彼の声154

2023年

1月31日「無駄で無意味な批判」

 実践の中で論理では通用しないことがまかり通るのは、論理そのものが間違っているからではなく、論理とは合わないことが、実践として世の中で通用している実態があるからだろうが、具体的にはそれがどんな行為や行動なのかと問われるわけでもなく、特に論理的に矛盾したことをやっているつもりもないのに、その論理的な矛盾をあげつらって批判が成り立つ場合もあるから、批判できるとしてもそれが言葉の上の実践だから、実際に行われていることからはちょっと隔たっていて、批判に使っている論理と実際に行われている行為や行動から導き出される論理が同じだとは言えない場合もあって、それを混同してしまうとまずいわけではないが、批判している対象が行われていることなのだから、行われていることから導き出される論理がおかしいのではないかと批判するわけで、それが言葉を使って述べていることと実際に行われていることとの間で微妙にニュアンスの違いやずれがあると、何か齟齬感を覚えて、批判の拠り所となる論理が現実に行われていることとは噛み合っていないのではないかと疑われて、それによって批判が空回りしているような印象が感じられると、批判そのものがその場の状況の中で有効に機能していないように思われて、それ以上いくら批判を繰り返しても相手にされなくなってしまうのかも知れず、そんな批判が具体的に何をその対象としているのかといえば、それが実際に行われていることになるはずなのだが、それが的を射ていないように思われるなら、何かが違っていて、実際には行われていないことについて批判しているとは思えないだろうが、実態としてはそういう場合もあり得るかも知れず、もちろん行われていないわけではなく、ただ行われていることが様々な方面からそこへと関わってくる複数の人や団体によって行われていて、それを共同作業とは言い難いだろうが、例えば戦争を敵と味方との共同作業とは言わないし、敵の方でも味方の方でも、それぞれに複数の敵や味方を抱えていて、それらが必ずしも一つの論理に基づいて行為や行動を行なっているわけではなく、そこでも複数の論理や意図や思惑が複雑に絡み合いながら、それに対応したり対処するために、実際の行為や行動が伴ってくるわけだから、それを一つの論理や立場から批判してみても、当然噛み合ってこないだろうし、そこで行われていることを特定の人物や組織などが影から操っているわけではなく、逆にその場に関わっている誰もが、どんな組織や団体も支配的な影響力を及ぼせずにいるなら、誰も主導権を握れていない可能性もあるわけだから、それを批判するとしても、批判対象を誰に定めてみてもどんな組織や団体に定めてみても、それらの誰も主役ではない可能性さえあり、要するに批判の的にはなり得ない人や集団がその場で共同作業とも言えないようなことを行なっている実態があるなら、それが批判しようのないことが行われていると言えるわけでもないが、なんらかの論理に基づいて批判することはできるとしても、それをどう批判してみても、批判の対象となるような人や集団も存在しているはずなのだが、その対象となりそうな誰もが微妙に批判をすり抜けてしまうようなことになるはずもないのだが、微妙に批判には当てはまらないようなことになってしまうと、もちろん批判している人にとってはそれが批判に当てはまるから批判しているのだろうが、批判の標的にしているつもりの人や団体からすれば、何か外部から自分たちに向かって批判している人がいるらしいのだが、その批判の対象がよもや自分たちだとは思ってもいない場合もあるかも知れないし、それも直接名指しして批判しているなら、なるほど自分たちが批判されているとは思うだろうが、批判している方もそういう批判をしているつもりでいるかも知れないが、それがどこの誰ともわからないような人たちに向かって批判している可能性もあるわけで、そんな批判にいちいち反応するまでもないことだが、だから何でもないことにしておけば済んでしまうような批判であれば、無駄で無意味な批判には違いないのだが、意外と批判している側はそうは思っていないだろうし、しかも直接名指しして批判しているにも関わらず、相手にされていないような態度に出られると、ますますムキになって苛烈な批判を繰り返すことになるだろうが、相変わらずそれが批判対象となっている人や団体にとっては何でもないことであり、何を批判されても一向に真に受ける気配さえ感じられなければ、批判とはそういうものだと捉えておけば済むようなことになってしまい、批判する側にとっては、別に批判が空回りしているわけでもなく、相手に批判が突き刺さるような手応えを感じているのかも知れないが、それが批判される側にとっては一向に堪えておらず、何を言われても何でもないような素振りで吸収されてしまい、批判されている当事者意識さえ感じられないような態度に出られると、何か批判が的を射ていないのではないかと思うかも知れないが、たとえ的を射た批判であってもそうなのであり、批判される側がすでに批判慣れしていると見ておけばいいのかも知れないが、要するになめられているということであり、なめられていても、なめられている側にはどうにも対処できないわけでもないのだが、もしかしたら誰も対処しようとはしていないのかも知れないし、もちろん誰もではなく、批判している側はそれに対処するために身構えるのだが、他の人たちがそれに乗ってこないわけで、他の人たちのために批判しているつもりなのに、その他の人たちも、わざわざ自分たちのために批判しているとも思っておらず、頼まれもないのに勝手に批判を繰り返していると思っているわけでもないのだろうが、少なくともそれらの人や団体に狙いをつけて批判してくれと頼んだ覚えはないのではないか。


1月30日「倫理と規範」

 迷いがあるのはいつもそうかも知れないが、気が進まないのは宗教に関する倫理について考える時であり、規範というと守らなければならない掟のようなものだが、例えば人として守らなければならないと思う規範が倫理なのかというと、規範は規範であり、倫理は倫理で、違う言葉なのに、倫理学というと何やら守らなければならない規範の話になってしまい、規範について語っているのであり、直接倫理について語っていないのではないかという疑念を抱いてしまうわけだが、たぶんわかっていないのだろうが、確かモーゼの十戒の中では守らなければならない規範が示されているはずだが、もちろん他にもコーランの中でも示されているのだろうし、宗教ではなくても、例えばハムラビ法典にも守らなければならない規範が示されているだろうし、日本国憲法の中でもそういうくだりがあるのだろうが、法律も慣習も規範の一種には違いないが、たぶん倫理は法律でも慣習でもないし、宗教でも規範といえば戒律があるだろうから、戒律を守ることが倫理的な行為なのかというと、逆に戒律を破ることこそが倫理的な行為であることをイエスやシャカは人々に教えようとしていたわけで、それもただ何でもかんでも戒律を破ればいいわけではなく、宗教の戒律が人々や社会に弊害をもたらしている時にのみ、しかも他の多くの人々が戒律を守っている中で、あえて非難されることを承知で、戒律や破ることが倫理的な行為や行動になるのだろうが、そういう意味では倫理的に行動したり思考することが、単に宗教が決めた倫理規範に従うことだとは思えないわけで、果たしてそうやって倫理的に行動することが、人のためや社会のためになるかというと、宗教の戒律を信者に守らせようとする教祖や指導者的な立場にある者からしたら、それは受け入れ難い行為であり、信者が戒律を破れば罰を下したり破門にするところだろうが、その成り行きを統一教会や創価学会に当てはめると、戒律を守らせようとする教団側に反発して、教団が人の道に反するひどいことをやっていると訴えることが倫理的な行動になるわけだが、宗教には戒律と共に教義もあるだろうし、教義に従うなら、時には戒律を破らなければならないケースも生じてくるかも知れないし、教団が発展するにつれて、途中から教義に反するような戒律が生まれることもあり得るだろうから、そこで原初に立ち帰れと教団の組織的な堕落を糾弾するような者も教団内部から現れるかも知れず、そこから教団の組織改革などにつながれば、理不尽に思われる戒律も刷新される可能性もあるかも知れないが、何千年も続く宗教であれば度々そんな出来事が起こりつつ今に至っていて、中にはそうした内紛に伴っていくつもの宗派に分派した宗教もありそうで、各宗派がいがみ合っている場合もありそうだが、それが宗教団体ではなく政党となると、それなりに事情も変わってくるだろうが、例えばナチスの場合は、ヒトラーの盟友で武闘組織の突撃隊を率いていたレームが、ドイツ国軍と対立してしまい、ナチスが国軍を掌握するには、レームと突撃隊の幹部たちを粛清しなければならなくなって、思い悩んだ挙句にヒトラーはレームたちを粛清する決断をしたわけだが、そこからレーム亡き後、頭角を現してきたのがヒムラーで、突撃隊に代わる暴力組織として警察部隊の親衛隊が編成されたわけだが、その際にヒムラーが組織を組む上で参考にしたのがイエズス会であり、イエズス会の教義や戒律をそのまま親衛隊に導入して、もちろん思想として、当時流行っていた人種思想や優生学なども隊員たちを教育する際に洗脳に使われたわけだが、そこから時代が下って場所も移動して、何やられいわ新選組が組織的な締めつけでもやったのかどうかは知らないが、幾人かの離反者が出たらしく、果たしてその離反者たちが起こした行動が、戒律や規範に逆らうような倫理的な行動なのかどうかが問題となっているわけでもないだろうが、離反者たちの言動から窺い知れるのは、どうも倫理的な行動に当てはまるように感じられて、それがれいわにとって政党としてのイメージダウンにならなければいいだろうが、そこで問題となってくるのが、政党として教義と戒律のどちらが重要かということにはならないだろうし、そんなことまで問題意識を共有している余裕もないかも知れず、うやむやのままに済ませられる問題でもないかも知れないが、ともかく現状でれいわが主張しているらしい積極財政や格差是正などを含んだれいわニューディールというのが、教義だとすれば、戒律はそれとは別の方面で守らせようとしていることであり、離反者が反応したのは教義に違和感を覚えたわけではなく、戒律の方に違和感を覚えたのだろうし、そこに倫理的な行動や言動が伴ってくるわけだから、その戒律としての決まり事に、各方面から批判されている、れいわローテーションという制度も含まれるだろうし、そこにも倫理的な反応として批判が寄せられることになったわけだが、なぜ人が倫理的な反応を示すのかというと、人助けにつながるようなことをしたいわけで、しかも戒律や規範に逆らうことで自分が犠牲になっても不利になっても構わず、あえて批判するようなことをやりたがるから始末に負えないのだろうが、そういう物事の合理性や功利性からはかけ離れたことをやってしまうのはなぜかといっても、そんな行動や言動に出てしまった人たちに訊いてみるしかないだろうが、それが結局やむにやまれぬ行動や言動であり、そういう人たちを応援したくなるのも人情と言えるだろうが、そういうところで矛盾が生じてしまうとしても、それをとやかく言う気にはなれないし、そうかといって他人事で済ませて無関心を装う気にもなれないから、結論の出ないことを述べる羽目になるとしても、そういうことだと受け取ってもらうしかないわけだ。


1月29日「民主主義の利点と欠点」

 政権政党と政府の官僚機構が共謀して独裁的な支配体制を築き上げようと画策している国は、日本もある程度はそうであり、中国やロシアでは完全にそうだし、トルコやイランなどでもほとんどそうなっているが、そうなっている国の何が問題なのかというと、普通に考えて民主派が弾圧されるわけだから、民主主義が破壊される傾向があるわけだが、権力が一つの勢力に集中してしまうことが弊害なのかというと、それの何が問題なのかといっても、実際に独裁体制を構築して維持したい側にとっては、そうなった方が好都合だと思われるのは当然だが、権力が一つの勢力に集中するから、それだけ好き勝手なことを強引にやれるかというと、それをやっているつもりにはなれるとしても、そのやっていることが自ずから単調な傾向に収斂してしまい、しかも同じことしかできなくなって国家の統治が硬直化してしまうという弊害が出てくるのだろうが、要するに活動が一つの傾向に偏って、多種多様なことができなくなって、それが競争相手となる民主主義国から遅れをとる原因となってしまうわけだが、それに対して民主主義国の何が有利なのかと言えば、端的にいって統治の緩さや柔軟さがあり、そこから自由な活動ができそうな魅力が生じてくるから、結果的に多くの人や物や資金が集まってくるわけで、独裁体制に特有な排除と選別の論理が働いていないように感じられるから、実際にはそうではない面もあるとしても、少なくとも詳しい事情のわからない外国人から見れば、どちらかといえば活動の自由がありそうな国の方が行きやすく入りやすいと思われるだろうし、目的が観光ではなく商売となれば、外国人に対して規制や制約の緩い国の方が商売しやすいだろうし、そういう面でどうしても独裁体制となってしまうと、当局に従わない者は排除するようなことをやらないと、独裁体制を維持できないから、それだけそこに暮らしている住民の活動も制約を受けて、何をやるにも統治機関や治安機関の顔色を伺うような卑屈な態度の無能者ばかりとなってしまい、その典型例が北朝鮮なのだろうが、では日本はどうかというと、都合の良いところだけ見せようとするわけで、要するに観光客だけ来てほしいわけで、外国人が日本人になるのは困るし、それも欧米の白人なら許せるとしても、貧しいアジア人が出稼ぎに来てもらうのも、日本人が嫌がるような低賃金の3K仕事なら喜んでやらせるだろうが、そのまま日本に住み着いてもらっては困るわけで、そういう排除の論理が働いているわけだから、人口が減って自滅の一途を辿っているわけだが、もちろんそういう傾向は大なり小なりどこの国でもよそ者を排除したいだろうから、程度の差でしかないだろうが、それと民主主義がどう関係してくるかというと、嫌がられはするだろうし、よそ者に対する差別意識も元から住んでいる人たちの間で温存されて、人種問題や民族問題も表面化して争いが絶えなくなるだろうが、それでも多くの外国人がやってきて、その中から定住する人もそれなりに増えてきて、そこで生まれ育った二世三世なども次第に増えてくるなら、それだけその国や地域に魅力があるということになるだろうし、社会が移民に寛容だから、そういう成り行きが出てくるとしても、果たして民主主義の民主という概念が、自国民に対してだけ有効なのかというと、どうもそうではないような気がするわけで、それを狭く厳密に捉えて、日本国籍を持った日本生まれの日本人のための民主主義になってしまうと、独裁体制でも構わないとは思わないだろうが、結果的にはそうならざるを得ない成り行きが待ち受けていて、だからといって外国人にも参政権を認めろと短絡的に考えるのではなく、もちろん一定の年月定住すれば、地方自治体への参政権を認めるべきという主張もあるだろうが、そういう制度的な面とは別に、そこで民主主義と自由主義をセットで持ち出してくる必要があるのかも知れないが、果たして自由民主党という政党が民主主義と自由主義の両方を担い得る政治勢力かというと、なぜか外国のカルト宗教には寛容なのかも知れないが、それも日本人を洗脳してカネをむしり取るために利用しているだけなのだから、民主とも自由とも全くの無関係だろうが、実質的には自由民主党に限らず、政府の官僚機構と癒着する成り行きになれば、どのような政党だろうと民主主義からも自由主義からも遠ざかってしまい、中国の共産党なども、元から民主とも自由とも無縁かも知れないが、身内や味方や仲間だけではなく、自分たちとは異質な人たちの意見を聞き入れることが民主主義には求められていて、それが自由主義ともつながってくるのだろうが、もちろんそういうことがなかなかできないから民主主義が定着しないし、結局は他人を洗脳したり籠絡したり買収したりして、自分たちの身内や仲間や味方や子分に引き入れてから、自分たちのやり方に従わせるようなことをやりたがり、それでは民主主義にはなり得ないとは思っていないだろうし、逆にそれが民主主義だと思っている人たちが、自分たちが信じる民主主義を守り推進しようとするから、結局はそれが高じて独裁体制になってしまう場合もあるわけだが、もちろん何でもかんでも他人の言うことなど聞けるはずもなく、自分たちの主義主張とは真逆のことを言ってくる人たちとは対立せざるを得ないし、場合によっては争わざるを得ないとしても、なぜそこで対立や争いが生じてしまうのか、その理由や原因を探らないとならないし、そういう模索や探究の過程で対立や争いを解消しなければならないのも、民主主義の難しいところで、単純に争って勝ったり負けたりしてはいけないわけで、そうした争いの後でも相手が存在していなければならず、しかもその相手の暮らしも守らなければならないわけで、独裁体制のように邪魔者を抹殺するわけにはいかないところも、民主主義の難しいところなのではないか。


1月28日「中央銀行の役割」

 景気対策について昔からよく言われてきた話として、景気が悪くなったら中央銀行が紙幣を刷ればいいという比喩的な表現があるが、具体的に中央銀行が何をやっているのかといえば、金融引き締め(QT)と金融緩和(QE)をやっていて、景気が加熱しすぎてインフレ圧力が高まってきたら、政策金利を上げると共に、金融引き締めをやって、中央銀行が保有している株や債券を市場で売ることによって、市場から通貨を回収するわけだが、逆に景気が悪くなって、インフレも沈静化してきたら、政策金利を引き下げると共に、金融緩和をやって、中央銀行が市場で株や債券を買い取ることによって、市場に供給される通貨量が増えることになるわけで、景気が悪くなったら中央銀行がカネを刷ればいいというのは、金融緩和をやって、中央銀行が市場で株や債券を買い取ることによって、市場に供給される通貨量が相対的に増えることを言っているのだろうが、コロナ禍やロシアのウクライナ侵攻以降に、アメリカのFRBやEUや欧米諸国の中央銀行がやっていることは、コロナ禍で景気が急激に悪化したら異次元の金融緩和をやって、ロシアのウクライナ侵攻で急激に物価高のインフレになってきたら急激に金融引き締めをやったわけで、それ以外の政策があるかというと、中央銀行自体にはないように思われるのだが、もちろん欧米諸国の政府は他の政策もやっていて、コロナ禍では感染が広がらないように大規模な都市封鎖のようなロックダウンをやったり、国民に給付金を配ったり、間接税の税率を下げたり、ワクチン接種を進めたりして、一時的にはそれなりの効果を上げたと言っていいだろうが、もちろん日本政府も消費税の税率を引き下げることは頑なに拒んだが、国民に給付金を配ったり企業にゼロ金利で融資したりワクチン接種を実行したわけで、それが全くの間違った政策だとは言えないだろうし、一時的にせよ、それなりの効果を上げたのだろうが、それでは不十分だと多くの人々が思っているとしても、日本の中央銀行である日銀としては、コロナ禍以前からアベノミクスによって大規模な異次元の金融緩和をやり過ぎてきたから、コロナ禍になったとしてもそれ以上の金融緩和などやりようがなく、身動きが取れなくなってしまったのだろうし、普段から不必要に偏ったことをやり過ぎると、いざとなった時に何も対処しようがなくなってしまうわけだが、日本政府もすでに国債の発行をやり過ぎていて、これ以上の財政悪化をもたらすような消費税の引き下げなどできなかったわけで、それが今回のコロナ禍とロシアのウクライナ侵攻という予期せぬ事態から明らかになったことだろうが、それでも同盟国のアメリカから要請があれば、強引に防衛費を引き上げるために増税しようとするわけだから、そういうところが正気の沙汰でないような成り行きになっているのだろうが、それが本当に正気の沙汰でないかどうかは、今後の成り行きを見守らないとわからないことかも知れないが、そこでロシアのウクライナ侵攻に合わせて、対GD Pで2%の防衛費を確保しなければならないという防衛費を引き上げる口実ができたことになるのだろうし、そんなことをこの時期に達成しなければならない理由があるのかという疑問も残るだろうが、それに関しては中国が台湾へと侵攻する危険があるから、在日米軍と共に自衛隊の軍備を増強しておかなければならないと考えているかどうかはわからないが、そういう時事的な要因にどう対処するかといっても、他に対処すべき国内問題として、少子化対策と称して、それを囮に使って軍備増強を行いたい思惑が透けて見えるようなことにもなっているから、国会でも見え透いた議論が行われようとしていて、それがいつものごまかしやまやかしや目眩し的な成り行きにもなりつつあるのかも知れないが、そういう成り行きが何に対して問題のすり替えとして機能するのかといえば、日銀が金融緩和をやり過ぎたことと政府が国債を発行し過ぎたことの後始末が控えているのかも知れず、果たしてそれらをやり過ぎたことがどんな結果をもたらすのかといっても、実際にこの先のどこかで何かが起こってみないことにはわからないが、それに関して積極財政派が常々繰り返し主張してきたことは、ハイパーインフレなど起こりようがないということであり、あるいは財政破綻など起こりようがないとも主張してきたかも知れないが、それらが間近に迫っていると予言するだけの根拠などあるのかないのかよくわからないが、どう考えても無理なことをやってきたと感じられるのであり、それがコロナ禍やロシアのウクライナ侵攻を契機に表面化してきたことなのだろうが、もちろんそれ以前にも政府の財政状態のヤバさを指摘する人が後を絶たなかったわけだが、その度ごとに積極財政派の中から大丈夫だと強弁する人も後を絶たなかったわけで、それが本当に大丈夫なのかどうかがわかる時が間近に迫っていると言えるかどうかも、今のところははっきりしないのかも知れないが、日本がどうなるかはよくわからないとしても、今回のコロナ禍とロシアによるウクライナ侵攻に対する主要各国の反応からわかるのは、各国の中央銀行が曲がりなりにも対策として金利を上げ下げしたり、金融緩和や引き締めをやったのに対して、日銀だけが何もできないまま、切羽詰まって追い込まれて、やっとちょっとだけ金利が上がるような措置をとったにとどまり、それが各国の中央銀行が行なったことと比較して、著しい違いを印象づける結果をもたらしたわけで、そんな成り行きが日銀の機能不全を物語っていると決めつけたくなってしまうのだが、そうだとすればやはり今後大変なことが起こると予言したくもなってきて、実際にそうなった時に、今まで大丈夫だと強弁してきた人たちがどういう反応を見せるかが見物というわけでもなく、大したことにもならずに拍子抜けの公算も高そうな予感もしているわけだが、やはり何かが起こってから、そらみたことかと後だしじゃんけんのようなことも言いたくなってくるのではないか。


1月27日「物と情報とサービスの関係」

 経済活動の中では、物は生産されて、情報は流通して、サービスは消費される、と考えると、物は生産されると共に流通して消費されるから、生産されるだけではないのだが、また情報も流通するには生産されなければならないが、一般的には情報を生産するとは言わないし、それはサービスを生産するとは言わないのと同じような意味合いだが、またサービスが流通するかというと、それも一般的には言われないだろうし、では情報は消費されるかというと、それもあまり消費されるとは言われないかも知れず、物に関しては生産と流通と消費が普通に成り立つのに、情報は流通することに特化していて、またサービスは消費されることに特化していると言えるだろうし、なぜそうなのかといっても、情報の生産過程と消費過程が一瞬で行われるわけではないが、生産過程においては生産するというよりは編集する意味合いの方が割合が高いだろうし、またサービスになると、生産するというよりは学習や訓練によって身につける意味合いの方が高く、また流通するというのとはちょっと違って、サービスを身につけた者が移動して、移動した先でサービスを提供する場合もあるだろうし、客の方がサービスが行われている場所に移動してきて、そこでサービスの提供を受けるといった手順でサービスが消費される場合もあるから、物が生産されて流通して消費されるのとは、情報もサービスも違った活用のされ方になっていて、また情報とサービスとでも、情報が流通することに活用の重要性があるのに対して、サービスの方は消費されることに活用の重要性があると言えるわけで、経済活動の中で必要な物と情報とサービスの間には、それなりに用途の面でも活用の面でも違いがあるのだが、もちろんそれらが複合的に組み合わさって経済活動が行われていて、例えば物の生産と流通と消費には、それぞれの段階で情報とサービスが絡んでくるのはわかりきったことであり、また情報の流通にもサービスの消費にも、機械や道具としての物が必要であり、物なしでは情報の流通もサービスの消費も成り立たないわけだが、そういう水準から語るなら、日本の産業戦略としてものづくりに特化するようなやり方では情報とサービスの面で遅れをとってしまうのは火を見るよりも明らかで、何よりも20世紀末から続いているコンピュータ技術の飛躍的な発達を契機とした情報革命において劣勢に立たされてしまったことは、日本における産業のガラパゴス化の要因としても、情報とサービスのいずれもコミュニケーション力が問われていることと、日本語文化圏の世界的な狭さも災いしているのかも知れないし、産業面での日本の凋落の原因も、情報技術が主に英語を基礎として成り立っていることから来ているのかも知れないが、そういう要因を抜きにしても、人口の面で他の世界の主要国には太刀打ちできないし、日本が世界の産業をリードするような成り行き自体も一過性のことでしかなかったのかも知れないし、いつまでも技術的な優位性を保てる理由もないわけで、現状から振り返るなら日本の凋落にはそれなりの必然性があったとしか思えず、そうであるなら現状をそれほど悲観することもないだろうし、日本程度の人口を抱えた国など他にいくらでもあるわけだから、その中ではまだ産業の技術力の面でも経済規模の面でも、依然としてそれなりの優位性を保っているわけだろうから、そういう面では現状のままでもそれほど日本の現状には奇異な印象は受けないわけだが、もちろん問題がないわけではなく、それが地政学的な面で起こっていることであり、それと歴史的な経緯も絡んできて、それらが相互作用を及ぼして、何か民衆の集団的な意識の面でこじれてしまっているような印象をもたらしていて、それも明らかに欧米文化から影響を受けているのに日本古来の伝統だと思い込んでしまうような倒錯も生じてしまい、それらが複雑に絡み合ってちぐはぐな印象を伴っているわけで、政治や産業や文化の面で視野が狭く知性の欠けた人たちがメディア上で跋扈している現状を考えるなら、さもありなんと思うしかないだろうが、たぶんそういうことではなく、日本に幻想を抱くべきではないと説いても、誰も幻想など抱いていないかも知れないが、幻想を抱いていないとすれば、果たして現状を正確に把握している人がどれほどいるのかと疑念を抱いているわけでもないが、むしろ日本以外の世界の方が逆に日本化しつつあると妄想を抱くなら、世界のどこにも日本的な特徴が見受けられるかも知れないし、それがどう見てもどう考えても、日本で問題となっていることが他の国でも問題化しているとも思えないのが不思議だが、逆に世界と日本の違いを述べると共に、いかに日本が駄目なのかを強調したい人たちばかりがメディアを席巻しているような印象も見受けられるが、そういう人たちが自分たちが勘違いの元凶であるとも思っていないだろうし、例えば民主主義が定着しないのは日本だけではなく、多かれ少なかれ世界のどの国でも民主主義を破壊しようとする勢力が存在しているし、政権政党や政府の官僚機構が率先して民主主義の破壊を企んでいる国も、日本をはじめとしていくらでもありそうで、そういう傾向が甚だしい国から比べれば、まだ日本の現状は生やさしい方で、欧米を基準にして考えるなら日本の愚劣さが際立つとしても、他の独裁的な専制体制が構築されてしまっている国々を基準にして考えるなら、まだ日本の方がマシかも知れず、そういう面では日本も他の世界の国々も大差はないわけだが、アフガニスタンのタリバンなどと価値観を共有している保守的な政治家なども日本には結構いるだろうし、それは他の国の保守的な政治家にもそういう人はいくらでもいるのかも知れないが、日本だけが特殊だとは思わない方がいいかも知れないし、そういう面では何の救いもないかも知れないが、努力という言葉は使いたくないが、誰にとっても住みやすい社会になるように粘り強く努力するしかないのではないか。


1月26日「利害とは違う関係」

 そうでなくてもかなり嫌な感じがしているのに、その嫌な感じに耐えながらやらなければならないことが、果たして本当にやらなければならないことだとしたら、そんなのは間違っていると思いたいが、どういうわけか人が嫌がることを率先してやらなければならない立場というのもあって、そんなことを実際にやっている人や勢力が他の多くの人から嫌がられているケースも世の中には結構ありそうだが、何かをやることによってそれに関わってくる人や勢力の間で利害が異なるような場合に、当然のことながら損害を被る人や勢力としては嫌な感じがするどころか、そんなことはやめてもらいたいと思うだろうが、それによって利益を得ている人や勢力にとってはやめられない事情があるだろうから、それが対立や争いの原因となればわかりやすいが、利益を得ている側でも、人に憎まれることをやりながら利益を得ることに関しては、できればやりたくはないだろうが、それが何の前提条件もないならそうだろうが、そこに至るまでにどうにもならない経緯があり、成り行きとしてそういうことをやらざるを得ない場合には、仕方なくやっているというといいわけとしては聞こえはいいが、心の底からそう思っているかというと、そんなことはない場合も想像できるし、利己的に振る舞える範囲内では他人がどうなろうと知ったことではなく、身内や味方以外の他人のことまでは考える余裕もなければ、他人を犠牲にして自らの利益を得ようとする態度になるかも知れないし、どんな時でもどんな場合でも他人に対する思いやりを持たなければならないともいえず、場合によっては身内や味方といえども、切り捨てざるを得ない場合も裏切る対象となる可能性もあるだろうから、そういうことまで考慮に入れるなら、現状で明らかにひどいことをやっている人や勢力であっても、そこに至る経緯や事情が絡んでくると、避けては通れない成り行きとして、結果的にそのつもりもないのに、他人に対して、場合によっては身内にも味方にも、ひどい仕打ちをしてしまう場合もあるだろうから、しかもそれが政治活動ともなれば、それなりの数の支持者を抱えていて、それが狂信的な支持者というわけでもなく、ごく一般の物事の分別がつく人たちが支持しているなら、どう考えてもそれらの人たちがその政治勢力に騙されて支持しているわけではなく、少なくともやっていることがわかって支持しているわけだから、それをいくら批判しても、そんな人たちの支持を覆すことは難しいのかも知れず、それでもなぜひどいことをやっている政治勢力を大した利害関係もない大勢の人たちが支持しているのか、信じられないというか、疑問に感じるかも知れないが、あまり深く考えてもわからないことには変わりないだろうし、支持する確実な理由を突き止めようとしても、そんなものはもとからなく、ただ何となく支持しているだけで、しかも大して支持していなくても、選挙になると何となく投票してしまうのかも知れず、もちろん投票しない人も大勢いる中で投票するのだから、その人にとっては投票するに当たって明確な理由があるかも知れないが、それを他の人たちがどう思うわけでもなく、どこかの方面で名の知れた著名人でもなければ投票する理由など詮索するまでもないことかも知れず、誰がどんな勢力に投票しようと知ったことではないのだろうが、個人としてはそうだが、それが集団で組織票の類いになってしまうと、社会的なしがらみから投票するように仕向けられてしまうことが想像できるが、しかも投票するだけなら軽い気持ちで投票できてしまい、気軽に投票した人の数が一定以上にまとまれば組織票として機能するわけで、そんなふうにして普段から政治に関してまともに考えてこなかった人など世の中にいくらでもいるだろうから、そういうその他大勢の人たちに比べて、本気で現状の政治に向き合い、自分なりの意見を持っている人も少数派だろうし、その意見の中身というのもどうということはない内容から、危ない思想にかぶれている人たちまで、千差万別だろうから、またその中でSNSなどで政治批判に凝り固まっている人も全体から見ればごく一部に過ぎないだろうから、何が理由でそうなってしまうとしても、それらの人たちの思いが政治の場に届くこともあまりないのかも知れず、政治の場ではその場に特有な論理や理屈が働いているから、それが外部の人たちの感覚からすればあり得ない成り行きを伴って見えてしまうから、そこから政治不信に陥ることもあるかも知れないし、どちらにしてもお互いに思い通りにはいかないことも踏まえた上で、どんな政治勢力を支持するかとなるか、それとも無関心ではいられないとしても、特に支持する勢力など見当たらない場合もあるだろうが、その程度のことで済んでいるうちはまだマシな方だと言えるだろうし、そういうところで何かこれといって考えるべきことも意見を持つべきことも定まらなければ、その人にとっての政治とはその程度のことで済んでいると事態を捉えておいても構わないのかも知れず、そういう人が多ければ多いほど政治が堕落してしまうとも言えないだろうが、現状で行われている政治が普通の状態であり、それに対して異論をいくらでも言いたい人が出てくるとしても、実態としてはそれ以上でも以下でもないことが行われていて、真面目に考えている人ほど怒り心頭に発してしまうかも知れないが、また何とも思わない人ほど、大して関心もないかも知れないし、関心があっても何とも思わないのなら、何かそれ以外のところでこだわっている主義主張を抱え込んでいるのかも知れないが、それが政治に対する見方や考え方を歪めているとも思えないだろうが、それ以上でも以下でもないところが、政治の実態なのではないか。


1月25日「回答しない選択」

 向こうが勝手に出してくる問いに、素直にそのまま答えてしまうのはお人好しもいいところだが、それが罠というわけでもないだろうし、お人好しな人たちが素直に答えてしまう回答が、正しい回答だと思える時もあるだろうから、特にそれが間違った行為だとも思わないが、正しい回答で構わないかどうかとなると、あえてひねくれたことを言うなら、問いには素直に答える義理などなく、嫌なら無視しても構わないが、無視するばかりでは相手から不誠実に思われてしまうから、つい善意から答えてしまうのだろうが、かまってもらいたくて答えてしまう場合もあるだろうから、しかも答えたとしても無視されてしまえば、答えただけ損な気がしてしまうから、何か嫌な感じがしてしまうが、そういうことではなく、答える気もないのに、それとは別の機会に何かを語った際に、なぜかその問いに答えたことになってしまうと、そんなつもりはなかったのに、なぜそうなってしまうのかわけがわからず、困惑してしまうかも知れないが、意識の中では回答しようとも思わず、回答とは全く違うことを述べているつもりなのに、それを遥か以前に問われたことに対する回答だと受け取られてしまうと、それをどう判断すればいいのかもよくわからず、その場で途方に暮れてしまうだろうが、たぶんそんなふうには思わない方が良く、回答などに応じた覚えはないと突っぱねておけばいいのだろうが、ではいったいその種の問いがいつまで有効なのかといっても、期限を設けて問われているわけでもなく、忘れた頃に問われていたのを思い出すように仕向けられているのかも知れないし、果たして執拗にまとわりついてくる問いの内容が、どんな内容だったのか思い出せないわけでもなく、実際に思い出しているのにしらばっくれていると思われても仕方のないことなのかも知れないが、いったい今ここで自らが何を問われているのかといえば、大したことではなく、ただやるべきことをやっているか否かを問われていて、誰が自らに向かって問いかけているとも思えないところが意味不明だが、今さら問われているのはそんなことではないとしらばっくれても通用しないだろうから、あえてその種の問いを無視する理由を導き出したいのだが、思い当たることは今ところは何もないから、とりあえずの回答としては、未だやるべきことを模索中としか言えず、それもとっくに賞味期限切れとなっている可能性もあるから、相変わらず何か新たにやるべきことが導き出されるわけでもなく、現状でやっていることを続けるしかやりようがないのかも知れないし、それでは駄目なこともわかりかけているはずだが、何かに導かれるようにやっていることだから、それを今さらやめるわけには行かず、これからもそれをやるべきことだと勝手に定めてやっていく以外には、他に方法が見つからないわけだが、果たしてそれが問われていることの回答になるかどうかは、自身の知ったことではなく、誰がそんな問いを自らに向けているとも思えず、何を問われているわけでもないと思えば、問いを無視していることになるだろうが、世の中で誰がどんなことをやろうとしても、それに対して否で応じてくる人などいくらでもいるかも知れないし、他人のやっていることを否定したい人も中にはいて、そんな人に疑問を投げかける人も中にはいるが、それが余計なお節介だと思われるようなら、疑問が問いだと勘違いしてしまったのかも知れず、何を問いかけているわけでもなく、ただ違和感を表明しているだけで、他人に対して否定的なことを言いたいなら、どうぞ勝手に言えばいいだけで、勝手に言っていることには違和感を覚えるが、言うのを阻止しようとしているわけではなく、むしろ言わせておきたいわけで、言わせておいてから、それに対して違和感を表明することがあるとしても、勝手に違和感を覚えているだけで、違和感を覚えるようなことを言っている人に対して、それは間違っていると反論しながら、正しい答えとして何をどうすればいいかを指図したいわけではなく、むしろ現状でも正しい答えを導き出せないから困惑するしかなく、何をどう対応すればいいのかわからず、ただ戸惑うばかりなのだが、もちろん戸惑っているだけではないのもわかりきったことかも知れず、自らが意識できないところで思考が働いていて、それが思わぬところで思わぬタイミングで顕在化するわけで、そこで何かをひらめいたと思うわけだが、それが以前から考えていてことでもあれば、思考の連続性を確認して安心できるが、これまで考えもしなかったことが突然ひらめくかというと、そんなことはないとは思うだろうが、事前に問われてもいないことに回答しているつもりになれるなら、それをどう捉えてみても意味がわからないし、そんなことに答える理由も根拠もわからず、何か自らの知らないところでそうなる経緯が生じていて、それに気づかないから、唐突にわけのわからぬ回答に直面してしまい、果たして何に対して答えているのかわからないから、困惑するばかりとなってしまうわけだが、問いが不在なのにそれに回答しようとするわけだから、全く答えになっていないような気がするのだが、それでもそこで述べていることが何かの回答として機能するなら、まずは問いが何なのかを確かめなければならないし、確かめられないのに、回答だけあるわけがないと普通は思うだろうが、求めているのは回答だけなのかも知れず、何も問われていないのに答えることができるわけがないとは思うが、問いの不在を利用して勝手に答えてしまえる機会が誰かに巡ってくると、そこで思い悩むわけでもなく、さっさと答えて何も問われないうちに逃げ切りたいわけで、そこでなぜ問いがないのかと疑念を抱いてしまっては、回答するチャンスを逃してしまうのかも知れず、だから日頃から疑問や疑念を抱かないように訓練して、問いがないのに答えるチャンスを逃さないように心がけているわけでもないのだろうが、実際に問われてもいないことを答えてしまう人が世の中には結構いるのではないか。


1月24日「政府と市場経済との関係」

 政府の経済への関わりについて単純に言えることは、自由主義的な立場から言うなら、金は出せ、しかし口は出すな、ということであり、民間の経済活動を自由放任にせよ、となるが、自由主義とは若干立場や方針の異なる新自由主義的な立場から言えることは、民間の自由な経済活動を守るために、市場に積極的に介入せよ、となり、自由な経済活動を阻害する独占企業に規制や制限を課したり、政策金利を上下させて、景気後退やインフレに対処せよ、ということになりそうだが、それ以上に何かやるとなると、社会主義的なやり方になり、政府が直接企業を指導したり、さらにそれがエスカレートすれば直接企業経営に乗り出したりして、結果的に国営企業や国営公社などが生まれるわけだろうが、日本の現状がそうなる瀬戸際に立たされているとも誰も思っていないだろうが、官民連携ならぬ官民癒着構造になっていることは、政府を批判する人たちが指摘するところだろうし、それ以前に政府の予算で経済活動を行なうことに関しては、積極的に投資してそのリターンとして税収の増加を期待するわけだが、そういった方面に予算を使うことが、現状では当然視されている風潮があるかも知れないが、それ以前の考え方として、民間の企業では利益が出ずに採算が合わず、しかも人々の生活に欠かせないというか、採算が合うような価格や利用料金にしてしまうと、人々の生活が苦しくなってしまうような公共性の高い部門や分野を、政府や地方自治体が担うという考え方があったはずで、その典型的な事業が水道事業なのだろうし、それ以前は鉄道事業や郵便事業なども国営事業であった時期もあったのだが、それを新自由主義的なやり方と称して民営化して現在に至っているわけだが、果たしてそういうことをやった結果として、新自由主義が目指す小さな政府になったかといえば、逆に予算規模がどんどん増えていってしまって、もはや歯止めがかからなくなってきている現状もありそうだが、そういう新自由主義的な矛盾とは無関係に、昨今のれいわ新選組などは、人々の生活を助けるために予算を使う積極財政と称して、教育の無償化や奨学金のローンで苦しんでいる人たちの救済や、消費税を廃止した際の財源や、原発をやめて環境に配慮した再生可能エネルギーへシフトするためなどに予算を使いたいのかも知れないが、そういう主張をきれいごとだと嘲笑することも可能だとしても、そんな成り行きについて何か納得できる理屈や論理があるかというと、そういうことではなくその時々の場当たり的な政策として、オリンピックや万国博覧会などの国民の人気取りのようなことをやって予算の無駄遣いを度々やっている可能性も高そうだが、そういうイベントの一時的な経済効果というのがどれほどあるかもよくわからないところだが、積極財政派の仮想敵である緊縮財政にして新自由主義的な意味での小さな政府を目指しているのではないことは、年々の予算規模の膨張傾向などからも明らかで、そういう面では積極財政派が嘘をついていると主張してみても無視されるだけだろうが、彼らも自分たちの主張や論理の矛盾に気づいていないのかも知れないし、結局はかつてニューディール的な計画経済に反対して新自由主義経済を推進しようとした人々が口を揃えて危惧していた、いわゆるシロアリ国家に日本が近づいているように感じられて、政府の官僚機構や関連団体などに巣食うシロアリたちによって国家そのものが食い尽くされようとしていると事態を捉えるなら、何やら現状で進行しつつある成り行きの危うさが理解できそうで、だからといって単純に行政改革が必要だと主張してみたところで、誰もそんな主張には賛同してくれないだろうし、具体的に何をどうすればいいのかがわからず、そういう直接的な改革案はすぐに骨抜きにされて、都合に良いところだけつまみ食いされるだけで、うまくいかないことはこれまでの成り行きから見ても可能性が高そうだが、真の意味で身を切る改革が必要なのに、すでに別の勢力による偽りの身を切る改革が進行中だから、身を切る改革の必要性を訴えた野党党首が逆に批判派から非難の集中砲火を浴びるような逆説的な成り行きも起こっているわけだが、それとは別の方面で、例えばなぜ日本国内で企業に雇われている人々の給料が諸外国と比べて上がらないのかという問いに対して、それを企業の内部留保に求めてみたり、消費税に求めてみたりと直接的な原因をあれこれ指摘すれば、浅はかな人々から支持や賛同を得られるかも知れないが、根本的なところで行政機構が必要以上に無駄に膨張しているから、そんな行政機構の維持経費として余計に税金を搾り取られていると主張しても、ではその証拠を示せと言われそうだが、それが積極財政派が口が裂けても認めようとせず、ことある度に財務省の嘘に騙されるなと警鐘を鳴らす対象である、一千兆を超す国債残高なのかも知れず、それほどまでに膨大な額にまで積み上がった国債がいったい何に使われたのかと言えば、それによって何が維持されているのかを考えるなら、行政機構を維持するために使われたと考えるしかないだろうし、実際に国債が国民の生活を豊かにするために使われていれば、誰からも文句は出ないし、国民の貧困化も進行しなかったはずで、そうではなく、日本の大企業や資本家を富ますために使われたと主張すれば、労働者と資本家の階級対立という従来からある社会主義的な主張に合流できて、それも浅はかな人たちには受け入れやすい理屈ではあるのだが、日本だけに大企業や資本家がいるわけではなく、むしろ欧米や中国やインドやロシアなどの大企業や資本家の方が日本とは桁違いに裕福であり、それと比べて日本の大企業や資本家など世界のトップ50にもほとんど入ってこないだろうから、どうも実態としてはそうではないことを踏まえておく必要があるのではないか。


1月23日「やるべきことをやることの困難」

 世界情勢というと大げさになってしまうが、日頃からロシアとウクライナとの戦争報道などを見るにつけて、それについて何か語っている人たちが情勢を全く理解できていないとも思えないが、たとえ情勢に沿ったことが言えても、それが正しいことだとは言えない場合もありそうで、では正しくなければ間違っているかといっても、それもよくわからず、何かを言った結果が情勢と合致していれば、正しいことを言った気になれるとしても、その時はそうでも、その後から情勢が急激に変わってくれば、確かにその時には情勢に合ったことを述べていたにしても、その後から何やら言っていたこととは全く違う情勢になってきてしまえば、何かまずい情勢になってきたことを感じた頃には、今まで言っていたことを修正せざるを得なくなるかも知れず、そういう場合は述べている内容が正しいか間違っているかよりも、現在進行中の刻々と移り変わる情勢に沿ったことが言えているか否かが問われてくるだろうが、そうなると少し前までは情勢に沿ったことを述べていたとしても、そこから情勢が急激に変動して、もはや情勢とは合っていないことを述べていることになってしまえば、役立たずなことを言っていることになるのかも知れないが、述べていることが正しいか間違っているかを判断する場合には、短期的な変動を被るようなその場の情勢と合致しているか否かではなく、述べている内容が信じている論理や理屈に合致しているか否かも問われてきそうだが、その一方で、述べている内容ではなく、行為や行動の面から言えることは、何が正しくて何が間違っているかなんて、一概には言えないこともいくらでもありそうで、何かをやった後からどう振り返ってもやらざるを得ないことをやったのに、それがうまくいかない結果をもたらしたからといって、そんなことをやったのが間違いだったと判断しても、ではその際に正しいことができたかというとそんなことはなく、どうやってもうまくいかない結果をもたらすようなことしかできなかったと思われるなら、後からそれをいくら悔やんでも反省しても仕方がないようなことでしかなく、そうなる宿命だったとあきらめるしかないと思ってみてもあきらめ切れないだろうが、そうやってうまくいかないことをやらないと済まないような成り行きに囚われてしまうと、やることなすことうまくいかなくなってしまうわけでもないが、そういうことの積み重ねや繰り返しの中から、自ずからやるべきことがわかってくるような結果がもたらされれば都合が良いだろうが、やるべきことがわかってしまうと都合が悪い場合もありそうで、そこで何をやるべきかを模索することが、そこでやるべきことになってしまうと、それがわかってしまうとやるべきことがなくなってしまうわけでもなく、ただやるべきことがわかればそれをやればいいことにはなるだろうが、それでもやるべきことを模索する試みをやめることができなくなってしまうと、そんなことは普通はあり得ないとは思うだろうが、何をやるべきかを模索しているうちに一生が終わってしまうかも知れず、それで構わないというと何かまやかしのような言い草になってしまうかも知れないが、それとは違って、大抵はやるべきではないことを強引に推し進めようとするから、それが間違ったことだとして批判や非難を浴びることになるのだろうが、それがやるべきではないことだと思われるのは、それを強引に推し進めようとする人や勢力が現れるからで、なぜそれを強引に推し進めようとするのかといえば、それがやるべきことだと思うだけでなく、それらの人や勢力にとってはやらなければならないことになるからだが、ある特定の人や勢力にとってはそれがやるべきことでありやらなければならないことになり、それを批判したり非難している人たちにとってはやるべきではないことになると共に、是が非でもそれらの人や勢力がやろうとすることを阻止しなければならなくなり、それを阻止することがやるべきことになってしまうわけで、そんなふうにしてやるべきことがわかってしまうと、それを推し進めようとしている人や勢力にとっては都合が悪いから、なるべくやるべきことがわからないような情勢にしておかなければならず、できればやるべきことを模索しているうちに、その人の一生が終わってしまえば都合が良いかも知れないが、そうではなく偽りのやるべきことを課しておけばよく、やるべきことはこれだと多くの人の目の前に示しておけば、それが功利的な誘惑であれば利益を求めて多くの人々が群がってくるかも知れず、そうやって多くの人々を巻き込んで利益を得るための競争が開始されるのだろうが、もちろん実際に利益を得て裕福になれる人が限られてくれば、果たしてそこに群がってくる全ての人がやるべきことだと言えるかというと、それが事前にわかるわけではなく、結果的に利益を得られた人にとってはやるべきことだったと思うかも知れないが、利益を得られなかったり、逆に損害を被ってしまった人にとってはやるべきではなかったことになるかも知れないし、それをやった結果によってやるべきだったかやるべきではなかったに分かれるなら、少なくともそれをやった全ての人にとってやるべきことにはならないし、利益を得られたごく一部の人にとってはやるべきことだったと思われるかも知れないが、利益を得るには他の人が損害を被らなければならないとしたら、是が非でも他の多くの人々にそれがやるべきことだと勧めなければならないし、逆にやってもらわないと利益を得られないから、利益を得られる見込みのある人にとっては、結果的に利益を得られない人も損害を被る人も、それがやるべきことになるわけで、そうやって人によっても立場によってもやるべきこととやるべきではないことがわかれば都合が良かったり悪かったりするものの、実態としてはやるべきことがあるとしてもそれが必ずやれるとは限らないから、結局は妥協的な成り行きからやれることをやっているうちに、それがやるべきことであったりなかったりして、自分でその判断がつくかというと、つくもつかないも、やれることしかやれないのだとしたら判断のしようがなく、結果が良ければやるべきことをやったと思い、結果が悪ければやるべきではなかったと思うしかないのかも知れない。


1月22日「納得し難い黒歴史」

 時には何か頭の中がこんがらがっているようなことを述べながらも、他に語ることがないわけでもないのに、なぜかその場の思いつきで歴史について語ることが、世界の現状について語ることとどう結びつくのかと考えながらも、いくら考えてもよくわからないまま、それに関して何か述べているつもりが、どうもそこからかなりずれたことを述べていることに気づていないわけでもないのだが、今から数年前といってもすでに10年近く前になるが、2015年あたりに当時の安倍政権が推進する安保法制に反対して、国会の周辺で多くの人々が盛んにデモ活動をしていた中で、安倍元首相をヒトラーに見立てて、その肖像の鼻の下にちょび髭を書き込み、ナチス風の軍服もどきな衣装もコラージュして、そんな姿の看板を掲げてデモ行進していた人々を思い出すが、その後安保法制を強行採決して議会を通過させた安倍元首相が、ヒトラーのように戦争を起こしたかというと、戦争を起こす前に、祖父の代から付き合いのあった、日本人からカネをむしり取る韓国のカルト教団の広告塔のようなことをやって、それを逆恨みしたカルト教団の被害者に銃撃されて、呆気なくこの世を去ったわけだが、そんなしょぼい最後では納得できない陰謀論者が、何やら裏でアメリカのCIAが糸を引いていて、台湾問題で必要以上に中国との対立を煽っていたのが邪魔になってきたから、もはや用済みになった安倍元首相を暗殺して処分したのだ、ともっともらしい解釈を喧伝しているが、そう解釈すれば納得できる人も世の中にはいるかも知れないが、納得できないようなことが起こるのが人類の歴史だと、これまた大げさに考えるなら、無理に納得しなくても構わないような気もすると共に、果たして納得できないままに事を済ますことができるかというと、自分とは大して関係のないことなら、無理に納得する必要もないし、無関心を装っていれば済んでしまうことかも知れないが、納得できないつながりで、別の方面から関心を引くようなことを述べるなら、安倍元首相の祖父である岸信介は、東京帝国大学を主席で卒業した頭脳明晰なエリート官僚で、当時の東条内閣にも商工大臣として入閣して、敗戦時にはA級戦犯となった後に、釈放されてから政界復帰して、首相となってから、国民の大多数の反対を押し切って日米安保条約を改訂したことでも有名だが、安倍元首相のもう一人の祖父である安倍寛は、東條内閣の軍閥政治を真っ向から批判して、大政翼賛会の推薦を受けずに国会議員に当選した反骨精神の塊のような人物だったらしいが、二人の祖父と比較して孫の安倍晋三が人物として見劣りするのは誰もが思うところかも知れず、軽薄な嘘だらけの言動が目立ち、人の心を打つようなことは何一つ言っていない印象があり、しかも皮肉なことに、そういう人物だからこそ、首相として歴代最長の任期を誇っていて、それも任期を全うできずに、二度も体調不良で任期途中で政権を投げ出したのが情けないところで、それでも任期が歴代最長なのが微妙なところだし、そういう微妙なところが多くの人が納得できないところかも知れず、果たして今後安倍政権時代の民主党政権時代を間に挟んだ十数年間が、できればなかったことにしたい恥ずかしい過去の黒歴史として忘れ去られることになるかどうかも、後の時代になってみないことには確かめようがないが、ことによると現状の岸田政権も黒歴史に含まれる可能性が高そうで、日本が国家として停滞していた時期で無能な政治家が次から次へと現れた時代として、未来のどこかの時代で否定的に語られることになるかも知れないが、そういう捉え方ではなく、何か新たな時代の萌芽が現れた時期として語り継がれる可能性を想像してみるなら、何がその兆しとして注目に値するかというと、それがまだ誰もそれに気づいていないようなことかも知れず、それも後の時代になって、あの時期に後の時代に主流となるような現象が起こり始めたと言われるようなことであれば、確かに今を生きている人々には気づかないようなことであり、無理に気づく必要もないことになるかも知れないが、それに多くの人々が気づいているにも関わらず、今の時代の人々にはそれほど重要さを感じられないようなことかも知れないし、気づいていても無視しているからメディアで話題となることもなく、しかも現状で話題とならないから、後の時代になって注目されるようなことになる可能性もあり、そうだとすれば逆に現状で多くの人々の関心を集めている出来事や現象などは、この時代に特有な一過性の流行でしかなく、後の時代には廃れて見向きもされないような物事になってしまうかも知れないが、だからといってこの時代に生きている人々には軽視できないことであるから、他の多くの人々の関心を集めていることには自分も関心を寄せるように仕向けられてしまうのだろうし、そういうことに関しては何か自分自身で考えて何らかの判断を下さなければならないような気になってしまうのだろうが、それが取り越し苦労とは言えないものの、現状で行われていることの問題点をいちいち指摘して回るのも要らぬお節介だとも思わないが、それはあくまでも現状で問題となっていることであって、しかも現状ではなかなか解決が困難なことでもあるなら、指摘して回ることはできるが、指摘するにとどまっていることでもあり、そういう問題を指摘して回る人ばかりが増えてしまうのも、ある種のメディア効果だと言えて、ただ単にそれを批判材料として活用したいのであり、問題が多ければ多いほど批判には事欠かず、実際にメディアなどで多くの人々が様々なことに批判の矛先を向けている現状があるとすれば、それらが何一つ解決できていないことを示していて、これからも解決されないまま放置される可能性も高いのではないか。


1月21日「批判し難い情勢」

 自らが囚われている成り行きに逆らうと、手痛いしっぺ返し喰らうのはいつものことだが、別にどうやれば批判から逃れられるかと問いたいわけでもなく、誰がそんなことを模索しているわけでもないだろうが、一概にそれらの人々を総称して批判派と呼んでみても、自分たちが批判派だと自覚することもないだろうが、また丁寧に応対すれば味方となってくれそうな人や勢力まで容赦なく批判して、結果的に味方がいなくなって孤立無援になろうがなるまいが、批判派の自業自得でしかないとしても、実際にはそうはならないし、逆に批判派には批判を支持したり、批判に同調したり賛同したり、一緒になって批判に加わってくれる人も大勢いて、孤立無援になどなりようがなく、それが批判派にとっての救いになっている面もあるだろうし、もちろんそれが救いだと思うような批判派がいるわけでもないだろうが、そんな批判派に容赦なく批判されるようなことをやらないと、政治などの方面では主導権を握れない現状があるなら、それもそうなっている結果を見れば一目瞭然だとも言えないが、そんな成り行きの良し悪しとは別に、政治的な主導権を握るような人や勢力が批判や非難の的となるのも当然のことであり、主導権を握って行なったことがうまくいっていないなら、しかも人を騙すようなことをやって無理なことをごり押するようなことをやれば、そういうことをやって主導権を握ること自体が、批判派にとっては許し難いことになるだろうし、本来ならそうではなく、民衆からの支持や支援を取り付けて主導権を握るのが民主主義が実現していることを示す当たり前の状況であるはずだが、それが大前提となっている中でも、誰かが主導権を握れば他の誰かが冷遇されて、結果的に不利な立場や損な役回りを引き受けざるを得ないなら、またそうなることを事前にわかっていながら、損な役回りを進んで引き受けるようなお人好しな人や勢力も普通はいないだろうから、そうなるのが嫌なのに、強権的な権力の行使によって無理やり損な役回りを押しつけられるような立場になれば、またそんなことをやらない限りは特定の人や勢力が政治的な主導権を握るような成り行きにならないのなら、それが実際にそうやって主導権を握った人や勢力の傲慢さの表れとなり、そんな人や勢力が何かにつけて批判や非難の的となりやすいのも当然なことかも知れないが、もちろんそれに関して民主主義を無視する強権的な政治体制が批判派を暴力で黙らせるようなことをやれば、客観的に見てそういうことをやるのがわかりやすい独裁体制になるわけだが、その一方で日本では強引に黙らせなくても済むような体制ができあがっているとも言えて、批判派がいくら騒いでも相手にされないような成り行きになってしまい、しかも騒いでいる人たちも信用のならない人たちであることを、他の多くの人たちが認識しているようなら、そんな事情に照らし合わせて批判自体がまともに機能しなくなっている実態がありそうだが、もしそうだとすれば一応は批判する自由も批判される自由も保障されているが、批判派がいくら批判してもメディアからは一切相手にされない実態があるわけでもないが、相手にしない姿勢であればまともなメディアではないことになり、しかもそれが何か戦略や戦術を伴ったやり方となって、もちろんどんな人や勢力でも、敵も味方も区別なくちょっとした誤りや過ちを犯そうものなら、それを容赦なく批判しまくるような乱暴なことはやらないだろうが、そんなことをやれば批判する度に周囲から嫌がられて、結局は誰からも世間からも相手にされなくなるようなことにもなりかねないが、大抵は味方や身内に対しては手加減したり手心を加えるような批判をやっているならわかりやすいし、そうなると敵対する人や勢力からそこを突かれて、それが逆に批判される口実になると困るから、味方であっても容赦せずに批判するように心がけているわけでもないだろうが、そういう批判になってしまえば、そんな批判には自ずから限界があることになりそうだが、そうではなく自分以外の他人を批判することだけに特化したような一方的で独善的な批判が好ましいわけでもないのは、誰もが承知していることかも知れないが、批判しているわけでもないのに、批判しているのと同じ効果を上げるような言い回しがあるとも思えないし、そういうところで一方的で独善的な批判とは趣の異なることを述べたい誘惑に駆られるなら、そこから少しずれたことを述べたくなってしまうかも知れず、それが実際にどんな内容を伴っているかというと、たぶん現状を否定的に捉えるのではなく、なるべく肯定的に捉えようとする試みになるかも知れず、そんな捉え方によって現状がどうなるかといっても、捉え方を変えても現状が変わりようがないわけではなく、現状を変えようとすることの一環として、現状を肯定的に捉えたいわけだが、果たしてどう考えても否定的にしか捉えられないような現状をどうやれば肯定的に捉えられるかといっても、現状では何もやりようがないかも知れないが、現状で何かをやっている人や勢力を批判せざるを得ない成り行きに逆らうと、何か手痛いしっぺ返しを喰らうなら、それに懲りて今度はそんな成り行きに従おうとしてしまうのかも知れず、その手痛いしっぺ返しが何なのかというと、それが現状に対する批判そのものなのであり、なぜそれがしっぺ返しなのか、俄かには理解できないかも知れないが、要するに現状の中でひたすら批判を繰り返している人たちがどんな人たちなのかを知る機会があれば、それを理解できるわけで、現状を批判せざるを得ない成り行きに従って批判を繰り返していると、次第にその人の言説が批判一辺倒になってしまうわけだが、それがその人の可能性を削って、その可能性がどんな可能性なのかというと、もちろんそれが現状を肯定する可能性であり、肯定できるような現状をもたらそうとする可能性でもあるわけで、だからなるべくなら現状を批判するだけで手一杯とならないように心がけなければならないわけだ。


1月20日「直接の反応」

 例えば政府が軍備増強の方針を打ち出せば、それに反応して、何かというとすぐにファシズムなるだのヒトラーみたいなのが出現するだのと騒ぐ人が出てきて、そういう人は昔からいくらでもいるが、戦争反対と声高に叫びたくなってしまうのだろうが、反応としてはそれで正解なのかも知れないが、また沖縄の辺野古で米軍基地施設の工事に反対して座り込みをやっている人たちと、ネルソン・マンデラやキング牧師やマルコムXなどの歴史上の反体制的な活動を行なった人物が絡んだ運動を直接比較するわけにもいかないが、どうしても誇張や強調の表現が言説の中に入ってくると、その種の人物を持ち出す成り行きも生じてきて、実態としてもっと規模が限定されたしょぼい活動が行われているわけだから、何かそういう面ではリアリティーが希薄に感じられてしまうのだが、他にも例えば誰かの人種差別的な言動を非難する際には、何かの拍子にホロコーストという言葉をうっかり使ってしまう人も出てくるだろうし、どうしてもその意図がなくても極端で大げさな事例を持ち出して、自らの言説を飾り立てようとしているわけでもないのだろうが、そうやって批判したい対象と自らの対立する立場を際立たせようとするわけで、それが浅はかだと指摘できなくもないところだが、持ち出してくる人物やそれに絡んで起こった象徴的な出来事などと、言説の対象となる人や勢力などの背景や経緯や事情が異なるのは明らかなのに、比較する際にはそれが忘れ去られてしまうわけでもないのだろうが、それを安易な比較だと見なすわけにもいかないし、比較すること自体が軽率だと言いたいわけでもないのだが、そんな比較を持ち出さざるを得ない人たちには、それを比較しながら批判する言説や言動がそれなりに画一的な傾向を示していて、そういう傾向がどこから来ているのかを示したいわけでもないのだが、印象操作としてはそういうのもありかも知れないが、それらの比較として持ち出される人物や現象や出来事などと直接言及している対象との間に違いがあるとすれば、例えば日本政府が軍備増強したとしても、すぐには国内の政治情勢がファシズムのような独裁的な事態になるわけではないし、そこからヒトラーのような政治家が登場して政権を奪取するような事態にもすぐにはなり難く、もちろん沖縄の辺野古で座り込みをやっている人たちの中から、ネルソン・マンデラやキング牧師やマルコムXような象徴的な人物が現れるわけでもなく、またうっかり人種差別的な発言した人がホロコーストのような事態を引き起こすわけでもなく、実際にはそれらとはかなり違った結果がもたらされて、しかもそれがどちらかといえば比較対象と比べれば、かなりしょぼい結果をもたらすわけで、それをマルクスに倣って、一度目は悲劇をもたらすが、二度目は笑劇がもたらされると皮肉ってみても、それとはかなり違った事態がもたらされて、それ以下であるにしても遥かにしょぼい結果しかもたらさず、笑劇にもならないようなつまらない結果しかもたらされていないのかも知れず、それを期待外れだと見なしても、はじめから大したことは期待していないだろうが、なぜしょぼい結果しかもたらさないのかといえば、その場の背景や経緯や事情が比較対象ほどには大げさではないからだが、もちろんしょぼい結果しかもたらされなくても、卑下することはないだろうし、それはそれでそういう成り行きなのだから、そういうしょぼいことだと受け止めればいいだろうが、たとえヒトラーやネルソン・マンデラやキング牧師やマルコムXであっても、時代状況が違えば、ああはならなかっただろうし、他にもいくらでも似たような境遇の人物が無数にいたとしても、たまたまそれらの人々が運に見放されたわけでもないが、ただ無数の似たような境遇の人々が無名のまま一生を終えただけのことであり、それ自体がどうしたわけでもないのだが、そういうことを考えてみると、例えば現状で立憲民主党の泉代表が普通の人であることが気に入らない人はいくらでもいるだろうが、何かその態度や言動や行動が党首にふさわしくないと難癖をつけて、批判に結びつけたい人もいくらでもいるかも知れないが、もちろん批判したい人にとっては難癖どころではなく、批判するのが当然だと思うようなことを泉代表がやらかしているから、それが正当な批判だと思っているだろうが、それで構わないわけで、日頃から立憲民主党を悪く言いたい人にとっては、泉代表が願ってもない機会をもたらしてくれるありがたい存在であり、要するに立場が違えば好都合でもあるわけだから、そういう立場の人にとっては都合の良い存在となっているわけだが、少なくとも情勢としては政権与党の政治家たちの評判がことごとくひどい言われようの中で、それと比較して野党第一党の党首がご立派な人材であろうはずがないという先入観もなくはないものの、そんな政治情勢の中では与野党の政治家共々、様々なしがらみが絡んでいて、言動や行動や思考の面で制約や制限がかかっている中で、同じような状況下で批判される役割を演じてしまう成り行きが生じていて、唯一大したしがらみもなく無責任な立場でご立派なことが言えてしまえるのが、れいわ新選組の方々かも知れないが、そうだとしてもそれを何の前提条件もなく人物評価などに当てはめて好意的に見るわけにもいかないだろうし、そういうことまで考慮に入れるなら、果たして今の時代にご立派なことが言える人材が必要かというと、普通の人はそう思ってしまうだろうが、自分が普通の人であることに気づいているなら、選挙で投票する政治家や政党も普通の人々で構成されていることに気づいてほしいのだが、それがなかなか気づけないところかも知れず、誰一人として英雄のような行為や行動がとれるような状況や情勢ではなく、できもしないことを大言壮語するような機会でもないだろうから、その人のできる範囲で普通に振る舞っていれば、良くも悪くも自ずから現状にフィットすることになってしまうのではないか。


1月19日「誰かの主張」

 誰かの主張に関しては、何か違うんじゃないかとは思いたくないのだが、また他との違いを作りたくて無理に屁理屈をこねているわけでもなさそうだから好感は持てるが、真正面からそれについて語っていないような気もするから、その辺で主張の弱さを感じてしまい、別に主張が強いか弱いかで主張の良し悪しが決まるわけでもないが、その主張の中身に関して何を述べる気にもならず、それ自体をどうこうしたいわけでもないのだが、戦術としてはそれもありなんじゃなかと思う程度のことであり、その程度のことだから、それをわざわざ激しく非難してしまう人たちの方が情勢を見誤っているようにも感じられて、そんなところで争いに加わろうとする人たちの魂胆も浅はか極まりないとは思うが、タイミング的にはそれでも構わないわけで、そんなのもありなんじゃないか程度のこととして片づけてしまいたくもなり、そんなことに関わっているうちに、その場で主導権を握っているつもり人や勢力の思う壺な成り行きになってしまっても一向に構わないだろうが、それではまずいとはどうしても思えないのだから、そんな成り行きの中でその場の情勢に合わせて振る舞っているだけでも、そこで起こっている事態に介入しているような気になれるのだろうが、それが的外れなところで的外れな問題を取り上げて騒ぎ立てているようにも感じられるから、だからそれでも構わないとはならないだろうが、そうであっても構わない程度のことでもあり、戦術としてはそれもありなんじゃないかと思ってしまえるのだから、やはりその程度のこととして世間的には認知されるようなことなのかも知れず、そういう方面で頑張っている人もそれなりに必要なのだろうから、そういう人の存在意義もそれなりにありそうで、それが貴重な存在だとは誰も思っていないだろうが、そういうところで問題を掘り下げていればそれで済んでしまうようなことなのかも知れず、やるならどうぞ勝手にやってください程度の話であって、それ以上に何がどうなるわけでもないところが、何でもないといえばそうなってしまうだろうが、そうなってしまっても誰も困らないという程度で、誰かが何かを主張しているらしく、そんな主張に耳を傾ける人もそれほどいるわけでもないだろうし、それが政治的には何の影響力もないことになってしまうのだろうが、だからそれで構わないわけで、そんな人が何か社会に影響を及ぼすような主張をされても、それをメディアがまともに取り上げるかというと、そんなことにはならないだろうから、無視されている限りでちょうど身の丈が合って釣り合いが取れている程度で構わず、そういう主張が世の中には無数にある中で、誰かがそんな主張をしていると捉えておけば、それで気が済むわけでもないが、できればもっと社会に影響力を及ぼせるような立場になりたいのかも知れないが、それは背伸びし過ぎだとも言えるだろうから、何かを主張できるだけでもありがたがっていられるような謙虚さを保持していれば、自ずからその程度のこととして許容されるのであり、それ以上はでしゃばらない方が身のためだと思われている限りで、そういうことを細々と主張していられて、他の誰からも支持も支援も取り付けられない程度のこととして見られているのだろうから、人畜無害な主張ではあるわけで、その程度で済んでいるうちはそうなのだが、果たしてそれがその程度では済まなくなるのかというと、何かのきっかけからそうなることもまれには起こるのだろうが、そのまれに起こることというのが泡沫候補のような存在と位置づけられて選挙などに立候補する場合なのかも知れず、そういう場合とは違って、政権与党の世襲議員や官僚上がりの議員などとして着実に当選回数を重ねながら、派閥の幹部や領袖となって、さらに運良く日本の総理大臣などになってしまえば、それでは済まないようなことになるだろうし、それが自分独自の主張とはならず、周囲からも中身の妥当性を求められるようなことを主張しなければならなくなり、当人としてもそういうことを主張しているつもりになっているのだろうから、それなりに同盟国にも配慮したことを主張しているはずだが、そうした主張が危ういかというと、その主張のデタラメさ加減をあげつらって糾弾しているような人には、とんでもないことを主張していると感じられることなのだろうが、それを何でもないようなこととして伝えている一般のメディアに日常的に接している人たちには、大して心に響くような主張だとも、あるいは危機感を抱かせるような内容だとも思えないのかも知れず、そういう面でそのヤバさを真に受けているごく一部の人たちとの間で、感覚的な落差が生じている可能性があるらしく、そんな人たちがSNSなどで何をそんなに騒ぎ立てているのか、不思議に思ってしまうことも結構頻繁に起こっている現象なのかも知れないが、逆に大げさに騒ぎ立てている人たちの方がおかしいのではないかと思われてしまう危険性もあるだろうし、もちろんそれが危険性などではなく、そうなると安心されてしまうわけで、騒ぎ立てているのは一部の人たちであって、他の大多数の人たちは至って冷静に受け止めていて、その冷静さが事なかれ主義から生じている無関心さの表れでもあるだろうが、果たしてそれでも構わないことになるかというと、たぶんそれでも構わないのであり、そのデタラメさに気づくのもそれに気づいて騒ぎ立てるのも、いつも決まってごく一部の人たちである限りで、世の中の平静が保たれて、そんなことを主張していられる限りで成り立つような政治情勢が形作られて、それを多くの人々がなし崩し的に受け入れている現状があるわけだ。


1月18日「情勢の見極め」

 日頃から批判一辺倒な人たちが何を考えているかは、その批判内容からすぐにわかってしまうが、そんな自分に正直な人たちがどんな出来事に一喜一憂して、それ以外に何を考えているとも思えないが、だからといってまるで瞬間湯沸かし器という喩えがそれらの人たちの全員に当てはまるわけではないものの、その場の成り行きを重視するなら、論理的にも倫理的にも受け入れ難いことが起こって、さらには日頃から唱えている主義主張に反するようなことが起これば、かなり焦ってしまうことは確かだろうが、そんなわかりやすい人たちに大した権力も権限もないことも明白であり、権力や権限がないから批判することしかできず、逆に権力や権限がある人なら、日頃から自らの意図や思惑を大っぴらに広言するようなことはしないし、逆にそれらを隠していてなかなか明かさないようなら、その人に何らかの権力や権限があることが想像されて、功利的にはどちらの味方をしたいと思うかは、それが直接の利害関係に絡んでくるようなら話は別だが、安易な野次馬根性を肯定したいなら無責任な態度で批判一辺倒な人たちの味方を装いたいところだが、そんな批判一辺倒な人たちが小物だと感じられて、逆に批判される側の人たちに大物感が生じてくるかというと、それもケースバイケースで、批判対象となる人物をせこいことばかりやっている小物だと批判したい場合もあるから、一概にそうは言えないが、それに関して批判一辺倒な人たちにわかっていないことがあるかというと、批判対象となる人たちにはできないことがあり、それが批判一辺倒な人たちにはわかっていないわけではないはずだが、結果的にはそれができないから批判対象となってしまい、なぜそれができないかに関して批判の中でその理由が考慮に入れられているかというと、それを考慮に入れてしまうと批判できなくなってしまうのも、批判一辺倒な人たちには認め難いことになってしまうかも知れず、だからなぜそれができないのだと批判したくなり、そのできない事情が認め難いことなり、そのできないことをやってほしいと日頃から思っているのであり、できないことをやらない限りは、延々と批判の的として批判の中で取り上げられることとなり、延々とそれについて批判を繰り返すことになってしまうのだが、なぜそれができないかも批判の中で説明されることにはなるだろうが、果たしてそのできない理由が的を射ているかというと、できない事情が考慮に入れられていない可能性があり、それができるようなら批判の対象とはなっていないのかも知れず、それらの人や勢力にはできないから批判されることになってしまうのだろうが、では果たして現状でそれができる人や勢力がいるかというと、それができると主張している人や勢力ならいくらでもいて、それらの人や勢力が批判しているのが、現状で批判一辺倒な人たちが批判している対象となっている人や勢力でもあるのだが、どちらが現状の中で主導権を握っているかといえば、当然のことながら批判される側の人や勢力であるのもわかりきったことだが、それができないから批判されているのだから、現状の中で主導権を握っているとしても、それができないということであり、それを批判している人たちにはそれができない理由や原因がわかっていないとは認めたくはないところだろうが、実際はどうなのかといえば、それらの人たちには申し訳ないが、それがわかっていないからそれができない人や勢力を批判していると受け取られかねないのであり、逆に現状で主導権を握っている人や勢力にはそれができないとわかっているなら、できないことをやれと批判しても、無理強いしていることにしかならないのではないかと思われてしまうかも知れないが、そうであっても批判せざるを得ないなら、できないことをやれと批判したところで、無理なものは無理なのではないかとも思われて、無駄に批判しているだけではないかとも思われてしまうが、そうではなく、現状で主導権を握っている人や勢力を支持している人たちに向かって、そんな人や勢力を支持しているから世の中がおかしな事態になっているのだと訴えかけているのであり、そんな人や勢力を支持するのはやめてほしいとも訴えかけていて、できればそれができると主張する人や勢力を支持してほしいとも訴えかけているのだが、そんな願いが聞き入れられない限りは批判が止むことはないのだろうが、果たしてそんな訴えかけが聞き入れられるかというと、批判が止むことがないということ自体が、聞き入れられてはいないことを意味していて、批判が止まない限りは聞き入れられることはないのだとしたら、要するに批判が聞き入れられることはないということになるわけだが、では批判しても無駄なのかというと、それもそうではなく、いつか批判が止む時が訪れることを期待しながら批判しているわけで、現状ではできないことがいつかはできるようになるのではないかと願っているわけだが、だから批判する側にはまだ希望があり、批判をやめてしまったら絶望しか残らないから批判をやめられないのだが、そんな批判の声が鳴り止まない情勢をどう捉えればいいのかといっても、批判したい人たちには批判させておけばいいと突き放しても、それ以上は現状がどうなるわけでもないこともわかりきっているなら、少しでも現状で取り組んでいることを前進させなければならないとしたら、それなりに譲歩や妥協が必要となってきて、それができる立場の人たちがそれなりにいて、そういう人や勢力が現状を少しでも良い方向へと好転させようとして、何やらそれが新たな批判を呼び込むような兆しを見せながらも画策しているらしく、そんな画策が功を奏してほしいのだが、現状ではそんな新しい取り組みをやろうとする人や勢力に期待するしかないのではないか。


1月17日「社会の成り立ち」

 世の中にはわかっているようでいてわかっていないことがあるにはあるだろうが、それがわからないなら、わかるまではそれが何だかわからないのは当然のことだが、それに関して何をどう考えるかは、考えている人が抱えている個人的あるいは社会的な経緯や事情などに左右されてしまうかも知れないが、それと似たような経緯や事情を抱えている人が多ければ、それがそんな人たちが暮らしている社会の特徴的な傾向となり、そういう経緯や事情をもたらす原因や理由が社会そのものにあると考えるのが妥当かどうかはわからないが、ではそもそもそれとは何かというと、それを知らないと社会にうまく適合できなくなってしまうなら、しかもそうなるに至る過程で個人差があって、適合できなくなってしまう程度や傾向にも個人差が出てくるにしても、社会に適合するということがどういうことなのかというと、ただ漠然とその社会でまかり通っている慣習を受け入れるということであれば、それもはっきりとは意識できないからわからないが、何となくそう思われるようなことなのかも知れないが、もちろん慣習だけで社会が成り立っているわけでもなく、慣習に従っていることをあまり意識できない一方で、慣習に逆らうと周りから反発や圧力が加わることは何となく意識できて、それが法律に逆らうのとは明らかに違う感触となるわけで、またそれとも違う感触があるかというと、機械の動作に逆らって死傷する場合があるだろうが、要するに社会に適合するとは、慣習に従い法律に従い機械の動作に従うことだとは言えるかも知れないが、ではその反対に社会に適合できないとはそれらのどれかまたは全てに従うことができないことになるかというと、そうだとも言えるかも知れないが、微妙に違う場合もあるかも知れず、他にも他人の意見や指示に直接従うこともあるが、その意見や指示が慣習や法律や機械の動作に基づいている場合もあるだろうし、その逆に慣習や法律や機械の動作自体が、誰かの意思や意志から構成されているかというと、その割合は慣習<法律<機械の動作となるかも知れず、誰かの意思や意志に基づいて機械が設計されて作られて動作する場合がある一方で、法律を新たに発案して議会で立法化する場合は他の議員の同意が必要となるだろうし、では慣習はというと、慣習通りに動作することに関しては、周囲の人々との間でなし崩し的な合意や同意や妥協が成り立っている限りで、慣習に従った動作になるような、はっきりとは意識できない成り行きがありそうで、それ以前に人が集団で群れるという生物的な本能に依存して社会が形成される過程で、慣習が自然発生するようなことにもなりそうだが、それを言うなら法律も、慣習だけでは社会がうまくいかないから新たに人為的に作られる成り行きがあるだろうし、また道具の発展形態として作られる機械にしても、人の動作を円滑かつ効率化するために作られる成り行きがありそうだが、そういう成り行きから生じてくる動作に適合できないということは、それらの動作を無視したりそれらに逆らって動作することになるだろうが、なぜ逆らうのかといっても理由や原因がわからない場合もあるだろうし、そのよくはわからないが、それに伴って体調がおかしくなれば、医師に相談する場合もあり、実際に医師が診断した結果として病気にかかっていることが明らかになれば、病気が理由や原因だと納得できるかも知れないが、すぐには納得できない病気というのもあり、それがうつ病などの精神に関する病気であり、中には診断している最中に医師に対して反抗的な態度に出ることが病気にかかっている証拠だとか、逆説的な診断などもありそうだが、他人の意見や指示に納得できないから従わないなら、ある程度はわかりやすい反応だが、納得して従おうとしているのに、なぜか逆らってしまう場合もあるだろうから、そういう自分の意思や意志に自分自身が逆らってしまうのも、場合によっては精神の病だと診断されてしまうかも知れないが、何でもかんでも病で片づけられるかというと、そうでもないのは誰もが薄々勘づいているかも知れず、その人のそこに至るまでの過程で培ってきた勘や経験から、このままこの人の意見や指示に従っているとヤバいと無意識に感じ取っている可能性もあり、だから自らの意思や意志に逆らってまで動作してしまう自らに困惑することになるかも知れないが、それ以前に慣習がその人の意識や動作を強力に縛っていると、いざという時に勘が働かず、ヤバいと感じているのにその場のノリでなし崩し的に従ってしまい、そのまま気づかずに手遅れとなるか気づいた時には手遅れとなっているかは、そのどちらもがありそうだろうが、それが慣習だけではなく、法律や機械の動作も複合的に絡み合った制度となると、なおのこと逆らうのは至難の業となりそうだが、うつ病にかかって関わっている物事から遠ざかってしまう場合は、それを病のせいだと合理的に捉えるのも一理あるとしても、その人が長年培ってきた勘が働いて、ここはいったん退くのが得策だと無意識のうちにその場の状況のヤバさを感じ取っている場合もあるかも知れず、それを制度的な観点から否定的に捉えて、そうなってしまう人を自身が取り組んでいる問題から逃げていると批判したり非難することもよくありがちな反応だが、そういった制度に逆らう人の存在も織り込んで社会が形作られていると見なすなら、制度が社会の中で制度に従う人に有利に働くように機能している実態があるのは一目瞭然ではあるものの、時としてそうした制度に多くの人々が従い過ぎると、それらの人々で構成される集団の官僚化も進み過ぎてしまい、結果的に融通の利かない硬直した社会になってしまうから、制度に逆らう人の動作に注目すれば自ずから制度の問題点も浮かび上がってくると理解しておくのが妥当なところなのかも知れない。


1月16日「政府の経済政策」

 政府の経済政策とか、現状の日本にはそれほど必要ないのではないかと言うと、そんなことはないと誰もが反論したくなるかも知れないが、それを経済政策と言うか言わないかも疑問に思うところかも知れないし、何かそこで勘違いが生じているような気もするのだが、例えばこれ見よがしなMMTとかベーシックインカムとか、トリッキーなことを提案するのではなく、単に法人税を引き下げるのと同時に最低賃金を引き上げれば、主張としてはその程度の方がわかりやすいだろうし、具体的な数字としては、法人税を国際的な基準で許容限度いっぱいの例外規定なしで一律15%に引き下げると共に、最低賃金を全国一律で千二百円に引き上げれば、もちろんその額で妥当かどうかは議論の余地がありそうだが、そんな提案だけでもいいような気がするのだが、一部では法人税も所得税のように累進課税にすべきと主張する人もいるが、法人と個人とで何か違いがあるかいうと、個人には金持ちと貧乏人がいるように企業にも大企業と中小企業があると言えそうで、だから大企業にはより多く課税して中小企業にはより少なく課税すべきと言うともっともらしく聞こえるだろうが、法人と個人とで同じように課税することによって何かメリットがあるかということに関しては、法人にも規模や売り上げの大小で大企業と中小企業とに区分けができて、一律に同率の課税にすると、大企業の方が有利で中小企業の方が不利になると考えることが常識のように言われるが、そちらの方は独占禁止法などの別の法律で規制がかかるだろうから、税制によっても差を設けることのメリットといっても、あまりはっきりとはしないと言ってしまうと、お前は経済をよくわかっていないと言われそうで、現状でも中小企業に対する優遇税制というのもあるだろうから、できればそれをなくして、例外規定一切なしで、一律の法人税率に統一したいと言うと、なぜそんな主張をするのか意味不明に思われるだろうが、また消費税も例外規定一切なしで一律に同率課税にもしたいわけで、もちろん株式の売買による利益にも、日本では一律20%で課税しているから、利益の額が大きいほど有利になるとも言われているが、たぶん新自由主義的にはそれで構わないのかも知れず、それに対して反論もいくらでも言えるかも知れないし、そんなやり方では弊害が出るとも言われるだろうし、富の分配を平等にしようとする意図もなく、むしろ不平等で構わないと言いたいわけで、要するに人は金持ちになりたいのだから、金持ちになれる余地を残しておいた方がいいし、まだ企業も商売が繁盛して大企業になれる余地があった方が、企業経営者もやる気が出るだろうから、がんばってもらえば良いのだが、その代わりに貧乏人も中小企業も生き残れるようにすればいいのだろうが、貧乏人に関しては生活保護制度の活用を妨害しないような配慮が役所には求められると同時に、生活保護を受ける人の中から働ける人を積極的に活用する場を行政で用意できればいいのかも知れず、それに関しては一つの案として、例えば農水省の下部団体として農業公社を設立すると共に、経産省の下部団体にも産業公社を設立して、生活保護を受ける人の中から働きたい人を公社の職員として雇って、しかも生活保護受給額と同じ額で雇えば費用が少なくて済みそうで、農業公社では全国の耕作放棄地で農業をやってもらったり、産業公社では役所の中で軽作業などに従事させればいいだろうが、耕作放棄地で生産された農作物は売らずに、そのまま無料で生活保護世帯や公社の職員に支給したり、ボランティア団体の炊き出しなどにも活用すればいいだろうし、また産業公社では古着や家具や電化製品や廃車などを回収して、それを修繕したり修理して、そのまま無料で生活保護世帯や公社の職員に支給すれば、その分だけ生活保護世帯や公社の職員の生活において物質面や経済面が豊かになりそうだが、そういうことをやるのにもなるべく公債や国債などの借金に頼らずに税金だけで賄いたいわけで、しかも法人税や消費税などを減税してやるとなると、当然のこととして他の予算へと皺寄せが及ぶと共に、相対的に規模の小さな政府になってしまうわけだが、そこでも主張が矛盾しているように感じられるだろうが、要するに行政の中で無駄な予算を削って、必要最小限に抑えた上でそんなことをやりたいわけだから、各種の補助金などは当然カットしたいし、外国への援助や、アメリカなどからの武器や兵器の購入もできるだけ安上がりに済ませたいし、こんなことを述べている時点で机上の空論になってしまうのも致し方ないが、主張するだけなら何とでも言えるレベルでこんなことも主張できるわけだが、実際に政権を担った政党が何を実行できるかといっても、各省庁の官僚に言われるがままのことをやっているうちに現状のようなことになってしまったわけでもないだろうが、予算の無駄遣いだと思われるような事例も探せばきりがないほどあるかも知れず、案外積極財政だとか主張して、無理に国債などを発行しなくても済んでしまうようなことにもなってしまうかも知れず、例えば教育の無償化とか学費ローンに苦しんでいる人たちを救済するぐらいのことは、他の予算を削ればできるようなことかも知れないから、今後において実際にそういうことを主張している政党などが政権の一角を担うようなことにでもなれば、できれば借金しなくても費用を捻出するような努力をしてもらいたいのだが、理屈がどうこうというよりは、現状の予算配分があまりにも本来の国家予算の在り方から逸脱してバランスを欠いているように思われて、無理に借金することを正当化するか、さもなければ増税するかという二者択一を迫るような印象を受けるから、何かそれが現実問題として実現できる規模や範囲を大幅に超えているような気がしてしまうわけだ。


1月15日「腹立たしさの共有」

 メディアを通じてこれ見よがしに見せられる光景に反応して、それが誰かの期待通りの反応になっていれば思う壺だと言えるかというと、例えば日米首脳が笑顔で談笑している画像や映像やそれを肯定的に取り扱う解説を見せられて腹が立つようなら、そこで何かを理解していることは確かで、また腹が立っている自分と同じように腹が立っている大勢の人々の反応やコメントなどもメディアを通じてもたらされて、それを読んで勇気づけられるようなら、他にも多くの人々が腹が立っている事態を共有しているような気がするのだが、しかもそれが選挙結果に結びつかなければ、やはりそんなことには全く関心のない人も世の中には大勢いることもわかってがっかりするかも知れないが、そのがっかりすることが誰かの期待通りの反応であれば、まさにそんな結果を報道するメディアの思う壺のような気がして、現時点ではまだそこまで至ってはいないはずだが、途中の段階でそんなことまで思い至るなら、まずは自らの腹立たしさを疑ってみるのも、そこからこれまでとは違う理解に至るきっかけになるかも知れず、その機会を逃さないことが重要だと思われるなら、ではそんなこれ見よがしな光景を見せられて、それに素直に反応して怒りのコメントなどをSNSなどに書き込む人たちは、まんまとその手の煽動にはまっているのかというと、はまっていること自体は確かだが、怒るべき時に怒るのは当然のことであり、それ自体がまずいわけではないはずだが、その後の対処や対応においてさらにまずい結果をもたらすとすれば、それは避けなければならないと思うところだが、そこからどうなればまずい結果となるかについては、誰もがそれに関して予想がつくところだが、要するに腹立たしさの原因となっている人物やそれを支えている政治勢力やメディア勢力の思う壺な展開や結果に至ってはまずいと思うだろうが、そんな展開や結果を予想できてしまうのだから、すでにそうなることが織り込まれているような世の中の情勢になっているから、なおのこと腹立たしいと共に口惜しいような気もしてくるのだろうが、そういった残念な悔しさをもたらしているのが、味方だと思っていた政治勢力やメディア勢力などの背信行為となるかも知れず、その一つがある種の人々にとっては立民と維新の国会での連携となるのだろうが、それ以外にも様々な方面から許されない行為や行動が伝えられてくれば、一時の腹立たしさも次第に諦念へとフェードアウトしていってしまうかも知れないが、何かそこで苦渋の選択を強いられるような成り行きが生じていて、そうしたことをやらざるを得ない状況へと追い込まれているとすれば、何がそうさせているのかといえば、やはりそこへと至る成り行きの中でそうなるような事態へと誘導されているからだと思いたいわけで、それをどう捉えてみても、現状で行われていることを覆すような契機が生じてこなければ、怒りから諦めへと至る成り行きに抗いようがなくなってしまうわけだが、そうなるように仕向けられていると思うなら、そうなるように陰から事態を制御している黒幕的な存在を想像してしまうのも、あながち間違っているとも思えないのだろうが、その手前で踏みとどまらないと陰謀論者の思う壺となってしまうだろうし、実際にそうなってしまうから陰謀論者も大勢現れてくるわけだが、どうすればそれを避けられるのかといっても、現状でわかりやすい答えが出ていれば誰も悩まないだろうし、答えがわからないから思い悩み、思い悩んだ末に誘惑に負けて一線を越えてしまうと、陰謀論者に変貌してしまうわけで、そこであちら側へ行かずにこちら側にとどまろうとするなら、やはり苦渋の選択を迫られるわけで、立民と呼ばれる政治勢力も今まさに苦渋の選択を迫られて、非難されるのを承知で維新と呼ばれる政治勢力と国会で連携しているわけだが、そういう事態をもたらした契機となったのが、それ以前の選挙で他の野党勢力と連携して政権交代を目指したのに果たせなかったからだろうが、しかも今回の選択もある意味では一線を越えたあり得ない選択だと思われて、関係各方面から強烈な非難にさらされているわけだが、なぜかどうやっても現状で腹が立っている人たちの要望には応えられないから、そういう人たちからすればおかしなあり得ない選択をしてしまう成り行きとなってしまい、結局そういう人たちの心情を汲み取るには、もっと少数派の清廉潔白な政治勢力でないと不可能な事態となっているわけで、そんな政治勢力が議会で少数派の反対勢力として役割を担う限りで、そういう人たちの腹立たしい思いが持続できるわけで、そういう事態を考慮するなら、現状でそれらの人たちが腹立たしいと思う事態が実現していることになり、実際にそれが実現しているから腹立たしいのだろうから、まさに現状では腹立たしい世の中になっていて、そんな腹立たしい世の中をもたらしているのが、そんな世の中に住んでいる人たちであれば、話の辻褄が合ってくるわけで、と同時に、そんな世の中を腹立たしいと思っている人たちが、自分たちが否定するような腹立たしい世の中をもたらしているのかといえば、普通はそうではないと思うだろうし、むしろ自分たちは被害者であり、自分たちを腹立たしく思わせている人たちが別にいて、それらの人や勢力が加害者となって腹立たしい世の中をもたらしていると考えるのが妥当な解釈や認識となるだろうが、そこで被害者と加害者を明確に区別できるかどうかで、そういう人たちの主義主張がわかりやすいかわかりにくいかが決まってくるのだろうが、現状を否定的に捉えるわかりやすい主張をしている人たちが現状でどうなっているかといえば、議会で少数勢力を形成する反対派の清廉潔白な役割を担っている現状がある限りで、現状で多数派を取り込むにはどうすればいいかというと、そんな清廉潔白な少数派から非難されるようなことをやらざるを得ない成り行きになってしまうわけで、もちろんそうなってしまうこと自体が腹立たしい限りだろうが、その腹立たしさを共有するか、それともそこから一線を越えて腹立たしさの攻撃目標となるかが、苦渋の選択となるかというと、それは紛れもない現状が示していることになるのではないか。


1月14日「騙されることの意味」

 騙すつもりもないのに結果的に人を騙してしまうのではなく、また騙しているつもりが逆に騙している対象の人や事物に騙されてしまうのでもなく、騙すという行為とは微妙にずれたところで、かえって語っている対象の真の姿を意図せずに物語ってしまうような事態に気づいて驚くと共にうろたえて、当初はそんなことを語りたかったのではなかったはずだと愕然とするような成り行きになれば、それまでの自身の限界を越えたり、既成の殻を破って何か別の姿に変身を遂げたような気になれるかも知れないが、そんなふうに自らが囚われている成り行きに騙されてみたところで、単なる季節の移り変わりに伴って衣替えや位置や場所の移動を経験しているだけかも知れないし、そこでも何か新たに気づいたことを頼りにしながら思考を巡らせて、それまでとは明らかに違う画期的な認識や解釈に辿り着こうとするかも知れず、そんな気になってしまうのも、それまでの認識や解釈では飽き足らないからだろうが、その際にも相変わらず漠然とした疑念や疑問に囚われていて、それが大雑把に言うならこの世界についての疑念や疑問になるとしても、そういうあやふやな認識や解釈ではなく、何か納得を得られるような具体的な事物にこだわろうとして、それが何になるかでその人が考えている範囲も囚われている分野も限られてくるが、自分で主体的にその範囲や分野を選択したつもりになっても、逆にその主体性に騙されてその範囲や分野を限定されているような事態になっているとしたら、そんなのは気持ちの持ちようだと強がることもできるものの、その時代の風潮や傾向が特定の人々を特定の範囲や分野に押し込めて、そこで競争や選別が行われた結果として、その中から選ばれた人たちを典型的な成功例や失敗例のように扱いながらも、その場の成り行きが選ばれなかったその他大勢の人々を選ばれた少数の人たちに従わせるような成り行きになっているとしたら、そんな成り行きに騙されてはいけないと警鐘を鳴らしたくなってしまうのかも知れず、しかもそれがそんな成り行きではなく、もっと直接的にそんな人たちに騙されてはいけないという警告に集約されるならわかりやすいのだが、それがわかりやすいというのも一種の罠であって、そんな成り行きになっていることに多くの人々を気づかせないようにするための囮として、それらの人たちがメディアによって選ばれているとも言えるから、それがマスメディアからSNSまでの広範囲にわたってその種の人物たちが影響力の強弱を伴いながらもそれなりの数でうろついている実態があること自体が、それらの人たちの言うことに騙されてはいけないと同時に、そういう〇〇に騙されるなという典型的な警告の文句にも騙されるなという二重の意味で言われていることでもあるなら、もちろんそんな文句を発している人にそこまでの意図などないのも当然のことだが、それを単純に受け取ってしまうと勘違いの原因ともなりやすく、しかも勘違いしていた方が怪我の功名となる場合もあるかも知れないから、実際に意図しない思いがけない結果がもたらされたら、普通はそれを良いように受け取ってしまうのだが、ではそれらの人物たちやそんな人物たちが囚われている成り行きに騙されないことが何を意味するのかといえば、自らが囚われている範囲や分野について自分自身で考えてみろと他の誰かから諭されるわけでもないが、考えたところでわかるわけでもないかも知れないが、一応は考えてみる価値や意義が感じられたら自分なりに考えるだろうが、考えてみた結果が、何かの典型例のようにしてメディアから選ばれた人たちの考えと一致するようなら、それらの人たちが囚われているのと同じような成り行きに自分も囚われていると思っても良さそうだが、そこにそういう成り行きに騙されるなという警告が含まれているとしたら、それらの人たちと同じように自分も何かに騙されていると思っておいても構わないのかも知れず、その自らが騙されている何かを具体的に突き止めることができれば、そこで話がわかりやすくなるだろうが、そこにもわかりやすい話に騙されるなという警告が付け加えられているなら、事態がより一層混沌としてくるような状況になってきそうだが、逆に混沌を回避したいなら騙されるなという警告にも抗ってみた方がいいようにも思われるわけで、それが騙されたふりをするという面倒でややこしい態度ではなく、積極的に騙されてみようと思ってみた方が、かえって気楽になれるかも知れないから、しかも騙す方は騙す意図などなく、自身が何らかの信念を抱きながらこれが正しいと思ったことを断言したいわけだから、そんな断言こそが疑わしいと思われても、ひとまず騙されたつもりになって、そんな断言を信じてみるだけの余裕があるなら信じておいた方がいいのかも知れず、しかもその人物の断言だけでなく、その人物と主義主張が対立している別の人物の断言も信じてみるだけの余裕があることも必要かも知れないし、様々な範囲や分野でその範囲や分野に適合しているように思われる、その範囲や分野の典型例のような人たちの、その範囲や分野に照らし合わせて正しいと思われる典型例のような断言を信じてみれば、自ずからその範囲や分野を外れるところで言われていることの真の意味がわかってくるわけでもないが、逆にわからないことを自覚できるかも知れないし、そう断言されてもわからない範囲や分野が他にあって、それが特定の範囲や分野とも言えないような何かであるとも断言できないが、そこから外れているところで言われている謎の言説があることを探り当てられるような兆しを感じられるようなら、もうすでにそこで断言されている限られた範囲や分野を抜け出られて、その重力圏を振り切って、その範囲外や分野外に出られたことになれば、やはりそこでも話がわかりやすくなるかも知れないが、そうは問屋が卸さないというか、執拗に正しい断言を伴ってそれらの人物たちが後を追ってきて、自分たちが囚われている範囲や分野に引き戻そうとして、あの手この手でおかしな言動を仕掛けてくるようなら、そういう人たちが唱える呪詛の言葉にも思いのほか強い怨念が込められていて、そう簡単には逃げられないように念には念を入れて自らの言説に磨きをかけていることの表れだと思っておけばいいのかも知れないが、そこでも安易に騙されるなとは思わない方がよく、騙したいなら騙してみろと逆に居直ってみせるのも推奨できないし、素直に騙されておいてからそんな人物と敵対するような人物にも騙されておけば、それらをちょうど相殺できるとも思えないが、相殺するのではなくそれらに一定の傾向や方向をまとわせて何かのバリエーションとしてそういった見方や考え方をある程度の強度で相対化ができれば、気休めとしてワクチン接種によってそれらに対する抗体を身につけたような気にもなれるのではないか。


1月13日「低次元な話」

 低次元というと何か馬鹿にされるような話の内容となってしまいそうだが、馬鹿にしたいからそれを低次元というのだろうし、そういう意味では低次元に違いなく、普通は低次元な話の内容に関して、それを肯定するようなことにはならないわけだが、さらに言うなら次元ではなくレベルという表現になると、あからさまに低レベルな話の内容を馬鹿にしたい意図が感じられるだろうが、では逆に高次元であったり高レベルな話の内容になると、何か頭の良さそうな人が語る難しい話の内容になるかというと、それだけしか判断材料がなければそう思うしかないが、もちろんそれだけが判断材料になるはずもなく、肝心な話の内容が未だに何も語られていないのだから、それだけでは判断のしようがないが、語っている主体から低次元な話題へと誘導したい思惑が疑われると、なるほどそれとは逆の方向へと話を振られるとまずいのかとその時点で気づけるほど勘の鋭い人がそうそういるわけもないだろうが、それが文字に記されて読む立場になれば、結構それに気づく人も出てくるかも知れず、それに関してプレゼン的な内容を語る人に特有な範囲を絞った狭い特定の分野へと人々の意識を誘導したい思惑が透けて見えてくると、それが功利的な思惑だと気づいてしまうような事態を何の前提もなく想像できるわけでもなく、それだけで低次元な話の内容だと馬鹿にするようなことにはならないが、そこから自らの考えや判断を社会全体にまで広げて、何かハッとするような社会問題に結びつけてもっともらしいことを物申す成り行きになると、他の誰かがちょっと待てと言いたくもなるだろうし、お前個人の事情を他の大勢の人々が苦しんでいる問題にまで広げるなと言いたくなるのも、話の内容によってはありがちなことなのかも知れず、個人の自由を確保することが社会全体の問題ではないとは言い切れないが、個人にそう簡単に選択の自由を与えてくれるほど社会に無制限な自由度があるわけでもなく、必ず何かしらしがらみがまとわりついてきて、個人の行動や言動や思考に制限をかけて、他の大勢の人々と歩調を合わせるように仕向けてくると、息苦しさや生きにくさを覚えるのだが、例えば誰かが病気に罹って入院して、それが治癒の見込みのない末期的な状態で、その際の治療の過酷さや痛みや費用やそんな境遇に陥ってしまった自身の惨めさに耐えかねて病室の窓から飛び降りて自殺を選んだとしても、そんなふうにその場の状況を語ればもっともらしい自殺理由のように感じられるかも知れないが、たとえそんな事例があったとしても、そうなることを前もって予想できたわけでもないだろうし、現実にそんな事態に直面してもいない人が、人には自らの生死を決める自由があると言ってみたところで、病状が重篤になって今にも死にそうな人に自身の生死など自分では決められないだろうから、普段からそうなった時に備えて生命維持装置の類いを外してくれるように医療機関に入院した際に伝えてくれるように何か手段を講じておくべきとも言えないし、そうやって絶えず先回りして先手を打つようなことを言いたい人が出てくるのも、よくありがちなことかも知れないが、そんな事態を見越して何か言いたいのは、やはりプレゼンの技術的な要請に応えようとする意思の表れかも知れず、予想されるあらゆる事態を想定して、それに対していちいち妥当な見解を表明できれば、それがプレゼンとして最大公約数的な支持や同調を得られるような期待があるから、そういうことを言いたくなるとしても、それも自身にそんな思惑があるなんて自分で気づいているとも思えないし、何かをプレゼンするという制度的な要請にその人が知らないうちに応えるように仕向けられてそういう成り行きになってしまうわけで、各々の意思や意図や思惑にどんな偏差があろうと、人が病院に入院して医師が病気を治療するという制度が確立されてから、病気を苦にして病院の窓や屋上から飛び降り自殺する行動が生じてくる一方で、メディアを利用して何かをプレゼンして不特定多数の人々の気を引くという制度が確立されてから、自分の経験をメディアで話題となっている社会問題に絡めて、それをもっともらしい主張として提示できれば、それを真に受ける人々も身近なこととして親近感を覚えるわけで、さらにその際に何か死に関連してあっと驚くような人目を引くパフォーマンスをやった著名人というのも、プレゼンの際に格好の人心を惹きつける挿話として役立つだろうし、その格好の事例としてあざとい人が飛びつくネタとしてよく使われてしまうのが、日本では三島由紀夫になってしまうのかも知れず、そういう鉄板ネタを使う人には注意しないと、とんでもない勘違いを犯してしまうかも知れないが、ネタに使った著名人に大して心酔しているわけでもないのに、心酔しているコアなファンに訴えかけるようなことをやりたがるから、かえってあざとさが目立ってしまうのだろうが、それが逆に普段からそんなことには大して関心のなかった人々の関心を呼び起こして、そこから勘違いな支持や同調に結びついてしまうと、さらに厄介な事態となりかねないが、普通はそこまでは事態が進行することはなく、その種のプレゼン自体が社会に大して影響力を及ぼすわけでもなく、何よりもプレゼンしている人の素性の怪しさを多くの人々が感知していて、その種の人のこれ見よがしな経歴が詐欺的な内容であることに察しがついている人も結構いるだろうから、それを真に受けてしまう人がいるとすれば、その人が浅はかだから真に受けてしまうと思っておいた方がいいような低次元な話になってしまうのかも知れない。


1月12日「作家の信者」

 1980年代あたりに蓮實重彦が誰かとの対談で、三島由紀夫の小説について、まるで銭湯の壁に描かれた富士山の絵のようだ、という趣旨の発言をしていたのを、今でも鮮明に覚えているが、確かその対談集を読んだのが1990年前後だったような気がするのだが、それを読んだ時、蓮實重彦にとっての三島由紀夫は二流三流の作家という位置づけなのかと驚いた記憶があるが、それから程なくして当時の蓮實重彦の代表的な評論集である『小説から遠く離れて』を読んで、その中での村上春樹の取り扱われ方から、村上春樹も蓮實重彦にとっては二流三流の作家なのかと、これは前もって田中康夫のエッセイの中で大ヒット作の『ノルウェイの森』が酷評されていたのを読んでいたから驚きはしなかったが、そんな経験から当時は三島由紀夫信者の右系の人も村上春樹信者の左系の人も信用ならないと思ったものだが、ではそういうお前は当時はどんな小説を読んでいたのかといえば、蓮實重彦の対談集の中でその取り上げ方が気になったモーリス・ブランショの『死の宣告』を読んで衝撃を受けて、さらに『至高者』を難儀して読み、続けて『期待/忘却』を途中まで読んだものの、頭がおかしくなりそうになって、それ以上は読み続けられずに読むのを断念したことがあったが、それが読みにくい翻訳文であるにしても、なぜ日本語で書かれた文章を読み進められないのかがわからず、ホラー小説などとは次元の違う恐怖感に打ちのめされた記憶があるのだが、たぶん今読めば普通に読めるかも知れないし、当時は貧乏だったので買わずに図書館で借りて読んでいたから、時間をかけてじっくり読まずに、かなり印象としては雑な読み方で、何かの勘違いからそういう思いを抱いてしまったのかも知れないが、それからさまざまな書物を読みながらも十数年が経過して、2010年代になって唐突に仕事をやめて無職となって暇ができた時には、柄谷行人が雑誌の編集後記か何かでマルクスの『資本論』を読めと勧めていたのを思い出して、また2000年前後で『ミシェル・フーコー思考集成』の全10巻を買って、難儀して読んでいたのも思い出して、この機会に最低限『資本論』とフーコーの全著作を読んでおかないと、もう死ぬまで読む機会が巡ってこないような気がしたので、今度は図書館では借りずに買って読んだわけだが、読んでみた実感として、すでに五十歳を超えているのに自らの見識の浅さを改めて思い知ったような気がしたのと共に、『資本論』については、ピケティや池上彰なども含めて、自身の著作やテレビ番組などでマルクスを取り上げているのに、しかもピケティに関しては著作の中で批判を加えたりマルクスの誤りを指摘しているのに、彼らはマルクスの代表作の『資本論』を読まずにマルクスを語っているのではないかという疑念が湧いてきて、しかも他の誰よりも詳細に読んでいるはずの翻訳者でさえ、公式的なマルクス主義に毒されているような印象を翻訳者の後書きから受けてしまい、自分の方がその著作を読んできた柄谷行人のマルクス観に惑わされている可能性も捨てきれないのだが、それだけ『資本論』の内容には多様性や情報の厚みが詰まっていて、ピケティや池上彰や翻訳者などから受ける一面的な理解では済まないような、マルクスやマルクスの死後編集を手掛けたエンゲルス自身も気づかなかった可能性があるかのような幻想を抱いてしまうわけだが、そんな幻想を20世紀において引き継いだのがフーコーというわけでもなく、フーコーはマルクスについては大して詳細に言及しているわけでもないのに、19世紀を代表する著作者がマルクスであるのに対して、20世紀を代表する著作者がフーコーであるかのような、両者で双璧をなしているように思われてくるのだが、それも蓮實重彦から影響を受けてフーコーを読んで、柄谷行人から影響を受けてマルクスの『資本論』を読んだ自らの偏見に他ならず、フーコーやマルクス以外にも後世に彼らと同等以上の影響力を及ぼしている思想家の類いは結構いるかも知れないが、フーコーに関して言えることは、その代表的な考え方として、物事を連続的かつ対立的に捉えるのではなく、偶然としか言えないような組み合わせで社会を構成する複数の制度やシステムが結びついて、それが例えば裁判所などの司法制度と刑務所などの監獄制度と警察などの治安機関と精神病院などの医療制度であったりして、それらが複雑に絡み合いながら社会に支配的な作用や影響を及ぼしていることが、その著作の中で語られていて、それが何かというとすぐに相手との間の対立点を捉えて、その点を強調したり誇張したりしながら、敵対しているつもりの相手と戦っているように装う実質的には似た者同士である自称他称右や左の人々の言い争いの類いを見るにつけて、何かがおかしいような違和感を覚える原因なのかも知れないが、それに絡んで興味深いのが、数年前に買って読んだ『ミシェル・フーコー講義集成第8巻』(コレージュ・ド・フランス講義1978ー1979年度『生政治の誕生』)の中で、新自由主義について語られている内容であり、物事を連続的かつ対立的に捉えてしまう人たちが陥りがちになるのが、例えばマルクスに関してなら公式的マルクス主義という一種の単純化した解釈であるのと同じように、それが昨今の新自由主義でいえば、すぐにそれを単純化して何かの決まり文句のように批判に活用されるいわゆる公式的新自由主義にも言えることであり、そういう批判に凝り固まってしまうのが、日本であれば清廉潔白を装う少数派の日本共産党や社民党の支持者たちではあるにしても、またれいわの支持者たちにもそれに近いスタンスが見受けられるかも知れないが、そんな人たちには是非『ミシェル・フーコー講義集成第8巻』を読むことを勧めたいのだが、そこでは例えば第二次世界大戦において敵と味方に分かれて対立し合うアメリカのルーズベルトとドイツのヒトラーが、意外と似た者同士であることが語られていることに驚かされるかも知れないし、両者を同じカテゴリーに含めてしまうのが、当時ヒトラーと敵対していた新自由主義の論客たちであることが、れいわでグリーン・ニューディール政策を掲げている人たちには信じられないことかも知れないが、何かそういうところで決まりきった主義主張の中身とは違う何かが作用していることに気づいてもらえると、時には嫌らしい偽善や欺瞞を伴いながらも不透明な妥協の産物として政権を担っている欧米の左翼政党の実態も伺い知れるのではないか。


1月11日「身を切る改革」

 政府の在り方に関して、何の前提条件もないというのはあり得ないが、ただ闇雲に決まりきった主義主張に基づいて積極財政だの緊縮財政だの、またそれに対応して大きな政府や小さな政府を目指すのではなく、どんな方面に重点的に予算を配分するかで、それに対する支持や不支持にも違いが出てくるだろうが、それが何かわかりきったことのように語られるから、そうなる前提条件があることが忘れられているのかも知れず、その一方で無駄に使われる予算を減らすという目的で、身を切る改革という表現が、何かの合言葉のように使われることも多く、そういう表現をどう受け取るかも、それを否定的に受け取って批判に活用したい人もいくらでも出てくるだろうから、そういうことも含めて、それが曲解というほどのことでもないにしても、そういった方面で自身の主張を正当化したい人にとっては、何とかして批判の対象となる政治勢力を貶めたいわけで、実際にある方面では、ひどいことをやってひどい結果をもたらしているのだから、それとそれに関してよく言われる主義主張を絡めて、そのようなことをやっている政治勢力を批判したいのだから、なおのことそのような政治勢力がやっているつもりの身を切る改革を悪く言いたいわけだが、そんな否定的な経緯や事情を抜きにして考えるなら、行政の無駄を減らすこと自体が、何か悪いことをやっている感覚とは結びつかないわけだが、ただ何が無駄なのかについては見解が分かれるところであり、またそれについては政府や地方自治体などの公的な行政と民間の企業内の行政などとの間で違いが生じてくるのも、一応はわかりきったこととして、議論を進めたいところだが、それらを混同して捉えがちになるのも、コンサルタントのプレゼンなどではよくある傾向だろうから、その辺をどう捉えたらいいのか迷うところだが、批判にまかせて簡単に言えることなら、身を切る改革と称して行政と癒着した企業を優遇して儲けさせているのを何とかしなければならないとは言えるだろうし、そこだけを強調するなら、何か真っ当な主張のようにも感じられるし、また必要な行政サービスを削って市民や住民に迷惑をかけていると批判することも可能なのだが、そうなっている実態に言及しないで、ただ漠然と身を切る改革を支持したり賛同したところで、そんな実態を日頃から批判している人たちから非難の集中砲火を浴びるのも火を見るより明らかだろうが、その一方で愚かな人たちを味方につけて衆愚政治のような様相を呈している実態もあるから、そんなことをやっている政治勢力が多数派として議会や行政の主導権を握ってしまっているのを目の当たりにして、それをどう思うかも人それぞれだが、それを衆愚政治と見なすもその人の身勝手な偏見かも知れないし、果たしてそれが不条理なことなのかといえば、ある程度はそうだとしても、そうなるのが当然に思われるような経緯や事情があるなら、それでも構わないような気がするわけで、そんな政治勢力の候補者に選挙で投票したり、あるいは無関心を装って投票に行かない人が多ければ、そうなるのが当然だと思われて、そんな政治勢力を批判している人たちにしてみれば、それでは駄目なのもわかりきったことだが、駄目だからこそ、いくら批判が無視されても同調圧力で抑え込んでも、メディアが盛んに印象操作や世論操作を繰り返しても、相変わらず批判の声が止むことがないわけだが、それで構わないと思っている人たちにとっては、いつまで経っても止まない粘着質の批判が鬱陶しくて仕方がないかも知れないが、ではそういった批判を黙らせるには何をどうすればいいかといっても、現状でも裁判で名誉毀損で訴えるとかの黙らせるようなことが行われている実態もあるのだろうが、それ以外に何が必要なのかといえば、実際に身を切る改革を実行すればいいのだろうが、要するに自分たちの身を切る改革をやっていないから批判されるわけで、それができないから批判されるとしても、それを実際にやってしまったら現状で自分たちが享受している有利な立場を失ってしまう恐れがあるからできないとも言えるが、だからその代わりに自分たちの有利なポジションを失わない限りで実行可能なことをやっている実態があり、それでは実質的には身を切る改革とはいえないが、それを強引に身を切る改革だと言いくるめようとするから、そんなごまかしを突いて批判が行われている実態もあるわけで、そういう意味では批判される余地を残しながら、もちろんそれが批判されることを承知でそんなことが行われていると解釈しても構わないのだが、一方でそんなごまかしを受け入れている人たちがそれらの勢力を支持している実態もあるわけで、それをごまかしだと百も承知で受け入れているのか、あるいはごまかされていることに気づいていないのかは、どちらもありかも知れないが、それらの政治勢力と利害が一致しているなら共犯関係にあるだろうし、利害が一致していないどころか、実際には搾取されるような立場なのに、それに気づかずに搾取している側を支持しているとしたら、ただの馬鹿でしかないが、ただの馬鹿でも構わないかというと、実際に搾取されながらも普通に生きていけるなら、そんな搾取など何とも思っていないのかも知れないし、実際にわずかな量や額を幅広い範囲からちょっとずつ搾取しているなら、大した痛みも感じないわけで、その典型例が消費税なわけだろうが、そういう意味では消費税の廃止という主張が、多くの人々の心になかなか響かないのも頷けるところだが、そういう主張を掲げることが戦略的に間違っているかというと、戦略的にどうということではなく、理屈として主張している面の方が大きいだろうから、どちらがどうだというわけでもなく、結果的に現状が示している通りのことなのだが、その一方で、もし真の意味で身を切る改革が政治や行政の面で実行されたら、現状で主導権を握っている政治勢力も官僚勢力も一掃されるだろうから、やれるものならやってみろとは言わないが、もちろんやれもしないのに身を切る改革などと主張するなとも言わないが、誰かしら昔からそんな主張がされてきたのだから、今後何かのきっかけから思いもしない方面で身を切る改革が実行されてしまって、それが政治や行政の方面にも波及して、現状で栄華を誇っているような勢力が誰もいなくなるような未来が実現されることも期待してしまうが、それがたぶん期待を裏切るような形で実行されてしまうことも一方では恐れているわけだ。


1月10日「物事の脱神秘化と脱宗教化」

 厳密に言えば必ずしも脱神秘化と脱宗教化が重なるとは言えないが、それが独善的な価値観を相対化する行為として機能するなら、今やらなければならないのは物事の脱神秘化であり脱宗教化なのだろうが、では何がその対象となるのかといっても、それが必ずしも明確に意識されているわけではなく、ただ漠然と物事の成り行きとしてわけがわからない超自然的で神秘的な力を意識せざるを得なければ、それに抗ってできるだけ論理的かつ理性的に物事を捉えたくなってしまうわけだが、全ての物事をそんなふうに捉えられるわけではなく、いくら意識して論理的に考えようとしても、そこに私情を交えた感情が混入してくると、途端に好き嫌いで物事を判断してしまうかというと、それによって極端にぶれてくるわけでもないが、意識できないところで感情的になっているなら、そうなっている自身が冷静さを欠いていることを意識できないまま、好き嫌いの対象となってしまう物事に心を奪われて、そうした物事を利用して人を操ろうとする人や勢力の誘導や誘惑に屈してしまうと考えても、果たしてそんなことをあからさまに仕掛けてくる人や勢力が現状で存在しているかとなると、すぐには特定し難いところかも知れないが、逆に漠然とであれば誰もが意識せずにそんなことを仕掛けようとしていて、何事も好き嫌いの次元まで落とし込んで、印象として好意的に感じられる物事に関係する人や団体を支持したり支援したりしていることに無自覚なのかも知れないが、それが物事の神秘化や宗教化に結びついているかというと、すぐにそんなことにまで考えが及ばないだろうが、逆にあからさまに嫌悪感や不快感を催す行為や言動に及んで、そういうことをこれ見よがしにやってくる人や団体にはあからさまに敵意を抱くはずだが、そう思ってしまうことがそんな嫌な感じを抱かせる人や団体を神秘化したり宗教化しているかといえば、そんなことはないと誰もが思うかも知れないし、それ以前に神秘化とか宗教化ということがどういうことなのかが、今ひとつ理解できていないのかも知れず、何が神秘化であり何が宗教化なのかが、これといってはっきり示されないことには、そこから類推してそんなことをやっている人や団体も特定できないし、そうなると何か雲をつかむような実感の湧いてこないことになってしまいそうだが、例えば根拠の定かでない判断や認識や解釈などを他人に信じ込ませようとして、あれこれと画策しながらゴリ押し気味に説き伏せようと仕掛けてくるなら、あからさまに宗教の勧誘や悪徳商法のようなことになるだろうが、一般的に言ってメディア経由の印象操作というのは、気づかないうちに良い印象や悪い印象を抱かせようと仕掛けてくるだろうから、果たしてそういうのが神秘化とか宗教化とかいうカテゴリーに含まれるかというと、それとは少しずれているような気がするのだが、そうは意識していないとしても同調圧力と言われることが、これ見よがしに行われているわけではないにしても、ただ何となくそういうことのような圧力を感じることがあるわけで、そういう圧力に関してもそれを論理的かつ理性的に考えるなら、ただ理不尽で不当な圧力だと思われるだろうし、理屈で説き伏せることができないから、周りからじわじわと圧力をかけながら従わせようとするから、納得できないし、不快で嫌な感じを抱くわけだろうが、それを頭で考えるのではなく肌で感じろと諭されるわけでもないだろうが、人や物事を動かすのは大げさな論理や理屈や理性であるよりは、ちょっとした他人に対する礼節や心配りや気遣いだと言いたいと受け取りたくもなってくるが、あるいは義理人情やそれに絡んだしがらみから人は動かざるを得ないと悟っても構わないのかというと、時と場合によってはそうでもあり、また時と場合によっては、それらを振り切って大義に従わなければならないと思うこともあるかも知れないが、果たしてそういうのが物事の神秘化や宗教化と言えるのかというと、それよりは慣習化と呼んだ方がしっくりくるかも知れないが、そのちょっとした気遣いや心配りが親交のある人に向けられると、最近話題となっている、アメリカにはジョンFケネディ空港があるのだから日本にも安倍晋三空港があってもいいのではないかという趣旨の発言になるかも知れず、そんな著名人の発言が過大に受け取られてSNSなど取り上げられるのも、何かお笑いぐさのような気もするが、日米の慣習の違いがわかっていないのと、その対象となっている人物に対する好き嫌いの感覚が微妙におかしいのだろうが、そこでも件の著名人に向かって空気を読めと同調圧力をかけてくる人もいくらでも出てくるかも知れないし、そんな同調圧力などその人物への信仰の力によって簡単に跳ね除けられてしまうかも知れないが、もちろんそれほどの信者でもないのかも知れないし、本当のところはよくわからないし、わからなくても構わないようなどうでもいい話題には違いないが、実際にその人物のレジェンド化を狙って国費まで投じて国葬を行なったのだろうから、それを真に受ける人もそれなりにいると考えるなら、そういう発言が不意に生じてしまうのも、それなりに神秘化や宗教化の賜物だと受け取っても構わないのかも知れないし、冗談ではなく、そんな発言に賛同してしまう人もそれなりに大勢いるなら、その人物の神格化がそれなりに進行していると思って、それが由々しき事態だと危惧の念を抱く人もそれなりに大勢いることにはなるわけだ。


1月9日「新時代の幕開け」

 何かそれが昨今の世界情勢から感じ取れる時代の雰囲気に合うような印象的な言い回しというわけでもないにしても、新時代の幕開けという表現をいつの世でも好んで使う人が後を絶たないが、そのこと自体はいつの世でもこれから新時代に突入する可能性があるわけだから、期待を込めてそんな表現を使いたいのだろうが、その際に旧時代から引き継がれる因習というのが厄介で、それもいつの世でも理性的に物事を考えたい人には嫌がられる保守的な伝統の類いにこだわってしまう人が後を絶たず、それに絡んで歴史の連続性に重きを置いた見方や考え方に囚われると、その際に最低限の認識として踏まえておかなければならない社会の現状を考慮に入れないと、現状の社会を支えている大切な何かを見失ってしまう危険性があるかというと、その何かが何なのかが示されないと信じてもらえないのはもちろんのこと、果たしてそれが本当に大切な何かなのかということも疑われてしまいそうだが、その現状の社会を支えている大切な何かというのが、例えばそれが世界共通の価値観として定着している民主主義の理念だと主張することも、一部の人たちからは嫌がられることかも知れないが、ただ漠然とそう主張されても、現状がそうはなっていない面もあるだろうから、民主主義の理念自体に普遍性があるのかと疑われてしまうかも知れないし、普遍性などあろうとなかろうと、そんなこととは無関係に、頑なに守りたい何かが意識されていれば、その人が勝手に守るような成り行きになってしまうわけだが、それに関して最近思いついた例を挙げれば、明治天皇の死に際してその後を追って殉死した乃木希典は、武士として明治天皇を主君に見立てて仕えていたつもりだったのだろうが、明治維新によって武士の世を終わらせた象徴という存在である明治天皇に対して、武士として仕えることに何か普遍性があるのかというと、しかも仕えるとしても、主君が亡くなればその後を追って殉死することに普遍性があるのかとなると、少なくとも由緒正しい武家の棟梁であった源頼朝も平清盛も、時の天皇が亡くなったからといって殉死などしなかったし、征夷大将軍になった足利尊氏も徳川家康も同様だろうから、天皇という存在自体には殉死をもたらすような契機はないはずなのだが、もちろん乃木希典の殉死から、新たに天皇陛下のために死ぬという日本特有の軍国主義の理念が生じてきたことは確かで、それが日本の伝統かというと、そこからたかだか1945年に迎えた敗戦までの数十年間にわたって流行った流行現象にしかならなかったわけで、三島由紀夫などは天皇が亡くなりもしないのに勝手に決起を呼びかけた挙句に自刃して果てたが、そんな行為が流行したわけでもないのに、なぜか軍国主義者の間では共感を呼んでしまい、共感した人にとっては乃木も三島も崇拝の対象となっているはずだが、それが天皇とは全く関係のない江戸時代の武士の姿を思い起こさせるのだから、本気で殉死したり自決した人たちに共感したり天皇を崇拝している人たちにとってはそう思うのが当然のことなのに、歴史的に考えるなら何の根拠もない全くのデタラメで、何かとってつけたようなご都合主義に他ならないわけだが、しかもそれとは真逆のご都合主義として、武士の棟梁という立場を利用した源頼朝や平清盛や足利尊氏や徳川家康にとって、自分たちが世の中の主導権を握るためには、いかにして天皇制を利用するかが思案のしどころになっていたわけで、彼らにとっては天皇個人など利用価値がある限りで仕えているふりしているだけで、向こうが逆らってきたら首をすげ替えればいい程度の存在でしかなく、実際に首をすげ替えるような行為も頻繁に行われてきたのが歴史が示す事実なのだが、どちらかといえばそちらの方が日本の伝統としては圧倒的に長期間にわたって続いてきたのだろうが、乃木希典の殉死から始まる数十年間だけは、例外的に天皇個人を現人神として敬うような特殊な期間だったわけで、それを言うなら主君の死に際してその後を追って殉死するような行為が普通に成り立っていたらしい江戸時代の二百数十年間も、例外的に特殊な武士道が通用していた時期だったのかも知れないし、そういった前の時代の遺物にこだわることによって、新たな時代の幕開けを阻止しようとする思惑も無意識のうちに働いてくる可能性もあり、そういう意味では乃木希典は江戸時代の遺物にこだわり、三島由紀夫は軍国主義時代の遺物にこだわったことになりそうだが、軍国主義が台頭してきたのも大正デモクラシーのような民主化の兆しに対するカウンターとして、今も世界のところどころで民主派を弾圧する強権的な政治体制などが似たようなことをやっているのだろうが、それがマイルドな形で現れたのが、日本の安倍菅岸田政権の傾向でもあり、民主党政権によって一時的に大正デモクラシーのような様相を呈したから、それに対する揺れ戻しとして、現状でも継続中の新たな失われた十年が過ぎようとしているわけで、そういう時代の風潮に野党の立憲民主の党首がなびいているように見えるとしても、そういう傾向に危機感を抱いた他の野党の支持者たちが、党首を交代させろと息巻いたところでお笑いぐさもいいところだが、その程度のことでうろたえているのだから、これからやってくる新たな時代の波に翻弄されがままとなってしまう事態も予想がつくところかも知れず、もちろんそれがお笑いぐさだからといって、深刻な事態ではないとはいえないわけで、人によっては深刻な事態でもあり、実際にミャンマーでもイランでもトルコでもウクライナでも人が大勢死んでいる現実があるのだから、そういう事態に直接関わりがある人にとっては深刻な事態であるのは誰もが承知しているところであり、それが日本の現状とどう関わってこようと、日本には日本に特有の経緯や事情がある限りで、お笑いぐさな事態に向き合わなければならず、実際にまともに向き合っているつもりの政治勢力に選挙で投票するぐらいしかやりようがないわけだ。


1月8日「今だけカネだけ自分だけ」

 相変わらず共産党系の人たちは浮わついたおかしなキャッチフレーズを真に受けているようだが、金銭の使い道は今だけを想定しているわけでもないし、自分だけではなく、売り買いや貸し借りの相手がなければ金銭は使えないし、新自由主義などの上っ面だけを揶揄したその手のキャッチフレーズが通用するのは、実際に新自由主義を推進しているような当事者ではなく、そこから弾き出された部外者のうちでオツムの弱い人たちでしかなく、果たして共産党系の人たちがそれらの人たちからそんなキャッチフレーズを使って支持を獲得できるかというと、その可能性は低いような気がするのだが、少なくともカネの使い道は今だけを想定しているわけでもなく、自分だけを想定しているわけでもないから、それが矛盾した間違ったキャッチフレーズであることを理解している人には通用しないだろうが、ではなぜツイッターなどで浅はかなキャッチフレーズが好んで使われるのかといえば、単純に人目を引きつけるためだけなのかも知れないし、そんなキャッチフレーズに疑問を抱いてよく考えてみれば、人は今だけのために生きているわけでもなく、カネだけ持っていても何がやれるわけでもないし、自分だけでは何もできないから、他人を利用して何かをやろうとするのだろうから、そういうキャッチフレーズを使いたい人の主張はわかるのだが、それを真に受けるような愚かな人たちから支持を獲得しても、そんなのはポピュリズムにしかならないのではないかと疑念を抱いてしまうわけだが、普通に考えて今だけを生きるなら余分なカネなど必要なく、カネだけではなく、カネの使い道が必要なのであり、しかもカネを使ってカネを増やす目的や目標があり、カネを増やすには自分だけでは駄目で、事業や投資や商売などに絡んで他人を巻き込まないとカネを増やせないし、そういう理由で社会の中で生きていくにはカネが必要となってくるわけだが、それよりもさらに致命的なのは、その手の新自由主義の批判者が新自由主義の上っ面だけしか理解していないことであり、そんな批判が新自由主義の当事者には通用せず、しかも部外者の意識に間違った偏見を植え付けてしまい、それが害悪にしかならないわけだが、だからと言って、お前ら新自由主義を舐めんじゃない!と怒られるわけでもなく、彼らからしてみれば、馬鹿は馬鹿のままに「今だけカネだけ自分だけ」などと寝言やたわごとを呟きながら眠っていてほしいわけで、競争相手は少ないに越したことはないから、むしろそんなキャッチフレーズで馬鹿な人たちを煽動してくれる人をありがたがっているかも知れないし、そんなふうに煽動すればするほど、馬鹿な人たちがさらに馬鹿になって、新自由主義そのものに太刀打ちできなくなってしまうわけだが、では新自由主義に太刀打ちできるようにするにはどうすればいいのかと問いたくなってくるかも知れないが、そんな問いに対して明快にこれが正解だといえるような解答など現状ではありはしないから、焦って浅はかなキャッチフレーズに飛びついてしまうのかも知れず、そういう面を考慮するなら気の毒に思われるが、そもそも問われてすぐに答えが出るようなことが問題となるわけもなく、反戦を唱えながらも新自由主義勢力と戦っているつもりなのだから、その時点で自己矛盾が生じていることに気づいていないわけで、もちろん矛盾していること承知で活動する必要があるというか、自身や自身が支持している勢力が行なっている内容を言葉にする過程で、必ず矛盾が生じてきてしまうことを自覚する必要があるのかも知れないが、語っている言葉から何を導き出しても、それは間接的に述べているに過ぎず、そうかといって直接行なっていることについて述べなければならないというわけでもなく、どこから何について述べても、直接性には到達できないような気がすると共に、果たして何かを述べることによって物事の直接性に到達することができるのかというと、それもすぐに到達できるわけでもないと思っておくべきなのかも知れないし、その必要がないから安易なキャッチフレーズ程度で語れるようなことになってしまい、それがフィクションだというつもりもないが、フィクションにもピンからキリまであるし、一概に否定するわけにもいかないわけだが、少なくとも今現に行われていることを前提にして何か述べるような成り行きになるなら、それを揶揄したり皮肉を交えてキャッチフレーズ化すれば、何かもっともらしいことを述べているような気がするのだが、それで述べている対象の全てを語っているつもりにはなれないし、それよりは批判するなら批判するのに都合の良いところだけ選んでそれを強調したり誇張しながら語っていくうちに、語っている対象のフィクション化もそれなりに進行して行った末に皮相上滑りのような解釈をもたらすわけで、それでいいならそんなお粗末な解釈を楽しんでいるだけでも暇つぶしにはなるだろうが、夏目漱石も明治の文明開化を「現代日本の開化は皮相上滑りの開化であるという事に帰着するのである」と述べているように、乃木希典も武士道とは何の関係もない明治天皇が亡くなったのに、皮相上滑り気味に殉死を選んでしまったのだから、しかも江戸時代の武士道ならそれもあり得るが、戦国時代の武士道であればそれとは違うだろうから、現代から見れば知性のないその馬鹿さ加減を滑稽の極みだと解釈したくなってしまうが、やはりそこでも安易なキャッチフレーズに踊らされる軽薄な人々と同じではないにしても、気の毒な感じの方が勝ってしまうから、殉死した人を馬鹿にするわけにもいかず、またそれと同じではないにしても、安易なキャチフレーズと心中してしまう人々を滑稽の極みだと馬鹿にする気にもなれないわけで、何かそうなってしまう人々に違和感を覚えながらも、それも現状で行われていることの一部を構成していると謙虚に受け止めておいた方が無難なのかも知れない。


1月7日「啓蒙精神の破綻」

 現状でわかっていないことを誰もがわかっていないわけではなく、わかっている人も中にはいるのだが、その人にもわかっていないことがあり、そのわかっていないことを他の誰かにはわかっている可能性も想定せざるを得ないと、誰もが全てをわかっていないわけでもわかっているわけでもないが、少なくとも各々でわかっていることにもわかっていないことにも違いがあり、そのわかっていることが他の全ての人にもわかっていることではないから、その人なりのわかっていることが、他の人たちのわかっていることとは少し違っていて、その違いに関して何を述べたいわけでもないが、逆にその人にはわかっていることが他の大勢の人たちにもわかっているという前提で話を進めたいわけで、その共通の理解というのが怪しいところであり、それが他の誰もが理解しているのだからあなたにも理解していただきたいという同調圧力になってしまうと、なるほどそういう圧力に屈してはならないと主張したい気も理解できるが、どうもその辺から雲行きが怪しくなってきて、その人に何を理解させたいかというと、大抵はそれを理解することがその人の利益になるからという親切心から理解させようとするわけで、しかもそれを理解させようとしている人にとっても、他の大勢の人たちがそれを理解していれば、その人にとっても利益なるという利己心から、それを万人に共通の知識として世に広めようとしているわけで、そういうのを啓蒙精神と呼べば、何かそれが良いイメージとして受け取られて、多くの人たちが利益を得られる知識を共有して、世の中を良い方向へと導いて行こうとしていることになれば、そんなことをやっている人にしてみれば、それが善行だと思い込んでいられるのだろうが、そんな啓蒙精神が破綻するところで、ごく限られた少数の人たちが知識を独占することによって、それらの人たちで利益も独占できるようなシステムを構築したいのかも知れないが、大抵はその人がそれを知っているから利益を得られるなら、他の大勢の人たちはそれを知らないから利益を得られないということになり、逆に他の大勢の人たちがそれを知ってしまうと利益を得られなくなってしまうから、それを秘密にしておこうという発想に結びつき、そうなるとその人だけがあるいは特定の集団だけが利益を得られるようなことがあってはならないから、その秘密を暴露してもう二度とその人やそれらの集団が利益を得られないようにしてしまえという発想にも結びつくかも知れず、果たしてそうすることが万人の利益になるかというと、啓蒙精神の持ち主にとってはそうかも知れないが、誰もがそれを知ってしまえば、誰も利益を得られないということになりそうで、そこでも啓蒙精神が破綻することになってしまいそうだが、必ずしも利益を得ることと特定の知識を得ることが結びつくとは限らず、知識を得ただけでは駄目で、それよりは特定の技術を身につけることや特定の地位や役職に就く方が利益を得やすく、もちろんそういう技術を身につけることや地位や役職に就くことは容易ではないわけで、利益を得るための努力というよりは、幸運に恵まれないと利益を得られないことになれば、誰もが幸運に恵まれるわけではなく、下手をすればごくわずかの何百万人に一人の人にしか幸運が訪れず、その人にだけまるで宝くじに当たったかのように莫大な利益を得られる機会が巡ってくるかも知れないということになれば、それ自体が宝くじの理屈でもあるのだろうが、そんな射幸心に煽られて多くの人たちが宝くじを買えば、胴元に多額の利益が転がり込んでくる仕組みになっているわけだが、そんな仕組みなど誰もが知っているし、もちろん宝くじの理屈も周知の事実だが、それを知ったところで何の利益にもならないし、また知ったからといってそうなる確率などほぼゼロだから、宝くじなど買わないとは思わないし、その何百万分の一に自分もなれるかも知れないから、ついつい宝くじを買ってしまう人も出てくるわけで、利益を得られるという幻想を抱くことは誰でもできるだろうから、多くの人々が夢を求めて宝くじを買ってしまうわけだが、果たして万人の利益を求めるという啓蒙精神が儚い夢に過ぎないのかというと、少なくとも自分だけが宝くじに当たる夢とは真逆の夢ではあるだろうし、それ以前に啓蒙精神が万人が利益を得られることを目指しているのかといえば、利益とはちょっとずれるのかも知れず、確かにごく限られた利益を独占するような特権階級の出現を防ぐには、啓蒙精神が世の中の隅々にまで行き渡っていることが重要だが、それが特権階級による利益の独占をある程度は阻止することにつながるとしても、そうなってもなお万人の利益に直結するかというと、それによって万人が等しく利益を得られるわけでもなく、あくまでも利益を得られるチャンスがあるだけで、それによって利益を得られる確率が多少は上がるかも知れないが、結果的に多額の利益を得られるのはいつもごく少数の人たちであり、誰もが多額の利益を得られるわけでもないのは変わりなく、そうであるなら現状でも利益を独占している特権階級に入るために努力するようなことと大して変わらないのではないのかとも思われてしまうが、それでも啓蒙精神の肩を持つとすれば、では何が啓蒙精神にとって都合の良いことなのかという問いが生じてくるように思えるのだが、良いことなど何もなければ啓蒙精神が世の中に浸透することもないだろうから、そこに無知蒙昧や迷信や貪欲を退ける啓蒙精神の価値が生じてくるといえるが、それを世の多くの人がわかっていないから、未だ啓蒙精神が世の中に浸透していない現状があるのではないか。


1月6日「イカれたパフォーマンス?」

 例えば怪しげな新興宗教の類いにイカれている人がいるとしたら、その人は幸いであり、幸いであるということが不幸の始まりというわけでもないだろうが、少なくとも現時点で幸いであるなら、たとえこれから不幸になっても、少しはその不幸に耐えられるのではないかと状況を肯定的に捉えたいわけだが、少し不幸に耐えたところで、結局不幸になってしまえば、耐えた分だけ無駄になってしまいそうだが、不幸に耐えたことが経験となって、さらなる不幸にも耐えることができれば、それが幸いなことになりそうで、そういう人は不幸に耐える訓練を積んでいる最中なのではないかと状況を好意的に受け取りたいわけだが、それが皮肉でも何でもなく、日々研鑽を積むことと同義であれば、やはりそれが幸いなことなのではないかと状況を前向きに受け取っておけば、何かの冗談でそんなことを述べているわけでもないとも思いたいが、本気でそう思っているとも思えず、その新興宗教というのが普通は宗教とは呼ばない何かであるとすれば、では本当は何にイカれているのかといえば、単純に政治にイカれていたり経済にイカれていることになれば、政治活動や経済活動をやっている人たちのことを言うのだろうが、どちらにしても信念を持って真摯に取り組んでいるなら、それが何らかの論理や理屈に囚われていることを意味して、そこからその人の信じる信仰へと結びつけば、やはりそれを信じていない人から見れば、イカれているように見えるわけだろうが、その人は自分が宗教にイカれているとは思わないだろうし、宗教というよりはもっと現代的かつ常識的な範囲内で、例えば科学的な確かさが心の拠り所となっている可能性もありそうだが、そこに統計学的な裏づけが伴ってくれば、誰もが信じられるような傾向にもなりやすく、そういう確かさを目指しているなら、別にイカれているようには見えないはずだが、その科学的な確かさというのが、怪しげなインチキ科学などではなくちゃんとした科学であれば、というかそこで述べられているちゃんとした内容というのが、その人の肩書きから生じてくる印象といった範囲内であり、肩書きがちゃんとしているのに述べている内容がインチキ臭いというのもありふれた組み合わせだが、それをインチキ臭いと思ってしまう原因としては、詐欺的な内容なら当然そう思うところだが、あからさまに人を騙そうとしているのではなく、むしろ他人の言っていることに騙されるなと警鐘を鳴らしているように感じられることが、それをインチキ臭いとは普通は思わないはずだが、それが普通に騙されるような内容ではなく、それどころかあからさまにお粗末な内容であることが誰もがわかっていて、誰もそんな内容に騙されるはずがないのに、それに対して騙されるなと警鐘を鳴らすことが、お粗末な内容を述べている人と共にお粗末な警鐘を鳴らしているように感じられるのであり、どちらもインチキ臭いというよりは、お粗末なことを述べているのをわかっていながら、そんなことを述べている人やその人が属している勢力を支持している人も大勢いて、しかもそういう人たちが警鐘を鳴らしている人に対して反感を抱いていることもわかっていて、そこにそんなことを述べたりそれに対して騙されるなと警鐘を鳴らしたりする前から、そうなることがわかりきっているような予定調和の展開が繰り広げられていて、どちらもが自分たちの支持者を満足させるためのパフォーマンスとしてそんなことを述べているようにも思われるなら、すでにそうなっている時点でインチキ臭さが漂っていて、そのどちらもがその場の状況に見合った役割を演じているに過ぎないだけでなく、そんな人たちの支持者もその場の状況に見合った支持者の役割を演じているように見えてしまうから、部外者としてはそういう身内の決起集会的な場には立ち入らない方がいいような気分となってくるのであり、そういうのが新興宗教の類いが開催するイベントに特有な雰囲気なのかも知れないが、それが新興宗教のイベントなどではなく、ただ単に公的な恒例行事の一環として行われていることであるなら、誰もおかしくは思わないし、取り立てて不自然なことが行われているわけではなく、そんな行事の中で述べられていることに、何か真に受けるような内容があるかというと、その大半が大して関心を引かずに聞き流されるのが通常の成り行きであり、しかもそれに対していちゃもんをつけるのも、そういう役割だと多くの人々が認めるような人が、何か批判めいたことや皮肉を込めて言いたいことを言う習わしになっているわけで、もちろんそんないちゃもんも大して関心を引かずに聞き流されるなら、一連の行事が滞りなく行われたことになるのだろうが、ではそういう行事の中で言われた内容がインチキ臭いと感じるのは勘違いもいいところかというと、それを真に受けるとインチキ臭く感じるのであり、そこで語られた内容やそれに対する否定的な反応を真に受けると、確かにインチキ臭さを覚えるのだが、それも毎年飽きもせず繰り返される退屈な恒例行事の一環だと思って聞き流していれば何とも思わず、そんなことはすぐに忘れて、一過性のイベントなどで語られた内容ではなく、実際に実践の場で行われていることに関心を向ける必要がありそうだが、イベントなどでそれを主催する代表者が何かを述べることも、そこで実際に行われたことには違いなく、イベント自体が毎年繰り返される形骸化した恒例行事に過ぎなければ、それほどの重要性はないだろうが、他の誰もが聞き流してしまうようなどうでもいいことに関心を向けて、こいつは嘘をついているから騙されるなと警鐘を鳴らすのも野暮なことかも知れないが、そんな野暮なことを言う役割もそれらの恒例行事には設定されていると受け取るなら、それを取り立てて問題視するのもおかしいだろうから、全ては予定調和の成り行きだと見なして聞き流していれば済むことかというと、それを真に受けてインチキ臭いと違和感を述べてしまうことも、それらのイベントについてその内容の良し悪しを騒ぎ立てる中では、ありふれた反応のバリエーションの一つとなってしまうのかも知れない。


1月5日「現状を肯定すること」

 世の中の現状を考える上で避けては通れないのが、現状を否定的に捉えることと現状への批判になるかも知れないが、否定的に捉えるのではなく現状を肯定的に捉えることが、現状への批判に対抗するには役に立つかというと、それ以前になぜ対抗しなければならないのか理由が定かでないが、現状のうまくいっていない面を指摘することが、現状への批判に直結するのは当然のことのように思われるが、では現状のうまくいっている面を称賛することが、無批判に現状を受け入れることにつながるかというと、それはそれでこれはこれと考えるなら、うまくいっている面とうまくいっていない面のどちらにも言及しておけば、批判のトーンが幾分和らぐかも知れないが、果たしてうまくいっている面に言及できるかというと、批判しているのにうまくいっている面に言及する必要があるかと疑問に思うかも知れないが、そういうところがよくわからなければ、別に批判しているとも思わなければいいとはならないし、現状のうまくいっていない面を批判しているのだから、よくわからないも何もなく、うまくいっていない面をわかっているからそれについて言及しているのだろうし、そこからうまくいかないことをやっている人や団体に対する批判が生じてくるのだろうから、そういう成り行き自体はそうなって当然の成り行きだが、それを疑問に思うのも何か違うような気もしてくるし、疑いの眼差しを向ける対象を間違っているような気がしてくるのだが、そういうひねくれた言い回しではなく、現状のここがよくないと思うことを素直に述べれば、それが現状への批判につながりそうなのだが、そんな物言いに抵抗感を覚えるなら、何か引っかかるものを感じているのかも知れず、たぶんそれが現状の中で機能している現状を現状のままに保とうとする圧力の類いなのかも知れないが、うまくいっている面を変える必要がないとしても、一方ではうまくいっていることが、他方ではうまくいっていない面に直結するとなると、そこで対立が生じていることになり、対立している人や勢力のどちらに味方してどちらと敵対するかが判断のしどころかというと、判断するのはそこではなく、敵対する二つの勢力が対立している光景を見させられているような気がするから、そこから疑念が湧いてきて、どちらとも距離を置いて、どちらにも与しない態度でいる方が無難に思われて、もちろんそれが中立というわけでもなく、場合によってはどちらとも対立するような成り行きになってしまうから困惑するのであり、少なくともどちらの味方でもないような立場となってしまうのかも知れないが、さらに敵でも味方でもなく、ある時は敵のように装いながらも、別の時には味方のように装いながらも、結局はどちらでもないような立場に落ち着いて、敵対するどちらにも全面的には賛同できないような主張が戦わされているように思われるから、そこからは距離を置くしかなく、その距離を置いて立っている地点がどこなのかといえば、現状を肯定したいのだが称賛したいわけでもなく、果たしてそれで現状を肯定していることになるのかというと、批判しているようにも感じられるなら、肯定しているとはいえないのかも知れないが、肯定するつもりもないのに結果的には肯定したいわけで、その辺が微妙なところで、愚かな人たちが誰かの非をあげつらって糾弾しているのを肯定したい気になるのだが、それらの人たちを愚かだと思う自分が賢いとは思えず、自らの愚かさも嫌というほどわかっているのに、それとは性質の違う愚かさもあるのではないかとも思われて、そんな愚かさを肯定したい気になるのだが、本当に肯定しているかというと、少なくとも称賛はしていないだろうから、ほめられたものでもないことは確かであり、ほめはしないがそんな愚かさを肯定的に捉えていて、それらの人たちがもっと愚かになればいいのにとも思ってしまい、彼らが愚かになりすぎないように自重している面を批判したいのかも知れず、もちろん批判したいだけで、実際に批判しているとも思っておらず、それらの人たちを真正面から批判してはまずいような気がして、自らも真正面からは批判しないように自重しているところが愚かなのだが、愚かさを反省するわけではなく、それどころか賢くなってはまずいような気もするし、賢く振る舞おうとしてしまうと逆に愚かさが全面に押し出されてくるような気もするから、そういうところも自重しなければいけないのかも知れないが、何かそれが身の程をわきまえた程良い愚かさになってしまうと居心地が悪く、もっと愚かにならなければと強く自らに言い聞かせるわけでもないが、現状の中に程良く収まろうとすることが賢くあろうとすることにつながるような気がするから、そういう在り方には抵抗感を覚えて、自然とそこから外れて行ってしまうから、逆に居心地が悪いままにとどまろうとしているようにも思われて、意識してとどまろうとするつもりもないのに結果的にとどまってしまうことを肯定しなければならないのかというと、意識して肯定しなくても自然とそうなってしまうのだから、肯定するまでもないことであり、そんな現状を肯定するつもりもないのに結果的には肯定していることになるのだとすれば、何によって肯定させられているのかといえば、現状がそうなってしまうことに抗えないから、なし崩し的にそれを肯定せざるを得ないのかといえば、一応はそうだと現状を認めるしかないが、それでもそんな現状の中で積極的に賢く振る舞おうとは思わないから、抵抗感を覚えているわけで、だからそんな現状を否定して、現状の中で賢く振る舞おうとする人々を批判する愚かな人々を称賛したい気になるのだが、本当に称賛しているかどうかは定かではないわけだ。


1月4日「慣習と法律と機械システム」

 世の中を統治する決まりとして普通に考えられるのが法律であることは誰もが承知しているところだろうが、なぜ法律が必要となるかは、禁止事項を設定しておかないと力まかせにやりたい放題なことをやりたがる勢力が出現するからとも言えそうだが、逆に力まかせにやりたい放題な勢力が自分たちの支配を盤石にするために、自分たちに有利になるように法律を定める可能性もあるが、あまりにも理不尽で不合理なバランスを欠いた法律を設定してしまうと、他の人や勢力が法律を守ってくれないから、できれば誰もが納得して守ってくれそうな法律を作るのが妥当な線だろうが、どのような傾向の法律を作ればいいかとなると、例えば法律以前に漠然と人々の間で守られている慣習があり、一見慣習に基づいて法律を作ればいいような気がするものの、慣習が一部の人々を優遇したり虐げるような差別などの温床となっている場合には、そんな慣習を改めようとして新たに決まりを設定する必要も出てきて、それが法律になる場合もあるだろうから、慣習と法律が必ずしも一致するわけでも重なるわけでもなく、慣習と法律のせめぎ合いによって世の中に秩序がもたらされている面もあるだろうし、また慣習と法律が一つの制度の中で補完し合っている場合もあるかも知れず、双方の足りないところを互いに補い合うような補完関係が成り立っていれば、慣習と法律とが共存できそうだが、その二つだけから世の中の秩序が保たれているわけではなく、さらにそれら二つとは違う傾向を伴った動作をもたらす作用として機械システムがあり、時として機械システムが既存の秩序を破壊するような作用も生じてくるから、そこから文明が進歩しているような幻想を人々にもたらすわけだが、慣習や法律と機械システムが互いに相容れないかというと、近代的な制度となると機械システムを利用しないわけにはいかず、制度自体が機械システムによって成り立っている場合がほとんどであり、それらが一つに融合して制度が作られているわけで、しかも機械システム自体が人の力を凌駕する傾向にあるから、人も機械システムにその身を委ねなければならなくなると、慣習や法律よりも強力に人を制御することになり、しばしば慣習や法律を無にする行為として機械システムを利用した戦争が起こされて、機械システムによって文明が造られているのに、場合によってはその文明を破滅に導く可能性が示唆されている面もあるが、それら三つが人や集団が社会の中で活動するに際して利用できる道具でもあり、人や物や情報を制御する際に使ったり従ったり守らなければならないルールとしても機能して、それらに活動を拘束されながらも、時と場合によっては無視したり破ったり破壊したりしながら、自身や集団の都合を優先させる必要も出てくるわけで、利用しているつもりが逆にそれらへの依存度を深めながら、それらが示す傾向や方向へと導かれるがままになっているのに、それに気づいていない場合があるから、自分が主体的に設定したつもりの目的や目標が、それらの機能に合わせてそういう目的や目標を設定するように仕向けられていることに気づけないことにもなりかねず、結果的にはそれら三つの作用によって形作られた社会の要請に従っているだけの存在に過ぎない場合があるから、そういった作用に従うのも逆らうのも、ただ単に社会によって設定された役割分担を演じているだけだとすれば、自らが自負する主体性も積極性も幻想に他ならない可能性もあり、例えばその人が何らかのゲームをプレイしていることを意識していれば、そのゲームが課す役割を受け入れながらゲームが設定した範囲内でただ動いているだけのことなのだが、その人の意識の中では何やら未知の大冒険に挑戦しているような気になっている可能性まであるわけで、現実の世界で活動していることがそれと同じようなことだとは言えないものの、慣習や法律や機械システムが示す傾向や方向に素直に従ったり、時には気に入らないからひねくれて逆らったりしながらも、自分勝手に行動しているつもりが、他にも似たような行動にはまっている人が大勢いることに気づいた時点で、それらに操られていることに気づくべきなのかもしれないが、そこまで気づける人がどれほどいるかといっても、気づいたところで何をどうすればいいのかといっても、そんなことがわかろうとわかるまいと、どうにもならないことにも気づくべきなのかもしれず、どうあがいても、時にはそれらを出し抜いたつもりになれても、何かまとわりついて離れずそこから抜け出せないような感覚に囚われて、行動や思考の自由を奪われているようで、不快な感覚に囚われるかも知れないが、それが完全にそうではなく、行動や思考の全てを支配されているわけでもなく、実際に時として思ってもみないような誤りや過ちを犯してしまい、それらの制御を外れているような感覚に囚われると、偶然が作用してそうなったと思うしかないが、それがその人の生物としての本能に従っている可能性もあるだろうから、その人が生きるためにも死ぬためにもそれらに反した行動をとらないと気が済まない場合もあるようなら、社会を構成する慣習や法律や機械システムでは未だ捉えきれない何かがあるということになりそうだが、それが神秘的な何かだと言えるわけでもなく、たとえ宗教といえども完全に慣習に従って構成されているわけでもないだろうし、逆に宗教が慣習をもたらすとしても、一方では宗教が形骸化した姿となって慣習に取り込まれてしまうわけだから、初期の段階ではまだ慣習に逆らう何かが含まれていて、また法律にしても、旧来の法律を改めるようにして新たな法律が生まれてくる可能性がある限りで、現状の法律自体は完全ではなく、絶えず作り変えられる可能性があり、もちろん機械システムも絶えず技術革新にさらされているから変更が可能であり、それらを変える原動力が人にも社会にも世界にも宿っている可能性があるわけだ。


1月3日「原発と日本型村社会の親和性」

 これは社会学者の類いがしばしば指摘していることかも知れないが、閉鎖的な村社会と原発とが相性が良いから、過去の因襲に囚われた村人的な政治家ほど原発を好む傾向があるのかも知れず、要するに法律よりも慣習を優先させながら、さらに利益をもたらす機械システムを公的な制度に絡めて、地域社会へと利益誘導するために原発を活用する戦略なのだが、もちろん事故が起これば大惨事となるから、人口が密集している大都市周辺には原発を建てられないわけだが、原発を押しつけられた地方の寒村という先入観ではなく、原発の周囲に街並みが形成されているわけでもないが、利益誘導の実態としては、重厚長大産業や自動車産業などの大きな工場を抱えた企業城下町の延長上に、原発城下町が形成されている実態もあるだろうし、町外れに原発施設という大きな神殿や寺院の類いがあり、それがそれ以外に利益をもたらす産業がほとんどない町村の唯一の収入源となるなら、町村内で原発反対を唱えると村八分となるだろうから、そんな日本型村社会を維持するのに格好のアイテムとして原発が機能することになるのだろうが、例えばそれが原発ではなくソーラーパネルや風力発電の風車であると、見た目的には何の神秘性もなく、それらは中身の知れないブラックボックスではないから、権威や権力の象徴とはならないだろうし、それも立地条件によっては環境破壊だと見られてしまうものの、可能であるなら分散して設置しても構わないわけで、そういうところが閉鎖的な村社会とは対照的な分散ネットワークを構成できる限りで、現代的な様相を呈する可能性もあるが、見た目ではなく実利として利益誘導的な権力といかに結びつくかということであり、建設コストが膨大な額になるなら、それを建設する産業の利益に結びつき、そんな産業と結びついた政治利権としても機能するだろうから、日本の保守的な政治勢力としてはそれを活用しない手はなく、というか原発の推進と共に日本の保守勢力の政治利権的な体裁や体質や体制が整ってきた経緯もありそうで、両者が互いに相乗効果を及ぼしながら一心同体的な構造を有している可能性もあり、現時点ではそんなことはあり得ないが、日本から原発が一掃されれば、現状で幅を利かせている日本特有の保守的な村落共同体的な精神構造も一新されるわけでもないが、それでも少しは外に向かって開かれた社会へと変わっていくきっかけになればいいだろうが、そんなきっかけを与えないようにしたい思惑があるわけでもないが、何とかして原発利権を維持継続したくて、ここぞとばかりに攻勢を仕掛けてきていると解釈してみても、何かそれがまやかしのような雰囲気も感じられて、すでに原発が過去の遺物と化しているわけでもないだろうが、これ見よがしに行われようとしていることが、すんなりとはいかないのは毎度のことのようにも思われて、掛け声倒れに終わるわけでもないとしても、意外と見掛け倒しな面もありそうに思われるから、それをていのいい囮として、何か別のことが行われようとしているのではないかと勘ぐりたくもなり、しかもそれを行おうとして行われるのではなく、誰もそれをやろうとも思っていないことが、結果的に行われてしまい、なぜそれが行われるのか理由も原因も定かでないままに、誰もそれを理解できないうちに時代が移り変わっていってしまうから、そんなことは気にするまでもないことになって、結果的にはそれで良かったことになれば、何の問題もないわけだが、そんな都合のいい成り行きになるとは思えないし、現時点でどうなるかなんて誰にも予測がつかないことだろうが、少なくとも日本政府が原発推進の方針を打ち出してきたことが、今まさに原発利権が終焉を迎えつつあるから、あえて首相がそんなことを言わざる得ない事情があるのではないかと穿った見方をしたくなるのだが、それを日本が衰退しつつあることを示す象徴的な出来事として原発推進政策が復活したと捉えるのも、勘違いもいいところかも知れないが、たぶん勘違いしていても構わないのかも知れず、勘違いをしているうちに世の中も時代も変わって行ってしまえば、それで問題ないような気がするのだが、要するに政府があからさまに表明するような政策がうまく行った例しがあるかといっても、中にはあるのかも知れないが、大抵はうまく行きそうにないことを表明してしまうのが政府の政府たる所以で、失敗に終わるようなことをこれ見よがしに表明してしまうから、そんな政府をダメ政府として批判する人や勢力の存在意義も保たれた上で、世の中が回っていくわけでもないが、逆にダメなことをやって日本を長期停滞傾向へと導くことが、現状で主導権を握っているつもりの勢力が引き続き主導権を握り続けるためには必要なことでもあるかも知れないから、それを自覚しているわけでもないとしても、それらの勢力がダメなことをやり続けながらも主導権を握り続けられるなら、結果的にそうなっていると解釈できるだろうし、そういうことまで見越した上で、そうなっている状態を日本型村社会と呼ぶなら、実際にこれから原発が推進されるがままに現状が保たれるなら、原発が現状の日本社会と親和性が高いことになるだろうし、そんな現状がダメだと思う人や勢力がそんなことをやっている政府を批判するもの当然だろうが、そんなことをやっている政府関係者としては、当然のこととしてそれではダメだとは思わないわけで、それによって世の中が発展するとか良くなるとかいうことではなく、結果的にそれらの勢力が主導権を握っていられるならそれで構わないわけで、もちろんそんなことをあからさまに表明するわけでもなく、思ってもいないだろうが、結局は誰も思ってもいない状態が実現しているという意味では、そうなるのが当然の成り行きの途上にあると現状を捉えてみても構わないのではないか。


1月2日「日本の部分的な実態」

 別にそれが日本に特有な事態ではなく、世界のどの地域でもそうなってしまう状況の中では、そうなってしまうこと自体がありふれた成り行きや結果を示しているのだろうが、だからといってそれを日本とは違う事情を伴ったどこかの国や地域に当てはめてみても、誰の関心を引くようなことでもないだろうし、できれば日本の現状に当てはめて、興味深く感じられる成り行きや結果になればいいわけだが、それをわざわざ日本ではない他の国や地域の事情や経緯を持ってきて、強引に日本の現状に当てはめようとしている人も中にはいるらしく、何かそれが本末転倒のような気がしてくるとしても、その人にとってはリアリティーの感じられる比較となるのだろうから、そういう人にはそういう比較を使って主張したいことがあると受け取るしかなく、主張するのはその人の勝手だが、それがとってつけたような主張となるのは仕方のないことで、それでも一昔前ならそんな主張もありふれていて、今さらそれでは時代遅れな感を免れず、要するにもはや流行遅れの主張となってしまったのだろうが、そんな主張とは無関係に何か興味深い傾向を示せるかというと、誰にとってもそれが興味深いわけでもないだろうが、他国の経緯や事情を無視してそれを日本に当てはめたい人にとっては未だに興味深いことかも知れず、そうやって遅れてきたリベラリストのような体裁を整えようとしているわけだが、それが日本に特有な思考かというと、悪く言えばオリジナリティーのない猿真似のような感じがするとなると、都合の良いところだけ他国を真似たい日本人という昔ながらの紋切り型にも引っかかってきて、それがありふれた島国根性となって、どこか他に日本と似たような島国根性を連想させる国があるとしたら、イギリスやニュージーランド辺りが島の形としては似ているだろうが、もっとよく似ているバフィン島には人がほとんど住んでいないだろうから除外しても構わないとしても、そんなこととは無関係に、日本とはどこも似ていなそうな北欧諸国の真似をしたい人もいるらしく、そんな人が目指している高福祉という理想論と、消費税を20数%に上げるという目標を伴ってしまえば、他から不快感を買う原因となり、そんな主張を述べてしまう人の根無草的なオリジナリティーのなさが何を想像させるかといえば、どこの国でもそんな人はいくらでもいそうな頭でっかちなアンバランス感を覚えるわけだが、それの何が机上の空論なのかといえば、税金の使われ方に起因して、日本では決して使われることのない善行ではなく、悪行をやるために税金が使われているという実態が、貧しい人々のための炊き出しなどに税金が使われるとは思えないし、それはあくまでも善意の寄付などから費用が拠出されるべきという先入観もあると共に、税金や公債などを使って高福祉を実現しようとする発想とは相容れない感覚を伴いながらも、では税金は何のために使われるべきかといえば、産業振興などの投資に使われたり、国防費に使われるなら、待ってましたとばかりに批判の急先鋒たちが非難の大合唱となるとも思えないが、投資といっても原発の新設やカジノなどの遊興施設の整備に使われるとそうなるかも知れず、国防費といってもアメリカからの兵器の購入に使われて、しかもそれらの兵器が高額な割には大して役に立たないような代物であると批判されることもあるし、またそれが原発ではなく太陽光や風力などの自然再生エネルギーの推進に使われるなら、それも使われ方にもよっては批判の対象にもなり、自然破壊や環境破壊や景観破壊を伴わないような使われ方をされてほしいのだろうが、そうやって様々な面で人にも環境にも迷惑がかからないような税金の使われ方がされないと容認できないようなハードルの高さが求められるとなると、それ以外の様々なところで税金が使われている実態が忘れ去られてしまうわけでもないが、一般の人々にもっと行政の予算内容に関心を持ってほしいと思っているのだろうが、そういう面はそうであっても他にも理不尽なことが様々なところで行われているから、それを挙げて行けばきりがないことにもなりかねず、それらをいちいち批判の対象としなければならないとなると、総体としてもひどいことが行われているように思われて当然な気がしてくるだろうが、それがあながち見当違いというわけでもないとしても、そういう方面へと凝り固まってしまう人が世の中でどれほどいるかが、その国の民主主義の達成度合いを測るバロメーターとなればいいが、たぶんそうなった結果を表やグラフにして他の国に比べてどれほど自国が劣っているのかを示して、それを強調する手法に難があると指摘してもいいような気がすると共に、いくら結果を示してもそこへと至る過程の段階で、何がどうなったからそうなったと述べることもできるのに、それ以上にこれからやっていかなければならないことに関して正しい道筋が示されるとしても、それをやる担い手として候補に上がってくる勢力に期待を寄せられるかというと、その中に自分自身も含まれることも考慮に入れるとなると、何か達成が不可能なように思われてくると共に、自身がそんな立場にはなり得ないような気もしてくるだろうし、社会の中でそんなことをやる担い手としての役割分担が定まっているわけでもないが、それ以外のところから富や権力を独占するために行われる戦略や戦術の方が勝っているから、それが絶えず批判にさらされながらも、そんなことをやっている勢力の方が絶えず優勢に事を進めている実態があり、それが民主主義の達成という目標ではなく口実であり、民主主義を利用して何をやるかが優先されて、しかもそれと自覚することなく民主主義を破壊して富や権力を独占することが、彼らの目標や目的となっているとされるわけで、それも結果的にそうなっているように見えるから、そうなる過程を省いてそんな結果だけが批判対象にもなり得るわけだ。


1月1日「起こり得ない奇跡」

 この後に及んでわざと逆張り的なことを述べるのも、それがどの後に及んでいるのかも誰もが承知していることかも知れないが、具体的に何を逆張っているのかが示されないと何を述べていることにもならず、わざわざそれを説明する気にもなれないとしたら、話にならなくて当然だが、それでも何かに賭けていて、そんなことはあり得ないと思うようなことが起こってほしいのだろうから、普通に考えて逆張りもいいところだが、だからと言ってそれが起こってから、起こり得ないことが起こったと思うのは、起こった結果から思うことで、驚くべきことや思いがけないことが起これば、そう思うかも知れないが、それが起こってから、起こり得ない奇跡が起こったと思うのだから、後出しじゃんけんもいいところだが、起こってから奇跡が起こるはずだと思っていたと語るのも同じようなことだとしても、事後的には何とでも語られてしまうのだから、実際に起こった後から起こるべくして起こったように思われて、それが何かの偶然が作用して起ころうとも、起こるべくして必然的に起ころうとも、起こってしまったことには変わりなく、起こってしまったからには、起こる可能性として確率がゼロではなかったことになり、では実際に何が起こったのかといえば、それが大したことでもなければ、驚くべきことでも騒ぎ立てるようなことでもなく、それに関して何か詳しく語るようなことでもなく、語る必要もないことが起こったのだろうが、そうであるならそれが奇跡だとも思えないし、ある意味では起こって当然のことが起こったと言えるのだろうが、当然ではなく偶然に起こったのなら、別にそれが奇跡でも驚くべきことでも思いがけないことであってもなくても構わないわけだが、ただの偶然でそんなことが起こったのであり、偶然で片づけてしまえば、それ以上は詮索する必要もないだろうが、偶然では済まなければ、それが起こった原因や理由や経緯や事情などを導き出す必要があるということだが、どうもそうではないような気がするのだから、やはり大したことではなく、たぶんどこでも起こり得るようなことが、誰にでも起こり得るようなこととして起こったのだろうが、人の死とはそういうものだと思うわけでもないが、それが人の死であるだけではなく、特定の誰かの死でもあり、誰の死でもあってもなくても構わないようなことであれば、他人事としての死でしかなく、何の感慨も湧いてこないわけだが、起こり得ない奇跡とは無関係なことでもあり、偶然に起こったことでも必然的に訪れるようなことでもあるから、それが奇跡とはならないわけで、奇跡が起こらなくても構わないようなことでもあり、奇跡とは無縁の何かが起こったことにしておいても構わないだろうが、では人の死とは関係のないことが起これば、それが奇跡だと認められるかといっても、もちろんそうはならないのもわかりきったことかも知れないが、普通では考えられないようなことが今ここで起こっているとしたら、やはりそれも偶然でも必然でもあってもなくても構わないようなことが起こっても構わないわけだが、それが偶然に起ころうが、起こった後から起こるのが必然のように思われようが、起こってしまえばそれで構わないようなことかも知れず、起こった後のことまで考えが及ばないようなことが起これば、ただ唖然とするしかないのかといえば、それも起こった後から何とでも言えるようなことかも知れず、何か言いたい人が必ず出てくるような成り行きが想像されてしまうようなことが起こって、誰が事前にそうなることを期待していたわけでもなく、人によっては期待外れなことが起こったと事態を捉えても構わないが、それでもたぶん奇跡が起こったのであり、誰もが奇跡だとは口が裂けても言えないようなことが起こったのだろうが、偶然の一致にしては何もかもが一致し過ぎているような成り行きになってしまったから、誰もがそれをわかっていながらわざと無視しているわけで、時と場所を大きく隔てて同じような経緯や事情を含みながら同じようなことが起これば、しかもそれに気づいたのが、誰もが安心できる世間も認める著名人でも権威者でもなく、ただの一般人が気づいたところで、そんなのは無視しても構わないようなことであり、そうやって誰もが千載一遇の機会を逃してしまうわけで、もちろん誰もそれを千載一遇の機会だとも思わないし、それを逃したところで何とも思わないだろうが、チャンスを逃したことを後から知るわけでもないだろうし、誰も知らないままに、人知れず機会が過ぎ去ろうとしているのだろうが、そんな誰も残念がることもない機会が失われた後から、何を思うのかといえば、誰もが思うことをどこかの著名人が口にしたからといって、嬉々としてそれに対する同調の姿勢を示したからといって何がどうなるわけでもなく、そんな愚かな大衆にはお似合いな事態になろうとしているといっても、すでにそうなっていて、そんな何もかもがそうなって当然の成り行きの中で何を思うわけでもなく、未だ起こり得ない奇跡が起こることを期待できるわけでもなく、逆に何も期待できないから思いがけないことが起こるとも思えないが、たぶん忘れた頃にまたその機会が巡ってくるのかも知れず、しかもそれが巡ってきたことに気づかずに、またその機会を捉えられないのかも知れないが、今もその機会が巡ってきているのだとしたら、それに気づかなくても構わないような機会なのかも知れず、いつもそれに気づくのはそうなった後からでしかなく、事前に気づくようなことでもないから、機会を捉えられないのも当然のことであり、何かの偶然が作用しない限りは捉えられないような機会でもあり、それが何の機会なのかもわからないまま捉えなければならず、その機会を捉えられたら、まさに起こり得ない奇跡が起こったように思われるかも知れず、そうは思われないとしても、自身でも気づかないままその機会を捉えている可能性もあるわけだ。


2022年

12月31日「気のせいでは済まないこと」

 現状では世界的に政治状況も経済状況も行き詰まっているように思われるのは気のせいかも知れないし、いつの時代でもコロナ禍やウクライナ戦争のようにその種の大事件のような出来事が起こる度にそう思われてきたことかも知れないが、そんな世界情勢と連動するように日本の政治状況や経済状況もいよいよ行き詰まってきたように思われるのも気のせいかも知れず、そこで時代の転換点のような何かが起こったように思われるのではなく、実際に様々な出来事が起こっているはずだが、その起こっていることについて何も考えないわけにもいかないが、それが気のせいに過ぎないわけでもなく、それなりにメディアで大きく取り上げられる出来事が立て続けに起こってきたはずだが、そんなことが起こっているのは気のせいだと思う人など誰もいないだろうし、もちろん気のせいだとあからさまに口に出したり文章の中で述べる人もいないだろうが、この世界で起こっていることがヴァーチャルリアリティーが作り出す映像を見させられているに過ぎないと唱える人も中にはいるが、そういうことではなく実際に起こっているとメディアを通じて伝えられていることが、本当に起こっていることだとしても、それでもなおそれが気のせいだと思うのは、現実に起こっていることを認められない態度であるなら、何かそれが気が狂っている証拠かも知れないが、それらが現実に起こっていることだと認めながらもなおのことそれが気のせいに過ぎないと思うなら、それは言説的な水準でわざと間違ったことを述べたいのかも知れないが、そう述べることに何か理由があるわけではなく、ただ何となくそう述べてみるとしっくりくるとしたら、例えば著名人が口にした「戦前」という言葉に反応して、何か虎の威を借る狐のように同調するような意見を述べるのとはまた違った傾向を伴ってくるような気がして、それもそんな気がするだけで、確かな根拠があるわけでもないし、全てが気のせいで済むなら能天気なことだが、能天気と脳天気にも違いがあるらしく、どちらかというと脳天気という造語の方を使いたくなってくるのだが、そういう曖昧な違いを含んだ区別はこの際どうでもよく、誰もが気のせいでは済まないと思うところをあえて気のせいにしたいわけだから、何かそれに関してもっともらしい理由を開陳しないと気が済まないはずだが、それを積極的に述べるようなことだとは思えないから、わざと何の理由も示さずに気のせいにしておきたいわけで、そんな理由では納得し難いだろうが、納得する必要のないことであり、その納得し難いというのも気のせいに過ぎないことかも知れず、それが全てを気のせいにすることだとも思えないのだが、何となくしっくりくるのは気のせいということであり、何事も大げさに捉えるようなことではなく、小波乱が起こっていると捉えておけばいいのかも知れず、たとえ戦争が起こって人が大勢死んでも、そんなのは気のせいでしかなく、それが大したことであるとは思うが、コロナ禍ですでに大勢死んでいる現実とどう違うのかといえば、それとこれとは全く違うことなのに、感覚としてそれを真に受けるわけにはいかない事情があるわけでもないのに、何となく真に受けたくないわけで、真に受けない方がしっくりくるからそうしておきたいわけだが、では真に受けたくないから気のせいにしておきたいのかといえば、そう受け取られても構わないのだが、それでも構わないと思ってしまうこと自体も気のせいなのかも知れず、それをゲーム感覚とか、それも画面上で起こっていることとして、他人事のように進行していくゲームに参加しているのではなく、それを観ている側の立場に追いやられているというか、少なくとも誰かがゲームに参加していることは確かで、そうでないとゲームが成り立たないはずだが、しかも参加しているのが自分ではないところが致命的な誤謬を犯しているような気がして、本来ならゲームに参加して、同じようにゲームに参加している他人と苦楽を共にして初めて味わう実感を、それを観ているだけで味わえるわけもなく、たぶんそういうところが致命的なミスなのかも知れないが、それも気のせいだと思うなら、早くそういう感覚に慣れないと、この先も気のせいで済んでしまうことの連続となってしまうかも知れず、そんな気のせいに過ぎないことの渦中に飛び込んで右往左往している人たちが愚かだとしても、ゲームを楽しむプレヤーがいなければゲームを観る立場もありはせず、ゲームを観ている感覚に慣れてしまえば、それが気のせいでは済まない事態であることを実感できるわけでもないが、誰もがゲームを楽しんでいるわけでもないだろうし、それが仕事になってしまえば楽しむだけでは済まなくなるわけで、少なくとも新種のお笑いネタの中で今が「戦前」だとは思っていないだろうし、中には気休めではなく本気で「戦前」だと思って、事態を深刻に受け止めたがる真面目な人も大勢いて、今が「戦前」になるのを阻止したい人も善良な市民としては当然そう思いたいわけで、もうすでに戦争の最中なのにそう思うのだから、それを脳天気な思いだと小馬鹿にしたいわけではなく、「戦前の思考」に囚われた政治家たちには願ってもないチャンス到来だと思いたいわけでもないのだが、現実にはチャンスでも何でもなく、それもただの気のせいなのかも知れないが、この機会を逃せば二度と巡ってこないチャンスというわけでもないだろうし、別に戦争がしたいと思うわけでもなく、戦争になったら死ぬのは前線に投入される兵士で、政治家の誰が責任を取るとも限らないが、なぜ戦争になるのかといえば、国内で民主主義が機能しなくなるからと模範解答のように答えるべきではなく、それも一因には違いないが、もっと根本的なところで戦争自体が気のせいでは済まない事態であることは誰もが承知しているはずだが、気休めのゲームを見飽きた人々が、何かもっと刺激を受ける娯楽を求めていて、そんな暗黙の要請に応じて政治家たちが切り札として提供するのが、いわゆる戦争ゲームのはずがないが、かなり出来の悪いお粗末な回答としてはそんなのもありかも知れず、誰がどんな問いに答えてそんな珍答を述べる機会が巡ってくるわけでもないが、ウクライナで行われていることを第三次世界大戦の前哨戦と捉えるのも、気休めの気のせいとしてはありなのではないか。


12月30日「苦境の中で覚える危機意識」

 今ここで何が問われているとも思えないが、この時代に生きている者として、何か大げさな問いを捏造すべき義務があると感じるなら、そういう問いの立て方自体が何か時代がかっているようにも思われて、老人特有の懐古趣味とまではいかないだろうが、もっと簡単に現状がどうなっているのかに関して、自分でも納得できるような見解を示せるかというと、例えば現状が苦境の中にあるとしたら、どの程度の割合でそうなっているかもわからないのに、見切り発車で軽率なことを述べてしまうのもよくありがちだが、それの何が見切り発車なのかも軽率なのかもわかっていないのかも知れず、苦境といえばすぐに思い浮かべるのが危機的な状況で、危機をネタにして何か適当なことを語りたい人が出てくるのも毎度のことだが、そういうメディア的な成り行きとは無縁の態度でいられるはずもなく、できればそういう輩とは一線を画したいが、実態としては一線を画すどころではなく、絶えず危機感を煽られていないとやる気のモチベーションを維持できないような体たらくで、それにかこつけて老人が語る世の中の危機的な状況と自身が陥っている苦境を重ねて捉えるわけにもいかず、それが危機的な状況ではないから苦境なのかというと、逆説的に語ろうとするならそうとも言えるだろうが、なぜか自らの中では危機を知らせる警報が鳴っていないような気がして、警報が鳴らないのなら危機的な状況ではないのかといえば、もしかしたら感覚が麻痺しているのではないかという疑念も覚えるのだが、それにしては少し前まで事ある度ごとにひっきりなしに鳴っていた警報は何だったのかと思うくらい、現状では何の予感もしないのだとしたら、もうすでに危機が去っていて、もしかしたらとうに苦境も脱しているのではないかと思ってしまいそうな心境なのだから、やはり現状では苦境でも何でもなく、それでも執拗に苦境だと感じようとしているのだとすれば、やはり自らのモチベーションを保つためにそう思うように心がけているのではないかと勘ぐってしまいそうで、毎日が緊張感と共に過ごさないと、精神が堕落しかねないと思うわけでもないが、危惧すべきことも他にはないだろうから、すでに堕落した精神状態にあると思うほど身の回りが荒廃しているわけでもなければ、今ここで体験している苦境というのも、他の何と比較可能であるわけでもなく、それはどこかの老人が指摘する世の中の危機的な状況とも同一視できるはずもなく、世の中が危機的な状況に陥っているから自らも苦境に陥っていると考えることが、それほどおかしいわけでもないが、それとこれとが直接つながっているとは思えないから、少しは重なっている部分もあるのだろうが、全く外れている部分もありそうで、だからといってそれとこれとは全くの無関係であるはずもないから、くだんの老人の指摘するような他人の不幸な境遇が身につまされるわけでもないが、それよりはだいぶ恵まれた境遇にあるわけでもないし、恵まれていなくても何かをあきらめれば済むようなことであるなら、では何をあきらめて何にこだわるべきかといっても、それをはっきりとは自覚できない状況の中で、何かこれといってこだわるべきことを意識すべきとは思えないなら、やはり何をあきらめればいいとも思えず、何もあきらめてはいないのなら、取り立てて苦境といえるような状況でもなさそうだが、それでも何を逡巡しているのかといえば、あれやこれやと世の中が危機的な状況に陥っている原因を探ろうとしている中で、これだと原因を断言できるような機会が巡ってきているとは思えないから、今ここで断言するのをためらっているのだろうが、それ以前にくだんの老人が断言しまくりな状況に陥っているのが奇異に感じられるわけでもなく、他にもいくらでも断言しまくりな人を見つけられるから、少なくともそういうありふれた人たちの存在を無視して何が言えるわけでもなく、できればそういう人たちと一緒になって世の中が危機的な状況に陥っている原因を断言しまくりになれば、自身もそういうありふれた存在の中の一人として世間的に認知されることになるのだろうが、どうも現状ではそうなれる機会を逸しているような気がするから、そんなふうには断言できない理由として何かをつかんでいるのかいうと、それが原因ではなく結果でもなく、そういう成り行きの中で探し出そうとしている何かでもないとすれば、そこから遠く外れたところで見つかる物事が、そうした断言を思いとどまらせるだけの何かを感じさせるのかも知れず、それが何だかわかれば苦労はしないだろうが、それが未だに何だかわからなければ、まだ見つかっていないのかも知れないが、何かをつかんでいるような気がするから、断言を思いとどまっていると考えるなら、断言を思いとどまらせるだけの何かに影響を及ぼされていると想像できるが、何に影響を受けてそうなっているとしても、影響を及ぼしている何かがわからない限りは、それが原因だと断定できないわけで、逆にわかってしまっては困るようなことなのかも知れないが、要するに断言や断定を受けつけない何かに影響を及ぼされていることは確かなのかも知れず、そう考えれば原因はこれだとはっきり示せないから苦境に陥っているのかも知れないし、はっきり示せないと言説としては不完全のままになってしまい、そのままの状態にとどまろうとすれば、何も述べていないことにされてしまうなら、まだ何も述べていないことを受け入れる必要があり、それを受け入れる限りで断言や断定を回避できるなら、果たして回避したままでいられるかというと、後先短い人は回避できないのかも知れず、答えを出さないまま消え去りたくないから、消え去る前に世界のどこかに自分が存在していたことを示す爪痕でも痕跡でも残したいから、何かと言いたいことをはっきりと述べて、そんなことを述べている自らの存在を世間に向かって示したいという願望に囚われるのではないか。


12月29日「人の位置関係」

 敵対的な人間関係や集団の内部で地位や役職を伴った権力関係などがある中で、誰かが人が嫌がることを仕掛けてくるようなら、その人の意思や感情が何らかの兆候を示していることは確かなのだが、誰も何も仕掛けてこないのに、特定の誰でもなく、様々な物事が影響を及ぼし合った結果として、そんなふうに受け取れるような兆候があるなら、誰が何を仕掛けているとも言えないし、何だかわからないが、偶然にそうなっているとしか言いようのないことが起こっていると判断するしかなく、人の意思や感情が生じる以前に、構造的な物事の絡み合いが関係してそうなるのかも知れず、そうなった結果から合理的な理由や原因を特定してみても、その場で成り立っている制度やシステムがもたらす人間関係や権力関係の中に誰を置いても、その人の性格や人格や気性や気質などに関係なく、そういうことを仕掛ける役回りが生じてきてしまい、そういった人間的な特徴を持ち合わせた人がそういう役回りを引き受けやすいというよりは、誰であってもそういう役回りにふさわしく振る舞わないと、その地位や役職や人間関係を保てないから、そこに留まろうとすればそうなってしまうと事態を捉えておいた方が当たらずとも遠からずな現状認識に落ち着いてくるだろうから、それを批判する側は特定の人物を名指しして糾弾するだろうが、制度やシステムとしてそういう役回りを必要としている面が顕著になっていれば、その制度やシステムを変えない限りは、運良くその人物を取り去ることができたとしても、また次から次へと似たような人物が現れて、その役回りにふさわしく振る舞おうとして、何やら人が嫌がるようなことを仕掛けてくるのだろうが、そうなる成り行きにも個々の事例に特有な偏差もあるだろうから、そういった時代状況や地域性などに伴う違いを過大に見積もれば、個々人の器量や人徳などの面で良し悪しが出てくるかも知れないが、構造的にそうなってしまうことを考えれば、その種の偏差は誤差の範囲内だと見なすこともできるだろうから、その辺を考慮に入れるなら、人物としての評価にはあまり幻想を持たない方がいいだろうし、大抵はそういう地位や役職や人間関係を良しとせずに、道半ばでそこから追われたり退いた人に好感を覚える反面、逆にそういう地位や役職や人間関係に執拗にこだわりしがみつこうとする人が陥る醜態が嫌がられるのだが、どちらにより強い権力や権限がもたらされるかといえば、当然のこととして後者の側にもたらされるわけだが、そこに個々の人物の器量や人徳などの面で違いが現れて、そこから人としての良し悪しを言うのもありふれた評価に結びつくだろうから、普通に考えて自身がみみっちいところでみみっちい役割を担っていることに気づかない人は、たとえ世間に醜態をさらしてもそういう役回りを全うしようとするだろうし、馬鹿になれる人ほど鈍感になれて、その種の愚直さも才能だと勘違いできれば、またそんな人が世の中に多ければ多いほど、お互いに自分たちの馬鹿さ加減を内輪で褒め合いながらも、そういう役割に肯定的な価値を見出そうとするだろうから、それが集団の内部で醸成される権力や権限の源だと思われて、そのおこぼれに与ろうとして、その種の人たちに近づく浅はかな人も大勢出てくれば、さらに集団自体の強化にもつながるはずだが、そういう邪悪な面だけ見れば確かにそうなのだが、それを否定することも容易にできるから、欲得ずくな面を嫌う善良さの側につこうとする人たちも少なからず現れて、そこからも何やらわかりやすい対立関係が導き出されると、そういう方面には興味のない人には無視されてしまうのだろうが、そんな構図が視界が開けてわかりやすく見えてしまうと、見えないところや気づいていないところもいくらでもありそうなのを考慮に入れずに、はっきりと見えるところや気づいたところだけ強調して、それを煽り立てるようなことをやりたがる人もいくらでも現れてきて、そういう人の言うことを少しでも聞いてしまうとそこをつけ込まれて、物事を単純化して図式的に捉える罠に引っかかって、そういうところからも、馬鹿な人ほど疑念を抱かずに鈍感になれるから、そこからおかしな方面へと思考や感情が誘導されて行って、そのおかしな方面というのが極端なことを言いたがる人たちが巣食っている方面なのだが、そこで物事の極端な解釈を信じ込む癖をつけられてしまえば、その種の宗教や主義主張の信徒にされてしまい、平気であり得ない妄言を口走るような人に成り果てるかと言えば、それも物事の単純化の罠にはまっていることになるのだろうし、実態はそんなふうに見せかけておいて、それが戦略的な装いに過ぎない場合も多く、馬鹿なふりして何かの商売でそういう方面へと加担している場合もあるから、そういう装いの人には用心しなければならないのだろうが、本気でそう思い込んでいる人と馬鹿な装いをまといながらも利益を得ようとしている人との間で区別がつくかというと、それを見分けられる人もそういうことを見分ける立場の人もいるかも知れないが、それが仮装であるか否かに関わらず、その自覚がない人までいるわけだから、そういう怪しい人たちを含んでその種の領域で商売が成り立っていると見ておくしかなく、だからそういう方面でこれ見よがしに極端なことを言い立てる人が本気でそう思っているのか否かを判別できなくても、それを怪しいとかおかしいと感じている限りで、真に受けられない何かがあると思うしかないだろうし、そういう妄言の類いがそれに関する利害関係から言わざるを得ないようなことであれば、十中八九はその人の商売が絡んでいると見ておけばいいだろうし、心の底からそんなことを信じていないなら、わずかでもチャラい雰囲気が漂ってきて、そのチャラさがその人の欺瞞とつながっていると見なしても構わないが、それよりも演技がかっているような感じを覚えるなら、その人がそれを自覚していなくても、その場に絡んでいる制度やシステムがそういう役割を演じるように仕向けている可能性があり、それを嫌々演じているか嬉々として演じているかに関係なく、そこで浅はかな人が感銘を受けるその人の愚直さや生真面目さが、その人の職務への忠実さを示す言い訳の仮面として機能していることになるのではないか。


12月28日「批判の対象との利害関係」

 ふとした拍子に思い出される何気ない過去の光景の中から、何を選んで語りたいわけでもないし、探しているものがそこにはないことも承知しているはずだが、では何を探しているのかといえば、事前に予想していたのとは違う何かになりそうで、それが何になるかで、これから語ろうとしている内容が影響を受けるわけでもないし、それに関する言説の対象を特定の分野や領域に絞ることで、探していたものが定まってくるかも知れないが、そもそもまだ何を探しているのか皆目見当もつかない段階で、焦ってそれを探し出そうとして、無理に対象を絞り込んでも、かえってそれを取り逃してしまうかも知れないし、さらにその続きを語ろうとしても、語り得ない何かに突き当たるわけでもなく、そこから特に興味深いエピソードが思い出されるわけでもないが、思い出すのではなく、新たに捏造しようとするのでもないとしたら、自然に出てくる何かを語らなければならず、それを自然と呼べるか否かは、恣意的に対象を選んでいる可能性も捨てきれないが、見えない何かに突き動かされてそんなことを語ろうとしているとは思えず、そうかといってただの気まぐれから導き出されるようなものでもないだろうから、何か理由があって対象の定かでない内容を語り始めていると解釈しても構わないが、何もないから空疎な無内容を語るわざとらしさにも飽きていて、だから取り立てて何を語る気もしないというわけでもなく、現状では何も肯定できないから、結局は批判の対象を定めてそれについて否定的に語ることになるのだとしても、それは違うと否定することもできず、否定できないから批判の対象を否定的に語るというのも、毎度のことのように思われるなら、たまには肯定的に語りたくなるのかと言えば、それができない相談というわけでもなく、なぜできない相談をやろうとするのかといえば、交渉が決裂したという既成事実を作ることによって、なかなか前に進まない物事を強引に進めようとするのかも知れず、それ以前に交渉が行き詰まっていること自体が、できない相談をやっている最中なのだろうが、行き詰まっているのは交渉だけではなく、他にもいくらでも行き詰まっている物事がありそうで、それをいちいちほじくり返して語るのも、骨の折れる作業となりそうで、根気が続かないなら、そういう物事はさっさと否定して、安易に批判の対象とするに限るわけでもないが、誰かがそれを批判し始めるなら、もう何を言っても聞く耳を持たない態度を想定できて、そんな頑なな態度の人を批判するのは容易いことだが、そこで互いに相容れない論理や理屈がぶつかっていて、だから交渉が決裂に終わったり、主張が平行線に終始するわけだが、論理や理屈がぶつかっていることが、互いの利害がぶつかっていると捉えることもできるだろうが、なぜ利害がぶつかるのかといえば、信じている論理や理屈に従いながら活動していること自体が、活動から利益が生じている限りでその活動が継続していることになり、そんな活動に対抗する活動がもう一方にあると、そこでもそんな活動を支える論理や理屈と共に活動が行われていて、その論理や理屈を信じて活動している人や団体も存在していることになるから、当然のこととしてそこで互いに相容れず対立し合う二つの論理や理屈の信奉者たちによる利害対立へと発展するわけだが、なぜそこで対立し合う二つの論理や理屈が競合関係にあるのかと言えば、そこでは他にも様々なやり方が可能であり、それらの様々なやり方を支える論理や理屈もあって、それがそういうやり方を実践する活動を肯定して正当化する論理や理屈となり、しかもそれをやっている人や集団がその場で有利な立場を占められると、相対的に他のやり方で活動している人や集団が不利な立場になるわけだから、不利な立場となってしまった人や集団としては、有利な立場となった人や集団に対抗して何かをやらないと、不利な立場のままで固定されてしまうわけで、その対抗してやれることの中で、手っ取り早いやり方として相手を直接批判するやり方がすぐにやれることになるわけで、実際に対立している相手を批判することになるわけだが、批判が行われていること自体が、批判の対象となる人や団体と競合しながらも共存していることにもなり、さらにはそれらの人や団体が信奉している複数の論理や理屈も共存していることにもなり、しかもそれらの論理や理屈に従いながら行われている複数の活動も競合しながら共存していることにもなるから、そうなっていること自体が多種多様なやり方の共存状態が実現していることになるかというと、それ以前に複数のやり方の間で優劣を伴った利害関係も生じていて、そんな関係が生じている限りは、自分たちの存在やその活動を不利にしたり損害を与えるような活動を行なっている人や団体の存在やその活動を認められるかといえば、断じて認められないのはわかりきったことだが、それを認められないから対立したり敵対しながら闘争を繰り広げることになるのだろうが、果たしてそういった闘争が相手を打ち負かすまで続けられることになるかというと、闘争自体が闘争している人や団体の活動となるのもわかりきったことだが、活動が続いている限りは、何らかの手段によってそこから利益を得ているわけで、利益を得られている限りは、たとえその場で有利不利が生じていようが、活動をやめようとはしないだろうし、活動をやめない限りは活動が継続していて、それがそれらの人や団体が存在するための条件となっているわけだ。


12月27日「計画の全容」

 目下のところ全ての面で計画通りに事が運んでいるわけでもないが、そんな中でも無計画で行き当たりばったりな面も気になるなら、そんな成り行きの中で自分がどう振る舞えばいいかなんてわかりきったことでもないはずだが、迷っているなら時流に逆らわない方がよく、それ以前に本当にそれが計画通りなのかについて疑念を抱いているなら、そんな成り行きの中でイレギュラーな面を感じ取って気にしているのだろうが、そんな気になるのも計画の内だと思い込めるわけでもないが、すでに計画の全容を覚えていない場合も考慮に入れて、不測の事態が起こってから、そうなることは事前に予想がついていたなんて強がるわけにもいかないだろうから、そうなればなったで驚きを隠せないような取り乱したふりを装うしかなく、実際になぜそうなってしまったのか理解不能な成り行きの連続で慌てふためき浮き足立っているような気がするのだが、逆にそんな成り行きを辻褄が合うように説明したくてうずうずしている人も世の中にはいくらでもいるらしく、安易な人たちはいつものように誰かを黒幕に見立てて、陰から事の成り行きを操っていることにしておきたいのだろうが、操りたくても制御が利かなければ、現時点は制御できるような局面ではなく、今は黙って事態を見守るしかなければ、誰が黒幕でもなく、実際に世の中の成り行きを操れるような力など誰にもありはせず、人も集団も目まぐるしく移り変わる時代状況の中で翻弄されるしかないことも明らかになりつつあるのかも知れず、だからといって誰も何もできないわけでもないが、誰が立てたわけでもない架空の計画などあり得ないし、その計画の全容が未だ明かされないのは、そんな計画など元からないことも誰もが薄々勘づいているはずだが、そもそも計画というのは人知れず隠しておくようなものではなく、明かされて然るべき範囲内で、メディアを通じて宣伝されている計画についてあれこれと語っていれば、未だ何も明かされない秘密の計画を仄めかすような愚は避けられるし、それについて自らの誇大妄想を開陳せざるを得なくなる事態など考慮に入れる必要もなさそうで、心に秘めた誇大妄想を誰が持ち合わせているとも思えない限りで、妄想など抱く暇もなく、目先の損得を気にするせこい成り行きに心を奪われているから、自身が関わっている物事の本質的な価値の低さに気づけないし、相対的に浮き沈みする価格の変動から、何を売り買いすれば短期的に得なのかを相場状況から読み取ろうとして、些細な損得勘定に貴重な時間を浪費しているわけだが、そこで何かが空回りしているような気がするとしたら、それは気休めのマニ車などではなく、生々流転を繰り返す輪廻転生の容態が空回りしているわけでもないのだろうが、少なくとも自身が関わっている物事の全貌が自身の前に姿を現すことはなく、絶えずその一部が見えているだけで、その見えている一部分から全体の姿を想像してしまうから、それが他の誰かの誇大妄想と合致するわけでもないが、それをどう想像してみてもしょぼくなるようなことにはならず、その実態がしょぼくても、心の中では立派で見てくれの良い姿を思い描いてしまうわけで、何かにつけて見栄を張ろうとしてしまうわけだが、それを他の誰かに見透かされてしまえば、その浅はかな魂胆を浅はかにはならないように粉飾して暴露したくなって、その人の想像が誰かの誇大妄想と合致している範囲内で語られている中では、確かに誰かの計画通りに事が運んでいるはずなのだが、現実の世界ではどうなっているかとなると、それとは全く異なる内容が誰かの誇大妄想を無視するかのように語られているから我慢がならないのだろうが、妄想の内容と現実に進行中の事態が合わないことが何を意味するかというと、現実に伝えられている内容に全く関心がないどころか、それをいかにして自身が思い描いている計画の全容に当てはめて辻褄が合うように語ろうとするかに関心があり、それを語る上で現実に伝えられている内容を利用したいわけだから、当然の成り行きとして自身の計画に合致するような解釈が求められて、そんな理由からメディアを通じて伝えられている内容を曲解するための技術や話術が必要となってきて、それ相応にそのためのノウハウが蓄積されている必要も出てくるかも知れないが、それを語る上で何を用意しなければならないかというと、計画が実行に移されていることを示す証拠を用意しなければならないはずだが、メディアを通じて伝えられる内容からそれを見つけ出そうとするわけだから難儀なことであり、その内容を曲解しつつも、曲解を施した内容が、計画が実行されていることの証拠として納得してもらわなければならないという曲芸的な解釈が求められるわけで、それを信用してくれと不特定多数の人々に頼んでいるわけでもないだろうが、実際に進行しつつある計画とは、あり得ない未来の姿を一般大衆に信じ込ませる計画だと解釈するなら、俄かにその信憑性が増すわけでもないが、そういうのは誰かが妄想した1984年の世界を描いた小説をはじめとして、それもすでに破綻してしまった過去の計画なのかも知れず、今の時代にはそぐわない話かも知れないが、では今の時代にふさわしい妄想とはどんな内容なのかと言えば、それが計画通りに事が運んでいる成り行きを示すことにはならず、その代わりに計画がいったん破綻した後にそれに関わってきた人々がどう振る舞ったのかが示されないと、その計画の全容を明らかにすることはできないのかも知れないが、少なくとも現段階ではそれが示されていないわけだから、しかも今のところは示そうとする気配さえないところが、そんな計画など元からなかったことを示しているのだろうが、そうであるなら現に語られている事態の曲芸的な曲解をどう説明すれば納得できるわけでもないが、そんなことにまで配慮する余裕など全くない差し迫った状況の中で、誰もが近視眼的になって我先に出口を目がけて殺到している光景が目に浮かぶわけでもなく、ただ目的もなく迷路の中で右往左往しているわけでもないのに、目的や目標そのものが実際にそうなっている人たちにふさわしいようなしょぼさを見せているから、それをどう受け止めようとしても、そんなありもしない計画などに関わっている状況ではないような気がしてくるわけだ。


12月26日「痛みの程度」

 何らかの痛みを伴う仕打ちが、その痛みに屈せずに抵抗力をつける程度の結果をもたらすなら、致命傷とはならないが、時として誤謬を犯してしまう物事の捉え方が、致命的な誤りとならないようにするには、修正力を養う柔軟な思考の形成が必要かというと、それだけでは何ともいえないところであり、実際にそんな事態が個人の能力を超えていれば、いかに柔軟な思考の持ち主でも歯が立たないかも知れないし、そこに至る経緯やそこで生じてくる事情が邪魔をして、誤りに気づけないような成り行きに誘導されてしまえばどうにもならないわけで、それでも結果的に致命的な誤りに気づいてそれを修正できるなら、ただ単に運が良かったとしか言えないようなケースもありそうだが、致命的な誤りに気づかずに、それが比喩ではなく本当に命取りになってしまったら、そこで実際に死んでしまうだろうから、死んでしまった人の全てが自身の致命的な誤りに気づかなかったとは言えないものの、死亡理由や死亡原因が他にも色々とある中で、気づかないうちに致命的な誤りを犯して死んでしまった人もいるかも知れないが、比喩としての致命的な誤りである方が、それに関する言語表現の大半を占めるだろうし、また痛みという表現にしても、直接傷つくような状態ではなく、心の傷程度の痛みもあるだろうが、中にはかすり傷程度の痛みよりは、心の傷の方がかなりひどい痛みを伴う場合もありそうで、それもその場の詳細な状況を把握してみないと、痛みの程度や傾向がどのような状態なのか判断がつきかねるし、どのようなニュアンスでそういう表現を使っているのかを理解できないと、それが勘違いのもとともなりかねず、中にはわざと相手の勘違いを誘う目的ではぐらかそうとする場合もあるだろうから、その場の状況にもよるだろうが、疑わしい言語表現には注意してかからないと、思わぬところで落とし穴が待ち受けているとも限らず、ちょっとした勘違いが致命的な誤りや過ちの原因ともなりかねず、そんな状況をいくら想像してみても実際に直接体験してみないことには、それをどう表現すればいいのかもわからないが、少なくとも痛みの程度にはそれを感じる各々で感じ方が違ってくる可能性もあるから、間違っても他人の痛みがわかるなんて思わない方が無難なところだが、同じ社会の中で暮らしていれば、共感できると思い込んでしまうのも致し方のないところで、実際に平然と他人に対して理不尽な仕打ちをする人には、それを受けた人の痛みがわからないと想像されてしまうし、ましてや他人の痛みがわからない人が、その国の行政の代表者だと思われてしまうようなら、悪政ここに極まれりと見なされてしまうだろうから、誰もがそう思い込んでしまうような状況が現状において到来しているなら、やはり個人の力ではどうにもならない事態となっているはずで、しかもそう思われている人にとってもどうにもならないことかも知れず、その人が良かれと思ってやっていることがそんな印象を伴ってしまうのだから、それをその人がどうにかできるような状況でもないからそうなっていて、その人の能力を超えた事態が起こっていると判断するしかなく、要するにその人の自助努力では無理な事態となっていて、もちろん周囲の人たちも組織を上げてその人を助けているつもりなのだろうが、しかもそれが他人の痛みがわかっていない政治をもたらしていると思われてしまうのだから、何か逆効果となっていて、逆効果となっているように感じられるから、なおのこと周囲の助けが必要となるわけで、実際に官僚機構に組織を上げてバックアップされながら、他人の痛みがわからない政治が行われていると見なされてしまうわけだが、それを悪循環と見るか、それともうまく事が運んでいると見るかは、どちらからでも好意的かつ否定的に解釈が可能で、悪意や皮肉を込めてそう見なしている人もいるかも知れないが、それで構わないとはほとんどの人は思わないだろうが、誰がそうなるように仕向けているわけでも仕掛けているわけでもなく、そんな印象を抱かせるような成り行きが生じていると見ておくのが無難なところだが、世界を見渡せばまだマシに思われるような成り行きでもあり、民衆に対して死を伴うような過酷な仕打ちを行なっている為政者など掃いて捨てるほどいるような状況の中では、相対的には小物扱いされている程度のことかも知れないが、やはりその人の個人的な能力や力量や気質というよりは、もっと広い範囲での構造的な問題を孕んでいて、国家の行政機構にはそういう役回りの人物が必要な構造があると見なさざるを得ないのかも知れず、根本的なところで武力で威嚇する軍隊と人を取り締まる警察と人や団体から強制的に税を徴収する政府があるのだから、それだけでも有無を言わせぬ圧力がかかっていて、そんな圧力を体現しているのが政府を代表する人物なのだから、当然のこととして権力や権限を振りかざして何かをやろうとするわけで、その何かというのが国家のためということになれば、国家の犠牲となる民衆の存在が前提となるのは火を見るよりも明らかで、民衆の存在は人口という一塊の数で示されるような存在となり、個々人であるよりは武力で威嚇されて警察に取り締まられて税を徴収される存在となってしまうわけだが、さらに最近の日本ではマイナンバーカードで管理される存在にしたいわけで、そういった行政の都合を満たす存在として定義される限りは、行政にとってメリットのない存在はいない方がいいようなことにもなりかねず、しかもメリットがないどころか無駄に経費がかかって足手まといとなるような存在は早く消え去ってほしいと誰が思っているとも知れないが、表向きには誰もそうは思わないとしても構造的にはそうなのであり、国家の構造として役に立たない存在は肩身の狭い思いをするように仕向けられかねないから、人道的にはまずい成り行きになってしまうわけだが、そうならないようにするにはどうすればいいかといえば、単純に言うなら国家の側ではなく民衆の側に立つことが政治家には求められているのだろうが、それが行政機構の内部に取り込まれてしまうと国家の側に立たざるを得ないような存在となってしまうわけで、もちろんそんな単純に割り切れるようなことでもないのだが、少なくとも政治家自身がそうならざるを得ないことを自覚できるか否かで、自ずからその政治家の倫理観の程度や傾向が決まってきて、現状で倫理なき政治家の見本のような存在を認識できるか否かも、民衆の側でもその良識や倫理が問われているのではないか。


12月25日「主張すべきことの妥当性」

 果たしてそれが批判の対象なのか、それとも何か他のことを語るのに必要な迂回なのかもわからないし、またそれが現状の世界情勢とどうつながってくるのかもよくわからないが、他に何か語りたいことがあるわけでもないのはいつものことで、それについて直接言及するわけでもなければ、ではいったい何を語りたいのかと問われるわけでもなく、結局のところは意味不明だが、意味がわからないのも毎度のことで、事前に意味を想定できないところが、行き当たりばったりで話を進めてしまういつもの悪い癖だが、そこへとたどり着くには回り道をしなければならず、まずはそれとは無関係な方面で別の何かを語る必要があるわけでもないが、その必要があると言える明確な理由があるわけでもないのも自明なことではなく、逆に何を語ろうとしても必ずそこを経由しなければならない理由などありはせず、誰も気づかないところにそれについて語る理由が潜んでいるわけでもないが、逆に誰もが気づいている世の中の傾向として、世の中が危機的な状況になっているのを利用して政治が独裁色を強めるのもよくあるパターンで、そうなることを狙って特定の政治勢力が盛んに危機的な状況であることを喧伝しまくるような成り行きもある一方で、そういう人為的にどうにかなる方面ではなく、物事の自然な成り行きとして、世の中の情勢に関する統計的な傾向が示されて、その傾向をどう解釈するかで、今後の活動の方針が決まってくるなら、それが成り行きとして妥当であるかのように思われるのだろうが、統計結果が意図的に改竄されるなら、特定の政治勢力にとって都合がいいような統計結果になるように改竄が施されるのだろうが、そうなるとあからさまに独裁的なことを好き勝手にやりたいわけではなく、統計結果に基づいて妥当な政治が行われているように装いたいわけで、何らかの政策を推進するに当たって、誰もが納得できる理由が必要となってくるわけだが、それが統計結果として示されていれば、少しはそれをやるに当たっての妥当性が生じてくるように思われるのだろうが、何をやるにも大義名分が必要とされるのも、世間的な面で民衆から同意を得たいがために都合のいい統計結果が示されるにしても、そういうことをやりすぎると、統計結果自体が信用のおけない代物となってくるだろうが、プレゼン技術としては避けては通れない成り行きになってくるから、そういう面で編集技術に長けている方面の勢力が主導権を握ってくるのだろうが、何をやるに当たっても都合のいい統計結果が示されるのだから、それが意図的に改竄されているか否かに関係なく、統計結果に惑わされることになり、そうなることによって当たり前の論理や理屈が忘れられている可能性も出てきて、案外その当たり前の論理や理屈が何なのかということがよくわかっていない人が世の中で増えているのかも知れず、それ以前にそれを論理とか理屈と呼んでいいのかさえ怪しいところだが、それが何なのかが問題となることはないが、統計的な結果が強調される一方で、それが必然的にもたらされたように説明されると、単なる偶然の巡り合わせである面が忘れ去られて、そこから統計などからもたらされる傾向の必然性も強調されて、より一層そうなることが必然であったかのような説明にも俄然説得力が増してくるのだろうが、それが勘違いのもとであり、その勘違いの最たる言い回しが、こうなるはずだという断言に結びついて、そういう断言に浅はかな人々が飛びついて、そんな人々の浅はかな行為や行動によって統計結果が歪んでしまい、さらに統計結果が偏った傾向に誘導されてしまうという悪循環が生じてしまいかねず、そこから統計結果こそが正義であるとはいえないはずだが、別に統計結果に逆らうような意見や抗うような主張を持ち合わせていても、何ら恥ずべきこともでも間違っているわけでもないはずだが、統計結果に示される多数意見に従うのが当たり前のような風潮になってしまうと、それに逆らったり抗ったりする人や団体が肩身の狭い思いをすることになり、そういう意味では統計結果をいかに都合よく利用するかが現代的な政治戦略の中では重要性が増しているとしても、それと政治的な主張や意見を完全に一致させることが重要というわけではなく、もちろん一致しているように装ったり見せかけることも重要というわけでもないのだが、それよりは統計結果を引用しながら我田引水的に自説にとって都合のいいことをこれ見よがしに言い放つような人の浅はかさを感じ取ることの方が重要で、統計結果には確かにそれまでの傾向や流れの連続性を示す必然的な傾向が含まれているものの、それと同時に偶然の巡り合わせでそうなった面も含んだ不確実性も表れているから、そこから必ずこうなるという断言が出てくるとは思えないのであり、実際に過去の統計的な結果を示しながら必ずこうなると断言すれば、必ずそんな断言を裏切るようなことが起こって、結果的に予想や予測が外れることの方が多いわけで、しかも断言が外れているのに断言した人は平然としていられて、これまで通りの断言を平然と繰り返していることに自身も気づいておらず、逆にそんな人の権威を守ろうとする浅はかな人々に支えられながら、ますますその種の断言に拍車がかかってしまうわけだから、そんなどこにでもありそうなありふれた事態が、その種の人の独善的な傾向を助長させるわけで、程度の差こそあれそんな人がいくらでも出てくるのも、別にそれを統計的な結果が裏づけているわけでもないが、逆説的な意味で統計的な結果が示している必然的な傾向だと言えるかも知れず、何かそういうところでそれらの人々の連携が、それらの人々を裏切るような意図しない効果を世の中にもたらしているのかも知れない。


12月24日「危機的な解釈の回りくどさ」

 現状に関する解釈のもっともらしさが、何の気休めになっているわけでもないが、それが危機を煽り立てるために使われている面もあるものの、そういうやり方が従来通りの解釈から生じてくる限りは、いつも通りのことのようにも思われてしまうから、やはりそれが気休めになっている面も否定しきれないが、危機的な面と気休めに思われる面とで両義的な意味合いがあると捉えておけばいいのだろうが、現状が危機的な事態だと主張したい者にとっては気休めどころではなく、自身の主張を真に受けて危機感を抱いてほしいのだから、依然としてそれがいつも通りのもっともらしい解釈である限りは、これまでにも度々そういう解釈に慣れ親しんできた身としては、なぜか安心感を覚えるのであり、安心できる限りで気休めとなってしまうから、そういう面では危機感を煽り立てている者たちの思惑が外れているのだろうが、やはりそれが従来通りのやり方である限りは、いつも通りの成り行きに囚われていて、だいぶ以前からその手のやり方が気休めに結びついてしまうこともわかっていて、ではどうすれば安心とは真逆の不安感を抱いてもらえるのかといっても、何かそれとは別に新たなやり方を模索せざるを得ないかというとそうではなく、そういうことも含めて現状に関するもっともらしい解釈として機能しているわけで、もっともらしい解釈を唱えながら危機感を煽り立てている者たちを含んだ現状をどう捉えたらいいのかが問題となっているわけではないが、それは問題ではなく、それも一つの解釈に過ぎず、そうやって現状を都合のいいようにも悪いようにも解釈したいわけだが、本当に現状が危機的な事態になっているかといえばその通りなのであり、危機感を煽り立てるのが当然の事態となっていて、だから実際に危機感を煽り立てている者たちはやって当然のことをやっているのであり、それをとやかく言っても仕方のないことだとは思えないが、それ以前からひっきりなしに危機的な事態になっていると状況を捉えておけばいいとしても、なおのこと現状が危機に直面していることを現状に関する解釈を通じて示したいのだから、そんな動機自体が危機感の表れであって、現状でもたらされている危機を敏感に感じ取っていることになるわけだが、ではそんな危機意識に抗って何か別の解釈を示す必要があるのかといえば、同じ現状から危機とは真逆の気休め的な物事の推移を示したいのかも知れないが、危機的な事態に陥っているのに、なおそれを否定したいわけではなく、危機を煽り立てることが気休めに過ぎないと思われてしまうことがそもそも誤っていて、危機はその意味通りの危機であり、それが気休めに過ぎないはずがなく、それとは逆に人々が安心してもらっては困るから危機感を煽り立てているわけで、むしろ危機など杞憂に過ぎないから安心すればいいと言われた方が、かえって不安感を募らせるような逆説的な状況であるはずがなく、現状が気休め抜きの危機的な状況なのであり、それを肌で感じているから危機感を煽り立てているのだろうが、それが気休めに結びつくような言い回しが従来通りの主張なのかといえば、そうだと言わざるを得ないが、なぜそれを真に受けないのかというと、その人がいつも危機感を煽り立てているからオオカミ少年の寓話を思い出すのであり、しかも本当に危機が到来しているのになおのことそう思われてしまうのだから、日頃から事ある度ごとに危機感を煽り立てていたことが災いしていて、それがいつものことだと思われてしまっているわけだが、その人の危機感の煽り立てが信用されていないことも毎度のことであり、そういう意味では日本共産党のように主張が終始一貫していて、その人の支持者を安心させるために危機感を煽り立てているような解釈が成り立ってしまい、それでまずいわけではなく、それが支持者をつなぎ止めるための戦略の一環だと解釈しておけばいいのだろうが、なぜそんな解釈が成り立ってしまうのかといえば、これまでの危機な事態においても、別に危機が乗り越えられてきたわけではなく、むしろ危機的な事態が放置されてきたのに、依然として今も同じように危機的な事態の中で危機感が煽り立てられているわけで、度々同じような危機に襲われているというと少し違うが、それなりに以前とは少し違う危機が到来しているはずなのだが、それを統計的なデータから数値的に表せば、相対的な差異に過ぎない折れ線グラフとして示されて、以前の危機がこうだったから今回もこうなるという予想も示されて、それによって安心感がもたらされて一件落着とはならないものの、少なくとも分析としては以前の危機の際にどう立ち回れば利益を得られたかが示されて、それを踏まえて今回の危機でもどう立ち回ればいいかが示されるわけで、もちろんそう立ち回れる人もそれなりに限られてくるのだが、対処法としては一応の結論が示されているわけだから、そんな立ち回りができる人が危機の際にもそれなりに利益を得られて、危機が過ぎ去った後の世の中において相対的に有利な立場となっているわけだが、少なくとも危機を煽り立てているだけの人にはそこまでの分析力が欠けているわけで、そこから得られる結論としては、危機を煽り立てるだけではなく危機の際にどう立ち回ればいいかが示されていれば、同じ危機に関する解釈でも相対的に説得力が増してくるのだろうが、もちろん危機に際してうまく立ち回れる人にも限りがあり、誰もがうまく立ち回れるわけでもなく、それどころかうまく立ち回れない人が大勢出てくるから、そんな大多数の人たちを出し抜いてごくわずかな人たちがうまく立ち回って利益を得られるという理屈になるわけで、そういう意味ではどんなに解釈に説得力があっても、大多数の人々にはそんな立ち回りができないところが危機の危機たる所以であって、結果的に多くの人たちが悲惨な境遇に陥るから、それを危機だと認識できるわけだ。


12月23日「対立と協力の併用」

 表面上は一定の傾向や方向に進行しているように見える物事の成り行きが、表面以外でどうなっているのかといっても、物事の表面しか見えてこないのなら、表面を見て判断するしかないだろうが、その内部に何らかの機構が備わっていれば、それがシステムとして一定の論理や理屈に従って動いている可能性があり、人為的に作られた機械の類いであれば、その機械が許容する一定の条件下で、それが作られた目的に従って動いていて、その機械を操作する人に何らかの意図や思惑があれば、機械を操作することでその意図や思惑を反映した目的に沿って物事が動くのだろうが、それだけで動作しているわけではなく、そこに作用したり影響を及ぼしてくる外部から力が加わっていれば、その人の意図や思惑通りに事が運ぶとも限らず、時として思惑を大きく外れて意図しない方向へと物事が動いて行ってしまうかも知れないし、そういう意味では世の中で特定の個人や団体が制御できる範囲もそれなりに限られてきて、特定の分野に限れば、その中で支配的な影響力を及ぼせる人や団体も存在しているかも知れないが、そういう人や団体にいかに絶大な力があろうとなかろうと、全てを思い通りに動かせるわけではなく、そこで動いているシステムに則ったやり方で物事を制御しようとするだろうし、システムの動作原理を理解した上で、そのシステムを制御する立場を占めている限りで、システムの助けを借りて自身の目的を遂行することになるわけだが、それをやった結果として何がもたらされているかといえば、システムにも様々な種類があって、複数のシステムが競合しているところでは、それぞれのシステムを制御する人や団体などが別々にいて、各々で好き勝手にシステムを制御できるわけではなく、絶えず他のシステムから作用や影響を及ぼされながら、ある時には他からの作用や影響に逆らう場合もあるだろうが、別のある時には利害が一致すれば他と連携する場合もあるだろうし、そうなればお互いがお互いを利用し合いながらも、共通の目的や目標を掲げて強固な協力関係を構築できる場合もあるが、それが何かのきっかけからその協力関係にひびが入って、そこから次第に対立を深める場合もあるだろうが、ある面では対立しながらも別の面では協力し合える可能性もあるかも知れず、そんな対立しながらも協力し合える関係が大人の関係だとするなら、支配と服従の関係となると、両者の間で圧倒的な力の差があり、服従している側が支配者に依存しないと生きてはいけないような関係を想定できるが、果たしてそんな極端な上下関係が現代の世の中で成り立つかというと、少なくとも対等な関係を基準にしないと民主主義が成り立つ世の中にはならないだろうし、そうであるなら社会に支配と服従の関係を持ち込むのは、民主主義とは真逆の専制主義をもたらすことにつながるだろうが、そういう基準で世界を見渡してみれば、どんな国家体制が支配と服従の関係を基盤にして成り立っているかは一目瞭然であるはずだが、それが国家体制でなくても、特定の集団内でそういった関係が成り立っているなら、そこでは普通に考えて民主主義が機能しているとはいえないわけだが、また表向きには民主主義が装われていても、複数の国家間であからさまではないにしても、支配と服従の関係が想定されるようなら、そこに暗黙の力関係が前提とされている可能性もあり、まさに日米関係がそれに当てはまりそうだが、今後日本国内でどのような政権が誕生するにしても、専制支配的な体制の中国やロシアや北朝鮮との関係をどうするかではなく、アメリカとの間で生じている力の上下関係を対等の関係に持っていかない限りは、日本国内で民主主義がまともに機能することはないのかも知れず、政治的な面ではそうだとしても、経済的な面ではさらに複雑に入り組んだ対応を迫られるかも知れないし、場合によっては資本主義的な面よりも社会主義的な面を強化する必要に迫られて、政治と経済が相互に補完し合うと共に、経済の中でも資本主義と社会主義が相互に補完し合うようなシステムを構築することになるかも知れないが、もちろんあからさまにそうだとわかってしまうと抵抗勢力が勢いづいてしまってまずいから、そうだとは気づかれないような装いが必要となってくるかも知れず、しかもシステムだけで全てが完結するわけではなく、システムがそれだけでは機能しないような仕組みとなってくれば、では何をどうすればそうなるのかといっても、現時点ではまだうまく表現することはできないが、そこで鍵となってくるのが現状で忌み嫌われている新自由主義的な考えとなってくるわけで、一方では新自由主義的な競争経済を維持しながら、他方では社会主義的な助け合いの体制を作り上げるという矛盾に直面している状態を維持させるわけだが、そんな体制が実現可能かとなると不可能だと言わざるを得ないが、不可能だからこそ、それを実現させるために絶えず創意工夫を凝らすことを強いられて、創意工夫を凝らしている過程に留まり続けられるなら、持続的な経済活動が実現するかも知れないが、結果的にそうなっていればよく、その過程では恒常的に成り立つような仕組みとはならなくてもいいのかも知れず、絶えず矛盾に満ちたシステムが更新され続けるような成り行きへと持って行ければいいのだろうが、それに関して誰か特定の人物や団体が一時的に主導権を握ることもあるかも知れないが、そこでも絶え間なく主導権が移り変わるような成り行きになれば、結果的に持続的な経済活動が実現すると共に、それを補完するような政治活動も可能になるのではないか。


12月22日「データとレトリック」

 何か比較したい適当なデータがあって、それを自身の主張に役立てるために使いたいということだろうが、データは過去のデータであって、それを自身の都合のいいように解釈したいわけだから、解釈する機会を捉えて解釈しているつもりになっているのだが、それが的外れであるどころか、的を射たやり方だと思われるだけの根拠や理由があるかというと、その場の状況の中で、そんなやり方を用いると、対象となっている物事をうまく説明できるから、そういうやり方になるわけだが、使っているのはあくまでも過去のデータであり、また説明している対象もその場その時だけの成り行きであり、そこから時間が経過したり場所を移動すれば、また別の説明も可能となるかも知れないから、いつでもどこでも恒常的に成り立つ説明とはなり難く、別の時期や別の場では、また別のデータを引っ張り出してきて説明できるようなことであれば、その場で説明が説得力を伴うのは、その場その時だけである可能性もあり、もちろんその場の成り行きと同じような成り行きが今後また起これば、そうなった時に限って、その場での説明の確かさが証明されたように思われるだろうが、そんな機会がいつやってくるとも限らず、少なくともその場で説得力がありそうな説明が、別の場ではそれほど説得力があるわけでもなければ、そんな説明自体がその場の情勢にちょうどうまく適合するような機会を捉えて行われたことになり、そうなっている限りで時宜を捉えた説明になるにしても、その後の成り行き次第でいつそんな説明では不十分に思われるとも限らず、その時になったらさっさと意見変更できるかが、そんな説明をしている人の力量にも絡んでくることかも知れないが、逆に情勢も状況も変わったのに、いつまで経っても同じような説明に終始しているなら、そんな説明では情勢や状況の変化を捉えられないことになりそうだが、絶えずその場の表面には現れない黒幕的な存在を都合のいいように設定しておけば、どんな変化が起こっても黒幕的な存在が影から場を制御しているような説明も可能だが、それこそが陰謀論的な説明になってしまうから、思慮の浅い人でないとそんな説明では信じてもらえないだろうし、思慮の浅い人の割合が世の中で多ければ多いほど、黒幕的な存在に設定された実在の人物の権威も高まるだろうが、何かの機会にその化けの皮が剥がれてしまうと、一部のカルト的な宗教などの信者の間でしか通用しないトンデモ論になるだろうから、そうならないようにするには、できればフィクションでよく用いられる黒幕的な存在の設定はなるべく避けなければならないだろうが、あからさまにそうではないにしても、事ある度に何度も用いる同じ過去のデータ自体が黒幕的な役割を演じてしまう場合もあり、どんな成り行きになっても延々と同じデータを使い回すことによって説明できてしまうと、毎回微妙に異なっているそれぞれの成り行きの間で生じる差異が説明されずに、その全てが何度も使い回されるデータが示す成り行きと相似関係にあることになり、そんな説明自体が大ざっぱな傾向としてはそうなるということでしかなく、毎回異なるその細部に至ると途端によくわからなくなってしまうのだが、そんな説明を真に受けて、それを参考としながら実際に直面している成り行きの中で活動してみても、気休めのような効果があるだけで、実態としては何の役にも立っていないことに気づかないことにもなりかねず、それが分析者の分析を真に受ける信者の程度の低さを示しているわけだが、それでもそんな分析者がメディアでもてはやされることにでもなれば、それもトンデモ論を信じるカルト宗教の流行よりはまだマシだとしても、本質的には大して変わらない現象となってしまうのかも知れず、逆にそうなっていることを利用してうまく立ち回るような戦略も可能かも知れないが、実際にトンデモ論的な程度や精度の低い分析を信じて痛い目に遭って自身の愚かさを思い知れば、もう二度とその手の分析が含まれた主張や意見を信じなくなるかというと、そうでもないところが思慮の浅い人の特徴かも知れないが、実際に様々な流行現象が手を替え品を替えて流行っては廃る中では、その種の流行現象に飛びつく浅はかな人がいるから、そんな現象が繰り返し起こるのだろうから、手を替え品を替えているように見えて、実はある種の法則や傾向を同じようになぞっているだけでしかないような意見や主張の中で、過去の同じような傾向のデータが引っ張り出されて説明されやすいのであり、そんな説明を信じたところで、それを信じている自身がその種の流行現象に心身を奪われているわけだから、それを自己言及パラドックスに陥っていると見なすわけにもいかないが、自家撞着のようなミイラ取りがミイラになっているような傾向を示しているのかも知れないが、そうなっている自らに気づけと言っても、気づいたところでどうなるわけでもないだろうし、そういう人たちが食い物にされることで成り立つような経済活動があると見なしておけば済むことかも知れないが、少なくともそういう説明を含む弁論術や説得術や雄弁術がいつ詭弁術に変わるとも限らないから、過去のデータを用いたそれなりに説得力のある説明によって、その説明を真に受ける人たちを何か一定の方向や傾向に誘導するようなやり方には用心してかからなければいけないのだろうが、わざとそんな説明を信じて引っかかったふりをするのではなく、実際に引っかかって痛い目に遭ってみると、何か教訓のような戒めを得たような気にもなれて、それが退屈紛れの気休めとなれば、少しは気分が晴れるくらいの気持ちで、その種の意見や主張に接していればいい程度のことなのかも知れず、それが全く痛手を被らないわけではないが、少しは損害を被らないとやる気のスイッチが入らないという事情もあるなら、そんな気分となってしまう世の中の状況自体がおかしいのかも知れないが、そのおかしさに気づいているのに、自らにもそのおかしさが伝染しているような気もしてくるわけだから、自身もそれなりに世の中がおかしくなる成り行きに加担していると思っておいた方がいいのかも知れない。


12月21日「特におかしくない事態」

 ちょっとした情勢の異変に気づいて、何かがおかしいと思うのはよくあることかも知れないが、中にはおかしくないこともいくらでもあるだろうし、おかしいことに気づくだけでは情勢を把握していることにはならず、おかしくないことにも気づけるかというと、事態が通常通りの成り行きであれば、それをいちいち意識することもないだろうし、それよりはいつもとは様子が違うから何かがおかしいと思い、そのいつもとは様子が違うところへと疑いの眼差しを向けることになり、そうなること自体もよくある成り行きであり、そんな成り行きの中では疑いながらも疑っている自らの感覚の確かさには安心していて、自らが安心していることを意識できるわけでもないが、そこで油断が生じて何か見落としがあれば、いつも通りとは違う何かを見落としていると思われるが、そう思うのはその時ではなく、後から振り返ってそう思うこともあるが、またそれが注意事項として事前に気に留めておくべきことだと思うかも知れないし、いつもとは違う何かに気づこうとする反面、いつも通りの成り行きであること自体に疑問を抱くことはなく、いつも通りの成り行きであるから安心してしまうわけで、その安心感が油断を呼び込んで、結果的に些細な異変に気づかずに、そこで躓いてしまい、そこからうまくいかなくなったり失敗に及んでしまえば、なるほどそうなりやすいのではないかと後から振り返って納得してしまうかも知れないが、いつも通りの成り行きなのに何かがおかしいと思うかというと、やっていることがうまくいき過ぎて、あるいは予想通りに事が運び過ぎて、かえって不安感が募ってくれば、そんな場合には途中で何か見落としている点があるのではないかと、それまでの成り行きを振り返って、ちょっとした異変にも気づこうとするかも知れず、そうやってどうしても異変やこれまでとは違う点に目が行ってしまい、これまで通りに事態が進行中であることがおかしいとは思わないわけだが、実際におかしくなければ無理におかしいと思わないのは当然のことだが、おかしくないことに疑念を抱くのではなく、おかしいから疑念を抱くのも当然のことであるから、そうなっていることの何がおかしいわけでもないのだろうが、そうなって当然のことをどう思うかといっても、何とも思わないのも当然のことだとしても、疑念も疑問も感じないことについて何か考える必要があるかといっても、その必要がないから疑念も疑問も覚えないわけだが、そこが躓きの原因となるわけでもなく、必要も感じないところから思いがけない作用や影響が及ぼされて、後から振り返ればそれがどうにも避けられない事態だったと思い知るなら、その際には対処のしようがなかったわけだが、そんなどうにも避けようがない事態に遭遇しておかしくなることがあり、実際におかしくなったことに気づけば、そこから考えを巡らすことになるだろうが、おかしくなったことに気づかないのではなく、別におかしくなったわけでもないのに、それを思考の対象とするかというと、普通はそうはならないだろうが、わざわざそれを思考の対象とする必要もないのに、なぜか思考の対象となってしまうとすれば、その理由がわかるわけでもそれに気づくわけでもなく、そうなって当たり前のことに疑念や疑問を差し挟む余地もなく、それについて考えなければならない理由もなしに、考える必要もないのに考えるかといえば、考えられる限りで考えるかも知れず、それが特におかしくはない事態について考えることになるかも知れないが、考えるだけ徒労に終わるかも知れないし、疑問に思うから考えるのではなく、逆に疑いようのないことであるからこそ考えるべきというわけでもないのに、なぜか知らないが理由もなしに考えていることがあるなら、少なくとも疑念や疑問を覚えるから考えるのではなく、逆にどう考えても疑念や疑問が出てこないから、それが怪しいと思うわけでもないのだろうが、ただ漠然と考えていることがあり、そうなるのが当然のことのように思われることが考える対象となってしまうのが、不思議でならないと思うわけでもなく、そうなるのが当然のことであり、それが不思議でも何でもないことだから、それについて考えることが、別にそれを逆説的に考えているわけでもなく、ある意味で予想通りのことが起こったのに、それが予想通りのことだったのに予想通りの結果をもたらしたわけではなかったことが、特に不思議に思われるわけでもなく、予想が覆されたわけでもないのに、予想通りの結果ではなかったことに驚くかというと、そこで驚くか驚かないかで、何か決定的な違いが生じるわけでもないのだろうが、たぶん理由などないかも知れないが、そこでは素直に驚いた方がいいような気がするのであり、無理に予想通りだったと平静を装わない方がよく、そうすることで何かをごまかしていることになるかも知れないから、それが何だかわからないにしても、予想通りのことが起こったのに予想通りの結果ではなかったことに、素直に驚くべきなのかも知れず、驚いたのだから少なくともそうなって当然の結果ではなかったことになるのだろうが、何かそんな結果に起因して、その出来事を取り巻く状況の中で、それに関わる関係者の間で様々な思惑が渦巻いていたとしても、間違っても裏で誰かが糸を引いていたとは思わない方がよく、誰にとっても思いがけない驚くべきことだったと思っておいた方が身のためだといっても、そうは思わない人もいくらでもいることは想定されるものの、そうであるからこそ真に驚くべきことだったと思っておくだけでも、少しは世の中の情勢に関して謙虚な気持ちになれるのではないか。


12月20日「転換点と変更点」

 思いがけないことが立て続けに起こって目が覚めたと思っても、それ以前に眠っていなければ目が覚めているわけだから、比喩として何かを表現したかったのかも知れず、それが見せかけの何かではなく、ただの偶然の巡り合わせに過ぎないとしても、世の中で様々なことが起こっている中で、自身の意見や主張にとって都合の良いように複数の出来事をつなぎ合わせて、何かハッと思わせるような驚くべき関係を導き出したいのかも知れないが、実際には大したことでもないような単なる思い過ごしに過ぎない主張となっていて、それを大げさに誇張して、まるで大発見でもしたかのように見せかけたいわけでもないのだが、そんなことを語りながらも何か肝心なことを忘れているような気がして、本当はその肝心なことについて述べたいのに、あえてそれを避ける理由も見当たらないのに、なぜか直接それを語ろうとするとすり抜けてしまい、肝心なことを述べる前に、それとは別の方向へと語っている内容が逸れて行ってしまい、結果的にどうでもいいようなたわいない内容となってしまうなら、それではまずいわけだが、肝心なことを述べるに当たってのとっかかりがどこにもないようにも思われて、無理にそこへ至ろうとしても、それをどう語ってみても肝心な内容が出てこないようなら、そんなものはもとからなかったのかも知れず、それが誰のせいでそうなってしまうとも思われなければ、必然的にそうなってしまうとも思わないし、何かの偶然が作用して、たまたま無駄に言葉が費やされるような成り行きになっていると思っておいても構わないが、それとは違った方面から具体的なことを述べようとするなら、なるべく大げさなことにならないようにしたくなり、いつの世でも大変なことになっている人や国や地域があるのはわかりきったことだが、それが何でもかんでもというわけでもなく、ことさらに大げさに騒ぎ立てるのもどうかと思うわけでもないが、騒ぎ立てようと思えばいくらでも大げさに騒ぎ立てられるわけでもないが、そんな騒ぎ立てに対して何か違和感を覚えるなら、心の片隅では大したことはないと感じているのかも知れないし、別にそれが強がっているからそう思われるわけではなく、実際に大したことはないと思うのは、全く当事者ではないとは思わないが、関わりが薄いとも思わないし、それによって被る痛手が思ったほどでもなければ、ほっと一安心しつつも、まだ具体的な出来事について何も語っていないことに気づくのもわざとらしいが、それが特定の人物に起因することではなく、そういう制度になっていると見下すのもおかしいが、どうしても偶然にそうなってしまうことを認めたがらないから、何かそこに事情や経緯や理由や原因があると思ってしまうのだが、探せばそれが見つかるとしても、見つかったところでもはや手遅れで、たとえ手遅れでなくても他にやりようがないことをやっていて、そんなことが実際に行われているから、それに関しては誰もが困惑するしかないとしても、果たしてそれでいいのかと思っても、思っていることと主張していることと実際に行なっていることの間で、うまく整合性が取れずに、明らかな食い違いが生じているとしても、それぞれが食い違っているからこそ、思っていられると同時に、思っているのとはちょっと違った主張をしていられると同時に、それらからかなりずれたことを行なっていられるわけで、思っているのは理想論のようなことであるのに、そう思っている人の主張がかなりお粗末なのはご愛嬌だが、実際に日々の日常の中では、高邁な理想論ともお粗末な主張とも相容れないようなことが行われていて、高邁な理想論から想像されるお花畑的な美辞麗句と、お粗末な主張の延長上に想定される誇大妄想と、日々の見すぼらしい現実がかけ離れているから、それをどう捉えれば納得できるかといっても、単純にフィクションと現実の違いとは言えないような複雑な様相を呈しているようにも思われて、思っていることがその主張や意見から推測できるかといっても、主張の中ではその単純明快で紋切り型的な批判には欠かせない様々な政治や経済分野の専門用語が散りばめられているとしても、それがそのまま日常の行為や行動に結びつくようには思えず、その人が囚われている制度やシステムや慣習などに依存して活動している中で、基本的には批判を受けつけない次元で活動が成り立っている一方で、主張の中では確かに批判対象となる人や団体に向かってもっともらしく批判を展開しているのに、批判している当人が囚われている制度やシステムや慣習を温存しながら批判しているわけだから、批判内容が自身が囚われている制度やシステムや慣習と地続きとなっていることに気づいておらず、相対的な利害関係の中では誰もがある程度は批判対象となる加害者側に属していることが考慮に入れられていないわけで、だから被害者を助ける立場や被害者気取りで批判することができるわけだが、要するに批判するならするで、自らも批判されるような加害者側の立場から同類の加害者側を批判するような矛盾が生じてこないと、批判内容にリアリティーが生じてこないだろうが、それもフィクションだと割り切ればそれなりにもっともらしく思われるから、そういう批判でも構わないようなコンセンサスがメディア環境の中で了解されている限りで、そういう批判に一定の支持や賛同が集まるにしても、それ以上に何を期待するわけにもいかず、批判にも限界があることを承知しておけば、その程度の批判でも構わないということになりそうだが、その程度でも構わないからこそ、批判対象となっている人や団体に主導権を握る余地が生じているとも言えず、実質的には誰が主導権を握っているとも言えない状況の中で、批判材料を探し当てればそれ相応の言説を構成できて、それが主張としても説得力があるような気がするのだろうが、逆に世間の一般常識に照らし合わせると説得力がないような主張にも魅力を感じるのだから、何かそういうところで勘違いしていることがありそうだが、その勘違いが自らの言説の発端となっているような気もするわけだ。


12月19日「均衡を破る」

 それが何かの歯止めとなっている状態で、歯止めとなっていることを破らないとさらに不利な立場となってしまう可能性があるなら、まずはどうにかして歯止めを解除して、それをやらないとまずいような気もするが、それが何かということがよくわかっていない場合には、歯止めも何もありはしないはずだが、何か引っかかるものがあるような気がする時があり、合理的に考えればそんなものなどありはしないと思っても、何が何かをやるに当たっての歯止めとなっているのかを知らないと、そもそも話にならないのだが、それとは関係のない方面で行われていることが、何かをやるに当たっては参考になり、一見それとこれとは関係ないのに、あたかも同じ傾向の物事として扱われて、それに関わっている人々を困惑させるかも知れないが、何が歯止めとなっているかに関しては、すぐに思い浮かぶ簡単なところでは、例えば法律が歯止めとなっていて、法律で禁じられていることをやると違法行為となって、それが発覚すると罰せられることになるから、罰せられることを恐れるなら、それをやらないに越したことはないと思うだろうが、そもそも何が歯止めとなっているのかもわからないのに、それをやろうとすることに抵抗感を覚えるなら、自分が意識できないところでブレーキがかかって、なぜブレーキがかかるのかがよくわかっていないから、わかっている範囲内で合理的に考えると、別にそんなことなど気にせずにそれをやればいいことになるが、それが何だかわからないし、どう考えても納得がいかないのに、それをやってはまずいような気がするなら、実際にそれをやるのをためらってしまうわけだが、しかも躊躇しているうちにさらに情勢が悪化してしまえば、そこでは完全に判断を誤っていることになるのだろうが、それが一時的な情勢の悪化であり、その後に情勢が好転することを期待しているから、その時にはそれをやるのをためらっているなら、実際に情勢が好転した時に、それをやらなかった判断が正しかったことを実感できるだろうが、実際にそうなってみないことにはわからないし、そうならなければ判断を誤っていることに変わりないのだから、それをやるかやらないかは一種の賭けでもあるのだろうが、直接的にはそうだとしても、判断が正しいか誤っているかという水準とは違うところで、思いもしないところから情勢への介入が起これば、何をどう判断してみてもそれを考慮に入れないと、情勢そのものをうまく把握できなくなってしまい、場合によっては無理に判断しなくてもいいようなことになって、もっと別の時期や情勢の中で判断を強いられることになるかも知れないから、判断するにも時期や機会を捉えて判断しないと、意味のない判断となってしまうのかも知れず、自分の都合で勝手に判断する時期や機会を決めつけること自体が誤っている可能性もあり、では誰が判断する時期や機会を決められるのかといっても、その場で主導権を握っている人や団体が決める時もあるだろうが、その判断が正しいか誤っているかも、その場で主導権を握っている人や団体が決める可能性もあるから、それも自分たちの都合で時期や機会や正しいか誤っているかも決めてしまえば、全てがお手盛りの決定となってしまい、そんな決定を信じられるかといっても、それらの人や団体の追従者であればそんな決定に従うにしても、従ったからといって、それが正しいか誤っているかまでも、その場の主導権を握っている人や団体に決められてしまえば、たとえ結果が思わしくなくても、正しい判断をした結果がそうなったことになり、そんな人や団体に逆らえなければ、その場で主導権を握っている人や団体に従うことが正しくて、逆らうことが誤っていることになるだけで、その他の人や団体が主体的には判断を下せなくなってしまうわけだが、そんな環境の中で何か主体的に判断を下して、その判断に基づいて何かをやろうとすると、それをやらせないような妨害を受けるなら、その場で主導権を握っている人や団体が直接やらせないように仕掛けてくればわかりやすいだろうが、意外とそうではなく、大抵は直接には何も仕掛けてこないような状況の中で、多くの人々が気づかないうちに何かに誘導されてしまうような成り行きとなって、意識せずにそうなってしまうから、慣れてしまえばそうなるのが当然のように思われて、むしろそういう成り行きに対して意識して逆らうようなことをやる少数の人たちが、周囲から白い目で見られるようなことになってしまい、次第にそういった世の中の空気に逆らう人たちを避けるような成り行きになってしまうのかも知れず、世の中の全体がそうなってしまえば、何やらサイレントマジョリティーに支配された世の中になっているのかも知れないが、それが完全にそうなっているわけではないのは、そういった傾向にも場所や時期に応じて濃淡があって、同調圧力が色濃く意識されるところでは抵抗感もそれだけ強まるだろうし、意識せずにそういった傾向に逆らっている人には不快感を伴って強く意識されて、何だかわからないが、周りから活動の自粛を迫られるような成り行きが待ち構えていて、それをやめろとはっきりと言われないのに、周囲から協力や連携を得られないから次第に孤立無援となって行き、結果的にやっていることがフェードアウトしてしまうようなら、同調圧力に屈したことになるだろうが、それも完全にそうなるわけではない場合もあるだろうから、何か中途半端に中途半端なことを延々とやっているような状態もあって、それを続けようと思えばいつまでも続けられる状態というのが、やっていることを誰も認めはしないが、人畜無害だから放っておいても構わないと見なされているわけでもないだろうが、なし崩し的にそうなってしまうと、そうなっていることをどう判断すればいいのかもわからないまま、特に良くも悪くもない状態が延々と続いていくような成り行きになってしまうのではないか。


12月18日「願望と自己実現」

 人が思い描いている願望が現実の世界に何をもたらすとしても、それが妄想の部類に入ることなら、あり得ない願望を思い描いていることになりそうだが、限度を超えた妄想に囚われるのではなく、現状に程よく収まる妄想というのもありそうで、そんな妄想を思い描いている人が他にも大勢いることが、そうなっていることの条件となりそうだが、そう言われてみればそんな気がしないでもない妄想を自分自身も抱いていて、それが誰もが思い描くような願望でもあり、誰もが思い描く願望ならあり得ないことではなく、それを妄想とは言わないかも知れないが、その身近な例としては、他人が手に入れた物を自分も手に入れたいという願望があり、それを実際に手に入れた他人が羨ましくて仕方がないなら、自らもそんな思いに感染している証拠だが、それを実際に手に入れようとすると、容易には手に入らないことを思い知らされるようなことであれば、次第に妄想を抱いていたことが明らかになってくるかも知れず、手に入れようと思っても、それだけではどうにもならない事情があると、そんな事情に合わせて策を弄するような成り行きにもなりかねず、それが自己実現を成し遂げるための戦略だと割り切れるなら、たとえくだらないことであってもやる気になれるかも知れないが、他人から見ればただ単にくだらないことをやっているくだらない人だと感じられるだけかも知れないし、くだらないことであるのを承知でやっていることだと悟られないようにしている限りで、その種の演技が功を奏しているわけだが、それがくだらないことだという自覚がなくてやっていることなら、本気でくだらないことだとは思わずにやっているのかも知れず、それを本気でやっている人がくだらないかというと、やっていることの内容にもよるだろうが、自己実現を成し遂げるためならくだらないことであっても嫌がらずにやれるかというと、自尊心が邪魔をしてやれない人もいくらでもいそうで、そんなことをやらないと自己実現を成し遂げられないのかと疑念を抱くようなことであれば、自己実現など断念しても構わないのかも知れないが、世のため人のためなら他人なら嫌がるような役割も進んで引き受けなければならないと思うなら、あえて憎まれ役を買って出るようなことになるだろうが、それが何のための自己実現なのかが、はっきりとは自覚できないようなことであれば、その意味や意義もよくわかっていないことにもなりそうで、それがよくわかっていないにも関わらず、執拗に他人が嫌がるようなことをやりたがる人がいるとすれば、果たしてその人が目指す自己実現とは何なのかが、その人に直接聞いてみてもよくわからないようなことかも知れず、その種の執拗さに囚われている人など世の中にはいくらでもいそうだが、単純にそれを間違った観念に囚われていると見なしてみても、そう思う人はそう思っているだけで、当人にしてみればそう思っている人の存在など眼中になく、世の中にとって良かれと思うことを必死になってやっている気でいるのかも知れないし、そういう人を嫌がる人からすれば傍迷惑なことだろうが、そういう意味で自己実現に囚われている人を好意的に見るのにも限度がありそうで、何よりもその種の不快さを当人が気づいていないように見えることが、その人の致命的な欠陥だと見なしたくなるのだが、それも勝手な決めつけだろうし、人が嫌がることを率先してやるよりは、嫌なことはやらない方がいいと思った方が精神衛生上良さそうに思えるなら、そう思う人が多ければ多いほど、世の中から人が嫌がる行為や行動がなくなっていけばいいのだろうが、実際にはそうはならないとすれば、人が嫌がる行為や行動が人によっても立場によっても異なるからだが、そういうところで人が嫌がるような行為や行動も含めて現状の世の中が成り立っていると思うなら、それも勘違いな思い込みかも知れないが、それを人が嫌がることだと決めつけること自体が、人によっては違っていて、中にはそれを嬉々としてやっている人や団体がいるなら、そんな人や団体とは相容れない立場や思考に自らが囚われていると思うしかないが、その一方で自らの立場が固定されているとも思えないし、自らの思考も世の中の状況や情勢や、その時の心理状態や活動の実態に応じて揺れ動いていることも踏まえるなら、下手に他人に義理立てして立場や主張を固定してしまうとひどい目に遭うと思っておいた方がよく、そう思ってもそうなってしまう成り行きに囚われて身動きが取れなくなってしまう可能性もあるだろうし、どんな時でも臨機応変に振る舞えるとも限らないのは誰もが承知していることだとしても、良い意味でも悪い意味でも他人の期待を裏切るようなことをやらないと、自らのやろうとしていることを成し遂げられないわけでもないにしても、時と場合によってはそうなるのもやむなしと思っていないと、その場の状況や情勢の変化について行けないわけでもないにしても、他人から何を期待されているわけでもなくても、全く無視されているわけでもないから、何かしら人間関係や社会関係などのしがらみが生じてくるのだろうが、そうしたしがらみを断ち切って何かをやるような機会が巡ってくれば、否応なく決断を迫られて、その結果として自らにとって不利な報いを受けるような成り行きになれば、それなりに後悔することになるのだろうが、たとえそうなったからといって、やり直せるわけでもないから、そうなったことを織り込みながら、さらにその先へ前進しなければならず、前進して行った先でも取り返しのつかない過ちや誤りを犯して、そんなことを繰り返しているうちに徐々にやることがなくなってくるのかも知れないが、事前にそうならないようにするにはどうすればいいのかと問われるわけでもないから、大抵の場合は用意周到に計画を練るような成り行きにはならないわけで、それが現状の世の中の行き当たりばったりな状況や情勢が物語っていることなのではないか。


12月17日「引きずられる主張」

 いったい何と何を結びつけなければ気が済まないのかに関して、人それぞれに気が済まない事情が異なりそうだが、メディアで話題となっていることに自らの主張を結びつけなければ気が済まない人が、何か独自の内容を主張しているとも思えないが、少なくともメディアで話題となっていることに引きずられながら自身の主張を展開していて、それの何がおかしいわけでもなければ、その人にとっての主張が、少なくともメディアで話題となっていることと同期するような主張でないと気が済まないはずだが、そうなっていることに全く気づいていないのだとしたら、自身の主張がメディアが報じる内容に左右されていることにも気づいていないのかも知れず、何かそういう主張に関して典型的な傾向があるとすれば、それが何なのかというと、メディアが報じている内容を真に受けていることになるだろうが、しかし真に受けなければ主張そのものが成り立たないし、そんな当たり前のことに疑念を抱くこと自体がおかしいのかも知れないが、メディアにも種類があって、ある種のメディアが伝えている内容を真に受けてしまうと、絶えず他の多くのメディアが伝えている内容とは真逆の内容を真実だと思わなければならないとしたら、それが意図的に偽装しているわけでもなければ、その人が狂っているわけでもないのだろうが、それがただ単に気が狂っているのではなく、判断が狂っていると捉えるなら合点がいくことかも知れず、そういった気が狂っているのではなく判断が狂っている人が世の中に一定数は存在していて、そんな一部の人たちが支えているのが陰謀論的なメディアなのだろうが、ではそんな人たちの狂った主張は無視して、それ以外の大方のメディアが報じている内容に沿った主張を展開させれば、少なくとも判断が狂っていることにはならないかというと、それも時と場合によっては狂った判断に導かれてしまうのかも知れないし、しかも狂った判断でも構わない可能性もあり、そういうところで正しい判断といっても、判断した結果が良ければそれで構わないようなことであれば、その場で正しいと感じられる判断でさえも、正しいだけではどうということはない場合もありそうで、そういう意味では明らかに狂った判断をしている人たちがその場の主導権を握っているように思われると、その場が深刻な事態に陥っていると思わざるを得ないわけだが、そう思ってみてもすぐに何がどうなるわけでもなければ、いつの間にか狂った判断でも構わないような状況となってしまい、そんな狂った判断に慣らされているのが世の中の大半の人たちだとも思えないだろうが、何が狂っているとも思えなければ、判断の正しさにも大して価値があるとも思えず、むしろ明らかに狂った判断に囚われている人たちの方が、物事の価値に関しては正しい判断を下しているようにも思われて、彼らにとっては価値のある行為や行動というのが、一般的な意味での民主主義とは相容れないことを目指しているわけで、それが彼らにとっての民主主義だと主張したいわけだから、狂った人たちにはついて行けないのはもちろんのこと、なぜそれが正しい価値判断に結びつくのかといえば、物事の功利性を重視しているからだが、要するに功利性の重視にはついて行けないとなると、利益の獲得を断念しなければならないかというと、たとえ断念しなくても利益を得られないことには変わりなく、無理に利益を得ようとする必要もなければ、狂った判断を下してまで利益を得ようとしなくても構わないわけだが、そういう意味では無理に狂わなくても生きて行ければ、それに越したことはないわけで、たとえ利益を得られなくても、ごく普通の一般的なメディアから伝わってくる内容を真に受けていればいいのかも知れず、それ以上に事の真相を探らなくても構わないのだろうが、真相を探るといっても、何か取り立ててやれるわけでもなく、それとは真逆の内容を伝える陰謀論的なメディアを信じることが、事の真相を探ることと関係があるわけではないにしても、何かしら伝わってくる内容を自身の都合のいいように解釈してみることも、事の真相を探ることに結びつくわけでもないとすれば、ではどうすればいいのかと問われるわけでもなく、そこで何を判断する必要もなければ、そのままとなってしまい、そういうところでは判断を保留しておくしかなく、何も判断しないまま、結果が出るのを待っていればいいのかというと、すでに出ている結果から判断を下しても構わないし、判断を下したところで何がどうなるわけでもなければ、要するに判断が直接の行為や行動に結びつかず、何をどう判断したところで、そんな判断には意味も意義も生じてこないわけだが、直接には何もできないのだから判断のしようがなく、いつまでも判断を保留していても何がどうなるわけでもなければ、そこから何か説得力のある主張が出てくるわけでもないし、何の主張もなければ、他人の主張に耳を傾けるのかといっても、聞く耳を持たないことが何かにこだわっていることの証しだと解釈してみても、それもとんでもない勘違いかも知れず、そんな大げさなことではなく、もっとたわいない水準でこだわっていることがあり、そのたわいなさが逆に深刻な事態を招くと勘違いさせるわけだから、そこからずれた思考や認識が生じているのだろうし、しかもそこから真剣に検討しなければならない意図や思惑が生じてくるわけだから、それが救いようのない愚かさだと思うまでもなく、もうすでに決着がついていることに関してあれこれと異議を唱えているに過ぎず、そうなっている時点でもはや手遅れなのであり、結果を物理的には覆せないから、解釈を都合のいいように変更しながら無駄な抵抗を繰り返していると受け取っておけばいいことかも知れない。


12月16日「防衛力と軍事力の差」

 一般的な意味で軍事関連の用語で言うところの武力とは、防衛力と軍事力には違いないが、実質的にはどちらも軍事力であり、ただ呼び方が違うだけだが、心理的にもどちらがどうということはなく、軍事力を防衛力と呼ぶ習慣があるのだろうが、そこにこだわるのではなく、そんなのは織り込み済みのこととして、では何が問題なのかというと、政府の予算の中で軍事費を増やさなければならない理由に説得力があるかということに関して、また他の予算と比較して軍事費の増額を優先しなければならない事情も問題となっているはずだが、問題となっていようがいまいが、やはりそこに興味があるわけではなく、理由も事情もそれなりにあり、それが口実となって軍事費を増やさなければならない成り行きが生じているのだろうが、そんな成り行きも取り立ててどうということはなく、そういう成り行きを批判したり軍事費の増額に反対する人や団体もいつものようにいつもの内容を主張して、いつもの人たちがいつものように危機感を煽り立てている現状も変わりなく、それらの人たちにしてみればそれがいつものことではなく、今回ばかりは本当に危機的な状況なのだと主張しているところもいつものことだが、本当に危機的な状況なのは周辺国からの軍事的な脅威にさらされている現実だと主張したい人もいつものように出てきて、それがいつものように危機的な状況なのだから今こそ防衛力を強化しなければならないと力説する人たちもいつものように登場して、実際に防衛費を増額するための財源をどうするかで揉めていたのだが、それも揉めているふりをしていただけで、決着がついてみればいつものように事の成り行きを政府関係者やメディア関係者が説明するのもいつものことであるから、そこに決まりきった日常的な光景があり、そこで目新しい光景に出くわすわけでもなく、それが危機的な状況でも情勢でもなく、ただ淡々といつもの事態が進行していくだけのことであり、それ自体が何でもないことではないが、実際に何が防衛されたのかといえば、そんないつもの成り行きが防衛されたことになるのだろうし、普通はそれを防衛とは言わないが、そういう成り行きに関しては国民が選挙で是非を判断すればいいとしても、選挙になれば何が争点となることもなく、何を判断するわけでもないのかも知れず、そんなことは判断の対象にもならず、では他に判断の対象となる物事があるのかというと、それは選挙になってみないとわからないが、案外何もないのかも知れず、選挙で是非を判断するようなことが何もないわけではないが、結果的には多くの人々がなし崩し的に現状を維持することを是認してしまうのだろうし、もちろんそれは現状を改革することと同義であり、現状を維持することが現状を改革することなのだから、それをどう判断すればいいのかもわからなくて当然だが、そういうことには興味がないのであり、それとは別の方面に興味があるのかも知れないが、その興味がある方面の物事に関して人々が何を判断しなければならないかが選挙結果に反映するわけでもなく、選挙とは別の方面に関心があるのだから、それもいつものことだと認識しておけばいいのだろうが、いつもの日常とは関係のない方面で、何やら政治的な主張が戦わされているらしく、その主張の内容が興味のないことだとは限らないが、日常を防衛するには無関心を装うべきで、それが戦争するのに必要な軍事力ではなく、それとは無関係なところに見せかけの脅威として軍事力があり、その軍事力と日常を守るための防衛力が釣り合っているかどうかもわからないが、現状を維持するのに必要な防衛力が、現状を破壊する軍事力に変わるとも限らず、そうは思えなくても実際に現状が維持されている状況があり、果たして軍事力が現状を維持しているのかというと、それだけではないことは誰もがわかっているとは思いたいが、軍事力によって力の均衡が保たれているように説明できる面もあるから、そういう面を信じられる人であるなら、軍事力の強化に賛成するだろうし、そんな人が賛成したところで何がどうなるわけでもなく、それとは関係のない方面で予算が使われて、結果的に軍事力が強化されたことになるのかも知れないが、それとこれとも直接結びついているとも限らず、見せかけとして軍事力が強化されて、実際にそれなりの予算が使われた実態があれば、軍事力の強化を訴えていた人たちが自己満足に浸れるかも知れないが、実質的には何がどうなったのかというと、どう判断すればいいのかわからないところだが、実際に戦争になってみないことにはよくわからないわけで、予算を増やせば自己満足に浸れる程度のことと、戦争になるかならないかということと、戦争になったらどうなるかということが、直接には結びついていないように思われて、そういうところでリアリティを感じられないわけだが、結果的には何だかわからないかも知れないが、少なくとも防衛力の強化を訴える人たちが自己満足に浸れる程度の範囲内で無駄に予算が使われて、それを無駄だと判断するのも公平さを欠くだろうが、もっと別の方面で無駄に予算を使った方が世のため人のためになりそうな気もして、例えば教育の無償化のために無駄に予算を使うとか、さらに減税するために予算を減らすとか、無駄な予算にも使いようがありそうだが、それとこれとは無関係なのだろうから、防衛力の強化のために無駄に予算を使うのも、選挙で投票してくれた国民の期待を裏切っているわけでもないのだろうが、選挙で投票しなかった人々の期待には応えている可能性もあるだろうから、それとこれとを差し引きしたところで、プラスマイナスがどちらに振れるかは何とも言えないところかも知れないが、国民の期待を裏切った方が政権の維持には効果がありそうに思われるなら、それも実質的にはどうかは知らないが、見せかけとして防衛力を強化しておいた方が何かしら好都合な面があるのかも知れない。


12月15日「一筋の光明」

 頭の中で何かがひらめくということが、暗闇の中で一筋の光明が見えてくるイメージで適切かどうかはわからないが、考えている内容が何と一致しないかは、目の前の現実であることには違いなく、普通に考えて予想外のことが起こっているわけだが、なぜかそれでも構わないとなると、何が構わないのかよくわからないし、感触としてはそれでも構わないような気がするわけで、そこで狼狽えているのだが、そのうち何とかなるような気がして、現状をそれほど楽観できるかというと、それも普通に考えてその逆で、楽観できないから狼狽えているわけだが、それでもなぜか思いがけないことが起こるのがある程度は予感していたような気がするから、狼狽が見せかけの演技でしかなく、狼狽えているふりをしているだけなのだが、狼狽を装わないと目の前で起こっていることに何の反応もしていないことになって、それでは居心地が悪いから、とりあえず思いがけないことが起こって狼狽えたような気になりたくて、わざとそんな演技をしているわけでもないのだろうが、何かが違うと思うしかなく、少なくとも浅はかな予想屋の当てが一時的に外れたように見えるのだろうが、だからといってその程度のことで狼狽えるほど繊細な神経の持ち主ではないだろうから、彼らは彼らで逆に強がって見せるのだろうが、こちらはこちらで素直な反応として、予想外のことが起こったから狼狽えて見せているつもりだが、もちろん誰に向かって見せているわけでもなく、ただ狼狽えていると書き記しているに過ぎないことであり、本当に狼狽えているのかどうかは自分でもよくわからず、もしかしたら狼狽えているふりをしたいだけなのかも知れず、それがその場の情勢に合わせた演技になるかならないかが問題なのではなく、自らの狼狽えた姿を想像して、それが事前の目論み通りの姿になるわけでもないが、何かそこで妙に違和感を覚えるから、苦し紛れにそんな演技でお茶を濁しているといっても意味不明だが、おかしいと感じているのに、そのおかしさにどう反応すればいいのかよくわからず、戸惑いを覚えながらも、普通に考えれば、実際に思いがけないことが起こったのだから狼狽えるのではないかと推測できるわけで、では素直に狼狽えることができるのかというと、そういうわけでもなく、何か引っかかるものを感じるから、狼狽よりも疑念の方が勝ってしまい、とりあえずは狼狽を装っておきながらも、疑念を隠せないような心境となってしまい、それが動揺の色を隠せないとも思えず、むしろ予想が外れて動揺を隠せないのに、逆に強がって見せるような浅はかな人たちとは一線を画したいとまでは思いたくないわけで、そういう水準で強がりを競っても見苦しいだけで、それなら素直に狼狽えていた方がマシな感じがするのだが、本気で狼狽えているわけでもなく、本気でなければ何なのかというと、それが演技だと思うしかないが、そう思うことも微妙に違っているような気がするわけで、その違うような気がするということに抵抗感を覚えるなら、何が違っているわけでもなく、素直に狼狽えていればいいのだろうが、素直になれるような心境ではなく、素直に狼狽えるだけの心に余裕がないのかも知れないが、しかし心に余裕がなく、焦ってしまうから狼狽えるはずなのに、なぜ狼狽えるだけの余裕が必要なのかということが、腑に落ちないわけで、何か逆説的な心理状態へと誘導されているような気がするから、そんな得体の知れない誘導に抵抗感を覚えて、狼狽えるにしても、それが演技であるかのように装いたいということが、何か強がりの裏返しに映ってしまうとまずいわけで、別に誰にそんな心境を悟られることを想像してしまうわけでもなく、そんな自分が許せないというと、それも何か違うような気がして、自らの外で起こっている事態を心の中で消化できずに焦っていると捉えても構わないが、それが消化試合の敗戦処理にしては、それほど痛手を被っているとも思えず、それよりはやはり暗闇の中で一筋の光明が見えてきたような希望を持てる心境になりたいのかも知れず、その一筋の光明というのがまやかしの目眩しであれば、やはりそれもわかりやすいわけで、藁をもすがる思いでそんな光明に飛びついたところで、詐欺に引っかかったようなことにでもなれば、ざまあみろな心境になれるわけだが、事はそんな単純なことではなく、騙すつもりもない人や団体が人助けをしようとして、結果的に当てが外れて騙されたことになるとも言い切れず、完全に当てが外れるわけでもなく、また完全に騙されるわけでもないところが微妙なのであり、完全に当てが外れたわけでもないから、当たっている程度がそれなりにあって、そこを強調すれば何とか体裁を取り繕えるような結果となるから、完全に騙されて期待を裏切られたとも言えず、そういうグレーゾーンの中で何か希望を語るような演出が施されて、そんな演出に惑わされて、一筋の光明程度のことを過大評価してしまうのだろうが、その程度のことを過大評価してしまうのだから、そんな評価を下してしまう人たちも大したことはないわけだが、それ以前にたわいないことを騒ぎ立てる人が多すぎて、騒ぎ立てたり煽り立てたりする演出がインフレしていて、それも事前に織り込まれているから、ちょっとやそっとでは驚かないし、大して驚かないのに驚いたふりをしていることに気づかないというと、自らがそんな演技をしていることにも気づいておらず、大したことでもないのに驚き騒ぎ立てている人たちを白々しい思いで眺めながらも、ではどうなれば本気で驚くのかといっても、本気で驚くような事態になってみないことにはわからず、そうなったところで実際には驚いていることに気づいていない可能性もあり、そういうところで微妙にその対象となる的を外されているような気になるから、逆にわざと的を射たような演技を強いられてしまうのかも知れない。


12月14日「情勢の転換点」

 この世界に関して何かわかっていないことがあると思うのは、実際にわかっていないことがあるからそう思いたいのだが、わかっていようといまいと、わかっていることだけから何を類推しているわけではなく、そこにわかっていない部分があることを前提にして、さらに考えているわけで、わかっていることについても絶えず不信感を抱いていて、それが間違っているのではないかと疑いながら物事を見ていて、実際に状況や情勢の変化に伴って、今まで正しいと思っていたことが覆されるのを度々目の当たりにしたように思うのだが、ではいったい何が覆されたのかと問われると、別に他人からあからさまにそんなことを問われることもないのだが、途端に心当たりが怪しくなってきて、大抵の場合はそれが自問自答を試みていることに過ぎないから、単なる自己言及的なモノローグの繰り返しに過ぎないのだが、そんなことは忘れてしまっても構わないようなことなのかも知れず、意識の中では絶えず過去の延長上に現在があり、現在の延長上に未来があるような物事の連続性を保とうとしていて、その途中で突発的に起こる不連続な出来事を無視して物事を考えようとして、何か意表を突くような思いがけない出来事が突発的に起こったのに、そんなことまでいちいち考慮に入れると、今まで信じてきた論理や理屈がおかしくなってしまうから、それを無視して思考の一貫性や連続性を保とうとしてしまうのかも知れず、それに関して状況や情勢の転換点を言い当てたようなことを言いたい人たちもいくらでもいて、今まではこうだったがこれからこうなるとか予言したり予想したり予測したりするのだが、そういった御託宣が当たろうが当たるまいが、そうなった結果から自身の予言や予想や予測が当たったように取り繕うのに必死な素振りを見せるようだと、内心焦っていることを見透かされまいとして、自身の主張にとって都合のいいところを強調して煽り立てるような言い方になってしまうのだろうが、以前からそういう人たちの浅はかさや見苦しさを見飽きているような気もするなら、そんな人たちに騙されたつもりになって、少しはそれらの人たちの言うことに耳を傾けてきた自らを正当化する気も起こらず、自己責任で自らの予感よりもそれらの人たちの御託宣を信じてしまった自分が馬鹿だったと反省するまでもないことだが、まだそれが途中経過であって、さらにこれからいくらでも情勢が変わってくるかも知れないから、都合のいい情勢になったところで自らの予言や予想や予測が当たったことにしておけばいいとしても、その程度で済むなら相対的な誤差の範囲内だと見なしても構わないことでもあり、それ自体が大したことでもないのだが、大したことでもないことにいくらこだわってみても、やはり大したことでもないことには変わりなく、大したことでもないことに妙なこだわりを見せる姿勢が人を安心させるようなら、その程度だと軽んじられるようなことが、そう思っている自らの自尊心を相対的に高める効果があるのかも知れないし、そんな自らが見下している人や団体が、なぜか世の中の主導権を握っているように思われるから我慢がならないのだろうが、時流に乗って馬鹿丸出しで踊り狂っているように見える人や集団が、果たして世の中の主導権を握っているのかといっても、それがメディア効果で主導権を握っているように演出されているだけで、他の多くの人たちはむしろ冷めた眼差しで半ば軽蔑しながら見ているだけなのかも知れず、それが意外でも何でもなく、いつの時代でもそうだったような気がするのだから、そこから勝手に都合のいいように類推するなら、現状で多数派を構成しているように見える人ほど、社会の軽薄な表層部分を構成しているように思われて、表層部分があるならでは深層部分があるのかと問うなら、そんなものはなくても構わないが、たぶん表層があるなら深層もあると反射的に考えてしまうのも浅はか極まりなく、しかも表層を軽蔑しながら深層を擁護できるかといえば、どうもそうではないような気もしてくるのだが、少なくとも見えているのは表層であり、深層を表層の反対概念として想像することはできるが、その想像が当たっているかどうかは見えていないのだからわかりようがなく、表層が見えているのだから、表層だけは見えている範囲内でわかっているだけで、表層についても見えているところと見えていないところがあれば、見えているところだけでその全体を説明しようとしても無理があり、説明しようとしているそれが全体だとも言えないし、そこから類推して物事の全体について語ろうとすること自体が間違っていて、語るにしても絶えず部分的にしか語れないことをわきまえておかないと、下手にそこから外れて足下を掬われかねないが、それ以前に見えているから語れるかというとそうでもなく、盲人が何も語らないわけでもないし、盲目であるからこそ感性が研ぎ澄まされて、常人以上に詳細極まりなく物事について語ることができるかも知れないが、それとは別の水準で物事の表層について語ろうとすれば、表層が見えているという安心感に依存しながら見えているだけの物事について安易に語ってしまうのかも知れず、それが他の人にも安心して見えるようなことならそういう水準で共感を呼びやすく、安易に同調できるから受け入れやすいのかも知れないが、それはそういうこととして認識しておけばいいことでしかないが、別に今が時代の転換点であろうがあるまいが、転換点だからこうしなければならないという語り方を信用できるかというと、信用するかしないかは、語り方ではなく、語っている内容にもよるのだろうが、それが典型的な語り方である限りで、大したことはないと思ってしまい、何かそういうところで勘違いがあるのかも知れないが、自分の勘が教えてくれるのは、勘違いしていても構わないということらしく、実際に勘違いしているとしても、表層の語り方に関して疑念を抱き続けているわけだ。


12月13日「労働と権力の行使」

 産業を製造業と非製造業というカテゴリーで分けると、非製造業はサービス産業になるだろうが、単純にサービスだけを提供する企業というのも限られてくるだろうし、製造業にサービスを提供したり、逆に製造業によって造られた製品を利用してサービスを提供する企業もあるし、サービス産業だけで活動が完結することはなく、一般的に言うなら製造業と非製造業の連携によって産業が成り立っていると言えそうだが、どちらが主でどちらが従かということになれば、どちらのケースもありそうだが、製造業によって造られたインフラ設備を使って産業そのものが成り立っていて、基本的なところでは製造業なしには産業自体があり得ないわけだが、その製品が人の活動を助けて活発化させる機械であり建造物でもありシステムでもあるわけで、システムの中で機械や道具を使って働いているのがサービス産業であるとしても、それを売っていることには変わりなく、貸して利鞘を稼ぐことも含まれるが、サービスを提供する中には労働を提供することも含まれて、さらにその中にはやりたくないことや不快なことを金銭的な報酬と引き換えにしてやらせるような労働も含まれてきて、そうした労働をやらせるシステムがないと産業社会自体が成り立たないというと身も蓋もないが、強制的にやらせる力が権力と言えるかも知れず、権力自体はシステムの中でシステムを通して行使されるが、その一方で労働の報酬として金銭を持っている側に権力があるとも言えて、それが強制的にやらせるというよりも報酬と引き換えにしてやらせると解釈するなら、労働と報酬の等価交換のように思えるが、どちらに権力があるかとなれば労働をやらせる側に権力があることになり、そういう意味では立場が平等ではなく、そこに有利不利の関係が生じているように思われるのも当然だが、人為的なシステムには権力を行使する側と行使されて労働させられる関係が含まれていると解釈すればいいとしても、別にそれが隠しておきたい不都合な真実というわけではなく、誰もが知っている当たり前の事実だが、権力を行使する側が労働を免れているわけではなく、自らも労働しつつ他人に対して権力を行使して労働をやらせている場合がほとんどで、階層構造の中で立場の上下関係が生じていて、立場が上の者が権力を行使して立場が下の者に労働をやらせていると解釈できるが、階層構造自体がそういうシステムによって成り立っていて、階層構造は権力を行使する側と行使される側がいないと成り立たないが、果たして社会の中で権力関係を伴った階層構造が必要かというと、労働を人ではなく機械にやらせる面では権力を行使する必要がないわけで、権力を行使して他人に労働をやらせるよりは、機械にやらせる方が手間暇やコストがかからなければ、そうするに越したことはなく、だから世の中に機械が普及すると考えるなら、それなりに合点がいくだろうが、もちろん機械を製造するにも手間暇やコストがかかり、その過程で人の労働を必要とする場合もほとんどだが、産業の発展と共に世の中に機械が増え続けているように感じられるなら、より権力を行使する手間を減らすために機械が導入され続けてきたとも言えるだろうし、機械こそが人を嫌な労働から解放するためのシステムだと捉えるなら、機械の都合のいいところだけ捉えているとも言えるだろうが、機械の導入が世の中から権力を行使する機会を減らすことに寄与しているなら、立場の上下関係を伴った階層構造を減らすことにも寄与しているとも言えるかも知れず、そういう意味では複雑な階層構造を伴った官僚機構を機械に置き換えることも将来的には可能かも知れないが、何がそれを阻んでいるのかというと、他人に嫌なことをやらせようとする邪悪な心情が阻んでいるわけではなく、それをやらせるほど機械が進化していないとも言えるだろうが、実際に世の中で人にやらせることよりも機械にやらせることの方が増えているなら、次第に機械にやらせる方向で社会そのものが進化し続けているとも言えるだろうから、それに伴って例えば企業を経営する側の理不尽な権力の行使に逆らう労働者という構図もだんだんと減っていく可能性もあるとすれば、要するに人権侵害を伴うような理不尽な労働がなくなるような方向で機械文明が進化しているとも言えて、さらにそこから究極的には労働をなくす方向で社会が進化し続けていると考えても良さそうだが、もちろん実際にはそんな単純な成り行きにはなっていないし、労働人口が減っていることが国家の衰退を招いていると警鐘を鳴らす人たちによって、無理にでも労働者を増やすような試みも今後行われるかも知れないし、しかもそのやり方が杜撰で、奴隷労働のような悲惨なケースが増えていくかも知れないが、そんな紆余曲折を経由しながらも、その過程で社会の狭い範囲内の例えば職場や家庭や学校の中などで人権侵害だけを専門に扱う活動家のような人もいくらでも出てくるかも知れず、そういう人たちが遠くまで見通せないことが、局地戦のような狭い範囲内での戦闘を激化させると共に、より一層の社会の進化を促して、その他大勢に属する多くの人々が思ってもみないような状況や情勢の変化をもたらすかというと、それもそうなった結果からわかったり、実際に変化が起こっているのに気づかなかったりすることかも知れないが、そうなる過程において、他の多くの人たちが変化に気づいてしまうと、逆にその変化を阻もうとしてしまう傾向になるだろうから、かえってそういう人権侵害を訴えるような戦闘行動がメディアで話題になることが、諸刃の剣のような功罪半ばすることになるとまずいかも知れないが、果たしてステルス行為のように誰も気づかないうちに世の中に人権意識が浸透するかといっても、それもそうなった結果からしか判断できないことだが、誰も知らないうちにそうなってしまうことが、例えばそうなるように策略を巡らせてそうなるかというと、大抵の場合はそうではなく、そんなことをやっているつもりの当事者が思いもよらぬところから変化が起こって、しかも当人もそれに気づかない可能性まであるかも知れず、今後においてそうなることを期待するわけでもないが、そんな期待が忘却に変わった頃には世の中が以前とはだいぶ様変わりしていて、その変化に意識がついて行けずに当惑するしかなければ、時代の変化がその人を追い越しながら置き去りにしてしまったことになるのではないか。


12月12日「現時点でわかっていること」

 それに関しては何をどうすればいいかと考えるまでもなく、すでに実践で試されていることがあり、そんなことはわかりきったことだとたかを括りたいわけでもないが、実際に何がどうなっているかなんて、そうなってみないことにはわからないが、そうなるとはどうなることなのかということが、そうなってみないことにはわからないわけだから、実際にそうなってみてからそうなってしまったことを思い知らされるわけだが、そうなってしまうと何がまずいのかといっても、それはそうなってしまった状況からわかるはずだが、それをこれから思い知らされるというのだから、少なくとも良いことではないだろうし、どちらかといえば最悪の事態を想定しておいた方がいいのかも知れないが、その最悪の事態からわかることが、必ずしも現時点では明らかになっておらず、それがわかるのがここからだいぶ時が経ってからとなると、わかった頃にはもう手遅れになってしまい、たとえ現時点で最悪の事態になっていても、それをどうすればいいのかわからないから、現時点での最悪の事態に拍車をかけているとも言えて、要するに現時点ではわかっていないことが多すぎるような気がするのであり、しかも何がわかっていないのかがわかっておらず、その反面でわかっていることというのが、それをどう解釈したらいいのかわかっていないことかも知れず、どう解釈してみてもしっくりこないから、解釈すること自体が間違っている可能性まであり、では安易に解釈しない方がいいのかというと、それも自信を持てないところだが、中途半端にいいように解釈してわかったつもりになるよりは、現時点では解釈を保留しておいた方がいいのかも知れないから、そこからあまり拙速に事を進めるべきではないのかも知れず、すでに実践で試されていることも、後になってその結果が覆される可能性もあって、現時点で感触の良い結果がもたらされているとしても、そこから時が経つにつれて次第に雲行きが怪しくなって行き、ある時点で気づいてみれば、知らないうちに事の良し悪しが逆転していて、現時点での判断や評価が間違っていることにされてしまえば、それが最悪の事態だったことになるのかも知れないが、すでにそんなことを度々経験してきたのを忘れていて、過去のある時点での判断や評価など時が経つにつれて風化して行き、そんなのはなかったことにされてしまえば、過去の過ちや誤りにことさらこだわることもないだろうが、現時点での判断や評価に反応して、それらの良し悪しを言わざるを得ないとしたら、そこから時が経つにつれて判断や評価が変わってくるなら、それに対する良し悪しの判断や評価も変えて行かざるを得ず、それを変えたくなくていつまでも変えるの拒んでいれば、それが間違った判断や評価になる可能性があり、そうやってつまらないことにこだわったばかりに、時代の趨勢から取り残されてしまう人もいくらでもいるかも知れないが、変えたくても変えられない事情があるとすれば、その判断や評価を裏づける論理や理屈があって、その論理や理屈の正しさを信じている限りで、自ら下した判断や評価を変える必要を感じない場合もあるから、どちらがどうというわけでもないが、人と人あるいは集団などとの関係や連携に関しては、階層構造とネットワーク構造の二種類のつながりがありそうだが、両者が相互補完的に渾然一体化している場合もあるだろうから、現時点で世界が一体化していると見なすには階層構造化している面と共にネットワーク構造化している面の両面から総合的に考えなければならず、それもどちらがどうだと言いたいわけでもないが、20世紀末から続いている情報革命がまだ一段落ついたとも思えないし、とりあえず世界の一体化を実現しているのが情報のネットワーク化によってであることは誰もが認めざるを得ないところで、情報革命以前の認識がどちらかといえば、権力や武力の行使によって弱者が強者に征服されて階層構造化された社会が、一般的な意味で世界が一体化する可能性のあり得る形態だと考えられていたのに対して、情報革命以降に実際に実現された世界の一体化が、いわゆるネットワーク社会として人々に認識されていることの事実が、まだ十分には理解されていないのかも知れず、それに関してもどちらかといえば、中国的な監視社会や管理社会の面が強調されて、ネットワークを通じて情報の内容や流れを監視して行政などの管理や統制や検閲に役立てるのが、階層構造化された政府の官僚機構の方だと認識してしまうわけだが、確かにそういう面があるのに対して、それだけでは理解できない面がネットワークを通して人と人とのつながりから実現されていて、それによって従来からある権力や武力に基づいた階層構造が完全に崩壊することもあり得ないものの、そういう面を残しつつも、それに加えてネットワークを通して人や団体のつながりが世界的に構築されつつあるといっても、両者が完全に対立したり敵対しているとも言い切れないし、だからといって階層構造を保持するにはネットワーク構造が必要不可欠だとも言えないし、それだけが全てだとは言えないから、人々の意識を支配したり行動を監視する以外にも用途や使い道があり、その用途や使い道に応じてネットワークが全世界的に広がりつつあり、その用途や使い道に合わせて世界が一体化しつつあると言えるのかも知れず、要するに世界が一体化した方が便利な部分では一体化しつつあり、一体化しなくても構わない部分では、無理に一体化する必要がないといった程度で一体化しているのではないか。


12月11日「きっかけとしてのひらめき」

 すでに知っていることを基にして何を推理してみても、知らないことを知る手がかりが得られるとも限らないが、考えているうちに新たな知見を得られるなら、頭の中で既知の何かと何かが偶然に結びついて、今までは気づかなかった何かが突然ひらめくかも知れず、それをひらめきたいと思ったからひらめくわけではなく、何かがひらめく時には思いがけない時に思いがけないタイミングでひらめき、事前に何を考えていたわけでもないのに、不意に何の前触れもなくひらめくこともあるが、それが都合よくひらめいてくれれば、願ったり叶ったりだが、こちらの都合など考慮せずに、思いがけない時に思いがけないことがひらめいて、驚いて動揺するかも知れないが、例えば何の前触れもなく不意に何十年も前の記憶が蘇ってきて、なぜかその時には気づけなかったことが急に思い浮かんで、なぜ今さらその時の真相を思い知るに至ったのか、理由がよくわからずに不可思議に思うかも知れず、待っていればいずれわかる時がやってくるとも限らないが、わかるまで待っていることも意識せずにそれを思いついてみると、長期間にわたって疑念を抱き続けていたような気もしてきて、それを思いついた結果からそう思われてしまうのだとしても、思いつかなければそんなことは思わないだろうから、それを思いついたタイミングで思いついたことを生かさなければならないと思ったところで、何に生かせるわけでもないが、生かしようのないことを思いつく限りで、無駄に何かを思いついたことになるのだろうが、それが無駄になるかならないかではなく、すでにその機会を生かして思いついたのであり、その機会を捉えて今まで知り得なかったことを知るに至ったと思えばいいのだとしても、そんなふうに何かを思いついた結果を都合よく解釈しておけば、別に悪い気はしないだろうが、実際に何を思いついたのかというと、自分にとっては合点がいくようなことであり、自分でなければ思いつかないようなことを思いついたつもりなのかも知れないが、それが他の誰でも思いつけることに気づかないからそう思われるのか、あるいは本当に自分でなければ思いつけない独自の思いつきなのかは、それだけでわかるわけもなく、それを明らかにしないと確かめられないことであるなら、思いついたそれを周囲の誰かに伝えて反応を伺うしかないが、そうすることが社会的な成り行きを体験するには必要で、自分だけが何を思いついたところで、その思いつきの価値がわかるわけもなく、価値などわからなくても構わないなら、では思いつきを活用できるかというと、それを活用するために思いついたのではなく、ただの思いつきに何の意味や意義があるかを知りたくて思いついたのでもなければ、やはりただの思いつきでしかないだろうが、何かを思いつけばそれが何の役に立つのかと考えてしまうなら、その活用法について考える契機となったということだが、そんなことを考える機会をもたらしたということであり、少なくともそんなことを考える機会を得たいがためにそんなことを思いついたのではなく、それを思いついたからそんなことを考える機会が生じたということであり、それを思いついた後からそんなことを考えたのであって、それ以前からそれを考えていたわけではないはずだが、そうなった結果から、それ以前からそんなことを考えていたかのように思われてしまうから、そこで錯覚が生じているのだろうが、そんな錯覚こそが考えるきっかけを生じさせていると考えると、何か頭の中がこんがらがってくるような気もしてくるが、絶えず結果を自分に都合のいいように解釈してしまうのであり、それに気づかないから何か画期的なことをひらめいたかのように錯覚してしまうわけだが、自分にとって画期的なひらめきが他の誰にとってもそうであるなら、確かにそれが画期的なことになるだろうが、それもそう思いたいことの延長上にある願望なのだとすれば、そんな願望を抱いてしまうこと自体も錯覚に含まれて、そんな錯覚を他の多くの人々と共有できれば、それが錯覚ではなくなるかというと、そういうのが共同幻想と呼ばれるものなのだろうが、ものの価値というのもその種の共同幻想の一種なのかも知れず、そんな共同幻想によって実際に利益を得られたなら、それが幻想ではなくなるかというと、利益自体が幻想の産物である可能性があり、多くの人々が共同で抱く共通の幻想が利益をもたらしているのだとすれば、そんな幻想によって利益がもたらされていることになるだろうが、それが多くの人々にとっては当てにならない幻想でしかなく、そんな幻想によって利益がもたらされてはまずいような気がするのかも知れないが、利益とはその程度のことであり、それ以上に価値があるわけでもないのだろうが、利益を得るための活動がそれ以上に重要だとは思えないのは、何かそれよりも重要に思われる物事があるような気がするから、利益を得るために行われる功利的な活動が軽んじられる傾向となるのだろうし、そんなことよりはもっと大切な何かを利益と引き換えにして見失ってしまうように思われるなら、それが何かというと、何やら金で買えないものがあるような気がする程度のことかも知れないのだが、逆に確実に金で買えることが確かな実感を得られて、それが幻想ではないかのように思われて、利益自体が多くの人々の共同幻想から得られたに過ぎないことを忘れさせるわけで、そういう逆説的な心理効果というのが、何を意味するとも思えないとしても、何を意味するわけでもなくても、確実に金銭的な利益がもたらされるなら、とりあえずは利益を得られた段階で自己満足に浸れるだろうし、それが幻想ではないことを確信できるかも知れないが、結局それが一過性で過渡的に得られるものでしかなく、トータルでは儲かったり損したりする中で、その部分だけ切り取って強調すれば、あたかも確実に利益を得られたように思われるだけで、そこで驕り高ぶって調子に乗って無駄遣いして利益を消尽させてしまうと、ちょっとだけ体験できた一過性の栄華が後から夢まぼろしのように思われてくるわけだ。


12月10日「新世界秩序」

 ニューワールドオーダーというと、オカルト系の人たちはすぐに特定の陰謀論的な勢力による世界全体の単純な支配秩序になると煽り立てて警鐘を鳴らしたつもりになるが、それが静的な秩序を目指したものではなく、またそれを動的な秩序というのも秩序と呼ぶには考えにくいが、秩序をすぐに支配と結びつけて考えてしまうと、そんな支配秩序をどうやって構築するのかと、構築する過程も考えなければならず、そこから今ある現実を都合のいいように解釈して、安易な妄想の世界へと想像を膨らませてしまうわけだが、新自由主義的な発想はそれとは真逆で、目指すのは支配体制などではなく、誰も支配へは至らないような競争状態をいかに長引かせるかということであり、特定の勢力による支配体制が確立してしまうと、それでは新自由主義的な競争が成り立たなくなってしまうわけで、それでも秩序というからには、動的な競争状態を維持するような秩序だと言えるのかも知れないが、ハイエクなどの新自由主義の論客たちが、何よりもヒトラーによる支配体制に逆らった人たちだということを忘れてはならず、その辺がオカルト系の人たちには知識が不足しているところだが、もちろんヒトラーのナチスドイツと共にルーズベルトのニューディール政策やソ連のスターリニズムやイギリスの揺り籠から墓場まで面倒を見る行き過ぎた福祉政策なども批判したわけだが、そういうところが学校で習う世界史が教える対立軸とは異なるのだろうが、新自由主義者は支配を全く受け入れないということではなく、特定の人や団体などではなく公的な法による支配を受け入れるわけで、そういったいわゆる法治主義の立場をとることに関しては他の一般的な人たちと変わらない立場なわけだが、そういう意味では秩序というのは法律によって維持されるべきものであり、新世界秩序というのもただ単に法の支配に則って成り立ち維持される秩序と解釈されるなら、現状でも形式的にはそうなっているはずだが、その法律の中身や運用に関しては個々の国々でそれなりに差異があるだろうから、その差異をなくす方向で、世界各国の法律を同じ内容にして、運用にも差異がなくなれば、それによって世界が実質的に統一されたと解釈できるだろうから、そうした法の支配が実現するなら、それを新世界秩序と見なしてもしっくりくるところだが、実際に死刑を野蛮な行為と見なして廃止を呼びかけている人や団体もいるし、また同性愛者などのマイノリティーの権利を守る法律の制定を呼びかけている人や団体もいて、それらの人や団体の運動が世界規模で盛んに行われているようなら、それも世界各国の法律を同じ内容にしようとすることに帰結するだろうから、それが新世界秩序の実現を目指して多くの人や団体が活動していることになるはずだが、現状でも世の中の全ての面で主導権を握るような人や団体が存在するわけでもなければ、ある一定の範囲内で主導権を握っている勢力が存在するとしても、その勢力の主導権が世界の隅々にまで行き渡るようなことでもない限りは、武力や権力などの力による支配という形で世界が統一されるわけでもなく、それよりは世の中の各方面で主導権を握っている複数の人や団体が互いに連携や協力の関係を構築しようとして、絶えず交渉や取引を持ちかけながら競合していると捉えた方が、より世の中の現状に即した認識になるはずだが、そうした活動の結果として世界がどうなっているかというと、そんな現状を否定的に捉える人や団体が新自由主義的な経済情勢に逆らって批判勢力を形成して、現状とは違う経済の在り方を模索しているのだろうが、批判勢力の主張がある一定の範囲内では的を射ているとしても、彼らが敵対しているつもりの勢力が新自由主義的な経済活動の担い手なのかというと、どちらかといえばそれらが法の支配よりは武力や権力を行使する支配に加担していて、経済活動の担い手であるよりは政治活動の担い手となっているわけだが、それとは対照的に経済活動の担い手としての企業は、政治活動の担い手に頼ってしまう方面では新自由主義から逸脱して、行政がもたらす既得権益を利用しようとするわけで、それが端的に言って新自由主義的な競争を阻害して経済活動そのものを停滞させるのだろうが、そういった行政と企業との癒着からその国の国際競争力の低下を招いているのが、例えば日本の現状が示しているところなのかも知れず、それが別の面では行政が企業を助けないとその国の産業が育たないとも言えて、それとこれとがどう違うのか明確にはわかっていない人が多いわけで、確かにある面では行政が保護主義的に設定する規制に守られながら特定の方面の産業が育まれるとしても、別の面では例えば農業部門の酪農のように補助金漬けのような状態となって、どうにもならなくなってしまうわけだが、それがケースバイケースで一律にそうなるのではなく、世界の流行から取り残されるような方面で行政と産業界との癒着が起こって、そこに行政の予算が無駄に注ぎ込まれて浪費される一方で、肝心な方面には予算が回っていかずに、そういった方面で活動する人や団体が困った状況に追い込まれている現状があるから、そこが政府を批判する勢力としては目の付け所となって、そういう方面のひどい実態が暴露されて糾弾されるといったことが繰り返されているわけだが、なぜそうなってしまうのかといえば、法の支配に逆らって権力が行使されて、既得権益を守るために無駄に予算が使われることになって、それが世界の標準から外れるやり方をもたらして、いわゆる産業のガラパゴス化を招いていると言うと、何か辻褄が合っているように思われてしまうが、それもちょっと違うのかも知れず、意外と感覚として矛盾しているように感じられることをやらないと、そういった方面がうまく回っていくことにはならないのかも知れない。


12月9日「話の流れ」

 どこで何が話し合われていようと、そんなことには興味がない人も普通にいるだろうが、話の主導権を握りたい人が恣意的にそこで行われている議論を都合の良いような方面へと誘導したがるのは、誘導して行った方面にその人の得意分野があるからだと思われるが、意外とそうではなく、その人にも気づかない何かに誘導されていて、結果的にはその場に居合わせた誰の都合が反映しているわけでもなく、特定の方面へと誘導したがっているように見えてしまう人の都合が反映しているように思われるのだが、その人もその人の得意分野というか専門分野に囚われてしまっていて、その人が逃れられない引力に引き寄せられているから、自然と話がそちらの方面へと向かって、周囲の人々もその人が語りたがっているように感じられるから一応は配慮してしまうわけだが、だから話がそちら方面へと向かってしまうと解釈してみても、誰がそんな成り行きに関心を持つわけでもないだろうが、対談や鼎談やさらに人数の多い討論会の類いであっても、それ自体がどうというわけではなく、大抵の人は話の内容に興味を持つからそこへと関心が向かうと思いたいのだろうが、ある専門分野に囚われている人の決めつけ的な発言がその場の関心の中心的な話題となれば、話の内容が一時的にそういう方面に集中するのだが、それが何かおかしいわけでもないし、話の自然な流れとしてそんな感じになってしまうのだから、それをとやかく言うのも意図がよくわからないだろうが、そこで微妙に争点が逸らされて、意図的に争点が逸らされるように思われるのを、その場に居合わせた誰が気づくわけでも望んでいるわけではなくても、その方面の専門分野に話の内容が及んでくれば、それについて詳しく説明する必要に迫られて、その方面の専門分野に詳しそうな誰かが説明しなければならなくなり、そんな説明を買って出るのが、その専門分野に精通している人になるのも当然の成り行きであるから、そうなるのが話の自然な流れだと感じられるのだが、誰かが意図してずらそうとしていなくても自然とずらされてしまう成り行きというのが、話の趣旨からすれば思いがけないことだとしても、誰もそうは思わないし、確かにその場ではそうだが、後から振り返ると誰かが意図的にそうやったように思われるから、争点をずらした誰かの戦略的な意図を想像してしまうと、何かそれが勘違いな思い込みのように感じられてしまい、そうした思い込みから話を都合の良いように再構成して捉えてしまうと、ますます思考が誰かが思い描いたフィクションの領域へと逸脱して行ってしまうだろうが、そこで何かがごまかされているとは思わない方がいいと考えても、すでにそう思い込む方がそう思ってしまう人にとっては都合が良く、そう思い込む成り行きへと導かれていて、それもその場の流れに乗って誘導されていることになるのだろうが、誰が誘導しているわけでもないのに、勝手に誰かの思惑を想像しながら誘導されて行ってしまうわけだから、それが勝手な思い込みでしかないとしても、人為的にそう思い込まされているように感じられるからそう思ってしまい、何かの罠にはまっているわけではなくても、勝手に虚構の罠を妄想しているような感じで、そちらの方面へと誘導されて、その誘導されて行った先に待ち受けているのが、ありふれた陰謀論の典型例を信じることになろうとも、その人にとってはそれがリアリティを感じるのだろうから、それで構わないと言ったら語弊があるが、後はそういう領域で、ありもしないフィクションというよりは、よくありがちな事実に即した作り話を構成してもらうしかなく、その事実というのが実際に起こったことなのだから、それを信じるしかないのだろうが、事実を組み合わせてフィクションを構成できるのだから、そんなフィクションの内容が興味深ければ他の人々の関心を惹くだろうから、メディアでその種の作り話が拡散されれば、その種の話に興味を抱いた人々が群がってきて、それが真実であるかのように装われるとしても、事実に基づいているから、真実であっても構わないのだろうが、それも後から振り返れば、そんな話もあった程度のことでしかなくても、その場では確かに興味深いのだから、その場の流れに乗っかって誘導されるがままに、誘導されて行ったところで何がどうなるわけでもなければ、結果的には何でもないと思っておいても差し支えないのだろうが、そういうところで必要以上に疑り深くならなくなてもいいと思えば、割と素直にそんな話を信じられるのかも知れないが、信じた者が馬鹿を見ることになろうとなるまいと、自己責任で信じていればいいのだとしても、それも信じたいから信じていて、信じていた方が都合が良いと思うわけでもないが、自身にとって都合の良いことを信じていることに気づかず、大した根拠も理由もないのに、自らの都合に照らし合わせて、後から振り返れば馬鹿な話を信じてしまうのだが、そこで何かを混同していることは確かであり、それが事実に象徴的な意味合いを重ね合わせて事の真意や真相を読み取ろうとしてしまうことに結びつくのだが、その象徴的な意味合いというのがたわいない慣習に基づいているから、その慣習に何か重みがあるような気がしてしまうのだろうが、それが騙されているというか、慣習がもたらす象徴的な意味合いの水準とは別に、特定の論理や理屈に従って動いている社会システムの類いがあることを見落としているわけでもないのだろうが、それよりも象徴的な意味合いの方を重視したくなるのは、そこに誰かの隠された意図や思惑を読み取ってしまうからだが、実際にはその人にとっては意図や思惑を想像すると都合が良いわけで、それらの意図や思惑があるから作り話の辻褄が合って、その人にとっては都合の良いストーリー展開に沿って組み合わせた事実からなるフィクションにもリアリティが感じられるのではないか。


12月8日「妥協と譲歩」

 一般的に言って、人や集団が活動している中でも、度々妥協や譲歩を強いられるのは、現実に起こっている成り行きに配慮するからだが、それも立場や境遇によっては突っぱねて平然と拒否できる場合もあるだろうが、極端な理想を追い求めずに現実路線を堅持しながらも、時には他人や他の集団の不快で強引なやり方に苦言を呈しながらも、結果的には折れるべきところは折れて、妥協案や譲歩案に渋々同意するようなことになれば、そのような姿勢を情けないと批判してくる人もいくらでもいるだろうが、そういう人たちも含めて、道理や倫理を優先するよりは、功利的に立ち回っていることに気づいていないような気がして、それが悪いとも思わないし、そうなるのが当然のような気もするのだが、そうするのが当然だと思うようなことが他にも様々にある一方で、それらが互いに対立や敵対の関係を形成しても構わないわけで、もちろん無理に対立する必要もないわけだが、対立するのが得策でなければ、できる範囲内で妥協や譲歩に応じて、穏便に事を収めるのも、戦略としてはありそうだから、それが致命的な誤りだとも思えない程度で、そうなってしまうことについては、良し悪しの判断を保留するしかないが、それほど自身の立場に自信を持てるような状況かというと、立場というよりは自らの信念に従っていると思いたいなら、それでも構わないが、あからさまに逆説的なことを述べて、人の気を引こうとするのはこれ見よがしで、ちょっとそれでは甘いような気がしてしまうし、何が甘いのかというと、詰めが甘いというか、それもちょっとニュアンスが違うだろうが、その種の思考の浅はかさを戦略的に演じているふうもないなら、それはそれで仕方のないことではあるにしても、態度をはっきりさせないと、その種の浅はかさにすぐさま反応して、そのことの是非を判断してしまう浅はかな人たちにとってもどう判断すればいいのかよくわからないだろうから、そういう人用の広告塔として浅はかな人にも使い道があると受け取っておけばいいのだとしても、それも功利的な判断に結びついて、道理や倫理を重んじる人には不満が残るところだろうが、功利的な判断と道理や倫理が必ずしも対立する概念とはならない可能性もあるわけで、それらを全て満たすようなことにはならないとしても、逆にどれか一つを優先させると壊れてしまうような関係を想定しておいた方がよく、そこで微妙なバランスを保っておかないと、たちまちおかしくなってしまう成り行きがあり、そこだけの局面を切り取って、安易に事の良し悪しを言ってみても、良し悪しのどちらの要素も含んで成り立つ関係というのもあるから、下手に介入してはっきりと良いものは良く悪いものは悪いと主張しながら主導権を握ろうとすると、なおのこと面倒でややこしい紆余曲折を伴ってしまうわけで、そうなるのが面倒だからといって、なおざりにしてしまうと、後でひどい目に遭ってから後悔することになるとも限らないが、できる限りで対処すればいいようなことであるとしても、事態に対処するために丁寧に面倒を見ていけば、満足には至らなくてもそれなりの結果を得られて安堵できればいい程度の水準で妥協すべきなのかも知れず、そうならなくてもいい程度のことだと、どちらでも構わないようなことになってしまい、それをどう判断してもすっきりとはせず、何か引っかかるものを感じながらも、そういった成り行きにかろうじてついていくような感覚でいられたら、地道にそれを継続していくしかないが、そこから何か転機が訪れるような予感がしてもしなくても、事態が泥沼にはまってしまうような予感がしない程度の水準でとどめておくことが肝心だとは思いたいところだが、そんな思いが維持されている限りで、良くも悪くもないような曖昧な程度に状況がとどまっていることになるのかも知れず、そういうはっきりしない中途半端な状態を維持することに嫌気が差してしまうと、何かが暴発するようなことが何の前触れもなく突発的に起こるかも知れないが、そんな暴発を起こした人が耐えられなかった事態というのが、現状の世界中で起こっている物事の一部始終であるとは言えないにしても、少しはそうなっているような気がするわけで、そうだからといって特にこれから何がどうなるわけでもないのだろうが、これからも退屈紛れに暴発する人や集団が後を絶たないことは、想像に難くないだろうから、煮え切らない態度で曖昧な態度を取り続けることに我慢がならないと早合点するようなことでもなく、それなりに態度が明らかになっていて、中にはわかりやすい主義主張を述べる人もいくらでもいるだろうから、それがその人なりのリップサービスだと言いたいわけでもないが、人によっては本気でそう思っていて、自身が思っていることをそのまま自身の行動に同期させているつもりなのかも知れず、それでも構わないのはある意味で当然のことだが、そこからその人の信念が生まれるだろうから、それを取り立てて皮肉たっぷりに賞賛したいとも思わないが、事の真相はそんなものではないと知ったかぶりを装いたいわけでもなく、ただそういうレベルでは普通にそういうことが起こっていて、それで何の問題もないわけだが、ではそれ以外のレベルがあるのかといえば、そんなレベルなどないと断言できるわけでもないが、そうとは言い切れないようなレベルがあり、そこで誰もが迷い戸惑っているわけで、何を主張されようとそれが全く心に響かないような人が結構いて、それが何を言われても馬耳東風な態度だと見なしたいわけではなく、意識してそうなっているのではなく、意識しない心理的な領域で何が起こっているともいえないが、何も起こらなくても構わないわけではないとしても、そんなことが問題とはならず、それとは別の方面の問題に対処しているわけで、またその問題とは別の方面では別の人や集団が何かそれとは別の問題に対処しているから、それらが回り回って何を示しているのかといえば、それが何でもないようなことではなく、どこかの人にとってもどこかの集団にとってもそれなりに重大で深刻な問題となっているのだろうし、そういった方面とは関係ないわけでもないのに無関係を装える人や集団も存在していて、それらの人や集団が何か悪さをして悪影響を及ぼしているわけでもないのに、実際に問題に対処しているつもりの人や集団にとっては目障りで、できればそこから排除したい衝動に駆られるような邪魔な存在となっているわけだ。


12月7日「ぬるま湯に浸りながら思うこと」

 これまでも別にぬるま湯に浸かっていたわけではなく、世知辛い世間の厳しさを自身の身を以って体験してきたはずだが、世知辛いの辛いという言葉の意味には困難であったり厳しいという意味合いはないそうで、それでも何か個々の人の性格が元からそうなっているのではなく、そうなっているというのがどういうことなのかというと、世知辛さを感じさせるような仕打ちを受けるとそう思うわけだが、世の中の構造とかそうした構造を作り出している制度や慣習や機械システムが、世知辛さを感じさせるような仕打ちをする人を生み出すのではないかと思ってしまうのだが、そう思うと個々の人を批判するわけにもいかなくなるということでもないが、何かさもありなんというか、世知辛い仕打ちを仕掛けてくる人をどうこう言う気にはなれず、その人に非があるわけでもなく、そういうことをやるシステムに従っているだけで、そのシステムというのが機械システムだけだとは思えず、それよりは慣習やしきたりなどから受ける影響の方が大きいのではないかと思われるわけだが、それをロボットのような動作だと思う人などいないだろうが、その場のシステムに従うことが当たり前のこととしてまかり通ることに異を唱えるのもおかしいが、それが理不尽なことだとも思わないし、ビジネスライクな関係であれば、そういうことだと割り切って対応するだけで、それで何の問題もないことなのに、何か肝心のシステム自体に嫌な感じを覚えるから、勝手な思い込みを伴いながら嫌がらせをされているような気になってしまい、不快感を覚えて気持ちが落ち込んでしまうわけで、その程度で落ち込んでいては生きてはいけないとは思うものの、社会の隅々にまで不快なシステムが張り巡らされているような感じがするのは、そういうシステムに従順な人ほど不快な印象を伴うから、何とかしてそういう人の不快な対応に耐えるしかなく、こちらが顧客としてサービスを受けているのにそんなことでは本末転倒なような気もするが、制度的にそうなっているわけだから、個人の力でそれをどうするわけにもいかず、正々堂々と異を唱えて、そんなサービスは拒否するほどの力も財力もなければ、足元を見られて黙って従うしかなく、何かそういうところで制度の威を借りて、権力の上下関係を構築するようなことを仕掛けられると、それを許してこちらが黙っているのをいいことに、ますます図に乗ってマウントポジションを取ろうとするわけでもないのだろうが、そういう駆け引きではなく、もっと普通にビジネスライクに事を進めてほしいのに、別にこちらが尊大な態度で威張り散らそうとする気もないのに、なぜかおかしな紆余曲折に陥ってややこしい事態に陥ってしまうから、なぜそうなってしまうのかがよくわからないわけで、何かあちらが気分を害するようなことをこちらがやったのだとしたら、それも違うような気もするし、普通にこちらがいいと思って買った商品なのに、買ったこと自体が気に入らないのか、そんな商品を買ったこちらが悪いと言わんばかりのことが、アフターサービスとして次々に起こり、あちらは嫌がらせを仕掛けている気も意図もないのだろうが、こちらにとっては罰ゲームのような仕打ちなのだから、それに関係する制度が悪いとしか言いようがないわけだが、ではなぜそんな商品が売られているのかといえば、それに魅力を感じて買った者をいじめるために売っているのではないかと思わせるような仕掛けとなっているわけで、それをどう捉えても納得がいかず、そんなサービスを受ける度に不快な思いをするしかなく、それが狂気の沙汰であるはずもなく、ごく普通に行われていることであり、その普通に行われていることに異を唱えるのも憚られることであるのも、制度的にはその通りなのだが、要は客として威張りたいなら金を出せということなのだろうが、それを何とかうまく立ち回って、節約しつつも、買った商品を手放さずに持ち続けることが至難の業なのかも知れず、そんな駆け引きをしながら持っているほどの物なのかといっても、そうとも思えないし、イヤならさっさと手放せばいいのだろうし、実際に懲りてさっさと手放して、そんな意味不明で一方的に不利な駆け引きとはきれいさっぱり縁を切る人もいくらでもいるのだろうが、そういう制度に依存して商売をやっている人や企業にとっては、そのかっこいい形に魅力を感じて商品を買ってしまうカモから少しでも多くの金銭を搾り取ることが目的なのだから、もちろんそんな目的をはっきりと意識しているわけでもないだろうし、それが目的だなんて全く気づかないまま商売に従事している人もいくらでもいるのかも知れないし、そんな結果からこちらが勝手に妄想してしまう偽の目的には違いないのだが、そういう気にさせるようなことが次々に起こってしまうから、それが納得できずに不快だからそう思っていればいいのだろうが、不快感を覚えながら持っているような物でもないのだろうから、やはりイヤならさっさと手放せばいいということでしかないわけで、しかも過去にも十分に懲りるような仕打ちを受けながらも、また性懲りもなくそんなことの繰り返しを体験しているわけだから、馬鹿にもほどがあるということでしかないが、そうであるならこちらにも非があることを認めなければならず、買った後から面倒なことになるのをわかっていながら買ったわけだから、その辺は自己責任で対応するしかないのだろうし、アフターサービスに不平不満を抱きながらも、それをあからさまに口や態度で示すわけでもないが、それでもおかしいと思うことは愚痴として書き記さないと我慢がならないわけだ。


12月6日「生け贄の儀式」

 何かを生かすために他の何かを犠牲にしなければならないと思い込むことが、生け贄を神に捧げるような古代の呪術的な宗教において通用する論理だが、そういう論理が現代でも通用しているかというと、あからさまに生け贄を捧げるような儀式はほとんど行われていないが、象徴的な面では未だに通用していて、誰かが犠牲になることによって他の誰かが助かるような成り行きも実際に起こっていると思われるし、食うか食われるのかの生物的な面での食物連鎖自体がそのものだが、それと社会の中で人や集団の活動において起こることをそのまま比較するわけにはいかないが、リベラルな民主主義の理想としては誰も犠牲にならないような社会の実現を目指していて、それが競争原理に囚われた新自由主義的な論理に従っている人たちにとっては受け入れ難いというか、そんなのは実現不可能なように思われると共に、その種の人道的な理想主義者を能天気な左翼と呼んで馬鹿にしたいのだろうが、資本主義経済の中で行われていることの実態を見るなら、そう思われても仕方がないだろうし、そこで実際に活動している中で感じる実感としても、他者を攻撃したい衝動を抑えきれない事態に遭遇する度に、現実に誰も犠牲者が出ないなんてあり得ないことを思い知るだろうが、それでもあからさまな戦争行為はなるべく避けようとするだろうし、他人が犠牲になるならまだしも、攻撃の巻き添えを食って自らに被害が及ぶような事態は避けたいだろうから、少なくとも暴力の連鎖は避けなければならず、あからさまな攻撃にならないように、できるだけ穏便に事を済ませたい事情も生じてくれば、そういつも都合良く事態が収まるわけにもいかないとしても、やむを得ず他人と争うにことになれば、直接的な攻撃の応酬となるのではなく、弁護士や検事などの代理人を立てて法廷闘争のような成り行きへと持っていこうとする場合もあるだろうから、食うか食われるかとか命の奪い合いになるのを避けるためという理由でもないだろうが、技術的かつ制度的なゲームに持ち込んで、とりあえず暫定的に勝ち負けを決めるような成り行きへと持っていくのが、現代的な傾向かも知れないが、もちろんそんな傾向の中でも殺傷事件などが絶え間なく起きているし、現に戦争も起こっているわけだから、同時並行的に様々な程度や傾向を伴いながら方々で争いごとが起こっていると事態を捉えるしかないが、それだけではなく、中にはできるだけ争わないような配慮がされている方面もあるだろうし、都合が許す限りで、できるだけ争わないような成り行きへと持っていこうとする努力も、様々な方面で試みられているだろうから、何事も一概には言えないことだが、争わずに犠牲を求めるやり方が生け贄の儀式であり、そんな儀式が行われる際にはすでに争いごとが済んでいていて、通常は争いに勝った側が負けた側を生け贄に使うことになり、一連の成り行きから儀式の場面だけを切り取って眺めて見れば、そこでは確かに争いとは無縁の行為が行われているが、そこに至るまでの間で異なる部族間や村落共同体の間で戦争が行われて、戦争に勝った側が負けた側の捕虜などを使って生け贄の儀式を行うことになるのだろうが、それが戦争行為を正当化するための儀式となれば、そんなことをやっているうちに次第に儀式の方が重要となってきて、今度は定期的に儀式を執り行うために定期的に戦争をしなければならないような逆説的な成り行きが生じてくるかも知れず、そうなると絶え間ない戦争による荒廃によって、一定期間にわたって栄えていた文明が衰退する原因となるのかも知れないが、戦争と生け贄の儀式の関係がそうだとしても、それが戦争ではなく天変地異を治めるために行われる場合もあるだろうし、地震や火山噴火などによって社会が壊れるような大災害が起こった際に、壊れつつある状況から人々の目を逸らすために儀式を頻繁に執り行うと決めつけるわけにもいかないが、それが儀式だとは気づかない場合もあるかも知れず、もちろんオリンピックや万国博覧会などがこれ見よがしの儀式であるのは、誰の目にも一目瞭然だとしても、ちょっとした娯楽のためのイベントなどが、それ以外の何を目的としているとも思えないし、気晴らしの娯楽なども気晴らし以外の目的を想像する必要もなさそうだが、そこで何が犠牲となっているとも思えなければ、わざわざそんなことを考える必要もないが、カタールでサッカーのワールドカップを開くための施設を建設する際に数千人の外国人労働者が犠牲となったと聞けば、別にそこで生け贄の儀式が執り行われたわけではなく、建設工事の際に事故や灼熱地獄のような労働環境の中で死んだのだろうから、さもありなんと思うしかないが、関係者が死に至らなくても、何かしら国家規模の大げさな儀式などには犠牲がつきものなのかも知れないが、リベラルな民主主義の理想として誰も犠牲とならないような社会を実現するには、なるべく国家規模で大げさな儀式を執り行わないことが前提となるわけでもなく、それとこれとを結びつけるような発想などあり得ないが、国家的な行事として何かを大げさに執り行うと、それだけ無駄な予算と手間暇がかかって、人々の暮らしが疲弊する可能性がありそうで、そんな国家的な大げさな行事というのが戦争そのものであるような気がしなくもなく、最近も日本の防衛費を2倍に引き上げるために税を重くするとかいう議論を平気でやり出す政治家も出てくるのだから、その人物が意識してそんなことを思っているわけでもないだろうし、国家の衰退を肌で感じているから、なおのこと無意識のうちにそういった方面へと議論を向かわせていると勘ぐる必要もないが、将来そういう人たちが思いもしないような成り行きが待ち構えているのかも知れないし、それが大規模な天変地異や自然災害や戦争などなら、誰もが思い浮かべるありふれた未来となるが、そうではないとしたら、そんなことを想像できる人など誰もいないのではないか。


12月5日「流行と論理と幽霊」

 例えばいかに物事の流行り廃りに敏感に反応できるか否かが、事の成否を決める上で重要な要素となるなら、そんな流行現象に囚われている人の判断が流行に依存してしまうのは言うまでもないことだが、その一方で恒常的に成り立っているように感じられる論理や理屈に囚われていることが、一時の流行に流されない態度になるには必要不可欠かというと、流行にも論理や理屈にも囚われないことが、態度や対応の柔軟さをもたらすとしたら、それも俄かには信じ難いことかも知れないが、逆に頑固で融通の利かない態度を装うことも時には必要かも知れず、その頑固で融通の利かない態度というのが、その人が特定の論理や理屈に囚われている兆候を示すなら、流行現象に囚われていないことの証しとなるかというと、流行現象を説明するのに特定の論理や理屈が必要となるなら、特定の論理や理屈を用いて流行現象を説明すること自体が世の中で流行っている可能性もあり、その論理や理屈が特定の流行現象から生まれてきたと考えることもできて、論理や理屈に囚われていること自体が、それを用いて説明される流行現象にも囚われていることの証しとなりそうで、流行と論理や理屈を対立する概念として捉えるのではなく、相補的な関係と捉えるべきかも知れないが、こんなふうに述べること自体にも何かしらごまかしやまやかしが含まれている可能性もあるから、その場の流行に囚われて特定の論理や理屈を信じてしまうことが、物事の本質をとり逃していることの証しとなるかも知れないが、いちいちそんなことを恐れていては何もできないし、存在しない幽霊を怖がることも時には必要で、実際に幽霊を怖がることも流行現象に含まれるなら、頑固で融通の利かない人が頼っている論理や理屈も、幽霊を怖がらずに目的を遂行するには必要不可欠かも知れないから、総合的に判断するなら、流行に囚われながらも、特定の論理や理屈を用いて自らが囚われている流行現象という幽霊の正体を明らかにする必要があり、そうすることが頑固で融通の利かない人が遂行すべき目的だと見なしても、当たらずとも遠からずな気はするが、それもそう捉えておくのが無難な認識かも知れないが、それ以上に真実を明らかにしようとすると、ミイラ取りがミイラになる危険性があり、確実に信じられる論理に基づいて判断しているつもりが、そう判断すること自体がその場で流行っている一時的な流行現象でしかなかったことが、やっていることがうまくいかなくなってきてから気づいて、もはや手遅れだと悟るしかないような事態となってから、何をどうすればいいのかわからなくなるようなら、その場で流行っている流行現象の罠にはまったことになるかも知れないが、それに関してよくあるのが流行現象の最中に流行に飛びついて、後は流行が下火になる過程の中で、安易に流行に飛びついた愚かさを後悔するばかりとなる事態だが、必ずしも流行が短期間に収束するとも限らず、それが長期化して世の中に定着してしまえば、もはやそれが流行ではなくなってしまうわけで、そのもはや流行ではなくなった風習の類いが慣習と呼ばれる日常の決まりきった動作や行為になるのかも知れないが、果たしてそれらの動作や行為に恒常的に成り立つような論理や理屈が含まれているかというと、含まれているとしても、それをいちいち取り出して確かめるまでもないことかも知れず、それを論理や理屈とは意識しないで、無意識の動作や行為に含まれているから、そうするのが当然のこととして織り込み済みになっていて、改めて問うまでもなくそうしているから、逆にそうしないことの方がおかしく、そうすることが問題とはならないわけだが、それが特定の集団内ではそうすることが取り立てて問題とはならない動作や行為に含まれる論理や理屈だとしても、その集団には属さない外部の人には奇異に感じられて、何かおかしいのではないかと思われるとしたら、それが集団内では恒常的に成り立つ決まりや掟の類いに結びついているとしても、外部の世界では通用しないと思われて、内に閉じた村落共同体の内側でのみ通用する論理や理屈となるかも知れないが、そこからそうした村落共同体の中で信じられている幽霊や精霊という存在も想定できるだろうし、実際にそれらを見たと思っている村人も結構の数に上るなら、それがシャーマニズムの論理や理屈になるのかも知れず、実際にその種のシャーマンに導かれた人々が外部の世界の人々とは真逆なことを信じているなら、その元となっている論理や理屈も外部の世界の人々とは真逆な考えから成り立っている可能性もあるわけで、しかもそれが現実の村落ではなく、例えばネット上の特定のサイトに集う集団であるなら、その集団の中で当然のこととして信じられている論理や理屈が普通のメディアで伝えられている世の中の動静とは著しく食い違うような情報を基にして構成されていて、実際にその理屈や論理を駆使して、一般のメディアで主流となっている論調とは真逆なことを伝えている実態もあるわけだが、それをいつまでも維持できるかといっても、それらの論理や理屈にとって都合の悪い出来事や事件が起きる度に、屁理屈のような解釈が披露されて、そんな解釈への賛同者たちがそれへの支持や賛同を表明する動作や行為が飽きもせず繰り返されている実態もあるなら、しかも中には一般のメディアと一致するような意見や主張も混じっていて、そうやって信者が極端な世間知らずにはならないように配慮されているのかも知れないし、また外部から新たに信者を獲得するために、そういったところで工夫が凝らされているのかも知れないが、そういう一般受けするような意見を述べている途中から、何かおかしなことが主張され始めて、それが連続的につながっているように感じられるから、浅はかな人が騙されて新たに信者となってしまうのかも知れず、そうだとしても結果的に明らかとなる論理や理屈が、どう考えても欠陥があるように思われるなら、それがそれらの村落共同体の外では通用しない論理や理屈となっているからそう思われるわけだが、全てがそうだとも言えず、意外とそこでは一般のメディアでは明らかになっていない世界の真実が暴露されている可能性もあるのかも知れない。


12月4日「緊縮財政と積極財政という単純化」

 相変わらず回りくどいことを述べているようでいて、それが屁理屈になってしまうとも思えないのだが、はっきりとわかるような答えが出るはずもないことについて考えているつもりで、実際はそうでもないのかも知れず、少しでも理解できるような気がするからそれについて考えているわけで、何かしら答えが出てくる可能性を捨てきれないから、さらにそれについて語ろうとしているのかも知れないが、ではいったい何について語ろうとしているのかといっても、それがはっきりとはわからないようなことかも知れず、確かにはっきりとはわからないが、兆候や傾向としてわかっていることもあり、それが何かといえば、例えば世界的な物価高に直面している中で、主要国の中央銀行が軒並み政策金利を上げているのにも関わらず、日本の日銀だけがなぜか低金利政策を継続していて、そうなっている原因について未だ納得できる理由が示されておらず、日銀としては金利を引き上げるわけにはいかない理由があるから上げないのはわかるが、他の主要国の中央銀行が物価高の対策として当然のことのように金利を引き上げることができるのに、日本の日銀だけがなぜ金利を引き上げることができないのかについて、納得できる理由が示されていないように思われるのだが、何か他の主要国と日本とで違う事情があるのだろうが、その事情が何なのかがはっきりとはわからず、その違いがはっきりと示されているわけでもないはずだが、それに関しても何か納得できる理由を知りたいわけだが、それに関して巷で緊縮財政派と積極財政派という虚構の対立軸を設定して煽り立てている人や勢力が、理由をわからないようにしていると考えると、辻褄が合うような気はするものの、彼らが意図してそんなことをやっているわけではなく、彼らは彼らで自分たちが主張する積極財政論への支持や賛同を募るためにそんなことをやっていて、財務省という敵を設定して、緊縮財政派の財務省とその賛同者たちの陰謀によって日本が危機的な状況に陥っていると主張しているわけだが、どうも実態はそうではなく、危機を煽るといういつものながらのオオカミ少年的な紋切り型で、ただ単に政策金利を上げたら日銀が大量に買って保有している日本国債の金利も上がって、その評価損が増えて買い支えられなくなると捉えておけば良いのか悪いのか、市場での日本国債の需給バランスが崩壊してしまうと、国債の価格が急落して、日本が財政破綻に陥ると言うと、それこそ積極財政派としては、そんなのは幻想だと言いたいところだろうが、問題なのは日本政府の通貨発行権ではなく、日本国債の国際的な信用だと捉えるなら、その辺がどうもよくわからないのであり、こんなことを述べている時点で、すでに初歩的な誤りに気づいていないのかも知れないが、確かに債券を保有していて満期がくれば元本と利息分を確実に得られるのだろうが、もちろん国が倒産しないことが前提で、さらにはその国の通貨が他の国の通貨と比較して著しく安くなってしまうと、要するにハイパーインフレという極端なところまでは行かないにしても、価値がそれだけ減って、国債を保有している外国の投資家にとっては損失となるだろうし、国内の投資家もインフレによって通貨価値が目減りすれば、元本+利息分の金額が買った時より安い価値でしかなくなってしまうのだろうが、それ以前に日本国債の利息自体も現状では極めて低いから、利息を期待して買うようなものでもなさそうだが、では何のために日本国債を買うのかというと、海外の投機筋が空売りして急落したところを安く買い叩くために買うのか、そういう買い方も想像はできるが、その辺も詳しいところはよくわからないのだが、少なくとも魅力のない日本国債の買い手の姿を積極的には想像できないし、例えば国内の大手銀行が半ば強制的に国債の入札に参加させられて、日本政府に脅されながら事前に割り当てられた分を押し売りされるというわけでもないだろうが、結局は日銀が銀行経由で買い取る手はずがついているなら、国債の売買そのものが八百長なような気がするのだが、そういうやり方がまかり通っているなら市場経済そのものを歪めていることになるだろうし、本来ならやってはならないことをやってることになるはずだが、そうではなく、市場経済が真っ当な成り行きで機能する順序として想像できるのは、例えばその国の経済成長率が物価上昇率より高く、その国の政府が発行する国債の利率も物価上昇率より幾分高く設定されているなら、安全資産としての国債にも魅力が出てくるはずだが、日本の過去二十数年間は、経済成長率が低く、しかもインフレの逆のデフレだから、国債の利率が他の主要国の国債の利率と比較して、相対的に低くても問題ないと受け取っておけばいいのか、その辺も詳しくはよくわからないが、現状では物価がデフレからインフレに移行したのに、日本だけが政策金利を低く維持して、国債の利率も日銀が買い取ることによって人為的に低く抑え込もうとしているわけだから、何かおかしなことが起きていると見るしかないだろうが、それを異常事態と捉えて日本経済の崩壊が間近に迫っていると予言できる根拠となるとは思えないにしても、理由が結果から導き出されるなら、実際に日本経済が崩壊した後から、何やらもっともらしい理由が出てくるだろうから、まだ崩壊していない現状の中で崩壊を前提に先回りして理由を想像してみても当てが外れるだろうし、そんなことまで考える必要はなく、とりあえずは間近に迫った崩壊を予言して危機感を煽り立てるのではなく、逆に大したことにはならないことを前提に動いていくしかないのかも知れず、そうしないと思いがけないことが起こって驚く機会を得られないわけで、何かが起こった後から、そらみたことかとそんなことは事前にお見通しだと言わんばかりに威張ってみても、それこそが紋切り型的な態度の典型例に過ぎないから、何かそれではまずいような気がしてしまうわけだ。


12月3日「途中で考え直す」

 社会の中で何か目立つところやひどいところに目を向けるのではなく、一見何でもないようなところから物事を考えてみないと、なかなか物事の本質が見えてこないというわけではなく、物事の本質とは何かという問いが何を明らかにすることもないのかも知れず、何かを問わなければ何も考えないわけではなく、また考えたところでわからないこともいくらでもあるから、考えるだけ無駄かも知れないが、時には無駄に考えることも必要かも知れないから、それがどのような物事であっても、それについて考える必要があるのかも知れないが、必要があるから考えるのではなく、強いられて考えさせられる場合の方が多そうで、それが何に強いられるのかといえば、例えば思いがけない状況や情勢の変化に直面して、何らかの対応を迫られるから、どうすればいいのかとあれこれ考えを巡らすのだとしても、そこで結論を出して実践に結びつけようとするとしても、絶えず疑念を抱きながら行動していれば、行動の途中でも考えていて、途中で考えを改めざるを得なくなれば、何かそこで伸るか反るかの選択を迫られているようにも思われて、そこでも考えることを強いられるのだが、相変わらずいくら考えても埒が明かないようなことで迷ってしまい、また考える以前にやるべきことがあるような気もしてくるなら、やはり考えるだけ無駄なのかも知れず、たぶん考えるまでもないことを考えていて、そこか考えてしまう分だけ行動が遅れてしまい、対応が後手に回って手遅れとなってしまえば、行動を躊躇して考え込んでしまったことを後悔するだろうし、考えるのも実践として何かを行うにしても、その機会を捉えないとそれ自体が駄目になってしまう場合もあるから、その時期やタイミングを捉えることが重要なのかも知れないが、そんな巡り合わせを調整することなど至難の業かも知れず、それができなければ結局は行き当たりばったりで考えて行動する羽目になって、その時期やタイミングが合わなければうまくいかなくなって、無駄に考えて無駄に行動したことになれば、徒労に終わって得るものが何もなかったことにもなりかねないから、だからといってどうすればいいのかわからなければ、途方に暮れるしかないのだろうが、たぶん考えることにはそうなることも含まれていて、考えたからといって何がどうなるわけでもない場合があり、いくら考えても行動が伴わないと何がどうなるわけでもないが、行動が伴ったところでうまくいかなければ、かえって自業自得の苦境に陥って、ひどい目に遭う可能性もあるから、考えればいいとか行動すればいいとかいうことでもなく、何も考えずにその場の成り行きにまかせるとか、時にはそんな態度や姿勢も必要になってくるのかも知れないが、こうすればいいとかいう他人の勧誘や誘惑に応じて、その通りのことをやった挙句にうまくいったりいかなかったりする場合もありそうだが、そうなったとしてもあまり因果応報とか等価交換の原則が通用するとも思わない方がいいのかも知れず、大抵は報われないことをやって、何も得られなくても構わないと思っておいた方が良く、得られないどころか、こちらが一方的に損するような立場も引き受けなければならず、何をやっても徒労に終わるぐらいがちょうどいい結末であり、逆に小さな成功と引き換えにして、しょぼい幸福感を得てしまうと、小さな幸福を守るために汲々とする日々を送らなければならず、そんな人が世の中にいくらでもいるような社会が、良識派の政治家が口にするような分厚い中間所得層が主体となる社会なのかも知れないが、そんな考えがみすぼらしいと思うから、大きな不幸を背負いながら立身出世を目指したり金持ちになろうとして、その大半が競争に負けて脱落することになるのかも知れないが、それもフィクションの中で実現するような架空の競争であり、実態はそうではなく、競争になっていないようなところで、誰かに思いがけない機会が巡ってきて、そのチャンスを物にした人が成功したように見えるのだが、そう見えるだけで、あらかじめ成功すべき人が決められているわけでもないし、なぜか知らないがそうなってしまう人にとっては、それが何でもないことのように思われるわけでもないが、実際に人一倍努力してそうなった人には、その根拠や理由が確かな実感として得られるだろうが、そうでもないようなことも起こり得るのかも知れないし、またそうでもなくてもそれで構わないような成り行きとなってしまうのかも知れず、だからといって日々の努力など無駄になるしかないとも言えないし、何らかの結果を得られた時に実感が湧いてきた方が幸福感に浸れるだろうから、努力するに越したことはないが、努力だけでどうにかなるような成り行きではないことを思い知らされる場合もありそうだから、そうなった時には何かそれに代わる根拠や理由を用意しておかなければならないと思うなら、もちろんそんなものを用意する気にはなれないし、気にする必要もなければ用意しておかなくても構わないが、何事も用心するに越したことはないと思うなら、あからさまに偶然の巡り合わせでそうなったと自身に言い聞かせられるかといえば、それも必要のないことであり、事前にそうなった時のことをいくら想像してみても、取らぬ狸の皮算用となってしまうだろうが、そんな結果に至れば思い当たる節などいくらでも思い出されて、それが理由でそうなったと思い込んでおけばいいことでしかなく、そう思うこと自体が事後的な合理化作用であり、そうならなくてもそう思ってしまうぐらいなら、そうなった理由自体が取るに足らないどうでもいいような理由でしかないのかも知れないが、それでもなるべくしてそうなったように思われるなら、たぶん自己正当化の罠にはまっていて、大抵の人はそれでも構わないとしても、果たしてそれが何のチャンスを物にしたかで、勘違いの度にもそれなりの差異が出てくるかも知れず、例えばそれが憲法に記されているような月並みな幸福を追求する権利のレベルではなく、もっと個人的な面に偏った、具体的で他の人たちには通用しないことであるなら、それが万人に通用する幸福ではないばかりか、幸福という表現には収まりきらない何かを掴んだような妄想を抱けるなら勘違いにも程がありそうだが、そういう意味で勘違いな妄想を抱くのにふさわしいレベルに達したことになるかも知れず、それが無駄に無意味に考えることと結びつく可能性もあるのではないか。


12月2日「血も涙もない慇懃無礼さ」

 血も涙もないと言うと一般的には冷酷非情な印象を受けるが、慇懃無礼と言うとそれとはちょっと違って、あからさまに血も涙もないとは言えないが、上部だけは丁寧な対応だが中身が伴っておらず、思いやりに欠ける応対を思い浮かべてしまうが、どちらがわかりやすいかというと、血も涙もない冷酷非情な対応の方がわかりやすいにしても、慇懃無礼な応対の方が、制度的に安定した社会環境や職場環境の中ではよくありがちな傾向となり、不快な気分になるのはどちらもだが、その程度や傾向や方向性が異なり、より意地悪く狡猾な印象を受けるのは慇懃無礼な応対に出くわした時だが、岸田首相のようにあからさまに慇懃無礼だと、これ見よがし過ぎて、逆に馬鹿なんじゃないかと思われて、馬鹿の一つ覚えのようにそんな対応しかできないのではないかと疑ってしまうが、その種の愚直な不器用さがかえって周囲の関係者にとって安心感を生むのだとしたら、何か騙されているようでいて、逆に利用しがいがあるから、より意地悪く狡猾な人々には好まれる態度なのかも知れず、もちろん印象としては意地悪く狡猾そうに見える人ほど小物臭が漂ってきて、スネ夫的なわかりやすさも感じられる限りで、そんなマンガチックな人物は実際には存在しないのかも知れないが、日本的な官僚制度に程よく適合した人物だと言えるなら、政府を批判する人たちには印象が悪いのは毎度のことだが、取り替えが利く人材であることには変わりないとしても、果たして取り替えが利かない人材が必要とされているかというと、必要とされていないのに出しゃばってくるようなアクの強い人材が、良い意味でも悪い意味でもあっと驚くようなことをやってのける気はするものの、悪い意味で呆れるようなことをやってのけるのは、やはり血も涙もない官僚制度の操り人形のような人材なのかも知れず、果たして人間味の全く感じられないロボットがこの先何を成し遂げるのかは微妙にわかりづらいところかも知れず、口だけで何も成し遂げないなら、それも困った事態なのか、あるいはそれでも構わないのかは、そうなった結果次第だが、実際には何も成し遂げないわけではなく、政府を批判する人たちにとっては、より状況や情勢が悪化するようなことを成し遂げるのだろうが、それも立場が違えばそれで構わないようなことなのかも知れないし、さらにどちらであっても構わないような立場や境遇の人までいるとすれば、どうとでも受け取れるようなことなのかも知れないが、批判的な傾向の人が否定するような人材こそが、立場的にはより出世する可能性のある世の中になっているようにも思われてくるからややこしいところだが、人材から見ればそう言えるかも知れないが、そんな人材によって批判されるようなことが行われやすいから、それがより一層の批判される対象となり、批判している人たちが持ち出してくる道理に反するようなことが行われるから批判されるのだろうが、なぜ道理に反するようなことが行われるのかと言えば、功利的に利益を求めるなら道理に反するようなことをやらざるを得ず、利益を求めるために冷酷非情なことを行うなら、違法な犯罪行為や戦争行為に手を染める場合もあり得るが、合法的に利益を求めるには、最低限の礼儀として慇懃無礼な態度を装いたいところであり、もちろん違法行為や脱法行為をやる時でも慇懃無礼な態度でやる場合もあるだろうが、人を騙したり惑わしたりごまかしたりする時には、あからさまに冷酷非情な態度に出るわけではなく、形だけも慇懃無礼な態度になるはずで、もちろん不快感を漂わせるから状況的にもそれとわかるし、嫌なことを頼み込んでくる時にはそういう態度になりやすいのだが、なぜその種の慇懃無礼さが身につくのかといえば、制度的にやりたくもないことをやる羽目に陥るから、とりあえず上部だけでも礼節をわきまえていることが制度に則ったやり方になるわけだが、制度に則って行うことだから制度的には許される行為となり、たとえそれが違法行為だろうと脱法行為だろうと制度の延長上で行われる限り、制度に縛られた人には逆らえない行為となり、制度に則っているのになぜ違法行為や脱法行為ができるのかといえば、それが制度の矛盾を突いているからだが、必ずしも法律だけに基づいて制度が組まれているわけではなく、違法行為や脱法行為を含むような制度となっていて、たとえば警察制度や裁判制度や刑務所制度などが、違法行為や脱法行為が行われないと成り立たないことからも、それは明らかだが、根本的には社会の中で何をやっても制度の網を被せられて、それが法律によって合法行為や違法行為や脱法行為に分別されてしまうわけだが、それが制度に則っているように装うには慇懃無礼な態度で行われることになり、実際には制度というよりは社会的な儀礼の範囲内で慣習に則っていることになるだろうが、良識的な人々が守ろうとする道理や倫理から逸脱して、場合によっては違法行為や脱法行為に及ぶとしても、制度や慣習に則っていればいいのかというと、制度や慣習が定める権力関係や上下関係や家族関係や親族関係の中で、地位や立場や階級や年齢が目上の位置に属するなら、慇懃無礼な態度で目下の者に無理難題なことを命令しても構わないように思われるだろうし、そういうことを平気でやる人にとっては、道理や倫理や法律よりも、自身が縛られている制度や慣習や、それらに囚われた集団内の地位や階級や序列などの上下関係の方が優先されるべきことになるわけだ。


12月1日「宗教と資本主義という誤解」

 そう語ると誤解を招くような言い回しからうまく逃れられているわけでもなく、それ以前に肝心なそれへの言及を避けているように思われると、それが倫理的に許されないというか、では合理的にはどうかといえば、何が合理的かもよくわからず、そうかといって無理に語る気にはなれない程度のことであれば、何となくそれについて語るのは都合が悪そうだから、それへの言及を避けているのかも知れず、だからといって言及を避けている理由を問われるわけでもなく、それを単純に語ると誤解されてしまうというわけではなく、誤解を恐れずに語る勇気がないとかいう事情が生じているわけでもなく、何が誤解を招くとも思えないのに、語ろうとしているそれが誤解に基づいているとも思えないのに、どう語っても誤解を招いてしまうわけでもないだろうが、たぶんそれに関しては誤解されても仕方のないようなことかも知れず、何がそうなのかといっても、あからさまにそれへの言及を避けているわけだから、まともに言及するつもりもなく、言及しない限りで、その誤解を招きかねない何かがわからずじまいとなってしまい、それでも構わないと思うなら、いったい何について語ろうとしているのかもわからずじまいとなってしまいそうだが、それに関係する人それぞれに特有の事情を抱え込んでいるといえば、それに関しておおざっぱなことを語っても的外れとなってしまうから、それを避けて語らずに済ませられるなら、それに越したことはないように思われてしまうわけだが、わかりやすさを求めるなら、誤解を恐れずにおおざっぱに語ればいいとしても、それが倫理的に許されないと思うなら避けるべきで、避けたとしても何を語っているのか意味不明なら、無理に語るだけ徒労となってしまうだろうが、下手にわかりやすい対立関係や敵対関係を持ち込んでしまうと、それも違うような気がして、それでも安易に支持や賛同を募る言説とはなり得るだろうが、実態がそうではないことを知っていると、しかも知っているつもりで実際には誤解しているのかも知れないが、どうもそれは違うのではないかと疑念を抱いているなら、それほど的外れな勘違いを犯しているとも思えないのだが、はっきりと否定するようなことではなく、そこで何かが循環しているようなことなのかも知れず、循環と表現すること自体が誤解を招くとしても、それでは意味不明になってしまうから、具体的な事例を挙げて説明すべきだろうが、何がそうなのかが今ひとつわかっていないわけで、しかもわかっていないのに相変わらず見切り発車でいい加減なことを語り始めてしまい、言葉に詰まって立ち往生してしまうのだが、それでも微妙なニュアンスが伝わるのではないかと勝手に願いながら語るとすれば、たぶんそれが誤解を招くようなことなのであり、そこで誤解が循環しているような気がするわけで、その循環がさらなる誤解を呼んで、何かおかしな成り行きに囚われているのかも知れず、かも知れないではなく、そういうことだと断言できればわかりやすくなるのだろうが、そこで勇気を奮って断言してはまずいような気もして、だからそうかも知れないと曖昧に語るしかないのだが、たぶん誤解を恐れずにそれを単純に語るなら宗教とは流行現象であり、宗教にも流行り廃りがある一方で、それが宗教なのではなく、ある意味ではそれが資本主義経済に特有の現象であり、そう語ると何を語っているのか理解不能となってしまい、なぜ宗教と資本主義が言説の中で対比されるのか意味不明に感じられるだろうが、その中で労働を強いられている人々が何かの宗教に入信しているつもりになれるとしたら、それが何かの宗教であるはずがないが、それ以前に何に入信しているつもりにもなれないだろうが、労働と入信とは直接には無関係に思われるとしても、実態としては何かを信じながら働いているわけで、信じていることを自覚できなくても、そのつもりになれなくても、そこで働いていること自体が信仰のただ中にいることを示していて、信じていないと働けないとも思えないし、働いていること自体が神への信仰とは関係がないどころか、否応なく働かざるを得ないから働いていて、信仰など二の次であり、まずは他の何よりも優先すべきこととして労働しているわけだろうが、神への信仰よりも労働を優先しているかというと、そんなのはわかりきったことだが、では働くことが流行現象なのかといえば、それが働くこと自体ではなく、ある意味で働き方に時代的な流行があり、そのスタイルが一種の流行現象を形成して、時代に特有なスタイルがあり、それがその時代に特有な宗教の流行とリンクしているとも思われないが、両者が並行関係にあるというと、そんなのは勘違いに決まっていると断言したくなるわけでもないが、ちょっとかする程度には隣り合って存在していて、相互に補完関係にあるというと、それもちょっと大げさすぎて、俄かには信じ難いことだが、たぶんそれとこれとは別の物事として分けて考えるとわかりやすくなると共に、実際にそれはそれとして単独で語られるからわかりやすいのだが、労働を労働だけで語ると何かが欠けているように思われて、また宗教を宗教だけで語ろうとしても何かが欠けているように思われるとしても、両者を結びつけて語ろうとしても、どう語ればいいのかわからず戸惑ってしまうだろうが、労働と宗教ではなく、宗教と資本主義についてなら、何やら歴史を紐解いてきて、それに関する固有名として社会学者のマックス・ヴェーバーなどを持ち出して、プロテスタントの労働倫理が西洋の資本主義経済の発展に必要不可欠だったと語るようなら、教科書的なありふれた理解に至れるかも知れないが、例えばそれが韓国の儒教的な勤勉性とどう関係してくるのかというと、そもそも儒教が勤勉とどう結びつくのかよくわからないかも知れないが、薪を背負って歩きながら書物を読む二宮尊徳の銅像が思い浮かぶなら、何となくそんな気がしないでもないが、果たして韓国の小中学校にそんな像があるかというと、それは韓国ではなく日本によくある光景かも知れないが、しかも昔はそうだったとしても、今の日本の小中学校にそんな銅像はないかも知れず、それ以前に儒教が宗教なのかというと、宗教というよりは処世術の類いなのかも知れないが、そういった方面へ話が脱線していくなら、宗教と資本主義に関して何やら下世話なイメージが思い浮かんできて、そんな銅像からイメージされる主義主張が、その時代の流行現象と共通の土壌を共有していたようにも思われるわけだ。