彼の声35

2003年

3月31日

 誰かが夜明け前に何か適当なことを述べようとしている。だがそれを聞いているつもりはない。寝不足なのでまだ寝ていたいところだ。夜更かしは健康のためにもよくないのでいい加減にやめてほしいが、なぜそれほどまでに語りたいのだろうか。しかし説得力のあることを語りたいわけではないらしく、単なる無駄話の一種になるだろうか。たまには荒唐無稽なこと口走ってみたくなるのかもしれない。それが荒唐無稽になるかどうかは、実際にやってみなければわからないところかもしれないが、別の場所ではそれはたまにはではなく、いつもそうなのかもしれない。ところで力の論理とは何だろう。時には力の論理が勝利してもかまわないのだろうか。力の論理を振りかざす者と競争したいとは思わないが、競争自体が力の論理なのか。力とは何だろう。力は競争に打ち勝つための鍛錬から生まれてくるとでもいうのか。競争があって勝ち負けが伴わないと、和解の精神は生まれてこないか。実際に争いごとがあって初めてそれを収めるための和解が必要とされるのか。誰かにとってはそんなことなどどうでもいいことかもしれないが、和解とは争いごとと連動する形でしか顕在化しないものなのか。確かに争いがなければ和解する必要はない。また他人と同じことをやろうと思わなければ競争も生まれない。競争をしたい者は何かにつけ自らの行動を競争に結びつけたがる。世の中のすべてが競争だとは思わないが、競争を肯定したがる者は大勢いるだろう。それが公正だと思われている限り、その競争は肯定されなければならない。この世界では生ける者は生存競争を繰り広げ、死する者はいかに死ぬか死ぬための競争を繰り広げている。それらの競争は、自らの勝利を他人の脳裡深くに刻み込みたい一心でやっていることなのか。それが栄光としていつまでも何らかの記憶として残ることを望んでいるわけか。だがそれでどうなるなのだろうか。それが勝利したという証なのか。要するに自らの勝利を誰もが認めてほしいということか。ところで君はいったい何を述べているのか。なぜ競争を否定的なニュアンスを込めて語るのか。


3月30日

 今日も疑問は尽きることを知らぬようだ。この世界に何を求めるべきなのか。今さら求めるものなど何もないと思っているのか。求めても得られないことが多すぎるだろうか。やはりそれは無い物ねだりということか。はたしてこの世界に公正さや公平性を設けられるだろうか。いったい何を基準としてそれを設定すればいいのか。そんなものを求めようとすること自体、かなり安易な無い物ねだりなのか。だが多くの人々にとっては、あらかじめ何らかの基準やら指針が示されていて、それに従って行動するように教育されてきた経緯があるはずだ。今もほとんどの人たちはそんな風にして生きているつもりなのだろう。それが存在していることが前提としてこの社会は成り立っているのかもしれない。何らかの規範があるように感じられて、大部分の人がその規範に拘束されていないと困るということか。いったい誰が困るのかといえば、それに拘束されている大部分の人が困ってしまう。それはまるで自己言及パラドックスのようなものか。自分達には守るべきルールがあると大勢の人々が思い込むことで、そのルールが存在していることになり、そこで初めてルールが有効に機能し始める。何らかの前提が元からあるのではなく、その前提があると思い込むことでその思い込みを多くの人々が支え合う。そうやって退屈で安定した社会を形成してきたのだろう。いったんそれを知ってしまうと、不快なそこから逸脱したい衝動に駆られる。逸脱したい者たちは自由を求めているのかもしれない。そこでの自由には否定的な意味合いが生じている。ネガティヴな自由には反抗期の若者が同調するかもしれない。だが今やそんな自由も退屈で紋切り型なようにに感じられる。求めているのはそんなことではないようだ。自らが何を求めているのか知り得ないのだろうか。君は何を迷っているのだろう。迷い続けることを求めているわけではないような気がしているが、なぜ迷っているのか、その答えに到達できないでいるらしい。


3月29日

 君はそれを知っている。確かに知っていることは知っているつもりのようだが、知らないことはいくらでもある。ところで君はこの世界について何を知っているのか。知っていることと知らないことについて、それらをどうやって分けることができようか。知らないことはどこまでも知らないだろうか。それについてある程度の知識を持ち合わせているようだ。君はそれを少しは知っているつもりらしい。この大地に掟などというものが存在するだろうか。だが栄える者はやがて衰退するのだろうか。それがなぜ衰退期に入っていると判断されるのか。いったいいつ絶頂期を通過したのだろう。そんなことを君が知るはずもないか。誰からも見向きもされない場所から何をどう語ればいいのだろう。今は何も語る必要は感じていないようだ。だからそれについてあまりはっきりとは表現されないのか。だがそれでも疲れを知らぬ無意識はまだその先を求めているらしい。その先の未知の領域まで踏破せよと誰かの意識をせき立てている。意識は戸惑うばかりのようだ。この大地のどこにそんな場所があるのか。それはあらかじめ存在する場所ではなく、これから形成されつつある場所かもしれない。大地は絶えず変化し続け、その運動は片時も休むことを知らぬ。これから形成されるであろう未知の領域まで行かなければならないのか。だがそこへ行ってどうするのか。行くことが目的であり、行ってからどうするかは考慮に入っていないということか。そこまで辿り着いたらそれがわかるという仕組みなのか。今この時点ではそんなことまではわかりようがないのかもしれない。冒険は冒険することが目的なのであって、宝探しなどとは根本的に異なるだろう。何かのための冒険は冒険とはいえない。だがそんな冒険がかつて存在しただろうか。多くの場合、それが行われるためには何らかの口実が必要だったはずだ。当初は何らかの目的が必ず設定されていたはずだが、旅の途中でしだいにそれが見失われていってしまい、なぜ旅をしているのかわからなくなってくる。たぶんそこからが冒険の始まりなのかもしれない。


3月28日

 空虚な思いはどこまでも空虚だ。その状況をどのように言い表したらいいものか、適当な言葉が見つからずに悩んでいるようだ。誰かの意識が闇の中でもがき苦しんでいる。だがそんな表現ではやる気が出ない。何か物足りないような気がする。だがそれ以外に適当な台詞が思い浮かばずに、その先へ言葉が進まないが、それでも時間は淡々と経過してゆく。そんな遅々として進まぬ作業に業を煮やして、ついには自分に対して怒りが爆発したりするだろうか。そこで囚われの身となってしまったのは誰なのか。どこかで誰かが拉致されたわけもなく、勝手に空虚の虜になってしまった者がいるのかもしれない。君は始めからそんな状況を求めていたのではなかった。ぎくしゃくした言葉の連なりにはうんざりするばかりだ。もう少しスマートなつながりにならないものだろうか。それでも夜は夜のままに推移して朝になるだろう。そんなことはどうでもいいことだ。誰も求めていなかった状況を前にして、君はたじろいでいるわけか。そうならないために思考を巡らし、何もない空間を豊かな台詞で満たそうとしていたのに、結果はそれとは正反対になってしまっている。それは嘘かもしれないが、完全に嘘というわけではなく、嘘に近い真実もいくぶん含んでいるか。そのわずかに見え隠れしている真実が、退屈な日常の出来事になるだろうか。気温の急激な変動に負けて風邪を引いてしまったらしい。だから風邪のせいでやる気が出ないということにしおこう。咳が止まらずになかなか寝つけない。しかし深夜に目が覚めるのはいつものことか。いったい誰が囚われの身となってしまったのだろう。いつもの紋切り型に従えば、それは誰でもない誰かになるらしい。そうやって飽きもせず同じことを繰り返しているのは誰なのか。それはつまらない逡巡になってしまう。今さらそれをためらうことはないできないはずだ。それが不快なら何か別のことをやってみればいい。今はその別のやり方が見つからない。戦争反対の意思表示をするのはたやすいことだ。しかしその戦争が終われば、またもやアメリカ依存を繰り返すのか。だがそれは戦争反対を唱える自らを裏切ることにならないだろうか。そんなことは分かり切ったことだが、誰もがそうせざるを得ない状況に追い込まれてしまうのだろうか。自らの都合に合わせて自らの立場を適当に使い分けていればそれでいいのかもしれない。アメリカの方でもそういう人々を歓迎しているようだ。自分達に直接の危害を加えない限り、いくらでも戦争反対を唱えていればいいのだろう。


3月27日

 なぜか君は苛立ちを隠せない。たまにはそんなこともあるだろう。確かに出だしは思いの外快調だったかもしれないが、途中で躓き、そこから先はのろのろ運転が続いているようだ。しかし焦ることはない。そのうち適当な台詞を思いついて、停滞から抜け出せるだろう。今朝は著しく魅力を欠いているかもしれない。何かひねりの利いた文句がないものか。それは何らかの比喩的な表現のつもりか。わからないがもう夜になってしまっている。何事もなかったかのようにただ日常が推移してゆくだけだ。その退屈な日常に夢の中で忘れた無駄な思いはどんな風に反映されるのだろう。いったいどこに反映されたらいいのかわからない。例えばそれはどんなことなのか。そこでどんな状況が生じていると思われるのか。何か奇怪な現象を目の当たりにしているわけではないだろう。それどころかそれは起こるべくして起こった当たり前の現象にすぎない。おそらくそんな環境の中にいる者たちが場違いなのだろう。人々は砂嵐の中で行進している。それを見ているのは真夜中の部屋の中だ。場違いなのは寝ぼけ眼で画面を眺めている者の方かもしれない。今さら誰が何を見てもどうなるものでもない。見ることのできる場面は限られている。そんな場面の中で、子供たちは子供たちを救いたいようだが、大人たちは面倒なので子供の相手などしていられない。薄気味悪い笑みを浮かべたまま人殺しに関与することしかできない。それが彼の任務なのだから、それを忠実に実行する以外にやりようはない。そこで仕事以外の倫理観を持ち出すのは筋違いかもしれない。ここではたぶん平和なのであり、確かに平和なのだ。誰のおかげで平和なのか知らないが、恩着せがましい台詞は無視するだけだ。好きで平和な状況の中にいるわけではない。平和も平和なりに、その平和の中で我慢しなければならないことばかりだ。その平和のためにうんざりするようなことばかりに出くわしている。何よりも戦災孤児には自由がある。今アメリカがもたらそうとしている自由とは、様々なしがらみでがんじがらめの社会が破壊された後に感じる自由なのかもしれない。もちろんその自由は平和を享受している今のアメリカや日本にはない自由だ。確かに平和な社会を武力によって破壊すれば、つかの間の何もない自由がもたらされるだろう。そして自由に飽きたらそこから不自由というしがらみを構築するだけか。


3月26日

 明日に思い出されるのはいつの出来事なのか。そのとき彼は何を焦っているのだろうか。最近はあまり説得力のあることは語っていないように思われる。最近の言動には投げやりな雰囲気が感じられる。そう思わされることが多い。しかし誰がそう思っているのだろう。別に心配しているわけではない。誰も心配したりしないだろう。誰かの意識がそう思い、そのことについて、他の誰かは心配するほどのことでもないと思う。誰が何を思おうと、とりあえずそこで何かをやり遂げようとしている。やり遂げなければならぬという思いのようだが、意識は虚空のただ中に漂っているだけなのか。終わりも始まりもない世界で、感情は偶然に左右されるしかない。そしてどこまで行っても際限がないように思われる。ついさっき感じたことが、遙か昔の記憶から呼び起こされたような気になるだろう。すべては過去の出来事に結びついているような錯覚に陥っているかもしれない。それは錯覚ではなく、時間の連続を意識する者にとっては、その方が都合がいいのかもしれない。仮にそうだとしたらどうなのだろう。そんなことがわかるはずもないか。それは仮の話ではなく、現実に感じていることなのかもしれない。現実に感じているのは夢の中の話なのか。物語の中では夢から覚めることなどあり得ないだろう。そして眠りの国では他愛のない話に花を咲かせている。たぶん彼らにとってはそこが出発点なのであり、同時に終着点なのだ。だがそこから横道に逸れてはいけない。そこに留まり続けない限り、救いの時は永遠にやってこないだろう。だが中には絵本を閉じて現実に向き合う人もいるらしい。現実に向き合ってそれからどうなるのか。どうなるわけでもなく、そうなったり、ああなったりするのだろう。あるいはそこから何らかの対応が生まれるのかもしれない。彼にとって間違ってもあり得ないことは、対話によって問題を解決しようとする姿勢かもしれない。対話の目的は問題を解決させることではなく、対話を継続させることなのだ。対話は対話することによって続いてゆく。そこに問題などあるはずもない。対話は憩いの時を演出するための道具にすぎない。対話が途絶えた時は対話することに飽きた時だ。では対話に飽きたら何をすればいいのだろう。どこかの国のように戦争するのも一つの答えかもしれないが、ここでの答えはかなり簡単なことだ。対話に飽きたら黙ればいい、そして黙っているのに飽きたら、対話をまた再開すればいい。他にやることがなければそれを繰り返すことになる。


3月25日

 極端な環境から定常空間へ向かって様々な情報が流入してきている。そこで空虚な意識に強引な情報操作を施してみると、何か利いた風な言葉の連なりが形成されつつある。いったいそこで何をやっていたのだろう。何かの途中で眠ってしまい、気がついたら満月の明かりに照らされていた。君はどこかの店の視聴ブースで何を聴いていたのだろうか。気まぐれにヘッドホンをかけてそれを聴いてみると、それはまるで軋み続けるレールと車輪の音を聞いているようだった。しかしそんな表現が何を物語っているというのか。それからしばらくして、耐えられないような雑音に紛れて、乾いたソプラノがかすかに聞こえてくる。誰が歌っているのだろうか。何か聞き覚えのあるような旋律だが、それがどうしたわけでもない。ただそんな風に聞こえているだけかもしれない。たぶんそれは嘘だろう。確かにそれは嘘かもしれないが、ことによると嘘ではないかもしれない。昨日の出来事なのに、すでに思い出せないこともある。昨日はそんなことを思っているうちに、しだいに全身から力が抜けるような気分になり、しばらくそこから動けなくなる。画面上では必死になって何かに耐えているようだったが、その男はたまらず画面の中のテレビ画面へ目を走らせてしまう。ついさっきまで、そこは血反吐を吐くような状況とは無縁だったはずだ。実際に今も無縁だろう。しかし渦状の風の中心から何かが飛び出して、それが男の脳天を直撃してしまう。いつものようにそこでコマーシャルか。たまらずチャンネルを切り替える。しばらく何かに見とれていたらしい。そのとき思いついたのはそんなくだらぬ情景描写だったかもしれない。だがそれがどうしたというのだろう。それがどうしたわけでもないが、気まぐれでそんな文章を思いついて、気休めにそれを実行してみる。スナック菓子をのどに詰まらせて老人が亡くなる。昔そんなニュースを見た記憶がある。目にゴミが入って鬱陶しい時間をしばらく過ごす。そうこうしているうちに、テレビの中の物語は唐突に終わりを迎えていた。年度末なのでそんな出来事が多発しているようだ。それを多発と表現するのはおかしいだろうか。しかし君が愉快な気分になれるのはいつの日になるのだろう。そこからどこへ行けばそんな気分になれるのか。だがそれは冒険とは無縁の散歩にしかならない。いったいどこで誰が散歩を繰り返す必要があるだろうか。


3月24日

 相変わらず何か魅力を感じられる機会が訪れるのを待っているらしい。彼が何を求めているのか誰も知らない。過去への幻想は未来において再現されることがあるだろうか。今は過去を振り返る時ではないらしい。何がそれらの言葉を導き出すきっかけとなっているのだろうか。過去の言葉はどうにでも解釈可能なのか。過去が再現されたら何か不都合なことでもあるのだろうか。これから何を語り出すかは不明だが、そんなことを語ってみたところで、この世界がどうなるものでもないだろう。近頃はつまらないことを語るのにもだいぶ慣れてきたのかもしれない。例えば同じ歴史が繰り返されたら、懐かしさがこみ上げてきて安心したりするだろうか。あり得ないことをそうなるかもしれないこととして語ってもむなしいばかりか。しかし彼らはそこからそれなりに長い物語を作り上げた。だがそれは相対的に長い話だ。短い話と比較すればとりあえず長く感じられる。その長い話にもいつかは終わりの時が訪れ、今はその終わりを懐かしんでいる。あの時はどうだったと昔話に花を咲かせる時が必ず訪れるだろう。だから何とか一刻も早く区切りをつけたいのだろう。早くいつもの世界に戻ってほしいと願う者たちが後を絶たない。はたしてそのいつもの世界は過去にあるのだろうか。確かに混乱が短期間で収束するという希望的観測には魅力がある。その通りになったらいつもの世界が戻って来るという確信がある。第一次世界大戦当時のヨーロッパでは戦争はすぐ終わるだろうと思われていたが、それが一応の終わりを迎えるのに数年を要した。当時と今では状況が明らかに異なる。双方の軍事力には圧倒的な差があるのに、どうやって長引かせることが可能だろうか。今後何か思いもよらぬ不測の事態でも勃発しない限り、それは無理ということになるだろうか。戦争が長かったり短かったりするのとは違うところで、もしかしたらいつもの世界が永久に戻ってこないような事態が引き起こされるかもしれない。そんな事件が誰にも気づかれずに密かに進行中であったらおもしろい。彼はそんな妄想を抱いているようだ。


3月23日

 時間とともに刻々と変化するそれが魅力的な風景といえるだろうか。今君が思い描いているのはどんな未来なのか。それは未来ではなく、過去から生じた妄想だろうか。朝日に照らされながら、何か適当に言葉を連ねようとしているらしいが、そこでは不用意に不正確な言葉遣いが多用されている。たぶんわざとそうしているのかもしれないが、それ以外にやりようがないのはいつものことなのか。年がら年中そんなことをやっているわけではないのかもしれないが、とりあえずそこから遠ざかりつつある。誰もが失われた過去に魅力を感じる。過去の欠落を埋めようとする考古学的な試みに没頭したい人々は大勢いるだろう。それらの遺品を眺めながら推理を働かせて、自分独自の魅力的な物語を再構築したいらしい。過去がどうであったのか、その過去が現代へどうつながっているのか、そしてそれらを教訓として今後どのような未来を構築してゆくべきなのか。そんなことを思い描く作業をしたいのだろう。理念という言葉に代表されるそれらの行為は、なぜ尽きることなく続けられるのだろうか。なせそれが高尚なことだと思われるのか。君はそれらに疑念を抱いているらしい。もしかしてそれらは欲求不満のはけ口や現実逃避の手段となっているのではないか。現実が思い通りに行かないので、その思い通りに行かない現実から遠く離れて、遙かな過去や未来へ思いを馳せる。人はしばしばそんな風にしてこの現実をやり過ごしているのではないだろうか。よくありがちな例としては、教育関係者などが未来を担うとされる子供たちに自らの思いを強引に押しつけてくる。これから生まれてくる子供たちに自分達は何をしてあげられるだろうか、そんな思いに囚われる瞬間に自らの現実をやり過ごしているのかもしれない。見ず知らずの誰かのために何かをやろうと思い立つ時、世俗に染まっている自分自身を卑下しているのか。自らの領分を逸脱したいがために、人助けという高尚な目的に向かってしまうのだろうか。どうも最近の君は彼らが何を訴えようと聞く耳を持たぬようだ。


3月22日

 迷わないと心配になってくるので、迷いが晴れることはないだろう。どうやってそれを受け入れられようか。それがなんだかわからないが、今はそれが明らかにはなっていないように思われる。様々な事実が伝えられていることは知っている。それらの事実には伝える側の伝えたい意図が紛れ込んでいることは確かだが、面倒なのでそれらの意図をわかろうとしない。彼らは何を伝えているつもりなのか。つまらぬ正義感からそうしているのではなく。それが仕事だからそうしているだけなのだろう。だが正義感とは何か、その基準はどこで決められるのだろう。それらは無駄な努力によって決められるのだろうか。それがなぜ無駄だと思うのか、無関心な人々にとっては無駄になるだろうか。彼らが彼の地でやっている作業は、もはや後戻りのできない段階にさしかかっている。それは誰かにとって喜ばしい兆候と思われるようだ。それが嘆かわしい状況だと感じられるのは、人道主義者の勘違いなのだろうか。なぜそれらの行為を正当化できると確信しているのか。結果を見れば誰も反論できなくなるとでも思っているのだろうか。それでもまだ一縷の望みが残っているとでも言いたげなのだろうか。ではその望みとはいったいなんだろう。それも結果を見れば見えてくるものなのか。すべてはその行為の結果如何にかかっているわけだが、とりあえず今は来るべき未来を先取りすることはできないようだ。どうもまだ深刻な状況ではないような気がする。実際に深刻な状況に陥っている人々から見れば、この状況はうらやましい限りかもしれないが、それでも必死になって危機感をあおっている人々にとっては、人々の無関心は破滅の前兆と映るのかもしれない。世界情勢を気遣うほど暇ではないのかもしれない。何もできないのに心配してみても始まらないだろうか。やろうとしてもやらせてもらえないのではないか。人々の残された作業はただ画面や紙面を見聞して、その内容についてああだこうだ仲間と世間話することぐらいか。当事者以外にそれ以上を求めるのは無理だろうか。


3月21日

 すべてが終わることはないだろう。すべてが終わっているのに終わることはないだろう。迷路の終着点は新たな迷路の入り口なのか。要するにそれがすべてではなかったということなのか。だがそんなことはどうでもいいことかもしれない。それらのすべてを知ろうとは思わないが、知りたいことが何もないわけではない。知りたいことは知りたくなかったことになるようだ。知った後からそれが知りたくなかったことだと気づいて驚く。またそれが知りたかったすべてではなかったことを知る。そして思いもよらぬ事態に直面してあっけにとられる。そんなことを知りたかったわけではなかった。それはどういうことなのか、それを知りたくなる。それはどうでもいいことではないらしい。それらを取り巻く作用が複雑に絡み合っているようだ。どこをどう操作しようと、それに連動して違う方面からの作用が働いて、操作した意図をねじ曲げてしまう。いつも横道へ逸れて、やろうとしていたこととは違ったことをやる羽目になってしまう。そんなことをやりたかったわけではないと思いつつも、やりざるを得ない状況のただ中で身動きがとれなくなって、意志に反してそれをやっているうちに、しだいに意志そのものを忘れ、そのような状況の支配を受け入れている自らの存在に気づく。だがそんな状況が長続きするはずもなく、状況自体が外部から何らかの作用を被りながら刻々と変化していってしまう。様々な水準で様々な作用が互いに影響を及ぼし合ってこの世界を形成していることは確かだが、その有様をただ見物しているだけの立場などあり得ないだろう。それを見ていること自体が、見ている者や見ている対象に何らかの影響を及ぼしている。それがあらぬ思惑や策略を想像させてしまうのかもしれない。たぶんその状況にコミットするよりコメントしたい者が不快感を増幅させているのだろう。コメントによって事実を都合のいいようにねじ曲げることが可能だろうか。それを見聞する側の知性の程度が問題となっているのだろうか。なぜ人々は多数派の愚劣さを支持しているのか。それは自分たちが少数派だと見なされないための防衛策なのか。


3月20日

 君にとって今日が取り立てて特別な日というわけではないが、人によっては特別な日となることもあるだろうか。今日も未来へ向かって時間が進み出しているが、今もある出来事に関して時間が費やされ、世界がそれを中心にして回っているような幻覚に囚われる。それはとらえどころのないことかもしれない。常に同じ状態に保たれた了解はあり得ない。やはりどうでもいいことなのか。それでも君はその出来事に関心を持つべきなのか。それに関して伝えるべき内容を見いだせない。どうでもいいような気がすることは確かだが、はたしてそのままであっていいのだろうか。なぜかそれでいいと思われるらしい。わざと無関心を装っているわけではないようだが、事前の取り決めとは、それを適用する側が都合のいいように勝手に解釈するものだ。その時点でやりたかったことはすでに達成されている。あとはそれを推し進めて、自分達の思い通りの展開を実現するまでだ。たぶん事前の打ち合わせ通りにやれば勝利を手中にできるだろう。だからそれをやればいいということなのか。とりあえずその通りでしかないだろう。そうやって君たちは未来をつかみ取るのだ。遙か彼方に見える漁り火の炎は未だ消えていない。あの炎が消えてしまわないうちに君たちは勝利へ向かって突き進め。何をわけのわからないことを述べているのか。それは画面に再現された幻覚の一種かもしれない。月光に照らされて舟が水平線の彼方へ遠ざかる。これから後戻りのできない航海が始まるのだろうか。そんなことは君の知ったことではない。君のあずかり知らぬところで、嫌になったから前言を翻して後戻りしてくるかもしれない。だんだん面倒になってきたので、今は旅などに出る気がしないから、誰か他の人が旅立ってほしいと思うようになる。とりあえず旅立つのは後回しにして、眠くなってきたので今は寝るとしようか。君は間違っても世界市民などに期待しないだろう。


3月19日

 誰かが気まぐれに夜空を眺めている。何も語りたくない気分の時もあるようだ。意識はそれとは別の内容にしたいらしいが、その避けて通ろうとしている内容とはどんなことだろう。どこまでも続く闇の向こうには別の闇がある。その闇の中で誰かが不意に閃光を目にする。闇の中で煌めく光には何らかの意味が宿るかもしれない。その意味を求めて彼は旅をすることになる。それは奇妙な旅だ。彼は不動のままで旅が向こうからやってくる。実際は画面を覗き込んでいるだけのようだ。それで旅を実感できるだろうか。彼はただ画面の中の閃光を見つめ続ける。切迫感はみじんも感じられないが、何か切実な思いでもあるのか、彼はいつまでもその閃光にこだわり続ける。その輝きを目で追いながら意味にたどり着こうとしている。それはある意味を宿していると思われる。その意味をどう表現したらいいか、彼にはわかっているかもしれない。その言葉をどこに記すべきかもわかっており、記すべき場所へ向かって歩み続けている。それが彼の旅となるだろう。だから今は道半ばの彼を非難する時でない。まだ評価を下すには至らないか。もう少し様子を見てみないことには何ともいいようがない。残された時間はどれくらいあるのだろうか。時間は一瞬であり、永遠の時だろう。一瞬の間は永遠に感じられる。瞬く間に終わりを迎えるが、終わりまでには無限の時を必要とするだろう。旅を終えるには無限の時が必要だ。だから彼の旅はいつまで経っても道半ばなのかもしれない。どこまで歩みを進めても辿り着けないだろう。その目的地は目的を外れた場所にある。だから彼は逸脱に逸脱を重ねながら懸命にそこへ辿り着こうとするが、どこまで行ってもその場所へはたどり着けないだろう。そんな結末に至らない結末になってしまうことを、彼の方も薄々気づいている。その終わらない運命を彼は受け入れざるを得ないのか。闇の中の閃光はたぶん稲光だろう。落雷があった地点まで行くつもりのようだが、なぜそこまで行かなければならないのか理由がはっきりしない。興味本位ということだろうか。それは火事場の野次馬のようなものか。


3月18日

 暗闇の中を歩く足どりはいつものように重い。洞窟の中を吹き抜ける風に乗ってあやふやな言葉が漂ってくる。世界に劇的な変化など不必要だが、それを劇的だと騒ぎたい者は山ほどいる。その種の人々が砂漠の周辺を徘徊しているようだ。今そこで何が問題となっているのか。たぶん問題はそこにはなく、そこから遙か遠く離れた、一見平和を装っている彼らの生まれ故郷の地域にあるのかもしれない。ここであえて安易なことを述べるなら、たぶん人々は退屈で死にそうなのだ。夢を見飽きてうんざりしている。それは贅沢な悩みなのだろうか。好奇心を抱く感覚が麻痺していて、もうこの先何が起きようと誰も驚かないだろう。当然のこと自由にも民主主義にも失望している。それが自業自得でそうなってしまっていることも、痛いほどわかっているのかもしれないが、それでもそこから抜け出す努力を放棄し続けることしかできないだろう。すべてが台無しになっているのに、それをどうすることもできずに、ただその有様を眺めるだけの毎日だ。自分たちが無気力であることに気づいていないのかもしれない。もちろんそれはある面で無気力なのであって、別の面ではまったくそうでない。退屈で死にそうなのは昔ながらの価値観に照らし合わせるとそう見えるだけなのであって、それ以外のところでは至って普通なのかもしれない。確かに情報は瞬時に世界を駆けめぐるが、その情報を見聞しても、一般人にはどうすることもできない現実が一方にある。情報を握っているつもりのマスメディアは、時折そうした一般人のささやかな運動を言い訳程度に取り上げるかもしれないが、それも取り上げた次の瞬間には忘れ去られてしまうものでしかない。要するにそれはそうしたものでしかないということだ。そうしたものとは別の次元で何かを適当に試みる必要がある。実際に人々が興味を抱いてやっていることはそういうことなのかもしれない。巷で流行っていたり話題になっている、見せかけだけの流行とは別のところで、何かをやり続けている人々がいるらしい。


3月17日

 いつか来た道を引き返しつつ、君は今日も馬鹿げた言葉を連ねているが、近頃はそんなことしかできないようだ。やはり疲れているのだろうか。たまには気分転換をすることも健康を保つ上では必要かもしれない。確か以前もそんなことを述べていたようだ。では今さら無駄かもしれないが、戦争に反対でもしてみるか。反対したところでどうなるものでもなさそうだ。だが今でも信じられないことが起こるように願っている。誰もが否定したいことを肯定したいだけかもしれない。無理を承知で荒唐無稽なことを述べてみたいのか。そうやってしぶとく生き延びて今に至っているが、今後もそれを繰り返していいものか迷っているらしい。君も生きている限りいつかは死ぬだろう。確かに生きていることは死につつあることだが、だからといって死がすぐ間近に迫っているわけでもないだろう。今のところ死の予感はしていない。その代わりにもう生きられないような気がしている。死ぬこともできずに生きることもできないような気がする。昔から君は生きていなかった。無限の対話はいつか有限の終わり迎え、それが始めから不可能な試みであることを、自らの終わりによって証明してしまうだろう。それが結局は嘘であったことを後から来る者たちに告げている。かつての彼は高邁な理想を掲げ、その高邁さに溺れて死にかかっていたが、抱いていた幻想が崩れ去り、己の居場所がどこにもないことに気づいてから、ようやく夢から覚めて、辺りに散らばっているありふれた現実と融合しようとして、無駄な努力を繰り返している。だがかつての努力はそれだけのことでしかなかったのだろうか。その気が遠くなるように歩みについて、もっと違った意味や意義を付加できないものだろうか。とりあえず今さら方向転換するわけにもいかない。方向転換しようにも方向がわからない。たぶん彼らは君の存在を拒んでいる限り低空飛行を続けるだけだ。そうやってしだいに彼らがじり貧状態になってゆくことを君は望んでいるのかもしれない。それを君はただ高みの見物をしているだけでいいのかもしれない。では彼らの衰退は時間の問題なのか。もちろんそれは君のせいではなく、価値観の多様化が影響しているのだろう。たぶん栄えるものは滅びる宿命なのだろう。そこで重要な特性は、自らが気づかぬうちに滅んでしまうということか。もうすでに別の価値観の萌芽が至る所に生じている。それはもはや価値観とも異なる性質を纏っているのかもしれない。多様化自体が一定の価値観の形成を阻む特性がある。


3月16日

 いい加減なことを思い続けているが、やはりそれはどうでもいいことなのか。つまらない空想の中に神がいて、その神は誰をどう助けるべきか迷っている。誰も助けられはしないだろう。しかし神にひれ伏す人々は、初めから神に見放されていたのだろうか。神にもいろいろな種類があって、彼らはいったいどの神にひれ伏して、どの神から見放されてしまったのか、それを知ってどうなるものでもない。今さら神の助けなど必要ない。神が見放す以前に彼らは運にも見放されてしまったのかも知れない。しかし運とは何だろう。結果が思わしくないとき、その理由を見いだせないときに運を持ち出すだけだ。精一杯やったが運がなかったと自らに言い聞かせる。それは言い訳にすぎないのかも知れない。確かに言い訳にすぎないが、そう思っていた方が精神的に楽なのか。そんな風に思いたくないので、精一杯やる気がしないひねくれ者も中にはいるかも知れない。言い訳とは無縁の人生を送りたいと思っている者もいるかも知れない。気楽に生きられたら何の不都合も感じないだろう。それはおかしな言いぐさか。君は絶えずそれ以上を望んでいるようだが、それ以上のそれとは何だろう。精一杯やらずにそれ以上の成果を期待しているのだろうか。期待しているのは成果などの結果ではなく、うまくいかないなら、うまくいかないままに生きるように望んでいる。それなりにというのではなく、それなりにもならないように生きられるだろうか。結果を求めないとはそういうことなのだろうか。ではいったい何を求めているのか。結果にたどり着かないことをはたして受け入れられるだろうか。いったい誰がそれを受け入れなければならないのか。いつまでもどこまでも迷いながら、その迷いの最中に留まり続けている当人にとって、結果とは何だろう。結果に至らないことが結果を求めないことになるとは思えない。そのままいって予想される結果を受け入れられないので、そういう結果になることに気がついた時点で、そこに至るのを阻止しようとしているのだろうか。結果が気に入らないのでゴール直前で迷路の中へ引き返しているだけなのだろうか。しかしそんなことをいくら繰り返してもどうなるものでもないだろう。君はそんな自家中毒状態にならないことを望んでいるようだが、すでにそうなりつつあるのではという不安を抱いているのかも知れない。


3月15日

 夜を目指す人は昼に眠り、昼を目指す人は夜に眠る。どのような結果に終わろうと結果は結果でしかないが、そんな結果はまったく容認できない。容認できないが、そうなってしまうことを止められないだろう。止められないので、そうなってしまうことを呪い、そうならない未来を空想することしかできない。人々の願いはそんな空想の中に息づいている。この世界を変えられない人々はファンタジーを好む。変えられると思っている人々は権力を指向する。どちらの人々も人畜無害なのかもしれない。それだけでは判断しようがない。人が有益であったり有害であったりするのは、どのような基準に基づいているわけでもないだろう。君には判断しようのないことだ。その行いが他の人々に害を及ぼすと判断されれば、その人は有害であることになる。いったい誰がそんな判断を下すのだろうか。それは誰でもない誰かではなく、特定の地位や職業に就いている人々になる。結果とはそのような人々が下した判断なのか。しかしそれ以外の誰でもない誰かの側に属している君には、そんな判断はまったく容認できないようだ。君には容認できないが、その結果を覆すこともできない。そうやって何もできない君は、夢想の中に住処を見いだすこととなるだろう。現実の世界では叶えられない思いを夢の中で遂げようとする。それが君の妥協点なのかも知れない。君は別にすべてにおいて妥協点を模索しているわけではないが、何を妥協すればうまくいくだろうか。まんざらうまくいっていないわけでもないだろうが、それ以上うまくいくこともないだろう。それが君の限界となるだろう。そうして生み出された夢想の産物は、言葉となって文字を構成するしかない。それを人が文字通りに演じれば芝居となるか。ドラマの中で演じられている行為は嘘でしかないのはわかりきったことだが、その嘘を真に受ける人々も中にはいるだろう。それを真に受ける人が多いほど夢が実現したことになるだろうか。作家の夢は行為を文字に置き換えることで、俳優の夢はその嘘を演じることかも知れない。しかしそれが何になるのだろうか。夢を売る商売ばかりが繁盛しては、人々が魅力を感じるのは夢の方なのだから、実社会は空洞化するしかないだろう。


3月14日

 何を話しているのかにわかには知りようがないが、具体性が欠如しているのはいつものことかもしれない。君は君の外側にある言葉に巻き込まれ、おおよそ理解からは遠く離れたどこかで利いた風なことを話さなければならない。それは考え抜かれた言葉の連なりではないだろう。思い通りの幸運に遭遇しなければ何もできないのは誰なのか。それはアニメーションの中で行動している若者たちかもしれない。台本に記された偶然の積み重なりが彼らを生かしていて、彼らの目的を見失う危険から遠ざけているようだ。それを真に受ける人々をその水準のままに留め置くためにそれらの物語は存在しているのか。しかしそれが作り事の空間でしかないことを、なぜ認識しなければならないのだろう。物事が偶然の連なりから生じていることを思い知ることがなぜ重要なのだろうか。現実がつまらないことの積み重なりからできていることを、なぜ知らなければならないのだろう。人間が有限の存在であり、その行動や思考にも限界があることを、どうやって知りうるだろうか。たぶん軽薄な感動がすべてを覆い尽くすかもしれない。感動する必要のないことに感動しなければならない。その程度のことで満足できるように調教されているようだ。ささやかな結果を大げさに騒ぎ立てる彼らによって洗脳されているのかもしれない。彼らの給料をひねり出すために、多くの意識が平準化の犠牲になっている。どうでもいいことに関心を抱くように操作されている。しかしそれがなぜいけないことなのか。ではそれでもいいと思っている人々が世の中の大勢を占めている現状を肯定すべきなのか。たとえそれに気づいたとしても何の優越感も抱けない。それを抱くことこそが彼らの側に属していることを証明してしまうだろう。何よりもこちら側には場所そのものがない。こちら側に留まることは不可能なのであり、絶えずあちら側からの誘惑にさらされていて、過酷な環境に耐えきれなくなって、あちら側に寝返った者たちの幸福な境遇を見せつけられることになる。そんなこちら側などいったいどこにあるのだろう。どこにも存在しない場を求めている。


3月13日

 落雷の先には虹が待ち受けている。ロマンチックな雰囲気はどのような時に必要なのだろうか。墓の底から何が聞こえてくるだろうか。雨に濡れた河原の石が外灯に照らされて怪しく光る。その風景は君の部屋を殺風景な印象から開放するきっかけとなるだろうか。何を持って言葉の終わりを定められるだろう。作者はそこで何を賭けているのか。まったく破滅からほど遠い結末を設定して自らの無名性を引き受けるつもりか。子供たちを守らなければならないそうだ。彼は大儀なき戦争に大儀を設定したいらしい。自由を民主主義の勝利のために敵を殺さなければならない。その真摯な姿勢はどのような状況を想定しているのだろうか。話し合う言葉が目指しているのは、そのまま果てしなく話し合い続けることかもしれない。短気な人々にとってはそれでは困るらしい。何らかの具体的な結論に至らない話し合いには意味がない。意味のないことをいつまでも続けるわけにはいかないだろうか。常に同じ状態に保たれた話し合いの継続には我慢がならない。目に見える変化を望んでいるのかもしれない。表向きは圧政に苦しむ民が救われることを望んでいるが、そこからほんの少し離れた別の地域では、自分達の味方による圧政が継続することを黙認せざるを得ない。世界は複雑な因果関係の上に成り立っているらしい。もはやそこからいかなる正義を導き出そうと嘘っぽく映ってしまうだろう。誰かが今後死にゆく犠牲者たちのために祈っている。彼らが死んだあとから省察のまねごとでもやっていればいいのか。それはニュースキャスター氏の専売特許か。君が考えているのはそんなことではない。たぶん墓の底からはミミズが這う音とモグラが穴を掘る音が聞こえてくるだろう。地中の中にも小さな生命が息づいているようだ。そこには砂漠を吹く風の音は聞こえてこない。神社の床下にはアリ地獄が巣くっているが、そんな小さな虫にも砂の危険が迫っているということか。いったいそれはどういうことなのか。いつの間にか聴いたことのある曲が再生されている。いつものように導き出そうとしていた結論からはほど遠い。


3月12日

 どこまで話せばいいのかその基準や限界が明確でない。たまに寄り道してみるとたちまち迷路で迷ってしまう。ここで誰を引き留めようというのではなく、安易な売り文句や買い文句が飛び交うひどい金儲けに荷担しようとも思わない。すべてがすべてではないのはわかっているつもりだが、そのすべてには含まれない余剰部分をどう言い表せば納得できるだろうか。どうもそれらの状況を完全には捉え切れていないようだ。確かに作者は作者として存在している。そんな小説を読もうとは思わないことも確かだ。何が小説で何が評論文なのか、その辺の区別が君にはよくわからない。小説の内容を批評するつもりはない。小説とその作者を結びつけて、何か適当なことを語りたいのならそれもいいだろう。その自伝的小説は作者の人柄をわかりやすく強調している。そこに記されている虚構の性格が、かつて実在した人物の内面に都合良く当てはまってしまうのならそれもいいだろう。今さら大衆が何を求めているかなんて君の知ったことではないはずだ。もはや大衆という言葉自体が死語に近づいている。それらを一つの言葉で一括りにしても無意味なのかもしれない。何かを求めているのではなく、何も求めていいないと同時にすべてを求めているのかもしれない。そんな矛盾は今やありふれているだろうか。今や君は何も語らない人々とともに、何もない日々を暮らしている。これから君が体験するすべては、すでに了解済みのことばかりになるだろう。それを前もって知っていたことだとどうしていえるのか。予測済みの事態に困惑する振りをしながら、わざと大げさに驚いて周囲の失笑を買う。それが君に課せられた演技の一部始終なのか。どこかで行動が破綻を来すかもしれない。やっていることがやりたくなかったことだと気づいていながら、なおもそれをやり続けなければらない宿命を呪っている。たぶん人々ができることといえばそんなこと以外にあり得ないだろう。とりあえず小説は作者によって操作可能だと思っている人々は幸せになれるかもしれない。作者という固有名でそれを語ることが可能だと思っている人々は、もっと幸せになれるだろう。しかしそれ以外にどんなことを述べられるのか。それを述べたところでどうなるものでもないような気もするが、不可能に挑戦する人は後を絶たないと思われる。


3月11日

 当初はそんなことを述べたかったわけではないが、唐突にどうでもいいことを思い、それを提示したくなる。歴史を変えるのは権力ではなく見解の相違かもしれない。要するに子供だましで歴史は変わるということか。しかし何が子供だましなのだろう。君はわざとわけのわからぬことを述べ続けている。そうしながら決定的な思考に到達しようともがいているようだが、たぶん今回も誰もが驚く大げさな結論には至りそうにない。確かにある特異な事件をきっかけとして世界が一変することはあり得る。それについて思考を巡らしている人々の中で、勘の鋭い人なら転機となった過去の事件を思い出すことも可能だろう。もちろんおおかたの人々は過去から現在を経て未来へ向かう連続した時間の流れに囚われ、そんな風にして歴史が変わったとは思わないかもしれないが、そうした時の流れが切断される瞬間とは、具体的にはどのような瞬間なのだろうか。ありがちな見解としては、例えばそれは、同時多発テロによってニューヨークにあった世界貿易センタービルが崩れ落ちた瞬間かもしれないが、ここで述べようとしている瞬間とはそうした大げさな瞬間ではなく、もっと些細で一見してどうでもいいようなことかもしれない。例えばそれは君がコーヒーを飲んで胃に痛みを感じた瞬間かもしれないし、またそれは初めてジャズを聴いた瞬間かもしれない。なぜそう思われるのか理由は定かでない。なんとなく奇をてらった内容を述べてみたくなっただけかもしれないが、歴史はそれを変えようとする意志の力によって変わるものだ。そんな思い込みを共有する人々によって歴史は変えられるだろう。確かに変えようと思えば変えられるかもしれないが、その変えられた歴史を信用するほど無知ではない人々が、一方では確実に存在しているのかもしれない。ひどいところでひどいことをやっている人々に同調するか否かは、それをどう受け止めるかによって異なるだろうか。その人の程度の問題なのかもしれない。人それぞれの程度の差がどこで生じるかも、その人が今まで何を見聞して、どのようなものの見方考え方を身につけたか、という偶然の作用に依るのだろうか。そこから価値観や考えの多様性が生じるのかもしれない。すべての人がそれぞれに別の方向性を持っていては、何か不都合が生じてしまうだろうか。ある程度は何らかの共通感覚を持っていないと、人間社会は成り立たなくなってしまうだろうか。そうではなく、共通感覚は自ずから生じるものかもしれない。例えば重力による相互作用によって太陽系や銀河系が生じているように、何らかの力が人間社会にも働いているのだろうか。たぶんそれを人間社会というひとかたまりの集合体で表現させる何かが働いている。もちろんだからといってどうなるものでもなさそうだ。それによってこの世界に対する認識が画期的な変化を被ることはないだろう。


3月10日

 それがロールプレイングゲームなら、そこから抜け出るために必要なキーワードは何種類あるのだろうか。ゲームの中の彼はできることならつまらぬ脅しには屈したくないようだ。いったい誰が何に脅されているというのか。いったいそこで誰が何をやっているのだろう。今の彼はそんなことを知りうる立場にはない。とりあえず打開の糸口を探りつつ、一方で容易には打開できない状況を楽しんでいるのかもしれない。そこで脅かされているのは、安住している現状を今後も維持し続けようとする自己防衛本能なのか。もしそうだとしたらどうだというのか。彼が何をやってもうまくいかないと感じるのは、絶えずそう感じることによって、今やっていることとは別のやり方を探すように、彼の無意識が彼自身にけしかけているのかもしれない。そこでの無意識とは何か、それは意識の外部から来る何らかの作用だろうか。その外部からの作用にどう対処していいか彼の意識にわかるはずもない。今の彼は彼の外部に存在している台本によって制御されている。たぶん対処法は彼の外部にあるのだろうから、対処しなくてもいいのかもしれない。ゲームの中で行動するしかない彼も無意識に対処しようとは思わない。対処しようがないので対処できないと思いこんでいる節もある。外部から来る無意識には内部の無意識が何らかの対処をしてくれるだろう。実際に適当に対処しているのだろう。それらの無意識は意識が及ばない領域で作動しているのかもしれない。それを無意識がどうしようと意識の知ったことではないのだろう。それどころか逆に無意識が意識を制御していることもあり得るし、意識は自らの存在原因を無意識に依っているのかもしれない。自らの動作のすべてを意識は把握できないのであり、その把握しきれない動作は結果的に無意識が制御していることになる。しかしそれは制御とは見なされない制御だろう。そこで制御という言葉の意味を逸脱してしまう。何らかの意志作用を原因としない制御とはどういうことなのか。それは無の制御とでもいえば納得できるだろうか。もちろん見つけ出そうと試みれば、そこに何らかの有の原因を見いだせるかもしれない。例えばそれは偶然であったりする。


3月9日

 空疎な考えはやがて誇大妄想に結びつく。しかしその考えの内容を示すことはできない。何しろそれは空疎なのだから示しようがない。だが今さらそんな嘘をついていいのだろうか。今さらとはどんな皿なのか。有田焼か何かの絵皿か。何を見ているわけでもなく、何かを見ようとしている。今後状況が好転することはないだろう。本当にそんなことを思っているわけもなく、ただそれ風の口調でそんな内容を述べてみたいだけなのかもしれず、その仕草がいくぶんわざとらしく思われるようだ。もったいぶった態度で悲観論を口走りながら現状を嘆いてみせることで、何とかその場の雰囲気を取り繕いたいらしい。自分たちがまじめな討論の最中に留まっていることを、そんな態度を装うことで自己確認がしたいのだろう。そこで具体的には何を述べているのか、そこが知りたいところか。知りたくもない空疎な内容をここに提示しなければならないのだろうか。なぜか虚勢を張るばかりで、当事者と直接交渉することをためらい続けている。間接的に相手をわからせようと努力しているつもりのようだが、それは自分たちの仲間に向けた言い訳であり、体裁を取り繕っているだけだろう。たぶんそれ以上のことはできないのだろうし、それができない現状に安心して、そこへ居直り続けている。自分たちはこの問題を真摯に受け止め、今後とも事態を打開するために可能な限り最大限の努力をしていきます。たぶんそんなメッセージを流し続けることしかできないだろう。それが他者への配慮だと思いこんでいるらしい。気休めとはそういうことを繰り返すことによって助長されるのだろう。そこに蔓延しているのはそんな雰囲気だろうか。君はそれでもいいと思いたいのか。それは単なる思い過ごしかもしれない。それ以外を求めている人は多いだろう。そうやって他力本願で変革の時を待ち続けるが、自力での再生を困難にしている原因はどこにあるのか、そこが知りたいところか。ここで気休めを述べるなら、君は言葉に頼るばかりで肝心の行動が抜け落ちているのかもしれない。そうやっていつも利いた風な言葉を連ねるばかりなのか。


3月8日

 流れる雲は、人が地球の表面に住んでいることを思い起こさせる。空模様は相変わらずの推移を見せ、雪が降り、雨に変わり、雨上がりに西風が吹く。これから見聞するすべてを無視して、何かくだらぬ瞑想に耽ってしまうこともあるだろう。何をもってくだらぬと判断するのか知らないが、なんとなくそう思われるだけかもしれない。屋根の上の猫が何を眺めているかを知る必要はない。知る必要のないことは他にもある。とりあえず感性の衰えは技巧で補えばいい。では技巧も稚拙なものしか持ち合わせていなかったらどうするのか。とりあえず稚拙な技巧で間に合わせるしかやりようがない。馬鹿な人々はひどい連中に利用されるだけのようだ。いったい誰が誰を利用しているのだろうか。それは君かもしれないし彼かもしれない。まったく正気の沙汰でない。たぶんそれでも神が味方をしてくれるだろう。勝利する方の味方をしてくれる。戦争とはそういうものなのか。自由と民主主義の勝利になるだろう。過去の経緯がどうあれ、未来志向でお互いに仲良くありたいものだが、それはイラクや北朝鮮には適用されないらしい。朝鮮半島のでの過去の植民地支配には未来志向を適用して忘れてほしいが、拉致事件については絶対に許さないそうだ。皆がそんなことを述べているわけではないと思いたい。拉致被害者を帰してほしければ、直接北朝鮮に乗り込んで金正日氏に訴えた方がいいと思われるが、それとは逆方向のアメリカまで行って、協力を要請してしまうのは、虎の威を借るようでなんとなく哀れに思われる。なんでもかんでもアメリカ頼みでは情けない。この国の人々はそういう自分たちの情けない立場を自覚しているのだろうか。自分たちが何もできないくせに、隣の貧乏国の核開発を脅威だ何だと騒いでいて大丈夫なのか。本気で騒いでいるわけでもないのかもしれない。もっと広い心で寛大な気持ちになって、お人好しを装って、困っている隣国を助けてあげた方がいいと思われる。現状で可能なのはそんなことぐらいだろう。


3月7日

 彼は気まぐれに何かをほのめかす。進行中の作業を一時やめて、闇の中で文字が記された画面を眺めている。どこまでその物語は進んでいるのか。頭の中で考えているのはあやふやな構想だけのようで、今のところそれが実現するめどは立っていない。もうかなり以前から嫌気がさしていて、できることならそこから逃げ出したい気分だが、架空の君は暇つぶしの経験を貴重に思う。近頃は同じような世間話以外の話を聞いたことがない。確かコインランドリーの隣に八百屋があったかもしれないが、それはどういうことなのか。どういうことでもなく、ただそんな記憶が唐突に脳裏をかすめただけかもしれない。それ以上は分析するのが面倒なので、何を述べているのかよくわからないことにしておこう。だが何が面倒なのかよくわからないが、とりあえずそれで今のところは何の問題もないようだ。問題なのではなく、それは何かの応用問題なのかもしれないが、君には何を応用しなければならないのかわからない。そんなことが問題なのではなく、何がここでの本題なのかよくわからないが、そのよくわからない本題から逸れて、わけのわからないことをいつまで続けられるだろうか。そんなことをやりたかったわけではない。単にふざけているだけなのか。そして何を表現したいのかはっきりしないようだ。感情の微細な粒子が誰もいない空間に浮遊している。そんな風に思えるのはどうしてだろう。言葉の材料となる対象が欠けているようだ。それがここでの本題なのかもしれない。平和とはそんな状態をいうのだろうか。例えば馬鹿な連中が馬鹿なことをやっている時が平和な時なのだろうか。そんな抽象的なことではなく、具体的に誰が馬鹿な連中なのであって、何が馬鹿なことなんだろうか。もしその連中のひとりが自分であり、今やっていることが馬鹿なことだとしたらどうなのだろう。それはどういうことなのか。たぶんどういうことでもなく、ただこういうことでしかないのだろう。要するに今やっているすべては馬鹿げたことだと悟っているわけか。そしてどうでもいい話題にはついて行けないということか。冗談にもならないことばかりのようだ。だがまだあきらめたわけでもなさそうだ。いつの日かその真意を悟ることができるようになるだろう。


3月6日

 雨降る夜更けに犬が鳴く。しかしこれから何が始まるわけでもない。いっこうに終わりは始まりそうにない。君は安易な言葉には飛びつかない。安易な言葉を弄して利いた風なことを口走るのは誰でもない誰かだ。それは盛んにテレビ画面に登場する幻影たちであり、その幻影に実態はない。テレビに生身の人間が登場することはあり得ないだろう。虚無に操られた哀れな人形たちが今日も他愛のないことを語りかけてくる。君たちはそれで満足しているのか。人形たちの挑発に乗って、魅惑のワンダーランドにでも出かけよう。例えばそれば大阪あたりにある遊園地のことか。消費者と呼ばれる商品の付属物には、どんな制御装置が埋め込まれているのだろうか。それらにどの程度まで遠隔操作が利くのかよくわからないが、とりあえず画面からは、特定の商品を購入せよという指令が発せられていることは確かだ。しかしなぜ君はそんなことを思うのだろうか。思っているのではなく、適当にそんな内容を言葉で構成しているだけだろう。まるで本気ではなく、ただ眠たいだけのようだ。そんなわけで笑う男はただ笑っているだけのようだが、それがどんなわけで笑っているのかここには示されない。スペインにはゲルニカと呼ばれる町があるそうだ。そのゲルニカへ行けば、叫ぶ男とともに笑う男にも出会えるかもしれない。ついでに動物園に行けば縞馬のダンスが見られるだろう。それは何かの予言なのか。いや、単なる破れかぶれの支離滅裂が始動しているだけかもしれない。たぶん人形たちが目覚めることはないだろう。あれらは生命ではなく、ただの幻影なのだ。現実逃避でテレビを見るのはやめた方が良さそうだ。そうではなく、真剣なまなざしでそれらを見つめ続けるべきなのか。画面に穴があくまで見つめれば、盲目になるかもしれない。いや、盲目になる以前に色盲になるだろうか。冗談ではなく、冗談の一歩手前でほうじ茶を飲む。飲んだついでにピカソ風の絵を破り捨てる。誰が何を描いているのか意味不明だ。心を痛めているのは他でもない。君は彼らを見殺しにしているかもしれないが、それは彼らの自業自得だと思う。はたしてそれで満足なのか。不満だが仕方のないことかもしれない。


3月5日

 たぶん話の順序が逆になる。そんな言い伝えがあるはずもなく、大根の切れ端に福が宿るわけがない。彼は世の中の主流から取り残され、何もしないでひとり静かに佇んでいるが、そこは寂れた裏通りに面したバス停のベンチかもしれない。誰も彼には話しかけないのは当然だとしても、他に誰もそこにはいないのだから、そこから話が始まらないのも致し方ないところか。黙して語らないのが彼の礼儀なのか。おおよそ傍観者の実態とはそういうものだろうか。どこかで地中に埋没した過去の遺物が掘り起こされる。考古学者は泥にまみれた弥生時代の頭蓋骨を大事そうに取り扱う。外科的な手術によって取り出された胆石には人面が刻まれるかもしれない。夜明け前の記憶は曖昧に思われ、真夜中に思考している者には判別が困難かもしれない。偶然にもそこから始められたのだがら、それはそれで仕方のないことかもしれない。しかし何の話なのか、異邦人には解読不能になっているようだ。今さら何やっても無駄だろう。彼からの短いメッセージにはそんな意味が込められているようだが、君はそんな脅しに屈するほど深刻な状態ではないらしい。深刻さとは無縁の意味不明な世界に暮らしている。言葉が通じないのはバベルの塔が原因なのか。確か旧約聖書にはそんな言い伝えがあったと記憶している。たぶん大根の切れ端はたくわんになるだろう。アラブがあぶらかたぶらになる時、妙な呪文が流行するかもしれない。それはアラビアンナイトに出てくるおなじみの呪文とどういう関係にあるのか。彼にそんなことなどわかるはずもない。口からでませで盛んに呪文を唱え続ける。それは君の運命ではないだろう、運命が君を嫌っている、とお節介な誰かが彼に耳打ちしているようだ。どうして君が愚か者なのか、その理由を是が非でも知りたい。誰が教えてくれるはずもなく、ただ一心不乱に空から爆弾が落ちてこないように祈ることしかできないだろう。たぶん君はその絶望的な状況から、ブーメラン効果を期待しているのかもしれない。闇の髑髏からの報酬に期待している。そしてまるでファンタジーのような未来を思い描いている。黄色い福助が歩み出て、辺り一面にゲロを吐く。それですべてが終わるだろうか。


3月4日

 曖昧な記憶を辿って薄暗い小道を遡る。そんな小道がどこにあったのかは知らないが、要するにそれは想像上の小道というわけか。影は小道で散歩がしたいようだ。影は犬か。犬は散歩がしたいようだ。鎖につながれているばかりでは排泄機能が働かなくなるのかもしれない。たぶん影は犬ではないようだ。それはわざとらしい迂回表現だ。君は新しい表現方法を模索しなければならないと考えているようだが、どうもそういうやり方では満足できないようだ。世の中はそんなに単純ではないと思いたいが、中には単純である場合もあるようだ。影が君に放っておかれるのも単純な理由からなのかもしれない。今さら影にはつきあっていられない理由でもあるのだろうか。今さらとはかつての関係を想像させるかもしれないが、想像したければ勝手に想像してもらってかまわない。何を想像すれば影が満足するだろうか。影はくだらないジョークには飽き飽きしているだろうか。身も心も凍りつくような寒い話ではどうだろう。小道の脇には小川が流れていて、そのせせらぎを聞きながら何を感じるだろうか。それのどこが寒い話に行き着くのかは知らないが、要するにそれは想像上の小川というわけか。確か京都にある哲学の小道は、小道と小川がセットになっていると記憶している。その名称にどのような由来があるのか知らないが、何かそれらしい哲学的な台詞を想像してみよう。他人の心を知ることが己を知ることにつながる、と坊主に説教されてそれで納得しろという方がおかしいだろうか。誰もおかしいとは思わないだろう。なんとなくそれでわかったような気になれる。他人の心を知ろうと努力すると、自己中心的な己の未熟さを知ることができるということになるだろうか。そんな簡単に事が運べば誰も苦労したりしない。たぶん自己中心的で身勝手なわがままを押し通した方が徳なのかもしれない。それ押し通すには、他人をだまして自分の思い通りに操る技量に長けていなければならない。要するに、己のわがままを押し通すには他人の心を知らなければならない、と逆に坊主に説教を垂れるべきなのか。それはまったくのでたらめだろうか。影はそんなくだらないジョークには飽き飽きしているかもしれない。


3月3日

 経験とは何だろう。曲がりくねった道の緩い曲がりに沿ってしばらく歩く。電車の中では誰かのまなざしが遠くの景色を眺めている。それは錯覚かもしれない。テレビの画面では遙か遠くの景色が眼前に迫ってくる。それをあたかも経験しているように感じてしまうのはなぜだろう。見張り塔からずっと眺めていたのはディランだったかもしれない。彼は人生は一つのジョークでしかないと歌っていた。監獄の看守があらぬ方角から君を見つめているかもしれない。彼を買いかぶりすぎている者は今でも大勢いるらしい。聖者の現実は大したことはない。彼がいなくなってから、人々がよってたかって彼を聖者に仕立て上げ、その信奉者はひたすら作られた彼の幻影を追い求めることになる。ありふれた彼の言葉をありがたがって拝聴することになる。中には現在進行形の似非聖者もいるらしい。誰ひとり本当の意味をわかっている者はいない。本当の意味などあるはずがない。本当の意味とされる意味自体に信憑性がない。意味を信じる者は信頼できない。信頼できない者が提示する意味などどうして信じられようか。見張り塔から見張られているのは誰なのか。誰が誰を見張っているわけもなく、同じような言説の中から三つの見張り塔を発見しただけかもしれない。監視者の視線には欠陥があるらしい。ただ監視しているだけでは物足りないのか、盛んにそれらの状況にコミットしようと仕掛けてくる。自らが神の見えざる手を演じたいようだ。たぶん監視者は自らの思い込みに公平性があると勘違いしているのだろうか。監視している光景に自らの価値観を押しつけたいらしい。もしそんな要らぬお節介がまかり通るようになれば、状況はさらに悪化するかもしれないが、それでもかまわないと思う。なんとなくやりたければ勝手にやらせておけばいいような気がしてくる。それで気が済むならとことんやってもらおうではないか。もちろん気が済むような結果にはならないだろう。なぜそう思うのだろう。君は彼らの思い通りになってしまうのが気に入らないのか。三つの見張り塔の一つが君の右目だ。残りの二つは君の想像にまかせようか。たぶんそれはでまかせにすぎないだろう。


3月2日

 なぜか否応なく空白が言葉で埋まりつつある。それの何が気に入らないのだろうか。結果としてうまくいけばそれでいいはずだが、うまくいっているにもかかわらず、その結果を受け入れることができない。そんなはずではなかった、という後悔が先に立たずに後から生じている。だがそれをどうすることもできずに、否応なくその先へ歩を進めている。はたしてそれでうまくいっているといえるのだろうか。理想的な状態など実現するはずもないことは百も承知しているが、やはりそれが気に入らないことは確かなようだ。だがそこに留まることはできない。立ち止まることは許されない。まるでところてん式に未来へと押し出されているみたいだ。何が立ち止まることを許さないのだろうか。そんな疑問を無視してどんどん時間が経過していき、結局はお互いを無視した際限のない出来事の絡み合いに遭遇して、許容限度を超えた神経が耐えられなくなってしまう。だが耐えられなくなったからといってどうなるわけでもなく、そんなか細い神経ではないような気もする。耐えているのかいないのか、そんなことは時間の経過とともにどうでもよくなってしまうだろう。すべてはどうでもいいようなことになってしまうらしい。どうも神経は風化作用にさらされているようだ。いったんどこかで立ち止まって、これから先を考えてみなければならないような気もしてくるが、今はそんな余裕などないようだ。今だけではなく、未来永劫死ぬまでないかも知れない。そんなわけで過去のこだわりなどもはやどうでもよくなってしまっているが、誰が何をこだわっていたのかはっきりしない。そんなことは大したことではないだろう。だが誰が大したことではないと思っているかもはっきりしない。しかし誰とは誰なんだろうか。


3月1日

 君は文章の冒頭でつまらないことにこだわっている。怠惰に流されて何もやりたくなくなって、その代わりに季節の変わり目を感じている。言葉の連なりがギクシャクしているのはいつものことだが、どうも近頃は言葉づかいそのものがおかしい。わざとそうしている感もあるが、たぶんそれがあとから読み返すと、微妙なずれと違和感を感じさせるのだろう。それを言葉で表現することができないらしい。もちろんすべてがおかしいのではなく、ほんの些細な部分だと思われるのだが、それがその先へ進むのを妨げているようだ。それをうまく処理しない限り、さらなる継続が困難になりつつあるのだろうか。しかしそれが困難なことなのだろうか。継続だけではなくやめることも困難に思われてくる。やるのもやめるのも多大な労力を必要とするのかも知れず、そのどちらもが不可能になりつつあるようだ。それはどういうことなのか。やるかやめるかそのどちらかしかないのに、どちらもが難しく思われるのはどうしてなのだろう。何かをやらなくてはならないのだが、それをやる決断ができないらしい。やるかやめるかの判断がつかないようだ。そうやってずるずると決断を先延ばしにしながら無駄に時を浪費してしまう。最近はそんなことが繰り返されている。だが結果としてそこから先へ一歩も進めないわけでもない。要するにそれらの迷いと逡巡がこれらの言葉の連なりを形成することになる。それでいいのだろうか。よくはないのだろうが結果としてそうならざるを得ないようだ。それは受け入れがたいことかも知れない。受け入れがたいが、結果がそうならざるを得ないのだから、それは仕方のないことかも知れないが、こうして迷いの文章が形成されることとなる。これが実際に導き出されたの結果なのか。やはりこうなってはどうしようもないだろう。やるやめる以前の場所で停滞しているようだ。君がやりたかったのはそういうことだったのか。しかし君とは誰なんだろう。


2月28日

 どこかで言葉がつっかえているようだ。この期に及んで思い出すのは昔のことばかりだが、君はもう昔話には飽きたようだ。この期とはどの期なのだろうか。老人は死ぬ間際にふと昔の出来事を思い出す。昔話に飽きたら、今度は作り話になるのか。あの頃の自分は何をやっていたのだろう。あの頃からはもうだいぶ時が経っている。あの頃の快適な状態を忘れてから、いったいどれくらいの歳月が経過したのか。快適な状態などありはしない。今の彼の顔にあの頃の面影を見いだすことはできないが、そんな彼にもきっと明日はやってくるだろう。明日になれば彼の顔はさらに老けるということか。とりあえず明日がやってきたところでどうなるわけでもない。いつものように朝日が昇って朝が来て、夕日が沈んで夜になる。そんな現象が何日も繰り返されて、いつまで経っても日常が終わることはない。だから面倒なのでそこで物語を終わらせる。終わらせようとする以前に物語など何も始まっていない。それのどこが物語なのだろうか。物語に至る手前で終わっている。ついでにその内容のなさに呆れてしまう。昔話に飽きたのではなく、話の無内容に呆れてしまったようだ。相変わらず語るべき対象に出会えないようだ。何をするにもその行動の内的裏付けとなる思考や思想が欠如している代わりに、もっぱら外界からの作用に応じて自らの態度を決めている。要するに積極的に何かをやる気がないらしい。たぶん君は自分とは関係のない人物について考えているのかもしれない。その人物に何かを考えさせるようにし向けているのだろうか。その人物とは誰だろう。その人物の固有名がここに記されることはないだろう。そして話が混乱しそうになるとそこでやめてしまう。わざとそうやって何もない空白の周りを回っている。しかしそれ以上の何ができるだろう。それ以外に何を思いつけるだろうか。いったい誰が何を思いつくのか。見ず知らずの誰かが適当な何かを思いつくのかもしれない。それが君を利する時は永遠に来ないだろう。君は他人に利用されるだけ利用されて、何の利益も得られぬままやがて忘れ去られる。そんな宿命なのかもしれない。近頃の君はそれでもかまわないと思っている。なるほど、それが今回の無内容の話の結論なのか。はたしてそれは本当の話なのだろうか。にわかには信じがたい話だ。たぶん君の話には毒がある。では君の話の無内容は君の思うつぼなのだろうか。そんなことまではここでの話者にはわからない。


2月27日

 夜空を眺めているうちに、明日の予定を確認し始めている自分に気づく。このごろは絶え間ない刺激を求めて夜の街へと繰り出す者たちもめっきり減ったそうだ。魅力の乏しい街を再活性化させようと努力している奇特な者たちもいるらしい。彼らの弛まぬ努力はいつか途切れる。神と人間との媒介者も店をたたんでからだいぶ経つ。占い師は予言者ではない。今やそのどちらもがお呼びでない者となってしまった。ペテン師に用はないということか。神を讃える詩人に帰る場所はない。神殿は今も昔も世俗の垢によって薄汚い公衆便所と化している。そんな台詞を聞いたことがある。血気盛んな扇動者なら、その手の台詞で頭の中がいっぱいなのかもしれない。そうした決め台詞の宝庫は、いつの頃からか時代遅れとなってしまったようだ。似非扇動者のニュースキャスター氏もこのごろはあまり元気がないらしい。まあ北朝鮮ネタでせいぜいがんばってもらおうではないか。金正日氏も君たちの期待に応えて馬鹿げたおふざけを繰り返してくれることだろう。どちらが根性があるのか持久戦でもやっていればいいような気がしてくる。そんな八方塞がりの状況で帰る家のない者たちが右往左往しているのか。それでも帰る場所のある者は、あきらめて家路についている頃だろうか。語っているうちにどうでもいい内容になってしまう。そして今はとりとめもないことを思い続けている。かつては切れ目のない連続した思索の果てに、なんとかそこへ辿り着けたこともあったようだが、今はそんな根気とは無縁の毎日だ。実感としては半ばあきらめの境地なのかもしれない。まだそこから抜け出すための材料がそろっていない。そんなわけで、たどり着いた先へたどり着けずにいるらしい。ここはたどり着けずにいるそこへ至る途中なのか。その途中で適当に取り繕っているだけのようだ。取り繕いながらも活路を見つけ出そうと必死にもがいている。また嘘をついている。必死にもがいているのは夢や目標に向かって努力している者たちだけだ。本気でない君にそんなことができるはずもない。


2月26日

 このごろは深夜に目が覚めることが多い。それはいつものことかもしれないが、いつからそれがいつものことだと思うようになったのか。とりあえず春が近づくにつれて眠れなくなると感じるのだが、眠れなくなるので眠たくなるらしい。そしてそう感じるのはいつものことではないと思う。はたしてそんな症状の病気があるだろうか。眠いので今日は早朝から何も思わない。いったい誰がそんなことを決心するのだろう。それは決心ではなく実感だろう。何も思わないようにしたいわけはないだろう。君に限ってそんなことはあり得ないか。暗い明け方の空には何が見えるだろうか。晴れていれば適当な星が見えるような気がするが、それを眺めるつもりはなさそうだ。彼は冗談で吉凶を占うための星を探している。占うには頭上に見えている赤い星が目印となるらしい。それはいい加減なでまかせかもしれない。論述の指針を見失ってから久しいが、あらかじめ定めてあった目標とは何だったのか。そんなことを知っているはずもなく、ただでたらめに適当なことを思う。魔法の杖はどこで売っているのだろうか。おもちゃ売り場に行けばあるかもしれない。それを買うことが当初の目標だったのか。いい加減な目標は無視されて、意識はそれ以上の意味不明を求めているようだ。地下の迷宮は空想の中にあるようだが、迷宮の扉を開くにはどんな鍵が必要なのか。とりあえず鍵の形状は合い鍵屋に作らせよう。架空の山道でトンネルを掘り進むうちに、話が変な方向へ進んでいることに気づく。わざとそうしているらしいが、ところでその話はどこまで進んでいるのだろう。それは誰に聞けば教えてくれるだろうか。誰に聞いてもわからないのなら、それは迷宮に迷い込んだ証拠かもしれないが、そうやって支離滅裂なことを述べているのが愉快なのか。ひねくれ者の君は不快なことを述べるのが愉快でたまらないらしい。そんな文章を読み進むうちに不愉快になってくる。やはり話が変な方向へ進んでいるようだ。


2月25日

 道ばたにカラスが舞い降りる。そんな光景をよく見かけるが、例えばそれは幸運が訪れる前触れだろうか。なぜそう思うのだろう。どうも言葉を繰り出すタイミングが問題となっているらしい。しかし偶然の成り行きで繰り出されたそれらの言葉には違和感が残る。君は何を利いた風なことを述べているのか。それはいつものことなのかもしれない。繰り返されるのはそれに対する質疑応答のようだ。現世において何を体験するのか。それが悪夢の繰り返しだと思いたくなるのは、単なる被害妄想かもしれない。蛍光灯をつけたまま寝るのは体に良くないらしいが、体のだるさに負けてついつい寝込んでしまう。また風邪を引いてしまったらしい。昨日感じた寒気の原因は風邪の引きはじめなのか。いや、風邪ではなく花粉症かもしれない。原因はよくわからないが無性に酸っぱいものが食べたくなってくる。なぜそう思うのか、その無意識が思う見えない意図を想像してみる。体調の変化も冗談の一種なのかもしれないが、何に連動してそうなるのか、よくわからないものがある。要するに不快感に連動して深夜に意味のない言葉を記述している。そこで予定調和のごとく行き詰まる。わからないのはそんなことではない。絶えずそれ以上の結果を求めている君の無意識がわからない。常にできるはずもないことをやろうとしているのは、単なる誇大妄想でしかないのかもしれない。そうやって理想と現実のギャップを感じて苦しんでいるようだ。君はもう少し気の利いたことを語りたいようだが、いつも結果は違ってしまう。だがその違ってしまう結果に戸惑いながらも突き動かされているのは、それを改善しようとする意識なのかもしれない。何とか満足のいく結果を出そうと苦闘することによって、それらの継続が可能となるだろうか。ではもし満足のいく結果が出てしまった時はどうなるのだろうか。そこで終わりとなってしまうのか。今はわからないが、そのときが来たらわかるだろう。やはりいつも結論は予定調和のごとくそこへ行き着く。君はそれが気に入らぬらしい。


2月24日

 真夜中に何をやるでもなく眠気とともに起きている。今はどんな気分なのだろう。深夜の気分は普通の状態だ。だが普通とはどのような状態なのかわからない。気まぐれで何か難しいことを述べようとしているのかもしれないが、否定の応酬による相互作用から肯定的な言葉が生まれるはずもない。要するにいつものように何を述べているのかわからない。わからないが適当なことを述べているらしい。たぶんこの社会に知識や経験を生かす場などどこにもないだろう。そんなものは必要とされていない。それでも何らかの仕事を選ばなければならないのだが、それが苦渋の選択となるはずもない。すべては戯れ事の範囲内だ。そのすべて以外に別の状況があるだろうか。あるはずもないが、それがあたかもあるかのように振る舞っているのがあれらの人々なのか。あぶれた人々に夢を見させるシステムがそこに存在しているようだ。必要とされるのは人間ではなく、システムが円滑に動作するための環境なのだ。人間はその環境に順応して、それの歯車として動いてくれさえすればいいということか。とりあえず人間に中身は要らないのかも知れない。システムは夢の中身など求めはしない。ただ夢を見ようと努力してもらえばそれでいいわけだ。目標を掲げて、それに向かってひたすら努力していてくれれば、そのみすぼらしい外見に気づくこともないだろう。それに気づいた者達はこの社会から排除されるだけだ。浮浪者として漂っている人々はそうした境遇にあるわけだ。世の中のクズと見なされて、それを敏感に感じ取った子供達に襲われる。狩りをする子供達は、生きる価値のない者にはどのような仕打ちをしてもかまわない、というこの社会が醸し出すメッセージを体現しているのかも知れない。たぶんそれもシステムの一部なのだろう。しかしそのような環境の中で何をどうすればいいのか。消極的には矛盾を矛盾として受け入れて、それに対する処方箋を導き出そうとしないことだろうか。どうにかしようとは思わないことが、それらをやり過ごすためには必要なのだろうか。たぶんそう思うのは間違っているのだろう。だが今はそれでかまわいないと思う。間違っている思いをそのままにしておきたい。夢見る人々やそのシステムに勝とうとは思わないし、負けたままでもかまわないと思う。やるべきことはそんなことではないような気がする。しかもそれはやるべきことでさえない。


2月23日

 平静を装いながら焦り続けている。怠惰にまかせて何もしないと、どこへも逃げようのない状況に追い込まれてくる。今まさにそれをやるしかない状況に追い込まれているようだ。飽くことなく繰り返されるのはそんな状況の到来ばかりなのか。世の中には馬鹿げたことばかりがまかり通っているようだ。しかしそれによって生きながらえている人が大半かも知れない。わざわざ無駄なことをやって、そこから利益を出しているように見せかける。実際に利益が生じてしまうのだからどうしようもないだろう。確かにくだらぬことに金を出さざるを得ないことが多いか。今や現実に存在する物よりも、非物質的な情報やサービスに金を払うことの方が多いだろう。それがくだらぬことなのか。それの何が気に入らないのか。気に入らないことはくだらぬことだと短絡してかまわないのか。切羽詰まって何を語りたいのか。別に切羽詰まっているわけでも、気が触れているわけでもないらしい。ただ無内容なのかも知れない。今さらながら挫折は受け入れがたいが、考えることが面倒になってきた。相変わらず安らぎとは無縁の暮らしのようだが、君は安らぎを積極的に求めているわけではない。楽になろうとしてなれるわけでもないが、それでも楽になりたいようだ。それを求めなくとも、安らぎが向こうからやってくるようにしたいのかも知れない。それはかなり虫のいい話になるだろうか。ただ何もせず安易な気持ちのまま時間を浪費したいのだろう。たぶんそれが思惑通りの展開なのか。そうやって絶えず安易な気分を糧にして、無意味な文章を構築しようとしている。しかしそこには無理がある。結果的には構築しようとしているのとは違った内容になるだろう。結果がどうなるか当事者にはわからないし、それは君の思惑によって導き出されるのではなく、そこからは外れた偶然の産物にしかならない。君にはまだそれをやるだけのゆとりがある。そんな冗談を繰り出すだけの余裕がある。本当はそんなゆとりも余裕も要らないのかも知れない。だがどこかに穴が空いていて、その穴からすべての思考が漏れ出てしまう。要するにここに至ってなおもふざけているのだ。それが冗談ではないと思いたいが、何が冗談ではないのかわからない。その冗談とはどんな内容なのだろう。いったい君以外の誰がふざけているのだろう。誰かがどこかでふざけている。しかしその誰かはここにはいないので、ここではふざけられない。だからここでふざけられるのは君だけなのか。それがふざけている理由かも知れない。だが君はそれ以外のことをやりたいらしい。ふざけるのとは違う何かをやろうとしている。しかし結果としてやろうとしているのとは違った内容になってしまう。


2月22日

 どうも早く楽になりたいようだ。しかし楽になってどうするのだろう。楽になってしまったら、苦しみもだえる楽しみがなくなってしまうではないか。誰も楽になりはしない。死ぬほどの苦しみを味わいながらも本当に死んでしまうのか。死ぬべき人間はやがて死ぬだろう。たばこの吸いすぎと酒の飲み過ぎで死ぬ人が多い。彼らは皆六十前後の年齢で死んでゆく。内蔵を癌にむしばまれて死ぬ人は悲惨だ。確かに悲惨だが、死を自覚できるだけ幸せなのかもしれない。五体満足で健康に暮らしている者にとっては、死は他人の死でしかない。しかし本気でそんなことを述べているわけではない。彼は健康に気遣いながらどくだみ茶を飲んでいる。普通の酒は飲まずに養命酒を飲んでいる。はたしてそんな彼が今どこにいるのだろう。誰もが健康に暮らしたいと思っているようだ。そんな余裕もないのにダイエットに気遣う振りを繰り返している。それに関する様々なテレビ番組があることを君は知っている。だが彼が気づいているのはそんなことではない。誰も本気でそんなことに興味があるわけではないことを知っている。それらの内容を真に受ける人は少数派なのだ。この世に本気になれるようなことがあるなんて考えられない。そのせいぜいが斜に構えて、皮肉な台詞をつぶやくことしかできないだろう。何をつまらぬことに腹を立てているのか。なんで思わず感情的なことを口走ってしまうのだろう。後から思えば本当にばかばかしいことにこだわっていたようだ。そんな経験を繰り返しているうちに、いつしか何も感じることができなくなっているかもしれない。実感としては人々は不幸になるために生きている。たぶんそれは感じ方の相違だろう。些細な出来事にも原因を見いだしたいのなら、何事に対しても疑いを抱きつつ生きていくしかないだろう。そんな生き方が不幸なのか幸福なのか、それはそのときの感じ方や状況によって異なる。そんな芸風の漫才師は多い。


2月21日

 火災でもないのに屋上へ通じる階段は防火扉で遮断されている。それでも絶体絶命のピンチではないようだ。勘違いの余裕が逃げ口上を考えさせる。まだどこかに逃げ道があるのかもしれない。今のところはどうやってもそこから逃げられずにいるらしいが、明日になればわからないだろう。君は正気ではないのか。相変わらず自らが何を述べているのかわからない。壊れかけたドアノブの隙間から小さなムカデが這い出てくる。指先に強烈な痛みを感じてその場にしゃがみ込む。そんなはずではなかったのかもしれない。それは些細な罠かもしれない。どうやら罠にはまって痛い思いをしてしまったらしい。魔術に正面から立ち向かうつもりはないが、ここに働いている斥力をどうにかしなければ、ここから先へは進めないようだ。確かに目の前に見えているものは、現実の風景以外にあり得ない。これは夢の中ではないようだ。しかし目が覚めているのになかなか起きあがれない。心身にかなりの負荷がかかっているようだ。君は無理をしているらしい。それでもあきらめきれずに作業を続けようとしている。その情熱はどこから生まれてくるのだろう。もしかしたら命を削っているのか。そんな大げさなことでもないだろう。意識は大したことではないと思っているようだが、それが後々に響いてくるのかもしれない。あの時の無理が祟って結果的に寿命を縮めていた、ということにならなければいいのだが、本当のところはどうなのだろう。支離滅裂な内容にあきれているようだ。そんな逃げ口上では収拾がつかないか。何も思い浮かばない時はわざとそうしていることが多い。今日も眠気とともに反省の時がやってくる。どうやら今回も最後の言葉には至らないようだ。誰が最後の言葉を発しようとしているのかわからない。それらの言葉はここまで到達できずに途中で減衰して消滅してしまったのかもしれない。何らかの空気抵抗が途中に生じているのだろうか。彼も君も用心深くそれらの言葉を取り除いた上で、当たり障りのない似たような言葉を繰り出しているが、何とか見かけ上は言葉がとぎれてないように装いたいのかもしれない。そうやって無意味さを何らかの努力に結びつけようとしている。


2月20日

 物語の中では丘の上の教会から弔いの鐘が鳴る。誰を弔っているのか知らないが、葬式でも執り行われているのかもしれない。誰かが誰かを弔う、そんな行為が日常の光景の中にとけ込んでいるらしい。それは盗賊の鐘だ。賭け遊びの仕掛けで、賭博場に設けられている。彼は盗賊の鐘を打ち鳴らし続けているようだ。確かにその歌詞の中ではそう歌われている。君は映画音楽のスタイルによる演奏が好みらしい。陽の光が窓に反射して屈折する間に何を思う。何を思わない代わりに適当なことを考えている。適当なことではなくいい加減なことだろう。そのどちらにしても、どうでもいいような内容に結びつくようだ。内容には結びつかないかもしれない。どうでもいい内容が内容といえるだろうか。どうもここしばらくは言葉のつながりを見失っているらしい。なかなか視界が開けずにいるようだ。しかし言葉に視界があったりするだろうか。はたしてその辺に転がっている石に自由があるだろうか。そうやってまたもや抽象的な思い込みに逃げ込んでしまう。石と言葉をどうやって結びつけるつもりなのか。石でも視界が開ける時があるのだろうか。何か適当な言葉を発している。石と石がこすれ合い、その摩擦で熱が生まれ、ついには発火する時があるだろうか。それは火打ち石と磨製石器が誕生する瞬間かもしれない。では言葉は石からどうやって誕生するのだろう。石器を使うのと言葉を操ることに、どのようなつながりが見いだせるのか。石器を使って石に言葉を刻みつけるという行為から、最古の物語が誕生したのかもしれない。しかし最古の物語に教会は登場しない。ギルガメシュの冒険には神殿は出てくるが、まだ教会は存在しないだろう。確かに教会は出てこないが、大洪水の話は出てくる。ノアの大洪水の原型が、その数千年前にすでに存在していたらしい。


2月19日

 できることならそこから逃げ出したいが、逃げ出せない事情でもあるのか。どうやってそこから逃れることができるだろうか。近頃考えているのはそんなことばかりか。だが誰がそう思っているのだろう。時々そう思いたい衝動に駆られるのはいったい誰なのか。相変わらずそんな嘘をついているのは誰なんだろう。誰かが思いもしないことを他の誰かが思っているのかもしれない。それは情念と呼ばれる種類に属する感情だろうか。期待は予想以上のものがあるようだが、そんな期待はあっさり裏切られてしまうだろう。途絶えた言葉は永久に途絶えたままになるだろう。しかし誰がそれを期待しているのだろうか。その音楽は適当に変奏されて、元の曲を隠蔽してしまうだろう。残酷な話は軽薄な笑い話へと変奏され、そのとき君は我を忘れて彼になる。そんなことがあり得るとしたら、それは言葉遊びの範囲内でのことか。彼が何を思っているのか知らないが、代わり映えのしないことを考えているのは君の方かもしれない。地球の裏側での蝶が羽ばたきがこの嵐を引き起こしているのだろうか。因果応報がそんなことであるわけはないか。人の行いに報いが伴うわけもなく、そんな風に思わせる結果に過剰反応しているだけかもしれない。状況の読み難さはそんな自らの思い込みが邪魔をしているだけなのだろうか。だがそこで納得してはいけないそうだ。誰もそんな考えに納得するはずがない。しかし君の考えとは何か、その話のどこに君の考えが反映されているのだろう。彼は君の考えが知りたくて、盛んに話しかけてくるのだが、誰が酒の席で本心を明かすことがあるだろうか。君はそんな暗い性格なのかもしれない。まだ春には遠いらしく、深夜の戸外はかなり冷え込む。カーラジオから流れてくる誰かのアダージョを聞きながら、どこで言葉を反転させるか迷っている。このごろは迷い慣れてしまって、迷いは迷いのまま放置され、結局は忘れてしまうことが多くなってきた。昨日の夜は何を迷っていたのだろうか。たぶん思い出せないだろう。無意識のうちにわざと思い出さずにいるのかもしれない。しかし無意識に意図があったりするのだろうか。要するに意識と無意識の区別がつかないということになるだろうか。


2月18日

 そんなことはどうでもいいことかもしれないが、近頃のスポーツニュースでは、まだ公式試合が始まらないうちから気の触れた人々が騒ぎまくっている。なんでも日本を代表する棒振りの選手が海の向こうの有名な球団に移籍したそうだが、それがどうしたというのだろう。頭がどうかしたのかもしれない。練習している光景を毎朝テレビで流し続けている。試合で活躍したら報じればいいことでしかないが、そんな当たり前の意見は無視されるだけなのか。意図的に関心を引きつけようとしているのだろう。そんなことを想像しているうちにニュースを見るのが嫌になってきた。嫌気がさしてテレビを消して目を閉じる。電車の中でスポーツ新聞を読む人々のことを思い出す。それが文化なのかもしれない。考えてみれば君はおかしな社会に暮らしている。有名プロスポーツ選手の一挙手一投足に関心を持つことが、そんなにおかしなことだろうか。おかしなことだと感じる者の方がおかしいのかもしれない。それでも野球の試合を見ればそれなりに楽しめるかもしれない。練習光景でも楽しめるだろうか。熱狂的なファンならそれでも楽しいのだろう。中には有名球団のキャンプ地まで出かけていく人もかなりいるようだ。要するにそれらは劇空間ということか。そこで演じられるある種の劇を見たいわけか。練習もファンにとっては劇の一部ということか。その劇の解説書や評論がスポーツ新聞になるのだろうか。とりあえずそれが嫌なら、その劇の上演期間が過ぎ去るのを黙って堪え忍んでいればいいということになるだろうか。川の流れは絶えず上流から下流へ向かって流れている。黙っていてもそのうち消えてなくなるだろう。時の流れを押しとどめることはできないが、流れゆく時に身をまかせることはできそうだ。だがそれでどうなるわけでもない。時が流れゆく間に誰かが消えて誰かが生まれるだけか。この世はそんなことの繰り返しなのかもしれない。消え去る人々のために誰かが祈りを捧げなければならないようだ。誰もが霧の中へ消えてゆく。霧によって視界不良になり、高速道路では速度制限が実施される。


2月17日

 君はなぜそんな光景を見ているのだろう。散歩中の犬がふと橋の上で立ち止まり、遠くを眺めている。この川の流れはどこまで続いているのだろうか。近くの河川敷には市営のゴルフ場がある。この川をさかのぼれば山奥へ行けるだろう。反対に川を下れば海へ出る。たぶん関東地方では一番長い川かもしれないが、とても大河とは言い難い。なぜそんなことを思うのか。国土の狭い日本に大河などあるはずがない。ならば利根川は聖なる川だろうか。聖なる川とは、例えばガンジス川のことだろうか。彼の地へ行けば、緩やかに流れる濁った水の中で沐浴する人々を見かけるだろう。そんな光景に出くわせば誰でも信心深くなる。神はこの世にもあの世にもきっといるに違いない、とか思うようになるだろうか。では君が神なのか。なぜそんなことを問うのか。君が神だとしたらどうだというのか。確かに君はこの世にもあの世にもいる。君とはいろいろな君のことであって、その中の生きている君はこの世にいて、死んだ君はあの世にいるというわけか。だとしたらどうだというのか。もしそうだとしたら神は無能だ。確かに全能でない君が神だとしたら、神は役立たずかもしれないが、それでは全能の神が世界のどこにいるというのか。全能の神は神話や聖書の中にいる。だがそれらの神が本当に全能だといえるだろうか。神話や聖書の中に書き込まれている内容を信じるとすれば、確かに全能なのかもしれないが、全能とはその意味に反して、そのような限定された場でしか通用しない言葉だ。現実の世界で全能であろうはずがない。だがなぜ神の全能などというどうでもいいことにこだわるのだろう。神が全能であってもなくても、世界には何の影響もないことではないか。信仰の対象に実質的な力などありはしない。ガンジス川のほとりでは今日も祈りが捧げられている。とりあえず神に祈っている間は救われるかもしれない。聖書を読んでいる間は救われるかもしれない。君は役立たずの神だが、君に祈りを捧げれば祈っている間は救われるだろうか。試しに祈ってみたらいいだろう。何らかの御利益があればもうけものだ。


2月16日

 数日前には偶然の巡り合わせで今日に戻る機会がやってきたと思った。しかしそれが日付を戻すための千載一遇のチャンスだと思ったとたんに無理になってしまった。結果的にはそれは思い違いであって、実際にも無理だった。そしてその後に用事が立て込んで、気がついたら数日が経過してしまった。月日が経つのは思ったよりも早いものだ。そしていつもながら過去に思っていたことを忘れているようだ。要するに今何を語ろうとしているのかわからない。時間の経過が自らの思いを打ち砕いてしまったが、そんな大げさな表現ではおかしいような気がする。どうも思い違いは今も続いているようだ。ではそれを利用して心にもないことを述べてみようか。どこかの誰かが適当なことを主張している。戦争は最後の手段であり、最悪の解決法だ、と。なるほどそれはごもっともな主張かもしれない。戦争回避のためのあらゆる努力を惜しまないということらしいが、朝日に向かいまぶたを閉じればオレンジ色を得られるだろう。遠い異国の出来事に無関心でいられようか。無関心でいられる人もいるだろう。中には無関心を強いられる人も出てくるだろう。冷たい人々は冷戦が好みのようだ。更なる飛躍には無数の人々の無駄死にが必要なのかもしれない。人々の死が国家の愚かさを自覚させるとは限らない。今も昔も戦争は繁栄の象徴なのだろうか。一つの国家の繁栄を維持するためには戦争の継続が欠かせない。そのような一般論は受け入れがたいか。個々の状況について吟味して、戦争を行うか否かを判断しなければならないということになるだろうか。しかしそれはどこかの誰かが判断することでしかない。その愚かな判断に従わざるを得ない人々も中にはいるようだ。それはそれで仕方のないことなのかもしれない。とりあえず戦争をやってみて多数の死傷者を出して、その後で何らかの変化が起こるだろうか。何も起こらないかもしれない。取り返しのつかない事態はもうすでに過ぎ去ってしまったのか。機会を逃してしまっているということになるだろうか。では千載一遇のチャンスはいつやってきていたのか。今となっては誰も知るよしもないことかもしれない。何となくどのような未来になろうと適当にやっていけるような気がしている。やっていけなくなったらなったで、そのときはどうにかなるだけだ。


2月15日

 何か気になることでもあるのか。興味深い現象とはどのようなものだろう。君はその不可思議な動作に見入っている。映像の中では見知らぬ闖入者が挙動不審を繰り返す。何を焦っているのか。焦って当然だろう。何もできない状況に追い込まれてからもう何日も経ってしまっている。それは自らの怠惰が招いた状況なのか。原因はそうではないと思いたいが、結果としてはそんな言葉でも納得がいくかもしれない。いつの間にかつまらないことを述べてしまって冷や汗が出てくる。そのとき何を考えていたのか知らないが、たぶん君は苦し紛れに思慮の足りないことを述べていたように思われる。何となく後からそれを実感しているようだが、もはやそうなってしまっては後の祭りだろうか。評論家ぶって利いた風なことをいくら述べようと、その内容はいつまで経っても稚拙なままに止まっているようだ。それはいくら努力しても拭いがたい稚拙さなのだろうか。しかしなぜそう思うのか。たぶんそれを拭い去るだけの時間がないのかもしれない。時間がないので努力できないということになるだろうか。しかしそれではいつまでも言い訳の範疇から出られないだろう。為す術を見つけられずに困っているわけなのか。それ以外にも困惑の要因はあるのかもしれない。いろいろなことで困っているのかもしれないが、とりあえず表面的には困惑する日々はいつか過ぎ去るだろう。時間が困惑を忘れさせる。ところで何を困惑しているのか。今はわけのわからぬ話の展開に困惑している。それは困惑しているのではなく単に迷っているだけではないのか。その先へどう話を展開させたらいいか迷っているようだ。確かに迷っているが、どうしてもそうしなければならない理由でもあるのだろうか。なぜそこから軌道修正して適当な内容で済ませないのだろう。簡単なことならすぐに述べることができそうだが、それを述べてしまったらそこで終わってしまうような気がしている。しかしそれが何もできないことの言い訳なのか、本気でそんなことを思っているのだろうか。しかしそんなこととはいったいどんなことなのかよくわからない。何を思うでもなく、それでも何かしら思っているのかもしれないが、なんだかよくわからない。つまらないことにいつまでもこだわっているのだろうか。たぶんそうなのだろう。そんなこだわりなどは今すぐに放棄すべきなのか。しかし当然のごとく放棄するには抵抗がある。他人から何かを指摘されれば、必ずそれに対する反発が生じたりするものなのか。自らの非を指摘された者は猛烈に反発するのが当然なのかもしれない。しかし今さら反発してもどうなるものでもない。抵抗する気力がどこかへ消失してしまったらしい。ともかくこの状況をどうにかしなければならない。


2月14日

 最初から矛盾しているかもしれないが、冗談で真剣に討論したいらしい。政治家は中道からやや右よりのことを述べるべきであり、そうすれば大衆の支持を取り付けられるそうだ。いつかどこかで誰かがそれに類したことを述べていたかもしれない。それらのアニメでは、大人の論理に逆らう少女を少年が助け、ともに大人たちと戦う筋書きになっているようだ。その戦いの中で作者の化身の化け物たちが少女と少年を援護するわけか。そして最後には子供たちの論理が勝利するようだ。君はそれらのアニメを馬鹿にしているのか。だが本当に他愛のないアニメだろうか。何かを故意に見落としていないか。たとえばそれは高度なアニメ制作技術のことか。あるいは海外での好意的な評判のことか。それらのことごとくはつまらない側面であり要素だ。話的に化け物の助けを借りて大人たちに戦いを挑む子供たちではつまらない。ただそれだけの感想でしかないのかもしれない。その手の当たり障りのないファンタジーよりも、現実の世界で感じている不条理や矛盾の方に興味があるのかもしれない。何よりも自然は、人間が空想するような大げさな化け物を用いて人間たちに攻撃を仕掛けてくるはずがない。自然にその手のこけおどしはない。それが攻撃だと感ずるのは人間側の勝手な思い込み以外にあり得ない。人間が自然から区別された特別な存在だと感ずるのも人間側の勝手な思い上がりだろう。そのいずれもが、自然の及ぶ範囲を人間側で勝手に狭めていることからくる錯覚だろう。たぶん自然は人間の相手などしてはくれないだろう。人間が相手をしていると思いこんでいる自然は、人間側の勝手な都合で作り上げられた幻影かもしれない。たとえば壁を手で押せば、その反作用として壁から力を感じるのと同じことだ。自分たちの力が反転されたものを神の力だとか勘違いする。そのアニメの中で表現されている神の力も、それに携わった人間たちの労働によって生じたある種の力が、画像の中で神の力が発現したかのように表現されているにすぎない。


2月13日

 無色透明の水にも味があるように、空気にも色がある。夕日に照らされて辺り一面がオレンジ色に染まっている。明日に思い出すのはそんな光景になるだろうか。昨日のことを思い出せずに明日になってしまう。それでも感動を求めているつもりのようだ。そうやって無駄な言葉を紡ぎ出す。近頃は無為に時を過ごすことが多くなってきた。この世界には危機が迫っているそうだが、それらの危機は閉じられている。ただ閉じた世界で争いごとが話題となっているにすぎない。そしてそこから距離を置いたこちら側の開かれた世界では、人がどこで何人死のうが無関心でいられる。自分さえ生きていればそれでかまわないのかもしれない。ではその自分が何らかの事件に巻き込まれて死んでしまったらどうするのか。死んでしまってはどうしようもできないだろう。ならば死ぬ間際に自分の死に対して無関心でいられるだろうか。時と場合にもよるだろう。面倒なのでとりあえず死ぬ間際になった時に、考えるいとまがあったら考えよう。たぶんそれでは手遅れなのだろうが、何となくそれでもかまわないような気がする。死ぬ間際になった時点ですでに手遅れなのだから、そのときになって何をどうしようと無駄だろう。適当にでまかせを述べるならば、死は風とともに去っていくものだ。死が去った跡には屍が残るかもしれないが、その屍にもはや意識はないだろうから、今ここにある意識にとって死後の世界はどうでもいいことなのかもしれない。意識にとっての最優先課題は、いつか到来する死後の世界を想像することではなく、今体験しつつあるこの状況をどうやって切り抜けるか、ということだろうか。しかし死後の世界とこの状況がリンクしているとしたらどうだろう。自らの死後の世界を思うことが、この閉塞状況を切り抜けることにつながるとしたら、やはりそれについて空想してみる価値はあるのかもしれない。そうやって無駄な言葉を紡ぎ出す。そうやりながら状況を打開しようとしている。そんなことを思っているうちに、死後の世界について今さらいい加減なことを述べるのが嫌になってきた。たぶんその程度の内容ではすぐに飽きてしまうだろう。そんなわけで、すでに別の対象を見いだしつつあるらしい。


2月12日

 それはどういう状況を示しているのだろう。支離滅裂な状況なのだろうか。なぜか黄色い壁紙が目に映って脳を刺激する。もちろんその光景がどこまでも広がっているわけではなく、小さなCDケースを覆っているにすぎない。些細な黄色の表面が意識を支配しているらしい。やはり何もないところから何かが生じるわけもなく、何かしら関心を惹く対象がどこかにあって、そこから適当な言表が導き出されるようだ。どこからともなく不可思議な言霊が生まれてくるはずもないか。ただそれらの言葉の連なりは精彩を欠いているように思える。何か画期的で独創的なことを述べようとして、意識して奇をてらっているのかもしれない。このままでは以前と同じようなことの繰り返しになってしまうだろうか。それでもいっこうにかまわないか。かまわないわけではないが、その辺がにわかには判断しかねるところか。何やらそこで停滞してしまっている。そこで立ち止まってはいけないのかもしれないが、わざと立ち止まって意味のない休息をとっているようだ。意味もなく無駄に思考を重ねて、無駄に言葉を連ねて、無駄ではない時を過ごしているときを知らない。なぜ無駄なのかは知らない。何となくそう思っているだけにすぎないのだろうか。無駄こそが非生産的な休息を形作っているのであって、そのとき様々に思いを巡らしていたいだけなのかもしれない。その結果として、有益な結論の出ないことを願っている。そこで終わってしまっては困るからか。しゃにむに効率的な生き方ばかりを追求できない。自らのためになることばかりを追い求めている者は間違っている。そんな情報ばかりを民衆に向かって流し続けるマスメディアは貧相だ。いつか廃れてしまうような予感がする。自らのためでも他人のためでもなく、ただ何となく目的の希薄なことを提示できないものか。そんなものが世界の多様性や豊かさを表現していると思われる。社会にはそうした余白のようなものが必要なのかもしれない。なぜか混乱の極みから利いた風な結論を導き出すことができたが、本気でそんなことを思っているわけでもなさそうだ。


2月11日

 どこからか何かを伝えてくる人がいるようだ。感情の表面には様々な色を塗り重ねる以前に白が塗られていたらしい。それはやはりわけのわからぬ内容になりざるを得ない。睡魔に負けて明かりを消した部屋の中に闇が現れる。その闇の向こうには、明日への希望が目を閉じて沈黙している。たぶん明日の夜には同じような闇があるだろう。向こう側の闇は外気に触れていてかなり冷たい。どうしてもおかしな言葉遣いになりざるを得ない。何か適当なことを思っているようだが、それに該当する言葉が存在しないのだろうか。そんなことを思っているうちに、その思いとは別の感情が内部から滲み出てくる。この世界に理想的な環境はあり得ない。そうした自己実現の要求は現実によって却下されるだろう。不可能なことを思い続けてあり得ない言葉を模索してしまう。その結果ただ納得できない状態が続いていく。いつ何を思い、誰が何をしたのか。世間ではそんな当たり前の言葉遣いが推奨されているわけか。親切心からか誰かがそんなことを指摘する。そんなくだらぬことは忘れてしまったらしい。つまらぬ思いをつなぎ止めていた記憶は、すぐに忘却の彼方へ走り去る。その軌跡を辿りながら、かろうじて見つけ出された残滓から何かを作り上げようと試みる。形あるものはその形を残さずに、抽象的な言葉として空白を穿つ。そんな出来事は覚えていない。その時点で問題は先送りにされている。そんなわけで、誰かが気の利いた提案をしているつもりになる。未来に向かって何か気の利いたことを述べてみよう。たぶんそんなことしかできないように思われるが、今はそれさえもままならない状況にあるらしい。自意識を支えている土台は不規則に揺れながらやがて倒れ落ちるかもしれない。その気になってあまり無理をしてはいけないようだ。もはや織り込み済みの不具合は放っておいた方が良さそうだ。しかしこのままでは何が危ないのか誰も知らないだろう。まったくそれは思い過ごし以外の何ものでもない。危ないのは架空の人物の頭の中か。創造は想像力とは関係のないところで執り行われている。頭は相変わらず消化不良のようで、養分を吸収し切れていない状態が続いている。


2月10日

 なぜかペーター・ハイドリッヒの「ハッピー・バースデイ」変奏曲を聴いている。やはりこれはギャグの一種なのだろうか。クラッシックのユーモアにはついて行けない雰囲気がある。なるほどイギリスの国歌は「ゴッド・セイヴ・ザ・キング」と呼ばれる時期もあるようだ。ようするに今の皇太子が王位についた場合はそうなるのだろう。ジミ・ヘンドリクスがアメリカ国歌でやった試みの百年前に、同じようなことをイギリス国歌でやった人々がいるらしい。しかし当時はビクトリア女王時代だったように記憶しているが、もしかしたら国歌が「ゴッド・セイヴ・ザ・クイーン」と呼ばれるようになったのは、現在のエリザベス女王の時代になってからなのかも知れない。そして曲目は「蛍の光」変奏曲へ移る。しかし演奏している人たちは真面目な気持ちでやっていられるのだろうか。編曲者も演奏者も愉快な気分でやっているということだろうか。ではエレジー(悲歌)の時はどうなのだろう。悲しい気持ちへ気分転換できるだろうか。そんな都合良く即興で意のままに気分転換できたらどんなに楽なことだろう。やはりそれは演技していることになるのだろうか。ようするに演奏も演技の一種ということだろうか。そうではなくやっている人々の気分には関わりなく、結果としてそれを聴いている聴衆がそのような気持ちになったらいいということだろうか。だが現実にはとてもそんな気分にはなれない。「蛍の光」は卒業式などで聴きすぎてしまっているので、それをどのように変奏させて聴かせようと、自分の耳と脳ではどうしても音楽として楽しめなくなってしまっているようだ。「ハッピー・バースデイ」も誕生日でしか聴かれない曲なので、それ以外では聴くに堪えない。どうも特定の行事と深く結びついてしまった曲は、それ以外の時に聴くには適さない状態になってしまっているらしい。ようするに曲自体が行事の虜になっていて、それを音楽として聴こうとする聴衆を遠ざける結果となっている。社会慣習が曲を殺してしまっている状態なのか。それがまったく聴いたことのない曲だったら楽しめたのだろうか。


2月9日

 ブロンズ像の視線は固定している。その遙か遠くを見つめる目は何を見ているのかわからない。たまたま遠くを見ているように見えるだけで、実際は何も見ていないのかも知れない。だから想像にまかせて在らぬ思いを巡らす人々には格好の獲物なのかも知れない。本気でそんなことを思っているのだろうか。本当に誰がそんなことを思っているのだろう。だがどんな見つめてみても、そのブロンズ像は相変わらず遠くを見つめるばかりだ。それを見つめる者の意など介さないだろうか。ブロンズ像に内的な思考作用はない。世間に流通している一般常識に沿ったことを述べるならば、それは作者という誰かによって作り上げられたものだ。たぶん外的に作者の意識や思考作用が反映されて、結果としてそのような姿形になったのだろう。それは中身ではなく表面の形状だけに反映されているものだろう。もちろん像が大きくなれば、それを支えるための内部構造も工夫しなければならなくなるだろうが、あくまでもそれは純粋に建築技術的な要素であって、見た目が重要なのは当然のことで、人々に見られるためだけにブロンズ像は存在していることは確かだ。それ以外の用途や役割は枝葉末節的なものだろう。とりあえずその場に何らかの雰囲気を醸し出すために設置されているらしい。美術館には美術館らしさを、公園には公園らしさを、駅前には駅前らしさを、会社や学校の建物の前にもそれらしさを見せるために設置されているわけか。教会にはキリストの十字架像や寺院には仏像が必要なように、それらの像にもその場を象徴するような意図が込められているのだろうか。しかしそうなると作者特有の思考作用とは何だろう。もしかしたらそれは用途や役割とは無関係なものであって、場合によっては邪魔な要素にしかならないのではないか。そうなると作者は要らなくなるだろうか。それが作られる過程では必要かも知れないが、いったんできあがってしまえば、もはや作者など用済みの邪魔者なのではないだろうか。その作品に名前が必要なのは、オークションで値段をつり上げる売人と、それを高値で買って自己満足に浸る収集家だけなのかも知れない。その名前だけでありがたがって見に行く人はそれらの人々にだまされている。


2月8日

 気まぐれで深夜に目が覚める。目覚まし時計が床に落ちて時計の針が折れ曲がる。今なら何かを述べられるかもしれない。だが時間的にはいつもの時間になってしまったようだ。何かしら述べているそれが今から何日後の時間なのか定かではない。放っておけば誰も知らない時間帯にどこかの寺で鐘が鳴るだろう。たとえばそれは黄泉の国から聞こえてくる死の響きだろうか。まさかそんなわけもなく、ただ夢の中では正しい年月を思い出せない。いったい忘れ去られた歳月はどこで思い出せば納得するだろうか。それを君が思い出したところで誰も納得しないだろう。それが嘘に塗り固めた作り話だということは今や誰もが知っている。ならば忘れ去られた歳月は忘れ去られたままにしておくべきなのか。4声のカノンを聴きながら、何事もなかったかのように振る舞い続ける。嘘がばれても居直っていればそれでいいのかもしれない。次第に何をやるのも面倒になってくる。良心には基準というものが存在しないそうだ。恩はあだで返すのが世間の常識なのかもしれない。誰もがただやりたいようにやれる環境を作ることに腐心しているらしい。誰も恨んではいけない。やれる範囲内でやることしか思いつかないのは想像力に欠ける証なのか。だからやれないことまでやっているような妄想と戯れる遊びが流行する。そんな幻想に浸かっているうちはまだ正気であるらしい。それを超える体験をしたくなると危うい状況が近づく。だが自意識はそれが実現するのを待ちわびている。自らが自らでなくなる瞬間を待ち望んでいる。そうやって実際に変身を遂げた姿が目の前にいる一匹の毒虫なのだ。今はそこから遠ざかっている。なぜか毒虫の方も君を敬遠しているようだ。君の相手をするのが面倒になったのだろうか。物陰に潜んでいたようだが、そのうちどこにいるのかわからなくなってしまった。春になればどこからか這い出てくるかもしれないが、そのときにはもう忘れていることだろう。飽きっぽいので、たぶん関心は他の現象へ移っている。だから忘れ去られた歳月が意識の中へ戻ってくることはない。


2月7日

 他に何も思わないとき、そこで何を思っているのだろうか。何も思わないが、やり残したことがあるかもしれない。しばらく夜空を見上げて、疲れることを忘れていたことに気づく。忘れかけていた疲労は忘れた頃にやってくるだろうか。曖昧な頭痛とともに何かひらめいたふりをしてみる。指先のしびれは何を示しているのか。何もひらめきはしないし何も示しはしない。もうすでに何かが示されているのかもしれない。何も思わないときには空白と空虚と虚無が示されている。何かを思っているときにはそれなりのことを述べられるかもしれない。途中で気が変わって、いい加減に適当なこと遊びで済ますこともできるかもしれない。しかしそのとき良心の呵責がじゃまをしたりするかもしれない。それでは言葉の用法が間違っているだろうか。そこで何を思おうと自分の勝手とはならないような気がしてくる。性急に言葉で表現しようとすると、間違った言い回しになってしまう。その間違いを修正しているうちに元の感情は失われてしまう。それは様々な場面における戦い方が兵法として書物にまとめられてしまったとき、実戦での臨場感とその時の思いが失われるのと同じことか。なぜそこまで突然意味もなく飛躍してしまうのか。ひらめきとはそういうわけのわからぬ不連続な思いつきのことだろうか。それもひらめきの一種かもしれないが、それとは別のひらめきもあるかもしれない。もっといい加減な思いつきの方がおもしろいと思われる。たとえばこんな風にふざけてみるのも一興だろう。どんな風にふざけているのかそれを述べていないことに気づく。それがふざけているということか。簡単に語ってしまうようではつまらなく思える。それを簡単に語ってしまってはすぐに終わってしまう。だからできるだけ回りくどく語りたがるのか。些細なことに多くの言葉を費やしているようだが、その些細な出来事をうまく表現し切れていないような気がする。そのくだらぬ見せ物に囲まれた劇場空間と縁を切ることは不可能なのか。間接的に欲望の在処を示しているだけでしかないものに意識を支配されている。それらのまやかしの中に君は何を見つけようとしているのか。適度に馴致された中庸感覚に浸かっていたいだけなのか。


2月6日

 想像上のサンドバックから砂がこぼれ出す。砂時計のガラスが砕け散る。そのとき何を空想しているのか想像してみよう。またわけのわからないことを述べようとしているらしい。それでも我々は天国を求めている。それでもとはどういうことだろうか。どこかの誰かが絶望にうちひしがれていたりして、それでもその誰かは天国を求めているということだろうか。だが我々とは何なのか。どのような人々が我々だと特定されるのだろう。我々はそれらの人々のことを知っているはずだ。天国を求めているのはそれら人々ではなく我々の方なのだ。我々が天国を求めているのであって、それらの人々はもしかしたらあの世にいくことを望んでいるのかもしれない。盛大な追悼ミサでも行えば、彼らは安心してあの世へ旅立てるだろう。死んだ人々は生き残った人々に対して、我々のために大げさな追悼式典を行えと要請してくるらしい。どこかで我々とそれらの人々の立場が入れ替わってしまったようだ。今や我々には命がない。世間では失った命は二度と戻ってこないだとかいわれているそうだが、それは身内を殺された遺族とそれに同情するマスメディアが、殺した者に投げかける決め台詞だろうか。いったいこの事態をどうしてくれるのだ、と凄んでみせるわけか。だがそんなことに我々が動じるはずもなく、その手のたわごとは受け流されるだけかもしれない。我々には想像上の輪廻転生がある。我々はそれが起こることを固く信じている。何よりも我々には信仰がある。我々は信仰によって救われたいのではない。信仰によってこのすさんだ世の中を天国にしたいのだ。それは救われるようなことではない。その逆に、もう誰も救われないようにしたいのだ。この世が天国になれば救われる者はいなくなるだろう。もしそうなれば誰も救われようとは思わなくなる。地上に天国を出現させるとは、そのような意図を伴っているのかもしれない。誰も救われようとは思わなくなるようにすることが、我々に課せられた使命なのだ。誰も信仰に救いを求めようとしなくなる時、それが実現するかもしれない。しかし我々とはいったい誰なのだろう。


2月5日

 君は独りよがりの思い込みからどうやって抜け出られるのか。抜け出ようとは思わぬことが大事かもしれない。面倒だからこの先も独りよがりのままで生きてゆけばいい。なぜか突き放した意見に遭遇してしまう。そんな成り行きにしつこく異議を唱えてみても仕方がない。その行為がどんな成り行きを呈しようと、その程度の思い上がりは織り込み済みだ。いつまでも思い上がりのままでかまわないだろう。何事も現状の範囲内に落ち着いてしまうようだ。その程度ではそれを越えたり打破してしまうには至らない。ただひたすらその程度にとどまり続けるのだ。その程度にどこまでも耐え続ける。それ以上でも以下でもなく、いつまでもその程度を維持し続ける。はたしてそんなことが可能だろうか。だがそれでもその程度を越える現実には出会えないだろう。ここはそういう世界なのかもしれない。しかしほかに別の世界があるわけではなく、世界はここしかないだろう。要するにこの世界はこの程度でしない。それは暗黙にこの程度を越える自体になってほしいという気持ちを含む言説なのか。いつの間にかその程度がこの程度になってしまう。その程度とこの程度の違いは何だろう。そこにどのような程度の差があるのだろうか。その程度とこの程度のそれぞれの程度の具体的な程度を、あらかじめ設定しておくのを忘れてしまった。程度の内容自体がここでは言及されてない。なぜ君はそれを述べようとしないのだろう。程度自体がはっきりしないのではないのか。結局はその程度もこの程度もその程度のあやふやな程度なのだ。独りよがりの思い込みだけでは所詮この程度の内容にしかならない。どこまで行ってもこの程度の内容から抜け出ることはできないだろう。だからいい加減にあきらめて、この程度の内容で妥協した方が良いのではないだろうか。この程度にとどまり続ければ、それなりの継続が可能となるだろう。これを越えることを望んではいけない。越えようとするなど身の程知らずもいいところだ。では冗談でなら越えてもかまわないだろうか。それはどういうことなのか。どういうことでもなく、いつの間にか君は冗談でこんなことを述べているのではないかと思い始めている。無意識のうちにそう思うように何らかの計算が働いているらしい。君の意識の中では、はじめからこの程度の内容になることは織り込み済みだったのかもしれない。だからこんな現状を打破しようとは思わない。打破するのではなく、積極的に放置すべきだと君には思われる。


2月4日

 よくハウツー本で見かける人生の成功とは何だろう。何を持って成功といえるのか、その結果を成功と断じる根拠は何だろうか。たぶんそれらの本には、それなりの根拠と理由が述べられているだろう。電車の中で目についたその雑誌の中刷り広告には、紋切り型の台詞が満ちあふれている。わかりやすさとは愚かさのことなのか。テレビではスペースシャトルの事故をマゼランの世界一周と比較するコメンテーターを見かけた。アメリカのメディアにもその程度の輩が存在するようだ。だがその程度以上に何を述べられるのかを知らぬ。しかし冒険には危険が付き物という紋切り型で片づけて良いものか。それ以上の何をコメントすればいいのだろう。君はそういうわかりやすさが気に入らぬらしいが、どう述べれば納得いくのかわからない。何を見聞しても違うと感じてしまうのはなぜだろうか。それは自らの思い上がりだろうか。そう感じてしまう意識が違っているのかもしれない。世間の常識と大きくずれているのだ。それはどこまでもそういうことでしかないのに、無い物ねだりでそれ以外を求めているだけでしかないのではないか。そういう現状を受け入れられないようだ。それはそれとして、それが嫌なら、それとは別の方向に思考の対象を見つけなければならないということか。だが別の方向に何があるのだろうか。別の方向を見いだせないし、そこに何があるのかもわからない。要するに能力不足ということになるだろうか。感知能力に欠けているのかもしれない。どうも適合できないらしい。現状にフィットしないということになるだろうか。君には常識との接点がまったくないのだろうか。何が常識なのかよくわかないが、それほど非常識なことを述べているとも思えない。もしそれが狂っていることの証だとするならば、狂っていた方が気楽かもしれない。どう考えてみてもおかしい。明らかに無理があるように思えるのだが、その無理に気づかないでいるようにも思えてしまう。いつかその無理がたたってどうにかなってしまうような予感がしてくる。


2月3日

 彼はつまらぬ言葉に囲まれて暮らしている。誰かが利いた風なことを述べる。二十一世紀は人間そのものを変革しなければならない世紀だそうだ。人間を変革してどうするのか。どうにかしたいのだろうが、たぶん人間の中身は空っぽだろう。空っぽの人間をどう操作しても空っぽは空っぽのままだ。空っぽ以外の何ものでもない。なぜそう思うのかわからない。なぜそうは思わないのか。すぐに短絡せず、そこに至る経緯を想像してみたらどうか。どうも頭のどこかに不具合が集中しているらしい。すべてが空虚では何も始まらない。間違うには間違うなりの理由があったら、少しは気が利いているというものだ。何事も完璧とは行きがたいのはわかるが、そのことごとくがうまくいかないとなると、やり方自体が間違っているのではないかと思いたくなる。もしそうであれば、何となく物事を前向きに考えたくなるだろう。確かに今までのやり方を変えなければならない時期にさしかかっているのかもしれない。そう簡単に変えられるものでもないだろうが、何とかわずかでも変えようと試みる姿勢も大事ではないだろうか。ところで君は何を変えようとしているのか。何を変えればいいものか、にわかには見当がつかない。いったい君は何をどう変えれば納得がいくのだろう。納得いくいかないの問題ではなく、結果としてうまくいけばそれで良いのではないか。誰が良いと思っているのか。現状ではうまくいっていないし、その上納得もいかない状態ではどうしようもないだろう。ではこのままでも良いというのか。このままで良いわけはないが、良くない状態のままであってもいっこうに差し支えない。差し支えないが、とりあえず君の思惑とは無関係に変わるかもしれない。変えようとするのとは別の状態に変化するだろう。誰の力によって変わるのではなく、自ずから変わるのだ。変えようとする努力は無駄ではないかもしれないが、変わり方はそれとは別の要因によって変わるのかもしれない。今も状態は刻々と変わり続けている。そんなことは当たり前のことかもしれないが、その当たり前さを受け入れる人は少ない。変わっているのに変えようと試みる者が後を絶たない。そういう変わり方では不満なのだろうが、彼らの思い通りに変わることはあり得ない。


2月2日

 スペースシャトルはまるで空中火葬場だ。生きたまま焼かれる瞬間に乗組員たちは何を思ったのだろう。何も思う間もなく大気との摩擦熱によって焼き尽くされ、空気中に漂う塵にまで分解されてしまったのか。なかなか壮絶な最後かもしれない。昔コヤニスカッティという映画を見たことがある。もう一度見たくなってきた。あのラストシーンに映し出された光景は何だったのだろうか。自分の勘違いかもしれないが、ロケットが爆発して、爆発の最先端で人体が空中高く舞い上がったように見えたのだが、あれは単なる幻影だったのか。しかし運命とはああいうものなのか。それの何が運命なのかわからないが、信心深い人によれば、運命のいたずらは神の仕業だったりするわけか。とりあえず何かと何かが結びついて、それを伝える人々の間に情緒的な気分を構成してしまうらしい。その出来事自体には特定の意図は何もないだろう。要するにそれらは一つの形式なのかもしれない。様式美の世界に似たような人間模様がいくらか垣間見える。その後、焼け焦げた遺体の一部が発見されたらしい。すべてを焼き尽くすには時間が短すぎたのだろう。大気にとっては焼尽に帰す必然性はなかったのだろうか。何事も中途半端な方が残酷さを醸し出す。やはり焼き加減はレアやミディアムの方が好まれるのか。だがいったい誰がそんな焼き方を好んでいるのだろうか。ステーキハウスの常連客ならあり得るだろうか。とりあえずそれは運命の仕業か、あるいは偶然のなせる技だろう。なるほど、こうして安易な答えならすぐに導き出せるが、はたしてそれが答えになっているのか。何をもって答えとすればいいのだろう。傍観者がまともな答えに辿り着く必要はないということか。とりあえずアメリカがこれからイラク攻撃を行えば、少なくとも七人の尊い命の何十倍もの尊くない命が失われることは確かだろう。その辺の不合理をそれらを報道することになるマスメディアがどうやって誤魔化すのか見物といえば見物かもしれない。


2月1日

 今は乾季と雨季のどちらなのだろう。太平洋側では乾季かもしれないが、日本海側では雪季かもしれない。地球温暖化によって失われた季節は乾きによって補われるか。のどの渇きは水を求め、渇いた大地は血を求めている。何やらわざとらしく格好を取り繕うつもりのようだが、相変わらず何を述べているのか意味不明だ。寒風が流感を運んできたわけではないだろうが、寒気がしているので風邪薬を服用する。あとも数週間もすれば春になってしまうのか。春になる前にもう少し冬を味わうことになりそうだ。季節の移り変わりの他に何が起こっているだろうか。些細な出来事なら適当に起こっているかもしれないが、興味を引くような出来事は何も起こらない。だがその些細な出来事の中にある種の意味が宿るだろう。その意味が文字として空白を穿ち、偶然にそれを読んだ意識は、言葉が作り出した空虚のただ中に釘付けにされているのかもしれない。だがその意味とは何だろう。文字によって示されているそれらの何が意味なのかわからない。君はその意味をここに提示できないようだ。意味を言葉で構築する努力を忘れてしまった。だから今は意味に行き着かずに迂回してしまう。またもや意味を通り越して、わけのわからない表現になってしまう。いったいそれはどういうことなのだろう。どういうことでもなく、言葉を繰り出す自らが、傍観者の立場にしかなれないという仕組みから、奇妙な感情が生み出されるらしい。傍観者のままで無理にやろうとすれば、無責任な言動に終始するだけだが、結局はそれが人畜無害な表現に至ってしまうことが気に入らないらしい。君はそれらの言動が何の効果ももたらさないことが歯がゆいのか。どこまでも間接的な表現しか出力できないことが不自由に感じられるのか。そんなことを思っているわけもないだろう。やはり君はわざとらしく嘘をついている。意味の外部から衝撃がやってくる。非意味を構成する奇妙な言葉の連なりによって読む者を惑わす。そんなことが飽きもせず繰り返される。戦略とはそういうものだろう。それがこれらの空虚を形作っているのかもしれない。