彼の声16

2000年

1月31日

 すべてはまやかしの言葉だった。偽りの真情を吐露しているらしい。外では灰色の空から雪がちらついている。凍てついた大地で誰かが叫んでいる。あまりにも遠すぎて何を叫んでいるのか聞き取れない。しかし叫んでいる方は必死だ。たぶんその願いは聞き入れられないのだろう。鏡の向こうでは同じドラマが繰り広げられている。今度は左右が逆になる。同じように誰かが叫んでいる。叫んでいる方は必死の形相だ。たぶんその願いも聞き入れられないだろう。ただ必死の叫びを聞き流す。簡単に拒絶してみる。今度は奈落の底から叫びがこだまし続ける。反響音で何を叫んでいるのか聞き取れない。何かの旋律に似ているようだが、思い出せない。応答する気も起きないようなどうでもいい発言内容だった。企画書が無造作にゴミ箱に投げ捨てられる。唐突に叫び声が遮断される。また懲りずに来るらしい。また必死の形相で叫ぶのだろうか。まさにエンドレスで続く騒音公害だ。今後も何も聞き入れるつもりはない。ただ他人の叫び声を楽しむまでだ。その音階のヴァリエーションに感動してみる。偽りの感動だ。そして必死の形相をじっと見ているだけだろう。野蛮な土地柄だ。心が自然とすさんでくる。つまらない創作意欲でデタラメに書いてみる。すべてはまやかしだ。しかしすべてが現実だ。現実がまやかしなのか。鏡の向こう側では時計の針が反対方向に回っている。指輪の先のダイヤがきらりと光る。節くれ立った指はいびつに絡まりあう。とぐろを巻いた蛇の顔がこちらを向く。怠惰な夕暮れ時に紫の幻影を見た。部屋中が煙に包まれる。鼻を突くバルサンの匂いで正気に戻った。缶コーヒーだけの世界に嫌気がさした。黄色い雑誌と黄色いホームページには飽き飽きした。インターネットからはだいぶ縁遠くなった。もうネット上のホームページを見る気も起こらない。ただメールを受動的に見るだけだ。読んではいない。しかしインスタントコーヒーしか飲めない。なんと不自由な世界だろう。せいぜいのところ、気休めのジャズだけが唯一の気晴らしなのか。当分は当たり障りのない音楽を聴くとしよう。今日もネット上では聞き入れられない叫びがこだまし続けるのだろうか。くだらない叫び声が。


1月30日

 記述へのこだわりが新たなる展開へと思考を導く。しかし、絶え間ない試行錯誤と終わりのない言葉の発見が更なる記述の困難を呼び込む。どこまで行っても鳴りやまない不気味に響く不協和音に苦しみ悶える。その不吉な旋律に絶えず苦悩する。そして、ただ痛みを伴うだけの数々の煩悶から苦渋に満ちた文章が時折ひねり出される。そんな痛ましい思考の残骸が日々積み重なって砂上の楼閣を形成する。それらは不安定なバランスと日増しに堆積する重圧で今にも崩れ落ちそうだ。精神は、無味乾燥で苦痛しか生じない言葉に押しつぶされそうだ。疲労が限界に近づいている。膨大な量の記述はすでにだいぶ前から収拾がつかなくなっている。もはやそれらは惰性によってむやみやたらに堆く積み上げられるだけだろう。そして、いずれそれらは朽ち果てる運命だ。現に積み上げられるそばから風化している。もうすでに何の意味もなさなくなった言葉ばかりだ。残骸や抜け殻だらけの廃墟と化した文章の群れ。意味が燃やされて灰しか残っていない。輝きはほんの一瞬の出来事だった。後はただ屍となって腐臭を漂わせているだけ。立ち並ぶのは薄汚れ苔むした墓石だらけ。それでも人は墓標に刻まれた決まり文句だけを追い求める。中には有名な墓碑銘に感動したりする人もいる。そして、墓碑銘として自分の名が刻まれて永代に残ることを望む厚かましい人もいる。今まさに死につつある世界に未練を残しつつ、ひたすら記念碑としての墓石だけに執着し続ける。だが、結局は何も残らないだろう。焼け残りの灰すら風にとばされて散り散りとなる。すべてが無に帰すわけだ。時に見捨てられ忘れ去られた墓石は、集団墓地の中で見分けがつかなくなる。彼らにはそんな月並みな運命が待っているのだろう。果たして今を精一杯生きてゆくことができるのだろうか。それしかできないのに。


1月29日

 耐えること。忍耐と努力の果てに何も結実せずに霧散してしまおうとも耐える。こんなものにそれほどまでする価値があるのだろうか。そのような真剣さからはできるだけ距離を置きたい。できればそうしたいのは山々だが、なかなかそういうわけには行かないらしい。本当は偽装された真剣さあたりでお茶を濁したいところだ。要するに相互に傷つかない程度で妥協したいわけだ。しかしそんな真剣さがあるだろうか。抽象的な概念だ。いったい何を語っているつもりなのか。理解できない。書いている当人が理解できないことを書いている。どうやら自分の理解を超えて書かねばならないようだ。どこへも突き抜けず、絶えず行ったり来たりしながら循環するばかりの言説から何を導き出せばいいのか。この空虚のなかで何を響かせようとしているのか。ただむなしく言葉が振動するだけの無の空間内で、いったい何ができるというのだろうか。その共振する言説を丹念にたどれば、何らかの構築物を作り上げることができたりするのだろうか。しかし共鳴しているものは果たして言葉なのか。どのような言葉なのだろうか。例えば、偽装された真剣さは何と共鳴しているのだろうか。怠惰な表現だ。なぜ真剣さが偽装されなければならない。傷つかない程度で妥協したいからか。誰と?論敵などどこにも存在しない。架空の論敵と妥協するために偽装された真剣さが必要なのか。まるで現実から背離している。つまり偽装された真剣さとは空想上の言葉だ。虚無に向かって真剣さを誇示すること。まさに空虚のなかで偽りの真剣さを演じている。しかし本当にそんなことが可能なのか。本当ではない、真剣さは偽装されているのだ。では偽りであればそれが可能なのか。おそらくそれを空想することは可能なのだろう。空想するならいくらでも空想できるかもしれない。空想は容易には実現しないが、空想すること、行為そのものは実現するのだろう。ただ、そればかりではむなしいだけだろう。虚無の中で妄想の言葉が振動し続ける。そんなものにどこまで耐えられるのだろうか。やってみればいい、あとでわかるだろう。


1月28日

 それにしても、なぜ抵抗しなくてはいけないのだろうか。世の中の風潮になじめないから異議申し立てをせざるを得ないのか。順応性の欠如が露呈している。だが、世間の風潮とは何か。ただ漠然と感じる雰囲気でしかない。そんなあやふやなものに抵抗してどうする。そんなものではなく、もっと明確な事物に抵抗してこそやり甲斐があるというものだ。では、抵抗し甲斐のある事物とは何か。それを見つけられるだろうか。しかし、あらかじめ抵抗したいがためにそれを探すというのは本末転倒なことだろう。それが目的意識というやつかもしれない。また、それはゲーム感覚とも呼ばれる。マルクスもどこかで述べていたように、今ある自分の置かれた状況から出発しないなら、どんな運動もまやかしになるだろう。自分を取り巻いている状況が不快だからこそ、自然と抵抗の意識が芽生え育まれる。本来抵抗とはそのような受動的なものだと思う。そういう受動性は常に保持していないとまずいのではないか。しばしば組織的な抵抗運動が過激な暴力的傾向に先鋭化するとき、自ら敵陣に討って出るといった類の、積極的な戦闘行為によって、ついてゆけない脱落者を次から次へと生み出し、結局は状況から背離して抵抗運動自体を自滅させてしてしまう場合が多いだろう。別に組織がだめだとはいわないが、組織を守るための抵抗運動になってしまうと、それはやはり本末転倒なことだ。やっていることは保守政治家と変わらなくなる。繰り返して言うが、組織がだめだと言っているのではない。抵抗組織が権威を持つような運動は、組織内部が保守政治家もどきの巣窟になってしまう。組織よりも抵抗運動自体を優先させるべきだ。さらに言えば、運動よりも抵抗意識そのものを重視すべきだ。共通した抵抗意識を持つ個々人が、自らのできる範囲内で互いに連携し連帯すればいい。これからはそんな形の抵抗運動しかあり得ないと思う。


1月27日

 遠くに見える雪山の色はどことなく青みがかった白色だ。遠くの景色は自然と青く見える。たぶん空の青色が影響を及ぼしていることは確かだろう。大気に太陽光が降り注ぐと無色透明な大気が青く発色するのだろうか。確かに宇宙船から地球を見た映像では、大気が青く輝いていた記憶がある。はじめは海が青いから青いのかと思ったが、水は無色透明だ。しかし大気も無色透明だ。どちらが元の青なのだろうか。それとも、遠くから見ればどちらも青いのかもしれない。どちらも太陽光に照らされると青色の光を反射する元素を含んでいるのかもしれない。以前、ロケットが発射されて地上から宇宙空間に行き着くまでの、ロケットの外の景色が移りゆく模様を映した映像を見たことがある。発射されたロケットの高度が上がるにつれて空の青色がだんだん濃くなり、大気圏外では、ついには青ではなく真っ黒になってしまう。そこで、はたと気づいた、青とは宇宙そのものの色だと思い当たった。もちろん宇宙が青色に見える条件があり、太陽光に照らされた状況で地球の大気を透して比較的遠くの宇宙(景色)を見ると青く見える。空とは地上から見上げた宇宙そのものだし、反対に大気圏外から大気というフィルターを透して見る青い地球も宇宙の一部である。そして、地球の一部である海や山も、またさらに大気そのものも、その地球を一部とする宇宙の一部である。目に飛び込んでくる青色の光そのものも宇宙の一部である。しかしこれは要求された結論でも回答でもない。なんだか答えをはぐらかされたような答えだ。だが反論しようのない事実ではある。


1月26日

 冗長な表現になってしまった。定まらない思考によって簡潔さとは縁遠くなる。きっかけがつかめぬまま無理矢理前進させようとすると、苦し紛れにただ疑問ばかりが蓄積してゆく。そんな悪循環が止めどなく続くなか、なぜだろう、という答えを放棄した疑問の言葉だけが連発される。出口が見つからないのだろう。焦っているのだろうか。こうして、このまま漠然とした焦燥感で衰弱してしまうのだろうか。わからない。わかるのは、わからない、ただこれだけだ。これが答えか。これが救いなのだろうか。救いとは絶望の別名のことなのか。そう、それもわからない。答えはただのひとつ、わからない、これだけだ。これがいつも繰り返される。だが、これは一種の方便であって、本当はわかっているのではないのか。または、わかろうと努力していないのが実態ではないのか。しかし、自分で発した疑問にすぐさま自分が答えるのはおかしい。自分はわからないのだから疑問を発しているのであり、はじめから答えがわかっていたら、普通は疑問など述べない。つまり、わからないから疑問を発するのは当たり前のことだ。自分の発した疑問の答えを自分がわからないのは当然のことだ。ではどうすればいいのか。普通はわかろうと努力する。しかし、これらの疑問はわかろうと努力するほどの疑問なのか。これもわからない。努力すべきかすべきでないかの基準がわからない。あやふやだ。ただ、こんな文章は誰も読みたくはないだろう。しかし、なぜこうして誰も読みたくないような文章を書いてしまうのか。ネタ切れか?では、誰もが読みたくなるような文章とはどのような文章なのか。わからない。では、なぜこの文章が誰も読みたくない文章だとわかるのか。それがわかるのになぜあれはわからないのか。そういうことだ、自分は、読みたくない文章は簡単に書けるのに、読みたい文章となると皆目見当がつかなくなる。結局はご都合主義ではないか。要するに、気分次第でわかったりわからなかったり、また場合によってはわかっているのにわからないふりをしているだけではないのか。それもあるが、単にわかったと述べるほどの自信がないのかもしれない。なるほど、こうやって数々のくだらぬ疑問を呈しながら推敲を重ねれば、次第に自分のうんざりするような特質がだんだんわかってくる。そして、とどのつまりは自己嫌悪に陥る。では、自分は自己嫌悪を深めるためにここまで書いてきたのか。わからない、やはりわからないのだ。途中ではわかりかけてきたが、結局はわからずじまいになってしまう。これも気分次第のことで、わからずに終わろうとする恣意的な配慮の顕れなのだろうか。いったい「わからない」という言葉で何を守っているのか。わからない。


1月25日

 寄せ集められてコラージュされた記憶をさらにかき混ぜてみる。まずは夜だ。安易に夜を多用する傾向にある。その次は闇。これもいかにもな展開だろう。夜と闇でそれ風の背景が形成される。そして光が登場する。こんな展開ばかりだ。蛍光灯の光だ。やはり安易な設定だ。それを組み合わせるとどうなるのか。蛍光灯の明かりで影ができる。部屋の壁に写し出される様々な影の形に酔う。だが、なぜ酔うのかよくわからない。ただ「酔う」という言葉でつなげると響きが良かったのだろうか。さて、ここからどう辻褄を合わせる気か。こんなのはコラージュといえるような文章ではない。記憶はどこへいったのだろうか。まるで寄せ集まらない。何もかもが分散してしまう。気持ちが散漫だ。これでは記憶をかき混ぜることなど到底できない。これでは辻褄が合わない。しかし辻褄を合わせようとしない。心を病んでいる証拠か。なぜ病んでいるといえる。こうして勝手な思い込みで心を病んでみるということか。まるでたとえ話の世界のようだ。仮の話。試しに心を病んでみる。そんなことが可能なのだろうか。全然リアリティがない。たとえば、心を病んでいる人は真剣に病んでいるのだろうか。世の中には遊び半分や冗談半分で病気になる人もいるのだろうか。また、たとえば、人が衰弱するときは真剣に衰弱するのだろうか。トランプで神経衰弱ゲームを楽しみながら本当の神経衰弱に陥る人がいるだろうか。これがたとえ話の内容なのか。何の結論も出てこない。記憶とはそういうものだ。しかし記憶については何も語っていない。怪奇小説の中では、闇のただ中で不気味な怪物が咆哮したりする。たぶん、そんな雰囲気を好む人はたくさんいるだろう。怪物もありふれているが読者もありふれている。そして、登場する怪物の設定に趣向を凝らす作者もありふれている。これはありふれた記憶だろうか。ありふれた小説の記憶なのだろうか。試しにありふれた記憶について語ってみた、そういうことなのか。闇夜にまぎれて怪物が逃げ出す。小説の紙面上へ逃げたりするのだろうか。どこから逃げるのか。読者の記憶から。たぶん、いくらかの生き残りが、古本屋の本棚で埃をかぶっていることだろう。使い捨ての色あせた文庫本には、もう誰も見向きもしないだろうが。古本屋は記憶が廃棄される場所なのだろうか。こう書くとどこぞのおせっかいが、正義の味方気取りで古本屋や文庫本を擁護して見せるのかもしれない。迷惑な話だ。


1月24日

 砂埃舞う砂利道の突き当たりに赤土の大地が広がる。林の中にぽっかり空いた大地の傷口。所々に点在する薄汚れた水たまりの周りがどろどろにぬかるむ。まるで大地の膿だ。表土が剥がされて傷痕が化膿しているのだ。そんな身体的表現。大地を人体に見立てたありきたりの比喩表現に退屈する。ただ、砂利の礫ひとつひとつの尖った先が微妙な角度で煌めく。そのダイヤモンドとは違うただ砕かれただけの乱雑な煌めき具合に美を設定してみる。なぜ?美などに興味はないから。砂埃舞う道には美がありふれている。アスファルト舗装された道路の側溝に投げ捨てられた吸い殻のような美。それは美しいのか。知らない。たぶん「美」の使用法が間違っているのだろう。赤土の大地が光に満ちあふれる。薄汚れた水たまりが空を映し出す。水たまりの中の空を雲が次々に流れ去り、赤土の大地がつかの間夕焼けと重なりあう。そして影の時がやってくる。地表面が地球の影によって暗くなる時間が到来する。もはや風景の一部としてしか機能しない人々。それらを風景から引き剥がすことなど不可能だった。救い出せない。それを無理矢理引き剥がせばたちまちのうちに死んでしまうだろう。もはや風景と一体化していて風景なしでは生きてゆけない。それを救い出すことなど不可能なのだ。つまり、救い出すことは救うことにはならず、殺すことになってしまう。何も他人を殺さなくてもいいだろう。そこまでする義理も義務もない。ただ風景を見ていればそれでいいのかもしれない。確かに傍観者は退屈だが、それは仕方のないことだ。そんな道しか残されていなかったのだから。自分には風景という制度で戯れることなどできない。風景と一体化する術を身につけなかったからだ。自分にできることはただ沈黙することだけなのだろうか。他に思い浮かばないのだからそうするしかないのだろう。しかしこれは悲劇とは無縁の事態だ。もはやコメディですらない。ただ疲れただけだった。徒労だった。そして、たぶんこれからも疲れ続けるのだろう。しかし、もはや何もできないので気楽なことは確かだ。


1月23日

 足に何かが絡みつき、もつれて転んでしまう。仰向けに倒れ込み、視界に満天の星空が広がる。よくありがちな光景だ。寒気で空気が澄みわたり、冷気で頭がさえわたる。しかし、まだ海にはほど遠い道のりだ。砂埃が微かに漂う。石と土の匂いがする。枯れ草の香りも幾分か混じっている。しかし潮の香りとは無縁だ。内陸地方で足止めをくらう。大地が自分を押さえつける。大気が自分にのしかかる。自分の重みでしばらくは立ち上がれない。大気と大地に挟まれて身動きがとれない。今まさに地球の重力を感じているらしい。風の軽やかさはどこへ行ったのだろう。吹きすさぶ北風が懐かしく感じられる。重い足取りだ。まるで一歩一歩がスローモーションのようだ。結局この歩みはどこへも到達しないのだろう。もう休ませてくれないか。しかし弱音を吐いても歩みは止まらない。止まれないのだ。止まり方を教わっていない。誰か教えてくれないか。もちろん教えに従うはずもないが。どうしていいのかわからないのに人の忠告には耳を貸さない。それが主義主張といえるかどうかは知らないが、要するに頑固なだけかもしれない。そして、ここから状況を反転させる。火だ、火が見える。辺り一面が火の海だ。ようやく海にたどり着いたらしい。しかし潮の香りはしない。代わりに臭うのは塩化ビニールが焼けるときに発生する刺激臭だ。不快な臭いに目眩がする。煙が目にしみる。ダイオキシンも発生していることだろう。ゴミを燃やしている。海からはほど遠い内陸地方で、こうして火の海を眺めている。石ころだらけの荒れ地で何かに躓いて転んだ。目の前で火花が散る。頭が大地に打ちつけられる。脳しんとうだ。ブレるまなざし。意識の中で大地が脈打つ。血の香りだ。鼻の中から微かに漂う。しばらくその場にしゃがみ込む。どうせしばらくしたら、また退屈な日常が戻ってくるのだろう。もはや大地は揺れ動かない。意識が日常の感覚に戻ってきたのだ。まるで何事もなかったかのような真昼のひとときだった。セロニアス・モンクはいつ死んだのだろうか。もうだいぶ前のことか。


1月22日

 別に何かを予測して対処しているわけではないし、計算ずくというわけでもない。それどころか、何も予測できないし、何の展望もない。計算そのものが成り立たない。そうした状況の中で、我関せずの姿勢を貫けるだろうか。しかし、なぜそんな姿勢を貫かねばならないのか、そこのところがよくわからないし、理解できない。ところで、いったい誰がそんな要請を押しつけているのだろうか。それすらわからない。まさに五里霧中だ。なぜ関係してはいけないのか。危険だからか。ではいったい何が危険なのだろう。どういう危険が待ち受けているというのだろうか。何もわからない。結局何もかもわからずじまいだ。何も知りえぬまま、何に対しても関与できぬまま、ただ疑問ばかりが積み重なってゆく。そうした状況の中で、我関せずの姿勢を貫いているわけだ。別に高みの見物をしゃれ込んでいるのではないし、余裕などこれっぽっちも存在しない。現実には入り込む隙を見つけられず、ただただ途方にくれるばかりだ。だが、厭世主義のシニカルさを身につけようとは思わない。そのような敗北を勝利と錯覚する倒錯には反吐が出る。勝利と敗北の二項対立などに回収されたくない。しかし何を書いているのだろう。どこに入り込むつもりだったのだ。たこつぼコミュニティのぬるま湯に浸かって白痴になりたかったのか。よくはわからないが、ようするに成り行きまかせだ。これからも頼るものなど何もないだろう。しかし悲壮感を漂わせて勇ましくはなりたくないし、強がり痩せ我慢にもうんざりする。くだらぬ感情につきあってはいられない。もはやどうでもいいのだ。しかしこれまでもどうでもよかった。だがどうでもいいのに反感の感情をあらわにしてきた。それが自分の弱さなのだろうか。では強さとは何だろう。我関せずを貫けば自然と強さが身に付くのだろうか。それはわからない。それに、これからいつ弱さが出て批判してしまうとも限らない。そのときに思いとどまって、我関せずの姿勢に自らの態度を修正すればいいのだろうか。いったい自分にそんなことが可能なのか。たぶん、これからわかるのだろう。


1月21日

 何を書くわけでもなく、かといって何も書かずに過ごすわけでもなく、とりあえずこうして書いてみる。ありきたりな想像力を働かせる。例えば、自動筆記する機械を想像してみる。そして空想の世界に存在する機械の歯車を回転させるのだ。ボールベアリングに油を注げ。しかしだいぶ古い機械だ。チェーンが錆びついている。ところでこの機械の動力源は何だろうか。やはり内燃機関の一種なんだろうか。そうなると燃料が必要だ。燃料は何だろう。何を糧として動くのだろうか。ああ、予定調和だ。すぐありきたりな答えが思い浮かぶ。どこからか、想像力を糧として動くのだ、という声が聞こえてしまう。やはりありきたりな想像力ではありきたりな結論しか出てこない。こうして想像力の欠如に直面する。ところで想像力と空想力はどう違うのだろう。辞書で調べればいいだろう。しかし面倒くさいから調べない。きっと同じような意味なのだろうが、字面から想像すれば、想像よりも空想の方がより現実離れしているということだろう。それから自動筆記の機械はどうなったのだろう。たぶん役に立たなくてすぐさま打ち捨てられたのではないか。もはや錆びついた粗大ゴミだ。画期的な機械だったのに誰からも見向きもされない。なぜなんだろう。欠陥品だからか?民衆は誰もが安心する意味を手に入れたいのに、その機械が出力するものは意味不明な文章ばかりだ。ただ役に立たないばかりか不快なノイズまで発生する。これではどうしようもない。見捨てられて当然だろう。しかしまだやる気なのか。あれを改良するつもりなのか。わからない。たぶんやるとしてもだいぶ先のことだろう。あれをどのように改良すればいいのか今のところよくわからないんだ。何しろあれに対する反応が意味不明以外に何もないからどうしようもない。もしかしたら、あれをどう改良しても何の反応もないんじゃないかという気もする。それもいいだろう。あれはあのまま未来永劫意味不明な文章を無限に吐き出し続ける。その意味であれは無敵だ。


今年

その後

 なんだ、RedHat5.2Jは結構楽だ(笑)。今のところカーネルはそのままでウインドウマネージャもデフォルトのWindowMakerのままなんですけど、これが結構快適です。たぶん以前に半年近く使っていたから慣れもあるんでしょうけど、とりあえずワープロソフトのdp/NOTEとLASER5に入ってたWnn6 ver.3が使えたのがよかったです。また、NetscapeはバグのほとんどないVine Linux用の4.08にしました(これが使えるのが大きい)。そうだなあ、インターネット端末としてはこれで十分なんだろうな(笑)。こうしてみると、デスクトップの見栄えの良さやWin風の操作環境を期待してKDEやGNOMEにしてみても、期待していたほどの快適感が得られるわけでもないような気がしてきました。ま、その気になったらKDEでも入れてみようと思いますが、以前ほどそうすることが絶対的な欲求ではなくなりましたね。でもKDEやGNOMEは依然として重要なアイテムではあると思います。なにしろこれらの登場で、WinやMacのデスクトップでの使いやすさが相対化されてしまいましたからね。実際に使用している人はまだまだ少ないかも知れませんが、それによって、PC-UNIXも使いやすくなったというイメージはかなり定着してきたと思います。やっぱこれはでかいですよね。そういうわけで、ちょっとしたデスクトップ上での使い勝手の良さが、そればかりを追求してきた他のOSの存在を脅かしてしまうわけですから、KDEやGNOMEには、さらなる使いやすさや見栄えの良さを追求してほしいですね。ようするにデスクトップは、使っている人間の遊び心をくすぐったり精神的に癒される環境を用意すればいいのです。そんなもんなんじゃないかと私は勝手に思っています(笑)。もちろんそれ以前の問題として、動作が速くてソフトがバグなしでちゃんと動くのが精神衛生上一番良いわけですけど。


今日

 このところここへ戻ってくる度に気まぐればかり起こしてしまいます。今度はハードディスクの中身を全面変更して、なぜかRedHat5.2JとFreeBSD3.3Rにしてしまいました。ついにLASER5 Linuxをやめましたよ。最初にバグだらけのバージョンを販売してそれを買った人間をうんざりさせておいて、数ヵ月後にRel.2としてバグフィックスされたバージョンを改めて販売するレーザー5のやり方が大変腹立たしいのでやめました。どうせLinuxの事情通からすれば、最初のバージョンを買う奴が馬鹿なんだよ、ということかもしれませんが、それなら、Win98セカンドエディションとどう違うんだ、それでマイクロソフトを批判できるのかよ、と思いますが、たぶんそれとこれとは別問題ということになっているのでしょうね(笑)。こういうところは素人にはよくわかりませんね。


15分後

 なぜか最近H系メールがいっぱい来るようになったんですが、どうやらH系掲示板に私のメールアドレスを書き込んでいる人がいるようです。まあ、Hページを見るのは好きですけど、メールでその手の誘いが来ても、実際にSMパーティーやら乱交パーティーやらに行く気力がないです。暇もないし勇気もありませんね。だいいち自閉症ぎみだから他人と会話するのさえ一苦労なのです(笑)。


紀元前9784年

3日前

 浅田彰が鵜飼哲との討議「パレスチナから遠く離れて」(批評空間 II-24)のなかでこんなことを述べていました。
 その後、鵜飼さんの説明されたような経緯で、イスラエルという国ができるわけですけれども、ここにも西欧の利害が絡み合っているわけですね。たしかに、第二次世界大戦中、ナチスのホロコーストを知りながら、ある意味ではそれを傍観していた西欧が、一応シオニズムの主張を認めてパレスチナの地にユダヤ人国家作らせたには違いない。しかし、それは、過去の負い目を認めて代償を支払うというようなことではまったくありません。たとえば、五二年にエジプト革命をなしとげたナセルが、五六年に今言ったスエズ運河の国有化を宣言すると、英仏は、それは困るというので、まずイスラエルにエジプトを攻めさせ、自分たちがその間に割って入る格好で軍事介入しようとした、これが五六年の第二次中東戦争の構図でしょう。そうしてみると、石油も出るし地政学的にも重要な位置にある中東という地域に、自分たちの権益を確保するためのエージェントをひとつおいておきたい、という西欧の意図があって、イスラエルという国が作られたとも言えるんですね。このように、植民地獲得競争から帝国主義戦争に至る過程で非常に恣意的な線引きがなされ、その上にまた無理矢理イスラエル国家を作るということがなされたために、この地域は絶えざる紛争に巻き込まれてしまったわけです。
 これを読んでいて、自分が過去においてこんなこと(彼の声1-1997年6月20日)を書いていたの思い出しました。
 しかし、国際世論を支配している欧米人には彼ら(ユダヤ人)に対する負い目があり、彼らもそれに付け込んでイスラエルという不当な国家を存続させている。その負い目とは、ナチス・ドイツに代表されるヨーロッパでのユダヤ人に対する弾圧の歴史である。例えば、中世のスペインではペストが流行した時、ユダヤ人が井戸に毒を投げ込んだというデマによって彼らを徹底的に虐殺した。まるで関東大震災の時の朝鮮人のように。その他有名なところでは帝政ロシアから旧ソ連における弾圧、ナチス・ドイツによるホロコーストのように、ヨーロッパでは何か起ればユダヤ人をスケープゴートにして弾圧してきた。つまり、ユダヤ陰謀説がヨーロッパのキリスト教社会を陰から支えていたことになる。そしてついに、そのような苦難の歴史とアメリカでの経済的な成功がユダヤ民族国家の建設という悲願を実現させてしまった。
 なるほど、当時の私は「欧米人には彼ら(ユダヤ人)に対する負い目があり」などと、実にナイーブなことを書いていたわけです(恥ずかしい)。まるで三流啓蒙思想家みたいでしたね(笑)。

 それで、こうやって「批評空間」を読んでいてあらためて思うんですけど、ほとんど「批評空間」は「民衆の敵」なんじゃないかと(爆笑)。これを読めば「人は罪ほろぼしをしたと感じられる」反面、逆に「批評空間」に対して「抵抗の感情を抱いたり」しちゃいますよ。例えば、国際事情通と称してマスコミ商売している人なんかが先の鵜飼と浅田の討議を読むと、「素人が知ったかぶりなこと言いやがって!」なんて怒りをあらわにしちゃうような気がします。マイナーな人がやけに説得力のあることを述べてしまうと、反響としては共感よりも反感のほうが大きいと思います。特に声の大きな人(権力志向者)ほど反感が強まるのでしょう。自分がバカにされたとでも感じるのでしょうか。というわけで、「民衆」からは無視されて「批評空間」は今後も細々と流通するにとどまるのでしょう。最悪の場合は近い将来廃刊に追い込まれるのかもしれませんね。でも、歴史に残るのは、「ほとんど民衆的でない」「批評空間」だけだったりするんですかね(よくわかりませんが)。


大正130年

8秒

 恥ずかしい......。


4225億光年

2688万キロメートル35ミリ

 なんだか魔が差してしまって、FreeBSDを消してまたもやRedHatLinux6.1jを入れてしまいました。FreeBSDで音の出る設定がうまくいかなかったのでついついやってしまいました(笑)。それで、今回はLASER5とLILOでは共存させずに(方法がよくわからない)、RedHatはブートフロッピーから起動させるようにしてみました。しかしほとんど同じなLinuxを2つ入れるのは、ほとんど意味がありませんね。はぁ〜、何をやっているのでしょうねぇ〜。まぁ、OSを何に使うわけでもないし、元々意味などないのですが。やはりこれもひとつの自己満足の一種なのかな。ようするに手持ちぶさたで退屈なんですかね(笑)。


3887年

23645月98704日

 ジャン=リュック・ゴダール(JLG)がミシェル・シマン&ステファヌ・グデ(C&G)による共同インタヴュー(批評空間 II-24)でこんなことを述べていた。
C&G 最後のエピソードのなかで、ウェルマンの『民衆の敵』というタイトルを分けて「民衆、敵」に変形しています。なぜですか?

JLG あれは、批評家は「敵に通じるために自分の陣営から脱走する。誰が敵だって?民衆だ!」と批評家について語るジュール・ルナールの文句なんだ。ご承知のように、民衆はしばしば美しい歴史を生きる勇気を持っているが、そうした歴史を物語る勇気を持ち合わせてはいない。それゆえに、人が劇場に行くときには、任務を放棄した状態にあるわけだ。したがって、映画作品が「ほとんど民衆的でない」ときには、よく言われるように、人は罪ほろぼしをしたと感じられるし、抵抗の感情を抱いたりもするわけだ。しかし、わたしたちでさえ、ストローブやカサヴェテスのよくできた映画作品を見に行くこととブルース・ウィリスやデ・パルマのできの悪い映画作品を見に行くこと、そのどちらかといえば、アイスクリームを買ってウィリスを見ながらそれを食べることのほうが好きだ。なぜなら人は民衆の一部なんだから。そのあとで、恥ずかしくなる......。
 マイクロソフトについて言及している人々のことを思う。あれらは単なる流行り廃りの現象なのだろうか。自分も「そのあとで、恥ずかしくなる」のか。......あとでわかるのだろう。


2000年

1月20日

 いつものように時が過ぎゆく。それだけのことだ。


1月19日

 確かにこうして退屈な日々が過ぎ去ったのだろうか。これは幸いなのか。わからない。いつものことだろう。


1月18日

 苦悩とはどういうことだろうか。何かに苦しんでいるのだろうか。でも苦しめるだけ幸せかもしれない。何の苦しみもないということもそれなりに辛いことかもしれない。自分はどちらでもかまわないが。苦しみたければ苦しめばいいし、何の苦しみもないのならそれでもかまわない。苦悩などという言葉に何の価値も見いだせない。


1月17日

 なるほどそれらしい雰囲気に近づいたと思う。なんとなくすがすがしい一週間だ。


1月16日

 たとえば、無味乾燥な日々だ、と書けば、なにがしかの雰囲気を醸し出せるのだろうか。安易なことだ。


1月15日

 日記とは単に日付を記述することかもしれない。


1月14日

 これで未知の領域に近づいただろうか。


1月13日

 もうあれから何日経ったのだろうか。もはや遠い日を見るまなざしに近づいた。


1月12日

 日付がどんどん過ぎていく。


1月11日

 率直なことは良いことなのかもしれない。いやならさっさとやめればいいのだ。今までつまらぬ意地を張りすぎていたのかもしれない。確かにつまらぬことだった。


1月10日

 試しに退屈してみる。なぜ退屈したいのだろうか。今までは退屈していなかったからだろうか。いや、今までも十分退屈していたはずだ。今でも退屈している。現にこうして退屈しきっている。退屈しているからこんなことを書いているのだ。しかし、もはやこんなにも退屈しきっているにもかかわらず、この先に更なる退屈を付け足そうというのか。無謀な試みだ。無理だ。そのうち気が狂うだろう。しかしよくわからない。付け足される退屈とは具体的に何だろう。どのようなものが退屈なのだろう。そんなことは考えていない。退屈といえばただの退屈だ。退屈以外ではない。それに退屈などはじめからどうでもいいことである。試しに退屈という言葉を使ってみた、ただそれだけのことだ。退屈という言葉を使ってみた後、それからどういう展開になるかに興味があった。それでこういう展開になった。予想通りだ。ありがちな説明に終始している。こんなものだろう。試しに退屈してみたら、文字通り退屈だった、そういうことだ。


1月9日

 もう社会批判めいたものはここでは書かないようにしようと思う。書けばまたいやな反発を被るだけだからだ。結局こんな場で書いても現状は何も変わらないのだろう。それから「噂の真相」は今月からは購読しないようにしようと思う。あの雑誌を買って読めば、影響されてまたこの場で社会批判めいた文章を書きたくなってしまうから。思えば1989年の12月号から約10年もの間毎月欠かさず買ってきたのだから、買わなくなるのはちょっと寂しいが、とりあえずは一区切りつけてしまおうと思う。もういいだろう。社会批判がなくなれば当然この場の文章もつまらなくなるのかもしれないが、別に誰が読んでいるわけでもないし、誰に期待されているわけでもないし、この場に書かれている文章については、まともな感想などついにひとつもお目にかかれなかったのだから、それでもいいだろう。別にこれから何を書くわけでもないが、書きたくなったときに適当に無内容なことを書き散らせば多少は自己満足に浸れるだろう。


1月8日

 しばしば言動のつじつまが合わない。矛盾している、自家撞着だ。何を言いたいのかよくわからない。しかし一方で、言いたいことなどあるわけがない、という確信もある。ではいったいなぜこうやって述べているのだ。何を主張しているのだ。言いたいことなどあるわけがない、と主張しているのはわかる。そしてもう一方では、何を言いたいのかよくわからない、と述べている。結局何も言っていないし述べていないではないか。その通りだ。それが毎度おなじみの主張だ。要するにマンネリだ。しかしそればかりでは、いささかうんざりしてしまう。もう限界か?しかし限界を超えて何かを書かないといけないわけか。なぜ?またしてもよくわからない。書く理由が見つからないのに無理矢理書いている。いつものことだ、いつもそうだ、いつもこればかりだ。憂鬱だ。すでに病気か?しかし病気を理由にして逃げたくはない。何から?さあ、それがよくわからない。またなのか。なぜわからないんだ。肝心なことについては、すぐ記憶喪失にぶつかる。そこのところだけ記憶がない、意識が途切れている。頭の中に靄がかかっている。もしかしたらわざとか?記憶喪失のふりをしているのか。そうかもしれない、無意識が何かが顕在化するのを妨げている。一種の防波堤の役目をしているのかもしれない。しかしその堤防が切れるとどうなるというのか。錯乱したりするのだろうか。無意識はいったい何を保護しているのだろうか。興味はある、しかし自分だけではどうすることもできない。カウンセリングが必要だろうか。しかしそれはごめんだ、暇がないし、何よりもいやな感じがする、やばそうだ。精神医学に興味がないわけではないが、自分が患者になるのはいやだ。つまり結局は現状維持のままだ。それでいいわけはないが、そうなるしかない、ただそれだけだろう。そう、何もわからないまま、何かを書き続けるしかないのだろう。それは嘘だ。またか、また嘘なのか。そういうことだ。何かを書いたとたん、それが嘘に思えるのだ。そこから導き出されるひとつの結論は、自分はいつまで経っても嘘しか書けないということだ。書いた結果が嘘に思えるのだから仕方がない。書けば書くほど嘘ばかりになる。何か率直に書いてみたい、しかし常にそれが疑わしい。本当に率直に書いているのか確信が持てない。あるのは、自分はまた嘘を書いているのではないか、という自分に対する猜疑心だけだ。しかしなぜ執拗に自分を疑うのか。自分を疑っているのは自分自身でしかないのに。そんな疑いは嘘だと思う。そう、疑い自体が嘘である。そういうことだ、やはり結局は嘘に行き着く。ただ嘘が循環しているにすぎない。しかしこの嘘の無限回路上でどうしろというのか。嘘を書き続けろということか。それはわからない。何を書いたらいいのかよくわからない。そういうことだ。


1月6日

 倒錯するとこと。何によって倒錯すればいいのだろうか。ジョン・コルトレーンはジャズに倒錯した。フリー・ジャズは意味不明だ。死ぬ直前の彼の演奏は率直に言ってわけがわからない。もはや彼の名声抜きでは誰もついてこれない演奏だ。そこから何を学べばいいのだろうか。確かにマイケル・ブレッカーはコルトレーンから学んだのだ。コルトレーンの極めたフリー・ジャズをひとつの手法として相対化して見せた。神秘主義をひとつの技術と見なす冷静さが売れる音楽に結びつく。自分の音楽にエッセンスとしてコルトレーン風サウンドを付け加えたわけだ。もちろん高度な演奏技術が備わっていなければコルトレーン風にはならない。しかし、いかにコルトレーンから多大な影響を受けているとはいえ、彼のサウンドすべてがコルトレーン風というわけではない。当たり前のことだが、コルトレーンの追従者となってフリー・ジャズにのめり込むようなまねは絶対にやらない。コルトレーン風表現は、あくまでもヴァリエーションの中のひとつとして、時たまサウンドの表面に現れるにすぎない。表向きは単なる手法として還元されている。つまりマイケル・ブレッカーは倒錯していない。絶えず足首までしかコルトレーンに浸かっていない。深みにはまらずに浅瀬にとどまるということは賢い選択だ。その姿勢が彼のジャズを長続きさせるのだろう。しかしある意味でそれは結果論にすぎない。コルトレーンの眩暈がするような深みを覗いたからこそ、彼にそのような姿勢を取らせることになったのだ。やはり想像を超えたものすごいものに出会う体験は大事なことだ。それがあってはじめて本当の謙虚さや冷静さが養われる。しかし、ものすごいものをものすごいとわかるには、事前にある程度その分野に精通 していなければならない。


1月5日

 はっはっは、またしょう懲りもなくFreeBSDのウインドウマネージャをKDEにしました。今回はqvwm用に凝った背景をGIMPで作ったんですが、せっかく苦労して1日がかりで作ったのに、qvwmでは背景の保存の仕方が分かりませんでした。背景そのものはImageMagickで簡単に張り付けられるのですが、一旦Xを終了して再起動させると、また背景無しの画面に戻ってしまいます。それで、今さらfvwm95だと、ちょっと時代遅れぎみな印象があるので、またしてもKDEにしてしまいました。なんだかなぁ、こんなしょーもないスクリーンショットを公開するために貴重な休日を潰してしまったぁ!まったく大馬鹿ですね(爆笑)。

追記:その後なんとかqvwmでも背景を張り付けることができました。やりかたとしてはシェルスクリプトを利用しました。具体的には例えばbgという中身が次のようなコマンドだけのファイルを用意します。

display -window root ~/windows3000.bmp

そして私は現在はstartxでXを使っているので起動ファイルの~/.xinitrcの該当部分を次のようにしました。

~koike/bg &
exec qvwm

もしかしたら文法がちょっと変かも知れませんがとりあえずこれで背景が表示されます。結果はこんな感じです。やはりKDEよりqvwmの方がしっくりきますよね。デスクトップと背景が良くマッチしている感じがします(笑)。


1月4日

 まあ、しょうがないですね、クズにはクズの対応の仕方しかできないのです。それを私がとやかく批判することもないでしょう。


1月4日

 何やら冒険がしてみたくなったのだろうか。単なる傍観者に過ぎなかった自分が口走る台詞ではない。わ からない、嘘か?簡単な結論だな。嘘か?で終わりなのか。そういうことかもしれない。それが楽なのだから、嘘という紋切り型は簡単には捨てたくないところだ。嘘はキープか?そういうことだ。では、他にキープしておく言葉が思い浮かぶだろうか。知らない。これだ、知らない、もキープだ。それから、そう、忘れてはいけない、キープという言葉もキープだ。こういう自家中毒系の述べ方は自分の語りには欠かせない重要な要素だろう。これがないと話が先に進まない。ということで、では、またもや再スタートとなる。しかし、いきなり結論だ。スタートの次はいきなりゴールが待っている。途中の過程などつまらないから省略だ。なんと安易かつ性急なゲームだろう。ようするに、何も説明できないのだろう。ゲームなど嘘だ。ゲームのことなど知らない。しかし、ゲームそのものはキープだ。あとでゆっくり楽しむとしよう。今はこれを書くことに夢中でゲームをやっている余裕がない。だが肝心のゲームの中身が謎のままだ。いったいどのようなゲームをやろうとしていたのだろう。知らない。嘘だ。知っているはずだ。おまえは嘘をついている。その通りだ。私は嘘をついている。私は私が嘘をついていることを肯定する。嘘をついていると本当に認識している、これは紛れもない真実だ。自分が嘘をついていると思っていることは嘘ではない。なるほど、何やらゲームのやり方がわかってきた。これは一種の告白ゲームなのだ。自家中毒系の言葉遊びだ。自分で自分が述べたくだらない嘘を肯定することがゲームのスタートだ。そしてゴールは、嘘から真実を語ることにある。つまり、嘘をついている自分を肯定する、と告白するのだ。しかし告白はキープしない。気分次第でキープする言葉とそうでない言葉とに分割される。神に告白することは恥ずかしい。しかしなぜ唐突に神に告白しなくてはならないのだ。話にまるでつながりがない。気分次第で意味不明な脱線をする。しかしここでキープする言葉を二つも見いだした。意味不明と脱線だ。なるほど、もうひとつのゲームのやり方がわかってきた。これは言葉をキープするゲームなのだ。気分次第で使用された言葉の中から、今まで自分が頻繁に使ってきた紋切り型の言葉をキープする。そして、しばしばそういう紋切り型の多用に頼ってきた自分の貧困なボキャブラリーを浮き彫りすることがこのゲームのルールだ。まさにこのゲームは、今までやってきたことに対して自己嫌悪するための自家中毒の大冒険になるのだろうか。もちろん嘘だ。前々からこんな下らぬ嘘をついてみたかった。これもその場限りの口からでまかせの嘘だ。まさに嘘の自家中毒状態だ。自家中毒の一大スペクタクルだ。ただあきれるばかりの嘘八百だ。こういう大げさな表現には自己嫌悪する。つまりこれも自己嫌悪による自家中毒ゲームをプレイしているということになる。そういえばこのところ言葉をキープしてないようだが。キープすることには飽きた。気持ちが散漫で集中力がないんだ。またしても自己嫌悪だ。しかしもうこの辺でいいだろうか。なんとなくゲームそのもの飽きてきた。気力が持続しない、眠いんだ。なるほど、ついに本音がでたじゃないか。つまりこれは一種の告白ゲームなのだ。前にも同じ台詞が登場したようだが。紋切り型だ。何でもかんでもゲームと言いくるめるその姿勢が紋切り型だ。そしてそんな態度にまたしても自己嫌悪だ。なるほど、気力は持続しないが自己嫌悪は持続するのか。つまりこれは自己嫌悪持続ゲームだ。マラソンや駅伝と同じく。走りながら絶えず自己嫌悪を吐き出し続けるわけだ。ランナーの苦悶する表情は自己嫌悪そのものだろう。走るのがいやなのにゴールまで走らなければいけないというゲームのルールに忠実な自分自身の奴隷根性に自己嫌悪しているのだ。競技という制度に縛られて走ること以外何もできない自分に嫌気がさしているわけだ。では上位でゴールする直前あるいはゴールしたあとに見せるあの笑顔は何を物語っているのだ。奴隷状態から解放されたことに対する率直な喜びの表情なのか。違う、それは自分と同じく奴隷制度を支えている同僚に対する偽善的の笑顔だ。とりわけ一番でゴールしたときは、たとえゲームの奴隷ではあっても自分の存在を肯定しなければならない。そのために笑顔でゴールするのがゲームのルールとして確立されたのだ。犠牲者の笑顔が制度の存在を肯定する。それにつられて見ている観衆も喜ぶ。皆が喜んでいる制度をやめるわけにはいかない。そしてさらに余裕のある者はだめ押しとして感極まって泣きじゃくると相場は決まっている。制度と制度に支えられて栄光を手にした自分自身の立場をより盤石なものとするために、とりあえずはこの奴隷制度を肯定しなくてはならない。つまり、奴隷制度の偉大さを誇示するためには感極まって泣かなければいけないわけだ。制度とはそれに参加する者が感極まるほど感動的なものなのだ。もちろんそれは主役である優勝者だけの特権ではない。負けた者の悔し涙というのもある。負けた者は次には勝たなければいけない。勝つためにはゲームの存続が大前提だ。リヴェンジマッチがないと勝つこと自体が不可能になる。そのための悔し涙だ。それを見ている観衆も、次はがんばれ!と応援してくれる。皆が応援している制度をやめるわけにはいかない。要するにこの奴隷制度の存続には常に勝者と敗者の存在が欠かせない。勝者と敗者それぞれが観衆を感動させるパフォーマンスを演じてこそ、この偉大な奴隷制度が不動のものとなる。ということは、奴隷たち全員が見ている観衆が不快になるような行動を起こせば制度は消えてなくなるかもしれない。しかしこれは恐ろしく難しいことのように思える。そもそも奴隷たちは奴隷制度によって生かされているのだ。その制度がなくなれば奴隷が奴隷でなくなるのはもちろんのこと、自分たちが制度で養ってきた奴隷の技を試す場所がなくなってしまう。生活の糧を失うのは困ったことだ。つまり、いったん制度の虜となってしまった者に制度の破壊を求めるのは根本的に無理だということだ。もう奴隷たちに期待するのはやめよう。期待して手を貸しているうちに自分が制度に引き込まれて奴隷となってしまっては元も子もない。ミイラ採りがミイラになるのはいやだ。だからそういう人間とは今後もできるだけ距離を保っていようと思う。


1月3日

 何もない。結末とはそういうものかもしれない。紺碧の青が眩しい。そこで、ひとつの表現から別々の意味を導き出す。しかし、結局はいずれも同じ体系に属する意味となる。いくつかの運動が同時に別々のリズムを伴って開始される。やはり今回も嘘でリズムを刻むことになるのだろうか。最初からデタラメなのか。言語感覚だけの無駄な楽しみは再開しないようにしよう。こうして、はじめに、あらかじめ制限を設けておく。それを裏切るために。過ちを犯すのがわかりやすい物語だからか。ようするに、何もないということを言うためだけに無駄な言葉を重ねる。ただ言葉が堆積していけば、適当な長さの文章になるだろう。以上の説明は、順々にひとつひとつのことを述べているわけではない。一挙にぐしゃぐしゃ説明を展開させているのだ。場当たり的に意味不明を繰り出しているわけだ。そんな下らぬものには「〜序説」とありがちな題名を付ければ良い。決して本説には入らない。常に序説のまま中途半端にモラトリアムを装うわけだ。とりあえず空の青さを主題としてみる。しかし主題そのものは説明しない。説明できないからだ。ただ主題を決めただけだ。それに意味はない。あとは結末だ。結末が重要だろう。終わり方が問題なのだ。ただ、そんなに重要でもない。終わり方などどうでも良いのだ。なんとなく書いているうちに気が変わった。わかりきったストーリーには結末など何でも良い。とりあえず悲劇か喜劇か、それともハッピーエンドの結末でも用意しておこうか。こうしてつまらぬ言葉が積み重なる。

 人は困難に直面したときどうするだろうか。たとえば、絶望の限界を超えると笑い出すのだろうか。それは自分の希望であり願望だろう。実際にそういうたいそうなものに直面したことがないので想像の域を出ない。何ものにも出会わない。これは絶望すべきことなのか。あほらしいことかもしれない。出会おうとしないのだから出会えるわけがない。しかし出会おうとは思わないのでそれでもいいと思っている。それが出会うための障害になっているのだろう。その自分で設けた障害を越えて出会うことなどできないだろう。はたしてそういう勝手な予感をうち破るような事件が未来において起きるのだろうか。今のところはどうでもいいことだ。期待はしていない。現状では何も期待できない。これから出会うのはどうせクズばかりだろう。他者には決して出会いそうもない。自分が予想した範囲内のクズばかり、今まではそうだった。これからもそうありたいものだ。そうでないとこんなものは書いていられない。クズが励みになる。では自分はクズではないのか。まともな人間なのか。それは知らない。知りたくないし、そんなこと誰も教えてくれないだろう。それは他人が判断することであり、自分が判断できるものではない。うぬぼれた奴以外は。これは嘘ではない。では本当なのか。それは知らない。それも他人が判断することだ。こんな文章を書いている奴はクズだと思ってもらって結構、ということだ。ただ自分はそうは思っていない。よくわからないのだ。自分については判断停止状態だ。そもそもこの文章自体が自分のものなのかが怪しい。いつからこんな文章を書いているのだろうか。どこからか決定的な影響を受けた産物なのか。やはりよくわからないのだ。しかしひどいことを書いている予感はする。故意に人を怒らせるようなことを無理矢理書いている気はする。それがもはや砕け散った良心のかけらなのだろう。

 紺碧の青とは何だろう。青い色なのか。わかりきったことだ。では赤い色とはどういう表現で語ればいいのだろうか。燃えるような赤。血の色。朱色。何も語っていない。空の青さが主題だったはずだ。赤い太陽は関係ない。黄色い太陽ではなおさらない。青い太陽。シリウスの青だ。空が青いのは海の青さが原因だろうか。水素原子の色は青なのだろうか。そんな気もする。私は色弱なので本当の青さはわからないだろうか。真の色を規定する基準はないかもしれない。自分の感じた色以外の色を見ることはできないだろう。それは感覚ではなく思考から導かれる結論だ。実際に色覚検査をやってみると他人との違いが歴然とする。他人が見える文字や模様が自分には見えない。こちらはいわば実験から導き出される結論だ。しかし青い色は依然として青い色でしかない。青は黄色でも赤でもなく青でしかない。なぜだろう。わかりきったことだが、本当に理解しているわけではない。色についての知識が足りないのかもしれない。だが、知識によって色の性質を理解したとして何がわかるのか。色の性質がわかり、色についての専門的な教養が身につく、しかし青い色は依然として青い色でしかない。それは青でしかあり得ない。単調な色が眼前に広がる。青だ。何ものにも換えがたい青。すべてが青に呑み込まれる。どろどろの青が体中にまとわりつく。液体としての青に充たされる瞬間、おそらく青によって悶絶し窒息するだろう。結末は青がすべてとなる。それが悲劇なのか喜劇なのか、はたまたハッピーエンドなのか、結局は意味不明だ。

 くだらない結末だ。途中から始まった想像力の行使が実にくだらない。しかし主題として設定した空の青さについては一応言及してみた。これでひとまず責任は果たせたと思う。あとはどうでもいいだろう。単なる付け足しになる。嘘でリズムを刻みながら適当に疾走するだけだろう。別にどんな語り方でもよかったんだ。好き嫌いを言っているほどの余裕はない。とりあえず字数が稼げればそれでいい。なぜなのか。知らない。なんとなくそう思っただけだろう。予感がしている。余命幾ばくもないとか?案外そうかもしれない。あと百年の命でしょう、とか。自分の命などどうでもいい。これはよくドラマで使われる決めぜりふだ。よくわからない。自分に命などというたいそうなものが本当に宿っているのだろうか。自分には命などない。生きていないんだ。そして死んでもいない。生きていないから死んでもいないのだろう。生を経験していないから死も経験できない。生と死を同時に体験すれば、少しは生きている実感が湧くかもしれない。しかしそれはほんの一瞬のことだ。無の時間の体験になる。あとには永遠の眠りが続くだけだろう。だから生など当分の間は体験するには及ばない。生きていなくて結構だ。クズが生きればいいのだ。世の中がクズだらけになればクズもさぞや生きやすくなるだろう。すでにクズだらけか?それでもいい。自分は生きていないからかまわない。別に生きていなくてもいいのだ。何をやるでもないのだから。いったい自分は何をやっているのだろう。何をやってきたのだろう。知らない、よくわからない。ただそれだけのことだ。しかし自分のことを廃人だとは思わない。そういう愚劣な自己卑下は実際に生きているクズのやることだ。その程度のことは生きていなくてもわかる。生きていなくてよかったかもしれない。しかしこれはハッピーエンドなのか?


1月2日

 深刻そうな顔をして深刻そうに振るまい、深刻さそのものを演じる。それを繰り返せば沈痛な表情が日常の仮面となるだろう。そのうち、その作られた演技と仮面もいっぱしの思想に昇華されることだろう。その深刻そうな思想で真のリアリズムを体現すればよろしい。演技などできない。力むこととは無縁の日常だ。しかし力まない演技というものがあるだろうか。演劇空間では迫真の演技がもてはやされたりするのだろうか。迫真とは力むことではないのか。よく肩の力を抜くとか言われるが、力んで肩の力を抜いた場合、それは力を抜いたことになるのだろうか。真剣な表情が求められているとき、力を抜いた真剣さというものが存在するだろうか。つまり真剣さとも無縁だ。では、自分は脱力感だけで生きているのだろうか。それがどういう生き方なのかは知らない。ようするに、常に疲労しているということか。疲れている、と同時に何かに憑かれている。では、何かに憑かれたように生きているのだろうか。またもや嘘だ。文章を書き続ける上で、書くことを続ければ続けるほど、言葉を突き詰めれば突き詰めるほど、話が自分の感じている実感を追い越して、架空の世界に突入し、結局は嘘を書かざるを得なくなる。言葉が現実から遊離してしまう。文章が自分の限界を遙かに越えて、現実の自分とはほとんど無関係な嘘の世界を形成するようになる。しかしそれもひとつの現実ではないのか。フィクションとは言葉が運動した現実の軌跡となる。その言葉の軌道上でフィクションは何を望んでいるのか。やはり運動が途切れることなく継続することを希望しているのだろうか。より遠くまで、より広く、より深く、より力強く、より近くまで、より狭く、より浅く、より弱々しく、より繊細に、より大胆に、より細心に、これらの矛盾した要請をすべて踏破せよということか。嘘だ、まったく嘘八百だ。ふざけている。そんな英雄的行為にはいっさい関わりたくない。いやだ、拒否だ、モラトリアムだ。そういうことだ、またもや嘘に戻ってきた。どうやら嘘が周期的に巡ってくるようだ。しかし世間では常に若者たちに向かって英雄的行為を奨励している。これは新年の恒例行事と化している。来るべき21世紀を担うのは君たちだ、というわけだ。そういう無責任な励ましに屈してその気になる若者がいったい何人出現するのだろうか。そういうバカな若者たちの出現具合が来るべき21世紀の日本の行く末を左右するそうだが。進んで21世紀の人柱になれということらしい。他に言うべきことはないのか。言うべきことがないからああしてふざけたスローガンを毎年叫んでいるのだろう。まるで壊れた蓄音機みたいに繰り返す。歴史はこうして繰り返す。しかしその卑しい願望はもろくも砕け散るだろう。歴史が繰り返すはずはない。バカのひとつ覚えではないのだ。一方で、すべての期待を裏切るように歴史は刻まれる。しかし後世の保守的な現実肯定者が、期待通りの展開で歴史が動いているかのごとく演技するわけだ。あたかも伝統が継続しているかのように映ることを期待して、世間を丸め込もうと必死になって偽りの歴史体現者を演じてみせる。だが、そんなもので満足なのだろうか。近頃は現実と演技との背離が著しい。それを信じている人々が滑稽に見える。それは現実肯定者が現実を肯定していないからだ。ただ肯定的な未来を信じているだけ。肯定的な未来とは自分たちが創作した絵空事でしかない。真のリアリズムとは絵空事のことか。しかし自分とは関係ない。関係ないと思いこむ。これもひとつの演技だろう。人は、どうにもならない現実にただ演技で対峙するしかないのか。それでやり過ごせるだろうか。やり過ごした気になる、そのつもりになる、そう信じることしかできないだろう。しかし何も信じない。現実も演技も両方信じない。試しにそう嘘をついてみる。とりあえず信じないことにしておく。現状はどうだか知らない。ただそれだけだ。歴史など関知しない。本当に知らないんだ。嘘としても知らない。別にそう書いてみただけだ。歴史の現状について書いてみた。しかし歴史の現状など関知しない。これは言い逃れなのだろうか。よくわからない。力が抜けている証拠か。力みが持続しない。大上段に批判して見せたのに、その批判の虚構性にすぐ気づいてしまう。批判も所詮は演技でしかない。批判が足りないのだろうか。そうではなく、こめかみに血管を浮きだたせて批判をすればするほど、結局それは批判から微妙にズレながら非難の演技に近づいてゆく。そして、いつかはその批判行為が儀式と化すだろう。儀礼となった批判は辛口評論家のそれだ。そのように一般化した批判形式に酔うことはできない。中には自分の言動に酔っている人もいるかもしれないが、それは大変幸福なことだと思う。自身が結構な身分になった証拠だ。自分はまだ勘違いする立場にはない。たぶん、これからもそのような立場とは無縁だろう。現時点での研ぎ澄まされた鋭さとは、これから錆びる前兆なのだろう。しかし、自らが使用する言葉を研ぎ澄ましてどうするのだろう。だいいち言葉を研ぎ澄ますことなど可能なのか。やはりこのような比喩表現もロマン主義的幻想なのか。ではこのような現象を他にどう表現すればいいのか。新たな比喩を持ち出さない限り似たような意味とはならないかもしれない。ということは、このような現象自体が言葉上の虚構なのか。言葉の上でしか成立しない虚構の比喩表現で現実を批判したつもりになっているわけか。しかし「現実」も言葉である。しかしここから先はいつか来た道だ。またもや言葉と現実を恣意的に混同している。これが現時点での限界だ。もしかしたら、ここから新たな言語理論を持ち出して言いくるめることも可能かもしれない。だがそれはやらない。いまさらお勉強をやる気力がないから。とりあえず散歩程度にとどめておく。その気軽な散歩が出口のない迷路と化すのはいつの日のことか。知らない。知り得ない。またもや比喩表現の出現だ。ところで、比喩表現一切なしで直接的な言語だけで文章が書けないものだろうか。文章全体が直接名指される固有名だけになってしまう。夢のような文章だ。それが新聞の事件報告やアナウンサーがニュース原稿の朗読で使用する文章だろうか。しかし実際の現実と、その現実に関して作文する上での現実は違う。そのような文章には、省略され無視された無数の現実が忘れ去られている。当たり前ことだが、現実全体を直接文章にすることなど不可能なのだ。自分の伝えたい現実だけを恣意的に選択して文章を構成しているだけだ。どう伝えようとしても、それは飛び飛び現実であり、現実のサンプリングでしかない。脇道に逸れている。いつものことだ。いったいはじめは何を述べていたのか。もちろんそんなことなどどうでもいい。あるのは脇道だけだ。自分の主義主張ではない。しかし明確な主義主張などない。これも嘘か。いや、主義主張を把握できない。把握する気がない。もし、自分の主義主張を宣言して明確に態度表明をしたとき、それはすぐさま固定観念となる。イデオロギーの出現だ。こんな場所でイデオロギーに凝り固まってどうするのだ。馬鹿馬鹿しい。真剣さとは無縁だったはずだ。演技などもうやめよう。深刻になることや真剣さを装うことは、あるつまらない態度に凝り固まることだ。そういう連中は平気で自分をクズだと卑下してみせる。その程度で満足なのか?それで通用するような世の中なのか。くだらない、その程度でとどまることは哀しいことだ。そういうゲスな行為は即刻やめるべきだ。しかし、いったい何を述べているのだろうか。何を述べていたのだろうか。もう忘れた。過ぎたことは忘れ去ることにしている。これも嘘か?


1月1日

 草原の夢を見ながら、砂漠に漂う。深海に沈む幻覚に襲われながらも生きようと試みる。誰のためでもない、自分のためでもない、深刻な雪崩れに遭遇している。衝撃に出会う。しかしすぐに衝撃を忘れ去る。衝撃には出会わなかった。ただやり過ごしただけだ。楽観的な深刻さ。もはやそんな嘘は使い古された。マンネリだろう。深刻なマンネリに陥っている。これも嘘だ。そんな断定しか吐き出せない。転調だらけの文章には飽き飽きした。何も深化できない。深海に沈みながらも深海に沈んでいることを自覚していない。相変わらず表面近くで戯れていると思いこんでいる。まるで垂直方向の圧力を認識できない。しかしそんな比喩もくだらない。深海などどうでもいいことだ。問題はない。海には出会わない。山にも出会わない。人にも出会わない。しかし拒否の三重苦に出会う。身勝手な拒否に出会う。それが拒否のリズムを刻む。海山人の三拍子を形成する。だがトライアングルの中心は空虚だ。ただ三角形の枠だけが振動して音を鳴らす。しかしそこから箴言など導かない。よくあるパターンは拒否する。三本の矢のたとえ話などには行かない。馬鹿馬鹿しいからだ。現実には深刻でもないし深海に沈んでいるわけでもない。衝撃など一瞬の出来事でしかない。持続性がない。しかも衝撃には出会わなかった。では何に出会ったのだろう。覚えていない。しかしそれが救いにはならない。忘れてしまったから救いようがない。何を救うつもりだったのだろう。思い出せない。深海に沈んだ鯨の骨でも救うのか?それを救ってどうするのか。そんなもの救いの対象に入らないだろう。では救いの対象となるものとは何だろう。さあ?砂漠の砂でも救ってみるか。草原を吹きすさぶ風でも救おうか。それとも、雪崩で遭難した人を救いに行くのか。今から?どうして。部屋の中は暖かい、今から外に出るのはいやだ。結局は何もやらないし、何もできないのだ。ただ想像するのみだ。想像すること、想像し続けること。救いを求めないこと、救いを拒否すること、実際に救われないこと。ジャズに出会うこと、ジャズをけなすこと。つまり何もしないことだ。しかしそんな言葉では満足しない。言葉とともに漂っているだけだ。漂白の思いなど拒否だ。センチメンタリズムは恥ずかしい。郷愁は恥の文化だ。ただのモノローグなのだ。出口がない。内部が腐っている。内面の腐臭で嘔吐する。強烈な表現だ。「腐臭」や「嘔吐」などむやみやたらに使うものではない。嘘にも限度がある。限界を超えると嫌気がさす。こんなものを顕揚するわけにはいかない。もっと軽くいなせないものか。それができないのが生きることの重みなのか。これも嘘だ。誠実ではない。誠意もない。強風が吹きすさぶ荒れ地からの便りが待ち遠しい。おそらく彼の地には誰もいないのだろう。誰もいないのに便りが届くわけだ。差出人のいない手紙。またもや嘘だ。今度はロマンチックか?確か過去には雪崩れに遭遇していたはずだ。忘れていた記憶が突然よみがえる。これが奇蹟か?偶然だろう。偶然に起こるのが奇蹟だろう。人はそれを恣意的に必然と間違える。奇蹟を信じたいからだ。信じることは大切だ。しかし信じないことも大切だ。さらに信じることをバカにすることも大切だ。大切なことは山ほどあるだろう。しかし大切でないことも山ほどある。さらに世の中には山ほどないものもある。どこまで行っても終わらない。しかしたまには終わることもある。さらに始まることもある。何も始まらないし何も終わらないことだってある。偶然に雪崩れに遭遇したのだった。夢を見ていた。意識は砂漠を漂っていた。深海底で鯨の骨を見た。草原に風が吹く。すべては当たり前のことだ。衝撃とは無縁だ。日常の風景をただやり過ごしていたのだ。遠回しな言い方で何かを救うつもりだった。しかし拒否された。救えないこともあるし、見て見ぬ振りをしてやり過ごすことだってできる。救えないことが救われない。否定の連続だ。別に何を書こうというのでもない。何も書いていないのに言葉が蓄積しているだけだ。暇なのかもしれない。暇な表現だ。しかし暇なのに思い出せない。余った時間を思い出せない。何かを持て余していたはずだった。それが記憶にない。サングラスの男が何かを朗読している。いくぶん芝居がかった口調だ。それは仕方ないだろう。テレビでは誰もが芝居がかる。遠くからお経が聞こえてくる。興味はない。ただ聞き流す。ただそれだけの出来事。そこからは何も話が発展しない。小説ではない。小説には無理がある。無理矢理話を発展させて結局こじつけの連続になる。読んでいて苦痛だ。自らに限界を設定してしまうのだ。そんな小説は廃れるだろう。しかし中には書き継がれるものもある。一応の可能性はあるということだ。だが、おおよそ自分には関係のない世界だ。自分にはまとまりがない。人格もそのときどきでバラバラだ。何も書いていないのだ。しかし文章そのものは自ずから生成する。自分とは無関係に形成される。自分とはまるで別世界の文章だ。自分は作者ではないかもしれない。内面が表面に広がっていく。折り畳まれていたものが徐々に開いてゆく。押し広げられた内面の空虚が厚みを欠いたまま外界にさらされる。もはや誰も読めないだろう。読まれるべき言葉を失う。しかしそこから始まるのだろう。何も始まらない、と書かれる。こうして始まるわけだ。そう、何も始まりやしない。情念とはおさらばだ。おさらばしたはずだった。しかしはじめから何もなかったのだ。情念など元々ありはしない。何もない。あるのは理性だけだ。結局は嘘だけだ。理性は嘘なのか。うんざりする。何も書けない。結局はそれが本当の嘘だった。次から次へとデタラメの連続だったのだ。こうした断定自体がデタラメだ。別の世界などありはしない。風の音を聞く。風など吹いていないのに。静かな夜だ。闇の声を聞く。闇に声などありはしないのに。明るい部屋の中に蛍光灯の影ができる。事実は単純な現象だ。蛍光灯の影こそが単純な事実だ。事実には何の衝撃もない。ただ明るいだけだろう。もちろんそこからも話は発展しない。ただ時計の音がするばかりだ。秒針が音とともに刻まれるだけだ。ところで事実には断定が付き物なのか。単純な断定が事実につきまとうのだろうか。しかしつきまとわれる側の事実にどんな意味があるのか。知らない。興味がない。時間だけが進む。しかし遅い。まるで時間が止まっているみたいだ。なぜだろう、書く作業を終わらせまいとして故意に遅れているのだろうか。それとも断念してほしいのか。時間が何かの構築を妨げている。何を妨害しているのだろう。はじめから集中とは無縁だ。言葉は常に分散する。文章も何も指し示しはしない。書き継がれるのは無駄な言葉と文章だけだろう。それでいい。それ以外に何を書けというのだ。開き直りか?それではつまらない。タイミングだと思う。言葉を繰り出すタイミングを見失った。タイミングが少しずれたおかげでこの惨状だ。時間の裂け目から言葉が溢れ出す。言葉の洪水だ。いったんこうなってしまうと修正が利きにくい。自分の制御できる範囲を遙かに超えてしまったのかもしれない。いったいどこからこの無意味な暴走が始まったのだろう。キーワードは「風」か?たぶんそれは苦し紛れのでまかせだ。きっかけを探す根気がないので結局でまかせになる。しかしでまかせではあっても「風」という言葉は興味深い。ただの空気の流れが風なのか。あとはロマンチックな思いこみが大半だろう。言葉にそれ風の雰囲気がまつわりつく。生半可な思いこみがまとわりつく。しかしありがちな言葉としての「風」はいらない。ではどのような「風」が必要なのだ。必要なのではない。単なるその場限りの演技だ。別にどうでもいいのに風に執着してみる、その程度のつまらない演技だ。つまらない行為だ。シベリアの凍てついた大地から吹く季節風が懐かしい。例えばそんな風だろう。つまらない風とはそのような表現から生まれる。実際にシベリアで発生するわけではない。書くことによってどこからでも季節風は発生する。うまい混同だ、実際の風と言葉としての風を意図的に混同してそれらしい文章を生み出す。つまらない文章だ。それを説明するとつまらない。詩的表現が台無しだ。何が詩的表現なのか。詩的に言葉としての風をどのように配置したらいいだろうか。そんなことが自分には可能なのか。自分が風を配置するのではない。書くことの結果として文章中に風が配置されるのだ。風の次は闇の声も配置される。ついでのことだ。さらについでに蛍光灯の影も配置されるわけだ。そして、何の衝撃もない、と続くだろう。書いた軌跡を結果から見ると、なんのことはない、詩的表現などどこにも存在しない。やはりこれも嘘だったのか。よくありがちなことだ。何を混同していたのだろうか。あるのは文字通り純粋な散文だけだろう。それに対する返答は永遠に来ない。モノローグの世界には返答は存在しない。あるのは強靱な意志だけ。これを続けるためだけに強靱な意志が存在している。意志には中身などない。継続という言葉の他に何もない。しかし意に反して終わったりするわけだ。終わりたければ、ほらこの通り、簡単に終わらせられる。別に意に反しているわけではない。つまり強靱な意志など嘘だ。


1999年

12月31日

 おやおや、周りが騒ぎ過ぎたことによるストレスとプレッシャーで流産してしまいましたか。どうやら、御用マスコミのみなさんのほめ殺しによる皇室ネガティヴキャンペーンが功を奏したようですね。高齢だし、もしかしたら、彼女にとってはこれが最初で最後の「ご懐妊」騒動になるかもしれません。


12月31日

 内面の世界に閉じこもる。と同時に外面の虚空に飛散する。抽象的だ、空虚だ。それは言葉上での「閉じこもり」であり「飛散」でしかない。何も中身がない。しかし現実に内面の世界や外面の虚空があるだろうか。あるわけはない、と同時にあるかもしれない。あいまいだ、と同時に安易な表現だ。「同時」という言葉を安易に使いすぎる。思考が雑である。しかし雑にならざるを得ない。もはや空虚に押し流されるがままだからだ。まるで呪文のように意味不明な言葉を羅列してみる。おまえに羅列できるのか?それはわからない。ただそのように行為することにあこがれる。はたしてその願望が実現するだろうか。白昼の表現から真夜中の表現へと移動を試みる。モードの変化だ。単なる流行り廃りかもしれない。年ごと季節ごとにめまぐるしく変わるファッションの一種だろう。とすると、最新のモードがこれなのか。この無意味かつ非意味な表現形態なのか。風景画にも流行があるだろう、写実主義から印象派への変化のように。ある程度それは似たような形で循環しているが、決して同じ形態には戻らない。戻りたくても戻れないのだろう。当たり前だが、似たものはできるがそっくり同じになるわけではない、一見そっくり同じと思われる写真やコピーの場合も、それぞれ制作された時が異なる。ものは同じでも時間がそれだけ変化しているのだ。そして制作年代が違うと印象や価値も違ってくる。部数や枚数も当然変化し、一般的に少部数コピーされた年代のものが高価になる場合が多い。つまり、初版本が価値を持つ。後世に出版されたものと同じものやことが印刷されているのにもかかわらず、こちらの方が価値があるということだ。単なる紙切れに希少価値を見いだす(錯覚する)愚かな人々が多数存在するわけだ。そういう人々がオークションに群がって唯物論的に現代版貴種流離譚を享受する。さらに、博物館や美術館、それに図書館などがそのような特権的享楽を後押ししている。倒錯している、未だに貴族幻想を引きずっている。しかしそれを真に受けて羨望のまなざしを向ける一般大衆も大勢いる。これが「制度」だ。そして、その「制度」に参加している人はほんの一握りでしかないのに、マスコミがアンプ兼スピーカーとなって「制度」を大音量で鳴らすわけだ。これが20世紀に確立された支配的「構造」だ。まさに人々が「大衆」や「群衆」に画一的に還元され、文字通り「空虚」に支配されているのだ。何も中身がない幻想の世界に閉じこめられている。そして、そこで食い物にされている。


12月30日

 行ったり来たり逡巡を繰り返しながらも思考する。何をためらっているのか定かではない。身体をすり抜け、どこかへ散逸する意識。無に取り込まれる意識。何もない空間にただ吸収されるだけ。しかし吸収された分だけまた何か新たに考える。何を考えているのかわからない。わかっているのは何かを考えているらしいこと。ただ無意識のなすがまま、あたりに思考が漂う。意味のわからない思考だ。いつまで漂い続けるのか。そしてどこまで漂っていくつもりなのか。知らない。未来への焦燥に苛立っているのだろうか。何か得体の知れない予感を感じ取っているらしい。はっきりしない予感に不安がよぎる。ただ漠然とした心配にどう対処したらいいのか。何もわからない。靄がかかっているらしい。何もないようでいて、まだどこかに思考するための残り滓があるような感覚。しかし自分が何を考えているのかまるで把握できない。繰り出される言葉は、輪郭のない風景へ次から次へと溶け込むばかり。ただ消えゆくにまかせる。意味のわからない思考に戸惑う。あやふやな言葉だけが意味を見失ったまま生まれては消えゆく。意味にたどり着けない。すでに意味を捉えるための触手が退化してしまったのだろうか。代わりに何を捉えているのだろうか。空気か。闇か。虚空に向かってもがいているだけなのだろうか。それとも無意識が何か別なものを指し示しているのか。意味とは別の何かを。それに気づかない。しかし気がつかないうちに何かが積み重なってゆく。結果として膨大な言葉が堆積する。そして長い文章になる。比較するもののない長さだ。おそらく途方もない忍耐と歳月が必要なのだろう。長さや短さを廃棄した基準のない時間が経過するのだろう。そして、どこまでも行くと同時にどこにも行かない距離を踏破しなくてはならない。それは不可能だ。しかし不可能のただ中で決断し続ける。それの繰り返しだ。常に通り過ぎると同時に常に届かないわけだ。材料がまるで足りないのに構築しなくてはならない。同時に材料が過剰にあり過ぎて何も構築できない。何も語っていないようでいて常に語り過ぎている。過剰と欠乏が同時にやってくる。それが日常のすべてだ。呆然と立ちつくすことさえ許されないだろう。


12月29日

 LASER5 6.0とRetHat 6.1jの共存の仕方が分かりかけてきたんですが、もう後の祭でした。すでにRetHat 6.1jを消してFreeBSD 3.3Rを入れた後でした。それで、今度はカッコつけずに迷わずウインドウマネージャはqvwmにしました。ああ、速くて快適だぁ。タスクバーと数個のアイコンと簡単な仮想ディスクトップ以外何もない。画面がすっきりしていてめちゃくちゃ気持いい(爆笑)。

 で、今回はこちらでNetscapeでのkinput2による日本語入力のやりかたを知ったので、さっそく設定して試してみました。とりあえず、自分の環境での不具合としては、Webページ上の掲示版だと、テキストエリアに書き込むと日本語変換して決定のEnterキーを押した時に文字が消えてしまうのと、検索サイトで一行フィールドに日本語を入力するためにShift-Spaceキーを押したとたん、Navigatorのウインドウ全体が振動し始める(入力自体はできる)、今のところはこの2点だけで、メールは問題なく書けるようですから、自分にとっては、デスクトップトップ環境はFreeBSDでもほとんど問題なくなりました。PCを使う場合、なによりも日本語がきれいなのが精神衛生上大変良いことみたいです(笑)。後は少々の不具合なんか全然気にしません、大目に見ちゃいます。


12月28日

 まったくしょうがないですねぇ、どうもFreeBSD3.3R+KDEは度々画面が固まってしまうので、ハードディスクから消して、試しに雑誌の付録CD-ROMからRetHatLinux6.1日本語版を入れてみました。しかしこうも手軽にとっかえひっかえいろいろなOSがインストできてしまうと、こりゃもう、完全にOSバブルですな、選択肢が多すぎて感覚が麻痺しています。もう近頃はOSなんかどうでもよくなってきました。なんだかなあ。でも今回のはめちゃくちゃ速いです。でも日本語表示が汚い。ま、雑誌付録だから仕方ありませんか。でもFreeBSD3.3Rも雑誌付録なんだよな。しかしこれだと製品版の方はかなり快適かも知れませんね。でもこうなると、もう一台FreeBSD+KDEがちゃんと動く性能のPCもほしくなってきましたね。しかしこれ以上無駄なデスクトップばかり増やしてもしょうがないよな、まったく何やるでもないのにね。とりあえず、1GHzマシンが出るまで我慢しなくちゃね。ま、損得勘定なしのPC趣味でしかないんだから、適当なやつを来年早々にでも買ってもいいんだけれど。馬鹿だけど。というわけで、今回はRetHat6.1j+Canna+gEditで雑なひとりごとを書いてみました。

追記(笑):だめだ〜、早くも破綻だ〜。LASER5 6.0とRet Hat 6.1jは一つのハードディスクに共存できないや。RetHatのliloにはLASER5が組み込めないし、LASER5のliloにはRetHatは組み込めるんですが、そうすると今度は不具合続出でRetHatがまともに使えなくなる〜、悲しい!どうもうまいやり方があるかもしれないんですが、ややこしそうだ。こりゃ、RetHatやめてまたFreeBSD入れようかなぁ〜。どうやらRetHatとは短いつきあいになりそうです。はっはっはっは!


12月27日

 渦巻く、陰謀が渦巻く。陰謀の中身は当然のことながら知る由もない。隠されているから陰謀と呼ばれる。これもありがちな話だ。話が先に進むにつれて、当初は隠されていたその陰謀のおぞましい相貌がだんだん明らかになってくる。そしてついには、その荒唐無稽な計画に血道を上げる極悪非道な輩の姿が明らかにされる。そんな物語ではなかったはずだ。自分たちは悪役など存在しない世界にくらしているはずだ。普通の一般人が事件の加害者になる、それが現実だろう。死刑制度は廃止すべきだ。死刑に賛成する人々は、自分がふとしたきっかけで事件に巻き込まれて逮捕され被告になり、裁判官から死刑を言い渡される危険性をあまりにも軽視している。つまらない感情(復讐)に押し流され、国家による合法的な殺人行為を見逃しているのだ。


12月26日

 たぶん、遅れてくる。誰もが忘れた頃にやってくる。よくありがちな登場の仕方だ。しかしもう間に合わないんだ。登場したときにはもう間に合わない。すでに世の中は荒廃しており、後戻りできない状況になっている。おそらく何もできないまま、ただ呆然と立ちつくすのみだろう。しかしそれがおまえのねらいだ。責任逃れのやり方だ。最初から遅れてやってきて何もやらないつもりだ。そしてすべてが終わったあとに文句を言う。この過ちを二度と繰り返すな、と涼しい顔して訓示を垂れる。楽なもんさ、救世主なんて。それで十分だよ。ざまあみろだろ。誰もおまえに反論できない。おまえらの過ちだ、俺には関係ない。おまえらが懺悔していれば済むことさ。たぶんそれが一番賢いやり方だろう。あとは正義の味方づらして声高に過ちを指摘して回れば、バカな奴らの尊敬を一身に集めることだろう。もはやおまえはいっぱしの世直しコンサルタント気取りだ。そして、救世主の仮面の下で、したたかにも立身出世の計画を立てている。指導者になりたいんだろ。人に命令を下したいんだ。その野望を実現させるためには、自分の手足となって働いてくれる部下もほしいところだ。ともに新しい世界を築いていこう、僕らの夢を実現させるんだ、などという薄っぺらい甘言で奴隷志願の若者を次々にゲットするんだ。自分の不始末を尻拭いさせるための便利な人身御供が必要さ。また、鉄砲玉やわら人形や人柱用としても、書生をいくらか抱え込んでおけば用意は万全だ。これで準備は整った、さあ出陣だ、やくざの組の旗揚げだ。くだらぬ物語の始まりだ。まったく、ちんけな話だよ。ありふれている。しかしこの手の漫画を読む奴は大勢いるようだ。そもそも、中国の三国志や項羽と劉邦の物語などがその元祖だろう。


12月25日

 うわのそらとはどういう意味だろう。うわごとと関係があるのだろうか。何か思い詰めていることでもあるのだろうか。それで何を聞いてもうわのそらであり、ときどき意味不明なうわごとを呟いているのだろうか。しかし誰がうわのそらでうわごとを呟いているのか。ただそう書いてみただけか。ここから言葉をさらに循環させる。神はうわのそらからやってくる。シャーマンは意味不明なうわごとを呟くと相場は決まっているのだろうか。神が天から降ってくるためにはうわごとが必要なのか。天から降ってくるのは神だけではない。雨が降ってくる。雪も降ってくる。雹も降ってくる。そこで天がうわごとを呟く。雨乞いの祈りに返答するために。シャーマンの力量が雨の降り方で評価される。うわごとがどこまで天に通じたのかが試されている。言霊の力と自然現象がショートする。稲妻を呼ぶための祈り。なぜ呼ばなければならないのか。人々から崇め奉られるためのパフォーマンスなのか。それが何かしら経済的な利害関係と関係があるのだろうか。雨が降らなければ農業は死活問題だからなのか。わかりきったことに疑問を連発する。あやふやな結論に導きたい。そこでさらに意味不明なうわごとを呟き続ける。もはや神とシャーマンと自然現象の関係のことなどうわのそらだ。うわごとを呟き続ければいつか他人と意志疎通がはかれる。いつか自分の行為をわかってくれるだろう。そんなことはあり得ない。他人はそんなお人好しではない。こちらから意味の通じる言葉で語りかけなければ無視されるだけだ。しかしそれでも呟き続ける。ただ自己満足のための呟き。意味の通じる言葉などうわのそらだ。語りかけようとしない。まるで呪文だ。呪文を他人が聞き取れるようにわざと大声で呟く。不気味さを醸し出すために。他人をひるませるために。そしてひるんだ隙を突いて攻撃を仕掛ける。攻撃を仕掛けてどうするのか。仕留める。仕留めてどうするのか。知らない。他人のことなどうわのそらだ。うわごとを呟くことが目的だ。それ以外はうわのそらだ。そして呟き続けることが使命だ。それが宿命だ。運命なのだ。


12月24日

 今年の流行語大賞は、実質的には「買ってはいけない」でしょうね。でも、これは選ばれないでしょう。マスコミは秩序と序列を重んじる階級社会の担い手でしょうから、自分たちより身分の低い(下位のカーストに属する)インディーズ系出版社が流行らせたこの言葉は、死んでも選ばないでしょう。それがよそ者を排除するギルド社会の不文律です。だからといって、序列が下位の「週間金曜日」や、あるいは「噂の真相」を擁護する気にはなれません。彼らだって同じギルド社会の一員なのですから、いったんギルドのメンバーに認知されてメジャーになれば、とたんに権威づらして威張り出すのでしょう。彼らに対してはそういう認識です。最初から信用していません。だから批判することはあっても、決して全面的に擁護する気にはなれません。反体制や反権力なんかくそ食らえです。そんなもの体制や権力とワンセットで常に秩序と序列を守っている偽りの対立でしかありません。ま、こんなマイナーな場でどう批判しようと何も彼らには届かないでしょうけど、それ自体はどうでもいいことです。ただ私は常にそう思っているし、これからもこの見解は変わらないでしょう。ただそれだけのことです。


12月23日

 何かから逃げているのか。しかし逃げ出す対象とは何だろう。わからない。それは現実からの逃避だ、とか言っておちゃらけていれば済むことかもしれない。今まではそうやってふざけて済ませてきた。たぶん、これからもそれでいいのだろう。何をやるでもなしに、ただこうして書いているだけなのだから。為すべき事など何も見つからない。見つけようとしていないし、見つける暇もない。それに見つけようとして見つかるものでもないだろう。

 ところで、今こうして書いていることが為すべき事なのか。すでに為すべき事をやっているのだろうか。そうだとしたら、もう為すべき事はあらかた終わっているかもしれない。それとも、これから書かねばならないことが待ちかまえているのだろうか。別にどちらでもいいだろう。自分は目的を自覚できない。何が目的なのかわからない。何をしたらいいのか知らない。たぶん、このまま何も自覚できないまま、何もわからないまま、何も知らずにただ書くだけだろう。

 すでに通り過ぎている。後戻りしようにも、戻り道を見失ったままだいぶ時間が経過している。分岐点はすでに何年も前にあったのだろうが、今となってはどうでもよくなった分岐点だ。これからも何の展望も見つからないままだろう。それでいいと思っている。何も為さぬ事が何かを為すことだ、なんて自らの行為を正当化することにはもはや関心がない。自分をアピールすることが馬鹿馬鹿しく思える。自己主張する理由がなくなってしまったらしい。では何を主張したらいいのだろうか。知らない。それを知ろうとすることができない。現に、こうしてどうでもいいことを書いていることに何の感慨もない。


12月22日

 世の中には様々な段階で様々な状況がある。普通はそれ全体かその中のどれかに焦点を当てて、それぞれの段階に生じている状況同士の関連性を考慮しつつ、それらの対象について説明する適当な文章が構成される。しかし文章にする具体的な対象がない場合はどうするのか。ひとつの方法としては、このように説明しながら生じつつある文章そのものを、自転車操業的に書く対象とすればいい。

 しかしつまらない。上のような説明自体が退屈だ。何よりも逸脱や破綻がないとつまらない。突然脱線してまるで違うことを言わねばなるまい。だが、なぜそんなことが必要なのか。気持ちが散漫だから、作文に集中していないからか。と、いろいろこの場で理由を思い浮かべてみる。まるで当たっていない。理由はつまらないからだ。自分でつまらないと思ったから、とりあえず意味不明な脱線をしてみる。

 それでもつまらない。たとえば、具体的に今話題の固有名をあげて、それについておもしろおかしく書けば読者も少しは満足するだろう。新興宗教の教祖や詐欺師、政治家、スポーツ選手、芸能人、事件の当事者など。新聞や雑誌やTVでやっている毎度おなじみの手法。この場でも度々やってきた。おそらくこれからも度々やるのだろう。気の向くまま書き散らすのだろう。しかしそれで自分は満足なのか?

 わからない。では何を書けというのだ。こうしてつまらないことを書けばいいのだろうか。そういうことかもしれない。または、そうでないかもしれない。そうでなかった場合は、また別のことを書くのだろう。将来のことはわからない。未来はない、今があるだけだ。今こうしてつまらないことを書いているわけだ。そういうことだ。こうしてつまらないことを説明し、つまらない感想を述べている。これでいいわけはないのに現にこうしている。しかしわからない。


12月21日

 数カ月ぶりにPC9821XsにWin95を復活させました。しかし、くやしいけれど、Winだと256色でも15インチ液晶モニターが結構きれいに見えるんですよね。それで、Win専用ソフトでルータとその先に接続したモデムを制御してIPマスカレードを実現させました(NATも選べるんですが、両者の違いがよくわからないので、とりあえずIPマスカレードを選んでおきました)。これでLinux/FreeBSDは、デフォルトルート(ゲートウェイ?)にルータのIPアドレスを設定して、面倒くさいダイアルアップからは解放されました。そのかわりインターネットにつなぐときは、いちいちWinでダイアルアップしなければなりません(専用ソフトを立ち上げて画面上のボタンをクリックするだけですけど)。それで思ったんですけど、これってもしかして、ダイアルアップに関してはWin95がサーバでLinux/FreeBSDがクライアントということですかぁ?ということは、私は世の中の情勢とは完全に正反対なことをやっていることになるのかなあ(爆笑)。まったく、ひねくれ者にはぴったりのLAN設定ですね(笑)。

追記:なんだ、自動接続設定を有効にしたら、Win専用ソフトを立ち上げておけば、Linux/FreeBSDからも例えばブラウザがネット上にアクセスしようとすると、自動的にダイアルアップするようになりました。なるほど、これが「オンデマンド接続」というものですか。

追記の追記:なんだなんだ、Winそのものを立ち上げなくてもルータが勝手に自動接続することが判明しました(笑)。ようするに、サーバがルータでクライアントがWin95/Linux/FreeBSDの間違いでした。ははははっ!


12月20日

 叫び。叫ぶ。フィクションの世界でのこと。普通、公衆の面前では叫ばない。叫ぶのはコンサート会場かスポーツ競技場でのことだ。普通ではない状況のとき、見る者と見られる者とがはっきり分割されるとき、人工的な劇場が人々から羞恥心を奪い去り、心おきなく叫ぶことができる。劇場という制度によって役割分担ができあがる。大多数の見る側とごく少数の見られる側に、叫ぶ役と叫ばれる役がそれぞれに割り振られるわけだ。二十世紀はスポーツの世紀だと肯定的に評する人がいる。しかしそれは劇場の世紀である十九世紀ヨーロッパが全世界的に大衆化しただけのこと。筋書きのあるドラマから筋書きのないドラマへの移行。拍手喝采するためのドラマから叫ぶためのドラマへ劇空間が進化したのだ。それは純粋なドラマではなく、その場での偶然性や偶発性が最大限に加味されて、スポーツやロック・コンサートとなった。スポーツやロックに未来はない。現在だけがある。叫び熱狂するための現在が。しかし、自分はここで書くためにTVでスポーツを観戦したり、CDでロックを聴いたりする。沈黙したまま観戦し鑑賞している。自分にとって叫ぶことはフィクションである。


12月18日

 陳腐な意味に縛られて経験が直感を断念させる。その時点ですでに知覚の道は閉ざされた。新たな試みを模索する必要性を理解していながら、従来からの諸原理に捉えられたまま、一向に手詰まり状況を打開できない。閃きの枯渇はだいぶ前から日常の一部と化している。それは突然やってくるわけではない。気がついたらマンネリ状態だ。頭の中に暗雲が垂れ込め、意識が思考への努力を放棄している。そうなると何に対しても集中できなくなる。頭も体もだるい。鬱状態だ。

 精神の解放とはどのような状態なのだろうか。これまで経験した様々な体験とは根本的に異なる感覚なのだろうか。実際にそれを体験した人でないとわからない感覚なのだろうが、例えばインドの山奥で修行しているらしい仙人志願者ならその感覚がわかるだろうか。しかし、今さらヒッピーとなってインドまで行きたいとは思わない。それに、仮に仙人もどきからいろいろ話を聞いてもあまり感動しないような気はする。インドにはインドの日常があり日本には日本の日常がある。仙人もどきにとっては、それがその人の日常でしかないだろう。それは、場所の違いであり、立場の違いだ。

 その仙人もどきの中で、一般世界で商業的な成功を収めたのがサイババということになるのか。しかしそれは、「大衆迎合的な仙人」という、山奥に隠れ棲んでいる仙人本来の在り方からは矛盾した存在だ。その実態は手品師の類みたいだ。何やら隠し芸を見せて人を驚かす、奇術ならぬ奇蹟で商売している。はたして二千年前イエスは奇蹟で商売していただろうか。今となっては事の真相はよくわからない。どのように推測してみても、結局は想像の域を出ないことだろう。


12月16日

 仮面を剥がしてありきたりな顔に遭遇する。仮面の下には何の神秘も存在しない。それは当たり前のこと。素朴な素顔に出会って安心するだけ。ほっとする。しかしそこから、仮面の下には当然素顔があると頑なに信じようとする。ただそれだけのこと。それでわかった気になる。それでは自分の信ずる範囲内での「人間」は解るかもしれないが、仮面は解らない。人間の本質は仮面の方にあるかもしれないのに。それどころか、自分自身が全面的に仮面に依存しているかもしれないというのに。まったく安易だ、宗教だ。仮面そのものを直視できないのだ。描かれている仮面の表面から目を背けること。仮面の存在を認めない。仮面の効果を否認する。偽りの素振りだ。唐突に仮面に遭遇したときの驚きを無視する。仮面の存在を忘れたいのだ。無理を承知で、仮面から自分に及ぼされる影響を否定してみせる。まるで何も影響を受けていないかのように振る舞う。その結果として、わざとらしく、挙動や言動がぎこちない。仮面からのオーラに必死で耐えているのだ。奥歯に力を入れ続けているから動作がぎこちないのだ。もしかしたら、無理が祟ってそのうち病気になるかもしれない。すでに病気か?


12月15日

 今回はFreeBSDをうじうじいじっていたら夜中の1時になってしまった。結局先週からは何の進展もありませんでした。とりあえず、PC9821Xs(FreeBSD(98))に15インチ液晶モニターを接続して、XF86Configをいろいろ調整して、接続当初から発生していた鬱陶しい画面のちらつきを何とか最小限度に押さえて、どうにかこうにか見れるようにしたんですが、やはり256色では相当画面が劣悪に見えます。一度こちらの高解像度ブラウン管モニターを見てしまうと、もう液晶モニターには戻れなくなりますね。ブラウン管の価格は液晶の二分の一以下なんですけどね(笑)。まあPowerBookも当然液晶ですが、あれはビデオカードが高性能だから見るに耐えますけど(確か32ビットフルカラー表示だったような)、いまさらながら、あのIIYAMAの15インチTFT液晶を買ったのは完全な失敗でした。ああ、代金の約12万円は永遠に戻ってこないのか。ひぃ〜せこい!悲しい!しかしFreeBSDはこちらに移っちゃったし、もうPC9821Xsを使う必要はないんだよね。そろそろ使うのやめようかな。それとも、もう一度Win95をインストして、ルータの制御だけにでも使おうかなあ。まったく、Win専用ソフトでしか制御できないんだもんな、あのルータ(NetGenesis4)はさ。というわけで、今回は独り言に終始してしまいました。ではさようなら。


12月13日

 今回の「皇太子妃ご懐妊」騒動は、まさに狂気の沙汰だね(笑)。大騒ぎするマスコミやTVの街頭インタヴューに登場する人々(他人の妊娠目当てで商売しようとしている人々など)を見ていると、まるで日本全国キチガイだらけみたいだよ。......あのさー、こんなもん、宮内庁が懐妊の発表をした時点でニュースにすれば済むことでしょ、違うの?パンダやトキの人工授精じゃないんだからさぁ......。ま、キチガイどもに何を言っても無駄かな(苦笑)。


12月12日

 何も始まらない。闇夜に月がおぼろげに輝く季節ではない。何よりも大気が澄んでいる。闇と光の狭間でおまえは少しずつ幸運を手に入れるだろう。同時におまえは少しずつ不幸を招き寄せる。しかし、ある時それらは一挙にやってくる。運命がおまえを打ちのめしにやってくるわけだ。そして錯乱する。気まぐれな運命だ。幻覚に溺れ、現実に溺れる。そしてゲームに溺れるんだ。最高だよ、すべての物事を見通せるわけがない。わかりきったことだ。何かが力強く始まるなんて嘘だ。始まりなんて誰も知りやしない。スタートの合図はゲームが終わったあとに気づくもの。おまえはただ訳が分からずに決断するしかない。奴が楽しんだゲームだ。おまえのゲームではない。そして、もう奴はいない。路地裏なんかに夢はない。あるのはマンネリだけ。つかの間にひどい臭いが漂ってくる。生ゴミだよ。過去から不安が追ってくる。辺り一面に腐臭が漂う。もはやおまえは制度の需要が生み出した犠牲者だよ。おまえを使い捨てたら次のターゲットを探すまでだ。しかし、おまえは何も失っていない。失うものなんて最初から何も持っていなかった。ただ、奴から分不相応の言葉を与えられていただけさ。他人の言葉で踊らされていたんだ。そして結局その言葉を持て余して破産したわけだ。だからもう続きはないんだ。おまえにリヴェンジマッチはない。おまえで客が呼べるか?おまえはそんな身分ではない。あとは得意の八百長でドサ回りでもやっていなよ。芸は身を助けるって言うだろ?


12月11日

 昨日の朝から晩までTV各局がトップニュースで騒いでいた「皇太子妃ご懐妊」報道は、私の関係する普通の人々の間では、おおむね不評でしたね。たいていの人はマスコミの騒ぎ過ぎに不快感をあらわにしていました。代表的な意見としては、たかがガキが一人できただけで周りがこんなに大騒ぎしちゃうと、恥ずかしくてしまいにゃ皇室に嫁の来手がいなくなるんじゃないの、こんな感じでした。そうですね、例えば、皇太子妃の実家の人とか、何かある度にマスコミ関係者が大挙して押し寄せてこられたらたまらないでしょうね。見ず知らずの人にいきなり、この度はおめでとうございます!なんて言われることって、普通の日常感覚からは思いっきり逸脱していますよ。ひとたび皇室の親戚になっただけで、こういう狂気の沙汰の日々が待っているのだとしたら、普通の神経の持ち主なら、誰も好きこのんで親戚になりたいとは思わないでしょう。

 そこで思ったんですが、皇室報道で騒いでいる御用マスコミの人達って、もしかしたら密かに天皇制の打倒を目論んでいる反国家主義者なんじゃないですかねえ(笑)。これってほとんどほめ殺しによる皇室ネガティヴキャンペーンですよ(爆笑)。TVを見ていた人達はみんな不快な感じがしたんじゃないですかぁ?実際に私の周りではそうでした。

 それで、さらに考えたんですが、例えば、五十数年前、大日本帝国は国家主義者の暴走によって滅亡したわけですよね。日中戦争において、アメリカの挑発に乗らずにもうちょっと自制して適当に和平交渉でのらりくらり時間稼ぎをしていたら、1941年当時ドイツは既に東部戦線でソ連に敗北しつつあったわけだら、真珠湾攻撃なんていう無謀なことをやらずに済んだのに、結局国家主義者の主張する軍事的蛮勇の盲信に押し切られて自滅しちゃったんでしょう。とすると、今新たに台頭しつつある、小林よしのりをはじめとするネオ国家主義者をこのままのさばらせるがままにしておいた方が、彼らが暴走して国家の滅亡が早まるような気がするんですが、どうなんですかね。

 例えば小林の漫画って、自分の味方だと思っている人は思いっきりきれいな顔で描いて、自分の敵の顔はひどく醜く描く、この、敵の批判に反論するときに顔の醜さで読者の意識にネガティヴな印象を植え付けようとするやり方は、公平な立場で見ればやはりかなり卑怯なやり方に映りますよね。たぶん、彼のファンでない分別がある普通の読者なら不快な感じがするでしょう。そういう不快な輩が天皇を賛美し、国士気取りで偉そうに説教垂れている現状には、さらに不快感が倍増しますよね。いやな感じがして当然でしょう。そうです、小林先生も天皇制打倒と国家転覆を目論む反国家主義の戦士なのです(超爆笑!)。彼は、表向きは「噂の真相」や「週間金曜日」と偽りの対立を演じていますが、裏では「日本国打倒」という崇高な理念の下に共闘してるのです(おいおいおいおい.........)。


12月9日

 みなさ〜ん!最高ですかぁ!?

 教祖様にこう訊かれたら、信者のみなさんは「最高です!」と答えるしかありませんか。

 まったく法の華の集団ギャグは最高ですね(笑)。それにつられてニュース23の筑紫の野郎も、多事争論で自らが「ヤロウ」であることをついに認めましたね(爆笑)。夜郎自大なチクシ御大も福永先生のおかげで悟りの境地に突入かぁ?

 しかしまあ、世の中には、不幸になるかもしれない自由を捨てて奴隷の幸福を選ぶ人が大勢いらっしゃるようですね。でも、あんまり年がら年中最高であったり幸福であったりするのって、ちょっと変ですよね。ちょっとどころか、かなりおかしいかな?頭が。ま、そういうおめでたい人に同情する気にはなれませんね。せいぜいこのまま常時ハイテンションを保って、死ぬまで最高でいてください、と言ってあげる以外に慰めの言葉は見つかりませんね。


12月8日

 案の定ppxpはよくわかりません(笑)。今のところ、rootでログインしてしかインターネットにつながりません(ユーザからsuコマンドでrootになってppxpを実行しても、ユーザーレヴェルで起動しているアプリケーションはインターネットにつながらない)。また、IPマスカレードの設定も適当に数値を記入してみたんですがうまくいきませんでした。う〜ん、むずかしいなあ、やることなすことことごとくうまくいきませんね。本当に疲れました。まあ、積極的にやり方を情報収集していないんだからこんなもんなんでしょうけど。だいいち、使っている人間がいい加減な奴なんだからしょうがないですね。ま、あと数年先にインターネット常時接続が当たり前になる頃までには、少しはやり方がわかってくればいいか。とりあえずあんまりカリカリしないで気長にやるしかないですね(笑)。

 また、FreeBSD3.3Rのデスクトップについては、デスクトップテーマを変えれば割と落ち着いた画面にはなるんですが、どうもGNOMEだと、タスクバー(パネル)に、現在開いているウインドウが表示されないので、また再度KDEに変えてみました。KDEについては、前回はインストールのやり方がまずかったみたいで、/stand/sysinstallで、いきなりデスクトップ設定にいかずに、まずはパッケージの中からKDE関連のファイルをすべてインストールしたら、今回はうまくいきました。

 それから、これは前々からわかっていたことではあるんですが、FreeBSD用のNetscapeは日本語のフォントがかなりきれいです。GIMPでのスクリーンショットのやり方を知ったので(Linux Japan 1月号の「目指せ!ハイスコア」で知りました(笑))。こちらに示しておきますが、せめてLinuxのNetscapeでもこれぐらいの見栄えになってほしいよなぁ〜。実は先週モニターをSONYの17インチ平面ブラウン管CPD-G200Jにしたので、L5linuxでもそこそこには日本語が見れるようになってきたんですが、でもHTML文をNetscapeで見ると、何か変にかすれた感じになっちゃうんですよね。


12月6日

 12月7日の10:00-18:00の間、2000年問題対策のためプロバイダのサーバが停止するので、このページは閲覧できなくなるようです。

 しかし本当にあともうすこしで西暦2000年になってしまうのか〜。ところで2001年宇宙の旅は本当に実現するのだろうか。しばらく前にペプシのCMで抽選で何名かを招待するようなことを言っていた記憶がありますが、あれはどうなっちゃったのかなあ。べつに自分は応募していませんが、マジであと1年ちょっとでスペース・プレーンみたいなのが開発できるのかなあ。近頃この手のニュースはとんと聞かないですけどね。けっこう開発が間に合わなくて、予算の都合上、ロシアあたりの宇宙船で行くことになったらちょっと怖いだろうな(笑)。そういえば中国も有人宇宙船計画があるんですよね。ところで、中国の宇宙船のコンピュータは、やっぱ漢字表示ができるんでしょうね。OSが「超漢字」だったりして(爆笑)。船内の計器類やモニターもすべて漢字に統一されていたりして、例えばメーターの数値も「一二三四五.........」なんてなっていたら超ファンキーなんだけどな。そうなると宇宙飛行士のユニフォームは人民服か(YMOかよ!)?


12月4日

 金属光を放つ夢の奥底でレールが軋む。心地よい振動で惰眠を貪る。冒険を抑制するための軌道上で赤錆びたレールが無限に続く。砂利の上の雑草は貧弱に生えていた。所々に小さな黄色い花を咲かせていた。砂埃と火を吹く煙突の情景。薄汚れた灰色の街に塩辛い雨が降る。薄汚れた公園のブロンズ像は自ずから涙を流しながら少しずつ溶け続ける。あのレールは既に撤去されてしまったんだ。目が覚めたとき、笑い出した。なんの恐れも抱かず、石を投げながら走り去ったのだった。素敵だろう?何が?疑問符の連続が。現代人はもはや狂人とは交通していないそうだ。狂人は病院に隔離されているから交通できないらしい。しかし狂気は社会の中でしか存在しないそうだ。狂人を病院に閉じこめようとする一般人の神経が狂気の沙汰かもしれない、ということらしい。狂人を見ると反射的に狂気に駆られるのが現代人の特徴なんだそうな。おまえの勇気は破滅の兆しだ。


12月3日

 しかし国もうまいこと考えましたね。もう誰も反対できないサッカーのワールドカップに伴う航空旅客需要を理由にして、2002年までに成田空港に暫定滑走路を作っちゃうなんて。国策放送局のNHKニュースでは盛んに、日本でワールドカップが開かれる以上仕方ないんだ、の一点張りで洗脳活動に終始していますけど、ワールドカップが開かれるのはたった一ヶ月の間だけなのに、それにすべての試合を東京周辺でやるわけでもないのに、まったくよく言うよね(笑)。だいたい隣の韓国には既にかなりでっかい空港が数年前に完成しているんだから、そこを基点にして小型機に乗り継いで日本の試合会場最寄りの地方空港に降り立てば済むことでしょ(関西国際空港だってあるじゃん)。ま、こういうのを泥縄式とでもいうんですかね。どうせ将来は暫定滑走路を延長して正式な滑走路にしちゃう腹づもりなんでしょうけど。とりあえず空港反対派住民は、低騒音でかつ短い距離で離着陸できてなおかつ大量の人員を輸送できる夢の航空機が開発されるまで耐えるしかないですか。しかし実現される頃にはこの世にいないかもね。


12月2日

 事件の顛末などとうに忘れ去られた。薄汚れた過去などにはもう誰も興味を示さない。つかの間の輝ける栄光にすがりついたままの惨めな男。うらぶれた街路に寂しくたたずむ。痩せた両肩に薄暗い街の灯りが微かに降り注ぐ。未だにあのときの罵り言葉が心に突き刺さったままだ。

 砂の岬を通り過ぎたのはいつだったろうか。そこが終点だったはずだ。そうだ、遙か終点を通り過ぎて今がある。こうして雨上がりの灰色に濁りきった河口でうろついている。澄みきった上流の記憶はない。きれいな上流を知るのはもっぱら気楽な登山者か釣り人などだろう。しかし観光客はゴミの数に比例する。上流から毒を流されてこうして灰色に濁るのか。

 黒い夜空に星はない。かろうじて何か呟きかけるが言葉にならない。寒さが口をつぐませる。雪を見たい。それが空に対する期待だ。しかし空は無言のまま黒いだけ。悲壮なる同伴者よ、どうかこのままおまえの正当なる行為を遂行してくれ。朝日が昇るまでそのまま黒く広がっていろ。もうおまえに期待などしない。

 まあハードボイルド調の文章とはざっとこんな感じですか(ちょっと演歌がかっているかな)。しかし、暖かい暖房の効いた快適な部屋の中でこんな嘘っぱちを書いても、全然リアリティがありません。ちょっとバ〜カで〜ちゅね。ああ、こんなこと書いちゃうとシブい雰囲気が台無しだ。


12月1日

 なぜかここへ戻ってくる度に毎度おなじみのOSインストール地獄です(疲笑)。おまけに今回はインストの最中にうるさい勧誘電話がかかってきて、手が滑って電話の受話器を壊してしまいました。まいりました、まったくどうしたものか、ハンズフリーでしか聞こえなくなってしまいました。こりゃ新しいのを買わないといけないかもしれない。

 それで肝心のOSのインスト具合はというと、結局2.1GBのハードディスクを2等分してFreeBSD3.3RとL5linux6.0を入れました。途中で調子に乗って、これに加えてさらにRedHatLinux5.2jを入れようとしたのがそもそもの間違いで、OS起動のためのLILOの中身がこんがらがってしまい、RedHat5.2jのカーネルでL5linuxが起動したりして、どこをどうしたらいいものやらわけがわからず、収拾がつかなくなってしまいました。まったく、一つのハードディスクに3つもOSを入れるのはもうこりごりです。もうすでに夜中の2時だ(笑)。

 とりあえずさっきL5linuxの設定が一段落ついてなんとか一息つきました。それで、もう疲れたからFreeBSDの設定は次回に先送りです。ま、FreeBSD用のppxpがpackageに入っていたので、とりあえずインストしておきましたがどうなることやらです。しかし、こんなことやってきてみると、もうPC9821XsのFreeBSD(98)なんかどうでもよくなってきたなあ。どうせダイヤルアップなんだからLANとかやってもあんまり意味ないような気がしてきたよね。

 それにFreeBSD3.3Rのデスクトップを眺めていると、もうなんだか意味不明な脱力感に襲われますね(笑)。なぜか今回はKDEに問題があって(ファイルマネージャのKFMが起動せずにエラー状態になってしまう)、GNOME+Enlightenmentにしたんですが、なにやら毒々しい派手な背景にタスクバーとアイコンと仮想デスクトップがぐしゃぐしゃに混じり合っていて、得も言われぬ独特な雰囲気を漂わせているんですが、なんだか画面全体が発狂しているみたいで、いったいこれでどうしろというのか、理解の域を超えているし、なんともやりようがありません(笑)。もしかしてEnlightnmentの作者の方はヘビメタおやじなのかなあ。