彼の声145

2021年

7月31日「売買と貸借とそれ以外のやり方」

 おこなわれて当然だと思われることが実際にも当然のことのようにおこなわれていて、それがそれにかかわる全ての行為の土台となっていれば、それなしではそれらの行為が成り立たないわけだから、そういう方面ではそれがなくなることはあり得ないわけだが、それが何かというと、物や情報やサービスの売買と貸借であり、そんなことは誰もが知っているだろうが、それをもとにして社会が構成されているかというと、逆にそれがなしで済むように家族や交友関係が構成されていて、むしろそれが絡んでくるとそれらの関係がギクシャクしてくるわけだが、ではなぜそれが必要となってくるのかといえば、他人との関係においてそれが必要となってきて、また個人と集団や集団と集団との間で交渉しておこなわれるようなことでもあり、そういうところで売買や貸借を通して社会的な関係や結びつきが生じるわけだが、しかも売買や貸借の結果として生じていることが、それを避けるように別の表現で示される場合もあり、それが収入や所得と言われる概念であり表現でもあるわけで、売買や貸借を介さないと得られないにもかかわらず、それ単体で得られたかのようにいわれるわけで、そういうところでそれが避けられないのに表現としてそれを避けて、まるでそれを賃金として直接得られたかのように表現しようとするところが、何か欺瞞が伴ってくるわけで、その実態を考慮せずに政治家がいきなり最低賃金はいくらにしなければならないと主張したところで、実際に売買や貸借がおこなわれた結果からしか賃金が生じてこないわけだから、はじめから結果を設定できるかというと、実際に賃金を支払う側の事情を無視して強引に設定するしかなく、逆に売買や貸借を介して商売をやっている側からすれば近視眼的には人件費をできるだけ削りたいわけだから、そういうところで必要最低限の生活を保障したいという人権的な主張との間で折り合いがつかなくなるのだろうが、政治の方面で人々の支持を取り付けるやり方としては、不当に儲けていると思われる商売から罰金という意味合いで税を徴収することになるわけで、それは行政とその種の商売との癒着関係を暴くことにもつながるだろうし、有利な立場を利用して甘い汁を吸っていると見なされた業種や企業をやり玉に挙げることになるわけだが、それでも物や情報やサービスの生産と流通と販売と消費の過程のどこかでうまいことをやらないと利益をひねり出せないわけだから、しかも同業他社や異業種間でも何らかの形で競争がおこなわれているわけだから、何とかして有利な立場を築きたいわけで、それを一時的にでも築くことができれば、そういう状況が続いていく限りで利益が得られるとなれば、いやが上にもそういうことをやりたくなってくるわけで、そういうところで公平で公正な競争というお題目が建前だとしても、そんなことにこだわっていたら競争から脱落してしまうだろうから、それは競争を成り立たせて管理運営する側の言い分にすぎないわけだが、しかも管理運営する側になること自体が有利な立場だとも言えるわけで、そうなっている時点で中国の当局者のように自分たちが不利になる事実は絶対に認めようとしない態度になるのも大人げないかも知れないが、競合する他の管理運営業者を蹴落としてでも独占的な立場になろうとする限りでそうなるのも自然な成り行きでもあり、いかにして売買と貸借を有利な立場でおこなえるかが利益にも直結してくることだから、そういうことがおこなわれること自体は当然の成り行きだとしても、見せかけとしては公平や公正さを装いたいわけだから、それに関して様々な工作をおこなった上でさらに言葉によるやっていることの正当化が伴ってきて、どうやってもそういう方面ではいかがわしさを拭えないだろうし、下世話な水準で金儲けが絡んでくるから、きれいごとが通用しなくなってくるのだろうが、何とかしてきれいごとを通用させようとすれば、臭い物には蓋をする感覚にもなってしまうわけで、それが国際的な政治問題化と共に地政学的な有利不利を度外視するようなやり方にもなってくるかも知れないが、具体的には何がどうなっているのかというと、ごく一部の国や地域だけはきれいごとを言っていられる環境がもたらされている一方で、経済的に不利な状況にある国や地域では永久に政治の方面で民主主義や国民主権が実現できない状況となってしまい、なぜそうなってしまうのかといえば、それらの国や地域がきれいごとを言っていられる国や地域に搾取されているといっても、それが昔の植民地主義が全盛だった頃のような直接の搾取ではなく、あくまでも間接的な搾取とも言えないような搾取でもあるから、それをはっきりと搾取されているとは表明できないわけで、何だかわからないうちに観光地化されていたり、資源や農産物などの一次産品ばかりを輸出する羽目になっていたり、移民となってきれいごとを言っていられる国や地域へと人材が流出していたりもして、ごく限られた支配層しか豊かになれないような仕組みになってしまっていて、そうなっている時点で民主主義も国民主権もあったものではないから、残されているのはあからさまに社会主義や共産主義だとは言わないまでも、貧困層を味方につけようとしてその種の政策を訴える勢力に国政を委ねるか、逆に支配層の利権を守る軍事独裁政権となってしまうかの二者択一となるわけでもないだろうが、そういった傾向の国や地域もそれなりにあるだろうし、日本がそういった国や地域の仲間入りする一歩手前まで追い込まれているとは今のところは誰も思っていないだろうが、日本政府や政権与党を批判する勢力の主張にはそれを意識しているわけではないものの、多くの人が気づかないところでそういった危機意識が含まれているのかも知れないし、日本がそうなってもらっては困るというなら、せいぜいきれいごとを言っていられるだけの環境を構築しようとしなければならないわけだが、それも現状ではあり得ないと思っている限りできれいごとを言っている人や勢力を左翼だと小馬鹿にすることしかできないわけで、どうなるにしても結局は自然の成り行きに支配されているのかも知れないし、結果的にどうなってもそうなった状況の中でそれなりに対応しながら生きていくしかないわけだが、現状のそういう解釈にも間違っている面もあるかも知れないし、もはや日本だけではなく世界全体がそうなろうとしていると大げさに危機感を共有しようとしても誇大妄想の域を出ないことだとしても、相変わらず商売に絡んだ売買や貸借をやめるわけにはいかず、やめるとかやめないとかの選択肢自体があり得ないわけで、それに基づいて社会が構成されている面を無視できないからそういうところからくる世の中の風潮自体に気づかなかったり無視したりすることがあってはならないだろうが、少なくともそれなしできれいごとを語ろうとするとフィクションとなってしまうわけだから、その種の民主派や人権派の主張を真に受けるわけにはいかないだろうし、最低でも商業的な傾向に対する目配りを含んでいないと実質的な実践の面で虚構化してしまうわけで、だからその手の主張は非現実的な絵に描いた餅だと嘲笑してもいいのかというと、そうでもなく、逆にそういう主張にとどまらせるような作用が働いていると解釈しておいた方がいいだろうし、そういった方面で避けては通れぬ何かが障害物のように機能していて、それを避けたり乗り越えたりすることができないから、その手前にとどまるしかなく、その手前にとどまっている限りできれいごとが言えるようなことになってしまうわけで、だからそれなりに制約や限界もあるわけだろうが、そういった制約や限界の範囲内でならそれなりに有効に機能していると捉えておけばいいのではないか。


7月30日「やるべきこと」

 人が何をやるかはその場の状況に左右されてしまうとしても、できることなら何でもやるとなると、たとえ人殺しであってもその場の事情が許す限りでやってしまうわけだが、できることを制限して危険なことはやらせないようにするのが、法律の類いが求めていることかも知れないが、そういう制限の範囲内でやるべきことがあるか、あるいは制限を無視してでもやらざるを得ないことが生じてくるかが、現状で判断を迫られていることでもないだろうが、それをやるべきことだとはわからない場合がほとんどであり、やるべきとは思われないようなことをその場の成り行き上やらざる得なくなっているとすれば、何かおかしな状況となっているのかも知れないが、やるべきことがあると思ってしまうことも勘違いかも知れないし、社会の中で生きていればやるべきことが何もない状況というもあり得ないことだが、何かをやる必要が生じてしまうのがその場の事情でもあり、それがやりたくないことであれば、その場の事情から解き放たれて自由に振る舞いたいという願望になるわけだろうが、それ以前に意識が何かをやる成り行きにとらわれて、やって当然のことをやっている気になれば思い悩むこともなく、すでに目的や目標に拘束されてしまっているわけだが、人を都合の良い目的や目標につなぎ止めて、それ以外のことをやらせないようにするのが人を制御する目的でもあるだろうし、そういう意味で何か意識してそれをやるべきことだと思っていることがあるとすれば、そのやるべきことが目的や目標でもあり、やるべきことがあると思わされている何かに行動や行為を制御されてしまっているわけだろうが、何かというのが何なのかがよくわからなければ、それが誰かとか特定の団体とかではなく、やるべきことがあるというその場の事情を形成している状況そのものなのかも知れないが、そこからさらに意識が重症化して、何らかの使命感を抱いているようなら、より切実にやらなければならないと思われるような成り行きにとらわれてしまっているわけだが、なぜそうなってしまうのかといってもよくわからなければ、これといって単純に割り切れるようなことでもないのかも知れないが、中には割り切ってしまえる人も出てきて、勝つためにやるとか金のためにやるとか、そのためには手段を選ばないとか、そうやって理由を求めすぎる傾向も出てくるだろうが、迷いを断ち切ろうとすることが退路を断つことでもあり、単純に目的や目標に向かうことが正しい態度となる場合もあるだろうが、そうなっていること自体がすでにかかわっている何かに寄りかかって依存しているわけで、何もやらないという選択肢を放棄して、危ない領域へと踏み込んでいるわけだが、それでも過ちを犯しているとは言えず、むしろ正しい方向で努力しているように思われるだろうが、それもうまくいっている限りでそう思われるのであり、うまくいかなくなってくれば、間違っているのではないかという疑念が湧いてきて、そこから迷いが生じてくるとしても、そうした迷いを振り切ってうまくいくことを信じて努力してうまくいった事例がそれなりに出てくるだろうし、そういった事例に当てはまる当事者の言うことを真に受ければ、正しいことをやればうまくいくという迷信を信じられるわけだが、それが迷信となるか真理となるかは結果次第で変わってくることでもあり、うまくいった事例ばかりを選び出せば真理となるだろうし、うまくいかなかった事例は間違ったことをやっていたからうまくいかなくなったと見なせばいいわけで、さらには様々なうまくいった事例から共通する要素を抽出できれば、こうすればうまくいくというやり方が導き出せるわけだが、そういう面では確かにそうだとしても、そういうところでうまくいくやり方にとらわれてしまうと、それだけにかかりきりとなって、そういう方面でしかうまくいかなくなってしまい、他でうまくいく機会を逃してしまうとしても、別にそんな機会を求めているわけでもなければ、そういう方面で自足していても取り立てて問題はなく、そういう方面の専門家として生きていけばそれで構わないような成り行きとなって、そうやってその手の専門家や成功者が生まれるわけだが、それ以外にあり得ないのかというと、その手の専門家や成功者になれなかった人などいくらでもいるだろうし、逆にそちらの方が圧倒的に多いのかも知れず、何の専門家でも成功者でもなく、何者でもないような人たちが一般大衆を構成しているのが現状の世の中でもあり、実際にそれで構わない世の中になっているはずだが、そういう人たちはやるべきことから解き放たれて見放された自由人なのかというとそうではなく、むしろ成功することに憧れを抱いていて、その手の専門家や成功者を羨ましく思っているはずだが、そう思うことが悪いということではなく、多くの人たちがそう思っていないと現状の世の中が成り立たないのかも知れないし、実際に成り立たなくなりつつあるのかも知れないが、とりあえずは誰もが成り立っていることにしておきたいのだろうし、その手の専門家や成功者になることが目的や目標だと表向きは装いたいわけだが、実態としてはそうではないわけで、そうではない実態がやるべきことを見失わせているというと、それもそうではないと否定するしかないわけだが、否定しながらも否定していることにしておきたいような微妙な現状がもたらされていて、本当はそうではないことは誰もが承知しているとしても、とりあえずはそう装っておけば無難に思われるのであり、その本当はそうではないということが、世の中の虚構性を醸し出しているのかも知れず、そんな世の中が仮想現実をもたらしているわけではないが、誰もが何でもないような一般大衆であるにもかかわらず、それを受け入れようとしないばかりか、何らかの専門家や成功者に憧れること自体が現状との間にずれを生じさせていて、そうした専門家や成功者自身がたわいない領域でそうなっていることに気づいていないから、何か事を大げさに捉えすぎている傾向もあり、それがたわいないということが信じられないだろうが、その一方で何者にもなれない自由人という存在自体もたわいなく、そんな立場もあり得ないだろうし、それ自体が虚構そのものかも知れないが、強いられてそうなっている人にはそれがわからないのかも知れず、何だかわからないがやるべきことが何もないような状況の中で、取り立てて自由に振る舞えるわけでもなく、そこへと至った経緯や事情から生じる様々なしがらみにとらわれてがんじがらめとなっていて、自由など全くないはずだが、それが何者でもないことの証拠でもあり、何者でもないのに自由人になれるはずもなく、では何なのかといえばどこにでもいる一般大衆のうちの一人にすぎないのだから、それ自体が何でもないことの範疇に入ることなのだろうが、相変わらずしがらみが絡みついてきて自由になれないわけだから、自由自体が虚構でしかないのはわかりきったことだろうが、その一方で憧れているのは目的や目標に縛られて自由を奪われた専門家や成功者になってしまうわけだから、少なくともそこで求めているのがやるべきことをやることにはならないはずだが、やるべきことがないと途方に暮れてしまうだろうし、何かをやっていないと気が済まないのなら、やるべきことを探してしまうわけで、それがやるべきことではないと教えてくれる人など誰もいないだろうし、やるべきことがやるべきではないはずがなく、やるべきことにとらわれて、やるべきことをやっている気になれる限りで安心できるとしても、そのやるべきことをやっている人たちというのが信用できないわけで、やるべきことをやっているだけでは駄目なことがわかっていないとたわいない人になってしまい、そういう人はまだそれだけでは済まないことがわかる機会に恵まれていないのかも知れない。


7月29日「コロナ禍というきっかけ」

 コロナ禍の現状を危機的な状況だと受け止めるのはもっともなことであり、ワクチン接種の遅れに加えてオリンピック開催という取り返しのつかない過ちを犯している最中でもあり、状況がさらなる悲惨な事態へと進行するのは火を見るよりも明らかとなりつつあるわけだが、それが一過性の現状でもあり、大半の人たちが生き残るだろうし、生き残ったからといって幸運を実感するわけでもなく、むしろコロナに感染したり、ワクチンを接種した直後に死んでしまった少数の人たちが不運だっただけかも知れないが、一過性であるだけに早く災難が過ぎ去ってほしいだろうし、元通りの日常に戻りたいだろうが、災難に遭っている最中であれば、いつ戻れるかもわからず、不安感が増してくるばかりだろうが、これが何かのきっかけだとすれば、たぶん現状では何のきっかけなのかもわからないし、何のきっかけでもないのかも知れないが、これを何かのきっかけとしなければならないわけでもなく、すでに数年前には思いもしなかった事態に直面しているわけだから、これから何が起ころうと驚くこともないと思っているわけでもないが、驚くべきことが起こらなくてもいいだろうし、起こっても驚く必要はないかも知れないし、予想していたことだと思っても構わないが、何が予想できたかというと、巨大地震が起こるとか株価の暴落が起こるとか、それが近い将来起こることだと予想して危機感を募らせていたわけだが、それらはすでに起こっていたことでもあり、コロナ禍に関しても過去にスペイン風邪とかペストとかのパンデミックが起こっていたから、その延長上で考えられることであり、ある程度は感染病の専門家が予想していたことだったにしても、一般の人たちにとっては思いもしないことだったわけだが、スペイン風邪が1918年から世界的に流行したことと1929年から始まった世界恐慌までの期間を考慮するなら、2019年からコロナウイルスの感染が世界的に広がったわけだから2030年ぐらいには世界恐慌が起こると予言したくなってしまうし、スペイン風邪と世界恐慌の間の1923年には関東大震災が起こったわけだから、数年以内にも関東大震災が起こるとも予言したくなってしまうが、予想も予言も当てにならないことであり、ちょうど百年周期でそれらのことが連続して起こるわけでもないだろうし、実際にスペイン風邪の世界的な流行が起こる以前に、それよりもっと重大な歴史的なイベントであった第一次世界大戦の百年後には同じ規模の戦争は起こらなかったわけだから、当時と今とではだいぶ世界情勢も変わっているわけだが、当時と似たような事例もあるにはあって、当時は日本が欧米諸国にとって次第に目障りな存在になりつつあったのと同じように、現代では中国が欧米諸国にとって次第に目障りな存在になりつつあるだろうし、特にアメリカにとってはかつてのナチスドイツやソ連以上に厄介な存在になりつつあるのかも知れないが、そうだとしても中国の政府関係者の公式的な態度というのが、不自然なほど硬直化していて、柔軟性が全く感じられないような一本調子の一方的な言動に終始していることが、他の国の政府首脳の言動と比較しても奇異な印象を与えているかも知れないが、それほど状況が切迫しているというわけでもなく、何かが起こるのを恐れているのはむしろ中国の政府関係者の方かも知れないが、コロナ禍を利用して誰が何を企んでいるとしても、すでにその種の企みは世界的に明らかとなっていて、いわゆる脱炭素という掛け声と共に化石燃料の消費を抑え込もうとしているのだろうし、それに伴ってEVの普及が欧米や中国では急速に進んでいるわけだろうが、それに取り残されそうになっているのが日本の自動車メーカーという構図もあり、そういう方面では確かに危機感を募らせていいはずだが、それも枝葉末節な部類に入ることかも知れず、それよりも避けては通れない問題というのが、誰もが無視していることでもあり、根本的には解決不可能な問題なのかも知れないが、そこから目を背けるのに格好の材料や話題を提供しているのが、中国を標的とした人権抑圧や覇権主義への反発であったりするわけで、それをもたらしているのが経済的な繁栄であり、中国を批判している側でも経済的な繁栄を目指しているわけだが、何かを犠牲にしないと繁栄できないとすれば、繁栄の裏で犠牲となっている何かが根本的な問題を形成しているわけだが、それが繁栄を支えてもいるわけだから、根本的には取り除けないことでもあり、取り除くことができないから無視するなり他の問題とすり替えるなりしてやり過ごそうとするわけだが、果たしてそれと真正面から取り組むことができるかといえば、そうもいかないから他の方面へと視点をずらしたり視線を逸らしていってしまうわけだが、それが何なのかといってもわからなければ答えようがないわけだが、もしかしたらわからなくても構わないことなのかも知れず、わからなくても結局はそこへと次第に引き寄せられてしまうことなのかも知れないが、実際に引き寄せられてしまってもわからないままかも知れないし、わからないまま現状が変化しつつあり、それに気づかないのに自ずから変わっていってしまうのかも知れず、実際に変わりつつわけで、例えばオリンピックでも日本の現状が変わりつつあることが示されていて、変わった人たちがオリンピックに参加していることも、気づかれないままに進行している現状が示していて、それ自体が従来の価値観を信奉する人たちにとっては取り返しのつかない過ちでもあるのだろうが、一般の人たちにとってはそんなことはどうでもいいだろうし、できれば迷惑だから別の場所でスポーツイベントの類いはやってほしかったのだろうが、たぶん取り返しのつかない過ちとして日本でオリンピックを開催することに意義があったのかも知れないし、史上最悪のタイミングでオリンピックが開催されたと後世に語り継がれるわけでもないだろうが、この機会を逃してしまってはまずいだろうし、逃さず開催してしまったことに意義があると思っておいても構わないが、意義など何もないし、どうでもいいようなイベントにすぎないと無視しても構わないし、どちらでもいいことではなく、どちらかといえば開催してほしくはなかったわけだが、そうだからといってオリンピックの開催が日本の没落を象徴しているとか大げさに物事を捉えなくても構わないわけで、うまく難局を切り抜けるというよりは、切り抜けられずに醜態をさらす方が良心的に見えてしまい、それが現状の日本の力量が示していることでもあり、無理矢理誇るわけにもいかず、正当化もできないような状況となっていることも確かであり、そうなっているからこそもっと謙虚になって惨めな現状を見つめるべきというわけでもなく、特に改まって何をどうするまでもないことでもあり、現状のままでも構わないような面もいくらでもあり、中国の政府関係者のように何から何まで強弁しなければならない立場に追い込まれているわけでもないだろうし、そこが目の付け所でもあるわけだが、できることを普通にやっていけばそれなりの結果がついてくると思っておいて構わないような状況でもあり、実際にもそうなっているわけで、政治家の見え透いた嘘やごまかしだらけの答弁にも飽き飽きしてきたわけでもなく、それをメディア上で延々と批判すればいいのかも知れないが、それができることの全てではないだろうし、他にも何か建設的な主張をしなければならないとしたら、将来への期待を抱けるようなことを主張する成り行きになってしまうとしても、当てにならない予想や予測に落胆することもポーズとしてはあり得ることかも知れないが、枝葉末節なところで絡め取られてしまうような意識から抜け出られなくても、大半の人たちはそれで構わないような状況にあり、それが問題なのかというと、それどころかむしろそうなっていないと現状で起こりつつある変化が妙な邪魔や横やりが入って阻まれてしまうのかも知れず、それが善意の押し売りのようなことになってしまうから、とりあえずそういう人たちには現状を批判することだけに専念させておけばいいのかも知れない。


7月28日「武力と経済」

 武力の行使と経済活動が一体化しているわけではないが、国内では警察権力が治安の維持を目的とした武力による威嚇がおこなわれていて、何が威嚇行為なのかといえば、拳銃や警棒を携帯した警察官が街中を巡回していたり交番が設置されていることが威嚇行為であるはずだが、それも見慣れてしまえば威嚇だとは意識しないだろうが、そうやって治安が維持されていないと白昼堂々強盗などの略奪行為が頻繁に起こってしまうわけでもないにしても、商品の売買などの通常の意味での経済活動がおこなわれるには治安の維持が欠かせず、形の上では絶えず治安を維持する側が武力をちらつかせて威嚇している中で経済活動がおこなわれていて、現状の日本ではあり得ないことだが、海外では政情不安をきっかけとした暴動による略奪行為が起こる国や地域があり、そのような国や地域では必要な物資を買うことができない人々がいるから、略奪行為がおこなわれるわけだが、国内に政府と敵対する武装勢力などが存在する場合は、それらの勢力によって物資の掠奪などが頻繁に起こることにもなるだろうし、そういうところでは武力行使が経済活動に組み込まれているわけだろうが、あからさまにそうなっているのでない限りは、直接の武力行使よりは武力を持っていることを見せつける威嚇の方が主体となって治安が保たれた上で、通常の経済活動がおこなわれることになるだろうが、逆に直接の武力行使の応酬となってしまえば、経済そのものが破壊されて取り返しのつかない事態となってしまうから、それは避けなければならない事態でもあり、そういう意味では武力行使は避けながらも武力を持っていることを見せつけながら経済活動がおこなわれている実態があるわけだが、それがネット上での経済活動となると武力行使がハッキングとなってきて、企業や政府機関のセキュリティを打ち破ってネットワークに侵入して情報を盗んだりシステムをダウンさせて経済活動を妨害するわけだが、経済活動自体が競争原理によって成り立っている面では競争に参加しているつもりの人や集団などに有利不利の結果をもたらして、不利になった勢力が経済活動以外で反撃の手段を得ようとすれば、武力に訴えるしか選択肢が残されていないような状況がもたらされて、そこから現実の世界でもネット上でも武装闘争が開始される成り行きとなるのだろうが、そうであるなら経済競争を仕掛けて有利な立場を築くようなことをやれば、必然的にそれへの反撃として武力攻撃を受ける危険が高まるわけで、そういった攻撃から身を守るには軍事力の増強が欠かせない事態ともなるわけで、そういう意味で武力と経済が一体化してくるのだろうが、競争の促進がそういった傾向をもたらすのだから、それを避けるにはどうしたらいいかとなると、競争には参加しないか、参加しても負けたふりを装う戦略もあるかも知れないが、普通は競争に勝とうとするだろうし、また敗者からの反撃に備えて武力を増強しようとするだろうが、実際にそういうことができる国や企業も限られてくるだろうし、果たして日本や日本企業が世界的な競争に打ち勝つことができるかというと、否応なく競争に巻き込まれている実態があり、それなりに健闘している面もあるのだろうが、果たしてそういう面ばかりに目を向けることがまともな態度なのかというと、中国との競争に勝つと息巻いているアメリカの大統領に配慮しなければならないとしても、本心からそう思っているかというと、立場上そういうことを言わざるを得ないと受け取っておいた方がいいのかも知れず、経済競争自体が公平で公正な競争とはなりがたく、その前提条件として地政学上の有利不利も含まれているから、あまり真に受けるようなことではなく、何かの方便か冗談の類いだと見ておいても構わないだろうし、方便や冗談などで貧困を招いて人の生き死ににかかわってくるのも救われないことかも知れないが、国家戦略とかいう勇ましいことを言いたい政治家はいくらでもいるかも知れないし、日本政府が戦略上間違っていると言いたい評論家系の人もいくらでもいるかも知れないが、明確な戦略を打ち出しているわけでもないだろうし、どちらかと言えばどっちつかずな曖昧な態度に終始しながら衰退を招いていると批判するのももっともなことだが、その程度のことでもあり、それ以上のことはできないと見ておいても構わないだろうが、多くの人にとっても興味のないことかも知れないし、そんなことはどうでもいいことかも知れないが、個々の経済活動の中で四苦八苦しているのが成り行き上は誰もが陥っているありふれた事態かも知れず、その人にとってはそうであっても他の人にとってはまた事情が違ってきて、うまくいっている面もいかない面も含めて、それなりに活動できていればそれで構わないだろうし、本当はそうではないが、ゼロサムゲーム的な面を強調すれば、うまくいっている面といかない面とで釣り合いがとれていて、全体としてはうまくいっていることにしておきたいのだろうが、どうしても個々のうまくいっていない面に意識がとらわれてしまうのであり、それをどうにかしてうまくいくようにしようとして、無理なことをやってしまい、さらに事態をこじらせてしまうのだろうし、そのこじらせ具合が他からの批判も招いて、それが格好の話題提供となってしまうわけだが、それが実態として無駄で無意味な方向へとねじ曲げられて、マイナスの作用をもたらすわけで、しかもそれが実態のない言葉のやりとりの水準だけでそうなっていることでもあり、まだその段階では捕らぬ狸の皮算用でしかないわけで、そういうことに一喜一憂してみても何がどうなるわけでもないとしても、それによって株価や為替相場などが変動するわけだから、それも情報としての実態が反映された結果でもあるわけで、そういうことも含めて経済が動いていると捉えると、虚構の面も含まれてきて、人や企業の思惑が虚構に踊らされて、それと共に経済活動の実態も成果も変わってきてしまうわけだから、それに対応して明確な戦略など打ち出せるわけもなく、その場ごとのとりあえずの戦略ならぬ場当たり的な対応となってしまうわけだが、その一方で計画的に進めていることもあるだろうし、そういった計画にとらわれている面では着実な計画の前進とそれに伴って成果が出ているように装われてもいて、場当たり的な面と計画的な面とで食い違いや矛盾が生じてくるとしても、そこでも言葉や情報を操作して、うまくいっている虚構を見せようとするわけで、それもどこまでが現実に起こっていることでどこからが見せかけられた虚構であるかもわからないように取り繕われているわけだから、いつも真相は藪の中に埋もれていて、それを真相だと見なすことも騙されている証拠となるかも知れないが、場合によっては騙そうとして騙しているわけではなく、真実を見せようとして実際には虚構を見せていることに見せている側が気づいていない場合もありそうで、そこで何か明確な方針や戦略が相変わらず提示されているのだろうが、そうした方針通りには何もおこなわれていなかったり、戦略自体も空回りしているのに、有効に作用しているようにも装われていたりして、そんな見せかけの装いが度重なると見せられている側でも疑心暗鬼になってきて、不信感が募ってくるわけで、そうなると次第に信用が失われてきて、場当たり的な対応も通用しなくなってきて、計画も思い通りには進行しなくって遅延し出すわけだが、そうなるまでにも様々な紆余曲折があるだろうし、その途中で思わぬ回り道や横道に逸れていって、当初の計画にはなかったことも後付け的に追加されて、むしろそちらの方が本筋になっている場合もあって、結果的には場当たり的にも計画的にもこじれた事態に直面していることになるのではないか。


7月27日「始まりの終わり」

 ただの始まりにすぎないことが終わりの始まりであるはずもなさそうだが、何が終わろうとしているわけでもなく、これから何かが始まろうとしていて、それはもうすでに始まっていることかも知れないが、人によっては何が始まるかもわかっていないのかも知れないし、わからないことに関して何が言えるわけでもないが、それに関する歴史的経緯がそれが何かを知らせていて、それに関してはすでに終わっていることだとしても、忘れようとしても執拗に思い出されて、その終わりを長引かせているのかも知れず、そんな過去の亡霊にいつまでもかかわっているわけにはいかないだろうが、とりあえずそれがなかったことにしたいわけでもなく、ただ過ぎ去った過去の記憶を忘れたいのかも知れず、忘れられなければ覚えていても無視したいわけだが、そんな過去の亡霊が何なのかは、それを具体的に挙げれば誰もがそれかとわかったような気になるかも知れないが、それが始まろうとしていることと直接関係があるとは思えないだろうし、それどころか全くの無関係かも知れないが、これから新たな歴史的経緯が形成されようとしていて、その中で日本が主役となることはないのかも知れないが、それどころかどこの国が主役となるわけでもなく、もちろんアメリカと中国との覇権争いとも無関係だろうし、特定の国とか地域とは関係なく歴史的経緯が形成されるとは思われないだろうが、世界全体として何らかの経緯が形成されようとしていて、それがコロナ禍であることはわかりきったことかも知れないが、それはまた地球全体の気候変動でもあり、それに乗じて脱炭素ビジネスにこれから乗り出す企業ももうすでに乗り出している企業も多いだろうが、それと共に企業や政府の社会的な在り方も問われているわけではないとしても、状況の変化と共に認識が変わっていくだろうし、変わっていく成り行きに応じて、人の生活や生き方もそれなりに変わっていくのかも知れないが、もうすでにわかっている傾向については個別にあるいは様々な物事と関連付けて対応しようとしているとしても、これからわかってくる傾向についてはその都度わかってきた範囲内で対応していくことになるだろうが、それがどうなるかを予想するとか予測するとかではなく、すでにわかっていることに関して語るのが無難なところであり、そのわかっていることの中には、過去の歴史的経緯も含まれてくるわけだが、すでにわかっていることはといえば、例えば中国4千年の比較的長い期間にわたる歴史というわけではなく、すでに19世紀初頭において世界一の経済規模を誇っていたのが中国の清帝国であって、アヘン戦争に負けた時点でも勝ったイギリスより経済規模が大きかったわけで、そこからイギリスが一時的に世界一の経済規模となったにしても、すぐにアメリカに抜かれて、次第にアメリカの軍事や政治や経済などの面で世界的な覇権が確立されていったのだろうが、そうはいってもアメリカが国家として連邦政府という一つの行政組織と一体化しているわけではなく、それはEUにも言えることだが、少なくとも国民国家ではないわけで、国民国家という定義が一定の意味を持つとしても、そういう意味とは相容れない何かがそこにはあり、中央集権的な政府という組織的なまとまりをあまり過大に問題視してはいけないのかも知れず、政府には政府としてそれなりにまとまった組織形態があるにしても、それだけをことさらに国家と一体化させて◯◯国がどうしたとか語ろうとしても、何かすっぽ抜けてしまう面があって、実態がそうなっていないのかも知れないが、それに関して語るにはそう語るしか語りようがないわけで、そう語ることが何か違和感を伴ってくるとしても、そうとしか語りようがない中で政府の役割が何なのかといえば、行政としての決まりきった内容になってしまうだろうが、政府ではない何かが人々の生活や生き方と深くかかわりを持つような成り行きになりつつあるのかも知れず、それとは一見関係のないようなところで、中国政府がIT関連の面で企業への統制を強めているわけだが、また欧米の政府がしきりに人権関連の問題を持ち出して中国政府へ何らかのシグナルを送っていて、それを巡っては日本政府が蚊帳の外に置かれている面もあるだろうが、日本の社会状況もそれと無関係ではいられないのかも知れず、各国政府の思惑とは違うところで、各国政府の首脳が気づかないところで何かが動き始めていて、それに気づくことなく行動せざるを得ないような成り行きとなっているわけだが、気づかないといっても薄々気づいているから、例えばアメリカ軍がイラクやアフガニスタンから撤退しようとしているのだろうし、それと中国政府に対して人権問題で協議しようとしていることとは関係がないと思われるだろうが、意外と関係のないところでつながっている可能性もあるわけで、それに気づくのは現時点では無理かも知れないが、さらに事態が進行してくればおぼろげながらわかってくることもあるだろうし、そのわかってくることも取り立てて世間の関心を惹かないようなことかも知れないが、関心を惹かないように重要な何かを隠しているわけではなくても、あからさまに無関心を装うような演技を強いられている可能性もあり、そういうところで陰謀論的な深読みをするのは勘違いとなってしまうのかも知れないが、すでにその類いの始まりが一段落しようとしているのかも知れず、あらかた物事の決着がついたところでその真相が明かされるわけでもないだろうが、ダミーとしてはウイグルなどの人権問題が格好の役割を果たしているのだろうし、それをことさらに騒ぎ立てている欧米の政府関係者なども本気で騒ぎ立てているとしても、その裏に隠された思惑があるということではなく、気づいていないことがあるのかも知れず、それに中国の政府関係者も気づいていないのかも知れないし、誰も気づくようなことでもないのかも知れないが、世界的な流行現象としては誰もが気づいていることでもあり、何やら人としての人権が尊重されなければならないと表向きは主張されるとしても、経済活動の中では労働者の人権が完全に守られているわけではなく、守られないことによって利益もそれなりに出ていて、労働者の人権を守るか人権を抑圧して利益を絞り出すかの二者択一を迫られているわけではないとしても、自ずから利益を絞り出す成り行きになってしまうわけで、それが実際に問題視されている面でもあるのだろうが、そういう気づいている面ではなくそれとは別の面で気づいていないことがあるというわけでもないが、そういうことも含めて人を生かす方策を巡って駆け引きがおこなわれていて、各国の政府首脳がそういうことに関して他の国の政府と駆け引きをおこなっていることに気づいていないから、とりあえず人権問題を取り上げて該当する国の行政を非難するしかないだろうが、非難している自国の行政にも問題があるから、そこから自国民の目を逸らすためにも他国を非難しているわけではないとしても、結果的には対立しているように装われているのだろうし、人権を尊重しつつもそれを抑圧することによって利益を絞り出すという矛盾を抱えながらも、表向きにはあからさまにそれがおこなわれていることに関しては非難せざるを得ないわけだが、しかも表向きの反対の裏でおこなわれていることがあるかというと、あるにはあるがそれを隠そうとする意図があるわけでもなく、とりあえず必要最低限のレベルで主張すべきことがあり、それはそれとして主張しておかないと体裁を取り繕えないのだろうし、体裁を取り繕わなくても構わないような独裁体制ではない国の政府であれば、その政府関係者や首脳などがその種のことに関して国民の意向や傾向や状態などに配慮せざるを得ない主張をおこなわなければならないわけだ。


7月26日「機械文明の実態」

 現状のような機械文明が何によって成り立っているのかといえば、機械を動作させる環境の整備によって成り立っている面があり、環境の整備にかけるコストと機械を動作させることによってかかるコストを同列に扱うことはできないが、さらには機械を製造するのにかかるコストやそのメンテナンスにかかるコストなどもあるだろうし、さらには機械の動作環境を維持するのにかかるコストも含めて、様々なコストがかかっていることは確かで、結果的に機械文明が成り立っているのだから、それらのコストに見合うだけの利益をもたらしているはずだが、それを利益と言ってしまうとよくわからなくなってしまうのかも知れず、利益などあってないようなものであり、ただひたすら投資しているのであって、どこからか資金を集めてきてそれを投資して人や物や情報を動かしながら様々なことがおこなわれている実態があり、計画的なことがおこなわれているように装われているものの、投機的な博打のような面もあって、うまくいっている面では後付け的に辻褄の合う説明がされて納得できるだろうが、結果的にやっていることが破綻してしまうような面では詐欺的なことがおこなわれているように感じられるだろうし、それらにおいてどのような違いがあるかといっても、結果的にうまくいったかいかなかったかの違いでしかないかも知れないし、そういうことに関してあまり辻褄の合うような説明を信じても裏切られてしまうかも知れず、勝てば官軍とか勝ち馬に乗るとかいう論理ならぬ結果論の類いでしかなく、もっともらしい理屈や理由や根拠はうまくいった後からついてくるようなものでもあり、勝ってもいないうちからもっともらしい理屈や理由や根拠を示しながら勝ちを予想する人もいくらでもいるとしても、実際に勝ってからでないと確かなことは何も言えず、勝たない限りは信用が得られるわけでもなく、勝っているのかいないのかが微妙なところでも、それを勝ちだと強引に言いくるめるような宣伝や煽動がおこなわれている実態もあるだろうし、そうやって強引に信用をひねり出しながら資金を集めてそれを投資して機械を製造して動作させながらさらなる信用を得ようとするのだろうが、そこでも機械そのものが重要というわけではなく、機械の動作に伴って人を動かすシステムが重要なのであり、機械に人をつなぎ止めて動作させるシステムを構築しようとするのであり、要するに機械を用いて人を操ろうとするわけだが、利益を得られるという期待があるから人の方から機械につなぎ止められたくなるのであり、機械を使って利益を得ようとしているつもりだが、実態としては機械を動作させるシステムに操られているわけで、その究極の在り方がまだ完成していないが完成が期待されている自動運転システムかも知れないが、機械を制御するシステムであると同時に機械を使う人を制御するシステムであることが気づきにくいところであり、気づいては困るところかも知れず、機械を使って主体的に活動しているように思わせたいのであり、うまくいっている人は実際に高収入を得られて成功している気になれるだろうが、全ての人がうまくいくわけではないこともわかりきっているかも知れないが、実際にうまくいっている人がそれなりにいれば、機械の動作と人の制御がかみ合ってシステムが正常に働いていることになるのだろうし、そこに物と情報とサービスがもたらされていることにもなり、そこで何かがおこなわれていることになるのだろうが、何がおこなわれているとしてもおこなわれた結果として利益を得られる人や団体が出てくれば、それらの人や団体としてはうまくいったことになるだろうし、何らかの成功を収めたことにもなり、それがうまくいった事例になるわけだが、そんな成功の裏では利益を得られなかった人や団体もそれなりに出てくるだろうし、それが失敗した人や団体になるわけで、そうなっている限りでそこで競争がおこなわれていることにもなるわけだが、そんな中でも絶え間なくおこなわれていることが機械の改良とシステムの更新であり、表向きにはそれが競争に勝つためにおこなわれていることになるわけだが、実態としては人を機械にかかりきりにさせるためにそれがおこなわれていて、それも機械を利用した人の制御をもたらしているわけだが、そういった競争に参加している限りで機械とシステムに制御されていることになるわけで、それが人を活かすことだと思われている面もあるだろうが、そうやっていつまでも人が機械とシステムに制御され続ける面もあるにしても、それだけが人の全てではないこともわかりきっていて、制御しきれない面ではシステムも破綻していて、システムによる支配に逆らって抗議活動の類いがおこなわれていたりもするだろうし、都合の良いところだけ機械やシステムに頼っている面もあるから、そういうところだけ見れば機械もシステムも正常に動作しているように見えるわけだが、そういった正常な動作から弊害や不具合も生じてきて、絶えず修正したり改変しながら正常な動作を維持しようとするのだろうが、維持しようとする限りで機械やシステムにかかわらなければならず、それにかかりきりになってしまえばそれなしでは活動できないことにもなり、活動そのものが機械の改良とシステムの更新となってしまえば、機械を動作させることが活動の目的となって、それだけにかかわっているようなことになるだろうが、そうなってしまった人から見れば、システムの支配に逆らって抗議活動をしている人や団体などは敵以外の何者でもないだろうし、なぜそんな活動をおこなっているのか理解しがたいだろうが、そうやって人や団体の間で立場や境遇の違いが生じてくるにしても、そんな人や団体が社会の中で共存している状態が保たれていれば、それ自体が一つのシステムとなっている面もあって、そういったシステムを体現している機械があるわけでもないが、複数の機械とそれを制御するシステムとそれにかかわってくる人や団体などが複雑に絡み合いながらそんな状態が出現していると捉えれば、そういった状態がそれなりに破綻なく保たれているのが機械文明の実態だとも言えるかも知れず、もちろん全ての面にわたって破綻していないわけではなく、それなりに破綻している面があるからそれに乗じてシステムに逆らう抗議活動の類いも生じてきて、それを強引に一つのシステムのもとに統合しようとするから、行政の面で独裁政権の類いも出現するわけだが、システムを維持しようとすれば自然とそうなってしまうだろうし、システムを管理運営する団体にとってはそうすることが望ましいのだが、管理されるユーザーの側からすれば複数のシステムが同時並行して稼働している方が、選択の幅が増えてより良いシステムを利用できる機会も生じるから、そちらの方が良いと思われるかも知れないが、管理する側と利用する側とでどちらの方が力があるかというと、管理する側の方が力を持っていると考えられるところでもあり、だから利用する側としての消費者の立場が保護されなければならないと考えられているわけだが、それも消費者の立場を保護しているつもりの行政機構の力が増してきても厄介なことになり、民衆の側が行政機構を監視して場合によっては制御するようなシステムが求められる場合もあるだろうし、それが民主的な政治システムとして機能すればいいわけだが、そんなシステムにおいても絶えず弊害や不具合が生じてくるから、政治家や政党などの団体がそれにかかりきりになってシステムのメンテナンスをしなければならないことにもなってきて、うまく動作している状態を維持しようとするのだろうが、そんなことをやり始めるときりがなくなるわけで、実際に現状でもシステムがうまく動作しなくなっている面を改革する必要が生じているわけだ。


7月25日「学習と教育と指導の効果」

 言葉の意味としては学ぶことと習うことに違いがあるのだから、教えることと育てることにも違いがあるのだろうし、指し示すことと導くことにも違いがあるだろうが、それを学習や教育や指導と表現すれば二つの意味を一つにまとめて示したことになるわけで、違いを無視しているわけではなく、両方をおこなうことを意味していると解釈しておけばいいが、学ぶだけでは駄目で習わなければならないことがあって、また教えるだけでは駄目で育てなければならないこともあって、さらに指し示すだけでは駄目で導かなければならないとしたら、それほど厳密に違いを際立たせる必要があるかというと、普通は区別していないだろうし、使い分けてもいない場合がほとんどかも知れないが、それに対して反抗する側にとってはどれもこれも謙虚な姿勢では学習も教育も指導も受け入れることができず、絶えず上から目線で強要されることが反抗の口実を与えるわけだが、実際にもっと下から下世話な水準で反抗するにはどうしたらいいかとなると、真似るとか倣うとか盗むとかくすねるとか、主体的に勝手なことをやるというなら、誰もがやる気になるかも知れないし、やるべきことではないことをやるということになれば、学習とも教育とも指導とも違うわけだが、やるべきことではないことをやって学習や教育や指導に携わっている人を困らせたいという意図や思惑でもあれば、さらにやる気が出るかも知れないし、そういうことが学習や教育や指導に伴ってそれに対する反作用や副作用として生じてくるのも、逆説的に学習や教育や指導による効果が上がったことになり、その種の行為を助長してそういうことをやる温床となってしまうことが、学習や教育や指導にはつきものなのかも知れないが、それは社会的な行為には反社会的な行為がつきものであるのと同じことかも知れず、社会的な行為こそが反社会的な行為を生み出しているという逆説も成り立つわけで、そういうところから妙にねじ曲がった感情が粘着質のようにこびりついてきて、嫌悪感や不快感を助長させて、ざまあみろとでも言いたげな態度をとらせるわけだが、それだけでどうなるわけでもなく、そんなことも織り込み済みのこととして平然を無視される場合もあるだろうし、そんなことにかかわっている場合ではなく、もっと優先させるべきことがいくらでも出てくるから、そういう方面では大した対策もとられずに放置されてしまうのがよくありがちな成り行きとなってしまうのだろうが、それ自体が物事の表裏となって表裏一体化しているから取り除けないことでもあり、それでも構わないのだろうが、絶えず表側だけ強調されるだろうから、一見それが不都合な真実であるかのような様相を呈するわけだが、誰もが承知していることだから、隠されているわけでも隠そうとしているわけでもなく、実際にも隠しようがないことなのだろうが、あえてそれに触れるのも憚られるわけでもなく、そういうことが問題だと取り上げればいいのだろうが、すでに根性がねじ曲がっているからそうはならないわけで、まずはそんなことはなかったかのように平静を装いたいだろうし、大したことでもないということにしておきたいわけで、実際に大したことではないはずだが、大したことになる場合も稀にあって、大したことになるまでは知っていても知らないふりを装うのだろうが、大したことになればなったで、犯人捜しをやって全ての責任を犯人に押しつけて問題を片付けようとするわけで、そうやって加害者という犠牲者を社会的に葬り去ったことにしておけばいいわけだが、それでその場では一件落着になるはずだが、それとは別の場では同じようなことが起こるから、客観的に見れば一件落着ではないはずだが、その場その場で一件落着になればいいわけで、他人がどうなろうと知ったことではなければ、一件落着なわけで、そうやって絶えず社会からの落伍者を出しつつも一見社会の平静が保たれているわけだが、だからといって落伍者も社会の中で暮らしている現実があるわけだから、それ自体が一つの役割分担でしかなく、実質的には落伍していないわけで、何か追放処分となっているわけでもなく、刑務所から出てくれば社会の一員となってしまうわけだが、それでも人間失格の烙印を押されたような印象は伴ってくるだろうから、少なくとも面白くはないだろうし、気分が良いわけではなく、汚名返上ともならないから、面倒な事態であることは変わりなく、面倒な事情や経緯を抱えつつも普通に生きていけばいいわけで、それ自体は問題ではないはずだが、ある一定の人々がそうなっても、相変わらず学習や教育や指導の効果が上がっているように見せかけなければならず、見せかけるのでも装うのでもなく、実際に効果が上がっているからこそ、何でもないような人間が大量生産されているような実態もあり、それを何でもないと言ってはまずいわけで、何か存在として意味や意義や価値があると言わないと人としての尊厳を失ってしまうわけだが、何でもないように取り扱われている限りで何でもなく、それ自体は何の問題もないわけで、逆に問題があった方が面倒な手間暇がかかって、何でもないでは済まなくなってしまうわけだが、そういうわけで学習や教育や指導などによって何でもない人間になってしまうと問題がなくなって面倒な手間暇がかからなくなってしまうから、逆に張り合いがなくなってまずいと思うわけではなくても、なぜかその場の成り行きから作用反作用の力が働いて、やはり反抗する成り行きになってしまい、それなりに問題を抱えた人間が生み出されてしまうわけだが、それが周囲の人たちにとっては問題だと思われても当人にとってはそうなるのが自然の成り行きに感じられていれば、問題なのは周囲の人々の対応となってしまうわけだが、そんな問題も解決する成り行きにならなければそのまま放置されてしまうし、放置されている限りで問題でも何でもなく、問題児に対する周囲の対応も問題ではなくなってしまうのだろうが、それをあえて問題提起することが何を意味するわけでもないとしても、何も意味しないからといって問題提起した側には収まりきらない事情も生じてきて、それが問題提起したことの意味だと受け取られても、人によっては相変わらず何も意味していないようにも受け取られるだろうし、それの何が問題なのかといえば、問題提起した側の意向に応じてしまうと問題提起した側と共犯関係になってしまって、問題提起した側の意向に沿った評価を下さなければならなくなり、問題提起した側がそのような行為に対してダメ出しすれば、その人もダメ出しせざるを得ず、ダメ出しした手前、その理由を示さなければならなくなり、そこからダメ出しした件に関して過剰に反応してしまうわけで、そういった過剰反応が問題提起した側の意向通りであればあるほど、問題提起した側に操られていることにもなり、宣伝や煽動としての効果を高めることにもなってきて、その人の操り人形としての価値や機能も一時的には高まるだろうが、それは使い捨てとしての価値や機能でもあり、そういう人が問題提起した側の都合に応じて踊らされた挙げ句に使い捨てられても、また別の操り人形が用意される限りで、いくらでも取り替えが利く人間として扱われてしまうだろうし、そういう使い捨ての取り替えが利く人間が大量生産されているのが、学習や教育や指導の効果となって現れている現状があるのかも知れないが、そういった効果に過剰反応して抗おうとしてしまうのも使い捨ての操り人形としての価値や機能に含まれてしまうのだから、あまりそういった方面で過剰反応したり抗おうとするのは得策ではないのかも知れず、ではどうすればいいのかと問われても、その種の問いに答えようとしてはいけないのかも知れないが、少なくとも自らが課されている役割分担は把握しておく必要があり、たとえそれが通りすがりの通行人の役でも、善意で演じる必要はなく、自然に振る舞えばそれで済んでしまうようなことなのだろうが、間違ってもそれ以外の役があてがわれることを期待してはまずいのかも知れず、そういった社会的な役割分担は意識しつつも、必要以上に役にのめり込まないことが肝心なのかも知れない。


7月24日「現状の説明と問題」

 大半の人にとっては世の中の現状が現状であることの理由など知ったことではないかも知れないが、それでも何かもっともらしい理由を当てはめて現状を理解したつもりにはなりたいかも知れず、現状が現状であることをうまく説明できれば、それで現状をわかったつもりになれるかも知れないが、説明してみたところで現状が現状であることには変わりなく、現状でなくなるわけではないはずだが、現状の何が問題なのかと考えたところで、問題をどうやって解決すればいいのかがわからなければ、そこで行き詰まってしまい、それ以上は何をどうすることもできないかも知れないが、現状が現状である必要があるかとなると、現状でうまくいっている人にとっては現状が現状である必要があり、現状でうまくいっていない人にとっては現状を変える必要がありそうだが、そういう理解で構わないのかというと、普通に考えて現状とはそういうことであり、現状でうまくいっている人が現状の中で主導権を握って活躍している一方で、うまくいっていない人はなかなか活躍できずに問題を抱えながら不満を抱いているはずだと思っておいても構わないだろうが、そこからさらに事態を込み入らせて物事を複雑に考えるなら、うまくいっている人でも問題を抱えて不満を抱いているし、うまくいっていない人でもその人なりに現状の中で活動していて、問題を抱えて不満を抱きながらも満足している面も少しはあったりして、何とかなっている面もあり、うまくいっている人とうまくいっていない人とを一概には区別できない面もあるわけだが、そんな中でも何が良くて何が悪いのかを指摘できるだろうし、指摘したところで悪いところを直せない場合もあるだろうが、直せなくても批判することができて、年がら年中その手のことを批判しまくりな人もいくらでもいるかも知れないが、批判していればそれで間に合ってしまうことであれば、それが直らなくてもどうということはなく、批判されまくりにしておけば済んでしまうことでしかなく、そうやって一向に批判が鳴り止まないままになってしまっていることもいくらでもあって、そういう批判の継続と繰り返しによって現状が維持されている場合もあるわけで、何かそういうところで不条理感を覚えるかも知れないが、そんな現状がいつ果てることもなく長引いていることも何かを暗示させるわけで、何を暗示しているのかといえば、現状の衰退を暗示していることは誰もが薄々感じていることでもあり、このままではどうにもならないのに、そんなどうにもならない現状の中でも何とかそんな状態を維持しようとしているのであり、それが自然の成り行きのように感じられるところが救いようのない愚かしさを示しているのかも知れないが、誰もが何とかしてそうなっている現状から目を背けようとしているとは思えないとしても、誰もが目を背けて現状の衰退を楽しんでいるわけではないとしても、衰退ではなく繁栄を謳歌しているように見えるところが、別にそれが思い違いなどではなく、衰退が繁栄と同時に起こっていることだから、どちらとも受け取れることでもあり、どちらであっても構わないわけではなくても、衰退と繁栄が同時に進行している限りで現状が維持されて、どちらからでももっともらしいことが言えるのであり、どちらから現状を説明してみてもうまく説明できて、現状に関して批判的に語ろうとする人がいればこのままでは衰退してしまうと危機感を募らせて、すでに衰退に向かっている最中だと指摘することもできるだろうが、その理由や原因を挙げることができればそれなりに語っている内容に説得力が伴うわけだが、そこまでが言葉を用いて説明できることであり、そんな現状を変えようとするには言葉だけではどうにもならない面が出てきて、そのどうにもならない面をどうにかするには人や物や情報を動かす必要が出てくるのだろうが、それらを動かそうとすれば現状の中でおこなわれていることにかかわらなければならず、かかわっている限りで現状の維持にも加担していて、現状を維持するような物事の成り行きに巻き込まれて、そういう成り行きに抗いながらも現状を変えようとするのだろうが、変えようとする内容にも程度にもよるが、その内容や程度に応じて思い通りに変わる面もあったり変わらなかったりする面もあるだろうし、それとは別の面では、その場の偶然に左右されたり成り行きに左右されたりしながら変わっていったり変わらなかったりもするのだろうが、それを変えようとする人とは関係のないところで思いがけないことが起こって、そちら方が現状の中で主要な出来事として世間の関心の的となってしまえば、その人とは関係のないところで現状を変えるための試みがおこなわれていることにもなってきて、それに伴ってその人は蚊帳の外へと追いやられて、現状を変える試みの中では不要な人材となってしまうかも知れないが、それが現状の変化そのものであれば、確かにそうやって現状が変わったことになって、その人の思い通りには変わらなかったものの、現状が変わることに関してはその人が何らかの貢献をしたことになるかも知れないが、その貢献が現状の変化に直接かかわった人や団体からは認められないことになるかも知れず、確かに現状を変えるきっかけとしては役立ったかも知れないが、だからといって役立ったこと自体も無視されるようことにもなるかも知れず、それがその人以外にとってはどうでもいいことであればそれで構わないのだろうが、無視される立場になってしまった人にとっては当てが外れて、自らの都合が反映しないような現状の変化に直面して愕然とするかも知れないが、意外とそうなればうまくいったことになり、思惑が外れた変化であるからこそ、変化に関して責任も生じないだろうし、その人のせいで世の中が変わってしまったとも思われずに済んでしまうから、変化した後の世の中では割と自由に振る舞えるわけで、それが当初に抱いていた思惑ではなくても、その場の情勢に応じて新たに生じてきた思惑としては都合が良く、そこからまた新たな変化を促すような試みをおこなえる可能性も出てくるかも知れないが、それはあくまでも可能性であって、その人以外にもそうなってしまった人がいくらでもいて、それらの人の全てがそんな成り行きに巻き込まれるわけでもないだろうし、それを試みるのは誰でもかまわないだろうが、誰かが試みるようなことでもあり、またそれを試みたからといって何がどうなるわけでもない場合もほとんどかも知れないし、その中のいくつかが実を結んで何らかの変化が起こればいい程度のことでもあり、また直接変化にかかわった人や団体が偉大だとか凄いというわけでもないのかも知れず、何かメリットがある人や団体にとっては望ましい変化であっても、デメリットが出てくればそれをどうにかしようとするだろうし、そんなことをおこなっているうちに思わぬところから別の変化も起こってきて、当初に抱いていた思惑とかそれにかかわっている人や団体の都合がそのまま反映されるわけでもなくなってしまえば、次第にそこから関心が離れていって、それと入れ替わりにしてまた別の人や団体が自分たちの思惑や都合を状況に反映させようとして介入してくるかも知れず、そんなことが色々と様々におこなわれているのが現状でもあり、実態としては何だかわからないような物事の錯綜や絡み合いが起こっていて、それを言葉で説明しようとして説明しきれるものでもないだろうが、都合のいいところだけ説明できれば、説明の中では物事の辻褄が合ってくるかも知れないし、もっともらしい内容となるだろうが、そういうところだけに関心を持つのはご都合主義となってしまい、それでも構わなければしかもそうなっていることに気づかない人たちが現状の変化に関心を寄せている場合がほとんどとなり、それらの人たちが都合のいいところだけ変化してほしいと思っているからこそ、当然のことのように当てが外れて、がっかりして次第に関心が薄れて無関心となってしまうのだろうが、その一方でそんな人たちの思いや思惑とは無関係に現状が変化し続けている面もあるわけだ。


7月23日「賢い人々」

 人に良かれと思って主張していることが人を馬鹿にしていることだと気づかないのは、政治家の主張としてはよくあることかも知れないが、それに気づかない政治家が馬鹿なのかというとそうでもなく、政治家とはそういうことを主張する役割を担っていて、政治家の主張を鵜呑みにする一般の人々が馬鹿をみるとしても、だから政治家には騙されるなと言うことではなく、多くの人々が政治家に騙されて馬鹿になってもらわないと困るのが民主主義の厄介なところかも知れないが、馬鹿な人々を誤った方向へと導くのも政治家の役目かも知れず、そんな誤った方向というのが民主主義を実現させる方向なのだろうが、なぜそれが誤った方向なのかと言えば、世界各地で民主派と呼ばれる人々を弾圧する勢力にとっては、それが誤った方向だと見なされるわけで、行政による統治に対して文句を言ってくる人々の味方を装うのが民主主義の実現を主張に掲げる政治家としてはよくありがちな傾向になるだろうが、それに対して馬鹿ではなくどちらかと言えば賢い部類に入る人々が何を考えているのかというと、考えているのではなく、何も考えていないわけでもないが、行政による統治の味方を装う人々が賢い部類に入るかも知れないし、賢い人々が多数派を占めているわけではなく、賢い人々に従う人々が世の中の多数派を占めていれば、果たして多数派が賢いのかというとそうでもないだろうし、多数派を従わせている人々が賢いことになるだろうが、そういう人々は行政を味方につけていて、また政権政党や大企業も味方につけてもいて、権力に逆らうのではなく、権力を味方につけている人々が賢い人々になり、賢い人々に従っている多数派を構成する人々が賢い人々に騙されているわけではなく、ただ単に賢い人々に従う習性があると捉えておけばいいのかも知れず、賢い人々に従っているのだから愚かでも馬鹿でもないことになるのかも知れないが、それによって得をしているのかというと、どちらかと言えば多数派を味方につけている賢い人々が得をしていることになるだろうし、もちろん誰もが賢い人々の仲間入りをして得をしたいわけで、それは政治家も例外ではなく、賢くなって多数派を味方につけて政権側になりたいわけで、それと行政による統治に対して文句を言うことが両立できるかというと、両立できれば多数派を味方につけて政権側になれるのだろうが、実態として多数派を味方につけられずに少数派にとどまっているとすれば、少なくとも賢い人々の仲間入りができていないことになるのだろうが、行政による統治に対して文句を言うことが賢い行為なのかというと、行政による統治がうまくいっていなければ文句を言うのは当然に思われるわけだが、それが誰にとってうまくいっていないのか、あるいは立場や境遇の違いによってうまくいっていることがうまくいっていないことになれば、それをどう捉えてどう対応すればいいのかよくわからなくなってくるかも知れないが、そういうところが考えなければいけないことだとすれば、国民の利益を守っているように装いながらも、それを考えさせないように仕向けている政治家に多くの人々が騙されていることになるのだろうが、どうもそういうことではなく、立場や境遇によるに違いによってうまくいっていたりいっていなかったりするようなことはやらずに、立場や境遇にかかわらず、誰にとってもうまくいくようなことをやろうとするのが行政による統治が目指すところかも知れないが、逆に言えば立場や境遇によって利害が異なる方面ではうまく統治できないわけで、そういううまくいかない方面から文句を言ってこられても困ってしまうかも知れないが、それもどういう方面でそうなっているかといっても、はっきりしないような具合になっていて、それをはっきりさせてしまうと都合が悪い人や団体もそれなりに出てくるから、微妙なところかも知れないが、文句を言ってくる人ははっきりしたことをいう傾向にあるだろうし、世の中には行政の統治によって得をしている人や団体と損をしている人や団体がいて、損をしている人や団体の味方を装いながら、自分たちの勢力が政権を担えば損をしなくなると主張するわけだが、そういう主張をどれほどの人や団体が信用できるかが、そういった勢力が政権を担えるかどうかを決めるわけだろうが、結果的に多くの人や団体から支持を得られなければ、信用されていないか、あるいはそういった勢力が主張する内容が合っていても、実際に行政の統治によって損をしている人や団体が少数派にとどまることになるだろうが、そうではないとすれば、多くの人や団体が自分たちが損をしていることを理解できないということにもなるだろうし、賢い人たちが理解できないような仕組みをこしらえ上げていて、しかもそういった仕組みの方が魅力があるから、多くの人や団体がそちらの方に惹きつけられている可能性もあるだろうが、人の欲望に訴えかける目くらましとして何に興味を抱いているのかというと、すぐに思い浮かぶのが娯楽の類いになるはずで、人が苦しむよりは楽しむように仕向けていることが、苦しみを忘れさせているはずだが、苦しみがなくなるのではなく一時的にそれを忘れるように仕向ける仕組みが様々に講じられていることは確かかも知れないが、そういう仕組みによっても忘れられないような苦しみにとらわれていれば、それがどこから来るのかといえば、別の何かのせいにしたければ、行政による統治のまずさのおかげで多くの人や団体が苦しめられているという主張になるわけだが、それもそういう主張を信じる人や団体が多数派を占めれば政権交代の類いが起こるのかも知れないが、それが起こらなければ苦しめられている人や団体が多数派を占めているわけではないことになり、行政や政権側も一安心するのだろうし、それも何か工作がおこなわれているとか言い始めるときりがなくなってしまうわけだが、実際に独裁政権が民衆を弾圧している国も結構あるから、そういう可能性が全くないというのも信じられないことではあるわけで、そういうことまで考慮に入れるとどこからどこまでが信じられることであるかは、人によっても立場や境遇によっても違うだろうし、実際に苦しい生活を強いられている人が大勢いれば、それが信用できる主張となって、一定の支持や賛同を得ることにもなるのだろうが、それだけが全てではなく他にも様々な要因があって、そちらの方に関心を奪われているようなら、そういった主張が別のことに関心を奪われている人には届かず、そちらの方面では支持や賛同を得られないことになるのだろうが、何か別の方面に関心がある人たちの方でも、関心を抱いている余裕があるわけだから、たとえ生活が苦しくても耐えられる限度内には収まっているだろうし、そういう主張を支持しないのは愚かだと見なすわけにはいかず、それよりは人にはその人に合った領分というのもあって、その領分が合わなければ、たとえそれが納得できる合理的な主張であっても、支持できない場合もありそうで、何とかそういう主張を退けようとする口実を探し出して、それに依存しながら屁理屈をこねれば済んでしまうようなことであれば、そんなことをやる人を馬鹿呼ばわりしても構わないだろうが、馬鹿もはさみも使いようで、賢い人たちがそういう人たちをうまく利用している実態もあるかも知れないが、そういう主張をしていること自体が馬鹿にされている可能性もあり、主張内容がまともに受け取られないように処理されていたり、馬鹿の一つ覚えだと思われている節もありそうで、実際にいつまで経っても一向に満足できる成果を上げられなければ戦略の見直しを迫られる成り行きになるかも知れないが、戦略といってももとから戦略次第でどうにかなるようなことでもないのかも知れず、やはりそれとは違う方面で本質的な事態が進行中である可能性も捨てきれないわけだ。


7月22日「些細な出来事の蓄積」

 様々な方面から恣意的あるいは無意識に及ぼされる力とその力によって持ってこられた材料がより合わさって何かが生み出されるのは、世の中ではありふれた成り行きだが、生み出されたそれが厄介な物事になったり、災害そのものであったりすることが、良かれと思ってやったことが取り返しのつかない過ちを犯してしまったことにもなって、それが否定的な意味で世の中にマイナスの効果や影響を及ぼしたことにもなるだろうが、そうなった結果からそう思われるのであり、そうならなければそうは思われないし、実際にもそうは思われないことの方が圧倒的に多いだろうが、そうは思われないことの多くは、そうなった原因からはあらかじめ除外されているだろうし、無視されることになるだろうが、無視されているからこそ思いがけないことの原因となるかも知れず、原因がわからないようなことの中で、偶然に起こったようなことの知られざる原因の一つとして、それが含まれていれば、そんなことははじめから無視されて考慮に入れられていないわけだから、原因がわからずじまいになっても顧みられることはないだろうし、実際にも無視されたままになって、その大半は記憶にも記録にも残らないことでしかないだろうが、それにかかわっていたごく少数の個人の記憶には残っているし、記録も残しているかも知れず、場合によってはソーシャルメディアなどで公開している場合もあるだろうが、それが何だといっても、何でもないことではないかも知れないし、多くの人が興味を惹く内容になることもあるだろうが、だからといって、それと似たような他の人の記憶や記録が多くの人の興味を惹く対象とはならなくても、別にそれがおかしなことではないだろうし、また多くの人が興味を惹く内容であっても、それに興味を惹かれた多くの人にとって重要なことにはならない場合もあるだろうし、その人にとってはそれほど重要ではなくても興味を惹かれることがあるわけだが、そういう意味ではその人にとっては興味のないことであってもその人にとっては重要なことが、世の中のどこかに埋もれている可能性があるかも知れないし、大して重要でもないことに興味を惹かれているうちに、それを発見する機会を逃している可能性もあるかも知れないが、そんなことはその人にはわかりようがなく、そうなっているとしても知ったことではないのだろうが、本当にそうであったとしても、なぜそれがその人にとって重要なのかもわからずじまいに終わってしまう可能性も大だろうし、そもそも知りもしないことが重要であるか否かなどわかるわけもないことだろうが、可能性としてはそういうことが言える程度の話であり、それ自体が重要でも何でもない話になってしまいそうだが、それでも誰もが日々何か興味を惹かれたり惹かれなかったりする出来事や現象に遭遇していることは確かで、それが自身にとって重要なことになるかどうかは、それへのかかわりの程度や内容からそう思われたり思われなかったりすることにはなるだろうが、そう思われても実際はそうではなかったり、そう思われなくても実際には重要であったり、実際にはそうならなくても、他の誰かが思い描く話の中では重要であったりなかったりもして、そうなればその人には関係のない話になってしまいそうだが、その人には関係がなくても、そういう話を思い描いている人にとっては重要であったりなかったりしているとすれば、それもその人にとっては知ったことではないはずだが、知ったことではなくても、それが何かの機会を捉えてその人めがけて襲いかかってくることもあるかも知れず、そうなればその人にとっては災難やとんだとばっちり以外の何ものでもないだろうが、もともとその人から生じた何かが何かの加減で回り回ってブーメランのように戻ってきたことにも気づかないかも知れないし、そんなことにまで責任が生じて他の人から見ればそうなるのも自業自得のように思われたら、その人にとっては不条理以外の何ものでもないだろうが、そういうことが実際に起こってみれば、それがその人にとっては重要に思われてきて、場合によってはそれによって人生を狂わされたようなことにでもなれば、憎悪の感情を抱いて今度はその人が攻撃を仕掛ける番になってしまうかも知れず、それも元を辿れば些細な偶然の巡り合わせから生じたことでしかないだろうが、そうなる過程においてどこかで話がこじれておかしな方向へとねじ曲げられてしまったにしても、そんなことまでどうすればいいかといってもそうなってしまった当人の力ではどうにもならないことだろうし、実際にどうにもならなかったことだから、そうなってしまったとしか言えないようなことでもあり、何かが破綻する直前ではそうなるべくしてなるようにしか思われないことが、その遙か手前ではそこからどうにでも引き返せるような状況にあったにもかかわらず、そうであったからこそ引き返そうとはしなかったのであり、そこから引き返すことが大して重要だとも思われず、その時点での優先順位としては、他にもいくらでもそれより優先させるべきことがあって、実際にそちらの方が重要だと思われて、それを優先させた結果として引き返せなくなってしまったわけだろうが、結果から見ればそれが誤りであったと思われても、実際にその時点では優先順位の高いことをやる必要があったわけで、しかもそれをやった結果として何らかの肯定的な成果を得ていれば、なおさらそれをやることが重要だと思われるだろうし、実際に重要なことをやった結果としてそれなりの成果を得たわけだから、やっていることとやった結果としての辻褄も合って、それで良かったはずだが、確かにその時点ではそうであったわけで、そこから思いがけない紆余曲折や迂回を経てわけのわからない状況に至ってみると、そうでもないことが明らかになるにつれて、そうなってしまったことの原因を探って何らかの対策を出さなくなってきた段階ではもうすでに手遅れになってしまったとしても、そこから時間を遡ってそこから引き返す余裕があった時点に戻ることはもはやできないだろうが、フィクションの中でそういうことができる設定にして時間を遡ってみれば、やはりその時点では優先順位の高いことをやろうとして、実際にその時点ではそれ以外の結果などわからなくて当然だが、しかもそこからしばらくすると話が予想外の展開を見せることもその時点では予測不可能な状況となれば、その時点では優先順位の低いことをやる成り行きにはどうしてもならないだろうし、むしろそれをやること自体が間違いだと思われてしまい、結果から見ればその時点で間違ったことをやるしかそこから遠い将来における破綻を避けることはできなかったとしても、あえて間違ったことをやる成り行きにはならないだろうし、そうであればその時点では優先順位の高いことをやるのが正解であり、優先順位の低いことをやらなかったことが将来において破綻の原因となるにしても、別にそれがおかしいわけでもなく、むしろそうなるのが必然的な結果であり、そこで優先順位の高いことをやって優先順位の低いことをやらなかった人や団体が愚かであったはずもなく、むしろ賢明なことをやったことにもなり、それでもうまくいかないのであれば、それは仕方のないことだと思っておいても構わないだろうが、結果から物事を判断する人にとってはそうではなく、破綻の原因を作った人や団体を批判して責任をかぶせてしまうだろうが、そうすることもその人が信じている論理や守ろうとする倫理に照らし合わせれば当然のことのように思われて、その人の頭の中で辻褄が合って、そうすることがその人にとっては優先すべきことでもあり、その人にとって間違ったことを言うのは、当然のことながらその人の選択肢の中にはないわけだ。


7月21日「近視眼的思考」

 否定的な意味で近視眼的な思考や視野が狭いというたとえが、その反対の広い視野で物事を見なければならないとか多角的な視点を持つべきとかいうありふれた意見を補強するために持ち出されてくるのは、近さと遠さとか狭さと広さとか、そういった対比でカバーできる相対的な範囲内で言えることとは違う何かを想像させないようにしているわけでもないだろうが、意図的に誘導しているわけでもないとしても視野の広さや狭さや視点多さや少なさと思考を結びつけて、見ることと考えることは違うという根本的なところで混同が起こっているのかも知れず、見たところで考えたことにはならないのはわかりきっているが、意図的に視野や視点を変えて、物事を別の方向や別の角度から見たり、思考の対象から離れて見たり近づいて見たりすることによって、同じ方向や角度や距離から見た時には気づかないところが見えてきて、それが思考を刺激するのだろうが、そもそも考えるという行為が意識を一点に集中させて考えがちになってしまい、それがいわゆる近視眼的な思考と呼ばれる傾向であり、だからそうならないようにいったん視線をずらして別の何かを見たり、大して興味を惹かない何かにかかりきりになっているうちに、不意にひらめきがもたらされて、それがそれまでには考えもつかなかったことであれば、うまい具合に意識を誘導できたことになるかも知れないが、近視眼的な傾向にならないように意図的に視野を広げたり視点を変えて見ること自体は小手先の浅知恵にすぎず、それよりも考えていることの中身が何なのかが根本的には問題であり、大したことを考えているわけでもないのに近視眼的な思考になっていようといまいと、そんなのはどうでもいいことになってしまうだろうが、それが人によっては大したことでもあるとすると、大したことでもないと考えている人との間で何らかの差異がありそうだが、その差異というのも大同小異でしかない場合もあるだろうし、大したことでもないのに大げさに騒ぎ立てるということ自体が大したことだから大げさに騒ぎ立てていることでもあり、それが大したことであるかないかの違いが、騒ぎ立てているのだから大したことなのではないかと思わせたいのだろうし、多くの人の視線をそこに集中させたいのだから、多くの人を近眼的な思考にしたいのかも知れず、そこで近視眼的な思考に基づいた見解を示して多くの人に同調を求めていて、それよりはもっと広い視野で物事を見るような大局的な見地に立って見れば大したことではなく、多くの人がそうなってしまっては困るから、大したことでもないのに大げさに騒ぎ立てていることに気づいてほしくないということかも知れないが、何をそんなに騒いでいるのかというと、人によって立場や境遇によっても大したことであるかないかの違いがあることについて騒いでいれば、それなりに同調してくれる人も出てくるだろうが、人によってはそれに同調しようがしまいがどちらでも構わないのかも知れないし、騒ぎ立てていること自体も大したことではなく、いつもの騒ぎ屋がいつものように騒ぎ立てていることだから、そうなっていること自体が大したことではなく、大げさに騒ぎ立てていること自体が、それが大したことではないことの証拠ともなり、むしろその手の人が気づかないことの方が人によっては大したことでもあり、だからそういう人には騒いでほしくないようなこともあって、そういう人が騒ぎ始めるとかえってそれが大したことでもないことになってしまうから、意識してそういう人を遠ざけるような配慮が働く方面もあるのかも知れず、それが何かというと、物事の本質にかかわってくるような方面なのかも知れないし、それとは逆にその手の騒ぎ屋がいつものように騒ぎ立てることは決まって枝葉末節な方面でもあり、いつも決まって枝葉末節なことを大げさに取り上げて騒ぎ立てるのが騒ぎ屋が騒ぎ屋であるゆえんでもあり、その手の騒ぎ屋にとってはそれが大げさに騒ぎ立てるべきことになるのだろうが、一方では騒ぎ屋が騒ぎ立てることは枝葉末節で大したことではなく、要するに騒ぐべきことが大したことではないという逆説が成り立っているのだろうが、果たしてそれで構わないのかというと、大したことではないことを大したことのように思わせることに成功できればそれで構わないのかも知れず、しかも多くの人がそう思うようなことを騒ぎ立てられれば、それがその手の騒ぎ屋にとっての成功となるのだろうし、そうなれば騒ぎ屋の思惑と多くの人々の実感が一致して、それが大したことであり大げさに騒ぎ立てるべきことでもあり、騒ぎ屋としてはそれが枝葉末節なことではなくなって、何か本質的なことについて騒ぎ立てていることになるから、もはや軽薄な騒ぎ屋ではなく、そういった方面の権威になったようにも思われて、騒ぎ屋から権威者へと出世したことになるのかも知れないし、自らの出世願望を満足させることができるのかも知れないが、どうもそれが時代的な経緯や事情や制約から考えると必ずしもそうはならないような成り行きになっていて、すでに時代状況が何らかの権威を必要とするような従来型の大衆市民社会ではなく、権威自体が嘲笑の対象ともなるような時代状況からも遠く隔たって、もはや誰もが何でもないような一介の市民に過ぎないような時代状況なのかも知れず、そうなると特に騒ぎ立てるようなことが何もないというわけでもないが、何か特定の誰かが権威面して騒ぎ立てるのではなく、何でもないような人たちが騒ぎ立てている状況も確かにあるが、騒ぎ立てていること自体は何でもないことであり、誰が騒ごうと騒いでいる人が脚光を浴びるというよりは、その対象が騒ぎ立ての中で一時的には脚光を浴びるのだろうが、しかも脚光を浴びているそれが日常茶飯事のことでもあり、スクープとかいうのではなく、どこでもありふれていることでもあり、要するに例えば中国の地下鉄が洪水で水浸しになっても、それが日常茶飯事なのであり、どこかで人が大勢死んでもそれも日常茶飯事で起こっていることであり、一時的には驚くだろうが、そんなことが世界各地で頻繁に起こっていることを誰もが承知している時代になっているとしても、それは昔からそうだったのかも知れず、それを昔は特定のメディアが独占的に取り上げていたことだったのだが、今ではソーシャルメディア上で日常茶飯事のように伝えられているから、それを権威面して大げさに取り上げる手間がかからなくなってしまい、それでも誰かがその種のメディア上で一時的な脚光を浴びたいから、水浸しの地下鉄の状況をソーシャルメディア上で伝えるわけで、それがメディアの民主化と言えるのかも知れないが、だからといってそれが権力に対抗する力として機能するわけでもなく、権力にかかわっている人や勢力の方でもその種のメディアには力がないことを承知していて、いざとなったら警察や軍隊を使って力尽くで抑え込もうとするわけで、それは一昔前のアラブの春から続いていることでもあり、その種の暴力に屈することによってソーシャルメディア上で夢見られる政治的な幻想が破れるわけだが、そういう意味では世界的に流行っていることだとしても、近視眼的にソーシャルメディアに飛びついてそれに依存していると足下をすくわれるというよりは、実態としてはお子様のままごと遊びのようなことでしかないのかも知れないが、それが日常茶飯であるだけに侮りがたいというわけでもなく、その程度で済ませられることだから手軽にできることでもあり、その手軽さ故に何の力もない代わりに日常茶飯事の水準では何でもありな自由さもあって、まだその分散指向の利点が充分に人々の間で認知されていないのかも知れないが、それを通してこれから何かが変わっていく可能性もあるわけだ。


7月20日「情報の意味と価値」

 何かが得られるということが何らかの意味が得られることになれば、それは言葉が示す意味内容になるかも知れないが、得られるものとなると物質として実体のあるものとなったり、言葉以外の情報も含まれるかも知れないし、具体的にそれは画像や映像や音声などの情報となるだろうが、それらの情報が何を意味するとしても、情報から得られる意味が人それぞれで異なったり、あるいは多くの人が共通の意味を求めたりすることもあるだろうが、意味どころか共通の価値を求めることさえあるとしても、その情報に意味や価値が結びつくのは、人の意識の中で認識されることであり、たとえ何らかの物質に意味や価値が刻まれていたり記されていたりしても、それを意味や価値として読み取るのは人の意識が読み取るわけで、そこで共通の文法や数値や記号内容の量や大きさの基準を認識できる限りで、誰もが了解している意味や価値が結びついているのを知ることができるわけだが、実際にそれが意味していたり価値があるものを受け取ったり、あるいは何らかの意味があったり価値があると思われるサービスの類いを提供されるまでは、それらに本当にそういう意味があって価値があるとはわからない場合もあるだろうし、それまではそれらに意味があったり価値があることを信じるしかないだろうし、それがあることを期待してそれを支持したりそれに賛同したりそれを受け取るために金銭を支払ったりするわけだが、意味や価値があると思わせたい側でも、それがあることを期待させたくて、盛んに宣伝したり煽動して、多くの人々の気を惹こうとするわけだが、その時点では捕らぬ狸の皮算用でもあり、その種の宣伝や煽動が功を奏して効果を上げて、提供する物事に意味や価値があることを信じてもらえるかどうかはわからない場合も多いわけだが、もちろんそれなりに目算があるから宣伝や煽動をやるわけで、費用も手間もかけているわけだが、それがそれを支持したりそれに賛同したり金銭を払ってくれる人々の期待通りであればいいのだろうが、結果的にはそうはならない場合もあるだろうし、宣伝や煽動の中で言葉で説明した通りの物事を提供できない場合もあるかも知れないが、その時点ではまだ提供できないことをわかっていながら、それでも支持したり賛同したり金銭を払ってくれる人も出てくるわけで、それが何を意味するのかといえば、言葉で説明している内容よりも説明している人自身の存在やその立場や姿勢が支持や賛同を集めることになるわけで、それに関して最近の出来事としてはペルーの大統領選挙でそういう存在や立場や姿勢を体現している人物が当選して、もちろんこれから主張していること実行しようとするのだろうが、他にもそういう傾向の人物としてはフィリピンやブラジルなどでは現職の大統領がそれに当たるだろうし、アメリカでもトランプ前大統領にそういう傾向があったのだろうが、そこに人物としてカリスマ的な意味や価値が見出されるとしても、それを大衆の幻想と見なしては身も蓋もないが、実際にその種の人物を支持したりその主張に賛同するような人々にそのつもりはなく、それどころかむしろ真面目に政治と向き合っている人も大勢いて、その種のポピュリズムとは一線を画しているとさえ思っている可能性まであり、そういう人たちを十把一絡げに捉えて大衆迎合主義だと切って捨てるわけにはいかず、何かその人の良心にそうさせるような傾向があると捉えておいても構わないのかも知れないが、真面目に政策本位の主張をしている人に支持が集まり、実際にそういう人が選挙で当選するのが民主主義のあるべき姿だと思っている人たちがそういう人物に投票すると捉えておくのが妥当かも知れず、それ自体が大衆の幻想なのかも知れないし、日本では山本太郎あたりがその種の人物に該当するのかも知れないが、何かそうではない傾向が著しく世の中を覆っている状況にあると、そういう傾向の人物が現れて民主主義の理想の姿や在り方をその身に体現しようとするのだろうが、それを否定する筋合いはないわけだが、それどころか積極的にそういう傾向を推し進めなければならないわけだが、それ自体はそういうことだとしても、それとは別の面ではそうはならないようなことも同時並行しながら起こっていて、それが何かといっても個々の事例によって異なってくるのだろうが、何かそこに独自の経緯や事情や成り行きが絡んできて、真面目に政策を主張している人物を大衆迎合主義に貶めるような作用が働いて、その種の人物とその種の人物を支持している人たちをポピュリズムの徒として扱っても構わないような状況となってくるわけで、それが意味や価値が変容や変質を被る成り行きでもあるわけだが、何かそうさせるような意図や思惑が働いてそうなるというよりは、自然の成り行きでそうなると捉えた方がしっくりくるかも知れず、その種の人物の主張の内容に無理があるというよりは、その種の人物にはそういうことを主張せざるを得ない切実な事情があると捉えておいた方が妥当なのかも知れないが、もちろんその種の人物を支持する人々にも切実な事情があるから支持しているのだろうし、そういった切実な事情をもたらしているのが世の中のある種の傾向なのかも知れず、それも世界中に蔓延している自然な傾向なのかも知れないが、そういった傾向に立ち向かうにはそうならざるを得ないような成り行きになってしまうわけで、その種の世界的な傾向からその種の人物が現れると捉えておいても構わないだろうし、その種の人物の出現ですらも世界的な傾向に含まれるのだろうが、そういう傾向と一体化しているからこそ、その種の人物の主張にも切実さが伴っていて、支持者にはその人でなければならないように感じられるわけだが、それは危機意識の表れでもあり、このままでは大変なことになるから、それどころかもうすでに大変なことになっているから、この大変な状況を何とかしなければならないと切実に願うのだろうが、それが思い違いや勘違いであるはずがなく、実際にもそれなりに大変な状況となっているのだろうし、その点ではその種の人物の主張に嘘偽りはないわけだが、嘘偽りがあるとすればその種の人物が批判の対象としている勢力の方に膨大な嘘偽りが山積しているはずで、いくら批判しても批判しきれないほどの嘘偽りにまみれているはずだが、その一方で嘘偽りがあることは多くの人々が承知していることでもあり、それどころか多くの人々の方でもそれらの嘘偽りに加担しているわけで、むしろそれらの膨大な嘘偽りと共に現状の世の中が成り立っているはずで、だからこそそこから危機感も生じるのだろうし、このままではひっきりなしに積み重なってくる嘘偽りの重みに耐えきれなくなって、社会全体が押しつぶされてしまうという恐怖がその種の人物への支持や賛同に結びつくわけだが、しかし果たして社会を成り立たせている嘘偽りの重みに耐えきれずに社会全体が押しつぶされてしまうものだろうかと疑問を抱く人も出てくるかも知れないが、それこそが社会の二律背反的な傾向であり、現状の社会を維持継続させるにはそれなりの嘘偽りが必要であるにもかかわらず、その嘘偽りを認めることによって人々の良心が蝕まれて、そういう社会で成功するには必然的に嘘偽りにまみれなければならないわけだが、それがその人の破滅も準備していて、いつどこでその人が抱え込んでいる嘘偽りがばらされるとも限らず、結局その種の嘘偽りがばれないように、ばれでもしらばっくれていられるように、嘘偽りを抱え込んでいる者同士で団結して社会の支配勢力を形成して、自分たちの嘘偽りをばらそうとしてくる人や団体に対処しなければならないわけで、もちろんそれに伴ってその種の人たちの嘘偽りを暴露しようとする人や勢力も世の中に嘘偽りが蔓延している状況に危機感を募らせるのだろうが、それらのせめぎ合っている力が何らかの均衡を保っている限りで社会の現状も保たれるとしても、そんな現状が続いてしまうと大変なことになると思う人や勢力もいるだろうし、実際にそんな現状が長い間続いてきたから大変なことになってしまったと主張しているわけだ。


7月19日「勘を働かせる」

 それが何のたとえというわけでもないが、自動車を運転して一方通行の道を逆走すれば交通違反だが、事故を起こさずに警察にも取り締まられずに通り抜けることができれば、しかも一方通行の道路標識を見落として、そんなことをやっていることすら気づいていない場合もあるだろうし、そんなふうに自分がやっていることの意味がわからなくても、意味を知りたいわけでもなく、知らなくても構わない場合もほとんどかも知れないが、むしろ知らない方が都合が良く、それがひどいことや悪いことであれば、知ってしまうとかえって不快感が増してきたり自己嫌悪に陥ったり後悔してしまったり面倒なことにもなって、そういう煩わしさを避けるためにも意識して自身がやっていることの意味にはこだわらないようにしている人もそうはいないだろうが、その場の空気や雰囲気を敏感に察知してなるべく都合が悪いことには触れないような気遣いができる人もいるだろうし、否応なくそうなってしまうことに関して、下手に勘を働かせてわかったような気になってしまうと、それがひどい勘違いであったりもして、やはり基本的な面では物事を論理的かつ合理的に捉えておくのが妥当なのだろうが、それだけに頼り切ってしまっても、必ずしもそれでうまくいくとは限らないと思っておくしかないが、やる前からそんなことにまで気を回してしまうと、怖くなって何もできなくなってしまうから、結局は予想も予測もつかないようなことをそれと知らずにやってしまってから、結果がうまくいかなければ後悔するしかないし、万が一でもうまくいけば自身の腕前や実力を過大評価して、それがうぬぼれになって将来において躓きの石となるにしても、実際にそうなってから反省するしかなく、そうやって何とかしてやることなすことに対して意識や思考や言葉が先回りして予想や予測するに至ってしまうのを避けたいのだが、さらに先回りとは逆方向にも意識や思考や言葉が働いて、物事の理由や原因や真実や事実を突き止めるに至ってしまうも避けたいわけで、そういうことをやるために意識や思考や言葉が作用するのだから、避けたいことは避けようのないことだとしても、黙っていても先行してしまう意識や思考や言葉に歯止めをかけるためにも、意識してそれらの先行を押しとどめておかなければならず、押しとどめようとしても結局は誘惑に負けて暇さえあればあることないこと考えたり思い浮かべたり思いを巡らしてしまうわけだが、そうやって精神作用が幻想や妄想を抱かせて、それらの対象となる実態や現実を歪めてしまい、それが自身にとって都合のいいように物事を歪めていることはわかっているつもりだが、わかっていても実際にやってみるまでは信用していないわけで、自分の勘を信用して勘に頼って勘違いなことをやってしまってから、もしかしたらやっていることが間違っているのではないかと思うわけで、しかもそう思っても実際に勘違いなことをやってしまっているわけだから、そこに至っても妙に自信があるわけで、それを実行できるという確かな感触が、自らの勘の確かさを実感させて、もしかしたら正しいことをやっているのではないかと期待して、さらにやっていることにのめり込んで、そのままやり続けていれば途中で多少の紆余曲折や躓きやトラブルがつきものであっても、最後には何とか成功するのではないかと思われて、そのためには今より一層の努力をするように仕向けられて、そうやって取り返しのつかないところまで突き進んでしまい、最後の最後まで自らの勘を信用してしまうわけだが、そこまで行かないと何かを実行したことにはならないのかも知れず、その全てが勘違いの失敗に終わるわけでもないだろうが、過去の苦い経験として記憶に残るのはそういうことばかりであり、思い起こせばそんな失敗ばかり経験しながら今に至っているはずだが、しかもそれにもかかわらず今こうして生きていることの確かさが、それもまた勘に頼ることの確かさと重なり合って、実際に勘に頼って失敗ばかり繰り返しているにもかかわらず、それでもまだ懲りずに勘に頼って何かをやろうとしている自らの愚かさに呆れてしまうわけでもなく、むしろそうするのが当然のことのようにも思われてしまい、実際に失敗して恥ずかしい思いや痛い思いをしたにもかかわらず、もう充分すぎるほど懲りているはずなのに、まだ勘に頼って失敗して痛い目や恥ずかしい目に遭おうとしているわけで、果たしてそれが本当に勘に頼っていることになるのかというと、それこそが勘違いなのかも知れないが、たぶん事の顛末を言葉で表現すれば誇張が含まれてきて、実際にはそんなことばかり経験してきたわけではなく、それなりにその場の状況に応じて振る舞ってきたから、自らの勘や思いがやろうとしていることの全てを制御しているわけでもなく、そのうちのごく一部の判断や評価の中で勘や思いとは違った結果になるから、そこでは勘違いや思い違いが疑われるわけだが、それとは別の面では勘が示している通りのことや思い通りの結果にも至っていて、それもその対象となる物事の程度や内容にもより、本当に致命的なところで勘違いや思い違いがあれば今に至っていないわけで、それどころかそれが教訓となるように、わざと間違えるような成り行きに勘が導いている可能性もあるわけで、ここでは勘違いなことをやらせて痛い目に遭っておいた方が、それ以上の深入りをしないで済むと判断すれば、実際に失敗して痛い目に遭う成り行きになるのかも知れず、そこで誰がそう判断しているかといえば自分以外にはあり得ないわけだが、自意識の方はなるべく痛い目に遭わずに済むように立ち回ろうとしているのに、なぜかそこで勘が働くと自意識に逆らってわざと失敗するようなことをやらせて、実際に痛い目に遭って心身に傷を負うわけで、そうなると自分でもなぜそんなことをやっているのか理解できないからその場では不条理感を覚えるわけだが、そこからしばらくして充分にその場から離れて冷静になれる心理状態でその時のことを振り返ってみると、いわゆる失敗することに成功したことを実感できれば納得するわけだが、果たしてそれで納得したことになるかというと、自意識は失敗したことで自尊心を傷つけてられているから納得はしていないだろうが、避けて通るわけにはいかなかった事態であったことは渋々認めざるを得ないし、そういうところで妥協するしかなく、そこでは必然的な成り行きとして失敗せざるを得なかったが、その場では確かにそうだったとしても、その場で失敗することによって今に至ることができて、今から思い返せばそういう回り道も時には必要だったようにも思われるわけだが、そういう納得の仕方を思考が求めていて、それが現状を正当化するためには必要な思考でもあるわけだが、それと同時に現状では納得がいかない面も抱え込んでいて、それがなるべくなら失敗せずにうまく立ち回ろうとする願望や欲望にもつながっていて、そういった願望や欲望に促されて、実際に失敗しないように立ち回ろうとして、事前に結果を予想したり予測しながら、うまくいくように戦略を立てたり戦術を巡らすわけだが、それも大抵の場合はそんなことをやるまでもないことをやっているから、集団で何かをやろうとするわけでもなければ、そこまで大がかりで大げさな成り行きにはならないわけで、そういうところでも一概には言えない場合の方が多く、やろうとすることの程度や内容に応じてやり方も変わってくるのが当然だとしても、そこでも絶えず勘が働いて、自意識に逆らったり同調したりしながら、やろうとすることの程度や傾向を微妙に調整しようとしてくるのかも知れず、それが時にはわざとしくじらせて自意識を驚かせたり困惑させながらの微調整になるのかも知れない。


7月18日「助かる方法」

 人が困っているということが困っている以外に何を意味するとしても、何らかの理由で困っている人が他の人や団体に助けられる可能性があれば助けようとするかも知れないが、困っているならまずは自分で自分を助けようとしているかも知れず、果たして自分で自分を助けられるかというと、世間で言われるような自助努力の類いとは違う助け方を試みる余裕がその人にあるかといっても、何に困っているかにもその困っている程度にもよるだろうが、偶然に助かる方法を模索するとなると、その方法を模索している時点で偶然ではなくなってしまうから矛盾してしまうが、結果的に助かることの中には偶然に助かる可能性も含まれているはずで、何かわけがわからないまま思いがけないところで助かってしまえば、結果オーライということにもなって、助かった理由などわからなくても詮索しなくても構わないが、はじめからそれを目指しているとなると、何か虫のいい話になってしまい、助かる前からそんなことを思っているようでは助かるわけがないとも思われてしまうかも知れず、他力本願ではなくまずは自分で助かる方法を考えろと言われてしまいそうだが、助かる方法を伝授したい人ならいくらでもいて、その人に助かる方法を教えてもらうのが手っ取り早いが、それが自分のケースに当てはまるかというと、当てはまるようなケースがよくあるケースでもあり、よくあるケースについてよくある助かり方というのが確立されていて、そういう助かり方を教えようとする人もよくある教え方で教えようとするのだろうが、それが偶然に助かる方法ではないことは明らかだが、他人に教えを請うまでもなく偶然に助かりたいと思う人がいるはずがないとしても、わけがわからないまま気がついたら助かっていれば手間がかからないわけだが、そんなのはあり得ないと思いつつも、あり得ない方法を模索しながら、それが助かる方法などではなく、逆に助からないようなことをやってしまって、かえって状況を悪化させてしまうのがオチかも知れないが、そうなればしめたもので、そうやってだんだんと偶然に助かる可能性が高まってきたと思うなら、気が狂っている証拠となってしまいそうだが、助かるとか助からないとかではなく、助かっても助からなくてもどちらでも構わないような状況となっている場合さえあるのかも知れず、助かれば助かったで助かった人は良かったかも知れないが、助からずに死んでしまっても、葬儀もしなければかえって最低限の手間で済んでしまうから、その方が助かる人や団体も出てくるだろうし、その人や団体にとって要らない人なら助からなくても構わないわけで、自分とかかわりのない人が死のうが生きようが知ったことではないと内心思っている人も結構いるかも知れず、そういうことまで考慮するなら、なるべく社会の中でかかわりのある人や団体を増やしておけば、それらの人や団体などとの付き合いの中で自分がいないと困ってしまうような欠かせない立場や存在となれれば、黙っていても周囲の人や団体が自分を助けてくれるような状態へともっていけるかも知れないし、そんな立場や存在になろうとしてなれるわけでもない場合もありそうだが、集団の中で人が重要な立場や存在になろうとするのは、それを意識していなくても周囲が助けてくれることを期待できるような立場や存在になりたいことの表れでもあり、逆にいてもいなくても構わないような無視されたりすぐに代わりが見つかるような立場や存在にはなりたくはないだろうが、その人にそういう自覚があれば、別に助からなくてもいいやと思うかも知れないし、わざわざ助けてもらわなくてもいいと思ったり、逆にそういう人を助けようとすればかえって迷惑がられるかも知れないが、そういう人でも偶然に助かったり助からなかったりすることがあるのは当たり前のことだが、そういう人だからこそ偶然に助かってほしいと思うわけでもないだろうが、自身が助かったり助からなかったりすることが、その人にとってそれほど切実に感じられなければ、何かの機会に偶然に助かったところで、気にもしないかも知れないし、自分が助かったという自覚さえなく、ただその日を大した面倒もなく過ごしたということでしかないかも知れないが、そんな人にとっては助かる方法などないも同然で、周囲からどうでもいいと思われる立場や存在になってしまうと、助かる方法自体が要らなくなってしまい、それと共に周囲の人や団体もその人を助けようとはしないから、その人の意志や意向に関係なく、偶然に助かったり助からなかったりする可能性も高まるかも知れないが、自身が社会的にどうでもいいような立場や存在になることが偶然に助かる方法ではないにしても、結果的には偶然に助かって、しかも別に助からなくても良かったのに助かってしまえば、結果的にその場でうまく立ち回ったことになるかも知れず、もちろんはじめからそうなることを目指していたわけではなく、わけがわからない紆余曲折を経た挙げ句に自身が社会から見放されたような境遇になってしまって、他の誰からも見向きもされない存在となってしまえば、それを肯定的に捉えれば助かったと思うかも知れず、実際に社会的なしがらみなどが煩わしく鬱陶しいと思っていたから、自然と人との付き合いが疎遠となって、孤独を好むようにもなって、周囲もそういう雰囲気を敏感に感じ取ってその人を避けるようになって、気がつけば誰もその人を助けたがらないようになってしまえば、それがその人にとっての助かった状態なのかも知れず、わざわざ助けてもらわなくても勝手に生きて勝手に死んでいくだけだと思えばそれで構わないようなことにもなってしまい、そういう人は孤独死する可能性も高まるだろうが、そんな人にとっては孤独死してしまうことすらも助かったことになるかも知れず、死後に後片付けなどの面で多少の迷惑がかかるだろうが、死ぬまでは迷惑をかけまいとして死ぬまで黙っているわけだが、実際に死ぬまで黙っていることに成功すれば、他に助けを求めるという面倒なことをやらずに助かったと思うかも知れず、そういう意味で助かったと思うことと逆に自身の死を食い止めるという意味で助かったと思うことのどちらを優先させればいいかといっても、できる選択肢として残されていたのは、死ぬまでは周囲に迷惑をかけずに済んで助かったと思うことかも知れず、結果的に死んでしまえばそうなるだろうが、そこまで追い込まれることが本当に助かることになるかというと、常識的にはその人を助けられなかったと思うだろうが、中には助けるために面倒なことをおこなわずに助かったとも思われるかも知れないが、周囲から見れば助からなかった人が死ぬ間際に助からなくて助かったと思うかも知れないし、そういうところでそれをどう解釈しても端から見れば痛ましいことには違いなく、痛ましいことが普通に起こり得ることが不条理感を抱かせるかも知れないが、偶然に助かるとはそういう状況の中で助かることでもあり、どんな立場や境遇になっても思わぬところで助かって救われてしまえば、その人が結果的にどうなろうとそうなってしまったことになり、それを助かったと解釈しておけばいいわけで、そういう場合の助かったことには死も含まれていて、死ぬことによって助かったり救われたことにされてしまい、それが言語的な水準ではそう見なされる限りで、実態としては助かったわけではなく、意味としては逆に助からなかったことになるだろうが、それを助かったと思ったり救われたと思ってしまうわけだから、そういう範囲内で言葉をもてあそんで、助からなかったことを助かったと言いくるめることもできるわけで、そういう意味で助かる方法というのが言語的に導き出されるとすれば、何かそれがごまかしやまやかしのように感じられても仕方がないわけだ。


7月17日「人格と性格」

 道ばたで唐突に念仏や経を唱えている托鉢僧に遭遇すれば、誰もがぎょっとするだろうし、一瞬たじろいで、ちょっと間を置いて、これは修行の最中なのだと理解して平静を保とうとするかも知れないが、念仏を百万遍唱えると往生できるかも知れないが、同じことを何度も言ったりやったりおこなったりすることの中には、絶えず自らに言い聞かせるようにしてそれを他人に指図する習慣というのもありそうで、それがその場では奇異に映るようなこともあるかも知れず、何か他人が場違いなところで場違いなことをやっているように感じられると、その人にとっては当たり前のことがその場では場違いであることに気づかないから、周囲の人たちが退いてしまって、その場が気まずい空気に覆われることもあるかも知れないし、それが結果的にその場の和やかな雰囲気をぶち壊すテロ攻撃のように機能すれば、その人にとってはその場で不機嫌な気分となるような事態だったのかも知れないが、そうなったからといってその場だけのことであればどうということはなく、そこから時間が経過して違う場所へ移動して場面転換すれば、また別の事態に遭遇して別の状況の中で別の物事にかかりきりになって、すでに過去のいきさつなどすっかり忘れているだろうし、人生の様々な場面でそんなことばかり経験しながら現在に至っているのが、どこにでもいるありふれた老人になった経緯が示すところかも知れないが、人のそういう面が客観的に明らかになったところで、それだけのことであり、他にもいくらでも人の別の面を語ることができるとしても、何かそういう人になってしまった経緯を想像できてしまうところが、その人の場合によっては持ち味であり特徴といえるような癖を形成しているのだろうが、それがこれまでに培われてきた何かを物語ってもいて、人をそんなふうに何かの型枠にはめ込むような作業が延々と繰り返されてきた挙げ句に、その成果として出来上がったのがそういう人であったと想像されて、だからといってその良し悪しをどうこう言う気にはなれないが、嵐や地震などの自然災害か何かによって大きな岩に別の岩がぶつかって岩の破片が飛び散って、辺り一面に小石の類いとなって散らばっている状態がそれ以外の何を示しているわけでもないだろうが、何かの集団と別の集団とが絶え間ない相互作用によって摩擦や軋轢を生じさせている中で、そういった集団の内部でおこなわれている作業の類いから形成された人格をまとわせる人物として、その典型例となるような人が作り出されるとすれば、実際にそんな人がその手の人物となって出てくるのかも知れないが、そこでも商品の類いようにその用途に応じて様々な人格が作り出されて、しかも用途自体が特定の作業でしか生かされない用途となれば、それ専用の人格となってしまうかも知れないが、それも人格という意味ではなく癖の類いに分類されるような性格かも知れないし、典型的な人格というのが、その人をある一定の傾向を持った人として分類すれば差別になってしまうから、その人のそうではない面を見ていないことにもなってしまうだろうし、そんなふうに人を下等な動物のように見下しているようだと、他人をそう見ている人の傲慢な思い上がりだとも思われて、そうやって他人から見下されていることに気づいていない人が、逆に他人を見下すように振る舞いながら指図して、自らにとって都合の良い傾向や人としての在り方へと導こうとするのかも知れないが、すでにその種の作業にかかわることによって、その人自身が一定の傾向へと型押しされていて、実際に一定の傾向や性質をまとわされた人物として出現しているわけで、それもそれだけではどうということでもないが、自然からの作用がそういう人物にはならないように何かしら事ある度ごとに抵抗を促しているように感じられるわけではないにしても、自然からの作用というのが自身の内からも外からも及ぼされていて、理由は定かでないが抵抗感を覚えるとすればそれが自然からの作用なのかも知れず、そういった作用に身をまかせると自然に何かの典型例となるような人物との間で起こる摩擦や軋轢が解消するわけでもないが、そういう人たちの主張が何かの典型例のように感じられる限りで、抵抗感を覚えていることは確かであり、それがごまかす必要のない抵抗感なのかも知れず、そういった抵抗感をごまかさないことが肝心といっても、それも微妙なところでもあり、何をどうすればごまかしたことになるのかといえば、それもよくわからないわけで、単にこの人はこういう人なんだと思うことがごまかしたことになるのかというと、そうともいえるしその程度は仕方のないことだとも言えるだろうし、それ以前にいちいちそんなことに気を遣う必要さえないことでもあるだろうが、そういうところで気づいて立ち止まって考えることが、世の中について考えることだとは言えないかも知れないが、世の中で機能して作動しているシステムに従いながら生きていることは誰にとっても大なり小なりそうなってしまうことでもあり、それに関してはそうするより他にはやりようがないわけだが、それに抵抗するということはなく、システム側でシステムの一部として機能するようになってしまうと、それもそういう立場であればそうなるより他ないわけだが、そうであるならそこで覚える抵抗感をどう生かせるのかとなると皆目見当がつかず、何か抵抗感を覚えているだけではどうしようもないようにも思われてしまうだろうが、それでも抵抗感を捨ててしまうと、その種の典型例のような人となってしまうのかも知れず、そこから先へと思考する可能性がシステムによって削られて、機械の動作と一体化しているようにも感じられてしまうわけで、そうなる過程において捨ててきてしまったものが抵抗感の類いであり、捨ててしまった人とまだ捨てきれない人との間で何か違いがあるかといっても、大して違いなどないかも知れないが、大した違いではないとしても、それが生きてくる機会が巡ってきた際には何かの典型例のような人が抵抗感を捨ててしまったことを後悔するわけでもないだろうが、場合によってはそこで生死を分けるような選別がおこなわれて、抵抗感を捨て切れていない人には勘が働いて九死に一生を得る体験となるかも知れないが、そんなことがそうそう起きるわけでもないだろうし、通常であれば何かの典型例のような人の方がこの人はこういう人なんだと思われて安心されるだろうし、そういう人たちが日常的に接しているメディア上でもそういう人たちが頻繁に出てきて、そういう人たちがもっともらしいと思われる内容を絶え間なく伝えてくれて、より一層の安心感を覚えるはずだが、もちろんそれだけが全てではないこともわかっているはずだが、何かしら不条理のような出来事の犠牲者となるのもそういう人たちの方でもあり、詐欺に騙されるような経験からも学ばなければならないはずだが、そういう人たちが大勢いること自体がそういう人たちを出し抜いてうまく立ち回ってやろうとする企みも生じてくるのかも知れず、システムがうまく機能しながら作動するにはそういう人たちが大勢いることが必要なのだろうし、そういう人たちを円滑に動かすためのシステムでもあるわけだが、少なくともそういうシステムを構築してやろうと思うこと自体がその種の企みでもあり、そういう人たちがその種の企みの糧となっている実態があり、そういう人たちを利用して金儲けをやっている企業もいくらでもあるだろうし、またそういう人たちを統治の対象としている政府も世界各国の数ほどあるわけで、そういう実態を目の当たりにすれば嫌でもそれに対して抵抗感を覚えるかも知れないが、抵抗感を覚える以前に丸め込まれてしまったのがその種の典型例だと感じられるような人々なのかも知れない。


7月16日「機会とタイミング」

 それがどういう理由でそうなっているのか定かではなく、理由と言える理由などないのかも知れないが、何かをやろうとすると必ず他から邪魔が入るようなことになり、さらには他から邪魔が入るのではなく、自分でもわざとしくじってしまうようなことが起こり、どうしてもやろうとすることができないようなことにでもなれば、今はやるタイミングではない可能性がありそうだが、タイミングといっても、ではいつがそのタイミングかがわからない場合もあって、やる気があるのだからそのままむきになってでもやろうとすればいいのか、あるいは今はそのタイミングではないのだから、やめればいいのかもわからずに戸惑ってしまうだろうが、やろうとしていること自体が間違っているのなら、それの何が間違っているのかといっても、間違っていることですらないのかも知れず、では何なのかというと実際にやろうとしているのだからやる成り行きになっていて、しかもその場では間違ったことをやる成り行きになっていて、さらにはそう受け止めること自体も間違っていて、その場ではそんなことをやっている場合ではないのに、そんなことをやる成り行きになっていて、それをやめようとしてもいけないことでもあり、まずは間違ったことをやらなければならず、やらなければいけないと思うこと自体も間違っていて、そんな成り行きから逃れられない状況にあると思っておいてもいいのかも知れないが、そう思ったとしてもそれも勘違いかも知れないし、何かのきっかけから簡単にそういう成り行きから抜け出ることもできて、今はそのタイミングを計っている最中かも知れないが、自分がそれをわかっていないのだから、タイミングも何も計れるわけでもなく、実際にもそんなことをやっているわけではなく、その代わりに間違ったことをやりながらも、不意にそこから抜け出るような機会が訪れようとしているのかも知れないが、そこでも何をどう感じているわけではなく、それについて考えてしまうとかなりおかしなことをやっていることがわかってしまうから、なるべく考えないようにしていて、おかしなことをやっている現状には意識して触れないようにしているのかも知れないが、その機会がやってきているのにタイミングを逃してしまうと取り返しのつかないことになってしまうだろうし、しかもそうなること自体がそこでの成り行きに沿った結果でもあり、そこから逃れるにはもっと確実にそれとわかる機会が必要かも知れないが、よくわからないままそうなってしまうのだから、それは機会を逸してからわかるようなことでもあり、あの時やっておけば良かったと後悔することも多いわけだが、たぶんその時それをやっていたとしても、それも何か勘違いか間違っているようなことを、それをやるタイミングを外しながらやっているような感覚を覚えながらやっている可能性もあり、結局それをやる機会を逸したように思われたのもその場での勘違いかも知れず、あの時やっておけばと思うあの時というのは永遠にやってこないあの時であり、結果的にそれをやる機会がなかったのであり、それを後から悔やんでしまうのも必然的な誤りなのかも知れないが、そうであれば後悔する必要のないことを後悔しているわけだが、後悔というのはそうなるしかないような後悔であり、大抵は後悔しなくてもいいことを後悔して、済んでしまったことは仕方がないと思うしかないのかも知れないが、それでもやる機会を逸してそのタイミングを外してしまったことを悔やむような成り行きになれば、必然的に後悔するしかなく、そうなってしまったのだから後悔すればいいだろうし、悔やんでみてもどうしようもないことを悔やむのが後悔になるだろうが、永遠にやってこない機会と絶対に合うことのないタイミングというのも普通にあり得ないことだろうし、そんなのは機会でもタイミングでもないはずだが、勘違いしているから待っていればその機会が必ず巡ってくると思ってしまったり、タイミングが合えばうまくいくのではないかと期待してしまうわけで、それがやっていることが間違っている理由だと気づけばいいのだろうが、それをやろうとすると邪魔が入ってやれなくなってしまうとすれば、何かがそれを知らせようとしていて、それが何かではなく誰かならわかりやすいだろうが、誰かになってしまうとそれに反発してむきになってやろうとしてしまうから、誰かではなく何かであった方が都合がいい場合もあるかも知れず、それが自身が間違ったことをやろうとしているのを気づかせようとして、あえてやろうとしていることを邪魔するようなことになってしまうのかも知れず、それに気づいてほしいのだろうが、大抵は気づかないから、やるのを阻止されると邪魔をされたように思われて、誰かにそういう思惑があって邪魔をしているのではないかと被害妄想を抱いてしまうわけだが、実際に他から邪魔されてやろうとすることが阻止されてしまうと、邪魔をする理由を想像して、もしかしたらそうなのではないかと思い込んでしまい、それが勘違いだとしても、その場の状況に照らし合わせてもっともらしい理由となれば、そういうことだと思ってしまうわけで、そういう思い込みも勘違いのなせる業なのかも知れないが、何はともあれ理由は定かではなくても、やろうとしたことが阻止されてしまえば、素直にそういう成り行きに従っておけばいいだろうし、そうなってしまう成り行きに逆らってむきになって無理矢理にでもやろうとすれば、そのまま泥沼に引きずり込まれるようにして、二度と抜け出ることができない苦境に追い込まれてしまうかも知れないと思っておいても構わないが、そう思っておくのも勘違いかも知れず、案外簡単に抜け出ることができるようなことになってしまうと、今まで思い悩みながら苦労を重ねてきた経験が何だったのかと、そのちょっとした弾みであっけなく場面転換してしまう事態の軽い進行に愕然としてしまうかも知れないが、そんな思いがけない成り行きに身をまかせることができれば、自身が幸運に恵まれている証拠かも知れず、そう思うことも勘違いかも知れないが、勘が合っていようと合っていなくてもどちらであっても、そんな成り行きに従ったり逆らったりしながらそれなりに振る舞うしかなく、そんな経験を積み重ねながらその場の状況によってその経験を生かしたり生かさなかったりしながらも、それが苦境かそうでないかはその場でそう感じたり感じなかったりするだけかも知れないが、それすらもそんな状況を切り抜けてみれば、そこでもどちらであっても構わないようなはぐらかしに遭遇してしまうかも知れないし、どうやってもどうなってもその場成り行きに照らし合わせて自らが思い込んでしまうもっともらしい物語のような話の進行を阻む事態に直面してしまえば、そこで驚いて愕然とする他ないだろうし、そこで目を覚まして反省すればいいのだろうが、そうなっても自身が信奉する物語の主人公であることを頑なに信じて疑わないほど物語にのめり込んでいれば、逆に目を覚まさない方が身のためかも知れず、そうなっていればひたすら自らが信奉する物語の筋書きに従って生きようとすればいいだろうし、それが目標や目的に向かって生きることにもなり、そういう成り行きに従ってひたすら努力を重ねる理由ともなるだろうし、そうやって一分の隙もなく迷いのない生き方ができれば、それが幸福の証しとなるかも知れないが、それと同時に偶然に巡ってくる幸運を得る機会を逃していることにもなるかも知れず、もちろんそんなただの回り道や紆余曲折にすぎないことを幸運だと実感できなければそんなのは要らないし、機会を逃してもどうということはないだろうが、誰も道に迷いたくはないだろうが、それでも誰にも否応なく道に迷った末に思いがけない光景に巡り会う機会に恵まれる可能性はあるわけだ。


7月15日「期待できないやり方」

 現状で自身が何に直面しているのかというと、日々様々な事態に直面していて、直面していなくても間接的に作用や影響を及ぼされていることもありそうだが、直面している問題に対して何か効果があるようなやり方があれば、たとえそれが何らかの副作用を伴うとしても、切実に悩んでいることでもあればそれを試してみたくなるだろうが、実際にどんな効果があるかとなると、何に対しても万能の効果が期待できればそれに頼り切りとなりそうだが、そんな都合の良いうまいやり方があるわけがないと経験上わかっているつもりであっても、実際にそれを試してみてうまくいくことに結びつけば、その効果を信じてしまうだろうが、効果があってもうまくいかなければ、効果そのものを疑ってしまうだろうが、良い効果ではなく悪い効果となれば、うまくいかないのもうなずけるが、逆に何の効果もないやり方であると、ではなぜそれがやり方になるのか理解しがたいだろうが、何の効果がなくても構わないようなことを実際にやっていれば、特に効果など期待していないことにもなるだろうし、直面している事態に対処するには何の効果も期待できないことをやるべきだとは誰も思わないはずだが、結果的にそんなことをやっている場合もあるかも知れないし、例えば迷信に基づいた民間療法の類いだと、当人が信じていればプラシーボ効果は期待できるかも知れないが、それも微々たる効果であれば大したことはなく、効果を信じながらもうまくいかなくなってくれば効果を疑うしかないが、物事を直接的かつ合理的に考えなくても構わないような状況となってくると、迷信を信じてもかまわないように思われて、信じている当人にとっては迷信ではないはずだが、それに関して遠回しに効果など何も期待できないことをやりながら、実態としては時間稼ぎをしているだけのように見えてしまうと、物事を直接的かつ合理的に考えている人には単なるごまかしに見えてしまい、そんなことをやっている場合ではないと思われてくれば、もっと効果的なやり方を試すべきだと主張するのはもっともなことだが、主張はできるが効果的なやり方がなんなのかというと、それがわからなければ藁をも掴む思いとなって、怪しげなやり方に引っかかってひどい目に遭うかも知れないが、それも切実にそう思われるのと、微妙にそれとは違う状況の中で思うのとでは、少し趣が異なってきて、何か余裕があるようでないような雰囲気が感じられると、ちょっとした思いつきから一般的には通用しないようなことをやり始めて、それが気休めでやっていることでしかないにしても、その場の状況の中ではそれで構わないようにも思われてきて、意外とそんな状況が長続きしてしまうと、そのままそれをやっていればいいのではないかとも思われてきて、結果的に延々と勘違いなことをやり続けて時間を浪費してしまうことになるのかも知れないが、そんなことはやっている当人も承知しているのに、なぜかその場ではそれができてしまうから、それが勘違いを生む原因であることもわかりすぎるぐらいにわかっているにもかかわらず、相変わらずそれをやり続ける成り行きになってしまえば、わかっているならそれをやめればいいではないかと言うことはできるが、そこでも言うのとやるのとやめるのとでは、それを言うことの経緯や事情とやることの経緯や事情とやめることの経緯や事情が結びつかず、部外者の立場から気軽に言える人にはそんな無駄で無意味なことはやめればいいと簡単に言うことができるわけだが、やっている当人としてはやっていること自体から好感触を得ているなら簡単にはやめられず、好感触を得ているからそれをやり続けられて、場合によってはそこからそれなりの利益が得られている場合さえあるかも知れないが、それをやめるに至る人がいるとすれば、何かの加減で痛い目やひどい目に遭って、もうこりごりだと思うような事態に至ればやめるかも知れないし、あるいはいくらやっても何の結果も成果も得られずにじり貧に陥れば、それをやり続けながら息絶えるようなこともあり得るだろうが、そういうケースは人それぞれで違ってくるだろうし、同じようなことをやっていても人それぞれで違う結果に至ってしまえば個々の場合で事情や経緯が違ってくるとしか言えず、そんな無駄で無意味なことはさっさとやめればいいと言える人と、その場の成り行きに従っていつまでも執拗にやり続けている人とでは、立場や境遇が異なっているとは言えるだろうが、それだけではないような違いも生じているのかも知れないし、それを運命だとか宿命だとか言える場合もあるにしても、やはり大抵の場合はそんな大げさなことではないのかも知れず、大したことでもないのに続けられるようなことがあって、誰かがそれをやり続いているとしても他人や部外者には何でもないことのように思われるかも知れないし、それ以前に誰にも気づかれずにやり続けていることもあるかも知れないが、そうなるべきだということではなく、そうであってもかまわない程度のことなら、他の誰からも何も言われないような成り行きの中でやっていることになるかも知れないし、そうなることを目指しているわけでもなくても、結果的にそうなっているのであれば、それを他からどうこう言うことも言われることもなく、その場の成り行きに従いながらやっていることになるだろうし、それがその場でやるべきことではないとしても、やるべきことだけがおこなわれるわけでもないのがごく当たり前の状況でもあり、そうでなくてもやるべきことをやれるような状況にはならず、実際にやるべきことだとは誰にも思われないようなことが実際におこなわれているケースが大半なのかも知れず、しかもやっている当人にはやるべきことをやっているという思いを抱いているとしても、それが他の人に伝わらなければやるべきことだとは思われないまま、それどころかそんな無駄で無意味なことはさっさとやめればいいと思われるようなことを執拗にやっているように見えてしまうかも知れないし、そこでもそこに居合わせた人が共通の認識に至ることはなく、わかり合うこともないまま、人それぞれに当人にとってはやるべきことなのかやるべきでないか、あるいはどちらでも構わないようなことであってもその場の成り行きに従いながら、さらにはその場の成り行きや世の中の風潮に逆らいながらやっていることまであるかも知れないし、そうやって様々な思惑や思惑とは無縁におこなわれていることがある中で、それらの何がその場で効果的に機能していたりいなかったりするとしても、効果や機能という概念では推し量れないような要素や要因を含みながらおこなわれていることもあるだろうが、たとえそれが期待できないやり方であろうとなかろうと、やり続けている実態があれば、そこから勝手な期待や願望も生じてくるだろうし、それが当人が置かれている現状からはあり得ない妄想だと思われても、何かそこから好感触を得られているとやり続けようとしてしまうのかも知れず、そのやり続けていることが他人にとって迷惑だと感じられたり目障りだと思われると攻撃の対象となってしまうかも知れないし、何とかやめさせようとするかも知れないが、そうでなければ大抵の場合は放っておかれるだろうが、その放っておかれる程度のことをやっていられるような状態が、やるべきことであるわけでもないわけでもないようなことが実現している状態でもあり、そんな状態を目指すとか目指さないとかいうのとは別の事情や経緯からそういうことがおこなわれているケースが、世の中でおこなわれていることのほとんどなのかも知れず、そんなことには誰も期待しないだろうが、それをやっている当人は好感触を得ながらやっている場合もほとんどなのかも知れない。


7月14日「批判の程度」

 単純明快なことがなぜ言えないかというと、そこに及ぼされている作用や影響が複雑に絡み合っているからだろうが、それを批判する際には単純に解釈して批判してしまうから、批判される人には違和感が伴うわけで、単純に解釈すれば批判できるようなことであっても、そんなふうに受け取られるようなことではないと反論したいはずだが、そういう批判のやり方が身についている人にとってはそれが当たり前のことであり、自らが批判しやすいように物事を解釈してしまうわけで、批判する側と批判される側の都合が一致しないわけだが、一致させるにはどちらかがどちらかの主張へと歩み寄らなければならず、それができないから対立して批判しあっているうちに非難の応酬へとエスカレートしてしまうのだろうが、それも計算の内であったりして、相手の意見や主張を無視するにはそうするのが最善ではないにしても、いったんはそうなってから、そこから交渉する必要が出てくれば、歩み寄りの余地がある限りで交渉が始まるのかも知れないが、その必要がなければけんか別れでも構わないはずだが、それもどちらかの都合が許す限りで関係が途切れずに、事ある度に対立し合いながらも腹の探り合いも続けられて、うまくいかないなりにもそれなりの関係が続いていくのかも知れないが、そうなってくると批判自体がそうした成り行きの一部でしかなく、批判の内容などどうでもいいわけではないが、批判されるのを承知でおこなわれるようなことが当たり前のことのようにおこなわれて、批判されるのが織り込み済みになってしまえば、批判に対する反応も織り込み済みになって、そういうやりとりを経た上でも、当たり前のように事が進んでいくようになり、そうなることによって批判が無効化すると見られてしまうかも知れないが、無効化するというよりは恒例行事化すると捉えておけばいいのかも知れず、それを批判の儀式化と呼んでも構わないが、批判を無視してごり押しのようにして無理矢理おこなわれることでもないのだろうが、批判されても困らないようになってしまうことは確かであり、それも多少は困ったようにも装うにしても、批判によって作業ができなくなるわけではなく、逆に作業を滞りなく進めるには批判を甘んじて受け入れる態度が必要になってきたりして、しかも表面上は批判を謙虚に受け止めるような態度はとっているとしても、それによっておこなっている内容が変わるかというとそうでもなく、相変わらず以前と変わらないことをおこなっていて、そうなっているから相変わらず批判されるわけだが、相変わらず批判されている状況というのが、批判が恒例行事となっている状況でもあり、批判される程度にはおこなっていることがうまくいっていないわけだが、うまくいかないようなことを続けるには批判に耐え続ける必要もあるわけで、慣れっこになっているように見えれば対応していることにもなり、そういう対応というのが、例えば国会などで出される辞任要求や非難決議や問責決議や不信任案などに対する対応となるのだろうが、そういうことが恒例行事のようにして右から左へと粛々と処理される状況というのが、批判が無効化されている状況と言えるだろうが、それが必要な過程でもあり、必要であると同時に粘り強く続けられる働きかけでもあり、そうではないような状況がやってくるまではそういうことが延々と続けられるのだろうが、それに根負けしてしまうと終わってしまうから、終わらせないように配慮されてもいて、双方が根負けして投げやりにならない程度には批判を謙虚に受け止める態度が必要となるのだろうが、実際には批判とは別の作業も続けられていて、普通はそれを作業とは呼ばないのかも知れないが、効果を期待できないような批判が延々と続けられる一方で、そこからの移行を促す試みも水面下では模索されているのかも知れず、それがわかりにくくはっきりした意思表示もないような中でおこなわれていることでもあり、一見それとは関係ないような紆余曲折も伴っていて、誰も期待していないようなところから思いがけないきっかけが起こるわけだろうが、果たしてそんな機会を逃さずものにできるかというと、それもうまくいったような結果がもたらされてからでないとはっきりしないわけで、誰もはっきりとそれだとわからないことが肝心で、そこに至るまでに恒例行事のような批判に遭遇しないようにしなければならないのかも知れず、意図的に意識しておこなえるようなことではなく、結果的にそうなる成り行きの中で、意識せずに結果がそうなるとはわからないように振る舞うことになるのだろうが、そんなことは誰にもわからないことだから、意図的な思惑からもたらされる作用や影響をすり抜けて結果がもたらされるわけで、かろうじてそうなるようなことでもあり、事前には誰も予測も予想もしていないようなことが起こるわけだが、それが起こってからは相変わらずそういうことが起こることを予測していたり予想していたと後出しじゃんけんのようにして主張する輩が恒例行事のようにして出てくるとしても、そうなる成り行きの中でその手の輩に邪魔されなければ、結果的にはうまくいったことになるだろうが、誰にとってうまくいったかというと、そこにかかわってくる人や団体などとは関係のないところでうまくいったことになるかも知れないし、もしかしたら誰もうまくいったとは思えないかも知れないが、そうなれば誰にとっても公平な結果がもたらされたことにもなるかも知れず、そこに及ぼされている作用や影響が複雑に絡み合っているからそうなるのであり、それが意図的に及ぼされているだけでなく、意図しないで及ぼされている作用や影響まで絡んでくるから、そこにかかわってくる人や団体の意図や思惑が外れたりずらされてしまうのだろうが、結果的にそうなったからといって、そうなった結果を自身に引き寄せて都合の良いように解釈することもできるだろうし、そうなることは予想できたし予測していたことだと主張することもできるし、実際に後出しじゃんけんのようにしてそういうことを主張する輩がいくらでも出てきて、結果を予想の範囲内に閉じ込めるために事後処理的な画策をするわけだが、そんな画策をして身の回りの限られた範囲内ではそれに成功したように思われるとしても、それはその人の自己満足の範囲内でそうなっていることでもあり、その範囲外では相変わらずそんなことには関係のない作用や影響が及ぼされ続けているわけだが、そういう作用や影響を利用して、何とかして都合の良い結果に結びつけようと画策しても、そういう意図や思惑を外れる面では相変わらず関係のないところから作用や影響が及ぼされているから、都合の悪い作用や影響を取り除こうとしてもきりがないほど多くの作用や影響がもたらされていると捉えておくのが無難なところかも知れないが、だからといって都合の良い結果をもたらそうとする努力をやめるわけにはいかないから、そういう面ではそういうことをやり続ける成り行きになってしまうわけで、そうなると相変わらず都合の悪い結果をもたらしていると思われる当事者たちを批判するしかなく、批判の対象が批判に慣れっことなって、批判をうまく処理する術を心得ているとしても、批判をやめたら負けを認めることになってしまうから、負けないためには効果がないように感じられても批判をやめるわけにはいかなくなってしまうわけだが、そうなっている状態から無理に抜け出る必要もなく、そのままの状態を保てるだけ保っていても構わないだろうし、保てるか保てないかも自身が決めるようなことでもないのかも知れず、自身にとっても自身が批判の対象としている人や団体にとってもそれらの与り知らないところから何らかの作用や影響が及ぼされていて、そんな作用や影響の方がその場の主導権を握っている可能性もあり、だから予期せぬ結果がもたらされて、意図や思惑が思いもしない紆余曲折を被ってねじ曲げられてしまうわけで、そうやっていやでも意図や思惑から外れた結果を受け入れざるを得なくなった時が、謙虚になれる機会なのかも知れないが、大抵の人はそんな機会も逸して、謙虚になるどころか、結果を都合の良いように恣意的に解釈して体裁を取り繕ってしまうわけだ。


7月13日「語ることとおこなうこと」

 語ることと実際に何かをおこなうことは、実際に何をおこなったかを語ることによって結びついてくるように感じられるが、それと共に嘘をつくことにもつながってしまう場合もあるだろうし、何をおこなってもいないのに何かをおこなったと嘘をつく場合もあり、何かをおこなっていたとしても都合の悪いことは語らずに都合の良いように語る場合もあり、嘘をつくもっともな理由があったりなかったりする場合もあるが、その人の都合やその場の状況に応じて嘘をついたりつかなかったりもして、時と場合によっては嘘も方便となることを認めてほしいようなほしくないような思惑もあるかも知れないが、語ることが全て嘘をつくことにつながるわけでもなく、真実や事実を語ることが良心の証しと思われるような状況になっていれば、誰もができるだけ嘘偽りなく語ろうとするだろうし、そうであっても時として語ることが過剰に意識されると、その意図がなくても宣伝や煽動だと受け取られるような内容となってしまい、行為や行動の内容や程度がそれについて語っている内容に見合っていない場合もありそうだが、それでも何かがおこなわれてからそれについて語る程度であれば、それがおこなわれた現場に居合わせた他の人が証人となって、語っている内容の程度や真偽に関して証言する成り行きになってくれば、その内容や真偽についてある程度は確からしさが伴ってくるだろうが、すでにおこなわれたことではなく、これからおこなわれることについて語るとなると、予想や予測の意味合いが入ってくるから、それだけ不確かな内容にもなってくるだろうし、機械の動作や天体の動きのように確実に計算が成り立つ場合もあるが、あるいは例えば人や動物がいつかは必ず死ぬことも、若干の例外を除いてほとんど必ずそうなることだから、その種の内容であればこれから起こることについて語っても不確かではないだろうが、起こることではなく、人がこれから何かをおこなうことになってくると、必ずやると前もって宣言されているとしても、やるまでの間にそうした宣言が撤回される場合もあるし、あるいはなし崩し的にいつの間にかうやむやになってくる場合もあるだろうし、そんなふうにして予定が未定となってしまえば、それについて語っていた内容も意味をなさなくなってしまうかも知れないし、それも実際にそうなってからそれについて新たに語ればいいということになるが、実際にそうなってから語るとなると、すでに起こったことやおこなわれたことについて語ることになるからそれだけ確実性が増すように思われるが、何も確実なことしか語ってはいけないというわけではなく、不確かなことも語れる限りで語ることができて、不確かなことだと前置きしてから語ればいいわけだが、不確かではなく確実なことだと前置きしてから実際には不確かなことを語る場合もあり、それが嘘をついているとは意識せずに語っている場合もあるだろうし、その人にとっては確実だと思われることであっても、実際にそれが起こってみたりおこなわれてみれば、確実だと思われていたこととは違う結果になってしまう場合もあるかも知れず、そうなれば実際に起こってみたりおこなわれてみないと確かなことはわからないわけだが、そういう意味ですでに起こったりおこなわれたことについて語るのと、これから起こることやおこなわれることについて語るのでは、それ相応の違いがあることは確かだろうが、その二つを結びつけて、これまでに特定の何かが起こったりおこなわれてきたから、これから特定の何かが起こったりおこなれることになると予想したり予言することもできるだろうが、これまでに特定の何かが起こったりおこなわれてきたことが事実や真実であることは確からしいとしても、これから特定の何かが起こったりおこなわれるというのは、その時点ではこれから起こることやおこなわれることだから確かではないと思えるかというと、そういうことを語る人はそうは思われたくないわけで、どちらかといえばこれから起こることやおこなわれることが確からしいと思わせたいからこれまでに起こったことやおこなわれたことについて語って、それが確からしいという印象を抱かせた上で、これから起こることやおこなわれることについて語るわけだから、確かにこれまではこれこれこういうことが起こったりおこなわれてきたから、その延長上でこれからも同じようなことが繰り返されると予想したり予言したいということか、あるいはこれまではこれこれこういうことがおこなわれてきたが、それがだんだんとうまくいかなくなってきて続けられなくなってくると、ある時点で突然革命のようなことが起こって、これまでとは全く違うことが起こったりおこなわれると予想したり予言するわけだが、それも革命のような転換期が訪れている最中に語られることが多いだろうし、世の中の動向の中でこれまでにない新たな動きが起こったり新たなことが流行り出したりおこなわれているのを察知して、これからはそれが主流になると予想したり予言するわけで、それがすでにある程度流行っていたりおこなわれているから、しかもこれまでに流行ってきたことやおこなわれてきたことよりも優れていたり好意的に受け止められていたりもすれば、すでにそうなっていることについて語っている面では確からしいと思われるだろうし、そうやってすでにそうなっている面を強調しながら、その先にもそれが続いていくどころか、むしろこれからはそれが世の中の主流となると予想したり予言するわけだが、どこまでもすでに起こったことやおこなわれたことを語りながらも、それに付け加えて自身の願望となるようなことを予想したり予言する形式をとり、さらに他にも信頼できそうな人や団体による予想や予言も付け加える場合もあり、それも他ですでに予想されたり予言されたことに後付け的に共感を示しながら、それが自身の願望と一致していると語るわけで、そこまで用意周到に語られると、その人の予想や予言を信じないわけにはいかないだろうし、それに加えて統計上のデータやグラフなどを示しながらそういうことを語られると、どう考えても客観的に確からしい予想や予言だと思われて、大抵の人は信用してしまうだろうし、信用しても構わないし信用するのはその人の勝手だろうが、なぜかそういう確からしい予想や予言や信用が裏切られてしまうのも、世の中の不条理な面かも知れず、それに関しては特に理性的に考えて当然そうなるようなことが覆されてしまう傾向にあり、理性に反発する人々の感情が勝って、不快でひねくれてねじれたようなことがおこなわれてしまうわけで、そうなると不条理なことがまかり通って、いつまでも嫌がられながらも継続するような成り行きとなってきて、なし崩し的に多くの批判や非難を浴びながらも嫌々おこなわれることとなり、しかもそれがおこなわれることに関しては利害が絡んできて、利益を生んでいる限りはやめられないという事情が、それをやめたくてもやめさせないような力を生じさせて、理性に頼って合理的なことをおこなおうとする人々の願望を打ち砕き、それが不快な制度や慣習となっていつまでも執拗に残り続けて、そういうことに嫌々従わせられる人々にとっては心的外傷や精神的な重荷となって否定的な作用や影響を及ぼし続けるわけだが、それがいつまで続くかはそれにかかわってくる人や団体の良心にかかっているのかも知れず、それを良心といってしまうと、何か精神論のようないい加減さを伴うかも知れないし、もっと直接に金銭的な利害によって左右されるようなことだと主張しておいた方が身のためかも知れないが、たぶんそれよりは良心の問題としておいた方が、嘘も方便という表現には適っているのかも知れないし、それについて語るにはそういう嘘も含めておかないとその場の状況にはそぐわないのかも知れない。


7月12日「世界大戦と冷戦」

 興味のあることと興味のないことの違いが何なのかというと、面白いか面白くないかの違いだといえば身も蓋もないが、何でもないようなことに興味があるとすれば、取り立てて面白くないようなことにも興味があるといえるのかも知れないし、さらには何でもないようなことも面白いと思うなら話がややこしくなってきそうだが、それが面白いことなのか興味深いことなのかは、人によって異なるかも知れないが、第二次世界大戦の直前において当時のドイツが産業技術や軍事技術の面で世界で最も進んでいたことはよく知られていたことだが、現状の中国が産業技術や軍事技術の面で世界で最も進んでいるかどうかは、アメリカやヨーロッパなどとの比較において疑問符がつくかも知れないが、台湾や韓国や日本なども含めれば東アジアが少なくとも世界でも有数の産業技術や科学技術が発展した地域であることは確かであり、そういった国や地域の技術的な発展と政治的に独裁的な傾向になることを短絡的に結びつけるわけにはいかないが、機械技術の進化から生じる経済発展によって人の心に慢心が芽生えることも考慮に入れれば、政府の官僚機構の頂点に立つ人物や幹部クラスの人たちが自国の経済発展によって自分たちが優れているのではないかと自信を深めるのは当然であり、それが根拠のない自信なのではなく、自国の経済発展に裏付けされた自信であるからには、かつて「ジャパン・アズ・ナンバーワン」などとおだてられてその気になっていた幼稚な国民もいたかも知れないが、それがかなり危うい傾向であることは周知の事実かも知れないし、自国の発展に浮かれていること自体が、本当の危機が間近に迫っていることを忘れさせて、その後に手痛いしっぺ返しを食らうことが予想されて、そうなるとこれまでに史上最悪の惨事だと見なされていた第二次世界大戦をも遙かに凌駕するような未曾有の惨事になることも予想されてしまうわけだが、第二次世界大戦が第一次世界大戦の延長上で起こったことであるのとはだいぶ趣が異なっていて、予想される事態はそこからだいぶ時間が経過しているからその延長上で起こることにはならないのかも知れず、従って全面的な軍事衝突に至る可能性は低いかも知れないし、ならばその後に引き続いて起こった米ソ冷戦という事態の延長上で起こることだと予想したくなるが、実際におこなわれている双方による制裁措置などの内容からすれば、すでに冷戦が始まっていると解釈できるかも知れないが、それとも少し状況が違っていて、表向きには国家と別の国家や政府と別の政府との対立や争いに還元したくなってくるし、実際に対立していることは政府の首脳も認めているし、経済や軍事や人権などの様々な方面で争っているはずだが、中国では政府が企業への統制や取り締まりや介入を強めているし、欧米でもGAFAやマイクロソフトなどの巨大IT企業への課税を強化しようとしているし、政府と企業との対立や争いになっている面もあり、それだけということではないにしても、そういうところが複雑に絡み合っていて、昔のような一元的で全面的な国家同士の軍事衝突といった事態を恐れたり予想するのは確かに時代遅れかも知れないが、そうであってもそれが予想から予言へと自己アピールを求める欲望の水準が上がっていくと、やはり予想を遙かに超える未曾有の惨事になると予言したくなるのだが、すでに現状でも世界的に大規模な気候変動やコロナ禍などで過去に類例を見ないような未曾有の惨事となっているのかも知れないし、言葉で大げさに表現すればいくらでも大げさにいえるわけだが、そんな未曾有の惨事となっている中でも平然と暮らしている人々がいるわけで、何か感覚がおかしくなっているのかも知れないし、それに関して確か以前に話題となっていたことで、子宮頸がんワクチンの接種を受けた人の内でごく稀に身体が麻痺する症例が出て、訴訟沙汰になってそれは今も係争中だったかも知れないが、コロナワクチンの接種では多くの死亡例が出ているのに、それが訴訟沙汰になる気配もないし、死んだ人に対する賠償の話も出てこないような状況となっていて、どう見ても異常事態が起こっているとしか考えられないのだが、それも昔の感覚を引きずっている人はそう思われるが、現状で平然と暮らしている人たちにはごく当たり前のことのように思われてしまうのかも知れず、そういう意味でその場の状況に慣れてしまうと、たとえ現状が未曾有の惨事であろうとなかろうと、戦時下で暮らしている人の感覚というのはこういうことなのかと思ってしまうわけだが、それも実際にシリアやパレスチナやアフガニスタンなどの内戦地域で暮らしている人々と比較すれば大したことではないと予想はつくだろうし、一口にコロナ禍といっても、人によっても地域によっても状態に雲泥の差があり、インドなどの貧しい地域で感染が爆発しているところではまさに内戦さながらの事態となっているかも知れないし、そういうところが自分の身に直接症状が出ないことには実感が湧いてこないから、いくら未曾有の事態だといっても真に受け取れないわけだが、それと現在進行中の米中対立を結びつけてどうこういうのも気が退けるが、それとこれとは次元の異なる問題であると同時に、コロナ禍の発生源としての中国となると陰謀論のようなことも主張したくなってくるし、それとこれとを結びつけて中国に対する批判にも利用したくなってくるわけだが、中国を昔のソ連やさらにそれ以前のナチスドイツと比較すれば同じ全体主義というカテゴリーに組み込めるだろうし、それが特定の政党による独裁的な国家支配と見なされるような類似的な統治形態だとしても、またナチスドイツがユダヤ人に対してホロコーストをおこなったことに絡めて、中国政府がウイグル人に対してジェノサイドをおこなっていると非難するに至っているが、またそれはロシアによるユダヤ人へのポグロムや、オスマントルコによるアルメニア人の大量虐殺までも引っ張り出されてくるかも知れないが、類似する面よりも違う面を強調できるかというと、政府による統治を侵害する企業活動がおこなわれていると見なして、その一線を越えさせないようにIT企業に対して締め付けがおこなわれていて、政府による人民に関する情報管理の独占体制を脅かすような企業の顧客管理やネットでの情報収集が、それに抵触すると見なされて取り締まられているわけだろうが、中国以外ではどこでもおこなわれていることが中国では通用させないという政府の意思表示でもあるわけで、そういう意味では中国は他国からの侵略の脅威に直面しているというよりは、情報関連企業の脅威に直面しているといえるわけで、それが政府を弱体化させると見ているわけだから、その一方で企業情報や他国の公的機関などの情報を盗もうとするハッカー集団が中国やロシアや北朝鮮などの政府とつながりがあるとも見られているし、そこでも複雑な事情が生じているのかも知れないが、そういうところに異常に神経をとがらせる傾向が、中国政府による統治が限界に直面しているとも言えるかも知れず、国家や人民に関する全ての情報を一元的に管理することによってしか政府の統治が成り立たないのかというと、インターネット自体が分散的なネットワークの集合体でもあり、一元的な管理統治ではないわけで、また中国政府は仮想通貨に関連しても取り締まりを強化しているが、政府の管理から離れて勝手に別の通貨が国内で流通してしまうことも許されないことであり、そうやって他国との軍事衝突や台湾への軍事侵攻の脅威と共に、情報に関連する方面では守勢に回っていて、それが遠からぬ未来において中国政府が他国並みに統治の弱体化に直面する可能性を示しているのではないか。


7月11日「時代の本質」

 日本のお笑い芸人がテレビのワイドショーやラジオのトークショーでもっともらしいことを述べて、それに共感する人もそれなりの数に上ることと、フーコーやマルクスが書物の中で述べていることが比較されることはないが、どちらがどうというわけでもなく、どちらにも興味のない人の方が圧倒的大多数になるだろうが、自分で考えていることがそれらの何に近いわけでもなく、自己の認識を改めるには自分で考えるしかないが、その必要を感じなければ改めなくても構わないのだろうが、必要がなくても改めさせられることもあるし、考えさせられてしまうわけで、それに関しては自らが認識している時代状況と、今とは違う時代状況の中で生きていた人々の認識を比較することによって、認識を改めさせられることがあり、その現代と似ていたり似ていなかったりする時代状況や、そこからもたらされる認識に興味を惹かれるわけだが、そうだとしても過去の時代がどうだったとかには興味がなく、自国の歴史を都合の良いように解釈したり改ざんして悦に入っている人々とは逆に、興味があるのは自らが生きつつある現代であり、現代に関する認識を改めさせるような過去の時代に生きた人々の認識に興味があるわけだが、それだけで興味を満足させることはできないし、それだけではわからないような世の中の動きもあるだろうし、現状の世界が全てではなく、世界の現状も絶えず変化しているとしても、その変化の動向を探って世界に関する認識を深めたいということと、そうすることに何か別の目的が絡んでくるわけでもなく、それ自体では自らの目的や目標とは無縁なのかも知れないが、自らの目的や目標が何なのかを知りたいと思うこともたまにはあるだろうが、大抵の時間帯ではそんなことには興味がないのかも知れないし、時間や時期に関係なくいつも同じ目的や目標を保持しているわけでもなく、その場の状況や情勢に応じて様々な目的や目標が生じてくると解釈しておくのが妥当なところかも知れないが、それがどうしたわけでもないところも、自らの興味に対する世の中の状況の無関係さや世間の無関心さを感じさせるわけで、現代をその場その時に人が感じる認識の集合体だと理解したいわけではなくても、生きている全ての人が感じる認識に共通する本質のような部分があって、それを突き止められれば現代という時代の本質をつかんだ気になれるかも知れないが、そんなことには誰も興味を抱かないだろうし、それが本質だと思うこと自体が幻想にすぎないかも知れないが、自らの興味とは別のところで世の中が動いているわけではなく、世の中の情勢が日々刻々と移り変わっていくのを把握できるわけでもないが、それと共に自らの興味も移り変わっていくかも知れないし、そういう面もあるだろうが、そうではないような時代状況の変化に関係なく常に興味を惹かれている物事もありそうだが、それが何かといってもこれといって一概に言えるようなことでもなく、何か自らが言い表せないような得体の知れない興味の中心が意識の中に埋もれているのかも知れないが、そこから興味の枝葉や蔓を伸ばしながら外界の事象や物事へと向かっていって絡みつこうとしても、すり抜けてはぐらかされてしまうような感覚を覚えることも多々あり、その対象へとうまく意識を結びつけることができずに、それとは別の世間で話題となっている興味の対象で間に合わせてしまうことも多々あるとしても、自らが興味を抱いている対象と世間で話題となっている興味の対象が一致することがあるかというと、大抵は一致していると思いたいが、それが思い違いである可能性も捨てきれないし、実際に世間では無視されているようなことにも興味を抱いているとすれば、それによって自らの意識が世間とずれていることを認識できるかというと、多少のずれは誰にでもあるだろうし、それによって世の中で有利となったり不利となることもあるかも知れないが、そうなったからといってずれを補正して一致させる必要を感じなければずれたままとなってしまうだろうし、だからといってずれていることを利用して何ができるとも思わないし、そうは思わないが実際にずれたことをやっているだろうし、ずれたことを主張したりずれた意見を述べながら、実際に世間からずれていってしまうのだろうが、ずれる自由を世間が許すかというと、日々メディアに接することによって、そこから意識の中へ情報が自然に入ってきて、ずれが修正されるような効果がもたらされているとも認識できるだろうが、入ってくる情報を全て受け入れるかというとそうでもなく、情報の内容によってはそれなりに抵抗感が伴うわけで、不快な内容だといやな気分になってくるだろうが、人を不快な気分にさせるために情報を伝えようとしてくると解釈するなら、抵抗する人が出てくるのも伝える側の思惑通りとなるだろうし、情報を受け取る側がその場でそういうことまで考慮できるとは思えないし、人を不快な気分にさせてざまあみろと思わせるのが罠であるわけでもなく、そのどこからどこまでが伝える側の思惑が絡んでいるかは、情報を受け取る側にはわからないだろうが、そういった思惑を想像できてしまうところが、そう思わせるような時代状況に意識を絡め取られている証拠かも知れず、何かそういうところで情報を伝える側の思惑を想像して不快な気分となっているとすれば、そういった情報に抵抗していることは確かであり、それと共に不快な情報に包囲されているような圧迫感も感じられるかも知れないが、一定の傾向へと多くの人を導く作用が生じていること自体が、そういった傾向に逆らう口実を与えているように思われるところも、そういう傾向から時代状況が生じてくるようにも思われて、何かそれが現代という時代の本質なのではないかとも思ってしまうわけだが、そう思ってしまうこと自体がメディアからもたらされる情報に惑わされていることの証しかも知れず、日々接しているメディアに頼って世界の現実を感じ取ろうとしている一方で、メディアを介して情報を伝えてくるグーグルなどの不快な情報産業に対して嫌悪感を覚えるわけで、そういう二律背反的な感情をもたらすのが不快な情報産業の意図するところではないとしても、結果的に否応なくそうなってしまうわけだから、そういう作用が世界的にもたらされている時代状況というのが、世の中の本質そのものであるような傾向を示しているようにも思われてしまい、その一方で情報による世界征服に抵抗している中国やロシアや北朝鮮などの独裁的な傾向の強い国家の方でも、それに対抗することによってさらに独裁色を強めてしまうという逆説が生じて、嫌悪感を抱いてしまうこと自体がかえってよりひどい状況をもたらしてしまうわけで、では逆に嫌悪感を抱かないで状況を好意的に受け止めればいいのかというと、好意的には受け止められないから嫌悪感を抱いてしまうわけで、そういうところで感情を思い通りには制御できないわけだが、そういった否定的な感情にとらわれるような作用を振り払わなくても構わないのかも知れず、そういった感情でさえも素直に受け入れておけば、それがもたらす時代状況に流されながらも、何とか生きていけるように感じられるかも知れないが、時代状況に流されてしまうことをよしとせずに、流れに逆らうことによって何ができるかといえば、流れに逆らって何かをやっている気になれる限りで、そのやっていることに関して確かな感触を得ているのかも知れないが、それよりは流れを利用しながらやっていることの方がうまくいっているような感触を得られるだろうし、逆らうことや利用することもそこに流れがあるという前提で動いているわけで、本当に流れを感じ取れるかというと、そんな気がする程度のことかも知れないし、それをあまり真に受けるようなことでもないのかも知れないが、流れがあるだのないだのという表現自体にも何か疑わしいところがあるとすれば、そんなものも幻想にすぎないと高をくくっていればいいのだろうが、時代という概念にはそんな幻想がつきものなのかも知れない。


7月10日「政治批判」

 政治が解決できないことは様々にあるだろうが、例えば全般的には物事の売買や貸借をやめさせることはできないし、特定の品目に限って売買や貸借を禁止する法律を作ることはできても、違法行為としてそれらの取引がおこなわれている実態もあり、何かに制限を加えることはできても完全にコントロールするまでには至らず、それは政治以外でも解決できないことになるが、それの何が問題となっているとしても、政治によってできることは問題の解決ではなく、別の問題へとすり替えることになり、それはある意味で問題の継続でもあり、そうやって問題の解決に取り組んでいるのだが、何が問題なのかといえば、物事の売買や貸借がおこなわれているのが問題なのではなく、独占的な立場を利用して搾取がおこなわれていたり、貧富の格差が生じているのが問題であり、物事の売買や貸借がおこなわれた結果として問題が生じているにもかかわらず、物事の売買や貸借がおこなわれるのをやめさせることはできないわけで、その代わりに独占的な立場を利用して搾取をおこなっている大企業の活動を規制したり課税を強化することになり、また貧富の格差を是正すべく富裕層への課税を強化したり、それ以外の層へは減税したり最低賃金を引き上げたりするのだろうが、それによって問題が解決するわけではなく、そうやって問題の解決に向けての取り組みをおこなっているわけだが、しかもそれと共に企業や人が物事の売買や貸借によって利益が得られるように産業を振興しなければならず、産業を振興した結果として大企業や富裕層が生じるとしても、どんな企業や人にも大企業や富裕層になれるチャンスを得られるように、公正な競争が確保されなければならず、そのために産業競争力を強化する目的で補助金を出したり減税したり金利を下げたり公共投資したりするわけだが、物事の売買や貸借がおこなわれることから生じる弊害を取り除くことはできないが、弊害を是正したり弊害よりも利益の方が上回るように問題への取り組みをおこなっているわけで、それによって弊害が取り除かれることはないし、競争がおこなわれている中では他よりも余計に金を集められた企業や人が大企業や富裕層になることも相変わらずあるし、そうなるのをやめさせることはできないが、しかもそうなった企業や人が競争を阻害することにもなるだろうが、そこでも公正な競争を確保するためにそれらを規制したり課税を強化しようとするだろうが、相変わらず問題を解決することはできないが問題に取り組んでいるわけで、こんなふうに語れば政治がいかにおかしなことをやっているかがわかるはずだが、それでも何とかしてやっていることややろうとしていることの辻褄が合うようなことを主張したいわけで、それに関して都合の良いところだけ選んで主張しようとすれば、例えば消費税は所得の低い人や中小企業には不利になるから廃止せよとか、環境に負荷をかけないような産業分野への投資を促進せよとか、いいとこ取りな主張ばかりしてみても、根本的なところへは踏み込めないわけで、根本的なところでは政治を超えた問題となってしまうから、そこへ踏み込めないのは当然なのだろうが、それでも政治によって問題が解決できると主張しないわけには行かないし、そこで矛盾が生じてくるとしても、自分たちのやっていることがおかしいのを認めるわけにも行かないし、そういうところで限界が生じているのはほとんどの人にもわかっていることなのだろうが、わかっていない人は本気で問題が解決できると思い込んでいるだろうし、本気な人たちが問題の解決に取り組みたいのだろうが、本気な人たちの主張には危うさがあって、その危うさに惹かれる人もそれなりにいて、そういう主張が実現すれば何とかなるような気がしてくるわけで、そんな主張をしている人たちを支持して、選挙でそれらの人たちに投票しても構わないのだろうが、その一方では本気ではない人たちの方が多数派を占めている状況もありそうで、選挙で何とか劇場に騙されたとか過労で入院した人に同情票が集まったとか、平気でゴミクズなことを理由として挙げて、そういえばもっともらしく装えるのだから、人を馬鹿にするのもいい加減にしてもらいたいだろうが、そうでもしないと体裁を保てないほど、どうにもならないような状況となっているのかも知れないが、それも枝葉末節なことには違いなく、そういうところに過敏に反応するのが根本的な問題から目を逸らすには格好の方便となるだろうが、根本的なレベルでは解決不可能なのだから、枝葉末節なところで勝負するしかなく、不可能なことを根本とすること自体も間違っていて、それを根本的な問題とはしない方がいいのかも知れないが、ではどうすればいいかというと、物事に深くのめり込まずに表層にとどまり、深刻で大げさには装わないで軽く表面的に取り扱う程度にとどめておけばいいのかも知れないが、具体的にそれがどういうことなのかというと、現状を否定的に捉えることが現状への批判につながるからといって、現状の中ではうまく立ち回って成功しようとしても構わないし、しかも必ずしも成功しなくても構わないし、結果的に成功できなかった人は成功した人を羨めばいいだろうが、羨んだからといってその人を妬んで、隙を突いたり機会を捉えて批判したり攻撃しなくても構わないわけだが、そういうところでこうだからこうしなければならないとはならず、そうなったからといってそれを肯定したり否定する必要もあるだろうが、必要があるのに必要なことをやらなくても構わないとはならないが、実際には必要なことをやらない成り行きになってしまうわけで、そうなってしまうことは認めたくはないだろうが、認められなくても実際にそうなってしまうわけだから、そういう成り行きの中でそういう成り行きに応じて生きていくしかないが、それしかできないということではなく、それ以外にもそれなりにやりようがある限りで、それなりに選択肢もあって、その中からどれを選べるわけでもなくても、成り行き的にはどれかを選んでしまっているわけで、そういうわけで現状がどうにもならないような状況だと思われても、その中で生きて活動している限りでどうにかなっている現状があり、結果的には何とかなっている面と何ともならないような面の両面があり、何とかなっている面では何かをどうにかしようとしていて、そういう面では本気で世直しに取り組もうとして政治活動をやっている人たちもいるわけで、それがどうということはないかも知れないが、どうということはないにしても、そういう人たちを支持しても構わないし、現状維持的な態度でそれに対して事ある度ごとに反発して批判しても構わないだろうが、それ自体もどうということはない可能性もあるわけで、実際にも今のところはどうということはない範囲内にとどまっていて、その程度の支持や不支持しか得られないわけだが、だからといって現状を悲観的に捉えて悲壮感に浸ってみても、それもどうということはないレベルで現状を捉えていることにしかならず、相変わらずどうということはない現状の中で人や団体や物や情報が右往左往していて、そんな状況に焦っている人たちも世の中で影響力を行使すべく、相変わらず言葉を使ってしきりにメディア上で宣伝や煽動を繰り返しているわけだが、そういった行為の数々が全て無駄で無意味というわけではなく、それなりに作用や影響を及ぼしながら世の中を変え続けていて、そこで及ぼされている様々な作用や影響が互いに相殺されてしまう面もあるから、一見すると何の力もないように感じられるだろうが、それなりに力の均衡が成り立っていると捉えるなら、どこかで作用や影響を及ぼす行為をやめてしまうと、たちまち均衡が崩れて情勢が動いてくる可能性もあるだろうから、現状でおこなっていることをやめるわけには行かないと思っておいた方がいいのかも知れず、そうなることを期待しながらできる限りのことはやっておく必要があるのかも知れない。


7月9日「他人事」

 別にどうと言うことはないような出来事というわけではなく、何か深刻に受け止める必要がありそうなことでも、自らが直接の作用や影響を被っているわけではないようなら他人事で済ませられるかというと、そういうのを他人事というのかも知れないが、他人が実際に深刻に受け止めているように見えるのに、それを真似て自分も深刻に受け止めるべきなのかというと、真似るという表現が適切ではないかも知れないが、自分とは立場や境遇が異なればそうでもないことになるかというと、それが他人事であればそうなってしまうのかも知れないが、そこで他人事ではなく自分の身になって受け止めることができるかというと、そういう機会が巡ってくればそこで深刻に受け止めたり受け止めなかったりするのかも知れないが、実際にそうなってからでないとわからないようなことなら、現時点でそれを考えてみても意味のないことのように思われるかも知れないが、その時のことを想像して考えてしまうわけで、それが他人事について考えることかも知れないが、とりあえず今がその時でなければ考えるだけ無駄なのかも知れず、そういう機会が巡ってきてからでないとわからないようなことをそういう機会でもないのに考えてしまうわけで、そういう意味で他人事というのは厄介なのかも知れないが、他人事で済ますということは今はそんなことまで考えている余裕がないということかも知れず、だから他人事であり、そんなことまで自分の身になって考えていたら自分の身が持たないから、そんなことは無視して、今は自分の問題に専念すべき時かも知れないが、自分の問題とは何かというと、それが他人にも共感してほしいことであれば、他人が自分の問題について深刻に受け止めて考えてもらいたいようなことでもあり、自分の方は他人の問題については無視しておいて、他人の方は自分の問題について一緒に考えてほしいのであれば、虫のいい話になってしまうだろうし、それも実際にそんな状況なったりそんな場面に直面してから考えるようなことかも知れないが、そういう問題というのが具体的にどんな問題なのかといえば、実際に誰かが誰かに助けを求めてきているようなことであり、助けを求めているのに誰も助けに来ないような状況に陥ってしまえば、助けを求めている人にとっては深刻な状況だと言えるだろうが、助けに来た人もそれに巻き込まれて深刻な状況に陥ってしまう危険があるなら、巻き添えを食いたくなければ助けには行きたくないだろうし、それが他人事であっても深刻に受け止めるような問題となるだろうが、深刻であるだけに、そんなことにはかかわらないようにしたい問題でもあるわけで、果たしてそういうことに首を突っ込んで巻き込まれることが推奨されるようなことなのかというと、それもその人の立場や境遇に関係してくることでもあり、そういうことに首を突っ込むことが職業となっている人にとってはそれが仕事なのだから、仕事としても作業としても取り組むべきことになってくるだろうし、仕事であるからにはそれ相応の対策や対処の仕方が確立されていて、危険と隣り合わせであるとしても、持続的にそういう仕事に取り組める環境や制度や仕組みなどが備わっていて、当然のことながら巻き込まれても生還できることが前提となっているから仕事として成り立つわけだが、そうであれば門外漢や素人が介入してくるようなことでもないだろうし、そういうことについてはそれを生業としている人や団体にまかせておけばいいことになるだろうが、助けを求めているのに助けずに見て見ぬふりができるかというと、それもその場の状況や状態にもよるだろうし、助けることができるのに助けないのではあれば、見て見ぬふりをして見殺しにしたとしてその人が他から非難されるような状況も考えられるだろうが、それも実際にそうなってから当事者となった人が後悔するようなことでもあり、他人から批判されたり非難されてからあの時救助活動をしておけば良かったと後悔するわけだが、後からその人を批判したり非難するような人は実際にその場に居合わせたわけではないから、その場の状況を勝手に批判したり非難したりするのに都合の良いように想像しながら批判したり非難するわけで、果たしてそういう批判や非難が正当化できるかというと、それもその場の状況や批判や非難の内容から正当化できたりできなかったりすることかも知れないが、果たしてそういう批判や非難のやり方が優れているとかいないとかを競うような状況かというと、それよりは人を助けるやり方を向上させる必要もありそうで、どちらかといえばそちらの方が重要に思われてくるはずだが、メディア上で言葉が先行するような状況下では、当事者となる人や団体の落ち度を批判したり非難する行為が競われることにもなるだろうし、それが高じると敵と味方に分かれて対立する双方が批判し合ったり非難合戦が繰り広げられることにもなるわけだが、そういう成り行きに気をとられていると、批判したり非難したりするだけの人や団体の思うつぼで、その対象となる行為がどうなのかについての議論がおろそかになってしまうというよりは、議論するまでもないことを議論するように仕向けて、誰が見てもひどい行為がまかり通っているような状況となれば、多くの人がメディアに心を奪われて言葉の魔術にかかっていることにもなり、誰がそうなるように議論を仕掛けているわけでもないとしても、メディアの仕組みが有効に機能している限りでそういう傾向になってくるのかも知れず、メディアを無効化するにはどうすればいいかということではないにしても、メディアはメディアとして機能していて、メディア上で批判や非難の対象となるような行為も社会の中でそれなりに機能しているわけだが、機能の仕方が批判や非難の対象となるように機能している面と、行為の当事者となる人や団体としては、その行為自体が有効に機能するようにも機能させなければならず、それらの人や団体の目的や目標を達成させるために行為を機能させたいわけで、そういう意味で一つの行為に別々の機能が生じていることにもなるだろうが、それが言葉を繰り出す対象として機能する面と行為自体を機能させる面とで同時並行的に機能しているわけではなく、それを行為としておこなった結果が言葉の対象となったりならなかったりもして、言葉の対象とはならない行為が言葉を繰り出す人にとっては、無視しても構わないようなことなのかというと、場合によっては無視できないことでもあり、無視できなくても都合が悪いから何とかしてそれを避けて、それなしで語るような成り行きになってしまうと、何か不都合な面を意図的に避けたり隠したり無視しながら語っていることが、それについて語っている人の負担となってきて、それが語りのぎこちなさを感じさせるようになってくれば、それを受け止める人はその人が意図的に避けたり隠したり無視していることが何なのかを知りたくなってしまうわけだが、果たしてそのように語りを機能させることがそれを語っている人にどのような作用や影響を及ぼしているのかといえば、その人が自らの語りを自らを利するために機能させて、他の誰かより優れたことを語っているように装いたいのはわかるだろうが、それとは別の面ではそれがその人の墓穴を掘っていて、その人を積極的に語りたい対象から離れなくさせて、そこに釘付けとなるように語りを機能させて、それ以外のことはほとんど語らせないようにしているわけで、それがそういう語りの裏側で機能している別の行為へと目を向けさせて、しかもそれについて語ることを禁じているのかも知れず、そうやってそれを意識しているのに、それについて語るわけには行かない状況となってくれば、かなり身動きがとれない状態になっているだろうし、そうなって自らの語りによってがんじがらめとなっている状態こそが、その人専用の墓場でもあり、後は棺桶や骨壺の中で安らかに眠るしかやることがなくなってしまうわけだが、そうなるに至るためには後どれほどの言葉を費やせばいいのかが、その人には知り得ないことでもあり、与り知らないことでもあるわけだ。


7月8日「期待と落胆の差」

 何か不確かな未来へ投資するような行為には、どう考えても確実に計算できるような結果を出すというよりは、一か八かの賭けに出る意味合いの方が強く感じられるだろうが、どのような行為にも計算できる面と賭けに出る面の両面があり、これから具体的に何をやろうとするかにもよるだろうが、事前にうまくいく確かな根拠があっても、計算上はうまくいくことが確実に思われるようなことをやろうとしても、実際にそれをやってみると、思わぬところで想定外の事態が起こって、期待を裏切るような結果がもたらされて動揺するかも知れないが、そんな事前の目論見が甘かったことを思い知らされるようなことばかりというわけでもなく、だから余計に確実に計算できるようなことをやろうとして、やるに際して利用できることは何でも利用しようとするだろうし、そうやって事前にできるだけ成功する確率を上げようとするのだろうが、準備万端整えていざやるべきことをやってみると当てが外れてうまくいかなくなれば、それが想定外の事態になるわけだが、何をやってもある程度はそういうことになるかも知れないし、それもやる内容や程度にもよるだろうが、誰もがやる前から結果がわかっているようなことはやりたくないというか、やっている当人にはそのつもりがなくても、周囲の人にはある程度予想がつく場合もあり、しかも結果から感じてしまうことは、うまく行かないのも当然のようなことをやっていても、一縷の望みにすがっている気になると、たとえそれが絶望的な状況で無謀なことをやっていても、そんなことをやれるだけでも何かうまくいくような気がしてしまい、そうやって実際にうまくいかずに失敗するのが当然のようなことになって、そうなるべくして失敗してしまうわけだが、事前に他人の意見に耳を傾ければ無謀なことをやろうとしているのがわかりすぎるくらいにわかるかも知れないが、やることができて失敗することもわかっているのに、それでもやるような成り行きになってしまえば、何か不条理感が漂ってくるだろうが、実際にやれてしまうのだからうまくいくかも知れないと思ってしまうわけで、それが競争となってくると勝者が成功して敗者が失敗することになるわけだが、やる前からある程度は誰が勝つかがわかっているような競争もあるだろうし、そこで負けるとわかっていても競争に参加する気になれるかというと、実際に参加する人は勝てるかも知れないと思っているだろうし、勝つ見込みのないことが一目瞭然なのに、なぜ参加するのか理解に苦しむかも知れないが、やはり参加できるのだからもしかしたら勝てるのではないかと思ってしまうわけで、それが競争を成り立たせる原理なのかも知れないが、事前に勝つ見込みがある人にとっては、そういう人が参加してくれるとありがたいだろうし、自身の勝利を際立たせるためにもそういう人が必要になってくるわけだろうが、それがフィクションとなってくると予定調和のようにして奇跡の大逆転劇が構成されて、勝つ可能性がほぼゼロであるような主人公が登場して、話の中では奇跡の勝利を収めるわけだが、そういうフィクションも現実の世の中で影響を及ぼしてきて、負けるとわかっていても奇跡の大逆転劇を信じて競争に参加してしまう人を後押ししてしまうわけで、そうなるとその手のフィクションが罠として機能することにもなるだろうが、そんな話を信じている人がどれほどいるかはよくわからないにしても、そういう人が語っている内容や実際におこなっていることなどからだいたいは察しがついてしまうだろうし、何かその場の成り行きから外れるようなことをやっていたり主張している人が、不可能に挑戦しているように見えてしまう一方で、口から先に生まれてきた詐欺師のような人が時流に乗って世間の注目を浴びているように装われてしまうと、そこからも不条理感が漂ってくるわけだが、そういった世間を構成しているメディア状況の中であり得ないフィクションが広まっているわけではなく、実際にそうなって当然のような現実がもたらされていて、時流から外れておかしなことをやっていたり主張している人がおかしく見えてしまうわけで、しかもそういう人たちが負け組の典型例として確保されて、負けるべくして負けるような人や団体としてみられるような言説の構成が成り立っていて、それが出来レースのような競争を実現しているわけだが、そういった言説空間の構成にかかわっている人や団体が、漫画のような奇跡の大逆転劇のフィクションとはまた違ったフィクションを世の中に広めているのかも知れないが、果たしてそれがフィクションと言えるのかとなると、現実にそういうことが起こっているわけだから、ある意味ではフィクションではなく現実そのものなのかも知れないが、それを信じられるかというと、信じるのが恥ずかしくなってきてしまうわけで、しかも多くの人がそれに気づいていて、多くの人が恥ずかしいと思っているのに、宣伝や煽動の現場では堂々とそういうことが信じられていて、そういう光景を目の当たりにすると気が退いてしまうわけだが、現代的な大衆市民社会の中で抱く幻想としてはそれでも構わないような気もしてくるから、何となくそれが普通に思われてしまうのかも知れないが、それを見てそういう風潮に惑わされて多くの人や団体がおかしな方角へ向かわされていると思ってしまうと、何かその場の成り行きから外れてしまったようにも思われてきて、そこでおこなわれている競争にはかかわらない方がいいようにも思われてくるわけだが、それに関してメディア上でまことしやかに流布されている理由や原因なども信じるわけには行かないが、そこに構成されているフィクションのような現実を無理に理解しようとしても構わないのかも知れないが、そこから目を覚まして世界の現実を見よと呼びかけている人や団体がいるとしても、何かそれもまた別のフィクションを信じさせようとしているのかも知れず、それらの人たちが信じているつもりの世界の現実もフィクションなのかも知れないし、そういうところがややこしくて面倒なら、それをフィクションだとわかった上で信じても構わないだろうが、とりあえずは日本の現状が世界の趨勢や時代状況などから取り残されつつあるとしても、そういう成り行きの中で物事を考えながら、多くの人々の意識が捉えている世界の趨勢や時代状況と日本の現状との間に差があることを実感すれば、時代遅れな日本の現状に落胆してしまうかも知れないが、今さら世界の趨勢や時代状況に追いつこうとして追いつけるわけでもなく、そうかといって開き直って世界の趨勢や時代状況の方が間違っていると主張できるわけでもなく、妥協的な物言いで何かそこに期待できる要素や要因を見出そうとして、そこに未来への可能性があるかのようなフィクションを性懲りもなく構成できるかも知れないが、そういう現状に照らし合わせて信じられるようなフィクションを構成しようとすることが、メディアなどの言説空間から及ぼされる作用や影響によってそうさせられてしまうことでもあり、それも現状で捉えられている現実に基づいて言説的なフィクションを構成しようとしている限りでもっともらしくも感じられて、信じられるようなもっともらしいフィクションが実際に構成されるのだろうが、それを信じられるなら信じても構わないが、できればフィクションとして信じておいた方がいいのかも知れず、フィクションにはそれに伴って言語的な傾向があり、それが現実との間で落差を生じさせていて、言語的な自由が実際の現実の中では通用しない場合もあり、それが言うことはできるがやることが難しいという落差であるから、フィクションの中で言われていることが実際の現実の中ではうまく行かない場合が出てくるわけで、それが期待から落胆が生まれる原因ともなってくるのではないか。


7月7日「指導と助言」

 政治が行政と一体化しているのは今に始まったことではないが、政権政党が行政と一体化しているのも今に始まったことでもないし、それが当たり前のことだと捉えるのが妥当なところだろうが、住民が選挙で選ぶ議会の議員が住民の代表者であることも当然であり、議会が行政と一体化しているわけでもないも三権分立の原理が示しているはずだが、政党が議会と行政を癒着させて、行政が司法を取り込んでいる状態も昔から既成事実化していて、そうなると実質的には三権分立が形骸化しているわけだが、三権分立が形骸化せずに三権の分立が保たれているほど民主主義も保たれていて、三権が癒着しているほど民主主義からはほど遠い独裁的な国家体制となっていて、それが民主主義的な国家体制と専制的で独裁的な国家体制とを分ける客観的な判断基準であれば、大抵の人は納得するだろうが、政治家の利益を優先させるなら独裁的な政治体制を築きたいわけで、住民の意見を聞くふりをしながら、民衆を指導したくなるのが政治家の本性であり、指導者になりたい人が政治家になると独裁的な傾向が強くなるわけだが、それは国家公務員となって政府の官僚機構の中で出世競争をしている人たちにも言えるはずで、組織の頂点を極めて指導的な役割を担いたいわけだから、上司となって部下を指導することの延長上で国民を指導したくなり、そんな政治家や官僚たちが権威主義の虜となれば民主主義を形骸化させようとするのだろうが、それは指導者を頂点とする集団の組織体制の中に入れば自然とそうなってしまうのであり、別にそれがおかしいわけではないが、それ一辺倒になってしまうと様々な弊害も出てくるだろうし、その中でも一方的に命令するような強権的な弊害をなくすには、上司と部下という上下関係を主体とする組織体制であると共に、現代的な傾向としては指導者ではなく助言者としての役割を重視する体制にもなってきて、上位の者が下位の者を指導するのではなく、横から助言したり相談に乗るようなことをやるわけだが、それらのどちらか一方だけを推進するわけでもなく、両面からバランス良くサポートする体制となるだろうが、それに関して指導することと助言することが両立するのかというと、両立しているように装うのだろうが、時には矛盾をさらけ出してしまうこともあるだろうし、その象徴的な例としては、北朝鮮の最高権力者の地位にある者が工場に視察に行って、その方面の専門家でもないのに現場で工場の幹部や従業員を指導しているように装わなければならないところがかなりおかしいわけで、企業などの方面ではそういうところはコンサルタントと顧客の関係として確立されていて、上から命令したり指導するのではなく、横から相談に乗って助言するような役割となっているわけだが、そればかりが重視されているわけではなく、あくまでも補助的な役割にとどまることも多いのだろうが、そういうところで一つの方向へ振り切れないように微妙な舵取りやバランス感覚が求められて、矛盾しているのを承知の上である時には指導的なことをやる一方で、その場の状況に応じて助言にとどめておくようなこともやらなければならず、金太郎飴的にこういう時にはこうすればいいというマニュアルばかりを確立してしまうと、マニュアルが通用しない面ではうまくいかなくなってしまうだろうし、しかも作業をする当事者にやらせなければならないわけだから、上役ばかりが指導者面してしゃしゃり出ると現場の士気も下がるだろうし、それを作業と見なすのもおかしい場面もあるだろうから、そこでおこなわれている全てを作業手順としてまとめて、工場の作業のように一つの工程に対応する一つの動作として決めるわけには行かないわけだが、それでも企業的な方面ではそれなりに役割分担が確立されているとしても、果たして民衆が政治家や官僚に対して指導者や助言者としての役割を望んでいるかというと、そういう関係が確立されているわけではなく、議会の議員として政治家はあくまでも選挙によって選ばれた民衆の代表者であり、官僚は政府の公務員であり、組織の中の上司と部下の関係でも顧客とコンサルタントの関係でもスポーツにおける選手とコーチの関係でもないわけだが、政治家は民衆の意見を聞いてそれを議会にかけて法案の類いとして行政に反映させようとして、公務員は政府の中で働く事務員や従業員や管理職の役割を担うわけで、そういうことをやっていく中で住民との交流の場で相談に乗ることもあるだろうし、住民の要望を聞いて行政に反映させようとすることもあるだろうが、それと同時に世の中の治安を維持したり住民に対して法律を守らせたり住民から税を徴収したりする役割もあるから、そういう方面から住民を取り締まるようなこともおこなわれて、そういうことができるわけだから住民より立場が上になってくるわけで、また取り締まる際に権力を行使して住民の自由を奪って拘束したりもできて、裁判にかけて処罰することもできれば、明らかに一般の住民より力を持っていることになるだろうし、そうした力を悪用すれば住民を支配することもできるわけだから、不当に拘束して住民の自由を奪ったとしても、三権分立が形骸化していれば、住民がいくら不当な行為を訴えても、検察からも裁判所もからも相手にされない場合も出てくるだろうし、そんなことにならないようにするには、住民たちの味方となってくれる代表者を議会に送り込んで、行政に対抗しなければならないわけだが、それも三権分立が形骸化していれば、治安当局が一方的に議会を閉鎖したりして、それでも政府に抵抗しようとするなら反政府武装勢力でも結成してテロ活動でもやる成り行きになってしまうわけで、そういう意味では民主主義がどのようにして実現したかとなると、フランスやアメリカなどの例から言えば、住民側の武装蜂起によって実現したことになるわけだが、そういった暴力革命がないと民主主義が実現しないとなると、現状で民主主義が実現していない国や地域でも、暴力革命が起こる必要が出てくるわけだが、それ以外ではドイツや日本のように外国との戦争に負けて戦勝国による統治を経て民主主義が実現した例もあるが、果たして中国やロシアや北朝鮮などの住民が民主主義の実現を求めて政府に対して武装蜂起するかというと、現状ではあり得ないように思われるだろうし、どちらかと言えばドイツや日本などのように外国との戦争に敗れて民主主義が実現する可能性の方が高そうで、実際に戦争の危険性を指摘する人もいくらでもいるとしても、それらの国々と対立している国々から戦争を起こすような気配はないだろうし、それもどちらかと言えばドイツや日本のように、戦争を仕掛けてくるのは民主主義が実現していない国々の方からになるのだろうが、もしかしたらそれらの前例とは異なる場合もあるだろうし、少なくともロシアに関しては選挙制度そのものは機能しているから、プーチン政権の次の政権になれば、それなりに民主主義が実現するかも知れないし、北朝鮮に関しては現状でもじり貧に陥っているから、他のアジアやアフリカや中南米の国々のようになるかも知れないが、中国に関しては欧米型の民主主義が実現する可能性は低そうだが、何かそれとは別の統治形態に現状でもなっていて、それが執拗に続いていくとしても、少なくとも中華人民共和国の建国当初は共産党の独裁政権ではなく、様々な勢力による連立政権のような様相を呈していたのを、毛沢東がスターリン主義にかぶれて強引に共産党による独裁体制にしてしまった経緯があるだけに、今後も何かのきっかけからあっと驚くようなことが起こる可能性もあるのかも知れない。


7月6日「機が熟す」

 これから何が起こるとしても、今はまだその時でないような気がするのは、機が熟していないからかも知れないが、それが何の機が熟していないのかは、その時になってみないとわからないのかも知れず、案外その時になってみてもわからないのかも知れないが、現状ではたまたまそんな気がしているだけで、それとは無関係に何かが立て続けに連鎖反応のようにして起こっているのも気のせいかも知れないし、それが大規模な建物の崩壊や土砂崩れや航空機事故などであれば、そこで多くの犠牲者が出て、ニュースの話題となっているのだろうが、以前にも航空機事故などが立て続けに起こって、それが何かの陰謀なのではないかという噂が広まったこともあったが、その時と似ているわけでもなく、偶然に事故や災害が度重なると、それらを結びつけて何か興味深い話を構成したくなってしまい、そんな誘惑に駆られながらも、今はまだその機会ではなく、機が熟していないような気がするのかも知れないが、これからさらにあっと驚くような出来事が待ち構えていて、それが起こればそれまでの伏線が一つに結びつけられて、それによって何か大げさなことが言えるようなことにでもなれば、まさにそれを語る機が熟したように思われるかも知れないが、ここまでがあり得ない妄想でもあり、実際にはそんな機会など永遠に巡ってこないかも知れないが、世界中で人が大量に死んでいる状況には変わりなく、大量に生きていれば大量に死ぬも当然のことかも知れないが、それが事故や自然災害だけではなく、銃撃事件が多発している国や地域もあるし、人同士が争って殺し合いをしていて、いつの時代でもそうだったとしても、現状でも終末論的なことを語るには絶好の機会のようにも思われて、実際にもそういうことを語っている人がいくらでもいるかも知れないが、相変わらずそれはメディア経由の情報に基づいて語っていることでもあり、身近なところでは何も起こっていなければ、実感が湧いてくるわけでもなく、至って平穏無事な毎日を送っていて、深刻に受け止めるべきことと楽観的になれる方面での落差が激しくて戸惑うしかないが、メディア経由の情報に頼って世界の様々な方面で起こっている深刻な事態をつなぎ合わせて、この世界がどれほど危機的な状況に陥っているかを物語ってみても、それだけが全てではないことは誰もが承知していて、確かに何らかの事件や事故に巻き込まれてひどい目に遭って、悲惨な境遇に陥っている人もいくらでもいるとしても、まだそこまで至っていない人の方が圧倒的に多ければ、そんなことは気にするまでもないことかも知れないし、そういう意味ではまだ機が熟していないと言えるだろうが、ここから何がどうなれば機が熟すのかがよくわからないとしても、たぶん機が熟すにはまだ何かが足りないと思うしかなく、その足りない何かが起こることを誰もが期待しているわけでもないだろうが、果たしてそれがいつ起こるかとなると、誰にも確かなことは言えないだろうし、何が起こるかもわからなければ、何かが起こってもそれが期待していた何かだとは気づかない可能性もあり、意外とそれがすでに起こっていて、誰もそれに気づいていないのかも知れないが、そうであればすでに機が熟していることになるのだろうが、何の機が熟しているかが相変わらずわからないままであれば、誰もがそれを見逃してしまって、その機会を逸していることになるだろうが、たとえ機会を逸していても、次の機会を待てばいいのかも知れないし、中にはただ待っているだけではなく、自ら何かを仕掛けようとする人や集団も出てくるだろうし、それがテロ活動へと発展することもあるだろうが、何も攻撃を仕掛けることが得策だとは思えない状況もあり、では何を仕掛けるかとなると時限爆弾の類いではテロ攻撃にしかならないだろうが、爆発するものが人を殺傷するのではなく、もっと何か肯定的な作用をもたらすような仕掛けを作りたい人や集団も出てくるだろうし、果たしてそんな仕掛けが作れるかとなると、実際に作ってみないことには何とも言えないだろうが、仕掛けを作るような機運が生まれているかというと、企業が人目を惹くために作っている仕掛けはいくらでもあるかも知れないが、それが経済的な利益を得るために作っているとなると、普通に金銭を介した売買や貸借の対象となる物事であり、金のない人には縁がなく、縁がなければ仕掛けを楽しむこともできないわけだが、実際にもオリンピックという大がかりな仕掛けが間近に迫っていて、そんな仕掛けを利用して何かを起こそうとしている人や団体がいるとしても、何が起こるかはその時になってみないとわからないが、何かが起こるとすれば、それが人々の期待していることとは違う場合もあるだろうし、そうでなくてもただの一過性のイベントでしかないわけだから、それが過ぎ去ってしまえば後は何とでも言えるようなことでもあり、適当な結果を基にしてもっともらしいことを言えばいいわけで、そんなことを言うために何を仕掛けようとしているわけでもなくても、何も仕掛けなくても何らかの出来事がもたらされて、その出来事について何か言えばいいのかも知れないし、それが何になるわけでもなければ、言ったことが空回りに終わったことになるだろうが、少なくとも何かを仕掛けようとしているわけだから、言うだけでなくおこなわないとならないだろうし、そこで何をおこなうかが重要となってきたりなってこなかったりもして、重要とはならなければ無視されるだけかも知れないが、それも現状ではそうだとしても、現状だけが全てではなく、そこからしばらく時が経ってその時のことを振り返ってみれば、何かが見えてくることもあるかも知れないから、何をおこなってもすぐに成果が現れるわけでもなければ、持続的に長い目で見てやらなければならないことも出てくるかも知れず、それが現状でおこなわれていることになれば、たとえ他人から無視されるようなことをおこなっていても、それを続けられる限りで何らかの成果を期待できるだろうし、そうなることを期待したり目指すわけでもなくても、誰もが各々で期待している物事があり、そういう意味では機が熟すまで待ちながらも、現状で継続しておこなっていることを続けていくしかないわけで、それが結果的には何ももたらさなくても構わないのかも知れず、結果的には何ももたらさなくても結果に至る過程において何かをもたらしていて、それが結果への期待であり、期待通りのことが起こってほしいのだろうが、現状で何を期待しているとしても、それとは別の何かが起こってそれに巻き込まれてしまえば、そんなことなどすぐに忘れて、巻き込まれた何かに夢中になってしまうこともあり、そうなる過程においてはそれとは違う何かが起こることを期待するから、以前に何を期待していたのかを忘れてしまうわけだが、夢中になっているそれが一過性のイベントの類いであれば、それが過ぎ去ればまた思い出すかも知れないし、思い出したところで以前とは期待の中身が変わっていることに気づかないかも知れないが、それが一過性のイベントに巻き込まれて期待を以前とは別の方向にずらされたことによるとしても、そこに至る過程でもたらされた作用には違いなく、時としてそんな作用を被りながらも、さらにその先で何かが起こることを期待しているわけで、期待していればその先へと進んでいけるような幻想も生じてきて、そんな幻想を抱いていることがまだ何かの途中にいることを実感させるのかも知れないが、少なくとも何らかの結果に至るまではその途中の段階で生き続けているわけで、しかも何らかの結果に至ってもなお生きていれば、さらにそれが何かの途中の段階にあることを実感できるかも知れない。


7月5日「人としての力量」

 世の中で起こっている何らかの出来事や現象に興味を持ったりかかわろうとしたり巻き込まれたりすることが、何を意味したり意味しなかったりするとしても、また偶然にそうなったように思われたり、そうなることが必然のように思われたりするとしても、果たしてそういう物事の捉え方以外で何かそれについて語るべきことがあるかというと、語るべきかどうかといっても、語るべきことを語ろうとしているわけではないかも知れないが、起こった出来事や現象をどう解釈したらいいかとか、それについて知り得たことや、疑問に思われることを語ろうとして、それが評価の対象となれば良し悪しの判断がされたり善悪や好き嫌いを語ることになるのかも知れないが、それらが語る内容の全てではないとしても、それを語り尽くそうとすれば興味のないことまで語ろうとするだろうし、語り尽くすことに意味があるのかないのか、語り尽くすべきなのかべきではないのかは、語っている人にはよくわからないことかも知れないが、語る気がなくても語らされてしまうこともあるだろうし、それについてどう語ってもしっくりこないとしても、語っていることに疑念を抱きながらも語っている状況がある限りで、それについて語っていることになるはずだが、特定の何かについて語っているのに何について語っているのかわかっていない場合もあるのかも知れず、結果的に語ろうとしていることとは別のことについて語っているとしたら、語っている人の意図や思惑から外れたことを語っているのかも知れないが、なぜそうなってしまうのかと言えば、語っていると思っている対象に操られている可能性もあるにしても、語り得ないことについて語ろうとしていて、語ろうとすれば実際に語れないからそこから逸れていって、結局は語っている当人が語れることしか語れないから、当人がもっともらしく思うようなことを語っているとしても、語ろうとしている対象とは相容れない内容となってしまえば、何か的外れなことを語っているような印象が伴ってしまい、結果的には語ることに失敗しているのかも知れないが、語っている当人にとってはそれが妥当な内容となって、それなりに納得できることを語っているつもりなのかも知れないが、それでいいかとなると、そういう内容を受け止める人の判断となるのだろうが、良いか悪いかと言うよりは、そういう人にとって物事に関してそう語ることが自然な成り行きであれば、その人の身の丈に合ったことを語っていると受け止めておくのが妥当かも知れないし、そんな内容でもその人の気が済むならそれでも構わないだろうが、気が済まなくてもその人が語ると否応なくそうなってしまうなら、それがその人の限界だと受け止めておくしかなく、その人が語れる範囲内ではそういうことしか語れないわけで、それが他の人の好みと一致するかしないかはさておき、語っているつもりの対象が何を求めているのかを把握できるか否かも、語りの内容にかかわってくることかも知れないが、求められているように思われるそれが、語る人の力量に合わせて変わってくれば、その人の力量に応じて語る内容も変わってくるだろうが、語ろうとする対象が何を求めているわけでもなければ、それについて語っている人が勝手に語っているにすぎないことになってしまうのかも知れないし、語る人の力量も何も、誰が誰の力量を測ることができるかもよくわからない場合もあるだろうし、その人に力量があるだのないだのと思うのも勝手な幻想にすぎなければ、そんなことを思っている時点でいい加減なことについて判断しようとしていて、そんなことを判断基準に据えること自体が間違っているのかも知れないが、では何をどう判断すればいいかといっても、何をどう判断するのが正しいのかわからなければ、とりあえずその場で思いついた判断基準に基づいて判断するしかないだろうし、そういうところからいい加減なことを語ってしまうのだろうが、それをいい加減なことだと見なしても、それについて語っている当人はそうは思わないかも知れないし、それ以外に語る内容がなければそれを語るしかないわけで、そこで語らない選択肢がなければ、それが大したことでもなく、大して関心があるわけでもなくても、何らかの義務感からそれについて語る必要が感じられると、そういうことを語る成り行きが生じてくると共に、そんなことを語っている状況が生じてくるわけだが、そこで語らなくてもいいことまで語っているとしたら、その場の状況によって語らされて、当人の自主的な判断で語っているつもりでも、そこで語るように仕向けられている気がしてくるわけで、そういうところから抵抗感や疑念も生じてくるだろうし、それも語る対象から生じている幻想にすぎないかも知れないが、何かそれとは違うことを語らなければならないような気がしてくれば、そこで語られているもっともらしい内容が間違っているのではないかという疑問や不信感と共に語らなければならなくなってくるわけで、そうなった時に語る対象をどう捉えたらいいかとなると、大抵はそれを批判的に捉えるだろうし、それとは違うことを語ろうとするのだからそうなって当然だろうが、そこからそれに対するその人独自の視点や切り口などが生じてくるとしても、それもそういった方面で以前から踏襲されてきた視点や切り口になっている可能性もあり、そういう意味では語る対象がそれ以前から多くの人によって語られてきた対象であれば、こういう場合にはこういうことについて語ればいいようなマニュアル的な傾向があって、それに則って語っている限りで常道を踏み外さない安心感を得られるのだろうが、それを紋切り型的な内容だと批判しても、そういう批判自体も制度的に過去から連綿と踏襲されてきた批判でもあり、そうやって何から何まで全てがその種の制度的な語りの内容に絡め取られてしまうわけでもないが、そんな言説の範囲内で言葉を弄してぐるぐる循環している限りは、何をどう語ってみても、そこから生じてくる抵抗感や疑念が解消せずに、その種の語りに対する不信感も募ってくるかも知れないが、そこで立ち止まらずに通り過ぎてしまえば何でもないことになってしまって、いくら抵抗感や疑念や不信感を抱き続けても何がどうなるわけでもないだろうが、実際にもそんなことは気にせずにさっさとその場から遠ざかってしまえば、そんなことはすぐに忘れて何事もなかったかのような日々を送れるかも知れないが、逆にこだわってしまうとおかしな妄想や幻想にとらわれて、陰謀論のようなことを主張したくなってくるのかも知れないし、どちらにしてもどちらでも構わないでは済むか済まないかも何とも言えないところだが、たぶん人としての力量が問われているのはそこではなく、直接かかわったり巻き込まれたりした時に問われてきて、それについて語っているぐらいでは大したかかわりではなく、大したかかわりではない程度に語れば済んでしまうことでもあり、そういうところではあまり深入りせずに表面をかすめる程度に軽く触れておけば、たとえ語る対象から面倒で理不尽な作用や影響を及ぼされても、あまり重症化しないうちにさっさとそこから退散できるのかも知れないが、そうやって症状を比較的軽症にとどめるように配慮してしまうと、軽いかかわり方から生じる不満も覚えるだろうし、もっと深く言説の対象となる物事に入り込みたいという思いが募ってくれば、ミイラ取りがミイラになったように魅入られて、対象へと直接かかわってそれに付随する現象に巻き込まれて、それと一体化するような幻想や幻覚などがもたらされるかも知れないが、それが何を意味したり意味しなかったりするとしても、そうなると言説の対象と言うよりは、そこで起こっている出来事や現象の目撃者ではなく共犯者となってしまうのかも知れない。


7月4日「死の欠乏」

 人が生きて行く上で欠かせないものは、人によって異なるものと、誰にでも共通の欠かせないものもあるだろうが、欠かせないものなどには大して興味がなければそれだけ余裕があり、生きているのが当たり前のような生活を送っていることになるだろうが、人によっては生きていくだけで精一杯の余裕のない生活を送っている場合もあるだろうが、中には何もかもが満ち足りていて、それ以上に何がほしいとも思わない人もいるかも知れないし、大抵の人はそんなことなど気にせずに生きていて、改めてそんなことなど考える機会もなく、ただその場の成り行きに従って生きているだけかも知れないが、それが欠乏して生きていけなくなってしまえば、そうなって初めて生きて行くには何が欠かせないのかを知るかも知れないし、それを知った時にはもう手遅れとなって、そのまま生きていくのに欠かせないものが手に入らないまま死んでしまうかも知れないが、それに気づく暇もないまま死んでしまう人もいるかも知れないし、それもそうなるかどうかは人によってもその場の状況によっても異なるだろうが、それが足りていたり足りていなかったりすることが切実には感じられない状況の中で生きていれば、そんなことなど気しないのが当たり前の態度であり、そうなっていることがそれほどおかしいとは思わないだろうし、それよりは何か別の関心事がメディアを通じて世間的な話題となっていれば、そちらの方に気をとられていて、それも一つの話題ではなく様々な方面で様々なことが話題となっているはずだが、実際に日々数多くの人が死に直面していて、それなりの数が死んでいるにもかかわらず、しかもそれが話題となることも結構あるにもかかわらず、自分がその中に含まれていなければ構わないわけで、生きている人たちの話題に死人が加わってきても、それに関心を抱くのは生きている人たちになるわけだから、関心が向いている時点ではまだ生きているわけで、自分が生きていることと他人の死が世間の話題となっていることが関係があるのかといえば、他人の死を話題としているのが生きている人たちである限りで、他人の死に関心を向けている人にとっては関係があるわけだが、では自身が生きていく上では他人の死が欠かせないかと言えば、そうは思わない人が大半を占めることは確かであり、別に自分の身代わりとなって他人が死んでくれるわけでもなく、殺人犯が殺人犯であるには人を殺すことが必須条件であるから、殺人犯であれば他人の死が欠かせないが、誰もが殺人犯であるはずもなく、少なくとも大抵の人にとっては他人の死が欠かせないわけではないはずだが、他人ではなく自らの死となるとどうかとなると、少なくとも自身が生きいる限りで自らの死は必要ないだろうし、死の不要が死の欠乏を意味するわけではないとしても、意識して死なないように生きていれば、死に至る危険を避けながら生きていることにもなり、死にたくなければ死が欠乏していても構わないわけだが、実際には欠乏しているわけではなく、人は絶えず死につつあり、体内の細胞が少しずつ死んでいるはずで、そういう意味では死が欠乏しているわけではなく、老いるに従って死が少しずつ充満していって、その人の寿命を迎える頃には死に満たされて実際に死んでしまうのだろうが、そうなる過程が生きていく上で欠かせない過程であるかというと、実際にそうなってしまうのだからある意味では欠かせないだろうが、意識の中ではそれを避けたいわけで、できればそうならないようにしたいが、実際にそうなってしまい、そうなってしまえばあきらめるしかないとしても、そうなることを拒否したいだろうし、そんなふうに自らの死を受け入れられない人もいくらでもいるだろうから、そういう人は意識の中で自らの死を追い払おうとしていて、死が欠乏した状態を望んでいるのかも知れないが、あからさまにそんなことを思っている人はまずいないだろうし、普段はなるべく死を意識しないようにしていて、死を意識してしまうのを恐れているはずで、それでも重い病気にかかれば死を意識せざるを得なくなるわけだが、できるだけそうならないように普段から自らの健康には気遣っているはずだが、それも人によって気遣いの程度や度合いも異なってきて、無謀なことをやりがちな人ほど死の危険も高まってくるだろうが、強運に恵まれれば長生きするかも知れず、逆に何事も石橋を叩いて渡るほど慎重に事を運ぶように心がけている人であっても、ちょっとしたきっかけからあっけなく死んでしまうこともあるだろうし、なるべく死を遠ざけようとすればするほど逆に向こうから死が近づいてくるような成り行きになっていれば、こちらから死に近づいていって死ぬすんでの所で身をかわすようなことをやらないと、死から逃れられない場合もあるかも知れないが、具体的にそれがどういう場合であるかといっても、実際にその時になってみないとそれを知る機会など訪れないかも知れないし、その機会が訪れているのに気づかない人が実際に死んでしまうのかも知れないが、そういう機会を何度もかいくぐってきた人がいれば、そういう人は強運に恵まれているか、あるいはその時の経験が勘として身についているのかも知れないが、そういう人も寿命が来れば死んでしまうだろうから、寿命が来る前に事故や病気で死んでしまった人よりはちょっとだけ長生きしたにすぎないとしても、そのちょっとの差を大げさに強調したくなるような経緯や事情があれば、そういうところで何らかの利益がもたらされていて、その利益を得られると何か得をしたような気分になれるかも知れないが、その利益というのが相対的な長生きをもたらすには欠かせない何かであり、それが生きている時間でもあり、しかもできれば苦悩や苦痛をもたらさないような時間となればいいのかも知れないが、それも意識の中でそう思うことであって、実際に体験することはそれとは違って、苦悩や苦痛よりは退屈で死にそうになるような暇な時間がもたらされるかも知れないし、やるべきことが何もないような虚無感に満たされた死の延期にすぎないかも知れないが、そうであっても死なないだけマシかというと、人によってはそうは思わないだろうし、それに代わって尊厳死のようなものを求めている人もいるかも知れないが、そう都合良く生死を自らの思いのままに意味づけすることもできないだろうし、崇高で神聖な気分で死を迎えたいと思うのは傲慢さの表れでもあり、そんなふうに思っている人ほど人並みに惨めであっけない死に直面してしまうかも知れないが、そうなってみないことにはそれを体験できないところが、それを事前にいくら想像してみても当てが外れるようなもどかしさを覚えるだろうが、生きているうちにそんなことを想像してしまうわけだから、やはりそこには死が欠如しているとしか言えず、欠如しているから想像力によって補おうとしているのだろうが、どう思ってみても違和感が伴ってくるわけで、そんなことまで想像する暇も必要も余裕もなく、生きているだけで精一杯となっていることがそんな夢想とは無縁でいられて、大抵はそれで構わないわけだが、果たして精一杯生きている実感があるかというと、それも人によってもその人の境遇によっても異なるだろうが、やりたいことをやっているつもりになれれば、大抵は精一杯生きていることになるのだろうが、そこにその人がそこに至る経緯やその場で生じている事情が絡んでくると、直接にはそうは思えないような紆余曲折にとらわれている場合もあるだろうし、それが他人の思惑に振り回されていたりすればそれと感じ取れるはずだが、ただ漠然と自分や他人に纏わる経緯や事情とは無関係にそう思われるようだと、そこには何かが欠乏しているように思われてくるのではないか。


7月3日「計画の必要性」

 計画的に何かをやろうとしても計画通りには行かないことが出てくれば、計画には常に不確定で不確実な要素や要因がつきまとっていて、それらが計画の邪魔をしているわけだろうが、計画自体がその場の状況や情勢に合わない無理な内容を含んでいる可能性もあり、当てにならない面もあるかも知れないが、人がある程度の規模の集団で組織的に動いて何かをやる場合には、事前に計画を立てなければならないだろうし、そういうところでは計画が不可欠となるが、計画通りに事が進まない場合も想定しながら計画を立てなければならないから、どうやっても完璧な計画とはならず、何から何まで全ての動作を計画に組み込むわけにも行かないし、ある程度の自由やいい加減な面も必要で、計画に沿って事を進めていく過程で、その場の成り行きに応じて修正や調整や変更などをおこなう必要も生じてくると共に、その場その時の局面でうまくいかずに計画の見直しを迫られるような様々な問題も出てきて、その度ごとに面倒なことになるだろうが、だからといって計画自体をなくすことはできないだろうし、結局は事前に計画を立てて計画通りに事を進めていくしかなく、事を進めていく過程で生じてくる様々な問題と格闘することになるのだが、計画を推進している側は何とかして計画がうまくいっているように装いたいし、それを批判する側としては何とかして計画がうまくいっていない面を強調したいだろうし、そこでも問題が生じていて、それに関連して対立や争いが起こっているのだろうが、表向きは対立や争いの中でも何かがおこなわれているわけだが、そこでおこなわれていることも計画に組み込まれているような様相を呈していると、何か騙されているような感覚を伴うわけで、何に騙されているのかというと、計画に依存しながら事を進めている人たちやそれを批判している人たちの両方に騙されているのではなく、それらの人たちが繰り広げている対立や争い自体に騙されているのかも知れず、そこに物事の本質があるように思われてしまうとしても、それが思い違いなのかも知れず、すでに人が集団で組織的に動いて計画を推し進めるような成り行きが生じていること自体が、人々の間でその必要性が意識されていて、そんな必要性に基づいて集団の組織化がおこなわれて、そうやって何らかの集団を生じさせること自体も計画に含まれていて、人を何らかの集団に組み込んで制御する計画が進行中なのであり、制御する一環として集団でおこなう作業が計画されるわけで、そうなる過程において人を集団の傾向や目的に合うように変えようとしているのであり、そうした集団体制への組み込み作業に巻き込まれてしまうと、否応なく人が機械や装置の部品へと貶められてしまい、人としての尊厳が失われて、物として扱われるようになってしまうわけだが、果たしてそういう捉え方が合っているかというと、国家を一つの工場のように見立てるとそんな傾向も感じられるかも知れないが、もちろんそうではない面もいくらでも見つかるだろうが、あまり短絡的に物事を捉えようとしても、そういう捉え方では見落とされてしまう傾向を強調しようとしているわけでもないが、何かそうではない面ではなく、そういう在り方を推進している集団自体が陥っている何らの状態があるのではないかと疑ってしまうわけで、現状でも確かに中国などで顕著に見られる傾向というのが、国家の工場化のような様相を呈しているのだろうが、それが成功しているかというと、成功している面もそれなりにあるのだろうが、そこだけに目が行ってしまうと、見落としている何かが感じられなくなってしまうわけで、その何かが何なのかといえば、個人としての人のしたたかさであったり、集団化に従順に従っている人たちを利用して何かをやってやろうという思惑であったりするのだろうが、それが集団を率いている指導者のような役割の人にはそれなりにあるとしても、従っているように装っている人たちもそれなりにあって、集団の中でもずるく立ち回って、隙あらば私腹を肥やすようなこともやりたいわけで、誰もがそうやって集団を利用しようとしていると思ってしまうと身も蓋もないのだろうが、集団に忠誠を誓うような儀式が盛大に執り行われている最中でも、果たしてそんな儀式に魅了されている人がどれほどいるかというと、意外と誰にも裏表があって、本気で忠誠を誓っている人がそんな人たちに利用されて馬鹿を見ることにもなるだろうし、本気で忠誠を誓っている人が多ければ多いほど、集団でおこなう作業がうまくいくと考えたいだろうが、実態としてはそうではないのかも知れず、作業がうまくいくということがうまくいっているように装われていることでしかなく、そこで作業をおこなっている人たちがうまくいっているように装っている限りでうまくいっているように見えるわけで、それらの人たちがそういう演技をおこなっていて、腹の中では不満だらけで面白くない感情が渦巻いているにもかかわらず、表向きは従順に作業をこなしているように見せかけていると、何かその場が表面上はうまくいっているように見えてしまうわけで、それで本当にうまくいっていることになるのかというと、うまくいっていることとはそういうことである一方で、逆にうまくいっていないことが明らかになっていた方が良心的に見えてしまう場合もあって、そうなるともうそこでうまくいっているように演じる必要がなくなって、うまくいっていない状況の中で誰もが不満や面白くないことをさらけ出しながら作業をすることになるだろうし、そうならないとその場が収まらないようであれば、うまくいっていないにしても、何か真実が明らかになっているようにも思われて、かえってその方がまともな印象が伴ってくるわけで、そんな状況からわかることは、確かに計画が必要なことはその場で作業をおこなっている誰もがわかっていることだが、なぜ必要なのかというと、計画の問題点を指摘してそれを改善させながら計画を推し進めるためには、そのもととなる計画が必要になってくるわけで、逆に計画通りに事が進んでいるように見せかけるようなことをやってしまうと、問題点の指摘がおろそかになってしまい、計画以上の結果を達成できなくなってしまうわけで、そうなると常に計画以下の結果しかもたらされず、じり貧となって衰退する可能性が出てくるのだろうが、ではどうすればいいのかというと、計画の問題点を指摘して批判する人たちを集団が取り込む必要が出てきて、それも集団の目的に含まれて、実際に批判勢力をいかに取り込むかが、集団の維持継続には欠かせなくなってくるのだろうが、果たしてそんな難しいことまでやって集団を維持継続させる必要があるかというと、短絡的に考えるならそんな面倒なことはせずに、文句を言ってくる批判勢力を弾圧したくなってくるのだろうが、意識してそういうことに関して功利的に振る舞おうとするなら、あまり短絡的に物事を考えずに、もっと回りくどく複雑な手順をふみながら、何かややこしくもわかりにくいことをやってくるわけで、そういうことに関して短絡的に物事の白黒をはっきりさせようとすることも見せかけの演技だと疑う意識を育てていかないと、どうしてもその手の演技に引っかかって、短絡的に騒ぎ立てている側に与しているといつの間にかはしごを外されて、結局は部外者の立場に追いやられて、何もできなくされてしまうのかも知れず、それも特定の誰がそういうことを画策しているわけでもなく、集団内の力関係や勢力関係から自然とそうなってしまう成り行きが生じてきて、誰かがそういう役割分担を強いられてしまうわけで、そういうことに関してはあまり物事の筋道が明らかになることもないのかも知れない。


7月2日「語りたくないこと」

 話の内容からすれば、もとから何か目指すべき明確な理由があるから目指しているというよりは、そこに至る経緯やその場の成り行きからそれを目指すように仕向けられていると解釈できるだろうが、それが特定の何の話の内容からいえるようなことでもなく、様々なところで語られる様々な話の中にそういう経緯や成り行きがあり、それらの話の中でそれを目指すべき明確な理由が語られることも多々あるわけだが、それがどれもこれも似通った傾向の理由でもあり、そんな理由では収まりきらないようなもっと大きな原因がそれらの話が語られる背景としてあるような気にさせるわけで、それが何なのかといってもすぐにわかるようなことでもなく、それを全ての話に関係する共通の原因と見なしてしまうと大げさすぎるようにも思われるが、個々の話の内容もそれと直接関連があるわけでもないだろうし、またそれらの話にかかわっている誰もがそれを知っているわけでもなく、知っていたとしても全ての原因がそれだとは思われないだろうし、実際に原因でも何でもないのかも知れず、それよりはもっと切実な理由からそれを目指しているように語られて、それがそれを目指すことを正当化しているようにも思われるのだが、果たしてそれでいいのかというと、実際にそれを目指している誰もが話の途中のどこかで躓いて、それを目指すことを断念するわけでもないのだが、目指していることから逸れていってしまうわけで、それが結果的には目指している目標からはほど遠い様相を呈してしまうのだろうが、しかもそれがそうなった結果から見れば至極当然の事態であり、そうなって当たり前の結果がもたらされているのだろうが、そんな結果を目の当たりにして誰が満足しているわけでもなく、逆に多くの人にとっては避けたいような結果となっていて、なぜそうなってしまうのかといえば、ほとんどの人がそれを目指す当事者にはなれない現実があり、それを目指す者が選別される過程で多くが脱落してしまい、しかも目指す者として選別されて当事者になった者たちも、それとは別の何かを目指すように仕向けられて、結局はそれを目指す成り行きにはならず、では本当は何を目指すべきなのかというと、それを目指す当事者になった者にも目指す過程で選別から漏れて脱落してしまった者にも、それを目指すべき明確な理由があるからといって、その理由に導かれて目指している過程でおこなわれる努力が報われるわけではなく、目標や目的が目指している途中でそれとは別の何かへと変わってしまうから、それがそこへと至る経緯やその場の成り行きに従わされてそうなってしまうことにもなり、結果的にそうなってしまうから、それでは不満が残るとしても受け入れざるを得ない成り行きに従うなら、そんな結果を受け入れた者が、そういう成り行きに沿った成功者となるわけだが、たとえそうなることに成功したからといってそれが誰かによって語られる話の中でそうなっているにすぎず、現実の世界で特定の誰かが実際に成功するのとはわけが違い、それが現実の成功について語られているとしても、話の中で語られる成功と現実の成功との間にずれが生じていると捉えておくのが妥当なところだろうが、なぜずれてしまうのかといえば、話の中では語られないような要素が現実にはあり、それがそれを語る者が語ることを拒むような要素でもあり、それを語ってしまうと成功だとは言えなくなるようなことであれば、意図して語らないか、意図しなくても誰かの成功について語る目的から外れるようなことは語られないわけだが、しかもそれが成功を目指すという目的とも一致しないことであれば、それが語られてしまうと、別に成功を目指していたわけでもなかったことになってしまい、誰かが成功を目指すという話そのものが成り立たなくなってしまうから、それを語る者にとっては都合が悪いわけだが、それを語る者も当初はそんな話の内容を語ろうとしていたのではなかったのかも知れないし、語っているうちに誰かの成功を語る話へと内容が逸らされてしまった可能性もあるわけで、それだけが話の全てではないのだろうが、それを要約すれば誰かの成功を物語る話へと収斂してしまうような成り行きがあり、そういう成り行きに沿って話を進めていくと、最後には話の中で誰かの成功へと至ってしまうわけで、それが語りたくないことだとは思わないだろうが、結果的に語らされてしまうことでもあり、そうなることを避けようとして話が続かなくなってしまう事例も多々あるにしても、最後まで語り終えようとすると必ずそうなってしまうとしたら、そういう成り行きはできれば避けなければならないことかも知れないが、それができないからそうなってしまうのであり、そういう結果を受け入れることがそこでの成功を物語ることになるわけで、実際に成功すればそれで構わないと思うだろうが、そういう成り行きに沿って語ろうとする者のうちで、実際に語り終えた者の誰もが、自身の成功と引き替えにして本当に語るべき何かを逸しているのかも知れず、その何かというのが、それを突き止められない何かであり、そこへと至らない何かでもあるわけだが、話の中ではそれを突き止められないから、それとは別の秘密や謎が用意されたり、そこへ至らない代わりに話の中では別の到達点が用意されているのかも知れないが、それらの秘密や謎や到達点などが、全くそれと無関係というわけではなく、それを突き止められないなりにも感じ取っているから、あるいは話の中ではそこへと至ることができないとしても、感触としてはそれを視界に捉えているから、何かその代わりの物事を用意する必要を感じているわけで、だから秘密や謎があることをそれとなくほのめかしたり、何らかの到達地点へと話の中で活躍する登場人物たちを導いたりするのだろうが、秘密や謎を解き明かしたり到達地点へと至ることが成功を物語ってしまい、それが話を語り終えることの必須条件ともなってしまうから、そうなることに関して抵抗感が生じてきて、時として途中で語るのを断念せざるを得ない事態にも陥るわけで、できればそうはならないように話を持って行って、秘密や謎が解き明かされることを期待している人たちを裏切ったり、到達地点へと至らないうちに語り終えたい衝動に駆られるかも知れないが、中には自らの死を持って語り終えないことに成功した語り手もいるのだろうが、果たしてそれが成功といえるかというと、誰も成功だとは思わないばかりか、志半ばにして語り終えることを断念させられて気の毒に思われているのかも知れないし、その人に成り代わって他の誰かがその話を引き継いで、どうにかして話を終わらせようとする場合まであるかも知れず、そういう意味では何事も未完のままでは気が済まない人も大勢いるだろうし、それまでの経緯やその場の成り行きが話を終わらせようと仕向けてくるわけだが、それに逆らうことが果たしてその場で受け入れられるかとなると、その場では受け入れられないが、どうにかしてその場から脱出できれば、未完のままに終わることができる可能性も出てくるわけで、誰もそれを終わりだとは思わないだろうが、終わることを断念したというわけでもなく、終わらないように仕向けているとでも解釈できれば、その人にとってはそれが成功だと思うかも知れないが、それもその人の思惑通りとはならず、そんなことは思わないだろうし、逆に語っていることを語り終えたいと思うのがごく当たり前の感覚であり、そんな感覚に従いながら語っていればそれで構わないのだろうが、それで語り終えられるとは限らないということが、現実の世界では普通に起こっているのではないか。


7月1日「転び方の工夫」

 実際に何かに躓いて転んでしまえば、その転び方にも転んで打ちつけた箇所にもよるだろうが、怪我でもすれば痛い思いをしたと実感するだろうが、何の実感も伴わないような転び方などないとしても、痛い目に遭っているのに痛みを感じなければ、転んでいないのではないかと疑うわけでもないが、確かに転んでいて、転んで痛い思いをしたのに、それを認めたくないのであれば強がっているだけかも知れないが、大して痛くもないのに痛い思いをしたと必死にアピールすることもあるかも知れず、そのアピールが認められれば何らかの利益になると思えば、そんなことをやる人も出てくるかも知れないが、転んでいる途中からうまく対処しようとすれば、柔道などで習った受け身をとることになるだろうし、受け身をとることができれば痛みを緩和できて怪我も免れるかも知れないし、とっさの判断で機転を利かせることができたわけだろうが、その反面で痛い目に遭わずに痛みを実感できなかったわけでもあり、派手に転んだ割には物足りなさを覚えるかも知れないが、痛みを実感したくて転んだわけでもないのに、転んだ結果を基にして話を膨らませると、内容に虚構が含まれてくるとしても、虚実織り交ぜながら話の内容を面白くしたくなってくると、それで何か工夫を凝らしていることになるかも知れないが、そんなことをやっている頃には転んだ時の痛みなどすっかり忘れてしまって、忘れる程度の痛みしか体験できなかったのかも知れないが、それでも転んでしまった事実は覚えていて、そこから簡単には転ばないようにするための教訓を得たいわけでもないだろうが、その際に何かを感じ取ったから後からその時のことを思い出して、それに関して理解を深めたくなってくるわけで、理解を深めたところで転びそうになった時のとっさの判断に磨きがかかるわけでもないが、それとは別の方面から思考を促されて、転んだ時には知り得ないようなことを後から知ろうとするのだろうが、何を知りたいのかといえば転んでしまう原因を知りたいわけだが、転ばないようにするには転んでしまう原因を突き止めて、その原因を取り除けばもう二度と転ばないようになるかというとそうでもなく、その時の原因とは違う原因によって転んでしまうかも知れないし、転んでしまう原因など数限りなく無数にあって、様々な要因が複雑に絡み合って転んでしまう原因を形作っていれば、事前には対処できないのかも知れず、その時になってみないことには、何をどうすればいいのかがわからず、もちろんどうすればいいのかがわからないから、事前に対処できずに転んでしまうのだろうが、それが貴重な体験となるわけでもなければ、ありふれたことを体験しているわけで、そうやってありふれたことを日々体験し続けることが何を意味するわけでもなく、何かを体験してそれを後から思い出して、それについて改めて考えてみても、すでに起こってしまった事実は変わらないし、それを生かして何をやろうとするわけでもなくても、そこで考えていることがその後の何らかの思考や行動に結びつくかも知れず、それが意識して生かそうとすることとは違って、意識できないところで結びついてくるのかも知れず、そういうところでは目的や目標などとは違った次元で結びついてくるのかも知れないが、考えている最中にそれを知ろうとしているわけでもないだろうし、知らなくても構わないようなことかも知れないが、それを知りたいとか知りたくないとかいう思惑とは無関係に知ってしまったり知らないままとなったりするのかも知れず、それはあまり深く考えるようなことでもないのかも知れないが、それも意識できないところで考えていて、それが何かのきっかけから不意に頭に浮かんでくるようなことになれば、そこで意識が初めてそれを知ることになるのだろうが、そうなってから驚いても、ただそこで驚いただけで、それ以外に何がどうなったわけでもないが、思いがけずに驚くわけだから、その驚きを事前に調整できるわけでもないこともわかりきっているだろうが、これといってこれから起こるかも知れない何に対処したいわけでもないのに、起こったことに驚いてみることが、それへの対処となれば、ただの反応にすぎないことであっても、何かしら対処できたように思われるかも知れないし、驚くだけで済むなら、どうということはないわけだが、驚いたのと同時に何かをやっていれば、とっさの機転が利いたことにもなるかも知れないし、それが結果的にうまくいけばうまく対処できたことになるわけだが、その時にはうまくいってもいかなくても後からそれを振り返る余裕があれば、その時の対処が後から振り返る余裕をもたらしたことにもなるわけで、後から振り返る余裕がある限りで、その時はうまくいかなくても構わないわけでもないが、うまくいかないなりにもそれなりの対処ができたことにもなり、それを後から振り返ってもっとうまくできたはずだと悔やんでみても、そんな後悔がその後に活かせるか活かせないかも、実際にその時になってみないことには何とも言えないだろうし、その場の状況に意識がとらわれていると、その場の状況への対応で手一杯となって、それを後から振り返ってああすれば良かったこうすれば良かったと思うかも知れないが、それができなかったからその後の状況の中でそれを振り返っているわけで、何かそういうところで事後的に教訓の類いが安易に導き出されるとしても、実際にその時に至ってとっさの機転が利けば教訓が生かされるかも知れないが、それもその時の状況次第で機転が利く時も利かない時もあるだろうし、利かなければ後悔することになるだろうが、そこでも後悔する余裕があれば、それなりにその場を切り抜けて後悔しているわけだから、最善の対処ではなかったかも知れないが、それなりの対処ができたことにはなるだろうし、そこで思い描いている最善の対処ができたとしても、実際にそれをやったとしても結果がどうなるかはその場の状況次第な面もあり、結果からわかるような最善の対処ができるとは思わない方がいいかも知れないが、そうだとしても結果からそう思ってしまい、そこで後悔してしまうわけだが、後悔する余裕があることがその場ではそれなりの対処をしたことの証しとなるだろうし、後悔しているからといって、その場でうまく対処できなかったわけでもなく、そこでそれなりの対処ができたら、その後でも自身が存在し続けていることにもなり、後からその場での対応を悔やんで、それを教訓として次の機会が巡ってきたらもっとうまく対応しなければならないと思うかも知れないが、そう都合良く転ばぬ先の杖となるようなものに巡り会うこともなければ、相変わらず転んでから杖を用意する愚を避けられないわけで、それがありふれた教訓となり、必死になって役に立たない教訓ばかりをメモに書き留める人もあまりいないだろうが、そんなことを伝授したい人は世の中にいくらでもいて、他人にそれを教えたくてうずうずしている老人もいくらでもいるかも知れないが、そんな人に出会ったら、その人にも後悔することが山ほどあると見ておけばいいだろうし、そういう人がそこへと至った過程を知ることができれば、それと同じような道筋を通ってそこに至った人も他にいくらでもいることもわかってくるかも知れないし、自身の過ちを他人が繰り返さないように親切心から自身の体験談を語りたいのかも知れないが、それと共にそれが失敗談であると同時に自身の成功談の意味合いを持たせようとしているのかも知れないし、そういった失敗談や成功談が自慢話の域を出ないとしても、そこから今後のためになる教訓を導き出そうとすることよりは、人にそんなことを語らせようとする状況そのものに警戒しなければいけないのかも知れず、一般的に言って何かの記念講演のようなものは対象となる人の終わりを暗示させるわけで、その人が死んでしまったのか死が近づいていることを悟らなければならないのかも知れない。


6月30日「影響の度合い」

 何か特定の情報源をもとにして言説が構成されると、その情報源に依存した内容になってしまうことは否めないが、その内容の確かさに信頼を寄せていれば、その情報源から影響を受けてしまうことに関しては納得した上で利用しているはずで、影響を受けることによって何がもたらされるのかといえば、影響を受けた対象から何かが伝染してくるわけで、影響を受けているのが一つの対象ではなく、複数の対象から影響を受けていれば、それらから伝染してきた何かが言説の中で混合して、それらの組み合わせに応じて独特の内容をもたらすかも知れないが、たとえその人がそれらから影響を受けていることを自覚しているとしても、都合の良いような影響とはならないだろうし、その人が気づかないところでおかしな癖が身についてしまっているとしたら、何から影響を受けてそうなってしまったのかを知り得ないまま、自然の成り行きとしてそうなっているとしか言えないだろうが、他から見てもそれが何から影響を受けているのか判別できないようなら、その人なりに影響を受けた対象をものにしていることになるだろうが、そこまで達しないで明らかに何か特定の人物の模倣であることがわかるようなら、その人なりのオリジナリティがまだ生じていないことになるだろうし、そういった未消化のままに他の様々な模倣の寄せ集めのような様相を呈しているようなら、そこから何かまがい物感が漂ってきて、その程度で済ましている人の言説では信用に足るものとはならないかも知れないが、その程度しか知らない人なら信用してしまうだろうし、しかも知らないのはその人だけではなく、他の多くの人たちもその程度の模倣の寄せ集めしか知らないようなら、そういう人たちの間ではそれが通用してしまうわけで、そんな人たちが世の中でどんどん増殖している状態となっていれば、そういった模倣の寄せ集めのようなまがい物で満ちた世の中になってしまうわけだが、現状がそうなっていればそれで構わないような世の中になっているわけで、そういう人たちにとってはまさにうってつけの環境となっているわけだろうが、果たして現状がどうかというと、それもある面ではそうなっているのかも知れないし、別の面ではそうとも言い切れないような状況もあるのかも知れないが、それがどうだというわけでもなく、なるようにしかならない現状があり、取り立ててそれの何が悪くて何が批判されるべきでもないのだろうが、何か言説を使って伝えたいことがあれば、それが何の模倣であってもかまわないし、伝えたい内容が伝わればいいという姿勢で伝えるような成り行きになり、自己主張の類いとは違って、その人が何かを伝えるということが重要ではなく、誰が伝えているということよりは誰であってもかまわないから、何を伝えようとしているかが重要に思われることもあるだろうし、さらには何を伝えようとしているかよりも、何が伝わってくるかが重要に思われる時もあるだろうが、それもそう思っている人が勝手に思っているにすぎないことかも知れず、伝えようとしている人からすれば、他の誰かではなく、伝えてようとしている自分に注目してほしくて伝えようとしているのかも知れないが、他の人からすれば、誰でもかまわないから伝わってくる情報の内容に興味があるだけで、しかも大して興味があるわけでもないが、暇つぶしや気休めとしての情報を求めていて、それを活用して何をやるわけでもなければ、誰でもかまわないような誰かが大して価値もないような内容を伝えてきても、それで構わないことになってしまうのかも知れず、そうやってその場やその時をやり過ごしているだけで特に困らなければ、そんなどうでもいいような情報に満たされながら日々を送っていることになるわけだが、そうであればそんなたわいない情報から大して影響を受けているわけでもないと思うだろうが、それもその人が勝手にそう思っているにすぎず、その人が自覚できないところでそれ相応の影響を及ぼされている場合もあるわけで、本当は切実に受け止めなければならない情報がその中に含まれていたのに、他のどうでもいいような情報が雑音となって、その人にとって重要となるような情報を打ち消してしまい、どうでもいいような雑音に包まれながら、その人をどうでもいいような人間にしてしまっている状況もあるのかも知れず、そうやって他の誰にとってもどうでもいいような人間がたわいのない雑音の隆盛と共に世の中で増殖している可能性もあるわけだが、そういう状況を否定的に捉えれば確かにそうかも知れないが、捉え方によってはそうはならないのかも知れず、そこに肯定的な要素を見出すとすれば、統治するには御しやすい人間が多数派を占めていることにもなり、何かというと気に触って突っかかってくるような面倒な人よりは、他人がどうなろうと無関心でいられる人の方が、誰も大して関心を抱かないような情報によってその人の周囲を包み込んでしまえば、何に対しても無関心でいることが普通の状態だと感じられるだろうし、そこからさらに事態を進展させるには、直情的に反感を抱くような情報を与え続ければ、そういうことだけに関心が向くように仕向けられて、何か事件を起こして世間を騒がせて世間に迷惑をかけたと思われるような人を非難する論調へと誘導できるかも知れず、そういう人を攻撃することによって日頃の何でもないような些細な出来事の連続で退屈しきっていることの鬱憤を晴らせるだろうし、そうやって何に対しても無関心でいる状態から、条件反射のようにして特定の傾向の出来事だけに関心を抱くような状態へと誘導させることが、世論誘導の手法となるのだろうが、誰がそんなことを画策しているわけでもないだろうし、どんな団体がそれを陰で操っているわけでもなく、人知れず人から人へと影響を及ぼし合いながら、それと気づかないうちにそんな傾向が広範囲に感染を拡げてしまうのかも知れないが、そんな傾向に染まった人たちはメディアや行政機構にとっては御しやすいはずだが、メディアや行政機構自体がそういう傾向に染まっているから、それらの人たちと共鳴しやすいのかも知れず、メディアや行政機構がそれらの人たちを操っているというよりは、意気投合していると捉えておくべきかも知れないが、そういった共犯関係によって何がもたらされているのかといえば、何かというといちいち文句を言ってくる人たちを排除する成り行きとなり、そんな面倒な人たちを排除して無視することによって、これまで通りの慣習に基づいた秩序が実現しているはずだが、実際に実現しているのは絶えず秩序がかき乱されているにもかかわらず、何らかの秩序が成り立っているように装われているのだろうが、そこには相変わらず文句を言ってくる面倒な人たちも含まれていて、そういう人たちを排除して無視しているのに、そういう人たちがいないと成り立たないような秩序でもあり、そこで排除したり無視する行為がおこなわれている必要があり、それはそういう人たちがいないと成り立たない行為でもあり、むしろ秩序を守っているつもりの人たちの方がそういう排除したり無視する人たちを必要としていて、そういうことを絶えずおこなっていないとならないわけで、だから貴重な存在として面倒な人たちが扱われているわけだが、実際にどう扱われているかといえば、排除したり無視する対象として扱われているわけだから、それ自体が面倒な手順や手続きを伴うわけだが、しかもそれを自覚することなく、そういう人たちが反発したり反感を抱くようなことをやらないとならないわけだから、そういう人たちにとっては回りくどくて手が込んでいるように思われるかも知れないが、それも何気ない日頃の日常の行いの延長上で起こる自然な振る舞いから生じていることであれば、それをやっている当事者たちは特にそんなことを意識してやっているわけでもないのかも知れない。


6月29日「流行に惑わされる」

 世の中の流行に惑わされることが、人を誤った方向へと導いているのではなく、むしろ正しい方向へと導かれているような感触を得られると、流行に惑わされているというよりは、素直に従っていることになるかも知れないが、その流行現象というのが一過性ではなく、永続するような感覚をもたらしているから、それに従っていても大丈夫な気がするのかも知れないし、実際にどの程度長続きするかは、長く続いてからわかるようなことであり、実際に長続きすれば一過性の流行とは違うことになってしまうのだろうが、それも何が流行っているかでも受け止め方が違ってくるだろうし、疾病の類いが流行していれば一刻も早く過ぎ去ってほしいと思うはずだが、それが比喩的に疾病のように見なされる現象であれば、またそれとは受け止め方も違ってくるかも知れないし、ウイルスなどの病原菌が由来の感染症などとは違って、集団で発症する心の病といった症状になると、その集団と自身との間でどれほどの距離を意識できるかで、受け止め方も違ってくるのかも知れないし、距離が近いほどそれを心の病だなんて思わないはずで、むしろ自分たちの方が正常であり正気でもあり、自分たちに対して批判的な姿勢で臨んでくる人たちの方がおかしいような気がしてくるかも知れないが、流行するということが流行に敏感な人たちが集団で発症することでもあり、集団で同じような傾向になるということが、実際にそうなった人たちには病気でない限りは自分たちがおかしくなったとは思えないだろうし、それどころかそれが世の中でもてはやされていることであれば、むしろ好感を抱くはずで、果たして本当にもてはやされているかどうかというところで、一部の人たちの間では異常な盛り上がりを見せているとしても、そこから少し距離を置けば一気に熱気が冷めてしまって、意外と冷静になれるようなことなら、一部の熱狂的な信者の間でもてはやされているにすぎないことになってしまうわけだが、その渦中にいる人たちに客観的な判断を求めても無駄であることは大抵の人なら察しがつくだろうが、果たしてそれを集団的な心の病だと見なすのも、著しく偏向した意見のように感じられるなら、わざと否定的な印象を抱かせるために心の病という表現を使っていると受け取られてしまうだろうが、心の病とは見なさないで、好意的というほどでもないとしても、もっと中立的な表現を用いようとするなら、それを何と表現すればしっくりくるかというと、カルト的なムーブメントとは違った何かであり、それよりは全世界規模で広がっている共通認識から生まれた何かでもあり、それが一部の特殊な集団というよりは、もっと一般的で普通の人々の間に広がっている臆見や偏見の類いなのかも知れないし、現実の経済活動からもたらされる実感と結びついて、より強力に社会の隅々に至るまで作用していると捉えておけば、集団がかかる心の病などではないはずで、普通に誰もがそう思っていることでしかないだろうが、それが何なのかといっても一概にはいえないようなことかも知れず、しかも一過性の流行り廃りなどではなく、人類の文明の発祥や興隆に伴って生じてきた共通の幻想であれば、少なくとも数千年間は流行っていることになるはずだが、そんな大げさなことであれば、個人の力では到底太刀打ちできないことでもあり、それとの間で距離が近かろうと遠かろうと関係なく、それを好意的に受け止めても否定的に受け止めてもどうすることもできないように思われてしまうが、たぶん政治の方面から世の中を変えようとしている人たちが、それと気づかずに対峙している何かであり、それが個人の力ではどうすることもできない壁のようなものなのかも知れず、その壁に塗り込められている集団の怨念のようなものを払い落とそうとしているのかも知れないが、カビやシミのように壁に深く染みこんでいるから、表面を洗い流すような作業では消えないのだろうが、壁の表面ごと削り取るようなことをやると、かえって壁自体が脆くなって、崩壊する危険が高まり、そんな作業をやっている人たちにとっては、壁が崩壊してしまうとまずいわけで、その壁が何かというと、人類の文明を自然の脅威から守っている壁とでもいえばしっくりくるかも知れないが、意外とそれは自然の驚異などではなく、集団による破壊願望の類いかも知れないし、何か調和のとれた理性によって育まれた崇高な魂や精神を破壊したくてしょうがないような衝動でもあり、またそれはそこに壁があれば落書きして汚したくなる欲望でもあるだろうし、そうやって何とかして自分たちの低い物欲や性欲などの汚れた欲望の水準へと引き下げたいと思う作用によって壁を汚そうとするのを、どうやれば防ぐことができるかといっても、結局は欲望の方が勝ってしまって、壁をきれいに保とうとする人たちの方が敗れるしかないのだろうが、何かそういう水準でおこなわれているせめぎ合いが一過性の流行現象とは違うような気がするはずだが、たぶん壁をきれいなままに保とうとしても汚いままであっても壁自体がそこにあることには変わりないのに、壁がきれいに保たれていれば壁自体に好意的な印象を抱くというよりは、壁があることをあまり意識しないかも知れないが、逆に壁が落書きだらけで汚くなっていれば、その落書きの状態や印象にもよるが、壁をきれいに保とうとする人たちにとっては不快極まりないことであり、何とかして落書きを消し去って元の状態に復元しようとするのだろうが、そうであっても壁がそこにあることには変わりなく、壁自体はその場の流行に関係なく存在していて、壁の表面の模様が変化することを流行と捉えるなら、自然現象である風雨や直射日光を遮る機能として壁がある一方で、壁の模様が心地良いか不快であるかを巡って人々が争っていることが流行現象になるわけだが、果たしてそれを流行の次元で語ることができるかというと、中にはそうではないと思いたい人も出てくるだろうし、問題なのは壁の表面の模様ではなく、壁自体の機能を強化したり性能を改善すべきだと主張する人たちも出てきて、そういうことについて語っているつもりになっている人も少なからず出てくるだろうが、そういう人たちが問題視している機能の強化や性能の改善だと思っていることこそが、実は流行現象に含まれることでもあり、いかに効率的かつスマートに見せるかを巡って人や団体が競い合っていて、そのための機能の強化や性能の改善もファッションと連動して人々の欲望を煽り立て、そういうことに気を配っている人や団体が他の人や団体より優れているような印象を獲得したいから、そういう方面で競い合いがおこなわれている印象があるのかも知れないが、実際に効率的かつスマートに振る舞えて、それが経済的な利益にも結びつけば、そういう状態へと持って行くことが良い印象を伴い、そんな良い印象を獲得するために競い合うのが良いことだという共通認識が世界中に広まっていて、そうなっている限りでそれは一過性の流行現象などではなく、人類共通の普遍的な価値観でもあり、文明のあるべき姿でもあるのかも知れないが、そうはならない実態も一方にはあって、他人がかっこ良く振る舞っているのが我慢がならない人も世の中にはいくらでもいて、そういう人たちが一致団結している様子が、何か病的な振る舞いのようにも見えてしまうわけだが、それを病的な振る舞いだと否定的に捉えてしまうと、それなりにそういう方面から反発や反感が生じてくるわけで、そういう反発や反感の形態にも、その場の時代状況に合わせてそれなりの流行り廃りが伴ってくるのかも知れない。


6月28日「きっかけと巡り合わせ」

 きっかけがないということは、相変わらずな状況のただ中にいて、その場の成り行きに従うしかなければ、そこから外れるきっかけがないということになるが、そこから外れる必要もないのに外れたいと思えば、そこにいること自体が退屈なのであり、退屈だと思うこと自体がそこから外れるきっかけでもあり、すでにそこから外れる準備が整っていることを退屈だと思うことが知らせているのかも知れず、そんな兆候を見逃さなければ、退屈だと思ったことをきっかけにして、そこから外れることができるかも知れないが、そんなふうに何かしらきっかけが巡ってきたのに、それに気づかない場合もあり、その必要がなければ気づかなくても構わないのかも知れないし、無理に気づく必要もないのかも知れないが、気づいた人はその機会を捉えて何かしら行動を起こすかも知れないし、行動を起こした結果がうまくいけば、そこから外れることもできるかも知れないが、外れる必要もないのに、外れたくもないのに、外れてしまうこともあるだろうが、それがそこから外れるきっかけではない場合もあり、それとは違う別のきっかけであり、それがその場の状況を変えるきっかけかも知れないが、それに気づかない鈍感な人たちがその場の主導権を握っていれば、状況を変えるきっかけがないように思われるかも知れないが、なぜかきっかけがないのに変わってしまう場合もあるだろうし、きっかけなどあってもなくても構わないような成り行きで、その場の状況が変わってしまうようなら、誰もその兆候に気づいていなかったのかも知れないが、逆に誰も気づかないことが、その場が変わる条件かも知れないし、その場を成り立たせている条件というのが、その場を変えようとする意志を誰もが感じ取っていて、そういう意志に逆らって成り立つようなことであるかも知れないが、どちらにしても成り行き次第でどうにかなってしまうなら、きっかけなどあってもなくても、簡単に変わってしまうような状況なのかも知れないが、中にはその変わり方が気に入らない人もいて、その人の思い通りに変わってくれないと困るようなら、状況の変化に抵抗するしかないだろうが、そんな抵抗勢力の存在もその場が変化する要因の一つであれば、抵抗勢力が抵抗し続けているのに変わってしまうような状況なのかも知れず、現状でもそんな状況の変化に直面しているのかも知れないが、案外誰もがそれに気づいていながら、無駄な抵抗を繰り返す成り行きになっていて、抵抗が無駄であるから変化するわけだが、抵抗する人たちは無駄ではないと思っていないと抵抗できないだろうし、抵抗が無駄ではないと思わせる何かがそこに介在していて、しかもそれが状況を変化させる要因でもあり、抵抗が無駄ではないと思わせながら無駄な抵抗をするように促しているのが、そこに至るまでの経緯が構成する物事の連続性でもあるわけで、それがそれまでの成り行きの延長上に未来があると思わせるから、そんな未来を思い描きながら、そういう成り行きの連続性から外れるような兆候には抵抗せざるを得ないわけだが、それが無駄な抵抗だとは思わないだろうし、事の経緯として過去から現在を通って未来に至る連続的な成り行きになることが安心感をもたらして、そういう成り行きに従っている限りで不連続な変化に抵抗することになるが、その所々で不連続をもたらすような切断がこれまでにも無数にあり、成り行きの連続性ばかりに目が行っていると、そこで連続的な成り行きが途切れていることを認めがたいだろうが、それが現状でも起こりつつあるのかも知れず、実際にこれまでの常識が覆りつつあるとすれば、それが起こっていることを示しているわけだが、それに対して無駄な抵抗を繰り返している人たちはそうは思っていないだろうし、自分たちのおこなっていることが最後の悪あがきだとは夢にも思っていないはずだが、実際にもそれが最後ではなく、まだこれからも様々な悪あがきが繰り返された末に、そういった悪あがきが無駄であったことが、最後の最後で明らかになるかも知れないが、いつまでも悪あがきが執拗に繰り返されていればいるだけ、それが悪あがきだとは思えないし、抵抗が有効なのではないかと思ってしまうだろうが、そう思ってしまう人が多ければ多いほど、変化が劇的に起こるのかも知れず、徐々にではなく劇的に変化が起こるほど、悪あがきをやっている犠牲者の数もそれだけ増えるだろうが、果たして現状で悪あがきの犠牲者を増やすようなことがおこなわれているかというと、実際に悪あがきだとは思っていないのだから、それに気づかないのも当然だろうし、そうなってからでないとわからなければ、現状ではそんなことはわかりようがないわけで、そういう意味では自分たちのやっていることが悪あがきであるかないかなど全く考慮されることもなく、誰もがそれまでの経緯の延長上で活動しているわけで、だからそこから外れる必要もないのに外れたいとは思わないし、外れるきっかけがなくても困らないだろうし、外れるきっかけが巡ってきているのに、それをスルーすることの方が現状に沿っているようにも思われるかも知れないが、それが現状で明らかになりつつあることとは違う可能性もあるわけで、現状で流行っている変化の兆しとは違う方面から変化の波が押し寄せていても、流行っている方面に気を取られていればそれに気づけないのかも知れず、そんな二段構えで変化が迫っているとは予想だにしないことであり、しかもそれが二段構えではなく、さらに多くの多段構えとなっている可能性もあれば、何が真の変化なのかわからなくなってしまいそうだが、そのような多方面からの変化の全てが変化の全貌であり、変化のある一面だけに気を取られていても、全ての変化に対応できるはずもなく、結局は対応できない方面では出遅れてしまうのだろうが、誰もが全ての変化に対応できるわけでもないだろうし、誰もが何かしら変化に対応できずに苦労するはずだが、そんな様々な方面から押し寄せる変化の波に乗ろうとすることが、変化に抵抗して悪あがきを繰り返すことだと受け取られている可能性もあり、果たして現状でおこなわれていることがどちらなのかを見極められるわけでもなく、それらが混同されてごっちゃになっている可能性もあれば、それも実際に何らかの変化が起こっていることを誰もが実感できれば明らかになるかも知れないが、現状で起こっている変化の中で、やっていることがうまくいかずに衰退したり、やめるような人や団体が出てくれば、そんな人や団体がやっていたことが悪あがきであったのかも知れないが、当初はそうなる可能性が高かったものの、やっていく過程でうまく軌道修正ができれば、そうはならない結果がもたらされるかも知れないし、そういう意味では現状でうまくいかないようなことをやっていても、途中から軌道修正してうまくいくようになる可能性もあるだろうし、軌道修正をするきっかけをうまく捉えることができればいいのだろうが、それもその場の運不運の巡り合わせにも左右されるだろうし、ただ闇雲に努力しているだけでは努力している方向を間違えている可能性もあり、うまく方向を間違えないようにするといっても、それもそういう方面で勘が働くか否かにも左右されるところかも知れず、結果的に誰かがうまくいって別の誰かがうまくいかないこともあるだろうし、そのうまくいっている割合も高かったり低かったりすれば、うまくいっている人や団体の中でも差が出てくるはずだが、そういうところでうまくいくコツがあったりなかったりするとしても、そのコツを伝授すると持ちかけてくる人や団体が実際にうまくいっているかといえば、そうともいえなければ、そういう人や団体だけがうまくいっているともいえないわけで、そこでも何かしらうまくいっていない面があれば、そういう方面では絶えず軌道修正が迫られているのかも知れない。


6月27日「目を覚まさない人々」

 社会という概念に何らかの実態が伴っていることは誰もが実感しているかも知れないが、誰もが社会に対して何か一方的な幻想を抱いているわけでもないだろうが、大抵はメディアを通じてそれがもたらされて、その際には言葉によって幻想が語られることもあるが、中にはそれが幻想ではなく現実を物語っているつもりの人もいるかも知れないし、誰もが自らの幻想を実現するのが目的だと思っているわけでもないだろうが、実際に夢を実現している面もあるだろうし、それが建物や機械の類いとして物質的に実現していたり、また映像として画面上で実現していたりもして、そうやって思い描いている物事が実体化されると、それが幻想ではなくなって、夢が実現したと思うだろうが、実際にも何かがそこで実現しているのであり、逆にそこから幻想を抱くこともあるわけだが、幻想とは何かといえば、意識の中で思い描いていることであり、それが物質として実体化すれば幻想ではなくなったと思うだろうが、夢の続きが現実の世界で実体化しているわけだから、別に夢と現実を混同しているわけではなく、夢と現実が地続きでつながっていることになるのだろうが、夢が実体化していることが幻想をより強固にして、夢から覚まさせないようにしているといっても、それが実体化している時点で夢ではなくなっているわけだから、目を覚まさなくても構わないどころか、現実の世界で目を覚ましていて、眠っているわけではなく、実際に活動しているわけだろうが、それと夢から覚めない状態が同時に成り立っている可能性もあり、幻想を抱きながら幻想を追い求めることがその人の活動となっていれば、目を覚ましている状態と夢から覚めていない状態が両立しているといえるだろうが、夢から覚める必要があるのかというと、そういうわけでもなく、それで活動が成り立っていれば構わないわけだろうが、そこからどうなれば夢から覚めることができるのかというと、夢を実現できないことを悟れば、そこで夢から覚めるのだろうが、普通に考えて、できれば夢から覚めたくないわけで、ではどうすれば夢から覚めずに済むかとなると、いつも実現できそうなことを思い描いていればいいだろうし、自らの能力とその場の状況や条件に照らし合わせて、実現できそうな夢を追い続けていれば、夢から覚めずに済むだろうし、そうやって実際に夢が実現していれば、それを続けていれば、夢が実現し続けていることになるだろうし、それが活動の実態となっていれば、目を覚ましながら夢を追い続けていることになり、目を覚ましているのだから、夢から覚める必要もないわけだが、まさかそれが目を覚まさないことだとは思えないだろうし、実際に目を覚ましているはずだが、ではそこでどんな幻想を抱いているのかといえば、実現できそうなことを実現することが夢を実現することだと幻想しているわけで、しかもそれが夢であると同時に、実際に実現できることでもあり、その大半が幻想を抱くまでもなく、努力して実現しようとしていることでしかなく、それを大した夢ではないと悟ってしまうと幻滅してしまうかも知れないが、そういう夢を見させられている実態があるのかも知れず、すでにそうなっている時点で目を覚ます機会が失われているのかも知れないが、人々の夢を実現可能な範囲内へと誘導するのが社会からもたらされる作用だと捉えるなら、誰が誘導しているわけではなくても、社会の中で実際に実現している光景を誰もが日々目撃していて、そこから自分でもできるのではないかと思うのも無理はなく、そうやって社会の中で暮らしていると、実現できそうなことを実現しようとする作用が働いてきて、それが夢から覚めないように働いている作用でもあり、大半の人が実現できそうなことを実現させるために努力している中で、ごく一部の人たちがそこから目を覚まして、現状では実現不可能なことを夢見て、それが誇大妄想のままにとどまるのかも知れないが、何がその手の誇大妄想をもたらしているのかといえば、意外とそれが理性であり、そこから求められる数学的な理論や法則でもあり、またそれが人文学的な哲学の類いなのかも知れないが、現状では実現不可能かも知れないが、実際に物理学などの理論から推測すれば実現可能であるのが、例えば核融合などの夢の科学技術となるだろうし、また世界各地で地域的な紛争が頻発しているのに、恒久平和の実現など不可能に思われるとしても、哲学的な理念としてその実現を目指す人も出てくるだろうし、さらに資本主義経済が世界を覆っている現状では貧困の撲滅など不可能に感じられるとしても、政治の領域において貧困問題の解決を目指す人や勢力が選挙の度に立候補してくる現状もあるだろうし、そういう現状では実現できそうもないことを実現しようとする情熱の方が厄介であり、そこから目を覚まして、現状で実現できそうなことを実現するために努力すべきだと、誰が夢の変更を迫ってくるわけでもないはずだが、実際には誰ともなくそれを誇大妄想だと決めつけて攻撃を仕掛けくるのが社会的な傾向なのかも知れず、例えば表現や思想信条の自由を求めて社会的にタブー視されるようなことについて問題提起すると、どこからともなくそれをやめるように脅迫がもたらされて、それを起因として諍いの類いが起こるわけだが、そこでも誰が決めたわけでもないのに、実現可能なことと実現不可能なことが区別されていて、慣習的に実現不可能だと決めつけられたことを理性に照らし合わせて実現しようとすれば、社会的な圧力がかかって、その実現を阻止するような作用が働くわけで、そういう場合は脅迫などの圧力をかけている側が目を覚ましていないことになるかというと、その場の立場によっては、バカなことはやめるようにと圧力をかけている方が、目を覚ませと促していることになるのだろうが、それが例えば地動説を支持したガリレオを裁判にかけて脅迫した側の立場とも一致する面もあるだろうし、どちらが目を覚ますべきなのかは、その場では判断が難しいかも知れないが、現状でも例えば夫婦別姓を容認するかどうかで、それを容認しない最高裁判所の裁判官に対して、目を覚ませと批判することも可能なだけに、目を覚ませと促しても頑なに目を覚まそうとしない場合もあり、それが思想信条の自由といったレベルでは解決できないようなことかも知れないが、自らが実現しようとすることと自らが守っていることとの間に違いが出てくる限りで、どちらを優先させるにしても変化を促されていると理解しておけばいいのだろうが、逆にそれらを頑なに一致させようとすれば保守的で無難な姿勢に思われてくるわけだから、変化を促されていると実感できても、それが自らにとって都合の良いような変化とはならず、痛みや嫌悪感を伴うような変化である限りで抵抗感が伴ってきて、拒否するしかなくなってしまうのだろうが、頑なに拒否しても周囲の状況が自らに不利に働いて時代の変化から取り残されるようなことになれば、自らの存在や立場や姿勢が時代の変化と共に消滅する運命なのだと実感するしかないだろうし、それを悟ることが夢から覚めることだとは認めたくないだろうが、目が覚めていれば冷静に受け止められるかも知れず、逆に周囲に向かって目を覚ませと呼びかけるようなことをしていれば、その人だけが周囲から孤立していることにもなり、その場で多数決を取れば、どちらが目を覚ましていないかは一目瞭然かも知れないが、それでも地球は回っているとガリレオが言ったかどうかは定かでないが、それとこれとは別々のケースだと解釈すればどちらともいえなくなってしまうかも知れないし、どちらであってもなくても構わない場合もありそうだが、案外目を覚ますか覚まさないかは特に重要ではない場合もありそうで、それが重要だとは思えなければ、目を覚まさずに各人が思い思いの夢を見ていることを認めた方がいいかも知れないし、それが各人の思想信条の自由に結びつくかも知れないが、他人と同じ夢を見ていないと気が済まない人にとってはそうでもないわけだ。


6月26日「言葉の先行」

 それに関して堂々巡りという形容が当てはまるかどうかは何とも言えないが、何かをおかしいと思うことが何かによっておかしいと思わされていることでもあり、何がそう思わせているとも思われなくても、おかしいと思うからそれを何とかしなければならないと思えば、それが何とかできそうなことであれば何とかしようとするかも知れないが、何かをおかしいと思えば、おかしくはない状態を思い浮かべて、それがそうであるべき理想の状態だと思うかも知れないが、そう思ってしまうことがそもそもおかしいのかも知れず、おかしいと思われる状態の方がそうなって当然の状態であり、逆におかしいとは思われないような理想状態の方があり得ない状態であれば、現状ではあり得ない状態にしなければならないと思っているわけではなくても、少なくとも現状を変えなければならないと思っているはずだが、言葉を使って理路整然と筋道立てて現状を変えなければならないと思うことと、実際に現状を変えようとする行為が一致しないのはわかりきったことかも知れないが、言葉を使って現状を変えなければならないと思っている時点では、現状を変えようとする思いと行為と一致させようとしているわけで、そこに誤算や勘違いが生じているとしても、それは現状を変えようとする行為をおこなった結果からわかることだから、現状を変えようと思っている時点ではわからなくても当然であり、何も結果が出ていないうちからそれをとやかく言ってみても始まらないのもわかりきったことかも知れないが、それでも言葉を使ってとやかく言うことが先行してしまい、まだやるに至らないうちからとやかく言って、やろうとすることを断念させてしまうようではまずいのかも知れないが、まずいといっても言葉が先行してしまう状況があるわけで、それがおかしな状態でもあり、そんな状態を何とかしなければならないと思うことも、言葉を使ってそう思うわけだから、そこでも言葉が先行してしまうわけだが、言葉を使って現状を変えなければならないと主張すれば、そんなふうに言葉が先行するのは当然であり、それをおかしいとは思わずに、当然のことだと思うわけだから、すでに実際にやろうとすることに先行しておかしな状態になってしまっているわけだが、誰もそれがおかしいとは思わないから、まだその時点では誤算や勘違いが生じているとも思えないし、主張は言わせておくしかなく、実際に主張通りのことをやろうとする段階に至るまでは、特にそういう主張を批判する必要はなく、やりもしないうちから批判すれば言葉が先行してしまうから、そういう批判も空回りするしかないわけだが、実際には批判されてしまうだろうし、そうやっておかしな状態がもたらされて、言葉だけが先行して実践が後回しになってしまうとしても、そういう状態を何とかして変えなければならないと思ってしまうと、やはりそう思うだけでも言葉が先行してしまうわけだが、それを避けるには何かがおこなわれた結果を評価するしかなく、結果が悪ければ批判して、結果が良ければ評価することになるだろうが、批判すれば良い結果をもたらすにはこうしなければならないと主張することになって、そこから言葉が先行してしまうわけで、そういう意味では言葉の先行は避けられず、おかしな状態になるのもやむを得ないことかも知れないが、その場にかかわっている各人がおかしな状態となっていることを自覚できれば、それ以上言葉を先行させることを躊躇するかも知れないし、ある程度議論が煮詰まってくれば、実際に何かをやってみてから判断することになれば、いったんは言葉の先行がそこで止まるかも知れないし、そういうところで必要以上に言葉を浪費してしまうと、いつまで経っても実践する機会がやってこないというおかしな状態になってしまい、逆にそういう成り行きを利用して現状を批判して現状を変えようとする勢力を潰すには、言葉を先行させていつまで経っても批判させる役をあてがって、批判することに終始させておけばいいわけだから、実際に何十年も現状の批判に専念してきた人たちがじり貧に陥っていることも周知の事実であり、そうならないように前途有望な人たちを良い方向に導かなければならないと思う人もあまりいないだろうが、そういう現状も踏まえれば批判のための批判を控えなければならないかも知れないが、そんな現状の批判に特化してしまった人たちがメディア上である程度はもてはやされるのも当然であり、それをおかしな状態だと思ってしまうと、現状の実態を見誤ってしまうわけで、そうなるのが当然の状態を変えようとして変えられるわけでもなく、結果的にそうなっているのだから、そうなるのが自然の成り行きであり、それについてとやかく言う必要もなく、批判に特化してしまった人たちを馬鹿にするようなことは避けるべきだろうが、ではそれ以外にやるべきことがあるかというと、特にそんなことはなく、やるべきことがあるということよりは、やる必要を感じられないようなことをやっている可能性があるということかも知れないし、必要もないのにそれをやるべきことだと思い違いをしている場合もあるかも知れず、そういう意味でやるべきことが現状を批判することになってしまうと、実際にそれを切実にやるべきことだと感じられてしまうわけだから、それをやる以外にはなく、やるべきことをやっているという実感を得るには現状を批判するしかないわけだが、逆にそうであれば大して必要とも思われないことをやって後ろめたいような感覚にとらわれても構わないのかも知れず、実際に後ろめたい思いにとらわれながらもやっていることがあれば、それが現状でやるべきことだとは思われないにしても、そうなっている限りで自らの思いが裏切られていて、そんな自らの思いを裏切るようなことをやっている現状があれば、それがその場の成り行きに従ってやっていることになるのかも知れないが、それと同時に後ろめたい思いにとらわれていれば、それをやっている当人にはそうは思われないから、当人にはやるべきことだとは思われないとしても、それにもかかわらずそれをやっている実態があれば、その人がとらわれている状況の中では否応なくそうなっているわけで、当人はやるべきことをやっているわけではないと思うかも知れないが、それをやっている実態がその場の状況を構成していている限りで、当人にはそうは思われなくてもそれがその場でやるべきことになっている可能性があるわけだが、それとは逆に当人には現状を批判することがその場でやるべきことだと思われても、実際に批判しても何の反応もなければ、それがその場でやるべきことではないのかも知れないし、何らかの反応があってそれなりに共感を得られたとしても、それだけでやるべきことをやったとはいえないのかも知れないし、ではどうすればいいかといってみたところで、誰が正解を教えてくれるわけでもなく、誰が正解を知っているわけでもないところがとりとめのないところかも知れないが、それとは違って特にやるべきことだとも思われないことをやっていれば、やるべきことは何かという問い自体が意味をなさないだろうし、実際にそんなことをやる必要も感じられないようなことをやっている実態があれば、しかもそれが特におかしいとも思われなければ、疑念を抱かないようなことをやっているわけだから、その場の成り行きに沿ったことをやっている可能性があるだろうし、それをやるに際して何の抵抗も感じられないということもないかも知れないが、実際にそれをやっている実態があればそれなりのリアリティーも伴っていて、それをやる必然性があるように思われるなら、それなりに幻想を抱きながらやっていることになるのではないか。


6月25日「売買と貸借」

 経済活動において何がおこなわれているかというと、物や情報やサービスの売買と貸し借りがおこなわれていて、売買や貸し借りの対象となる物事を用意する必要があるわけだが、それを人工的に生産したり、自然の中から資源として採掘してきたり、動植物を採取してきて、採掘してきた資源や採取してきた材料を加工して生産するわけだが、生産物を部品として使ってより高度で複雑な機械の類いを生産することもあるが、生産された物事は流通して消費されることになり、流通過程で売買された物事はその際に金銭と交換して手に入れた所有者が消費することになるが、貸し借りされた物事も借りた人や団体によって消費されるが、所有権が移ることはなく、借りた物事は期限が来れば返さなければならないが、その際には事後には利子が、事前には賃料が貸した側に金銭で支払われることになり、どの程度の金額を払うかを貸す側と借りる側とで交渉して、事前に決めるわけだが、売買する際にもどの程度の金額を払うかを売る側と買う側とで交渉して決めることになるが、いったん決めたことを守らないと契約に違反したことになり、処罰や賠償の対象となるわけだが、誰が決めたことを守らせるのかといえばその地域を統治している政府が守らせることになるわけで、実際に違反者を取り締まって処罰することになるわけだが、そういう意味で経済活動が円滑に回って行くには経済活動がおこなわれている地域を統治する行政府が必要となり、行政府が成り立つには行政府を維持するための資金や施設や設備や人員が必要となってきて、それだけコストがかかるわけで、そのコストを徴税によって賄い、また経済活動にとって必要不可欠な通貨を中央銀行が発行するとしても、実質的には中央銀行も行政府に含まれるから、そういうところでも行政府と経済活動には密接な関わり合いがあるわけだが、行政府だけで全ての経済活動を統治できるかというとそうでもなく、暗号通貨のように新種の通貨が民間で流通することもあるし、それを通貨発行権が侵害されたと見て行政府が取り締まることもできるが、特に取り締まらない場合もあるだろうし、政府の与り知らないところで経済活動がおこなわれていても、その全てを把握するには膨大なコストがかかるなら、部分的な把握にとどまるだろうが、売買や貸借の際に決められた取り決めを守らないということも、そう度々起こるわけでもなく、度々起こしてしまうとそういう人や団体は信用を失ってしまうから、他の人や団体から相手にされなくなって、売買や貸借をおこなえなくなって、経済活動そのものができなくなってしまうから、行政府が介入してくる以前にそうなれば、取り締まったり処罰されるまでもないことになるだろうし、そういうところで何から何まで全てが行政府の統治に委ねられるわけでもなく、ごく一部の詐欺や盗みなどが発覚した場合に限って取り締まりや処罰などの統治に乗り出してくるわけで、そういう意味では統治することと支配することには違いがあり、それとは別の面でも、例えば行き過ぎた売買や貸借の横行が負債の増大を招いて、通貨自体の信用を失わせることもあり、そういう面では完全には経済活動を制御も支配もできないことを示していて、絶えず市場の動向を見極めながら通貨の供給や利上げや利下げを適切におこなっていくことが、中央銀行を介した行政府による経済運営には求められているのだろうが、なぜそうなってしまうのかといえば、例えば売買によってできるだけ多くの利益を得ようとすれば、普通に考えて安く買って高く売るか、あるいは高く売って安く買うかの二種類のやり方があるとしても、どちらも実質的には同じことかも知れないが、そういうことをやるために、ものの価格を不当に安く抑えたり不当に高くつり上げると、不当にそうすることの程度がどこまで許容されるかにもよるだろうが、逆に妥当な価格というのが、ほとんど利益が出ない価格に近づくという矛盾も起こるわけで、また貸借についても不当に利子や賃料を上げればそれだけ多くの利益を得られるだろうが、それもどこまでが妥当でどこから不当であるかに関して、その基準が法律で示されることになるかも知れないが、たとえ合法的に利益を得ても、一部の人や団体が世の中の利益を独占するようなことになってしまうと、それによって富が一極集中して、利益に与れなかった大多数の不満が爆発するようなことにでもなれば、行政府による統治が危機に直面してしまうだろうし、結局はいかにして妥当性を装いながら経済活動を成り立たせるかが、微妙なさじ加減を伴ってくるだろうが、行政府だけでそれを決めることができるかというと、やはりそれも市場の動向や世の中の状況を見極めながら、最低賃金や補助金の種類や額や税の種類や税率などを決めることになるのだろうが、それによって人や団体の間の富の偏りや一極集中を避けられるかとなると、それも避けられるか否かというよりは、どの程度なら許容できるかとなってくるだろうし、実際に富の偏りや一極集中が起こっていると見ても構わないような世の中の状況でもあるわけで、結果的にそういう状況をもたらすために経済活動がおこなわれていると見ても構わない面もあり、まともに売買や貸借をおこなえばそうなってしまうことを理解しないと、それでも合法的な売買や貸借は正当化されるにしても、そこにもたらされている両義的な結果を見落としてしまうわけで、結局は互いに相容れない矛盾した策を講じないと駄目だということが、うまく論理的には説明できないわけだが、説明できないとしても納得もいかないとしても、不満を抱いている各方面から批判を浴びながらもやっていかなければならず、逆に論理的にうまく説明できるようなことをやろうとすると、なぜかおかしくなってきてしまうだろうし、そのもととなっている売買や貸借が社会の不安定要因となる富の不均衡をもたらして、しかも経済活動を活発化させるにはそれを推進していかなければならないわけだから、やっていることが論理的に矛盾していることを理解する必要があるとしても、どうしてもやっていることに説得力を持たせるには論理的に辻褄の合う説明をしなければならないだろうし、結局は嘘も方便でごまかすような成り行きになってしまうのかも知れないが、嘘を隠しきれなくなって潔く身を退くわけにもいかなければ、不正行為や違法行為などを繰り返すしかないかも知れないし、比較的長期間にわたってその種の権限や権力を伴うような地位や立場に就いていると、否応なくそうなってしまうかも知れないから、定期的に人員の入れ替えをおこなわなければならないだろうが、それを誰がやるのかといえば、民主的な選挙制度が確立されているなら、少なくともそれを利用しておこなわなければならないわけで、果たしてそういうところまで考慮に入れている人がどれほどいるかというと、そうした制度を利用しておこなわれたことの結果を見ればわかるといっても、わかっていない人もいくらでもいて、それがわかったところで他の多くの人がわかっていなければどうにもならないわけで、世の中で誰がそういうことをやれる立場にあるのかといえば、選挙で投票する人たちがそういうことをやれる立場にあるのだろうが、それを実際にやれることになるのかといっても、直接にはそういうことにはならないだろうし、そういう意味ではそんなことまで理解する必要もなく、そういうことに関しては物事をあまり深く考えなくても構わないわけで、その場の状況や成り行きに従っていれば自然にそうなってしまうのかも知れず、それが実際にどうなってしまうのかといえば、そうなった結果から各々で判断するしかないし、考えるのが面倒なら何も判断しなくても構わないのかも知れない。


6月24日「矛盾と必然」

 何かが起こってから、それが起こるのが当然のことのように思われると、そこに至るまでの経過の辻褄が合っているようにも思われるかも知れないが、例えば伝統工芸のように技術の習得に何十年もかかるようなやり方で時間をかけて丁寧に作り上げた生産物は、それだけコストもかかって価値が高くなるのが当然のことのように思われる一方で、機械を使って大量生産された生産物は、コストもかからず価値が低くなるのも当然のことのように思われるが、そこに至るまでの過程において、大量生産が可能な生産システムやそれを実現するために必要な機械の製作にはそれなりに大きなコストがかかっていて、そのための工場の建設にも莫大な資金と手間暇がかかるのも当然のことのように思われるだろうが、莫大な資金をどうやって調達するかとなると、金融機関から借りたり、政府などの行政が用意することもあるだろうが、資金を借りるにはそれなりの担保や信用が必要となるだろうし、すでにそれなりの実績がある大企業でないとできないだろうが、もとから大企業があったわけではなく、国や地域の経済がそれなりに発展しないと大企業も生まれてこないだろうし、それ以前に伝統工芸の方も、その国や地域の文化や経済が発展しないと生まれてこないわけだが、そのレベルというのが産業革命以前の手工業の段階であり、そういう段階では現代では伝統工芸と呼ばれる産業も時代の最先端を行っていたのだろうが、それが現代でも生き残っているわけだから、現代のハイテク産業との間でもそれなりに棲み分けができているといえるだろうし、ハイテク産業だけで国や地域の経済が成り立っているわけではなく、様々な産業が共存している現状があるわけだが、伝統工芸の類いから生み出される比較的価値が高い生産物を誰が買うかというと、一般的には奢侈品に分類されるだろうから、富裕層が買うことになるだろうし、富裕層が伝統工芸を支えていることになれば、富裕層がどうやって形成されたかとなると、やはり産業の発展によって形成されたわけで、大企業も富裕層も産業の発展から生じてくるわけだが、一方で伝統工芸といっても産業として成り立たないような価値の低いものもあるだろうし、売り物ではなく実用品として使っているものであれば、ただ作られて使われているものでしかないわけで、作られるものが商品とはならず、商品にならなければ一般に広く流通することもないわけだが、それを民芸として価値を高めようとする骨董品の収集家のような人もいるかも知れないが、そういった方面である程度の需要がある限りで、そういう活動が成り立つ余地が生まれてくる一方で、現代を代表するようなハイテク産業に関しても、そこから生み出される生産物が、それ単体としてではなく機械の部品として使われる傾向もあるだろうし、人の生活の隅々にまで行き渡っていても、それだけでは成り立たないような性質のものであったりするから、それがなくてはならないものであるが、それだけでどうなるものでもなく、代替の利くものであるが、それがないと機械が動作しないようなものであれば、その機械を使うならそれがないと困るわけで、そんな条件付けられた生産物を活用しているわけだから、条件を満たさないと使われないものでもあり、使われる条件を満たすように世の中を変えようとするというよりは、世の中の傾向がそれを活用するとうまくいくようになってきたといえるだろうし、それは現代では伝統工芸に分類されるようなものにもいえるわけで、その工芸品を使うとうまくいくような状況がもたらされていたから、それが作られて実際に世の中で幅広く使われていた当時の地域的な状況があったのだろうが、何か特定の産業製品を世の中に普及させるには、それが使われやすいように世の中の状況を変えようとする試みがあるかも知れないが、その一方で世の中の状況に合ったものを人が使う傾向もあるだろうし、それを普及させようとする試みだけで世の中が変わるとは思えないが、実際に普及させようとしている人や団体の側に与するなら、普及させることが良いことだと主張したくなるわけで、その理由を世の中の実情に合わせてうまく説明できれば主張にも説得力が出てくるわけだが、そういう立場でなければうまく説明する必要もなく、世の中の状況や情勢に合わせて使いやすいものを使う成り行きになってくるだろうが、自身の生活を世の中の状況や情勢に合わせるような成り行きになるかというと、否応なくそうなってしまう面もあるだろうが、抵抗してしまう場合もあるだろうし、それも意識して抗うのではなく、それと自覚することなく、結果的には抗っていることになるのだろうが、当人が抗っていることに気づいていない場合もあるわけで、そういうところまで考慮に入れると、理詰めで説得力のある説明とは違う成り行きが生じていて、そうなっていることを肯定するわけにはいかないかも知れないが、それを普及させようとしている人たちの思惑が空回りするようなことにもなってきて、思いもしなかったような結果が将来においてもたらされるかも知れないが、それに関して過去の工業品の類いが現代においてどう扱われているかがヒントを与えているかも知れないが、それが一定の水準で世の中に普及してしまえば、普及させるという意志が意味のないことになってしまい、ただ単に道具や機械として使われているにすぎず、それを使っているからといって取り立ててどうということはなく、使っているのが当たり前の状況となってしまえば、他との間で差異が生じてこないから、それに関して言説を構成する意味がなくなってしまうわけで、それを使うのが良いことだという主張が無効化してしまうというと、では使わなくてもかまわないのかと言えば、その場の状況から生じてくる必要に応じて使えばいいといえるだろうし、結局は良いとか悪いとかいうことよりは、必要に応じて使う成り行きになってしまえば、それを使うに際して説得力のある説明など要らないわけで、そういう意味でそれを使うことが良いことだから使わせようとして、それを普及させようと画策していた試みが、いったんある一定のレベルで普及してしまった後ではどうでもいいことになってしまい、もちろんそれを使うこと自体が凄いことだとはいえなくなって、実際にも例えば電気洗濯機や電卓などを使っていることが何か凄いことだと思われていた時代がかつてあったとは、現代からは到底思えないわけで、現代においても特定のハイテク製品を何か凄いものだと大げさに煽り立てている人がいたら、今から何十年も前に電気洗濯機や電卓を凄いといっていた人と同じ運命を辿るのではないかと思ってしまうが、そんな人が大げさに煽り立てなくても、世の中の状況や情勢に合わせて自然に普及していってしまうものなら、それが当たり前のように使われる時代となってくれば、そんな人の存在などとっくの昔に忘れ去られているだろうし、何か時代の最先端を行くような製品を普及させるために説得力のある言説を弄して尽力する人たちの存在が報われることもないかも知れないが、果たしてその種の産業製品の普及によって時代が変わるのか、あるいは時代の状況や情勢に合わせてその種の産業製品が普及することになるのかは、両方ともにいえることだろうが、他にも例えば中国の監視カメラのメーカーが急速にシェアを拡大させたのは、中国の政治情勢に伴ってそうなってきたわけだろうから、そこには政治的な意図や思惑が介在しているともいえるだろうし、様々な作用が複雑に介在し合い絡み合ってそういう現象が現れるとしても、そこに特定の意図や思惑を想定できることもあるが、人の意図や思惑がその場では有効に作用しているように感じられることが、その人にとってはその場の状況や情勢に合ったことを思っていることになるわけだから、その人の意識が時代状況にとらわれている証拠ともなるわけだ。


6月23日「切実さ」

 世の中で日々絶え間なく続いている人や集団の争いや戦いが、絶えず人の興味を刺激して、そこで何かが起こっているから、それがメディアを通じて日々の話題となり、それについて語れば語っているうちに時が経ち、もちろんそれについて文章を記している間にも時間が経過して、ともかくそうやって何かをやっている間が人が生きている内容の全てとは言えないものの、そんなことを思っていたり、それについて考えているうちにも時が経ってしまうのだが、興味の対象となる争いや戦いが他に何をもたらしているとしても、そこでも時間の経過をもたらしていて、時の経過以外にも様々な事態をもたらしているはずだが、それが思考の対象となっていることが、悪くいえば暇つぶしの材料となって、無駄に考えているうちに時が経過してしまうわけで、興味を抱くから考えさせられて、興味がなければ思考の対象ともならず、興味を持つか持たないかはその場の偶然に左右されるが、それを知ったか知らないかで事情も変わってくるし、その時の他の話題との兼ね合いもあるかも知れないが、刺激を受けるのがそれだけでなければ、それ以外の話題にも刺激を受けて、その刺激を受けたことについて考えたり、それについて語ることも、文章を記すこともあるだろうが、それがとりとめのない話の内容を構成して、話の内容次第で面白いともつまらないとも感じられて、それもその時の気分次第で、興味の対象となったりならなかったりするだろうが、そういう水準では特に切実さをもたらすわけではなく、興味がなければ関心を示さないし、自身にかかわってくることでない限りで、面倒なら遠ざけておいても構わないだろうが、自身にかかわってくることであっても、かかわりの度合いや傾向によって、刺激を受けたとしてもそれを意識したりしなかったりもして、関心の対象となったりならなかったりするのかも知れないが、他人の関心に刺激を受けて自分も関心を持つ場合でも、それを他人事で済ませておける範囲内で安心感を得られて、その程度の関心事であれば、それによって自らが脅かされることもないわけだが、できれば身の安全を確保しながら、それが自らが優位な立場を保っていることの証しともなるわけだが、そうやって観客の立場で人や集団の争いや戦いにかかわっていられる限りで、大した利益は得られなくても、うまく立ち回っていることになるのかも知れないが、争いや戦いの当事者ともなればそんな余裕はないわけで、だから当事者になることはできるだけ避けたいだろうが、そこに直接の人間関係がある限りで、程度の違いがあるにしても争いや戦いを避けては通れないわけで、思ってもみない方面からおかしな事情が絡みついてきて、わけのわからない争いや戦いに巻き込まれて、いつの間にかその当事者となって、面倒なことになってしまうわけだが、そうはなりたくないのになってしまうから、何かどうしようもなくいやな感じがするとしても、時としてそこへ他人が首を突っ込んできてさらにひどい目に遭うこともあるだろうが、うまくその場が構成されていると、それがゲームの類いとなって楽しめたりもするから、そういうところで何とか工夫を凝らして人為的にいやな部分を取り除いて、ゲームとしての体裁を整えて、うまく立ち回れる条件を確保しようとするのだろうが、どう思ってみてもそれが争いや戦いには違いなく、当事者となって痛い目に遭ったりいやな思いをすれば懲りるのだが、攻撃対象を攻撃する立場になれば、それが優位な立場をもたらす限りで気分が良いから、ゲーム感覚として楽しめたりもするわけで、そうやって争いや戦いの毒を抜いて、当事者にとってもそれを管理する側にとっても扱いやすいようにその場を整えるのだが、それと共に何が欠けてしまうのかといえば、切実さや深刻さが欠けているといえるだろうが、その全てが取り除かれるわけでもなく、それなりにどうにもならない面は残っていて、それが勝ち負けをはっきりさせたいということでもあり、そうしないと気が済まないから、無理なことをやってまで勝とうとしてしまい、勝とうとする切実な思いが募って取り返しのつかない深刻な事態をもたらすとしても、勝敗にこだわるなら否応なくそうなってしまうだろうが、それでも争いや戦いをゲーム化することによって破局的な事態は避けられていて、それまでに築き上げてきた全てが無に帰すようなことにはならず、それが中途半端に継続することによって一定の調和が保たれて、双方が痛み分けのような事態となって、何とかその場が収まっているはずだが、収まり方というのが不満が残る収まり方であり、何かすっきりしないわけで、すっきりさせてしまうと全てが台無しになってしまうから、すっきりさせないようにしていると思っておけばいいだろうが、誰もがすっきりしたいのにすっきりしてしまうと終わってしまうからすっきりさせないようにしているといっても、すっきりさせないようにしている人や団体にその自覚があるわけでもなく、そんな人や団体にしてもすっきりさせたいのはやまやまだが、なぜか結果的にそうなってしまうから、そういうところでどうやって自らの欲望にブレーキをかけているのかが自身でもよくわかっていないのかも知れず、そこでお互いに疑心暗鬼な面もあり、相手を疑いながらも疑っている自分にも確信があるわけではなく、確信がないのだから自らが勝てる自信もなく、自信もないのに強がってみせることも忘れないから、虚勢を張っていると捉えておくのが無難なところだろうが、そんな虚勢の張り合いによって誰が迷惑しているのかといえば、それに付き合わされている人たちが迷惑しているはずだが、表向きには迷惑顔をしていても、心の内ではほっとしているのかも知れず、決定的な破綻とはならない限りで自身の立場を維持できるから、できれば勝ち負けのはっきりしない中途半端な状況が長続きしてほしいと思うにしても、それもそう思っている自覚があるわけではなく、実際に思っていることはこの際白黒をはっきりつけたいと常々思っているだろうし、この際というのがいつかはそうしたいということでもあり、この際がいつまで経ってもやってこない限りで、その場の予定調和が保たれていることにもなるだろうし、そんなことを思っているうちにも昔の仲間が次々に消えていって、孤独感を味わう羽目になってしまうだろうが、時が経つとはそういうことであり、時が経つにつれて勝ちたいという切実さも薄れていってしまうのだろうが、それがその人にとっては深刻な状況をもたらしているのかも知れないし、他の人にはそうは思えないとしても、昔からそんな状況と共に生き長らえている人にとっては、それが深刻な事態だと錯覚していて、もちろん錯覚などではなく、実際に深刻な事態なのかも知れないが、寿命が尽きて次々に死んでいった仲間もそう思いながら死んでいったのだろうから、自業自得でしかないはずだが、そんな事態とは一切かかわりのない人にとっては何でもないことであり、別に迷惑顔をするわけでもなく、今にも死にそうな人に同情するわけでもなく、そこで決定的な破綻が起ころうとも、無関係でしかないのかも知れないし、それがゲームだとも思っていないのだろうが、今も世界のどこかでその種のゲームがおこなわれている実態もあるだろうから、運良くそんなゲームにかかわらずに済んでいる人たちも、何かの加減でいつ巻き込まれてしまうとも限らないから、用心しておいた方がいいといっても、何のことやらさっぱりわからないままであってもいいわけで、今後もすっきりしないままに事態が推移していけば、わからないまま終わってしまっても、それが何かのゲームだと気づく暇も余地も必要もないわけだ。


6月22日「世界の現状」

 世界のあるがままの姿を認めることが何を意味するわけでもなくても、それ以前に何があるがままといっても、都合の良いように世界を捉えているだけかも知れないが、そうであってもそれが世界のあるがままの姿だという前提で話を進めていくしかないが、そんな世界の中で誰に何をやる機会が巡ってきているとしても、実際にそれをやってみないことにはそれが何の機会かもわからずじまいとなってしまいそうだが、その機会を捉えて何かをやっているつもりになれるかというと、つもりではなく本当に何かをやっている現状があるはずだが、それをやるに当たって、やっていることを正当化できる理屈や原理の類いを念頭に置いて、やることの必然性や必要性や切実さを理由にしてやることになれば、やって当然のことをやっているような気になれるかも知れないが、果たして本当にそうかというと、それが疑わしいようなことをやっている実態があれば、そうした疑念を持たれるようなことをやっていることになるわけで、確実にそうだとはいえないようなことをやっていれば、それが暗中模索の手探り状態でやっていることになるのだろうが、確信が持てないようなことをやっていても、何とかなるのではないかという漠然とした期待を抱いていれば、それもその場の状況を都合の良いように捉えているだけかも知れないが、それでも確かな感触を求めて、そうした実感が得られるように努力するだろうし、そういうところで疑念を払拭したくなるのも無理もないことだが、そこで疑念を解消するための努力をせずに踏みとどまる必要があるとすれば、逆にやっていることに確信を持っている人に振り回されないようにするにはどうすればいいかという戦略を意識することになり、何とかして確信を得ようとする方向へと振り切れないようにしたいわけだが、なぜそうしなければならないかについては明確な理由があるわけでもなく、ただそういう方向へと振り切れてしまって、確信を抱きながら努力し続ける人たちの姿を何かの反面教師としたい誘惑に駆られて、それもその何かが何なのかがよくわからないまま、そういう人の存在を前提として、そこからちょっと外れた方向で取り組むべきことがありそうに思われるから、それが疑わしいことになるのかも知れず、それも積極的に疑わしいことをやりたいということではなく、否応なくそうなってしまうといった方が、感触としては妥当なのかも知れないが、それはうまく正当化できないようなことでもあり、確信が持てないようなことをやっているのだろうが、そういうことをやっている方が世界の現状に沿っているというと、それも疑わしいところだろうが、疑わしく思われるような世界の現状があり、そこでこうだと割り切ってしまうような見解や意見や主張が疑わしく感じられるから、やはりそういうところで確信が持てないわけで、絶えず疑念を抱いていないと安心できないかというと、安心してしまうことこそがまずいような気がして、できれば安心したいのだが、安心する手前で立ち止まって、大した根拠もないのに疑念を抱きたくなってしまうわけで、そんな疑いを抱きたくなるような状況というのが、世界中で起こっていることからもたらされているのかも知れないが、そういう状況の中で何らかの傾向へと振り切れてしまう人が必ず出てきて、そういう人が世の中で注目を集めるとしても、そういう姿勢が疑わしく感じられるのだから、そうはならないようにしようとすれば、自然と疑いを抱く成り行きになってしまうわけだが、そうなるとしても一方では疑いを晴らしてすっきりしたいのだろうが、すっきりしてしまった人がどう見えるかというと、疑わしく見えてしまうわけだから、そうなる手前で立ち止まらなければならないと思われて、疑わしい状態を維持しようとしてしまうわけだが、そういう状態を維持しようとすること自体を正当化するわけにもいかず、それも正当化してしまうと、正当化する方向へと振り切れてしまうわけだから、そうなる過程で失われてしまう何かがあるような気がしてきて、やはりそうなってしまってはまずいような気がしてしまうわけだが、そういうところで吹っ切れてすっきりしてしまった人がどうなるかというと、やっていることを正当化できる状態となり、それも世間的に認められるようなことでもあり、それで構わないどころか、必死になってそうなるように努力してそうなるべきところだろうが、だからそうなる手前で立ち止まってしまうことが正当化できないのは当然かも知れないが、絶えずその種の正当化を逃れながら、うまく立ち回ることとはちょっと違う立ち振る舞いになって、それが疑わしい立ち振る舞いとなってしまうのだろうが、その疑わしい状態から解放されてしまうと、やはりそれなりにすっきりしてしまって、その程度に応じて目的や目標も自ずから定まってきて、後は努力する以外にはあり得なくなってしまうと、すでにゴールが近づいているのかも知れないが、そのゴールというのが偽りのゴールなどではなく、真の意味での終着点となれば、それがその人の終わりを意味するのだろうが、終わってしまっても構わないのかというと、構うも構わないも、そうなるより他にあり得ないような成り行きが待ち受けていれば、黙ってそれに従うしかなく、そういう成り行きに従ってしまった人がどうなったかといえば、何やら成功の証しを手に入れて幸せな人生を送っているのかも知れないが、誰もがそうなるわけでもないだろうし、逆にそうならない人が大半を占めている可能性の方が高そうだが、仮にそうならないとしても、そうなるように努力し続けなければならないのかも知れず、実際に努力し続けている人が世の中の大半を占めているとしても、果たしてそうならないようにその途中で立ち止まる必要があるのかというと、普通に考えてそうは思えないだろうし、そうは思えない限りでそうなるように努力し続ける必要が生じてしまい、そんな成り行きにとらわれてしまうと実際に努力し続けることになってしまうのだろうが、それが無駄な努力であるどころか、努力することの目的でもあり、努力を正当化できる状態でもあり、そういう状態になってしまうと努力するしかないわけだが、努力の途中で立ち止まってしまえば、それまでの努力が無駄になってしまうような気がするだろうし、努力を無駄にしないためには努力し続けること以外にはあり得ないわけだが、そうやって努力し続ける人の中からそれなりの数の成功者が出てくることは確かであり、そうなれば成功者の努力が世間的にも讃えられることになるだろうし、世間から賞賛されたければ努力し続ける必要がありそうだが、すでにその途中で立ち止まって努力することに疑念を抱いてしまった人がどうなるかというと、端的に言って努力を怠ってしまったのだろうし、そういう人は世間から賞賛を浴びる可能性を放棄してしまったのだろうが、だからといってその人がどうだというわけでもなく、それなりに生きている限りでこの世に存在し続けるだろうし、それが何を意味するわけでもないだろうが、それがその人のあるがままの姿であり、その人にとっての自然の成り行きでもあり、そういう人の現状が世界の現状にも含まれているだろうし、それがその人にとって都合の良いことなのか都合の悪いことなのかは、どちらであってもそれなりの真実が含まれているだろうし、その人が自らの存在を正当化したければ、あるがままの自身を認めてほしいと思うかも知れないが、他の誰に認められるわけでもなければそれでも構わないだろうし、その存在を正当化する理由もなければ、正当化できるわけでもなく、正当化できなくても存在していれば、そういった存在が必要とされなくても存在していることにもなるだろうが、たぶん必要とされなくても存在していること自体が、世界のありのままの現状となるのではないか。


6月21日「税制の不都合」

 どのような分野でも技術的な問題となると専門的な話になってしまい、一般的な先入観として、それに関する専門家が専門用語を駆使して語らないと話の内容に説得力が感じられないが、例えば政府が民間の企業や個人などから徴収する税の問題になると、やはりそれも技術的な内容となり、それが政治の場で専門家ではない素人によって語られると、今まで何十年も続いてきた税制に問題があるからといって、一朝一夕に変えるわけにはいかないと思われてしまうが、それを主張するだけなら簡単に変えられるようなことを主張できるだろうし、実際に主張している人もそれなりにいるわけだが、それに対して問題は特定の税制ではないと言ってしまうと、消費税撤廃などの税制に関する主張をしている人に反発されてしまうが、では何が問題なのかというと、税制そのものというよりは、軽減税率などの例外規定や但し書きばかりが後から追加されているから、抜け穴だらけとなってうまく機能していない可能性があり、そういう後付け設定はやめて税制をできるだけ簡素にする必要があると主張すると、それが目的として理解されないかも知れないが、さらには道路特定財源や福祉目的税などのように特定の用途に目的税化することが間違っていると言うと、さらに理解されないかも知れないが、その一方で法人税に関して各国が減税競争をやめてアメリカが最低税率を15パーセントにしたいそうだから、各国が足並みをそろえて15パーセントにすればいいということになれば、それなら消費税なども各国が足並みをそろえて同じ税率にすればいいはずだが、それは各国の事情が違うから実現不可能だとしても、その趣旨として広く浅く課税する方針が間違っているわけではなく、逆に酒税やたばこ税や石油関連製品への課税のように、特定の品目に課税することの方が間違っている可能性もあるわけで、日本の場合はそれが各省庁の縄張りとして認識されて予算配分にも影響を及ぼして、それに伴って族議員なども生み出して、行政の非効率や政治の弊害をもたらしているから、自動車重量税なども含めて特定の業種に負担を強いる間接税の類いの方を撤廃する方が正しいかも知れないが、それも現状ではほとんど誰も理解してくれないだろうが、それに関連して、なぜ日本の産業が衰退傾向にあるかといっても、大雑把に消費税があるからといった単純なことではなく、特定の業界や業種を狙い撃ちにした税によって、そこだけがコスト高となって、例えば燃料費や高速道路料金などで経費が嵩んでしまうから、その分運輸業などの運転手の賃金が安くなってしまったり、また中小企業を優遇する目的で税率が軽減されていて、そういった優遇税制をうまく利用して大企業になった企業もあるかも知れないが、逆に優遇税制や補助金漬けによってシャブ中のようになってしまって、じり貧に陥りながらもかろうじて生かさず殺さずで生き残っているような抜け殻化している企業もあるかも知れないし、それが産業の流動化を阻んでいると言うと、やはり多くの人には理解してもらえないだろうが、そうやって行政と企業が癒着しすぎているから規制緩和が必要だという新自由主義者の主張は、そういう面では正しいはずだが、日本の場合は新自由主義者だと目されている企業経営者の方が行政と癒着して暴利をむさぼっているという逆説が生じてしまうから、何かそういうところでこんがらがっているわけで、そういうところで新自由主義を批判している人たちこそが新自由主義とグルなのではないかと穿った見方をしたくなってしまうが、それも理解されない状況を形作っているのかも知れないが、なぜ多くの人々に理解されないのかというと、日本企業と共に行政自体もガラパゴス化していることに気づかないからかも知れず、本当にそうかというと確信が持てるわけでもなく、例えばアメリカではスペースX社がNASAやアメリカ軍と癒着しているのは周知の事実であるし、中国では国営企業が優遇されているし、フランスではルノーの大株主がフランス政府でもあり、それ相応に行政と企業との癒着関係が明らかとなっているだろうし、また日本で貧困が問題化しているが、欧米の貧困層は移民と重なり合うし、潜在的に国境を越えて中南米やアフリカやアジアや東欧などに貧困層がいるわけで、さらには中国でも少数民族が貧困層を形成していて、今や世界全体が新自由主義化していて、その縮図としてガラパゴス的な日本の現状があると考えておくのが妥当なところかも知れず、たとえ日本では無駄と非効率の象徴となっている行政に巣くう公務員によって民間人が搾取されているような状況があるとしても、表面上でそうなっているにすぎず、政府が税を徴収しているところでは、必ずその税金を使って無駄で非効率なことがおこなわれていて、それが学術や文化の維持などに使われているところでは、何か良いことがおこなわれているような印象が伴ってくるわけだが、それがスポーツの祭典であるオリンピックなどになると、それ以前に民間のプロスポーツがあるわけだから、それとどう違うのかというところで、それなりに疑念が湧いてくるだろうし、税金を使ってオリンピックを協賛する企業の金儲けを助けているところが欺瞞を生む原因となっていることも確かなのだが、税金を有効活用できるかとなると、何をもって有効と見なすかが人によっても立場によっても違ってくるところかも知れず、まず第一に貧困層を助けるために税金が使われるとなると、新自由主義的にはそれこそが無駄で非効率だと思われて、助けるのではなく働かせるために使いたいところだろうが、しかもそれを利用して利益を得たいという思惑も働くだろうし、そんな功利的な思惑から人を働かせることが何を意味するのかと言えば、税金の分け前が欲しいということになり、税金が誰のために使われるかというと、税金を利用して金儲けをする人や団体のために使われることになれば、その人や団体にとっては無駄でも非効率でもないことになるだろうが、単に誰かを助けるために税金が使われるとなると、助けられた人は感謝するかも知れないが、その見返りがもたらされるわけでもなく、そうなるとただでしかも税金という費用をかけて助けたことになるのだから、功利的には損したことになるだろうし、そういう意味では功利的な基準では計れないことになるわけで、それを認めるなら税の使い道としては、必ずしも有用性や効率を重視する必要はなくなってしまうわけだが、その代わりに重視すべきことがあるかというと、国家的な観点からすれば他の何よりも国民を助けるために税金が使われるべきかも知れないが、国民にもピンからキリまであるとすれば、有用な国民を助けるために税金が使われるべきで、それが無用な国民なら見捨てても構わないのかというと、有用か無用かをどうやって見分けるかが重要となってくるだろうが、それ以前に必ずしも税金の使われ方が人助けに限定されるわけでもなく、何に使われても構わないわけでもないが、単純に人から感謝されることに使われたらそれで構わないということになれば、その中には人助けに使われることも含まれてくるのだろうが、そこでもそれだけに限定されるわけでもなく、他にも多種多様なことに税金が使われることになるのだろうが、少なくとも学術や文化を維持したり振興するのに使われると何か好印象を得られるとすれば、それと同様に人助けに使われても好印象を得られるだろうし、しかもそれが見返りを求めない無償の行為であればなおのこと好印象を得られるかも知れないが、そういう意味では人から感謝されるようなことが好印象を得られることになるはずで、心に余裕があればそういうことに税金が使われた方がいいような気がするのではないか。


6月20日「思考すること」

 思考がもたらすパラドックスというと、何かを考えようとしているのに、何を考えているのかわからないはずがないが、考えるべき対象など取り立てて何もないところが、何も考えていない証拠とはならず、確かに何かを考えているのであり、考えることから解放されたいから考えようとしていて、自らが何を考えているのかを知りたいわけだが、知ったところでそれが本当に考えていることだとは限らず、本当にそれを考えたかったわけでもなく、他にも絶えず何かのついでに考えてしまうことがあり、それが何かというと、何を考えているのか確信が持てないから、自らの思考を疑ってしまうのであり、疑っていることが考えていることにもなり、それを信じられないから、信じられる状態へと持って行くにはどうすればいいかと考えているのであり、何かを信じられる状態そのものを疑っているのに、それを疑いながら考えているわけだから、どう考えても頭の中で思考がこんがらがっているのだろうが、思考とはそういうものだと割り切るわけにもいかず、いくら考えていても最終的にはすっきりした結論へと至りたいのだろうが、そうなってしまうと思考が終了してそれ以上は考えなくてもよくなってしまうから、考え続けるには疑い続けなければならず、考え続けられる限りで疑い続けているわけで、それが疑心暗鬼そのものかも知れないが、そこに思考の対象であると同時に疑いの対象が浮かび上がってきて、考え続けることを困難にしているのだろうが、困難を乗り越えて考え続けたいのだろうし、結局は思考の対象となるような物事を思考が捉え切れていないのかも知れず、それが何だかわからないでは済まないから、何とかして思考の対象となる物事を特定したいわけだが、その存在が疑わしい物事を思考の対象とするわけだから、それについて考えていることを正当化するわけにもいかず、考える理由を求めているとしても、何の根拠があってそんなことを考えているわけでもなく、考える必要のないことを考えていると受け取られても仕方がないところだが、考えられる範囲内ではそれについて考えるしかないわけで、それが何なのかがはっきりしないわけだが、疑わしいことを挙げてゆけばきりがなく、それについて考えていることの全てが疑わしいのかも知れないが、本当は何も考えていないと嘘をつくわけにもいかないだろうし、たぶんとりとめのないことを考えていると言えばその通りだろうが、そのとりとめのないことが何なのかというと、世の中の様々な傾向であり、それがまとう雰囲気や空気の類いとなると、まさにとりとめのないことになってしまいそうだが、何でもないというわけでもなく、そういう傾向に対して疑いを抱いているからそれについて考えてしまうという循環が生じているわけで、本当にそうなのかというと確信を持てないわけだが、では本当はどうなっているのかというと、それが身勝手な妄想となってしまうのだろうし、要するに本当はこうだという思いを実現したいのだろうが、それがあり得ないことであれば、あり得ない理想の姿を現状の世の中に当てはめようとして、実際には全く当てはまらないから、それを阻んでいると思われる対象を批判したいわけだが、そこまで思考が行き着けば、そうした思考がどこへと向かっているかが自ずから定まってくるのかも知れず、簡単に言うならそこに理想と現実のギャップがあり、その埋めがたいギャップの中で思考していて、ギャップをなくすにはどうすればいいかと考えているわけだが、どうすればいいかといっても現実を理想に近づけられないなら、理想を現実に近づけるしかなく、そうなると理想が理想ではなくなり、結局は現実の状況や状態を認めざるを得なくなってくるわけだが、そういった傾向に対してどこまで抵抗できるかといっても、抵抗しようがない境遇になっていれば、いやでも現状に沿ったものの考え方に行き着くしかないだろうし、実際にそういう思考を強いられている人からすれば、理想を追い求める人の考えや行動が受け入れがたいわけだが、逆に理想を追い求める人からすれば、妥協してしまう人の態度が気に入らないだろうし、理想を追い求める余裕がないから否応なくそうなってしまう事情が理解できないわけだが、中にはそういう理想と現実の間にギャップがあることを認識できない場合もあり、理想がないという状態がどういうことなのか理解できなければ、世の中には現実しかないということになるのだろうが、考えてみればそれが当たり前のことであり、それに対して理想を追い求めている人は、その人の妄想の中で理想の姿を思い浮かべているだけで、それ自体があり得ないことになるわけだが、なぜ理想を思い浮かべるのかといえば、現状がおかしいと思うから、おかしいとは思えない世の中の状態を思い浮かべるわけで、それが世の中の正常な状態であり、理想の姿なのだろうが、そうした理想の姿に近づけるために行動するとなると、何やらそれが世直しのような大げさな試みを思い浮かべてしまうかも知れないが、そういう大げさなことにならないようなやり方があるかというと、それがやり方というわけではないのかも知れず、やり方でなければ何なのかというと、態度や姿勢になってしまうかも知れないが、それが特定の態度や姿勢とはいえないところがよくわからないわけで、何か特定の傾向や方向性を持った態度でも姿勢でもなければ、特にそれが態度や姿勢とも感じられないとすれば、では何なのかということになるかも知れないが、何でもないというと嘘になってしまうが、頭の中で理想と現実という区分を撤廃することができれば、そこにギャップなどないことにもなり、そういう考え方をしなくても済むかも知れないが、ではその代わりに何があるかというと、何らかの可能性があり、現状がこれから変化する可能性があると考えればいいわけで、それが思い通りの姿に変化する可能性というわけでもなく、逆に思いもしなかったような結果をもたらす可能性があるということであり、それに備えなければならないと思っても、どう備えるかもわからないわけで、そういうところで絶えず途方に暮れてしまい、何をどう考えればいいのかわからなくなってしまうのだろうが、そこから結果的にそうなることを予想したり、予想した状況が過去の状況とどう違うかを考えてしまうわけだが、そうなってしまうとまずいわけではなく、むしろそうなるしかないだろうが、そうなってしまう思考の傾向や方向性を認識する必要があるというと、また頭の中でこんがらがってくるかも知れないが、どう考えてみてもすっきりした結論とはならない限りで、考えている内容を疑ってしまうわけで、そういう疑わしい状態にとどまっている限りで思考を継続できるのかも知れないが、その必要もないのに継続させる必要もなく、考えるのが面倒ならさっさとすっきりした結論に至ってそこで思考するのをやめてしまえばいいだろうし、そうなってしまっても特に不都合を感じなければそれで構わないだろうが、疑念にとらわれているといつまでも疑いが頭から離れないわけで、疑っている限りで絶え間なく考え続けているわけだが、それもそんな状態でも特に不都合を感じなければ疑い続けながら考え続けていればいいだろうし、どちらでもかまわないということではなく、その場の状況に応じてどちらかの態度を取ってしまう場合もあるだろうし、またそれとは別の態度となってしまうこともあるだろうが、たぶんそういうところで思いがけないことが起これば、それとは別の態度になってしまい、そうなってしまえばどちらの状態からも抜け出られて、そこから新たな心境へと移行できるかも知れないが、その思いがけないことというのが、事前の予想を外れていたり、過去のどの事例にも当てはまらない出来事になるのではないか。


6月19日「煽動者冥利」

 一概には言えないようなことを一概に言えるかのように装うのは詐欺だが、詐欺であるのを承知で大雑把なことを言いたくなるわけで、しかも大雑把な傾向と個々の事例ごとに生じる差異も同時に言わなければならなくなると、一概に言えるようなことではなくなってしまうわけだが、それでも一概に言えるようなことを言わないと、言っていることが一定の傾向にまとまらないわけで、一定の傾向に惑わされて、そんな傾向に沿ったことを言えばそれでいいとは限らないところが、個々の事例ごとの差異となって現れてくるのだろうが、逆に個々の事例ごとの差異を強調しすぎると、今度は木を見て森を見ないことにもなり、そんなところもうまく言葉では言い表せないのだが、微妙な違いを取り逃がしてしまうと、わざと都合の悪い面を無視するような内容となってしまい、見え透いた嘘をついているようにも感じられて、信用されなくなるかも知れないが、信者にとっては逆にその方が好都合かも知れず、他の多くの人にとっては信じられないようなことを限られた少数の人たちだけが信じることによって、信じようとしている対象への信仰が逆に深まるような結果となり、そこから狂信的な宗教が生じることもあれば、過激派によるテロ活動へと進展することもあるだろうが、実際にそれがある種の真実を物語っているわけだから、そうなってしまった人たちを一概に全否定するわけにもいかず、それを一方的に全否定するような人たちの方が都合の悪い面を隠すような嘘をついている可能性もあり、全否定できなければその場の情勢に応じて肯定と否定との間で絶えず揺れ動いている評価基準を意識しながら、どちらか一方へと振り切れる必要がない程度に踏みとどまらないと、やはり都合の悪い面を無視することになってしまうのだろうが、そういう態度の方が一般受けはするだろうし、はっきりした物言いで物事の良し悪しを断言してくれた方が、それを受け止める側としては都合が良いわけで、そういう断言を繰り返す人へと物事の判断をまかせて責任転嫁しておけば、自分たちが微妙な判断を迫られることもなく、良し悪しの判断で思い悩まなくても済むわけだが、それは判断をまかせられて責任転嫁された人にとっても光栄なことであり、多くの人々の期待を一身に背負いながら、起こった出来事や現れた現象について、これはこういうことだと言い放つわけだから、ある意味では煽動者冥利に尽きるわけだが、そこで終わりとはならないところが、その後に続く紆余曲折において、いつ煽動者が支配者や独裁者になるとも限らないし、あるいは良心的なままにとどまろうとすれば受難者や殉教者や犠牲者になるとも限らないが、そうならないようにするには、一人の人に判断をまかせるようなことはせずに、誰もが各々で判断しなければならないのだろうが、代表者を選ぶような制度となっていればそうもいかないだろうし、代表者に判断を一任するような成り行きとなって、何かというと良し悪しを断言しまくるような人を代表者に選んでしまえば、その人の判断が合っていようと間違っていようと、そうした判断にその人の支持者が振り回されることになってしまうのかも知れないが、望んでそうなるのではなく、代表者を選ぶ際にはそこまで考えずに選んでいて、大した理由もなくその人を選ぶような成り行きへと誘導されてしまい、実際に選んでしまってから後悔する人も多いのかも知れないが、後悔したところで一時的にすぎず、次の選ぶ機会が巡ってくる頃にはそんなことはすっかり忘れていて、またいつものように大した理由もなしにそんな人を選ぶ成り行きへと誘導されてしまうかも知れず、その大した理由でもない理由が何なのかというと、社会を覆っている集団的な感情であるというと、それも大雑把な傾向であり、一概には言えないようなことになってしまうだろうが、何かを全否定したり全肯定するような感情が、物事の単純化と結びついていることは確かであり、何かを徹底的に否定したり逆に徹底的に肯定したりする成り行きになりやすいのはどうしてなのかと言ってみても、感情にまかせて煽り立てないと気が済まないということの他に、案外それ以外の理由が見出せないからそれに依存するより他にないということになってしまえば、そういう傾向へと誘導されてしまうと考えてしまうことも物事の単純化であり、社会を覆っている集団的な感情そのものを徹底的に否定したいという感情にとらわれているのかも知れず、それ自体がミイラ取りがミイラになったようなことにもなりかねないが、根本的なところで代表者を選ぶという行為自体が個々の差異を無視した物事の単純化そのものであり、それこそが煽動者を代表者に選ぶ制度そのものでもあって、それを民主主義の欠陥だと決めつけても構わないが、ではそれ以外にはどのような方法があるかというと、くじ引きで代表者を選ぶ以外にはあり得ないわけだが、それでは誰もが納得できないから、代表者を選ぶに際して納得できる理由や根拠を示して欲しいだろうし、しかもそれが消極的な消去法とはならないような積極的に肯定できるような理由や根拠になればいいのだろうが、そういう理由や根拠を提示しようとすると、特定の人を全否定したり全肯定するような理由や根拠となってしまい、それも物事の単純化そのものとなってしまうわけで、結局代表者を選ぶこと自体が、全面的に肯定できるようなことでも否定できるようなことでもなく、それよりは何かの間に合わせとしてそうせざるを得ないようなことであり、必要がなければ無理に選ばなくても構わないようなことでもあり、強引な宣伝や煽動に惑わされて選ぶようなことであってはいけないのかも知れないが、選ばれる側としても選ばれることによってそれなりの利益を得たいだろうし、また選ぶ側も特定の人物を代表者に選ぶことによって、それなりの利益が得られることを期待していれば、双方の思惑が一致するわけで、そうなれば利益を餌にして誘導されてしまうわけだが、それ以外に何か積極的な理由や根拠を求められるかというと、それが積極的な理由や根拠となるかどうかはわからないが、直接の利益を求めてしまうと勘違いな幻想に終わるか、あるいはよくありがちな贈収賄となるかも知れないが、そうではない利益があるかというと、功利的な水準とは違うところで利益を期待できるかも知れないが、多くの人がそれを利益とは認識できないかも知れないし、普通に考えても利益とは見なされないかも知れないが、それは誰かが代表者に選ばれてからの振る舞いに関係することでもあり、少なくとも代表者に選ばれた人が世の中の各方面から幅広く意見を聞く態度を見せれば、多くの人が安堵するだろうし、そういう人を代表者に選んで良かったと一時的には思うかも知れないが、そこから様々な意見をもとにしてどのようなことをやろうとするかが重要となってくるだろうし、そのやろうとすることが特定の勢力や団体を利するようなことであれば、各方面から幅広く意見を聞いたことと矛盾してきてしまうから、多くの人が裏切られたと思うだろうし、そういう人が代表者となっては困るわけだが、だからといって意見を聞くだけ聴いて何もしないというも困るだろうから、形だけでも何かしなければならないわけだが、そのやろうとすることが何になるかで、またやったことの成否も、民衆の支持に結びつくか結びつかないかを決めるような成り行きになればいいわけだが、実際にそうなっているかが問題となってくるだろうし、そうなるように持って行くにはどうすればいいかといっても、それは実際に代表者を選ぶ側にまかされていると考えるしかなく、またそれは代表者を選ぶ側が選ばれた代表者に責任転嫁するわけにはいかないことになるのではないか。


6月18日「反転攻勢の機会」

 何か取り組んでいることが的外れなように思われると、うまくいっていないのではないかと不安になってくるかも知れないが、たぶんそれで構わないのであり、実際に的外れなことをやっているとすれば、世の中の情勢とは合わないことをやっていて、それがうまくいかなくなって当然だろうし、不安になってくるのも無理はないだろうが、世の中の情勢自体が全体的な傾向としてはそうなっているとしても、そこから外れた部分的な傾向としては、全体的な傾向とは合わないことを許容するだけの余地があるかも知れないし、逆に全体的な傾向に合うようなことをやっていても、部分的な傾向とは合わない場合もありそうで、そういう意味では何か的外れなことをやっているような感じがしても、それをやり続けられる限りで、それなりに可能性があるからやり続けられていると思うしかなく、それがうまく行く可能性とは限らないが、すでにうまくいかなくなっているように思われるなら、そう思われるような兆候を感じたわけだから、それが勘違いでなければ実際にうまくいかなくなっていて、そういうことだと思っておけば、いずれそれが明らかになる機会がやってくれば、それを実感したところでそうした実感を踏まえてどうするかは、その時になってみないことには何とも言えないだろうが、すでに何らかの兆候を現状の中で感じ取っているということが、それと自覚することなくやっていることを現状に合わせようとしていることの表れでもあり、情勢に合わせてうまくやろうとしているから、やっていることが情勢に合っていないのではないかと不安感に駆られるわけだが、情勢自体がいつ変わるとも限らないような情勢であり、いくら合わせようとしても後追い的に合わせようとすることしかできず、結果的には情勢の変化に乗り遅れてしまって、さらに不安になってしまうわけだが、そうであるなら無理に合わせようとする必要はなく、それよりは情勢に合わなくても、自分なりのやり方でやれる限りのことをやっていくしかないわけで、それで結果的にうまくいかなくなってしまうならあきらめもつくだろうし、あきらめたところで何がどうなるわけでもなければ、そんな状況になっているとしか言えないが、そういうところで下手に融通を利かそうとしても、融通が利かないからうまくいかなくなってしまったのだから、それもそういうことだと思うしかなく、うまくいかないから焦るのも無理はないが、うまくいかなくなった結果を踏まえていくら反省してみても、自分のやり方が悪いからうまくいかなくなったのかというと、そうは思えなければ、では世の中の情勢がおかしいからうまくいかなくなったと思うなら、被害者の立場になれるかというと、そうなったからといって、やはり何がどうなるわけでもなければ、やはりいくら反省してみてもどうなるわけでもなく、もちろん全く反省などしないで平然としていられるならそれに越したことはないわけだが、うまくいかないと反省せずにはいられなくなり、実際にやってきたことを振り返って反省してしまうわけだが、それがどこまで反省するかでも、いくら反省したからといって、うまくいかない現状をどうすることもできなければ、反省した甲斐がないわけで、そういう意味では反省損になってしまうかも知れないが、反省すると同時に反転攻勢を仕掛けなければならないとしたら、そうなっている時点ですでにその場の状況に意識が絡め取られているといえるのかも知れず、その場の情勢に合わせようとするのではなく、自らが積極的に情勢を変えなければならないと思うようになれば、その場の主導権を握ろうとして何か技を仕掛けることになるのだろうが、それが逆に誰が仕掛けたわけでもない罠にかかっていることになれば、そんなのはあり得ないと思うしかないかも知れないが、あり得ないことが実現してしまうのが情勢の複雑怪奇なところかも知れず、こちらから何かをやれば必ずしっぺ返しを食らうような事態になるようなら、すでに罠にかかっている証拠かも知れないが、罠という表現ではしっくりこないかも知れないが、それが特定の誰がどんな団体が仕掛けたわけでもない罠だと思われるようなら、何らかの悪循環がそこで生じていて、そこから抜け出すことができなくなっていると思うしかないだろうが、果たしてそれが本当に悪循環なのかというと、そう感じているだけで、実際にはうまくその場を切り抜けるために用意された試練なのかも知れず、それも誰が用意したわけでもない試練であり、結局は誰が仕掛けたわけでもない罠にかかっていると同時に誰が用意したわけでもない試練に直面していることになるわけだが、様々な要素や要因が複雑に絡み合いながらその場の情勢を構成しているから、ある時にはそれが罠のように思われたり、またある時には試練に直面しているようにも思われてしまうわけだが、実態としてはそこで何かに取り組んでいて、その何かというのが、自身が思っているような具体的な物事に関係する何かではない可能性さえあるわけで、ではそれが何なのかといえば、自身の力では思い通りには動かせないのに動かそうとしているその場の情勢そのものなのかも知れないが、情勢を動かそうとしていること自体が無理というわけではないとしても、動くとしても思い通りには動かないわけで、思い通りには動かないとしても、技を積極的に仕掛ければ動く場合もあり、動いた先に待っているのが、思い通りにはならなかった結果であるとしても、何かしらやった結果を得たわけだから、良かったとは思えないにしても、不満の残る結果から反省材料を得て、それを次につながる教訓としたいだろうが、そう都合良く事が運ぶわけでもないだろうし、そこからおかしな紆余曲折を経て思ってみなかったような現実に直面して途方に暮れてしまえば、それをどう捉えたらいいのかわからなくなってしまい、そうなるように罠を仕掛けられていたわけでもなくても、あるいはそこで試練に直面していると思われても、何か釈然としない思いにとらわれて、それと同時に疑念が湧いてきて、自らを取り巻く周囲の状況に関して改めて詳しく知ろうとするのだが、知ろうとすればするほど疑念が深まってくるようだと、すでに独りよがりな妄想にとらわれて、現実離れした原因を現実に当てはめようとして、何とかしてとらわれている疑念を意識から取り除こうとしてしまうわけだが、そうならないように注意する必要があるわけではなく、たぶん妄想にとらわれることによって現実を直視する機会を得ていて、妄想のただ中で現実を直視しているともいえるのかも知れず、それがどういうことかというと、妄想を抱かざるを得ない現実があり、妄想と共に現実を理解しないと、現実を理解したことにはならないというわけではなくても、妄想が現実を理解する助けとなっている限りで、妄想を必要としていて、通常の精神状態ではあり得ない妄想を抱きながら現実に対応しようとしていて、それが被害妄想の類いであれば、そんな現実をもたらしたのは自分のせいではないという思いの強さが、そうでないとしたら何のせいでそんな現実になってしまったのかという問いと共に、現実を理解しようとしているわけで、そういう理解の仕方が正しいかどうかは何とも言えないが、少なくとも現実を理解しようとしているのだから、何かしら理解するためのヒントを掴んでいる可能性もあり、そこからどんな理解に至るとしても、それなりに自分にとって都合の良い理解へと持って行きたいのだろうが、それが都合の悪い現実から目を背けていることの証しとなれば、そんな自分にとって都合の悪い現実こそが、現実を理解するためには欠かせないヒントとなっている可能性もあるわけで、そうやって頭の中で解消しがたい疑念が循環しているわけだが、疑念を抱いている限りで思考していることにもなり、実際にやっていることがうまくいかないから絶えず疑念を抱きながら思考しているわけだ。


6月17日「政治戦略」

 戦略というと企業戦略とか国家戦略といった言葉がまず思い浮かぶが、企業戦略といえば成長分野に資金や資材や人材を投資していかにして収益を上げるかといった目標が掲げられて、国家戦略となると産業を振興して経済の発展を促す成長戦略という言葉も日本ではありふれているだろうが、成長分野や成長戦略という表現で使われる成長とは何かというと、経済の規模が大きくなると解釈しておけばいいのかも知れないが、経済成長が見込まれる分野があるのかというと、普通に考えてそれを人為的に作り出そうとしていて、それに関しては例えば最近流行りのカーボンニュートラルや自然エネルギーの活用というと聞こえはいいが、そういう環境に良い分野を成長させると共に、その反面で化石燃料を燃やして二酸化炭素などの温室効果ガスや人体に有害なPM物質を吐き出す分野を縮小させる戦略が、世界的に注目されて支持を集めているように装われているのかも知れないが、そういう方向や傾向へと持って行こうとして政府が企業をけしかけて、具体的には補助金を出したり減税したりして、そういった分野への投資を促して、それによって民衆にも恩恵がもたらされるなら、民主主義の理念にも合致して、温室効果ガスや有害物質を排出する化石燃料の消費が減るから環境に良いという面では、確かに恩恵がもたらされるはずだが、企業活動そのものが民衆に恩恵をもたらしているのかというと、さらにいうなら経済成長を促している政府の戦略が民衆に恩恵をもたらしているのかというと、経済活動によって民衆が経済的に豊かになれば恩恵をもたらしていることになるわけだが、根本的なところでは全ての民衆が経済的に豊かになるとは限らず、もちろん全ての企業が政府の成長戦略に乗れるわけでもなく、また全ての国の政府が成長戦略を打ち出せるわけでもないところが、民衆の間でも企業の間でも各国の政府の間でもそれなりの格差が生じると捉えておくのが無難なところかも知れず、何よりも資本主義経済の中では国ごとでも企業ごとでも民衆の間でも競争がおこなわれていて、競争によって格差が生まれる宿命にあるわけで、もちろん政治の分野で民衆の間に生じる格差を縮小させようとする試みも同時並行しておこなわれているはずだが、それも資本主義経済が成り立つことが前提となっているわけだから、どこかで矛盾やパラドックスも生じているはずで、それがうやむやのままに済まされているかというと、問題があることが自覚できないわけではないとしても、競争の促進と格差の縮小という相矛盾する傾向を同時並行しておこなわないとどちらの方面でもそれにかかわってくるところでは納得がいかないだろうし、どちらの方面でもうまくいっているように見せかけなければならないわけだから、根本的なところで無理があり、少なくともアメリカのバイデン大統領は無理を承知で両面ともやろうとしていて、それに関して日本や中国などの政治家にその自覚があるかというと怪しいだろうし、彼らなりに少しは矛盾を意識しているとしても、うまくやれば矛盾を止揚できるという調子の良い考え方をしている人が、良心的な政治家の中でも多いのかも知れないし、その一方で保守的な方面の政治家となれば矛盾を無視して、政府と企業の方に肩入れして、経済成長や成長戦略を推し進める方向へと一辺倒になっている可能性もありそうだが、そうやって政治家としての立場を確かなものにしようとするのだろうが、それが保守という守りの姿勢でもあり、それをよしとしないで、民衆の側に立って良心的に振る舞おうとすると、政治家としての立場がなくなって、政府と企業の両方から見放されてしまうのだろうが、もとから立場がないのが政治家としての立場でもあり、民衆と政府と企業のどれに対してもいい顔をしていないと立場を失ってしまうのであり、自らの存在が矛盾やパラドックスを体現していないと真の政治家とは言えないのかも知れないが、矛盾やパラドックスがないように見せかけるには独裁的で強権的な傾向になるしかなく、矛盾やパラドックスがあることを指摘して批判してくる反体制派を弾圧する必要が出てくるわけだが、そういうことができる国も限られてくるだろうし、相対的に民主的な傾向が強い国では、批判されながらもそれを受け流して保守的な立場を貫き通すような成り行きになってしまうのだろうが、そういう姿勢でいることが民衆の中でも企業や政府の幹部クラスになって成功した部類に入る裕福な市民層には支持されるから、そういった人たちが地域の有力者となって社会の中で主導権を握っている限りで保守政治が成り立つわけだが、実際にも産業が振興されて経済が発展している国ではそうなっているわけで、資産の持ち合わせも何もない人には立派な経歴もないから地域の有力者にはなれないし、社会の中で主導権を握れず、政治力が欠如しているから発言権もないのが当たり前の状況となっているはずだが、そういった人たちの中からリベラルな人たちが頭角を現して主導権を握り始めると状況が変わってきて、普通の一般人の中から政治家を出そうとするわけで、そうなると形だけでも民主主義が機能し出すのだろうが、そういう段階にまで達すると政府そのものが権限や権威にものを言わせて権力を行使する機関ではなくなり、単なる行政に関する事務作業をおこなう機関へと形骸化してしまうわけだが、そういう意味では社会の中で主導権を握っている有力者や著名人の類いではなく、無名の一般人の中から政治家が出てくるような状況が、民主主義の理念が実現する状態となるわけで、またそうなっている限りで集団の組織的な機構に特有な立場の権力的な上下関係も緩和されて、それに代わって事務処理的な横の関係の方が優勢となってくるのだろうが、そういう傾向が強くなっている地域では社会の中でも内部対立が相対的に少なく、対立や闘争の激しさとも無縁なのかも知れないが、逆に争いや戦いが起こっているところでは、そんな状況に合わせて軍隊式の戦闘的な組織形態が優勢となり、そうした組織の内部では権力的な上下関係が幅を利かせていて、その分行動や発言の自由や民主主義が軽んじられる傾向となるのだろうが、それが産業の競争力となると、一見軍隊式の戦闘的な組織形態である方が有利に感じられるかも知れないが、意外とそうでもない面もあって、組織の中で上下関係ばかりが強くなってしまうと、下の者が上の者に従うばかりで創意工夫がなくなってしまい、組織自体が硬直化して状況の変化に対応できなくなって、成長分野への投資も遅れてしまい、結果的に柔軟に状況の変化に対応できた集団との競争に敗れてしまう可能性が高まるかも知れないし、そういうところにも一長一短があって、どのような組織形態の集団が生き残るかはその場の状況に左右されて、他の組織の真似をしていればうまくいくような安定した状況もある一方で、情勢の変化にいち早く対応するには何事も横並びの護送船団方式ではうまく行かない時もあるだろうし、例えば企業を管轄する特定の官庁が癒着している企業のやり方にいちいち口出ししてくるようでは、企業の方でも官庁とのしがらみを断ち切れずに身動きがとれなくなって、変革が滞って時代の変化に対応できなくなり、業績が思わしくなくなるのは当然の結果かも知れないが、それに関して現状で明らかとなりつつある傾向としては、確かにある種の段階では政府による企業への干渉が効果を上げる場合もあるだろうが、それも政府と企業が一体となって模倣すべき対象がある限りにおいてのことであり、模倣する対象がなくなって自力で何とかしなければなくなった時が創意工夫が求められる段階となり、そうなると組織的な上下関係から外れたところで思いつく自由な発想から生まれるアイデアがものをいうことになるのかも知れない。


6月16日「判断の連鎖」

 自らがかかわっていることに関して、それだけが世の中の全てではないということが、他の全てを考慮できるわけではなくても、かかわっている物事に関して何らかの判断を下す際には、判断を思いとどまらせるように作用して、どう判断してもその判断が正しいか間違っているかという水準では判断できないような気になり、ではどういう水準で判断すればいいかとなると、特に窮地に陥っているとは思えないにしても、判断した結果として、その場をうまく切り抜けられれば、そこで判断したことが正しかったことになるのかといえば、切り抜けた時点では正しい判断だったことになるだろうが、その時点ではそうであっても、そこからさらに時が経ってから振り返ってみると、そうではなかったような気になってきて、その場でどう判断してどのように振る舞っても、それなりの結果が伴ってきて、それで特に問題はなかったようにも思われて、結果的には何でもなかったのではないか、とその場での判断自体が意味がなかったようにも思われてくれば、その場で何かしら判断して振る舞った結果として、その後の状況が続いているわけだから、すでにそうなってしまっているからには、そこからさらに事態が進行して、しかもその時には思っても見なかったような新たな事態にも直面していて、そうなっている限りで過去の判断などどうでもよくなっているわけではないにしても、少なくともその時点での判断が正しかったか間違っていたかということよりは、新たに出現した現状の中で何らかの判断を迫られている可能性もあり、それを意識していなくても絶えず何かしら判断していれば、事態の進行に伴って過去のある時点で判断したことの効力が薄れてきて、それよりは現時点での判断の方が自らの活動に影響を及ぼしている割合が増していて、それでも現時点での判断が最優先されるわけでもなければ、過去の判断によってもたらされた過ちや誤りがいつまでも尾を引いている可能性もあり、それが現状の中での判断にもそれなりに影響を及ぼしていて、それを過ちや誤りだったと否定的に評価している限りで、まだそこから意識が抜け切れていないわけだが、そうなってしまったことを後悔しながら今に至っていて、いつまでも後悔しているのかといえば、今後さらに後悔するようなことをやってしまえば、それ以前の後悔が一時的に忘れ去られてしまうだろうが、そういう経験から教訓を導き出して活用しようとしても、それ以上に新たな段階へと事態が進行していれば、過去の経験が役に立たないかも知れないし、そうであればこれまでに経験したことのないような判断を迫られている可能性もあるが、それが思い過ごしであればすでに現時点でも判断を誤りそうになっているのかも知れず、そうであるなら判断を誤りやすい事態に遭遇していることになるのかも知れないが、たとえそこで判断を誤ってしまっても後から挽回できればいいのだろうが、逆に判断の正しさを信じられなければ、客観的に正しいとされる判断自体が疑わしく思われて、何によって判断が正しいとされるのかも信用できなければ、もはや正しい判断などできないかも知れないが、結果が思わしくなければ判断が間違っていたのかというと、実際に思わしくない結果ばかりがもたらされていれば、どう判断してもそうなってしまうと現状を捉えるしかないだろうし、判断が正しいか間違っているかにかかわらず、人の判断などには影響を受けないような結果がもたらされていると現状を捉えておけばいいかというと、それではどう判断しても判断すること自体が無駄になってしまうかも知れないが、それでも何らかの判断を下してしまい、結果的にその判断が誤っていたように思われるなら、その場の状況によって誤った判断をさせられていると解釈するしかないが、そんな判断を誤らせるような状況というのが、別に非常事態というわけでもなく、ごく当たり前のようにもたらされている普通の現状であれば、たとえそこで判断を誤ったからといって、思わしくない結果がもたらされて後悔するだけで、どう判断しても思わしくない結果がもたらされてしまうのかといえば、その人はそう思っていても、他の人はそうは思わないかも知れないし、そう思ってしまう人の判断が間違っていて、そうは思わない人の判断が正しいかというと、そう判断してみても構わないわけだが、どう判断してみてもかまわないのかといえば、どうとでも判断する気になればできるような状況であれば、大したことはない状況であるのかも知れず、そんなどうでもいいような状況の中で判断の良し悪しを決めようとすること自体が、判断を誤っていることにもなり、それも状況に応じて判断しているわけだから、その場の成り行きが判断を誤らせることにもなり、別に判断しなくてもいいようなことまで判断しているわけで、そこで判断を迫られていると判断すること自体が誤っていれば、そこでどう判断しても誤っていることにもなり、そんな誤った判断を迫られるような状況となっているわけだが、そんな中でも誰もが誤った判断をしているのかというと、何を判断しているのか、その自覚がなければ判断した覚えがないことにもなるだろうし、現状がどうという状況でもなければそれでも構わないわけだが、これから真の判断を迫られる時がくるとも限らず、真の判断と偽の判断の区別がつくわけでもなければ、それも判断のしようがないのかも知れないが、そう思って判断の機会を逃してしまえば、手遅れになってしまうなら、何が手遅れとなるかにもよるが、絶えず判断を迫られている気になっている方がまだマシかも知れないし、自らが何を判断しようとしているのかがはっきりとは意識できなければ特にその必要も感じられないだろうが、自発的に是か非かを判断する機会が巡ってこなければその機会を逸しているだろうし、逸していても何とかなっていればそれでも構わないが、何でもかんでも判断すればいいわけではなく、判断できることが限られていて、それが人によっても立場や境遇によっても異なれば、誰もが同じことに関して判断できるわけでもなく、それに関して判断できる人も限られてきて、中には判断すべきでない人が判断すべきでないことについて判断している場合もあるかも知れず、それも判断を誤っていることになるだろうが、判断によっては決められないことを無理に決めようとしている場合もあり、何かしかるべき立場の人がしかるべきことについて判断しているように見えても、その場面ではそう思われるにすぎず、後から振り返ればそんなことは判断するまでもないことであり、その場の一時的な成り行きに、その場にかかわっている誰もが惑わされていることになるのだろうが、それが誤った判断なのかというと、その場の成り行きの中ではそうならざるを得ず、そう判断するのが当然の判断を下しているように見えてしまい、確かにその場では正しい判断を下していることになるが、それがその後の大惨事の引き金になるような判断となってしまうと、そんな大惨事が起こった後から振り返ってみれば、それが誤った判断だったと思われてしまうわけだが、要するにその場だけで判断の正しさを求めてしまうと、そうなってしまうにしても、実際にその場に身を置いてみれば、そう判断するのが正しいように感じられてしまうから、そこではそう思うより仕方ないわけだが、その場での正しい判断が、そこからだいぶ時が経ってからそうではなくなったように感じられるとすれば、時の経過に伴ってその場での判断の正しさが無効化されたと受け止めるしかないわけで、そういう意味で正しい判断が未来永劫正しいとは限らず、その後の成り行き次第では正しくなくなってしまう可能性もあり、そんなことまでその場に居合わせた人たちが知るよしもないことだが、だからといって必ずしも判断の正しさにこだわる必要はないとはならないわけで、たとえそれが後から間違った判断だとされてしまうにしても、その場では正しい判断をせざるを得ず、その場の成り行きに意識をとらわれていると、その場で正しい判断をするように仕向けられてしまうから、否応なくその場の事情に適合するような正しい判断を下してしまうわけだ。


6月15日「気分の高揚」

 カフェインなどの薬物的な効果によって気分が高揚するのと、自身にとって何か良いことがあって気分が高揚するのとは根本的な違いがあるような気がするが、人為的な努力によって気分が高揚する効果を引き出そうとして、その努力の甲斐があって気分の高揚がもたらされるのと、思いがけないところで偶然に気分の高揚がもたらされるのにも根本的な違いがありそうだが、何が根本的に違うかといえば、自分で心身の状態を制御しようとすることと自然の成り行きにまかせることとの間で違いがあるのは確かで、誰もが無為自然のなすがままにまかせて感性の赴くままに振る舞えるわけでもなく、絶えず意識して自らを気遣い制御しながら、そうする方が良かれと思って、結果的にそれが見込み違いとなって自らに悪影響をもたらすことがあっても、絶えず自己への配慮を怠らないように心がけて、それが意識しなくてもできるようになれば、何か節制が保たれているように感じられるはずだが、そういう水準ではそうだとしても、他からもたらされる作用や影響にどう対応するかとなると、自身の気分が良くなるように気遣うばかりではうまく対応できないのはわかりきったことだが、たとえ不快な気分となっても他者への配慮を優先させなければならない場合もあり、そうなるとストレスを感じるわけだが、逆に立場の上下関係などを利用して他人にプレッシャーをかけるようなことをやれば、そうすることによって自身の気分は高揚するだろうが、他人を不快な気分にさせることになるわけで、そうやってその場ではうまく対応できているようにも思われることが、職場の上司と部下との上下関係などにおいてはありふれたことかも知れないが、権力を行使するとはそういうことであり、自らの気分を高揚させたくて権力を行使しているわけではないが、権力を行使できれば気分が高揚するだろうし、集団によって構成される組織の中で必ず立場の上下関係が生じるのは、自分だけでなく他人を制御するために生じるわけで、それによって立場が上の者の気分が高揚するわけだから、そんな組織的な上下関係が自然に構成されると捉えておけばいいかどうかは、あまり確信は持てないかも知れないが、結果的には立場が上位に位置する人が下位に位置する人に対して権力を行使して気分を高揚させていることは確かで、それが同時に下位に位置する人に不快感をもたらしながらも、いずれは自分も上位の立場になって権力を行使したいという野望を抱かせて、そんな野望を抱いている人がいる限りで組織が存続するわけでもないが、そういう組織の在り方が妥当かどうかもよくわからないところかも知れないし、それよりは対等の立場で協力し合う方が、それができればの話だが、お互いにストレスのない関係になると期待することはできるが、実際にそれをやるとなると、それにかかわってくる各人や各団体の間で利害調整がうまくいかずに、試みが頓挫する可能性も高く、できるだけ民主的なやり方で話し合いや協議によってかかわってくる人や団体の同意を取り付けたいだろうが、そういうことをやるにも限界があり、時には有無を言わせぬ命令や指令によって事を進める場面が必ず出てきて、制度や組織の仕組みがそういうことを前提として成り立っている面もあるだろうし、それを暗黙の了解事項として含みながらも、建前上は民主的な話し合いや協議の場を設けて、そこで形骸化した会議が開催されて、事前に有力者や有力国や多数派などによって提起された問題が話し合われることになるが、それらの意向に沿った結論へと持って行こうとするわけで、そうやって何かしら決まり事が全会一致のような形で決められるわけだが、決められたことを実行するにはやはり組織的な指揮命令系統を利用しないとできないわけで、そういう意味では何から何まで全て対等な立場で協力し合うようなことにはならず、話し合いや協議などの民主的な手続きを重視していても、それだけでは事が進まないことはそれにかかわっている誰もが承知しているはずだが、どこまで対等な立場での協力関係を構築できるかが、民主主義の理念を実現するには重要となってくるにしても、その一方でそういう手続きを一切無視して権力を行使して強引に事を進める方が、それもできればの話だが、権力を行使する側にとっては気分が良いはずだが、逆に権力を行使されて強制的に作業をやらされる側からすれば面白くないだろうし、しかもそれによって命の危険にさらされるようなことにでもなれば面白くないどころか、何とかしてそこから逃げ出したくなってくるだろうが、そうなることを免れる妥協策として、賃金や報酬と引き替えにして作業をやらせることになってくるわけで、いやな作業だがそれと引き替えにして満足できる賃金や報酬を受け取れば、そういうところでは気分が高揚するだろうし、それを使ってほしいものを手に入れることができれば、そこでも気分が高揚して満足感を得られるものの、そんなギブアンドテイクの関係が対等の立場での協力関係かというと、建前上はそうとも受け取られているが、実質的にはそうではない可能性の方が高く、大抵の場合は満足はできないが妥協せざるを得ない賃金や報酬の額となりやすく、また雇用される側よりは雇用している側の方が立場が上であることは誰もが承知しているだろうし、雇用している側が利益を出すにはいかにして人件費を抑えるかが重要となってくれば、当然雇われている側が満足できるような賃金や報酬が払われるわけではなく、それなりに不満が残る額となってしまうだろうが、そこでも組織の中で立場が上の者には立場が下の者よりも高額な賃金や報酬が払われるのが普通だろうし、そうなると権力を行使して命令する側の方が命令されて作業する側よりも取り分が多くなってしまい、そういうところでも不当に安くこき使われているという実感を覚えるだろうし、そう思っているだけでも不快な気分になってくるわけだが、そこからもいつかは自分も権力を行使して部下に命令する立場になりたいという野望が生じてくるだろうが、そんな野望を抱いている人が民主的な手続きを重視するかというと、普通に考えてそういう面倒な手続きは形骸化させて、権限を持っている立場の者がその立場に伴って生じている権力を行使するのが当然だと思うだろうし、いつの時代でも民主主義を軽視する意識は組織的な上下関係の中でおこなわれる権力闘争から生じてきて、そこから頭角を現してきた人が組織の頂点に立って独裁的な権力を振るうようになるのだろうが、たとえその手の独裁者が政変によって権力の座を追われることになっても、組織的な上下関係が温存されていれば似たような人が次から次へと出現してくることが予想されるが、そこでも妥協が成り立つなら、世襲制や集団指導体制などの方が官僚組織を長続きさせるには都合が良くなってきて、そういう成り行きに伴って民主主義とは無関係な体制が維持されてしまうだろうが、そうなることを考慮するなら、自分の気分が良いか悪いかで安易に物事を判断しない方が賢明であり、確かにわかりやすいことを単刀直入に言ってくる人の方が浅はかな人には信用されやすいものの、その背後にはそれだけでは済まないことが山ほど積み上がっていて、それに関してはうまくいかないことがわかっていても面倒な話し合いを続けなければならない事情も出てくるだろうし、何よりも民主的な手続きでは気分が高揚しないわけで、それどころかいつまで経ってもわかりやすい結論に至らなければ、実践的な作業が遅延するばかりとなって、そんな手続きなどしない方がいいと思われてしまうだろうが、そう思ってしまう人はもっとすっきりした結論に至ることを願っている一方で、それと自覚することなく気分を高揚させたいわけで、そういう人が指導者の立場になればそれなりに人気が出るかも知れないが、それと同時に独裁者になる可能性も高いわけだ。


6月14日「関係の程度と限度」

 人が何に関心を持つかはその場の状況や成り行き次第な面もあるだろうが、一時的に関心を持ったからといって、それが長続きするとは限らず、その場その時で刺激を受けた対象へと次々と関心が移ってしまえば、それ以前に何に関心を持っていたのか思い出せない場合もありそうで、また関心を持っただけでその対象にかかわれるわけではなく、かかわろうとしてもかかわれなければ、次第に関心が薄れてしまうかも知れないし、代わりにかかわれる対象へと関心が移ってしまえば、直接かかわっている事実がその人にとっては重要に思われて、何かそれが運命の出会いのように感じられて、ますますかかわっている物事へとのめり込んでいってしまうかも知れないが、客観的に見るなら単なる偶然の巡り合わせでたまたまそうなってしまったにすぎず、かかわっている対象からすれば誰でも良かったのに、たまたま引っかかってきたのがその人だったから、その人を利用することになっただけかも知れないし、その人にとっては重要だが、その人がかかわっている対象からすれば、その人の存在が大して重要でもないのかも知れず、そういう意味では直接の関係を結んでいても必ずしも相思相愛とはならず、一方が他方のことを一方的に重視しているだけであれば、他方にとってはそんな関係など重要でも何でもないのかも知れないが、大して重要でもないからといって軽く見てなめてかかると、思わぬところから因縁が生じてきて、そのつもりもないのに邪険に扱われた思われて、軽く見ている側から逆恨みされたりして、そうした怨恨の類いが募ってくると面倒な事態となってしまうのだろうが、逆にかかわっていくうちに当初は軽く見ていたのに、次第に重視しなければならない成り行きになってしまう場合もあるにしても、それが何をきっかけにしてそうなってしまうとしても、客観的に見るなら偶然の巡り合わせでたまたまそうなっているだけかも知れないが、それによって自らの運命が変わったと思い込んでしまえば、何かそれが重大な契機のように感じられて、それが良い方向に作用すれば、機会を捉えてうまく立ち回ったからそうなったのであり、自分には運を味方につける才能があると思ってうぬぼれるかも知れないし、逆にひどい目に遭えば、自分には災禍を呼び込むような呪いがかけられているのではないかと思ってしまう人などまずいないだろうが、何かそれに関して心当たりがあれば、神社に行って厄払いするような成り行きになるかも知れないし、そういうところで偶然の巡り合わせを信じられないから、そこに必然的な理由や原因を当てはめて安心しようとするのだろうが、不安でいるよりは安心したいだろうし、不安感に苛まれると他に助けを求める成り行きになるにしても、その助けというのが実際に効力のある助けが欲しいわけで、そこでも神に助けを求めることと、具体的な手順を踏んで人や団体に救助を求めるのとでは程度の違いも実質の違いもあるだろうが、何に助けを求めるかでもその場の偶然に左右されて、何か見当違いなところに助けを求めてしまえばうまくいかないのが当然の成り行きになるだろうが、それも具体的に行動を起こしてみてから結果がわかってくるだろうし、そこに至る経過の中である程度は目星もついて、何をやればどうなるかもある程度は見当もつくはずだが、そういうところで制度として何をどうすればいいかが確立されている場合もあり、そういう制度を利用できればそれなりにやろうとすることが実現するわけだが、実質的にそうなっているにもかかわらず、制度の助けを借りて実現できたことを自らの力で実現したように思い込める制度もあるにしても、何から何まで全てが偶然の巡り合わせでそうなったわけではないのは誰もが承知していることかも知れないが、制度的な必然性を信じ切ってしまうと、やはり制度をうまく構築したり調整すれば何とかなると思われて、必然的にそうなるような結果を求めて制度改革を目指す成り行きとなってしまうのかも知れないが、確かにそれを目指す人や団体にとっては制度改革が重要に思われるとしても、制度を利用する側にとっては、何から何まで制度によってお膳立てされると、自力でやりたいことをやるという幻想を抱けなくなって、そういう幻想を抱いている限りで制度改革を目指している人や団体よりは制度を軽視する傾向があるのだろうが、制度にとらわれながらそんな幻想を抱いていて、そんな幻想を抱かせるような制度にとらわれていれば、その人にとっては都合の良い制度となっているはずだが、制度からも制度特有の幻想が生じてきて、それが制度にかかわっている人の意識を支配して、制度が万能であるかのような思い込みを生じさせて、制度を軽視して好き勝手に振る舞っているように見える人や集団を敵視する成り行きになってくると、そのような人や集団を懲らしめるような制度にしようとするわけで、そんなふうにして多くの人が身も心も制度にとらわれるような状況になってくると、偶然の巡り合わせでそうなってしまうような成り行きをできるだけなくそうとしてしまうのかも知れず、確実に必ずそうなるような制度の構築を目指すわけだが、そういう傾向を目指せば目指すほど人が自由に振る舞える範囲が狭まって生き苦しい社会となってしまうだろうが、どこまでそういう傾向に持って行くかに関して限度があるわけでもなく、限界があることは薄々誰もが感じ取っているかも知れないが、その限界というのが制度に頼り切っている集団の組織的な硬直化が示しているところであり、制度だけだと融通が利かなくなって、かえって不都合が生じてくるわけで、それに関しては行政的な政治の領域では政令の類いを発して制度の運用に手心を加えようとするのだろうが、制度とあからさまに矛盾するような政令を出すことはできないだろうし、そういうやり方にも限界があることは確かなのだろうが、結局はどうやってその場の状況に応じて融通を利かすかが制度を運用する側に委ねられていると共に、制度を利用する側にも節度が求められて、利用しすぎないことが制度の維持にとっては重要となってくるわけで、そういう微妙な力加減が制御できていないと、たちまち制度の矛盾が明らかとなってきて、制度を骨の髄までしゃぶりつくように私物化しようとして、制度自体をおかしくしてしまうのだろうが、そういった制度の私物化に関しては節度をわきまえずにやりたい放題やろうとしてしまう勢力に属していると、何か人の痛みを知らないようなことが平気でおこなわれているのに、それを見て見ぬふりをしてその場だけの調和を重んじるような成り行きになってしまい、そうなると一見制度がスムーズに機能して滞りがないように感じられるとしても、制度の矛盾がもたらす不都合や不具合には目を瞑って、そういった矛盾に直面して苦しんでいる人を見殺しにしているような状況がもたらされて、制度的には繁栄しているがその裏で人心が荒廃しているような世の中になってしまうのかも知れないが、そういうところで正義の味方を装うジャーナリストの類いがそうなっている状況を告発するかも知れないし、そういうところで制度の矛盾を補完する制度が動作している場合もあり、何から何まで不具合や不都合が全て放置されているわけではなく、そうした不具合や不都合の犠牲になっている人たちを助けようとする試みもそれなりに出てくるのが普通の成り行きであり、世の中が制度的に行き詰まっているとしても、結果的にはどうにかなるような成り行きへと持っていこうとする力が何かしら働くのだろうが、それも偶然の巡り合わせに左右されて働く作用でもあり、中には放置されて見殺しにされてしまう人も出てきて、悲惨な結果に終わってしまう場合もあるだろうが、少なくともまずは自力で何とかしようとしない限りはそういう成り行きにもならないだろうから、たとえ無駄に終わっても悪あがき程度のことはやれる可能性があるのかも知れない。


6月13日「キレる人」

 物事の辻褄が合うように考えている限りで、考えていることが論理的に破綻しているはずがないが、何をどう考えてみても、何かが起こってからそれが起こるまでの経緯を調べて、起こった理由や原因を突き止めれば、こういう理由や原因でこういうことが起こったと説明できるが、そこで何かを起こした人が、それを起こすに際して意図や思惑などがはっきりしていれば、これこれこういう理由でこういうことを起こした、と頭の中で事の成り行きを整理できているかも知れないが、衝動的に起こしてしまえば、事前にはっきりした意図や思惑があったわけでもなく、行き当たりばったりで何らかの行為に及んでしまったことになるだろうし、後からそれが起こるまでの経緯を調べて、辻褄が合うように事の成り行きを説明できても、それを起こした当人が納得するかというと、そんな理由で行動に及んだのではないと思うかも知れないし、そこでも反発して衝動的に激高する可能性もあるだろうが、そんなふうにすぐにキレやすい人が論理的に辻褄が合うように物事を考えているかというと、いつ何時でもキレているわけでもないから、冷静になっている時は論理的に物事を考えているかも知れないが、感情が高ぶって怒り心頭に発した時にはそうではないと想像がつくだろうし、自らがキレることまで計算に入れながら行動しているわけでもなく、いったんキレてしまったら何をするかわからないと自分で自分を恐れているのかも知れないし、そういう人に向かってすぐにキレないで冷静になれと諭しても、そんなことは自分がわかりすぎくらいにわかっていると思っているだろうし、その人が何かの拍子にキレて暴力を振るったりすれば、その人がキレやすいことを承知している周囲の人には、そうなった理由や原因が手に取るようにわかるかも知れないが、それは論理的に説明するまでもないことであり、それが起こるまでの経緯など調べなくてもわかることだろうが、その人がどうしてキレやすい性格となってしまったのかと言えば、その人の親もキレやすい性格でそれが遺伝したとか、キレやすい性格の親から度重なる暴力や虐待を受けながら育ったから、それがトラウマとなってその人もキレやすい性格になったとか、そういうことももっともらしく辻褄が合うように説明できるかも知れないが、そんなことを今さら説明されてもその人の性格がどうなるわけでもなく、キレられるのがいやなら、周囲の人たちがその人がキレないように配慮しながら対処していくしかないだろうが、中にはその人を遠ざけるためにわざとキレさせて、それを理由にして排除するようなことを画策するかも知れないし、その場の情勢次第ではキレやすい人の利用価値も出てくるかも知れないが、そういうことを知りたいわけでも知ろうとしているわけでもないとすれば、人の行動に関して何が謎なのかというと、それが起こってから辻褄が合うように説明したいと思う理由が謎なのかも知れず、どうにかしてそれを言葉で説明したくなってしまい、そうすることによって起こったことを都合の良いように解釈したくなってしまうのだが、そんな説明では収まり切らない何かがそこで起こっていたのに、それを言葉で説明することによってなかったことにしたいと思っているわけでもないのだろうが、実際に言葉でもっともらしく説明してしまうと何かが欠けてしまうわけで、それが何なのかが当事者でないと実感できないのかも知れないが、それを言葉で説明して合理化してしまった後から、実際に起こったことを振り返ってみると、その時の興奮して昂ぶった感情が抜けてしまっていることは確かだが、言葉では説明できない何かに刺激されてそうなってしまったとも思われて、それを後からもっともらしく論理的に説明されると、そんなことが原因でそうなってしまったわけではないと思うかも知れないし、それはその時にしか感じ取れないことでもあり、それを後からもっともらしく論理的に説明しようとする人にはわからないことなのかも知れないが、その時に何を感じ取っているのかというと、うまく行く可能性であり、その場を何とかしてうまく切り抜けたくて行動や行為に及んでしまうのであり、それがうまくいかないと怒りにまかせて暴力に及んでしまったり、暴言を吐くことにもなり、結果的にはその人の立場を悪くしてしまうわけだが、うまく行く可能性を感じ取ったから行動や行為に及んだ結果として、逆にうまくいかずに自身にとっても思いがけないことを起こしてしまったわけだから、それは論理的にもっともらしいことなどではなく、逆に論理的に破綻しているわけで、そういうところで論理的にもっともらしい説明には違和感が伴ってくるわけだが、説明する方は説明を信じてもらいたいからできるだけもっともらしく説明しようとする一方で、実際にそんなことをやってしまった当事者の方は、自身にとっても信じられないことをやってしまったわけだから、信じられるような説明では納得がいかないのは当然なのだろうが、当事者ではない第三者の立場になってしまうと、当事者の信じられないような行動や行為よりは、それを説明する人が説明するもっともらしい内容の方を信じてしまい、どちらかというと信じられないことをやってしまった当事者の味方にはなれないわけで、そういうことに関連して、事件の加害者よりはその取り調べをする刑事とか、推理を働かせて真相を究明しようとする探偵のような立場の人の方が好印象を抱かれる傾向になるのだろうが、そんな好印象が当事者や加害者などとは何の関係もないフィクションを構成して、事件の真相を究明しようとする側にとって都合の良い話の内容となってしまうのかも知れないが、そこで何かを起こした当事者としては、自分の与り知らないところで勝手に話が構成されてしまい、しかも自分が犯人扱いされてしまうことには納得がいかないだろうし、どちらかと言えば自分の方が思いがけない運命のいたずらに翻弄されて窮地に陥ってしまったのだから被害者であるはずなのに、あろうことかそれが犯人扱いされて批判されたり非難される事態に直面するようなことになってしまえば、何かの罠にはめられてしまったのではないかと被害妄想を抱いてしまうかも知れないし、どこかで道を踏み違えて不利な状況に立たされてしまったのであり、それこそが思ってもみなかったあり得ないことであり、そういう論理的にもっともらしく思われる説明自体が論理的にもおかしいのではないかと疑問を感じるかも知れないが、信じられることと信じられないことの違いが、信じられないことをやってしまった当事者が起こしたことを信じてもらえるように説明しなければならない事情に含まれているわけで、単に立場の違いからそうなってしまうとも言えるだろうが、それもどちらかと言えば立場の良い方の味方をしたいという思惑が働いて、不利な立場になってしまった人の言うことを信じても一文の得にもならないだろうし、自身でも信じられないことをやってしまった人の話など信じてもらえないのは当然だとしても、実際に信じられないような体験をしてしまったのだから、しかも幾分同情の余地のある被害者の立場ではなく、全く同情の余地のない加害者の立場でそれを体験してしまうなら、それこそが自身にとって貴重な体験となるだろうし、身にしみて自身を非難してくる世間の怖さを思い知るかも知れないが、それが取り返しのつかない失態となってしまえば、汚名返上の余地などどこにも見当たらないかも知れないが、それが貴重な体験となるためには、そこから挽回のチャンスを掴まなければならず、実際にチャンスを掴んでそれなりの成功を収めれば、それも信じられないことの延長で起こることになり、それを後から信じられるように論理的にもっともらしく説明されても、やはりそんなことを成し遂げた当人には信じられないだろうし、自身でも信じられないようなことをやってのけたと確信してしまうかも知れない。


6月12日「理由に騙される」

 その必要があれば、単純に何か特定の物事を探し求めている気にはなれるとしても、何かを探し求めているという自覚なしに何かを探し求めている人もいくらでもいるかも知れないし、探し求めている対象が実際に探し求めている物事とは違うことを理解できない人もいくらでもいるかも知れないが、なぜそうなってしまうのかといっても、そんなことを理解しようとして理解できるわけでもなく、その必要を理解していればそんなことにはならないはずだが、実際に何かを使おうとして見つからなくなってしまったから探し求めていることになれば、探し求めている物事が特定されていることになるだろうし、なぜだかわからないが、何かを探し求めている場合もあるにしても、理由がわからないからといって困惑するとは限らず、単純に欲しいものを探し求めていても、なぜほしいのか理解できない場合もあるから、理由を探し求めることが全てにおいて優先されるわけでもなく、逆に理由がわからない方が都合が良い場合もあるかも知れず、特に欲しいものが何もないという心境でなければ、何かしら欲しいものがあって、それを探し求めているというよりは、探さなくても金さえ出せば手に入るものなどいくらでもある中で、値段が高くて手が出せなくても、値段が高いというだけで価値が高いと思わされて、価値の高いものを手に入れたいとも思わされて、必要もないのに欲しいと思い込んで、欲しいものを見ているだけでは満足できないとしても、商品の宣伝によってそれを欲しがるように仕向けられているから、そんな理由自体が信用できない場合もあり、さらにそれが機械類であれば、性能が高いほど値段が高くて価値も高いということになって、それを欲しいと思うことが当然のように思われるだろうが、それを欲しいと思うこととそれが必要であることが一致しなければ、必要でもないのに欲しいと思っているだけで、そうなるとそれを欲しいと思う欲望自体も信用できなくなってしまうだろうが、それを欲しがる理由が必要もないのに欲しがっているのだから信用できないとしても、信用できなくても欲しがっているわけだから、欲望を優先させれば信用など軽んじてもかまわないようにも思われて、必要もないのに欲しがっているわけだから、それも欲望を優先させれば、必要性も軽んじてもかまわないようにも思われて、しかも金さえ出せば手に入るとなると、何を優先するかの優先順位としては、金を求めることが他の全てに優先させなければならなくなる可能性が高まり、金さえあれば全てが解決するとは限らないが、とりあえず金を求めて、金が手に入れば、金を使って欲しいものを手に入れる成り行きになるだろうが、すでにそうなっている段階で、欲しいものが限定されてきて、本当に欲しいものが欲しかったのかどうかも疑わしく思われてくれば、商品の宣伝の類いによってそれを欲しがるように誘導されているのではないかという疑問も湧いてくるだろうが、それ以前に本当に欲しいものが本当に求めているものだとも限らないし、また本当に必要なものが本当に欲しいものであり本当に求めているものであるとも限らず、それが本当でなくても構わない場合もあり、ただその場の成り行きに従っていると、自然に必要なものや欲しいものや求めているものが定まってくる可能性もあるだろうが、必要なものと欲しいものと求めているものが一致しなくても構わなければ、そういう成り行き自体が信用できなくなり、その場の成り行きに騙されているのではないかと疑念を抱けば、そこで必要だと思うものが必要ではない可能性も考慮に入れておく必要があるかも知れないし、そこで欲しいと思わされているものがなくても困らないかも知れないし、求めているものを求めても手に入るとは限らないかも知れないが、そういうことをその場でいちいち自覚できるかというと、それも怪しいところであり、例えばグーグル検索で毎日様々な企業の株価をチェックしていると、グーグル傘下のユーチューブで株取引やFX取引で金儲けの仕方を伝授するという広告が異常な頻度で出てくるが、また金に困っていると思われるのか、借金の返済に関する悩みの相談やアルバイト情報や転職情報に至るまでありとあらゆる金に関する広告で画面が埋め尽くされるというと、話を誇張しすぎているのが明白になってしまうが、よく考えてみれば本気で株取引をやっている人がグーグル検索程度で間に合うのかというと、普通に考えてもそんなことはあり得ないだろうし、最低でも証券会社が提供するそれ専用のツールやアプリやソフトでそういうことをやっているわけだが、そういう意味では広告自体が広告を見せられている人の意図や思惑とは一致していないし、ただ企業の株価を知りたいからグーグル検索を利用しているとは受け取られず、金儲けがしたいからグーグル検索を利用していると受け取られて、さらに金に困っているから苦し紛れに株取引に手を出して失敗して、借金苦に陥っているとも受け取られて、金に困っているなら安易に株やFXなどに手を出さずに、自分でアルバイトでも転職でもして働いて稼げとお節介な忠告をしているわけでもないだろうが、邪推してそういうことまで言われているように感じられると、グーグルという企業のやっていることに腹が立ってくるだろうし、ではどうすればいいかという成り行きになってくると、グーグルが提供する有料の広告なしでユーチューブが見られるサービスを使わずに、HTMLを工夫して広告を見せる箇所を削ってユーチューブを見ようとして面倒な操作をおこなってしまうわけだが、誰もがそんなことをやっているわけでもないだろうし、そこに至る過程において出てくる理由も一つではなく、その場の状況に応じて出てくる様々な理由の中では、互いに矛盾し合っている理由も絡み合いもつれ合っている理由もあるだろうし、その中のどの理由をどの程度の割合で優先させるかといっても、そんなこともその場の成り行き次第でも気分次第でも変わってくるだろうし、ある時には不快感を募らせながらも面倒な操作をおこなうのが面倒だから我慢して広告を見させられていたり、またある時にはあまりにも広告が頻出して腹が立ってくると、途中で見るのをやめてしまったり、特定のチャンネルでは特定の広告が出てくることがわかっているから、はじめから広告が出ないように操作した上で動画を見ていたりと、そんなことにまで気を遣うのが馬鹿らしくなってしばらくユーチューブを見るのをやめてしまったり、もともと暇つぶし程度で見ていることだから、そんなことにまで無駄な労力を割くのもおかしいと思うようにもなって、自己嫌悪に陥ってしまうこともあるが、そんな気分に至るためにそんなことをやっているわけでもなく、どうということはないと思ってしまえれば、それでも構わないのだろうが、腹が立つことばかりではなく、暇つぶし程度の志の低さを意識させられるわけでもなく、娯楽だと割り切って見ているわけでもないところが、複雑な思いと共に、そこでおこなわれていることの意味や意義を意識させられてしまうわけだが、少なくとも株取引に関して言えることは、金儲けを意識しておこなっていることは確かだろうが、結果的にどの程度儲けられるかに関しては、グーグル検索で株価をチェックしている段階では何とも言えないわけで、大抵の場合はそれが直接の金儲けにつながるかどうかもわからずに株価や値動きを知ろうとしていて、それを知ったところでその情報を生かして投資しても、その時点でもどうなるかはわからず、だからといってもっと確実に儲かるやり方があると宣伝されても、どうせ失敗したのだろうから借金の相談に乗ってやると勧誘されても、そんな割の合わない非効率なことをやっていないでアルバイトでも転職でもしろと促されても、まだそこまで事態が進行していない段階で先回りされていくら忠告されても、それを信用しろと言う方がおかしいのは当然かも知れない。


6月11日「見かけ倒し」

 世の中で見せられている物事の大半が見かけ倒しであるとは言えないが、少なくともそこで何かがおこなわれているように見せかけたいわけではなく、実際に何かがおこなわれているはずだが、おこなわれていることの実態と見せかけている外観との間にずれが生じていれば、その中のいくつかは見かけ倒しの可能性はあるだろうし、具体的に何が見かけ倒しなのかは、その可能性が疑われる事例を詳しく調べてみないことには明らかにはならないだろうが、世の中で注目されてメディアを介して大々的に宣伝されている物事が見かけ倒しというわけではなく、それよりは人目につかず大して話題にもならないことが見かけ倒しであれば、別にそれがどうしたわけでもないと思うかも知れないが、見かけ倒しであってもかまわないことが見かけ倒しであれば、さらに取り立ててそれが問題となるようなことでもなく、見かけ倒しであるのが当然だと思われてしまうだろうが、何がそうなのかというと、見かけ倒しだとは思われていない物事がそうであれば、それが見かけ倒しであることの典型例となるわけだが、それに関しては具体的に何が見かけ倒しであってもかまわないだろうし、それが見かけ倒しではないと思われている物事なら何でも構わず、そうは見えない物事がそうだということが見かけ倒しなのであり、そういう物事のそういう面を見つけて見かけ倒しだと思えば、それで構わないわけで、そういう意味では見かけ倒しであることが取り立てて問題であるわけではなく、世の中で見せられている物事には、大なり小なり見かけ倒しな面があると思っておけばいいだろうし、多少は見かけ倒しであるからといって不都合であるわけでもなく、逆に見かけ倒しでないと、何かちょっとおかしいのではないかと思っておくぐらいで構わないだろうし、見せられている物事が見かけ倒しであることを嘲笑したり騒ぎ立てるのは、はしたなく無礼なことであり、それが見かけ倒しだとわかっても、事を荒立ててそれを周囲に吹聴したり指摘して回る必要はなく、できることなら暗黙の了解事項や周知の事実として各人の胸にしまい込んでおけばよく、それが見かけ倒しだとは気づかないように振る舞う必要があり、たとえそれが見せかけの演技になろうと、周囲の誰もがそう振る舞っていると思えば、そんなふうに見せかけている自らの振る舞いも取り立てて不自然に見えるわけでもなく、そう見られている限りで他から不審に思われているわけでもないはずだが、逆に見かけ倒しでないと周囲から不審の目で見られてしまうかも知れないし、常に見えているのは飾り立てている面であり、見かけ倒しな面が誰の目にも見えているはずだが、逆にそうやって必要以上に飾り立てるように仕向けられているのに、そこでそれとわかるように飾り立てない意志を示してしまうと、飾り立てる傾向に逆らっているように見えてしまうわけで、さらにそれが反逆の意志を明らかにしているとでも受け取られると、それを理由にして周囲から叩かれてしまうわけだが、そうなるのがいやなら、反抗や反逆の意志も見かけ倒しである必要があるだろうし、実際にそれが見かけ倒しである限りで安心して周囲から許容されるわけだが、見かけ倒しではない反抗や反逆の意志とは何かといえば、実際に実力行使ができれば、それが見かけ倒しでないことが周囲にも知れ渡って恐れられてしまうかも知れないが、そうなったからといって見かけ倒しでないことが証明されたわけでもなく、逆に飾り立てて見かけ倒しであるように装うのを拒否したことによって、周囲から相手にされなくなってしまって、無視の対象となれば、その人の存在そのものが抹消されて、その人がいてもいないかのように装われて、その人なしでその場の事態が進行しているようなことになってしまえば、表面的にはその人がいないかのように見せかけている側の勝利となるのだろうが、誰かがそれを意識してそうなるように画策して、そういうことがおこなわれるわけではなく、誰とも知れずにその人がいてもいないかのように振る舞うという暗黙の了解事項がその人の周辺に行き渡るわけで、そうやってその人の存在がその人の周辺から抹殺されてしまうのだろうが、それも表面上でそうなっているにすぎず、それ自体が見かけ倒しな状況でもあり、そうなっているように装われているだけで、逆に装っている方が時代の経過と共に世の中から忘れ去られる存在でしかなく、そんなすぐに忘れ去られるような見かけ倒しな小物たちが誰とも知れずに守っているのが見かけ倒しな世の中でもあり、それが本当に世の中の実態なのかどうかも疑わしいだろうが、幻想の共有としてはありうる事態なのかも知れないし、見かけ倒しな著名人を崇拝する無名の大衆で構成される共同体の共同幻想として見かけ倒しな状態が維持されていることになるわけだろうが、それも本当に維持されているかどうかも怪しいわけで、何かちょっとしたきっかけから吹けば飛ぶように消滅してしまう傾向なのかも知れないが、それも絶えず一時的な傾向として維持されているように装われているのかも知れないし、そういうところがはっきりしないままとなっていて、そうなっていると断言するわけにもいかないだろうが、そんな人たちを仮装の中心としてブログ的な仮想空間の中で、どうでもいいような日々の日常空間の中で起こる些事がもてはやされているように装われるのは確かだとしても、果たしてそれが本当にもてはやされているのかというと、そういう些事が画面上に表示される頻度が高いというだけで、誰も気にも留めていない可能性も高く、ただ多くの場所や時間の中で見かけられるのは確かなのだが、その内容が記憶に残ることはなく、記憶に残る必要もないからそれで構わないのだろうが、何とかしてそういう些事で日常空間を埋め尽くしたいという意図や思惑が働いているわけではなくてもそうなっているわけだから、すでにそういう空気や雰囲気が世の中に充満していることも確かなのだろうが、だからといってそれによって世の中の何がどうなっているわけでもなく、普通は思考の対象にはならないわけだから、それ自体があってないような世の中の傾向に含まれるだろうが、意識して考えることを拒否しているわけではなく、それらによって物事を考えなくても済むような環境がもたらされているとも言えないだろうし、それが何かのなれの果てであることは誰もが薄々勘づいているのかも知れないが、それが何のなれの果てであるかに関しては、まだそこまでは考えが及んでいないのかも知れず、だから何だかわからないが隣人とも言えないような得体の知れない誰かが思っているように装われている何かを共同幻想の対象としているのかも知れないが、それがはっきりとした対象とはならず、こういう対象にはこういう解釈を当てはめればいいという紋切り型が確立されているわけでもないだろうが、何が解釈の対象となっているわけでもないだろうし、そうかといって何も解釈の対象とはならないわけでもないのだろうが、少なくとも見かけ倒しを拒否したり、見かけ倒しの状態から抜け出ようとする人が実際に大勢出てしまうと、見かけ倒しな人を仮装の中心とする仮想空間を維持できなくなってしまう恐れが出てくるから、誰とも知らずに守っているつもりの暗黙の了解事項には従っているつもりでいることは確かなのだが、無意識に従っているつもりではあっても、時代の変遷と共に暗黙の了解事項の内容も変わっていってしまえば、そんな了解事項が忘れ去られるのに伴って了解事項に従っている人たちの存在も忘れ去られて、了解事項が守られていた当時の人たちが何をやっていたかなんてどうでもいいことになってしまい、やはりそれは思考の対象とはならない日常の些事でしかなく、今となっては誰も思い出せない共同幻想に基づいた価値がそこで機能していたのかも知れないが、それがどんな機能かといえば、誰もが自身が見かけ倒しであることを認め合い、それを正当化する機能があったのかも知れず、今もそれが当時とは幾分内容を変えながら機能し続けているのかも知れない。


6月10日「物事の組み合わせ」

 ものは言いようで、言い方によって印象が良くも悪くもなるのは確かであり、例えば、「〜だ」というのと、「〜でしかない」というのとでは、「〜だ」は中立的な物言いだが、「〜でしかない」というと、対象となる物事に否定的な印象が伴ってきてしまう場合がありそうで、それに関して「人は動物だ」というのと、「人は動物でしかない」というのとでは、動物である人と、動物でしかない人とで、動物でしかない人の方が否定的な印象が伴ってくるだろうが、言い方の違いではなく、比較する物事の組み合わせから印象が良くも悪くもなる場合もありそうで、何と何を比較してそこからどんな結論へと持って行くかで、良い印象や悪い印象を得ようとする意図があると、前もって比較する対象が限定されてしまうから、それ以外の比較の対象を思い浮かべられなくなり、限定された比較から導き出される結論へと恣意的に誘導されて、それしか結論がないような気がしてしまうかも知れないが、比較できる対象が他にもあることに気づけば、その種の恣意的な誘導にも惑わされずに済むかも知れないし、それに関して二つの物事を比較してどちらを選ぶかの強制二択に直面する機会もあまりないかも知れないが、二つだけでなくさらに多くの選択肢があることに気づけないと、二つの物事を比較してどちらが良いか悪いかを決めるという先入観にとらわれて、何かと何かを比較するという言語表現に思考が依存して、それによって安易な比較癖がついて、比較しなくても構わないという選択肢があることに気づけなくなり、提示されたどちらを選ぶかの二者択一を迫ってくるゲームにのめり込んでしまえば、そのどちらを選んでもゲームを仕掛けてくる主催者側の思うつぼにはまってしまうわけだが、果たしてそれがゲームなのかというと、誰もが自らがとらわれているゲームを主催する立場にはなれないし、実際にどこでゲームがおこなわれているわけでもないだろうが、思考が二者択一に依存していると、自然と頭の中でゲームをしてしまうわけで、そんな二者択一にとらわれていれば、そのどちらを選んでもそこから脱落しなくて済むから、絶えず選ぶべき選択肢を用意しておいて、そのどちらを選ぶかの判断に困らないような状態を保ちたいわけだが、それがさらに重症化してくると、一方に肯定できるものがあり、もう一方に否定できるものがあるという比較対象が必要になってきて、そのどちらでもなかったりどちらでもあったりする物事があってはならないような心理状態となってしまうだろうが、どちらを選んでも選ばなくても、正解でも不正解でもあったりなかったりすれば、判断しようがなくなってしまうだろうが、そうなっては困るから絶えず肯定すべき物事と否定すべき物事が用意されている必要があり、前もって自らがそれを用意しておくこと自体が予定調和であり、なぜそんな物事が用意されているのかがご都合主義のなせる業だろうが、絶えず良い物事を選んでいる気になれるなら、あるいはたまには悪い物事を選んでしまって失敗したと反省できれば、それで気が済むということかも知れないし、目の前に良い物事と悪い物事とが並べられていて、良い物事を選べば正解で、悪い物事を選べば不正解であれば、そういうことをやっている限りでゲームが成り立つわけだが、果たして自らがゲームに興じている必要があるのかというと、根本的なところでゲームをやっていないと他にやるべきことがないような気がして、他にやるべきことがないから、そこにやるべきこととしてゲームが構成されていなければならず、それが選択肢のどちらか一方を選ぶと正解となったり不正解となるゲームだろうが、選択肢が二つよりも多くてもゲームそのものは成り立つだろうし、それらのうちでどれか一つか複数個が正解や不正解であればいいわけだが、選択肢の全てが正解でも不正解でもあったりなかったりすれば、ゲームではなくなるだろうし、さらには設定されている他にも選択肢があるかも知れないし、それを選択してもしなくてもどちらでも構わなければ、やはりゲームそのものが成り立たなくなってしまいそうだが、それはゲームというよりはクイズに近いかも知れないが、そもそも回答者である自分が答えるべき設問や選択肢を設定しようとしていること自体がおかしいと思えば、それがゲームでもクイズでもないことに気づいてしまうだろうが、ではゲームを成り立たせるには何が必要なのかというと、ゲームの主催者が必要なのであり、何らかの団体が自らが参加するにふさわしいゲームを主催してほしければ、ゲームを主催してくれる団体を求めていることになるだろうが、自分の都合を優先させるなら、自分にとって都合の良いルールを設定する必要があるだろうし、そんなルールを誰が設定するのかといえば、自分で設定する以外にはあり得ず、結局は自らが勝てるようなゲームのルールを自分で設定しなければならず、やはりそれではゲームにならないわけだが、ゲームでないとすれば何なのかというと、何かと何かを比較してそのどちらが良くてどちらが悪いかを決めたいだけかも知れないし、それを決めるに際して合理的な比較基準も決めたいのかも知れないが、果たして自分だけでそれが決められるかというと、他からの判断も必要としていて、そこにかかわってくる誰もが納得できる判断基準を求めたいのかも知れないが、それを決めるに当たって自らの都合を反映させたければ、自らの都合が他の誰の都合とも衝突しないように調整できれば、他の誰からも文句が出てくることもなく、それが自分だけの都合ではなく、他の誰もが納得できるような共通の都合となるのだろうが、世の中でおこなわれている物事に関して、何かしらその物事にかかわっている人がいるから、そこで物事が成立していて、それが成立している限りで、その物事にそれにかかわっている人の都合が反映されているわけで、そんな物事の中でどれが良くてどれが悪いかを決めてしまうと、悪いと決めた物事にかかわっている人の都合を考慮していないことになり、そうである限りで誰もが納得できる都合などあり得ず、誰にとっても受け入れられる判断基準もあり得ないことになってしまうわけだが、少なくとも判断基準に自分の都合を反映させるとなると、その都合に合わない人の都合を判断基準に反映させるわけにはいかなくなり、そこで自分の都合とその人の都合が衝突してしまうわけだが、どちらの都合を優先させる必要があるかというと、判断基準を決める人の都合が優先されてしまうだろうし、そうなると誰が判断基準を決めるかでもめてしまうかも知れないが、そうなればそこでおこなわれているゲームとは、誰が共通の判断基準を決めるかを争うゲームとなってしまうわけだが、そんなゲームがどこでおこなわれているのかといえば、たぶんゲームそのものが成り立っていないのかも知れないし、そこにかかわっている人や団体の間で何らかの争いが起こっていて、その中でも連携や協力などの関係の構築が模索されているのだろうが、それがゲームとか競争とかの体をなしていないとすれば、では何なのかというと、そこでゲームや競争がおこなわれているように見せかけたいのであり、ゲームや競争に見せかけるためのルールを構築しようとしているのかも知れず、それも共通の判断基準と同じようなことであり、不公正で八百長だらけの不正行為がそこでまかり通っていることは誰もがわかっていて、それではゲームにも競争にもならないこともわかりきっているだろうが、そこでおこなわれている様々な物事が組み合わさって動作すると、自然にそうなってしまうわけで、要するにゲームも競争も成り立たないような世界がそこに形成されているわけだ。


6月9日「思い込みのきっかけ」

 何かの拍子に思いついたことが、それを後から振り返ってみると、偶然にそんなことを思いついたと思うかも知れないが、ふとしたきっかけから巡り会うような物事が、後になって重要に思われてくると、そういうことを語る際には興味深く思われてくるし、偶然に起こったように思われることが、それが必然的にそうなったように思い込むために仕掛けられた罠だと思われると、そう思うこと自体が疑わしく思われて、普通はそんなことはあり得ないはずだが、あり得ないことが起こるということが興味の対象となってくるわけで、自然にそうなってしまう成り行きに、人為的な作為を想像してしまうのもよくあることであり、事の真相は藪の中にしかないとしても、そこから真実へと至りたいわけで、真相を突き止めて、真実を発見したつもりになれるには、必ずと言っていいほど困難が待ち構えていて、目の前に立ちはだかってくる幾多の困難を乗り越えた末に、求めようとした真相や真実に到達したと思われるなら、いやが上にもそれが真相や真実だと信じ込んでしまうだろうし、そういうことを信じ込むには必ずそういう成り行きが必要であるわけでもないのに、実際にそういう成り行きを体験すれば、何か重要な秘密を突き止めたような気になってしまうかも知れないが、それが人為的に仕掛けられたことであれば、劇的な話の展開になるわけで、ともすればそういう話の成り行きへと持って行きたくて、わざとそうなったように装って、実際に多くの人々の興味を惹きつけようとするのだろうが、社会の仕組みがそういう成り行きになりやすくしている場合もあり、都合の悪いことを隠そうとする傾向があれば、その隠そうとする物事を暴き立てようとすれば、必然的に隠そうとする人や団体との衝突や対決が待ち構えていて、それが真相や真実を突き止めようとする際に立ち塞がってくる障害となり、しかも人々を隠された真実や真相の追及に駆り立てているとすれば、そんな社会の仕組み自体が構造的な欠陥だと言えるかも知れないが、欠陥というよりは特性や特徴だと捉えるなら、隠された秘密を巡って人々が争う状況が、社会によってもたらされた興味の対象となり、それが人々の関心を社会に惹きつけるための餌であり罠でもあり、餌に食いついて罠にかかってしまう人々の養分を吸い取りながら社会が成長して、今や世界の至る所にその種の罠が張り巡らされていることになっていれば、いったい何のために社会が存在しているのかがよくわからなくなってくるかも知れないが、人々を食らい飲み込んでそこへ留め置くために存在する社会にどんな役割や機能があるのかといっても、そんな役割や機能があるとしか言えないだろうし、そこに作られた迷路で迷いながら、それが暇つぶしの娯楽として機能している面もありそうで、誰がそんな宝が隠された迷路を作ったのかといっても、人が作ったのは明らかであり、真相や真実という宝を探しながら道に迷ってしまうのは、ある意味では自業自得なのかも知れないが、宝を隠した人とそれを探す人が同一人物であるわけでもなく、そういう意味では自業自得ではなく、役割分担が別々の人に振り分けられているはずだが、誰が振り分けたわけでも事前に関係者の間で示し合わせたわけでもなく、自然に役割が決まってしまうとすれば、偶然にそうなってしまったとしか言えないはずだが、そこに作為を想像してしまうと、社会を支配している団体の陰謀だと思い込んで、宝探しが犯人捜しに変貌して、そんなことを仕掛けている犯人を告発するような成り行きにもなってきて、そこから政治的な主張も練り上げられて、社会を支配する団体を糾弾するようなことがおこなわれるわけだが、その団体が政府なのか政権政党なのか、政府や政権政党を陰から操っている謎の団体なのかは、どれでも構わないというわけでもないが、その時々での主張の内容や傾向によって使い分けられているのかも知れないし、何を糾弾の対象とするかで、話の説得力も変わってくるかも知れないが、その形式にはさほどの違いはなく、それも社会の構造を反映して生じてくる形式だと思っておいて差し支えないだろうが、何から何まで全てが社会の構造によって決まってしまうと、人の恣意的な意図や思惑の入り込む余地が生じてこないようにも思われてしまうだろうが、一時的な社会の情勢や状況の変化に応じて行動しようとすれば、そうした行動の動機となる意図や思惑が意識の中で構成されてくるわけで、それもこういう時にはこう動くべきだという思いが、そこに至る経緯や事情や、それまでに培ってきた知識や経験などから生じてくると解釈しておけばいいだろうし、それが一定の水準で顕在化すれば戦略や戦術として有効に機能するだろうが、そうした実践に至らなくても、意図や思惑として意識される場合もあるだろうし、それを抱いている自覚がなくても、行動からそういう意図や思惑が透けて見える場合もあり、一定の行動パターンとして顕在化してくると、それに伴ってよくありがちな意図や思惑が想像されてしまうわけだが、行動している当人がそんな意図や思惑に操られながら行動しているように見えるとしても、その人の意識の中では自主的かつ自発的に行動していて、そこに行動する目的や目標が生じているようにも思われるだろうし、そんな目的や目標を達成するために努力しているつもりにはなれるだろうが、結果的にそうすることによって何らかの情勢や状況がもたらされた際に何を思うかというと、目的や目標とすることが成し遂げられたり、その途中で挫折したり結果的に失敗することによって、それを踏まえて新たに以前と同じようなことを達成しようと思うだろうし、それが全く同じというわけでもなく、実際に行動して経験したことを踏まえて、新たな目的や目標を練り直すわけだが、それが以前と同じような内容になってしまうのは、すでに目的や目標を設定してからそれに向かって努力するパターンから抜け出られなくなっているわけで、そこにもそういう行動パターンを強いるような社会の罠が張り巡らされているというと、何か予定調和であるかのように思われてしまうわけだが、誰がどんな団体が意図して作ったわけでもないのに、なぜ社会の構造が人を一定の状態や行動パターンにとどまるように仕向けてしまうのかといえば、いったんできてしまった構造が安定するには、それに伴って人の行動様式も一定の範囲内で固定している必要があり、各人が思い思いに好き勝手な思惑を抱いて行動してしまうと、構造自体が崩れ去ってしまうから、そうはならないように構造の隅々で歯止めがかけられているのだろうが、それが法律や制度や慣習の類いとなるだろうし、そういった決まりや掟の類いを守るように仕向けているのが、組織的な団体となるはずだが、それを恣意的にねじ曲げたり変更を加えたり形骸化させたりあからさまに破ってみせたりするのも、法律や制度や慣習などを守らせようとする組織的な団体なのだから、その場の情勢や状況に応じて守るか破るかのどちらにも対応できるようになっていると考えるしかないが、ではその場の情勢や状況とは何なのかというと、それが社会の構造を維持するにはどうすればいいかが問われるような情勢や状況であり、構造を維持するには決まりや掟の類いを守るだけでは駄目で、時にはそれをねじ曲げたり変更や修正を加えたり形骸化させないと構造を維持できなくなってきて、しかもそれが団体にとって都合の良い構造となっていなければならないわけで、そんな都合の良い構造の中で何がおこなわれているのかといえば、宝探しや犯人捜しのゲームであり、社会の方々に宝や犯人となる物や事や人を隠しておいて、それらを探し求めるように人々に仕向けているのも、そうした団体の戦略や戦術の一環だとみておいても構わないわけだが、果たしてそんなことをやっている自覚が誰にあるかというと、誰にもないだろうが、状況証拠からそんな思い込みにとらわれてしまう人が大勢出てくるのも、社会の構造から生じている特性や特徴だと捉えておけば、それがそれなりに妥当に感じられるかも知れない。


6月8日「途中の段階」

 どのような状況に遭遇することになっても、それが自ら招いた結果だと悟れば、たとえそれが最悪の結果であっても受け入れるかも知れないが、受け入れるには抵抗感が伴ってくれば、自分のせいでこうなったわけではないと思って反発するかも知れないし、受け入れること自体が理不尽で不条理に思われてくれば、何とかしてそこから逃れようとして、どうやっても逃れられないところが理不尽であり、何か不条理な事態に直面しているような気にさせられるとしても、よくよく考えてみれば理不尽でも不条理でもなく、そうなる定めであったことが、そこからだいぶ時が経ってからわかってくれば、わかってきた頃にはすでに片がついていて、実際に苦境と思われた事態を乗り切ったからそう思われて、乗り切れなければ今もまだ苦境のただ中でもがき苦しんでいる最中かも知れないが、まだ結果に至っていないことが成り行きが継続していることを意識させて、片がついていないことを実感させて、そうである限りで結果を受け入れてはいないだろうし、まだ結果が出ていないと思っているかも知れないが、それが結果であると同時に途中経過でもあれば、両義的に受け止めておくしかなく、結果であるが途中経過でもあるという状況が、それに対してどういう姿勢で臨めばいいかといった問いの立て方では不十分に思われて、今も絶えず成り行きの渦中にいるのだから、傍観者のようにその外側から成り行きを眺めているようなわけにはいかないし、すでに済んでしまったことを後から評価するようなことではなく、現在進行形で動いている物事にかかわっている最中に絶えず判断を迫られて、その判断の良し悪しを評価しても、それがわかった頃には手遅れになってしまうとしたら、ではどういう姿勢で事態に臨めばいいのかといっても、実際にすでに何らかの態度や姿勢で臨んでいて、それが自身ではよくわからないし、どう判断すればいいかもわからなければ、対処しようがないと思っても、すでに自らが巻き込まれている事態に対処しながら行動しているだろうし、そうなっている限りで現状のただ中で生きていられるわけだが、生きていられるといっても実際に生きているわけだから、そんな大げさなことでもないだろうし、そういうところで自らの実感を信用できない面もあるだろうが、信用できるような実感を得たくても、それが自らの都合を反映した実感であれば、そんな実感など幻想にすぎないかも知れないし、結局は自らの実感を疑いながら生きていくしかなく、何か勘違いしているのではないかと思いながらも、実際にそう思いながら生きているのだから、その限りで何とかなっていると思うしかないだろうし、そう思いながら自らが取り組んでいる物事と共に自ら存在し続けている現状を、行動してきた結果として捉えているのと同時に、それが行動している途中経過でもあることを理解しているつもりになっている一方で、行動によってもたらされる結果を予想しながら行動していると、時には予想外の結果がもたらされて、さらには予想以上でも以下でもあるような結果ももたらされて、それに一喜一憂しながら、安心したり不安になることもあるだろうが、しかも結果が出たからといって、その間にも成り行きが継続しているわけだから、安心している暇がなく、何かに追われているような切迫感にとらわれている限りで、まだやるべきことが山ほどあるようにも思われるかも知れないが、いったん立ち止まって辺りを見回して、これまでにやってきたことを振り返る余裕があれば、すでに終わりが近づいていることになるのかも知れないし、何の終わりに近づいているのかといえば、取り組んできたことの終わりが見えてくれば、その程度や内容に応じてそれ相応の感慨に浸ることにもなり、時にはそれ以上に伸びしろがないことを思い知らされてがっかりするかも知れないし、まだ粘り強く執拗にこだわっていることがあれば、それにこだわることによって生きがいを求めていて、そういったこだわりが事態の継続を長引かせているようにも思われて、自身が取り組んでいることにこだわっていることが、自分にとっては当然に思われるだろうが、それが自らを含んで自らを取り巻く状況の中ではそうだとしても、そこから身を引き剥がすことができない限りでそうなっているにすぎず、何かのきっかけからそこから遠ざかることができれば、執拗にこだわっていたことが何でもないことに感じられてしまい、そう感じられてしまうのが怖いから、そこから身を引き剥がすことができないのかも知れないし、そうなってしまうことを想像するだけでも怖くなってきて、自らが築き上げてきた立場が崩れ去るような幻覚に襲われるなら、それは砂上の楼閣のようなものでしかないだろうが、それも程度に応じてそんな大げさには思われない取り組みが大半であれば、大したこだわりもなく何かのついでにやっている程度に装えるだろうし、そうなればその種の自家中毒にも陥らずに、割と簡単にそこから身を引き剥がして、自らがやってきたことを振り返って他と比べてそれなりに客観的な評価ができるかも知れないし、その際の評価の基準が世間並みな成功の程度であれば、実際にも大したことではなく、それに伴って生じるこだわりの程度も世間並みとなってしまうだろうが、現状ではそれ以上は望めないだろうし、それ以上の現状があるわけでもないが、それも結果としてそうなっているというよりは、絶えずそうなり続けていると捉えておくのが妥当なところかも知れないし、何かの途中経過として、自らが思い描いている理想の姿を裏切りながら、それとはかけ離れていて、どうということはなく大したことでもない現状が意識の中で構成され続けていて、それが驚きとは無縁な現状でもあり、そんな現状を意識してしまうから逆に驚きを求めて驚くべきことが起こるような幻想を追い求めてしまうとしても、それもメディア上で驚くべきことが提示されているように装われていることの裏返しで思うことかも知れないし、日々驚くべきことが起こっていると思いたいのかも知れないが、その驚くべきことに自らがかかわっているかというと、メディアとの関係では傍観者の立場を強いられていて、そういう立場には不満を覚えるとしても、自らが驚くべき対象になれるかというと、日常の地続きの水準ではなれないかも知れないし、積極的になろうとするような成り行きとは無縁であれば、別になろうと思うような成り行きにならなくても構わないわけで、実際に自らが取り組んでいてかかわっている物事の傾向が、それとは関係のないところで成り立っている場合がほとんどであれば、世間並みにそうなっていて、それ以上に何がどうなっているわけでもなければ、それに取り組んでいる途中の段階でそうなっていて、さらにそこから何らかの成功を思い浮かべながら都合の良い結果を求めているとしても、それもその途上で求めていることだから、結果的にそんな思いが裏切られるようなことになっても、それが自ら招いた結果だと悟れば、たとえそれが自らにとって最悪の結果であっても受け入れるしかないが、それもまだそこに至っていない段階であれこれと思うことであり、それが良い意味でも悪い意味でも裏切られることを期待していて、しかも期待していることさえ自覚していなければ忘れている可能性もあって、実際にそうなってから思うことは、それ以前に思っていたこととは全く異なり、そうなった結果から思い出されることも、案外その場でねつ造された思いかも知れないし、少なくともその途中の段階で思っていたことを思い出しているわけではなく、そう思っているように装いたくて、その場で思うのにふさわしいことを後からねつ造したくなってくるわけだ。


6月7日「単純化の目指すところ」

 一言に物事の単純化といっても、何が単純化されているかで、その内容が変わってくるだろうが、例えば典型的な少年漫画において単純化されるのは、超能力が発揮されるところであり、人知を超えた力によって何らかの願望が実現して、それが実現される際に現実にはあり得ないことが起こって、それが漫画の登場人物が実現したい願望であれば、その過程において省かれているのが、現実には願望を阻止するような紆余曲折になるかも知れないし、あるいは願望をはぐらかすような思ってもみない方面から及ぼされる作用や影響になれば、漫画ではそれが再現不可能かというと、それ自体を表現したいのなら再現可能だろうが、表現したいのはあくまでも人知を超えた力の方であり、人知を超えた力を実現できない現実ではなく、その力を利用して願望を実現しようとするわけで、それがフィクションと現実の違いとなるわけでもないが、フィクションの中では力を利用することによってうまくいくところが、現実の世界では超人的な力を発揮できないから、それとは別の紆余曲折やはぐらかしが作用して、単純化そのものを無効化するといっても、意識の中では単純化して物事を捉えてしまうわけで、そこに見落としがあるのは誰もが承知しているところかも知れないが、そうした過程を語っていること自体が言葉によって単純化しているわけで、それが言葉だけで語るか、さらに絵や図などの記号を用いて語るかの違いがあるとしても、それらを用いることと引き替えにして何かが省かれているとしても、それによって物事がわかりやすくなり、理解できてしまうわけだが、その理解が浅はかであることを、理解しているつもりの人が自覚できない場合もあり、それが単純化から生じる弊害でもあるが、そうしないと理解できないわけだから、物事を理解すること自体が単純化そのものなのかも知れないが、理解しなくても構わないのかというとそうではなく、理解したいという願望があるから、物事を単純化してでも理解しようとして、その際に言葉を用いたり絵や図などの記号を使って単純化するのだろうが、理解とはそういうものだと思っておけばいいかというとそうでもなく、できれば単純化しないでそのまま理解したいのだろうし、そのまま理解したいということと言葉や絵や図を使って理解することの間にどんな違いがあるかといっても、そうしないと理解できないのだから、違いなどないかも知れないが、理解したいという願望を実現しようとして理解できてしまうことと、特に理解したくもないことを理解してしまうこととの間には、何か根本的な違いがあると考えれば、それが理解する必要があるかないかの違いであれば、理解したいことを理解したい場合は、その必要を感じているから理解しようとしているのに対して、理解したくもないのに理解できてしまったことになると、その必要を感じていないのに理解できてしまったことになるわけだが、果たしてそんなことを理解する必要があるのかというと、必要があってもなくても理解してしまうことがあり、理解したいという自らの願望や都合に惑わされずに理解できるかというと、それを理解とは意識できないかも知れないが、ふとしたきっかけから何かがわかってしまうことがあるわけで、そのわかってしまったことが何に活用されるわけでもなくても、知識や勘として身についている場合もあるだろうし、それを自覚していない場合もあるだろうが、それを言葉で言い表せるかとなると、うまく表現できないかも知れないが、わかろうとしてわかったことではないから、表現する必要もないことであったり、知っていることをアピールするわけでもなく、本当に理解しているのかもよくわからないが、何かを知っている程度で理解していることになるのかも知れないし、特に理解しているとは思っていなければ、理解していなくても構わないのかも知れないが、当人の与り知らないところで身についている場合もあるから、何かの拍子に思いがけないことをやってしまえば、それをやるに際して知ろうとしたわけでもないことが知識や勘として活用されている可能性もあるだろうし、仮にそうなっても当人の願望とは関係ないから、やりたいことをやったわけでもなく、たまたまそうなってしまったにすぎないことかも知れないが、そんな意図しないことをやって何になるわけでもないとしても、やってしまったからにはそれに応じて何らかの状況がもたらされて、そんな状況の中で何らかの心境になるわけで、それが当人の意図や思惑を外れた心境であっても、そうなってしまったからには、それをきっかけにしてさらに思いがけないことをやってしまうかも知れないし、そうなると当初に抱いていた願望からさらに遠ざかって、自らの願望の実現とは全く関係のないことをやっていることになれば、物語としては破綻していて、それをフィクションとして語るようなことではなくなってしまい、そういった物語に収まりきらないような出来事の連鎖が歴史そのものになるかも知れないが、そんな歴史の辻褄合わせをやりたい人がいくらでも出てきて、そういう人たちが語っている内容がそれらの人たちの意図や思惑を反映した物語となり、それを歴史の単純化と解釈してみても、その方がわかりやすくて一般受けもするだろうから、それが歴史だと勘違いしてしまう人も大勢出てくるだろうが、歴史と歴史物語の違いがそういうところから生じてくるとしても、そこで何が単純化されているかがうまく説明できなければ混同されてしまうのも無理もないが、それに関しては、語っている人の願望が実現しているのが歴史物語であり、語っている人の願望を裏切るようなことが語られているのが真の歴史だと解釈したくなってくるかも知れないが、それもある種の単純化であり、どちらでもないようなことが語られている場合もあるだろうし、歴史そのものが語られるようなことでもなければ、無理に語ろうとしなくてもいいのだろうが、語ろうとする限りで、語ろうとする願望を実現しようとしてしまうわけで、願望を実現しようとすれば、願望に合わないことは省かれて、願望に基づいて単純化された歴史となってしまうのだろうが、それでも語ろうとすればするほど、願望を裏切るようなことも語られて、結果的に願望では制御が利かなくなってしまうだろうし、何か当初の構想には入っていなかった得体の知れないものを掴んだ気になって、それについて語ろうとするのかも知れないが、それが従来の語りを破綻させて、歴史とは似ても似つかない物事を語ってしまうことになるとしても、それが歴史だとは思えなければ、願望の実現とは違う歴史について語っていることになるのかも知れず、そんなことは語りたくもなかったことを語っていることに驚くかも知れないし、単純化を避けようとすると内容にとりとめがなくなって、話の筋が見えなくなり、辻褄が合わなくなってしまうのかも知れないが、逆に一つの傾向にまとめようとすると物語となり、歴史とは相容れない物語となって、神話の類いに近づいていってしまうだろうが、神話の延長上で歴史を構成することが、その種の人たちの願望でもあるだろうし、それが単純化の目指すところでもあるわけだが、そうなると省かれてしまう内容も自ずから決まってくるだろうし、何が省かれてしまうかというと正統から外れる内容であり、実際には歴史のほとんどが正統から外れる内容なのだろうが、ある一族の正統から歴史を語れば、その一族の祖先が神に行き着くという紋切り型にはまり込んで、それが神話となってしまうのだろうが、そうなることがそれを語る者が抱く願望でもあるわけだ。


6月6日「気のせいで済むこと」

 何を目指しているわけでもないのに、何かに導かれて何らかの状態へと至ってしまえば、その導かれている何かがそうなるに至ることに関しては重要な役割を果たしているはずだが、何かに導かれているような気がするのに、その何かが何だかわからなければ、それが気のせいにすぎないと思っておけば済むことかも知れないが、気のせいでは済まなくなることがあるわけでもなく、気のせいには違いないが、それでは気が収まらないと、もっと何か納得できる理由を求めていて、その何かに導かれているなら、その何かを具体的に特定して示さなければ気が済まなくなり、それを示せなければ気のせいになってしまっても仕方がないが、それで納得するしかないとしても、それでは気が済まないし、どうしても納得できない状態へと至ってしまうと、そんな状態へとなぜ導かれてしまうのかといえば、何を目指しているわけでもないというのが嘘だから、そう思ってしまうことが納得できなければ、それが理由かも知れないし、そうやって理由かも知れないことが疑念に対する答えとして導き出されてしまうと、はっきりした答えが導き出されることを無自覚に目指していたことになるのかも知れないし、おぼろげながら思索の辻褄が合ってきたように思われるが、本当に辻褄が合っているかというと、ただ問いと答えが循環しているだけかも知れず、辻褄が合っても合わなくてもどちらでも構わないような気もしてきて、それも気のせいで済ますことができそうに思われてしまうが、気のせいで済むようなことでしかないとしても、気のせいで済ますわけにはいかない事情をねつ造したくなってくるわけで、そうなればもっともらしい理由が自ずから求められてしまうのだが、誰がそれを求めているわけでもないのにそれを求めて、実際に答えが見つかれば安心できて、そんな答えで納得しようとすれば、それが納得できるかできないかで、何か決定的な差となって、何らかの状態がはっきりと示されるわけでもなく、納得しようとはするものの、何か根本的に納得できないことなのかも知れず、理由がないのに無理に理由を導き出そうとしているだけで、それが気のせいで済むようなことなのに、気のせいで済ますわけにはいかない事情をねつ造しようとして、それに伴って誰にとってもどうでもいいようなイベントを無理矢理にでも開催しなければならない事情が何かの辻褄合わせのようにして出てくると、まさにそこで無理が生じていることになるのだろうが、無理を承知で辻褄合わせをしなければならない事情もそれに付随して生じてきて、どうやっても納得できないことをおこなっているのに、それとは根本的に質の異なる理由を求めて、それが何なのかがよくわからないにもかかわらず、無理に理由を求めていて、そういうところではどうあがいても納得できる理由など求まらないし、苦し紛れに別の理由をひねり出そうとしても、ひねり出された理由というのが、都合の悪いことを無視する理由となるにしても、それが誰にとって都合の悪いことになるかというと、誰でもないかも知れないが、何とかしてそういうことにしておきたいわけで、そうやって何もかもが都合良く事が運ぶわけでもないだろうが、見たくないところから目を逸らして、それなりに整合性がとれる立ち位置を確保したつもりになりたくて、そんな成り行きに身をまかせることになるのだろうが、それが欺瞞であることは百も承知しているのに、装っている態度にも振る舞いにも欺瞞のひとかけらもないように見せかけたいだろうし、端から見ればそれが見え透いた演技になってしまうのだろうが、自身がそうは思わなければ、実際にはそう思っているのに、そうは思っていないという不整合が心の内に生じているとしても、そこに首尾一貫性が生じていることになり、そういった一貫性を保とうとしている限りで、見せかけの演技に没入しているような気になれるが、やはりそこにも無理が生じていて、しかも後戻りができない事態に陥って、それでは気が済まないからそうなってしまうにしても、気が済むまでそんなやり方を押し通せるわけでもなく、途中で挫折してしまえば、そこで我に返ってやり直すことができるわけでもないだろうし、二度とやり直せないことをやっているつもりになればどこまでも無理なことをやろうとして、やっている最中ではそれが無理だとは思っていないだろうが、後戻りができなくなってから、無理なことをやっているという自覚が芽生えてくれば、もはやそこで手遅れになっているわけで、そうなれば気のせいでは済まなくなって、それなりに深刻ぶるかも知れないが、そんな状況に追い込まれてからが、反転攻勢を仕掛けて玉砕気分になりたいのかも知れないし、それもそうなってから後付けで出てくる気分だろうが、それもそんな気分になりたくてそんなことをやっているわけでもなく、そこからどうやっても辻褄の合うような成り行きにはならず、何かがずれていることを実感して、疑念ばかりが深まってくるかも知れないが、当初は気のせいで済むことだったのであり、それでは不満だから何かもっともらしい理由付けをしていくうちに泥沼にはまり込んでしまい、挙げ句の果てに後戻りができなくなって、そこから苦し紛れの反転攻勢を仕掛けて、案の定それがうまくいかずに自滅してしまうと見れば、何か辻褄が合っているように思われるのだろうが、果たして本当にそうなっているのかというところが、拭いがたい疑念につきまとわれていて、それが気のせいでしかなければ、身勝手な妄想にとらわれているにすぎないし、妄想では済まないような事態になっていれば、実際に何かがそこでおこなわれていて、そのおこなわれていることがうまくいかずに行き詰まっているのかも知れず、他からの批判や非難にも直面しているのかも知れないが、その一方でそんなうまくいかない事態を利用しておこなわれていることもあれば、それがうまくいかないことと釣り合っている限りで、そういう方面ではうまくいっていることになり、それをうまくいかないことを利用してうまくいくようなことがおこなわれていると見なせば納得できるとしても、本当にうまくいっているのかというと、うまくいっているように見せかけていて、そういう見せかけがうまくいっていることになり、実態としてはそれなりにうまくいっていない面もあるのだろうが、うまくいっているように見せかけるための装飾や演技によってごまかしていると見ても、それなりに納得できるかも知れず、逆にその種の装飾や演技がうまくいかないと、うまくいっていない面がさらけ出されて、それが批判や非難の標的になってしまうと、うまくいっていないように見えて、何か深刻な事態を招いているようにも感じられてしまうが、それも気のせいで済ませてしまえるなら、その程度のことにすぎなくなってしまうのだろうが、何から何まで気のせいで済むかというと、そうもいかないから、うまくいっていない実態を目にすると、それに対して深刻ぶって懸念を表明するような成り行きになってしまうわけで、それも果たして本気で懸念を表明しているのかというと、またしてもそこからポーズや演技にすぎないのではないかという疑惑が持ち上がってくると、腑に落ちないような気分となってきて、もっと他に根本的な原因があるかのような妄想を抱いてしまうのだろうが、実際にそれを突き止めるに至らないうちは妄想に留まっているしかないし、そんな妄想にとどまっている状態から事の真実が明らかになる状態に至れるかというと、それがこれから明らかになるかも知れないし、明らかにならない状態が続いていってしまうかも知れないが、そこでも実際に何かに導かれるように行動している気になっていれば、いずれは原因が突き止められて、事の全てが明らかになるという幻想を抱いていることになるのかも知れない。


6月5日「心理状態の改善」

 自らを取り巻く状況が自らの心理状態に何らかの影響を及ぼしているのは確かだとしても、それを悪影響だと思えば何とかして状況を変えようとしたり、そんな状況をもたらしている環境を変えようとするかも知れないが、変えようとして変えられる物事は限られてくるだろうし、それ以前に心理状態を改善するために状況を変えたいのではなく、経済状態を改善させようとしたり、人間関係や家族関係や交友関係などを改善したかったりして、そういうことが改善された結果として心理状態が改善するのであれば、心理状態を改善させることが目的だとは意識されない場合もありそうで、特に何が目的だとも思っていないが、何となくいやな雰囲気を感じているから、それを意識していると、自然と身の回りの状況を変えていやな雰囲気を一掃したくなるだろうし、それが心理状態を改善させようとする意志の表れだと見なすこともできるが、誰か特定の人物がそう見なすわけでもなく、結果的にそう見なすと成り行きの辻褄が合う程度のことであり、辻間を合わせるために文章上でそう見なすにすぎないことだとしても、目的となる何かが示されれば、それに応じてもっともらしい言葉の連なりが生じて、それを読むとそんな気がしてくるわけで、そしてそんな気がしてくることが心理状態の改善につながれば、果たしてそれによって状況が変わったのかというと、確かに心理状態の改善も状況の変化に含まれるとしても、その程度のことには違いなく、心理状態が少し改善した程度では、それに応じて変わった状況も大した変化ではなく、もっと大きな状況の変化を望んでいるとすれば、それに応じて抱く妄想も大げさで荒唐無稽なものになってくるかも知れず、そんな妄想を抱いている心理状態というのが、改善とは真逆の悪化だとすれば、大げさな妄想にとらわれた心理状態を改善させるには、状況を変える必要があるということになれば、そこでおかしな物事の循環が起こっていることになるかも知れないが、文章上でそうなっているにすぎず、そこにフィクションが構成されているだけであれば、たとえそれを読んで心理状態が悪化しようが改善されようが、気のせいで済まされる程度のことであり、それも大して状況の変化には結びつかないのかも知れず、切実に心理状態や状況の改善を望んでいる人にとっては、そんなまやかしでは納得できないのは当然だとしても、どうすればそれらの改善が実感できるかとなると、切実にそれを望んでいる理由や経緯や事情などによって対応が異なってくるだろうが、その程度や場合によっては改善が望めない事態にもなるだろうし、どれほど状態や状況の改善を望んでも求めても、できることとできないことがあるとすれば、できることをやってもその人の求めている程度には達しない可能性もあり、実際に何を望んでいるのかに関して、当人の自覚と当人が置かれた状況との間でずれが生じていれば、何か勘違いなことを望んでいたり求めている可能性もあり、そういうところから辻褄が合わなくなってくると、心身に変調をきたしてくるのだろうが、そんな状態を改善するにはどうすればいいかとなると、やはり当人の自覚と当人の置かれた状況を近づけるしかないだろうし、その際にどちらがどちらに歩み寄ることになろうと、その場の状況に応じた心理状態になれば、それが心理状態の改善や悪化を表しているとしても、それがそのまま状況の改善や悪化を表していることにもなり、さらにそれがその人の置かれた立場や境遇を表していることにもなれば、その人にとってはそうであっても、それとは別の立場や境遇にある人にはそうは思われないかも知れず、かえってその方がその人にとっては都合が良ければ、心理状態や状況をそのままにしておきたいと思うかも知れないし、そのままにしておきたいと思ってもそんな思惑など無視されて、勝手に変わっていってしまえば、その人の思い通りにはいかないということになり、それが誰にとっての改善や悪化になるにしても、それを改善と受け止めたり悪化と受け止めたりすること自体が、そう受け止めている人とは別の立場や境遇にある人には、そんなことはどうでもいい場合もありそうで、もちろん中にはそういう受け止め方に同調できる人もいるだろうが、それもその場の状況次第であれば、そんな状況をもたらしたり、その変化をもたらした要因や原因を突き止めなければならない場合が生じてくるとしても、そんな成り行きに伴って、それにかかわってくる人の心理状態やその人の置かれた状況も変化していくだろうし、それに合わせてその人の活動の状態や状況も変化していけば、それがその人の心理状態の変化をもたらしたり、立場や境遇などの状況の変化をもたらしたりするかも知れないし、それがその人にとって満足のいくものとなろうと、不満が残るものになろうと、さらにそこから心理状態の変化や状況の変化がもたらされると、すでに当初にこだわっていた心理状態の改善など遠い過去のことになっている可能性も出てきて、もうすでにそんなことよりも別の物事に関心が移っていれば、確かにそうなっている限りで心理状態が改善されたのだろうが、その時点では改善されていること自体がどうでもよくなっていて、そんなことよりもその時点で関心を持っている別の物事へと、取り組むべき優先事項が移っていれば、それに取り組むことによっても心理状態や状況の変化がもたらされて、場合よってはそこからさらに別の物事へと関心が移っていくかも知れず、さらに別の物事に取り組まなければならないと思えば、さらにそこから別の変化がもたらされるかも知れないが、そんなことをやっているうちにその人の寿命が尽きて死んでしまえば、その人がかかわってきた物事自体が次第に世の中から忘れ去られてしまう可能性も出てくるだろうし、やっていることを引き継いでくれる人が現れるとそうでもなくなるのだろうが、またその人の業績を讃えるような成り行きになれば、その種のモニュメントの類いが残されるかも知れないが、それが後世の人々の関心を惹くかどうかは、その時代の人々にはわからないだろうし、関心を惹かなければ忘れ去られてしまうだろうが、何かの加減で残り続ける場合もあり、それがモニュメントの場所や位置や材質であったりすれば、その人には与り知らない要因であるだろうし、業績そのものがありふれた内容であっても、たまたま長持ちする材質で作られていたり、地政学的に取り壊されるような情勢とは無縁であれば、それ自体は後世に末永く残って、仮に世の中から忘れ去られていても、地中に埋もれていたのが何かのきっかけから再発見されることもあるだろうし、そうやって数千年ぶりに再発見されてニュースの類いで一時的に話題となっても、もはやその人自身には全くの無関係とは言えないにしても、実際に不在なのだからどうでもいいことになってしまうだろうし、そうなってから当時のその人の心理状態がどうであったかに関して興味を持つ人が現れるとしても、それは興味を持った人の関心の範囲内で推測されることでしかなく、当人には与り知らないことになってしまうが、そこまで事態が進展してしまえば、それ自体が完全に別の物事になって、その人とは別の時空で別のことがおこなわれているわけで、当初の心理状態の改善がどうしたこうしたとは無関係になっているはずだが、それをそういうことだと受け止めることが、誰にとっても必要であるわけでもなく、そういうことに興味を持つ人がいれば、その人が受け止めることになるだろうが、それもそういうことには無関心な人にはどうでもいいことにはなるだろうが、いったん興味を抱けば、そこから興味を抱いた人の心理状態に変化が現れる可能性も出てくるわけだ。


6月4日「手放しで喜べない事情」

 自然に身についてしまう他人への心配りが、功利的な思惑にとらわれると邪魔になってくるのは、他人を利することに抵抗感を覚えるからだが、仲間でも身内でもない赤の他人を無条件で助けられるかというと、それによって自分や仲間や身内にも利益がもたらされなければ助けたくないと思うのも、功利的な思惑にとらわれている証拠かも知れないが、さらにはそれが敵への攻撃として機能すれば言うことなしかも知れないが、そう都合良く事が運ぶわけでもなく、自身を利することが敵も利することになるかも知れないし、一方的に自分だけが利するようなことにはならないのが、他の様々な利害関係も錯綜している中ではそうなって当然の結果なのかも知れないが、そういう意味では功利的な思惑がそのまま実現することはなく、他の様々な思惑との相互作用によって、ある程度は思惑通りの結果がもたらされることがあるとしても、その程度というのが他との兼ね合いやバランスの中で、多少はうまくいく程度になることが多く、全面的にうまくいくわけではないところが、都合の良い思惑を抱いていた人にとっては不満が残るだろうし、その程度で満足すべきだと自分に言い聞かせることにはなるだろうが、そんな手放しで喜べないような気になることが、他人への配慮を示していることにもなり、自分だけがうまくいくわけでもないところが、他にもうまくいっていたりうまくいっていなかったりする人が存在することを意識させるわけだが、そういうところで利己的に振る舞っているように見えてしまう人が、他からの攻撃の標的にもなりやすく、他人の成功が不快に感じられて、妬みややっかみを呼び込んでしまい、それがうまくいった後にうまくいかなくなる原因となるのかも知れないが、そうなることによってバランスがもたらされて、特定の人や団体だけが一方的にうまくいきっぱなしなるわけではなく、一時的にうまくいけば後から必ずその反動がやってきて、うまくいった後にはうまくいかなくなることも多く、結果的にはうまくいったりいかなかったりしながら、トータルではそれほどうまくいっているわけでもないことになり、うまくいくために払った代償もそれなりに大きければ、それがうまくいっていない面を表しているわけだが、うまくいったりいかなかったりする結果が物事の全てではなく、その過程でどう振る舞うかがその後の活動に響いてきて、それが他人から利己的に見えたり利他的に見えたりもするが、他人から見えていることが振る舞っている当人も意識している場合もあり、そういうことを意識する過程で、その場の成り行きに応じて意図や思惑も生じてくれば、そういう意図や思惑から自らの振る舞いを調整したり修正してくるだろうし、そういう成り行きによっても一方的に利己的になったり利他的になったりする傾向から微妙にずれてきて、うまくいったのかいかなかったのかはっきりしない中途半端な結果をもたらすかも知れないし、それだけそうなる過程において様々な紆余曲折が伴っていたことにもなり、結果的にこうだと割り切れないようなどっちつかずな状況が出現してしまうかも知れないが、そこで状況が安定するわけでもなければ、そこからもそこへと介入しようとする別の意図や思惑が生じてくれば、また様々な紆余曲折を伴いながら状況が変化していくだろうし、ある局面やその時の結果がうまくいっているように感じられても、その時はそうであっても別の時にはそうは思えない可能性もあり、その場その時の状況次第で一喜一憂していればそれで構わないにしても、それもその場の状況を都合の良いように捉えているにすぎないと思っておけばいいことかも知れず、どう思ってみてもしっくりこなければ、単純に考えて思い通りにはなっていないということだろうし、そういうことでしかないといっても、そんな意図や思惑を抱いているだけではなく、自らがとらわれている状況の中で活動している限りで、そこで振る舞っていて、そうすることによって状況に介入しているつもりになれるわけだが、自分だけが介入しているわけではなく、他人や他の団体も介入していて、しかもそれらの力の方が自らの力を上回っていれば、どう見ても介入の度合いに差があるわけで、そういうところで自らの無力感を味合わされるかも知れないし、うまくいかなくなってそこから退かざるを得なくなるかも知れないが、逆に他人や他の団体の介入に同調できれば、その力を利用することによってそれなりにうまくいくかも知れないし、思惑通りの結果を得られるかも知れないが、そこで抱いている思惑というのが、他人や他の団体の介入に同調して利益を得ようとする思惑であれば、自分一人でそんな思惑を抱きながら活動しているわけではなく、他人や他の団体の活動に合わせて自身も活動していることになり、そうなると自分一人でどうにかできるような活動ではなくなってくるだろうし、絶えず他人や他の団体の動向をうかがいながら、それに合わせて自分も動くようなことになってくると、そんな活動がうまくいったりいかなかったりしても、自分一人の力でそうなったわけではなく、他人や他の団体の活動があって初めて成り立つような活動となっているわけだから、そこで何かしら意図や思惑を抱くとしても、自分がそんな意図や思惑を抱いていると共に、そんな意図や思惑を抱くように仕向けている他人や他の団体の存在があり、それらの活動に合わせようとする限りでそんな意図や思惑を抱くことが可能となり、そうやってそれらに依存して意図や思惑を抱きながら何らかの活動に及んでいることが、果たして自主的に活動していることになるのかというと、何かその辺が怪しくなってくるわけで、そこまで考えが及ばなければ疑念や疑問も生じてこないにしても、自身がそんなふうに思っているだけで、実態としては他の活動に依存した活動になっている可能性があり、そうなると自身の意図や思惑が自発的に生じているわけではなく、絶えず他から影響を及ぼされながらそんな意図や思惑を抱くように仕向けられていれば、それが直接ではないにしても、他から操られていることに気づかないということにもなってくるだろうし、意図して操ろうとしているわけではなくても、結果的に操ろうとする思惑を想定できれば、自身が依存している他人や他の団体などが意図せずに自分を操っていることにもなるだろうが、たとえそれがうまい具合に作用して、自らを自らにとって良い方向へと導いているとしても、それが自身が依存している他人や他の団体にとっても良いことなのかといえば、その意図や思惑が一致しているように見えれば、そこにウィンウィンの関係が築かれていることになるだろうが、それも一時的にそうなっているだけで、その後の紆余曲折の中で仲違いしてしまう可能性もあるのかも知れないし、そんなことは実際にそうなった時に考えればいいことだとしても、そこからどういう成り行きを経てどうなるにしても、それが一期一会の機会だと心得て、お互いに誠意を尽くす成り行きになるにしても、たとえ思惑通りに事が運ばなくても構わないような成り行きに身をまかせることになれば、それが一時的ではあるにしても、功利的な思惑から離れて状況の中で活動していることになり、それが取り立てて自身にとって重要なことにはならないだろうが、自身が依存している他人や他の団体にとっても取り立てて重要なことにもならないだろうが、取り立てて重要なことでなくても、そういう機会を逃さなければ、そこでうまくいっているわけでもいっていないわけでもないような活動の機会を逃さなかったことにもなり、そうやって一時的ではあっても、誰もが自身の思い込みを逃れて振る舞うことになるのではないか。


6月3日「政治と嘘」

 特に何が問われているわけではなくても、自然と答えがもたらされるわけでもないが、ただ疑念を抱き続けることから自問自答が繰り返されるわけでもなく、何もないところから何も生じてこなければ、何も起こらないと考えるしかないが、何も問われていないのに何かが問われているかのように装い、それが問題であるはずもないのに問題があるかのように装い、それで何を装っているのかといえば、何も装ってはいないのかも知れないが、何かしら言葉が発せられるからそこに意味が生じて、意味がなければ言葉も発せられないはずだが、それでも何かが問われて、疑念を抱くからそこから問いが生じてしまうのだろうが、具体的に何が問われているのかといえば、人としての在り方が問われていると見てしまうと、何か具体性の欠如した抽象的な問いになってしまいそうだが、それでも肝心なことに関して嘘をついていると見られてしまうから、アメリカのバイデン大統領などは自らが嘘をつかない正直者であることをアピールして、それによって民衆から信用を得たいのだろうが、民衆から信用を得られなくても大丈夫な中国やロシアなどの独裁的な政治指導者や政府の当局者などは、嘘をついていることを隠そうともしないだろうし、その点では日本の政権与党の政治家や政府首脳も嘘をついていると思われて、民衆からも信用されていないのに、選挙で勝って政権を維持しているから、民衆の方が民衆自身から信用されていないという倒錯的な状況となっているわけではないにしても、少なくとも無理が生じていることに関しては自覚がないのかも知れないし、自業自得といえばその通りだとしても、それでどうなるわけでもないところが、何が問われているわけでもないことの証拠かも知れないが、疑念を抱いてもそこから問いが生じてくるわけでもなく、問われていることをうやむやにすることによって、かろうじて時間稼ぎが成り立つ余地を生じさせているのかも知れず、ひたすら時間を稼いでモラトリアムの期間を引き延ばしてもらちがあかないようにも感じられるが、らちがあかない状態をどこまで引き延ばせるかが、目下のところ問題となっているわけでもないだろうが、そもそも解決すべき問題などありはせず、解決しないままでも済んでしまうような問題しか扱ってこなかったのかも知れないし、実際に何も解決していないわけだが、これからも何も解決しないままで済んでしまうかというと、解決しないままでも済んでしまう問題を解決すべき問題に設定しているのかも知れないが、それでは何だかわからないとも思っていないだろうし、何もわかっていないというのも嘘かも知れないが、少なくともわからないこととわかっていることがあり、わかっていることについては確認すれば済むことかも知れないが、何を確認すればいいのかわからないということにはならず、うやむやにしていることをこの際はっきりさせる必要があるわけで、それが具体的に何かというと、解決すべき問題があるということになれば、モラトリアムの期間が終了してしまうわけで、それが何のためのモラトリアムであったのかというと、簡単に言うなら嘘をついていたことをうやむやにしてきたことについてのモラトリアムの期間であったはずで、もちろんその期間を与えてきたのは、政府や政権を支持してきた民衆であるはずだが、民衆の側にその自覚があるかというと、そんな自覚など誰にもありはせず、それどころか大半の人たちが無関心を装ってきたから、もちろん今でも大半の人たちが無関心を装っているから、無関心を装っている間はモラトリアムの期間が生じていて、今後もその期間が続いてゆけば政権交代などあり得ないだろうが、そうなると政権を担当している政治家や政党が延々と嘘をつき続けることになるわけだが、それを許しているのが民衆であれば自業自得なのかも知れないが、そもそも嘘以外の本当のことを言っても民衆から支持を得られる保証はないだろうし、政治家や政党が嘘をついているから民衆から支持を得られている可能性もあり、むしろその可能性の方が高ければ、功利的な観点からすれば嘘をついている方が得なのであり、本当のことを言うと損をしてしまうとすれば、誰が好き好んで本当のことを言う必要があるのかという疑問が湧いてくるが、それとは違って倫理的な観点からすれば民衆から支持を失うとしても、本当のことを言う必要が出てくるかも知れないが、それ以前に功利的な観点と倫理的な観点とで真逆の対応を強いられるかというと、そうとも言い切れない面もあるのかも知れず、どちらの観点からも妥当に思われる対応を模索することになれば、両者の間を取るような折衷案が検討されるだろうが、それがどういう対応になるかが、そうなってみないことには何とも言えないところだが、それに関してアメリカの場合は、前大統領のトランプ氏が嘘をつきすぎてきたから、その反動で現大統領のバイデン氏はトランプ氏との違いを強調するためにも、本当のことを言っているように装う必要が出てきたと同時に、今でも嘘をつきまくりな中国やロシアなどの独裁政権との違いを強調する必要もあって、国内外の過去の不都合な真実の例として、人種や民族に関係した大量虐殺について言及しているわけだが、それも中国やロシアでおこなわれている反体制派の弾圧や、新疆ウイグル自治区での抑圧行為を民族虐殺と認定するに際して持ち出されていることでもあり、そういうところで抜かりなく嘘をつかない自身の姿勢をアピールしているわけだろうが、日本政府や政権政党の立場や姿勢をそれと重ね合わせるわけにもアメリカに追従するわけにも行かないだろうし、日本の場合はどちらかと言えば政治と金の問題の方がメインとなってくるから、それとは関係がないと思われてしまうわけだが、民衆に向かって嘘偽りなく真実を語ることが民主主義のあるべき姿であるかのような印象を民衆の心に植え付けるには、現状の世界情勢がうってつけであることに気づくか気づかないかの違いが、欧米と日本の政治やそれに関連した世論の間で生じている可能性があるわけで、可能性があると言っても、そうなっているかのように装われているだけかも知れないが、それが右派や保守的なポピュリズムとの決別を促していると同時に、中国やロシアなどを典型例とする非民主的で独裁的な政権との対立や競争に利用できるイデオロギーともなっているだろうし、またそれが左派的な環境問題を提起する勢力などと共に政治的な流行現象を形作っているだろうが、そういう流行現象に乗ろうとして乗れるわけでもないだろうし、むしろ乗ることができなければ時代から取り残されてしまうわけでもなく、日本だけがガラパゴス化を恐れる必要もないのかも知れないし、政治の方面では乗り遅れても、経済の方面では否応なく世界の潮流に巻き込まれてしまうだろうから、そうなってからでもそれに合わせて政治の方面での転換をおこなっても間に合ってしまうのかも知れないが、誰がそれをおこなうかといえば、民衆がおこなうしかないだろうが、そんなことをやれる力が日本の民衆にあるかといっても、実際にそうなってから明らかになるしかなく、その時がいつやってくるかは現状ではよくわからないだろうが、すでに十年以上も前から次第に変化が起こってきたのかも知れないし、一時的な揺れ戻しがかなりの長期間にわたってあったかも知れないし、それを一時的だとは誰も思わなかったわけだが、そんな揺れ戻しに乗じて実際に何がおこなわれてきたかといえば、主導権を握っているつもりの政治家や政党が、政治と金にまつわる嘘をつきまくってきたわけで、それも自業自得と言えるだろうし、そういう政治を支持してきた人たちも自業自得なのかも知れないし、今もその自覚が希薄なのかも知れないが、そういうことも含めて一時的な流行現象に惑わされてしまうとしても、実際にそうなってからでないとわからないことが結構あるのかも知れないが、それが東北地方を襲った巨大地震によって始まり、コロナウイルスの世界的なパンデミックによってモラトリアムの期間が終息するかどうかも、実際にそうなってみなければわからないことでもあるわけだ。


6月2日「ありふれた結論」

 人を生かすには何が必要かという問いから物事を考えると、ありふれた結論へと考えを導くことができるかも知れないが、根本的なところで何かがおかしいと考えると、そのおかしなところを指摘できたとしても、それが織り込み済みのこととして社会が成り立っている場合があり、いくらそれを指摘してもそんなことが問題になることはなく、おかしいのにそれを無視することによってしか社会が成り立たなくなっていることにもなり、それ以前に社会が成り立たないということ自体があり得ないことなのかも知れず、実際にそこに社会があるわけだから、それが成り立つとか成り立たないとかいう以前に存在しているのが社会であり、そんな社会になっているとしか言えないことでもあり、社会が根本的な矛盾を抱えていようが、そこにパラドックスがあろうと、それが社会が成り立つには欠かせない前提条件と考えること自体がおかしいわけだが、では前提条件なしに社会が存在しているかというと、どのような形態であっても、そこに人が大勢住んでいる状態が形成されていれば、そこに社会があると言えるだろうし、そうであれば社会が成り立つ前提条件としては、そこに人が大勢住んでいることになるが、わざわざそれを前提条件とする必要がなく、それよりはその社会を特徴づける根本的な条件を探し出そうとして、それが幻想にすぎないことに気づくまでは、社会を成り立たせている根本的な前提条件を探し求めることになるかも知れないが、そこからもありふれた結論へと持って行くことができるだろうし、そのありふれた結論とは、人が集団で社会を守ろうとすることはあるかも知れないが、社会が特定の人を守ってくれるわけではなく、社会から排除されて孤立してしまう人が出てくるとしても、結果的にそうなってしまうことが何を意味するわけでもなく、人間関係が生じている範囲内で社会が成り立っていて、人と人との結びつきが社会そのものだと言ってみても、結びつきの程度にも個々の人間関係によって強弱があるし、その内容にも差があるだろうし、何らかの勢力が社会を守ろうとする際には、その集団が社会の中で主導権を握っている状態を保とうとする限りで、外敵と見なした他の勢力の攻撃から社会を守ろうとして、そうした勢力とは無関係な人を守ろうとしているわけではなく、社会から孤立してしまった人を助けようとするわけでもなく、その勢力にとって利用できる有用な人材を守り助けることになり、そうである限りで味方として勢力に加わってくれる人や勢力は守り助けるが、敵対する人や勢力を守り助けるわけでもなければ、社会の中に敵対関係が持ち込まれていることになるわけだが、そうなると外敵だけでなく、社会の内部にも敵が存在することになり、敵を社会から排除しようとすれば、社会の外部へと追放するか、社会の内部で拘束して監禁するかして、自由を奪うことになり、その対象となってしまった人を守るわけでも助けるわけでもないのは当然だろうが、そうであれば社会が成り立つ前提条件として、敵を社会から排除することが必要となってくるわけだが、そうなると必然的に味方だけで成り立つ社会を目指していることになるわけで、そんな社会の実現を目指している過程で敵と見なした人や勢力と戦っているように装われるわけだが、装うといっても実際に戦っていないと装っていることにはならないが、戦っているという表現では気に入らなければ競争していると表現されるが、それは敵と味方とがいないと成り立たない状態となる一方で、結果として実現したい状態が敵を排除して味方だけがいる状態であれば、敵と味方とが共存している現状を認められないことにもなり、認められない現状が実現したい結果を目指す上での前提条件となってきて、それ自体がおかしいわけではないが、果たして敵と見なしている人や勢力が本当の敵なのかというと、敵であると同時に実現したい社会を目指すには欠かせない協力者でもあり、しかも協力者でもあるにもかかわらず排除の対象ともなっていて、そういう前提自体に違和感や疑念を抱くかも知れないが、実際のところはどうなっているのかとなると、その場の状況に応じて敵と味方の立場を使い分けていて、しかもそのどちらでもない時の方が生活の中で大半を占めているかも知れず、どちらであってもかまわないと言ってしまうと、実態としてはどちらにもなれない人が大半を占めている可能性さえあり、敵と味方とが登場するゲームに参加する気になれないのが、多くの人が現状の中で実感していることかも知れないが、ゲームそのものが成り立っていないのではないかという疑念も湧いてきて、少なくともゲームの観戦者になっているとしても、そこで対戦しているどちらを応援する気にもなれなければ、それほどゲームの勝敗に関心があるわけでもなく、それだけが社会の中でおこなわれていることでもないだろうし、もっと広範囲を見渡せば、何かそこからわかってくることがあるとしても、それも全てではなく、ほんの一部でおこなわれているにすぎなければ、そこからわかってくることもほんの一部についてわかってきたことでしかないわけだが、それでも構わないと言ってしまうと身も蓋もないし、もっと多くのことを知りたいとも思わなければ、その程度の知識にとどまっていることになり、社会を構成する一人一人は実際にその程度の知識や経験しか持ち合わせていないだろうが、それが人と人とが結びつくことによって他の人にも伝わって、ある程度は直接の経験とは無関係に多くの人が知識を共有することになるわけで、そうなることによって共通の認識や価値観も生じてきて、敵対関係や同盟関係とは違った関係を意識できるようになるのだろうが、それを一般的な関係と言ってしまうと、漠然とした印象を持ってしまうかも知れないし、利害の定まらない関係など関係ではないと思ってしまうかも知れないが、それに関して常に意識をニュートラルな状態に保つことはできないだろうが、自然とそうなってしまう状態も想定できて、そうならざるを得ないということではなく、逆に特定の利害へと引き寄せられていってしまうのだろうが、たぶんそうなった時にニュートラルな状態を意識してしまうわけで、それだけ特定の利害にこだわるのが馬鹿馬鹿しく思われるような現状があり、逆に特定の利害にこだわって党派性を隠そうとしない人がとらわれている幻想を信じられず、実際に党派性にこだわって敵と戦ってきた人々の末路が悲惨だからそう思われるのではなく、それが悲惨という表現ではうまく言い表せないような何かを示していて、その何かというのがありふれた結論へと人の意識を誘うのかも知れず、それを根本的なところで何かが狂っていると見なしてみてもしっくりこないだろうし、そんな大げさなことではなく、むしろちょっとした差異を誇張したり強調したりする過程で生じてくる言語表現のフィクション性と見なしても構わないかも知れないが、そこに直接の利害関係を当てはめることができるかというと、その人が利益を得たり損害を被っているようには見えないわけで、実際にはそうではなく、その人の言語表現を利用してその言語表現を伝えるメディアが繁栄している実態があり、また繁栄しているといっても、その中で誰が得をして誰が損をしていることよりも、人から養分を吸い取ることによって繁栄しているように見えても、果たしてそれが養分なのかというと、逆に毒の成分を吸い取って、人を無害化しているようにも感じられて、ある程度は毒がないと人に人としての個性が感じられないのだろうが、結果的には毒にも薬にもならない人を大量生産することが、利害関係から隔たった状態の実現となり、何がその実現を目指しているわけでもないだろうが、結果的にもたらされるのがそんな状態になるのかも知れない。


6月1日「社会の繁栄」

 社会という概念は、人間社会という一つの社会があると同時に、世界が国や地域ごとに分割されている実態を考慮するなら、それに応じて複数の社会があると認識できて、言語や宗教や民族や国単位で、社会という言葉を使って、それなりにもっともらしいことを語ることができて、それぞれの社会ごとに比較されて、その特徴や差異や共通点などを語ることになるだろうが、特定の社会について語るのと、特定の国や政府や政党や企業について語るのとでは、明らかにその語り方に違いがあるかというと、組織的な統治機構があるかないかで違いがあるようにも思われるが、政府や政党や企業であれば組織的な統治機構そのものであるし、宗教においても、特定の宗教教団がその宗教社会を統治している場合もあるだろうが、統治機構による統治の対象となるのが国や社会だと考えれば、統治する機関とその機関が統治する対象という違いがあって、統治する機関として政府や政党や企業や教団などの団体があり、統治する対象として国や社会があることになるだろうが、語り方によっては国=政府として語られる場合もあり、また政党や企業が特定の国や社会を統治していることになるかというと、特定の企業が特定の国や社会を統治しているわけではないが、共産党などの独裁政党が国や社会を統治している場合があり、政党が政府よりも統治の前面に出ていて、またヨーロッパの中世においては、キリスト教会が国王や領主などの勢力よりも統治の前面に出ている場合もあり、現代においても例えばイスラム教の影響が強い国や地域ではイスラムの教えが社会を律しているように感じられる場合もあり、それはユダヤ教や仏教などの宗教色の強い国や地域でも言えることかも知れないが、そうした統治する対象として国や社会があるのとは違う面が企業にはあって、確かに企業内を統治しているとしても、企業が企業の外部にある国や社会を統治しているわけではなく、その代わりに契約を結んだ顧客にサービスを提供していることになるわけだが、それもSNSなどのサービスを提供するとなると、その内部で会員からなる社会を統治しているように装われて、実際に規約に抵触したり契約を守らないと、サービスを停止したり退会させるなどの措置を講じるところでは統治していることになるわけだが、そういうところで支配することと統治することと契約を結んでサービスを提供することとの間で、違いがあるとしても重なり合う部分もあるだろうし、統治するということ自体が法律を守らせることによって統治することになれば、法治的な統治となり、規約や契約を守ることと似てきて、法律によって支配された国を法治国家とも呼ぶわけだが、国民主権が実質的に確立されていれば、法律を制定すること自体が国民の承認が必要となるわけで、そういう意味では国民自身による国の統治が実現しているはずだが、そこに政府の官僚機構や独裁政党や独裁政治家などが関与してくると、そうした統治が形骸化してしまい、それらに国が乗っ取られた状態となってしまうわけだが、企業でも必ずしも出資している株主が企業を統治することにはならず、企業を統括する取締役が従業員の中から出てくるようになると、企業の官僚機構によって企業が乗っ取られる事態となるだろうし、制度的に確立されていてもその通りになる保証はなく、法律や契約によって権利が守られているとしても、強権的かつ組織的な圧力や暴力によって権利が踏みにじられてしまえば、そんなものは空約束にすぎなくなってしまうわけだが、企業が顧客を会員登録させて統治しようとするのと、行政機関が生まれながらに人を強制的に統治しようとするのとでは、その支配力に雲泥の差が出るにしても、企業も賃金を与えるのと引き替えにして従業員を統治しているところでは、生活が人質に取られているわけだから、かなり支配力が増してくるだろうし、法律や契約によって規定された名目上の権利者よりは直接権力を振るっている当事者の方が強くなってしまうのは当然のことであり、権力を振るう代表者に選ばれるまでは選んでくれる人々に媚びを売るかも知れないが、いったん代表者になって権力を振るう地位を獲得してしまえば、それを利用して好き勝手に振る舞うようになり、それに関してはアメリカの前大統領のトランプ氏が外遊先でゴルフに興じる姿が記憶に新しいが、ベラルーシの独裁者が豪奢な大統領宮殿を建設して、ロシアの大統領と保養地で船遊びを楽しむ姿も最近のニュースで見かけるところだし、そういった典型例が象徴的に何を示しているかは、誰もが承知しているところかも知れないが、そういう方面では誰もが公私混同をやりたいわけで、それがたわいのないことであっても、社会の有り様が人をそうするように仕向けていて、そういう生活に憧れるようにできていると考えておけば、そういう面では納得がいくかも知れないが、それとは別の面では組織の歯車として活動するように仕向けられていて、それが何のための組織かとなると、組織自体を強化するために人を操る組織となり、組織を強化することが組織自体の究極の目的となるように組織が構成されていると、そうした目的を達成するための歯車として人を使うことになるわけで、それが組織と人とが陥るパラドックスでもあり、組織が繁栄するに従って組織の中で活動する人の生活が貧しくなってしまうと、組織自体も弱体化してしまうのだが、組織の中で人を指揮している人にはそれが弱体化とは感じられないわけで、それは北朝鮮を例に挙げればわかりやすいが、北朝鮮の中では絶えず組織の強化が図られていて、そうした傾向に従わない者をどんどん粛清しているわけだが、そんなことをやる度にどんどんじり貧に陥っているのに、なおも組織の強化をおこなうことでしか組織を維持できないわけで、それについて何が間違っているかが外部から観察している人には一目瞭然かも知れないが、組織の内部で異分子や反乱分子の粛清を繰り返している人にとっては、正しいことをやっている実感しか湧いてこないだろうし、実際に正しいことをやっているわけだが、そこにパラドックスが生じていることには気づかないし、気づけない立場となっているわけだが、もちろん外部からそれを指摘する人に耳を貸すことなどあり得ないし、ひたすらじり貧に陥りながら組織を強化していく以外にやり方が見つからないわけで、そこに何が欠けているかというと組織を腐敗させる要因が欠けているわけで、そういう意味では権力は腐敗と共にその豊かさを人に享受させるのかも知れず、それが組織の強化とは正反対の方向を示しているとしても、豊かになるには腐敗しなければならないというパラドックスがあり、組織が崩壊する際に組織内の豊かさが極まるのかも知れないが、組織内で権力を振るっている人にとっては組織が崩壊してしまったら困るのは当然だろうし、組織内で豊かさを実感するには腐敗しなければそれを実感できないわけだから、組織を強化することと組織を腐敗させることが二律背反となるにしても、豊かさを求めるにはその両方を追い求める必要が出てきて、実際にそれを求めすぎると腐敗によって組織が崩壊してしまうから、そこに盛者必衰の理が生じているわけだが、どちらを優先させるかの選択肢などもとからなく、どちらも優先させて実際に腐敗分子を粛清によって取り除きながら組織を強化しながら弱体化させるという二律背反をおこなうことによって組織が維持されていて、それがどこまで維持されるかは今後の情勢次第かも知れないが、そういう傾向に駆り立てる力が組織内で作用していることは明かだろうし、それが社会の繁栄とは相容れない傾向を示していると見ると矛盾してきてしまうが、いやでも矛盾を保ってパラドックスを受け入れるように仕向けられてしまうのかも知れない。