彼の声169
2025年
7月1日「経済成長と人口増加の関係」
たぶん経済はゼロサムではなく絶えず成長すると考えるなら、世界の人口が増加しているうちはそうなるかも知れないが、実際に人口が増加している地域には偏りがあって、現状でもインドとアフリカで人口が増加している割合が大きいなら、今後はインドとアフリカで経済が成長すると予想できるかというと、インドはともかくアフリカには資源以外にこれといって世界的に経済を牽引する産業がないから、今後も経済がそれなりに成長するにしても、世界で経済的な主導権を握るようなことにはならなそうだが、人口だけは食糧危機にでもならない限りは増えそうで、果たして人口増加に見合った経済の成長を見込めるかというと、そうも思えないものの、ある程度は政情不安が解消されるなら、増えた人口の分だけ消費が増えるから、その需要を見込んで経済活動も活発化しそうだが、商品を買える層が増えない限りは経済成長も見込めないと考えるなら、どうやれば経済成長が実現できるかというと、中東の湾岸諸国のように石油産業に代わる新たな産業としてハイテク産業の誘致に躍起になれるわけでもないだろうし、アフリカ諸国が湾岸諸国のように国内にAIデータセンターを建設するために多額の資金を投資するような成り行きにはならなそうだが、現状で唯一南アフリカがそういう成り行きになる可能性もありそうだが、中東の湾岸諸国も含めてそれらの国々に関して何か足りないものがあるとすれば、真っ先に思い浮かぶのが民主的な政治体制となりそうだが、それに関しては中国が民主的な政治体制でないにも関わらず、ハイテク産業を発展させている実績があるにしても、それは民主的な政治体制を実現させている台湾の功績も大きそうだから、そういうところが微妙にわかりづらいだろうが、それは日本にも言えそうなところであって、民主的な政治体制の確立をある時点から先でおろそかにしてきたから、それ以上の経済的な発展も頭打ちになったなんて言えないだろうし、ダイレクトに政治と経済とがつながらないところでもあるから、民主的な政治体制が確立されている地域で経済も発展している傾向にはなっているものの、民主的な政治体制を確立すれば経済も発展するかというと、誰もそうは考えないわけでもないにしても、どちらかというと昔のプロイセンやドイツ帝国のように、開発独裁型政治経済体制を目指す傾向になって行くわけで、明治期の日本でもかつてのソ連でも中国でも、民主的な政治体制に移行することは拒否するが、富国強兵的かつ殖産興業的な経済発展は成し遂げたいような成り行きになってしまうのだが、今やアメリカのトランプもそんな傾向になっていそうだから、その種の強権的な政治体制が独裁的な傾向の為政者にとっては理想だと意識される在り方なのかも知れないが、そうなると独裁的な為政者や政府高官などに違法な賄賂などが送られて金権腐敗となりやすく、民主的な法律や制度が整っていない国では独裁的な政治権力の担い手へと富が一極集中して、自由な経済活動や競争が阻害されて経済が停滞してしまうから、それ以上の経済発展は望めなくなってしまうのだろうが、人々がそういうところまで考慮できるかというと、学校教育などによって知性が養われていないと、そういうことが理解できないだろうし、実際に多くの人々がそこまで考えて政治に介入しているわけでもないから、民主主義を守ろうとしないばかりか場合によっては破壊しようとする非民主的な政治勢力が支持されている現状もありそうだが、それが日本でも定期的な政権交代が行われてこなかったから、ある一定レベル以上の経済発展が阻害されたなんて思う人もあまりいないだろうし、そういう政治と経済の直接の関連性などを念頭に置いて政権選択を行なっているわけでもないだろうから、何かそういうところで多くの人々が思い違いというか勘違いというか、そういうレベルで物事を考えること自体にリアリティを感じられないから、そういうことではないような気がするのだろうが、もっと直接的な西欧優位の歴史的な経緯などが信じられている一方で、それに対抗して日本の文化的な伝統が捏造されるようなおかしな紆余曲折もありそうなのだが、それだけではないのだとしても、次から次へと技術革新を担う起業家などが新たに生じてくる経済的な土壌が何を基盤として成り立っているのかと言えば、自由な経済活動が許容される社会となっている一方で、強権的な政治の担い手が利己的な蓄財目的で経済に介入してくるようなら、自由な経済活動が阻害されるだろうし、その自由な経済活動自体も、経済競争に勝ち抜いた独占資本の担い手となる企業による独占的な市場の支配によっても、自由な経済活動が阻害されてしまうわけだから、政治を担う側は絶えず経済活動から距離を置いて、自由な経済活動を歪めてしまう成り行きに対しては、法整備などによって経済活動が促進されるように持って行く必要がありそうなのだが、そういうところでも一見うまく行っているように見えて、知らないうちに開発独裁型政治経済体制が構築されている事例として、東京都政などがまさに今そうなっていて、それが少し前までは大阪府政が維新勢力によってそういうことが行われて、大阪万博によって一気にその矛盾が噴出したわけだろうが、果たして東京都政の矛盾が今後どういう形で噴出するかというと、新たに開発した都心のオフィスやホテルやマンションや商業施設などの様々な箱物が供給過多で、ガラガラ状態になってしまえば、中国と同じように不動産バブル崩壊となるかならないかも、人口減少に歯止めがかからなければ、東京への一極集中や訪日外国人観光客の増加などによってうまく需要が埋まるのかどうかも、素人なのでよくわからないが、何か都心で開発ラッシュというか超高層ビルなどの建設ラッシュとなっていることが、そんなに建設して需要があるのかと心配になってきてしまうが、それもゼロサム的に世界中のメガロポリスで人の奪い合いの真っ最中だと、事態を想像してみたりするのだが、その一方で日本では少子高齢化が加速しているようなことが言われているのに、保守派は強硬に移民反対であったり、選択的夫婦別姓にも無理な屁理屈を総動員しても猛烈に反対するわけだから、ではどこから開発ラッシュした都心のビルや商業施設や娯楽施設などに人が湧いてくるのかと疑問に感じるのだが、実際に開発ラッシュが一段落してみれば需要と供給の関係が明らかになるだろうから、そこで都心がガラガラのゴーストタウン化が進行してみれば、そうなって初めて開発独裁型政治経済体制の誤りが明らかになるかどうかも今後の情勢次第なのかも知れない。
6月30日「キャラ立ての限界」
故意にネガティブなイメージを利用することが、普通はネガティブなイメージがメディアを通じて拡散されてしまうとまずいはずなのだが、N国党の立花氏などは逆にネガティブなイメージだからこそ信者に信頼されていて、著名人として一定の影響力がありそうに感じられるのだが、何かと戦っていたり争っているから世間で注目されて、積極的に因縁をつけて波風を立てて事を荒立てる主導者である限りで、そうすることによって起こる戦いや争いや騒ぎの渦中で求心力を得られて主導権を握っていられる理屈なのだが、そういうのがトランプ的な手法だとしても、もちろん覇権国のアメリカの大統領だから威張っていられる面もあるから、支持率が下がって求心力が失われるとレームダック化するわけで、それと同じようにして日本でも石破首相がレームダック化しつつあるように感じられるわけでもなく、総理大臣になった時からそれほど人気もなく支持率も高くはなく、少なくとも政治の場で主導権を握っているようには見えないわけだが、それはトランプのように自ら騒ぎを起こすような立場でも役回りでもないから、ある意味では当然なのかも知れないが、トランプが何かの主導権を握っているとも思えず、自作自演で主導権があるかのように装っているだけだろうし、社会的な存在である限りは誰もが自らの立場や役回りに相応しく振る舞おうとすると結果論的に考えるならそう思われるとしても、本当にそうなのかというと、トランプでなければあんなふうには事を荒立てないだろうから、ある程度はその人に特有のキャラ立てがありそうで、そんなキャラ立てがどうやって生じてくるかも、その人に特有の経緯や事情が絡んでくるから一概には言えないだろうが、それがネガティブなイメージを利用したキャラ立てだと、一時的に一過性の水準で悪役的な人気を得られるにしても、何かそれが流行現象となって過ぎ去ってしまうと枝葉末節などうでもいいことのように感じられて、他の何かに利用されている感が半端なく、当人がそれを利用していたつもりが実態としてはそうではないのだから、では何なのかというと、そこから客観的かつ歴史的な観点に立つなら一歩退いて世の中の情勢や状況を眺めてみる必要性が感じられて、政府の財政状態と国内外の経済情勢や政治情勢も絡んでくるから、トランプが主導権を握っているように装いながら勝手に何を仕掛けているつもりでも、そんな情勢の中で踊らされている感も半端なく感じられて、それがうまく行っているようにも装いたいだろうが、その実態が可もなく不可もないわけでもなさそうで、わざと失態を演じているわけでもないのだろうが、踊らされている感が半端なく感じられるのだから、どう見てもトランプが主導権を握っているわけでもなさそうに見えてしまって、なし崩し的かつ成り行き的には無駄な悪あがきの最中のようにも見えるというと、わざと恣意的かつ否定的に情勢や状況を捉えているだけかも知れないが、これまでの経緯やそこに至る事情を考慮して、失敗のような結果に落ち着いてしまうと予想したいわけで、トランプが何をやっても否定的に見られてしまうような成り行きの中で無駄な悪あがきの最中のように一連の光景を眺めていたいわけだから、そう思ってしまう自意識も何かの渦中に引き込まれて、そう思っているような感覚なのかも知れず、そういう心境になるほど、それに対するメディアのネガキャンからも距離を置きたくなってきて、そんな自意識が恐れているのが、何かが起こる前触れを感知しているような怖いもの見たさの感覚でもあるのだが、そんなよくある感覚に囚われた多くの人々が、これから何か恐ろしいことが起こるという予言にびくついているわけだろうが、何も起こらないというと嘘になってしまうのだが、すでに何かが起こっている最中でもあると共に、すでに起こってしまったことも大したことでもなかったと、過去に起こった出来事を過小評価したくなるわけで、何かもっとすごいことがこれから起こって驚かせてほしいのだが、それが起こってしまえば、今度はそれを過小評価したくなってしまうのだから、自身を偉大な人物だと認めてほしいトランプも、自らが起こした騒ぎをメディアに過小評価されると腹が立つわけで、現状の中でどんなに仕掛けてみても、その結果がリンカーン記念堂のような建物が建つようなことにはなりようがないわけだから、時代が違うと言われてみればそれまでのことだが、その実績が「ホームアローン」という映画にカメオ出演した程度のことだとは思えないものの、だからといって政府の財政規律を守りながらも減税を実施できるようなことでもないのが明らかとなりつつあるわけだから、そういうところで無理なことをやろうとしているわけでもないにしても、思っていたのとは違った結果が出てくるのをどう受け止めてみても、うまく行っていないことをうまく行っているように見せかけるような成り行きにならざるを得ないだろうし、そうなることもやる前からある程度は予想した通りの成り行きにもなっているわけだが、そう考えるなら現状でも予想通りの成り行きになっていて、トランプならそうなって当然だと思っていたようなことが現に起こっているわけだが、威張り散らして交渉相手を脅して譲歩を迫るようなやり方が嫌われて当然の典型的なトラブルメイカーであるのも、事前にわかっていたのだから、そうなって当然のことが今まさに起こっているわけだが、それを否定的かつ批判的に受け止めるのも、典型的なリベラルメディア的な態度や姿勢であるのも、こうなってみればなるほどだと納得するしかなく、他にどんな実感も湧いてこないにしても、そう思って安心してしまうとまずいような気もするから、それが思い違いで勘違いな実感を抱いている可能性も考えたくなってきて、トランプ自身もそうは考えていなかったようなことが起こっていると受け止めたくなるようなことが現状であるかというと、それがこれから思いがけず起こってトランプ自身も含めて誰もがあっと驚くような結末というか、それでもまだ途中経過に過ぎないだろうが、そんなことがこれから起こると予言したくなるわけでもなく、事ここに至ってそんな見え透いた嘘をついてみても結果は動かし難いのかも知れないし、トランプが主導権を握ってそんな結果をもたらすのではなく、トランプとは無関係にそんな結果に至るかも知れないが、もちろんそれをトランプが自分の実績だと豪語するようなことになっても、そんなほら吹きは全て無視されてしまうわけでもないが、トランプも故意にそんなほらを吹きたくなるとも思えないにしても、それでもトランプに対するネガティブなイメージを他の何かに利用されて否定的なキャラ立てが施されてしまう限りで、そんな否定的なイメージをトランプがいくら振り払おうとしても、メディアがそれを許さないような成り行きになってしまうのかも知れないし、現にそうなっている最中でもあるわけだ。
6月29日「本物と偽物の対比からの逸脱」
物事を単純に考えるなら、普通は本物に対して偽物があり、偽物の中でも、偽物とまがい物とイミテーションとでちょっとずつ意味が違うようだが、それらは主に本物との対比で語られて、本物があることを前提として、本物に似せて人を騙すために作られた物や、本物よりも質が劣っていたり作りが雑であったり、装飾品として見た目だけ同じように見えるが価格が安い物とか、色々と用途に合わせて本物の代用品や代替品となる物がありそうだが、その一方で本物なしで語られる概念として、シミュラークルがあるわけで、シミュレーションなら現実をシミュレートするが、現実から離れて現実なしに機能する記号やイメージをシミュラークルというのだろうが、ではシミュラークルが現実のどんな存在に当てはまるかというと、トランプやかつての安倍晋三は保守でも右翼でも極右でもなく、山本太郎も左翼でも極左でもリベラルでもないと思うかどうかも、普通はそうは思わないかも知れないが、彼らをシミュラークルだとは思わないだろうし、記号やイメージではなく生身の人間なのだから、そんなはずはないが、少なくともトランプ関税やアベノミクスは完全に記号やイメージとして流通しているし、積極財政や消費税廃止もそれと同類だと見なすなら、中身や実質ではなく言葉の雰囲気が先行して語られているわけで、そうなるともはや偽物でもまがい物でもイミテーションでもなく、それが良い意味でも悪い意味でも使われる記号やイメージが実質も中身もないシミュラークルだと言えるかどうかも、そんなふうに語ればそう思われるかも知れないが、それも言葉遊びの範囲内で軽く受け流されるような成り行きの中でそういう言葉が使われるのかも知れず、うまく行かないことがバレバレなのに、納得できる反論を無視してゴリ押し的に主張される納得し難い意見の内容がそれに当てはまるとも思えないが、最近では選択的夫婦別姓に対する反対意見にもそういう傾向が見受けられたし、悪貨が良貨を駆逐するという格言のうちで、悪貨に当たるのがシミュラークルだと考えるなら、本来の使われ方に近い雰囲気を感じられるが、彼らが政治やイデオロギーではなく経済について語るところが、かつての民主主義体制下での最初の大統領から独裁者への移行者として機能したナポレオン三世がまさにシミュラークル的な存在なのだが、ナポレオン三世がパンとサーカス的な国家的行事である万国博覧会を準備つつあった時期に、装飾家たちの代表者に向かって、美術と工芸との間にどんな違いがあるのかと尋ねたそうだが、工芸というのが繊維工業の発達によってもたらされる美しい布地であったり、顔料や窯の技術的な改良によって量産される陶器や磁器であったり、それらが産業的芸術と言われる製品なのだろうし、その延長上で首都の街角や広場を飾る建築物や彫像はどうなのか、オペラよりも大衆に人気があるオペレッタはどうなのか、ジャーナリズムの発達と普通教育の普及に伴う読者層の拡大が支える新聞小説はどうなのか、肖像画と写真の間にどのような違いがあるのかとか、十九世紀の当時の大衆市民社会ではオペレッタや新聞小説や肖像写真などがシミュラークルとして機能していたのだろうが、要するに本物が良くて偽物が悪いという良し悪しの基準ではなく、経済的に大勢の人々の消費の対象となって、より多くの人々から支持される限りで、それが偽物だろうがまがい物だろうが粗悪品だろうが、その存在が正当化されるわけで、そういう意味ではトランプや安倍晋三はシミュラークルとして社会の中で機能しているのだろうが、山本太郎やれいわとなると、全面的には機能が不十分だが、左翼やリベラル界隈ではある程度の支持を獲得していると言えるだろうし、また参政党や保守党なども右翼や保守界隈ではある程度の支持を獲得していると言える程度の機能の仕方なのだろうが、彼らが総じて本物ではなくシミュラークルだと言える理由や根拠が何なのかというと、大衆市民社会からの支持を当てにしているところが、定義としてはシミュラークルに該当するとしても、しかし本物といってもナポレオン三世に対応するナポレオン一世的な存在が何なのかというところが、よくわからないだろうし、トランプや安倍晋三に対してはヒトラーが思い浮かぶが、ヒトラーにしても大衆市民社会が生み出したシミュラークルの中の一人に過ぎないだろうから、もちろんナポレオン一世も古代ローマの皇帝を念頭に置いて、そういう存在として振る舞いたかったわけだから、元祖シミュラークルといえるかどうかも怪しいが、オリジナルがないことがシミュラークルである証しだと考えるなら、そんな存在に対して元祖を想定してしまうこと自体が間違っていそうで、何か雰囲気として怪しい感じがするなら、まさに山本太郎がシミュラークルとしては安倍晋三以上に怪しいわけで、参政党や保守党などに関わっている怪しい人物たちよりは群を抜いて怪しいような感じがしてしまうから、現状では安倍晋三亡き後日本を代表するシミュラークル的な存在としては山本太郎が思い浮かぶわけだが、アメリカではそれがトランプだとしても、どうしても山本太郎を国民的な存在にはさせないような意向が働いているとしたら、日本の大衆市民社会がそうさせていると認識せざるを得ないのだが、現状でメディアが推しているのが小泉進次郎なのかも知れないが、その素質がないわけではなく、ナポレオン三世にしても若い頃のやらかし事件によって愚か者のレッテルを貼られていたのに、後に大統領から皇帝へと変貌を遂げたのだから、ヒトラーにしてもミュンヘン一揆の首謀者として逮捕されて世に悪名を轟かせたからこそ、独裁者へと成り上がれたのだろうし、安倍晋三にしても家庭教師からは救いようのない馬鹿だと思われていたらしいし、父の小泉純一郎に至ってはレイプ事件を起こして揉み消されたと噂されているし、小泉進次郎が馬鹿だ馬鹿だと散々メディア上で貶されていたエピソードが、逆にそれが近い将来の日本を代表するシミュラークル的な存在への足がかりとなるようなことなのかも知れず、そういえばトランプも売春婦に口止め料を払っていたことが発覚して有罪判決を受けてもなお大統領へ返り咲いたわけだから、その種の存在をリベラルメディアなどが批判すればするほどそうなってしまうような成り行きに大衆市民社会が囚われているのかも知れず、それに対して山本太郎にはあまりにもその種のダーティな噂がないから、怪しい存在ではあるのだが、さすがに今のままでは日本を代表するようなシミュラークル的な存在へは至らないような気がしてしまうのだが、もしかしたらオリジナルなき存在としてのシミュラークルを超えた真の何かへとなってしまったら、その時にはまたシミュラークルとは違うより肯定的な概念も発明されるのではないか。
6月28日「梯子を外される感覚」
わざと関心がないようなつまらないことについて語るわけにも行かないし、自分が関心を持ったことについて語るのが、普通に考えられる語り手の必然的な態度だと想像したくなるが、語るのではないとしたら何なのかというと、なぜそれを語らないのかも理解できないし、何を語るべきなのかもよくわからないまま、不意に思い浮かぶのが、例えば語ると述べるは同じ意味のように感じられるが、さらに類似する表現として話すという動作もあるが、どうもそうはならないような予感がするのは、それについては語ることも述べることも話すこともできないわけではないにしても、誰が語るのでも述べるのでも話すのでもないようなことを記すことになるわけでもないのだが、何かを述べている主体が述べている途中で梯子を外される事態が発生すると、それがどういう事態なのかも、うまく想像できないのだが、いったい誰が梯子を外すのかも、誰が外すわけでもなく、そんな主体など元からいなかったのかも知れないし、それ以前に何かを述べている誰かが、梯子をかけてどんどん上へと登っていく光景など意味不明だし、それがどういう比喩として語られているのかも、その場の経緯や事情が今ひとつ把握できないのだが、そういう意味でも何か拍子抜けするようなことが起こっているから、何かそれが梯子を外されたような感覚に囚われてしまい、それがどういう事態なのかもよくわからないままにここまで語ってきて、エゴイズムに支配された集団による精神攻撃に晒されているような気もしないではなく、それによって語る気が失せるような感じになってきて、それについて調子に乗って述べていた自分が、何か梯子を外されたような気分になったから、そこから先の内容を語るのを断念してしまったような中途半端な事態に陥っているのかも知れないが、そのエゴイズムに支配された集団による精神攻撃の主体となっている人々の言動というのも、それをエゴイズムだとは思わないからそれを精神攻撃だとも思わないわけだが、その種のエゴイズムを肯定的に捉えるなら、具体的に何がそうなのかというと、例えば自分ではなく日本という固有名を用いて自身の願望を語るとか、それが自身のエゴイズムであることを隠すために日本という言葉を使っている自覚がない人が世の中には数多く存在していて、よく言われる〇〇第一主義の〇〇に日本が当てはまったりアメリカが当てはまってしまうと、それが何となくそういう人々の願望が何に起因しているのかがよくわかってしまうのだが、果たしてそれが国家的民族的宗教的な願望以外の何に起因しているのかが、その自覚がない人には今ひとつよくわからないのかも知れず、自然に自己の内面から湧き上がってくる願望がそうではないとしたら、その種のアイデンティティやコンセンサスを拒否するような自分特有のエゴイズムだと思うわけでもないだろうし、むしろ自分だけではなく他の多くの人々と共有できる願望の方が、しかもそれが他の集団と争える口実となるような願望の方が好ましく感じられるなら、それが現実逃避的な幻想にも利用されることになるだろうし、そういうところでうまく不満のガス抜き的な効果を生じさせることができるなら、願ってもない争いの機会をもたらして、それに伴って何かが行われているような感じにもなってきて、そんなふうにして行われていることが、今行われている政府間交渉のような見せかけの駆け引きとなっているなら、何かそれが馬鹿げたことのようにも感じられて、それが現実から人々の目を背けさせるためのごまかしだと思ってしまうと、そんな見せかけの三文芝居には騙されるなと警鐘を鳴らしたくなるのだろうが、実際にメディアを介してそんな見え透いた警鐘を鳴らしている人々を信用できないとしたら、その種の解説動画の途中で見るのをやめてしまうことにもなりかねないが、果たしてそれが社会主義者の意図的な戦略に引っかかっている証拠なのかと疑心暗鬼に陥ってしまうようなら、〇〇の深みにハマらずに半信半疑のままにとどまっていることになり、その〇〇が何なのかがわからないままになっていれば、そうなることを回避していると言えるのかも知れないが、何らかの周知の固有名や概念などが〇〇に当てはまってしまうと、その固有名や概念などがそこで思考停止するための格好の口実になってしまい、それを理由にして意識高い系の人々から軽く扱われて馬鹿にされることにもなるから、そういう人々を仮想敵にして〇〇を守ることを合言葉にして一致団結しているつもりになれる人々が、社会の障害物のような存在となって、そんな障害物を社会から取り除くことを目指す人々との間で争いや戦いが起こっているような幻想ももたらしているのだろうが、そういうややこしくも面倒な幻想を信じられるかというと、どうもそこでも〇〇の深みにハマらないことが求められているような気もするわけだが、求めている対象となる人や集団や存在も今ひとつよくわからないから、誰がそうなることを求めているわけでもないような気もするから、それも気のせいだと思ってしまうと身も蓋もないことになってしまうのだが、気にしないことが精神衛生上は一番良いのだろうが、向こうから気にするように絶えず仕向けてくるわけだから、そういう仕掛けも面倒でややこしい罠には違いないわけだが、誰がそんな面倒でややこしい罠を仕掛けてくるのかといっても、それも誰が仕掛けているわけでもない罠にハマって〇〇を守るために一致団結しているつもりになれるかというと、そうなっている人々の行為や行動や言動がメディアでも日々延々と問題視されているのだから、そんな問題視されている人々や勢力などが罠を仕掛けていると物事を単純化して捉えてしまうと、逆にそれが罠にハマっている証拠となってしまうから、そんな〇〇の深みにハマらないように心がけているなら、できればそういう単純化は避けたいところなのだが、少なくともそこで争われている見せかけの戦い自体が誘惑の罠を形成していて、それにハマらないようにするには、その全てを回避するのではなく、少しだけ罠にハマりかけている状態にとどまっていることが肝要で、その全てを拒否する姿勢をとってしまうと、すでにそれが戦闘態勢だと見られてしまうから、逆に自ら〇〇の深みへと積極的にハマろうとしていることになって、その気になって調子に乗って争いや戦いの前面に躍り出ていることにもなると共に、何やらボランティアで政治家の選挙ポスター貼りなどの軽作業を手伝わされる羽目にも陥ってしまいそうで、そうなればなったでその程度で済んでいることにもなるから、別に〇〇の深みにハマらずに済んでいると情勢を捉えてみても良さそうだが、本当にそれで済むのかどうかもその時点では何とも言えないことでもありそうで、そこにとどまれないこともわかってしまうと、そういう理解に達してしまった人々が〇〇の深みにハマっていると言えるのかも知れない。
6月27日「強気な評価?」
それが何の評価であっても、強気な評価なら今が今ひとつでもこれから良くなる可能性があるから強気な評価を下すのだろうが、そんな強気な評価も乱発されると評価自体の信用も低下しそうで、現状では強気な評価がインフレしているらしく、強気な評価を乱発するアナリストも信用できないが、そんな評価を利用して何かをやりたいユーザーが強気な評価を求めているのだろうから、ユーザーの求めに応じてアナリストが強気な評価を乱発して評価自体の信用が低下しているように感じられるが、だから何だというわけではなく、何でもないことについて述べているわけでもないらしく、そんな強気な評価を信用すること自体が間違っているわけでもないだろうし、その一方で弱気な評価も中立な評価も評価として一応はあるわけだから、気休め程度に強気な評価を信じていれば良さそうで、しかも他人の評価を信じるよりも、最終的な判断は自己責任で下すしかないと思っていれば、気休めでも何でも構わないから、数ある判断材料の一つとして強気な評価も参考にすればいいだけで、そういう意味では他人の評価も気にしながら自分で判断すればいいことでしかないが、いったい何を判断するのかというと、買うか売るかの判断とか、他にも貸すとか借りるとか投票するとかしないとか、自分で何らかの行動を起こす際の判断材料となる何かがあるらしいのだが、それが制度的な判断であれば、社会の中で機能している何らかの制度を利用してできることをやるかやらないかの判断材料がメディアから提供されているわけだが、そんなメディアを信用してそのメディアが肯定的に評価しているなら、そんな評価に沿った行為や行動となるだろうし、また肯定的に評価されている人を支持したり、選挙の際には肯定的に評価されている人や政党に投票したりするわけで、もちろんメディアも複数あって、メディア上でも色々な人が色々な立場から評価を下しているなら、全てのメディアで同じように肯定的に評価されているわけでもなければ、メディアによって肯定否定の評価が分かれていたり、意図的にバイアスがかかって評価が偏向しているようにも感じられる評価もあるわけだから、全てにおいてメディアの意向に従って何をやるわけでもなければ、場合によってはメディアの意向に逆らって何かをやったりやらなかったりすることもありそうだが、強気でも弱気でも中立でも評価を下す側でも自身が下す評価をより多くの人々が支持して参考になるような評価を下したいわけで、果たしてそれが公正中立な評価となるかならないかも、かえって独断と偏見を駆使して多くの人々の関心を惹くような評価を下せば自身に対する世間的な評価も高まるかも知れないから、いかに他人から興味を持たれるような評価を下すかが、アナリストとしての腕の見せどころだと思うかどうかも、何か勘違いしていそうな感じにもなりそうだが、アナリストといえども所詮は人気商売だと割り切って考えるなら、必ずしも正確かつ妥当な分析に基づいて的確かつ適切な評価を下すことばかりが求められているわけでもないとも言えるような本末転倒な成り行きにもなってきそうで、そういうところでもその種の評価や判断の中で何を重視するかで、そんな評価や判断に対する見方や考え方も変わってきそうだが、できれば人気取り目的のエンタメ的な水準ではなく、予想や予測の精度が高そうな分析や評価や判断を信用したいのだが、それもどういう基準に照らし合わせればそういう確からしさをもたらせるかも、そういうことをやった結果から評価したり判断するしかないわけだから、そうなると単純に予想や予測が当たる確率が高いと評判の人の分析や評価や判断を参考にすることになるはずだが、それも一概にはそう言えるとも限らないような気がしてくるから何とも判断がつかないところかも知れないし、その場の情勢や状況をうまくもっともらしく説明できる人の分析や評価や判断などが確かに信用できそうなのだが、それもその人の言語表現力にもよるから、言葉の扱いに慣れた人の意見や主張に惑わされてしまうような事態も想定されて、その人が語る言語表現の巧妙さというのが、人を説得する能力や騙す能力に長けていたりすると、何かちょっと待てよと躊躇するような勘が働いて、逆にその種の巧妙な語り口の言語表現能力に長けた人の意見や主張を信じるわけには行かなくなってしまって、そういうところで人たらし的な人物の口車に乗ってひどい目に遭った経験が少しでもあるなら、それなりに勘が働きそうなのだが、それ以外でもそもそもがアナリストの述べていることを信じるか信じないかの判断以前に、自分で直接分析や評価や判断をすればいいわけで、最近ではAIによる分析や評価や判断を信じてもいいだろうが、そのAIが誰に対しても同じような分析や評価や判断の結果を示してくれるかどうかも怪しいような気もするから、それは無料か有料かによってもその精度が違うらしいし、こちらがAIに対してどういう問いかけをするかでも結果が違ってきそうで、こちらが言語的に工夫を凝らしてAIが適切な答えを出せるように問い自体を調整しなければ行けないような成り行きにもなってくれば、要するに総合的な言語能力が物を言うような、それも見方によっては本末転倒な事態にもなってきてしまいそうで、いったい何を求めているのか自分でもよくわかっていないことになってしまいそうだが、そうなっている時点で言葉の罠にハマっているような気もしないではないにしても、どうも最近では自分でも納得できるようなもっともらしく感じられる意見や主張など求めてはいないのではないかと考えないと話の辻褄が合わないようなことにもなっていそうで、わざと疑念や疑問を覚えるような意見や主張に注目するようにしているわけでもないのだが、昔の自分なら簡単に信じてしまうような意見や主張に遭遇すると安心してしまうと同時に、なぜ今の自分はそういうもっともらしい意見や主張には同調できないし、簡単には支持も賛同もしないのかと疑念や疑問も覚えるのだが、どうしてもその種のもっともらしさや正しさではどうにもならないような事態に直面しながら生きてきたような感じがするとしても、だからといって自分の思考や動作や行動や言動などを正当化できるようなことではなく、それらを一定の水準で一定の傾向を伴って保持しているわけでも、絶えず揺れ動いているような感じもしないではなく、かといって一貫性がないとも言い切れないような気もするから、そういうところも何ともいえないのだが、そういう意味では他人の分析や評価や判断を全く無視するわけにも行かないし、それなりの水準で信用したりしなかったりするのだが、その水準もその場の情勢や状況に応じて信用の度合いも上下するような感じもしているわけだ。
6月26日「正直者の自負」
たぶん正直者は同じような正直者から支持されているはずで、トランプを支持している人は自身が正直者だという自負があるだろうし、トランプ自身も自分が正直者だと思っているだろうし、正直者の自分を批判するリベラルな奴らは偽善と欺瞞にまみれた嘘つきな連中だと思っているかも知れないが、トランプが正直者ならプーチンもエルドアンもインドのモディ首相も正直者になるだろうし、自身の利益や名誉欲を求める欲望に正直であることと国家や民族や宗教の利益を求める正義が合致しているから、自身が正直であることを正当化できそうなのだが、果たしてその種の正直さと、そういった欲得づくの正直さとは真っ向から対立するリベラルな価値観とは相容れないものなのかというと、普通は相容れないと考えるだろうし、実際に左翼のバーニー・サンダースなどを支持する民衆がトランプ的な正直者たちと敵対している理由も何となくわかるような気がするのだが、両者の間の違いというのも、わかる人にはわかる程度ではなく、誰もがわかるはっきりとした違いや対立軸がありそうなのだが、そういうわかりやすい違いや対立軸を単純化して提示しているのが山本太郎やれいわ新選組なのかというと、彼らとも対立しているつもりの者たちや山本太郎やれいわを批判しているリベラルな政治家や識者なら、自分たちと彼らとの違いや対立軸をはっきりと提示できるかというと、そうなると何となくわかりにくくなってきてしまいそうだが、日本では消費税と積極財政というわかりやすい批判材料があるから、消費税を廃止した場合の財源や積極財政政策によって国債を大量に発行した場合の国家財政のヤバさを理由にして山本太郎やれいわを批判できるだろうが、もっと根本的なところで資本主義に対して社会主義や共産主義を対峙させる従来の価値観の対立という観点から、何か言えるようなことがあるかというと、そんな対立軸などはとうの昔に白黒がはっきりついていて、社会主義や共産主義が資本主義に敗れて葬り去られた後の時代に現代が含まれていると認識するなら、果たして本当にそうなのかというと、たぶんそういうイデオロギー的な対立自体が現代では無効なのかも知れず、そうではないとしたら何が実際に対立軸を形成しているのかというと、実際に戦争が行われているところでは国家的・民族的・宗教的な対立軸が顕在化しているとしても、平和になってしまうとその種の対立軸がなくなってしまうから、永久に戦争が継続される必要性が生じているのかというと、ただ単にそれを人権侵害の水準に単純化できるなら、その種の国家的・民族的・宗教的な価値観が人権侵害を助長しているから、そういった人権侵害をやめさせようとするリベラル勢力と人権侵害を容認する保守派との間で対立が顕在化していると言えるかも知れないし、もちろんそこに資本主義市場経済も絡んできて、貧しい者たちの人権が軽んじられているから、政治を利用して貧富の格差を是正しなければならないような目標も生じてくるわけだが、それが資本主義市場経済の中では達成困難な目標でもあるわけで、達成が困難だからこそ、社会主義や共産主義などのすでに廃れてしまった昔のイデオロギーが持ち出されてくるのかというと、そうとも言い切れないのだが、それを部分的に限定するような価値観として日本では消費税の廃止や積極財政が持ち出されている場合もあって、積極財政については保守派の方でも持ち出されていて、そこから政府による国債の発行に関する幻想も、減税への期待と相俟って幻想されている現状もありそうで、もちろんそれらの中で都合の良い面だけが強調される一方で、都合の悪い面が無視されているわけで、何とかしてそんな都合の悪い面を強調する政治家や識者などをSNSを利用したネガティブ・キャンペーンによって退けようともしているわけだが、どちらかというと都合の悪い面を強調する政治家や識者などが日本ではリベラル勢力に属しているから、そういうところもこんがらがっていて、欧米の左派やリベラル勢力からMMTなどの積極財政派が生じてきたのに、その都合の良いところだけを換骨奪胎して保守派に利用されている面もあって、そういうところがわかりにくいし、一部では誤解を生んでいる可能性もありそうなのだが、要するに積極財政によって減税の恩恵を受けるのが、どちらかと言えば保守派の味方をする富裕層であることが、積極財政派にとっては一般の富裕層ではない多数派の民衆から支持を得ようとする際にはネックになってくるはずなのだが、そもそもそういう思考の水準で物事を考えているだけでは埒が明かないことに多くの人々が気づいていないかというと、気づいていないのではなく理解できないわけで、それを歴史的な経緯から説明しようとするなら、産業革命によって労働者階級が生まれてきて、労働者階級が社会の中で多数派を構成するようなったから、労働者を人間扱いするための人権思想も生まれてきて、それに起因して社会主義や共産主義などの政治的なイデオロギーも出現したわけで、それが前世紀末から始まったIT革命を経て今世紀のAI革命へと事態が進展して行くに従って、まさか労働者階級そのものがなくなるなんて誰も思っていないはずで、実際にもまだ労働者階級が社会の中で多数派を占めていると多くの人々が思っているはずだが、その一方で少子高齢化による労働力不足に対応するために、保守派が移民の流入を制限する一方で、AI革命を担う企業が新たな労働力として人型ロボットを売り出そうとしているわけだから、果たして今後労働力の担い手が労働者から人型ロボットに置き換わるなんて、それも今のところはSF的な妄想の域を出ない話にとどまるものの、それもそもそもが産業革命によって世の中に労働者が大量に湧いて出た時期や期間がどれほどの時間感覚でそうなったのかも、百年単位よりも短い期間でほんの数十年の間に世の中が一変するようなことになったのかというと、今となってはよくわからないのだが、果たしてこれから数十年の間に世の中が一変するようなことになっても、その中で生きている人々は案外何とも感じないのかも知れないし、すでに日本でもIT革命の時期を失われた三十年や就職氷河期などと形容して誤解している者たちも結構な数に上っているようで、保守派の中にも産業革命もIT革命もAI革命も全て無視して日本の伝統に固執する態度を保とうとしている気でいるらしく、もちろんそこで妄想されている日本の伝統自体も、そういうことを妄想している人々にとっての都合の良いフィクションに過ぎないし、最近話題となっている選択的夫婦別姓に反対する理由にしても、それが日本の伝統などではなく東洋の儒教思想と西洋の猿真似が頭の中でこんがらがっているに過ぎないことかも知れないが、そこでも正直者であるなら、〇〇正直に反人権的な価値観に固執するしかないわけだから、人の心身の自由を奪う国家や民族や宗教から生じてくる束縛的で慣習的な価値観として捏造された伝統を守るしかないわけだ。
6月25日「予言が外れることを予言する」
感覚としてはそういう言い方では嫌な感じがするのだが、そうなってしまっても構わないような気がするのだから、そうなったところでそういうことだと思っておけばいいことでしかないが、これからどういうことになるのかというと、ちょっと前から世間で話題となっている有名な予言が外れるのかも知れないし、外れたからといって、それが一過性の話題となるかも知れないし、何かが起こると予言された日時が過ぎても何も起こらなければ、次第に忘れられてしまうだろうが、そんなふうにして本当に予言が外れるのかというと、実際にはそうではなく、何かメディアで話題となるような大変なことが起こった後から、それが事前に起こると予言されていたことが話題となるわけだから、予言が外れるはずがないと思っておいても構わないが、要するに予言が当たったことが話題となるわけで、予言が外れたことはあまり話題とはならないだろうし、だから予言が外れると予言したところで、それが話題となることはないと予言しておけば、結果的に予言が外れるという予言が当たったことになってみても、またそんな予言が外れるという予言が話題となることはないと予言してみても、実際にそんな予言が当たっても確かに話題となることはなく、予言が外れると予言してみても、予言が外れても大して話題とはならないと予言してみても、さらに何か大変なことが起これば、それが起こることが予言されていたと話題となると予言してみても、そんなことを予言すること自体に意味はないと思われるが、何となく気まぐれにこんなごちゃごちゃしたことを述べてみたくなっただけで、何か切実な事情があってこんなことを述べているわけでもないのだから、大したことを述べているわけでもなく、これ見よがしにこんなことを述べてみたところで大したことだとも思えないが、では何なのかというと、何かが起こった後から後出しじゃんけんのようにして、それについて正しい意見や主張や見解を述べているのを真に受けるのは、結果的にそうなるのは当然のことだとしても、いったいそれ以外にどんな述べ方ができるのかと問う必要も感じられないなら、予言の有効性を信じていない証しとなるわけでもないだろうが、信じているのは予言の有効性などではなく、予言が当たることを信じたいのに、それも後出しじゃんけんのようにして当たる予言を言説的に構成するにはどうすればいいかと考えてしまうと、何か予言の醍醐味を台無しにしているような感じになってしまうから、そういう嫌な感じがする思考的な実践はやらない方がいいような気がするわけで、なぜそれをやらない方がいいような気がするのかといえば、そういうところから偽善的あるいは欺瞞的な言説が構成されるからで、そういう言説の特徴的な傾向というのが、何かが起こった後から、それが起こったことを利用して、それを批判の材料や攻撃の口実に使ったりするから、そういう嫌な使われ方をされると、起こったことを否定的に受け止めることになってしまい、それだけでは悪いわけではないが、それを起こした当事者からすれば迷惑なことかも知れず、良かれと思ってそれを起こしたわけでもないだろうが、誰が起こしたわけでもなく、単なる自然現象に過ぎなければ、誰のせいでもなさそうだが、常に出来事に対して言葉が先行するということが、それが言葉を用いてこれから起こる出来事を制御したい気持ちの表れであったり、すでに起こった出来事を都合の良いように言葉を用いて表現することによって、さらに言葉を使ってそれを表現する者が有利になるように持って行こうとしていることの表れであったりするから、その種の言語表現者の思惑通りに事が運んではまずいような気がするわけで、だからその種の偽善や欺瞞の体現者を裏切るようなことが起こったり、その裏をかくようなことが起こってほしいと願うことも、これから起こる出来事を事前に都合の良いように制御したい意図の表れであったり、すでに起こった出来事を自身の都合の良いように受け止めることになってしまうのだが、そういう言語的なまやかしやごまかしをいかにして避けて、自分の都合とは別に感じ取れるかが、自分が直面したり体験した出来事をそのままの形で都合の良い言葉を使用した変形も歪曲もなくニュートラルな態度で受け止められるかにかかってくるような気もするわけだが、そんなのはそもそも無理なのかも知れないし、それを言葉で表現すること自体が、そういう我田引水的な作用を伴うことになってしまうから、そういう作用を割り引いて自身や他人の言葉を受け止めなければならないと考えること自体が不可能なことなのかも知れず、そう考えるなら、誰かが何かを予言したことが話題となっているなら、すでにそうなっている時点で、その予言した誰かが世間的にもメディア的にも有利な状況がもたらされていると考えておいても構わないが、果たして予言者が自身の立場が有利となるように予言しているのかというと、世の多くの人々から関心を集めたくて予言しているなら、売名行為を目的として予言していることになりそうだが、果たしてそんな予言で構わないのかというと、それも予言内容にもよるだろうが、真の予言者はそうではないと感じるなら、そう感じている人は予言者と預言者の区別がついていないことになるかというと、果たして真の予言者とは預言者なのかというと、それも予言していたり預言している内容にもよるだろうが、もちろん神の預言がこれから起こることを予言しているのであれば予言と預言が一致するわけだが、予言者であっても預言者であっても、結果的に売名行為となるような言語表現や言説内容を含んでいることも確かだろうし、どちらも世間的に有名にならないとその存在が真の存在とはなり得ないわけで、無名の存在である限りで予言者とも預言者とも世間的にもメディア的にも認識されないわけだが、そうだとすれば彼らの売名行為を否定的に捉えるのもちょっと違うような気がするわけで、自身の存在が世間的にもメディア的にも有名にならないと、自身の予言や預言の言葉が広く世の中に行き渡らないわけだから、たとえ売名行為自体が目的化しているとしても、予言内容や神の言葉を多くの人々に伝えるための手段としての売名行為ではあるわけで、そういう意味では言説内容を優先させるかそれを伝える自身の存在価値を高めるかの二者択一というよりは、相乗効果となるように両方共に優先させる必要がありそうで、そんな予言や預言の言葉を駆使して言説を構成する者の述べている内容がもっともらしく感じられて信用できるなら、その種の言説によって洗脳されているなんて思わない方が無難なような気もするが、人それぞれで思っていることや考えていることが違っても構わないだろうから、他人の思いや考えに同調できなくてもそれを支持できなくても構わないようなことなのかも知れない。
6月24日「今後への期待」
大したことはない反応として、大したことは何もできないわけではないが、大したことをやってしまうと後戻りができなくなるから、大したことはやらずに済ませることが肝要だと受け止めているわけでもないだろうが、兆候としてはそんな感じなのかも知れず、世界を壊さない程度の破壊行為が求められていると現状を捉えるのは、それが矛盾しているとも思えないが、その程度の攻撃では世界を壊すことなどできはしないと思えるようなことなのだから、そんなことは攻撃する前からわかっているわけで、ともかくやっていることが破綻しないようにするには力の加減を調整しなければならないから、攻撃相手を破綻させることを目指しているわけではないのだとしたら、では何のための攻撃なのかといえば、体面を保つためには攻撃せざるを得ない程度の攻撃で済ませられるなら、攻撃が成功した証しだと言えるのかも知れず、それでは本気で攻撃しているわけではないのではないかと疑念を抱かれるにしても、それで済んでしまうことが攻撃の成功を印象づけることになり、そうなればひとまず攻撃が成功したと言えるのかも知れないし、そういう意味ではうまく行ったことにしておきたいのだろうが、そんな世界を破綻させない配慮が滲み出るようなことをやっておけば、その場をうまく収めたことになるらしいと認識できるなら、何となくそういうことの延長上で事態が推移しているらしいとも受け止められて、そうやってかろうじて世界の破綻を回避できたことの証しとして、現状が維持されていることを実感するに至るわけだが、果たしてそうまでして現状を維持する必要があるのかないのか部外者や傍観者には判断がつかないところだが、当事者としてはそれでうまく立ち回ったことになるのかも知れず、実際に何事もなく平穏無事に状況が推移しているなら、そういうことだと事態を受け止めたいわけで、それが世界の変革を目指さない態度だと言えるかも知れないが、それでは物足りないなら、それが贅沢な悩みだと言えないこともないが、何を悩んでいるのかといえば、誰も世界の変革を望んでいないことに愕然とするわけでもなく、世界の変革が始まってしまうと、それが誰にとってもまずいことになりそうで、変革された世界では誰も今まで通りには振る舞えないかも知れないから、それを恐れるなら変革を望まないのも頷けるのだが、実際にそういうことなのかというと、そもそもが大したことでもないのだから、程度としてそれほどの深刻さは感じられない程度のことであって、その程度の攻撃では世界の変革などもたらせないことも事前にわかっているから、あまり事を荒立てないように振る舞う方が得策で、逆に事を荒立てる気が満々に見えてしまう勢力は多数派からは敬遠されがちになってしまうのかも知れず、何かそれが身の程知らずに見えてしまうなら、大したこともないのにそれを大げさに見せかけているに過ぎず、そういう見かけ倒しで中身が空っぽな大げさな仕掛けを多くの人々から見透かされているわけで、もちろんそれを見透かしたつもりになっている人々も大したことはないわけだが、ただの一般人の範疇からそう見ているに過ぎないわけだから、その程度のことであって、見かけ倒しの大げさな仕掛けでは誰も騙せないし、その方がかえっておかしな勘違いなど生じないから都合が良いわけで、そうなっている時点で下手なごまかしやまやかしも通用していないと見ておいても構わないわけだが、それが通用していないのだから、ある意味で健全な世の中になっているわけで、それをかつての芸能人などの中間搾取階級が絶滅しつつある最中だと誤解してみたところで、それも単なるテレビメディアの衰退を象徴しているに過ぎず、そんなことでさえも大したことではないと事態を軽視するなら、果たしてそれらの大したことではない成り行き以外にどんな成り行きが世間で知られているかというと、もしかしたらこの世界ではそれら以外には何も起こっていないのではないかと疑念を抱くなら、それもそうであっても構わないようなことかも知れず、少なくとも現状の世界では漫画的な登場人物にも映画的な登場人物にも小説的な登場人物にもテレビドラマ的な登場人物にも、フィクション以外では巡り会えない世界で誰もが生きているわけだから、それなりに現実と虚構の区別がついているし、その落差も感じ取れるような具合になっているわけだから、そういうレベルで幻想を抱く必要はないし、幻想を抱いている人も全くいないとは言い切れないにしても、どちらかというと大したことはない暮らしの中で誰もが正気を保っていられる限りで、ことさらに自分が暗殺の危険に晒されているような重要人物でもない限りは、大したことは何もやっていなくても構わないし、実際にそうなっているのだから、そうなっている自身も含めて他人からそれを馬鹿にされるようなことでもないとは思うが、その一方でそういう何でもない生活が破綻してしまう人もそれなりに生じてくるわけだから、それを政治によって何とかしたいと思ったところで、それが何とかなるようなことでもないとわかってしまうと、何かまずいような感じになってしまうから、そうなってしまうのを回避するために、日々の糧を得るために活動していると現状を捉えてみても、そう現状を捉えるのも何となく納得し難いとしたら、では何のために生きているのかと自らに問うような成り行きにもなり難いなら、それも大したことではないわけで、そういうことの延長上でどう捉えてみても、著名なテレビタレントがコンプライアンス違反で無期限の謹慎処分となったところで、そんなのは大したことではないのは、関係者以外の人たちにとってはそう感じるしかないようなことであって、そういうメディア的な話題にしても、何か知られたくないことを隠しているのが見え見えの不可解な会見を開くから興味が湧くだけで、それがイスラエルとアメリカによる大規模な武力攻撃によってもイランで非民主的な圧政の元凶となっている宗教指導者の権力基盤が今も揺るぎないこととはレベルも次元も違う話題なのだが、どちらがより重要でどちらが取るに足らない些細な世間話程度の話題なのかも誰もが判断がつかないわけではなく、それとこれとは全くの別問題なのもわかりきったことなのだが、どちらとも大して関わり合いのないような暮らしの中で生きていると言えるかどうかも、何となく微妙にそうではないような気もしないではないのだが、たぶんそれがかつて傘がないと歌っていた著名なフォークシンガーと同じ心境なのかというと、なぜかそれが自分に関してなら、十数年間使ってきたエアコンが壊れて買い替えを検討している程度の心境なのかも知れず、ここ数日の蒸し暑さで死にそうでもすぐには死なないこともわかりきっている中で、果たして明日エアコンの設置業者がきて見積もり金額が折り合えば新しいエアコンを買うことになるのかどうかも、そうはすんなりとはならない代わりに、またしてもいつものようにこんがらがったややこしい事態になるのではないかと心配になってきてしまう心境なわけだ。
6月23日「政治と経済と軍事の関係」
それが確信に至るようなことではないとしても、何か否定的な傾向を伴いながらも何となくそう思われるようなこととして、政治と経済が密接に結びついて社会の中で機能しているから、政治によって経済をどうにかしてほしいと期待されるのだろうが、その一方で政治に対して多くを望まないなら、過大な期待とはならない程度でもささやかな願いとして実現してほしいことがありそうで、それが社会のルールや仕組みを変えてほしいと望まれることで、何か法整備や法改正をして社会の実情に合わない法的な不具合を解消してほしいわけだが、それが最近の日本では選択的夫婦別姓の制度にしてほしいという要望に結びついているとしても、そういった法改正を阻んでいる政治勢力もいるからややこしいことになっている一方で、それとこれが一見結びついていないように感じられるのが、政治によって経済をどうにかしてほしいと一部では勝手に期待されていたことが無理なんじゃないかと思われ始めているから、そちらの方面でもこれからややこしいことになりそうだが、政治的な実践が果たして経済を立ち直らせるような成果を得られるかどうかも、そんな幻想がどこから生じてくるのかというと、部分的に都合の良いように考えると、そういうことができるかのような幻想を抱けるのに対して、全体としては無理な面があって、政治と経済が相互に影響を及ぼし合って有効な作用を与え続けるような成り行きになるとしても、それが比喩としての舵取り程度の動作にとどまる限りにおいては、全面的な制御ではないわけで、強権発動によって強引なことをやれば、かえって経済がおかしくなってしまうから、政治家が口で言うほどにはうまくは行かないわけだが、もちろんそれに対して批判する側も口で言うほどには大した影響も及ぼせないわけで、それを口で言ったり文章の中で述べている内容とはレベルの違うところで実際の経済活動が行われているから、すぐにはそれと気づけないギャップが生じていて、経済活動の全てを言葉にして言い表せるようなことにはなり得ないし、そもそもが言い表すことと経済活動は違うレベルで行われていることなのだが、それとこれとを言説的に結びつけてみても、ただ単にそれに関する言説の中で表現していることであって、しかも部分的にとどまっている限りで、その全てを言い表しているわけでもなく、実際に行われている経済活動はそれとは違うのだが、政府の間違った経済政策によって経済がおかしくなったという批判は、確かに部分的にはもっともらしく感じられるのだが、政治によって経済がおかしくなったという成り行き自体はそうではなく、ただ単に経済状態を政治によってどうにか改善しようとして、あれこれと経済政策を打ち出したのだが、思うようには行かないと受け止められるようなことでしかなく、果たしてそれを単純に政治のせいにできるかというと、それも口で言ったり文章を構成して批判するにはそれでも構わないのだろうが、そういう批判が正しいと思われても、経済の実態としてはそういうことではなく、ただ単に政治的な働きかけだけでは思うような結果や成果には結びつかないと見るべきなのかも知れず、そんな批判ばかりやっている政治勢力を支持したければ支持していればいいだろうし、支持したからといってそれが直接には経済情勢の改善に結びつきそうもないのもわかりきったことだが、政治が悪いから経済が悪いなんて単純に言えるようなことではなく、政治と経済が同等の力関係でダイレクトに結びついているわけではなく、種類も傾向も違う二つの概念を強引に並べているだけで、そういう言説的なまやかしに惑わされてしまうと、そういう言説を信じる度合いに応じて勘違いの度合いも強まるだけで、実態がそういうことではない程度のことは誰でも気づくだろうが、そこから先の実践的な活動の中でどんな政治的な働きかけをやればいいのかというと、それも現状の世界で政治的な働きかけとして行われていることを実践するしかないわけだが、それが必ずしもうまく行っているわけでもないことも、誰もが気づくことではあるわけで、実際にも山本太郎が口先で言っているレベルとは違うレベルで、トランプが強引に輸入品に高関税をかけて世界経済を一時的な混乱に陥れてみたが、今後においてもそんなやり方が経済にどのような影響を及ぼすとしても、そういう政治的な働きかけとは違うレベルで、世界経済が変質を被ると考えるなら、何によって変質を被るのかといえば、それも誰もがAI革命によって変質を被ると考えているだろうから、それとこれとも程度や傾向の違う作用や影響となって、実際に世界経済の変動要因として、経済について考察する人にとってはどちらも重要なパラメーターとして認識されるはずだが、他にも地政学的な要因とか地理的な要因とか、様々な変動要因としてのパラメーターがある中でも、国家間の経済覇権争いという分野では、さすがに政治情勢が重要となってくるわけだが、そこでも政治的な働きかけとしてどうにかできる部分とできない部分とがありそうで、それがトランプのやり方ではどうにもできない部分となりそうで、それがポピュリズム的な煽り立ての限界でもあり、しかもそれが山本太郎のポピュリズム的な煽り立てにも言えそうなことなのだが、ネタニヤフはうまくトランプを利用してイスラエルのパレスチナでの地域的な覇権を確立しようとしているつもりなのだが、トランプもそれを後押ししているつもりなのだろうが、彼らの意図していないところでそれが頓挫するとも思えないのだが、頓挫するどころか軍事作戦によって短期的にはイスラエルの地域的な覇権が盤石になると予想してみても構わないのだが、それも軍事的に優位な状況ではそうなると言える程度の状況認識なのかも知れず、たぶんその軍事的に優位な状況というのが長期的には致命的で深刻な事態をもたらすわけで、それもアメリカに批判的な勢力ならアメリカの国家的な覇権が遠からず破綻するはずだと予言したい意図と一致して、現状でのイスラエルの軍事的な優位が仇となって、イスラエルの国家的な滅亡の原因となることもアメリカの没落のついでに予言したくなるはずだが、そういう結びつけも短絡的であって、国家的な覇権が軍事的な覇権と経済的な覇権と一致すると思い込む幻想と結びついていることに気づいていないわけだが、それらを何とかして強引に幻想を抱いている自身の言説の中で結びつけようとしているわけではなく、実際にも政治と経済と軍事が密接に結びつくことによって国家的な覇権が幻想されるわけだから、それがとりもなおさずトランプが抱いている幻想でもあるわけで、もしかしたらそういう物語的なフィクションに頭の中を支配されているのがトランプの精神的な欠点でも欠陥でも長所でも利点でも他の何かでもあるのかも知れない。
6月22日「真意を明らかにすること」
それに関して何かわかっていないことがあるからといって、それが信用できない面でもあるのだが、たとえ信用していなくても関わっている程度に応じて、それに対して疑念を抱きながらも、そういう成り行きの中で物事を考えていて、それが悪どい企みを伴ってやっていることであっても、善良そうに見える多数の一般市民を騙していると思われても、そういうことをやっている当事者になってしまうと、それがどのような程度であっても、それなりの程度で自身のやっていることを正当化せずにはいられないだろうし、そういうことをやれる成り行きに囚われながらやっていることであれば、自身の力を超える何かに操られながらやっていると自覚していなくても、それが操られている感覚ではなく、単純に制度に従いながらやっている感覚であっても、そこに関わっている他の者たちも守っている共通のルールに従いながら活動している限りは、しかもルールに従っているように見せかけているだけであっても、他も者たちもそんなふうに装っているだけなのをわかっていながらも、そういう勢力の一員になっている限りで大目に見てもらえるのがわかっているから、それが功利的な損得勘定からそういう勢力の一員になっているのが見え見えなのがわかりきっているのに、上辺だけはきれいごとを言っていられるのだから、そういう範囲内ではきれいごとが成り立っているわけで、それが建前できれいごとを言っていることになるわけだから、本音の部分ではそうではないことが推測されてしまうわけで、もちろん推測できても確証があるわけではないのだから、表向きに言われているきれいごと水準で事態が進行中であることを信じているように装っていて、それが上辺だけの演技であることにも気づいているはずなのだが、それに気づいていながら上辺だけの演技をやめようとしないのだから、本音で語っていないこともわかりきっていて、そこで通用している人と人とのコミュニケーション自体が演技でしかないことも百も承知で上辺だけの会話に加わっているのだから、普通に考えてストレスが溜まるはずだが、お笑い芸人やテレビタレントなどが仕掛ける本音でガチンコトークという見せかけの演技が何を意味しているのかも十分に理解しているはずなのだが、その場の空気が多くの人々をそこに拘束して、なかなかその場から立ち去れないようにしていることにも気づいていながら、何となくその場が醸し出す人々の一体感を損なわないように配慮したくなってしまうわけで、それが何か違う感を強力に意識させるようなことなのかどうかもよくわからないし、人によっても立場によっても感じ方や否定や肯定の判断が異なるとも考えたくなるのだが、勘違いかも知れないが何かを掴んだつもりになれるような微妙な勘を重視するなら、それが自分だけの違和感だとも言えないような多くの人々が抱く共通の認識につながるような否定的な感触が伝わってくるから、なるほどそういうことかと思われるのかも知れないし、合点が行くようなことなのかも知れないが、そういう怪しげな感覚に従うなら、例えば今戦争中のトランプとネタニヤフとハメネイ師が同じ価値観を共有しているようにも見えてしまうのだが、だからといって自分が感じている対象がそういうレベルで行われていることに直接関係しているわけではなく、何かもっと小さくて些細などうでもいいようなことからそう思われてしまうのだから、そんなのはただの勘違いには違いないわけで、それとこれとは別のレベルで起こっていることに過ぎないわけだが、そうだとしても政府や地方自治体や比較的規模の大きな企業が抱えている組織的な官僚機構に属していれば、その中で有効に機能する限りで、嘘で塗り固められた全体主義的な組織の歯車として機能することになるから、それがその人の本音の部分を反映した活動になるわけではなく、どちらかというと建前として掲げるきれいごとを尊重しているように装いながらも、実際の動作としては真逆の結果をもたらすことになってしまうから、それでも自身の善意や善良な心を維持しようとすれば、組織的な意向とは相容れない動作や行為や行動や言動などが否応なく生じてしまうから、何となくそれが反体制的な活動になってしまい、それがロシアではナワリヌイ氏のような結末をもたらして、悲劇の英雄のような存在とはちょっと違うのだろうが、ああいうわかりやすい結末を迎えてしまうと、何かそれが物事の単純化のような、それはグレタさんにも言えることなのだろうが、日本ではもっと胡散臭い存在である山本太郎のような存在に誰もが直面しているわけだから、さらに胡散臭い存在などいくらでもいる社会の中では、普通にナワリヌイ氏やグレタさんなどのきれいごとだけで済ませられるようなことにはならないし、そういうことではないのは例えば米騒動の被害者のような存在の米農家が果たして単純な被害者なのかというと、そうではないことは百も承知で零細な米農家の味方を装わなければならないような演技をする者たちを信用できなくても、別にそういう水準で物事を考える必要も、事の善悪や良し悪しの判断を下す必要もないから、何かそこで問題がこじれていることは誰もが理解しているはずだが、もっとドラスティックに物事を考えて、米価が高騰しているなら、安い海外の米を輸入して国内で流通させればいいと普通に主張する政治家や識者が一人も現れないことが、それが誰も悪者にはなりたくないという意思表示の表れなのかどうかも含めて、そんなことはあからさまにこれ見よがしに表明するようなことでもないにしても、何か煮え切らない態度で自身の真意とは違うことを述べているように見える人が多すぎるような気がしないでもないが、他人から批判されたくないから余計に他人を批判するようなことがまかり通っているわけでもないだろうが、要するに自身が批判している対象と共犯関係にあることを隠しきれないことが日本ではあからさまに明らかになっているから、誰も善良な市民ではないことも、この際だから述べておかなければならないとも誰も思っていないだろうが、何となくそんな気がしてしまうとしたら、あまり悪ぶらなくても普通に常識人のように振る舞っていれば、悪者たちの共犯者であることも同時に明らかになってしまうような世の中なのかも知れず、そういう意味ではナワリヌイ氏やグレタさんのような役回りが通用しない社会として日本の現状があると捉えておけば、それも勘違いだとは思えないし、正しい現状認識であるはずもないが、何となくそういうことにしておきたいような気がするのだが、何かいつものように奥歯に物が挟まったような物言いになっているような気がする一方で、もっと単純な正義の味方のような役回りが必要だとも思えないし、今のところは誰もそんな役回りを演じる勇気など持ち合わせていないような気もするわけだ。
6月21日「怪しい確からしさ」
現実の世界で物事が動いていることに関して、大抵はそれが動いている理由や原因があると考えたくなってくるのだが、人の思考が理由や原因を求めているとも言えそうだが、それが例えば太陽の周りを地球や他の惑星が回っている理由や原因なら、物理的な説明によってそれらが動いていることの理由や原因が説明されて、その説明の確からしさの程度も、誰もが認めざるを得ない程度の確からしさが伴ってきそうだが、それとは違って人の意図や思惑が介在して物事が動くことに関して、それがメディア的あるいは社会的な説明や解説の中で理由や原因が求められると、少なくとも科学的な理由や原因とは確かさの程度が違うだろうし、確からしさが劣るというよりは、ただ想像を巡らせて述べているだけの憶測や推測の域を出ないような内容だと、信用できない怪しさが伴ってくることも多そうだが、憶測や推測で述べていることであっても、内容によっては信じられるような確かさが伴ってくることもありそうだから、そういう類いの確かさなら科学的・物理的・論理的・数学的な確かさなどとは質や傾向の違う確かさになってくるだろうが、それらの確かさが巧妙に組み合わさって言説的な確からしさを構成するとしても、それが確かさではなく確からしさだと感じられる限りで、怪しさも同時に感じられてくるから、何か騙されているようなごまかされているような感じもしてくるなら、人を騙すために信用させるために、科学的・物理的・論理的・数学的な確かさが持ち出されてくる場合もありそうで、しかも説明している当人が騙している自覚もごまかしている自覚もなく、説明するのに都合の良い統計的なデータを持ち出して説得力のありそうなことを訴えかけてくれば、それがプレゼンとしての出来の良さや悪さによっても説得力の程度も違ってきそうだから、そこで語られている内容自体が信じられるかどうかというよりは、語っている者の容姿や仕草や弁論術や言論術や文章作成術や、その者が専門とする分野での実績や業績にも、その者が雇っているライターやスピーチライターやコーディネーターやブレーンなどの力量や、情報を収集して活用する質や量やシステムによっても、さらに場合によってはAIなどの利用の度合いによっても、そんなことまで考慮し出したらきりがないが、その者に関わっている集団的な総合力から述べていることの確かさや確からしさが決まってくるなら、自分がそれについて何を信じているのかよくわからなくなってくると共に、自分がそれを信じていようといまいと、世間的な影響力の全くないただの一般人でしかないなら、自分以外にとってはどうでもいいようなことになってしまうだろうし、それが自分にとっては死活問題となるようなことであっても、自分とは無関係な他人にとってはどうでもいいことでしかないなら、それを信じていたりいなかったりする自分がどうなろうと、他人にとっては知ったことではなくなってしまいそうだが、果たしてそんなことの程度や度合いがここで物事の理解にどう絡んでくるかも、自分にはよくわからないだろうし、別にそんなことなど考慮に入れなくてもわからなくても、世の中で機能している制度的なシステムに乗っかって物事を理解したり認識したり良し悪しを判断していればそれで構わないようなことになってしまうと、そうであれば自分が感じている確かさや確からしさも、自分以外のその他大勢の一般大衆が感じている確かさや確からしさも、さほど変わらない程度であるはずなのだが、たぶんそれが世間で通用しているコンセンサスのような一般認識に近ければ近いほどそうなる程度も度合いも高くなってくるのだろうが、果たしてそうとは言い切れないような自分独自の認識や理解があるとすれば、それをどうやって伝えれば他人を納得させることができるのかと言えば、それも先に述べたような相対的な程度や度合いを伴って、自分と関わってくる世の中の状況や情勢に応じて自分が述べている内容もそれなりの説得力と共に確かさや確からしさやもっともらしさなどが感じられてくるのだろうから、そんなことまで気にする必要もなさそうには思われるのだが、漠然と他の誰かが述べていたり書き記されている内容に説得力があるように感じられたり、確かなことが述べられていたり書き記されていると思われたりするとしても、それが述べている者の肩書きや経歴を信用していることに気づいていないことに気づこうとしなくても構わないだろうし、何か権威ある賞を受賞した者の言うことを信用してみたり、権威ある論文掲載誌の内容を真に受けても、そう思ってしまう人々の勝手な思い込みによってそうなっているわけではなく、社会的な信用とはそういうところからしか生じてこないわけではなくても、何となくそういった権威主義に騙されているとは思わないし、騙されているのではなく、権威を信用している自身が世間的な意味で常識人であるからそうなっていると理解していなくても、暗黙の了解事項としてそうなっているわけだが、それが恥ずかしいことでもないだろうし、意識しないでそう思う限りで、その他大勢の一般大衆の意識の一部として世間の一般常識を構成しているわけだから、むしろそうなっていた方が世間的な一体感を自分の内面も共有しているわけだから、安心できるわけだが、それが怪しい確からしさなのかというと、そうだとしてもそれを迷信や偏見として退けるようなことにはならないだろうし、ここまで述べてきて肝心の何かを意図的に外して、うまく嘘をごまかしているとも思えないにしても、それでも何かを避けていることは確かであって、具体的に善悪や良し悪しを伴って判断しなければならない対象となる物事については、具体的に何を述べているわけでもなさそうに感じられるのだが、自分自身がどうしても信じられないことがあって、それをあからさまに信じられないと述べてしまえば、そこで内容が終わってしまうから、それを明らかにしないまま、その物事の周囲をぐるぐる回りながらも、それを信じられない理由や原因についてあれこれと指摘してみようとした結果、それとは全く別の方面からその信じられない物事にはかすりもしないで、何も触れずにこうしてそれとは無関係なことをだらだらと言い訳がましく無駄に述べている実態がありそうなのだが、何にしても他人を説得するには限界や制約がありそうで、それ以前に他人に向かって自分の言うことを信じてほしいと頼むような機会が巡ってくるとは思えないし、そういった方面の言語術や演技力を磨こうなんて思う成り行きにもならないような気がするのだが、その一方で他人に騙されたくも惑わされたくもないとは思うが、意識していないところで自己防衛的な本能が絶えず発動していることにも、それを意識せずに発動させる術が身についているとも思えないわけだ。
6月20日「回りくどい批判」
何かが起こった原因を他の何かのせいにするのもありふれた思考的あるいは言語的な動作だと思うなら、そこで具体的に何が起こったのかと問うならば、なぜか問う対象が間違っているのかも知れず、何が起こったのかではなく、何か悪いことが起こって、その悪いことが起こった原因を批判したいなら、例えばそれを政治のせいにするわけで、消費税が悪いとかアベノミクスが悪いとか色々と悪いことが起こった原因を批判する者が出てくるわけだが、どうもそれが違うような気がするとすれば、そんな気がする原因が何なのかと問うならば、その悪いと批判される対象となる、消費税とかアベノミクスとかが、それ単体で批判できるような対象ではなく、確かに批判することはできるのだが、それ単体で〇〇が悪いと批判してしまうと、それにまつわる一連の成り行きが単純化されてしまい、そんな批判で構わないのかというと、ポピュリズム的な煽動目的ならそれで構わないものの、たぶんそれでわかったような気になってしまうと、やはりそれが違うような気がしてしまうから、そんな違うような気がしてしまう人の意識には、その種の煽動には引っかからないように身構える抵抗感が芽生えているわけで、消費税のせいでそうなったわけでもなく、アベノミクスのせいでそうなったわけでもなく、そうなったこと自体にも、良い面も悪い面もどちらとも言えない面もどちらとも言える面もありそうな気がしてしまうから、それ自体が良し悪しの対象とはならないような感じもしてしまい、その種の批判によって根本的な何かをごまかされているような気もしてしまうから、そういう批判が世に蔓延るほどかえって疑念が深まってしまうような嫌な感触を覚えて、ならば批判の対象となっているそれらをどう捉えれば納得できるのかと問いたくなってきて、果たしてそれが問うに相応しいことなのか、思考してみれば一応の答えが出てくるにしても、それが問いに対する答えとして妥当なのかどうかも含めて、思考の対象として考察してみなければならなくなってしまうのだが、そんな考える手間をかけられない者たちが、安易に〇〇が悪いと煽り立てるポピュリズム的な煽動に引っかかってしまうと安易に状況を捉えるなら、何となくそれで構わないような現状認識に落ち着いてしまうのだが、何かそれでもごまかされているような気がするなら、もっと回りくどく複数の事例も絡めて考えてみなければならないとは思うが、思考するにも限界があるらしく、何かそうではないような、今までの解答では納得できないような画期的な解答を導き出そうとはしない方が、それが画期的かどうかもよくわからないようなことになってしまいそうだが、あまりにもわかりやすい問いには答えないように心がけた方が良さそうに感じられる一方で、わかりやすい問題提起を仕掛けてくる輩にも警戒しておいた良さそうにも感じられるから、そういうところはうやむやに済ませられるならそれに越したことはないわけだが、わざと間違ったことを述べてそれを批判させながらケムに巻くようなことまで仕掛けられている現状では、何が正しいかとかあまりこだわらない方が身のためで、その種の批判をかわそうとする気が満々な言動を真に受けてしまうと、かえってそういう成り行きに持ち込まれて、そこから先は延々と回りくどくて終わりの来ない紆余曲折を伴う言葉の迷路に引き込まれて、言説の対象となる物事の本質から外れた枝葉末節などうでもいい瑣末な部分にこだわるようにも仕向けられて、それでも構わないのならそういうことだと受け止めるしかないのだが、果たしてそれが現状を維持するために行われていることなのかどうかも、結果的に現状が維持されるようなことになろうと、そうやって現状維持に成功していることになるかどうかもよくわからず、それでも現状が変わり続けていることを無視していられるほど、現状が盤石だとは感じられない限りで、現状の維持に成功しているなんて幻想に過ぎないわけだが、何かの建物が軋みかけていると現状を捉えるなら、その建物の一部を構成する柱を留めている釘を一本でも引き抜くことができれば、建物全体が瓦解するなんて誰も思いもしないだろうが、それに対する抵抗が思いの外強いと感じるなら、それとは何かと問いたくなってしまう以前に、それを問うまでもなく必死な抵抗に直面していて、必死になってそれをごまかそうとして無理な言動が仕掛けられている物事が世の中に多すぎると感じられるなら、その仕掛けをぶち破れば彼らが支えている幻想の構造が瓦解するのではないかと期待しておいても構わないような気がするのだが、もちろん当事者にはそんな自覚はないのかも知れないが、何とかしてそうなってしまうのを防ぐために〇〇が悪いという単純な物言いで世論誘導が試みられていると現状を受け止めたくなるとしても、そんな安易で人を馬鹿にした誘いには乗らないという強固な意志が誰の意識に宿っているとも思えないし、宿っていなくても構わないような世の中の成り行きであるような気もしてくるから、そんな人を馬鹿にしたような安易な誘いに乗って、そんな見え透いた仕掛けを恥も外聞もなくこれ見よがしに講じてくる政治勢力を支持しているつもりになっても構わないとは思うが、そう思っても実際にそんな思いも裏切られてしまうのが、神の見えざる手に操られている証拠となるから、また意識して神を信じていない方が、かえって無意識に囚われながらそうなってしまう傾向も強そうだから、ますます多くの人がそうなってしまうような気がしているわけで、だから日本の将来を楽観視しているというと嘘かも知れないし、嘘でなくても日本どころか世界の将来も楽観視していると嘘をつきたくなってしまうわけで、誰もが遠い将来のことよりも短期的な利害心に囚われている方がうまくいく傾向にあるから、アベノミクスが短期的には成功したと言えるし、将来のことを考えれば消費税の導入が理に適っているとも言えるから、物事の良し悪しではなく、どちらにしても間違っていると思われても、間違っているなりに今後ともそうなってしまったことを踏まえて批判の言説を構成する限りは、そんな出来事に囚われてしまうから、そこから言説の限界が構成されて、それが物事の本質から逸脱した枝葉末節なこだわりに収斂して行くわけで、しかもそれで構わないと思っておいた方が無難なのかも知れないし、それを無難だと思わずに執拗に問題視するなら、さらにそんな出来事に囚われながらも枝葉末節なこだわりに言動が収斂して行ってしまい、そんな成り行きがそれらの政治勢力のポピュリズム的な政治活動の原動力となっていると事態を捉えるなら、それも無難な現状認識だと理解しておいても構わないのではないか。
6月19日「不可解で不可思議なこと」
最近何か疑念を抱くような不可解なことが起こっているかといえば、確かに不可解だと言えなくもないこととして、イスラエル政府がいきなりイランを攻撃して、複数の軍関係者や政府要人や核開発に関わっていた科学者などを殺害したのに、なぜか最高指導者のハメネイ師を殺害しないのは、不可解なのかどうかも微妙な感じがしないでもなく、なぜかトランプがハメネイ師の殺害には反対したらしいのだが、やはりいきなり最高権力者を殺してしまうと、トランプやネタニヤフも自身の命が狙われる確率が上がってしまうと考えて躊躇しているのかどうかは定かでないにしても、諸悪の根源というか、形の上ではハメネイ師が指導して核開発もやっているのだろうから、しかもイスラエルやアメリカの軍事情報筋としてもハメネイ師の居場所を把握していて、トランプも調子に乗っていつでも攻撃できると脅しをかけて無条件降伏しろと息巻いているのだが、なぜか今のところは攻撃していないようで、そういうところがイランにしてもロシアにしても北朝鮮にしても、独裁者的な立場の人物を攻撃しないで、体制を維持させておくだけの利用価値があると見ているのか、その辺も部外者にはよくわからないところだが、結局はイスラエル政府にしてもアメリカ政府にしても、独裁体制によって苦しんでいるその国の国民の味方ではないような感じになってしまうから、あまり国際的な支持は期待できないような気がするのだが、その辺のところも微妙によくわからない意向が働いているらしく、核開発が頓挫すればそれで構わないのはわかるが、その一方でイランの独裁体制が続いていくならそれでも構わないどころか、その方がかえって攻撃目標がある方が好都合なのかも知れないと穿った見方をしたくなるが、その理由がそういうことなのかどうかも含めて、今回のような戦争の口実となるような国際的な紛争を招く原因となる非民主的な政治体制が、軍事産業などの存続のためには必要不可欠だと理解しておいても構わないのかどうかも、何とも言えないところだが、そういう成り行きの理由を求めてしまうこと自体が、理由があったりなかったりするのではなく、ただ単に何かが起こった後からそれを説明するのに、それが起こった理由が必要となるだけで、それについてのもっともらしい理由や説明などが、それが起こったこととは直接には関係がないようにも思われてしまう限りで、どうもリアリティを持ち得ないような気がしてしまうのだが、それでもイラン政府による核開発が成功して核弾頭を搭載したミサイルが製造されてしまうと、イスラエルにとっては脅威以外の何物でもないから、核開発施設を破壊したり核開発に携わっている関係者を殺害したことは確かなのだが、話の大筋ではそれが正しい理由や説明なのは確かだとしても、どうせならそのついでに、そんなことをやるように指示している最高指導者のハメネイ師も殺っちゃえばいいじゃないかと思ってしまうのだが、そこが違うみたいで、何かそれについても、もっともらしく説明できる識者の類いもいるのかも知れないが、自分には理解できないところであって、何か微妙なさじ加減というか、それがかつてリビアのカダフィ大佐が殺害された際にも、何かまずいことが起こったような報道のされ方があったように記憶していて、その一方でシリアのアサド大統領が延々と十数年もその地位にあったのは許容されていたような感触で、その間にも内戦によって多数の民が苦しんでいて、ようやく昨年末になってアサド大統領がロシアに亡命して政権が崩壊したわけだが、もちろんハメネイ師が死んでもイランのイスラム教権体制は続いて行くのかも知れないし、そもそもがイスラム革命後にホメイニ師を中心として作り上げられた体制であって、その際には比較的穏健な民主派が排除されてしまったわけで、結局はそういう反リベラル的な政治体制が望ましいような世界的な傾向に沿っていると言えるようなことなのかも知れず、トランプなんかもその種の宗教右派的な傾向にあるのかも知れないし、西側の指導者よりはロシアのプーチンや中国の習近平や北朝鮮の金正恩などに親近感を抱いているようにも感じられるわけだが、何かそういうところで当事者も気づいていないような無意識の意図や思惑が渦巻いているようにも感じられて、それをどう表現すればしっくりくるのか、どう表現してみてもしっくりこないようなことなのかも知れないが、自分なりに述べるとすれば、政府がただの行政を担う役所化するのを阻止したい思惑が、それとは意識しないのだろうし、当事者が自身がやっていることの真意を理解していないような気もするのだが、最近でも日本の伊勢神宮で式年遷宮が行われている最中らしく、天皇の妹の黒田清子さんが、天照大神の代わりの祭主なのか祭祀王という役回りなのか詳しいことはよくわからないが、伝統的に日本では政治を司る王と祭祀を司る王の二人の王が並立していて、その祭祀を司る王の役回りとして天照大神や卑弥呼のような立場があるらしく、今回の式年遷宮においては黒田清子さんがその役回りで参加しているらしいのだが、そういうところから国家主義的な幻想が生じてくると物事を単純化して捉えるのも気が引けるのだが、ロシアのプーチンも何やらロシア正教会の最高位の聖職者を政治利用したい思惑があるらしいし、それはトランプがキリスト教の宗教右派からの支持を当てにしているのと似たような傾向がありそうだが、それが中国の習近平にとっては共産主義の宗教的な価値につながっているとも理解できないところだが、政府の行政府としての形式的な機能以上の価値というか何かを上乗せするために必要なのが国家宗教的な価値観だと、戦前の神道を利用した日本政府ならそう言えそうだとしても、今の政府でも一応は天皇制を存続させているから、天皇や皇室に政府の形式的な行政府以上の国家の宗教的な価値を担わせたい意向が働いていそうなのだが、たぶんそれがリベラル的な価値観からは退けたいことなのかも知れず、もちろんあからさまにリベラル勢力が日本の天皇制や皇室と敵対しているわけでもないどころか、むしろ日本国憲法が示す平和の象徴として天皇制を存続して行こうとは、それもあからさまにそういうことを他の何を差し置いても強調するようなことでもないのだが、何らかの妥協点としての位置付けなのかも知れないし、ただ単に憲法から天皇に関する条項を全て削除して共和国や連邦国となるように憲法改正してしまえば、すっきりしてしまうのだが、現状ではそんなわけには行かない経緯や事情がありそうだから、何となく伊勢神宮の式年遷宮もそんなことの延長上で、一応は国家的行事として行われているように装われているのではないか。
6月18日「現状を打破できない理由」
世の中には他人の自由を認めないひどい人たちがいるという当たり前の事実を打破すべきかどうかは何とも言えないが、打破すべきだとしてもそう簡単には打破できないし、それ以前に彼らをひどい人たちだと決めつけるのも、それが良いか悪いかも何とも言えないから、打破したいなら打破しようと試みればそれが良いか悪いかがわかるわけでもないが、それを試みたところで他人の自由を認めようとしないひどい人たちの言い分に納得できるわけでもないことは、例えば選択的夫婦別姓に関する国会の審議でも見れば、誰もがわかるわけでもなく、逆に他人の自由を尊重しようとする人たちへの支持が圧倒的多数でもない事実を知るに至って、その事実をどう受け止めればいいのかもそれほど思い悩むわけでもなく、そうなるのも予想の範囲内でしかなかったのだが、そうなることによってこれから事態がどうなるかも、今後明らかになるとも限らず、明らかになったとしてもその結果に納得するわけでもないだろうから、そういうことの範囲内で今後も事態が進展して行くしかないだろうから、納得できないまでも、ひどい世の中だと絶望するような事態でもなく、これまでの延長上で世の中の状況や情勢が推移して行く限りで、取り立てて何がどうなっているわけでもなく、誰が何をどうしようとしてもどうにかなるような世の中でもないことを知るに至っても、どうにかしようとしていることをやめてしまうわけでもなく、それをやめてしまうような成り行きにはなり得ないから、執拗にあきらめきれずに現状を打破しようとして、現状を構成する常識の分厚い壁にいくら跳ね返されても、現状を打破するための挑戦をやめようとしないだろうから、そんな挑戦者のようなわからず屋のような者たちの感覚が何かおかしいような感じがするなら、常識に囚われているからそう感じられると思っておけば良いか悪いかも、その場の状況次第や情勢次第でそう思いたければ思っていればいいだろうし、そうは思いたくてもそんなふうには思えないとしたら、彼らの何がおかしくてどこが常識からずれているのかに気づいているのかというと、気づいていてもうまくわかりやすくは説明できないとしたら、言説を構成する知力が足りないのかも知れないし、他にも何かが不足しているのかも知れないが、だからといって説明を断念するわけでもないから、こうして何かしら述べているわけだが、どんな情勢下でも状況下でも余計なことをやりたがる輩が後を絶たず、こうして何かしら述べていることも余計なお世話で述べているのかも知れないし、そうやって次から次へと現状に介入してきて、事態を不必要にこじらせてしまうから、口ではもっともらしいことを主張していても、それを実行する段階で想定外の事態が起こってしまうから、そもそも言った通りのことができないことに気づかされるわけで、気づいた時にはもう遅いし、事態がどんどん勝手に思いもしない方向へ進展して行ってしまうから、そうなればすでに事前に想定していた対処では間に合わないし、その場のアドリブ力で臨機応変に対応するしかなく、そうなってからが真の交渉力が試されるわけだが、そうなった結果を絶えず批判する側へと回り込もうとする小狡い輩などそういう場では使い物にならないと見ておいても構わないし、そういう意味ではいつもメディアで偉そうに批判ばかりやっている奴らなど全く当てにならないと見ておけばいいかというと、というかそういう方面での専門家が別の方面で役に立つとは限らない程度の認識でいれば良さそうだが、誰が何の役に立つかなんて、実際にそうなってみてもよくわからないのかも知れないし、どんな状況下でもその状況に相応しい資質の持ち主がそれに対処するわけでもなく、いつも分不相応な立場の者が分不相応な対処を迫られてしまうから、やっていることがうまく行かないのも当然のことのような気がして、それも実際にそうなってから明らかになることかも知れないが、そうならなければどうなるのかというと、それもそうはならない事態の中で明らかになることもならないことも出てくるだろうから、誰も事態を正確には把握できないだろうし、正確に把握したところで正しく対処できるとも限らず、正しい対処がどんな対処なのかもよくわからなければ、どう対処したところでうまくは行かないかも知れないが、うまく行ったところで、その場の偶然でたまたまその場だけはうまく行ったことにしておく程度のことかも知れず、実際に世界的にも国内的にもこじれた事態になっていると認識したくなるようなことばかりで、何もかもがうまく行っていないような気がするのだが、それはこれまでもそうだったような気がするし、これからもそうなるしかないような気がするから、こんな現状を打破しようとして何かを強引に仕掛けているわけでもなければ、結局は妥協的な受け身の態度で事態に臨んで行くしかなく、その妥協的な態度というのが優柔不断で何か煮え切らない態度だとしても、どうしても現状のとりとめのなさによって大したことは何もできないような状況にされてしまうから、実際にも何もできないながらも、言葉を費やして何かしらわかったようなわからないようなことを述べる成り行きへと意識が誘導されているような気がして、その気になって何かしら述べてみるのだが、そもそもが現状を正確に把握しているとも感じられない限りで述べていることだから、うまく現状を捉えきれていないのも当然のことのような感じで何か述べている範囲内では、それなりのことを述べているつもりで、結構的外れなことも述べているのかも知れないが、そんな現状認識から何がもたらされるとも限らず、何かしらもたらされているそれが、こうして何かしら述べている内容になるわけで、だからといって述べていることに関して、これといって興味を惹くようなことが述べられているわけでもなければ、果たして述べている内容が全くの無内容なのかというと、それもそうでもないと感じるなら、何か的外れなことを述べているとしても、たぶんそれでも構わないようなことを述べているのであり、それなりに現状に対処すべく、わざと的外れなことを述べているふりを装いながらも、機会を捉えて物事の本質を突くようなことを述べるタイミングを計っていると嘘をついてみても、何となくそれらしい雰囲気を醸し出しているような感じがするから、それが当たらずとも遠からずな現状認識の言説を構成していると理解しておけばいいのかも知れず、しかもこれといって的を射るようなことを述べていなくても、言説の対象となる的自体が不在なのかも知れないから、そこに言葉の矢を打ち込むような的などないと言い切れるわけでもないのだが、それが批判の標的とは異質の何かを感じさせるとすれば、標的とはならないような対象について語らなければ、現状を打破するきっかけをつかめないのかも知れない。
6月17日「切実さとは違う必然性」
なぜか日頃から疑念を抱いてきたことについて真正面から論じなければならない機会など全くやってこない代わりに、それについて例えば積極財政政策の何がおかしいのかと問わなければならないわけでもなく、おかしいのではなく、逆に新自由主義+緊縮財政がいかに理に適っているかについて真正面から論じる成り行きにもならないわけだが、なぜそうなってしまうのかと問う理由もないが、各国の政府によって実際に何が行われているのかと問うなら、戦争ばかりが行われているわけではなく、普通に行政が行われているわけで、なぜかそこから目を背ける目的ではないにしても、いつも政治の場で何が語られているのかというと、一部では積極財政政策が語られている場合もありそうなのだが、しかもそれが党利党略を伴って語られているのだから、それの何がおかしいのかというと、それとは全く関係のないことがあからさまにスルーされていることに気づかせない戦略だというと、そんなことはないと反論したくなるのだが、実際に選択的夫婦別姓の当事者であるれいわ新選組の長谷川ういこさんがそれについては語らずに、持論の積極財政政策について語ろうとするのは党利党略の欺瞞だと批判するのは酷なのだが、そんなのは当人も気づいていないのかも知れないし、しかも持論の積極財政政策を猛烈に批判する立憲民主党の米山議員が選択的夫婦別姓に関する法案の提出者なのだから、それをあからさまに無視してスルーするのも当然の成り行きに違いないわけだが、またれいわから参議院選挙に出馬する予定の辻恵という人も、動画を見る限りは通り一遍というわけでもないのだが、議席数が逆転したのにうまく行かない野党の国会対応を批判しながら、成果として挙げられる年金改革法案などには一切触れないわけだが、別にそれが悪いと批判したいわけではなく、むしろそうなるのが当然の成り行きだと良くも悪くもないような感じなのだが、何かこの種の人たちが気づかないところで世の中が動いていて、しかもその動きの中にこの種の人たちも含まれていて、世の中の動きに沿って行動して発言しているわけで、それがどう捉えてみてもそうなるしかないような世の中の成り行きには逆らえないだろうし、実際に逆らうような発言などできないし、それが悪いわけでも批判されるようなことでもなく、それもそうなって当然の成り行きの中でそう発言するのも当然の成り行きなのだが、なぜかそれを腑に落ちないと訝しむのもおかしいような気もするのだが、こちらも長谷川ういこさんと辻恵という人の対談動画を終わりまで見ていられなくて、途中で見るのをやめてしまうのも、おかしいとは感じられないのだから、それを終わりまで見させないような圧力が外部からかかっている感じもしないのだが、そういう成り行きに逆らって何を述べれば納得が行くのかというと、結婚して韓国系の姓である朴羽衣子と戸籍には記載せざるを得なかった経緯や理由をその対談で語らなければならない理由など全くないのだが、しかも選択的夫婦別姓に反対している参政党や保守党も積極財政を掲げていて、それとれいわの積極財政政策は違う理由はちゃんと語るわけで、それもそういうことを語る必然的な理由があるから、そこでそれを語るわけで、だからそういう成り行きには逆らえないわけだが、それとこれとは趣旨が違うことも承知で、長谷川ういこさんとしては持論の積極財政政策を猛烈に批判する立憲民主党の米山議員とは敵対関係にあるのに、米山議員が長谷川ういこさんが切実に望んでいるように感じられてしまう選択的夫婦別姓法案を実現させるために尽力しているわけだから、何かそこに神の見えざる手が働いているようにも見えてしまって、どう考えても積極財政よりも選択的夫婦別姓法案の方が重要であるように感じられるわけで、しかも対談相手の辻恵という人も人権派弁護士の肩書きがあるわけで、やはりそこで語る必然性があるのは積極財政政策よりは選択的夫婦別姓である方が納得が行くような気がするのだが、その場の成り行きに従うならそうではなく、れいわの宣伝動画なのだから、当然のことながら看板政策の積極財政政策について語らなければならないわけで、そういうことの延長上で日本の現状を変えるには何が必要なのかと問うならば、減税や消費税廃止や積極財政などのれいわ的な政治主張とは裏腹に、選択的夫婦別姓や死刑廃止などのリベラル的な人権政策の方が優先順位が高いような気もしてしまい、まさにそれが人権派弁護士の肩書を持つ辻恵という人が取り組んできたことにも合致するのではないかと穿った見方までしたくなるわけだが、その種の人権を無視する傾向にある参政党や保守党などが積極財政を掲げていることを批判する一方で、緊縮財政だと批判する立憲や共産とはどうやれば人権問題に関して違いを作り出せるのかと疑念も覚えてしまうが、そんなとってつけたような積極財政と人権政策の組み合わせを政治的な主張として打ち出しているような感じにも見えるのだが、そういう成り行きをどう考えたら納得できるかといっても、それを欺瞞だと批判したいなら、ちゃんと動画を全て見て批判しなければならないと思うのだが、あからさまには批判したくないし、動画も全て見ずに途中で見るのをやめてしまって、どうもそこでも自らの勘が働いているらしく、それはそれで構わないような気がしてしまうから、あまり触れたくはないわけで、そういうところが自分でもよくわからないのだが、たぶんトランプなんかも勘が働いて緊縮財政ではうまく行かないことをわかっているわけではないが、その場の成り行きに従うなら無理にも減税して、結果的にはそれが借金まみれの積極財政になってしまうとしても、なぜかそうせざるを得ないような物事の流れを感じているのかも知れず、理性を働かせれば財政健全化を達成しなければならないはずだが、結果的にはそうはならない事態を否応なく受け入れてしまうから、またそうなる方が当然のような気がしてしまうと、その理由や原因を知りたくなるのだろうが、たぶんそれも知らない方が身のためなのかも知れず、積極財政派の理屈が破綻していることを示すために理詰めで物事を考えてはまずいわけだが、そもそもの物や情報やサービスの売買や貸借の理屈が破綻しているというか、破綻しているわけでもないのだが、それが取引する双方の信用に基づいていることが、科学や数学などの論理的に証明可能な理屈に基づいた信用ではなく、その気になれば借金を踏み倒すような強引なことも権力や暴力を使えばやれないこともない程度の信用のならない信用に基づいて取引が行われている実態があるのだから、何かそういうところで理性的な傾向に従って物事を善意に基づいて考えてしまうことの危うさが伴ってくるのかも知れない。
6月16日「タイミングを計る」
現状では何かのタイミングがずれているような気がするが、それが何のタイミングなのかもよくわからないし、そのタイミング自体も信用できないような気もしてくるが、焦らず時間をかけてゆっくり少しずつ何をやればいいのかと問うなら、そんなことは問う必然性も感じられず、特にこれといって何もやらなくても構わないような気もするが、焦って無理に何かやらなくても、自然体で構えてその場の成り行きに従っていれば、それで何かやっていることになればしめたものだと思うわけでもなく、要するにそのやっている何かが何なのかを意識しないことが肝要なのかも知れず、無理にそれを知ろうとしてしまうと、それが知り得ないことがわかってしまうわけでもないだろうが、そのタイミング自体が今はそれを知るタイミングではないと思われて、では何を知るタイミングなのかといえば、それを知らなくてもすでに何かを知っていて、しかも知っていることを踏まえて特に何もやらなくても何かをやっていることになるのかも知れず、知るのとやるのとは違うような気がするが、これから何を知るにしてもやるにしても、現状で知っていることとやっていることの延長上でさらに何かを知ったりやったりするしかないし、それを知った上で何かをやるしかないことが否応なくわかってしまうような気もしてしまい、それが思い違いだとしたら、思い違いでも構わないようなことになってしまい、とりあえず自分の知らないタイミングでこれから何かが起こるから、それが起こるタイミングを事前に知ることはできないし、知らなくても構わないようなことであると共に、それが何かを知るタイミングや何かをやるタイミングとも合っていなくても構わないのであって、知るタイミングともやるタイミングともずれて何かが起こるから、それが起こるタイミングに合わせて何かを知ったり何かをやったりすることが必要なのでもなく、またそれを語るタイミングでもないとしたら、そんなタイミングも逸してしまっても構わないのかも知れず、あえてそれを語らなくても知り得るようなことであり、これから何かが起こるのだから、それが起こったタイミングで、それが起こったことを知ることになるわけで、今はそれが起こることを前もって予想することも予言することも不要なのかも知れず、わざわざタイミングを計ってそれが起こることを知らせるべきではないと思うなら、それが何なのかも知るべきではなく、では何なのかというと、これから起こることを予想して予言することが重要なのではないと思っておけば良く、しかも重要ではないとしても、それを予想したくなるのであり、予想したことをこれ見よがしに言い放ちたくなるわけだが、今もそれを言い放つタイミングを計っているなら、いったい誰がそのタイミングを計っているのかというと、その誰かがタイミングを計っていると予想したくなるが、予想するまでもなく、すでに今世界中で行われていることの中に、このタイミングで行われていることがあり、このタイミングで言い放たれていることもあるから、果たしてこのタイミングが適切なタイミングなのかと問うなら、適切であってもなくても、否応なくこのタイミングでやらざるを得ないことが行われているわけでもなくても、不適切なタイミングで不適切なことが行われていても、どのタイミングで行われても不適切だとしても、とりあえずこのタイミング行われていることに合わせて、それについて語ろうとしてしまい、それも語っている内容にもよるだろうが、たとえ語っている内容が不適切だとしても、不適切なことを不適切なタイミングでこれ見よがしに言い放つ成り行きになってしまえば、そうならざるを得ない理由や原因を知らなくても、それではまずいような気がするなら、自身の勘がそれを知らせていると思っておいた方がいいのかも知れず、現に今もそう感じているのかも知れないし、そう感じているからそれについて言い放つのを躊躇していると考えるなら、今は黙ってそう考えてしまう成り行きに従っておいた方が無難だと思っておけばよく、実際にもそれについてこれ見よがしに言い放つのを控えているわけだが、では今後もそれについて言い放つタイミングがやってこないかも知れないと思うなら、それが死ぬまでやってこないとなると、何かそれもまずいような気がしてしまうのだが、では適切なタイミングで適切なことを言い放つ自信があるかというと、その自信がないから、今ここでそれについて語らなければいつ語るのかと焦って性急に語ろうとして、うまく語れなくなってしまうのかも知れず、だからそのタイミングではないことを思い知るわけで、語ろうとしてうまく語れないからそのタイミングではないことを思い知るに至り、ではいつ語ればいいのかと自問自答してみるのだが、それがわかれば苦労はしないし、知ろうとしても知り得ないから焦って言い放とうとしてしまうとしても、それができないから今がそのタイミングではないことがわかってしまい、実際にそれを語ろうとしたから、それを語れないことを知るに至ったわけで、ではいつになったらそれを語るタイミングになるのかと、それも自問自答してみるのだが、どうも自答するにも至れないのだとしたら、ただ単に答えが見つからないし、答えることの困難に直面しているわけだが、そんな自分の焦ったい成り行きとは違って、イスラエルはハマスやヒズボラに続いてイランを攻撃するタイミングを計っていて、ちょうどそのタイミングが到来したからイランを攻撃したのだろうが、もちろんそれが攻撃するタイミングが適切だったかどうかではなく、どんなタイミングであっても、いきなり他国を攻撃するべきではないと言えるのだが、しかもそれが建前として言えることであって、もちろんそれはウクライナを攻撃したロシアにも言えることなのだが、果たして建前として言えるようなことが守られる必要があるのかと問うなら、それも時と場合によっては守る必要もなく、その場その時の当事者の都合に合わせて破られる場合もあるわけで、それが戦争についてだけ言えるようなことはないことも、誰もが薄々勘づいていることであって、例えばアメリカのような覇権国が自由貿易をやっていられるのは、自国の覇権が揺るぎない時期においてはそうなのであって、いったんその覇権が揺らぎ始めると途端に輸入品に高関税をかけて自国の産業を守る姿勢を鮮明に打ち出して、保護貿易をやろうとするわけだから、果たしてそうなったからといって、アメリカは信用できないと言い放つようなことなのかというと、そんなのは元から信用できないし、信用できるかできないかの判断も、信用してアメリカの国債やアメリカ企業の株などを買って利益が出ている間は信用できるだろうし、またアメリカに工業製品などを輸出して利益が出ている間は国家的な友好関係を保っていられるわけだろうが、果たしてそういう成り行きを信用できるかできないかで判断するようなことなのかどうかも、そうではないような気もしてくるなら、今がそんなことを判断するタイミングでもないと考えても構わないかどうかもよくわからなくなってしまうわけだ。
6月15日「危機回避能力の習得」
何かそれが否定すべきこととして、自分が危機を回避する能力に長けていると思い込めるわけでもなく、それは否定すべきことではなく肯定すべきことであるはずだが、たまたまそうなったのを事後的にいいように解釈したくなるのもご都合主義のなせる業なのはわかっているつもりだが、危機を回避しきれずに、やっていることがうまく行かなくなってしまっても、それも事後的にはそうなっても構わないようなことかも知れず、誰もがある程度はその種の失敗を経験するから、その失敗から学ぼうとするわけで、しかもそれが決定的な破綻を回避できたから、まだ失敗から学べる機会があったと考えるなら、ある程度は危機に陥らないと、危機を回避する能力が身につかないとも言える範囲内では、それ相応に危険な目に遭うことによって危機を回避する能力が身につくと考えたくなるわけで、何かそれでは循環論のようなとりとめのなさを感じるが、そういうことの範囲内で危機を回避してきたと言えて、その証拠にまだこうして生きているわけで、それが生きていることの自己正当化だと言われようと構わないが、生きていると共にこの世界に存在していることが、何も自分がその種のサバイバル術に長けているから、結果的にこの世界に存在していられると現状を肯定的に捉えるようなことではなく、それよりは他の何かによって生かされている割合の方が大きいのではないかとも思いたいわけで、その何かというのが社会そのものであって、しかも他の何かではなく、自分もそこに含まれている限りで生かされているような状態なのかも知れないから、結果的に自分が社会の一部として存在している現状を肯定できるかというと、それもあまり肯定したくはなく、どちらかというと自分が否定されるべき存在なのではないかと疑念を抱く程度には、そう思いたいわけだから、もっと肯定できるような状態へと自らの存在を持って行きたいわけだが、そんなふうにして自らの存在状態をより良い程度に高めて行きたいことが、果たして贅沢な悩みなのかというと、悩みとも言えない程度の何でもないことかも知れず、それとはあまり関係がないかも知れないが、過去に遭遇した出来事が不意に思い出されてきたのだが、俺は運が良いんだと日頃から自慢とも言えない程度で言っていた人が、走っているトラックの荷台から飛び降りで足を骨折したのを目の当たりにして、そもそもトラックの荷台に人が乗っていること自体が違法行為なのだから、確かその場で救急車を呼んだのか、そのまま自家用車で病院までその人を運んだのかも記憶が定かではないのだが、労災申請は何とかうまく口裏を合わせて取ることには成功したのだが、始末書のような書類も作成しなければならなくなったりしている間に、なぜかその人が病院に入院している間にも解雇する算段まで進行してしまって、実際に解雇することにも成功して同業者に引き取ってもらってことなきを得たのだが、その後も何かの会合でその人に会う度に嫌味を言われるから、その場が気まずい雰囲気になるわけだが、その程度の修羅場など、それとは比較にならないほどの深刻なケースまで含めて、いくらでも経験したような気がするのだが、中には絶対に自らに非があるのに、それもその場の成り行きでうやむやに済ませて、トラブルを起こしたが自分なのに、相手が悪いとも言えないのだが、解雇されたのは相手であるから、結構な割合で罪悪感に苛まれるわけだが、そういう経験から山本太郎やれいわの他の政治家などが労働者の味方のような口調で大企業や資本家を悪者呼ばわりするのを聞くと、かなりの違和感を覚えるわけだが、労働者と言われる立場や職種の人々も悪者の集まりのような感覚で、みんなでグルになって悪どい金儲けに関わっているような嫌な経験をするわけだから、大企業が日本政府から優遇されている悪の権化のような言われ方をされる一方で、中小企業が抑圧されている被害者のような言われ方をされるのにも違和感が伴ってくるわけで、土木工事の現場で日頃から威張り散らしていた親方みたいな人が、自身で運転していた重機に轢かれて死んで、何週間か工事が中断した後に再開して来てみたら、日頃から威張り散らされていた現場の職人さんたちがニヤニヤしながら、あの人はここから落ちて死んだことにしたらしいと下水道工事の立坑を指差しながら談笑している光景なんかも、結構な割合で思い出されてくるのだが、他にも原発の汚染水を希釈して海洋放出するとかいう話題を耳にする度に、養豚場の浄化槽から川へと汚水を流す光景が思い出されてきて、環境基準値を超える汚水を流したのを摘発されて廃業に追い込まれる業者が多いわけだが、そもそも環境基準値内に浄化槽の処理水の水質を持って行くには、中小の業者では財政的に無理があって、それを単純化すると数千万円の浄化槽の設備では環境基準値内には収まらずに数億円かければ環境基準値内に収まるような設備にできるわけだが、それが無理だから、もちろんそれを検査する保健所の方でもわかっていて、浄化槽の処理水の水質を定期的に検査しなければならないのが保健所の業務に含まれているから、検査日の当日の朝に養豚場にこれから検査しに行くからと連絡してきて、養豚場の方でも連絡が来たらすぐに浄化槽の処理水を水で薄めるわけで、それでも基準に達しないと改善勧告が行われて、何度か引っかかってしまうと養豚場が閉鎖に追い込まれるようなことにもなりかねないが、それが数千万円の浄化槽の設備では本当にぎりぎりの綱渡りのような事態にもなってしまって、しかも浄化槽は結構な大電力や凝集剤となる劇薬なども大量に使わなければならないからランニングコストばかりかかって、何の利益ももたらさないから、どうしてもそこに無駄な費用をかけたくないわけで、結局は規模を拡大できないと廃業するしかないような成り行きになってしまうわけだが、さらには養豚場の内部環境の方でも豚が生まれてから出荷されるまでの間になるべく死なないように飼育しなければならないことと、そこに伝染病などの病気が蔓延してきて大量に死ぬリスクも絡んできて、結局は抗生物質や各種のワクチンなど薬品を大量に使用しなければならなくなって、しかも出荷した際に肉が検査されて抗生物質などの薬品が残留していると、違反行為となって出荷停止処分を受けるわけだから、いかに出荷ぎりぎりまで抗生物質を投与して、しかも出荷の際に抗生物質が検出されないようにしなければならないわけだから、そこでも無理が生じてきて、そこでもぎりぎりの綱渡り状態となってしまうわけで、そんなことのイタチごっこだから結局違法行為の摘発をいかにして免れるかが重要となってきてしまい、リベラル的なきれいごととは無縁の人生になってしまうわけだ。
6月14日「狂人の思考」
イスラエルによってイランの核施設が空爆されて核開発の関係者が殺害されたようだが、イランも反撃しているだろうが、ハイテク技術において圧倒的な差があるから、イスラエルの勝ちは揺るがないそうで、そうだとしてもイスラエル政府がやっていることは何かの一線を超えているから、今後それ相応の報いを受けるような気もしないではないが、今も報いを受けている最中かも知れないし、それが何の報いなのかもよくわからないままに事態が推移して行った先に何が待ち受けているのかも、どんな未来を予想してみても当たらずとも遠からずなことかも知れず、未来ではなく二千数百年前の過去においてはアケメネス朝ペルシアがヘブライの民をバビロン捕囚から解放したらしいが、他の民族からはヘブライ人と呼ばれていた民が自らをイスラエル人と呼んでいたそうで、イスラエルの意味などにはあまり関心がないが、古代のペルシア人と今のイラン人が同じ民族なのかも、古代の日本列島に住んでいた人々が今の日本人とそれなりに関係がある程度には関係があるのかも知れないし、確か聖徳太子がペルシア人だったとトンデモ論を主張する人も結構いたかも知れないが、今のイスラエルという国に住んでいる西洋人がどんな民族なのかも怪しいところだし、その種の民族的なアイデンティティなどに関心があるわけでもないが、古代のイスラエル王国が滅んだ後に日本の四国まで渡ってきて、剣山にお宝の失われたアークと呼ばれる何かを隠したとも言われているが、その末裔が天皇家で、高天原が剣山周辺にあったらしく、邪馬台国も四国の阿波にあったとかのユーチューブ動画を結構見ていた時期もあったのだが、それと現代のパレスチナ情勢がどう関係するとも思えず、日本のイスラエル大使館の関係者と邪馬台国が阿波にあったと主張する関係者との間で親交があるらしく、そういう方面で日本とイスラエルとの間でつながりもあるようだが、歴史的な連続性を何に利用しようとしているかで、それが単なる連続性以上の効果や成果をもたらそうとする意図や思惑も推測できるのだが、たぶんフィクションに関連する虚構性の方がその種の連続性よりも、人の意識に訴えかけてくる何かがありそうで、連続性よりも突発的に起こる事件性の方が、人の意識を変えさせる契機となる場合の方が多そうだが、そんな突発的な事件をなかったかのように扱いたいから、歴史的な連続性をことさらに重視する思惑が働くのかも知れないが、そういう突発的な事件が何かというと、例えばそれがコロンブスの大西洋横断であったり、フランス革命であったりするのかも知れないが、西欧的な視点ではそうなるが、それが日本的な視点からだと、中国の隋唐帝国の律令制を導入して日本という国が誕生したことと、さらには西欧のプロイセン辺りの憲法を真似て近代の日本が誕生したことと、アメリカの占領下で現代の日本が誕生したことなどが、それが突発的な事件かどうかも、その前後で世の中が一変したのだろうから、そういうことだと見なせるような気はするのだが、歴史の連続性を信じることによってその種の事件をなかったことにできるかというと、なかったことにはしていないだろうし、それを無視していることにも気づいていないわけでもなさそうだが、それにしてはそれまでになかった夫婦の姓を同じにすることが日本の伝統であるかのような嘘をついたりする気が狂った人々が何を考えているのかよくわからないのだが、それが単なる西欧の猿マネに過ぎないことをわかっていながら、頑なにそうだとは言わないのだから、そういう人を狂人と呼んでも構わないような気もするのだが、昨日までの選択的夫婦別姓に関する国会の審議をちょっとだけ見ていて、その種の狂気に囚われている人々が正々堂々と自説とは言えないような歴史の連続性を捏造した紋切り型の説を開陳する姿に感動してしまって、自身が狂気に囚われていることに気づかない人々が狂人なのかと改めて納得してしまったのだが、それはれいわ新選組が長谷川ういこさんの積極財政論を間違った説として退けるわけには行かないのと、共産主義者がマルクス・レーニン主義を間違った説として退けるわけには行かなかったのと、同じではないにしても、夫婦同姓にこだわらなければならない主義主張を改めるわけには行かないような成り行きになっていて、しかも同姓も選択できるのだからこれまで通りの主義主張でも構わないのに、別姓がまかり通ってしまうのは、外国では普通に受け入れられているとしても、日本では絶対にまかり通らせてはならないような主義主張に凝り固まっているわけだから、何かそれが狂気に囚われているように感じられるのだが、そんな狂気の兆候が国会の審議であからさまに露呈しているのに、それを見て見ぬふりしていても構わないかと疑念を覚える意識がおかしいとも思えないのだが、理性的に考えればそうなのであり、それを理性的に考える人が日本では少ないのかも知れず、だから非理性に囚われた狂気の屁理屈の類いが正々堂々とまかり通る世の中になっていると事を大げさに捉えて憂国の士気取りになれるかというと、たぶんそんな狂気に囚われた人々の方が憂国の士気取りになっている割合の方が高いと推測したくなってしまうから、どうもそうではないのかも知れないし、逆に国会の審議を真に受けるわけにも行かないと思っている方が正気を保っていられるような気もするわけだから、フーコーが狂気の歴史に関して明らかにしたことが、今の日本でも有効に機能していることに驚いてしまうというか、驚いているわけでもなく、そうなるのが当然の成り行きのような気がしてしまうから、かえって世の中がその種の狂気に包まれている状態の方が歴史的には通常の状態であって、選択的夫婦別姓の法案に強硬に反対している人々が自分たちを狂人だとは思わないのは当然のことだと考えておいた方が良さそうで、それは西欧で中世から近世にかけて魔女裁判で多くの女性が火炙りの刑になっているのを目の当たりにしても、それを当然のことのように眺めていた当時の人々と同じではないものの、また善意の治療を施そうとして狂人を拘束して水責めにしながら真実を語るまで痛めつけていた著名な精神科医の行為を賞賛するようなことでもないだろうし、さらにはヒステリー患者を治療しているつもりが、逆にヒステリー患者を大量に生み出していた精神病院の実態などとも違う成り行きなのだが、一見正気に見えるし、実際に普通の一般市民からも支持されているだろうし、著作を出版すればそれなりにベストセラーまでは行かないまでも、商売が成り立つほどには売れる書物を著している人が狂人とは見えないし、ましてや国会議員でもある人が狂人扱いされるわけには行かない世の中になっているのだから、それを通常の世の中の状態だと認識するしかないわけだ。
6月13日「してやったりな結末」
他人の態度や姿勢についてあれやこれやと文句を言いたくなってしまうと、それが文句を言いたくなる対象となる人の個人的な資質に問題があるかのような傾向に話が向かってしまいがちだが、それと同じような傾向に凝り固まった人が他にもいくらでもいるとなると、それがその人だけの問題ではなく、社会全体の問題であるかのような話に向かってしまうのだが、どうもそういうことではないとすると何が問題なのかといえば、世の中の慣習や制度からそういう傾向が生じてくるとすれば、それを生じさせている慣習や制度を変えなければならないという話になってしまって、慣習であれば社会問題となる一方で、制度が問題となれば政治問題化するわけだろうが、割とそういうわかりやすい方向に話が進んで行くのかというと、実際にはそれらが複合的かつ同時並行的に絡んでくるから、特にそれらのうちでこれといって問題視したいことがあればわかりやすい話になってきそうだが、そういうことを問題視する人の立場や主義主張に応じて、その人が問題視したいことが決まってくるともはっきりとは言えないが、この人ならこういうことを問題視してこういうことを言いたくなるようなことが実際の発言や言説に含まれてくるなら、なるほどと納得したくなってしまうわけだが、それに関して言いたいことが、例えば兵庫県知事が辞任してほしいのになかなか辞任してくれないから焦れている人たちが、何を問題視して苛立っているのかというと、知事の個人的な資質に問題があるのはもちろんのこと、それを日本全体に敷衍して何かもっともらしい意見や見解を構成しようとすると、たぶんそこから外れてくる何かがありそうにも思われるから、そういうところがうまく事態を説明できない原因となってくるかどうかも、たぶん誰もそれを原因として突き止めているわけでもないだろうし、これだと示したくても示せないから焦ったくなるのかも知れないが、それを批判しようと焦っている人も兵庫県知事とは違う方面での制度的な存在であることが、その人の弱点といったらちょっと違うかも知れないが、そんな人たちを存在させている制度に問題があるわけではなく、制度がそれなりに社会の中でうまく機能しているから、それらの人たちが活動しているのとは少し違う事情や経緯を伴いながらも、兵庫県知事も制度に守られながら存在していて、制度に守られた存在をやめさせるには別の制度的な手続きを踏んでやめさせなければならないから、ある人は裁判という制度を利用して知事をやめさせようと画策している一方で、そんなに性急にやめさせようとしなくても、次の選挙で落選させればやめざるを得ないから、選挙という制度を利用してやめさせるのが普通に妥当なやり方なのだが、それが前回の選挙ではN国の立花氏が介入してきて阻止されてしまったからには、何としてもありとあらゆる手段を使ってもやめさせなければならない理由が生じてしまったわけで、それが何だか笑ってしまうような、人が死んでいるわけだから笑い事では済まないような、もう後には退けないような追い込まれた苦境に陥っているわけでもないのだろうが、何かそこで立花氏のざまあみろという高笑いが響き渡っているというか、してやったりな結果をもたらしてしまったから、どうしてもトランプがアメリカの大統領に返り咲いた事態にも同じように言いたくなってしまうようなことかも知れないが、何かの限界を感じざるを得ない結果が世界的にもたらされているから、日本の特有の問題ではあり得ないような印象も伴ってきて、それが隣の韓国でなら優等生的な国民が一致団結して曲がりなりにも民主主義の体裁を取り繕えるのだが、それが長続きしたためしはないし、現に血迷った大統領が戒厳令を発して自滅してしまうような結果にも至ってしまったわけだから、そこでも何かの限界が生じていそうで、しかもそういう限界があるからこそ、うまく制度としての民主政治が機能しているという逆説的な結果がもたらされているのかも知れず、実際に民主政治が機能しないような制度にしている中国などでは、政府としては機能しなくても何の問題もないように装いたいのだろうが、その代わりの制度を超えて機能するような成り行きに社会全体が支配されているわけでもないのだろうが、何に支配されているかは、表向きには共産党に支配されていると言えなくもないのだが、実質的には政府の官僚機構に支配された国になっているはずで、それは日本にも当てはまるようなことかも知れないが、支配の程度や傾向が国ごとに多少は違うから、官僚機構の支配よりは法の支配に屈していた方が健全なのかどうかも、そこで政府の違法行為が司法によって差し止められるか否かでも違ってきそうで、政府が司法の判断を無視できれば、政府の官僚機構に国全体が支配されていることになるのかと問うなら、それも三権分立とは言えない三権癒着体質の日本や中国には当てはまらない傾向なのかも知れず、しかも法の支配といえども狭い範囲内での制度的な限界も露見してくるから、もっと広い範囲をカバーする経済システムの中では、政治的な三権分立だろうが三権癒着だろうが、どちらもそれなりに機能できるレベルではどちらであっても構わないような事態なのかも知れないし、経済的に機能しているなら成り立つような人と物と情報とサービスなどの循環が機能していて、そんな循環が滞る事態となれば、そうなって初めて人間社会が崩壊の危機に直面するかも知れないが、それに関して最近何か示唆に富む光景を目にしたと言えるかどうかも自信がないが、ロサンゼルスの暴動で真っ先に放火されて燃え上がったものがウェイモの無人ロボタクシーであり、それを見て何が思い浮かんだのかというと、古代ギリシアの民主政治が奴隷によって支えられていたのに対して、産業革命以降に世界的に広まった民主政治が労働者によって支えられていて、奴隷は民主政治に参加できなかったのに対して、労働者は民主政治に参加できたのかというと、選挙権を与えられているのだから参加しているはずなのだが、経済システムの中では奴隷と同じように弱者の立場に甘んじていると資本家を敵視するように煽動する政治家の類いには教え込まれているかも知れないが、それを真に受ける労働者がどれほどいるかもよくわからないにしても、将来において労働者を必要としない経済システムが機能するようになれば、奴隷を必要としない経済システムが産業革命によって実現したように、労働者を必要としない経済システムがAI革命によって実現するかどうかが、今後の民主政治の世界的な機能の仕方にもそれなりに影響を及ぼすような気もしてくるわけだ。
6月12日「都合の良い解釈」
忘れてしまったことが思い出せないままになってしまっても、それが忘れてしまいたい嫌な思い出なら忘れたままになっていてほしいが、そんな過去の恥ずかしいしくじり体験などの忘れてしまいたい嫌な思い出が、ふとした拍子に不意に脳裏にフラッシュバックしてきて、それがトラウマ的な体験のような感じで思い出されてしまうと、そんな苦しくて苦い記憶が執拗にこれでもかと思い出されてくるから、しばらくそれに耐えなければならなくなる一方で、逆に思い出したい良い思い出は思い出そうとしてもなかなか思い出せないから、都合の良いことだけを都合の良い時に思い出すわけにも行かないようで、そんなふうにして不快な気分になった理由や原因などを知ろうとしても探ろうとしてもすぐにわかるわけでもないし、何かしらストレスにさらされているとそうなってしまうのかも知れないが、そうなってしまう理由や原因などに大して関心があるわけでもないから、何かの巡り合わせで偶然にそうなってしまう程度のことだと、とりあえず自分のせいではないと思っておいた方が良さそうだが、何かの教訓としてそれを思い出させて、驕らず威張らず謙虚な気持ちになるように、神か守護霊が自分が大した人物ではないことをわからせるためにそれを思い出すように仕向けてくるとも思えないが、それにしても肝心の何かを思い出せないような焦ったい気分になっていることが、そんな記憶など元からなかったのかも知れないし、やはりそんな気分になってしまう理由を知りたくなってしまうのも、それも大した理由などないのかも知れないが、それが過去に起こったことに起因して肝心の何かとして受け止められるわけではなく、これからそれが起こった際にそういうことだとわかるなら都合が良さそうなのだが、そんな都合良く重要な何かが起こるとも思えないが、もしかしたらすでにそれが起こっていて、それを思い出すように仕向けられているのかも知れず、それが誰によってそう仕向けられているとも思えないが、自分がこれまでに体験したり経験したり見聞してきた様々な出来事や成り行きや現象を都合良くつなぎ合わせて、何かもっともらしい認識や見解などを導き出そうとしても、それが何になるのかと疑念を抱く前に、自分にとって知らなければならないことや考えなければならないことなのかどうかも、果たして自分にとって重要なことなのかどうかもよくわからないが、必ずしもそれが自分にとってではないとしたら、他の誰にとってもどうでもいいことではないとしたら、では何なのかというと、それに関して必ずおかしな論理や理屈を通用させようとしてくる人々や団体が存在していて、例えば選択的夫婦別姓に強硬に反対してくる人や団体が何を通用させようとするのかといえば、それが中国の共産党や北朝鮮の金正恩やミャンマーの軍事政権やアフガニスタンのタリバンやロシアのプーチンやトルコのエルドアンやイスラエルのネタニヤフやイランの保守派や湾岸諸国の王族やアメリカのトランプなどが通用させようとしてくる論理や理屈とどう違うのかといえば、たぶんそれぞれに違うのはわかるのだが、彼らが一貫して拒否するのがただ漠然とリベラルな価値観だと言えるかどうかも、それも大ざっぱに言うならそういうことのような気がする一方で、彼ら同士でも一応は互いに敵対していたり連携していたりする面もあるだろうが、もちろんリベラル勢力だと言える人々や勢力の中でも敵対関係がありそうだし、場合によってはリベラル勢力であってもリベラル的な価値観からは距離を置いていそうな人や勢力も存在するかも知れないし、具体的に何がリベラル的な価値観だと言えるわけでもなく、ただ強権的なやり方には反対したり抗議しなければならない限りで、そんな範囲内で活動している人々がリベラル勢力だと言えるかどうかも、ひとたび国家的な体制側に与すれば、否応なく強権的な権力の行使をやらざるを得なくなって、そうなるとリベラル勢力から批判や非難や抗議の声が浴びせられて、敵視されるようになってしまうだろうが、そうであるなら強権的な権力の行使をやらざるを得ない立場や役職を担ったり、そういう立場や役職を有する組織や団体などに加わって、それらの立場や役職や組織や団体を守ろうとする限りで、リベラルな価値観を拒否せざるを得ないと言えるかというと、それもはっきりと全ての面にわたって拒否するのではなく、都合の良いところだけ受け入れる一方で、都合の悪い面では拒否せざるを得ないような立場や役職が社会の中に存在している限りで、反リベラル的な立場や役職があると言えそうだが、では何がそんな立場や役職をもたらしているのかというと、それも微妙に理解できない面がありそうで、単純に人間社会そのものに反リベラル的な面が備わっていると事態を捉えるなら、例えば日本で選択的夫婦別姓に強硬に反対してくる人や勢力が何を守ろうとしているのかが、他の大多数の選択的夫婦別姓が認められている国々との違いを明らかにする過程でわかってくるのかどうかも、何かそれがわかってほしくないような、わからせないようにしたいような意図や思惑がありそうにも思われて、要するに彼らが守ろうとしているこだわりがどうでもいいようなことだとわかってしまうと他の大勢の人々からの支持を失ってしまうから、そうなるのは是が非でも避けたいから、何とかしてそれをわからせないように持って行こうとしているのではないかと受け止めたくなるのだが、しかも現状でそんなどうでもいい状態を維持していることが、何か日本全体の欺瞞性というか、それと同じようなこととして、米が高くて困っている人が多いなら外国から安い米を輸入すればいいじゃないかとは口が裂けても言えない者たちの欺瞞性と通じるものがありそうにも思われて、何かそういうところがすごい嫌な感じがするのだが、もしかしたらそんな人たちは今まさに、遠い未来において思い出すのも恥ずかしいしくじり体験をしている最中なのではないかと考えたくもなるのだが、それが恥ずかしいと思う前に死んでしまえばいいわけで、だから必死になって選択的夫婦別姓程度のどうでもいいことに反対していることに意義や意味のあるような社会を守りたいのかも知れず、それが恥ずかしいことだとは思わせないように世の中のコンセンサスを維持したいような思惑が働いているのかも知れないが、いったいどれほどの人々がそういうことに意義や意味があると思っているのかと考えてみるのだが、そもそもがそういうことには無関心な人が世の中に多ければ多いほど、現状の体制が維持されるわけだから、選択的夫婦別姓自体もどうでもいいことの範疇に入るような世の中になっているとも言えるわけだ。
6月11日「痛みの解釈」
人が痛みを感じるということが何かの警告のサインだと思うなら、痛みの原因や理由を知りたくなってしまうが、そういう自然な因果関係を阻害する要因があるとすれば、例えばその人が何かの偏見に囚われていたり、勝手な思い込みで、例えば痛みを感じるのが幸運の兆しだと思うなら、痛みを和らげるために何かをやったり対処することによって幸運をつかむかも知れないと思うまでもなく、それが痛みの原因や理由を曲解するようなひねくれた感覚の発露なのかどうかも含めて、それもそう思う理由や原因を知りたくなってしまうが、その一方で他人が痛みを感じていても、激しい痛みに耐えながら苦しんでいるを見て、そんな他人に向かって、ざまあみろ、いい気味だと思うなら、そういう心理状態ならわかりやすいだろうが、それが他人の痛みではなく自分の痛みだとしたら、自分に降りかかってきた災難なのに、なぜざまあみろとかいい気味だとか思ってしまうのか、それを単なる自分の強がりだと突き放して見ておけばいいことなのかと疑念を覚えるわけでもなく、何となくそんな心境になってしまうことも多々ありそうで、そう思いながらも痛みをもたらした自身の行為や行動の過ちや誤りを反省しているのだろうが、そんな誰かの反省の弁を伝える謝罪会見を、ざまあみろいい気味だと心の中で嘲りながら見ている自分が、嫌な奴だと自嘲気味に反省したい気持ちになってしまうだろうが、果たしてそうやって他人の痛みを自分の痛みのように感じてしまうことが心理的な共感作用なのかというと、たぶん他人の痛みとそれを見ている自分の痛みを同じ痛みだとは思っていないだろうが、過去に何か不祥事の類いをやらかしてしまって、それを謝罪するために会見を開くほどの著名な立場ではない自分が、そんな著名人に同情するかというと、それもやらかした不祥事の内容にもよるだろうが、必ずしも謝罪している著名人がやらかしてしまったことの全責任を負うような立場だとは思えないなら、心の中でざまあみろだとかいい気味だとか嘲ったりしないだろうし、では大したことでもないのに大げさな謝罪会見を開かざるを得ない著名人に同情するのかというと、少しは同情するかも知れないし、無関係な自分が同情してみたところでどうなるわけでもないとも思うかも知れないが、それが選挙に立候補するための通過儀礼のようなイベントだと、何となく多くの人々の関心を惹くためにやっているんだとわかってしまうというか、そんな意図や思惑を勝手に邪推してしまうわけだが、またそれに直接絡んでいるわけでもないのに環境活動家のグレタさんを乗せてガザに支援物資を届けようとした船がイスラエル当局に拿捕されたニュースと、さらにまた兵庫県知事を告訴したいつもの人の会見もちょっとだけ見ながら、またかと思いながらも、それらのイベントとは関係のないところにいる自分が何を感じるのかといえば、人の死もそれに伴って感じる痛みも大したことはないと実感するわけでもなく、事件をもたらすきっかけとなるのは痛みではなく何なのかと誰が問いを発しているわけでも問われているわけでもないのだが、そんなことにはお構いなしに人の気を惹こうとして日々様々なところで様々なイベントが催されていて、その全てに参加できないどころか、何一つとして直接参加するきっかけがないことに残念がっているどころか、それらを全てスルーできるわけでもなく、こうしてそれについて多少は言及しようとしているわけで、機を見るに敏なのは何もグレタさんだけではなく、トランプも不法移民への取り締まりをきっかけとしてロサンゼルスで暴動が発生したのを自身に刃向かう民主党系のカリフォルニア州知事を追い落とすチャンスと見て、暴動の鎮圧する目的で要請されてもいないのに軍隊を派遣したようだが、騒ぎをでかくしてこじらせれば敵対している民主党に大打撃をもたらすと踏んでいるわけでもないだろうが、そこにも自然な成り行きをもたらすような因果関係を当てはめたくなってしまうわけだから、他人の痛みに同情している暇などないどころか、それを利用して自分に有利な状況をもたらすために戦略的に仕掛けないとならない立場が世界中で生じていると理解した方がいいのかどうかも、では果たしてグレタさんもトランプも兵庫県知事を告訴したいつもの人も参議院選挙に立候補予定の人も、今まさに自身の立場が有利となるように何かを仕掛けている最中なのかと問うなら、そんなことはないと返答するしかなさそうで、もちろん自分がそんな返答を受け取る立場にもないから、実際には何を問いかけたところで無視されてスルーされるしかないが、彼らにとっては自身のことよりは他人に対して何かしなければならない使命感に突き動かされている割合の方が大きそうで、具体的には他人を助けなければならないとか、他人をやっつけなければならないとか、そんなふうに行為や行動を単純化してみても、今ひとつ納得できそうもないだろうし、行為や行動を起こす理由や動機として、もっと複雑に絡み合った自身を取り巻く事情や経緯を考慮しながら、やらなければならないことが決まってくるのだろうが、そうであっても彼らが行為や行動を起こした結果として、大勢の他人が痛みを伴うかも知れないし、迷惑をかけるかも知れないから、そうしたことを生じさせることについては多少なりとも彼らが責任を負わなければならないだろうが、そんなことまで考慮して行為や行動を起こすわけでもなく、しかも行為や行動を起こしたことを伝えるに際して、グレタさんや兵庫県知事を告訴したいつもの人の行為や行動は好意的に伝える一方で、トランプや過去に何やらやらかした参議院選挙の立候補予定者の行為や行動は批判的に伝えなければならない理由や動機を今さら知りたいわけでもなく、そんなことはわかりきっていると言わんばかりのメディアの報道姿勢を当然のことのように肯定しているわけだから、知らないうちに当然視している自分も、それらのメディアの共犯者に仕立て上げられているような嫌な感触を伴いながらも、メディアを通して間接的にそんなイベントに参加させられてしまっているわけだから、自分ではどうすることもできず否応なくそうなってしまう成り行きに巻き込まれているだけのような、しかもそうなるにまかせていればそれで済んでしまうような、そんな無責任な立場を維持していればそれで構わないような、何とも言えない当事者意識の欠如を思い知らされているような気もしないではなく、そんな現状を前向きに捉えることができるかどうかも、前向きに捉える必要もないような、どうでもいいようなことなのかも知れないが、少なくともそんな成り行きを通して他人の痛みに対して鈍感になるしかないような成り行きに囚われているのかも知れない。
6月10日「心身の鍛錬とは違う何か」
現状でわかっていないことをこれがわかっていないと示すことは可能だが、わかっていないことをわかっていなければこれだと示せないから、わかっていないことがこれだと示されたところで、他にもわかっていないことがあるのではないかと疑われる場合もありそうだが、要するにわかっていないことがわかっている場合とわかっていないことがわかっていない場合の、二通りのわかっていない場合がありそうなのだが、どちらがどうだと言いたいわけでもなく、現状でわかっていないことがどちらなのかと問いたいわけでも、それを提示できるとも思えないが、もちろん両方共にわかっていないことであるのはわかっているのだが、その一方でわかっているのに気づいていなかったり、逆にわかっていないことに気づいていなかったり、そういうややこしい事態も想定されるなら、それが気づいていないんだからわかっていないんじゃないかと事を単純化したくなるが、そうとも言えないような不可解な事態に遭遇すると、自分がどのような事態に直面しているのかうまく説明できないし理解できないかも知れないから、結局何が何だか事態が飲み込めないまま、本能と連動する直感や勘にまかせて行動するような成り行きになってしまいそうだが、そうなると頭で理解しないうちに動くような感じになってしまい、動いた結果がうまく行けば、こう動けばうまく行くことがわかっていたから、勘が働いて動いたと自身の行動を正当化できるなら、ニーチェのように意識が気づいていないことを身体が気づいていたとも思えないが、果たしてそういうことなのかと反省的な疑問を抱きたいわけでもないが、それがうまく行けばいいように結果を受け止めたいし、うまく行かなければわかっていないことがあったと反省したくなってしまったりと、それをご都合主義だと否定的に解釈してしまっても構わないが、そうなった結果から何とでも言えることが事前にはわからないというか気づいていないことがありそうだから、ついつい物事を論理的かつ合理的に考えながら行動する習慣に対抗して直感や勘の優位性を幻想したくなるのだが、果たして両者を対立的に捉えてどちらか一方の優劣を決めつけることが可能かというと、たぶんそうではなく折衷的かつ接ぎ木的に組み合わせる術を試そうとして、その場の運や成り行きに左右されてうまく行ったり行かなかったりすれば、戦略や戦術として総合格闘技などの比喩が思い浮かぶわけだが、そういう戦い方などの方法論の類いに思考が深くのめり込んでしまうと、そういうことの是非や善悪とは別の方面から何かを見失ってしまうというか心身のバランスが崩れるというか、そうなっていることに気づかないうちに、おかしなこだわりや思い込みに囚われていることにも気づけなくなってしまうのかも知れないが、それは身体を鍛えることの比喩と連動しているのかどうかも、それも比喩ではなく直接身体を鍛えている人も世の中にはいくらでもいるから、何かそういうところで勘違いな論理や理屈がまかり通っていそうなのだが、それが現状でもわかっていないことなのかどうかも、直感的にはおかしいと思うし、勘が危険信号を発しているように思われるから、そういうこだわりや思い込みに囚われている人や勢力からは距離を置きたくなってしまうのだが、それが世間の一般常識に照らし合わせておかしいのかというと、むしろそういう世間の一般常識に囚われている人たちがそんな傾向にハマってしまいがちになりそうだからヤバいのかも知れず、何かそこに落とし穴のような罠が仕掛けられているならわかりやすいが、必ずしも愚かで浅はかな人たちがそうなるということではなく、中にはそうなる人もいる一方で、割と優秀で有能そうに見られている人の方がそうなりやすいのも、かつてのオウム真理教などの新興宗教の幹部たちが学業の方面で偏差値が高そうな人たちであったことも思い出されるが、そういう方面へ心身が深くのめり込まないで済むような方法がないものかと考えると、否応なくそういった方面へと興味や関心が向くならそれにまかせておけばいいにしても、そこへ深くのめり込まないで絶えず軽く浅瀬にとどまるように心がけられるなら、比喩として足首まで浸かる程度で済ませるようなやり方を編み出せばいいような気もするのだが、しかもヤバくなってきたらすぐに逃げ出せるように、日頃から逃げ足の速さを鍛えるような鍛え方も比喩としてなら思い浮かぶが、実際に何をどう鍛えれば逃げ足が早くなるのかなんてわからないし、それも逃げ足の速さを身につければ逃げ切れるような対象が何なのかもよくわからない限りで、何にしても鍛えようがないだろうが、その種の比喩自体も、そんな比喩を持ち出されてもっともらしく説明されるとわかったような気になってしまうから、それも勘違いのなせる業でもあるから注意しなければならないとしても、それがわかっているようでいてわかっていないことだと絶えず意識できることでもないから、気がつかないうちに何かのこだわりや思い込みや偏見や固定観念などに分類される否定的な心身の傾向に凝り固まっていて、そうなってしまうと心身の柔軟性も欠如してその分だけ逃げ足も衰えておかしなこだわりに囚われた勢力に捕まってしまうのかも知れず、しかも捕まっていることにも気づけないと、そうなっているのを当然視するような自然な感覚も身についてしまうから、果たしてそれが世間の一般常識に囚われていることの証しなのかどうかも、そうなっている自身の心身の状態を否定的に捉えるか肯定的に捉えるかで感触も感覚も違ってきそうだが、もちろんそれが世間の一般常識程度のことであるなら、まだ深くのめり込まないで浅瀬にとどまって足首まで浸かっている程度の状態で済んでいるはずだが、他人に向かって自分たちと同じ態度や姿勢になるように同調圧力をかけてくるようならどうでもいいような程度ではなく、それを金科玉条の如くに守らなければならないような、守っていない他人に向かって非難すると共に制裁を加えたくなるような心理状態となってくるなら、もう逃げ道のない後戻りの利かない段階まで到達している証しとなりそうで、そうなってしまった者たちがどうなるのかといえば、一般的に言うなら民族集団と呼ばれている人々がそんなカテゴリーに属していそうだが、それを国民に求めてしまうと、非国民を告発するような成り行きにもなりそうで、そういう人たちが好んで使う用語としては、売国奴という言葉も連想されるだろうが、それもたぶんどうでもいいような他人に向かって非国民だとか売国奴だとか罵声を浴びせないだろうから、彼らにとってはどうでもいいような対象ではないわけで、普通に考えて敵対している同胞が非国民であり売国奴であり民族の裏切り者と呼ばれそうだが、同じ裏切り者であっても主義主張の裏切り者もそう呼ばれそうだし、宗教や宗派の裏切り者も異端として攻撃されるわけだ。
6月9日「捏造と製造の違い」
絶えず何かが足りない状況の中で、足りないならその足りない何かを捏造すればいいわけではなく、捏造するのではなく生産すればいいと考えるなら、現状でその何かを生産する体制が整っているかというと、そういう意味での生産ではなく、捏造も生産に含まれるかというと、AIに訊いてみると、捏造は生産には含まれないとはっきり答えるのだが、捏造は存在しないデータや結果を創作することであり、生産は資源や技術を投入して有益な商品やサービスを作り出すことを意味するそうだが、さらにわかりやすい違いとして、捏造と製造の違いをAIに訊いてみると、捏造は存在しない事実やデータを作り上げる行為であり、製造は素材や部品を加工して製品を作り出す行為だそうだが、製造しているつもりでも実際には捏造しているに過ぎないとしたら、製品を製造して製品の価値を捏造できれば、果たしてそれでうまくやったことになるのかならないのかも何とも言えないところだが、そこで捏造と製造の違いが理解できるか否かで、何がどう変わるかというと、この世界に対する認識が変わるならしめたものだが、そう簡単には理解できないとしたら、それを理解してもらうためにも捏造と製造の違いを詳しく説明したくなってくるわけでもなく、AIに訊いてみるまでもなく、その程度のことは誰でも理解できるはずだが、例えばいくら紙幣を印刷したり貨幣を鋳造しても、通貨の価値や価格は国内外の景気動向や経済情勢や、そんな状況や情勢を踏まえて行われる実際の為替取引などから決まってくると言えそうだが、価値や価格が決まっても決まったままになるわけでもなく、絶えずその場の状況や情勢の変化に応じて変動し続けるわけだが、少なくとも実際の為替取引によって通貨の価値や価格を捏造しているとは言わないし、もちろん生産しているとも製造しているとも言わないが、紙幣や貨幣なら生産しているとも製造しているとも言えるから、それとこれとの違いも誰もが容易に理解できるはずだが、生産されたり製造された物や情報やサービスの価値や価格となると、それらの売買や貸借を通して、それが行われる度ごとに暫定的に決まってくると言えそうだが、それを消費したり使ったり溜めておいたりする過程でもその状態や質の劣化具合によっても、その量の増減を踏まえても、競合してくる他の物や情報やサービス次第でもその価値や価格が暫定的に決まってくるから、それらを無視したり省略して単純にこうだとは言えないことも、誰もが自覚できないまでも自身でも気づかないうちに暗黙裏に理解しているはずだが、それに関して例えば山本太郎が街頭演説の際に、自説の正しさをそこに集まった聴衆に信じ込ませようとして、世界の経済的な方面で権威とされる複数の人物たちの発言を取り上げて見せるのも、その場で自説の価値を高めようとしていることの表れに過ぎないと馬鹿にしたり貶したいわけでもないのだが、果たして山本太郎がそこで気づいていないことが、日本で貧困化が進んでしまった原因が政府が国債を発行し過ぎて自国の価値を損ねてしまったことなのかどうかも、今のところは山本太郎に直接訊いてみる機会が巡ってこないから何とも言えないわけでもないが、さらにはそこで自説に都合の良い発言やデータだけ使って聴衆を信じ込ませることが、価値の捏造だと言えるかどうかも、そんなのも他のどこでも行われていることだから、山本太郎だけを責めるわけにも行かないことだが、何かそういうところではっきりこうだとは言えない物事の経緯や事情が絡んでくるから、それを良し悪しや是非で判断してこうだと決めつけるのは躊躇してしまうとしても、山本太郎もトランプと同じように緊縮財政ではうまく行かないことに気づいているのかというと、両者共にそんなことに気づいているわけではなく、その場の成り行きで否応なくそうなってしまっていると言えないこともないから、政府の矛盾が彼らをそうさせると理解したいわけでも理解できるわけでもないのだが、政府の存在の何が矛盾しているのかと言えば、それも矛盾とも言えないのかも知れないが、自国通貨を発行しているのに、通貨の供給量や供給額を調節できるとしても、自国通貨を発行しているから財政破綻することはないと豪語している人物が世界中にいるとしても、また山本太郎が言うように日本が貧困化した原因が消費税の導入にあると決めつけてみても、たぶん何かが足りないように感じられるのだが、それが言い足りないようなことだとは思えないし、そもそも日本が貧困化していると決めつけられても、その貧困化の程度を勝手に決めつけられても、それに関する妥当な国際的な基準もあるかも知れないが、それでも何か釈然としないわけで、その一方でわかっていることと言えば、日本の国債発行残高が他の諸国と比べて際立って多いということであって、それが対GDP比で突出して多いから、財政破綻しているわけでもないが、問題視するならそこを問題視したいわけで、また山本太郎がギリシャが自国通貨を発行していなかったから財政破綻したと誤解しているのも、逆にいったん財政破綻したから、その後経済が立ち直って、今ではそれなりにうまく行っているわけで、だから必ずしも財政破綻させないようにするにはどうすればいいのかという目標を設定する必要も、確かにそういう目標を設定しないと、政府の財政運営を担当している財務省としては是が非でも財政破綻させないようにしたいところだが、逆に何度も財政破綻してきたアルゼンチンでは緊縮財政派の大統領が登場して、それなりにうまく経済の舵取りをやっている現状もあるから、そういう意味では積極財政派と緊縮財政派の対立軸も、そういうところで対立軸を設定するのも、恣意的なその場の都合や事情や経済情勢に左右されてしまうから、是が非でもそういう基準を設定することが多くの人々にとって切実にそうしなければならないことなのかどうかも、何とも言えないような気がしてしまうから、どうしても山本太郎が街頭演説の際に熱っぽく語る内容を、自分がそれほど真に受けているわけでもないのだが、それでも山本太郎と仲間たちがやっている活動を応援したい気になってしまうとすれば、市民運動の延長上では結構成功している部類に入るのではないかと見ていて、ちゃんと国会議員もそれなりの人数を当選させている結果を見れば、何となくすごいことなのではないかと賞賛したいわけで、その一方でトランプが関税政策や減税政策を強行して今後3年以内にアメリカを財政破綻させてしまったら、それもすごいことだと賞賛できるわけでもないにしても、すでに債務超過の財政破綻状態なのかも知れないから、それでも何ともないわけではないだろうが、何となくそういう成り行きのまま、トランプも残りの大統領の任期を全うするならそういうことだと受け止めるしかないわけだ。
6月8日「疑念を抱く理由」
わざと事態を込み入らせてこんがらがった内容を語りたいわけではなくても、語っているうちに自然とそうなってしまうなら、そういうことについて語っていると思うしかないが、何かおかしいと思うなら、それについて語ればいいと思ったところで、何がおかしいのかわからなかったり、おかしいと思うのにうまく語れなかったりすると、何がおかしいのかわからないことがおかしかったり、おかしいと思うことをうまく表現できなないことがおかしかったりするから、本当は何がおかしいのかわからないわけではないのだが、それをうまく語れないことがおかしいと、それ自体がおかしいのはもちろんのこと、おかしいことの自己言及パラドックスのような様相を呈してくるというと、何を述べているのか自分でもよくわからなくなってしまうが、そういうことではないとすれば、ではいったい何なのかというと、それがわかれば苦労はしないが、苦労しながらも何かしら語っているなら、その語っている内容を真に受けることが何を意味するとも思えないにしても、その語っている対象が現実に起こっていることなら、そういうこんがらがったことが起こっているから、それについて語っている内容もこんがらがってくると思うしかないが、実際に何がこんがらがっているのかといえば、世の中で起こっていることの全てがこんがらがっているわけでもないのだろうが、こんがらがった物事の成り行きが興味深いからそれについて語りたくなるわけで、それだけこんがらがったことには魅力があるというと、こんがらがってわけがわからなくなってうんざりするようなことの何が魅力なのかと疑念を抱かざるを得ないが、現状でも同時並行的に様々な物事が進行中だから、それらの全てに関わりがあるわけでも全てが言説の対象となるわけでもないのだが、それでも何か感覚として語るのに相応しいわけでもないのに、言及せずにはいられない何かがあるらしく、それが何だかわからないうちに見切り発車で語り始めてしまうから、語っている途中から何を述べているのか自分でもわけがわからなくなるから、より一層事態がこんがらがってくるのかも知れないし、そんなこんがらがりように困惑しつつも楽しんでいると思い込めるなら、ただ単に強がっているに過ぎないだろうが、何を強がっているわけでもないのにわざと強がっていると嘘をついてみたところで、事態が改善に向かうわけでもないが、それが渦中の中心にいる人物の個人的な資質には還元できないことも、例えば兵庫県知事を巡って執拗に付きまとうフリージャーナリストたちのこんがらがりようが物語っていると指摘するなら、その通りだと言えなくもないが、何かそこでそれにまつわる言説の空疎な中心に知事その人が存在するかのような幻想がそれらの者たちの間で共有されていて、それが全くの虚構でありフィクションでしかないから、知事本人に記者会見などの場でいくらアタックをかけても空回りするばかりで、知事を頂点とする地方自治を担う官僚機構全体がその件については何も語らずに無言を貫いているから、もはや過ぎ去ったことでしかないと事をうやむやにしたい意思表示だと想像されてしまうのだが、しかもそれらの話の成り行きもトータルでは辻褄が合わないことも想定されてしまって、それに関係して自死に至ってしまった人が何かの被害者であることは確かなのだろうが、その何かという成り行きもこんがらがっているから、その空疎な渦中の中心に何があるわけでもなく、誰がそこにいて何をやろうと、どうでもいいことだったのかも知れないから、余計にそれを物語る無意味なイベントが目立ってしまって、それに絡んで行政の無駄も明らかになっているのだが、その一方で無駄で無意味なイベントをやらないと行政が立ち行かないから、そこから政治の無駄も明らかになってくるのだが、結局は役所の窓口業務だけやっていれば行政も低コストで済んでしまい、その分で浮いた予算を社会保障関連の費用に回せば、結果的に財政健全化も達成されると幻想を抱いてしまいたくなるのだが、現状ではそれでは済まない成り行きに囚われているから、トランプがやっているみたいなこんがらがったおかしな事態になっているのも、そうなって当然のような気がしてくるのだが、どうしても話の辻褄がトータルで合うように語らないと説得力が出ないから、部分的なもっともらしさを積み重ねながらそれで何か正しいことを述べているように装いたいのだが、どうも現実の世界がそうはなっていないことが多くの人々が薄々勘づいていることでもあるから、部分的な確かさやもっともらしさや正しさを提示する言説には信用できない面もあるらしいこともわかっているわけではなくても、それもたぶんわかっていなくてもそういうことなのではないかと想像できてしまう限りで、それについて誰が何をどう語っても、信じられるようなことではないと思っておいた方が無難なのかも知れず、そういう面ではN国の立花氏やトランプなんかがいくら嘘をついても逆説的にこの世界では正直者なのであり、彼らの言っている内容も逆説的には信用できると思いたいわけで、正直者は絶えず嘘をつかざるを得ない立場に追い込まれると思っておいても構わないわけだが、そんな嘘つきの正直者たちが敵対しているつもりになっているのがリベラル勢力だと思っておくのも無難なところだが、その一方で陰謀論的にはリベラル勢力こそがディープステートであり、彼らが各種の官僚機構とグルになってこの人間世界を支配しているとデマを吹聴したいが、それも逆説的には確かでもっともらしくて正しい認識だと言い放ちたくなるが、それらがことごとく逆説的にはそうだと思われてしまうのだから、その逆説的という但し書きがどういうことなのかというと、それをうまく説明できればすっきりするのだが、すっきりしてしまうと嘘になってしまうから、すっきりしないままにしておきたいわけで、すっきりしないままになってしまうと何を語っているのかわけがわからないままにもなってしまうから、確からしくてもっともらしくて正しいことを述べてすっきりしたくなるのだが、どうもそうは行かないような成り行きに囚われているらしく、だからわざとわけがわからないふりを装いながらも事態を込み入らせて考えているふりも装いながら、何かはっきりしない奥歯に物が挟まったような物言いになるしかなく、正直者であろうとすれば嘘をつかざるを得ないような事態に追い込まれながらも、それを嘘つきだと非難してくるリベラル勢力と敵対することによって、かろうじて世の中に働いている力のバランスをとろうとしているのではないか。
6月7日「部品人間の狡猾さ」
部品人間というと自分の勝手な造語に過ぎないのだが、昨日の国会で選択的夫婦別姓法案の質疑の中で、立憲民主党の法案を説明する米山議員に執拗に難癖つけて食い下がる自民党の議員が元法務官僚で検察官だったのを、その人の経歴を調べて知った際に、なるほど官僚機構の部品だったのかと思い浮かんでしまったのだが、何か裁判ドラマの一場面のような感じで、弁護士と激しくやり合う検事の姿も思い浮かぶが、それが人の血が通っていないような冷徹さというか、どうしてもその種の人材には悪い印象しか抱けないし、それが兵庫県のサイコパス知事とも通じる雰囲気がありそうだが、もちろんその知事もその種の専門家の定義上はサイコパスには分類されないそうだが、人を悪く言うには状況証拠的にもっともらしくサイコパスだとか人の血が通っていないとか、ついついその種の紋切り型的な表現を使うとしっくりきてしまうから使わざるを得ないのだが、たぶん自分が米山議員と同じ立場だったら、その元法務官僚の議員に言い負かされてしまって、保守系メディアに立民の法案に欠陥があるかのような印象を拡散されてしまいそうだが、それだけその種の人材が有能であることは認めざるを得ないし、体制の維持にはその種の有能な部品人間の存在が欠かせないと考えてしまうが、有能なのは認めざるを得ないとしても、その有能さが人間的な欠陥と表裏一体の関係があるような気がしてしまうのも、その人間的な欠陥というのも、自分が勝手に抱いていそうな人間の理想像にそれらの部品人間たちが当てはまらないから、まるで欠陥人間のように思われるだけで、どう考えてもその種の部品人間たちには自分のような中途半端な無能人間では太刀打ちできそうもなく、どちらかというと自分の方が人としての欠陥の度合いも大きそうだが、それが有能だからこそ欠陥があるように見える部品人間たちとは欠陥の種類が違うような気もするから、そういうところで部品人間たちの使われ方がもったいないような気がしてしまうのも、逆にあんなふうにしか使いようがないから、ああいう人材はああいう場面でこそ効果的に使われる理由があって、その有能さがその種のディベート的な議論を通して印象づけられるような成り行きに至れば上出来なのだろうが、それにしても工夫次第でもっと何とかならないものかと残念な印象しか残らないから、自分の立場的にはああやって選択的夫婦別姓を阻止したい勢力とは利害が異なりそうだが、それもはっきりと利害だと言えるようなことでもないかも知れないし、利害とは違った傾向を伴って、夫婦別姓にしたい事情や経緯がある人が別姓したいならそれで構わないんじゃないかと思うだけで、そんなふうに他人の自由を尊重したい気持ちになってしまうのだが、世の中にはそれを断じて認められない立場というのもあるらしく、そういう立場に凝り固まった勢力が部品人間たちを使ってそういう自由を認めない体制を作り上げていると捉えれば、他にも様々な自由を認めないことによってその種の体制が社会の中で築かれていることに気づくかも知れないし、学校の校則なんかもすぐに思い浮かぶ自由を認めないルールだろうし、生活指導という摩訶不思議な指導をする役割を担った部品人間たちが学校の生徒に不自由なルールを強制するわけだが、そういう制度の元を辿れば、人が家畜を飼育する習慣から、それが家畜ではなく人を飼育する制度となって反転することによって、法治国家的な社会の仕組みが構築されたことになるのかならないのかも、そんな単純な理屈ではないとその種の専門家に馬鹿にされそうだが、昨日の国会の審議でも、他人の自由を認めるか認めないかの単純な是非ではなく、法整備に伴う技術的かつ手続的な次元へと議論を誘導して、その不備を追及するという枝葉末節な重箱の隅をつつくようなやり方で攻め立てる部品人間のずる賢いディベート術に腹が立ってくると共に、そんなせこいやり方を何食わぬ顔して平然とやってしまうお前は恥ずかしくないのかと罵声を浴びせたくなってくるが、それがあちらの思うつぼで、相手が苛立って思わず言い間違えて理屈に合わないことを言ってしまったり、言葉に詰まってうまく受け答えできなくなってしまえば、今度はそこを攻め立ててディベートに勝って相手の非を印象づけたいのだろうから、ちょっと素人の自分では向こうの術中にハマっていいように軽くあしらわれてしまいそうで、確かにそういう言語術的なディベート術の類いは官僚機構の中ではそれなりに有効に機能しそうだが、何か本質的な面ではそうではないような、そういうせこい技術が通用しないような領域で行われていることがあって、それが何かといっても、ただ漠然とそうではないような気がするだけで、これといってはっきりしたことは言えないのだが、そういうことに気づいていない者たちが、あるいは気づいていないふりを装っている者たちが無自覚にこだわっているのが何なのかというと、その中の一つとして、選択的夫婦別姓の制度改正を阻止しようとして、長年にわたってあれやこれやの妨害工作を仕掛けていると事態を捉えても構わないのかというと、それもそれだけではなく、他の諸々の経緯や事情も否応なく絡んでくるから、結果的にはそんなみみっちい成り行きに多くの人々が意識を囚われてしまうことになるのかも知れないし、それによって直接には何がどうなるとも思えないのだが、多くの人々がそういうことにこだわっていること自体が制度的かつ慣習的な安心感をもたらすのかも知れず、それが社会の一体感を生じさせるとしたら、紛れもなく衆人環視の同調圧力によってその種の一体感が醸し出されているわけだが、そういう一体感を崩壊させるきっかけがどこからやってくるのかといえば、それもわかりきったこととして誰もが気づいているのが、移民によってもたらされると恐れているわけで、誰もがそれとなく認めて守っている暗黙の了解事項を解さない存在としての移民の存在が、今まで多くの人々が協力して守ってきた衆人環視社会の崩壊をもたらす恐れがあるから、是が非でも阻止しなければならないこととして、移民の国内への侵入を阻止しなければならないと考えるなら、では衆人環視の中で何が守られているのかと言えば、果たして女性が結婚したら男性の姓に改名しなければならない掟が、暗黙の了解事項として日本では守るべき慣習として定着しているのかといえば、婿養子という制度もあるだろうし、そうなるとそれは家を守る制度なのかというと、それも何とも言えないところだが、とりあえずそんなみみっちいことにこだわっているから何がどうなるわけでもないし、こだわりたい人がこだわればいいのだろうが、それを他人にも強要できるかというと、強要したければすればいいような気もするが、それもそんなこだわりとは別の方面で、少子化によって同質的な衆人環視社会そのものが衰退しつつあると言ってみても、それもそんな気がする程度のこととして、あまり真に受ける気にもなれないわけだ。
6月6日「一件落着の気配」
感触としてはそれで良かったんだろうが、実質的にはヤバい事態になったような感じもしないではないが、今回のトランプ騒動の顛末がまだ一段落ついていないうちから、何を述べても意味をなさないような気はするが、トランプを利用したイーロン・マスクによるアメリカ政府の財政健全化の試みが失敗に終わったのか、あるいはまだ失敗とも言えず、不調に終わった程度のことなのか、まだこれからベッセント財務長官の手腕でどうにかなるようなことなのかどうかも含めて、何か一件落着したような気がするが、今後もうまく行かないとしても、これで良かったんじゃないかと好意的に受け止めたくなるようなことだと、イーロン・マスクがトランプと決裂してテスラの株価が急落した現時点では、そう思われてしまうのだが、それだけイーロン・マスクの人としての在り様が皆の想定を超える何かを窺わせるわけで、それに比べてハーバード大学を弾圧するトランプを批判的に扱う日本のメディアの姿勢というのも、何か解せないものが感じられて、今回のトランプ騒動に対するリベラル系のメディアの報道の受け止め方というか、それが何となく印象の悪さを感じさせるようなことだと受け止めているわけだが、金持ちの家庭の学生には年間一千万円を超える学費を支払わせて資産運用によって数兆円の資産を築き上げている全米一の金満大学に対して、アメリカ政府がそもそも助成金を出す必要があるのかどうかに関しては、他の大学への助成金との比較で妥当な金額なのかどうかもわからないから、何とも言えないが、表向きの理由が反ユダヤの姿勢というか、ガザ地区でのイスラエル政府の蛮行を非難する学生運動への取り締まりの延長上で出てきたことだから、リベラル系のメディアとしては当然ハーバード大学側を応援する立場になるのだろうから、そういうところは別に違和感を覚えないのだが、その一方でアメリカの金持ち支配層のビジネスエリートたちを生み出すのがハーバード大学などの名門私立大学なのではないかと勝手な偏見を抱いていた自分の認識を改める必要に迫られているのかどうかも、あまりそんな気がせずに、それが勝手な偏見だとも感じないのだから、ハーバード大学側を応援するリベラル系のメディアも金持ち支配層と一心同体なような印象を受けるのだが、それとこれとは別問題として、イスラエル政府によるパレスチナ住民の虐殺行為に抗議しなければならない姿勢というのも、正義の味方を気取るリベラル系メディアとしては譲れないところだろうから、そういう微妙な物事の絡み合いにもちょっと困惑しながらも、少なくとも事の善悪と事態を単純化して捉えるわけにも行かないし、その一方でイーロン・マスクがこのままではアメリカ政府の財政状態が大変なことになると警告したい気持ちが、まさに日本の財務省がこのままでは日本政府の財政状態が大変なことになると警鐘を鳴らしてきたことと重なるから、それもどう捉えたらいいのか悩ましいところなのだが、たぶんイーロン・マスクも日本の財務省もそれなりに確からしい見通しに基づいて警告したり警鐘を鳴らしてきたのだろうから、そういうところは真に受けた方が良さそうに感じられるのだが、その一方で積極財政派の無茶に感じられる主張というのもあって、さらには山本太郎の消費税廃止一点張りの主張というのもあるから、同時並行的に相容れない複数の立場や主張が共存しているような印象を受けるわけだが、それらのうちでどれか一つの立場や主張を支持する気にはならないし、それらが互いに互いを牽制しながら矛盾しつつも共存状態を維持することが肝要なような気もするから、そんな不条理な状況をどう捉えたらしっくりくるわけでもなく、しっくりこない方が良さそうにも思われて、そのしっくりこなさ加減に関しては、リベラル系メディアが意図して伝えないのかそれに気づいていないのかは定かではないのだが、ついここ一日二日の出来事でも、例えば韓国の新大統領が積極財政派なのを一切伝えようとしない姿勢も解せないし、ハーバード大学が金満体質でビジネスエリート養成機関であることも一切伝えないのも解せないし、その一方でイーロン・マスクがドイツの極右政党に支持を表明したことはこれでもかと延々と伝えて、結果的にテスラが欧州で販売不振に陥っているのもこれでもかと伝える一方で、イーロンが取り組んだ政府効率化省の関連では、人道支援関連の予算の削減は批判的に伝える一方で、政府効率化省が突き止めたとされる年金の不正受給や予算の不正流用や不正支出や明らかに無駄で不要な支出などについては、嘘だデマだの一点張りで否定するばかりだったかも知れないのだが、なるほどそういうところで自分が実感した印象としては、結局リベラル系メディアと言えども功利的な利害で動いているように感じられたわけで、だからといってトランプに理性や倫理を求められるわけでもないから、どっちもどっちというわけでもなく、できればリベラル系のメディアには理性や倫理を尊ぶような見識が高いことを期待したいのだが、どうも実態としてはそうではないことを感じられたわけだから、どのようなメディアであっても信用できない印象が強まっただけでも、トランプがもたらした効用だと言えそうだが、もちろん政治家としてトランプと山本太郎が比較対象となるわけでもないし、消費税廃止一点張りの山本太郎の方がトランプよりも信用できるかどうかに関しても、両者の間で立場がかなり異なるだろうから、イーロン・マスクを切り捨ててでも減税を行うつもりのトランプが信用に足るかどうかに関しても、それもトランプがやりたいならやればいいんじゃないか程度の認識にしかなれないのだが、その一方で国債の発行に関してなら、コロナ前のデフレでゼロ金利状態の時期とは違って、それなりに高金利状態が定着してきているのだから、国債を発行すればそれだけ利払い費用が嵩んできて、その分が政府の予算を圧迫することが明らかになった段階で、積極財政派の数年前までの主張のように国債をどんどん発行しても、その分だけ利払い費に予算が持っていかれてしまうから、大して予算の足しにはならないことも明らかになってしまって、結局は税収が政府の主な収入源だと再認識されたわけだから、消費税廃止一点張りの山本太郎にしても、財源をどうするかが避けては通れない問題となってきそうだが、だからといってれいわ新選組がすぐにも政権を担当するような勢力にはなれそうもない情勢だから、そうならない限りで消費税廃止一点張りでも一向に構わないのかも知れないが、それとは別に今回の騒動から明らかになったことといえば、政府の歳出削減がいかに困難なのかが、改めて身に染みてイーロン本人には痛みを伴いながら思い知らされたことにもなりそうだが、そんなことでへこたれるような人間でもないだろうから、そういうところは部外者の自分にはどう受け止めることもできないわけだ。
6月5日「7月5日の大惨事」
恐ろしい大惨事が起こると予言されている7月5日が近づいてきたが、果たして1ヶ月後に何が起こるのかと考えると心配で夜も眠れないわけでもなく、どうせ大したことは何も起こらないような気がするのも、1999年の7月とあまり変わらないような気がしないでもなく、実際に大惨事が起こった2011年の3月ともそれほど変わらないような気がするから、今のところは何の予感もしないし、予兆も感じていないのだが、確か数年前には押し寄せてくる高さ千メートルぐらいの大津波から逃れるために、なぜか北アルプスの乗鞍岳まで車で向かう幻想を抱いていた時期もあって、地図を見ながら道順を思案していたこともあったが、昨年になって一年後の7月5日に大惨事が起こるという話題をネットで知って、じゃあ前日の夜にでも車を運転してどこかの山頂を目指して、駐車場で夜明かしでもしてみるかと思って地図を見ながら近場の山を探していたら、赤城山に無料駐車場があるのを発見して行ってみようかと思い立ったが、それから一年近くが経過してみると何となく面倒くさく思われて、とりあえず途中の高速道路のサービスエリアまでは行ってみて、そこで本当に大規模な地震でも隕石衝突でも起こったのを確かめてから赤城山まで行ってみるかとだいぶ計画が後退してきて、さらに前日になれば、そこまで行くのも面倒くさがって行かないような計画倒れに終わってしまいそうだが、意外と前日になって臆病風に吹かれて、慌てふためいて車を運転して出掛けてみれば、同じような心境に陥った人々が他にも思いのほか多くいて、高速道路が大渋滞となってしまい、そのまま渋滞の中で恐怖に囚われたまま夜明かしとなってしまえば、大災害の際には車で逃げようとするのは命取りだという東日本大震災の教訓が生かされないままとなってしまいそうだが、大災害が起こってもいないのにそうなってしまうのも何か間抜けな感じもしないでもなく、果たしてその時がきたら自分がどんな行動をとるのか今から興味津々というわけでもないが、もしかしたら娯楽のレベルでそんなことを感じていて、7月5日は何かのイベント程度の見立てなのかも知れないし、もしそんなことが原因で高速道路が大渋滞するようなことが起これば、思いのほかその種のイベントの参加者が多かったことになりそうで、冗談半分でおもしろがっているわけでもないのだろうが、馬鹿げたデマに振り回された挙句に事故でも起こしてしまえば悲惨この上ないから、たぶん車を運転するのはやめておいた方が良さそうにも思われて、何もしないのが一番無難で安全な気もしないではなく、そう考えればそうなるような予感もしてくるが、そうでなくてもこの世界は危ういバランスの上に成り立っていて、ちょっとしたきっかけからそのバランスが崩れて、いつどんなふうに人の命運など暗転しないとも限らず、暗転するのではなく好転してほしいのだが、暗転も好転もどちらでもないような現状の中で何をどう考えてみても、偶然に巡ってきた好機を捉えて自ら行動や言動に打って出ないと何がどうなるとも思えないが、絶えずそんな機会が巡ってくるのを待ち続けているうちに寿命が尽きてしまえばそれまでの人生なのだろうから、それによって何がどうなろうとそれをおもしろおかしく自分に都合良く解釈したくなるわけでもないのだが、どうせ自分がやらなくても実際に7月5日になれば結構の数のユーチューバーの類いが深夜から行動し始めて、自身の避難の様子を実況したりするのかも知れないし、その辺の高そうな山にでも登って、想定される大津波が迫り来るかも知れない方角に向かってカメラを構えながら朝まで実況していれば、それを自分も画面越しに自宅で見ているかも知れないし、その種のイベントに間抜け面して参加している自分の愚かさをその場で噛みしめるような心境にもなれるかも知れないが、だからといってそこから何がどうなるわけでもないだろうから、それ自体は何でもないような体験でしかなさそうだが、それが自分とは全くの無関係だとも思えないし、それを貴重な得難い体験へと変貌させる術など何も思い浮かばないが、そうではなく間抜けで愚かさを噛みしめる体験になった方が、かえってそれが教訓じみて自身のためにもなりそうだと思うわけでもなく、何も起こらなければそのままとなってしまうしかないのだろうが、今この時点で思うのはそういうことではないような気がするだけで、そうではないならどういうことなのかというと、事前の心構えとしていくらそうなった時のことを思い描いても、実際にはそうはならないことを思い知るしかなく、案外寝過ごして、その種のイベントには参加できなかったりして、そうなるように無意識が意識を操縦しながら自らの行動や心境の配分を調整してくるかも知れないし、それが思いがけない体験となるように持って行くのが無意識のなせる業だと今までに自分が体験してきた経緯からは想像しがちになってしまうのだが、そんなどうでもいいようなイベントに気を取られるように仕向けておいて、不意に自分にとっては重大な何かが起こって、それが自分を思いがけない行動に駆り立てて、思っても見なかったような結果をもたらしてしまえば、そんなどうでもいいようなイベントこそがそれをもたらすきっかけとなるのだろうが、果たしてそうなるように何が自身をそこへと導くのかも、現時点では何を想定できるわけでもないから、今はただその時がやってくるを待っていればいいのかというと、待っていなくてもその時がやってきて、自身を勝手に導いてくれればそれでも構わないが、そんな他力本願な思いでいつまで待っていても何もやってこなければ、しびれを切らして自ら行動や言動に打って出たくなるかも知れないし、今まさにそんなことをやっている最中なのかも知れないが、それが相変わらず何がどうなっているわけでもなさそうに思われて、現状では何もやっていないというと嘘になってしまうが、だからといって他人様のやっていることにいちいちいちゃもんをつけているだけでは意味がないような気もするから、なるべくなら自分独自の現状認識を示したいのだが、それが来たるべき7月5日の〇〇イベントとどう絡んでくるかといっても、その時になってみないことには何とも言えないし、案外全くの無関係なのかも知れないが、無関係だろうと何だろうと、気になって仕方がなければそれについて言及しないわけには行かないから、こうして何かしら言及しているつもりなのだが、ここまで語ってきても、何も起こらないような気がして、何の予感もしないし、何かが起こる予兆も今のところは感じないから、どう思ってみてもどう考えてみても、イベントが空振りに終わってしまうような気がしてならないわけだ。
6月4日「積極財政派の勝利」
それが何なのかといっても、それに関しては誰も事態を完全には把握しきれていないし、誰の理解をも超えたことが今まさに起こっていると大げさに事態を捉えたいわけでもなく、だからといってそれが大したことでもないとたかを括りたくなってくるわけでもないなら、いったいどんな事態に直面しているのかというと、人の把握力にも理解力にもそれ相応の制約や限界があるから、それがどんな事態だとしても、誰もがそこから目を背けたくなるわけでもない代わりに、実際にそこから目を背けていることに誰が気づいているかというと、そんなのはあえて見なくてもわかったつもりになりたいのかも知れないし、それに関しては都合の悪い面は見ずに都合の良い面だけ見ようとするから、そういうご都合主義的な姿勢が事態の完全な把握を困難にしていると考えたくなってしまうとしたら、そうなると見るのではなく考える対象としてそれがあるのかというと、それがあるというよりはそれが起こっていて、今まさに起こっている事態について考えようとしているはずだが、いったい今何が起こっているのかというと、とりあえず韓国では積極財政派の大統領が誕生して、ドイツでも長年の緊縮財政から積極財政へと舵を切ろうとしていて、アメリカでも緊縮財政派のイーロン・マスクが政府から去って、トランプの減税案が下院を通過して上院で審議中のようだが、それらの一連の出来事から何が導き出されるのかといえば、世界各地で積極財政派が勝利しつつあると事態を捉えても構わないかというと、そう考えるのに都合の良い出来事だけつなぎ合わせて、全面的にそう結論したくなるわけでもないにしても、たまたま何かの途中経過の中で過渡的な情勢を暫定的かつ恣意的に切り取っているに過ぎないから、ここから事態がどう転ぶかわからないと述べておく方が無難かも知れないが、その一方で日本では積極財政派の山本太郎ではなく、偽の積極財政派の玉木雄一郎が総理大臣になれば、何となく日本にはお似合いの状況だと言えないこともないが、玉木ではなく自民党の高市早苗が石破の次の総理大臣になれば、それも形の上では積極財政派の総理大臣が誕生したことになるだろうから、そっちの方が確率が高そうな予感もするが、高市ではなく今話題の小泉進次郎が積極財政派だと言えるかどうかとなると、父親の小泉純一郎に関しては竹中平蔵とセットで散々新自由主義のレッテルを貼られた過去があるが、新自由主義はどちらかといえば積極財政というよりは緊縮財政だと言われているから、息子の小泉進次郎が父親と同じというわけでもないから何とも言えないが、一概に積極財政派といっても、政府の予算を何に使うかでも捉え方が変わってくるだろうから、積極財政と緊縮財政の対立軸から事態を捉えてみても、粗雑で大ざっぱなことしか言えなくなってしまいそうで、そういう切り口では事態を正確には捉えられないとすれば、ではどんな切り口だとしっくりくるのかと言えば、例えば民間の経済活動をどうやれば活性化させられるかに関しても、それが単なる金融面での直接の財政出動だけで構わないのかどうかに関しても、安易に減税減税と叫んでいる勢力の魂胆が浅はか極まりないことにどれほどの人々が気づいているかも疑問だが、それが民間の経済活動という範囲ではなく、人の活動の全てを含んでくれば、ちょっと違った光景が見えてくるかも知れないし、経済という言葉をどう捉えるかでも、狭義の経済ではなく、金銭のやり取り以外でも人や物や情報やサービスを介した活動があることに気づきそうなものだが、そうした活動の中で何が活動を妨げる障害となっているのかに関して、すぐには思い浮かばなくても、人の活動を拘束して制限や制約を課している物事があることに気づくなら、それを撤廃したり解放すれば、さらに活動が活発化しそうに思われるはずで、そうした制限や制約をなくして活動を活発化させたり活性化できれば、何も経済活動に限らず、活動の自由度が増してくるはずだが、それに関しては、たとえ積極財政派を標榜していても、人の活動に制限や制約を課そうとしている勢力であれば、そういう制限や制約が回り回って経済活動の活性化も阻害するようなことになってしまう恐れがあることにも気づいているかというと、これから日本の国会で審議することになっている、その種の制限や制約の撤廃を目指した法案について、どのような態度で臨んでくるかで、それらの勢力が人の活動全般に制限や制約を課そうとする制度や慣習を頑なに守ろうとするなら、そういうことだと理解するしかなく、そんな成り行きを通じて、人の活動全般の中で経済活動だけが何ら特別な活動なのではなく、活動全般の自由度を高めることが経済活動の活発化や活性化にもつながるかどうかについても、またそこに傾向的で法則的な理屈や論理が働いているか否かも現時点ではわからないが、直接的な金儲けの画策や企みとは違う方面からの働きかけが、回り回って経済的な豊かさもそのついでにもたらすような幻想がどこから生じてくるかにも注目したいところだが、そういうところで何かしら勘違いの類いが生じてくるのかも知れず、それに関して人が経済的な豊かさを求める際に何を勘違いしているのかというと、必ずしも利己的な思惑や行動や言動にこだわることが、それを実現するための近道だと考えるなら、別にそれが勘違いだとは思われないのだろうが、何かそうではないことを思い知るに至る機会が死ぬまで巡ってこない場合もあり得るかも知れないが、思い知らなくても構わないというか、かえって思い知らない方が自らが信じている理屈や論理に忠実に行動できて、意味不明な不条理感も覚えないだろうが、その不条理感が何なのかというと、それがトランプ政権が抱え込んでいる不条理なのかも知れないし、単純に金銭的な利益を求めるわけには行かないことが、トランプ自身の言動と共にその身を以って示されるようなことなのかも知れないから、今後の動向にも注目したいわけだが、イーロン・マスクにはそれがわかっていないのかというと、わかっていないがマスク自身の勘が示しているから、そこから言動と行動のずれや違いも生じてきて、何か皮肉な結果と共に言っていることとは裏腹な失敗や成功がもたらされると、イーロン自身もうまく立ち回ったことになるかも知れないし、さらにそんな結果のついでにトランプ自身の言動も救われることになりそうだが、どう見てもそうはならないような気がするから、両者にとっても思いがけない事態が想定されるだろうが、そうなったからといって、世界経済がどうなるわけでもないし、たとえアメリカ経済がどうにかなってしまっても、誰にとっても暫定的な観点から考えるなら構わないようなことなのかも知れない。
6月3日「代替品と代用品の違い」
どこかの誰かと同じような意見を述べるなら、政府を批判するポピュリストが民衆が貧困に陥っているのを誰のせいにしたいのかと考えるなら、それとこれとはちょっと違って、もうすでに答えが出ているのがわかってしまうが、それを誰のせいにしたいわけでもないなら、他に何が言えるのかというと、単純なことは言いたくないなら、貧困という結果を問題視するのではなく、他の何を問題視すればいいのかというと、それをあからさまに問わないことが肝要で、その代わりに何を問うわけでもないと見せかけて、例えば米不足や米価高騰の原因を明らかにしたくない代わりに、いきなり何を言い出すのかといえば、〇〇が悪いと特定の人物を米不足や米価高騰の犯人に仕立て上げようとする魂胆がどこから生じてくるのかと問うなら、ただ単に米の輸入関税が高いから外国から安価な米が入ってこないというありふれた事情がありそうなのだが、そんなことは絶対に口が裂けても言わない代わりにメディアを通して識者の類いが何を言い出すのかといえば、トランプがいくら関税を上げても商品の価格に転嫁されて最終的に物価高で苦しむのはアメリカの消費者だと利いたふうな意見を言うとすれば、じゃあ米の価格高騰で苦しんでいる日本の消費者はどうなんだと問い返したくなってくるが、それとこれとは別問題だと言わせないような事情や経緯が日本とアメリカの違いとして意識できるかというと、そんなことは日本の民衆には意識させないようにしているのが日本側のメディア事情かも知れないが、トランプがアメリカの製造業を保護するために高関税をかけるのは批判するくせに、日本政府が日本の農業を保護するために高関税をかけているのは黙認するのかと批判したいわけでもないが、それが誰でも気づきそうな批判の単純化を避けるための言い訳として機能させたいわけでもなく、なかなか妙案が思い浮かばずに考えてあぐねているわけでもないから、そんなのは考えるまでもなく、無視すればいいと言えないこともないが、また例によって政府のせいにして、しかも備蓄米の取り扱いがどうたらこうたらという仕様末節なレベルで批判の言説を構成できれば、根本的なところへ問題視する視線が及んでしまうのを避けることができると踏んでいるわけでもないだろうが、それを批判する側にはそういう自覚がないのかも知れず、逆にそれを自覚してしまうと困ってしまうわけでもないなら、では何を自覚すればいいのかというと、そんなのは各人が自身の置かれた立場を正当化できるように言説を構成するだけで事足りると言い放ってしまえば何事も問題はなさそうに思われるわけでもないが、それに関しては重箱の隅をつつくような細かなことを言い出すときりがなくなるから、それが難癖をつけているようには思わせないようにするための工夫が必要となってくるなら、工夫を凝らせる自信もないのだが、農業に関しては耕地の形状や気候や地理や産業構成の歴史的な変遷の経緯や国内事情や他にもいくらでも言い訳が構成できるなら、何でもかんでも政府の農政の失敗には還元できないようなことにもなってきそうで、現状ではそれらの要因や要素が複雑に絡み合っている中でも、これといってうまく行くようなやり方も実施できないとあきらめてしまうのではなく、実際に苦し紛れに否応なく政府が実施していることがうまく行っているように見せかける工夫が求められているようにも見えてしまうから、そういう見せかけの工夫を見破ろうとするジャーナリズム的な批判力が試されていると現状を都合の良いように受け止めるなら、そんな成り行きに応じた批判の言説もそれなりに肯定したくなってしまうのだが、だからといってそれをいくら批判したところで、何がどうなるわけでもなさそうにも感じられるから、その種の批判など一切無効だといきなり言い放ちたくなるのをこらえながらも、それでも何が言えるかと試行錯誤しても何も言えないわけでもないのだが、それを言うのではなく、記述された文章として構成しなければならない事情に従うことが肝要なのもわかりきっているのだが、どうもそれもうまく行きそうもない気配を感じてしまって、それについて書き記している途中で否応なく方向転換すると、それを代替品と代用品の違いから説明するのを断念して、例えばそば粉が高いから安い小麦粉を混ぜる割合を多くしても、そばとしての見てくれは何とかごまかせるだろうが、アメリカとの関税交渉で譲歩の意味合いを滲ませる目的で米国産の米の輸入量を増やすことには反対だと政治家が述べることの何が問題なのかと考えている人がどれほどいるかもよくわからないが、単純に米国産よりはタイ産やベトナム産の米の方が安いはずだが、安い米を輸入しないわけではなく、関税を高くして少量しか輸入できないようにしているわけで、それはアメリカが中国の安い商品が大量に米国内に入ってこないように関税を高くするのと変わらない措置だが、もちろん米の種類も違うから、日本の米に近いアメリカのジャポニカ米を輸入する方が東南アジアのインディカ米を輸入するよりは見てくれが変わらないから良さそうに感じられるだろうが、そういう理由じゃないのもわかりきったことなのも承知で、こんなことを述べているわけで、またもや奥歯に物が挟まったような物言いでこんなことを述べる羽目に陥ってしまうのも意味不明には違いないが、そういう意味では各国の政府が国内の産業を保護する目的で関税を高くして、国内の消費者に高い商品を買わせようとしているわけだから、そういうことをやるに当たって切実な理由や事情がある限りで、そういうことをやってしまう政府の存在こそが関税障壁そのものだと事を単純化したくなるが、さらに事を単純化するなら、政府の存在コストを下げることが、果たして国内の民衆に利益をもたらすことにつながるかというと、そもそも政府の存在コストとは何なのかと考えてみると、国内の民衆に利益をもたらすために政府が存在しているわけではなく、そういう前提で機能しているのではないとしたら、政府が何のために存在しているのかと考えたくもなってくるのだが、たぶんそういう問い自体も、政府が存在していることを前提として問いが出てくるのだから、原因と結果を取り違えているようにも思われて、何が何だかよくわからなくなってしまうのだが、では政府が何の代替品であり何の代用品なのかもわからずに、そういう疑問すらも意味不明に思われる限りで、どうしても何かの決まり文句のように失われた三十年がどうたらこうたらとか言う、それを自身の批判に結びつけようとする政治家や識者の類いが信用できないから、それに反発して、意識してそれとは違う内容を提示したくなってしまうのだが、そうなっている時点でそんな紋切り型の言説に自意識が巻き込まれてしまっている可能性が高いのかも知れない。
6月2日「疑わしい行為と言動」
人が困るようなことをやらなければならない立場というのも世の中には結構あるかも知れないが、具体的にそれが何なのかと想像する以前に、困るとは反対の心理状態をもたらす動作や行為とは何なのかと考えたいのだが、これといって簡単には思い浮かばないから、さらに考えて、例えば人が困らないようにすることが、別の立場の人を困らせるような結果をもたらすとも限らず、世の中で人と人とが対立関係や敵対関係を形作る限りで、対立したり敵対する一方が困るなら、もう一方が喜ぶようなことがあり得ると考えるのが妥当なら、もちろん一概にそうなるとも限らないし、困るの反対が喜ぶとも言えないようなこともあり得るなら、たまたまそうなったからといって、恒常的にそんな関係が保たれるわけでもなく、また短絡的に利害が想定されるようなことばかりを強調しても、そればかりに関心を惹かれるわけではなく、何でもない関係もありそうだから、それが無関係とも無関心とも言えるような事態もあるかも知れないから、言葉を使って他人の関心を惹こうとして、すぐに対立的な利害関係を持ち出すのも、それ以外の面に目を向けさせないようにする意図や思惑も想像できるから、あまりにもそういう面を強調して他人を悪く言ったり他の勢力を批判したり非難する言動には抵抗感を覚えるなら、その種の他人を困らせる魂胆が見え見えの物言いとは少し距離を置いて物事を考えるように心がけたくなるにしても、結果的に自らの行為や言動によって他人を困らせるような事態を招いてしまうなら、良かれと思ってやったことや言ったことが、そんな思いとは逆の効果や結果をもたらしたことに愕然とするかも知れないが、たとえ思いがけずそうなったからといって、そこでも自らの良心や善意を信じて疑わずにいられるなら、それが何かの信仰に帰依していることの証しとなるわけでもないだろうが、その種の独善的な傾向に囚われている人が何をどう考えてどう行動してどんな言動を繰り出すかが、まるで手に取るようにわかるとも言えないものの、何となくリベラル系の人々がそんな傾向に囚われていることぐらいは誰でもおおよそ見当がつきそうなものだが、そういうお仕着せがましい良心や善意の押し売りといった表現が具体的にどんな行為や言動に当てはまるとも一概には言えないが、そういうのを敵視するような心境になれるなら、それがリベラル嫌悪症の兆候だと言えるかどうかも、人によっても立場によっても印象や受け止め方が違ってきそうだが、果たしてそんな他人から嫌われるような潔癖性的な正義の味方症候群に罹った人や勢力がデモクラシーを顕揚しているのかというと、それの何がデモクラシーなのかもあまり正確には理解していないのだが、たぶん国家の政治体制がデモクラシーの形態をとっていないと困るようなことが多々あって、誰が困るのかといっても、民衆の間で無視できない利害対立があると、それが起因してデモクラシーの危機に陥るから、なるべくその種の利害対立を表面化させないような配慮が政治にも行政にも求められていると推測できるかというと、逆にそれを強調して煽り立てるようなことをやってしまうポピュリズムに染まった煽動者が政治の場から排除されがちになってしまうから、その種の利害対立を煽り立てたいポピュリストの戦略としては何が有効なのかといっても、それもこれといって思い浮かぶようなことでもないのだが、そんなポピュリストの思惑を外れるような成り行きが期待されていて、誰がそれを期待しているとも言えないが、利害対立を煽り立てれば立てるほど、そこで強調される利害とは別の関係のない方面から、それを抑制する作用や影響が及ぼされるような成り行きへと持って行きたいわけで、誰がそんな按配にその場の成り行きを持って行けるかといっても、特定の誰というわけでもないが、それに関して例えばリベラル系の人々が安易で浅はかな理解を頼りにして、トランプのおかげでアメリカのデモクラシーが危機に瀕しているだの崩壊に直面しているだのと大げさに騒ぎ立てるのも、何か重要な事態の進展を見落としているからそんなことが言えるような気がして、果たしてトランプの出現を許したのがデモクラシーなのかどうかも、俄かには判断し難いだろうが、そういうのとは違う方面で、トランプが輸入品に高関税をかけることによってアメリカへと輸出する世界各国から利益を奪おうと画策したことが、かつてアメリカ自体が南北戦争の際には北部の工業地帯が南部の農業地帯から利益を奪おうと画策したことと重なる面があるとしたら、南北戦争の時期には反人道的で強制的な奴隷制をやめて自発的な移民なら許容する体制へと移行したのが、今回のトランプ騒動の際には、自発的にやってくる移民の流入までも阻止する代わりに、AIの進歩と発展によってより一層の労働の自動化や効率化を促すように持って行く成り行きになっていると解釈するなら、果たしてそんな成り行きがデモクラシーの推進の観点からどう説明されるのかといっても、人や立場によって事態の捉え方も違ってきそうだが、それに関して挙げる例としてはあまり相応しくないかも知れないが、例えば労働組合や農業協同組合などの組織形態から生じる非効率で非人道的な官僚制の弊害を打破するためにAIの活用が図られる成り行きが期待されているわけでもなく、デモクラシーの目的が何なのかがちゃんと説明できていないから、単純にトランプがデモクラシーを破壊していると非難できるわけでもないが、南北戦争の際にもリンカーンの奴隷解放宣言ならリベラル派が好意的にその成果を強調して取り上げるようなことであるものの、奴隷よりも賃金労働者を使う方が儲かるから奴隷制をやめたと功利的に事態を解釈するのは、リベラル派としては受け入れ難いだろうし、その延長上で現代では移民労働者を使うよりもAI技術を活用した人型ロボットを使う方が儲かるなんて、そんなのも現時点ではリベラル派でなくても考えられないことであり、仮に今後数年でそんなことが実証されたとしても、デモクラシーとは何の関係のないことだと思われるし、それとこれとはうまく結びつきそうもないことであって、実際にそうなってみないことには何とも言えないが、何かそういうところでデモクラシーを擁護するリベラル派の思惑とは関係のないところで事態が推移しつつあるわけだ。
6月1日「ずるい立場の争奪戦」
何かあからさまに他人を批判できるずるい立場というものがあるとしたら、それがどんな立場なのかというと、そんな問い自体が無効で無意味かも知れないが、例えば自分たちが何に関わっているのかもわかっていない連中が政治を利用して何をやろうとしているのかといっても、そんなのはれいわ新選組の活動でも見れば馬鹿でもわかりそうなものだが、それが馬鹿な自分には理解できないとしたら、自意識が制度的な何かによって制約を受けていたり、また慣習的な何かによって言動や行動が制限されているから、それによって馬鹿でもわかる理解が妨げられていると考えるなら、そんなのも自分以外の何かに責任転嫁する言いがかりに過ぎないが、そもそも何かとは何なのかが、それをはっきりと示せないのだから、それが言説自体の無効性を明らかにしているとも言えそうで、ずるい立場になるのをよしとせずにあえて批判される立場を受け入れているのが立憲民主党だと言えそうなのも、何かそれに対しても違うような気がする人も多そうだが、それに絡んで経済的な功利性以外の価値基準から何を批判できるのかと言えば、様々な価値基準を援用して誰もがトランプを批判したくなるのは、それも馬鹿でもわかりそうなことなのだが、そんなトランプにしてもどうしようもなくそうなってしまう自らの境遇を受け入れながらも、あえて批判されるようなことをやりたがる性分なのも、それが何かに忠実に従っていることを自覚している証拠なのか否かも、当人に訊いてみてもよくわからないだろうが、その一方で何でもかんでも批判できるずるい立場というのが、これまでは共産党の専売特許だったのが、そういう立場を共産党から奪い取ろうとして新たに参入してきたのが、れいわ新選組だと言えるかどうかも、それも彼らの活動に対する見方や捉え方に応じて程度や傾向の違いを認識できる限りで、共産党とれいわ新選組の違いも自ずから明らかとなってくるはずだが、同じ共産党という名称でも中国やベトナムの共産党政権になると、日本の自民党に近い立場を受け入れているから、何でもかんでも批判できる立場とは真逆の、何でもかんでも批判できる立場から批判される対象となるから、それらの共産党は自民党とは違って批判を国家権力によって封じ込めようとしているところが、朝鮮労働党も含めてその種の共産党が西欧流の民主主義を拒絶する主な原因ともなっているはずだが、それが何でもかんでも批判できるずるい立場からすれば、彼らの批判対象となる自民党自体が政権政党なのだから、政治的な方面ではやりたい放題好き放題できるずるい立場だと言えるだろうし、実際にずるい立場を利用して日本という国家を私物化していると非難できるわけだが、しかもそんな非難のついでに返す刀で立憲民主党も自民党に議会内で協力していてグルになっていると批判できるわけで、果たしてそれがずるい立場なのかというと、共産党のように万年野党の立場に甘んじていることをよしとしているなら、果たしてそれでも構わないのかというなら、そうではなく口では政権獲得を目指していると公言して憚らないだろうから、一応は政権交代の当事者になりたいはずだが、そうであるなら何でもかんでも批判できるずるい立場を維持している限りで、政権政党にはなれないと見ておいても構わないのかというと、どうもそうではないような気がするわけで、何か誰も気づいていない要因や要素があって、何かのきっかけからそれが機能し出すとずるい立場ではいられなくなってしまうと考えるなら、それが何なのかというと、最近では国民民主党の中でそれが機能し始めた兆候があったのかなかったのかも、実際にそうなってみてからでないとよくわからないだろうし、しかもその気になって勘違い気味に国民民主党の代表や幹事長などが動いていたらしいのだが、結果がどうなったかについては、次の選挙の結果から暫定的にわかるようなことかも知れないし、それがわかったところで何でもないことかも知れないし、要するに何でもかんでも批判できるずるい立場から批判されるようなことをやれる立場になれば、自ずからそれがわかるという結果的には何でもないようなことなのかも知れないが、それを批判する立場からすれば批判されるようなことがやれない制度や仕組みにしたいわけで、現状ではそれがやれるから批判されているわけだが、ではそんな制度や仕組みが構築されてしまうと、そのおかげで何でもかんでも批判できる立場も維持できないような世の中になってしまうかというと、それもそうなってからでないと何とも言えないようなことだと理解したいのだが、実際に世の中で起こっている様々な出来事を通して感じる実感に従うなら、どうもそんな気がしないわけで、そうはならないことがある程度は推測できるからそんな気がないのか、あるいはそんな制度や仕組みを構築するためにそれを批判する勢力が活動しているわけではないのか、それも現状では何とも言えないところだが、ただ単に世の中の成り行きに従って各人や各勢力の間で適当に割り振られた役割を無自覚に演じているだけだから、そんなことまで推測すること自体が無効で余計なお世話なのかも知れないから、何も考えるまでもなく黙ってそんな成り行きを見守ることしかできないとあきらめてしまう傍観者のような役割に甘んじているのが嫌なら、それらのうちでどれか一つでも、自身の立場として相応しい肯定できそうな役回りを演じようとしなければならないのかというと、誰もが否応なく無自覚にそんな役割を演じてしまうのだから、それを自覚してわざと戦略的に功利的な損得勘定に基づいた行為や行動に結びつけようとしてしまうと、国民民主党の玉木代表のようなわざとらしくもこれ見よがしなことをやらざるを得なくなって、化けの皮が剥がれてしまうような結果に陥ってしまうから、できれば山本太郎のように馬鹿なふりして馬鹿な言動に終始しているような役回りの方が無難なのかも知れないが、当人がそう思っているかどうかなんて関係なく、馬鹿なふりをしているなんて自覚することもないだろうから、それがどう見られようと立憲民主党辺りをことさらに非難していればどうにかなるようなことでもなさそうに見えてしまうのだが、そういう役回りを演じている自覚もなくそうなってしまっていることが、結果的に何を利するようなことになってしまっても、それはそれでそういうことしかできないと受け止めるしかないだろうし、器用そうに見えてそうでもないと、その種の不器用さを長所だと見ておいても構わないのかも知れず、そんなわけでまだ将来を楽観視できる材料には事欠かないし、うまく事が運んでいる最中で何を心配する必要もない現状なのかも知れない。
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