彼の声29

2002年

3月31日

 その祈りはどこへ届くのだろう。なぜ望まれた結果にならないのだろうか。そんなわけで究極の事態は到来しないだろう。誰もがそれぞれ違った結果を望んでいる。思惑は人それぞれで千差万別だろうから、望んでいる内容も異なるだろう。だから究極の事態は到来しないのか。それを究極だとは思わない者が、事態が究極だと見なす者に反論するからなのだろうか。だからそれが究極だとするならば、そうは思わない者にとっては、究極は究極ではなくなってしまう。そこで祈っている者は何を祈っているのだろう。自分の望むような結果になってほしいと祈っていることは確かだ。もしかしたらそんな結果が到来することもあるかも知れない。そうなった時、祈りと思わしい結果が結びつき、その者に至福の時が訪れるだろう。たぶん究極の事態とはそういうことなのだろう。祈りが天に届き、願いが叶った者にとってはそうなのだ。そんなわけで、その者にとっての究極の事態は到来したことになる。つまり、究極の事態は到来したりしなかったりするらしい。その事態を体験する人によって、究極だと思われたり思われなかったりするのだ。こうして究極の事態は、他人の趣味や嗜好を伴った判断によって相対化されてしまうだろう。そこから先は、他人に同意を求めるための努力によって、漸近的に究極に近づける作業が残されている。説得工作によってそれが究極だというお墨付きをもらうわけだ。できるだけ多くの人に究極だと見なしてもらえば、それで一応の成果になる。そういう手順を経た上で、これが究極だと人々に向かってアピールすれば、それに反論する者もそれほどいないだろうし、仮にいたとしても、その者が社会的な発言力のある有力者でない限り、無視していても事なきを得られるかも知れない。そんな風にして、人をペテンにかけることのできる者が、この大衆社会では成功者となるのだろう。


3月30日

 昨日と同じような空模様になる。明日も同じような日々が続いていくかのように思われる。だが空模様だけでこの思いを語ることはできない。しかしこの思いが何なのかわからない。何も思っていないわけではないだろうが、抱いている思いの内容を特定できないでいるらしい。この世界には様々な思惑が渦巻いているだろうことは確かだ。しかしその確かな感触は、確かな証拠とは無縁の不確かな思いでしかない。どうやらそんな思いを抱いているのは確かなようだが、これもまた感触としては、不確かなように思われる。そう思っているのは自分だけではなく、自分以外にも多くの人々が、そんな思いを抱いているように思われる。ところで、このような思いを引き起こす原因は何なのだろうか。他人も自分と同じ思いを共有してほしいと感じるのはなぜだろう。センチメンタリズムとはそういうものだろうか。そして同じ思いを抱く人々が集団として実在する場合、それが民族やそれを制度化した国民国家と呼ばれる概念の成立に繋がり、その存在が広く世間に認められている今のこんな状況になるようだ。そのような、自分以外の多くの人々と共通する感情や価値観を共有したいという思いは、世論調査を根拠として、自らの政治主張を形成しているマスメディアにも浸透している。事ある度に何かと、国民の大多数が同じ思いを抱いていると発表したがるその気質は、その主張が辞任要求などのように特定の個人へ向かう時、攻撃対象の個人がいかに無力な存在なのかを知らしめるための、強迫または脅迫行為と化している。時として彼らは、四面楚歌だ孤立無援だと盛んに騒ぎ立て、言葉による集団リンチともいえるような状況の出現を期待しているのかも知れない。要するに彼らは、個人が他人と同じ思いを抱いていたい、と想像する性質を利用して、その同じ思いを自分達の主義主張に誘導しながら、みんながそう思っているから自分もそう思わなければ、という弱者の心理状態につけ込み、つまらぬ感情に個人を縛り付け、従わせようと画策しているわけだ。


3月29日

 憂鬱な気分と移り気な気持ちには羽が生えているのだろうか。削除された言葉は蘇らない。再帰する言葉もないだろう。つまらない駄洒落の応酬はやめにしよう。このところの天候は花曇りと呼ばれるものだろうか。そんな語り口は自分らしくないが、それでもまた別の言葉が付け足される。たまにはこんな表現も可能かも知れない。頭も天気もはっきりしない日々が続いている。どうやら明日も雨らしい。だが時間的にはもう明日になってしまったようだ。明け方には雨も止んでいた。不在の駄洒落を思う間もなく、深夜の時間帯が終わろうとしているらしい。結局は眠っている間に何も思いつかなかったようだ。やがて日が昇り、日が暮れて、また同じような夜が繰り返されるのかも知れない。夜明け前の曇り空は、自らのまだら模様を見せるだけで、梢をわずかに揺らす微風の他には何ももたらさない。他に何もなければ、そんな光景を言葉で描写しながら、画面上の白い余白を文字で埋めるように諭している。そうやって未明の朝を使って空虚を埋めゆく。思い出すのは決まって過去の出来事でしかない。未来を思い出すことなどできはしないだろう。ところで今は何を思っているのだろう。思うことと考えることが微妙にずれながら、それらが互いに交錯しつつ混じり合う。言葉をどのように配置すれば納得のいく連なりにたどり着くのか。たぶんそれは絵画にはなり得ないような描写かも知れない。いつも行き着く先で意味を排除しがちになってしまう。それで読み手を幻惑しているつもりでいるらしい。しかし幻惑させる間もなく夜が明けてしまう。無駄足を予感させるかのように時間が経過してゆく。そうこうしているうちに空は徐々に明るさを増してゆき、その様子を描写するために、立ち止まって言葉を紡ぎ出す隙を与えない。けだるい朝なのかそうでないのか、今それを感じ取る余裕はないらしい。その手の小説の中では、けだるい朝ばかりがやってくるのだろう。ついでにその手のマスメディアは、先日の贔屓にしていた野党議員が辞職に追い込まれたことへの敵討ちをしたいらしく、疑惑の渦中の離党議員に向かって、盛んに男らしくやめろやめろとわめきたてている。最終的には選挙で有権者が判断すればいいことになるだろうが、その前に辞職させて、自分達の力を何としても誇示したいらしい。自分達にも政治的な権力が備わっていることを、大衆に向かって是が非でも示しておきたいようだ。ただでさえなきに等しい信用が丸つぶれになる前に、なんとかこの辺で汚名返上の手を打っておきたいのか、怠惰と倦怠しかもたらさない見せかけだけの権力ゲームが、飽きもせず画面上で演じられているらしい。そんな茶番劇には同調すべきでないことはわかりきっている。


3月28日

 どうも雲行きが怪しくなってきた、よくわからない。最近になって、思念に衰えが目立ち始めてきたのかも知れない。この期に及んで修行の意味がわからなくなってきた。いったい誰が修行しているというのか。それはいつもの問いの枠内での無回答を呼び込むだけなのか。なるほど結論とはそのようにして導き出されるのだろうか。世界が劇場となる時、すべてが単純化するだろう。そうなればマスメディアの思うつぼだろう。相手が押し殺している感情を推し量るのが、もののあはれを知ることに結びつくそうだ。それ以上は何も言わぬことによって、不在の感情を皆で共有する。それ拒否する時、自分は人間の人間性を否定しているのかも知れない。しかしもののあはれを知ることが人間の人間性なのだろうか。それが真実ならば誰もが救われるだろう。時にはそんな解釈が成り立つ場合もあるだろう。ところで、茶番劇の最終章にはどんなものが立ち現れるのだろうか。正直者が馬鹿を見るこの世の中が、はたして少しは変化する兆しでも提示されたりするだろうか。そうなってほしいと思うような人が、今どこにいるというのか。脛に傷を持つ人は誰もそうは思わないだろう。何とかそれを隠し果せることに四苦八苦している現状なのかも知れない。現実逃避の手段として緊急入院でもしていれば、少しは気が紛れるようだが、それも長続きはしないだろう。何はともあれ、彼らはそれらをドラマにたとえることぐらいしか思いつかない。結末のないドラマについて毎度おなじみで語られている。


3月27日

 何かを利用しなければ何もできないのか。自分が利用しているものは時間のずれかも知れない。もうそこには存在しない、失われた光景とはどのようなものだったのだろう。数年前の表紙には、インベーダー・ゲームの画面上にニューヨークの摩天楼が建ち並んでいたように思われる。廃墟と化した街の光景が、灰で薄汚れた液晶画面上に映し出される。もしかしたらそれは、映画の一場面だったかも知れない。スパイダーマンはコミックの一種だろう。忙しなく働き続けることが、彼の人生そのものをなしている。そのフルカラーの紙面を覗き込んでいるのは誰でもない、街角で行き倒れになりそうなホームレスのひとりだ。誰に助けられる宿命も持たない、神からの祝福も受ける資格もない、無神論者の行く末を案じている。彼の消息はそこで途切れるだろう。そこで誰を捜しているのでもないし、誰からも捜索の対象にはなっていない。しばらく音信不通なのは、誰からも相手にされていない証拠かも知れない。誰もその件に関しては触れたがらない。だが何をどう触れたらいいのか、そのやり方が確立されていないのかも知れない。それを考えあぐねているらしい。山菜の灰汁抜きのような具合にはいかない。どう調理したらいいのか、それを理解するには、どのような解析格子が必要なのだろうか、どうもその辺に利用する場合の難点があるような気がする。そのわかりにくさは並大抵の努力では解消しがたいだろう。明日の明け方にでも、もう一度考えてみよう。何か少しは理解への糸口を見つけられるかも知れないし、時間をおいて再考してみれば、何か妙案が思いつく場合もあるだろう。目下のところ、そんなやり方しかできないらしい。


3月26日

 単純なことは複雑なことではない。だが、複雑なことを単純化できるだろうか。おそらくそれを可能としているのはご都合主義のなせる技だろうか。しかし複雑なことのすべてを隅々まで完璧に説明するのは難しい。説明できることは限られている場合が多い。自分は自分の考えていることを理解できないし、そのすべてを説明することは不可能だ。しかし、それでも理解するための努力を放棄するわけにはいかない。それらの努力は、結果的には無駄になるかも知れないが、やはりその無駄な努力を惜しまずにやり続けなければならないのだろう。なぜそうなのかわからないが、結果としてそうなってしまうのだ。運命と宿命の違いは何だろうか。どの時点で、その運命が宿命だとわかるのだろうか。たぶん運命が自分の身に降りかかった後から、それに気づくのかも知れない。久しぶりに見た老人は、さらに白髪と皺が増えていた。時が経つのは早いものだ。それらの現象は不条理とは見なせない。当然の成り行きに従った当然の結果だろう。それでも当人は、過去の人、というレッテルを貼られることを拒否し続けるだろう。自分の置かれた哀しい境遇を断じて認めるわけにはいかない。そしてそういう姿勢は、自分の甘さやだらしのなさを他人に転嫁していることにしかならない。自分の非は絶対に認めない代わりに、さしたる根拠もないままに、ただ一方的に他人を非難し続けている。例えばそれがありがちな少年漫画なら、対決の機会が用意されていて、主人公が友情の固い絆で結ばれた仲間達の助けを借りながら、悪い奴らに勝利することになるわけだが、現実はそうはいかない構造となっている。正義の味方とはいえない白髪の老人が、身内の友をかばいつつ、明らかに非のあるその友人が、悪い奴らの罠にはめられて窮地に陥ってしまった、と述べている。ただそう述べているにすぎない。彼はそれ以上のことは何もできない立場なのだ。当たり前のことだが、現実は漫画よりもリアルらしい。彼は政治について述べているのに、政治的には無力な存在だし、窮地に陥った友を救う努力すらしない役立たずのクズだ。そんな奴が毎日飽きもせず政治批判を繰り返している。要するに白髪の老人は無能者と化していて、その現実を受け入れられないでいるようなのだ。どうやら、批判される側よりも批判する側に、まずは非がある。なるほどそれらの荒廃具合は、もはや感動的なフィナーレに近づいているのかも知れない。何やらこの先わくわくするような展開になりそうな気配なのだろうか。とりあえずの希望としては、そうなった時に大笑いしたいものだ。まあ期待はずれでも、それはそれで仕方のないことか。いずれにしても自分は、もはやそんなことに本気になるほど純朴ではなくなっているらしい。


3月25日

 気休めをいうなら、人は嘘をつく動物なのかも知れない。その際、倫理なんてどうでもいいことなのだろう。しかしそれは痩せ我慢の一種かも知れない。たぶん、本当はどうでもよくはないことなのだが、とりあえず言い訳をしなければならないと思うようだ。体裁を取り繕う必要に駆られるのだろう。彼らがスポットライトを当てる人物は、所詮その程度のものなのかも知れない。むろんその程度を越える人物がこの世にいるはずもないのだが、それをその程度以上に見せかけるために下駄を履かせたり、華美な装飾を施したりして、何とかその程度以上のものだと思い込ませようと躍起になっている。ようするに人物までが誇大広告の標的になっているということだ。そうやってマスメディアが特定の人物を生きたまま腐らせてゆく。そんなことの繰り返しによって、まともな市民の真摯な政治への取り組みを台無しにしてきたのだろう。だが、それはそれで仕方のないことかも知れない。そうしなければ誰も政治に関心を持ったりはしないだろう。人々を政治に目を向けさせる目的で、あのようなことが繰り返されてきたのであり、あのような飽くこのとのない弛まぬ努力によって、このような大衆社会が成立していることは確かなのだ。彼らが取り上げる人物は、この社会がこのままで動作するために必要な、潤滑剤のようなものなのかも知れない。人々が現実のどうしようもなさから目を背けるには、あのような茶番劇に目を奪われていなければならない。しかしそれもそろそろ飽きが来ている印象もある。今後はまた別の快楽を提供しなければならない必要が、あれらのマスメディアに生じるかどうかは今のところ不明だが、どうもあれらにあれ以外のことを期待するのは無理かも知れない。とりあえずあれはあれで今後も飽きもせず繰り返されてゆくのだろうし、あれの流行り廃りのサイクルもある程度はあるのかも知れないが、性懲りもなくあのようなことが繰り返される度に、いちいち熱く反応する必要もないだろう。あれらはどこまでも冷笑の対象でしかないような気がする。あえて嘘をつくなら、我々はとりあえずああいう馬鹿な人々に関する馬鹿な報道を、ただ笑い飛ばしていればそれでいいのだ。茶飲み話で、仕事仲間と、ムネオみたいなおやじってよくいるよな〜、町内会であんなのが出てくるとうざったいんだよね、そういえばツジモトみたいな、ぎゃーぎゃーわめくばばーもうっとうしいよね〜、ゴミの出し方が悪いとかしつこく説教されるとアタマくるんだよな〜、とか談笑している光景が目に浮かぶ。


3月24日

 乾いた空気に包まれて、無限の彼方から無意味な誘惑がやってくる。考えと記述は一致しない。他者の内面を想像することは、とりとめのない幻夢を呼び覚ます。果てしなく続く視聴覚への刺激は人々に何をもたらしたのか。読むことを無視された文章はベストセラーになるだろう。読まなくともかまわない文章の出現は人々に安心をもたらす。おそらくそれが今日における文学の最終形態になるだろう。もうわざわざ難解な文章を難儀しながら読む必要はないのだ。しかし今までに誰がそんなものを読んできたのか。とりあえず読めない文章は途中で放棄するしかない。自らの理解力を超えるものは読まなくてもいいのは当然のことだ。近頃はテレビで読書番組の類をやっている。それを見れば改めて本など読む必要はないと感じるだろう。もちろんそれらの番組の内容は、本を読もうというお題目がその中心を占めているのだが、当然そこには、自分達の取り上げる本以外は読まなくてもいい、という暗黙の了解事項が忍ばせてある。たぶんある種の選別と競争原理などがそこに働いているのだろう。よりわかりやすい文章を用いて、より多くの人々に感銘を与えるような内容を提供すべく、弛まぬ努力を続けている者達の存在があるらしい。おそらく自分が記述する文章は、そういうものとは無関係であり続けるだろう。記述している過程で何が優先されているのかよくわからないし、記述した結果として生成した内容に、自分の意志が反映されていない場合が多いような気がする。その時々の気まぐれで思いついた言葉や文章を、適当につなぎ合わせてひとまとまりのものを構築しようと、悪戦苦闘しているらしいことは確かなのだが、様々な紆余曲折を経てできあがった生成物に関しては、常に違和感しか印象に残らない。それらは自分の所有物ではないような気がするわけだ。また時折予言めいたことも述べられているが、意識して自分が予言を発しているわけではない。その前後の文章のつながりから、そのような予言もどきがその場に抽出されているようだ。社民党の辻元議員についても、成り行きで鈴木議員の疑惑追及の急先鋒としての役目を割り当てられて、マスメディアにおだてられて舞い上がり、地に足がついていないような印象を感じたことは確かだったが、このような事態に陥って初めて、彼女が飛んで火に入る夏の虫状態であったことが理解できた。ミイラ取りがミイラになるという紋切り型にはまっているとは、まさにこういうことだったのだ。そんな彼女を時の人としてちやほや甘やかしていた人々は、今はどんな心境なのだろう。ただただそのお粗末さに笑うばかりなのかも知れないが、今は春なのに、飛んで火に入る夏の虫状態とはよくいったものだ(笑)。


3月23日

 雨上がりの夕暮れには雨雲の名残が映える。それは奇妙な表現手法だ。雲は風に流されながら、その形は刻々と移り変わる。意識は風に流されながら何を思う。流され続けてまだ流されている。流されているのは意識だけではない。言葉そのものが美的に流されていたいのだ。美学に中身などありはしない。その無内容に付け足されるものは何もない。内容がないから風に流されてどこかへ飛ばされていって、そのうち消えてなくなるだろう。山の向こうへ夕日も沈み、やがて夜の時間が到来する。無風状態とともに暗闇が動きのない空間を黒く染める。風を感じていた昼の意識は、今は静かに安眠中らしい。人々は素朴さを装いつつ安易に日常と妥協しながら、マスメディアの用意した紋切り型の生活様式と戯れる。それらが依存しているのは空虚そのものなのだろうか。空虚なだけではなく、もちろん何らかの中身を伴っているはずだ。空虚な海の切れ端から生まれた空海の真言密教にも、一応は中身があったようだ。ただ護摩を焚いて呪文を唱えていただけではなかったらしい。しかしその中身は部外者の知るところではない。一説には、空海のミイラを煎じて飲むと不老不死になれるらしい。知らず知らずのうちに冗談の程度を疑われるような内容になっている。空虚な海は摩訶不思議な想像上の液体で満たされていることだろう。昔のことは覚えていないが、酒の海でおぼれかけた仙人が意識を失う一瞬の間に、この世界の底でうごめいている無意識の群れを見いだした。空と海の交わる地点から発せられているのが空海のまなざしなのか。いったいそこから何を見つめているのだろう。見つめている対象はこの世界のすべてになるだろうか。あらゆる方向へと発せられる視線は、あらゆる方向から発せられている視線と交わる。それらの視線の総体が欲望の源泉としての無意識を形成している。想像上の空海の中に満たされた液体の正体はただの水だろう。水分を抜き取られてミイラ化した空海の内部には、想像上の海が広がっているらしい。それは架空の水で充たされた空疎な海かも知れない。無意識はごくまれに意識されるが、喉の渇きほどの効果しかもたらさない。ミイラに水分を補給しても腐るだけだ。


3月22日

 欠如とはどういうことだろうか。もうそこにワールド・トレード・センターのツイン・タワーは存在しない。もののあはれとはそういう状況から産出されるのだろうか。自分はそこで死んだ人々のことなど何も知らないから、悲しみに暮れる必然性が不在だ。くだらぬ想像力を働かせる必要も生じないだろう。想像してみよう、自分が想像していることについて想像してみよう。そこにあるのはただの空間だけなのか。ナイアガラの滝は風光明媚といえるだろうか。そこにあるのもただの空間なのだろうか。そして火星に刻まれた大渓谷も何百年か後の観光名所にすぎないのか。しかしもののあはれとはどういうことをいうのだろう。それらの大袈裟な光景とはまったく違う状況から生じるものなのかも知れない。自分はそれを感じ取る能力に欠けているようだ。思考が生産に結びつかないのか、思考そのものとは無関係の単なる感情なのかわからないが、どうも詩の連続的産出というわけには行かないらしい。今ここでの因果律はどうなっているのだろう。苦し紛れの気休めを述べるなら、虚無が使い古されて有が生じている。それらの空間はただの虚空ではないらしい。自分はこれらの記述において何を嗜好しているのだろう。その小説は過去に読んだことがあるが、至高者の結末が思い出せない。至高者は行き止まりの手前で立ちつくすことしかできない。行く手を遮る壁を乗り越えるのは愚か者ばかりだろう。たぶん彼らは偽りの壁を乗り越えて、海外旅行に行くつもりかも知れない。近頃は文化について論じられることが少なくなってきた。たぶんこの国の文化自体が時代遅れの産物しか提示できないからなのだろう。日本には文化などない方がいい。そんなものは海外旅行にでも行けばいやというほどお目にかかれるだろうから、わざわざ自国内に捏造する必要はないだろう。例えば大英博物館などは海賊的な強奪品の宝庫だ。本来文化とはああいうもののことをいうのだろう。ああいうことをやった人々は過去の死人達でしかない。何も死人のまねをする必要はないだろう。ただ普通にやればいいだけのことを、ことさらに難しい言葉と結びつけてこねくり回すには及ばない。自分達が今までにやってきたことを、文化などという言葉を使って肯定したり美化したりするのは意地汚い。そういう評論家状態の人々は無視して、やりたいことをやろうとすればいいだけのことでしかない。サッカーの日本代表チームをああだこうだ盆栽いじりのように語る人々は、単なる馬鹿なのかも知れない。もちろん馬鹿とハサミは使いようだという反駁もあるにはあるだろうが、いったいそんな馬鹿どもを使っているのは誰なのか。おそらく馬鹿になる能力にも才能の有無があるのだろうが、そういった才能や資質に恵まれていないことは何を意味するのだろうか。何も意味しないだろうし、とりあえず身辺雑記のようなことは語らなくてもいいということかも知れない。そういったこととはまったくの無関係になりつつあるらしい。


3月21日

 この時期は月日が経つのが早いのか遅いのか今ひとつ判然としないが、もうすぐ一年の四分の一が過ぎようとしている。まだ春だが、夏になれば蝉の鳴き声が聞こえてくるだろう。東北地方では静けさは岩に染み入るらしい。昔の俳句にはそんなことが詠われていたようだ。なぜそんなことを思うのだろう。今は江戸時代ではないが、江戸時代は時代ではない。どこかの誰かがそんなことを述べていた。では江戸時代はどのような期間だったのだろう。たぶん明治時代や昭和時代とは比較できないのかも知れない。それらを同じ時代区分として考えると一貫性に欠けてしまう。地質年代の第三期と第四期の違いみたいなものか。または新生代と先カンブリア紀の違いになるだろうか。大正時代と平安時代と縄文時代を同じ時代区分では語れないだろう。十五年と四百年と八千年を、同じ時代という言葉で語ることの荒唐無稽さが浮き彫りなる。その程度の違いがわからない無自覚な歴史愛好家は、今までに数多くメディアに登場して、憶測や推測に基づく勝手な私見をさも真実であるかのように述べ続けてきたように思う。彼らはひたすら歴史にドラマチックな展開ばかりを追い求めてきたが、人々はまだそういう大河ドラマ的なものを飽きもせず望んでいるのだろうか。自分はもうだいぶ前から飽きている。だからここでは何も起こらないのだろうか。何かが炸裂するわけもない。はじけるのは何らかの音には違いないが、それらはいつも無音に近い。具体的な事物が何も見あたらないのはいつものことなのか。虫の複眼は何を見ているのだろう。虫ではないのでわからない。わざとらしく何かをもたらそうとする試みは何ももたらさない。期待としては肯定的な結果をもたらしてほしかったのだろうが、底の浅さばかりが露呈する。ただことさらにスリルやサスペンスを求める心は、それ以上を望まず、その程度で満足しようとする怠惰から生じている。現実を見ないようにするためのスリルやサスペンスなのかも知れない。謎解きは現実逃避のための遊技にすぎないのか。


3月20日

 探求はいつも中途半端に終わる。持続力と根気に欠けるようだ。ゲームへの探求は限りがない。戦略も戦術もケース・バイ・ケースで無限にある。それは理論なき理論といえるだろうか。理論がないわけではないが、理論を構築しようとする意志は途中ではぐらかされる。特異性や例外事項にぶつかるのだろう。しかしそれを考慮に入れない理論は空疎なものとなる。理論の現実性は、その不完全さによっているらしい。その逆に、完成された理論であることは、もはや使い物にならない骨董品の証になってしまうだろうか。金魚の糞のような醜悪な追従者を伴うようになると、終わりが近いといえるかも知れない。遠からずそれらはハウツー・マニュアルの一種と化す。過剰消費によって理論の先鋭性が摩耗してしまうのだろうか。安心して受け入れられるようになった時点で、その存在は無意味なものとなるのかも知れない。そのような意味では、現状を否定するような理論にこそ、現状を変える力が宿っているのだろう。しかしそのような理論は、現状に付随して生きている多くの者達には受け入れがたいものとなっている。だが、そうだからこそ、そのような者達の意識を変革しながら現状そのものを変える力を持っている。世論調査によって紋切り型の維持継続ばかりに汲々としているマスメディアに、現状を変える力などないのは当然のことかも知れない。ハウツー・マニュアル以上のものを提示できない者達は、変革を叫びながらも現状を追認することしかできないだろう。要するに、変革を叫ぶことが自分達の固定化した立場でなのであり、それがあたかも固有の権利であり権益であるかのような自分達の立場を守ることが、四六時中変革を叫ぶことに繋がっているのだ。彼らの役割は、予め存在している、そんな台本の中の台詞を叫ぶことに終始している。たとえどんな世論調査結果であったとしても、それに対する見方や認識は常に固定されている。自分達の保持している用語集以外の言葉は使用できない定めとなっている。おそらくそれ以外はすべて放送禁止用語なのだろう。


3月19日

 なぜ始まりは突然にやってくるのだろうか。それは断末魔の叫びではないが、鳥は忽然と青空に現れる。唐突な導入部は不自然な趣を呈する。そのとき自分は何を感じているのだろう。この世は印象だけで判断してはならない。しかし印象だけで判断されることも多い。景気判断も世論調査も印象だけの内容に終始している。そのすべてがだめだとは思わないが、現実にはすべてがだめなのかも知れない。しかしすべてがだめだとしても、すべてを肯定してみたい衝動に駆られてしまう。彼はいつもおかしなことを述べている感がある。その一方で影はいつも無言だ。どうやら彼と影は一心同体ではないらしい。影は絶えず陽ざしの裏側へと回り込みながら、彼とのつながりを保っているようだが、その実態は何もない。そこにあるのは単調な色彩の陰影ばかりなのだ。彼はそこで影の実態を求めているのだろうか。彼は何を求めているのでもなく、空虚で実態のない何かを求めているようだ。それがすべてだと思い込んでいるわけではないが、彼によればこの世界のほとんどは空虚で充たされているらしい。しかしそれで何かを求めているといえるのだろうか。それは何も求めていないのと同じことではないのか。影は何も語らず何も求めない。その一方で彼はすべてを求めていると思っている。彼は世界を求めているようだ。すでに存在しているこの世界そのものを求めているらしい。それはどういうことなのか、それによって何がもたらされるのか、それ以外に何がわからないのだろうか。ところで、さっきから何を述べているのだろう。いったい求めているものは何なのか。途中からよくわからなくなる。それをわざとわかりにくくするための込み入った事情でもあるのだろうか。何をどう述べようと、述べている世界は言葉に変換されるだけだろう。つまり影とは彼が述べている言葉そのものなのかも知れない。誰が語ろうと、語られる世界は言葉の世界になってしまうということか。しかしそんなありきたりの結論で満足できるだろうか。その世界の内容が知りたいところだが、その世界はこの世界の一部を構成しているだけで、言葉を通して語られる内容は、その時々で語る当人の気分次第で千差万別になる。語り方も無内容とでまかせの間で適当に揺れ動いている。それらをどう評価すればいいのか、俄には判断がつきがたい。気がつくと何も述べていない時も多々あるようだ。だが何を述べていなくても、それらは言葉の連なりに他ならない。そういうわけで言葉は空虚な影を構成するのか。言葉を通して紡ぎ出されるそれらの内容は、この世界の単なる印象に過ぎないのだろうか。


3月18日

 成り行きとはこういうものなのか。人の虚をつき、思いがけない展開の果てに、ついさっきまで感じていた焦りと落胆から突然解放され、なぜか安らぎの時が到来してしまう。そこには思考とはまったく別の不可思議な作用が働いているように思われる。どうやってもうまくいかないことが、なぜうまくいくことへと変化するのか、なぜ当初の目論見とは著しく異なる結果に出くわしているのに、それでうまくいったと感じてしまうのか、度重なるそのような体験から、人知を越えた作用の存在を意識するようになるらしい。思い通りにいかないのに、なぜこれでいいと思うのだろう。それは諦めの境地とは少し違い、単純にうまくいった場合よりさらに大きな肯定力を伴っている。自分を越えて、自分の限界以上の結果をもたらす作用に感動しているのだろう。そんな作用に圧倒されながらも身をゆだねている。どうもそれは神秘主義的な作用ではないようだ。何よりも自分の思い通りにならないのだから、超能力のような類ではないらしい。しかも、それによって損したり得したり、幸福になったり不幸になったりしたとは感じられない。ただまったく思いがけない状況に陥ってしまい、当初はいやな気分で満たされているのだが、次第にどうでもよくなり、結局それでもいいような気になってしまう。後から思えば何の不都合もないことに気づいてしまうわけだ。ようするにそれは、意識の状況への順応過程を示しているのかも知れない。意識の中で否定や否認の意志よりも、環境への適応力や柔軟性の方が勝ってきたということだろうか。どうやら無意識のうちに、今までとは違う対応を模索しているらしいことは確かなようだ。なぜか今頃になって心境の変化に直面しているらしい。


3月17日

 巻末に付け足された言葉に戸惑い、苦い記憶に起因する感情を尊ぶ心に別れの時がやってくる。明日の夜明けにはまだ間があるようだが、今は何時なのだろう。逃げ出したくなる気持ちを必死に押さえ込みながらも、結局はそこから逃げ出してしまうのか。あまり頑なに強情を張っていると、終いには誰にも相手をしてもらえなくなる。見えるものはたかが知れているが、考えつくアイデアもたかが知れている。何を考案しようと、結末はそれほど違わなくなる。ようするに、それなりの成功で満足しなければならなくなる。何度も失敗を重ねて苦労したあげくにほんの少し報われる。それで君は満足したつもりになれるだろうか。いつも隣の芝生ばかり気にかかっているようだが、たいていの場合、他人の成功に比べて自分の成功はみすぼらしく感じるものだ。一足先に成功した彼もそう思っていることだろう。弛まぬ努力が実を結んだ結果がこれなのだから、率直に喜んでもいいのではないか。喜ぶ気になれないのなら、またさらなる精進を重ねて、もっと大々的な成功を目指してみたらいいだろう。明日を夢見て今日を精一杯生きれば、きっと明るい未来を掴み取れるはずだ。確証は何もないが、そこには否定的な言葉を差し挟む余地が見つからない。そんな根拠のない肯定はおもしろい。たぶん偶然にそう思うだけなのだろう。たまたま万事がうまくいっているのでそんな気分でいられる。うまくいってないことも多々あることも確かなのだが、それでも爽快な気分でいられるらしい。うまくいってないことはどうでもいいことなのであり、それらは現状の圧倒的な爽快感に至る途中での、紆余曲折時としか思われないだろう。


3月16日

 光に包まれること、それは幻の切れ端に描かれた絵を物語る。漂う人の幻影には追いつけない。始まりのない終わりへと導かれ、世界の現実を編み上げる偶然の遭遇に打ち砕かれる。感性の行き着く先には透明な発露がある。錆鉄と黄金は交換できない。赤い血潮はいつまで経っても沸騰するには至らない。死んだ魚は石の上で干からびるだろう。灼熱の砂漠はおとぎ話の世界に開花する。そこへ幻影の蜂が飛んでくる。魚の死臭に導かれ、銀色の蠅も飛んでくる。闇への期待が掻き立てられて、空には砂嵐の気配が忍び寄り、辺り一面には濁った空気が漂っている。路地の行き止まりから数歩下がったところに祈る場所がある。碁盤上には行き詰まりの困惑と不透明感が好んで配置されている。その暗がりから解放されるには望遠鏡が要るらしい。目先の粉塵を嫌い、いつも遠くを見つめている人々もいるようだ。望遠鏡は近くを見ない者達ための言い訳の道具として使える。では顕微鏡はどうなのだろう。それは遠くを見ないための道具なのだろうか。良識ある態度とは、他人の良心を利用して私腹を肥やすことにある。良心と道徳とは皮肉な取り合わせになるだろう。ヒロイズムに憧れ、英雄的に他人を騙し続けることは、詐欺師の良心を形成するだろう。情に訴えながら騙し続けることは、許し難い甘えかも知れない。犯罪に対する麻痺や罪悪感はヒロイズムで帳消しにしたいところだ。そんな疚しい良心を糧として、愚にもつかぬ事を延々とやり続けているようだ。闇に包まれた時間から暗闇の色彩を抽出しているのと変わらない。暗すぎて色など見分けがつかないだろう。古ぼけた表紙に覆われた思い出は、いつまで経っても忘れられないが、昨日の出来事が思い出せない。今頃になって影は嘆いているらしい。感性の棘が磨り減ってしまったと。部屋の片隅に堆く積まれた古雑誌の読者も、あの世へ旅立ってから久しい。何が彼らの存在を抹消へと追い込んだのだろうか。今もそれらの断片を見かけることもあるが、遠い日の記憶はなかなか蘇らない。政治参加への道を断たれた市民は、彼らのせこい良心をくすぐる世論調査結果を見て、日頃の憂さを晴らすことしかできないのか。浜辺のござに並べられた干し魚のような人々に未来はあるだろうか。残された道はスポーツにうつつを抜かすことぐらいかも知れない。スポーツ選手で現役時代に政治的な発言をしたのは、モハメド・アリだけなのか。


3月15日

 共産主義の目標とは何か。貧しさはいつか必ず克服される。そのいつかがいつなのか、誰もその時期を示せない。たぶん公式の見解では、資本主義市場社会は絶えず人々の間に貧富の格差を生み続けている、ということになっている。それを解決する術はあるにはあるらしいが、共産主義者は共産主義の中に解決の糸口があると主張するだろう。二十世紀に神話があるとすればこんな内容になるかも知れない。それが何という名称で呼ばれるかはこの際どうでもいいことになるだろうか。でもやはりそれを共産主義と呼ぶことに抵抗を感じる人は多いだろう。しかしそれを水で薄めて、社会主義だとか社民主義だとか言い繕ってみても、どうも欺瞞の匂いが漂ってくる。言葉の否定的な先入観としての負の遺産は未だに拭い難い。教科書的な歴史では、多くの人々が共産主義の名の下に命を落としたとされている。彼らが叫んでいた革命という言葉も血生臭い。そのいずれの言葉も一般人には否定的に響く。暴力の介在が恐怖心を植え付けていることは確かだろう。しかし実際には社会の至るところで暴力が振るわれていて、それはほとんどありふれた日常と化しているにもかかわらず、また、民主主義や自由の名の下に振るわれる暴力には、アメリカによって治外法権が与えられているかのようになっているにもかかわらず、それでも共産主義や革命による暴力には、今なお偏見を共有する人々に特別な恐怖感を与えているようだ。それらの人々にとっての、格好の否定材料が北朝鮮になっている。失敗した共産主義の負の遺産はすべて北朝鮮に押しつけて、国家もろとも葬り去ってしまいたいのかも知れない。


3月14日

 彼らが何をどう演じているつもりなのか知らないが、その推理は支離滅裂で、はじめから説得力を持とうとする気がないらしい。それでも誰かの下に神は降臨する。ところで現代の産婦人科医の役割とは何だろう。受胎告知は誰の身に降りかかった災難だったのか。そこに立ち会った大工にはどのような運命が待ち受けていたのか。それらの苦難の歴史は何を物語っているのだろう。そして磔刑は何を象徴していたのか。他愛のないの範疇に、それらの宗教がどう関わっているのだろう。何が制度で、その制度を保持するために、人々の何が賭されているのか。そのすべてが同じ起源を持っているわけではない。あまり乗り気ではないが、少し横道へ逸れて、これまでの歩みを辿ってみることにしよう。過去においては、それらは新たな地平を想起させるものがあった。新種の冗談には新しい雰囲気が必要だろう。人々を惑わせる手法にもそれなりの進化が起こっている。しかし今の状態はどうしたことか。何がどうしたわけでもないのに、怠惰に意識全体を支配されている。そして怠惰こそが新種の冗談を生み出しているらしい。もはや紋切り型を繰り返すのが面倒になりつつあるのだろう。以前に使用したのと同じ言葉では許されない。だがそれらの何が冗談なのか、一向に新種の冗談の姿が見えてこない。もしかしたら冗談ではないのかも知れない。冗談ではないのに、無理に冗談だと強弁しているだけなのか。気の利いた冗談が出てこないので、架空の冗談について語っているらしい。もしかしたらこれらの話全体が冗談のつもりなのだろうか。常に何かの冗談であってほしい。認められない話は冗談の一種として無視される傾向にある。そういう人々の使用する言葉は、紋切り型以外にはあり得ないことも確かだが、その一方で、紋切り型のごり押しによって、ニュース言葉が話し言葉の支配権を握っていることも確かだ。


3月13日

 気休めと気まぐれはどこでどう繋がっているのだろう。その気もないのに、気まぐれに気休めを求めているらしい。何を求めようとどうなるものでもないが、気まぐれは気休めに何を求めているのだろう。それはどうでもいいことではなさそうだ。きざなことを述べるなら、自分は何を求めて彷徨っているのだろう。そんな紋切り型ならすぐに思いつく。その思いはどこからもたらされたのだろう。それらの視線は相変わらず画面を見つめているらしい。すべての過ちは、視線の先の平面から始まっているのかも知れない。グローバリゼーションに対する気休めの効用は、画面を通して飛び込んでくるすべての事象の、想像的な同一化を可能としていることにある。それらの現実から目を背けるには画面を見ればいい、ということになるだろうか。画面上にも一つの現実が映し出されていることは確かだ。画面側の主張としてはそこには何もかもが映し出されていることになっている。だがそれがすべての現実なのか。それですべてではないが、それがすべてだと思い込むことはできるようだ。すべてはそんな思い込みから派生している現実なのか。誰もがそれだけではないと思っているようだ。もっと何かあるだろう、その何かを画面から入手しようと、目を皿のようにしてそれらの光景を見つめている。そうすればいつか幻影が手に入るかも知れない。そこから手に入れることが可能なものはイリュージョン以外に何があるのか。そこで提示されている情報は迷路を彷徨うための必須アイテムになりかけている。人生はゲームをやることだけに費やされるのか。それらのゲームは人々に何を求めているのだろう。できるだけ多くの拘束時間がほしいか。いかに人々を画面の前に固定させるかに心血を注いでいる。少なくともそれを覗き込んでいる間は悪さをできないだろう。血気盛んな者達を武装解除させるには、長時間にわたって四角い画面を見つめさせておけばいい。そこから発せられる幻影の虜にしてしまえば、平和な世の中が実現するだろう。画面を見つめている間は誰も何もできはしない。そうやって、つまらぬ幻影を注入されて骨抜きになっているのが、どこかの国の国民なのかも知れない。彼らはそれ以外に何もしたくないわけではないのだが、結果的には何もできないうちに日が暮れて翌日になり、またその翌日も何もできないうちに翌朝の明るみを見いだすだろう。その間に何をやっていたのかといえば、ただ目の前の画面をひたすら見つめていたに過ぎない。そんなことが死ぬまで繰り返されるのか。


3月12日

 まあ何がどうなるわけでもないだろうが、そんなことではしゃいでいる人々はしあわせなのか。しあわせの意味がわからなくなる。たぶんそういうしあわせに意味などないだろう。しかし意味や意義があると思い込んでいる人々もかなりいるかも知れない。人それぞれということなのか。何も認めないわけにはいかないが、今はまだ春なのに、飛んで火に入る夏の虫状態の人もいるらしい。それでも感情むき出しでがなり立てるようなことはせずに、少しはスマートに振る舞ってほしいのかも知れない。馬鹿な田舎者をよってたかって非難するのも、憂さ晴らし程度にはなるだろうが、それで少しは状況が改善しつつあるのだろうか。たぶん少しは良くなりつつあるのかも知れない。気休めにそんな見方をしておくのもいいだろう。あれはあれでその程度のことでしかない。騒ぎは騒いでいる時点での熱狂具合によって、効果はその瞬間だけに作用する。その騒ぎが一段落ついて正気に戻ってみれば、そこには相変わらずの貧相な地平が広がっていることだろう。たぶん彼らは結果的には、これからも同じようなことをやり続けるように、次第に追い込まれていってしまうのかも知れない。制度自体がそれぞれに割り振られた立場固有の人格を、その立場に就いた人に供給していることは確かなのだが、ならばそんな制度は変革しなければならないというと、そんなことを叫ぶ人自身がそういう立場なのであって、制度によって変革を叫ばされているだけなのだろう。社民党の関西弁でがなり立てている人など、まさにああいう立場を割り振られているわけだ。人の個性というものは、そのほとんどが制度が供給する紋切り型に収まるしかないらしい。


3月11日

 どうしたわけか、何やら一時的な熱狂に浮かれているらしい。フィーバーという言葉を久しぶりに聞いた。確かに日本には北方領土などいらないだろう。もっとも、世界にとっては日本という国自体がいらないかも知れない。まあ自分としては、ついでにアメリカという国家もいらなくなってほしい気もする。ただそんな気がするだけで、それは目標でも夢でもなく、それに向かって自分がどうこうしようというのでもしたいのでもない。無気力と情熱の低さでここまでやってきたようなものだから、今さら本気になるわけにもいかないらしい。もちろんそれが嘘であることも百も承知で述べている。しかし外務省も、うるさいおばさんとヤクザなおじさんを同士討ちさせて、一挙に葬り去ったのだからこれで一安心といったところか。しかし官僚は官僚で、自分達のエリート意識などから政治に対して変な色気を出したりぜずに、冷めた態度で事務的に作業をそつなくこなしてくれればそれでいいような気もするが、やはりその職を得るために熾烈な競争を勝ち上がってきたという自負が、自分達が国家を動かしている、とかいう思い上がりを生じさせているのだろうか。立身出世がしたい、偉くなりたい、特権的な地位に就きたい、人の上に立って命令したい、などの毎度おなじみの上昇志向が、未だに官僚志望者達の共通の願望なのかも知れないが、まあ所詮仕事は仕事でしかないのだから、仕事の種類や給料の額で身分に上下があるとか思い込むのは滑稽だ。それもこれも国家というジャンルが作り出す幻想には違いないが、官僚だろうと政治家だろうと、どこの誰だろうと、どんな種類の人間だろうと、他人に向かって威張り散らしている姿は滑稽に見えてしまう。とりあえずはそんな醜態を晒さないように、仕事のやり方を工夫しなければならないということになるだろうか。権威を笠に着て仕事するようになったらお終いだ。


3月10日

 今や誰しもが己の生き方を単純化したいらしいが、そんなものに価値は見いだせない。生も死も何ら特別な出来事ではない。ではそれ以外の無用な部分に何を見いだすのか。それらをはじめから無用だと見なしていいものか。おおよそ自らの生死をかけた決死の試みなどには縁がない。真剣になるとはどういうことなのか、その辺が理解不能らしい。今わかっていることは、この状況に対処しなければならないということだけなのか。如何に対処したらいいものか、対処の仕方がわからず途方に暮れている。考えるより先に体が動かなくては決闘には敗れ去るだろうが、それとは無関係な状況では、行動する前に熟考を要する場合も出てくる。そこで迷いが生じてくる。では逡巡とはどういうことだろう。行動を起こす手前で行ったり来たりしているらしいが、何をためらっているのだろう。いったいこれから何をどうやりたいのか。要はプレゼンテーションのやり方如何でしかないのだろうか。大袈裟なBGMを背後に流しながら、さも重大な出来事のように調査結果を発表してみせる。そんな手法にナイーブな人々は興奮するらしい。もっとも内容的には、過剰な演劇的演出を取り去って、それを平板にわかりやすく述べれば、放送大学の講義内容と変わらなくなる。いったんそれに気づいてしまうと、そういうこれ見よがしの過剰効果が邪魔に感じてくる。まさに無用な部分が見いだされるわけだが、その無用な部分を商売にしているのが、芸能人とかタレントとか呼ばれる人々なのかも知れない。彼らは衣食住以外で仕事をしている余剰人員なのだろうか。しかし人は衣食住だけでは満足しない。それらが十分に満たされると、それ以外の無用なものへと目を向けはじめるらしい。そういうブルジョワ市民の欲望の対象が、例えば知性になるだろうか。それは一方では格好の良さを基準として成り立つ概念かも知れない。そこにはセンスとか感性とか呼ばれる言葉の効果に寄りかかって生きている人々が見いだされる。ならば格好の悪そうな一般人が彼らを敬う必要はどこから生じてくるのだろうか。そういう価値観を保持するために、一般人の心に、自分もああなりたい、と思わせる上昇志向を植え付けているのは誰なのか。誰でもないが、時には特定の誰かでもあるらしい。そういう価値観の広告塔としての、シンボリックな性質をあてがわれる個人もたまに現れる。そしてその一挙手一投足を、ああでもないこうでもないと批評したがる幇間も、それに付随して出てくる。そういう人々の意識や言説を巡って、この社会は成立しているのだろうか。それらの言葉が導いているのは、はたして生き方の単純化になるだろうか。誰もが幸せになる必要はないし、また誰もが不幸せになる必要もない。幸福と不幸という二項対立とは別の価値観で生きている人もいるだろう。またさらに、価値観などなくても生きていけるかも知れないし、別に価値観の不在を嘆く必要もないだろう。普段は生も死も特段意識することなく、ただこれらの状況に流されているだけかも知れない。こうしているうちも時間が過ぎ去ってゆくばかりなのだろう。


3月9日

 春は何をもたらすのだろう。このところ花粉症で不快だ。眠気は快楽を呼び込むかも知れない。夕方から眠り続け、真夜中に目覚めたらテレビがうるさい。たまには感情を抑えられない人もいるようだ。マニアックな夢はマイナーなスポーツへと向かうらしい。無意識の中に何かを探し求めていたはずだったが、まだ何も思いつかない時、唐突に枯れ草の香りを思い出す。すでに犬の鳴き声は止んでいるようだ。もう余命幾ばくもないようで、毎晩弱々しく吠え続けている。犬はこの期に及んで何を探しているのだろう。意識には内容が見あたらない。とうとう思考の痕跡を探すのにも飽きてきたらしい。漆黒のカーテンは何も物語らない。それらの絵は狂気の産物ではないらしい。足のある陸上動物は歩くことができる。犬も猫も歩いている。毛虫にも足はある。自力で歩けない老人は四駆と呼ばれている。それは単なる散歩なのだろうか。それらの足跡には鳥もあるようだ。五十年後には部屋全体がカビ臭くなるだろう。薄汚れているのはカーテンだけではない。カーテンを洗濯することはまれだ。だがそこに差し挟まれた言葉は意味をなさない。それほど切羽詰まった状況ではないだろう。以前はそうは思わなかったはずだ。何も感じないはずが何かを感じている。空を眺めても何も思わないはずが、成り行き任せで何を思っているのだろうか。不自然なやり方で強引にきっかけを作る人々もいる。どうもしっくりこない。気に入らないから修正せざるを得なくなる。度重なる不具合にどう対処したらいいものか。修正に修正を重ねつつ、その先にはさらなる修正が待っているらしい。一番良い方法は、それを不具合だとは思わないことだ。しかし不具合でないならば何なのか。冗談では済まされない不具合もあるだろう。彼らは不具合もその製品の個性だと思うように仕向けたいらしい。ご都合主義とはそういうことなのか。


3月8日

 春はたまに寒なった後に大幅な温度上昇が起こるらしい。ところで、鏑木とはどのような木なのだろうか。演技でこの漢字が読めない俳優は誰だったか。電話会社にその名を訊ねてみるといい。演歌歌手に何が欠けているだろうか。陸奥には一人で旅をする演歌歌手がいるだろうか。一人旅をする者はすべてわけありの人生を送っているのだろうか。歌詞の内容には、ある定型のパターンがあるらしい。そこからはずれると、滑稽さが浮き彫りになる。スフィンクスの後ろには春になると桜が咲く。エジプトには観光名所以外の何があるのだろう。通行人に謎を吹っ掛けるスフィンクスは、今どこで何をやっているのだろう。ランドクルーザーはどこかを走り抜ける。あてどない旅路の果てにたどり着くのはパミール高原になるらしい。世界中の坂をすべて上り詰めると、自ずから天に一番近い地方にたどり着くだろうか。誰も彼もが旅をするわけではないが、旅に対して憧れを抱いている人は多いだろう。日常生活とは違う未知の体験をしてみたいらしい。春はある種の人々が旅立つ季節なのかも知れない。たぶん誰かがどこかへ旅立つのだろう。気分を一新したい心境になるようだ。いつまでも深海でくすぶっているわけにはいかないらしい。縁の下でとぐろを巻いているのはヤマカカシかアオダイショウになるだろうか。深海には未知の生物がいるそうだ。空から渡り鳥が舞い降りる地域もあるらしい。空の上と深海はどこかで繋がっている。強引につなげればそうなるだろう。ちぐはぐな言葉の連なりをどうすることもできない時もある。途方に暮れるにはまだ早すぎるだろうか。だが、どうもその気配が濃厚になりつつあるようだ。


3月7日

 どうも感覚が鈍いのだろうか。何をやるでもなく夜は睡眠の時らしい。考えがまとまらないのはいつものことだ。結局つまらぬ思いつきは明け方を選んでやってくる。しかしそれで何かが変わるわけでもなく、どうしようもなくいつものパターンに落ち着いてしまうようだ。今までにも突然の断絶はあったらしいが、何も唐突に変わったわけではない。口の中に広がっている苦みはそれほど不快ではない。もはや不快さを通り越して、何も感じなくなっているのかも知れない。今さら何をどうやろうとどうなるものでもないことは、身にしみてわかっているつもりなのだが、無駄と知りつついつもの悪あがきをやらないと気が済まない性分らしい。しかし悪あがきのつもりが一方では時間稼ぎになっているわけだから、つまらぬ悪あがきにも一定の効用があるのだろう。それは効用のみならず害毒でもあるのだろう。単なるヒステリーの一種かも知れない。それは一時的なものでしかないだろう。緊張はまったく持続せず、すぐに集中力を欠いてしまうことは確かだ。そうこうしているうちに無内容が蓄積し続け、言葉からの一時的な解放が期待されるらしい。それがこのところの決まりきった順路を形成しているのだろう。そんなお定まりのプログラムには、逡巡さえも予め組み込まれているわけなのか。定番のコース沿いには雑草が生えている。それらも感性を刺激する光景には違いない。そんな河川敷をジョギングする人々は、犬の散歩と一括りにされている。


3月6日

 それは極めて当然のことなのか。どこかの誰かがつまらないことを呟く。今は将来を考える時ではない。将来のことは将来になったら考えよう。たぶん将来になったら忘れているだろう。将来のことは、重要性の薄いどうでもいいことらしい。ところで今ここで何か考えなければならないことがあるだろうか。考えるべきことは考えず、どうでもいいことばかり考えているらしい。そんな君に将来はないだろう。それもどこかで聞いた台詞なのか。未来なき芸術はどのようなニュアンスを内包していたのだろう。それは単なるその場限りの思いつきに過ぎないのだろうか。成り行き任せにするとどうやっても不自然な成り行きになるようだ。どこかで感性がねじれているのだろうか。何かの感覚が麻痺しているのかも知れない。目の前に迫り来る空白を嫌い、苦し紛れに意味不明で何のつながりも見いだせぬ言葉をいくら投げ込んでみても、空しさの他に何がもたらされるというのか。もたらされるのは眠気と朝の陽光かも知れぬ。そこには不気味な持続が見いだされる。何ものにも組みしない、そのものだけとして、単独で成り立っているような錯覚を伴って、それらを持続させているのは、やはり成り行き任せに演じられる、その場限りの感性でしかないらしい。すべてはそこから生じていることなのだろう。それも何らかの化学反応には違いない。


3月5日

 今日は何をどう述べればいいのだろう。夜を過ごしている。外では雨が降り続いている。明日の昼には止むらしい。過去の印は時間の経過を物語る。すでに今は昔になりつつある。あるがままはそうでなくなりつつある。現在の位置は時計の表示が物語る。それに反して、自分は何も物語ろうとはしない。深夜の目覚めは明日の眠気を予想させる。エアコンから吹き出す暖気は居心地の悪さを感じさせるだろうか。その音が不快なようだ。蛍光灯が眩しいのは、心の闇を取り払うためか。心の闇はまだしばらくはそっとしておいてもらいたい。だが、この眠気を振り払うには、強烈な光に照らされる必要があるかも知れない。しかしそれでも眠気が襲いくる。たぶんここで何かが循環しているのだろう。あきらめに似た感情は今ここで打ち捨てられなければならない。何も述べられないのに強引な継続に晒されている。継続の意志は明日にも崩れ落ちそうな弱々しい状態だろう。しかしそれでも続けられるのか。循環とはそういうことらしい。繰り返されるのはそんな意思表示ばかりだ。しかしそれらは一向に止む気配が感じられない。至福の時はいつやってくるのだろう。はたしてそれは義務なのかノルマなのか、それとも思い違いなのだろうか。その必要もないのに、やらなければという強迫観念がすべてに先行しているわけか。しかし優先順位の最上位が思い違いや勘違いでは寂しいだろう。これらの逡巡も、少しは前向きに考えてもらいたい。予定調和の羅列も今となってはそれほど苦にならないようだ。日々の糧は別のところから生じてくるわけだから、至って気楽なのかも知れない。ならばこの苦しみの時が至福の時なのか。どうとでも取れそうだ。そうであってもなくてもかまわない。ここでいつも目指しているのは、誰も目指していない結果をもたらすことなのか。それは永久に結果として定まらないことだろうか。


3月4日

 今そこで愛を求めているのは誰だろう。世の中はいつも偏見に満ちている可能性がある。それを否定することにどのような意義があるのか。至上の愛とはどんな愛だろう。愛こそはすべてだとは思わないが、愛にも欠点はあるらしい。愛は常に一方的であり、恋は盲目的だろうか。そのどちらもが勝手な思い込みや誤解によって、それらの対象となっている人々に多大な迷惑をかける結果になりやすい。ただそれがないと、見知らぬ他人同士の交流が不可能となってしまうかも知れない。そこで愛の欠点を補うべく、情熱という言葉が現れるそうだ。情熱は愛とはどう違うのだろうか。愛は自分勝手な思い込みだが、情熱は相手とのコミュニケーションを引き出す。相手に対する自分の思いをわかってほしいと願う情熱が、コミュニケーションを通しての交流を可能とするらしい。そしてお互いのコミュニケーションは、それを共有する者達に苦痛と快楽をもたらす。解り合えるかも知れないという仄かな期待と、相互に繰り出される言葉がかみ合わない現実との間で、人々は煩悶する。そしてそれらがうまくいかない場合には、妥協とすれ違いと落胆が同時にやってくる。時としてそんな苦痛に嫌気がさしながらも、それでも人は情熱的に他者との交流を求めるらしい。やはり心の中に孤高の愛を抱いているだけでは、何か物足りなさを感じるのだろうか。その何かが他者との直接の交流になるということか。自分の思いを伝えたいのと、それに対する相手の思いを確かめたい、そうやって情熱は人を行動に駆り立てる。相手がどう思っているのかをわかりたい、という情熱が人を能動的にさせるのだろう。それを探る手段がコミュニケーションとなるだろう。人はこの社会に暮らす限り、その苦痛と快楽の混合状態を通過することを絶えず強いられている。人は愛だけでは生きて行けないらしい。


3月3日

 彼らはあるがままの現状をどうにかしたいらしいが、どうにかできるとは思えない。いくら真剣に話し合っている振りを装うとも、結局どうにもできないだろう。誰も時の流れは止められない。たとえ一心不乱に祈ろうとも、それらの努力は遠からず無に帰す他ない。あるがままの現状こそが変化の兆しそのものなのだ。それをどうにかしたい側は、時間を過去に戻したいだけなのかも知れない。過去の栄華を取り戻したい連中が、この落ちぶれた現状をどうにかしろと騒ぎ立てている。かつて思う存分甘い汁を吸っていた奴らが、改革だ何だのと、いもしない仮想敵に向かって罵声を張り上げる。そういう人々に期待を抱き応援することは、ふすまに描かれた虎を捕らえて見せろと言い放つようなものだろう。彼らは何とかこの現状を否定しようと躍起らしいのだが、それを深刻に受け止めている人々が一向に見えてこない。なぜ暴動が起こらないのだろう。どうして政権交代が実現しないのだろう。メディアが危機感をどう煽ろうと、世の中は至って平静そのものなのだ。どこの誰も決起するようなことはないし、どこかの国みたいに、政府を転覆せんがための武装蜂起も起こらない。関係するすべての事態が、あたかも振りや装いしかないかのように進行中なのだ。ある時は困った振りをしてみたり、またある時は悲しみに暮れた装いを演出するが、どうも腹の底ではみんな笑っているらしい。そのみんなとは誰のことなのか。たぶん彼らは、みんなに入らない人々を馬鹿にしている連中らしい。要するに、画面や紙面の向こう側で高い収入を得て安泰の連中のことを指しているのだろう。


3月2日

 心の片隅に残っている思い出は、捨てられないゴミの一種だろうか。いつの間にか、ゴミ箱には不燃物が溜まり続ける。シュレッダー・ダストは産廃場に運び去られるが、忘れ去られた遠い日の記憶は、いつか白黒写真となって蘇るだろう。何かを反射しているらしい。鏡にもレンズにも光の方向を変える働きがある。馴染みのカメラは、いつか壊れて打ち捨てられる運命を呪うだろうか。フィクションには翼が生えている。この場所には寒さと暖かさが同居しているらしい。眼球は光を透過させるだけなのか。では、幻影を見させるのはどの部分なのだろう。熱さに耐えかねて懐から取り出したのは、使い捨てカイロの一種かも知れない。不可逆性とはどういうことなのか。移ろいゆく自然は砂漠を森林に変えられるだろうか。いつか見た風景は数年後にも見かけられるだろう。画面上に雲が映り、なぜかそれは壁紙と呼ばれていたりする。液晶画面上に出現した暗黒は、偶然の結果などではない。度重なる心の病は欺瞞の証なのか。病自体が作られた欺瞞だ。目指しているその先にどこまでも続いているのは、必ずしも目指していた結果などではない。それ以上の過剰な表現を呼び込み続ける。生命の進化は乱雑さの増大に結びついているそうだ。コスモスの形成は、それ自体がカオスの要因なのかも知れない。それらの二項対立を無視する形で、新たな環境は出現するだろう。詩は詩とは無関係なところから出てくるようだ。詩人は誰も詩を操るには至らない。詩によって討ち滅ぼされるのが詩人の末路となる。予定調和の苦悩やノイローゼは、若かりし頃の幻影でしかないだろう。


3月1日

 それは偶然の結果だった。どういうわけか時間的に追いつめられ、久しぶりの深夜を経験する。やる気のなさは依然として果てしなく続いているようだが、そろそろ限界も近づきつつある。作業を翌朝に持ち越すわけにもいかないだろう。面倒だが、この辺で区切りをつけなければならない。おかしなもので、いったんやり始めると簡単にやれてしまうのだが、なぜかやり始めるまでに三日もかかってしまう。言葉を繰り出すタイミングがなかなかやってこない。原因はこの暖かさにあるのか。季節の変わり目なのだろう、深夜なのに暖房の必要を感じないほど暖かくなってきた。心身ともにリズムがかなり乱れているようだ。何日も続いた妙に間延びした無言の最中に、別の時間が思い出したように突然吹き出してくる。休眠期間を終えてまた活動期に入ったのだろうか。しかしそれらは単なる気まぐれに過ぎず、おおよそ長続きはしないだろう。すでに活動期は数年前に終了した感がある。今さら情熱も何もあり得ないことは確かだろう。ここは新たな発明の時ではない。当然のこと更なる飛躍もあり得ない。突然の転調とはなりがたく、またもや依然と似たような展開を繰り返しているに過ぎないのではないか。もはや今後は冗談を述べる気も起きないのだろうか。それはわからないが、とりあえず、これらの内容とは関連性の薄い作業に忙殺されているらしい。また別のことを述べる機会も巡ってくるだろう。その時期の到来を期待しておこう。


2月28日

 なぜかあくびが出る。眠いのかも知れない。その勝負の勝ち負けは未だはっきりしないようだ。傍観者として見ているうちに三日が経過してしまう。そこで何を見落としていたのか。酒も飲まずに酔うわけにもいかないだろう。そこで追い求めていたのはどんな夢だったのだろうか。成功して世間に認められて有名になること、それは誰もが一度は抱くごく当たり前の夢なのだろう。そんな夢を抱くように仕向けているのがこの人間社会なのだ。しかし健康という名の幻影はそんな夢にもまとわりつく。健全な青年なら、誰もがそんな夢を抱くべきなのだ。また世間的な成功という共通の目標を目指して競争が起こらないと、この社会から活力が失われてしまう。だがそれを断念した成功への可能性のない人間はどうすればいいのだろう。そんなことを真面目に考える必要はない。それらのほとんどは社交辞令の範囲内なのかも知れない。本当は何をどうすればいいかなんて誰にもわからない。どうにもならないし、どうする必要も感じていないようだ。未だかつてそんな夢の解決方法が見つけられたためしがない。もうすでに欲望は別の方面へ向いている。ただ何もやらずに退屈な時をやり過ごす、今や誰もがそうしたいらしい。成功へ向かって努力する気が失せてから久しい人々ばかりになりつつある。もはや競争力の減退が社会全体を覆っている感じがしてくる。テレビ画面の向こう側から届いてくるかけ声が、自分達に向けられているわけではないということを知っているのだろう。


2月27日

 一つの物語が終わった後にまた別の物語が始まろうとしている。理由のない成り行きに戸惑う。これから何が見いだされるのだろう。まさかいきなり最終回でもないだろう。これから始まる物語は退屈な内容に終始するかも知れない。そこでは終わるきっかけが見いだされつつあったはずだ。確かに無駄な努力にも終止符が打たれる可能性が見えてきたようだった。だが、そんな状勢を感じ始めてからがやけに長く感じている。もうあらかたが寝る準備に取りかかった頃から、その継続が始められるわけだ。疲れ切った心身のどこにそんなしぶとさが残っていたのだろうか。それは何かのお告げなのか。誰かに呼ばれているような気もしてくる。魂の内なる声が聞こえているわけでもないだろう。それらの計画には何らかの欠陥でもあったのだろうか。どこからかもうこの辺でやめてもらうという意志でも働いていたのだろうか。ここ数日間はそんな否定的な作用に晒されていたのだろうか。ところでその拒否反応とはどこから生じてくるものなのか。嫌気がさす、その瞬間を期待していたのは誰なのだろう。どこの誰がそれを期待していたのだろう。やはりそれは自分自身でしかなかったのかも知れない。自分自身で嫌気がさす間合いを探し求めていたのかも知れない。そして推し量ったようなタイミングで沈黙に突入したらしい。けれども、その結果はどうだろう。いつ自分は沈黙を経験できたのか。ただ意識を操ることを放棄していただけで、その代わりに外部の自然に操られていただけではないのか。果たしてその状況が沈黙といえるだろうか。この場合は無意識が自然でしかないだろう。沈黙しようとする意識はどこかに置き去りにされ、ただ無意識と一体化していただけのようだ。そして、気がついてみれば、いつものように意識が活動している。また以前と同じように、むやみやたらに言葉を並べ立てているらしい。どうやら、自意識の制御は不可能であるようだ。そんなことはやる前からわかっていたことだったのだろう。要するにそれらは、予め仕組まれた予定調和の何番煎じかを繰り返しているに過ぎないのだろう。


2月26日

 それらは相手の行動を制御する技術に属する。教える立場と学ぶ立場はどこでどう繋がるのか。互いの立場は置き換え可能なのだろうか。たぶん長期にわたってどちらかの立場だけを占有し続けている人はあまりいないだろう。紋切り型を使うなら、教師は生徒から教え方を学び続け、生徒は教師に学び方を教え続ける。そして、生徒は教師から教え方を学び続け、教師は生徒に学び方を教え続ける。それらの関係はあまり重要でないように思われる。そこから、すべての立場は交換可能である、という結論が導き出せるだろうか。どうやらかなりいい加減なことを述べているらしい。それをさらに続けると、教師は単に教師ではなく、生徒は単に生徒ではない。教師は生徒であり、生徒は教師である。すこし冗談がきついかも知れない。屁理屈とは言葉遊びに属する技術なのか。誰が何をどう教えようと、また何をどう学ぼうとそんなことはどうでもいいことだ。どうでもいいことなら、何も改めて教えなくてもいいし、学ばなくてもいいだろう。どうでもいいことは、教わらなくとも、学ばなくとも、自然と身に付いてしまう。どうもこの世の中には、どうでもいいこと以外のことは存在しないようだ。どうでもよくないと思われていることは、どうでもいいことだ。では学校とは何なのか。どうでもいいところなのだろうか。そこで教えたり学んだりすることは、どうでもいいことなのかもしれない。単なる言い訳であり、通過儀礼でしかないのかも知れない。どうも自分は教えるのも学ぶのも苦手だ。教えられないし、学べない。それ以外の、どうでもいいことばかりが自然と身に付いているらしい。


2月25日

 これから何がどうしようと何がどう問題であるわけもない。早急に回答を求められているような差し迫った問題はないようだ。それは単なる文法上の誤りに過ぎないだろう。この道はどこまでも続いている。しかしこの道はその道ともあの道とも行き先が異なる。道が道である限り、道はどこまでも続いて行くだろう。道が道でなくなったら、そこは野原かも知れない。野原にも続きがあるのだろうか。野原が途切れたら、そこから先には森林が広がっていたりするのだろうか。ツンドラ地帯について語っているつもりなのか。永久氷土は永久に凍結しているわけでもなく、溶け始めているらしい。それは地球温暖化の兆候を示しているのだろうか。それが差し迫った問題となりうるのだろうか。たぶんそれも文法上の誤りなのかも知れない。何をどう解釈しようとそれが直に問題となるわけではない。それは問題ではなく解答だろう。球面上に敷設された道は果てしなく続いて行く。しかしたまには行き止まりもあるだろう。果てしなく続くのにも例外があるらしい。例外のない規則は規則ではない。規則は破られなければ規則として成り立って行かないだろう。それらは破られて初めて規則として意識されるのだ。破られなければ誰もそれを問題と認識しないだろう。そして都合の悪い規則は破られなければならない。しかし、誰にとっても都合の良い規則など存在しないだろう。そこが問題なわけか。だが規則などない方がいいというわけにもいかないらしい。世の中には規則がないと困る連中もいる。規則に従わないとうまく動作しない構造があるらしい。要するにこの世の中は無理難題ばかりなのだろうか。それで何か不都合でもあるのだろうか。


2月24日

 それほど興味を惹かぬ話かも知れないが、年老いてから南国の島で孤独に絵を描いた人がいる。たぶん、その人は人の顔を描けなかったのだろう。ハイパーリアルな動植物が効果的に配置された風景を眺めながら、その美術館を訪れる人は感動する。誰からも認められなかったその人は、今はどうしているのだろう。その肉体はすでにこの世には存在しない。だからといって大した不都合はないらしい。遺品として残された絵に利用価値があるようだ。死んでから認められるという、画家の人生ではよくありがちなパターンが、この場合は適用されている。死者を弔うための儀式はこれからも続いて行くだろう。そこでは何かが継続され、それとは別の可能性が絶えず断念されているといえるだろうか。俗物的な言い方をすれば、虎は死して皮を残すが、その皮が美術館と呼ばれる建造物の装飾品に成り果てる。標本として剥製で飾られるよりはいくらかマシだろうか。その場で人々は何を眺めているのだろうか。単なる壁紙の模様かも知れない。よく見ると大理石の支柱には貝殻の化石が埋め込まれていることもあるそうだ。アテネのパルテノン神殿を再建するにはいくらぐらいかかるだろうか。バーミヤンの大仏を作り直すのとどちらが容易だろうか。差し迫った問題ではないが、それは思考力を著しく減退させる。それらとはあまり関係ないが、牛久の墓地霊園には世界最大級の仏像が立っているらしい。高さ百二十メートルというからかなりの大きさだろう。暇があれば絵でも描いてみたいものだ。美術品には価値を見いだせない。考える価値のある問題はクイズ番組の中にあるらしい。描かれた絵の中には生物の生きられる余地があるだろうか。土の中には炭疽菌が生きている。人は何に感動すればいいのだろう。しかし何かに感動したからといってどうなるわけでもない。怒りを通り越して呆れるしかない出来事など、世の中にありふれている。自分の思考には価値を見いだせない。今度暇つぶしに柄谷行人のトランスクリティークでも読んでみよう。たぶん多くの人にとっては、不在の他者は想像上の他者にしかならないだろう。想像上の他者は、想像者の都合でいくらでも操作可能だ。そこに功利主義の介在する余地も生まれる。未来へ向かって、これから生まれてくる人々のために、今を生きる我々は何をしなければならないか、また過去に死んでいった人々をどう扱うべきなのか、そんなことに思いを馳せることのできる、心に余裕のある者がいたら、そこに自分の都合を反映させて、それなりの考えを構築してみたらいいだろう。それで少しは救われた気持ちにでもなればもうけものだ。未来の他者はあなたのことなどかまってはくれないだろう。過去の他者はあなたの存在すら知らない。それでもあなたは、まだ生まれていない、あるいはもういない他者に何をしてあげられるだろうか。しかしそれと功利主義はどう関係するのか。さあ、その辺から先はどう辻褄を合わせるか知らない。


2月23日

 危機を切り抜けるのはたやすいことだ。どこかでそんなささやきを耳にする。悪魔的な支配者がこの世界に君臨している。それが悪魔なら可愛いものだ。そこで誰が夢を見ているのか。そことはどこなのか、そんなことさえわからない。誰かが君臨する以前に、最悪の瞬間も忘却の彼方へ消え失せる。黄金色に輝く甍はどこの寺院を想像させるだろう。それは夕暮れ時の光景かも知れない。焼け落ちた伽藍は千年後に遺跡発掘現場となる。そこで何を探しているわけでもない。炭化した土の匂いは周囲とは微妙に異なる。誰がそんな決まりを作ったのか、少なくとも自然に発生したわけではあるまい。競争はどこまでも続き、いつまで経っても決着はつきそうにない。決着を先延ばしにすることでそれらの競争は維持されているのだろう。法典に照らし合わせ、目には目を、歯には歯を、今や誰もそんな掟には従わない。そしてさらに歯ぎしりの時は続いて行くだろう。それでも時は流れ、偶然の成り行きで繰り出された言葉の群れは、いつまで経ってもまとまろうとしない。しかし時の流れは止まらないし、止められない。意味不明なまま、マタイの言葉を忘れてしまったらしい。ここは聖書をもう一度読み返すべきかも知れない。だが、たぶん自分は、聖書など一度も読んだことはないだろう。しかしその読んだ読まないのいずれもが嘘だった場合、何をどうすればいいのだろう。気晴らしにコーランでも読んでみようか。そう記述してもその気にはならないし、たぶんそのどちらも読まないだろう。他に読まなければならない書物が山積している。


2月22日

 それは狂想曲とも奇想曲とも呼ばれるらしい。またいつもの物語の続きが始まるらしい。宙づりにされた賢者は薔薇の名前を思い出す。息苦しさに耐えかねて吐き出された呪詛の言葉も宙づりにされている。茨の冠はどのような快楽を約束してくれるのだろう。すべてが断片のつなぎ合わせにしかならないようだ。ため息ばかりの時がテレビ画面全体を支配している。それでも強引に映像を流し続けなければならないらしい。軽やかさの微塵も感じられない、実に難儀な人々だ。しかし、そこで勝ち誇っているのは何なのだろう。おつむの弱そうな笑顔だけなのか。スポーツとは芸術の貧困化がもたらした身体表現の一種なのかも知れない。資本主義競争の副産物としての単純化作業の行き着いた先が、あのような娯楽になるのだろうか。それでも気休めを提示すべきなのだろう。一つのことに熱中できる者は幸福だ。だがあまり本気に受け取ってはならない。人の善意につばを吐きかけること、その程度では本気になれないのかも知れない。壮絶な人生とはどのような人生のことをいうのだろう。壮絶という言葉自体がちゃちな人生を想像させてしまうのは、どういうことなのだろう。他愛もないことに壮絶という言葉を使用しすぎた結果が、そんな印象をもたらすのだろうか。たぶん人生もスポーツも、壮絶になってしまったら世間の物笑いになるしかないだろう。誰が何をやるにしても、やる前とやった後で騒ぎすぎることが致命傷なのだろうか。それでも感動を押し売りしたいのなら、やっている最中だけを見せればそれで充分なのかも知れない。自分にはその手の強引さを受け入れる土壌がないようだ。


2月21日

 この期に及んでも相変わらず冗談を述べ続けるべきなのかも知れない。消息筋の分析によると、この国の経済状態はかなり深刻な状勢らしく、どうやらここ数か月の間に、その方面の方々による最後の悪あがきが行われるらしい。今までにもかなり呆れたことをやってきたのだろうが、中にはまだ馬鹿なことをやり続けている者もいるようだが、ここまで来たら、もはやこの危機的な状況を克服する手だてはないような気がしてくる。しかしこれのどこが冗談なのだろう。単なる危機感を煽るための常套句でしかない。自分にとって日本の経済や政治問題は、どうしようもないことだ。なるほど、その台詞が冗談なのか。経済や政治が日本のどこにあるのだろう。どういうわけか政治に対して国民の関心が高まっているらしい。国会中継の視聴率が高かったようだ。その国会中継を見ていないので、自分は政治に対して無関心なのかも知れない。たぶんこの国の政治にも経済にも無関心なのだろう。では何に関心があるのか。昔から何に関心を持っていたのか、あまり明確には答えられそうもない。何に対しても関心がなかったわけでもないだろう。何かしら関心を持って、何かをやろうと努力していた時もあったはずだ。だが、その途上で関心を失ってしまったらしい。その結果、未だ何もやり遂げていないような気がする。それは誰にでも言えることだ。よくそんな台詞が聞かれる。たぶんそれは冗談ではない。未だに革命への夢を捨てきれない者もいるらしい。それは幼稚な夢だろうか。その幼稚な夢に踊らされる人もほとんどいないだろう。改革だ何だのと口先だけで唱えていた人々には、何の責任もないのだろうか。どうも改革は幼稚な夢の亜流でしかなかったのかも知れない。革命も改革も冗談の一種だったのだろう。ならば、彼らにはこれからも無責任な冗談を飛ばしながら、国民の関心を惹きつけていてもらいたい。批判的なマスメディアと結託しながら、下らぬ茶番劇で国民の目を欺き続けてほしい。今回のドタバタ劇は国民に無力感を植え付けるためにも、疑惑はうやむやのままで幕引きすべきだろう。そして、いくらマスメディアが感情的に騒ぎ立てようと何も変わらないことを、選挙結果で示して彼らにとどめを刺すべきだ。こうなったら日本国が続く限り、半永久的に自由民主党が政権与党であるべきなのかも知れない。そのためにも手を変え品を変えあらゆる嘘を突き通し、改革の努力を怠っていないように装うことが肝心なのだろうか。とりあえず自分の思いつく限りの冗談はこんなところか。もちろんこの程度で何か述べたつもりはないが、自分の実感としては、今の日本には構造改革も経済対策もいらないような気がする。そしてあらゆる面でもっと悪化してほしい。もうそこにしか可能性も活路も見いだせないだろう。良くならなくていいから滅び去ってほしい。


2月20日

 もうこれ以上は何もやる必要がないと感じている時、積極的に何をやれるだろうか。それが問題なのだろうか。しかしそれ以外に何が問題となるのか。もはや取り組むべき問題は何もないような気がしてくる。冗談にも程があるだろうか。今も現実の世界には、早急に解決すべき様々な問題が満ちあふれていたりするのだろうか。何か不都合な状況を改善しようと思えば、直ちにそれが問題となるわけか。しかし自分には取り組むべき問題がない。すべては自分には関わり合いのないことなのか。たぶんそれはそれで一つの真実ではある。元からやるべきことは何もないし、誰も自分に努力しろとは命令していない。なのにこれ以上何をやる必要があるだろう。確かにこれ以上はやる必要を感じない。しかし、だから何もやらなくていいということにはならないようだ。それは何もやらなくていいのにやるのとは少し違う。やるかやらないかの判断がつかない。何かやっている気はしないのだが、結果として何かしらやっているらしい。まったく、眠たいしうんざりしている。嫌気がさしているにもかかわらず、さらなる継続が生じてしまう。やめられる人がうらやましい。ただ夢も希望も競争も勝敗もあり得ないことがこうして続けられる。否応なく作業の時間が到来し続ける。これからもそんなことの繰り返しでしかないだろう。自分が提示する世界はそういうものでしかないだろう。今どき救いを求めるような者はどうかしている。どうしようもなく不徹底だ。競争する対象や要素があると思っていること自体が勘違いでしかない。


2月19日

 まだやりようがあるだろうか。どのような工夫が残されているのだろうか。改善の余地を求めて何をどうしようと、相変わらずの内容になるしかないようだ。まさか虚構の内容に虚構以外の意味を求めるわけにはいかないだろう。それに劇的な展開は不要らしいので、あまりわざとらしい感動は期待できない。創意工夫をしていたのは数年前の話だった。今さらそれが可能かどうか、不可能ではないが、すぐに可能ではない、といったところか。どうも弛まぬ努力にも限界があるらしく、その限界を限界と認めないと、ありふれた紋切り型になってしまう可能性があるらしい。スポーツでさえ、もはや意地や気合いだけで通じる世界ではない。マスメディアが自国の選手達をどんなに応援しようと、実況者の絶叫が虚しく聞こえる場面が続出しているようだ。絶えず不正や掟破りがあってこそ、競争は競争としての存在意義があるのかも知れない。それ以外のすべての要素を極限まで突き詰めれば、その後に残された可能性は不正と掟破りしかあり得ない。法律違反者の存在がその法律の有効性を証明するのと同じように、反則行為こそがその競争の公平性を保証している。競技団体がその競争を公正に行っているように見せかけるには、定期的にルール違反を取り締まる必要がある。良心的なマスメディアは公正な競争を求めているのかも知れないが、それは不正行為の摘発とワンセットであることを認識すべきだろう。そうやってルールを守る善とルールを破る悪を浮かび上がらせることで、人々の関心をそれらの競争につなぎ止めようとしているわけだ。彼らが煽り立てている世間話的な問題とは所詮そのようなものでしかない。


2月18日

 それが冷笑なのか嘲笑なのかは知らないが、どうも面と向かっての批判はできないらしい。後でこそこそ言い訳混じりの批判に終始するだけかも知れない。しかし直接の批判は面倒だ。批判しても空振りに終わる可能性が高い。だから自分は誰も批判できないのか。昔は何か批判らしきこともやっていたらしいが、自分にとってそれはいつの間にか無効になってしまったらしい。嘘を承知で述べるなら、ある時期から、自分に特定の誰かを批判する権利がないことに気づいたのだろうか。しかしそんな権利を有する者など誰もいないような気がする。たぶんそれも嘘でしかないだろう。そんなわけで理由は不明確だが、表向きは、特定の固有名を挙げて名指しで非難することはない、ということにしておこう。それも嘘でしかないことが次第に明らかになるかも知れないが、しかし自分は誰のことを批判したいのだろう。その辺がよくわからない。例えば、今、テロとの対決姿勢を強めているアメリカの大統領を、どう批判すればいいのだろうか。あれはあれでああいうものでしかないだろう。アメリカの大統領にあれ以外の対応を求めるのは無理かも知れない。たぶんああいう国のああいう大統領には、ああいうやり方しかできないだろう。今後何らかのきっかけで世界が変わるとしたら、ああいうやり方とはまったく関係のないところから変わってゆくだろう。案外すでに意外なところから少しずつ変わり始めているのかも知れない。その変化の潮流は、主だったマスメディアからは気づかれないように進行してほしい。たとえおおかたの行く末はすでに決定しているとしても、それらの決定は必ず裏切られ、大きく覆されるだろう。誰が覆すわけでもない。救世主が出現して世界が変わるとは限らない。誰が主役でも英雄でもない世界が出現しつつある。欧米的な価値観を世界に広めた主役や英雄達は、すでに役目を終えて蝋人形館に展示されている。ここはアメリカでもヨーロッパでもない。たぶんジャパンでもジパングでも日本でもないだろう。どこでもなく、ここはここでしかない。ここはこういう世界のまっただ中だ。それ以外に何と形容したらいいのか知らない。


2月17日

 わからない、人々は何を笑っているのだろう。たぶん人の死は笑いを誘うのだろう。規範は逸脱にある、そんな合い言葉とともに人々は倒錯を競い合う。仏の眼には何が見えているのだろうか。そこで見えているものは見えていないものを表現している。型枠に流し込まれたチョコレートは、何らかの造形を表現しているらしい。至福の時は受像機から発せられる笑いの渦によってその到来を阻まれる。コメディアンは高笑いのこだまを響かせながら、ビルの谷間へ墜落してゆくだろう。垂直方向の落下運動は水平方向への動きを考慮していない。放物線運動は水平方向へ等速直線運動をしている。たぶんそこでは空気抵抗が考慮されていないのだろう。魅力のない制度は必ず廃れるだろう。だが夢とは何だろうか。形式的にはコミュニズムとアメリカンドリームは対立している。何がそこでの欲望の対象になっているのだろうか。安易な解決手段は生きがいを見つけることだ。実践とは何もしないことだ。理論をいかにして打ち立てようと大衆はついてこない。理論にとっての最終目標は、鬱陶しい大衆を根絶やしにすることにあるらしい。そこから導き出される利益など何も受け取らない。成功すること、それは天国への階段の何段目の出来事になるのだろうか。人々はなぜ別々の方法で天国を目指すのだろう。現実離れした制度を模索することが、コミュニストを自任する老人の最後の仕事になるらしい。構想している組織が共同体であることを否認しつつも、実際は共同体を構築しつつある。それらの否認は言葉によるレトリックの域を出ない。


2月16日

 結果としてそれは毎度おなじみの台詞に属するだろう。紋切り型を逃れつつ紋切り型にはまっているようだ。まだ決定的な台詞を導き出せないでいる。しかし別にその台詞が出るように努力しているわけでもなく、ただ漠然といつもとは違う言葉を模索しているだけかも知れない。見えるものすべてを模倣しているのは映像だけだろうか。模倣しようとする精神にはどのような救いが待ち受けているのだろう。確か弥勒による救済は今から五十数億年後だったはずだ。そんな遠くまで人類の時間が続いて行くだろうか。地下の鍾乳洞からメッセージを発し続けているのは何だろう。洞窟天井から垂れ下がった氷柱状の鍾乳石から滴り落ちる水の音は、言葉による解釈の対象になりうるだろうか。その自然現象は人によって勝手な解釈を受け入れるかも知れない。この場合受け入れるとは、何も抵抗せず、なすがままの状況を放置することにある。中には水滴の落下運動を情緒的に解釈したがる者も出てくるだろう。中量級に属するキック・ボクサーが消耗戦を繰り広げている。たまには映像に感動できるだろうか。相変わらず夢も目標もないが、そこに提示されているのは、お仕着せの夢と目標だ。型枠にはめ込まれた粘土のような夢と目標かも知れない。彼らは猿回しの猿のような自分達の立場を理解できないでいる。格闘技として限定された戦いに酔いしれている。つかの間の酔いから冷めた時、取り返しの利かないぼろ雑巾のような自分自身を知ることとなる。それが残酷な仕打ちだと思うのは傍観者ぐらいなものだろう。人間はいつ何時でも死につつある。それを早回しで見せているのが格闘技による見せ物なのか。しかし否定神学とは何だろう。こんなつまらない事実に反論したければ勝手にすればいい。


2月15日

 どうやら我々は気に入らぬ紋切り型に収まりつつあるようだ。時折嘘を承知で狼狽してみせる。そんなわざとらしい演技では、大衆の心をつかむことはできないだろう。いつもながら何を考えているのかはっきりしない。下らぬ人生訓に一生を捧げるわけにも行かない。勝ったり負けたりすることに一喜一憂するのも面倒だ。こんな風にして、冗談で頭の中が満たされているらしい。しかし本気になれないのはもちろんのこと、そんな冗談の効用さえ信じられない。だが、それらのどこが冗談なのだろう。それらが冗談であることさえ信じられない。おそらく彼らは冗談であんなことをやっているわけではないのだろう。我々は今や歴史の終焉に立ち会っている、その種の紋切り型の言説を批判するのはたやすいことなのか。当たり前のことだが、今は明治時代ではない。もうすぐ合衆国からブッシュとかいうギャングの大ボスがやってくるそうだ。いったい日本のテロリスト達は何をやっているのだろう。今こそ真珠湾を思い出すべきだ。しかしそれを思い出してどうする。先制攻撃でギャングの大ボスを殺してしまえば、少しは愉快な気分になれるだろうか。テロリストではないので、テロに成功した時の心境などわからない。これは勝ち負けのない戦争だ、と述べている人もいる。とりあえず自分の周りは戦争状態ではないらしい。たぶん日本軍による真珠湾攻撃も軽薄なギャグ表現の一種だったのだろう。彼らは南国の青空に向かって、ガチョ〜ン、と叫んでみたかったのだ。元祖自爆集団であった神風特別攻撃隊も本気でやっていたわけではない。それらの攻撃はユーモア精神の発露と受け取るべきなのかも知れない。だが死ぬ時の合い言葉は本当に、天皇陛下万歳、だったのだろうか。それのどこにユーモアの心を感じさせる要素があるだろうか。今度園遊会にでも呼ばれたら、そう叫んで自らの臣民に死なれたらどう思うか、天皇陛下に訊いてみよう。しかしギャングの大ボスに忠誠を誓う米国人よりは、自爆した特攻隊員の方が少しはマシな人格を有していたかも知れない。もちろんその根拠は何もない。しかし、これらが本当に冗談と受け取られる範囲内に収まっているだろうか。気に入らぬ紋切り型から少し離れたかも知れない。


2月14日

 倒産寸前の会社では経営者の息づかいが荒いだろうか。時々やけくそで奇声を発しながら、それが何の息吹か知らないが、別に活気があるわけではないのだろう。危篤で死ぬ寸前の人の息づかいも荒い場合がある。この世に未練でもあるのだろう。実体験として、死ぬ間際で息づかいの荒い人を目撃したことはある。その時はいかにも苦しそうだったが、それからしばらくして、目を大きく見開きながら動かなくなり、傍らにいた医師がその病人の死亡を確認した。傍観者には、その人の命の息吹を感じられなくなる。体が動いていて、自発的に呼吸していると感じられたら、その人が生きている証拠になるだろうか。ビデオテープで故人の在りし日の姿を見たらどうだろう。映像上では死人も生きている。そう感じるのは映像を見ている間だけか。たぶん人の命など虚構の一つに過ぎないだろう。命が大切だと思っている人は、その命を利用して利益を得たいのだ。だがそれは浅ましい魂胆といえるだろうか。競争社会ではそれが当然なのかも知れない。自分の作品に他人や肉親の命を定着させて、それを貴重品として高値で売りさばこうとする。人が死ねばそんなことが繰り返される。そんなやり方が行き着く先には、自殺して、その手記で有名になろうとする倒錯者まで現れるだろう。まあ馬鹿なことなのかも知れないが、それに感動してしまうさらに馬鹿な人々が存在するのだから仕方ない。そんな商売が成り立っている間は、おそらくそういった命の売買はなくならないのだろう。


2月13日

 かなり冷え込んでいる。昼の陽光を浴びてもまだ寒い。外は相変わらずの晴天だ。そして頭の中は相変わらずの無内容だ。雲が足早に頭上を通り過ぎる。上空では強い西風が吹いているらしい。季節の話にはもう飽きたかも知れない。去りゆく冬はまだ去らないようだが、春が待ち遠しいわけでもない。自分の意志とは無関係に、もうしばらくすれば暖かくなるのだろう。テレビ番組では、三宅島に続いて富士山も噴火する、と騒いでいるようだ。実際に噴火すれば、大騒ぎできて楽しいのかも知れない。それが他人事ならよりいっそう無責任に騒げる。騒ぐことは可能だが、実際には騒ぎはしないだろう。騒ぎたい人はオリンピックで騒げばいい。そしてみんなでスポーツの祭典を盛り上げればいいだろう。自分はみんなの範疇には入らないので、騒がないし盛り上げられない。それはたぶん不幸なことかも知れない。そんなことに本気でこだわっているわけではないが、皆が認めるひとつの価値観に同調できない姿勢は、この先死ぬまで続くのだろうか。転向できない理由でもあるのだろうか。今さら大衆に迎合しないことを誇りたいわけでもないだろう。確かに四年前はうんざりしたが、今回はそれほどでもない。世界には多種多様な価値観が混在している。その中のひとつとして、オリンピックの存在も認めてやってもいいのかも知れない。まあ自分が認めようと認めまいと、あちらにとってはどうでもいいことだろうが、反対に自分の存在など認められないことは確かだろう。マスメディアが報じる内容は、そのような非対称を前提として成り立っているのだろう。だからこちらも無関心でいられるのかも知れない。とりあえず、そのようなイベントに同調できる者が、同調して騒ぎながら盛り上げればいいだろう。どうもマスメディアを通しては、入れ込む対象に巡り会えない。たぶんそれは嘘かも知れないが、今はそういうことにしておこう。


2月12日

 それはどのように表せばいいのか。虚無の霧は一層深まり、何もない空隙はどこまでも広がる。どうも今ひとつ現実感に欠けているらしい。そう都合よく次から次へと紡ぎ出せるわけでもない。元からあまり過大な性能を期待していたわけではないが、このところ調子が思わしくないようだ。どこか具合のよくない箇所でもあるのだろうか。とりあえず、かなりやる気も薄れたようなので、ここしばらくは緩慢な作業が続いてゆくのかも知れない。どうやってみてもどうにもならない時期が到来しているらしい。これからどうなるにしろ、たぶんこの辺が潮時なのだろう。個人で組織に勝つことは難しい。しかし集団にもそれ相応の限界があるだろう。いくら受け狙いのメッセージを発信してみても、受け取る傍から打ち捨てられる。そこに意志の力が働かない限り、どうということはない、単に空白を埋めるための作業の繰り返しにしかならないだろう。彼らは別に好きで空白の時を過ごしているわけでもないだろうが、何もやることがないわけでもないのに、それとは別の側面で、どうも退屈を持て余し気味らしい。いったい無意識は何を考えているのだろう。影はその件についてはあまり多くを語りたがらない。しかしそれでも継続できるのだろうか。確かにそんなことはお構いなしに、相変わらずこんな世界が存在し、晴れて乾燥した日々が続いている。何事もなかったように冬晴れの毎日は至って平穏に移りゆく。同じ空の下で、空爆による人殺しの結果に一喜一憂しているどこかの国の政府とは違い、影はただひたすら押し黙ったまま、窓越しに晴れた青空を眺めているようだ。どうやらまだ精神的にも経済的にも余裕があるらしく、何かに追い立てられているような切迫感が感じられない。メディア上では、この国の経済が機能不全に陥ることを恐れる人々が、さかんにデフレを阻止するための策をあれやこれや提案し、それらの策の有効性について、ああだこうだと議論している最中らしいのだが、それらは何となく空疎な議論に聞こえてしまうようだ。まだまだどん底には程遠いだろう。中途半端な時期に景気回復してしまっては元も子もない。アルゼンチンのように全土で暴動や略奪が発生して、多数の死傷者が出るまで行かないと、本当に何も変わらないような気がする。しかしまあこれも冗談の一種には違いないのかも知れないが。


2月11日

 権力が行使される時、人々は自分達の自由が制限されることに納得ずくで、その権力の前にひれ伏すだろう。権力に付き従い、自分達も付き従う者達に約束されている利益を享受したいわけだ。権力は利益を餌にして人々を支配しにかかるだろう。受験に合格したければ我々の言うことを聞きなさい、儲けたければ我々とコンサルタント契約を結びなさい、彼らは、いかにして競争に勝ち抜くか、そのためには何をどう動作させればいいか、付き従う者が成功するための適切な動作手順を作成して、その手順に沿って適切な人材を適切に配置し、その上で権力を働かせる必要に迫られている。権力を行使するにはそれなりの合理的な理由が要るのであって、それは常に効率を優先させるように働かせなければならないだろう。結果的に付き従う者達が成功しなかったら、権力は無効となるしかない。そのような意味で、行政の権力はその住民達を幸福に導いていると思われている間は有効なのだろう。そして、反権力を掲げている者達は、まず第一に、権力に付き従わぬことで自らが不幸になる可能性を、自らの責任で引き受けなければならないのかも知れない。


2月10日

 最悪の瞬間とはどんな時だろう。身を滅ぼしかねない致命的な過ちを犯してしまった時、まさに自らが滅びようとしているその時、躓きの原因を知ることになる。その時、台本通りに躓いている自分に気がつく。それは人為的に構成された危機だったらしい。それを知った瞬間、最悪の瞬間でさえ退屈な紋切り型に近づく状況をどう呪えばいいのか。誰にもそんなことはわからない。言葉でそれらしく構成された瞬間は、妙に間延びしていて、とても瞬間の時を感じさせるような具合には行かないだろう。こうしてその場しのぎの冗談は生き続けるわけか。生き続けるのは冗談でなく、それを冗談だと見なしている本人の生なのか。当の本人は、他人の生を活性化させようとあれこれ思案中かも知れない。繰り出された言葉はすでに死んでいる。まさか電子レンジで温め直すわけにも行くまい。たぶんそれが冗談なのだろう。同胞達の身に降りかかる災難には冗談では済まされぬものがある。せいぜい気休めに何事も起こらぬことを祈ろう。もうすでに躓きつつある者達に何をどう伝えればいいのだろう。果たしていらぬお節介はやらない姿勢を貫けるだろうか。なぜか死を前にしたその瞳は最後の輝きに彩られている。今まさに、災難と栄光が同時進行で到来しつつあることを知ったら、それらの犠牲者達はどんな反応を示すだろうか。今さらそんな仮定は意味をなさない。まさかそれが災難であることなど絶対に信じようとしないだろう。破滅を破滅とも思わないように前もって仕込まれてあるから、もはや何を言っても無駄なのかも知れない。しかし、ここに至って、いったい誰が破滅するというのか。もうすでに破滅しているような気がする。


2月9日

 暗黙の内に理解している言葉は、時として別の用法で使われる。自分の言葉に自足している余裕はない。未だ解き明かされぬ幾何学に関する謎解きなどをやっている暇はない。冗談を述べている場合ではないらしい。ベラスケスの描いた絵画の謎解きなどをやっている時間はない。そういえば油絵の描き方を忘れてしまった。スイフトにはどんな作品があったというのか。だがそれを小説と呼べるだろうか。なぜそこでそんな接続になるのか、その使用法を理解できない。商品が似通ってくると、その売り言葉も重なり合う。たぶんその製品の宣伝文句は手のひらサイズになるだろう。どうも切断能力に若干の難点があるらしい。戦いの大地にはロマンが満ちあふれているが、平和な大地には戦いの思い出が満ちあふれている。そこで思い出される伝説の光景としては、少年が大地に突き刺さったままの剣を抜いてみせる場面が印象に残るようだ。アーサー王伝説にはそんな場面があったかも知れない。おそらく終わりの始まりにはそんな光景が似つかわしい。パンドラの箱を開けるがごとく、大地の栓を抜いた少年と彼が住む世界には、大いなる災いが降りかかるだろう。君はそんな物語が好みなのか。どうも退屈な展開になりつつあるようだ。影の誘いを断った理由は未だ明かされていない。影のない人間は幽霊になるかも知れないが、それでもロマンにしがみつきたいのか。暇もないのに暇をもてあますような人間になりつつある。努力とは無縁でいたいのに、何かしらやり続けていること自体が、努力している証しになるだろうか。


2月8日

 明確な目標を提示すれば、やる気のない若者達も俄然やる気が出るらしい。で、やる気が出たらそれでどうするのだろう。やる気の出た若者達を利用して利益を出そうという魂胆だ。競争に勝ち残るためには若者達のやる気が欠かせない。要するに若者達は功利主義に踊らされる羽目になる。やる気の出ない若者達は正直者だ。くだらぬ競争には巻き込まれたくないのだろう。自分達を利用するために、あの手この手で誘惑しにかかる者達の浅はかな魂胆は、先刻お見通しだろう。やる気がないのにはそれなりの理由がある。提示された目標を信じられない。なぜ目標に向かわなければならないのか、その理由が欠如している。勝つために、誰が勝たなければならないのか、自分か?自分だけではなく、自分の所属している組織が勝つために、自分が努力しなければならない。そのどこかに論理のすり替えが潜んでいないだろうか。だが組織とは何だろう。組織は自分に何をしてくれるというのか。勝てば褒美をくれるかも知れない。褒美を餌に踊らなければならないわけか。それだけではない、それは君が成功するための目標なのだ。組織だけではなく、君自身のためにも努力しなければならない。君も金メダルがほしいだろう。つまりメダルほしさにがんばらなければならないわけか。その通りだ、それの何が不満なのだろう。自由がない、ただそれだけなのかも知れない。メダルなんかほしくない、という台詞を誰も選択できない。どうして、どこの誰がそんな台詞を求めているのか、その辺がよくわからない。我々はそのような台詞が排除された時代背景につなぎ止められているのだ。ある一つの傾向を持った言説に拘束されている。目標に向かって努力することが当然とされる社会に暮らしている。そこでは何もせずにふらふらしていることが許されない傾向にあるらしい。


2月7日

 インプレッションズ、自分の判断基準は単に好き嫌いに過ぎないのかも知れない。煎じ詰めればそういうことなのか。価値判断を単純化すれば誰もがそうなるだろうか。たぶん小難しい屁理屈を並べ立てるより、好き嫌いで物事を判断するのは潔いことだろう。ゲットーの少年には夢がない。プロのサッカー選手になりたいそうだ。まさか哲学者になりたいという台詞は聞かれないだろう。即物的な利益のことしかその眼中にはないらしい。しかし哲学者になってどうするのか。例えば、大学の教授にでもなりたいというのなら、それなりに周囲を安心させる回答になる。ソクラテスは無職のじいさんだったらしい。少年が住んでいるゲットーにも、そんなじいさんの一人や二人いるかも知れない。アテネという小規模な村落共同体の内部でなら、ソクラテスもある程度は存在価値があったのかもしないが、現代のソクラテスには単なる近所のもの知りじいさん程度の役回りしか用意されていないだろう。それはあまりにも無謀で荒唐無稽な比較かも知れない。時代状況に違いがありすぎる。では、哲学者がだめだというのなら、仙人ならどうだろう。なぜ哲学者がだめなら仙人になるのか。老子のことを思い浮かべる。伝説上の老子なら仙人に近いかも知れない。道教は仙人になるための宗教だろうか。しかしゲットーの少年と道教はどう結びつくのか。辻褄を合わせることはできないが、少年は将来、ソクラテスや老子のようになるべきという結論も見えてくる。なぜそんな結論が出るのかよくわからならない。ソクラテスと老子はまったく異なる人物だろう。なぜプラトンや孔子ではだめなのだろうか。やはり彼らの国家の役に立とうとするこころざしが、いまひとつ好きになれない理由なのか。まあそれはとってつけたような理由には違いない。たぶん嘘かも知れない。憂国の人は好かない、そんな薄い理由でそんな名前が挙がっただけなのだろう。それは単なる印象に過ぎない。そんな印象が感銘に結びつくことはないだろう。


2月6日

 なぜとかどうしてとか、それらの疑問が生じてしまう原因は何だろうか。単に疑問好きなのか。たぶん疑問がないと何も述べられないのかも知れない。だが自問自答の繰り返しには飽きがくる。遠からずマンネリに近づくだろうし、現にそうなのかも知れない。こんな作業にも飽きが来ているのかも知れない。相変わらずテレビは紋切り型で語りかける。昔からの慣習に閉じこめられた世界はいつまでも続くらしい。もうとっくに飽きが来ていて嫌気さえ感じるのに、それでもまだ執拗にうんざりするメッセージを携え、物干し竿の行商車のように、毎度おなじみのことを語りかける。季節に四季があるように、四年に一度のスポーツの祭典が催される時期もやがて訪れる。死ぬまでこんなサイクルに苛まれるわけか。この四年間で何か変わったのだろうか。年輩の方々は、もう飽きたと言っている。四年前もそんなことを言っていた。どうもあまり変わり映えはしないようだ。たぶん四十年前は少しは興奮していたのかも知れない。始まる前から、もう飽きたはないだろう。もしかしたら期間中は、衛星放送でNBAの試合を観戦できなくなるのが残念なところか。それはそれでどうということはない。試合結果はインターネットで確認できるので、それほどの飢餓感はしないだろう。所詮、気晴らしで見ているバスケット・ボールだ。今さら数年ぶりに現役復帰したマイケル・ジョーダンに肩入れしているわけでもない。彼の出る試合ばかり優先的に放送している番組担当者の感覚がよくわからない。昔ながらの彼のファンなのだろうか。まあそれはそれで仕方のないことか。どうやら、どうでもいい内容のないことを述べているようだ。


2月5日

 話の順を追って説明することはできない。時には借り物の思考は役に立つらしい。オリジナルでないからより無責任なことが言える。くだらぬ政争に明け暮れた先には、否定的な世論調査結果が待っていた。ここまではいつも通りの展開だ。なぜかこれで改革のテンポが鈍るそうだ。いったいどこで改革が進行していたのだろうか。とりあえず何かしら改革の提案をしていたことは確かだ。で、それらの提案は今までにどれだけ受け入れられたのだろうか。それがよくわからない。どうもそこから先が不明瞭になってくる。何をやっているのかこちらには何も伝わってこない。一年前と何か変わったことがあるだろうか。経済状態がさらに悪化したらしいことだけかも知れない。公職に就いている人の汚職事件も後を絶たないような気もする。確かアメリカの同時多発テロで世界が変わったらしいのだが、いったいどんな風に変わったのだろう。最も変わったのはアフガニスタンの国内情勢だろうか。それ以外は現時点ではそれほど変わっていないような気がする。レコード店の試聴ブースにはエアロスミスの新譜が置いてあった。まだやっているらしい。相変わらずの音を響かせている。ヴォーカルが歌い出す前に聴くのをやめてしまった。きっと全世界で何百万枚も売れるのだろう。変わらない価値観に安心して人々はその商品を買う。変わりたいのは自分達の都合が反映される範囲内でのことだ。もちろんそう都合良くは変われないのは百も承知の上で、なおも勝手な夢を抱き続けるだろう。例えば整形手術で顔を変えればそれなりの幸せが手に入るだろう。たぶん今何かと叫ばれている改革も、所詮はその程度の結果に落ち着くのかも知れない。外見を変えれば中身もそれつられて変わるだろう。その程度の変化ならば、誰もが容認するかも知れない。とりあえず目標をできるだけ低く設定して、やれそうなところから手をつけてゆけばいいだろう。改革自体どうでもいいことかもしれないが、国家とそれを支えている官僚も、また自分が国民だとか思っているらしき人々も、またさらに世論調査頼みの各種メディア関係者も、まあどうしようもない人間の集まりなのかも知れない。


2月4日

 そして世界は回り続ける、なぜって先が短いからさ。かつて盲目の人はこんな歌を歌っていた。そして世界は回り続ける、もうじき崩壊するからね。それから三十年近くの年月が流れたらしい。この世界はもうすでに崩壊しているのかも知れない。それは気のせいだろうか。今や誰もが汚れた街に住んでいるのだろうか。地方の田園地帯や山の中に住んでいる人もいるだろう。そして誰もがこの状況を嘆いているわけでもなさそうだ。少なくとも自分は嘆いていないようだ。影の方は現状を肯定しているつもりらしい。全面的に前向きとはいかないが、自分も影に倣ってこの現実を容認してみよう。嘘でもいいから晴々とした気分でいたいものだ。嘘が余分だろう。それならば晴々とした気分も余計だ。現実を容認するのにそんな気分は必要ないだろう。では暗い苦渋に満ちた顔をして容認しなければならないのだろうか。それはいかにもわざとらしいやり方なのか。無益なことかも知れない。世界は先が短くても崩壊しても回り続けるだろう。回り続けることに意味はない。先が短いのは末期癌患者で、崩壊するのは政府の社会的な信用か。そのついでに青ざめているのは迷える子羊たちなのかも知れない。子羊たちの淡い夢とは、すべての土地とそこに住む民の平和と幸福になるのか。それは昔ながらのありふれた夢だ。この世に平和と幸福が訪れたとき人々はどうなるだろうか。金持ちは貧乏人になり、貧乏人は貧乏人のまま一生を終えるだろう。共通の富を奪い合うための熾烈な競争が起こり、勝ち残った者が豊かになり、敗れ去った者が貧しくなり、貧富の格差が生じた時点で金持ちと貧乏人が出現する。世界はこうした富の不均衡によって回り続けているのだろう。競争によって絶えず不均衡や格差が生み出され、それを是正しようとするお節介な努力が永遠に続けられる。それが世界が回り続けていることの原因かも知れない。どうすればそれを止められるだろうか。常に戦争と不幸が平和と幸福と同時に存在しているこの世界の有り様を、どうやれば変えられるというのだろうか。ある者はそこに新たなゲームを導入しようとしている。これまでいろいろなゲームが試されてきたし、今も未来に向かって試され続けるだろう。だが希望とは何なのだろう。先が短いから、もうじき崩壊するから、それが希望といえるだろうか。すでにもう命脈が尽きたと言いたがる予言者気取りの人は確かに多い。本当のところどうなのだろうか。 どうも自分には何の予感も感じられないらしい。


2月3日

 それはどこにあるのだろう。世の中には自尊心がないと生きて行けない人もいる。自らを尊ぶ心はどこにあるのか。それほど自分が重要だとは到底感じられない。掛け替えのないものは自分でも世界でもない。すでに世界は自分を含みながらここに存在している。この事実は如何にしても動かしようがない。自分も世界も肯定や否定の評価以前の水準に存在しているのかも知れない。今さら変わりようがないものは変えられないだろう。それでも何かを変えようとしているらしい。無駄な努力を惜しまないということなのか。あの山の向こう側には自尊心が存在するだろうか。おかしなことを述べているらしい。山の向こう側の自尊心は焦っている。山のこちら側では、ほとんど雪は積もらなかった。夜半過ぎにはちらついていたかも知れないが、今日は雨しか体験できなかった。存在の形態と形式がこちらとあちらでは少し違っている。それは海のこちら側とあちら側の関係にもあてはまるかも知れない。遠く離れた土地で互いに勝手なことをやっている。その作品の集大成は終わりを意味するのだろう。切手や標本の収集に終わりはない。終わる前に収集家の死が訪れるので、中断はあっても終わりは来ない。それらは収集とはいえないかも知れない。いったいそこで何を集めているつもりなのか、その目的が今ひとつはっきりしてこない。それは何度繰り返しても前回以上にずれてくる。やる度に、やっていることがより不明確になってくる。だがそれ以上に、その度に焦りの感覚が意識の後方へ退いていき、もはやどうしようもない、というあきらめの境地が近づいてくる。だがそれでも無駄な努力を惜しんではならないらしい。今や焦りだけではなく、見聞するすべてが後方へ退きつつある時代なのかも知れない。この世に存在しているすべての事物が希薄化しつつある。メディアが捏造するリアリティは世界のまやかしを増長させる。人々は徐々にスポーツという観賞物から視線を逸らせなくなる。それはより絶望的な状況に近づくということなのか。自分にはよくわからないが、それでも無駄な努力を続けられるだろうか。それを続けても世界はそれほど変わらないだろう。世界が変わったと実感するのは、現役を降りた傍観者ぐらいなものだろうか。そう感じたその時点で、すでに無駄な努力を放棄している証しかも知れない。常に目の前の現実と格闘し続けている者にとっては、そんなことを感じる余裕などありはしない。


2月2日

 例えば、闘病生活を送る人々は毎日前向きに生きようとしている。一見健康だと思われる自分はどうだろう。前向きに生きているだろうか。屁理屈を述べるならば、時には後ろ向きに生き、また時には横向きに生きているのかも知れない。前向きに生きる、その言葉の言わんとしている意味とは何だろう。そんなことはわかっているはずなのに、なぜその言葉に抵抗感を覚えるのだろうか。どのように生きようと、生きていることには変わりない。生きていなければ、それは死んでいるということだ。生と死の間に中間状態はない。しかしなぜこんな当たり前の結論に導かれてしまうのだろう。自分の繰り出す言葉と思考には本質がない。自分には哲学と思想がない。それらはどんなエッセンスを宿しているのだろう。それらとは何を指しているのだろう。なぜか絶えず別の可能性を求めてしまう傾向にあるようだ。立ち向かうべき敵は自分より一枚も二枚も上手だ。自分はただ退屈な日常生活の中で朽ち果ててゆくだけだろう。今度は平凡な結論に落ち着いたらしい。自分の頭脳は虚構の結論を好んで吐き出す。まやかしの意識を操りながらありふれたことを述べている。何をどう述べようと、まともな結論には至りそうにない。目の前に見いだされるのはただの闇だ。今は夜なのだからそうなるより他ない。月夜の晩は昨日だったかも知れないが、明日の朝にはまた雪が積もっているかも知れない。退屈な話題は天気予報によってもたらされるだろう。誰かの歌詞によると、季節は巡り、別の誰かの歌詞では、また冬が巡ってくる。それでも自分は、相変わらず何も思わない。一年後の冬は、今から一年が経過した冬だろう。いつまでも当たり前の日々が続くだけかも知れない。日々の日常から逃れることなど不可能だ。彼はその名を覚えているだろうか。映画の中では背徳の呪文が唱えられる。それをささやいているのは外国の俳優だ。それが自分の元へ届くことは永遠にないだろう。影はどこを探してみても見つからないだろう。影の名を言い当てられるだろうか。今はどうしてもそれを思い出せない。昔はその名で呼んでいたのに、その記憶が自分の中では消失しているらしい。どこかで配線がショートしているのかも知れない。それとこれとの違いを言い表すことができない。影はいつまで経っても影でしかないのかも知れない。


2月1日

 ちょっと殴られたら、その何十倍もの暴力でやり返し、挙げ句の果てに殺してしまった。自分を殴った相手がホームレスだったということが、いたく少年のプライドを傷つけたのかも知れない。たかが浮浪者の乞食野郎に殴られた、それが許せないことなのだろう。たぶん相手がヤクザだったらそうはならなかっただろう。アフガニスタンでの出来事を思い出してみよう。やられたら徹底的にやり返す、そんなアメリカ軍のやり方を少年達は真似たのだろうか。名の知れた国家ではなく、たかがテロリスト風情に、自分達の経済の中心地を白昼堂々これ見よがしに破壊された。まったく予期しなかったようなやり方で、思いっきりやりたい放題やられてしまった。こんなことが許されていいものなのだろうか。許されないのは当然だ。で、実際にやり返してみたら、大したことないじゃないか、ならばこの機会に徹底的に叩いてやる、俺たちに向かってあんなまねをしたらどうなるか、今こそ思い知らせてやる、俺たちに逆らえばどうなるか、二度と同じまねをするような奴が出てこないように、全世界に見せつけてやる、ヒューマニストを標榜する腰抜けのオカマ野郎には言わせるだけ言わせておけばいい、あんなやつらには何の権限も権力もありはしない。権限と権力を持っている俺たちだけだ。せいぜい俺たちが破壊尽くした後で、地雷除去とかいうゴミ拾いでもやらせておけばいいだろう。いいか、よ〜く覚えておけ、俺たちがこうやって命がけでクズどもを駆除しているおかげで、おまえたちは安心して世界中で商売ができるんだよ!彼らのメッセージを日本語に訳せばこうなるだろうか。たぶんこういうヤクザに逆らうことのできる者は、自爆テロの推進者ぐらいなものだろう。