彼の声20

2000年

9月30日

 そこでは今でも鳥のさえずりを聴けるだろうか。ひっきりなしに走り去る車の騒音と、通りを行き交う人々の発するざわめきに紛れて風の音が聞こえてくる。街の喧噪の一部をなしているその音に耳を傾けてみよう。そこから微かな音の切れ端を思い出そう。そして思い出したあとに鳥の姿を思い浮かべる。大きく開け放った窓辺を吹き抜ける一陣の風に鳥への思いを託してみよう。そうすれば、風の音はたちまち記憶の奥底にしまい込まれる。だが、鳥への思いとは何か、そこにどのような思いが滞留しているというのか。自分の記憶の中には鳥への思いなど見あたらない。鳥への思いは、鳥と同じようにどこかへ飛び去っていったのかもしれない。鳥への思いではなく記憶の奥底にあるのは風の音だ。それは何も受けつけないし、どんな意味とも結合しない。ただ風だけが吹いている。そこにあるのは単なる空気の流れに過ぎず、ただの風そのものだ。だが、その他のものはどうしたんだろう。それらはどこへ行ってしまったのか。風がどこかへ運び去ってしまったのだろうか。元からその他のものなどなかった。そこにあったのは風だけだ。現時点ではそういうことになっている。昔どうだったのかは定かでない。それは虚構の前提だ。どうやらそこには風しかないという前提で話を進めたいらしい。無理にもほどがある。では風の他に何が必要なのだろう。風には香りがついている。空気の香りだ。微かな土の香りを感じ取れる。近くに土砂採掘現場でもあるのか、そこで発生する土埃の微細粒子が風に乗って、その地域一帯に漂っているらしい。風邪末期の咳きが止まらない。いつも直り間際になるとそうだ。咳き込んでいると、いかにも容態が重そうだが、そこに至るまでの方がはるかに苦しい。あと数日で全快するだろう。だが依然として記憶は空っぽのままだ。相変わらず何も思い出せない。遠くからさざ波のようなざわめきが微かに聞こえてくる。それが何の音かは、いまひとつはっきりしない。それは風の音なのだろうか。どうしてもそれは風の音としてしか聞こえない。だとすると、ここにあるのはやはり風の音だけだ。こうして現実が虚構に追いついた。だがこの現実も虚構だ。それ以外に、ここには意図的に言及されていないものがたくさんある。ここは風の音だけでは成り立っていない。聞こえるものの他に見えるものがある、手で触っているものもあるし、飲み物や食べ物までがある。しかも風はだいぶ前に止んでしまっている。もう風の音は聞こえていない。すでに風の音は記憶の奥底にしまい込まれていた。つまり、ここはそこではない。今ある現実のここのことではなく、記憶の奥底のそこだ。はじめは記憶の奥底のそこから語っていたはずだ。それがいつの間にか現実のここに場面が転換している。ここにはイヴァン・リンスの物悲しい歌声がこだまする。はじめからやり直そう、歌っているのはただそれだけだ。どうしてはじめからやり直すことができよう。どこにも存在しない心を探し続ける人々に出会ったことがあるだろうか。聖書を片手に町々を巡り歩いている人々に出会ったことがあるだろうか。地下街で警備員と押し問答を繰り返しているホームレスに何を語りかければいいのだろう。誰もが不可能と対峙していながら、それを無視しながら努力する。そして何か偶然の気まぐれで結果が出たら、それ見たことかと大喜びして、努力していればいつか必ず報われる、という毎度おなじみのフレーズを声高らかにわめいてみせる。それはたぶん滑稽なことだ。千回に一回だけの成功に酔いしれて、数限りない残りの失敗を意図的に隠蔽している浅はかな人々に向かって、はじめからやり直そう、は通用しないだろう。


9月29日

 バードランドはジャズクラブであり、鳥島ともバードウォッチングとも何の関係もないようだ。ジャズクラブに鳥を見に行く人がいるだろうか。それは人の名前にちなんでいるらしい。その行動は北からの叫びに呼応していた。山奥で老人が暮らしている。なぜ老人は山村でひとり孤独に暮らしているのだろうか。それは老人ホームに入りたくないからだろうか。北からの叫びはその老人を通り越して、低地の蒸し暑い街で暮らしている若者に届く。まやかしの暮らしこそが生きる意味を教えてくれる。そして教えられたまやかしの意味に引きずられながら、神経が摩耗するだけの労働と身体が摩耗するだけの仲間達との休日の馬鹿騒ぎによって、どこにでもいるありふれた若者として群衆の中に消えていく。北からの叫びが若者に教えたことは何だったのだろう。それはなぜ山奥の老人を通り越してしまうのか。別に教えたわけではない。教えてくれるのはまやかしの暮らしの方だ。北からの叫びはただ若者に届くだけで、人の生き方や暮らし方とかいうまやかしなどは何も教えてくれない。ただ、叫びには行動で応えるべきなのだ。山奥の老人にはもはや行動する術を知ることができない。周りの自然による束縛で身動きすらできなくなっているようだ。死期が迫って親戚が病院に担ぎ込むまではそこから動けないだろう。では低地の若者は行動できるのだろうか。たぶんできないだろう。仕事や仲間による束縛で身動きできないのは山奥の老人と一緒だ。では何のために北からの叫びは行動すらできない若者に届いたのか。何もできない若者を苦しませるために届いたわけか。たぶんそんなところだろう。何も教えてくれないことに苛立ち、焦り、結局何もわからないことにがっかりし、そして期待はずれの叫びは打ち捨てられる。若者は北からの叫びを打ち捨てるより他に方法を見つけられない。その叫びを打ち捨てること、それが若者が強いられた行動だ。貴重なものは打ち捨てること、それが叫びによって強いられた行動だ。これから先も打ち捨てなくてはならなくなる。繰り返し打ち捨てることを強いられる。もはや絶えず叫びを打ち捨てながら若者は生きていく定めにある。その結果、若者の手元には何も残らない。溜まるものは負債ばかり、何をやってもあとから負債がついてくる。今度はその負債が若者に行動を強いる。何もかも打ち捨てよ、と絶えず行動を促され、ますます地面から下に沈み込む。それが低地に暮らす者が必ず陥る罠なのかもしれない。山村の老人には想像もつかないような低さだ。その低さには際限がない。それは何をやってもどのように行動してもどんどん低くなるのだ。ところで、北からの叫びとはある種の呪いなのだろうか。そうではない。それとは全く異なるようだ。若者は呪われているのではなく、絶えず行動を促されている、ただそれだけのことだ。そしてそこにそれほどの苦しみや痛みはなく、自分が動くほどに低くなることにさえ、ほとんど無関心であるかもしれない。それどころか周りの人々は、却って低くなることに安心さえするほどだ。自分達も低くなりつつ現在に至っているのだから、その行動は非難される筋合いのものではない。むしろ人々の期待を裏切って高くなると、逆に非難され攻撃の的になる。燃えている蝋燭が高くなることなどあり得ない。誰もが思うことだ。だが北からの叫びが求めていることは、そのあり得ないことだ。だからあり得ないことは打ち捨てられるより他にない。山奥の老人にははなからその可能性は期待できないから通り越し、街の若者には理解できないものとして届く。では北から叫びは何のために発せられたのか。それはただ単に不可能の存在を知らせているだけなのだろうか。わからない。


9月28日

 川と川の間に台地が広がる。海と海の境目に点々と小さな島々が連なる。砂漠が山脈の手前で途切れた場所にオアシス都市が栄える。そこから道は山々を越えて南と西と北へ通じているらしい。川と川の間の台地は、北へ行くほど標高が高くなり、やがて人家が途絶え奥深い山地に入り込む。一方その南側は三角形の切り立った崖で途切れている。そこで二つの川が合流している。海の中にある一列に並んだ島々は鳥のすみかだ。そこに人の姿はあまり見られない。昔は鯨漁でにぎわっていた時期もあったそうだが、鯨漁はとうの昔に廃れ、それ以来ほとんど無人島と化して今に至っているそうだ。島の所々には昔捕った鯨の骨が散らばっている。大陸の東側には街が密集している。人口が百万を超える大きな都市がいくつも点在する。それらの都市はいくつものハイウェイと鉄道で結ばれている。都市間では人々の往来と物資の移動が絶え間ない。都市の郊外には物流の拠点と広大なショッピングセンターが所々に配置されている。冬の寒さに耐えながらハイウェイを北に向かう。しかし向かった先の大都市で何をやるかは不明のままだ。何かに引き寄せられて人々は都市へ向かうらしい。川と川の間の台地でも北へ向かう者がいる。おおかた北の山へ分け入って、渓流釣りでも楽しむのだろう。自然に引き寄せられて人々は身近な山へと向かうらしい。海の中の一列に並んだ島々では、今やバードウォッチングがさかんだそうだ。鳥に引き寄せられて人々は遠い島へと向かうらしい。そのうちの何人かは、ウェザーリポートのバードランドにでも触発されたのだろうか。それは逆だろう。鳥島に触発されてバードランドが作られた可能性の方が高い。砂漠の端のオアシス都市では葡萄の栽培がさかんらしい。そんな場所で葡萄酒が作られているのだろうか。物好きな日本人ビジネスマンがオアシス産の葡萄酒でも売り出すだろうか。確かにそれは希少価値を持つかもしれない。不味くなければ。何にしろ遠くから持ち帰ったものは物珍しさで一時的に受け入れられることが多い。そのオアシスからの山越えは半端ではなさそうだ。だがそんな場所にも道はあり、国境を越えて物資や人の往来は絶えない。そこで暮らしている人にとってはそれが日常のことだ。だが北のグリーンランドや南の南極大陸で暮らす人にも日常生活はあるだろう。あと百年もすれば月や火星の日常生活もあるかもしれない。北へと向かうハイウェイで迷っている者も、何かしら日常の暮らしを体験してきたのだろうか。大都市で非日常的な光景に接してみたい田舎者にも未来はあるらしい。人はそこでの退屈な生活に絶えられなくなって移動を思い立つ。そして、移動先のその場所で、またもや退屈な日常生活に出くわす。絶えず漂流し続けるノマドは定住先を持たないのだろうか。暇と金ができたらそんな生活を体験したいものだ。だが本気で漂流民になるわけではない。定住地を確保した上で、遊びで漂流するわけだ。文明人は卑怯者の集まりだ。だが文明人の文化とは、そういうまやかしの上に成り立っている。定住先を見つけられずに仕方なく命がけで漂流している人々の文化から、オリエンタリズムやエキゾチシズムのレッテルを貼りつつ、自分達の趣味に合わせて奪い取る。一番簡単な方法が、彼らの姿を写真にとって街のギャラリーで展示会を開くことだ。彼らの日頃使っている日用品や衣装やそれをまねたものを売りに出すやり方もある。民芸品というものの中にそれらは区分けされる。また彼らの生活の実態を丹念に調査して論文として学会で発表すれば、運が良ければ文化人類学系の博士号でも手に入れられるだろうか。地理的利益とはそういうところからもたらされるのかもしれない。われわれは未だに大航海時代の名残の中で生きているのか。


9月27日

 そこに山があり谷がある。ところで、それのどこを見ていたのか。確かにその風景のどこかを見ていたはずだが、見ていた箇所は定かではない。見ていた所はどこかでしかない。どこかはいつまで経ってもどこかのままだ。視線の先を特定できない。いったい何を見ていたのだろう。その風景を見ていた。では、その風景のどこを見ていたのか。どこかを見ていた。それははっきりしない。まったく、他人の勝ち負けに一喜一憂するひまはあるようだが、何を述べているのかは相変わらず支離滅裂だ。言いたいことがはっきりしない。何も関係のないことを同列に並べて、一方は良いが他方は悪いと言いたいらしいが、その善し悪しの基準が、勝ち負けの基準ほどはっきりしてない。誰もが裁定者の役割を担いたいらしい。他人のやったことの善し悪しを勝手に決めて、その評価を当事者に押しつけにかかる。権力を行使するとはそういうことだろうか。何かを批評するときは決まってそういうやり方になるのだろうか。悪しき慣習が蔓延している。だがそれの反対の良き慣習などはどこにもない。慣習はすべて悪しき慣習かもしれない。では良いこととは何だろう。どういうことが良いことなのか。慣習に捕らわれずに自分で判断することか?では、その判断するための基準とはどのようなものか。これまで行われてきた慣習を基準にして、それとは違うことならば、とりあえずそれは良いことなのだろうか。それでは単純すぎる。慣習のすべてが悪いのではなく、その中にも良いものと悪いものがあり、それが良い慣習ならば積極的に守って行かねばならない。だかその慣習が良いか悪いかは、誰がどうやって判断するのだ。それは裁定者気取りの者が判断することになるのだろうか。そうなると、誰もが裁定者となってそれの善し悪しを決めるための権力を行使したくなるだろう。まるで出鱈目だ。結局それは、自分の今まで培ってきた経験に照らし合わせて、それが良いか悪いかを判断するだけだ。そこには公平さや客観性は存在し得ない。要するにそれは、自分の価値観を他人に押しつけることにしかつながらない。それが当たり前だ。裁定に公平性を期待することが、はじめから根本的に間違っているのだ。だがそこで、その自分の価値観がどうやって形成されたかが問われることになる。それは、また別の他人によって押しつけられた価値観だ。さらにその他人はひとりではなく複数の場合が多い。様々な人からそれぞれすこしづつ影響を受け、結果としてその人物が示す価値観は、影響を受けたどの価値観とも少しつづ違うその人独自の価値観であるかもしれない場合もあるだろう。また、裁定を下す者が必ずしもひとりではなく、複数の裁定者の協議によって裁定が下される場合もある。多くの人々の判断を吸収してきた複数の人物が判断するのだから、それほど理不尽な裁定が下るとは思われない。だが、そのような経緯を理解してもなお、自分に不利な裁定を下された者は納得できない。なぜ自分のやったことが悪いことなのか、それを判断する公平で公正な基準など何もないからだ。法律は良い慣習を守るようにと勝手に国家が押しつけてきたものだ。その法律が気に入らない者に、法律が公平で公正なものだと信じさせることは難しい。とりあえず自分が権力を行使されて理不尽な仕打ちを受けたら、それに反発するのは自然なことだ。また逆に自分が権力を行使できる立場になったら、その権力を他人に行使するのは当然のことだと思い込むだろう。その両者を止揚することなどできはしない。


9月26日

 これも夕焼けというのだろうか。曇り空の向こう側から差し込んだ夕日が、コンクリートの壁を黄色く染めている。辺り一面はもうだいぶ薄暗くなった。もうすぐ暗闇の時がやってくる。だが、こんな風景で感傷に浸れるだろうか。しかし感傷に浸るということはどういうことなのか。それをよくわかっていないにもかかわらず、平気で、風景で感傷に浸れるか、などと書いてしまえるところがよくわからない。相変わらずいい加減なことを書きつつあるらしい。もう辺り一面は真っ暗になってしまった。当たり前のことだが、これから先も昼と夜が交互に繰り返されることには変わりがないようだ。ブランデンブルク協奏曲第3番第1楽章のような展開ばかりが続いていくらしい。とりあえず余暇の過ごし方は、退屈な日常のどこかにアクセントをつけなければ、とかいう強迫観念に凝り固まっているわけでもないので、これからもこのまま何もやらずに、ただ怠惰な一日を送るだけかもしれない。これからどうなるかわからないが、このままでもいいだろう。あまり不都合は感じていない。たとえば、命がけの練習をした末にオリンピックで金メダルをとって一躍時の人となるよりはだいぶ楽な暮らし方だ。比較にすらならない。何か一つのことに打ち込む姿勢には誰もが心を打たれるだろう。それはすばらしいことだ。だが自分には関係がない。自分にはできないことだ。自分がその姿勢をとろうとは思わない。つまり自分はそれを信じていないのだろう。いかにそれがすばらしいことかをメディアが盛んにはやし立てるから、つられて自分もすばらしいことだとは感じるが、自分がそれをやる気にはならない。それをやっていながら、選考から漏れて、誰からも見向きもされないその他大勢の日陰者の存在を知っている。それを考えると、現時点で確立されている競争のやり方は過酷で悲惨な制度だと思う。競争に負けた者は卑屈になる以外にどうしたらいいのだろうか。また新たな競争に参加して、そこで勝つ以外に生きる道はないのだろうか。勝つために努力している過程が、そのままその人の人生になるとでもいいたいのだろうか。そんな励ましを真に受けるわけにはいかない。知らず知らずのうちに自分もそれに巻き込まれているとしても、積極的にそんな制度を受け入れるわけにはいかない。どこかの誰かが勝手に競争を挑んできたら、こちらは逃げるだけだ。自分が意気地なしであることを認めよう。自分は他人と勝負するような度胸を持ち合わせてはいない。だからはじめから競争はしない。いったんそれをやってしまってから、きれいごとは言いたくない。自分に勝ったの負けたのと、相手を無視したような言い方にはうんざりする。負けたのは自分が弱かったからだとかいう言い方は、競争相手の存在を無視している。そこで相手と競争した事実を意識して隠蔽して、自分のやっていることを神聖視しながら、それをやってしまった自分自身を正当化している。自分がいかに正々堂々とそれに臨み、卑怯なことや疚しいことはいっさいやっていないかを強調したいのだ。だが、勝つためには何でもやるのが競争の本質だ。秘密の特訓などで相手を出し抜かないと競争には勝てない。そのような本質が厳然と存在するのだから、競争に負けたら負けたで、たまたまそのときの会場のコンディションが悪かったとか、あのときの審判の判定はおかしいとか、相手のやり方は卑怯だとか、なぜ率直に言えないのか。誰もが自分を良く見せようと汲々としている。自分の弱さをさらけ出すまいとして、かえってそれが卑屈な態度に見えてしまう。それが、競争原理が社会の隅々にまで浸透した結果だとするなら、なおのことそんな競争など受け入れるわけにはいかない。


9月25日

 世界について語ることはかなり安易な試みだ。自分が直接取り扱えないものについては何とでも言えるだろう。たぶんそれについて語る必要もないのだろう。それは神についても言えることだ。また、例えばそれは文明や都市についても言えることかもしれない。そのような大げさなものについては以外と簡単に語ることができるかもしれない。だが、それらについて語ったからといって、それらがどうなるわけでもないだろう。ただ、そのような言葉を出せば、なんとなく崇高なことを語っているような気になる。大学の教官や作家くずれのコラムニストなどと同じような言葉をほんのちょっと使うだけで、そのようなアカデミックな雰囲気を醸し出した気になって自己満足してしまうのだ。例えば、ここで今すぐにでも、人類の未来のあり方とかについて何やらもっともらしいことを語ってしまえる気がしてくる。なぜ、世界だの神だの人類だの文明だののように、不必要に大げさなことについては簡単に語れて、逆に、ちょっとした身近な出来事について語るときには、言葉の使用や選択に多大な苦労を伴うのか。たぶんそれは、自分が現実に体験しているせせこましい日常からは常に逃避したいらしく、その逃避願望が時として、安易な誇大妄想に簡単に飛躍するのかもしれない。また、どうでもいいような日常について語る必要性を感じてないことも確かだ。それに日常の日々は言葉が貧しい。限られたいくつかの言葉をただ繰り返して使っているだけかもしれない。そうした日常用語の範囲内で言葉を選択して使用すると、結局はありきたりなつまらない文章しか生み出せないかもしれない。それらは改めて文章にして語る必要のない日々だ。それらを無理に文章にすると現実の日常からかけ離れてしまうだろう。日常を文章にすること自体が作り事であり、それは必然的にフィクションの世界になってしまう。もちろん、そういう等身大の日々に固執する人も大勢いるのだろうが、そういう人の文章にはあまり興味が湧かない。だが一方で、どうしようもない逃避願望から安易にやってしまう大げさな誇大妄想的語りこそ、まるで必要のないことだ。ところで語る必要のあることとは何だろう。わからない。日常生活では、そこに必要性を感じることはたくさんあるが、ここで文章にして語ることは、その必要性とは無関係なのかもしれない。ではいったい何のために語るのか。語ることが必要だからではないのか。だがその必要がないかもしれない。それは何のためでもなく、必要もないのにこうして語ってしまうのだ。わけがわからない。そのわけはこれから先も永久にわからないままかもしれない。自分はいったいここで何をやっているのだろう。何やら不必要なことを語っているらしい。だが、今ではそれが自己嫌悪に結びつかなくなった。もうほとんどあきらめの境地なのだろうか。自分で自分に匙を投げたということなのか。わからない、やはりわからない。言葉を積み重ねるほど、それらとは違うような気がしてくるのだ。何かがずれているのかもしれないが、それがどのようなズレなのかがよくわからない。それは、たとえ世界や神について大げさに語っても解消されるようなことではないらしい。


9月24日

 現実には世界は終わらない。終わりようがない。完璧さとはかけ離れた間違いだらけで欠陥だらけのこの世界は、これから先もたぶん永遠に続いて行くだろう。世界の一部でしかない人間に世界を終わらせることはできない。この世から人間がいなくなっても世界は残る。もっとも、このように述べたところで世界がどうなるわけでもない。世界についていくら語ろうとも、ただあるがままの世界が今ここに存在しているだけだ。たとえこのような言動によってこの世界が変化してもしなくても世界は世界だ。人間がいくら文明の力によってこの世界を変えても、依然としてこの世界はこの世界のままだ。この世界は別の世界ではない。世界は人間の想像をはるかに超えていくらでも変化できるだろう。しかもそれは、人間の力を利用して、例えば人間を抹殺する方向にも変化することができるだろう。だが世界には人間が持っているような意思はない。意思によって変化するのではなく、ただ変化する。そこに人間を抹殺するような意志が働いているのではなく、ただ変化した結果として、たまたま人間がこの世界からいなくなる、そうなるだけのことだ。その変化の要因や原因は、あとから人間が納得するために言語によって構築される人間だけに通用する概念にすぎない。それは人間固有の世界の捉え方だ。しかも人によって世界の捉え方は微妙にあるいはまったく異なるだろう。例えば、そこにどうしても人間と同じような意思や思考を当てはめずにはいられない人々もいる。人間と世界の間に神を介在させるやり方は、古くから幅広く人々の間に浸透している。人間の発した問いに、人間の理解できるような言葉でこの世界が答えて欲しいのだ。世界の方から人間に対して何かを発して欲しい。例えば人間の勝手な行動や言動に対して、世界の側から警告や戒めの言葉を発して欲しい。災害や疫病で人々が死んだら、それは良からぬおこないに対する天罰だと生き残った人々に知らせて欲しい。つまり人々からのそのような要請によって神という概念が存在するようになった。それも人間固有の世界の捉え方のひとつになるだろう。しかもこんなふうに述べていることさえ、あるひとりの人間による世界の捉え方のひとつでしかない。さらに人間という概念でさえ、人間をすべての人間に共通するような呼び方で呼びたいという要請によって編み出された概念である。人間による世界の捉え方は人間の一方的な思い込みだ。そこにいくら科学的な裏付けがあろうと、いくら辻褄が合おうと、最終的にはそれを人間の側が一方的に信じるか信じないかの問題になる。その際、世界の側には何のリアクションもないだろう。何か実験してその結果が科学的仮説に適合すれば、それは信じるに足る証拠となる、ただそうことでしかない。とりあえず現代の傾向としては、その説に科学的裏付けや因果関係の辻褄が合えば、そしてあとは社会の支配的言説にマッチすれば、人々はそれを信じるのだろう。もちろん科学的裏付けも因果関係の辻褄も社会の支配的言説も、時代によって変化するだろう。それは世界が絶え間なく変化している証拠だ。別に人間の都合で変化しているわけではない。世界が人間の都合で変化しているように思われるならば、それは人間が勝手にそう信じているからに過ぎない。しかもそういう信仰は、人間社会で通用する場合がある。多く人や権力を持った人がそう信じれば、それがその時代の支配的言説になる。だが別に、そのような人間達のおごりに神が怒り、天罰として天変地異を起こすわけではない。何か大きな自然災害が起きるとすれば、それはただ起こるのであって、たとえそれが人間達の経済活動の結果だとしても、そこには世界による思惑や意志が働いているわけではない。ただたまたまそうなるだけのことに、信心深い人々がそこに神の思惑や天の意志を見いだすに過ぎない。それは、そう思い込むことが何かしら救いになるように感じるので、それが見いだされる。だがそれは人間の側だけの問題であり、問題は人間の側に一方的に存在する概念である。


9月23日

 今さらどんなことをやりたいのか。たぶん本気ではないのだろう。そこに何を見いだしたいのだろう。相変わらず何も見いだせないようだ。こうしてまた以前と同じ言葉が繰り返される。やらなければいけないことをわかっている人はうらやましい。しかしわかっているがそれができない人もいるかもしれない。もしかしたらそんな人ばかりなのかもしれない。だがやらなければいけないこととは何か。そんなことがわかったら苦労はない。どうやらそんな人ばかりではないらしい。やることは書くことだ。それはやらなければいけないことではない。別に書かなくてもいいのに、こうして書いているわけだ。何も見いだせないのにこうして書ける。いったいこれは何をやっているのだろう。わからない、書いていること以外は。何も信じることはできない。何も見あたらないし、誰もいない。これが孤独というのだろうか。だが孤独さえ信じられない。何が孤独なのか、これのどこが孤独なのだろう。では孤独でなければなんなのか。わからないが、とりあえず、この状態を孤独と名付けよう。で、この孤独がどうしたというのか。どうもしない、ただ孤独なだけだ。どうしたわけでもない。そろそろ帰らなければいけないらしい。どこへ?帰る先はどこにもない。だがそんなことも信じられない。帰る先もないのに実際に帰るだろう。そう、どこかへ帰ってしまうのだろう。未来のことはわからないし、予測や予想は当てにならない。だから、そのどこかは、実際に帰った先がわかるまではどこかでしかない。今現在は帰る先など特定できない。たぶんどこかへ帰るのだろう、わかっているのはそれだけだ。孤独なのに孤独でないし、帰る先もないのにいつかどこかへ帰るのだろう。やらなければいけないことをわかっている人は、おそらく勘違いしているのだろう。そのやらなければいけないことは、やらなくてもいいことだ。やらなくてもいいことをやろうとしている。そう、自らの強い意志でやりとげようと必死に努力している人は、勘違いにもほどがあることをわかっていない。それは始めから大きな誤解に基づいているのであって、まったくの誇大妄想に突き動かされ、実際に何か途方もないことをやりとげるだろう。それは大きなわざわいを招き寄せる。たぶん途中で挫折した方が幸せなのだ。それを無理してやりとげてしまうと、恐ろしい結果が待ち受けているだろう。ではやらない方がいいのだろうか。そうではない、やるべきなのだ。わけのわからない衝動に突き動かされながらそれをやりとげなくてはならない。そしてその結果は、途中で挫折すれば幸せになり、万が一それをやりとげてしまうと、二度と立ち直れないような絶望のどん底へたたき落とされる。真理とはそういうものだ。もうごまかしはきかない、やりとげれば幸せなるようなことはこの世に存在しない。だが、この真理は真理であるがゆえに、世間では認められない。このような不条理で救いのない真理の存在は許されないことだ。それは断じて信じてはならぬ真理なのだ。この世は嘘を信じることによって成り立つ社会だ。人々が嘘を信じなくなったら、それは世界の終わりが訪れるときだろう。世界そのものが真理によって砕け散るときだ。


9月22日

 大したことはない、もうすでに半分忘れられている。何とかもうひと騒ぎ起こしたいらしいが、仮にそれが成功したとしてもそれだけのことだ。なんのことはない、こんなことでしかなかった。あと一週間くらいで終わるようだ。同じ国でも、現地と地続きの西側の乾燥地帯では、話題にすらなっていないそうだ。飛行機で四時間もかかるので行く気がしないらしい。もう少しの辛抱だが、辛抱するほどのことでもなかった。そんなことに言及するまでもない、それに対する肯定か否定かの意思表示などもいらなかった。所詮四角い画面上のイベント程度ではこの欠落は埋められない。いくら騒ぎ盛り上げようとも、こちらには何も伝わらなかった。画面上のごちゃごちゃした動きを目で追っているうちにすべてはうわの空だ。いつの間にか画面から目を背けて二十年前のポップスを聴いていた。例えば、その十秒足らずの出来事に、どれほどの人々が期待に胸をときめかせているのだろう。電車の中で広げられる紙面上の大きな文字に、どれほどの人々が注目するのだろう。だがそれらを安易に否定してはいけない。それらによって欠落を埋めることはできないが、一時的にその大きな欠落の存在を忘れることはできるだろう。そう、この世に欠落など存在しない、すべてが過剰に充溢しきっているのだ。この世界は多種多様な情報で満ち満ちている。そんな幻想を抱くことは容易だ。実際にそうだからだ。それは幻想ではなく現実である。現に存在している様々なメディアの氾濫によってもそれは確かめられる。確かにそれは真実であるかもしれない。だがそれがいかに真実であっても、そんな真実は認められない。真実だからといってそれを受け入れる義務はない。ではさっきから強調している欠落とはなんだろう。何が欠落しているというのか。そしてその欠落は何によって埋め合わせられるのか。欠落を埋めるものは何もない。この世には欠落そのものが欠落しているのだから。すべてが過剰なのだ。一分の隙もなく何もかもがぎっしりと詰まっている。しかも、絶えずそこへさらに新たな生成物を詰め込もうとしている。入る余地のないところへ無理矢理詰め込もうとするのだから、すでに入っていたものを押しのけて入れなければならなくなる。結局はそこから争いごとが起こるしかない。その争いごとを象徴するイベントが今まさに四角い画面上に映し出されている。昨晩から今朝にかけてはマザコン青年のみっともないパフォーマンスを感動の光景だと強弁し続けていた。あれはどう見ても無理があるだろう。しらじらしい親孝行を本気で演じている青年もそれを伝えるメディアも、滑稽以外の何ものでもない。その光景が明らかにおかしいのに、それを感じていながら、大衆とそれに乗っかって制度を支える人々からの反発を恐れて、誰も口に出すことができない。やはりその程度のことなのだ。さも大変なイベントだと事前からさかんに騒ぎ立てていたあれらも、一皮むけばそんなことでしかない。もちろんそれがすべてではないのだろうが、それ以外の出来事もそれほどの大差はないだろう。画面上で何やら人がごちゃごちゃ動き回って騒いでいるだけのことだ。たぶん、そこで行われている、互いの筋肉と反射神経の連携をいかに戦略的に役立てるかを競い合うやり方とは無関係なのだ。だからあれらを真に受けることができない。自分はあれらとは別の種類なのだろう。種類が違うのだから、ああいったものを否定しなくても生きて行けるかもしれない。そんなやり方を模索してみよう。


9月21日

 しかし迷路はどこにあるのだろう。紙の上に迷路を書いてみる。それを真上から眺めると、迷路全体を見ることができる。それはひとつの地図だ。気がついたら、入口から出口までペン先でなぞることに熱中していた。そんな経験をした覚えがあるらしい。行き止まりのない迷路も作ったことがある。回り回って元の場所に戻ってくるように路を配置すればいいわけだ。路を複雑に入り組ませれば、そのような迷路でもなかなか出口にたどり着けない。それは絵だろうか。薄い青色の空から誰かが助けを求めている。しかしなぜ神が人間に助けを求めているのだろうか。神は全能ではないのか。それは神などではない。誰も助けなど求めてはいない。それはただの絵だ。そこにはただ画布に絵の具が塗られているだけのことだ。そこには青色の絵の具が塗られているようだ。それが最も正確な真実だろう。その乾いた絵の具の表面にどうして神が宿っているのか。そこに何も理由はない。それを見た誰かがそこに神の姿を見てしまった。そして神の声を聞いたらしい。その人はその場で、神が自分に助けを求めていると口走ったらしい。そんな作り話を信じてみる。それは絵だろうか。少なくとも地図ではないらしい。道には文字が記されていないので地図とは言えない。そこには記号や印もない。何も目印のない道が描かれている。しかもそれは迷路ではなく、単なる一本道だ。その絵を斜めに横切る道は画布の端で途切れる。実際はまだ続いているだろうが、額縁がそれを遮っている。別にそれが果てしなく続いているとは思われないが、道が続いているかどうかは、その絵を見ただけではわからないだろう。そこで画面が切れているのだから、その先がどうなっているのかは何とも言えない。だが、そこから道は果てしなく続いているのだ。またしても誰かがそう呟いている。なぜそうなのかは説明できないが、それが真実なのだそうだ。なぜその道が果てしなく続いていると言えるのだろう。なぜそんなことを口走ったのか。またしても神の声でも聞いたからなのか。その道が果てしなく天上まで続いているとでも神が教えてくれたわけか。何を述べているのかわからない。ここには迷路しかないらしい。どこで道に迷ったのだろうか。どこでもない、どこかで迷ったのだろう。それは常にどこかでしかない。ここでもあそこでもなくどこかなのだ。場所はいつも特定されない。そしていつも決まって誰かが意味不明なことを口走るのだ。彼でも彼女でもあなたでも私でもない。それは常に誰かが呟くのだ。これは罠なのか。気がついたらはまっているのが罠だろう。どこかで罠にはまったらしい。そして今は迷路の中でさまよい歩いている。そんな嘘を信じられるだろうか。何が罠でどこに迷路があるのだろうか。紙の上に自分で描いた迷路で自分が迷うことができるだろうか。少なくとも迷ったふりはできるだろう。気まぐれに迷路で迷って困ったふりをしてみる。だがそんなやり方でこの迷路から脱出できるのか。そんなことはわからない。あるのは意味不明な疑問だけだ。それは絵だろうか、それとも地図だろうか。絵でも地図でもない。それは迷路でもない。そして神の声など聞いた覚えはない。神の助けに応じた覚えもない。誰がそんなことを口走っているのか。


9月20日

 そこに閉ざされたひとつの周回コースとして路が設定されている。そこには何かしら特定の目的が求められている。例えば、そこは走るために整備された施設であったりする。そしてその走り続けるためのサーキットは決して迷路ではない。曲がりくねった先に行き止まりなどはない。だが、いったんそこで走り出すと、その路には出口がないことに気づかされる。そこは競争路としてただぐるぐる回るように設計されているので、人々は回路内の走路で疲弊し体力を消耗しながら、そこで力尽きるまで、いつまでも走り続けることになる。しかしそこには確かゴールの線が引かれているはずだ。そこで走ることをやめられるのではないか。確かに走路の中には暫定的なゴールが存在していて、そこで走ることを一旦はやめることができる。だがそこで走ることは終わらない。他の場所にまた別のサーキットがあって、そこでも周回コースをぐるぐる回らなければならない。そしてそのようなサーキットは世界中にあり、人々は力の続く限りその無数にあるサーキットのひとつひとつを巡り歩いて、その回路内をただ走り続ける宿命にある。なぜそうしなければならないのだろうか。それは同じ場所にいる同じ制度を共有する同じ立場の複数の他者と、そこで競わなければならないからだ。世界の至るところにある、その閉ざされた路で、複数の人々による競走が行われているらしい。そして人々は、走路と走路を区切る白線以外に何もないその一見殺伐とした場所で同じひとつの基準で競い合わなければならない。それはきわめて単純なことを競い合う。走る速さを競い合う。あらかじめ競う基準は明確に規定されている。ただいかに早く目的地であるゴール線までたどり着くか、その一定の距離を走り終わる時間を計測するために走る。最短時間でゴールまでたどり着けば、一応そこでは勝利を得ることになる。それが皆に共有されたひとつのルールだ。それは競技種目が異なれば、また別の統一された基準を形作るルールに出くわすだろう。一時的な勝利をその瞬間に定着させるルールが競技種目の数だけ存在する。ではその勝利に何の意味があるのか。それは勝利を導き出す方程式からは逸脱した問いだ。勝利こそが至高の言葉であり、そこに付け加えられる意味は、肯定的な意味なら何であっても構わない。意味などいくらでもある。付け加えようと思えば、功利的な価値をいくらでも付け加えられるだろう。そして同時に意味など何もない。その競技に関心のない人にとってはそこでの一時的な勝利など何の意味もないことだ。世界に渦巻いている価値観は常に多種多様であり、至るところで集中したり拡散したりしている。そこに一定の期間、一時的に価値観を集中させようと画策している人々にはついて行けない。そこでは勝った者に対する賛辞とそれに反比例する負けた者の屈辱感が大げさに強調され、結果として肯定と否定の価値観が言葉のインフレーションを起こしているだけだ。放送から吐き出される言葉や、紙面上に大文字で踊る言葉には吐き気がする。


9月19日

 空気の流れが風を感じさせる。確かにここは真空状態などではない。常に何かしら物質で充たされているのだろう。素粒子レヴェルではスカスカの空間だそうだが、人の五感で感じ取る水準ではこの世界の中に数限りない様々なものを見いだせるだろう。なぜそうなのかは知らないが、それらはこの世界の中で、この世界の一部を構成しながら存在しているらしい。感じ取るものすべてがそうだ。感じ取れないものまでがそうだ。それらを感じ取ったり取れなかったりする主体までが世界の一部を構成しながら存在している。そして世界の一部でしかない者が世界について考えている。なぜ考えるのだろう。こういう世界がここに存在しているからか?だが、考えればわかることなのだろうか。わからなくて当たり前かもしれないが、わかることもある。それは勘違いとか見当違いかもしれないが、たとえそれが間違いだとしても、考えれば何かしら結論を導き出せる。それがわかったことだ。つまり考えることは間違いがわかることに結びつく場合もある。そして、間違いがわかることは、まだわかっていないことでもある。わかろうとする途中の過程で、間違いに気づくわけだ。間違いはわかったが、わかろうとしていること自体はまだわかっていない。そしてわかろうとすることに執着して、またさらに考えれば、また別の間違いに気づくだろう。たぶんそのような間違い捜しは無限に繰り返されるのだろう。どこまで考えてもきりがない。わかることは間違いに気づくことでしかない。なぜそうなのかは知らないが、それが考えることの特質かもしれない。ではそれが世界を支配する原理なのだろうか。原理の中のひとつの法則のようだ。それが世界を動かす推進装置をなしている。間違いは絶えず考え行動するために必要だ。間違えるから絶えず考えなくてはならなくなる。いったん正解がわかってしまえば、もうそこから考える必要はなくなる。後は正解通りに同じことをやっていればいいのだから。つまり、試行錯誤こそが常に新しい行動に人々を駆り立てる。それがこの世界を動かしているのだろう。人々は絶えず間違い続けながら世界を動かしている。逆に言えば、世界が動いているからこそ人々は絶えず間違い続けているのかもしれない。これまでの慣習が通用しなくなるとき、今までその慣習にすがって同じことをやり続けてきた人々が、自分達の間違いに気づき、同時にこの世界が動いていることを実感することとなる。


9月18日

 幻影に救いを求めているようでは情けない。やはり幻影もやり過ごすべきなのか。だが、やり過ごすとはどういうことなのだろう。このところ頻繁にその言葉を使っているが、実際にそれがどういうことなのかわかっていないかも知れない。よくわかっていないにも関わらず、その場の勢いでついついその言葉を使用しているのだろう。その前後の言葉と違和感なく接合されていると感じるならば、意味などよくわからなくともとりあえず言葉を当てはめてみて、それで不自然でなければ良いわけだ。だから、自分が書いた文章なのに、その意味を厳密には把握していないことになる。その結果、しばしば書き手自身を超えた文章になってしまう。実際の自分の生活とはかけ離れたものが生み出される。それは選曲した音楽が選曲者を超えているのと同じことだろうか。それはよくあることかもしれないが、さらに言えば、例えば、作曲した音楽がその作曲者を超える場合を想定できるだろうか。それはまれに起きることかもしれない。ブランショの評論が述べていたことは、作品がその作者を破滅させる、作者が作品を作るのではなく、作品が作者を創造する、作品が書かれてからその作者という概念が誕生する、それが読まれる過程で作品の中に作者が見いだされるのだから、それは作品が書かれる前や書いていたときの人物とは別人だ、また読者が作品の背後にそのような実在する人物を想定して、その人物を作品の中の作者に重ね合わせようとすれば、どちらの人物も虚構の存在となってしまう、その両者ともに作品の中には存在できない、それらはいつも読者の想像の中に存在するのであって決して現実の作品の中ではない。だから作者には作品の中に居場所がない、元から作者は作品から追放されている、結局はそこで消え去るためにしか作者という存在は残されてはいない、自分の理解している範囲内で簡略化すればそういうことになる。まだそういうレヴェルには達していないだろう。だがそれを目指す必要も感じていない。自分にとって自分の書いた文章はよくわからない、実感できるのはそれだけだ。どこまで行っても自分の書いた文章は自分のものではないだろう。便宜上の所有者として自分は存在し続けるだろうが、それは文章以外の別の役割を担っているに過ぎない。だがブランショをやり過ごすことができるだろうか。わからないが、こんなことを書いているのだからまだブランショをやり過ごしてはいないらしい。ブランショの中には未だにやり過ごすことのできないものがあるようだ。確かにブランショも作品の作者のひとりなのだろうが、なぜかブランショという固有名を出さなければブランショの作品については語れない。ブランショは作品の中に想像される作者とは違うのだろうか。うまく述べることは困難だが、ブランショの作品はブランショ自身の個人的体験には還元できない。ただ恐ろしいことが書かれているその作品群に、外部からそれらを便宜的にブランショの作品と名付けているだけなのだろう。確かに以上に述べたことは、実在したブランショという名の個人の歴史とは無関係にブランショの作品の内容について簡単に語っただけだ。


9月17日

 光煌めくの映像の中に何かを探している。海の上には何が浮かんでいるのだろう。天候によっては光の反射と屈折によって不思議な光景を見ることができる。蜃気楼を見たことがあるだろうか。映像でしか見たことはないかもしれない。実際にこの眼で見た体験が欠落している。四角い画面に貼りついた蜃気楼の映像を間接的に見ることと、フレームのない現実の眼球で直接見ることとの間にはどのような違いがあるのだろう。たぶん何かしら差異が存在するのだろうが、明確にはわからない。少なくともそれを見ている状況が異なる。屋外で実際の蜃気楼を見ることと、室内で小さな四角い画面上の蜃気楼を見ることとはだいぶ状況が違うだろう。だが今のところ映像の中の蜃気楼でも構わない。実際に見なくて何も不都合はないし、とりあえずはそれで事足りる。いつの日か暇でもできたとき、実際の蜃気楼を見に行けばいい。そんな機会がはたして巡ってくるかどうかわからないが、そのときが巡ってくることを期待しよう。とりあえず今は偶然に虹でも見たときの感動ぐらいで我慢しておこう。後は映像による間接体験があるだけなのか。そうかもしれないし、そうでないかもしれない。未来のことは何とも言えない。予感は何もないが、映像ではなく、現実に何かに巡り会うかもしれない。映像はすぐに飽きが来る。だが簡単に映像は消せるので便利だ。電源をオフにすれば見なくてもいい映像は簡単にやり過ごせる。あるいは見た瞬間に嫌だと感じたら、すぐさまチャンネルを切り替えればいい。うんざりするような内容は、後で結果だけを知ればそれで事足りるのだろう。そんな手軽さに慣れきっているので、我慢することを忘れてしまう。だがそれでも事足りる。今まではそうだったし、これからもそうだろう。できればそう願いたいものだ。この弛緩しきった頭脳ではもはや何も認識できないだろうから。たぶんその四角い窓からめまぐるしく変わる映像を四六時中眺めていれば、それで大抵のことは事足りるのだろう。こうして画面から放射される情報を伴った電磁波を浴び続け、終いには見てはいけないものを見てしまうことになるだろう。幻影を見る。頭の中に蜃気楼が立ちのぼる。それは死に神の姿なのか。そうかもしれないし、そうでないかもしれない。時間は絶え間なく進み、ついには最後の時をも通り越してしまうだろう。死に神すら過去の残像の中で劣化してゆく。それは幻影であり蜃気楼そのものだ。薄っぺらい映像の中の染みでしかない。何の力も持たない。それでは力は何から生じるのだろう。すべてだろう、すべてから力は生じる。そうとしか言いようがない。だから力の源は特定できない。相変わらず何も見いだせないようだが、ただ実践あるのみだ。何もかもやり過ごそう。死さえも、自分が死んだ後に気づけばいいだろう。


9月16日

 ありきたりな経験の積み重ねが人々を何に導くのだろうか。たぶんまっとうな人生を歩ませるのだろう。そして運が良ければ分別をわきまえた普通の社会人になれるかもしれない。だが、ありきたりな経験とはなんだろう。まっとうな人生とはどういう人生なんだろう。普通の社会人とはどのような人々のことを言うのか。それらはすべて曖昧なままだ。なんとなくはわかるが、そう改めて問われると、何とも言えなくなる。それらに明確な基準はない。つまり冒頭の文はそれほど厳密なことを述べているわけではない。本気でそんなことは語っていない。それらはいい加減な口からでまかせ程度のことであり、あまり切実な問題ではなくどうでもいいことですらあるが、なんとなくそのような気がする、ただその程度のことを述べているに過ぎない。たぶんそういうどうでもいいことを真に受ける人は少しおかしい。何がおかしいかはやはり曖昧だが、ただなんとなくおかしいことはわかる。何がおかしいのか説明できないのに、それでもおかしいと感じることはよくあることだ。それと同じように、ありきたりな経験がどのような経験なのかは具体的に示すことはできないが、たぶんこれからありきたりな経験ばかり積み重ねるのだろう。また、まっとうな人生がどのようなものであるかは人によって千差万別だろうが、とりあえず犯罪者にでもならない限り、自分がまっとうな人生を歩んでいると実感できるかもしれない。そして、普通の社会人にもいろいろな種類があるかもしれないが、例えば自治会やら町内会の役員でも引き受けることになれば、自分が分別をわきまえた普通の社会人であることを実感できるだろう。つまりこれらはありきたりな経験の積み重ねからなんとなくわかることだ。ようするに、何がおかしいのか説明できないのにも関わらず、それがおかしいと感じられるのは、今まで積み重ねてきたありきたりな経験によって培われた一般常識に照らし合わせると、そういうどうでもいいことを真に受けることは少しおかしいと思われる、ということになる。それは自らが今ここに存在する現実に捕らわれている証なのだろう。自分の意識は周りの環境とは切っても切れない関係を結んでいる。それはまた、自分がある一定の地域でのみ通用する狭い常識の範囲内で語っている証拠でもある。たぶん自治会やら町内会が存在しない地域に暮らしている人にとっては、なぜそれで分別をわきまえた普通の社会人と見なせるのかわけがわからないだろう。やはりそういったありきたりな経験に基づく常識とは別のことを述べていかないと、外部の他者には永久に遭遇できないだろう。別にそういった出会いを期待しているわけではないが、ありきたりな経験に基づく曖昧な常識に頼って書くと、何も残らないのかもしれないとは感じる。それでも良いのかもしれないが、そういう文章は容易に書けるが、後で読む気が起こらないことは確かだ。


9月15日

 今赤道の南側は春らしい。吠える人々は彼の地にいるようだ。一方北の海に沈んだままの人々は沈黙したまま動かない。どちらが幸せだろうか。比較できないだろう。無理に比較すれば荒唐無稽になる。接点が何もないと思われるものは比較の対象にならないかもしれない。当たり前の認識に退屈する。まるで無関係の人々を結びつけること、なぜそんな荒唐無稽のやり方を好むのだろう。そこにどのような意義を見いだそうとするのか。さしあたって意義などない。何も見いださない。海底で死んでいる人々に積極的な未来はない。そこからの移動が可能ならば、いつの日か引き上げられて、陸上のどこかの墓地に収容されるだけだろう。そのまま海底にとどまるか陸上の墓地の中に収まるかのどちらかだ。もちろん彼らに選択の機会はなく、どちらを選択するかは陸上で暮らしている人々に委ねられている。彼らが移動する可能性は他人の選択に全面的に依存している。死人に自発性を期待することはできない。では南半球の彼の地で吠えている人々に自発性を期待できるだろうか。彼らにそんなものを期待するのは筋違いだ。期待するまでもなく、すでに期待し期待されている。その期待は自発性などよりもっと具体的な物事だろう。彼の地の人々は激しく吠え続けた見返りを期待し期待されている。その見返りは実利に結びつく。例えば、ある者は心が洗われるような感動を期待しているのかもしれないし、またある者は吠え続ける人々によって勇気がもたらされることを期待しているのかもしれない。たぶん公式のフレーズは、夢をありがとう、感動をありがとう、勇気をありがとう、なのだろう。何千キロも離れた彼の地の出来事と、彼の地で吠え続けている人々とは何の関係もない生活を送っている人々がなぜか結びつく。まるで無関係の人々が夢や感動や勇気を分かち合うらしい。吠え続ける人々と普通の一般人を比較することはできない。そのような比較に何の意義も見いだせないだろう。何やら屁理屈を並べ立てて無理に比較すれば、それはまったくの荒唐無稽になるだろう。しかし両者は夢や感動や勇気によって結びつくらしい。公式的な見解はそう述べている。まるで関係のない人々を結びつけて、そこから夢や感動や勇気を引き出す。考えてみればこれはすごいことだ。やはり荒唐無稽は偉大な言葉なのだろうか。どうやらこの世界は出鱈目で成り立っているらしい。あらゆる方面で当たり前のように論理的構築がなされる一方で、その構築物の材料となっているのは、まったくの出鱈目なのだ。それを人々が受け入れるためのキーワードは、信じること、ただその一点のみでこの世界は成り立っているらしい。


9月14日

 後ろめたいとはどういうことだろうか。それを信じていないのに信じているふりをすることは、いくらか良心の呵責でもおぼえるのだろうか。鎖でつながれた犬はよく吠える。人の場合はどうだろう。実際に吠える人がいるだろうか。わざと吠えてみれば犬の気持ちが少しは分かるだろうか。人から人へ伝播する感情の連鎖に巻き込まれて、回り回ってそのうち自分が吠える番が巡ってきたりするのだろうか。できればそれは勘弁願いたい。言葉は未だに失われたままだ。言葉の出力装置は故障したまま錆びついている。かつてはどんな言葉を吐き出していたのか、もう何もおぼえていない。何もかも忘れてしまったかもしれない。何も思い出せない。思い出そうとしてさえいない。かつてこの空間には何が響き渡っていたのだろう。それは音なのか、それとも声なのか、まさか何かはっきりした意味を含んだ言葉だったのか。やはり今となっては何も思い出せない。もの言わぬ沈黙が支配しているこの空間には、今はただの空虚しかない。何かを響かせる媒体すらない。だからこのままではこれからも何も響かないだろう。だがそれで構わない。相変わらず何もかも忘れ続けている。これはどうしようもないことだ。あえてその流れに逆らう気力はない。たぶんそれらを忘れることは良いことなのだ。忘れられない嫌な思い出を反芻し続けるよりも少しはましだろう。人はそれらを忘れることで正気を保っているらしい。では人ではない人の場合はどうなのだろう。すべてを忘れまいとして、毎日毎時必死になってデータベースに記憶を打ち込み蓄積し続けているのだろうか。そうなると人は人ではなくなるらしい。そのうちデータベースに記憶を打ち込む作業だけが記憶として残るだろう。つまり記憶を打ち込む作業だけしかやっていないのだから、当然そのデータベースに蓄積する記憶は、記憶を打ち込む作業そのものとなる。だがそんなことがあり得るだろうか。何とも言えない、とりあえずそうなったらおもしろいだろう。あり得ないことを夢想するのは気晴らしの一環なのだろう。響き渡るのは空虚だけだ。今響くはずのない空虚が辺り一面に散乱している。もう何も求めない、空虚以外は。そんなフレーズをどこかで聞いた記憶がある。たぶんそれは嘘だ。心にもないことをカッコつけて言いたがる癖があるらしい。だがそれが誰の癖だったのかが思い出せない。人物を特定できない。無をこの手でつかむことなどできない。そういう陳腐な行為は、せいぜいのところ空振りに終わるだけだろう。手に汗握るようなスリルでも味わいたいものだ。もちろんいつも冒険はブラウン管のあちら側で行われる。それを見るだけで手軽なスリルを体験できる。たぶんそういうスリルも嘘なのだろう。だが、それをまったく信じていないのに信じているふりをすることしかできない。その瞬間は本当に信じているのだ。それが錯覚でしかないと気づくのは、それからだいぶ時間が経った後だろう。スリルは幻覚だ。そこに何の危険もないことはわかっている。何の危険もないのにスリルを感じたいという欲望自体が危険なのかもしれないが、やはりその空間には空虚しか存在しないようだ。


9月13日

 人という概念の存在を信じるなら、人について語る言説は、常に不完全のまま語られるだろう。なぜなら人は人でないからだ。人について語っている限り、人の人でない側面を語ることはできないだろう。せいぜい人の獣的本能が言及の対象となるぐらいで、そのような人間の延長上の動物的行動以外の、人ではなく獣でもない事柄については語りようがない。では、その語りようがない人の人でない要素とは何だろう。だからそれを人から語ろうとする限り、語ることは不可能なのだ。例えば、なぜ市場経済が維持継続されているのか、それを単純にそれに関わる人々の努力に結びつけて説明するならば、市場経済の非人間的な側面は語られないまま、誰にも理解できない大きな謎として残される。様々な物資の生産と流通と消費は単純に人々の欲望から生じているのだろうか。また、富の蓄積は本当に人々の利潤追求活動の結果なのだろうか。それらは人々の能力をはるかに超えた力によって動かされているのかもしれない。確かに人々はそのように行動しているのだが、未だかつてそのような自分達の行動を自分達で制御できた試しはない。社会主義の計画経済は完全な失敗に終わった。確かに人々はそれを制御しようと躍起になっているし、これからもそのために多大な労力が費やされるのだろう。現に今行われていることは世界規模で人々の行動を情報によって管理する試みだ。仕事から余暇の娯楽に至るまで、すべてにおいてメディアが管理する情報に従わせようとしている。例えば、今人気のアルバイトは〜で就職先は〜が有望で、人気の食べ物やらレストランやら観光地やら、何かしらひとつの事象にスポットを当てて、その囃し立てている情報に従うのが流行であるとして、皆がそのような暮らし方を模倣するように仕掛けてくる。つまりそれは、自然発生的に生じたムーヴメントを世論調査などで見つけだし、それがさらに流行するように脚光を浴びせる一方で、オーディションによる芸能界デビューなどのような自分達の持っているフォーマットに合うようにそれを改造してしまい、結局はムーヴメント全体がメディアの管理の網に捕らえられ陳腐化する。そして陳腐化したムーヴメントは廃れ、メディアはまた新たなイベントのネタとして利用するために社会に世論調査の網を張り巡らす。それの繰り返しだ。つまりそれが情報による大衆管理の実体である。たぶんそのような管理方法はある程度は成功しているのだろうが、それが完全に成功しているとは思われない。完璧に成功しているとすれば、共産主義の夢が今まさに実現していることになる。そうは思いたくはない。これからも常に人々の想定を越えた出来事がもたらされるだろう。それは当の人々の行動によってもたらされる。人が人について語っていることとは違うことを人は実際に行っているし、これからも人の想像を超えたことをやるだろう。


9月12日

 当たり前のことだが、新鮮な感覚は長続きしない。それが去った後はどうすればいいのだろう。ありきたりな日常の風景で我慢すればいいのだろうか。またいつか喜びと感動が押し寄せてくる日が来ることを期待して、ただひたすら思い出に浸りながら待っていればいいのか。たぶんそれで何とか退屈な日々は乗り切れるだろう。無駄な歳月をやり過ごすこと、それは老いることに無抵抗でいることだ。だがそれ以外に何をやれるというのか。ケチな悪あがきで何かをやっているつもりになればいいのか。自己満足の方法ならいろいろある。例えばこんな文章を書いて気を紛らすこと、それでいいのか。どうもそれでは駄目らしい。とりあえず、いやなことには抵抗しなくてはならないようだ。例えばそれがメディアが盛り上げようとしているイベントであっても、安易に迎合せずにできる限り抵抗して行こう。こんな場でどんなに罵詈雑言を書いても大した嫌がらせは来ないだろうから、たぶん大丈夫だ。それをやれる立場の人間が、やれる範囲内でやらなくてはならない。誰のためでもない、そうすることの大義名分は何もない。目的意識もない。また別に社会を良くしようと孤軍奮闘でがんばっているのでもない。正義感などは更々ない。恨んでいるのでも妬んでいるでのもない。何のためでもなく、ただいやなことにはいやだと述べたいだけなのかもしれない。それ以外に何か最もらしい理由を付け加える気にはならない。だがこれで良いわけはない。何か別のことをやらねばとは常々思っている。その何かが何なのかは、その場その場の状況と勝手な思いつきで適当に決まるのだろう。無意識のうちに新鮮な感覚の出現を探しているようだ。絶えず新しい感性を味わいたい。思いもよらぬ出来事を期待している。望んでいるのは偶然の到来を触知することだ。たとえそれが不可能な営みであるとしても、なおのこと現状ではあり得ない偶然の交錯を待ち続ける。そのような意味では、まだいくらかはスポーツに可能性があるだろう。スポーツは、確かにその場で偶然に起こる出来事の集積である面もある。だがその一方で、その偶然性は、ある一定のルールによる拘束を受けた範囲内での偶然性だ。すべてが偶然に起こるわけではない。すべてが偶然ならば、そこで何か起こっているのかわけがわからなくなる。物語の筋としてのルールがあるからこそ、そこからの思いもよらぬ逸脱に感動できるのだ。比較対象である定型としての模範的なスポーツのあり方がルールを通してあらかじめ思い描くことが可能だからこそ、必ずしもそのようには事が運ばない思いもよらぬ偶然の介入に驚き喜ぶわけだ。だがそれだけではない。スポーツには競争の結果としての勝敗が付き物だ。それをやる者達の勝敗が決まった瞬間に見せる歓喜と落胆の激しい感情の爆発にも人々は驚喜する。実際にやる者達に感情移入することによって喜びと悲しみを疑似体験する。過酷な競争を野次馬として見物するわけだ。しかしなぜ競争しなければならないのだろう。競争がこの社会の発展には欠かせないそうだが、なぜ競争と発展が結びついているのか。発展とはどういうことなのか。確かに現実として競争の存在は否定できない。この世界のいたるところで複数の競い合いが同時進行で行われていることは事実だ。社会の中で生きて行くには競争形態が不可避なのだろう。生きて行くこと自体が競争というイベントと深く結びついているのかもしれない。何かしら他人と比較できる要素がないと、お互いのコミュニケーションすら成り立たないのかもしれない。そして、その比較できると思われる要素に優劣をつけることの正当化が競争を成立させる。そう、ルールに基づき公正な立場を装っているつもりの審判と呼ばれる権力者が優劣の判断を下すわけだ。その判断の正当性を皆が受け入れることが競争を容認させ、そのような社会の維持に貢献することになる。公正な判断の存在を認め、しかるべき人物や団体によるそのような判断がとりあえずは正しいと信じること、それが今ある社会のあり方を是認する共通意思を形成している。つまり社会は、その体制をしかるべきルールに基づいて維持しながら発展させていかなければならないらしい。だがその一方でルールそのものを変える必要も生じてくる。ルールに則ってやっていながら現状がルールに合わなくなるわけだ。それはどういうことだろう。ルールに従うこととルールを変更することは矛盾している。ルールに従いながら、そのルールそのものがおかしいと異議を唱えること、ルールを破れば非難され、場合によっては制裁を受けるが、しかるべき人物や団体の同意を取り付けて、ルールそのものを改正してしまえば、誰もその行為には逆らえない。それに逆らえば、やはり非難され、制裁を受けることになる。そこには様々な力による闘争が介在することになる。要するに社会の発展とは、そのような権力闘争を制した側が負けた側に押しつける新たなルールによって実現する社会の変化のことである。自分達によって変化させた体制の変化を肯定的に発展と呼ぶわけだ。


9月11日

 ゲームとは何だろう。試合のことなのか。そこには勝負が付き物なんだろうか。真剣にやるようなことなんだろうか。しかしそこで何を試し合わねばならないのだろうか。はたしてそこで試されるのは運か技量か、はたまた度胸なのか。それらすべてということになるだろうか。だが、こんな粗雑な述べ方でいいのだろうか。この程度では負けか?しかしこれはゲームなのか。これのどこが勝敗を争う遊びなのだろう。何がどうなれば勝ちで、また、どのような状態になれば負けなんだろうか。何もルールを見いだせない。規則は何も定まっていない。だがそれでもゲームであることが可能だろうか。確かにある水準でのゲームとは、気晴らしの遊戯のことだ。それを行う者は適当に遊び戯れればいいわけだ。ルールなどその場その場でその場限りの規則を事後的に定めればいい。何も公平な基準などを改まって考えるまでもない。大勢の人が同じゲームを共有しようとするから厳格な基準を制定しなければならなくなる。そのゲームを世界に広めようとするから他のゲームを広めようとする人々との間で軋轢が生じる。そこから先は、毎度おなじみの組織的な権力闘争と、そのゲームを広めようとする組織を維持するために生まれる官僚の支配にうんざりさせられることになる。その段階ではもはや気晴らしの遊戯どころではなくなっている。皆が同じルールを共有するために管理団体が発行する許認可だの資格だのにがんじがらめとなってしまうし、ひとたび脚光を浴びると競技人口の増大に伴い過度な競争が高じて、その頂点でのゲームは、闘争心がむきだしの命を懸けた真剣勝負となる。それはいささかも誇張ではなく、競技中に選手や観客の中から死傷者の出るゲームがたまにある。また、それをやりすぎて心身に深刻な後遺症が残る場合も多い。結局は、体とそれに付随いして生成した感情が行きつくとこまで行かないと誰もが納得しなくなる。確かに皆が同じルールを共有することは民主制の根幹だが、それは個人の自由とは相容れない考え方だ。ルールの強要は反発しか生まないだろう。とりあえずはゲームに参加しない自由は確保しておこう。勝ち負けにはこだわらないし、それにこだわっている人に対しては、あらかじめ自分の負けを宣言しておこう。他人と競う要素など持ち合わせてはいない。もちろん個人の自由が存在するわけはない。ゲームに参加しない自由もないかもしれない。個人の意志などはお構いなしに勝手にゲームに参加させられて、やる気もないのに相手から勝負を挑まれる場合もあるだろう。そんなときはどうすればいいのだろうか。たぶんそのときになってもどうしていいのかわからないだろう。だがそれで構わないと思う。他人と同じルールを共有すること自体が虚構だから。そういう嘘は、どのような状況になっても到底信じられない。


9月10日

 自分には夢も感動もいらない。これは強がりや痩せ我慢ではない。現状ではそれらを求める環境に生きていない。今生きている世界は何もかもが曖昧模糊とした灰色の世界だ。では、そのような場に生きている自分にとって必要なものとは何だろう。今のところわからない。たぶんそれは愛や勇気ではないだろう。そんなものに励まされるほどの試練は経験していない。何が試練なのかよくわからない。自分にとってそのような世界はブラウン管の向こう側にしか存在しない。向こう側とこちら側はあまりにもかけ離れている。だからあちらからこちらへ伝わってくるものについては、もはや必要としていないのかもしれない。確かにあちら側からはいろいろな情報を一方的に受け取り続けているが、意識の上でそれらの情報に影響を受けることはまずない。このごろは数分おきにチャンネルを頻繁に変え続けているうちに、そのうち飽きて電源を切ってしまうことが多い。新聞のテレビ欄を見る習慣は十数年前にやめてしまったので、なんとなくテレビをつけて、しばらく見て、飽きがくると消してしまう。それの繰り返しだ。つまり、もはやあれらは暇つぶしや気晴らし以外には用途が見つからないものになってしまったのかもしれない。中には興味をそそる番組もいくつかあるのかもしれないが、その時間が来るまで待つことはできないし、録画する手間もわずらわしい。だからさらに無関心に拍車がかかってしまう。それが良いことなのか、あるいは悪循環に陥っているのかはわからないが、ただそれで何ら不都合を感じていないことは確かだ。それが近頃のこちら側の世界の日常である。それでは他に何があるのだろうか。こちら側の生活に必要なものとは何なのか。必要なものは本当に何もないのだろうか。自分にとって必要なものは自分ではわからないのかも知れない。今までに、必要でないものならたくさん手に入れたと思う。それらはどう考えても必要でないと思われるのに、なぜか自分の意志とは無関係に偶然の成り行きで手に入る。今自分の周りを取り囲んでいるものは、そんなものばかりだ。しかもそれらが今の自分を生かしておいてくれる。それらは皆無用の長物であり、自分にとっては単なるガラクタかもしれない。確かに何の目的もなしに不必要なガラクタばかりが周りに集まった。自ら望んで手に入れようとして、苦労を重ねた末に手に入れたものなら、手に入れる過程や入れた瞬間に何らかの夢や感動がもたらされるのかもしれない。しかしたまたま偶然に集積して、自分の身動きすら制限しているかもしれないそれらのガラクタは、逆に夢や感動から自分を隔離し、それらの侵入を防ぐ防火壁となっているようだ。そこにあるのは、幻想をまったく受けつけない、あるがままの現実だけだ。とりあえずは今ある現実を生きるしかないようだ。わかっているのはそれだけかもしれない。


9月9日

 空虚は何かに似ている。その似ているものが思いつかない。荒れ地はどうなっているのだろう。そこから立ち去った者は、どこで何をやっているのだろう。それから荒れ地がどうなったのか何も知らない。そこからはかなり遠ざかってしまった。もう何も見えない。荒れ地の記憶さえ忘れ去ろうとしている。いったいそこに何があったのか、あまり思い出す気にならない。もう完全に他人事になってしまった。記憶がそこで不連続になっている。そこにははっきりと断層が存在する。その断層から先はまるで他人の記憶のようだ。もはや荒れ地の記憶とは関係を持てない。今住んでいる世界では何も出来事が起こらない。何もない。まさに真空状態だ。これ見よがしの狂気さえはるか昔の出来事だ。もはやスキャンダルなど有効に機能しないだろう。いくら騒いでも無駄だ。それは誰からも受け入れられない完全に時代遅れの代物だ。今やスキャンダルの対象がスキャンダルとは結びつかない性質を持っている。誰にとってもどうでもいい人物にスキャンダルをぶつけてみても誰からも相手にされないのは当然だろう。時代遅れの人間主義の罠に完全にはまっている。そんなものはもう誰も信じていない。ただ信じているふりをしているだけで、実際にはそれとはまったく無関係に行動しているのだ。未だに騒いでいる人々は悲惨だ。攻撃の標的にされている人物からも笑われているそうだ。そこはもはや荒れ地ではない。今やそこは、未練がましく幽霊だけがしがみついているゴーストタウンと化してしまったようだ。また同じことが繰り返されようとしているのだろうか。そうかもしれないし、以前とは若干違うかもしれない。いわゆる戦前とは何が違うのだろうか。すべてが違うだろう。たぶん何もかも違うのだろう。若干どころではなく、何かが根本的に異なっているようだ。確か一度目は悲劇で二度目は笑劇だったと記憶している。確かに騒いでいる人々は笑われている。それは権力ゲームですらない。それは砕け散った感情の断片なのだろう。笑われている人々は、自分たちが悲劇の主人公だと錯覚するかもしれない。だがそれは、笑劇の中の脇役でしかない者達が、観客から笑われるために意識して身につける錯覚なのだろう。笑わそうとしても笑わない観客は、権力者と見なされる人物を攻撃しているつもりの売文ジャーナリズムの叫び声には思わず笑ってしまうのかもしれない。なぜそれほどおかしいのだろうか。なぜそれほど意地悪く笑わねばならないのか。わからない、彼らだって必死になってがんばっているのに。彼らのどこが気に入らないのだろう。やはり偏狭で自閉的なところなのだろうか。


9月8日

 いつの間にか視野が狭まっていたようだ。少し前から何も見えていなかったらしい。気がつくと蝉の声しか聞こえない。その姿は樹木の陰に隠れて見えないが、声だけはあちこちから聞こえる。確かに眼は見える。見ることに支障はない。だが依然として何も見えていない。実際に目で見ることはできるが、何をやればいいのかが見えてこない。まだ書き続けなければならないんだろうか。どうもそうらしい。やらなければいけないことは、ただ書き続けることのようだ。だが、何を書けばいいのかが見えてこない。思考すべき対象は相変わらず見つからないままだ。しかし依然として書き進められるようだ。これをあと十年もやれば何かが見えてくるだろうか。その時が来たらわかるのだろうか。たぶん、わからないような気がする。どこまでやっても何も見えてこないだろう。そんな予感がする。今見えているものは、このままどこまで書いても何も見いだせないだろうということかもしれない。ではどうすればいいのか。それはやはり書き続けることだ。何も見えてこないし、何も見いだせないかもしれないのに、やはりこのまま書き続けるのだろう。いつの間にか、それが習慣になってしまっているらしい。いつの間にか蝉の鳴き声は止んでいた。代わって今度はこおろぎが鳴いているようだ。ただ書き続けること、そこに何の意味もない。何の意味も差し挟まない。例えば、宇宙飛行士の夢は大変シンプルだったかもしれない。宇宙から地球の姿を見たい、そんな動機で宇宙飛行士に志願した人がいるだろうか。いるかもしれない。では、書き続ける動機とはいったいなんだろう。何かを見たいからなのか。だが結果は何も見えてこなかった。何かを見たければ実際に目で見ればいいのだ。盲目ではないはずだ。ただ、盲人は手で触れることが見ることにつながるそうだ。ならば、書くことが何かを見ることにつながるのだろうか。だが、何かを見いだすために書き続けることは断念してしまった。その代わりに、書き続けても何も見いだせないだろうと感じながらも、それでも書き続けようとしているらしい。それでは、いったい何のために書いているのだろう。何のためでもない、ただ書き続けるために書いているのだろう。そのような自己目的化に何の意味があるのか。何の意味もない、書くことに何の意味も差し挟まない。もはやそこにどのような動機も意味も見いだせなくなってしまった。だからこそ、こうして書き続けなければならない。ただ言葉を積み重ねるのだ。


9月7日

 不思議な現象を空想してみる。潮の満ち引きとバイオリズムが共鳴するかもしれない。潮の干満は月に影響されて生じるらしいが、確かバイオリズムの波は生年月日から生じると記憶している。だが、バイオリズムを構成する肉体・知性・感情の活動周期は、その人物が生まれてからずうっと一定周期を保っているわけでもないだろう。外部からの影響を考慮すれば、ある部分においては、固有の振動数を刻んでいるかもしれないが、それが様々な神経回路を通過するうちに、周期が短くなったり長くなったり、また波が増幅したり減衰したり、さらには波形そのものがいびつに歪んだりして、実際に出力されるものは、元の形から著しく変形されたものであるかもしれない。それを肯定的に捉えるならば、個性とでも言うのだろうが、今は肯定も否定もする気にはならない。それを安易な意味に結びつけることには懐疑的だ。その歪んだ形に意味などないのではないか。例えばそこにいびつな言語活動がある。ただそういうことだ。そこで判断停止状態だ。あのようなものにそれ以上の意味を求める気は起こらない。感動から遠ざかって久しい。意味を求めることを放棄してからだいぶ時が経っている。様々ものから遠く離れてしまった。しかもそれに対する後悔の念はないようだ。なぜ何もかも捨て去ることができたのだろうか。権力のごまかしを批判する人々も、自分たちのこととなると見苦しいごまかしだらけだ。まったくこの世はあきれた人々の集まりのようだ。もうそういう次元であれやこれや批判しても無駄なのだろう。だからそういうものは括弧に括ったままほったらかしにするだけだ。もっと別のことを思考しなければならない。だがその別のことがわからない。わからないから思考し続けなければならないようだ。永遠にわかることはないかも知れないが、やはり思考し続けるしかないだろう。まだまだ仕上げの時期ではない。そういう時期など一向に見えてこない。もしかしたら総括などしなくてもいいのかもしれない。それもまたわからないことのひとつだ。いったいこの世界に何を期待していたのだろう。今となってはとてつもなく大きな謎だ。自分のごまかしを隠しながら他人のごまかしを糾弾する人々にとって倫理とは何だろう。そんなことは考えたこともないのか。すべての行為が自分を生かすための戦略に基づいていて、やるべきことはすべて権力ゲームなのかもしれない。確かフーコーはそう述べていただろうか。しかしそれでは何も救いはない。だがそれで構わないだろう。救いなどなくとも生きていけることは確かだ。だが人々はその救いのなさを薄々感じていながら、見え透いた嘘をつく。また憂鬱なオリンピックが近づいてきた。何とかこの試練も乗り切って生きて行くしかないようだ。


9月6日

 欲望が満たされるための快楽に忠実であること、それは日々加えられ続ける抑圧を忘れさせる。確かに、抑圧を加えると同時に与えられる快楽に絡め取られる人々は至るところに存在する。そこから利益を絞り取る装置も至るところに設置されている。それはネット上の仮想空間にも存在するだろう。そしてその装置には多種多様な選択肢があり、そのどれを選んでもそれなりの快楽を享受できる仕組みになっている。快楽への欲望こそが選ぶことを可能としている。では、快楽を受け取ると同時に加えられる抑圧とはどのようなものなのだろうか。それは何よりも選ばなければならないという装置からの圧力だ。だがその圧力は誘惑を伴っている。それは常に与えられた選択肢の中から選択を強要してくるが、その強要という認識を感じさせないようにするために快楽への誘惑が付属しているわけだ。またそれは、例えば、その選べという命令に従うことが内需拡大や経済発展につながる、などという功利主義的な正当化にも簡単に結びつく。そしてさらに、その選択行為を拒否することは、直ちに自身が排除の対象になることを意味する。確かにそれを選ぶ選ばないは当人の自由だが、選ばない人間は利益の出ない人間であり、利益の出る見込みのない人間は無視され除け者にされる危険性が常にある。日々の生活自体がそれを選びながらしか継続できないのはもちろんのこと、例えばちょっとした会話であっても、選ばない者は選んだ者達の話題について行けなくなり、そのことで周囲から孤立してしまう危険性がある。つまり、選ばない人間は会話の相手としても選ばれないわけだ。そこで結局は、話題に加わるために、周囲の選んだ者達と同じものを選ばなければならなくなる。こうして、選ばない自由は周りからの圧力によって押しつぶされることになるのだが、それは強要とか強制とかいういやなことを無理強いするような意味とはなかなか結びつかない。そこには自らの責任において欲望を満たすという自発性が巧妙に折り込ませてある。まずは広告や宣伝によって、選んだ後に与えられる快楽が前もって提示されているので、その誘い文句や画像や映像を読んだり見たりすることから、すでに人々の意識の中に期待という快楽が生じている。それは、選べという抑圧に渋々従いながら選ぶ行為ではなく、夢に期待を膨らませながら自発的に選ぶという形にいつの間にか入れ替わっている。要するに、選択者に対して欲望を誘発させることで、命令という形の抑圧は意識されなくなるわけだ。こうして人々は自ら望んでそれを選び、その是が非でも欲しかったと思い込まされた選択肢をついに手に入れたと思い込む。だが本当のところは、快楽を餌にして、またその快楽に屈した周囲の人々の圧力をも利用し、大して欲しくもなかったものを無理矢理欲しがらせて、ついには自らよろこんで手に入れたと思わせる。たぶんそれは合法的な詐欺行為だろう。


9月5日

 なるほど、やろうと思えば何やらもっともらしいこともまだ述べられるようだ。だが、満足からは程遠い内容だ。それは以前の延長でしかない。以前と同じような内容がただ反復されているだけではないのか。とりあえず何とかまとまってはいるが、逸脱が皆無の言説だ。破綻が少ない代わりに平凡な内容になっている。もうそのような内容では飽き足らない。そのようなとりたててどうということのないものなら簡単に書けそうだが、驚きのないものは読み返していて退屈だ。どうやらもう少し工夫を凝らさなければならないようだ。しかしどう工夫を凝らせばいいのだろうか。それがわからない。外部からの助言は何もないし、仮にあったとしても聞く耳を持たないだろう。では勝手に自分の殻に閉じこもって自閉しているのだろうか。そうかもしれないが、やはりそんなことはどうでもいいのかもしれない。自分の心理状態など知ったことではない。要するに、ただひたすら書けばいいのだ。そして書かれた内容など知ったことではない。知り得ないのだ。書いた端からどんどん遠ざかってしまう。だから、ただ書いてみればいいのだ。適当に書いてみればとりあえず満足はするだろう。それは嘘をついているかもしれないが、嘘をついていることさえ知ったことではない。薄暗がりの中でどこかの誰かがつまらないことを書いているらしい。わかっていることはそれだけだ。その誰かが誰なのか、誰もその人物を特定できないようだ。また、誰もその書かれた文章を見いだせないだろう。書いていること自体が嘘だからだ。本当は誰も書いてはいない。書いている人物が実在しないのに、その人物を特定しようと無駄な努力を繰り返している。自分自身がその特定の人物になりたいわけだ。だが、特定の人物が書くわけではない。書く必要のない不特定の人物が書かされるのだ。そして、彼らは見いだされた文章を無視しようと試みる。読んだ後はもう用済みであり、利用できるところは利用して、後はさっさとゴミ箱へ捨ててしまう。だが肝心なことを忘れている。それは書かれた文章でさえない。誰も言葉など刻まない。それは石版や粘土板ではない。言葉を刻みつける土台がはなから消失している。言葉はどこにも定着されない。ただ辺りに言葉の切れ端が浮遊しているに過ぎない。それは痕跡すら残らない。結局は何も残らないだろう。その幾分いびつな言葉を消費した記憶さえ消えてなくなるだろう。なぜそんなことが繰り返されるのだろうか。それはすべての出来事を忘れるために繰り返されるのだ。もう何も思い出せないようにくだらぬ模倣を繰り返す。それはただの条件反射であり、教育によって身につけた機械的な動作なのだろう。


9月4日

 やっと夏が過ぎ去ってくれるらしい。だが相変わらず何も見いだせないままだ。定まった方向を見つけられないし、一向に停滞状態から抜け出せないでいる。どうやら感動や驚きとは無縁になってしまったようだ。意識してその手のものを遠ざけているらしい。自分が以前とは違う姿勢になったことについては、自分には説明できない。どのように説明すればいいのか。例えば、なぜスポーツに対して批判的なスタンスになってしまったのだろうか。音楽に対しては未だに肯定的なのに、スポーツを敬遠している理由がわからない。明確な理由を見いだせない。もちろん音楽とスポーツを比較すること自体、なんの根拠も必然性もないが、やはりここで、この機会を逃さずに、説明できないことを説明し、理由がわからない理由を明らかにしなければならないのだろうか。そんなことが可能なのか。可能だとして、仮に説明できて理由が明らかになった場合、ではそれ以前の説明できなかったり理由がわからなかったりした状態はいったい何だったのか。以前の状態との差異は何なのか、それを説明できるだろうか。できなかったものができるようになった理由が明らかになるのだろうか。だがそれは、そこからどこまで話を進めても、依然として仮の話のままだ。実際に説明を試みて理由を見つけだそうとしてみればいいだろう。はたしてそれができるだろうか。だからやってみればいい。たぶんスポーツは勝ち負けという結果に直結しすぎているのだ。それがすべてになってしまっている。それは、音楽でいえば、演奏し聴かれるたびごとに点数として評価されるようなものだ。年がら年中レコードの売り上げチャートや有線放送やラジオでのリクエスト回数でそれぞれの曲の優劣を競うことなどとは完全に無関係な自分にとっては、テレビをつければ否応なく見せつけられる競技映像は、見ていて疲れる。確かに音楽にも優劣はあるのかもしれないが、その基準は、それを聴いている人の恣意的な判断に任されている面がある。自分の好きな音楽が最高の音楽であり、その最高の中でも、いろいろなジャンルでそれぞれ最高のミュージシャンや曲があり、しかも、最高でなくともそれなりに聴けるものもたくさんある。それこそ自分の聴いた曲やミュージシャンだけ多種多様なものが共存できる。プロのスポーツ選手でも何人かは好きな選手もいるし、好きなチームもあるが、それらは直接対戦しなければならない。優劣の基準は勝敗というひとつの価値で決定されてしまう。それだけが唯一の正義であり、その価値を否定することはできない。その結果、勝った側が肯定され負けた側が否定される。負けた側を応援していた者はいじけたり卑屈になったりする場合が多い。リベンジとかいうくだらぬ復讐心をもてはやす風潮にもなじめない。例えば、オリンピックなどで日本人選手やチームが負けたときの実況のアナウンサーや解説者の言葉にはいつもうんざりさせられる。対戦をする前には勝ってほしいと述べておきながら、対戦後は勝った側を称えると同時に負けた側にも、よくがんばった、とねぎらいの言葉を忘れないが、本当はできることなら勝ってほしかったという遺憾な感情が言葉の端々に滲み出ている。そのような場面に遭遇するたびに不快さは増すばかりだ。だから近頃なんとか見るに耐えられるスポーツは、外国人同士の競技で実況や解説なしで極力事前の情報や先入観を排除した場合に限られる。つまり、勝敗などはどうでもいい、という気分で見るスポーツはそれなりに楽しめるようだ。だがそれはスポーツでなくても構わない。例えば横断歩道を渡る通行人の群れであっても構わないし、スタジアムに集まっている群衆を見ていても飽きない。何やら人々がうごめいていれば、それを見て楽しめばいいわけだ。


9月3日

 どこからか雑音が聞こえる。近くに無線鉄塔があるためらしい。早朝と夕方に、マニアが自分の趣味を楽しんでいるとのことだ。雑談はいつまで経っても終わらない。十分に気怠い退屈感を共有した後、いつしか話はあの話題に移っていった。別に誘導したわけでもないのにそれについて語り始めた。だが、今度は意味不明になった。いったい何が言いたいのだろうか。おそらく何も言っていない。気がついたら言うべきことが見あたらない。しかし何かを言いたいらしい。実際に何かを言いかけたこともあった。しかし途中で断念してしまった。お終いまでそれを言い終えることができなかった。言い終わらないうちに何を言っているのかわからなくなった。言っていることについて自信が持てなくなった。だから意味不明になったのだろう。こうして突然方向転換したようだ。理由は未だにわからない。気まぐれであることは確かだが、何かいやな感じがしたことも事実だ。結果がでた後からならなんとでも言えるのだろう。それを言うことを商売にしている人々もいる。そういう人々にとっては、結果がでる前に結果を言い当てる者の存在は不快だ。彼らお得意の調査や検査もせずに、いきなり結果を予想し、それが的中してしまうことは許せないのだろう。結果を予想するにはそれなりの手続きが必要だという信念に凝り固まっている。だがそんなことはどうでもいい。その言いかけた何かについても、別に改めて語る必要性は感じていない。たぶん他の誰かが、いつの日かそれを語るにふさわしい時期が来たら語ってくれるだろう。それは、誰が語ってもいいような内容を構成している。だから今ここで語る必要性は感じていない。今ここで語る必要性のあるものなどない。何も必要ではない。逆に必要でないことだけが語られているのだ。無用なことだけを語る。何が言いたいのかわからない内容しか持ち合わせていない。おもしろそうなことやためになりそうなことなどの再利用が可能な内容はもう語りたくない。二番煎じは不快だ。


9月2日

 まるで冗談のような裏側からの報告だ。どこが裏なのかまったく理解できない。真相が真相でないのと同じように裏は裏でない。噂には真相が存在しないのと同じようにニュースに裏などない。あるのは伝えられ報告されたとおりの表面だけなのだ。その表面から逸脱した探求は、逸脱行為そのものが虚構の振る舞いであることを忘れさせる。受け取った情報を額面通りに受け取らず、ただ自分の主張や恣意的な見解を付加してそれが裏だと強弁してみせる。探求されるべきは、その情報がどのような経緯でどのような組織あるいは誰によって発信されたのか、そして、その情報を発信した組織あるいは特定または匿名の個人の意図を想像し探ることぐらいだろう。もちろんその組織や個人が別の組織や個人またはその社会や時代の支配的言説に影響されている場合が大半だろう。それは裏でも真相でもない。探求することによって絶えず表面に現れる新たな情報である。それが以前の情報に付加されて、以前とは別の方向性や異なる性質を持った情報に変化する、それの繰り返しによって情報は様々な方面に伝播し、様々な受けとめられ方をする。情報発信者の意図を無視するような受けとめられ方をするのは当然のことだ。発信者と受信者はそれぞれ別の環境で生きている。情報に対する接し方が互いに異なるのは仕方のないことだ。ただ、相手の受けとめ方が我慢がならない場合は、それを説明して自分の意図を分からせようとする方法はある。だが、こちらからいくら説得を試みても効果のない場合もあり得るだろう。そのような試みそのものが、力による闘争を形作っているらしい。互いに自説の説得力を競うわけだ。討論や討議とはそういうものなんだろうか。だがそのようなことを行う場など存在しない。自分から積極的に討論や討議の場を作ろうとも思わない。現実にはディスカッションに至る過程において、すでに闘争は開始されている。 討論の場をこしらえて実際に討論する者を人選する過程においても、常に主催者側による恣意的な介入は欠かせない。そのような場合には、討論がはじまる以前に、すでに闘争の決着がついていることが多いだろう。開始のゴングが鳴る前に雌雄は決しているのだ。それでは実際の討論とはなんなのだろう。あらかじめ用意された結論に至るための儀式である。では、そのような予定調和のつまらない討論にならないためにはどうすればいいだろうか。確実な方法はない。主催者側に良心を求めたり、相手の裏をかく権謀術策を弄そうとも、それには限度がある。許容限度を超えれば主催者側によって排除されるだけだ。だからそのような闘争のあり方にはあまり幻想は抱けない。


9月1日

 いつまで経っても繰り返されることがある。またもや同じような言葉の出現に遭遇する。それに対するこちらからの返答もいつも通りだ。まるで本心から答えていない。本心そのものがないのかもしれない。自分の本心を特定できない。ただ、受け取った言葉に合わせているだけなのだろう。そのようにしか答えようがない。なぜそうなってしまうのだろうか。わからないが、飽きもせず繰り返される同じような言葉の出現に何も期待していないことは確かだ。それにいらだち、つまらぬ返答をしてしまう自分にも腹が立つが、まあ、こちらからの返答を受け取る側もかなり迷惑しているのかもしれない。今のところ低レベルでの堂々巡りしかできないようだ。しかし高レベルという状況をまったく想定できないのが致命的な欠陥かもしれない。なぜ何もかもがこのような循環なのだろう。しかし、ならばどのような循環を望んでいるのだろうか。それをまったく見いだせないのである。今できることは、現状に合わせてわざと隙だらけの言説をもてあそぶことだけだ。しかしそこにどのような突破口があるというのか。不完全な言葉にさらに不完全な言葉で対応して、そこに何を生じさせようとしているのか。自分で言葉を繰り出しておきながら、皆目見当がつかない。ただそれがどのような結果をもたらすのかを期待しながら楽しんでいるらしい。自分には思いもしないようなことが起きてほしい。それが未来に対する期待である。それしか期待できない。自分の願望とは関係のないものを期待している。誰もが思う未来は到来しないだろう。未来の来るべき姿は、現代に生きる人々の願望をまったく裏切った形で構成されるだろう。あるべき未来像は早々に葬り去られるだろう。それが自分の願望だ。ならば、それとは関係のない未来とはどのような未来なのだろうか。期待が裏切られることを期待するとはどういうことなのか。たぶんそれが高レベルでの堂々巡りなのかもしれない。確かにそれを想定できるわけはないし、そんなものを見いだせないのは当然のことだ。それを想定したり見いだしたりしたとたんにそれは嘘になる。未来は不確実で不確定なものだ。その致命的な欠陥は本質的な特性だろう。しかしそれでもなお期待している。自分の期待が裏切られることを期待している。


8月31日

 しばらく言葉と戯れるやり方から遠ざかっていた。逆さまの顔が見つめている。見つめている先には床と天井が重なり合った壁がある。その画布の表面は直線ばかりで厳密に区切られた遠近法的空間だった。建物の側面が近景から遠景へ向かってまっすぐに縮んで行き、妙にはっきりした台形を構成している。日常生活ではほとんど気に留めないものが、絵として画布に転写されると、その形に気づく。また、見た目では、その形は厳密な台形ではなく、こちら側の側壁とあちら側の側壁を構成する上底と下底は平行せずに、その延長は、はるか上空の空間の一点で交わるだろう。縮んでゆくのはビルの接地面と屋上だけではなく、その周りを覆っている側壁も視点から遠ざかるほど縮んでゆく。確かに視点が固定されれば、そのような遠近法は説得力を持つかもしれない。だが、現実の生活の中では定まった視点は存在しない。体を動かしながら、めまぐるしく視線は動いている。そのほとんどの時間において、自分が見ているものにさえ気に留めない。何を見ているかさえ定かではない。いったいさっきまで何を見ていたのだろう。思い出せない。それを見つめる自分の視線と他人の視線が延長されていって、信じられないようなはるか彼方の一点で交わる。そんなことがあり得るだろうか。まるで別の事物を見ていた視線が無限遠で交わるだろうか。お互いに背を向けていた者同士が、何十年もの差月が過ぎ去った後に、ほんの些細な偶然の訪れを待ちかねたように握手を交わす。遠い未来にそれが実現したりするのだろうか。死者の抱擁を見届けながら時空に亀裂が生じる。見上げれば曇り空から何かが舞い降りてくる。直線ばかりではない。曲線ばかりでもない。それらの線は必ず途中で途切れる。一定の限られた長さを持つ線分としか把握できないのだ。そこからの延長は想像上の出来事でしかない。そこから先は決して現実には延長され得ないだろう。有限の線分でしかない人間には延長できない。はるか彼方の想像上の交点を見つめる仕草は虚構の演技である。あり得ないものを見つめている振りをしているのだ。だがそれでも見つめざるを得ない。他に見つめるものがないからだ。すべてがありふれている。


8月30日

 何も意味を為さない世界だ。たぶん言葉の解釈は無限にあるのだろう。とりあえずは無限にあると仮定しておこう。本当は有限個の解釈しか存在しない。それどころか真の解釈はひとつだと述べることもできる。しかし解釈などいくらでも可能だと強弁しておこう。ここは何も意味を為さない世界だからだ。もはや危機感を煽ることはない。切羽詰まっていないからだ。弛緩しきった同じフレーズが毎度の事ながら繰り返される。過去を顧みるとき、きまって偉大な先人達の言葉や行動に出くわす。先人達の負の側面はきれいさっぱり清算された後で、何やら教訓めいた言葉や行動の軌跡が再利用されるらしい。これから到来する世界には不似合いだ。もう何も見いだせない世界には過去の偉人に居場所はない。すでにすべての個人は単なる情報端末に還元されている。皆がありがたがる個性という概念は、バーコードの模様の違いに対応しているようだ。調査のために発信器をつけた野生動物の個体の識別コードが個性である。もう言葉に工夫を凝らす必要もない。様々な解釈レベルで微妙に異なるニュアンスの違いを認識する必要もない。同じひとつの規則を共有している人々の間で意思の疎通ができさえすればそれで良いらしい。何やら儀礼に則った表現を使えば、内容がどんなに空疎でも通用する。しかし、そこから少しでもはずれたことを述べれば、たちまちのうちに無視や蔑視の対象となってしまう。内輪の規則を共有しない者はどこにも居場所がない。孤独に放浪するぐらいしか道は残されてはいないのだろう。放浪には目的はない。何もやることがないからさすらっているだけだ。しかし、ただうろうろしているだけなのに、そこに何か目的を見いださずにはいられない人々ばかりなようだ。これはなぜなんだろう。何も意味を見いだせないはずなのに、型にはまった解釈を経て、当初には存在しなかった目的が何やら発生してしまう。〜をするためには〜をすべきだ、という功利主義的助言がさも当たり前のように導き出されてしまう。ただ何気なしに述べたことが、しかるべき情報端末を通過すると、明確な目的意識を持った主体の存在を構成する言い方になる。フィルターを通すと、そこに何をしてほしいのかという願望が浮かび上がる仕掛けを備えているらしい。それはまさにアンケート調査の方式である。設問項目にはいかいいえで答えていくと、あらかじめ用意された型にはまった願望と回答者の願望が一致する仕組みになっている。そのアンケートを信用しようとするならば、人々はすでに書き込まれている願望の中のひとつを選び取り、それが自分の願望だと認識する必要がある。それは本末転倒なことのように思われるかもしれないが、例えば、子供達の将来の夢などを考慮すれば、それが必ずしも自発的なものではなく、ただその時点で知っている世の中の職業の中からなんとなく選んでいるに過ぎないことがわかるだろう。夢とは自ら自発的に望む以前に、あらかじめ用意された選択肢の中から選び取るものだ。夢の選択肢を事前に用意する組織が夢の生成過程を操っている。それが宣伝合戦によって勢力争いを繰り広げている各種のメディア媒体である。どうやらメールマガジンと呼ばれる情報媒体も、あわよくばビジネスチャンスを窺うメディア予備軍がその大半であるようだ。


8月29日

 作り話の世界ではなんとでも言えるのだろうか。しかし、折れ曲がるとはいったいどういうことなんだろう。例えば、どこかで道を折れ曲がったとしよう。その折れ曲がった先にはまた曲がり角がある。そのまた先にも同様に曲がり角がある。どこまでも続く一本道よりは、曲がり角のある道の方が圧倒的に多いだろう。では、その角を曲がることにどういう理由を見いだせるのか。様々な理由があるのだろうが、大抵は目的地にたどり着こうとして曲がる。曲がったりまっすぐ進んだりしながら、目的地へだんだん近づく。あらかじめ道順がわかっている場合はそうだろう。だが道順を知らずに右往左往している場合は、必ずしも目的地へ近づいているわけではない。それでも目的地があるだけでもまだましかもしれない。道に迷いながらも試行錯誤を経るうちに、最終的にそこへたどり着く可能性は残されている。では、目的地がない場合はどうだろうか。何も目的はなく、ただその辺をうろうろしているだけだとしたら。しかし何のためにうろうろしているのだろうか。何のためでもない、ただうろうろしているだけなのだ。ではなぜそこを折れ曲がったのか。それもうろうろの延長で偶然に折れ曲がったにすぎない。理由は何もない。別にそこで折れ曲がらなくてもよかったし、また、折れ曲がったからといって、それがよくないわけでもない。折れ曲がるにしろ、まっすぐに進むにしろ、はたまた来た道を引き返すにしろ、さらにまたそこに留まり続けるにしろ、それらのすべての選択のどれでもよかったのだ。選択する目的がないのだから、それは選択でさえない。選択によって何も変化しないのなら、選択は意味を為さない。従って、そんなものに理由を見いだせなくて当たり前なのだろう。やはりその作り話は何を述べているのか定かではないようだ。具体的なものが欠けている。ただ雰囲気だけの羅列でしかないようだ。


8月28日

 平衡感覚が突然消え失せた。またどこかで折れ曲がったらしい。どこで折れ曲がったかはよくわからない。だが、その痕跡は残っている。言いようのない虚脱感に襲われている。汗びっしょりで夏風邪でも引きそうだ。相変わらずの症状である。いつものことだ。今さら心身の不具合を直しようがない。どんなに感情を抑えてみても、冷静にはなれない。原因を見いだせない。記憶は飛んで言葉は見失われ、焦って取り乱している。しかし、激情に駆られて熱くなっているわけではない。何も考えていないし、何も感じない。一瞬見いだされたものは、次の瞬間には跡形もなく消えてしまった。何かを思い出す。思い出せないが思い出そうと試みる。何かの苦い思い出が底の方に沈殿しているらしい。時折機械仕掛けの時限爆弾が爆発する。とりあえずタイマーは正確に時を刻んでいるらしい。きっかけは何もない。不意によみがえった映像が意識の表面に浮かび上がる。その時平衡感覚がなくなり、折れ曲がったことに後で気がつく。数年がかりでちょうどひとまわり回ってきたのだ。今は流れ去ろうとする記憶をかろうじてつなぎ止めている。それを捨て去ることは容易だが、捨て去る度にまた別の記憶が生み出される。どこまで捨ててもきりがないし、生み出される記憶はすべてが違う方向を向いている。その度ごとに別の意識へ変形を被る。まるでエンドレスに続くモグラ叩きゲームのようだ。それへの対処の仕方はすでにわかっているのだが、もう面倒くさいので対処などせずに、そのままほったらかしの状態でかなりの年月が経過している。その埃をかぶった処方箋は今では朽ちかけている。二度と顧みられない方法は役に立たないが、まだ後生大事に隠し持っている。たぶん永久に役に立たないまま存在し続けるのだろう。そのような無用の堆積が徐々に増してゆき、次第にその重みで足元がおぼつかなくなる。周回を重ねる度に歩きづらくなるようだ。そしてよろよろした足どりでまた何度目かの周回を回っているらしい。なぜ人が老いるのかわかるような気がする。


8月27日

 再び見いだされた時に巡り会う。しかし以前とはだいぶ趣が異なる。もはやかつての蛮勇は跡形もなく消え失せたようだ。その代わりに見せかけの慎重さを身につけたらしい。だがいつまでたっても変わりようがない部分もある。感慨は何もない。軽薄さと功利主義が固く結びついているのは昔のままだ。それだけではないのは確かだが、どうも好きになれない。無意味な年月が過ぎ去り、表面的な成長ばかりに巡り会う。それ以外に出会うのは、巧みな話術とあらかじめ装われた冷静さだけだ。ただ防御のためだけに延々と会話を続ける。だが、それほどまでに嫌悪感を漂わせながら守っているのはいったい何だろう。いや、守っているものなどない。会話を続ける以外にやりようがないのだ。見いだされた時とは、できればそのままそっとしておいてほしいのに、偶然のいたずらで、例えば路上でばったり出会ってしまった時である。お互いに気づいていながら無視してすれ違う場合もある。言葉を交わしようがないからだ。言いようのないしこりは残るが、それが無難なやり方なのかもしれない。会話の底なし沼にはまるよりはましだろう。儀礼的な応対しかできない相手には本当にうんざりする。だがそれ以外の会話は不可能だ。すべてにおいて競合してしまうらしい。相手と争うことしか眼中にない人々には疲れる。慇懃無礼な会話の端々に、どんなに平静さを装っていても隠すことのできない敵意がむきだしになっている。しかしその壁を取り払って友情やら恋愛関係を築き上げるほどの根気はない。たぶん、利害関係以外で手を結ぶ道を模索している人々は大勢いるのだろう。だが市場経済の競争原理が個人の生活に深く入り込んでいる現状では、その実現は容易なことではないのだろう。もちろん友情やら恋愛やらに幻想を抱くことは容易だ。だが、それらは本当に利害を度外視した関係なのだろうか。大抵は友情や恋愛などでいちいちそこまで考えたりはしないが、そんなことを考えていては疑心暗鬼で何もできなくなるだろう。結局はお互いに相手に利用されていることをある程度は許容しなくてはならなくなる。


8月26日

 完璧主義者は強迫神経症だ。しかしどちらの概念もそれほど深刻には受けとめられない。人々は軽い気持ちで完璧主義者になったり、強迫神経症になったりするが、すぐにそれを忘れてしまう。何かをやれば必ず自分では制御できないものにぶつかり、当初の目論見は大幅な変更を迫られてしまうから、完璧主義を貫くことは大変難しい。何をやるにもある程度は意に反する妥協を強いられるのは当然のことだ。それでも自分を通そうとすれば、自分とは違う目論見を持っている他者との間で軋轢を生ずるしかない。だが強迫神経症的人格は、それでも完璧主義を貫こうとする。自分のやり方を絶対に曲げない。妥協したら、それは自分の良心に嘘をついていることになる。そのような梃子でも動かない頑固さには敬意を表さなければならない。だが、敬意は表するが、事はそれほど単純ではない。だいいちそんな人格に出会ったことはない。完璧主義も強迫神経症も作り話だ。何かを語れば、それは作り話になる。現実から遠く離れる。そして遠く離れながら意に反した妥協を迫られる。この現実は自分では制御できない。完璧主義は最初から破綻を来す。遠大な計画は始めから崩れ去っている。目論見とはその廃墟をどのように覆い隠すか、そのごまかしの手法を暗黙に含んでいる。だが本当は最初は何も目論んではいないのだ。その時々の気まぐれな思いつきを後からひとまとめにしたものが、とりあえずは目論見と見なされるのだろう。つまり目論見は偶然に支配されたあやふやなもので、そのいい加減な目論見を当初の計画通りに推し進めること自体が、ほとんど荒唐無稽で無謀な行為だ。それは完璧主義とは縁もゆかりもない。しかし強迫神経症は、そのあやふやな目論見を完璧に遂行しようとする。これは恐ろしい矛盾だが、この世の中で編まれた計画とは、すべてがそのようなものではないのだろうか。常に作り話を現実に当てはめて、それが必ず破綻を来しても、いっさいの性懲りもなく、またわけのわからないあやふやな作り話をでっち上げ、それを実行に移そうと無駄な努力に明け暮れるわけだ。しかも、後からそれが無駄な努力ではなかったと、何らかの成果を示しながら強弁してみせる。それの繰り返しによって現代文明が築き上げられた。やはりこれは恐ろしい矛盾である。


8月25日

 実際には無駄なことばかりやっているのに、たてまえとしては効率を優先させるつもりでいることが多い。なぜやろうとしていることと実際にやっていることが違うのだろうか。予定と結果がまるで異なっているのに、その食い違いが原因で大した軋轢や諍いが起こるわけでもなく、それがさも当然のこととして、あらかじめ折り込み済みの小波乱を簡単に乗り越えながら事態は推移する。なぜこうも容易にすべてを回避できるのだろうか。立ち向かうべき困難はいったいどこへ行ってしまったのだろう。障害物は向こうから立ち去ってくれた。別にこちらが頼んだわけでもないのに、また誰に頼まれたわけでもないのに、ある時、突然障害物が現れ、何やらこちらの行く手を阻むような仕草をしていたのだが、別にその障害物に立ち向かったわけでもないのに、対決の試練を乗り越えようとしたわけでもないのに、その障害物を排除しようと努力したわけでもないのに、ただその障害物を眺めていただけなのに、気がついたら勝手に消えていた。あれは本当に障害物だったのだろうか。なぜそれを障害物と認識したのだろうか。行く手を遮るような素振りを見せたからか。だがあれで本当に行く手を遮ったつもりだったのだろうか。どうもその実感が希薄だ。なぜ動じないのだろうか。やはりあの程度では無駄なようだ。このわけのわからない不気味な継続を止めることはできなかった。本当は止めてほしかったが、やはりあの程度では力不足なのか。結局は何事もなかったかのように続いてしまうらしい。どうやらくだらぬ介入は不発に終わった。あの程度では何も変わらないようだ。しかし、では、真に受けるべきものとはいったい何なのだろうか。未だにそれが現れない。すべて冗談ような現実が推移するだけで、何もかも、ただ無関心と共に通過していってしまう。後には何も残らない。最初はおもしろそうな雰囲気を醸し出していたものが、徐々に化けの皮が剥がれ、結局は昔ながらの反体制左翼と転向元左翼でしかなかった。なぜそんなものに動じなければならないのだろうか。もう二十一世紀も間近なのに、何が変化したのか未だに何の実感もない。やはりそれは恐ろしく遠回りのやり方だと思う。遠回りをしているうちに道に迷ってそのまま行方不明にでもなってほしい気がするのは自分だけだろうか。だが、道もないのに勝手に継続している身からすれば、その程度で通用している人達はやはりうらやましい境遇なのだろう。


8月24日

 世の中がより効率的になる方向での努力は推奨される。調査によって社会にとって不都合な要素を見つけ、それを排除するだけではまだ不完全なのだろう。調査と同時に検査が行われなければならない。検査によって問題点が明らかになり、障害を取り除くことができる。調査と検査は現代文明を維持継続させるためには欠かせない行為だ。今や権力は、それらを実施し、その結果を公衆の面前で発表することができる組織に帰属している。あらゆる組織がそれの実施発表の機会を窺い、ことあるたびごとにそれの実施発表を競い合う。だが、そのような行為によって何が明らかになるのだろうか。リサーチ会社や検査機関がもてはやされていることか?それらの組織を利用することで、より効率的な利潤追求ができるということか?ということは、それらの組織を利用しない、あるいは利用できないと、市場経済の中では生き残れなくなるのだろうか。そうなると、調査や検査を請け負う会社は、市場経済の中で新たな関所になっていることになる。近い将来、何をやるにもいちいちそこへお伺いを立てないと何もできなくなるかもしれない。もうすでにそういう業種があるのだろうか。それらが希少価値を持っていた時代は、確かに効率的な利潤追求には有効だったかもしれないが、それをやるのが当たり前になり、何をやるにもそれが必要不可欠の約束事になってしまうと、かえって無駄な経費ばかりがかさむ障害物になりかねない。許認可権を持つ役所が新たにひとつ誕生しただけになってしまう。そうなると非効率の極みだ。情報万能時代にはそのような負の側面が生まれるかもしれない。情報は実体のない物質性を帯びる。その物質性には権力が付着する。現代において情報を握っているのは、調査や検査やコンサルタントを受け持つ組織である。もちろん、それを発表する場を提供する組織も権力を分かち合う。その他の経済活動をする組織や消費者は、そういう新たに発生した権威の前に跪くしかないのだろうか。


8月23日

 事の真相を知るために、調査し、その調査結果を発表し、それを調査対象に押しつけて抑圧しにかかる。フーコーが述べているように、この社会では、権力者側の警察や検察からそれに反対する反権力系マスコミまでが、一律にこの同じ方式で権力闘争を繰り広げている。ヨーロッパの中世から近世にかけて紆余曲折を経ながら発展したこの方式に、今やすべてのメディアが自分たちの存在する拠り所を見いだしていることは明白だ。たとえば、裁判での検察側の主張や国会で論戦を挑む質問者や特ダネを発表するニュースショーやその手の雑誌のやり方は、いつも変わることがない。相手を打ち負かすために、調査によって真相と呼ばれるものを暴露し、そして、どうだ参ったか、という意味の決め台詞を吐く。事の成り行きを単純化すれば、それらのほとんどがこのような経過をたどるようだ。現代を生きる自分たちは、もはやそのようなやり方に慣れっこになってしまい、それを当然のことのように感じ、それについては何の疑問も抱かない。この方式が社会全体を支配している最中で、はたして別のやり方を模索してそれを有効に機能させることができるだろうか。しかし別のやり方とは何か。わかってはいるが、今ひとつ確信を持てない。そのような遠山の金さん的大岡越前的水戸黄門的やり方に無関心になること、それは大部分の若者が無意識のうちに実践していることであり、それは別のやり方と言えるような代物ではないのかもしれない。しかもそれは積極的に模索されるものなどではなく、ただ単に怠惰のなせる技であり、それにはたして実質的な効果あるかどうかすら定かでない。つまりそれはいかなる抵抗運動とも無縁だ。だがそこに可能性を見いだせる。今権力側から反権力側までが必死になって教育改革を叫んでいる原因は、自分たちのやり方がこのままでは次の世代に受け継がれないのではないか、という危機感があるのではないだろうか。このことは、調査によって社会を支配している人々に対する無関心が徐々に浸透しつつある兆候なのかもしれない。だがそれがいったいどういうことなのか、まるでわからない。確かに調査に無関心な人々は調査結果にはなびかない。それがどうしたと思うだけだろう。このような無関心には、それを広めようとする特定の操作主体は存在しない。皆が同じやり方なので、それを退屈に感じているから、それに対して無関心なだけなのかもしれない。それは、支配に対して抵抗する主体がなくなることで、それがはね返って、支配する主体の弱体化につながるということなのだろうか。抵抗が強いほど、その反作用としての支配力も強まり、その結果として度々支配者側による強権発動が行われるわけだが、その支配そのものに無関心な人々が増えてゆくほど、支配する側は打つ手を失い、もはや途方にくれて、苦し紛れで、次の世代の子供達が自分たちに関心を持ってくれるように、教育改革とかを訴えなくてはならなくなる、ということなんだろうか。しかし、こんな述べ方ではどうもしっくりこない。誰も何もやっていないのに、自然にそうなろうとしているだけなのであり、そのような成り行きに、なぜか支配する側とそれに反対する側の両者がタッグを組んで、必死になって無駄な抵抗を繰り広げている。自分たちの演じている権力闘争が無効になることに抵抗しているわけだ。確かに両者にとってそれは死活問題かもしれない。だがこれで本当に良いのだろうか。わからないが、とりあえずこれは現状を否定しているのではないから、以前よりは少しはましな述べ方になってきたのかもしれない。


8月22日

 結局は否定的な述べ方しかできないようだ。これではいけないと思っていながら、気がつけば、毎度おなじみの安易な全否定を繰り返している。つくづく対象を肯定することがいかに難しいことなのかを思い知る毎日だ。なぜ安易に否定できてその逆ができないのだろう。対象の欠点はすぐにわかるが、長所を見つけることは大変難しいことなのだろうか。あまり独善主義には陥りたくないのだが、自分の価値観と違うところがあるとすぐにそれを否定しにかかる傾向がある。たぶん自然に身についたそれを改めることはかなり難しいことなのだろう。だが、その一方で、自分の価値観そのものがはっきりしていない。価値観も定まっていないのに、価値観と違うところを否定しているのだから、対象を否定すること自体がはじめからおかしい。それなのに、自分が理想とする状態を直接把握することができないにもかかわらず、これは違う、とすぐにわかるわけだ。これでは、ではどうすれば良くなるのか、その改善案がなかなか思いつかないのは当然のことだろう。結局、駄目な点ばかりを指摘できても、そこから先へは進むことができない。だが現実には、理想状態を特定することなどできはしないのだ。現在のこの状態から安易に離脱することはできない。現実には、離脱できていないのに離脱したと思い込むことしかできないだろう。このありのままの現状はあまりも重い。そのように思考する自分自身が現状の一部分を構成しているからだ。現実の一部でしかないものが現実から離脱することなど不可能に近い。この現状と比較するなら、理想状態はいつも夢物語なのであり、まるで説得力とは無縁の一種のユートピアなのかもしれない。だが、この説得力が無限にある現状を受け入れることは拒否せざるを得ない。この、ありのままの現状には気に入らないことが山ほどある。つまり、その気に入らないことを是正するのが困難であることが、現状に対する否定の感情を生み出すのだろうか。もしそうだとすると、そこからどうやって肯定の可能性を導き出したらいいのだろう。否定で満ちあふれている現実を肯定することなど、はたして可能なのだろうか。それになぜ肯定しなければいけないのだろうか。何を肯定しなければいけないのだろうか。しかし今までとは手のひらを返したような安易な肯定ではわざとらしいし、それでは今まで否定してきたことを否定したことになってしまう。ようするに、今までの否定も肯定し、これから自然とわきあがる否定の感情も肯定しなければならない。しかし、否定を肯定することとはどういうことなのだろうか。それをどう表現すればいいのだろうか。否定と肯定を対立する概念として論を進めてきたのがそもそも間違っているらしい。とりあえずは否定も肯定し、肯定も肯定しなければならない。矛盾した言い方だが、それが現状の肯定へつながる唯一の方法かもしれない。


8月21日

 ありふれた日常に埋没しながらも、ありふれていない特別な体験を求めること。そして思いもよらぬ場面に遭遇し、その衝撃的な光景に見とれる自分の姿を思い浮かべる。それがありふれた期待なのだろう。現代では、そのような期待に様々なメディアが応えてくれるらしい。その期待に応ずるための主な努力は、画面を見させることに集約されている。その四角に区切られた窓の向こう側の出来事に期待する以外に、いったい何が期待に応えてくれるのだろうか。そんな述べ方にはうんざりする。たぶん、向こう側との隔たりは永遠に埋まらない。だが何もかもが画面上の出来事に置き換わろうとしているのだろうか。いまに何をするにも画面を見ながらのテレビゲーム的遠隔操作ばかりになるのかもしれない。コントローラーを操作する指先ばかりが敏感な世代が主流になる。そのうち近眼であることが一種のステータスシンボルになる。そこまで言うと荒唐無稽だ。しかし指先ばかりで体全体を使わなくなるとどうなるか。健康不安心理を紛らすために、スポーツジムなどで無理矢理体を使わせようとする。健康の不安を抱えながらスポーツジムなどに通い始めたら、それはすでに悪循環に陥っている。体に無理な負担をかけている証拠だ。ならば、折衷案として、ゲームセンターで画面を見ながら体を動かすゲームでもやればいいのだろうか。楽しみながらエクササイズをやれば、それがたとえゲームセンターであったとしても、心身共に健康を保つことができるのだろうか。さあ、それは人それぞれだろう。だが、スポーツをやるにしろゲームセンターで遊ぶにしろ、それらの体験は、ありふれた日常に埋没しながらも、知らず知らずのうちに求めている、非日常的なありふれていない特別な体験の代用品としてのありふれた体験である。ごく自然に普段の日常生活において体を動かすだけではどうしても満足できないし、不安なのだ。それは強迫神経症なのかもしれない。何かのゲームに拘束されていないと落ち着かないとか、目的がなくなってこれからどうやって生きてゆけばいいのか途方にくれているとか、いろいろ悩みの種は尽きないのかもしれないが、なぜ普段通りに生活できないのだろうか。ただそのまま普通に生活してゆくのが一番ダメージの少ないまともなやり方だと思うが、どうも、日常に埋没しながらも、その実際に自身が体験しつつある日常生活に耐えられない人が多いようだ。


8月20日

 たぶんあるレヴェルでの役割は終わりかけているのかもしれない。それがどのような役割なのかは知らないが、もはやそのようなものに関与しなくても生きて行けるようになったらしい。だが、世間で騒がれているような問題とは無縁の生き方が可能なのだろうか。確かに様々なメディアを通じて飛び交う様々な情報について、それらの情報に対する分析も含めて、そのほとんどが頭の中を素通りしてしまうようになった。それらの複雑に錯綜する情報を自分自身が必要としていないのはもちろんのこと、そもそも自分がそれらの情報を受け取る対象になっていないらしいことがわかってきた。そしてそのことから、今まで行ってきたような、こちらから勝手に批判を加えること自体が大きなお世話なのだという自覚が芽生えつつあるようだ。しかしそうだとすると、これからいったい何を書いたらいいのだろうか。わからない。すがるものは何もないし、書く題材も何もない。結局はまた振り出しに戻ってしまったようだ。どうも自分は前進とは無縁らしい。しかし後退したくても後退する場所もない。ようするに相変わらず定まった場所が見つからないのだが、定まった場所から書くという行為そのものを嫌悪していることも確かだ。なぜこうも目的や目標を回避しようとするのか、日頃から自分でも不思議に感じているわけだが、考えてみれば世の中ではおかしなことばかりが行われていることも確かだ。棒切れを振り回して玉ころに当てるゲームに夢中になる人々や、玉蹴り遊びが高じて恐ろしいテクニックの洗練に結びついたり、それらの驚異的な遊技を見て興奮するさらに大勢の人々とか、はじめは些細な偶然の集積によって発展したものが、世にも奇妙な現象を作り上げ、それが違和感なく日常に溶け込んでいる。これをどう理解すればいいのだろうか。理解できなくても、テレビをつければ否応なしに眼に飛び込んできて、それなりに楽しめることは確かなのだが、近頃は、これがいったい何なんだ、こんなもの見て何の意味があるんだ、という意味不明で漠然とした抵抗感が日増しに高まってきた。つまり、ときには頭の中を素通りせずに、否定的な感情を刺激することもあるようなのだ。そしてそういう自分がいやになって、ますます情報から背を向けているらしい。これが後ろ向き姿勢なのか、はたまた、万に一つの前向きの姿勢なのかはよくわからないが、やはり、そうしたものに関与することを避けているらしいことは確かなのである。


8月19日

 星を見なくなって久しい。冬が来れば、空気が澄みわたって満天の星空を眺めることができる。夜空の星々は、それを眺める者に多大な影響を及ぼす。星は人々の生活空間とは遠く隔たって輝いている。その隔たりが、その遠い輝きが、人々の意識の中に限りのない意味を生じさせる。その手の届かないはるかな距離の中に無限の意味を積み上げる。直接ふれあうことのできない隔たりが、想像力や思考力の源泉となる。自分がそれを操作できないことが歴然としているとき、なぜそのような対象が存在しているのか、という問いが生じ、その対象との隔たりを埋める可能性が探られ、そこからその対象を間近から見た姿を想像し、その存在原因を思考するようになる。それは不可能を可能と欲するかのごとく働く荒唐無稽な力である。操作可能と思われる対象に働く力とは明らかに異なっている。非合理で直接の利益とは無関係でもあり、何の役にも立ちそうになく、あらゆる制限のないわけのわからない力だ。そのような対象に全知全霊を注ぎ込む者は、狂うより他にないのかもしれない。狂わないための方策としては、そこに科学の視点を導入することだろう。たぶん占星術よりは天文学という言い訳の方が、より理性的に振る舞えることは確かだ。荒唐無稽な力に特定の意義と制限を設け、認識可能で科学的言説の範囲内では操作可能な対象に近づけることで、何とか精神的に耐えられるようになる。自分と星との無限に近い隔たりを、自己の内面に折り畳んで、自分と星と指示される認識対象との均衡を保つ。それによって自己から一方的に遠く隔たった絶望的な距離を一時的に忘れることができるだろう。それは神の無限の不可能性から人間の有限の可能性への一時的な移行である。夜空に輝く星々から人々が受け取る力とはそのようなものなのだろうか。自らの有限の可能性を認識するために無限の対象は存在するのか。こうして無限の隔たりを有限の内面に折り畳む技法が発明されたのだろうか。だが、それはあくまでも一時しのぎの技法である。有限の延長が無限なのではない。無限の断片が有限なのであり、有限は常に無限の一部分でしかなく、有限性を認識することは、一時的に無限性を忘れることでしかない。それは一時的に全体の一部分をクローズアップしているだけなのであり、そこから少しずれれば、たちまち絶望的な無限が待ち受けている。人々は狂わないためにそのような技法を身につけた。そこから導き出される認識としては、無限の一部分が有限であり、その一部分の有限が人間という有限の個体を一時的に構成している、ということになるだろうか。


8月18日

 はじめから疑問の連続だ。確かに以前は何かを期待していた。だが、いったい何を期待していたのだろう。何が期待されていたのだろうか。この期に及んで、何か満足できるような理想像というものがあるのだろうか。それがわからない。例えば、未来に対するビジョンとは、どのようにして出来上がるのだろうか。白熱した討論と限りのない試行錯誤の果てに、何か説得力のあるビジョンが提示されるわけか。優秀なオペレーターがその場の雰囲気を的確につかみ。建設的な答えが導き出されるように討論者達を誘導していって、その結果、参加者のほとんどが納得する形の大団円が待ち受けているらしい。だが、それが繰り返されると、討論はシナリオ付きの演劇と化す。形式化された手続きばかりの儀式となる。討論を続けることが自らの利益に直結する者にとっては、偶然要素が極力排除された儀式の方が好都合だ。シナリオに沿って討論すれば、思わぬ方向への逸脱や行き詰まりを回避できる。討論を続けることが目的と化せば、そのような演劇化は避けられない。そして、それを繰り返すほどオペレーターの独裁化に拍車がかかる。もしかしたら演劇自体が討論の儀式化から派生した芸術なのかもしれない(もちろん演劇には討論とは別の要素があり、それが発展したからこそ、未だに演劇愛好者の興味をつなぎとめているのだろう)。だが、感性の鋭い者にとっては、討論の行き先や結論がはじめから定まっているような退屈な儀式には耐えられない。興味が薄れ、そういう演劇的儀式から次第に遠ざかるようになる。その結果、残ったメンバーは、オペレーターと共犯関係の気心の知れた仲間内だけになる。だが、それでも討論を継続させれば、より一層のマンネリ化は避けられない。そこで彼らは、自分たちの保身のための窮余の策として、権威に惹かれる田舎者をゲストとして討論に参加させるようになる。田舎者にとっては、そのような儀式に呼ばれるだけでも大変名誉なことに感じられる。それに田舎者は、オペレーターとその仲間達に馬鹿にされていいようにあしらわれても何も文句を言わない。自分がいじめの対象の玩具でしかないことには鈍感だ。というより意識して鈍感さを装っているわけだ。そのような共犯者達の攻撃対象としての通過儀礼を乗り越えれば、自分もオペレーターの仲間内になれることをよく心得ているわけだ。道化の報酬は、その討論会の常連になれるかもしれないということだ。それが田舎者の期待であり、そのビジョンとは、討論会で格好の良い服装で格好の良い発言をする自分を実現させることだ。


8月17日

 世界の多様性を言葉の多様性に反映させることができるだろうか。予言や預言は世界の未来を告げている。その未来において、人々の運命や宿命が待ち受けているのだが、そのどのようにも解釈できる不完全な言葉を真に受けるか否かは、それを聞いた者の判断に委ねられる。だが、それを聞きそびれてしまった。忙しくて聞いている暇がなかった。これでは未来に待ち受けている運命に対する備えができない。やはりそれは、何の用意もできていないうちに、いきなり遭遇してしまうものなのだろうか。だが、そのような何の前触れもなく訪れる未来ではなくて、もうあらかた予想がついている未来もある。教祖様は、今では拘置所の中で暮らしているらしい。裁判官は合法的に人を殺すことができる。教祖様にとっては実にうらやましい立場だろう。その条件に適合していて、さらに情状酌量の余地がないと判断されれば、被告に死刑を言い渡すことができる。つまり、教祖様の代わりに教祖様自身に対してポアの指令を出せるわけだ。たぶん待ち受けている運命とはそんなところだろう。だが彼の死刑判決などを真に受けるわけにはいかない。それ以前に、その言葉を聞きそびれてしまったからだ。そのとき発せられた言葉が自分には届いていない。それが発せられた場は、自分とは関係のない空間だからだ。教祖様の運命も自分とは関係がない。だがその言葉はさらに縁遠い。言葉はときには増幅されもするが、やがて減衰して、最後には何を述べているのかはっきりとは聞き取れなくなる。だから最後の言葉は聞き取れない。誰にも聞き取られない。その言葉を発する人物は永遠に現れないだろう。それはすでに発せられてしまったからだ。人が出現する以前に発せられ、聞き取る前に減衰してしまった。結局は誰もが聞きそびれてしまった。そして誰にも聞き取られることなく消滅してしまった。では、その言葉にはいったい何が含まれていたのだろう。そして、なぜ未来に発せられるべき言葉が遠い過去に発せられてしまったのだろう。すべてが想像の域を出ない話だ。残されているのは、その言葉の残響から派生した断片ばかりだろう。人々はそれらの断片をつなぎ合わせて、どのようにも解釈できる不完全な言葉を発し続けるのだ。


8月16日

 反権力闘争と大げさに呼ばれる運動については、もはや冷めた見方しかできない。それはありえない闘争だ。権力闘争に「反」をつけて自分たちの運動を特権化するのは欺瞞である。いかに自分たちが弱者の側に立っていようと、それは紛れもなくただの権力闘争としか言いようがない。弱者が闘争に勝てば強者になる。カーストの序列が逆転するわけだ。だがなぜ弱者を助けて強者の地位に引き上げなくてはならないのだろうか。しかしこのような述べ方は粗雑で抽象的だ。社会が安定していて、弱者が強者になれる可能性がほとんどないからこそ、ひとは安心して社会的弱者を擁護する立場でいられる。だがこれでも言い方が不十分だ。事態はさらに進行している。もはやそのような立場さえ廃れつつある。社会的弱者と連帯すらできなくなろうとしている。多くの人々が連帯することで生じる力の効果が消えようとしている。連帯そのものが意味を為さなくなってきた。例えば、デモ行進はカーニヴァルの仮装行列となった。また、反対集会は音楽コンサートとなった。たとえ数万人動員しようとも、それが大々的に報道されない限り影響力を行使できない。マスコミが行う千人を対象とした世論調査にさえ勝てない。結局は広告戦略的なプレゼンテーションの技法の前に屈するしかない。調査結果の多数意見を真に受ける多数派の一般大衆が存在する限り、ごく少数の人々を除いてそれ以外の意見には誰も聞く耳を持たないだろう。だが、その多数意見は人畜無害なもので、この社会の体制を維持発展させるための意見でしかない。今ある体制の転覆を目論むような意見など誰も聞き入れなくて当然だ。しかし反権力闘争とはそういうものではないのか。政権交代と体制の転覆は異なる。政権交代とは常に多数派が政権を握ることであり、体制の転覆はそれとは違い、その多数派の政権を打ち倒すことだ。それはこれまで武力によるクーデターでしか実現した試しがないことかもしれない。これまでのやり方では、暴力に頼らずに反権力闘争で勝利するのは不可能だろう。だがその暴力を行使できるのは体制側だ。それでは今流行の情報戦略とやらが有効だったりするのだろうか。だが、情報操作ができるのも多数派が支持する体制側の方だ。反権力闘争でそれらに真正面から挑んで勝利するのはやはり不可能だろう。どうもこのような認識ではだめらしい。それらとは別のやり方を模索しなければならないだろう。


8月15日

 すべての無視を越えてあやふやなメッセージを受け取る。何を述べているのかわからない。中身が解読不能だ。何かを警告しているらしいが、その内容が理解できない。赤の他人に向かって以心伝心は利かないだろう。たぶん、これらについて何か言いたいのだろうが、それについて言及する勇気がないらしい。もうつまらぬ意地の張り合いはいい加減ごめんだが、世の中は依然として子供の集まりのようだ。自分たちの偏見を強要することには熱心だが、他人の意見の存在を認めることすらできないらしい。何か文句があるなら、はっきり述べてくれれば、こちらもできる限り誠実に対応する用意はあるのだが、そんな初歩的な儀礼さえ無視したいのだろうか。だが、それはお互い様なのだろうか。こちらも、もう特定の媒体や人物の名前を挙げて批判することをしなくなってしまった。何かを批判することに飽きてしまったのだろうか。それでも苦し紛れに、批判する対象の固有名に言及せずに、くだらぬ批判を繰り返していることは確かだ。焦点の定まらないあやふやな批判を繰り返している。もしかしたら、受け取ったあやふやなメッセージは、このところ頻繁に繰り返しているあやふやな批判に対する批判なのだろうか。だが、今さらニュースショーの司会者や 反権力系雑誌の固有名をあげて批判する気にはならない。こんなところで批判しても無駄なような気がするのである。それにそのような批判のやり方そのものが無効なのかもしれない。では今までまるっきり無駄なことを繰り返してきたのだろうか。そうなのかもしれないし、そうではないのかもしれない。別の有効なやり方を模索するためには無駄な試行錯誤が欠かせないだろう。だが何が有効なのかは、はっきりした基準はない。やはりあやふやな手探り状態で、これからも無駄な試行錯誤を繰り返して行くのだろうか。まだ、試行錯誤の経験そのものが足りないのかもしれないが、では、どの程度試行錯誤を繰り返せばいいのかは、やはりあやふやである。どこまでやったらいいかなんて誰にもわからないだろうし、逆に試行錯誤をやりすぎて、迷路で立ち往生したまま、有効な方法を取り逃がしている場合もあるだろう。とりあえずは道半ばという実感しかなく、どこまで行っても道半ばでしかないのかもしれないが、これからも無駄な試行錯誤をやり続けるだけなのかもしれないし、いつかはこれをやめるときも来るのだろう。


8月14日

 遠い山並みが間近に迫ってきた。大きな望遠レンズをつけた一眼レフカメラで鳥の写真を撮っているらしい。子供が木立の切れ間からダムの湖面を見つめている。虫かごの中には大きなゴキブリの死骸が入っていた。さすがにムカデを捕まえることはできないようだ。居眠り運転のタクシーが蛇行を繰り返す。赤楝蛇には毒があるそうだ。入道雲を背景にして、蜘蛛の抜け殻がアルミサッシの窓にぶら下がる。天井の片隅にハエがとまる。停止することができるのだろうか。蛾が蜘蛛の巣に絡め取られてもがいている。だが、そこへたとえ話は入り込まない。誰がもがいているわけでもない。ましてや虫にもがき苦しむなどという芸当はできない。虫が苦しむときがあるのだろうか。苦しむための神経細胞とそれを処理する脳を持ち合わせているのだろうか。そこまで虫については詳しくない。虫の話題でそこまで言及するのはおかしい。ハエが飛翔するくらいの軽やかさが望まれているのに、足どりは相変わらず重い。フットワークが欠如する。全身を引きずりながら、後退しつつかろうじて前進する。望遠レンズは重すぎる。持ち運びには不便だ。だがズームアップにはそれが欠かせない。今こそ自慢の一眼レフでどこかに焦点を合わせるべきだ。目の前に広がる巨大な人造湖をひたすら見つめる。すると、それを待ちかねたかのようにダムの湖面にさざ波が立つ。謎の巨大生物はもう流行らないのだろうか。ネス湖のネッシーは今頃どうしているだろう。とうに引退してしまったのか。今や小さな虫ばかりが大量発生する。この環境に適応したのは人間ではなく虫だった。この世界は虫の天国になりつつある。もちろんそれらの虫は、テレビで度々保護が訴えられる貴重な小動物ではなく、駆除の対象となっている。殺しても殺しても蔓延り続けるのだ。まるで何かにそっくりではないか。だがその何かがわからない。虫と人間を比較するのは馬鹿げているかもしれない。つまらぬ比較で無駄話をしているうちに、ただ夏が過ぎ去るだけなのだろう。


8月13日

 現状の推移には思いもよらぬ偶然が度々作用する。だがそれらの作用を考慮してもなお、こんな現実が存在している。相も変わらず見ての通りの退屈な現状のままだ。だが、もしかしたら気づかぬところで変化している要素を見逃しているのかもしれない。世界を捉える思考の網目からこぼれ落ちてしまうものがあるのかもしれない。それらの要素が顕在化するのはいつのことだろう。そのときが来るまで、今しばらく辛抱強く現状に耐えていかなければならないのだろうか。それとも今ある退屈な現状を変えるべく積極的に社会に関与していくべきなのだろうか。そんな気にはならないし、現状ではそんなことはできない。ギルド外の人間は相手にされないし、関与させてもらえないだろう。とりあえずこんなところで何を述べても無駄なのはわかった。だからここでは何を述べても大丈夫なのである。ここで何を述べても相手にされないから、ここはこれからも何の障害もなく言いたいことが言える場なのかもしれない。だが、自分から積極的に言いたいことは何もない。社会の現状が自分に何かを述べるように強要しているのかもしれない。ここで何か書けという指令に拘束されている。だがそれは無駄だと思っているのに、なぜこうも自分に書かせるのだろうか。無駄ではないということなのか。そうではなく、自分にとってではなく、自分の関知しないところで、何かしらこれらの文章は機能しているのだろうか。だがそんなことは知り得ないし、仮に知ったところで、ギルドの慣習が骨の髄までしみこんだ卑屈で偏狭な人々に直面し、胃酸がこみ上げてくるようなうんざりする失望が待ちかまえているのかもしれない。どちらにしろ、これらの文章で自分が生かされることはないようなので、とりあえずは気楽な状態ではある。自分とは直接関係のないことばかりが、これからも断続的に出力されるだけなのだろう。たぶんこれはこれでこのような世界のままだろうし、自分自身との接点を見いだせぬままこのまま続いて行くのかもしれない。ただ、よくわからない、という実感だけが残る。


8月12日

 世界には限りのない失敗の経験が積み重ねられている。にもかかわらずこのような現状が当然のごとく存在している。成功よりもはるかに多くの失敗を犯していると思われるのに、こんな世界が今ここに存在している。この世界の存在を誰も否定はできないだろう。世界の現状は、もしかしたら何もかもうまく行っていないのではないだろうか。例えば、日本では、皆がよってたかってあれほど非難したのに森内閣は継続している。ちゃんと先の総選挙で国民の審判も下ったはずだ。だから選挙で過半数を獲得した与党の代表である森氏の総理大臣就任には誰も文句は言えないはずだ。しかし、それなのに選挙前と同じような口調で相変わらず森首相に退陣を迫っている人々がいる。選挙前には、選挙こそが民主主義の根幹を成す、とか真顔で言って、さかんに選挙盛り上げキャンペーンをはっていた者が、選挙後に至って、なおも世論調査を根拠に森氏に辞任を要求している。選挙をないがしろにしているのはいったいどちらなのだろうか。彼らには自分たちが信用されていないという認識が欠けている。また選挙前に、今の連立政権の枠組みと森内閣は、選挙を経ないで誕生したのだから、一度きちんと国民の審判を受けるべきだ、とさかんに主張していた輩は、実際に審判を受けて、議会で過半数を維持した連立政権と森内閣に対して、今さらどう批判するつもりなのか。是非、彼らの見解を拝聴したいものだ。このように、なるほど日本ではうまく行っていないことが多いだろう。彼らの選挙盛り上げキャンペーンは、いくら旧勢力をうち破ったフレッシュな新人議員に脚光を当てようとも、現に森政権が続いているという結果を見れば、おおかたは失敗に終わったと思う。それでもなお、次の選挙で同じような選挙盛り上げキャンペーンが繰り返されるのだとしたら、いったい誰が日本のこのような現状の維持に荷担しているのか、その答えがはっきり出るだろう。


8月11日

 使命感に駆られた人々は自己主張が強い。誰もが何らかの役割を果たすべく行動しなければならないのだそうだ。例えば、人々はその装置が円滑に動作するように働かなくてはいけないらしい。だがそれはどのような装置なのだろう。そんな装置の存在など知らない。自分の役割など知ったことではない。知らず知らずのうちにその装置に絡め取られ、その機械の歯車となっているというのなら、それも結構だ。結局は、その装置に関する納得のいく説明がなければ、そうした脅しを真に受けるわけにはいかない。世界は単純であると同時に複雑である。この世界では人々が絶えず権力闘争に明け暮れているだけだ、という単純な説から、知恵と勇気を兼ね備えた正義の人々が世界の恒久平和を目指して世にはびこる悪の化身と日夜戦いを繰り広げているのだ、という善と悪の聖戦説や、他者に対する寛容と連帯によって愛と理性と友情のネットワークが徐々に拡大して行き今まさに争いのない世界が実現されようとしている、という八方美人説や、世論調査から導き出される今の生活に満足しているとか景気がどうのこうとか内閣を支持するしないとかいう、恣意的な誘導尋問項目の単なる羅列みたいなものまで、様々な世界観が並置されている。そのそれぞれは、確かにある条件や側面から見れば、正しかったり説得力を持ったりするのかも知れない。だがそれらは皆つまらないのだ。そのような世界観が提示された段階で興味が失せる。何かしら結果が明らかになった時点で現実が逃げていってしまう。そう断言された時点でリアリティを失う。過去の出来事として忘却の対象になってしまう。現実は結果でなく、常にその過程にある。過去の録音テープや記録映像などは、その都度、現実の出来事の過程を繰り返しているわけだ。その再生時間内では、結論や断言の侵入は回避されるから、その時間内ではリアリティを持つことになる。だが、その時間が経過した後に、何らかの結論や断言が導き出され、単なる過去の資料として収蔵庫に仕舞われて、やはり忘却の対象となるより他はない。


8月10日

 奥行きのない風景を眺める。窓ガラスに反射した空が曇り始める。とりとめのない夢を見たが、すぐに忘れてしまった。その欠落を埋め合わせるべく、意識はすぐに別の対象に照準を合わせる。夢の記憶が四散した後に蝉の鳴き声に充たされる。夢とはまるで関係のない代替物だ。とりあえず充たされるものなら何でも構わないのだろうか。ニュートラルな精神状態では、その場で一番強い印象を持つ蝉の鳴き声を意識するのは当然かも知れない。それは、例えば、車のエンジン音でもよかったし、蚊に刺されたときのかゆみでもよかったのだが、たまたまそのとき、蝉の鳴き声が一番うるさく耳障りだったので、それを意識しただけのことだ。しかし依然として失われた夢の記憶とうるさい蝉の鳴き声は何の関連もない。それなのに現実に失われた夢の後には蝉の鳴き声が続く。その二つの出来事の間に因果関係を構築するのは無意味だと思う。この世界は因果関係を構築しても無意味な出来事で満ちあふれているのだろう。例えば日本での蝶の羽ばたきが次第に増幅されてアメリカで大嵐なるとかいう類の説に、いったいどれほどの説得力があるだろうか。仮にそうなる危険性があるとして、それに対して何をどう対処すればいいというのか。そして、対処したからといって、はたしてその効果が確認できるのだろうか。できれば実際にそうなったところを一度見てみたいが、首脳会談などでアメリカから日本に出される注文には、そうした対処を求めるものが多いような気がするのは自分だけだろうか。しかしそうした外圧頼みなのが政府批判者の常であることも確かだ。本来ならアメリカからの外圧と政府批判者の言い分には何の関係もないはずだ。彼らがアメリカのエージェントだとかいう穿った見方をする気にはなれない。彼らは彼ら独自に自分たちの主張を展開すればいいのだ。しかし政府批判者は、自分の言い分にアメリカからの外圧を結びつけるわけだ。そして虎の威を借る狐のように、アメリカの国力を利用しながら自分たちの発言力を強めようとしている。つまり互いに関係のないものを強引にひとつに結びつけることで力を発生させようとしている。確かに物体に別の物体をぶつければ力が発生する。


8月9日

 きっかけとは何だろう。今回は夕立が開始の合図だった。そして、それが存在する根拠を説明もしないでその装置はいきなり作動する。夕立とは何の関係もない内容が出力されるのだ。なぜそのように作動するかは不明のままだ。たぶん説明できないのだろう。それは自己言及のようで自己言及ではない。はじめから誰が語っているのかが特定されていない。特定の誰とも関係を持たない、現実にはあり得ない架空の装置が真の現実を生み出すのだ。無関係の関係を構築するのがその装置の機能なのだろうか。だから相変わらず理由そのものが不在なのか。もっともらしい理由が導き出されるような因果律が成り立たない世界だ。だが、それを別のところから持ってきたりはしない。どこからも何も救いを求めず、それが当然のごとく開始されてしまう。そう度々は外部の参考文献に救いを求められない。根拠を示してくれるような文献にはなかなか巡り会えないし、たまたま都合よく見つかったとしても、そのような書物から、根拠となると思われる箇所を部分的に取り出すのには、多大な労力を要する。だからとりあえずは、そのような救いとは無関係にこれらの装置が作動してしまう方が効率的ではある。それに、そのような救いが不在であることが、他者に依存しつつその言葉を援用しながら、それをあたかも自身の言葉で語っているかのごとく振る舞う、恥ずかしい勘違いやみっともない色気が生じる隙を与えないので、それが救いといえば救いであるかもしれない。そういうのは、自分が語っているのではなく、実質としては誰かに語らされているわけなのだが、その手の人々は、せこいプライドが邪魔をして、どうしてもそれを認めることができないのだろう。それが自分が語っていると信じている人の限界だ。主体とは、それとはまったく別の概念かも知れない。様々な他者の言葉をそのまま語らせるがままにしておく時空間を構成するのが主体だと思う。自分ではなく、常に別の誰かが語っているのだ。それが装置としての主体だろう。自分の声ではなく、例えば彼の声が響くわけだ。


8月8日

 試されているのは忍耐だけなのだろうか。そして、ひたすら現実に耐えた結果として死が訪れるわけか。だが、すべてがそうなるとは限らないだろう。例えば、現実の圧迫に耐えられなくて死ぬ場合もある。死はそこに至る過程で様々な経緯が付随する。耐えるのにも限度というものがある。その限度を超えて生きることは難しい。だが、そうした事情はできれば無視したい。忍耐などすぐに忘れてしまう。忘れてしまいたい。現実の圧迫はそのまま受け流す。それができなくとも受け流したつもりになる。もはや耐えて生きたりはしない。耐える前にすでに死んでいる。だが、実際は死ぬ前にすでに死んでいるのだ。死をも忘れて死んでいる。そのとき、生きることを忘れると同時に死ぬことも忘れている。もう何もかも忘れてしまった。忘れてしまいたい。すべてが忘却の彼方に消え失せたつもりになる。だが、そんなことがあり得るだろうか。そんなことがあるわけはないだろうが、そんなことはどうでもいいことだ。耐えるのはいやなのだ。自分にあてがわれている分相応の現実には耐えられない。だから何か耐えることとは別のやり方が模索される。試されているのは忍耐だけではない。与えられた生にも死にも耐えずに生き、そして死ぬことの可能性が試されている。難行苦行から解放されて生き、そして死ななければならない。耐えることが苦痛なのだからそうせざるを得ない。だが、外からの作用を拒絶することは困難だ。外から否応なしにやって来る圧迫にはどう対処したらいいのだろうか。それに対して抵抗や闘争で応じることは苦痛を伴う。だから苦痛を避けて通るような戦略を編み出さねばならないのだろうか。そんなことがはたして可能だろうか。それは不可能かも知れない。だからそれに対する現実的な妥協策としては、苦痛を伴う圧迫に対して、適当に耐えながら隙を見て逃げ出すやり方が可能となるだろう。だが、最初からそれをやろうとしているわけではなく、ある程度は苦痛に耐えることは可能なのであり、現実に、はじめは何とかその重圧を耐え忍ぼうとさえ思っている。だが、耐えているうちにだんだんそれがいやになり、そうこうしているうちにそこから逃げ出す機会が不意に訪れるわけだ。それが実際に千載一遇のチャンスなのかどうかは、行動を起こした後になってみないとよくわからないのだが、とりあえず首尾よく脱出した直後は、巡ってきたその機会を逃さずに、自分はまんまとその苦痛を伴う圧迫から逃げ失せたつもりになる。だが、それで本当によかったかどうかについては、客観的な基準は何もない。それに今ではまた別の圧迫に耐えているかも知れないので、それが良いか悪いかは永遠にわからないのかも知れない。


8月7日

 つまらない内容だ。相変わらずどうでもいいことしか述べられないようだ。フィクションの構成とはそういうものだろうか。様々な事実を辻褄が合うように切り貼りして、それにもっともらしい説明を付け加えれば、なんとなくフィクションらしきものが出来上がる。だが、その程度ではだめらしい。何かが足りない。その足りない何かとは何だろう。何か途方もない誇大妄想でも必要なのだろうか。たぶん何かが足りないからフィクションなのかも知れない。だがこれがノンフィクションというジャンルになると、さらに何かが大幅に足りなくなる。そのジャンルが指し示す意味とは裏腹に、事実から無限にかけ離れた作り事の世界になることが多い。見ることと見た内容を語ることは、直接は結びつかない。見たことを語る場合と語るために見た場合も異なる。それらの差異を無視して、すべてを同一次元で取り扱う粗雑さがノンフィクションにはある。最初は、見た光景に驚いたり感動したりしたことがきっかけで、それについて語りたい衝動に駆られるわけだが、それは一度限りの出来事なのである。二度目は永遠に訪れない。だから結局、成功したノンフィクションライターは、語るために何かを見に行く羽目に陥る。驚いたり感動したいがために、書くために述べるために語るために見に行くという動機からして、最初から完全に作り事である。それは仕事に結びつくのだろう。そういうもので満足する読者もいるだろう。だがそれはどこまで行ってもそういうものでしかない。何かが大幅に足りなくなるのだ。一度限りの感動を繰り返すことは、現実からかけ離れる。それを繰り返すたびにどんどん現実から遠ざかる。そのような悪循環の果てに、フィクションをノンフィクションだと嘘をつき通すか、さもなければ潔く小説家にでもなるしかなくなるのだろう。だが、小説もどきのノンフィクション的フィクションは読む気がしない。すべてが中途半端だからだ。現実から後退したフィクションなどゴミである。それは最初から間違っているのではないだろうか。見た光景に驚いたり感動したりしただけで、それについて語ろうとしてはいけないのではないかと思う。見ることを語ることに結びつけるやり方が間違っているのだ。まずは、実際に見たことについて語っているなどと勘違いしないことが肝心だが、さらに、見たこともないことを語らなくてはいけないだろう。見たことについて語っているかのように、せこく辻褄を合わせてはいけないのだ。


8月6日

 来るべき未来に希望など何もない。たぶん今と似たような現実が繰り返されるのだろう。そんなつまらない予想からどうやって離脱すればいいのだろうか。うまいやり方は何も思い浮かばずに、相変わらず袋小路で立ち往生している。何かが変わる兆しを関知できない。変化する要素は何も見あたらない。一見したところ、どこまで行っても均質な空間が連続している。だが、よく見れば、その空間の所々にはいくつかほころびがあるのだが、そこを突くと、均質空間の秩序を守るためにたちまち偽善の徒が結集する。多勢に無勢だ。侵犯者に勝ち目はない。彼らはほころびを修復もせずに、代わりに大音量でプロパガンダを流し続けるのだ。例えば少年が殺人事件を起こせば、ただひたすら命の大切さをわめき続ける。それは他の意見を黙らせるためにやっている毎度おなじみのやり方だ。それでは何も解決されはしないが、秩序を乱しかねない危険な思想を押さえ込むことには成功する。だが、そのような偽善の徒が支配する均質空間の息苦しさに耐えかねて、殺傷事件を起こしてしまう者は後を絶たず、そのやり方が事件の根絶には何の効果ももたらさないばかりか、かえってそういうやり方が、大多数の人畜無害な大衆と、ごく一部の有害な侵犯者を恒常的に生み出している、という矛盾は矛盾のまま残るが、それはそれで構わない。それこそが偽善の徒の戦略なのだ。大多数の構成員に平穏無事に日々を暮らしていると思い込ませれば、それで秩序は維持されたことになるわけだ。それをどうしても信じることができないごく一部の法の侵犯者は、その他大勢に対する見せしめのために懲罰を受けるスケープゴート役を担わせられることになる。そしてその他大勢の一般大衆は、世論調査という群衆管理方式によって、常に自分たちが他の人々と共通の多数意見を持っていて、自分たちが世の中の主流を形成していると思い込まされて安心することになる。何かイベントが起こる前と後に世論調査が行われ、必ず多数意見の方向に世論を誘導させようとしているわけだ。それの繰り返しによって均質空間は維持継続されてきた。


8月5日

 過ぎ去った時を思い出しながら別のことを考える。逡巡の繰り返しの挙げ句にまるでありえない時空に入り込む。思い描いていた行程とはだいぶ違う。どこまで行ってもきりがない。もはや事の始まりにおける経緯すら忘れてしまった。そして相変わらず終わりを見いだせないまま途方にくれている。限りのない迷いの中からさらなる迷いが生まれる。疲れを知らぬ時に追い回され、気がついたら方向感覚が磨り減っていた。正気を測る基準点は見失われたまま、意識は彼岸の浜辺で漂い続ける。もはや何に抵抗しているのかさえ定かでない。向かうものは何もない。刃向かうべき対象はとっくの昔に溶けて消えてしまった。それに向かって刃向かうようにけしかけているものの正体は、実に貧相で偏狭な輩の集まりだった。彼らには失望を通り越してあきれ果てるばかりだ。これでは大半の人々が保守主義に取り込まれてしまうのもわかるような気がする。彼らこそが保守主義を必要としているのだ。要するに彼らは保守主義を批判することでそこから養分を吸い取る寄生虫である。批判する対象としての保守主義なしでは生きて行けない寄生虫だ。やはりその程度の人々を擁護するのは間違いだと気づいた。先日久しぶりにある雑誌を立ち読みしていて、彼らの行く末がはっきりとわかってしまった。もはや彼らに未来はないだろう。根拠は何もない。しかしなぜかそれがわかるのだ。これは意味不明な神秘主義的直感かも知れない。そう思わざるを得ない寂しい内容だった。単なる一般人の自分一人が見捨ててもどうなるものでもないだろうが、やはり彼らを見捨てて正解なのだろう。だいぶ前にすでに彼らは相対化されてしまっていたのだ。もはやここで取り上げる対象ではない。ならばこれから何を擁護すべきなのか。いったい何を取り上げるべきなのか。それははっきりとはわからないが、たぶんその場その場で判断するしかないだろうことだけは確かなようだ。とりあえず今この場にあるのは、限りのない迷いと逡巡の繰り返しだけだ。


8月4日

 エレキギターはエレキギター独特の音色がする。別にアコースティックギターのような音がしなくてもそれはそれで構わない。初期の頃は知らないが、少なくともだいぶ前からエレキはアコースティックの代用品ではない。しかしシンセサイザーには、他の楽器の代用品として似た音が求められる場合がかなりあると思う。他の楽器の音色をすべてカバーして、さらにその上に、今まで一度も聞いたことのない音色まで合成できる。だが、すべての音楽分野でシンセサイザーが求められているわけではないようだ。シンセサイザー系の楽器あるいはコンピュータの弱点は、それがひとりの奏者またはプログラマーしか求めていないことだ。様々な音色を合成できる反面、それを合成しているのがひとりの奏者またはプログラマーでは、やはりどの曲も似たような音の重なりになってしまうのだ。つまりそれはソリストの演奏になってしまう。それとは反対にオーケストラのような大人数になってしまっても、それを構成するひとつひとつの楽器がほとんど同じなので、どのオーケストラも似たような音になってしまうが(それを指揮する指揮者によって多少の違いはあるが、それはシンセサイザーとオーケストラ、それにシンセサイザー奏者またはプログラマーと指揮者の両者が似たような役割を果たしていることによると思われる)、例えば、それが数人編成のバンド形態だと、曲ごとに楽器と奏者の構成を変えると、たとえ作曲者が同じでもそれぞれの楽器の音色や奏者の技法の違いによって、変化に富んだ飽きの来ない曲の連なりになる。そして、結局シンセサイザーの使い方も、その大半は、バンド構成の中でひとりの奏者が受け持つひとつの楽器という部分的な位置にとどまるのではないだろうか。後はソリストの作品になるかオーケストラの代用品としてバックグランドミュージックに使われることが多いだろう。つまりシンセサイザーはすべての楽器の音色を奏でる可能性がありながらも、実際には音楽演奏全般を覆い尽くすことはできない楽器なのである。要するに楽器の多数性には対応できるが奏者の多数性には対応はできない。それを奏でるのはひとりで間に合ってしまうし、仮にバンドのすべてがシンセ奏者であることも可能ではあるが、それでは他の普通の楽器のバンド構成との差異はなくなってしまう。いろいろな楽器がそれぞれの音域をカバーするのがバンドなのだから、それがすべてシンセである必然性はない。


8月3日

 つまらぬ間違いを度々犯してしまう。いつものことだ。応募ではなく募集だろう。文と文の接続の仕方も後で読んでみるとおかしい。だいぶ時間が経ってからでないとそれがわからない。自分の記述に対する自分の認識はどこか間が抜けている。いったん間をおいてから読み返してみないと間違いに気づかない。また、記述という行為自体にもいつもイライラさせられる。未だにブラインドタッチができない。だが、これを紙の上にペンや鉛筆で書くとまた感覚が違ってくる。もはや自筆ではまともに漢字が書けない。まるで小学生並だ。たぶん辞書を見ながら自筆で書くと、まったく別の文体になってしまうかも知れない。自筆ではこれほど書けないだろう。これらの文章はこれらの環境を前提として成立している。これは、はるか昔の紙と筆と墨と硯がないと書けなかった時代とはどのような違いがあるのだろうか。今は漢字を直接書けなくても読めさえすれば文章が記述できるようにはなった。昔は漢字を読めてなおかつその漢字を筆記用具で紙に直接書き込まなくては記述することができなかった。ひらがなだけの文章では馬鹿にされるだろうか。だが今はそれとは別の手間がかかる。仮名漢字変換ソフトとエディタやワープロソフトの取り扱いがわからないと記述できない。では記述方法と文章の中身との間にはどのような関係があるのだろうか。記述方法が違うと文体だけではなく文章の内容も違ってくるだろうか。確かにその可能性はあるだろう。しかしこれらの文章がこのようなやり方で記述されている現実はどうしようもない。他のやり方で書けばまた違う文章が生まれるのだろうが、だからといって、このやり方が何やら貴重なかけがえのないやり方というわけではない。たまたまこんなやり方で記述しているだけで、そこには偶然の成り行き以外には何の意味も必然性もない。これは肯定も否定もできないことだ。つまり記述方法は、書き手の個人的な事情の域内にとどまる要素であり、読み手にとっては、いちいち書き手の記述方法まで詮索する必要はない、ということになるだろうか。


8月2日

 人が生まれたり死んだりすることはそれほど重要なことではないのかも知れない。確かにそれは日常のありふれた出来事だ。人は生まれたらあとは死ぬしかない。事故や病気や老いで必ず死ぬ。そこから何か肯定的な意味を導き出せるだろうか。例えば末期癌や死刑判決で自身の近い将来の死を宣告されたら急に慌てふためき焦るだろうか。実際にそのときの状況に身を置いてみないと死の切迫感は体験できないだろう。今のところそういう状況に遭遇していないので、そのようなものにリアリティは感じない。画面や紙面上での死の疑似体験はそれとは別の状況だろう。他人の死を見たり読んだりして何やら感動するらしいが、それはどこまで行ってもそういうものだ。だが、そこには何らかの教育的効果が期待されているのだろうか。何か啓蒙的な意味でも読みとらなくてはいけないのだろうか。何も読みとる気にはならない。今さら限りある命を大切にしようだとか言える立場にはないように感じられる。そうではなく、どうも今体験しつつある現実はそういうものとは別の次元に生じているらしい。もっとくだらぬことだ。それは人の生や死を云々する以前の問題である。だがそれはもっと切実な問題でもある。それは、今は何も切迫していないし、切実な問題そのものが欠如しているということだ。何に対しても重要性を感じられない。何もやりようがない。何かをやっている人は自分以外にすでに存在しているし、自分がそこに参加する余地は残されていないので、何もやる気にはならない。だから他人の生や死などは自分にとってはどうでもいいことになるし、それ以前に自分は生きてもいないし死んでもいないのだから、それについて何かを述べる資格さえない。だが、それでもなお、そういう方面の専門家は掃いて捨てるほどいるだろうし、きっとそういうことを画面の中や紙面上で語りたい人も大勢いるのだろう。例えばそういうテーマで読者や視聴者の声として募集すれば投書が山ほど来るのだろう。すべてがありふれているのだ。恐ろしい世の中だ。たぶん今の時代に貴重なものは何もないだろう。


8月1日

 安易に否定的見解を述べるべきではないらしい。どうも否定的断言でカタルシスを得る傾向にあるようだ。ある対象にペケをつけることは簡単だ。だがそのペケに説得力を持たせることは容易ではない。別にその対象に対する恨み辛みで罵詈雑言を浴びせかけているわけではないが、あとから読むと、どうも脚光を浴びている対象に嫉妬ややっかみを抱いているような印象を受けかねない言い回しになっているようだ。単なる辛口コラムでは何も伝わらないような気がする。いったんそういう分野に閉じ込められてしまうと、何をどう批判しても辛口の一言に還元されて、そこで終わってしまう。やはり批判する対象を肯定してみせることが重要なのだろうか。しかしここでも、ほめ殺しというレッテルを貼られてしまうと、それはひとつの芸と解釈されて、ほめ殺しのテクニックばかりが一人歩きしてしまい、結局その内容はあまり伝わらなくなる。つまり、批判を封じ込めるやり方はいくらでもあるということだろうか。何をどう批判されても、どのようにも退けることは可能なのだろうか。激辛評論家には、おっしゃることはごもっとも、とほめ殺しにすればいいし、一方ほめ殺し的な批評には、その芸の細かさを、おみごと!名人芸です、とさかんに囃し立てればいいわけか。要するに批判に聞く耳を持たない人々にいくら批判しても無駄ということになるだろうか。だがそれでは何も変わらない。やはり相手に一縷の良心があることを信じて、ひたすら批判に説得力を持たせるべく努力すべきなのだろうか。だが、例えばミシェル・フーコーに対する批判のように、まともに読めば誰も反論できなような著作にさえ、それをまともに読まずに、意図的に反論が可能なようにねじ曲げたり単純化したりした上で反論してくる輩が後を絶たなかったりする場合がある。彼が死んでもう十数年が経つのに、彼の思想は未だにそのような闘争にさらされているようだ。たぶんそういう批判の応酬は彼が忘れ去られるまで続くのかも知れない。それとも彼が二十世紀の偉大な哲学者として肖像が額縁に納められて記念館に飾られ、ひとつの権威としてその思想が認められれば、そこが闘争のゴール地点なんだろうか。神棚に飾られるとはそういうことを言うのだろうか。