彼の声163

2024年

6月19日「狂った世の中」

 わざとそういう構図を作っているとも思えないが、それらの勢力に加担している人々に自分たちが滅びるかも知れないという自覚があるかというと、状況的にないとは言えないはずだが、表面上はそうでもないのかも知れず、その証拠に態度が妙に自信に満ちていて何か虚勢を張っているように見えるとしても、たぶん本気なのかも知れず、何が本気なのかというと、勝つ自信があるから傲岸不遜な態度でいられると見ても構わないのかも知れず、何に勝つつもりなのかも状況的にはわかりきっていることだが、その手の人たちにはそんな態度がお似合いなのであり、勝つ前からいきりたって威張り腐っているような人々なのだから、誠実さや良心のかけらもないように見えてしまうわけだが、そういう人たちを相手にして戦うわけだから、戦う前から勝利を確信できるわけでもなく、逆に今までがそんな人たちを支持してきた人々が世の中の多数派を占めていたと言っても過言ではない状況だったわけで、今もそんな狂った状況下だと思っている人もいくらでもいるかも知れないし、そういったキチガイ系の人たちが威張っている時代が今も続いているのだが、それが普通だと感じている人も多いのかも知れず、キチガイ系の人たちが本物のキチガイだとは思わないだろうし、キチガイを演じている自覚もないだろうから、彼らはキチガイではなく、キチガイでなければ何なのかというと、それ以外に名付けようのない人たちなのかも知れないが、何かの囮と見るならそう見えないこともなく、それが何の囮なのかといえば何かをおびき寄せるための囮であるから囮に見えるのだが、たぶんこれからおびき寄せられて現れる何かがわかるのかも知れず、何がおびき寄せられるかはそれが現れた時のお楽しみなのかも知れないが、実際におびき寄せられてくるまでわからないから、その時がくるのを待つしかなく、今はそれが現れるのを待っている最中だから、キチガイたちの横行を多くの人たちが許しているわけで、いつまで許しているのかというと、キチガイ役の囮たちの奮闘が功を奏して何かがおびき寄せられてくるまで許していることになりそうだが、これからおびき寄せられてくる何かによってキチガイどもが一掃されてしまうことも期待されているのかも知れず、今まさにその機会が巡ってきていることを示す兆候が現れているから、キチガイどもの圧政に苦しんできた人々も巡ってきた千載一遇のチャンスをものにすべく奮闘している最中なのかも知れないし、果たしてそのがんばりが実を結ぶかどうかの瀬戸際まできていると現状を捉えても構わないかというと、本当に今が何かの瀬戸際かどうかも半信半疑なのかも知れず、ここで踏ん張らないと状況がさらにひどくなって、取り返しのつかない深刻な事態となってしまうかといっても、すでに何度もそんな事態となってきたのだから、もうとっくに取り返しのつかない深刻な事態となっている可能性もなきしもあらずで、しかも取り返しのつかない事態となっているからこそキチガイどもの横行を許していることになっていると事態を解釈するなら、それなりにしっくりくるかも知れず、そんな状況だからこそキチガイどもが威張っていられるわけだが、果たして本当にそうなのかというと、そう思っている人にとっては確かにそうなのかも知れないが、そうは思っていなくてもそうなっていることに気づいていないだけかというと、意外とそれとは別の面では何でもないようなことなのかも知れず、それは今までもそうであってこれからもそうなのだろうから、そう感じていること自体が自分もキチガイどもの仲間だからそう感じている可能性も捨てきれないが、来るべき何かに呼応してそうなっていると考えるなら、もうすでにキチガイになってしまった人たちには関係のないことかも知れず、もう手遅れで後戻りができないからキチガイとして振る舞うしかなく、まだキチガイになっていない人に限って未来への可能性が残されているとしたら、その可能性とは何なのかというと、これからやってくる真っ当な世の中で暮らして行ける可能性だと言えるかどうかも、実際にそんな世の中になってみないことにはよくわからないだろうが、そうではないとしたらこの先も延々とキチガイどもが威張り散らす世の中が続いて行くのかというと、それもそうなってみないことにはよくわからないとしても、少なくとも彼らがキチガイだと認識できる限りで、それが間違った認識である可能性が高く、たとえキチガイのように振る舞っているとしても、キチガイだとは言えないとしたら何なのかというと、彼らにはキチガイのように振る舞うしかやりようがなく、まともなことをやっていたらその地位や役職にはとどまれない成り行きの中で活動しているから、キチガイのように見えてしまうわけだが、岸田首相も小池都知事もキチガイのように振る舞いながら、かろうじてその地位や役職を死守しているわけだから、彼らのお仲間や手下もキチガイじみたことをやるように絶えず仕向けられていると見ておけばいいのかも知れず、果たしてそれで構わないのかというと、今はそれでも構わないのであり、彼らはそうやって実際にそんな立場や境遇になってしまったのだから、すでにそこから引き返せないようなことをやっているわけで、それをやってしまったからまるでキチガイのように見えてしまうわけだが、もう彼らには正気なことができないとは言えないが、少なくともこれから彼らのような地位や役職に就く人にとっては、彼らが悪しき先例としての反面教師の役割を担ってほしいわけだから、彼らのようにならないためにはどうすべきかと考えながら活動する必要がありそうなのだが、果たしてそれを自覚できる人がどれほどいるのかといっても、多くの人たちがミイラ取りがミイラになるようにしてキチガイ化してしまうかも知れないし、では何がそうなることを妨げるのかといえば、それが彼らが囮となっておびき寄せる来るべき何かによって明らかになることだと思っておいても構わないのではないか。


6月18日「第二の産業革命」

 たぶん大した違和感ではないのだが、何かが違うと感じるのはいつものことで、それに関して頑なに論理的整合性を追求しているわけでもないが、勘が正しいとか間違っているとかではないとすると、何を言いたいのかよくわからなくなるが、そう感じている自らの勘が狂っているような気もするから、勘違いかも知れないが、やはり論理的な確からしさを求めているのでもないとすれば、矛盾したことが起こっているのに気づいているとも思えないのだが、単刀直入にAI革命が第二の産業革命なのかというと、そんなふうには思っていないと言うと嘘になるが、テスラが自動車を作っている時にはそうは思わなかったのだが、ロボットを作り始めた時に、ああなるほどと思ってしまって、安易にこれが第二の産業革命なのではないかとひらめいたわけだが、テスラが作っているロボットが安川電機などのロボットアームだけの固定型ロボットではなく、足がついていて動ける人型ロボットであることが、ボストンダイナミクス社の四足歩行ロボットの気持ち悪さともちょっと違う印象を伴っているだけに、すでに第二の産業革命の発端にいるような気にさせるのだが、果たして全ての人の労働がロボットに置き換えられるとも思えないものの、AIを搭載した人型ロボットがどこまで人の作業をこなせるかが普及のカギとなるにしても、ロボットを作っているのがテスラだけに話題性があるというか、先駆けとなったのはいつものように日本企業で、ホンダが人型ロボットを作っていたのに継続せず、ソニーの犬型ロボットは玩具の延長上の商品となっているのとは対照的に、本格的にAI技術が進展してきたタイミングに合わせて人型ロボットの商品化に成功しそうになっているところが、テスラの一人勝ちな予感がしてしまうわけで、もちろん中国企業がすぐにマネしてテスラよりも安い製品を出してくるかも知れないが、少なくともテスラによる商品化が成功した後になるだろうから、まずはテスラが世界的に人型ロボットによって脚光を浴びることになれば、工場内に固定されて決まりきった動作を繰り返すロボットアームというイメージとは違った段階に突入するのではないかと妄想してしまうが、それもコストが安上がりになればという条件付きなのかも知れないが、やはりそういう成り行きとは対照的に例えば全個体電池だとか水素社会の実現だとか、森林の斜面を切り開いて太陽光パネルを敷き詰めるのは自然破壊だとか、風力発電用の巨大な風車に鳥がぶつかったり風車が回る音がうるさくて騒音公害だとか、部分的なところへと焦点を当ててそれを強調して何かを主張しているような気になっている人も多過ぎるような気もしてくるわけで、それとこれとがどう違うかにも気づきにくいし、実際にどう表現すればいいのかよくわからないし、どう表現してみてもしっくりこないのだが、根本的なところや本質的なところが捉え切れていないから、どうしても枝葉末節なところに注目して部分的な強調や誇張へと人の意識や関心を誘導しようとする傾向があるのかも知れず、本当のところがわかっていないからそうなってしまうのか、あるいはわかってしまうと太刀打ちできないことを理解してしまうから、なるべく理解する時期を遅らせようとして、目眩し的にそういう方面へと人々の意識や関心を持って行こうとしているのかは、そんなことまで考えている人はまずいないだろうが、使い物になる性能の全個体電池が開発されれば、テスラもそれをEVに使うだろうし、水素社会の実現自体があまり理屈に合わない面があることは周知の事実かも知れないし、太陽光パネルも風力発電の風車も立地条件や蓄電池の活用や送電網や再利用の体制を工夫して使えば良いという結論も出ているから、そういう分野が今後発展するにしても衰退するにしても、それに合わせて成り行きも風向きも変化するしかないが、もっと本質的かつ根本的なところで人の労働がどうなるかが、ロボットの活用によって変化させることができれば、それに伴って人の行動形態や経済的な価値観や生活習慣も変わってくるかも知れないところが、何かヤバい感じがしないでもないのだが、そういう面でのイーロン・マスクの直感力が結構な程度で物事の本質や根本を捉えているのではないかと持ち上げたくなってくるのだが、それが結果的にうまく行くかどうかはよくわからないし、何よりもアメリカと敵対関係にある中国に大規模な工場を作ってしまう手腕もなかなか他の経営者には真似できないことかも知れず、それとは対照的にトヨタの自動車が世界でいくら売れても、それによって社会が変わるわけでもなく、ニッポン凄い派の自尊心がくすぐられるだけだろうが、当事者がそれを意識しているわけではなくても、その行動や言動に世界を変える影響力があるかのような幻想を抱かせるのだから、たとえそれが幻想に過ぎなくても、それなりに人々の心を揺り動かせる力あるのかも知れないし、イーロン・マスクが向かって行く方向に世界の潮流も流れて行くような感じになってくると、そういう方面での可能性に期待を寄せる人も結構な割合で増えて行くかも知れないが、変化して行く方向が良い方向なのか悪い方向なのかも、変化して行った先でああだこうだと言われることでしかないにしても、今ここで何を予想してみても当事者ではないのだからいい加減で無責任なことしか言えないが、18世紀の産業革命が人を労働地獄へと導いたのとは対照的に、21世紀の第二産業革命が人を労働から解放することになる代わりに、人そのものを消滅へと導くことになるかも知れないが、それが人でなければ何なのかというと、人以前の何かであると共に、人以降の何らかの存在が生じるきっかけを作ることになるのかも知れない。


6月17日「暫定的な結果」

 何かそれなりにもっともらしい意見を言ってくる人に対して、そうじゃないと思うことがあれば、そういう意見には何か見落としている点があるらしいのだが、しかもそうじゃないと思っていることがあまり説得力が感じられないようなことだと、そうじゃないと思うこと自体が誤っているような気がしてくるとしても、やはりそうじゃないような気がするのを改められないとしたら、何がそうじゃないと思っているのか、その内容を明らかにする必要がありそうだが、少なくともそれほど合理的な理由があってそうじゃないと思うわけではなく、そうじゃないと思うこと自体にもっともらしい根拠があるわけでもないようなことでもあるなら、それに対していくらもっともらしく合理的な理由を並べてそうじゃないと思っている人に反論したところで、それはちょっと違うような気がするわけだが、それが机上の空論などではなく、実際にそうした方が良いことをやらない理由がないと思われることを、なぜかやらないわけだから、そんなことではまずいと思われるのも当然だろうが、逆に他の多くの人から同意も合意もコンセンサスも得られないようなことをやる必要があるかというと、たぶんその必要があるからやるのではなく、必要もないのにやって、それがうまく行かずに多くの人々から批判されたり非難を浴びせられるようなことをなぜかやってしまうのだから、そんなことをやってはまずいようなことをやってしまったと思われるだろうが、結果的にはそれで構わないはずがないようなことをやってしまったからといって、なぜか窮地に陥っているわけでもなければ、別にそういうことをやるに際して誰もが納得できるような合理的でもっともらしい理由や根拠など何もないことになってしまうだろうが、その場の成り行きでそうなってしまうことがあろうとなかろうと、そうすることについてはあまり合理的な理由などないわけだから、できる範囲内でやれることをやってみた程度のことになるだろうが、他人から見ればそれではまずいと思われようが、実際にそういうことをやってそうなってしまった事実をどうすることもできないこととしてそうなっているわけで、そうなってしまったことをどうすることもできないわけでもないが、否応なくそうなってしまうわけでもないにしても、そうなる過程においていくらでも他にやりようがあったにしても、結果的にそうなってしまったことについては、そういうことだと受け止めるしかなく、それ以外に何がどうなるとも思えないが、たぶんどうにかなるところではどうにかなり、どうにもならないところではどうにもならないのだろうが、なぜかそんなことにはお構いなく何らかの結果がもたらされて、それに対して何やらもっともらしい理由づけがしたい人も出てくるから、そういう人にとってのもっともらしさやそうなるについての合理的な理由や根拠が必要とされる範囲内で、何かそれに基づいた意見ももっともらしく主張されるような成り行きにもなるのだろうが、そんなことを主張したからといって、そうなってしまった結果は動かしようがないわけで、動かしようがなくても別に大して深刻な事態を招いているわけでもなければどうということはないわけだが、その程度のこととして認識されている限りでそういう結果が罷り通っていることについていくら異議申し立てのようなもっともらしい意見を執拗に主張しようが、言いたい奴には勝手に言わせておけばいい程度のこととして片付けられてしまうわけでもないだろうが、それに類する成り行きも世の中にはいくらでもありそうなのだが、たぶん世の中では多くの人や団体が正当化できないようなことをやらざるを得ないし、実際に正当化できないようなことをやっている実態がある中で、何か主張するとなると、主張自体がやっていることを正当化するような主張にならざるを得ないというか、取り立てて何も主張するようなことがない人や団体がその場の成り行きに従ってやらざるを得ないことをやっていれば、そこからやっていることを正当化するような主張など生じてこないのは当然の成り行きなのだろうが、やっていることを正当化できないようなことが実際に行われているわけだから、逆に正当化できるようなことをやろうとすれば、数々の障害や妨害が行く手に立ち塞がって、それができないようにされてしまうと事態を捉えるなら、なるほどその代わりにやっていることを正当化できないようなことをやらざるを得ない成り行きに従うしかなく、そんな成り行きに従いながら岸田首相も小池都知事も今の役職に就いているわけで、今の日本ではああいう人たちをああいう役職に就けるような成り行きが生じていると結果から言えるかも知れないし、ああいう人たちを批判しようと思えばいくらでも批判できるし、実際にいくらでも批判されているわけだが、それもいくらでも批判できるとしても、今のところは結果的にああいう人たちしかああいう役職に就けない現状を変えるには至っておらず、それを今まさに変えようとしているのが盛んにああいう人たちを批判している人や勢力なのだろうが、逆に今ある現状を何とかして維持しようと躍起になっている人や勢力もいくらでもいると現状を捉えても構わないかというと、どうもそうでもないような風向きになってきたような気もするのだが、それが気のせいに過ぎないなら、今後も延々と執拗に現状が続いて行くことになるのだろうが、そうだとしてもそれも気のせいで、現場がそのまま続いて行くわけでもないし、これまでもそのまま続いてきたわけでもなく、何かしら変化しながら現場が続いてきて、また今後も何かしら変化しながら続いて行くのかも知れないが、その変化の程度や傾向が誰もが納得できないし正当化もできないような程度や傾向になるのかも知れない。


6月16日「偶然と必然の関係」

 何か歴史的な経緯があってそうなっているようなことが、その経緯を無視しているわけではないにしても、もっともらしい理屈や論理や理論などが持ち出されて説明されると、それなりに説得力のある内容になってくるのだろうが、それが元からもっともらしい理屈や論理や理論があって、その理屈や論理や理論などに従いながら世の中の情勢が動いているような説明のされ方をしてしまうから、原因と結果が逆になって、それが必然的にそうなるようなこととして信じられて、そうなったことに関しての歴史的な経緯の偶然性が軽んじられてしまうわけでもないのだろうが、必ずしも理屈や論理や理論に従った結果になるわけでもないなら、偶然にそうなってしまう面もあるわけだが、そうなった結果を説明するのに必要なもっともらしい理屈や論理や理論が導き出されるにしても、たぶん歴史的な経緯はそれだけでは説明がつかないから、そこに理屈や論理や理論以外の何かが絡んでくるわけだろうが、それが偶然にそうなった面も考慮に入れるなら、それが必然的にそうなると説明したくなるのに伴って導き出されてくる理屈や論理や理論の類いとは相容れない面だとしても、相容れない両面を伴いながら物事の成り行きが進行していくと説明しなければならないかというと、実際の説明はそうではなく、説明自体が理屈や論理や理論などから構成されるものだから、偶然にそうなった面など考慮に入れなくても構わないし、説明したところで意味不明で説得力がなくなってしまうから、それは説明する必要がない面なのかも知れず、少なくとも偶然にそうなったでは説明になっておらず、そういう意味では複数の物事が絡み合ったり錯綜したり衝突したりする偶然性は説明しづらいのだろうが、そこではそうなったから、別の場所でも別の時期でもそうなるかというと、そこではそうなったからあの時もそうなったからここでもそうなるはずだと思うなら、そうなることを信じているからそう思うのだろうし、そうなることを信じる理由として、信じるに足るもっともらしい理屈や論理や理論などがあれば、そうなるはずだという思いにも俄然真実味が出てくるわけだが、そこに作用や影響を及ぼしてくる様々な経緯や事情や条件や成り行きなどが複雑に絡み合ったり錯綜したり衝突し合った結果としてそうなったと考えるなら、信じるに足るもっともらしい理屈や論理や理論などがあるにしても、何か一筋縄では行かないような気もしてくるわけだが、そうだとしても売買や貸借などの商取引であれば、あそこではいくらで売れたからこちらでもいくらで売れるはずだとか、あそこではいくら借りられたからこちらでも大して違わない額を借りられるはずだとそれなりに見当がつくかも知れないし、経緯や事情や条件や成り行きなどの違いが相対的な程度の範囲内で妥当な売買や貸借の額も決まってくると考えても、それほどおかしいとは思われないし、実際にもそれが妥当だと思われる範囲内で売買や貸借などの取引が成立するはずだが、そういう売買や貸借などに伴って感じられる妥当性からはかけ離れたところで何が生じてくるかというと、そういう商取引の慣習や慣例などを無視したやり方を伴って行政が介入してくると、何かそれが理不尽な行為のように思われるだろうが、それが取引とは違うやり方で、相手の意向や事情を無視した強権的で強制的な措置を伴って、相互の信頼や信用など生じる余地もない一方的な権力の行使となると、そういうやり方には反発するしかないが、そんな行政に対して反感を抱きながらも渋々従わざるを得なくなれば、それが偶然にそうなっているのではなく、そうなるのが必然のように思われるにしても、もちろん何の理由もなく、そんな有無を言わせぬ強制的な措置が行われるわけではなく、何らかの違反行為や違法行為が発覚したからそうなる場合が多く、やられた側に非があることが明らかになっている限りで、そういった措置にもそれなりの妥当性が感じられるわけだが、法治国家が機能している地域では行政だけがそういうことができるように法律が定められているはずだが、そこでも偶然にそうなっているわけではなく、それが妥当だと思われるような理屈や論理や理論などの裏付けがあるから、そういうことをやられる側にとってはたまったものではないにしても、悪いのはやられる側だというコンセンサスも、その地域で暮らしている人々の間で共有されているだろうが、果たしてそこにも偶然の成り行きが絡んでくるかというと、たぶん違反行為や違法行為をやってもバレなければいいという心理状態になれるかということに関しては、たぶん偶然にそんな心理状態になるというよりは、できればバレないことの裏付けがほしいわけで、例えば違反行為や違法行為を取り締まる側の行政の担当者に賄賂を贈って違反行為や違法行為を見逃してもらうとか、それ自体が法律に違反しているし違法行為ではあるものの、今どきそんなあからさまな行為がバレないはずがないだろうし、それなりに違反や違法スレスレのことをやるに当たって、行政に便宜を図ってもらう見返りとして、行政の担当者がその職を辞めた後の天下り先を用意するとか、そういうことが日本の行政の中ではいまだに行われていて、それが半ば慣習と化していれば、そうした悪習をやめさせるような改革が求められているはずだが、それを慣習や慣例として継続させようとしている側からすれば、それができないような制度改正や改革が行われては困るわけだから、そういう改革を推進しようとする勢力には抵抗するしかないし、実際に選挙でそんな改革を公約として掲げている候補者がいるとすれば、そんな候補者が当選しないように様々な妨害工作が行われることになるのかも知れない。


6月15日「解せない結果」

 解せないというと理解できないとは思わないが、納得できないと思う方がよりその意味に近いような気がするわけだが、では何が解せないのかというと、それもいつものように微妙な言い回しになってしまうが、誰もが近視眼的な思考の持ち主であるはずもないが、世の中にはそんな人やそんな人が集団化した団体が多すぎるような気がするというと、そんな状況がどこにあるのかといえば、ここにあるとしか言えないようなことかも知れないし、誰もが視野が狭く目の前の利害しか眼中になければそれでも構わないが、果たして現状の中で生きているのがそんな人ばかりかというと、それも勝手な印象に過ぎないのだろうが、果たしてそれに対して長期的な視野で物事を考えられる人がどれほどいるのかといっても、その必要がなければそんなことは考えないし、それも自分の利害しか眼中にないわけではなく、もちろん国の利害など考えているわけでもないとしたら何なのかというと、自分の利害も家族の利害も国の利害も関係ないわけではないが、その一方でそれらの利害を超越したところで何を考えているのかというわけでもなく、考えていないわけでもないのだが、金銭的な損得も伴ってくる具体的な利害も含まれてくると、何となくそれを省いて考えてしまうことがあるらしく、それが何かというと思考の焦点が定まらなくなるのだが、人や集団が自分たちの利害を超越したところで行動できるかといったところで、抽象的な勘違いから行動するようなことかも知れないし、そうでなければ何なのかといっても、これといってしっくりくるような対象など思いつかないが、傾向としては安易に批判の対象となってくる人や団体なら、連日メディア上で批判されている人や団体になるだろうし、そんな人や団体を自分も批判しなければならないと思うわけでもなければ、やはりそれでは言説のターゲットが見つからなくなってしまうのだが、世の中ではどうでもいいような人や団体がうごめいているだけで、そんな人や団体が今後どうなろうと全く気にならないなら、それらの人や団体がくだらないことにこだわってそれに関わりながら栄えようと衰えようと、知ったことではないことになってしまうのだが、果たしてそれでも構わないかというと、それではまずいと思う人が人を集めて団体を作って何かどうでもいいようなくだらない存在となっている人たちを立ち直らせて、真っ当な精神や思考を伴った人に変えようとしていると現状を捉えるなら、何となくそんな世直しを目的として活動している人や団体がいるような気もするわけだが、そういった世直し事業に反発して抵抗している人や団体もいくらでもいるから、果たしてそれらの中で真っ当なことをやっている人や団体がどれほどいるかといっても、各々に勝手にそんなことをやっているわけではなく、大ざっぱな範囲内では世界情勢にとらわれながらそうなっていると言えるかも知れないし、そこに何か一定の傾向があって、その傾向に気づいていてもそうなってしまうようなことでもあるから、そんな成り行きから誰もが抜け出せないと事態を捉えるしかないが、その中でも不快なことをやっている人や団体が嫌われ役を買って出ているわけではなく、自分たちを嫌われ役だとも感じない人たちが不快な嫌がらせを仕掛けてくるのだとは思うが、そんな卑劣で愚劣な人たちだけがメディア上で目立っているわけでもないはずで、それらの人たちを批判しようと思えばいくらでも批判できるにしても、そういう役割分担なのだからそんな人たちにはやらせておくしかないのかも知れず、物事を利害で判断してはいけないのかも知れないが、それらの人たちが自分たちの利害に基づいて行動しているわけではないとしたら何なのかというと、利益になると思っていることが意外とそうではないことに気づいていないだけで、長い目で見ればそれらの人たちの利益など何でもないことになってしまうのだろうが、目先の利害しか眼中にない人たちに何を言っても無駄だとは思わないが、目先の利益を求めることしかできない成り行きにとらわれてしまえばそうなるより他はあり得ないにしても、それを目先の利益だとも思っていない可能性まであるから、では何なのかといっても、それがわかれば苦労はしないし、わからないからとりあえず目先の利益を求めて行動するしかなく、それで構わないような成り行きにとらわれているから、そういう成り行きを肯定しないと生きて行けないわけでもないにしても、他に何があるかと問われるわけでもないが、何よりも仕事としてそういうことをやっているのだから、それ以外にはやりようのないことになっているのに、それを無関係な人から否定されても批判されても、その人が他のやり方へと導いてくれるわけでもなければ、ただの営業妨害にしかならないわけで、だからといってやっていることを正当化してみたところで、それなりに他人から否定されたり批判されるようなことをやっているわけだから、大なり小なり自身のやっていることにも限界や制約があると認識せざるを得ないだろうし、できればそれがやらざるを得ない仕事ではなく、趣味か遊びの範囲内で気軽に気分次第でやったりやめたりできるようなことなら、大したことではなくなるのだろうが、どうしてもこのままでは国が滅ぶだとか大げさに事態を捉えてしまう人が出てくると深刻に考えてしまい、そんな深刻なことではないとたかをくくれるわけではなく、実際にそれが原因で死んでしまう人まで出てくれば、あいつらがヤバいことをやっていると事態を深刻に捉えざるを得なくなるわけだが、しかしあいつらとは誰なんだと言われると、誰でもあり誰でもないようなどうでもいいような存在がどうでもいいようなことをやっている実態もあるから、たとえそれに起因して死人が大勢出るにしても、無駄に無意味な死になってしまうのかも知れず、しかも大義に殉じるような言われようだと、よりいっそう馬鹿げたことのように思われてしまうのではないか。


6月14日「慇懃無礼な態度」

 人としてここまで腐っているのかと怒りが込み上げてくるようなことをやる典型例として挙げられる人物が誰かといえば、それが意外と普段は他人に対して礼節をわきまえていて、社会の常識や慣習を守っているように見える人であったりすると、何かそういうところで行為の卑劣さや愚劣さと礼儀正しい振る舞いとは相関関係がないような、悪い意味であるような、よくわからない感覚にとらわれるのだが、本当のところはよくわかっているのだが、それを文章の中で表現しようとすると、うまくニュアンスが伝わらないような、わざと伝わらないように表現する配慮が求められているような、これまたよくわからない感覚にとらわれてしまうのだが、自分が属している勢力が応援している現職の都知事の有力な対立候補の揚げ足取りをやっている公明党の区議などが、その典型例として挙げられるとしても、それが取るに足らない小物と見られている人物がそうなってしまうわけだから、自身のやっていることが見えていない典型例でもあって、そういうことをやってしまうと小物と見られてしまうことを理解していなくても、貧相で卑しい昔ながらの日本人と蔑まれていることの特徴がよく出ているエピソードでもあって、自らが蔑まれるようなことをこれ見よがしにやる必要がどこにあるのかと訝しんでしまうにしても、ああいう人がああいうことをやってしまう状況や情勢を痛いほどよくわかるような気持ちになってしまうわけだから、そんなことを感じている自分もある意味で勘違い人間の典型例かも知れないが、浅はかで思慮の足りない人ほど、自身が常識人や良識人に見えるように世間的な外見を気にして礼儀正しく礼節をわきまえているような態度に凝り固まっているのではないかと邪推されて、勝手に自分で邪推しているだけだが、何か蓮舫という存在が世の中の腐っている部分を炙り出す装置として目覚ましい活躍ぶりを示しているわけでもないのだろうが、そんなのは隠しておけばいいのに、勝手に向こうからクズでゴミで醜悪な権力や利権という腐肉に群がるウジ虫のような相貌や実態をこれ見よがしに見せてくるような、ある意味で狂った状況や情勢になってしまうところが、何か間抜けで馬鹿げた様相を呈しているようにも感じられてしまい、お前ら馬鹿なんじゃないのかと言い放ってみても、現職の小池都知事が選挙で勝利してしまえば、こんな人に投票する市民や投票に行かずに無視を決め込んでいる有権者がみんな馬鹿なんだと言い放っているようなものだから、それはちょっと違うような気がして、どうしても勘違いな自らの見識の劣悪さを認めざるを得ないようなことにもなって、それをどう捉えたら納得できるのかといっても、自分には理解の範疇を超えるあり得ないことが起こっているのではないかと認識しておけばいいわけでもないだろうから、もう少し冷静になって起こっていること把握しなければならないとは思うものの、情勢や状況をどう見ても馬鹿で間抜けな人たちが現職の都知事を支持しているように見えてしまうわけだから、メディアが揃いも揃ってそう見えるように情勢や状況を演出していると見ておくしかないし、その手の人たちが蓮舫の揚げ足をいくら取っても、馬鹿で間抜けな小物たちがそういうことをやっているように見えてしまうわけだから、自身が馬鹿で間抜けに見られないようにするには現職の小池都知事を支持していることを隠すような配慮が求められているのかも知れないが、だからといってそういう人たちが蓮舫に投票するかとなると、死んでも蓮舫には投票しないと心に固く誓っているような人も大勢いるようにも感じられて、そう思わせるような蓮舫にも責任がないわけではないが、一方の小池都知事も自らが都政を牛耳っているような雰囲気をセルフロデュースしているような感じがしないでもなく、そういう自己演出に長けた人だとしても、やっていることはたわいないというか、都知事という役職自体が誰でもできるような役職ではないにしても、官僚たちに任せておけばそれで済むようなことでしかなく、逆に蓮舫が都知事になってしまうと官僚たちの思い通りには行かなくなるから、是が非でも蓮舫が都知事になることは阻止しなければならないと思わせるような事態となっていると現状を把握するなら、それもメディアから伝わる情報に踊らされていることになってしまうかも知れないが、どちらにしても小池都知事を支援する側が醜悪に見えるのは岸田首相を支援する側が醜悪に見えてしまうことと同じことだと感じさせているのも、ネトウヨや統一教会や日本会議や公明党などが関わっているからだと言ってしまえば身も蓋もないが、たぶん本当はそうではないと考えたいのだが、どうしてもその手のメディアの影響力が半端でないから、とりあえずはそういうことだと理解しておいても構わないのだろうが、そういうイデオロギー的なことは表面的な印象に過ぎないのかも知れないし、もっと別の方面から例えば資本主義市場経済と行政との関係から考えなければならないことだとは理解しているのだが、そんなふうに理解する上で妨げとなっているのが小池都知事やその取り巻きたちの自分たちを強権的に見せる自己演出的な演技なのかも知れないが、実際にやっていることと言っていることと、強権的な雰囲気作りという演技との間で感じる落差というか、たわいのなさと馬鹿にしたくなるような稚拙さというと、ではお前ならもっとうまくやれるのかと言われると全く自信も技量も器量もないことは明白だろうが、何かああいうやり方が嫌な印象を与えることを承知でやっていることのように感じられるから、一刻も早くああいう嫌なやり方はやめてほしいし、別に蓮舫でも構わないからああいうやり方とは違うやり方を試してほしいと思ってしまうわけだ。


6月13日「AI技術の可能性」

 世の中には時と場合によっては信じられる理屈や論理や理論があることは確かだが、その場の情勢や状況や成り行き次第で信じられたり信じられなかったりするものだと思いたいのだが、そうではなく恒常的にいつでも信じられる理屈や論理や理論の類を求めてしまうのもありふれた心理状態から生じる成り行きだが、そんな都合の良い理屈や論理や理論など存在するわけがないとそれを信じすぎて痛い目に遭った経験を反省しながら気づくことかも知れないが、気づいたところで性懲りもなく忘れた頃にそれを信じてしまうのだから、それだけ世界を自分に都合の良いように捉えようとしているのだが、そこに人間的な弱さがあるのは誰もが承知していることだが、その一方で多くの人が信じているらしい理屈や論理や理論が人々の意識を逆に拘束しているから、そういう理屈や論理や理論を熟知している人ほど相対的に社会の中では優位な立場を占めているらしいことも、誰もが何となく感じとっている傾向だろうが、だからといってその場の情勢や状況や成り行きに応じて信じられる理屈や論理や理論が何かと具体的に示せるかというと、それらを熟知している人にはその度ごとにこれだと示せるかも知れないが、普通はそんなことをやっているときりがないからいちいち示すことなどないだろうし、それがその度ごとに一つの理屈や論理や理論として独立して単独で機能するわけではなく、様々な理屈や論理や理論が複合的に絡み合いながら重ね合わせられたり打ち消し合ったり相殺されたりしながらその場の情勢や状況や成り行きに無視できない作用や影響を及ぼすのだろうから、そういう作用や影響を見落としたり無視すると痛い目に遭ったりするのだろうが、それらの全てを把握することも不可能だと思いたいが、AI技術を駆使すればそれが可能になると幻想を抱きたいわけだが、もちろんそういった技術の開発者はそれが幻想ではなく実現可能だと信じているから実際にそれを開発している最中なのだろうが、しかもすでにそれなりに特定の分野で機能して実績も上げているから信じないわけには行かないだろうし、そういう成り行きに意識がとらわれてしまえば疑う心が萎えて徐々に減退して行ってしまい、いちいちそこで立ち止まって疑っていたら、その場の情勢や状況や成り行きの変化への対応が遅れてしまうから、意識せずに素早く対応して処理する条件反射のような動作も伴ってくるかも知れないし、それもその場その時の情勢や状況や成り行き次第だが、そういう対処や対応を自動的に瞬時に行なってほしいという要求がAI技術には期待されるのだろうし、果たしてそんな都合の良い願望がどこまで実現するかが今後の技術的な進展の過程で明らかになったりならなかったり、それが幻想に過ぎなかったことが明らかになれば期待が落胆に変わってしまうだろうが、それよりは副作用のような効果が思いがけず起こって、しかもそれを利用したり活用することによって当初に予想していた未来とは全く違う世の中になってしまう可能性もあるわけで、18世紀の産業革命も20世紀の石油革命も20世紀末から21世紀初頭にかけてのIT革命も、それが起こった以降の世の中はそれ以前の世の中とはそれなりに様変わりしてしまったのだから、それ以前の世の中で通用していた理屈や論理や理論などがそれが起こった以降の世の中では通用しなくなったものも探せばそれなりにありそうだが、あったとしてもそれが起こった以降の世の中では忘れ去られているかも知れないし、それで大した不都合も感じていないだろうが、AI技術の開発者や推進している人や団体にしてみればそれがなくてはならない技術として世の中に定着してほしいと思っているはずだが、当初は誰もそうは思ってもない技術が世の中に思いがけず定着する可能性もあるのだろうから、果たしてそれがAI技術となるかならないかもまだはっきりしていないのかも知れず、少なくともそれがインターネット技術とは傾向の違った技術であることは確かで、それに関して現状の延長上で予想されやすい成り行きとして考えられるのが、AI技術はあくまでも部分的な技術であって、もっと広範囲に割と馴染みやすい技術として世の中で受け入れられているのがロボット技術であり、ロボットを制御する技術に組み込まれるのがAI技術だと捉えるなら、何となくわかりやすくなってしまい、ロボットが工場などの特殊な環境から一般の世の中へと進出するきっかけとなるのがAI技術だと考えられなくもなく、そうだとすれば鉄腕アトムなどのロボット漫画やアニメの世界がいよいよ実現するのではないかと期待してしまう人も出てくるだろうが、そういった昔ながらの妄想や願望が結構思いがけないところから裏切られるというか、思っていたのとはだいぶ違う結果がもたらされると予想したくなってしまうのだが、それが実際にどんな結果をもたらすかはそうなってみないことにはわからないが、何か誰も思ってもみなかった世界になってしまっても、今この世界で生きている人間にとってはそうかも知れないが、実際にそうなった世界で生きている人間にとっては何とも感じないのかも知れないし、そうなる過程の中でそれなりに違和感を覚えたり激しい拒否反応を示す人も出てくるかも知れないが、そういう人たちが次第に淘汰されてしまえば、そうなっているのが当たり前の世界が実現するのだろうが、果たしてそれがかつての新大陸で起こったような過程とどれほど似ているかどうかも、やはりそうなってみないことにはよくわからないし、そうなる過程の中で生きていても気づかないのかも知れないし、今まさにそうなる過程の中で自分自身が生きているとしても、それに気づいていないのかも知れない。


6月12日「影響力と発信力」

 それに関して何を知っているわけでもないというのは嘘で、いつものようにメディアを通して知っているつもりになっている知識があるから、それを知っていると思い込んでも構わないし、知っているとはそういうことだと思い込んでいるわけでもないが、何となくではあっても疑念を抱いている部分もあるから、少なくともその全てを知っているわけではなくても、多少なら知っているらしく、知っている範囲内で何か述べられると思っていて、それが嘘ではないことを証明しようとしているわけでもないが、証明とは違う方面から何か述べようとしていて、それが何かということではなく、例えばAIだとか自動運転だとか、今後の成り行き次第ではそれに関連する企業に莫大な利益をもたらして、現状でも莫大な利益をもたらしつつあるから、関連する企業の株価も上がっているのだろうが、だからといってそういう技術のターゲットとなっているのは人自身だから、自業自得というか自家中毒というか、否定的なことなら簡単に言えそうだが、もちろんそうした技術の進展によって恩恵を受ける方面も結構ありそうなのだろうが、それを肯定できるかというと、いくらでも肯定できそうだが、肯定も否定もしない方面から何が言えるかとなると、ちょっと考え込んでしまうが、それらの技術に関してよく言われている内容をメディアを通してすでに知っているだけに、そうした知識に引きずられて何か述べてしまうと、メディアを通して言われている内容に近くなってしまうのも当然の成り行きだろうが、それが肯定的に言われている内容とその逆の脅し文句を絡めて否定的に言われている内容が混ざり合いながら幻想を抱かせるような作用もあるから、さらにそうした幻想を皮肉って嘲笑するようなことも言われると、なるほど大したことではないとそれらに関連して起こっている事態を軽く見てしまえるのだが、すでにAIバブルがはじけた後を見据えているような先回り的な言動も目立っているかも知れないが、言われていることと実態との間で生じる差異や落差を念頭において何が考えられるかといっても、そもそも差異や落差などないかも知れないし、言われていることが全てとは言わないが、実態を作っているのがその実態を伝えるメディアでしかなければ、中身が何もないことにもなりかねないが、大山鳴動して鼠一匹ということわざがこれほどよく当てはまるものも滅多にないとも言えないにしても、そうなる恐れがあるという脅し文句をどれほど信用できるかといっても、それを冗談半分で信用しているというと何か微妙なニュアンスを感じていそうで、その種の技術に慣れてしまえば何でもないことになってしまうわけで、そうなるのが技術の普及と言える現象なのだから、それが驚くべきことでも皮肉るべきことでも嘲笑すべきことでもあるのだろうが、それに関連して現状でもかなり目立っているのが、イーロン・マスクが馬鹿で正義感が強いということであり、日本のホリエモンと比べるのが一番わかりやすいが、ホリエモンの方が利口でずる賢いのとは対照的にイーロン・マスクの方はどこまでも馬鹿で正義感が強く、その存在自体がAIとは真逆な人間なのであり、もちろんその正義というのも左翼的リベラル的な正義とも真逆なのかも知れないが、他の大勢の人たちがその馬鹿で正義感の強い人間について行くか敵対するかのどちらかの選択を迫られているわけでもなく、アメリカでは馬鹿で正義感が強い人間が通用して、日本では利口でずる賢い人間が通用するとも言い切れないし、立場や境遇や社会情勢の違いとも言い切れないが、AIによって否定されやすい人間というのがイーロン・マスク自身であることを自分では気づいていない可能性も高いが、AIによっては成し遂げられないことをイーロン自身が成し遂げようとしているのか、あるいは成し遂げることができずに失敗してしまうのかも今のところは定かではないにしても、日本という地政学的に制約の多い限られた条件下では馬鹿で正義感の強い人間は成功できないかというとそうでもなく、日本の中で馬鹿で正義感の強い代表的な人物を挙げるなら、真っ先に思い浮かぶのが山本太郎だろうし、当人も意識してそんなイメージ戦略なのかも知れないが、イーロン・マスクには山本太郎が被っているような地政学的地域的な制約や限界が一切ないわけではなく、イーロンもパレスチナを攻撃するイスラエルを非難して叩かれたから商売に支障をきたすことを恐れて慌てて反省してイスラエルを謝罪訪問したこともあっただろうし、それなりに制限や制約を受けながら活動しているとしても、馬鹿で正義感の強い人間に特有な雰囲気をまとっているから、それが大勢の人々を惹きつけてリーダーシップを発揮するためには欠かせない条件だとも言えなくもないが、そんな制限や制約を突破して何かやってくれるのではないかと期待されるわけで、それが日本でもアメリカでも出る杭は打たれる程度の叩かれ方はされるのだろうが、そんな仕打ちに怯むこともなく立ち向かいながらも、最終的には出過ぎてしまって叩きようがない程度の存在へと至れるわけでもないにしても、ホリエモンのように叩かれて折れ曲がった釘のような形状をとどめていようと、それでも構わないような社会状況なのだから、そんな状況を否定的に捉える必要もないのかも知れないが、何よりもAI技術を利用して何かを成し遂げようとしている人間が、AIとは相容れないキャラクターも持ち合わせていること自体が、何かAIの限界と人間の限界を肯定的な可能性と共に感じさせるという複雑で込み入った成り行きをもたらしていると現状を捉えたくなるのだから、それだけ現状の世界の捉えどころのなさも物語っている存在なのではないか。


6月11日「ひどい現状を無視すること」

 そうなってしまうことに関して何か引っかかるものを感じるのはいつものことだが、今回もそれで構わないようなことなのかも知れず、たとえ不条理な結果に終わろうと誰の知ったことでもないようなことになってしまうとしたら、その程度のこととして片づけられてしまってもいいのかと疑問を感じるわけでもなく、適当にしらばっくれてスルーしておけば済んでしまうようなことかも知れず、それがどんなに理不尽で不条理なことであっても、そうなるしかないのだとすれば、単純にひどい世の中だと思っていれば済んでしまうようなことかも知れないが、果たしてそれでは済まないことになるかならないかは、そこに暮らしている住民の意向次第であるなら、そもそも住民の意向というのが一つの結果に結びつくようなことなのか疑念を抱かざるを得ないが、利害が複雑に入り組んで錯綜している中でこれといって争点がないどころではなく、結果的にひどいことをやっている側を利するようなことにでもなれば、ますますひどい世の中になってしまうと思うかも知れないが、そんな思いと現実とが裏腹に作用するような結果がもたらされるなら、そんな結果を前にして唖然とするか呆然とするか、それとも何でもないことだと表面上は静観して淡々とやり過ごすかというと、多くの人々が何でもないことだと感じるわけでもないが、結果的に示される現実を前にして、それがどんなにひどい現実だろうと、それを前にして唖然とするわけでも呆然とするわけでもなく、ただ事実を淡々と受け止めるわけでもなく、できればスルーしてやり過ごすかも知れないが、それが世の中のひどさを物語っているわけでもないとしたら、物語らずに無視されるだけで、ひどい面を無視しないと成り立たないというと、何が成り立たないのかと問うなら、人を特定の傾向を伴って集団化しようとすれば、ある程度はひどい面に目を瞑らないと集団化できないだろうし、集団のひどい内情を物語ろうとすれば必ず横槍が入って、物語るのを妨害されると思っておけば納得できるわけでもないが、そうならざるを得ない事情があるから横槍が入るわけで、だからといって黙っているわけにもいかないだろうから、集団内のひどい内情をバラそうとするわけで、そこに注目してほしいからバラすのだが、そんな集団など世の中ではありふれた存在であり、どこでもひどい内情を抱えていて、それを隠すことに成功している限りで見栄えが良いというか、ただ単にうまく統治できているように見えるだけで、その集団に所属している誰もがそれを知っていながら部外者には黙っているわけだが、それが何かのきっかけから黙っているわけにはいかない事情も生じてくれば、その集団のひどい内情がバラされて一悶着起きるわけだろうが、それ以上の何があるわけでもなく、それ以下の何があるとしても大したことでもなく、集団化するとろくなことがない代わりに、集団内の上下関係や地位に応じて利益がもたらされる一方で、その利益と引き換えにして不幸や災禍がもたらされるとなると、何やらヤバそうな感じがするわけだが、その不快さに嫌気がさして嫌な世界に足を踏み入れたと後悔しても、すでに抜けられない事情を抱え込んでしまえばもう手遅れだと思ってあきらめるしかないが、あきらめたところで何がどうなるわけでもないから、何とかしようとしてそれなりに悪戦苦闘するかも知れないが、集団対個人となると当然集団の方が強いし、集団内で力をつけてトップや幹部にまで登り詰める頃には、すっかり集団と利害が一致する人間になっているだろうから、逆に改革しようとする者を弾圧する側に回っている可能性が高そうで、集団内で何かと異議を申し立てて歯向かってくる少数者を弾圧することによって、集団内の結束を固めて集団そのものの維持継続を図ろうとする傾向になっていると認識しておいた方が無難かも知れず、そういう傾向は自民党も共産党も一緒だと見ておいても構わないが、そういうひどい面も考慮に入れてもなお、世の中でそれなりに栄えているように見える有力な集団に所属していれば、集団の意向に従っている限りはそれなりの利益を享受できるだろうから、功利的な観点からすれば多少のひどい面が露わになっていても集団に所属している方が何かと有利なのかも知れないが、それでも何かを得られれば得られた見返りが何かしら課せられることは確かだろうし、そういった集団と個人との取引がどちらかというと個人の方に不利な条件が設定されている傾向もあるだろうから、それをどう判断するかが個人の側の裁量に任せられているとは言えない割合の方も大きそうで、そういうところで個人の側が気転を利かせて工夫を凝らしてうまく立ち回る必要性を感じられるか否かも、個人の力量が問われてくるところかも知れず、集団内で不平不満ばかりを仲間内の陰口として流通させるばかりでは集団にとっては人畜無害な範疇に含まれるかも知れないし、だからといってあからさまに個人のままで反旗を翻すのではなく、じわじわと周囲の人々と信頼関係を築いて行って、集団内の派閥のようなグループを組織するようなことも集団内ではありふれた成り行きには違いないが、それが利害を一致させることによって集まる以外にやりようがあるのかといっても、これといって取り立てて画期的な価値の変更や変革を成し遂げられるわけでもないと思うなら、人為的に集団の傾向を制御しようとするには限界がありそうだが、逆に人為的に制御しようとするから集団が大きくなるほど集団内に多数の派閥が乱立して、離合集散を伴いながら集団自体が形骸化してしまうのかも知れず、そうやって形骸化してしまえば分裂するのだろうし、それで構わないだろうが、逆に分裂せずにいつまでも維持しようとすれば腐敗してしまうだろうし、そういう自然な成り行きに従って行動して行けば、何かのきっかけから改革のチャンスも巡ってきて、改革に成功すれば集団内が活性化されるかも知れないが、個人が集団内でそういう成り行きに身をまかせて何かやれるとしてもたかが知れているのかも知れず、そうなったからといって集団内で安住しているわけには行かない理由や事情もそれなりに生じてくるから、個人という存在が世の中で活動できる余地も生じてくるわけだ。


6月10日「やらなければならないこと」

 人には誰にでも必ずやらなければならないことがあるわけでもなさそうだとは思うが、実際には呼吸をしていないと死んでしまうから、人は誰でも呼吸しなければならないといっても、生物としてそういう体の構造となっているわけだから、それが人としてやらなければならないことだとは言えないが、では人としてやらなければならないことは何かといっても、人それぞれにやらなければならないことが違うのではないかとすぐにそう思いたくなるが、そういうレベルではそれで構わないだろうが、それをやらなければならないことだと思うか思わないかも、その人次第な面もありそうな中で、それが何なのかといってもすぐには思いつかないような状況であれば、それほど切羽詰まった深刻な状況ではないと思いたいのだが、それに気づいていないだけなら、いずれはそれに気づいてそれをやらなければならないと思い込んでしまってから、それを実行すればいいことでしかなく、そうなった時にはもう手遅れかも知れないし、実際にイスラエルなどでは手遅れな事態となっているようだが、それでも構わないはずがないのは誰もが承知しているだろうが、だからといってやらなければならないことを怠って今に至っていることを後悔しているかというと、もうすでに手遅れな事態を招いている中では、誰もそうは思わないのかも知れないし、何が手遅れなのかも誰も気づいていないのかも知れないが、そうなっている中でもそれをやり過ぎていることは誰の目にも明らかとなっていて、そのことについては誰もが当事者を非難しているはずで、実際に世界中から非難されながらもやらざるを得ないところが、不条理に満ちた悲惨な結果をもたらしているわけで、ちょっと何かの歯車が狂えばそうなってしまうと結果から言えることだとしても、実際にそうなってみないことには言えないことでもあるから、そんな結果がもたらされると予想していたわけでもないが、事前にそうならないような成り行きへと持って行けるわけでもないこともわかっているとも思えないが、逆に事前には予想もつかない結果がもたらされた後からそう思われてしまうことだから、何事も手遅れになってからわかると思えば、そんなことを思ってみても意味も意義もないことだとはわかるだろうが、それでもそれが中東の限られた地域でしか起こり得ないことだとしても、ああいうことは起こらないようにしなければと思うだろうし、ああいう事態には発展しないようにしなければならないと思うなら、中東のあの地域で暮らしているわけではなくても何かやらなければならないことがありそうに思われるだろうし、それがただの漠然とした気持ちの持ちようとは違う具体的な何かだと指摘できるわけでもないが、実際に世界各地の暇そうに見える学生たちの間で反戦運動のようなムーブメントが自然発生的に起こったと事態を解釈してみても構わないはずだが、それも陰謀論者にしてみれば影で操っている黒幕的な存在を妄想してしまうのだろうが、そういう存在などいないということではなく、そうなった結果からそんな存在を妄想できるという範囲内で該当する存在を特定できる人も世の中にはいるかも知れないが、そんな人とは直接には無関係なところから考察するなら、そんな出来事を通して次第に人としてやらなければならないことを意識せざるを得なくなると、そういう成り行きからもっともらしく推測できるものの、依然としてはっきりしていないこともありそうで、果たしてそれをやるのが自分に課せられた使命なのかと誰に問いかけたいわけでもないが、やらなければならないこととして意識せざるを得ないのだから、それを使命だと思ってしまうのも自然な成り行きには違いないが、たぶんそういうことではなくそれがただ単にというわけでもないが、様々な紆余曲折や面倒な事情や経緯が自らに絡まってまとわりついてくる中で、何かの偶然のきっかけのような思いがけない出来事とか現象とかが起因して、結果的にそうなってしまうと自らがとらわれている状況を認識するしかないようなことなのかもしれず、さらにそれに関して自らがとらわれている状況をもっともらしく説明できるような理屈や論理や理論などがあるとそれも信じてみたくなってしまうのだが、それを頑なに狂信的に信じるほどのことでもない程度で心理状態を保てるかどうかが、そこから先へ向かう上でそれが決定的とは言えないまでも一応は踏まえておかなければならないことになるらしく、それを狂信的に信じているように見えてしまう人や団体が、他にも大勢いるらしい安易で浅はかに見えてしまう人たちを味方につけて、理性的かつ良心的に見える人たちに対抗して見るからに強引なことをやろうとするわけで、それがいつの間にか悪どくずる賢い人たちが利用する大衆的な世論も形成するから、そこに地域的な事情や経緯も絡んでくるとパレスチナの地で起こっているような取り返しのつかない事態をもたらすと解釈できるが、それも起こってしまう事態の程度にもよるが、ああはなっていない地域の方が圧倒的に多いと思いたいし、ああいう事態の中でも否定的な部分だけを強調したい人にとっては、世界のどこでも起こり得ることとして事態をより深刻に捉えたいわけだから、そういう人たちの主張を真に受けるなら、それにつられて深刻ぶったことを述べたくなってしまうわけだが、果たして人がやらなければならないことがああいうことだけに起因して生じてくるのかというと、それもたぶん人によってはそれなりに生じてくることでもあるだろうが、自分がやらなければならないと思っていることとは微妙にずれてくるというか、ああいう事態に関わるのを避けるための方便としてそれを利用したいのかも知れず、まだそれをやらなければならないと思い込むには至ってはおらず、半信半疑のまま惰性で生きているようなことの中から生じてくることかも知れないにしても、そうなってもまだ何かやらなければならないことがあるなら、現状ではその中の一つをやろうとしている最中なのかも知れない。


6月9日「公正なやり方」

 行政がやらなければならないことは公正でなければならないと思いたいが、公正とは何かというと、特定の人や団体を利するようなことをやってはならないという理由を持ち出してそれを説明できるかというと、すでに社会の中で不利な扱いや境遇となっている人や団体が存在するなら、積極的に行政がそういう人や団体を助けるための制度を設けたり法整備して優遇すべきなのだろうが、それを不公正だと糾弾するようなことをやるのが、そういう人や団体を実際に不当に差別したり迫害して社会の中で不利な立場へと追い込んでいる一般的には差別主義者と言われる人たちだが、そういう差別主義者をやっつけることによって正義の味方を装えるとしても、果たしてそんな正義の味方的な立場が社会の中で恒常的に成り立つかというと、成り立つとしてもそんなやり方だけでは主流派にも多数派にもなれないし、主流派からも多数派からも全面的な支持や賛同を得られないが、では主流派や多数派から支持や賛同を得られている勢力とはどんな勢力かというと、結果的には支持や賛同を得られていることになるだろうが、支持や賛同を得ることが主な目的ではなく、主流派や多数派を利用してあるいは客として取り込んで、商売を行うことが直接の目的になるなら、少なくともそういうことをやっている人や団体が正義の味方である必要はなく、ただの営利目的の企業であっても何の不都合も不思議もないだろうが、そういう営利目的の企業と行政が天下りや贈収賄などによって癒着しているとなると、そんな行政は著しく公正さを欠いていると言わざるを得ないが、もちろん差別主義者と言われる人たちがそんな行政や企業を糾弾するわけがなく、どちらかと言えばそんな差別主義者をやっつけようとしている人たちが、同じようにしてそんな行政や企業も糾弾するわけで、そうなってくれば敵対関係や協力関係がはっきりするだろうが、実際には単純にそうなっているわけではなく、差別主義者の側でもわかりやすい単純な差別主義者の他にもそうは見えない差別主義者とは言えないようなわかりにくい人たちまでいるわけで、中には単純な差別主義者を糾弾する差別主義者までいるわけだから、どういう基準で差別主義者とそうでない人たちを区別するかで、はっきりした納得できる基準を設定できないようなところで、何やらもっともらしい主張を持ち出してくる人までいるから、それらの人たちを差別主義者だと一概に決めつけること自体が逆に差別を助長していると主張して、差別主義者をやっつけると称して正義の味方を気取る人こそが逆説的な意味で差別主義者だと糾弾されてしまうかも知れないから、そんなふうに事態がこじれてくるところでは、あまり差別主義者であるかないかで正義の有無を判断するのは得策ではないことにもなりかねないが、他にも様々な価値基準やそれに基づいた判断がある中で、何を優先させればやっていることの公正さを保てるかとなると、やっていることに関わってくる人たちがそういうやり方に納得できるか否かということにもなってくるだろうが、それがずるいやり方とか悪どいやり方のように感じられるなら納得できないということになるはずだが、果たして誰もが納得できるような公正なやり方によって利益が得られるかというと、直接そこに関わっている関係者の間では誰もが納得できるとしても、直接関係のない部外者から見ると著しく公正さを欠いたやり方というのが談合的なやり方になるのは確かだろうが、放っておくとそういうやり方が横行してしまうのが行政の欠陥と言えるかどうかも、社会の中で民主的な価値観がどれほど行き渡っていて、そこに制度的な裏付けもあるかどうかがものを言うのかも知れず、そういうところからその地域を統治する行政の体質に応じた社会の成熟度が測られるというと、誰がそれを測っているわけでもなさそうだが、ただ漠然とその地域に暮らしている民衆の実感となって返ってくるだけかも知れないが、それもメディアがそういう実感を民衆に向けて返してくるようなら、そういうメディアは良心的なメディアだと言えそうだが、そういうメディア上で糾弾されるのが果たして特定の個人や企業に利益供与してその見返りを受ける政治家や官僚になるかというと、そんな不公正なことが横行している中では、そういうことを積極的に報道するのがメディアの使命であってほしいだろうが、それだけがメディアの使命ではないというなら、別に使命と言えるようなものがあろうとなかろうとメディアが成り立っている範囲内で、行政や癒着している企業や政治家や官僚がメディア上で糾弾される必要はないとは言えないにしても、不公正なやり方が社会の中で横行していようとそれが無視されても構わないかも知れないが、それによって不利益を被る人や団体などが当然の権利として裁判に訴えたり行政に対して不服を申し立てて、そういう成り行きをメディアが報道することになるならそれで構わないはずだが、それを意図的に無視して報道しないメディアがあるとすれば、そんなメディアの報道の仕方が不公正だと思われるだろうし、そういうことからそれが不公正だと感じられるやり方なら誰もが明らかになる限りでそれとすぐに気づくはずだが、それとは逆にそれが公正なやり方だと誰もが気づくかというと、不公正なやり方がメディア上で糾弾されれば、そうではないやり方であれば公正なやり方だと見なしても構わないかといっても、ただ単に世の中でまかり通っているやり方が果たして公正なのかどうかということについては、それほど意識できないのかも知れないし、とりあえず許容されているやり方の中には、時と場合によっては不快感をもたらしたり納得できなかったりするやり方も結構あるわけだが、それをどう判断するのかといっても、すぐにもっともらしい理屈や論理や理論を持ち出してきてやり方の公正さを強引に主張するのもちょっと違うような気がするわけだ。


6月8日「深入りしないこと」

 何も騒ぎや混乱のどさくさに紛れて悪さをしたいわけでもなければ、できればあからさまにいい人ぶったことを述べたいとも思わないだろうが、その場に絡んでくる誰もがただ淡々と情勢分析に励んでいるとも見えないなら、その人なりの意図や思惑を抱きながらも、何かしら戦略的かつ戦術的にその場の状況や情勢に合わせて適当なことを語っているのだろうが、それを適当だとは思えないしいい加減だとも感じられないなら何なのかというと、そんなことを述べている人の意識がその場の状況や情勢と共鳴している部分では、確かにその場の状況や情勢を反映したことを述べているはずだが、その一方でその場の状況や情勢とは関係なくその人の感情や思考に宿っている論理や理屈から導き出される解釈の方向性があって、それがどんな状況や情勢であってもその人にとって好都合な一定の結論に持って行こうとする意志に結びつきながら凝り固まっていると、都合の良い部分だけを拡大解釈したり誇張したり強調することにもなるだろうから、語っている内容がそれ相応に歪んでいる印象を受けるわけだが、事実を意図的に歪曲して伝えているのかというと、それなりにもっともらしく感じられる部分ではそうとは思えないわけで、そういう部分を信用してしまうと、それにつられて歪んでいる部分も真に受けてしまうからヤバいような気もするのだが、それとこれとを混同しない知性が求められているわけでもなく、そんなことを語っている人が意識しないで抱いている意図や思惑に従うふりを装うなら、もっともらしく感じられる部分が擬似餌であると同時に、それに引っかかってその人にとって好都合な拡大解釈している部分や誇張したり強調している部分に食いついて、それを信じて真に受けてほしいわけだから、そういう方面へと人心を誘導したいと想像できるし、それに引っかかるなと警鐘を鳴らしたい人も中にはいるだろうが、それも功利的な面を重視するなら素直に引っかかってしまっても構わないのかも知れず、しかもそれが引っかかったふりをしているとは思ってはいないとしても、結果的にそうなってしまうならなおのこと好都合なのかも知れないし、それが意図せずにひっかけようとしている側と引っかかってしまったのに結果的には引っかかったふりをしているだけとなってしまっている側の双方にとって好都合だとすれば、客観的にはどうなっているのかよくわからないだろうが、案外どちらにとってもそんなことはどうでもよくなってしまうのかも知れず、何かのついでにそうなっているだけのことであり、それほど重篤化も重症化もしない程度に済んでいることになるから、知らないうちにそれに対する免疫や耐性もついてくるから、すでに動じなくなっているわけで、その場の状況や情勢や成り行きが双方に対してそうなるように仕向けていると解釈できないこともなく、そうなってしまうことも含めてその場の状況や情勢や成り行きだと解釈するなら、それで構わないようなことなのかも知れないが、それでは納得できなくなると、さらに深入りして信仰の世界へと向かう人まで出てくるとしても、功利的な観点からすれば深入りしないに越したことはなく、そんな態度では大した利益は得られないにしても逆説的には功利的な観点に従っていて、結果的に大やけどしない程度で済んでいればそれで構わないようなことになってしまうのだが、それが戦略的かつ戦術的な効果をあげていることになるのかというと、戦略や戦術を意識しない状態を維持できればそうだと言えそうで、それもどちらかと言えば逆説的な態度にはなるだろうが、なぜそうなるのかと問うなら、すでにそんなことを仕掛けている人や団体のペースに巻き込まれているから、否応なくそうなってしまうというと、そこから逃れる術がないような成り行きが想像されてしまうが、逃れられなければできるだけ深入りせずに、ヤバくなったらいつでも逃げ出せる姿勢を保ちながら付き合って行くしかなく、彼らが操る擬似餌に引っかかったように振る舞うしかないわけで、その際には演技だと悟られないように立ち振る舞う技量が求められるにしても、努力してそんな技量が身につけられるわけでもないし、自然に身についた程度の技量で済むならそれに越したことはないわけだが、そういう面も含めて深刻な事態にならない範囲内で可能な演技になるが、本当にヤバくなったら付け焼きの演技など通用しないから、全力でそこから逃げ出さないと取り返しのつかない悲惨な結果となってしまうのかも知れないが、それもそうなるまでがそれなりに面倒でややこしい紆余曲折も伴ってくるから、大抵はそうなるには至らないうちにどうにかなってしまい、結果的には取り返しのつかない事態が回避されてしまう可能性も高いわけだが、だからいつも煮え切らない態度で中途半端な妥協を強いられるような結果へ落ち着いてしまうことも多いのかも知れないが、それが功利的な観点からすればはっきりした成功にも失敗にも至らないようなほどほどの程度に済ませて、現状の延長線上で自身の状態をとどめておくための秘訣だと言えなくもないにしても、それでは絶えず不満がつきまとってくるから、身の程知らずな誘惑にも絶えずつきまとわれて、それが何かのきっかけから感情が爆発して思いがけないところで暴走や逸脱などが突発的に起こってしまうと、その先にどういう事態が待ち受けているかは神のみぞ知るようなことにもなってくるだろうが、果たしてそんなことまで考慮に入れながら行動したり言動が伴ってくるわけでもないから、現状でそうはならない程度で済んでいるなら、それで構わない状況や情勢の中で生きていることになるのではないか。


6月7日「悪どさの限度」

 わざと世間の良識に逆らうようなことを述べたいわけではないが、それでも結果的には逆らって、世の中の広範な支持を得られないようなことを述べたいわけでもないのだが、それにしてはあからさまに悪どいことをやっているのがバレバレな人たちが広範な支持を得られている現状があると、そういう人たちを支持しているように見えてしまう大衆的な存在が馬鹿なのではないかと思ってしまい、それが勘違いの原因だとは思えないから、ますますそういう成り行きに対する疑念が深まってしまうのだが、それに対して安易にそういう悪どい人たちには騙されるなと警鐘を鳴らす行為も何の効果も得られないことが明白な現状でもあるから、客観的な状況証拠があるわけではないのだが、世間の一般大衆がメディアに洗脳されているわけでも騙されているわけでもなければ何なのかというと、まさに悪どい人の代名詞のような人が日本の総理大臣になったり東京都知事や大阪府知事になったりする成り行きを肯定的に受け止めることは不可能だとしても、逆に清廉潔白な正義の味方のような人がそういう役職に就いてしまうと困るような事情があるのではないかと間違った意味で穿った見方をするなら、それまでにやってきた数々の悪行三昧が世間の一般大衆から認められたからこそ、民主的な選挙を経てそういう役職に就けると解釈したくなってしまうのだが、もちろんいったんそういう役職に就いたからには、さらなる悪行三昧に精を出して良心的なジャーナリズムから苛烈な批判や非難を浴び続ける必要があると解釈しても構わないのかというと、それが間違った意味での穿った見方になってしまうかも知れないが、結果論的にはそうなっている理由を想像してみると、世間の良識的な価値基準から判断するならやっては行けないことを、いかにして多数派から支持や同意を得ながら、しかも良心的なジャーナリズムから苛烈な批判や非難を浴びせられながらもやり切ることができるかが試されていて、それをやり切れる人がそういう役職にはふさわしいと逆説的には見られていて、なぜそういうことをやらなければならないのかというと、それがディープステートの意向だとかの陰謀論的な理由とはそれなりに重なる部分もあるというと、さらに怪しげなことを述べるような成り行きにとらわれてしまうが、少なくとも政治と経済が連動している面では、良識に反するような悪どいことをやらないと利益を得られないという事情があるかも知れず、しかも悪どいことをやりながらも直接には罰せられないグレーゾーンにとどまっていなければならないような微妙な立ち位置を絶えず要求され続けるから、それを誰が要求しているわけでもないところが、それを要求しているのがディープステートだと言ってしまう陰謀論者とも、微妙に立場を異にしていることが求められているといっても、それも誰が求めているわけでもないのだろうが、彼らを影から操っているような黒幕的な存在を仮定してしまうと、途端にフィクションとなってしまうから、それだけ現実の世界の特性や特徴が陰謀論的なフィクションとは微妙に違っていると認識したいところだが、それについては何もはっきりした確証も根拠も提示できるわけでもないから、ただ世界の現状をそう受け止めているに過ぎないとしても、彼らも彼らなりに自分たちが占めている地位や役職に何が何でもしがみつきたいとは少しは意識しているどころか、それがありとあらゆる手を尽くして死守しているように見えてしまうにしても、その姿が見苦しいのは誰もがそう感じるところだが、それと共にそういう人たちを擁護するメディア関係者も見苦しいのだが、時としてそういう人たちが繰り出す嘘やデマや言いがかりや誹謗中傷などの否定的で攻撃的な言動の中身が、世間の一般大衆の本音とも重なる部分でもあるから、普通に世間を味方につけてそういう言動が繰り出されていると見ておくしかなく、もちろん同時にそういう世間から絶えず批判や非難を浴びせられているはずなのだが、その辺がどちらの面も同時並行して進行中だと事態を捉えるしかないが、それが今回の東京都知事選挙に立候補予定の蓮舫にもそれらの人たちと同じ匂いを嗅ぎ取っているのに、蓮舫がいかにも清廉潔白な正義の味方のような立ち位置も占めようとしているように見えてしまうから、世間の一般大衆の中の悪どい役割分担の人たちにとっては許せないと感じられる面でもあるのかも知れないが、それも間違った意味での穿った見方や成り行きの捉え方でもあるから、もっとビジネスライクにというか、否定的な感情を排して政策提言の類いや現職の都知事が何をやってきたかで判断すればいいことではあるにしても、一般の大衆がそういうことには一向に興味が向かない代わりに、いつもながらの嘘やデマや言いがかりや誹謗中傷の類いを聞いておもしろがっているようなら、いつもながらの結果に落ち着いてしまうような気がするものの、さすがに今回ばかりは馬鹿の一つ覚えでは済まないような情勢だとは思いたいのだが、それに関して何か危機感のような切羽詰まった感触にとらわれているわけでもないから、情勢を楽観視してしまいそうになっていて、そこに油断が潜んでいるといっても、いつものように投票に行くだけの存在でしかなく、どういう結果になろうと何でもないとは思わないが、そういう役職には悪どい人しか就けない現状を変えて欲しいとは思うにしても、別に見るからに清廉潔白で正義の味方のように見える人など現状の世の中には誰もいないとも思っていて、蓮舫という存在が感情的に許せないと思っている人も世の中にはいくらでもいるとは思うが、それもたぶんそう思っている人にとっての都合の良い結果になるのは何としても避けた方が良さそうな気はするわけだ。


6月6日「少子高齢化の効用」

 あえて巷で言われているのとは逆のことを述べたくなるのは、そんな気がするからといういい加減な理由からだが、例えば少子高齢化という現象が否定すべきことでも政治や行政への批判に利用されるべきことでもないとすれば何なのかというと、そんな世の中の傾向を肯定せざるを得ないと思うなら、肯定できる理由をあれこれと考えたくなってしまうわけだが、人が贅沢になったと思うなら世の中で蔓延しているらしい貧困を無視していることになるかというと、富裕と貧困が表裏一体の現象と捉えるなら、人が贅沢になったから少子高齢化が促進されたわけではなく、人の贅沢化と少子高齢化が一体となった現象として把握した方がしっくりくるかも知れず、それらが一体化して進行している中で政治的な目的となると、否定的に捉えられる少子化と貧困化だけ何とか解決したいわけだから、それでは虫のいい話になってしまうわけだが、一般の人たちが少子高齢化に対応しなければならないのはもちろんのこと、対応するだけではなく、少子高齢化を利用しなければならないというと老人を騙して資産をむしり取る行為を連想させるが、老人自身が少子高齢化を楽しまなければならないと言われる以前に楽しんでいる人もそれなりにいるだろうが、それが社会主義や共産主義なら、結婚して子供を産むのが大人の義務だと決めて、結婚や出産を人々に強要できるかも知れないが、そうするには政府による制度的なサポートが必要となってくるから、行政的に少子化を解決するには社会主義化や共産主義化が必要になってくるだろうが、現状の世界情勢から推測されることは、そういう傾向とは真逆へと進行中らしく、そういうのは政府のやることではないと責任を放棄した方が無難な気もするわけだが、それでは政治的な目的とは合致しないどころか、そういう姿勢が批判されてしまう傾向にあるから、例えば立憲民主党の政策的な傾向となると、それをマイルドな社会主義というと語弊があるだろうし、まだ政権を取ってもいないうちから立憲民主党の政策を批判するのはまずいし、意外と今後立憲民主党が政権を取ってそれなりにうまく行く可能性も高そうだから、批判するならそうなってから批判するしかないにしても、それも世界的な傾向なのかも知れないから、政治的にはマイルドな社会主義のような方向が目指されてはいるものの、果たしてそれが20世紀の社民主義に似ているのかというと、すでに社民主義自体が時代遅れとなっていて、もちろん20世紀の新自由主義も同じように時代遅れなのかも知れないが、世界の中で比較的平和な地域では少子高齢化と富裕化と貧困化が同時進行で進んで行く傾向に歯止めがかからないのかも知れず、政府がそれに対してそれなりに対処や対策を施すのも行政的な傾向としてはそうなるのも当然だろうが、それ以前に保守派の政治家の嘘やごまかしや詭弁やデマや煽動や誘導や脅し文句を受け流し過ぎているから、そういう苦し紛れの悪あがきに慣れてしまっていて、政治的にはどうにもならないことを多くの人々が悟っているのかも知れず、だから妥協的に導き出される選択肢として否応なく行政的な傾向としてマイルドな社会主義的な政策をとらざるを得ず、もちろんそれと同時に資本主義市場経済が機能していて、市場経済がもたらす弊害に嫌でも行政が対処することになるのだが、それがうまく行こうが行くまいが継続的に対処し続けることになるのだろうが、そうなっている限りでそれなりに世の中の平和が保たれるわけで、束の間の均衡が崩れると平和が戦争状態へと移行するのかも知れないが、とりあえずまだそうなっていない地域では束の間の均衡状態をできるだけ長引かせるように政府が焼け石に水的な政策や対策を施すと解釈しておけばいいか否かはよくわからないが、それなりに行政を制御しようとする政治家の欺瞞や偽善を一般の民衆も共有しているだろうから、あまりにも正義の味方のように振る舞うのもちょっと勘違いのような兆候を感じてしまうなら、許容できる限度を良識が許す範囲内にとどめようとするのも当然だが、それもたぶん行政的な強制力を伴って直接市場に働きかけたり少子化を改善しようとすると、一般の民衆からの反発を招いて失敗するだろうから、働きかけるならあくまでも間接的に働きかけるより方法がなく、それも回りくどくわかりにくいと民衆からの支持を得られないから、補助金や交付金などのあからさまに金で解決しようとする傾向もちょっと違うような気もするわけで、そういうところで微妙に政治的な思惑からも民衆の意識からもずれてくるやり方が求められているというと、誰もそんなことは求めていないと言われそうだが、結局は誰も求めていないようなそれと気づかれないようなやり方でやらないとうまく行かないというか、必ずしもうまく行かなくても構わないなら、いったい何の思惑があってこんな意味や意図のよくわからないことを述べているのか自分でもわからなくなるが、それとは逆にわかりやすく単刀直入なことを主張するなら山本太郎やれいわの政治家たちが主張するようなことを述べればいいわけで、それではまずいとも思えないだけに、その辺も自分でもよくわからないのだが、ただ単に彼らとは立場が違うというと身も蓋もなく、さらに意味不明になってきてしまうから、なるべくそういうことは言わないように配慮したいのだが、それでも自らの置かれた状況を見誤りながらも何か適当でいい加減なことを述べる必要に迫られていると勘違いしているなら、結果的にそうはならないかも知れないが、要するにさらに少子高齢化を助長するようなことをそれに反対する人々を押し切ってやらなければならないのかも知れず、それが逆説的に問題の解決をもたらすとは思えないところが微妙に肯定し難いのだが、それでも人々の生き方や暮らし方の自由を最大限にもたらすように配慮しなければならないとは思っているわけだ。


6月5日「迷走する原因」

 迷走というと何が迷走しているのかはわかっているつもりだが、迷走せざるを得ない成り行きなのだから、仕方がないのかも知れないし、迷走していると批判するのも、批判になっていないような気がするわけでもないが、そもそもデマを言いふらすことしかできない人たちなのだから、まともな中身が伴っておらず、そんな人たちを支持している人たちも頭がおかしいと言わざるを得ないとしら、彼らの自業自得なのだから、迷走しているのも当然の成り行きだと思うだけで、それ以上に何がどうなっているわけでもないのだが、そういう意味では迷走していることについては何の問題もないと認識しておいても構わないのかというと、中にはそんな迷走状態を批判する物好きな人もいるらしく、そんな物好きな人を支持するわけにも行かない理由があるわけでも、どちらを批判するとかどちらの味方にもなれないわけではなく、どちらかといえば迷走している人たちとは距離を置いて、それを批判する人たちとも距離を置いて、では何を言いたいわけでもないのかというとそうでもなく、できれば迷走している原因を指摘したいのだが、その原因が迷走している人たちにはないとは言えないだろうが、他に原因があるかというと、それらの人たちを迷走させている成り行きがありそうで、彼らが迷走せざるを得ないような成り行きになっているのはどういうわけなのかといえば、他の誰が彼らを操作しているわけでも導いているわけでもないとすれば、彼らがそうなるように仕向けているのは誰でもなく、彼らが勝手にそうなっているに過ぎないと見ておいても構わないが、彼らがそうなるように材料やきっかけを提供している人たちも他にいるかも知れないと思うなら、当然それが彼らがデマを言いふらす対象となる人や団体だと思っておけばいいことになるだろうが、たぶんそれが日本だけでなく、世界的にそうなろうとしている傾向の中に身を置いている人や団体なのかも知れず、しかもそれらの人や団体も彼らと同じような傾向も持ち合わせているから、というかまるで近親憎悪のようにいがみ合う兄弟のような存在だとも言えるわけで、どちらにもそれなりに批判できる面があるからどっちもどっちというわけではなく、それもどちらかというと世界的にそうなろうとする傾向に導かれている側の方に分があるから、そちらの方が有利というか、そもそも有利不利という情勢判断が歴史的な時間経過に従って次第にそちらの方へと有利さの度合いが増加傾向にあると現状を捉えておくのが無難かも知れないが、なぜそうなって行くのかというと、現状で不利に傾いている側が苦し紛れに繰り出すデマや嘘の類いが次第に世の中で通用しなくなりつつあると認識できそうで、その程度のことなら簡単に理解できるのだが、そうしたデマや嘘や言いがかりの類いをスルーしながら彼らを許容して受け入れてきた人々の立場というのも、現状が変わりつつある成り行きの中では次第に形骸化しつつあることを世の中のどれほどの割合の人が理解しているかというと、まだほとんどの人たちが理解していないどころか、理解しなくても構わないような心理状態になっている可能性もあるから、そういう面まで考慮に入れるなら、世界的にそうなろうとしている傾向に導かれている人たちの方が有利だとは言い難いかも知れず、そんな現状の中で次第に不利になろうとしている側の人たちがそういう成り行きの中で激しく抵抗しているのかというとそうでもなく、特に目立って激しい抵抗活動が繰り広げられているわけでもなく、それもどちらかというと無駄で無意味な悪あがきの類いだと楽観したくなるのだが、油断は禁物で、別に誰が油断しているわけでもないのだが、次第に有利になろうとしている人たちがやろうとしていることも、現状の世の中では必ずしもうまく行くわけでもないと予想されるから楽観できないどころか、お先真っ暗というわけでもないにしても、それなりにひどい結果を招くことも想定しておかなければならないとは思うが、それも別に覚悟ができているわけでもないから、うまく行かなければ落胆すればいいのかも知れないが、そうなってからそら見たことかと言い放つ人もいくらでも現れるだろうが、そんなことをこれ見よがしに言い放ってしまう人たちもうまく行く方法を知っているわけでもないから、お互い様だと思うしかないにしても、たぶんそれで構わないわけで、現状の成り行き自体がそれで構わないような成り行きになりつつあるわけで、そうなる方向に沿ったことをやって行けばそれで構わないようなうまく行かない結果がもたらされて多くの人々の落胆をもたらすのかも知れず、そういう経過の中で今も多くの人々がうまく立ち回ろうとして、あれやこれやと試行錯誤の最中にあるから、それを高みの見物するような立場などあり得ないし、誰もがうまく行かない成り行きにとらわれながらも、各々がそれなりの生活や活動に心身を費やしているわけで、それがうまく行かないから迷走と見えてしまうとしても、その全てを否定的に捉える必要もないのかも知れず、大抵は誤解に基づいているから、それを二者択一問題だと誤解していると思っておけばよく、例えばそれが保守と革新のどちらを選ぶとかハードウェアとソフトウェアのどちらを選ぶとか、両者が混ざり合っていることを考慮できない人が一方を強調する傾向となってしまって、結果的に選べないものを選んだつもりになるから誤解が生じるわけで、それに関して最近のわかりやすい事例を持ち出すなら、トヨタとテスラが同じ土俵の上で競争していると誤解している人がとらわれている傾向というのが、保守的でハードウェアな方面を強調する傾向にあるわけだが、それが彼らの頭の中では二者択一問題を構成しているから結果的に誤った方向へと他の多くの人々を誘導するような成り行きをもたらしているわけだ。


6月4日「転換点という安易さ」

 何かそれらしいことを語るきっかけを求めて、現状が何かの転換点に差し掛かっているらしいと指摘するのも毎度のことのようにも思われて、それが何の転換点なのかがわからないわけではないところもいい加減な指摘に結びつきそうで、何でもいいなら転換点でも何でもないことになってしまうが、結果的に何かそれらしいことを指摘できるならそれでも構わないようなことだとしても、無理やりそう思い込むのもちょっと違うような気もしてくるから、まずはそれが何の転換点なのかを明らかにしなければならないとは思うのだが、それも安易に政治の転換点なのか経済の転換点なのかがわからないというわけでもなく、結局それもどちらの転換点にもなるから、それも安易な指摘になるのもわかりきったことだが、実際には転換点でも何でもなく、政治も経済もこれまでの延長上で物事が動いているに過ぎないし、そこに転換点という気休めを持ち込んで、何かそれらしいことを述べたい気持ちもわからないではないが、果たしてそういう安易な発想を戒める必要があるかというと、その必要もないのに戒めるようなことでもなく、では戒めない方がいいかというと、戒めるというよりは咎めるというわけでもないとすれば何なのかと問われてもよくわからないようなことなのかも知れず、少なくとも今が転換点だと思い込まないと積極的に動けないなら、それが焦っている証拠かも知れないが、状況を無視して恣意的に転換点を定めるのもおかしいなら、何かはっきりそれとわかる根拠がほしいわけだが、それがわかったら苦労はしないし、誰もがわかるような兆候があるとすれば、すでに誰もが動いているはずで、誰もが動いていることがその兆候だと思うなら、すでにその時点で出遅れているわけだが、誰もそれを察知していない時点で動き出さなければならないなら、実際に他の誰よりも先んじて動き出そうものなら、それ自体がフライングでしかなく、ただの勘違いに過ぎなかったことが後からわかるかも知れないが、それでもその場でまかり通っているらしい理屈や論理や理論の類いを無視するわけにも行かないから、それらを念頭に置いて理由づけや裏づけが後付け的に可能な範囲内で動くしかないだろうから、何やら多くの人や団体がその場の成り行きにとらわれながら動いている中で、そういう成り行きの裏をかくとか、それらの人や団体を出し抜くとか、やろうとしているのがそんなことでしかないなら、それも何やら志が低すぎるような感じがしないでもなく、もっと何か自己犠牲的な姿勢や態度で世のために人のためにしてやれることがあるはずだと思いたいわけでもなく、それが自己中心的で傲慢な思い込みだと逆説的に理解したいわけでもないし、自然と心理的にも経済的にもその場の成り行き的にも、そういうことをやろうとしてしまう人や団体が登場してくるような理屈や論理や理論が状況的にも時代的にも語られるような雰囲気や兆候を感じとっているわけでもないのだが、もっと浅はかで思慮が足りないことについては、いつものように批判しやすい傾向の範囲内では批判されているにしても、果たしてそれで間に合っているのかというと、たぶんそうではないとは思いたいのだが、実際には間に合っていて、他に何が批判されているわけでもなく、誰もがわかりやすい範囲内でわかりやすい批判がまかり通っているのだから、それで構わないと思うしかなく、何もそこで事を荒立てる必要も感じないし、そういう方面ではそれで構わないことにしておきたいのだが、では本当に今が何かの転換点であるなら、今後それではまかり通らないことになるのかというと、そんなことは現時点でわかるはずもないが、たぶん今後はそれでは通用しないような状況へと持って行きたいと誰かが考えているわけではないとしても、自然とそうなってしまうようなら、そうなってしまった時点から振り返れば、今がまさに転換点だったことが後からわかるような結果になると今ここで予想したいわけだが、誰もそんなふうには持って行けないところで、それも自然の成り行きでそうなってしまうとすれば、そこに介入してくる人や団体がそうなるように状況を持って行こうとしているのとは、ちょっとずれた感じでそうなってしまうと思っておいても構わないだろうが、そのそうなってしまう結果というのが、そこに介入してくる人や団体の意図や思惑や意向とはちょっと違う感じになってしまうところが現状からは予想も予測もできない結果なのかも知れず、要するに誰もが予想も予測も予言もしなかったような思いがけない結果がもたらされることを期待してしまうのだが、そんな期待も外れるような結果がもたらされるとすれば、それが現状の延長線上でもたらされる結果であり、何やらそれがありふれたつまらない結果だと思ってがっかりしてしまうと、それがなぜか思い違いの勘違いであるかも知れず、そこから微妙にずれていて、そうではない傾向があることに気づけないわけで、それが今も誰も気づいていない現状の傾向だというなら、何となく納得できないような気もしてくるが、誰もがそこで安心して気を抜いたところで突然の予期せぬ状況の急変や激変や成り行きのどんでん返しが起こると予想できるわけでもないが、それを期待している時には起こらず、忘れた頃に何の前触れもなく起こるから驚き唖然とするわけだが、そうなることを期待すると期待外れに終わってしまうから、そんなことは期待しないで、あくまでも現状の延長上で起こりそうなことを予想したり予測しておけば、そんな予想や予測から微妙に外れて、外れたことの言い訳もそれなりにもっともらしく思えるような結果がもたらされたと思っていれば、気づかないところで別の何かが起こっていて、それが思いがけず忘れた頃に意外と深刻な作用や影響を世の中に及ぼしてくるわけだ。


6月3日「臆病風に吹かれて」

 マジックの種明かしというと、なるほどと思う反面、仕組みや動作がわかってしまうとちょっとがっかりするような反応を想像してしまうが、それと同じことだとは思えないにしても、これ見よがしにネタばらしをする人が得意になっている心理状態もちょっと嫌味な感じがしないでもなく、その場の状況やそれをやる事情やそこに至る経緯にもよるだろうが、その手の行為を嬉々としてやってみせる人には謙虚さが欠けているような気がするのだが、それに関連して何か気になったことを思い出そうとして、いつものようにもう少しというところで思い出せなくて焦ったくなりながらも、そこから思考の方向を変えて、嫌味な人とは違う傾向の何かを語ろうとしているのかも知れず、それもいつものように何を述べているのか述べている途中の段階では意図がよくわからないから、何を意図して述べているいるわけでもないのかも知れないが、そこで気になったことというのが、現実に起こっていることがフィクションの中で語られていることに先行しているのは当然と言えば当然で、それがフィクションの種明かしやネタばらしに結びついても何の不思議もないわけだが、どんなにフィクションの中で荒唐無稽なことが語られていても、そんなフィクションを思いつくに至った原因となる現実の出来事が特定されれば、興醒めとなるわけでもないにしても、なるほどと思う反面、ちょっとがっかりするような気分となるかならないかは、そのネタばらしの内容にもよるだろうが、逆にこれ見よがしとは感じられないような現実に起こったちょっとした出来事の方が興味深く感じられるかも知れず、そこからデコレーションケーキのようにして大げさな嘘をてんこ盛りにして構成されたフィクションの荒唐無稽さが際立たせる作者の誇大妄想が、結構ありふれた陰謀論を連想させるようなら、張子の虎というか、かえってみすぼらしい印象を伴ってくるかも知れないが、しかもそれを利用して人々の関心を物事の本質から遠ざけるような意図が感じられるとしたら、その物事とは何なのかについて興味が向いてくるが、そこに興味や関心を向けさせたい側としては、それによって世の中の常識をひっくり返したいと意図するようなことかも知れないが、どうしてもそれが何なのかがよくわからないわけで、そこに示されている物事をそれとして認識できないとしたら、なぜそうなってしまうのかについても説明しなければならなくなるかも知れないし、その説明が嘘っぽく思われるなら、それ自体を信用していないことになってしまうが、そんな不信感を抱かせるような物事とは何なのかというところで疑念が募ってきて、どうしてもそこから先へと一歩が踏み出せないわけだが、自分がその先へと向かうのを躊躇しているとしても、そんな臆病風に吹かれて引っ込み思案の自分とは違って、その先へと踏み込んでしまった人が今後どうなるかにも興味があるから、否応なく関心がそこへと向かってしまうわけだが、それがそんなに大げさなことかと言えばそうでもないようにも思われてくるから、何がそうでもないのかというと、実際に多くの人々がそうなってしまっていることで、そうなったからといって取り立てて何がどうなったわけでもないようにも思われるから、そうなってしまった人々を悪く言う気にはなれないし、逆にそうなるのを躊躇している自分の方がまずいのではないかとも思われるから、なぜ自分がそうなれないのかについては原因も理由もわかっているつもりだが、そんなことよりは優先すべきことがあるというと、そうなってしまった人々を馬鹿にしていることになるかというとそうでもなく、人それぞれでやるべきことが異なるといっても、やるべきことをやらない理由もそれを躊躇する原因も違うのも確かだが、やろうとしているのになぜかそれをやるのを思いとどまっている分だけ、そこから一歩も先へと進めないと思っているのが勘違いであるなら、たぶんそれとは別の方向へと向かっていることに気づかないのかも知れず、気づいてしまうと向かうのをためらってしまうから、わざと気づかないようにしているわけではなく、むしろ一刻も早くそれに気づきたいのに、一向に気づかないのはどういうわけなのかというと、意外と他の多くの人々もそれに気づいていないのかも知れず、気づいていないからこそ、多くの人々がそこから先へと踏み込んでしまって、まさか踏み込んだところが入ったら最後抜け出すことができない底なし沼というわけでもないはずだが、とりあえず自分は頭の中で警告音が鳴り響いているから、そこから先に踏み込むのを躊躇せざるを得ないわけで、それが何に気づいているのか自分ではよくわからないとしても、そこで自分の勘を信じてしまい、実際にその先へと踏み込むことを躊躇しているわけだが、果たしてこのままでも構わないのかというと、たぶんその時期が来たらその機会を捉えて直接の行動に出るような気もするわけで、それが今ではないのかと絶えず自らに問いただしているわけでもないが、そうなれば自然に動き出すような気がするから、今はその時が来るのを待っていればいいような気もして、それが勘違いである可能性も高そうで、本当に臆病風に吹かれてその機会を逃しているのかも知れないし、そうかといってそれほど焦っているわけでもないというのも嘘には違いないのだが、そんなことを思っているわけではなくても、気がつかないところで心身が何かに反応して、それなりの行動が伴っているから今の状態があるような気もするだろうし、そういう面では極めて順調に事が運んでいると思っておけばいいような状況なのかも知れないが、それも実際にそうなってみないことにはよくわからないわけだ。


6月2日「血迷った実感」

 単純に世間で信じられているらしいことをそのまま肯定してみたり、あるいは逆説的に皮肉な結果がもたらされるのを否定的に捉えてみたりしても、本当のところはよくわかっていないのだが、たぶん何となく確率的にそうなってしまう可能性が高そうに感じられるから、それが確からしいとしか思えないようなことなのに、それに基づいてそうだと断言してしまうと、何かそれが違うような感じがしてしまうのだが、そうだと断言してしまって後には引けなくなってしまう成り行きもありそうで、そうなってからしまったと悔やんでも後の祭りで、後悔先に立たずな結果を招いてしまうから、それが何かの罠なのではないかと、あくまでも不用意な断言をしてしまった自分は悪くないと言い訳したくなってしまうのかも知れないが、何を断言してしまったのかといっても、今さらそれがわからないでは話にならないが、ごまかしようのないことを不用意に言い放つのはまずいと思うが、そういう不用意な断言をしそうなのが蓮舫という人に絡みついて離れない世間的なイメージなのかも知れないし、だからといって蓮舫が馬鹿なのかというと、蓮舫の取り巻きやブレーンや神輿に担いでいる人たちの中にもそれなりに知恵者の助言者がいるかも知れないし、人望がないわけではないだろうし、蓮舫本人も過去に犯した過ちからそれなりに学んでいるだろうから、そうやって上から目線で蓮舫を軽く見るのもちょっと違うような気がしてしまうのだが、そういうことよりは誰が都知事になったところで、それなりにやれることとやれないことがあって、それは石原慎太郎にも猪瀬直樹にも小池百合子にも同じようにやれることとやれないことがあったのだろうが、その延長上で蓮舫のやれることとやれないことが他の保守的な支持層をバックにつけて知事職を勤めてきた人たちや官僚あがりの秀才馬鹿たちとは違うのかというと、少なくとも蓮舫を支持している人たちはそれらの人たちとは違うことができると期待しているだろうし、蓮舫自身もそういうことをやろうとするだろうから、何かと軋轢が生じることは目に見えているが、それが蓮舫が知事になっただけではそうなることが目に見えているとしても、政権交代も同時進行で起これば、だいぶ世の中の状況が変わる可能性が出てきそうに思われるだろうし、そうなることも期待して多くの人々が蓮舫を支持するのだろうが、もちろんそれでも大多数の有権者は投票にも行かないだろうし、表向きは無関心を装うことも目に見えているだろうが、その程度のことと言ってしまうと、他の個々の市民が関心を持っていることもその程度のことに過ぎないわけで、だからといって選挙を無視するわけにも行かないし、それよりは蓮舫が知事になっては困る人たちの嫌がらせのいちゃもんつけに過敏に反応して、それらの人たちを罵倒したくなってしまうから、そんな成り行きにとらわれてしまう自らを愚かだと思う反面、今はその程度の愚かさに塗れていても構わないとも思ってしまうのだから、なぜそう思ってしまうのかもよくわかっていないのではなく、わかってはいるがそれを言わない方が無難なような気もするから、それを言語化するのはこれから起こるだろうことが一通り起こって様々な物事が一段落ついてからでもいいような感じなのかも知れず、そんな一連の過程の中で今起こっていることもその出来事の一部として進行中だと思うしかなく、だから取り立てて蓮舫がどうだとか言いたいわけでもないのだが、それを肯定も否定もしたくはない代わりに、それに関連して何が起こるかに関心がないわけでもないが、もうすでに起こりつつあることとしてそれが起こっている最中だから、それに関心を持っているのかも知れず、それもうまく言語化できないようなことであるから、無理にそれについて述べようとすれば、否応なく的外れなことを述べてしまうかも知れないし、それでも構わないのかも知れず、そうならざるを得ないこととして適当に勘違いなことを述べるなら、ネトウヨや統一教会をはじめとするクズでゴミな人たちが世の中から一掃されて、世界が良心的な左翼やリベラル一色に塗りつぶされるわけではないが、それを左翼だともリベラルだとも思わない人たちが主流な層を構成するような世の中が到来しかかっていると言えるのかも知れず、では現状で主流な層を構成している保守的な傾向の人たちがどうなるのかというと、すでに跡形もなく消失しつつある最中だと認識できるかというと、誰もそうは思っていないだろうしメディア上でも相変わらず保守派が幅を利かせているように装われているのだろうが、それが装われているとも思っていない人たちが世の中の多数派を構成しているようにも感じられるだろうし、そう感じられること自体が意識の空洞化に気づいていない証拠であり、もちろん空洞化しているのはそれらの人たちの意識であると共に、それらの人たちの生活そのものでもあるから、そんな生活に十分に慣らされているから何とも感じないのだが、たぶんそれが二千二十年代から顕著になったことでもあり、世界的な流行現象の中でそんな傾向が顕著になっているのに、それに気づかせないように、どちらかと言えばそちらの方へと大半の人々の関心が集中する成り行きになったからこそ気づかないような都合の良い結果をもたらしたのかも知れず、だからそのおかげでネトウヨや統一教会のアホな野望や目論見が脆くも崩れ去ったと見るのもまだ早計だが、果たして本当にこれから左翼やリベラルの天下になるかというと、まだ誰も信じないし、本当にこれからそうなっても誰も信じないだろうが、それを信じさせないようにしているのが蓮舫如きに目くじらを立てるメディアやそこに登場するクズでゴミな人たちの馬鹿さ加減や頭の悪さだと言い放つ勇気も愚かさも持ち合わせていないが、そんな気がしてしまうのも一時的な気の迷いが招いた自らの無神経さだとも思えないわけだ。


6月1日「資本主義と経済成長」

 それについて現状でわかっていることが自分にどう絡んでくるとも思えないなら、自分が当事者ではなく第三者的な立場になっているのかというと、何をわかっているかにもよるだろうが、少なくとも自分がその件については当事者ではないとしたら、もしかしたら第三者的な立場でもないのかも知れず、それでも何を傍観しているとも思えないし、少しはそれについて言及しているのだから、ちょっとだけ関わりがありそうな気もするのだが、当事者でも第三者でもなければ傍観者でも野次馬でもないのかも知れないし、無関係なのにそれについて語るのかというと、たぶんそれについては語らずに他の何かについて語っているのであり、それが資本主義だとか経済成長だとかとは無関係なら、では何についてちょっとだけ語っているのかというと、例えば人の心理状態について語っているとしたら、それがちょっとだけ気になるから何となく語っているつもりなら、それとこれとを強引に結びつけようとすれば、例えばAI機能を伴った人の心理状態を読むような会話システムがあると想像して、果たしてそれがどうやって経済成長をもたらすのかと問うなら、何やら荒唐無稽なことを妄想しているような気もするわけで、それだけでは何の経済効果も期待できず、もちろんそれだけでは効果が期待できないから、わざわざAI機能がどうたらこうたらと詐欺的な人を騙すようなことを述べようとしているのかも知れず、それが経済成長とどう関係してくるのかといっても、それが売買や貸借などの経済活動に結びついてくれば、結果的に経済成長をもたらすかも知れないし、果たしてそれらの経済活動が活発化する必要があるのかといっても、他人が何を買おうが売ろうが貸そうが借りようが、そんなことにはそれほど関心がないというか、それが自分に直接関係してくることなら、嫌でも場合によっては関心を向けざるを得ないだろうが、たぶん人の事情や経緯が許す限りで必要に応じて経済行為や経済活動が行われればいいことであって、経済成長そのものが必要というわけではなく、結果的に経済活動が活発化して経済成長がもたらされるならそれでも構わないだろうが、必要もないのに人為的に経済成長を促すようなことをやらざるを得ないのかといっても、それは本末転倒のようなことなのかも知れず、だとしても政治宣伝としては人気取り目的でそんな構想をぶち上げてみたりしながら、何かやっているように装わざるを得ないだろうから、そういうところを見透かされている面もありそうなのだが、では本当のところは何をやればいいのかといっても、そこに参加する人や団体が納得できるようなルールを設けて、そんなルールから逸脱することをやっている人や団体を取り締まればいいだけのような気がするのだが、それも言うのは簡単で、ルールを設けるのもルールを破った人や団体を取り締まるのは簡単ではないわけだから、そういうことをちゃんと実行できるかどうかで良し悪しを判断してほしいわけで、政治や行政などができるのはその程度のことだと思うが、それも政治宣伝がしたい側としてはできないことまでできるかのようなことを言わないと宣伝にならないわけだから、あることないこと織り交ぜて勝手にできるかのように宣伝するだろうが、確か十年近く前にピケティが自著の中で述べていたことを思い出すなら、資本主義経済が進展して行って成熟するにつれて、国民総生産などの経済成長から得られる収入よりも、利子や家賃や株配当などの金融的な収入の方が上回ってしまい、そこに資本主義経済の限界があるというようなことを述べていたような気がするのだが、それに関してはアメリカなどは勝手に移民が流入してきてしまうから、それによって持続的な経済成長が実現するような皮肉な結果がもたらされている一方で、そうやってアメリカに人口を奪われ続けるグローバルサウスの国々では、なかなか貧困から抜け出せないような不条理に直面することになるのだろうが、それらの貧困国が絶えず移民を出す政情不安の原因が何かと言えば、民主主義が根付かないことにあると同時に、資本主義経済が汚職の蔓延や貧富の格差をもたらすから、そうなるのも当然の事態なのだろうが、では日本の現状はどうなっているのかといえば、移民の流入が少ないから人口減が続いていて、資本主義経済も成熟しているから経済成長から得られる収入よりも金融的な収入の方が上回っているのかというと、その辺の詳しいところはよくわからないのだが、政府が新NISAなどを活用して投資を煽っている方面では、金融的な収入を得ようとするように仕向けていることは確かなのかも知れないが、実際に一般の民衆が株式投資などによって収入を得られるかというと、持続的に右肩上がりに株価が上がって行けば得られないこともないのだろうが、少なくとも投資するだけの資金がない人には無理なことかも知れないし、借金をしてまで投資しなければならないかというと、大抵は破滅や破産が待ち受けているのかも知れないし、その辺のところも今ひとつ政府の煽り立てを信用できない人も多いかも知れないが、そういう意味では無理をしてまでやらなくてもいいことの部類に入ると思っておけばいいようなことでしかないし、狙って経済成長を目指したり少子高齢化を食い止めるために何やら無駄な悪あがきのようなこともやるしかないのだろうが、やっていることの大半は人気取りの政治宣伝の一環に過ぎないと思っておいても差し支えなく、実効性の不確かなことしかできないと政治や行政の限界を織り込んでおけばいいことかも知れないが、その一方で最低限の選択肢としては金権腐敗政治をなくそうと努力する勢力に選挙の際には投票しておくのも無難なところなのかも知れない。