彼の声163

2024年

7月27日「理屈のまやかし」

 経済活動を簡単にいうなら、生産されたものが消費される過程で何が行われるかではなく、すでに生産や消費が行われている中で、生産するといっても消費するといっても何をどう生産して消費するかによって、その効果も変わってくるだろうから、それがどうしたわけでもないと思うなら的外れなのかも知れず、そのついでにさらにひねくれたことを述べる必要も出てくるわけでもないが、たぶん生産と消費の間でどんなごまかしが行われると利益が得られるかと考えたところで、単純に安く買って高く売れば利益が得られるという当たり前の理屈の他にも、買う機会も売る機会も、その機会を捉えないと安くも買えないし高くも売れないとは思うが、買い方や売り方にも工夫を凝らさないと利益を得られないとも考えられるし、他にもいくらでも競合する商品がある中で、いかに消費者を買う気にさせて実際に買ってもらえる魅力的な商品を提供できるかが重要となってくるわけでもないとすれば、では何が他に重要だと言えるわけでもないが、こんなふうにもっともらしいことを述べている中で、何かが間違っているような気がしてくるのだが、だから経済活動を簡単にいうのは不可能というわけでもなく、これはおかしいとかこんなのは間違っているとか簡単に言えるようなことをやれている人や団体に実際に利益がもたらされているから、そんな人や団体が活動していられるようなシステムや制度が社会の中で構築されていること自体が理不尽に思われるようなことなのだが、それらの人や団体が無理なことをごり押ししていられるだけの権力や権限を持っていられて、そういうことを批判したり非難する人や団体もいくらでもいるような世の中になっているとしても、そうなっているからこそ経済活動が成り立っていて、そこで経済活動が成り立っている限りで、実際に無理なことがごり押しされているわけで、それがどう考えも納得が行かないようなことになっていて、どうしても合理的な理屈では説明できないようなことになっているとしか考えられないようなことなのだから、それが資本主義経済の実態だと言えるわけで、不合理で理不尽なことをやった者勝ちな世界が資本主義と共に成り立っていると考えると、それを批判したり非難している者の負けが確定しているようにも思われてくるわけだが、それを負けだとも思っていない愚か者が資本主義などすでに終わっているという〇〇が終わったとか〇〇崩壊だとかいう紋切り型の言い回しに取り憑かれているわけだが、果たしてそういうありふれた言い回し自体も理不尽で不合理な経済活動に含まれるかというと、言葉の流通も枝葉末節な現象として含まれる資本主義経済の中でそういう言い回しが流行していると言えるわけで、それが何でもないことのように感じられるわけだから、そんな言葉を売る機会も買う機会も見失われているような虚脱感を覚えるのかも知れないが、実際に言葉を売る者も買う者も、それらの言説の中にありふれた流行語が含まれていることを百も承知で、そんな言説をありがたがって生産して消費している気になっているとも思えないし、ありがたがって使っている気にもなれないところが、そうなっていることを前提として、そういう言葉が生産されて消費されるシステムや制度の理屈をわかっていない証拠となるわけでもなく、わかっているのにそんなのは何でもないことだと軽く見てしまうから、かえって流行語に取り憑かれてそこで思考停止してしまうわけだが、それを思考停止だとも思えないから、そんなのも何でもないことの範疇に含まれてしまうわけで、何でもなければ何なのかというと、後は空っぽの精神を肯定している自らの存在を正当化するしかないわけだが、何かそれがまやかしのように思われてしまい、そんなまやかしの動作を否応なく強いられていること自体が、資本主義経済にとらわれている証拠となるわけでもないだろうが、それとこれとは無関係のように思われるから、やはりそんなことも何でもないことのように感じられて、そんな自らが何に取り憑かれながら活動しているのかもよくわかっていないのかも知れず、それでは駄目だとも思えないし、駄目でないなら何なのかといっても、そもそもそれに気づいていないわけだから、それが何でもないことでも構わないわけで、そんな駄目な自分を自らにはどうすることもできないわけだから、駄目なことの延長上で活動して行くしかないわけだが、たぶんそれが駄目だとも思われない限りでうまく行っているわけで、要するに駄目ではないことにも気づいていないわけだが、その一方で理不尽に無理なことがごり押しされる資本主義経済では駄目かというと、そうならざるを得ないような成り行きにとらわれているのが資本主義経済である限りは、そんな資本主義経済では駄目で、はじめから終わっていると見なしても構わないだろうし、終わっているからこそそれに変わる新たな経済体制がいつの時代でも求められてきたわけだが、そんな無理で理不尽な求めに応じて、マルクス主義経済学者などが今でも盛んに新たに考案した経済体制をまるで机上の空論のように宣伝しているとしても、それがいつ実現するのかというと、もうすでに資本主義自体が終わっていて、机上の空論のような経済体制が実現しつつあるかのように語っているとも思えないが、昔からその種の空想家の類いが絶え間なく出現してきたわけだから、そういう成り行き自体が資本主義経済体制と呼べるような何らかの経済システムや制度の中から出現してくるような効果なのかも知れないし、その種の空想家も現行の経済システムや制度を維持管理するために何らかの機能を果たしているとも言える可能性もあるわけだから、そんな現状を正当化するなら、そのついでにその種の空想家の存在も肯定しておいても構わないのかも知れず、その種の空想家が開陳するもっともらしい理屈や理論の類いも、信用できる範囲内で信用しておいても構わないような心の余裕が求められているのかも知れない。


7月26日「焦ったい思い」

 それに関しては自分だけが知っているわけではなく、たぶん他にも知っている人が大勢いるはずなのに、しかもそれが失敗に終わった前例がいくらでもあるのに、多くの人が知っているのだから、普通に考えて前例と同じ失敗を繰り返すようなことにはならないと思いたいのだが、実際に多くの人々が知っていてそれが失敗に終わって懲りているはずのことであっても、あえてそこには言及しないという間抜けな成り行きになってしまうわけでもないのだが、多くの人々が知っているはずなのに、あえてそれを無視するような振る舞いに及んでしまうと、無性に焦ったくなり、それを知っているはずの多くの人々に向かって、お前らの目は節穴か?頭の中に脳みそが詰まっていないのか?と問いたくなってしまうが、たぶんそうではなく、それに関して誰が何を指摘しても無視されてきたのだから、実際にもそういうことではなく、それを無視するという愚かで馬鹿げたことが飽きもせず執拗に繰り返されてきたことについても、平然とメディア上でも民衆からも無視されてきた歴史的な経緯があるのだから、どうせ今回もそうなるに違いないとあきらめるしかないのだが、今回も前回と同じようなことが繰り返された挙句に、それがうまく行かない結果をもたらしても構わないようなことになってしまい、また忘れた頃に懲りずに同じようなことが繰り返されると思っておけばいいのかも知れないが、それが何なのかといっても、ただ漠然と保守派がやってきたことだと言いたくなってしまうのだが、そうなるとそれが失敗に終わったとは言えないようなことにもなってしまうから、ではそれをどう表現すればしっくりくるのかと考えてみたところで、大したひらめきにも至らないが、そういつもいつも成功するのを阻止されても、少しは学習しろよと誰に向けて言い放つわけにも行かないから、それでは駄目だと考え直すなら、たぶんそれが失敗することに成功したわけでもないと考えると、ただ単に失敗するように持って行こうとしていて、もちろんそれが失敗だとは口が裂けても言わない申し合わせだから、平然と失敗していられるのだが、その一方で成功を目指す者の足を引っ張ったり出る杭は打たれるような成り行きを正当化するわけだから、実質的にはわざと横並びで成功しないように阻止しているのだが、何をそんなに恐れているわけでもなく、成功することを恐れているわけでもないとすれば何なのかというと、これまで通りのことがまかり通るようにしておきたいわけで、それもそうなるように画策しているわけではなく、なぜか成り行きがそうなってしまうというと、何もやっていないように思われるかも知れないが、そんなことはなく、何事も失敗するように仕向けているというと、それもそんなことはないわけだが、仕掛けているのではなく仕向けていると表現した方がしっくりくるような気がするとしても、どちらにしても変わらないような気もするが、それを歴史的な傾向から見るなら単純に絶えず民主主義的な実現を阻止しようと画策しているような感じもするのだが、本当にそうなのかというと、逆に絶えずそれに失敗しているようにも感じられて、失敗しているわけでもないと考えるなら、民主主義を逆利用することによって民主主義を阻止するという矛盾するようなことが起こっているわけで、そう考えるなら失敗しているわけではなく、民主主義の実現を阻止することに成功していると考えられるわけだが、何かそう考えると不都合なことでもあるのかというと、例えば最近では馬鹿正直な蓮舫を嘲笑うことによって何を阻止することに成功したのかと言えば、誰もがそれを知っているのにあえてそれを言わないわけではなく、それを馬鹿正直に言ってしまう人を攻撃することによってそれが明らかになることが阻止されたわけでもないだろうから、少なくとも何に成功したわけでもないような気もするのだが、現状が異常事態なのは誰もがわかっていながら、それを通常の状態に見せかけようとして失敗しているかというと、異常事態なのも常態化しているから、そうなっていても何とも思わないだろうが、誰もそれを何とも思わないわけではないのだが、メディアが何とも思っていないように装いたいわけでもないだろうが、実際にそう装っているように見えてしまうから、それが茶番だ何だのと騒ぎ立てる人も一部にはいるのだが、騒ぎ立てる人の口封じがしたいわけでもないのだとしても、騒ぎ立てている人にとってはそれを阻止しようと仕掛けてくるような成り行きの中で被害妄想に囚われてしまうわけで、それが粘着質の嫌がらせのように感じられるから、そんな不快な異常事態から抜け出すことが民主主義を実現することと同義かというと、別にそれが一致していなくても構わないはずだが、異常事態の中で救いを求めてしまうと、なぜか民主主義が実現することが救いになるような気もしてしまうから、結果的には民主主義がねじ曲げられてポピュリズムや衆愚政治ような傾向が顕在化してしまうとしても、真の民主主義が実現するには避けては通れない紆余曲折には違いないとしても、どうもそれが根本から間違っているような気もしてしまうから、そういう成り行きから害悪がもたらされることを恐れてしまうのだが、何がそうさせているのかというと、それを新自由主義や市場経済の行き過ぎのせいにしたくなるのだが、それとこれとが直接には結びついていないことも確かだから、それが政治や行政からの働きかけだけではどうすることもできないわけで、そんな政治や行政が根本的に間違っていることが何かといえば、いつの時代でも王や皇帝などの代替物を求めてしまう傾向にあることだが、それに関する致命的な勘違いが何かといえば、そういう立場や役職の中身が空っぽであるにも関わらず、そんな空疎な中身を埋め合わせるために英雄的な存在を求めてしまうという幼稚な幻想に原因があるのかも知れないし、それが実際にルイ・ボナパルトが大統領から皇帝ナポレオン三世に衣替えした際には、一時的には成功したと言えるだろうが、それに続く歴代の独裁者たちがどうなったかというと、そのことごとくが失敗に終わったと見なしても構わないかといっても、何とも言えないような結果なのかも知れないし、現在進行中の事例としてはトランプの事例が興味深い状況を呈しているわけだ。


7月25日「幸運を呼び込む仕掛け」

 自分の知らないところで何が行われていようと、それが自分に関係してこない限りでどうということはないと思うわけでもないが、知らないのだから気づいておらず、普通に何を思うわけでもないが、何も思っていなくても、同じ社会の中で行われていることなら、場合によっては何かしら作用や影響を及ぼされて、それと気づかないうちに関わってくる可能性もあるだろうから、関わってくる程度にもよるが、知らないうちに何らかの作用や影響を及ぼされてどうなってしまうかも、そうなったところで気づいていない可能性まであるだろうから、そんなことまでいちいち気にしても埒が明かないとたかを括るわけにも行かない場合もありそうだが、それに気づくか気づかないかとかそれを知り得るか知り得ないかとか、そういうこともよくわからないところで、何かしら無意識のうちに反応して対処していたりすれば、それを意識してそうしているわけでもないことになって、自らの意識とは関係のないところで活動していることになってしまうだろうが、それに起因して自分がどうなろうが自分にとっては知ったことではなく、自分の知らないところでそうなってしまうわけだから、自分にはどうすることもできないような気がしてしまうが、そもそも気づいていないのだから確かにそんなのは知ったことではないと言えないこともないが、逆に気づいているのに何とも対処しようがないこともあるのかも知れず、意識して何かにちょっとだけ関わったところで何がどうなるとも思えないのに、なぜか実際に関わってしまって、それで何がどうなるわけでもないとは思うものの、その意識してちょっとだけ関わる感覚というのが自分でも理解しかねるのに、やはりそれも気づかない作用や影響を及ぼされてそうなってしまうと思うと共に、気づかないところで何らかの利益とは行かないまでも、何か自分にとっても社会にとっても良いことのように思われるから、ちょっとだけ関わっておいた方がいいような気がして、意識してちょっとだけ関わってみるような感じになってしまって、しかも深く関わろうとはしないわけだから、逃げ腰になりながらも、いつでも逃げられるような姿勢を整えながら関わろうとしているわけだから、何か肝がすわっていない感じなのだが、それでも構わないようなことなのだから、少なくともそれほど切実にはそうしたいわけでもなく、別に無理して関わらなくてもいい程度で、その気もないのにほんの気まぐれ程度に関わっているに過ぎないことが、後々思いがけない幸運をもたらすことをちょっとだけ期待しないわけにも行かない程度にとどめたいわけで、そういうのをご都合主義というのかも知れないが、それで構わないのだから何も切羽詰まって深刻な事態をもたらしているわけでもないのは明らかだが、それでもうまく立ち回っているような気にもなりたいわけだから、気分がおかしいのかというと我を失っているようにも思えないし、油断しているようにも思われるから、気を引き締めて事に当たりたいどころか、そんな気になれるはずもなく、それも自分の知らないところで罠を仕掛けられて、まんまと騙されてひどい目に遭わされるような予感もしないから、確かに油断大敵な局面なのかも知れず、それがまずい事態だともヤバい事態だとも思えないから油断や隙が生じて、結果的には深刻な事態に陥っていることに気づかないわけで、気づいた時にはすでに詐欺師に騙されて資産の大半を失ったばかりか、返し切れない負債も背負って破産状態となっていれば、何かそれなりによくありがちな転落の人生のまっただ中となってしまうだろうが、誰もがそうはならないところが運や確率や世の中の成熟度にもよるだろうし、すでにこれ見よがしなエピソードをいやと言うほど見せられて、成り上がった後からひどい目に遭った人もそれなりに現れた後の世の中に暮らしていれば、安易な罠にはそう簡単には引っかからないような感じになって、それでも引っかかる奴は世間知らずな人だと見なされる世の中になってくると、それとなく他人の意向や欲望やそれに伴って出てくる感情や利害心の程度や傾向も想像できるようにもなってくるから、ある程度は耐性がついている中で、どう振る舞うかが問われているわけでもないにしても、実際にどう振る舞っているかによってその人の行く末もある程度は見えてしまうようなことにもなってくるから、それが予想の範囲内でその人の行動が推移しているようなら安心できそうだが、安心できるということがその人を馬鹿にすることができる条件となるわけでもないが、わざとでも他人から軽く見られるように振る舞いたいかというと、その人が抱いている自尊心や見栄を張りたい感情の程度にもよりそうだが、成り行き的には振る舞うことが演技を伴った人を騙すような傾向も含んでしまうと、もう後戻りが利かなくなることもないにしても、次第に無自覚で無意識の演技が発動するようになってしまうのだろうが、そうなると自らが自らを騙すようなことになっているのにも気づけなくなってしまうから、自分で自分を裏切っているようなことにもなってくるだろうから、自分の知らないところで自分で自分を演じてしまっているわけでもあり、果たしてそれが自分の願望通りの自分なのかと自問自答したくなるわけでもないだろうが、それでも自分の知らないところで自分が行なっていることに無関心でいられるかというと、そんなことにまで頭が回るわけでもないから自分の知ったことではないだろうが、演じたいなら勝手に演じていれば構わないような投げやりな感覚に囚われるわけでもないが、それもその場の状況や情勢の深刻度にもよるだろうから、それほど深刻な精神状態でも心理状態でもないと思われる範囲内で、自分の演技の出来の良し悪しに関しては、あれこれと改善点などを考察してみるのも一興なのかも知れないし、考えるのも面倒なら、なすがままの自分を受け入れようと受け入れまいと、その場の状況や情勢に合わせて適当にいい加減に振る舞っている自分を客観的に眺めているだけでも、自己中心的な感覚にとらわれている範囲内ではそれなりに納得できるのではないか。


7月24日「敵と味方の区別」

 現状の世の中で何かを語っている人がいれば、その誰もが自分が思っていることをそのまま素直に思った通りに述べているわけではなく、恣意的かつ意図的に述べている対象となる物事や人物の印象を良く見せようとしたり悪く見せようとしていると感じられるなら、当然それに対して疑念を覚えるから、そんなふうに述べている人を信用できなくなってしまうわけでもなく、述べている人の意図や思惑を察して、そういう意図や思惑に賛同できるなら、そんなふうに印象操作する人の味方になれそうだが、果たしてそれが人を騙す行為となるかどうかも、騙している自覚がなければそれで構わないようなことでもないだろうが、印象操作している自覚もなく、ただの利害関係から自分や自分が所属しているつもりの勢力を利するように思われるなら味方になる一方で、それなりに真っ当なことを述べているのに、それが自分や自分が所属しているつもりの勢力を害するように思われるなら敵認定するのかというと、そんな単純なことでもないらしく、では何なのかというと、根本的なところでなぜそうなってしまうのかよくわからないのだが、結果的にそう思われるような感じで、敵でも味方でもないような気がするなら、それでも構わないとも思えないが、普通に敵認定した人や団体を攻撃する一方で、味方だと思われる人や団体を擁護するようなことを述べていればわかりやすそうに思われるのだが、周り中が敵だらけで誰も味方になってくれないと思いながら被害妄想に囚われているわけでもないのだが、もっと曖昧に感じられる範囲で、やはり結局は誰も敵でも味方でもないような感覚から抜け出せず、少なくとも全面的にそうはならないようなところで生きているわけで、わざと曖昧なことを述べているように思われるならそう受け取ってもらっても構わないが、それでもこりゃ駄目だと言えるような人のことを述べないわけには行かないから、そういう人が自分の敵だとは思えないのだが、そういう人を批判すれば無視されるか敵認定されるかのどちらかになる可能性も高そうだが、そうならないように配慮しながら適当でいい加減なことを述べている気もしないというと嘘になってしまうが、嘘ではない範囲で何を述べているとも思えず、要するに物事の功利的な面を信じきれていないのかも知れず、何をどう述べれば自分を利することになるのかよくわからないところで、こう述べればいいんじゃないかと勘を頼りに述べている割合が高そうで、そのいいんじゃないかということが結果的に自分を利するとは到底思えないわけで、そういうところでは功利性とは無縁なのかも知れないし、何の利益にもならないことを述べているつもりで語っている面の方が強そうだが、それもわざとそうしているというよりは、否応なくそうならざるを得ないような感じで述べていることになるだろうが、何をそんなに深刻に受け止めなければならないようなことなのかといっても、どうもそうではないような気がするからそうなってしまい、それとは違って何としても食い止めなければならないようなことも思いつかないのだから、そうなるがままになってしまうかというと、そういうところでも勘が働いて、なぜか自らの良し悪しの基準から逸脱するようなことにもなりかねないから、その辺の判断も曖昧なのだが、たぶん大ざっぱなところでは世の中の成り行きに自らの感覚や感情が同調しようとしているのであり、同調するがままにまかせてしまうとどうなるのかといっても、メディアの煽動に誘導されるがままの馬鹿で浅はかな大衆の中の一人に過ぎなくなってしまうとしても、現状でもそうなのかも知れないし、それに気づいていないから自分は彼らとは違うと強がりながら、それと自覚することなく同調圧力に屈している人々を敵視しているのかも知れないが、それこそが馬鹿で浅はかな大衆が自分だけは他の馬鹿どもとは違うと勘違いしながら持ち合わせているメンタリティーそのものなのかも知れず、そうならないように注意しなければならないと思っていても、それが自覚できないようにメディア作用に屈して仕向けられてしまっているのかも知れないから、そんな面ではあきらめが肝心なのかも知れないし、自分も他の人々と大して変わらない愚か者なのだと認めた上で、なおのことそうならないように注意しなければならないのかも知れないが、そうはいってもそうなってしまう成り行きを受け入れておいた方が何かと都合が良いのかも知れないから、その辺はその場の成り行きに逆らわない方が身のためだと思っておくべきなのかも知れず、本気で反逆者のように振る舞う勇気もないのに、言葉だけ勇ましい批判によって武装しても立場上は何でもないようなその種のありふれた紋切り型的な存在だと見なされて、十把一絡げのように見なされて片づけられていることにも気づいていないだろうから、実際に蓮舫がそんなふうにして片づけられてしまった感も半端ないが、それで構わないような成り行きになっているとしたら、そうやってその気になって調子に乗っているうちに梯子を外されて、気づいてみれば取り返しのつかない事態に陥ってしまえば、まさにざまあみろと言い放ちたくなってしまうのだが、そのざまあみろがそのまま天に唾するようなことにもなりかねないから、そういうところはなぜか用意周到に避けておいて、実際に避けられたら、天に唾するのを思いとどまった自らの勘の確かさにも気づいていることになるだろうが、果たしてそれで構わないかというと、それも日本のメディアで注目されているアメリカの大統領選挙の結果次第で見方も考え方も変わってくるだろうし、民主党の候補者が勝てばトランプが勝つことを信じて浮かれていた人々の背後でも梯子が外される事態になるだろうから、そうなった際には誰か薄っぺらい奴らがこれ見よがしにざまあみろと嘲りの言葉を言い放ってぬか喜びとなるのではないか。


7月23日「マルクスの役割」

 マルクス主義に関して保守派の政治家が誰もが抱く紋切り型の偏見を持ち合わせているというと、特に違和感など覚えないのに何か腑に落ちない面があるわけでもなく、何がおかしいのかといっても、それが例えば枝野幸男が新自由主義に関して行政を民営化するだけでは駄目だという紋切り型の偏見を抱いているらしいこととパラレルな関係を成しているのかも知れず、それに関して何も知らないはずがなく、新たに気づいたことでもあるかも知れないが、それを言語化して表現しないとわからないままとなってしまうし、何とかしてそれを示そうとしているようだが、いつものようにいい加減で粗雑な内容となってしまうが、『資本論』の中でマルクスが劣悪な労働環境を改善するために孤軍奮闘する工場監督官のレナード・ホーナーの活躍を扱っている箇所はジャーナリストとしての真価が発揮されている一方で、スミスやリカードの古典派経済学を苛烈に批判している箇所では経済評論家としての真価が発揮されているには違いないが、それが山本太郎が消費税に関して執拗に紋切り型の偏見を語っていることとどう違うのかと問いたいわけでもないし、政治家が紋切り型の偏見にとらわれていること自体が取り立てて不都合な感じもしないから、そういう面ではそういうことだと事態を捉えておくしかないだろうし、何かを語ることによって救われるのがマルクス本人ではないこともわかりきっているはずだが、アメリカの新聞社のロンドン特派員の肩書きで、フランスで起こった後にナポレオン三世になる人物のクーデターを語っている『ルイ・ボナパルトのブリュメール十八日』もジャーナリズム的な内容になるのだろうが、それらの著作とマルクス主義がどう関係するのかといっても、全くの無関係とも言えないが、もっと若い頃のマルクスが厨二病的な感覚で革命家ごっこをやっていた頃の著作の方がマルクス主義との親和性が高く、そんなマルクス主義が語る階級闘争的なフィクションから多大な影響を受けて真の革命家であるレーニンが誕生したと言っても過言ではないかというと、その辺のところはあまり詳しくないからよくわらないが、革命家レーニンが生み出したのが独裁者のムッソリーニでもあるわけだから、なるほどそういった方面へと意識や思考が凝り固まってしまうと、世の中に害悪をもたらすような人物が誕生するのかと納得しかかってしまうところだが、もちろんムッソリーニはイタリア人にとっては今でも祖国の英雄として扱われているらしく、ドイツ人がヒトラーを忌み嫌うのとはちょっと違う感覚なのかも知れないが、日本の若者たちが石丸伸二辺りに惹かれてしまうのも、ムッソリーニを英雄視するイタリア人などと通じるものがあるかも知れないし、それに対してジャーナリストや経済評論家としてのマルクスに惹かれるものなど何もないと想像できるのも、そう思われて当然だが、なぜ幻想を抱けないのかといえば、そういう役割分担としてのマルクスがフィクションではなく現実の世界と地続きの存在だからだが、それが当時の工場制資本主義システムや古典派経済学の矛盾や欠陥を告発する形態をとっていることが、新自由主義の欠陥や矛盾を告発する枝野幸男や消費税の矛盾や欠陥を告発する山本太郎とどう違うのかといっても、ジャーナリストや経済評論家としてのマルクスと政治家としての枝野幸男や山本太郎とでは、それなりに役割分担や立場上の違いがあるのだろうが、それよりはレーニンやムッソリーニなどの革命家や政治家や煽動者であれば、枝野や山本や石丸などと同類だと言えるだろうし、同類であっても各々が他の奴らと一緒くたにされたくない事情も抱えているだろうから、それぞれに誰もがそれとわかる違いがあるはずなのだが、ではそれらの人物たちがアダム・スミスが言うところの神の見えざる手に導かれながらどうなって行くのかというと、馬鹿で浅はかな大衆から支持や賛同を得るには、ルイ・ボナパルト(ナポレオン三世)のように中身が空っぽにならなければ行けないということになれば、その適任者としてすぐ思い浮かぶのが日本で言えば安倍晋三であり、安倍晋三亡き後その役回りにすっぽり収まりそうなのが、果たして石丸伸二だと言えるかどうかが、まだ評価が定まっていないように感じられるだろうが、今後衆議院が解散して現総理である岸田文雄の選挙区から石丸伸二が立候補して岸田を破って当選しようものならいやが上にも新時代のポピュリストとしてメディア的にも待ってましたとばかりに脚光を浴びそうだが、その一方で枝野や山本が石丸に敗れ去る原因と言えるのが、彼らが批判者だからであり、それが馬鹿で浅はかな大衆からは受け入れられない致命的な欠陥でもあるからだが、果たしてそれがマルクスから受け継いだジャーナリズム的で評論家的な面なのかというと、それとはちょっとずれるかも知れないが、それが資本主義経済の先行き不透明で予測不可能な面とも少し違うかも知れないし、何かそういうところが矛盾や欠陥を孕んでいるからといって、マルクスのように批判しては行けないわけではなく、批判してしまうと馬鹿で浅はかな大衆から嫌われるとしても、それも神の見えざる手に導かれるようにして批判者の立場や役割分担を受け入れざるを得ないわけでもないが、新自由主義であろうと消費税であろうと、それを安易に批判できるということが、それらが孕んでいる矛盾や欠陥を利用して利益を得られるということでもあるから、資本主義経済の中では利益を得るために必要な差異をもたらすきっかけを提供しているわけで、そうなると是が非でもそれらを利用しようとする動機も生じてくるわけだが、それがマルクスによって批判されるような矛盾だらけで欠陥だらけな代物だからこそ、実際に経済発展がもたらされて今に至っているわけでもあるから、現代においても枝野や山本が批判している対象であっても、果たしてそれを利用することによって経済発展がもたらされるかというと、そうではないと主張していて逆に日本では経済の長期停滞がもたらされたと言いたいわけだが、実際にそれらの恩恵に与っている勢力が世の中の主導権を握っている現状があるわけだから、それを彼らが批判するような成り行きとなっているわけだ。


7月22日「取り返しのつかない事態」

 人は誰でもそうなるわけでもなく、精神面でも肉体面でも真っ当な感覚というのが人によっても立場によってもある程度は違っていても構わないが、その人が信じている価値観やそれに基づいた意見や主張などが完全に一致しなくても、それなりに重なる部分がないと、人と人との間で交流も共感も連帯も生じなくなってしまうから、真っ当に思われる態度や姿勢や感覚などに関しては、常識的で妥当に感じられる範囲内で一致する面や重なる部分がそれなりにありそうだが、たとえ違っている面が目立っていても、ある種の傾向に囚われた人々と別の傾向に囚われた人々との間で社会の中でうまく妥協や譲歩を伴った棲み分けが成り立っていれば、表面上は平静が保たれているように見えるだろうが、それでも対立が表面化してくれば異なる価値観に基づいた意見や主張や見方や考え方が衝突して、争いに発展するかも知れないし、たとえそうなっても程度や傾向によっては表面化しないで穏便に済ませられる可能性もあるだろうから、見かけ上は平静が保たれていれば、それではまずいわけでもなければ、ことさらに問題視する必要も生じてこないはずだが、それでもわざと寝た子を起こすようなマネをやるのが煽動者の常套手段だろうから、そんなことをやっているのを見かけたら、何か別の目的や狙いがあってそんなことをやっていると見ておいても構わないが、それがどんな目的や狙いなのかが、やっている当人にもわかっていない場合もありそうだが、その場の成り行きに引きずられて当初には思ってもみなかった違いを煽り立てるようなことになってしまうと、それと気づかないうちに取り返しのつかないような事態に陥ってしまって、もはや妥協も譲歩も不可能な対立に至ってしまう場合もありそうで、そうならないうちに何とかしなければならない現状なのかというと、誰もそうは思っていないのかも知れないし、人によってはそうなってしまった方がかえって好都合なのかも知れず、そんな状況を利用してやれることがありそうに思われるなら、それをやってもらえばいいはずだが、それが多くの人々にとっては非常識がまかり通っている状況になってしまい、そんな非常識なことをやっている人や団体に対してメディアが脚光を浴びせる事態になっていそうなのだが、そうなっている限りですでに世界が激動の時代に突入していて、しかも多くの人々がそれに気づいていないのかも知れず、気づいていないうちにやってしまえばいいと誰が思っているわけではなく、そんなことをやっている人や団体でさえ気づいていないからやれる状況となっているのかも知れないし、たとえそれに気づいていても、メディアには無視されてしまうから、無視されている人にとっては焦ったいだろうが、何か得体の知れない焦燥感に囚われていること自体がその人の思い通りには行かないことの表れで、世の中の常識がそこで起こっている現象を捉えきれていないから、それが非常識とも思わないようなよくわからない焦燥感をもたらしていて、それが真っ当な感覚からもかなり外れているから、どう判断すればいいのかわからず、誰もが困惑してしまうのだろうが、中には困惑している自覚すらない人までいて、意図せずに状況や情勢の撹乱や混乱を狙って仕掛けている自覚すらないのかも知れないし、結果的にはそれで構わないような状況となっているから、そんな成り行きに乗じてやれることがそれなりに出てくるわけで、実際にそれをやっているから状況や情勢が揺れ動いているのかも知れないし、誰が意図したわけでも誰のどんな思惑が作用しているわけでもないのだろうが、それが誰の思い通りにも行かないとも思っていないのだろうが、結果的にはそうなっているような感じもしないではないから、今後とも動乱の時代が続いて行くと思っていても差し支えないが、それがそうなるように仕掛けたわけでもないのにそうなってしまうから、自然な成り行きには違いないのだが、自然な成り行きだからこそどうということはないわけではなく、それなりに自然の猛威を前にして、なす術なくどんな抵抗も受けつけないような事態の中でお手上げ状態なのかも知れないが、もちろんお手上げだとも思わない人や団体がその中で活動しているわけで、それが無駄な努力だとも思えないのだからやらざるを得ない成り行きにとらわれてやっていることであり、何か非常識で的外れな行為にも感じられるわけだが、それも非常識に感じられるからこそ目新しくも感じられて、多くの人々がそんなことをやっている人や団体に惹かれてしまう面もあるとしても、そういう人や団体に誘導されてどこへ向かっているのかというと、それが破滅へと向かっているとも思えないから、多くの人々が誘導されるがままになってしまうのだとしても、そこで目を覚まして現実を見ろと促すようなことを言い放つ人がこれ見よがしに現れるとしても、そんな人こそがその種の煽動者なのだから、ますます信用できなくなってしまうのだろうが、それもそれで構わないような自然の成り行きだとしたら、ではそれに対して何をどうすればいいのかと誰から問われるわけでもないが、それも目先の利害にとらわれながら行動していれば済んでしまうようなことなのかも知れず、実際に多くの人々がそうなっているはずだが、それ以外にやりようがないからそうなっていると見なすしかないだろうし、やっていることがそうだとしても、やる以前に言っていることの半分も実行されずに、言うだけならいつも言いっぱなしになるだけで、結局は無駄に無意味なことを述べているだけなのだが、述べているだけでは飽き足らないから、何か述べている以上のことをやろうとするのだろうが、その大半が過ぎたるは及ばざるが如しになってしまうから、その場の成り行きの中でそれほど有効に機能しているとも思えない代わりに、やることなすこと的外れな感じがしないでもなく、それが無駄で無意味なことだと感じているわけでもないのだろうが、たぶんそうなっているだけでもまだマシな方なのかも知れず、他にもひどい人や団体によって害悪をもたらすようなことがいくらでも行われている世の中だからこそ、そうなっているだけでもまだマシなように思われてしまうわけだが、それがせこく小さなところでできる範囲内のことをやらざるを得ないように仕向けられている人たちにはわかっていないのかも知れない。


7月21日「馬鹿にするための判断材料」

 赤の他人を小馬鹿にできるかというと、小馬鹿にしたくなるようなよくあるタイプの紋切り型的な人物をいかに想像できるかにかかってきそうだが、例えば都心の再開発によって高さが三百メートルを超える超高層ビルが何棟も建てば日本が繁栄していると幻想を抱けるかというと、そのビルを建設して管理する大企業の関係者でもないし、そのビルに入る超高級ホテルなど利用できないし、タワマンの入居者でもないし、オフィスとして借りるわけでもなければ、関係ないと言えばその通りなのだが、それでも同じ東京都民として東京という都市が世界に誇れる大都市だと我がことのように喜んでみたり自慢するような人を想像できるかというと、想像するだけでも恥ずかしくなってしまうわけでもないのだが、なるほどそうやって他人を小馬鹿にできる材料が揃っていることに気づいてしまい、そういうことの延長上でテスラやBYDなどのEVをディスるトヨタ信者とか、ユーチューブなどでその種の動画を見かける度に、その内容も見ずにトヨタすごいぞ日本すごいぞ論的な嫌な感じがするわけだが、何か中国崩壊や韓国崩壊のついでにテスラやBYDや韓国メーカーのEVが売れずに日本から撤退するだとか、そういうデマ的な内容なんじゃないかと勝手に推測してしまうわけで、それが少しはそんな兆候があるんじゃないかとも感じられるから、かえって本当にそうなればますます世界の潮流から取り残されて日本のガラバゴス化が進行するとか、そういうことでもなく、逆に日本で主流となっていることが世界でも主流になると妄想したくもなるから、そんなふうに妄想してしまうとまんざらでもないだろうが、本当にそうなるのかというと、少しは謙虚な気持ちでいたいから今のところはよくわからないとしか言えないが、そういうことではなくもっと視野を広げて考えると、ユーチューブ自体がグーグル(アルファベット)傘下のSNSだし、X(旧ツイッター)はイーロン・マスクに買い取られてしまったし、フェイスブックやインスタグラムはメタプラットフォームの傘下だし、アップルやマイクロソフトのハードやソフトを使ってSNSを利用して情報発信していること自体が、GAFAMなどのアメリカの巨大IT企業の手のひらの上で踊らされて金儲けの餌食になっているだけで、どう考えてもトヨタすごいぞ日本すごいぞ論的な部分的な思考の持ち主は馬鹿なんじゃないかと思われてしまうわけだが、そうなっている時点で日本のガラパゴス化も通用しなくなっていて、知らないうちに世界標準の思考へと統合されつつあるわけだから、その種のナショナリズム的な抵抗意識が世界標準の抵抗でもあるのかも知れず、日本の独自性自体も幻想に過ぎないような気もしてきてしまうから、それで構わないようなことでもあり、日本でアメリカのトランプなどに親近感を抱いている人たちが石丸などにも親近感を寄せている可能性もあるわけで、その延長上でフランスのルペンなどにも親近感を寄せている可能性もあるが、なぜかそれと同じようなカテゴリーに入りそうな中国の習近平には憎悪の感情を覚えさせるわけだから、そういう面でも愛するトヨタが中国企業と連携している面は意図的に無視して部分的なご都合主義に染まってしまい、もちろんそういう面も世界標準でそうなっている可能性もあるわけだから、単純な愛国主義では割り切れないような、愛国主義自体がいい加減なご都合主義の産物だという複雑な事情や経緯がありそうなのだが、そうなっているのをイーロン・マスクなどは十分理解しているから、愛国主義を政治利用するトランプを支持するのだろうし、また返す刀でトランプが敵視する中国政府関係者などとも親密なコネクションを構築しているのだろうが、さらにトヨタ信者などは無視してトヨタにも技術的な敬意を払っているし、自動車産業などの部分的なカテゴリーを超えて、風力や太陽光などの自然再生エネルギーから取り出した電気を巨大蓄電池に溜めて安定供給するための電力事業などにも取り組んで収益を上げ始めているし、スペースXなどの宇宙産業も手がけているし、自動運転技術を利用したロボタクシー事業も立ち上げようとしているし、汎用人型ロボットの開発もやっているし、医療分野にもAIやロボット技術を利用することによって進出しているし、そういう面で何がすごいのかといっても、トヨタすごいぞ日本すごいぞというみみっちいレベルの遥か上を行っている感じもしないではないが、確かにそういう面ではそうだとしても、別にそれを真に受けて野球の分野で大谷すごいぞ将棋の分野で藤井すごいぞ日本の誇りだと自慢するような人たちを馬鹿にできるかというと、そういう人には言わせておけばいいだろうし、イーロン・マスクがすごいからといって、出身地の南アフリカの人たちが自分たちの国の誇りだと自慢しているのを見たこともないわけだが、他人を馬鹿にするのではなく、他人の自尊心をくすぐってそれを商売に結びつけるような人や団体が世の中にはいくらでも存在していると思っておいても構わないのだろうし、ユーチューブで日本すごいぞと自慢する人たちもその種の商売をやっているわけで、それは愛国心を政治利用するトランプと変わらないだろうし、そんなトランプへの支持を公言するイーロン・マスクにも、その種の意図や思惑がないとは言えないだろうが、イーロン・マスクが本業の企業経営の分野でそれなりに実績を上げているから投資家も彼の経営手腕を信頼して巨額の資金を拠出しているのだろうし、そういう面ではそうなっていることでしかなく、それをいちいち〇〇すごいぞという煽動的な文脈に結びつけて馬鹿にしたり皮肉ってみても、そういう成り行きをおもしろがっているに過ぎないのだろうが、それを真に受けるなら娯楽や気晴らしの範囲内で真に受けているだけで、本気にならないことが肝要だとしても、では何に対して本気になればいいのかと言えば、それが政治の分野になるなら、民衆のためになっているようなことが本当に行われているか否かが、真面目なレベルでの良し悪しの判断材料になるのではないか。


7月20日「窮余の策」

 為政者というと普通は選挙を経て何らかの公的な役職に就いている立場の人を想定してみても、それが目眩しの囮で、実際には行政的な官僚システムの中で物事が動いていることになりそうだが、行政の首長などを決める選挙の際に掲げられる政策が、その場限りの安易な思いつきに基づいているはずもないが、それが選挙後にどんなに面倒な事態を引き起こしても、それによってとばっちりを受ける周囲の関係者にはたまったものではないが、それとは無関係な一般人には直接の作用も影響も及ばない限りで、それに対してどんな対抗策を講じる必要も感じないだろうが、一般人が何か策を講じても事態が改善するとも思えないとしても、そもそもなぜ無関係な一般人が策などわざわざ講じなければならないかも謎だが、とばっちりを受けたくないなら無関係を装って近づかなければいいような気がするものの、それでもだいぶ回りくどいやり方のように思われるのだが、そうでもしない限りは何がどうなるとも思えないし、要するに面倒な人が権力や権限を握ると周りの人々が迷惑を被る程度のことかも知れないが、その程度で済むなら大した事態でもないはずで、公職に就いている特定の人物に限っては、その発言がメディアを通じてそれなりの影響を世の中に及ぼしていると想像できるが、実際にはそれが隠れ蓑となっていて、それとは別の方面から何かが変なふうに作用や影響を世の中に及ぼしていると考えても、それが何だかわからない限りは想像の域を出ないことになってしまうが、それによって何がどうなっているわけでもなく、それよりも物事がうまく回っている成り行きの方を注目しなければならないのかも知れないし、何か疑念を覚えるのだから、その疑念がどこから生じてくるのか解明したくなってしまい、それによって無駄な回り道を強いられているとしても、そこで起こっている出来事や現象を無視するわけにも行かないから、それなりに疑念の原因や理由を探らなければならず、その疑念が何かというと、具体的に何がどうなっているわけでもなく、ただの都市的な発展の過程に直面して、それに関わっている人や団体にどんな意図や思惑があろうがなかろうが、都市が発展する方向で物事が動いているに過ぎないことなのだが、そういう成り行きの進行を阻害する要因をすぐに思い浮かぶわけでもないのだが、かえって促進するように作用しているわけでもなく、それもただの目眩しの囮に過ぎないのかも知れないが、何かそういうことまで思い至らないようにするために、そこに至る途中の道に数々の邪魔な障害物の類いをばら撒いているとも思えないのだが、そういう邪魔な障害物の類いが、例えば消費税を廃止するか否かを選択させるような強引な対立軸の設定であったり、少子化対策の中身が妥当か否かを検討する回り道であったりすると思っても構わないかというと、どちらにしてもそれを真剣に政治的な課題として提示している勢力としては、それこそが切実に実行すべき政策になるのだろうが、たぶんそうは思わせないようにする成り行きにほとんどの人々がとらわれているから、何かそれがリアリティを感じられないことだと思われて、そんなことよりは他に優先させるべきことが各々にあるから、それもどちらかというとそっちの方を優先させている成り行きの中で生活や活動が成り立っているはずなのだが、では具体的に何を優先させているのかといっても、その人に関係する様々な物事の中でそれらの中のいくつかを同時並行的に優先させているに過ぎないことであって、優先するといっても各々の程度や傾向や切実さなどが異なっているから、比較にならないというとその通りのことになってしまうが、だから別に消費税の廃止を優先的に訴えている政治勢力に対して拒否反応を示す必要もそれほど感じないし、主張したければ勝手に主張していればいい程度のことに過ぎず、場合によっては選挙の際にその種の政治勢力の候補者に投票しても構わないようなことにもなってくるわけで、また有効な少子化対策の必要性を切実に訴えている人を悪く言う気にもならないし、その必要性を訴えるなら気が済むまで訴えていても構わない程度のことに過ぎないのだが、そういう絶対的な判断基準が不明な世の中になっているというと、昔からそうなのかも知れないし、その折々で例えば郵政事業を民営化するか否かが選挙の際の絶対的な判断基準だと思っていたかというと、結果からそうだったと言いたい人も結構大勢出てきたはずだが、今となっては郵政民営化が失敗だったと主張したい人も結構大勢いるだろうから、そんな人にとってはその当時の民衆の判断が間違っていたと言いたいわけだろうし、その延長上で消費税の導入もその税率を引き上げたのも間違っていたと言いたいわけだろうが、それが現状でもそれでも構わないこととして事態が進行中なのであり、それに類することとしても例えば東京の築地市場の豊洲への移転に関しても、色々と批判されながらもごり押し的に移転作業が進展してみれば、もはや後戻りができないような事態の中で物事が進行中なのであって、それがなるほどそうなってみると都市の再開発の一環でそうなってしまうようなことだと納得できないまでも、なし崩し的な成り行きの中で感覚が慣らされてしまうわけで、何かそれが抗いがたい事態の進行に巻き込まれているから、それらの関係者ではない一般人にとっては手も足も出ないことになってしまって、それに対してそれらの反対運動に身を投じていた人々に関しても、そういう人たちの間でも何か部外者から何を言われても無視するような態度になっていたとしてもその自覚もないだろうが、切実にそうは思わない一般人にとっては何でもないことであって、築地に関しては小池百合子に騙されたと言いたい人もいくらでもいるだろうが、たぶんその数百倍の人々がもとから信用していないわけで、そうなるだろうと思いながらも都知事選挙では小池百合子に投票したのだろうから、当人が誰を騙そうが誰が騙されようが、そんなのは気にしない無責任な人たちが大多数を占めているわけだ。


7月19日「自分の願望が反映した未来」

 現状の世の中で暮らしている人々の意識がどんな傾向にあるかなんて知りようがないというか、それもある程度は想像の範囲内では思い浮かぶにしても、それも程度や傾向の種類にもよるが、メディアを通して伝わってくる世の中の経済情勢や政治情勢や社会情勢やメディアが実施する世論調査や選挙結果などから推測するしかないが、それを基にして今さら何を適当に想像してみたところで、妄想の域を出ない不確かなものとなってしまいそうだが、何かそれが変化する兆しを感じ取っているわけでもないのだが、今後それがどう変わって行くかなんてなおのこと予想し難いだろうが、何か人々の意識が変わるきっかけとなるような出来事が今後起こるかというと、すでに世界の様々な場所で様々な出来事が起こっていて、それがそこで暮らす人々の意識を変えるきっかけとなっているのかも知れないし、その全てを把握することなんて不可能というか、把握しようとしているわけでもないし、今後起こるだろう人々の意識の変化の程度や傾向などを予想したいわけでもないが、変化するきっかけとして何の材料も出揃っていないわけでもないとしても、現時点でそれを予想するのは無意味かも知れないし、しかも無意味であっても構わないようなことを予想したくなってしまうわけでもないのだが、結果的にそうはならないような成り行きになることをなぜか期待してしまうわけで、しかもそんな意味不明な期待と共にいい加減な憶測の類いをこれ見よがしに言い放ちたくなるわけでもないのだが、そんな期待に自分の願望が込められているような気がして、何か世の中がこうなってほしいとか、人々の意識がこんなふうに変化してほしいとかいう願望には、現時点での自分の都合が反映しているはずだが、ではいったい具体的に何がどうなってほしいのかといえば、例えば現代の人々の意識に宿っているある種の狂気が取り除かれてほしいと思うわけでもないが、たぶんそれがある種の傾向を伴った人々にとってはできない相談であり、果たしてそういうことなのかどうかも諸説ありそうだが、それが明治維新以降に西洋から導入された国家的な狂気となると、実際に国家主義や国粋主義に感染している人々には、そもそもがその種の狂気に突き動かされて活動しているわけで、それが何らかのきっかけから取り除かれてしまうと活動している意味や意義がなくなってしまうから、そういう成り行きは断じて受け入れ難いわけだが、少なくとも現状では完全に取り除かれるような成り行きにはなってはいないだろうし、実際に人々の意識の中で国家という架空の存在がそれなりに大きな割合を占めているような気もするわけだが、それを信じるか信じないかはあなた次第というわけでもなく、半ば強制的に国家という存在を信じるように幼少期から学校などで行われる教育を通して訓練を受けているわけだから、信じない方が不都合を感じるようなかなり強い程度で誰もが国家が存在していることを信じているはずだが、なぜそれを信じざるを得ないのかといっても、信じないと直接の不利益を被るから信じているはずで、制度的にも慣習的にも法律的にも信じないと困るようなことが起こるわけで、国家など存在しないと言い張っても、戸籍がないと自身の存在を公的に証明することができなくなってしまうし、パスポートがないとある一定の範囲から先へは移動できなくなってしまうし、自身の存在を証明してくれたり、証明する書類を発行してくれるのが行政府なわけだから、少なくとも現状ではそれらの証明など不要な世の中にはなっていない限りで、国家の存在を信じて何かにつけて行政府を頼らざるを得ないわけだが、果たして今後そういう基本的な傾向が変わってしまうことを予想したいのかというと、予想したいというよりは否応なくそうなってしまうというわけでもないから、今後ともそんなことはあり得ないと思いたいし、それと国家主義や国粋主義から生じる狂気が全くの無関係というわけでもないとしても程度の問題で、それもいつもながらの原因と結果を取り違えることから生じる錯覚に他ならないと思いたいわけだが、そういう成り行きに絡んでその種の狂気に取り憑かれた人々が他のまともな人々へと攻撃を仕掛ける際には、わざと意識してその種の錯覚を信じているふりを装うと考えるとしっくりくるのだが、しかも自分たちが演技している自覚がないというか、その自覚がなくて当然なのだと思っておくしかないような精神状態であるから、何かそういう方面にこだわっている人々のメンタリティがわざとらしくも見え透いているように感じられる限りで、かえって彼らが信じている国家という存在がフィクションのように思われてしまうという逆説的な事態が生じていることを彼らのうちの誰が理解しているとも思えないのだが、すでにそうなっているだけでも、現状の中で何かがごり押しされているような成り行きになっていて、そういうことからマイナンバーカードなどのごり押し的な普及も強行されているのかも知れないが、彼らが信じているつもりの国家的な裏づけが、打ち寄せる波に削られる砂上の楼閣のような比喩がぴったり当てはまるかどうかもよくわからないが、それが争点逸らしの目眩しとしても機能しているかどうかも定かでないのだが、それもたぶん実際に起こっている出来事の中でそんな物事の占める割合が微々たる作用や影響しか世界に及ぼさないから、そこに暮らす人々の願望の程度や傾向もそういう物事とは関係のない方面から構成されるような成り行きとなっていて、それが現状の世の中では何をもたらしているのかが、今ひとつはっきりしないようなことにもなっているのかも知れないが、そこで機能している行政的な制度やシステムとそれとは別というわけでもないのだが、それを確固たるものだと信じ切ってしまうと裏切られて当てが外れてしまうような梯子外しを仕掛けられてしまうから、それとこれとを完全に一致させようとするから狂気が生じてくるのだが、だからそれらのでき得る限りあり得べき未来の姿となると、単なる事務的で形式的な手続きに終始していてほしいわけで、そこに精神や感情などが入り込む余地などないように配慮されてほしいわけだ。


7月18日「当たり前の現実」

 誰もが体験しているごく当たり前の現実といっても、今ここで実際に体験しつつある現実でしかないが、それが百パーセント仮想現実だと言いたいわけでもなく、ただの現実には違いないのは、現実をどう認識してどう表現するかにもよるだろうが、たぶんそういう現実ではなく、ではどんな現実なのかといっても、比喩としての現実でしかなく、その程度や深刻度が違うというと、何となくそう思っておけばいい程度の現実に過ぎないが、思い知らされたと思うような現実であり、そうなってみると当たり前のことに過ぎないのだが、そう思い至るまでに何か幻影のようなものを見させられていたような気がするわけで、それが幻影だと言ってしまうと、かなり恣意的に現実をねじ曲げているようなことになってしまうのだが、どうしてもただの幻影でしかないような現実を目の当たりにして、それが思い知らされた現実でしかなく、何かそれが直接にではないとしても、間接的には打ちのめされたような実感をもたらしたわけで、それがどうやっても動かし難い現実なのかも知れず、それを自分には関係のないことだと無視するわけにも行かないから、そんな現実とどう向き合えばいいのかわからず、困惑するばかりの日々を送っているというと、直接の当事者でもないのに嘘つくなと突っ込みを入れられるわけでもないのだが、当事者になれなければ傍観者や野次馬にしかなれないわけではなく、ある程度のレベルで誰もが当事者にも傍観者にも野次馬にもなれて、他のどんな役割分担でも世の中に受け入れられるのかも知れず、そういうレベルではトランプがアメリカの大統領になったところで何がどうなるわけでもないことになってしまうわけだが、実際に未だに小池百合子も東京都知事の役職に収まっていられて、それを許しているのが東京都民に他ならず、選挙によって信任したわけだが、果たしてそんな当たり前の現実を認め難いかというと、認め難くても認めざるを得ないわけだから、たとえそれが嫌な感じを伴ってきても、今まで通りの日常の延長上では何でもない程度のことに過ぎないし、身の回りではそれで構わないようなこととして日々が淡々と続いて行くわけで、今に至っても執拗に批判を未練がましく続けている人たちも含めて、何がどう変わったとも思えないような感覚なのだが、それが錯覚に過ぎないのかというと、錯覚だとしても構わないのかも知れず、これまで通りのことがまかり通るはずだと錯覚していても構わないわけだが、果たしてそれが錯覚だと思い知らされるようなことが今後起きるかというと、それも実際に思い知らされてからそれを実感することになるだろうが、そうなることをいくら願ってみても願いが叶うはずもないとは思わないし、取り立てて何を願っているわけでもなくても、どうせ過去に願っていたことなんてすぐに思い出せなくなってしまうから、願いたいなら勝手に願っていればいいのかも知れず、願っているだけそれが叶うなら、それこそが幻想に過ぎないわけで、願いが実現するにはそれ相応の努力や働きかけが必要だと思うなら、未だに未練がましく小池百合子を批判し続けている人たちを見習うしかなく、彼らのように頑張る気があるなら、他の方面でもやるべきことを見つけなければならないのかも知れないが、果たしてそれがそれ以外の方面から何か煽動すべきことを探し出してきて、それを使って情勢の転換を図ることかというと、そんなことをやらなくてももうすでに情勢が転換している可能性もなくはなく、何かそれがトランプ暗殺未遂事件をきっかけにして起こったとすれば、それもこの時点ではどうということはないのだが、たぶんここから事態が適当に進展して行って、結果的には何かがどうにかなってしまうのかも知れず、それが一見何でもないことであって、小池百合子とも無関係に思われるだろうが、十把一絡げという表現が適当かどうかは自信がないが、まとめてポイということにはならないだろうが、そんな成り行きを信任して下支えしている民衆と共に用済みになる機会が思いのほか早くやってくるような予感がしているわけでもないが、それが的外れの勘違いからそう思われることだとしても、それで構わないような気がするわけで、なぜどういう理屈でそうなってしまうのかも誰にもわからないようなわけのわからない成り行きからそうなってしまうようなら、何となく納得し難いことかも知れないものの、そうならないようにトランプも彼の取り巻きたちも、それがもっともらしい理由づけができるように様々な方面から関わってくる物事を調整している最中なのかも知れないが、それがうまく行くようなことだとは到底思えないにしても、結果的にはそれで構わないようなことにもならないだろうし、トランプを未練がましく執拗に批判する人たちもそれを改めるわけでもなく、延々と批判し続けるだろうが、そうはならないと言えるような兆候があるのかというと、それがここ数ヶ月の範囲内で関わってくる人や団体がやらざるを得ないことになってくるのだろうが、まだ時間が残されているから、その時間内でやるべきことがいくらでも出てくるわけでもないにしても、実際に何かを仕掛けてくるわけで、仕掛けないとこのままトランプが大統領に就任して世界情勢をめちゃくちゃにされるわけでもないにしても、何かが従来の成り行きからは違った方面へと逸らされて行くことは確かかも知れず、そんな成り行きを利用したければ利用できる人や団体が利用するしかないとしても、果たしてそれで何を利用していることになるのかならないのかも、その時点になってみないことにはよくわからないだろうが、それが現時点で予想がつくようなことでもないのかも知れず、そうなってみないことには何もできないわけでもないが、多くの人々が恐れつつも期待しているのが、多くの人々がその当事者にもなれないような世界情勢の変化かも知れず、だからそうなってみればそれほど大したことだとも感じられないのかも知れないが、実際にそうなってからそれが思いがけないこととして驚けばいいようなことになるのではないか。


7月17日「赤旗ジャーナリズム」

 赤旗が共産党の機関紙という認識でいいのかどうかは、それは誰もが普通にそう思っている範囲内ではそうだと言えるだろうが、直接にはそれを読んだことなどないから、そういう部分があるとしても知らない事情に含まれるのだが、その一方で他のメディアを通じて目立っているのは、共産党の機関紙的な面というよりは、政治や行政の不正を暴くジャーナリズム的な面というのも、誰もが当たり前のように認識していることなのかも知れず、そういう意味では日本共産党という存在が、レーニン的な革命思想ではうまく行かない事情を反映して、マルクス的なジャーナリズムの手法へと否応なく振れている現状があるのだろうが、それも何がそうさせているというよりは、時代状況が否応なくジャーナリズムという面でしかアピールできない事情をもたらしているのかも知れず、そういうところからある種の勘違いが生じているというか、それを勘違いだとは受け止めたくはないのだが、勘違いではないとすれば何なのかというと、まさか共産主義=ジャーナリズムだから、否応なくそうなってしまうとは言えないし、誰もそうは思わないし、共産主義とは無縁のジャーナリズムなどいくらでもあると思いたいのだが、それが共産主義とは絶対に言えないはずだが、なぜか共産主義=ジャーナリズムになっているとしたら、そこで様々な事情や経緯がどう絡み合ってそうなっているとしても、そういうことになってしまっても構わないような成り行きがありそうで、しかも何かの冗談でこんなことを述べていると受け取られても構わないのだが、ある意味ではそうなってほしいし、そうであってほしいのだと嘘をついても構わないが、ではそうなるとジャーナリストこそが共産主義者でない理由が何なのかというと、ジャーナリズムこそが共産主義を世の中に拡散するための有効なやり方になっているわけではないと主張したくなってくるわけでもないが、もちろん冗談でこんなことを述べていて、赤旗以外の新聞やテレビなどのメディアに足りないのは、自らが共産主義者だという確固たる自覚であり自信に他ならないとは思えないし、赤旗の記者や編集者でさえも自身が共産主義者だなんてこれっぽっちも思っていないような気もしてくるのだが、いい加減な妄想を含んだ想像からこんなことを述べているわけだから、それとは違って普通に考えて、世の中には政治や行政が関係する不正行為以外にも伝えたいことがいくらでもあって、むしろそちらの方が伝えたいことのメインであれば、それで構わないようなことだと思いたいのだが、そういう認識である方が気が狂っていないことの証しとなるわけでもないし、そんな大げさなことではないと思っている限りで、何か他に伝えたいことがあるかというと、たぶんそれがおおよそジャーナリズムとも共産主義とも無縁の何かかも知れず、その何かが政治にも行政にも関わらないことであれば、政治にとっても行政にとっても都合が良いわけでもないだろうが、なぜか都合が良いのだとしたら、そういうことに興味や関心を奪われて、そういうことにかかりきりとなってもらっていた方が、政治や行政にとって不都合なことに首を突っ込む機会が失われて、共産主義ともジャーナリズムとも無縁でいられるからというわけでもなく、逆によりいっそう政治や行政へと興味や関心が向かうように仕向けられてしまう要因やきっかけとなるのが共産主義でもジャーナリズムでもないとしたら何なのかというと、それがそれらと共犯関係にある何かなのかも知れず、それがお互いの共通の利害を形成していれば問題ないわけだが、そうはならないとしたら詐欺の一種となる可能性も捨て切れないから、そういうところが用心しなければならないことでもあって、たぶんそれが共犯関係などではなく、逆に政治や行政などが原因で被害や損害を被るようなことであれば、待ってましたとばかりに共産主義=ジャーナリズムの格好の餌食となるわけで、そら見たことかとばかりにそんな被害や損害の程度や惨状が強調されて誇張されて、それに関わる政治や行政の悪行三昧が指摘されて告発されて糾弾されて批判されて非難されるわけだが、果たしてそれでは物足りないのかというと、たぶんそれでも物足りないのであり、もっと大げさに強調したり誇張して伝えたいことがあって、それが何かというと、それこそが政治や行政と民衆との共犯関係であり、馴れ合いやもたれ合いを伴った不都合で不透明な怪しげな関係となるわけだが、少なくとも政治や行政の被害者であるよりも共犯者である者たちの方が圧倒的な多数になるから、それによって政治や行政が民衆から信任されている証しとなるわけで、それが最近の東京都知事選挙でも明らかになって、それこそが共産主義=ジャーナリズムが向き合わなければならない不都合な真実だと言えるかどうかが、何か認め難いことになりかかっているというか、結果的には認めざるを得ないことであるのに、そうなると共産主義=ジャーナリズムの方が民衆の敵になってしまうから、断じて認められないということでもないのだろうが、それも誰がそれを敵認定しているわけでもないところがはっきりしないところだろうが、たぶん民衆の意識の中では敵でさえなく、無視しても構わないような存在としても認識されていないのかも知れず、誰もが知っているのだから無視しているわけでもないはずだが、それが直接対峙するような存在ではなく、もちろん政治や行政もその範疇に入る存在なのかも知れないから、実質的には敵でも味方でもなく、それらに関わってくるきっかけが生じてこない限りは、確かに敵でも味方でもないのだろうが、それがきっかけも関わりも何も生じてこないのに被害や損害が直接生じているわけでもない人たちにとってはそうだとしても、被害や損害が少なからず生じているのに民衆にはわからないようにしておくのが、政治や行政の腕の見せどころなのかも知れない。


7月16日「換骨奪胎の意味」

 換骨奪胎というと何かの間に合わせにやっているとしても技術的に優れたやり方のように感じられる面もあるが、人目を欺くというか、それとはちょっと違うのかも知れないが、例えばトランプなんかがやっているのがある種のイメージ戦略であるのは、誰もが承知していることだとは思うが、馬鹿で浅はかな大衆がそれを真に受けているのかというと、それもちょっと違って、大衆という存在を否定的に捉えて馬鹿にしたがる紋切り型の思考に染まっているだけのような気もするから、そんな安易な印象操作の類いにも染まってしまってはまずいような気もして、ではどう捉えたらいいのかと考え込んでしまうが、そもそもそれの何が換骨奪胎だと思ったのかも、その対象がよくわからないし、その意味など誰もが承知していることだとしても、それをどう使っているのかが、たぶん頭の良い人でも気づきにくいところで使っているから、多くの人々がそれに引っかかってしまい、結果的には頭の良い人から馬鹿にされる対象となってしまうような気もするのだが、それもそもそも頭の良い人が大衆を馬鹿にするかというと、馬鹿にしたら利用できないから、普通は馬鹿で浅はかな大衆の味方を装いながら利用するのだろうが、石丸なんかもそういうところを熟知しているというか心得ている参謀みたいな人に助言を受けながら大衆ウケするような暴論の類いを言い放つのかも知れないが、そんな程度でうまく行くようなことなのかというと、彼を支持する多くの人々も訳知り顔の共犯者となっているから結果的にうまく行くのだろうし、そういう意味ではどちらにしても誰も馬鹿でも浅はかでもないわけだが、そんな成り行きの中で彼らが何を換骨奪胎しているのかというと、単純に民主主義をポピュリズムへと換骨奪胎しているわけではないとすれば、それを換骨奪胎とは言わないようなことかも知れないし、そうではないとすれば何なのかと言っても、一言では言い表せないような複雑な紆余曲折を伴いながらも、その場に居合わせた誰の思惑からも外れるよう成り行きとなっているのかも知れないし、たまたまそれが多くの人々の自尊心をくすぐるような認識をもたらせば、そんなことを言い放った人が支持や賛同を得られるようなことかも知れないし、そんなことではないとすれば何なのかというと、いじめの対象としての蓮舫などがその条件を満たしていることが世の中に知れ渡ると、それを攻撃するように仕向けられて、おもしろがって参入してくる馬鹿が大勢湧いて出るのだろうが、別にそれがおかしいと思われるようなことでもなければ、それが一過性の娯楽のようにメディアを通じて機能して、そんな現象を目の当たりにすれば大衆という存在が馬鹿で浅はかだと感じられるだろうが、それとこれとが無関係というわけでもなく、それらが組み合わさった形態が錯覚としてしっくりくるわけだが、それが金権腐敗や官民癒着の談合政治が大衆の目を欺くには都合の良い対象として利用している実態もあるのだろうから、まさにそういうひどいことをやっている勢力からすれば、うまくやっていることになりそうだが、そのうまくやっている状態というのも、必ずしも彼らの思惑通りに行っているわけでもないところが、彼らをダシに使って何かをやっているように装っている勢力がいるわけでもないから何がどうなっているわけでもないのだが、そういう面では何がどうなっているわけでもなくても、それとは別の面では直接には無関係だとしても、それなりにうまく行っている面もあるのかも知れないから、普通にそれとこれとは無関係だと思いたいのだが、例えば東京の神宮外苑の再開発なども娯楽目的のスポーツ観戦施設などのスタジアムや周辺部分も合わせて改築したいわけで、またそれに伴ってホテルとかも併設して収益も上げたいのだろうから、それなりに合理的かつ功利的にも納得できる切実な理由があるから再開発が行われるわけだが、それに伴って多数の樹木が伐採されるから、そこだけを強調して景観破壊だ何だのと煽り立てるようなことが行われると、蓮舫なんかはそういうことをやっている人たちの味方を装わなければならないだろうし、そういうところで都市の再開発を推進する東京都政と対立せざるを得ないのだろうが、さらにそれとこれとは一見無関係なところで、蓮舫を攻撃したい思惑が働くと、テレビタレントなどを使って蓮舫を批判一辺倒のカミツキガメだなんて嘲笑しながら、争点逸らしの印象操作が行われるわけだろうが、その一方で蓮舫を野田や枝野なんかと一緒くたに扱って緊縮財政派のレッテルを貼りつけて批判してきた側の人たちも、叩かれている蓮舫を眺めながら、ざまあみろと思っているのか、その辺はそう思っている人たちの良心や良識や倫理などの問題となってくるだろうが、そういう成り行きを見てひどい世の中になってきたと嫌な感じがする人の割合の方が多いと思いたいのだが、そういうのはアメリカで陰謀論の標的になっているクリントンやペロシなどにも言えることかも知れないが、世界的にはトランプやプーチンやエルドアンやネタニヤフなどを右派と見なすのも少しずれた認識となってしまうが、またクリントンやペロシや蓮舫を一緒に扱うのも抵抗感を覚えるのだが、傾向としてそう捉えるとしっくりくるようなことかも知れず、何かそういうことに関して事態を正確に捉える必要などないというと、ただ単に間違った認識だと思われても構わないのだが、あえて間違った認識になってしまっても構わないようなことでもあるから、あまり説得力など求めてもいないし、いい加減に世界情勢を捉えられる範囲内で適当なことを述べておいても構わないのかも知れないが、それらの中で何が非難されるべきことかもわかりすぎるくらいにわかっていることだとしても、実際に起こっている成り行きが非難されるべきことに深く関わっている側に有利に働いていると認識しておくしかなく、誰もがそれをどうにかしなければならないという課題に直面しているはずなのだが、それを理解していない人々や理解していても功利的な観点から見て見ぬふりを装っておいた方が得策だと認識している人たちが、非難される側に加担していると事態を捉えておくしかないのかも知れない。


7月15日「何か嫌な感じがする世の中で」

 何か嫌な感じがすることが実際にそういう世の中の空気を読んでしまう人の言動にも表れて、そんなことを言ってしまう人々がそんな成り行きにとらわれているように思われるのだが、そんな嫌な感じがする人々がメディアを通じて世間に蔓延ることにもなり、実際にもそんな言動に及んでしまう人々が世間と呼ばれる嫌な感じがする世の中の空気を作っているようにも思われるのだが、意識せずそんな言動に及んでしまう人たちもメディアで持て囃される軽薄なキャラクターに含まれてくるから、そういう軽薄な人気者的な人物が嫌な感じがする典型例のようにも思われるわけだが、そういうある意味でテレビの芸能人的な傾向の人々が政治家や官僚の不正行為を許容する腐った世の中を代表しているように思われてきたのとは対照的に、そんな人々を批判したり非難することによって良識ある識者や見識のある著名人気取りの嫌な感じがする人々も一方にはいるわけだから、どちらにしてもそんな嫌な感じがする予定調和の二項対立から脱却したいわけで、それらの人々の揚げ足取りをやっているようではそこから抜け出られないような気もするから、そういう成り行きを無視したくなるわけだが、無視しようとしても嫌でもメディアを通じてそんな言動から逃れられないようにされてしまっている現状の中ではどうすることもできないとあきらめかけてしまうのだが、そういう面ではあきらめても構わないどころか、それも否応なく積極的にSNSなどを利用して良識ある識者や見識ある著名人気取りの人々の味方を装いつつも、そんなふうに装っている自らの卑しさにも嫌気が差すどころか、何か演技として何の嫌悪感も良心の呵責も覚えずにそうなってしまう成り行きに身をまかせている現状もあるから、その良し悪しなど問題視する必要もなく、要するにそういうところではそう振る舞っておけば済んでしまうようなことなのかも知れず、自分が意識してそう振る舞っているのに、まるで自分には全く関係のないことのように感じられて、実際に無視されているのが自分自身であることも自覚しているわけだから、そんなことをやっている自分がどうでもいいような存在に思われてくるわけで、そんな心境を梃子の原理のようにして利用して他の何かをやらなければならないとは思うのだが、実際にやっていることがそれとは無関係かというと、そんなわけでもないから、その辺が微妙に意味不明で理解不能な状況の中で活動しているのかも知れず、これといって自らが積極的にやらなければならないことを設定できずにいるわけでもなく、実際にやらなければならないことはこれだと思っているのに、積極的にそれをやっているかというと、なぜかそれをやらずに放置しているところも微妙に意味不明で理解不能なのだが、それも全くやらないわけでもなく、途中まではすでにやっていて、これからさらにそれを続けてやろうとしているところなのに、なぜかそこから続けてやろうとする度に強烈にブレーキがかかって、気がつけばもう一年以上も全くやらずに放置しているような感じがしないでもなく、正確にはまだ一年も経っていないような気もするが、それをそのままやり続けてはまずいような気もしてくるのだが、それを再開させるには何かが足りないような気がするわけで、それが自分の思惑とは全く関係のないところから起こる出来事なのかも知れないが、今はそれが起こるのをひたすら待っているわけでもないだろうが、それがいつものように引っかかるものを感じさせて、これから得体の知れない何かが起こる予兆のようなものを感じ取っている気でいるわけだが、その何かが起こる機会を捉えて何をやらなければならないかが、果たして今の自分にはわかっているのかというと、それが勘違いなのかも知れないし、このまま何も起こらないまま寿命が尽きて死んでしまうなら、それでも構わないようなことなのかも知れないが、少なくとも自分に何ができるとも関与できるとも思えないようなところから何かが起こって、それについて部外者の立場からもっともらしい見解を示さなければならないかというと、何を述べても無視される立場からなら、そんな感じがしないでもないが、どうもそうではなく、直接それに関与しそうな存在としてトランプやプーチンやエルドアンやネタニヤフなどが挙げられるにしても、何かそれらの人物自体が歴史上の過去の存在であるルーズベルトやスターリンやヒトラーやムッソリーニなどと比べてどうなのかと言えるようなことでもないとすれば、そんなことも枝葉末節な範囲内で語るべき関心の薄いことかも知れず、もちろんそれが訳知り顔で専門的な知識を交えながらNBAやMLBなどについて熱っぽく語る輩たちとどう違うのかもよくわからないところだが、何やらさらっと受け流すべきこととして語られるそれらの内容の中に注目すべき出来事の予兆を感じられるわけでもないとすれば、だいぶそれが的外れな方面だと思っておいても構わないが、それでもそれらがきっかけとなって起こるようなことかも知れないから、わざとであってもそういう話題にも注目しているふりも装ってしまうわけで、その気もないのにそういう話題に接して何かそれとは関係のない方面から思いつくことがあるわけでもないのだが、これ見よがしにメディアが見せつけようとする話題をうまく受け流すアイテムとしてそれらの枝葉末節な話題が欠かせないとも思えないが、それを枝葉末節なことだと思わずに普通に関心を持っているのかも知れず、それも技術的な取り扱いとして活用する成り行きへと持って行ける気がするわけで、それが何の技術なのかもわかっているつもりだが、勘違い的な言語術のような扱い方なのだとしても、嘘も方便とはちょっと違っていて、現実に起こっていることをそのまま受け止めて、それに関して何か述べている輩たちの主張も真に受けることになるのだが、その主張の内容が自分とは無関係であることもわかっているから、素直にそれを受け止められて、待ち望んでいる出来事の到来をそれによって先延ばしにできるわけでもないが、少なくとも思いがけない出来事になるように持って行くには、いったんそれを忘れてしまわなければならず、それを忘れるために必要な話題としてそれがあるような気にもなれるのだが、本当はそうではないこともわかっているつもりなのかも知れない。


7月14日「それでも構わないこと」

 そんなことはないと思うほどのことでもないが、なぜかそう思っていた方がうまく行きそうな気がするから、そう思っているようなことかも知れず、そう思っていればうまく行きそうな気がするということが、それが宗教的な信仰の類いだと思われても構わないが、成り行きとしてはそんな大げさに思うようなことでもないのだから、ちょっとしたきっかけからそう思われて、そんなことを思ったところで何でもないことには変わりなさそうだが、思わないよりは思っておいた方が良さそうに思われることでもあるから、そう思っておいて損はないと思っておくだけでも気休め程度の効果があるのかも知れないし、だから本気でそう思っているわけでもなくても、大した理由もなく何となくそう思っている程度のことなのだが、それに関しては例えばエントロピー増大の法則に逆らえるわけでもないのと同じようなことでもないが、そうなってしまう成り行きには逆らわない方が身のためであり、自然に逆らってしまうならそれでも構わないようなことであるから、なぜか自然に逆らってしまう成り行きというのがなかなか意識していても気づかないことかも知れず、それも例えば自然の成り行きに逆らうのが自然の成り行きだと思うなら、その通りのことでもあるから、結果的にどうなろうと結局はそうなってしまうと思っておけばいいようなことになり、それ以上に何がどうなるわけでもないのだが、実際にそうなっている中でも普通に生きて行けるから、普通に生きて行ける限りで、経済的に豊かであろうと貧しかろうと生きている実態がそれなりにあるわけで、それで構わないようなことであるなら、自身にとってはそうなっているに過ぎず、それでも世の中には不満を抱いている人もいくらでもいるから、その不満をぶつける対象となる何かがあるなら、そういうところへと不満をぶつけるのだろうが、果たしてそれが不満をぶつける対象を間違えているのかというと、たぶんそれが間違えている方が都合が良いのかも知れないから、間違えていても構わないわけだが、何かそれが言いがかりのようなことでもあるから、不満をぶつけられる側にとってはたまったものではないのかも知れないが、それでも構わないとしたら、何がどうなっているから構わないのかもよくわからないようなことだとしても、それも結果的にはそれで構わないようなことになってしまい、そんな不満だらけな人とは違って、世の中でうまくやっている人や団体がいれば、それが運を味方につけているからうまくやっている以外にも、何かこれといってやっていることを正当化できるような理屈を持ち合わせているなら、その理屈が通用するような世の中になっているわけで、そんなふうにしてうまくやっているならやっている当事者にとっては心強いだろうが、その理屈が何かというところで、それに対して不満をぶつけたい人にとっては納得が行かないところでもあるから、是が非でもその理屈の欠点をあげつらって、理屈そのものを葬り去りたくなってくるのだろうが、それが実際に世の中で通用している理屈なのだから、客観的には理屈の欠点をあげつらっている方が不利な立場にあるのは明らかであり、自身が不利な立場であるのを自覚しているからそれが不満なのも明らかで、すでにそうなっている時点で不満を抱きながら自然の成り行きに逆らっているわけだから、負けを覚悟しなければならないのかも知れず、それが何に負けていることになるのかといえば、そこで生じている自然の成り行きに負けていることになるのかというと、そんなふうには思わないだろうが実質的にはそうなのかも知れず、その場で生じている自然の成り行きに逆らっている当人がそれを自覚できない場合も多そうだが、役割分担としてはそうなっているから、そうなっていること自体もその場で生じている自然の成り行きに含まれるわけで、たぶんそういう成り行きに巻き込まれてしまうと勝てないと思っておけばいいのだろうが、だからこそ他のやり方があると思っても構わないし、それが勝つためのやり方ではないかも知れないが、うまくその場で生じている成り行きを利用してうまくやろうとすることになれば、結果的にはそれで構わないようなことでもあるから、なるべくならそういうやり方を採用したいわけで、そういうやり方が具体的にどんなやり方なのかといえば、その場で不満をぶつけている人をやり過ごすようなやり方だと言えなくもないが、具体的にはこれといって特定できるようなことでもないのかも知れず、少なくともそれが無理して自身の寿命を縮めるような過酷なやり方になってしまうとまずいわけで、他人から見れば何でもないようなことをやっているだけでも、その場の成り行きに逆らってはいないはずだが、それが自分に関してなら、昨年母が亡くなって、母名義の土地や株式は父が全て相続したが、金融機関の預貯金は父と兄と自分と妹で4等分して相続して、その金の一部で自分はEVを買って、先日EV補助金の85万円が自分の口座に振り込まれたのを確認してにんまりしている程度のことなのだが、それが自力で何をやっているわけでもなければ、何も誇れるようなことでも正当化できるようなことでもないのだから、そんなのは黙っていても構わないようなことなのに、何かのついでにそんなことを語ってしまえるのだから、それだけ余裕がある証拠なのかも知れないが、だからといって何もやらずに生きていることがどんなに苦しいことかと自慢がしたいわけでもないわけだから、それもその程度で構わないことでもあるから、特にどうということでもないわけで、そういう意味ではその場の成り行きに逆らっている気はしないというよりは、どちらかと言えばその場の成り行きに従っているからそういう面ではうまくやっていることになるとしか思えないわけだが、果たしてそれとは別の面ではその場の成り行きに逆らって何かをやっていることになるのかというと、こういうことを述べていること自体が、成り行きに逆らって述べていることになるのかどうかが自分には判断がつかないような気がするわけで、それも判断する必要もないことなのかも知れない。


7月13日「利益と御利益の違い」

 現状の世の中で何が問題となっているのかと言えば、それが技術や制度の問題でなければ何なのかというと、気持ちの問題かと言えばそうとも言い切れないような気もするが、もっと単純に割り切って利害の問題だと理解するなら、その通りだとも言えないこともないが、何らかの技術を使って利益を出すための制度やシステムを作って、それを運用する過程で何か問題が発生すると考えれば、利益と共に損失や損害も発生するからそれが問題であり、下手をすればそちらの方が大きくなってしまうから、それを何とかしてなくそうとしたり、なくすことができなければ、損失や損害を最小限に食い止めることが目標となるだろうが、そもそも何かを行なった結果として利益が得られる制度やシステムにすれば良いと単純に割り切れるかというと、それの何が問題かと問うなら、必ずしもそうはならないからそれが問題なら、そうなるように工夫を凝らせば良くなってしまうだろうが、工夫を凝らしても良くならなければあきらめるしかないかも知れないが、それ以前に生きて行くにはそんなことをやらざるを得ないと考えるなら、それをあきらめることが自らの死に直結するようならあきらめるわけには行かないはずだが、社会の中で生きている誰もが制度やシステムを作る側になるわけでも、それを運用する側になるわけでもなく、それを利用する者がその大半を占めているかというと、作る側にも運用する側にも利用する側にも何らかの形で関与しているはずだが、それらのうちでどこから利益を得ているとしても、直接にはそれが仕事となっているところから利益を得ている者が大半を占めているはずだが、利益といっても直接的には金銭的な利益となる他にも何か利益と見なせるような物事があるかというと、それもすぐには思い浮かばないが、なぜか倫理的に振る舞うことから利益が生じると勘違いしている人もごくわずかながら存在しているのかも知れず、それが論理的ではなく倫理的に振る舞うということが、普通に利益を求める者にはわからないようで、何か倫理と道徳を混同するようなわかりやすい勘違いも生じてくる場合もあるらしく、倫理が何なのかを履き違えて不合理な慣習の類いを守ることだと勘違いしたいらしいのだが、意識して勘違いしたいわけではなく、それが宗教的かつ集団的な甘えから生じてくることでもあるらしく、利益を共有できる者たちが寄り集まって集団的な利害共同体を形成して、その集団に属さない人間を排除することによって集団の利益を守るような成り行きへと持って行っているつもりなのだが、集団内の小さな利益を守ることと引き換えにして、集団外の不確かで大きな利益を取り逃していることになるかというと、集団内にいればそんなふうには思えないし、その不確かで大きな利益が何なのかもわかりようがなく、そんな当てにならなそうで幻想のような利益を求めるよりは、目の前の確かな感触を伴った集団の利益の恩恵に与ろうとするだろうから、正気であるなら集団的な利益を追求してしまうのだろうが、それが正しいからこそ間違っているというと意味がわからなくなってしまいそうだが、たぶん心身的にも経済的にも余裕があるなら、間違っている方を求めようとしてしまうわけで、集団の利益を追求する者にはあり得ないことだが、意識してそうなってしまうわけではなく、結果的にそうなってしまうといっても、なおのことあり得ないのだが、そうなるのが倫理的なことかというと、それも倫理と道徳を混同している者にもあり得ないことだと思われるだろうが、そもそも利害と倫理とが関係のあることだと思えるはずもなく、それが論理的にも理屈の上でもおかしいからこそ、不合理なのか非合理なのかもよくわからないことだが、勘違いには違いないと思うならその通りかも知れないし、今回の蓮舫の件でも、蓮舫が都知事選への立候補を表明した時点で、直感としてこりゃダメだとわかってしまって、野田だの辻元だのが応援に駆けつけて、途中から変なR文字の入ったTシャツを着た奴が出てきた時点で、お前ら馬鹿か?と内心では思いつつも、倫理的な観点からは投票所で「れんほう」と書かざるを得ないわけで、何か違うのだが、それがうまくは言い表せないし、日本初の女性首相が蓮舫でも構わないのだが、それも直感としてそんなのはあり得ないと確信してしまうような何かがありそうで、たぶんそれが蓮舫本人のせいではないような気もするわけだから、別に野田や枝野や蓮舫などが緊縮財政派だと揶揄されて消費税廃止を訴える人たちや積極財政派を自称する人たちから批判されていても、そんなのもどうでもいいようなことのように思えるのだが、その一方で小池や石丸に投票した人たちや投票に行かなかった人たちが正気であることには変わりなく、そういう人たちがリアリティを感じているものが何なのかもわかりすぎるくらいわかっているつもりにはなれそうだが、彼らの正しさが自分にとっても正しいことなのだが、どういうわけか自分には間違う余裕があるらしく、蓮舫に投票しただけで倫理観があると言えるのか言えないのかも、確実にそうだと言えるようなことでもないのだが、少なくとも集団内の小さな利益の恩恵に与ろうとしたわけではなく、その時点ではそれが集団外の大きな利益だとも感じられないものの、たぶん結果的にはそうなってしまうのではないかと予想できて、それも自分に利益がもたらされるわけでもないのかも知れないし、何とも言えないことであるにしても、直接に金銭的な利益がもたらされるかというと絶対にそんなのはあり得ないことだが、それが現時点ではそうだとしても、なぜか自分が思いもつかないところから、あるいは誰にも思いもつかないところから、何らかの利益がもたらされると確信しているわけでもないのだが、たぶんここは利害抜きで投票用紙に「れんほう」と書かないとまずいような気がしたから書いて投票したまでで、後悔もしないどころか、そうしないとまずいと思ったからそうしたまでのことなのだが、もしかしたら今後小池や石丸に投票した人や投票に行かなかった人たちに何か地獄へ堕ちるような信じられないような理不尽な災禍が降りかかるようなことなど起こらないとも思わないにしても、自分の直感がそう感じたのだから、そうしないと何かヤバい事態となるような気がしたわけで、まさか今後致命的な何かが起こって「れんほう」と書いた人だけ選別的に救われるとも思えないが、笑い話的には何らかの御利益があるような気がするわけだ。


7月12日「言葉と仕掛け」

 人は誰でも他人とは正反対の主張をこれ見よがしに言い放ちたい気満々な煽動者気質というわけでもないだろうが、まるで絵に描いたような漫画の主人公というのが何なのかが、実際にその種の漫画を読んでも思い浮かぶわけでもなく、そんなこれまでの何番煎じか知らない程度のありふれた煽動者が言い放っている主張の何を批判したいわけでもないが、社会がそんな煽動者の定型に収まる程度の人物を次々と生み出すわけだから、それを軽く上回るような思いがけないところからはっと振り向くような人材が生じてくるとも思えないし、その遥か手前にとどまる程度の類型的な範囲内でその種の煽動者が現れると踏んで、舐めてかかって事にあたると痛い目に遭うとか、そんな安請け合いの事態に直面するわけでもなく、そういつも想定を上回るような事態が思いがけず起こって、これ見よがしにわざとらしく驚いて見せれば他人に満足してもらえるのかというと、そうなることまで想定しながら先回して何かが起こるのを待ち構えている必要もなく、自らが囚われている成り行きを信頼して黙ってそれについて行けばいいようなことでもあるから、その時々で舐めてかかっても構わないようなたわいない事態に足をすくわれて転んでから、それが自らの想定を遥かに上回る大変な事態だと気づくようなら、まだ救いようがあるかも知れないが、自身が他人の想定を遥かに下回るようなたわいない存在でしかなければ、要するに自分が大したことがないわけだから、些細な不注意などのたわいない原因で躓いて転んでしまったことにいちいち反省してもっともらしい教訓を得るような成り行きにはならないだろうし、気づかなくても構わないようなことにいちいち気づく必要もないわけだが、では他にどんなことに気づくべきでもなく、すでに気づいていることを基にして認識を構成してみれば、それなりに世の中がもっともらしく思われるような状況になっていることを理解できて、そんな理解で構わないような成り行きに自らが囚われていることにも気づくかも知れないが、果たしてそれで構わないのかというと、構うも構わないもその程度の認識や理解で済ませているから、自らがその程度の範囲内で活動しているわけで、それが言行が一致している範囲内であるなら満足できるかというと、一致するはずもなく、絶えず言葉の先行に行動が追いついてこないから言行の不一致が生じて、言っていることに対して活動の実態が伴ってこないから、それが詐欺的な活動の内容を生じさせている範囲内で欺瞞も意識されるのだろうが、別に嘘をついても構わないのではなく、嘘をつくならつけるだけの技量がないと嘘にもならないと思っておいても構わないだろうが、その嘘を真実だと思い込んでいるわけでもなく、嘘なら嘘で構わない程度の範囲内で嘘をついていると舐めてかかって、結局その嘘に裏切られて痛い目に遭うなら自業自得なのだろうから、何とかしてそんなせこい嘘の範囲内で自身の行動を完結させたくて、クズな小物たちがみみっちい物事を仕掛けて動き回っているのだろうが、それで済むなら世話ない程度のことでしかないわけだが、仕掛けられた側も呆れてものも言えない心理状態となって、クズな小物たちのくだらない仕掛けをスルーしているつもりなのだろうが、そんなことをいくらやっても破滅に導かれるわけでもないわけだから、せいぜいがクズな小物たちのやりたい放題な世の中が実現しているだけで、それがこれといって魅力的に感じられるわけでもなく、子供騙しのいじめが横行する中で誰かが自らの命を断つようなことが起これば、同情目当てでそんな成り行きを大々的に腐ったクズメディアがこれ見よがしに取り上げる程度のことで、そんな傾向が社会の隅々に行き渡るようなシステムが構築されていると理解させたいのかも知れず、果たしてそれをスルーできるかというと、鈍感力を発揮すればできないこともないのだろうが、鈍感にならないで同情するなら金をくれと商売に結びつくような仕掛けを構築しなければならないとも思わないが、何かそれが違うわけで、その違うわけを知りたくなってしまうのだが、それを冷笑的に嘲笑するような成り行きにも持って行けないなら、何か他にやりようがあるのかというと、やりようがあるからそういう成り行きをスルーして他の方面へと世界情勢が向かっているように思われてしまうわけで、それが何なのかということが、日本国内でクズな小物たちの動きばかりに気を取られていると理解できないというか、認識の範疇に入ってこないようなどうでもいいことにもなりかねず、そういう意味では確実に日本という枠組みでは理解できないことが世界では起こっていそうなのだが、それが中国という枠組みでもインドという枠組みでもヨーロッパという枠組みでもアメリカという枠組みでも理解できないとしたら何なのかというと、それを簡単に言うなら世界全体で考えてみないとわからないことかも知れないが、では世界全体で同時並行的な程度で何が起こっているのかというと、ある種の傾向に染まった人たちが嫌うグローバル化がもう何十年も前から進行中であり、それがもうすでに完結に近づいているから、それを無視する愚かな人たちが劣悪な状態の典型例となるような特性を伴って世界の方々で暗躍中だと言えるわけでもなく、そこから背を向けているからこそ動き回れる範囲内が、グローバル化と共に年々徐々に縮小してきていて、そんな範囲の縮小に合わせてせこく立ち回るクズな小物たちの活動が目立ってきていると言えるわけで、そしてその活動を伝えるメディアの形態も腐ったゴミメディアが主流となりつつあるのかも知れず、そうやってクズな小物たちと腐ったゴミメディアが連携して、他の一般人の気を引こうとしてあれこれとせこくてどうでもいいような罠を仕掛けてくるわけだが、その内容が情けなくなるようなせこい仕掛けだから、それを相手にしない多くの人々から呆れられてしまうのだろうが、中にはそういう仕掛けを真に受ける人も少数ながらいるわけだから、そんな範囲内で彼らの商売を成り立たせようとして涙ぐましい努力の最中なのかも知れない。


7月11日「人気者になれる条件」

 以前から化けの皮が剥がれているような気がするのだが、より一層そんな気がするようなこととして、あまりそっち方面へは関心が向かなくなってきたが、別にかつての橋下徹でも現在の石丸伸二でもそれで構わないようなキャラクターであり、それがどうということはないのかも知れないが、そういう人が人気者になるのが例えばアメリカでトランプが人気者になっているのとどう違うのかが自分にはよくわからないのだが、それがかつてケネディに人気が出たのにも通じるものがありそうだが、そういう人なら少年ジャンプの漫画のキャラクターでも構わないのかも知れず、別にそれらの人物の中身が空っぽでも構わないだろうし、現実に生きて存在している人なら、それなりに中身が詰まっているだろうから、空っぽというわけでもないのだろうが、そういう人をメディアが持ち上げたり持ち下げたりするのもいつもの成り行きであって、その良し悪しを言うつもりもないが、とりあえず生意気な女である蓮舫への当てつけとして石丸に投票して、蓮舫に向かってざまあみろと言いたかった奴が多かったと見ておけばいいのかどうかもそんな分析で構わないのかどうかもよくわからないにしても、石丸伸二を単体でどうこう言ってみても、ああいう人も何かの典型例として説明できるような人なのかも知れず、説明できなければそれなりの個性があるということになりそうだが、その個性と共に彼を持ち上げたり持ち下げたりしてみても、ワイドショー的なネタ以上の何ものでもないような気がするのだが、少なくとも自分は人気者ではないただの一般人に過ぎないから、人が人気者になる条件など知っているわけでも知らないわけでもないが、それとこれとは関係ない次元で結果的に現状の政治が温存されるようなら、何かひどい結果がもたらされたように感じられてしまうのだが、果たして本当に今後もひどいままに推移してしまうかどうかも、石丸伸二が何をどうやろうと、自分にとっては知ったことではないような気もするわけで、だから彼の言動にいちいち反応したくないのかも知れないが、それと同じようなことでもないのかも知れないが、石丸よりも少し前の人気者だった泉房穂という人物にも同じような雰囲気を感じてしまうのだが、ホリエモンが彼ら二人を使ってインチキ保守政党でも立ち上げようとしているのかどうかにもあまり関心がないが、そんな成り行きと比べれば山本太郎が立ち上げたれいわ新選組の方がだいぶマシな気がしてしまうわけで、それに対して枝野幸男が中心となって立ち上げた立憲民主党が労働組合の連合や国民民主や維新の会などとの関係で、それが致命傷とまでは行かないものの、枝野自身の政治的な感性にも紋切り型的な限界があるような気もするから、これ以上の党勢拡大は望めないのかも知れないが、それでも国会の質問などで、枝野以外の人たちにも脚光が浴びかかっているのを、かつての有名人たちが邪魔をしているような感じにもなっているみたいで、その辺が今後もうまくは行かないのかも知れないが、国会で地道に活動して行けばいいような感じがしないでもなく、それはそれで一定の勢力を保っていられる程度のことに過ぎないのかも知れないが、普通に政権交代するなら現状でも立憲民主党が政権を担当すればいい程度のことなのに、国民が馬鹿だからそれがなかなかできない程度のことに過ぎないのだろうが、今後も腐ったゴミメディアに世論誘導されながら国民が一丸となって自民党政権と心中がしたいのだろうから、そういうところは仕方がないのかも知れず、それで構わないような日本の現状であるなら、そういうことだと認識しておいても構わないだろうが、それをどうしても否定的かつ批判的に捉えたくなってしまうのも自らの感性の限界なのかも知れないし、どちらにしてもこんな現状を批判したくなるのだから、素直にそれを批判していればいいとは思うが、それで済んでしまってはまずいような気もするから、果たしてこんなどうしようもなく呆れた日本の現状を肯定するにはどう語ればいいのかと思案している最中なのだが、思案しなくてもいいような現状なのかも知れず、それほど日本の現状などにかまっている義理などなく、このままでも大して不都合は感じていないわけで、世の中が腐っている方が活動しやすいというか、人心が乱れて詐欺師やペテン師の類いが大手を振るって闊歩しているような状況なのは、昔からそんな気もしているから、このままでも構わないのかも知れず、果たして自分がそれらの詐欺師やペテン師の仲間に入るかというと、ただの一般人に過ぎないわけだから、それらの人たちとは無関係というわけでもないのだろうが、昨日もれいわの区議会議員の事務所から活動報告会の案内が郵送されてきたから、出席に丸をつけて返信を出したのだが、たぶんその程度の関与で構わないのだろうし、それ以上に関与する必要があるかというと、自分でもよくわからないし、こちらから積極的に関与しなければそれで済んでしまうようなことなのかも知れないから、その程度のことを深刻に捉える気にはなれないし、それも深刻に捉える必要を感じられないからそうなるわけだが、だから別に石丸伸二や泉房穂やホリエモンなどを執拗に詐欺師やペテン師呼ばわりする必要も感じないし、彼らを苛烈に批判するような立場でもないから、無関係と言えば無関係だと言えるような立場だと思っておけばいいわけだが、せいぜいがれいわの区議会議員の活動報告会に出向いて活動報告を拝聴しておくぐらいが政治との直接の関わりで済むなら、その程度のこととして状況を捉えておくだけでも、それなりに正気を保っていられるのではないかと思いたいわけだが、まさかそれ以上に何かの渦中に巻き込んでくるほどの利用価値など自分にはないと思うのだが、その辺はそうなってみないことには何とも言えない現状なのかも知れない。


7月10日「やらなくてもいいこと」

 誰がそうなるはずもないと思っているわけでもなく、人は誰でもいつかはそうなってしまい、中にはそうならずに一生を終える人もいるかも知れないが、死なずに一生を終える人もまずいないはずで、人の一生の終わりには必ず死がつきものだと思っておけばいいとしても、死ぬまでにやるべきことをやっておかないと、死ぬ直前にそれをやらなかったことを後悔する羽目に陥るかというと、そんなのは後悔するまでもなく、やるべきことなど何もない人も中にはいるかも知れないし、やるべきことがあっても多くの人はそれをやる機会には恵まれないかも知れないが、大抵の場合はやるべきことが何だかわからないまま死んでしまうかも知れないし、やるべきことがわかったとしてもそれをいつやらなければならないかが皆目見当がつかない場合もありそうだが、そういうわかりやすい状況ではなく、日頃からこれがやるべきことなのではないかと感じていても、それをやろうとするとなぜか邪魔が入ったり、何の邪魔も入らないのに、やる気にならなかったりする場合はどうすればいいのかというと、まだそれをやる機会でも時期でもないと思っておけばいいのか、あるいは逆に邪魔が入ってもやる気にならなくても、困難を跳ね除けて強引でもやらなければならないのか、今ここでその判断を迫られているわけでもなく、たぶん判断しようがないことかも知れず、それを判断すること自体がやらなくてもいいことかも知れないが、判断しなくてもすでにそれをやっていたりやっていなかったりすれば、確かに判断するまでもないことだが、その判断を迫られているとは感じられないとしたら、判断する機会を逃しているのかも知れず、その機会を逸しているから判断ができないのであり、その機会を強引に自ら作らないと機会すらないのかも知れないし、その時期が来るのをひたすら待っていても、何もやってこないまま寿命が尽きて死んでしまうのかも知れないが、それで構わないのかも知れず、機会を捉えて何かやる必要など誰にもないから、それでもやりたければ強引にでもそのきっかけを作らないと、何もやらないままとなってしまい、実際に大半の人は大したことは何もやらないまま一生を終えることになるだろうし、しかもやりたいことをやりたくて、強引にそのきっかけを作ってやろうとしてもできない場合も大半だから、強引にやりたいことをやるきっかけを作ろうとすること自体が身の程知らずな行為だと思っておけばよく、そんなわけで身の程をわきまえるなら、大したことは何もやらずに一生を終えるに越したことはないと思っておけばいいのだろうが、そう思っていてもいなくても、否応なく大それたことをやらざるを得ない状況に追い込まれてしまう人も中にはいるだろうし、そんなことはやりたくなくてもなぜか自身の意志や意向に関係なくやってしまうような成り行きになってしまえば、黙ってそんな成り行きに従うしかなく、そういう成り行きに身をまかせなければならなくなってしまうのだろうが、現に今も人によってはそういう成り行きに巻き込まれている最中であり、最近は蓮舫がそれを作り出してしまって、世の中にはいかに醜悪で卑劣で不快な人や団体が多いかが、蓮舫の行動や言動に対する反応によって炙り出されてくるような成り行きになってしまったのだから、飛んで火に入る夏の虫のような反応をする馬鹿がいかに多いかが、予定調和の如くに明らかになってしまうなら、それこそが罠だったと後から振り返るようなことにもなりそうなのだが、それが罠だと気づいた人は少しは戦略的な態度になって蓮舫の勇気ある行動や言動を賞賛するだけの器の大きさを示そうとするかも知れないし、蓮舫の味方でない人や団体が率先してそんな態度に出れば日本も腐っても鯛で、懐の深さと体裁も取り繕えるだろうが、もはやそんな余裕もなく了見の狭いような態度で今こそチャンスとばかりに蓮舫を叩きまくる人や団体だらけな状況になるなら、それが日本終了な兆候だと見なしても差し支えないはずだが、それも何かの冗談でそんなふうに表現できる程度のことであるから、そんな兆候自体が物事の本質からかけ離れた枝葉末節なところで起こっている現象に過ぎないのだとしても、機会を捉えてやらなければならないことがその程度のどうでもいいことではないとするなら、ではこの後に及んで何か他にやらなければならないことがあるのかと言えば、そんなのは人によっても団体によっても異なってくるとしか言えないようなことかも知れないし、ここからうまい具合に物事が進行して、それが偶然の巡り合わせでなのではなく、多くの人や団体が気を利かせてそういう方向へと物事の成り行きを持って行こうとする意志や意向が一致するなら、何かきれいごとのような事態を表向きには実現するようなことにもなってくるかも知れないし、実際に日本とは違ってイギリスやフランスでそんなことが実現しかかっているだろうし、それが結果的に吉と出るか凶と出るかは今後の成り行き次第な面もありそうだが、もしかしたらそんな傾向がアメリカにも少なからず良い影響を及ぼして、秋には大方の予想を裏切るようなことも起こって、民主主義の懐の深さと良識や理性の確かさを証明するような何かが起こってしまうかも知れないが、その一方で安易に不寛容や憎悪を煽り立てるような人や団体が敗れ去り滅び去るようなことにでもなれば、日本でもそういう成り行きに率先して乗っかってひどいことを行なってきた人や団体もそれ相応の報いを受けるような結果がもたらされれば、それが少しは気休めや救いとして多くの人々に意識されるようなことにもなってくるはずだが、果たして本当にそうなるかどうかもやはり今後の成り行き次第には違いないにしても、せっかく巡ってきた絶好の機会をものにできなかった日本の愚かな現状が救いようがないのも、それと同時並行して明らかになることかも知れず、それはいつの時代でも目先の利害に惑わされた挙句に梯子を外されて、悲惨な結末へと否応なく突き進んで行く浅はかな国民性なのだと悟ってあきらめた方がいいのかも知れない。


7月9日「何かのついでに」

 それがどうでもいいことではないとは思いたいのだが、大して気にならないからどうでもいいと思ってしまい、普通はそういうことはあまり考慮に入れていないのだが、そういうこととはどんなことかというと、いつものようにそれがよくわからないでは話にならないが、何かのついでに思うのはそんなことでしかなく、あまり戦略的な立ち振る舞いに固執しない方が身のためだと思って、無理にそれを演じるだけの理由がないから、そういうところで仕事とも趣味とも娯楽とも違う成り行きの中で生きているはずだが、そんなふうに生きている人の中に自分も含まれるのかというと、客観的に考えるなら自分も含まれているはずだが、普段は意識しないからそんな気がしないわけで、それについては相変わらず部分的なところで適当に取り繕って、何かの理論武装のようなことを述べたくなってしまうわけでもなく、逆にまともなことは何も述べられなくなってしまうのが心苦しいのだが、そこから逃げているとも思えないし、どうしても直接には触れられないことがあって、それがうまく表現できないから焦ったくなって、例えば安倍晋三が政治に関しては在職中に卑劣なことをやりまくっていたから、その報いを受けて暗殺されたと受け取っておくのが無難だとしても、他の暗殺された政治家もそうだとも言えなくもない人も結構いる中で、暗殺された全ての政治家がそうだとも言えないだけに、それだけが因果応報というわけでもないだろうから、他のケースも色々とありそうで、だから何だとも言えないところが理屈になっていないわけだが、何かが起こった後からその種の理屈を当てはめるのもちょっとおかしいような気がするから、わざとそこから述べていることの意味を意図的にずらして、不明瞭なことを述べているように装って、結果的にもわけのわからない内容になって、結局何を述べているのかというと、述べている当人にもよくわからなくなってしまうようなひどい内容になってしまうだろうが、それで構わないとしたら何なのかというと、岸田首相も小池都知事も後世の時代においては振り返る意味もないほどの何でもない凡庸でありふれたことをやっていた政治家としてしか受け取られないことを現状の中でやっているわけだから、もちろん実際に誰も振り返らずに忘れられてしまう可能性の方が高いだろうから、それ自体がどうでもいいようなことでしかなく、それよりは現状の中で実際にひどいことをやっているのに、それなのに選挙を通じてそんなひどいことをやめさせることができないところが、大衆的な民衆の愚かさを物語っているとも言えそうだが、それもそういうことではないとすれば何なのかというと、政治家がそんなことをやっていても関係ないと思っている人もいくらでもいて、それを政治家のせいにすることすら思いつかないから、しかも誰がその種の政治家になっても、結局はそんなことが行われてしまうから、さらに何でもないわけで、何でもないからこそ、そのついでに理想論のようなきれいごとを主張する左翼やリベラルな政治家に投票しても構わないはずだと思いたいのだが、そこだけは違うと頑なに拒否する人が大勢いるみたいで、結果的にはひどいことをやっている政治家にそのままひどいことを続けさせるような成り行きになってしまい、それが大衆的な民衆の愚かさを物語っていると受け取っておけばいいかというと、やはりそれも違うらしく、誰もそうなることまで考えが至らないというか、実際にそうなっているのにそれでも構わないようなことなのかも知れず、しかもこんなことを述べている自分にしても、自分が述べている内容に何の説得力も感じないような気がしながらも、こんないい加減なことしか述べられない自らの愚かさをどうすることもできないのだから、なぜ著名人と呼ばれるボンクラどもが屁理屈のようなくだらないこだわりに固執しながらひどいことが行われている世の中を維持しようとするのかといえば、それを保身と言ってしまうと身も蓋もないが、彼らも彼らで直接ひどいことをやっている当事者なのだから、そんな彼らの支持者や支援者となっているその他大勢の一般人も含めて共犯者になってしまうのだろうが、それを誰もやめさせられないとしたら、そういう成り行きに囚われた人が多すぎるからそうなってしまうと考えるしかないが、それでもうんざりするようなひどい成り行きを変えるにはどうすればいいかと思案せざるを得ないとしたら、実際に思案している最中なのだが、思案したところで思いつくわけでもなく、思いついたとしてもそれを実行できる立場になれるわけでもないわけで、何か馬鹿げたことを思案しているとしか感じられず、それ自体がくだらないことになってしまいそうだが、そのついでに何かやらなければならないとしたら、それが気休め程度のことになってしまうだろうが、それでも構わないからやらざるを得ないとしたら、意に反して気休めとは受け取られないような大げさなことをやりたくなってしまい、何やら気休めとは正反対の真剣に取り組まなければならないことを率先してやりたくなって、それが何になるかが現にやっていることになるかどうかが自分にはわからないことだとは思えないが、なぜかそれがやろうとしてもできないことになってしまうと、それができないからその代わりにどうでもいいことを率先しているやっている他人を賞賛したりして、結局ひねくれてしまうわけだが、そんなひねくれ者が世の中の多数派を占めているとは思えないが、なぜそれがどうでもいいことなのかというと、やはりそれが何かのついでにやっているような部分的な範囲内で行われていることになるからとも思えないが、実際にそういうことをやるように仕向けられているから、そんなことをやっている自分が情けなくなるような自己嫌悪に陥るのを何とかごまかしながらも、それをやらなければならなくなってくるわけだが、果たしてそうなってしまった人たちを肯定したり、そんな人たちのやっていることを正当化できるかというと、そんな人がいないと世の中が回っていかないと思ってしまうと、何かそれが欺瞞や偽善のようにも感じられて、それも自己嫌悪をもたらすきっかけともなりかねないが、そんな否定的な気分になる成り行きに逆らいながらも、できないことをやろうとしては失敗している現状があるのかも知れない。


7月8日「蓮舫の役割」

 何となく予想通りの結果というか、多くの人が事前に予想していた通りの結果が出て、そんなどうでもいいような予想に反して正義が勝つことに期待を寄せていた人には残念な結果だったのだろうが、そんな人でもこうなることは想定の範囲内だったのかも知れず、こうなったからといって何がどうなるわけでもないのはわかりきったことだが、結果に関してはそうだとしても、結果とは直接には関係のない方面では、これではまずいと思われているのかも知れず、関係がないのにこれではまずいのでは、何かおかしいような気がして、それとこれとが直接にはつながってこないだけに、そういうところがわけがわからないのだが、それにしても蓮舫には今回の騒動の中でどんな役割が割り振られていたわけでもなく、ただの囮として機能するような成り行きだったのかも知れないが、ちゃんと機能したかというと、たぶんある程度はそれなりに機能したわけで、本当は囮ではなく当事者になってほしかったのだが、そうなってもらっては困る悪人が多すぎたのかも知れず、結果的には悪が栄えて正義が滅びるようなありふれた勧善懲悪のようなフィクションの典型例に反するようなことになってしまったのだろうが、まだこれが途中経過だと負け惜しみを言うなら、ここからが本番で、ひらすら今後に期待するしかないのだが、今後の何に期待するのかというと、何かがうまく行くことに期待するしかないわけで、その何かが現時点ではよくわからないのだが、わからなくても現時点でもある程度はうまく行っているのかも知れず、それがこの後に及んでもなおのことこれでいいのだと言えるようなことであるなら、これで懲りるわけでもないとしたら、そういう人たちにとってはこれでもうまく行っていることになるのだろうが、何もかもがうまく行っているわけでもないから、これでも少しは世の中が良くなったと思っておいても差し支えなく、実際にもそうなっているはずだが、これが何か反省するような結果でもないのだから、なおのことこれまで通りの悪事が大々的に行われて、ひどい行為がまかり通るような成り行きにもなって行くから、誰もこれでいいのだとは言わないのだろうが、それもある意味ではざまあみろでもあって、そら見たことかと後出しじゃんけんのような警告を発したくなってくるわけだが、それが言いたくはなくても否応なく言わざるを得ないようなことでもあるから、それを意識しておかないと思わず言ってしまってから後悔することになるわけだが、心の中では思っていても口に出したり文字にして記してしまうとまずいようなことが他にもあるわけで、それをこともあろうに絶叫調で叫んでしまったのが蓮舫だったと見なすなら、それに対してよくやったと拍手喝采を浴びるのに相応しいことをやってのけたはずだったが、ここではそれで構わないのに、何かがおかしいようなことになってしまって、結果的にはすっきりしない現状をもたらしていると理解するなら、それが蓮舫のせいではないとしたら、蓮舫に対して反感を募らせる人たちのせいにしても構わないが、思い違いをしてはならないのは、小池都知事や石丸氏のような邪悪な悪人に騙されてざまあみろやそら見たことかではなく、彼らに投票した人や投票に行かなかった人たちも含めて、邪悪な悪人と呼べる人たちなのでもなく、蓮舫に投票した人たちまでが邪悪な悪人に仕立て上げられているとも思えないが、もはや善人と呼べるような人などどこにもいないわけでもないのだろうが、どちらにも入らない人たちまで含めて何か嫌な感じがするわけで、世の中にはこんなに嫌な人がいっぱいいるのかと痛感させられるようなことでもあり、それを知らしめる役割を蓮舫が担っていたわけでもないとしても、結果的にそれを痛感させられてしまったのだから、事後的にそういう嫌な感じを抱かせる役割だったと思われてしまうわけで、何かそういうところで建前と本音の使い分けがしたいのだが、それが現状ではできるような状況ではないとしたら、他に何か理解しなければならないことがあるわけでもないだろうが、そういうところで立憲民主や共産のベテラン議員たちが何か勘違いしているわけで、蓮舫も含めて自分たちが民衆からあまり支持されていないことを自覚する必要があるのかも知れないし、それが政治的な悪事を追及するジャーナリズムに傾倒する人たちも同じようにそうかも知れないし、何とも言えないところなのだが、別に多くの民衆から支持されなくても構わないとは思わないにしても、しゃしゃり出てきた政治やメディアの著名人たちが無視している何かがあって、その何かのカテゴリーに自分も含まれているような気がするわけで、それが何だかわからないところが意味不明だが、案外それが何でもないような大したことでもないのかも知れず、それが大手不動産デベロッパーに天下りして癒着してしまう都の官僚たちとも関係のないことかも知れないが、政治的行政的悪事を見逃して結果的にそんなやり方を支持してしまうことになって、何かその種の悪人たちの味方になってしまう都民に向かって、特にこれといって言いたいことがあるわけでもなく、そんな嫌なことから関心が離れる良い機会を提供してくれてありがとうと感謝したいわけでもないのだが、彼らが行政からもたらされる資金を当てにして都心の不動産開発にのめり込んでいるところが、ここ数年で弾けた中国の不動産バブルの延長上で起こっていることだとは思わないが、そんな無駄で無意味なことに莫大な資金を注ぎ込んでいる結果として、何がもたらされるのかというと、何ももたらされないとは思わないが、それが日本の破滅をもたらすとも思えないし、そんなのは破滅のうちにも入らないのではなく、ただ単にそういうことを飽きもせず繰り返すのが行政的な成り行きなのであって、それ以外ではないだけに、それが何でもないことの延長上で起こっていることだといい加減に理解するしかないのかも知れず、税収から得られたり公債などを利用して捻出される資金というのは、そうやって無駄に無意味な方面で使われるのが相応しいと思っておいても構わないが、他に予算の使い道があるのかというと、何か困っている人々を助けるために優先的に使われるべきでもないのかも知れず、そういうきれいごとのために使いたいとあからさまに主張してはまずいような政治的な成り行きなのかも知れない。


7月7日「確実に言えること」

 何かの終わりが確実に近づいている世界情勢の中で、その終わりがたわいないことだと思われてしまう一方で、逆に終わらずに執拗に持続してしまうくだらなさについても、それが何だかわかっているような気がするのだが、では具体的にたわいない何が終わってくだらない何が執拗に続いてしまうのかといえば、それもちゃんと説明できなければ嘘になってしまいそうだが、少なくとも今も執拗に批判され続けていることが終わるわけがなく、これからも延々と批判され続けて行くはずで、ではその批判自体がくだらないのかというと、そうではないとしたら、どちらかと言えば批判されている対象の方がくだらないと思われているから、そんなくだらないことが執拗に続いてしまうこと自体が腹立たしくて、時と場合によっては怒りの感情まで込み上げてくるから、そんな怒りの感情を糧としてこれからも執拗に続いて行ってしまうような気がすると共に、そんな中でもたわいない何かが人知れず終わりを迎えているわけで、それが流行り廃りの流行現象だと見なしても構わないが、そうでなくても一過性のイベントなら確実に終わるはずで、それが子供騙しのたわいない内容だとしても、終わってもなお定期的かつ確実に催し物として世界のどこかで開催されてしまうのだから、見世物興行の類いだと思うならそれでも正解のような気がするわけだが、そんなたわいない一過性のイベントから何か学ぶべきことがあるかというと、学ぶのではなくなるべく多くの人々をたわいない娯楽の類いを使って騙そうとしていることが見え見えでばればれなのに、それでも実際に多くの人々が騙されたわけでもないのに、その種のイベントに心を奪われてしまうわけでもないのに、なぜかたわいないイベントを仕掛けた側がそれなりの利益を得られるようなことにでもなれば、また性懲りもなく利益を求めてその種のイベントが繰り返し定期的に開催されることになるのだろうから、それらのイベント全般がたわいないわけではないとしても、たわいないから批判されているわけでもなければ、そのイベントを仕掛ける興行主がひどい人たちの集まりだと批判される場合もある一方で、そこに行政が絡んで莫大な公的な資金が投入されると税金の無駄遣いだと批判されることもあるだろうが、一過性のイベントだから数日から長くても数カ月で終わるにしても、それが定期的に執拗に繰り返し開催されるからうんざりしてしまう場合もあり、そこでいったんは終わっても完全に終わりではないところが粘着質の執念深さがあるように思われてしまうわけでもないが、中には一過性ではなく遊園地のような常設のイベント施設を利用している場合もあるだろうから、それが日常風景の一部となって人々の意識の中で定着している限りで、たわいなくも感じられず、娯楽として楽しみたい人が時間を区切って暇つぶしに訪れるから商売として成り立っているのならそれで構わないはずで、そうなると批判の対象からは外れることになりそうだが、果たして確実に終わりを迎えそうなのがその種の娯楽一般でないとしたら何なのかというと、それが娯楽でなければ政治だとは言えないはずで、たぶん人類の文明が誕生して以来、社会的なイベントとして祭りごとが生じてきて、一方が形骸化した娯楽目的の祭り一般になると、一般化しなかったのが政治そのものだとは思わないし、政治も一般化していると言えるだろうから、そもそも一般化とは何なのかと言えば、日常茶飯事な出来事としてありふれた成り行きとなっているから一般化していると言えそうだが、そんな政治一般がたわいないことになってしまうと困るかと言われると、そうでもなさそうにも思われるわけで、そういう意味ではそれが政治一般なのだから、何もそこで正義がまかり通る必要もなく、その代わりに何がまかり通るのかと言えば、場合によっては正義とは反対の不正義がまかり通ることもあるだろうし、その中には一般の人たちが容認できないような悪どいことやひどいことが行われている場合もありそうなのだが、そんなことが行われているのがメディアを通じて明らかになっているのに、果たしてそれを見て見ぬふりができるかというと、多くの人たちがそうしている実態があるから、そんな政治がまかり通っていると言えるのだが、本当にそうなのかというと、そうではないことを示さないとならない事情を抱えている人たちが、そんな実態をどうにかして変えようとしているわけで、そんな人たちを他の多くの人たちが支持して支援すれば、そんなひどい実態が改まるかというと、それも実際にひどい実態を改めようとしている人たちが改めようとしているわけだが、そんな人たちがやっていることを他の多くの人たちが支持して支援すれば、ひどい実態が改まるかというと、それが改まるかどうかが、今ここで試されていると言えるわけで、実際にひどい実態を改めることができれば、これまでにひどいことをやってきた政治が、ここで一応の終わりを迎えることになるわけだが、そう簡単にすんなりと事が運ぶとは誰も思っていないし、実際にそうはなってこなかったから、事態がこじれにこじれて今に至っているわけで、もはや誰一人ひどい実態が改まるとも思っていない可能性までありそうだが、それでも否応なくひどい実態を改めるように仕向けられている人たちがいるわけだから、事態が改まる希望を捨てていない人たちは彼らに期待しているわけで、またそんな人たちも一緒になって今まさにひどい実態を改めようとして、それなりに期間を区切られた一過性の政治イベントを盛り上げてきたわけだが、その結果が今日まさに出ようとしているわけで、それがいつも通りにたわいない結果に至ってしまうとひどい実態が改まらないままになってしまうかというと、たとえそうなってしまってもあきらめきれないだろうから、否応なく執拗に現状のひどい実態をもたらしている勢力を批判し続けるしかないだろうし、そんな活動に賛同している人たちも一緒になって、一過性の政治イベントが開催される度に彼らの活動を盛り上げようとするのではないか。


7月6日「あえて間違う」

 意識が気づいていないところで何かの兆候を察知しているような勘違いな思い込みが勘違いでないはずがないが、たとえ勘違いであってもそれを信じたくなるような状況なのだから、なぜか信じた方が良さそうに思われて、それがそうならざるを得ないこととして、そうなってしまってはまずいのにそうなってしまうような成り行きに身をまかせながら、そうなるのを回避しているつもりになっているのだから、そんなのは気のせいには違いないのだが、たとえ気のせいであっても気のせいで済ますわけには行かないから、あえて間違ったことをやっているような気になりながらも、これでいいのだと自分に言い聞かせて、それでは自らが自らを欺いているような気もするわけだが、それではまずいのになぜかそうしていた方が良さそうにも感じられて、それが果たしてその場の成り行きに身をまかせていることになるのかどうかもよくわからないが、結果的にもそうなっているわけだから、そういう成り行きにとらわれていることを感じながらも、それが百パーセント間違っているとしても、やはり間違っていた方がいいような気がするわけで、そういうところがしっくりこないが、逆に論理的にも合理的にもそうした方がいいように思われるようなことをあえてやらずに、結果的にかなり痛い目に遭った経験も思い出されてくるのだが、実際には何を思い出しているわけでもなく、それもそんな気がする程度のことでしかないのに、もうその時点で百パーセント嫌な感じがしているから、そうなるのをひたすら回避するような動作が否応なく生じてきて、実際に今もそれを回避している最中なのかも知れないし、果たしてそれを回避して逃げ切れるかどうかも現時点ではわからないのだが、あえてそれも間違った動作としてそうなっているように思われるのだから、それとこれとが直接関係してくるかどうかも定かではないにしても、これでいいのだと間違った動作にとらわれながらも論理的にも合理的にも正しい動作に導かれるのを拒否しているような感じになってしまって、なぜかそんなふうになっている自分が馬鹿なんじゃないかと思いながらも、絶えずこれでいいのだと自分に言い聞かせている最中なのかも知れず、そうやってみすみす絶好の機会を逃している自らを愚かだとわかっているつもりで、心のどこかでは相当にヤバい事態になるのを結果的には避けられるのではないかと期待しているわけだから、勘違いもいいところだが、果たしてあえて選ばない論理的にも合理的にも妥当に思われる選択が罠なのかということが、それを選択してみなければわからないだけに、しかも向こうから選択するしかないように言葉巧みに誘導してくるわけだから、嫌な感じがするのは当然の成り行きなのかも知れず、そうやって毎度のことのように頭の中で警戒音が鳴り響いている中で判断を迫られながらも、結果的には何も判断していないような状況へと持って行くつもりなのかも知れず、それがどう考えてもおかしいのはわかっているつもりなのだが、わかっているのにわかっていないようなことにもなってくるから、そんな状況に陥っている自らが馬鹿なんじゃないかとも思われてくるわけで、もちろん馬鹿で構わず、下手に利口なふりをすればひどい目に遭うことが目に見えているだけに、ここはどうあっても馬鹿なふりを装うのではなく、本当に馬鹿なんじゃないかと思われるような振る舞いに及んでも、論理的かつ合理的な選択を回避しなければならず、それが本当にそうだとは思えないのだから、気づかない要素や要因が潜んでいるとしか思えないようなことなのかも知れず、そしてそれらの要素や要因が作用しているから、そうすることが論理的にも合理的にも正しい選択のように感じられると思いたいわけで、そんなのは迷信に違いないのだが、ここはあり得ない迷信にとらわれた愚か者のように振る舞わないと難局を切り抜けられないと思い込んでいるわけではないにしても、もっと他にもスマートなやり方もいくらでもありそうだが、不器用だからそんなふうにしか振る舞えないとあきらめた方がいいのかも知れず、そういうところで変にカッコつけて墓穴を掘るような輩も結構いるような気もするから、ここは愚直に不器用な振る舞いによって他から呆れられるほどの愚かさに頼るしかなく、何かそれが錆だらけの諸刃の剣を用いて肉を切らせて骨を断つような幻想を呼び込むかも知れないが、誰が戦いの相手になっているとも思えないから、そんなのも勘違いな喩えになってしまうだろうが、そうまでして拒否しなければならないこととは何なのかというと、やはり大したことではなく、それよりは別の方面で重要な選択を行わなければならないわけで、しかもそれの方が選択を間違えてしまう可能性の方が高く、実際に多くの人が間違った選択をしてしまうことが予想されているだけに、そっちの方が結果的に深刻な問題となってくるかも知れないが、少なくとも今はそうではないわけで、ここで何を選択しようと大した結果はもたらされないだろうし、選択そのものを無視していても何の痛手も被らないような気がするわけだが、それもたぶん何がそうなのかということがわかっておらず、わかっていないのに大したことでもないのに、気軽にどちらかを選んでしまうと、どちらを選んでもひどい目に遭う可能性が高いのに、あえてどちらかを選ばなければならないわけでもないのだが、そんな状況の中で正しい選択などできるはずもなく、間違った選択肢しか残されていないと思い込むのも、勘違いもいいところだが、そこでもあえて勘違いして選択を間違った方がいいのかも知れず、間違っておいて損はないと自らに言い聞かせながら選択を回避できればいいわけだが、それでも思いがけないところで何か選んでしまっているわけだから、それを選んでしまったことを後悔しないようにするには、何も選んでいないと自らに嘘をつくしかないとも思えないだろうが、それ以前に選んだことに気づかないわけだから、それに気づかないまま選ばせた側にとってはしてやったりなことなのかも知れない。


7月5日「面倒な事態から逃げるには」

 何をやっても絶えず面倒な事態を引き起こしてしまうわけでもなく、そうかといって何の得にもならないことをやっているとも思えないし、それとこれとは次元の違うことだと思うまでもなく、なぜかそうなるのを避けるにはどう振る舞えばいいかと思い悩んでいるわけでもなさそうで、何でいつもこうなってしまうのかと不条理な結果に直面して茫然自失となっているわけでもないが、こうなったのは自分のせいじゃないと他人に責任転嫁したくなるような嫌なことばかりに遭遇しているわけでもなさそうで、では何なのかというと、いつも何でもないような結果になっているだけで、何もやっていないのだからと嘘をつきたいわけでもないが、少なくとも何も言い訳できないようなあからさまな失敗を回避しようと思うわけでもなく、実際に言い訳するような事態には陥っていないと思いたいし、これといって言い訳するようなことでもないはずだが、何がそうなのかと結果を疑いたくなるわけでもなければ、人として完全無欠で完璧な心身の状態というのがあり得なくても、これ見よがしにずるいことをやっているとも思えなくても、それがずるいことだと思うまでもなく、謝罪するような事態にはなるべくならないようなことをやりたがっているわけではないのであり、そこまで気が回らないから適当なところでいい加減にそこから離脱して、結果を見ないうちに逃げてしまうのだから、それではだめだと反省するわけで、しかも反省しながらも性懲りもなく同じ過ちを繰り返しているのだから、反省そのものを裏切っていて、果たしてそれをヒットアンドアウェイ戦術だと言えるかどうかも定かではないが、都合の悪いことはなるべく考えないように心がけているわけでもないが、実際に何だかわからない事態を何度も経験しているわけだから、それを全て理解しているわけでもなく、理解してひどいことをやってしまったと自己嫌悪に陥らないように心がけている可能性もなきしもあらずで、実際にはそれが何でもないことなどではあり得ないし、何かしらまずいことが含まれていて、それを他人から指摘されないように取り繕っている可能性もあるわけだから、ある程度の嘘やごまかしや偽善や欺瞞はつきものだと自らの行為や行動や言動の否定的な面は把握しているような気はするのだが、それを直視するわけには行かないわけだから、そういう嫌なところが自身のひどい面として強調されてしまうような事態になるのは是が非でも避けたいと思えば、実際には取り返しのつかないひどいことをやっていても、それを意識しないように配慮していて、それが自己暗示のような精神作用なのかも知れず、そんなことができる人が厚かましくもずうずうしく世間で幅を利かせていて、それでは面倒な事態を避けていることにはならないにしても、面倒な事態になっている最中でも平然としているように見えるから、そういう人の味方になっていることが心地良いような幻想にとらわれている人も結構世の中には多くいそうで、そういう人が公的な領域で逆らい難い権力や権限を持つに至れば、良識や良心が死に絶えることになるかならないかも、どの程度でそうなっているかにもよるだろうが、すでに世の中が面倒な事態になっているから、そういう人が一躍世間の脚光を浴びるような成り行きにもなっているのだろうから、すでにそうなっている時点で取り返しのつかない事態だと言えるのかも知れず、しかもそんな取り返しのつかない状況の中でも多くの人々が普通に暮らしているわけだから、もちろんそんな状況に反発して、世の中には生活に困っている人が大勢いると主張して、そういう人々を助けろと訴えかけるような政治パフォーマンスも度々仕掛けられている実態もあるだろうが、それをパフォーマンスだと受け取ってしまうこと自体が、真に受けていない証拠となるにしても、そういう方面には一切関わらない生き方もあるだろうから、それが趣味の世界にどっぷり浸かって馬鹿なふりをすることになるかというと、果たして趣味や娯楽だけで生きて行けるのかと問われる隙など与えないような振る舞いになっている人もいるだろうが、良心が邪魔をしてひどいことが行われているのを見て見ぬふりができなくなってしまう事態というのが、何をきっかけにしてそうなるかというのが謎というわけでもないはずだが、趣味や娯楽にうつつを抜かしていられる余裕のある暮らしに憧れているわけでもなくても、そうなるように仕向けられてしまう社会的な立場というのが自然発生的に生じている現状もあるらしく、実際にそうなってしまった人が世の中にどれほどいるかが問題となっているわけでもないのだろうが、果たして人が労働から解放された後にそうなるように仕向けられる世の中の情勢が良いか悪いかの判断には結びつかないとは思いたいが、現状でそうなりかかっている人がいくらでもいる世の中なのかも知れず、その一方で貧困が問題視されているのは毎度のことのように思われるが、果たして他人が貧困に陥っているのを無視できるかというと、意識して無視はしていないが、見て見ぬふりを装っているわけでもないのに、結果的にはそうなってしまうとすれば、それを意識せずに面倒な事態になるのを避けていて、そこから逃げていることを意識しないようにしているとも意識していないのかもしれないから、そういう面ではうまく立ち回っていることになるだろうが、一歩間違えば自分もそうなっていただけに、それを回避できたことをただ運が良かったと思っているだけでは腑に落ちないわけで、自分が貧困に陥った他人より優れていたから、そうなることを回避できたとも思わないし、家族の助けがあったからそうなったにしても、しかも自分がその家族を助けていなければ、何か負い目を感じているような心境にもなりそうだが、至ってそうでもなければ何なのかといっても、それも成り行き的にそうならざるを得ないことだと思うしかなく、まだそれが結果ではなく、途中経過の中でそうなっていることだから、これからどうなるかわからないようなことでしかないわけで、果たしてこれから趣味や娯楽だけで死ぬまで生きていられるなら、もうこの時点で逃げ切れた先に待ち構えている終わりという結果が出ているわけだ。


7月4日「ひどい人たちの所業」

 どれほどひどい人たちが世の中でのさばっていても、そんな人たちだからこそそれなりの権力や権限を持っていて、そんな権力や権限を持っているからこそひどいことをやってひどい人になってしまうのではないかと思えないこともないが、そういうひどい人たちの代表格が岸田首相や小池都知事であるなら、誰がひどい人たちをのさばらせているのかといえば、国民がのさばらせていることになりそうで、ひどい国民やひどい都民の自業自得なことには違いないだろうが、ひどくても平気ならどうということはないわけで、誰もがひどいなりに生きているのだから、ひどくても大したことではなく、その程度のこととして片づけられてしまうようなことでもあるから、そのひどさの度合いがプーチン大統領やネタニヤフ首相などと比べれば、ひどいおかげで人が直接死なないだけでもマシな方だといえそうだが、ひどいといえばこれからアメリカの大統領にトランプ氏がなれば、またひどい人がそれなりに絶大な権力や権限を持つことになるわけで、そんなわけでまだ当分はひどい世の中が続いて行きそうな気配だが、そういう人たちをひどいとも思わない代わりに、何をそんなひどさに釣り合うこととして持ち出すのかといえば、共産党程度では全く釣り合っていないはずだが、それを無理矢理こじつけて、何かそれらしく人を馬鹿にしたようなことを言い放ってみても、その程度の見え透いたデマで人を騙した気にはなれないはずで、しかも騙しているのではなく真実を述べているつもりになれるとしたら、もはや呆れる気も失せるようなどうでもいい事態なのかも知れないし、そうなっているからこそ、こんな世界の中でそれなりの均衡が保たれているような気もして、もちろんこれで世界の均衡が保たれているなんて嘘に決まっているだろうが、むしろ不均衡だからこそ、その不均衡から生じる歪みや矛盾や不具合を埋め合わせるようにしてひどい人たちが跋扈する世の中になっていると思いたいが、そんな思い込み自体も、ひどいことが行われているのを何とも思わない人たちにとっては笑止千万な思い込みでしかないとしたら、何かそれらの人たちが気の毒に思われてしまって、果たしてそんな人たちには人としての尊厳や価値など何もないのかも知れないが、そんなことを思っている自分でも、それらの人たちから見れば何の利用価値もないクズゴミ人間だと思われているかも知れないし、彼らが囚われている何らかの社会装置の部品として機能しない人間なんて、人として扱われないような事態にもなっていそうだから、それが何の装置なのかも彼らにもわかっていない範囲内では、自分にとっても彼らにとってもそんなのもどうでもいいことなのかも知れないが、いったい何が人々をそうさせているのかといえば、誰もそうしたくてそうなっているわけではなく、そうならざるを得ないような境遇へと追い込まれていると解釈するなら、それらのひどい人たちがひどいことをやっているのを見て見ぬふりを装って平然としていられること自体が、彼らなりに努力した結果として、ひどい世の中に適応していることの表れだと理解しておくしかないわけだが、もちろんそれがひどいことだなんてこれっぽっちも思っていないなら、適応し過ぎて罪悪感も何も感じていないことにもなるだろうが、罪悪感などという人を断罪する言葉を持ち出して他人を非難する資格など誰にもない世の中なのかも知れないし、そういうことではないとすれば何なのかというと、普通に現状の中でやれることをやれば良く、やれることをやっている結果が、他人からそれを批判されたり非難されているだけで、その他人のやっていることを批判したり非難して難癖つけるようなこと自体も、その人にとってのやれることをやっている結果でしかないとしたら、それもその程度のこととして片づけられてしまうような世の中なのかも知れず、どちらにしても大したことではなく、それがプーチン大統領やネタニヤフ首相にとっては敵を虫けらのように簡単に踏みつけて殺すこと自体が大したことでもないのだろうが、果たしてそれでいいのかと問われる筋合いもないようにも感じられて、彼らも現状の中でやれることをやっているに過ぎないと理解しておけばいいようなことでしかなく、彼らにとってのやれることがああいうことになっている時点で、ああなるに至る経緯の中でプーチンやネタニヤフが囚われている成り行きの中では敵を大量に殺害しなければならない事態を生じさせているわけだから、彼らが信じている理屈に照らし合わせてもそれがやらざるを得ないことになっているわけだが、その一方で岸田首相や小池都知事がやってきたことも、彼らが囚われている成り行きの中では、それもやらざるを得ないことをやってきたように思われる範囲内では、彼らなりの理に適ったやり方でやらざるを得ないことをやってきたはずだが、それが彼らと敵対しているように見える人たちにはひどいことをやってきたように思われるわけで、批判され非難されるのが当然のひどいことが行われてきたと受け取られているわけだが、どちらがどの程度でひどいことなのかと言っても、ひどいことの種類も傾向も異なってくるはずだが、その程度にかなりの開きがあるにしても、どちらも行政的な経緯や事情からひどいことをやらざるを得ない事態に追い込まれていて、結果的にはやってきたことを批判されたり非難されるような成り行きになっている限りで、行政自体にそれなりの欠陥や不具合があるから、行政の長の立場にある者がああいうことをやらざるを得なくなって、それもやった結果がひどい惨状を呈しているから、それを批判されたり非難されているはずだが、では今後ああいう惨事にならないように何か改めることがあるかというと、それは彼らの後任が行うことにかかってくるだろうが、そうなってもただやれることややらざるを得ないことをやっているだけでは、前任の彼らとは違う経緯や事情が生じるにしても、それなりに批判されたり場合によっては非難されるようなひどいことになってくるかも知れないし、行政という社会の中での役割分担の中身が形骸化しているからこそ、そんな傾向に逆らって強引なことをやらざるを得なくなる一方で、それに対して建前としてのきれいごとを主張するような意見には鼻で笑って小馬鹿にするような冷笑系の態度に出るしかないのかも知れない。


7月3日「社会の変革」

 それとこれとが直接には結びつかないようなこととして、思わぬところから世の中の変革がもたらされると、ほとんどの人たちはそれを変革だとは理解できないかも知れないが、そこからかなり時間が経ってから、変革が起こったことを説明する学者の類いが出現する場合もあるが、そうなった頃にはそれが当たり前のような世の中になっているのだろうし、変革を変革だとも思わない人々が普通にいる世の中が実現しているはずだが、今がその変革がもたらされている最中だとすると、これからアッと驚くようなことが起こると期待してしまうのだが、意外と誰もがそれに気づかずにスルーしてしまい、それに気づいた人がいたとしても、その人の言っていることなどほとんど無視されて、そんなことは何も起こらなかったことになってしまうとしても、それで構わないようなことであるなら、気づかないままでも構わないだろうし、それとは違って多くの人々が驚くようなことが起こったとしても、それによって世の中が変革されるわけでもなければ、それでも構わないのだろうが、どちらにしても現状の世の中で暮らしている人には世の中の変革などどうでもいいようなことなのかも知れず、それが多くの人々が望んでいるような変革ではなければ、それで構わないようなことなのかも知れないが、多くの人々が望んでいるような世の中の変革など起こらない代わりに、誰も気づかないようなところで世の中の変革が起こっているとも思えないし、逆に変革が起こると困ってしまうような人や団体が世の中の主導権を握っているようなことでもないとすれば、そもそも世の中の変革とは何なのかといっても、それを変革だとは意識できないようなことなら、普通に変革とは言えないようなことなのかも知れず、だからそれが変革でなくても構わないと考えるなら、では何が起こってほしいのかというと、それに関しては特定の人や団体を批判している人にとっては、批判している対象となる人や団体が困るような事態が起こってほしいと思うだろうが、批判している対象が日本政府であれば、日本政府が困るようなことが起こってほしいと思うにしても、そこから批判している対象だと思っている人や団体とは微妙に異なり、逆に味方だと思って支持したり支援しているつもりの人や団体と重なる部分が出てくるようなら、あからさまに日本政府自体を批判しているわけではなく、政府の中で主導権を握っているように見える特定の人物や勢力を批判している一方で、その中でも反主流派的な人物や勢力を支持したり支援しているつもりになっていると、日本政府そのものを直接批判しているわけではないことになってしまうのだろうが、果たして現状の中でそういう体制内反主流派的な立場を装って批判しているような人を信用できるかというと、そういう人が目指している体制内改革のようなことに期待している人という存在も何か偽善や欺瞞を体現しているようにも感じられて、現状の成り行きがそういう人たちを利するように作用しているとすれば、そんな改革が実現しても大したことではないようにも思われるのだが、そんな人たちも含めて困ってしまうようなことが起きることに期待している人も大勢いるとは思いたいが、それが直接には日本政府が困ってしまうようなことではなく、日本政府の中身が変わってしまうようなことであるなら、普通に選挙などの平和的な手続きを経て政権交代が起こってそうなると思いたいし、それが日本でも特に驚くべきことでもないと多くの人々に認識されてほしいわけだが、そうなって初めて日本社会が変革されたとも言えないにしても、そんなのは社会変革の内にも入らないことになってほしいし、当たり前のようにして定期的に政権交代が起こってほしいわけで、その程度のことに過ぎないかも知れないが、現状ではそれさえもなかなか起こらないから、世の中がおかしくなっていると思わざるを得ないし、別にそれでも構わないようなことでもあって、多くの人々にとっては別に驚くべきことでもないはずだが、他に何が起こっても起こらなくても驚くべきことでもないとするなら、今まさに誰も驚かないようなことが起こっている最中なのかも知れず、そうなってほしいと思うようなことでもなければ無視されるようなことかも知れないが、たぶんそれとは違ってそうなってほしいと多くの人々が望んでいることが数日中にも起こらないなら、多くの人々ががっかりすることが起こるかも知れないし、できればそうならないことを多くの人々が願っているはずだが、仮にそうならなくても、それとは直接には関係のないところで何かが起こっているはずで、それが起こっているからこそ、誰もがそれとは気づかずに何やら期待しているわけで、その何やらということが、たぶんアッと驚くようなことではなく、それが起こっても別に誰も気づかないし理解できないようなことだとしたら、それが何なのかとは問えないようなことかも知れず、今ここではわからないからこそ、それが今後に起こる社会変革の類いに寄与するようなことかも知れないし、その萌芽が誰にも気づかれないようにしてひっそりと芽生え始めているのかも知れないが、それがここで気づかれてしまってはまずいことだからこそ、それとは違う方面へと人々の関心を向けさせるようなことが起こっている可能性も捨て切れないし、それが実際に人々の期待を抱かせるようなことだと思っておいても差し支えなく、現状で起こっている事態をそう捉えるとかなり回りくどくてややこしいし、何か面倒で複雑怪奇なことが起こっているような気がしてしまうのだが、本当のところは誰にもわかっていないのかも知れず、その一方で多くの人々が関心を向けている対象が囮の役目を果たしているから、うまくそんな成り行きが誰にも妨害できないようになっているとすれば、それなりにうまく事が運んでいることになるのではないか。


7月2日「グローバリズムと緊縮財政」

 あえて積極財政派が批判していることを否定したいわけでもないが、経済のグローバル化によって自国の産業が衰退し、政府の緊縮財政政策によって経済成長が阻害されてきたと主張したいなら、何かそれが正しい現状認識のような気がしてしまうが、特定の国や地域においてそういう歴史的な経緯や流れがあったと過去を振り返るなら、それに該当する国や地域があるような気がして、その中に日本も含まれてくるようなら、そういう成り行きを批判しているのが積極財政派だと情勢を捉えると、そういうことだと認識しておけば良いような気がするものの、それが二十世紀末から始まったIT革命の中でアメリカのGAFAMと呼ばれる巨大IT企業が世界を席巻したことの余波から生じた認識なのではないかと考えるなら、それもその通りのような気もするわけで、それを積極財政派が曲解しているのかというと普通はそうは思わないが、それを政府の政策的な失敗の次元に矮小化する気にはなれないと思う程度のことであり、政府の財政政策や金融政策や経済政策ではどうにも対処できないこととしてIT革命が起こったと考えるなら、それもその通りのような気がするし、それを言うなら現状で起こっているAI革命もそれと同じではないにしても、似たようなことが起こっていると考えても構わないような気もするわけだが、それらをそんな気がする程度のことだと捉えるのも素人の認識には違いないわけで、その程度の認識では偉そうなことを述べている気にもなれないが、日本の場合は不動産バブルの崩壊からデフレ経済に陥っただけのような気がするし、それはここ数年来の中国でも似たような事態に陥っていると考えても差し支えなさそうで、それが経済のグローバル化によってもたらされたというなら、バブル経済と言うからにはそういう面もなきしもあらずだが、行き過ぎた面はあったものの、繁栄していること自体が行き過ぎた面も生じてくるのが必然だろうし、少なくともグローバル化しないと経済の繁栄はあり得ないわけだから、それと自国の産業の衰退を絡めて考えるのもちょっと虫が良すぎるような気もするし、競争に敗れた企業の業績が悪化するに過ぎないことであるから、それを政府のせいにするのも、ちょっと違うような気もするが、GAFAMがアメリカ政府の支援を受けながら巨大なグローバル企業に成長したわけでもないし、どちらかというとアメリカ政府は自動車産業などの衰退した産業を支援してきたはずで、実際に倒産したGMを救済したが、それは日本政府も同じように日産や東芝などの業績が悪化した大企業を支援してきたのだろうが、そういう意味では政府が積極的に経済を牽引するような幻想を抱いてはならないと受け止めておくしかなく、過去の時期で戦後復興期とか明治維新の頃とかの再現を期待するような幻想も、それもちょっとおかしいと思ってしまうわけで、何かこれといって決め手がないような時代状況なのかも知れず、そういうことよりは金権腐敗政治や行政と企業の癒着を何とかしてほしいと思うのが自然な事の成り行きのような気もするわけだが、それを妨害するために積極財政派が暗躍しているわけでもないはずだが、政治や行政による不正行為の追及から目を逸す目的で、不正を追及する側を緊縮財政派だと否定的なレッテルを貼って攻撃しているようにも見えてしまうから、そういうことをやっている人たちを疑いの眼差しで見てしまうのかも知れないし、そういう成り行きに関連して何かがずれていることは確からしいのだが、それがそんなことをやっている当事者たちにもよくわからないことであるらしく、それに起因しているわけでもないのだが、的外れな主張や批判に終始しているとも思えないし、部分的に正しいと思われることを主張しているとしても、その全てを真に受けるわけには行かないようにも思われるのだが、具体的に彼らの何がどうおかしいのかが、あからさまに全否定するわけには行かないところも微妙なのかも知れないが、その一方で少なくともオランダやイギリスの東インド会社が活動していた昔から、政府と癒着した独占企業が国家の経済発展に寄与してきたことも確かだが、それを現代の世界情勢にそのまま当てはめるわけにも行かないし、国家的な枠組みから経済を語るのもそれなりに説得力が生じてくるのだが、政治や行政の枠組みからはみ出るところから社会の変革がもたらされるのも同時並行的に昔からそうなのかも知れず、政府や行政によるコントロールが利かない領域をいかにして増やして行くかというと、何か無法地帯を生じさせるような不穏な兆候を感じさせるが、積極的に違法行為や法律違反を犯すためにそういう成り行きへと導こうとするのではなく、政府や行政もその中に含まれるような市民社会をいかにして発展させるかがこれからの日本の課題となるような気がするわけで、そういう意味で行政と癒着して私利私欲を追求するような政治家や官僚などは市民社会の敵であり、そういう成り行きを封じ込めるようなことをやって行かないと、社会の厚みが生じてこないようなことにもなってくるだろうから、そういう意味では経済だけが発展するのではなく、市民の倫理や良識も発展させなければならないとも思わないが、政治や行政の構造から生じてくる贈収賄や天下りなどの汚職や利益供与が普通に取り締まられるような世の中になるだけでも、経済発展ではなく市民社会の発展に寄与するような気がするわけで、その逆に経済の発展に結びつくなら違法行為や脱法行為などの金儲けのためなら手段を選ばないやり方がやりたい放題になってしまうと、市民社会が衰退して権威主義や独裁体制などに社会が支配されて、普通の一般市民が生きづらい世の中になってしまうのではないか。


7月1日「制度的な人間の欠陥」

 果たしてそれが制度的な問題なのかも、何か違うような気がするのだが、世の中に完璧な制度などないことは多くの人がわかっているはずで、たとえ完璧でなくても運用次第でうまく機能させることができるというか、そういうところが制度を運用する人の手腕にかかっているというと、そうではないと反論したくなるなら、完璧でないから都合が良いわけで、それを利用して特定の人や団体に優先的に利益がもたらされている実態があるなら、実際にそうやって利益を得られた人や団体にとっては、不公平で不公正な制度である方が都合が良いわけで、実際に利益を得られた人や団体が存在している限りで、特定の人や団体に優先的に利益をもたらす制度になっているわけで、それが公平公正でない制度的な運用となるから、そんな運用をやっている人や団体も世の中の各方面で非難の的となっているはずだが、そういうこととは関係のない方面で何が行われているかというと、関係のない方面などないような気もするのだが、何かしら利用できる制度があって、それを利用しながら生きているのが社会の中に存在している人間以外の何ものでもないような気がするのは、当たり前のこととしてそう思われるわけだが、もちろん利用しているのは制度だけではなく、他にも様々な物事を利用しながら生きているはずだが、そういう意味では誰にとっても公平公正な制度になっていれば良いはずで、そんなこともわかりきったことだとしても、実際にはそうはなっていないから、世の中の各方面から文句が出てくる成り行きになっているはずだが、文句を言ってくる奴には言わせておけばよく、絶えず特定の人や団体に利益をもたらすような制度を設けることが、そんな利益を享受したい人や団体にとってはやるべきことになってきて、そういう制度をこしらえるために活動している人や団体が政治や行政を利用しようとしていると捉えると、何となく現状がそうなっているような気がしてくるわけだが、もちろんそれもそれだけが目的だとは言えない面もありそうだが、そういうことをやりたいならやらせておけばいいとは言えない人たちが、そういうことをやろうとする人や団体を批判しているわけで、それに対して批判している人たちの主張を支持できるかというと、建前としては公平公正な制度にしてほしいわけだから、自分が不公平で不公正な制度の恩恵を受けられないなら、それを批判している人たちの主張を支持するしかないが、それもそんな制度の恩恵を受けられるとしたら、そんな制度にしようとする人や団体のやっていることを支持したくなるような気がするかも知れないが、そういうことをやり始めるときりがないような気もするから、できればできるだけ誰もが納得できそうな公平公正な制度にしてほしいわけで、たとえそれが建前であっても、いちいちそうまでして自己の利害や損得にこだわるのが面倒だと思うなら、現状でそれほどその種の制度的な利害や損得に直接関わっていないからそう思われるのかも知れないし、逆に直接関わっていれば自分や自分が属している勢力に有利な制度にしようとしてしまうのかも知れず、それが果たして世界中で行われていることかどうかというと、どちらかというと強引になりふり構わずそんなことをやっている人や団体がメディア的には批判されているだろうから、そういうことを批判しているのが左翼リベラルな勢力だと従来からある価値観に沿うならそう言えそうだが、それも表向きの建前に過ぎないと状況を捉えるなら、たとえ左翼リベラルだろうと直接の利害や損得が絡んでくるなら、自分たちに有利な制度にしようとするだろうし、それが公平公正な制度だと言いくるめようとするだろうが、果たしてそれが偽善であり欺瞞だと見なしても構わないのかというと、そうした建前上は公平公正だと言われている制度の中身を検証してみないことにはわからないが、それ以前に明らかに不公平で不公正な制度が批判されているのだから、そんな制度をごり押しのようなやり方で強引にこしらえている現状の中では、そんなことをやっている勢力を支持できないと思うのは当然だが、それを当然だとは思わない人たちが世の中の過半数を占めているように思われるとしたら、何か世の中が狂っているような気がしてくるだろうが、少なくともそれとこれとを同じレベルで捉えないことが重要なような気がするわけで、そういう判断ができない人たちがSNSで強引なことを主張しているような気もするわけだが、果たしてそういう人たちが意図してそれらを混同するようなごまかしやまやかしを仕掛けていると状況を捉えても構わないのかというと、それもあからさまにそんな意図や思惑も抱いていないような気もするわけで、あからさまにそんなことを仕掛けてくるのは馬鹿なんじゃないかと思うなら、もしかしたら彼らは意図せず意識せずにそうなってしまうような成り行きに囚われているのではないかと心配になってきてしまうのだが、それに関して最近特に顕著になってきた傾向を挙げるなら、表向きには建前としての左翼リベラルな装いの共産党関係者に対して激しい憎悪や拒否反応を示す人ほど、その種の不条理な狂気に囚われているように見えてしまうわけで、そういう人にとってはそれとこれとを同じレベルで混同しているどころか、逆にひどい制度を強引にこしらえるような勢力の味方をする一方で、人畜無害に見えてしまう共産党関係者には激しい憎悪や拒否反応を示すようなあべこべの対応を平然とやっているわけだから、やはりそれが演技や戦略的な態度や姿勢だとしても、そういう面を抜きにして普通に見るなら、気が狂っているように見えてしまうわけで、そういうキチガイ系の人たちの存在が、果たしてそれも制度的にそうなるような成り行きになっているとすれば、どう考えてもそんな人間を数多く生産している世の中の制度自体がどうかしているような気がするわけだ。


6月30日「一連の出来事」

 それが結果的には間違ったこととして認識されるとしても、そうなる途中の段階ではそうだとは思えないし、間違っているのにそうならざるを得ないこととして否応なくそうなってしまうから、構造的にそうなっているというか、そこで機能するシステムとしてそうなっているとしても、表向きにはそんなシステムではなく、それなりに合理的で納得できるシステムになっているはずだが、必然的にそこから不正行為が生じてくるわけだから、ジャーナリズムが告発するような成り行きからメディアを通じて明らかになることだろうが、結果的にそうなってしまうことが、そんな結果をもたらした組織的な動作にとって、それが避けられない結果としてそうなってしまうわけだから、組織としてそれを正当化せざるを得ないかというと、不正行為なのだから正当化できるわけもないだろうが、それをうやむやにしたままなし崩し的にそうなってしまうことでもあるから、そういった不正行為が行われないような成り行きにしていかないと行政的な面ではまずいことになりそうだが、もちろん不正を正すだけではなく、経済的な面でもプラスになるような行政になれば多くの人も納得するのだろうし、それがごまかしやまやかしでなければいいのだが、人を騙さないと金儲けができないとなると、なるべくそういう方面での正しいやり方に関して幻想を抱かないようにしておかないと、どうしてもごまかしやまやかしに頼らざるを得なくなり、そうなるとこれまで通りの不正行為になってしまうかというと、関わってくる人や組織を替えれば、少なくともこれまで通りには行かないはずで、だから人や組織を一新してシステムを再構築する必要に迫られていると状況を解釈したくなるのだが、現状でもそういう成り行きへと持って行こうとしているのだろうが、果たして本当にそうなるかどうかが、何やらここで正念場を迎えているのかも知れず、それが勘違いでなければそうなった方が少しはマシな世の中になりそうな気配にはなってきているはずだが、すんなりとは行かないし、これまでもそうは行かなかったわけで、そうは行かないから結果的に数々の不正行為が明らかになってきていると現状を見ておけばいいのかというと、それも結果的に勘違いにならない限りでそう思っておけばいいはずだが、実際に前世紀末から今世紀初頭にかけてその時期を通過してきた誰もがそれと気づかずに体験してきて、ようやくここに至ってそれが一段落つくような感じになってきたのかも知れず、本当に一段落つくなら果たして今ここで間違ったことをやってきた人や組織が一掃されるかというと、そんなはずがなく、未だに様々な分野で主導権を握っている実態が明らかになっているはずだが、そもそもそれが間違ったことかということも含めて不明確なのかも知れないから、意外と間違っていない可能性もありそうで、批判されているにしても間違ってはいないとしたら何なのかというと、結果的には間違ったことをやってきたことになってしまうようなことなのであり、それをやっている途中の段階ではそれをやっている当事者にとってはそういうことをやらざるを得ない成り行きにとらわれていたわけで、それが間違いだとは認められないようなことでもあるから、途中まではそうなるのが当然のような成り行きであっても、そうなった結果から振り返ってみると、それではまずいようなことになってしまうから、それが間違った行為だとは認められないわけだが、そういうことが行われていた時期には当事者がそこでそういうことをやらざるを得ないわけで、しかもそんなことをやって行くと、やがてそれが間違っていることが次第に明らかになってくると、そらみたことかと批判されてしまうわけだから、結果的に間違ったことをやらされた当事者にとってはたまったものではないわけだが、それも結果から振り返ればやらされたのではなく、積極的に自ら進んで嬉々としてそういうことやってきて、それなりに強制力を伴った権力を行使しながら強引にそういうことをやってきたわけだから、そんなことをやってきた当然の報いとしてそれを批判されているわけで、当事者でなければ、ざまあみろと言いたくなるようなことをやってきたのだから、世界的に見てもその手の権威主義が滅んでいく過程にあると情勢を捉えた方がしっくりくるだろうし、それと同時並行して新たな権威主義の担い手も台頭してくるから、是が非でもそれを阻止する必要も出てくるわけだが、できるだけ多くの民衆がそういう成り行きを知っておかないと、浅はかな煽動に誘導されて意外とあっさりその種のポピュリズムに染まってしまうから、メディアなどを通じて絶えず識者の類いが警鐘を鳴らす成り行きにもなるにしても、結局は経済的な利益を得ようとする誘惑には勝てないし、それをごまかしだともまやかしだとも思えないから、実際にごまかしでもまやかしでもなく、そういった経済的な成果としてのアメリカの経済的な繁栄などを目の当たりにしているわけだから、そこだけに目が行ってしまうと、経済的な繁栄と表裏一体となっている負の側面を無視しがちになってしまうわけだが、それが時間的な経過を考慮に入れないと解決しようのない成り行きであるだけに、結果的に世界のどこでも安易な権威主義から民主体制が壊れて、その原因が経済がうまく行かないからそんな成り行きがもたらされるとそうなった結果から振り返るなら言えることではあるにしても、だからそんな間違ったことはやっては駄目だと批判できるのだが、それがそうなった結果から言えることだから、そうなる途中経過の中ではそんな批判など無視されるしかなく、途中で批判が無視されなければそうはならないのかといってもそんなことはなく、あくまでもそうなった結果からそんな批判が有効化するわけだから、そうならざるを得ない過程の中ではいくら批判されてもそんな批判など無効化しているわけだ。


6月29日「こだわりのなさ」

 取り立ててどうでもいいことにこだわっているつもりもないのだが、それがどうでもいいことだと思われるのに、他人がそのどうでもいいことにこだわっているように思われると、そんな他人が得難い存在のように感じられて、他人がどうでもいいことにこだわっているから、それにこだわっていない自分が相対的に有利なのではないかと勘違いな思い込みにもとらわれて、たぶんそんな逆説的な効果が得られる根拠など何もないはずだが、何となくそんな感じがするのだから、それが事態を都合の良いように捉えていることの証拠かも知れないが、だからといって今ここで何か自分に有利な状況がもたらされているのかというと、そうでもなければそんな証拠も根拠も効果も幻想に過ぎないはずだが、現状の中で何に関して有利か不利かがわかっていないと、そもそもそんなことは何も言えないはずだし、ただ何となくそう思っている限りで根拠のない思い込みに過ぎないことに関して、何をどう述べてみても意味のないことにもなりかねないが、まずは他人がこだわっていることが何なのかを特定しないと話にならないような気がするから、それを特定してそれについて何やらかんやら述べてみたいのだが、それ以前に他人とは誰なのかも特定できなければ、話自体がフィクションになってしまいそうだが、どうも誰が何にこだわっているのかもうまく表現できないような事態にも思われて、それがわかっていないなら、ここまで述べてきた話の内容をここからどう展開しようとしているのかも見当がつかなくなってきて、だんだん不安感も増してくるが、それがその人の独自のこだわりなのではなく、その場の情勢や状況がその人をそうさせるように仕向けていると見るなら、その人がその場で主導権を握っているわけでもなく、それどころか誰も主導権など握っておらず、またそんな成り行きを影から操っている黒幕的な存在などいなければ、それがいようといまいと、何がその場に作用や影響を及ぼしているわけでもないなら、その場に関わってくる誰もがただ受動的に動かされているのであって、自主的に積極的に何をやろうとしているわけでもなければ、では何にこだわっているのかといえば、それと意識することなく現状が維持される程度のことをやっているわけで、その場で活動すると誰もがそうなるように仕向けられてしまうからそうなっていると説明できるようなことであるなら、取り立てて誰が何にこだわっているわけでもなく、誰もがそうなってしまうから誰もがそうなることにこだわっているように見えてしまうのかも知れず、それがミイラ取りがミイラになるようなこだわりだとしたらそんなのはこだわりでも何でもなく、否応なくそんなふうに動かされてしまうから、そんな成り行きに逆らう隙もないような状況の中でそうなってしまい、そんな成り行きにとらわれている多くの人々がそれに気づかないわけでもなければ何なのかというと、気づいていながらそんな成り行きに身をまかせているから、より一層そんな傾向が世の中で強くなっていると言えるようなことかも知れず、誰もがそれに逆らえなくなってしまうのであり、そういう成り行きに逆らうには、それなりに覚悟できて信じられる理由がないと意識して逆らえないと思うなら、自らの意志の力を信じてそれに逆らうことになって、実際にそうなってくるとそれに逆らっている人たちに特有なこだわりがあるように感じられるわけで、逆に意志薄弱な人ほどその場の成り行きに流されてミイラ取りがミイラになるようにして、その場の状況や状態を維持継続する側に加担するように仕向けられて、大した抵抗感もなくそうなっている人々に何かこれといってこだわりがあるようには感じられないはずだが、それとは明らかに違ってその場の成り行きに従うのでも逆らうのでもない態度や姿勢があるかというと、新たにその場の成り行きを作り出すようなことができれば、なぜ作り出さなければならないのか、その理由を知りたくなってくるかも知れないし、その理由に説得力や合理的な必然性なども備わってくると、多くの人々が積極的にその場の成り行きを作り出す側に加担したくなるはずで、実際にも加担する人や団体が増えてくれば、それだけその場の状況や状態が現状から変わる可能性も大きくなるはずだが、果たして現状がそうなっているかというと、そうなるように仕掛けている人や団体が決められた時刻に決められた場所に大勢集まって、そこで大規模な集会を開いてそこに集まってきた人々に向かってそれなりに説得力のあることを訴えかけているわけだが、その訴えかけている内容というのが多くの人々が力を合わせて世の中を変えようと訴えかけているわけで、何かそれが自家撞着のような内容であるはずもなく、ちゃんと辻褄の合ったことを述べているはずだが、それに対して聞く耳を持たない人々がどう反応しているかといえば、普通は無視を決め込むのが無難なところだが、そうではなくまるで愉快犯のようなことをやって、相対的に今こそ世の中を変えようと訴えかけている人たちを有利に導こうとしているように感じられるとしたら、果たしてそれが自己犠牲的な行為なのかというと、ちゃんと金儲けにも結びつけているのだから表向きはそうではないと主張しているような感じにもなっているから、今のところはそれが功を奏しているような気もするわけだが、そんな気がしていること自体が事態を都合の良いように捉えていることになるかというと、結果が出てみないことには何とも言えないことかも知れず、それに対して彼らがそれと意識せずに力を合わせて打ち倒そうとしている勢力が、彼らが訴えかける対象となっている人々を意識させることなく結果的に味方につけて世の中の主導権を握っているつもりの勢力なのだから、一筋縄ではいかないのはもちろんのこと、それらの勢力に属しているつもりの人自身がミイラ取りがミイラになっていることに気づかないでそうなってしまっている人たちなのだから、そういうところでも大衆迎合的な彼らの意志薄弱な態度が功を奏してそうなっているようなことなのかも知れない。


6月28日「理屈じゃないという理屈」

 それが何を意味するのかと疑問を感じるわけでもなく、意味するところはおぼろげながらわかっているつもりなのだが、わかったところで大して意味がないような気もするから、特に意味などなくても構わないし、だからといってそれ以外の別の意味など知りたいわけでもないが、意味ではないとすると何なのかというと、いつものように気休め程度のことなのかも知れず、そうなった方がちょっとだけマシなような気がするわけで、その程度のことだから、そうならなくても構わないわけではなく、できればそうなった方がいいわけだが、そうなった方が都合が良いとも言えず、ではそうならないと都合が悪いのかというと、たぶんそうだと思いたいのだが、どのように都合が悪いのかと尋ねられると返答に窮してしまうようなことかも知れないが、では具体的に何がそうなのかというと、うまく表現できないようなことなのかも知れず、気分の問題だというと確かに大したことはなく、本当に気分の問題だけなのかというと、他にもメディアから伝わってくる情報から言えることを考慮すると、色々と問題があるからそうなってはまずいのと、逆にそうなった方が良いのと、両方から言えるようなことになってしまうだろうが、理屈じゃないといっても、理屈に従って物事が進行しないと納得できないから、仮に理屈を裏切って思いがけずそうなってしまったとしても、実際にそうなってから別の何らかの理屈に当てはめて、そうなってしまったことを説明しようとしてしまうから、結果的に信じられる理屈に頼って説明できる範囲内で説明しようとしてしまうわけで、それが取り立てておかしいわけではなく、おかしいとは思わない範囲内で理屈っぽく何かを説明している実態とは矛盾してしまうのだが、それでも理屈じゃないと思うことがあるわけで、何らかの理屈に基づいて特定の組織なり団体なりが動いていると説明したくなるのだが、それもいつものように動いた後から理屈を当てはめてそういうことを思うわけだから、それがもっともらしく感じられる範囲内でその種の説明を暫定的に信用するふりを装うのだが、それと同時に理屈じゃないとも思っているわけだから、それが理屈を信用していないことの証拠ともなるから、そうなっている時点でいい加減な思い込みや偏見や憶測にとらわれているとしても、そういうことだと思っていても構わないが、そうなっていないと安心できないわけで、背反する思いにとらわれていないと安心できないわけだが、安心できないから何だというわけでもないから、安心できなくてもどうということはないわけだが、それも気持ちの持ちようで、他人がもっともらしいことを言っているのを疑っていると、そんな疑っている自分の心理状態から安心感を得られるわけだから、自分が馬鹿なんじゃないか思われる限りで安心できて、それ自体が馬鹿な証拠かも知れないが、そんな思いが頭の中でぐるぐる回っている状態に安心してしまう馬鹿な自分が賢いとも思えないが、果たしてそんな自分が他人のことをああだこうだと偉そうに批判できるかというと、これが批判したくなるわけで、それが理屈じゃないと他人が披露する理屈を批判したくなる一方で、理屈じゃないなら何なのかということがいつも謎なのだが、理屈を超えて理屈に逆らって理屈を裏切って思いがけずそうなってしまう成り行きにとらわれているとしっくりくるかも知れないが、それがどうやってもふりほどけない成り行きになってしまうと、理屈じゃないと思いたくなって、そう思いたい自分を疑いながら疑っている自分に安心できるわけだから、半信半疑な心理状態でいたいわけで、根本的なところでは何を信じているわけでもないのだが、一通りそんな屁理屈のような理屈を並べながら何が言いたいのかというと、否応なくそうなっているとしても、実際に世の中で行われていることをもとにして判断したいとは思うものの、それが言われていることではなく行われていることだとしても、何かを言うことも行うことに含まれるわけだから、言われている内容を疑う一方で行われていることを疑わないわけではなく、行われているかどうかも定かではないようなあいまいな領域について語られている疑わしい内容を信じてしまう自分に疑念を抱きながらも、安直にそれを信じていれば救われるとも思わない一方で、それを疑っている自分が救われなくても構わないとは思わないが、自分の主義主張や思想信条に照らし合わせて疑われるようなことをやっている人や団体は信用できないし、疑われるようなことをやっているかどうかも定かでない人や団体など世の中のどこにもいないとは思っていて、誰もがどんな団体であってもそれらを通して生じてくる意見や主張とは食い違う矛盾したことをやらざるを得ないことも、時と場合によっては否応なくそうなってしまうことも確かだとは思っているわけで、そういうところを重箱の隅をつつくようにして探し出してきて矛盾点や不都合な点として強調したり誇張して、それを批判に利用するようなことをやっている人や団体もいくらでもいるとしても、そういう批判をやっている人や団体を信用できるかというと、批判している内容が確からしいなら信用できるが、それがデマや嘘であることが見え見えのばればれであるのに煽り立てるような輩が信用できないのも当然のことだが、そういう信用できない輩に加担して一緒になってデマの煽動に興じているような人や団体になればなおのこと信用できなくなるだろうが、戦略的な態度でそういうことをやっている人や団体が多すぎるとは思わないし、嘘やデマを信じてしまう安易で浅はかな大衆もそれほど多くはないような気もするわけで、多くいるように見せかけているとしても、それがSNS的な虚構の領域から一歩も外へ出られないような状態となっているわけでもないだろうが、結果的にはそういう領域でうまく立ち回っているから、そんな見せかけの大衆的な支持や賛同を得られているように感じられてしまうわけだ。


6月27日「神のお告げ?」

 いくら強い言葉を使って正しいと信じていることを主張してみたところで、その場がそういうことを主張する成り行きになっていることを考慮に入れないと、その主張だけを抜き出してそれを他の事情や経緯などが絡まっている別の状況の中で再利用するのもちょっと場違いでおかしいような気がするとしても、そこで何か共通の印象が感じられるから、そういう格言のような使い回しを語ってしまうのだろうが、いくら屁理屈だとも思わない理屈を駆使して述べていることの正当性を強調してみても、その場の成り行きが述べている内容を置き去りにしてその先へと事態が突き進んで行く中では、そんなことは無視しても構わないような経緯になってしまうだろうが、そんなふうにして世の中の状況が変わって時代も移り変わりつつあると、そこで何が進行中なのかと問う暇も隙もないような事態なのかも知れず、果たして今がそうなっている最中なのかどうかは、その渦中にいるとそうなっていることが当たり前のように感じられてしまうから、それに気づきにくいのかも知れないが、気づいているつもりがそれも勘違いで、いつものようにそれに関して的外れなことを述べている最中かも知れないし、現状の中で何が置き去りにされているのかといえば、それがありふれた格言に当てはまるようなことでもないとしたら、それが置き去りにされていることに誰も気づいていないから置き去りにされていて、それに対して何かの格言やことわざの対象となるようなことなら、いつの時代でも言われるようなことでもあるから、誰も置き去りにせずに忘れ去られると困るようなことかも知れず、なぜ困るのかといえば他に何も言うことがなくなってしまうから困ると考えても、そんな理由ではうまく説明がつかないし、それでは自分が何を考えているのかさっぱりわからないとも言えないが、誰もが思いついて考えるようなことなら、大抵は忘れてはならない重要なことだと思いたいのだが、そう言われてみればそうだとしても、現状では何を言われているわけでもないから、そんなことを考えたところで自分には直接関係のないことかも知れないが、自分には関係のないことだからというわけでもないが、メディアが伝える暇つぶしの話題でも構わないからそれがないと困るようなことでもあるなら、自分にとってもそれがないと困るようなことかも知れず、それが普段はそうは思わないのに、何かのきっかけから困る事態になるのを恐れて、転ばぬ先の杖のようなことを考えて、それが具体的にはEVの自宅給電に絡んで増設した屋外のブレーカーを収納する電気ボックスが鍵がかかるような仕組みとなっていて、工事業者から渡された鍵が一つしかないから、鍵をかけたままなくしてしまうとブレーカーが落ちた時にボックスが開かなくなってしまって困るから合鍵を作成しようとして、駅前の合鍵作成店で合鍵を作成する約束を取り付けたまではスムーズに事が運んだつもりだったのだが、そこからがわけのわからない紆余曲折が待ち構えていたのか、偶然にそうなってしまっただけなのかよくわからないのだが、その合鍵を作成する店が、それだけでは商売として成り立たないから他にも靴の修理や時計の修理なども手掛けていて、合鍵を作成してもらったついでに、ダメもとで五年ぐらい前にオーバーホールに出しておかしくされて戻ってきてから半年ぐらいで壊れてしまった安物の機械式腕時計の修理も頼んでみようと思って、合鍵の材料となる鍵が店に送られてくる日の予約の時間に合わせて、合鍵の元鍵と壊れた機械式の腕時計も携えて出かけて行ったら、そこからが笑ってしまうような信じられないことが起こって、それが自分にとっても他人にとっても大したことはないのだが、その店の店主にとっても客観的には彼のせいではないのだから、失態と言えるようなことでもないにしても、専門の業者から送られてきて合鍵が入っているはずの宅配の小さな段ボール箱の中身が空っぽだったみたいで、店に行ったら店主の人が顔面蒼白で狼狽えていて、すいませんすいませんと平謝りしながら、今から業者に問い合わせて再度送ってもらって届いたら連絡するからと言って、たかだか数百円の仕事でそんなに謝ることもないのにと思いつつも、その場はそうなって店を出て、こんなことは生まれて初めてだと言った類いの店主の言葉が妙に頭から離れないから、これは何かあると思って、そういえば数週間前にロト7がキャリーオーバーで当たれば10億円だとかいうネットの広告を思い出して、まだキャリーオーバーが続いているならここで買うべきなのかと勝手に期待して、合鍵の代金として用意した千円札にさらに五百円を足して千五百円分買って家に着いたら、すかさず合鍵作成店の店主から電話がかかってきて、さっき業者から宅配が届いて中身に合鍵の材料となる鍵も入っていたから、じゃあ今から行きますと伝えて家を出て店に向かっている途中で、ちょっと気まずいことになってしまったから、壊れた機械式腕時計の件はさらにこじれるかも知れないし、今回はやめておこうと思いながらも、店に着いて先客が靴の修理か何かで店主とやりとりしているのを待って、ようやく合鍵を作ってもらう番になったところで、その先客が忘れて行ったサングラスに気づいて、店主に渡したらすぐに先客が戻ってきてそのサングラスを返して、何とか数分で合鍵を作ってもらって、さっき千円札を使ってしまって五千円札でお釣りがあるかどうか尋ねたら、今回色々と行ったり来たりで迷惑をかけたから八百八十円のところを五百円でいいですと言われて、四千五百円のお釣りをもらって一件落着だったはずだが、たぶん機械式腕時計の修理を頼むと最低でも数万円かかるだろうから、店主がその数万円を稼ぎ損なったのか、あるいはこじれてさらにややこしいことになったかどうかはわからず終いだが、まさかこれで10億円が当たったらと思うと、万が一にもそんなことはあり得ないだろうが、何か意味不明な神のお告げのような感じがして、それが何だかわからないだけに、果たして自分に何をさせようとしているのか想像するだけの日々が、今後も延々と死ぬまで続いて行くような気もするわけだ。


6月26日「思い込みと勘違い」

 現状の中で何をするのが損で何をするのが得かと考えたところで、そこでそう考えていること自体が、すでにそんなことをやろうとする意図や思惑があるのだから、いつ思いもよらぬことが起こって、それが起因してそんな意図や思惑が裏切られるとも限らないし、そんな意図や思惑を抱いているのを敵対的な他人に悟られてしまえば、必ず妨害されてそうならないようなことを仕掛けられるとも、そうならないように仕向けられるとも限らないが、社会の中で暮らしていれば、絶えず敵や味方や仲間や家族や友人や仕事関係者や無関係な第三者などとの間で相互作用が及ぼされている中で生きているわけだから、こうすれば得になるとか、そんなことをやると損になるとか、ある程度は目星がついていても、その場限りでは得なことかも知れないが長い目で見ればそうではなくなるかも知れないとか、自分が多少の損害や損失を被ってでも他人を助けなければならないとか、その場の事情や経緯から否応なくやらなければならないことが生じてくると、とりあえずそれをやってみてからその後の経過を見ないと、損か得かなんて一概には言えないことであれば、自己中心的に自分の都合だけで行為や行動や言動を選べなかったりもして、自分のやっていることも他人のやっていることも、都合の良し悪しや損得から判断したところで、その判断が他の誰の立場や境遇でも同じように当てはまるわけでもなく、必ずしも自分だけが良くても、あるいは自分の身内や家族や仕事上の利害関係者が良くても、その場では良いかも知れないし、法律上も何の問題もなくても、やった後から思いがけないところから問題が生じてくるかも知れないし、しかもそれが自分ではどうすることもできない問題になってしまうと、その場の良し悪しや損得だけで行為や行動や言動に及んでしまったことを後悔するかも知れないし、後悔しなくても何とも思わなくても構わないようなことだと感じているのに、その人の気づかないところでその人の間違いや不手際に周囲の人々が気づいてしまえば、その人にとっては自業自得気味に不利な状況を招いていることになってしまい、しかもその人が死ぬまで気づかないなんてありそうなことかも知れないから、根本的なところでその人の思惑に基づいた損得勘定や都合の良し悪し自体がそれほど確からしいとも言えなくなり、一概にこうするのが正しいとかこれで大丈夫だとは言えないような状況の中で活動していれば、自分の都合に基づけばその場の成り行きに応じたことをやっているつもりでも、なぜかそれが結果的にはその場の成り行きに逆らっていることになってしまえば、結果的にやっていることがうまく行かなくなるかも知れないし、あるいはうまく行かないことをやるのがその場の成り行きに沿ったことであるかも知れないが、自分がうまく行かないから他人がうまく行く成り行きなのかも知れず、その逆もあり得るが、結果からその場の都合に合わせて暫定的に良し悪しや損得が明らかになることもあるだろうが、それが自らの信念や信じている価値判断に基づいたことをやった結果であるなら納得できるかも知れず、逆にそれを裏切るような結果がもたらされて自信を失い、それがきっかけで信念や価値判断を変更せざるを得なくなるかも知れないし、そもそも定まった信念や価値判断など生じてこないような絶えず価値や正誤が変動する状況の中で生きているかも知れないが、やる前から何が良くて何が悪いかがわかっていればそれほど思い悩むことも後悔することもなく、その信念や価値判断が時代状況に合わないまま、そのおかげで自身がひどい境遇に陥ろうとも、それで構わないならそういうことでしかないが、他人がそうなっているのを見ても何とも思わないなら、他人事だから何とも思わないのかも知れないが、そんな他人事ばかりに囲まれているわけではなく、メディアからそんな他人事がひっきりなしに伝わってくるから、そんな他人事に目を奪われているうちに自分もそうなっていることに気づけなくなっているとも思えないのだが、自分もそうなっているとは思えないから、それが自らの愚かさや間違いに気づけないことを証しているわけでもないとは思いたいが、たぶん自分も他人もそれほど差異があるとも思えないから、他人の愚かさや間違いに気づいているなら自分の愚かさや間違いにも気づいていて、そんな愚かさや間違いとは逆の賢さや正しさにも自惚れも多少はあるにしても気づいているのかも知れず、この世界では自分も他人もその程度の存在であり、無理に自分と他人の差異を際立たせる理由も都合もなければ、その程度で済んでしまうことだと思っているのだが、では自分が良し悪しや損得を判断する上で何が重要であり何が必要だと思っているのかといえば、その場の成り行き以外に何かこだわっていることがあるかというと、にわかにはこれといって思いつかないと嘘をつきたくなってくるのだが、たぶん確実だと思うようなことではなく、それなりに誤った思い込みや勘違いに基づいて行為や行動や言動が繰り出されて、その都度誤りに気づいた範囲内でそれなりに軌道修正が施されてもなお間違っていることを自覚しながらも、なぜか間違ったことをやっているから、結果的にはそれで構わないようなことになってしまうと、自分の間違いを正当化したくなってしまうのであり、開き直ってそれが正しい行いだと言いたいわけでもないから許容できる範囲内の程度で誤りや過ちや間違いが含まれている方が安心できるわけで、その逆に完全無欠で正しいことをやっているような人たちこそが、否定的な意味でヤバいことをやっているような気もするから、できればそうならないように用心しながらも、絶えず誤りや過ちや間違いを受け入れながら生きているのかも知れない。


6月25日「悪い結果を予想すること」

 そうなってしまうことが意外とは思わないし、そうなってしまうのがどうなってしまうのかというと、相変わらずどうにもならないし、それがなるほどとも思わないにしても、納得しなくても構わないのかも知れず、いつものように自分には関係のないことだと思って無視しておけば済んでしまうわけでもないが、無視できないからといってそれについて何かしら言及しなければならないわけでもなく、そうなってしまうからといって、それではまずいと思う人もいるだろうが、そうは思わないどころか、そうなった方がかえって好都合だと思う人も出てくるとも思えないが、そうなるかならないかで人によって都合が良かったり悪かったりすると思っておけばいいにしても、そうなってしまうからといって特にこれといって都合が良くも悪くもないと思うなら、それも思い違いとは言えないのかも知れず、その程度の微妙なことなのだろうが、そんな結果になってしまうと文句を言いたい人もいくらでも出てきそうな感じもするし、文句を言ったからといって、だから何だと開き直れるわけでもなく、何かがおかしいと思うかも知れないし、そうなってしまった結果を良くも悪くもないとは思わないにしても、たとえ自分にとってそれが悪い結果だとしても、それはそういうことだと思ってあきらめるしかないわけでもなく、ここではそうなってしまうかも知れないが、今後到来する今回とは違う状況の中ではそうはならないと思いたいが、そう思う人も世の中には大勢いるとは思えないにしても、これまでにも多くの人々がひどいことが行われているのを知りながら放置してきたのであって、見て見ぬふりをする人たちが世の中の多数派を占めてきたのだから、今度ばかりはそうならないことを願ってみたところで、それはお門違いなのかも知れず、お門違いでは意味が違うかも知れないが、何となくお門違いだと思ってしまうわけで、それでは意味も言葉の用法も違うと思うが、それでいいような気もするから、悪い結果が出ることを恐れて、そうはならないことを願ったり祈ったり期待すること自体がお門違いなのであり、お門違いであってもそうはならないことを願ったり祈ったり期待する日々を過ごしながらも、今度ばかりは違うのではないかと思いたいのだが、そんな思いがいつものように裏切られてしまうことも予兆として感じているわけだから、どちらにしてもどちらに転んでも自分にとっては直接には関係のないことだとしても、それでもただの傍観者にはなりたくないわけだから、虫のいい話には違いないのだが、だからといって今回ばかりは恐れていた結果が覆るとも思わないし、それを覆すような力が自分にあるはずもなく、後は黙って結果が出るのを見守るしかないが、なぜかそれが何の結果なのかも明らかにしないでここまで述べてきてわけで、今さらそれを明かさないのもおかしいような気がするにしても、それもなぜか知らないが、はっきりと直接それについて語る気にはならないわけだから、その辺の事情を察してほしいと述べても、それが何の事情なのかも自分でもよくわからず、事情があろうとなかろうとこれまでにも何度か述べてきたことだから、ここでそれを明かさないからといって、しらばっくれるのもいい加減にしてほしいような気もするが、今回は今まで以上により一層何をどう述べているのかもわからなくなってしまうわけでもないが、直接には何も述べていないことになるしかないとも思えないし、それなりに想像がつくようなことを述べているはずだが、だからといって何を想像してほしいわけでもなく、たぶんくだらないことに関連して二者択一を迫るようなことになっているから、今回ばかりは目論みが不発に終わるわけではなく、それ以上にうまく立ち回っている人物がいるはずもないところで、うまい具合になっているわけで、何がうまい具合になっているのかというと、何も選べないような事情を勝手に持ち出す勢力がいることまで含めて選んでほしいから、選ぶのが困難を極めているような感じになっているとすれば、それこそが大間違いなのかも知れず、要するに選択を間違ってほしいと思いたくもないのに、結果的に選択を間違う危険性があるわけでもなく、逆にそんなわけのわからない事情など一切無視して大間違いな選択をしてしまう人が大勢出てくると予想されてしまうわけで、そんな人たちこそが世の中を駄目にしている張本人なのだから、まず批判すべきはそれらの大間違いな人たちなわけで、たぶんそういう事情を無視してほしくないから、小さな違いにこだわって大きな間違いを見逃してほしくないわけだが、恐れている悪い結果がもたらされるなら、今後も大きな間違いが見逃されたままとなってしまうわけでもなく、これまでもこれからも大きな間違いがこれでもかと延々と指摘され続けてきたにも関わらず、一般の人々がそれを意に介さず、一向にそれに気づかないどころか、誰もがそれに気づいているのにそれを見て見ぬふりを装いながら放置するという最悪な結果をもたらしているのに、それでも構わないような世の中になっているから、大したことでもないと言えばそれまでのことだが、それなりの見識を備えた識者がそれを指摘しているのに無視するような結果がもたらされているわけだから、何が間違っているかは明らかなのに間違っていても一向に構わないという不条理な状況となっていて、それが不条理とも思えないところも、それを不条理だと思うこと自体も大間違いな可能性も捨て切れないが、それで構わないようなことなのだから、不条理がまかり通る世の中だと思っていれば、それなりに今後に起こるかも知れない最悪な事態も無視していられるかも知れないし、無視できる程度のことなのだから最悪でも何でもないと思っても構わないわけで、さらにその先にもっとひどい正真正銘の最悪な事態が待ち構えているかも知れれないから、それ以前のそれを悪い結果だと予想すること自体も大間違いなのかも知れない。


6月24日「無痛分娩への助成金支給」

 政治に対して具体的に何か批判すべきことがあるかというと、何もないなんてあり得ないが、何かあるのにそれを指摘せずに何も批判もしないのではまずいと思うのだが、なぜかそれとは違う方面からわけのわからないことを述べるような成り行きになるわけでもなく、たぶんひねくれているからそうなってしまうと思いたいわけでもないが、そうではないとしたら何なのかというと、根本的に悪いのは実際に悪事を働いている政治家や官僚などではなく、それを知っているのに見て見ぬふりをする国民が一番悪いのだと言い放ちたいわけでもなければ、たぶん普通に悪くないのであり、良くもなく悪くもないというと嘘になってしまうだろうが、どちらでもないのでもなく、それが良いか悪いかの判断がつかないわけでもなく、政治家も官僚も国民も悪いことには違いないのだが、それを普通に悪くないと思いたいのだから、頭がどうかしていると思ってしまえばそれで済んでしまうはずもなく、こんなにひどい世の中だと思っておくのが無難かも知れないし、どう思ってみてもなるようにしかならず、実際にこうなっていると、わざとらしくいったいこの世の中はどうなってしまったのかなんてしらばっくれるようなことにはならず、無理にしらばっくれる必要もないほどにどうにもなっていないのかも知れないが、どうにもならないからこそ、このどうにもならない世の中で構わないのであり、この世の中を変えようなんて思わない方が身のためだろうが、身の程知らずな人たちが何か偉そうに主張しているのを無視すれば済んでしまうことだと思っておいても構わないし、無視しているつもりでも勝手に言葉が出てしまう分には、そんな成り行きに従って述べていればいいわけで、それが良いか悪いかなんて判断しない方がいいのかも知れず、批判されたり非難されているわけだから悪いに決まっているはずだが、悪いに決まっていることをやらざるを得ないのだから、その人がやらなくても他の人がやることになるのかも知れず、やらないようにするには政権交代しなければならないのだろうから、悪い政治家や悪い官僚や悪い国民としては、そうなっては困るから何とかして政権交代させないように何かしら策を弄することになるのだろうが、果たしてそれがうまく行っていることになるのかならないのかは、今後の成り行き次第なのかも知れないし、案外そうなっては困るようなことが実現してしまうのかも知れないが、それがいつになるかも今後の成り行き次第なのかも知れず、それも普通に考えて政治家も官僚も国民も悪いままでも構わないわけだから、なるべく悪いままに保とうとするのだろうが、そうなると意外と悪い状態が長引いてしまうのかも知れないし、いつになっても政権交代など実現しないまま、政権交代を目指した多くの人々が寿命を迎えて亡くなる頃には、政治も行政もどうでもいいことになっている可能性もあり、そんなくだらないことに関わらなくても多くの人々が普通に暮らして行ける社会になっているのかも知れないが、できればそんな成り行きにならないうちに、少しは真っ当な政治や行政が実現する世の中になってほしいが、現状の中で生きている人々には、それが少しも真っ当だとは思えないような政治や行政がまかり通っているから、そんなくだらないことをまかり通らせている勢力には腹が立って仕方がないはずだが、それらの勢力に入っている人たちにとっては、そうならないと困るようなことなのだから、そんなくだらないことにこだわっていること自体が頭がおかしいことの証拠となるわけでもなく、実態としてはそれほど頭がおかしいわけではないなら何なのかというと、わざと頭がおかしいように見せかけているわけでもなければ、頭がおかしいと感じられるようなことを率先してやらなければならないように仕向けられているかというと、そう思うようにも仕向けられていることになってしまうだろうが、それがごまかしや目眩しだとわかってしまうようなことをあえてやろうとするわけだから、馬鹿じゃなければいい加減に気付けよと言いたくなるようなことでもあって、それが狭い範囲内で行われているちょっと人の気を惹くような行為を強調することによって、他で行われている馬鹿げたひどい行為を無視するように促すわけだから、要するにそれ自体がごまかしであり目眩しには違いないのだろうが、それに関して象徴的だと言えるようなことを挙げるなら、例えば小池都知事が選挙公約のようなものとして掲げた無痛分娩への助成金を出すようなことになるのかも知れないし、それが直接には女性が子供を産みやすくする政策だと言えるかも知れないが、それ以前のこととして、ちょっと待てよ、そういうことじゃないだろうと思わない人は、小池都知事やその取り巻きたちがひねり出したごまかしの目眩しに気づいていないことになるわけだろうが、それに気づいていてもなおのこと小池都知事を支持する人たちが有権者の中で多数派を占めるなら、なるほどと思うしかなく、出産時に激痛を伴うから産みたくないという以前のこととして少子化が進行中であることを理解していないかというと、多くの人にはそんなのはわかりきったことになりそうだが、それを理解していても、それとこれとは関係ないことがわかっていても、小池都知事への支持は変わらなかったりするのかも知れないし、政治とはそういうものだと訳知り顔で言い放っても構わないのかというと、何か恥ずかしくなってしまうかも知れないが、結果的に小池都知事が再選されるならそういうことだと理解するしかないのだが、それでも構わないようなことであるだけに、こんな世の中で十分なのかも知れず、心の中ではもっと真っ当なことをやってほしいと願っているのだが、それができるならこんな世の中にはなっていないわけだ。


6月23日「言説的なまやかし」

 現状の中で多くの人々が何かのまやかしに直面しているとしても、それがまやかしだと気づいている人も多いだろうし、何がまやかしなのかといえば大抵は政治家やメディア関係者の言説的なまやかしになるはずだが、それがまやかしだと言っている人たちが当の政治家やメディア関係者なのだから、それによって何の機会を逸しているとも思えないどころか、そんなことを言う機会をものにしていると思いたいのだが、他人の言っていることをまやかしだと言っているわけだから、それが思い違いだとは思えないから期待してしまうわけで、何に期待しているのかといえば、それによって世の中が変わることに期待しているわけだが、そんなまやかしの言動が政治からもメディアからも生じているとしても、政治によって世の中が変わるのではなく、逆に世の中が変わったから政治も変わったと思いたい人もいるらしく、そんなまやかしの言説によって世の中が変わるとも思えないが、ここまでの成り行きの中で不快感をあらわにしている人が大勢いるとすれば、彼らの思い通りにはなっていないということだろうから、それが良い兆候なのかも知れず、逆に不快感をあらわにしている人にとっては悪い兆候なのだから、彼らもそんな悪い兆候をもたらしている政治もメディアも変えなければならないと思っているはずで、しかも何をどう変えるかで彼らの間でも意見の対立が生じていて、そんな対立こそがまやかしの対立だと言い放っている人も少なからずいるだろうから、それが彼らのまやかしの救いようのなさを物語っていると言いたい人もいるかも知れないが、それの何がまやかしなのかと言えば、そんな彼らの言説自体がまやかしなのだろうから、それがまやかしだと言い放っていることもまやかしには違いないわけで、だからまやかしによって世の中が変わるわけがないと思っている人も、それが思い違いだとは思えないから、ではまやかし以外の何によって世の中が変わるのかと訝しんでいるかも知れないが、それも少なくとも何かを言い放っているわけだから、たとえそれがまやかしの内容だとしても、言い放っていることを実行しなければならないだろうし、すでにそれを言い放っていること自体が実行していることになるとすれば、果たして言い放つだけで済むかというと、それもたぶん言い放つ以外の行動も伴ってこないと活動が完結しないと見るなら、何かしら言動と共にやらなければならないことが出てくるわけで、そのやらなければならないことをやることによって世の中が変わるというなら、それ相応に納得できそうだが、そんな有言実行を後押ししたいから、こんなことを述べているとも思えないが、果たして彼らがやらなければならないことをやるように促すことができるかというと、そもそも彼らが何をやらなければならないのかということが、それがまやかしだと言い放つことだけがやらなければならないことだとは思えないはずだが、もちろんまやかしの意見を言い放つことがまやかしだとしても、それとは別の有言実行へと結びつけるには、彼らが勝手な意見を主張するにとどめておくだけに終始させてはならないわけで、彼らに別の何かを有言実行させる機会を与えないとならないわけだが、その一方でそうはさせないようにするためのあれやこれやの画策も行われているわけで、それがまやかしの言説を構成しているとも言えなくもないが、とにかく言説の内容がまやかしであっても構わないから、主張を実行する機会を与えないと事態が前進しないし、事態を前進させるには実際に世の中を変えようとしている勢力に加担しなければならず、現状でも多くの人々がその機会を捉えて加担しているはずだが、そんな勢力の主張がまやかしだと言い放っている人たちが実際に何をやっているのかと言えば、彼らもまやかしの言説を駆使して、彼らの主張がまやかしだと言い放っているわけだが、もちろん自分たちが言い放っている主張がまやかしだなんて口が裂けても言わないだろうが、それがまやかしかどうかの判断が他の誰にまかされているわけでもなく、自分たちの主張を信じてほしいだろうから、少なくとも今後それを有言実行してまやかしでないことを証明してもらえばいいわけだが、その機会が今ここに巡ってきているとしたら、それをもたらしているのがまやかしの言説を駆使しながらおかしなことをやった挙句に、多くの人々から批判や非難を浴びている勢力であるはずなのだが、しかもその勢力に加担しているのが、今こそこの機会を捉えて世の中を変えようと主張している勢力の言っていることがまやかしだと言い放っている人たちなのだから、何やらややこしい成り行きになっていると事態を捉えるしかないが、そして彼らの合言葉というか、事態を影で操っている黒幕がいるらしく、それももはや耳にタコができるほど言い尽くされた感もありそうで、今さらそんなことを言われても、彼らの常套句など聞き飽きたと思われているはずだが、そういうことを事ある度に言い放っていること自体が、彼らの致命的な欠陥をもたらしていると見なしたいのだが、果たしてそれが本当に致命的な欠陥なのかどうかが明らかになるのが、今後の成り行き次第になるかどうかも含めて興味深いところかも知れないが、少なくともそれをデマやまやかしだと言い放ちたい人も大勢いることは確かで、そんなふうに思っていることを口に出したり文章にして書き記していることがおかしいのかというと、そうするのが当然の成り行きだと思いたいし、それにそうではない面があるとも思えないのだが、彼らが本質的に言行不一致であることを指摘できるわけでもないのだが、結果的にそうなってしまうとすれば、それが彼らにとっては思いもよらぬ結果であると共に、他の誰にとってもそうだと思いたいが、結構そうなってもそれに気づかないのかも知れないし、実際に今もそうなりつつあるのに、そのことに関しては誰もそれを指摘していないのかも知れない。


6月22日「無視できること」

 何を騒ぎ立てられても意に介さないとなると、関係のないことだと思うしかないが、自身に関することが騒ぎ立てられているのだから、無関係であるはずがないのだろうが、騒ぎ立てている人にとってはそうであっても、都合の悪いことは無視したくなるわけで、無視できるほどの権力があることを見せつけているのかどうかも定かではないが、とりあえずは無視できる範囲内で無視しているわけだが、果たして無視できなくなるかというと、終始無視しているつもりだろうから、無視できなくても無視しているふりを装うことにはなるだろうし、それを関係のない人たちがどう受け止めるかということになるわけでもなく、そんなこととは無関係なところで、それとは別の事情や経緯からおかしな成り行きになってくるかも知れないし、すでにおかしな成り行きになってきているのに、それも無視できるとしたら、ではいったい何が無視できないのかというと、都合の良いことだけ強調したり誇張して、それが政治宣伝だと言われているわけでもなく、それを肯定するにしても否定するにしても、都合が悪いことなら無視する一方で、都合の良いことなら積極的に取り上げて宣伝に使うことになるだろうが、そんな宣伝が自分にとって都合が良いなら、それが宣伝の対象となっている人を支持する理由となればいいわけで、要するに困っていないのだから無視できるというのは嘘で、都合の悪いことを騒ぎ立てられて困っているが、困っているなんて態度や表情に出すはずもなく、都合の悪いことには全て無視を決め込む一方で、都合の良いことだけ一方的に宣伝しまくるだけで済んでしまうなら、そういうことだと受け止めるしかなく、自分には関係のないことだと思ってそんなのは無視するだけだが、無視できなければそれについて言及するしかなく、実際にこうしてそれについて言及しているつもりなのだが、いつものように要領を得ないから、何を述べているのかよくわからずに意味不明となってしまうが、それもよくわかるように説明すると都合が悪くなるから結果的にそうなってしまうのかも知れず、それが無視できないからそれについて言及しているのに、それが何だかわからないように述べていること自体が矛盾しているが、それについて直接言及してしまうと嫌な感じになってしまうからそうなってしまうと受け止めるしかないにしても、何だかよくわからないが面倒くさいことについて言及しているわけで、なぜそんなに面倒くさいのかというと、自分には大して関係のないことなのに無視できないからだが、無視しても構わないのに言及してしまう理由が何なのかがよくわかっていない可能性もありそうで、よくわかっていないからそれについて直接言及するのを避けているのかも知れないが、それでもわかってしまうようなことである限りで、メディアから受ける印象にも影響を受けながら言及しているのだろうが、ある傾向の人にとってはそうなっているからこそ居心地の良い社会に暮らしているような気がするだろうが、その一方で絶えず不快で嫌な感じがつきまとってくるのだとすれば、そんな嫌な感じをもたらしているのが、現状の中で居心地の良い思いをしている人たちなのかも知れず、それが危うい均衡の上に成り立っているとは思えないし、何よりも安定を望んでいるからそうなっていると思えばしっくりくるような感覚なのかも知れないが、それに関しても嫌な人たちの言いたいことがわかっているのに、なぜかそれについての言及は避けたいわけで、その代わりに意味不明なことを述べようとしているのだから、ひたすらそこから離脱しようとしているのに、それができない理由もわかっているはずだが、たぶん今ある社会が壊れかけているのではなく、逆にある傾向が顕著に表れている社会を執拗に存続させようと意識しているわけでもないのに結果的に存続してしまっているから、そんな傾向に嫌気が差している人にとっての不快な安定も執拗に続いて行ってしまうような嫌な感じなのかも知れず、しかもそれで一向に構わないところも言行が一致しない自己矛盾に陥らせる原因なのかも知れないが、何よりも現状で構わないところが気に食わないわけだから、それを何とかして変えようとするには、何かと何かを一致させないとならないと勘違い気味に思ってしまい、それに関してはありふれた紋切り型的な思考に基づいて政治と経済を一致させれば、それに失敗することによって目論みや魂胆の浅はかさを思い知るわけでもなく、逆により一層の勘違いに導かれながらそういう試みを批判する人々への憎悪を激らせるに至るから、それで構わないようなことになってしまうわけだが、なぜそれで構わないのかがわからなくても、それでは説明になっていないような気がする一方で、政治的な行為を経済的な行為に結びつけることがそもそもの間違いであるはずがなく、むしろ積極的に政治を経済に結びつけようとすれば、それが救いようのない愚かさにも結びつくかも知れないし、そうするしかないと思うなら、そういうことをやっている政治家集団の仲間入りをしたくなって、そんな傾向の人たちが議会などで多数派勢力となってくれば、そういう成り行きが進行中だと思っておけばいいはずだが、その一方でそれが直接には結びついていないと事態を捉えるなら、ではなぜ結びついていないそれを執拗に結びつけようとするのが政治の役目や目的となってくるのかがわかるわけでもないが、それが直接の役目や目的とはしない方が、政治にとっては都合が良いと考えておいた方が無難なのかも知れず、それがわかっていない人たちが政治の目的が金儲けや権威や権力の誇示になっている政治家集団を支持して選挙の際にそれらの立候補者に投票するか、あるいはそんな政治には無関心を装って、投票そのものを放棄するかの二択になるだろうが、政治の目的を金儲けとは違う方面に設定できる人がいれば、金儲けが目的の政治家集団など無視できるだろうし、選挙の際にもそうではないことを主張する候補者に投票するのではないか。


6月21日「臥薪嘗胆の意味」

 結果的に臥薪嘗胆にはならないやり方が求められているわけではなく、そうならざるを得ないこととして世界各地でそれなりに程度や傾向の違う様々な戦いが行われているに過ぎないことだが、そんな何かと戦っている感覚とは無縁なところで勝手に思っていることもあって、それがお前ら馬鹿なんじゃないかという半ばあきらめにも似た残念な実感なのかも知れないが、呆れを通り越して何が言いたいのかと言えば、行われていることが茶番だと言いたいらしいが、本気の殺し合いよりは茶番である方が、誰にとっても都合が良いと思っておいた方が良さそうで、実際に日本ではどちらかというと茶番な戦いが行われていて、それが殺し合いに発展しないようにするための歯止めとなっていると思いたいのだが、果たしてそれが賢いやり方かというと、賢いどころか馬鹿なんじゃないかとも思われていて、賢くあることと馬鹿であることがどこかで結びついているから、賢くあるにはとりあえず馬鹿にならないと賢くなれないような紆余曲折がありそうなのだが、それが臥薪嘗胆にはならないどころか、そのもののような成り行きを経てそうなってしまうようなことだから、そういう成り行きの途中では苦労が絶えず、力まかせでないのに心身が消耗して多くの人々が戦っている途中で脱落してしまうのだが、それでもうまい具合に何らかのシステムが作動していて、苦労した分だけ見返りも報いもそれだけ大きくなると期待してしまうのだが、そんな期待が裏切られてしまうことも結構な割合でそうなりそうな予感もしてしまうから、あまり過大な期待はしない方が落胆もそれだけひどくならないようにするには肝要かも知れないが、何よりもわかりやすさに騙されてはならないと思いたくなってくるような事態なのであって、堪え性のない人なら騙されてしまっても構わないし、単純な二項対立に見立ててどちらが正しくどちらが間違っているかという判断でも、それなりに納得できるかも知れないし、軽く扱うならそれでもいいというか、何かのついでにちょっとだけ考える程度で済ませたいなら、そういうことだと思っておいてもそれほど深刻な事態にはならないはずで、もちろんそれでは臥薪嘗胆の境地とはかけ離れているし、何の苦労もなくそんな結果を得られるなら、それでは詐欺のようなまやかしにもなりかねないが、自分ではなく他人に苦労させるという戦略になるなら、経済力や地縁血縁的な裏付けがないとできないことにもなってくるにしても、何かしらそうなってしまう成り行きを経て結果的にそうなってしまうわけだから、人一倍の苦労を経験しようと手間暇かけて無駄で不要な回り道を辿ろうと、泥縄式になっても思ってもみなかった結果に辿り着けたら、そういうことだと思うしかないわけで、馬鹿な人々を焚きつけてそういう結果へと持って行こうとしているわけではないとは思いたいが、結果的にそうなってしまうならそれでも構わないというか、馬鹿な人ほど臥薪嘗胆な思いを募らせるわけでもないだろうが、意識して馬鹿にならないとそうはならないわけで、わざわざそうまでして結果を得ようとしているのだから、馬鹿でなければそんなことはできないと思っているしかなく、思っているだけではなく、行動や言動が伴う成り行きに持って行けないと結果を得られないわけだから、結果を得るのは並大抵のことではないと思うしかなく、それなりに覚悟して事に当たっているはずだが、身も心もすり減らしながらそんなことをやっているのだから、たわいない結果しか得られなければ落胆するしかないのだろうが、それをたわいないと思うかどうかも、わざとたわいないと思わせようとして馬鹿げたことを仕掛けているとも思えないし、誰がそう仕向けているとも思わないが、それに関して思い違いや勘違いしていることがあるとすれば、相手を甘く見ているというか、はなから相手にしていないように振る舞っているつもりが、かなり意識して相手を小馬鹿にしたいという魂胆が丸見えで、それを茶番だ何だと嘲笑いたいなら、相手の臥薪嘗胆な思いを軽く見ていることにもなるから、それで構わないというか思うツボというか、うまい具合にそうなるように結果を持って行っていることにもなりかねないというか、実際にそんな結果がもたらされるなら、まさにそれがしてやったりな結果となるかも知れないが、果たしてそんなに事がうまく運ぶのかと半信半疑な思いが募ってくるなら、それでも構わないことになってしまうのかも知れないし、何かそういうところで見落としている点がありそうなのだが、肝心な点を見落としているから結果的にそうなってしまうようなことでもあるならそれで構わないのかも知れず、それが暗中模索の神の見えざる手の導きがあったからそうなったと思っておいても構わないし、いつものように何だかわけのわからない紆余曲折を伴いながらそうなってしまうようなことでもあるから、後は黙ってそういう成り行きに従って行くしかなく、その途中で思いがけないことが起こる度に驚いていればいいようなことなのかも知れず、実際に今ここで思いがけないことが起こっている最中でもあるから、それが驚くべきことだと思うか思わないかも、それとの距離感を意識している限りで感じ方も違ってくるだろうが、少なくとも何かくだらないデマや嘘を撒き散らして自分たちの思い通りの展開へと持って行こうとしている人たちが存在していて、果たしてそういう人の思い通りになるかならないかは、何となく事前に見当がついていることかも知れないから、そういうのは勝手にやらせておけばいいことだとしても、それらの何が見込み違いなのかも多くの人たちがわかっていることかも知れないし、果たしてそんな雑な仕掛けを真に受ける馬鹿がどれほどいるかということとはあまり関係のないところで、見込みある人たちの間で臥薪嘗胆な辛抱が今も進行中だと思っておけば、自ずからそれ相応の結果がもたらされて、そんな結果に一喜一憂する馬鹿な人もそれなりに出てくるのではないか。


6月20日「何かやっている感覚」

 冗談にも程があるというのがこのことだとは思わないし、それが謎だとも思えないとしたら何なのかというと、たぶんそうなるのが当たり前のようなことが起こっていて、それを何とも思っていない人が世の中にはいくらでもいるから現状のような世の中になっていると思っても構わないが、それもたぶんそうではなく、彼らがそう感じてそう思い込んでしまう理由や原因や根拠がそれ以外のどこにあるわけでもなく、そう思い込んでしまうこと自体が彼らにとっては大したことではなく、それが例えば原発事故を目の当たりにしても原発推進派になってしまうようなことなのかも知れないし、直接の被害や損害とは無縁な人ほどそうなると思いたいのだが、それもそういうことではなく、ただ単にそれ自体にあまり関心がないから、さらには原発反対派は左翼だと思い込む程度の軽くてどうでもいいような偏見からそうなってしまうようなことなのかも知れないし、事の深刻さとは無縁だから、それでも構わないようなことだと思うしかないが、その一方で彼らには彼らなりの深刻に感じるようなこともあると思うなら、例えばそれが共産党が暴力革命を目指しているとかのデマを信じていたりするから、共産党が支持していたり支援していたりする人物には何とかして否定的なレッテル貼りをして退けたいと思っているわけでもないのだろうが、右でも左でもなく何なのかというところで、原発が必要だとはあからさまに思っていなくても、原発に反対するというよりは、あからさまに原発を推進しているとは思えないような人たちが原発の推進をなし崩し的に大した理由も原因も根拠もなく容認している程度のことであったりするから、決まりきった主義主張とかイデオロギーに染まっていないからその程度のことで済んでしまうようなことかも知れないが、そういうことの延長上で岸田首相や小池都知事などが何かやっている感を出していれば、それもなし崩し的に容認する程度で済ませておきたいのかも知れないが、そういう中身が空っぽで口先だけの世渡り上手と見なしても良いキャラクターの存在を容認する姿勢が現状の世の中をもたらしているとも思えないし、それ自体も枝葉末節などうでもいいことの範疇に入りそうだが、そういった事なかれ主義的に行政の寄生虫のような存在を容認するのではないとしたら何をどうすればいいのかというと、わざと彼らが嫌がっていることをやりたくなってしまうというよりは、それも嫌がっていることではないとすると恐れていることなのではないかと思いたくなるのだが、そのどちらでもないとしたら、主張としては具体的に何をどうやるかが問われているとしても、そんな主張には全く関心がなく、何を主張されても耳を塞いでしまえば聞こえてこないし、それもわざと耳を塞いでいるはずもないのだから、それが聞こえてこないようなところで生きているつもりになれば、やはりそれで済んでしまうようなことかも知れないし、何よりも全体とは無縁の部分的なところで生きている限りは、他のことには耳を塞いでいられる限りで無関心になれるのだから、それが責任逃れの態度だとは思えない程度で済ませておくに越したことはなく、そういう何でもないようなことを思っているわけでもないが、特定の分野の寄生虫として生きている人とは違う生き方をできると思うなら、それ以外の分野でもいかにして門外漢的な空気を読まない態度を貫けるかが、それらの分野内で及ぼされる同調圧力に抗うには必要となってきそうな気もするが、それも成り行きとして普通な感覚だと、郷に入っては郷に従え的に同調圧力に屈しているふりを装うしかないのだが、そのふりを装うという振る舞いが他の人にどう受け取られるかといっても、他人のことなど眼中にないような態度というのもちょっとよくわからないのだが、要するに業界側の人間のふりをしていないで、あくまでも素人として振る舞うしかないのだとすれば業界人になろうとしては行けないと思うなら、ではどんな振る舞いならしっくりくるのかというと、逆にいつまでもどこまでもぎくしゃくしている程度で構わないのかも知れないし、あくまでも一般人として政治や行政には向き合うべきなのかも知れず、その道の通ぶらないで、普通に原発の事故によって多くの人々が大変な思いをしたのだから、原発はやめた方がいいと思えばいいだろうし、岸田首相や小池都知事は広告宣伝業界のウケ狙いだと思っておいても構わないだろうから、そういうのは何かやっている感を出して雰囲気を良く見せようとしているに過ぎないし、実際にそんな思惑や魂胆が見え見えでバレバレだから各方面から批判されていると認識しておくしかないような気がするのだが、そういう広告宣伝業界のウケ狙いとは違うことをやれるかというと、もっと地道なことをやればいいと言っても具体的に何をどうやればそれが地道なことだと言えるのかがよくわからないだろうが、他の業界と公的な選挙を伴う公共の政治とは分けて考える習慣をつけないと、自分の仕事関係の業界以外には無関心を装えることになってしまうからまずいとは思うが、これといって何もないわけではなく、そうかといって直接一般の人々に利益をもたらすようなことでもなければ、では何なのかといっても、すぐに思いつくようなことでもないかも知れないが、結局それが社会の中で困っている人たちを助けるような政治であって、それが行政の使命だと言えるようなことになってしまうと、そういうことに関してはわかりやすくなってしまうだろうが、それ以外の割合の方がかなり大きいと、それ以外の方面でどういうことを実際にできるかが、それが目立たないし人気取り政策にもならないところで、地道なやり方が求められているとも言えず、誰もそんなことは求めていないとも言えないようなことなのかも知れないが、誰も意識して求めているわけでもないところで何かが地道に行われているとしたら、それが専門的でわかりにくいところでもあるわけだ。


6月19日「狂った世の中」

 わざとそういう構図を作っているとも思えないが、それらの勢力に加担している人々に自分たちが滅びるかも知れないという自覚があるかというと、状況的にないとは言えないはずだが、表面上はそうでもないのかも知れず、その証拠に態度が妙に自信に満ちていて何か虚勢を張っているように見えるとしても、たぶん本気なのかも知れず、何が本気なのかというと、勝つ自信があるから傲岸不遜な態度でいられると見ても構わないのかも知れず、何に勝つつもりなのかも状況的にはわかりきっていることだが、その手の人たちにはそんな態度がお似合いなのであり、勝つ前からいきりたって威張り腐っているような人々なのだから、誠実さや良心のかけらもないように見えてしまうわけだが、そういう人たちを相手にして戦うわけだから、戦う前から勝利を確信できるわけでもなく、逆に今までがそんな人たちを支持してきた人々が世の中の多数派を占めていたと言っても過言ではない状況だったわけで、今もそんな狂った状況下だと思っている人もいくらでもいるかも知れないし、そういったキチガイ系の人たちが威張っている時代が今も続いているのだが、それが普通だと感じている人も多いのかも知れず、キチガイ系の人たちが本物のキチガイだとは思わないだろうし、キチガイを演じている自覚もないだろうから、彼らはキチガイではなく、キチガイでなければ何なのかというと、それ以外に名付けようのない人たちなのかも知れないが、何かの囮と見るならそう見えないこともなく、それが何の囮なのかといえば何かをおびき寄せるための囮であるから囮に見えるのだが、たぶんこれからおびき寄せられて現れる何かがわかるのかも知れず、何がおびき寄せられるかはそれが現れた時のお楽しみなのかも知れないが、実際におびき寄せられてくるまでわからないから、その時がくるのを待つしかなく、今はそれが現れるのを待っている最中だから、キチガイたちの横行を多くの人たちが許しているわけで、いつまで許しているのかというと、キチガイ役の囮たちの奮闘が功を奏して何かがおびき寄せられてくるまで許していることになりそうだが、これからおびき寄せられてくる何かによってキチガイどもが一掃されてしまうことも期待されているのかも知れず、今まさにその機会が巡ってきていることを示す兆候が現れているから、キチガイどもの圧政に苦しんできた人々も巡ってきた千載一遇のチャンスをものにすべく奮闘している最中なのかも知れないし、果たしてそのがんばりが実を結ぶかどうかの瀬戸際まできていると現状を捉えても構わないかというと、本当に今が何かの瀬戸際かどうかも半信半疑なのかも知れず、ここで踏ん張らないと状況がさらにひどくなって、取り返しのつかない深刻な事態となってしまうかといっても、すでに何度もそんな事態となってきたのだから、もうとっくに取り返しのつかない深刻な事態となっている可能性もなきしもあらずで、しかも取り返しのつかない事態となっているからこそキチガイどもの横行を許していることになっていると事態を解釈するなら、それなりにしっくりくるかも知れず、そんな状況だからこそキチガイどもが威張っていられるわけだが、果たして本当にそうなのかというと、そう思っている人にとっては確かにそうなのかも知れないが、そうは思っていなくてもそうなっていることに気づいていないだけかというと、意外とそれとは別の面では何でもないようなことなのかも知れず、それは今までもそうであってこれからもそうなのだろうから、そう感じていること自体が自分もキチガイどもの仲間だからそう感じている可能性も捨てきれないが、来るべき何かに呼応してそうなっていると考えるなら、もうすでにキチガイになってしまった人たちには関係のないことかも知れず、もう手遅れで後戻りができないからキチガイとして振る舞うしかなく、まだキチガイになっていない人に限って未来への可能性が残されているとしたら、その可能性とは何なのかというと、これからやってくる真っ当な世の中で暮らして行ける可能性だと言えるかどうかも、実際にそんな世の中になってみないことにはよくわからないだろうが、そうではないとしたらこの先も延々とキチガイどもが威張り散らす世の中が続いて行くのかというと、それもそうなってみないことにはよくわからないとしても、少なくとも彼らがキチガイだと認識できる限りで、それが間違った認識である可能性が高く、たとえキチガイのように振る舞っているとしても、キチガイだとは言えないとしたら何なのかというと、彼らにはキチガイのように振る舞うしかやりようがなく、まともなことをやっていたらその地位や役職にはとどまれない成り行きの中で活動しているから、キチガイのように見えてしまうわけだが、岸田首相も小池都知事もキチガイのように振る舞いながら、かろうじてその地位や役職を死守しているわけだから、彼らのお仲間や手下もキチガイじみたことをやるように絶えず仕向けられていると見ておけばいいのかも知れず、果たしてそれで構わないのかというと、今はそれでも構わないのであり、彼らはそうやって実際にそんな立場や境遇になってしまったのだから、すでにそこから引き返せないようなことをやっているわけで、それをやってしまったからまるでキチガイのように見えてしまうわけだが、もう彼らには正気なことができないとは言えないが、少なくともこれから彼らのような地位や役職に就く人にとっては、彼らが悪しき先例としての反面教師の役割を担ってほしいわけだから、彼らのようにならないためにはどうすべきかと考えながら活動する必要がありそうなのだが、果たしてそれを自覚できる人がどれほどいるのかといっても、多くの人たちがミイラ取りがミイラになるようにしてキチガイ化してしまうかも知れないし、では何がそうなることを妨げるのかといえば、それが彼らが囮となっておびき寄せる来るべき何かによって明らかになることだと思っておいても構わないのではないか。


6月18日「第二の産業革命」

 たぶん大した違和感ではないのだが、何かが違うと感じるのはいつものことで、それに関して頑なに論理的整合性を追求しているわけでもないが、勘が正しいとか間違っているとかではないとすると、何を言いたいのかよくわからなくなるが、そう感じている自らの勘が狂っているような気もするから、勘違いかも知れないが、やはり論理的な確からしさを求めているのでもないとすれば、矛盾したことが起こっているのに気づいているとも思えないのだが、単刀直入にAI革命が第二の産業革命なのかというと、そんなふうには思っていないと言うと嘘になるが、テスラが自動車を作っている時にはそうは思わなかったのだが、ロボットを作り始めた時に、ああなるほどと思ってしまって、安易にこれが第二の産業革命なのではないかとひらめいたわけだが、テスラが作っているロボットが安川電機などのロボットアームだけの固定型ロボットではなく、足がついていて動ける人型ロボットであることが、ボストンダイナミクス社の四足歩行ロボットの気持ち悪さともちょっと違う印象を伴っているだけに、すでに第二の産業革命の発端にいるような気にさせるのだが、果たして全ての人の労働がロボットに置き換えられるとも思えないものの、AIを搭載した人型ロボットがどこまで人の作業をこなせるかが普及のカギとなるにしても、ロボットを作っているのがテスラだけに話題性があるというか、先駆けとなったのはいつものように日本企業で、ホンダが人型ロボットを作っていたのに継続せず、ソニーの犬型ロボットは玩具の延長上の商品となっているのとは対照的に、本格的にAI技術が進展してきたタイミングに合わせて人型ロボットの商品化に成功しそうになっているところが、テスラの一人勝ちな予感がしてしまうわけで、もちろん中国企業がすぐにマネしてテスラよりも安い製品を出してくるかも知れないが、少なくともテスラによる商品化が成功した後になるだろうから、まずはテスラが世界的に人型ロボットによって脚光を浴びることになれば、工場内に固定されて決まりきった動作を繰り返すロボットアームというイメージとは違った段階に突入するのではないかと妄想してしまうが、それもコストが安上がりになればという条件付きなのかも知れないが、やはりそういう成り行きとは対照的に例えば全個体電池だとか水素社会の実現だとか、森林の斜面を切り開いて太陽光パネルを敷き詰めるのは自然破壊だとか、風力発電用の巨大な風車に鳥がぶつかったり風車が回る音がうるさくて騒音公害だとか、部分的なところへと焦点を当ててそれを強調して何かを主張しているような気になっている人も多過ぎるような気もしてくるわけで、それとこれとがどう違うかにも気づきにくいし、実際にどう表現すればいいのかよくわからないし、どう表現してみてもしっくりこないのだが、根本的なところや本質的なところが捉え切れていないから、どうしても枝葉末節なところに注目して部分的な強調や誇張へと人の意識や関心を誘導しようとする傾向があるのかも知れず、本当のところがわかっていないからそうなってしまうのか、あるいはわかってしまうと太刀打ちできないことを理解してしまうから、なるべく理解する時期を遅らせようとして、目眩し的にそういう方面へと人々の意識や関心を持って行こうとしているのかは、そんなことまで考えている人はまずいないだろうが、使い物になる性能の全個体電池が開発されれば、テスラもそれをEVに使うだろうし、水素社会の実現自体があまり理屈に合わない面があることは周知の事実かも知れないし、太陽光パネルも風力発電の風車も立地条件や蓄電池の活用や送電網や再利用の体制を工夫して使えば良いという結論も出ているから、そういう分野が今後発展するにしても衰退するにしても、それに合わせて成り行きも風向きも変化するしかないが、もっと本質的かつ根本的なところで人の労働がどうなるかが、ロボットの活用によって変化させることができれば、それに伴って人の行動形態や経済的な価値観や生活習慣も変わってくるかも知れないところが、何かヤバい感じがしないでもないのだが、そういう面でのイーロン・マスクの直感力が結構な程度で物事の本質や根本を捉えているのではないかと持ち上げたくなってくるのだが、それが結果的にうまく行くかどうかはよくわからないし、何よりもアメリカと敵対関係にある中国に大規模な工場を作ってしまう手腕もなかなか他の経営者には真似できないことかも知れず、それとは対照的にトヨタの自動車が世界でいくら売れても、それによって社会が変わるわけでもなく、ニッポン凄い派の自尊心がくすぐられるだけだろうが、当事者がそれを意識しているわけではなくても、その行動や言動に世界を変える影響力があるかのような幻想を抱かせるのだから、たとえそれが幻想に過ぎなくても、それなりに人々の心を揺り動かせる力あるのかも知れないし、イーロン・マスクが向かって行く方向に世界の潮流も流れて行くような感じになってくると、そういう方面での可能性に期待を寄せる人も結構な割合で増えて行くかも知れないが、変化して行く方向が良い方向なのか悪い方向なのかも、変化して行った先でああだこうだと言われることでしかないにしても、今ここで何を予想してみても当事者ではないのだからいい加減で無責任なことしか言えないが、18世紀の産業革命が人を労働地獄へと導いたのとは対照的に、21世紀の第二産業革命が人を労働から解放することになる代わりに、人そのものを消滅へと導くことになるかも知れないが、それが人でなければ何なのかというと、人以前の何かであると共に、人以降の何らかの存在が生じるきっかけを作ることになるのかも知れない。


6月17日「暫定的な結果」

 何かそれなりにもっともらしい意見を言ってくる人に対して、そうじゃないと思うことがあれば、そういう意見には何か見落としている点があるらしいのだが、しかもそうじゃないと思っていることがあまり説得力が感じられないようなことだと、そうじゃないと思うこと自体が誤っているような気がしてくるとしても、やはりそうじゃないような気がするのを改められないとしたら、何がそうじゃないと思っているのか、その内容を明らかにする必要がありそうだが、少なくともそれほど合理的な理由があってそうじゃないと思うわけではなく、そうじゃないと思うこと自体にもっともらしい根拠があるわけでもないようなことでもあるなら、それに対していくらもっともらしく合理的な理由を並べてそうじゃないと思っている人に反論したところで、それはちょっと違うような気がするわけだが、それが机上の空論などではなく、実際にそうした方が良いことをやらない理由がないと思われることを、なぜかやらないわけだから、そんなことではまずいと思われるのも当然だろうが、逆に他の多くの人から同意も合意もコンセンサスも得られないようなことをやる必要があるかというと、たぶんその必要があるからやるのではなく、必要もないのにやって、それがうまく行かずに多くの人々から批判されたり非難を浴びせられるようなことをなぜかやってしまうのだから、そんなことをやってはまずいようなことをやってしまったと思われるだろうが、結果的にはそれで構わないはずがないようなことをやってしまったからといって、なぜか窮地に陥っているわけでもなければ、別にそういうことをやるに際して誰もが納得できるような合理的でもっともらしい理由や根拠など何もないことになってしまうだろうが、その場の成り行きでそうなってしまうことがあろうとなかろうと、そうすることについてはあまり合理的な理由などないわけだから、できる範囲内でやれることをやってみた程度のことになるだろうが、他人から見ればそれではまずいと思われようが、実際にそういうことをやってそうなってしまった事実をどうすることもできないこととしてそうなっているわけで、そうなってしまったことをどうすることもできないわけでもないが、否応なくそうなってしまうわけでもないにしても、そうなる過程においていくらでも他にやりようがあったにしても、結果的にそうなってしまったことについては、そういうことだと受け止めるしかなく、それ以外に何がどうなるとも思えないが、たぶんどうにかなるところではどうにかなり、どうにもならないところではどうにもならないのだろうが、なぜかそんなことにはお構いなく何らかの結果がもたらされて、それに対して何やらもっともらしい理由づけがしたい人も出てくるから、そういう人にとってのもっともらしさやそうなるについての合理的な理由や根拠が必要とされる範囲内で、何かそれに基づいた意見ももっともらしく主張されるような成り行きにもなるのだろうが、そんなことを主張したからといって、そうなってしまった結果は動かしようがないわけで、動かしようがなくても別に大して深刻な事態を招いているわけでもなければどうということはないわけだが、その程度のこととして認識されている限りでそういう結果が罷り通っていることについていくら異議申し立てのようなもっともらしい意見を執拗に主張しようが、言いたい奴には勝手に言わせておけばいい程度のこととして片付けられてしまうわけでもないだろうが、それに類する成り行きも世の中にはいくらでもありそうなのだが、たぶん世の中では多くの人や団体が正当化できないようなことをやらざるを得ないし、実際に正当化できないようなことをやっている実態がある中で、何か主張するとなると、主張自体がやっていることを正当化するような主張にならざるを得ないというか、取り立てて何も主張するようなことがない人や団体がその場の成り行きに従ってやらざるを得ないことをやっていれば、そこからやっていることを正当化するような主張など生じてこないのは当然の成り行きなのだろうが、やっていることを正当化できないようなことが実際に行われているわけだから、逆に正当化できるようなことをやろうとすれば、数々の障害や妨害が行く手に立ち塞がって、それができないようにされてしまうと事態を捉えるなら、なるほどその代わりにやっていることを正当化できないようなことをやらざるを得ない成り行きに従うしかなく、そんな成り行きに従いながら岸田首相も小池都知事も今の役職に就いているわけで、今の日本ではああいう人たちをああいう役職に就けるような成り行きが生じていると結果から言えるかも知れないし、ああいう人たちを批判しようと思えばいくらでも批判できるし、実際にいくらでも批判されているわけだが、それもいくらでも批判できるとしても、今のところは結果的にああいう人たちしかああいう役職に就けない現状を変えるには至っておらず、それを今まさに変えようとしているのが盛んにああいう人たちを批判している人や勢力なのだろうが、逆に今ある現状を何とかして維持しようと躍起になっている人や勢力もいくらでもいると現状を捉えても構わないかというと、どうもそうでもないような風向きになってきたような気もするのだが、それが気のせいに過ぎないなら、今後も延々と執拗に現状が続いて行くことになるのだろうが、そうだとしてもそれも気のせいで、現場がそのまま続いて行くわけでもないし、これまでもそのまま続いてきたわけでもなく、何かしら変化しながら現場が続いてきて、また今後も何かしら変化しながら続いて行くのかも知れないが、その変化の程度や傾向が誰もが納得できないし正当化もできないような程度や傾向になるのかも知れない。


6月16日「偶然と必然の関係」

 何か歴史的な経緯があってそうなっているようなことが、その経緯を無視しているわけではないにしても、もっともらしい理屈や論理や理論などが持ち出されて説明されると、それなりに説得力のある内容になってくるのだろうが、それが元からもっともらしい理屈や論理や理論があって、その理屈や論理や理論などに従いながら世の中の情勢が動いているような説明のされ方をしてしまうから、原因と結果が逆になって、それが必然的にそうなるようなこととして信じられて、そうなったことに関しての歴史的な経緯の偶然性が軽んじられてしまうわけでもないのだろうが、必ずしも理屈や論理や理論に従った結果になるわけでもないなら、偶然にそうなってしまう面もあるわけだが、そうなった結果を説明するのに必要なもっともらしい理屈や論理や理論が導き出されるにしても、たぶん歴史的な経緯はそれだけでは説明がつかないから、そこに理屈や論理や理論以外の何かが絡んでくるわけだろうが、それが偶然にそうなった面も考慮に入れるなら、それが必然的にそうなると説明したくなるのに伴って導き出されてくる理屈や論理や理論の類いとは相容れない面だとしても、相容れない両面を伴いながら物事の成り行きが進行していくと説明しなければならないかというと、実際の説明はそうではなく、説明自体が理屈や論理や理論などから構成されるものだから、偶然にそうなった面など考慮に入れなくても構わないし、説明したところで意味不明で説得力がなくなってしまうから、それは説明する必要がない面なのかも知れず、少なくとも偶然にそうなったでは説明になっておらず、そういう意味では複数の物事が絡み合ったり錯綜したり衝突したりする偶然性は説明しづらいのだろうが、そこではそうなったから、別の場所でも別の時期でもそうなるかというと、そこではそうなったからあの時もそうなったからここでもそうなるはずだと思うなら、そうなることを信じているからそう思うのだろうし、そうなることを信じる理由として、信じるに足るもっともらしい理屈や論理や理論などがあれば、そうなるはずだという思いにも俄然真実味が出てくるわけだが、そこに作用や影響を及ぼしてくる様々な経緯や事情や条件や成り行きなどが複雑に絡み合ったり錯綜したり衝突し合った結果としてそうなったと考えるなら、信じるに足るもっともらしい理屈や論理や理論などがあるにしても、何か一筋縄では行かないような気もしてくるわけだが、そうだとしても売買や貸借などの商取引であれば、あそこではいくらで売れたからこちらでもいくらで売れるはずだとか、あそこではいくら借りられたからこちらでも大して違わない額を借りられるはずだとそれなりに見当がつくかも知れないし、経緯や事情や条件や成り行きなどの違いが相対的な程度の範囲内で妥当な売買や貸借の額も決まってくると考えても、それほどおかしいとは思われないし、実際にもそれが妥当だと思われる範囲内で売買や貸借などの取引が成立するはずだが、そういう売買や貸借などに伴って感じられる妥当性からはかけ離れたところで何が生じてくるかというと、そういう商取引の慣習や慣例などを無視したやり方を伴って行政が介入してくると、何かそれが理不尽な行為のように思われるだろうが、それが取引とは違うやり方で、相手の意向や事情を無視した強権的で強制的な措置を伴って、相互の信頼や信用など生じる余地もない一方的な権力の行使となると、そういうやり方には反発するしかないが、そんな行政に対して反感を抱きながらも渋々従わざるを得なくなれば、それが偶然にそうなっているのではなく、そうなるのが必然のように思われるにしても、もちろん何の理由もなく、そんな有無を言わせぬ強制的な措置が行われるわけではなく、何らかの違反行為や違法行為が発覚したからそうなる場合が多く、やられた側に非があることが明らかになっている限りで、そういった措置にもそれなりの妥当性が感じられるわけだが、法治国家が機能している地域では行政だけがそういうことができるように法律が定められているはずだが、そこでも偶然にそうなっているわけではなく、それが妥当だと思われるような理屈や論理や理論などの裏付けがあるから、そういうことをやられる側にとってはたまったものではないにしても、悪いのはやられる側だというコンセンサスも、その地域で暮らしている人々の間で共有されているだろうが、果たしてそこにも偶然の成り行きが絡んでくるかというと、たぶん違反行為や違法行為をやってもバレなければいいという心理状態になれるかということに関しては、たぶん偶然にそんな心理状態になるというよりは、できればバレないことの裏付けがほしいわけで、例えば違反行為や違法行為を取り締まる側の行政の担当者に賄賂を贈って違反行為や違法行為を見逃してもらうとか、それ自体が法律に違反しているし違法行為ではあるものの、今どきそんなあからさまな行為がバレないはずがないだろうし、それなりに違反や違法スレスレのことをやるに当たって、行政に便宜を図ってもらう見返りとして、行政の担当者がその職を辞めた後の天下り先を用意するとか、そういうことが日本の行政の中ではいまだに行われていて、それが半ば慣習と化していれば、そうした悪習をやめさせるような改革が求められているはずだが、それを慣習や慣例として継続させようとしている側からすれば、それができないような制度改正や改革が行われては困るわけだから、そういう改革を推進しようとする勢力には抵抗するしかないし、実際に選挙でそんな改革を公約として掲げている候補者がいるとすれば、そんな候補者が当選しないように様々な妨害工作が行われることになるのかも知れない。


6月15日「解せない結果」

 解せないというと理解できないとは思わないが、納得できないと思う方がよりその意味に近いような気がするわけだが、では何が解せないのかというと、それもいつものように微妙な言い回しになってしまうが、誰もが近視眼的な思考の持ち主であるはずもないが、世の中にはそんな人やそんな人が集団化した団体が多すぎるような気がするというと、そんな状況がどこにあるのかといえば、ここにあるとしか言えないようなことかも知れないし、誰もが視野が狭く目の前の利害しか眼中になければそれでも構わないが、果たして現状の中で生きているのがそんな人ばかりかというと、それも勝手な印象に過ぎないのだろうが、果たしてそれに対して長期的な視野で物事を考えられる人がどれほどいるのかといっても、その必要がなければそんなことは考えないし、それも自分の利害しか眼中にないわけではなく、もちろん国の利害など考えているわけでもないとしたら何なのかというと、自分の利害も家族の利害も国の利害も関係ないわけではないが、その一方でそれらの利害を超越したところで何を考えているのかというわけでもなく、考えていないわけでもないのだが、金銭的な損得も伴ってくる具体的な利害も含まれてくると、何となくそれを省いて考えてしまうことがあるらしく、それが何かというと思考の焦点が定まらなくなるのだが、人や集団が自分たちの利害を超越したところで行動できるかといったところで、抽象的な勘違いから行動するようなことかも知れないし、そうでなければ何なのかといっても、これといってしっくりくるような対象など思いつかないが、傾向としては安易に批判の対象となってくる人や団体なら、連日メディア上で批判されている人や団体になるだろうし、そんな人や団体を自分も批判しなければならないと思うわけでもなければ、やはりそれでは言説のターゲットが見つからなくなってしまうのだが、世の中ではどうでもいいような人や団体がうごめいているだけで、そんな人や団体が今後どうなろうと全く気にならないなら、それらの人や団体がくだらないことにこだわってそれに関わりながら栄えようと衰えようと、知ったことではないことになってしまうのだが、果たしてそれでも構わないかというと、それではまずいと思う人が人を集めて団体を作って何かどうでもいいようなくだらない存在となっている人たちを立ち直らせて、真っ当な精神や思考を伴った人に変えようとしていると現状を捉えるなら、何となくそんな世直しを目的として活動している人や団体がいるような気もするわけだが、そういった世直し事業に反発して抵抗している人や団体もいくらでもいるから、果たしてそれらの中で真っ当なことをやっている人や団体がどれほどいるかといっても、各々に勝手にそんなことをやっているわけではなく、大ざっぱな範囲内では世界情勢にとらわれながらそうなっていると言えるかも知れないし、そこに何か一定の傾向があって、その傾向に気づいていてもそうなってしまうようなことでもあるから、そんな成り行きから誰もが抜け出せないと事態を捉えるしかないが、その中でも不快なことをやっている人や団体が嫌われ役を買って出ているわけではなく、自分たちを嫌われ役だとも感じない人たちが不快な嫌がらせを仕掛けてくるのだとは思うが、そんな卑劣で愚劣な人たちだけがメディア上で目立っているわけでもないはずで、それらの人たちを批判しようと思えばいくらでも批判できるにしても、そういう役割分担なのだからそんな人たちにはやらせておくしかないのかも知れず、物事を利害で判断してはいけないのかも知れないが、それらの人たちが自分たちの利害に基づいて行動しているわけではないとしたら何なのかというと、利益になると思っていることが意外とそうではないことに気づいていないだけで、長い目で見ればそれらの人たちの利益など何でもないことになってしまうのだろうが、目先の利害しか眼中にない人たちに何を言っても無駄だとは思わないが、目先の利益を求めることしかできない成り行きにとらわれてしまえばそうなるより他はあり得ないにしても、それを目先の利益だとも思っていない可能性まであるから、では何なのかといっても、それがわかれば苦労はしないし、わからないからとりあえず目先の利益を求めて行動するしかなく、それで構わないような成り行きにとらわれているから、そういう成り行きを肯定しないと生きて行けないわけでもないにしても、他に何があるかと問われるわけでもないが、何よりも仕事としてそういうことをやっているのだから、それ以外にはやりようのないことになっているのに、それを無関係な人から否定されても批判されても、その人が他のやり方へと導いてくれるわけでもなければ、ただの営業妨害にしかならないわけで、だからといってやっていることを正当化してみたところで、それなりに他人から否定されたり批判されるようなことをやっているわけだから、大なり小なり自身のやっていることにも限界や制約があると認識せざるを得ないだろうし、できればそれがやらざるを得ない仕事ではなく、趣味か遊びの範囲内で気軽に気分次第でやったりやめたりできるようなことなら、大したことではなくなるのだろうが、どうしてもこのままでは国が滅ぶだとか大げさに事態を捉えてしまう人が出てくると深刻に考えてしまい、そんな深刻なことではないとたかをくくれるわけではなく、実際にそれが原因で死んでしまう人まで出てくれば、あいつらがヤバいことをやっていると事態を深刻に捉えざるを得なくなるわけだが、しかしあいつらとは誰なんだと言われると、誰でもあり誰でもないようなどうでもいいような存在がどうでもいいようなことをやっている実態もあるから、たとえそれに起因して死人が大勢出るにしても、無駄に無意味な死になってしまうのかも知れず、しかも大義に殉じるような言われようだと、よりいっそう馬鹿げたことのように思われてしまうのではないか。


6月14日「慇懃無礼な態度」

 人としてここまで腐っているのかと怒りが込み上げてくるようなことをやる典型例として挙げられる人物が誰かといえば、それが意外と普段は他人に対して礼節をわきまえていて、社会の常識や慣習を守っているように見える人であったりすると、何かそういうところで行為の卑劣さや愚劣さと礼儀正しい振る舞いとは相関関係がないような、悪い意味であるような、よくわからない感覚にとらわれるのだが、本当のところはよくわかっているのだが、それを文章の中で表現しようとすると、うまくニュアンスが伝わらないような、わざと伝わらないように表現する配慮が求められているような、これまたよくわからない感覚にとらわれてしまうのだが、自分が属している勢力が応援している現職の都知事の有力な対立候補の揚げ足取りをやっている公明党の区議などが、その典型例として挙げられるとしても、それが取るに足らない小物と見られている人物がそうなってしまうわけだから、自身のやっていることが見えていない典型例でもあって、そういうことをやってしまうと小物と見られてしまうことを理解していなくても、貧相で卑しい昔ながらの日本人と蔑まれていることの特徴がよく出ているエピソードでもあって、自らが蔑まれるようなことをこれ見よがしにやる必要がどこにあるのかと訝しんでしまうにしても、ああいう人がああいうことをやってしまう状況や情勢を痛いほどよくわかるような気持ちになってしまうわけだから、そんなことを感じている自分もある意味で勘違い人間の典型例かも知れないが、浅はかで思慮の足りない人ほど、自身が常識人や良識人に見えるように世間的な外見を気にして礼儀正しく礼節をわきまえているような態度に凝り固まっているのではないかと邪推されて、勝手に自分で邪推しているだけだが、何か蓮舫という存在が世の中の腐っている部分を炙り出す装置として目覚ましい活躍ぶりを示しているわけでもないのだろうが、そんなのは隠しておけばいいのに、勝手に向こうからクズでゴミで醜悪な権力や利権という腐肉に群がるウジ虫のような相貌や実態をこれ見よがしに見せてくるような、ある意味で狂った状況や情勢になってしまうところが、何か間抜けで馬鹿げた様相を呈しているようにも感じられてしまい、お前ら馬鹿なんじゃないのかと言い放ってみても、現職の小池都知事が選挙で勝利してしまえば、こんな人に投票する市民や投票に行かずに無視を決め込んでいる有権者がみんな馬鹿なんだと言い放っているようなものだから、それはちょっと違うような気がして、どうしても勘違いな自らの見識の劣悪さを認めざるを得ないようなことにもなって、それをどう捉えたら納得できるのかといっても、自分には理解の範疇を超えるあり得ないことが起こっているのではないかと認識しておけばいいわけでもないだろうから、もう少し冷静になって起こっていること把握しなければならないとは思うものの、情勢や状況をどう見ても馬鹿で間抜けな人たちが現職の都知事を支持しているように見えてしまうわけだから、メディアが揃いも揃ってそう見えるように情勢や状況を演出していると見ておくしかないし、その手の人たちが蓮舫の揚げ足をいくら取っても、馬鹿で間抜けな小物たちがそういうことをやっているように見えてしまうわけだから、自身が馬鹿で間抜けに見られないようにするには現職の小池都知事を支持していることを隠すような配慮が求められているのかも知れないが、だからといってそういう人たちが蓮舫に投票するかとなると、死んでも蓮舫には投票しないと心に固く誓っているような人も大勢いるようにも感じられて、そう思わせるような蓮舫にも責任がないわけではないが、一方の小池都知事も自らが都政を牛耳っているような雰囲気をセルフロデュースしているような感じがしないでもなく、そういう自己演出に長けた人だとしても、やっていることはたわいないというか、都知事という役職自体が誰でもできるような役職ではないにしても、官僚たちに任せておけばそれで済むようなことでしかなく、逆に蓮舫が都知事になってしまうと官僚たちの思い通りには行かなくなるから、是が非でも蓮舫が都知事になることは阻止しなければならないと思わせるような事態となっていると現状を把握するなら、それもメディアから伝わる情報に踊らされていることになってしまうかも知れないが、どちらにしても小池都知事を支援する側が醜悪に見えるのは岸田首相を支援する側が醜悪に見えてしまうことと同じことだと感じさせているのも、ネトウヨや統一教会や日本会議や公明党などが関わっているからだと言ってしまえば身も蓋もないが、たぶん本当はそうではないと考えたいのだが、どうしてもその手のメディアの影響力が半端でないから、とりあえずはそういうことだと理解しておいても構わないのだろうが、そういうイデオロギー的なことは表面的な印象に過ぎないのかも知れないし、もっと別の方面から例えば資本主義市場経済と行政との関係から考えなければならないことだとは理解しているのだが、そんなふうに理解する上で妨げとなっているのが小池都知事やその取り巻きたちの自分たちを強権的に見せる自己演出的な演技なのかも知れないが、実際にやっていることと言っていることと、強権的な雰囲気作りという演技との間で感じる落差というか、たわいのなさと馬鹿にしたくなるような稚拙さというと、ではお前ならもっとうまくやれるのかと言われると全く自信も技量も器量もないことは明白だろうが、何かああいうやり方が嫌な印象を与えることを承知でやっていることのように感じられるから、一刻も早くああいう嫌なやり方はやめてほしいし、別に蓮舫でも構わないからああいうやり方とは違うやり方を試してほしいと思ってしまうわけだ。


6月13日「AI技術の可能性」

 世の中には時と場合によっては信じられる理屈や論理や理論があることは確かだが、その場の情勢や状況や成り行き次第で信じられたり信じられなかったりするものだと思いたいのだが、そうではなく恒常的にいつでも信じられる理屈や論理や理論の類を求めてしまうのもありふれた心理状態から生じる成り行きだが、そんな都合の良い理屈や論理や理論など存在するわけがないとそれを信じすぎて痛い目に遭った経験を反省しながら気づくことかも知れないが、気づいたところで性懲りもなく忘れた頃にそれを信じてしまうのだから、それだけ世界を自分に都合の良いように捉えようとしているのだが、そこに人間的な弱さがあるのは誰もが承知していることだが、その一方で多くの人が信じているらしい理屈や論理や理論が人々の意識を逆に拘束しているから、そういう理屈や論理や理論を熟知している人ほど相対的に社会の中では優位な立場を占めているらしいことも、誰もが何となく感じとっている傾向だろうが、だからといってその場の情勢や状況や成り行きに応じて信じられる理屈や論理や理論が何かと具体的に示せるかというと、それらを熟知している人にはその度ごとにこれだと示せるかも知れないが、普通はそんなことをやっているときりがないからいちいち示すことなどないだろうし、それがその度ごとに一つの理屈や論理や理論として独立して単独で機能するわけではなく、様々な理屈や論理や理論が複合的に絡み合いながら重ね合わせられたり打ち消し合ったり相殺されたりしながらその場の情勢や状況や成り行きに無視できない作用や影響を及ぼすのだろうから、そういう作用や影響を見落としたり無視すると痛い目に遭ったりするのだろうが、それらの全てを把握することも不可能だと思いたいが、AI技術を駆使すればそれが可能になると幻想を抱きたいわけだが、もちろんそういった技術の開発者はそれが幻想ではなく実現可能だと信じているから実際にそれを開発している最中なのだろうが、しかもすでにそれなりに特定の分野で機能して実績も上げているから信じないわけには行かないだろうし、そういう成り行きに意識がとらわれてしまえば疑う心が萎えて徐々に減退して行ってしまい、いちいちそこで立ち止まって疑っていたら、その場の情勢や状況や成り行きの変化への対応が遅れてしまうから、意識せずに素早く対応して処理する条件反射のような動作も伴ってくるかも知れないし、それもその場その時の情勢や状況や成り行き次第だが、そういう対処や対応を自動的に瞬時に行なってほしいという要求がAI技術には期待されるのだろうし、果たしてそんな都合の良い願望がどこまで実現するかが今後の技術的な進展の過程で明らかになったりならなかったり、それが幻想に過ぎなかったことが明らかになれば期待が落胆に変わってしまうだろうが、それよりは副作用のような効果が思いがけず起こって、しかもそれを利用したり活用することによって当初に予想していた未来とは全く違う世の中になってしまう可能性もあるわけで、18世紀の産業革命も20世紀の石油革命も20世紀末から21世紀初頭にかけてのIT革命も、それが起こった以降の世の中はそれ以前の世の中とはそれなりに様変わりしてしまったのだから、それ以前の世の中で通用していた理屈や論理や理論などがそれが起こった以降の世の中では通用しなくなったものも探せばそれなりにありそうだが、あったとしてもそれが起こった以降の世の中では忘れ去られているかも知れないし、それで大した不都合も感じていないだろうが、AI技術の開発者や推進している人や団体にしてみればそれがなくてはならない技術として世の中に定着してほしいと思っているはずだが、当初は誰もそうは思ってもない技術が世の中に思いがけず定着する可能性もあるのだろうから、果たしてそれがAI技術となるかならないかもまだはっきりしていないのかも知れず、少なくともそれがインターネット技術とは傾向の違った技術であることは確かで、それに関して現状の延長上で予想されやすい成り行きとして考えられるのが、AI技術はあくまでも部分的な技術であって、もっと広範囲に割と馴染みやすい技術として世の中で受け入れられているのがロボット技術であり、ロボットを制御する技術に組み込まれるのがAI技術だと捉えるなら、何となくわかりやすくなってしまい、ロボットが工場などの特殊な環境から一般の世の中へと進出するきっかけとなるのがAI技術だと考えられなくもなく、そうだとすれば鉄腕アトムなどのロボット漫画やアニメの世界がいよいよ実現するのではないかと期待してしまう人も出てくるだろうが、そういった昔ながらの妄想や願望が結構思いがけないところから裏切られるというか、思っていたのとはだいぶ違う結果がもたらされると予想したくなってしまうのだが、それが実際にどんな結果をもたらすかはそうなってみないことにはわからないが、何か誰も思ってもみなかった世界になってしまっても、今この世界で生きている人間にとってはそうかも知れないが、実際にそうなった世界で生きている人間にとっては何とも感じないのかも知れないし、そうなる過程の中でそれなりに違和感を覚えたり激しい拒否反応を示す人も出てくるかも知れないが、そういう人たちが次第に淘汰されてしまえば、そうなっているのが当たり前の世界が実現するのだろうが、果たしてそれがかつての新大陸で起こったような過程とどれほど似ているかどうかも、やはりそうなってみないことにはよくわからないし、そうなる過程の中で生きていても気づかないのかも知れないし、今まさにそうなる過程の中で自分自身が生きているとしても、それに気づいていないのかも知れない。


6月12日「影響力と発信力」

 それに関して何を知っているわけでもないというのは嘘で、いつものようにメディアを通して知っているつもりになっている知識があるから、それを知っていると思い込んでも構わないし、知っているとはそういうことだと思い込んでいるわけでもないが、何となくではあっても疑念を抱いている部分もあるから、少なくともその全てを知っているわけではなくても、多少なら知っているらしく、知っている範囲内で何か述べられると思っていて、それが嘘ではないことを証明しようとしているわけでもないが、証明とは違う方面から何か述べようとしていて、それが何かということではなく、例えばAIだとか自動運転だとか、今後の成り行き次第ではそれに関連する企業に莫大な利益をもたらして、現状でも莫大な利益をもたらしつつあるから、関連する企業の株価も上がっているのだろうが、だからといってそういう技術のターゲットとなっているのは人自身だから、自業自得というか自家中毒というか、否定的なことなら簡単に言えそうだが、もちろんそうした技術の進展によって恩恵を受ける方面も結構ありそうなのだろうが、それを肯定できるかというと、いくらでも肯定できそうだが、肯定も否定もしない方面から何が言えるかとなると、ちょっと考え込んでしまうが、それらの技術に関してよく言われている内容をメディアを通してすでに知っているだけに、そうした知識に引きずられて何か述べてしまうと、メディアを通して言われている内容に近くなってしまうのも当然の成り行きだろうが、それが肯定的に言われている内容とその逆の脅し文句を絡めて否定的に言われている内容が混ざり合いながら幻想を抱かせるような作用もあるから、さらにそうした幻想を皮肉って嘲笑するようなことも言われると、なるほど大したことではないとそれらに関連して起こっている事態を軽く見てしまえるのだが、すでにAIバブルがはじけた後を見据えているような先回り的な言動も目立っているかも知れないが、言われていることと実態との間で生じる差異や落差を念頭において何が考えられるかといっても、そもそも差異や落差などないかも知れないし、言われていることが全てとは言わないが、実態を作っているのがその実態を伝えるメディアでしかなければ、中身が何もないことにもなりかねないが、大山鳴動して鼠一匹ということわざがこれほどよく当てはまるものも滅多にないとも言えないにしても、そうなる恐れがあるという脅し文句をどれほど信用できるかといっても、それを冗談半分で信用しているというと何か微妙なニュアンスを感じていそうで、その種の技術に慣れてしまえば何でもないことになってしまうわけで、そうなるのが技術の普及と言える現象なのだから、それが驚くべきことでも皮肉るべきことでも嘲笑すべきことでもあるのだろうが、それに関連して現状でもかなり目立っているのが、イーロン・マスクが馬鹿で正義感が強いということであり、日本のホリエモンと比べるのが一番わかりやすいが、ホリエモンの方が利口でずる賢いのとは対照的にイーロン・マスクの方はどこまでも馬鹿で正義感が強く、その存在自体がAIとは真逆な人間なのであり、もちろんその正義というのも左翼的リベラル的な正義とも真逆なのかも知れないが、他の大勢の人たちがその馬鹿で正義感の強い人間について行くか敵対するかのどちらかの選択を迫られているわけでもなく、アメリカでは馬鹿で正義感が強い人間が通用して、日本では利口でずる賢い人間が通用するとも言い切れないし、立場や境遇や社会情勢の違いとも言い切れないが、AIによって否定されやすい人間というのがイーロン・マスク自身であることを自分では気づいていない可能性も高いが、AIによっては成し遂げられないことをイーロン自身が成し遂げようとしているのか、あるいは成し遂げることができずに失敗してしまうのかも今のところは定かではないにしても、日本という地政学的に制約の多い限られた条件下では馬鹿で正義感の強い人間は成功できないかというとそうでもなく、日本の中で馬鹿で正義感の強い代表的な人物を挙げるなら、真っ先に思い浮かぶのが山本太郎だろうし、当人も意識してそんなイメージ戦略なのかも知れないが、イーロン・マスクには山本太郎が被っているような地政学的地域的な制約や限界が一切ないわけではなく、イーロンもパレスチナを攻撃するイスラエルを非難して叩かれたから商売に支障をきたすことを恐れて慌てて反省してイスラエルを謝罪訪問したこともあっただろうし、それなりに制限や制約を受けながら活動しているとしても、馬鹿で正義感の強い人間に特有な雰囲気をまとっているから、それが大勢の人々を惹きつけてリーダーシップを発揮するためには欠かせない条件だとも言えなくもないが、そんな制限や制約を突破して何かやってくれるのではないかと期待されるわけで、それが日本でもアメリカでも出る杭は打たれる程度の叩かれ方はされるのだろうが、そんな仕打ちに怯むこともなく立ち向かいながらも、最終的には出過ぎてしまって叩きようがない程度の存在へと至れるわけでもないにしても、ホリエモンのように叩かれて折れ曲がった釘のような形状をとどめていようと、それでも構わないような社会状況なのだから、そんな状況を否定的に捉える必要もないのかも知れないが、何よりもAI技術を利用して何かを成し遂げようとしている人間が、AIとは相容れないキャラクターも持ち合わせていること自体が、何かAIの限界と人間の限界を肯定的な可能性と共に感じさせるという複雑で込み入った成り行きをもたらしていると現状を捉えたくなるのだから、それだけ現状の世界の捉えどころのなさも物語っている存在なのではないか。


6月11日「ひどい現状を無視すること」

 そうなってしまうことに関して何か引っかかるものを感じるのはいつものことだが、今回もそれで構わないようなことなのかも知れず、たとえ不条理な結果に終わろうと誰の知ったことでもないようなことになってしまうとしたら、その程度のこととして片づけられてしまってもいいのかと疑問を感じるわけでもなく、適当にしらばっくれてスルーしておけば済んでしまうようなことかも知れず、それがどんなに理不尽で不条理なことであっても、そうなるしかないのだとすれば、単純にひどい世の中だと思っていれば済んでしまうようなことかも知れないが、果たしてそれでは済まないことになるかならないかは、そこに暮らしている住民の意向次第であるなら、そもそも住民の意向というのが一つの結果に結びつくようなことなのか疑念を抱かざるを得ないが、利害が複雑に入り組んで錯綜している中でこれといって争点がないどころではなく、結果的にひどいことをやっている側を利するようなことにでもなれば、ますますひどい世の中になってしまうと思うかも知れないが、そんな思いと現実とが裏腹に作用するような結果がもたらされるなら、そんな結果を前にして唖然とするか呆然とするか、それとも何でもないことだと表面上は静観して淡々とやり過ごすかというと、多くの人々が何でもないことだと感じるわけでもないが、結果的に示される現実を前にして、それがどんなにひどい現実だろうと、それを前にして唖然とするわけでも呆然とするわけでもなく、ただ事実を淡々と受け止めるわけでもなく、できればスルーしてやり過ごすかも知れないが、それが世の中のひどさを物語っているわけでもないとしたら、物語らずに無視されるだけで、ひどい面を無視しないと成り立たないというと、何が成り立たないのかと問うなら、人を特定の傾向を伴って集団化しようとすれば、ある程度はひどい面に目を瞑らないと集団化できないだろうし、集団のひどい内情を物語ろうとすれば必ず横槍が入って、物語るのを妨害されると思っておけば納得できるわけでもないが、そうならざるを得ない事情があるから横槍が入るわけで、だからといって黙っているわけにもいかないだろうから、集団内のひどい内情をバラそうとするわけで、そこに注目してほしいからバラすのだが、そんな集団など世の中ではありふれた存在であり、どこでもひどい内情を抱えていて、それを隠すことに成功している限りで見栄えが良いというか、ただ単にうまく統治できているように見えるだけで、その集団に所属している誰もがそれを知っていながら部外者には黙っているわけだが、それが何かのきっかけから黙っているわけにはいかない事情も生じてくれば、その集団のひどい内情がバラされて一悶着起きるわけだろうが、それ以上の何があるわけでもなく、それ以下の何があるとしても大したことでもなく、集団化するとろくなことがない代わりに、集団内の上下関係や地位に応じて利益がもたらされる一方で、その利益と引き換えにして不幸や災禍がもたらされるとなると、何やらヤバそうな感じがするわけだが、その不快さに嫌気がさして嫌な世界に足を踏み入れたと後悔しても、すでに抜けられない事情を抱え込んでしまえばもう手遅れだと思ってあきらめるしかないが、あきらめたところで何がどうなるわけでもないから、何とかしようとしてそれなりに悪戦苦闘するかも知れないが、集団対個人となると当然集団の方が強いし、集団内で力をつけてトップや幹部にまで登り詰める頃には、すっかり集団と利害が一致する人間になっているだろうから、逆に改革しようとする者を弾圧する側に回っている可能性が高そうで、集団内で何かと異議を申し立てて歯向かってくる少数者を弾圧することによって、集団内の結束を固めて集団そのものの維持継続を図ろうとする傾向になっていると認識しておいた方が無難かも知れず、そういう傾向は自民党も共産党も一緒だと見ておいても構わないが、そういうひどい面も考慮に入れてもなお、世の中でそれなりに栄えているように見える有力な集団に所属していれば、集団の意向に従っている限りはそれなりの利益を享受できるだろうから、功利的な観点からすれば多少のひどい面が露わになっていても集団に所属している方が何かと有利なのかも知れないが、それでも何かを得られれば得られた見返りが何かしら課せられることは確かだろうし、そういった集団と個人との取引がどちらかというと個人の方に不利な条件が設定されている傾向もあるだろうから、それをどう判断するかが個人の側の裁量に任せられているとは言えない割合の方も大きそうで、そういうところで個人の側が気転を利かせて工夫を凝らしてうまく立ち回る必要性を感じられるか否かも、個人の力量が問われてくるところかも知れず、集団内で不平不満ばかりを仲間内の陰口として流通させるばかりでは集団にとっては人畜無害な範疇に含まれるかも知れないし、だからといってあからさまに個人のままで反旗を翻すのではなく、じわじわと周囲の人々と信頼関係を築いて行って、集団内の派閥のようなグループを組織するようなことも集団内ではありふれた成り行きには違いないが、それが利害を一致させることによって集まる以外にやりようがあるのかといっても、これといって取り立てて画期的な価値の変更や変革を成し遂げられるわけでもないと思うなら、人為的に集団の傾向を制御しようとするには限界がありそうだが、逆に人為的に制御しようとするから集団が大きくなるほど集団内に多数の派閥が乱立して、離合集散を伴いながら集団自体が形骸化してしまうのかも知れず、そうやって形骸化してしまえば分裂するのだろうし、それで構わないだろうが、逆に分裂せずにいつまでも維持しようとすれば腐敗してしまうだろうし、そういう自然な成り行きに従って行動して行けば、何かのきっかけから改革のチャンスも巡ってきて、改革に成功すれば集団内が活性化されるかも知れないが、個人が集団内でそういう成り行きに身をまかせて何かやれるとしてもたかが知れているのかも知れず、そうなったからといって集団内で安住しているわけには行かない理由や事情もそれなりに生じてくるから、個人という存在が世の中で活動できる余地も生じてくるわけだ。


6月10日「やらなければならないこと」

 人には誰にでも必ずやらなければならないことがあるわけでもなさそうだとは思うが、実際には呼吸をしていないと死んでしまうから、人は誰でも呼吸しなければならないといっても、生物としてそういう体の構造となっているわけだから、それが人としてやらなければならないことだとは言えないが、では人としてやらなければならないことは何かといっても、人それぞれにやらなければならないことが違うのではないかとすぐにそう思いたくなるが、そういうレベルではそれで構わないだろうが、それをやらなければならないことだと思うか思わないかも、その人次第な面もありそうな中で、それが何なのかといってもすぐには思いつかないような状況であれば、それほど切羽詰まった深刻な状況ではないと思いたいのだが、それに気づいていないだけなら、いずれはそれに気づいてそれをやらなければならないと思い込んでしまってから、それを実行すればいいことでしかなく、そうなった時にはもう手遅れかも知れないし、実際にイスラエルなどでは手遅れな事態となっているようだが、それでも構わないはずがないのは誰もが承知しているだろうが、だからといってやらなければならないことを怠って今に至っていることを後悔しているかというと、もうすでに手遅れな事態を招いている中では、誰もそうは思わないのかも知れないし、何が手遅れなのかも誰も気づいていないのかも知れないが、そうなっている中でもそれをやり過ぎていることは誰の目にも明らかとなっていて、そのことについては誰もが当事者を非難しているはずで、実際に世界中から非難されながらもやらざるを得ないところが、不条理に満ちた悲惨な結果をもたらしているわけで、ちょっと何かの歯車が狂えばそうなってしまうと結果から言えることだとしても、実際にそうなってみないことには言えないことでもあるから、そんな結果がもたらされると予想していたわけでもないが、事前にそうならないような成り行きへと持って行けるわけでもないこともわかっているとも思えないが、逆に事前には予想もつかない結果がもたらされた後からそう思われてしまうことだから、何事も手遅れになってからわかると思えば、そんなことを思ってみても意味も意義もないことだとはわかるだろうが、それでもそれが中東の限られた地域でしか起こり得ないことだとしても、ああいうことは起こらないようにしなければと思うだろうし、ああいう事態には発展しないようにしなければならないと思うなら、中東のあの地域で暮らしているわけではなくても何かやらなければならないことがありそうに思われるだろうし、それがただの漠然とした気持ちの持ちようとは違う具体的な何かだと指摘できるわけでもないが、実際に世界各地の暇そうに見える学生たちの間で反戦運動のようなムーブメントが自然発生的に起こったと事態を解釈してみても構わないはずだが、それも陰謀論者にしてみれば影で操っている黒幕的な存在を妄想してしまうのだろうが、そういう存在などいないということではなく、そうなった結果からそんな存在を妄想できるという範囲内で該当する存在を特定できる人も世の中にはいるかも知れないが、そんな人とは直接には無関係なところから考察するなら、そんな出来事を通して次第に人としてやらなければならないことを意識せざるを得なくなると、そういう成り行きからもっともらしく推測できるものの、依然としてはっきりしていないこともありそうで、果たしてそれをやるのが自分に課せられた使命なのかと誰に問いかけたいわけでもないが、やらなければならないこととして意識せざるを得ないのだから、それを使命だと思ってしまうのも自然な成り行きには違いないが、たぶんそういうことではなくそれがただ単にというわけでもないが、様々な紆余曲折や面倒な事情や経緯が自らに絡まってまとわりついてくる中で、何かの偶然のきっかけのような思いがけない出来事とか現象とかが起因して、結果的にそうなってしまうと自らがとらわれている状況を認識するしかないようなことなのかもしれず、さらにそれに関して自らがとらわれている状況をもっともらしく説明できるような理屈や論理や理論などがあるとそれも信じてみたくなってしまうのだが、それを頑なに狂信的に信じるほどのことでもない程度で心理状態を保てるかどうかが、そこから先へ向かう上でそれが決定的とは言えないまでも一応は踏まえておかなければならないことになるらしく、それを狂信的に信じているように見えてしまう人や団体が、他にも大勢いるらしい安易で浅はかに見えてしまう人たちを味方につけて、理性的かつ良心的に見える人たちに対抗して見るからに強引なことをやろうとするわけで、それがいつの間にか悪どくずる賢い人たちが利用する大衆的な世論も形成するから、そこに地域的な事情や経緯も絡んでくるとパレスチナの地で起こっているような取り返しのつかない事態をもたらすと解釈できるが、それも起こってしまう事態の程度にもよるが、ああはなっていない地域の方が圧倒的に多いと思いたいし、ああいう事態の中でも否定的な部分だけを強調したい人にとっては、世界のどこでも起こり得ることとして事態をより深刻に捉えたいわけだから、そういう人たちの主張を真に受けるなら、それにつられて深刻ぶったことを述べたくなってしまうわけだが、果たして人がやらなければならないことがああいうことだけに起因して生じてくるのかというと、それもたぶん人によってはそれなりに生じてくることでもあるだろうが、自分がやらなければならないと思っていることとは微妙にずれてくるというか、ああいう事態に関わるのを避けるための方便としてそれを利用したいのかも知れず、まだそれをやらなければならないと思い込むには至ってはおらず、半信半疑のまま惰性で生きているようなことの中から生じてくることかも知れないにしても、そうなってもまだ何かやらなければならないことがあるなら、現状ではその中の一つをやろうとしている最中なのかも知れない。


6月9日「公正なやり方」

 行政がやらなければならないことは公正でなければならないと思いたいが、公正とは何かというと、特定の人や団体を利するようなことをやってはならないという理由を持ち出してそれを説明できるかというと、すでに社会の中で不利な扱いや境遇となっている人や団体が存在するなら、積極的に行政がそういう人や団体を助けるための制度を設けたり法整備して優遇すべきなのだろうが、それを不公正だと糾弾するようなことをやるのが、そういう人や団体を実際に不当に差別したり迫害して社会の中で不利な立場へと追い込んでいる一般的には差別主義者と言われる人たちだが、そういう差別主義者をやっつけることによって正義の味方を装えるとしても、果たしてそんな正義の味方的な立場が社会の中で恒常的に成り立つかというと、成り立つとしてもそんなやり方だけでは主流派にも多数派にもなれないし、主流派からも多数派からも全面的な支持や賛同を得られないが、では主流派や多数派から支持や賛同を得られている勢力とはどんな勢力かというと、結果的には支持や賛同を得られていることになるだろうが、支持や賛同を得ることが主な目的ではなく、主流派や多数派を利用してあるいは客として取り込んで、商売を行うことが直接の目的になるなら、少なくともそういうことをやっている人や団体が正義の味方である必要はなく、ただの営利目的の企業であっても何の不都合も不思議もないだろうが、そういう営利目的の企業と行政が天下りや贈収賄などによって癒着しているとなると、そんな行政は著しく公正さを欠いていると言わざるを得ないが、もちろん差別主義者と言われる人たちがそんな行政や企業を糾弾するわけがなく、どちらかと言えばそんな差別主義者をやっつけようとしている人たちが、同じようにしてそんな行政や企業も糾弾するわけで、そうなってくれば敵対関係や協力関係がはっきりするだろうが、実際には単純にそうなっているわけではなく、差別主義者の側でもわかりやすい単純な差別主義者の他にもそうは見えない差別主義者とは言えないようなわかりにくい人たちまでいるわけで、中には単純な差別主義者を糾弾する差別主義者までいるわけだから、どういう基準で差別主義者とそうでない人たちを区別するかで、はっきりした納得できる基準を設定できないようなところで、何やらもっともらしい主張を持ち出してくる人までいるから、それらの人たちを差別主義者だと一概に決めつけること自体が逆に差別を助長していると主張して、差別主義者をやっつけると称して正義の味方を気取る人こそが逆説的な意味で差別主義者だと糾弾されてしまうかも知れないから、そんなふうに事態がこじれてくるところでは、あまり差別主義者であるかないかで正義の有無を判断するのは得策ではないことにもなりかねないが、他にも様々な価値基準やそれに基づいた判断がある中で、何を優先させればやっていることの公正さを保てるかとなると、やっていることに関わってくる人たちがそういうやり方に納得できるか否かということにもなってくるだろうが、それがずるいやり方とか悪どいやり方のように感じられるなら納得できないということになるはずだが、果たして誰もが納得できるような公正なやり方によって利益が得られるかというと、直接そこに関わっている関係者の間では誰もが納得できるとしても、直接関係のない部外者から見ると著しく公正さを欠いたやり方というのが談合的なやり方になるのは確かだろうが、放っておくとそういうやり方が横行してしまうのが行政の欠陥と言えるかどうかも、社会の中で民主的な価値観がどれほど行き渡っていて、そこに制度的な裏付けもあるかどうかがものを言うのかも知れず、そういうところからその地域を統治する行政の体質に応じた社会の成熟度が測られるというと、誰がそれを測っているわけでもなさそうだが、ただ漠然とその地域に暮らしている民衆の実感となって返ってくるだけかも知れないが、それもメディアがそういう実感を民衆に向けて返してくるようなら、そういうメディアは良心的なメディアだと言えそうだが、そういうメディア上で糾弾されるのが果たして特定の個人や企業に利益供与してその見返りを受ける政治家や官僚になるかというと、そんな不公正なことが横行している中では、そういうことを積極的に報道するのがメディアの使命であってほしいだろうが、それだけがメディアの使命ではないというなら、別に使命と言えるようなものがあろうとなかろうとメディアが成り立っている範囲内で、行政や癒着している企業や政治家や官僚がメディア上で糾弾される必要はないとは言えないにしても、不公正なやり方が社会の中で横行していようとそれが無視されても構わないかも知れないが、それによって不利益を被る人や団体などが当然の権利として裁判に訴えたり行政に対して不服を申し立てて、そういう成り行きをメディアが報道することになるならそれで構わないはずだが、それを意図的に無視して報道しないメディアがあるとすれば、そんなメディアの報道の仕方が不公正だと思われるだろうし、そういうことからそれが不公正だと感じられるやり方なら誰もが明らかになる限りでそれとすぐに気づくはずだが、それとは逆にそれが公正なやり方だと誰もが気づくかというと、不公正なやり方がメディア上で糾弾されれば、そうではないやり方であれば公正なやり方だと見なしても構わないかといっても、ただ単に世の中でまかり通っているやり方が果たして公正なのかどうかということについては、それほど意識できないのかも知れないし、とりあえず許容されているやり方の中には、時と場合によっては不快感をもたらしたり納得できなかったりするやり方も結構あるわけだが、それをどう判断するのかといっても、すぐにもっともらしい理屈や論理や理論を持ち出してきてやり方の公正さを強引に主張するのもちょっと違うような気がするわけだ。


6月8日「深入りしないこと」

 何も騒ぎや混乱のどさくさに紛れて悪さをしたいわけでもなければ、できればあからさまにいい人ぶったことを述べたいとも思わないだろうが、その場に絡んでくる誰もがただ淡々と情勢分析に励んでいるとも見えないなら、その人なりの意図や思惑を抱きながらも、何かしら戦略的かつ戦術的にその場の状況や情勢に合わせて適当なことを語っているのだろうが、それを適当だとは思えないしいい加減だとも感じられないなら何なのかというと、そんなことを述べている人の意識がその場の状況や情勢と共鳴している部分では、確かにその場の状況や情勢を反映したことを述べているはずだが、その一方でその場の状況や情勢とは関係なくその人の感情や思考に宿っている論理や理屈から導き出される解釈の方向性があって、それがどんな状況や情勢であってもその人にとって好都合な一定の結論に持って行こうとする意志に結びつきながら凝り固まっていると、都合の良い部分だけを拡大解釈したり誇張したり強調することにもなるだろうから、語っている内容がそれ相応に歪んでいる印象を受けるわけだが、事実を意図的に歪曲して伝えているのかというと、それなりにもっともらしく感じられる部分ではそうとは思えないわけで、そういう部分を信用してしまうと、それにつられて歪んでいる部分も真に受けてしまうからヤバいような気もするのだが、それとこれとを混同しない知性が求められているわけでもなく、そんなことを語っている人が意識しないで抱いている意図や思惑に従うふりを装うなら、もっともらしく感じられる部分が擬似餌であると同時に、それに引っかかってその人にとって好都合な拡大解釈している部分や誇張したり強調している部分に食いついて、それを信じて真に受けてほしいわけだから、そういう方面へと人心を誘導したいと想像できるし、それに引っかかるなと警鐘を鳴らしたい人も中にはいるだろうが、それも功利的な面を重視するなら素直に引っかかってしまっても構わないのかも知れず、しかもそれが引っかかったふりをしているとは思ってはいないとしても、結果的にそうなってしまうならなおのこと好都合なのかも知れないし、それが意図せずにひっかけようとしている側と引っかかってしまったのに結果的には引っかかったふりをしているだけとなってしまっている側の双方にとって好都合だとすれば、客観的にはどうなっているのかよくわからないだろうが、案外どちらにとってもそんなことはどうでもよくなってしまうのかも知れず、何かのついでにそうなっているだけのことであり、それほど重篤化も重症化もしない程度に済んでいることになるから、知らないうちにそれに対する免疫や耐性もついてくるから、すでに動じなくなっているわけで、その場の状況や情勢や成り行きが双方に対してそうなるように仕向けていると解釈できないこともなく、そうなってしまうことも含めてその場の状況や情勢や成り行きだと解釈するなら、それで構わないようなことなのかも知れないが、それでは納得できなくなると、さらに深入りして信仰の世界へと向かう人まで出てくるとしても、功利的な観点からすれば深入りしないに越したことはなく、そんな態度では大した利益は得られないにしても逆説的には功利的な観点に従っていて、結果的に大やけどしない程度で済んでいればそれで構わないようなことになってしまうのだが、それが戦略的かつ戦術的な効果をあげていることになるのかというと、戦略や戦術を意識しない状態を維持できればそうだと言えそうで、それもどちらかと言えば逆説的な態度にはなるだろうが、なぜそうなるのかと問うなら、すでにそんなことを仕掛けている人や団体のペースに巻き込まれているから、否応なくそうなってしまうというと、そこから逃れる術がないような成り行きが想像されてしまうが、逃れられなければできるだけ深入りせずに、ヤバくなったらいつでも逃げ出せる姿勢を保ちながら付き合って行くしかなく、彼らが操る擬似餌に引っかかったように振る舞うしかないわけで、その際には演技だと悟られないように立ち振る舞う技量が求められるにしても、努力してそんな技量が身につけられるわけでもないし、自然に身についた程度の技量で済むならそれに越したことはないわけだが、そういう面も含めて深刻な事態にならない範囲内で可能な演技になるが、本当にヤバくなったら付け焼きの演技など通用しないから、全力でそこから逃げ出さないと取り返しのつかない悲惨な結果となってしまうのかも知れないが、それもそうなるまでがそれなりに面倒でややこしい紆余曲折も伴ってくるから、大抵はそうなるには至らないうちにどうにかなってしまい、結果的には取り返しのつかない事態が回避されてしまう可能性も高いわけだが、だからいつも煮え切らない態度で中途半端な妥協を強いられるような結果へ落ち着いてしまうことも多いのかも知れないが、それが功利的な観点からすればはっきりした成功にも失敗にも至らないようなほどほどの程度に済ませて、現状の延長線上で自身の状態をとどめておくための秘訣だと言えなくもないにしても、それでは絶えず不満がつきまとってくるから、身の程知らずな誘惑にも絶えずつきまとわれて、それが何かのきっかけから感情が爆発して思いがけないところで暴走や逸脱などが突発的に起こってしまうと、その先にどういう事態が待ち受けているかは神のみぞ知るようなことにもなってくるだろうが、果たしてそんなことまで考慮に入れながら行動したり言動が伴ってくるわけでもないから、現状でそうはならない程度で済んでいるなら、それで構わない状況や情勢の中で生きていることになるのではないか。


6月7日「悪どさの限度」

 わざと世間の良識に逆らうようなことを述べたいわけではないが、それでも結果的には逆らって、世の中の広範な支持を得られないようなことを述べたいわけでもないのだが、それにしてはあからさまに悪どいことをやっているのがバレバレな人たちが広範な支持を得られている現状があると、そういう人たちを支持しているように見えてしまう大衆的な存在が馬鹿なのではないかと思ってしまい、それが勘違いの原因だとは思えないから、ますますそういう成り行きに対する疑念が深まってしまうのだが、それに対して安易にそういう悪どい人たちには騙されるなと警鐘を鳴らす行為も何の効果も得られないことが明白な現状でもあるから、客観的な状況証拠があるわけではないのだが、世間の一般大衆がメディアに洗脳されているわけでも騙されているわけでもなければ何なのかというと、まさに悪どい人の代名詞のような人が日本の総理大臣になったり東京都知事や大阪府知事になったりする成り行きを肯定的に受け止めることは不可能だとしても、逆に清廉潔白な正義の味方のような人がそういう役職に就いてしまうと困るような事情があるのではないかと間違った意味で穿った見方をするなら、それまでにやってきた数々の悪行三昧が世間の一般大衆から認められたからこそ、民主的な選挙を経てそういう役職に就けると解釈したくなってしまうのだが、もちろんいったんそういう役職に就いたからには、さらなる悪行三昧に精を出して良心的なジャーナリズムから苛烈な批判や非難を浴び続ける必要があると解釈しても構わないのかというと、それが間違った意味での穿った見方になってしまうかも知れないが、結果論的にはそうなっている理由を想像してみると、世間の良識的な価値基準から判断するならやっては行けないことを、いかにして多数派から支持や同意を得ながら、しかも良心的なジャーナリズムから苛烈な批判や非難を浴びせられながらもやり切ることができるかが試されていて、それをやり切れる人がそういう役職にはふさわしいと逆説的には見られていて、なぜそういうことをやらなければならないのかというと、それがディープステートの意向だとかの陰謀論的な理由とはそれなりに重なる部分もあるというと、さらに怪しげなことを述べるような成り行きにとらわれてしまうが、少なくとも政治と経済が連動している面では、良識に反するような悪どいことをやらないと利益を得られないという事情があるかも知れず、しかも悪どいことをやりながらも直接には罰せられないグレーゾーンにとどまっていなければならないような微妙な立ち位置を絶えず要求され続けるから、それを誰が要求しているわけでもないところが、それを要求しているのがディープステートだと言ってしまう陰謀論者とも、微妙に立場を異にしていることが求められているといっても、それも誰が求めているわけでもないのだろうが、彼らを影から操っているような黒幕的な存在を仮定してしまうと、途端にフィクションとなってしまうから、それだけ現実の世界の特性や特徴が陰謀論的なフィクションとは微妙に違っていると認識したいところだが、それについては何もはっきりした確証も根拠も提示できるわけでもないから、ただ世界の現状をそう受け止めているに過ぎないとしても、彼らも彼らなりに自分たちが占めている地位や役職に何が何でもしがみつきたいとは少しは意識しているどころか、それがありとあらゆる手を尽くして死守しているように見えてしまうにしても、その姿が見苦しいのは誰もがそう感じるところだが、それと共にそういう人たちを擁護するメディア関係者も見苦しいのだが、時としてそういう人たちが繰り出す嘘やデマや言いがかりや誹謗中傷などの否定的で攻撃的な言動の中身が、世間の一般大衆の本音とも重なる部分でもあるから、普通に世間を味方につけてそういう言動が繰り出されていると見ておくしかなく、もちろん同時にそういう世間から絶えず批判や非難を浴びせられているはずなのだが、その辺がどちらの面も同時並行して進行中だと事態を捉えるしかないが、それが今回の東京都知事選挙に立候補予定の蓮舫にもそれらの人たちと同じ匂いを嗅ぎ取っているのに、蓮舫がいかにも清廉潔白な正義の味方のような立ち位置も占めようとしているように見えてしまうから、世間の一般大衆の中の悪どい役割分担の人たちにとっては許せないと感じられる面でもあるのかも知れないが、それも間違った意味での穿った見方や成り行きの捉え方でもあるから、もっとビジネスライクにというか、否定的な感情を排して政策提言の類いや現職の都知事が何をやってきたかで判断すればいいことではあるにしても、一般の大衆がそういうことには一向に興味が向かない代わりに、いつもながらの嘘やデマや言いがかりや誹謗中傷の類いを聞いておもしろがっているようなら、いつもながらの結果に落ち着いてしまうような気がするものの、さすがに今回ばかりは馬鹿の一つ覚えでは済まないような情勢だとは思いたいのだが、それに関して何か危機感のような切羽詰まった感触にとらわれているわけでもないから、情勢を楽観視してしまいそうになっていて、そこに油断が潜んでいるといっても、いつものように投票に行くだけの存在でしかなく、どういう結果になろうと何でもないとは思わないが、そういう役職には悪どい人しか就けない現状を変えて欲しいとは思うにしても、別に見るからに清廉潔白で正義の味方のように見える人など現状の世の中には誰もいないとも思っていて、蓮舫という存在が感情的に許せないと思っている人も世の中にはいくらでもいるとは思うが、それもたぶんそう思っている人にとっての都合の良い結果になるのは何としても避けた方が良さそうな気はするわけだ。


6月6日「少子高齢化の効用」

 あえて巷で言われているのとは逆のことを述べたくなるのは、そんな気がするからといういい加減な理由からだが、例えば少子高齢化という現象が否定すべきことでも政治や行政への批判に利用されるべきことでもないとすれば何なのかというと、そんな世の中の傾向を肯定せざるを得ないと思うなら、肯定できる理由をあれこれと考えたくなってしまうわけだが、人が贅沢になったと思うなら世の中で蔓延しているらしい貧困を無視していることになるかというと、富裕と貧困が表裏一体の現象と捉えるなら、人が贅沢になったから少子高齢化が促進されたわけではなく、人の贅沢化と少子高齢化が一体となった現象として把握した方がしっくりくるかも知れず、それらが一体化して進行している中で政治的な目的となると、否定的に捉えられる少子化と貧困化だけ何とか解決したいわけだから、それでは虫のいい話になってしまうわけだが、一般の人たちが少子高齢化に対応しなければならないのはもちろんのこと、対応するだけではなく、少子高齢化を利用しなければならないというと老人を騙して資産をむしり取る行為を連想させるが、老人自身が少子高齢化を楽しまなければならないと言われる以前に楽しんでいる人もそれなりにいるだろうが、それが社会主義や共産主義なら、結婚して子供を産むのが大人の義務だと決めて、結婚や出産を人々に強要できるかも知れないが、そうするには政府による制度的なサポートが必要となってくるから、行政的に少子化を解決するには社会主義化や共産主義化が必要になってくるだろうが、現状の世界情勢から推測されることは、そういう傾向とは真逆へと進行中らしく、そういうのは政府のやることではないと責任を放棄した方が無難な気もするわけだが、それでは政治的な目的とは合致しないどころか、そういう姿勢が批判されてしまう傾向にあるから、例えば立憲民主党の政策的な傾向となると、それをマイルドな社会主義というと語弊があるだろうし、まだ政権を取ってもいないうちから立憲民主党の政策を批判するのはまずいし、意外と今後立憲民主党が政権を取ってそれなりにうまく行く可能性も高そうだから、批判するならそうなってから批判するしかないにしても、それも世界的な傾向なのかも知れないから、政治的にはマイルドな社会主義のような方向が目指されてはいるものの、果たしてそれが20世紀の社民主義に似ているのかというと、すでに社民主義自体が時代遅れとなっていて、もちろん20世紀の新自由主義も同じように時代遅れなのかも知れないが、世界の中で比較的平和な地域では少子高齢化と富裕化と貧困化が同時進行で進んで行く傾向に歯止めがかからないのかも知れず、政府がそれに対してそれなりに対処や対策を施すのも行政的な傾向としてはそうなるのも当然だろうが、それ以前に保守派の政治家の嘘やごまかしや詭弁やデマや煽動や誘導や脅し文句を受け流し過ぎているから、そういう苦し紛れの悪あがきに慣れてしまっていて、政治的にはどうにもならないことを多くの人々が悟っているのかも知れず、だから妥協的に導き出される選択肢として否応なく行政的な傾向としてマイルドな社会主義的な政策をとらざるを得ず、もちろんそれと同時に資本主義市場経済が機能していて、市場経済がもたらす弊害に嫌でも行政が対処することになるのだが、それがうまく行こうが行くまいが継続的に対処し続けることになるのだろうが、そうなっている限りでそれなりに世の中の平和が保たれるわけで、束の間の均衡が崩れると平和が戦争状態へと移行するのかも知れないが、とりあえずまだそうなっていない地域では束の間の均衡状態をできるだけ長引かせるように政府が焼け石に水的な政策や対策を施すと解釈しておけばいいか否かはよくわからないが、それなりに行政を制御しようとする政治家の欺瞞や偽善を一般の民衆も共有しているだろうから、あまりにも正義の味方のように振る舞うのもちょっと勘違いのような兆候を感じてしまうなら、許容できる限度を良識が許す範囲内にとどめようとするのも当然だが、それもたぶん行政的な強制力を伴って直接市場に働きかけたり少子化を改善しようとすると、一般の民衆からの反発を招いて失敗するだろうから、働きかけるならあくまでも間接的に働きかけるより方法がなく、それも回りくどくわかりにくいと民衆からの支持を得られないから、補助金や交付金などのあからさまに金で解決しようとする傾向もちょっと違うような気もするわけで、そういうところで微妙に政治的な思惑からも民衆の意識からもずれてくるやり方が求められているというと、誰もそんなことは求めていないと言われそうだが、結局は誰も求めていないようなそれと気づかれないようなやり方でやらないとうまく行かないというか、必ずしもうまく行かなくても構わないなら、いったい何の思惑があってこんな意味や意図のよくわからないことを述べているのか自分でもわからなくなるが、それとは逆にわかりやすく単刀直入なことを主張するなら山本太郎やれいわの政治家たちが主張するようなことを述べればいいわけで、それではまずいとも思えないだけに、その辺も自分でもよくわからないのだが、ただ単に彼らとは立場が違うというと身も蓋もなく、さらに意味不明になってきてしまうから、なるべくそういうことは言わないように配慮したいのだが、それでも自らの置かれた状況を見誤りながらも何か適当でいい加減なことを述べる必要に迫られていると勘違いしているなら、結果的にそうはならないかも知れないが、要するにさらに少子高齢化を助長するようなことをそれに反対する人々を押し切ってやらなければならないのかも知れず、それが逆説的に問題の解決をもたらすとは思えないところが微妙に肯定し難いのだが、それでも人々の生き方や暮らし方の自由を最大限にもたらすように配慮しなければならないとは思っているわけだ。


6月5日「迷走する原因」

 迷走というと何が迷走しているのかはわかっているつもりだが、迷走せざるを得ない成り行きなのだから、仕方がないのかも知れないし、迷走していると批判するのも、批判になっていないような気がするわけでもないが、そもそもデマを言いふらすことしかできない人たちなのだから、まともな中身が伴っておらず、そんな人たちを支持している人たちも頭がおかしいと言わざるを得ないとしら、彼らの自業自得なのだから、迷走しているのも当然の成り行きだと思うだけで、それ以上に何がどうなっているわけでもないのだが、そういう意味では迷走していることについては何の問題もないと認識しておいても構わないのかというと、中にはそんな迷走状態を批判する物好きな人もいるらしく、そんな物好きな人を支持するわけにも行かない理由があるわけでも、どちらを批判するとかどちらの味方にもなれないわけではなく、どちらかといえば迷走している人たちとは距離を置いて、それを批判する人たちとも距離を置いて、では何を言いたいわけでもないのかというとそうでもなく、できれば迷走している原因を指摘したいのだが、その原因が迷走している人たちにはないとは言えないだろうが、他に原因があるかというと、それらの人たちを迷走させている成り行きがありそうで、彼らが迷走せざるを得ないような成り行きになっているのはどういうわけなのかといえば、他の誰が彼らを操作しているわけでも導いているわけでもないとすれば、彼らがそうなるように仕向けているのは誰でもなく、彼らが勝手にそうなっているに過ぎないと見ておいても構わないが、彼らがそうなるように材料やきっかけを提供している人たちも他にいるかも知れないと思うなら、当然それが彼らがデマを言いふらす対象となる人や団体だと思っておけばいいことになるだろうが、たぶんそれが日本だけでなく、世界的にそうなろうとしている傾向の中に身を置いている人や団体なのかも知れず、しかもそれらの人や団体も彼らと同じような傾向も持ち合わせているから、というかまるで近親憎悪のようにいがみ合う兄弟のような存在だとも言えるわけで、どちらにもそれなりに批判できる面があるからどっちもどっちというわけではなく、それもどちらかというと世界的にそうなろうとする傾向に導かれている側の方に分があるから、そちらの方が有利というか、そもそも有利不利という情勢判断が歴史的な時間経過に従って次第にそちらの方へと有利さの度合いが増加傾向にあると現状を捉えておくのが無難かも知れないが、なぜそうなって行くのかというと、現状で不利に傾いている側が苦し紛れに繰り出すデマや嘘の類いが次第に世の中で通用しなくなりつつあると認識できそうで、その程度のことなら簡単に理解できるのだが、そうしたデマや嘘や言いがかりの類いをスルーしながら彼らを許容して受け入れてきた人々の立場というのも、現状が変わりつつある成り行きの中では次第に形骸化しつつあることを世の中のどれほどの割合の人が理解しているかというと、まだほとんどの人たちが理解していないどころか、理解しなくても構わないような心理状態になっている可能性もあるから、そういう面まで考慮に入れるなら、世界的にそうなろうとしている傾向に導かれている人たちの方が有利だとは言い難いかも知れず、そんな現状の中で次第に不利になろうとしている側の人たちがそういう成り行きの中で激しく抵抗しているのかというとそうでもなく、特に目立って激しい抵抗活動が繰り広げられているわけでもなく、それもどちらかというと無駄で無意味な悪あがきの類いだと楽観したくなるのだが、油断は禁物で、別に誰が油断しているわけでもないのだが、次第に有利になろうとしている人たちがやろうとしていることも、現状の世の中では必ずしもうまく行くわけでもないと予想されるから楽観できないどころか、お先真っ暗というわけでもないにしても、それなりにひどい結果を招くことも想定しておかなければならないとは思うが、それも別に覚悟ができているわけでもないから、うまく行かなければ落胆すればいいのかも知れないが、そうなってからそら見たことかと言い放つ人もいくらでも現れるだろうが、そんなことをこれ見よがしに言い放ってしまう人たちもうまく行く方法を知っているわけでもないから、お互い様だと思うしかないにしても、たぶんそれで構わないわけで、現状の成り行き自体がそれで構わないような成り行きになりつつあるわけで、そうなる方向に沿ったことをやって行けばそれで構わないようなうまく行かない結果がもたらされて多くの人々の落胆をもたらすのかも知れず、そういう経過の中で今も多くの人々がうまく立ち回ろうとして、あれやこれやと試行錯誤の最中にあるから、それを高みの見物するような立場などあり得ないし、誰もがうまく行かない成り行きにとらわれながらも、各々がそれなりの生活や活動に心身を費やしているわけで、それがうまく行かないから迷走と見えてしまうとしても、その全てを否定的に捉える必要もないのかも知れず、大抵は誤解に基づいているから、それを二者択一問題だと誤解していると思っておけばよく、例えばそれが保守と革新のどちらを選ぶとかハードウェアとソフトウェアのどちらを選ぶとか、両者が混ざり合っていることを考慮できない人が一方を強調する傾向となってしまって、結果的に選べないものを選んだつもりになるから誤解が生じるわけで、それに関して最近のわかりやすい事例を持ち出すなら、トヨタとテスラが同じ土俵の上で競争していると誤解している人がとらわれている傾向というのが、保守的でハードウェアな方面を強調する傾向にあるわけだが、それが彼らの頭の中では二者択一問題を構成しているから結果的に誤った方向へと他の多くの人々を誘導するような成り行きをもたらしているわけだ。


6月4日「転換点という安易さ」

 何かそれらしいことを語るきっかけを求めて、現状が何かの転換点に差し掛かっているらしいと指摘するのも毎度のことのようにも思われて、それが何の転換点なのかがわからないわけではないところもいい加減な指摘に結びつきそうで、何でもいいなら転換点でも何でもないことになってしまうが、結果的に何かそれらしいことを指摘できるならそれでも構わないようなことだとしても、無理やりそう思い込むのもちょっと違うような気もしてくるから、まずはそれが何の転換点なのかを明らかにしなければならないとは思うのだが、それも安易に政治の転換点なのか経済の転換点なのかがわからないというわけでもなく、結局それもどちらの転換点にもなるから、それも安易な指摘になるのもわかりきったことだが、実際には転換点でも何でもなく、政治も経済もこれまでの延長上で物事が動いているに過ぎないし、そこに転換点という気休めを持ち込んで、何かそれらしいことを述べたい気持ちもわからないではないが、果たしてそういう安易な発想を戒める必要があるかというと、その必要もないのに戒めるようなことでもなく、では戒めない方がいいかというと、戒めるというよりは咎めるというわけでもないとすれば何なのかと問われてもよくわからないようなことなのかも知れず、少なくとも今が転換点だと思い込まないと積極的に動けないなら、それが焦っている証拠かも知れないが、状況を無視して恣意的に転換点を定めるのもおかしいなら、何かはっきりそれとわかる根拠がほしいわけだが、それがわかったら苦労はしないし、誰もがわかるような兆候があるとすれば、すでに誰もが動いているはずで、誰もが動いていることがその兆候だと思うなら、すでにその時点で出遅れているわけだが、誰もそれを察知していない時点で動き出さなければならないなら、実際に他の誰よりも先んじて動き出そうものなら、それ自体がフライングでしかなく、ただの勘違いに過ぎなかったことが後からわかるかも知れないが、それでもその場でまかり通っているらしい理屈や論理や理論の類いを無視するわけにも行かないから、それらを念頭に置いて理由づけや裏づけが後付け的に可能な範囲内で動くしかないだろうから、何やら多くの人や団体がその場の成り行きにとらわれながら動いている中で、そういう成り行きの裏をかくとか、それらの人や団体を出し抜くとか、やろうとしているのがそんなことでしかないなら、それも何やら志が低すぎるような感じがしないでもなく、もっと何か自己犠牲的な姿勢や態度で世のために人のためにしてやれることがあるはずだと思いたいわけでもなく、それが自己中心的で傲慢な思い込みだと逆説的に理解したいわけでもないし、自然と心理的にも経済的にもその場の成り行き的にも、そういうことをやろうとしてしまう人や団体が登場してくるような理屈や論理や理論が状況的にも時代的にも語られるような雰囲気や兆候を感じとっているわけでもないのだが、もっと浅はかで思慮が足りないことについては、いつものように批判しやすい傾向の範囲内では批判されているにしても、果たしてそれで間に合っているのかというと、たぶんそうではないとは思いたいのだが、実際には間に合っていて、他に何が批判されているわけでもなく、誰もがわかりやすい範囲内でわかりやすい批判がまかり通っているのだから、それで構わないと思うしかなく、何もそこで事を荒立てる必要も感じないし、そういう方面ではそれで構わないことにしておきたいのだが、では本当に今が何かの転換点であるなら、今後それではまかり通らないことになるのかというと、そんなことは現時点でわかるはずもないが、たぶん今後はそれでは通用しないような状況へと持って行きたいと誰かが考えているわけではないとしても、自然とそうなってしまうようなら、そうなってしまった時点から振り返れば、今がまさに転換点だったことが後からわかるような結果になると今ここで予想したいわけだが、誰もそんなふうには持って行けないところで、それも自然の成り行きでそうなってしまうとすれば、そこに介入してくる人や団体がそうなるように状況を持って行こうとしているのとは、ちょっとずれた感じでそうなってしまうと思っておいても構わないだろうが、そのそうなってしまう結果というのが、そこに介入してくる人や団体の意図や思惑や意向とはちょっと違う感じになってしまうところが現状からは予想も予測もできない結果なのかも知れず、要するに誰もが予想も予測も予言もしなかったような思いがけない結果がもたらされることを期待してしまうのだが、そんな期待も外れるような結果がもたらされるとすれば、それが現状の延長線上でもたらされる結果であり、何やらそれがありふれたつまらない結果だと思ってがっかりしてしまうと、それがなぜか思い違いの勘違いであるかも知れず、そこから微妙にずれていて、そうではない傾向があることに気づけないわけで、それが今も誰も気づいていない現状の傾向だというなら、何となく納得できないような気もしてくるが、誰もがそこで安心して気を抜いたところで突然の予期せぬ状況の急変や激変や成り行きのどんでん返しが起こると予想できるわけでもないが、それを期待している時には起こらず、忘れた頃に何の前触れもなく起こるから驚き唖然とするわけだが、そうなることを期待すると期待外れに終わってしまうから、そんなことは期待しないで、あくまでも現状の延長上で起こりそうなことを予想したり予測しておけば、そんな予想や予測から微妙に外れて、外れたことの言い訳もそれなりにもっともらしく思えるような結果がもたらされたと思っていれば、気づかないところで別の何かが起こっていて、それが思いがけず忘れた頃に意外と深刻な作用や影響を世の中に及ぼしてくるわけだ。


6月3日「臆病風に吹かれて」

 マジックの種明かしというと、なるほどと思う反面、仕組みや動作がわかってしまうとちょっとがっかりするような反応を想像してしまうが、それと同じことだとは思えないにしても、これ見よがしにネタばらしをする人が得意になっている心理状態もちょっと嫌味な感じがしないでもなく、その場の状況やそれをやる事情やそこに至る経緯にもよるだろうが、その手の行為を嬉々としてやってみせる人には謙虚さが欠けているような気がするのだが、それに関連して何か気になったことを思い出そうとして、いつものようにもう少しというところで思い出せなくて焦ったくなりながらも、そこから思考の方向を変えて、嫌味な人とは違う傾向の何かを語ろうとしているのかも知れず、それもいつものように何を述べているのか述べている途中の段階では意図がよくわからないから、何を意図して述べているいるわけでもないのかも知れないが、そこで気になったことというのが、現実に起こっていることがフィクションの中で語られていることに先行しているのは当然と言えば当然で、それがフィクションの種明かしやネタばらしに結びついても何の不思議もないわけだが、どんなにフィクションの中で荒唐無稽なことが語られていても、そんなフィクションを思いつくに至った原因となる現実の出来事が特定されれば、興醒めとなるわけでもないにしても、なるほどと思う反面、ちょっとがっかりするような気分となるかならないかは、そのネタばらしの内容にもよるだろうが、逆にこれ見よがしとは感じられないような現実に起こったちょっとした出来事の方が興味深く感じられるかも知れず、そこからデコレーションケーキのようにして大げさな嘘をてんこ盛りにして構成されたフィクションの荒唐無稽さが際立たせる作者の誇大妄想が、結構ありふれた陰謀論を連想させるようなら、張子の虎というか、かえってみすぼらしい印象を伴ってくるかも知れないが、しかもそれを利用して人々の関心を物事の本質から遠ざけるような意図が感じられるとしたら、その物事とは何なのかについて興味が向いてくるが、そこに興味や関心を向けさせたい側としては、それによって世の中の常識をひっくり返したいと意図するようなことかも知れないが、どうしてもそれが何なのかがよくわからないわけで、そこに示されている物事をそれとして認識できないとしたら、なぜそうなってしまうのかについても説明しなければならなくなるかも知れないし、その説明が嘘っぽく思われるなら、それ自体を信用していないことになってしまうが、そんな不信感を抱かせるような物事とは何なのかというところで疑念が募ってきて、どうしてもそこから先へと一歩が踏み出せないわけだが、自分がその先へと向かうのを躊躇しているとしても、そんな臆病風に吹かれて引っ込み思案の自分とは違って、その先へと踏み込んでしまった人が今後どうなるかにも興味があるから、否応なく関心がそこへと向かってしまうわけだが、それがそんなに大げさなことかと言えばそうでもないようにも思われてくるから、何がそうでもないのかというと、実際に多くの人々がそうなってしまっていることで、そうなったからといって取り立てて何がどうなったわけでもないようにも思われるから、そうなってしまった人々を悪く言う気にはなれないし、逆にそうなるのを躊躇している自分の方がまずいのではないかとも思われるから、なぜ自分がそうなれないのかについては原因も理由もわかっているつもりだが、そんなことよりは優先すべきことがあるというと、そうなってしまった人々を馬鹿にしていることになるかというとそうでもなく、人それぞれでやるべきことが異なるといっても、やるべきことをやらない理由もそれを躊躇する原因も違うのも確かだが、やろうとしているのになぜかそれをやるのを思いとどまっている分だけ、そこから一歩も先へと進めないと思っているのが勘違いであるなら、たぶんそれとは別の方向へと向かっていることに気づかないのかも知れず、気づいてしまうと向かうのをためらってしまうから、わざと気づかないようにしているわけではなく、むしろ一刻も早くそれに気づきたいのに、一向に気づかないのはどういうわけなのかというと、意外と他の多くの人々もそれに気づいていないのかも知れず、気づいていないからこそ、多くの人々がそこから先へと踏み込んでしまって、まさか踏み込んだところが入ったら最後抜け出すことができない底なし沼というわけでもないはずだが、とりあえず自分は頭の中で警告音が鳴り響いているから、そこから先に踏み込むのを躊躇せざるを得ないわけで、それが何に気づいているのか自分ではよくわからないとしても、そこで自分の勘を信じてしまい、実際にその先へと踏み込むことを躊躇しているわけだが、果たしてこのままでも構わないのかというと、たぶんその時期が来たらその機会を捉えて直接の行動に出るような気もするわけで、それが今ではないのかと絶えず自らに問いただしているわけでもないが、そうなれば自然に動き出すような気がするから、今はその時が来るのを待っていればいいような気もして、それが勘違いである可能性も高そうで、本当に臆病風に吹かれてその機会を逃しているのかも知れないし、そうかといってそれほど焦っているわけでもないというのも嘘には違いないのだが、そんなことを思っているわけではなくても、気がつかないところで心身が何かに反応して、それなりの行動が伴っているから今の状態があるような気もするだろうし、そういう面では極めて順調に事が運んでいると思っておけばいいような状況なのかも知れないが、それも実際にそうなってみないことにはよくわからないわけだ。


6月2日「血迷った実感」

 単純に世間で信じられているらしいことをそのまま肯定してみたり、あるいは逆説的に皮肉な結果がもたらされるのを否定的に捉えてみたりしても、本当のところはよくわかっていないのだが、たぶん何となく確率的にそうなってしまう可能性が高そうに感じられるから、それが確からしいとしか思えないようなことなのに、それに基づいてそうだと断言してしまうと、何かそれが違うような感じがしてしまうのだが、そうだと断言してしまって後には引けなくなってしまう成り行きもありそうで、そうなってからしまったと悔やんでも後の祭りで、後悔先に立たずな結果を招いてしまうから、それが何かの罠なのではないかと、あくまでも不用意な断言をしてしまった自分は悪くないと言い訳したくなってしまうのかも知れないが、何を断言してしまったのかといっても、今さらそれがわからないでは話にならないが、ごまかしようのないことを不用意に言い放つのはまずいと思うが、そういう不用意な断言をしそうなのが蓮舫という人に絡みついて離れない世間的なイメージなのかも知れないし、だからといって蓮舫が馬鹿なのかというと、蓮舫の取り巻きやブレーンや神輿に担いでいる人たちの中にもそれなりに知恵者の助言者がいるかも知れないし、人望がないわけではないだろうし、蓮舫本人も過去に犯した過ちからそれなりに学んでいるだろうから、そうやって上から目線で蓮舫を軽く見るのもちょっと違うような気がしてしまうのだが、そういうことよりは誰が都知事になったところで、それなりにやれることとやれないことがあって、それは石原慎太郎にも猪瀬直樹にも小池百合子にも同じようにやれることとやれないことがあったのだろうが、その延長上で蓮舫のやれることとやれないことが他の保守的な支持層をバックにつけて知事職を勤めてきた人たちや官僚あがりの秀才馬鹿たちとは違うのかというと、少なくとも蓮舫を支持している人たちはそれらの人たちとは違うことができると期待しているだろうし、蓮舫自身もそういうことをやろうとするだろうから、何かと軋轢が生じることは目に見えているが、それが蓮舫が知事になっただけではそうなることが目に見えているとしても、政権交代も同時進行で起これば、だいぶ世の中の状況が変わる可能性が出てきそうに思われるだろうし、そうなることも期待して多くの人々が蓮舫を支持するのだろうが、もちろんそれでも大多数の有権者は投票にも行かないだろうし、表向きは無関心を装うことも目に見えているだろうが、その程度のことと言ってしまうと、他の個々の市民が関心を持っていることもその程度のことに過ぎないわけで、だからといって選挙を無視するわけにも行かないし、それよりは蓮舫が知事になっては困る人たちの嫌がらせのいちゃもんつけに過敏に反応して、それらの人たちを罵倒したくなってしまうから、そんな成り行きにとらわれてしまう自らを愚かだと思う反面、今はその程度の愚かさに塗れていても構わないとも思ってしまうのだから、なぜそう思ってしまうのかもよくわかっていないのではなく、わかってはいるがそれを言わない方が無難なような気もするから、それを言語化するのはこれから起こるだろうことが一通り起こって様々な物事が一段落ついてからでもいいような感じなのかも知れず、そんな一連の過程の中で今起こっていることもその出来事の一部として進行中だと思うしかなく、だから取り立てて蓮舫がどうだとか言いたいわけでもないのだが、それを肯定も否定もしたくはない代わりに、それに関連して何が起こるかに関心がないわけでもないが、もうすでに起こりつつあることとしてそれが起こっている最中だから、それに関心を持っているのかも知れず、それもうまく言語化できないようなことであるから、無理にそれについて述べようとすれば、否応なく的外れなことを述べてしまうかも知れないし、それでも構わないのかも知れず、そうならざるを得ないこととして適当に勘違いなことを述べるなら、ネトウヨや統一教会をはじめとするクズでゴミな人たちが世の中から一掃されて、世界が良心的な左翼やリベラル一色に塗りつぶされるわけではないが、それを左翼だともリベラルだとも思わない人たちが主流な層を構成するような世の中が到来しかかっていると言えるのかも知れず、では現状で主流な層を構成している保守的な傾向の人たちがどうなるのかというと、すでに跡形もなく消失しつつある最中だと認識できるかというと、誰もそうは思っていないだろうしメディア上でも相変わらず保守派が幅を利かせているように装われているのだろうが、それが装われているとも思っていない人たちが世の中の多数派を構成しているようにも感じられるだろうし、そう感じられること自体が意識の空洞化に気づいていない証拠であり、もちろん空洞化しているのはそれらの人たちの意識であると共に、それらの人たちの生活そのものでもあるから、そんな生活に十分に慣らされているから何とも感じないのだが、たぶんそれが二千二十年代から顕著になったことでもあり、世界的な流行現象の中でそんな傾向が顕著になっているのに、それに気づかせないように、どちらかと言えばそちらの方へと大半の人々の関心が集中する成り行きになったからこそ気づかないような都合の良い結果をもたらしたのかも知れず、だからそのおかげでネトウヨや統一教会のアホな野望や目論見が脆くも崩れ去ったと見るのもまだ早計だが、果たして本当にこれから左翼やリベラルの天下になるかというと、まだ誰も信じないし、本当にこれからそうなっても誰も信じないだろうが、それを信じさせないようにしているのが蓮舫如きに目くじらを立てるメディアやそこに登場するクズでゴミな人たちの馬鹿さ加減や頭の悪さだと言い放つ勇気も愚かさも持ち合わせていないが、そんな気がしてしまうのも一時的な気の迷いが招いた自らの無神経さだとも思えないわけだ。


6月1日「資本主義と経済成長」

 それについて現状でわかっていることが自分にどう絡んでくるとも思えないなら、自分が当事者ではなく第三者的な立場になっているのかというと、何をわかっているかにもよるだろうが、少なくとも自分がその件については当事者ではないとしたら、もしかしたら第三者的な立場でもないのかも知れず、それでも何を傍観しているとも思えないし、少しはそれについて言及しているのだから、ちょっとだけ関わりがありそうな気もするのだが、当事者でも第三者でもなければ傍観者でも野次馬でもないのかも知れないし、無関係なのにそれについて語るのかというと、たぶんそれについては語らずに他の何かについて語っているのであり、それが資本主義だとか経済成長だとかとは無関係なら、では何についてちょっとだけ語っているのかというと、例えば人の心理状態について語っているとしたら、それがちょっとだけ気になるから何となく語っているつもりなら、それとこれとを強引に結びつけようとすれば、例えばAI機能を伴った人の心理状態を読むような会話システムがあると想像して、果たしてそれがどうやって経済成長をもたらすのかと問うなら、何やら荒唐無稽なことを妄想しているような気もするわけで、それだけでは何の経済効果も期待できず、もちろんそれだけでは効果が期待できないから、わざわざAI機能がどうたらこうたらと詐欺的な人を騙すようなことを述べようとしているのかも知れず、それが経済成長とどう関係してくるのかといっても、それが売買や貸借などの経済活動に結びついてくれば、結果的に経済成長をもたらすかも知れないし、果たしてそれらの経済活動が活発化する必要があるのかといっても、他人が何を買おうが売ろうが貸そうが借りようが、そんなことにはそれほど関心がないというか、それが自分に直接関係してくることなら、嫌でも場合によっては関心を向けざるを得ないだろうが、たぶん人の事情や経緯が許す限りで必要に応じて経済行為や経済活動が行われればいいことであって、経済成長そのものが必要というわけではなく、結果的に経済活動が活発化して経済成長がもたらされるならそれでも構わないだろうが、必要もないのに人為的に経済成長を促すようなことをやらざるを得ないのかといっても、それは本末転倒のようなことなのかも知れず、だとしても政治宣伝としては人気取り目的でそんな構想をぶち上げてみたりしながら、何かやっているように装わざるを得ないだろうから、そういうところを見透かされている面もありそうなのだが、では本当のところは何をやればいいのかといっても、そこに参加する人や団体が納得できるようなルールを設けて、そんなルールから逸脱することをやっている人や団体を取り締まればいいだけのような気がするのだが、それも言うのは簡単で、ルールを設けるのもルールを破った人や団体を取り締まるのは簡単ではないわけだから、そういうことをちゃんと実行できるかどうかで良し悪しを判断してほしいわけで、政治や行政などができるのはその程度のことだと思うが、それも政治宣伝がしたい側としてはできないことまでできるかのようなことを言わないと宣伝にならないわけだから、あることないこと織り交ぜて勝手にできるかのように宣伝するだろうが、確か十年近く前にピケティが自著の中で述べていたことを思い出すなら、資本主義経済が進展して行って成熟するにつれて、国民総生産などの経済成長から得られる収入よりも、利子や家賃や株配当などの金融的な収入の方が上回ってしまい、そこに資本主義経済の限界があるというようなことを述べていたような気がするのだが、それに関してはアメリカなどは勝手に移民が流入してきてしまうから、それによって持続的な経済成長が実現するような皮肉な結果がもたらされている一方で、そうやってアメリカに人口を奪われ続けるグローバルサウスの国々では、なかなか貧困から抜け出せないような不条理に直面することになるのだろうが、それらの貧困国が絶えず移民を出す政情不安の原因が何かと言えば、民主主義が根付かないことにあると同時に、資本主義経済が汚職の蔓延や貧富の格差をもたらすから、そうなるのも当然の事態なのだろうが、では日本の現状はどうなっているのかといえば、移民の流入が少ないから人口減が続いていて、資本主義経済も成熟しているから経済成長から得られる収入よりも金融的な収入の方が上回っているのかというと、その辺の詳しいところはよくわからないのだが、政府が新NISAなどを活用して投資を煽っている方面では、金融的な収入を得ようとするように仕向けていることは確かなのかも知れないが、実際に一般の民衆が株式投資などによって収入を得られるかというと、持続的に右肩上がりに株価が上がって行けば得られないこともないのだろうが、少なくとも投資するだけの資金がない人には無理なことかも知れないし、借金をしてまで投資しなければならないかというと、大抵は破滅や破産が待ち受けているのかも知れないし、その辺のところも今ひとつ政府の煽り立てを信用できない人も多いかも知れないが、そういう意味では無理をしてまでやらなくてもいいことの部類に入ると思っておけばいいようなことでしかないし、狙って経済成長を目指したり少子高齢化を食い止めるために何やら無駄な悪あがきのようなこともやるしかないのだろうが、やっていることの大半は人気取りの政治宣伝の一環に過ぎないと思っておいても差し支えなく、実効性の不確かなことしかできないと政治や行政の限界を織り込んでおけばいいことかも知れないが、その一方で最低限の選択肢としては金権腐敗政治をなくそうと努力する勢力に選挙の際には投票しておくのも無難なところなのかも知れない。