彼の声146

2021年

9月25日「思想信条の利用法」

 人がとらわれている思想信条には、実際にその思想信条に基づいて行動した結果としてうまくいっているように思われるからそれを信じている面があるだろうが、それを何かまとまりのある思想信条と見なしてもいいのかというと、それを信じている人がそう思っているならそうだとしか言えないが、それほどこだわらなければ特にそれを思想信条だと見なさなくてもかまわないし、それを批判する時に特定の否定的に見なされる思想信条を持ち出して、何かレッテルを貼るようにしてそうだと断言するようなことをやる場合もあるが、そうでなければ肯定的に見なしてもいいのかと言っても、それに関して何かしら批判されるような思想信条だと、そうではないと否認したくなるだろうし、そういうところでは自らがあからさまに特定の思想信条に帰依しているとは言いたくないわけで、特に世間的に評判の悪い思想信条は避ける傾向にあるだろうが、もちろん批判する時にはレッテル貼りのようにして容赦なくそれを当てはめて批判したり、場合によっては馬鹿にしたり嘲笑したりするわけだが、そういう成り行きを避けるにはどうすればいいかと言っても、難しそうで普通の一般人にはわからなかったり、一般的にはあまり知られていない思想信条をこちらから持ち出せば、すぐに馬鹿にされたり嘲笑されないだろうが、そういうジャンルを研究している専門家にかかれば、すぐに化けの皮が剥がれてしまうことにもなりかねず、大して理解していないにもかかわらず、インテリぶって難しそうな思想信条を持ち出すのはかえってやぶ蛇となってしまうかも知れないが、そういうところでうまく立ち回るには、絶えず特定の思想信条を批判する側に回り込みたいわけで、それが体制批判であったり宗教批判であったりするわけだが、何かを構築するのではなく、既存の構築された社会体制を批判するだけでは物足りず、脱構築するとかいう詭弁まがいの言い回しまで使う場合もあるわけで、そうなると言葉遊びに堕してしまうのかも知れないが、世の中で通用している制度やシステムは、そういった批判まで含んだ制度やシステムになっているわけだから、それを批判することまで制度化されていたり、批判によって活性化するシステムであったりすると、かえって制度やシステムを維持するために批判するようなことになってしまうだろうが、では何のために批判すればいいのかと言えば、普通は既存の制度やシステムの不具合や欠陥を取り除いて、なるべく不具合や欠陥のない制度やシステムにするために批判するのだろうが、果たしてそれが特定の思想信条に基づいて批判されることなのかというと、その批判を吟味してみないことにはわからないことだが、普通は批判する側が批判する対象が特定の思想信条に基づいていることを示したいわけで、それがレッテル貼りのよくあるパターンとなってしまうわけだが、そういうレッテル貼り的な批判によって何が良くなるとも思われず、その種の批判の応酬によって、互いに否定的なレッテルを貼り合って消耗しているだけのように見えてしまうが、そんな停滞した成り行きも何かの過程の一部となっている可能性もあり、一概にそこだけを見て否定的に捉えるのも木を見て森を見ないことにもなるから、そういう消耗戦のような経過を辿っている中でも、当事者としては耐えて持ちこたえることが肝要かも知れないが、できればそうやって安易に批判する側には回らずに、普通に世間的な成功を目指すなら、特定の思想信条に基づいて何らかの社会体制を構築する側に回りたいだろうし、さらには世間的な成功を目指すという浅はかな考えではなく、他の誰もが納得して賛同するような正義を含む理由に基づいて、それなりに説得力があって正当化できるようなことをおこないたいのかも知れないが、それが成り行き上はできないことでもあり、すでにゼロから何かを構築するような余地がなく、既存の複数の体制が乱立している中で、自身の身の振り方が求められている場合がほとんどなのかも知れず、そうなるとすでに構築されている既存の体制に取り入るか、それができなければ外部からその体制を批判するような成り行きになってしまい、そういう境遇に甘んじているといつまで経っても雑魚扱いから抜けきれないし、結果的に大志を抱くような成り行きにはなりがたいわけだが、それと反比例して自らが心のよりどころとしている思想信条の類いが全世界を覆い尽くすような大げさな内容を含んでいると、自らの境遇のみみっちいスケール感と思想信条の類いが要求してくる誇大妄想的な崇高さとの間で板挟みになって、苦悶するようなことにもなるだろうが、そんなことにはお構いなくその場の状況に応じて事態がその人とは無関係に進行していって、結局はそこにかかわっている多くの人が何でもないような通りすがりの通行人と化してしまうのが、近代から始まった大衆市民社会の特性であり、現実にそうなれば思想信条など無意味なお荷物以外の何ものでもなくなってしまうわけだが、中にはそんな時代状況にもそれなりに対応できる思想信条もあるだろうし、例えばそれが超然として他の何ものにも惑わされずひたすら無為自然を貫くような老荘思想というのもありうるかも知れないし、また政治とは無縁にひたすら科学や産業やスポーツや芸術などの技術的な傾向を追求する在り方もあるかも知れないが、そういったそれとわかる特定の傾向にならないと思想信条とはなり得ないかというと、普通はそう思われるにしても、すぐにそれだとは気づかれないような思想信条も中にはあるのかも知れず、そういう思想信条を目指せというわけでもないにしても、結果的にそうなってしまうこともあり得ると考えておいた方が無難なのかも知れないが、無難さを目指そうとするわけでもないだろうし、意識して絶えず目指すべき傾向や内容を求めてしまうのは致し方ないとしても、必ずしもそうなるとは限らないのが成り行きに身を委ねていればわかることかも知れず、実際にはそうなっているのかなっていないのか定かでない状況の中で、それと気づかずに何らかの傾向や内容を目指していることになるかも知れないが、そういった暗中模索な状況を自分で自覚できれば、すぐにそこから抜け出そうとはせずに、そのままの状態で活動していく中で、知り得たことを踏まえて独自に思想信条を構築していけば、それなりの構造に成長していくかも知れず、それがはっきりとわかるような透過的な構造である必要はなく、不透過で不純物が入り混じっているような構造となり、当人にもよくわからない内容を含んでくれば、それだけ世界の現状を反映したものとなってくるのかも知れず、それに関しては限界や制約のない構築物は存在し得ないわけで、しかも思考作用を伴って構築しようとするのだから、そういう段階では現実には存在しないフィクションとなるしかなく、それでも何かを構築しようとするわけだから、それなりの矛盾も伴ってくるだろうし、都合良く解釈する過程でごまかしやまやかしも伴ってくるかも知れないが、そういうことも含まれるからそれなりに不透過で不純物を含んだ構造となってくるのだろうが、それもあまりフィクションだと割り切らずに、できるだけ荒唐無稽な傾向には陥らずに、世界の現状に沿った内容を目指すことが肝心かも知れず、それを目指すつもりもないのに結果的に目指しているように感じられるところが矛盾しているわけだが、そういう意味でも現に批判の対象となっている物事を安易に切り捨ててしまうと何も残らないから、批判しつつもその中に利用できる要素や要因を探さなければならなくなると共に、積極的にそれらの要素や要因を使う大胆さが求められているとすれば、実際に安易に否定の対象となっている主義主張の類いはいくらでもあるだろうし、ゴミの山が宝の山だと見なすなら、例えばネトウヨとかサヨクとか新自由主義とか社会主義とか、いくらでもガラクタ扱いの主義主張には事欠かないかも知れないが、普通はそれらを軽蔑の意味合いを込めて嘲笑的なレッテル貼りに利用するわけだから、それを逆に肯定的な言い回しに再利用して、それなりの思想信条に結びつくかつかないかは結果からわかることかも知れないが、たぶんそれに関しても矛盾を止揚するのではなく、矛盾を両義的に解釈することによって、それを何らかの思想信条として構成しなければならないのかも知れない。


9月24日「関係の必要性」

 関係の絶対性というのは、関係者や関係団体などではなく関係そのものが絶対になくてはならない関係となってくるのだが、それがあることが当たり前のように思われる関係をなくすのは不可能に思われるが、そうするのが当たり前のように思われることが実現しないと、関係者や関係団体としても立場をなくてしまうだろうし、何が関係の絶対性をもたらしているのかというと、人や団体が活動していくにはどうしてもおこなわなければならないことがあり、例えばそれが関係者や関係団体の間でおこなう物や情報やサービスの売買であれば、どうしてもおこなわなければならないのが売買であり、売買においては売る側と買う側の関係がなくてはならない関係であり、それが関係の絶対性をもたらしていて、売買において売る側と買う側の関係をなくすのは不可能だが、売買そのものが成立しないと売る側も買う側も困ってしまうかというと、全く成立しないのは困るだろうが、活動に必要な資金や物資や人材が揃っている限りで、必要なだけ売買が成立すればいいわけで、その必要性に応じて人や団体の活動も成り立ってくるだろうが、それとは違って必要でもないのに生じてくるのが、人や団体の関係そのものかも知れず、関係がないと思っていても何かしら関係が生じてしまって、かかわるつもりがなくても知らないうちにかかわっているような面倒な事態となって、そうした関係性に執拗につきまとわれてしまうと、必要もないのに他との間で生じたしがらみから売買をおこなう羽目になって結果的に大損するようなことにもなり、なぜそうなってしまうのかよくわからないうちに身を滅ぼすようなことにでもなれば、面倒なしがらみにかかわってしまったことを後悔するかも知れないが、かかわりたくもないのにかかわってしまったわけだから、後悔したところでどうにもならないし、その必要もないのに売らざるを得なかったり買わざるを得なかったりする成り行きが、売買における関係の絶対性をもたらしていることになるのだろうが、いったんそういった関係の絶対性にとらわれてしまうと納得がいかなくても売買せざるを得なくなり、必要でないのに売買を強いられてしまうから関係そのものがおかしいことに気づくかも知れず、その際に何が関係する人や団体を売買に駆り立てているのかというと、買う権利を確保したいという動機であり、いくら買う権利を確保しても、さらに多くの買う権利を求めて売買を強いられてしまい、何が買う権利をもたらすかというと貨幣の蓄積が買う権利をもたらすわけだが、それが貨幣そのもので蓄積されている必要もなく、株や債券などの金融資産として蓄積されている場合もあり、どちらかと言えばその方が好都合な場合もあるにしても、その必要もないのにそうなっているとすれば、では何のためにそうしているかと言っても、結果的にそうなっているとしか言えない面があって、そうなった結果から何かしら功利的な思惑が導き出されてくるかも知れないが、それも結果的に利益に結びつかなければ当てが外れてしまい、その場の情勢の情勢次第では大損してしまう可能性もあるかも知れないが、そうなっている状態にかかわっている人や団体にしてみれば、特にその必要が感じられなくても、買う権利を確保したくてそういう状態を保とうとしていて、それが資産形成の動機にもつながるわけだが、その後においていつどんなことが起こるかも予測がつかないから、不測の事態に備えて買う権利を確保しておけば確かに安心できるわけだが、果たしてその買う権利を使う時がくるのかというと、それも現状ではよくわからないが、とりあえず確保しておきたいわけで、どれほど確保する必要があるかと言っても皆目見当がつかないだろうし、自らがいつまで生きていられるかもわからないし、大雑把に平均寿命程度は生きられることを前提としてどれほどの額を確保する必要があるかが計算できるとしても、それ以上生きてしまうかも知れないし、そこまで達しないうちに死んでしまうかも知れず、それもそうなった結果からわかってくることだから、現時点では何とも言えないわけで、そうやって何だかはっきりしない中でも、とりあえず買う権利を確保するために資産形成をしている最中の人や団体もいるとしても、その必要の有無がわかるのはその後の結果からわかってくることであり、その必要があることを信じてそういうことをやらざるを得なくなることが、結果的に金融資産の増加につながるはずだが、それも株や債券や通貨などの金融資産の売買によって、そういうことがおこなわれている実態があるわけだから、それも一応は物や情報やサービスの売買には含まれるとしても、根本的なところで衣食住などの生活必需品の生産と流通と消費とは無関係なところでそういう取引がおこなわれている限りで、その必要性が疑わしく思われてくるわけだが、ならば疑わしく思われない範囲で何が必要となるのかというと、普通に考えて人が生きていくには衣食住の確保が必要であり、そんな必要に応じておこなわれる範囲内での活動をしていけばいいことにはなるだろうが、実際にそれが世界中でおこなわれているから、その活動によって養える分だけ人が生きていることになり、それも活動がおこなわれた結果から言えることであり、その活動の過程で養える分を超えて人が存在していれば、生きていけなくなって死んでしまうだろうし、そうやって必然的な成り行きとして人口調整がおこなわれていることにもなるのだろうが、それは物や情報やサービスの売買における売る側と買う側との間で生じる関係の絶対性とは違うレベルで起こっていることであり、人や団体の活動の結果として養える人口となるわけだが、そういった活動全体から求められる人口とは関係なく、ただ単に買う権利を確保するための資産形成がおこなわれていることは確かであり、それとこれとは違う活動として分けて考えることができるかというとそうでもなく、それどころか互いに密接に関わり合っていて、実際に買う権利を確保する活動によって必要最低限の衣食住を確保する活動が圧迫されている面もあるだろうが、人や団体の活動の全てがそれら二つの活動に分けられるかと言えば、それ以外の活動もいくらでもありそうで、政府が国家の人口を維持しようとするなら、やるべきことの優先順位として上位に挙がってくるのは、まずは国民が必要とする最低限の衣食住を確保するための活動となってきそうだが、そこでも近視眼的な目先の利害にとらわれて、後先短い老人を見捨てて、これから大人になる子供や働き盛りの成人をいくら優遇しても、自身が老人となったら見捨てられてしまうことを目の当たりにしたら、国や政府に対して不信感が増してくるだろうし、老人になったら見捨てられてしまうような国のために尽力する気にはなれないかも知れず、そういう意味では老人となって働けなくなっても生きていられるような国家体制を目指さなければならないのかも知れないが、国家体制を維持しようとする政府にとっては、そんなことよりも老人の人口増加との医療費の増加に頭を悩まされているかも知れないし、さらにはそんな政府の動向などにも無関心な人にとっては、とりあえずは買う権利を確保するための資産形成が可能な裕福な人たちにしてみれば、経済対策に力を入れてもっと株価が上がるようにしてもらいたいと思っているかも知れず、そういうところでは特に人々の間で利害や目的が一致しているとは言えないはずだが、関係の必要性という観点から見るならば、商品を売る側と買う側の関係の絶対性などはどうやっても動かしようがないだろうが、他に動かしようのある関係があるかというと、例えば政府と国家と国民との関係は、一見動かしようがない絶対的な関係のように感じられるかも知れず、実際に国家主義者にとっては他の何よりも国家を優先してほしいわけで、国民が力を合わせて国家を盛り立てていかなければならないと思いたいのに、そういう傾向に合わない国民がいたり、国家のためにならないような国民もいたりして、それがおかしいと思われるかも知れないし、実際に国家主義者は政府と国家と国民の向かう方向を一致させたいのだが、逆に方向の一致しない国民との関係を維持する必要性を意識できる範囲内で、政府の活動の幅が広がるかも知れないし、それによって近い将来においては、政府と呼ばれる団体以外とも関係を維持する必要性が生じてくるのかも知れない。


9月23日「想像上の他者」

 考古学などの発掘調査で人が過去に存在していた痕跡を探し当てると、過去のある時期に生きていた人の姿やそこでの暮らしを想像するだろうが、遺跡や遺物から想像することはできるが、当時の人間と直接対面できるわけではなく、それは現代に生きている人でもその全てと直接対面できるわけでもなく、また未来に生きているかも知れない人と対面できるわけでもないのも当たり前のことだが、確かにその存在を想像することはできるが、実際に存在するかも知れない他者は、想像上の他者とは違うはずで、直接対面したとしてもその存在は確認できるが、対面しただけではその存在を知ったこと以外の何がわかるわけでもなく、その必要がなければそれ以外は何も知らなくてもかまわないわけだが、その必要がなくても知ってしまうこともあり、知ってしまうということは、対面しただけではなく、言葉を交わして何らかの交流が他者との間で生じたことを示しているかも知れないが、それが取り立てて特別なことでもないし、他者と接触して知り得た内容がたわいないことであれば、それが何を意味するわけでもないが、ただ出会ってたわいない言葉のやりとりをしたにすぎなくても、それで一応は交流したことにはなるだろうし、それは共時的な時間の中での直接の交流であり、生きている期間を異にする過去や未来の他者とは直接交流できるわけではないはずだが、実際には会話などの直接の交流であっても、厳密には相手に対する受け答えの間に時間差が生じていて、正確にその場の状況を説明するなら、過去の相手から発せられた言葉を受け取って、それを未来の相手に返すようなことがおこなわれているわけで、それがメールなどでのやりとりとなれば、さらに時間差が拡大してきて、受け答えの間の時間が長くなるほど相手に対して想像する時間も増えてきて、その間に独りよがりな想像を膨らませて、やりとりしている内容によっては猜疑心や疑心暗鬼の虜となってしまう場合もあるかも知れないが、そういうことまで考慮に入れるなら、例えばもうこの世にはいない人の著作に触発されて、誰かが何か文章のようなものを書いて、その人が亡くなってもその文章が何らかの形で保存されていれば、将来別の誰かがその文章を読んで感想のような文章を記す可能性もあるわけで、そうなれば人の生死を超えた長い期間にわたって言葉のやりとりが生じたことになるのかも知れないが、そうしたやりとりが長引いて想像している期間が長いほど、想像している対象に他の情報も絡みついてきて、その対象が他者であればそれに関連した情報が集まれば集まるほど、それだけ想像の対象となる他者を詳しく知り得たと思うかも知れないが、それが想像上の他者であることには変わりなく、想像上の他者と実際に一定の期間にわたってこの世界に存在した生身の他者とは違うはずだが、より説得力のある論述によって構成された他者が想像上の他者になると、言葉によって示された他者である限りでそれがフィクションになってしまうとしても、実際に存在した他者とは似ても似つかなくても、説得力のある論述によって構成された他者にはそれなりの魅力が生じて、多くの人がその他者に惹かれてしまえば、想像上の他者が実際に存在した他者と入れ替わって、何やら魅力的なイメージを伴って一人歩きして、いつの間にかそれが歴史上の偉人として定着してしまうのかも知れないが、そういう他者と文章の対象にもならないただの一般人とはまただいぶ趣が異なるだろうが、それが文章だけでなく当人の映像や音声も伴ってくればますます現実に存在した他者に似てくるだろうし、それが実際に当人が撮った映像であり音声でもあれば、さらに自身について書き記した文章まで伴っていれば、その人自身ということになるだろうし、フィクションでも何でもなくなってしまうが、果たしてそれでも実際に生きている当人とは違うと言えるかとなると、少なくとも映像や音声が示しているのは当人だとしても、当人が自身について書き記した文章であれば当人が想像する自分自身であり、文章の中でその人によって表現されたフィクションとなるかも知れず、普通はそれをフィクションとは呼ばないが、いくら自分について他の誰よりも知っていたとしても、自分が知らない癖を他人から指摘されることもあるだろうし、自分自身について気づかない情報を他人が知っていることもあるわけで、自分が知っている範囲内では他の誰よりも自分については詳しいとしても、その全てを文章に記すわけでもなく、都合の悪いことは記さないし、また自分自身の映像や音声も、他人に見せても差し障りがないところだけ見せようとするだろうから、そういう意味では文章も映像も音声も自分の都合が反映するように編集されている限りで、本当の自分からほど遠いフィクションとなっている可能性が高いわけで、それを嫌うなら自分だけでなく他の誰から見ても納得できるような自分に見せかけるには、他人に協力してもらって他人に映像や音声を撮ってもらって文章も他人に依頼するようなことをやればいいかというと、たぶんそれでは自分が納得できないだろうし、結局は自分と他人が共に納得できるような妥協的な表現となるかも知れず、それは画家に自画像の制作を依頼するようなことになってしまうだろうが、そうなれば差し障りのない、誰から見てもきれいに見えるような自画像が出来上がるだろうし、それこそがフィクションの自分となってしまうが、一般の人が納得するとはそういうことになる一方で、芸術家の類いが納得するのはそれとは少し違うだろうし、真の自分をさらけ出したいと思って、美醜が入り混じったような、さらには狂気にとらわれているような自画像を制作することになり、そういう面が滲み出てくるようならそれを見る人が心を打たれて、それに普遍的な価値が宿っているような気がしてくるのかも知れないが、それが想像力をかき立てる作品となり、そこに表現されているのが想像上の他者になるとしても、人の気を惹きつけようとする意図や思惑を感じられるなら、人工的に作られた感じがしないでもなく、そういう意味では人為的な制作物には違いなく、それが真の他者からほど遠いと感じるなら、では真の他者とはどんな存在なのかといえば、どこにでもいるありふれた人のように見えるのが、普通に感じられる他者でもあり、普段はその程度で間に合っているはずで、別に改まってその人を他者とは感じていないわけだが、普段の日常の中ではその人に興味を持たなくても済んでしまうだろうし、街路ですれ違っても特に振り返ることもなく、そのまま通り過ぎてしまうのが一般的な意味での他人となるだろうが、そこに単独性とか普遍性とかの観念が絡んでくると、特殊性や一般性では語れなくなってくるのだろうが、何がそういう観念を促すのかというと、社会的な問題意識によってであり、普通はそれがメディアを通じてもたらされるわけだが、それが個人の特殊な事情であれば他人事になるが、他の多くの人にとっても問題になってくると他人事では済まなくなってくるだろうが、ではそれが普遍的な問題なのかというと、それが特定の国や社会を超えて感じられるようなことだと、その国や地域社会の特殊な事情では済まなくなってきて、逆にその国や地域社会に根付いている特殊な風習や慣習などが、その国や社会を超えて誰もが感じるような普遍的な問題を引き起こしているように思われてしまうと、それが特殊性と普遍性を結びつけているような錯覚をもたらすのかも知れず、実際には特殊な風習や慣習も別の何かに脅かされていて、それが資本主義経済を支える商取引によって脅かされていると言うと、直接にそうなっているわけではないから的外れに思われるかも知れないが、実際に特殊な風習や慣習にとらわれている国や地域に貧困がもたらされているなら、その国や地域を越えておこなわれている普遍的な経済活動によってそうなっているわけで、それに対して抵抗するよりどころとなっているのが、その国や地域に特有の特殊な風習や慣習となってしまえば、やはりそこに錯覚が生じていることになるのではないか。


9月22日「新たな事実」

 事前にわかっていることは織り込み済みのこととしてあえて言うまでもないことになるが、これからわかってくることは確認の意味合いも込めてわかった段階で指摘したくなり、何がわかってくるのかというと、新たな事実としてわかってくることであり、それが事前の先入観から予想されるもっともらしい憶測を覆すような認識を伴って、予想する側にとって都合のいい解釈などから外れる事実が示されると、従来からある解釈や認識を改めざるを得なくなるわけだが、もちろん素直に改めるわけではなく、それも都合のいいようにねじ曲げて解釈してしまう場合もあり、そうなると事実がそのまま伝えられることはなく、そのまま伝わってしまうと都合が悪ければ、疑わしい事実として伝えられるし、通常はこうなるが稀にこうなることもある程度のこととして、例外的に起こったことだと解釈されることもあるだろうが、そうすることによって何が守られるのかというと、従来からある解釈や認識が守られるわけだが、その方が都合がいいから守られるわけで、なぜ都合がいいのかといえば、すでに世の中で広く認められて意識や思考にも馴染んでいる解釈や認識を新たに出てきた一つの事実によって変更しなくても済むからだが、しかしなぜそうまでして大して確からしいわけでもない解釈や認識を守る必要があるのかといっても、守っている人々にはよくわからないのかも知れず、あからさまにそう問われるわけでもなく、ただ都合の悪い事実を隠蔽したいだけかも知れないが、別に隠蔽しようとも思っていないだろうし、何となく無視されてしまうような事実があるにすぎず、それとは対照的に誰もが信じやすくて都合のいい臆見や憶測の類いは、実際に多くの人々の間で信じられているわけだが、なぜそれを信じることが都合がいいのかといっても、実際に多くの人々が信じているからとしか言いようがなく、実際に自らが少数派でいるよりは多数派に含まれている方が安心できるだろうし、言葉が通じない相手と難儀して意思疎通を図りながら暮らすよりは、普通に言葉が通じる人々の中で暮らしていたいわけだが、少なくとも特定の解釈や認識を多くの人々が共有している事実があるなら、それらの人々の間では言葉が通じているから解釈や認識を共有できるわけだが、言葉が通じていても解釈や認識を共有できないとなると、すでに解釈や認識を改めさせるような新事実に直面してしまったから、そんな人々の間ではもはや従来からある解釈や認識が通用しなくなっているのかも知れないが、従来からある解釈や認識を共有している人たちが世の中で主導権を握っていれば、新たな事実に基づいた新たな解釈や認識など無視していてもかまわないような気がするかも知れないが、それもいつまでそれらの人たちが主導権を握っていられるかが問題となってきて、言葉が通じている範囲では確かに主導権を握っているとしても、言葉が通じない範囲まで含めるとその主導権が怪しくなっているようなら、いずれ何らかの機会に従来の解釈や認識を改めなければならない時がやってくる可能性もあり、今からでもそんな時に備えておく必要が感じられるようなら、うわべだけは従来の解釈や認識を信じているように装いながらも、新たな解釈や認識も心の片隅では意識しておくという両にらみのような心理状態となってしまうかも知れないが、他の多くの人たちもそんな心理状態となっているようなら、世の中の空気や雰囲気がこれまでとは少し変わってきていることを何となく感じ取れるかも知れず、それも後から振り返ってみると今がちょうどその時期にさしかかっていたのがわかるかも知れないが、少なくとも現状では半信半疑だろうし、だから新たな解釈や認識をまだ完全には信じ切れていないのだろうが、しかもそれが新たな解釈や認識としてはっきりと提示されているわけではなく、また従来からある解釈や認識にしても、特にこれだとはっきりと提示されているわけでもなければ、その区別さえつかないかも知れないが、それが世間でまことしやかに信じられている物事であれば、そこに臆見や憶測の類いが含まれている可能性があるが、さらにそんな状況を逆手にとって、新事実のようなことをことさらに強調して指し示しながら、今までの常識が覆ったと言い立てるようなことをやっている煽動者の類いがいるようなら、そういう人の言っていることも疑わしいのかも知れず、功利的な思惑でそういうことをやっているのが一目瞭然かも知れないが、逆に多くの人々にとって都合の悪い事実が明るみに出て、誰もがそれを見て見ぬふりをするようなら、それが紛れもない事実であり、しかも誰もが否定したいような真実が示されているのに、何事もなかったかのように装われると、そこで事実や真実の隠蔽がおこなわれていることになるだろうし、それが都合の悪い事実や真実に対する世間の反応でもあり、そういうことがまかり通っているようなら、まだ従来からある解釈や認識を守っている人たちが世の中の主導権を握っていると解釈しておくのが無難だろうが、実際にそういう反応が起こってしまうとそれも事実となり、そういった事実の積み重ねが次第に効いてくるわけで、だから方々でそういう見え透いた反応が起こってしまうと、誰もがこれまでの常識が覆りつつあることを実感するだろうし、従来からある解釈や認識を頑なに守っている人たちの力が衰えてきたことも感じ取れるが、そういう認識も新たな認識であり、そうやって不自然な反応が世の中の方々で起こっている事実と、従来からある解釈や認識が覆りつつあるという認識から、世の中が変わりつつあるという解釈も生じてくるわけで、それが特定の煽動者などがこれ見よがしに指し示して言い立てている事実とは異なる新たな事実となるのだろうが、改めてそんな事実がどこかではっきりと示されているわけでもなく、ただ何となく次第に織り込み済みとなってしまうような事実でもあり、そういった変化が周知の事実となった頃には実際に世の中が変わっていて、そんなことには誰もが薄々気づいていて、そんなことを改めて言い立ててもすでにわかっていることだから無視されるだけで、無視されるようなことをことさらに言い立てるようなことは誰もやらないわけで、それとは逆に誰もが注目する新事実となると、それを指し示す煽動者の類いと世間の利害が一致するようなことになるだろうし、何か世の中にとって希望となるような新事実や近い将来世の中を危機に陥れる可能性のある新事実などがこれ見よがしに指し示されるわけだが、別にそういうことを疑ってかかる必要はないわけで、そういう新事実はそれ自体が目的となるようなことでもあり、それが希望となるような新事実であればそれを利用して利益を得ようとする目的となるだろうし、それが世の中を危機に陥れるような新事実であれば、危機を未然に防ぐにはどうすればいいかと考える人たちの目的にもなり、どちらにしても利用可能な新事実となるわけだが、それらとは違って都合の悪い新事実となると、利用できないから都合が悪いわけで、利用できなければどうなるかといえば無視する以外にはあり得ないし、実際に無視される事実などいくらでもありそうだが、それがいくらでもあるなら、世の中が利用することができて都合のいい事実だけから成り立っているわけでもなく、利用できなくて都合の悪い事実も世の中に含まれていて、さらに都合が悪いから無視されているわけではなく、人の都合とは無関係に生じている事実もあるだろうし、中には利用できるのにまだその利用方法が確立されていない事実もあるかも知れないが、事実だけでなく虚構も利用されていて、むしろ虚構である方が都合がいい事実もあり、そうなれば都合の悪い事実を都合がいいようにねじ曲げて、それが真実であるかのように提示されると、それが誰にとっても都合のいい真実になるかも知れず、それが真実に見せかけた虚構であるからには、そんな虚構を信じる人の解釈や認識はあまり根拠の確かでない憶測に基づいているかも知れないし、それが臆見や謬見などを含んだ解釈や認識になっている可能性があるわけで、その方が都合が良ければ誰もが信じられる物事の解釈や認識として世の中で通用している可能性もあるわけだ。


9月21日「現状でできること」

 技術革新の行き詰まりが別の新たな技術革新をもたらすのは至極当然のことだが、技術革新の必要を問われるなら、利益を出す必要に迫られて技術革新を促されるのも至極当然のことだが、それ以外にはまっとうな理由があるかというと、従来の技術では現状で直面している困難に対処できないから、別の技術を開発しなければならないというのもまっとうな理由となり、その困難こそが利益を出すことであれば理由が重複してしまうが、他にも理由があって、それが地球の環境を守るためということであればまっとうな理由となるが、それにさらに別の理由も付け加わってきて、例えば特定の大企業を頂点として下請けや孫請けなどの傘下の中小企業が搾取される悪しき企業慣行の弊害を打破して改変するには、今までとは別の新たな産業技術が必要となるということであれば、それもまっとうな理由となり、結果的にはそういった様々な理由が絡み合いながら現状の成り行きが進行中ということになるだろうが、経済活動がおこなわれている中で、その活動の成り行きを正当化する理由を求めるなら、そんな理由が導き出されてくるということであり、始めから明確な理由があっておこなわれているというよりは、活動していくうちにそうなってしまうということかも知れず、それを後から言葉で説明しようとすれば、もっともらしく説明しようとしてしまうわけで、そんな後付け的な説明では必ず違和感が伴ってくるが、否応なくそうなってしまうのだから、そこに巻き込まれている人たちにはそれを止める手立てはなく、止めるのではなく促進させるわけで、できるだけ無駄を省いて効率的におこなうわけだが、そういう方面では否応なくそうなるとしても、それとは別の方面ではできるだけ物事を迂回させて手続きを込み入らせようとしているわけではないが、結果的にそうなってしまうとすれば何だかわからないようなことをやっているわけで、それがサービスといわれる成り行きであり、そこでもできれば効率的かつ迅速に事を運びたいのだろうが、そうはいかない事情があるから面倒なことになってしまい、その事情が何かというとできるだけ付加価値をつけて利益に結びつけたいわけで、効率の追求だけでは人手が要らなくなって行き詰まってしまうから、逆に無駄を加えるという矛盾したことがおこなわれて、それを無駄とは思わせないような判断材料も付け加えて、一つではなく多方面から価値を判断させることによって迂回がもたらされて、迂回している間が無駄な時間なのではなく、価値を吟味する有意義な時間となるから、そうした有意義な時間を提供することがサービスとなり、そんな時間の中で自分の好みに合ったものを選んでいるつもりになれれば満足できるだろうが、実態としては効率化や省力化とは無縁の無駄で手間のかかることをやらされていて、それが一方で効率化や省力化を追求した挙げ句にもたらされることでもあれば、何か本末転倒しているように思われるのだが、事前にそこまでわかっている人はまずいないだろうし、そんな人は上客とは見なされないが、サービスを提供する側も客から金を搾り取ろうとして悪意を込めてそんなことをやっているわけではなく、むしろ誠心誠意を尽くして丁寧に対応しているつもりになっているだろうが、それもそんな成り行きの渦中に巻き込まれている人には与り知らないことであり、こんなふうに皮肉を込めて説明するのは不謹慎かも知れず、もっと肯定的に語ろうとすればいくらでも不愉快にならない程度でまっとうな語り方がありそうだが、何かそこに都合の悪いことがあって、それを省くと簡単に済んでしまうような成り行きになってしまうから、それでは結果的に利益も何ももたらされず、そうなってしまっては困るからというよりは困らないように活動していくと否応なくそうなってしまい、そうならないと活動が成り立たなくなってしまうからそうならざるを得ないわけだが、それもそうなった結果から言えることであり、それを後から説明しようとすると、そんな活動を批判するような説明となってしまい、それも説明しようとするからそうなってしまうのであり、説明しなければそうはならないわけだから、説明しなくて済むようなことであればそうはならないし、そんな活動はあり得ないわけだが、そういう説明を要しないような活動があるかというと、それが利益を求めない活動となるのだろうが、利益を求めない活動が経済活動と言えるかとなると、必ず利益を得られるとは限らなくても利益を得ようとして経済活動がおこなわれている一方で、経済活動とは言えないような活動もそれらと並行しておこなわれていて、そうした活動の中で利益を求める経済活動が語る対象となるのだろうが、利益を求める経済活動が成り立っているから資本主義経済も成り立っていて、それらが成り立っていることが前提で世の中も成り立っているように思われるわけで、そうなっている状況を根底から覆すことはできず、誰が覆そうとしているわけでもなく、言葉を使って批判するだけで覆せるとは誰も思わないし、実力行使しようにも世の中の全てが相手となるなら勝ち目がないだろうが、それらと真正面から対峙するのではなく、それと悟られることなく不意打ちやだまし討ちのようなことをやれば何かしら成果を得られるかも知れないが、それが具体的にどんなことなのかも想像できるわけでもなく、表立っても裏からでもそういうことを人為的に画策するのではなく、特に何も仕掛けられていないのに、自然な成り行きとして誰も気づかない間にそれと自覚することなくそういうことがおこなわれているようなら、それによって何だかわからないうちに世の中がすっかり様変わりしてしまい、誰が何をやったとも意識できないのにそうなってしまったようなことにでもなれば、現状の中でおこなわれている活動が過去の野蛮な行為として語られるような時代が、これから先何十年か後に到来するかも知れないが、それも現状では何の根拠もない妄想にすぎないし、実際にそうなることに関して何の展望もないが、そうなる過程で話を進めると、その過程で起こるのは誰にとっても不都合な出来事となるかも知れず、それはこれまでにも今も都合の悪い出来事などいくらでも起こっている最中でもあり、何とかして誰もがそうした出来事を無視できないまでも打ち消すようなことを語りたいわけだが、それが誰もが語りたいことであるだけに、そんなことを語りたくなるような何かが現に起こっていて、しかも誰もがそれを直接語れないから、それとは違うことを語ろうとしていて、それが誰もが語りたいことでもあり、誰もが直接現状について語っているつもりになっているはずだが、本当にそうかというと、何かそこに違和感が伴ってくるというと、それがいつもの無根拠な妄想になってしまうのだが、どう語ってもそういう成り行きから抜け出られず、しかも現状で起こっていることについて直接語っているわけではなく、なぜかずらされているような気がして、できればもっとそれについて直接語りたいのだろうが、現状で起こっていることについて語ろうとすればするほど、言葉がうまくかみ合わなくなって、起こっている出来事を的確に表現できず、それができないことの埋め合わせとして、なぜかそれに逆らうようなことを語っている現状があるのかも知れず、はじめからそういうことを語ろうとしているわけではないのに、結果的に語っている現状があり、それが的外れなのかも知れないが、それだけではなく、そこから現状に関するフィクションも構成されて、妙にそのフィクションが現状との間で辻褄が合っていて、それなりにもっともらしく思われるから、現状について語っているような気にさせるのだろうが、想像上で辻褄が合うように内容を編集しているわけだから、結果的には都合のいいことしか語られないわけだが、実際に起こっているのは都合の悪いことばかりで、その都合の悪いことに逆らうようにして言葉を構成するわけだから、実際には辻褄が合うようなフィクションとなってしまうのではないか。


9月20日「妥当なやり方」

 間違いに気づくには事前に何が正しいかを知っている必要がありそうだが、では何が正しいかもわからないのに間違いに気づくことがあるかというと、自分で何かやってみて被害や損害を被れば間違ったことをやったと疑われるだろうが、それでも正しいことをやっていると思えば、それを他人のせいにしたり、また運が悪かったり、たまたまタイミングが合わなかったりして、正しいことをやったにもかかわらず、うまくいかなくなったことにしたいのかも知れず、そもそもそう思うこと自体が間違っているのだろうが、絶えず自らに都合がいいように解釈する傾向があれば、どんな状況になっても無理な屁理屈を持ち出して自己正当化をやっていれば済むようなことかも知れず、そうなれば自らが間違っていることを認める必要もないだろうが、果たしてそれで済むのかといっても、政治などの面で独裁権力を握っている人や勢力などは、実際にそうやって間違いを認めようとしないばかりか、絶えず対立する陣営の間違いを指摘して非難する一方で、自分たちの繁栄を誇り自画自賛ばかりしているわけだが、そうであるなら政治など面で独裁権力を握ること自体が間違いなのかというと、普通はどんな政治勢力もそれと自覚することなく独裁的な権力を握ることを目指すかも知れず、それが議会で多数派を占めることにつながり、結果的に政権を奪取することになれば、自分たちの正しさが証明されたことになるはずだが、それがある面では正しく別の面では間違っていることになると、何かややこしい事態に陥っていて、何が正しく何が間違っているかという判断の仕方ではなく、正しいというよりは妥当なやり方を模索することになり、正しいことと妥当なことはどう違うのかといえば、論理学的に厳密に言うと面倒なことになるようだが、それほどの正確さを求めなければ、実情に合ったことができればそれが妥当なやり方になり、個々の局面でいくら正しいことをやったとしても、それが世の中の実情に合っていなければ妥当とは言えない場合があり、そこで妥協したり譲歩する必要があれば柔軟に対応するのが妥当なやり方となるだろうが、無理に正しいことをやろうとすれば妥協も譲歩も受け入れられず、結果的に話し合いや交渉が決裂して、それなりの被害や損害を被ることにでもなれば、そういうやり方が妥当だとは言えなくなり、いくら正しいことをやろうとしてもそれが世の中の現状に照らし合わせて実現できないと判断すれば、現状に合うようなやり方を模索することになるのだろうが、そのやり方というのが、正しさを求める人には納得できない場合があり、日和ったり譲歩しすぎだと思われると、正しさを求める人たちの反発もそれだけ大きくなるだろうが、そういった反発が現実離れした無理難題を要求しているように見えてしまうと、それが災いして正しさを求める人たちに支持や賛同が集まらなくなって、正しさを求める人たちが少数派となってしまうから、結果的には妥当なことをやろうとする人たちに多くの支持や賛同が集まり、そんな人たちが多数派を形成することになるのだろうが、そういう意味では無理に正しさを押し通そうとする人たちは過激派になりやすく、そのままの姿勢を保とうとすればじり貧や先細りの傾向となって自滅してしまうだろうが、逆にひたすら物事の妥当性を追求しようとしても、次第に保守的な傾向が強まって大したことは何もできなくなってしまうかも知れないが、そう都合よく妥当性から逸脱して時には過激なことをやるわけにもいかないだろうが、ポーズだけはそういうポーズを取ることもできて、例えば「〜をぶっ壊す!」とか言い放って、停滞を打破しようとしているように装うこともできて、実際に多くの支持や賛同を集めた人も過去にはいたはずだが、そういう試みが単発的な成果を上げることがあるにしても、そればかりやっていてはたちまちネタ切れとなってしまうだろうし、根本的な姿勢としては平凡に物事の妥当性を意識したやり方に収斂してしまうだろうが、そういうやり方を長続きさせるには、正しさを求める少数派も批判勢力としては必要であり、それが予定調和とならない限りでマンネリ化を避けられるかも知れないが、できるだけ無難な傾向へと持って行こうとすれば予定調和とならざるを得ず、そうなった時には待ってましたとばかりに「〜をぶっ壊す!」とか言い放って、トリックスターのような役割を担った人が登場してほしいのかも知れないが、そういう人の登場を待望すること自体が予定調和な多数派の願望ともなって、見え透いたごまかしのようにも感じられてしまうから、停滞が思いのほか長引いてしまうのかも知れず、見え透いたごまかしも妥当なやり方には含まれるとしても、停滞を打破するにはそれなりの犠牲がつきものとなるのだろうし、誰が犠牲者の役割を引き受けようともしないばかりか、正しいやり方ではなく、あえて間違ったやり方を試そうとも思わないだろうが、そういう成り行きを疑ってみる必要もあり、現状で妥当だと信じられるやり方自体を疑う姿勢を取らざるを得なくなってくるのかも知れないが、なぜそうなってしまうのかといっても、大して根拠も理由もないようなら、本当のところはよくわからないのだろうが、そういうよくわからないような不透明な部分や面があるのが世界そのものでもあり、それが全ての物事が一方的な傾向へと凝り固まらない状態をもたらしているわけで、そういう意味でも論理的に何が正しいのかといっても、現状で正しいように感じられることが、今後も恒常的に正しいと感じられるわけでもないだろうし、絶えず現状の実情やこれまでの経緯に照らし合わせて正しいと思われることをやろうとしても、それは過去からの連続性を考慮しているにすぎず、そうした過去からの連続性を断ち切るようなこともこれまでに度々起こってきたわけだから、正しさを模索する試みにも限界があると同時にそれを追求しないわけにもいかず、実際に追及していけば必ず間違いを犯すとも言いきれないとしても、それに気づかないうちにはしごを外されて、後戻りが利かない事態に陥ってしまえば、自らが犠牲者となってしまったことを悟るしかなく、そうなってしまってから間違いに気づくわけだから後の祭りであり、しかもその人が犠牲となったおかげで他の人が恩恵を受ける場合もあるだろうし、そうなることが事の始めから仕組まれることはあまりなく、大抵は事の成り行きの途中からそれ相応の紆余曲折を経た末に、犠牲者が抽出されてしまうのだろうが、そうやって昨日の友は今日の敵のような裏切りも度々起こって、裏切られた人は不条理な思いを抱くかも知れないが、それも人や集団の栄枯盛衰の理にも含まれていて、事の全てを見通す地点には誰も立てないから、誰がそうなるとも予想するわけにもいかないが、誰かがそうなるのであり、また確実にそうなるとも言えず、誰もそうはならないかも知れないし、そんな成り行きもそう頻繁には起こらないかも知れないが、何かのきっかけでたまたまそれが起こった時にうまく立ち回った人や集団が、そういう成り行きが一段落した時点で一時的な主導権を握るかも知れないし、それがそのまま長続きするかどうかは、その後の情勢や成り行き次第な面もあるだろうが、そこでどう動くのが妥当に思われるかも、その人のその場での立場や境遇による面もあるだろうし、誰もが機を見るに敏な態度とはなりがたく、分をわきまえているように受け取られていれば事なきを得るように思われるだろうし、そういうところで常識から逸脱してひたすら功利性を追及するようなことは誰にでもできるようなことではないし、そういう意味ではそういった混乱に乗じて頭角を現すような人は自ずから限られてくるだろうが、少なくとも現状で大した才覚を持ち合わせていないと自覚できるようなら、そういった場にはかかわらない方が無難に思われるだろうし、実際にかかわろうとしてもかかわれない人が大半を占める中で、誰かがそういう機会に恵まれて成功したり失敗してしまうとしても、そこからもっともらしい一般的な教訓の類いを得ようとすることも、何か間違っているように思われるわけだ。


9月19日「影響力の行使」

 同じ社会の中で同じ時代に生きていれば、別々の理由で別々に行動していた複数の人たちが、何かのきっかけからかかわりを持つこともあるだろうが、それが思いがけないことなのか、あるいはそうなった結果から振り返れば当然のことのように思われるかは、どちらであってもかまわないことかも知れないが、そうした関わり合いの中から新たに何らかの活動が生じてくることもあるかも知れず、それを自然に生じてきた活動だと感じるか、あるいはそれも結果から振り返って何かしら恣意的に仕組まれた活動だと感じるかも、そうした活動に直接かかわっている利害関係者でなければどちらでもかまわないことかも知れないが、たとえ自然発生的に生じてきた活動だとしても、それを制度として世の中に定着させようとすれば、誰もが納得するようなもっともらしい活動の理由付けや、説得力のある活動の根拠や意義を求められることもあるかも知れず、そこに多くの人たちがかかわってきて組織的で制度的な体制が整ってくると、世間を相手に活動するようなことになってきて、それが経済活動になれば企業活動になるだろうし、政治活動になれば政党活動になるだろうが、中には経済活動と政治活動の両方にかかわる活動もあるだろうし、それだけでなく他にも社会の様々な分野にかかわる活動となれば、それがメディア活動となるのだろうが、そうなると直接かかわっていると言うよりは間接的にかかわっている面の方が強くなって、社会に対して直接に作用を及ぼすよりは間接的に影響を及ぼす力も強くなってきて、そういった影響力という力をどう判断すればいいのかよくわからなくなってくるかも知れないが、企業や政党や政府などの各種団体がメディアを利用して社会に対して間接的に影響力を行使する面と、メディアが報道機関や宣伝機関として報道や宣伝の対象となる各種団体や個人を利用しながら社会に対して直接影響力を行使している面があるのかも知れず、それが間接的なのか直接なのかも微妙に判断がつきにくいところかも知れないが、そういった影響力の類いをどう判断しようと、それに対してどのような対処や対応が可能なのかといっても、意識して何をやろうとするわけでもないだろうし、いやな感じがすれば見るのをやめるし、いやな感じがしなくても、全てをチェックできるわけでもなく、見たいものや読みたい文章を読んでいる気になれる時もある一方で、そんな気がしなくても見ていたり、大して面白くもない文章を読んでいる時もあるだろうし、その中には何らかの意図や思惑が込められていると感じられるものもあるが、そんなことを意識する必要も感じないものもあるし、こちらが自覚できないところで何らかの影響を及ぼしている可能性もあるわけだが、普通はそんなことまで意識して知ろうとは思わないし、知ることができるとも思えないが、それに気づいた時に対処したり対応するしかなく、それも不快なら見ないようしたり、読まないようにするだけで、そうすることが重大で深刻な結果をもたらすとも思えず、大したことだとも思わないわけだが、ならば他に本気で対処したり対応することがあるかというと、大抵は自らの直接の利害に関係することになるだろうが、それが気づかないところで損していると外部から指摘されるようなことであれば、ではそれに対してどう対処すべきかといっても、そんなことを指摘してくるような外部からの指示や勧誘に従うかといっても、まずはそういった指摘自体を疑うだろうし、自己中心的に物事を考えて自分で納得した上で物事にかかわりたいわけで、もちろん意識の中でそう思っているだけで、無意識の領域では気づかないところで様々な物事にかかわっているはずで、それが後から意識されることもあるが、大抵は気づかないままかかわって、気づく間もなくかかわらなくなってしまうのかも知れず、世の中の何にかかわっているのかを意識できることとできないことがあり、意識できることだけ自己中心的に考えてみても、かかわっている全体からすればほんの一部分にすぎないのだろうが、それだけ意識できないところから様々な影響を及ぼされているのかも知れず、そういうところまで意識して考慮に入れることはできないが、それが自意識の限界でもあり、それだけ不自由な制約が課せられていると思っておいてもいいのかも知れないが、メディアにかかわっている人たちにも自身が意識している意図や思惑があって、そんな意図や思惑に沿うような自身にとって都合がいい影響力を行使していると思っているのとは別に、意識できないところで世の中に影響を及ぼしていることを自覚できるわけでもないだろうし、そういうところでも意識できるのは自身がかかわっている中ではほんの一部分にすぎないのだろうが、結果的に多くの人たちが同じようなことを思っていたり同じようなことをやっていれば、それに気づけばメディアから影響を受けてそうなっていると言えるだろうが、そうなっていてもそう思ったりそういうことをやるのが当然のことのように思われるなら、誰もが意識せずにそう思ったりそうやっているわけで、外部からそんなことを指摘されても何とも思わないし、逆にそんなことを指摘する方がおかしいのではないかと思われてしまい、指摘する人の主張が支持や賛同を得られない可能性もあるわけで、その分だけ自らの利害とは関係のないところでメディアからの影響に屈している面もあるだろうが、メディアを成り立たせているのが何かというと企業などの経済活動であり、商品の広告収入によって成り立っていれば、根本的には物や情報やサービスの売り買いによって成り立っていて、それがなければ経済活動が成り立たないのは当然だが、それを当然視した上でそれに付随して生じてくる様々な問題をメディア上でどう扱えばいいのかといっても、普通はそんなことまで考慮に入れていないだろうし、考慮に入れる必要もなく、それを当然視した上で成り立つ制度やシステムや慣習に従いながら誰もが活動しているわけで、実際にそうなっているから根本的な物や情報やサービスの売り買いに伴って生じてくる問題を指摘されたところで、直接にはどうにも対処も対応もしようがないだろうし、実際にも無視する以外にはあり得ないだろうが、やはりそこでも普通は気づかれないし、指摘されて気づいたところでピンとこないわけで、そういうことを指摘した人の支持者や信者でさえも、それとは別の面で感銘を受けたからその人の主張を真に受けて支持して信者になったと思い込んでいるのかも知れず、すでにそうなっている時点で支持者や信者たちに都合のいいように主張を受け取っていて、主張者に対する誤解が世に広まっていることになるわけだが、そういった誤解を世に広めているのがメディアでもあり、それがメディアにとっても都合のいい見解だから世に広まるわけだが、それがなぜ都合がいいのかというと、それがないとメディアそのものが成り立たなくなるような根本的な問題には触れていないから都合がいいわけで、実際には触れているのにそうは解釈されず、しかもそれに触れているように思われる主張をおこなった当人ですらもそのことに気づいていない可能性もあって、それと気づかずにそんなことを主張して、その主張に賛同してその人の支持者や信者になった人たちもそれに気づいていないとすれば、そもそもそんなことには一切触れていないように思われても何の不思議もないだろうが、そうなっていることが当然視されている中でも歳月が経過していくと、その時代の状況下では理解されなかったことが、理解できるような傾向へと環境が整えられていく成り行きがあるのかも知れず、そうなると稀にその時代にそういうことを主張していた当人でさえも気づかないことがその主張に含まれていることがわかってきて、その主張に対する新たな解釈がおこなわれることになり、それがそれまでに主流だった解釈の限界や欠陥を浮き立たせることにもなって、そういった解釈への賛否両論を生じさせて論争が巻き起こるのだろうが、現状ではそんなことが起こった時代もとうに過ぎ去って、そういった主張自体が完全に忘れ去られたことになっているかも知れないが、それがメディア上では当然視されていることであっても、たぶんメディアそのものも絶えず変化し続けていて、それに伴って現状で当然視されている状況も絶えず変わり続けているのかも知れない。


9月18日「信じられる迷信」

 迷信とならないような信仰があるかというと例えば1+1=2のような算術上の決まり事があるが、1+1が2になることを信じても普通はそれを信仰とは呼ばないが、それに類する真理としては平面上で三角形の内角の和が2直角になることや半径rの円周の長さが2πrになることなどがありそうだが、そういう数学の分野で信じられることと、宗教の分野で信じていることは、別のことだと思ってしまうが、哲学者で数学者のデカルトが神が存在することを証明しようとしていたこともあるし、現代では別々の分野で分けて考えられていることが、かつては同じ分野だとはいわないにしても、それなりに数学の分野と神学の分野が接近していたのかも知れず、当たり前のように信じられることと疑わしいことの間で境界がはっきりしない場合もあるのかも知れないが、確実に信じられることの中に疑わしいことが含まれているかというと、政治や経済など分野で疑わしいことを信じている場合もあり、それに関しては日本共産党が暴力革命を目指していると言い放ったテレビ番組のコメンテーターもいるらしいが、暴力革命を目指すなら武装して武器をそろえなければならないし、共産党の施設を家宅捜索して大量の武器が出てくれば、確かに暴力革命を目指していたことになるはずだが、極左集団の中核派や革マル派ならまだしも、共産党が武器を集めているという証拠はないだろうし、また警察や自衛隊などの中に共産党の内通者や支援者がいて、いざとなったら武装蜂起する手はずを整えているとしても、どちらかといえば警察や自衛隊は右寄りの人が多いはずで、そういった可能性も低いと考えられるが、また世界的に見ても暴力革命を目指しているのはミャンマーの軍部や最近ではギニアでも軍事クーデターが起こったし、アフガニスタンのタリバンがやっていることも暴力革命には違いないが、日本でも明治維新は薩摩や長州による暴力革命には違いなく、その種のコメンテーターなどは暴力革命は極左暴力集団が起こすものだという偏見を信じ込ませようとするのだろうが、よく考えてみれば疑わしいことをまことしやかに信じ込ませようとする手口として、その種の偏見を利用することになるわけだが、また経済の分野では企業が借金を返せなくなったら倒産するが、通貨発行権のある国ならいくら借金しても大丈夫という主張があるが、それを信じ込ませようとしている人もいて、実際に日本が多額の国債を発行しているのに表面上は何とかなっている状況を見て、アメリカの経済学者がMMT理論として提唱して積極財政論者の理論的なよりどころになっているとしても、数学や物理学の理論とは違って経済学の理論であるだけに、それだけ信用度が劣るとも言えないが、実際に積極財政論者がやってみてわかることになるのかも知れず、実際にコロナ禍からの復興を目指して巨額の財政支出をしたアメリカでは物価の上昇が2%を超えているし、スタグフレーションの懸念が出てきたらしいが、2%を超えなければハイパーインフレにはならないと言われていたのは、日本独自の基準にすぎなかったことになるのかも知れないが、そういうことから何が言えるかとなると、国や地域や時代状況によって当てはまる経済理論も変わってくるのかも知れず、実際にハイパーインフレになったジンバブエやベネズエラと日本の状況はだいぶ違うし、アメリカと日本でもそれなりに状況が異なっていて、一概に特定の経済理論がどこの地域や国にも当てはまるとは言えない状況があり、そうした理論の類いをどこまで信じてもいいかは実際に信じて実践していく中でわかってくることであり、理論と合わない事例が出てくれば理論を修正するしかなく、そういう意味では実際にやってみた結果として理論が出てくるわけだから、理論よりは実践の方が先に来るかも知れず、やる度に違う結果が出れば理論にはならないわけで、何かをやってみた結果として理論の類いが導き出されても、それはそこでだけ通用する理論である可能性もあり、その事例だけに適用可能な理論など理論とは言えないわけだが、そうであるなら理論を信じるよりは結果を信じればいいわけで、すでに結果として固定されてしまったことだけを信じるのであれば、その結果を他の事例には応用できないし、それだけ信じられる範囲も狭まってしまうが、ここではこうなったのだから他でも同じようにこうなるのではないかと考えてしまうわけで、確かにサイコロを振れば1から6までの目しか出ないし、条件が同じなら同じことをやれば同じ結果がもたらされるはずだが、経済の分野で条件が同じになることはなく、国や地域によって条件が異なるから違う結果が出てくるのだろうが、条件と共に成り行きや経過も違ってきて、同じ条件でも成り行きや経過が違ってくることもあるだろうし、それに関しては偶然にそうなってしまうことがあり、必ずしも必然的な結果になるとは限らず、こうなればこうなるとは言えないわけだが、ではどうなるのかといえば、こうなったからといって必ずこうなるわけではないということになり、絶えず偶発的な要素や要因につきまとわれていて、どちらへ転ぶかわからないようなこともあるだろうし、どちらへ転んでもそうなって当然のようにも感じられるし、どちらにも転ばない場合さえあるとなると実際にそうなってみないことには何とも言えなくなってくるわけだが、やはりそれでは理論も何もあったものではないことになってしまうが、それ以前に倫理的な傾向としてはなるべく財政赤字を出さないように心がけることにもなり、財政均衡論的なやり方がまっとうなやり方のようにも感じられるわけだが、それもその場の事情からそうではないと主張する人も出てくるだろうし、何か理由があって積極財政にしなければいけないとしたら、その理由が問題となってくるわけだが、コロナ禍からの復興を目指すという理由ならそれなりにまっとうに感じられるとしても、そういうことをやった結果がどうなるかは実際にやってみてから判断するしかなく、どんな結果がもたらされるにしても、そういうことをやる理由がまっとうに思われるなら、結果を真摯に受け止めるしかないわけで、たとえそれがうまくいかなくても、うまくいかないなりのことをやるしかないだろうし、誤りを認めることになるかも知れないが、だからといって理由がまっとうに思われるなら、納得した上でやったことになるわけだから、判断としては間違っているとは思われず、ただ結果がうまくいかなければ、それについては責任を取ることになるわけだが、良かれと思って信じてやった挙げ句に信じられない結果がもたらされることもあるかも知れず、その信じられない結果というのが1+1が3になったり4になったりして、あるいは0になったり−1になるかも知れないし、実際に辻褄が合わない結果がもたらされれば、気がつかない要素や要因が作用してそうなった可能性もあるだろうし、1+1ではなく、1+1+1であったり1+1+2であったり、あるいは1+1−2であったり1+1−3であったりするかもしれないが、そうやって後付け的に要素や要因を付け加えて理論の確かさを装うのは、物理学ではアインシュタインが方程式に宇宙項を付け加えたり、銀河の回転の速さが目に見える物質だけでは説明がつかないからダークマターの存在を予想したり、宇宙の膨張速度でもダークエネルギーの存在を想定しないことには説明がつかず、理論値と観測結果が合わないことばかりで、結果的には完璧な理論からほど遠い状態なのだろうが、宇宙でもそうなのだから、地球上でもそうなっていても不思議ではないだろうし、理論的に確からしいことを信じてもかまわないが、それが本当らしいデマや偏見である可能性もあり、言葉巧みに本当らしいことを語る技術もあるだろうから、それが何のためにそうやっているのかを見極めないとならないわけだが、軽はずみにそういったデマや偏見に同調して、そういうことを語っている人の誘導や煽動に乗ってしまっても、テレビのコメンテーター程度なら大したことにもならないだろうが、やはりそこから気づかないところでおかしな要素や要因が付け加えられて、おかしな世の中の成り行きに巻き込まれてしまったりするのかも知れない。


9月17日「社会環境と自然環境」

 人が集団となって群れるのは、その方が何かと都合がいいからだろうが、人以外でも群れを作る動物はそれなりにいるし、動物の習性としては群れを作るのはありふれているわけだが、その一方で中には単独で行動する動物もいて、人も単独で行動している場合もあるわけで、その人の都合や事情に応じて群れを作ったり単独で行動したり、そうなっている状態を特に注目しなければどちらでもかまわないし、その場の状況に応じてその時の都合や事情に合わせて活動すればいいわけだが、どちらがどうだというわけでもなく、必要もないのに群れを作ったり単独で行動することを好んだりするわけでもなく、何かそこに必要を見出せれば、そうなってしまう理由も求まってくるだろうが、そういつも理由を説明できるわけでもなく、理由など意識しないで行動していてもそれでもかまわないわけだが、行動しなくても済むなら行動しないだろうし、そういつも行動しているわけではなく、活動を停止している時間もあり、呼吸活動を停止していれば死んでいることになるが、そうなると大抵は墓に埋葬されているわけだが、墓碑の類いが立っていれば、そこに誰が埋葬されているかがわかり、その人の生前の活動が何らかの記録として残されていれば、そこからその人の行動の中身がうかがい知れるかも知れないが、故人が著名人でもない限りはそんなことまで調べ上げられるわけでもなく、一般の人々のうちで誰が墓の下に埋葬されていようと、その人の親族でもない限りは知らなくてもかまわないことだろうが、人が生まれてから死ぬまでの間に他の様々な人々と交流して、それによってこの世界に関する何らかの認識や見解を得たとしても、それはその人の活動から得られた認識や見解であり、その人とは無縁の誰かがその人と認識や見解が一致しようとしまいと、それは別々の活動から導き出された認識や見解となるのだろうが、他の様々な人々と認識や見解が一致する部分や重なり合う部分があれば、何かしら共通の認識や見解を保持していることになり、そういう共通の認識や見解をもたらすような社会的な類似性を想像してしまうのだが、それとは異なるレベルで同じような傾向を示す面が誰にでもあるとすれば、それが社会ではなくその基盤となる自然環境への反応となり、自然への対処や対応の仕方が各人で同じ傾向となるのかも知れず、それが人類共通の特徴だと言えばその通りかも知れないが、その中の一つとして人や物や情報を流通させて、それらを利用しながら生きていくやり方があり、一見それは社会的に共通の傾向だと思われるが、一つの社会の中だけで人や物や情報が流通しているわけではなく、絶えずある社会から別の社会へと流通していて、社会と社会との間で人や物や情報の交流がある一方で、その流れを恣意的に制限したり調整しようとする思惑もあって、そうした思惑を抱くのがその社会を支配して統治している勢力でもあり、そうやって何とかして支配や統治を円滑かつ確実に押し進めたいわけだろうし、それが他の社会との競合や競争関係から生じているように思われるだろうが、実際には社会を取り巻く自然観環境から社会を自己防衛しようとしているのかも知れず、その自然環境の中には他の競合関係にある社会も含まれるわけだが、なぜそれが自然環境への対処や対応になるのかと言えば、実際に気象災害などへの対応に追われることとなり、他の社会と間で交易や戦争などをしている場合ではなくなってしまい、戦争に備えて軍備を増強したり、実際に戦争などをやっているから社会の弱体化を招いて、疫病や干ばつや地震や台風などによる被害もそれだけ大きくなり、そんな大規模で深刻な被害をもたらす自然災害に対処したり対応するには、まずは他の社会との関係を平和な状態に保たなければならなくなり、そういう意味で自然環境への対処や対応が特定の社会を超えて人類共通の傾向を持つことになるのだろうが、普通にそれが意識されることはあまりないだろうし、それよりは他の社会というよりは、他の国への対抗意識が国家単位では前面に押し出されて、何やら感情的な煽動行為が横行するのだろうが、そういうのが社会的なレベルでの共通の傾向でもあるわけで、それは自然への対処や対応と比べればたわいないものとなるだろうが、社会的に共通の傾向であるのは、それよりは人や物や情報の流通の方がメインとなるだろうし、そういった煽動的な行為も情報の流通に含まれてくるだろうが、そういった流通現象も物や情報やサービスなどの生産と流通と消費のサイクルに含まれてきて、結局それも自然環境から資源を採取したり採掘して、それを扱いやすいように加工するという自然環境への対処や対応に含まれていて、その一部分として社会から別の社会へと人や物や情報を流通させるやり方があるわけで、そういったことまで考慮に入れれば、人の行為の中で社会的に共通の傾向だと思われる現象の類いも、広い意味では人の周囲の自然環境への対処や対応の一部を構成していて、それを特に社会的な共通の傾向だと見なさなくてもいいのかも知れないが、そういう意味では死んだ人を墓に埋葬するという社会的に共通の風習でさえ、人が存在した痕跡を自然環境の中に刻みつけるという、自然環境への対処や対応であり、そうしないと死ぬとその人の痕跡が消失してしまうのを防ぎたいのだろうが、それも結局は数十万年も経てば朽ち果ててしまうようなことでしかないだろうし、無駄な抵抗の類いかも知れないが、社会が維持されている限りはそれなりに一定の期間にわたって残るだろうから、部分的で有限の行為でもあり、墓を作った人の自己満足でしかないわけだが、それも他の国への対抗意識を煽っている人たちと共通する社会的な傾向に含まれるだろうし、何とかして自然への対処や対応より社会的なレベルでの対処や対応を優先しているように見せかけて、社会が自然から自立しているように装いたいのだろうが、それもあからさまに誰かがそう思っているわけではなく、集団意識としてそんなふうに解釈できる程度のことでしかなく、普段は誰も意識していないことになるが、傾向としては人為的に構築された制度やシステムによって社会の維持を図っているはずだが、それが自然環境に依存して成り立っていることを忘れさせて、それに代わって人為的な都合や経緯や事情から構築されているように装いながらも、そうなっている結果を原因だと思い込んで、根本的な原因である自然への対処や対応を軽く見積もることになるが、そう思い込むことによって何がどうなるかと言っても、普通に人を動かすことになり、人に労働を促しているわけだが、そうやって労働した見返りとして何がもたらされるかというと、それも普通に考えて金銭的な利益がもたらされるのだろうが、その金銭的な利益というのが価格として示されて情報としての価値を持っているわけで、それが社会の中で物や情報やサービスを生産して流通させて消費する原動力となっているように思われるだろうが、それもそうなった結果から原因として人が金銭的な価値を求めるからそれらの現象が起こっていると思わせて、結果を原因と取り違えていて、本来の根本的な原因である自然への対処や対応を軽く見積もることにつながるのかも知れず、どうやっても社会的に共通の傾向の範疇で物事が動いているように装われるわけだが、実際にそうなっているから人が労働にせき立てられてそれにかかわる社会的な活動が人の活動の中でメインとなるだろうし、だからといってそうではなく人の自然への対処や対応に重きを置いた活動を推進させても、そこにも人の労働がかかわってきて、そうした自然の驚異に対して何もしないわけにはいかなくなるわけだが、実際に何もせずに遊んで暮らしているような人たちが大勢いるとすれば、社会主義国では敵意の対象となり弾圧されてしまうかも知れないが、その人が何もせずに遊んで暮らしていられるのは他の人がその分で労働して、そうした労働者が遊んで暮らしている人たちを支えているという幻想も成り立つだろうが、実際のところは誰もが労働する必要がなくなっていて、それが他ならぬ労働によってもたらされている事実にも無関心でいられるのかも知れず、必ずしも社会の維持のためにその構成員の全てが労働する必要がなくなっているから、労働を強いられている人々にとっては不公平に思われるかも知れないが、逆に労働したくても労働させてもらえない人もいるわけで、そういう人が失業者層を構成しているわけだが、そこでも原因と結果を取り違えていて、労働しない人たちが社会にとって要らない人だと思われるのが、社会的に共通の認識や見解となって、逆に社会そのものを人の思い通りになるような幻想へと導いていて、そんな幻想とは裏腹に労働して対処したり対応するだけではどうにも太刀打ちできない自然環境の奥深さを忘れさせるから、自然への対応や対処として労働とは違う活動を強いられてしまう人々の存在を認められないわけだ。


9月16日「自業自得な取り組み」

 この世界の外には別の世界が広がっていて、その世界の外にも別の世界が広がっていれば、さらにその世界の外にも別の世界が広がっているかも知れず、そうやって多数の世界があれば、この世界の中に住んでいるだけでは外の世界がどうなっていようと関心のないことかも知れないが、世界の中だけで物事が回っていて、外の世界との間で何の交流もなければ、それで済んでしまうとしても、実際に世界と世界の間に境界があって、境界の内と外で何らかの交流があれば、交流にかかわっている人にとっては関心がないでは済まなくなり、交流している限りでいやでも関心を持つことになるだろうが、実際には世界の中に多数の国があり、国と国の間で人や物や情報が行き交っていて、そういう現状に何か問題があるとすれば、国ごとで制度やシステムや慣習などの面で差異があり、そこから何かと不都合や不便や摩擦や軋轢などが生じてしまうのだろうが、逆にそれらが一致してしまうと別々の国になっている必要がなく、世界中の国を一つにまとめてしまえばいいことになるが、今のところは差異を解消できないからそうはならないだろうし、言語や生活習慣や宗教などの面でどうしても一致できない事情があるから、多数の国がある現状が当たり前のように感じられるが、中には一つの国の中で複数の言語や生活習慣や宗教が混在していている場合もあるし、そういうところは一概には言えないだろうが、現状が理想的な状態であるわけでもなく、国という形態も今後その在り方が変わっていくかも知れず、どのような状態が理想だとも判断がつかないが、個人がどう考えてもそれが国の状態に反映されるわけでもないだろうし、国内外の様々な方面から作用や影響が及ぼされて国の現状があると共に、それは国だけなく世界の現状についてもいえることで、それについて何か言えることは確かだが、言うだけでなく実際に現状を変えたい人は現状を変えようとして何かしら働きかけをおこなって、その人の力が及ぶ範囲内でそれ相応の変化を起こすに至れば、それがその人が思い描いていたことを少しでも実現しているようなら、それはそれでその人の働きかけの成果となり、そんな結果に満足したりしなかったりするのだろうが、その人だけがそんなことをやっているわけではなく、他にも大勢そんなことをやっている人たちがいれば、それらが寄り合わさったり錯綜したり絡み合っているうちに、個々の人たちの力を超えるような力となって、それ相応の変化を起こすかも知れないが、それが個々の人たちの思いを実現するような傾向の変化となるとは限らず、それどころかそれに逆行するような変化となれば、それらの人たちの努力や尽力が無に帰すようなことになってしまうのだろうが、たぶん現状の世界情勢から感じられることは、そういったところがなきにしもあらずであり、全てが一つの傾向へと振れているわけではなく、複数の傾向が複雑に絡み合って多面的な状態をもたらしていて、多くの人々が不快で不条理な束縛から解放されたいと思っているのに、それを阻んでいるのが自分たちの活動そのものだとすれば、そんなことはあり得ないと思うしかないだろうが、それが直接そうなっていれば実感できるかも知れないが、自身が加えた力が回り回って自身に返ってくるようなことになっていると気づきにくいのかも知れず、全てがそうなっているとは言えないが、何かしら作用反作用のように返ってくるものがあり、そういった作用に気づけないからより一層現状への不信が深まり、何か陰から状況を操っている黒幕のような人物や組織が仕掛けた罠に引っかかっているのではないかと、被害妄想を募らせてしまうのかも知れないが、それも気休めの現実逃避であり、物事を単純にしか考えられず、わかりやすく現状を捉えようとすれば単純化するしかないわけだが、そういった自意識が安易にとらわれてしまうご都合主義を振り払うには、状況を自身が都合のいいように捉えてしまう思い込みを疑うしかないが、疑い続けながらも心の片隅では信じていて、何を信じているのかというと、現状で直面している苦難や困難を乗り越えて最終的にはうまくいくのではないかと思っているわけで、そう思ってしまう自分を信じているわけだが、客観的に判断するなら個人がいくら自身の思い込みを信じていても、その人の思い込みによって世の中が回っているわけではなく、そんな身勝手な思い込みなど世間から無視されて当然だろうが、そんな思い込みをもたらしているのが世の中の動向であり、そこから作用や影響を及ぼされて信じられるような思い込みが形成されて、自身がかかわったことについては自身の都合のいいように捉えて、このまま自分を信じて自身がかかわっている物事に取り組んでいけば、最終的にはうまくいくのではないかと思われてしまうわけで、うまくいくことを信じているからやめようとしないのだから、取り組んでいることをやめない限りはうまくいくと信じていることになるだろうが、実際にはうまくいっている面といっていない面とどちらとも言えない面があって、その中でうまくいっていない面の割合がどんどん大きくなっていけば、最終的には取り組みをやめてしまうわけだが、そういうことまで考慮に入れれば、現状で取り組みをやめていないなら、まだやめる段階には至っていないことになるはずだが、そうであればまだ自分を信じてかかわっているつもりの物事に取り組んでいることになり、絶望的な状況に追い込まれているわけではなく、取り組みを断念するような成り行きにもなっていないはずだが、そうなっている限りで世界の中で自分が生かされていることになり、何によって生かされているのかは、それが特定の何かというよりは、周囲から自身に及ぼされる作用や影響を受け止めながら、あるいは時にはいなしたりかわしたりしながら、結果的に生かされていることになるのかも知れないが、そんな自分が生きている前提となっているのが現状の世界であり、何にとらわれているかと言えば現状にとらわれていることになるはずだが、現状が不快で不条理な束縛を感じさせるなら、そんな状態から解放されたいから、解放されることを目指して束縛している物事に対して何らかの働きかけをおこなっている最中となるはずだが、それが束縛と引き替えにして自らを生かしている物事であるなら、おこなっている取り組みが二律背反をもたらしていることにもなり、微妙な状況でもあるわけだが、たぶん自分を束縛している物事と自分を生かしている物事を同一の物事だとは把握していない可能性があり、把握できないから自己矛盾に気づかないのかも知れず、実際にそうであれば取り組んでいることがうまくいかないのも当然なのかも知れないが、それもそういう状態を保っていること自体が自らを生かしながらも束縛から解放されたいと思い続けられる状態を維持させていて、それこそが自業自得そのものなのかも知れないが、逆にそうなっていないと心身のバランスを保てないのかも知れず、実際にそんな取り組みが功を奏して束縛から解放されるようなことになってしまうと、それが自身の破滅をもたらしてしまい、取り組みがうまくいったのに自分が破滅してしまえば自殺行為そのものだが、うまくいかなければいいのかというとそうでもなく、うまくいっている面とうまくいっていない面とどちらとも言えない面が程よく釣り合って、自身の心身のバランスを保っている限りで生きていられるわけで、そんなバランスを崩さないように心がければいいのかも知れないが、心がけるだけでバランスを保てるわけでもないだろうし、結局は自らがかかわっているつもりの物事に対する日々の取り組みを継続させている限りで現状を保っているわけだから、そういう取り組みが心理的な面で矛盾をもたらしていることは確かだろうが、その矛盾を止揚しようとしてしまうとおかしくなってしまうわけで、そういったところで矛盾の止揚という単純化に逆らい続ける必要も出てきて、矛盾を止揚したつもりになって単純なことを主張して、敵と見なした物事に攻撃を加えるようなことをしてしまうと、その物事が回り回って自分が守ろうとしている当の物事に地続きで接していることに気づけなくなってしまうのではないか。


9月15日「戦略的な生き方」

 人ができることは社会の中で機能している制度やシステムや慣習に従うことであり、それ以外に何ができるのかといっても、それらに反発したり逆らうことしかできないのかも知れないが、そうしたこととは違うレベルで何かをやろうとすると、それ相応の戦略や戦術を意識せざるを得なくなり、制度やシステムや慣習に従いつつも、それと同時並行してそれとは違うレベルで何かをおこなう必要が出てきて、制度やシステムや慣習に従うことで自らが所属する集団内の他の構成員を安心させながらも、単独で普遍的な観念を実現させようとするのかも知れないが、それが具体的にどういうことかといっても、制度やシステムや慣習にとらわれたままの人にはよくわからないだろうし、逆に制度やシステムや慣習にとらわれていると特殊で一般的な概念を実現させようとするのかも知れず、それが誰もが知っている物事であり、一般的にも評価や成果の対象となる物事でもあり、単独で普遍的な観念よりは制度やシステムや慣習に馴染みやすい概念ともなるわけだが、例えばそれに関して誰もができないことを達成して世間をあっと言わせようとすれば、誰もができないことというのが特殊であり、世間をあっと言わせることが一般的な成功の概念でもあるわけで、何かの記録を達成したり何らかの賞を受賞して世間から賞賛を浴びるようなこととなり、そうやって誰も羨むようなことをやれば、特殊で一般的な概念の実現となるだろうが、それに対して単独で普遍的な観念の実現となると、例えば人が生まれて生きて死ぬことを実現すれば、それは誰にでも起こることであり、誰もが個人で達成できることでもあり、自分が生まれてきて生きて死ぬことに気づいて、実際に生まれてきて生きて死ねば、単独で普遍的な観念を実現したことになり、別にそんなことを実現できたからといって世間から賞賛されるわけでもないが、それに気づくことが特殊なことでも一般的なことでもないが、当たり前のことに気づいたわけで、制度やシステムや慣習にとらわれていると、そんなことより世間的に評価されるようなことに気づかなければならず、そうなると世間があっと驚くような物事を発見したり発明するか、そういう非凡な才能に恵まれなければ、周囲の人たちが安心して接してくれるような凡庸さを身にまとって、制度やシステムや慣習に従順に従いながら生きているように装うか、逆にそんな平凡な生き方に反発して、何事においてもまずは周囲から目立つことを優先させて、毀誉褒貶を伴うような破天荒な生き方を貫いて、周囲から嫉妬や憎悪の対象となるように振る舞うかすれば、それが特殊で一般的な概念の実現に結びつくかも知れないが、そうなると戦略や戦術は特殊で一般的な概念を実現する際に必要となりそうだが、それを自覚して装ったり振る舞ったりするのではなく、制度やシステムや慣習にとらわれていると自覚せずにそうなってしまうから、まずはそれに気づくべきかも知れないが、気づこうとして気づけるわけではなく、それらに従うか逆らうかの二者択一となってしまうと、どちらにしても制度やシステムや慣習にとらわれていることになってしまうから、結局は戦略や戦術など意識する間もなくそうなってしまうわけで、そうなっているレベルでは戦略も戦術も繰り出すことはできず、普通は制度やシステムや慣習を意識して利用しようとする際に、自らや自らが所属する集団が有利となるような戦略や戦術が求められるわけで、その時点では従うか逆らうかの二者択一を迫られる事態を通り過ぎて、それらを利用する段階まで来ていて、そこまでくれば自覚するまでもなく、意識して自らが利用しようとする制度やシステムや慣習と対峙しているはずだが、果たしてそれより遙か手前の段階で戦略や戦術を意識できるかというと、それも自覚なき戦略や戦術というか、そんなものはあってないようなものかも知れず、その手前であろうと通り過ぎていようと、特に意識はしないが絶えず単独で普遍的な観念にもとらわれていて、それは当たり前のような観念でしかないが、特殊で一般的な概念と重なるようでいて、それとは違うレベルで成り立つようなことでもあり、戦略とか戦術とかが必要となる戦いとは無関係かというと、世の中で機能している制度やシステムや慣習と直接対峙して戦うことも制度やシステムや慣習の機能に含まれているわけだから、それも生まれて生きて死ぬ過程で生じることでもあり、全くの無関係というわけでもないのだろうが、生き方のバリエーションの中で戦うこともあり得るわけで、人と人を戦わせる制度やシステムや慣習がある中で、どうやってそれを回避したり、回避できなければどうやって勝とうとしたり、あるいは負けるにしても被害や損害を最小限に食い止めたいだろうし、そういうところでも戦略や戦術が必要となってくるだろうが、その際に直接こうすればいいだろうとかこうやってはまずいだろうとか想像してしまうことが、すでに戦い方に関するノウハウとなる特殊で一般的な概念を形成しようとしてしまい、単独で普遍的な観念から離れてしまうわけで、それとこれとは別問題で違うことかも知れないし、戦いに勝つにはどうすればいいかという特殊で一般的な概念を確立した方が自らの利益となるように思われるのだが、絶えずどんなに工夫を凝らして結果的に勝とうと負けようとも、自らが生まれて生きて死んでいく存在でしかないことは念頭に置いて振る舞うべきかも知れず、そう思っている時には自らがとらわれている戦いや、その戦いをもたらしている制度やシステムや慣習などから意識が外れていることになるわけで、戦いの最中にそんなことを思ってしまえば心に隙が生まれてその隙を相手に突かれて負けてしまうかも知れないが、そういう意味では功利的な思惑からすればそんなことは思ってはならないことになるだろうが、その辺が微妙なところであり、そういうところからも戦う相手に礼儀を尽くすべきだとかいう特殊で一般的な礼儀作法のような概念も生じてくるわけで、それも制度やシステムや慣習からもたらされることでもあり、どうやっても逃れようのないのが社会の中で機能している制度やシステムや慣習となるわけだが、そういった物事の裏をかこうとすればますますその種の罠に引っかかってしまい、それを罠とは呼ばずにもっと肯定的な呼び方にした方がいいのかも知れないが、罠に引っかかったままであっても、それとは違うレベルで生きている現実があることを念頭に置けるかといっても、そんなのも想像にすぎず、それも特殊で一般的な概念になってしまうのだろうが、そういったレベルからどうやれば逃れられるかというよりは、それと同時並行してそれとは別のレベルでも生きている現実もあって、絶えず自らがとらわれている制度やシステムや慣習を意識できるわけではないが、ほんのつかの間であってもそれらにとらわれていることを意識できれば、魅入られたように前のめりに突っ込んでいく感覚も意識できて、そんな余裕が生じてくればその手前で立ち止まる余裕も出てくるかも知れず、それと同時に前のめりに突っ込んでいくように仕向けている何かが見えてくる可能性もあるわけで、その何かというのが他ならぬ自らがとらわれている制度やシステムや慣習だといってしまうと循環論になってしまうかも知れないが、そこで立ち止まって突っ込むのを躊躇しているようでは成功もおぼつかないだろうし、そうやって目前の成功をみすみす取り逃がしてしまった人もいくらでもいるのだろうが、そうなる以前の段階からそこから外れるように意識が誘導されてしまっているのかも知れず、それが何によって誘導されているのかといえば、単独で普遍的な観念を抱くように誘導されていて、意識が制度やシステムや慣習からもたらされる特殊で一般的な概念にとらわれていると同時に、自然からもたらされる単独で普遍的な観念にもとらわれているから、両方のレベルの間で心身のバランスを取るように仕向けられているのかも知れず、それが何かのきっかけからそうしたバランスが失われると制度やシステムや慣習の支配に屈して、無理なことをごり押しする成り行きになるのだろうが、それもあらかじめ制度やシステムや慣習に組み込まれている動作なのかも知れない。


9月14日「ちょっとしたこと」

 それがちょっとしたことには違いないのだが、そのちょっとしたことが大げさで深刻な違いをもたらしているわけでもなく、大したことではないと思っておいても差し支えないが、実際に大したことでもないのにそれが起因して深刻な事態となってしまい、その深刻な事態というのが自身を死の危険にさらすようなことにでもなれば、大したことではないという思いが裏切られてしまうのだが、裏切られてしまうのも当然であり、ちょっとした勘違いから致命的な操作ミスを犯して、それが深刻な事態を引き起こして結果的に大事故や大惨事となるのが、大規模な機械設備や機械装置などにおいては稀に起こり得るわけで、そういった設備や装置には幾重にも事故を防止する機構も備わっていて、めったなことでは大事故や大惨事は起こらないはずだが、稀に起これば甚大な被害や損害をもたらして深刻な事態となるわけで、そうしたことがちょっとしたミスが原因で起こることであっても、そうならないようなちょっとしたことも世の中にいくらでもありそうで、その大半は実際にも大したことにはならないはずだが、それが特に勘違いというわけでもなく、そう思うのが当然のことであっても、その当然のことというのが、一般的にも当然のことなのだろうが、一般的に言えることがその場の状況に合っているわけでもなく、その場の状況には合わないことを当然のことのように思っていて、そんな当然視していることが何かのきっかけから覆されるわけでもないが、いつまで経ってもその場の状況には合わない思いを抱いていると、自分の中では当然であったことがいつの間にか世の中では当然ではなくなっていることに気づいた頃には、世の中の変化から取り残されたような気分となるだろうが、そう思うのが当たり前のようなことが、なぜその場の状況に合わないのかといえば、理屈に合わないことがその場でおこなわれている可能性があり、なぜそれが理屈に合わないのかといえば、今までの理屈がその場では通用しなくなっているからそう思われるのだろうが、そうであるならその場では今まで通用していたのとは違う理屈が優勢になってきたから、今までの理屈が通用しなくなってきたと考えられるが、それがどんな理屈かといえば、はっきりとは示されないし、ただ今までの理屈が通用しなくなっているという状況でしかないだろうが、では今まで通用していた理屈とは何なのかというと、それもはっきりとは示されず、それもそこで良かれと思ってやることがことごとくうまくいかなければ、何かしらそこには理屈があるように思われる程度のことでしかなく、どちらにしても理屈がはっきりとは示されない代わりに、今までは当然視していたことがいつの間にか否定されるような状況となって、それがちょっとした違いとなっている分には誰にも気づかれないし、大した理由もなくそうなっているところでは大して問題ともならず、そこではそういうことがまかり通っている状態がそのまま放置されていて、それ自体は何でもないことなのだろうが、理屈などなくただその場の成り行きに従って動いていることでしかなければ、その場の成り行きとは何なのかといっても、人や物や情報が行き交った結果として何らかの成り行きが生じているだけで、それもはっきりとは示されないことかも知れず、そうであればその場の成り行きをどう捉えたらいいのかよくわからなくなってしまうだろうが、それでもそうなった結果から判断して、その場の状況に合うような理屈を持ち出して、何やらもっともらしくその場の成り行きについて説明する人が現れて、それを真に受ける人もそれなりにいれば、それがその場の状況に合う理屈だと思われるのだろうが、それもそういう成り行きになってから事後的に持ち出されてくる理屈であるだけに、事前にはわかりようのないことであり、そうやって絶えず事後的にその場の状況に合うような理屈がその場の状況を語るには必要となる一方で、事前にも予想や予測の中で何らかの理屈が持ち出されることもあるだろうが、予想通りや予測通りとならない限りはその理屈がその場の状況に合っているとは言えず、合っているかどうかは事後的にわかることだから、事前の予想や予測が当たらなければその理屈が通用しなかったことになるわけだが、いつまで経っても結果が出なければいつまで経っても予想や予測の内容を当然視することにもなり、それもいつまで経っても結果が出ないようなことを予想したり予測していれば、いつまで経っても同じような予想や予測を繰り返すことにもなり、年がら年中将来の展望を同じような内容として語り続けることにでもなれば、その人にとってはそう語るのが当たり前のこととなり、その人の主張に賛同してその人の信者となってしまった人々にとっても、その人がそういうことを語るのが当然のことのように思われるわけで、そうやってその場の状況に合っているのか合わないのかはっきりしないが、将来において実現するだろう状況や状態に合うような理屈もあるのかも知れないが、そういう成り行きに欠けているのが、実際に今起こっている出来事や現象になるのだろうが、果たしてそれが説明を要するような出来事や現象なのかというと、中にはそういう出来事や現象もあるだろうが、説明されない出来事や現象もいくらでもありそうで、取り立てて説明を要しないのだから、大して興味を惹かない些細な出来事や現象かも知れないし、あえて説明するまでもないようなそうなって当然の出来事や現象かも知れないが、あえて説明するまでもない出来事や現象というのが、起こるのが当然視されている出来事や現象でもあり、そうなるのが当たり前だと思うからそれ以上の説明は必要ないわけだが、そういった常識の範囲内で起こることが、誰もが納得できる理屈に基づいて起こっていることであれば、誰もが信用していたり信頼できる理屈があることになるだろうが、それが何かといっても、誰にも説明できないのかも知れず、何かそこには理屈のようなものがあって、誰もがそれに従っているらしいのだが、それが何だかわからないとなると、それは理屈ではなく慣習の類いなのかも知れないが、ではなぜそういう慣習の類いに意識をとらわれて、日々の日常の中で誰もがそれに従うような行動や行為となってしまうのかといえば、それもそういうことまで改めて考える人もあまりいないだろうが、意識して何をおこなっているわけではないが、特に意識しなくても自然とそういうことをおこなってしまうような成り行きにとらわれているわけで、そういうことに関して改めて理屈を持ち出しても意味のないことかも知れないが、結果的にうまくいけばその次も同じようなことをやるだろうし、結局はそこで事後的に判断していることになるのだろうが、また他の人がやっていることを真似て自分も同じようなことをやれば、他の人がやってみてうまくいくことを確認して、自分も同じようにやってみるわけで、それも事後的にそう判断することになるわけで、そうであればそこでまかり通っている理屈とは、自身や他人がやってみてうまくいくことなら、とりあえずそれを真似て同じようにやってみればうまくいくのではないかということであり、その程度のことを理屈とは呼ばないかも知れないが、単純に最低限のレベルで確からしいことでもあり、そういうことの繰り返しや積み重ねによって慣習の類いが生じてくるのだろうが、それを結果からいいように捉えて、大げさにそうしなければならないと主張してしまうと、お仕着せがましく感じられるだろうが、そうしなければならないということは他人にそれを強要することにもなるだろうし、何とかしてそうすることを世の中に定着させて、誰もがそうするように仕向けるわけだが、そうなってくるとそういうことをやってみてもうまくいかない結果を恐れているような心理状態も醸し出されてきて、それも何とかしてうまくいかない結果とならないように、そういうことをやれば誰もが絶対にうまくいくように、世の中を作り変えなければならないとかいう使命感に突き動かされるような大げさな成り行きにとらわれてしまうのかも知れず、果たしてそんな使命感に突き動かされて活動している人や団体を信用できるかとなると、それもその程度や傾向や内容によって判断が分かれるところだろうが、何かおかしいと思うのが普通の感覚なのかも知れない。


9月13日「調整と調節」

 たぶん何の方策もないということはあり得ないと思いたいが、避けようのない事態というのが資本主義経済システムであり、それに対して安易に社会主義的な方策を講じても、根本的な解決には至らないだろうが、何を解決したいのかといえば、資本主義経済システムから生じる問題を解決したいわけだが、別にそれが新たな問題として発生しているわけでもなく、以前からありふれたこととして問題視されていたことであり、特に対策として何かを講じる成り行きにはならず、なし崩し的にうやむやに済ませられてきたことでもあり、資本主義経済システムに巻き込まれている限りは、大なり小なり弊害として感じられることだろうが、それが何かと言っても改めて問題視するようなことでもなく、その中でもうまく立ち回っている人や利益を上げている企業からしたら無視してもかまわないようなことでもあり、うまく立ち回れない人や企業が活動に行き詰まったところで、それ相応の身の振り方があるだろうし、そうした身の振り方も資本主義経済システムに組み込まれていて、うまく立ち回れない人や企業がシステムの中で処理されてしまうから、システム自体が行き詰まることもないわけだが、処理しきれない人や企業が増えてくればシステムが行き詰まってきたことになるだろうが、そうなる前に先手を打って策を講じるのがシステムを管理運営する側が目論むことであり、実際に先手を打って金利を上げたり下げたり、株式や債券の買取額などを調整するわけだが、そういった人為的な調整と並行して、市場自体の自動的な調節作用も働いて、その結果として何とかシステムの破綻を免れているのだろうが、そんな中でも人や企業が合理的で効率的なやり方を模索していて、機械部品から電子部品へと集約したり、あるいは内燃機関から電気モーターへと切り替えたり、現金の取り扱いを減らしてキャッシュレス決済を増やしたりして、結果的に材料費や人件費を減らして、その分が利益に転嫁できればいいわけだが、競争相手も同じような傾向の中で活動しているから、そうした傾向の合理化や効率化では差異を生み出せなくなってくれば、そうなる前に先手を打って、新たな方面で合理化や効率化を模索する成り行きになるのだろうが、それとは別の方面でもサービスの充実とかの逆に手間暇をかけて割高でも顧客が満足できるように工夫を凝らすようなやり方もあるだろうが、そこでも競争相手も同じような傾向を追及していて、どのようにやっても他の事業者との差異を際立たせてそこから利益を生じさせるか、寡占化や独占化を進行させてごく一握りの業者で利益を独占する一方で新規参入を阻めば安泰となるのだろうが、独占企業となれば下請けの企業から利益を搾取するような構造も出来上がるだろうし、そのしわ寄せが他の寡占化が進んでいない分野にまで及んで、そこでの収益を圧迫するようなことにもなれば、そうした弊害をなかなか取り除けないと、産業分野全体の成長が鈍化して停滞することにもなりかねないかというと、そこから新たな成長分野を作り出す試みも同時並行しておこなわれるだろうが、その分野でも安定的に収益が見込まれるようになれば、それと同時に特定の企業による寡占化や独占化も進行してきて、それが停滞の原因として顕在化してくるのだろうが、そういう成り行きの繰り返しがそれなりに持続していけば、それが資本主義経済システムの延命にもつながり、実際に延命して現状に至っているわけだろうが、それを予定調和の傾向だと見なして、さらにそこから先回りして、そういった傾向を脱したその先の状況を予想してみても、大して信憑性を伴わない予想内容となってしまうだろうが、少なくともそれを閉じた一つのシステム内で進行している状況だと認識してしまうと、何か当てが外れるようなことになってしまうだろうし、システムには絶えずその外部があり、外部から様々な作用や影響が及ぼされていて、それらの程度や強度に応じてシステムが変形や変化を被るわけで、それ自体が一つのシステムとそれとは別のシステムとの間で生じる摩擦や軋轢にもなり、そうした摩擦や軋轢の中から何らかの出来事や現象なども起こって、それに対応したり対処している間にそれ相応の変化や変形を被るわけだが、そういうところでシステムと別のシステムとの関係がギクシャクしてきて、それによって空隙や余地や余白なども生じて、それが新規参入の余地でもあり、そうなると独占や寡占による均衡が破られるわけだろうが、人為的に意図してそれを作り出そうとしてもうまくはいかないだろうし、それが偶然の巡り合わせのようにして生じてくる出来事や現象なのかも知れず、何かを画策したい人や勢力などが意図してそういうことをやりたがる傾向にはなるだろうが、それもシステムの行き詰まりや閉塞感などからそういった意図や思惑が生じてくるわけで、そういう意味では長期的で漠然としていてあやふやな見通しよりは短期的で即物的な損得勘定にとらわれている方が、そういったちょっとした隙間に入り込むには有利に働くのだろうが、新たな参入分野の規模が大きく見積もられているほど、計画的かつ用意周到なやり方が求められるものの、カーボンニュートラルやグリーンニューディールなどのそういった大規模な計画が実際に進行している中では近視眼的で目先の利害にとらわれたやり方が一見不利に思われるだろうが、それが大規模になればなるほど計画経済のような社会主義政策に変貌してきて、細かいところに目が届かなくなって、思いがけないところで大きな失敗を犯してしまうわけで、要するに大きく計画を進めてしまうと、細かい調整や調節が利かなくなってしまい、いったん向かっていく方向を見誤ると小回りが利かなくなって、そこからちょっとした修正もできなくなれば、その分大きな失敗に見舞われることにもなりかねず、そういうところで大げさな変革を掲げる勢力が躓いてしまうわけだが、すでに合理的な観点から大規模な計画を進めている方面では、取り返しのつかないことをやっている可能性もあるわけで、今後そういった計画の大失敗が明らかになった時点で、近視眼的に目先の利害に汲々としている人や勢力が付け入る隙も生じてくるかも知れず、そういうしぶとさを侮ってはまずいわけで、地球環境を維持するためにとかの大げさな大義名分に従っているように思われるその種の大規模プロジェクトというのが、意外と今後の展開の中でコケるようには少なくとも現時点では思われないにしても、特に欧米諸国や中国などでもっともらしい理由と共におこなわれていることが、果たしてこのまますんなりと思い通りの成果にたどり着くかというと、これまでの歴史を振り返ってみるとかなり怪しいだろうし、逆に大失敗の連続が人類の歴史を作ってきたわけだから、現状で明るい未来につながるような計画の類いには疑いの目を向けるのが普通の感覚だとは言えなくても、ずるくねじくれた感情と共に生きている人がいくらでもいる世の中で合理的なやり方がそれなりに通用する面もあるものの、それ以外の不合理で不条理な結果がもたらされることもいくらでもあり、だからといって物事の合理性や効率性を追求しないわけにはいかないわけだが、そういった面では常に両義的な態度を取らざるを得ないのかも知れず、活動としては合理性や効率性を追求していても、活動している当人が心の中で思っていることが不合理で不条理な復讐心にとらわれていたりして、そこから態度や言動の裏表が生じてきて、きれいごとのような言動の裏には他者への攻撃衝動が燻っていたりして、そういう人の身体からは他者への不快感や不信感が滲み出ているようにも感じられるわけで、そういう意味では誰もが反対できない大義名分を掲げて権力を行使するようなことをやる人や勢力がいたら、ヤバいと思っておくのが無難なところだろうし、ヤバいと思っても実際に何かをやるかは、その場の状況に応じてできることが定まってしまうだろうが、それでも何か隙が生じた時を見逃さずに行動に結びつけることができれば、気休め程度には何とかなる可能性もあるのではないか。


9月12日「確率的に求められる予測」

 統計的に導き出された結果から確率的に確からしいことを信じるのは愚の骨頂というわけでもないだろうが、気休めに信じてもかまわないだろうし、それは天気予報を真に受ける程度のことかも知れないが、少なくともそこから宗教的な信仰が生じてくるわけでもなく、あくまでも確率的に確からしいことでしかないわけだが、例えば死ぬ確率が何百万分の一にすぎなくても、ゼロではないのだから、中には死ぬ人もいるわけだから、確率とはそういうものだと思えばいいわけで、だからどうしたわけでもないが、信じるとか信じないとかというよりは、計算して出てきた数値には違いなく、それをどう受け止めるかはその人の勝手かも知れず、それ以上でも以下でもなく、結果から出された確率に基づいて行動したところで、それ相応の結果がもたらされるだけだろうし、信じたい人は信じればいいし、信じたくない人は信じなくてもかまわないということ以外には何が言えるわけでもないが、そういった数値を用いて気休め的なことを言う人は信用できないというならそれでかまわないわけで、それがどれほどの高確率になれば深刻に捉えるべきかと言っても、さすがに致死率が50%なら深刻になるだろうが、明日雨が降る確率が50%なら誰も深刻にはならないだろうし、雨と言っても明日超大型台風がやってくる確率が50%なら深刻にならざるを得ないが、求める対象が違えばそういうことになるのも誰もが承知していることであり、何かが起こった結果から計算して、その延長上で確率的な予測が求まるわけだから、そこから確率に騙されるなと警鐘を鳴らす人がいるとしても、計算結果から求められる数値が信頼できるか否かはそうした確率に基づいて成り立っているシステムや制度が有効に機能しているという前提が必要であり、例えば占星術や方位学やバイオリズムなどの怪しげなシステムを用いて確率的に求められた結果を信用しろと言っても、それも事と次第によっては気休めとして信じてもかまわないが、深刻な判断を要する物事に関しては、もっと科学的に検証可能な方法があればそちらの方を信用するだろうし、それを信用したからと言って結果から求められることとこれから起こることには違いがあり、確率はあくまでも過去のデータから求められた確率であり、これからデータが変わってくれば、またそのデータに基づいて計算される確率の数値も変わってくるから、それが予測である限りで絶えず不確実でしかないわけだが、予測でなければ過去の測定結果に基づいた確率にすぎないわけで、それに対して人の気まぐれな行動や思惑などを確率的に求められるかというと、普通はそういう方面には確率的な計算を適用しないだろうが、一定の条件下で人の行動パターンを予測しようとする試みもあるかも知れないし、それもその人が何らかのシステムや制度にとらわれていることが前提となり、それがそこでの条件となれば、何らかのシステムや制度にとらわれている人の行動や思惑は予測しやすく、それもシステムや制度にとらわれている範囲内での人の行動や思惑になり、例えば株式市場で値動きがどうなれば売りが優勢となったり買いが優勢となるかに関して、そこに参加している人々の心理状態や思惑や実際の売り買いなどの行動を読むAIシステムが開発されるだろうし、そういう方面では確かに確率的な予測が信用できるが、そうなるには人が何らかのシステムや制度や慣習などにとらわれて行動や思惑がその範囲内で制限されていることが条件となってきて、システムや制度や慣習などにとらわれている人ほど行動や思惑が読まれやすくなり、そういう人たちはシステムや制度や慣習の範囲内では一定の行動や思考のパターンを示すわけだが、それが人工的なものでなくても、自然環境も一定の循環システムであるから、その中で生きている動植物の活動パターンも一定の範囲内に収まってきて、動物に発信器などをつけて調査すれば、行動パターンが読めてくるだろうが、何のためにそうした行動パターンや思考パターンを読むかとなると、株式や為替などに関しては売買によって利益を上げる目的となるだろうし、動植物の生態調査などでは学術的な目的となるだろうが、それもそうした制度やシステムの範囲内でそうした目的が生じてくるわけで、そこでも心身が制度やシステムにとらわれていることが前提となってそういう目的も生じてくるのだから、それ自体が制度やシステムにとらわれた一定の行動や思考パターンから生じた目的となってきて、そうなっている限りで偶然にそうなっているわけではなく、制度やシステムにとらわれると必然的に一定の目的や目標が生じてきてしまうわけだが、それと同様に怪しげな占星術や方位学やバイオリズムに心身がとらわれても、そうしたシステムの範囲内で一定の行動や思考のパターンが生じてくるだろうし、それらを信用したり信頼している人がいれば、その人がそれらのシステムにとらわれているからそうなるわけで、占星術なら実際に占星術に従って行動したり思考するから占星術が示す通りのことが起こるだろうし、その人が占星術によって示される行動や思考のパターンに従って行動したり思考すれば、その通りのことが起こり、結果として占星術がより一層信用できて信頼できる術となるわけで、始めから占星術など信用していなければ、そもそも占星術など活用しないだろうが、そういう意味で信じる者は救われるわけだが、その一方で条件さえクリアすれば確実に言えることもあるだろうし、例えば株式投資においては割安株で配当利回りの高い株を買っていれば確実に儲かると言えるが、その場合の必須条件としてはその株を買う資金を持ち合わせていることが大前提だろうし、また現状で何が割安株なのかを把握しなければならないわけだが、そうした条件をクリアすれば、現状で割安なら近い将来において値上がりするだろうし、そうなれば高い確率で儲けることができるわけで、実際にもそうなればそういうことを言っている人の信用や信頼度も上がってくるわけだが、そこに何かシステムや制度があってそのシステムや制度が現状の中で安定して機能していれば、そのシステムや制度が示す傾向に沿ったことを言っていればその通りになる確率が高くなるわけで、そうなることに関しては何の不思議もないわけだが、そうであれば現状において世の中でどのようなシステムや制度が安定的に機能しているかを見極めて、そんなシステムや制度の傾向に沿ったことを予想や予測として提示できれば、世間的な信用や信頼を勝ち取ることができて、実際にそういうことを言ってその方面の権威やご意見番として立ち回っている人もいるのだろうが、そういう人はその人が依存しているシステムや制度を守る側としての立場や地位を占めているわけで、システムや制度に反したりそれを壊すような行動を取る人や勢力とは敵対するしかないし、そういうところで意見や主張もシステムや制度に従う内容となってくるだろうし、時としてシステムや制度を批判するにしても、苦言を呈す程度にとどまるわけだが、そういう人が恐れているのは自らが依存しているシステムや制度が廃れてしまうことであり、それが繁栄している限りでそれに依存する人の立場や地位も保たれるわけだが、そういう意味ではかつて占星術が世の中の状況や情勢を支配するほど栄えていた時期もあったのかも知れず、実際にあるローマ皇帝が占星術によって遠征先で死ぬことを知って、自らの命運が尽きたことを悟りながらも、占星術が示す通りに遠征先に赴いて、その地で没したエピソードがあるらしいが、死ぬことを知ったのになぜ遠征しなければならないのかが不可思議なところだが、占星術に心身がとらわれていると占星術が示す通りの行動しかできないのかも知れず、他にも華僑系の裕福な資産家が自らが信じる方位学に基づいて豪奢な社屋を建てて、その後も商売が繁盛したとしても、もともと繁盛していた商売が繁盛し続けただけで、取り立てて不思議なことではないだろうが、その人にとっては自らが信じる方位学に従っている限りで商売が繁盛することを信じて疑わないわけだ。


9月11日「世界の全体像」

 物事の全体像がわからないということは、その一部しか見えていないことになるが、見ても障害物が視界を遮っていれば全てを見ることはできず、視差が制限されて見る位置や角度も限られてくれば、部分的な視点しか持ちようがなく、見るだけで何がわかるわけでもなければ、そこから物事の全体像を推測しようとするかも知れないが、その推測が当たっている部分もあるだろうが、それ自体が的外れな推測かも知れないし、勝手な推測に基づいて行動して、当てが外れてひどい目に遭えば、推測が間違っていたことになるわけだが、そうだとしても何の目的で行動していたのかが明らかにならなければ、人が行動する理由まであれやこれやと推測してみても、当たっているかどうかは何とも言えないが、自身でも理由がわからずに行動している場合もあるだろうし、何かはっきりした理由があって行動することがあるとしても、それが理由の全てではないのかも知れず、行動しているうちに当人には与り知らないところでわけのわからない理由が付け加わってくれば、そんな理由で行動してきたのではないと反駁するかも知れないが、行動する理由を理路整然と述べても相手がわかってくれない場合もあるだろうし、何のために行動するのかが、行動しているうちにわけがわからなくなってくるようなら、途中から事情が変わってきたのかも知れず、その場の状況や情勢に合わせて行動していれば、特に理由や目的にこだわる必要もなく、場当たり的な行動に終始していれば、それで何とかなっている限りで、行動する理由などどうでもいいことにはならないだろうが、大して理由を重視していなければ、改めて考えてみるまでもないこととなり、それに関して他人からもっともらしい理由を指摘されても、その通りだと答えておけば済んでしまい、むきになって反駁する必要もなくなってしまうだろうが、それが物事の全体像を把握するために行動しているのであれば、行動する理由としてはもっともらしい部類に入るだろうが、では何のために物事の全体像を把握する必要があるのかというと、ただ単にそれを知りたいからという理由では相手が納得してもらえないかも知れず、相手など元からいなければそれで問題はないだろうが、どこからともなく理由を質したい人が出てくるとも限らず、そんな人の相手などしている暇が惜しければ無視すればいいことかも知れないが、何かしら他人の事情を詮索したい人がいて、それがたわいない世間話のネタとなる場合もあるだろうが、そんな暇人にかかわっている場合ではなく、自らがかかわっている物事の全体像を把握することが重要だと思われるなら、それが勘違いでなければ把握しなければならないだろうが、それが唯一の目的というわけでもなく、他の目的との兼ね合いからそんな目的が生じているようなら、何かの加減でそんな目的を追求する必要もなくなってしまう場合もあり得るだろうし、目的自体がそれを遂行したり追求しているうちに変質してきて、別の目的を遂行する上で妨げとなってくる場合もあるかも知れず、そういうなってしまうことも含めて目的を遂行するだけが全てではないことを悟ってしまうようなら、それが本来の目的ではなかったことを思い出す可能性も出てくるかも知れないが、では本来の目的とは何だったのかというと、そんな目的などもとからありはせず、その場の成り行きや結果から事後的に設定されてくるのが目的であり、自らが関係する何かが起こってみないことには目的もはっきりとは意識されないだろうし、何らかの出来事に遭遇してそれに対処したり対応していくうちに、次第に行動の対象となる目的や目標が固まってくるのかも知れず、そういう成り行きを考慮するなら、始めからはっきりとした目的や目標などを定めてしまうと、自分でそれを裏切るような行動を起こして動揺することになるだろうし、目的を遂行したり目標を達成してしまうとまずいことを身体が悟って、意志に逆らうようなことをやってしまう場合もあり、身体の動作が意志に逆らうのだから、意志によっては身体を完全にはコントロールできないわけで、意志が身体にはできないことをやらせようとしているわけだが、そうなると自らの力の限界と思い通りにはならない身体の制約を悟ることになるかも知れないが、そうした限界を突破するために何をやるかというと、機械を作ったり制度やシステムをこしらえて、それを使って他人を従えようとするのであり、それも他人と協力してそういった物事をこしらえようとするわけだから、その時点で自分一人の意志で動いているわけではなく、他人の意志も絡んでくるだろうし、それが集団の意志となって個人をコントロールしようとすることになると、個人の意志が集団の意志に含まれるならその集団に含まれる個人が機械の動作や制度やシステムに従うことにもなるはずだが、個人の身体までも従えることができるかというと、完全には従わないからそこで事故や違反行為が起こるわけで、逆に個人の身体が従わないから、機械の動作や制度やシステムの不備がわかるわけで、それらよりもさらに身体の動作を拘束する慣習となると、慣習に従わない人がいるから、そこに慣習が行き渡っていることがわかり、全ての人が慣習に従っていれば誰もそれを慣習だとは認識できないし、もはや慣習でさえなくなってしまうわけだが、そういう意味で世の中に存在したり動作する物事というのは、それによって視界を遮られてしまう障害物そのものであり、身体がその動作に逆らってしまうからそれとわかるのであり、その全体像などないと思っておいた方がいいのかも知れず、絶えずその一部がちょっとだけ姿を現すのであり、全体ではなく部分の存在や動作しか確認できないわけだが、そうしたほんの一部分にすぎない部位やその動作からそれを含んだ全体像を想像してしまうと、その部分だけが強調されたり誇張された全体像となってしまい、それを想像している当人にとってはその部分から直接の作用や影響を及ぼされてその存在や動作を知ったわけだから、確かな感触や実感が伴っているだろうが、誰もが同じ部分から作用や影響を及ぼされるわけでもないだろうし、またその程度や傾向も違ってくれば、各人が想像する全体像が一致することはないはずだが、集団の意識となって想像しているようなら、その集団が実感する最大公約的な全体像が浮かび上がってくるのだろうが、それも宗教的な慣習や機械の動作や制度やシステムにとらわれている面ではそれ相応のバイアスがかかっていて、慣習を守らせるのに都合がいい像や、機械を円滑に動作させるのに都合がいい像や、システムや制度が機能するのに都合がいい像として、それぞれ領分に応じて適正な像となるべく修正が入っている可能性があり、それをそのままの像として把握してもいいかとなると、何か騙されているような疑念を抱かざるを得ないのかも知れないが、少なくとも身体が逆らうようなら、何かしら抵抗感が伴っていて、本来の像としては受け止めるべきではないのかも知れず、そういうところで身体的な反応を信頼するなら、慣習や機械やシステムや制度などによって虚像を見させられていると思っておいても差し支えないだろうが、そもそもそれらはいったい何の像なのかというと、それを世界の全体像だと把握できるわけでもなく、絶えずその一部分の姿を全体像の断片として目にしているだけなのかも知れないが、それも慣習を守っている集団意識にとって都合のいい像や、機械の動作に身をまかせている意識にとって都合のいい像や、システムや制度に従っている意識にとって都合のいい像だと思えるかというと、そういうことではなく、例えば個人が慣習に逆らって村八分などの不快な目に遭ってしまうと慣習にとって都合の悪い陰湿な一面が浮かび上がってきたり、事故が起こって機械の動作に巻き込まれて人が死傷してしまうと機械にとって都合の悪い凶暴で陰惨な一面が垣間見られたり、どうしてもシステムに順応できなかったり制度から外れてしまうと、システムや制度から恩恵を受けられなくなるだけではなく、逆にシステムや制度によって搾取されることの悲惨さを自身の身をもって痛感させられてしまうのかも知れない。


9月10日「理由のもっともらしさ」

 何かを語る以前に語ろうとしている対象について知っていることがあるはずだが、それを忘れていれば、ではいったい何を語ろうとしているのかというと、これから知ろうとすることについて語るのかも知れず、それが語り得ないことであれば、何を語ることもできないはずだが、それを調べることができて、ネットで検索して調べて知ろうとすれば、それが知りたいことであり、それについて語りたいことになるかというと、そんな気がするということであり、そう思い込もうとしても、実際には語りたいことでも知りたいことでもないとすると、ただ単に世の中に出回っている知識をそのまま語っているにすぎないことになるだろうが、それでかまわないのなら、では何のために語ろうとしているのかといえば、自身のために語ろうとしていると共に、検索システムを活用したいがために語ろうとしていて、そのつもりもないのにそうなっているのだとすれば、そんな理由は嘘に決まっているだろうが、自身の意図や思惑から離れてそういう理由が付け足されている可能性もあり、それを自分でこじつけて、そうなった結果からそんな無理な理由を想像しているにすぎないが、結果から想像してしまう理由がもっともらしく思われるなら、それを信じてしまうわけで、それが誰もが信じられるもっともらしい理由となれば、誰もが納得できる理由ともなり、そんな理由を見つけようとしているなら、他の大勢の人たちから支持や賛同を得たくて、そういう理由を見つけようとしているのかも知れず、実際にそんな理由を示して支持や賛同を得ようとしている人が選挙に立候補しているわけだが、立候補する理由がどれほどもっともらしいかを巡って表向きは競われているとしても、裏ではもっともらしいとは思えないような多数派工作がおこなわれている場合もあって、もちろん多数派工作をする理由にも、もっともらしい利害関係が絡んでいるわけだが、それをやっている当事者にとってはもっともらしく思われるが、裏工作としてやっていることであれば、関係者以外の人たちにしてみればもっともらしいとは思われないからそれが裏工作になるわけで、どうやれば納得できる結果になるかを巡って関係者の間で利害調整や駆け引きや交渉がおこなわれることになるだろうが、それと同時並行して表向きの選挙が進行するわけだから、始めから出来レースのようなことになってしまえば納得できないし、何とかして表向きのもっともらしさによって人々から信用や信頼を勝ち取りたいわけだが、いくら立候補者の主張や意見がもっともらしく思われるとしても、そのきっかけとなったもっともらしく思われない出来事と比べると、何の説得力もないということにはならないとしても、後からとってつけたようなもっともらしさであるだけに、そんなもっともらしさを信用したりもっともらしい理由を掲げて立候補するような人に信頼を寄せるような人たちの方が、どうかしているとまでは言えないにしても、ただ単にその場で働いているシステムや制度に従っているに過ぎないと言ってしまっても、それがもっともらしい理由とは思われないが、実態としてはそういうことだと思っておくのが無難なところであり、そういうことも含めて世の中が納得しがたくもっともらしく思われないような成り行きで回っていて、それが何か腑に落ちないような疑念を抱くようなことになるから、人々がそれを振り払うようなもっともらしい理由を求めてしまうのも無理もないことだが、理由というのは何かが起こった後からそれに対して納得できるような説明が語られる中で示されることであり、そうなっている時点で起こった出来事が言葉を用いて納得できるように調整されていて、それに伴って都合が悪かったり納得できなかったり信用や信頼を損なうような要素や要因は省かれたり隠蔽されて、そういう処理を施された上でもっともらしい理由や根拠が示されるわけだから、それを信用したりそれに信頼を寄せるような人はよほどのお人好しか、もうすでに信者となっていたり利害関係者となっているのだろうが、そうした信者や利害関係者をどれほど集められるかを競っているわけだから、果たして信者や利害関係者となる理由があるかというと、それも信者や利害関係者となってから、なるにふさわしい理由や根拠を後付け設定のようにして付け加えるわけで、そういうことをやっている人たちにその自覚があるかというと、自覚のあるなしにかかわらず実際に信者や利害関係者として振る舞うわけで、それが自覚なき演技なのかも知れず、そういう成り行きに疑念を抱くなら、そうなるきっかけを作った不意打ちのような不自然で納得しがたい出来事の中に、それらの信者や利害関係者にとっては隠蔽したい何かがあるようにも思われてくるが、それが何かといえば、ただ単にそれらの人たちにとってはそれが思いがけない出来事だったのであり、納得しがたく信用できない出来事でもあり、それでは困るから何とかしてもっともらしい後付け設定をこじつけて、納得できて信用できるような出来事へと持って行きたくて、あれやこれやと涙ぐましいねつ造工作をしている最中なのかも知れないが、その一環としてメディア総ぐるみで選挙を盛り上げようとしているわけだが、いくら飾り立てて厚化粧を施して明るい未来がやってくるように装ってみても、一時的にはそれが功を奏してうまくいったような結果をもたらすのかも知れないが、それも虚飾に彩られた偽りの成功には違いないわけで、だからといってそれに対する復讐のような何かが起こるわけでもなく、復讐を当てにして人たちもはぐらかされるような事態も予想されるが、そうだとしても現状ではそんなことが起こる当ても根拠も理由もないのかも知れず、忘れた頃にそんなわけのわからないことが起こったとしても、それを今回の出来事に結びつけようとしても全く結びつかないだろうし、もちろんそんなことが起これば起こったらで、またそれが起こったもっともらしい理由や根拠が後付け的に示されはするが、そこでもそんな理由や根拠を支持する信者や利害関係者が出てくるかも知れないし、そんなことの繰り返しによって世の中が回っていくだろうが、実際には不意打ちのようにして納得しがたく理解しがたいことが起こっているのに、それを後付け的に納得できて理解できるような説明を施すことによって、何とか事を丸く収めようとしているわけだから、それが無理を承知でおこなわれていることでもあり、そんなことは誰もが薄々勘づいていて、そういう無理な盛り上げが長続きするわけがないと思いつつも、長続きさせようとする思惑も働いていて、実際に信者や利害関係者が長続きさせようとして関係方面に働きかけをおこなっている最中でもあるだろうし、どう見てもそれが涙ぐましい努力のようにも感じられてしまうわけだが、とりあえずどれほどの人々が信者や利害関係者を装ってみても、その信仰や利害関係の対象となる人物がみすぼらしく見えてしまうと、それに伴って信者や利害関係者もみすぼらしい人々のように見えてしまい、それも身なりや外見がみすぼらしいというわけではなく、逆にそれなりに裕福な人々がみすぼらしく見えるということになると、卑しさや嫌らしさが身から滲み出ているということになるのかも知れず、一概にそういう否定的な表現を使えばいいというわけではないが、ただ単に普通の人々が普通の感覚で巻き込まれている事態なのかも知れないが、もちろん巻き込まれている感覚もないだろうし、大半の人たちは傍観者気取りで我関せずの態度でもいられて、高みの見物を決め込める人もいるものの、それとは対照的に現実の状況の中で苦しんでいる人たちが一概に無視されているわけでもないだろうが、すでに苦しむような状況に陥っていること自体が未来がないということでもあり、見捨てられてしまう人も多く出ているだろうし、実際に死んでしまえばそれっきりとなってしまうわけで、そういうことも含めて現状を結果から判断すれば、救いのない状況だと思ってもかまわないのかも知れないが、救われないなりにも生きていける限りで生きていかなければならないわけでもなく、死んでしまってもかまわないわけだが、実際には死ぬ理由も生きる理由も後付け的に自己正当化としてもっともらしく設定できるとしても、そういうもっともらしさに対して理由なき反抗のようにして逆らうこともできるのではないか。


9月9日「自覚なき演技をもたらす何か」

 自身にとって都合のいい幻想を抱きながら向かっていく先に待ち受けているのが、画面に映し出された映像とは違う真の現実であれば、それを信じてもかまわないような気がするが、相変わらずこの世界のどこかにあるらしい真実を探り当てようとしているのであれば、単なるありふれた宝探しの物語に意識をとらわれているにすぎず、まだ映像を使った目くらましを見させられている最中でもあるわけだが、閉じたシステムにとらわれているように感じられるだろうが、実はそうではないと思いたいわけで、思いたいだけでは何がどうなるわけでもないが、そうかといって宝探しとは別の物語があるわけでもなく、物語ではない真の現実があるわけでもないが、では何があるのかといえば、ただの現実があるようにしか思われないが、それが真の現実ではないと言い切れるかというと、真の現実もただの現実も違いがあるわけではなく、現実には違いないわけだが、それが現実ではないように見せかけられているわけでもないはずだが、見させられている目くらましの映像が何なのかといえば、そこで誰かが何かを演じているはずなのに、その自覚がないように見えるとすれば、そう見えるように見せかけている制度に従っていると、余計なことは考えなくても済んでしまい、何かを演じている自覚などなくても、実際にそれが自覚なき演技となって、では演じているのではないとすれば何なのかと問われても、答えに窮してしまうわけでもなく、制度に従っている限りで問われることもないが、問われなくても自分から問いたくて、自分が演じている役が何なのかを知りたいのだが、それが画面上に映っている映像表現から読み取れるなら、真実が画面上に映し出されていると感じられるはずだが、果たしてそれが真実なのかというと、真実であってほしいと思いたいのであり、目くらましの映像などではあってほしくないわけだろうが、真実を表現しているのが目くらましの映像であり、それが嘘偽りの真実でもあるわけで、嘘偽りの映像でなければ真実を表現できないのかといっても、それが真実なのだから真実が嘘偽りなのであり、それ以外のどんな映像表現が真実を物語っているはずもなく、真実というのは嘘偽りそのものでもあるわけだが、それに対してただの現実があるかというと、ただの現実はただの現実であって、それが真実でなくてもかまわないわけだが、ただの現実を真実に見せかける必要はなく、映像表現を使ってそれを物語る必要もないわけだが、要するにただの現実には価値がなく、価値がない現実をわざわざ映像表現に収める必要がないから、それが映像表現にはならないわけだが、ではどうなればただの現実ではなくなるのかというと、そこで興味深い何かが起こるとただの現実ではなくなるわけで、興味深い何かが起こるようなシステムが作動していているのが映像表現を使った目くらましでもあるわけだが、そんなシステムにとらわれていると、画面を通して年がら年中興味深い何かに遭遇していると思わされてしまうのだろうが、実際に遭遇しているのかというと、画面を通して遭遇しているだけだから、臨場感が伴っているものの、直接遭遇しているわけではないから、それに遭遇することによってもたらされる危険も減じられて、とりあえず安全な環境下で遭遇しているので、直接身に危険が及ぶことはないはずだが、では間接的に及ぼされる危険がどれほどの程度であるかといっても、それを計る手立てがあるわけでもなく、そんなのは危険のうちに入らないと言ってしまってもかまわないが、それでも危険を感じるとすれば、何かしら危険に直面しているのかも知れず、それが間接的に及ぼされる危険に特有な何かなのだろうが、はっきりとは危険を自覚できないだろうし、自覚できなくても苦にならない程度の危険なのかも知れないが、映像表現からもたらされる危険とただの現実からもたらされる危険を比較できないとしても、果たしてただの現実から危険がもたらされるかというと、そこで何かが起こらないと危険な状態とはならないはずだが、何が起こるのかといえば身に危険を感じるような何かが起こり、実際に危険な目に遭って、心身に何らかのダメージを負えば、それを映像表現に収めるだけの価値が生じるかも知れないが、その場に居合わせて直接危険な出来事を映像表現に収められるかというと、稀にそんな映像がメディアを通して伝えられることもあるだろうが、その当事者になれるのはその場に居合わせた人だけであり、そんな映像を見た人が危険に直面するわけでもないはずだが、そうしたその場に居合わせた人だけに危険をもたらす出来事とは別に、特に危険を感じさせるはずのない映像もいくらでもあり、それらの映像がそれを見る人々に危険をもたらすはずがなく、それが興味深い映像でもなければ、見ても何も感じないはずだが、もしかしたらそんな見ても何も感じないような映像の中にただの現実が映っていて、そこで見ている人にとって都合のいい現実とはかけ離れた何かが起こっているかも知れないが、それに興味がないのであれば無視してもかまわないことであり、実際に無視して記憶にも残らないかも知れないが、普通に考えて世の中では誰の記憶にも残らないような出来事がいくらでも起こっているはずで、特にそれを映像に収める価値も感じられないだろうが、映像自体が興味を惹く物事だけで構成されているわけでもなく、何かしら興味を惹かない物事も映り込んでいて、それを見ているのに気づかない場合があるのだろうが、別にそういう物事が映像として目くらましを構成しているわけではなく、映像を伝えたい側が目くらましとして見せたい物事があるわけで、たとえそれが現実に起こっていることであっても、それを強調したり誇張したり、他の都合の悪い現実を無視するために、目くらましの映像を見させようとするわけだが、それが見る側にとっても興味深い映像であり、それを見ていれば他の都合の悪い現実を無視していられるなら、喜んで目くらましの映像を見ているつもりになれるはずだが、そういう見させようとする側と見させられる側が相思相愛の関係となっていれば、何も危険ではないはずだが、どちらにとっても都合の悪い現実があるとすれば、実際にそれが起こっている限りでその都合の悪い現実が、都合のいい目くらましを見せたり見させられたりしている人々に危険をもたらすかも知れず、その危険がどんな危険でどの程度の危険なのかといっても、実際にそれから作用や影響を及ぼされてみないことには判断がつきかねるだろうが、すでに作用や影響を及ぼされているからそれを無視するために、目くらましの映像を見させようとしたりそれを喜んで見ている人々がいるわけで、そうなっている時点で心身に何らかのダメージを負っているかも知れないし、そのダメージを隠すためにも思わず自覚なき演技を強いられて、何でもないことを世間に向かってアピールしているのかも知れないが、それがこれ見よがしに演じられている光景が痛々しくて、見ていられないような気がして、何か見たくもない光景を見せられたように感じられてしまうとすれば、相当利いている証拠だろうが、本当にそうなっているとすればそれに追い打ちをかけるようにして、これからとどめの一撃となるような出来事が起これば、ありふれた宝探しの物語にも終わりが近いことを予感させるだろうが、果たしてそうすんなりと予定調和のようなハッピーエンドに終わるかというとそんなふうには終わらせないような何かが待ち構えていて、それが誰もが無視して忘れているつもりの都合の悪い現実に起因して起こることかも知れず、そうであればその都合の悪い現実を無視しないで思い出す必要があるかというと、たぶん忘れたままでもかまわないわけで、すでに目くらましの映像に釘付けになっている人たちは、そこから退場する成り行きに捉えられているのかも知れず、その場で誰を退場させるかを遠別する装置として目くらましの映像が仕掛けられていて、目くらましの映像に釘付けとなった人から退場させるようなシステムとなっているとすれば、やはりその場に居合わせた人にとっては、その目くらましの映像が危険そのものであったわけで、退場させられる危険を察知できなかった人が、その目くらましの映像に釘付けとなってしまうわけだ。


9月8日「差異と詐欺」

 利益を求めて何かをやるとなると絶えず合理的かつ効率的にやろうとする傾向になるだろうが、そういう思惑に欠けているのが両義的な傾向であり、何が両義的なのかといっても、それはやろうとしてもできないことであり、やろうとしてもできないことをやるには意識に逆らわなければならないだろうが、それも意識して逆らうのではなく、結果的にそうなってしまうような状況に持って行く必要があるだろうが、それも持って行こうとしても持って行けないから、そういうところが謎なのかも知れないが、それに関しては人と人とが協力して作業をおこなう過程で何かが生じてくるかも知れないが、複数の人の異なる意図や思惑が絡み合って複合的に作用し始めると、相反する傾向が同時並行で進行するような状況が実現するのだとしたら、それも意図してそういうことをやろうとすると失敗してしまうのかも知れず、結局は確率的に起こるようなことであり、多くの人たちが起業して競争すれば大半の人は失敗するだろうが、中には成功して大企業にまで成長する事業もあり、成功した事業にはさらに多くの人や団体が群がってくるから、さらなる巨大企業へと成長するかも知れないが、そうなった結果から成功するためのノウハウを掴み取ろうとするのは原因と結果を取り違えることになり、同じようなことをやっても成功するとは限らず、実際に同じようなことをやったのに大半の人や団体が失敗した事実を考慮していないわけで、確かにそういうことは結果からしか判断できないが、結果から最善の方法を導き出そうとすれば、それが合理的かつ効率的なやり方となってしまうわけで、そうしたシステムを構築するにはすでにある程度成功している前提が必要であり、成功した実績の上に合理的かつ効率的なシステムを作り上げて、同じように成功した同業他社との競争の中で有利に事を運ぼうとするのだろうが、そうしたシステムも差異を作り出すために絶えず更新していく必要があり、同じシステムの中で同じことをやっているだけでは、すぐにやっていることが陳腐化して差異がなくなってしまうから、利益を得られなくなってしまうわけで、そういう意味でその時点での最善のやり方として合理的かつ効率的なシステムを構築したところで、それを絶えず更新していかなければならないということになると、何のために更新するのかといっても、差異を作り出すために更新するわけで、その差異が絶え間なく合理的かつ効率的な傾向を突き詰めるようなことになるかというと、工夫を凝らすのにも限界があるだろうし、そうなると同じことをやっていくのと並行して、新たな分野に手を出すことになるかも知れないし、それによって事業の多角化を目指したり、そこでも新たな競争相手と遭遇して、合理性や効率性などの傾向に関してしのぎを削ることになるだろうが、それに加えて見た目の目新しさとかのデザインとかサービスの多様性などといった面で従来のやり方との差異を強調することになるかも知れないが、それは事業内容にもよるだろうし、それに関しては単純明快な事業であるほど寡占化や独占化がすぐに進んで飽和状態となってしまい、新規参入が難しくなる一方で、新規参入が絶え間なく繰り返されるような分野だと、それだけ入れ替わりが激しいということであり、失敗する確率も高いだろうし、参入する魅力があるから新規参入してくるのだろうが、その中でうまくいくのはほんの一握りの事業者なのかも知れず、それがハイリスク・ハイリターンであったり、実際にやってみるとリターンが思ったほどでもなく、幻想にすぎない場合が多いのかも知れないし、そういう分野は何かしら問題を抱えているのかも知れないが、その問題というのが差異を作り出してもそれが利益に結びつかなかったり、合理性や効率性を追求する余地がほとんどなかったり、そうなるといかにしてごまかすかということにもなってしまうだろうし、実際に詐欺的なやり方で短期的に莫大な利益を上げる成り行きになればそれだけ反動も大きく、詐欺がバレればたちまち信用がなくなって事業も行き詰まってしまうだろうが、何が詐欺にならないのかというと、作り出された差異に納得できるかということなるが、ごまかしにすぎないと思われるようなら詐欺だと感じられる一方で、ごまかしではない差異が何なのかとなると、うまく言い表せないような微妙さがあるのかも知れず、ごまかしようのない面を強調するなら、合理性や効率性などの面で改善されたから、その分で利益が出たと主張できるが、例えばそれが人件費の削減になれば、実際に削減された人件費の当事者となれば、その分で自身の利益が奪われたことになるから納得がいかないだろうし、それが閉じた一つのシステムの範囲内だと一方が得すれば一方が損するようなゼロサム的な損得勘定しかできないが、その一方で人も物も情報も絶えずあるシステムから別のシステムへと移動していて、一つのシステムの中だけで考えるのではなく、あるシステムの中で合理化がおこなわれて余分な人や物が整理されて、その人や物がそこから移動して別のシステムの中で活用されることになれば、そこで満足のいく利益を得られる限りで、その人の利益が確保されたことになるだろうが、移動がスムーズにいくとは限らず、また同じ額の利益が得られるとも限らないし、そこまでの移動に要する時間が差異をもたらすかも知れないし、得られる利益の差がそのまま差異となる場合もあるだろうが、そこでもどこかで差異が生じると、その差異の分が他のどこかにしわ寄せとなって現れるはずで、それがわかりにくいし気づかないところでもあり、気づかれない限りで合理的に感じられるが、気づいてしまえば詐欺やごまかしのようにも思われて、その当事者となれば納得がいかないだろうし、できるだけ納得がいかない当事者を出さないように、あるいは利益を奪われる当事者に気づかれないような差異を作り出せれば、合理的かつ効率的に利益を作り出したように装えるのだろうが、それが直接利益を奪われているようには思われない場合も結構あるだろうし、そのよくあるパターンが利益を奪われている者同士を戦わせている場合であり、例えば欧米や日本や中国などの先進諸国が途上国などから資源や農作物などの一次産品を安く輸入しているおかげで、そういった途上国では貧困から抜け出せずにテロや内戦や独裁政権などの人災が起こっているように思われるとしても、実際には先進諸国でも合理的かつ効率的に安価なやり方で資源や農産物など採掘したり生産していて、その煽りを食って、途上国では合理的かつ効率的に安価なやり方で採掘したり生産するやり方が技術的に確立していなかったり、先進諸国などから技術供与を受けてそういうやり方で資源を採掘したり農産物を生産しているとしても、先進諸国の大企業が直接それをおこなっていたり、そうなるとすでに合理的かつ効率的なやり方が確立されているから、それに携わる人員も少人数で間に合ってしまい、大部分の国民が利益に与れない状況となっていたり、そもそも資源も大してなく農産物の生産も自給自足で間に合うような国では、先進諸国が主導する市場に参入できないから、貧しいままとなってしまい、それでも下手に産業を振興するようなことをやれば、インフラ整備などの資金を借りたまま返せなくなってしまって、たちまち債務が膨らんで借金まみれとなり、政情不安に拍車がかかって軍事クーデターなどが起こってしまうのがお決まりのパターンとなるわけだが、だからといってそれらの国々が先進諸国から搾取されていることにはならないし、騙されているわけでもないだろうが、国境を取り払って産業の構造から見れば、資源の採掘や農業などの分野では少人数で大規模な事業展開をするやり方が確立されていて、合理性や効率性が追求し尽くされているから、商品形態としてはそこから差異を作り出すことが難しい分野となっていて、もちろん他の工業分野や商業分野でもシステム的には機械化によって合理性や効率性が追求し尽くされているのだろうが、後はシステムをいかにして持続的に更新していくか、あるいはそれと並行して新分野をいかにして絶え間なく作り出すかが、差異を作り出す鍵となってくるのではないか。


9月7日「堂々巡りの真意」

 どこかへ進もうとすれば行く手を阻まれて、また戻ろうとすればどこへも戻れずに、ではどこへも行けないのかというとそうでもなく、行ける場所は決まっていて、それが誰かが指し示す方角にあるとすれば、果たしてそれが正しい方角を指し示しているのかというと、指し示している誰かにしてみれば正しいと思っているのだろうが、誰にとってもそうかというと、そうでもないのかも知れず、誰もが同じ方角へ向かいたいわけでもないだろうし、各々で目的も目標も違ってくれば、それに応じて向かう方角も異なってくるはずだが、それが何のたとえかは定かでないが、方角ではなく向かう場所が明らかにならないと、方角も何もあったものではないはずだが、それ以前にもなぜ行く手を阻まれているのかも定かでなく、どこへ戻ろうとしているのかもよくわからないし、どうして戻れないのかも定かでなければ、謎ばかりで、行ける場所が決まっていることも含めてまずはそれらの謎を解き明かしたいところだが、眠っている最中に辻褄の合わない夢を見ることもあるだろうし、その類いなのかも知れず、あまり深く詮索する必要もないかも知れないが、問題なのは方角ではなく向かう場所が明らかになっていないことであれば、まずは向かうべき場所を明らかにしなければならないが、向かうべき場所などそもそもないのかも知れないし、方角すらもどの方角へ向かってもまた元いた地点へと戻ってしまうようなら、堂々巡りの最中かも知れないが、そうであれば行ける場所は元いた地点以外にはないわけだが、そうなると行く手を阻まれてどこへ戻ろうとしているのかが謎だが、元いた地点以外のどこか別の場所へ行こうとして行く手を阻まれて、元いた地点以外のどこへも戻れないとなると、何とか話の辻褄が合いそうだが、果たしてそんなことが現実に起こり得るかというと、その程度にもよるが、例えば誰かが牢獄の中で歩こうとすればそうなってしまうかも知れないし、日本の現状や政治状況がそうなっているというと、話が大げさなことになってしまいそうだが、そういうたとえ話では解決できないことであり、特に何を解決しようとしているわけでもないだろうが、何かしら問題を解決しようとする姿勢自体は間違っていないわけで、問題を解決しようとして活動するしかないだろうが、解決できるかどうかは定かでなく、解決しなくてもかまわないということではないはずだが、結果的にはそうなってしまう可能性が高いかも知れないし、実際にそんなことの繰り返しによって現状が構成されている可能性もあり、それが現状の問題点でもあるのだろうが、そういう問題を果たして解決できるかというと、よくわからないわけで、よくわからなくてもとりあえずは問題を解決しようとする姿勢を保っているわけだが、そうなると行ける場所が決まってきて、それが誰かが指し示している方角にあるような気がしてくるなら、そんなことは誰もが薄々気づいているかも知れないが、視線がそういう方角へ向かって注がれていて、実際の歩みがそんな場所へと行き着いて、それで事が丸く収まってしまえば、誰もが安堵するのだろうが、安堵するといっても相変わらず問題だらけの現状があり、何が解決したようにも思われなければ、問題を解決しようとして努力した結果としてそうなってしまったわけだから、そんな現状は受け入れられなくても、納得がいかなくても、その後も現状の中で生きていくしかないだろうし、そんなことの繰り返しによって少しずつでも世の中がよくなってほしいと思うだろうが、そういう努力というのは今すぐに成果が得られるわけでもなく、何十年後だとか、場合によっては百年とか二百年とかの努力の期間を必要とするのかも知れず、そうだとすれば現状の中で時流に乗ってうまく立ち回っている人や勢力などは問題とはならないが、近視眼的に目先の利害にとらわれていれば、現状の中でいかにうまく立ち回るかが重要となってくるだろうし、そういうところが現状の中で生きている各人の目的や目標を変えて、自身が生きている間には達成できないようなことをやっている人にはそれが自覚できないわけで、自覚してしまったらそんなことはやめてしまうかも知れないから、それを自覚できないようにさせておく必要があるのかも知れず、誰がそんな配慮をしているのかといえば神以外にはあり得ないと思えばそう思っておいてもかまわないし、中にはそれを自覚しながらも努力をやめない人もいるかも知れないが、そういう努力が矛盾を引き起こしたり、それ相応のジレンマやパラドックスに直面してもなおやめようとしなければ、それでどうなるかといっても徒労に終わるようにしか思われないかも知れないが、そうなってしまう人がどれほどいるかが事の成否を決するのかも知れず、そうなってしまう人たちの犠牲と引き替えにして達成されるようなこともあるかも知れないし、性急に努力が無駄になったと早合点する必要もなく、誰かがそれを自覚しないで無駄な努力を延々と繰り返していることが、何かの兆候を感じさせるようなら、その人にとっては確かに無駄な努力であるかも知れないが、逆にその人を小馬鹿して嘲笑するような人々にとっては、何かしら利益をもたらしているのかも知れず、しかもその利益が幻想にすぎなければ、それが回り回ってその人の努力を実らせるような結果をもたらす可能性もあるわけで、それがそういう成り行きを堂々巡りのような形態に導いていて、普通の人はそういうことまで考慮できないだろうが、考慮しなくてもかまわないような状況にもなっていて、それが無自覚な努力や無意識の行動や言動をもたらしている原因かも知れないし、そんな方面でいくら思考を巡らしても何の結論も得られないばかりか、かえって自身にとっては面倒な事態を招くだけかも知れないが、そういうことも含めて世の中の状況や情勢が揺れ動いていて、その中には考慮に入れられない作用や影響も絡みついてきたり、もつれ合って錯綜しているのだろうが、だからといって何もしないわけにはいかないだろうし、実際に何かしら活動を促されているから、いても立ってもいられず、状況に介入しようとしたり、口出ししてしまうわけだが、それが無自覚で無意識の行動や活動となっていて、面倒でややこしい成り行きをもたらしているわけだろうが、それもそうなってしまう人が世の中にいくらでもいることが徐々に世の中の状況を変えていくのかも知れず、少なくとも現状にはとどまりようがないわけだが、それが短期的には堂々巡りのようなことになっているとしても、長期的な時間の中ではそうでもないわけで、それに期待する必要もないだろうが、たとえ期待外れに終わるとしても、期待以上の何かが気づかないところでもたらされていて、多くの人たちがそれに気づかないことが重要であり、浅はかな人たちには気づいてほしくないわけだが、実際に気づかないから目先の利害に注目してしまうのだろうし、短期的な情勢にとらわれて右往左往してしまうわけだが、それらの人たちがその場の状況の犠牲になっているわけではなく、むしろその場の状況の恩恵に与っているわけで、そういう面では得をして利益を得られて自己満足に浸れる人も少なからず出てくるだろうが、そういう人はそれでかまわないわけで、そうなっていることがその人にとって理想的な状態なのかも知れないが、そういう人が少なからずいるからこそ、長期的な展望を携えて無駄な努力のしがいがあるといってしまうと、ウサギとカメやアリとキリギリスなどの寓話となってしまいそうだが、実際には最後に誰が勝つとかいう話ではなく、そんな勝敗自体も無に帰すような世の中の流れが生じていて、そこで行き交っている人や物や情報なども単なる消費の対象にしかならないのかも知れないが、消費されるには実際に世の中で生産されて流通する必要があるわけだ。


9月6日「原則論にしがみつく」

 もはや後戻りしようのない成り行きというのは、何か決定的な出来事が起こったからそうなることもあるだろうが、それ以外でも何でもないような些細な出来事がちょっとずつ積み重なっていくにつれて、物事の関係や組み合わせが誰も気づかないようなところから少しずつ本来の在り方からずれていったり、それまでの道筋から逸れていくような成り行きになると、その結果として後戻りができない事態となっても、それでもかまわないような状況となっていて、そうなった結果を誰もが当然視して、それが織り込み済みとなって物事が進行してしまうと、本来の在り方や道筋を重視するような原則論が通用しなくなって、本来の目的や目標を意識している人にとっては何か腑に落ちないことになるわけだが、実際に本来の目的から逸脱した目的があるように思われるシステムや制度もいくらでもあるのかも知れないが、そういうシステムや制度が本来の目的に従って機能することはなく、本来の目的には戻りようのない実態となり、いつの間にか本来とは全く別の目的に入れ替わってしまったような印象を伴ってくるとしても、それがその場で生じている物事の成り行きであり、そうやって物事そのものが変容していくにつれて、その役割や目的も変わっていく傾向があり、そんなふうにして本来の役割や目的とは違う役割や目的が生じてくるのは、何かのきっかけから以前の役割や目的が機能しなくなったから、それがその場の状況や情勢に合わせて変化していくのだろうが、理由や原因もなくそうなってしまうとは思えないものの、そうなった結果から理由や原因がわかってくることもあるだろうが、そうなっていく過程の中ではそれがわからないから、そうなってしまった後からいくら理由や原因を挙げて、そうなってしまったことを批判しても後の祭りであり、もはや後戻りが利かない事態となってしまうのだろうが、それでかまわないとは誰も思わないだろうが、そうなってしまったことが既成事実でもあり、それを織り込んでそうなってしまった状況の中で誰もが動くことになるが、いったんそうなってしまった状況の中では、それ以前に通用していた原則論のようなものを蒸し返していくらそれを守るように訴えかけても、すでにそれが織り込み済みとなっているから、今さら原則論を復活させるわけにもいかないわけで、だからそうなってしまった状況の中で不利な立場や境遇に追い込まれて負け組となってしまった人や勢力からはそれなりに支持や賛同を得られるかも知れないが、負け組となっているからには力がなく、いくら負け組を味方につけてもその場で主導権を握ることはできないわけで、それでも原則論のようなことを主張していれば筋が通るから、正義の体裁は取り繕えて、反対勢力などの少数派としては活動していけるかも知れないが、いったんそういったポジションに都合よく収まってしまうと、もはやそれらの人や勢力には未来があるはずもなく、それでも正義を唱えていられる限りで居心地は悪くないだろうし、またそういう人や勢力を内心小馬鹿にしている多数派としても、そういう存在がいてくれた方がいいわけで、自分たちの立場を脅かすような勢力に成長させないためには、ある一定規模で小ぢんまりとまとまった少数派の反対派いてくれた方が都合がよく、しかもそういった勢力が絶えずじり貧に追い込まれるような状況を作り出したいわけで、そのためにも時流に背を向けて原則論にしがみついている勢力と予定調和の二項対立を構成して、それ以外の可能性を排除しながら、自分たちに成り代わって主導権を握ろうとする芽をあらかじめ摘み取っておきたいわけだが、それも結果から求められるような都合のいい考えであり、その場の時流に乗って主導権を握っているつもりの当事者がそこまで考えているわけではないだろうし、誰もが時流に乗るか時流に乗らずに原則論にしがみつくかの二者択一を迫られているわけでもなく、その場で活動している人々が意識してそう振る舞って予定調和の二項対立を構成しているわけではなく、結果的に状況や情勢が安定しているように見えると、そんな二項対立も見えてくるという程度のことであり、実際に少数派の反対派に属している人たちが不利な状況や境遇に追い込まれていることを自覚できれば、何とかしてそこから抜け出そうとするだろうし、いつまでも旧来の原則論にしがみついているとじり貧に陥ってしまうわけだから、そんな役に立たない原則論などさっさと捨てて新たな原理や原則を模索しようとするだろうが、それができないということはそれほど危機意識を感じていないことになり、何とかなる程度にしか思われないのかも知れないが、それでもそれなりの勢力を維持できればそんな勢力の中で自足できて、それほど困った事態だとは実感できないのかも知れず、実際に困っていなければ実感できなくて当然だろうが、そういった成り行き自体がその場の時流そのものであり、そんな時流に乗ってその場の状況や情勢に対応しながら主導権を握っているように見える勢力と、その一方で時流に乗りきれずに停滞してしているように見える勢力とに分割をもたらしていて、両者の間でそれほど違いがなくても二つの勢力に分割されているように見えるなら必要以上に違いが際立って見えて、その違いを説明しようとすれば、時流に乗っている勢力がその場の状況や情勢の中で臨機応変に対応して主導権を握っているように見える一方で、時流に乗りきれずにその場の状況や情勢の中で停滞している勢力が従来からある原則論にしがみついているように見えてしまうのかも知れず、それがその場の状況や情勢に応じてもたらされる対立の構図でもあるわけだが、その場の状況や情勢に意識がとらわれているとそう見えてしまうわけだから、それなりに錯覚や思い込みも介在しているのだろうが、そんな錯覚や思い込みをもたらしているのがそれ以前の状況や情勢の中で通用していたように思われる原理原則であり、それを一定の形態や形式を伴った原理原則だと思ってしまうこと自体が錯覚や思い込みなのかも知れず、それに関して例えば民主主義にはそれを実現させるには必ず守るべき原理原則があり、その原理原則を満たしていないと民主主義が実現しているとは言えないとすれば、それが憲法に記されていることであり、なるほど憲法に明記されている国民主権を実現していないと民主主義も実現していないと思われるだろうし、国民主権を実現するには選挙で投票しなければならないと思うだろうが、そういった原理原則はその通りだとしても、その場の時流に乗って活動している人にとっては、そういった原理原則を守る必要が感じられない場合もあるわけで、なぜそうなってしまうのかといえば、その場の状況や情勢から投票に行きたくなくなるような情報や雰囲気がもたらされるのだろうが、またわざわざ投票に行かなくても困らないような状況や情勢ももたらされていて、それらが原理原則を守ることの必要を削っているわけだろうが、そういうのは必ずしも特定の勢力の意図や思惑などの恣意的な影響によってそうなるわけでもなく、ただ何となくそうなっているだけかも知れないが、もとからあるように思われる原理原則自体が確固とした形態や形式を伴って提示されているわけでもないのかも知れず、成り行き上は憲法に明記されることになったかも知れないが、そこに至る過程ではそれなりの紆余曲折を伴う経緯があり、その結果として提示されることになったにしても、それはあくまでもその時点での事情に基づいて提示されたわけで、そこからさらに時間が経過してそれ相応の歳月が積み重なった現代において、そこでの事情やそこに至る経緯がそのまま尊重されるかというと、そうでもないわけで、そういう意味で現状の中で時流に乗って活動している人や勢力が何をどう判断しているかとなると、従来の原理原則からはかけ離れた経緯や事情が現状に至る過程において生じていて、しかもそれが当然のこととして既成事実の織り込み済みになっていて、メディア上でも何の抵抗感もなくそういったことが当然視されている現状もあるとすれば、それと比べて従来からあると思われている原理原則など軽んじられても特に問題はないと思われてしまうのではないか。


9月5日「技術的な説明」

 物質は分子や原子の結合からできていて、原子は素粒子の結合からできているのが、科学的な知識から得られる説明になるだろうが、だからと言って素粒子の理論から物質の集合体である人の心理状態を説明できるかというと、それはそれで説明の水準が違うことであり、普通は素粒子理論から人の心理状態は説明しないし、心理学とか社会学の類いから説明した方が説得力があるが、それほど極端に分野がかけ離れていなくても、例えば経済学から子供の教育について説明するようなことがおこなわれて、教育熱心な親が子供に多くの習い事をさせるのは、子供に投資することによって満足感を得ているわけで、それがきっかけとなって、子供が将来有名なプロスポーツ選手にでもなれば、実際に得られるリターンも大きいだろうが、普通は教育学の中で子供の教育について説明するのが常識的なやり方であり、さらに範囲を絞れば児童心理学といった専門分野まであるだろうが、科学というとすぐに物理学や化学や生物学などの自然科学の分野を思い浮かべてしまいがちになるが、理系だけなく文系でも人文科学の分野があるだろうし、中には理系なのか文系なのかよくわからない考古学という分野もあるが、直接産業など分野で役立っているように思われるのは工学系の分野で、機械工学やシステム工学や情報工学などがあるだろうが、そういった分野では自然科学や人文科学などの様々な分野から必要な理論が取り込まれて応用されるのだろうが、医学などでもそうだが、工学となると技術的な面が重視される反面、技術だけで通用してしまうところが、逆にそれ以外の面が欠けているような印象を伴ってしまい、では何が欠けているのかというと、技術的にはうまく説明できないわけで、それに関して例えば哲学とか倫理とかを安易に持ち出したくなってしまうが、それらも道徳などに絡めて礼儀作法などに取り込んで、型にはめるような技術的な説明になってしまうと、人の活動の全てが技術的に説明できるなら機械と同じになってしまうが、それだけではないと思うことが幻想にすぎないのか、あるいは本当に技術とは違う何かが人にはあるのかが、問題となってくるかも知れないが、動作としての技術ではなく心理的な働きだというなら、例えばそれが信用や信念となると、それも信用に足るだけの、あるいは信念を貫き通すだけの技術的な裏付けが必要となってくるかも知れないし、技術があることが心の支えとなるような安易な技術信仰にとらわれてしまうかも知れないが、社会の中で生きていくには、あるいは自然の中で生きていくにも、やはりそれ相応の技術を身につける必要があるのだろうが、そういった技術を習得する期間の中で身を置く場として教育の場があるにしても、教育の場では身につかない何かがあるとすれば、それは人が教えてくれないことになるだろうが、教えてもらわなくても身につくものや、身につかなくてもかまわないこともあるかも知れず、さらには身につかなくても身につけなくても活用できるとしたら、それを得たり受け取ったり奪い取ったりして、そのまま活用することになり、その使い方が勝手にわかればいいわけで、それも技術なしにわかったり使ったりするのだから、安易な活用の仕方となってしまうだろうが、そういった物事となるとただボタンを押すだけで済むようなことになったり、そこからさらに進化すれば、ただ念じるだけで動作するようなことになるかも知れず、そうなると人の方は大して技術を必要としないが、人が利用する対象の方は技術の粋を集めた物事となり、それが機械システムや装置となるのだろうが、そういう便利な物事を利用するにはそれ相応の対価を払わなければならないとなれば、そういった物事には希少価値があり、誰もが利用できるようなものでもなくなってしまうかも知れないが、逆に誰もが手軽に利用できて、しかも安価で大量に出回っている物事なら、あるいは安価であるどころか、ただで出回っている物事なら、実際に誰もが利用している限りでそこから大した差異が生じてくるわけでもなく、少なくとも希少価値はないだろうが、誰もが利用できるところに価値があるとすれば、そういった物事が実際に世の中に広く普及していることになるだろうし、それが何かというと、例えばそれは言葉であり、またコミュニケーションの道具となるシステムや制度なるかも知れないが、言葉であればそれを人に教えたり人から教わる以前に操る能力が身についていないと、教えたり教わったりすること自体ができないだろうし、またそれは人の真似をしながら身につくかも知れないが、そうやって確かに言葉を操る能力ならほとんど誰もが持ち合わせているが、言葉を操る技術となると人によって差が生じてきて、それをうまく操れる人とそうではない人との間で有利不利も生じてきて、要するに人より秀でようとすると技術がものを言うことになり、また人並みに振る舞おうとしても必要最低限の礼儀作法などの技術が必要となり、技術も礼儀作法も身についていないと、一人前の人として認められないような社会となっているわけだが、それもどれほど身についていようと、あるいは全く身についていなくても、その場の状況によっては何でもない場合もありそうで、その人の立場や境遇によって、またどのような立場や地位になろうとするかで、どれほどの技術や礼儀作法を身につけなければならないかが決まってくる場合もあるだろうが、そういう面では確かにそうだとしても、特に必要もないのに身についている場合があり、例えばそれが癖として身についているようなら、自然に身についたことになるだろうが、意識して自己顕示欲の表れとして着飾っていたり、わざと挙動をおかしくして人の意表を突こうとしたり、あるいは自然に振る舞っているつもりなのに、周囲の人には異様に見えたりして、何を考えているのかよくわからない雰囲気が醸し出されていれば、わざと意識してそうしている面では技術と言えるかも知れないが、それを意識していなければ、技術として身につけたとは思わないだろうし、同じような動作でもそれが技術であったりなかったりするかも知れないが、それが技術であろうとなかろうと自然とその身から滲み出てくるような個性もあるだろうし、そういうところで何となくその人を信用したりしなかったりもするわけで、それが万人に理解できて納得できるような技術であれば、誰もがそれを身につけたいと思うかも知れないが、身につけようとしても身につけられないような難易度であれば、ごく限られた人にしか身につけられないような技術となって、それだけ希少価値が出てくるわけだが、どうなるにしてもそれが技術である限りで、目的となる対象に向かって技を仕掛けたり術を繰り出したりするわけだから、何もしないというわけにはいかないだろうし、何かしら行動していることは確かであり、しかも自分だけで勝手に行動しているわけではなく、何かそこに技術を施す対象があるわけで、その対象に向かって技術を披露して目的となる何かを得ようとしているわけだから、技術が目的を遂行する手段となっているわけだが、その技術を施す対象が他者となるのか、あるいは物質や情報となるのか、さらにはそれらの混合体となるかで、技術の種類や用途も決まってくるだろうが、少なくとも技術を使えば対象に作用や影響を及ぼして、それを変化させたり変形させたり、逆に変化したり変形しそうな物事を一定の状態に保つために技術を使う場合もあり、どちらにしても思い通りにしようとして技術を使うのだから、技術を使う人が恣意的に対象を扱う限りで、対象の方からも何らかの反応が返ってきて、場合によってはその対象と格闘するような事態にもなるだろうが、それが勝敗などの結果に結びつけばわかりやすいだろうが、たとえ勝敗となって何かが決しても、それだけでは済まない場合があり、そのそれだけではない済まない何かに関して、技術とは違う対応や対処が求められて、時にはそれが技術より重要となってくるのかも知れず、それが何になるかはその場の状況にもよるだろうが、そこで技術を施すだけで済ませようとすると、思いがけないしっぺ返しを食らう可能性もあり、それが技術的な説明ではどうにもならないことになるわけだ。


9月4日「アナロジーの程度」

 何か目的があってその目的を遂行しようとして行動しているつもりになっていると、目的とは別に行動していることにも気づかなくなってしまうわけでもないが、では目的とは別に何をやろうとしているのかといえば、それが目的ではないのだから特に意識しているわけでもないだろうし、自分が何をやろうと自分の知ったことではないというと嘘になってしまいそうだが、少なくとも目的を意識せずにただ何となく行動しているわけで、その何となくの行動がどんな結果をもたらすとしても、それが大した結果でもなければそんな結果も意識しないだろうし、別にそれでかまわないわけだが、逆に目的を持って行動しているとしても、その目的が大したことでもなければ、行動した結果としてもたらされた状況も大したことでもなく、その結果も気に留めるようなことでもないわけだが、例えば誰かがどこかの企業の株主となったところで、その目的が株を安く買って高く売ることであったり、株の配当や株主優待を受けることであれば、会社の経営に口出しすることはないだろうし、そうであれば株主総会で議決権など行使しないかも知れないが、それのアナロジーとして、国民主権だから国民が国の株主であり、国の最高権力者は株主である国民だと言ったところで、その国民が国の政治に口出しするかというと、選挙で投票に行かず選挙権を行使しなければ、口出ししないことになるわけだが、企業の株主の方は、企業の業績が思わしくなく株価が下がって配当が見込めなければ、株を売ってしまうかも知れないし、実際に売りが優勢となって株価が値下がりして、値上がりも見込めなければ、買った価格より安くても損切りしてしまうかも知れないが、それのアナロジーとして、国の経済状態が悪化して失業して貧困に陥ったり、自然災害によって国土が荒廃して飢餓状態となったり、内戦が勃発して多数の死傷者が出たり、独裁政権となって反対する国民に対して弾圧がおこなわれるようなことになれば、国民が身の危険を感じてその国を見捨てて移民や難民となって外国に出ていくような事態になるかというと、よほどのことがない限りはそうはならないが、企業の株主の方でも、よほどのことがない限りは株主代表訴訟など起こさないだろうし、株主総会で株主提案などをおこなって、会社の経営方針に口出しするようなことになっても、それは国会で議員が政府のやり方に口出しすることのアナロジーにはなるが、それとこれとでは制度的に相違点がいくらでもあるだろうし、何よりも違うのは、株は金で買うことができて、金で買うのが当然であり、金さえあればいくらでも株を買えるだろうが、選挙で投票する住民の一票を金で買ったら、それは票の買収であり、選挙違反になってしまうだろうし、そういう意味でも山本太郎が言っている、国民が国の株主であり最高権力者というアナロジーには、言いたいことはよくわかるが、よく考えてみればいくらでも揚げ足取りができるような代物だろうし、実際にアンチな人たちが面白がっていくらでも揚げ足取りをやっているのだろうが、少なくとも現状の日本の状態が、アフガニスタンやミャンマーやアフリカや中南米の貧困国のように、国民が移民や難民となって国を出て行くような状態でないことは確かであり、そういう国々の大変さと日本の大変さを比較するわけにもいかないわけで、それとこれとをアナロジーによって混同するわけにもいかず、混同させたくてもできないわけだが、このままでは日本もそれらの諸国と同じように悲惨な状態となってしまうと危機感を煽ることができるとしても、よほどの世間知らずでない限りは、現状ではそういった危機感に共感することはできないだろうし、少なくとも日本では欧米や中国並みに産業が発達していて、金が余っているから株式市場もあり、外国人投資家が株を買えば株価が上がり、外国人投資家が株を売れば株価が下がるというのが、日本株の特徴として一般的に知れ渡っていることだろうが、最近は日銀もETFを買わなくなったようで、政府や日銀だけでどうにかなるようなことではなく、世界の景気と日本の景気が連動していて、しかもそれがアメリカの景気との連動の仕方とも違うらしいし、そういう面では政治的な制御が利かない面があることも明らかになりつつあるのかも知れないが、だからといって政治に力がないわけではなく、どう機能しているのかはそれなりに機能しているとしか言えないが、政治が機能している面もあるだろうし、何に対して機能しているのかと言えば、議会や行政府に対して機能しているわけだが、行政府の活動と企業の活動が異なるのは誰もがわかっているはずだが、そこに経済が絡んでくると混同が起こってしまい、民衆の暮らしがよくなるようなことを行政府がおこなうことを民衆が望んでいると普通は思うはずだが、企業活動が盛んになることによって民衆の暮らしがよくなるかというと、直接そうなるとは限らず、企業が業績を上げて従業員の雇用が増えたり賃金が上がれば、その恩恵に与れる民衆も出てくるだろうが、中国のように企業活動から生じる利益を人民に再分配すると息巻いている政府関係者も中にはいるが、その一方で企業活動というのは投資活動でもあるわけで、テスラ社のように世界各地に工場を建設して自動車を生産して販売するのが投資活動であるだろうし、またソフトバンクグループのように投資家から投資資金を集めて、成長分野と見込んだ投資先の企業の株式や債券を購入したり、株式を購入した企業を買収してそこから利益を得るのも投資活動だろうが、そうした投資活動にかかわった人々は恩恵に与れるが、かかわらなかったりかかわれなかった人々はその恩恵には与れないし、その一方で行政府がおこなうことは直接には企業から税を徴収することになり、もちろん企業活動にかかわった人々からも税を徴収して、その税金を使って行政活動をおこなうわけで、企業にとっては投資に回したい資金を税金として奪われてしまうわけだから、それだけ負担がかかってしまうことにもなり、だからできるだけ徴税を免れるような工作をあれこれとやるわけで、その一方で行政府としては企業活動が盛んにならないと取れる税金も減ってしまうから、産業を振興しなければならず、そういうところからやっていることが矛盾してくるわけだが、例えば消費税を廃止して住民が払う税金を減らして、その分で企業が払う税金や企業活動の恩恵に与って富裕層となった人々から取る税金を増やそうとする主張が、合理的に思われて納得できるかも知れないが、その一方で新自由主義的な主張となると、多くの人々が企業活動にかかわって裕福になれるように、減税すると共に行政府の規模や権限を縮小して、権限と共に生じていた各種の規制を緩和したり撤廃するとなると、人々の裕福になりたいという欲望に訴えかけている分でアドバンテージがあるかも知れず、そういった欲望を伴った甘い勧誘や誘導に騙されるなと、実際に日本はバブル崩壊以後、何十年にもわたって不況に喘いでいるではないか、実際に他の欧米などの先進諸国と比較しても収入も減って経済成長も鈍く貧困世帯も増えているではないかと、それを裏付ける表やグラフを示して主張に説得力を持たせているはずだが、その比較している他の欧米諸国の周囲で何が起こっているかというと、また日本の没落とは入れ替わりに成長めざましい中国の国内で何が起こっているかというと、欧米諸国の周囲ではテロや内戦や自然災害の多発によって住んでいた国を捨てて欧米諸国を目指す移民や難民が急増しているし、中国でも企業活動の恩恵に与れない国内の少数民族や農村などの不満が高まって、そうした不満を逸らすために富の再分配を持ち出して国家主義的な傾向を強めているわけだが、結局日本でも同じようにして、ネトウヨ系の人たちの間で国家主義的な傾向が強まっているし、消費税の廃止を訴えている勢力が持ち出していることも富の再分配という宣伝文句につながる主張となっているわけで、そうした傾向が世界的に強まっていると認識しておくのが妥当なのではないか。


9月3日「戦略の有効性」

 戦略と言ってもそれが成功して褒められたり失敗して貶される戦略というのは、一般的に言って個人やチームで対戦するゲームやスポーツなどで見られるものだろうが、その程度で済むならそれに越したことはないわけだが、現実の企業活動や政治活動などにおいてもそれ相応の戦略が立てられることになるのだろうし、そういうことも含めて人が社会の中で生き抜く中で戦略が絡んでくるかというと、たぶん何らかの戦略を意識しながら活動している人はいるだろうし、自分が立てた戦略通りに事が運べばうまくいったと思うかも知れないが、普通に考えて戦略だけで物事が動くかというと、他にも様々な物事の成り行きが絡んできて、それらが戦略の邪魔をしたり障害となったりすれば、やっていることがうまくいかないと思うだろうが、そういうこととは別に戦略などを含んだ人の思惑などとは関係なく物事が動いている成り行きがあり、そういうところでは戦略など通用しないというよりは、通用してもしなくてもどちらでもかまわないような成り行きがあり、通用したところで大したことではなく、誰かの思惑通りに事が運んだとしても、そんなのはどうでもいいことではないだろうが、誰かの思惑通りに事が運ぶと共に、他の誰かの思惑通りにはならない成り行きも同時並行で進んでいるようなことになっていて、それが誰の思惑通りだとしても、誰がそこで得して他の誰が損しても、そこでの利害関係がどうなっていようと、それが枝葉末節なことだとは思えないが、ただその場の成り行きの中でそれなりの数の人や集団が踊らされている実態があり、それを踊らされていると見るのは当事者の視点ではないわけだが、何か思惑があって誰もがそこで右往左往していて、その中では何らかの確固とした信念に基づいて行動している人も少なからずいるとしても、戦略もそれなりに機能して中には満足できる成果を上げている実態もあるのだろうが、それを当事者として意識できるかというと、自らが当事者であるという認識には至れず、どちらかと言えば傍観者としてしか存在できず、しかもそれにかかわっている程度もちょっとだけ間接的に関心がある程度で、無視してもかまわない程度であれば、実際に関心が向いていないのかも知れないが、そんな状態で戦略があろうとなかろうと、それが有効に働いていようといまいと、大したことではないと思ってしまうかというと、そうではないような気もするが、ではそういう程度にとどまっていることが戦略なのかというと、そうなのかも知れず、戦略的な態度でその場の状況に臨んでいるはずなのだが、どう臨んでいるのかというと、当事者としてはかかわらないような態度で臨んでいて、なるべく距離を置いて接するように意識しているわけだろうが、その自覚があるわけでもなく、それを戦略だとも自覚していないのかも知れないが、果たしてそれと自覚しない戦略があるかというと、普通はそれを戦略とは呼ばないが、自然とそうなってしまうわけで、自然とそうなるような状態へと持って行っているわけだろうが、それもはっきりとは自覚せずにそうなっているわけだから、自然体で物事に接していることになるかも知れないが、結果的にそうなっているのであり、意識してそうなっているわけでもないところが、巧妙な戦略でもあり、そんな戦略などないと思ってもかまわないわけだが、ただそれをわざわざ戦略と呼ぶならそうであってもかまわないだろうし、そんなのは戦略ではないと言われるならそれでもかまわないだろうし、普通は誰からもそんなことは言われないはずだが、言葉で表現するならその程度のことであり、少なくともそれを戦略だと主張するようなことでもないのだろうが、例えばそれを自らがかかわっている物事と戦略的に対峙すると言ってしまうと、何か大げさに思われてしまうわけだが、それを言葉で説明するのと実際にかかわっている実態とは違うのかも知れないが、その違いを説明できるかというとうまく説明できず、無理に説明しようとすれば実態からかけ離れた説明になってしまうだろうし、中には戦略的に大げさに見せかけて、かかわっている物事がさも重要であるかのように装う戦略もあるのだろうが、それもそれと自覚せずにそう見せかけている場合もあるだろうから、何から何までそれを戦略と見なすこともできないのかも知れないが、結果として思惑通りにいったように思われると、そこに自らの戦略が介在していたようにも思われて、もともと戦略など意識していなければ、結果からもたらされる幻想にすぎないだろうが、それとは違って始めから用意周到に計画を立てていれば、活動の中で終始戦略を意識できるかも知れないが、そうなればなったで計画が思うように進まずに度重なる変更や挫折を経験すると、その度ごとに戦略の見直しを迫られるような成り行きの中で、戦略そのものが大して有効には働かないのではないかという疑念も生じてくるだろうし、そういうところで戦略の重要性が低下してくるような事態となって、そんな戦略などあってもなくても大して状況は変わらないことを実感させられて、戦略などとかっこつけたことをやろうとしていた自らの愚かさを反省するかも知れないが、そうやって否定的に戦略を意識することと、戦略など意識せずにその場の状況に応じて有効な動作を繰り出すように心がけることとが、どう絡んでくるかとなると、どちらも戦略的な対応なのかも知れないし、それをわざわざ戦略と呼ばなくてもかまわないのかも知れないが、どちらにしても戦略が有効に機能したように思われる限りで、自らの戦略がうまくいったと思っておけばいいだろうが、その一方で有効な戦略を立ててそれを実行に移すだけでうまくいくような状況の中で活動しているわけでもなく、結果的に戦略が有効に機能する機会がたまに巡ってくるだけで、そんな場面や局面を体験すればうまくいったような気になれるということであり、そういった機会がなかなか巡ってこないと、思うようなことができていないことになるのだろうが、機会が巡ってくるか来ないかはその時の運次第というわけでもないだろうし、それなりにうまくやろうとして努力しているわけだから、たまにはそんな努力が報われる機会が巡ってきてもいいのではないかと思っても、それがなかなか巡ってこなければ、どうあがいてもうまくいかなくなってしまうと思ってあきらめるしかないだろうし、あきらめきれなければさらに努力することになるかも知れないが、そうなってくるともはや戦略でも何でもなく、ただひたすらうまくいくまで努力するような感情にとらわれているにすぎず、そうなってしまうと大抵はうまくいかなくなって、後から振り返ればそうなる手前で戦略的にそこから撤退するような配慮に欠けていたことになるのだろうが、それも戦略的な見地から判断することが可能なように思われるとすれば、結果を知ってから原因を見ているにすぎず、実際にその場に身を置いてみれば、そこからさらに努力すればうまくいくように思われて、もう少しそこにとどまろうとしているうちに手遅れとなってしまえば、結果的には判断が遅れたことになってしまうだろうし、そういう意味でも戦略的な見地から的確な判断ができるかのように思われるのは幻想にすぎなくなってしまうのだろうが、意識も言葉も絶えず結果へと先回りしようとして、その場の苦境から一刻も早く抜け出そうとするから判断を誤ってしまうと言っても、元からそんな判断などできるわけがなく、判断した時が手遅れになった時かも知れないが、手遅れになってから判断しても判断しないよりはマシに思われる時もあるから、それが適切な判断の時期かも知れず、そうであれば手遅れになってから判断すればいいことになるわけで、それでいいなら手遅れになるまで努力すればいいだろうし、やはりそれでは戦略も何もありはせず、ただひたすらがむしゃらに努力し続けることになってしまうのだろうが、本当にそうなってしまうのかというと、そうでもないわけで、案外誰もが頃合いを見計らってやめてしまうだろうし、それが無駄な努力であることを悟る機会が巡ってきて、それも戦略とは関係なく巡ってくるのかも知れないが、中には戦略的にそんな成り行きへ自らを追い込んでいる人もいるのかも知れず、そういう人は自らをあきらめさせるために日々努力しているわけだ。


9月2日「産業技術と政治システム」

 使い古された表現を使うなら、何かそれらしい比喩の類いで置き換えられるかも知れないが、例えば紙幣や貨幣などの物質としての現金の代わりに、クレジットカードや電子マネーや口座振替などのキャッシュレス決済を使うと、何か便利になったような、あるいは買い物が進化したような感覚にとらわれるかも知れないが、実態としては情報を読み取ったりその情報をネットワーク網でやりとりする電子機器や端末が必要となるわけで、その代わりに現金の受け渡しに必要な人手がかからなくなるから、人件費を減らすことに貢献するだけかも知れないし、またそのついでに個人情報目当てのポイントカードの読み取りも買い物客にやらせるようなシステムになるだろうし、全てがそうしたセルフレジシステムに移行するとも思えないが、何かをやれば思わぬところからその反動が返ってくるような作用反作用が起こり、その反動がシステムのユーザーに返ってくるかシステムを管理運営する側に返ってくるかは、どちらか一方ではなくどちらにも返ってくるかも知れないし、そのうち個人情報の全てが把握されれば、店の出入り口のゲートを通過するだけで情報が読み取られて、客が店に入って商品を持ち帰るだけで済んでしまうようなシステムになるかも知れないが、そうなったところでそういったことを実現するシステムや機械を開発するのに莫大な費用がかかわるわけだから、どこかにそのしわ寄せが及ぶとしても、大半の人はそれに気づかない可能性もありそうで、それを因果応報とは呼ばないかも知れないが、何か悪い影響が顕著に出てくれば、それを問題視して批判するようなことがおこなわれるだろうが、実際にそれをやってみなければわからない場合がほとんどであり、そういうところは予想も予測もつきにくく、ただ何となくイメージとしては好意的に受け止められるようなことになるにしても、そこから利益が見込めるなら実現させようとすることだから、そういった功利的な傾向を押しとどめられないのは誰もが承知していることかも知れないが、何かこれまでにないことを提案するに際してもっともらしい理由付けができることが、それ以外の何かに気づかない原因にもなり、もっともらしい理由付けに気をとられているうちに、本質的な何かが見失われて、思わぬところから弊害が生じてくる頃には後戻りが利かなくなってしまうのだろうが、そうやって取り返しのつかないことがおこなわれ続けて現在に至っていて、今後もさらに取り返しのつかないことがおこなわれるだろうし、産業の技術革新には絶えずそういう傾向がつきまとって、それが特に弊害だとは思われない場合もあるだろうから、そうした取り返しのつかない事態を補って余りある利益がもたらされれば、それに伴って生じてくる批判を押さえ込めるが、中には原発のように押さえ込めないまま今に至っている産業技術もあるだろうが、産業技術の使われ方にも使う用途に伴ってそれぞれに違いが出てくるから、一概には言えない面もあるが、何か都合の悪い事情が出てくると、それについては批判せざるを得なくなるのが政治システムに伴って生じてくる成り行きでもあるわけで、そういう成り行きの中で批判していれば済むようなことでもなければ、都合がよくなるようなことを提案する成り行きにもなり、それが政治に介入しようとする人や団体が提案してくる主張でもあるわけだが、批判したり提案しているだけで政治介入できるわけでもなく、民衆から支持を取り付けなければ議会で議席を獲得できないし、そういうところで民衆から支持を取り付けるために産業技術を活用する場合もあるだろうが、果たしてメディアとして使う産業技術だけで民衆の支持を取り付けられるかというと、宣伝や煽動だけで支持を取り付けられるわけでもなく、宣伝や煽動の内容がいかに説得力を伴っていても、それが民衆からの支持に直結するわけでもなければ、産業技術とは関係のないところで政治システムが動いている場合もあり、そういう面に気づかないといつまで経っても産業技術を前面に押し出して、馬鹿の一つ覚えのようにして批判や提案を伴った宣伝や煽動に明け暮れることになるかも知れないが、では何が必要なのかといえば、産業技術を活用するだけでなく産業そのものを利用しなければならないわけで、そうなると産業界から直接の支持を取り付ける成り行きになるだろうし、実際に第二次世界大戦後に西ドイツの社民党などが社会主義や共産主義と手を切って、新自由主義的な政策を前面に押し出すような成り行きも出てきたわけで、それによって社民党系の労働組合なども新自由主義的な政策を支持することになって、そんな努力が実って政権政党となった経緯もあるだろうが、それもその時期の時代状況からそうなってしまったことでもあり、そこからイギリスの保守党やアメリカの共和党などが影響を受けて、揺り籠から墓場までの手厚い福祉政策やニューディール的な計画経済をやめて、サッチャー政権やレーガン政権などの新自由主義的な政策に結びついてしまったのも皮肉な現象かも知れないが、それを今またニューディールという昔懐かしい好印象を伴う言葉を使って経済政策を宣伝している勢力もあるだろうが、ニューディール政策がおこなわれていた当時の世界では、ナチスドイツやスターリンのソ連でも同じような計画経済が推進されていて、産業の重工業化が押し進められていたわけだが、そんな時勢の中でアメリカでは大規模なダムや超高層ビルなどが建てられて、日本でも戦艦大和とかの大がかりな軍備増強が押し進められて破滅に向かって突っ走っていったわけで、それが現代では昔とは真逆のグリーンニューディールとかカーボンニュートラルとかの好印象を伴うような宣伝文句で急場をしのごうとしているのかも知れないが、それに伴って脱炭素的な革新的な産業技術を巡って世界的に競っているように見せかけられているとしても、現状の政治システムによってそう見せかけられている面もあるだろうし、その旗振り役の主導権争いをしているのがEUやアメリカの民主党政権や中国なのかも知れないが、それらにかかわっている政治家たちが、まさか自分たちが推し進めている政策によって破滅へ向かって突き進んでいるとは思わないだろうし、逆に破滅を食い止めるために脱炭素的な産業技術を世界的に広めようとしているのだろうが、それとは別にこのままではヤバいと思ったのか、アメリカのバイデン政権がアフガニスタンに見切りをつけてさっさと軍隊を撤収したことが、アメリカの弱体化以外の何を象徴しているとも誰も思わないにしても、建前上の宣伝文句としては民主主義を守るとか言っているわけだが、それとは別の方面で何が起こっているのかと言えば、国家や行政府の弱体化が起こっているのかも知れず、それが何によって引き起こされているかというと、二十世紀末から続いている情報革命によって引き起こされていて、それに気づいた中国政府などが民間のIT産業を攻撃して、情報を政府によって独り占めにしようとしているわけだが、そもそもその情報の中身が何なのかと言えば、企業情報や政府機関の情報もあるだろうが、IT産業のターゲットとなっているのは民衆の一人一人の個人情報であり、それを政府と企業が奪い合っている現状があるわけで、果たして中国政府のように民間の企業を規制して政府に個人情報の収集を一元化する必要があるかとなると、国家や政府の弱体化を食い止めるにはそうした方がいいが、情報革命の傾向が国家や政府を弱体化させるような傾向があるとすれば、中国政府のやり方では情報革命に逆行していることになるだろうし、情報革命をこのまま推進するか、あるいは国家や政府がそれに歯止めをかけるかの二者択一となっているわけではないものの、またそれとは違う思わぬ方面から何らかの取り返しのつかない事態がもたらされるかも知れないし、それもそうなってみないことには何とも言えず、すでにそうなっているのに誰もそれに気づいていない可能性もあるだろうが、今後何かしら顕著な傾向が出てくれば、結果から見て現状でどう対応したかで物事の優劣が決してしまう可能性もあるかも知れないが、それも実際にそうなってからわかったりわからなかったりするのかも知れない。


9月1日「世界情勢」

 世界情勢を動かしているのが何かといっても、アメリカや中国などの覇権国家を念頭に置いてもっともらしいことを語れば済んでしまうようなことかも知れないが、特定の国の政府とか大統領とか独裁的な指導者とか、さらにはGAFAなどの巨大企業も含めて、そういった固有名を用いて大国の興亡や覇権争いを面白おかしく語ることと、世界情勢について語ることが同じことのように感じられるのは、戦国時代劇などのテレビドラマや歴史小説などからの影響があるのかも知れないが、それでかまわないような世界情勢の他に実質的な世界情勢というのがあるかというと、何をもって実質となるのかがよくわからないが、例えばこれからの日本がどうあるべきかという問題設定に関連して世界情勢について語ろうとすれば、世界の中で日本の役割や立場を有利に導くにはどうすればいいかといった問いに対する答えが求められて、そういったことを大真面目に語るジャンルがメディアの中で一定の需要があるかも知れないが、それが実質的に機能するような場があるとも思えず、では世界情勢とは何なのかという問いに対して納得できるような答えが見つかるかとなると、それもよくわからなくなってしまうが、実際にメディア上で語られる世界情勢にそれなりの妥当性があると思っておいても差し支えないだろうが、普通のメディアでは語られない隠された真実があり、それを暴露するメディアからもたらされる情報を信じるなら、例えば世界を動かしている影の支配者や支配勢力が存在すると思ってもかまわないが、それ以外にも様々な水準で様々なことが言えて、それらのうちのどれにも当てはまらない世界情勢があるかも知れないし、あるいは世界情勢から連想される勝手な思いつきに従いながら適当にいい加減に語れば、それらのうちのどれかに当てはまるかも知れないが、その一方で普通にどこにでもいるようなありふれた一般の人々が何に直面しているかといえば、政府による国家統治や企業による経済活動などに直面していて、実質的にはそれらがもたらす制度やシステムに直面しているのだろうが、制度に従うなら例えば選挙で投票したり、企業の従業員となって働いていれば、企業からもらう賃金から国へ払う税金が差し引かれたりもするだろうし、そういった制度にとらわれながら暮らしていることが、それらの人たちが直接かかわっている世界情勢そのものだろうが、大半の人はそれを世界情勢だとは認識していないだろうし、そうなっている状態が当たり前であるとしても、普通にそれとは別に世界情勢があるような認識にとらわれていて、別にそこから抜け出して何をどうしたいわけでもなく、何かのきっかけから抜け出せたからといって、抜け出した先にも世界情勢の一部が構成されていて、相変わらずそこでは何らかの制度が機能していて、そこから自身が世界情勢をどうするわけでもどうなるわけでもなく、制度から抜け出せなければ自らを束縛する制度にとらわれたままとなってしまったり、そこから抜け出したり追い出されたりしても、そこに構成されている世界情勢をどうすればいいのかわからず途方に暮れてしまうわけでもなく、ただそこで生きているだけかも知れないが、そうなっている時点で自らがとらわれている制度が設定する小さな選択肢の中から何かを選ばなければならないことに直面している場合もあり、選んだ先にある対象物を得るように仕向けられて、得られたそれに満足したり不満を抱いたりしながらも、それを選ぶことによって自身の感情を制度によって制御されている状況をどうするわけでもなく、どうにかしようとしても思い通りになるわけでもなく、それが馬鹿げた制度だと思うわけでもないだろうし、馬鹿げているどころか積極的に従ってしまう自らの愚かさに呆れるわけでもなく、別にそれが愚かであるはずもないのだろうが、むしろ意識して従わない方が愚かなのかも知れないが、その場の情勢に応じて愚かさの程度も決まってきたり決まらなかったりもするかも知れないが、それと意識せずに制度に逆らったり制度から抜け出てしまうこともあるわけで、何だかわからないうちにそうなってしまい、結果的にそうなってしまった事実を知って愕然としてしまうこともあるだろうが、なぜその気もないのにそうなってしまうのかといえば、そういう成り行きがその場の情勢を構成していて、自らの思いとは関係なく情勢が動いていて、その情勢の変化や動きに従っているのか逆らっているのかは定かでないが、自身の活動や行動も情勢の一部となって動いていて、その場の情勢を自身の存在と共に構成しているわけだろうが、少なくとも制度の方は情勢を一定の水準でコントロールするためにあるわけで、人や物や情報を制御するために制度が講じられているわけだが、制度がその場をコントロールできれば制度の支配が成り立っているとしても、そのコントロールの程度にもそれなりの強弱や大小があって、気休めにあるような制度なら大して支配力を発揮しているわけでもなく、ないよりはあった方がマシ程度で機能しているにすぎないだろうが、それがその場の実態でもあり情勢でもあるわけで、情勢が悪化しているから制度がうまく機能していないと言えるようなことがあるにしても、制度から自然に抜け出してしまう人が多くなってくること自体が情勢の好転をもたらしてしまうこともあり、自らの意志とは関係なく制度から抜け出してしまうような事態が起こってしまうとすれば、それだけ情勢が動いて制度を必要しない人が増えてきたことを物語っていて、社会を構成する制度自体に寿命が来ているのかも知れないし、制度疲労を起こしていて、今やその限界を迎えているのかも知れないが、制度自体が放っておかれるわけではなく、その重要度に応じて度重なるメンテナンスもおこなわれてきたはずだが、その一方で不要になった制度は放棄されて誰からも顧みられなくなってしまうだろうが、そういう意味ではその場の情勢の中で機能している制度が情勢そのものをコントロールしている場合があるとしても、そうした制度にとらわれている人たちが自らの意志とは関係なく制度から抜け出てしまうようなら、それらの人たちを動かす別の制度がその場で機能している場合もあるとしても、制度自体を無効化するような作用がその場に及ぼされているのかも知れず、それが何かといってもピンとこないかも知れないが、何らかの思惑が介在しているのかも知れないし、そういった思惑をもたらすような現象が起こっているのかも知れないが、それが現象と見なされるか出来事として捉えられるかはどちらでもかまわないとしても、それが人の心を揺り動かすような出来事ではなく、人の意識をすり抜けるような目立たなく気づかれないような出来事だとしても、その場に作用や影響を及ぼすような出来事でもあり、それが何かといっても目立たないのだから意識も思考も捉えようがないのだろうが、少なくとも制度の絶え間ない持続や作動に対する反作用となるような現象や出来事かも知れず、簡単に言うなら制度に飽きが来ていて、飽きが来ているから、それを守ろうとする人たちが必死になって守ろうとしている制度であり、飽きが来ているからそれに対して無関心になってもかまわないように思われる制度でもあり、それが制度疲労とも呼ばれる制度でもあるから、実際に多くの人たちがそれにとらわれることに抵抗している感覚はないのに、自然に抜け出てしまうような事態となってしまい、そんな事態と共に世界情勢が動いているのだろうが、どう動いているのかといえば、例えば民主主義を守りたい勢力がそれを守るために動いていて、それと共に民主主義を守らない勢力も、それに対抗して団結して協力し合うような成り行きを見せているわけだが、だからといってそれらの勢力の間で繰り広げられている争いの中で争点となっているのが、民主主義を守るか守らないかということではなく、実態としては経済的な覇権争いをしていて、それを争う口実として民主主義を守るか守らないかという選択肢を一方的に設けようとするから、それに反発する口実も与えているような面倒な事態にもなっているわけだが、実態としてはそんなことではないことに気づいていないのではないか。


8月31日「物事の合理性」

 合理的に思われることは本来そうあるべきで、合理的なやり方が安心感や納得をもたらすはずだが、だからといって全ての面にわたって合理的なことをやらざるを得ないかというとそうでもなく、その反対にやらざるを得ないのは不合理なことや非合理なことであったりして、実際に世の中で不合理なことや非合理なことがおこなわれているから、それでは駄目だと思って合理的なことをやろうとしてうまくいかなくなれば、不合理なことや非合理なことをやらざるを得なくなってしまい、何かそれが不条理に感じられるだろうが、合理的だと思ってやってみてうまくいかないのであれば、それが見込み違いだったことになるわけで、何が見込み違いなのかと言えば、合理的な考えが見込み違いなのであり、合理的に考えられることと実際にやってみてうまくいかないことの間でずれが生じているのだろうが、本来ならそのずれを修正して、やっていることをできるだけ合理的なやり方に近づけなければならないのだろうが、それが不合理で非合理な慣習やしきたりが邪魔をしてうまくいかなければ、そういうところでは何事も合理的にやれるわけでもなく、その場の状況を尊重しなければならなくなり、尊重できなければ不合理で非合理な慣習やしきたりを守っている人たちと争うことになるかも知れないし、争うのがいやなら不合理で非合理な慣習やしきたりに従うか、交渉や取引をして妥協や譲歩を引き出そうとするかも知れないが、どちらにしてもまずは合理的に物事を考えるわけで、その時点では不合理な面や非合理な面は考慮できないが、実際におこなわれる活動の中で妥協や譲歩や調整や調節を伴いながら考えを改めていくしかなく、そういった機会を得られると、合理的に考えていたことが机上の空論にすぎないことがわかってくるだろうが、考えを実行に移す機会が巡ってこないと、いつまで経っても机上の空論から抜け出られないまま、頭でっかちな想像力の虜となってしまうかも知れないが、どちらがどうというわけでもなく、考えていることを実行に移す機会が誰に巡ってくるかはその場の運次第な面もあるだろうが、実行に移す機会が巡ってきた誰かの経験が知識となって世に広まるかも知れないし、そうした知識を身につけてさらに頭でっかちな想像力を膨らませて、ついには誇大妄想狂となってしまう人も出てくるかも知れないが、どうなったところで、そうなった人の振る舞いが世の中でどう受け止められるかで、その人を取り巻く状況も変わってくるだろうし、そんなことまでいちいち考慮していたらきりがないわけだが、個人がおこなう活動であれば無視できるようなことにしかならないかも知れないが、企業規模や国家規模でおこなわれることとなると、巻き添えになってしまう人もそれだけ多いだろうし、それだけ無視できないことになってくるだろうが、それもそれをやることによって世の中の状況を極端に変えるようなことでなければ、どうということはないのかも知れず、そういう意味では何をやるにしても程度の問題となってくるわけだが、例えば国家規模で極端な変革を目指すとなると机上の空論を実行に移すようなことになって、結果的に大失敗となる公算が高く、それも民衆の反対を押し切れるような独裁的な政権でないとできないことだろうし、民主主義が定着している国であれば、極端な変革は実行しづらいだろうから、民主主義が定着している国で極端な変革を目指す政党や勢力があれば、そういう政党や勢力は民衆の広範な支持を得られずに少数派にとどまる可能性が高く、そういう意味では机上の空論のような政策を掲げている勢力が今すぐどうということはないはずだが、そういう勢力が民主主義を破壊できるほどの力を得たら、机上の空論を実行する機会が巡ってくるわけで、それが世界情勢の混乱に乗じておこなわれることになるだろうが、現状がどうかいうと、一応はコロナ禍に乗じて机上の空論を画策している勢力もいるかも知れないが、コロナ禍がそれほど世界情勢を混乱に陥れているかというと、それに対する見方や捉え方にもよるが、それだけでは今ひとつインパクトに欠ける面もあるだろうが、それ以前からしきりに今が大変な状況になっていると危機感を煽っている人や勢力がいれば、そういった人や勢力とすれば、世の中の危機を利用して何かをやりたいわけで、世の中が危機的な状況に陥っている時が、それらの人たちが目指している極端な変革を実行に移す機会となるわけだが、それをはっきりと自覚しているかどうかは定かでないが、実際に大変だ大変だと騒ぎ立てている人や勢力がいれば、それらの人たちが騒ぎ立てていることと自分自身が実感している世の中の現状との間でずれや違和感を覚えるようなら、どちらかの感覚に狂いが生じている可能性もあるだろうが、それらの人たちが唱えている主張の内容や政策が合理的に思われるようなら、それが机上の空論となる可能性も高く、合理的に思われるからそれなりに信用できるだろうが、逆に世の中で不合理で非合理なことがまかり通っていて、それに対して不信感が募っていておかしいと思われるようなら、こんなおかしな状況は何とかして変えなければならないとも思うだろうし、そうやって多くの人たちがそう思うことも、極端な変革や机上の空論を実行する機会を与えているわけで、そういった合理的に思われることを主張や政策に掲げて、それを実行しようとする人や勢力は、その存在自体が諸刃の剣であり、何かの機会にそういう人や勢力が政治的な実権を握ると恐ろしいことが起こると思っておいた方がいいのだろうが、だからといって世の中で不合理で非合理なことがまかり通っているのを見過ごすわけにもいかないだろうし、すでにそういう状況になっている時点で民衆がそれなりの試練に直面しているわけだが、それを試練だと実感できるわけでもなく、社会の極端な変革を掲げて大変だ大変だと煽り立てている勢力が少数派にとどまっている限りで、実際にも試練でも何でもないわけだが、そうなっていること自体がそれらの勢力からすれば不合理で非合理な状況でもあるだろうし、自分たちが合理的で充分に信用に足る主張や政策を掲げているのに、思うように支持や賛同が集まらないことがおかしいと思うなら、誰かが邪魔をしていると思うだろうし、自分たちの活動の妨害を仕掛けている勢力が許せないとも思うかも知れないが、それが誰かとなると心当たりがあって、実際に不合理で非合理なことをやって、世の中を危機に陥れている勢力が敵として攻撃目標となってくるだろうが、果たして実際にそうかというと、現状で多数派を構成している勢力も好き勝手なことをやれているわけでもなく、不合理で非合理な現状との間で妥協や譲歩を重ねているから、何とか多数派を維持できているわけで、それらの勢力が合理的なことをやろうとすれば、たちまち身内からも協力関係にある勢力からも反発が起こって、主導権を維持できなくなってしまうだろうし、そもそも妥協や譲歩を重ねながら主導権をかろうじて維持しているのだから、そんな主導権などあってないようなものでもあり、普通はそれを主導権とも言わないし、実態としては神輿に担がれているだけの存在でしかなく、それでも神輿の上から神輿の担ぎ手に向かってあれこれと指図しているように装うだろうが、神輿の担ぎ手の方でもあらかじめ決められた通りの道順しか選択できないし、自分一人が道順を外れて好き勝手に神輿を誘導しようとしても他の担ぎ手が従ってくれないだろうし、そういうところで微妙に不合理で非合理な慣習やしきたりを尊重しながらも、機会を捉えて自分なりの考えを活動に反映させようとするのだろうが、自分なりの考えというのもその場で機能している制度やシステムや慣習などを考慮した上で、それらからはみ出さない程度で主張する考えにしかならず、そこから大きく逸脱するような極端な変革を主張するわけにもいかないし、そうやって自制している時点でその場の状況にとらわれていることになるわけだが、それがそういった成り行きに加われない少数派になれば、その場を支配する不合理で非合理な慣習やしきたりを無視したことを主張できるが、多数派からは相手にされないわけだ。


8月30日「自己主張とは違う何か」

 ただの一般人の個人的な事情を世の中の情勢に反映できるわけもないが、逆に世の中の情勢の方がその人の事情にかかわってくるかも知れず、例えばSNSなどの書き込み欄とかの狭いスペースの中に自らの事情を反映させようとするセコい思惑が生じてくれば、何やら必死になってその場の主導権を握ろうとして、人目を惹きたい気満々の挑発的な内容をひっきりなしに書き込もうとする人もいるはずだが、そんな馬鹿丸出しの浅はかな行為によって世の中の情勢が動くとも考えられず、それよりは国際テロ組織の自爆攻撃やロケット弾攻撃などの方がそういう方面での情勢を動かしているような気がするだろうが、どちらにしても株価の推移のような情勢の変化をもたらせば満足できるわけでもないだろうし、できれば戦場で我こそはと名乗りを上げるようなことがしたいのかも知れないが、現代の戦場でそんな悠長な一騎打ちがおこなわれるわけでもなく、誰もが世の中で自己主張がしたいことは確かだろうが、そういった思惑も世の中の情勢の一部を構成しているとしても、大抵の場合は誰の思惑ともそれほど関係のない情勢の中で、人や物や情報がそれなりの方向や傾向を伴いながら行き交っていて、それ自体が人や集団の活動となっているのだろうが、そうした活動の一つとして日本の鳥取県より少し大きな経済規模しかないアフガニスタンに二十年もの間、大量の人や資金や物資を投入し続けた挙げ句に何がもたらされたかといっても、結局は大量の人命が失われた以外は何も変わらなかったでは済まないようなことになっているはずだが、それで済むかどうかは今後の成り行き次第かも知れないが、そんなことには無関心でいられる人も日本には大勢いるはずで、また日本の市の中で最大の人口を抱える横浜市の市長選挙で争点となっていたのがカジノの誘致であったはずだが、それとは別に一部の候補者が中学校の給食がお粗末であるとか指摘していたことが争点となったわけでもないとしても、そういったことが個人的な事情とは違うことは確かかも知れないが、自身に特有の事情を抱えていることと世の中の情勢を結びつけて考えてみたところで、それが何になるとも思えなくても、何かそこから社会正義のような抽象的な観念を導き出すきっかけとなるにしても、何とかして具体的に自身が何をしたいかという直接的な行動へとつなげたいのかも知れないが、直接的な行動へとつながる個々の事例と自らの事情とはそれなりに隔たりがあり、それを簡単に結びつけるわけにはいかず、他人の活動の中でおこなわれることに関心を持つに至らなければ、それよりは自分の事情を優先させて、自分の活動の中でおこなわれることに意識を集中したいだろうし、それ以外のことにはできるだけ無関心になりたいとは思っていなくても、実際に自分が直接かかわっていることを優先させていて、それが他人にとってはどうということはなく、世の中でおこなわれていることの中でほんの一部分を占めているにすぎないことかも知れないが、そんな些細なことに関心を持ち、それを自らの活動に結びつけて意識をそこに集中させるわけだから、それを他人が馬鹿丸出しの浅はかな行為だと決めつけても、当人としては納得がいかないだろうし、人を他人から見れば馬鹿げた行為に駆り立てる作用がもたらされていて、その馬鹿げた行為が例えばSNSの書き込み欄を荒らす行為であったり、また人混みの中で自爆して大勢の人命を奪う行為であったりするわけだが、それがある意味では普遍的な破壊衝動につながるだろうが、その一方で中学校の給食がお粗末だとか医療従事者の給料がその危険度とは不釣り合いに安いだとかの個々の事例へと向かって、そういう細かなことを地道に改善したり改良していくことが世の中を良くしていくことに結びつくような気がするわけだが、人を普遍的な破壊衝動に駆り立てることと個々の細かな事例へとこだわらせることが、同じ状況の中で進行しているとは思えないし、それとこれとは全く別次元で生じている現象だと思いたいかも知れないが、それらが直接には結びつかないことが逆に目くらましとして機能しているような幻想をもたらしているのかも知れず、そこに不当な格差が生じているから、その格差を縮めて差異を解消しようとする共通の思惑が介在していて、例えば自分の意見がSNSの中で不当に貶められて無視されているから、その不当な格差を解消させるためにも、書き込み欄の中では自分の意見が優先して表示されなければならないと思われたり、我先に先を争ってアフガニスタンから出て行かれては出て行こうにも出て行けない事情がある住民が不公平だから、国を見捨てて出て行こうとして空港に集まった住民を許すことができないので自らの自爆の道連れになって死んでもらうとか、横浜市が全国でも有数の規模の予算があるのに中学校の給食がお粗末なのは、他のところで無駄に予算が使われているからで、そうした予算の無駄遣いを是正するためにも、またカジノのような娯楽に予算をかけるよりは、まずは中学校の給食に予算を使ってその内容を改善しなければならないと思われたり、さらにはコロナ禍で感染の危険が最も高い看護師などの医療従事者が同じように感染の危険が高い医師と比べて不当に賃金が安すぎるから、その賃金格差を改善しなければならないと思われたり、そうしたところで差異や格差が生じていることに目をつけて、それを解消したり縮めることに自らの活動の根拠を見出してそれを正当化したいのかも知れないが、果たしてそうした差異や格差が他の何かから目を背けさせるための目くらましなのかというと、いったい目を背けなければならない他の何かとは何なのかがわからないことには嘘になってしまいそうだが、それが根源的な感情でもあり、自らの存在が無視されている状況の中で生じてくる疎外感なのかも知れないし、他にももっともらしいことが言えるかも知れないが、いくらその種の感情に結びつく要因を色々と挙げていったところで、差異や格差が解消されるわけでも縮まるわけでもなく、実際に行動に訴えて差異や格差を解消したり縮めなければならず、実際にその種の人たちが直接の行動に及んでいるつもりだろうが、果たしてそれが直接の行動だと言えるのかというとそういうわけでもないのかも知れず、直接の行動とはならないからそこに目くらましを介在させる必要が出てきて、その代わりに回りくどい自己主張をしているわけでもないのだろうが、結果的にはそこにかかわってくる人々から同意を取り付けたくて何かしら主張する成り行きになってしまって、直接の行動とはならない行動を正当化するためにあれこれと理由付けや原因設定をおこなうわけで、それがその場で生じている事態へ介入するための理由でもあり、実際に外部から介入しようとするのだろうが、だからといって自らがSNSのチャットの主催者でもないのも明白で、むしろその場を荒らそうとしているのであり、またアフガニスタンから逃げ出そうとする市民でもないし、逃げ出すことができない事情を抱えている現地人でもなく、アメリカやその傀儡政権に代わって統治をおこなおうとするタリバンでもないし、またカジノの誘致に反対する市民運動の団体が擁立した正式な立候補者でもないし、その後ろ盾となっている現地の有力者から立候補のお墨付きをもらっているわけでもなく、さらにはその危険に見合わない安い賃金で働いている医療従事者でもないし、医療従事者の団体から要請を受けて主張をおこなっているわけでもないのかも知れず、そういうところで正式な依頼がほしいのであり、誰かに依頼されて要請を受け入れる形で行動したいのかも知れず、そうなれば自らの行動のいかがわしさを軽減できるかも知れないが、実際に他から依頼や要請を受けて行動するとなるとそれが自己主張とはならないだろうし、自らが勝手に主張しているわけでもないことになり、その代わりに周囲の人々から無視されて疎外感を覚えていることでもなくなって、そうした依頼や要請をしてくる人や団体と同じ目的や目標を共有する共同体を形成することにもなるだろうが、そのどちらがどうだというわけでもないだろうが、そうした理想の共同体を思い描くことも、ある意味では行為や行動の理由のなさや無根拠さをごまかすために必要な目くらましの幻想になってくるのかも知れない。


8月29日「物事の両義性」

 何事も簡単に言えるようなことならわかりやすそうだが、簡単に言えるようなことを疑ってかかると、わかりにくい表現になってしまい、それが特定の技術に関することになれば、何やら専門用語を駆使して語ることになるから、その専門用語の意味を知らなければわかりにくくても当然だろうが、一般的に言えるようなことになると、それがなぜわかりにくいのかというと、物事を両義的に語る必要があれば、それがわかりにくい内容となってきて、矛盾を避けて両義的な面の一方だけ語ればわかりやすくなるかも知れないが、なぜ物事の一面だけ語るのかといえば、その方が都合がいいといってしまうと身も蓋もないだろうが、それに関してはグラフや表を示して、それが示す傾向だけに基づいて都合のいい言説内容を構成するやり方が、一般的なやり方として定着していて、そういうことをやれば物事の両義性を語らなくても済むわけだが、果たしてそれでは済まなくなることがあるかというと、それだけでは通用しない場合もあるのかも知れないが、主張しているだけであれば通用しなくてもかまわないだろうし、実際にそんなことを主張した結果として何がもたらされてくるかというと、その主張に賛同したりそれを支持する人がどれほどいるかということになるだろうが、大した人数に至らなければ通用していないことになるかというと、それも支持者や賛同者の前でそういう主張をしているのであれば、その場では通用しているように装えるだろうが、また主張内容が反映する方面でその人が主導権を握っていれば、確かにそういう方面では通用しているのだろうが、単なる批判者にすぎなければ通用しているとは言い難いだろうし、反体制派でしかもその中でも少数派に属するような人が一方的に主張しているようなことなら、全く通用していないことになるだろうが、もちろんそういう主張ではなく物事の両義性を含むような主張をしても支持や賛同など得られはしないだろうが、そうなると主張している人に倫理観があるかないかの問題となってくるのかも知れず、もちろんそれもそういうところまで考慮し出すとさらにわかりにくくなってくるだろうが、何かを主張しているだけの人に倫理観を求めること自体がおかしいと言えばおかしいのかも知れないし、では他にどんな場合に倫理観が必要となってくるかというと、そういう方面でいくら突き詰めて考えてもわからないかも知れないが、倫理観のない主張を真に受けるような人々に倫理観などありはしないだろうし、そういう点ではそんな主張の支持者や賛同者にも倫理観などありはせず、果たしてそういう人たちが世の中で通用するのかというと、普通に通用している現状もありそうだが、そういう人たちが少数派を構成しているようなら、それが通用していないことの証しとなってくるかも知れないが、多数派を構成しているようならそれが大衆市民社会の特徴だと言えるだろうし、どちらにしても倫理観など不要な状況となっているのかも知れないし、それでも倫理観の必要性を感じてしまうとすれば、それは多くの人々の支持や賛同など不要な倫理観であり、自身の良心に訴えかけるような作用があるのかも知れないが、たとえ倫理観のない主張によって大衆から広範な支持や賛同を得られたとしても、それ自体が大衆迎合的な主張でもあるわけだから、一過性の流行り廃りにしかならないだろうし、長続きはしないと思っておいて差し支えないだろうが、それの何が間違っているかと言っても、何も間違ってはいないのかも知れないし、間違いようのないことかも知れないが、ただ生活弱者の味方とか貧困層の味方を装うとかがポーズにすぎないと思うのも間違っているのかも知れず、実際に味方であり、味方だと思っているだろうし、そういう面では味方なのかも知れないが、それもわざわざ特定の階層の味方を装うこと自体が倫理観の欠如を示していて、誰の味方でも敵でもないと思っておいても差し支えないだろうし、実際には味方でもあり敵でもあるのが、当人の与り知らないところでそうなっているのかも知れず、それがその人の存在や活動の両義的な性質ともなるだろうし、その人の意志や主張とは関係なくそうなってしまうから、いくら味方であると主張したところで当人がその気になっていても倫理観なき者が普遍性をまとうことはできず、時の経過と共に忘れ去られてしまう存在にしかならないわけだが、別にそれでかまわないのであり、そうなるのがごく普通の成り行きなのだろうが、もちろん普遍性などまとうつもりもないだろうし、まとおうとしてまとえるわけでもなく、結果的に普遍性をまとった存在になれるかなれないかはその場の運次第かも知れないが、では倫理観がどうして必要なのかというと、それが物事の両義性とかかわっていて、倫理観があっても直接の人助けとは関係ないだろうが、物事の両義性とは関係があるかも知れず、それがわかりにくいところなのかも知れないが、その人の主張や活動が必ずしもその対象に有効に作用しているのでも影響を及ぼしているのでもないかも知れないし、実際には悪い作用や悪影響を及ぼしている面もあることを念頭に置きながら活動するしかないが、普通はそんなことまで考慮できないし、大抵は良かれと思っておこなっていることであり、主張していることでもあるのだろうが、味方だと思っている人や対象は擁護するかも知れないが、果たして批判の対象となる人まで擁護できるかというと、そこでその人に倫理観があるか、あるいは倫理観に欠けているように感じられるかの差が出てくるわけで、それに関してはツイッターなどでよく見かける批判の対象を一方的に口汚く罵るようなことをやる人に倫理観があるとは思えないだろうし、口汚く罵るというよりは、特定の著名人などを一方的に常時批判し続ける人にも倫理観があるとも思えないが、そういう人の態度はわかりやすくて単純明快なのだが、普通に考えて暴力団の組長でさえも警察に逮捕されたり裁判の被告とならない限りは一般市民として街中を自由に動き回れるわけだから、その人の人権が擁護されているわけだろうし、そういうところで悪人だろうと善人だろうと両義的に取り扱うような配慮がされていることを自覚できるかできないかでも、倫理観の有無を確認できそうだが、そういうところは意識して身につくようなものでもなく、他人との間の距離感から生じてくるようなことなのかも知れないが、しかも何か特定の物事にかかわって批判の対象となったりする人物や賞賛や擁護の対象となる人物が、その立場や境遇への依存度が高かろうと低かろうと、どこにでもありふれているような性格や傾向があるのに、その人の行為や活動を特別視しているような言説を伴ってくると、そういうところで当てが外れているのであり、勘違いの思い込みが生じているのだろうが、その人であってもなくてもそこで機能している制度や慣習にとらわれてしまえばそういう活動内容となってしまうことについても、その人だから批判や非難や賞賛や擁護の対象となるようなことになれば、その場の状況を把握し損ねていることになるのかも知れないし、そういう意味ではその人の倫理観と他人との距離感とその場の状況や情勢などが密接にかかわってくるだろうが、そういうところで倫理観なき人は理性よりも感情に突き動かされる傾向になるかも知れないが、そこでの感情も良心よりは攻撃的かつ否定的な感情にとらわれていて、自分が一歩退いて他人に道を譲るよりは、いかにして自分をよく見せようとするかに苦心しているようにも見えるわけで、だから必要以上に悪人をこきおろして批判したり非難する一方で、弱者の味方のようなかっこいい主張をしたり、善行をおこなう人を必要以上に持ち上げて賞賛したり擁護するだろうし、それがその人にとっての世間体の取り繕いであるという自覚が欠如しているのかも知れないが、その人の本性がどこにあるのかというと、世間的に悪人と見なされる人や団体などに対する執拗な批判や非難の中に見え隠れしているように感じられてしまうのだが、たとえその人の本性から執拗な批判や非難の言葉が生じて来ようと、それ自体が以前から他の大勢の似たような人たちにもあったような気がしてくるのも、現状の大衆市民社会の中で覚えるありふれた感覚でもあるわけだ。


8月28日「信じられること」

 自らが何かを信じているという前提を受け入れられるかというと、何を信じるかはその時々で変わってくるかも知れず、半信半疑な面も否定できしないし、確かに信じていないとやれないこともあるだろうが、ほぼ実現する確率がゼロに近いようなことを信じられるかというと、例えばもしかしたら当たるかも知れないと思って宝くじの類いを買うこともあるだろうから、一応は当たることを信じて買うのだろうが、何を信じるかで信じている程度も変わってきて、宝くじなどは当たらなくてもそれほど痛手とならない程度の金額しか買わないし、そういうところで打算や調整が働いてくるわけだが、心理的に余裕がないとあり得ないことを信じ込んでしまうかも知れないし、奇跡が起こることを信じて神に祈る気になってしまう時などは、打算や調整を逸脱して一心不乱に信じ込んでしまうのかも知れず、そういう意味では見込み違いの可能性があるとしても、損得勘定をしている時には自身では冷静になっているつもりだろうし、もちろん欲に目がくらんでいれば冷静でいられるはずもなく、自らの勝手な都合だけを反映したあり得ない見積もりになってしまうかも知れないが、まだ何もやっていない段階ではいい加減な妄想をいくらでも抱けるにしても、やり始めてみるとだいたいの予想がついてきて、自らができることの限界を悟ってしまうわけだが、感触としてはそうだとしても、そこに思いがけないことも絡んできて、それに応じて期待が膨らんでくることも萎んでくることもあるだろうし、何を期待しているかというと思い通りの都合のいい結果になってほしいわけだが、思いがけないことが落胆をもたらすか期待をさらに超える期待をもたらすかは、どちらでもない場合もあり、そこから期待をはぐらかされるような成り行きがもたらされて、それによって事前に抱いていた期待などどうでもよくなってしまえば、それだけ思いがけない状況や情勢の変化にさらされていることになるのだろうが、それがその時点では信じられないことでもあり、なんでそうなってしまったのか理解できないわけだが、理解できなくても自分を信じていれば、その場の成り行きにまかせて行動しようとするかも知れず、信じられないような事態に直面しているのに、自分を信じて事に当たれば何となるような根拠の定かでない自信が生じてくれば、それだけ肝が据わっていることにもなるだろうが、そうした自信を奪うのも思いがけない事態の急変でもあり、自分としてはうまくやったつもりなのに、思いとは真逆の結果がもたらされれば自信を失ってしまうだろうが、そこでもうまくいきすぎて調子に乗って増長するのでもうまくいかなくなって自信を失って萎縮するのでもないようなことが起こると自信もはぐらかされて、どう事態を捉えればいいのか理解に苦しむようなことになれば、何か狐につままれたような気分になってしまうかも知れないが、求めていたことや期待していたこととは明らかに違う何かがもたらされていることが、人をそんな気分にさせるのだろうが、自信を持って事に当たるとそれに気づかない限りで自信が生じていて、時には自信を打ち砕かれるような敗北感を味わって萎縮してしまうとしても、自信は自信として自らを信じていることに関してはそのままでもかまわないが、そんな自信とは関係のないところから事態の推移が起こってくると、自信があるだのないだのは問題とはならず、その人に自信があろうとなかろうと状況や情勢が勝手に思惑から外れて変わっていってしまえば、自信そのものが置き去りにされて、蚊帳の外に置かれているような気になってしまうのかも知れないし、それならそれでそこで取り組んでいるつもりの物事への勝手な思い入れもはぐらかされて、かえって手間がかからず気楽な態度で事態を傍観しているだけで済んでしまえばもはや当事者ではなくなっているのだろうが、果たして自らがかかわっているつもりの物事というのが自分なしでもなり立つのかといえば、実際にそうなってみれば自信喪失となってしまうが、意外とそこから押し出されて用済みのお払い箱となるような成り行きには抵抗しない方が身のためであり、そういうところで執拗なこだわりを見せながら取り組んでいる物事にしがみついていると、いつの間にか根拠の定かでない自信が身についてきて、他には何もできなくなってきてそれだけにかかりきりとなってしまうのだろうが、そういう人も世の中にはいくらでもいるとしても、そういう人だけで社会が構成されていれば、社会の構成員の役割分担がはっきりしていることにもなるだろうし、そういう見せかけが維持されている限りで、そこからあぶれてしまうような人も出てこないはずだが、実際にはそこからはみ出してやることが何もない人も出てくるだろうし、逆にそうした余剰人員がいないとそういう人たちを利用した新たな事業を起こせなくなってしまうのかも知れず、そこで何らかの競争がおこなわれていること自体が職の奪い合いが起こっていることの証拠となるかも知れないが、そうなって当然のように感じられる成り行きの中では、積極的にその種の競争に参加して社会の中で役割分担としての自らの居場所を確保しなければならなくなり、見せかけとしては確かにそうなのかも知れないが、どうも実態としてはそうでもないようなことが起こるのであり、あぶれ者やならず者が社会の周囲を徘徊しているのではなく、意外と社会のど真ん中に居座っていて、何不自由なく暮らしている実態もあり、そんな人たちが役割分担から押し出された階層でもあり、それらが貧困層と富裕層とに分極化しているとしても、どちらでもかまわないことでもあり、貧困層の方は飢えに苦しんで悲惨な境遇にあるかも知れないが、富裕層の方でもそれが役割分担などではなく、ただ余計に富を蓄えているだけで、根本的には必要から見放された余計な人たちでもあるわけだが、多くの人がそんな人たちに憧れを抱くわけで、欲望の対象ともなっているから、そういう面では必要とされるわけだが、なぜそうなってしまうのかといえば、それも根本的なところで社会を構成する役割分担から解放されて自由に生きたいと思われるからであり、とりあえず衣食住が過剰に確保されていればそれでかまわないわけで、それによって煩わしいしがらみから逃れられるわけでもないだろうが、自由に振る舞っているような気がすればそれでかまわないようなことでもあり、しがらみを構成する束縛よりも過剰に自由を実感できればいいのだろうが、貧困層の方は貧困にとらわれているから自由を実感できないとしても、無職であれば職業の束縛にとらわれていない方面では自由を実感できるだろうし、もちろん職業にとらわれながらも貧困にもとらわれてしまえば逃げ場がなくなって絶望するしかないが、何もしなくても衣食住が確保されていれば、そういう面では自由でいられるはずだが、役割分担にとらわれている人たちにとってはそれが許せないことにもなり、自分たちは衣食住を確保するために課された役割をこなしているのに、何もしないで衣食住の供給を受けられるとは信じられないわけで、そういうところがそれらの人たちの価値観とは相容れないわけだが、何らかの価値を信じることが他の価値を認めないことになるなら、そこでどの価値を優先させるかを巡って争いが起こるのだろうが、何もしない無職の貧困層に衣食住を提供することと、何もかもを過剰に持っている富裕層にさらに権力を与えることの間にどんな関係があるのかといえば、それが何の関係もないように感じられることが常識的な範囲内で社会の均衡を保つことにもつながっているのかも知れず、結局は社会にとっては余計で必要のない貧困層と富裕層との間で社会が成り立っていることになるのだろうが、どちらでもない層の人たちがそれらの存在を許容できるかというと、どちらも許容せざるを得ないだろうし、許せないと思いつつもそういった境遇へと押し出されるような作用が世の中で働いていて、それなりの数の人が絶えずどちらか一方へと押し出されてしまうわけで、そうなることによって社会の均衡が保たれているわけだから、それを均衡とは見なさずに絶えず社会が流動化していると見なしてもかまわないのだろうが、それと同時に絶えず一定の人たちに社会を維持するための役割分担も課されていて、そういった方面でもそうならざるを得ない成り行きが生じているわけだ。


8月27日「対立と利益」

 世の中で人や集団がかかわっておこなわれることに関しては、何らかの規則や形式に従いながらおこなわれていることがほとんどだろうが、それに起因してそれほどでたらめなことが起こっているわけではなく、一定の型にはまったことをやろうとすると、それに逆らうようなことが起こるのも、ある意味では作用反作用の法則に沿っていて、なぜそうなるのかといえば、そこに利害関係が絡んでくるからだろうが、誰かが利益を得ようとすれば他の誰かが損害を被るようなことになれば、利益を得ようとしておこなわれることに対して妨害しなければならなくなり、そこでおこなわれることを阻止するようなこともおこなわれて、それがそこでの戦いとなるわけだが、そこでおこなわれることが破壊行為となればその程度に応じて被害や損害もそれなりの規模や額を伴ってきて、暴力沙汰となれば死傷者も出てくるわけだが、それに絡んで他の活動にも支障が出てくるのも普通に起こることであり、巻き添えを食ってしまえば不運としか言いようがないが、対立するにしてもそういった物理的な破壊行為を伴わなければ、単なる経済的な利害対立にすぎなくなってしまうにしても、行政が破壊行為をしないように取り締まったり、破壊行為を伴わないような制度を設けて、そこで利害対立する人や集団を仲裁したり競争させるような成り行きに持って行くのが、政府などの行政機関の役割となってくるのかも知れないが、政府と民間の企業や業者などが利害に関して対立関係にあると面倒なことになってくるだろうし、また対立するのではなく政府と一部の企業や業者などの間で利害が一致すれば、贈収賄などがおこなわれて、それ以外の人や集団などが不利益や迷惑を被ることにもなるだろうし、普通に考えてどうやっても対立がなくなることはないのかも知れず、対立されると都合が悪ければ対立をなくすような努力がおこなわれる一方で、対立を利用することによって利益を出そうとする行為もあるだろうし、どちらからでも活動が成り立つ状況となっていれば、対立そのものが活動の源泉となっているわけで、いったん対立に巻き込まれてしまえば、そうした対立の中でうまく立ち回ることが求められているような気になるかも知れないが、それもうまく立ち回れない人や集団を利用して立ち回ることになるわけだから、そこでもうまく立ち回ろうとする人や集団と、結果的にうまく立ち回れずに被害や損害を被る人や集団との間で対立が起こっていて、そこでもどうやっても対立が解消されることはないが、そうした対立に絡んで対立する双方が自分たちに都合のいいことを主張するのもよくあることには違いないし、周囲の人や集団を対立に巻き込んで自分たちの味方につけようとして宣伝や煽動活動をおこなうのもよくあることで、そうした自覚なしに自分たちに都合のいいような正義や道理を説く場合も多く、果たして大して利害関係を意識していない人たちが、そうした正義や道理を真に受けるかというとそうでもないだろうし、そういうところで選挙などの際に当てが外れるような主張をしている人も結構いるし、それでもかまわないようなことでもあるわけで、逆にそれと自覚することなく説かれる正義や道理などを多くの人たちが真に受けてしまうことの方が危険な兆候かも知れず、かつてはそこからファシズムなどの政治運動が生じてきたのだろうが、未だにそういうことを主張する人たちはかつてのファシストたちの末裔となるかも知れないが、では他に何を主張すべきなのかといっても自分たちにとって都合の悪いことは主張できないわけで、それが政治的な主張の限界となるだろうが、やはりそれでもかまわないわけで、そんなことには無関心で投票に行かない人が大勢いるのは、選挙で争点となっていることには直接の利害関係を意識できないからだろうが、その一方で候補者や政党などに特定の利害関係を意識できる人たちが集団となって組織票を構成して、そうした組織票を有する候補者や政党が選挙では有利となるのも当然の成り行きであり、特定の集団にかかわりのない人たちは、そういう成り行きをどうすることもできないだろうが、社会の中で様々な利害関係が複雑に絡み合いながら錯綜していると、特定の利害を強調したところで、その利害とは関係のない人たちには響いてこないだろうし、利害関係を利用して人や集団を動かすのにも限界があるだろうが、そうした限界がその場の状況を規定していて、そこで一定の規則や形式が機能しているわけだが、果たして利害を伴わない主張があり得るかとなると、それでは主張の体をなさないはずだが、対立を解消するには利害をなくす方向で努力しなければならず、しかも利害があるように見せかけながら利益を追求していくと結果的に当てが外れて利益が無に帰すような成り行きが求められているわけでもないが、たぶん成り行きとしてはそうならざるを得ないわけで、結局は利害を意識させられた主張の支持者を裏切るような結果がもたらさなければならないわけだが、実際に意識してそんなことができるかといえば、逆に意識しているのはいかにして支持者に利益をもたらすかということになるだろうが、結局はそれに失敗して利益をもたらせずに支持者からの信用を失って非難されることが、失敗することに成功することでもあり、そこで求められているのはそういうことだといっても、誰がそれを求めているわけでもないだろうが、自然にそういう結果がもたらされて、そうなればその人や集団にとっては失敗になるだろうが、自然の成り行きからすればそうなるのが当然になるのかも知れず、それでもかまわないのは裏切られた支持者以外の人たちになるかも知れないが、利益につられてペテンにかかったこと自体が浅はかだったのであり、そんな人たちの犠牲によって対立や利害が解消するかも知れないし、そういう意味では安易な利益誘導には乗らない方がいいだろうが、何が安易な利益誘導となるかがわかりにくいところでもあるだろうし、結局は自らが直接かかわっている範囲内でしかわからないところでもあり、直接かかわっているところであっても、例えば金銭的な利益と他の利益との区別がつくかというと怪しくなってきてしまい、自身の与り知らないところで利益を得ている可能性もあるから、詳しいところはわからなくても当然なのかも知れないが、そもそも世の中でおこなわれていることの全てを利害関係に還元できるわけでもないし、利害のどちらももたらすようなこともおこなわれているだろうし、また誰かの主張に賛同するからその人を支持しているわけでもないのかも知れず、選挙では支持していない人に投票してもかまわないだろうから、自らの利害と支持の有無と投票する対象とが一致していなくてもいいだろうが、では何のために投票するかといえば、それが制度だからとりあえず従っておいた方が良さそうに思われるならそうするかも知れないが、そんな人はごくわずかにすぎないとしても、それが制度として有効に機能するにはそれなりの条件や前提が必要となるにしても、条件や前提が揃わなければ制度が有効に機能しないのかといえば、有効に機能しなくてもかまわない場合もあるだろうし、ある制度が有効に機能しない代わりに別の制度が有効に機能している場合もあり、そういうところでは制度と制度が対立関係にあるだろうが、そうした対立を利用して利益を得ようとする行為も出てくるだろうし、世の中のありとあらゆるところから利益を得ようとすれば、何かしら差異が生じるようなところから利益が得られるわけで、そこに対立がもたらされて優劣が一時的に決まればそこに差異が生じて、そうした差異を利用して利益を得ようとするわけで、それを簡単に言うなら価格差になり、物や情報やサービスを安く買って高く売ったり高く売ってから安く買えば金銭的には利益が得られるはずだが、それが単純な売り買いではなくその間に生産や流通や消費が絡んでくると、実態としては不等価交換なのに等価交換であるような幻想が伴ってきて納得してしまうわけだ。


8月26日「意図的なはぐらかし」

 何かおかしいと思われる物事には、その理由や原因がその時点では定かではないものの、実際にうまく言い表せないのだが、それに対する疑念や疑問が晴らされないまま、それをかわそうとする意図も感じられないが、何となくそれがまとっている肯定的な雰囲気だけで疑念や疑問を押し切ろうとするような強引さが感じられるようなら、それも微妙にそう感じられる程度のことかも知れないが、それが見せかけだけの雰囲気作りのようなやり方であれば、そのうち化けの皮が剥がれて、張り子の虎のように中身が空っぽというわけではないものの、当初はそれなりに期待していたから下駄を履かせて良いところだけが誇張されて好意的かつ肯定的に見られていたのが、大した成果も伴ってこなければ次第に粗も目立ってきて、それに対する期待感が冷めてくるに従って結局は実績通りの評価に落ち着いてしまい、その実績というのがどこでわかるかも微妙にそう感じられる程度のことかも知れないが、たぶんわかる人にはわかる程度のことでもあり、そのわかる人にはわかるということも勘違いや思い違いの可能性も捨てきれないが、どうとでも言える水準でそう感じられるというよりは決定的な水準でそう断言したくなってしまうのかも知れず、しかもそう断言してもなおそれでもかまわないようなことでもあり、別に実績が伴っていない評価であってもかまわないような状況もありそうで、そんな怪しげな人の方がかえって安心できたり、また少しは後ろ暗いことや表裏があっても、それも人としてよくありがちなことで、その方が清廉潔白であるよりは社会で暮らしている普通の人の実態に近く、好感は持てないだろうが、安心感が伴う方がその場では有利に働いて、それも時と場合によっては有利に働く程度のことなのだろうが、そんな些細なことの積み重なりによってその場の状況が構成されてきて、そこに至る経緯とその場の事情が何でもないような人を見せかけだけの重要人物に仕立て上げるとしても、そこから実際にその人が主導して多くの人がかかわるようなことがおこなわれるようになれば、その人の地位や立場も揺るぎないものとなるかも知れず、それもその場だけでのことであり、別の場ではまた別の人がそういう立場や地位を占めていれば、その人の力や影響力もその場だけに限られるだろうが、そうやって様々な場で様々な人たちにその人の実績や評価に応じているかどうかも定かでないような地位や立場がもたらされて、そういうことも含んで結果的に社会が構成されていることにもなり、それによって何がどうなるというか、実際に何かがどうにかなっているのだろうが、そのことの良し悪しをもっともらしく説明できる人も中にはいるだろうが、誰がそうなっている状況を制御できるわけでもなく、その任にふさわしくないような人が分不相応な立場や地位を占めていると思われることも多々あるとしても、そういう人がそういう立場や地位を占めるような経緯や事情が生じる限りでそうなるより他なく、そんな機会を得たくても得られない人には不満が残るにしても、多くの人が不満を抱いている状況が何を意味するかといっても、取り立てて何を意味するわけでもなく、そうした不満を糾合して社会変革をもたらそうとする人や勢力が出てくるかも知れないが、そういった試みはいつの時代でも失敗に終わる可能性が高く、それよりは不満を別の方面へと逸らして、そこで不満の代償を求めるようなことがおこなわれて、いつの間にかそういった行為に丸め込まれて不満が不完全燃焼を起こして、そこから社会にとっては有毒ガスを含んだ煤煙が発生してくるのかも知れないが、そんな人を煙に巻くような行為が社会の方々ではぐらかしとしてそれなりに有効に作用しているかも知れず、そうやって何とかして直接の原因にたどり着かないような配慮がおこなわれて、そこに人々の目が向かないような構造となって出現しているのだろうが、それが顕在化しているわけではなく潜在的な構造として機能していて、誰もが潜在的な構造にとらわれているのだろうが、そこには多くの人の目が向かずに顕在化している目くらましの構造の方に目が向いてしまうから、実際にそれが目くらましとして機能して事なきを得るようなことになっているわけで、それによって深刻な矛盾を意識せずに、逆にそれなりの安心感にもとらわれながら多くの人が社会の中で暮らしているわけだが、その安心感というのが後ろ暗い弱みや本音と建前などの表裏があるのは自分だけではなく、暗黙の了解事項として周りの誰もが共有していることでもあって、それによって目くらましやはぐらかしの共犯者にも仕立て上げられているわけだが、そういう面ではそうであっても、それとは別の面では社会を構成する共同体の一員として立派に振る舞っていることにもなるだろうし、そういった不都合な面と好都合な面を強調しなければ、それらは何でもないことにもなってしまい、それだけでは何がどうというわけでもないはずだが、それも見せかけという面ではどうというわけでもなく、実際にどう行動するかとか、どのような言動を伴ってくるかにもよるだろうが、たとえメディアから繰り出される目くらましやはぐらかしに動揺したり同調してしまうとしても、一方でそんなことには惑わされずに信念を貫き通すといった類いの精神論なども目くらましやはぐらかしでしかなく、どちらの水準にも与しない日常的な水準もあり、そういう水準で物事を正しく判断できるかというと、判断の正しささえ求められていない場合には判断する必要もないわけだが、そういう場合は何をどう判断するかではなく、そこから生じてくる行動や言動に身をまかせなければならないと共に、特にその場の成り行きの中で自然な対応を心がけているわけでもなくても、実際に自然な対応となっていればそれに従うしかないのだろうが、それが物事の道理とか原理とかに忠実でなくてもかまわないのかも知れず、逆に従うべき道理や原理を求めている状態が迷いが生じている状態でもあり、従うべき道理や原理がないということはあり得ないだろうが、それは学校教育などによってもたらされていたり、その種の啓蒙書や教養書などを読んで身につけるものであったりする限りで、何らかの意図や思惑を伴って外部からもたらされるわけで、そこでもそういった意図や思惑に惑わされていることになってしまうだろうが、それがないということがあり得ないのだからそうした意図や思惑を感じ取るしかなく、それを汲み取る努力をしてしまえば、それらの意図した通りで思惑通りの行動や言動が伴ってくるのだろうが、そういう行動や言動にとらわれてしまっても差し支えなければそのままでもかまわないのだろうが、それでかまわないかどうかを自身で決められるわけでもないのかも知れず、では自身の他に誰が決めるのかといえばその場の状況が決めるとでも思っておけばいいのだろうが、実際には自分で決めている可能性もあり、それがその場の成り行きに逆らわない対応となって現れる場合もあるだろうが、逆にその場の成り行きに逆らっているように思われる場合もあって、どちらなのかわからない場合もあるし、そうなった結果から良し悪しを判断できる場合もあるだろうが、判断できたからといってそれに行動や言動を縛られる必要もなければ、そこでもどう判断しても納得がいかない行動や言動となっていることに気づいてしまう可能性もあり、そういう意味でもその場だけの結果に一喜一憂してしまうとしても、それがその場の結果にこだわらないような行動や言動になれば、そうすることがその場の結果を乗り越えていることにもなるだろうし、そうなっている自らを実感できれば、少しはその場から遠ざかれたことにもなるだろうが、遠ざかるだけではなく別の何かに近づいていることにもなれば、そこでもその場の状況に応じた対処や対応が求められていて、果たしてその求めに応じた対処や対応ができるかというと、判断するまでもなく自然に行動できて、それに応じて自然な言動が伴ってくれば、それがその場の求めに応じた対処や対応になっているか否かにかかわらず、自主的にそんなことをやっているような気がしてくるのではないか。


8月25日「誤算と誤解」

 フィクションと現実が違うのは当たり前のことかも知れないが、たとえそれが誰にとってもわかりきったことであろうと、わかりきったことをそのまま放置しておくことができなければ、それを変えようとするかも知れないし、そうなると大抵はフィクションを現実に近づけようとするだろうが、まさか現実をフィクションに近づけようとするかというと、夢を実現しようとする行為はそれに当たるだろうし、頭の中で思い描いていることを現実の世界で再現しようとするのだろうが、どちらがどうというわけではないとしても、現実からフィクションを構成するのとフィクションから現実を構成することが両方共に可能だということが、果たして本当にあり得るのかというと、確かにどちらもあり得るのだろうが、どちらも可能な限りそうしようとするのであり、その可能な限りというのが何かしら誤算を伴っていて、可能でないことを可能だと思ってしまうことが誤算を生むわけだが、それは何らかの計画を実行に移す際には必ず起こることかも知れないし、現状を変えて都合のいい状態にしたいと誰もが思うかも知れないが、自分だけがそう思うわけではなく誰もがそう思ってしまうところが都合の悪い結果をもたらすわけで、自分の思いと他の誰かの思いが被ってしまえば、どちらの思いを優先させるかを巡って諍いが起こるかも知れないし、そういったかかわりの中で思い通りにいかなくなるとそれが誤算であり、そこから思い通りにいかない相手に対する誤解も生じてくるだろうし、それが誤解ではなく正しい認識だとしても、思い通りのことをやろうとすると必ず他から邪魔が入るようなことになれば、結果的には思い通りにはならないわけだが、それもわかりきったことであろうと、わかりきったことをそのまま放置しておくことができなければ、何かしら画策することになるだろうし、そんな画策がフィクションの中で表現されるか現実の世界で実行されるかは、やろうとする内容にもよるだろうが、その場の状況がそれを許さないとなれば、やはりそこには誤算があり、それができると思っても思い通りにはいかなければ、その場の状況を誤解していることにもなるだろうし、自らの思いと現実の状況との間で何かずれや狂いが生じているのかも知れないが、そんなこともわかりきったことであり、普通は思い通りにはいかないなりにも現実との間で妥協や譲歩を重ねながら、少しでも自らの思いが実現するような成り行きへと持って行こうとするわけだが、そういうところで交渉術がものを言ったり、交渉する相手との間でどうやって信頼関係を構築するかが重要となってくるかも知れないが、そんなことをやっているうちに当初の目論見とはだいぶ違ったことをやっていて、始めから仕組まれたような計画通りの予定調和な結果など得られはせず、だいぶそこからずれていってしまって、収拾がつかない事態の中で困惑するしかない状況となってしまうかも知れないが、それでもそうなった結果から判断して、そこから語るのに都合のいいところだけ抽出して、図式的に示されるような辻褄の合ったことを語りたい人も出てくるわけで、そういう人が語る理路整然とした内容を信用してしまうと、始めから予定調和の結論ありきで事態が進行しているような気になってしまうわけだが、それが誤解そのものであり、途中で生じてくる様々な誤算を考慮に入れていないことになるのだろうが、そういったある意味では現実のフィクション化としての語りと、実際に様々な実践から生じる誤算や誤解を物語るフィクションを混同できるはずもないだろうが、何か都合の悪いことが起こった後から、そら見たことかと後出しじゃんけんのようにして失敗の原因を得意になって語りたがる内容となると、じゃあお前ならうまくやれるのかと問いたくなってくるだろうが、そういうことを言う役割というのもあるだろうし、それも何かが起こった後から気づくようなことでもあり、事前には予想できないことかも知れず、もちろんそうなった後から批判するとなれば事前に予測できたはずだと強調して、失敗を非難するわけだが、そういうことばかり主張してもらちがあかないのもわかりきったことであり、誰もがあっと驚く結果が待ち受けていたわけでもなかったのかも知れず、そうなる過程において様々な誤算や誤解が重なったから誰もがあっと驚く結果がもたらされたのであり、少なくとも当初において仕組まれていたことを遙かに超える紆余曲折がもたらされないとそうはならないのかも知れず、確かに事前においても事後においても筋の通ったもっともらしいことは言えるかも知れないが、途中の過程ではそんなことを言っている暇も余裕もないわけで、その場の事態に対処するのが精一杯で、全体の状況を把握できないから、把握できないところから思いがけない作用や影響が及んでくれば、そこで当初の目論見や計画に狂いが生じてきて、それが誤算となり、そういった作用や影響が及んでくることまでは考慮に入れていなかったのだから、現状に関して誤解があったのかも知れないが、そういうところでも臨機応変に対応しなければならないと口では言えるだろうが、実際にそれができるかとなると、結果的にできなければそれが失敗の原因となるだろうし、それが失敗の原因だと後から得意になって指摘することもできるだろうが、そんなことを指摘している時点で後の祭りだろうし、誤算や誤解などが原因で失敗してしまったことは謙虚に受け止めなければならないかも知れないが、それもその場だけで生じた事情や経緯となって時が経てば顧みられなくなり、忘れた頃にそれと似たような状況がもたらされれば、同じ失敗を二度も繰り返す失態を演じてしまうかも知れないし、そうなっても相変わらずそうなった後から得意になって失敗の原因をあげつらう人も出てきて、性懲りもなく愚かな失敗が繰り返される実態に呆れてしまうかも知れないが、そうなる過程の中で生きていることを忘れてはならないのかも知れず、まだ定まった結果には至っていない面もあって、これから何らかの結果が得られても、それも途中経過であって、現状で得られた暫定的な結果でしかなく、その証拠にまだ自らでやれることがあれば、それをやることによってあわよくば暫定的な結果を覆せる可能性があることを信じられるなら、それをやっていくしかないわけだが、あきらめてしまったらそこで終わりとなるわけでもなく、あきらめた先にも未来があることを感じ取れるようなら、さらにそこから先へと進めるかも知れないし、何かそういうところで自らの認識に絶えず誤算や誤解がつきまとってくれば、そこから降りさせてくれない執拗な作用や影響がどこからともなく及ぼされているのかも知れず、そういう作用や影響を常に感じながら誰もが生きていくことになるだろうが、感じていることすらも現状への誤解に基づいているかも知れないが、誤算がないと自らの見解や認識を改められないし、誤解していないと思いがけないことも起こらないのかも知れず、要するに誤算や誤解が驚きをもたらして、それによってこれまでの認識を改めなければならなくなるわけだが、これまでの認識が甘かったからそうなるにしても、甘くならない現状認識などないのかも知れないし、甘い現状認識を抱かないと新たなことをやる気にはならないし、厳しい現状認識ばかり抱いているとこれまで通りのことをこれまでの延長上でやるような保守的な態度にしかならず、新しいことは何もできなくなってしまい、しかも新しいことの十中八九はそういった保守派から見れば愚かで馬鹿げたことでもあり、実際に十中八九は失敗に終わるだろうし、そら見たことかと得意になって失敗の原因が指摘されることでもあるが、中にはそこから心ない中傷や罵声を浴びせかけられながらも次第に成長していって世の中に定着する試みも出てくるかも知れないし、そういったことがわずかでも起こらないと世の中も変わっていかないわけだが、モグラ叩きのようにして出る杭が常に打たれ続けている現状も一方にはあるだろうから、そういった新しい試みを成功させるのは至難の業でもあるわけだ。


8月24日「言語表現の持続」

 現状で多くの人々が危機感を募らせる新たな事態というのがどのような事態なのかといっても、そんな事態に実際に直面してみないことにはわかるはずもないことだが、それでも世界が新たな事態に直面していることは確からしく、それが自然の脅威に直面しているのか、はたまた人為的に仕組まれた脅威に直面しているのかは、両方共にありそうだが、人為的に仕組まれたわけではなくても結果的に人間の活動が災害を招いているのかも知れないし、それらが単発で起こるのではなく互いに関係し合ったり絡み合いながら世界に脅威をもたらしているのかも知れないが、もたらしているのが脅威だけというわけでもなく、脅威と共に利益ももたらしていて、人類の繁栄ももたらしているとすれば諸刃の剣として機能しているのかも知れず、その結果今や人類が自ら作り上げた機械文明によってもたらされた巨万の富と共に滅亡しようとしているのかも知れないが、現状ではまだそこまでには至っていないのかも知れず、実態としてもそんな大げさな段階でなく、仮にここから大げさな段階を迎えて人類が滅亡したとしても、人類以外にとっては世界にとっても地球にとってもそれが脅威に直面しているという感じではないだろうし、もちろん世界や地球が人間のような感覚を持っているわけでもなく、感じでも何でもないのだろうが、言語表現としては何らかの出来事が世界を震撼させたとか世界=人類世界と捉えるなら、その程度が深刻になれば世界の危機や地球の危機を迎えたことになるだろうが、人類のいない世界や地球もあり得るだろうし、実際に人類が登場する数百万年以前には人類のいない世界や地球であったわけだから、人類以外にとってはそれでもかまわないのかも知れないが、それでもかまわないといっても他の何がかまわないわけでもなく、かまわないと思うのも人類以外にはあり得ないのかも知れず、そういった水準ではどう述べても人類以外には通用しない表現となってしまうわけで、そういう意味では言語を共有する存在以外に言語表現としての危機がもたらされるわけでもなく、人類の他にどのような存在や現象が言語表現の対象となっていようと、その対象が抱く危機感は想像上の危機感であり、言語表現となった危機感とは別物なのかも知れず、その一方で言語表現となった危機感を共有できるのは言語表現を共有できる存在に限られて、それは言語表現を利用している人類以外にあり得ないのだが、それが人類が共有可能な危機感でもあるのは当然だが、中には共有してくれない人や集団もいるだろうし、個々の利害関係が絡んでくればそうなるのも当然であり、他の人や集団にとっては脅威となる出来事や現象などによって利益を得ていれば、しかもその人自身やその集団自体が他の人や集団にとって脅威となっていれば、そこで複数の人や集団が敵対関係にあり、互いに危機感を共有しながらも利害関係も共有していることになり、危機や脅威に直面しながらもそれを利用して利益も得ようともしているわけで、それがその人や集団にとっては滅亡の危機をもたらすとしても、他の人や集団にとっては繁栄の機会をもたらすかも知れず、そうやって対立するどちらか一方があるいは両者ともに栄枯盛衰を招く成り行きの中で戦うことになるのだろうが、このまま戦い続けていたら共倒れになってしまう危険が高まってくれば譲歩や妥協もするだろうし、曖昧な形でなし崩し的な戦いの中断ももたらされるかも知れないし、その中断がいつまで続くとも限らず、結局は断続的な戦いと中断の繰り返しがもたらされるかも知れないが、そういった人類の内部で繰り返される内紛や内ゲバの類いに他の動植物なども巻き込まれることがあるにしても、その煽りを食って絶滅に追い込まれる動植物があっても、それらの動植物が人類が共有する言語的な意味での危機感を共有しているかというと疑念を抱かざるを得ないだろうし、人類の活動がもたらしたとされる地球規模での気候変動も、人類にとっては確かに脅威となっているはずだが、それによって死傷したり財産を失ったりしている人が大勢いるとしても、それと同時に気候変動をもたらす活動によって利益を得たり富を蓄積したりもしていて、それが人類にとっては諸刃の剣のように機能して、世界や地球にも否定的な作用や影響を及ぼしているはずだが、それは人類にとっての世界や地球でもあり、人類もその中に含まれる自然環境を劇的に変えていることも確かだが、その環境の劇的な変化に他の動植物も巻き込まれて、中には絶滅の危機に瀕している種類もかなりの数に上るとしても、それも言語表現上の危機には違いなく、その言語表現上の危機を絶滅の危機に瀕している動植物たちが共有しているかというと、それとこれとは違うのかというとそうではなく、現実の危機と言語表現上の危機が重なっていることは確かであり、動植物たちが危機と認識しているかどうかは定かでなく、知能の高いイルカや鯨の類いなら自分たちの種族がだんだんと減っていることぐらいは感じているかも知れないが、それと同時に弱肉強食の世界にその身を投じているのだから、餌となる別の種族を食い殺していることも確かであり、隙あらば他の種族に食い殺されたり、同じ種族の間で共食いも起こるだろうし、過去には食い殺されて絶滅した種族もあるだろうが、人類による環境破壊と例えば巨大隕石が地球に衝突して大規模な環境破壊がもたらされることを区別できるかというと、そこまでわかっているとは思えないが、そういうところから言語表現レベルと現実のレベルとを区別できなくても当然だろうが、言語表現の水準に他の絶滅の危機に瀕している種族も巻き込んで同情したり罪悪感を抱いたり密猟者などに憎悪の念を抱いたりしながら感情移入している事実もあるわけで、別にそうなっているからといって何がおかしいわけでもなく、そういう思いを抱くことが普通に起こることでもあり、それが取り立てて問題をややこしくさせているとも思えないはずだが、そういう傾向を肯定的に感じる割合が高いとしても、ほとんどの人が気づかないところでおかしな事態を招いているかも知れないし、それも人類には直接関係のないことかも知れないが、人類が抱く危機感とも無関係かも知れず、むしろそういう感情を抱くことによって肯定とも否定とも違う何らかの方面へと導かれているのかも知れないが、普通は環境保護活動といった肯定的に受け止められる方面へと導かれていると意識しているし、肯定的な傾向であっても誰が困るわけでもないのだろうが、それによって環境を破壊する活動が抑制されると普通は思われるだろうし、そう捉えておいてかまわないどころかそれが正しい認識となっているはずだが、それとは別の方面の言語表現によって表現するなら、環境を保護する活動も破壊する活動も人類の活動の一種であり、どちらの活動も同時並行しておこなわれている実態があり、その活動の対象となる存在や現象を活動に利用するためにそれを言葉で表現することによって我有化するわけで、それが表現者にとっては都合の良い我有化になるのは当然だろうが、そういった活動を正当化するためにも言葉による我有化が欠かせないわけだが、言語表現自体が言語活動そのものでもあり、そうした言語活動に必要な獲物として保護活動の対象となる動植物もあるだろうし、そういう意味では活動に利用できる獲物がほしいのであり、それが多くの人々から共感を得られるような言語活動となれば活動としても成功したことになるわけで、そうした活動の一環として環境保護活動があるといってもピンとこないだろうが、それと同時並行して多くの人々に利益をもたらすような環境破壊活動があれば、それも多くの人々から共感を得られるような言語活動を伴っているだろうし、さらにそうなることによる当然の帰結として、環境保護に共感する人たちと環境破壊に共感する人たちとの間で内紛をもたらすとしても、もちろん環境破壊派による言語活動の中ではそれを否定的な印象を伴った環境破壊とは呼ばないわけで、もっと他の肯定的な表現を伴った言語表現になるはずで、そういうところで言語表現の水準と現実の水準との間にずれも生じてくるのではないか。


8月23日「理由の不在」

 人の行為や行動がその場を支配する慣習や形式にとらわれていることに取り立てて何の不都合もなければ、そうなっていても何かの支配に屈している感覚はないだろうし、誰もが普通に暮らしていて、それの何が問題視される成り行きにもならないだろうが、そういうことをいくら強調したところで当事者には無視されるだけで、わけのわからないことを指摘しているような受け取られ方をされるしかないかも知れないが、違和感というと安易にその言葉を使いすぎる傾向があり、いくら違和感を覚えてもそれによって何がわかるわけでもなく、違和感を覚えることなど他にもいくらでもあって、誰もが盲従していることは確かかも知れないが、何に盲従しているかは盲従している当事者にはわからないことでもあり、外部からそれを指摘されても理解してくれないだろうし、そんなことには何の重要性も感じられず、重要でも何でもないからそういった傾向に凝り固まっていることが当然のように感じられて、それに関しては何の違和感もなく、かえってそうなっているのが当然に思われるようなことを指摘すること自体に違和感を覚えるだろうし、なぜそんなことを指摘するのか指摘する意味がわからないわけで、指摘したところでどうしろというわけでもなく、そうなっていること指摘しているだけで、それを変えろと言っているわけでもなく、慣習や形式にとらわれている状態を変えさせたいわけでもなければ何なのかといえば、それを指摘できるということがすでに変わりつつあることの兆しであり、そういった慣習や形式にとらわれていることに気づいたわけだから、そこから脱却できる可能性もあるのかも知れず、脱却することが良いとか悪いとかいうことではなく、脱却できる可能性があるのだから、脱却するような成り行きになればそうなってしまうということでもあり、だからといって無理に脱却しなくてもいいが、無理しなくても脱却できる可能性があるかも知れないということでもあり、脱却しなくても何の不都合も感じていなくても、逆に脱却することによって不都合が生じてくるとしても、脱却するような成り行きになってしまうと脱却して不都合を感じるような状況となってしまうかも知れないが、それでも脱却するような成り行きにとらわれてしまえば、いやでも脱却しなければならなくなって、そうなると抵抗感を覚えてそんな成り行き逆らうことになるだろうが、逆らいながらもそこから脱却させられてしまえば、そうやって実際に慣習や形式の支配から脱却したことになるのだが、そうなったからといって状況が良くなった面も悪くなった面もあるかも知れないし、一概に脱却した方が良かったとはいえないかも知れないが、それまでの社会の中で支配的だった慣習や形式から脱却する過程で社会に変化が生じて、そうした変化に伴って支配的な慣習や形式からも脱却するのだろうが、そうなってしまったことを正当化したいだろうが、特に正当化する必要もないのかも知れず、なし崩し的にそうなってしまう方面ではそんな世の中の流れが生じているとしかいえないし、それが合理的でも不合理的でも非合理的でもあるだろうし、正当化したければ合理的な面を強調するわけだが、強調してみたところで不合理や非合理などの面が減じられるわけでもなく、そうなってしまうことの理由付けができなくなってしまうのかも知れないが、大した理由がなくてもそうなってしまうわけで、そういう意味では一見社会に定着しているように見える慣習や形式も常に揺れ動いていて長い目で見れば変わりつつあるわけで、その支配に屈しているように見える人々も機会を捉えてそこから脱却してしまい、なぜそうなってしまうのか納得できる理由を後からいくらでも付け加えることができるかも知れないが、そうなってしまう時点では理由など何でもかまわないのかも知れず、何かのついでにそうなってしまうようなことでもあり、それ自体が正当化できるようなことでも合理的に感じられるようなことでもなくても、その場のノリでそうなってしまえば、後からもっともらしい理由付けが必要になってくると厄介なことになってしまうだろうが、何か魔が差すようなことが起きるわけで、それが偶然の巡り合わせともいえるかも知れないが、後から必然的な成り行きを導き出させれば、もっともらしい理由でそうなったと説明できるだろうが、そうなってしまった当事者にとってはどちらでもかまわないのかも知れないし、理由などどうでもいいとはいわないが、とってつけたような理由付けには違和感を覚えるものの、それも自らの都合に照らし合わせてその方が有利に働くと思えばそういうことにしてしまうだろうし、結局はそうなってしまうこと自体の正当化にこだわってしまうと変化に乗り遅れて損してしまうと思えば、そんなことはいい加減に手早く済ませて、その後の状況の中で都合良く振る舞おうとするだろうし、そうなる過程で社会を支配する慣習や形式を厳格に守っているような人々が、いかにいい加減で軽薄な人々であるかが明らかになってくるかも知れないが、それも実際にそうなってから言えるようなことでもあり、そうなるきっかけがなければいつまで経っても慣習や形式の支配に屈しているからそうは見えず、保守的で好感の持てる人々だと、慣習や形式を守らせようとする側からは見えるはずだが、そういう態度が信用できるかというと、そうなっている間は信用できるのだろうが、それが何かのきっかけから支配体制が崩れてしまえば、そんな慣習や形式など見向きもされなくなって、さっさと世の中から駆逐されてしまうのだろうが、それがどういうきっかけからそうなってしまうかといっても、実際にそうなってみないことにはわからないし、そうなってからそうなったことについてのもっともらしい理由が付け加わるのだろうが、それ以後はそういう理由でそうなったことがもっともらしく思われるとしても、それはそういう理由が世の中に定着したらそう思われるわけで、それ以外にも様々な理由が指摘された中で、その場の社会情勢に照らし合わせてよりもっともらしい理由が世の中に定着するようにも思われるかも知れないが、それも偶然の巡り合わせのようなものかも知れず、当初はそんな理由に違和感を覚えるとしても、それが世の中に定着してくるといつの間にか違和感がなくなってしまい、なぜそうなってしまうのかといっても、そうした理由に合わせて世の中の状況が構成されてくるとしか言えず、何かそういうところでもっともらしい理由に騙されているわけでもないのだろうが、それもそうした理由に基づいて新たな慣習や形式が生じてきて、それに従うように仕向けられていることにもなるだろうし、それが良いとか悪いとかの判断が当事者にはつかないところが厄介なのかも知れないが、それに関しては長いものには巻かれろということわざもあるから、たとえ自らの信念を貫くとかいうかっこいい決意と共に慣習や形式に逆らっているつもりの人もいるかも知れないが、それが意外と慣習や形式にとらわれていることの証しであったりもして、そういう人が逆らっているつもりの慣習や形式よりもその人の気づかないところで従わせるような作用や影響が及ぼされて、思わぬところで足下をすくわれていることに気づけないわけだが、そうなると囮として逆らうのに都合の良い慣習や形式が目の前に現れているとしても、それが囮であるからには、それに逆らうこと自体がそこでの慣習や形式でもあり、自分と同じように逆らっている人が他にも大勢いるようならそれに気づく機会もあるかも知れないが、意外とそういうことではなく、従うとか逆らうとか意識させることによって慣習や形式に従わせるシステムが構成されていると捉えておくべきなのかも知れず、そうであれば安易に従ったり逆らったりするように仕向けている何かがあり、その何かに操られて従ったり逆らったりさせられてしまい、従ったり逆らったりしているだけではその場を支配する慣習や形式の勢力圏に絡め取られていることになるのだろうが、ではどうすればその勢力圏から抜け出ることができるのかといえば、そこでも抜け出ようとして抜け出せるわけではなく、否応なく抜け出てしまう機会が巡ってくるわけで、そういう成り行きに従って自然に抜け出ることができれば、大した苦労もしないわけだが、無理に抜け出ようとすればそれ相応の危険が伴うわけだ。


8月22日「反応と対応」

 自らが直面している状況の中で自らが何に反応して何に対応しているのかよくわかっていない場合がほとんどかも知れないが、改めて振り返るまでもなく人は自身に直接作用や影響を及ぼしてくる様々な物事に反応して対応していて、それが自身の行動や活動そのものになっているのだろうが、自らの反応や対応をいちいち意識しているわけではなく、意識せずに反応したり対応している場合もほとんどかも知れず、それが取り立てて何を意味するわけでもないが、意識が自らの反応や対応を感じ取れない時には無意識に反応したり対応していて、それをいちいち意識していたらきりがなく、そこまで意識するような精神構造にはなっていないわけだが、では意識が何に反応したり対応するのかといえば、例えば身の危険を感じたり自らに害を及ぼす何かに遭遇したりすればそれに反応するだろうし、しかるべき対応をして危険な目に遭うのを避けて害を及ぼされるのを防ごうとするはずだが、そういった反応や対応ではなく、自分の方から何かを積極的に仕掛けるとなると、それが何に反応して何に対応しているのかがわかっていなかったりするのかも知れず、何だかわからないがそうしておいた方がいいような気がして、実際に何かをやってみると思いもしないところから反応があったりすれば、反応させようとして何を仕掛けたわけではないにしても、結果的にはそんな反応を得たいがために仕掛けたような気がして、それが勘違いや思い過ごしであれば、気づいていないことが他にありそうだが、それに気づかなくてもどうということはない場合もあるだろうし、とりあえず気づいたことには反応したり対応できる限りで対応することになるだろうが、それにも限度や限界があり、何に気づいて何に気づかないかを意識がその全てを把握できるわけでもなく、確かに何かに反応したりしなかったり対応したりしなかったりしているのかも知れないが、それがよくわからないことには違いなく、意識が感じている世界と実際の世界との間でそれなりにずれが生じているのも確からしいが、そのずれを修正したくても意識して修正できるわけでもなく、外部からもたらされる何らかの出来事をきっかけとして後から思い知ることもあるだろうが、思い知ったところで自らの都合の良いようには思い知らず、勘違いしているままになっていてもどうということもなければ、そのまま世界の現状からずれた意識となってしまうのかも知れないが、世界の現状の全てに意識を合わせられるわけもないだろうし、現状も地域や国によって異なっていて、人によってもかかわっている物事によっても現状が変わってくるから、一概に現状からずれているといえるわけでもないし、意識も世界の一部であり世界に含まれるから、ずれているわけでもないのかも知れず、どちらとも言えないような面もあるかも知れないが、情勢や状況の変化にうまく反応して対応できたように思われると、世界の現状と意識がうまく同期しているような気がするかも知れないが、たまたまそういう面ではうまくいっただけで、それが全ての面で同期しているわけでもないのかも知れず、同期しているからといってうまく行くわけでもなく、ずれていたり勘違いしていてもうまくいくかも知れないし、思っていることと実際の行動や行為がずれている場合もあるだろうし、意識が自らの行動や行為をそのままの状態で把握しているわけでもなく、絶えず都合の良いように捉えていて、うまくいっているように思われても実際には違っているとしたら、それが思い違いや勘違いとなってしまうわけだが、それでも結果が自らにとって都合が良ければそれでもかまわないわけで、必ずしもうまくいっているわけでもないのに、都合の良い結果がもたらされてしまえば、結果オーライだと思われるだろうし、終わり良ければ全て良しといえるわけでもないが、余裕がなければそう思いたくなってしまい、それが勘違いとなってその後の情勢の中で悪影響を及ぼしてうまくいかない成り行きをもたらしてしまうとしても、その場では都合が良かったわけだから反省するわけでもなく、調子に乗ってさらに無謀な行為に及んで痛い目に遭ってしまえば、そうなってから反省するのだろうが、そうなるわけでもなければ特に何事もなくその場が収まってしまうかも知れないし、現状と意識がずれているからといって必ずうまく行かなくなるわけでもないはずだが、もちろん必ずうまく行くわけでもなく、うまくいったりいかなかったりするのだろうが、それと意識のずれがかかわるとも限らず、現状と意識がずれた人がずれたままでもそれなりに生きていけるような状況となっていれば、その人にとっては都合が良いわけだが、現状と意識がずれている方が都合が良いということが、状況の変化にうまく反応して対応できることと関係があるのかといえば、ずれているからうまく反応できて対応できるとすれば、その場の状況に染まりすぎている人はうまく変化に反応できず対応できないことにもなり、そういう面ではその場の状況と意識が合いすぎるのもかえってまずいことにもなるだろうから、適度にずれていた方がいいのかも知れないが、意識してずらそうとしても勘違いになってしまうかも知れないし、そういうところでは意識ではどうにもできない面があれば、勘に頼ったり無意識の反応や対応に期待するしかないだろうが、そんなところまで意識して考える必要もないのかも知れず、なるようにしかならないと突き放しておいてもかまわないだろうし、何かの加減で自分にとって都合の良い状況になればなったで幸運だと思うしかないが、都合の悪い状況の中で悪戦苦闘していれば、悪戦苦闘できるだけでも運が良いと思っておいた方がいいのかも知れず、何もできずにただ座して死を待つだけではない限りは何かしらやっているわけで、そういう意味では絶えず状況を自身にとって都合の良いように捉えながら、それに応じた反応や対応になっていると思い込めれば、それなりに直面している事態と格闘しているつもりになれるだろうし、それが生きていることでもあり、生きていること自体が状況に反応して対応しながら生きていることにもなるだろうが、どこまで反応して対応しているかがよくわからず、何から何まで全てに反応しなくても対応しなくてもかまわないだろうし、どこまで反応して対応するかでその人の生きている内容や質も変わってくるかも知れないが、結果的に生きていれば反応したり対応している水準がその人の程度にもなってきて、それが何の程度なのかといえば、知性の程度であったり能力の程度であったりするのだろうが、そういう知性や能力に合った立場や身分や境遇がその人にもたらされていれば、自身が状況に適合しているような気になれるかも知れないし、立場や身分や境遇などに不満があるなら、分相応になっていないと思うだろうが、それが分不相応な思い上がりであったりすれば、勘違いな思いを抱いているわけだろうが、その人にはそれがわからないかも知れないし、何かのきっかけから自らの思い上がりを悟る機会を得られたら反省するかも知れないが、それが死ぬまで気づかないようならそのまま勘違いが治らないままとなってしまうかも知れないし、別に勘違いが治らなくてもかまわなければ、自分はこんなところに埋もれている人間じゃないと思いながら生きていけばいいのかも知れないが、実際にそう思っている人もいくらでもいて、そう思っている人がいくらでもいるから世の中に不満が渦巻いていて、そうした不満を糾合して政治活動に利用している人や団体もいくらでもいて、そこから世間への批判が生じてくるだろうし、実際に批判のネタになる物事をかき集めて批判の材料として利用するわけだが、それが現状への反応であり対応となるにしても、それだけでは現状を変えられないだろうし、変えるには何が必要かといっても批判のネタになる物事にはその材料が見当たらなければ、それらとは別の物事の中から現状を変化させる材料を探し出さなければならないかも知れないが、それがそれらの批判者たちにとって都合の良い材料とはならない可能性もあるのかも知れない。


8月21日「科学と宗教」

 どうということはないことにこだわっていることがひどいことが平然とおこなわれている世の中で何とか正気を保っている秘訣になるわけでもないだろうが、正気の沙汰でないことが実際におこなわれているのだから、それに関してどう述べてもそれへの批判に結びついてしまい、そういった批判から目を背けるには格好の方便となるのが科学技術の進歩に関する宗教的なイデオロギーであり、科学技術の進歩によって人類が直面している問題を解決できるかのように思ってしまうことが、現代の宗教である科学技術信仰がもたらす救いとなるのは誰もが承知していることかも知れないが、その一方で科学技術の進歩が世界の破滅をもたらすというも宗教的なイデオロギーの一種でもあり、そうやって何とかして科学技術の進歩を宗教的なイデオロギーに結びつけることで、世の中の現状を受け入れると共に科学を終末論的な物語にも取り込んで、人類の歴史の連続性を確保するという昔ながらの物語的な伝統も維持したいのだろうが、科学と宗教が表裏一体のものであることは宗教裁判や魔女狩りの昔からわかっていたことだろうが、日本にも幸福の科学という宗教団体があるし、ユダヤ教の聖地を奪い取ろうとしているイスラエルが頼みの綱としているのが軍事技術という科学技術や産業技術であるのは見ての通りだろうが、欧米に対抗して民主主義を否定する中国やロシアも科学技術や産業技術に頼っているし、科学技術や産業技術によって現代文明そのものが成り立っているのも明らかなことだが、なぜ科学に宗教の入り込む余地があるかといえば、科学によって奇跡を起こしたり未来への夢を煽り立てるという効果をもたらすのが宗教の得意分野でもあるわけで、それに関しては宗教の代わりに科学があると思いたいし、物理学や数学などの理論的な裏付けがあることが科学と宗教との違いを際立たせる要因ともいえるだろうが、より確実なことがいえて必然的な結果をもたらすのが科学であり、それに対して常に迷信の疑いにつきまとわれるのが宗教であり、宗教を疑い科学に信頼を寄せるのが合理的な態度であるようにも思われるが、そう思わせるような合理性が科学にあるかというと、例えばタリバンのように宗教の不合理な教義に人々を従わせるために軍事技術を脅しとして使っている事例もあるし、嘘を真実であるかのように見せかけるために映像や音声を合成する産業技術が使われることもあるし、そうやって人を強制的に従わせたり騙すために科学技術が使われて、それ以外にも人を信用させる面で科学は宗教にとって利用可能なアイテムとなり、オウム真理教のように産業技術を使って特定の宗教を世の中に広めようとした事例もあるから、科学と宗教は親和性が高く、宗教以外でも現代のほとんどの分野で科学技術が使われている実態があるだろうし、親和性が低い分野などありはしないのかも知れないが、科学の合理性を疑うのではなく、科学の合理性を利用しておこなっていることの合理性を高められるかというと、目的を遂行するために科学を利用するのであり、合理性云々ではなく、不合理や非合理的なことをごり押しするのにも科学が利用される実態があり、科学と宗教とが合体して不合理なことや非合理なことを合理的なことだと思わせるような効果が生じるのかも知れず、そういった効果を利用して洗脳や煽動や宣伝の類いをやっている人や団体がどのような情念にとらわれているかは、誰もがわかっていることかも知れないが、そうした情念を隠すためにも、本質的な問題から目を背けてどうでもいいようなことにこだわるようにメディアを利用した宣伝攻勢を仕掛けているとは思えないだろうが、宗教が目指しているのとは違うところで科学が利用されているのではなく、科学の合理性を利用して新たな宗教を創造したいと思っているわけではなくても、自然と情念がそういう傾向に傾いていくわけで、日本でタリバンと同じようことをやりたい勢力などいないはずだが、目指している方向は自ずから一致していくわけで、それを科学ファシズムと呼んでもピンとこないが、テクノラートと呼ばれる人々が宗教として科学を信仰しているのは世界中でありふれた傾向なのかも知れないし、それらの人々が何を目指しているのかといっても、科学の進歩と文明と自然の調和を目指しているとでも言っておけば、差し障りのない表現となってしまうだろうが、自然とそういう傾向になってしまうのならそれが自然の成り行きでもあり、そういう成り行きにまかせて不合理で非合理なことをやりたいのなら、それもそういう成り行きになってしまう傾向があるわけで、そういう傾向にとらわれている人たちを批判するわけにもいかないだろうし、それはそれとしてそういう傾向にとらわれてしまうのも運命だと思ってあきらめればいいのかも知れないが、そういう人たちがあきらめるわけでもなく、執拗にそういった傾向を突き詰めようとしてしまうのだろうが、突き詰めた先に何があるかといっても何かがあるにしてもそれを突き詰めてみなければわからないかも知れないが、それを突き詰めようと思っているわけでもないだろうし、突き詰めようと思わなくても突き詰めようとして、それを突き詰めようとしていることにも気づいていないのかも知れず、それと気づかずに制度やシステムが求めている行為を忠実になぞってしまうのが、テクノファシズムにとらわれてしまう人のありふれた行動パターンとなるだろうが、そうなってしまう人がある程度はいないと世の中が回っていかないとは誰も思っていないだろうが、実際に多くの人がそうなっている現状の中で、静かにテクノファシズムが進行してゆき、民主主義とは無縁の風土を作り上げていくのかも知れないが、別にその種のテクノファシズムに逆らって民主主義を擁護すべきと言うことではなく、擁護するとか逆らうとかいうことよりも、単純に余裕がないということであり、民主主義程度のことでさえ認められないようなら、他の何も認められないような状況となるかというとそうでもないが、何かを認めたり認められなくなってしまうとは思わないわけで、ただ特定のジャンルの中に執拗に留まろうとしてしまうことが、結果的に他の何かを頑なに拒否する姿勢をとらせて、しかも拒否する姿勢が人格の薄っぺらさを際立たせているように思われるかというと、そういう方面では人格など必要ではなく、ロボットとして機能すればそれで済んでしまうようなことかも知れないが、そういうロボットたちが何を思っているかといっても何も何とも思っているわけでもないのかも知れないし、ロボット的な動作をする人に気を遣うこと自体が馬鹿げたことかも知れないが、自身が人間だと思っているかどうかは定かでないが、そこに不自然さが醸し出されていることを自覚しているかどうかが気になるところでもあり、ロボットが自身を人間だと思っているかどうかが不自然なのではなく、現実の不自然さに関して感性が欠如しているような印象が拭えないということでもないが、それを否定するのでも批判するのでもないし、何とかして救出するまでもないことかも知れないし、放っておくのがちょうど良い距離の取り方かも知れないが、立場上は無関係でしかなく、深入りしないことが肝要だが、それらのテクノラートによるテクノファシズムの猛威によって世界がどうなるわけでもないだろうし、むしろテクノロジーにはテクノラートもテクノファシズムもついてきて、それらは機械の部品だと捉えておいてもかまわないわけだが、機械の部品と対話を試みるような試練が訪れることも今後ともないだろうし、無視しておいてもかまわないことであり、気が向いたら何かのついでに言及しておく程度で済ませておくに限るだろうが、たぶんテクノラートが無視する民主主義という概念でさえ、無視してもかまわないようなことかも知れないし、全体から見れば枝葉末節などうでもいいことにすぎないのかも知れないが、では何を重要視すればいいのかというと、自然の成り行きに逆らったり従ったりするようなことはできず、その成り行きにとらわれながら行動していることを自覚すべきなのかも知れないが、それも気のせいにすぎないことかも知れない。


8月20日「劣化する期待」

 たとえ後先短い老人であっても、誰でも将来に関して漠然とした不安を覚えているだろうが、この先どんな運命が待ち構えていようと、自らの運命を自らの力で変えようとして、それが悪あがきと見えても、変えようとしても変えられない運命であっても、自らが主体的に行動することによって何かしら好感触を得られて、何とかして満足できる結果や成果を得られたような気分になりたいのかも知れず、だから日々精進や努力を怠らないように心がけているわけでもないとしても、少しでも自らが取り組んでいることを前進させたいだろうし、前進できずに停滞が思いのほか長引いてしまえば気が滅入ってしまうだろうが、自らが何に取り組んでいるのかが明らかになるには、何か確固とした目標や目的があればいいのかも知れないが、果たしてそれがないということがあり得るのかというと、普通はあり得ないと思いたいだろうが、意外と何もないところから日々の取り組みが開始されて、当初は何の目標も目的もないのに、ただ漠然と何かに取り組んでいるような気になっていれば、自らの与り知らないところから何らかの反応がもたらされるかも知れず、はじめからそれを期待しているわけではないだろうが、期待とは期待していないようなところで思いがけないことが起こるのを期待しているというと、またずいぶん回りくどい期待となってしまうが、期待通りには期待がもたらされないところに思い違いがあるのかも知れないし、何も期待していないというと嘘になってしまうから、何かしら期待しているように装いながらも、相変わらず何を期待しているのかは定かでないものの、そんな期待と自らの期待とは一見何の関係もないように感じられるだろうが、自らとは関係のないところで関係のない人たちの期待に応えているわけでもないだろうし、そういうことが起こる確率がほぼゼロになるようなことを期待しているというと、いったい何を期待しているのかよくわからなくなってくるかも知れないが、もしかしたらと思いながらも、実際にそんなことが起こらないことを確認するための作業に日々取り組んでいるとは思っていないだろうが、取り組んでいるのは案外そういうことなのかも知れず、そんなことが起こるはずがないと思いながらも起こることを期待しているのだから、日々を期待と落胆と共に過ごしていて、そこで気づくのは期待の中には他者はいないが、落胆の中には落胆をもたらす他者がいて、思い通りのことをやらせないように他者が自らの行為の邪魔をしてくるようだと、思い通りのことをやるには他者の存在が邪魔になるだろうが、逆に他者の協力なくして思い通りのことができなければ、他者に対して協力をお願いするしかなく、お願いしていること自体が思い通りにはならないことでもあり、他者の協力を得られなければ落胆するしかないだろうが、仮に協力を得られたとしても思い通りのことができるとは限らず、絶えず他者からの口出しや介入にさらされてなかなか思い通りのことができなくなってしまえば、落胆するよりは苛立つかも知れないし、それによって年がら年中口論や衝突が絶えないようなことにもなってしまうかも知れないが、そういうことを介してしか物事が進まなければ、思い通りにならない他者と交渉しながら物事を進めるしかなくなってしまうわけで、そうやって物事が進むようならそれなりに話の通じる相手との間で協力関係が構築されていることになるだろうが、中には話の通じない相手もいて、話の通じない相手との間で何か一触即発のような深刻な問題を抱えていれば、それだけ危険を伴うような面倒なことにもなるだろうが、面倒な事態を回避するには有無を言わせず従わざるを得なくなる強制的な制度やシステムが必要となり、そういった制度やシステムに従っている限りで、事がスムーズに運ぶようなことになればいいわけだろうが、そんな制度やシステムの実現を期待するとなると、やはり期待外れに終わるかも知れず、大抵の場合は制度やシステムに従うこと自体が思い通りにはならないことであり、強制力が働くと圧迫感や不快感を伴うわけだが、では何を期待しているのかというと都合の良いところだけ制度やシステムを利用したいわけで、全てにおいて制度やシステムに縛られていると息苦しく不快感が募ってきて、そうした束縛からは一刻も早く解放されたくなるだろうが、自らが取り組んでいることの結果や成果を求めるなら制度やシステムに助けてもらいたいだろうし、そのためにはある程度は不自由な束縛にも耐えなければならず、それと引き替えにしてでも思うような結果や成果を得たいとなれば、そういうところで妥協が成り立つかも知れないが、妥協していることからして、それだけ当初の期待も劣化していて、思い通りにはいかない面も認めざるを得ないし、そうやって納得できるような結果や成果を得られるなら、それだけ世渡りがうまくなったことにもなるだろうが、当初に抱いていた期待自体も是が非でもその通りのことを実現させたいということでもなく、できればそうなればいい程度のことであれば割と軽く予定を変更できて、大してストレスを感じないことにもなるだろうし、しかも利用したい制度やシステムにしてもそれほど拘束力や強制力も伴わないようなものなら気軽に利用できて、大した結果や成果も得られないかも知れないが、それなりに自己満足を得られるようならそれでかまわないようなことにもなれば、そういうものだと割り切って利用することにもなるだろうし、深刻な事態を避けるには気休め程度の結果や成果を得られるような制度やシステムになればいいのだろうが、なぜ人が深刻な事態に陥ってしまうのかといえば、それを命がけで行うような成り行きになってしまうからであり、では命がけで行うような成り行きを避けるにはどうしたらいいかといえば、気休め程度の制度やシステムで間に合うようなことをやっていられるなら命がけとはならないはずだが、そういった制度やシステムの中で活動の全てが収まるのかといえば、そうなるように制度やシステムを構築したいのかも知れないが、世の中の全てがそうなるわけでもなく、娯楽などの方面では確かにそういった傾向に収まるような配慮がされているはずだが、現状では一部ではそれが実現するとしてもそれが世の中の全ての方面には波及しがたいだろうし、なぜ波及しないのかといえば、実際に命がけでやらなければならないことがあるからだろうが、それが何かといっても同じ行為でも程度の違いがあり、それへのかかわり方次第で命がけにもなり気休め程度で済むようにもなり、命がけでかかわるようなことをやっている人にとっては危険で深刻な行為や行動をおこなっているだろうが、気休めや気晴らし程度で済んでいる人にとっては遊び半分でやっていることにもなり、どちらの人にとっても相手の立場になることなどできはしないかも知れないが、相手の立場を尊重できれば自らの立場を無理に正当化しなくてもかまわないだろうし、どちらでもかまわないというわけでもないが、状況次第でどちらになる可能性もあり、命がけでやっている人のとなりに遊び半分でやっている人が競争相手として登場するのは理不尽なことかも知れないし、漫画でもない限りはそうはならないだろうが、どちらかといえば劣化した期待を抱いているのは遊び半分でやっている人の方かも知れないし、それだけ余裕があることにもなり、うまくいったような結果や成果など得られなくても余裕綽々でいられて、いつやっていることをやめても大した痛手も被らなければ、それだけ重大な決意や大げさな使命感とも無縁でいられるかも知れないが、たぶんそういうところで人と人の間に格差が生じていて、そうした格差をなくすことが制度やシステムには求められているのかも知れず、その求めに応じて格差をなくすような取り組みがおこなわれているかというと、実際にはそうでないばかりか、むしろ格差を広げるように制度やシステムが構築されている可能性すらあるのかも知れない。


8月19日「国民国家幻想」

 古いものが新しいものに入れ替わり、新陳代謝が加速している領域では何かこれまでにないことが起こっているのかも知れないが、間違ったことがおこなわれているかというとそうでもないと共にそうでもあり、ある面では正しいが別の面では間違ったことがおこなわれている可能性もあるが、それが正しいとか間違っているとか判断する以前に、その場の状況に応じてそうなっている場合がほとんどであり、ある一定の状況下ではその場でおこなえることを状況が制限したり決定しているのであり、その場の状況や情勢に合うようなことしかおこなえないのも当然であり、その場の状況や情勢がおこなえることを条件付けていて、その場の条件を満たすことがその場ではおこなわれていると言えるだろうが、果たしてその場の条件を誰が決めるのかというと、誰も決められないのかも知れず、誰が決めるのではなく、その場でおこなわれたことが決めるわけで、おこなえることがおこなわれたことに制約を受けていて、それがくびきとなっておこなえることを限定してしまうわけだが、それに関して例えばアフガニスタンのタリバンが何に支配されているのかと言えば、イスラム教であると同時に欧米の国民国家幻想に支配されていて、アフガニスタンにはアフガニスタンの実情に合った統治の仕方があると思っているなら、それが欧米の国民国家幻想でもあるわけだが、ならば繁栄を誇ったかつてのイスラム帝国の統治がイスラム教に特有の統治だったのかと言えば、そうでもあるがそうでもないわけで、それ以前にも以降にもある古い帝国的な統治の伝統をイスラム帝国もその後のモンゴル帝国なども引き継いだわけだが、そういう統治が実際におこなわれたからそれがその当時の統治の条件となったのだろうし、それが現代では国民国家的な統治形態へと変貌しているわけで、何とかして欧米に対抗するためにイスラム教を持ち出しているのは、他の欧米以外の国々でもおこなわれていることでもあり、それはイランでも同様におこなわれていることでもあり、日本でも神道系の人たちがその種の信仰に支配されていて、またイスラエルではユダヤ教の原理主義者もいるだろうし、欧米の中でもアメリカではキリスト教の原理主義者もいるわけで、さらにはナチスドイツがゲルマン民族を持ち出したように、またナポレオンがローマ帝国の意匠を持ち出して皇帝となったように、何とかして民主主義を回避したいわけだが、なぜそうしたいのかと言えば、民主主義では自分たちの思うような国家統治ができないからで、妥協的なやり方としては政党を作って議会で永続的な多数派を構成して、民主主義を形骸化させてしまうやり方もあるわけだが、政権交代を阻止するにはそれでは不十分だろうし、自分たちが理想とする国家統治をおこなうには自分たちの主導権が失われやすい統治形態ではまずいわけで、だから民主主義以外の統治形態にしなければならないわけだが、そうなると国民の意見や意向を統治に反映させるのではなく、国民はあくまでも指導する対象であり、国民を指導しながら理想の国家を実現しようとするわけだから、それ自体が学校の教師の発想であり国家官僚の発想でもあり、国家主義にとらわれていることの証しとなるだろうし、そういう意味では中国などと似ているわけだが、そういう発想がどこから来ているのかというと、欧米の絶対主義王制下で産業の発達と共に国家の官僚制も発達して、そこで学校の教師や官僚たちの間で盛んに理想の国家統治に関して議論が交わされた時代からきているのだろうが、なぜそこから欧米では民主主義へと向かい、中国やアフガニスタンなどでは国家主義へと向かうかと言えば、その後に欧米の支配に屈した歴史があるわけで、そういうところで欧米への反発と共に、欧米の民主主義とは利害が一致しないが、国家主義とは利害が一致して、官僚主義から発達した学校制度を国家全体に拡げるなら、国民全てが学校の生徒であり教師の立場である自分たちが生徒の立場である国民を指導しながら自分たちの理想とする国家を作り上げるという目的や目標が生じてくるわけだが、そうなると管理が強い学校でおこなわれることが国家全体でおこなわれることにもなり、特定の服装や髪型の強要や教師による生徒への体罰などが日常的におこなわれることになるわけで、それがタリバンの国家統治の特徴となるわけだが、タリバンの幹部たちが自分たちの心身が欧米の学校制度に支配されていることに気づいているわけもないだろうし、あくまでも自分たちが信じているつもりのイスラム法の類いに厳格に従っていると思っているのだろうが、それが同時に欧米の国民国家幻想がもたらしていることでもあるのがタリバン以外の人たちには滑稽に見えるわけでもないし、いくら民主主義を頑なに拒否しても欧米の思うつぼだとは欧米人すらも思っていないだろうが、それを単なる支配欲の正当化だと単純化することもできないだろうし、何かこんがらがってもつれ合いながらも絡みついてくるような執拗さがあるわけで、これからアフガニスタンで国家的な規模で学級崩壊現象が起ころうとも、そんなことは枝葉末節なことでもあり、本質的なところで国民国家幻想から離脱しないと国家主義の呪縛からも解放されないし、国家という狭いくくりの中でやりくりすることが無理であることにも気づけないわけだが、しかも無理を押し通すことによって国家が国家として保たれているような幻想も伴うわけだから、その行き着く先が北朝鮮のような状態であるのも可能性としてはあり得るだろうが、今さら富国強兵的な成り行きには中国やロシア以外はなり得ないものの、国家統治の実態として世界的に欠陥が露呈していて、なぜそうなってしまうかというと産業の発達によってもたらされた富の偏りだけではなく、統治機関である政府に集中している権限や権力に対して国民が逆らえない実態もあり、しかも逆らってしまったら無政府状態になるかというと、それへの妥協策として民主主義があるといっても、不正行為が絶えない状況になってしまうし、どうやってもうまくはいかないのかも知れないが、これからも世界中でうまくいかない状態が慢性化するとしても、民衆の意向としては民主主義が実現してほしいと思うだろうが、国家主義と支配欲にいかれた少数の有力者たちや政治勢力や武装勢力などが国家の支配を目指して強引なことをやる成り行きにもなるわけだが、それらのせめぎ合いの結果として世界の現状がもたらされているわけだから、可能性としてはそれなりにうまくいく機会も巡ってくるかも知れないし、そういった機会を捉えて行政機構としての政府の力を弱められれば、それだけ国民への支配欲も減退するかも知れないし、それと共に現行の政府から主導権の奪還を目指す武装勢力などが台頭してくるとまずいわけだが、少なくとも武力で政権を奪還するのではなく民主的な選挙で政権交代を目指すような成り行きになれば平和が保たれるわけだが、そうなるのもその国や地域の情勢に左右されるだろうし、長期的な独裁体制が確立されてしまうと平和な状態で政権の交替ができなくなってしまい、そうなれば武装闘争の可能性が高まるわけで、そうならないためにも適度な期間の中で政権交代がおこなわれることが望ましいとしても、実際に選挙などに関心がなくなってしまうし、国民に対して大した権力も行使できないような政府の代表者に誰がなってもかまわないような状況となってしまえば、別に政権交代が起こっても起こらなくてもどちらでもかまわない状態となってしまうわけだが、そういう状態がもたらされていることが支配とは異なる状態でもあるわけで、そういう何でもないような政権交代が頻繁に起こるような状況がもたらされると、民主主義が実現していることにもなるだろうが、そういう状態を国家主義に心身を支配された人たちが容認できるかというとそうではないのかも知れないし、何かもっと実質を伴うような権力の行使がしたいわけで、自分たちの力で国を立て直すような大げさなことがやりたいだろうし、それを目指して手段を選ばないような行動をとるように仕向けられているのではないか。


8月18日「システムの不可能性」

 うまくいかないシステムにはうまくいかないなりの理由や原因があり、それを突き止めてうまくいくようにすればいいということになるだろうが、それができないからうまくいかないとなると、うまくいかないなりにもシステムを継続させることが肝要かも知れないが、無理に継続させる必要もなく、継続できなければやめてしまえばいいわけだが、やり始めてからやめるまでの期間が相対的に長ければ、その間はうまくいっていることになるのかも知れず、それがシステムとして働いている間は、たとえうまくいかない面があってもそれなりに機能していて、機能している面ではうまくいっていることになるが、それに伴って深刻な弊害がもたらされるようならシステムをやめる理由となるだろうし、実際に自動車の内燃機関のようにやめさせようとしているシステムもあるわけだが、本当にやめさせることができるかどうかは現状では何とも言えないところだろうが、かつては蒸気機関が全盛だった時代もあったわけだから、効率やコスト面で折り合いがつくようなら実際にやめさせることができるかも知れないが、それと共に環境負荷という面で説得力を伴っていれば政治的な思惑も介在してきて、何かそういうコンセンサスを世界的に広めようとして、それがうまくいくかどうかは今後の成り行き次第だろうが、もうすでにそういう成り行きに乗って関連する様々なシステムも動いていて、次第に織り込み済みになっていくだろうし、それが途中で折れ曲がってしまったら事件になるが、何事もなく円滑に事が運ぶとは思えなければ事件が起こることに期待してしまうわけで、そんな期待を抱くことが山師や詐欺師の勘でもあり、システムからはみ出て何をやろうとしてもアウトローになるだけだが、ならず者の所業になってしまうとしても、そこから世間で期待されているものとは違う何かが出てくることもあるわけで、今後十年以内にあっと驚くどんでん返しが起これば世界が混乱するかも知れないが、そんなことには関わりなく別のシステムも働いていて、それが人の心をとらえて放さないような魅力を備えているのであり、システムに従って動作する物事や人がシステムそのものでもあるわけだが、そのシステムが例えば量子コンピューターや核融合発電であるはずもなく、そういった部分的なシステムとは無関係かも知れず、もっと大規模で捉えにくいシステムであり、人為的に設計されたものでもないとすれば、普通はシステムとは呼ばない何かかも知れないが、実際に魅力的な何かに向かって人が流れていて、それが電子の流れのように電位差に従って流れていればわかりやすいが、人が流れていく先に何があるかといっても、何もないと言ってしまうと嘘になるだろうし、確かに何かがあるわけだが、それをあからさまに金銭的な富や行動の自由などと指し示すわけには行かないのかも知れず、求めても求められないから求めることを断念できるかというとそうでもないし、実際にそれらを求めて人が動いているのだから、その動きを止めることができても一時的に止まってしまうだけで、その人を止めても別の人が動き出すから、全体として人の流れを止めたことにはならず、止めようとしている人や集団もそれらに向かって動いているわけで、他の人を止めておいて自分たちが求めているものを独占しようとしているなら、やっていることの辻褄が合わなくなって、行為や行動が欺瞞や偽善にまみれてしまうわけだが、そんなことなど知ったことではないとなれば、我先に求めるものへ向かってしまうのだろうが、果たして向かっていく先に求めるものがあるとは限らないとなると、実際には何もないことを認めるわけにはいかないから、そこに何かがあることを信じて疑わない素振りを見せるだろうが、いつまでもそんな素振りを演じているわけにもいかないだろうし、それが嘘だったと認めざるを得ないような時期にさしかかっているのかも知れないが、実際にそれ相応の金銭的な富や行動の自由を得ているように見える人もいくらでもいて、そう見える人たちに引き寄せられるように向かっている先があり、それを空疎な中心として渦巻いている世界の中で人や物や情報が行き交っているのだろうが、そうした世界を動かしているシステムの全体を人の意識では把握することができないとしても、部分的には把握しているつもりになれるから、それに関して何か語るような機会を得て、誰かがどこかでそれについて何やらそれなりに納得できるようなことを語っているのかも知れないが、それだけでは不十分なのかも知れず、それをシステムと捉えるのではなく、絶えずシステム化を目指す動きと捉えるしかないとしても、少なくともシステムとしてはうまく作動していないわけで、うまく作動しないことを利用して山師や詐欺師などが暗躍しているわけだが、システムが破綻している箇所から金銭的な富や人材が常時漏れ出ていて、漏れ出た富や人材を利用してシステムを破壊する活動もおこなわれていて、それがテロ攻撃の類いとなるのだろうが、そんな行為も含めてシステムが動作しているとも言えるわけだが、表面的にはそうであっても、システム化の動きが目指すところはそれらとは全く違う次元でもあり、それがともすればSFチックな妄想をもたらすとしても、意外と日常の次元で作動することを目指していて、絶えず決まり切った動作に収斂するように人の行動を規制しているわけで、それがどこかの国の大統領が思い描いているような国家間競争といった大げさな妄想に行き着くとは思えないが、それとこれとがかけ離れていることが肝要なのかも知れず、何かシステムとして動作させようとする意志から逸脱するような動きが人や集団の方からもたらされないと、それに抗ってシステムを構築する成り行きにはならないわけで、絶えず反発を招いていないとシステムの体をなさないようなこととなり、全ての人や物や情報がシステムに従ってしまうと困るような構造を伴っていて、それに従わない人や物や情報が出てくるからシステム化の動作として従わせる動きが生じてくれば、結果的にシステムが動作していることになるわけだが、そうなるとシステムを動作させるにはシステムに従わなかったりシステムを破壊しようとする人や集団が必要となってきてしまい、システムには絶えずシステムの動作が及ばない領域が必要となり、そうした領域を侵略してシステムに従わせることがシステムの動作そのものでもあり、そうした領域を形成する国や地域と競争関係になっていることがシステムの動作には欠かせない状況でもあるわけで、それがシステムがうまく動作しない理由でもあって、うまく動作しない領域があるから、そうした領域を侵略してシステムに従わせようとするわけだから、侵略する行為としてまず思いつくのが戦争だろうが、戦争ではうまくいかなければ競争となるわけで、経済競争という穏便な呼び方をすれば納得させることができるかも知れないが、実際に競争を仕掛けざる得ない状況に追い込まれているとすれば、何がそうさせているのかと言えば、実際に人々が金銭的な富や行動の自由を求めて向かう先の事情がそうさせているわけで、システムを維持するにはそういう人の流れが必要でありそれを利用することによってシステムが動作しているとしても、実際には人の流れを制限して規制しないとシステム自体が破綻してしまうわけで、システムを破綻させないためには人が動かずにその地域の中で金銭的な富や行動の自由を実現してほしいわけだが、実現できるかというとうまく行かない場合が多いから、人がそこから移動して向かう先に金銭的な富や行動の自由が得られると思ってしまうのだろうが、結局は移動してきた先でもそんなものに与れるのはごくわずかであり、誰もが平等に得られるわけではなく、ただ得るための競争に参加する自由があるだけで、参加して競争して勝ち残った者に金銭的な富や行動の自由がもたらされて、中にはその両方を使って宇宙にまで到達した人もいるだろうが、それが何になるかというと、システムがそういった方面で正常に動作していることを裏付けているのかも知れない。


8月17日「気づくべきこと」

 日々を平穏無事に過ごしていることが平和な状況の中にいる証しとなっているはずだが、それだけではどうにもならないこともあるらしく、世の中が平和であっても仕方がないような成り行きが待ち構えていて、そんな成り行きに現実に巻き込まれているのか、あるいは自ら進んで作り出してしまうのかは、どちらでもありどちらとも言えないようなことでもあり、どちらにしても平和な世の中を満喫している余裕がなくなって、それ相応に動揺してしまうのだろうが、そんなことはどうでもいいとは言えないだろうし、それなりに心身にダメージを被っているはずなのだが、その全てを感じ取るのは不可能であり、そこで部分的に世の中の情勢を感じ取っているとしても、自らがそれをどうすることもできなければ、しかもどうすることもできなくても構わないような状況であれば、自らが直接情勢にかかわっているわけでもなく、メディアを経由してそれを眺めているただの傍観者にすぎないのだろうが、それとは何かといえば人為的に仕掛けられた大がかりなスペクタクルの類いだと思いたいが、ただその場の成り行きに従って起こっていることにすぎず、そこで逃げ場を失って逃げ惑う大勢の人々が待ち受けている運命などにかまっている暇もなく、自身をどうにかしなければならないのかも知れないが、どうにもならないのはお互い様であり、どうにもならない状況の中で何かしら動いているつもりでいるのだろうが、自らが動いても動かない状況があり、しかも自らとは関係なく状況が動いているわけで、だからといってそこにかかわっていないことが判明して落胆するわけでもなく、落胆している暇もないほど急激に事態が悪化しているとも思えないが、それが落胆するようなことでもなく、かえってそうなって良かったと言えるような成り行きだと後から思いたいが、実際には相変わらず何がどうなっているのでもなく、これから何かがどうなるとしても、自らにはかかわりのないことだと思ってしまえば、本当にかかわりがなくなってしまい、実際にも何にかかわっているのでもなくなってしまうはずだが、直接かかわっているのではなく間接的にかかわっていることもあるかも知れないし、それに気づかなくても何かしらかかわっているとしても、そのかかわりに気づかないことが救いとなって、そんなかかわりなど知ったことではなく、しかもそれに不用意に気づいてはならないかかわりでもあり、それに気づこうとせずに実際に気づいていないから、かろうじて心身のバランスが保たれているということもあるが、案外気づいてしまっても何ともないかも知れないし、できれば気づくべきことかも知れないが、気づきたいと思っているわけでもなく、誰もそうは思わないようなところに気づくべき何かがあるとしても、そんなことに気づくはずもないだろうし、それは取り越し苦労の類いかも知れず、まだそれに気づいていないだけで、気づくべき時が来たら気づくようなことでもあり、それがいつになるかは誰にもわからないことかも知れないが、わかれば誰も苦労はしないだろうし、苦労するために気づかないようなこともあるかも知れないが、誰もがそれなりに苦労して何かに気づくわけで、苦労して気づけばそれなりにありがたみを感じ取れるだろうし、それに気づいたところですぐに何がどうなるわけでもないとしても、感じ取れないよりはいくらかマシに思われるようなら、それでもかまわないようなことかも知れず、人それぞれで感じ取っていることも千差万別だろうが、まだそれに気づいていないとすれば、これから何かしら気づいたことがあればそれが気づくべきことだったと思っておいてもかまわないだろうし、感じ取ったことが気づくべきことだとは思えなければ、そこからさらに何かを感じ取る機会が巡ってくるかも知れず、しかもそれがあらかじめ感じ取るように用意されているとは思えないだろうが、偶然にそれに巡り会えば、巡り会った先でそれに気づくかも知れないとしても、そこでもそれが何だかわからない場合もあるだろうし、巡り会っていることにも気づかずに、そこを通り過ぎてしまえば、二度と巡り会う機会もやってこないかも知れないし、そうなった方が面倒なことにならずかえって都合が良いかも知れないが、自分にとっては都合が良くても、都合が良いままではそこから何の進展もなければ、都合が悪い方がその都合の悪い状況を利用して自らが変われるチャンスをつかみ取れるかも知れないし、そういう意味では都合が良いだけでは何のメリットもない可能性もあり、それでかまわないと思う状況が自らにとっては都合が良いと同時に都合の良さにとらわれてしまうことでもあり、そうやってそれ以上は何の可能性もない状況の中で自足して自分で自分に満足していれば、都合が良い以外には何の取り柄もないことになってしまい、他から見ればつまらない人になってしまうのかも知れないが、その人にとってはそういう状態に満足しているのだから幸せなことでもあり、そうではなく、自らの不幸をバネにしてそれまでの自分とは違う何者かになろうとしている人からすれば、都合が良い状態とはそうなっては困る状態でもあるから、何か他に目標があってそれを目指すという野望があれば、自ら進んで都合の悪い状況を引き受けるだろうが、そういった不幸な状況も邪な野望と結びついて何やら悪さをする動機とはなるものの、そうなっては困るような都合の悪さではなく、自らの都合とは関係のない何かに巡り会うことが自らを変えるきっかけになるわけで、そこで何に巡り会ったことにも気づかずにその場を通り過ぎてしまうとしても、それが自身には何の関わり合いもないことであろうとなかろうと、気づかないところから変わっていく可能性もあり、それが気づくべきことであるのに気づかないということが、すでに取り返しのつかない経験となって、都合の良い状況を蝕んでいて、そこから次第に状況が悪化して行って都合の良い状況ではなくなっていくわけで、それと共に不条理感も伴ってくるかも知れないが、そういう変化を求めているわけでもないのは、誰にとっても当たり前にそう思われることでもあり、普段はそんなことは気にも留めていないのだろうが、実際にそうなってからそこに至った経緯を振り返ってみると、何か腑に落ちない出来事に巡り会っていたことに気づけば、それが事態を暗転させた原因であるように思われてくるとしても、まだその時点では確証が得られずに、それが自らにはかかわりのないことあっても、偶然に遭遇してしまったわけだから、そこで何らの因縁が生じてしまったのかも知れないし、そうした因縁を感じ取れないのも無理はなく、その場では関係ないと思う間もなく通り過ぎてしまい、それ以外にもそんなことよりは遙かにもっともらしく納得できるような原因を特定できるかも知れないし、そういうもっともらしさに気をとられてしまうから、肝心の何かに気づかないわけだろうし、それが肝心だとも思われないから気づかなくても当然だろうが、そんな心理状態も後になって響いてくるかも知れないし、何でもないようなことを見逃してしまったことが致命的な結果を招いてしまったとは考えられず、まだその時点でもそれが致命的な結果だとも思っていないのだろうが、実際に普段はほとんどかかわりのない人に偶然のきっかけからちょっと触れてしまったばかりに、あるいは触れなくてもコロナなどのウイルスに感染して、それが命取りになってしまう人もいるわけだから、そんなことまでいちいち気にしていたらきりがないとしても、気づくべきところで気づいてちょっとした配慮をしていればどうなったかと後から考えても後の祭りだろうが、そういうところでうまく立ち回れなくて悲惨な境遇になってしまう人もそれなりに出てくるわけだが、結果から考えればそれは確率の問題でもあり、そうなるかならないかはその場の運だと思っていれば済んでしまうことでもあるが、運が悪ければ死んでしまうと考えておくだけなく、運を引き寄せるにはどう振る舞えばいいかと考える前に、そうなるきっかけを捉えて行動して運を引き寄せている人も実際にはいるのかも知れない。


8月16日「幻想の感染」

 他から入手した情報を利用して何かもっともらしいことを語ってみせることが、誰にとっても大した意味も意義ももたらさないとしたら、利用した情報が何でもないような情報だったのか、あるいは利用の仕方が大したことでもなかったのかはわからないが、どちらにしても何かを避けているような感触があるのかも知れず、人畜無害で差し障りのないジャンルの中で毒にも薬にもならないことを述べていれば、うまく立ち回っていることになるかも知れないが、できればそうしたいのに結果的には有害であったり有益であるような差し障りのあるジャンルの中で毒にも薬にもなることを述べる羽目に陥って、それに対して不快感を示す誰かのアレルギー反応でも引き起こせれば、何か有意義なことを述べている気になれるかも知れないが、実際に述べている内容はどちらでもなく、ただの無反応をもたらすにすぎないだろうが、それが何になるというよりは、反応を求めているわけでもなく、知り得たこととは違う何かを得たいのかも知れず、確かに他人の情報を利用して商売することが、その人にとっては分をわきまえた行為になるだろうが、そこから知り得たことが他人の情報とは違う何かをもたらしていることに気づくべきかも知れないし、気づかない人はそのままそうした商売に埋もれてそれなりの自己満足を得ながら情報の流通業者の役割にとどまるかも知れないが、誰もがそれに気づく必要はないのかも知れず、気づいた気になっている人もただの幻想にとらわれているだけで、それ自体が何でもないことかも知れないが、特定のジャンルの中でせこく立ち回ることが求められているわけではなく、そんなことが世間でもてはやされていると勘違いしたいわけでもなく、誰もがそれに気づくべきではないのかも知れないが、たしなみとして雑学の類いに埋もれていれば、かろうじて何でもないような暇つぶしの時間をやり過ごせると思っているわけでもないが、そこでうまく立ち回らないことが重要なのかも知れず、せこく立ち回って小さな成功を収めてしまう人からそうなる可能性が失われてゆき、暇つぶしの戯れではなくなって仕事となり作業となってしまうのだろうが、そうなることが目的や目標になってしまうから、それが勘違いなどではなく立派な仕事だと思ってしまえば、そういった方面で成功してはまずいわけでもないだろうし、その場の状況に従うなら成功しない方がまずいのだろうが、まずい方がいいというわけでもないが、まずいままにとどまっているとそれなりの不都合が生じるだろうし、不都合のただ中で試行錯誤を繰り返すことになって、否応なくそういうまずい状況に追い込まれてしまうことが、取り立ててそれ以外の何をもたらすわけでもないのに、そうなってしまうことがその場の現実なのであり、現実をごまかすこともできずにそのままの状況の中で生き続けることがありのままの世界を実感させるわけで、そこから逃避してしまうことがまずいわけではなく、それを逃避とは言わずに抜け出すことになるのだろうが、抜け出そうとしなくても自然に外れてしまえれば苦にならないわけだが、苦労してありのままの世界にとどまり続けても利益など得られないが、その代わりに苦痛や不快感がもたらされるというわけではなく、代わりなどではなくそのまま様々な感覚がもたらされて、それがありのままの世界の現状なのかというと、そうではなくそれ相応の幻想が伴ってきて、都合良く世界をありのままに捉えようとしていることが、自らの事情を反映した幻想が意識に絡みついて離れないから、ありのままには世界を捉えられないわけだが、だからといって他から得られた情報をそのまま伝えることによって自らの事情とは関係なくなるかというと、そうでもなく、それが自らの事情を避けていることになり、それが他人の情報を利用してもっともらしく世界について語っているという事情でもあり、あからさまにそうなっているのだから、それを故意に隠そうとしているわけではなく、そんなことをやっているという事実がそこに示されているわけだが、それが負い目や疚しさをもたらしているわけでもなく、仕事や作業だと割り切ってそういうことをやっていればそれで済んでしまうことでもあり、普通はそれで構わないわけだが、そうはならない成り行きにとらわれてしまうと仕事でも作業でもないのに何かを語っていることになるわけだが、果たしてそれがまずい状況なのかというと、まずい状況だとしてもその場の成り行きに従っていることになり、そういう成り行きにとらわれていれば、それで済んでしまうと思いたいかも知れないが、結果的にはそうはならないわけで、そこでもあり得ない幻想に感染しているのかも知れず、確かに自らの望みや期待とは違う結果がもたらされて落胆するかも知れないが、たとえそれが絶望や期待外れを伴っているとしても、そのただ中でもあり得ない幻想を抱いているわけで、たぶん幻想を抱いていることがその場の成り行きに従っていることになるわけで、あり得ない幻想を抱かせるような成り行きの中で、利益とも成功とも無関係なことをやっているはずだが、そういった行為には救いがないのかというと、救いとして幻想がもたらされていると思ってはいけないのかも知れず、それは救いではなく、逆に絶望でもなく、ただの思い込みにすぎないのだろうが、その思い込みの内容がよくわからないとなると、いったい何を思い込んでいるのかというと、世界のありのままの姿を捉えたと思っているわけでもないのだろうが、様々なことを様々に思い込んでいるわけで、それらの思い込みがこれといって一定の傾向の中でまとまっているわけではなく、方々へ分散していると捉えておけばいいのかも知れないが、その方々というのが世界の至る所になるのかというとそうでもなく、もっと狭い範囲に分散していて、何かそこで一定の傾向にまとまろうとしているのだろうが、まとまれずに焦点がぼやけてしまって、何を主張したいのかも定かでないような様相を呈して、よくわからないことを語っているのだろうし、それではまずいのだろうが、よくわからない現状をわかったように提示すれば嘘になってしまうし、そこでせこく立ち回るには他人が発見したことだけ語ればいいわけだが、果たしてそれでうまく立ち回ったことになるかというと、確かにその場ではうまく立ち回ってそれ相応の何かを得たわけだろうが、それを子供だましの戯れ事だと決めつけるのはおかしいだろうし、何らかの報いを伴って、報いを受けていることにも気づかずにそういう行為を延々と繰り返しているわけで、それに気づかないということが報いそのものであり、うまく商売に結びつけていることがそれ相応の成功をもたらして、何かしら利益を得られているはずなのだが、商売にならないと困るだろうし、困ってしまうとまずいわけで、まずい状況を避けるには商売をやらなければならず、それが困らないようになるには是が非でも必要となってくるわけだが、そういった商売をやっている人たちがその後においてどうなるかといっても、そんなことをやる人が入れ替わり立ち替わり現れては消えていく状況が延々と続いていくのだろうが、それがありのままの世界の姿かというと部分的にはそうかも知れないが、あくまでもそれは部分的に成り立っていることにすぎず、それがおこなわれていることの全てを覆い尽くすことはなく、絶えず部分的な領域にとどまり続けて、執拗に続いていくとしても、いずれはそれでは済まないような成り行きになっていくかというと、そんなことまで想像できないし予想もつかないわけだが、そんな人たちが何かの犠牲となっているとは思えないとしても、そういう人たちを利用して情報を得ているわけだから、その手の流通業者の存在は欠かせないだろうし、今後もそんな人たちから情報を得る以外にはあり得ないわけだが、また得た情報をただ消費するだけではないと思いたいところだが、消費しているというよりはそれを加工しようとしているのかも知れず、現にそれを加工しながら文章を構成している現状があるわけだ。


8月15日「象徴としての役割」

 実質としての役割と象徴としての役割に違いがあるとすれば、活動に中身が伴っているか空疎な演技にすぎないかの違いとなるだろうが、象徴としての役割を空疎な演技にすぎないと否定的に捉えるのは間違っているのかも知れず、人を動かすのは象徴としての演技であり、演技に騙されるわけでもないが、誰もがそれが空疎な演技であることを承知していて、しかも象徴として儀式の類いを執り行っている人を信用しているわけで、儀式に参加している人々が見ている前でそれらの人々を代表して象徴としての儀式を執り行うわけだから、少なくとも参加者は代表者の役割を肯定的に捉えていることになり、もちろん不満を抱きながら渋々参加している人もいるかも知れないが、儀式に参加していること自体がその代表者の役割を認めたことになり、その点は不満を抱いている人も承知していて、大勢の人たちを半ば強制的に参加させて空疎な儀式を執り行うことが意味を持つわけで、その中で象徴としての役割を担った人が人々の代表者として儀式を執り行い、その権威や権力を参加者に認めさせることになるわけだが、それが実質的にも意味を持つかどうかは、象徴としての役割を担っている人を参加者が信用できるかどうかにかかっていて、信用している人は象徴としての役割を担っている人を権威として認めていることになり、自分たちの代表者として認識していて、代表者として認められた人が象徴としての役割を担って儀式を執り行うことになるわけで、そういった儀式自体が参加した皆がその人を代表者として認めたことを確認するための儀式でもあるわけで、わざわざ儀式など執り行わなくても代表者として認めているのだからそれで構わないではないかと思うかも知れないが、周知の事実として念を押す意味も込められていて、それを広く世間に知らしめるために儀式をおこなうことになり、それが盛大に執り行われることに意味があるわけで、それを簡単に言えば宗教的な儀式なのだが、儀式を執り行うことが権威の証しとなるのだから、象徴的な権威を維持するには定期的な儀式の開催が欠かせないわけで、その儀式が途絶えれば権威がなくなったことになるだろうし、儀式を執り行う側としてはそうなっては困るから、儀式そのものに実質的な役割があるかのように見せかけなければならず、そのためには人々を象徴的に代表する人物に儀式を執り行わせる必要が生じてくるわけだが、実際に人が社会の中で生活していく中で象徴的な役割が必要かというと、実質的には不要だが、実質的な役割だけで社会が構成されているかというとそうでもなく、実質的な活動を担っている人々を食い物にするような象徴的な役割が生じてきて、そうした象徴的な役割を担った活動が実質的な活動の負担となってきて、その分だけ実質的な活動を担っている人々が余分に働かなければならなくなり、しかも象徴的な活動の方が実質的な活動より価値が高くなり、実質的な活動の価値までが相対的に貶められてしまうわけだが、なぜそうなってしまうのかといえば、象徴的な活動が誰にでもできる活動ではなく、人々から代表者として認められた人でないとできない活動となるから、それだけ希少価値が生じてくるわけで、その結果として誰もが象徴的な活動の担い手になろうとすればそこで競争が伴ってきて、競争に勝ち抜いた人が象徴的な活動の担い手となれば多くの人が納得するわけだが、そうした活動を独占したい思惑が生じると、特定の一族によって役割を独占するような成り行きになってきて、そこから役割の世襲が始まってしまい、それが許される分野と許されない分野があるが、許される分野では世襲がおこなわれて許されない分野では競争がおこなわれている現状があるとしても、根本的なところでなるべく象徴的な役割を減らさないと人々の間で格差がなくならないわけで、実質的な活動の担い手を食い物にするような象徴的な活動がなくなる方向で社会が変化していくのが正しい在り方のように思われるかも知れないが、実際には絶えず象徴的な役割を増やす方向に社会が変化して行っているわけで、何でもないような空疎な行為を競い合う方向へと社会が向かっていて、メディアでも人々にそういうことをやるように仕向けているわけだが、それに人々が気づいているかというとそうでもないだろうし、それを仕向けているメディアの方でも自分たちのやっていることが何でもないような空疎な行為だとは思っていないだろうし、それが意味のある行為だと信じて疑わないからそういう傾向を押し進めているわけだが、その一方で実質的な活動の方はどんどん機械化されて省力化される傾向となってきて、人の代わりに機械が働く成り行きが進行して行って、人がかかわる仕事は誰でもできるような作業内容になると共に安い賃金に据え置かれて、さらに価値が下がってしまうわけだが、そういう成り行きがどんどん進行していくと何がもたらされるかというと、たぶん現状の中で生きている人々の想像を裏切るような世の中がもたらされて、しかもそうなってしまった結果の中で生きている人々にとってはそれが何でもないことでもあり、そうなって当然のような状況の中で生きている可能性もあるが、あるいは現状の中で存在する人々が危惧していることが起こって、実際に人類が滅亡するかも知れないが、現状の中で生きている大半の人々にとってはそんなのは知ったことではないかも知れないし、現状の中で繁栄していればそれで構わないかも知れないが、人類の活動によって大規模な気候変動が起こっていると信じられている方面では、将来に関して悲観的な予想が主流であり、何とかして破局を避けようとする試みがおこなわれているわけだが、そういう活動も含めて実質的に何がおこなわれているかというと、その全体像を誰も正確には把握できないようなことがおこなわれているのかも知れず、それを簡単に言うなら破壊と創造が同時並行しておこなわれていると解釈しておくのが妥当なところかも知れないが、そうした活動の全体がプラスマイナスゼロとなるように帳尻が合っているわけではなく、差し引きの対象とはならないようなことがおこなわれていて、帳尻も辻褄も合っていないのかも知れず、全体が一定の調和へと至るのではなく、混沌としていてまとまりの欠ける状況となっている中で、世界各地で人や集団が右往左往しながら見当外れで見込み違いなことをやっていることに気づかないのかも知れないが、それは遙か昔から続いている状況でもあり、それを絶えず現代から見れば何らかのまとまりがあったり秩序や調和が保たれていた時期や時代として確定できるかも知れないが、それも現代の視点から都合の悪い面や部分を排除した上で成り立つ秩序や調和であり、これからもそういった手法を用いて秩序や調和のある時代や期間などを確定していくのだろうが、それ自体が都合の良いフィクションであり、そういったフィクションを信じることによって心の安らぎを得たい人も大勢いるかも知れないが、そんな人々の心に安らぎをもたらすのも象徴的な行為が担っている役割でもあり、秩序や調和を重んじる儀式の中で過去から引き継がれてきた伝統を未来の人々に託すような行為が演じられて、それを観た人々の心に安らぎがもたらされるわけで、それが何やらオリンピックの聖火の引き継ぎに見立てられたり、原爆が投下された日や敗戦の日に記念行事として執り行われる儀式の中でも見られるが、それも一過性の行事でしかないわけだから、行事を執り行って気が済んだらさっさと忘れて、またいつも通りの混沌のただ中で右往左往する日々が待ち受けているとしても、何か気休めとして象徴的な役割を担った人々がいつも通りのことをやっているのをメディアを通して見かければ、世界の時間的な連続を感じられるような気がするのかも知れず、たとえそれが大して実質も伴わないような空疎なパフォーマンスでしかないとしても、そういう行為をやらせるために大金が動いている現状に納得できないとしても、そんな世界の中で生きている状況をどうすることもできない自らの無力さも実感せざるを得ないのかも知れない。


8月14日「かかわりの限界」

 何か関心があるからそれについて語るという成り行きになれば苦労はしないが、自らにかかわりのないことに関心を持つのは、自らにかかわりのあることがつまらないことばかりで、それについてはすでにわかりきっていることばかりで関心がないから言及するまでもないことであり、改めて語る気が起こらないのとは対照的に、直接かかわっていないから詳しいことはわからないので、想像して情報が不足している分を補おうとすれば、それだけ物事を都合良く捉えて幻想が伴ってくるから、関心もそれだけ高まるのかも知れないが、では関心がないことに直接かかわっている一方で、関心があることには直接かかわれずに、例えばそれがメディアを通して間接的にかかわっているにすぎなければ、それが不幸なことかというとそうでもなく、関心があることに直接かかわってしまうと幻滅してしまうのであり、関心があることだけに直接かかわれるような都合の良いことにはならず、直接かかわってしまうと都合の悪いことにもかかわらざる得なくなるから、そこでいやな思いをして幻滅して関心がなくなってしまっても、なおもかかわらざるを得なくなって、かかわりたくないのに向こうから執拗にかかわってくるから、うんざりしつつも付き合わされてしまうようなことになれば、それについて語る気も起こらなくなってしまうかも知れないが、それ以外にも、何にかかわろうとしても拒絶されてしまうようなことにでもなれば、何にもかかわれずに誰からも無視されているような孤独感に苛まれるから、直接かかわらずに傍観するだけにとどめておく場合もありそうで、それについて語ることとそれにかかわることが結びつけば当事者が自身がかかわっていることについて語っていることになるだろうが、当事者になれなくても語れるようなことがあるとすれば、それがかかわりのないことについて語っていることになるわけだが、それだけ無責任にあることないこと織り交ぜながらいい加減に面白おかしく語れるかというと、そんなふうに語ってしまうと謙虚な姿勢に欠けていることになり、嘘がばれると信用されなくなってしまうかも知れないが、そうやって語りながら語っている対象にかかわろうとしているのであり、語るのに都合が良いように言葉を用いて対象を加工しているわけだが、直接加工しているのではなく、対象にかかわる情報を加工しているのであり、それも自らが語るのに都合が良い情報を選んで語っていれば、都合が良いことを語ることによってそれだけ語る対象への関心を高めようとしているわけで、そういう水準で何をどう語ってみても、都合の悪いことは語れないはずだが、果たして都合の悪いことまで語る必要があるかというと、語っているうちにそれを語るように強いられてしまう場合があるかも知れず、語る対象について全てを語り尽くそうとすれば、語っていくに従って次第に語ることが少なくなってきて、しまいには都合が悪いことまで語らないと語りきれなくなってくるのかも知れないが、そんなことまで自覚できるかというと、たぶん自覚できないだろうし、それと自覚せずに自らに都合が悪いことまで語ってしまう場合もあるかも知れないが、そうなると自らの語りをコントロールしきれていないことにもなるだろうが、語っていくうちに語りきれなくなってきたり、語りそのものを制御しきれなくなってくるということが、自らの都合を語りに反映させることに失敗していることにもなるだろうし、もともと語る対象となる物事を自らの都合に合わせて制御しようという思惑自体が破綻していて、都合の良いところだけ選び取って都合の良いように見せかけたいという魂胆が浅はかなのかも知れず、実際にはそうならないから思いがけない紆余曲折が伴ってくるわけで、思いがけない迂回を経ないと新たな発見には至らないかというと、何か目的の物事を発見しようとして発見できればいいのだろうが、目的とは関係のないところで見つけようとしなくても勝手に目に入ってくる何かが自らにとって重要であるはずもないとしても、それにかかわろうとしているわけでもなくても向こうからかかわってくれば、何かしら気にかかることになるかも知れないが、それが都合良くそうなるとは限らず、逆に都合の悪いところで自らの足手まといとなるようなかかわり方をしてくると邪魔だと思うしかないし、それが後になって重要な関心をもたらすとはその時点では感じられなければ、そのままそこを通り過ぎて振り切ろうとしてしまうかも知れず、そうやって関心を示さずにかかわりを振り切って通り過ぎてしまったことが、後になって自らの活動に響いてくれば、それをきっかけにして関心を持ってかかわっておけば良かったと後悔してしまうが、それが他にも無数にあるきっかけの一つにすぎず、他にもいくらでもきっかけがあり、そんなことにこだわる必要もないと割り切ってしまえばいいわけだが、少なくともそのうちのどれか一つでもこだわらないと、そこから先に事態が進展しないと思われるようなら、事態を進展させるには実際にきっかけをつかまなければならなくなってくるかも知れないが、きっかけをつかめないまま事態が推移してしまえば何ももたらされないままとなってしまうはずだが、それが案外思い違いなのかも知れず、そうなっている時点でそれと気づかずに何かにかかわりを持ってしまっていて、自分の思いとは無関係に思いがけないところから事態が進展してしまう場合もあるわけで、それが何なのかといっても些細などうでもいいようなことにすぎないのかも知れないし、結果的に大して関心を持てないようなつまらないことにかかわってしまって落胆してしまうかも知れないが、それが何かしら経験となってその後の活動に影響を及ぼしてくると、そうなっている時点で自らの魂胆や思惑を外れていることになるわけだが、それについて語るとなるとそれを自らの魂胆や思惑に取り込んで語ろうとして、自らの都合とは無関係なのに強引に都合に絡めて語ってしまうから、関係のないことを関係があるように語ってしまうことになって、そこからフィクションを構成されてしまうのかも知れないが、本当に関係がないかというとそれを実際に経験したのだから関係があるわけで、一時的にもかかわっていたはずだが、それが自らの都合を外れてかかわっていたわけで、都合を外れてかかわっていたのにそれについて都合の良いように語ってしまうと、それとは無関係に語っていることになり、そういうところでフィクションと現実との間で落差が生じて、フィクションが現実を取り逃がしていることにもなってしまうのかも知れず、現実に起こったことの代わりに都合の良いフィクションが構成されて、それがその人の都合を外れた思いがけないことであるという齟齬感が伝わってこないことにもなり、何かとってつけたような印象が伴ってくるわけで、そういうところで自らにかかわりのないことをかかわりがあるように装わない方がいいのかも知れず、結局自らの浅はかな魂胆や思惑や都合や事情などを無視するような事態の進展に唖然とさせられてしまえば、それが経験そのものとなって、それが貴重な経験だとは思えないとしても、それよりは不快で理不尽な思いをもたらして、できればそんないやなことはさっさと忘れてしまいたくなるかも知れないが、忘れたくても忘れることができないほどの屈辱を味わうようなことにでもなれば、それに対するこだわりも尋常では済まなくなるだろうし、そうやって否定的な感情にとらわれてそこに絡んできた人に対する恨み辛みや復讐心などが募ってくると、何か身の毛もよだつような恐ろしい結末が待ち受けているかも知れないが、そういった経緯がよくありがちなフィクションとして構成されてくるわけで、それもかかわりのないことをかかわりがあるかのように感じさせる語りの技術に絡んでくることかも知れないが、経験として一切かかわりのないことをかかわりがあるかのように語りたいわけではなく、かかわりのあることとかかわりのないことが混ざり合った経験として意識の中で構成されて、その中でも少しでもかかわりがあることが誇張されて否定的な感情と結びついているのであり、そこからかかわりの拡大解釈が生じてしまうのだろうが、その拡大解釈を押しとどめるような何かを経験することが重要なのかも知れず、それが齟齬感を伴うような経験でもあり、自らに都合の良い魂胆や思惑ばかりに意識をとらわれていると、それを経験しているのに気づかないことになってしまい、そうやって否定的な感情にもとらわれて、そこからさらにひどい経験をする羽目に陥ってしまうのかも知れない。


8月13日「民主主義の危機」

 現状で政治が直面している問題が、政治が直面している問題から人々の目を逸らさせることが目的となっているのであれば話が早いが、話をややこしくさせているのが政治に対して積極的に無関心を装うことであれば、何か話が違うような気がするだろうが、どちらからでも民主主義と直接向き合うことを拒否する態度に結びつけば納得できるかも知れず、さらにそれとは別に国家主義にとらわれた政党や政府の官僚機構が軍隊や警察などの武力を用いて民主主義を潰そうとしている一方で、資本主義を体現する企業活動が娯楽や金儲けへの欲望を煽り立てることによって民主主義への無関心をもたらしているのであれば、それも納得できるかも知れないが、どちらにしても民主主義の危機を招いている原因が、当の民主主義が内包している欠陥や矛盾にあるとは考えないかも知れないが、絶えず危機や欠陥や矛盾に直面していることが民主主義の実現や維持や存続を求める動機となっていて、また国家主義からもたらされる独裁や支配への誘惑や、資本主義からもたらされる金儲けへの誘惑に抗えないことも、民主主義を危機的な事態に陥れている原因だと思われるだろうが、独裁や支配への誘惑に屈してしまった政治家や官僚などが民主主義を守る気はないだろうし、また金儲けの誘惑に屈している企業経営者や投資家などが民主主義を守ろうとするかというと、少なくとも積極的に守る役目を担っているとは思わないかも知れず、では誰が民主主義を守らなければならないかというと、大した武力も財力も持ち合わせていない一般市民が民主主義を守ろうとすれば、ミャンマーやベラルーシや香港のような悲惨な事態となってしまうわけで、さらにはアラブの春と言われた民主主義を実現しようとして民主化運動に加わった人々がどうなったかといえば、それも悲惨な結末を迎えた人が多かったわけだが、現状でもアフガニスタンでは民主主義とは無縁の武装勢力であるタリバンによって国全体が支配されようとしているわけで、客観的に見るなら今や民主主義勢力が世界的に退潮傾向となっていて、コロナ禍や気候変動と共に国家主義や資本主義の猛威にさらされていると状況を捉えておけばいいのかというと、それとこれとは微妙に事情が違っていて、国家主義と資本主義と民主主義は互いに重なり合っていて切り離せないのかも知れず、現状で民主主義が成り立っている国や地域では、国家主義も資本主義もそれに含まれているから、それらが混じり合った体制となっているのだろうが、いったん国家主義と資本主義だけで成り立っている体制となってしまうと、もうそこには民主主義勢力が入り込む余地がなくなってしまい、そこから民主化を実現させるには長い苦難の歴史が待ち受けているわけだろうが、実際に日本も含めて世界各地で長い苦難の歴史が続いている最中なのかも知れないが、そういった歴史に関心がなくても生きていられるようなら、その人にとっては苦難の歴史でも何でもないわけで、だから日本では誰もが意識して民主主義に無関心となっているわけでもなく、他に人々を無関心にさせられるだけの魅力的な何かが関心の的となっているわけでもないだろうし、少なくとも日本の現状の中では民主主義への無関心がそれほど問題化していないのとは対照的に、実際にあからさまな弾圧がおこなわれているミャンマーやベラルーシや香港などでは苦難の歴史のまっただ中にいるような実感が伴ってくるかも知れないが、結局は民主主義が選挙制度や議会制度などと共に制度として社会に根付いている国や地域では曲がりなりにも民主主義が実現している一方で、国や地域によっては根付きにくいような歴史的経緯や地域的な事情などがあるから結果的に根付かなかったことになるのだろうが、例えばそれが帝国的な支配の歴史や宗教的な事情などの影響が強いからそうなっているとしても、そもそもが産業化が遅れている地域や国では民主化も制度的に脆弱な場合があるだろうし、また中国では急激な産業化の進展と共に資本主義によって国家主義が脅かされてきたから、国家主義による資本主義への締め付けがおこなわれていて、それと共に香港では民主主義を国家主義によって弾圧しているわけで、そうやって国家主義の主導権を維持しようとしているのだろうが、もともと国家主義と資本主義と民主主義が三位一体となっている面もあるわけだから、そういうところで無理が生じてくるかも知れないし、無理な体制を維持しようとすることが将来にわたって禍根を残すかも知れないが、産業が栄えている間はそういうことには無関心でいられるだろうし、また国家主義と資本主義と民主主義の三位一体が普遍的な原理原則というわけでもなく、歴史的な経緯を伴って一定の期間にわたって三位一体であるように思われているだけで、今後も中国が民主主義とは無縁の繁栄を保つことができれば、そういった原理原則が崩れてしまうかも知れず、そういうことも含めて事態が絶えず流動化しているのかも知れないが、そもそも民主主義自体に普遍性があるかというと、その地域に暮らして生活している住民の意向を尊重するのが当然だと思われる水準では普遍性がありそうだが、それを制度として定着させるには、選挙で代表者を選ぶ制度や各地域の代表者によって構成される議会などを運営する面で、自治政府などの官僚機構が必要となってくると、自治政府を運営するための予算や予算を確保するための徴税なども必要となってきて、税収を得るには産業を振興しなければならなくなるだろうし、そうやって政府の官僚機構から国家主義が生じてきて、産業の振興から資本主義が生じてくるわけだが、そういった経緯から民主主義の実現が国家主義や資本主義を生じさせていると考えることもできるが、国家と資本が結託して民衆を支配するような逆の成り行きも考えられて、そこから国家統治の概念も生じてくるのだろうし、そこで民衆と国家と資本とが対立するような構図も得られるのだが、それらが混じり合って重なり合っている面もあるだろうから、そうした混じり合いや重なり合いの中で絶えず互いに作用や影響を及ぼし合いながら存在しているわけで、それらが誘惑や欲望によって結びついていれば無関心ではいられなくなるわけだが、逆に無関心になるように仕向けられているとすると、仕向けられて無関心になっている人たちがそういった方面では不利な状況に追い込まれていると思いたいが、どうもそういうことではなく、そういういった方面に無関心になれるということが、それだけ余裕があることになり、無関心でいても困らないような状況になっているのかも知れず、そういうことを考慮するなら、民主主義に無関心になっている人たちは民主主義がなくても生きていけると思っているわけではないが、自分たちが無関心であっても何とかなっているという感触はあるだろうし、少なくともミャンマーやベラルーシや香港の民主派などのように民主主義が実現されないと困る人たちとは異なる立場となっているはずだが、それは失われてから気づくようなことでもあり、実際に民主主義体制が崩壊して独裁体制になると、自由にものが言えなくなって不自由さを実感するだろうし、さらには他の国からの経済制裁などによって物資の流通が滞るようになれば生活も苦しくなるわけだが、それも実際に体験してみないことには実感できないことであり、そういったことに無関心でいられることのありがたみなども実感できるわけでもなく、無関心でいられる立場自体が有利な立場でもあるわけで、気づかないところで何かを犠牲にしているのかも知れないが、それに気づかないような状況の中で生きていられるということが、すでに有利となっている一方で、そうした有利な状況が何かのきっかけから崩れて不利な立場に追い込まれてしまうと、その不利な状況を打開してくれるように政党や政府や議会などに対して要求を出すような成り行きになってくれば、それが民主主義を体現する政治活動になってくるのではないか。


8月12日「世界の戯画化」

 人の容姿や性格などを強調したり誇張して表現した絵やイラストが戯画と呼ばれるジャンルになるだろうが、それは人の記号化やシンボル化とも言えるかも知れないが、記号化やシンボル化は人以外にもおこなわれて、人を含んだ世界を戯画化して捉えている可能性もあり、人がかかわっている世界の様々な方面に人格を当てはめるようなことがおこなわれているのかも知れないが、他にどう捉えればいいのかといっても捉えようがなく、そう捉えるしかないような物事の捉え方以外には何も思いつかないかも知れないが、人と共に世界自体を戯画化しているとすれば、それがどういうことかというと、まず思いつく例としては、国や地域に人格を当てはめるようなことをやって、その人の言説にとって都合の良い傾向を国や地域にまとわせているのだろうが、その国や地域に居住する人や集団にある一定の傾向があることを認識していて、何らかの傾向のある人や集団として、他の国や地域の人や集団と区別することになり、そういう処理を施した結果として、◯◯人がどうだとか◯◯国がこうだとか◯◯教徒はああだとか言えるようになるわけだが、中にはもっと狭い範囲に限定して特定の企業や企業経営者がどうだとか漫画やアニメや映画やその作者や監督などがこうだとか決めつける人まで現れてくると、果たしてそういう決めつけ方が妥当なのかどうか疑念を感じるかも知れないが、そう決めつける人がそういった物事や人にある一定の傾向や特徴があることに気づいたから、これはこうだと表現したくなるのだろうが、そんな傾向や特徴が一定の期間や時間の中で保たれることがあるとしても、それが固有の傾向や特徴になるかというと、固有というよりは相対的な傾向や特徴となるだろうし、他にも様々な傾向や特徴がある中で、その人の言説の中で都合の良い傾向や特徴が選び出されてくる過程で、それに当てはまる人や物事が言及しやすい対象となってくるのだろうし、逆に言説の対象として何らかの関係からそれについて言及したいという思惑が生じてくると、それに合わせてその対象に当てはまる傾向や特徴などが選び出されてくることもあるだろうが、そうなるとその対象に固有の傾向や特徴というよりは、他と比べて相対的な程度として強かったり弱かったり大きかったり小さかったりする傾向や特徴となり、それが絶対的に他と区別できるような傾向でも特徴でもなくなってしまうだろうが、どうしてもこだわらなければならない事情が生じてくると、そうした傾向や特徴でも絶対化や神格化の意味合いを帯びてきて、それと共に肯定的かつ否定的な断言がおこなわれてしまうのかも知れないが、何かこうでなければならないとかこうしなければならないとか逆にこうなってはならないとかこうなってしまったら終わりだとかの断言の中でいわれていることが、本当にそれほど重要で重大で深刻なことなのかというと、どうしてもそうなってしまってもどうということはないような事例がもたらされてしまうと、その種の断言が裏切られてしまうわけだが、その人や集団やそれにかかわって出てくる物事の傾向や特徴がこれでもかと大げさに強調されたり誇張されたりしている中では、確かにそれがそれ相応に重要で重大で深刻なことであるかのように感じられるとしても、そういったカテゴリーやジャンルから離れてしまえば案外関係なくなってしまうことも多々あるのかも知れず、そういったところで言語表現や映像表現などを用いてそれを見させられる人々の目をそこに釘付けにすることに一時的に成功したとしても、それをいつまでも釘付けにしておくことができないところが相対的なところでもあり、画面を通して見せたい物事を見せるという制度がいつの間にか世界的に定着しているわけだが、画面から目を逸らしてしまえば済むようなことでもあり、画面上にいくら凝りに凝った表現が映し出されていても、それがどれほどの効果があるかといっても、自ずから限界がありそうで、気軽に手軽に見られる物事が重要であったり重大であったり深刻であったりすることが信じられるかというと、意識では信じているつもりでも、実際にいやなら自分の意志で目を背けられるわけだから、実際に釘付けにならずに目を背けることができれば、その程度であることが身体の動作によってそれが証明されてしまうわけで、そういうところでその手の強調や誇張の無力さが認識されるのだろうが、では何がそこには欠けているのかというと、欠けているのではなく他の傾向や特徴を押し退けて、見せたいという意図や思惑に沿った傾向や特徴が強調されたり誇張されているわけだが、それが戯画化の傾向や特徴でもあり、現実をそのまま伝えようとするのではなく、現実をデフォルメして伝えようとする意図や思惑が絡んでいて、そんな意図や思惑を見透かされてしまえば、それが重要でも重大でも深刻でもないことがわかってしまうのかというと、伝えようとしている人にとってはそうかも知れないが、伝えようとしている人にとってそうであることが他の人にとってもそうなのかということが、そういった意図や思惑を見透かしてしまう人にとってはそうでもないから、何か見透かしたような気がするわけで、そうなってしまう時点で小馬鹿にしているのかも知れないが、その人にとっては重要だと思われるジャンルやカテゴリーから外れている人に伝える場合にはそうなりやすいだろうし、特定のジャンルやカテゴリーに含まれる物事を重要視する制度にその人がとらわれていれば、そうした制度とは関係のない人にとってはそういう傾向を無視してしまっても構わないし、そうした制度自体が特定の物事を重要視することによって成り立つ制度となっているのかも知れず、そうした制度が世界全体を覆い尽くさない限り全ての人がそれを重要視することにはならないのかも知れないが、それに関して例えば物事を売買する制度が世界全体を覆っていれば、売買を媒介する貨幣が誰にとっても重要視されるわけだが、売買というのは制度というよりは慣習である面もあるのかも知れず、実際に売買できない物事もあるし、人身売買は禁じられているわけだが、もちろん法律で禁じられていれば制度として禁じられていて、慣習としてならなし崩し的におこなわれている国や地域もあるだろうし、制度と慣習の境界が曖昧な面もあるだろうが、そこで戯画化にとらわれると、派遣業は現代の人身売買だとか非難することもできるし、過酷な労働を奴隷労働にたとえることもできて、そうやって世界の戯画化が進行していくわけだろうが、そういうところで戯画化してしまう意識をどこまで許容してもいいのかといっても、自らの意識に問いかけるというよりは、身体の動作から区別がつくかも知れないし、意識の中では区別がついていると思っても、感情が戯画化にとらわれてしまって、判断が難しくなってくるかも知れないが、言葉で説明される内容を判断するというよりは、実際におこなわれている状況から判断する成り行きになるのかも知れず、そういうところでこれはこういうことだと言い放つような断言を信じるか信じないかという水準ではなく、何かしらそこで活動がおこなわれていて、その活動にかかわっている人たちが実際にどういう状況におかれているのかを知ろうとしなければ判断できないだろうし、どういう状況におかれているのかを説明する文章や映像などから判断しなければならないとしても、それに対してこうなっているからこれはこういうことだと判断するような断言を肯定的に受け止めるか否定的に受け止めるかの判断を迫られるようなことになった時に、そういう判断を促されるような成り行きに乗ってしまうのはまずいのかも知れず、それよりは絶えずその前に戻って、まずはそういう判断がおこなわれる状況そのものを知る必要があり、他人の判断の是非を判断する前に、そうした判断がおこなわれる背景となる状況を知る必要が生じてくるのかも知れない。


8月11日「現実のフィクション化」

 その人が何でもない人であれば興味を惹かないが、他とは明らかに異なるその人に特有の何かがあれば、その特異性が興味を惹くとしても、その人が何か世間を騒がすような事件を起こすと、その事件に関連してその人の特異性が明らかになるというのは、マスメディアが世間の関心を惹こうとしてそういうことを調べて報道したがり、そういう成り行きはいくらでもありそうで、そうやってその人の個人的な事情を暴き立てることに拍車がかかったりもして、それが傷害事件や詐欺事件であればその人の否定的な面が明らかにされるかも知れないし、例えば近所では評判の良い人そうに見えて実は暗黒面を抱え込んだ二重人格であったりすれば、それが多くの人の興味を惹くことになるだろうし、幼少期に体験した何かがトラウマとなって、そういう人格が形成されたとか、色々と安手のテレビドラマふうのエピソードが出てくればそれがワイドショーネタにもなりそうだが、果たしてそういう話題に興味を持つことが何を意味するのかといえば、他の何かをやり過ごすためにそうしているとは思わないだろうし、暇を持て増している可能性もあるだろうが、それがフィクションの内容と似通ってくると親しみが湧いてくるとしても、フィクションの方でも現実に似せようとしてリアリティを持たせようとしている面もあって、フィクションと現実に起こった事件のどちらからでも、多くの人が興味を持つような内容になることが求められている一方で、興味を惹かない内容は無視されて見向きもされないような傾向となってしまうのも当然のことであり、そうなると事件の当事者が抱え込んでいる特異性が、誰の興味も惹かないような性質では困るだろうから、なるべく世間の興味を惹くような性質が強調されたり誇張されて煽り立てられて、それが世間の注目を集めるための宣伝や煽動として機能すると共に、現実に起こったことをフィクション化する作業ともなり、そうやって人々が納得しやすいように情報が加工されてメディアを通じて提供されているとすれば、それを洗脳と呼びたくなるかも知れないし、そうした情報の加工技術にかかわることによって、世界的な巨大企業にのし上がってきたのが、GAFAやマイクロソフトかも知れず、その種の情報産業に携わる企業に世界が支配されていると主張したい人もいくらでもいるとしても、それ自体が世間が興味を惹くように仕向ける強調や誇張の類いには違いないが、実際には世間が興味を惹かない物事の方が情報の圧倒的多数を占めているとすれば、逆に人々が興味を惹きそうな話題や情報ばかりを提供するメディアに日々接していると、それが強調や誇張を施されて都合良く加工された情報ばかり受け取っていることになるわけだから、そうした情報に浸されて漬け込まれた意識や思考が虚構化していると言えるかも知れず、そんな意識や思考の虚構化が何を意味するのかというと、意識や思考自体がもとから虚構の産物であることを忘れさせるわけでもないし、現実を都合の良いように捉えようとして日々現実と格闘していることも忘れさせるわけでもなく、それ自体が何かこれまでにない目新しい現象をもたらしているわけでもないはずだが、そういった虚構化に従うわけでも逆らうわけでもない方面からも何らかの作用や影響が及ぼされていて、それが都合の良いようには受け止められない現実を意識させたり思考させるわけで、実際にどう考えても自己中心的には自分を世界の中心に位置づけられないし、情報がメディアを通して虚構化されても、そうした情報に自らが含まれているとは思えないような疎外感を覚えているわけで、それが強調からも誇張からも遠ざけられた自らの何でもない存在であり、赤の他人でしかない誰かの強調や誇張を施された情報を見させられているただの観衆の一人にすぎない自分にどんな存在意義や意味があるかといっても、そういう面では何もないわけで、そういう意味ではメディア上で強調されたり誇張されて表現されている誰かに興味を惹く必要がないことに気づかされて、結局は目を覚まさせられてしまい、そんな何でもないような世間を騒がせているフィクションの登場人物などに関心を抱いていないで、現にここに存在している自分自身を何とかしなければならないと思わされて、まずは何よりも自分に配慮しなければならず、それも自分探しの旅とかいうその種のメディアが提供するありふれたフォーマットに自分を押し込めるようなことでもなく、メディアから疎外されている自分の存在をメディアとは別の方面で活用するような成り行きに持って行きたくなるのかも知れず、安易にメディアにはかかわらないようなところに活動の実質をもたらそうとして、そこに自足するでもなく、そうかといってメディアから完全に隔絶したことをやるわけでもなく、それとは別の水準や別の傾向の中で興味のバリエーションに幅を持たせようとしているのかも知れないが、それが自分にとって都合の良いことでも理解できることでも納得できることでもないとしたら何なのかというと、何らかの謎を抱え込んでいるといってもしっくりこないかも知れないが、たぶんある種の謎がもたらされていて、その謎が何なのかというと現実そのものであり、実際に自らの都合を反映しないような現実の中で生きていて、それについて納得しているわけでも理解しているわけでもなく、むしろ納得できず理解できないからそれについて思考するわけで、しかも日々メディアからもたらされる情報というのが不快感を伴うような情報ばかりで、不快感を覚えながら不快な情報を受け取り続けている自らの存在を肯定できるわけでもなく、メディアから日々攻撃を受け続けている自らがいると捉えておけばいいのかも知れないが、それも大半は被害妄想の類いであることも承知しているはずだが、不快感を払拭できるわけでもなく、払拭できないからメディアと敵対しつつメディアを利用していると同時にメディアから相手にもされていないという矛盾も抱え込んでいるとしても、こちらから特にメディアに対して攻撃を仕掛けているわけでもなく、メディア全般を批判しているわけでもないはずだが、そうなっている限りでメディアとはそういうものだという割り切り方もしていて、世間というフィクションを構成しているのがメディアであり、そんなフィクションを見せられている自らがいるとしても、観衆の中での一人でしかないのに、メディアに対して何か作用や影響を及ぼせるわけでもなく、そうかといってメディアなしで現実の全てを把握できるわけでもないだろうし、メディアを通して現実の全てを把握できるわけでもないとしても、現実のフィクション化を通して現実を感じ取っているわけだから、直接世界の現実を感じ取っているのではなく、メディアを通して間接的に感じ取っているわけだから、それ相応のコントロールを受けているわけで、そうしたコントロールされている面も感じ取らなければならないから、それに対する疑念や疑問と共に思考が働くわけで、そういう意味で思考とは対処や対応といった受け身の姿勢から生じてくることでもあり、こちらから積極的に仕掛けるような戦略や戦術を生じさせているわけでもないはずだが、それでも何とかして自身が直面している事態を切り抜けるために思考を働かせていて、自らの思い通りにはならない状況の中で絶えず考えているはずだが、それが現実の理解につながるかというと、一向に理解を拒絶するような現実に直面しているのかというと、少しはそういう面もあるだろうが、逆にそういう現実を利用している面もあり、そうした現実を利用して何をやっているのかというと、実際に現実の中で振る舞っているのだろうし、そこで何らかの行動や行為をおこなっているのであり、その結果としてもたらされた現実の中で思考を働かせて、さらなる行動や行為につなげようとしているのであり、それが現実に対する対処や対応となり、メディアを通してそうした対処や対応の有効性や効果を見極めようとしているのかも知れず、そうした対処や対応の一つとして現実を言葉によって表現する行為があるわけだが、それが現実のフィクション化にもつながっているわけだ。


8月10日「自然な対応」

 時として自然が人を助けるわけでも助けないわけでもないが、自然に助けられることも見放されることもあるだろうし、さらには自然が人を窮地に陥れることも死に至らしめることもあるものの、そんな自然の成り行きに従うことが人に利益をもたらすことも損害をもたらすこともあるだろうが、何ももたらさないこともあるはずで、何かがもたらされているのに人がそれに気づかない場合もあるだろうが、気づかなくても構わない場合もあり、自然から及ぼされる作用や影響よりは、他人や他の団体や勢力から及ぼされる作用や影響を気にしなければならない場合もあるだろうし、その場の状況や情勢に応じてそういうことが意識される一方で、作用や影響の中でも間接的な影響よりは直接の作用の方がより切迫感が伴う場合もあるし、しかもより緊急性が高そうな切迫した事態になっているのに、妙に心に余裕が感じられる場合もあって、割と冷静に直面している事態と向きあえて、うまく対応できるような気がしている時でも、ちょっとしたきっかけから何か腑に落ちないことに気づいてしまうと、いつまでもそのことが頭から離れずに、気がかりで仕方ないようなことになって、そんな不安が的中して思わぬ事態がもたらされて、しかもそれが祟って当初の目論見も思い通りにはいかなくなってしまい、それでもその場の状況に従うことしか選択肢が残されていなければ、そうするより仕方ないだろうが、逆にそこに至ってもまだ意識がその場の状況に逆らって、自らの力で運命を切り開こうとしてしまえば、自らの思いが強すぎて強いられてそうなっているとしても、そうすることがその場の状況が求めていることなのか、あるいは勘違いしていて勝手な思い込みによって全く見当違いなことをやっているにすぎないことなのかが、どちらとも受け取れるようなことであると、状況が自らに味方しているのか敵対しているのかどちらでもないのかの判断がつかず、どう判断してもしっくりこないようなら、どちらでもあってどちらでもないようなことなのかも知れず、どちらでもあってもかまわないような自然の成り行きにとらわれていて、自らの判断に関係なく事態が進行して、それが思惑通りであろうとなかろうと、そんな思惑などどうでもいいようなところで成り行きが生じていて、それに逆らっても従ってもなるようにしかならないことでもあり、そうなったところでそれによって自らがどうなったところで、それは成り行き全体から見れば枝葉末節なことでもあり、自らに何らかの作用や影響が及んでいるとしても、他の様々な方面へと及んでいる作用や影響に比べれば微々たるものであり、自らがそれに逆らったり従ったりすることが作用や影響を阻むわけでも促進するわけでもなければ、自らの力や存在自体に何の力も影響力もないことになり、ただ全体の中のわずかな領域において自然からの作用や影響にさらされているにすぎず、それも一方的に作用や影響を受けているだけで、こちらからは何も及ぼせないとしたら、手も足も出ない状況となっているかも知れないが、すでにそうなっていること自体が自然に対して自然な対応をとっていることにもなり、何か不自然に身構えているわけではなく、どう対応すればいいのかわからない状態を保っていること自体が自然な対応から生じている状況でもあり、それに対して恣意的に画策しなければならない状況となってくれば、自然な対応から逸脱して何か余計で余分なことをやるような成り行きになっているわけで、その余計で余分なことというのが利益を得ることであり、人と人の間に差異を作り出すことになるわけだが、そうすることが必要だと思われるわけだから、利益を得ようとする人にとっては余計でも余分でもなく、切実に必要だと思われて、是が非でも利益を得なければ生活が成り立たなくなってしまうことでもあり、自然な対応では利益を得られず、人為的な画策が必要となってくるわけだが、そんな人為的かつ人工的な画策に伴って生じてくるのが欲であり、欲望を抱くこと自体が自然な行為からは生じてこないのかも知れず、例えば策略を巡らして他人を陥れようとしたりする行為が欲望から生じてくるわけで、それが自然の成り行きを無視した浅はかな欲望でもあり、自然の成り行きから生じてくる因果応報の作用を考慮に入れていないわけで、策略を巡らした側が滅びる運命をもたらして、自然の成り行きに逆らって策略を巡らすことの浅はかさを報いとしてその身をもって受けることになるのだが、そうなってしまうからこそ策略を利用して利益を得ようとすれば、それ相応の危険が伴うわけで、実際に利益を得るには得られた分だけ犠牲も必要となってきて、何とかして自分に利益がもたらされる一方で、他人が犠牲を引き受けてほしいわけで、そうなるには絶えず利益と引き換えにして犠牲となってくれる他人が必要となってくるから、そんな犠牲となることを喜んで引き受けてくれるお人好しな人などいるわけがないとしても、結果的には労働者が犠牲を引き受けるような成り行きになるだろうし、犠牲となる労働者を犠牲者に見えないようにうまく仕立て上げなければならないわけだが、そんな画策がうまくいけば経済が発展して利益を得られるにしても、では実際に利益を得ているのが誰なのかというと誰でもないようなことにもなってしまうのかも知れず、企業経営者や資本家など特定の人が利益を得ているように見えるとしても、実質的にはそれにかかわって組織された集団に利益がもたらされて、しかもその集団を成り立たせているシステムに利益がもたらされるような状況も生じてきて、利益自体が幻想にすぎないような何かであり、利益の大半は投資するために必要なのであり、システムを動作させるための資本として利益が使われる一方で、人が利益を使って消費を楽しむような行為は必要最小限度に抑え込まれて、それすらもシステムを動作させるために必要なこととなり、消費活動もシステムに組み込まれている範囲内でおこなわれていることであり、その要求を満たす限りで決まり切った消費行動がおこなわれて、そこから逸脱するようなことがおこなわれてはまずいわけではないとしても、例えば娯楽用の玩具などをあてがわれている人々がその玩具を使って楽しんでいる限りで、玩具の用途から逸脱することはできないだろうし、玩具を使ったシステムに娯楽そのものが組み込まれているわけだが、そこから逸脱するには娯楽であってはまずいわけではないだろうが、娯楽にならないような使い方を求めているのはシステムではなく、自然の成り行きであり、そこに偶然が作用して娯楽ではない何かがもたらされて、その活動が娯楽から外れてくるのかも知れないが、それが何かといえば、娯楽でなければ労働になるかというと、娯楽も労働も物や情報やサービスの生産と流通と消費のシステムに組み込まれているわけだから、どちらからも逸脱する行為になればシステムとは無関係になるだろうが、それと同時に利益ももたらさなくなるかも知れないし、利益とは無関係におこなわれる行為となるかも知れないが、では何になるかというと何にもならないかも知れないし、他の何かになるわけでもなく、そのものが行為や行動であり、そこで何かをおこなっていることになるだろうが、そうなるのが自然な成り行きに従っておこなった結果であれば、そこで自然な対応ができていることにもなるかも知れず、自然な成り行きに従った自然な対応としてそこで何かをおこなっていることになるかも知れないが、何かそこからもっともらしい意味など生じてこなくても構わないというわけでもないだろうが、意味はおこなった後からついてくるものでもあり、それをおこなっている最中に意味など感じ取れなくても構わないのかも知れないし、その時点では暗中模索であってもかまわないのかも知れないが、案外結果を意識しないことがそれが自然な対応となるには肝心なのかも知れないし、実際にそこで何だかわからないことをおこなっている最中であることが、結果的には自然な対応に結びついてくるのかも知れない。


8月9日「業界人と門外漢」

 何らかのシステムを具現化したものが機械であり、目的に応じて機械を稼働させたり駆動させれば一定のことができて、それによって事前に目論んだことが達成されたりされなかったりするわけだが、そのシステムには再現性があり、繰り返し同じ効果や結果をもたらすように設計されていて、繰り返し動かせばやがて部品が摩耗して劣化するから寿命がくるにしても、人力でおこなうよりは遙かに効率が良く大量のことを正確におこなうようにも設計されていてるから、少なくとも現代においておこなわれる大抵の作業には機械が利用されるわけで、そうやっていつの間にか機械に頼らなければ何もできない状況がもたらされているとしても、すでに機械の動作を前提としたシステムに人の動作も組み込まれていて、そうしたシステムの中では機械の動作と人の動作が一体化して何らかの目論見が実践されて、人の方では機械も含めたシステムを利用してやりたいことをやっているつもりでいるはずだが、いつの間にかそのやりたいことというのが、そうしたシステムの維持管理に貢献することにすり替わっている面もあって、システムを利用しているつもりが逆にシステムに利用されて、そこにかかわっている誰もがシステムの支配に屈していることに気づかないという本末転倒なことにもなっていて、そうやって人はシステムの動作に組み込まれてそのシステムに依存して生きる業界人となってしまうわけだが、そうした業界人に課された使命というのが、その業界を盛り立てることになるのは火を見るよりも明らかなことであり、そうした業界人が言っていることをその業界に属さない門外漢が真に受けるかというと、それを真に受ければ業界人の思うつぼにはまるとしても、何から何まで疑ったり反発する成り行きにもならないだろうし、その場の状況に応じて是々非々で判断するしかないだろうが、程度の差こそあれ誰もが何らかの形で何らかの業界に属していると思っても当てが外れる面もあって、意外とどこにでも門外漢がいて、その種の業界人の言うことに疑念を抱いて、業界人の主張の中で宣伝されるその業界にとって都合の良いことが、その業界に属していない人にとってはそうでもないことを感じ取っていて、そこで特定の業界の利益が優先されることも承知していれば、別に業界人であることが悪いことではないし、その業界にかかわれば誰もが否応なくかかわっている程度に応じて業界人化してしまうことも理解できて、業界人化した程度に応じてその業界にとって利益になることをやらなければならなくなるし、業界を擁護しなければならなくなるのも当然の成り行きで、言動や行動に業界を利するようなバイアスがかかっていることを業界の外にいる人たちが感じ取っていれば、その手の人たちの宣伝や煽動に惑わされる程度も減じられるだろうから、そういうことに配慮しなければならないのはむしろ門外漢の方かも知れず、結局誰もが自らの仕事にかかわっている方面では業界人化しているとしても、それ以外のところでは門外漢となっているわけだから、業界人である面と門外漢である面の両面でそれなりにバランスをとらなければならず、といっても否応なく業界人である面を優先させてしまうだろうが、そういうところで矛盾する面が出てくるとしても、どうやっても自らが属しているつもりの業界の利益を優先させるのにも限界が生じてきて、それと同時に専門外の方面で見識を深めないと、業界を支配するシステムの虜となって、その業界と栄枯盛衰を共にして心中する羽目に陥ってしまうのかも知れず、業界人としてはそれで構わないだろうが、門外漢としての自由を放棄するのもあまり得策だとは思えなければ、業界の衰亡と運命を共にするようなことは避けて、ヤバくなってきたらさっさと見切りをつけてとんずらするようなことも選択肢として残しておくことにもなるだろうが、業界の中で中途半端に成功してしまうと、ちょっとおだてられてその気になって業界を盛り立てることに関して義務感や責任感などが生じてしまえば、抜けるに抜けられないような役割を担わされて、業界と心中するコースから外れられなくなってしまうのかも知れず、心中するのがいやならひたすら業界を盛り立てることに尽力しなければならなくなり、それが門外漢から見れば業界と心中しているように見えるだろうが、そうした構図を理解できるのも門外漢の方であり、業界の内部にいると自らがどういう立ち位置になっているかがなかなか見えてこないのかも知れないが、逆に見えてしまうとまずいのかも知れず、見えていないからこそ業界のために尽力できて、場合によっては犠牲になることもいとわずに尽くすような役割も受け入れてしまうのだろうが、そうした犠牲の上に特定の業界の繁栄が築かれているとしても、そこにかかわっている誰もがその業界を維持するシステムの虜となっていること自体が、人としてどうなのかと言えば、そういうことが問われる状況となっていないことが業界にとっては都合が良いということであり、人としてどうなのかと問われるような隙を与えないことが業界の維持存続には不可欠かも知れず、そういうことを問うような門外漢が登場してもらっては困るわけで、またそういう門外漢による介入を阻むことも業界の体制を維持するには必要となってくるだろうが、そうした業界人としての行動や言動が心に響いてこないのは、何よりもそれが業界の利権を死守しようとしているように見えるからだろうが、そうなっている時点でその種の業界人とは違う視点から物事を見ていることになり、立場や利害関係が異なるからそう見えてしまうのだろうが、それに関して何か特定の業界の姿勢に批判的な意見を言う人がまともそうに見えてしまうとしても、その人もそれとは別の方面では何らかの業界に属していることも想像されて、その方面では自らが属する業界を擁護しているかも知れないが、そういう人の言うことを全面的に支持したい気になるとしても、それはそれとして支持したいということであって、その人の存在自体の良し悪しを云々したいわけではなく、それとは別の方面で悪事を働いていてもその人の意見まで否定することはなく、それとこれとは別々に判断しなければならないことであり、もちろん実際にはそういうわけにはいかないから、別の方面で働いている悪事によってその人のまともそうな意見の効果が打ち消されてしまうだろうが、まともそうな意見というのがそういう外部的な要因に左右されてしまう意見でもあれば、その程度のことだと思うしかないわけだが、批判にはそういうことも含まれていて、他人の批判がまともそうに感じられても、その人を全面的に支持することにはならないのかも知れず、そういう意味では完璧な善の立場から他の何かを批判するようなことはできないと考えておけばいいはずだが、それでも批判せざるを得ないようなことが出てきてしまうから、自らが批判できる立場かどうかを考慮せずに批判する成り行きになって、逆にその人の非が明らかとなっている方面と絡めて批判され返してしまうのだろうが、さらにはそんな成り行きには一切かかわらずに批判を自ら封印してしまう場合もあるだろうし、そこから戦略が生じてくるとなると、他人や他の団体を批判する代わりにどう振る舞うかが重要となってくるのかも知れず、そうした振る舞い方の一つとして批判とは違う言動を模索することになってくるのかも知れないが、それが業界人とも門外漢とも違う立場からもたらされる言動になるかというと、その辺は何とも言えないところだろうが、少なくともそれが善悪や良し悪しの判断をなしで済ませられるようになってくれば、批判とは違う何かになってくるかも知れず、それが何か捉えどころのない言説によって構成されると、何を言っているのかよくわからなくなってくるだろうが、それでも何をはぐらかしているわけでも煙に巻いているわけでもなく、語りたいことをそのまま語っているようにも感じられなければ、その場の状況によって語らされていることになるのかも知れず、実際にその場の状況が求めるような言語表現となれば、そこでうまく振る舞えたことにもなるのかも知れない。


8月8日「虚構の冒険」

 現代について何か疑問があるわけでもなく、現代が現代のような政治や文化形態の現代であることに異論はないが、例えばある種のフィクションの語り手が現代については語らずに、過去や未来の王国について語ろうとするのは、現代をあからさまに避けていることになるだろうが、現代の選挙制度や議会制度などの政治風土の中からは物語の英雄などが出現できないから、英雄による冒険譚などを語る際には、過去や未来の想像上の王国や帝国などを設定するしかないのかも知れず、そういう意味で現代の世界はその種のフィクションの語り手からすれば夢も希望もない不毛の地のように感じられるかも知れないが、そうした伝説の主人公となるような英雄の代わりにスポーツ選手や企業経営者などを英雄に仕立て上げて語るとなると、範囲が特定の分野に限られて、英雄としての万能性が欠如してしまい、政治家などはもはや英雄ではなく悪役そのものであり、物語そのものが成り立たなくなってしまうかも知れないし、現状の世界でおこなわれていることを英雄の冒険譚に仕立て上げること自体に無理があるのだろうが、無理矢理スーパーマンなどの超人を登場させても、その存在理由としてはいつも決まって現代文明が破壊される危機から世界を救うためというあり得ない大義名分が必要となり、それが救世主の物語に似せて構成できるとしても、物語と現実との隔たりはいつの時代でも意識されてきたのかも知れないし、物語自体が子供だましな面も否めないが、大の大人がその種の子供だましを真に受けるから漫画や映画などにおいてその種の冒険譚が商業的に成り立つのだろうが、そんな冒険譚に心を奪われる一方で肝心の何から目を背けているのかといえば、何が肝心かもわからないから目を背けている対象すらもないのかも知れないし、その代わりに現状ではあり得ないこと想像して、あり得ないことに興味を惹かれるからフィクションの中で構成しようとするのかも知れず、それがフィクションの中で可能となるから、そんなフィクションがその人の中では重要になってくるのであり、それに対して実際にあり得ている現状には、フィクションへの興味とは別の興味が生じているのかも知れないが、現状の延長上でフィクションが構成されるから、全くの別の興味とはならないだろうし、むしろ現状に似せてフィクションが構成される面では興味が重なっているはずで、場合によっては現状とフィクションとが地続きとなっているところもあるだろうが、逆にフィクションの中で都合良く語られているところが現状の中で無視されているところであれば、現状の都合の悪いところがフィクションの中では語られていないことになるかも知れないが、それは現状について語る言説の中でも語られていないところかも知れず、現状で無視されているところがフィクションの中でも無視されて、無視されるからフィクションが現状よりも魅力があるように感じられるとすれば、それが目を背けている当の対象となるだろうが、それが何かというと大半の人が気づいていないところでもあり、目を背けているというよりは単に気づいていないことになるのかも知れないが、それが物語ではなく実際に物事を進める上で欠かせない交渉の経過であり、フィクションの中で都合良く繰り広げられる戦闘シーンとは違った地味でつまらない言葉のやりとりとなるだろうが、しかもすぐに話の都合に合わせて決裂したり合意に達するのではなく、延々と議論が平行線に終始して何の結論にも達しない話し合いの連続でもあれば、そうなると物語にはならないわけで、そんな内容を改めて語る価値などなく、それ自体が語られないから気づかなくて当然かも知れないが、実際におこなわれていることの大半がそれだとは誰も思わないだろうが、事態が何の進展も見せなければそうなっていると考えても構わないのかも知れず、実際にそうなっていればすぐには戦争など起こらないはずだが、また他の物事も停滞していて何の進展もなければ話にもならないわけだが、他にも話にならないことなどいくらでもあるだろうし、物語でその全てを語ることなど不可能であり、話にならなければ語られないわけだが、物語に関心を持っている人が話にならないことに気づくはずもなく、別にそこから目を背けているわけでもないはずだが、目を背ける対象にもならない物事に興味を抱くかといえば、普通に考えてそんなことに興味などないだろうし、そういう方面ではそれで構わないとしても、構わなくて済んでいるうちはいいとしても、果たしてそれでは済まないことになるのかというと、それも個々の状況によって異なってくるところだろうが、話にならなくてもかかわっていることなどいくらでもあるかも知れず、話にしなくても済んでいれば問題ないかというとそうでもなく、話にする気にならなくてもうんざりさせられていることなどもいくらでもあるし、逆に気分が良くなるようなことにかかわっているとしてもわざわざそれを語ろうとは思わない場合もあるだろうし、そう何から何までかかわっていることの全てをさらけ出して語る必要などないわけだが、中には語らないと気が済まない人もいるだろうし、他の人には何の興味もないようなつまらないことを延々と語ってしまう人もいれば、そういう人は無視されて目を背けられてしまうだろうが、そうなっていることにも気づかずに延々とつまらないことを語ってしまえば、それが現状でおこなわれていることになり、他の誰もが目を背けていることにもなるだろうが、果たしてそこから目を背けている人たちにとってそれが重要なことになるのかというと、目を背ける動作をおこなわせているということに関しては重要なことになるだろうし、それがなければわざわざそこから目を背けなくても構わないわけだから、わざわざ目を背けさせられている人たちにとっては目障りなことでもあるだろうし、できればやめてもらいたいと思っているかも知れないが、一向にやめる気配もなければ場合によっては強制的にでもやめさせようとするかも知れないし、しかもそれを無視しながらもやめさせようとするのだから、何かやっていることがちぐはぐな印象を伴うかも知れないが、無視することとやめさせることを両立させるという困難な動作を強いられているとすれば、それを無視しつつも気になって仕方がないような矛盾を抱え込んでいるのかも知れず、そうなっている限りでそれに意識がとらわれて引き寄せられていることにもなるだろうが、そういう態度をとらされていること自体が何よりも気に食わないことだろうし、腹が立って仕方がないようなことにもなっていると、裏から執拗で陰湿な攻撃を仕掛けて醜悪な心理状態を呈している可能性さえあるにしても、それを必死に隠そうとしているとなると、そうなっていること自体がたまらなく不快な状況をもたらしているだろうが、そういうことを想像してしまうことも被害妄想の類いとなって虚構の思い込みに拍車がかかるわけだが、そうしたフィクションを語りたくなってしまえば無用で意味のないことを語ろうとしていることにもなり、勝手に自分で墓穴を掘っていることにもなってしまうかも知れないが、本当に語りたいのはそういうことではなく、もっと肯定的な内容を語りたいのかも知れないし、それがその人にとって都合の良いフィクションとなって、実際に目を背けていることを覆い隠して忘れさせるような魅力を感じている対象となれば、それについて大いに語りたいだろうし、それが物語の枝葉末節な面にも及んでくると、全体として何か独りよがりな内容ともなりかねず、他の大半の人たちにはどうでもいいような物語の細部まで延々と語っていることにもなり、話や場面の全ての細部に意味があるような幻想まで抱いてしまうかも知れないが、そうした細部にこだわらないと話のボリュームが生じてこないから、語るにはそうせざるを得ない必要が出てきてしまうのだろうが、そういうところに執拗にこだわって語ろうとしてしまうと、それとは裏腹に無視しているところや意識して目を背けているところもそれと共に浮き出てきて、その人のいびつな愛憎入り混じった語る対象へのこだわりもさらけ出されてくるかも知れない。


8月7日「特別な時間と存在」

 今日が特別の日ではなく今が特別な時間でもないのはわかりきったことかも知れないが、何もかもが特別ではないのは自らが特別な存在ではないことの証拠かというと、特別な存在になろうとしてなれるわけではないのもわかりきったことかも知れないが、たぶん自分にとっては自分が特別な存在だと誰もが思っているだろうが、他人から見てどうかというと、どこにでもいるようなありふれた存在だと思われているかも知れないし、特別であることを示す印など何も持っていなければ、特別な存在になどなりようがなく、それ以前に取り立てて必要がなければ特別であるかないかもどうでもいいことかも知れないが、例えば電車内で突然見ず知らずの他人を刃物で刺しまくるようなことをやれば、刺した人にとっても刺された人にとってもその瞬間が特別な瞬間となり、またその場に居合わせた誰もがかつて経験したことがない特別な時間の中で逃げ惑うことになるだろうが、そういった行為が一段落して加害者が警察に逮捕されて、「俺はくそみたいな人生を送っているのに幸せそうな人は許せない」とか、「勝ち組の女性を殺して乗客を大量に殺そうと思った」と供述したと報道されてしまうと、供述の内容がありふれた紋切り型の羅列であり、どこにでもいるありふれた人物が何か血迷って殺傷事件を起こしたと思われるだろうし、事件を起こした理由が「金に困って万引きしたのを見つかって通報した店員を殺してやろうと思ったが、店が閉まっていて殺せなくて電車内で無差別殺傷事件を起こすことに切り替えた」こと自体も、何から何までありふれていて、特別なことは何もないわけだが、ありふれた人物がありふれた理由でありふれたことをやっただけなのに、その場に居合わせた人にとってはそれをやった当人も含めて誰もが特別な時間を共有したわけで、社会の中で暮らしていると誰もがありふれたことをやるように仕向けられてしまうわけだが、なぜそう仕向けられてしまうのかといえば、それが制度に従わされていることの証拠であり、金に困れば万引きするように仕向けられて、店員が万引きを見つければ警察に通報するように仕向けられて、警察に捕まって事情聴取されていやな思いをすれば、通報した店員を逆恨みするように仕向けられて、店員を殺しに行って店が閉まっていれば、電車内で無差別殺傷事件を起こすように仕向けられるわけではないとしても、電車の中で自らの情けない境遇と幸せそうに見える他人との格差を想像してしまうこと自体が、そんなことを想像するように仕向けられているのかも知れず、また制度上の役割として強い立場にある警察ではなく、弱い立場にある店の店員とか女性とかに攻撃目標を定めてしまうことも、そう仕向けるような制度的な圧力に屈しているわけで、弱者は弱者を攻撃することしかできないような制度的な制約が課されていると解釈できるかも知れないが、制度に従えば特別な存在になれるかというと、特別な存在になろうとしているわけではなく、制度が許す範囲内で行動したまでで、実際には許されないことをやったわけだが、それが制度の中では許されないことだとしても、許されないことの典型例として制度が定めるようなことをやっている限りで、制度に従って制度が許されないと定めたことをやってしまっているわけだから、制度を揺るがすような特別なことは何もやっていないわけだが、少なくとも制度に逆らうとはそういうことではないような気がするし、制度に逆らって何をやるつもりもなかったのだろうが、では制度に逆らうとはどういうことなのかというと、例えば金に困って万引きするような情けない境遇に自らを追い込んだ社会全体を恨んで攻撃を加えることが制度に逆らうことになるのかというと、どうもそういうことではないような気がするし、たぶん制度に逆らうのも想定に入れて制度が作られていて、制度に逆らうのも制度に従って逆らってほしいような制度となっているから、今回のようなケースでは制度が想定している範囲内で制度に逆らうように仕向けられてしまった事例でもあり、だからありふれた行為となってしまったのだろうが、それとは違ってそうした何から何まで制度内で事を済ませるように仕向けてくる制度の裏をかいて、してやったりとかざまあみろとか思えるようなことができるかというと、金に困って万引きするような貧困に直面してしまうと、制度にとらわれた貧困な発想しか出てこないのかも知れないが、何か事件を起こすとかそういうことではないのかも知れないし、逆に事件を起こすように仕向けてくる制度的な圧力や誘惑に屈してはまずいのだろうし、その手の圧力や誘惑に屈してメディアの格好のネタとなってしまうこと自体が制度内でそうなってしまうことでしかないわけだから、そうならないような工夫が求められているとしても誰がそれを求めているわけでもなく、制度的にそうなってほしいと思われる傾向に逆らうことが制度に逆らっていることになるかというと、逆らう理由がなければ制度に従うしかないだろうし、制度に従いながらも制度が求めているような結果には至らないことが、結果的に制度に逆らっていることだと思いたいが、果たしてそんなことができるかというとよくわからないわけで、絶えず何かをやってみてから判断するしかなく、ありふれたことをやるように仕向けられていることを実感できるかどうかが、そこでの鍵となってくるかも知れないが、実際に今回のケースで死人が出なければ少なくとも死刑にはならないだろうし、死刑にならなければそれなりに刑務所で長期間にわたって生きていけるから、当人としてはうまくやった部類に入るかも知れず、そうなれば制度に従うことによって生き残ることには成功したことになるだろうし、死刑になる一歩手前で踏みとどまれて制度をうまく利用したことにもなるはずだが、果たしてはじめから死なないように急所を外して手加減しながら刺すような配慮があったかどうかは怪しいだろうし、たまたま結果的に死人が出なかったのは運が良かったとしか言えないだろうが、またたまたまその場に居合わせて刺されて重軽傷を負った人は運が悪かったとしか言えないが、そのおかげで万引きを見つけて警察に通報した店員は殺されずに済んだわけだが、その人にとっては万引きを見つけたら警察に通報する制度に従ったばかりに死の危険にさらされたわけだから、どうせ警察が事情を聴きに来るから話の顛末を知れば何かゾッとするような不条理感を覚えるだろうし、たまたま店が閉まっていたおかげで九死に一生を得たような気分となるかも知れないが、そういうところまで考慮するなら今回のケースは稀なケースであり、偶然の巡り合わせでそうなったとしか言えない面もあるから、何かそれが特別な事件であるような気がする人も関係者の中には出てくるかも知れないが、どうせメディア上でも刺された被害者の側に寄り添って何やら利いた風な意見を言う輩が出てくることも想定内であり、何とかして事件を制度内で処理して一件落着としたいわけでもないだろうが、実際に裁判制度や刑務所制度などの制度内で処理されることは確実であり、そういった制度的な処理が施されると人がどう変わるかも制度が示している範囲内で変わるのかも知れないし、何から何までが制度の中で処理作業がおこなわれるとしても、制度は制度として制度内の仕組みに従いながらそれ相応に機能して作動しているのであり、そういう面ではそれに従うしかないわけだが、そんな制度の中で実際に処理される人にとって何か特別に思われることがあるとしたら、それがその人にとっては特別な思いになるはずだが、少なくともそれが事件の被害者に対して発せられる謝罪の言葉には含まれないだろうし、謝罪の内容がありふれた定型の謝罪文となることも想像に難くはないわけだが、逆に心の内で思っているのはそんなことではなく、してやったりだのざまあみろだのと思っていればそれが制度にとっては不都合な真実となるだろうが、ありふれた人々が思っているのはそういうことであり、お前は心から謝罪していないと思いたいわけで、案外それも制度が求めている範囲内でそう思われることなのかも知れない。


8月6日「同時代的な傾向」

 世の中には誰もが気づいているようでいて案外気づいていないことがあり、それに関して同時代的な傾向を同時代の中では感じ取れず、それを知っているつもりであっても、部分的に知っているにすぎず、その多くは木を見て森を見ないような近視眼的な知識にとどまってしまうのかも知れないが、同時代的にはそれで構わないとしても、その時代からある程度離れた時代から振り返ってみると、その近視眼的な知見を駆使して同じような主張を繰り返している人が大勢うごめいている様子が手に取るようにわかるとしても、できればそれを同じ時代の中で同時代的に知りたいわけだが、実際にそれを知っていると思い込んでいる人もいくらでもいて、誰もが知っているつもりの同時代的な傾向というのが、実際に多くの人がとらわれているそれではなく、一過性の流行現象の中でとらわれているそれであり、それとこれとはどう違うのかと言っても同じそれであり、重なる面も大きいのかも知れないが、自分がそれから逃れていると思ってはまずいのかも知れず、自分も他の多くの人がとらわれているように同時代的な傾向にとらわれていて、決して同時代的な傾向から外れているわけではなく、他の大勢の人たちと同じような認識を共有していて、そうした認識の共有こそが同時代的な傾向を示しているのだろうが、では具体的にどんな認識を共有しているのかと言えば、世界の気候変動に関する認識であったり、政治経済的な方面では民主主義と国家主義と資本主義などの兼ね合いの中で、民衆の側から民主主義の実現が叫ばれているにもかかわらず、国家と資本の側からそれを抑圧する傾向があることなどが、誰もが思いつく限りでの共通認識となっているはずだが、それが例えば世界の気候変動に関する認識と民主主義の実現に関する認識がどう結びつくのかが、すぐには理解しがたいところだが、一見それとこれとは無関係なように感じられるとしても、リベラル派の環境意識や人権意識の高そうな人たちの間ではどちらもが緊急に取り組むべき課題となっているだろうし、どちらもが人々の生活を破壊する脅威であり、放っておけば国家と資本とが手を携えて環境を破壊しながら民主主義も破壊するようなことをやろうとして、それに抗議して抵抗する民衆を弾圧するという成り行きを想像してしまうが、一方的にそうなるわけでもないのは誰もが容易に想像がつくところだが、実際にそういう面もあることも誰もが承知していることでもあり、だからこそ民衆が主権を行使できるような民主主義の実現が必要となってくるわけだが、世界的にそれが実現しているように見える国や地域が限られていて、政治の領域で民衆の意向を無視するようなことがおこなわれている国や地域も結構あるから、民主主義の実現に関しては疑念が抱かれているわけだが、その実現を阻む要因が何かしらあるとしても、なぜそうなってしまうかに関してはよくわかっていない面もあって、ただ民主主義の実現を訴えるだけではどうにもならない事情や経緯があるとしたら、それが何かを探らなければならないが、それが世界の共通認識とは相容れないようなことでもあり、民主主義が実現しているように見えるごく一部の国や地域だけに限られた認識となっていれば、他の国や地域ではどうなっているかというと、国家と資本だけで成り立っているような認識でもあり、実現しては困るようなこととして民主主義が位置づけられているとすれば、なぜそうなっているかが問題となるはずだが、それが問題ではなく、民主主義なしでも国家と資本を維持できるからそうなっているだけで、そこに民主主義の入り込む余地がなくなっているのだろうが、では民主主義が邪魔なのかというと、民主主義が必要となる経緯と事情が必要なのかも知れず、しかもどうやればそれが必要となるかということではなく、どうやってそれが必要となる経緯と事情が生じてくるかが問題となり、そうなる経緯と事情をもたらさなければならないということではなく、そうなる経緯と事情がもたらされれば民主主義が必要となってくるわけで、もたらされなければ必要とはならず、必要とならない限りは民主主義が実現しないのかも知れないが、どうもそれが始めから政府主導で官僚機構や政府機関などの整備がおこなわれてしまうと民主主義が生じる余地がなくなってしまうのかも知れず、無理矢理とってつけたように議会を設置して選挙をおこなっても、それが定着しないうちに経済がおかしくなって形骸化するような事例が発展途上国などではよくありがちかも知れないが、ではどうすればいいかといっても、そうする以外にないからそうなってしまうのであり、そうならないためには何が必要なのかといっても、まだその段階では民主主義が必要ではないわけで、必要でもないのに民主主義を実現しようとすれば、選挙で独裁者を選ぶようなことが起こってしまい、結果的に民衆が自ら選んだ独裁者に長期間にわたって苦しめられることになるのだろうが、それよりは民衆の生活基盤や経済基盤を安定させることが急務となってしまうのだろうが、政治家を選ぶ民衆が貧困に喘いでいるようではうまくいかないのは当然だとしても、貧困に喘いでいるからこそ政治に助けを求めて貧しい状況をどうにかしてほしいと思うだろうし、そういうところで不条理に直面してしまうのも決まり切ったことかも知れないが、結局は他に先駆けていち早く民主主義を実現させた国や地域では世界的に付加価値の高い産業技術なども独占していて、しかもそうした産業基盤の上にさらに情報をもととしたソフト産業なども発展させているから、他の国や地域にはそうした国や地域からの下請けのような産業しか回ってこないし、相対的には貧困から抜け出られずに民主主義も定着しない事態となっているのかも知れないが、そうした国や地域の民衆が何に惑わされているのかといえば、経済発展に惑わされていて、政府が一向に経済発展を実現してくれないから政府や政治家や官僚などに対する信用がなくなると共に、民主主義に対する期待もなくなってしまうのだろうが、そうやって政治と経済の結びつきに関する幻想から抜け出られなくなって、経済を発展させなければ民主主義も実現できないような思い込みにとらわれてしまうのかも知れないが、果たして本当にそうなのかというと、そういった経緯や事情から生じてくる民主主義は確かにそうかも知れないし、それとは別の形態の民主主義などあり得ないかも知れないが、そうであるなら無理に民主主義の実現にこだわることもないのかも知れないし、中国の政府関係者のように我々には我々の国情に合った統治の形があると主張してしまうのもこじつけのような感じを否めないが、少なくともアプリオリな大前提として民主主義の実現を目指さなければならないというのは、無理難題を押しつけるようなことでもあり、政治的な活動としてはその場の事情やそこに至る経緯に沿ったことしかできないだろうが、それでも経済が発展していて民主主義が実現している国や地域を意識してしまうわけで、メディアを通じてそういう状態に憧れるように仕向けられているから、そうなるのも無理はないだろうが、そういう傾向も含めてそこに特有の事情や経緯が生じていて、それを無視するわけにはいかないから、今後とも現状のような傾向が続いていくと思われるわけだが、そういった傾向が揺るぎないとしても、実際にいつまで経っても一向に経済がうまくいかずに民主主義も実現しないとなれば、さすがにその種の幻想も薄れて熱も冷めてしまうだろうし、そうなっている時点ですでにそれ以前とは違った傾向を示していて、それとは別の道を歩んでいることになるのかも知れず、実際に日本でもそうなっていることにほとんどの人たちが気づいていない可能性があるわけで、それが同時代的にはわからないことかも知れないが、ここからさらに何十年も歳月が経ってからこの時代を振り返ってみれば、現状では誰もが気づいていないことがわかってくる可能性もあるわけだ。


8月5日「情報革命」

 集団で作業するように訓練された人にとってはそうすることが当然だと思われるだろうが、それを作業だとも自覚できないようなところまで集団内で心身の一体化が進んでいる場合もあって、それに関しては昆虫のアリやシロアリやハチなどの行動を思い浮かべてみれば、集団主義と言われる状態がどんな状態なのかが想像できるかも知れないが、比喩としてはそうであっても、人と昆虫とでは比較できない社会的な傾向や特徴があるだろうし、人特有の集団心理の類いが社会の中に行き渡っていて、それが競争原理に反映されて、場合によっては生活の全ての面にわたってそうであるかのような勘違いも生じさせているのかも知れないが、そういう面もあるにしても、それだけではうまくいかない面もあって、競争しつつも友愛や協力や協調関係も実現させようとするのだろうが、それとも異なるような関係とも言えない関係もあるかも知れず、その人の存在は意識するが何とか無関係を装いながら放っておかれる関係もあるだろうし、直接関係せずに一定の距離を保って、かかわろうとしない場合もあるわけだが、さらにそういった人間関係よりも機械やシステムの動作を優先させなければならない場合もあるわけで、機械やシステムの動作に身を委ねていれば、煩わしい人間関係を忘れていられるような気になれるかも知れないが、実態としてはそれらの関係が単体としてあるわけではなく、重複して重なり合って結びついていたり錯綜しているわけで、それらのうちで何を優先させようとしても他の関係ももつれ合いながら絡んでくるわけだから、それら全体をうまく把握できないし、関係の間の調整も調節もうまく行かない場合もあるが、その中でも機械やシステムの動作と一体化することによって人の思考が単純化する傾向もあり、実際に20世紀における産業の重工業化と共に生じてきたのがファシズムやナチズムやスターリニズムなどの全体主義であり、その機械的かつ合理的な思考が例えば強制収容所における強制労働や大量虐殺という人を大量に処理するシステムを可能にしたわけで、それに対して20世紀末から21世紀初頭にかけてコンピューターの情報処理能力の飛躍的な進歩とインターネットを介した世界的なネットワーク化を背景として何が生じたかというと、それを簡単に言うなら思考のゲーム化と言えるかも知れないが、それが具体的にどんな傾向を示しているかとなると、うまく言えない面も出てくるかも知れないが、ゲーム感覚で日々を生きるということが、それに伴って戦略や戦術を重視することになるとしても、戦略や戦術には欠かせない情報がネットを介して安易に手に入るから、情報そのものの価値が相対的に低下したのかも知れないし、しかもそれが素人でも思いつくような安易な戦略や戦術でもあり、戦略や戦術の体をなしていないのかも知れず、それ以前にそもそも生きることの全てをゲームと見なせるかというと、そうとも言えないような面も出てくるかも知れないが、何とかしてゲームに見立てたいとなってくると、そこからも何らかの単純化が生じてきて、思考そのものが情報に頼りすぎているとそれ以外の感覚が退化して、何をやるにもそれに関する情報を入手して戦略や戦術を立ててからでないと実践できなくなり、直接の行為や行動に伴って養われる勘が鈍ってしまうのかも知れないが、それが勝負勘といったゲームに関する勘というよりは生きることそのものから生じてくる勘かも知れず、日頃からコンピューターやネットワークを利用した様々なシステムに意識や思考がとらわれているから、まずはそれを利用して何をやるかを考えてしまうだろうし、自身でも何らかのシステムを構築してそれを利用した活動を生きる糧としたいだろうが、そういうことをやる以前に生きている実態があって、国家的に構築されたシステムや企業によって構築されたシステムが仕掛けてくる安易なゲームに参加させられて踊らされて操縦されてしまう面があるとしても、その一方で勘がそれを拒否するような傾向もあり、意識せずにその種のシステムの盲点を突いてシステムが指示する動作から外れたりずれてしまい、システムを管理運営する側や実際に外れたりずれた動作をおこなってしまう自身をも困惑させてしまうわけだが、普通に考えてそんなことをやらなくてもいいのに、やる必要もないのに何かそこで勘が働いておかしな動作をやってしまうわけで、それがシステムの安易さに対して拒否の意思表示を意味しているかというと、意識してそうやってしまうわけではないから、自分でもよくわからないのだろうが、システムに素直に従えないのだから、それを利用しつつも違和感を感じていることは確かであり、その違和感がシステムをうまく利用できないという結果をもたらして、しかもそうなっていても利用していて、ユーザーとしてうまくいかなくなるような使い方をしているわけだが、自身にとってはそれが正しい使い方であり、そんな使い方をしている限りは成功することはないわけだが、そういう使い方が自身にとってはしっくりくるから、そうならざるを得ないような結果となって、それで構わないような現状の中で生きていることになり、そうなってしまうことが自然な成り行きなら、意識してそれに逆らって無理にでもシステムに同調しようとしてもうまくはいかないだろうし、違和感も伴ってしまうだろうから、それはそういうことでしかないとあきらめるしかなく、システムをうまく利用できない不器用な人間だと思うしかないが、そうやって生きていくことが自身にとっては肝心なのかも知れず、逆にその種のシステムにうまく同調できて成功するような人がその後においてどうなったかといえば、システムそのものが人を大量に動かすシステムなのだから、大量に動いている人のうちでそれなりにうまく動けている人もいるわけで、そういう人はいくらでもいるというと身も蓋もないだろうが、一方でシステムにうまく同調できずにそこから外れたりずれたりしている人もいくらでもいるだろうから、どちらでも構わないわけではなく、うまく同調するに越したことはないわけだが、どちらもがそれなりに生きているわけだからそういうことでしかないだろうし、システムに同調できるかできないかで人をある一定の傾向において振り分ける機能があるとしても、振り分けた後においてもどちらに振り分けられた人も生きているとすれば、少なくともそれが人の生死を分ける選別ではなく、それでも同調できた人が優越感に浸れる一方で、同調できなかった人が劣等感に苛まれるような程度のことなのだろうが、それを深刻に受け止められるかというと、人によっては深刻に受け止めている人もいるだろうが、実際におかしな紆余曲折を経た末にそこから外れてしまったりずれてしまった人にとっては、何かの冗談のようなシステムだと思われるのかも知れず、冗談のようなシステムに振り回されるようなことがあってはならないし、そうなってしまうと不条理そのものかも知れないが、実際に不条理に満ちたシステムなのかも知れず、システムを管理運営する側としては誰もが納得できるようなもっともらしい理由を持ち出してシステムに従うように仕向けているわけだろうが、納得しがたいような不条理に満ちた結果がもたらされると困惑するわけで、それでもシステムが維持されている限りで、それに同調できてそれなりにうまくいっている人と同調できずにうまくいかない人が出てきて、うまくいくようなケースが成功例として持ち出されて盛んに宣伝や煽動に使われるから、システムに同調して成功したいと思う人々をシステムに引き寄せるわけだが、その中の何人かがそれなりにうまくいくとしても、システムを利用しているにもかかわらず、システムが指示した通りのことから外れたりずれたりしながらおかしなことをやっている人も出てくるだろうし、どうしてそうなってしまうのかといっても、それは当人にもわからないことであり、何だかわからないが結果としてそうなってしまうことでしかないとしたら、もしかしたらそれによってそこからシステムが変化する可能性が示されているのかも知れない。


8月4日「システムと自由」

 自身に関して何か問題が起これば、そこで立ち止まって対策や対応を思いつくことができればいいが、実際はそんな都合の良いことにはならず、自分の思惑とは関係なく勝手にわけのわからぬ成り行きが進行していってしまい、自身がそこから遠ざけられてしまえば、無関係となって無視されるようなことにもなり、別に他の誰かからお前のようなちっぽけなゴミカスのような存在などいてもいなくても知ったことではないと言い放たれるわけでもないだろうが、それすらもなく何も起こらなかったことになってしまえば、それ自体が何でもないことであり、自身が勝手に過ちや誤りを犯して一方的に損害を被っただけで、それが何でもないことであるはずがないわけだが、それは自分の都合を状況に反映させられる限りでそう思われることでもあり、その場の成り行きに自分の都合を反映させられなければ、自分などいないも同然で成り行きが勝手に進行していってしまうわけで、そうやって自分がかかわっているつもりでいた何もかもから遠ざかってしまえば、何もできずに手も足も出ない状況がもたらされて、それはそれだけのことでしかなくなってしまうわけだが、それでも大した不都合も感じないで普通に生きていれば構わないことにもなって、それ自体が煩わしいことでもあるわけだから、かえってしがらみが少しでも減じられて自由を得たような気にもなれるわけだが、それもほんのつかの間の自由でもあり、そんなことにはお構いなくそれとは別の方面から別のしがらみがまとわりついてくることにでもなれば、しかもそんなしがらみですらも何とかして利益だけはかすめ取りたいようなことをやってくると、それも自分の存在などはどうでもよくて、ただ持っている資産やアイデアの類いを奪い取ったり盗み取りたいという意志が表示された途端に自由を奪われると、同時にしがらみに拘束されながら面倒なことになってしまうわけだが、逆にそこから遠ざけられて自由を実感できる方面へ移動してしまうと何がもたらされるかというと、それに伴って何でもないことがおこなわれて、利益をもたらさないことには関心がないのだから、興味があっても利益にならなければ無視の対象となってしまうようなことがおこなわれるのかも知れないが、無視される分だけ自由が余計にもたらされているような実感を得られるが、自由と共に孤独ももたらされて、そこで何かの釣り合いがとれているような気分となるだろうが、それが何の釣り合いなのかというと、しがらみがなくなった分だけ孤独が増えて、それだけ考える時間が余計に確保されたことにもなるのだろうが、望んでそうなるわけでもなく、しかもそれ自体が余計なのだから、いくら考えても無駄に考えていることにもなり、考えるだけ無駄で、考えている暇があったら行動しなければならなくなってきて、行動すればそれだけしがらみがまとわりついてきて、それも行動の邪魔をするように作用しながら、行動を抑え込もうとしてくるわけで、なぜ行動が邪魔されてしまうのかといえば、模範的な行動から外れているからそれが咎められてしまうわけだが、行動している方は自由に勝手気ままに行動したいわけで、そこで利益とは関係のない自由な行動と利益を求めるシステムに従った行動との間で軋轢が生じてくるのかも知れず、利益が資本となるには継続的に利益が得られないと、利益が資本となるまでには蓄積しないわけで、継続的に利益が得られるには継続的な動作として利益を求める行動へと至り、それがシステムとして動作する行動となるわけだが、システムとして動作するのだからシステムに従った行動となり、システムに従っている面では自由がない代わりに、システムに従っていれば利益がもたらされることにもなり、結果的には自由と引き替えにして利益を得ようとする行動となるわけだが、システムが成り立つには自由を抑制してシステムに従わせなければならず、少なくともそこで各人が自由に行動していてはシステムが機能しないわけで、そこから利益を搾り取るシステムにできるだけ多くの人々を従わせることが、継続的に利益がもたらされてそれが蓄積して資本へと昇華する可能性を高めるわけだから、いかにして人々をシステムに従うように仕向けることができるかが成功する鍵ともなってくるだろうが、実際に世界の至るところで企業などが大がかりなシステムを構築していて、そこに多くの人々を呼び込んでシステムを継続的に動作させながら利益を搾り取っているわけで、その類いがネット上にも蔓延っていて、ネット通販などの会員登録システムがそれに当たることは誰もが気づくはずだが、それが政府が管理運営する行政システムにも言えることかも知れず、継続的かつ効率的に税を搾り取るシステムになっていれば国家運営がうまくいっていることになるだろうが、それだけが国家運営とは言えないだろうし、きれいごとを言うなら国民の利益となるようなシステムでないと困るのは国民自身となるはずだが、国家運営がうまくいくことと国民に利益がもたらされることが両立するかというと、誰もがそれは怪しいと思っているだろうが、一応は両立しているように装われるわけで、それがごまかしやまやかしの類いだと思っている人も多いだろうし、両方共にうまくいっていないとも思っているかも知れないが、そうであってもかまわないのかも知れず、むしろそれが国民をシステムに従わせる動機となり、国民の反発や反抗を抑え込みながらシステムに従わせようとするシステムが発動していて、それが治安維持システムでもあり、国内の治安を維持するには、まずは国民から反発や反抗を招くようなことをやってから、それに対して警察権力などを動員して力で抑え込むようなことをやれば、国家と国民との間に権力を伴う上下関係が生じて、しかも教育システムによって国家運営システムに従順な人材の育成が継続的におこなわれていれば、政府による国家運営がうまくいっているように装えるわけだが、北朝鮮の例を見れば経済の面ではそれだけでは不十分であることもわかってくるわけで、そこで何が足りないのかというと、そうしたシステムにとっては無駄で無意味な何かが足りないのであり、それを一言で言うなら自由が足りないとなるわけだが、なぜ自由が必要なのかといっても、そもそもが人々をシステムに従わせて自由を奪い去らないと利益を搾り取れないのだから、普通に考えて自由など不要だと思うのが当然だろうが、そうなってしまうと別のシステムが生まれる余地がなくなってしまうわけで、人々を動作させて利益を搾り取るにはシステムがあることが必要不可欠なのだろうが、そのシステムだけでは独占状態となってしまうからなぜか利益が生じてこないのであり、それと競合する他のシステムとの間で繰り広げられる競争状態がもたらされないと利益が生じてこないということが、独裁的な権力の維持を目指す勢力には理解しがたいことなのかも知れないが、実際に自分たちにとって都合の良いシステムに人々を従わせようとするわけだから、そうなるより他ないわけで、そういうところで自分たちとは異なる他者の存在を認められないような成り行きになってしまい、自家中毒に陥っていることになるだろうが、他者の自由を認めがたいとしても、他者が存在しないと自分たちの存在も危うくなるという二律背反を理解できないだろうし、理解できなくても実際にそうなっているから、そんな現状の中で他者と共にまとわりついてくるしがらみに自由を奪われながら不快な思いにとらわれてしまうわけだが、すでにそうなっている時点で自身が他者から見れば反発して反抗的な態度となっていて、そうなるからそこで反発する自由や反抗する自由が生じて、システムの側からそんな自由を抑圧するような動作も起こってくるわけだが、そういうところで様々な勢力の間でせめぎ合いも生じていて、そうしたせめぎ合いの結果として、そこにかかわっている誰もがやっていることがうまくいかないような成り行きがもたらされているのかも知れない。


8月3日「生かされない経験」

 何か理由があって、あるいは原因が明らかとなって、何らかの出来事や現象が起こったことになれば、起こったことについてはそれなりに納得できるだろうが、納得したからといって起こったことには変わりなく、何かが起こったことと、それが起こったことについて納得したことは、意識の中では結びついているだろうが、起こったこと自体をどうにかできるわけでもないはずだが、それでわかったような気にはなれるわけで、わかったからといって、そのわかったことを活用して何かをやろうとするかも知れないが、それはそこから先の話であり、それが起こったことにいつまでもこだわっていても、ただ時が経つばかりとなり、そこからどんどん時間が経過していって、そうした時間の中でも様々なことが起こるから、いつまでも過去の出来事などにこだわってはいられなくなってしまうわけだが、中にはいつまでもこだわってしまう人が出てくるとしても、そのこだわりを利用して何かをやろうとして、こだわっていることからくる特有の傾向が表れて、そのこだわりに束縛されている印象を拭えないと、その場の状況とずれているような違和感も伴ってくるかも知れないが、それがわかりやすい傾向でもあり、そうしたこだわりによって思考停止しているようなことにもなってくると、そうしたこだわりがある分だけマイナスとなってしまう可能性まであるにしても、当人としては過去の経験を生かして何かうまくやっているつもりになっているかも知れないし、実際にもそれになりにうまくいっている面もあるかも知れないが、うまくいっているならそれで構わないだろうが、それで構わないからこそそれが自信となっていつまでもそれにこだわっているわけで、こだわるとはそういうことであり、そうしたこだわりの中で自足して自己満足に浸ってしまうのだろうが、それ以上に何ができるわけでもなく、それで構わないと思ってしまえばその程度の水準にとどまってしまうわけだろうが、当人はそれで構わないと思っていても、外部からそれを凌駕する作用が及ぼされてそういう状態を維持できなくなってしまえば、否応なくそこから押し出されて、こだわりの殻を破って思いがけない変貌を遂げる場合もあるかも知れないが、そうしようと思ってそうなれるわけではなく、意識できないところから変わっていってしまう場合もあるが、そうなることを期待しているわけでもなく、むしろこだわりの中に留まっていたいわけで、こだわりの中で自足できれば思い通りにもなっていて、自らの都合もそこに反映されているはずだが、思いがけず状況が変化してそんなことにこだわっている暇も余裕もなくなってしまえば、自ずから変わらざるを得なくなってしまうのだろうが、そうなるまでの過程の中で経験することが思い通りにはならない経験でもあり、思い通りにはならないからこそそれまでのこだわりも維持できなくなって、こだわりに反するようなことや裏切るようなことまでやらざるを得なくなれば、こだわりを無理矢理にでも引き剥がして、新たなことに挑戦するような成り行きになってしまうのだろうが、そういうことをやってしまうと大抵は失敗してしまうから痛い目に遭って懲りて、また従来のこだわりに戻ってきてしまう可能性もあるだろうが、実際にそうなってみないと経験できないことがあるわけで、そうなっている最中で貴重な経験をしていることに気づけないかも知れないが、気づかなくても構わないのかも知れず、そこで失敗してそれっきりとなってしまう人が大半となる中で、そこから運良く生還を果たした人の中で何が生じるわけでもないとしても、それはそれで構わないようなことかも知れないし、せこく小ずるく立ち回って得られる小さな利益よりは、少しは肯定できる何かになればいいのだろうが、そんなことにも気づかない人が大半を占めるとしても、それでも構わないような成り行きに巻き込まれていて、それ自体が何でもないことなのかも知れないが、そういうこと以外に何があるといっても、大したことは何もないような世の中でもあり、実際に何でもないような世界の中で生きていて、そう思っていればそうなっていることになるのだろうが、そうは思えないから、何か深刻で重大なことが起こっているのではないかと思いたいわけで、また何でもないような経験ではなく、何事も自身にとっては貴重なかけがえのない経験をしつつあるのではないかとも思いたいわけだが、それが実態としてどちらでもあってどちらでもないようなことなのかも知れず、実感としてどう感じていようと、その通りであったりなかったりするとしても、相変わらず肝心の何かに気づいていないわけで、それが当てが外れていることなのかも知れないが、中には外れているばかりではなく当たっていることもそれなりにないと、実際に生きてまともに物事を考えていることにもならないだろうが、そういう方面では勘が働いていて、また合理的に物事を考えていて、それが実際にも当てはまってそれなりにうまくいっているはずだが、そうであるからこそ、その場での経験が生かされるようなことを実践できて、それが裏付けとなって自信を生じさせているわけだが、果たして自信を裏付けるようなことがやれているかというと、それをやった結果が示していることでもあり、その中でもうまくいっているように思われるところを強調して過大評価しているようなところもあり、それが自信を通り過ぎて過信に結びついているかも知れないし、うぬぼれを生じさせている面もあるかも知れず、そういうところで謙虚さに欠ける振る舞いとなって自ら墓穴を掘っているのかも知れないが、そういう面もないと無謀なことをやろうとはしないわけで、実際に謙虚さに欠けて自らの領分をわきまえずに無謀なことをやって失敗して痛い目に遭った人たちの中から、それを反省することによってまともに振る舞える人が出てくるのかも知れないし、そういうところで偶然の巡り合わせという自然の選別がおこなわれて、多くのうまくいかない人が脱落して、ごく少数のうまくいった人が生き残るようなことになるから、そこで格差や不平等が生じるわけで、うまくいかない人を助けてしまうと、うまくいった人の努力が無駄となってしまうわけでもないだろうが、そこで格差や不平等が生じないとうまくいったことにはならず、またうまくいかなかったことにもならないかも知れないが、果たしてそういう自然の選別を制御できるかというと、人工的に制御しようとするのだろうが、何から何まで制御できるわけでもないだろうが、制度的に確立されている面もあって、それが学校教育などの場では試験となり、政治などの方面では選挙となるのだろうが、そういうことはあまり正当化するようなことでもないのかも知れず、それはそれとして何かの通過儀礼の類いだと認識しておいても構わないのかも知れないが、あまり重要視してしまうと実質が伴ってこないわけで、根本的なところで試験や選挙に勝つにはどうすればいいかと考えがちになってしまうわけだが、勝ったところでどうなるわけでもない面もあって、少なくとも何かをやる機会に恵まれるかも知れないが、それが何かというと何でもないようなことをやる機会にも恵まれて、実際に何でもないようなことがおこなわれて期待が落胆に変わるのがよくありがちなことかも知れないが、そこでも期待した通りのことができないような成り行きになっていて、それを阻むような制度的な制約や限界もあるわけだが、そこで無謀なことをやろうとすれば失敗に終わる公算が大きいとしても、人々が無謀なことを支持してやらせないと世の中が変わらないとなれば、無謀なことをやる成り行きが生じて、実際にひどい失敗を犯して世の中がおかしくなってしまうのかも知れないが、おかしくなった程度に応じてこれまでにはなかった経験ができるかも知れないし、それが貴重な経験だとは誰にも思われないかも知れないが、誰もがそれに気づかないことが重要であったりなかったりもするかも知れず、それと気づかずに経験することがその後の成り行きの中で生かされるとも思われないだろうが、そこでもそれを経験するにはそうなっていることが肝心なのかも知れない。


8月2日「競争と独占」

 企業活動を大まかに区分けするとすれば製造業とサービス業とに分けられるだろうが、どちらもやっている企業もいくらでもあるだろうが、持ち株会社のように様々な企業を統括する行政的な企業となると、サービス業に分類されるかも知れないが一般的な意味でのサービス業ではないのはわかりきっているし、また製造業といっても単に工場を持っていて何らかの製品を製造するのではなく、製造システムを開発する企業になれば他よりも有利な立場になれるだろうし、傘下やグループに引き入れた企業を植民地化して食い物にしていると見えてしまうと独占的な立場を利用していることになるわけだが、だからといって下請けの中小企業が大企業から搾取されている構図だけですべてを説明できるかといっても、そういうのは使い古されたジャーナリズム的な視点でしかないだろうし、そういう面があるとしてもそうなっているところから衰退が始まっていて、いったんそうなってしまうとそこで競争の可能性がなくなってしまうから、そうなるまでの過程において競争が成り立つような状態を保たなければならないとしたら、それは目指すべき状態というよりはそうならざるを得ない状態となるだろうが、それを保つのも難しいわけで、放っておけば寡占化が進んで企業間で格差が生じるのは競争の宿命だろうが、競争を維持するために行政が介入しなければならないとすれば、二律背反のようなことをやらなければならなくなり、一方では競争に勝ち抜いて大企業となった企業に雇用や税収を期待しながらも、競争を阻害する原因となる大企業による市場の独占を防ぐために何か策を講じなければならないという矛盾が生じてくるのだろうが、行政そのものが一つの政府として国家の中で独占的な地位を築いていて、場合によって政府にたてつく勢力を弾圧しなければならず、複数の政府が一つの国家の中で競争するようなことがあってはならないわけで、実際には複数の政府が世界の中で覇権争いという競争をしていることになるのだろうし、また国家の中でも複数の地方自治体が何らかの方面で競争しているように装われることもあるが、そういうところをごっちゃに捉えて、もっともらしくその種の競争状態を礼讃するわけにもいかないが、何とかして格差が定着した定常状態を避けて、競争のただ中にあるような流動的な状態を実現して維持したいという矛盾を抱え込んでいるのが、新自由主義的な世界の在り方なのかも知れず、結果を見れば世界的に巨大企業による寡占化が進んでいるわけだから、それ自体がある種の欺瞞を含んでいて、都合の良いように世界を捉えているとしかいいようのないことなのかも知れないが、その種の企業を批判することができるとしても、例えば批判している当人が独占的な巨大企業であるグーグル傘下のユーチューブ上で広告宣伝を利用して批判しているとなると、巨大企業を批判している人たちが当の巨大企業に利益をもたらしているのだから、果たしてそういう人たちを信用できるかというと疑念を抱くのが普通の感覚だろうし、彼らが格好の攻撃目標としている世界的には小物の部類に入る竹中平蔵などよりは、彼らが宣伝媒体として利用しているグーグルやツイッターやアマゾンなどの方が遙かに日本にとって有害な悪影響を及ぼしている可能性もあり、彼ら自身が有害な悪影響そのものなのかも知れないし、そんな人たちもそれなりの欺瞞や矛盾を抱え込んでいて、世の中の状況を都合の良いように捉えていることでしかないわけだが、そうだからといってそれを一概に否定するわけにもいかず、そういう人たちの言い分にもそれなりの真実が含まれていると見ておくしかないが、普通に考えて誰もが完璧な善の側には立てないような構造となっていて、ほとんど全ての人たちが偽善や欺瞞の徒となるしかないだろうが、そうした偽善や欺瞞の徒が望んでいる理想状態というのが格差や搾取のない状態となるにしても、実際に行き着くのが格差や搾取の定着した状態であり、そうした状態に行き着くのを避けるには絶え間ない競争状態を維持するしかないというと、それ自体が新自由主義的な幻想にすぎないと否定することは簡単だが、プロスポーツなどの限られた領域であれば高度な水準で競争が実現していて、ゲームを面白くするために戦力が特定のチームに偏らないような配慮が施されていて、それを観ている観客が競争について肯定的な幻想を抱くように仕向けられているわけだが、そうした競争がどうやって実現しているかというと、それを観ている観客の存在を前提として実現しているだろうし、また競争の舞台に立つ前の競争から脱落してプロになれなかった人々や、プロになっても舞台上で繰り広げられている競争に敗れて脱落した人々の存在も忘れてはならないし、競争の舞台に立った時点で独占的な立場を占有していて、そこに至るまでが厳しい競争の中で勝ち抜かなければならないわけだが、そうした状況自体がある種の定常状態でもあり、余裕のある態度で客としてプロスポーツを観戦する立場になりたいわけで、それがある種のステイタスのように思われるとすれば、その種の競争に惑わされていると否定的に捉えるのではなく、他の方面で大変な思いをしているから、その瞬間だけは幻想に浸っていたいと思うわけでもないだろうが、何らかの競争に勝ち抜いてそれなりの資産を保有できるようになれば、その資産を他の方面に投資しながら悠々自適な生活を送ることができるという甘い幻想を抱けるようになれるかも知れないし、そこからさらに妄想が膨らんでゆけば、プロチームの共同オーナーになるとかいう夢も抱くようになるかも知れないし、実際にIT長者が特定のプロ球団のオーナーとなっている事例もあるだろうが、そういった水準で抱く幻想と理想主義者の類いが抱く格差や搾取のない状態という幻想が大きく隔たっていて、どちらが世の中の実態を反映しているかといえば、プロスポーツに幻想を抱いている方がまともに感じられるとしても、それも絶えず流動的な状態の中で定常的な状態に憧れるような幻想を抱いている点では、実態を反映していない幻想にすぎないだろうが、どちらにしても不安定で流動的な状態のただ中にいるからこそ、自らの都合を反映した定常状態へと至る夢を抱くわけで、どちらも現状の不安定で流動的な状態を意識していることは確かであり、それに対して世の中を自らの理想とする状態へと持って行きたいという誇大妄想のような願望が生じるか、あるいは現状でもプロスポーツなどで成り立っている競争状態を観て楽しむ程度にとどめるかは、どちらもあり得ることであり、どちらかといえばプロスポーツ程度にとどまっている方が無難で無害なのかも知れないが、どちらもが現状で抱ける幻想にすぎないところが、そうした夢を見させるように仕向けられていると捉えることもできて、何によってそう仕向けられているのかといえば現状そのものによってとしか言えないにしても、そんな夢を見ている時点で現状がそれなりに流動的に変化しつつあることを示しているのかも知れず、現状の中にとらわれている人々が現状から現状とは少し違う幻想を抱くように仕向けられているからこそ、現状が変わっていく可能性があり、夢を実現するために行動するようにも仕向けられていて、実際に多くの人たちが行動しているはずだが、行動すればするほど現状が変わっていくかというと、変わっていくにしても思い通りには変わらない面もあるだろうし、そこでも思い通りには変わらない面に向かって何らかの働きかけをするようにも促されていて、それがそれに対する抵抗運動や抗議活動などにも結びついて、そうやって何とかして思い通りになるようにその障害となっている部分を動かしたいのだろうが、それがそれらの人たちが思い描いている理想状態に近づくように作用すればいいだろうが、実際にはそれとは別の方面から思いがけない変化が起こる場合の方が多いのかも知れない。


8月1日「相互作用」

 普通に考えて世の中では誰もがそれ相応の何らかの事態に直面していたり、大した事態に直面しているわけでもないのに直面していると思い込んでいるのかも知れないが、それに対して自身がおこなっている行為や行動がうまくいってほしいと思うだろうが、それが勘違いや思い違いかも知れないし、できれば勘が合って正しいことをおこないたいわけだが、勘が知らせていることが勘違いかも知れないし、論理的に考えても正しいと思うことが間違っている可能性もあるかも知れないが、そういうことを考慮に入れてもなお勘に頼ったり、論理的に正しいと思われることをやろうとするのだろうが、具体的にどんな状況下で勘に頼ってしまったり、論理的に何を考えようとしているかについて、その人なりの特徴的な傾向がありそうだが、自分だけが単独で考えているわけでも行為したり行動しているわけでもなく、それに直接かかわってきたり間接的に作用や影響を及ぼしてくる人や団体も存在する限りで、いくら自分の勘や考えが正しくても、他から及ぼされる力によってうまくいかなくされてしまう可能性もあるわけだから、そういう面ではどうしようもない場合がありそうだが、自身の力ではどうにもならないところでも、とりあえずできる限りことはやって最善を尽くそうとするだろうし、結果がうまくいかなくなってあきらめるしかないとしても、あきらめきれずに執拗に自身にとって正しいと思うことをやろうとする場合もあるだろうが、あきらめて別のことをやってしまっても構わないわけで、別のこととは何かといえば、その場の成り行きに応じたことになるかも知れず、その場の成り行きに応じて何もやらない場合もあるだろうが、実際には不十分で不本意で不満が残るようなことをやってしまってうまくいかずに後悔したり、何か中途半端で思い通りにはならないことになって、それがその場の成り行きそのものでもあり、身の回りで起こっていることの一部として自らの行いもそうなっているのであれば、その場の成り行きに絡め取られて不自由な境遇となっているわけだろうが、誰もが大なり小なりそういう面にとらわれているとしても、そういうことを意識し出すときりがなく、それ自体が自身にとっては織り込み済みのことであり、そうなっていることを前提としてその上でそこから何をやるかが問題となってくる場合もあって、さらに試行錯誤を繰り返しながら次第に行き詰まってしまえば、どう見てもやっていることがうまくいっていないことになるわけだが、それもその場の成り行きに応じてやっていることであれば実際にうまくいかない成り行きになっていて、しかもうまくいかない成り行きの中でうまくいかないことをやっているわけだから、自らの勘や考えに従ってやっていることがそうであれば、案外その場の成り行きの中では正しいことをやっていることになるかも知れず、うまくいかないことをやることがその場では正しいことになるかというと、自身ではそうは思わないだろうが、その場の成り行きに応じている面では正しいことになるかも知れず、それが正しいことをやればうまくいくという論理を打ち砕くような成り行きでもあり、その場の成り行きに応じて正しいことをやってもうまくいかないのだから、その場の成り行き自体がうまくいかない成り行きとなっていて、それに応じるように勘が働いていることにもなり、それでは勘が狂っていることになるだろうが、勘というのが果たして自らに味方するのかというと、誰に味方するのでもなく、その場の成り行きに沿ったことをやるように勘が働いてしまう場合もあるかも知れないし、それがうまくいかない成り行きに従ってそれに応じたことをやるようなことになれば、やはりその場ではうまくいかないことが正しいのであって、正しいことをやるとうまくいかなくなってしまうとしても、ならば逆に間違ったことをやればいいということにはならず、その場の成り行きに心身を絡め取られていれば、うまくいかないようなことをやらざるを得ないのであり、そうなっている限りでどうしようもなくそうなってしまうのだろうが、自らの思い通りにはならないとはそういうことでもあり、思い通りにならないからといって思いに逆らって思いとは違うことができるわけでもなく、その場の成り行きと自らの行為や行動が共鳴現象を起こしてしまい、そこから抜け出てそれとは別のことができなくなって、それがその場で心身が絡め取られていることになるのだろうが、それとは逆にその場でうまくいっている人が別にいる場合もあるだろうし、その人がゾーンに入っていて、やることなすことうまくいく状態となっていれば、その煽りを食ってやることなすことうまくいかない人が出てくる場合もあり、実際にそうなっていればその場でうまくいっている人とうまくいっていない人が対戦していて、うまくいっている人が一方的に勝っていることになれば、その場の状況の辻褄が合ってくるわけだが、直接対戦しているわけでもない場合もあるかも知れず、見知らぬ他人同士が別々に無関係なことをやっていて、しかも対面しているわけでも対峙しているわけでもなければ、他でうまくいっていたりいっていなかったりする状況を知り得ないわけで、そうなると自身が何をやってもうまくいかない原因が自身とは全くの無関係の誰かがやっていることだなんて気づきようがなく、それがいわゆるバタフライ効果と言えるのかも知れないが、そういった状況の中では、うまくいっているところだけを選び出して、こうすればうまくいくという論理を導き出しても、それとは全く別の方面から働いている作用や影響を考慮していないわけだから、論理自体が不完全であり、その場の結果だけを見れば通用していることになるかも知れないが、他では通用しない論理になっている可能性もあり、果たしてその場だけで通用する論理が正しいのかというと、正しいとはそういうことでもあり、そうであれば正しいことをやってもうまくいくとは限らないことにもなり、だからといって逆に間違ったことをやればうまくいくわけでもなく、結果的にうまくいけば正しいことがおこなわれたと判断するしかないわけで、また結果的にうまくいかなければ間違ったことがおこなわれていたと判断しても構わないわけだが、それでも正しいことをやればうまくいくとは限らないわけで、ではどうすればいいかといっても正しいと思うことをやる成り行きになるだろうし、普通は間違ったことをやろうとは思わないわけだが、その場の成り行きに応じてしまうと間違ったことをやらざるを得ない場合も出てくるだろうし、間違っていると思いつつもそれをやる事情が生じてしまうと、そんな事情を優先させてそれがおこなわれて、何かしら禍根を残してしまうのだろうが、それもやり方によってはうまく利用されるようなことでもあり、災い転じて福となすようなことをやろうとする場合もあるかも知れないが、意識してそういうことをやろうとするわけでもなければ、その場の雰囲気からかすかに伝わってくる微妙な兆候を察知して、勘に頼って手探り状態でわけのわからないようなことをやっていると、それが正しいとか間違っているとかではなく、結果的にどうなるかわからないようなことをやっている気になれて、それでもうまくいくことを期待しているのだろうが、うまくいかなくても構わないようなことでもあり、たとえうまくいかなくても痛くもかゆくもないと思っていても、結果的にはそれなりに痛い目に遭ってしまい、それでもやらないよりはやった方がマシに思われるようなことでもあれば、それがうまくいかない成り行きの中でおこなっていることでもあり、そういうことが現におこなわれていることだとすれば、現状の中で様々なことがおこなわれていることの理由でもあるかも知れず、様々な方面から批判や非難を浴びせかけられながらも、何か結果的にもうまくいかないようなことが執拗におこなわれている現状があるわけだ。