彼の声145

2021年

6月24日「矛盾と必然」

 何かが起こってから、それが起こるのが当然のことのように思われると、そこに至るまでの経過の辻褄が合っているようにも思われるかも知れないが、例えば伝統工芸のように技術の習得に何十年もかかるようなやり方で時間をかけて丁寧に作り上げた生産物は、それだけコストもかかって価値が高くなるのが当然のことのように思われる一方で、機械を使って大量生産された生産物は、コストもかからず価値が低くなるのも当然のことのように思われるが、そこに至るまでの過程において、大量生産が可能な生産システムやそれを実現するために必要な機械の製作にはそれなりに大きなコストがかかっていて、そのための工場の建設にも莫大な資金と手間暇がかかるのも当然のことのように思われるだろうが、莫大な資金をどうやって調達するかとなると、金融機関から借りたり、政府などの行政が用意することもあるだろうが、資金を借りるにはそれなりの担保や信用が必要となるだろうし、すでにそれなりの実績がある大企業でないとできないだろうが、もとから大企業があったわけではなく、国や地域の経済がそれなりに発展しないと大企業も生まれてこないだろうし、それ以前に伝統工芸の方も、その国や地域の文化や経済が発展しないと生まれてこないわけだが、そのレベルというのが産業革命以前の手工業の段階であり、そういう段階では現代では伝統工芸と呼ばれる産業も時代の最先端を行っていたのだろうが、それが現代でも生き残っているわけだから、現代のハイテク産業との間でもそれなりに棲み分けができているといえるだろうし、ハイテク産業だけで国や地域の経済が成り立っているわけではなく、様々な産業が共存している現状があるわけだが、伝統工芸の類いから生み出される比較的価値が高い生産物を誰が買うかというと、一般的には奢侈品に分類されるだろうから、富裕層が買うことになるだろうし、富裕層が伝統工芸を支えていることになれば、富裕層がどうやって形成されたかとなると、やはり産業の発展によって形成されたわけで、大企業も富裕層も産業の発展から生じてくるわけだが、一方で伝統工芸といっても産業として成り立たないような価値の低いものもあるだろうし、売り物ではなく実用品として使っているものであれば、ただ作られて使われているものでしかないわけで、作られるものが商品とはならず、商品にならなければ一般に広く流通することもないわけだが、それを民芸として価値を高めようとする骨董品の収集家のような人もいるかも知れないが、そういった方面である程度の需要がある限りで、そういう活動が成り立つ余地が生まれてくる一方で、現代を代表するようなハイテク産業に関しても、そこから生み出される生産物が、それ単体としてではなく機械の部品として使われる傾向もあるだろうし、人の生活の隅々にまで行き渡っていても、それだけでは成り立たないような性質のものであったりするから、それがなくてはならないものであるが、それだけでどうなるものでもなく、代替の利くものであるが、それがないと機械が動作しないようなものであれば、その機械を使うならそれがないと困るわけで、そんな条件付けられた生産物を活用しているわけだから、条件を満たさないと使われないものでもあり、使われる条件を満たすように世の中を変えようとするというよりは、世の中の傾向がそれを活用するとうまくいくようになってきたといえるだろうし、それは現代では伝統工芸に分類されるようなものにもいえるわけで、その工芸品を使うとうまくいくような状況がもたらされていたから、それが作られて実際に世の中で幅広く使われていた当時の地域的な状況があったのだろうが、何か特定の産業製品を世の中に普及させるには、それが使われやすいように世の中の状況を変えようとする試みがあるかも知れないが、その一方で世の中の状況に合ったものを人が使う傾向もあるだろうし、それを普及させようとする試みだけで世の中が変わるとは思えないが、実際に普及させようとしている人や団体の側に与するなら、普及させることが良いことだと主張したくなるわけで、その理由を世の中の実情に合わせてうまく説明できれば主張にも説得力が出てくるわけだが、そういう立場でなければうまく説明する必要もなく、世の中の状況や情勢に合わせて使いやすいものを使う成り行きになってくるだろうが、自身の生活を世の中の状況や情勢に合わせるような成り行きになるかというと、否応なくそうなってしまう面もあるだろうが、抵抗してしまう場合もあるだろうし、それも意識して抗うのではなく、それと自覚することなく、結果的には抗っていることになるのだろうが、当人が抗っていることに気づいていない場合もあるわけで、そういうところまで考慮に入れると、理詰めで説得力のある説明とは違う成り行きが生じていて、そうなっていることを肯定するわけにはいかないかも知れないが、それを普及させようとしている人たちの思惑が空回りするようなことにもなってきて、思いもしなかったような結果が将来においてもたらされるかも知れないが、それに関して過去の工業品の類いが現代においてどう扱われているかがヒントを与えているかも知れないが、それが一定の水準で世の中に普及してしまえば、普及させるという意志が意味のないことになってしまい、ただ単に道具や機械として使われているにすぎず、それを使っているからといって取り立ててどうということはなく、使っているのが当たり前の状況となってしまえば、他との間で差異が生じてこないから、それに関して言説を構成する意味がなくなってしまうわけで、それを使うのが良いことだという主張が無効化してしまうというと、では使わなくてもかまわないのかと言えば、その場の状況から生じてくる必要に応じて使えばいいといえるだろうし、結局は良いとか悪いとかいうことよりは、必要に応じて使う成り行きになってしまえば、それを使うに際して説得力のある説明など要らないわけで、そういう意味でそれを使うことが良いことだから使わせようとして、それを普及させようと画策していた試みが、いったんある一定のレベルで普及してしまった後ではどうでもいいことになってしまい、もちろんそれを使うこと自体が凄いことだとはいえなくなって、実際にも例えば電気洗濯機や電卓などを使っていることが何か凄いことだと思われていた時代がかつてあったとは、現代からは到底思えないわけで、現代においても特定のハイテク製品を何か凄いものだと大げさに煽り立てている人がいたら、今から何十年も前に電気洗濯機や電卓を凄いといっていた人と同じ運命を辿るのではないかと思ってしまうが、そんな人が大げさに煽り立てなくても、世の中の状況や情勢に合わせて自然に普及していってしまうものなら、それが当たり前のように使われる時代となってくれば、そんな人の存在などとっくの昔に忘れ去られているだろうし、何か時代の最先端を行くような製品を普及させるために説得力のある言説を弄して尽力する人たちの存在が報われることもないかも知れないが、果たしてその種の産業製品の普及によって時代が変わるのか、あるいは時代の状況や情勢に合わせてその種の産業製品が普及することになるのかは、両方ともにいえることだろうが、他にも例えば中国の監視カメラのメーカーが急速にシェアを拡大させたのは、中国の政治情勢に伴ってそうなってきたわけだろうから、そこには政治的な意図や思惑が介在しているともいえるだろうし、様々な作用が複雑に介在し合い絡み合ってそういう現象が現れるとしても、そこに特定の意図や思惑を想定できることもあるが、人の意図や思惑がその場では有効に作用しているように感じられることが、その人にとってはその場の状況や情勢に合ったことを思っていることになるわけだから、その人の意識が時代状況にとらわれている証拠ともなるわけだ。


6月23日「切実さ」

 世の中で日々絶え間なく続いている人や集団の争いや戦いが、絶えず人の興味を刺激して、そこで何かが起こっているから、それがメディアを通じて日々の話題となり、それについて語れば語っているうちに時が経ち、もちろんそれについて文章を記している間にも時間が経過して、ともかくそうやって何かをやっている間が人が生きている内容の全てとは言えないものの、そんなことを思っていたり、それについて考えているうちにも時が経ってしまうのだが、興味の対象となる争いや戦いが他に何をもたらしているとしても、そこでも時間の経過をもたらしていて、時の経過以外にも様々な事態をもたらしているはずだが、それが思考の対象となっていることが、悪くいえば暇つぶしの材料となって、無駄に考えているうちに時が経過してしまうわけで、興味を抱くから考えさせられて、興味がなければ思考の対象ともならず、興味を持つか持たないかはその場の偶然に左右されるが、それを知ったか知らないかで事情も変わってくるし、その時の他の話題との兼ね合いもあるかも知れないが、刺激を受けるのがそれだけでなければ、それ以外の話題にも刺激を受けて、その刺激を受けたことについて考えたり、それについて語ることも、文章を記すこともあるだろうが、それがとりとめのない話の内容を構成して、話の内容次第で面白いともつまらないとも感じられて、それもその時の気分次第で、興味の対象となったりならなかったりするだろうが、そういう水準では特に切実さをもたらすわけではなく、興味がなければ関心を示さないし、自身にかかわってくることでない限りで、面倒なら遠ざけておいても構わないだろうが、自身にかかわってくることであっても、かかわりの度合いや傾向によって、刺激を受けたとしてもそれを意識したりしなかったりもして、関心の対象となったりならなかったりするのかも知れないが、他人の関心に刺激を受けて自分も関心を持つ場合でも、それを他人事で済ませておける範囲内で安心感を得られて、その程度の関心事であれば、それによって自らが脅かされることもないわけだが、できれば身の安全を確保しながら、それが自らが優位な立場を保っていることの証しともなるわけだが、そうやって観客の立場で人や集団の争いや戦いにかかわっていられる限りで、大した利益は得られなくても、うまく立ち回っていることになるのかも知れないが、争いや戦いの当事者ともなればそんな余裕はないわけで、だから当事者になることはできるだけ避けたいだろうが、そこに直接の人間関係がある限りで、程度の違いがあるにしても争いや戦いを避けては通れないわけで、思ってもみない方面からおかしな事情が絡みついてきて、わけのわからない争いや戦いに巻き込まれて、いつの間にかその当事者となって、面倒なことになってしまうわけだが、そうはなりたくないのになってしまうから、何かどうしようもなくいやな感じがするとしても、時としてそこへ他人が首を突っ込んできてさらにひどい目に遭うこともあるだろうが、うまくその場が構成されていると、それがゲームの類いとなって楽しめたりもするから、そういうところで何とか工夫を凝らして人為的にいやな部分を取り除いて、ゲームとしての体裁を整えて、うまく立ち回れる条件を確保しようとするのだろうが、どう思ってみてもそれが争いや戦いには違いなく、当事者となって痛い目に遭ったりいやな思いをすれば懲りるのだが、攻撃対象を攻撃する立場になれば、それが優位な立場をもたらす限りで気分が良いから、ゲーム感覚として楽しめたりもするわけで、そうやって争いや戦いの毒を抜いて、当事者にとってもそれを管理する側にとっても扱いやすいようにその場を整えるのだが、それと共に何が欠けてしまうのかといえば、切実さや深刻さが欠けているといえるだろうが、その全てが取り除かれるわけでもなく、それなりにどうにもならない面は残っていて、それが勝ち負けをはっきりさせたいということでもあり、そうしないと気が済まないから、無理なことをやってまで勝とうとしてしまい、勝とうとする切実な思いが募って取り返しのつかない深刻な事態をもたらすとしても、勝敗にこだわるなら否応なくそうなってしまうだろうが、それでも争いや戦いをゲーム化することによって破局的な事態は避けられていて、それまでに築き上げてきた全てが無に帰すようなことにはならず、それが中途半端に継続することによって一定の調和が保たれて、双方が痛み分けのような事態となって、何とかその場が収まっているはずだが、収まり方というのが不満が残る収まり方であり、何かすっきりしないわけで、すっきりさせてしまうと全てが台無しになってしまうから、すっきりさせないようにしていると思っておけばいいだろうが、誰もがすっきりしたいのにすっきりしてしまうと終わってしまうからすっきりさせないようにしているといっても、すっきりさせないようにしている人や団体にその自覚があるわけでもなく、そんな人や団体にしてもすっきりさせたいのはやまやまだが、なぜか結果的にそうなってしまうから、そういうところでどうやって自らの欲望にブレーキをかけているのかが自身でもよくわかっていないのかも知れず、そこでお互いに疑心暗鬼な面もあり、相手を疑いながらも疑っている自分にも確信があるわけではなく、確信がないのだから自らが勝てる自信もなく、自信もないのに強がってみせることも忘れないから、虚勢を張っていると捉えておくのが無難なところだろうが、そんな虚勢の張り合いによって誰が迷惑しているのかといえば、それに付き合わされている人たちが迷惑しているはずだが、表向きには迷惑顔をしていても、心の内ではほっとしているのかも知れず、決定的な破綻とはならない限りで自身の立場を維持できるから、できれば勝ち負けのはっきりしない中途半端な状況が長続きしてほしいと思うにしても、それもそう思っている自覚があるわけではなく、実際に思っていることはこの際白黒をはっきりつけたいと常々思っているだろうし、この際というのがいつかはそうしたいということでもあり、この際がいつまで経ってもやってこない限りで、その場の予定調和が保たれていることにもなるだろうし、そんなことを思っているうちにも昔の仲間が次々に消えていって、孤独感を味わう羽目になってしまうだろうが、時が経つとはそういうことであり、時が経つにつれて勝ちたいという切実さも薄れていってしまうのだろうが、それがその人にとっては深刻な状況をもたらしているのかも知れないし、他の人にはそうは思えないとしても、昔からそんな状況と共に生き長らえている人にとっては、それが深刻な事態だと錯覚していて、もちろん錯覚などではなく、実際に深刻な事態なのかも知れないが、寿命が尽きて次々に死んでいった仲間もそう思いながら死んでいったのだろうから、自業自得でしかないはずだが、そんな事態とは一切かかわりのない人にとっては何でもないことであり、別に迷惑顔をするわけでもなく、今にも死にそうな人に同情するわけでもなく、そこで決定的な破綻が起ころうとも、無関係でしかないのかも知れないし、それがゲームだとも思っていないのだろうが、今も世界のどこかでその種のゲームがおこなわれている実態もあるだろうから、運良くそんなゲームにかかわらずに済んでいる人たちも、何かの加減でいつ巻き込まれてしまうとも限らないから、用心しておいた方がいいといっても、何のことやらさっぱりわからないままであってもいいわけで、今後もすっきりしないままに事態が推移していけば、わからないまま終わってしまっても、それが何かのゲームだと気づく暇も余地も必要もないわけだ。


6月22日「世界の現状」

 世界のあるがままの姿を認めることが何を意味するわけでもなくても、それ以前に何があるがままといっても、都合の良いように世界を捉えているだけかも知れないが、そうであってもそれが世界のあるがままの姿だという前提で話を進めていくしかないが、そんな世界の中で誰に何をやる機会が巡ってきているとしても、実際にそれをやってみないことにはそれが何の機会かもわからずじまいとなってしまいそうだが、その機会を捉えて何かをやっているつもりになれるかというと、つもりではなく本当に何かをやっている現状があるはずだが、それをやるに当たって、やっていることを正当化できる理屈や原理の類いを念頭に置いて、やることの必然性や必要性や切実さを理由にしてやることになれば、やって当然のことをやっているような気になれるかも知れないが、果たして本当にそうかというと、それが疑わしいようなことをやっている実態があれば、そうした疑念を持たれるようなことをやっていることになるわけで、確実にそうだとはいえないようなことをやっていれば、それが暗中模索の手探り状態でやっていることになるのだろうが、確信が持てないようなことをやっていても、何とかなるのではないかという漠然とした期待を抱いていれば、それもその場の状況を都合の良いように捉えているだけかも知れないが、それでも確かな感触を求めて、そうした実感が得られるように努力するだろうし、そういうところで疑念を払拭したくなるのも無理もないことだが、そこで疑念を解消するための努力をせずに踏みとどまる必要があるとすれば、逆にやっていることに確信を持っている人に振り回されないようにするにはどうすればいいかという戦略を意識することになり、何とかして確信を得ようとする方向へと振り切れないようにしたいわけだが、なぜそうしなければならないかについては明確な理由があるわけでもなく、ただそういう方向へと振り切れてしまって、確信を抱きながら努力し続ける人たちの姿を何かの反面教師としたい誘惑に駆られて、それもその何かが何なのかがよくわからないまま、そういう人の存在を前提として、そこからちょっと外れた方向で取り組むべきことがありそうに思われるから、それが疑わしいことになるのかも知れず、それも積極的に疑わしいことをやりたいということではなく、否応なくそうなってしまうといった方が、感触としては妥当なのかも知れないが、それはうまく正当化できないようなことでもあり、確信が持てないようなことをやっているのだろうが、そういうことをやっている方が世界の現状に沿っているというと、それも疑わしいところだろうが、疑わしく思われるような世界の現状があり、そこでこうだと割り切ってしまうような見解や意見や主張が疑わしく感じられるから、やはりそういうところで確信が持てないわけで、絶えず疑念を抱いていないと安心できないかというと、安心してしまうことこそがまずいような気がして、できれば安心したいのだが、安心する手前で立ち止まって、大した根拠もないのに疑念を抱きたくなってしまうわけで、そんな疑いを抱きたくなるような状況というのが、世界中で起こっていることからもたらされているのかも知れないが、そういう状況の中で何らかの傾向へと振り切れてしまう人が必ず出てきて、そういう人が世の中で注目を集めるとしても、そういう姿勢が疑わしく感じられるのだから、そうはならないようにしようとすれば、自然と疑いを抱く成り行きになってしまうわけだが、そうなるとしても一方では疑いを晴らしてすっきりしたいのだろうが、すっきりしてしまった人がどう見えるかというと、疑わしく見えてしまうわけだから、そうなる手前で立ち止まらなければならないと思われて、疑わしい状態を維持しようとしてしまうわけだが、そういう状態を維持しようとすること自体を正当化するわけにもいかず、それも正当化してしまうと、正当化する方向へと振り切れてしまうわけだから、そうなる過程で失われてしまう何かがあるような気がしてきて、やはりそうなってしまってはまずいような気がしてしまうわけだが、そういうところで吹っ切れてすっきりしてしまった人がどうなるかというと、やっていることを正当化できる状態となり、それも世間的に認められるようなことでもあり、それで構わないどころか、必死になってそうなるように努力してそうなるべきところだろうが、だからそうなる手前で立ち止まってしまうことが正当化できないのは当然かも知れないが、絶えずその種の正当化を逃れながら、うまく立ち回ることとはちょっと違う立ち振る舞いになって、それが疑わしい立ち振る舞いとなってしまうのだろうが、その疑わしい状態から解放されてしまうと、やはりそれなりにすっきりしてしまって、その程度に応じて目的や目標も自ずから定まってきて、後は努力する以外にはあり得なくなってしまうと、すでにゴールが近づいているのかも知れないが、そのゴールというのが偽りのゴールなどではなく、真の意味での終着点となれば、それがその人の終わりを意味するのだろうが、終わってしまっても構わないのかというと、構うも構わないも、そうなるより他にあり得ないような成り行きが待ち受けていれば、黙ってそれに従うしかなく、そういう成り行きに従ってしまった人がどうなったかといえば、何やら成功の証しを手に入れて幸せな人生を送っているのかも知れないが、誰もがそうなるわけでもないだろうし、逆にそうならない人が大半を占めている可能性の方が高そうだが、仮にそうならないとしても、そうなるように努力し続けなければならないのかも知れず、実際に努力し続けている人が世の中の大半を占めているとしても、果たしてそうならないようにその途中で立ち止まる必要があるのかというと、普通に考えてそうは思えないだろうし、そうは思えない限りでそうなるように努力し続ける必要が生じてしまい、そんな成り行きにとらわれてしまうと実際に努力し続けることになってしまうのだろうが、それが無駄な努力であるどころか、努力することの目的でもあり、努力を正当化できる状態でもあり、そういう状態になってしまうと努力するしかないわけだが、努力の途中で立ち止まってしまえば、それまでの努力が無駄になってしまうような気がするだろうし、努力を無駄にしないためには努力し続けること以外にはあり得ないわけだが、そうやって努力し続ける人の中からそれなりの数の成功者が出てくることは確かであり、そうなれば成功者の努力が世間的にも讃えられることになるだろうし、世間から賞賛されたければ努力し続ける必要がありそうだが、すでにその途中で立ち止まって努力することに疑念を抱いてしまった人がどうなるかというと、端的に言って努力を怠ってしまったのだろうし、そういう人は世間から賞賛を浴びる可能性を放棄してしまったのだろうが、だからといってその人がどうだというわけでもなく、それなりに生きている限りでこの世に存在し続けるだろうし、それが何を意味するわけでもないだろうが、それがその人のあるがままの姿であり、その人にとっての自然の成り行きでもあり、そういう人の現状が世界の現状にも含まれているだろうし、それがその人にとって都合の良いことなのか都合の悪いことなのかは、どちらであってもそれなりの真実が含まれているだろうし、その人が自らの存在を正当化したければ、あるがままの自身を認めてほしいと思うかも知れないが、他の誰に認められるわけでもなければそれでも構わないだろうし、その存在を正当化する理由もなければ、正当化できるわけでもなく、正当化できなくても存在していれば、そういった存在が必要とされなくても存在していることにもなるだろうが、たぶん必要とされなくても存在していること自体が、世界のありのままの現状となるのではないか。


6月21日「税制の不都合」

 どのような分野でも技術的な問題となると専門的な話になってしまい、一般的な先入観として、それに関する専門家が専門用語を駆使して語らないと話の内容に説得力が感じられないが、例えば政府が民間の企業や個人などから徴収する税の問題になると、やはりそれも技術的な内容となり、それが政治の場で専門家ではない素人によって語られると、今まで何十年も続いてきた税制に問題があるからといって、一朝一夕に変えるわけにはいかないと思われてしまうが、それを主張するだけなら簡単に変えられるようなことを主張できるだろうし、実際に主張している人もそれなりにいるわけだが、それに対して問題は特定の税制ではないと言ってしまうと、消費税撤廃などの税制に関する主張をしている人に反発されてしまうが、では何が問題なのかというと、税制そのものというよりは、軽減税率などの例外規定や但し書きばかりが後から追加されているから、抜け穴だらけとなってうまく機能していない可能性があり、そういう後付け設定はやめて税制をできるだけ簡素にする必要があると主張すると、それが目的として理解されないかも知れないが、さらには道路特定財源や福祉目的税などのように特定の用途に目的税化することが間違っていると言うと、さらに理解されないかも知れないが、その一方で法人税に関して各国が減税競争をやめてアメリカが最低税率を15パーセントにしたいそうだから、各国が足並みをそろえて15パーセントにすればいいということになれば、それなら消費税なども各国が足並みをそろえて同じ税率にすればいいはずだが、それは各国の事情が違うから実現不可能だとしても、その趣旨として広く浅く課税する方針が間違っているわけではなく、逆に酒税やたばこ税や石油関連製品への課税のように、特定の品目に課税することの方が間違っている可能性もあるわけで、日本の場合はそれが各省庁の縄張りとして認識されて予算配分にも影響を及ぼして、それに伴って族議員なども生み出して、行政の非効率や政治の弊害をもたらしているから、自動車重量税なども含めて特定の業種に負担を強いる間接税の類いの方を撤廃する方が正しいかも知れないが、それも現状ではほとんど誰も理解してくれないだろうが、それに関連して、なぜ日本の産業が衰退傾向にあるかといっても、大雑把に消費税があるからといった単純なことではなく、特定の業界や業種を狙い撃ちにした税によって、そこだけがコスト高となって、例えば燃料費や高速道路料金などで経費が嵩んでしまうから、その分運輸業などの運転手の賃金が安くなってしまったり、また中小企業を優遇する目的で税率が軽減されていて、そういった優遇税制をうまく利用して大企業になった企業もあるかも知れないが、逆に優遇税制や補助金漬けによってシャブ中のようになってしまって、じり貧に陥りながらもかろうじて生かさず殺さずで生き残っているような抜け殻化している企業もあるかも知れないし、それが産業の流動化を阻んでいると言うと、やはり多くの人には理解してもらえないだろうが、そうやって行政と企業が癒着しすぎているから規制緩和が必要だという新自由主義者の主張は、そういう面では正しいはずだが、日本の場合は新自由主義者だと目されている企業経営者の方が行政と癒着して暴利をむさぼっているという逆説が生じてしまうから、何かそういうところでこんがらがっているわけで、そういうところで新自由主義を批判している人たちこそが新自由主義とグルなのではないかと穿った見方をしたくなってしまうが、それも理解されない状況を形作っているのかも知れないが、なぜ多くの人々に理解されないのかというと、日本企業と共に行政自体もガラパゴス化していることに気づかないからかも知れず、本当にそうかというと確信が持てるわけでもなく、例えばアメリカではスペースX社がNASAやアメリカ軍と癒着しているのは周知の事実であるし、中国では国営企業が優遇されているし、フランスではルノーの大株主がフランス政府でもあり、それ相応に行政と企業との癒着関係が明らかとなっているだろうし、また日本で貧困が問題化しているが、欧米の貧困層は移民と重なり合うし、潜在的に国境を越えて中南米やアフリカやアジアや東欧などに貧困層がいるわけで、さらには中国でも少数民族が貧困層を形成していて、今や世界全体が新自由主義化していて、その縮図としてガラパゴス的な日本の現状があると考えておくのが妥当なところかも知れず、たとえ日本では無駄と非効率の象徴となっている行政に巣くう公務員によって民間人が搾取されているような状況があるとしても、表面上でそうなっているにすぎず、政府が税を徴収しているところでは、必ずその税金を使って無駄で非効率なことがおこなわれていて、それが学術や文化の維持などに使われているところでは、何か良いことがおこなわれているような印象が伴ってくるわけだが、それがスポーツの祭典であるオリンピックなどになると、それ以前に民間のプロスポーツがあるわけだから、それとどう違うのかというところで、それなりに疑念が湧いてくるだろうし、税金を使ってオリンピックを協賛する企業の金儲けを助けているところが欺瞞を生む原因となっていることも確かなのだが、税金を有効活用できるかとなると、何をもって有効と見なすかが人によっても立場によっても違ってくるところかも知れず、まず第一に貧困層を助けるために税金が使われるとなると、新自由主義的にはそれこそが無駄で非効率だと思われて、助けるのではなく働かせるために使いたいところだろうが、しかもそれを利用して利益を得たいという思惑も働くだろうし、そんな功利的な思惑から人を働かせることが何を意味するのかと言えば、税金の分け前が欲しいということになり、税金が誰のために使われるかというと、税金を利用して金儲けをする人や団体のために使われることになれば、その人や団体にとっては無駄でも非効率でもないことになるだろうが、単に誰かを助けるために税金が使われるとなると、助けられた人は感謝するかも知れないが、その見返りがもたらされるわけでもなく、そうなるとただでしかも税金という費用をかけて助けたことになるのだから、功利的には損したことになるだろうし、そういう意味では功利的な基準では計れないことになるわけで、それを認めるなら税の使い道としては、必ずしも有用性や効率を重視する必要はなくなってしまうわけだが、その代わりに重視すべきことがあるかというと、国家的な観点からすれば他の何よりも国民を助けるために税金が使われるべきかも知れないが、国民にもピンからキリまであるとすれば、有用な国民を助けるために税金が使われるべきで、それが無用な国民なら見捨てても構わないのかというと、有用か無用かをどうやって見分けるかが重要となってくるだろうが、それ以前に必ずしも税金の使われ方が人助けに限定されるわけでもなく、何に使われても構わないわけでもないが、単純に人から感謝されることに使われたらそれで構わないということになれば、その中には人助けに使われることも含まれてくるのだろうが、そこでもそれだけに限定されるわけでもなく、他にも多種多様なことに税金が使われることになるのだろうが、少なくとも学術や文化を維持したり振興するのに使われると何か好印象を得られるとすれば、それと同様に人助けに使われても好印象を得られるだろうし、しかもそれが見返りを求めない無償の行為であればなおのこと好印象を得られるかも知れないが、そういう意味では人から感謝されるようなことが好印象を得られることになるはずで、心に余裕があればそういうことに税金が使われた方がいいような気がするのではないか。


6月20日「思考すること」

 思考がもたらすパラドックスというと、何かを考えようとしているのに、何を考えているのかわからないはずがないが、考えるべき対象など取り立てて何もないところが、何も考えていない証拠とはならず、確かに何かを考えているのであり、考えることから解放されたいから考えようとしていて、自らが何を考えているのかを知りたいわけだが、知ったところでそれが本当に考えていることだとは限らず、本当にそれを考えたかったわけでもなく、他にも絶えず何かのついでに考えてしまうことがあり、それが何かというと、何を考えているのか確信が持てないから、自らの思考を疑ってしまうのであり、疑っていることが考えていることにもなり、それを信じられないから、信じられる状態へと持って行くにはどうすればいいかと考えているのであり、何かを信じられる状態そのものを疑っているのに、それを疑いながら考えているわけだから、どう考えても頭の中で思考がこんがらがっているのだろうが、思考とはそういうものだと割り切るわけにもいかず、いくら考えていても最終的にはすっきりした結論へと至りたいのだろうが、そうなってしまうと思考が終了してそれ以上は考えなくてもよくなってしまうから、考え続けるには疑い続けなければならず、考え続けられる限りで疑い続けているわけで、それが疑心暗鬼そのものかも知れないが、そこに思考の対象であると同時に疑いの対象が浮かび上がってきて、考え続けることを困難にしているのだろうが、困難を乗り越えて考え続けたいのだろうし、結局は思考の対象となるような物事を思考が捉え切れていないのかも知れず、それが何だかわからないでは済まないから、何とかして思考の対象となる物事を特定したいわけだが、その存在が疑わしい物事を思考の対象とするわけだから、それについて考えていることを正当化するわけにもいかず、考える理由を求めているとしても、何の根拠があってそんなことを考えているわけでもなく、考える必要のないことを考えていると受け取られても仕方がないところだが、考えられる範囲内ではそれについて考えるしかないわけで、それが何なのかがはっきりしないわけだが、疑わしいことを挙げてゆけばきりがなく、それについて考えていることの全てが疑わしいのかも知れないが、本当は何も考えていないと嘘をつくわけにもいかないだろうし、たぶんとりとめのないことを考えていると言えばその通りだろうが、そのとりとめのないことが何なのかというと、世の中の様々な傾向であり、それがまとう雰囲気や空気の類いとなると、まさにとりとめのないことになってしまいそうだが、何でもないというわけでもなく、そういう傾向に対して疑いを抱いているからそれについて考えてしまうという循環が生じているわけで、本当にそうなのかというと確信を持てないわけだが、では本当はどうなっているのかというと、それが身勝手な妄想となってしまうのだろうし、要するに本当はこうだという思いを実現したいのだろうが、それがあり得ないことであれば、あり得ない理想の姿を現状の世の中に当てはめようとして、実際には全く当てはまらないから、それを阻んでいると思われる対象を批判したいわけだが、そこまで思考が行き着けば、そうした思考がどこへと向かっているかが自ずから定まってくるのかも知れず、簡単に言うならそこに理想と現実のギャップがあり、その埋めがたいギャップの中で思考していて、ギャップをなくすにはどうすればいいかと考えているわけだが、どうすればいいかといっても現実を理想に近づけられないなら、理想を現実に近づけるしかなく、そうなると理想が理想ではなくなり、結局は現実の状況や状態を認めざるを得なくなってくるわけだが、そういった傾向に対してどこまで抵抗できるかといっても、抵抗しようがない境遇になっていれば、いやでも現状に沿ったものの考え方に行き着くしかないだろうし、実際にそういう思考を強いられている人からすれば、理想を追い求める人の考えや行動が受け入れがたいわけだが、逆に理想を追い求める人からすれば、妥協してしまう人の態度が気に入らないだろうし、理想を追い求める余裕がないから否応なくそうなってしまう事情が理解できないわけだが、中にはそういう理想と現実の間にギャップがあることを認識できない場合もあり、理想がないという状態がどういうことなのか理解できなければ、世の中には現実しかないということになるのだろうが、考えてみればそれが当たり前のことであり、それに対して理想を追い求めている人は、その人の妄想の中で理想の姿を思い浮かべているだけで、それ自体があり得ないことになるわけだが、なぜ理想を思い浮かべるのかといえば、現状がおかしいと思うから、おかしいとは思えない世の中の状態を思い浮かべるわけで、それが世の中の正常な状態であり、理想の姿なのだろうが、そうした理想の姿に近づけるために行動するとなると、何やらそれが世直しのような大げさな試みを思い浮かべてしまうかも知れないが、そういう大げさなことにならないようなやり方があるかというと、それがやり方というわけではないのかも知れず、やり方でなければ何なのかというと、態度や姿勢になってしまうかも知れないが、それが特定の態度や姿勢とはいえないところがよくわからないわけで、何か特定の傾向や方向性を持った態度でも姿勢でもなければ、特にそれが態度や姿勢とも感じられないとすれば、では何なのかということになるかも知れないが、何でもないというと嘘になってしまうが、頭の中で理想と現実という区分を撤廃することができれば、そこにギャップなどないことにもなり、そういう考え方をしなくても済むかも知れないが、ではその代わりに何があるかというと、何らかの可能性があり、現状がこれから変化する可能性があると考えればいいわけで、それが思い通りの姿に変化する可能性というわけでもなく、逆に思いもしなかったような結果をもたらす可能性があるということであり、それに備えなければならないと思っても、どう備えるかもわからないわけで、そういうところで絶えず途方に暮れてしまい、何をどう考えればいいのかわからなくなってしまうのだろうが、そこから結果的にそうなることを予想したり、予想した状況が過去の状況とどう違うかを考えてしまうわけだが、そうなってしまうとまずいわけではなく、むしろそうなるしかないだろうが、そうなってしまう思考の傾向や方向性を認識する必要があるというと、また頭の中でこんがらがってくるかも知れないが、どう考えてみてもすっきりした結論とはならない限りで、考えている内容を疑ってしまうわけで、そういう疑わしい状態にとどまっている限りで思考を継続できるのかも知れないが、その必要もないのに継続させる必要もなく、考えるのが面倒ならさっさとすっきりした結論に至ってそこで思考するのをやめてしまえばいいだろうし、そうなってしまっても特に不都合を感じなければそれで構わないだろうが、疑念にとらわれているといつまでも疑いが頭から離れないわけで、疑っている限りで絶え間なく考え続けているわけだが、それもそんな状態でも特に不都合を感じなければ疑い続けながら考え続けていればいいだろうし、どちらでもかまわないということではなく、その場の状況に応じてどちらかの態度を取ってしまう場合もあるだろうし、またそれとは別の態度となってしまうこともあるだろうが、たぶんそういうところで思いがけないことが起これば、それとは別の態度になってしまい、そうなってしまえばどちらの状態からも抜け出られて、そこから新たな心境へと移行できるかも知れないが、その思いがけないことというのが、事前の予想を外れていたり、過去のどの事例にも当てはまらない出来事になるのではないか。


6月19日「煽動者冥利」

 一概には言えないようなことを一概に言えるかのように装うのは詐欺だが、詐欺であるのを承知で大雑把なことを言いたくなるわけで、しかも大雑把な傾向と個々の事例ごとに生じる差異も同時に言わなければならなくなると、一概に言えるようなことではなくなってしまうわけだが、それでも一概に言えるようなことを言わないと、言っていることが一定の傾向にまとまらないわけで、一定の傾向に惑わされて、そんな傾向に沿ったことを言えばそれでいいとは限らないところが、個々の事例ごとの差異となって現れてくるのだろうが、逆に個々の事例ごとの差異を強調しすぎると、今度は木を見て森を見ないことにもなり、そんなところもうまく言葉では言い表せないのだが、微妙な違いを取り逃がしてしまうと、わざと都合の悪い面を無視するような内容となってしまい、見え透いた嘘をついているようにも感じられて、信用されなくなるかも知れないが、信者にとっては逆にその方が好都合かも知れず、他の多くの人にとっては信じられないようなことを限られた少数の人たちだけが信じることによって、信じようとしている対象への信仰が逆に深まるような結果となり、そこから狂信的な宗教が生じることもあれば、過激派によるテロ活動へと進展することもあるだろうが、実際にそれがある種の真実を物語っているわけだから、そうなってしまった人たちを一概に全否定するわけにもいかず、それを一方的に全否定するような人たちの方が都合の悪い面を隠すような嘘をついている可能性もあり、全否定できなければその場の情勢に応じて肯定と否定との間で絶えず揺れ動いている評価基準を意識しながら、どちらか一方へと振り切れる必要がない程度に踏みとどまらないと、やはり都合の悪い面を無視することになってしまうのだろうが、そういう態度の方が一般受けはするだろうし、はっきりした物言いで物事の良し悪しを断言してくれた方が、それを受け止める側としては都合が良いわけで、そういう断言を繰り返す人へと物事の判断をまかせて責任転嫁しておけば、自分たちが微妙な判断を迫られることもなく、良し悪しの判断で思い悩まなくても済むわけだが、それは判断をまかせられて責任転嫁された人にとっても光栄なことであり、多くの人々の期待を一身に背負いながら、起こった出来事や現れた現象について、これはこういうことだと言い放つわけだから、ある意味では煽動者冥利に尽きるわけだが、そこで終わりとはならないところが、その後に続く紆余曲折において、いつ煽動者が支配者や独裁者になるとも限らないし、あるいは良心的なままにとどまろうとすれば受難者や殉教者や犠牲者になるとも限らないが、そうならないようにするには、一人の人に判断をまかせるようなことはせずに、誰もが各々で判断しなければならないのだろうが、代表者を選ぶような制度となっていればそうもいかないだろうし、代表者に判断を一任するような成り行きとなって、何かというと良し悪しを断言しまくるような人を代表者に選んでしまえば、その人の判断が合っていようと間違っていようと、そうした判断にその人の支持者が振り回されることになってしまうのかも知れないが、望んでそうなるのではなく、代表者を選ぶ際にはそこまで考えずに選んでいて、大した理由もなくその人を選ぶような成り行きへと誘導されてしまい、実際に選んでしまってから後悔する人も多いのかも知れないが、後悔したところで一時的にすぎず、次の選ぶ機会が巡ってくる頃にはそんなことはすっかり忘れていて、またいつものように大した理由もなしにそんな人を選ぶ成り行きへと誘導されてしまうかも知れず、その大した理由でもない理由が何なのかというと、社会を覆っている集団的な感情であるというと、それも大雑把な傾向であり、一概には言えないようなことになってしまうだろうが、何かを全否定したり全肯定するような感情が、物事の単純化と結びついていることは確かであり、何かを徹底的に否定したり逆に徹底的に肯定したりする成り行きになりやすいのはどうしてなのかと言ってみても、感情にまかせて煽り立てないと気が済まないということの他に、案外それ以外の理由が見出せないからそれに依存するより他にないということになってしまえば、そういう傾向へと誘導されてしまうと考えてしまうことも物事の単純化であり、社会を覆っている集団的な感情そのものを徹底的に否定したいという感情にとらわれているのかも知れず、それ自体がミイラ取りがミイラになったようなことにもなりかねないが、根本的なところで代表者を選ぶという行為自体が個々の差異を無視した物事の単純化そのものであり、それこそが煽動者を代表者に選ぶ制度そのものでもあって、それを民主主義の欠陥だと決めつけても構わないが、ではそれ以外にはどのような方法があるかというと、くじ引きで代表者を選ぶ以外にはあり得ないわけだが、それでは誰もが納得できないから、代表者を選ぶに際して納得できる理由や根拠を示して欲しいだろうし、しかもそれが消極的な消去法とはならないような積極的に肯定できるような理由や根拠になればいいのだろうが、そういう理由や根拠を提示しようとすると、特定の人を全否定したり全肯定するような理由や根拠となってしまい、それも物事の単純化そのものとなってしまうわけで、結局代表者を選ぶこと自体が、全面的に肯定できるようなことでも否定できるようなことでもなく、それよりは何かの間に合わせとしてそうせざるを得ないようなことであり、必要がなければ無理に選ばなくても構わないようなことでもあり、強引な宣伝や煽動に惑わされて選ぶようなことであってはいけないのかも知れないが、選ばれる側としても選ばれることによってそれなりの利益を得たいだろうし、また選ぶ側も特定の人物を代表者に選ぶことによって、それなりの利益が得られることを期待していれば、双方の思惑が一致するわけで、そうなれば利益を餌にして誘導されてしまうわけだが、それ以外に何か積極的な理由や根拠を求められるかというと、それが積極的な理由や根拠となるかどうかはわからないが、直接の利益を求めてしまうと勘違いな幻想に終わるか、あるいはよくありがちな贈収賄となるかも知れないが、そうではない利益があるかというと、功利的な水準とは違うところで利益を期待できるかも知れないが、多くの人がそれを利益とは認識できないかも知れないし、普通に考えても利益とは見なされないかも知れないが、それは誰かが代表者に選ばれてからの振る舞いに関係することでもあり、少なくとも代表者に選ばれた人が世の中の各方面から幅広く意見を聞く態度を見せれば、多くの人が安堵するだろうし、そういう人を代表者に選んで良かったと一時的には思うかも知れないが、そこから様々な意見をもとにしてどのようなことをやろうとするかが重要となってくるだろうし、そのやろうとすることが特定の勢力や団体を利するようなことであれば、各方面から幅広く意見を聞いたことと矛盾してきてしまうから、多くの人が裏切られたと思うだろうし、そういう人が代表者となっては困るわけだが、だからといって意見を聞くだけ聴いて何もしないというも困るだろうから、形だけでも何かしなければならないわけだが、そのやろうとすることが何になるかで、またやったことの成否も、民衆の支持に結びつくか結びつかないかを決めるような成り行きになればいいわけだが、実際にそうなっているかが問題となってくるだろうし、そうなるように持って行くにはどうすればいいかといっても、それは実際に代表者を選ぶ側にまかされていると考えるしかなく、またそれは代表者を選ぶ側が選ばれた代表者に責任転嫁するわけにはいかないことになるのではないか。


6月18日「反転攻勢の機会」

 何か取り組んでいることが的外れなように思われると、うまくいっていないのではないかと不安になってくるかも知れないが、たぶんそれで構わないのであり、実際に的外れなことをやっているとすれば、世の中の情勢とは合わないことをやっていて、それがうまくいかなくなって当然だろうし、不安になってくるのも無理はないだろうが、世の中の情勢自体が全体的な傾向としてはそうなっているとしても、そこから外れた部分的な傾向としては、全体的な傾向とは合わないことを許容するだけの余地があるかも知れないし、逆に全体的な傾向に合うようなことをやっていても、部分的な傾向とは合わない場合もありそうで、そういう意味では何か的外れなことをやっているような感じがしても、それをやり続けられる限りで、それなりに可能性があるからやり続けられていると思うしかなく、それがうまく行く可能性とは限らないが、すでにうまくいかなくなっているように思われるなら、そう思われるような兆候を感じたわけだから、それが勘違いでなければ実際にうまくいかなくなっていて、そういうことだと思っておけば、いずれそれが明らかになる機会がやってくれば、それを実感したところでそうした実感を踏まえてどうするかは、その時になってみないことには何とも言えないだろうが、すでに何らかの兆候を現状の中で感じ取っているということが、それと自覚することなくやっていることを現状に合わせようとしていることの表れでもあり、情勢に合わせてうまくやろうとしているから、やっていることが情勢に合っていないのではないかと不安感に駆られるわけだが、情勢自体がいつ変わるとも限らないような情勢であり、いくら合わせようとしても後追い的に合わせようとすることしかできず、結果的には情勢の変化に乗り遅れてしまって、さらに不安になってしまうわけだが、そうであるなら無理に合わせようとする必要はなく、それよりは情勢に合わなくても、自分なりのやり方でやれる限りのことをやっていくしかないわけで、それで結果的にうまくいかなくなってしまうならあきらめもつくだろうし、あきらめたところで何がどうなるわけでもなければ、そんな状況になっているとしか言えないが、そういうところで下手に融通を利かそうとしても、融通が利かないからうまくいかなくなってしまったのだから、それもそういうことだと思うしかなく、うまくいかないから焦るのも無理はないが、うまくいかなくなった結果を踏まえていくら反省してみても、自分のやり方が悪いからうまくいかなくなったのかというと、そうは思えなければ、では世の中の情勢がおかしいからうまくいかなくなったと思うなら、被害者の立場になれるかというと、そうなったからといって、やはり何がどうなるわけでもなければ、やはりいくら反省してみてもどうなるわけでもなく、もちろん全く反省などしないで平然としていられるならそれに越したことはないわけだが、うまくいかないと反省せずにはいられなくなり、実際にやってきたことを振り返って反省してしまうわけだが、それがどこまで反省するかでも、いくら反省したからといって、うまくいかない現状をどうすることもできなければ、反省した甲斐がないわけで、そういう意味では反省損になってしまうかも知れないが、反省すると同時に反転攻勢を仕掛けなければならないとしたら、そうなっている時点ですでにその場の状況に意識が絡め取られているといえるのかも知れず、その場の情勢に合わせようとするのではなく、自らが積極的に情勢を変えなければならないと思うようになれば、その場の主導権を握ろうとして何か技を仕掛けることになるのだろうが、それが逆に誰が仕掛けたわけでもない罠にかかっていることになれば、そんなのはあり得ないと思うしかないかも知れないが、あり得ないことが実現してしまうのが情勢の複雑怪奇なところかも知れず、こちらから何かをやれば必ずしっぺ返しを食らうような事態になるようなら、すでに罠にかかっている証拠かも知れないが、罠という表現ではしっくりこないかも知れないが、それが特定の誰がどんな団体が仕掛けたわけでもない罠だと思われるようなら、何らかの悪循環がそこで生じていて、そこから抜け出すことができなくなっていると思うしかないだろうが、果たしてそれが本当に悪循環なのかというと、そう感じているだけで、実際にはうまくその場を切り抜けるために用意された試練なのかも知れず、それも誰が用意したわけでもない試練であり、結局は誰が仕掛けたわけでもない罠にかかっていると同時に誰が用意したわけでもない試練に直面していることになるわけだが、様々な要素や要因が複雑に絡み合いながらその場の情勢を構成しているから、ある時にはそれが罠のように思われたり、またある時には試練に直面しているようにも思われてしまうわけだが、実態としてはそこで何かに取り組んでいて、その何かというのが、自身が思っているような具体的な物事に関係する何かではない可能性さえあるわけで、ではそれが何なのかといえば、自身の力では思い通りには動かせないのに動かそうとしているその場の情勢そのものなのかも知れないが、情勢を動かそうとしていること自体が無理というわけではないとしても、動くとしても思い通りには動かないわけで、思い通りには動かないとしても、技を積極的に仕掛ければ動く場合もあり、動いた先に待っているのが、思い通りにはならなかった結果であるとしても、何かしらやった結果を得たわけだから、良かったとは思えないにしても、不満の残る結果から反省材料を得て、それを次につながる教訓としたいだろうが、そう都合良く事が運ぶわけでもないだろうし、そこからおかしな紆余曲折を経て思ってみなかったような現実に直面して途方に暮れてしまえば、それをどう捉えたらいいのかわからなくなってしまい、そうなるように罠を仕掛けられていたわけでもなくても、あるいはそこで試練に直面していると思われても、何か釈然としない思いにとらわれて、それと同時に疑念が湧いてきて、自らを取り巻く周囲の状況に関して改めて詳しく知ろうとするのだが、知ろうとすればするほど疑念が深まってくるようだと、すでに独りよがりな妄想にとらわれて、現実離れした原因を現実に当てはめようとして、何とかしてとらわれている疑念を意識から取り除こうとしてしまうわけだが、そうならないように注意する必要があるわけではなく、たぶん妄想にとらわれることによって現実を直視する機会を得ていて、妄想のただ中で現実を直視しているともいえるのかも知れず、それがどういうことかというと、妄想を抱かざるを得ない現実があり、妄想と共に現実を理解しないと、現実を理解したことにはならないというわけではなくても、妄想が現実を理解する助けとなっている限りで、妄想を必要としていて、通常の精神状態ではあり得ない妄想を抱きながら現実に対応しようとしていて、それが被害妄想の類いであれば、そんな現実をもたらしたのは自分のせいではないという思いの強さが、そうでないとしたら何のせいでそんな現実になってしまったのかという問いと共に、現実を理解しようとしているわけで、そういう理解の仕方が正しいかどうかは何とも言えないが、少なくとも現実を理解しようとしているのだから、何かしら理解するためのヒントを掴んでいる可能性もあり、そこからどんな理解に至るとしても、それなりに自分にとって都合の良い理解へと持って行きたいのだろうが、それが都合の悪い現実から目を背けていることの証しとなれば、そんな自分にとって都合の悪い現実こそが、現実を理解するためには欠かせないヒントとなっている可能性もあるわけで、そうやって頭の中で解消しがたい疑念が循環しているわけだが、疑念を抱いている限りで思考していることにもなり、実際にやっていることがうまくいかないから絶えず疑念を抱きながら思考しているわけだ。


6月17日「政治戦略」

 戦略というと企業戦略とか国家戦略といった言葉がまず思い浮かぶが、企業戦略といえば成長分野に資金や資材や人材を投資していかにして収益を上げるかといった目標が掲げられて、国家戦略となると産業を振興して経済の発展を促す成長戦略という言葉も日本ではありふれているだろうが、成長分野や成長戦略という表現で使われる成長とは何かというと、経済の規模が大きくなると解釈しておけばいいのかも知れないが、経済成長が見込まれる分野があるのかというと、普通に考えてそれを人為的に作り出そうとしていて、それに関しては例えば最近流行りのカーボンニュートラルや自然エネルギーの活用というと聞こえはいいが、そういう環境に良い分野を成長させると共に、その反面で化石燃料を燃やして二酸化炭素などの温室効果ガスや人体に有害なPM物質を吐き出す分野を縮小させる戦略が、世界的に注目されて支持を集めているように装われているのかも知れないが、そういう方向や傾向へと持って行こうとして政府が企業をけしかけて、具体的には補助金を出したり減税したりして、そういった分野への投資を促して、それによって民衆にも恩恵がもたらされるなら、民主主義の理念にも合致して、温室効果ガスや有害物質を排出する化石燃料の消費が減るから環境に良いという面では、確かに恩恵がもたらされるはずだが、企業活動そのものが民衆に恩恵をもたらしているのかというと、さらにいうなら経済成長を促している政府の戦略が民衆に恩恵をもたらしているのかというと、経済活動によって民衆が経済的に豊かになれば恩恵をもたらしていることになるわけだが、根本的なところでは全ての民衆が経済的に豊かになるとは限らず、もちろん全ての企業が政府の成長戦略に乗れるわけでもなく、また全ての国の政府が成長戦略を打ち出せるわけでもないところが、民衆の間でも企業の間でも各国の政府の間でもそれなりの格差が生じると捉えておくのが無難なところかも知れず、何よりも資本主義経済の中では国ごとでも企業ごとでも民衆の間でも競争がおこなわれていて、競争によって格差が生まれる宿命にあるわけで、もちろん政治の分野で民衆の間に生じる格差を縮小させようとする試みも同時並行しておこなわれているはずだが、それも資本主義経済が成り立つことが前提となっているわけだから、どこかで矛盾やパラドックスも生じているはずで、それがうやむやのままに済まされているかというと、問題があることが自覚できないわけではないとしても、競争の促進と格差の縮小という相矛盾する傾向を同時並行しておこなわないとどちらの方面でもそれにかかわってくるところでは納得がいかないだろうし、どちらの方面でもうまくいっているように見せかけなければならないわけだから、根本的なところで無理があり、少なくともアメリカのバイデン大統領は無理を承知で両面ともやろうとしていて、それに関して日本や中国などの政治家にその自覚があるかというと怪しいだろうし、彼らなりに少しは矛盾を意識しているとしても、うまくやれば矛盾を止揚できるという調子の良い考え方をしている人が、良心的な政治家の中でも多いのかも知れないし、その一方で保守的な方面の政治家となれば矛盾を無視して、政府と企業の方に肩入れして、経済成長や成長戦略を推し進める方向へと一辺倒になっている可能性もありそうだが、そうやって政治家としての立場を確かなものにしようとするのだろうが、それが保守という守りの姿勢でもあり、それをよしとしないで、民衆の側に立って良心的に振る舞おうとすると、政治家としての立場がなくなって、政府と企業の両方から見放されてしまうのだろうが、もとから立場がないのが政治家としての立場でもあり、民衆と政府と企業のどれに対してもいい顔をしていないと立場を失ってしまうのであり、自らの存在が矛盾やパラドックスを体現していないと真の政治家とは言えないのかも知れないが、矛盾やパラドックスがないように見せかけるには独裁的で強権的な傾向になるしかなく、矛盾やパラドックスがあることを指摘して批判してくる反体制派を弾圧する必要が出てくるわけだが、そういうことができる国も限られてくるだろうし、相対的に民主的な傾向が強い国では、批判されながらもそれを受け流して保守的な立場を貫き通すような成り行きになってしまうのだろうが、そういう姿勢でいることが民衆の中でも企業や政府の幹部クラスになって成功した部類に入る裕福な市民層には支持されるから、そういった人たちが地域の有力者となって社会の中で主導権を握っている限りで保守政治が成り立つわけだが、実際にも産業が振興されて経済が発展している国ではそうなっているわけで、資産の持ち合わせも何もない人には立派な経歴もないから地域の有力者にはなれないし、社会の中で主導権を握れず、政治力が欠如しているから発言権もないのが当たり前の状況となっているはずだが、そういった人たちの中からリベラルな人たちが頭角を現して主導権を握り始めると状況が変わってきて、普通の一般人の中から政治家を出そうとするわけで、そうなると形だけでも民主主義が機能し出すのだろうが、そういう段階にまで達すると政府そのものが権限や権威にものを言わせて権力を行使する機関ではなくなり、単なる行政に関する事務作業をおこなう機関へと形骸化してしまうわけだが、そういう意味では社会の中で主導権を握っている有力者や著名人の類いではなく、無名の一般人の中から政治家が出てくるような状況が、民主主義の理念が実現する状態となるわけで、またそうなっている限りで集団の組織的な機構に特有な立場の権力的な上下関係も緩和されて、それに代わって事務処理的な横の関係の方が優勢となってくるのだろうが、そういう傾向が強くなっている地域では社会の中でも内部対立が相対的に少なく、対立や闘争の激しさとも無縁なのかも知れないが、逆に争いや戦いが起こっているところでは、そんな状況に合わせて軍隊式の戦闘的な組織形態が優勢となり、そうした組織の内部では権力的な上下関係が幅を利かせていて、その分行動や発言の自由や民主主義が軽んじられる傾向となるのだろうが、それが産業の競争力となると、一見軍隊式の戦闘的な組織形態である方が有利に感じられるかも知れないが、意外とそうでもない面もあって、組織の中で上下関係ばかりが強くなってしまうと、下の者が上の者に従うばかりで創意工夫がなくなってしまい、組織自体が硬直化して状況の変化に対応できなくなって、成長分野への投資も遅れてしまい、結果的に柔軟に状況の変化に対応できた集団との競争に敗れてしまう可能性が高まるかも知れないし、そういうところにも一長一短があって、どのような組織形態の集団が生き残るかはその場の状況に左右されて、他の組織の真似をしていればうまくいくような安定した状況もある一方で、情勢の変化にいち早く対応するには何事も横並びの護送船団方式ではうまく行かない時もあるだろうし、例えば企業を管轄する特定の官庁が癒着している企業のやり方にいちいち口出ししてくるようでは、企業の方でも官庁とのしがらみを断ち切れずに身動きがとれなくなって、変革が滞って時代の変化に対応できなくなり、業績が思わしくなくなるのは当然の結果かも知れないが、それに関して現状で明らかとなりつつある傾向としては、確かにある種の段階では政府による企業への干渉が効果を上げる場合もあるだろうが、それも政府と企業が一体となって模倣すべき対象がある限りにおいてのことであり、模倣する対象がなくなって自力で何とかしなければなくなった時が創意工夫が求められる段階となり、そうなると組織的な上下関係から外れたところで思いつく自由な発想から生まれるアイデアがものをいうことになるのかも知れない。


6月16日「判断の連鎖」

 自らがかかわっていることに関して、それだけが世の中の全てではないということが、他の全てを考慮できるわけではなくても、かかわっている物事に関して何らかの判断を下す際には、判断を思いとどまらせるように作用して、どう判断してもその判断が正しいか間違っているかという水準では判断できないような気になり、ではどういう水準で判断すればいいかとなると、特に窮地に陥っているとは思えないにしても、判断した結果として、その場をうまく切り抜けられれば、そこで判断したことが正しかったことになるのかといえば、切り抜けた時点では正しい判断だったことになるだろうが、その時点ではそうであっても、そこからさらに時が経ってから振り返ってみると、そうではなかったような気になってきて、その場でどう判断してどのように振る舞っても、それなりの結果が伴ってきて、それで特に問題はなかったようにも思われて、結果的には何でもなかったのではないか、とその場での判断自体が意味がなかったようにも思われてくれば、その場で何かしら判断して振る舞った結果として、その後の状況が続いているわけだから、すでにそうなってしまっているからには、そこからさらに事態が進行して、しかもその時には思っても見なかったような新たな事態にも直面していて、そうなっている限りで過去の判断などどうでもよくなっているわけではないにしても、少なくともその時点での判断が正しかったか間違っていたかということよりは、新たに出現した現状の中で何らかの判断を迫られている可能性もあり、それを意識していなくても絶えず何かしら判断していれば、事態の進行に伴って過去のある時点で判断したことの効力が薄れてきて、それよりは現時点での判断の方が自らの活動に影響を及ぼしている割合が増していて、それでも現時点での判断が最優先されるわけでもなければ、過去の判断によってもたらされた過ちや誤りがいつまでも尾を引いている可能性もあり、それが現状の中での判断にもそれなりに影響を及ぼしていて、それを過ちや誤りだったと否定的に評価している限りで、まだそこから意識が抜け切れていないわけだが、そうなってしまったことを後悔しながら今に至っていて、いつまでも後悔しているのかといえば、今後さらに後悔するようなことをやってしまえば、それ以前の後悔が一時的に忘れ去られてしまうだろうが、そういう経験から教訓を導き出して活用しようとしても、それ以上に新たな段階へと事態が進行していれば、過去の経験が役に立たないかも知れないし、そうであればこれまでに経験したことのないような判断を迫られている可能性もあるが、それが思い過ごしであればすでに現時点でも判断を誤りそうになっているのかも知れず、そうであるなら判断を誤りやすい事態に遭遇していることになるのかも知れないが、たとえそこで判断を誤ってしまっても後から挽回できればいいのだろうが、逆に判断の正しさを信じられなければ、客観的に正しいとされる判断自体が疑わしく思われて、何によって判断が正しいとされるのかも信用できなければ、もはや正しい判断などできないかも知れないが、結果が思わしくなければ判断が間違っていたのかというと、実際に思わしくない結果ばかりがもたらされていれば、どう判断してもそうなってしまうと現状を捉えるしかないだろうし、判断が正しいか間違っているかにかかわらず、人の判断などには影響を受けないような結果がもたらされていると現状を捉えておけばいいかというと、それではどう判断しても判断すること自体が無駄になってしまうかも知れないが、それでも何らかの判断を下してしまい、結果的にその判断が誤っていたように思われるなら、その場の状況によって誤った判断をさせられていると解釈するしかないが、そんな判断を誤らせるような状況というのが、別に非常事態というわけでもなく、ごく当たり前のようにもたらされている普通の現状であれば、たとえそこで判断を誤ったからといって、思わしくない結果がもたらされて後悔するだけで、どう判断しても思わしくない結果がもたらされてしまうのかといえば、その人はそう思っていても、他の人はそうは思わないかも知れないし、そう思ってしまう人の判断が間違っていて、そうは思わない人の判断が正しいかというと、そう判断してみても構わないわけだが、どう判断してみてもかまわないのかといえば、どうとでも判断する気になればできるような状況であれば、大したことはない状況であるのかも知れず、そんなどうでもいいような状況の中で判断の良し悪しを決めようとすること自体が、判断を誤っていることにもなり、それも状況に応じて判断しているわけだから、その場の成り行きが判断を誤らせることにもなり、別に判断しなくてもいいようなことまで判断しているわけで、そこで判断を迫られていると判断すること自体が誤っていれば、そこでどう判断しても誤っていることにもなり、そんな誤った判断を迫られるような状況となっているわけだが、そんな中でも誰もが誤った判断をしているのかというと、何を判断しているのか、その自覚がなければ判断した覚えがないことにもなるだろうし、現状がどうという状況でもなければそれでも構わないわけだが、これから真の判断を迫られる時がくるとも限らず、真の判断と偽の判断の区別がつくわけでもなければ、それも判断のしようがないのかも知れないが、そう思って判断の機会を逃してしまえば、手遅れになってしまうなら、何が手遅れとなるかにもよるが、絶えず判断を迫られている気になっている方がまだマシかも知れないし、自らが何を判断しようとしているのかがはっきりとは意識できなければ特にその必要も感じられないだろうが、自発的に是か非かを判断する機会が巡ってこなければその機会を逸しているだろうし、逸していても何とかなっていればそれでも構わないが、何でもかんでも判断すればいいわけではなく、判断できることが限られていて、それが人によっても立場や境遇によっても異なれば、誰もが同じことに関して判断できるわけでもなく、それに関して判断できる人も限られてきて、中には判断すべきでない人が判断すべきでないことについて判断している場合もあるかも知れず、それも判断を誤っていることになるだろうが、判断によっては決められないことを無理に決めようとしている場合もあり、何かしかるべき立場の人がしかるべきことについて判断しているように見えても、その場面ではそう思われるにすぎず、後から振り返ればそんなことは判断するまでもないことであり、その場の一時的な成り行きに、その場にかかわっている誰もが惑わされていることになるのだろうが、それが誤った判断なのかというと、その場の成り行きの中ではそうならざるを得ず、そう判断するのが当然の判断を下しているように見えてしまい、確かにその場では正しい判断を下していることになるが、それがその後の大惨事の引き金になるような判断となってしまうと、そんな大惨事が起こった後から振り返ってみれば、それが誤った判断だったと思われてしまうわけだが、要するにその場だけで判断の正しさを求めてしまうと、そうなってしまうにしても、実際にその場に身を置いてみれば、そう判断するのが正しいように感じられてしまうから、そこではそう思うより仕方ないわけだが、その場での正しい判断が、そこからだいぶ時が経ってからそうではなくなったように感じられるとすれば、時の経過に伴ってその場での判断の正しさが無効化されたと受け止めるしかないわけで、そういう意味で正しい判断が未来永劫正しいとは限らず、その後の成り行き次第では正しくなくなってしまう可能性もあり、そんなことまでその場に居合わせた人たちが知るよしもないことだが、だからといって必ずしも判断の正しさにこだわる必要はないとはならないわけで、たとえそれが後から間違った判断だとされてしまうにしても、その場では正しい判断をせざるを得ず、その場の成り行きに意識をとらわれていると、その場で正しい判断をするように仕向けられてしまうから、否応なくその場の事情に適合するような正しい判断を下してしまうわけだ。


6月15日「気分の高揚」

 カフェインなどの薬物的な効果によって気分が高揚するのと、自身にとって何か良いことがあって気分が高揚するのとは根本的な違いがあるような気がするが、人為的な努力によって気分が高揚する効果を引き出そうとして、その努力の甲斐があって気分の高揚がもたらされるのと、思いがけないところで偶然に気分の高揚がもたらされるのにも根本的な違いがありそうだが、何が根本的に違うかといえば、自分で心身の状態を制御しようとすることと自然の成り行きにまかせることとの間で違いがあるのは確かで、誰もが無為自然のなすがままにまかせて感性の赴くままに振る舞えるわけでもなく、絶えず意識して自らを気遣い制御しながら、そうする方が良かれと思って、結果的にそれが見込み違いとなって自らに悪影響をもたらすことがあっても、絶えず自己への配慮を怠らないように心がけて、それが意識しなくてもできるようになれば、何か節制が保たれているように感じられるはずだが、そういう水準ではそうだとしても、他からもたらされる作用や影響にどう対応するかとなると、自身の気分が良くなるように気遣うばかりではうまく対応できないのはわかりきったことだが、たとえ不快な気分となっても他者への配慮を優先させなければならない場合もあり、そうなるとストレスを感じるわけだが、逆に立場の上下関係などを利用して他人にプレッシャーをかけるようなことをやれば、そうすることによって自身の気分は高揚するだろうが、他人を不快な気分にさせることになるわけで、そうやってその場ではうまく対応できているようにも思われることが、職場の上司と部下との上下関係などにおいてはありふれたことかも知れないが、権力を行使するとはそういうことであり、自らの気分を高揚させたくて権力を行使しているわけではないが、権力を行使できれば気分が高揚するだろうし、集団によって構成される組織の中で必ず立場の上下関係が生じるのは、自分だけでなく他人を制御するために生じるわけで、それによって立場が上の者の気分が高揚するわけだから、そんな組織的な上下関係が自然に構成されると捉えておけばいいかどうかは、あまり確信は持てないかも知れないが、結果的には立場が上位に位置する人が下位に位置する人に対して権力を行使して気分を高揚させていることは確かで、それが同時に下位に位置する人に不快感をもたらしながらも、いずれは自分も上位の立場になって権力を行使したいという野望を抱かせて、そんな野望を抱いている人がいる限りで組織が存続するわけでもないが、そういう組織の在り方が妥当かどうかもよくわからないところかも知れないし、それよりは対等の立場で協力し合う方が、それができればの話だが、お互いにストレスのない関係になると期待することはできるが、実際にそれをやるとなると、それにかかわってくる各人や各団体の間で利害調整がうまくいかずに、試みが頓挫する可能性も高く、できるだけ民主的なやり方で話し合いや協議によってかかわってくる人や団体の同意を取り付けたいだろうが、そういうことをやるにも限界があり、時には有無を言わせぬ命令や指令によって事を進める場面が必ず出てきて、制度や組織の仕組みがそういうことを前提として成り立っている面もあるだろうし、それを暗黙の了解事項として含みながらも、建前上は民主的な話し合いや協議の場を設けて、そこで形骸化した会議が開催されて、事前に有力者や有力国や多数派などによって提起された問題が話し合われることになるが、それらの意向に沿った結論へと持って行こうとするわけで、そうやって何かしら決まり事が全会一致のような形で決められるわけだが、決められたことを実行するにはやはり組織的な指揮命令系統を利用しないとできないわけで、そういう意味では何から何まで全て対等な立場で協力し合うようなことにはならず、話し合いや協議などの民主的な手続きを重視していても、それだけでは事が進まないことはそれにかかわっている誰もが承知しているはずだが、どこまで対等な立場での協力関係を構築できるかが、民主主義の理念を実現するには重要となってくるにしても、その一方でそういう手続きを一切無視して権力を行使して強引に事を進める方が、それもできればの話だが、権力を行使する側にとっては気分が良いはずだが、逆に権力を行使されて強制的に作業をやらされる側からすれば面白くないだろうし、しかもそれによって命の危険にさらされるようなことにでもなれば面白くないどころか、何とかしてそこから逃げ出したくなってくるだろうが、そうなることを免れる妥協策として、賃金や報酬と引き替えにして作業をやらせることになってくるわけで、いやな作業だがそれと引き替えにして満足できる賃金や報酬を受け取れば、そういうところでは気分が高揚するだろうし、それを使ってほしいものを手に入れることができれば、そこでも気分が高揚して満足感を得られるものの、そんなギブアンドテイクの関係が対等の立場での協力関係かというと、建前上はそうとも受け取られているが、実質的にはそうではない可能性の方が高く、大抵の場合は満足はできないが妥協せざるを得ない賃金や報酬の額となりやすく、また雇用される側よりは雇用している側の方が立場が上であることは誰もが承知しているだろうし、雇用している側が利益を出すにはいかにして人件費を抑えるかが重要となってくれば、当然雇われている側が満足できるような賃金や報酬が払われるわけではなく、それなりに不満が残る額となってしまうだろうが、そこでも組織の中で立場が上の者には立場が下の者よりも高額な賃金や報酬が払われるのが普通だろうし、そうなると権力を行使して命令する側の方が命令されて作業する側よりも取り分が多くなってしまい、そういうところでも不当に安くこき使われているという実感を覚えるだろうし、そう思っているだけでも不快な気分になってくるわけだが、そこからもいつかは自分も権力を行使して部下に命令する立場になりたいという野望が生じてくるだろうが、そんな野望を抱いている人が民主的な手続きを重視するかというと、普通に考えてそういう面倒な手続きは形骸化させて、権限を持っている立場の者がその立場に伴って生じている権力を行使するのが当然だと思うだろうし、いつの時代でも民主主義を軽視する意識は組織的な上下関係の中でおこなわれる権力闘争から生じてきて、そこから頭角を現してきた人が組織の頂点に立って独裁的な権力を振るうようになるのだろうが、たとえその手の独裁者が政変によって権力の座を追われることになっても、組織的な上下関係が温存されていれば似たような人が次から次へと出現してくることが予想されるが、そこでも妥協が成り立つなら、世襲制や集団指導体制などの方が官僚組織を長続きさせるには都合が良くなってきて、そういう成り行きに伴って民主主義とは無関係な体制が維持されてしまうだろうが、そうなることを考慮するなら、自分の気分が良いか悪いかで安易に物事を判断しない方が賢明であり、確かにわかりやすいことを単刀直入に言ってくる人の方が浅はかな人には信用されやすいものの、その背後にはそれだけでは済まないことが山ほど積み上がっていて、それに関してはうまくいかないことがわかっていても面倒な話し合いを続けなければならない事情も出てくるだろうし、何よりも民主的な手続きでは気分が高揚しないわけで、それどころかいつまで経ってもわかりやすい結論に至らなければ、実践的な作業が遅延するばかりとなって、そんな手続きなどしない方がいいと思われてしまうだろうが、そう思ってしまう人はもっとすっきりした結論に至ることを願っている一方で、それと自覚することなく気分を高揚させたいわけで、そういう人が指導者の立場になればそれなりに人気が出るかも知れないが、それと同時に独裁者になる可能性も高いわけだ。


6月14日「関係の程度と限度」

 人が何に関心を持つかはその場の状況や成り行き次第な面もあるだろうが、一時的に関心を持ったからといって、それが長続きするとは限らず、その場その時で刺激を受けた対象へと次々と関心が移ってしまえば、それ以前に何に関心を持っていたのか思い出せない場合もありそうで、また関心を持っただけでその対象にかかわれるわけではなく、かかわろうとしてもかかわれなければ、次第に関心が薄れてしまうかも知れないし、代わりにかかわれる対象へと関心が移ってしまえば、直接かかわっている事実がその人にとっては重要に思われて、何かそれが運命の出会いのように感じられて、ますますかかわっている物事へとのめり込んでいってしまうかも知れないが、客観的に見るなら単なる偶然の巡り合わせでたまたまそうなってしまったにすぎず、かかわっている対象からすれば誰でも良かったのに、たまたま引っかかってきたのがその人だったから、その人を利用することになっただけかも知れないし、その人にとっては重要だが、その人がかかわっている対象からすれば、その人の存在が大して重要でもないのかも知れず、そういう意味では直接の関係を結んでいても必ずしも相思相愛とはならず、一方が他方のことを一方的に重視しているだけであれば、他方にとってはそんな関係など重要でも何でもないのかも知れないが、大して重要でもないからといって軽く見てなめてかかると、思わぬところから因縁が生じてきて、そのつもりもないのに邪険に扱われた思われて、軽く見ている側から逆恨みされたりして、そうした怨恨の類いが募ってくると面倒な事態となってしまうのだろうが、逆にかかわっていくうちに当初は軽く見ていたのに、次第に重視しなければならない成り行きになってしまう場合もあるにしても、それが何をきっかけにしてそうなってしまうとしても、客観的に見るなら偶然の巡り合わせでたまたまそうなっているだけかも知れないが、それによって自らの運命が変わったと思い込んでしまえば、何かそれが重大な契機のように感じられて、それが良い方向に作用すれば、機会を捉えてうまく立ち回ったからそうなったのであり、自分には運を味方につける才能があると思ってうぬぼれるかも知れないし、逆にひどい目に遭えば、自分には災禍を呼び込むような呪いがかけられているのではないかと思ってしまう人などまずいないだろうが、何かそれに関して心当たりがあれば、神社に行って厄払いするような成り行きになるかも知れないし、そういうところで偶然の巡り合わせを信じられないから、そこに必然的な理由や原因を当てはめて安心しようとするのだろうが、不安でいるよりは安心したいだろうし、不安感に苛まれると他に助けを求める成り行きになるにしても、その助けというのが実際に効力のある助けが欲しいわけで、そこでも神に助けを求めることと、具体的な手順を踏んで人や団体に救助を求めるのとでは程度の違いも実質の違いもあるだろうが、何に助けを求めるかでもその場の偶然に左右されて、何か見当違いなところに助けを求めてしまえばうまくいかないのが当然の成り行きになるだろうが、それも具体的に行動を起こしてみてから結果がわかってくるだろうし、そこに至る経過の中である程度は目星もついて、何をやればどうなるかもある程度は見当もつくはずだが、そういうところで制度として何をどうすればいいかが確立されている場合もあり、そういう制度を利用できればそれなりにやろうとすることが実現するわけだが、実質的にそうなっているにもかかわらず、制度の助けを借りて実現できたことを自らの力で実現したように思い込める制度もあるにしても、何から何まで全てが偶然の巡り合わせでそうなったわけではないのは誰もが承知していることかも知れないが、制度的な必然性を信じ切ってしまうと、やはり制度をうまく構築したり調整すれば何とかなると思われて、必然的にそうなるような結果を求めて制度改革を目指す成り行きとなってしまうのかも知れないが、確かにそれを目指す人や団体にとっては制度改革が重要に思われるとしても、制度を利用する側にとっては、何から何まで制度によってお膳立てされると、自力でやりたいことをやるという幻想を抱けなくなって、そういう幻想を抱いている限りで制度改革を目指している人や団体よりは制度を軽視する傾向があるのだろうが、制度にとらわれながらそんな幻想を抱いていて、そんな幻想を抱かせるような制度にとらわれていれば、その人にとっては都合の良い制度となっているはずだが、制度からも制度特有の幻想が生じてきて、それが制度にかかわっている人の意識を支配して、制度が万能であるかのような思い込みを生じさせて、制度を軽視して好き勝手に振る舞っているように見える人や集団を敵視する成り行きになってくると、そのような人や集団を懲らしめるような制度にしようとするわけで、そんなふうにして多くの人が身も心も制度にとらわれるような状況になってくると、偶然の巡り合わせでそうなってしまうような成り行きをできるだけなくそうとしてしまうのかも知れず、確実に必ずそうなるような制度の構築を目指すわけだが、そういう傾向を目指せば目指すほど人が自由に振る舞える範囲が狭まって生き苦しい社会となってしまうだろうが、どこまでそういう傾向に持って行くかに関して限度があるわけでもなく、限界があることは薄々誰もが感じ取っているかも知れないが、その限界というのが制度に頼り切っている集団の組織的な硬直化が示しているところであり、制度だけだと融通が利かなくなって、かえって不都合が生じてくるわけで、それに関しては行政的な政治の領域では政令の類いを発して制度の運用に手心を加えようとするのだろうが、制度とあからさまに矛盾するような政令を出すことはできないだろうし、そういうやり方にも限界があることは確かなのだろうが、結局はどうやってその場の状況に応じて融通を利かすかが制度を運用する側に委ねられていると共に、制度を利用する側にも節度が求められて、利用しすぎないことが制度の維持にとっては重要となってくるわけで、そういう微妙な力加減が制御できていないと、たちまち制度の矛盾が明らかとなってきて、制度を骨の髄までしゃぶりつくように私物化しようとして、制度自体をおかしくしてしまうのだろうが、そういった制度の私物化に関しては節度をわきまえずにやりたい放題やろうとしてしまう勢力に属していると、何か人の痛みを知らないようなことが平気でおこなわれているのに、それを見て見ぬふりをしてその場だけの調和を重んじるような成り行きになってしまい、そうなると一見制度がスムーズに機能して滞りがないように感じられるとしても、制度の矛盾がもたらす不都合や不具合には目を瞑って、そういった矛盾に直面して苦しんでいる人を見殺しにしているような状況がもたらされて、制度的には繁栄しているがその裏で人心が荒廃しているような世の中になってしまうのかも知れないが、そういうところで正義の味方を装うジャーナリストの類いがそうなっている状況を告発するかも知れないし、そういうところで制度の矛盾を補完する制度が動作している場合もあり、何から何まで不具合や不都合が全て放置されているわけではなく、そうした不具合や不都合の犠牲になっている人たちを助けようとする試みもそれなりに出てくるのが普通の成り行きであり、世の中が制度的に行き詰まっているとしても、結果的にはどうにかなるような成り行きへと持っていこうとする力が何かしら働くのだろうが、それも偶然の巡り合わせに左右されて働く作用でもあり、中には放置されて見殺しにされてしまう人も出てきて、悲惨な結果に終わってしまう場合もあるだろうが、少なくともまずは自力で何とかしようとしない限りはそういう成り行きにもならないだろうから、たとえ無駄に終わっても悪あがき程度のことはやれる可能性があるのかも知れない。


6月13日「キレる人」

 物事の辻褄が合うように考えている限りで、考えていることが論理的に破綻しているはずがないが、何をどう考えてみても、何かが起こってからそれが起こるまでの経緯を調べて、起こった理由や原因を突き止めれば、こういう理由や原因でこういうことが起こったと説明できるが、そこで何かを起こした人が、それを起こすに際して意図や思惑などがはっきりしていれば、これこれこういう理由でこういうことを起こした、と頭の中で事の成り行きを整理できているかも知れないが、衝動的に起こしてしまえば、事前にはっきりした意図や思惑があったわけでもなく、行き当たりばったりで何らかの行為に及んでしまったことになるだろうし、後からそれが起こるまでの経緯を調べて、辻褄が合うように事の成り行きを説明できても、それを起こした当人が納得するかというと、そんな理由で行動に及んだのではないと思うかも知れないし、そこでも反発して衝動的に激高する可能性もあるだろうが、そんなふうにすぐにキレやすい人が論理的に辻褄が合うように物事を考えているかというと、いつ何時でもキレているわけでもないから、冷静になっている時は論理的に物事を考えているかも知れないが、感情が高ぶって怒り心頭に発した時にはそうではないと想像がつくだろうし、自らがキレることまで計算に入れながら行動しているわけでもなく、いったんキレてしまったら何をするかわからないと自分で自分を恐れているのかも知れないし、そういう人に向かってすぐにキレないで冷静になれと諭しても、そんなことは自分がわかりすぎくらいにわかっていると思っているだろうし、その人が何かの拍子にキレて暴力を振るったりすれば、その人がキレやすいことを承知している周囲の人には、そうなった理由や原因が手に取るようにわかるかも知れないが、それは論理的に説明するまでもないことであり、それが起こるまでの経緯など調べなくてもわかることだろうが、その人がどうしてキレやすい性格となってしまったのかと言えば、その人の親もキレやすい性格でそれが遺伝したとか、キレやすい性格の親から度重なる暴力や虐待を受けながら育ったから、それがトラウマとなってその人もキレやすい性格になったとか、そういうことももっともらしく辻褄が合うように説明できるかも知れないが、そんなことを今さら説明されてもその人の性格がどうなるわけでもなく、キレられるのがいやなら、周囲の人たちがその人がキレないように配慮しながら対処していくしかないだろうが、中にはその人を遠ざけるためにわざとキレさせて、それを理由にして排除するようなことを画策するかも知れないし、その場の情勢次第ではキレやすい人の利用価値も出てくるかも知れないが、そういうことを知りたいわけでも知ろうとしているわけでもないとすれば、人の行動に関して何が謎なのかというと、それが起こってから辻褄が合うように説明したいと思う理由が謎なのかも知れず、どうにかしてそれを言葉で説明したくなってしまい、そうすることによって起こったことを都合の良いように解釈したくなってしまうのだが、そんな説明では収まり切らない何かがそこで起こっていたのに、それを言葉で説明することによってなかったことにしたいと思っているわけでもないのだろうが、実際に言葉でもっともらしく説明してしまうと何かが欠けてしまうわけで、それが何なのかが当事者でないと実感できないのかも知れないが、それを言葉で説明して合理化してしまった後から、実際に起こったことを振り返ってみると、その時の興奮して昂ぶった感情が抜けてしまっていることは確かだが、言葉では説明できない何かに刺激されてそうなってしまったとも思われて、それを後からもっともらしく論理的に説明されると、そんなことが原因でそうなってしまったわけではないと思うかも知れないし、それはその時にしか感じ取れないことでもあり、それを後からもっともらしく論理的に説明しようとする人にはわからないことなのかも知れないが、その時に何を感じ取っているのかというと、うまく行く可能性であり、その場を何とかしてうまく切り抜けたくて行動や行為に及んでしまうのであり、それがうまくいかないと怒りにまかせて暴力に及んでしまったり、暴言を吐くことにもなり、結果的にはその人の立場を悪くしてしまうわけだが、うまく行く可能性を感じ取ったから行動や行為に及んだ結果として、逆にうまくいかずに自身にとっても思いがけないことを起こしてしまったわけだから、それは論理的にもっともらしいことなどではなく、逆に論理的に破綻しているわけで、そういうところで論理的にもっともらしい説明には違和感が伴ってくるわけだが、説明する方は説明を信じてもらいたいからできるだけもっともらしく説明しようとする一方で、実際にそんなことをやってしまった当事者の方は、自身にとっても信じられないことをやってしまったわけだから、信じられるような説明では納得がいかないのは当然なのだろうが、当事者ではない第三者の立場になってしまうと、当事者の信じられないような行動や行為よりは、それを説明する人が説明するもっともらしい内容の方を信じてしまい、どちらかというと信じられないことをやってしまった当事者の味方にはなれないわけで、そういうことに関連して、事件の加害者よりはその取り調べをする刑事とか、推理を働かせて真相を究明しようとする探偵のような立場の人の方が好印象を抱かれる傾向になるのだろうが、そんな好印象が当事者や加害者などとは何の関係もないフィクションを構成して、事件の真相を究明しようとする側にとって都合の良い話の内容となってしまうのかも知れないが、そこで何かを起こした当事者としては、自分の与り知らないところで勝手に話が構成されてしまい、しかも自分が犯人扱いされてしまうことには納得がいかないだろうし、どちらかと言えば自分の方が思いがけない運命のいたずらに翻弄されて窮地に陥ってしまったのだから被害者であるはずなのに、あろうことかそれが犯人扱いされて批判されたり非難される事態に直面するようなことになってしまえば、何かの罠にはめられてしまったのではないかと被害妄想を抱いてしまうかも知れないし、どこかで道を踏み違えて不利な状況に立たされてしまったのであり、それこそが思ってもみなかったあり得ないことであり、そういう論理的にもっともらしく思われる説明自体が論理的にもおかしいのではないかと疑問を感じるかも知れないが、信じられることと信じられないことの違いが、信じられないことをやってしまった当事者が起こしたことを信じてもらえるように説明しなければならない事情に含まれているわけで、単に立場の違いからそうなってしまうとも言えるだろうが、それもどちらかと言えば立場の良い方の味方をしたいという思惑が働いて、不利な立場になってしまった人の言うことを信じても一文の得にもならないだろうし、自身でも信じられないことをやってしまった人の話など信じてもらえないのは当然だとしても、実際に信じられないような体験をしてしまったのだから、しかも幾分同情の余地のある被害者の立場ではなく、全く同情の余地のない加害者の立場でそれを体験してしまうなら、それこそが自身にとって貴重な体験となるだろうし、身にしみて自身を非難してくる世間の怖さを思い知るかも知れないが、それが取り返しのつかない失態となってしまえば、汚名返上の余地などどこにも見当たらないかも知れないが、それが貴重な体験となるためには、そこから挽回のチャンスを掴まなければならず、実際にチャンスを掴んでそれなりの成功を収めれば、それも信じられないことの延長で起こることになり、それを後から信じられるように論理的にもっともらしく説明されても、やはりそんなことを成し遂げた当人には信じられないだろうし、自身でも信じられないようなことをやってのけたと確信してしまうかも知れない。


6月12日「理由に騙される」

 その必要があれば、単純に何か特定の物事を探し求めている気にはなれるとしても、何かを探し求めているという自覚なしに何かを探し求めている人もいくらでもいるかも知れないし、探し求めている対象が実際に探し求めている物事とは違うことを理解できない人もいくらでもいるかも知れないが、なぜそうなってしまうのかといっても、そんなことを理解しようとして理解できるわけでもなく、その必要を理解していればそんなことにはならないはずだが、実際に何かを使おうとして見つからなくなってしまったから探し求めていることになれば、探し求めている物事が特定されていることになるだろうし、なぜだかわからないが、何かを探し求めている場合もあるにしても、理由がわからないからといって困惑するとは限らず、単純に欲しいものを探し求めていても、なぜほしいのか理解できない場合もあるから、理由を探し求めることが全てにおいて優先されるわけでもなく、逆に理由がわからない方が都合が良い場合もあるかも知れず、特に欲しいものが何もないという心境でなければ、何かしら欲しいものがあって、それを探し求めているというよりは、探さなくても金さえ出せば手に入るものなどいくらでもある中で、値段が高くて手が出せなくても、値段が高いというだけで価値が高いと思わされて、価値の高いものを手に入れたいとも思わされて、必要もないのに欲しいと思い込んで、欲しいものを見ているだけでは満足できないとしても、商品の宣伝によってそれを欲しがるように仕向けられているから、そんな理由自体が信用できない場合もあり、さらにそれが機械類であれば、性能が高いほど値段が高くて価値も高いということになって、それを欲しいと思うことが当然のように思われるだろうが、それを欲しいと思うこととそれが必要であることが一致しなければ、必要でもないのに欲しいと思っているだけで、そうなるとそれを欲しいと思う欲望自体も信用できなくなってしまうだろうが、それを欲しがる理由が必要もないのに欲しがっているのだから信用できないとしても、信用できなくても欲しがっているわけだから、欲望を優先させれば信用など軽んじてもかまわないようにも思われて、必要もないのに欲しがっているわけだから、それも欲望を優先させれば、必要性も軽んじてもかまわないようにも思われて、しかも金さえ出せば手に入るとなると、何を優先するかの優先順位としては、金を求めることが他の全てに優先させなければならなくなる可能性が高まり、金さえあれば全てが解決するとは限らないが、とりあえず金を求めて、金が手に入れば、金を使って欲しいものを手に入れる成り行きになるだろうが、すでにそうなっている段階で、欲しいものが限定されてきて、本当に欲しいものが欲しかったのかどうかも疑わしく思われてくれば、商品の宣伝の類いによってそれを欲しがるように誘導されているのではないかという疑問も湧いてくるだろうが、それ以前に本当に欲しいものが本当に求めているものだとも限らないし、また本当に必要なものが本当に欲しいものであり本当に求めているものであるとも限らず、それが本当でなくても構わない場合もあり、ただその場の成り行きに従っていると、自然に必要なものや欲しいものや求めているものが定まってくる可能性もあるだろうが、必要なものと欲しいものと求めているものが一致しなくても構わなければ、そういう成り行き自体が信用できなくなり、その場の成り行きに騙されているのではないかと疑念を抱けば、そこで必要だと思うものが必要ではない可能性も考慮に入れておく必要があるかも知れないし、そこで欲しいと思わされているものがなくても困らないかも知れないし、求めているものを求めても手に入るとは限らないかも知れないが、そういうことをその場でいちいち自覚できるかというと、それも怪しいところであり、例えばグーグル検索で毎日様々な企業の株価をチェックしていると、グーグル傘下のユーチューブで株取引やFX取引で金儲けの仕方を伝授するという広告が異常な頻度で出てくるが、また金に困っていると思われるのか、借金の返済に関する悩みの相談やアルバイト情報や転職情報に至るまでありとあらゆる金に関する広告で画面が埋め尽くされるというと、話を誇張しすぎているのが明白になってしまうが、よく考えてみれば本気で株取引をやっている人がグーグル検索程度で間に合うのかというと、普通に考えてもそんなことはあり得ないだろうし、最低でも証券会社が提供するそれ専用のツールやアプリやソフトでそういうことをやっているわけだが、そういう意味では広告自体が広告を見せられている人の意図や思惑とは一致していないし、ただ企業の株価を知りたいからグーグル検索を利用しているとは受け取られず、金儲けがしたいからグーグル検索を利用していると受け取られて、さらに金に困っているから苦し紛れに株取引に手を出して失敗して、借金苦に陥っているとも受け取られて、金に困っているなら安易に株やFXなどに手を出さずに、自分でアルバイトでも転職でもして働いて稼げとお節介な忠告をしているわけでもないだろうが、邪推してそういうことまで言われているように感じられると、グーグルという企業のやっていることに腹が立ってくるだろうし、ではどうすればいいかという成り行きになってくると、グーグルが提供する有料の広告なしでユーチューブが見られるサービスを使わずに、HTMLを工夫して広告を見せる箇所を削ってユーチューブを見ようとして面倒な操作をおこなってしまうわけだが、誰もがそんなことをやっているわけでもないだろうし、そこに至る過程において出てくる理由も一つではなく、その場の状況に応じて出てくる様々な理由の中では、互いに矛盾し合っている理由も絡み合いもつれ合っている理由もあるだろうし、その中のどの理由をどの程度の割合で優先させるかといっても、そんなこともその場の成り行き次第でも気分次第でも変わってくるだろうし、ある時には不快感を募らせながらも面倒な操作をおこなうのが面倒だから我慢して広告を見させられていたり、またある時にはあまりにも広告が頻出して腹が立ってくると、途中で見るのをやめてしまったり、特定のチャンネルでは特定の広告が出てくることがわかっているから、はじめから広告が出ないように操作した上で動画を見ていたりと、そんなことにまで気を遣うのが馬鹿らしくなってしばらくユーチューブを見るのをやめてしまったり、もともと暇つぶし程度で見ていることだから、そんなことにまで無駄な労力を割くのもおかしいと思うようにもなって、自己嫌悪に陥ってしまうこともあるが、そんな気分に至るためにそんなことをやっているわけでもなく、どうということはないと思ってしまえれば、それでも構わないのだろうが、腹が立つことばかりではなく、暇つぶし程度の志の低さを意識させられるわけでもなく、娯楽だと割り切って見ているわけでもないところが、複雑な思いと共に、そこでおこなわれていることの意味や意義を意識させられてしまうわけだが、少なくとも株取引に関して言えることは、金儲けを意識しておこなっていることは確かだろうが、結果的にどの程度儲けられるかに関しては、グーグル検索で株価をチェックしている段階では何とも言えないわけで、大抵の場合はそれが直接の金儲けにつながるかどうかもわからずに株価や値動きを知ろうとしていて、それを知ったところでその情報を生かして投資しても、その時点でもどうなるかはわからず、だからといってもっと確実に儲かるやり方があると宣伝されても、どうせ失敗したのだろうから借金の相談に乗ってやると勧誘されても、そんな割の合わない非効率なことをやっていないでアルバイトでも転職でもしろと促されても、まだそこまで事態が進行していない段階で先回りされていくら忠告されても、それを信用しろと言う方がおかしいのは当然かも知れない。


6月11日「見かけ倒し」

 世の中で見せられている物事の大半が見かけ倒しであるとは言えないが、少なくともそこで何かがおこなわれているように見せかけたいわけではなく、実際に何かがおこなわれているはずだが、おこなわれていることの実態と見せかけている外観との間にずれが生じていれば、その中のいくつかは見かけ倒しの可能性はあるだろうし、具体的に何が見かけ倒しなのかは、その可能性が疑われる事例を詳しく調べてみないことには明らかにはならないだろうが、世の中で注目されてメディアを介して大々的に宣伝されている物事が見かけ倒しというわけではなく、それよりは人目につかず大して話題にもならないことが見かけ倒しであれば、別にそれがどうしたわけでもないと思うかも知れないが、見かけ倒しであってもかまわないことが見かけ倒しであれば、さらに取り立ててそれが問題となるようなことでもなく、見かけ倒しであるのが当然だと思われてしまうだろうが、何がそうなのかというと、見かけ倒しだとは思われていない物事がそうであれば、それが見かけ倒しであることの典型例となるわけだが、それに関しては具体的に何が見かけ倒しであってもかまわないだろうし、それが見かけ倒しではないと思われている物事なら何でも構わず、そうは見えない物事がそうだということが見かけ倒しなのであり、そういう物事のそういう面を見つけて見かけ倒しだと思えば、それで構わないわけで、そういう意味では見かけ倒しであることが取り立てて問題であるわけではなく、世の中で見せられている物事には、大なり小なり見かけ倒しな面があると思っておけばいいだろうし、多少は見かけ倒しであるからといって不都合であるわけでもなく、逆に見かけ倒しでないと、何かちょっとおかしいのではないかと思っておくぐらいで構わないだろうし、見せられている物事が見かけ倒しであることを嘲笑したり騒ぎ立てるのは、はしたなく無礼なことであり、それが見かけ倒しだとわかっても、事を荒立ててそれを周囲に吹聴したり指摘して回る必要はなく、できることなら暗黙の了解事項や周知の事実として各人の胸にしまい込んでおけばよく、それが見かけ倒しだとは気づかないように振る舞う必要があり、たとえそれが見せかけの演技になろうと、周囲の誰もがそう振る舞っていると思えば、そんなふうに見せかけている自らの振る舞いも取り立てて不自然に見えるわけでもなく、そう見られている限りで他から不審に思われているわけでもないはずだが、逆に見かけ倒しでないと周囲から不審の目で見られてしまうかも知れないし、常に見えているのは飾り立てている面であり、見かけ倒しな面が誰の目にも見えているはずだが、逆にそうやって必要以上に飾り立てるように仕向けられているのに、そこでそれとわかるように飾り立てない意志を示してしまうと、飾り立てる傾向に逆らっているように見えてしまうわけで、さらにそれが反逆の意志を明らかにしているとでも受け取られると、それを理由にして周囲から叩かれてしまうわけだが、そうなるのがいやなら、反抗や反逆の意志も見かけ倒しである必要があるだろうし、実際にそれが見かけ倒しである限りで安心して周囲から許容されるわけだが、見かけ倒しではない反抗や反逆の意志とは何かといえば、実際に実力行使ができれば、それが見かけ倒しでないことが周囲にも知れ渡って恐れられてしまうかも知れないが、そうなったからといって見かけ倒しでないことが証明されたわけでもなく、逆に飾り立てて見かけ倒しであるように装うのを拒否したことによって、周囲から相手にされなくなってしまって、無視の対象となれば、その人の存在そのものが抹消されて、その人がいてもいないかのように装われて、その人なしでその場の事態が進行しているようなことになってしまえば、表面的にはその人がいないかのように見せかけている側の勝利となるのだろうが、誰かがそれを意識してそうなるように画策して、そういうことがおこなわれるわけではなく、誰とも知れずにその人がいてもいないかのように振る舞うという暗黙の了解事項がその人の周辺に行き渡るわけで、そうやってその人の存在がその人の周辺から抹殺されてしまうのだろうが、それも表面上でそうなっているにすぎず、それ自体が見かけ倒しな状況でもあり、そうなっているように装われているだけで、逆に装っている方が時代の経過と共に世の中から忘れ去られる存在でしかなく、そんなすぐに忘れ去られるような見かけ倒しな小物たちが誰とも知れずに守っているのが見かけ倒しな世の中でもあり、それが本当に世の中の実態なのかどうかも疑わしいだろうが、幻想の共有としてはありうる事態なのかも知れないし、見かけ倒しな著名人を崇拝する無名の大衆で構成される共同体の共同幻想として見かけ倒しな状態が維持されていることになるわけだろうが、それも本当に維持されているかどうかも怪しいわけで、何かちょっとしたきっかけから吹けば飛ぶように消滅してしまう傾向なのかも知れないが、それも絶えず一時的な傾向として維持されているように装われているのかも知れないし、そういうところがはっきりしないままとなっていて、そうなっていると断言するわけにもいかないだろうが、そんな人たちを仮装の中心としてブログ的な仮想空間の中で、どうでもいいような日々の日常空間の中で起こる些事がもてはやされているように装われるのは確かだとしても、果たしてそれが本当にもてはやされているのかというと、そういう些事が画面上に表示される頻度が高いというだけで、誰も気にも留めていない可能性も高く、ただ多くの場所や時間の中で見かけられるのは確かなのだが、その内容が記憶に残ることはなく、記憶に残る必要もないからそれで構わないのだろうが、何とかしてそういう些事で日常空間を埋め尽くしたいという意図や思惑が働いているわけではなくてもそうなっているわけだから、すでにそういう空気や雰囲気が世の中に充満していることも確かなのだろうが、だからといってそれによって世の中の何がどうなっているわけでもなく、普通は思考の対象にはならないわけだから、それ自体があってないような世の中の傾向に含まれるだろうが、意識して考えることを拒否しているわけではなく、それらによって物事を考えなくても済むような環境がもたらされているとも言えないだろうし、それが何かのなれの果てであることは誰もが薄々勘づいているのかも知れないが、それが何のなれの果てであるかに関しては、まだそこまでは考えが及んでいないのかも知れず、だから何だかわからないが隣人とも言えないような得体の知れない誰かが思っているように装われている何かを共同幻想の対象としているのかも知れないが、それがはっきりとした対象とはならず、こういう対象にはこういう解釈を当てはめればいいという紋切り型が確立されているわけでもないだろうが、何が解釈の対象となっているわけでもないだろうし、そうかといって何も解釈の対象とはならないわけでもないのだろうが、少なくとも見かけ倒しを拒否したり、見かけ倒しの状態から抜け出ようとする人が実際に大勢出てしまうと、見かけ倒しな人を仮装の中心とする仮想空間を維持できなくなってしまう恐れが出てくるから、誰とも知らずに守っているつもりの暗黙の了解事項には従っているつもりでいることは確かなのだが、無意識に従っているつもりではあっても、時代の変遷と共に暗黙の了解事項の内容も変わっていってしまえば、そんな了解事項が忘れ去られるのに伴って了解事項に従っている人たちの存在も忘れ去られて、了解事項が守られていた当時の人たちが何をやっていたかなんてどうでもいいことになってしまい、やはりそれは思考の対象とはならない日常の些事でしかなく、今となっては誰も思い出せない共同幻想に基づいた価値がそこで機能していたのかも知れないが、それがどんな機能かといえば、誰もが自身が見かけ倒しであることを認め合い、それを正当化する機能があったのかも知れず、今もそれが当時とは幾分内容を変えながら機能し続けているのかも知れない。


6月10日「物事の組み合わせ」

 ものは言いようで、言い方によって印象が良くも悪くもなるのは確かであり、例えば、「〜だ」というのと、「〜でしかない」というのとでは、「〜だ」は中立的な物言いだが、「〜でしかない」というと、対象となる物事に否定的な印象が伴ってきてしまう場合がありそうで、それに関して「人は動物だ」というのと、「人は動物でしかない」というのとでは、動物である人と、動物でしかない人とで、動物でしかない人の方が否定的な印象が伴ってくるだろうが、言い方の違いではなく、比較する物事の組み合わせから印象が良くも悪くもなる場合もありそうで、何と何を比較してそこからどんな結論へと持って行くかで、良い印象や悪い印象を得ようとする意図があると、前もって比較する対象が限定されてしまうから、それ以外の比較の対象を思い浮かべられなくなり、限定された比較から導き出される結論へと恣意的に誘導されて、それしか結論がないような気がしてしまうかも知れないが、比較できる対象が他にもあることに気づけば、その種の恣意的な誘導にも惑わされずに済むかも知れないし、それに関して二つの物事を比較してどちらを選ぶかの強制二択に直面する機会もあまりないかも知れないが、二つだけでなくさらに多くの選択肢があることに気づけないと、二つの物事を比較してどちらが良いか悪いかを決めるという先入観にとらわれて、何かと何かを比較するという言語表現に思考が依存して、それによって安易な比較癖がついて、比較しなくても構わないという選択肢があることに気づけなくなり、提示されたどちらを選ぶかの二者択一を迫ってくるゲームにのめり込んでしまえば、そのどちらを選んでもゲームを仕掛けてくる主催者側の思うつぼにはまってしまうわけだが、果たしてそれがゲームなのかというと、誰もが自らがとらわれているゲームを主催する立場にはなれないし、実際にどこでゲームがおこなわれているわけでもないだろうが、思考が二者択一に依存していると、自然と頭の中でゲームをしてしまうわけで、そんな二者択一にとらわれていれば、そのどちらを選んでもそこから脱落しなくて済むから、絶えず選ぶべき選択肢を用意しておいて、そのどちらを選ぶかの判断に困らないような状態を保ちたいわけだが、それがさらに重症化してくると、一方に肯定できるものがあり、もう一方に否定できるものがあるという比較対象が必要になってきて、そのどちらでもなかったりどちらでもあったりする物事があってはならないような心理状態となってしまうだろうが、どちらを選んでも選ばなくても、正解でも不正解でもあったりなかったりすれば、判断しようがなくなってしまうだろうが、そうなっては困るから絶えず肯定すべき物事と否定すべき物事が用意されている必要があり、前もって自らがそれを用意しておくこと自体が予定調和であり、なぜそんな物事が用意されているのかがご都合主義のなせる業だろうが、絶えず良い物事を選んでいる気になれるなら、あるいはたまには悪い物事を選んでしまって失敗したと反省できれば、それで気が済むということかも知れないし、目の前に良い物事と悪い物事とが並べられていて、良い物事を選べば正解で、悪い物事を選べば不正解であれば、そういうことをやっている限りでゲームが成り立つわけだが、果たして自らがゲームに興じている必要があるのかというと、根本的なところでゲームをやっていないと他にやるべきことがないような気がして、他にやるべきことがないから、そこにやるべきこととしてゲームが構成されていなければならず、それが選択肢のどちらか一方を選ぶと正解となったり不正解となるゲームだろうが、選択肢が二つよりも多くてもゲームそのものは成り立つだろうし、それらのうちでどれか一つか複数個が正解や不正解であればいいわけだが、選択肢の全てが正解でも不正解でもあったりなかったりすれば、ゲームではなくなるだろうし、さらには設定されている他にも選択肢があるかも知れないし、それを選択してもしなくてもどちらでも構わなければ、やはりゲームそのものが成り立たなくなってしまいそうだが、それはゲームというよりはクイズに近いかも知れないが、そもそも回答者である自分が答えるべき設問や選択肢を設定しようとしていること自体がおかしいと思えば、それがゲームでもクイズでもないことに気づいてしまうだろうが、ではゲームを成り立たせるには何が必要なのかというと、ゲームの主催者が必要なのであり、何らかの団体が自らが参加するにふさわしいゲームを主催してほしければ、ゲームを主催してくれる団体を求めていることになるだろうが、自分の都合を優先させるなら、自分にとって都合の良いルールを設定する必要があるだろうし、そんなルールを誰が設定するのかといえば、自分で設定する以外にはあり得ず、結局は自らが勝てるようなゲームのルールを自分で設定しなければならず、やはりそれではゲームにならないわけだが、ゲームでないとすれば何なのかというと、何かと何かを比較してそのどちらが良くてどちらが悪いかを決めたいだけかも知れないし、それを決めるに際して合理的な比較基準も決めたいのかも知れないが、果たして自分だけでそれが決められるかというと、他からの判断も必要としていて、そこにかかわってくる誰もが納得できる判断基準を求めたいのかも知れないが、それを決めるに当たって自らの都合を反映させたければ、自らの都合が他の誰の都合とも衝突しないように調整できれば、他の誰からも文句が出てくることもなく、それが自分だけの都合ではなく、他の誰もが納得できるような共通の都合となるのだろうが、世の中でおこなわれている物事に関して、何かしらその物事にかかわっている人がいるから、そこで物事が成立していて、それが成立している限りで、その物事にそれにかかわっている人の都合が反映されているわけで、そんな物事の中でどれが良くてどれが悪いかを決めてしまうと、悪いと決めた物事にかかわっている人の都合を考慮していないことになり、そうである限りで誰もが納得できる都合などあり得ず、誰にとっても受け入れられる判断基準もあり得ないことになってしまうわけだが、少なくとも判断基準に自分の都合を反映させるとなると、その都合に合わない人の都合を判断基準に反映させるわけにはいかなくなり、そこで自分の都合とその人の都合が衝突してしまうわけだが、どちらの都合を優先させる必要があるかというと、判断基準を決める人の都合が優先されてしまうだろうし、そうなると誰が判断基準を決めるかでもめてしまうかも知れないが、そうなればそこでおこなわれているゲームとは、誰が共通の判断基準を決めるかを争うゲームとなってしまうわけだが、そんなゲームがどこでおこなわれているのかといえば、たぶんゲームそのものが成り立っていないのかも知れないし、そこにかかわっている人や団体の間で何らかの争いが起こっていて、その中でも連携や協力などの関係の構築が模索されているのだろうが、それがゲームとか競争とかの体をなしていないとすれば、では何なのかというと、そこでゲームや競争がおこなわれているように見せかけたいのであり、ゲームや競争に見せかけるためのルールを構築しようとしているのかも知れず、それも共通の判断基準と同じようなことであり、不公正で八百長だらけの不正行為がそこでまかり通っていることは誰もがわかっていて、それではゲームにも競争にもならないこともわかりきっているだろうが、そこでおこなわれている様々な物事が組み合わさって動作すると、自然にそうなってしまうわけで、要するにゲームも競争も成り立たないような世界がそこに形成されているわけだ。


6月9日「思い込みのきっかけ」

 何かの拍子に思いついたことが、それを後から振り返ってみると、偶然にそんなことを思いついたと思うかも知れないが、ふとしたきっかけから巡り会うような物事が、後になって重要に思われてくると、そういうことを語る際には興味深く思われてくるし、偶然に起こったように思われることが、それが必然的にそうなったように思い込むために仕掛けられた罠だと思われると、そう思うこと自体が疑わしく思われて、普通はそんなことはあり得ないはずだが、あり得ないことが起こるということが興味の対象となってくるわけで、自然にそうなってしまう成り行きに、人為的な作為を想像してしまうのもよくあることであり、事の真相は藪の中にしかないとしても、そこから真実へと至りたいわけで、真相を突き止めて、真実を発見したつもりになれるには、必ずと言っていいほど困難が待ち構えていて、目の前に立ちはだかってくる幾多の困難を乗り越えた末に、求めようとした真相や真実に到達したと思われるなら、いやが上にもそれが真相や真実だと信じ込んでしまうだろうし、そういうことを信じ込むには必ずそういう成り行きが必要であるわけでもないのに、実際にそういう成り行きを体験すれば、何か重要な秘密を突き止めたような気になってしまうかも知れないが、それが人為的に仕掛けられたことであれば、劇的な話の展開になるわけで、ともすればそういう話の成り行きへと持って行きたくて、わざとそうなったように装って、実際に多くの人々の興味を惹きつけようとするのだろうが、社会の仕組みがそういう成り行きになりやすくしている場合もあり、都合の悪いことを隠そうとする傾向があれば、その隠そうとする物事を暴き立てようとすれば、必然的に隠そうとする人や団体との衝突や対決が待ち構えていて、それが真相や真実を突き止めようとする際に立ち塞がってくる障害となり、しかも人々を隠された真実や真相の追及に駆り立てているとすれば、そんな社会の仕組み自体が構造的な欠陥だと言えるかも知れないが、欠陥というよりは特性や特徴だと捉えるなら、隠された秘密を巡って人々が争う状況が、社会によってもたらされた興味の対象となり、それが人々の関心を社会に惹きつけるための餌であり罠でもあり、餌に食いついて罠にかかってしまう人々の養分を吸い取りながら社会が成長して、今や世界の至る所にその種の罠が張り巡らされていることになっていれば、いったい何のために社会が存在しているのかがよくわからなくなってくるかも知れないが、人々を食らい飲み込んでそこへ留め置くために存在する社会にどんな役割や機能があるのかといっても、そんな役割や機能があるとしか言えないだろうし、そこに作られた迷路で迷いながら、それが暇つぶしの娯楽として機能している面もありそうで、誰がそんな宝が隠された迷路を作ったのかといっても、人が作ったのは明らかであり、真相や真実という宝を探しながら道に迷ってしまうのは、ある意味では自業自得なのかも知れないが、宝を隠した人とそれを探す人が同一人物であるわけでもなく、そういう意味では自業自得ではなく、役割分担が別々の人に振り分けられているはずだが、誰が振り分けたわけでも事前に関係者の間で示し合わせたわけでもなく、自然に役割が決まってしまうとすれば、偶然にそうなってしまったとしか言えないはずだが、そこに作為を想像してしまうと、社会を支配している団体の陰謀だと思い込んで、宝探しが犯人捜しに変貌して、そんなことを仕掛けている犯人を告発するような成り行きにもなってきて、そこから政治的な主張も練り上げられて、社会を支配する団体を糾弾するようなことがおこなわれるわけだが、その団体が政府なのか政権政党なのか、政府や政権政党を陰から操っている謎の団体なのかは、どれでも構わないというわけでもないが、その時々での主張の内容や傾向によって使い分けられているのかも知れないし、何を糾弾の対象とするかで、話の説得力も変わってくるかも知れないが、その形式にはさほどの違いはなく、それも社会の構造を反映して生じてくる形式だと思っておいて差し支えないだろうが、何から何まで全てが社会の構造によって決まってしまうと、人の恣意的な意図や思惑の入り込む余地が生じてこないようにも思われてしまうだろうが、一時的な社会の情勢や状況の変化に応じて行動しようとすれば、そうした行動の動機となる意図や思惑が意識の中で構成されてくるわけで、それもこういう時にはこう動くべきだという思いが、そこに至る経緯や事情や、それまでに培ってきた知識や経験などから生じてくると解釈しておけばいいだろうし、それが一定の水準で顕在化すれば戦略や戦術として有効に機能するだろうが、そうした実践に至らなくても、意図や思惑として意識される場合もあるだろうし、それを抱いている自覚がなくても、行動からそういう意図や思惑が透けて見える場合もあり、一定の行動パターンとして顕在化してくると、それに伴ってよくありがちな意図や思惑が想像されてしまうわけだが、行動している当人がそんな意図や思惑に操られながら行動しているように見えるとしても、その人の意識の中では自主的かつ自発的に行動していて、そこに行動する目的や目標が生じているようにも思われるだろうし、そんな目的や目標を達成するために努力しているつもりにはなれるだろうが、結果的にそうすることによって何らかの情勢や状況がもたらされた際に何を思うかというと、目的や目標とすることが成し遂げられたり、その途中で挫折したり結果的に失敗することによって、それを踏まえて新たに以前と同じようなことを達成しようと思うだろうし、それが全く同じというわけでもなく、実際に行動して経験したことを踏まえて、新たな目的や目標を練り直すわけだが、それが以前と同じような内容になってしまうのは、すでに目的や目標を設定してからそれに向かって努力するパターンから抜け出られなくなっているわけで、そこにもそういう行動パターンを強いるような社会の罠が張り巡らされているというと、何か予定調和であるかのように思われてしまうわけだが、誰がどんな団体が意図して作ったわけでもないのに、なぜ社会の構造が人を一定の状態や行動パターンにとどまるように仕向けてしまうのかといえば、いったんできてしまった構造が安定するには、それに伴って人の行動様式も一定の範囲内で固定している必要があり、各人が思い思いに好き勝手な思惑を抱いて行動してしまうと、構造自体が崩れ去ってしまうから、そうはならないように構造の隅々で歯止めがかけられているのだろうが、それが法律や制度や慣習の類いとなるだろうし、そういった決まりや掟の類いを守るように仕向けているのが、組織的な団体となるはずだが、それを恣意的にねじ曲げたり変更を加えたり形骸化させたりあからさまに破ってみせたりするのも、法律や制度や慣習などを守らせようとする組織的な団体なのだから、その場の情勢や状況に応じて守るか破るかのどちらにも対応できるようになっていると考えるしかないが、ではその場の情勢や状況とは何なのかというと、それが社会の構造を維持するにはどうすればいいかが問われるような情勢や状況であり、構造を維持するには決まりや掟の類いを守るだけでは駄目で、時にはそれをねじ曲げたり変更や修正を加えたり形骸化させないと構造を維持できなくなってきて、しかもそれが団体にとって都合の良い構造となっていなければならないわけで、そんな都合の良い構造の中で何がおこなわれているのかといえば、宝探しや犯人捜しのゲームであり、社会の方々に宝や犯人となる物や事や人を隠しておいて、それらを探し求めるように人々に仕向けているのも、そうした団体の戦略や戦術の一環だとみておいても構わないわけだが、果たしてそんなことをやっている自覚が誰にあるかというと、誰にもないだろうが、状況証拠からそんな思い込みにとらわれてしまう人が大勢出てくるのも、社会の構造から生じている特性や特徴だと捉えておけば、それがそれなりに妥当に感じられるかも知れない。


6月8日「途中の段階」

 どのような状況に遭遇することになっても、それが自ら招いた結果だと悟れば、たとえそれが最悪の結果であっても受け入れるかも知れないが、受け入れるには抵抗感が伴ってくれば、自分のせいでこうなったわけではないと思って反発するかも知れないし、受け入れること自体が理不尽で不条理に思われてくれば、何とかしてそこから逃れようとして、どうやっても逃れられないところが理不尽であり、何か不条理な事態に直面しているような気にさせられるとしても、よくよく考えてみれば理不尽でも不条理でもなく、そうなる定めであったことが、そこからだいぶ時が経ってからわかってくれば、わかってきた頃にはすでに片がついていて、実際に苦境と思われた事態を乗り切ったからそう思われて、乗り切れなければ今もまだ苦境のただ中でもがき苦しんでいる最中かも知れないが、まだ結果に至っていないことが成り行きが継続していることを意識させて、片がついていないことを実感させて、そうである限りで結果を受け入れてはいないだろうし、まだ結果が出ていないと思っているかも知れないが、それが結果であると同時に途中経過でもあれば、両義的に受け止めておくしかなく、結果であるが途中経過でもあるという状況が、それに対してどういう姿勢で臨めばいいかといった問いの立て方では不十分に思われて、今も絶えず成り行きの渦中にいるのだから、傍観者のようにその外側から成り行きを眺めているようなわけにはいかないし、すでに済んでしまったことを後から評価するようなことではなく、現在進行形で動いている物事にかかわっている最中に絶えず判断を迫られて、その判断の良し悪しを評価しても、それがわかった頃には手遅れになってしまうとしたら、ではどういう姿勢で事態に臨めばいいのかといっても、実際にすでに何らかの態度や姿勢で臨んでいて、それが自身ではよくわからないし、どう判断すればいいかもわからなければ、対処しようがないと思っても、すでに自らが巻き込まれている事態に対処しながら行動しているだろうし、そうなっている限りで現状のただ中で生きていられるわけだが、生きていられるといっても実際に生きているわけだから、そんな大げさなことでもないだろうし、そういうところで自らの実感を信用できない面もあるだろうが、信用できるような実感を得たくても、それが自らの都合を反映した実感であれば、そんな実感など幻想にすぎないかも知れないし、結局は自らの実感を疑いながら生きていくしかなく、何か勘違いしているのではないかと思いながらも、実際にそう思いながら生きているのだから、その限りで何とかなっていると思うしかないだろうし、そう思いながら自らが取り組んでいる物事と共に自ら存在し続けている現状を、行動してきた結果として捉えているのと同時に、それが行動している途中経過でもあることを理解しているつもりになっている一方で、行動によってもたらされる結果を予想しながら行動していると、時には予想外の結果がもたらされて、さらには予想以上でも以下でもあるような結果ももたらされて、それに一喜一憂しながら、安心したり不安になることもあるだろうが、しかも結果が出たからといって、その間にも成り行きが継続しているわけだから、安心している暇がなく、何かに追われているような切迫感にとらわれている限りで、まだやるべきことが山ほどあるようにも思われるかも知れないが、いったん立ち止まって辺りを見回して、これまでにやってきたことを振り返る余裕があれば、すでに終わりが近づいていることになるのかも知れないし、何の終わりに近づいているのかといえば、取り組んできたことの終わりが見えてくれば、その程度や内容に応じてそれ相応の感慨に浸ることにもなり、時にはそれ以上に伸びしろがないことを思い知らされてがっかりするかも知れないし、まだ粘り強く執拗にこだわっていることがあれば、それにこだわることによって生きがいを求めていて、そういったこだわりが事態の継続を長引かせているようにも思われて、自身が取り組んでいることにこだわっていることが、自分にとっては当然に思われるだろうが、それが自らを含んで自らを取り巻く状況の中ではそうだとしても、そこから身を引き剥がすことができない限りでそうなっているにすぎず、何かのきっかけからそこから遠ざかることができれば、執拗にこだわっていたことが何でもないことに感じられてしまい、そう感じられてしまうのが怖いから、そこから身を引き剥がすことができないのかも知れないし、そうなってしまうことを想像するだけでも怖くなってきて、自らが築き上げてきた立場が崩れ去るような幻覚に襲われるなら、それは砂上の楼閣のようなものでしかないだろうが、それも程度に応じてそんな大げさには思われない取り組みが大半であれば、大したこだわりもなく何かのついでにやっている程度に装えるだろうし、そうなればその種の自家中毒にも陥らずに、割と簡単にそこから身を引き剥がして、自らがやってきたことを振り返って他と比べてそれなりに客観的な評価ができるかも知れないし、その際の評価の基準が世間並みな成功の程度であれば、実際にも大したことではなく、それに伴って生じるこだわりの程度も世間並みとなってしまうだろうが、現状ではそれ以上は望めないだろうし、それ以上の現状があるわけでもないが、それも結果としてそうなっているというよりは、絶えずそうなり続けていると捉えておくのが妥当なところかも知れないし、何かの途中経過として、自らが思い描いている理想の姿を裏切りながら、それとはかけ離れていて、どうということはなく大したことでもない現状が意識の中で構成され続けていて、それが驚きとは無縁な現状でもあり、そんな現状を意識してしまうから逆に驚きを求めて驚くべきことが起こるような幻想を追い求めてしまうとしても、それもメディア上で驚くべきことが提示されているように装われていることの裏返しで思うことかも知れないし、日々驚くべきことが起こっていると思いたいのかも知れないが、その驚くべきことに自らがかかわっているかというと、メディアとの関係では傍観者の立場を強いられていて、そういう立場には不満を覚えるとしても、自らが驚くべき対象になれるかというと、日常の地続きの水準ではなれないかも知れないし、積極的になろうとするような成り行きとは無縁であれば、別になろうと思うような成り行きにならなくても構わないわけで、実際に自らが取り組んでいてかかわっている物事の傾向が、それとは関係のないところで成り立っている場合がほとんどであれば、世間並みにそうなっていて、それ以上に何がどうなっているわけでもなければ、それに取り組んでいる途中の段階でそうなっていて、さらにそこから何らかの成功を思い浮かべながら都合の良い結果を求めているとしても、それもその途上で求めていることだから、結果的にそんな思いが裏切られるようなことになっても、それが自ら招いた結果だと悟れば、たとえそれが自らにとって最悪の結果であっても受け入れるしかないが、それもまだそこに至っていない段階であれこれと思うことであり、それが良い意味でも悪い意味でも裏切られることを期待していて、しかも期待していることさえ自覚していなければ忘れている可能性もあって、実際にそうなってから思うことは、それ以前に思っていたこととは全く異なり、そうなった結果から思い出されることも、案外その場でねつ造された思いかも知れないし、少なくともその途中の段階で思っていたことを思い出しているわけではなく、そう思っているように装いたくて、その場で思うのにふさわしいことを後からねつ造したくなってくるわけだ。


6月7日「単純化の目指すところ」

 一言に物事の単純化といっても、何が単純化されているかで、その内容が変わってくるだろうが、例えば典型的な少年漫画において単純化されるのは、超能力が発揮されるところであり、人知を超えた力によって何らかの願望が実現して、それが実現される際に現実にはあり得ないことが起こって、それが漫画の登場人物が実現したい願望であれば、その過程において省かれているのが、現実には願望を阻止するような紆余曲折になるかも知れないし、あるいは願望をはぐらかすような思ってもみない方面から及ぼされる作用や影響になれば、漫画ではそれが再現不可能かというと、それ自体を表現したいのなら再現可能だろうが、表現したいのはあくまでも人知を超えた力の方であり、人知を超えた力を実現できない現実ではなく、その力を利用して願望を実現しようとするわけで、それがフィクションと現実の違いとなるわけでもないが、フィクションの中では力を利用することによってうまくいくところが、現実の世界では超人的な力を発揮できないから、それとは別の紆余曲折やはぐらかしが作用して、単純化そのものを無効化するといっても、意識の中では単純化して物事を捉えてしまうわけで、そこに見落としがあるのは誰もが承知しているところかも知れないが、そうした過程を語っていること自体が言葉によって単純化しているわけで、それが言葉だけで語るか、さらに絵や図などの記号を用いて語るかの違いがあるとしても、それらを用いることと引き替えにして何かが省かれているとしても、それによって物事がわかりやすくなり、理解できてしまうわけだが、その理解が浅はかであることを、理解しているつもりの人が自覚できない場合もあり、それが単純化から生じる弊害でもあるが、そうしないと理解できないわけだから、物事を理解すること自体が単純化そのものなのかも知れないが、理解しなくても構わないのかというとそうではなく、理解したいという願望があるから、物事を単純化してでも理解しようとして、その際に言葉を用いたり絵や図などの記号を使って単純化するのだろうが、理解とはそういうものだと思っておけばいいかというとそうでもなく、できれば単純化しないでそのまま理解したいのだろうし、そのまま理解したいということと言葉や絵や図を使って理解することの間にどんな違いがあるかといっても、そうしないと理解できないのだから、違いなどないかも知れないが、理解したいという願望を実現しようとして理解できてしまうことと、特に理解したくもないことを理解してしまうこととの間には、何か根本的な違いがあると考えれば、それが理解する必要があるかないかの違いであれば、理解したいことを理解したい場合は、その必要を感じているから理解しようとしているのに対して、理解したくもないのに理解できてしまったことになると、その必要を感じていないのに理解できてしまったことになるわけだが、果たしてそんなことを理解する必要があるのかというと、必要があってもなくても理解してしまうことがあり、理解したいという自らの願望や都合に惑わされずに理解できるかというと、それを理解とは意識できないかも知れないが、ふとしたきっかけから何かがわかってしまうことがあるわけで、そのわかってしまったことが何に活用されるわけでもなくても、知識や勘として身についている場合もあるだろうし、それを自覚していない場合もあるだろうが、それを言葉で言い表せるかとなると、うまく表現できないかも知れないが、わかろうとしてわかったことではないから、表現する必要もないことであったり、知っていることをアピールするわけでもなく、本当に理解しているのかもよくわからないが、何かを知っている程度で理解していることになるのかも知れないし、特に理解しているとは思っていなければ、理解していなくても構わないのかも知れないが、当人の与り知らないところで身についている場合もあるから、何かの拍子に思いがけないことをやってしまえば、それをやるに際して知ろうとしたわけでもないことが知識や勘として活用されている可能性もあるだろうし、仮にそうなっても当人の願望とは関係ないから、やりたいことをやったわけでもなく、たまたまそうなってしまったにすぎないことかも知れないが、そんな意図しないことをやって何になるわけでもないとしても、やってしまったからにはそれに応じて何らかの状況がもたらされて、そんな状況の中で何らかの心境になるわけで、それが当人の意図や思惑を外れた心境であっても、そうなってしまったからには、それをきっかけにしてさらに思いがけないことをやってしまうかも知れないし、そうなると当初に抱いていた願望からさらに遠ざかって、自らの願望の実現とは全く関係のないことをやっていることになれば、物語としては破綻していて、それをフィクションとして語るようなことではなくなってしまい、そういった物語に収まりきらないような出来事の連鎖が歴史そのものになるかも知れないが、そんな歴史の辻褄合わせをやりたい人がいくらでも出てきて、そういう人たちが語っている内容がそれらの人たちの意図や思惑を反映した物語となり、それを歴史の単純化と解釈してみても、その方がわかりやすくて一般受けもするだろうから、それが歴史だと勘違いしてしまう人も大勢出てくるだろうが、歴史と歴史物語の違いがそういうところから生じてくるとしても、そこで何が単純化されているかがうまく説明できなければ混同されてしまうのも無理もないが、それに関しては、語っている人の願望が実現しているのが歴史物語であり、語っている人の願望を裏切るようなことが語られているのが真の歴史だと解釈したくなってくるかも知れないが、それもある種の単純化であり、どちらでもないようなことが語られている場合もあるだろうし、歴史そのものが語られるようなことでもなければ、無理に語ろうとしなくてもいいのだろうが、語ろうとする限りで、語ろうとする願望を実現しようとしてしまうわけで、願望を実現しようとすれば、願望に合わないことは省かれて、願望に基づいて単純化された歴史となってしまうのだろうが、それでも語ろうとすればするほど、願望を裏切るようなことも語られて、結果的に願望では制御が利かなくなってしまうだろうし、何か当初の構想には入っていなかった得体の知れないものを掴んだ気になって、それについて語ろうとするのかも知れないが、それが従来の語りを破綻させて、歴史とは似ても似つかない物事を語ってしまうことになるとしても、それが歴史だとは思えなければ、願望の実現とは違う歴史について語っていることになるのかも知れず、そんなことは語りたくもなかったことを語っていることに驚くかも知れないし、単純化を避けようとすると内容にとりとめがなくなって、話の筋が見えなくなり、辻褄が合わなくなってしまうのかも知れないが、逆に一つの傾向にまとめようとすると物語となり、歴史とは相容れない物語となって、神話の類いに近づいていってしまうだろうが、神話の延長上で歴史を構成することが、その種の人たちの願望でもあるだろうし、それが単純化の目指すところでもあるわけだが、そうなると省かれてしまう内容も自ずから決まってくるだろうし、何が省かれてしまうかというと正統から外れる内容であり、実際には歴史のほとんどが正統から外れる内容なのだろうが、ある一族の正統から歴史を語れば、その一族の祖先が神に行き着くという紋切り型にはまり込んで、それが神話となってしまうのだろうが、そうなることがそれを語る者が抱く願望でもあるわけだ。


6月6日「気のせいで済むこと」

 何を目指しているわけでもないのに、何かに導かれて何らかの状態へと至ってしまえば、その導かれている何かがそうなるに至ることに関しては重要な役割を果たしているはずだが、何かに導かれているような気がするのに、その何かが何だかわからなければ、それが気のせいにすぎないと思っておけば済むことかも知れないが、気のせいでは済まなくなることがあるわけでもなく、気のせいには違いないが、それでは気が収まらないと、もっと何か納得できる理由を求めていて、その何かに導かれているなら、その何かを具体的に特定して示さなければ気が済まなくなり、それを示せなければ気のせいになってしまっても仕方がないが、それで納得するしかないとしても、それでは気が済まないし、どうしても納得できない状態へと至ってしまうと、そんな状態へとなぜ導かれてしまうのかといえば、何を目指しているわけでもないというのが嘘だから、そう思ってしまうことが納得できなければ、それが理由かも知れないし、そうやって理由かも知れないことが疑念に対する答えとして導き出されてしまうと、はっきりした答えが導き出されることを無自覚に目指していたことになるのかも知れないし、おぼろげながら思索の辻褄が合ってきたように思われるが、本当に辻褄が合っているかというと、ただ問いと答えが循環しているだけかも知れず、辻褄が合っても合わなくてもどちらでも構わないような気もしてきて、それも気のせいで済ますことができそうに思われてしまうが、気のせいで済むようなことでしかないとしても、気のせいで済ますわけにはいかない事情をねつ造したくなってくるわけで、そうなればもっともらしい理由が自ずから求められてしまうのだが、誰がそれを求めているわけでもないのにそれを求めて、実際に答えが見つかれば安心できて、そんな答えで納得しようとすれば、それが納得できるかできないかで、何か決定的な差となって、何らかの状態がはっきりと示されるわけでもなく、納得しようとはするものの、何か根本的に納得できないことなのかも知れず、理由がないのに無理に理由を導き出そうとしているだけで、それが気のせいで済むようなことなのに、気のせいで済ますわけにはいかない事情をねつ造しようとして、それに伴って誰にとってもどうでもいいようなイベントを無理矢理にでも開催しなければならない事情が何かの辻褄合わせのようにして出てくると、まさにそこで無理が生じていることになるのだろうが、無理を承知で辻褄合わせをしなければならない事情もそれに付随して生じてきて、どうやっても納得できないことをおこなっているのに、それとは根本的に質の異なる理由を求めて、それが何なのかがよくわからないにもかかわらず、無理に理由を求めていて、そういうところではどうあがいても納得できる理由など求まらないし、苦し紛れに別の理由をひねり出そうとしても、ひねり出された理由というのが、都合の悪いことを無視する理由となるにしても、それが誰にとって都合の悪いことになるかというと、誰でもないかも知れないが、何とかしてそういうことにしておきたいわけで、そうやって何もかもが都合良く事が運ぶわけでもないだろうが、見たくないところから目を逸らして、それなりに整合性がとれる立ち位置を確保したつもりになりたくて、そんな成り行きに身をまかせることになるのだろうが、それが欺瞞であることは百も承知しているのに、装っている態度にも振る舞いにも欺瞞のひとかけらもないように見せかけたいだろうし、端から見ればそれが見え透いた演技になってしまうのだろうが、自身がそうは思わなければ、実際にはそう思っているのに、そうは思っていないという不整合が心の内に生じているとしても、そこに首尾一貫性が生じていることになり、そういった一貫性を保とうとしている限りで、見せかけの演技に没入しているような気になれるが、やはりそこにも無理が生じていて、しかも後戻りができない事態に陥って、それでは気が済まないからそうなってしまうにしても、気が済むまでそんなやり方を押し通せるわけでもなく、途中で挫折してしまえば、そこで我に返ってやり直すことができるわけでもないだろうし、二度とやり直せないことをやっているつもりになればどこまでも無理なことをやろうとして、やっている最中ではそれが無理だとは思っていないだろうが、後戻りができなくなってから、無理なことをやっているという自覚が芽生えてくれば、もはやそこで手遅れになっているわけで、そうなれば気のせいでは済まなくなって、それなりに深刻ぶるかも知れないが、そんな状況に追い込まれてからが、反転攻勢を仕掛けて玉砕気分になりたいのかも知れないし、それもそうなってから後付けで出てくる気分だろうが、それもそんな気分になりたくてそんなことをやっているわけでもなく、そこからどうやっても辻褄の合うような成り行きにはならず、何かがずれていることを実感して、疑念ばかりが深まってくるかも知れないが、当初は気のせいで済むことだったのであり、それでは不満だから何かもっともらしい理由付けをしていくうちに泥沼にはまり込んでしまい、挙げ句の果てに後戻りができなくなって、そこから苦し紛れの反転攻勢を仕掛けて、案の定それがうまくいかずに自滅してしまうと見れば、何か辻褄が合っているように思われるのだろうが、果たして本当にそうなっているのかというところが、拭いがたい疑念につきまとわれていて、それが気のせいでしかなければ、身勝手な妄想にとらわれているにすぎないし、妄想では済まないような事態になっていれば、実際に何かがそこでおこなわれていて、そのおこなわれていることがうまくいかずに行き詰まっているのかも知れず、他からの批判や非難にも直面しているのかも知れないが、その一方でそんなうまくいかない事態を利用しておこなわれていることもあれば、それがうまくいかないことと釣り合っている限りで、そういう方面ではうまくいっていることになり、それをうまくいかないことを利用してうまくいくようなことがおこなわれていると見なせば納得できるとしても、本当にうまくいっているのかというと、うまくいっているように見せかけていて、そういう見せかけがうまくいっていることになり、実態としてはそれなりにうまくいっていない面もあるのだろうが、うまくいっているように見せかけるための装飾や演技によってごまかしていると見ても、それなりに納得できるかも知れず、逆にその種の装飾や演技がうまくいかないと、うまくいっていない面がさらけ出されて、それが批判や非難の標的になってしまうと、うまくいっていないように見えて、何か深刻な事態を招いているようにも感じられてしまうが、それも気のせいで済ませてしまえるなら、その程度のことにすぎなくなってしまうのだろうが、何から何まで気のせいで済むかというと、そうもいかないから、うまくいっていない実態を目にすると、それに対して深刻ぶって懸念を表明するような成り行きになってしまうわけで、それも果たして本気で懸念を表明しているのかというと、またしてもそこからポーズや演技にすぎないのではないかという疑惑が持ち上がってくると、腑に落ちないような気分となってきて、もっと他に根本的な原因があるかのような妄想を抱いてしまうのだろうが、実際にそれを突き止めるに至らないうちは妄想に留まっているしかないし、そんな妄想にとどまっている状態から事の真実が明らかになる状態に至れるかというと、それがこれから明らかになるかも知れないし、明らかにならない状態が続いていってしまうかも知れないが、そこでも実際に何かに導かれるように行動している気になっていれば、いずれは原因が突き止められて、事の全てが明らかになるという幻想を抱いていることになるのかも知れない。


6月5日「心理状態の改善」

 自らを取り巻く状況が自らの心理状態に何らかの影響を及ぼしているのは確かだとしても、それを悪影響だと思えば何とかして状況を変えようとしたり、そんな状況をもたらしている環境を変えようとするかも知れないが、変えようとして変えられる物事は限られてくるだろうし、それ以前に心理状態を改善するために状況を変えたいのではなく、経済状態を改善させようとしたり、人間関係や家族関係や交友関係などを改善したかったりして、そういうことが改善された結果として心理状態が改善するのであれば、心理状態を改善させることが目的だとは意識されない場合もありそうで、特に何が目的だとも思っていないが、何となくいやな雰囲気を感じているから、それを意識していると、自然と身の回りの状況を変えていやな雰囲気を一掃したくなるだろうし、それが心理状態を改善させようとする意志の表れだと見なすこともできるが、誰か特定の人物がそう見なすわけでもなく、結果的にそう見なすと成り行きの辻褄が合う程度のことであり、辻間を合わせるために文章上でそう見なすにすぎないことだとしても、目的となる何かが示されれば、それに応じてもっともらしい言葉の連なりが生じて、それを読むとそんな気がしてくるわけで、そしてそんな気がしてくることが心理状態の改善につながれば、果たしてそれによって状況が変わったのかというと、確かに心理状態の改善も状況の変化に含まれるとしても、その程度のことには違いなく、心理状態が少し改善した程度では、それに応じて変わった状況も大した変化ではなく、もっと大きな状況の変化を望んでいるとすれば、それに応じて抱く妄想も大げさで荒唐無稽なものになってくるかも知れず、そんな妄想を抱いている心理状態というのが、改善とは真逆の悪化だとすれば、大げさな妄想にとらわれた心理状態を改善させるには、状況を変える必要があるということになれば、そこでおかしな物事の循環が起こっていることになるかも知れないが、文章上でそうなっているにすぎず、そこにフィクションが構成されているだけであれば、たとえそれを読んで心理状態が悪化しようが改善されようが、気のせいで済まされる程度のことであり、それも大して状況の変化には結びつかないのかも知れず、切実に心理状態や状況の改善を望んでいる人にとっては、そんなまやかしでは納得できないのは当然だとしても、どうすればそれらの改善が実感できるかとなると、切実にそれを望んでいる理由や経緯や事情などによって対応が異なってくるだろうが、その程度や場合によっては改善が望めない事態にもなるだろうし、どれほど状態や状況の改善を望んでも求めても、できることとできないことがあるとすれば、できることをやってもその人の求めている程度には達しない可能性もあり、実際に何を望んでいるのかに関して、当人の自覚と当人が置かれた状況との間でずれが生じていれば、何か勘違いなことを望んでいたり求めている可能性もあり、そういうところから辻褄が合わなくなってくると、心身に変調をきたしてくるのだろうが、そんな状態を改善するにはどうすればいいかとなると、やはり当人の自覚と当人の置かれた状況を近づけるしかないだろうし、その際にどちらがどちらに歩み寄ることになろうと、その場の状況に応じた心理状態になれば、それが心理状態の改善や悪化を表しているとしても、それがそのまま状況の改善や悪化を表していることにもなり、さらにそれがその人の置かれた立場や境遇を表していることにもなれば、その人にとってはそうであっても、それとは別の立場や境遇にある人にはそうは思われないかも知れず、かえってその方がその人にとっては都合が良ければ、心理状態や状況をそのままにしておきたいと思うかも知れないし、そのままにしておきたいと思ってもそんな思惑など無視されて、勝手に変わっていってしまえば、その人の思い通りにはいかないということになり、それが誰にとっての改善や悪化になるにしても、それを改善と受け止めたり悪化と受け止めたりすること自体が、そう受け止めている人とは別の立場や境遇にある人には、そんなことはどうでもいい場合もありそうで、もちろん中にはそういう受け止め方に同調できる人もいるだろうが、それもその場の状況次第であれば、そんな状況をもたらしたり、その変化をもたらした要因や原因を突き止めなければならない場合が生じてくるとしても、そんな成り行きに伴って、それにかかわってくる人の心理状態やその人の置かれた状況も変化していくだろうし、それに合わせてその人の活動の状態や状況も変化していけば、それがその人の心理状態の変化をもたらしたり、立場や境遇などの状況の変化をもたらしたりするかも知れないし、それがその人にとって満足のいくものとなろうと、不満が残るものになろうと、さらにそこから心理状態の変化や状況の変化がもたらされると、すでに当初にこだわっていた心理状態の改善など遠い過去のことになっている可能性も出てきて、もうすでにそんなことよりも別の物事に関心が移っていれば、確かにそうなっている限りで心理状態が改善されたのだろうが、その時点では改善されていること自体がどうでもよくなっていて、そんなことよりもその時点で関心を持っている別の物事へと、取り組むべき優先事項が移っていれば、それに取り組むことによっても心理状態や状況の変化がもたらされて、場合よってはそこからさらに別の物事へと関心が移っていくかも知れず、さらに別の物事に取り組まなければならないと思えば、さらにそこから別の変化がもたらされるかも知れないが、そんなことをやっているうちにその人の寿命が尽きて死んでしまえば、その人がかかわってきた物事自体が次第に世の中から忘れ去られてしまう可能性も出てくるだろうし、やっていることを引き継いでくれる人が現れるとそうでもなくなるのだろうが、またその人の業績を讃えるような成り行きになれば、その種のモニュメントの類いが残されるかも知れないが、それが後世の人々の関心を惹くかどうかは、その時代の人々にはわからないだろうし、関心を惹かなければ忘れ去られてしまうだろうが、何かの加減で残り続ける場合もあり、それがモニュメントの場所や位置や材質であったりすれば、その人には与り知らない要因であるだろうし、業績そのものがありふれた内容であっても、たまたま長持ちする材質で作られていたり、地政学的に取り壊されるような情勢とは無縁であれば、それ自体は後世に末永く残って、仮に世の中から忘れ去られていても、地中に埋もれていたのが何かのきっかけから再発見されることもあるだろうし、そうやって数千年ぶりに再発見されてニュースの類いで一時的に話題となっても、もはやその人自身には全くの無関係とは言えないにしても、実際に不在なのだからどうでもいいことになってしまうだろうし、そうなってから当時のその人の心理状態がどうであったかに関して興味を持つ人が現れるとしても、それは興味を持った人の関心の範囲内で推測されることでしかなく、当人には与り知らないことになってしまうが、そこまで事態が進展してしまえば、それ自体が完全に別の物事になって、その人とは別の時空で別のことがおこなわれているわけで、当初の心理状態の改善がどうしたこうしたとは無関係になっているはずだが、それをそういうことだと受け止めることが、誰にとっても必要であるわけでもなく、そういうことに興味を持つ人がいれば、その人が受け止めることになるだろうが、それもそういうことには無関心な人にはどうでもいいことにはなるだろうが、いったん興味を抱けば、そこから興味を抱いた人の心理状態に変化が現れる可能性も出てくるわけだ。


6月4日「手放しで喜べない事情」

 自然に身についてしまう他人への心配りが、功利的な思惑にとらわれると邪魔になってくるのは、他人を利することに抵抗感を覚えるからだが、仲間でも身内でもない赤の他人を無条件で助けられるかというと、それによって自分や仲間や身内にも利益がもたらされなければ助けたくないと思うのも、功利的な思惑にとらわれている証拠かも知れないが、さらにはそれが敵への攻撃として機能すれば言うことなしかも知れないが、そう都合良く事が運ぶわけでもなく、自身を利することが敵も利することになるかも知れないし、一方的に自分だけが利するようなことにはならないのが、他の様々な利害関係も錯綜している中ではそうなって当然の結果なのかも知れないが、そういう意味では功利的な思惑がそのまま実現することはなく、他の様々な思惑との相互作用によって、ある程度は思惑通りの結果がもたらされることがあるとしても、その程度というのが他との兼ね合いやバランスの中で、多少はうまくいく程度になることが多く、全面的にうまくいくわけではないところが、都合の良い思惑を抱いていた人にとっては不満が残るだろうし、その程度で満足すべきだと自分に言い聞かせることにはなるだろうが、そんな手放しで喜べないような気になることが、他人への配慮を示していることにもなり、自分だけがうまくいくわけでもないところが、他にもうまくいっていたりうまくいっていなかったりする人が存在することを意識させるわけだが、そういうところで利己的に振る舞っているように見えてしまう人が、他からの攻撃の標的にもなりやすく、他人の成功が不快に感じられて、妬みややっかみを呼び込んでしまい、それがうまくいった後にうまくいかなくなる原因となるのかも知れないが、そうなることによってバランスがもたらされて、特定の人や団体だけが一方的にうまくいきっぱなしなるわけではなく、一時的にうまくいけば後から必ずその反動がやってきて、うまくいった後にはうまくいかなくなることも多く、結果的にはうまくいったりいかなかったりしながら、トータルではそれほどうまくいっているわけでもないことになり、うまくいくために払った代償もそれなりに大きければ、それがうまくいっていない面を表しているわけだが、うまくいったりいかなかったりする結果が物事の全てではなく、その過程でどう振る舞うかがその後の活動に響いてきて、それが他人から利己的に見えたり利他的に見えたりもするが、他人から見えていることが振る舞っている当人も意識している場合もあり、そういうことを意識する過程で、その場の成り行きに応じて意図や思惑も生じてくれば、そういう意図や思惑から自らの振る舞いを調整したり修正してくるだろうし、そういう成り行きによっても一方的に利己的になったり利他的になったりする傾向から微妙にずれてきて、うまくいったのかいかなかったのかはっきりしない中途半端な結果をもたらすかも知れないし、それだけそうなる過程において様々な紆余曲折が伴っていたことにもなり、結果的にこうだと割り切れないようなどっちつかずな状況が出現してしまうかも知れないが、そこで状況が安定するわけでもなければ、そこからもそこへと介入しようとする別の意図や思惑が生じてくれば、また様々な紆余曲折を伴いながら状況が変化していくだろうし、ある局面やその時の結果がうまくいっているように感じられても、その時はそうであっても別の時にはそうは思えない可能性もあり、その場その時の状況次第で一喜一憂していればそれで構わないにしても、それもその場の状況を都合の良いように捉えているにすぎないと思っておけばいいことかも知れず、どう思ってみてもしっくりこなければ、単純に考えて思い通りにはなっていないということだろうし、そういうことでしかないといっても、そんな意図や思惑を抱いているだけではなく、自らがとらわれている状況の中で活動している限りで、そこで振る舞っていて、そうすることによって状況に介入しているつもりになれるわけだが、自分だけが介入しているわけではなく、他人や他の団体も介入していて、しかもそれらの力の方が自らの力を上回っていれば、どう見ても介入の度合いに差があるわけで、そういうところで自らの無力感を味合わされるかも知れないし、うまくいかなくなってそこから退かざるを得なくなるかも知れないが、逆に他人や他の団体の介入に同調できれば、その力を利用することによってそれなりにうまくいくかも知れないし、思惑通りの結果を得られるかも知れないが、そこで抱いている思惑というのが、他人や他の団体の介入に同調して利益を得ようとする思惑であれば、自分一人でそんな思惑を抱きながら活動しているわけではなく、他人や他の団体の活動に合わせて自身も活動していることになり、そうなると自分一人でどうにかできるような活動ではなくなってくるだろうし、絶えず他人や他の団体の動向をうかがいながら、それに合わせて自分も動くようなことになってくると、そんな活動がうまくいったりいかなかったりしても、自分一人の力でそうなったわけではなく、他人や他の団体の活動があって初めて成り立つような活動となっているわけだから、そこで何かしら意図や思惑を抱くとしても、自分がそんな意図や思惑を抱いていると共に、そんな意図や思惑を抱くように仕向けている他人や他の団体の存在があり、それらの活動に合わせようとする限りでそんな意図や思惑を抱くことが可能となり、そうやってそれらに依存して意図や思惑を抱きながら何らかの活動に及んでいることが、果たして自主的に活動していることになるのかというと、何かその辺が怪しくなってくるわけで、そこまで考えが及ばなければ疑念や疑問も生じてこないにしても、自身がそんなふうに思っているだけで、実態としては他の活動に依存した活動になっている可能性があり、そうなると自身の意図や思惑が自発的に生じているわけではなく、絶えず他から影響を及ぼされながらそんな意図や思惑を抱くように仕向けられていれば、それが直接ではないにしても、他から操られていることに気づかないということにもなってくるだろうし、意図して操ろうとしているわけではなくても、結果的に操ろうとする思惑を想定できれば、自身が依存している他人や他の団体などが意図せずに自分を操っていることにもなるだろうが、たとえそれがうまい具合に作用して、自らを自らにとって良い方向へと導いているとしても、それが自身が依存している他人や他の団体にとっても良いことなのかといえば、その意図や思惑が一致しているように見えれば、そこにウィンウィンの関係が築かれていることになるだろうが、それも一時的にそうなっているだけで、その後の紆余曲折の中で仲違いしてしまう可能性もあるのかも知れないし、そんなことは実際にそうなった時に考えればいいことだとしても、そこからどういう成り行きを経てどうなるにしても、それが一期一会の機会だと心得て、お互いに誠意を尽くす成り行きになるにしても、たとえ思惑通りに事が運ばなくても構わないような成り行きに身をまかせることになれば、それが一時的ではあるにしても、功利的な思惑から離れて状況の中で活動していることになり、それが取り立てて自身にとって重要なことにはならないだろうが、自身が依存している他人や他の団体にとっても取り立てて重要なことにもならないだろうが、取り立てて重要なことでなくても、そういう機会を逃さなければ、そこでうまくいっているわけでもいっていないわけでもないような活動の機会を逃さなかったことにもなり、そうやって一時的ではあっても、誰もが自身の思い込みを逃れて振る舞うことになるのではないか。


6月3日「政治と嘘」

 特に何が問われているわけではなくても、自然と答えがもたらされるわけでもないが、ただ疑念を抱き続けることから自問自答が繰り返されるわけでもなく、何もないところから何も生じてこなければ、何も起こらないと考えるしかないが、何も問われていないのに何かが問われているかのように装い、それが問題であるはずもないのに問題があるかのように装い、それで何を装っているのかといえば、何も装ってはいないのかも知れないが、何かしら言葉が発せられるからそこに意味が生じて、意味がなければ言葉も発せられないはずだが、それでも何かが問われて、疑念を抱くからそこから問いが生じてしまうのだろうが、具体的に何が問われているのかといえば、人としての在り方が問われていると見てしまうと、何か具体性の欠如した抽象的な問いになってしまいそうだが、それでも肝心なことに関して嘘をついていると見られてしまうから、アメリカのバイデン大統領などは自らが嘘をつかない正直者であることをアピールして、それによって民衆から信用を得たいのだろうが、民衆から信用を得られなくても大丈夫な中国やロシアなどの独裁的な政治指導者や政府の当局者などは、嘘をついていることを隠そうともしないだろうし、その点では日本の政権与党の政治家や政府首脳も嘘をついていると思われて、民衆からも信用されていないのに、選挙で勝って政権を維持しているから、民衆の方が民衆自身から信用されていないという倒錯的な状況となっているわけではないにしても、少なくとも無理が生じていることに関しては自覚がないのかも知れないし、自業自得といえばその通りだとしても、それでどうなるわけでもないところが、何が問われているわけでもないことの証拠かも知れないが、疑念を抱いてもそこから問いが生じてくるわけでもなく、問われていることをうやむやにすることによって、かろうじて時間稼ぎが成り立つ余地を生じさせているのかも知れず、ひたすら時間を稼いでモラトリアムの期間を引き延ばしてもらちがあかないようにも感じられるが、らちがあかない状態をどこまで引き延ばせるかが、目下のところ問題となっているわけでもないだろうが、そもそも解決すべき問題などありはせず、解決しないままでも済んでしまうような問題しか扱ってこなかったのかも知れないし、実際に何も解決していないわけだが、これからも何も解決しないままで済んでしまうかというと、解決しないままでも済んでしまう問題を解決すべき問題に設定しているのかも知れないが、それでは何だかわからないとも思っていないだろうし、何もわかっていないというのも嘘かも知れないが、少なくともわからないこととわかっていることがあり、わかっていることについては確認すれば済むことかも知れないが、何を確認すればいいのかわからないということにはならず、うやむやにしていることをこの際はっきりさせる必要があるわけで、それが具体的に何かというと、解決すべき問題があるということになれば、モラトリアムの期間が終了してしまうわけで、それが何のためのモラトリアムであったのかというと、簡単に言うなら嘘をついていたことをうやむやにしてきたことについてのモラトリアムの期間であったはずで、もちろんその期間を与えてきたのは、政府や政権を支持してきた民衆であるはずだが、民衆の側にその自覚があるかというと、そんな自覚など誰にもありはせず、それどころか大半の人たちが無関心を装ってきたから、もちろん今でも大半の人たちが無関心を装っているから、無関心を装っている間はモラトリアムの期間が生じていて、今後もその期間が続いてゆけば政権交代などあり得ないだろうが、そうなると政権を担当している政治家や政党が延々と嘘をつき続けることになるわけだが、それを許しているのが民衆であれば自業自得なのかも知れないが、そもそも嘘以外の本当のことを言っても民衆から支持を得られる保証はないだろうし、政治家や政党が嘘をついているから民衆から支持を得られている可能性もあり、むしろその可能性の方が高ければ、功利的な観点からすれば嘘をついている方が得なのであり、本当のことを言うと損をしてしまうとすれば、誰が好き好んで本当のことを言う必要があるのかという疑問が湧いてくるが、それとは違って倫理的な観点からすれば民衆から支持を失うとしても、本当のことを言う必要が出てくるかも知れないが、それ以前に功利的な観点と倫理的な観点とで真逆の対応を強いられるかというと、そうとも言い切れない面もあるのかも知れず、どちらの観点からも妥当に思われる対応を模索することになれば、両者の間を取るような折衷案が検討されるだろうが、それがどういう対応になるかが、そうなってみないことには何とも言えないところだが、それに関してアメリカの場合は、前大統領のトランプ氏が嘘をつきすぎてきたから、その反動で現大統領のバイデン氏はトランプ氏との違いを強調するためにも、本当のことを言っているように装う必要が出てきたと同時に、今でも嘘をつきまくりな中国やロシアなどの独裁政権との違いを強調する必要もあって、国内外の過去の不都合な真実の例として、人種や民族に関係した大量虐殺について言及しているわけだが、それも中国やロシアでおこなわれている反体制派の弾圧や、新疆ウイグル自治区での抑圧行為を民族虐殺と認定するに際して持ち出されていることでもあり、そういうところで抜かりなく嘘をつかない自身の姿勢をアピールしているわけだろうが、日本政府や政権政党の立場や姿勢をそれと重ね合わせるわけにもアメリカに追従するわけにも行かないだろうし、日本の場合はどちらかと言えば政治と金の問題の方がメインとなってくるから、それとは関係がないと思われてしまうわけだが、民衆に向かって嘘偽りなく真実を語ることが民主主義のあるべき姿であるかのような印象を民衆の心に植え付けるには、現状の世界情勢がうってつけであることに気づくか気づかないかの違いが、欧米と日本の政治やそれに関連した世論の間で生じている可能性があるわけで、可能性があると言っても、そうなっているかのように装われているだけかも知れないが、それが右派や保守的なポピュリズムとの決別を促していると同時に、中国やロシアなどを典型例とする非民主的で独裁的な政権との対立や競争に利用できるイデオロギーともなっているだろうし、またそれが左派的な環境問題を提起する勢力などと共に政治的な流行現象を形作っているだろうが、そういう流行現象に乗ろうとして乗れるわけでもないだろうし、むしろ乗ることができなければ時代から取り残されてしまうわけでもなく、日本だけがガラパゴス化を恐れる必要もないのかも知れないし、政治の方面では乗り遅れても、経済の方面では否応なく世界の潮流に巻き込まれてしまうだろうから、そうなってからでもそれに合わせて政治の方面での転換をおこなっても間に合ってしまうのかも知れないが、誰がそれをおこなうかといえば、民衆がおこなうしかないだろうが、そんなことをやれる力が日本の民衆にあるかといっても、実際にそうなってから明らかになるしかなく、その時がいつやってくるかは現状ではよくわからないだろうが、すでに十年以上も前から次第に変化が起こってきたのかも知れないし、一時的な揺れ戻しがかなりの長期間にわたってあったかも知れないし、それを一時的だとは誰も思わなかったわけだが、そんな揺れ戻しに乗じて実際に何がおこなわれてきたかといえば、主導権を握っているつもりの政治家や政党が、政治と金にまつわる嘘をつきまくってきたわけで、それも自業自得と言えるだろうし、そういう政治を支持してきた人たちも自業自得なのかも知れないし、今もその自覚が希薄なのかも知れないが、そういうことも含めて一時的な流行現象に惑わされてしまうとしても、実際にそうなってからでないとわからないことが結構あるのかも知れないが、それが東北地方を襲った巨大地震によって始まり、コロナウイルスの世界的なパンデミックによってモラトリアムの期間が終息するかどうかも、実際にそうなってみなければわからないことでもあるわけだ。


6月2日「ありふれた結論」

 人を生かすには何が必要かという問いから物事を考えると、ありふれた結論へと考えを導くことができるかも知れないが、根本的なところで何かがおかしいと考えると、そのおかしなところを指摘できたとしても、それが織り込み済みのこととして社会が成り立っている場合があり、いくらそれを指摘してもそんなことが問題になることはなく、おかしいのにそれを無視することによってしか社会が成り立たなくなっていることにもなり、それ以前に社会が成り立たないということ自体があり得ないことなのかも知れず、実際にそこに社会があるわけだから、それが成り立つとか成り立たないとかいう以前に存在しているのが社会であり、そんな社会になっているとしか言えないことでもあり、社会が根本的な矛盾を抱えていようが、そこにパラドックスがあろうと、それが社会が成り立つには欠かせない前提条件と考えること自体がおかしいわけだが、では前提条件なしに社会が存在しているかというと、どのような形態であっても、そこに人が大勢住んでいる状態が形成されていれば、そこに社会があると言えるだろうし、そうであれば社会が成り立つ前提条件としては、そこに人が大勢住んでいることになるが、わざわざそれを前提条件とする必要がなく、それよりはその社会を特徴づける根本的な条件を探し出そうとして、それが幻想にすぎないことに気づくまでは、社会を成り立たせている根本的な前提条件を探し求めることになるかも知れないが、そこからもありふれた結論へと持って行くことができるだろうし、そのありふれた結論とは、人が集団で社会を守ろうとすることはあるかも知れないが、社会が特定の人を守ってくれるわけではなく、社会から排除されて孤立してしまう人が出てくるとしても、結果的にそうなってしまうことが何を意味するわけでもなく、人間関係が生じている範囲内で社会が成り立っていて、人と人との結びつきが社会そのものだと言ってみても、結びつきの程度にも個々の人間関係によって強弱があるし、その内容にも差があるだろうし、何らかの勢力が社会を守ろうとする際には、その集団が社会の中で主導権を握っている状態を保とうとする限りで、外敵と見なした他の勢力の攻撃から社会を守ろうとして、そうした勢力とは無関係な人を守ろうとしているわけではなく、社会から孤立してしまった人を助けようとするわけでもなく、その勢力にとって利用できる有用な人材を守り助けることになり、そうである限りで味方として勢力に加わってくれる人や勢力は守り助けるが、敵対する人や勢力を守り助けるわけでもなければ、社会の中に敵対関係が持ち込まれていることになるわけだが、そうなると外敵だけでなく、社会の内部にも敵が存在することになり、敵を社会から排除しようとすれば、社会の外部へと追放するか、社会の内部で拘束して監禁するかして、自由を奪うことになり、その対象となってしまった人を守るわけでも助けるわけでもないのは当然だろうが、そうであれば社会が成り立つ前提条件として、敵を社会から排除することが必要となってくるわけだが、そうなると必然的に味方だけで成り立つ社会を目指していることになるわけで、そんな社会の実現を目指している過程で敵と見なした人や勢力と戦っているように装われるわけだが、装うといっても実際に戦っていないと装っていることにはならないが、戦っているという表現では気に入らなければ競争していると表現されるが、それは敵と味方とがいないと成り立たない状態となる一方で、結果として実現したい状態が敵を排除して味方だけがいる状態であれば、敵と味方とが共存している現状を認められないことにもなり、認められない現状が実現したい結果を目指す上での前提条件となってきて、それ自体がおかしいわけではないが、果たして敵と見なしている人や勢力が本当の敵なのかというと、敵であると同時に実現したい社会を目指すには欠かせない協力者でもあり、しかも協力者でもあるにもかかわらず排除の対象ともなっていて、そういう前提自体に違和感や疑念を抱くかも知れないが、実際のところはどうなっているのかとなると、その場の状況に応じて敵と味方の立場を使い分けていて、しかもそのどちらでもない時の方が生活の中で大半を占めているかも知れず、どちらであってもかまわないと言ってしまうと、実態としてはどちらにもなれない人が大半を占めている可能性さえあり、敵と味方とが登場するゲームに参加する気になれないのが、多くの人が現状の中で実感していることかも知れないが、ゲームそのものが成り立っていないのではないかという疑念も湧いてきて、少なくともゲームの観戦者になっているとしても、そこで対戦しているどちらを応援する気にもなれなければ、それほどゲームの勝敗に関心があるわけでもなく、それだけが社会の中でおこなわれていることでもないだろうし、もっと広範囲を見渡せば、何かそこからわかってくることがあるとしても、それも全てではなく、ほんの一部でおこなわれているにすぎなければ、そこからわかってくることもほんの一部についてわかってきたことでしかないわけだが、それでも構わないと言ってしまうと身も蓋もないし、もっと多くのことを知りたいとも思わなければ、その程度の知識にとどまっていることになり、社会を構成する一人一人は実際にその程度の知識や経験しか持ち合わせていないだろうが、それが人と人とが結びつくことによって他の人にも伝わって、ある程度は直接の経験とは無関係に多くの人が知識を共有することになるわけで、そうなることによって共通の認識や価値観も生じてきて、敵対関係や同盟関係とは違った関係を意識できるようになるのだろうが、それを一般的な関係と言ってしまうと、漠然とした印象を持ってしまうかも知れないし、利害の定まらない関係など関係ではないと思ってしまうかも知れないが、それに関して常に意識をニュートラルな状態に保つことはできないだろうが、自然とそうなってしまう状態も想定できて、そうならざるを得ないということではなく、逆に特定の利害へと引き寄せられていってしまうのだろうが、たぶんそうなった時にニュートラルな状態を意識してしまうわけで、それだけ特定の利害にこだわるのが馬鹿馬鹿しく思われるような現状があり、逆に特定の利害にこだわって党派性を隠そうとしない人がとらわれている幻想を信じられず、実際に党派性にこだわって敵と戦ってきた人々の末路が悲惨だからそう思われるのではなく、それが悲惨という表現ではうまく言い表せないような何かを示していて、その何かというのがありふれた結論へと人の意識を誘うのかも知れず、それを根本的なところで何かが狂っていると見なしてみてもしっくりこないだろうし、そんな大げさなことではなく、むしろちょっとした差異を誇張したり強調したりする過程で生じてくる言語表現のフィクション性と見なしても構わないかも知れないが、そこに直接の利害関係を当てはめることができるかというと、その人が利益を得たり損害を被っているようには見えないわけで、実際にはそうではなく、その人の言語表現を利用してその言語表現を伝えるメディアが繁栄している実態があり、また繁栄しているといっても、その中で誰が得をして誰が損をしていることよりも、人から養分を吸い取ることによって繁栄しているように見えても、果たしてそれが養分なのかというと、逆に毒の成分を吸い取って、人を無害化しているようにも感じられて、ある程度は毒がないと人に人としての個性が感じられないのだろうが、結果的には毒にも薬にもならない人を大量生産することが、利害関係から隔たった状態の実現となり、何がその実現を目指しているわけでもないだろうが、結果的にもたらされるのがそんな状態になるのかも知れない。


6月1日「社会の繁栄」

 社会という概念は、人間社会という一つの社会があると同時に、世界が国や地域ごとに分割されている実態を考慮するなら、それに応じて複数の社会があると認識できて、言語や宗教や民族や国単位で、社会という言葉を使って、それなりにもっともらしいことを語ることができて、それぞれの社会ごとに比較されて、その特徴や差異や共通点などを語ることになるだろうが、特定の社会について語るのと、特定の国や政府や政党や企業について語るのとでは、明らかにその語り方に違いがあるかというと、組織的な統治機構があるかないかで違いがあるようにも思われるが、政府や政党や企業であれば組織的な統治機構そのものであるし、宗教においても、特定の宗教教団がその宗教社会を統治している場合もあるだろうが、統治機構による統治の対象となるのが国や社会だと考えれば、統治する機関とその機関が統治する対象という違いがあって、統治する機関として政府や政党や企業や教団などの団体があり、統治する対象として国や社会があることになるだろうが、語り方によっては国=政府として語られる場合もあり、また政党や企業が特定の国や社会を統治していることになるかというと、特定の企業が特定の国や社会を統治しているわけではないが、共産党などの独裁政党が国や社会を統治している場合があり、政党が政府よりも統治の前面に出ていて、またヨーロッパの中世においては、キリスト教会が国王や領主などの勢力よりも統治の前面に出ている場合もあり、現代においても例えばイスラム教の影響が強い国や地域ではイスラムの教えが社会を律しているように感じられる場合もあり、それはユダヤ教や仏教などの宗教色の強い国や地域でも言えることかも知れないが、そうした統治する対象として国や社会があるのとは違う面が企業にはあって、確かに企業内を統治しているとしても、企業が企業の外部にある国や社会を統治しているわけではなく、その代わりに契約を結んだ顧客にサービスを提供していることになるわけだが、それもSNSなどのサービスを提供するとなると、その内部で会員からなる社会を統治しているように装われて、実際に規約に抵触したり契約を守らないと、サービスを停止したり退会させるなどの措置を講じるところでは統治していることになるわけだが、そういうところで支配することと統治することと契約を結んでサービスを提供することとの間で、違いがあるとしても重なり合う部分もあるだろうし、統治するということ自体が法律を守らせることによって統治することになれば、法治的な統治となり、規約や契約を守ることと似てきて、法律によって支配された国を法治国家とも呼ぶわけだが、国民主権が実質的に確立されていれば、法律を制定すること自体が国民の承認が必要となるわけで、そういう意味では国民自身による国の統治が実現しているはずだが、そこに政府の官僚機構や独裁政党や独裁政治家などが関与してくると、そうした統治が形骸化してしまい、それらに国が乗っ取られた状態となってしまうわけだが、企業でも必ずしも出資している株主が企業を統治することにはならず、企業を統括する取締役が従業員の中から出てくるようになると、企業の官僚機構によって企業が乗っ取られる事態となるだろうし、制度的に確立されていてもその通りになる保証はなく、法律や契約によって権利が守られているとしても、強権的かつ組織的な圧力や暴力によって権利が踏みにじられてしまえば、そんなものは空約束にすぎなくなってしまうわけだが、企業が顧客を会員登録させて統治しようとするのと、行政機関が生まれながらに人を強制的に統治しようとするのとでは、その支配力に雲泥の差が出るにしても、企業も賃金を与えるのと引き替えにして従業員を統治しているところでは、生活が人質に取られているわけだから、かなり支配力が増してくるだろうし、法律や契約によって規定された名目上の権利者よりは直接権力を振るっている当事者の方が強くなってしまうのは当然のことであり、権力を振るう代表者に選ばれるまでは選んでくれる人々に媚びを売るかも知れないが、いったん代表者になって権力を振るう地位を獲得してしまえば、それを利用して好き勝手に振る舞うようになり、それに関してはアメリカの前大統領のトランプ氏が外遊先でゴルフに興じる姿が記憶に新しいが、ベラルーシの独裁者が豪奢な大統領宮殿を建設して、ロシアの大統領と保養地で船遊びを楽しむ姿も最近のニュースで見かけるところだし、そういった典型例が象徴的に何を示しているかは、誰もが承知しているところかも知れないが、そういう方面では誰もが公私混同をやりたいわけで、それがたわいのないことであっても、社会の有り様が人をそうするように仕向けていて、そういう生活に憧れるようにできていると考えておけば、そういう面では納得がいくかも知れないが、それとは別の面では組織の歯車として活動するように仕向けられていて、それが何のための組織かとなると、組織自体を強化するために人を操る組織となり、組織を強化することが組織自体の究極の目的となるように組織が構成されていると、そうした目的を達成するための歯車として人を使うことになるわけで、それが組織と人とが陥るパラドックスでもあり、組織が繁栄するに従って組織の中で活動する人の生活が貧しくなってしまうと、組織自体も弱体化してしまうのだが、組織の中で人を指揮している人にはそれが弱体化とは感じられないわけで、それは北朝鮮を例に挙げればわかりやすいが、北朝鮮の中では絶えず組織の強化が図られていて、そうした傾向に従わない者をどんどん粛清しているわけだが、そんなことをやる度にどんどんじり貧に陥っているのに、なおも組織の強化をおこなうことでしか組織を維持できないわけで、それについて何が間違っているかが外部から観察している人には一目瞭然かも知れないが、組織の内部で異分子や反乱分子の粛清を繰り返している人にとっては、正しいことをやっている実感しか湧いてこないだろうし、実際に正しいことをやっているわけだが、そこにパラドックスが生じていることには気づかないし、気づけない立場となっているわけだが、もちろん外部からそれを指摘する人に耳を貸すことなどあり得ないし、ひたすらじり貧に陥りながら組織を強化していく以外にやり方が見つからないわけで、そこに何が欠けているかというと組織を腐敗させる要因が欠けているわけで、そういう意味では権力は腐敗と共にその豊かさを人に享受させるのかも知れず、それが組織の強化とは正反対の方向を示しているとしても、豊かになるには腐敗しなければならないというパラドックスがあり、組織が崩壊する際に組織内の豊かさが極まるのかも知れないが、組織内で権力を振るっている人にとっては組織が崩壊してしまったら困るのは当然だろうし、組織内で豊かさを実感するには腐敗しなければそれを実感できないわけだから、組織を強化することと組織を腐敗させることが二律背反となるにしても、豊かさを求めるにはその両方を追い求める必要が出てきて、実際にそれを求めすぎると腐敗によって組織が崩壊してしまうから、そこに盛者必衰の理が生じているわけだが、どちらを優先させるかの選択肢などもとからなく、どちらも優先させて実際に腐敗分子を粛清によって取り除きながら組織を強化しながら弱体化させるという二律背反をおこなうことによって組織が維持されていて、それがどこまで維持されるかは今後の情勢次第かも知れないが、そういう傾向に駆り立てる力が組織内で作用していることは明かだろうし、それが社会の繁栄とは相容れない傾向を示していると見ると矛盾してきてしまうが、いやでも矛盾を保ってパラドックスを受け入れるように仕向けられてしまうのかも知れない。