に打ち勝とうとするかのような大声で、何を語っているのか。何を喋っているのか聞き取ろうとしているうちに、その中に奇妙な雑音が紛れ込んでいることに気づく。交通事故の幻影は、今までに聴いたことのない不思議な音色を奏でる。まるでそれを望んでいるかのように、何かいい加減な視線に見入られている。それに見とれているのは誰の眼でもなく、自意識過剰がもたらす世間の目というやつか。別にそんなことを思っているわけではない。例えば世界の中心はどこにあるのだろう。そこで何を叫んだらいいのか。それは誰を真似ているつもりなのか。真似ているのは誰でもない。そして君はたぶん何を読んでいるのでもない。いつか見た光景は君の瞳を連想させる。瞳の片方は誰を見ているのでもない。君はシェーンベルクを理解できない。物語はどこへ行ったのだろう。フィクションは情景描写を多用して何を醸し出そうとしているのか。無理に引き裂こうとしている関係を、一方では修復したいらしい。しかしそんな矛盾はありふれているか。はたして現実にそんなことが可能だろうか。木陰から誘いの手が伸びる。屋根の上で烏と猫が睨みあう。梢の先に雀がとまっている。雨は朝方になっても降り続いている。なるようにしかならないのは以前からのパターンだ。何か問題が生じても、適切に対処できるわけでもないらしい。それに関連して思い出されるのは、今では間違っても通用しないような昔のやり方ぐらいか。そんな時代遅れの手法によって切りぬけられるだろうか。結局はいつものながらの泥縄式に頼るしかないか。いったん適当な経験を積んで、変な癖がついてしまった頭脳を、そっくり新品と入れ替えることはできないか。意識は無理が利かないと思いたいのに、さっきから無理をしまくり状態になっている。一難去ってまた一難の成行きに呆れ果て、半ばあきらめ気味にこれまでの経過を振り返っている。一応はそんな状況にも対処しておかなければその先へ進めない。だがそんな経験が何の役に立つのだろう。生きたまま死の病にとりつかれているのは、誰にとっても平等に不幸をわかちあえる機会を与えられているということだ。何を述べているのか理解できないか。それを奇妙な語りだとは思えない。たぶん語りの種類が違うのだろう。真夜中に窓から陽の光が差し込んでいると思うか。急にあきらめが肝心だということを悟り、これまでの行程を簡単に否定したい衝動に駆られ、実際にそれが可能ならなおのこと都合が良いのだが、現実はそういう風にはいかないらしい。後から言葉が追いかけてくる。何としてもそこに引きとめたいのだろうか。しかしそれ以上に何を繰り出せばいいのだろう。誰かやり方を教えてくれないか。手法は無限にあるように思われ、しかしその中のどれを試したらいいのか分かりかねる。そして意識はどれも試せないことに気づいている。できるわけがないことが明らかになりつつあるようだ。もうすでに苦痛が全身を覆い尽くしている。そんな風に思いたいだけのようだ。なんとなく不幸を楽しんでしまう体質らしい。誰がそうなのかは不明のままに、動詞の主語をわざとらしく弄ぶ。すべてはフィクションだと断言してもかまわない。だがそれで何を述べているのでもないことも当然だろう。何でもかまわないのに、言葉を選んで大げさに振舞うつもりらしいが、明らかに見えすいている。なぜそんな風にしか語れないのだろう。もちろんそれは嘆きにさえなりそうにない。絶望の途中で冗談に変わってしまうのだから、真面目にやっていられないか。


5月16日

 君はこれまでに尊敬に値するようなことを述べてきたと思うか。君は君以外の誰を敬えばいいのだろう。そんな心配は無意味か。いつの間にか戒めの言葉を忘れてしまっている。すべては終わってしまったのだそうだ。それは誰の嘆きなのだろう。君は惨めな姿で生きながらえることを拒否できるだろうか。被害妄想とともに何を必要としているのか。そこ紅茶には砒素が混入している。心悪しき者はどこにいるのだろうか。呪いの言葉を誰に吐きかければ気が済むのか。ロマン派の詩人なら適切な対象でも思い浮かぶのだろう。君は雷についてどう思うか。雷にも哲学があるのだろうか。安らぎを求めているのなら、雷はいらないか。しかし雷と君の話は無関係だ。ただ不自然なつながりを平然と無視して、何か適当なことを語っているらしい。それは強引なやり方かも知れない。はたしてそれで結果に至ることができるだろうか。なんとなく惰性で生きているのかも知れないが、それらの困難を乗り越えようとは思わない。君にとって何が生きていく上での困難となっているのだろう。結果に至ろうとするから困難に直面してしまうわけか。そんなことでは困難を乗り越えられるわけがないか。困難に直面すると笑ってしまうらしい。やぶれかぶれで何を語っているのでもないようだ。君に劇的な感受性を期待しても無駄か。雨の降る日に何を思うのか。つまらぬ映像に腹をたて、また偉そうなことを述べたくなってくるわけか。君にはその内容が分からない。暇なときに何を空想しようと現実の世界では仕事に追われる毎日だ。だがどのように言葉を弄そうと、まともな内容に巡り会えるわけではない。国家の仕組みについて勝手な意見を抱こうと、それは君の主張ではないかも知れない。なぜイメージの世界にしか関心をもてないのか。それだけで生きて行くことはできない。現実にそれだけで生きているわけでもないか。それでも以前と同じような感覚を保っていると思い込んでいるらしいが、過去の文章を読めば、すでにそれらの感覚から遠く隔たっていることが分かるだろうか。そこから先へ行くために、意識は何を模索しているのだろう。もういい加減に無駄な試みはやめたらどうだ。やめることができるならとっくの昔にやめているだろう。もうすでに行き詰まりの向こう側で語っている。しかしその中身が気に入らないのだからどうしようもない。前置きが長すぎる。しばしばその前置きだけで終わってしまったりする。本題はどこへいってしまったのか。誰もが誰かの失墜を期待している。他人の不幸は世間話の種になる。たぶんそれがどうしたわけでもないのだろう。この先何がどうなろうと君は大丈夫だ。落ちぶれる以前に、成功に至ったことは一度もない。すでに落ちぶれようのない環境の中で生きている。失墜する者は、その野望が卑小であることに気づかないだけだ。いったい何に恍惚となっているのか。君の感覚にまとわりついて離れないのは、自らが成功した姿を額縁の中に飾りたてている他人の顔か。分かりにくいことを述べている。人間的な偉大さは、他人から崇拝されなければ生じないものか。しかし生きているうちに崇拝の対象となってしまうと、それ以上は望めなくなってしまい、後は落ちぶれるだけのような気がするが、どちらにしろ君にはあまり関係のないことだろう。君は有頂天になることも打ちひしがれることもない。ただ常に醒めた気分で冷静さを維持したいだけか。何に対しても熱くなるような状況にはならない。感情的になっている人々をただ眺めている。無感動のまま、それ以外にどうすることもない。憎しみはどこから生じるのだろう。他人を憎むことと愛することは同じことか。そのような心の動きを軽蔑したいわけでもないか。ではいつも落胆していたいのか。それもいいだろう。何事もうまくいくはずがないと思っていたい。そんなことばかりでは気が晴れないだろう。だからいつも曇り空を眺めているわけか。たぶんそれで誰かの期待に応えていることになっているはずか。


5月15日

 誰が何を認めているわけでもない。深刻ぶっているわけでもない。何を茶かしているのだろう。尊敬する人物がいるらしい。それらの感情の吐露を認めてやってもいいか。生きているうちには望めないことを誰がやろうとするだろうか。攻撃的な感情は、みすぼらしい権威にすがりつくことしかできはしない。君は現状に馴染めないようだ。単純な思考は拒絶する。誰が主人でもないはずだ。権威に媚びている者を横目で見ながら、君は媚びない語りを継続させなければならない。権威などに優劣はない。どうしてもそれが認められないのなら仕方のないことだ。華美な装飾に心を奪われているようだが、対象が何であろうとなかろうと、批判的な視点を見失ってしまったら、それはただ媚びているだけなのではないか。映像的なリアリティを追求すればするほど、肝心の中身が空疎になる。日本の漫画やアニメを賛美する者たちはそれを分かっていない。安易なキャラクターの使い回しと派手なアクションシーンによって、思考の欠如を隠しているだけのような気がする。それらの手法は視覚を過度なデコレーションで覆い尽くして考える暇を与えない。他愛のない話を映像によって飾りたてているだけなのに、それを知り得ない人が多すぎるのだろうか。そこまで思考が及ばないだけか。そんな映像表現の虜となっている人達では、政治的には現状追認以外の何もできないだろう。彼らはジョン・レノンの「イマジン」を聴きながら、イラク戦争を追認する政府を支持していたりするか。また支持していなくとも、選挙のときは政権与党に投票するだろうか。別にそれが矛盾しているとは思わないだろう。まさか本気でそう思っているわけではないか。なんとなくどうでもいいことのように思われる。それらのメディアは結局何ももたらしはしないだろう。安易な方向で自意識過剰を煽りたてているだけか。それともそれがすべてではないと思いたいか。思っているのなら言葉に出して表現してみればいいか。君にとってそんなことは他人事になるだろうか。彼らは何を伝えたいのだろうか。画面上で踊る人体の躍動感とかいうやつか。特定の目的は何もなく、その場限りの快感を求めているのかも知れない。君は本気にはなれない。娯楽を真面目に取り扱うわけには行かないか。では真面目になることが娯楽になればいいのだろうか。そんなことではないような気がするのだが、その先をどうしても思いつかないらしい。それらの分かりやすさは何を意味するのだろう。何か特定の主義主張を訴えかけていなければいけないのだろうか。そんなことはないと思われる。分かっていないのはこちらの方ではないのか。愛が勝つわけでも正義が勝つわけでもなく、最終的に生き残った者が、自らの勝ちを宣言できるかも知れないが、宣言してどうなるわけでもないだろう。ただ勝ち誇っているだけか。自らの勝ちを第三者に認めてもらわなければならない。また負けた者が自らの負けを認めてくれるとありがたいか。しかしそれでも因果応報とはならないだろう。勝ち誇る者はその場限りで勝ち誇っているだけで、滅び去る者がどんなに良心的であっても、ただ滅び去るだけだ。そこに善悪の基準は適用されないし、通用しない。またそこに倫理を導入しても何も当てはまらない。物語に神の視点を導入するのは反則技か。登場人物を何とか救いたくて神が現れてしまう。あるいは救われない理由を説明するために出現する場合もあるだろう。作者としてはそれが偶然では済ませられないのだ。不慮の死であっては困るのだろう。安易なものとしてはことわざ的に説明するやり方もあるが、何としてもその成行きに説得力をもたせたいようだ。そんなわけで物語は因果応報的な成行きに支配されてしまう。謎が謎のままに終わってはならないのであって、そこで必ず理由が示されてしまう。要するに火の鳥は、最終的に理由を説明してしまうわけだ。


5月14日

 玉葱の皮を剥いているうちに涙がでてくる。それは間違ったやり方なのだろう。歪んだ世界は君が捏造する物語上で展開される。屋久島の杉はいつか枯れるだろう。実権を失ってしまったかつての独裁者を非難してみても仕方がないか。それらの歌は無効だ。今さらそれについて何を思えばいいのだろう。月の光はどこへ行ったのだろう。たぶんやることがないのかも知れない。何のことはないただの気分を感じている。夕闇の向こう側に曇り空が広がっている。晴れた空を望むなら明日を待てばいい。原生林を尊ぶ心は美学的か。白神山地にでも行ってみれば何か分かるだろうか。昔読んだ漫画によると、妖精は北海道に生息しているらしいから、東北地方で会える可能性は低いかも知れない。だがそんなことを本心から思っているわけではなさそうだ。戯れ言の一種で適当な間を取っているようだ。思いは文字から離れ、言葉にならない雰囲気の中に溶け込んでゆく。それらの思いはやがてどうでもいい言葉の羅列と化すだろう。たぶんそれらの言葉は誰の思いも反映していないだろう。記述している者は言葉から見放されている。早晩人格を放棄せざるを得なくなる。続ければ続けるほど思いから離れて行ってしまい、そこで何を語っているかなどということは、生きてゆくためにはまったく関係のないこととなってしまう。そしていつの間にか何もやっていない自分に気づく。影はそれ以上を目指さなければならない。虚栄の宴は果てしなく続く。もう誰も止めることはできない。止める立場がメディア上から消失している。雲が重く垂れこめて空が低くなり、雨の降りだしが間近に迫っていることを予感させる。それらはほとんど幻想に過ぎないのだろうか。誰からともなく受け継がれた使命は勝手な思い込みに由来する。君は妖精ではない。幽霊でもなく、怪物でもない。何者にもなり得ないただの意識だ。それは大したことじゃない。雨の中で傘をさす動作を知っている。そこから何を眺めているのでもない。車窓の風景は線路の周囲に限られる。夜の月は天空の主人公になれるだろうか。そんなことを知りたいわけではないらしい。酒に溺れる者は幸せになれるだろう。羞恥心はどこへ行ったのか。幻想曲に登場するナポレオンは生身の体を求めている。野望の復活を望むことは時代遅れと思われるだろうか。血痕が黒くこびりついている。他人の興味を引くためにあの手この手の手法があるらしいが、金儲けを指南したい人はハウツー本を書いて、その印税によって二重に金を儲けたいようだ。それらの形式には千差万別がある。それにつられて人の心も千差万別があるように装う。憎しみを抱き続けてはならない。誰かがそんなことを言っていた。君は誰を憎んでいるのだろう。君は誰かから憎まれているのだろうか。そんな被害妄想に凝り固まっていてはならないか。草刈りの民が山から里へ降りてくる。日がな一日雑木林の篠ごやを円盤鎌で刈り続ける。望む人々はどこへ行ったのだろう。望みがかなって幸せになってしまったのか。フリーターは定職に就きたいようだが、そんな保守的な傾向を諌める人はいない。言っていることが逆ではないのか。過ぎ去ったことは水に流そう。明日に向かって何をやろうとしているのだろう。不況はもう終わりなのか。まだその程度では物足りないか。そこからは何も生まれはしない。乾いた大地に雨水がしみこんでゆくように、何を吸収しているつもりなのか。そんなやり方ではたかが知れていると思われる。ではもっと劇的に金を儲けたいわけか。株式投資でもやってみればいいだろう。地道に働くよりは気分がいいかも知れない。働いているのは君ではない。働きそびれて何もやらずにホームレスになる。安易な選択だろうか。たぶんそこまで落ちぶれる前に寿命が尽きるだろう。君には才能がある。何もやらないことは才能になるだろうか。何もやっていないわけではないか。面倒なことが嫌いなだけか。


5月13日

 思いはまだ核心にはたどり着きそうにない。どこに核心が存在するのか。何の核心なのか不明か。罪の意識は勘違いである可能性もある。そんなアニメーションを斜めから眺めている。それについて何を語ってもとりとめがない。軽い冗談だけでは物足りないのか。図式的な説明を聞き流し、まだ微かに残っている良心の断片は、理解可能なことを考えていたいようだが、本心の方は何を理解すればいいのか分からない。それは聞き流されるだけのつまらない思いつきにしかならないだろう。相変わらず何を悟っているわけでもないが、あてもなく歩き回っている現実を、何と結びつけて語ればいいのだろうか。美学的な価値観から抜けでられずにいるようだ。年老いた人の言動には哀しい限界がある。昔を思い出しながら、以前のやり方を封印しているようだ。世界がだんだん幼稚になりつつあるように思われるのは、君の思い違いか。なんとなく思考が単純化されているような気がする。世捨て人のように山奥へ引き籠ってしまった人は、その原因となった思い通りにならない状況を否認することしかできず、そんな自分の幼稚さに甘えている。悲劇の主人公は、その悲劇的な宿命に甘えている。ありふれた成行きに酔っているわけだ。自分だけが特別だというありふれた思い込みも本気で信じている。そして神秘主義への傾倒があるようだ。もちろん神秘主義もありふれている。修行僧のような生活を通して、山奥の自然と一体となったと勘違いしている。山奥は山奥で街中は街中でしかないことを理解できない。孤独を装う人は弧高であろうとするが、心に抱いているその理想は、現実を無視することで成り立っている。偉そうに何を語っているのだろう。なぜか手塚治虫の「火の鳥」において、火の鳥自体が余分であることに気づく。火の鳥の存在なしに物語を展開すれば、それはどうということはないありふれた漫画になるだろうか。そういう意味で火の鳥は、人の気を引くためのこけおどし的な存在なのか。昔の漫画は昔の漫画でしかないのかも知れない。もちろんそれで何を述べているのでもないが、昔それを読んでいた頃の自分に落胆する。漫画家はそれを描きながら何に酔っていたのだろうか。結局はいつもながらの戦いの歴史をなぞっているだけか。争いごとがないと漫画にならない漫画家は多い。登場人物が事件を引き起こさないと先へ進めない。それは漫画家の日常でもおなじことなのだろうか。何かしら出来事が断続的に起こっていて、その出来事と出来事を恣意的につなげてゆけば物語になる。それの何が不満なのか。そんな魅力的な出来事の連なりを鑑賞していればいいのではないか。それでは退屈だと思うなら、自分でそれとは違うものを構成してみればいいだろう。たぶんあからさまな対決を避けているのだろう。自分の主張を遠回しに表現しているようだが、その後の成行きによっては、それが変節しながら、思いがけず他人の主張となってしまったり、また主張とはいえないような、もはやどうでもいいものとなってしまったりする。状況の推移とともに、主張していた当時の自分ではなくなってしまう。いつの間にか何を争っていたのか分からなくなる。当時とは状況が変わってしまったらしい。過去においては重大なことが、今となっては取るに足らぬこととなって、過去の思いは忘れ去られるしかない。歳月の経過による風化作用を被らないようなものは、人間の本質とは無関係なものだろうか。だがその人間の本質自体も、それについて思考する者の勝手な思い込みに基づいた観念かも知れない。それ以上を求めるのはないものねだりもいいところか。意識はそんな物語から遠ざかりつつあるようで、それを鑑賞している自らを見下している。そんなもので代替えできるような現状ではない。なんとなく違うような気がするだけか。しかしそれでも何を述べているのでもないようだ。


5月12日

 どうも今回も気の利いたことは語れないようだ。人間的な軽さは、馬鹿にされるような性質を帯びているものなのか。何が軽いのか基準が曖昧だ。多くのお偉方が国民年金の保険料を一時期払っていなかったことについて謝罪しているらしいが、それの何を重く受け止めていいのか分からなくなる。強制加入なんかにするからおかしくなるのだ。そんなものは任意加入で十分なのではないか。加入者が少なくなってたちゆかなくなったらやめてしまえばいい。もちろん国家主義者にとってそんなことは言語道断なのだろうが、国民なのだから国家にしがみついて生きて行くことが当然だとは思いたくない。個人が国家に対して何ができるかを考えてみると、絶望的な気分になってくる。何もできはしないような気がしてくる。老後の心配まで国家まかせでは共産主義と変わらない。そんな風に思ってくると、なんとなく国民も国家も冗談のように思えてくる。またイラクでイラク人を殺しながら、運悪く自らも殺されてしまうアメリカ兵などは、かつてベトナムで死んだ人々と同じように、単なる無駄死にの犬死に以外のなにものでもないような気がするのだが、そんな宿命をアメリカという国家から押しつけられている現状も、殺される当人にとっては冗談では済まされないだろうが、傍観者にはやはり冗談としか思えない。たぶん最近は冗談も言えないような状況でもないだろう。しかしそれで何か述べているつもりなのか。例えば人の死は笑いの種か。それではよく分からないままか。人の力には限界がある。国家が見せびらかす武力にも限界がある。無邪気な焦りは早朝特有の気分が醸し出している。昼にはそんなことはすっかり忘れて、他愛のない状況だと思っている。明日の天気は雨らしいが、今日の君は空模様を気にしていないようだ。頭の中ではおもちゃの卵が割れている。床一面には画鋲が散らばっている。では天井裏には何が落ちているだろう。あり得ない光景を夢想しているだけか。たぶんいつもの嘘には力がないのかも知れない。ここから先は説得力を期待できない文章になりそうだ。今の自分には政治についてとやかく言う義理はない。君以外の誰かの脳裏には適当なアイデアがひらめいているかも知れないが、それをどうやって実現させるつもりなのか。何を嫌っているのだろう。大言壮語して周囲から馬鹿にされたことを悟り、打ちひしがれた気分にはなりたくないか。影に遠くから見つめられている。臆病な言葉は暗号のような散らばりを示す。分散した言葉を文章として成り立つようにつなぎ合わせるのは面倒なことか。たぶん何をやるつもりもないのに、結果として何かしらやっている君は、言葉の連なりを提示することによって、何か意志とは別の内容を求めているのかも知れないが、君の影はそこからどこへ向かおうとしているのだろう。影は君の意志とは無関係にその辺を動き回っているらしいが、その行動は必ずしも決められた手順を踏んでいないようで、何か規則的な言葉の配列を嫌っているのかも知れない。結果として出力されるそれらの内容は、やはり何を述べているのか意味不明になる。君がいい加減な根拠によって定義する時代は不安を知らない。不安を知っているのは、不安から遠ざかる影か。もっと自由になれないものか。打ち砕くべき対象を知らない。何ものにもとらわれずに何を語ることができるだろう。なぜ夢想家は理論を構築しようとするのか。決まりごとには夢がない。規則を定めようとする意識は、煩わしさから開放されたい心と結びついているようだが、なぜ語りが途中で終わってしまうのだろう。他に何か言い残したことがあるのだろうか。具体的な出来事が抜けているか。知らないうちに、自らにとっても他人にとっても、精神的に耐えられない言葉の連なりになっているのかも知れない。


5月11日

 君はそれらの何が気に入らないのだろう。それで精一杯の表現なのだろうか。まるで故障箇所が無限にあるようだ。ドアが開けっぱなしになっていることに気づき、急いで閉めたがもう遅い。外界の思惑に翻弄され、気づいたときには何かを見失っている。それをどう修復すればいいのか思案に暮れているらしい。何を迷っているのか。すでに水増しされた請求書のように、空白に適当な文字が配置されていることに気づく。自分で記述していながら、そのことに無自覚なのか。そのつもりもないのに、意味ありげに空虚な言葉を並べたてて悦に入っている自らに気づく。そこで何を飾りたてているのか。いつもながら作品とみなしているものは、完成からは程遠い状況にあるらしい。何かを断念しなければ完成には至らないのか。意識には常に邪念があり、空には闇がある。闇夜は何を考える時間帯なのか。無垢を装う瞳は何を眺めているのだろう。そんな瞳があるわけがないか。それ以上に無駄な言葉はいらないと思うか。しかし無駄以外に何を知り得るだろうか。すべてが無駄であり、その無駄なすべてが、文章を構成するために必要とされている。砂漠に行けば何に出会えるだろう。誰に会うことを希望するのか。行くつもりもない場所について意識は何を思っているのだろう。たぶん想像しているのはそんなことではない。限界は嫌気とともに到来する。そうした嫌悪感は何をもたらすだろう。意識はそんなことを問いかけたいわけではない。同じような語りが循環している現状について何を思う。君は寒いのか。それは君とは別人の台詞か。それとは無関係な場所から借用されてきた言葉かも知れない。その先にどう言葉をつなげたらいいのか分からない。寒いのなら雨を眺めていればいいだろう。冬の光景を想像してみよう。そんな選択肢があったのか。別にテレビドラマを見ているわけではない。そしてとりあえず今は冬ではない。保冷庫の中で凍りつくような寒さを体験しているわけでもない。やはり話の前後の関係を無視している。そんな述べ方では不自然か。意識のどこかが砕けているようだ。深刻さとは無縁の遊戯を目指しているのかも知れない。そんな現状では深刻になれるはずもないか。何を述べてもそれ自身へと返ってくる。鉾先がどこを向いているのか判然としない。思考の抽象性は具体的な内容を見下しているのか。感性をとらえているのは、意味も形式も無視するような過程を経ない偶然の結果なのか。それでは何も残り得ない。何もない空白がすべてのようだ。意味ある場にはどこへもたどり着けずに、ただその辺を適当に逡巡し続けるだけなのか。なぜそこへ留まり続けようとしているのだろう。それは誰かの意志に基づいているのだろうか。しかしそこからはみ出なければならない。自らからはみ出て、自らの意志を別の言葉で包み込む。不具合には際限がなく、適当なところで修復あきらめないと、そこで足止めを食うしかない。早くそこから先へと歩を進めたいのに、理想を追い求める善意がいい加減な前進を許さない。たぶんそれがすべてを台無しにしているのだろう。しかしそのすべてを放棄できるだろうか。だがそれではどこまで行っても抽象論の域を出ない。具体的に何をやりたいのか分からない。分かっていることは、無駄に言葉を弄して気休めの文章を構成していることぐらいか。しかしそれが本音とは到底思えない。まだ具体性をあきらめきれないようだ。何を述べているのかはっきりさせたいらしい。はたしてそれがまだ可能なのだろうか。分かりやすさからは遠く離れている。それは誰の感想なのだろう。君はそんな風には思わないか。なぜだろう。何がなぜなのか分かりかねるか。いつまでもできないことを目指していないで、少しは簡単に述べてみたらどうか。何を簡単に述べられるのか分からない。簡単とはどのようなことなのだろう。それは少しわざとらしい。なんとなくすでに簡単なことを述べているような気がしてくる。これでいいのだ、は誰の台詞だろう。分かりきったことを聞かないで欲しいか。誰に聞いているのか分からないだろう。


5月10日

 意識はいつもの日常を過ごしているようだ。見慣れた風景に日の光が差し込んで、雨がやんだことを誰かに知らせている。どこでほにゅう類の呼吸は途切れるのだろうか。それは猿の一種だろうか。どうやら少しぐれた語りにずれ込んでいるらしい。なんとなくそれは違うと思う。面倒なのですぐに思うことをやめてしまう。ではこれからどうすればいいのだろう。映像の中にどよめきを呼び込んでいるのは誰だろう。それはいつの記憶なのか。洗練された風景には驚きが欠けている。安らぎを醸し出そうとすれば、間の抜けた感覚を呼び込む。誰かの意図を感じとろうとすれば、それが大きなお世話であることを忘れてしまうだろう。数時間前には、それでも日没までにはまだ間に合うと思っていた。何を間に合わせようとしていたかは明らかでない。文章上ではどうでもいいことのようだ。いったい何を強がっているのか。日付に追いつけない状態が長引いているようだが、意識はそんな現状を忘れたくなる。たぶん実質的に長引いているのは閉塞状態だろう。しかしそんな語りで間をもたせようというのでもない。方策は何もないのか。君の方策は方策以前の稚拙さを露呈させている。計画性が皆無なのだ。ガラス越しに他愛のない光景が展開されている。もう駄目だろう。それをのぞき込みながら暇をつぶしているらしい。もうとっくに手遅れを通り越しているのに、意識は未だに理由を探しているのかも知れない。何か画期的なことを述べてみたいのだろう。しかしつながりは何もない。理由はそこにはないような気がする。見出されたそれらの理由にはいつも失望させられる。全体を見通す能力に欠けているようだ。思うことは考えることに結びつかず、過去は過去であり、現在は現在でしかないことに気づかぬ振りを装って、今こそ未来を思い出さなければならない、とうそぶいている矛盾のただ中で、何を語ることができるだろうか。語ることができると思い込んでいること自体が嘘だろう。ではそのついでに、途中で途切れてしまった思考を今こそ復活させなければならないか。それも嘘に違いなさそうだが、たぶんいくらわけの分からないことを述べても、それが君の叫び声になることはないだろう。そんなことを述べたいわけではなく、しかし述べたくもないことを記述しながら、空白に言葉と言葉をつなぎ止めて、何かしら語っているように見せかける。それが対話になるはずがないか。何も対話を望んでいるわけでもない。そして何を思い起こしているわけでもないらしい。ただ空虚を手に入れるために沈黙を保持している。すでに手中には下らない意味不明が掴まれているのかも知れない。だが記憶が覚えているのは、今見えている光景ではない。見ようとしているのは、眼には映らない影かも知れない。そこからどうやって抜け出られるかを問題としたいようだが、そこまで至らずに抜け出てしまっている。問題が生成される以前に問題自体が解消してしまっている。結果的には何も問題ではない。何の問題もないのに、それを問題とする人は多い。すでに眼の前に存在している答えから目を背けながら、必死にそれらの問題について力説したがる。まずは自分が問題提起する立場を占有しないと、気が済まないのだ。そして分かり切ったことを大げさに語ってみせ、自己満足の表情とともに、これからどうすべきかを説教するわけだ。要するにそのような手続きを経ないと、答えに行き着いてはいけないのであり、それは分かり切った解答を提示するための儀式になるだろう。国会で行われていることの大半はそういうことだ。まともな精神状態でそれ以外を見出すことは困難かも知れない。たぶんそれらの儀式は制度的に必要不可欠であるのにもかかわらず、いつも批判の対象となっていて、制度的な改善を求める声は多いようだが、それが実現された例はない。そのような無駄がなければ、制度そのものが維持できないからだ。たぶん他にやりようがないのだろう。


5月9日

 何を語ってもどこへも行き着かないようなので、たまには世間と似たようなことを語ってみるか。そんな横柄さのただ中で、例えば羨望と嫉妬はどんな台詞を導き出すだろう。書物を読まぬ人はベストセラーを読む。それは矛盾した言い方かも知れないが、誰かはそれで的を射ているような気になりたいらしい。君自身は何を皮肉っているのでもないつもりのようだが、それはひがみと受け取られても仕方のない台詞だろう。過去にもそんなことを述べた人は大勢いたのだろうか。評論家的な台詞は知ったか振りをその気にさせる。しかしそれでは何も始まらないか。そこから何を始めようとしているのか分からないが、君の与り知らぬところで何かが始まっているのかも知れない。実際に何が始まっているのか。わざとらしく分からない振りをしているようだが、すでにそれを知っているはずか。君はいつも何もないところから言葉を連ねる作業を始めようとするが、君以外にとっては、それで何が始まるわけでもないか。君の物語的な設定としては、誰もが何も始められずに途方にくれているわけか。誰もではなく、実際に君がそうなのかも知れない。今はそう思われても仕方のないところか。語る内容を見出せないのに適当な語りが始まってしまう。それで何をやっているつもりなのか。そんなことは結果を見てから考えよう。何も今さら時流に逆らおうとしているわけでもないが、いちいち考えるのが面倒なので、その場の成行きに従えば、くつろいでいる時間帯には何もやりたくない。しかしいよいよ切羽詰まって焦りを感じ始めてから、いい加減な言葉を繰り出している。だがその場では依然として意味不明だ。普段から無口な誰かが何を述べようとしているわけでもないらしい。それは本筋とは無関係な言葉か。そうやってわざと不自然な言葉の構成を試みているわけか。ただ無言のままに、黙々と作業は続けられているだけのようだが、たぶんそんな状況は好きではないらしい。しかし状況とは何なのか。誰かはそんなよく分からない問いに悩まされるわけか。悩んでいるのはそのこと以外に何かあるのだろう。何もなければ、その話はそこで終わりだろうか。すでに始まる前から終わっているような気がしてくる。しかし終わっているのに、依然としてまだ何も始まっていない。君は現状が無内容の他に何もないことをどう思っているのか。そんな状況に焦りを感じながらも、苦し紛れに何をやろうとしているのか。取り立てて何をやっているつもりもないようだが、そのとき唐突に何かが発せられる。衝撃的な台詞とは何か。たぶんその台詞は衝撃的でないだろう。報われることのない言葉はどこに出現しているのか。それはここにあると思う。確かにその程度では誰も何も報われようとは思わないだろう。それを期待しているのは、別の物語の登場人物たちかも知れない。日頃から分かりやすさを求めている彼らは、そんなつまらない出だしに落胆する。たぶんそれらの作者たちはだいぶ肩が凝っているようだ。背中の痛みを誰に訴えているのか。君は訴えるべき人を知らない。君は孤独なのか。そんなはずはないだろう。しかしある意味では孤独かも知れない。だがそのある意味には意味がない。そして、またしてもいつもの言葉遊びに陥っている。そんな流れに記述は逆らうことはできない。流されつつも、意識はそんなはずがないと思いたいだけだ。別に曇り空を待ちわびていたわけでもないだろう。ではどんな結果を想定していたのか。見苦しい結末を嫌って、あれから二日経ってなおも悪あがきを繰り返そうというのか。現時点ではそんな風には思わないか。しかし何をもって結果とみなせばいいのだろう。まだ何も始まってはいないのではないか。いつもそんな風に語りながら、そこから先が提示されないままに終わってしまうようだが、それは現実に何もないのだから仕方がないのか。


5月8日

 どうもそれは違うらしい。君はいつものように勘違いを犯している。何を間違っているのか。糖分を過剰摂取していると糖尿病になるだろうか。そんなことを語りたいわけではないか。甘いものを飲食する度にそんな恐怖が脳裏をかすめるのは気の小さい証拠か。誰がそんなことを思っているのだろう。健康幻想に頭を害されているか。それは将来何らかの実感を伴った感想になるかも知れない。だが見つめている先には何も見当たらない。ガラクタの山にゴミ以外の何も見出せない。求められる答えではつまらないから意味を放棄する。語ることが何もない行き詰まりの時間帯を通り過ぎたら何が出現するだろう。その先に希望を見出したいようだが、通り過ぎられるわけがないか。また君は誰の相手をしているつもりなのか。相手になっていないか。争う理由を見出せない。無意識のうちに目前に迫っていた期限を先延ばしにしている。病んでいることが言い訳になることはないだろう。誰かは何を病んでいたのか忘れてしまったらしい。単なる筋肉痛であることを願っている。そこから先を見てみたい。君が何を思い考えているのかを知りたい。それは願望を越えて未来の出来事となるだろうか。そこまでに至らない可能性もあり得る。何も思わずにただ歩き続け、自らの死にも気づかずに終わってしまう運命もあるだろうか。誰にそれが到来するというのか。そこに何を見出したつもりになっているのか。またいつもの空虚に遭遇したように思われるのか。しかし必然性はどこにあるのだろう。君が存在していることに理由はない。君でなくてもかまわないが、たまたまその場にいる設定となっているようだ。しかし物語はどこにあるのか。君は何を語っているつもりなのか。なぜそのような展開になってしまうのだろう。そんなことは君の知ったことではないのは承知している。それを語らなければ話にならない。敢えて嘘をつくなら、君にはそこから先に言葉をつなげる義務でもあるのかも知れない。だが敢えてそうする必要はないだろう。なぜそうやって即座に嘘を否定してしまうのだろう。嘘の内容がつまらないからか。小手先のごまかしを多用している。間違ってもそこから驚くような内容へは至らないか。現実はめまいのするような世界を提示しているわけではない。人にはその人特有の勝手な言い分があるのだろう。さまざまな人々の勝手な言い分をすべて尊重しているように装うことは可能だろうか。なぜそれを実現させようとするのか。それは善意と呼べるようなものなのか。それとも偽善と受け取られても仕方のないような行為と見なされてしまうだろうか。それを受け取る立場の違いによって判断は異なるだろう。しかしそれでは何を述べているのでもなくなってしまうだろう。具体的に何について述べようとしていたのか。何を悩んでいるのだろう。別に悩んでいることを明らかにする必要は感じない。それ以外のことで語り続けられると思っているらしい。それは君の勘違いなのだろうか。やっと勘違いの原因が具体的に見えてきたような気がしてくる。悩みを悩みとはとらえずに、何か他のことを述べてごまかしているつもりのようだ。それがごまかしだなんて思いもしないか。思いもしなくても記述することは可能だろう。何をどのように語ろうと、その何かについて語れるはずがない。絶えずそれとは別の対象を妄想してしまい、語りも自然とそちらの方へとずれて行く。そして結果的には何を語っているのでもなくなってしまうが、それなりに言葉は連なり、適当な長さの文章となってしまうだろう。しかしその内容は記述した本人にもよく分からない代物か。


5月7日

 瓢箪から何が出てくるわけもないか。なぜ君は語っているのだろう。何を語っているのか。何を思いついたのか。誰かの反発を導き出すにはどんな台詞が必要なのか。例えば、スポーツは馬鹿らしい。そんな台詞に誰が反発するのか。あまり気乗りしないが、それでも雨音に合わせて途切れ途切れに語りだす。英会話を習得したい人には下心がある。下心などあって当り前だろう。生きるために役立つと思うことは、何でもやってみた方がいい。やる気があるならやってみればいい。努力を惜しんでは向上はあり得ない。しかし何を向上させたいのか。英会話力の向上か。だが人と話すことにどんな意義を見出せるだろうか。それは別に改まって見出すようなことではなく、話しているうちに自然と分かってくることかも知れない。また、たとえ分からなくても、会話によってその場が円滑に推移すれば、それに越したことはないだろう。しかし君は何も話せない。何が気に入らないのか。気まずい雰囲気が好きなのか。他人とそう簡単に意志疎通ができるとは思わないし、コミュニケーションという概念自体を理解できない。理解できない割にはコミュニケーション能力を重視しているのかも知れない。いつもどこかで齟齬が生じている。会話が気に入らないので、わざと食い違ったことを述べているのかも知れない。そうやっていつも人を困らせるひねくれ者を知っている。君はひねくれ者のひとりなのか。まんざら齟齬を解消するやり方を知らないわけでもないが、どうにも意識と意識して繰り出される言葉との間に、積極的なつながりを見出せないようだ。そのどちらもが虚構のような気がしてくる。それは何かの冗談か。なんとなくそこから逃げ出したくなってくる。それでもまだ何か工夫を加えれば何とかなるだろうか。ではこれから何を工夫するつもりなのか。講釈話にも謙虚さを滲ませれば説得力が宿るか。わけ知り顔にはそんな話は信じられない。何よりも心の底から自分自身を信じられない。また他人の勇気に後込みしている。あわただしい日々を忘れ、静かな日々に憧れ、それから何をどうしたわけなのか。やっていることは他愛のないことばかりか。願いはいつまでもかなわぬようだ。ふてくされて、誰かは短い月日を寝て過ごす。思い通りにいかないことに腹をたて、やりかけていた何もかもをどこかに放り投げる。君は世間とは無関係に行動しているつもりらしいが、老けた姿を夢想して、忙しさの合間に、竹林を眺めながら物思いに耽る。真昼に何を思うだろう。散慢な意識はすぐにうわの空だ。心は虚無に奪われている。他の話はどうなってしまったのか。途中からおかしくなってしまったのかも知れない。そんなはずはないか。嘘をついているうちに指先が痺れてきた。たぶんそれも嘘だろう。誰かは脳がいかれて嗅覚を失いつつある。またそれも架空の話なのか。架空の話が嘘であるのは当然か。嘘であってもかまわないのではないか。何をやっているわけでもないが、何もやらないことが幸いしているようだ。気分次第で何かの複合体が形成されつつある。そして結果はいつもの意味不明になるか。別にそれを大げさに表現したいとは思わない。真実を語ろうとしているのに嘘になってしまう。語り得ないことは無視すべきなのか。では現実に視界を遮っているのは何なのか。視界よりも思考の邪魔となっているかも知れない。絶えず到来続ける無為の時を避けられずに、何もできない振りをし続ける。それはどんなポーズなのだろう。時間が止まっているとは思えない。筋肉が固まっている。君は適切な接続詞を忘れてしまったようだ。そんな嘘によって痛みを和らげようとしているらしい。やはり後から思えば他愛のないことかも知れない。それでも何を述べているのだろう。空は唐突に晴れ渡る。面倒なので物語の中では雨はなしにしよう。


5月6日

 偽りの出来事が虚構を構成する。それが偽りであるはずがないか。何を批判しているのだろう。空中に浮かぶ都市が映像の中に出現する。奇想天外の意味を知りたくなる。架空の人物は見出された時を有効に使わなければならない。そんな話の中につなぎ止められている。それはいつの話なのか。いつも遅れ気味の腕時計をのぞき込む。満たされない気持ちはどこへ向かうのか。方位磁石の示す方向へと歩みだす。信用できない人々と共に何を求めているのだろう。どうでもいいような話に興味を示している。誰が何をしているのか。それとは無関係な嘘を述べるなら、冷静になれない自分を発見しようと誰もが努力している。映画を見るとはそのようなことなのか。どうでもいいことに真剣になれる余裕が欲しいそうだ。些細な行き違いを拡大解釈してみせる。こだわりとはそのような行為から生まれるのだろう。それらは相対的な価値観の相違に還元されるが、こだわりを求める心は、自虐的に自らの行為を卑下してみせる。他とはちょっと違うこだわりをばかばかしく思っている振りを装うが、それは単に用法的な間違いではないのか。何事にも突き放した態度でいられる立場でありたいようだ。すぐに熱くなる人を内心で馬鹿にしている一方で、表面的には同調しているように見せかける。そんないやらしさを相手から見抜かれていることに気づかない。そんな人はどこかで代償を払わされているのかも知れない。あまり過大評価してはならないが、過大評価を装ってわざとらしく驚いてみせる行為を虚しく感じている。しかしそれがおつき合いの常識なのかも知れない。そんな虚しい会話がどこかのパーティー会場では飛び交っているのだろうか。それ以外に何を話したらいいのだろうか。それとも何も話さず沈黙を守るべきなのか。そこでくじけてはならないそうだ。なぜ人々は居心地の悪さに耐えているのだろうか。作り笑いを多用しながらその場の雰囲気に合わせようとするのだろう。たぶん話すことなど何もないのかも知れない。会話自体が余計なものなのかも知れない。しかし余計だが必要不可欠になっている。無駄なのに必要とされている。よくいえば親睦を深めるためには無駄な会話が必要不可欠と思われている。ある意味ではそれは真実なのだろう。会話に見せかけた情報交換によってお互いの腹のうちを探り合う。話し相手に勝手な幻想を抱いて暇つぶしの材料としている。人間を観察しているつもりになって、根拠の希薄な会話理論を形成しようとする。わけ知り顔を装い、何が話題となっているのか探りをいれている。たぶんこの世はチンパンジー文明の亜種で満たされているのかも知れない。だが嘆くことはない。それがすべてなのであって、それ以外を想像しようにも、君は人間以外の人間の存在を知らない。宇宙人も人間の一種と見なされている。別にそれは深刻な事態になっていない。有無をいわさず実力行使に訴える以前の段階にとどまれる可能性がある。君達はそこに何を求めているのでもない。ただ漂っていたいだけなのかも知れない。あてどなくさまよっているうちに人生を終える人もいる。それを肯定する度量が君にあるだろうか。少なくとも否定する度胸は備わっていないのかも知れない。些細な真実を否定してどうするのか。気に入らぬことは無視されてしまうだけか。まだそこから先があるらしい。君は知人を介して何を知ったのか。ある事件について興味深い文章を発見したつもりになっているだけか。大騒ぎするほどのことでもない。何を知ろうと知っていることにはならないだろう。過去の事件は未来を知らない。これからどうなるか予測を提供するものではない。それらの出来事は君とは無関係に思われる。それは単なる付け足しの域を出ない話か。よく分からないままに時間が過ぎ去るだけのようだ。いつものように何を語ろうとしているのか分からない。確か以前はそこで途切れていたように記憶している。


5月5日

 人の力が及ばないところに制度が横たわっている。それを変えようとすれば保守派が立ちはだかるか。保守派には変えられない事情があるのかも知れない。保守派の都合の良いように変えないと支持者が納得しないか。そんなことはどうでもいいか。なんとなく語りを放棄したくなる。往生際が悪いようだ。何事もあきらめてはいけないらしい。それが共産党辺りの信念となっている。清廉潔白を目指すべきなのか。それは目指す必要のない無駄な概念かも知れない。では何を目指すのにも信念は必要だろうか。そんなところから語りたいわけでもない。無駄足を引き受ける人の気が知れないか。効率的な作業に信念は要らないと思われる。それは効率的でない。思っている暇がない。何かを思っている間に作業は終わっている。しかし終わった後から疑念が生まれつつある。作業の合間に君は何をやっているのだろう。別の作業をやっているわけか。それは内職の類なのか。気分はそこから逃れたい。何もない空間で何もやらないことを望んでいる。そこから信念が生まれるだろうか。君は自らの信念を疑っているわけか。それでは信念にならないだろう。何事も疑ってかかるのが君の信念か。なんとなくそれで一応の答えを得たような気になってくる。それ以外にどう答えれば気が済むだろうか。何を信じたいのか。遠く離れてしまった思いを復活させたい。苦難の歴史を語り継ぐ者は被害妄想に陥っている。しかしその妄想の中に歴史の真実が息づいている。歴史そのものが虚構と幻想の産物なのかも知れない。だが性急に答えを導いてはならない。歴史は答えではない。安易な歴史はロマンを感じさせるだけか。構成してみればすでに死んでいる。屍臭が漂ってきて、蛆と共に自作の詩を朗読したくなる。それがロマンの源泉だろうか。メディアは前向きな意見に幻想を抱いている。ワインと共にパンとチーズを食していたいらしい。それは西洋かぶれに属する態度か。何を述べているのでもない。どうやら画面上に登場する人物たちは、みんな利いた風なことを語りたいようだ。自らの主張に酔いたいのか。語っている姿を思い浮かべて悦に入りたいわけか。そんな誘惑をはね除けることができるだろうか。浮ついた意識には隙が生じる。隙が生じてもかまわないだろう。隙の中に良くなる可能性がある。しかし大げさなステージの上にはしょぼい現実がある。月並な歌唱力で歌っているその曲は、ありふれた恋愛がテーマなのだろう。それ以外を求めるのはないものねだりか。隙の本質とはそんなところだろうか。だが君はそれで何を批判しているつもりなのか。それの何がウリなのだろう。売れるものは何もないか。内容が四方八方に飛んでいる。川は海に流れ込んでいる。砂漠へ流れ込む場合は途中で消えてしまうか。街の声はどこへ消え行くのか。ブラウン管か液晶画面上から、電磁波とともに何が伝わっているのだろう。国民の生活は彼らの言説を通して何を示しているのか。人間はよく分からない。それは君が人間でない証拠になるだろうか。証拠ではないか。君は人間という言葉が嫌いだ。人間に特徴があるとすればそれは何だろう。よく分からないことを分かるように語ることが可能だろうか。たぶん制度的に無理があるのだろう。とりあえず制度に寄りかかりながら生きてはならないのかも知れない。信用に足るような制度はあり得ないか。信用してその気になれば馬鹿を見るだけか。制度は制度として、ある程度はつき合っておかなければならないかも知れないが、それとは別に制度が崩壊したときに備えておかなければならないか。必ずしも備えあれば憂いなしというわけにもいかないだろうが、心配しつつも、その心配を利用して商売したい者たちのカモになってはまずいだろう。いずれにしても、制度や制度周辺でうごめいている人達は信用できない。制度を離れてどう思考し行動できるかが問題となっているのかも知れない。


5月4日

 砂漠にはねる狐は何を狙っているのか。何に出会うのだろう。たぶん昆虫とその背景とは関係ないだろう。では猿とジャズとはどんな関係にあるのか。ファイルを保存したくなる。猜疑心に満ちているようだ。何かに導かれてどこへ進もうとしているのか。行くあてのない者はどこへ行けばいいのだろう。どこにも行かなければいいだろう。何を求めているのでもない。風景は遠くから呼びかけてくる。応えなければならないように感じられ、臆病風を吹き払おうとする。それは用法上の誤りかも知れない。不親切な説明に終始しているのかも知れないが、それは説明以前の語りになりたいようだ。魂は撤去された看板に似ている。似ているのではなく、看板の宣伝文句の中に魂という文字を発見しただけかも知れない。だが現状ではどちらも正しくはない。時間的に過去でも未来でもない時が見出される。魂はどこにあるのだろう。たぶん言語表現的に現代と合っていないのかも知れない。魂の叫びは嘘を含有しているのだろう。表現が大げさすぎるのか。だからなんとなく羞恥心が邪魔をして、魂の出現を阻んでいる。目が覚めたのはコーヒーのせいか。虚ろな心には魂は不必要か。誰がそれを望んでいるのでもないが、君は空虚を愛しすぎている。だからどこへも行きたくなくなってしまうのか。だが人によっては、行くことは逝くことに結び付いているので、注意しなければならないか。生き急いではならない。自らはおかしなことを述べているらしい。誰ともなく勝手に始められたゲームを放棄できなくなる。それはどういうことなのか。自然発生的に何が始まったのだろう。昨日の真似をしてはならない。それらの雰囲気を打ち消したくなる。常にそこからゲームが始まっているようだ。標的を狙い撃ちするゲームが盛んに行われているらしいが、それらの標的が生身の人体であるとしたら、それはどのようなゲームになるのだろうか。人体中のカフェインの濃度が高くなるだろうか。異物を体外に排出したくなるか。至上の愛は誰が奏でるのだろう。それが愛でないと思い込みたい人もいるようだ。雑で荒削りな作品を認めたがらない。批評の対象から除外しなければならなくなる。だからまともな神経でいられなくなる。狂気を望んでいる人もいるらしい。だがそれはありふれた対応になるだろう。どんな状況下にあっても正気を保っているべきなのか。それが可能だと思う心が正気でないか。正気であろうとなかろうと抗議し続けなければならない。それが唯一残されたやり方なのだから、それを貫くべきなのか。だが誰がそれをやる権利があるのだろう。少なくとも君ではないのかも知れない。君はただ眺めている。それらの一部始終を黙って眺め続けるばかりだ。しかしまだ始められたばかりで終わりまではいっていないだろう。それは永久に終わらないゲームなのかも知れない。ゲームに参加する者たちは、正気を保ちながら狂気の沙汰を演じなければならない。絶えず人体が砕け散る瞬間を求め続ける。それが彼らの仕事なのだ。標的となった相手に死をもたらさなければ、上官の気分を害してしまう。そんな行為をどうすれば肯定できるだろうか。吐き気を催す状況の中に任務の実態がある。たぶん木を見て森を見ない専門家気取りなら、それを肯定できる説明を有しているのかも知れないが、そこに説得力が宿るとしたら、それらの言説に良心が入り込む余地はなさそうだ。だが現状ではそんな行為も許されているのかも知れない。それを黙認する人が多すぎるのか。しかし黙認して何になるのだろう。結果的に自らの首を絞めているだけかも知れない。それがありなら、遠からず何をやっても許されるようになるだろう。残忍な行為に歯止めが利かなくなる。やった者勝ちなら勝つためにやらざるを得なくなる。フィクション的に世界は魅惑のワンダーランドと化すだろう。もちろんそうなったら、ワクワクドキドキが日々の日常に入り込んでくるかも知れず、退屈を持て余していた者たちは狂喜乱舞するだろう。しかしそれは何かの脅し文句なのか。それらのほとんどは嘘の範疇に入るかも知れない。たぶんそうなるはずがないとたかを括っている。


5月3日

 まだ何か足りないような気がするのは、そう思いたいだけで、やらなければならないことをやろうとする気を起こさせようとしているだけか。空は無限に高い。鳥が羽ばたいても羽音に驚くことはない。眠たくなったら眠ればいいだろう。誰がやる気になるのだろう。状況を全く把握していない。単純なことは語らなくとも分かることだ。そこで何を語っているのだろう。ますます語彙が少なくなってくるかも知れない。それでも君は遠ざかり続ける。空虚から遠ざかり、ありふれた意味を求めるようになる。思考の限界が近づいているのだろうか。思考する手間を省いてどこかにたどり着く。おぞましい肖像画を好んでいるわけではない。鏡に映った自分自身には影が欠けている。描くのを忘れてしまったのか、あるいは故意に影を省いたのか。そのような手法で何かを訴えかけたいのかも知れない。影は重要な要素ではなさそうだ。手間を省いて陰影を忘れる。その結果、思考はどこにも反映されなくなる。事件は消え去り、語り口に溺れ、誰にも会いたくなくなる。たぶんそれ以外に何も必要ではないのだろう。確かに言葉のつながりを無視すれば何とでも語ることが可能になるが、何を語っているのか意味不明だ。君はどこで道草を食っているのだろう。山羊か羊の類か。猫まで草を喰む。人間は野菜を食べる。食べたついでに野原を畑にしてしまう。御都合主義とはそのことか。事件は常に生起し続ける。なまものにあたると死ぬかも知れない。食中毒のことを述べているのか。茸は毒にも薬にもなるだろう。ワライダケは笑いのもとにもなる。身体が軽くなり、仙人のように空を飛べるような気になり、崖から落ちて行方知れずになるか。それは何のたとえなのか。何を食べているのでもなく、でがらしの紅茶の色を眺めている。草は土手に生えている。川の流れを何にたとえようと、たとえているものは意識の外にある。不信感は芽生えのときを待ち、夜空は星を飾りたてているわけではない。真空の気持ちにはなれない。真空は空海と関係をもちたい。たぶんそれは気持ちではないのだろう。印象に残る風景はそんな気持ちを必要としていない。すべては必要から見放されているのかも知れない。この世界のどこかに何があるというのか。何かがあるのだろう。そこには苦しみがある。知る機会は何度でも訪れるだろう。公平な判断などまやかしに過ぎない。肝心なことは肝心なことを知らない。そうではないと思いたいが、事実がそれを証明してしまうだろう。たぶんその程度の自らをどう受け止めるかが問題といえば問題になるのかも知れない。たぶんその件については口を閉ざしたままになるのだろう。そんな人は多いか。それはそれで未解決のままに決着させてしまうわけだ。要するに自分自身に嘘をつく。宙づり状態になった問題から目を背け、何事もなかったかのように、いつもの生活を続けようとする。斜めからの視線を遠ざけようとするが、いくら必死になっても、それを止めさせることはできない。君はもう現実に負け続けている。マイナスの要因を放置し続けているのだから、修復は無理だろう。そのままで生き続けることがはたして可能なのか。君は誰のことを語っているのか。誰でもなさそうだ。そう思えば気休め程度の効用はありそうか。思わぬところから本音が洩れるかも知れないが、誰もそれを聞いていないだろう。たぶん何をやっても報われることはない。報いを受けるのは、君が君であることをやめるときか。しかしすでに君は君でなくなっている。おそらく架空の人格が尽きていて、それに代わって獲得されるべきものが何もないのだ。意識が面倒臭がって何も指し示さない。君はもう自由だ。障害物が辺りに何もないことに気づくはずか。それが語る上での障害となっているようだ。どこまでも通りすぎてしまい、ぶつかるものが見当たらない。そんな風に語れば意識に何が生じるのか。それはすでに生じている無駄な語りとどこが違うのか。


5月2日

 どうということはない一日が過ぎ去る。夕闇が迫る頃、空は曇っている。明日は晴れるだろうか。そんなことはどうでもいいことか。何を思ってもしっくりこない。調子が外れているように思われる。それ以外に何を思っているわけでもなさそうだ。またいつものように虚無を手に入れることができるだろうか。わけの分からない言葉とともに遠くまで歩いてきた。夢の中では空が輝いている。意識は幻想の虜となるだろう。心の中と瞳の中に映し出される影の残像は一致しない。誰の魂に触れているわけでもない。豊かに実っているのは葡萄のように見えるが、それを手に入れる気にならない。なんとなくそう思いながら川沿いを歩いている。君にはそれなりの理由が要る。理由の定かでない動作に身を委ねて立ち去り続ける。もはや真実を見極める力などない。黄金色の風景は秋の記憶かも知れない。傷ついた心を癒すために人が群れ集うのは、どこかの刑務所になるらしい。彼らは何を叫んでいるのか。自分たちをどこへ連れて行こうとしているのか、誰も分かっていないようだ。期待はそれとは別の理想を追い求める。触れることのできない領域に影は逃げ込んでいるようだ。誰も追いかけてこられないと思っている。真実とは何だろう。遠い記憶は意味を無視している。昨日のことは今日につながらない。思い込みは疑い深く探し回るが、何を探しているのか定かでない。何を見極めようとしているのだろう。それは何かが成立するために必要な条件だろうか。まだ会話が成立していると思いたいのか。それは何のための会話なのだろう。どのような意志を確認したいのか。だが無理に決断を迫っているわけでもないらしい。その場の雰囲気を表現していると思われる色彩は、微妙な配色を感じさせる。それで何を述べているのでもない。感性を越えて自我を押し潰す要因がある。誰のものでもない感性は、語られた言葉以外に何も必要としない。だから構成された文章は誰のものともならない。風に乗って蒸し暑い空気を目指して羽虫が飛び交う。君にとってはそれらの目的などどうでもいいことだ。もう一度何を信じたいのか。言葉の確かさはもはや砕け散っている。君は独りなのに独りでない境遇を利用する。それを利用して何をやろうとしているのか。いつの間にか風はやみ、羽虫が目に入ることもなくなったようだ。それとは別に蚊に刺されたときのかゆみを覚える。去年の夏は今年の夏を凌いだつもりになれるだろうか。誰がそう思うか定かでない。だが間違った意味を流通させたいわけではない。滞りなく作業を終わらせたいだけか。それにはまだ苦悩する時間が足りないようだ。そこから逃れ去るには、まだやらなければならないことが残っている。それをやらず終いにしておけばどうなるというのか。影が呼びかけているようだ。まだ頑張っている君に安らぎのときを提供したいらしい。かたくなな態度を解きほぐして何を思っていればいいのか。自らで自らを解きほぐせるわけもないか。その態度は君が君である限り不動のものだ。では君でなくなればいいわけか。君が君でなくなれば誰になるのだろう。簡単な選択肢としては、面倒なので君は彼になるかも知れない。そうなれば、君の声が彼の声に近づくわけか。ありふれた曲調に乗っているのに歌詞はよく分からない。観念的なのは昔からのようだ。複雑に語りながらも、その複雑さが見かけ倒しなのは惜しいところか。実際に何を狙っているのでもない。狙いは別の人格が保持しているのかもしれない。滅多に現れない彼には、何もかもがちんぷんかんぷんに感じられる。それでいいのだろうか。誰かの台詞はそれでいいことを示しているか。古い話には黴が生えているかも知れない。顕微鏡で覗いてみれば、黴でもダニでも見つかるだろう。何が古い話なのか分からないが、たぶん古い話を蒸し返しているのだろう。そこには何が存在しているのか。存在しているのではなく空想しているのか。存在はいつも空想されるだけのようだ。それで気が済むのならそれも致し方ないか。


5月1日

 気力が続かないのはいつものことか。確かにいつもそうだが、それでも何かしら語り続けているようだ。意味のない語りになる。意味を知ろうとしていないだけか。意味ならいくらでもあるだろう。確かに一般的な意味ならいくらでもありそうだ。だがいくらでもありそうなそれらの意味に感性が合わない。なんとなくずれているような気がしてくる。ただそんな気がするだけだろう。それは気のせいで、そんな感性を無視すれば、何らかの意味に行き当たるのかも知れない。感性はないものねだりでもしているのか。では感性の理想とする意味とはどのようなものだろうか。やはりそれは意識に驚きをもたらすような思いがけないものとなるだろうか。そんな意味を模索しているわけか。それだけではつまらない。探しても無駄だろう。無駄だが探しざるを得ない。ありふれた意味ではつまらない。要するにどちらにしてもつまらないということか。それだけではつまらない。つまらないから眠たくなる。眠たくなるがそれでもやろうとしている。だが何をやろうとしているか定かでない。定かなことは、画面を見つめていること以外に何かあるだろうか。そこからどうしようというのか。どうにかなるとたかを括っているのか。それでどうにかなったらそんなに楽なことはない。現にどうにかなっているではないか。頭がどうかしている。どこかが麻痺しているらしい。そんな理由を捏造して逃げ出したくなる。それでは理由になっていないだろう。他に理由らしい理由が見当たらないか。どうかしているのは頭でなく世の中の方か。それはどこかで聞いたような逃げ口上か。そんなことを述べるつもりはなかったようだが、なんとなくそんな紋切り型を繰り返したくなる。たぶん面白いから繰り返す気になるのだろう。それではつまらないだろうか。なぜ面白いのにつまらないのか。逃げ口上を繰り返すことは面白いが、その内容はつまらない。では面白さとつまらなさのどちらを優先させればいいのだろう。どちらでもないのかも知れない。何かを優先させればとたんにつまらなくなる。結果が分かってしまってはつまらない。なんとなくしらけてしまう。しかし無理に面白くさせようとしているわけでもないので、そうなったらなったでそれは仕方のないことだ。ここに至ってあまり技巧を凝らす気にはなれない。投げやりになってもかまわないだろうか。どうしたら投げやりになれるのだろう。投げやりになるには、まずは焼けくそになることが肝心か。焼けくそになって、それに挫折すれば投げやりになれるだろうか。しかしそれでは言葉遊びをやっているに過ぎないだろう。空虚の本質から遠ざかってしまう。すでに遠ざかってしまったのではなかったか。それは以前のことか。そうやって誰かの魂は滅びの予感を無理矢理引き寄せたいわけか。しかしそれでは意味不明な飾りたてになってしまう。語っているのは誰の魂でもなく、滅びの予感はフィクション上からコピーされた決まり文句だ。たぶんそれも逃げ口上の一種だろう。自らの都合の良いときに滅ぶはずがないか。滅びたくないときに滅ばなければ滅んだことにはならない。わざと滅ぶのは計画倒産のようなものか。だから逃げているうちに苦痛が増して行くのか。まだまだ嫌なことをたくさん経験する必要があるらしい。だが必要があるのは君の意識ではなく、そこに形成されつつある言葉の連なりのようだ。それらの文章からしてみれば、意識がどうなろうと知ったことではないのかも知れず、適当に言葉を繰り出して、言葉を繰り出す作業を続けてくれればそれで良いのだろう。もちろん誰がそんな風に思っているのでもなく、意識が勝手に架空の意識を想像しているだけかも知れない。要するにそれらの文章から導き出される意識は虚構なのか。たぶんどこかでごまかしが行われていて、途中から嘘をついているのだろう。そしてそういう風に思っているのも誰の意識でもなく、ただ君が嘘の思いを構成しているに過ぎない。そうやってそれらの試みは継続されて行くらしい。


4月30日

 何も問題がないことは良いことかも知れないが、却って張合いがないか。問題がないわけではない。それは解決すべき事柄ではないので問題とはいえないかも知れないが、とりあえずそれをどうにかしなければならない。問題について語ることは必要でないのか。必要でないことをすべきではないか。しかし他に必要なことは何もない。そんなはずはないだろう。例えば生きて行くには呼吸が必要だ。そして衣食住が最低限の必要だろうか。ではそれ以外に何がある。君は芸術の問題を軽んじている。それは思い込みの問題だろう。何が芸術であるかについて論じる気にはなれない。必要でないからか。君には芸術が分からない。君にとって芸術は空虚な言葉だ。現実の生活からはかけ離れた対象となっている。しかし現実の生活も空虚な言葉で示される。芸術よりも現実の生活の方がより空虚に満たされているかも知れない。毎日意味のない作業を繰り返しているように感じられる。だが意味がなければ困るわけでもないか。例えそれを言葉で語っても意味が宿るとは限らない。なぜ意味を求めようとするのだろう。意味のないことばかりやっても虚しいだけだからか。意味はなくても目的はあるだろう。それを設定することは可能か。安易な目的で述べるなら、誰もが金のために仕事をやっている。それは虚しいことか。金に対して幻想を抱くなら、たちまちそうではなくなるかも知れないが、そんな気になれない心境に留まり続ける。労働がすべてなのにそれを忘れようとする人は多い。余暇を楽しむ人はそうではないと思っている。それは欧米流の幻想だろうか。幻想を抱いて何が悪いのか。夢や希望を持って何が悪いのか。たぶんそれは正論になるだろう。しかし正論を述べてはつまらない。そんな理由で正論を批判することができるだろうか。批判していることにはならないのかも知れない。仕事だと割り切って妥協する気にはなれないか。では仕事の中に自らの主張や思いを反映させれば、それで気が済むのだろうか。そんな人も多いかも知れない。彼らの目当ては何なのだろう。思いを遂げることか。それだけでは気が済まぬか。思いがけず非業の死を遂げたりして、周りの者たちを涙させることもありだろうか。そんな劇的な展開はメロドラマみたいで恥ずかしいかも知れない。たぶん何かをあきらめなければ人生を全うできないだろう。恰好の悪さのただ中で生きて行かなければならなくなる。みじめな思いを経験しなければその先へ進めなかったりする。要するに思い通りには行かないということか。しかしそんな当り前の結論ではつまらない。だが無理に面白おかしくすれば、ピエロになるかも知れない。そんな境遇に納得できるだろうか。漫才師は売れてくると、漫才師のままで終わりたくないと思うようになる。欲が出て野望を抱くようになるわけか。しかしそれは司会者やコメンテーターや俳優になる程度のことか。中には国会議員になった人もいるだろう。要するに笑いで有名になりながらも、笑い者から脱したいのだろうか。狂言師には伝統芸能という言い訳がある。だから死ぬまで己の芸に精進していられるわけか。君は人間国宝と認定された人々のことをどう思っているのか。あれこそが芸術を身をもって体現している人々だろうか。彼らの大半は老人か死人だろう。芸術は去り行く人々とともにある。では君も老人か死人になれたら芸術を体現できるだろうか。それが必要条件ではないだろう。今はさらに語らなければならないと感じているらしい。しかしそれは芸術とは何の関係もないことだ。誰かが富や栄光とは無関係なことをやりたいと述べていたが、それはどういうことなのだろう。特に何もしなくてもそうなれるような気がする。ではそれと言葉を連ねることとどう結びつければいいのか。別に無理に結びつけなくてもかまわないか。なんとなくそれとは違うことを考えている。


4月29日

 何をしていたわけでもないのに、予想外に時間が余ってしまったようだ。そのときなぜ忙しいと感じていたのか。現実には何かをやっていたはずか。いつものことではなく、思いがけないことをやっていたのかも知れない。では思いもしないことはいつ思い出されるのだろう。なぜではなのかつながりが分からないが、意識して思い出せるわけもない。今はただ時が過ぎ行くばかりで、それ以外は何もないように感じられる。君はそんな成行きを許容できるだろうか。許容するもしないも、現実にそうなっているのだから仕方がないだろう。そんなことを考えているうちに雲行きが怪しくなってくる。今にも雨が降り出しそうだ。たぶんそこで何かを見ていたのかも知れない。そのとき何を見ていたのか忘れてしまったが、では何を許した方がいいのだろうか。なぜ許さなければならないのか。怠惰な意識を許していたらその先へ進めない。しかし怠惰になりざるを得ない事情もあるらしい。やる気のなさに嫌気がさして、意識はすべてから遠ざかっているように感じられる。何もかもが離れて行って、自意識さえも身体から離れて行ってしまう。そして遠からず身体さえも遠ざかってしまうだろう。何から遠ざかってしまうのか分からなくなる。過去の景色は遠く感じられるが、未来の景色はさらに遠い。その眼差しは今見ている景色を忘れている。現実には何を見ているのか。車窓の向こう側に広がるありふれた景色のさらに向こう側に何があるわけもないだろう。それは見ることと思うことを混同している。さらなる向こう側などあり得ないか。そうやってあり得ない景色を思い浮かべながら、気休めに幻想的なイラストを眺めていたときのことを思い出す。そう都合良く思い出せるわけもないか。それがフィクションの中でならあり得るかも知れない。ではすでにフィクションの中での話となっているわけか。だがそれで何を述べているわけでもない。そのとき曇り空を見上げながら君は何を思っていたのか。たぶんその場の思いつきでは大した内容には至らないだろう。だがそれは思いつきでないかも知れない。思いもしないことを述べているつもりなのか。もちろん誰がそれを述べているのでもない。誰でもない人格がなんとなく無駄に言葉を連ねているようだ。そんなことはあり得ないか。ではこれから誰が何を語ろうとしているのだろう。面倒なのでそんなことは知らないことにしておこう。そこには誰もいないのだから、それは架空の語りになるだろうか。要するに独り言とというわけか。しかしそれでは語りはじめる前に終わっている。何が終わっているかは誰かの想像にまかせるしかないか。そんな風には思わないが、たぶん何かが終わっているのだろう。なんとなく状況を難しく考えすぎているのかも知れない。確かに難しい表現は避けなければならないが、何が確かなのか、あるいは何が難しいのか分からないか。ところで逃げ向上とはどんな意味なのか。あからさまに逃げているのに、そんな前置きはいらないか。そうやってまた前置きだけで終わってしまうわけか。何が前置きなのだろう。本題がないのだから、すでに前置きではなくなっているのかも知れない。気まぐれに何を語ろうとしているのか。それは誰の声なのだろう。その程度に留まっていてはいけない。しかしそこからどこへ行ったらいいのか分からない。それ以上何をやろうにも、結果的に無駄な試みを繰り返すだけで、もはやどこへも行けそうにないような気がしてくる。いつものように気力が減退しているわけか。それだけではないはずか。それ以上を求めながらそれだけだったらおかしいか。何がおかしいのだろう。被害妄想に因われている人は、自分のおかしさを棚にあげて、すぐに世の中がおかしいと思いはじめる。しかしそれがどうしたのか。被害妄想の人はありふれた意見には耳を貸さない。そんな決め台詞は聞き飽きているのかも知れない。


4月28日

 また誰かは以前と同じようなことを述べているらしい。国際社会などという社会はない。いったい誰がその社会の一員なのだろう。アメリカ一辺倒を貫きたい一握りの人々がそうなのか。そんなことは君には関係のないことだ。たぶんそれは固定観念の一種かも知れない。何を考えているのかはっきりしないが、考えれば考えるほど分からなくなる。そんなはずはないと思いつつも、さらに思考をめぐらせているつもりになって、迷路の奥深くまで招き寄せられる。何がそこへ招き寄せているのだろう。それが迷路であるはずがない、と思いたい意識が招き寄せているのか。しかしそんなこともどうでもいいことか。だがまたしても、すべてがどうでもいいことであるはずがない、と思いたいわけか。どこかに興味を引く事象が埋もれていたりするだろうか。それに気づかない振りを装っているのかも知れない。しかしその無気力な意識にどこまで身体は耐えられるだろうか。いつか良心に目覚め、何か建設的な意見を提示することができるようになるだろうか。目覚めた場所がどこであろうと関係ない。別に退屈を紛らすのに、良心に目覚めるとは限らない。目覚めた時点で、それとは違うことを考えている可能性もあるだろう。しかし何がどうなってそうなるのか、相変わらず君の語っている内容はわけが分からない。途中で肝心なことが省かれているような気がする。その省かれている内容とは何か。それは君には思いつかないことかも知れない。思いつかないから語りようがない。しかしそれでいいのだろうか。他人はどう思うか知らないが、なんとなく笑い話で済ませられるような気もする。現に今は人がいくら死んでも笑ってしまえる状況なのかも知れない。死ぬほどおかしいときは、笑っている当人が死んでしまう可能性もある。しかし何がそんなにおかしいのか。例えばなぜ映画の中では冒険が横行するのだろう。別にそれが悪事とは限らないと思うが、なぜ横行しなければならないのか。なんとなくそんな述べ方がしっくりくると感じているらしい。しかしそれは言葉遊びの範囲内かも知れない。要するに、横行という表現を使ってわざと冒険の価値を貶めようとしているだけか。ところで指輪をめぐる旅に出た者たちはその後どうなったのだろう。大げさな映画の話ならすでに結果は出ているはずか。それについて笑いころげている者など誰もいないか。それは笑いころげるほど面白い話でもないか。その面白さは笑いとは無関係の面白さだろう。それを見る人によっては面白く感じることもあるだろうし、感動してしまう人も大勢いるだろう。多くの人がその単純明解さを見抜けぬわけでもないが、それが面白かったり感動してしまう要因となっているのだから、それはそれで製作者の思惑通りなのだろう。スクリーン上に展開される架空の冒険に心踊らされる人は多いか。さまざまな環境条件を考慮しなければ、その冒険を疑似体験していると思い込むことは可能か。実際には見ているだけなのに、それで冒険を体験できたらそれは素晴らしいことだろうか。それで済むなら人々は自ら行動しなくてもいいことに気づくだろう。その方が楽に決まっているからだ。画面をのぞき込んでいるだけで生きていけたら、それは大変幸せなことかも知れない。もちろん本気でそんなことを語っているわけでもなさそうだ。まだ話の途中だったはずか。いつの間にか眠ってしまったらしいが、なんとなく退屈に思われて、そこから先を語る気にはなれない。なぜ登場人物たちはつまらぬ諍いを繰り返すのだろう。そうしないと話が続かないからか。そうやって先回りすれば何とでも説明できるか。だがそんな説明ではつまらない。そこにはどうしようもないリアリティの欠如が横たわっている。現実の日常生活との間に埋めることの不可能な溝が存在している。しかし同時に、そんなことは誰にとってもどうでもいいことかも知れない。そんなところまで考えをめぐらす必要はないだろう。


4月27日

 それは馬鹿げたことかも知れないが、なんとなく君は真実から逃げているような気がする。しかしそんなことは君にとっては無関係のどうでもいい問題なのだろうか。紛争地域で活動するジャーナリストから届いた記事や写真や報告を使って商売していながら、そのジャーナリストの中の誰かが自らの不注意や偶然の巡り合わせから、武装勢力に捕らえられて人質となったとたん、自己責任だなんだと非難して、挙げ句の果てに、多くの人々に心配や迷惑をかけたから謝罪しろ、と凄んでみせる者まで現れる始末を、ただ報道し続ける。それでまかり通るのならそれも仕方ないか。だが危険な地域から実況中継などをやっている報道機関の責任はどこへいったのか。やはり現場で危険な目に遭いながらも報道し続ける者たちを見捨てたら仁義に反するか。そういう矛盾したことを平気でやっているマスメディアは信用しない方がいいのだろうか。日頃から誰も信用などしていないのかも知れない。またその程度のことがわからないような人は正真正銘の馬鹿なのか。なぜ人々は短絡的な感情しか持ち合わせていないのか。もちろん本当はそうではなく、そんな風に見せかけているだけかも知れない。事実に反して、何も考えようとせず、浅はかな煽動に乗っかって誹謗中傷をやりまくっているように報道されているわけか。それらはごく一部の人達なのだろうか。一部でなければまずいか。もしそうでなければ、やはりこんな世の中はすぐに滅び去った方がいいのかも知れないが、現実にはそうなるはずもなく、結局生き残るのは、理性を捨てて感情に走る愚か者の方かも知れない。そういう人たちが多数派を形成しているように思われているのだから、この社会は彼らのものだ。たぶんそれが紛れもない真実なのだろう。些細なことをセンセーショナルに騒ぎたてて、人々の感情に訴えかけるやり方には勝てないと思われるので、それ以上に何を述べても無駄かも知れないが、それは何かの冗談か。冗談では済まされない問題だろうか。確か世界の総人口は六十億人を越えているらしいから、ごく一部でも数十万人はいてもおかしくないだろう。とりあえずその数十万人を相手にしていれば一応は商売が成り立つのかも知れない。ならばそれはそれで何の問題もないことか。しかしそれで一件落着なのだろうか。まだ何か執拗に難癖でもつけたいわけか。それ以上どう述べていいのか分からなくなる。人はさまざまなことを経験しつつあるようだ。それらの経験をどう評価していいのか分からない。あまり他人のやっていることにとやかく文句をつける気にはならないが、勝手に心配しておいて迷惑かけたから謝罪しろはないような気がするし、人質を救出するのに税金使うのが嫌なら、はじめから救出など試みなければいいとも思うし、別に日本政府が直接救出したわけでもないのに、後からその費用を請求するのは虫が良すぎるだろう。そんなことをやっている一方で、各国の日本大使館では税金を湯水のように使い、酒代に数百万もかけて定期的にパーティーなどをやっているわけだ。そして政府開発援助で数百億もかけて無駄なダムをつくって、その国の住民からひんしゅくをかっていたりする。それとこれとは別か。そんな言い訳が通用してしまうわけか。それはそれでどうということはないのかも知れない。何しろ国の借金が数百兆円もあるわけだから、それから比べればそんなはした金はどうでもいいことかも知れない。なんとなくそんなことを考えているうちにアホらしくなってきた。たぶんそれはそれでそういうことでしかないのだろう。しかしそういうこととはどういうことなのか。そんなことは各自で考えればいいことか。意味不明に述べるなら、答えは風の中にあるということか。


4月26日

 どうでもいいことを考えているうちに、ただ闇雲に言葉が付け足されている。どこでそうなってしまうのか。それはどこでもないだろう。だがそれではどうにもならない状態を立て直すことは不可能か。やはり何を語っているのかわからない。切羽詰まってから何を語っているのか。何ももったいぶっているわけではない。しかし君がそれを理解することはないだろう。何かが飛び去る。飛翔するのは鳥か。では飛躍するのは何だろう。何かが飛躍している。昼の空をカラスが飛んでいく。だがそれは飛躍的な進歩などではなさそうだ。なぜカラスと進歩が関係するのか。人は常に周りの環境の一部としてうごめいている。その役割を担っている者は自分の役割に気づかない。それと気づかずに役割を放棄して、何をやっているのかわからないまま、意識はいつもの意味不明に近づく。そして空虚を抱え込んで自分の過去を思い出せなくなる。しかし君は空腹に堪え忍んでいるわけではない。それとこれとは関係ないだろう。また何かが邪魔をしているような気がして、知らず知らずのうちに被害妄想にとらわれている。しかし現状では何の損害も被ってはいないはずだ。だからそこでやめてはならない。その場所から飛翔しなければならない。意識は自分自身へ帰ってくるが、そこで感じたことはどのように言い表されるのだろう。束縛だらけのそこから飛び去りたい衝動に駆られている。絡め取られているのはやる気とともにそれに似た類の感情だろうか。感情よりも思考が抜け殻状態になりつつある。神経が重圧に耐えられなくなり、次第に行き詰まりの全貌が目前に迫ってくる。それについて君は何を考えているのだろう。かろうじて瀬戸際で持ちこたえているようだが、はたしてそのときの判断は正しかったのだろうか。それ以前の問題として、始めから君は正しさを求めていない。行動の正しさは硬直した判断基準に基づいて決定される。正しさはその場限りの正しさにすぎない。今は間違っていてもかまわないのであり、とりあえずそこを通り過ぎなければならない。今といわず永久に間違っていてもかまわないか。しかし君は自らの行動の何が間違っているのか理解できない。まだ目覚めていないのだろう。夢の世界で心地よい夢を見ている最中なのか。そんなことを君が知るよしもない。未来の君ならそれからの君を知っているはずか。何かを探り当てたつもりになっているようだが、それは宝のありかなどではない。そこでは禿鷲が腐肉を啄んでいるだけか。宝は忌み嫌われている。宝探しは不幸の始まりになるだろう。だが別に誰がそれを執り行うとも限らない。わざとらしく君が宝探しをやる必要はないだろう。誰か暇な奴が犠牲となればいいのかも知れないが、そのころにはすでに君は土に還っている。腐葉土に埋もれて地面と見分けがつかなくなる。人知れずこの世から消え去るわけか。しかしそれは君の終わり方ではない。土に還った君は別の君の身代わりか。通俗的な述べ方をするなら、たぶん思い出は忘れるためにあるのだろう。ではそこに居続けてはいけないのか。そうではない。そこに居続けたから土に還ってしまったのだ。君は別の君にそれ以外の何を期待していたのか。容易にそこから立ち去ることができないので、なおもそこへとどまり続ける。だからお前は終われないのか。期待を外れてお前は何者にもなれないだろう。著しくタイミングがずれている。今はそんなことを述べているときでない。だから君はそこへとどまり続ける。何も述べられなくなるまでとどまり続けるつもりなのか。たぶんそんな風にはならないだろう。適当なタイミングで意識はどこかへ行ってしまう。面倒くさいからそれ以上は語る気がしない。しかし君はそこで何を見ているのか。見ているのではなく語っているのかも知れない。何かを見ながら語っている可能性もある。だがそれは見ている対象とは関係がない。要するにつまらないものを見ているわけか。ありがちな結論としてはそれもありだろう。


4月25日

 何を語っているのかわからない。支離滅裂な内容に嫌気が差すか。嫌気が差しているのは架空の誰かか。そうやって結論に至るのを逃れているつもりのようだ。虫けらにも魂があると思うことは可能か。それとも不可能と思う方が賢明な態度だろうか。しかし賢明な態度は誰からも好まれない。二番煎じは三番煎じを予感させ、三番煎じは四番煎じを予感させる。どこまで煎じてもきりがないか。煎じすぎて灰になる。そこから始めなければ何も始まらない。他人の模倣はとどまることを知らず、いつしかオリジナルは忘れられてしまうだろう。模倣の世界は模倣で成り立っている。模倣は模倣以外を知らない。そんなコピーだらけの世の中に架空の誰かが暮らしている。それらの話を誰かは誰かに向かって語りたいらしい。いつまでも洞窟の壁画に見とれていることはできない。もうそこは洞窟でなくなっているはずだ。知らないうちに君は洞窟から部屋の中に移動していて、机の上の本棚に並べられた百科事典の数巻を開いてみる。洞窟の写真はどこに載っているのだろうか。鍾乳洞の頁を開いてみれば、退屈な気分から逃れられるだろうか。途中の鉱物の頁で躓いて、そこからあらぬ空想を思い描いてみる。原始人は洞窟の中で何をやっていたのか。動物の壁画を描いてそれを眺めていただけか。それ以外に何をやっていたかなんて今となっては知りようがないか。たとえ知ることがあろうとも、それは想像力をふくらませて思いついた空想なのかも知れない。その空想のバリエーションとしてファンタジックな英雄物語でも構成できるだろうか。またお宝を巡って強者たちが争う話をねつ造したいのか。壮絶な戦闘シーンが一般大衆にはうけるウケるのかも知れないが、その手の大スペクタクルを映像で構築するには、莫大な費用と時間がかかるのだろう。映画となればそれを興行収入によって補わなければならない。興行的な黒字をねらうなら、やはり大げさで単純な内容となるだろうか。たぶんそれだけではヒットしないのかも知れない。勧善懲悪的な構造の紋切り型を忘れさせる目新しさも必要となるだろうか。しかし目新しさは一時的なものにとどまる。すぐにそれとは違う目新しさを売り物にした別の映画が制作され、その映画と比較すれば、以前の映画は目新しく思われなくなるか。そんなわけで君がそれを映画館で見る機会はやってこないかも知れない。行っている暇がないのか。暇もないがあまり興味を覚えないのかも知れない。ではせいぜいがテレビ画面上で見るぐらいだろうか。先日もその手の映画を見ていたのではないか。最初から最後までは見る気がしない。何か他のことをやっている合間に、他のチャンネルにも切り替えながら、断片的に見ていたようだ。途中から見て結末までは見ていない。テレビで見るぐらいならそれでもかまわないのか。何となくその程度で済ませられる状況の中に暮らしているらしい。音と映像にのめり込めないし、本気になれないのだ。何となくそんな実感とともに映画を馬鹿にしているつもりのようだが、本心はそうではないのかも知れない。眼が画面に釘付けになるのが怖いのか。本当に釘付けになったら痛いだろう。痛いどころではなく失明してしまうか。そうやって何となく冗談で逃げたくなってくる。さっきから何を語っている気もしてこない。本質的な事柄を避けて通っているみたいだ。わざと無感動を装っている。映像メディアに反感でも持っているのだろうか。それは個々のメディアによって異なるか。自らの主張を押し通すつもりはない。それは主張ではなく感慨の一種かも知れない。洞窟に描かれた壁画が、それから数万年後に、部屋の中のテレビ画面に映し出される、音声付きの動く映像へと進化したわけか。壁画からテレビ画面までそれを見る行為が連続している。見て何を思うのか。その見て思う行為も連続している。自らの願望をそれらの画面に投影させようと思う者は多い。現実の事象そのものではなく、間接的な画面上を選んで、自らのやりたいことを展開させようとする。


4月24日

 何もないのに何かをやろうとしているのはいつものことか。そこからどうやって結末に至るのだろうか。適当にカーチェイスでもやって見ている人の興味をつなぎ止めるつもりか。君は警察か何かの回し者か。たぶん映画の中ではスタントの事故でもない限りあまり人は死なないだろう。音楽もあまり人を死なせない。人を死なせるのは麻薬の作用か。満月を背にして誰かが見得を切る。それは歌舞伎か何かの一場面かも知れない。遠くで吠えているのは狼ではない。猫は肺炎に罹って重体のようだ。猫エイズに罹ると雄猫の方が致死率は高いのかも知れない。言葉を弄して人を死に導く宗教もあるらしく、盛んに自爆テロを呼びかける者もいるらしいが、いくら死んでも攻撃の対象は動じない。たぶん魅力に欠けるのだろう。しかしそうかといって論理に訴えかけても無駄だ。裁判などやっているうちに状況はどうでもいい方向に推移して、犯罪行為はうやむやになってしまうだろう。どうあがいても勝ち目はない。だが素直に負けを認めるわけにはいかないので、とりあえず腹の虫が治まらない人は自爆テロでもやっていればいいのかも知れない。しかしブッシュ氏がアメリカの大統領に再選されたらどうなるのだろうか。彼らにとっては暗黒時代の到来となるのだろうか。あと最低四年は苦難を耐えなければならなくなるか。しかし彼らとはどのような人々のことをいっているのか。ただ対象が漠然としている。砂の岬で海を眺めている人々のことではなさそうだ。わざとそれとはまったく無関係なことを述べているのか。廃線のレールの上を歩き続ける人々はどこを目指しているのだろうか。無理をしてはならない。眠たくなったら眠ればいい。嫌な状況を堪え忍ぶことは精神的な苦痛を伴う。愚かな人はそれを実行して自らに早死にをもたらそうとするわけか。心身を鍛えることで気休めを求めるのにも限界がある。何もそこまでやる必要はないか。そこから遠く離れて何を思えばいいのか。すでに遠ざかりつつあるのに、見ているものが戸外の風景を超えるものとはなり難いか。漢和辞典でおもしろそうな単語を探してみよう。きっとどこかに気休めを見いだせるだろう。そこはすでに内面を離れて外部の彼方と接している。何も思わないことで何かをつかみ取りたいようだ。そんな試みが徒労に終わろうとも、それで何かをやったことになるのだろう。まだ終わるわけにはいかないのか。誰が終わろうとしているのでもなく、それにつれて話も終わりそうもない。希薄な意識をさらに薄めて自意識を消し去っているようだ。もはや誰が語っているのでもない。何となくそんな気になって、また適当な嘘をつこうとしている。それがありもしない虚構を構成するわけか。そうなったらおもしろいだろうか。いったい誰がおもしろがるのか。君は少なくともしらけているだろうか。引き気味の気持ちでいつでもそこを立ち去れる準備を怠らない。先を見通しているわけでもないらしい。やる気が失せてからそれに対応する言葉を連ねてさらにやる気をなくしているわけか。たぶん君はそれを否定しながらも無意識のうちに先を見通しているのだろう。後先考えずにとりあえず何かを語って馬鹿な振りを装う。別にそれが真実でも現実でもなく、ただの戯れ言に内包する軽薄な響きを尊重しつつも、それとは無関係などこにも存在し得ない言葉の連なりを夢想する。そして文章の構成者はわざと結論ではない結論を結論として提示して、架空の意識がそれが誤りであること悟り、作り話の中でわざと大げさに嘆いてみせる。もはやこの世に憩いのオアシスはあり得ない。冗談で求めているそれは浦安にあるデコレーションケーキのような遊園地か。そこでは着ぐるみの不自然な笑顔がうれしそうに踊っているのだろうか。そんなことを思っていたら、風に吹かれて奇妙な台詞が聞こえてくる。もはや誰も無知を装う必要はない。無知であってもそうでなくても、それがその人の価値を決定する判断基準とはならないだろう。判断すること自体が間違っているのだ。たぶんそれらは初めから意味不明なのかも知れない。


4月23日

 君はいつも何とかしなければと思っているが、それで何とかなっているのだろうか。結果は御覧の通りの惨憺たる有様か。やる気のない言い訳に興味深い映像に見とれている。眼と意識が映像に支配されているようで、その先が見えてこない。その先とは何だろう。はたしてそれが作業が遅れていることの言い訳になるのだろうか。少なくともそれは作業ではない。何やら芸術的な試みだと勘違いしているのかも知れない。しかしその勘違いを真に受けることはできない。勘違いを装っているだけの可能性がある。可能性はあるかも知れないが、そんな可能性を突き詰めて考えてどうするのだろう。だんだん窮屈な話になってきているようで、それとは無関係に何となくリラックスしたくなる。だがそれでは君は本気になれる機会を失うだろう。時事問題に傾倒するには時機を逸しているし、世の中は常にどうでもいいような状況に覆われているような気がする。それとこれとは無関係なのか。焦りを覚えながらも必死に興味を惹く出来事を探しているようだが、それはすべてメディア経由の映像や言葉の塊にすぎない。君とは無関係な出来事に思われる。それらと関係を持ちたければ、その出来事を報じている報道機関に自らの考えを投書でもすればいいことか。だが君がやりたくないのは、何よりもそのような回りくどいやり方かも知れず、何の効果も期待できないと思われるそのようなやり方を嫌って、そこから目を背けているのかも知れない。しかしそれがどうしたのか。リラックスしたいのに、あらぬ方向に話が進んでいる。はたしてそんなことに関心を持って何になるのだろう。何らかの利益を得たいわけか。そうではなく言葉を連ねることで充実感を味わいたいのか。しかしそれで何が充実するというのか。空白を文字で埋め尽くすことによって快楽を得られるとでも思い込んでいるわけか。現実にそうなったらおもしろいだろう。君はどこまで苦痛を快楽に転化できるだろうか。何が苦痛なのか知らない振りをしている。言葉の上では絶えず平静を保とうとする。しかし平常心で何ができるというのか。何かをやるには絶えず熱狂状態を必要とするだろうか。では実際に熱狂している対象は何なのか。画面上に繰り広げられるドタバタ劇に熱狂できるほどうぶではない。想像力は絶えずそれとは無関係な方向に働いている。どうでもいいようなことを込み入らせて、意味不明を装いながらも、微かに何かを語っているような気がするだけか。そしてその何かを具体的に表現できずにいるようだ。はっきりしたことは何も述べられずにいるらしい。しかしその中に愉快な気分が紛れ込んでいると思いたい。街の通りでやけくそ気味に突っ走っているのは君ではない。それは映画の中の一場面にすぎないだろう。調子に乗ってはしゃいでいるのも君ではない。人間的な軽さを売り物にしている民主党の代表を批判するつもりはない。あの程度でちょうどいいのかも知れない。今の時代に人の姿に威厳など宿りようがないだろう。馬鹿は馬鹿のままが似合っているのであり、間抜けな人も間抜けなところが愛嬌なのだ。誰もがアドルフ・ヒトラーのような口調になってしまってはまずいだろう。情熱は時として災いを招くこともある。馬鹿げたことに命がけで取り組んでいるうちに、それが誰にとってもすばらしいことだと思うようになってしまっては、それは破滅への道を歩んでいることになるだろうか。今や君はそれらの出来事から遠く離れてしまっているようだ。もはや突拍子もない言語表現をねらう気にはなれない。それはどこかの漫才師がやればいいことかも知れない。たぶん人の気を惹こうとするためだけに語っているわけでもなさそうだ。本当はそれで納得したいのかも知れないが、未だ納得からは程遠い内容に嫌気が差している感もある。何となく間違っているような気がするだけか。しかしどこでどう間違っているのかがわからない。もしかしたら間違っているはずもなく、君にとってはそれが正しい行為なのかも知れない。それは何かの冗談か。


4月22日

 死んだ人間はどこにいるのだろう。なぜ君は死人を探しているのか。君はゾンビハンターか。確かにゾンビは死人だが、死人のすべてがゾンビであるはずもない。それはつまらない知識になるだろうか。死人の名を思い出せないので今はどこにもいない。たぶん彼はまだ死んでいない。君は彼が誰なのか知らない。知っているとすれば彼は君の知合いになるだろう。君は彼の名を知らない。眼の焦点が合っていないようだ。いつものように何を述べているのか分からなくなる。そして適当に語ることが困難になりつつある。その不具合が解消されることは当分なさそうだ。もしかしたら永久にそうなのかも知れない。たぶんそれは不具合ではない。不具合は別のところにあるのかも知れない。例えばそれはどのようなことか。今も昔も若者が政治に無関心でいることは良心的な証となる。政治は後先短い老人の玩具なのか。そんなことでは保守派の思惑通りになってしまう、と半端な知識人ならそう思うかも知れないが、それもいいだろう。なんとなくそんな状況を放置しておいていいような気がする。君がその状況を変えることはできない。その役割は君にではなくマスメディアにあるのかも知れないが、本当は誰もそんな役割など担っていないのかも知れない。そう思いたければそう思い込んでいてもいいのか。ある意味では国民は政治家より馬鹿であるべきなのかも知れない。そんな国家がどこにあるのだろう。君は日本という国がそうであって欲しいか。いったい誰がそんなことを望んでいるのだろう。誰も望んでいないが実態としてはそうなのか。本当はどちらが馬鹿だなんて一概にはいえないことかも知れないが、とりあえず君自身は馬鹿であってもかまわないと思われる。なんとなくそう思う。どちらが馬鹿だなんてどうでもいいことか。そして馬鹿が自己正当化の判断基準になることはないだろうか。その判断基準に基づいて、どうでもいい話はそこで終わりにしたいか。なんとなく嫌気がさしても、それでもまだ終わりそうにないか。その理由は何だろう。気に入らないことがまだあるからか。世の中には気に入らないことが多すぎるように思われるが、それは君の勘違いなのか。勘違いであって欲しいのか。いつかそれが勘違いであることに気づきたいわけか。しかし気づいた時点で、同時に自らの変節に気づくのかも知れない。そうなれば君も保守的な老人の仲間入りができるかも知れない。その気になれば老人の玩具としての政治家にもなれるか。なれなくても選挙のときの組織票の一部を担うことは可能かも知れない。自らの投票で保守派の政治家の当選に貢献できるようになる。要するに日本の政治システムとは昔からそういうものなのかも知れない。もちろんここでそんなことを述べれば、馬鹿なマスコミが老人よりも若者の保守化傾向を云々したがるかも知れないが、たぶんすでにそれは若者ではなく老人化した若者なのだろう。若者はそんな老化したマスコミから影響を受けて老人化する。それは具体的にどのようなマスコミなのか。例えばそれは、北朝鮮問題でことごとく判断ミスを犯し、未だ日本人拉致問題を解決できない元凶となっている自民党の安倍幹事長などを称賛してみせる類の人達のことか。結果的に解決できていないのだから、本来なら安倍氏の責任問題となるところを、論理のすり替えによって逆の見方を流通させるその手法を、馬鹿な人々は見破ることができない。もちろんそれは見解の相違で済ますことは可能かも知れない。安倍氏でなくても拉致問題を解決するのは困難なのだろう。しかしそれではなぜ解決できない彼を称賛できるのか。保守派が望んでいる北朝鮮に対する強硬姿勢を彼が堅持してくれたからか。しかしそれが彼の実績となるのなら政治的な実績とは何なのか。そんなことなら別に彼でなくともできるような気がするのだが、彼がそれをすることによってどのようなメリットがあるのだろう。要するに小泉氏に代わる次のリーダーとして国内向けに見栄えがするからか。他に理由が見当たらないか。もしかしたらその程度のことで保守派のマスメディアは安倍氏の人気を煽っているのかも知れない。やはりそんなことで彼を支持する人々は馬鹿だろう。


4月21日

 あやふやな思考はいつも途中で中断を余儀なくされ、気がつくと何を考えていたのか忘れている場合が多い。なぜそれを忘れようとしているのか。別に忘れようとして忘れているわけでもないだろう。忘れようとすれば忘れられなくなり、思い出そうとすれば忘れてしまっていることに気づく。忘れられないことは忘れようとするが、忘れたくないことは忘れてしまう。要するに何事も意識の思い通りにはいかないということか。外界の現象はもとより、内面の精神作用も思うがままに操作することはできない。すべてがそうとも限らないが、限界は至るところにありそうだ。さまざまな試行錯誤を経てなお、どうにも言葉のつながりを導き出せないとき、それでもまだ限界に近づいているわけでもないと思いたくなる。そう思うことで無意識のうちに強がっているわけか。しかしその時点で既に実態としては限界を越えているように思える。だがそれが何の限界なのかはっきりしていない。そう思いたいだけで、はっきりさせたくないのだ。それははっきりさせた時点で終ってしまうからか。しかしここに至ってどこに至っているというのだろう。それでもまだ執拗に続けようとしているのはどういうことなのか。なぜそういつまでも技巧を弄している振りを続けるのか。意味不明なそれが技巧だとは、まともな神経の持ち主ならとても思えないか。では例えば狂人にとっては、それは何らかの技巧だと思えるだろうか。その例え自体が荒唐無稽か。いったい誰が狂人なのだろう。はたして君が狂人だといえるだろうか。さまざまな条件を設定すれば君を狂人とみなすことが可能になるか。しかしそれは精神分析医の仕事になるだろう。たぶん自ら精神鑑定など受けるつもりはないだろう。いくら限界にぶち当たっているといっても、そこまで精神的に追い詰められているわけでもないか。ではそうまでしてやっているそれは、単なる戯れ事の類なのか。戯れに狂人という言葉を持ち出して、自分自身に微かな驚きを誘発させて自己満足に浸り、またそれによって他の誰かの興味をつなぎ止めたと思い込みたいのか。しかし何を思い込もうとしてるのだろう。別に思い込もうとしているのではなく、適当に思いもしない言葉を繰り出しているつもりになって、それによって愉快な気分になりたいだけなのか。なぜそんなことをやって愉快になれると思うのか。そんなことをやっているうちに、それらの内容のどこにも興味をつなぎ止める場所がないことに気づくかも知れない。何よりも熟慮を経ずに気まぐれに繰り出された言葉には説得力がないか。だが説得力がなくても面白ければかまわないか。それらのどこが面白いのだろう。ではすべては思い過ごしでしかないか。戯れにそんな仮説を信じてみれば面白いし、愉快な気分になれるだろうか。そしてなんとなくそれが嘘でもかまわないと思うようになる。他人の関心をつなぎ止めようにも、それが分からないのだから仕方がないだろう。分かっている振りを装って、利いた風なことを述べる人は多いかも知れないが、本当のところは独りよがりである場合がほとんどかも知れない。そんなに他人の興味が知りたければアンケート調査でもしてみればいいか。それが面倒なら知らないままでもいいだろう。今のままでは他の意識とのつながりを見出せないが、それはそれで仕方のないことだろう。どうやらいつまで経ってもイカレた書物には到達できないようだ。どう工夫してみても書物にはなりようがない。と同時に、もちろんそれが工夫だとは思っていない。それは届かぬ星を手でつかもうとするようなものか。目指しているのはそんなことではないはずか。戯れに架空の目標を設定して、それに沿った言葉を連ねてみただけなのか。しかしそれらの文字列から字数稼ぎ以外の何を読みとれるだろうか。


4月20日

 またもや意識は迷路に迷い込む。いくら言葉を弄しても本題に入れない。本題と迷路との間にどのような関係があるのだろう。本題がないので迷路に迷い込んでいる振りをしているだけか。振りすらしていないのかも知れない。どうしたらいいのか考えあぐねながら、ただ無駄に言葉を重ねているだけか。しかし何がどうしてそうなるのか。何をどうしてもそうなるのか。要するに気の利いたことを語るのが面倒なのかも知れない。なんとなくすべてが馬鹿らしく思える。だがそれでも適当な文章が構成されるらしい。誰がそれを読んでいるのか知らないが、それらの言説を読み進んで行くと、至るところに否定的な響きを感じとることができるだろうか。読んでもいないのに感じとれるわけがないか。また読みたくもないものを無理に読む必要はないか。読んでみなければ分からないだろう。君は実際にここまで読み進めてきたらしい。そしてここで行き詰まりになりそうだ。やはりここは迷路ではないのか。いくら無駄に言葉を弄しても結末までは行き着かない。だから急場しのぎにどこからともなくくだらぬ問いが発せられる。言葉とは何だろう。それはあまり魅力的な問いとは言い難い。使い古されて問い自体が無意味を孕んでいる。当然影はねじれた表現を期待しているのだろうが、意識は期待に反して真っ当な回答を模索する。例えばそれは詩の一節だろうか。それはあまりにも安易な見解か。別に君は吟遊詩人ではない。昔聴いた歌の中では確か吟遊詩人は歌を選ばないのだった。見た通り、聞いた通りのことを歌う。今の君にそんなことができるはずがないか。しかしできるはずのないことを成し遂げることが冒険者が抱くロマンの本質か。誰が冒険者なのか。何も冒険しなくとも簡単にできるだろう。それを歌ったと思い込めば歌ったことになるだろう。たぶんそう思い込んだ者にとってはそれを歌うことができたのだ。しかし君はまだその歌の内容を知らない。まさかこれから詩を朗読しようとするわけもない。とりあえず知らないから代わりに別の歌を思い浮かべてみよう。それは何かの流行歌の中の一節だったかも知れないが、今はその歌の題名を思い出せないと嘘をついておこう。なぜ嘘をつくのか。面倒臭いからか。それとも影の期待通りにねじれた表現を模索しているつもりか。そんなわけでなんとなく意味不明に思われるが、いったい君は誰に向かって嘘をついているのか。そして君語っている自身が何を述べているのか分からない。とりあえず今流行りの歌は、流行ったあとに廃れる時が来るだろう。廃れてくれなければ、それに代わる新たな流行歌が生まれてこない。しかし流行り廃りに理由を求めても無駄か。何が無駄なのか無駄な理由が見当たらないが、そうやって無駄なことを述べている。たぶん無駄はさらなる無駄な表現を誘発するだろう。言葉に詰まって唐突にそれまでとは無関係なことを語り出す。そのとき君は展示室の飾り棚の上からガラスの瞳に見つめられていた。わざとらしく言葉のつながりを欠いているようだ。しかし気力も途切れて何を述べているのかわからなくなる。ガラスの瞳は疲れを忘れさせる。忘れられているのはそれだけではなさそうだが、それを忘れているので思い出せない。そんなことは当たり前のことか。身に降りかかる不幸を加工して幸福に見せかける作業は空しさを誘う。どのように言いくるめてみても、それが幸福だなんてあり得ない。感情的な人々はいつしか柔軟性を欠いて頑なに固まり続ける。思考の移動を怠る者はいつまでも同じ場所から同じことを唱え続ける。君はただの道標なのか。行き交う人のほとんどいない道に朽ちかけた道路標識が立っている。車で通過する者にはまったく気づかれない。その立て看板はいったい何を示しているのか。蛇の抜け殻が巻きついているのは誰かの仕業かも知れない。どのような思惑で巻きつけたのか。確か以前君は剥製の話をしていたように思われる。


4月19日

 画家はいつも壁を装飾している。それは壁ではなく床かも知れない。強烈な色彩は情緒の不安定を示しているのかも知れない。剥製となった獣はガラスの眼から何を見ているのだろう。別に剥製が描かれているわけではない。誰かが描く絵はキリスト教的な題材が多い。しかしなぜ最後の審判なのか。最後の審判において何が終わったのだろう。それ以降は審判が行われなくなる。そのとき契られた約束とは何だろう。依然として約束は果たされない。古い約束も新しい約束も忘れてしまったらしい。まだ最後の審判の日が訪れていないのかも知れない。何を思ってそんなことを述べているのか。晴れた空の下ではやる気がしないが、気分は説話的な物語からは程遠い。そして始まりはいつも唐突だが、これから何が始まるかを知らない。今の君にわかるはずがないだろう。過去の君ならでたらめな予言ではったりをかますところか。昼寝の最中の君は何が始まっても気づかないだろう。埃をかぶった剥製は虫食い状態か。うち捨てられた廃屋の中には何があるのだろう。廃墟は地面の下に眠っている。過去の構築物は地層の形状に押しつぶされている。神殿の柱は博物館の中に飾られている。それは数千年前に建てられた神殿の一部だった。今でも拝火教は存続しているのだろうか。確かブードゥー教は比較的新しい宗教のはずだ。拝火教とは何の関係もないだろう。しかしその神殿は拝火教とは無関係かも知れない。しかし何を述べているのかわからない。要するにその手の宗教は、その固有名を出すだけでも何かしら想像力をかき立てられるということか。神秘主義的な雰囲気にあこがれる人は多い。神の前には神棚がある。では仏の前には仏壇でもあるのか。神棚も仏壇も古くなったので燃やしてしまおう。家の解体現場ではそんな会話が交わされているかも知れない。誰もそんな場面に出くわしたわけではない。神は神棚として現前しているだけなのか。では仏壇は仏の現前だろうか。君たちは何を拝んでいるのか。確か聖母マリアは神ではないはずだ。それはマリア当人ではなくマリア像だろう。生身の人間を拝みたければマリアとかいう名前の人を拝んでみたらどうか。それでは拝む趣旨が違ってきてしまうか。では神そのものを拝みたければ何を拝めばいいのだろうか。そんなものなど通常では存在し得ないか。神殿の内部には神の像があるだけか。例えばイスラム教は偶像崇拝を禁じているから、その内部には像すらないか。そこには幾何学模様の装飾が施された壁と絨毯があるだけか。無神論者にはすべての宗教は排斥の対象となるだろうか。彼は自分と他人以外に何を信じればいいのだろう。宇宙を貫く自然法則と言語的な論理学か。あとは科学技術と経済の市場原理などか。それ以外に何があるのか。そこで神の見えざる手はどのように働いているのだろう。複雑な現象を説明しきれないので、込み入った説明を省く目的で自動調節機構を設定したいだけか。神と人間の媒介者はいつもインチキと隣り合わせに存在する。振り返っているのは過去の出来事ではなく、結局実行に移されなかった和解への試みか。わかりきったことだが後悔は先立たない。新聞は必ずしも新しい見聞を必要としない。そこにあるのは古くからある伝統的な編集作業か。社会に定着しつつある使用頻度の高い言葉を様々に組み合わせてコラージュしてみせる。そんな努力によって読みやすい文章が紙面に構成されている。しかし神と新聞とどのような関係があるのだろう。君は聖教新聞について語りたいのだろうか。あれは神ではなく仏なのではないか。仏といってもフランスのことではない。風が強くなってきた。強風に煽られて辺り一面には砂埃が舞っている。その砂埃にまみれて猫が走り去る。猫は神なのか、あるいは新聞配達員なのか、はたまたエホバの証人だろうか。もしかしたら彼らも独自に新聞を発行しているかも知れない。どこかに熱心な読者がいるのかも知れない。神は語るには安易な題材である。たぶん神と人間の間には適当な関わりがあるのだろう。なぜ唐突に当たり前のことを述べているのか。


4月18日

 君はまたつまらないことを語ろうとしている。しかし今日はそのつまらない内容を構築できないようだ。それはどういうことなのか。暇にまかせて何を語っているのだろう。それで君は何かを語っているつもりなのか。またそうやって性懲りもなく嘘でもつくつもりなのか。必ずしも嘘をつくとは限らないだろう。気分次第とそのときの成行きによって話の内容は嘘にも本当にもなりうる。とりあえず今のところは語る材料が何もないようだが、それでも適当に言葉を繰り出せば、それで何か語っていることになるわけか。しかしそれでまともな内容になることはあまりなさそうだ。だがまともであるかないかは君の判断する範疇ではないのかも知れない。今の君にとってはまともであってもなくてもどちらでもかまわないのであり、ただ語り続けてその場を取り繕えばそれで満足するのかも知れない。しかし満足してどうするのか。満足してそれで終りか。満足してもしなくても終りようがない。現在の時間帯に追いついていないから終れないのか。そしてそんな終れない現状に苛ついているからなおのこと終れないらしい。投げやりに現状を思えばそういうことになるだろうか。しかしそれとは別の現状もあるのではないか。例えばつまらない世の中につまらない出来事が起こり続けている現状もあるらしい。謙虚さを装うにはそんな風に思いたくないところか。なぜ謙虚に振舞わなければいけないのだろう。横柄な語り口であっては嫌われるだろうか。それ以前に嫌われているのかも知れない。要するに君は皆から嫌われている現状を改善したいわけか。それは嘘かも知れない。仮にそうだとしてもそんな現状には興味がないか。現状の何に興味がないのだろう。すべてに興味がないわけでもないはずだが、なんとなく特定の対象に興味を抱けない。何かのきっかけでそうではなくなる可能性もあるかも知れないが、今はどうも面白いと思う感覚を忘れてしまっているらしい。何もかもがつまらないわけではないが、とりあえずつまらないと述べておけば事足りるような気がしている。たぶん君にとってはイラク戦争もパレスチナ問題もどうでもいいことなのかも知れない。それらの地域で多くの人々が死んでいるニュースを見聞しながら心痛めているだけのようだ。だがそこから先には何もない。それ以上は深入りせずにそこで思考が止まっている。そしてそんな状況をあまり深刻には考えたくない。深刻ぶるのが面倒なのか。あるいは深刻ぶって危機感を煽るような言説を弄するほど本気にはなれないのか。難しく語るのが億劫なだけで、しかしいい加減に語ればたぶんつまらなくなると思うから、とりあえず今はつまらないと述べることしかできないのだろう。そして何を語っているのか分からない。そう述べては身も蓋もないか。では他につまらないと思う原因があるのか。ただ単に思い通りに行かないからつまらないだけか。しかしそんな理由では当り前すぎてつまらない。ではもっと面白そうな理由を考えればいいのだろうか。それを思いつかないからつまらないのか。ならば面白そうな理由を思いつけば、つまらないと思う気持ちを変えることができるのか。要するに面白いと思えば面白くなるわけか。そうかも知れないが、それではあまりにも安易すぎないか。論理的な思考からはかけ離れたことを述べているのかも知れない。だが別に論理的な思考を求めてるわけでもないだろう。何を求めているわけでもなく、何も求めていないわけでもない。別に暇つぶしや気晴らしになるような内容を求めてもいいが、仮に求めようとしても求まらなくてもいい。もちろん何か別の結果が求まってもいいような気もするが、現時点ではその別の結果がどのようなものかは分からないし、別に分からないままでもかまわない。それは君が求める必要のないことかも知れない。


4月17日

 何かきっかけをつかんだと思ったら、またそれを見失ってしまう。どうもまだ行き詰まりが長引いている。この先何がどうなるのかわかるわけもないが、この先とはどの先なのかもわからない。何を述べているのだろう。何を模索しているつもりなのか。つもりではなく本当に模索しているのだろうか。思考を続ける上での障害物を注意深く除けていくと、そこには何もないことがわかるだろう。そうやって結局は思考が続かなくなる。考えるべきことが見あたらないことに気づくわけだ。日本という国に暮らしている限り、大の大人はみな感情的な子供のままで生きて行くことしかできはしない。現状ではそれ以外は何も可能でない。まだ邪念を振り払えていないのかも知れない。邪念とは何のことだろう。思うことのすべてが邪念か。それは安易な思い込みだ。嘘に決まっている。君は本気でその思いが邪念だなんて思っていないはずか。しかし相変わらずまともな内容に巡り会えないことは確かなようだ。いつも語る以前に語ろうとする内容が取り除かれているような気がする。語るべきことなど何もないと思ってしまうらしい。また語り続けていくうちに、いくら語っても無駄だという思いにも行き着く。性根の腐った人間はいくらでもいるのかも知れないが、それを非難してどうなるものでもないとも思う。初めからそんな現実に負けているのだろうか。インチキ商売に手を染めている者にとってはインチキなのが当たり前なのだから、人を騙すのに良心の呵責など感じるはずもない。騙した者勝ちなのだから、必然的には騙された者は負けるに決まっている。勝ち負けを判断基準にすれば、良心的な人間は負け続けることしかできない。もちろん負け続けているからといって、勝つために良心を捨ててしまえば、性根の腐った人間たちの仲間入りをするしかない。しかし彼らは何に勝とうとしているのか。金を儲けてどうするのだろう。金儲けという目的のために、他のすべてを犠牲にする覚悟でもできているのだろうか。それともうまく立ち回って何の犠牲も払わずに成功する自信でもあるのか。どうしてもそれをやりたければ、やりたい者がやってもらうしかない。そんな世の中の風潮に踊らされている。しかしそんなとはどんな風潮なのだろう。他人に嫌がらせをすることに快感を感じるのは陥りやすい欲望の罠か。他人を自分の思い通りに支配したという欲望は、立場的に上位の者が下位の者に指揮命令する、という学校から家庭や職場まで貫いているカースト制から生じているのかも知れない。それがなければ社会の秩序は保てないが、同時にそれがあることで、人々の間に解消不可能なストレスが生じている。そんな社会の上下関係を無視して出過ぎた真似をした者は、放っておけば周りの人間から徹底的にいじめられる仕組みになっている。そういう仕組みに寄りかかって生きている者ほど平気で卑劣なことをやる。もちろんそんな奴は小者のままで人生を終えるのだろうが、そういう精神的な弱者が寄り集まり、連帯して親分格の権力を下から支えているわけだ。それが日本的な閉じた村社会を構成しているわけか。みながそれと気づかずにそのような構造を維持しようと躍起となっている。彼らは国家という幻想の共同体に刃向かう者を容赦しないだろう。絶えず抑圧というストレスを感じながらも、国民全員がその幸福という名の不幸を共有しなければならないと思い込んでいる。そんな彼らは最終的には脅迫的な言動に終始することしかできない。やれ義務だ自己責任だと自由を減じて人々を国家に縛り付けようとする。また他人が自分たちの価値基準を超える行動に出てしまうことを極端に恐れている。そんなわけで彼らはイラクへ人助けに行ったねーちゃんたちを許せない。たぶん今後自殺に追い込むまで徹底的に嫌がらせをやりまくるだろう。たかが個人的にボランティアがしたいだけの、どうということはない心優しい人たちなのに、そんな人たちに過剰反応しているわけだから、たぶんかなりの小心者なのだろう。


4月16日

 君には予感がある。いつでも予感がすると思っている。いつか君はその予感に絶対の自信を持つだろう。たぶんそれが勘違いの始まりだ。そうやって未来を見通しているつもりになり、軽率にも予言によって人目を引こうと企む。人々の安易な願望を未来に投影させようとする。そこまでやるなら、今後もその予感に従って生きて行けばいいだろう。その勘違いが君のとりえではないのか。ちなみに今はどんな予感がしているのか。様々な予感が錯綜しているようだが、それらの予感は悲観的な状況に共鳴しているかも知れない。要するに将来に対する悲観的な展望を述べれば誰もが耳を傾けるという狙いがあるわけか。もちろん本気ではない。例えばどこかの誰かは何もかも投げ出してどこかへ逃避してしまうだろう。その誰かは夜逃げでもするつもりなのか。何やらどこかのテレビドラマのような内容だ。またありふれた物語のどこかで隠者の願いが聞き届けられる。うるさいから世界中の音をなくして欲しい。その結果として時間が停止する。あるいは音が伝わる媒体としての空気がなくなる。そんな話ではつまらないか。たぶんそれは冗談で述べているのだろう。つまらない冗談のように思われる。なんとなく話の内容がまとまらないようだが、はたしてそれは期待外れの結果なのか。なぜ期待外れなのかわからない。それらはフィクションの中での出来事なのだから、現実の世界に暮らしている君にとってはどうでもいいことかも知れない。たぶんその物語の荒唐無稽さを悟ったとたん、そこででたらめな語りは中断されてしまうだろう。途中で投げ出された試みはそこで消滅する。なぜ想像力から生み出された産物をあっさり捨ててしまうのか。それがゴミだからか。その時点で何を見通しているかわからないが、そのままではどうも先行きが暗いと思われる。しかし未来の君はそうは思わないだろう。だが今の君にはなぜそうは思わないのかその理由がわからない。未来の君がどう思うかなんて今の君にわかるはずがないだろう。わかるはずもないことをわかるのが予感なのだろうか。それはわかるわからないの水準ではなく、ただそんな気がするだけか。しかしそれらの言動に影は何を期待しているのか。切羽詰まると唐突に影が登場するのはいつものパターンか。語り続けるうちに飽きてくると影が出てくる。なぜ君は結果としてもたらされたそれらのつまらぬ言動に飽き飽きしているのだろう。それは誰の言動なのか。君の言動なのだろう。そうだとしたら、それらの言動は無視されるだけか。君の言動が表沙汰になった例はないか。あながちそうとも限らないだろう。たぶん期待が裏切られるから現状はおもしろいのかもしれない。それとは無関係な誰かにとってはそうではないのかも知れないが、何を待っているのか知らないが、いくら待っても闇からは何も出て来ないだろう。それではいつか見た幽霊は幻影だったのだか。話が飛んでいる。飛んだついでにこんな夜に誰が待ち伏せしているというのか。いくら待っても誰も何も襲って来はしない。架空の君は闇の中で何を期待しているだろう。たぶん君はテレビゲームの中にでも存在しているのかも知れない。そして期待しているのは君ではなく、ゲームソフトを買ってきて、画面を見ながらコントローラーを操作しようとしている別の誰かになる。そこで君は別の誰かに何を語りかけているのか。画面は相変わらず真っ暗のままで何も出て来ないではないか。君ははじめからやる気がないのか。君がやるのではなく、別の誰かがテレビゲームをやるはずだ。君の方はといえば、またいつものように何をやろうとしていたのか忘れてしまったと言い訳を述べるだけか。そして別の誰かも架空の登場人物であり、言語を操作する者はその誰かにゲームなどやらせるつもりはなかったのかも知れない。ただそんな風に架空の語りを進行させているにすぎない。たぶんそれは何かの現状報告なのだろうか。しかし現状とは何なのか。現状ですら架空の話に属するのか。そうではなく、架空の話を構築しつつある現状があるらしい。どうも次第に何を述べているのかわからなくなりつつある。たぶんそれは嘘だろう。本当はわかっているくせにわざとしらを切り通しているようだ。


4月15日

 そうではないと思いたいようだが、たぶんそれが真実なのだろう。些細な成行きから真実が導き出される。沈黙の向こう側には何もない。なんとなくその件については語りたくないらしい。語りたくないのなら語らなければいいだろう。しかしそれでは何も語る必要はないではないか。それ以外のことを語ればいいし、必要もないことを無理に語ればいいだろう。なぜそう思うのか。まだ語りたくないことを語る時期ではないのかも知れない。ではいつ語ればいいのだろう。忘れたころにでも語れば穏便に済ませられるかも知れない。だが忘れてしまっては語りようがないだろう。ではかすかな記憶が残っているうちにおぼろげに語ればいいのかも知れない。要するに内容が意味不明に思われることを期待しているわけか。はっきりした内容にすることで何か不都合でもあるのか。内容をはっきりさせることで何を恐れているのだろう。恐れているのではなく、ただ単にはっきりしたことを述べられないだけか。そんなことを述べているうちに何を語ろうとしていたのか忘れてしまった。忘れてしまったのではなく、元から何もないのではないか。しかし最近はそればかりではないのか。それは何も最近に始まったことではなく、昔からそうなのかも知れない。だがここではそれで何の問題もないのかも知れない。だが問題がなければ語りようがないか。では何か架空の問題を設定して、それについて語ればいいのか。そんなやり方が受け入れられると思っているのか。受け入れられないとしたら何が問題なのだろうか。たぶんそれが架空の問題となっているのかも知れない。しかしそれでは泥縄式に問題を生じさせているだけだ。ではそこに問題があるとしたらそれは何か。それをやり続けることによってどのような事態を想定したらいいだろうか。何を想定しようとそんなやり方では気に入らないか。誰が気に入らないのか。では気に入らないからその件については述べられないのか。それではどうしようもないだろう。精神的に疲れているのかも知れない。些細な争い事が頻発しているのは最近に限ったことではないはずなのに、それが徐々に効いてくる。今はすり減らした神経を再生させるだけの時間的な余裕が必要なのかも知れない。しかし気晴らしに遠い地で行なわれている戦闘に思いを馳せてみても仕方がない。それは君とは関係のないことだろう。まったく無関係だとは思えないが、直接関係している優先事項が他にある。しかしその優先事項のただ中でそれとは別のことを考えていて、それについては嫌気がさしている。どうにもならないことをいつまでも考えていても仕方がないだろう。時間的な余裕がないのならそれも仕方のないことだ。だから行き詰まっているわけか。たぶんそれは架空の問題ではなさそうだ。とりあえず人質を生きて帰したことで、イラクの人々は日本人のすべてがアメリカの子分ではないことを認めたのだろう。少なくとも日本にも反体制派が存在するらしい。体制派は比較的安全だと思われる地域に武装した自衛隊を派遣して、アメリカからの要求を穏便に済ませようとしたのに対して、反体制派の方は危険な地域に非武装で自ら乗り込んでしまうような命知らずの人々だったわけだ。どうやらかつての神風特攻隊の精神は、右翼ではなく反体制ボランティアの人々に受け継がれたらしい。もちろん冗談で語っているのは当り前だが、解放された直後に、またイラクで人助けがしたいようなことを語ってひんしゅくをかっている、あのカミカゼボランティアのおねーさんに日本人は感謝しなければならないのかも知れない。馬鹿な識者が、戦場カメラマンのロバート・キャパやスペインの内戦を義友軍として参加した作家のヘミングウェイと比較して、偉そうに批判していたが、それは全く逆である。彼らは商売でやっていることであり、現実に戦場の写真が有名になったり、戦場体験を基にして小説を書き上げて名声を得たりして、二人ともその方面の権威として神格化されているではないか。当時の当人たちの思いがどうあれ、結局は体制側にまつりあげられていて、人畜無害な大衆消費材としか機能しないだろう。要するに鑑賞の対象でしかない。それと比べれば、よけいなことしやがって!と罵られるようなことをやった彼女の方が数百倍は良心的だと思う。何よりも人々に考える機会を与えたことは大きいだろう。キャパやヘミングウェイでは、善意や見栄から感動することはあっても、人々は考えない。今と昔ではリアリティが違う。


4月14日

 なぜ途中でやめてしまうのか。しかし何をやめたのか明らかでない。春なのに暑さに負けている。季節的には次第に暖かな気候になりつつあるようだ。新緑が目の保養にでもなるだろうか。今は夜だから無理だろう。めまぐるしく移り変わるテレビ映像に毒されて目が疲れているのかも知れない。別に毒されているわけでもないか。部屋の中の空気がよどんでいるようだ。やめるための理由はそんなところか。理由になっていないような気がする。病んでいるのかも知れないが、何を病んでいるのか知らない。状況的には相変わらず切羽詰まっているようで、それを打開するためにまた愉快な気分に助けを求めているのかも知れないが、今のところは中身を伴っていないようだ。やる気は始めから崩れ去っている。そんな無気力をどうやって言葉に結びつけるつもりなのか。つまらぬ言い訳でその場を切り抜けられるはずもないか。君は無表情のままその場を立ち去る。それはいつの記憶だろう。しかし過ぎ去った日々はもう戻ってこない。別にいつの記憶でもなく、その場の思いつきか。立ち去れるはずもないだろう。ここにとどまらなければならない。なぜそうしなければならないかは知らないが、それは嘘だろう。ついでにやる気もないのも嘘になるだろう。君はとどまる理由を語れないのだ。架空の人物は台本通りにとどまらなければならないわけか。一方的に何を思ってみても始まらない。そこから何を始めようとしているのか。しかし何を述べているのかわけがわからない。要するに不満だらけの現状に嫌気が差しているわけか。同じような映像を飽きもせず眺めているわけにもいかず、とりあえずテレビの電源をオフにして窓の外に広がる闇を見つめてみる。しかしそれで何を思いつけるわけもなく、結局は蛍光灯の明かりの下に戻ってくる。元の木阿弥とはこういうことをいうのか。それとはちょっとニュアンスが違うような気もする。破れかぶれ気味に突き放した物言いに終始するどこかの首相は疲れているのかも知れない。しかしもうイラクのことなどどうでもいいように思われるか。人がたくさん死んでいるだけか。そんなことには興味がないか。たぶんどうでもいいことになりつつある。騒いでいるのはマスメディアばかりだが、それ以外の誰が騒いでいるのだろう。それらの報道によって死が日常茶飯事なのはわかったが、それでどうだというのか。時が経てばどうにかなるのだろうか。どうにかしようとしている人はたくさんいるのだろう。だがどうにかしようとしてどうにかなったらつまらないか。思惑通りに事が運ばないのは当然かも知れないが、それに対する言い訳を早急に導き出さなければならない状況なのか。そんなこともどうでもいいことになるだろうか。大統領選が近づいている当事者は焦り気味のようだが、まあせいぜい何万人も人が殺せる立場を楽しんでもらいたい。もしかしたら彼が大統領になってから、彼のおかげで死んだ人の数は何万人では済まないかも知れない。それでもかつて数百万人から数千万人を死に追いやったどこかの独裁者たちのことを思えば、それも大したことはないのだろうが、この期に及んで単純に命の尊さを訴える人の気が知れない。しかし自国の人間が四人殺された報復として六百人以上を殺してしまっていいのだろうか。それでも最高責任者は罪を問われないのだから、改めて戦争のでたらめさを思い知るところか。些細な殺人事件の容疑者に感情的になって、死刑を唱えている者の言動があほくさく感じられる。もちろんメディア的な常識としては、どうせそれとこれとは別問題として片づけられてしまうのだろうし、これからもいくらでも殺人事件は起こり、被害者の親族や友人は同じように極刑を望むだとかメディア向けに表明し続けるのだろう。この世の中はそういう仕組みになっているのだ。そんなわけで、何となく冷めた見方しかできなくなっていることに気づく。やはり本気にはなれない。馬鹿げた世界に馬鹿げた人々が暮らしているだけのようだ。


4月13日

 何やら語り方を指南したい人がいるらしい。書かれた文章に対してダメ出しとか出して添削したいようだ。やはりそれは文章教室とか何かの類だろうか。そうやって多くの人に受け入れられる文章を書ける能力を授けたいのだろう。まったくご苦労なことであるが、何か偉そうに感じられる。それでは趣味の範囲を逸脱してしまうような気がする。だがそんな文章教室から将来ベストセラー作家でも生まれるのかも知れない。それが目的の人はきっと一生懸命努力してしまうのだろう。しかしたぶん未来から振り返ってみれば、そんな時代もあったと懐かしがられるのがオチか。過ぎゆく時代は衰退しつつある。誰もがそれを感じ取っているわけではないだろうが、何となく本気になれないのだ。物を書いて金を稼いでどうするのか。ありふれた富や栄光でも手にして悦に入るわけか。その程度ならまだかわいい方か。そこから人間の本質とかいうものをえぐり出すとか妄想している人もいるのかも知れない。やはり何となく本気になれない。例えばなぜ太宰治は自殺したのだろう。馬鹿だからか。今やその程度で片づけても何の違和感もない。誰が自殺しようとそんなことはどうでもいいことか。人は生きているか死んでいるかの二種類の状態の一方を占めている。量子力学もどきの表現ではそうなるか。だがやはりそれでも本気になれない。無意識のうちに愉快な気分を模索しているのかも知れない。そして愉快な気分は投げやりな気分を求めている。そうやって疲労をどうにかしたいようだ。既存の権威や価値観にしがみつこうと努力する人々が疲労の原因となっているのかも知れない。中島みゆきのどこがいいのかわからない。歌詞の内容は紋切り型の範囲内だし、歌い方は昔ながらの演歌フォークなだけだ。たぶんそれはひねくれた意見だろう。ただ単に素直になれないだけだろう。しかしそれらの歌を聴いて感動したつもりになるのが面倒くさい。しかしそれ以外の感動がどこにあるのか。ああまた愚かなことを述べてしまったらしい。だがそれと同時に何となく笑いがこみ上げてくる。それは自分が愚かだとは思っていない証か。たぶんそんな述べ方ではいけないのかも知れない。自然とウケねらいの展開になりつつある。また意識の中の軽薄さが頭をもたげつつある。もう少し高尚な水準に至りたいのか。しかしそれこそ高望みの無い物ねだりになってしまうか。君は軽薄さと軽快さを取り違えている。だがどちらも似たような意味ではないのか。軽薄に語っているから軽快に感じられるのだろう。そして語り進むうちに真剣さからどんどん遠ざかる。何が命がけなのか。自殺するほど語ってどうするのだろう。そこまでやって何がもたらされるのか。またしても栄光とか名誉がもたらされるわけか。他人の生き様を賞賛する馬鹿が群れ集う場所を提供するだけか。やはり本気にはなれない。しかしそんな風に語ってしまうと、マジな人の神経を逆なでしてしまうことになるか。この程度で気に障る皮肉を述べていることになるわけか。わからない。不快なのでその先に突き抜けたくなるが、それでは誇大妄想になってしまうおそれがありそうなので、その不快さのただ中にとどまっているようだ。どうも笑いを通り過ぎると怒りがこみ上げてくるのかも知れず、そのこみ上げてくるものを抑えていると不快になるのだろう。しかしいったんそれを吐き出してしまったら終わりだ。その後が続かなくなる。だから自殺願望など笑いぐさにしかならないのか。自分の生にオチをつけてどうするのか。笑ってはいけないのに心の内では誰もが笑っているのかも知れない。それらの死を本気で受け止められないのだ。自殺者は消耗品の一種としか思われない。では生き続ける者はどうなのか。生を消耗させながら生きているだけか。たぶんもう少し肯定的な言葉を用いなければいけないのかも知れない。例えば国家体制にとっては、国民は五体満足で生きながら働いてくれないと困る。そうしないと税金が入ってこなくなるからだ。だがそんな説明でも本気になれないか。


4月12日

 狭い範囲内で行ったり来たりしている。それは誰もがやっていることだろうか。誰かが周回コースをぐるぐる回っている。そんなに走ってどうするのか。いつか足が痛んで走れなくなる。走れなくなり、次いで歩けなくなり、後は死ぬまでの短い間、電動車椅子に乗ってあちらこちらを徘徊するようになる。知らず知らずのうちにそんなコースを歩んでいるわけか。歩き回る人は膝の関節が摩耗してくる。だが歩かない人は歩き回れなくなる。すぐに疲れてしまう。持続力がないらしい。誰かが公園のベンチで休んでいる。町中には至る所に公園が配置されているらしいが、それは何かの気休めのつもりか。なぜそれが気休めだと思うのか。公園に植えられた樹木の緑を見ることが気休めにでもなるわけか。君は少しヒステリックになりすぎている。何に興奮しているわけでもないだろう。至って冷静に振る舞っているつもりか。ヒステリックに少しもなりすぎているもないだろう。ほんの気まぐれで何をやるつもりだったのか。何をやる気もなく、気休めにヘッドホンでありふれた曲を聴いている。人が目の前で死ぬと人は叫ぶ。そんな歌を歌っている人もいる。その歌い方がヒステリックに聞こえるだけか。そしてそうやって回りくどい述べ方を楽しんでいるわけか。安らぎを得るために働く必要があるだろうか。だが働いている限り安らぎとは無縁の生活を強いられる。しかしなぜちょっとしたことでヒステリックになれるのだろう。そんなことはどうでもいいことではないか。だがなぜどうでもいいことだと思うのか。後から思えばすべてはどうでもいいことになるのか。しかし後から思っている余裕があるわけか。そんな余裕のない人はいつもヒステリックに見えるのかも知れない。自分には余裕があると思っている人はいつも平静を保とうと心がける。きっと正気のままでこの世界を感じていたいのだろう。どうも熱狂という状況を好きになれない。熱くなったり狂っている振りをしてみたり、なんだかそこまでやる必要が見あたらないようだ。無理に興奮するような状況ではないだろう。何もそんなに驚く場面でもないと思われる。何かについて語りながら次第に興奮口調になり、それにつれて大げさに話の内容が歪められてくる。その場を驚きに満たしたいのかも知れず、わざと誇張して物事を伝えたいのだ。そうやっていつ何時でも他人の興味を惹いていたいのか。それとも何かの冗談なのだろうか。笑いをとりたいのなら漫才師にでもなればいいのだろうか。しかしウケねらいばかりでは聞いている方も疲れる。そんなときに安らぎを求めたくなってくるわけか。そんなわけで公園のベンチに腰を下ろしているということか。誰がそんなところで暇をつぶしているのだろう。それは誰でもない誰かであり、誰であってもかまわない誰かか。たとえそんな人を見かけても気にもとめないだろう。確か忘れ得ぬ人とはそういう人のことだったかも知れない。かつて誰かが書物の中でそんなことを述べていた。人間から中身を取り去ると言葉だけの人になる。その逆に中身だけの人はスポーツ選手の類になるだろうか。架空の君には言葉しか持ち合わせがないので中身がない。しかし中身のありそうなスポーツ選手は、外見だけでテレビ画面の表面に貼り付いている。それは見て興奮するための対象なのだろう。それらの曲芸的な動作にわざとらしく驚いてみる。それで少しは気晴らしになっただろうか。気晴らしのついでに暇つぶしにもなったかも知れない。しかし暇をつぶしている暇はない。暇をもてあましている身分にでもあこがれながら、必死になって何かをやっている人は多いだろうか。君は何が目的なのか。架空の身分から実体を手に入れたいのか。そんなものを手に入れてどうするのか。公園の周りでも走り回りたいのか。走り回ってどうする。それはダイエットか何かのためか。単に運動したいだけか。しかし運動してどうするのだろう。運動した先に何か目的を設定しないと気が済まない人の仲間入りでもしたいわけか。


4月11日

 南の国では誰かが蒸し暑さに音を上げている。それは君とは関係のないことだ。だがつまらないことなのに笑いがこみ上げてくる。また意識は意味不明になりつつある。まあそんなことはどうでもいいことなのかも知れない。何も思いつかないので、他人の言葉に頼りざるを得ないようだが、今はその気になれない。意識は状況に逆らって言葉を連ねたいようだ。巷では相変わらず馬鹿げたことばかりが起こり続けているようだが、それは君がそう感じているだけで、それらの馬鹿げたことに関わっている人々はそうは思わないのだろう。真剣な気持ちで事態に取り組んでいる。それは大真面目で馬鹿げたことをやっているように映る。なぜそんなことをやってしまうのか。しかし君もやっているのではないか。それをやっていない者などこの世にはいないのではないか。つまり誰もが馬鹿げたことをやりざるを得ない状況にあるわけか。だが馬鹿げたこととはどのようなことなのだろう。君に思いたる節はないのだろうか。馬鹿げたことをやっていると述べておきながら、それがわからないではおかしいのではないか。筋が通らないか。それはどういうことなのか。例えばこうして言葉を連ねることは馬鹿げたことだろうか。そうかも知れないが、そうではないのかも知れない。そうであってもなくてもどちらでもかまわないか。たぶんそんな物言いが馬鹿げているのかも知れない。そして誰が何を語っているとも思わないのも馬鹿げたことかも知れない。しかし何を語っているのだろう。過去の迷路で迷っているうちに、未来から取り残されそうになっているのかも知れない。もう誰もそこにはいない。強風に揺れる竹林の中で何を思っているのでもない。たぶんそこには何もないのだろう。それらを思う意識はどこかへ散逸してしまったようだ。それでも無意識が何かをやろうとしている。だが意識は無意識のことまで面倒をみきれない。無意識の方でも意識が抱え込んでいるくだらぬ感情には嫌気が差している。愛することと憎むことは誰の感情の中で息づいているのか。論理的思考はそれらを排除している。たぶんそれらとは別の言葉で表現したいのだろう。何やら目新しい表現で人々の関心を引きつけたいようだ。だがそんなことをすぐに思いつけるわけもなく、何もかもが掛け声倒れに終わってしまいそうだ。しかし現実と妥協するつもりはないらしい。意識は絶えず現状に対して逆らうように心がけているのだろうか。だがそれで逆らっていることになるのか。妄想の中で暮らす住人はいつも大それたことばかり考えているが、それが実行に移された例しは一度もない。ただ自らによって繰り出された言葉に酔っているだけか。酔うとはどういうことなのだろう。我を忘れているわけか。しかしその我とはどんな我なのか。意識はどんな我を纏っているつもりなのか。たぶんそれは馬鹿げた我だろう。我しかいない閉塞空間で意識を閉じている。しかしそれは言葉が作り出す幻影にすぎない。開かれた外界へ出る勇気がないのかも知れない。だがその外界も幻影にすぎないとしたら、いったいどこへ行けばいいのか。しかしなぜそんな風に考えられるのか。これまでのところ根拠は何も示されていないようだ。何もかも幻影で済ませられるわけがない。考えれば考えるほど考えすぎになってしまう。しかし意識はその考え出された結果を重視したいようだ。そして重視しつつもそれをあっさり捨ててしまう。一つの言葉ですべてを語れないが、様々な表現を駆使しているうちに意味不明になってしまう。利いた風な語りを通りすぎて、その先にあるどうでもいいような言語表現をつかみ取る。たぶんそこにリアリティがあると勘違いしているのだろう。だがその勘違いが愉快に感じられる。期待をことごとく裏切っているように思われ、何となくそれで安心してしまう。結果として何ももたらされないことに安住している。気休めの賞賛など要らないのだろうか。気休めや気晴らしに受け取られてもかまわないが、意識はそれを無視したいのかも知れない。


4月10日

 やはりそれは違うだろう。内部で何かがくすぶっているようだが、何かのきっかけでつっかえていたものが外に出てくる。今さら何を祈っても無駄か。祈る時と場所が間違っている。ここは聖なる地ではない。多くの人が普通の場所で普通に暮らしている。どういう状況が普通なのだろう。それで何か文句でもあるのだろうか。普通では気に入らないか。普通であることを説明する必要はないか。人が住んでいない荒涼とした地に行ってみたいのかも知れない。そこで本来の姿が出現する。その際荒んだ意識はどこかへ吹き飛んでしまうだろうか。そんなことはあり得ない。どこへ行っても意識は至って冷静なのかも知れない。気がつくと遠くから夕闇が近づいてくる。明日の明け方には冷え込むだろうか。もう春だからたいしたことはないか。しかし何を語っているのか。その大半はフィクションになってしまう。そんな内容では気に入らないだろうか。いつものように何を語っているわけでもないらしい。時の経過を振り返れば、説明しようとしていた意志から離れて感性はかなり遠くまで来てしまった。今はどこから風が吹いているわけでもない。何もない状況はいつまでも続いてゆくようだ。そんな過程を通らないとまともに語れないのか。別にまともさを求めているわけではない。また感覚が麻痺しているわけでもない。揺れているのは心ではなく体かも知れない。どちらも微動だにしないか。しかしそれでは死んでいるのと変わらないか。架空の意識は上を向いてあらぬ事を語りかける。ぐるぐる回っているのは天井だろうか。部屋の中で寝転がって何を夢見ているのか。それで終わりなのか。込み入った状況をくぐり抜けた先にはいつもの朝が待っている。やはりそれ以上を求めてはいけないようだ。一夜明けてもまだパズルを完成できない。扱いにくそうな言葉の連なりを解きほぐそうとしている最中のままだ。こんがらがってしまったものを元に戻すつもりはない。気力は解れて大胆さも慎重さとも無縁になりそうだ。そんなとき他人は何を求めているのだろう。それは逃げ口上の一種だろうか。何もかも放り出してどこかへ行けば気が晴れるだろうか。現時点で放り出すことなど不可能か。放り出す勇気などありはしないか。たぶん求めているのはそんなことではない。曇り空の下から晴れ渡った時を想像しているだけかも知れない。それは求めているのではなく、想像するにとどめているだけか。そうやって叶わぬ願いをいつまでも思い続けるわけか。しかし求めなくともいずれ晴れた空はやってくるだろう。そのときがくるまで黙って待っていればいいわけか。待っていなくても簡単にやってくるかも知れない。すでに通り過ぎてしまっているし、また間髪を入れず次々とやってくるだろう。現に晴れや曇りや雨が順繰りに上空を通り過ぎている。しかし思いの方は一向に晴れない。それが何の思いなのかわかろうとしていない。何を思っているのか言葉にできないでいるわけか。もうすでに遅いのかもしれない。機会を逸しているのだろうか。もはや過ちを修正することはできないか。それ以前に過ちだとは思っていないか。しかし依然として何らかの結果を出すには至っていないが、それがその時点での結果なのかも知れない。だが何もできないことをやろうとしているわけではないだろう。そんな思いとは裏腹に、現実にはできないことをやろうとしている。できていないのにできないわけがないと思い込もうとしているだけかも知れない。そんな気休めに寄りかかりながらやっていることは意味不明か。それでもそれらの文章は何らかの意味を宿しているのだろうか。君にはいつまで経ってもわからないだろう。始めからわかろうとしていないのであり、わかる状況がやってくることを拒否している。晴れた空を想像しながら曇り空の下にとどまろうとしている。要するに矛盾しているということか。わざとそうしているわけか。わざとそうせざるを得ない状況に陥っているのかも知れない。要するにそうしなければそれ以上の継続は不可能だということか。しかしそんな結論には精神が耐えられないだろう。


4月9日

 やはり小手先の工夫には限界がある。たぶんそれでは駄目なのだろう。しかしそれ以外に思いつかない者は、また同じようなことをやろうとしている。やる気もないのに何をやってしまうのか。そこまでやろうとは思わないのに、気がつけば以前と同じようなことをやっている。そしてまた同じようなことを考えている。なぜいつまでも無駄なことをやろうとしているのだろう。しかしその程度のことで何を悩めばいいのか。いくら考えても悩みには至らないだろう。悩んでいるのではなく、ただやりたくないことをやっているだけか。それをやり続けながら、何をやりたくないのわかっていない。そして、わかっているが言葉にはできない、と思いたい。それはどこまでも誤魔化しでしかないだろう。しかし誤魔化し以外は何も述べられない。ではそれとは別の人格を利用して違うことを述べてみよう。甘いものを食べすぎると糖尿病になるかも知れない。それとやりたくないこととは無関係か。単に糖分を過剰に摂取したくなるだけのようだ。それは誰の意志なのか。意志ではなく欲求だろう。面倒な御時世だ。わざわざ身の危険を顧みずに危ないことをやってしまう。知らず知らずのうちに命がけになってしまう。気がつけば死の一歩手前まで来ていたりする。気がつかなければそのまま死んでいるところか。自らの過ちに気づかないまま多くの人が命を落す。しかし命を落すことが過ちでない場合もあるかも知れない。中にはそう思いたい人もいるのだろう。だが死ぬことが正しいなんて誰が思うだろう。死にたい人にとってはそうなのかも知れない。そんな心理状態に追い込まれるのはごめん被りたいか。この先も生きたい人にとってはそうなのだろう。問題を暴力で解決しようとすれば行き詰まるだけなのかも知れないが、その行き詰まりのただ中に利益の源泉があるのだとしたら、それをやり続けるしかないのだろうか。では人々を殺傷し続けることによって何がもたらされるのか。とりあえずその話題でしばらくは盛り上がれるか。それは漫画やアニメと同じことか。見る者の興味をつなぎ止めるために殺し合いを継続していたいのだが、それと同時に主人公やその仲間たちも生かし続けたい。現実の殺し合いでは、どちらかが一方的に生き残る状況は大量虐殺以外にあり得ないだろう。一般的に考えるなら、そこでは虐殺する側が悪いに決まっているはずなのだが、それらの舞台上では、いつも決まって生き残る側に正義があり、殺される側は常に悪となっている。悪い奴らが先に卑劣な攻撃を仕掛けて来て、正義を体現する側はその攻撃によって絶体絶命の危機に陥りながらも、それを乗り越えて最終的には勝利するというパターンになる。そんな物語がそこいら中に氾濫している。大量に売れている漫画雑誌の中身はほとんどそれだけかも知れない。人間の内部にある暴力的な闘争本能を常に活性化させておくためにそれら物語はあるわけか。そしてそんな環境に浸された状況下で、誰もが無意識のうちにその物語を変奏させたがっているのだろうか。それとも単にそれらは欲望のはけ口となっているだけか。人々はそれらを見たり読んだりすることによって暴力的な欲望を浄化させているのだろうか。しかしそんなものに依存して日々の生活を送っていては情けないとは思わないのだろうか。もちろん生活のすべてがそればかりではないのだろうが、一時的ではあっても、そんなものに心を奪われている自らが馬鹿らしく思われないだろうか。そういう人々とはまともに対話する気になれない。しかしそれと同時にまともな対話というものがどのようなものなのか想像できない。何がまともなのか。彼らがまともなら、それをまともでないと思っている者はまともでないわけか。多数決を取るならそういうことになるだろう。本当にそうであるなら、そんな状況下で何を述べてみても無駄なのではないか。そんなわけでまともでない者は口をつぐむ以外なさそうに思われる。


4月8日

 たぶん心ない人々にも心はあるのだろう。それはどんな心なのか。他人に誹謗中傷を浴びせることによって日頃の憂さを晴らす。必ずしもそれで憂さが晴れるとは限らないだろうが、それが心といえるだろうか。心無い人の心の中身はそのような行為によって明らかになるわけか。そんな心では気に入らないか。やはり他人に清らかな心を期待する人は多いだろうか。清らかな心とはどういうものだろう。例えばやさしさは清らかさと関係があるのだろうか。やさしさとはどのようなものだろう。他人を思いやることはやさしさの証か。では他人を思いやる心はどんなときに生まれてくるのだろう。自らの心に余裕があるときか。余裕とはどのようなところから生まれてくるのだろう。必ずしも経済的に豊かなら心も豊かというわけでもないだろうが、全体的にそんな傾向にあることを願っている人は多いだろうか。では豊かさを求める人はやさしくなろうとしているわけか。その求め方にもよるだろう。急激に豊かになろうとする人はどちらかといえば厳しくあろうとするか。だが豊かになろうとする過程においては誰もが心に余裕などなく、当然他人をだし抜いてでも豊かになりたいわけだから、酷薄なことを平気でやる傾向にあるだろうか。そんな心理的に余裕のない人などいくらでもいるだろう。だから他人を思いやる余裕のない人は多いわけか。それでもかまわないだろうか。実際にせわしない日々を送っているのなら、それも致し方ないところか。しかし忙しくても他人を誹謗中傷している暇はあるわけか。それとこれとは違うことだろうか。暇がなくても余裕のある人もいるし、暇があっても余裕のない人もいるだろう。他人のやっていることを思想信条的に許せない場合もあるだろう。だから許せない他人には嫌がらせをしたくなるわけか。それは浅はかな行ないだろうか。たぶんやっている当人は浅はかだとは思っていないのだろう。中には信念に基づいてやっている人もいるだろうし、やっていることが誹謗中傷だとは思っていない人もいるだろう。それが良い行ないだと勘違いしている人までいるのかも知れない。それらの言動は多くの人々に支持されているわけではないかも知れないが、時には多くの人々の間で否定的な感情が共感を呼ぶときもあるだろう。それらの心は今何を思っているのだろう。浅はかな人々を非難すべきではないのかも知れない。だがテロと戦う人々をどうやって援護すればいいのだろう。どんな言葉で擁護できるのか。彼らにとっては敵対する人間の命など大切でも重要でもないか。しかし人の心を踏みにじる者を虫けらのごとく殺す行為は肯定されるべきなのか。肯定したければそうすればいいのだろうか。命をかけてやる行為はその内容如何に関わらず賞賛されるべきなのか。それとこれとは違うことか。命の重みはその人に対する思いの強さによって違ってくるのだろうか。とりあえず戦争状態においては敵は命を奪う対象なのだろう。しかし何かを肯定したら、それと逆のことについては否定する必要がどこにあるのだろう。わかりづらいことはわかりづらいままにしておくべきなのか。別にわかりづらいわけでもないだろう。そしていつものように本気で語っているわけでもない。生きるか死ぬかの状況の中では、生き残るために何でもやることが賢明なやり方には違いない。我々はそんな状況を遠く離れたところからただ眺めている。考えてみれば馬鹿げた話だ。命の危険を犯してまで人助けに行く人を非難してみても始まらない。それをやりたいのだからやってもらうしかないだろう。そういう人達が危機に陥ったら、それを助ける立場の機関は助けてやればいいだけだろう。できる範囲内で努力してみればいいだけだ。そしてただの傍観者がそんなものに感情移入してみても始まらない。我々には他にやるべきことがある。実際に毎日それをやっているではないか。


4月7日

 たぶんそれはフィクションだろう。病院の集中治療室で機械によって生かされている者は、常に死の危機に瀕している。そのただ中で誰かは神を信じられなくなる。そこでの死は工業的な生産物か。そんなわけはないが、医療における技術革新が新たな死のスタイルを提供する。それらのどこに神は宿っているのだろう。機械の細部に宿っているわけか。そんなことを信じられるか。それを信じようと思うから信じられない。何もかも信じられないと思えば、何か他に信じられるものを見つけられるかも知れない。そうやって絶望の淵から生還を果たした者は神憑りになるわけか。だがそれでは神の存在は気休め以上の何なのか。何かの冗談かも知れない。しかしその程度の神なら人畜無害だろう。人生のすべてを神に頼る人々もいる。それは建前上のことか。まさか本気でそんなことを思っているわけか。それらの宗教は過ちを過ちとして認めることができない。そこでの過ちとは何なのか。宗教的な儀礼によって行動のすべてを制限されていることか。確かに建前上はそういうことになっているが、実際にやっていることは違う。大半の人々は普通の暮らしを送っているだけだ。だがそれなら行動のすべてが制限されているとはいえないのではないか。ならば宗教的な儀礼が過ちとはいえないだろう。儀礼そのものが過ちなのではない。日々繰り返す儀礼的な動作によって義務を果たしたと思うことが過ちなのだ。それだけでは何をやっていることにもならない。ありきたりなことを述べるなら、過ちを繰り返さないためには過去から学ばなければならない。過去の恨み辛みを切り捨てる勇気が必要か。未来を切り開くためには潔く引き下がる度量がなければならない。いったんは自らの負けを認め、そんな現状に妥協する余裕がなければならない。それができないのなら変わりようがない。揺るぎのない信念を後生大事に保持していることが足かせになっている場合もある。自らのスタイルにこだわり続けることが変革の機会を逃す原因となっている。そんな風に感じるのはなぜだろう。宗教が前面に押し出されること自体が間違っているのかも知れない。たぶん君は神など信じていないのだろう。だから頑なに神を信じ続けるイスラム教徒やユダヤ教徒の気持ちなどわかるわけがない。別に無神論者であっても何も困らない地域に暮らしているのだから、それは仕方のないことだろうか。もしかしたら人々はみな宗教から遠ざかるべきかも知れない。神を利用して自ら行為を正当化してはならない。では何をもって正当化すればいいのだろうか。論理的整合性だろうか。そんな逃げ方は卑怯か。では論理的に矛盾していれば何も正当化できないのか。何となく無理に正当化しなくてもいいような気がする。何を正当化しようとしていたのか忘れているのかも知れない。何を認めてほしいのだろうか。自らの敗北か。それはできることなら誰もが認めたくないものだろうか。いったい何に対して敗北したというのか。時間や日付に負けているわけか。たぶんそれだけでは負けとはならないかも知れない。ただ遅れているだけか。常に何かが欠けている。何も見いだせない自らを認めたくないのか。はたして植物人間は植物を愛しているだろうか。それは唐突でおかしな問いに思われる。実質的な自らの死を認めたくないわけか。その地域では誰が死につつあるのだろう。すでに彼らは死んでしまっているのかも知れない。心臓の停止を待ってすべての機械が止められる。もはや彼が何を思い何を考えていたのかわからなくなる。それは遠い日の出来事になるだろうか。君に送られてきたメッセージの内容を知るつもりはない。メールの中身を読めなくなってしまった。お前はまだ終わってはいないようだ。誰がそんなことを口走ったのか。これからやるべきことがあるらしい。君はまだ本気になれないようだ。半信半疑のまま眠ってしまう。眠っている間に何か夢を見たらしい。昨日の現実は今日の記憶を形作り、未来へと雨が降り注いでいる。そんな風に思わないか。


4月6日

 もうやめた方がいいのではないか。しかし何をやめればいいのだろうか。何をやめてもまた何かが始められてしまうだろう。そんなことを思う人もいる。世界は混乱の極みに達しようとしている。だがそれは今に始まったことではなく、いつもそうなのかも知れない。いつの時代にもそんなことを思う人はいるのかも知れない。この世界は神の失敗作だと思う。悲観的な意見を述べる人の皮肉はその程度か。ではその失敗を人間は生かすことができるだろうか。すでに生かしているのではないか。絶えず失敗は生かされ、それらの失敗を利用して人間はさらに遠くまで生きようとする。そうやって過去とは違った生き方を絶えず模索し続ける。今は他に語るべきことが見あたらないか。失敗の他に何を見ているわけでもない。ではこれ以上失敗について語るのが面倒なら、それを成功と言いくるめてもかまわないだろうか。しかし誰を相手に言いくるめる必要があるのか。失敗を成功と言いくるめることでどんな利益がもたらされるのだろう。その内容にもよるだろう。何が失敗で何が成功なのだろう。様々な思惑や行動が招いたそれらの状況について、ある立場の者は失敗だと非難し、別の立場の者は成功だと強弁する。そんなことが数限りなく繰り返され、事態はさらに混迷の度を深める。結局やっているのはそんなことばかりか。それらの行為は馬鹿げたことか。対立する互いの基準が違っているのは当然のことか。それ自体が失敗を物語っているのかも知れない。そうこうしているうちに、第三者を気取る野次馬が横から口を挟んでさらに込み入った状況になる。たぶん音を上げた者が負けなのかも知れない。もうやっていられないと弱音を吐いた者が先に脱落して行く。要するにそれらの争いは我慢比べなのか。中東では今我慢比べの真っ最中のようだ。そんなことをやっているうちに死者の数がいたずらに増えるばかりか。それでも何もやらないよりはマシなのだろうか。そうやっているうちに解決の糸口が自ずから見出されたりするわけか。そんな楽観的な雰囲気ではないか。お先真っ暗とはそういうことだろうか。こんな状況になることをいったい誰が見通していたのか。盲人は何も見えていないのにすべてお見通しか。失敗に至るあらゆる可能性が見えている。そしてあらゆる出来事に口を挟みたい者は、さらに言説を続けようとする。そのつまらない動作も今なお健在だ。失敗から学ぶべきことなどありはしないか。失敗はさらなる失敗を呼び込み、常に失敗し続けるだろう。それが成功するための秘訣かも知れない。失敗のただ中で生き続けられればそれは成功の証となる。この世界は至る所で不具合だらけの様相を呈している。様々な失敗が折り重なって現状を構成していて、そんな状況を認めよと迫ってくる。しかし何が迫ってくるのだろう。なぜ失敗を放置しなければならないのか。改善する努力を怠ってはならない。失敗のただ中にとどまっていてはならない。そこから抜け出るために試行錯誤をやり続けなければならない。しかしそれで成功するとは限らないだろう。常にやり続けているそれがどんな結果に至ろうと、そこであきらめてはならない。別に成功しようと失敗しようとどちらでもかまわないのか。やり続けている当人はできれば成功したいのだろう。通常の教育を受けて大人になった者ならそう思うだろう。しかしそれははたして成功なのか。別に失敗だと見なしてもかまわないのではないか。ある面では成功していて、別の面では失敗しているかも知れず、また他の観点で考えればどちらともいえないような気もしてくる。やはりそんなことはこの際どうでもいいことなのか。とりあえずやり続けていればそれでどうにかなっているのかも知れない。それらはそれでそういうことでしかない。それ以外に何があるというのか。君は大事なことを忘れているだろうか。いったい何について語っているのだろう。そこで行き止まりか。行き止まるわけがない。漫画ではないのだから解決などありはしないだろう。


4月5日

 この世には人が多すぎる。世の中に自由がないのはそのためだ。他人を押しのけなければ自分がやるべきことにたどり着けない。だがそれが幻想にすぎないことは誰もが知っている。他人と連帯することで妥協に慣れなければならない。生きて行きたいならとりあえずは妥協しなければならず、そしてそこから生じる不自由と共に生きていかなければならない。しかしそこから副作用も生じる。人々は思いをストレートに表現できず、屈折した感情を抱えながらも、それに耐えながら日々を送っている。たぶんそこでとどまっていてはだめなのだろう。そんな鬱屈した境遇を打ち破って自分を通さねばならない。矛盾をありのままに示さなければ、何をやっていることにもならない。なぜそんな風に思うのだろう。それらはすべてありのままにしかあり得ないのだ。現実はフィクションを超えている。名探偵は現実の事件に巡り会うことはない。フィクションの中の登場人物である限りにおいて、それは原理的に不可能だ。だからフィクションでは同じことが繰り返されると退屈になる。では退屈を紛らすために名探偵は何をしているのか。自らでは何もできずにただ文字や映像の表面に塗り込まれるだけか。そんな言葉を連ねていくうちに語彙が貧困になる。言葉は連ねるものではなく重ねるものか。どちらでもかまわないが、連ねたり重ねたりして、君はそこにどんな効果を期待しているのか。とりあえずフィクションの中にいる限り、人知を越えた出来事に遇うことは滅多にない。そもそもフィクションは人知によって構成されているのだからそれは仕方のないことか。しかし他の誰かはそうは思わない。中にはフィクションが人知を構成している場合もあるはずだ。その場合、フィクションが存在すること自体が人知を越えた出来事なのか。しかしそんな風に思われるフィクションがどこにあるというのか。君はフィクションの中に何を求めているのだろうか。例えば君は大衆には媚びないが、誰かにしてみれば、この世界に大衆が存在しているとは思えない。だから存在しない大衆に媚びない君の姿勢は始めから無効だろう。これでお前も終わりだ。お前の何が終わりなのか。お前とは誰なのか。君がお前であるはずがない。唐突にそれらの台詞はおかしいか。いったいどこからそんな台詞が導き出されるのか。話の前後の関係を無視している。たぶんそれがフィクションの現実性なのかも知れない。だが君にとっては何が現実性なのかよくわからないが、その訳知り顔はやめてほしい。知ったかぶって、大衆こそがフィクションから生成された概念だ、なんてありふれたことを述べていていいのか。誰がそんなことを述べているのだろう。またわけがわからなくなり、つまらなく思えてくる。それの何がつまらないのだろう。ではそれの何がおもしろいのか。結果的にはおもしろくなっていることを信じているのは誰だろう。では君はこの期に及んで何を信じればいいのか。時として信じることは狂うことのつながるかも知れないが、そんな状況の中で特定の思想信条を狂信する人々は何を思うのだろう。狂信者にとってそれらの現象は子供だましに見えるか。子供は親から虐待されて絶滅してしまえばいいわけか。そんなことを述べているわけではない。負け惜しみを述べるなら、この世界に公正な競争などあり得ない。競争から除外され、厄介払いされた人々がその分野の開拓者になるだろう。しかし何が公正なのか公正さのかけらもない君にわかるのか。いったい誰が公正だと決めるのか。公正さの基準はどこにあるのだろうか。具体的に何について述べているのかを特定しなければ、またもやそれは言葉遊びの範囲内になってしまう。たぶんいつものように何を述べているのでもない。見聞したことを曲解すべきではないらしい。見えてくるものは見たままに判断すべきか。だがそうしたからといってそれがどうなるわけでもない。たぶんそれらはいつものように意味不明になるだけか。ただそうなりたいだけのようだ。


4月4日

 風に煽られて木の葉が適当に舞うが、別に趣向を凝らしているわけではない。払い除けられた思いを復活させるつもりはない。誰もがよみがえる記憶をゴミ箱にぶち込んで冷静な振りをする。君はすべてを知っているわけではない。風の強い日にはちぎれ雲が足早に空を横切る。懐かしさを醸し出しているのは風景ではない。夜に何を思っているのだろう。過去を思い出しているのは近所で吠えている犬か。それも一つの技巧だろうか。思考する対象がてんでんばらばらかも知れない。苦労して思いついたのはそんな台詞か。君はそれを否定したいわけか。君と彼とでは思考力に差がある。それに優劣をつけたいわけではないが、あまりにも安易に結論が導き出されては嘘になる。しかし君はその嘘を信じた振りをしている。何一つ確証を得られないとき、人は何を信じるだろうか。忘れかけていた十年前の記憶か。この十年で何が変わったのだろうか。意識はより深く考えることをためらっているようだ。何も変わりはしないなんて思わないか。あえて嘘をつく気にはなれない。たぶん君にとっては適当な未来がやってきたのかも知れない。今さらエキセントリックなアジテーションをする気はない。煽動者たちは続々と退場しつつある。笛吹けども誰も踊らない世の中になってほしいか。人々にそれほどの理性があるとは思えないか。踊る者がいなければ、それを利用して利益を得ることはできない。なぜ君たちは踊らないのか。バブル絶頂期に踊り疲れてしまった者もいるだろうし、今さら踊っても馬鹿に見られるだけかも知れない。何よりもそこから利益を得ようとする魂胆が許せないか。そんな馬鹿げたことに命がけにはなれないか。実際にそれで命を落とした者もいるらしい。ゲームにはある程度の参加者が欠かせない。だから今でも必死になって参加者を募っているわけか。しかし目先のごまかしは効かないだろう。それで人が集まってしまったら、今までの経緯は何だったのかということになってしまう。だからもう人々を愚かにするだけのアジテーションは要らないだろう。だがそれは具体的にどのようなアジテーションなのか。それに関してはいつものように何も述べられない。今こそ民衆は立ち上がるべきなのだ。立ち上がってどうするのか。その先が見えてこないが、立ち上がったら国旗に向かって敬礼して、わざとらしい伴奏に合わせて国歌の斉唱でもしていればいいのだろうか。それはどこかの教職員がすることか。やる必要のないことまで無理にやる必要はないか。それでも儀礼的な要素をすべて払い除けるわけにはいかない。本当に民衆が立ち上がったのは、フランス革命か何かの折りだったかも知れないが、今ではイスラム過激派が反米武装闘争に立ち上がっているはずか。何も彼らの真似をしろというのではなく、とりあえず君たちは立ち上がったら、そのまま椅子に腰掛けてテレビでも見ていればいいだろう。だが馬鹿になってどうするのだろう。自分が馬鹿でないと確信している者は愚かだ。馬鹿も愚かも似たようなものかも知れないが、とりあえず馬鹿が気に入らなければ愚かになればいい。利口な振りをするのが愚かになる近道かも知れない。しかし無知になってはいけない。無知を装えばソクラテスになれるか。結局馬鹿も愚かも無知も似たようなものか。言葉遊びの範囲内ではそうかも知れない。しかしここではそれ以外を知らない。だからそれらの言葉を真に受けることはできないし、あまり本気にはなれない。そうやって無理にはぐらかそうとする。偽りの流れの中に誘い込もうとしている。だがそこへ誰が誘い込まれているのか。誰が砂漠の砂に埋もれたいのか。地球は温暖化すれば砂漠が拡大するそうだ。今はそんな話をしているわけではない。沈み込んでいくのは砂漠ではなく泥沼か。にっちもさっちもいかないのはいつものことか。そうではなく、絶えずそうではないと思いたいだけか。どうも話の中身はそれとは違うようだ。君は冷静な振りをしているだけで、それ以外には何の振りもしていない。それ以外は何も述べようとしない。


4月3日

 まだ何かが足りないようだ。冒頭で迷い続け、いつまで経ってもその先へ進めない。いい加減にしてほしいか。そう簡単に心を入れ替えられるわけもなく、性懲りもなく語り始める。退屈を紛らすためにその辺を行ったり来たりしている。気がつくと逡巡を繰り返している。そして逡巡の果てに眠気を催す時間帯にたどり着き、物語的にはどこからともなく怪しげな影が忍び寄るが、やはりその影には実体が伴わない。意識は幻想を追い求め、それに飽きたら眠りにつく。なぜそんな結末に納得できるだろう。それは結末ではなく始まりだろう。そうやってどこへも至らずにどこまでもずれてゆくようだ。そしていつものように意味不明を呼び込み、そんな状況に甘えながら、影は何やらわけのわからぬことを述べている。たぶんそれは過ぎ去った昔のことだろう。今では影も遙か彼方へ遠ざかり、辺り一面はすべて闇に覆われている。光はどこにあるのか。影は頭上から蛍光灯に照らされている事実を無視している。意識の中は空想の雲に覆われ、それを追い払う風を求めている。しかし東風が吹くと寒くなる。寒くなると眠くなるようだが、眠れない夜に君は何を思う。要するに寒くないということか。もう春なのか。しかし春眠暁を覚えずとはいかないようだ。寝過ごす必然性に欠けている。寝過ごすだけの気力が足りないのか。しかし少し休んで何を思いついたのか。別にそれで憂鬱を近づけているわけではない。孤独を感じているのは君ではないはずか。皮肉屋は皮肉な台詞で身を滅ぼす。皮肉な結末に殉じるわけか。言葉に殉じてどうするのだろう。殉じた跡には何も残らない。痕跡を残したいなら言葉に逃げていないで断固現実と戦うべきか。しかし彼らは平和のことなど考えない。世界中が平和になるわけではない。平和のただ中から戦場へ向けて戦闘命令を発しているだけか。彼らの言い分によると、とりあえず平和を求めて断固戦うべきらしい。そしてまだ戦っている最中なのだから、平和までの道のりはまだ遠い。ではいったい誰に哀れみの言葉を投げかければいいのか。自らが過ちを犯したなんて死ぬまで気づかないだろう。少しは理性を意識している君は、気づかないふりをしているだけか。実際に何に気づいているのだろう。そんな状況下での思惑は人それぞれで違うだろうか。それらの思惑の中から何を優先させるべきかを検討中か。誰も検討などしない。検討に値することはすでに検討されている。例えば休眠中の意識はどんな夢を見ているのだろう。耳はまっすぐな音を感じる。しかし対話には至らないようだ。死んだ人間は忘れ去られることを望んでいる。君は幽霊の気持ちがわかるのか。そんなことを真剣に考えてはならないか。では君は何について語っているのだろう。誰もそこへ入り込めない。再生への願いは無惨に打ち砕かれ、すべては灰燼に帰すだろう。すべては燃焼し尽くすべきなのか。それが火葬場の役割なのだから仕方ない。中途半端な生焼け状態ではあの世へ旅立てないのだろう。骸骨に開いた眼窩の穴の中に空想される遠くを見つめるまなざしには、何も映っていないことを願う。死人がそれらの風景を眺めてはいけないのか。まだ意識は完全には戻ってこないので、戸惑いを隠せない影は、そこからどうやって帰ってくればいいのかわからなくなる。戻り道はすでに閉じられ、歩むべき道も知らず、ただあてどなく彷徨うばかりか。もちろん君はそんな結末には納得しないだろう。まだ結末には至っていないはずか。いつも何かの途中だと思いたい。手遅れになる前に手遅れになってもかまわないと思い、手遅れになることを願い、そうなった後から焦って右往左往する自らを眺めて楽しむ。しかしそれらの風景は何を物語っているのだろうか。古い箪笥の中に仕舞われていた色あせた写真は何も語らないが、君とは別人の誰かが、忘却の彼方で興味深い色彩を発見したつもりになって騒いでいるようだ。過去の時空でどんな風景に出会ったのか。別に命がけで何かを成し遂げようとしていたわけではない。今ではもうそんな風景は忘れてしまった。


4月2日

 重心が中心からずれている。吾輩は猫である。猫であるはずがないだろう。では猫はどこへ行ったのだろう。猫ではない者が何かを考えているようだ。しかし誰が何を考えていようと、猫にとってはどうでもいいことか。戸惑いと迷いを同時に感じているかも知れない。醜い傷つけ合いや怒りがどこから生まれてくるというのか。血と汗と涙を求める者の下にも適当な未来が到来するだろう。勝利者になるには何が必要なのだろうか。月並みな応援が必要か。自己満足に浸るためにオリンピックがあるのだろうか。君たちはチャンスをつかまなければならない。偶然の巡り合わせに期待しているのか。望んでいるものはそれとは違う。タフガイを気取りたいのなら、時代遅れのハードボイルド小説でも読んでいればいいか。拍手喝采を浴びせられているのは誰だろう。思いつかない筋書きが宙に舞っている。日本にはその他の国と同様に刑務所と呼ばれる強制収容所があり、そこでは日々強制労働や拷問が繰り返されている。拷問の中でも一番むごたらしいのは絞首刑であり、その拷問に耐えて生きて刑務所から出てきた者は誰一人いない。今のところは強制収容所なしで国家体制を維持している国はないかも知れないが、やはりそれなしで国家は成り立たないのだろうか。君をつかんで離さないのはいかなる欲望だろうか。主義主張なんてくそ食らえ!と誰が叫んでいるわけでもないが、失うものなど何もないのに何を保持しようとしているのだろう。黒い丘の頂上から天使が舞い降りてくる。権力の座とはどんな椅子なのか。誰かが空想したいのは煌びやかな玉座あたりになるだろうか。だがそこには誰も座っていない。それは博物館にでも飾られている玉座かも知れない。その丘の頂上までたどり着いたのは誰なのか。君はそれが虚しい夢だと思いたくない。茶番劇が演じられているのはテレビ画面の向こう側か。夕闇が辺りを覆う頃、虚しい夢を追い求めている人物がそれを演じている。それ以外に何を説明すればいいのだろう。多くの人が死んで人知れず土に還る。肥沃な大地を維持するためには生け贄が必要か。それが何の断片なのか詮索しない方が身のためだ。それらは工事中の高架から落ちて死んだ者を供養している。君たちはそれでも原子力を利用したい。それとこれとは関係ないか。部屋に飾られた夥しい数のトロフィーを背景にしてにこやかに微笑んでいる者の肩に手がかかる。心霊写真にでもなりうるだろうか。別に蛇に絡まれているわけでもない。ではソドムとゴモラは何を暗示しているのか。割られた窓ガラスをかき集めて手が血だらけになる。本当にそんなことをやっているわけではない。やっているのは言葉を連ねて文章を紡ぎ出すことか。しかしそこにはすでに答えが提示されている。今さらお前が何をやっても無駄だ。では無駄なことをやってはいけないのだろうか。強制収容施設は他にもあるだろうか。義務教育で使われる小学校や中学校のことを言いたいわけか。そこでは無理矢理何が教えられているのだろうか。あなた方は何を教えようとしているのか。君が教えることは何もないか。公園には平和の象徴である鳩がいるかも知れないが、鳩は銅像の頭や肩に糞を垂らすことによって、平和を愛する人々に何を教えようとしているのか。自然の力は偉大だということを知らしめたいわけか。汗を流して働いてチャンスをつかんで成り上がりたい者にも教えなければならないことがあるだろうか。無理だとは思うがほどほどにしてもらいたいか。みながそれをやってしまうと正気の沙汰でなくなるか。権威と栄光を獲得するために日夜努力する者たちの下にも適当な未来が訪れるだろう。それ以上は何も述べられないか。しかしそれでは予言者にはなり得ないか。伝道者は何を伝道すべきか迷っている。きっと彼らは教えなど請わないだろう。その代わりに夢がある。自らの欲望を叶えるために精一杯の努力をしている最中だ。だが君には何もない。何もないのに何を教えるつもりだったのか。


4月1日

 それで窮地を脱したつもりか。どうやらまだ時間はありそうだ。それは嘘かも知れないが、何か趣旨をはき違えているだろうか。無論この際それはどうでもいいことかも知れない。どんなに言葉を弄してみても、何を述べているのでもない状況に変化をもたらせないか。依然として心を覆う空虚を打ち破れないでいるように感じられるが、何をもって空虚と定義しているかは知らない。何となくそんな言葉を使って、何もないことを示そうとしているだけか。別にそれを肯定しているわけでもない。少しはマシなことを述べようと努力しているようだが、そんな努力は無視されているようだ。もうすでに手遅れになってしまっているのだろうか。しかしもはや手遅れになろうとしているさなかに、まだ何も始まっていないかのように装うのはやめにしよう。その状態が手遅れなら手遅れのままでもかまわないだろう。とりあえず何かしら述べていれば、いつかは何か気の利いたことを思いつくだろう。それは何かの冗談だろうか。だがこのままどこかへ逃げ出したい衝動に駆られているわけでもないだろう。一見本気でないように装いながらも、絶えずつけいる隙を探しているのかも知れない。しかし過ちを犯すのはいつものことか。それが過ちだったら儲けものか。それらの行為の大半は過ちにさえなっていないのかも知れない。何もやっていないと同じようなら何もやらない方がいいのか。意識はそんなわけないと思いたいようだ。だが何かしらやり続けることが生きている証だなんて思いたくない。無駄なことは無駄なことでしかないだろう。ではいくら嘘をついても無駄か。無駄だが、無駄であってもかまわないか。しかしかまわないとは、一応はそれを肯定していることになるのだろうか。別に肯定することになってもかまわないか。何となくそのかまわないには、どうでもいいという意味が込められているのかも知れない。しかしそれではまたいつものパターンをなぞっているだけか。それでは何か不満なのか。不満ならその言説をどんな状態に発展させれば満足できるようになるだろうか。それは現状では無理かも知れない。発展しようがない状況が飽きもせず繰り返されている。そんな意味のないことがいつまでも続けられている状況では、それ以上いくら言葉をつなげてみても、そこから離陸できずにただ下方でうごめくことしかできないだろう。実際に同じような言い回しの中で闇雲に言葉が繰り出されている。何かが意識の中で暴走しているのだろうか。そんな風に思われるのはどうしてなのか。要するに疲れていて、疲労が何かのスイッチとして働き、そのような状態を許しているわけか。何を述べているのかわかりかねる。何となく雰囲気的にはそんな感じがしないでもないが、それが具体的にどういうことなのか、その状態に適合する言葉を思いつかない。しかしそれ以上にその先へ行きたいという思いが募ってくるようだ。それらの行為がどんな結末を迎えるのか興味があり、そんな興味に引きずられながら、意識はさらなる空虚をもたらそうとしている。だからそれを見届けるためにもここでやめるわけにはいかないわけか。しかし確かめなければならないことは他にもありそうな気がする。毎度のことながらいったい君は何を述べているのだろうか。何を述べているのか、はたしてそれを言葉で説明できるだろうか。ここでどう説明するつもりなのか。今君は何を説明しつつあるのか。それは何か得体の知れないことでもないだろう。それらの過ちについて、やりすぎた継続の内容を何らかの形でなぞっているはずだ。特定の言葉の連なりを繰り返し記述し続け、それによってそれらの雰囲気を伝えようと試みているようだが、そしてそんな思い込みを否定したい衝動に駆られている。絶えずそうではないと思っていたい。抽象的な言葉の構成を拒否してみたいと思っている。たぶんそれらの言説を拒否した先に何かがあるような気がするのだろうが、今のところそれは、今まで抱いていた幻想を超えるものとはなっていないようだ。