彼の声143

2021年

3月31日「構造と歴史」

 社会が人と物と情報で構成されていることは確かだが、その一方で法律と制度と慣習によっても構成されているだろうし、人と物と情報が法律と制度と慣習によって結びついていると捉えればわかりやすいかも知れないが、法律と制度と慣習も互いに結びついて機能していて、機械の動作のように人や物や情報を一定の傾向へと導いているわけだが、その中で人と物と情報が対等の関係にあるわけでもなく、人が物や情報を動かしたり操作しているはずだが、人はそう思いたいし、主体的にそうしていると思っているものの、人が物や情報に動かされたり操作されている場合もあるだろうし、それ以前にもちろん人は法律や制度や慣習によっても動かされたり操作されているわけだが、人が語りたいのはそういうことではなく、特定の人物や団体が何かをおこなった結果として、何らかの事態や状況がもたらされたと語りたいわけで、何とかしてそう語ることによって人の主体性を確保したいわけだが、そうやって語りたいことを語ることから何がもたらされるのかといえば、語りの対象となる特定の人物や団体に関するフィクションがもたらされて、そんなフィクションが心地良く感じられる気分となれば、人が物や情報や法律や制度や慣習などによって動かされて操られていることを忘れてしまえるのかも知れず、実際にそんなフィクションだけで世界が構成されていれば、それなりにわかりやすい世の中になっているはずだが、誰がどんな団体が何をおこなってみても、同じような結果がもたらされてしまうような成り行きや状況もあるわけで、そうではなく人や団体の違いによってそれがうまくいったりいかなかったりする結果がもたらされれば、それをおこなった当事者となる人や団体が、うまくいけば褒められたり賞賛されたりして、うまくいかなければ貶されたり批判されたりする成り行きもあるだろうが、それが褒めたり貶したりする対象にならなければ何とも思われないだろうし、うまくいくとかいかないとかという判断ができないようなことをおこなっていれば、賞賛も批判もされないのかも知れないが、そういう行為や活動などは、誰かがおこなったことを褒めたり貶したりする語りの対象とはならないし、そういうことを考慮するなら、人や団体がやっていることを良いだの悪いだのと語るフィクションによっては物事の全てを語ることはできないし、もちろん他の語り方によっても全てを語ることはできないだろうが、少なくともそのことからその種のフィクションにはそれなりに限界や制約があることがわかるはずで、逆に他の物事を無視するためにそうしているわけではないとしても、ひたすら物事の良し悪しを語り続けるような成り行きが生じてしまうと、自身のみならず他人までもそういったフィクションへと誘導しようとしまう傾向になってしまう人も出てきて、そういう人は語りの対象となる人や団体が何かをやった結果が良かったり悪かったりすることを語るという制度や慣習にとらわれているわけで、その人が自主的あるいは自発的にそんなことを語っている面よりも、そういうことを語れば他の人たちがそれに興味を抱くからそういうことが語られる傾向となる面の方が大きく、そうなると制度や慣習としてそういうことが盛んに語られる世の中の成り行きが生じているからその人もそういうことを語っているわけで、それが人の主体性に関する幻想やフィクションとして機能するわけだが、そういうことの延長上で歴史上の人物や国も語られるだろうし、その人やその国のおこなったことが良かったり悪かったりする評価と共に語ろうとする際に、おこなった結果がどうなったかで結果の良し悪しが判断されるとしても、制度や慣習としてそんな語り方が世の中でもてはやされている状況を、そういう語り方に好感を抱いている人が気づけるかというと、普通に考えて気づくことなどできはしないだろうし、理由は定かでないが、そう語ることが良いことだと思ってしまうこと自体が、その人がそういう語り方に良い印象を抱くように誘導している制度や慣習にとらわれていることになるのだろうが、やはりその人の意識の中では自主的かつ自発的に好印象を抱いていると思われるだろうし、その人に好印象を抱かせる制度や慣習があることまでは思い至らないわけだが、そういう思いを抱かせる制度や慣習が悪いというわけでもないだろうし、そんな制度や慣習があること自体の是非や良し悪しの判断などにわかにはつかないだろうが、それと同じことだとは言えないだろうが、人が集団で活動すれば必ずその中で役割分担が生じて、そこから立場や身分や地位などの上下関係も生じてきて、立場や身分や地位が上位の者が下位の者に対して命令したり指導する成り行きになってしまい、そんな活動をおこなっている集団が民主主義を受け入れるかというと、受け入れるとしても形骸化させて骨抜きにした上で受け入れる成り行きになってしまえば、その集団の指導者や指導的な立場や地位や身分を占めている者が悪いからそうなるのだと言ってみても、そういった集団の組織的な構造を維持するにはそうするしかないような成り行きになってしまうなら、そう言ってみたところでどうなるわけでもなく、そうなってしまうから悪いというわけではなく、そういう集団がそうならざるを得ないことはどうしようもないとしても、社会全体がそうなってしまうと不平等な身分社会になってしまうから、そういう弊害をなくすためには民主主義的な制度や慣習が必要になってくるわけで、それもそういう制度や慣習があれば社会全体がそうなるわけではなく、社会の中で絶えず集団の不平等な組織体制との間でせめぎ合いが起こって、そのどちらの制度や慣習が良いとか悪いとかいうのではなく、せめぎ合いが起こるような構造となっていると社会を捉えればわかりやすいことは確かだが、実際にどちらかの陣営に属していると思い込んでいる人も大勢いて、そんな人たちの中には自分たちが属している制度や慣習が良く、相手側の制度や慣習が悪いと思い込んでいる人も大勢いるだろうし、それに関してアメリカのバイデン大統領のように、民主主義と専制主義の対決だと勇ましいことも言えるだろうが、そんなふうに息巻いている人たちの側に与すれば、そんなことを言うのが制度的にも慣習的にも正しい姿勢だと思われるわけだが、そういう面ではそうであっても、そんな人たちも組織的な上下関係の恩恵にも与っていて、そんな人たちの言い分をより穏当な水準に引き下げるなら、民主主義的な制度や慣習の全てをなしにするのは容認できないということであり、そうしないと人が集団の組織体制の中でがんじがらめとなって、身動きの自由がとれなくなり、思考的にも創意工夫がなく、他人の真似をすることしかできないロボット的な人材となってしまうから、そうなると文明自体が衰退するしかなく、結局は民主主義を軽んじている人たちに向かって、集団的な組織体制だけではまずいということを理解させたいわけだ。


3月30日「忠誠の対象」

 一見普通に感じられることが、実は曖昧な意味内容を含んでいる事例として挙げられるのが、国家に忠誠を誓うとか国家に忠誠を尽くすとかいう表現だが、忠誠を誓ったり忠誠を尽くしている対象が本当に国家なのか、あるいは統治機構としての政府なのかが曖昧で、果たして国家と政府とが一体化したものとして捉えてもかまわないのかも、よくわからないところではあるわけだが、政府が利用したい人材には、当然国家に忠誠を尽くすことを誓わせるわけで、政府としては国家と政府を一体化したものとして捉えてほしいわけだが、それに関して否定的に捉えるなら、強盗団が政府を名乗って、国家を乗っ取っていると見なせるような事例もあるわけで、そんな集団が国民に愛国心を強要しながら、実は強盗団に従うように国民を脅していると解釈しておくのが妥当な場合もありそうだが、政府を強盗団にたとえるのも、安っぽい反体制的な煽動と同じレベルの実態の水準を取り違えているとしか思えないような稚拙な表現かも知れないが、果たして国家に忠誠を誓うことが政府の意向に従うことになるのかという問題設定自体も、微妙に焦点をはぐらかされているようにも感じられて、うまく言い表すことのできない何かがそこに絡んでいるのだろうが、それを把握できないようにされている可能性があり、何がそうしているのかといえば、国家に忠誠を誓うとか尽くすとかいう表現が、よくわからない意味内容を含んでいるからかも知れないが、根本的なところで国家とは忠誠の対象とはなり得ないのかも知れず、それに関してまたおかしなたとえになってしまうかも知れないが、何でもないような空っぽの容器に忠誠を誓ったり尽くしたりするのが意味不明であるのは誰にもわかることだろうが、国家が何でもないような空っぽの容器であるはずがなく、そこには国土や国民や建物や設備や財産や資源などが含まれているから、それら全てを含んだものが国家だと見なすことができれば、なるほどそれが忠誠を誓ったり尽くしたりする対象となり得ると思う人も出てくるかも知れないが、しかしそうした物事の全体から何かそれとわかる特定の意志や意向が発せられているのかというと、それも普通に考えて定かでないだろうし、そういうことを突き詰めて考えていくと、国家という漠然とした対象を持ち出して、それに忠誠を誓えだの尽くせだのと迫るような言い方が、ある種の方便やごまかしにすぎないのではないかと考えておいた方が妥当なのかも知れないし、そういう大げさな言い方ではなく、単に政府の意向に従えと迫られているに過ぎないことだと言えば済んでしまうなら話が早そうだが、実際に持ち出されてくるのは、政府ではなく国家になるわけで、なぜ政府関係者が政府ではなく国家を持ち出してくるのかといえば、それを政府の意向とは言えない事情が絡んでいるのかも知れず、その事情というのが理由や根拠が定かでないことが明らかであるのに、それを言わせないようにしているという事情なのかも知れないのだが、だから政府の意向に従えとは言わずに国家に忠誠を誓えとか忠誠を尽くせという一方的な命令口調になるしかなく、それがわけのわからない抽象的な物言いではないことは確かだが、具体的な立場や地位の上下関係や権力関係を利用した命令を発する際に出てくる台詞となると、脅迫的な物言いとなることは確かであり、その際に国家に忠誠を誓えとか忠誠を尽くせとは何かといえば、政府の意向に従って働けとか死ねとかいうことを意味するのだろうが、そこで政府の意向とは何なのかとなると、それも突き詰めていくとよくわからなくなってくるわけで、そこに朕は国家なりと言えるような専制君主がいたり、総統の意志が全てにおいて優先されるようなナチスドイツの体制であれば、それなりにわかりやすいだろうが、国家を象徴する国旗や国歌に敬意を払うことが、そのまま国家と国民との主従関係には結びつかないわけだから、むしろ民主的な憲法においては国民主権であり、国民が国家の主体であることが明記されているから、逆に国家や政府の方が国民の意志に従うべきであり、そういうところから国民が国家に忠誠を誓ったり忠誠を尽くすのが誤りになってしまうのかも知れないが、国民の間でも意見や主張に違いがあるから、一概に世論調査で示されるような民意や世論に従うべきとは思われないし、何とでも都合の良いように解釈できるわけでもないものの、はっきりと正しい解釈はこれだと示せないような事情も出てくるのかも知れず、そういう意味で中国政府がいかに一つの中国の原理原則を示しても、台湾や香港やウイグルやチベットや内モンゴルなどに住んでいる住民の意向に配慮しなければならないだろうし、そこに住んでいる住民の意向として、圧政的な政策を仕掛けてくる中国から独立したいのなら、独立を容認するのが民主的なやり方となってくるだろうが、そんなことは台湾を除いた地域では事実上不可能となっているわけで、そこに歴史的な経緯や地政学的な位置関係も絡んでくるから、全てを民主的な価値観だけで判断するわけにもいかないのだろうが、それが良い方向や傾向であっても悪い方向や傾向であっても、単純化してまとめて考えるわけにも行かず、個々の事情や事例から部分的で狭い範囲内の判断を迫られてしまうのかも知れないが、個人が何を判断したところでどうなるわけでもなくても、多くの人の判断が一致するようなことも出てくるわけで、そうした判断の一致が民意や世論を作り出して、それが議会や政府を動かして、そうした判断に基づいたことがおこなわれる場合もあるわけだから、政府や政治家や官僚などが世論調査から求められる民意や世論の類いを無視することもできないわけで、そういう意味では中国にも住民の意志となる民意や世論があることも確かであり、そういった民意や世論に反したことを中国政府がどこまでやれるかもよくわからないところではあるわけだが、それが今後の中国をどのように変容させるかもよくわからないところだが、集団としては組織的な官僚機構からも意志や意向が生じてきて、そういった組織形態から組織形態を自己保存的に維持したり増殖させるような傾向や方向での意向が生じてくるだろうし、それが民衆の中から生じてくる共感や連帯などに伴って生じる意志や意向とどのように作用するかも、実際にそうなってみないことには何とも言えないところだが、中国だけでなく日本でもそういうことに関してはあまり興味を抱くような状況でもないのかも知れないが、たぶん意識して無理に興味を抱かなくても、自然と誰もが関心を抱くような状況になれば、それに伴って民意や世論にも変化の兆しが感じられるようになるのではないか。


3月29日「人権と統治」

 それが人や集団の活動だろうと機械の動作だろうと、それらが機能するとなると、前もって設定された目的を果たしていることになるはずだが、例えば政府が政府に逆らい抗議する民衆を弾圧するような強権的な行為に及ぶと、政府側としてはそれによって政府による統治が機能していると見なしたいだろうが、それは民衆が政府の方針に逆らったり抗議する権利を認めていないことの表れでもあり、政府に抗議する権利を認めない姿勢で民衆に対峙することになれば、政府に抗議する権利も含まれる人権が機能しないようにしていることになるが、実際に政府に対する抗議活動がおこなわれていれば、民衆が政府に抗議する権利を行使していることになり、抗議活動が続けられる限りでその種の人権が機能していることになるわけだが、そうなっていると人権とは政府による人権弾圧と共に機能することになり、政府の人権弾圧がそれに対する民衆の抗議活動を機能させることになるわけで、そもそもなぜ政府が人権弾圧をおこなうのかといえば、民衆が政府に抗議するからで、民衆が政府に抗議すれば政府が人権弾圧をおこない、また政府が人権弾圧をおこなえば、それに対して民衆が抗議することになり、結局のところ政府には人権弾圧をおこなうしか選択肢がないような事態となり、そうやって政府による国家の統治が機能していることにもなるわけで、そうなると統治とは民衆のための統治ではなく、政府による政府のための統治となってしまい、政府による民衆への弾圧が民衆のためになるとは思えないが、長い目で見ればそうとも言い切れないような面があるかも知れず、カントがそういう多数の死傷者を出す血なまぐさい蛮行を民衆が見ていることが肝心なのだといった趣旨のことの述べているらしいが、そこから政府が人権弾圧を繰り返すから、いやでも民衆の間で人権意識が高まるという逆説が生じるわけだろうが、政府に抗議する権利だけが人権ではないはずだが、政府に抗議する民衆の権利を政府が保障できるかというと、少なくとも政府に抗議する民衆を弾圧する政府がそれを保障するわけがなく、普通は民主的な憲法が人権を保障して、政府も人権を保障した憲法を守らなければならないことになるわけだが、憲法を守るか守らないかは政府次第でもあり、クーデターを平気で起こすような政府であるなら、憲法など守る意思がないことも示しているはずだが、実際にそうなると憲法で保障された権利など何の有効性もなくなってしまうわけだが、それでも権利とは何なのかといえば、権利を主張することができるということであり、民衆が自分たちには政府に抗議する権利があると主張しているわけだろうが、そんな主張を無視して抗議する民衆を弾圧すればするほど、民衆が抗議する権利を主張するようになれば、結局どうなってしまうのかというと、結局と言えるようなはっきりした結果には至らないのかも知れないし、ただそんな状況が延々と長引くだけかも知れないが、そうやって膠着状態へと至ってしまうのがよくありがちな成り行きだとしても、そこから事態を打開できるかというと、そこにかかわっている人や団体が打開しようとするのだから、人為的に打開しようとするのだろうが、どうやって打開しようとするのかといえば、政府側では抗議する民衆を弾圧することによって事態を打開しようとしている一方で、民衆の側では政府への抗議活動によって事態を打開しようとしているわけで、そうやって事態を打開しようとすることが、かえって膠着状態を招いていると言えるだろうし、結局どうなっているのかというと、膠着状態がもたらされていることになるわけで、それがそんな状況の固定化につながってしまうのだろうが、そこで政府側が統治を機能させようとしても、機能している状態が膠着状態なのだから、それによって誰の思惑通りになっているどころか、誰の思惑通りにもなっていないから、そんな状態がもたらされていることになるのだろうが、そうなってしまうことが良いとか悪いとか判断するなら、悪い状態と見なすのが普通の感覚だろうし、最悪の状態を招いてしまったことになるのだろうが、そんな否定的な面だけに目が行ってしまうとしても、程度の差こそあれ、誰もが社会の中で誰かと敵対するような状況に至ってしまう成り行きがある中で、政府と敵対しなければならない成り行きになってしまうのだから、それ自体が大変なことであり、尋常なことではないだろうし、それを深刻な状況だと認識せざるを得ないわけだが、そうした成り行きに導かれるままに、政府への抗議活動によって死傷してしまう人や、抗議する民衆を銃撃するように命令されている兵士もいるわけだから、そうした人権弾圧によって統治が保たれるような状態となっているわけで、統治が機能するには人権弾圧が欠かせない状況となってしまうと、そうした統治形態が強権的な圧政から生じていることが明らかとなるわけだが、そうではないような統治があり得るかというと、いくらでもあるだろうし、普通に考えても法治国家の統治形態が思い浮かぶわけだが、そういう形態が成り立つにも様々な条件やそこに至る経緯や成り行きからそうなる場合もあるし、ならない場合もあるだろうが、現状でもそんな成り行きの途上にある国や地域が世界中にあり、そういう成り行きがどこから生じるかというと、そこで暮らしている民衆の人権意識によるところが大きいのかも知れないし、現状でも政府や武装勢力が人権弾圧を繰り返している地域や国などでは、そうやって逆説的な方法によって、民衆に人権意識を植え付けて高めようとしていると捉えておくのが、妥当ではないし、誰もそんな説には賛同しないだろうが、それを自然の狡知や神の見えざる手がそういった傾向へと導いていると解釈できるのかも知れず、もちろんそんないい加減で皮肉な解釈に誰も賛同する必要はないし、むしろ誰も賛同しないようなことが実現してしまうのが、歴史的にはこれまでにも実現してきたことでもあり、それが世の中でよくありがちな成り行きでもあるのかも知れず、そういう面では他の誰もが妥当だと思われるような多数意見に賛同するのが普通だろうが、そういった多数意見というのは大抵は多くの人が賛同すればするほど、人畜無害で差し障りのない内容となってしまい、かえって多くの人の賛同によって多数意見になってしまうから、そんな多数意見を無効化してしまう成り行きになってしまうのかも知れないが、それもそういう無効化をおこなう手法として世論調査などがあるわけで、そういった世論調査によって民意を無害化して無効化するやり方も、現状の世界で主流となっている法治国家的な統治形態の中では有効に機能しているわけだ。


3月28日「活動の評価」

 商品の売買において金銭の収支が合うのは当たり前のことだが、そこに仕事や労働が絡んでくれば、費やされた労力の収支が合っているかとなると、疑問に感じられる場合も多いのかも知れず、手間暇をかけて苦労した割には、満足のいく報酬を得られなければ、割が合わないことをやったように感じられて、そこで仕事上の上下関係があれば、仕事をさせている側への不満や不信感が募ってくる場合もありそうで、そういう意味で何かをやって得られた結果には、どちらかというと満足感よりも不満がつきまとってくるのかも知れないが、そういうところであまりにも損得勘定にこだわってしまうと、その場での人間関係がギクシャクしてきて、それが仕事の成否にも響いてくるかも知れないし、これだけは譲れないというこだわりがあるにしても、自らを取り巻く様々な方面との兼ね合いやバランスを取りながら事を進めていくしかなく、ある程度は不満が残っているぐらいが、そこが今後の課題であり改善点となるから、やっていることを継続させるには好都合でもあり、そういった課題を克服することが、継続していく上でのモチベーションともなり、そういう意味でもやっていることには不満がつきものなのかも知れないが、そういう心理的な面と損得勘定や収支決算などの計算が可能な面とが混ざり合って、それが活動の印象や評価に結びついてくるにしても、好印象や高評価を得る要素や要因が、意外と心理的な面での幻想を伴いやすく、それとは逆に悪印象や低評価を伴う要素や要因は、損得勘定や収支決算などの実際の金銭的な計算から求まる場合の方が多いのかも知れず、それに関してわかりやすい例を挙げるなら、バスケットボールで派手なダンクや相手を抜き去る華麗なドリブルや長距離からの3点ショットなどが観客から好印象や高評価を得やすいが、試合に勝つには地味で泥臭いディフェンスによって相手を低得点に抑え込む方が効率が良く、そういう守備重視の低得点ゲームになると、観ている観客にはつまらなかったり物足りなさを感じさせてしまうかも知れないが、損得勘定や収支決算としての勝ちは勝ちであり、勝つためにはそういう面も欠かせないことになるわけだが、さらにショービジネスとして観客動員数やユニフォームやシューズなどの関連グッズの売り上げまで考慮に入れるなら、観客から好印象や高評価を得られるスター選手をチームのメンバーに加えておいた方が収益に結びつくわけで、そうなると攻撃面で派手なダンクや華麗なドリブルや長距離からの3点ショットを決められるスター選手と、地味で泥臭いディフェンスが持ち味のロール・プレイヤーの両方が必要となってくるわけだが、プロレスなどでも派手な空中殺法や蹴りや殴るなどの技と、地味な関節技や絞め技などの両方が必要となってくるのも似たような理由だろうし、数値的に割り切れるような客観的な評価基準と心理的に好印象や高評価などをもたらす主観的な評価基準が、必ずしも一致しないのはよくありがちなことなのだろうが、その二つを区別して分けて考えるのも、心理的にはあり得ないことでもあり、両者が混ざり合っていないとリアリティを持ち得ないし、説明で用いるとなるとどうしても数値的に割り切れるような客観的な評価基準が重視されてしまうわけで、その方が説明しやすく納得もされやすいわけだが、確かに説明を受けたその場では数値を持ち出されて客観的に評価結果が示されれば納得するしかないが、あくまでもその場は説明を受ける場でしかなく、いったんその場を離れてしまうと、俄然幻想的な好印象や高評価の方が魅力的に感じられてしまうわけで、そういった場所的に生じる落差が、客観的な数値情報をもとにした説明を用いる人たちには気づきにくいところでもあり、またそういった説明を受けてその場で納得したつもりになってしまう人たちにも、確かにそこでは納得したのに、そこから離れてしまえばそんなことなどすっかり忘れて、もとの好印象や高評価を得られるような幻想を追い求めてしまい、結果的に自分で自分を裏切っている矛盾に気づかない心理状態をもたらしてしまうのかも知れず、そういう場所の移動や時間の経過を考慮に入れることがなかなかできないわけで、だから自らの活動も他人や他の団体の活動に関しても、主観的には好印象や悪印象や高評価や低評価などをすぐに決めて下せるとしても、それが客観的な正しさを求めることにでもなれば、決まってそれに関する数値情報などを調べて、もっともらしく説明するような成り行きになってしまうのだろうが、そうなると主観的な印象や評価などに合うような数値情報を恣意的に選び出して、それを自らの印象や評価などの裏付けとして使いたいわけで、そうやって自らの主観的な印象や評価に客観性があるように装うわけだが、そうやっても相手を納得させることができれば、それなりにもっともらしい説明にはなっているはずだが、そんな説明をおこなっている人もそんな説明を受け入れて納得してしまう人たちも、一方ではそれなりに主観的な印象や評価に幻想を抱いていて、それが客観的な数値情報と合わなければ、何か自らが抱いている印象や評価がおかしいと思われるかも知れないが、すでに説明の中で主観的な印象や評価と合うような数値情報が用いられているわけだから、そんなことはあり得ないはずだが、そういう面ではそうであっても、そんな説明には合わない数値情報などはもとから説明には用いられないわけで、果たしてそんな数値情報があること自体が説明からはわからないだろうし、そういう説明とは合わない数値情報を探す手間をかけられる人がいるかとなると、そういった説明を批判するような人であれば批判することだけを目的に特化させて、重箱の隅をつつくようなことまでやってそういう数値を導き出してくるかも知れないが、普通に考えて説明をする人の支持者が説明を聞きたがるのだから、説明をする人を敵視している人ならそんなことまでやりかねないだろうし、場合によっては数値をねつ造してまで批判しようとするかも知れないが、わざわざ説明を聞きに来るような手間暇をかけるとなると、やはり圧倒的にその人の支持者の方が多くなってしまうだろうし、そういう人たちはすでにそんな説明自体に好印象を抱いて高評価しているわけで、そういった肯定的な幻想を抱いている人たちを相手にすれば、どんな説明でも納得してくれるわけではないとしても、少なくとも主観的には信用されているし信頼関係が出来上がっている中で説明するのだから、説明相手を納得させるハードルもそれだけ下がっていると考えておくのが妥当なところなのではないか。


3月27日「価値に基づいた判断と実践」

 自身が意識して何にこだわっているわけでもなくても、何かしら一定の動作へと自らの行動が落ち着いてくるなら、それがその人の習慣となっている場合もありそうだが、特に意識しなくても、自然とそうなってしまう場合と、人為的に意識して、自らの行動を制御しようとする場合とでは、何が違うのかといえば、行為や動作が自動化されているか、されていないかの違いとなるだろうが、なぜ特に意識しなくても自然と動作してしまうのかといえば、意識する場合としない場合とでは、脳の神経伝達経路が違うと考えればいいだろうし、他にも動作が習慣として身についているかいないかの違いだと考えてもかまわないが、その場の状況に応じて意識して動作したリ無意識に動作したり、あるいはそれらが一連の動作として結びついていたり、さらには同時に両方の動作がおこなわれている場合もあるのかも知れず、そうやって臨機応変に様々な思考や動作が働いているはずだが、個人としてそうなっているのと同時に、集団としても連携した協力したりしながら動作しているだろうし、それが集団とは言えないような数人で動くようなこともあるだろうから、そういった様々な水準での動作が社会の中でおこなわれて、それらが互いに作用し合いながら人の活動を構成しているわけだが、それらをある特定の価値や基準をもとにして、その良し悪しを判断するとなると、良いと判断されたり評価されるような動作や行動をおこなっている人や集団は、自分たちの動作や行動を特に改めるようなことにはならないものの、悪いと判断されたり評価される動作や行動をおこなっている人や集団になると、そんな判断をしたり評価を下す人や集団に反発して対立することになるだろうが、そこで反発したり対立することになれば、それが争いや戦いの原因となることも、自然の成り行きとしてはよくあるケースだろうし、そんな自然の成り行きに身をまかせていればいい場合もあるものの、自然の成り行きに身をまかせているだけではなく、それと同時に人為的に様々な制度や慣習を取り入れながら活動している実態もあるわけだが、そんな活動内容を悪いことだと他の人や集団から判断されれば、当然反発するだろうし、そこから争いや戦いに発展するも当然の成り行きだろうが、そうした判断のもととなる価値や基準が、他の何よりも優先して尊重しなければならないことであれば、たとえそこから争いや戦いとなって被害や損害を被ろうと、尊重すべき価値や基準を守ろうとするだろうし、そこが是が非でも譲れないところでもあるわけだが、その一方で争いや戦いの相手が、それなしでも活動が可能であれば、実際にそれなしでも活動してしまうだろうし、実際にそれなしで活動している実態があるから、そういう活動の実態が悪いことだと判断されて、そこから対立や争いや戦いが起こっているわけだが、そんな状況をどう判断してみても、判断するならその良し悪しを判断する成り行きになってしまうだろうが、他に判断のしようがあるかというと、自然にそうなっているか、人為的に制御しているかの違いで、何らかの判断が可能かも知れないが、普通はそれらが混じり合っているだろうし、そうなるとどう判断すればいいのかよくわからなくなってしまうかも知れないが、自然にそうなっているから良くて、人為的に制御しているから悪いという単純な判断ではなく、人為的に制御している面であれば、それをどのように制御しているのかで判断すればよく、例えばそうした制御によって何らかの不具合が生じてくれば、それを直したり改善しなければならないだろうし、またそれによって被害や損害が生じていれば、それにも対処しなければならないはずだが、そうなればその良し悪しを判断するというよりは、そうした活動への対処や対応になるわけで、そうした対処や対応の中に、その良し悪しの判断も含まれてくるわけで、その良し悪しの判断自体が、そうした判断を伴った一連の動作に含まれているわけだから、その良し悪しの判断だけを強調しても、意味がないというわけでもないが、それだけではないことも確かで、少なくとも何らかの判断とそれに伴った実践とが連動して動作する必要があり、それによって何らかの効果がもたらされて、そんな効果によって事態がそこから動くことになるはずだが、そうなると何かを判断したらその判断に基づいてアクションを起こさなければならなくなり、それが事態の人為的な制御となって現れるのだが、そうした普通に考えられる判断と実践の連動とは別の水準で、自然の流れや成り行きが生じていることもあるわけで、そんな流れや成り行きにうまく乗ることができれば、良い結果を得られるような幻想を抱けるかも知れないが、それが良い結果なのかというと、それを良い結果だと判断できる場合もあるが、逆に悪い結果だと判断するしかない場合もあり、さらにはそこで生じている自然の流れや成り行きには逆らえない場合もあるだろうし、人為的な制御も自然の流れや成り行きの前ではどうすることもできなければ、うまく行かない場合もあるわけだが、自然な流れや成り行きも一方向に流れていたり向かっているわけでもなく、異なる次元や水準において複数の流れや成り行きが別々の方向や方角へ向かって流れていたり向かっている場合もあるかも知れず、そうなっていると自然の流れや成り行きに身をまかせようとしても、どの流れや成り行きに身をまかせればいいのかさえよくわからないことになってしまい、結果的には思ってもみなかったようなところへたどり着いてしまう可能性もあるかも知れないし、そうであれば意識して人為的に物事を制御する方が、それがうまくいくにしてもいかないにしても、前もって予想や予測がつくような確実な結果へと至れるのかも知れないが、そこでもそれ一辺倒になるよりは、そこで生じている自然の流れや成り行きを見極めながら、それに応じた対応を講じたり対処を施す必要も生じてくるだろうし、少なくともそこで物事の良し悪しの判断をしたらおしまいにはならず、何かを判断したらその判断に応じた実践が必要となるのだろうが、そうしているうちにも刻々と状況や情勢が移り変わっていくような成り行きになれば、判断にも実践にも絶えず臨機応変な変更や修正を加えなければならなくなるだろうし、そんなふうにしてその場に生じている自然な流れや成り行きも、一定の方向や方角に流れているわけでも向かっているわけでもなけば、その傾向や内容にも何らかの変化があり、その程度にも強弱が伴ってくれば、それに乗ることすらも容易ではないだろうし、乗るにしても人為的な工夫や技術が求められる場合も出てくるのではないか。


3月26日「差異と反復」

 この先必ず起こることといえば、日本では南海トラフの巨大地震が必ず起こると言われているが、具体的な出来事として起こるのではないことが起こるかというと、そんなのはあり得ないが、あり得ないことが起こると騒がれるのは当然だろうが、中には騒がれない場合もあるかも知れず、メディアが無視するような目立たない出来事というのもありそうで、それが具体的な出来事として起こっているわけでもないのに、共通の傾向として同じような特徴が様々な出来事に含まれていれば、共通の傾向をもたらすようなことは何も起こっていないのに、なぜそれが共通の傾向として現れているのかとなると、意識がそれを見つけ出そうとしまい、意識を向ける様々な対象に共通の傾向があるように思い込もうとして、観察者の側で勝手に共通の傾向を当てはめようとしているのかというと、それも少し違うかも知れないが、様々な物事の成り行きに共通の傾向を伴った物語を当てはめると容易に説明が可能となれば、そういった説明を多用してしまうわけだが、たぶんそれが妥当なやり方だと思われるし、そんな説明ならいくらでもありそうだが、いくらでもありそうな説明など無視されるしかないし、誰がそれを無視しているわけではなくても、無視していること自体が意識されるわけでもなく、そこら中にそういった説明がはびこっていて、そんな現象が起こっていることは確かだとしても、それが具体的な出来事として認識されないわけで、そうであれば別にあり得ないことが起こっているわけでもなく、むしろありそうなことがそこら中で起こっているはずだが、それがありそうなことだから騒がれないというよりは、ありふれたことには興味が向かないわけで、そうなっていることが普通なのだから、わざわざそれを取り上げて示す必要を感じないわけで、それの何が問題であるはずもなく、あり得ないのはそんなことではないはずだが、そこから差異を抽出することはあり得ないだろうし、世の中に存在する物やそこで起こっていることに共通の傾向を見出そうとするのと同時に、そこから差異も導き出そうとするのだから、そんなのはあり得ないことだと思われるかも知れないが、言葉で説明するとそう思われるとしても、実際にやっているのはそういうことであり、様々な物事に共通の傾向を伴った同じ物語を当てはめて、そんな物語を反復させながら差異を生じさせるという矛盾したことをやっているわけで、それが何を意味するわけでもないだろうが、自然にそうなってしまうとなると、特に意識せずにそういうことをやっているはずだが、意識しなくてもそうなってしまうことが誰にでも起こる傾向だとすれば、それが誰にでも起こる共通の傾向となるのだろうが、そこから差異を抽出するにはどうしたらいいかとなると、自然にそうなってしまうのだとすれば、それを意識できないわけだから、意識にはどうすることもできないわけだが、自然と差異が導き出されてしまうのだから、そういった自然と差異が導き出されてしまう成り行きが、誰にでも起こる共通の傾向となるわけで、そういうことを言葉で説明すると、ややこしくてわかりにくくなってしまうかも知れないが、それも自然とそうなってしまうわけだから、そんな説明など無視してもかまわないだろうし、実際に誰もがそれに関して説明など求めていないし、そうなってしまうのが自然の成り行きなのだから、特にそれを意識しているわけでもなく、意識しようとしてもできないことでもあり、意識する気も起こらないし、それを意識すること自体があり得ないわけだが、そういった意識することなく自然に導き出されてしまう差異とは何かといえば、別にその人の個性というわけでもなく、その場の偶然の巡り合わせから差異が生じてくるということよりは、ある意味では必然的に生じてくるのかも知れず、そこで差異を生じさせないと競合できないわけで、そうであるなら競合して競争するためには無理矢理でも差異をねつ造しなければならず、他者との違いを際立たせるために差異を強調して、自身の有利さや優位さを相手に見せつけようとしてしまうわけで、そういった差異を強調する意思が誰にでもあるとすれば、それが誰にでもある共通の傾向となるだろうし、誰もが他者との違いを強調して見せつけるようなことをやってしまう機会を狙っているというと、何かそれが予定調和のように思われてしまうかも知れないが、そういう意思を反復することが活動となっている人もいくらでもいるだろうし、そこからそんないくらでもいるような人が陥っている共通の傾向が浮かび上がってくるのだろうが、浮かび上がってくるといっても世の中にありふれていることだから、そうするのが当然のこととして、それを特に意識するわけでもないし、そんなことをやっているからといって、何がどうなるわけでもなく、それが高じて甚だしく目立ってくると、さすがにどぎつくなって他の人がそれを意識せざるを得なくなるのだろうが、それでも許容限度を超えなければ、単に濃いキャラクターの人として周囲に溶け込んで受け入れられているのだろうが、そういう傾向の延長上に何があるわけでもないだろうし、そういった傾向から事態がこじれてくるとは考えにくいだろうが、そこから意識して許容限度を超えないようにさせて、なるべく事態をこじれさせないように配慮する意識が、そういった傾向の人にも芽生えてくれば、物事の分別をわきまえた普通の一般人としてみられるかも知れないし、だからそんなことはありふれたことであり、特に興味を惹くようなことでもないわけだが、逆にそういった許容限度を頑なに守ろうとしてしまうとおかしくなってきて、また周囲にも守らせようとする意思が事態をこじれさせるのかも知れず、何事においても差し障りのある行動や言動を避けようとして、差し障りのある行動や言動に及んでしまう他人を敵視してもいて、どうにかしてそういう分別をわきまえない他人を抑え込もうとして、姑息な手段に及んでしまい、そうやってみっともないことをやってしまうわけだが、もちろん当人はそれがみっともないことだとは自覚していないだろうし、自身が世間を味方につけているとも思っているのかも知れないが、実態としても味方であるとしても、味方としての扱いが小物扱いとなってしまい、当人がそれに気づいてしまうと痛く自尊心を傷つけられてしまうかも知れないが、別に自身が小物であるとか大物であるとか、自分でそんなことを意識してしまうこと自体も恥ずかしいことではあるのだろうが、他人との差異を強調しようとしているなら、少なくともそれによって自分が他人から軽く見られてしまうこと自体が許せないわけだ。


3月25日「条件反射を利用した商法」

 特定の刺激に対する人々の反応が同じパターンを示せば、それを条件反射と見なすと厳密には少し定義が違うかも知れないが、そんな条件反射的な反応によって、ある種の人たちが操られていることになるかも知れず、それに関して例えば、特定の歴史的な経緯や出来事を示すと必ず起こる反応というのが、条件反射的な反応になるだろうし、例えば幕末の坂本龍馬を取り巻く陰謀論や、日本とアメリカの太平洋戦争や戦後のGHQによる日本支配や東京裁判などが、否定的な意味での条件反射をもたらしたい題材となるのだろうが、興味のない人ならそんな紋切り型の題材などでは操れないのだろうが、商売として成り立つ範囲内ではそれなりの数の人たちが、条件反射によってそれらに関する書籍の類いを購入することになるだろうし、そういった歴史商売とは違う方面でも、その手の条件反射を利用した商売がおこなわれている事例が結構あるかも知れないし、例えば中国といえば、ウイグル・チベット・中印国境・南シナ海・香港・台湾・尖閣諸島と、今や否定的な条件反射を引き出せる題材がいくらでもありそうだが、それらが枝葉末節なことであるはずもなく、根源的に近代の国家体制に直結する問題として扱いたい題材でもあるかも知れないが、何がそれらを招いているかといえば、経済発展が国家主義的な膨張現象を招いているのは一目瞭然だろうし、そこからも昔ながらのファシズムやナチスドイツやヒトラーなどが条件反射を引き出す歴史商売に結びつけられるだろうが、その一方でアメリカの経済発展に伴ったメキシコや太平洋方面への領土の膨張も同じ現象だとしても、すでに過去の出来事だからどうすることもできないが、現在進行形で起ころうとしていることについては周辺諸国が対応せざるを得ないし、そんなふうにして歴史は繰り返すわけだが、その際には中国の軍事力にはアメリカの軍事力で対抗してほしいわけだから、条件反射を利用した商売としては、過去のアメリカの膨張現象と今の中国の膨張現象を同列に扱うことはしないだろうし、また中国政府が造ったウイグル人の収容施設からナチスドイツのユダヤ人収容所を連想させたいのだとすれば、それと同様に例えば戦時中の日系アメリカ人の収容施設も連想させたいかというと、そうなるとちょっと傾向も異なってきて、何よりもナチスドイツによるユダヤ人の絶滅計画と比べればインパクトに欠けるだろうし、それが中国政府によるウイグル人の絶滅計画であると思わせたいわけだから、日本政府のアイヌ人に対する政策などとはレベルが違うとも思わせたいだろうし、そういうところで過去のどのような事例を選べば効果的に否定的な感情を煽り立てることができるかが、条件反射を利用した商売のキモになるだろうから、なるべく極端で最悪の事例が持ち出されるわけだが、そういうことに関してはそうだとしても、そうしたいと思う気持ちがどこから生じてくるかというと、それが似た者同士に起こる近親憎悪的な感情によるものなのか、あるいは商売に特有な商品の宣伝に由来する誇張表現などの煽り立てから来ているのかは、そのどちらでもあると見なしておいてもかまわないが、どちらでもないようなことが言えるかとなると、それとは違う方面から言説を構成しなければならないだろうし、そうした商売も商売の題材となる出来事や現象にも、経済的な事情や経緯が絡んでいると捉えるなら、そこに絡んでくる経済的な事情や経緯から説明するしかないわけだが、それがどのような事情や経緯なのかといえば、そこへと至る過程の中で何らかの事情や経緯が生じてくるわけだが、それが物事を単純化して言葉で示さなければならない事情であり、人々の関心をそこへと惹きつけようとすることから、そんな経緯も生じてくるわけだが、わかりにくいことをわかりやすく見せるには誇張表現を使って単純化しつつ、それを煽り立てるような成り行きになってしまい、例えばウイグルで人権弾圧がおこなわれているなら、ウイグル人の強制労働によって生産された綿花製品を取り扱わないという単純化をおこなえば、中国の国内では反発されて不買運動に発展するとしても、国外では商品の宣伝に役立つだろうし、それに類する事例を挙げるなら、アフリカのカカオ生産地で奴隷労働がおこなわれていれば、そういうことがおこなわれている地域の農場から出荷されたカカオを原料として使ったチョコレートは売らないと宣伝する食品企業が出てくるわけだが、その一方で例えばバンクシーという画家がどこかの壁に象徴的な効果を狙った絵を描けば凄いことをやったと騒がれて、その画家の別の絵がオークションで高額で落札されたりする事例となると、それもその手の単純化した煽り立ての延長上でおこなわれていることだろうが、実際に匿名画家のバンクシーが人知れずどこかの壁に絵を描けば、メディア的には話題となるしかないという条件反射が出来上がって、そんな経緯を利用してオークション業者が商売をやっているにすぎないことであっても、世界で一人しかいない芸術家なのだろうから、それが極端で最悪の事例とは真逆の極端で最良の事例となっているわけで、そんなふうにしてやっていることの根本のところでは同じような傾向のことをやっているとしても、一方ではそれを悪い方向に誇張したり、他方では良い方向に誇張することによって、曖昧で不確かな物事の良し悪しを明確に区別できるようにすることが、条件反射を利用した商売でおこなわれていることでもあり、それをたわいない宣伝や煽動の類いでしかないと単純化して捉えてしまっても、それ以上に何が言えるわけでもなくなってしまうにしても、そうしなければ誰も注目してくれないような事情や経緯があるから、そうせざるを得ないとしても、それ自体が価値や基準がよくわからない世の中の現状から目を背けて、メディア的にねつ造された権威にすがろうとすることの表れでもあるだろうし、実態としては何が権威でもなく、誰が権威を自任しようとそんな権威など認めなければいいということになるとしても、何かしら物事の良し悪しを断言してくれる権威がいないと不安になってくるだろうし、そんな権威に誰がすがりついているわけでもないだろうが、そんな権威の存在を否定するそぶりの誰もが、匿名を装いながらもそれを利用して、逆説的に匿名であるからこそ安心もされて、結果的にその道の権威になっているような状況がもたらされているものの、ただの無名の一般人が壁に落書きすれば軽犯罪にはなるだろうし、それが世情を写した風刺画の類いとして世間でもてはやされるような状況こそが、価値や基準がよくわからない曖昧で不確かな世の中の現状でもあるわけだ。


3月24日「余暇への投資」

 人が自らに投資するのは、何か習い事をやって、そこで覚えたことを活用して稼ぎたいから、そのための手間と時間と費用を自らに投資すると考えれば、それなりに納得できるかも知れないが、それ以外でも何か道具や機械を買って、その道具や機械を使って仕事するとなると、道具や機械を得るために投資することになるのだろうが、そういう具体的なことではなく、ただ無駄に時を過ごしたかったり、何もせずにゴロゴロしたいから、そのための時間とスペースがほしいとか、そういうことをやるために手間と時間と費用をかけるとしたら、そういうのは投資というよりは浪費でしかないだろうが、何か具体的なことをやる自由があるなら、何もやらない自由もありそうで、そうやって何もせずにゴロゴロするための時間と場所と資金を捻出するために、手間と時間と費用をかけて、浪費するのに必要な資金を稼ごうとしていれば、余暇を快適に過ごすために働くという目的自体はありふれたことかも知れないが、それを労力と時間と資金の浪費とは考えたくないだろうし、何かもっと投資の対象としてふさわしいような肯定できることとして、自らの行為を前向きに捉えたければ、それらしい表現が必要となるかも知れないが、理由がどうあれ手間と時間と費用をかけて何もやらないわけにはいかず、何もやらないことを正当化するのは難しいのかも知れないが、何せずにじっとしているのではなく、ありふれた対応としては趣味や娯楽やスポーツなどに興じて、できるだけ余暇を有意義に過ごそうとしてしまうだろうし、そうした行為や行動をおこなうために投資するのであれば、何かそれによって世間体を取り繕えるような気になってしまうのかも知れないし、それだけ何もやらずにゴロゴロしていることについては、世間体を取り繕えないような罪悪感を覚えるかも知れないが、それもただ働いて食って寝るだけの日々を送っている余裕のない人からすれば贅沢な悩みにすぎないだろうし、そんなことについて真剣に悩んでいること自体が許せないとも思われてしまうだろうが、何もせずじっとしていることができずに、絶えず何かをやるように急かされている感覚がどこから来ているのかといえば、普通に考えればそれは経済的な要因だろうし、実際に働いて食って寝るだけの日々を送っている人は、絶えず働くように急かされているわけで、他のことをやる時間的な余裕などなく、それだけで手一杯となるように精神的にも肉体的にも追い込まれているわけだが、それは自身が経済的に余裕がない場合もあるとしても、ブラック企業と言われる実態があれば、企業側が従業員に長時間労働を強いている場合もあるだろうし、そうやって経済的な事情が人を働くように追い込んでいるとしても、同じ経済的な事情によって事業の合理化や人件費などの削減に伴って、人を職場から追い出すようなこともおこなわれていれば、確かに残った人はいなくなった人の分までより多く働かなければならなくなるとしても、追い出された人は働きたくても働かせてもらえず、どちらにしてもより過酷な境遇へと追い込まれていってしまうのだろうが、なぜそうなってしまうのかといえば、そこではそうしないと利益が見込めないからそうするしかないとしても、その一方でそういったじり貧的な状況の事業とは別の方面へと投資先が移っている可能性もあるだろうし、それが新たな成長を見込める事業分野として脚光を浴びている場合もあり、そういった分野に人や物や情報や資金が投入されたり投資される傾向になるのだろうが、思うように人材が集まらなければ、少数の人員で膨大な仕事量をこなすような過酷な状況となるかも知れないし、そういった人材の需要と供給のミスマッチが起こるのもよくありがちな事態であるとしても、そんな状況に巻き込まれてしまう人はごくわずかにすぎず、そういうところばかりにメディア的な脚光が浴びせられるのもよくありがちな事態かも知れないが、それが何であれ投資という行為が常に何らかの利益を求めて投資がおこなわれるという先入観を抱いてしまうと、それも部分的な捉え方となってしまい、確かによくありがちな投資というのは利益を求めるという目的に従って投資するわけだが、他にも何かをおこなう場所や時間を確保するために投資する場合もあるだろうし、そのおこなうことが必ずしも利益を得るためにおこなうわけではない場合もあり、それも初めから明確に目的が定まっているわけでもなくても、とりあえず将来何かをする成り行きになりそうな予感がするから、その何だかわからないことをやるにはそれなりに余裕があった方が良さそうな気がすれば、そんな余裕を確保するために投資するようなことになるのかも知れず、そうなるとそんな目的があやふやな投資には他の誰も協力はしてくれないだろうが、誰も助けてくれないとしても自分でやれる範囲内で投資できれば、そういうことをやった結果として、一時的には何もせずに暇を持て余してゴロゴロしているように見えるかも知れないし、そういうことをやっていられるだけの自由を確保しておくことが重要だとは誰も思わないだろうが、その人の置かれた立場や境遇からも、うまく正当化できないようなことかも知れないが、特に正当化できなくても正当化しようとしなくてもかまわないようなことでもあるだろうし、そういう成り行きへと自身の立場や境遇を持って行こうとすることに何の意味があると問われても、納得できるような意味も意義も持ち合わせていなくても、自身にそういうことをやっていられるだけの余裕があれば、そうなっている人にはそれなりの余暇が生じているだろうし、そんな余暇を使わないのがもったいないから、せわしなく何かをやろうとするのではなく、余った時間を何もせずに浪費しているぐらいが、その人にとっての分相応であり、そうなっているだけでも気楽な気分へとその人を導いてくれるだろうし、実際の世の中にそんな人が多くいれば、それだけ平穏無事な世の中になっているはずだが、そんな人が多くいるのと釣り合いを取るように、暇も時間も資金もなく、せわしなく働くことしかできないような境遇の人もそれなりに多くいるようなら、それだけ社会の中に格差が生じていることになるだろうが、それもその人の年齢や時期に応じて、若い頃には時間も資金もなくせわしなく働いて、年老いてくればそれ相応に資金の蓄えができて、働かなくても食っていけるようになれば、それなりにバランスがとれていることになるわけだが、実態としてはそんな成り行きばかりではないだろうし、若い頃から働こうとしても働き口がなく、年老いてからも安い賃金で日雇いの仕事をこなしながら、かろうじて生活している人も中にはいるだろうから、そんな人は余暇への投資などやる必要のない一生を送ることになるのではないか。


3月23日「産業と政治の違い」

 人が集団で作業すれば、やり方によっては一人一人の力を足し合わせたよりも大きな力を得られて、そんな協業的な効果によって、一人ではできないようなことが集団で作業することによってできるようになるが、集団が直接作業することによって得られる力よりも、機械を作ってその機械を使って作業する方が、人力よりもさらに桁違いの大きな力を得られるから、まずは集団で機械を使って作業して機械を作り、さらにその作った機械を使って集団で作業することになり、それが様々な産業の中でおこなわれる典型的な作業となるのだろうが、そんな大規模な集団作業によって何がおこなわれているのかといえば、結果的には世界全体で数十億人の人口を養うために作業がおこなわれているわけだが、その中の一人一人の人たちはそんな目的で作業しているわけではなく、自分や家族を養うために働いているはずだが、機械を使って集団で作業している実態と、そんな集団を管理する技術もあるにしても、それだけが人の生活の全てではなく、世の中にはそんな作業をしている人だけが存在しているわけでもないだろうし、むしろ機械化を推し進めて作業を集約化していくと、それに伴って人出が要らなくなり、作業時間が減っていくはずなのだろうし、それに伴って農業や工業に携わる人口の割合が減っていくのに反比例してサービス業などに携わる人口の割合が増えていくのが、統計的に示されていることでもあるのだろうが、中国政府がウイグル人たちを集団で管理しながら集団でおこなう作業を強制して産業化を推し進めようとしたことが、それなりに合理的な判断に基づいた政策であったとしても、ウイグル人全体を集団で作業する労働者にする必要はないという矛盾に気づかなかったわけで、その中の何人かが自主的に出稼ぎ労働者として工場などで働くにまかせておくことができなかったのが、政策的な誤りといえば誤りになるにしても、政策を推し進めた当事者たちは善意でウイグルの産業化をおこなうつもりであったのかも知れないが、余計なお世話という結果になってしまったのは、その合理的な政策判断に問題があったというよりは、そこで作業する労働者はそれほど必要ではないが、作業によって作り出される商品やサービスを買ってくれる消費者が大勢必要だという機械文明の矛盾に気づかなかったのが原因かも知れないが、政治に産業技術などで養われた合理的な判断を持ち込むのも、何か筋違いで勘違いとなってしまうのかも知れないし、そういうところで微妙にボタンの掛け違いというか、合理的には判断できない矛盾する政治的な判断を迫られてしまうのだろうが、自分たちの判断が矛盾していることをどこまで許容できるかも、政治的な判断の中では必要なことかも知れないが、そういう意味ではアメリカのテスラ社が敵国扱いの中国の上海郊外に工場を建設して自動車を製造していることが、産業的な面では合理的な判断だが、政治的な面では矛盾していることを象徴しているだろうし、物事の全てを産業の論理で合理化することはできないのは当然としても、政治的に矛盾した判断を迫られてしまう事態をどこまで許容しても矛盾が残ってしまうだろうし、自分たちが矛盾した判断を迫られていることを許せないというのなら、それが合理化の罠にかかっていると言われても聞く耳を持たないだろうし、現状の中国政府の首脳陣が全て合理化の罠にかかっていると見なしても、それも見せかけのポーズにすぎないかも知れないが、結果から見れば当人たちの意図や思惑とは無関係にそう見えてしまうような状況に陥っているわけで、そういうところで解決の糸口などありはしないのが現状が示しているところでもあり、そういう成り行きは過去にも覇権国家と見なされる国ではいくらでも起こっていたことかも知れないが、政治家が判断材料として納得できる産業的な面での合理的な判断にしても、安く買って高く売るという商取引に関する矛盾の上に成り立っていて、人や機械の協業から生み出される産業特有のコスト削減にしても、コストを削減した分を企業の取り分にしてしまえば、労働者の側からすれば利益を搾取されていると思われるだろうし、どうやっても立場や境遇から生じる都合を優先させれば、本来ならもっと得られるはずの利益を立場や地位の上下関係を利用して優位な立場となっている者や団体から横取りされていると思われてしまうわけで、そこにも産業特有の矛盾が含まれているのかも知れないが、そういうことまで考慮に入れるなら、あまり合理的な判断を信用するわけにはいかないが、相手を納得させるには合理的な説明が不可欠だろうし、もちろん今回の件では納得しないから騒ぎになっていて、相手を納得させられないから、自らの側が正しい意見を述べていることを主張するには、合理的な論理で理論武装しているように装うしかないのかも知れないが、政治的には理論武装など何の役にも立たないだろうし、実際に理論武装しているわけでもなく、ただ一方的にお互いの主張を言い合って議論が平行線に終始しているだけだろうが、そういう協議を継続しようとするのが政治的な面での作業でもあり、実際のところは合理的でも効率的でもなく、その場しのぎの時間稼ぎにすぎないのかも知れないが、そんなことをやっているうちに、自ずから結果らしい途中経過が出てきて、そうした結果や途中経過を踏まえて、また協議や交渉という政治的な作業をおこなうわけで、そんなことをやらずにいきなり軍事衝突などに至ってしまうよりは、時間と労力はかかるがコストの面では安上がりに済むかも知れないし、それを見ている方は事態がなかなか進展せずに焦れったくなってしまうかも知れないが、そういった協議や交渉から何の利益がもたらされるわけでもないと思っておけば、むしろそういった協議や交渉そのものには何も期待できないとしても、それよりは協議や交渉をおこなえる場や環境を整えておく方が重要に思われるだろうし、また経済制裁などによっておこなっている行為をやめさせることはできないが、軍事的な暴力までに至らないような制裁を科すことによって、経済的なコストを最小限に抑えられるという魂胆なのかも知れないし、そういうところが以前から進化したやり方とは思えないだろうが、過去の経験を踏まえてそれなりに工夫を凝らしていることは確かだろうし、そういった工夫がどのような結果をもたらすかは、なかなか予測のつかないところかも知れないが、自然とはっきりと白黒をつけるような結果を避けているとも言えるのかも知れず、結果がどうなるにしても現状でおこなわれることは、腫れ物に触るような微妙な感覚を要する成り行きになっているのかも知れない。


3月22日「民衆の意思」

 統治には何か定まった形態がありそうだが、それとは全く関係のないところからそれと似たような形態を見つけ出すことができるかどうかはよくわからないが、統治がうまくいっていないように見えるのは、政府などの統治する機関が無理なことをやっていて、無理なことをやらざるを得ないような事情を抱え込んでいるから、統治がうまくいかなくなってしまうとしても、その無理なことをやらざるを得ないような事情というのが、統治そのものから生じている可能性があり、なぜそうなってしまうのかといえば、端的に言って民意を無視するようなことをやるからだろうが、民意とは何かといえば、民衆の意思となるはずだが、それが社会を構成する制度や慣習に基づいた意思ではなく、むしろ制度や慣習を変えようとする意思であれば、統治機関が社会の制度や慣習に基づいて統治することによって、統治に関する定まった形態が生じるとしても、民意がその定まった形態を変えたいという意思を示すと、民衆と統治機関との間で対立が生じて、そこから統治がうまくいかなくなってしまうのだろうが、一概に社会を構成する制度や慣習といっても、統治を助けて統治と一体化している制度や慣習もある一方で、統治にはなじまず統治と対立する制度や慣習もあるだろうから、民意と統治機関の意向が対立していれば、民意が変えたいと願っているのは統治機関側が利用している制度や慣習になるだろうし、そこで民意と統治機関の意向のどちらを優先すべきかとなると、当然民衆の側では民意を優先させてほしいのだろうが、統治機関の側ではそうはいかないわけで、民意を優先させれば統治がうまくいかなくなると判断すれば、民意を無視した統治をおこなおうとするわけだが、民意を無視すれば民衆が統治機関のやり方に反発して統治に従わなくなってしまうから、当然の帰結として統治がうまくいかなくなってしまうわけで、そうなると民衆を弾圧するような圧政が始まってしまうのだろうが、そうならないように民意を統治に反映させる制度として民主的な選挙制度や議会制度があるが、民主的な選挙をおこなってしまうと統治に支障をきたすと統治機関が判断すれば、選挙を妨害したり骨抜きにしたり、それでも駄目なら軍事クーデターなどを起こして、民主的な制度が機能しないようにしてしまうのだろうが、そもそも統治とは何かというと、それを単純化して支配することが統治することになるかというと、そうともいえないだろうし、権力志向を伴った支配という強い表現よりは、管理という形式的な表現の方が近いのかも知れないが、管理するだけではなく運営もしなければならないから、自然と企業形態になっていくのだろうが、企業形態と選挙などを伴った民主的な制度とは、当然相容れない傾向があるだろうし、何よりも官僚制などの身分や地位の上下関係をもとにした組織形態が、誰もが平等の立場で代表者を選ぶ選挙制度にはなじまないわけで、そして本来なら対立する二つの制度をなじませるために自然に編み出されてきたのが政党制であり、政党を結成して議会で多数派を占めるような大政党にすれば、政党の中で身分や地位の上下関係をもとにした官僚制などの組織形態を作り出すことができるから、そこで政府内の官僚制と政党内の官僚制を重ね合わせることができて、政権与党というより大きな官僚制が成り立つことになるわけだが、そうした身分や地位の上下関係をもとにして統治するのに適した社会にしようとすれば、当然社会の中でも身分や地位の上下関係を浸透させたいわけで、要するに民主主義を形骸化させたいわけだが、それは組織としての官僚機構の意向であり、組織の構成員が個人でそういうことを考えているわけではなく、集団が組織として機能し始めると結果的にそういう意向が滲み出てくるわけで、そういうところで個人の考えと組織の意向が矛盾していることに気づきにくいわけだが、何かを主張したり意見を言うのはあくまでも個人であるから、たとえその人が何らかの団体の構成員であるとしても、自由な立場で何かを主張する際には、自らが所属している団体の意向にとらわれているとは思っていないはずだが、組織の一員として活動している時には、個人としての思いや考えとは無関係に団体の意向に従っているだろうし、従わないとそのことを理由にして、団体から追い出されてしまうかも知れないし、そういうところで民主主義が機能しないのは当然だが、それ以前に個人がその人の意思や意志とは無関係にその人を取り巻く制度や慣習にとらわれているわけではなく、意思や意志もその人を取り巻く制度や慣習にとらわれていて、そうなっていることになかなか気づきにくいわけで、気づいたところで個人の力で制度や慣習をどうすることもできないし、しかも制度や慣習にも様々な種類や傾向があって、それらが重なり合い絡み合い結びついたり対立し合っている中で、何をどうすればいいのかわからず、何もやりようがないかも知れないが、個人でできることがあるとすれば、制度や慣習に従ったり逆らったりしながら、従ったり逆らっていることを意識するだけでも、そこで何らかの制度や慣習が機能していることがわかるはずで、なぜ従ったり逆らったりするのか、どうやって従い、どうやって逆らってしまうのか、そうなるに至るまでに経緯や成り行きが生じて、その経緯や成り行きから結果的に従ったり逆らったりしながら、そうすることがその人の活動そのものになってくるのだろうが、そうなる過程において、その人だけで個人的に活動している他にも、他人との連携や協力や競合や競争なども起こるだろうし、それに伴って集団としての組織的な活動も生じてくるわけで、それらも同時進行的に重なり合い絡み合い結びついたり対立し合ったりしてきて、すでにそうなっている時点で個人が集団の活動に取り込まれている実態もあるわけだろうが、そういうところでも組織的な効率性を重視するなら、自然と身分や地位などの役割分担や上下関係を伴った官僚的な組織形態となりやすい活動もあるにしても、活動の全てにおいてそうなるわけでもないだろうし、その場の活動内容からそうなるかならないかの違いが生じてくるのだろうが、そうなりやすい方面ではそうなるしかないだろうし、そうなるのを人為的に食い止めることはできないだろうが、いったんそうなってしまうと他の全ての面においてもそうしなければならないような集団としての意向が働いてくる一方で、そういう傾向に逆らわなければならない成り行きも個人の立場では生じてきてしまい、集団としての意向の方が強力に働くから、集団の中では個人の意思が押さえ込まれてしまう傾向になるわけだが、そういった経緯や成り行きを意識できれば、集団としての意向に個人が逆らう理由も理解できるが、その一方で誰もが四六時中集団の構成員であるわけでもないのだから、なるべくなら集団の意向と個人の意思を両立させるようなやり方を模索する成り行きに持って行く方が、個人としては妥当に思われてくるのではないか。


3月21日「必要性」

 そこで何がどうなっているわけでもなければ、特に何もしなくても済むはずだが、何かがどうにかなって、それに対応して何かをしなければならなくなれば、そうする必要があるから、そうする成り行きになるはずで、そうする必要がなければ、そんなことはやっていないと思いたいが、必要にも程度と傾向があり、そうすることの切実さに応じて、絶対にそうする必要があると思われることと、特に必要だとも思えないが、ただ何となくそんなことをやっている場合とでは、その必要性に関して雲泥の差があるように思われるとしても、その人にとってはそうだとしても、別の誰かにとってはどちらも大して違わなければ、その人にとっては切実に必要だと思われることに関しては、その人の立場や境遇からくる必要性だと思われるかも知れないが、その一方で誰にとっても必要だと思われることもあるだろうし、その場の条件やそこに至る成り行きや経緯からそこでやるべきこととして必要なことが生じてくるとしても、実際にそうなれば誰もがやるべきこととして必要だとわかる場合がある一方で、誰にもわからない場合もあるかも知れないし、また特定の人にしかわからない場合もあるかも知れないが、わかったところでそれをやれない場合もあり、それをやれるかどうかはその場の条件次第となる場合もあり、そうなると必ずしも必要だからやれるわけでもなく、必要であってもやれない場合には、その人にとっても他の人たちにとっても大変なことになってしまい、それが人の生死にかかわるような重大事をもたらしてしまう場合もあるのだろうが、そういった切実さや深刻さとは無縁でいられる場合もあるにしても、それがいつでもどこでもどんな場合でも、急に必要な状態になってしまうと、何の用意もしていなければパニックに陥ってしまうかも知れないし、そういった突然の必要には対応が間に合わない場合もあるから、それなりに備えがあっても保険をかけていても安心できないが、そんなことを事前にきりがないほど考えていても、そんな考えとは別の方面から思いがけない必要性が生じてきて、そんな必要に対応できずに、必要なことをやれなかったばかりに、やっていることがうまくいかなくなってしまえば、偶然の巡り合わせで災難に遭ってしまったとあきらめるしかないが、それでも平然としていられるなら、平然としていられる程度の災難にすぎないだろうし、またその時は災難だと思っても、後からそれをきっかけとして事態が好転してしまえば、何か狐につままれたような災い転じて福となすような思いを抱くかも知れず、そうなれば結果的には災難に遭うことが必要だったと思われてしまうかも知れないが、そこで災難に遭いながらも何らかの対応をしていたことを思い出せば、自分の力で災難を切り抜けたと思ってしまい、そこから自分の力を過信するような勘違いも生じてくるかも知れないし、そういった自らの力への過信がさらなる災禍を引き寄せてしまうとしても、そこからも災い転じて福となすような成り行きを期待して、自らの活動に積極的に災禍を取り込もうとするかも知れないが、実際には自分の方が災禍に巻き込まれてさらなる災いに見舞われて、どんどん雪だるま式に負債が膨らんでいってしまう成り行きになれば、結局は破産したり破滅してしまうのだろうが、そうなってしまう成り行きに誰もが巻き込まれるわけではないとしても、その人にはそうなることが必要だったからそうなってしまったとは誰も思わないが、そうなった結果からそれを都合の良いように判断したり解釈してしまうのは誰にでも起こり得る過ちでもあり、それが正しいか間違っているかも、その場ではそう思われるとしても、その場から離れてみればそうでもないかも知れないし、そこから時が経ってみれば、その場での判断などどうでもよくなってしまうかも知れないが、実際にそうなってしまうと、その場ではそうする必要があったからそうしたのだろうが、後からその時のことを振り返ってみると、必ずしもそうする必要があったとは思われなければ、確かにその時そうする必要があると思われたことが間違っていたとは思えないものの、その必要性もそこから時が経つにつれて薄れていってしまい、その場での自分とそこから離れてしまった自分とでは、その必要性が違ってくるのは当然だろうが、その場では自身がそこで何かをやる当事者であったのとは対照的に、そこから離れて時が経ってしまうと、当然のことながら当事者ではなくなってしまうから、当事者だから必要だと思われていたことが、当事者ではなくなれば必要ではなくなってしまうのも当然であり、そうやって同じ自分であっても、その場の自分とそこから離れてしまった自分とでは、そうする必要があるかどうかで判断が異なってくる場合があるとすれば、その場で立場や境遇や役割分担が異なる人々の間で、そうする必要の有無や必要性に程度の違いが生じてくるのも当然ことだと言えるだろうが、それを他人の立場や境遇になって考えられるかというと、それも自身の立場や境遇や役割を優先しながら自身にとって都合良く考えてしまい、他人に良かれと思うことが自分の都合で自分に良かれと思っていることと連動してしまうと、他人にとってはそれが良かれでも何でもなく、むしろありがた迷惑で余計なお世話のようにも感じられてしまえば、そういうところからその場での人間関係がこじれてくるのだろうが、そういう人間関係の煩わしさを省略したいなら、対等な関係をやめて主従的な上下関係を取り入れる成り行きになるだろうし、それに伴って組織的な効率性などを重視することにもなるだろうが、そういう成り行きも他の組織との競合関係や競争関係から生じてくることでもあり、他の団体との競い合いや争いや戦いなどを通して、そこで勝つための組織形態が自ずから導き出されてくるのだろうが、そういう傾向が高じすぎてしまうと、勝つためという目的だけに特化した組織形態になって、他のことがなおざりになってしまうのだろうし、そこから組織の構成員を服従するだけの奴隷のように扱って、人としてみないようなことが平然とおこなわれてしまうわけで、そんなことをやってまで勝つ必要があるかというと、確かにその場ではそう思われてしまうとしても、そこから離れてみれば、そうすることと引き換えにして払う代償や犠牲があまりにも大きいように思われるなら、なるべくそういう傾向にはならないようなやり方を模索することになるだろうが、競合する他の団体を出し抜こうとするなら自然とそういう傾向になりがちになってしまい、それが高じて何らかの事件を招いて災禍をもたらすとしても、それでもいったん当事者の立場になれば、どんな犠牲を払ってでもそういうことをやりたくなってしまうのではないか。


3月20日「激動の時代」

 現状の何に対して懸念を抱いているかは、人それぞれで異なるかも知れないし、社会的かつ経済的な立場や境遇によっても心配事が変わってくるとしても、それらが杞憂に終わることを願っているわけでもなく、むしろ杞憂に終わらないで、懸念が的中してほしいと誰もが内心思っているわけでもないだろうが、少なくとも現状で何を懸念しているのかを明らかにしないと、話がそれ以上は進まないような気がするものの、懸念材料となる物事など世の中にはいくらでもありそうに思われて、それらをいちいち挙げていったらきりがなくなってしまうかも知れないが、あえてそれが何に関しての懸念材料なのかも明らかにしないまま、何を述べようとしているのかも定かではなくなってしまう危険を冒す気にもなれないなら、そんなうまく言い表せない懸念材料や心配事をまとめて、それらを単純に世界が激動の時代に入っているから心配事が尽きないと表現すれば、ではそこで何が激動しているのかといえば、世界中で火山噴火や地震や豪雨や干ばつや熱波や山火事などの自然災害が激増しているから、それらが世界が激動の時代に入っていることの証拠だと見なしても、そんなのは今に始まったことではないし、またそれに伴って、あるいはそれとは直接関係なくても、国家間の政治や経済や軍事的な対立も激化しそうな気配を感じているから、それが世界が激動の時代に突入しそうな兆しだと見なしても、それも今に始まったことではないだろうが、では何を持って世界が激動の時代に突入したと見なせばいいかといえば、それら全てにおいてそうだといえば、そんな気がしないでもないが、誰もがそうなることを期待していたわけでもないだろうが、あるいは誰が期待していたのかは誰でもかまわないだろうが、できればそんな事態は避けたいと誰もが思っていたことにしておきたいところだろうが、実際に誰もが期待していたことが起こっているかとなると、よくわからないことでもあり、逆に誰も期待しなかったようなことがいくらでも起こっているだろうし、そんな世の中の状況や情勢に対する人々の反応にも落胆しているかも知れないが、誰ががっかりしているのかといえば、何かが起こることを期待していた人々が、そんな思いを裏切るような結果がもたらされてがっかりしている一方で、不快なことを煽り立てる煽動者たちは相変わらず煽り立てをやめようとしないし、そんな煽り立てを無視して無反応を示している人々にも、何を考えているのかわからない不気味さを感じているわけでもなく、実際に考えているのはそんなことではなく、それとは別の方面で自身にかかわりのあることについて考えているのはいつも通りなのかも知れず、逆に何も考えていない方面のことには無関心であり、無関心でもかまわないような世の中になっているわけでもないのだろうが、無関心であることをあえてそうだと表明したいわけでもないだろうし、わざわざ無関心なことについて何か言及しなければならないわけでもなく、そうなってしまうと何が激動の時代かもわからなくなって、それに対する期待も落胆もはぐらかされて、別に現状の世界が激動の時代に突入しているわけでもないと思われてしまうかも知れないが、そういう意味では一つのまとまりとしての世界を考えなくてもかまわないような時代になってしまったとも言えるだろうし、誰もがそんなことを考えているわけでもなく、それも今に始まったことではないだろうし、誰も世界のことなど気にもとめていないわけでもないだろうが、気にもとめなくても済んでしまう人が大半を占めている現状は揺るぎようがなく、世界の現状を心配しているにしても、だからといってそこから何か行動や言動に駆り立てられる人もそれほどはいないだろうし、たとえ現状が激動の時代だろうと、普段通りに暮らしている範囲内では取り立てて何がどうなっているわけでもないはずだが、たぶん自身の身の回りでは何がどうなっているわけではないとしても、世界で起こっている様々な出来事がメディアを通して伝えられている現状の中では、それなりに懸念材料や心配事が尽きないわけで、それがパンデミックのように身の回りにまで及んでくれば深刻に思われるのだろうが、誰にとってもそう思われるわけでもなく、人それぞれで深刻度が異なってくるのであり、そこから誰もがそう思うような成り行きにはならず、世間的にそう思われても自分は違うような気がすれば、違和感や疑念も生じてきて、何かおかしいのではないかと思うようになると共に、メディアが作り出す世間的な共感現象に違和感や疑念を抱いている人が他にもいないか探そうとして、そういう人たちがSNSに集って連帯することもあるだろうが、それも一過性の部分的なつながりであり、世界全体にそういった共感が広がるわけでもなく、狭い範囲内でまとまっているにすぎないことなのだろうが、そういう現象まで考慮するなら、たとえ世界の現状が激動の時代へと突入しているとしても、それを実感しなくても済んでしまう人もいくらでもいて、実感できなければ今が激動の時代だとは思わないし、そういう人たちにとっては激動の時代でも何でもなく、実際に平穏無事に日々を過ごしている現状があるものの、それでもメディアに日々接していれば、何かしらその種の実感を得られて、そういった程度でなら激動の時代であることをそれなりに実感しているのかも知れないが、メディアによって世界が激動の時代であるかのように見せられていることであれば、そんなメディア的な演出によって意識が実感させられていることでしかなく、大して実質が伴っているわけでもないのかも知れず、それに気づいている人は少ないのかも知れないが、激動の時代の激動がその程度のことであれば拍子抜けしてしまうだろうが、実際に事実として感染病が世界中に蔓延して数百万の人が亡くなっているわけだから、それを誰もが深刻に受け止めているだろうし、日本では十年前の巨大地震によって数万人の人が犠牲となった事実もあるし、他にもこれまでになかったことが現に起きていて、それをメディア上で大げさに騒ぎ立てるような事態となっているのだから、そういうことをまとめて示せば、実際に世界が激動の時代に突入していることの証拠となるわけだが、たぶん事実としても激動の時代になっているだろうし、それを疑う余地のないことだと認めてしまってもかまわないのかも知れないが、だからといってそんな激動の時代に備えて何をどうするわけでもなければ、あまりそれを真に受けているわけでもなのかも知れず、それはかつての激動の時代でも、時代状況を真に受けずに普通に暮らしていた人などいくらでもいたのかも知れないが、そういった激動の時代だからといって何をどうするわけでもない人が大勢いる事実があるとすれば、たとえ激動の時代だからといって、誰もが紛争や災害の類いに巻き込まれているわけでもなく、大勢の人々がそれらの犠牲になっていても、平然としていられる人もそれなりにいることになり、それが人々の間で生じている格差や不平等となって、そんな立場や境遇の違いが世界的に微妙な状況や情勢をもたらしているのではないか。


3月19日「仮装の自己が思い描く理想像」

 ちょっとした失敗や手違いからやっていることの歯車が狂いだして、それがなかなか修正が利かずに元通りにはならなくなると、それなりに不安になってくるだろうが、ちょっとしたことなら無視しても大したことにはならないのに、そういう時に限って事を大げさに考え始めてしまい、何かそこからやることなすことの全てがうまくいかずに当てが外れてしまうようにも思われてきて、それほど当てが外れているわけでもないことまで、そこでのちょっとした計算違いや誤りなどがやけに目についてしまって、それとは別の方面では少しは予想通りや予測通りや思惑通りにもなっているのに、それを過小評価したりそこまで意識が及ばないと、何から何までうまくいっていないようにも思われて、そんなうまくいっていないことをやっている自分のふがいなさや自身に対する嫌悪感も増してきて、自分を他の誰かと比べて劣っていると卑下したくなってくるのかも知れないが、そう思い込もうとする一方で、何かそれを冗談のことのようにも思っていて、そんなふうに思い込もうとしている自らを冷徹に見下して突き放そうとするもう一方の自己の存在を感じ取り、それが真の自己であり、弱者に見せかけた仮装の自己をねつ造して、心の中でもてあそんでいるとは思わないだろうが、自己の内面でフィクションをいくら空想してみても、自己の外部での活動の実態が変わるわけでもなく、自身の活動に伴って生じてくる状況と折り合いをつけるために、そんな回りくどい心理作用が働いてしまうのだろうが、そうやって自己の外部からもたらされる思い通りにはいかない作用や影響から、どうやって自己を守ろうとするかよりも、自分で自己の思い通りにいかない面を持て余している状況があるのかも知れず、ともすれば自分を卑下して否定的な心理状態になろうとするのを食い止めるために、あれこれと策を弄して肯定的な気分になろうとしても、それが自己言及的な戯れ事であり、冗談のようにも思われてくるとすれば、まるで自身が堪えていないわけで、本当に卑下しているわけではなく、卑下しているように装っているだけで、それが謙遜まではいかないにしても、それもわざとへりくだっているように見せかけながら、隙あらば傲慢な態度に出てしまいがちになるわけで、それが自己の厚かましさでもあり、その場の状況や情勢に応じて強みにも弱みにもなるかも知れないが、どちらでもかまわないような心境になれれば、そんな心理状態の変動にもとらわれずに冷静な対処や対応がとれるかも知れないし、とれなくてもそれなりに不安感や安心感にとらわれた対処や対応になるだろうから、そこからも何らかの結果がもたらされて、またその結果に応じて対処や対応をするしかなくなってしまうだろうが、そうやって活動の継続が保たれているうちは、一時的な不安感や安心感にとらわれるような対処や対応をした結果に一喜一憂することはあっても、自分にとって許容できる範囲内で事態が推移していることになるだろうし、そういった状況や情勢の中では、ちょっとした失敗や手違いからやっていることの歯車が狂い出すこともあるし、何から何までうまくいっていないように思われるとしても、それも自身にとっては許容の範囲内ではあるわけだが、そんなふうにして外部からもたらされる刺激に過剰反応したり、自身の内面からわき上がってくる感情を抑え込もうとして、何か四苦八苦している現状があるとしても、それがそのまま放置しておいても大して事態がこじれることも重篤化することもなければ、結果的には事態の推移に身をまかせて、何とか許容できる自己の心理状態を保っているはずなのだが、何かのきっかけから状況が暗転することもあるだろうし、それを恐れながらも正気を保とうとしているのだろうが、それと共に今よりも状況が好転することを願ってもいるだろうし、状況が好転するように絶えず努力しているつもりかも知れないが、そんなふうにして今ある状態を保つには絶えず努力しなければならないという思いにとらわれてしまうから、ちょっとした失敗や手違いなどはできるだけなくすように心がけることにもつながって、些細なことにも繊細に気を遣うことになれば、気を遣いすぎて逆に気が滅入ってしまうという悪循環にも陥って、そういうところからも不安感や不快感や嫌悪感などの否定的な心理状態がもたらされてしまうわけだが、そんなことまで考慮に入れるなら、逆にちょっとした失敗や手違いこそが現状をもたらしている可能性があるわけで、実際にそんな誤りや過ちばかり繰り返しているわけではないとしても、それも現状を構成する要素や要因でもあるから、現状を維持するには欠かせない要素や要因だとは思われないものの、現状の中では否定的な要素や要因に分類されるが、現状のバランスを保つには必要な要素や要因である可能性もあり、そういう些細な失敗や手違いをなくせば今よりも状態や状況が改善されると思いたいだろうが、そう思われるだけで、実際にそうなれば現状がどう変わるかは何とも言えないところかも知れないし、実際にはそうはならず、絶えず些細な失敗や手違いを繰り返しているだけでは何がどうなることもなく、そんな枝葉末節なことよりも、もっと根本的なところに現状をもたらしている要素や要因があって、それが自らが思い描いている理想の自分を求めているのかも知れず、それが些細な失敗や手違いを繰り返さない自分であるとしても、自らが求めている理想の自分というのも、自らの勝手な都合を反映したいい加減な理想像かも知れないし、そんなあり得ない理想像を思い描くことが、現状を認めようとしないことからくる根本的な誤りや過ちかも知れず、現状を認めようとしないから、ちょっとした失敗や手違いを誘発するような現状に腹が立つのであり、それが思い通りにはいかない現状のどうにも許せない面でもあるわけだが、そんなふうにして現状とその現状の中で不満や不信感を募らせている自らの間で否定的な交感や交流がおこなわれているように感じられるものの、それも実際には自意識過剰のなせる業かも知れず、そうなりながらもそんな自らの足を引っ張っているような現状との間で渋々折り合いをつけているのだろうし、結果的にそうなってしまうのも致し方ないところではあるのだろうが、問題はそんな些細なところにはないとも思いたいわけで、もっと重大で深刻な不具合や不正を含んだ問題が自らの外部の世の中にあり、そういう大げさな問題に取り組むことによって自らを取り巻く状況や情勢を改善しようとも思うのだろうが、果たして自意識過剰から生じる自らの理想像と、自らが思い描く世の中の理想的な状態とが重なり合っているのかというと、たぶん重なり合ってしまうと現状からも現状の中に存在する自身からも目を背けることになってしまうのかも知れず、そんな目を背けている状態から抜け出すには、逆に抜け出そうとせずに現状の中に留まり続けようとするしかないのかも知れず、そのためにはちょっとした失敗や手違いを繰り返してしまう状態にもとどまろうとしなければならないとは思わないだろうが、結果的にはその種の失敗や手違いを繰り返している状態にとどまってしまう自分を、それをどうすることもできずに不満を抱いている自分を、失敗してしまうことも承知でどうにかしようとしてしまうわけだ。


3月18日「物事の自然な成り行き」

 それを見ないように仕向けられているわけでもなくても、何か見ていられないよう物事が世の中にはそれなりにありそうだが、実際に不快感や嫌悪感や羞恥心を抱くようなものを見せられると、正視に耐えられなくなるだろうし、物事の自然な成り行きからそういう正視に耐えないものを見せられることもあるかも知れないが、それを自然な成り行きと捉えてもいいのかというと、恣意的にわざと見せられるような成り行きになれば、どう考えてみても自然な成り行きとは言えないだろうが、自然な成り行きとしてわざとそういうことをやるような成り行きになってしまうのかも知れないし、見せようとしているのでもなくても、見てしまうような成り行きになってしまう場合もありそうで、何かを見せることが、見せる気がなくても結果的に見せていることになってしまえば、見せるという意図や思惑とは関係なく見せてしまうような成り行きが生じてしまい、そうやって何かを見せるような成り行きに巻き込まれて、正視に耐えないようなものを見てしまうのかも知れないが、正視に耐えないからそういう成り行きから離脱したくなるのだろうが、どうすればそういう成り行きから離脱できるかということではなく、そのための戦略とか戦術とかの恣意的に策を弄する以前に、自然に押し出されるような力を利用できれば、そこから抜け出すような成り行きになってしまうのかも知れず、そういう意味でそういった正視に耐えない物事ですらも、自身の活動に取り込んで利用するような成り行きに持って行きたいとは思わないだろうが、それもそういう成り行きに対応したり対処しているうちに、自然とそこから離脱してしまうようなことが起こってしまえば、恣意的かつ意図的にそうなるように努力しているつもりであっても、結果的にはそれが自然な成り行きになってしまうこともあるのかも知れず、そういうところで明確な戦略とか戦術とかを意識しなくても、自然な成り行きに身をまかせていれば自然とそうなってしまうことがありそうで、実際にそうなればしめたものなのかも知れないが、そうなるかならないかはそうなってみないことには何とも言えないところでもあり、確実にそうなるとは言えないものの、そうであれば実際にいやなことや不快に思われることや恥ずかしい仕打ちをされたら、素直に反応しておいた方がいいだろうし、無理をして何とも思わないようなそぶりを見せたり、強がるようなことはせずに、正視に耐えなければそれを避けるようなそぶりを見せておいた方がいいのかも知れないが、たぶんそういうのはどちらでもかまわないのかも知れないし、肝心なのはそれをきっかけにしてそこから先の活動に結びつけることになるのだろうが、どう結びつけるかが、その機会を捉える必要があるだろうし、その機会が巡ってこなかったり、機会が巡ってきてもそれを活かせなかったり、うまくいかない場合も多いのかも知れないが、その機会を捉えるにはどうすればいいかとか、機会を生かすにはどうすればいいかとか、そのどうすればいいかということがケースバイケースでもあり、一概には言えなければ、語りようのないことになってしまうが、その場その時に解決の糸口や鍵があり、それをその場その時の状況や情勢に応じて探し出して活用できれば、結果的にうまくいったような気になるのだが、確かにそこではうまくいったように思われても、そこから時が経って場所も移動してみれば、何でもような結果になっている場合もあるだろうし、そのうまくいったともいかなかったとも感じられないような何とも思われない結果というのが、その後に続く自然な成り行きから生じてくるのかも知れず、そうであればその場の状況や情勢に対応してうまくやったように思われることであっても、そういう思いにも賞味期限があって、いつまでもうまくいったようには思われないし、その後の状況や情勢の変化から、その場でのうまくいったことが打ち消されたり相殺されてしまえば、そのうまくいった感じも減じられたり解消されてしまう成り行きになり、そうなるのもその場の自然な成り行きに思われてくるだろうし、うまくいったことでさえもそうなのだから、うまくいかなかったことも何でもなくなってしまう場合もあるだろうが、人の感情はいつまでもうまくいかなかった失敗の感覚にとらわれていて、悔恨としていつまでも尾を引いてしまう場合もあるだろうし、また自らを失敗に導いた原因が他人の仕打ちにあると思えば、いつまでもそのことを根に持っていて、それがその人への怨恨になってしまうのだが、失敗を肯定的に捉えて、そこから教訓の類いを導き出すにしても、同じ失敗を二度と繰り返すなと思っても、前回失敗したのと同じようなケースは二度と巡ってこないかも知れないし、それよりは以前に失敗したのと似たようなケースなのだが、その時とは微妙に状況が異なっていて、その微妙な違いに惑わされて、結果的に同じ失敗をまたやってしまったと思ってしまうこともあるわけで、何かそういうところで必ず思いや考えをはぐらかされて当てが外れてしまうような成り行きももたらされて、そうなるのも自然な成り行きに思われてしまうわけだが、そういうことまで考慮に入れるなら、その場その時だけにすぎないようなうまくいったりいかなかったりした結果に意識をとらわれてしまうとまずいわけで、その場その時には意識が結果にとらわれてしまうとしても、そうした結果から意識をさっさと離脱させないと、結果にとらわれたままとなって、そこから新たな活動へと結びつかなくなってしまうのだろうが、それでもかまわない場合もあって、そうなってしまった人などいくらでもいて、延々とその場にとどまりながら、同じようなことを飽きもせず繰り返すようなことにもなってしまうのだろうし、そうなってしまった人にとっては、それが自然な成り行きでもあるわけだが、そういう同じことの繰り返しから抜け出てしまう人も中にはいて、その人の抜け出そうとする意志に従ってそうなることもあるだろうし、無理に抜け出そうとしなくても、自然に抜け出てしまう場合もあるわけで、そういう機会が巡ってくればいやでもそうなってしまうとしても、そこでそうなる成り行きに従うか逆らうかの選択肢などない場合もあるだろうし、何だかわからない思いがけない紆余曲折に巻き込まれてしまい、その何だかわからない紆余曲折の成り行きに対応しているうちに、ふと気づいてみればそれまでの成り行きからはかけ離れた事態となっていたりして、そうなってしまえばそこから抜け出たことを実感できるのかも知れないが、実感する余裕もなく、以前からの経緯や成り行きもその時点ではすでに忘れてしまっていたりして、相変わらず何かわからないような成り行きの中で試行錯誤を繰り返している現状があれば、何かから抜け出たり抜け出られずにとどまっていたりしていることすら意識できずに、これといって何を自覚しているわけでもない状況の中で活動している場合もあるのかも知れないし、そうなっていれば特に何を思ってみても仕方がないような心境になってしまうのではないか。


3月17日「強いられた態度」

 何かを強いられるような状況の中で人がどのような態度になるかというと、強いられていることに反発しているのが明らかな態度になれば、誰もがそのことに気づくかも知れないし、例えば国会の証人尋問などで、証言する立場の人が肝心なことは何も言わないような態度になると、何か隠しているように思われるが、中には何を強いられているのかわからない場合もあるかも知れず、そうなるとそれを強いている側から何かをやるように促されているのに、それに気づかないことになってしまうかも知れないが、国会の証人尋問などでは、尋問されている当人が尋問されていることに反発しているから、肝心なことは何も言わない態度になるというよりは、何も言わないように強いられているからそんな態度になってしまうわけで、野党側から尋問されているのであれば、政府や政府側の関係者が不利になるようなことは何も言うなと促されていれば、尋問されている政府側の官僚や政府と癒着している企業関係者などは、実際に政府が不利になるようなことは何も言わないだろうし、そういう態度になってしまうと、何か隠しているように思われてしまうわけだが、結果的に尋問に答えるように強いられているから、それに反発して何も言わないようにも見えてしまって、尋問に答えるように強いられている以前に、政府側が不利になるようなことは何も言わないようにも強いられていることに気づかないわけでもないが、肝心なことは何も言わないような態度が不快に感じられるから、証人であるのにわざと証人としての役割を果たさないような態度に見えてしまうから腹が立ってくるし、そうなってしまうこともあらかじめ予想がつくとしても、では何のための証人尋問なのかというと、証言を拒否する光景を見せるための証人尋問となってしまい、本来の証人尋問としての体をなさないようなことになってしまうわけだが、それが制度的にも慣習的にも当然のこととして受け止められているし、それがそれを見る人を不快にさせるための舞台装置でもあるわけだが、これ見よがしにそういうことがおこなわれている一方で、何か根本的なところで強いられていることがあるようにも思われて、それが何なのかというと、何かを見せるように強いられている人が世の中には大勢いて、さらにそれを見るように強いられている人もそれに輪をかけて大勢いる状況があるということであり、そこでそれを見せるように強いられた態度と見るように強いられた態度が直接結びついていれば、そうなっているのが当然のことのように思われるかも知れないが、それを無視するのも当然のことのように思われるとすれば、結果的には見ると不快になるからそれを無視するようにも強いられているわけで、実際に国会で野党が尋問するような証人尋問などは、政府や与党を支持する人たちがそれを無視するように強いるための舞台装置でもあるわけだが、意識してそうなるように仕組まれているわけではないものの、証人尋問の類いが無効になるようにあれこれと対策するような成り行きとなれば、自然とそういう方向に持って行く手順が確立されてくるわけで、最近は無視するどころが反発するようにも仕向けられて、尋問している野党を非難して攻撃する論調へと持って行こうともしているわけだが、そうやって政府と与党が盤石な体制を築いていて、それが常態化しているのが日本の現状だと言えるだろうが、それでかまわないとはまともな人は誰も思わないだろうが、それでもかまわないと思うことが狂気にとらわれているとも感じられないだろうし、政府に逆らうと不快な仕打ちを受けるのはどの国でも同じかも知れないが、不快な仕打ちを受けるどころか命を失う危険にさらされてしまう国も中にはあるだろうし、それよりは幾分マシな気にはなれるわけだろうが、幾分マシでは不満なら、だいぶマシな状況へと持って行こうとするのが、まともな人のやろうとすることになるわけだが、誰もがそういう態度を強いられるかというと、そんな態度は誰も強いられてはいない状況がもたらされていて、それどころかどのような態度を強いられているとも感じられないのに、何らかの対策が施された結果として、多くの人が何か一定の傾向になるように強いられているとすれば、それがどういう傾向なのかといえば、欲に駆られて見せるように強いられた物事を見るように強いられていることを自覚できないようにする傾向なのかも知れないし、それを見るように強いられているという意識がはぐらかされて、それを見たいから見ているように思わされる一方で、見たくないものは見るなという命令に従っている自覚もなく、またそれを見たくないと思えという命令にも従っている自覚もないだろうし、何を見たくないと思わされているのかといえば、見たいという欲望を抑え込むようなものは見たくないだろうし、何がそれを抑え込もうとしているのかと言えば、一般的には理性が欲望を抑え込もうとしているのだろうが、実態としては理性などではなく、自然の成り行きがそれを抑え込もうとしていて、欲望にブレーキをかけているわけだが、なぜブレーキをかけているのかといえば、制御が利かなくなるからブレーキをかけているのだろうが、実際に欲望の制御が利かなくなればどうなるのかといえば、過度な欲望によって破滅がもたらされるのかも知れないし、破滅しないようにするには制御できる範囲内で欲望を抑え込むしかないだろうが、見たいものを見るという欲望を抑え込む一方で、見たくないものは無視するという欲望を抑え込めるかとなると、何が見たいのか、あるいは何が見たくないのかについて、それを意識がはっきりと把握していない場合もあるだろうし、自身が見たいものや見たくないものを決めているわけでもなく、それを世間が決めているとしたら、そうした世間の意向に従っていることに無自覚となっているのかも知れず、それが世間の意向というよりはメディアの意向となっているのかも知れないが、そうやって見たいから見ていることと見たくないから無視していることを自分で決めているように実感できなければ、何かそこで違和感が伴ってくるはずだが、そんな違和感を抱く前に欲望を抱くような見たい物事が提供されている一方で、それを見るなとか見せるなという命令でレッテル貼りされた物事を無視するように仕向けられていて、それが何によってレッテル貼りされているかといえば、言葉による宣伝文句や煽動文句によってレッテル貼りされているわけで、そんな言葉が否定的な感情を伴って嫌韓とか嫌中とか左翼とか反日とかいう言葉に込められているのは誰もが知っているわけだが、それを知っていることとそれに反感を抱くことでも態度に違いが生じてくるのかも知れない。


3月16日「常識と非常識」

 常識とは何かというとそんなことは誰でもわかっているのが常識となるだろうが、たまに非常識なことをやったり言ってみたりすると、それが奇異に感じられて、常識からかけ離れた行為や言動であることがわかるはずだが、そういうことをやってみたり言ってみたりすれば、逆説的に常識が浮かび上がってくるのかも知れないが、普段は常識的な行為や言動などそれほど意識しないだろうし、そうするのが当たり前のことをやっていたり述べていれば、わざわざそれを意識する必要がなく、逆に非常識なことをすれば普段とは違うことをしているわけだから、それが非常識な行為や言動であると意識するわけで、それだけのことでしかないとしても、他人がそういうことをやったり言ったりすれば、常識に反する非常識な行為や言動だと見なして咎めるような成り行きになりやすく、それだけ常識にとらわれていて、非常識なことを許せないという感情が働いて、非常識なことをやっていたり言っているような人を非難したり攻撃してしまうわけだが、いったん非常識なことが許されてしまうと、今度はそれが新たな常識となって世の中で通用してしまう可能性も出てくるから、実際にそうなってしまえば、これまでの常識が通用しなくなってしまう可能性も出てくるわけで、そうなるとこれまでの常識にとらわれていた人の常識的な判断や行動や言動も通用しなくなってしまう恐れも出てきて、そうなってしまうと困る人は、これまでの常識に反してそれを覆すようなことはやらせないようにしたいだろうし、実際に常識に反するような行為や言動には敏感に反応して、それを非難したり攻撃することになるのだろうが、非常識なことをやった方が有利になったり得をするなら、功利的に非常識なことをやりたがるようになるだろうし、それだけ非常識なことに魅力が出てくるわけで、そんなことをやる人が多くなれば、これまでの常識を覆して非常識を新たな常識にしようとする機運が生じてくるわけだが、そうならないようにするためには、常識的なことをやっていた方が有利になったり得をする状態を保たなければならないわけで、実際にそうなっている間はこれまで通りの常識なことをやる方が優勢となるのだろうが、非常識と思われていたことが何のきっかけから脚光を浴びたり、新たなこれまでになかったような行為や言動が流行りだしてくると、そういう行為や言動と被るところでは、これまで通りの常識的な行為や言動が廃れてくる可能性も出てくるだろうし、そうやって実際に世の中の常識が覆った事例などいくらでもあるのかも知れないが、そういうところで保守的な人や勢力が何らかの行為や言動を執拗に非難したり攻撃するような状況になっているとすれば、従来からある常識が覆りつつある情勢となっているのかも知れないし、これまでの行為や言動に替わって新たな行為や言動が世の中の主流となる兆しが出てきているのかも知れないが、そういったせめぎ合いが常に世の中で起こっているとしても、中には非難や攻撃などのはっきりとした拒否反応が起こらないまま、なし崩し的に変わって行ってしまう場合もあるのかも知れず、ほとんどの人が気づかないうちに世の中の状況や情勢が一昔前とは一変してしまうようなことになれば、そういう変化が人知れず起こっていることになるのだろうが、実際に行為や言動がどうやって変わるのかといえば、これまでにないものが生じてきたり、これまでにないことが起こったりして、そんなこれまでにない新しい物事に対応したり対処するために、行為や言動も一新しなければならなくなると、実際にこれまでにない非常識な行為や言動が世の中でまかり通るようになるのだろうが、それがこれまでにまかり通ってきた常識的な行為や言動と被ったりぶつかったりするところでは、それに対する批判や非難や攻撃などの激しい拒否反応が巻き起こるわけだろうが、被ったりぶつかったりしなければ、あるいは被ったりぶつかっていることに人々が気づかなければ、割とすんなりと非常識だとも思われずに、世間に受け入れられることにもなるだろうし、そういうところで人知れず常識的な行為や言動の変化や入れ替わりが起こっている可能性もあるだろうが、誰もが気づくのが激しい拒否反応が起こっている行為や言動になるだろうし、実際に激しい拒否反応が起こっているのに、そういった行為や言動が世の中の主流となりつつあるような成り行きになっていれば、そういう行為や言動にはそれなりの魅力があり、それが功利的な魅力なのか、あるいは他にも様々な魅力があるのかは実際に個々の事例が示しているところだろうが、拒否反応が顕在化しているところでは実際に争いや戦いや競い合いが起こっているだろうし、どちらが有利が不利かを巡ってそういった出来事が起こっているわけだが、他に起こっている出来事があるかというと、普通に考えて常識通りのことがおこなわれているわけで、常識通りのことがおこなわれている限りで、誰もそれをとやかく言い立てることもしないだろうし、文句や非難などの否定的な反応も出てこないはずだが、そういうところでは文句や非難などが出てこないように、そういうことを言いたい人たちを抑圧しているのかも知れないし、実際に地位や立場の上下関係などの階層的なヒエラルキーが確立されているところでは、下位の地位や立場の人たちが上位の地位や立場の人たちに抑圧されている状況があるだろうが、そういった力関係から生じる抑圧と共に、これ見よがしな煽り立てもおこなわれていて、そういったところでは常識を誇示するような行為や言動が顕在化して、大した理由も説得力のある理屈も示されないまま、こういうところではこうするもんだと執拗に煽り立てたり、がなり立てられているようなら、それはこういうところではこうしない人たちへの脅しを伴った強要だと暗に受け取られるだろうし、こういうところでこうしない人は非国民だと言われた時期も過去にはあっただろうが、現に今でもそういうことをやっている国があるかも知れないし、そういうことをやっているように見える国を非難する人々も、自分たちが同じ立場になればそういうことをやる可能性もあるし、実際に程度や傾向の違いはあるものの、それと自覚せずに同じようなことをやっているかも知れないが、それもあからさまにやっているように感じられなければ、許容される範囲内でやっていることになるかも知れないし、実際におこなわれていることは、常識と非常識をはっきりと区別して常識を肯定して非常識を否定するような建前があるのものの、実用的な範囲内ではそうした区別を完全には取り払わないまでも、常識なのか非常識なのかよくわからないようなグレーゾーンでうまく常識と非常識を使い分けながら、その場の状況や情勢の変化に応じて、機会を捉えて時には非常識なことをやってでもうまく立ち回ろうとするだろうし、それが常識にとらわれない行動や言動になるわけだ。


3月15日「商売としての主義主張」

 世の中でまかり通っている何らかの論理に従うことによって、多くの人々の思考や行動がある一定の傾向を示していれば、そういった傾向を押し進めるような制度や慣習などもありそうで、それが一つの制度や慣習ではなく、複数の様々な傾向を伴った制度や慣習がそんな論理に従うことによって結びついて絡み合い、そんな結びつきや絡み合いの状態も世の中の特徴的な傾向を示して、そんな傾向にとらわれた人々の思考や行動が何らかの論理に従っているように感じられるなら、世の中に存在する様々な制度や慣習が一定の論理に従っているから、そういう制度や慣習にとらわれた人々の思考や行動も一定の論理に従っているように感じられるということだろうが、果たして本当にそんなことが言えるかというと、実際に世の中でまかり通っている論理が特定されないと話にならないが、それを論理と見なすことができるかどうかが疑問に思われるなら、論理でさえないかも知れないが、論理でなければ何なのかといえば、ここにないものを別の何かで間に合わせるようなことかも知れず、ここになければ他のどこにもない可能性もあり、どこにもなければ虚構になってしまって、虚構について語っていることになってしまうが、実際にないものをあるかのように見せかけているのであり、それが何なのかがわからないのかも知れず、それも特定されないと話にならないだろうが、実際に話にならないようなことを語っているのかも知れず、その全てを話の対象とすることはできないとしても、その中の否定的な部分を選び出して、それを一定の傾向を伴った話としてまとめ上げようとしているのであり、その一定の傾向というのが、何らかの論理に従っているように見せかけられた傾向でもあり、その論理が保守的な論理であり、見せかけられている傾向が右翼的な傾向でもあるのだろうが、実態として浮かび上がってくるのは、商売や商業に関係する活動であり、商売として保守的な論理や右翼的な傾向を装っているわけで、別にそれを主義主張や思想信条として信仰しているわけではなく、またそれに対立してリベラルの論理や左翼的な傾向もあるわけで、それも商売としてそう見せかけられている論理や傾向なのであり、決してそれを真に受けているわけでもないのだろうが、商売や商業としてそういうことをやっているのだから、そういう活動や行為が否定されるわけでもなく、商売であるからには何を商品として扱ってもかまわないだろうし、それが商売になるなら主義主張や思想信条も商品になるはずだが、そうであるなら国家や国家体制も商品になるかも知れないし、実際に西欧諸国が民主主義の価値を伴った国家や国家体制を他の国々に売り込んでいる一方で、中国なども中国的な国家や国家体制を他の国々に売り込んでいるかも知れないし、どちらの国家や国家体制が良いかを巡って、ミャンマーではせめぎ合いが繰り広げられているように見えるとしても、実態としてどんな商売や商業がおこなわれているかというと、従来からある普通の商品が売られていて、それが実際に買われている状況に変わりなく、国家や国家体制が商品として直接売られているわけでもなく、保守的な論理や右翼的な傾向もリベラル的な論理や左翼的な傾向も、そのものが直接商品として形作られているわけではないが、そういう論理や傾向が雰囲気や味付けとして商品に添加されているように感じられるわけで、もちろん直接添加されているわけではなく、添加されているような気にさせる宣伝や煽動があるわけだが、それに関して例えば、台湾産のパイナップルに中国が嫌がらせをして、因縁をつけて輸入禁止措置をおこなった反動として、それが日本で台湾産のパイナップルが売れる口実となったり、アメリカの工場で作られるテスラの自動車には日本のパナソニック製の電池が使われているから、好意的に受け取られるとしても、中国の工場に作られたテスラ車には中国の電池メーカーの電池が使われているから抵抗感を伴ったり、実際に電池の性能が劣っているというデマが広がったりして、中国に対する否定的な感情を煽り立てることになるのだろうが、さらにミャンマーの軍事クーデターを中国が後押ししているのではないかという疑いから、現地で中国系企業の工場が放火されたりして、そうやって国家や国家体制の違いが直接商品や商売に影響を及ぼすこともあるわけだが、そういうところで何らかの論理に従っているように見える国家や国家体制に対する否定的な感情が、人々の心に芽生えることによって、そうした否定的な感情を煽り立てて商売や商品に利用しようとする思惑も生じてくるだろうし、それがある特定の傾向を伴った書籍や雑誌などの売り文句であったり、ネットメディアやネット動画や映像などでもそうした売り文句によって視聴者を惹きつけようとする意図や思惑が生じてくるのだろうが、そういう国家や国家体制を支えているように感じられる特定の論理や、それに伴って生じてくる傾向というのが、大なり小なりどの国の国家体制にも似たような論理や傾向として現れていて、それが統治の論理であり、民衆を支配しようとする傾向なのだろうが、逆に商売や商業の論理や傾向となると、いかにして統治の裏をかいて儲けるかが商売の論理となって、それが国家の支配を逃れる傾向となるわけで、実際に脱税した資金をタックス・ヘイヴンなどに隠す行為がおこなわれるわけだが、それが国家を統治する政府と商売をおこなう企業との間で対立する論理や傾向となるにしても、一方で商売として保守的な論理や右翼的な傾向を売りにするとなると、またそれと対立を装うリベラル的な論理や左翼的な傾向にしても、同時に国家を統治する論理や民衆を支配しようとする傾向も含まれていて、そういうところで論理にほころびが生じてきて、矛盾した傾向が伴ってくるようにも思われるが、互いに相容れない矛盾した論理や傾向を併せ持っているから、それを特定の論理や一定の傾向としては捉えがたいのかも知れず、しかもそういうことを主張するとなると、特定の論理に従って一定の傾向を伴ったようなことを主張しなければならず、そういった主張では矛盾した論理や傾向を併せ持っていることを表現できないのであり、だから何か不完全で主張している論理や傾向にとって都合の良いことしか主張していないようにも思われるだろうし、もちろん主張ではその主張に反するような、主張とは矛盾していることを主張できないのは当然だろうが、実際に国家や国家体制などと癒着して商売をやっている企業などは売国奴のようなことをやらざるを得ないし、商売として保守的な論理や右翼的な傾向を利用しながら、国家や国家体制を強めようとしているはずなのに、そこで商売をやってしまうと逆に弱めてしまうわけだから、何かそこで生じている矛盾を自覚できないようなジレンマに陥っているのではないか。


3月14日「自主的な判断」

 何かその場で決断を迫られているように思われるとしたら、いったい何がそこで決断を迫っているのかというと、特定の人物が何かをやるかやらないかの決断を迫ってくればわかりやすいが、誰から決断を迫られているわけでもないのに、その場の状況として決断を迫られているような気がしてしまうと、本当に決断を迫られているのかどうか疑いたくなる場合もありそうだが、誰に頼まれたわけでもないのに自ら進んで何かをやるような成り行きになると、やるのをためらってやるべきか否かの判断がつかずに考え込んでしまい、やるのをためらっているうちに何かをやる機会を逃してしまうと、後になってあの時すぐにやっておけばと後悔するのも、よくありがちなケースとなるかも知れないが、意識して判断しなくてもかまわないような場合もいくらでもありそうだが、そうかといってそれを意識してしまえば、自ら判断した結果が良かったり悪かったりして、そんな自らの判断によって良いか悪いかの結果がもたらされたと思うしかなく、そうやって自らの判断の責任を負うことになるのかも知れないが、本当にそこで判断を迫られていたかというと、自分で勝手にそう思い込んでしまっただけかも知れないし、その場の状況が判断を迫っていると思ってしまうのこと自体が、自身の勝手な思い込みというよりは、そう思わせるような状況になってしまったとしか言えないようなことでもあり、他にどう捉えてみたところで確かなことは何もわからないかも知れないが、わかるべきなのはそんなところにはなく、具体的に何をどう判断したかについてであり、その良し悪しをわかるべきかも知れないが、それが良いか悪いかの判断をする以前に、何をどう判断したかを把握することであり、どう判断したから良いとか悪いとかは、判断した結果としての印象でしかなく、良いか悪いかではなくどう判断したかをわかるべきというと、そんなのは実際にそう判断したのだからわかっていることだと思うかも知れないが、判断した結果としての良いか悪いかの印象に惑わされて、そこで何をどう判断したかをよくわかっていない場合もあるわけで、自分で判断したことを自分が理解していないというと、そんなはずがないと思うかも知れないが、どういう経緯や成り行きで判断するに至ったかが、意外とわからないまま、その場の雰囲気に呑まれて判断してしまっている場合もあるわけで、そうなるとそこで判断するように誘導されて、何かに操られながら判断していることにもなりかねず、それが罠だとか、制度や慣習としてこういうところではこう判断するものだと決められていたりして、さらにはあらかじめその場を管理する機構などによって選択肢が用意されて、しかもそれが管理する機構などの都合を反映した選択肢であり、決められた選択肢以外は選べないような仕組みとなっていれば、その中のどれを選んでも管理する機構側の思うつぼになってしまうだろうし、そうした不利な状況下で判断を迫られていれば、そうなっている時点で何をどう判断しても自らの思い通りにはいかないというよりは、それも自らの思い通りの判断ができたと思わせるような仕組みとなっている可能性もあるだろうし、そういうところまで人為的に整えられた場であれば、その場で何かを判断するということ自体が、自主的な判断とは全く違った、もはや判断とは言えないような受動的かつなし崩し的な判断を強いられていることになるのだろうが、案外至れり尽くせりのようなうたい文句の介護サービスなどが、そういう場を提供しているかも知れないし、他にも富裕層向けの贅を尽くしたホテルのサービスなどもそういう傾向になるかも知れず、そこでユーザーが自主的に判断しているように思わせるサービスというのが、満足感を得られるのとは裏腹に、その場を管理している側の思うつぼにはまっているようなことにもなり、どちらにしてもそれなりに評判となり多額の利益が出ているようなサービスにはそういう面があるのかもしれず、結果的にはそれがユーザーにとってもサービスを提供する側にとってもウィンウィンの関係となるのだろうが、全てにおいてそれでかまわないのかというと、どちらにとってもかまわないだろうが、それのどこかにしわ寄せが及んでいると見るなら、サービスを提供する側で下請的な立場を強いられている業者や従業員などにしわ寄せが及んでいる可能性があるかも知れないし、そうなっている実態を実際によく調査してみないことには何とも言えないが、一方的に快適を提供するサービスというのが、それと釣り合うような苦痛をどこかに与えていたりして、大した根拠も証拠もなしにそんなふうに穿った見方をすること自体が勘違いのなせる業かも知れないが、そういうところでも結果的に快適か不快かという印象にとらわれてしまうと、そうした結果をもたらしたように思われる判断のところで、自身がその場の状況をどれほど理解していたのかが怪しくなってくるのかも知れず、そこで快適か不快かの判断を下すことよりも、快適に思われたり不快に感じられたりする対象が何によってもたらされているのかを把握することが重要なのかも知れないが、それがわかりづらいところでもあるだろうし、快適に感じるから良くて不快に感じるから悪いと思ってしまうのは仕方がないとしても、その場では快適に感じるとしても、そこから離れたらそうではない場合もあるだろうし、観光地の路地裏で胸くそ悪い光景を目にした時などが、そういう感覚に襲われる時かも知れないが、そこで見栄えの良さを保つために人為的に無理なことがおこなわれているようにも思われて、それは派手な広告看板の裏側がどうなっているかを想像してみてもわかることかも知れないが、果たしてそういうところまで考慮に入れて人為的な物事を把握することが良いことなのか悪いことなのかということよりも、いやでも目にしてしまうような光景に敏感に反応する感性が養われてしまうことが、そうした快適を提供するサービスの興隆などから、作用反作用として生じてくるということであり、そうした物事に疑念や違和感を抱くということが、特に優れた感性の持ち主である証しというわけでもなく、むしろそんなことには鈍感であってもかまわないわけで、快適なサービスを提供されて満足していられるならそれでかまわないだろうし、またそうしたサービスに違和感を抱いて、重箱の隅をつつくように事細かな不満や文句を並べ立てるのも、よくありがちな反応かも知れないが、そこでわかるべきことをわかっていないと、誰に頼まれたわけでもないのに自主的に何かを判断するゲームに参加しているつもりになってしまうのかも知れず、そうなるとそう判断するように仕向けるために人為的な操作をやっている機構などの餌食となってしまうわけだ。


3月13日「理屈の限界」

 世の中には特に求めているわけではなくても簡単に手に入ってしまうものがある一方で、求めているのになかなか手に入らないものもあるが、なぜそうなってしまうのかといえば簡単に手に入るものがありふれていて、なかなか手に入らないものであれば希少であったりするからだろうが、それが商品であれば簡単に手に入るものは価格が安く、なかなか手に入らないものは価格が高いという事情もあるだろうし、確かにそういう理屈ではありふれているものは価格が安いから簡単に手に入り、希少なものは価格が高くて簡単には手に入らないということになるが、物事の全てにおいてそうだとも言い切れないし、ありふれていても価格が高くて簡単には手に入らないものもあるだろうし、逆に価格が高くても金持ちであれば簡単に手に入るものもあるだろうし、また商品ではなく、価格などなくてもありふれていたり希少であったりするものもあるだろうし、さらに手に入れるようなものではなく、誰も求めないものもいくらでもありそうだが、求めているつもりはなくても自然と手に入ってしまうものもあるだろうし、他にもいろいろなケースを挙げてゆけばきりがなくなってしまうだろうが、理屈というのは様々な条件や但し書きなどの前提があって成り立つのものであり、それがないととりとめがなくなって理屈ではなくなってしまい、一概にこうだとは言えなくなるのが理屈の難点や欠点であるかも知れないが、条件や但し書きなどにしても勝手にこうだとは決められない事情もあるだろうし、こうであればこうだと自分で決めたところで相手がそれを認めてくれない場合もあるし、こうであることがそれほど切実にこうだとは思えない場合には、こうでなくてもかまわないことになってしまい、こうであるという条件を満たさなくてもかまわなければ、そんなことが考慮されるわけもなく、そういうところでいくら確からしい理屈を並べたところで、それを真に受けてもらえなければ意味のないことになってしまうだろうが、それでも何かしら理屈がないと話にならない場合もあるから、世の中に存在している物事やそこで起こっている現象について語るには、それなりに確からしくもっともらしい理屈を持ち出さないと何も語れないだろうし、そういう理屈が成り立つ前提条件を誰もが共有しているわけではなくても、共有していると仮定した上で語るしかないわけだが、語っているうちに確からしいことが確からしくなくなってきて、もっともらしかったことが疑わしく思われてくるようなら、理屈を成り立たせていた前提条件が語っているうちに崩れてきて、それを信じられなくなってきたからかも知れないが、そうやって信じていた理屈が信じられなくなってくる過程の中で、理屈を当てはめて語ろうとしていた物事や現象の、今までの理屈が通用しない新たな面が浮かび上がってくるなら、物事や現象の理解がそれだけ深まったことになるのかも知れないし、単純な理屈では割り切れない面があることが、その物事や現象が他の物事や現象との間で複雑な相互作用や影響を及ぼし合いながら、そこに存在していたり現象として起こっていることをうかがわせるのだろうが、そうだとしても理屈の全てを捨ててしまうわけにはいかず、少なくともそこで何かを語っている状態を成り立たせるための最低条件として、言語の使用に伴って生じる文法的な理屈に基づいて語るしかなく、その上で物事がそこに存在していたり現象が起こりうる前提条件も考慮に入れるしかないし、その際にはわざと気に入らない理屈を無効化しようとして、理屈が成り立たなくなるような条件を求めようとすることもあるかも知れないが、そうなればその理屈が成り立たなくなる条件が別の理屈が成り立つ条件となるかも知れないし、気に入らない理屈を打ち破るために別の理屈を持ち出すことになり、そうやって自身が信じられるような理屈を求めて、理屈にとらわれながらもっともらしく語ろうとしてしまうわけだが、それが全て駄目だというわけでもないし、大抵はそれでかまわないのだろうが、それだけではないとも言えるだろうし、それ以上の何かが語るには必要だと思えば、それを模索することになるだろうが、それを模索することも模索するのに必要な理屈に基づいて模索することになれば、そんな理屈に依存している状態から抜け出せなくなってしまうだろうし、どうあがいても理屈につきまとわれてしまうのであれば、無理に理屈に依存している状態から抜け出そうとしなくてもかまわないはずだが、単純に理屈を否定するために情念や感情を持ち出して、それを肯定するのにも無自覚に肯定するための理屈が持ち出されたりして、それが漢意を表す漢字と日本人の心の表現であるひらがなの違いだとかの日本語論が流行った時期もあったわけで、その延長上で和魂洋才とかいう造語までもてはやされて、日本人という存在の自意識過剰に拍車がかかった時期もあり、そういう理屈のバリエーションでアイデンティティーを追求するようなことも未だにおこなわれているかも知れないが、そんな理屈からどれほど遠く隔たっていようと、その種の理屈にもそれなりの限界があり、どうやっても理屈では打ち破れない何かに意識や思考がつきまとわれていて、それがもっともらしく思われる語りや主張や意見に対する抵抗感や違和感になってしまうのかも知れず、たぶん絶えず疑念につきまとわれていないと不安になってきてしまい、うまい話には裏があるとか、信じられる理屈には必ず欠陥や欠点や矛盾が含まれているとか、そんな意識でいると、とりあえずうまい話には裏があることを語っている人を信用してしまうだろうし、また欠陥や欠点や矛盾などが明らかに含まれている意見や主張の方が逆説的にもっともらしく思われてしまうわけで、そういう範囲内で限界があることを承知で語るしかなく、そうやって何らかの理屈に基づいて語るとすれば、その理屈が有効となったり無効となる条件についても語らざるを得なくなるのかも知れず、しかも有効であるとしても、絶えずそれを無効化しようとする作用にさらされながらも、かろうじて有効に思われることもある程度の認識となり、主張にそういう内容が含まれていれば、もっともらしく思われてしまうのだが、どのような条件下であっても常に有効な理屈などないと思ってしまうのも当然だが、理屈が有効な条件設定に関しても、主張者の都合が反映されているだけであれば、何かご都合主義のようにも思われてしまうし、主張者の都合が悪いところや欠陥や欠点が露呈している面にも言及されていないと、都合の良いことばかり宣伝する広告の類いとしか思えなくなってしまうわけだ。


3月12日「自然の力」

 やっていることの何が正しくて何が間違っているかがわかるのは、何かをやった結果がうまくいったかいかなかったかでわかるはずだが、それがわからなくなると、何が正しくて何が間違っていたかもわからなくなってしまうだろうが、その時点ではうまくいったと思われたことが、さらに後になるとうまくいかなくなる原因となってしまうこともあるだろうし、そういう成り行きまで考慮に入れるなら、その時点ではうまくいくことにはあまりこだわらない方がいい場合もありそうで、確かに結果が全てだと思われるような状況も中にはあるだろうが、結果的にうまくいこうがいくまいが、そこに至る過程の中であまりにも無理を押し通して、強引なことをやってしまうと、たとえ良い結果を得られたとしても、その結果を得るために払った代償も高くつくこともあるだろうし、多くの犠牲を出した末に満足のいく結果を得られることと、大した代償も払わずにそれなりの結果を得られることの、どちらが良いとか悪いとか比較できるような状況もあったりなかったりするかも知れないが、それも結果的にそうなってみないことには何とも言えないところでもあり、実際に高い代償を払ったり多くの犠牲を出してしまった時点で、やっていることがそれなりに間違っていると捉えておいた方がいいのかも知れないが、実際にそうならざるを得ないようなことがおこなわれていれば、たとえそれが正しかろうと間違っていようと、そんなことを言う状況にはなっていないだろうし、それが取り返しのつかない事態となっているとしたら、もうその時点で後戻りが利かなくなっているはずだが、そうなっているところに介入して、漁夫の利を得ようとして別の勢力が現れる場合もあり、そこで何がおこなわれていようと、それがうまくいってもいかなくても、誰もがそこでおこなわれていることの犠牲者になるのは御免だろうが、なりたくなくても巻き込まれてしまえばどうしようもないわけで、そういう観点からそこでおこなわれていることを捉えるなら、そこでおこなわれていることの主導権を握っている人や勢力からすれば、高い代償を払って多くの犠牲者を出しても、自分たちが主導権を握っている限りでやっていることがうまくいっていると思われるだろうし、その一方でそこでおこなわれていることの犠牲になってしまった人たちからすれば、それがうまくいこうがいくまいが、自分たちが犠牲者であることには変わりないわけだから、どちらにしてもひどい目に遭っているわけで、そんな行為の犠牲になってしまった人たちからすれば、それがどのようなことであっても、やっていることが間違っていると思うしかないだろうが、そこでおこなわれていることの主導権を握っている人たちからすれば、やっていることがうまくいっているように装うには、まずはそういった犠牲者を黙らせなければならないだろうし、犠牲者の声や不平不満が外へ漏れ出ないようにシャットアウトしようとするのだろうが、そういったことも含めてそこでおこなわれていることになり、すでにそうなっている時点で無理を押し通して強引に事態を制御しようとしていて、そういうことをやり始めると後戻りが利かなくなって、取り返しのつかない事態を招いてしまうのだろうが、そうなることがその場の自然な成り行きであれば、それをうまくいっているとかいかなくなっているとか判断する必要もないことかも知れず、その場に関与している誰もがどうすることもできない成り行きになっているなら、その場で主導権を握って状況や情勢をコントロールしているつもりの人や勢力であっても、そういう成り行きをどうすることもできずに、なるようにしかならない結果に至っていると判断してもかまわないだろうし、人為的な力を超えて状況や情勢が動いていれば、そこで働いているのは自然の力になるだろうが、そんな自然の力に身をまかせているつもりは誰にもなく、自分の意志や集団の意向に従っているつもりであっても、そういった個人の意志や集団の意向が絡み合って錯綜している中では、それらが結びついたりぶつかりながら、もとの意志や意向が変形を被って、その力の強さや方向も合わさったり相殺されたりするから、そういった現象が自然現象だと言えるだろうし、そうなるのが自然の力だといってもかまわないが、そんな力によって当事者としてそこにかかわっている人々の意向や期待がはぐらかされたりねじ曲げられてしまうのかも知れず、しかも結果的にそうなってしまうことが自然に思われると同時に理不尽にも思われるのだろうが、何か当てが外れたように感じられるとしたら、結果的にうまくいかずに失敗したようにも思われて、やってきたことが間違っていたと判断するしかないかも知れないが、さらにそこから時が経ってその時点を振り返ってみれば、そうなるのが必然だったと判断してもかまわないようなことにもなるのかも知れないし、それが自然な成り行きに思われてくれば、その時点では間違っていたと判断したところで、そんな判断はどうでもよくなってしまうわけだが、実際に多くの犠牲者や多大な損害を出しながら、そんな取り返しのつかない過ちや誤りを性懲りもなく繰り返して今に至っていることなどいくらでもあるだろうが、結果的にはそうなるのが必然的な成り行きであっても、そこに人為的な介入や介在があったことなどもいくらでもあるだろうし、そういう意味でも人為的な行為が自然の力によって変形を被りながらも、結果的には必然的な経過を辿って自然な成り行きに逢着してしまい、そこにかかわっている人や勢力にはどうすることもできない結果がもたらされてしまうだろうが、それが誰の思惑通りだとも言えないとしても、誰かの思惑を疑い出すときりがないわけで、そうなると裏で誰かが特定の勢力を操って、情勢をコントロールしているとか言い始めるわけだが、実際にそんなことをやっている人物や勢力が存在するとしても、それだけでは説明のつかない傾向や成り行きや結果がもたらされていれば、それを人為的な方面からどう説明して解釈しても話に無理があるように思われるだろうし、そういうのは自然の力が作用してそうなってしまうとしか言えないことになるだろうが、それでも人がそれを説明して解釈して判断して評価するわけだから、そこに介在している人為的な力を話の中心に据えないわけにはいかなくなるだろうし、人為的な力や作用が状況に介在して物事がどうにかなって、結果的にそこで人為的におこなわれたことがうまくいったりいかなかったりしたという話にしてしまうわけで、そうなるとあの時どうすればよかったとか、どういうことをやったからやっていることがうまくいかなくなってしまったとか、たらればの話を延々と蒸し返して繰り返すこともできるわけだが、そういうフィクションが人為的な力への幻想や過信などをもたらして、実際には自然の力の前ではどうすることもできなかったという事実を忘れさせてしまうわけだ。


3月11日「役割分担の限界」

 思考や行動がその場の成り行きにとらわれていれば、その場の成り行きに応じて思考しながら行動しているはずだが、そうなっているからといってそれ以外の場では人それぞれに思いや考えや行いや動きが異なってくるだろうから、その場ではその場の成り行きにとらわれているからといって、そこから離れれば同じように思考して行動するわけでもないはずだが、その場で役割分担が生じていれば、各々の役割に応じた思考や行動になるかも知れないし、これこれこういう役割になるとこういう意図や思惑が生じて、その役割に応じた行いや動きが生じてくることも確かであり、そういう役割や役職上生じてくることと役割や役職を離れて思うことや考えることや振る舞うことは異なるかも知れないが、そこから離れてもその場での役割や役職などから影響を被って、その延長上で思考したり行動してしまうこともあるかも知れず、実際に何らかの役割や役職を長年にわたって務めていれば、役割や役職を通じて身につけた立ち振る舞いが身体に染みついている可能性があり、そういう面でそこから離れて物事を思考することも行動することもできなくなって、その場の役割や役職に応じた人格や性格や身体的な特徴を有した人間となっている可能性があるかも知れず、また試験や競争などを経て、そうした役割や役職に適した人材がその役割を担ったり役職に就く場合もあるだろうが、そうなると誰もがその役割や役職になれるわけでもなく、その役割や役職に適した人材がその役割を担い役職に就くことになり、その役割を担おうとしたり役職に就こうとするには、訓練や学習によって役割や役職に合うような思考や行動や立ち振る舞いを習得する必要があるとしたら、意識して役割や役職に合うように立ち振る舞い、それを演じることができればそれらしく見えるようになるのだろうが、訓練や学習によって役割や役職に合う思考や動作を身につけることと、そういった役割や役職を離れて物事を考えることや、役割や役職とは別に行動することは違うはずだが、果たして役割や役職を離れて物事を考える必要があるのかというと、中には何も考えていない人もいるかも知れないし、役割や役職を離れたら何も考える必要がなければ、実際に何も考えないだろうし、また役割や役職とは別に行動することがあるとすれば、それは私的な行動になるだろうが、私的な行動とは何かというと普段の日常生活の中でおこなっていることになるだろうし、それが取り立ててどうしたわけでもないかも知れないが、それらの間に境界線を設けて区別できるかとなると、区別できなくなると公私混同となり、公私混同を当然のこととして、そんな成り行きに身をまかせて、役割や役職から生じた権限や権力を私的に行使してしまうと、贈収賄的な談合関係になってしまうのだろうが、逆に普段の日常生活の延長上で物事を考えて、その延長上で行動したければ、普通に考えて惨めな思いやいやな思いやみっともない真似をしてまで、役割や役職を全うしたくないと思うはずだが、それに関して人が嫌がることを率先してやるような役割を担ったり役職に就いていると、場合によっては人から蔑まれたり嘲笑されるようなことをやっているのだから、それに見合ったり釣り合うような代価や見返りがほしいと思うはずで、有名な例では豊臣秀吉が織田信長の付き人だった頃、主君の草履を懐で温めていたというエピソードがあるが、それが事実か作り話かはどちらでもかまわないし、その時から天下人になるという野望を抱いていたかどうかもどちらでもかまわないが、結果から振り返れば、天下人になるには尋常なことをやっていてはなれないという話に持って行く上で、そういうエピソードが欠かせない成り行きになるのだろうが、身分制の社会では下位の者が上位の者に対して滅私奉公するのが当たり前の感性になっているだろうし、現代が身分制の社会かどうかは人によって意見の分かれるところかも知れないが、建前としての民主主義を尊重するなら、身分や地位や立場や役割や役職に関係なく平等であるのが大前提となっているはずで、その延長上で考えるなら、人が嫌がるようなことを率先しておこなうような役割や役職はできるだけなくしてゆきたいと思うだろうし、実際にそうなればいいのだろうが、現実にはそうはなっていないし、そこから人が嫌がるようなことをやるのだから、その見返りを求めるような成り行きが生じてくるだろうし、そういうところから民主主義の建前が崩れてくるわけで、自身が他の人たちと比べて不利な立場を強いられていたり不快な仕打ちを受けているといった感情が募ってくれば、誰もが平等という民主主義を信じられなくなってくるだろうし、それとは別にその役割を担うためにその役職に就くために人一倍努力して苦労したのだから、その努力や苦労に見合う対価がほしいとも思うだろうし、その対価というのがその役割や役職に伴って生じる権限や権力であれば、それが自身の努力や苦労の対価として獲得した権限や権力だと思うわけで、それを自分のために使うのは当然だと思うだろうし、さらにそこに至るまでの過程で滅私奉公のようなことを上位の立場の者たちから強いられていれば、不快でいやことをやらされてきたのだから、それによって苦痛を受けた分に釣り合うだけの満足を得られる何かがほしくなるわけで、そうなると自分のために権限や権力を行使したくなるだろうし、そこで誰もが平等という民主主義の大前提と、官僚制などの身分や地位の上下関係からくる不平等がかみ合わなくなってくるわけだが、結局何が民主主義を阻んでいるのかといえば、社会的な役割分担に伴って身分や地位に上下関係が生じていることになるわけだが、そういった上下関係がないと官僚制が成り立たないのかというと、身分や地位の上下関係をなくそうとする努力の進展に伴って、現状の官僚制が変質を被って、別の官僚制へと移行するかも知れないし、それによって特定の役割や役職に権限や権力が集中しないような仕組みや制度も構築されてくるかも知れないが、現状ではそうなってきているとも、そうなる成り行きや傾向があるとも言えないだろうが、そういうところで世界的に民主主義の理念が実現しているとは言えない状況だとしても、何がそれを阻んでいるかはわかっているだろうし、わかっていればそれを改善する努力も生じてくるかも知れないが、その一方で大変な努力や苦労の末にそれに見合うような権限や権力を伴った身分や地位を手に入れた人もそれなりにいるだろうし、そういう人たちにとっては現状のままの方が都合が良いと思うのも当然のことだが、そういう人たちが実際に権限や権力を握っていれば、そうなるのは難しいはずだが、必ずしもそういう人の思い通りになっているわけでもないのかも知れない。


3月10日「知識を得ること」

 人はメディアを通じて世界で起こっている様々な出来事を見せられて知らされているのだが、それらの出来事が起こる理由の全てがわかっているわけでもないのは当然だろうが、出来事に興味を惹かれれば、なぜそんなことが起こるのか、その理由や原因を知りたいと思うのも当然かも知れないし、知りたいことを教えてくれるのもメディアとなる場合も多いだろうし、知ろうとしていることをメディアが教えてくれるから、それを知って満足する場合もあれば、満足できない場合はさらに真相を調べようとするかも知れないし、大抵はネットで検索して調べようとするだろうが、それもメディアから知ろうとしているわけで、そういったメディアに依存して得られる知識によって何がわかるかというと、世界で起こっている様々な出来事がどのようにしてどうやって起こっているのか、その理由や原因や仕組みや過程などがわかるはずだが、それを知って何になるとは一概には言えないし、それに関する知識を得ても何になるわけでもない場合もあるだろうが、人がメディアを通じて知識を得ることが何をもたらしていのるかと言っても、とりとめのない問いにしかならず、満足できる答えがすぐに見つかるわけでもなく、せいぜいが人々の意識がメディアを通じて一つになろうとしているといった幻想を抱けるかも知れないし、他にもメディアを通じて共通の価値観を構築しようとしているとか、その価値観こそが民主主義の価値観であり、世界を民主主義の価値のもとに統一させることがメディアの使命だといった誇大妄想の類いを抱くとすれば、頭がおかしいのではないかと思われるかも知れないが、そうではなく多種多様なことがメディアを通じて伝えられていて、その中には誰もが肯定する共通の価値観とは異なる価値観も含まれているだろうし、さらにはメディアが守るべき公正中立な姿勢からは大きく逸脱した意図や思惑を連想させる主張が伝えられることもあるだろうが、それらをどう受け取るかは個々の人々の判断にまかされているとしても、自然と多くの人々が支持したり賛同するような主張や意見が多く伝えられることになるだろうし、また人々が知りたいことを伝えるのがメディアの使命だと一般的にも思われているはずだが、逆に多くの人々が支持や賛同を拒むような主張や意見が伝えられたり、人々が知りたくないようなことも伝えられるかというと、それも普通に伝えられるだろうし、どちらにしても喜怒哀楽の感情を刺激して煽り立てるような物事であれば、多くの人々の興味を惹くだろうし、メディアがそういった物事を広く世間に伝えることによって人々の感情が刺激されて、肯定的あるいは否定的な振れ幅が増幅されるのだろうが、逆にメディアが伝えないような物事があるかというと、伝える必要のない物事が世界にはそれなりにありそうだが、それは人々が興味を持たない物事になるだろうし、それも伝え方によっては興味を惹く物事になるかも知れないし、多くの人々が興味を惹くようになる伝え方というのもありそうだが、それに関してすぐに思いつくのが、他と比較して差異を際立たせるような伝え方が強調や誇張や煽動となるだろうし、どんなにつまらない物事であっても、そうやって差異を際立たせれば多くの人々が興味を持つようになるかといえば、中にはそういう物事もありそうだが、どんなにやっても誰も興味を持たないような物事もあるかも知れないし、そういう物事がメディアが伝えない物事であり、伝える必要のない物事になるかも知れないが、結果的にそうなるのであり、実際にそうなるまでは、そんなことは誰にもわからないのかも知れず、ただ単純に誰かが興味を持ったことを他の人たちに伝えようとする行為からメディア的な機能や機構が発展していったと考えるなら、どのような物事であってもその存在や動きを認識できれば、誰かが何かしら興味を持つ可能性があって、その人が興味を持てば、それを他の人たちにも伝えようとするのが自然の成り行きとなるのかも知れず、中には自分だけの秘密として隠しておきたい心理が働くかも知れないが、それもその人が秘密を保持していることを周りの人にほのめかすような気持ちになることもあるだろうし、暗号文や地図などで宝の在処を示して、それを探すように促したり、そうやって他人の意識を刺激したがるだろうが、そうなると自らが何か価値のある物事を持っていることを他人に知らせたいのであり、それを知った他人がその人が価値のある物事を持っていることを認めてほしいということになるだろうが、メディアにもそういう思惑があると考えるなら、メディア側でも自分たちが価値のある物事を伝えていることを多くの人々に認めてもらいたいから、多くの人々が知りたいことをメディアが伝えようとしていると言えるだろうし、そんな単純な思いから現状のメディアが成り立っているわけでもないのは誰もが承知していることだろうが、基本的なところではそういう思惑からメディアが構成されていると捉えておいてもかまわないような思考の水準もあるだろうし、それほど大げさで陰謀論的な思考から考えないのであれば、多くの人々が興味を持っていることを多くの人々が知りたいからそれをメディアが伝えようとしていて、従来のマスメディアではそれで済んでいたのを、SNSなどではそれほど多くの人々が知りたいわけでもないが、それなりの数の人々が知りたい物事を知らせることでも、メディアの機能としては十分に成り立つことが証明されたわけだろうし、そうやってメディアから知識を得ることが何を意味するかという問いではなく、メディアから知識を得ることによってメディアに依存してしまう人々がどうなってしまうかという問いに対してどう答えればいいかとなると、どのようにも答えられるかも知れないし、それと同時に答えようのないことかも知れないが、少なくとも多くの人々がメディアからもたらされる共通の価値観を受け入れていることになるだろうが、果たしてそれが共通の価値観なのかというと、実際に人々の間で対立や分断などが起こっているとすれば、それは共通の価値観などではなく、互いに競合する異なる複数の価値観の間で対立や競争や戦争などが起こっているように思われるが、それらをまとめて対立と競争の価値観と考えれば、人や団体などが対立して戦ったり競争することに意味や意義があるという価値観が共有されていることになるかも知れず、そういうことが現状のメディアを通じて人々に伝えられていて、そうなるとメディアから知識を得ることは、対立したり戦ったり競争するための知識を得ることになりそうだが、もちろんそれだけではなく、中にはそれとは正反対の知識もあるのだろうが、それをどう捉えるかは各人の判断にまかされているだろうし、どう捉えるにしても人々が知りたいことを伝えるというメディアの姿勢は一貫しているのではないか。


3月9日「理解できない行動」

 自分が自分では理解できないことをおこなっていれば、何かおかしいと思うかも知れないが、その場の流れや成り行きに身をまかせれば、理解するよりは流れや成り行きに沿った行動をとることが優先されて、結果的に考えるより先に動くことになり、自らの行動の理由を考えたり理解しようとすることが後回しとなってしまいそうだが、はっきりとそうすべきと思うわけでもなくても、何か理由は定かでないが、その時点や場面ではそうした方が身のためだと感じるようなその場の雰囲気や空気を察知できれば、そこで立ち止まってそうする理由を考えたり理解しようとするよりは、黙ってその場の流れや成り行きに従ってしまうのがありがちな対応となるだろうし、そうなってもかすかに疑念を抱いていて、そうすることに納得しているわけでもないし、なぜそうなってしまうのか理解できなければ安心もできないだろうが、それよりは無意識に何かを察知しているような気がすれば、その場の状況にもよるが、あまり深く考えずに自らの勘を頼りにして、まずは動いてしまうのだろうが、その結果としてたとえうまくいかなくても、うまくいかない結果と引き換えにして、致命的な事態は避けられたようにも思われるかも知れず、そうなる確証はないだろうが、そこで躊躇して行動をためらっていたら、とんでもないことになっていたのではないかと勝手に最悪の事態を想像してしまったり、意識には知り得ない何かが起こる兆しがあったから、それを無意識に察知して、身体がそれに反応して考えるよりも先に行動が促されたのではないかと推測すれば、少しは納得できるような気がするのだろうが、それも推測の域を出ないことだから確証は得られないものの、そこで何かおかしいと思ったことの理由としては妥当なようにも思われて、そういうことだと自らに言い聞かせて、そのことに関してはそこで一段落つけておくような対処法もあるのかも知れず、そうやって自分では理解できないようなことを自分でやってしまったことに納得できれば、完全に納得しているわけでもないだろうが、暫定的な措置としてそういうことにしておいて、ひとまずその場を収めて、それで何とかなっているような気になれるだろうし、そんな気になっているだけでも、自らが理解できない行動にも肯定的な感触を得られるだろうが、それで全てがうまく行くわけでもなく、できれば自らが理解して納得できるような行動によってうまくいくような結果も得たいだろうし、そちらの行動の方が行動の中で大きな割合を占めてほしいのだろうが、そういう意味では非常手段として意識の理解を超えた行動に頼ることもあるかも知れないし、そう年がら年中非常手段を使うわけにもいかないとしても、いざという時のためにそういった奥の手を取っておきたいわけで、そういう思惑を抱きながらそう振る舞っているわけではなくても、その場の情勢や成り行きに従って行動を促される際には、自然とそうなってしまうのかも知れず、何か考える以前に反射神経が働いて、そうなってしまうと言える時もあるだろうが、それも条件反射として機械的にそうなる場合もあるものの、そうではない場合もあり、一概に条件反射の類いとして単純化できない面もあるだろうし、例えば普段から捉えている物事の面とは違う面を不意に捉えてしまうと、そうした物事の捉え方がそれまでの理解の範疇ではうまく形容したり表現できなくなってしまい、それに伴って自分では理解できない動作が発動するとか、そこで理解の範疇を逸脱して何かをやろうとするのだろうが、それもその場の状況や情勢が人にそうした行動や動作を促していると言えるかも知れず、その人だけで独自にそんなことをやろうとするのではなく、そうやってその場の状況や情勢に関与したり介入しようとする時にそうなるのだろうが、意識してそうするのではなく、場合によっては意識を置き去りにしながらそうしようとするのかも知れず、それがその人にとっての非常事態であれば、何とか苦境や難局を切り抜けるためにそうしようとしていて、周囲の人たちもその場が苦境や難局であることを意識できれば、苦境や難局を切り抜けるためにそうしているという理由を理解できるだろうが、本人も周囲の人たちも何でもないように思われる普通の状況や情勢の時に、理解できないような動作が起こると、何か気が狂ったのではないかと思われる時もありそうで、そういうところがおかしく思われるのかも知れないが、それがこれから起ころうとする出来事の予兆を察知した動作であったりすると、その時点ではおかしな動作だと思うかも知れないが、実際に何らかの出来事が起こってから振り返ってみると、なるほどあの時点での理解できない動作がその後に起こる出来事の予兆を察知した動作だったのかと納得できるかも知れないが、それがそんなに大げさな出来事でなければ、それを思い当たるようなこともなく、ただ何かおかしな動作が突発的に起こったにすぎないこともなってしまうのかも知れず、そう簡単に理由がわかるようなことでもない場合もあるだろうが、予兆を察知したからおかしな動作が誘発されるとも限らず、何か別の出来事に伴った動作かも知れないし、全ての動作を一つの理由に結びつけるわけにもいかないのは当然だが、少なくとも通常は自らの行動や動作を理解しているつもりになっているだろうし、そのつもりで意識して行動するように心がけたりして、こういう時にはこうしなければならないとか、こうした方がいいとも思っているはずだが、いざそうなってみるとそれができなかったり、しかもその代わりに思いがけないことをやってしまって、事前に思い描いていた理想的な動作や行動が何もできないどころか、そんな思いを台無しにしてしまうようなことをやってしまって、自ら苦境を招いてしまうようなことが起こってしまえば、どう見ても大失態を演じてしまったことになるだろうが、果たしてそんな結果を正当化することができるかとなると、それが神が与えた試練だと思う程度では済まないかも知れないが、それも何かの途中経過の中で起こる紆余曲折にすぎないとも思われてしまうなら、その後の結果からうまくその時の状況を説明できるという確信があるかも知れないし、確信ではなくそうなることを期待しているのかも知れないが、そういった自身の都合が成就することを願い続けながら生きていくことになるのかも知れず、その場では確かに理解できないが、そこから時が経ってみればその時の理解できない行動や動作を理解できるようになることを期待してしまうわけで、それが自身には理解できない自らの行動や動作からもたらされた希望でもあるわけだ。


3月8日「言行不一致の活用」

 言行が一致していることと言行不一致となってしまうことのどちらがいいかと言えば、言行が一致している方がいいに決まっているだろうが、単純に言行を一致させることができるかというと、あらゆる面においてそうはできないものの、言っていることとおこなっていることの不一致を他から指摘されたくないから、できるだけ言行を一致させたいとは思うだろうし、それができないような状況に追い込まれてしまえば、それを隠そうとしたりごまかそうとするかも知れないが、中には権力や腕力や暴力にものを言わせて、強引に言行不一致なやり方を押し通そうとする場合もあるだろうし、そういうことがおこなわれている状況の中では、その場の力関係において弱い立場や境遇の人たちが不利益を被って悲惨な目に遭ってしまうかも知れないが、言うだけなら簡単に言えることの方が多いとしても、自らが何らかの行動を伴うようなことを言うとなると、言った通りに行動するには、その行動に関係してきたり関与してくる自分以外の他の物事や人や団体などの存在があれば、そこからその人の一存ではどうすることもできない事情も生じてくるだろうし、そんな存在や事情がその人の言った通りの行動を阻んでしまう場合も出てくるわけで、それがその人の言行不一致をもたらしてしまうなら、その人の力を超えてしまう事情となるわけだが、そうであるなら始めからできもしないことを言うなとなってしまうが、ほら吹きでない限りは自らができそうなことを言うのが普通の心理状態でもあるわけで、ほら吹きであっても自分がこんなに凄いことをやったんだとほらを吹く場合もあって、それが本当に凄いことかと首をかしげるようなことであれば、ほらを吹いていることになるのだろうが、ほら吹きにとっては言行が一致しているわけだからそんなほらを吹くわけで、それが首をかしげるようなことであれば、ほら吹きをほら吹きだと思っている人にとっては、ほら吹きの言行が一致しているとは思わないだろうし、当人は自らの言行が一致していると思っていても、その人をほら吹きだと思っている人にとってはそうではないことになるわけで、そんなふうに自分では言行が一致していると思っているのに、他人はそうは思わない場合もあって、そういうところで自らの意図や思惑が他人に通用していないと、そこから勘違いや思い違いが生じてくるのだろうが、普通の言行不一致はそういうことではなく、当人も自らの言行不一致がわかっているのに、それを認めようとせずに、ごり押し気味に言行不一致なことをやり続けようとしてしまって、それが周囲との間で不和や軋轢を生む場合もあるだろうし、また意図的かつ戦略的に自分がやりたくないことを他人にやらせることによって利益を得ようとして、他人に向かっては自己犠牲的な行為を求めておいて、その裏で自己保身に汲々としていたりして、そういう面ではほら吹きとは違ってずるく卑怯なことをやって、それもずるく卑怯なことをやっているのを隠そうとしたりごまかそうとして、なかなか自身ではやっていることを認めようとしないだろうが、それが建前と本音の使い分けでもあり、また商取引の根本原理でもあるだろうし、他人には安く売るように求めておいてから自分では高く売ったり、他人には高く買うように求めておいてから自分では安く買ったり、それが他人から安く買ってそれを別の他人に高く売りつけたり、他人に高く売って別の他人から安く買ったりすることに結びつけば、結果的に利益を得られるわけだから、それが高じると騙し合いやごまかしになるのは当然だろうが、そういう応酬をどこまで認められるかが、その手の商取引の許容限度ともなり、それがあまりにもひどいと詐欺になってしまい、詐欺すれすれの商売をやればやるほど、ハイリスクハイリターンとなり、それによって一攫千金を得る可能性が高くなる反面で、命や財産を失う危険に身をさらすことにもなりかねないだろうが、ある程度はそれを認めないと、最終的な手段として権力や腕力や暴力にものを言わせる行為が勝ってしまうわけで、そういった武力などを使って他から欲しいものを強奪するような行為を抑え込むには、次善の策として騙し合いやごまかし合いの商取引の限度を定めて、そういう行為を限度内で許容していくしかなく、それが現代の世界的な傾向でもあり、そこからそういった商取引でさえも認めないようなことにでもなれば、真の意味での等価交換か無償の贈与しか可能ではなくなってしまうかも知れないが、それが共産主義の理想だとしても、それと引き換えにして違反や不正を取り締まる警察などの治安機関による常時監視がつきものになったり、暴動を抑え込むために軍隊が街中に配置されるような状況となってしまうと、息苦しい世の中になってしまうだろうし、人目につかないように街中に超小型の監視カメラでも設置するのが現代の技術的な傾向としてはあり得る未来像だろうが、そういう盗聴社会や盗撮社会となってくるのも、建前と本音の使い分けであったり他人を出し抜くための方策であったりと、口先では人を信用するそぶりを見せておきながら、その裏ではこっそり疑っているような傾向の表れとも言えるだろうから、そういう意味で言行不一致の延長上で起こっていることかも知れず、どうやっても人為的に世の中を制御するような試みには、騙し合いやごまかし合いの要素が入ってきてしまい、それがないと現行で成り立っている世の中が回っていかないだろうし、妥協策としてそういう面をある程度認めながら、直接の暴力をできるだけ控えるような成り行きになってしまうのだろうし、そういう体面を保てない地域では武装勢力同士の内戦になったり、軍事クーデターが頻発したりする泥沼状態となってしまうだろうが、その一方で騙し合いやごまかし合いの商取引が盛んな地域では、人々が直接の暴力よりはそちらの方に魅力を感じるから、その手の商取引が盛んになってくるわけだろうが、それも他の地域との兼ね合いや相互作用や影響の及ぼし合いもあることだから、一概に世界全体として一様にそういう傾向になるとは言えないところもあるのだろうが、それに関して中国などの傾向を見ると、なし崩し的な自壊作用を押しとどめるために統治機関が四苦八苦している状況があるのかも知れず、体制を維持するために暴力的な措置をおこなうほど、直接的にそれへの反発が起こることもあるだろうが、それに対して直接的に反抗や反乱の類いを抑え込もうとするのとは別の面から、体制側でも推進せざるを得ない商取引の方面から、何か制御しきれないような傾向が出てくるのかも知れないし、それは他の国々でも制御し切れていない傾向でもあるのではないか。


3月7日「知ることの意味」

 何をやるにもそこに至るまでの過程において、それをやる理由をはっきりと自覚できるかというと、ただ何となくそうなってしまうことについては、特に理由があるわけでもないような気がしてしまうわけだが、理由を求めているわけではなければそれでもかまわないのだろうが、後からそうなってしまった理由を知りたくなってくる場合もありそうで、なぜそんなことをやってしまったのか、その理由を知りたくなってしまう要因としては、それが思いがけないことであったりして、疑問を抱くようなことをやってしまえば、疑問の答えとして理由を知りたくなってしまうだろうが、その時点では理由がわからないから、わからないことの答えとして理由を探ろうとするわけだが、すぐにわかってしまうような理由なら大したことはないように思われるものの、いくら考えてもわからないようなことなら、何かそれが自分にとって重要なことであるかのように思われて、余計に理由を知りたくなってしまうかも知れないが、それが思いがけないことであるから驚くと共に印象に残って、なぜそんなことが起こってしまうのかその理由を知りたくなって、理由を知って納得して安心したいだろうし、その理由を知ることも自身にとって重要なことであるかのように思われるのだろうが、わかっていることでも重要なことがあるだろうし、また大して重要でもないのに知りたいこともありそうだが、理由を知ることが重要なのではないかと思うこともあるし、それを知ってしまえば大して重要でもなかったとがっかりすることもありそうだが、知ろうとしているのだからそれが自身にとって重要なことなのではないかと思ってしまい、そんな期待が知った後に裏切られてしまう場合もあるだろうが、そうであれば自身にとって知ろうとする対象があることが重要だと思われるのかも知れず、それを知ろうとすることが目的となり、何か興味を惹く対象があって、なぜ興味を惹くのかその理由が知りたくなり、それを知ろうとすることも目的となるのだろうが、それが探究心であるにしても、一つの物事にいつまでもこだわってはいられなくなり、ある時期には重要だと思われていたことがいつの間にか重要ではなくなったり、それを知ることが目的だったのが、いったん知ってしまえばそれが大したことでもなければ目的ではなくなったり、いくら知ろうとしても知り得なければ、次第に興味や関心が薄れていってしまう場合もあり、そうなれば目的も物事へのこだわりや重要性も時の経過や場所の移動に伴って変わってくるのだろうが、さらにそれに伴って立場や境遇も変わってくるだろうし、それらの理由を知ることの意味も変わってくるのかも知れないが、理由もなくそうなってしまうとは思えないものの、知ろうとしても知り得ない場合もあるだろうし、また知り得た理由も納得しがたいものであれば不満が残るし、理由を知ろうとする試みがうまくいくとも限らないわけだが、そうなればもしかしたら理由を知ることがそれほど重要ではないのかも知れないという疑問も湧いてくるかも知れず、また理由の探究がうまくいかなければ探究をもたらした物事の重要性にも疑問を感じてしまうのかも知れないが、それほど重要だとは思われなくても知りたいことはあるだろうし、重要でないのにそんなことにこだわる必要もないのかも知れないが、必要もないのにこだわってしまい、何か無駄に手間暇をかけて労力や資金や資源などを浪費しているような印象を伴うかも知れないが、それでもやり続けている限りで、何かを知ろうとすることが無意味なことだとは思えないだろうし、それが何か自らの将来につながるのではないかと期待させるようなことであれば、普通はそれが自らにとって重要なことだと思うだろうが、たとえ重要だとは思われなくてもそれをやるのに手間暇をかけることができるかとなると、興味を惹かれるからそれにこだわってしまうのだろうし、それが徒労に終わるとは思えないのであり、さらには徒労に終わってもかまわないから、今はそれをやるしかないと自らに言い聞かせながらやっているような状況もあるかも知れないが、そうやって絶えず思い悩みながら、自らのやっていることに疑念や疑問を抱きながらも、そういうことをやらざるを得ない状況に自らを追い込みながらそれをやっているようなことになってしまうと、どうしてもそれをやることが重要だと思われてくるのだろうが、そうではないようなやり方があるかとなると、ただ何となくそれをやっているようなことになってしまうのかも知れず、それをやるに当たって大げさな義務感や使命感などとは無縁なことができれば、軽い気持ちでほんの片手間でやっていることになるのかも知れないが、本当にそうかというと、やっているうちにそうでもなくなってくれば、そうなる過程において次第に重要性が増していったり、また逆に当初は重要だと思ってやっていたことが、やっていくうちに次第に重要とは思われなくなってきたりして、それをやる理由も次第に薄れていくようなことにでもなれば、やっていく過程においてやっていることの重要度を消費したことにもなるだろうし、それを消費する分にはやっていること自体に意味や意義や重要性などもあったことにもなるのかも知れず、そういうことまで考慮するなら、単に意味があったりなかったりすることよりも、意味があればその意味を消費する過程において意味をすり減らすようなことが起こっている可能性もあるわけで、意味のある物事を消費して、その意味が無意味になるまでに至れば、何かそんな意味を消費することが意義のあることのようにも思われてくるかも知れず、そうであればその意味を消費する時期においてはその対象となる物事が重要だと思われていて、それを消費し尽くしてしまうとその人にとってそれが重要ではなくなってしまい、もうその時点では用がなく要らない物事になってしまい、そんな物事なしでも普通に生きていけるようになってしまえば、そうなった時点で重要ではなく、意味があるわけでもない物事になってしまうのだろうが、そういう物事に関して身近な例を挙げれば、子供用のおもちゃや絵本などになるだろうが、結構大人になってもそういう物事があるかも知れないし、それが知ることの意味であったりする場合もあれば、意味などなくてもあるとは思えなくても何かを知ろうとしてもかまわないような時期が誰にでも訪れるわけでもないだろうが、人によっては何事にもこだわらなくても生きて行けたり、その必要のない心境や立場や境遇になれることもあるのかも知れないが、人によってはそれが良いことであったり悪いことであったりする場合もあるだろうが、いったんそんな心境や立場や境遇になってしまえば、その良し悪しなどにもこだわらずに生きていけるのかも知れない。


3月6日「避けられない事態」

 避けて通ろうとすれば避けられるかも知れないが、避けられないような気がするようなものとして何があるかというと、すぐには何も思い浮かべられないが、たぶんその中にはあえて語りたくないようなものも含まれていて、語りたくないのだから語らなければいいと思うかも知れないが、それを語ろうとしてしまうと、それが避けたいのに避けられないことになるだろうが、そうなるとそれはものではなくことになってしまうわけだが、ものやことを物事としてひとくくりにしてしまうと、何かものとことを区別しなくてもかまわないように思われて、少し大雑把で粗雑な印象を伴ってしまい、あえてものとことを区別して厳密に語ることを避けているようにも思われて、それもそういう語り方を避けたいのに避けられない成り行きになってしまうことが、何かそれがうまくそれについて語れないことの表れのような気がして、そんな成り行きにとらわれながら何かを語ることになってしまうわけだが、今さら何を語るといっても、この世界で進行中のことについて語ろうとして語れないような事態となりそうで、なぜ語れないのかというよりは、語るのを避けようとしてしまい、そうなることを避けたいのに避けられない成り行きになってしまうとしても、どうしても避けようとしながら、結局それについて語ってしまうことがあるとしたら、やはりそれは政治的な出来事や現象について語ることになるだろうし、人が集団としての利害を優先させようとすれば、思想や信条の方面と政治や経済の方面を一致させようとして、結果的におかしなことをやり始めてしまうのだろうが、それが避けられない事態だとしても、避けようとする事態でもあるだろうが、避けられない事態だとして、それをそのまま押し通してしまうから、おかしなことになっているわけだが、そのまま押し通さずに避けようとすれば、思想信条と政治経済を分離しなければならなくなるだろうが、そうなると思想信条によって政治経済を制御することができなくなってしまうから、そんなことをやろうとする集団が困ってしまうわけだが、そうした特定の思想信条によって政治経済を制御しようとする試みが、例えばそれが宗教であればキリスト教やイスラム教などの宗派や教団などがやっていることになるだろうし、日本でいえばそれが神道や仏教系の宗派や教団がやっていることにもなり、さらに中国では国家主義や共産主義や民族主義などが入り混じっていることにもなるだろうが、実際にそうなっているのにそれに気づきにくいというか、例えばドイツの政権政党の名称がキリスト教民主同盟であるのに、そこにちゃんとキリスト教という宗教の名称が含まれているとしても、別にドイツがキリスト教を主体とする宗教国家だとは誰も思わないだろうが、それがイランになるとイスラム教シーア派の教権国家であるような印象を伴ってしまうわけだが、アメリカのトランプ政権を支えていたのがキリスト教右派であったことも有名だろうし、日本でも陰謀論的な方面では神道系の日本会議が日本の政治を支配しようとしていると思われていたり、公明党が実質的には仏教系の創価学会の政党であったり、日本共産党がその名の通りに共産主義の政党であったりして、それを言うならもちろん自民党も自由主義と民主主義の政党であるはずだが、果たして政治経済から主義主張や思想信条を分離できるかというと、そもそも分離する必要があるのかというと、少なくとも欧米や日本などでは主義主張や思想信条が形骸化して無害化されて、次第に権威や影響力を失いつつあるのに対して、中国やイランなどでは未だに真理として生きていて、なぜ活性化しているのかといえば、中国では敵としてウイグルのイスラム教徒やチベットの仏教徒や他にも様々な少数民族もいるから、それと国家主義や共産主義や漢族的な中華思想などが対立して敵対することによって活性化するわけで、またイランではシーア派とスンニ派との間のイスラム教内の宗派間対立によって活性化しているともいえるだろうし、敵を見つけて敵と見なした勢力と対立することによって主義主張や思想信条が活性化するわけだが、それは程度や傾向が違うが経済の分野でも、例えばEVを推進するテスラ教信者がEVの推進に積極的でない日本の自動車メーカーを批判する際にも引き継がれているし、また政治の分野でも積極財政と緊縮財政を新たな政治的な対立の争点として取り上げようとする思惑にも表れているし、何とかして対立を煽り立てて、自分たちの勢力が信奉する主義主張や思想信条を政治経済の制御に使おうとするわけだが、さらには現在のローマ教皇ともなると、対立とは逆の融和を目指してイラクのイスラム教シーア派の最高権威と会談したりして、対立を煽り立てる勢力と対立するようなことをやろうとして、複雑で込み入った事態を醸し出しているわけだが、そうやって対立するにしても融和するにしても、他との差異を強調して自らの勢力の優位な点を際立たせて煽り立てる手法自体が商品宣伝の手法だともいえるだろうし、別にそれが悪いことだとはいえないが、優位な点もあるがそうともいえない点もあることが示されているかというと、そういった点を強調したいのだから、敵対する側が隠そうとするまずい点や悪い点を暴き立てることはあっても、自分たちのまずい点や悪い点を積極的に暴き立てようとはしないだろうし、そういう点ではローマ教皇などは抜かりなく自浄努力を怠っていないこともアピールするだろうし、中国当局なども腐敗防止キャンペーンなどによって悪い点を改めようとしていることを宣伝するだろうが、根本的なところで自分たちのやっていることを否定するわけにはいかないし、自分たちを卑下するようなことはしたくないはずだが、それをやれというのではなく、主張していることや主張に従って行動していることが形骸化して無力化されるような事態には逆らわなければならないところが、そういう主義主張や思想信条を推進する側にとっては避けられない事態となるだろうし、その逆らわなければならない避けられない事態というのが政治的な民主化によってもたらされるとしたら、断固として民主化を阻止しなければならないわけだが、すでに民主化されている国々でも特定の勢力や党派が民主化に逆行して自分たちの権力や権限を強めようとするわけで、そういった権力や権限を強めようとする上で利用可能に思われるのが、特定の宗教や宗派の権威であったり、国家主義や民族主義などの集団の感情に訴えかけるような主義主張となるのではないか。


3月5日「とっさの判断」

 とっさの判断をしようとした時に迷いが生じると、とっさの判断ができないことにもなるのだが、そんな一瞬の躊躇が判断の遅れにつながり、手遅れになってしまうこともありそうだが、手遅れになってしまってもどうということはない場合もあり、大抵は判断が遅れて後悔することになるものの、そんな後悔の印象が記憶として強く残ってしまうから、それが教訓となって何事にもとっさに判断するようになってしまうわけだが、さらにその後から結果的には判断が遅れてもそれでかまわなかったと安堵することも結構あって、その時は確かにとっさの判断で機転を利かせてうまく対応したように思われても、後から考えればその場で判断してもしなくてもどちらでもかまわなかったようにも思われて、結果的にはとっさの判断で機転を利かせたつもりになって何かをやったことが、そんな判断をはぐらかすような結果を招いたとも考えられて、よく考えてみればこちらが何かやれば、当然それに対して何らかの反応が返ってきて、それによってこちらの対応が相殺されてしまう場合もあるかも知れず、そうであればその場で判断してもしなくてもどちらでもかまわなかったというよりは、その場で判断して機転を利かせて何かやった結果がもたらされたわけで、しかも機転を利かせてうまくやったことを相殺して無効にするような反応が返ってきたことになり、そんなことをやってくる相手がいれば、そういうことをやってきたことがはっきりとわかるだろうが、相手がいるようには思われないことをやっていてもそうなることがあるのかも知れず、こちらが何をやっても何かスポンジで吸い取られるようにして、何事もなかったかのような結果がもたらされて困惑してしまうわけだが、一度そんなことを経験するととっさの判断時に迷いが生じてしまうわけで、迷いが生じてしまうとそれだけ判断が遅れて、結果的に手遅れを招いた印象が強く残って、そんな失敗を二度と繰り返さないためにも、できるだけ素早く判断して素早く対応するように心がければ、今度はそれが浅はかな早合点となって、お粗末な対応をしてしまい、結果的に失敗することにもなってしまうわけだろうが、そうなるととっさの判断で機転を利かせてうまくやったとは思われず、さらにより一層判断に迷いが生じてしまうことにもなり、どちらにしてもうまくいったりいかなかったりすることがあり、その場で正しい判断を下すことの難しさを痛感させられるのかも知れないが、そうはいっても結果的にうまくいけば正しい判断で、うまくいかなければ誤った判断だと思われるわけだから、判断して何かをやった結果に正誤の印象が左右されてしまい、何かをやればどんな反応が返ってくるかも予想できたりできなかったりする中で、そうした判断に予想や予測も含まれてくれば、それだけ不確実な要素や要因も伴ってきて、事前に正しいか間違っているかがわからない判断を迫られる場合も出てくるだろうし、判断を迫られるような状況の中で判断しないとまずいなら判断せざるを得なくなって、結果がうまくいってもいかなくても、そこで判断してその判断に従ったことをやるしか他に選択肢がなければ、たとえうまくいかなくてもそこで判断して何かやるしかなくなって、そんなことをやった結果を受け入れざるを得なくなって、誰に強制されたわけでもないのに自ら進んでそんな成り行きに巻き込まれてしまうと、他にやりようがないことをやらされているような感じになってしまうわけだが、そういう状況の中でとっさの判断ができたりできなかったりすることに何か意味があるのかといっても、それだけでは何ともいえないことにもなってしまうだろうが、何かをやった結果が出たと見なされるような時点で、それをどう判断してみても、その後にもさらにやることがあれば、それをやろうとするだろうし、そうであるなら結果を得られて、それがうまくいったりいかなかったと判断した後においても、まだ何かをやる余地が残されていれば、それをやればいいわけだから、そんなことをやっている時点で、結果が途中経過でしかなくなって、たとえその時にはうまくいかなくても、まだ挽回のチャンスがあることにもなり、そんなチャンスを生かして挽回しようとすればいいわけだが、そういう成り行きも含めてその人が生きている限りで絶えず何かをやる機会が巡ってくるのであり、そんな機会を掴むにはとっさの判断が必要となったりならなかったりして、それをとっさに判断すればいい時も、早合点しないで熟慮しなければならない場合もあり、さらにとっさに判断しながらよく考えてみることも並行しておこないながら、それらを効果的に組み合わせることも必要になってくる場合もあるかも知れず、そういう可能性まで含めれば、その場でできることやそれと共にできることや、その後からできそうなことやそれ以前からやってきたことも考慮できれば、それなりにやっていることに厚みが生じてくるはずだが、それでも結果的にはうまくいったりいかなかったりして、様々な方面から肯定的あるいは否定的な判断や評価が下されるかも知れないが、自身でも結果をうまくいったとかいかなかったとか判断しているわけだが、安易にそういう判断をするなということではなく、判断をした後も油断しているとその判断が覆るようなことが起こるにしても、どこからか肯定的あるいは否定的な作用を及ぼされて自らの判断が覆されたとしても、そうした作用や影響に対応しなければならなくなったり、あるいは無視してもかまわない場合もあるかも知れないが、さらにそこから何かをやるような成り行きになっていけば、そうしたことも考慮に入れながら活動することになるだろうし、そういう時にとっさの判断が必要となっても、判断してそれで終わりとはならず、その判断が生きるように行動しなければならないだろうし、判断を生かすようなことをやる必要が出てくれば、それをやることが何らかの結果が出てからおこなうことにもなり、単に判断が正しかったり間違っているだけでは不十分であり、判断が正しいと思われるように持って行く努力が必要となってくるのだろうが、そんな努力にも努力した結果がうまくいけば正しい努力をしたように思われるし、うまくいかなければ努力の仕方が間違っていたとも足りなかったとも思われてしまうだろうが、そうした努力を生かすようなこともやる成り行きになれば、さらに後からそれをやることになるのではないか。


3月4日「精神の危機」

 誰もがそうなりやすいわけではないとしても、実際に身の回りの状況や自身のおかれた境遇や心理状態によってはそうなりやすく、それでも簡単にはそうはならず、簡単にそうなってしまったらまずいだろうし、誰もがそうなってしまうことを恐れているのだろうが、恐れているからそれを避けようとしていて、何とかしてそうならないように、必死になってそうなろうとしてしまう誘惑を払い除けようとしているのかも知れないが、別にそれが病への誘惑というわけでもないのだろうが、すでにそう思っている時点でそうなっているのかも知れず、そう思うだけでもそんな精神状態となっている可能性もありそうだが、なぜそうなってしまうのかといえば、そんな境遇へ追い込まれたらそうならないはずがないと思ってしまうわけではないとしても、それが漠然とした問いや疑問に対する答えであるはずがないことは承知しておきながら、そこから正しい答えへと至りたいわけでもなく、そんな問答を繰り返しているうちにそうとしかいえないような心理状態になってしまい、それが鬱状態の怖いところかも知れず、怖いといっても体験談を話すほど深刻な精神状態になったわけでもなく、それを深刻な鬱状態とは思っていないわけで、逆に鬱でも何でもないと思いたいのかも知れないし、ちょっとした心配事があって少し気が滅入っているだけかも知れないが、それを軽い鬱だと見なしておけば、その程度のことで済ましてしまいたくなるわけだが、深刻な状態でないことが気休めになるわけでもなく、実際に不眠症の類いになれば、誰もが鬱だと自覚するのだろうが、全く眠れないわけでもなければ、軽い鬱だと思うわけだが、軽いとはどの程度なのかに関して、安易に他人と比較できるようなことでもないだろうし、たぶん軽度の鬱だと思っておけば、気休め程度の安心感を得られると共に、それが重症化しなければいいと思いながらも、どうすればいいかといっても、すぐには妙案など思いつかないだろうが、現状では特に身体に変調をきたしているわけでもなければ、その程度に収まっていると認識するしかないだろうし、実際に病院などで鬱だと診断された人から見れば、そんなのは鬱でも何でもないと思われるかも知れないが、何でもないようなことなのに、病は気からと言われる程度で、実際にそうなっていると思い込んでしまうわけで、そう思い込んでしまうというよりは思い込もうとしてしまい、自分は鬱なんだと思っておけば、それによって救われるわけでもなくても、原因がはっきりとわかったような気になれるかも知れず、それもなれる気がするだけで、本当のところは病かどうかもよくわかっていないわけだが、救われるとは救われた気になることでもあり、本当に救われたわけでもないところが、幻想にすぎないのかも知れないが、救われたような幻想を抱くことが、何によって救われたのかといえば、鬱になることによって救われたことになるのだとすれば、何かそれでは本末転倒なように思われるかも知れないが、当初は何だかわからなかったことが、たとえそれが病気だったとしても、少しわかっただけでも救いだと感じられるのかも知れず、そんな救いこそが何か別の罠にかかっていることになるわけでもないはずだが、たぶん罠にかかっていて、罠にかかっていると思い込むことによっても、それ相応の幻想や妄想などを抱けるかも知れないが、精神的に自身がどうなっているといっても、それが現実の状態や状況を反映していれば、何か精神の危機が自らの危機でもあり、さらにそれが自らが信奉している思想信条の危機でもあるかのように思われるなら、だんだん事が大げさにエスカレートしていくような感覚を得られるかも知れないが、それが思想信条などではなく、実際の暮らしている経済状態であることの方が深刻な実感を得られるだろうし、思想信条の危機と経済の危機を同一視したり重ね合わせるわけにはいかないだろうが、実際に経済の危機が思想信条の危機を招いているようにも思われるし、経済の危機によって世の中が混乱すれば、思想信条にも危機が訪れるかのように思ってしまうのかも知れないが、どちらがどうだというわけでもなく、危機ではない時に危機感を抱いているわけでもないだろうが、いつでも危機なのかも知れないし、いつでも精神的に追い込まれていて、身も心もすり減らしながらもかろうじてそんな状況や状態に耐えているような実感があるのかも知れないが、そんな状況や状態とはどんな状況や状態なのかといえば、こんな状況や状態であり、それが現状でもあるわけで、かろうじて現状を維持しているように感じられても、維持できなければどんな状況や状態となるのかといえば、実際にそうなってみてから現状を実感するわけで、この現状とその現状が多少は異なっているとしても、現状であることには変わりなく、相変わらず現状の中でかろうじて自らの状況や状態を維持しているように感じられるだろうし、自身にとっては身の回りの状況や状態がどうなっていようと、自分さえ良ければそれでかまわないとは思わないだろうが、自分さえ良くないのに周囲も良くないと思うわけでもなく、それよりは自分よりはだいぶ良く見える他人の立場や境遇を羨ましくも妬ましくも思っている場合もあるだろうし、そこから憎悪や嫌悪の感情が生じるとしても、そこから世界情勢への否定的な思い込みへと一気に飛躍するわけでもなく、こんなひどい世の中を何とかしなければならないとも思わないはずだが、世界情勢やひどい世の中のついでに自らの立場や境遇があるわけではなく、それとこれとは別のことだと思いたいのでもなく、ただ単に次元や水準の異なる領域で感じる異なる実感が意識の中で重なり合っていて、それぞれの実感が絡み合っているとも思えないのに、実際に絡み合っているような感触もあり、自分のことは自分のこととしてどうにかしたいのだろうが、そんな状態とは無関係に世界情勢やひどい世の中の状態があると思ってしまうと、そうでもないような成り行きが待ち構えているかも知れないし、それとこれとが地続きでつながっていることを、何かの機会に実感させられるような事態となり、驚いてそれを否定しにかかっても、その場で起こっている事態が否定できない事実を示しているようにも思われて、焦ってしまうのかも知れず、普段は別にそれほどひどい世の中だとは思っていないのに、そうではないとその場の事態がひどい世の中の真実を物語っているように思われてしまい、お前の方が騙されているのだと語りかけられているように思われるなら何か頭がおかしくなっているのかも知れないが、そういうところで世間一般で語られていることとは違う何かが、そこに穿たれている亀裂の隙間から垣間見られるような感触を得られるのかも知れない。


3月3日「自己犠牲と自助努力」

 自らの意思や意志や意向に反して行動できるかというと、現に行動してしまい、後からそれに気づいて、しまったと思うことも結構あるかも知れないが、理由はわからないが、なぜかそうなってしまい、なぜそうなってしまうのかといえば、結果的に自分ではなく他の誰かを助けようとしている場合もあるだろうし、そうではない場合もありそうだが、本当のところはよくわかっていないわけで、何だかわからないが、見ず知らずの他人を利するようなことをやってしまえば、その分、自分が損したようにも思われて、しまったと思ってしまうのだが、それと同時に油断していたと思ったり、他人に付け入る隙を与えてしまったと思うこともあるかも知れず、本当のところはよくわかっていないが、そう思うことで納得しようとしているのだろうが、完全には納得できず、何か理由が別のところにあるのではないかという疑いが心の片隅に残ってしまい、それが大したことだとは思わないものの、疑問を抱いたままになってしまうこともあるかも知れないが、他人を利すればそれが回り回って、いつかは自分に返ってくるという理屈を信じてみたい気になることも、たまにはありそうだが、自分には返ってこないで、他の他人のところで止まってしまう可能性も捨てきれないだろうし、特に理由などなく、その場の流れでそうなってしまうとしかいえないような行動も言動もありそうで、いちいちそれが自分のためとか他人のためとか区別できないような状況もあるだろうし、結果的に自分が助からずに他人を助けてしまうようなこともあるかも知れないが、偶然にそうなってしまっただけかも知れず、そこから利他的な精神とか助け合いの心とかの美談の類いを持ち出すのは気持ち悪いような気がするなら、偶然にそうなってしまったで片付けておけば済むことかも知れないが、逆にそういう気持ち悪さを嫌って、ひたすら自助努力や利己心ばかり強調するのも単純すぎるように思われるなら、そこまで意識が回らず、何から何まで全てを意識によって制御できるわけではないと思うしかないだろうが、中には自己犠牲だとか意識して他人を助けようとすることもあるものの、それもいつでもどこでもそれ一辺倒になれるわけでもなく、その場の状況に応じてそうなることもならないこともあり、同じ状況になれば同じ行動がとれるとも限らず、何かの偶然が作用してそうなってしまうようなこともある一方で、それを気まぐれな行動と見なせることも、日頃の心がけが功を奏して適切に行動することができた思われることもあり、自分も他人も助からなければ、誰のために行動したとしてもそれが失敗してしまったことになるのだろうが、少なくとも他人の行為や行動よりは自分の行為や行動の方が把握しやすいものの、その全てを意識が把握しているわけでもないのも確かであり、中には理由なき反抗とか理由に結びつかないような行動や言動などもありそうで、それが何らかの刺激に対する反応だとしても、反応を起こす刺激を意識できない場合もあり、何かに意識や身体が反応して行動や言動を促しているのだろうが、刺激を与える作用が一つではなく、複数の作用が混じり合っていて、それも一定の方向からもたらされているわけでもなく、その程度や傾向も同じ程度や傾向でなければ、それらを総体としてどう捉えようとしても、一つの方向や程度や傾向としては捉えられないわけで、そうなると一つの行動や言動をもたらす理由や原因が複数あることにもなるだろうし、さらにはそれが一つの行動や言動として出力されるわけではなく、複数の行動や言動となって出力される場合もありそうで、そうなっている可能性があるのに、何か一つの原因や理由だと決めつけて、こうだからこうなったと意識が解釈してしまうと、粗雑でお粗末な実態の把握となってしまうのだが、いったんそれが確からしいと思うとそれを信じ込もうとしてしまい、何とかそういうことだと決めつけて安心しようとしてしまうから、そこから勘違いも生じてくるのだろうが、原因や理由が決まらないと不安になってくるから、とりあえずこうだと決めた原因や理由を信じてしまうのも仕方がないとしても、後からそうではないと気づくこともあったりなかったりして、後からそれに気づいたとしても、信じていたことが完全に間違っていたと決めつけてしまうのも、何かそういう決めつけが間違っている可能性も捨てきれなければ、曖昧な態度に終始するしかないが、こうだと決めつけた後も事態や状況の推移があって、そういった推移にも影響を受けて、そう判断を下した心理状態が揺れ動いてしまうわけで、状況によってはこうだと決めつけて、信念を頑なに貫き通すことによって事態を乗り切ってしまうようなこともあるにしても、どういう場合がそうなのかとは一概にはいえないし、結果的にそうなればそういうことだと見なすしかないが、結果的にそうならなければそんな信念が単なる勘違いな思い込みにすぎなかったことになってしまうだけに、そういうところで一か八かの賭けという大げさなことでもないが、信念が正しかったのか間違っていたのかを結果が知らせてくれるような成り行きにもなってきて、そんな賭けに何度も勝って成功するような成り行きもあるのかも知れないが、大抵は用心深く判断を保留できる限りで保留しながらその場の情勢を見極めようとして、完全には見極められないとしても、情勢の推移に応じた行動や言動をおこなおうとするだろうし、そうなるとそれが正しいか間違っているかよりも、結果的にうまくいきそうなことをやろうとするわけで、その際にうまくいきそうであれば間違っていたとしてもかまわないとかいうことでもなく、できれば正しいことをおこないたいのだろうが、それが正しいかどうかを結果が示してくれないこともあるだろうし、その結果というのもいつ結果が出るとも限らず、結果だと見なしたことが途中経過である可能性もあり、何をもって結果だと見なすのかも判断の分かれるところとなると、それほど結果ばかりにこだわるわけでも行かなくなり、そうかといって途中の成り行きばかりにこだわってしまっても、自身に都合のいい結果を得られなければがっかりするだろうし、そういう意味では何かをこうだと決めつけて断言ばかり繰り返す人も含んだその場の情勢を絶えず見ながら、注意深く状況を的確に判断していくしかないわけだが、それで全てがうまくいくことなどあり得ないとしても、自らがそう思っている最善の努力をしていけばいいのかも知れないが、それもそうかも知れないのであり、そうだと断言してもかまわないが、そんな断言が裏切られることもあり、自分で自身の断言を裏切るようなことをやってしまって唖然とすることも結構あるのではないか。


3月2日「民主主義の価値」

 何か特定の人物でないとできないことがあると、それがその人物の強みになるはずだが、そのできることによって周囲の人たちや所属している団体などに利益をもたらせれば、その人物がそこで欠かせない人材となるのだろうが、その人物のできることが何の利益も価値ももたらせないようだと、周囲の人たちにとっても所属している団体などにとっても特に必要のない人材となってしまうだろうし、また特定の人物でないとできないことというのが、その人物だけでなく他の人たちにもできることになれば、特にその人物に頼る必要がなくなり、その方が都合が良ければ、その人物にしかできないように思われることを、他の人たちもできるようにしようとする成り行きになるだろうし、そうなれば特定の人物にしかできないことをなくそうとする努力が、教育や学習などの場でおこなわれることになるだろうが、その一方で誰にでもできるようなことは価値が低いし、実際にそうなると特定の人物や団体が利益を独占することができなくなってしまうはずだが、一般的に言って民主化とは、特定の人物や団体や勢力などに頼らなくても、誰でも政治に参加できるようにすることだが、そうなってしまうとまずい人物や団体や勢力が政治の民主化を阻むことになるだろうし、そういう人物や団体や勢力が政治を独占している国では民主化が阻まれていることになるが、その独占の程度や中身や傾向によっては、表向きは民主化されているように見えても、実態はそうでなかったり、逆に民主化されていなくても政治に民意が反映されている国もあるのかも知れないが、政治の場が民主化されても、経済の場では相変わらず利益を独占するために様々な企業が争っている実態があるだろうし、また政治の場でも特定の政党が議会の議席を独占しようとしているし、政権を担える政党を特定の政党に限定しようともしているし、そのために政府の官僚機構と癒着して談合体制を築いている国もあるわけだが、そういうことをやっている人たちにとっては民主化とは価値の低いことではあるが、建前上は装わなければならないことでもあり、民衆からの支持や賛同を得るには民主主義の体裁を取り繕う必要があるわけだが、民衆の側でも民度が低いとそんなことには無頓着となってしまうだろうし、経済的な利益を優先することしか眼中になければ、民主主義を軽んじて、企業的な競争を追求してしまうわけで、それだけで社会が成り立っているわけではないことは承知していても、自身や自身が属している勢力の都合を優先せざるを得ない成り行きになってしまい、そうやって特定の勢力の一員としてその人の活動が限定されてくるのだろうが、それが公私混同を招くのかも知れないが、制度的にもシステムの面でも公私混同を避けられないような傾向があるかも知れないし、そういうところで自分たちの勢力の都合だけを優先させるのには限界や制約があると認識すればいいのだろうが、そういう認識にも至れないから限界や制約を超えて自分たちの利益を追求してしまうわけで、そうなれば必然的に自分たちの勢力にとって都合の悪いことを主張する人物や勢力を排除することになるだろうし、そうやっても民意を気にして建前上は民主主義の体裁を取り繕うなら、見かけ上は民主主義が機能しているように装いながらも、公的な制度やシステムを形骸化させて、官民の省庁や企業やメディアなどと共に大政翼賛的な談合体制へと持って行こうとするわけで、それが日本の現状だとしても、別に個々の人たちが思い思いにそういう傾向を意識しているわけではないだろうし、自分や自分たちの勢力の利益を追求していけば自然とそうなってしまうわけで、意図的にそういう傾向へと持って行こうとしているわけではなく、自然の成り行きにまかせて活動すればそうなってしまうようなことかも知れないが、そんなことをやっている当事者たちにもそういう自覚はないだろうし、それほど当事者意識のない一般の人たちもそれをはっきりと良くないことだと思っているわけでもなく、なし崩し的にそうなってしまうような傾向には抗えず、抗おうとする意識もないのかも知れないし、抗えないならそういう成り行きにまかせていればいいのだろうし、そういう成り行きに誰もが身をまかせているのかも知れないが、そんな世の中の流れや傾向に逆らって、何か民主主義が価値のあることで必死に守らなければならないと説いたところで、誰も真に受けるわけでもないのかも知れず、何よりもそういうことを説く権威というのが廃れていて、現状でも誰もが権威主義に染まっている反面で、ほんの些細なくだらないことでも権威者面して偉そうなことを物申す人など、今や誰もいないような世の中となっているとしても、何か大げさで特別な肩書きを持った人の意見には耳を傾ける傾向も装っていて、装っているだけで実際には何も聞いていないわけだが、その代わりに自分にとっても世間にとっても都合の良いことを言ってくれる人に親近感を抱いているのだろうし、そういうところも形骸化していて、建前上はその種の権威の言うことを尊重するそぶりを見せながらも、実際には都合の悪いことには聞く耳を持たず、その辺がややこしくも込み入っているのかも知れないが、それもそんな世の中の流れや傾向を反映した成り行きの一部であり、そういうことは形骸化させた上で、誰かの陰謀や企みよって世界が大変なことになっていると思いたがったり、どこかに世界情勢を影で操っている黒幕や大物や秘密の組織があると思いたがったりするわけでもないだろうが、単純にそうであれば、そういった黒幕や大物や秘密の組織の実態を暴いてやっつければそれで済んでしまうかも知れないが、実態がそうではないのは誰もが承知していることだとしても、それでも面白がって、その手の話を喜んで拝聴してしまうだろうし、そこでも建前上は深刻ぶって、その手の陰謀論に騙されるなと主張したがったり、そういうところまでも意識が形骸化した演技と化しているかも知れず、そうやってなし崩し的な傾向を自然に受け入れている一方で、あからさまに政治的な弾圧をおこなうような民主化を阻んでいる国々にはそれなりの敵意を抱いているだろうし、そういう意味ではその実態がどうであれ、建前上は民主的な形態を取り繕ってほしいわけで、そうすることに大して価値があるとも思えないだろうが、それよりも経済的な利益を追求することに価値を見出しているのは、全世界的な傾向としてそうなっているのだろうし、それが政治の方面にも波及しているから功利的な談合体制に陥ってしまうのだろうが、そういうところであからさまに民主主義の価値を高めようと説いても無視されるだけかも知れないが、少なくとも両立を目指すそぶりは見せないとそれなりに都合の悪いことになってしまうのかも知れない。


3月1日「理由と動機と根拠」

 誰かが何かをやろうとしているを押しとどめるような力がどこから及ぼされてくるかというと、その人の周囲からもその人自身からもその人が所属している団体などからも及ぼされてくるだろうが、それをやろうとするにもやるのを思いとどまろうとするにも、そうだからやらなければならないとかこうだからやめなければならないとか、自分が自分にそうするように言い聞かせながら、やろうとしたりやるのを思いとどまろうとしたり、あるいはやっていることをやめようとする際に、そうする理由を求めてしまいがちになり、何かをやったりやめたりするには確実な動機が必要だと思われて、逆にそうするための確実な動機があれば納得してそうすることができそうにも思われるのだが、そうするのに必要な理由や動機や根拠を求めている時点で迷いが生じているわけで、やるべきかやめるべきか、やっていることを続けるべきかきりのいいところでやめるべきかと、それをやるのにもやるのを思いとどまるのにも、何か明確な根拠があれば自信を持ってやれるのに、それが見つからないと不安になってきて、やるのにもやめるのにも躊躇してしまうわけだが、なぜそれを思いとどまってしまうのかといっても、それも思いとどまるに当たってはっきりした根拠があれば、自信を持って思いとどまれるのだが、自信がないから思いとどまるべきかどうしようかと迷っているうちにその機会を逃してしまって、結果的に思いとどまってしまうにしても、判断が遅れて、決断する機会を逸してしまって後悔することにもなり、後からあの時ああしておけばこうしておけばと悔やんでしまうわけだが、そういった気の迷いが決断力を鈍らせることから、結果的に失敗した印象や実感をもたらすとしても、普通に考えて自らを取り巻いている状況をどう判断すればいいのかわからなかったり、そこでどうやればうまくいくのかがわからなかったりすることから迷いや戸惑いや躊躇がもたらされて、やろうとすることに迷ったり戸惑ったりためらってしまって、状況にうまく対応できずに失敗してしまったと思われるとしても、そこで失敗したと思ってしまうことが状況に対応した結果としてもたらされた実感なのだから、曲がりなりにもそれほどうまくいかないなりにも状況に対応したことは事実としてあり、状況に対応した後の状況の中でそう思っているのだから、そうであれば決して自らの対応には満足していないが、それどころか不満だらけのお粗末な対応だったと反省しているかも知れないし、そこから教訓の類いを求めようとしているのかも知れないが、そこでも失敗だったと納得したいのであり、すぐに物事の白黒をはっきりさせて安心したくなってしまって、対応がうまくいったりいかなかったり成功したり失敗したりと結論を出して安心したいのであって、まだそれが何かの途中経過であることから目を背けようとしていて、それがうまくいかなかったり失敗してしまう原因ともなってしまうのかも知れず、実際に早急に判断するようなことでも決断を下すようなことでもなければ、早く結論を出して安心したいと思ってしまうことが焦っている証拠でもあり、だからといっていつまでも迷いや戸惑いや躊躇の心理状態にとどまっていればいいのかというと、それも違うのかも知れないが、そういうところでいつどんなきっかけから判断したり決断する機会が訪れるとも限らず、その機会を逃さないことが大事なのかも知れないが、それがすぐに簡単にわかれば苦労はしないわけだが、いつもやっていることに納得して安心しながらうまくいくかというと、そういう無い物ねだりの実現を制度やシステムが目指していることは確かだが、そんな制度やシステムにも何かしら不具合や欠陥がある場合が多く、大抵はそれらを管理したり運営する側が特有の矛盾やパラドックスを抱え込むことになるだろうし、そこに制度やシステム特有のごまかしや嘘偽りや偽善や欺瞞などが含まれてくるとしても、それを利用する側は安心して納得した上で利用したいわけで、その安心して納得できるような理由や根拠が制度やシステムなどを売り込む際の宣伝やプレゼンの中で示されるわけだが、そこでも逃げ口上として、それを利用する際に示される契約条件や利用規約などの中で事細かに但し書きがつけられていて、これこれこういう条件を満たす範囲内でしか利用できないことも示されていることが、そうした制度やシステムにもそれなりに限界や制約があることを知らせているのだが、安心したければ事細かな但し書きなどろくに読まずに理解しないで、都合の良い宣伝やプレゼン内容を鵜呑みにして、そういった良いことずくめに見せかけられた制度やシステムを我先に利用したがり、大勢の人がそこへと群がるようなことになれば、それらの不具合や欠陥が露呈したところで、それなりの数の犠牲者も出てくる場合もあり、そこで被害を被った利用者が損害賠償請求などを起こしても、利用規約や但し書きなどをよく読まなかったことが原因だとして、管理や運営をおこなっている側でも争う姿勢を示せば、それ相応に裁判などの場で事態がこじれてくるのだろうが、そんな成り行きの中でも当然のことのように、そうなった理由や根拠が示されないと納得できないだろうし、納得できる理由や根拠が示されることによって安心したいから、それが理由や根拠を求める動機ともなるわけだが、なぜそうなるのかといえば、理由や根拠がわからないと不安だからということになるとしても、不安なままではいられないとしても、不安感から完全に解放されることはまずないだろうし、そんな不安感から解放された状態が悟りの境地だとしても、不安から解放されるために修行の類いをやるとしても、そんな修行によって確実に不安から解放されたいわけだから、そうなる確証がほしいわけで、そこからも手軽で効果的な制度的かつシステム的な修行法の売り込みが始まるかも知れないし、そういった修行に関するハウツー本ならいくらでもありそうだが、それが禅でも瞑想法でもヨガの類いでも、そういった類いの教室を開いている人も結構いるだろうし、そうやって不安や悩みから解放されるための制度やシステムもいくらでもあるような世の中なのだから、何か直接そこへ向かうのとは異なる方向へと意識が必ず逸らされていて、その場で直接それを解決できないから、それとは別の方面で何かをやらせて、そんなことをやっているうちにそんなことなどどうでもよくなってしまうというか、それとは別の何かに気を取られているうちにごまかされてしまうような結果がもたらされるのかも知れないが、そうやって理由や動機や根拠をうやむやにしてしまわないと、その場が丸く収まらないような成り行きとなっているのかも知れない。


2月28日「統治する暴力」

 何か抵抗感を覚えるようなことが平然とおこなわれている現状を何か変だおかしいと思うと、時としてそれがそんなことをやっている対象へ抗議の意思をアピールすることに結びつくだろうが、それも大抵は許容限度の範囲内に収めようとするが、どこまでが許容限度なのかが定まっていないと、それも大抵はやっていることが暴力へと発展するわけだが、その手の抗議活動を武力で鎮圧するのも世界ではよくあることだろうし、その際に死傷者が出てしまうのもよくあることだが、そういったよくあることの範囲内で事態が推移すると、この世界が不条理に満ちていることを実感できるかも知れないが、それを実感したところで何がどうなるわけでもなく、平然とそんな事態をやり過ごせる環境の中で暮らしている人々は、好奇心に駆られて対岸の火事を見物しようとするわけでもなく、それよりは心を痛めて抵抗感を覚えるような事態の被害に遭っている人々に同情するわけだが、同情してもそれだけで何になるわけでも事態の改善に結びつくわけでもないが、誰かの決め台詞のように同情するなら金をくれと反発されるわけでもなく、同情することがその場での通常の反応となり、それが対岸の火事への対処法というわけでもないが、何が対岸の火事なのかといえば、自身とは直接関係のない災害の類いがそうかも知れないし、その具体例を挙げるまでもないことかも知れないが、具体例を挙げるのにも抵抗感が伴ってきてしまうとすれば、実のところそれは対岸の火事などではなく、身の回りで現に起きていることかも知れず、それを対岸の火事として遠ざけておきたい思惑があって、何か身の回りで起きていることとは違う外国の政変に伴って発生する暴力沙汰を取り上げたいのかも知れないが、それが興味を惹く対象としてメディアなどでよく取り上げられているのだから、それに関心を寄せるのが当然の成り行きとなってしまう場合もありそうだが、形式的に考えて暴力沙汰へと発展しないようにするには、法治国家の建前に基づいて国が統治されている必要があり、法律が暴力を禁止したり押しとどめる効力を発揮できればいいとしても、軍隊などが法律を無視して武力を行使すれば、そんな建前などすぐに破られてしまうわけで、時にはそうやって法治国家の建前を破ることも国家の統治には必要となり、そういう意味で統治とは法律よりも優先される行為であり、統治する側が優位な状態を維持することが、他の何よりも統治する側にとっては優先されるのだが、それに関して行政機構に軍隊や警察が含まれるのはどの国も同じだとしても、軍隊に行政機構が支配されている状態というのが、異常なのか普通なのかといえば、普通は異常事態と見なされるというか、非常事態として正当化されるわけで、それが軍事クーデターにおいてはよくある成り行きとなるわけだが、軍部による自作自演で非常事態を作り出していることも確かで、軍部の都合を優先させるにはそうするより他にないと判断されれば、そんなことが度々おこなわれるわけだが、それに対して武力を用いることを極力控えるような統治が可能となる条件とは何かとなると、文民統制の実現となるだろうが、一言にシビリアン・コントロールといっても、そうやればそれが実現するかとなると、個々の事例によって何かのきっかけからそれが可能となった事例も、未だに実現していない事例もありそうで、日本の場合はアメリカとの戦争に負けたから形の上では文民統制が実現したわけだが、別に日本政府が在日アメリカ軍をコントロールしているわけでもないから、日本政府の領分としては自衛隊という名称の軍隊をコントロールしていることになるのだろうが、そういうところで微妙なずれが生じているわけで、日本政府が日本にいる全ての軍隊を統制できているわけでもないところが、何やら陰謀論的に付け入る隙を与えているとしても、現状ではそれでもかまわない状況でもあるわけで、そういう何かはっきりしないような状態になっていることが、統治の不完全な状態をなし崩し的に実現しているわけだが、そうなっている状態をはっきりさせる必要があるかというと、現状維持でもかまわなければその必要はないはずだが、現状のままでは気に入らない面があることも確かであり、気に入らないのでは都合が悪いだろうし、都合が悪ければ気に入らない状態を変えなければならないと思うのも当然の成り行きだが、そう思えば自らの都合を反映した理想的な状態を想像して、それが民意を反映した民主的な政府による統治を目指そうとするなら文民統制の実現となるわけだが、現状に至るまでの歴史的な経緯がそれを阻んでいる場合もあり、そういう経緯がある国ではなかなかそれが実現しないわけだが、その一方で軍事政権や警察権力による国家の支配という状態も、そこに至った歴史的な経緯からすれば過渡的な状態だともいえるだろうし、そうなるまでに面倒な紆余曲折や過去への揺れ戻しなどがあるにしても、大抵の国では武力や暴力を用いた国家の支配を脱して、曲がりなりにも民主的な政府による統治が実現したり実現しつつあるわけだが、もちろん民主的な政府といっても全く武力や暴力を用いないで国家を統治できるわけでもなく、今もほとんど全ての国で軍隊や警察が統治機関としての政府に所属していて、それらが常時発動しているわけでもないとしても、潜在的な暴力装置として民衆を威嚇しているわけだが、それは最終的な力の行使のために備えておかなければならないものだろうし、武力を行使する以前に何とかして法律や制度に基づいて交渉や取引をしながら、紛争や問題を解決しなければならず、解決できないまでも武力の行使を先延ばしにできるような状態に保つ必要があるわけだが、それができない時には最終手段として武力を使うことになるが、交渉や取引に持ち込むための脅しとして武力を使う場合もあるだろうし、また交渉や取引を優位に進めるためにも武力による脅しが必要となる場合もありそうだが、そうなるとやっていることはギャングやヤクザや強盗と変わらないわけで、そういうことをやらざるを得ない国が世界の覇権を握ったり握ろうとするわけで、現にそういう国が世界に複数存在するわけだから、何でもかんでも武力の行使に頼っていては他の国々の支持や賛同を得られないから、やむを得ない場合に限って武力を使う成り行きになってしまった感じを醸し出そうとはするだろうが、そういう節度をわきまえた武力の行使というのが、国によってその程度や範囲や傾向や解釈も異なってくるだろうし、他の国との同盟関係によって、非難されないような武力行使もあったりなかったりして、そういうところからも微妙な成り行きや結果が生じてくるのではないか。


2月27日「広告の効果」

 人が何に対して関心を持っているとしても、それだけで何がどうなるわけでもないと思いたいが、関心を持っている時点で何かがどうにかなっているから、関心が生じているとも思いたいし、どちらにしても関心があることには変わりなく、それに対して関心を抱くような状況となっているわけだが、広告的な宣伝効果によって関心を抱かせられてしまう場合もあるだろうし、メディアから関心を抱かせられる大半はその手の広告によってだろうが、関心を抱く必要があるか否かを特に意識して判断することはないだろうし、判断する以前に関心を抱いたり抱かなかったりするわけで、しかも関心を抱く以前に、その大部分は抵抗を感じるのであり、広告を目にするだけで不快な気分になるというのが、ネットではありがちな反応になるだろうが、そうなると広告自体が関心の邪魔をしているようにも思われて、当初において関心を抱いているのは広告ではなく、関心を抱く対象を見ようとする前に、見たくもない広告を見させられて不快な気分となり、何とかして広告を見ないようにするために工夫を凝らすようになってしまうわけで、広告によって収益を得ている企業や個人が提供する情報を、広告を見ないようにして見ようとするわけだから、何かやっていることがおかしいわけだが、しかも有料では見たくないわけだから、もちろんそれ以前にネットへの接続業者から料金を徴収されて、ネットを閲覧する端末を買っているわけだから、無料ではネットに接続すること自体ができないわけだが、そんな矛盾した状況になっていることを承知で、見たくもない広告を見せられて不快な気分になりながら、企業や個人が提供する情報を見ようとするのだから、それだけでもかなりの複雑な事態となっているはずなのだが、大抵の場合は平然とそんな事態をやり過ごしていて、それが通常の状態なのだから慣れてしまえば何とも思わないし、情報から広告を取り除くための面倒な設定や操作をおこなった上で情報を見ようとして、それでも取り除けない広告は仕方がないと思っているし、やれる範囲内で手を尽くして情報を見ようとしているわけで、そういう面で一方的に広告を見させられていたテレビ時代には考えられなかったことをやっているわけだが、PCではできることがスマホではできないだろうし、スマホで見る分には一方的に情報を受け取るしかなくなってしまうかも知れないが、それでも設定や操作をカスタマイズすることはできるだろうから、テレビとは比較にならないほど複雑なことができるだろうし、情報端末として情報を受け取るだけでなく、こちらから情報発信もできるわけだから、使いこなせる人にはPCよりもさらに便利な面もあり、何よりもスマホは電話の進化形態なのだから、単なる情報端末ではなく相手とのコミュニケーション端末として使っている面の方が大きいだろうし、どちらにもそれなりの優位さや便利さがあり、優劣をつけるようなことでもないわけだが、見たくもない広告といっても、中には興味を惹かれるものもそれなりにあって、広告を全く見ないようにしたいわけでもなく、その辺も単に見たくもないという否定的な表現で全ての広告を括るわけにもいかず、特にこちらから見たいとも思わないが、見させられていてもかまわない程度の感覚で興味を惹かれているのだろうが、ただ不快感を煽り立てられるような広告の方がより強く印象に残ってしまうわけで、そんな印象が否定的な感情を刺激するから、まず広告というと見たくもないという先入観や固定観念を植え付けられて、そんな広告を執拗に見させようとするグーグルやヤフーなどに否定的な嫌悪感を抱きながら、ヤフーの方はブラウザの広告なし設定が通用しないからなるべく見ないようにしているものの、グーグルの方はユーチューブなどでは広告が出ないように操作しながら見ようとして、広告による収益を目的としたユーチューバーの商売を結果的に妨害していることにもなってしまうわけだが、自分一人が見なくても他の大勢の人たちが見ているのだからほとんど影響はないだろうが、では広告がなければいいのかというと、ウィキペディアのようにいったん寄付に応じてしまうと、その後執拗に寄付を催促してくるような不快な仕打ちを受けるわけで、そうなるとなるべくウィキペディアを利用しないようにして得たい情報を探さなければならなくなり、面倒なことがまた増えて、その分で余計な手間暇がかかってしまうことにもなって、意図的に特定の情報が頻出するように操作されているような不信感や不快感を抱きながらグーグル検索を利用しながら、どうしても他に満足できるような情報が見つからないとウィキペディアを覗いてみたりと、何をやるにも但し書きが必要なことをやらざるを得なくなってくると、自然と受動的な態度や姿勢ではいられなくなり、常にこちらから仕掛けていないと相手の思うつぼになってしまうような気がして、そういう心理状態になるように仕向けられていると思えば、こちらが勝手に疑心暗鬼になっているだけかも知れないが、それもそう記せば改めてそんな否定的な心理状態になっているような気がするものの、普段は大して苦にしていないわけで、日々平然とやっていることを文章にすると、大げさなことを述べているような感じになってしまうわけで、大したこだわりもなく大して嫌がるわけでもなく、その手の執拗で不快な広告も平然と見ている場合もあり、あまりにも頻出して嫌になってくると見るのをやめてしまったり、見るのをやめても困っているわけでもなく、見ても見なくても困らないようなものを見るようにしているわけでもないが、見て刺激を感じるような物事を見ている一方で、見るのをやめても、それをやめることによって感じる刺激があるのだろうし、見るという行為にそれほどこだわらなければ、他の行為にもそれほどこだわっているわけでもないものの、その場で見ることが可能な物事を見ている限りで、見ることができる物事など他にいくらでもある中で、広告の類いもそれなりにありそうだが、広告は見るだけでは済まない場合がほとんどだろうし、それを見て何かをやらせようとするわけで、それが商品の宣伝ならその商品を買わせようとするわけだが、買わせようとするだけではなく、他に意図や思惑があることを疑いたくなるような広告というのが、不快感が募ってくる原因だろうが、そう思ってしまうことによっても勘違いな妄想が膨らんでしまうのかも知れないが、そういう広告を見て何とも思わないような態度になれるとしても、たぶんその何とも思わないと思っていることも、何か他の方面で惑わされていたり洗脳されている可能性もあるわけで、そうであるなら執拗な広告の頻出に不快感を募らせているぐらいがちょうどいいのかも知れない。


2月26日「努力の成果」

 誰もが自身にとって都合のいい結果を得ることを願っていて、そのために努力するのだろうが、結果的に願いが叶ったり叶わなかったりすることよりも、そうなる過程において何をどうやるかが重要となってくるにしても、目論見に合うようなことや見込みがあるようなことがなかなかできない場合もあるだろうし、当初に抱いていたことから外れるようなことになっても、大抵の場合は状況や情勢に合うように自らの思いや行いの修正を迫られて、それなりに妥協を強いられてしまうのだろうが、それでもそういう成り行きや圧力に逆らって初志貫徹しようとしてしまう場合もあるし、そういうところで周囲の状況や人間関係の中で軋轢や摩擦が起こることになっても、そこから生じる争いやいざこざなども含めて、結果的に何らかの状態へと落ち着く過程で生じる紆余曲折に含まれるだろうが、一定の状態へとなかなか落ち着かずに断続的に情勢が揺れ動き続けることもあるだろうし、長い目で見れば一つの状態に安定せずに常に揺れ動き続けていることの方が普通かも知れないが、そういった状況や状態をどう捉えてみても、その中で活動しているわけだから、状態の全てを自らに都合の良いように調整することはできないものの、全ては調整できないとしても、それなりにできる範囲で調整しながら活動しているわけだが、そんな状況に巻き込まれている人々が思い思いに自らの都合を優先させようとするわけだから、そこで各々の都合がぶつかり合ったり結びついたり離れたりしながら、それなりに相互作用を引き起こすことは確かだろうし、そういう意味で努力するとは競争や競合状態の中で努力することになり、各人が相互に影響し合いながら努力するわけで、たとえその人が単独で孤立していても、生きて行くには生きるための活動をしないと生きてはいけないから、その人が生きている限りで、周囲の環境がその人に努力を促すわけだが、当人は努力しているつもりであっても、それを端から見ている人には苦し紛れの悪あがきのようにしか見えない場合も、いくら努力しても何の成果も得られない場合もありそうで、ただ努力すればいいというわけでもないのだろうが、それでも往生際が悪く、下手に努力して自らの人生に汚点を残してしまうような結果をもたらすにしても、何もやらないよりは余計な真似をやってしまうわけで、そうやって都合のいい結果を得ようとして、逆に都合の悪い結果をもたらしてしまって後悔するわけだが、後から思えばそんな面倒で不快な成り行きを経ないと、今に至れなかったと実感するだろうし、後から過去の失敗を苦々しく思っている時点で、まだそこでは生き残っているわけで、途中で死んでしまえばその時点でそんなことは思えないし、そうやって生き残っていること自体が、努力をした結果としてもたらされた成果でもあるわけだが、普通はそれを成果とは思わないし、成果であれば自らの都合がその成果に反映されているはずだが、自らの都合というのが生き残ることだと見なすなら、それも立派とは言えないが一応の成果となるかも知れず、自殺を試みる人にとっては死ぬことが成果となるだろうが、努力しようとすることが努力し続けることにつながっている限りで、努力し続けることが努力していることの成果ともなるだろうし、たとえひどい結果をもたらして悲惨な事態に陥っても、そこからさらに努力を続けられれば、それも努力したことの成果となるかも知れず、そういう意味で自らにとって良い成果と悪い成果がありそうだが、悪い成果をもたらしてもそこから活動を続けることができれば、活動を続けることに結びついているのだから、不本意ながらも活動してきたことによってもたらされた成果として受け止めるしかなく、逆に満足できる成果となれば、そこでその人のなりの達成感を得て活動をやめてしまうかも知れないし、そうであれば良い成果がもたらされたから活動をやめる決心がついたことにもなるだろうし、そうやってそれまでにやってきた活動に一区切りつけて、そこでしばらく休息するにしても、また新たな活動を再開するにしても、自らを納得させるには何か良い成果が必要となることもありそうだが、逆に納得できずにいつまでも延々と何かをやり続けることが、悪循環に陥っていると思われることもあるが、それをやり続けることで次第に状況が悪化していけば確かにそう思われるものの、周囲がそれをやめさせようとして意図的に状況を悪化させている場合もあるだろうし、意図的でなくても様々な方面からもたらされる否定的な意図や思惑などが複雑に混じり合って、それらが総意としてその人にやっていることをやめさせる圧力となって顕在化してくる場合もあるだろうし、時にはそういう空気や雰囲気を敏感に察知したり感じ取ることも必要となってくるだろうが、その種の圧力に逆らい続けることも、やり続ける上でのモチベーションとなるかも知れないし、そういうのが反骨精神の類いを養うわけだろうが、周囲から何らかの作用や影響を及ぼされるから、それに従ったり逆らったり調子を合わせたり外れたり逸らされたりはぐらかされたりするわけで、そうすることやそうなってしまうことがその人の活動の過程で起こることでもあり、そういう作用や影響に対処したり対応することも活動に含まれるだろうし、たとえそれが活動にとっては否定的な作用や影響で、場合によっては活動をやめさせようとする意図や思惑が含まれているとしても、それに逆らうことが活動そのものになってきてしまう場合もあり、それが反対運動の類いになるわけだが、反対運動の他には何もできないような状況となってしまえば、反対している対象に活動が全面的に依存してしまうわけで、そうなるように仕向けられている場合もあって、そこにも明確にそうなるように仕向けている意図や思惑があるとは思えないだろうが、結果的にそうなってしまえば、他のことは何もやらせないようにするために反対運動に専念させて、運動に参加した人々を消耗戦や後退戦の悪循環に陥らせておけば、それとは別の方面で好き勝手なことができるわけでもないだろうが、少数派として主流派がやっていることに反対するだけに専念させられてしまうことが、それ以外には何もできなくなってしまうという悪循環をもたらしているわけだが、そこでもそういう活動が続いている限りで、それなりの成果がもたらされるわけで、それがそういうことに専念させられてしまっている人や団体にとっては肯定すべき成果なのか、あるいは否定されるような悪い成果なのかに関しては、そういう運動への距離感や関心の度合いによって異なるかも知れないが、どちらにしても活動が続いていく限りはその対象が存在していると思われるが、意外と反対の対象となる物事自体もそういった反対運動などに伴う継続的で否定的な作用や影響によって、次第に変質を被って変貌してきて、当初においてはっきりと反対を示せたような実体や実態を保てなくなってしまうのかも知れず、それがその種の反対運動の成果となるのかも知れない。


2月25日「現状で実現できること」

 現状で実現できることは実際におこなわれていることであり、まだおこなわれていないことをおこなえる場合もあるだろうが、誰もがそれをやれるわけでもできるわけでもなく、できることとできないこともそれなりにありそうで、実際にそれをおこなっている当事者ができるのは当然のことだが、誰もがそれをおこなう当事者になれるわけでもなく、当事者になろうとしてもなれない場合もあるが、何かをおこなう当事者になろうとしても、その内容や職種によっては人数に限りがあって、希望者全員が当事者になれるとは限らないだろうし、それなりに限られた人たちが当事者になろうとして、競争に勝ち抜いたりして、その中からさらに限られた人たちが当事者になれる場合もあるだろうし、それをやろうとしてもやるまでに至らずに途中で断念せざるを得なくなる場合もありそうで、その代わりにやろうとしていたことではなく、やりたかったわけでもないことをやっている場合も多いだろうし、さらにはやりたいことが複数あって、それらの全てをやろうとしてもできない場合があり、やりたいことの中で、結果的にやろうとしてやれなかったこともそれなりにあるが、実際にやれたこともそれなりにあるのが、大抵の人にとってはよくありがちな結果となるかも知れず、そういう意味では世の中にはできることとできないことがあり、できることもできないこともそれを実際にやろうとすることと一致することも一致しないこともあるだろうし、実際にやれたことややれなかったことの中には、できそうに思われてもできなかったことや、できるとは思わなかったことができた場合もあるだろうし、またやるつもりもなかったことをやっている場合もあるわけだが、事前に実現できる可能性や条件などをどう判断してみたところで、途中経過の中での紆余曲折や生じてくる事情や経緯などが複雑に絡み合い、さらにそこへ外部からの作用や影響や介入なども加わってくると、結果的には様々な状況や状態が生じてくるのだろうが、中には自分たちの計画や構想をただ延々と主張するだけにとどまってしまう場合もあるだろうが、その方がかえって大した費用や労力もかからず、主張するだけにとどまっている方が好都合な場合もありそうだが、それも事前に想定されたり想定外だったりする結果の一つに過ぎないとしても、そこで結果的にできたことが何かを主張することであったわけで、たとえ主張の中身を実現するには至らなかったとしても、主張することがそんなことを主張している人や団体にとっては実現できたことであり、そんな人や団体を取り巻く状況がそれによってどう変わろうと、それにかかわっている人や団体などがそれをどう受け止めてみても、少なくとも主張する以外でもそれなりにおこなっていることもあるだろうし、そういう他にもおこなっていることとの兼ね合いの中で、そんな主張が肯定的に受け止められて支持や賛同を得たり、逆に否定的に受け止められて批判されたりすることもあるだろうが、その人や団体が置かれた立場や状況の中で、自ずからその人や団体が主張しそうな内容も決まってきて、またその人や団体の主張内容から、その人や団体の置かれた立場や境遇や状況も決まってきて、どちらがどうだというわけではなく、そういった人や団体が世の中で許容される限りで存在できている状況もあるだろうし、その存在できていることが現状で実現している状況でもあるのだろうが、そうであればその人や団体が現状でできることは何かを主張することであり、何かを主張している限りで存在できているわけで、その主張を支持したり賛同してくれる人たちと共に存在できるわけだろうが、主張すること自体はそうやって実現するとしても、主張の内容が実現できるかどうかは、何とも言えないとしても、それを支持したり賛同してくれる人たちは主張内容が実現することを期待するわけで、そうした期待を抱かされるようなことを主張できれば、それが実現するかどうかはともかく、それに期待できる人たちがその主張を支持したり賛同してくれるわけで、そういう意味で何かを主張するその内容が、人々に期待を抱かせるようなことを主張するという傾向になり、それが実現できるかどうかよりも期待を抱かせるようなことを主張する方に傾いてしまい、ともすればそれが夢を売る商売になってしまうのだろうが、主張する側にとってはそうすることによって自らの存在を維持できればそれでかまわないだろうし、維持するどころか利益まで得ることができれば、まさにそれこそが夢を売る商売になってしまうわけだが、そこまで計算尽くで夢や希望を抱かせるようなことを主張しているわけではないとしても、実際に実現できることが夢も希望も期待できないようなことだと、誰も支持も賛同もしてくれないわけで、そうなってくると多くの人々から支持や賛同を得るためには、実現できることよりも夢や希望を抱けることへとずれていってしまい、そういった方面で主張を特化してしまうと、世論調査などによってもたらされる人々の最大公約数的な思いを実現するような主張にするのが、政治的な主張としては無難になってくるわけだが、実際に政権を担っている政党などの主張となるとそういう傾向になってくるとしても、政権を担っていない政党の類いとなると、実現できそうにないことまで主張しても、その後に政権を担わない限りは問題はないだろうし、そうなるとできるだけ多くの人々が夢や希望を抱けるようなことを主張せざるを得なくなってしまい、ともすれば実現困難なことや実現不可能なことまで主張してしまうわけだが、それでも実際にやってみなければ実現困難か実現不可能かがわからないわけで、主張している時点では何ともいえない面もあるかも知れないが、それよりは結果的に多くの人々の夢や希望が実現しなければそちらの方が問題となってくるかも知れないが、実際には人々の方でも身の丈に合った実現できそうな夢や希望を抱こうとするだろうし、主張する側でもそういう現実的な人々から支持や賛同を得ようとして、実現できそうなことを主張しようとするわけだが、それが世論調査などで示される最大公約数的な人々の思いを実現しようとする主張に結びつくのだろうが、そうなっても実現できそうなことがそのまま実現できるわけでもなく、実現する過程において様々な紆余曲折を伴いながら、様々な方面からも作用や影響を及ぼされて直接の介入もおこなわれたあげくに、わけのわからない結果がもたらされることもあるだろうし、そうなると各方面から批判されることにもなるだろうが、そういう場合はもちろん批判する人々にとっての願望が結果に反映されていないから批判するわけで、反映されないどころが真逆の結果がもたらされてしまえば、それだけ批判や非難の声が鳴り止まないことになってしまうわけだ。


2月24日「勝利の意味」

 現状の中で何か肯定的な結果をもたらすことが、結果をもたらした人や団体にとっての勝利なのかといえば、勝負を避けていれば勝利ではないかも知れないし、勝負を避けることで肯定的な結果が得られたら、では何に勝利したことになるのかといえば、あまりそういうところで屁理屈をこね回す気が起こらなければ、別に何に勝利したわけでもないことにしておけばいいだろうし、勝利するどころではなく臆病風に吹かれて勝負を避けるようなら、そうなっている時点で敗北を認めざるを得ないかも知れないが、勝負にこだわったり勝利にこだわることが、何を意味してどんな結果をもたらすかといっても、それも勝負や勝利の程度や内容や傾向にもよるのは当然のことで、大した勝負もやらずに大した勝利もあり得ないが、それでもかまわない場合もあるだろうが、そこに至る経緯や事情によっては、当事者が抱いている意図や思惑や意向に関係なく、どうしても勝負せざるを得ない成り行きになってしまい、勝負するからには勝利を目指すしかやりようがなくなってしまうだろうが、八百長でもなければわざと敗北を目指すようなことは誰もやらないだろうし、八百長であればそこではわざと負ける代わりに別のところでは勝たせてもらったり、逆にそこでは勝たせてもらって別のところではわざと負けるような成り行きになってしまうこともあり得るが、勝負や勝利がやっていることの本質ではなければ、では何が本質なのかといえば、そこで何をやっているかが物事の本質になってきそうだが、何もやっていなければ、何もやっていない人の存在が問題となってくるのかも知れず、その人に関心を抱けば、何もやろうとしないのはなぜなのか、その理由を探りたくなってくるかも知れないが、理由など何もなく、何もやらなくても済んでしまうような状況の中で何もやっていないなら、それでかまわないだろうし、人に何もやらせないような環境がそこに構築されていれば、確かに何もやらなくても済んでしまうのだろうが、それが何を意味してどんな結果をもたらしているのかといえば、ただ何もやっていないことを意味して、何もやっていない結果がもたらされているだけで、それがどうしたわけでもないことにもなりそうだが、そこでは何もやっていなくても、別の場所や別の時間帯でなら何かをやっていれば、その場所や時間帯で何かをやっているから、そこでは何もやらなくても済んでしまい、さらにその人が何もやっていなくても、別の人が何かをやってその人が何もやらなくてもいいようにしている場合もありそうで、それが組織的な集団の中でおこなわれていることなら、その人が何もやらない分、他の人が余計にやっていることもあるだろうが、普通の集団内では何もやらなくても済むような立場などあり得ないだろうし、集団の構成員にそれぞれの役割が分担されていて、分担されていることをやっているわけだろうが、勝負や勝利にこだわっている一方で、その勝負や勝利をいかに魅力的に見せるかにこだわっている場合もあるだろうし、それを見せることによって利益を得ようとするやり方が興行であり、ショービジネスになるわけだろうが、そうなるとそういう面に重きを置けば、その本質はいかにその種のイベントを魅力的に見せるかになるわけだが、興行師や興行団体が目指しているのもそういう方面になるだろうし、興行が催される会場やそれを見せるメディアなどに魅力的に見せるための工夫が凝らされて、勝負に参加する人材も魅力的な人物に仕立て上げようとするのだろうが、何よりも勝負そのものを魅力的に見せようするだろうし、その中でも勝利した瞬間がもっとも魅力的な場面になり、そこが興行の中でも一番盛り上がる瞬間になるわけだが、そういう場面や光景を見ている側にしてみれば、それが非日常的な場面や光景でもあり、めったにお目にかかれないものを見せられるわけで、そういう希有な場面や光景を見ることにどんな意味や効用があるのかといえば、気晴らしや気休めという月並みな意味や効用というよりは、そんな光景を見たいという欲望に突き動かされているわけで、それを見ることに意味や意義があったり、見ることによって得られる効用に期待しているのとは違って、それを見たいからその種の興行を見ようとして、それを見せる側もそれを見せたくて興行をおこなっているわけで、また勝負をしている当事者にとっては勝つことに意味や意義があると思うかも知れないが、実際には何よりも勝とうとしているわけで、勝つことに意味や意義がある以前に勝とうとしていて、場合によっては意味や意義など関係なく勝とうとしているわけで、勝つことが全てだと思いたいだろうし、そう思う以前に勝とうとしているわけだから、勝つことだけに意識を集中していれば、勝つことが全てだと思うことや勝つことに意味や意義や価値があるということでさえも、邪魔な雑念となってしまい、そういった雑念を振り払ってただ勝つことだけに集中したいわけだろうが、それを見せる側も見せることに意識を集中して、それを見る側も見ることだけに意識を集中していれば、それだけが全てなようにも思われてしまうかも知れないが、目的を一つに定めることによって、その目的だけのために生きているという幻想を得ようとしているのかも知れず、実際にはそうでもないのに、目的だけのために生きている自身を演じようとするわけで、意識をそこに集中させて感覚を研ぎ澄ますとはそういうことになるのかも知れないが、そういうことができる環境を提供するのが興行をおこなう側に求められていて、またそれを見る側が見ることに専念できる環境を提供することも求められているわけだろうが、結局は他のことは何もやらずに、何の邪魔もされずにそのことだけに意識を集中させるように仕向けてくるわけで、そう仕向けるにはそれなりの施設や設備が必要とされて、そう仕向けられるような施設の中でそうした設備に身を預けながら、イベントがおこなわれている時間内で、そのイベントに意識を集中できれば満足を得られるわけだが、様々なところに工夫を凝らしながら、興行をおこなう側が意識を集中させるように仕向けているわけだから、大抵の人は意識を集中させることができるだろうし、それを見る側は大した努力もせずに見ることに集中できて、またそこで勝負をおこなっている当事者も、否応なく勝負に意識を集中せずにはいられない環境の中で勝負をやっているわけで、そういう場合は自らの意志だけはなく、強いられてそういう立場に立たされているわけで、そこに至るまでの途中の経緯や成り行きや事情がどうであれ、そこに至ってしまえば、あとは勝つことを目指して勝とうとするしかないわけで、それ以外の思いは邪念や雑念になってしまうのではないか。


2月23日「主張と現状の一致」

 その国の人々が自国の製品を買わないと自国の産業が衰退して、その産業に携わっている人の収入が減って、それが回り回ってその産業に携わっていない人までも収入の減少に直面してしまうと考えがちだが、そういう面だけに着目すれば確かにそうなりそうにも思われるが、それ以前に特定の工業製品だけを取り上げて、それによって産業全体の危機を語ること自体がおかしいわけだが、もちろん半導体のようにほとんどの産業において必要不可欠な部品となると、それなりに影響も大きいはずだとしても、売買の対象であれば価格や品質や生産や流通の量やコストなどの面で、自国だけでは間に合わず外国からも買わなければならない場合も出てくるはずで、他にも例えば日本は農産物を輸入に頼っているから諸外国に比べて食糧自給率が低く、農業が危機的な状況にあると主張されると、確かにそうなっている現状がありそうで、それを政府の農業政策が失敗した結果だとして、批判に結びつけることもできそうだが、バナナなどのように日本ではほとんど栽培されていない農産物もあるだろうし、また穀物となると広い土地を使って大規模に生産している国にはコスト面で太刀打ちできないし、大雑把なところでは主張が正しい面もあるだろうが、全ての面で正しいことが主張されているともいえず、そういった主張の見解や理屈がそれなりに正しいように思われることと、実際の実情や現状がどうなっているかが、必ずしも直接結びついているとは限らず、そういうことが言われやすい現状があると捉えておけばいいのかも知れないが、その手の主張を多くの人たちが真に受けているからといって、それによって産業の競争力が向上することに結びつくとは限らないだろうし、また消費者が国産の農産物を優先して買うようになるとも限らないだろうが、それでも多くの人たちがそういう主張をもっともらしいとは思っていて、それが間違っているとも思えないはずだが、正しいといえばそれなりには正しい面もあるだろうし、完全に間違っているわけでもないはずだが、ではどう判断すればいいかとなると、単純に正しいか間違っているかというよりは、そういった意見や主張がもっともらしく思われるような状況となっているのかも知れず、現状の中でもっともらしく思われるようなことが主張されがちになっているとしても、全ての面で正しいとは思わなくてもいいのかも知れず、何らかの限定された分野の中で、それなりに条件が整えば、そうした条件に適合する範囲内でもっともらしく正しくも思われるような主張が可能となり、そうした条件から外れるに従って、主張のもっともらしさや正しさが怪しくなってくると思っておけばよく、それを全ての面にわたって無条件で正しいと思ったり間違っていると思うことが間違っているのであり、現状に照らしてそれなりにもっともらしく思われるのだから、現状に適合するような主張が世の中でもてはやされていて、多くの人がそれを真に受けて、それをまねて似たようなことを主張している人も多くいる状況というのが、世の中の現状としてもたらされているのであり、そういった状況の中でもっともらしいことを主張しようとすれば、大抵は世の中で流行っていることを自らも主張したくなってしまうだろうし、主張とはそういうものだと受け取っておいてもかまわないだろうが、そういう主張とは別に現状がどうなっているのかというと、主張されていること以外の現状もあるわけで、それが取り立てて主張しなくてもいい現状であり、主張が見逃している現状でもあるだろうが、主張している人が無視してもかまわないと思っている現状でもあるだろうし、中には主張にはなじまない現状もあるだろうし、さらには主張者の主張内容にとっては都合の悪い現状もありそうだが、主張を真に受ける人たちがそういうところまで考慮できるかというと、考慮しなくてもかまわない場合もあるだろうし、考慮しなければいけないのに考慮を怠っている場合もあるだろうが、どこまで考慮すればいいかといえば、それぞれの主張によってもそれを受け止める側によってもそれなりに事情やそこに至るまでの経緯もありそうで、一概には言えないところかも知れないが、少なくとも煽動政治家の類いが自国の産業の保護を訴えて、特定の外国製品のボイコットなどを呼びかければ、その国の情勢にもよるだろうが、それなりの支持や賛同が集まる場合もあるだろうし、その延長上で自国の農業を守るために輸入農産物に高い関税をかけるようなことも実際におこなわれているし、そういう措置もある程度は国内の産業や農業を守るのに役立っているだろうが、守ることには役立っているが、産業自体の強化には役立っていないかも知れないし、外国製品のボイコット運動をやったり輸入製品に高い関税をかけても、そういうことをやらなくても外国製品や輸入製品に太刀打ちできるほどの価格や品質やコストなどの面での改善に役立つかというと、そういう面では資金調達や研究開発や産業自体の構造改革などをおこなわなければならないのかも知れず、そういうことまで主張に取り入れている人もいるだろうが、それが実際におこなわれていることに結びついているかというと、主張する以前にそういうこともおこなわれている中で現状がもたらされていて、そういうことに関しても、現状の中でもっともらしく思われるようなことが主張されているわけで、そういうところでもそういう主張がもっともらしく思われるのだから、多くの人たちがそういう主張を真に受けるだろうし、それによって多くの人たちの間で一定のコンセンサスや了解事項が共有されるわけだが、それはすでにそういった分野の中ではそれなりにおこなわれていることでもあり、それも現状を追認するようなことになるかも知れないが、そういう意味ではその種の主張というのは、現状の中で人々に支持されたり賛同を得られるようなことを主張しようとしていて、それが政治的な主張として現状に適合しているように思われる一方で、現状に合わない主張は支持や賛同を得られないだろうし、そこで人々から支持や賛同を得られるような主張をおこなわなければならないという制約や限界が生じているわけだが、果たしてそういった主張によって現状が刷新されたり改革されるかというと、現状の刷新や改革を訴えるような主張ですらも、民衆から支持や賛同を得ようとする目的で訴えられているだろうし、そこで民衆から支持や賛同を得られることと現状を刷新したり改革することが一致するかとなると、結果的にそうなれば主張者の思惑通りになるだろうが、実際には思惑から外れた結果がもたらされることも多いのではないか。


2月22日「仮定の話」

 もしそうなっていたらとか、そうなっていたらこうなっていたとか、仮定の話で自らの都合を語りたくなる時があるが、現実にはそうはならなかったのであれば、そうならなかったのだからこうもなっていないわけで、そうならなかったことやこうならなかったことを残念がっていたり、これからそうなってほしいとか、こうもなってほしいとか、それが自らの願望であれば、自らに都合の良い状況や状態へ持って行こうとして努力したり尽力する場合もありそうだが、それが努力しても無理そうなことなら願望だけにとどまっている場合もあるし、例えば宝くじに当たって大金が手に入ったら、こういうことがしたいと常々思っていても、それは確率的にはゼロに等しいことだとも思っているかも知れないが、それでも宝くじを買い続けていたりして、そこで願望を実現するのは無理だと思っていても宝くじを買い続けることが努力といえるのかとなると、努力にも程度の違いがあるだろうし、宝くじを買い続ける努力と他の努力を同じ水準で捉えているわけでもないだろうが、ほんの気休め程度の努力として宝くじを買い続けている人が大半であるとしても、中には実際に宝くじが当たって大金を手に入れた人もいるわけだから、願望が成就すること期待して宝くじを買い続けていることには変わりなく、そういう意味ではほとんど実現不可能なことでも、仮定の話から願望を抱いているわけで、そうであれば実現できそうな願望と実現できそうにない願望とがありそうなのだが、それとこれとを意識して混同している人はあまりいないだろうが、それでも実現できそうにない願望を抱いていることがおかしいとは思わないだろうし、他にも実現できそうにないのにそうなってほしいと思うことなどいくらでもあるかも知れないが、それが生きていく上での心の支えとなっているようだと、自らがおかれている現状を把握していないようにも感じられて、現実を直視できずにそこから目を背けていることになるのかも知れないが、現状ではあり得ない夢や願望を抱きながらも、意外と現状を直視して把握していて、それが心の片隅で抱いているような気休めの効用でもあり、気休めとしてあり得ない幻想や妄想を抱いていないと、現状のひどさや厳しさに耐えられないから、そうならざるを得ないような心理作用として、現状ではそうなる可能性など全くないようなことを思い浮かべてしまい、そういったあり得ない願望を成就させる手段として、一縷の望みとなるような対象が、宝くじの購入となるかも知れないが、一縷の望みなどなくてもそういった願望を抱くかも知れないし、現状がひどく厳しいほど、それに釣り合うようにして抱く願望や期待も、並外れて荒唐無稽で誇大妄想的になるわけでもないだろうが、中にはそうなってしまう人もいるかも知れず、実際に社会の底辺などの逆境から這い上がってくるような人が、どれほど荒唐無稽な誇大妄想を抱いているかを知る手がかりが、その人の言動や活動などから浮かび上がってくることもあるかも知れないが、知りたいのはそういうことよりも、その人が実際に達成したことであり、またその内容や中身が、世の中でどう判断されてどう評価されているかに興味があるかも知れないが、たぶん荒唐無稽な誇大妄想を抱いている時点では何も達成していないだろうし、逆に何もしていないから荒唐無稽な誇大妄想を抱いていられるわけで、逆境から這い上がって何かをやっている時点では現実を見据えているだろうし、現状を正確に把握しているから、そんな現状に対応してやるべきことをやっているつもりになれるわけで、本格的に実現できそうな夢や願望を叶えるために活動をしている最中には、荒唐無稽な誇大妄想など抱いている暇などなく、現状で取り組まなければならないことに意識を集中させているだろうし、そうなっている限りで逆境から這い上がれる可能性もあるわけだが、努力した甲斐もなく何の実りも実績も結果も得られずに、夢も希望も潰え去ってやることが何もなくなってしまえば、あの時こうやっておけばああやっておけばというたらればの後悔の念と共に、あり得ない願望や期待を抱き続けて夢想する日々になってしまうのかも知れず、そうなってしまえばその人には何の力も生きる気力もなくなってしまうかも知れないが、そうであるなら隠居生活や隠退生活を送っている人は、意外とあり得ないような荒唐無稽な誇大妄想を抱いているのかも知れず、現実とは折り合えないから意識が現代から遙か過去へと遠ざかって、例えば日本の古代の歴史に興味を抱いて、一般には知られていない謎の古代王朝があったなどという話に夢中になるとか、そういった方面が現代の日本に何らかの無視できない影響を及ぼしていて、それが現代でも有力な神社や神道などの宗教的な母体となっていたりとか、さらに天皇家などとの関係から、国家の中枢にも力を及ぼして、闇の勢力として日本の政治を陰から操っているとか、そういった内容が荒唐無稽な誇大妄想だといえるかも知れないが、そういった話の中で必ずと言っていいほど出てくるのが黒幕的な謎の存在や勢力となるわけで、そういった存在や勢力が陰から国の政治や行政を操って支配しているという妄想が、その手の思考に陥った誰もが抱く紋切り型の内容であるなら、何かそこに謎を解く鍵があるようにも思われて、それを解き明かすことができれば、そういう妄想を抱く理由や原因がわかってくるかも知れないが、それに関してその人が現実の世の中で何の力も影響力も持っていなければ、ではどうやって現実の世の中に力や影響力を及ぼすことができるかとなると、そこが謎であり、矛盾やパラドックスが含まれてくるのかも知れないが、手っ取り早く思い浮かべることができるのが、誰にも知られていない謎の勢力を空想することに結びつくのかも知れず、何か強大な力や影響力を持った謎の勢力というのを現実の状況の中に当てはめると、それが黒幕的な存在となるのは必然的な帰結であり、それが秘密の組織であり秘境的な教団であってもかまわないし、フリーメイソンやイルミナティーなどの秘密結社であってもかまわないが、そういった組織や教団や結社に政財界の重鎮たちが入っていることにすれば、それらしくそちらの方面ではよくある話になってくるわけだろうが、実際に著名人などがそうした団体に入っている事実もあるわけだから、そういうところから自分独自の妄想を膨らませることができるのだろうが、そうなることも現代社会の中で起こる自然な成り行きなのかも知れず、そういう方面に興味を抱くように仕向けられてそうなってしまうから、そういう方面から出てくる話がどれもこれも似通った傾向になってしまうのではないか。


2月21日「力の加減」

 力を加える加減をちょうどいい範囲にとどめておくことが難しいと、力を加えすぎたり足りなかったり、調整や調節がうまくいかず、いつも失敗しているように感じられてしまうが、そんな失敗しやすいような状況の中で成功しにくいのは当たり前のことだが、何に成功したいとも思わない心境になれるかというと、人は何らかの成功を目指して努力するのが当然に思われるかも知れないが、自らの意志で成功を目指しているのとは違った結果を目指しているはずもないが、結果的に思いがけない事態に直面してしまうと、何かはぐらかされてしまったように思われるにしても、元々の目指していた程度や傾向や範囲などが的外れだった場合もあり、結果的にそうなることを予測できなかったとすれば、事前の目算や見積もりが合っていなかったことにもなるのだろうが、始めから間違っていたなら、そうなるべくしてなってしまった場合があるにしても、途中で想定外の要因が介在してきて、当初の見積もりを超えてしまう事態もあるだろうし、それが大した額や量でなければ誤差の範囲内だと思うだろうが、当初に予定した額や量から大幅に逸脱した結果になってしまうと、何かが間違っていたとしか思えないわけで、そうなるべくしてなったとは到底認めがたく、途中の過程のどこかで思いがけないことが起こっていたはずだが、それがわからないと焦るだろうが、わかりようがない場合もあり、原因がわからずに困惑するばかりとなってしまえば、対処も対応もしようがなく、そんな結果に黙って従うしかなくなってしまう場合もあり得るだろうが、結果をそのまま放置できれば、放置したままにしておくだろうし、そんな失敗の爪痕や遺構が世界の各地に点在していて、ゴーストタウンといった類いの廃墟も残っているはずだが、何かの原因で人がそこに住めなくなってしまったから廃墟や遺跡となってしまったのだろうし、そこが今では荒野などの不毛の地となっていれば、人の活動によって大地の養分や資源などが汲み尽くされてそうなってしまった場合もあり得るだろうし、また寒冷化や砂漠化などの気候変動によってそうなってしまった場合もありそうだが、そうなった結果から見ればそうなって当然の結果だと思われるが、その途中の過程に身を置いてみればそれとは違ったことを思うかも知れず、気候変動によって作物が育たずに飢餓が蔓延すれば、時代や地域によっては神に生け贄を捧げれば元の状態に戻ると信じられている場合もあるだろうし、そうなると盛大に生け贄の儀式を執り行うのだろうが、その時代のその地域においてはそれが見当違いなことをやっているとは思われないだろうし、今の時代の現代文明に覆われた地域でそんなことをやれば、正気の沙汰でないと思われるのだろうが、宗教的な儀礼としてはまだその痕跡が残っていて、さすがに人を殺して生け贄に捧げることはやらないだろうが、家畜や小動物などを生け贄に使う儀式などは世界各地にまだ残っているだろうし、動物ではなく農作物などの植物を捧げるなら、別に誰も何とも思わないはずで、捧げるというよりは飾るという表現の方が妥当に思われるような使い方もあるだろうが、同じ飾るのでも人の生首や頭蓋骨やミイラなどを飾り立てれば異様に思われるわけで、同じ趣旨でも使っている素材が違えば、何か根本から間違ったことをやっているようにも感じられて、そういうところで古代のアステカの民が、頭蓋骨を何百も積み上げて塔を作っていた時代に、それを見て何とも思わなかったのかといえば、その時代のその地域に身を置いてみなければ何とも言えないことだろうが、それと同じように古代のローマのアッピア街道沿いで、磔の刑で死んで腐臭を放ちながら並べられている遺体の脇を通り過ぎる人々が何を思っていたのかといっても、当時の文献が残っていれば何らかのことがわかるかも知れないし、日本でもかつては斬首の刑に処せられてさらし首にされた人もいくらでもいるだろうが、当時の人々と現代の文明人との間で、そうなっていることが普通に思われる程度や範囲や傾向の加減が異なっていることは確かであり、何らかの行為や行動の中でおこなわれる力加減も当時と今とではだいぶ異なっているかも知れないが、今でも日本でおこなわれている絞首刑が残忍な行為だと非難する人も海外には結構いるかも知れないし、普通におこなわれていることも時代や地域が異なれば普通のことにはならない場合もあるものの、現代でも映画や漫画などでは通常ではあり得ないような光景や人の動作などを見せて、それを見る人を驚かせるようなことがおこなわれるわけだが、そうやって普通に感じられる程度や範囲や傾向の加減を調整したり調節して、通常の状態から逸脱させて見せれば、何かこけおどしのような効果が得られるのだろうが、それだけでフィクションができているわけではなく、それが人の関心を惹いてフィクションの中に引き込む導入的な吸引力のような作用でもあり、そうやって引き込まれた人が魅力を感じるような物事を見せて、心をフィクションの虜にしようとするのだろうが、そういった人が魅力を感じるような物事というのが、現実の世界では実現できない何かであったり、実際におこなうことが許されない何かであったりするのだろうが、フィクションの中ではできて現実の世界ではできないことをフィクションの中で見せられることによって、人の心理的なバランスが保たれていると見なすなら、そのこと自体が物事の程度や範囲や傾向などの調整や調節そのものとなっているのかも知れず、人に現状の世界でできることとできないことの区別をつけさせる目的でフィクションが構成されているわけでもないが、実際にフィクションが何を見せているのかと言えば、過去や未来の時代や現実にはあり得ない世界を見せている場合が多く、現代ではあり得ない程度や範囲や傾向などに調整されて調節された物事を見せているわけで、そうやって現実の世界から感じる退屈さや平凡さを紛らわすような効果をもたらしているのだろうが、中にはそんな退屈さや平凡さを逆に強調して誇張することによって、現代の皮肉で滑稽な面などを煽り立てようとするものもあるが、それも別の意味での程度や範囲や傾向などの調整や調節であり、それがフィクションであるからには、人の興味を惹きつけようとしているからには、何でもないように思われては困るだろうし、簡単に言うなら喜怒哀楽の感情を催すような仕掛けを用意しているのだが、そういう意味で何が現状の世界で基準となっているかといえば、何でもないと思うような程度や範囲や傾向となり、その何でもなさからどれほど遠ざかれるかが、その種のフィクションを構成する上では腕の見せどころとなるのかも知れない。


2月20日「思考の限界」

 自分がわかっていることを全て合わせてもたかが知れているだろうが、それにわかっていないことを加えてもたかが知れているかも知れず、それ以外の意識できない物事や現象が世の中の大部分を占めているとしても、そんなのは無視してしまってもかまわないだろうし、自分が興味を持った物事について考えていればいいのであって、興味がなければ考えなくてもかまわないだろうが、興味があっても特に考える必要もないかも知れないし、そこで自分が何について考えようと、そんなのは自分の勝手だと思いたくもなるが、何らかの物事に注意が引き寄せられて、それについて考えざるを得ない事態となってしまえば、少なくともそれは自分勝手に考えていることではなく、考えさせられてしまっているとしか思えないし、実際にそんな対象によって考えさせられてしまっているわけだが、それが気に入らない対象であろうと好意を抱いている対象であろうと、それについて考えさせられてしまうわけだから、否応なく思考の対象となってしまい、それが不可解なことというよりは、それについて考えるのが自然な成り行きかも知れないが、そんな事態に直面しても考えることを拒否したくなることもあるかも知れず、実際にいくら考えてもわからないようなことを考え続けても、考えるだけ無駄に思われて、考えることよりも行動や行為を優先させなければならないのかも知れないが、そう思ってみたところで、そもそも何について考えているのかといえば、些細などうでもいいことについて考えているわけではなく、それが自分にとって切実で深刻に思われる物事であれば、考えざるを得ないはずだが、なぜかそうはならず、その代わりに考えるべきことが他にあるわけでもないのに、なぜかそこへと意識が向けられて、それがどうでもいいようなことだとは思えないが、他に理由があるわけでもなく、ただ関心を抱かされてしまうような対象に意識がとらわれて、それについて考えるのが自然な成り行きのように思われてしまえば、別にそうなってしまうことが取り立ててまずいとも思えないし、否応なくそうなってしまうのだから、それについて考えるしかないが、納得できるような結論や答えが出なくても考えさせられてしまうのであれば、そのまま考えていればいいのかも知れないが、それ以外には何もせずに、何ももたらされないまま、思考するだけに終始してしまうと、無駄に考えすぎていることにしかならないだろうが、そこではそういう成り行きになるだけで、思考以外の動作が休止状態になってしまうと、時にはそんな期間も必要かも知れないが、誰にとっても必要であるわけでもないし、そういう成り行きになってしまう人にとっては必要な迂回や回り道なのかも知れないが、そのまま迷路に迷い込んだまま出てこられなくなってしまう人も出てくるようだと、人によっては考えすぎてしまうことも致命的な過ちとなるのかも知れず、そういうところは十分に注意してかからないとならないだろうが、そうなる以前に考える方向が間違っている可能性もあるだろうし、単純に考えて結論を出してそこで考えることをさっさと切り上げてしまえば、それほど面倒なことにはならないのに、無理に難しく回りくどくこねくり回して、こんがらがるように考えてしまうこともあるのかも知れず、そうなると自らが勝手に行き詰まるような迷路を作り出していることにもなりかねず、思考の対象がそうなのではなく、思考している自らがおかしいのであり、なぜおかしくなってしまうのかと言えば、より手間や時間をかけて余計に深く緻密に考えれば、それだけより多くの実りを得られるような幻想を抱いているのかも知れず、逆に対象をいじくりすぎて駄目にしてしまうようなこともあるわけだから、そういうところでは考えることをやめる潮時も考慮に入れておかないとならないかも知れないが、具体的に何について考えているのかといえば、世の中の物事について考えていることは確かで、それが想像上の架空の物事であっても、他からもたらされた物事であれば、自らの妄想も含んだ世の中の物事であることには変わりなく、想像や幻想を伴うからそれに関心を抱くのだろうし、それに関心を抱くこと自体が幻想を伴っているわけで、それだけでも関心を抱いている物事に意識が惑わされていることになるかも知れないが、関心を持った物事にかかわりたくなるのだから、そんなかかわりたい思いがそれについての幻想を抱かせて、何かそれが自分にとって重要なことにも思われてきて、それにかかわることによって何か貴重な体験がもたらされるとも思われるなら、そういうのが幻想の内容や中身になるかも知れないが、自分にとって重要なことだからそれについて考えていて、それについて考えていること自体が貴重な体験だと思われていれば、すでにその対象にかかわっているつもりになれるわけで、たぶんそういうかかわり方が、それについて考えることから得られる実感であり、それについて考えているだけではそういうかかわり方しかできないわけで、こちらが一方的に幻想や妄想を抱いているに過ぎないのかも知れず、考えていることの全てが幻想や妄想というわけでもないが、それを思考することによって対象にかかわっているつもりになること自体が、それについての幻想や妄想を伴ってきてしまい、それだけでは不十分だと思えば、考えるだけでなく、直接の行動や行為に結びつけようとするだろうし、そういう直接的な行動や行為にもそれ特有の幻想や妄想が伴ってくるにしても、何かを考えているだけでは不十分で中途半端だと思えば、思考に伴って生じる幻想や妄想などとは違う別の幻想や妄想も必要に思われてくるかも知れず、それが何かをやっている時に感じる当事者意識であり、直接手を下している感覚かも知れないが、それが紛れもない確かな実感を伴ってくるとしても、やっている内容や中身がお粗末であれば結果が伴ってこないだろうし、結果が伴っていることをどうやって感じるかというと、他からの評価や評判によって、何らかの結果を得たと思われて、それが確かな実感だと思われるのだろうが、それが同じようなことをやっている他の人たちとの共鳴現象や共振現象である可能性もあるだけに、それが集団で感じる共同幻想のようなものでしかない可能性もあるわけだから、どこまでやっても幻想や妄想などから実感を得ていることになってしまうのかも知れず、そういう意味で思考や行動や行為から当事者意識などの実感を得ることが、自分が思っているほど重要でも貴重でもない可能性もあり、何かを重要だと思ったり貴重だと思ったりすることが、その対象にかかわることで幻想や妄想を得たいという思いの表れなのかも知れない。


2月19日「疑心暗鬼」

 人の態度や言動からその人の意図や思惑を推し量ることができるかも知れないが、推量するような意図や思惑など持ち合わせていない場合もあるだろうし、また態度や言動とは直接関係なく、秘めた思いがあるかも知れないが、人が何をどう思っているかなんて、すぐにわかるようなことでもなく、わからなくてもかまわないのかも知れないし、余計な詮索や疑いを抱いて、時間や手間を浪費するのがいやなら、そういう当て推量の類いはやらない方が無難かも知れないが、人の態度や言動が気になって疑い出すときりがなく、そうなると他人を疑っている自身が逆におかしな意図や思惑を抱くようになって、それが日々の態度や言動に表れて、他人から疑いの目で見られてしまえば、その人の周囲で疑心暗鬼の感染が広がってしまうのかも知れないが、痛くもない腹を探られる人の気持ちになってみれば、人間不信の原因を作ってしまうのが、他人を疑いの目で見ることになるのは当然に思われるわけだが、何かのきっかけからそうなってしまうわけで、そのきっかけが外部からもたらされたり、心の内にあったりして、それが原因で不安になるから他人を疑いの目で見てしまい、他人を疑いの目で見るから、それが態度や挙動に現れて、それを見た他人から逆に疑いの目で見られてしまうという悪循環に陥ってしまうのかも知れないが、そういう成り行きは回避しようとしてできるものでもなく、その場の成り行きからそうなってしまえば、そういった悪循環からなかなか抜け出られなくなってしまうのだろうが、程度の差こそあれ、通常の状態でも誰もが他人を疑いの目で見ていて、また他人から疑いの目で見られていて、お互いに相手を疑いながら人間関係を維持しているから、何かのきっかけから相手への疑いが増してきて、それが原因で人間関係がこじれてきて、修復不可能な水準にまで達してしまえば、そこで関係が壊れて、縁が切れてしまうわけで、そういった成り行きを誰もが経験しながら今に至っているわけだから、誰もが他人に対しても自分に対しても不信感を抱きながら生きていて、そういう面で救われることはなく、何かどうやってもうまくいかないような成り行きの中で、それなりに人間関係にまつわる悩みを抱え込んでいるわけで、そういう誰もが抱え込んでいる悩みにつけ込んで、人生相談などと称して悩みを解決できるという触れ込みで金儲けをやっている人も結構いるかも知れないが、占い師や霊媒師や探偵などから社会学者や心理学者や精神科医や哲学者まで、現代ではその手のサービス業がそれほど繁盛しているとも思えないし、それだけ他人と深くかかわりを持たなくても済んでしまう時代が到来しているのかも知れず、そういった悩みの程度を軽くしているのがネット的なかかわりであり、こちらの都合が良い時に都合がつくだけかかわっていればそれで済んでしまうようなことになれば、大して人間関係に悩まなくてもいいような成り行きになってしまうのかも知れず、そういう意味でネットの利用が手軽で便利に思われるのだろうが、そこからネット特有の悩みも生じてきて、それは悩みというよりは疑念を増幅させる作用かも知れず、ネットを通じて疑念が感染を拡げて、多くの人々が疑心暗鬼となり、それに伴って陰謀論者も増加して、人が悩んでいるというよりは、それが社会にとって悩みの種になっているのかも知れないが、別に社会が悩んでいるわけでもなく、それはメディア的に流行っている社会現象の類いでしかないわけだが、でしかないと言っても、それに直接かかわっている人にとっては、それが心の全てを覆っているような人も中にはいて、本気でそういった現象の中で活動しているのだろうし、そういう人の周囲ではそれが現実の出来事として目の前で起こっていることであり、本気でその種の活動にかかわっているのだから、それが疑いの余地がない対象であることは言うまでもなく、そういう人たちの見立てによれば、実際に何らかの陰謀が巡らされて、大がかりな大衆洗脳のようなことがおこなわれているわけで、そのことが原因で今世界が危機に陥っているのだろうが、それが疑いの余地がないことだとすれば、彼らが何に疑いの目を向けているのかといえば、そうした陰謀を無視して相手にしない一般の人々やマスメディアや政府などの国家機関に疑いの目を向けているのだろうが、彼らにしてみれば自分たちが世間から疑いの目で見られていることは承知しているだろうし、できればその疑いを晴らしたいと常々思っているのだろうが、どうやれば疑いを晴らすことができるかとなると、陰謀が事実であることを証明しなければならず、そうなると国の指導者や国家元首や有力な政治家などの態度や言動や挙動のおかしいところを指摘して、それが陰謀を企んでいることの証拠だと主張することもあるだろうし、またある国の国家的な指導者がすでに死んでいて、替え玉とすり替わっていることを指摘したり、何らかの政策が発表された裏で何か別の計画が進行中であるとか、その計画が人類全体を支配する計画であったりするわけだろうが、そういう噂を流すことがネットを通じてSNSで気軽に手軽にできてしまうから、面白半分にも流行ってしまい、大半の人たちはそれを娯楽の対象として扱っている一方で、中には真に受けて本気で信じてしまう人も出てきて、本気でおかしなことを主張し始めてしまい、そうやってこじれてしまう人が多いほど、そういった噂話を信じてしまう人もそれだけ多いことになるわけだろうが、そこにも程度の差があって、中にはそうなってそういう傾向が重症化してしまう人もいるにしても、そういう人たちはあくまでも少数派で、その一方で大半の人たちも時には真に受けることもあるが、同じような紋切り型の話ばかりで飽きれば、正気に戻る程度のことであれば、それほど深刻には受け取られずに社会問題化もしないのだろうが、逆にそういう深刻にならない程度のたわいなさによって世界が支配されつつあるのかも知れず、実際に深刻な独裁などによって民衆が苦しめられている国では、絶えずそういった中途半端なたわいなさによる支配を嫌って、度々ネットを遮断したり検閲を強化して、国内を悲惨さや深刻さに支配された状態に保とうとしているわけで、そういう状況からわかることがあるとすれば、ネットに大した検閲や遮断が生じないような国では、それを支配された状態とはいわないかも知れないが、中途半端なたわいなさによって支配されている一方で、ネットの検閲を強化したり、意図的な遮断を繰り返すような国では、ネットとは別の面で何らかの深刻な問題が生じている可能性があるわけで、そういった国ではネットも深刻さによる支配の道具として利用している傾向もあるかも知れず、それがその手の陰謀論論者が危惧する深刻な状態でもあるわけだ。


2月18日「予想と経験」

 記憶が過去の記憶であるのは言うまでもないことだが、フィクションでなら未来の記憶というのもありそうで、未来に起こる出来事を覚えていれば、それは覚えているのではなく、予知夢などが知らせてくれることかも知れないが、実際にそれが起こってみないことには確かめる術はないとしても、これから起こることを予知できれば、少しは気休めとしての安心感を得られるかも知れないが、現時点で未来に起こることを確かめられるのは、物体の運動や気象現象のような物理法則や科学実験などから得られる数式によって計算できる範囲内のことでしかないかも知れないが、確かめられなくても、こうやればこうなるという理屈を信用するなら、理屈通りのことが起こると思いたいだろうし、理屈が定かでなくても、過去に起こった事例と同じようなことがまた起こるかも知れないと思うような雰囲気や兆候を感じ取ったつもりになれるかも知れないし、確かなことがわからなくても、これまでに生きてきた経験に当てはめて、あるいは知識や勘によって、これから起こることを予想しながら生きている人がほとんどかも知れないが、それでもその時になってみないとわからないことや、その時になってみてもわからないこともあるわけで、そういう意味で予想を裏切られるような思いがけない出来事や現象に遭遇して驚くことによって、それが新たな経験として積み重なり、そこから知識を得たり、勘が養われるわけだろうが、どうやってもどんなことを経験しても、結果的に何らかの事態を乗り越えたり乗り越えられなかったりして、それに対応したり対処した後にも生き残っていれば、何とかなったと思うだろうし、意識しなくてもそこで何らかの経験が積み重なるのかも知れないが、その経験がその後のその人の人生の中で生かされようと、あるいは悪癖を生じさせて妨げや障害になるにしても、経験が絶えずその人を変え続けているのは確かなことだろうし、もちろん経験の程度や傾向によって変化の振れ幅も違ってくるだろうが、これまでの延長上で済むような範囲内の経験であれば、予想のつく範囲内での変化になる一方で、人を激変させるような激しい経験となると、予想も予測も全くつかないような変化となるかも知れないが、経験にも様々な経験があり、一つ一つの経験は微々たるものかも知れないが、それらが結びついて重ね合わせられると、思いがけない効果や効力を発揮する経験もあるかも知れず、一概に経験によってその人がどう変わるかなんてわかるはずもないことかも知れないが、その人が予想外の変貌を遂げたのに驚いて、その人の身に何が起こったのかと想像しても、想定内のありふれた出来事を想像してしまうのが関の山かも知れず、ありふれた出来事によって予想外の変貌など起こるはずもないが、人が変貌した原因や理由を想像して納得すること自体が想定内の反応なのだろうから、そこから思いがけない驚きの真相などが導き出されるはずもなく、それは誰かが期待した通りの驚きの真相であり、誰かが期待した通りの驚きの変貌でもあるわけだが、その誰かが誰なのかといえば、世間一般に存在する誰かになるだろうし、不特定多数の誰かの存在が絶えず世間一般の中で想定され続けているのかも知れず、そうした想定内の存在に向かって期待通りの驚きの真相や驚きの変貌が語られ続けている状況もありそうだが、そんなことを想像してみても、そんな予想を裏切るような人や物事の予期せぬ変貌に驚くこともあるだろうし、なぜそうなってしまうのかと問うても、それがわからないから予期せぬ変貌や変化が起こり、わかってしまえばそれは予期せぬことではなくなってしまうのだが、その一方でそれがいったん起こってしまえば、それが予想できたことだと主張する人が出てきて、ちゃんと前兆現象が起こっていたのに見逃してしまったから予期せぬ出来事のように思われたなどと主張して、予期せぬ出来事であることを打ち消そうとするわけだが、そうやって予期せぬ出来事を想定内の出来事に変えようとするのは、いつも決まってそれが起こった後からであり、逆に起こる前から想定内であれば、それは初めから予期せぬ出来事ではないわけだが、想定内の出来事が起こった後から予期せぬ出来事へと変わることがあるとすれば、想定を上回る出来事が起これば、その時点ではそのこと自体が予期せぬことであり、すぐさま想定自体を改変して、想定を上回る出来事が想定内に収まるような想定を新たに設けるのだろうが、それも従来の想定を上回るような出来事が起こった後からやることであり、前もって想定を上回るような出来事が起こることを予想して、想定の上限を事前に引き上げておくわけではなく、まずは何らかの経験がないと、そもそもの想定ができないわけで、想定内の出来事が起こることを予想するには、予想を生み出すような経験が必要となるわけで、何かを経験してから、そうした経験をもとにして予想を見積もるわけだが、そうであるから同じような種類や傾向の経験の場数が多ければ多いほど、それと同じような種類や傾向の出来事が起こることを予想する際にも、それだけ予想の精度が上がるのだろうが、場合によってはそういう成り行きに伴って、同じようなことが起こるように条件を整える作業もおこなわれて、同じような条件下で同じようなことが起こるように出来事が起こる環境を人為的にコントロールしようとするわけで、それが人類の文明が成し遂げてきたことであり、これからも成し遂げようとしていることであるのは、今や誰もが気づいていることかも知れないが、人の思考や行為にそういう傾向があるから、絶えずこれから起こることを予想しようとしているのと同時に、これまでの経験をその予想に役立てようとする一方で、予想したことが確実に起こるように前提条件や環境条件を整えようとするわけで、そういう成り行きが何らかの主張に反映しているとすれば、主張の中でこれから起こることを予想して、その予想が確実に起こることを証明しようとするのだろうが、それが起こる条件として挙げるのが、これまでに起こってきた様々な出来事であり、さらには過去に存在して、今でも存在する物事でもあるわけだが、それらが前提となって、そうした前提条件を踏まえてその延長上で何かが確実に起こると予想するわけだろうが、もちろんそれら全てが前提条件になるわけではなく、予想に関連して要素や要因を取捨選択しているわけで、そうした取捨選択が言説が説得力を持つ前提条件や環境条件となることは確かだが、それは言説が説得力を持つ条件であり、それがこれから確実に起こると主張する何かが起こる条件と重なるかどうかは、やはりそれが実際に起こってみないことには何とも言えないところなのかも知れない。


2月17日「好意的な受け止め方」

 人が何を目指してどう行動するかとなると、普通に考えて目指すことがその人のやりたいことになるわけだが、では特に目指していなくてもやりたいことや、やりたいことではなくても目指していることがあるかとなると、中には何らかの事情でそういうことがあるかも知れないが、例えば自分が目指していることを意識せずに目指していることがあるかというと、それを意識しなければ目指していないわけだから、そんなのはあり得ないはずだが、結果的になってしまう立場や境遇だと、目指していたわけでもなかったのに、そうなってしまったことになるだろうが、それが意識せずに目指していた立場や境遇になるかというと、意識にとってはそんなことはないはずだが、その場の成り行きや経緯から判断すれば、結果的にそうならざるを得ないような立場や境遇になってしまうこともあるのかも知れず、当人はそうなろうとは思っていなくても、なぜかその場の成り行きに導かれながらそうなってしまったと解釈すれば、何か筋が通っているように思われる場合もあるのかも知れず、しかもそれがその人にとって都合の良い立場や境遇なら悪い気はしないだろうし、別に目指していたわけでもないが、思いがけずにそうなってしまって大歓迎な立場や境遇というのもありそうだが、そうだとすれば意外とそれほど意識していないが、うまく立ち回ろうとした結果が肯定的な立場や境遇をもたらしたのかも知れず、そうなることを目指していたわけでもないのに、途中でうまく立ち回ろうとしていたことが好結果をもたらして、さらにそうした結果に満足しているなら、結果的にはそうなることを目指していたような気になってしまうこともあるだろうし、そういう棚からぼた餅的な幸運に恵まれることもそうはないだろうが、はっきりした目的や目標があってそれに向かって努力するのはわかりやすいが、たとえそうであっても途中で遭遇した紆余曲折によって目的や目標から逸らされてしまい、結果的には当初に抱いていた自らの将来像とは似ても似つかない立場や境遇になってしまえば、それをどう受け止めればいいのかわからず、困惑するしかなくなってしまうかも知れないが、それが自身にとって肯定的な結果であれば、困惑するどころか結果に満足していて、むしろそうなった時にはすでに当初に抱いていた目的や目標のことなど忘れているかも知れないし、忘れていなくても当初の目論見や計画が甘くずさんで、そんな実現できないような目的や目標を掲げて努力していた自身が、幼稚で世間知らずであったと反省しているかも知れないし、逆に今では当時よりだいぶ大人になってより現実的で実情に合ったことをやっていると思えば、何か自身が当時よりは心身共にだいぶ成長したような実感を伴ってくるかも知れないが、それも結果に満足しているからそう思われるのかも知れず、自身にとって不満な結果であればそうは思わないし、その不満にも程度の差があって、不満はあるが結果に納得できれば妥協して、もたらされた立場や境遇を受け入れるようなことにもなるだろうが、自分はこの程度の人間なんだと自らを卑下するようなことになれば、卑屈な態度が似合う人間になってしまうが、それも周囲の人々の存在を意識した演技に過ぎないかも知れないし、そういう人は意外と人知れず誇大妄想を抱いている可能性もあって、人を見た目で判断するわけにも行かないだろうが、そういう卑屈で面倒な態度がひねくれた性格をもたらすのかも知れず、何か体裁を取り繕うようなもったいぶった態度が身についてしまうと、皆さんの顔色をうかがいながらこんな演技をしているが、本当の自分は違うのだと周囲に知らせているようにも思われて、そんな見え透いたバリアを張ってもあんたが人として大したことはないのは誰もがとっくにお見通しだよと周囲の冷たい視線と気のないお世辞言葉が知らせているわけだが、そういう建前重視の表面的なやりとりを好意的に受け取る人はまずいないだろうし、もっと何か実質的で単刀直入なコミュニケーションからその人の活動内容に直結したやりとりがおこなわれるわけだろうが、実質的な内容を持ち合わせていない活動となると、内容がないことを隠すためにも空疎な会話が活動の中で空回りし続けるのかも知れず、何もないから言葉で取り繕うしかないようなことだと、必要以上に空疎な無駄話を強いられて、そこで時間を浪費しているのに、相手を疲れさせて眠気を催させて判断を鈍らせるために、執拗に相手をその種の無駄話に誘い込むような戦術がとられて、そうやって判断を鈍らせたところで詐欺的な儲け話を持ちかけて罠にはめるような手法がとられるのかも知れないが、そういうことまで考慮に入れるなら、目指していることが必ずしも言葉で示されるわけでもない経緯や事情が生じている場合があり、自分でも自分が何を目指しているのかわからないうちに、その場の状況が結果的に目指しているような成り行きに巻き込まれてしまうと、そうなってしまった結果が自分にとって肯定的に受け止められるようなことなら、それ以前から自分がそうなることを目指していたように思われることもあるかも知れないが、何か結果が釈然とせず、しかも不満に思われるような結果であれば、これは自分が目指していたのとは違う結果だと思うしかなく、はっきりと詐欺的な被害に遭ったなら、他人に騙されたと思うだろうが、自業自得気味にそうなってしまうと、責任を転嫁する対象を定められずに怒りの持って行き場がないことにもなってしまうだろうし、わけがわからないうちにそうなってしまったと思うしかない場合もあるものの、それとは違って事前に何かはっきりした目的や目標を抱いていても、他の何かによってそういった目的や目標を抱くように仕向けられる経緯や成り行きもあるわけだから、それも何らかの成り行きの結果としてそういう目的や目標を抱くようになったと見なせば、自分でもよくわからない成り行きに巻き込まれたあげくに、目的や目標を抱くように仕向けられてしまったことが忘れられている可能性もあり、たとえそうなっても結果が良ければそれを好意的に受け止めてしまい、そうなった経緯や途中の成り行きがどんなに理不尽なものであっても結果が良ければどうでもよくなってしまうが、逆に結果が悪ければ、いつまでもそれを根に持って、必要とあらば自分をそんな状況に追い込んだ犯人捜しをやって、犯人が見つかればその人への恨みや憎悪を募らせることになるのではないか。


2月16日「願望の成就」

 現状で成り立っているように見える秩序や体制が、今後何かのきっかけから成り立たなくなってしまうこともあるかも知れないが、どういうことをきっかけにして成り立たなくなってしまうのかを予想したり予言したりすることもできるものの、そうした予想や予言が当たらないことも多く、それだけ既存の秩序や体制を維持継続しようとする力が働いていることも確かだろうし、それらを支えている何らかの組織や機関が存在していて、そこに政府や企業などの各種団体もかかわっているはずだが、それらの崩壊が間近に迫っていることやいずれ存続が困難になってくることを予想したり予言したりすることに、何か意味や意義があるとすれば、ただ危機感を煽るようなことをやって世間から注目されたいからそんなことをやるという以前に、そうなることを期待しているはずで、期待しているから期待通りのことが起こると予想したり予言したりしているわけで、予想や予言はそれをやる人の願望でもあるのかも知れず、それがどんなに危機的で深刻な状況だろうと、そうなることを期待しているからそうなるだろうと予想したり予言するわけで、そうした願望が成就するかどうかはさておき、それらが崩壊したり行き詰まったりする原因や理由として、都合の良い要素や要因を並べ立てて、予想や予言に説得力を持たせるわけだが、現状ではそれらが成り立っているように見えるわけだから、成り立っていることに関して都合の良い要素や要因などは無視したり過小評価するわけで、それらが崩壊したり行き詰まったりすることに関しては都合の悪い要素や要因になるだろうし、願望が実現することに関して都合の良い要素や要因は並べ立てるが、都合の悪い要素や要因は無視したり過小評価するとなると、そうした予想や予言の信憑性が低下することになるはずだが、その種の予想や予言にはそういった否定的な要素や要因は含まれないから、それらに信憑性があるかないかを確かめるには、予想や予言を否定するような要素や要因を探さなければならず、普通は探さないだろうし、少なくともそうした予想や予言を真に受けて信じてしまう人なら、自ら信じていることを否定するような要素や要因などはあえて探す気も起こらないだろうが、逆にそうした予想や予言を否定したい人が、否定するのに都合の良い要素や要因を探し出してきて、それらを否定する理由として並べ立てるようなことにもなるだろうし、そういう人は現状で成り立っているように見える秩序や体制から利益や恩恵を受けている人であり、それらを支えて維持存続したいから、それらが崩壊したり行き詰まる予想や予言を打ち消したいわけだろうが、逆にそうした予想や予言を流行らせたい側も、秩序や体制から利益や恩恵を受けているのかも知れないし、そうした秩序や体制が何によって支えられているのかといえば、それらをどのような水準で捉えるかにもよるが、例えばそれらが何らかの制度や慣習によって支えられていると捉えるなら、それが現状の世の中で主流となっている制度や慣習となるだろうし、そういった制度や慣習によって現状で支配的な秩序や体制が成り立っていると捉えるなら、そういう捉え方にはそれなりの妥当性があるように思われるだろうが、それは同時に秩序や体制が崩壊したり行き詰まると予想したり予言する人も利用している制度や慣習になるだろうし、それを利用することによって秩序や体制が維持継続していると共に、その秩序や体制が崩壊したり行き詰まると予想したり予言したりもできるわけで、そうなるとそこからそうした予想や予言をしている人の立場や境遇が現状で成り立っているように見える秩序や体制に含まれていることもわかるだろうし、含まれているのになぜそれらの崩壊や行き詰まりを予想したり予言するのかといえば、現状の秩序や体制の中にはそうしたことをやる立場や境遇もあると受け止めておけばいいだろうし、簡単に言うならそういう人は秩序や体制内の反主流派に属していると言えるだろうが、体制内の主流派は主導権を握って体制の維持存続を図ろうとする一方で、体制内の反主流派はそんなやり方では体制が崩壊するぞ行き詰まるぞと脅しをかけて、主流派から主導権を奪還しようと目論むわけで、その一方で体制に属さずに外から何かを言ってくる人もいるかも知れないが、そういう人は体制を支えている制度や慣習の恩恵を受けられないから、何を言っても無視されたり相手にされない可能性が高いだろうし、もちろん体制が一つとは限らず、様々な秩序や体制が重複して折り重なり合いながら成り立っているのが世の中の現状だろうから、その中で何かしら発言する機会を得ている人は、何らかの秩序や体制を支えている制度や慣習を利用することで、無視など相手にされない事態を避けられているのかも知れないが、そういう体制内の反主流派に属する人も含めて、はっきりしていることは、既存の秩序や体制の崩壊や行き詰まりを予想したり予言しているとしても、秩序や体制がなくなることを望んでいるわけではなく、逆に自らに都合の良い秩序や体制が構築されること望んでいる可能性が高く、現状で成り立っている秩序や体制に不満があるから、それらが崩壊したり行き詰まったりすることを予想したり予言したりするわけで、そういう面では天気予報などの予想や予測などとは性質が異なるだろうし、予想や予言にその人の私情が差し挟まれている可能性が高ければ高いほど、そうしたものの信憑性も疑われてくるわけだが、実際にそうした秩序や体制のおかげで困っている人が大勢いれば、そういう困っている人たちを助けるにはどうしたらいいかと考えるだろうし、それとその種の予想や予言が直接結びつくとは思われないだろうが、そうした予想や予言に現状に対する批判が含まれていれば、体制内の主流派を批判したい思いがあることは確かだろうし、そうした批判を無視して聞く耳を持たないような体制は崩壊するか行き詰まるしかないと思えば、自然とそんな私情が予想や予言に反映してしまってもそれほどおかしいとは感じられないのかも知れず、そういうことが反映されているように思われるその種の予想や予言を果たして客観的に正しいと見なせるかどうかは、やはりそれも自身が体制内の主流派に属しているか反主流派に属しているか、さらには主流派からも反主流派からも無視されて相手にされない立場や境遇であるかによって、その評価や信憑性も異なって感じられるのかも知れない。


2月15日「こだわりの実態」

 こだわっている物事が、それにこだわっているからといって、何か良い結果をもたらしているわけでもなく、逆そんな物事にこだわっているから、結果的に損をしているなら、こだわるのはやめるべきかも知れないが、現状でもこだわっているのだから、たぶんやめられないのだろうし、できれば得なことをやりたいのに、おかしなこだわりがあるばかりにそれができないわけでもないはずだが、こだわっていることが直接損得に結びつくわけでもないのかも知れず、それ以前にこだわりの全てがおかしいわけでも損なこととも言えないだろうし、確かに何かにこだわっているから融通が利かなくなって、それが損な結果をもたらしている可能性はあるだろうが、その一方で良かれと思ってこだわっているのだから、こだわっていることで何か得をしている可能性もあるだろうし、実際にある面では得をしていたり、別の面では損をしているかも知れないが、それでもこだわっているのだから、たとえ損をしている面があるとしてもこだわりをやめるわけにはいかない事情があるのかも知れず、そういうところで何かにこだわりながら生きていること自体が、何か面倒でどうすることもできない事情と共に生きていることになるのかも知れないし、何かにこだわっていることから生じる面倒な事情というのをなかなか解消できず、結果的に損なことになっているのかも知れないが、面倒なことにこだわりながらも生きていられること自体が、その人自身の存在の証しでもあり、そんなこだわりがその人を面倒でやっかいな人物にしているとすれば、それがその人の個性だと見なすしかないだろうし、そうなってしまうことをいいように受け取っても悪いように受け取っても、どちらにしてもそれとは別の面も伴っているようなことにもなり、それが何とも言えないようないやな感じを醸し出しているとしても、自らの意志でこだわっていればそれを正当化するしかないところだが、自身がとらわれている状況がそんなことにこだわるように仕向けているのではないかと疑いたくもなり、その場の状況がそれにこだわるように仕向けているのだとすれば、では同じような状況の中で生きている他の人も同じような物事にこだわるように仕向けられているかとなると、そんな人も中にはいるものの、全ての人が同じ物事にこだわってしまうわけでもないのも当然のことだが、何にこだわるかがそれなりに選択肢があれば、その中で何を選ぶかもある程度のばらつきがあるだろうが、同じような物事にこだわってしまう似た者同士で意気投合して仲間関係に発展することもあるだろうし、逆に考えや動作がかぶって競争や競合など関係になって、そこから何かというと互いにいがみ合ってけんか腰にもなることもあるかも知れず、こだわりが似通った者たちの間で何らかの関係が生じてきて、それに伴ってそこでの人間関係も複雑さを増してくるかも知れないが、そうなってしまうからと言って、実際にこだわっていればそのこだわりをやめられないからこだわっていて、そこで誰もが何らかの物事にこだわらざるを得ない事態に陥っているわけでもないとしても、何かにこだわらないとその対象への関心や好みも生じてこないだろうし、何かに対して好き嫌いなどの感情が生じている限りでそれにこだわっているわけだから、人の意識自体がそうしたこだわりから生じてくると捉えておくのが妥当なのかも知れず、意識自体が様々な物事へのこだわりが寄せ集まって形成されて、意識には何かしら関心を持った特定の物事へのこだわりが含まれていて、何かを意識すること自体がその何かへのこだわりを示しているから、そういった意識がその何かに結びついて生じてくるのであり、普段はそんなことまで意識していないにしても、意識を構成する様々な物事への関心の中でも、それなりに強く関心を抱いている物事に結びついてより強いこだわりが生じてきて、他の物事よりも強く関心を抱いている物事に結びついて、それに対するこだわりを意識するのだろうし、そこから普通に考えれば、より強い関心を抱いているのだから、意識とその物事との結びつきもそれだけ強く、それに対するこだわりも他の物事に対するこだわりよりも強いのだから、当然の帰結としてそれへのこだわりをやめられないだろうし、そこに他よりも強く関心を抱く物事が存在して、それに関心を抱く人にそれへのこだわりを持つように働きかけていると考えたいところだが、実際に働きかけているのは意識の方だろうし、意識が自ら関心を抱いて強いこだわりを持った物事に働きかけているわけだが、どう働きかけているのかといえば、自分に対して関心を持つように働きかけているのかも知れず、自分の方を振り向いて自分の存在を認めてほしいわけだろうが、それが自意識過剰のなせる業なのか、はたまたその物事との間で何らかの相互作用が起こっている証しなのかは何とも言えないところでもあり、意識の側の勝手な思い込みに過ぎない場合もあるだろうし、また功利的な目的でそういった物事が人をたぶらかそうとしているのかも知れないが、物事によっては人をたぶらかそうとする意識など持たないものもあるだろうし、意識のある人や動物などに関心を抱いているのか、あるいは何の意識もない物事に関心を抱いているかで、こだわる対象を区別しているわけでもないだろうし、何かの機械類にこだわっている人がその機械を擬人化して表現するようなこともあるとしても、それが自然なこだわりに見えればそれが特におかしいわけでもなく、意識の方がこだわっている物事に対してそういう表現を使わないと、他の物事との間で整合性がとれないのかも知れず、そうなると例えば飼っているペットと持っている人形などを同じような表現を使ってこだわりの対象としている場合もあるかも知れないし、そういったことの延長上で考えれば、例えば住んでいる都市や国へのこだわりが、それへの愛着から何か意識を持った物事のように扱って、時には病や健康の対象と見なしたり、そうやって何かと擬人化して表現するようになっても、特に不自然には思われないだろうが、そんなこだわっている物事への働きかけが何を示しているのかといえば、受動的には意識がこだわっている物事にとらわれていることは確かだろうが、能動的にはこだわっている対象を自分の都合のいいように変えたいという欲望を抱え込んでいることも確かなのではないか。


2月14日「神への信仰」

 何かに導かれながら生きていると思われるような成り行きが、その導かれている何かへの信頼や信仰をもたらすのかも知れないが、その何かというのが神であるなら、それが神への信仰になるのだろうが、何に導かれているのかはわからないが、何かに導かれているような気がする程度では、それをはっきりと神だと認識しているわけでもなく、それを神への信仰だと見なすこともできないだろうが、導いているのが誰かの声のような気がして、その声に従って動くようになれば、ある時それが神の声だと気づいてしまい、神が自分に声をかけて導いているような気がしてくるのかも知れないが、そういう信心深さが誰にでもあるとは思えないにしても、何かに導かれるように行動してしまうことは誰にでもあるのかも知れず、なぜそうなってしまうかと言っても、理由などわからなくて当然だろうが、少なくとも自分の意志で積極的に動くよりは、信頼できる他の誰かの指示にに従って動いた方が気が楽だろうし、それもその場の状況や情勢や自身の置かれた立場や境遇にもよるだろうが、自らがどう動けばいいのかわからないような時に、天啓のように何かがひらめいて、何かこうすればいいといった声が聞こえた気がして、そこで天から声が聞こえたと思ってしまい、それが神の声だと気づいた瞬間になるのかも知れないが、中にはそんな声に従って動いて、それがきっかけで何らかの成功に結びついた人もいるかも知れないし、そういった経緯で神への信仰を深めるような成り行きもあるかも知れないが、何の後ろ盾も加護もなく自助努力や自己責任だけで生きて行くよりは、何か助けてくれる存在があった方が心強いだろうし、そんな助けてくれる存在が身近にいればいいだろうが、具体的には血縁的な親兄弟などの家族や親戚などの親族や、勤めている会社や地域社会や国などが助けてくれればいいはずだが、中には宗教団体などに入っている人もいるだろうし、そういった社会的なつながりが生じていれば、何かにつけて助けられることもあるかも知れないが、助けた見返りとして奉仕するような義務も生じてくるかも知れないし、ただ一方的にこちらの都合だけが優先されるわけでもなく、こちらが助ける側に回らなければならない時もあるだろうし、そういう意味で完全に自らの味方になってくれるとは限らず、時には相手が攻撃してくることもあるかも知れないから、安心して身を預けるわけにはいかないし、そういうところで裏切られたらどうしようとか、自分が相手を裏切ってしまう場合もあるだろうし、そこから常に不安を抱えた心理状態になってしまうこともあり、そんな不安感が神への信仰に付け入る隙を与えているなどとは思わないだろうが、そういった不安感に押しつぶされないためにも心の支えとなってくれる信仰がほしいという心境になってしまうのかも知れず、それが神への信仰であれ、何らかの主義主張をもたらす思想信条への信仰であれ、そういった加護や後ろ盾となるようなものを求める心理を一概に否定することはできないのだが、自身を守ってくれる守護霊的な存在が単に自意識から生じているだけでは心許ないし、何かもっと強力で超自然的な存在であってほしいと思いたいわけで、そういった都合から神への信仰が生まれるとしても、そういう方面で信仰を深めていくと、次第に自分の都合だけで世界が成り立っているわけではないという実感が伴ってきてしまうのかも知れず、そこから自分を守ってくれるために神が存在しているのではなく、神に奉仕するために自分が存在しているような反転が生じてくれば、神のために、神が作った世界のために進んで自分が犠牲になってもかまわないような自覚も生じてきて、自分のために生きることよりも神のために生きることを優先させて、さらに神が作った世界のために生きるにはどうすればいいかという課題までも生じてくれば、そこから何やら大げさな使命感も生じてくるかも知れないが、そういう方面での空想や妄想がいくらでも大きくなるかどうかはよくわからないものの、そこまで事態が進展する人はそんなにはいないだろうし、自分の都合を神が叶えてほしいと思う程度にとどまる人が大半だろうが、そういった神と人との関係が国と国民との関係に転化されると、ややこしい事態を招くのかも知れず、それをややこしい事態と捉えるかどうかも人によってはそうは思わず、国を神のような存在と同一視するのが当然に思われるようなことにもなってくるだろうし、自分の都合を国が叶えてほしいという思いが反転すれば、自分の都合だけで国が成り立っているわけではないと思うのは誰もが思うところだとしても、自分のために生きることよりも国のために生きることを優先できるかとなると、それがどういうことなのかが判然としないかも知れないが、国に奉仕するために自分が存在しているとすれば、仕事の面だけから見ればそれは国家公務員がやればいいことだろうが、国のために進んで自分が犠牲になってもかまわないという自覚がどこから生じてくるのかとなると、他国との戦争などの際に兵士となればそういう思いも生じてくるかも知れないが、そういうところで神への信仰が国家への信仰へと移って行くような成り行きが、歴史のどこかで生じたのかも知れないが、それも過渡的な現象なのかも知れないし、神だけを全面的に信じている人もそうはいないのと同じように、国粋的に国だけを全面的に信じている人もそうはいないだろうが、政治的な戦略からそういった国粋主義的な思想を流行らそうとする意図や思惑ならいつでもどんな時代でも生じているだろうし、それを流行らせることが自分たちの勢力の権力を強めたり利益を得られるような分野が国家関連の機関で生じているからそういう意図や思惑が生じるのだろうが、それを真に受ける人が民衆の中にどれほどいるかも、そういった国家信仰に関する歴史的な経緯や成り行きが現状でどうなっているかを見極める上で重要な指標となるかも知れないし、時代が常に揺れ動きながら移り変わっていると見なすなら、そういった神や国家に関する思想的な内容や傾向も、一時的な流行り廃りに分類されるような現象と見なしてもかまわないような時代状況が今後到来するかも知れないが、もしかしたらすでにそういう時代が到来しつつあるのかも知れず、自らが得体の知れない何かに守られているような気がすることが、単なる気のせいとは思われないから、その守ってくれる対象を神や国家に求めても、それなりに限界や制約があることが周知の事実になりつつある時代状況を、今や誰もが実感しているのではないか。


2月13日「理屈ではわからないこと」

 理屈ではわからないことは、理屈で考えていたことを裏切るような事態に遭遇して、自らの考えが浅はかだったことを思い知ってからわかるわけだが、そうであるならカオス現象のようなさらに複雑で込み入った理屈を考えれば済む場合もありそうだが、そんな理屈がすぐに思いつくわけでもなく、すぐに思いつくような単純な理屈で物事を考えようとするから、それが破綻して理屈ではわからない物事や現象があると思ってしまい、理屈が駄目なら勘に頼ってさらに失敗してしまうのかも知れず、それでも理屈にこだわるならさらに難しい複雑な理屈を物事や現象に当てはめればいいということになるかも知れないが、大抵の場合はそんなことができるわけもなく、単純な理屈で考えてうまくいかずに、うまくいかないから苦し紛れに勘に頼って失敗して、それであきらめておしまいとなってしまえば、そういうことしかできない人となるわけだが、そんな人でも中にはうまくいくこともあるだろうし、やっていることの程度にもよるだろうが、うまくいったりいかなかったりしながら何かをやっているわけで、やっていることの全てがうまくいくなんてあり得ないわけだから、普通に生きていられる人が大半の世の中であれば、それなりにうまくいっている人が多いのかも知れず、そういう意味ではすぐに思いつくような単純な理屈ではうまくいかないとしても、さらに勘に頼って失敗してしまうとしても、それでも生きていられるとすれば、その程度でも取り立てて問題はないのかも知れないし、逆にその程度で済んでいれば普通に生きていけるような世の中になっていると考えてもかまわないのかも知れず、またある程度はうまくいかなくても失敗しても何とかなるような成り行きの中で生きているともいえるのかも知れないが、そういった試行錯誤が許されるような状態というのが普通に生きている状況であり、うまくいかない中でそれなりに失敗していても、たまには何かの加減でうまくいって成功することもある程度のことなのかも知れず、うまくいかないことを何度か繰り返せば、その中の何回かはうまくいくこともあって、それでうまくいったことにしたいのであれば、うまくいくとはその程度のことだと解釈しておけばいいのかも知れないし、そうであればうまくいかないこともたまたまうまくいったこともひとつながりの行為の中で起こることだと考えられ、同じようなことをやってもうまくいくこともいかないこともあり、やることに関しては多少の理屈もあるだろうが、理屈だけというわけでもなく、そうかといって勘に頼っているだけでもなく、うまくいかなくてもやり続けられるだけの根気も必要となり、絶え間なく努力し続けていれば、その中でうまくいくこともいかないこともあり、成功したり失敗したりしながらそれをやり続けているような状況となり、そうなるとその中で思いついた理屈が合っていないとか勘が狂っているとか一概には言えず、逆に理屈が合っていないからうまくいかないとか勘に頼っているからうまくいかないとか単純に結びつけてしまうことが間違っている可能性もあり、理屈や勘に頼りながらやっていても、たまたまうまくいったりいかなかったりするようなことになっていれば、あまり単純にうまくいかない原因を特定するわけにはいかなくなり、無理に原因を特定しなくてもかまわない場合もあるだろうし、その辺もやっていることの内容によって違ってくるのかも知れないが、何かの事情でうまくいかない原因を特定しないとやっていることが続けられない場合には特定せざるを得ないだろうが、うまくいったりいかなかったりすることで、確率的にうまくいく割合を増やすにはどうすればいいかとなると、うまくいくためのコツや理屈などを求めることにもなって、そうなるとうまくいくコツや理屈などが、うまくいくためには是が非でも必要に思われてくるわけだが、そんな場合でもコツをつかめないから理屈がわかっていないからうまくいかないとは言えるだろうが、うまくいかなかった結果からそんなことが言えるにしても、それでも何かの加減でたまたまうまくいけば、そうは言わなくなってしまうだろうし、そこでうまくいくコツを掴んだとかうまくいく理屈がわかってきたとか思ってしまうのかも知れず、同じようなことをやっているのに結果が違えば、結果から言えることも違ってきて、確実にそうだとは言えなくなってくるのかも知れず、そうであればやっていることとやった結果から言えることが結びついているのは確かだろうが、そう言えるとしても結果から言えることがこれからやることに結びつくとは限らないだろうし、そうなれば何かをやった結果から言えることが、これからやることにそのまま当てはまるとは言えないことになるだろうが、そうなってもたまたまやっていることが何かの加減でうまくいけば、また同じことをやればうまくいくのではないかと期待してしまうわけで、そして期待通りにうまくいけば、こういう時にはこういうことをやればいいと思ってしまうわけだが、実際に同じ条件下であれば同じことが起こるという理屈を信じられるだろうし、実験などでそういうことが確かめられた事例がいくらでもあるだろうから、そういった結果を踏まえて理屈の確実さを信じてしまうのだろうが、理屈の正しさが確かめられた事例と実際に自らが直面している事態とは違うし、確かめられた正しい理屈と自分が正しいと信じたい理屈も違えば、確からしいことは何もないはずだが、ただやろうとしている物事に理屈を当てはめて理屈通りのことをやればうまくいくことを期待しているに過ぎず、それが期待通りの結果をもたらすかどうかと自らが正しいと思いたい理屈が本当に正しいか否かが結果によって明らかになるとも思いたいが、それも単純には決まらない場合があるかも知れず、うまくいったのかいかなかったのかよくわからないような結果がもたらされると、それをどう判断したらいいのかわからず困惑して、何か理屈とは違う要因によってそうなってしまったのではないかと疑い出すときりがなくなるだろうし、それも想定される結果に過ぎないことであり、どうなるかは実際にそういった場面に自らが身を置いてみてからでないと判断できず、そうなっても判断できなければできないままになってしまうだろうし、そういうところで無理に理屈の正しさや勘の確かさにこだわる必要もないのかも知れない。


2月12日「老害の真相」

 大したことでもないのに騒ぎ立てることが何を意図して騒ぎ立てているとしても、そうした意図や思惑とは違った効果をもたらすことも可能性としてはあり得るだろうが、メディアを介して騒ぎ立てることと直接隣近所で騒ぎ立てることは本質的に違っているようにも思えるし、それを騒ぎ立てていると受け止めるのも違うのかも知れないが、騒ぎ立てているように見えるとしても、当事者には騒ぎ立てる意図はなく、何かを知らせようとしているだけかも知れないし、そう受け取っておく方が妥当な場合もあり得るだろうし、知らせている内容をどう受け取ればいいかも、それを受け取る側が判断するしかないだろうが、知らせてくる側の意図をくみ取ってほしいから知らせようとするのだから、なるべく相手の意図をくみ取るように心がける成り行きにはなるだろうが、勝手に相手の意図とは違う解釈をしてしまうかも知れないし、そういうところで互いに判断や解釈の基準を共有していないと、伝えようとする内容がうまく伝わらないことになってしまうのだろうが、特定の人に特定の目的を伝えるのであれば、そういうところでそれほど解釈の違いは生じないだろうが、中には誰に何を伝えようとしているのかがはっきりしないような伝え方もあるだろうし、それが広く世間に向けて何らかの情報を伝えようとするメディア的な情報発信となれば、それをどう受け止めるかが人によってもその人の社会的な立場や地位や境遇などによって多少は異なってくるかも知れないが、それも主張の内容によっては無視してもかまわないような程度の差になるかも知れないし、広く世間一般の反応となると、ある程度は想定される反応が期待されるようなことを伝えようとしている場合も多く、こういうことを伝えればこう受け止められてこういう反応が返ってくるだろうことを想定できるようなことを伝えている実態があれば、それだけ世間がメディアの情報発信に対して共通の判断や解釈の基準を持ち合わせていることになるだろうが、そうした基準に誰もが従って反応するかというと、多くの人が従っている中でもごく少数の人がそれとは違う別の基準を持ち合わせていて、何かしら反発するようなことになるかも知れないが、そうした基準も固定されているわけではなく、世の中の状況や情勢の変化に伴ってそれなりに揺れ動いているのだろうが、それに対して誰もが同じように受け止めて、同じような反応を示すからといって、その情報がたわいない毒にも薬にもならない人畜無害な情報であれば、そうした情報を伝えようとする意図があるのかないのかわからないようなことにもなって、特に意図などないと思っておけば済むようなことになってしまうかも知れないが、意図がなくてもそこに何らかの意図があると受け取ってしまう場合もあるだろうし、勝手に意図を邪推してしまうようなこともありそうで、具体的に何をどう邪推するのかと言えば、よくありがちなこととしてその人の都合の良いように邪推するのだろうが、伝える側が世間的によくありがちなことを伝えて、それを受け取る側が世間的によくありがちなこととして受け取って、そうなれば何を邪推しているわけでもないだろうし、そういった世間とはこういうものだという固定観念を情報を伝える側と受け取る側とで共有していれば、そこに情報を伝える側と受け取る側の双方にとって都合の良い世間が構成されていることになるだろうが、そうやって共有している世間的な固定観念が時代の状況や情勢の変化と共に通用しなくなってきている場合もあり、そうなると古くなって今では通用しなくなってきた固定観念によって思考や感情を構築している人が、それまでは通用してきた世間を知っているにもかかわらず、時代状況や情勢に合わない世間知らずな発言をして、そんな人がそれ相応の地位や役職にある著名人であって、それがメディアを通じて世間に広まれば、世間から叩かれるようなことにもなるだろうが、それもメディアを通じて伝えられるよくありがちなことに含まれていて、例えば頭の古い世間知らずな老人が身分の高い役職に居座っているのが老害だと思われて、そういうよくありがちな人がメディアを介した格好の攻撃目標となってしまうのもよくありがちなことでもあり、そういうよくありがちな事例も含んでよくありがちな世間が構成されているのだろうが、よくありがちでない世間などどこにもないのだから、世間とはよくありがちな社会の状態を示しているのかも知れず、そういうよくありがちな社会の状態を伝えるのがメディアの役目だと思っても差し支えないかも知れないが、そんな状況を真に受けてしまうことが、世間的な常識や固定観念に思考や感情をとらわれてしまうことにもなり、そういった世間的な常識や固定観念への依存度が高いほど、よくありがちな世間を知っているつもりの世間知らずな老人とも親和性が高いことになるかも知れず、そういう意味でよくありがちな世間的な常識や固定観念などは知っておいた方がいいものの、身も心もそれらに依存しすぎてしまうと時代の変化に取り残されてしまうことにもなりかねず、そんな事態にならないようにするにはどうすればいいかというわけでもないが、自然とそうなってしまうのは避けようがないのかも知れないし、そうなってしまう人など世の中にいくらでもいて、そんな事例はありふれているから、それがよくありがちな事例としてメディアを通じて世間に伝えられるのだろうし、意外と誰もがそういう人がでてくるのを心待ちにしていて、別に罠にはまってしまうわけでもないだろうが、社会的に高い地位や役職にある老人というのは、世間的な常識や固定観念に依存して振る舞ってきたから、周囲から安心して支持されてその種の地位や役職に収まっている場合が多く、そうであるならなおさら人一倍古い常識や固定観念にとらわれていて、それを頑なに信じている可能性も高いわけで、だからその手の標的になりやすいと言ってしまうと、その人に責任がないかのように思われてしまうかも知れないが、そういう人を攻撃することによっても、世間的な常識や固定観念を刷新して、世の中を時代状況や情勢に合わせるような作用が働いていると見ておいた方がいいのかも知れない。


2月11日「決定的な違い」

 取り立てて何と何を比較しているわけでもないのに、何か一つの物事について他とは何かが決定的に違うと思われるとすれば、実際にそこに大きな違いがあるわけではなくても、何かが違っているように思われるのかも知れないが、ではなぜ他と決定的に違っているように思われてしまうのかといえば、他と比較しているわけではなく、些細な違いを拡大解釈しているのでもなく、ただ単に何かが違っているように思いたいのかも知れず、どうでもいいような些細な違いに注目したいというわけでもないのに、逆に言えばそこしか違いが見つからないから、どうでもいいような些細な違いを強調せざるを得なくなってしまうのかも知れないが、そういう違いを強調したところで何がどうなるわけでもなければ、それが気のせいでしかないというとそうでもなく、そんな違いに注目したい人が他にも大勢いて、そんな人たちと一緒になって些細な違いを大げさに強調したくなると、大勢でその違いを強調することによって何かが動いたような感触を得られるのかも知れないが、それも些細な変動に過ぎないのかも知れないが、そうなったことでさえも大げさに強調したいわけで、そうした大げさな強調自体が世の中では宣伝や煽動などによってありふれているから、その裏で決定的な違いが見逃されてしまう事態になっているとすれば、些細な違いを大げさに強調する行為が決定的な違いを隠蔽していることになるのかも知れず、意識して隠蔽しているつもりがなくても、結果的に決定的な違いから人々の目を背けさせることに成功しているとすれば、ではそこで多くの人が見逃している決定的な違いとはなんなのかというと、多くの人たちが強調している何かとは決定的に違う何かであり、それが何だかわからないから何かが決定的に違っていると思われるが、決定的に違っていると思われるのに、その違いを決定できないという自己矛盾に陥っているのかも知れず、そんな状態が何かが決定的に違っているように思われる状態なのかも知れないが、何が違っているかもわからないのに決定的に違っているわけでもないだろうし、ただそんな気がしているだけなら気のせいでしかあり得ないが、そういったうまく言い表せないのに言いたいことが誰にでもあるのかも知れないし、そこで何かを察知しているからそう思われるわけで、何も察知していなければ、それが決定的な違いとは思えないだろうし、その違いというのが本質的な違いと、枝葉末節で些細などうでもいいような違いとの差異であるのかも知れず、しかも世間で些細などうでもいいような違いが強調されすぎているから、それとは本質的に異なった何かの存在が察知されると、何かそれが他の些細な違いが強調されすぎている何かとは決定的に違う何かなのではないかと感じられてしまい、それが決定的な違いを感じ取ってしまう瞬間かも知れないが、では本質的な違いが決定的な違いなのかというと、それだけではそういうことではなく、他で些細などうでもいいような違いが強調されすぎているからそう思われるわけで、他でそんな違いが強調されすぎていなければ、そうは思われないのかも知れず、それがなければただの違いであり、それだけでは本質的な違いだとも思われないようなことかも知れないし、取り立てて他の何と比べる必要もないことかも知れないが、他で強調されていることがたわいなくどうでもいいような比較に終始していることに飽きているところに、不意にそれとは違う何かに遭遇すると、何かそれが決定的に違うのではないかと思われてしまい、場合によっては大げさに驚いてしまうのかも知れないが、それ自体はそうだとしても、それによって他で強調されているどうでもいいような物事への見方や考え方が変わるわけでもなく、逆にそんなものを目撃してしまうと、改めて日頃から強調されている些細な違いがどうでもいいことのように思われてしまい、従来からの見方や考え方が変わるどころか、そういう見方や考え方が正しかったことを確信して、ますます世間で強調されている些細な比較を小馬鹿にしてしまい、そういう傲慢な思い上がりをさらに助長してしまうのかも知れないが、時にはその決定的な違いがあるように思われる物事自体が、決定的に違うという思いを裏切っている場合もあるわけで、自分でそれを決定的に違うと決定していると思っていても、そう決定させられている可能性があり、何かをこうだと決めつけることが、他から決めつけるように仕向けられていると、それが自分の決定だと錯覚してしまうわけだが、それが自分では気づかないところでもあり、そういうところで気づかなければならないのは、他人の断言口調を自分も真似ているのではないかと疑ってみることが肝心かも知れないが、そういう断言口調で断言することが、何かをこうだと決めつけることであるのは言うまでもないことだが、そのこうだと決めつけられた物事が他とは決定的に違うかというと、比較対象の定かでない決めつけというのが、他の物事を必要としない決めつけとなって、これはこういうことだと言い放つようなことになってしまうわけだが、そういう歯切れの良さをどこまで信用してもかまわないのかというと、信用してしまうからそういう断言口調に惹かれてしまうのだろうが、逆に何も決定的なことは言わずにひたすら曖昧な物言いに終始していると、そういう物言いは信用できないだろうし、そうであるなら断言口調で決定的な違いを言い放つようなパフォーマンスに惹かれてしまうのも無理もないように思われるのだが、それでは断言口調であるかないかが信用できるかできないかを決めていることにもなってしまうだろうし、その辺で何か思い違いをしている可能性があるのかも知れないが、たぶんそれは思い違いなどではなく、実際に誰かの断言口調のパフォーマンスに乗せられて、どうでもいいような些細な違いを決定的な違いだと思い込まされている可能性があり、そういう煽動的なパフォーマンスに魅入られてしまうと、自然と自らもそんな口調を真似るようになって、何かというとすぐに他との決定的な違いを強調して断言口調で言い放つようなことをやってしまい、そんな自らに陶酔してしまうことにもなってしまうのかも知れないが、それとは決定的に違う何かが世の中にあるかというと、大抵は決定的に違うのではなく、些細でどうでもいいような相対的な違いばかりなのかも知れない。


2月10日「原因の特定」

 あえて何の理由があって屁理屈の類いを主張する成り行きになるはずもないのだろうが、そこで何かが起こったことについて、それが何に起因して起こったかがわかっていても、それだけが原因ではないかも知れないと思えば、可能なら他の原因も探そうとするのだろうが、原因と見なされる物事と結果と見なされる物事を一連の現象として結びつけて、主な原因がそれだと特定されると、そういうことにしておきたいということであり、それ以上いくら詮索しても無駄に思われるような状況であれば、そういうことにしてそれで原因が特定されて一件落着となれば事が収まるのだろうが、それでも中には後から蒸し返して、何か文句を言いたい人が出てくるような場合もあるものの、そうなった時に改めて原因と結果を巡る論争のような事態が再燃するかも知れないが、そうならなければ原因を特定する作業がそれ以上は進展する成り行きにならないだろうし、そうなれば原因と結果を結びつける作業がそこで終了するわけだろうが、原因として特定されるものとしては、人が納得できるようなものでないと、なかなか原因とは認められないだろうし、納得させるために原因探しがおこなわれて、納得させることができれば作業が終了するわけだろうが、納得できるような原因が見つからなければいつまでも続いているかというと、うやむやなままでもいつの間にか終わっている場合もあるものの、いつまで経っても原因を追及している人がいるとしても、そういう人は無視するか黙らせればいいだろうし、それをやることが趣味や仕事になってしまえば、納得できる原因が見つかろうと見つからなくても、趣味や仕事でそういうことをやっているわけだから、謎解き作業をやっていたいわけで、それをやること自体が目的化して、いつまで経っても原因の追及をやり続けるような成り行きになってしまっても、そういう場合はすでに原因が見つかっているのに、そこを意図的に通り過ぎて、さらに原因の追及をやり続けている可能性もあり、そうなっている時点で続ける理由がなくなってしまうのがいやだから、原因が謎のままである状態を固定して、そうやっていくらでも結果に難癖をつけたり、何度でも蒸し返して納得できない心理状態を保ちたくなるのかも知れないが、そんなことを延々とやり続ける人がいたら、その人にとってはいつまで経っても未解決のままになっているとしても、他ではすでに解決済みの問題となっていたりして、そういう物事へのかかわり方としては往生際が悪い部類に入ってしまうのかも知れないが、ある特定の物事へと情熱を傾ける傾向というのは、時として滑稽に見えるほどの異常な執着心を生み出して、人を特定の物事に縛り付けて離さないような成り行きをもたらしてしまうのかも知れず、その一つとして原因を追及する作業があるとすれば、それが同時に謎解きへの執着を意味するとしても、解くべき謎があること自体がその人の思い込みの中では当然のことかも知れないが、解かなくてもかまわない謎などありはしないだろうし、謎を解くことが目的化していれば、謎があればそれを解こうとするわけで、それを反転させれば、そこに解くべき謎があれば謎を解く作業をおこなえるわけだから、まずは謎ありきというよりは、謎を解く作業をおこなうにはどうすればいいかが、目的を遂行する上での課題となってくれば、謎を探すことになるだろうし、謎を解く以前に謎探しをおこなう必要が生じてきて、謎解き探偵のような役割を成り立たせようとするのかも知れないが、そういう役割が恒常的に成り立っているのが、その種のフィクションになるだろうし、謎解きがメインのフィクションを楽しむようなことも娯楽としては選択肢に入ってくるかも知れず、そうなるとそれが仕事というよりは趣味や娯楽の方へと関心が移って行くのだろうが、そういう成り行きに従って誰もが楽しめる手軽な娯楽として謎解きをメインとしたフィクションが世の中で流行るのもよくあるケースなのかも知れないが、解くべき謎がフィクションの中にあれば、物語の進行に従って、謎が次々に生じてくる一方で、それらが次々と解き明かされることで、謎解きの醍醐味を味わえるわけだろうが、中には物語の進行に先駆けて謎を指摘してみたり、解き明かされる前に解き明かそうとしたりして、そうやって謎解き体験を堪能しようとする人も出てくるかも知れないが、当たり前のことだが謎はフィクションの中だけでなく現実の世界にもあるわけで、しかもフィクションの中にある謎と現実世界にある謎とがつながっていれば、より好奇心をかき立てられるだろうし、そうやって謎解きへの興味を増幅させるべく、好奇心を満足させるような謎をひたすら探し出そうとしている人もいるかも知れないが、謎を謎として特定するのではなく、謎探しの理由や原因が他にあるのではないかと疑問を抱くことも可能かも知れず、何か別のことから目を背けさせる口実として謎解きに夢中になるように仕向けられているとすれば、それが何なのかを解き明かしたくなってくるかも知れないが、そこまで考えてしまうと何か屁理屈をこねているような気にもなってしまい、もっと単純にただ謎解きを楽しめばいいと言いたくもなってくるだろうが、物事の原因探しがそのまま謎解きに結びつくかというと、そう思われることの方が多いのかも知れないが、逆に新たに謎を探し出すために物事の原因探しがおこなわれている可能性もあるわけで、そうなると原因を求めることが謎を求めることにもなってしまい、やはりそれが謎を探すこと結びつくわけで、結局は原因が謎であることが、謎を解く理由としてはよくありがちなことだろうし、さらに言えば謎な原因を求めたいわけで、原因を特定したい理由として原因が謎だからとなると、そんなのは当然だと思われるかも知れないが、意外とそういうところが盲点となって、謎解きをおこないたいから謎な原因を求めていて、原因が謎でないと、そんな原因には興味がないだろうし、興味がない原因では満足できないから、すでに原因が明らかとなっているのに、それよりもっと興味深い謎があるのではないかと思って、原因を探る口実として物事の謎な部分を求めるような心理状態となってしまうのではないか。


2月9日「紆余曲折」

 そこに様々な方面から様々な意図や思惑を抱いて様々な人や団体がかかわってくると、そこで主導的な役割を担っている人や団体などがどんなに手を尽くしても、何かすんなりと事が運ばない成り行きになってしまい、多くの人や団体などがかかわってくるだけでも、ただでさえ面倒でややこしい事態をもたらしているのに、それに輪をかけて何かをやろうとする度に邪魔や妨害などが入れば、それもわざと邪魔や妨害をするつもりがなくても、思惑の違いから何かをやろうとすると、それが他の人や団体にとっては邪魔や妨害になってしまえば、そこにかかわっている誰もが思い通りのことができずに戸惑うばかりとなってしまいそうだが、そうやって事態が込み入って紛糾してきて、そこに至るまでにもそこに至っても、わけのわからない紆余曲折や無駄で不要な回り道を強いられるような気になってしまうのかも知れないが、少なくともそこで何かが起こっていて、何かを経験しているにもかかわらず、その経験が生かされていようといまいと、さらに途中で起こった紆余曲折が思いがけない迂回をもたらしていても、そうした様々な要因がその場の状況や成り行きに不要な歪みや偏りなどのいびつな変形を加えているようにも思われて、それが現状でも将来にわたっても面倒でややこしい事態や成り行きをもたらして、そこにかかわっている多くの人や団体などに災いを招いているのではないかと思われても、それが現状で起こっている否定的な側面だと見なしてみても、それを否定的に捉えていること自体が、意識が現状から逃避しようとしていることの証しかも知れないし、そうではないあるべき姿として理想的な状態を思い浮かべて、そういう状態を目指そうとしてしまうと、現状の中でそう思っている自身にとって無駄で無意味に思われるような物事を排除しようとしてしまうわけで、それがその人にとっては無駄で無意味に思われるとしても、他の人や団体にとってはそうではない場合があり、そうした無駄で無意味に思われる物事にかかわっている人や団体にとっては、逆にそんなふうに思っている人の存在やその人がやっていることやかかわっている物事の方が無駄で無意味に思われたりして、そうであるならその人にとってはわけのわからない無駄で無意味に思われる紆余曲折が、別の人や団体にとっては必要で重要な手続きや手順に則って起こる必然的な成り行きになる場合もありそうで、そこにどういう方面からどういう意図や思惑を伴ってかかわってくるかで、ある人や団体にとっては必要なことが、別の人や団体にとっては不要になったり、またある人や団体にとって必要であるからやっていることが、他の人や団体がやっていることを邪魔したり妨害していることになってしまったり、その人が無駄で不要な回り道を強いられていると思っていることが、他の人にとってはそういう成り行きを経ないとうまくいかないような過程の中でそうなっていたりもして、そうやって同じ一つの状況や成り行きを様々な意図や思惑や意向を抱いてかかわってくる複数の人や団体がどう受け止めるかとなると、それぞれの置かれた立場や境遇に応じて、それを否定的に捉えたり肯定的に捉えたり、その否定や肯定の程度の強弱にも差が出るだろうし、中には無視してもかまわないような状況や成り行きと捉えても何ら問題のないような立場や境遇にある人もいるかも知れないし、そういうところで立場や境遇の違いから勘違いや思い違いが生じてしまうのかも知れないが、それが勘違いや思い違いではなく、そう思うのが当然な立場や境遇というのもあるのかも知れず、そういう場合には勘違いや思い違いではなく、その人の立場や境遇によってそれが勘違いや思い違いであるか否かが変わってきて、勘違いや思い違いの対象となる物事に絶対的で統一的な判断や基準などが当てはまらないことになるのだろうが、その一方で立場や境遇などに関係なく、誰もがそう思うのが当然に思われる物事の状況や状態というのもあり、一概に立場や境遇の違いを強調して、自らの勘違いな思いや判断などを正当化しても、他の誰からも共感を得られず相手にされない場合もあるだろうし、そういうところもその場の状況や情勢からそうなってしまう場合もあり、実際にそういう思いや判断を表明してみてから周囲の反応を伺うような成り行きになってしまうだろうし、どんな場合にも妥当に思われるような思いや判断などそうあるものでもないのかも知れないが、そういう経緯から推察するなら、何かわけのわからない紆余曲折や面倒で込み入った成り行きの中で他から邪魔や妨害が入って鬱陶しく思われるような状況に直面したら、その場にかかわっている様々な人や団体などの意図や思惑や意向などが複雑に絡み合って錯綜していると思っておくのが妥当な情勢判断となるだろうが、そういう成り行きの中で自身が割を食っていると思われるなら、その分他の誰かが得をしてうまくやっていることを想像して、悔しくて情けない思いにとらわれてしまうかも知れないが、案外その場にかかわっている誰もが割を食っている可能性もあるわけで、意外と誰にとってもわけのわからない紆余曲折や無駄で無意味に思われるような回り道を強いられていて、誰も得をしていないが、それどころかそこにかかわっている全ての人が損をしていて、全員が迷惑を被っている状況というのもあるのかも知れず、果たして現状がどうなっているかは、その場にかかわっている全ての人の実感がわかれば、客観的な情勢の全容が判明するのかも知れないが、そういう機会もなかなかやってこない代わりに、お互いに腹の探り合いになってしまうことも多いだろうし、何かというとすぐに被害妄想的な意識に傾きやすい自分の実感を割り引いても、他人の本心がわかる機会もそうは簡単にやってこないし、何かのちょっとしたきっかけから一瞬だけ垣間見られる他人の感情から判断するのも、少なくとも客観的な判断にはならないが、他人もそうであるなら自分もそうであり、自分もそうであるなら他人もそうだと思われるようなことであっても、それだけが全てではないことはわかりきっているとしても、やはりそう思いがちになってしまうから、どうしてもそんな思いを促すような紆余曲折を伴った物事の成り行きに心を奪われてしまうのかも知れない。


2月8日「情報の活用」

 情報が単に蓄積するだけでは何も起こらないかも知れないが、経験として蓄積されると、それらが互いに絡み合って結びつくと、新たな発想をもたらしたり、それが新たな動作や行動をおこなわせることになれば、蓄積とネットワーク化によって情報が有効活用されると捉えるのが妥当なところだが、蓄積して貯蔵しておいてから、必要な時に取り出して活用するだけでなく、関連する複数の情報を結びつけて新たな情報を作り出すことも有効な活用と捉えるなら、目的や用途に合わせて新たに必要な情報を収集すると共に、収集した情報を取捨選択して編集するようなことも意識の中でおこなわれていて、それは意識の外でも文字や音声や画像や映像などの混合物として編集されて記憶媒体などに保存されるわけだが、情報を編集して保存すること自体が情報処理であり、それが情報の活用そのものだといえる面もあり、それが他のことに活用される以前に、それ自体が目的化していると、そこで動作が完結してしまい、そうすることが他の何に役立つわけでもなくても、自己満足のためだけにそんなことをやっていることになってしまっても、それも活用には違いなく、思い出集めに情報を活用しているようなことにでもなれば、それが何かの役に立つとは思えないかも知れないが、意識して役に立たせようとしなくてもかまわないのかも知れず、普段から何気なくそういう作業をおこなっていれば、はっきりとはわからなくても、それ以降の人生のどこかで何かに利いてくるような作用が期待されて、実際にそんな効果が現れれば、そういう作業も無駄ではなかったことになるのだろうが、それも特に意識しなくてもかまわないことなのかも知れず、ひたすら身の回りの整理整頓を心がけるような人はただ几帳面なだけで、他に何の取り柄もなくても、整理整頓して自己満足に浸っているだけでも幸せになれるわけで、それを馬鹿にしても意味がなく、逆に片付けられずに身の回りを散らかし放題にしている人にも、何か他の面で取り柄があるかも知れないし、どちらにしても程度の問題に過ぎないのかも知れないが、その程度がどの程度かでその人の程度が決まってくるとしても、それも相対的な程度の差だと見なしておいてもかまわないし、そういうところで何か特定の用途や目的に活用されているわけではなくても、そうすることが何らかの活動となっていれば、その活動に活用されている物事があり、そこで情報が活用されていれば、情報を活用した活動が成り立っていて、そんな活動をしている人にとってはそうすることがそこでの活動となってしまうわけだが、そういう活動の良し悪しだとか価値のあるなしを他の人があれこれと指摘したり評価してみても、それもその人の判断でそんな指摘や評価をおこなっているに過ぎず、そういう指摘や評価が気に入らなければ、それに反発したり無視すればいいだけだろうし、直接活動が重なってきたり絡んでくるところがなければ、放っておいてもおかれてもかまわないようになってしまい、作用や影響が及んでこないようにも思われるわけだが、それもそう思われるだけで、何らかの共鳴現象や共振現象の中で、互いの活動が作用や影響を及ぼしあっている可能性もあり、何か端から見れば同じようなことをやっている者同士が互いにいがみ合っているようなケースもいくらでもあるのかも知れず、競争や競合の関係を意識しなくてもそうなっていれば、何の接点もないのにそうなってしまい、そういうところではそれぞれに別々に同じような情報を入手して、それを活用しながら同じようなことをやっているように見えてしまうのかも知れず、しかも互いの存在すら知らない場合もあるだろうし、下手するといがみ合っていることすら意識していなければ、ただ単に別々に活動しているに過ぎないのかも知れないが、その両方の活動と接点のある人にとっては、それぞれの活動がつながっているように見えたり、他にも似たような活動をしている人がいくらでもいれば、それらを含んで広範囲に特有の傾向を伴った作用や影響を及ぼす何らかの存在を意識せずにはいられなくなってしまうわけだが、それが何であるかを特定するような成り行きにならなくても、何かしら活用を促すような情報がそこにもたらされていて、そんな情報を多くの人たちが活用しながら各々に活動している実態があるように感じられて、そういった作用や影響を及ぼしているのが、何か姿形がはっきりと特定できるような物事ではない場合もあるかも知れず、それが何だかわからないが、誰もが同じような傾向になってしまうような成り行きの中で活動しているとすれば、そこで各々が活用しているつもりの情報にも似たような傾向が含まれていて、そんな活用を促すような情報が含まれていれば、それに促されてどれも似たような活動になってしまうのだろうが、それが何かといえば、現代において世の中に蔓延している傾向であるなら、やはりそれは功利的に利益を追求する傾向だといえるだろうし、しかも情報が価値を反映した数値的な情報であれば、それに応じておこなう活動となると、価値を高める活動となり、数値的な情報の価値を高める活動となれば、価値を示す数値を上げる活動となるだろうし、それを一般的に言うなら、安く買って高く売る活動となり、さらに安く借りて高く貸す活動ともなるだろうし、それが功利的な利益をもたらす活動となるわけだが、それを応用すれば入手した情報を加工して情報の価値を高める活動にも結びつくだろうし、そんな活動をおこなった結果として起こることは、より高い情報を持ち合わせている人にはより高い価値があることにもなり、自らの価値を高めるには価値の高い情報を持つことにもつながり、どうすれば自らの価値を高められるかとなると、得られた情報の価値を高めることができれば、それを持っている人の価値も高まるといえるのかも知れないが、どうやって価値の高い情報を得ることができるかとなると、すでに価値の高い情報を持っていて、それと交換しても価値は変わらないわけだから、新たに自身で価値の高い情報を作り出さなければならず、そうなると結局は、安く情報を入手してそれを高い情報へと加工する必要に迫られるのではないか。


2月7日「技術的な傾向」

 世の中で専門的なことをやるには、それに関する技術が必要となるが、技術とは何かといえば、それをやるために身につける動作であり、技術なしにできることに大した価値はないのとは対照的に、手間暇をかけて努力をしないと身につかない動作となれば、誰にでもできるわけではないから価値が高く、そうやって身につけた技術を駆使して行う動作がその種の専門分野で行われる作業には必要となってくるわけだが、その一方で技術の粋を集めて機械を作り、機械を動作させて専門的なことをやらせる成り行きにもなり、技術的な動作を機械におこなわせることがある種の専門分野では主流となっていて、大した技術もなしに機械を駆使することによって専門的な作業ができるようになっている分野もそれなりにあるわけだが、もちろん機械の操作には専門的な技術が必要となる分野が現状では大半を占めるだろうし、専門分野では専門的な技術と共に専門的な知識も必要となるだろうが、専門的な技術や知識を持っているつもりの専門家を自任する人たちとしては、専門家となることで他との間に差異や境界を作り出して、そうやって設けられた領域内で専門分野からもたらされる価値や利益を独占したいのだろうが、それが専門分野の技術的なギルド化をもたらすとしても、その一方で大した技術もなしにできることの代表格として民主主義的な政治があり、誰でも政治に参加できることが民主主義の大原則であるはずだが、それに対して政治の専門化を押し進めようとする側としては、理念ではなく実質的にそうなってしまってはまずいから、自然と民主主義を形骸化させようとする思惑が生じてくるだろうし、例えば中国では共産党に入党しないと政治家になれないし、ミャンマーでは軍部の利権を民主勢力から守るためにはクーデターを起こさなければならないし、日本では自民党でないと政権を担えない制度にするために官民が一体となって談合体制を築いてきた経緯があるし、アメリカでは民主党か共和党からでないと大統領や議員になれない制度がなし崩し的に続いているし、そういう成り行きを何かの陰謀論に絡めて説明したい側でも、その種の陰謀論を信じるか信じないかで他との間に差異や境界を作り出したいのだろうが、果たして陰謀論に特有の技術があるかとなると、疑わしく思われるかも知れないが、例えば世界を支配しようと企んでいる秘密結社の類いに世界を支配する技術があると妄想したいわけで、そうした世界を支配する秘技や秘術に関する手がかりが、ピラミッドの上に目が配置された特定の図形や紋章などに込められていると妄想するわけだが、特定の技術がそれ単体で動作するわけではなく、様々な技術が絡み合って機械のように動作するわけで、機械そのものが技術の集合体なのだろうが、さらに様々な機械を使うことで企業的な活動や行政的な活動も可能となるだろうし、専門家目線としてはその専門家の得意分野で使われる特定の技術やその技術を利用した活動に人々の目を向けさせたいのだろうが、それだけで活動が成り立っているわけではないものの、人々の目を向けさせたい特定の技術というのが、他との間に差異や境界を設けたい技術であり、それが例えば電気モーターで駆動する自動車と内燃機関で駆動する自動車との違いであったり、電気モーターを使うにしても、駆動力に蓄電池から供給される電力を使うか、水素燃料を用いて発電する電力を使うかで差異を強調したいだろうし、その中のどれが効率が良かったり技術的に優れているかなどに関しても差異を強調したいし、特定の技術を使った製品が世の中で使われる物事の主流となれば、その技術を有する専門分野に携わる人や企業などの価値が高まって、それに応じて得られる利益も増えるからそういうところも強調したいのだろうが、果たしてそういう功利的な思惑から生じる差異の強調や、何らかの境界で区切られた特定の分野の特権化が何をもたらしているのかといえば、現状で成り立っているように感じられる世の中そのものの特徴や傾向をもたらしているわけで、世の中で何が流行っていて他の時代と比べてどんな傾向となっているかを知るには、そういう特徴や傾向に注目すればいいことになるだろうが、現状の世の中と比べられる他の時代にしてもそれは現代から見た時代であり、現代で主流となっている価値観や基準に則ってその時代を比較しているわけで、その時代においては主流であった技術が現代ではさらに進化していれば、その時代より現代の方が進化しているように感じられるだろうし、蒸気機関のように現代では廃れてしまった技術がその時代では主流となっていれば、効率などの面で現代の技術の方が優れていると思われるし、さらに現代の負の側面として地球温暖化や環境汚染や破壊などの面で危機感を募らせると、自然エネルギーや再生可能なエネルギーの利用を促進することが、未来の世の中では主流となるべき技術であるように思われるだろうが、もちろん陰謀論的にそういう思いを抱く人々に反発する人々も作用反作用的に現れて、そこでの対立や争いを強調して、そこに目を向けるように促す人々まで現れるかも知れないが、そうやって何かを強調して、その何かを強調することが自らの使命であるかのように思い込むことも、そういう面での現代的な特徴であり傾向でもあるのだろうが、結局それがその人の存在ややっている活動の正当化であり、そんな自己肯定に結びつくとしても、そこから自らの専門分野へのこだわりや自負心が生じるとしても、そういった思いや意識などがその人の立場や境遇から生じているだけに、そういう立場や境遇になることについて、その立場や境遇を成り立たせている技術的な裏付けを意識せざるを得ないし、それが人為的に生じさせている立場や境遇に関する特徴や傾向であり、それとは違って自然に生じてしまう立場や境遇となると、特に強調するような技術的な裏付けは必要としないだろうし、人や集団が人為的かつ人工的に何かを生じさせていると、それを生じさせている技術を強調する成り行きとなって、それを正当化するにはそれを成り立たせている技術の効率性や優秀性などの肯定的な面を強調しなければならなくなるわけで、それが現代的な特徴や傾向を物語っているのではないか。


2月6日「意識と思考の不一致」

 何か迷路を連想させるような状況の中で、実際に道に迷っているわけでもないのに、知らないうちに同じ場所に何度も舞い戻ってきているわけでもないだろうが、そこで言葉や表現が循環していると同じことを繰り返し述べていて、それと同時に思考もそこで循環しているのかも知れないし、いつまで経っても同じことを繰り返し何度も考えているのかも知れないが、そこで何が思考の対象となっているかといえば、実際に繰り返し考えていることではなく、そんなことを考えている自分自身が思考の対象となっているのかも知れないが、それが思考の対象というよりは言説の対象かも知れず、自己の何に言及しているわけでもなければ、それに関して言葉や表現が循環しているわけでもなく、自分ではなく自身が考えていることに言及したいのであり、言及したいのにそこに至らず、その手前で言葉や表現が循環しているとすれば、では実際にどんな言説の内容が循環しているのかといえば、思考の対象となる物事ではなく、それに関して何かを述べようとしている対象かも知れず、そこで行き詰まって、それについて述べようとすると、対象から言葉や表現が逸れてしまい、実際にはそれとは別のことを述べていれば、それについて考えている対象と、実際に述べている対象とが一致していないわけだが、それは考えていることではなく、考えようとしても考えられないことかも知れないし、実際にも考えられないことだから、知らないうちにそれとは別のことを述べてしまい、考えようとしていることと述べていることが食い違って、思考がそこから逸れていってしまうのかも知れないが、その逸れ具合が甚だしいと、そこへと至る手前で言葉や表現が目標とする事物を捉えられずに循環しているような感覚にとらわれてしまい、言おうとしていることをうまく言い表せないようなもどかしさを感じてしまい、焦って強引に表現しようとすれば、なぜかそれとは別の方面へと言説の内容が逸れていってしまうわけで、しかもそうなってしまってから述べている内容の方が、思考の対象としては本筋に思われてくると、今までに考えていたことやそれに関して述べようとしていたことが、何かみすぼらしくたわいないことのように感じられてくるし、枝葉末節なことを考えていたのではないかと疑われて、そうなるとそこからさらに思考が遠ざかる傾向になってきてしまい、もう二度とそこへは戻ってこれないとも思われてしまえば、思考がそこから完全に離脱してしまったことになるのかも知れないが、それでもそれに意識してこだわろうとすれば、それにこだわろうとする意識とそれとは別の方面へ向かおうとする思考とが完全に分離しているような感覚にとらわれて、どちらを優先すればいいのかわからなくなってしまうのだが、こだわろうとする対象が思考を拒絶していることに変わりなく、思考することができないのだからいくらそれにこだわっても無駄で、仕方なく現状でも思考することが可能な方面へと意識も向かうしかないのだが、なぜかいつまで経っても未練がましくそれを意識してしまうわけで、なぜそうなってしまうのか、理由や原因を追及しようとしていれば、意識がこだわろうとする対象を思考できないのはどういうわけなのか、それを知りたくなってしまうだろうが、物事の本筋としてはそういうことよりも、それにこだわろうとするとそれとは別の方面へと考えが及んでしまうのはどういうわけなのか、それを知ろうとしているのかも知れないし、何かこだわろうとする対象とは別の方面へと思考を誘導するような作用が働いていて、ではなぜそれにこだわってしまうのかというと、それもそれにこだわるように仕向ける作用も働いているのだろうが、こだわろうとする対象と実際に思考の対象となる物事が一致しないのはどういうわけなのかが知りたいところではあるわけだが、そこで意識と思考とが分離するように仕向ける作用が働いている限りは、そうなってしまう成り行きをどう捉えればいいのかわからないままとなってしまいそうだが、そういうところで言葉と物の不一致を認めるかどうかが、謎を解く鍵となっているとしても、言葉と物とが意識や思考を向ける対象として一致していないと、何か辻褄が合わなくなってしまうのだろうが、そんな辻褄が合わない状況の中でどれほど意識と思考が耐えられるかとなると、たぶんそんな状況に耐えられないから、意識の中でも思考の中でも言葉と物を一致させてしまうのだろうし、そういう恣意的な辻褄合わせが意識的にも思考的にもごまかしでしかないのかも知れないが、それをやらないとうまく物事を説明できないだろうし、説明すること自体が言葉と物を同一視する錯覚を信じることに過ぎないのかも知れず、そんな説明には納得しかねるなら、説明そのものが破綻したままとなってしまうしかないだろうが、実際には言葉と物の不一致と意識と思考の不一致は別物だろうし、何かそれが苦し紛れのごまかしのような気がしないでもないが、意識と思考の不一致から言葉と物の不一致を意識できるかというと、そうやって思考が逸らされてしまい、当初は意識と思考の不一致を意識してそれにこだわっていたのに、不意にいつの間にかそれが言葉と物の不一致へとずらされているわけで、そんな逸れ具合が怪しい作用であり、うまくはいかないが変に取り繕っているように思われるし、そうやって何かもっともらしい結論へと言説を導こうとしているのかも知れないが、意識が導こうとしているというよりは、言説の流れがそういう方面へと思考の対象をずらそうとしているわけで、そういう逸らし方もごまかしの類いには違いないだろうが、それも意識しているこだわりから思考を逸らす作用だといえるだろうし、意識と思考の不一致については考えられないものの、言葉と物の不一致については前例があるから、それについては思考が可能なように思われるわけで、実際には考えているわけでもないのだが、言説の中で思考が可能なように説明したいわけで、そういう成り行きに意識や思考を合わせてしまうと、何かもっともらしく辻褄が合うようなことを述べたくなってしまうのだが、そうなってしまうとまずいように思われるから、意識が思考が不可能に思われる対象にこだわってしまうのかも知れない。


2月5日「計測される数値」

 意識が興味や関心を持っている対象から得られる数値的な情報は、その求められた数値の大小や多くなったり少なくなったりすることから、その状態の良し悪しや強弱を判断しているわけだが、数値がだんだん上がっていけば量や強さが増加してくるように思い、逆にだんだん下がっていけば減少してくるように思うのは当然だとしても、増加にも減少にも限りがあり、これ以上は増加しないしこれ以下には減少しない限界をある程度把握しておけば、その限界の範囲内で数値が上下したり循環することを想定したり予想するだろうし、そこから物事の有限性を理解して安心したり不安になるわけだが、一方で想定したり予想した限界を超えて何かが起これば驚いて、これまでに経験したことのない何かが起こったように思うのだが、そうなるとこれまで想定していたよりは限界や限度も範囲が広がったことになるだろうが、そうした数値的な限界や限度の範囲内で物事を捉えることが何を意味するのかというと、ある程度は数の上下や大小によって物事の状態を単純化していることになるだろうし、物事を数の多い少ないで計測していることになるわけで、そういった数量的な計測によって物事の状態を正確に把握したつもりになれるのだろうが、それで安心してしまうと、物事のそれ以外の面を見逃したり見落としていることになり、そういう面を軽視しても取り立てて問題がなければ、それでもかまわないのかも知れないが、問題があるとしたら何が問題なのかといえば、それが微妙なところなのかも知れず、例えばものの美しさといった類いでも数値的に黄金比で示されるとなるほどとは思うが、否定的に判断される数値しか持ち合わせていなければ、それでも特に支障をきたしていない場合でも、肯定されるような数値の獲得を目指すべきか否かという判断を迫られるだろうし、他にも様々な指標が示されている中で、どんな数値バランスが最適なのかといえば、それに関してそれなりに説得力のある見解が示されるにしても、果たしてそれを目指すべきかとなると、それにかかわっている各人の置かれた状況や状態次第では、それなりに判断が違ってくるだろうし、メディアなどを通じて最適な数値が示されると、その数値に注目してそれを目指すように仕向けられることは確かなのだが、それがかつての目指すべき目標として提示された政治的な主張に含まれていた理念などに替わる目標となるかというと、何かそれとは違ったものとして誰もが理解しているかも知れないが、果たして人々がそうした数値に惑わされているのかといえば、それなりに惑わされている面もあるのだろうが、またそれなりに信用できる数値だと思っている面もあるだろうし、少なくともそれに携わる人が思い思いに様々な水準や基準に沿って様々な数値を示して、それを受け取る側がまた思い思いに勝手に解釈したり都合の良いように捉えて、自らにかかわってくる数値がそれに近ければ、内心喜んだり安心したり、またその数値から遠ければ、戸惑ったり不安になったりするのだろうが、数値に注目してほしいのだから、注目させておいてから、その数値が示す対象に関連する何かをやらせようとしていることは確かであり、そうした意図や思惑を想像してみれば、そうした意図や思惑に従うか逆らうか無視するかの判断を迫られるわけでもないが、その時の自身の都合に合わせてそれに関しての数値目標を真に受けてその達成に向けて取り組むか、あるいはそのまま無視して放置するかのどちらかになるとしても、それ以前に自らの現状を成り立たせている条件や事情もあるだろうし、自らの現状を数量的に計測してそれに関する数値を導き出して、それが充分な数値や不足している数値や多すぎる数値や少なすぎる数値やちょうど良い数値として出てくるとしても、それはその数値に注目するように仕向けてきている側の都合が反映している指標や基準に基づいた数値であり、それとは違う指標や基準に則った計測を採用すればまた別の数値が求まるかも知れないし、その数値に注目するように仕向けてきている側の都合と自らの都合が一致すれば、そうするように仕向けてきている側を信用するかも知れないが、それもそうする方が都合が良いと思うように仕向けられている可能性もあり、そういう時に意識が信用しても身体が意識を裏切って思わぬ動作や行動を起こせば、信用してしまうことの危険性を身体が察知してそれを動作や行動によって意識に知らせようとしているのかも知れないし、そういうところで自らの思い通りには動作することも行動することもできない事態に陥れば、無意識に何かを感知していると疑ってしまうわけで、それでも意識的な判断を信用するか、それとも意識に逆らってしまう身体の動作や行動を信用するかの判断を迫られて、困惑してしまうことになるかも知れないが、そこで信用できる数値的な裏付けに基づいた行為や動作に頼ると意外と失敗してしまい、なぜ失敗してしまうかといえば、注目するように仕向けられる数値に関する指標や基準の他にも、さらに多くの指標や基準に基づかないと正確な判断ができない場合があり、しかもそうした指標や基準がまだ明らかになっていない可能性があるとすれば、それだけで判断するのは不十分極まりないのだが、そうした不十分さを補うのが宣伝や煽動などに頼ってその標的となる対象の人たちを信用させようとするプレゼン術やディベート術となるわけで、それに関して注意しておかなければならないことがあるとすれば、何か一つの指標や基準だけで全てを言いくるめようとしている輩がいれば、そんな輩もそれを信用してしまう自らも愚かだと見なすしかないだろうし、そうでなくても世の中には他にも様々な指標や基準があるわけだから、その中の一つの指標や基準だけに注目するようにプレゼンやディベートなどの際に仕向けてくるような輩は、十中八九は詐欺師の類いだと思っておいてもかまわないだろうし、そんなプレゼンやディベートからそういう人を信用してしまうなら、そんな自らが愚かだと自覚するしかないが、それでもそれに注目するように仕向けられてしまうとそう思ってしまうのだから、そういう状況の中に身を置けば大抵の人はそうなってしまうのかも知れないし、それは仕方のないことかも知れないが、結構そうなってしまっても身体がそれに逆らってしまうことがあるわけで、そういう時に身体が意識に逆らうように動作したり行動したりすれば、そこで立ち止まって何かおかしいのではないかと疑ってみることが肝要なのかも知れない。


2月4日「依存体質」

 世の中で何が確実かといえば、計算して正しい数値が導き出されるなら、その計算の対象となる問題や現象には、計算が成り立つ範囲内では確実に答えがあったりなかったりして、計算が可能なら予想や予測の信頼度が高まり、実際に計算通りの結果が出れば計算の正しさも実証されて、条件次第では計算から導き出される数値には疑いの余地がなさそうだが、一方で数値は目安であり、測定によって決められて、測定することができれば他との比較にも用いられて、計算可能で測定可能な複数の問題や現象をひとまとめにして考察の対象とすることもできそうで、そういうやり方が可能な範囲内で物事が処理できれば、そういうやり方で物事を処理する活動が成り立つわけだが、そういう方面ではそういう活動によって物事の処理が活発化するにしても、世の中の全ての物事がそういう活動によって処理することが可能かというと、少なくとも利便性を考えれば、そういう方面での活動を活発化させようとするのが目に見えているだろうし、実際にそういった活動を担う機関や団体が組織されるわけで、確実なことをやろうと思えば、どうしてもそういう活動によって処理する傾向になってしまうわけだが、そういう測定作業や計算作業などの事務処理作業的な傾向の活動になると、そういった方面の情報処理技術がものを言うようになり、実際に機械化可能な活動になってくるわけで、それに伴ってそうした活動が可能になるような条件を整えるための作業や活動も活発化してきて、そんな成り行きからそのためのインフラ整備がおこなわれて、そういった活動が活発化する現象が文明化と言われるのだろうが、文明化そのもの対して計算が成り立つのかというと疑わしいわけで、文明化によって条件が整えられて計算可能な基盤が形成されて、そうした基盤上で測定可能な現象は測定可能な範囲内では計算可能であり、計算から導き出された答えと実際の結果が一致する確率も高まるのだろうが、測定や計算から外れる現象は依然として不確実なままであり、それに対してできるだけ物事を測定や計算が可能なように変形させようとするのも、文明化現象からもたらされる作用や作業となるだろうが、そういった作用や作業がどこへ向かっているのかを測定したり計算することが可能かというと、それが今後の予想や予測の対象となるのかも知れないが、そういう方面では確実なことを言っているように装う技術が競われているのかも知れず、言葉巧みに信じるように仕向けてくる過程で、もっともらしい測定結果や計算結果が示されるわけで、それが過去からの統計的なグラフの延長上の未来として予測されるにしても、そうなることの根拠や理由が現に起こっていることから類推されるにしても、そうした予想や予測を信じさせたいのだから、人を信じるように仕向ける技術的な作業を必要として、それがプレゼンテーションとして確立されているわけだろうが、天気予報や地震速報などの限定された分野では誰もが普通に信じるだろうし、興味本位のものなら娯楽の対象となるだろうし、別にそれでもかまわないし、普通に受け取っておくだけのことなのだろうが、それ以外に何があるかとなると、地球温暖化や放射能被害などのように深刻に受け止めさせたい意図や思惑もあるだろうし、またそうした意図や思惑に反発してそれらとは真逆なことを主張したい人も出てくるわけだろうが、それも力の作用反作用の類いとして受け止めておくしかないが、人が生きていく上でそうした類いが必要かといえば、それにかかわってしまう人やそれに興味を持ってしまう人には必要に思われるものの、それ以外では必要性が感じられなければ、そういう方面に限定された必要性となるのだろうが、そこでもそれにかかわってしまう人や興味を持ってしまう人を活動に引き込んで処理するようなことになるわけで、それらの人をどのように処理するのかと言えば、例えば登録者数とかフォロワーの数とか、人数として測定して計算可能な範囲内で処理することになるのだろうが、具体的にそれらの活動に依存して生きるように仕向けてくるわけで、人をそうした活動への依存体質になるように処理するわけだが、活動にかかわってしまう人はそれなしでは生きられないように作り変えられて、それに興味を持ってしまう人はそうした興味を刺激するような作用や影響を絶えず及ぼされながら、四六時中そのことが頭から離れないように作り変えようとするのだろうが、そうした処理活動に携わっている人たちが、他ならぬそういった活動への依存体質にされてしまった人たちなのだから、少なくとも自らおこなっている活動を否定的には捉えられないだろうし、普通に肯定的に活動を捉えているどころか、何か良いことをやっていると思い込んでいる人もいるだろうし、実際に積極的に善い行いをやっていると思われるわけだが、そういうことが何かおかしいのかというと、別におかしくはないだろうし、それでかまわないようなことを誰もがやっているはずなのだが、それをわざと否定的に捉えるなら、麻薬などへの依存体質を連想させるのだろうが、それによって誰もが身を滅ぼすような対象であれば、確かにやめた方がいいと思われるものの、それも程度や傾向や内容にもよるだろうし、例えばコーヒーへの依存によって毎日が気分を高揚させた状態に保ちたい程度であれば、どうということはないのだろうし、そういう意味ではそれによって普通に持続的な活動が成り立っているなら、許容の範囲内であるというか、人の活動というのはそういう類いしかないのかも知れないが、文明自体の作用として人を何らかの要素として測定可能で計算可能な存在へと作り変えようとしているのかも知れず、それが人をそんな依存体質へと実際に作り変えていると共に、それに依存しなければ生きていけないと思わせているのかも知れないが、実際にそうなってしまっているかとなると、意外とそうでもないのかも知れないし、依存している対象に興味がなくなってしまう時が不意に訪れて、その機会を逃さなければ簡単に抜け出すことができたりして、そうさせないように人を依存体質にしたい人や団体などがあれこれと策を弄して、盛んに宣伝や煽動を活発化させている状況があるのだろうが、依存できる対象にも限りがあるだろうし、複数の対象に同時並行して依存していれば、一つ一つの対象への依存度もそれなりに薄まってしまうから、そういう意味で数多くの団体などが宣伝や煽動などの活動を活発化させるのも諸刃の剣的で逆効果な面もあるのかも知れない。


2月3日「驚きの結果」

 経験が生かされていることを実感できるのは、過去に同じような事態に直面したことを思い出すからだろうが、本当にその時の経験が生かされていれば、今回の方が前回よりうまく立ち回れていることを実感できるはずだが、相変わらず過去と同じような過ちを繰り返していると、過去の経験が生かされていないと思われてしまうのだが、自らの立ち振る舞いや対処や対応が良い結果をもたらせば、過去の過ちや失敗を生かして以前よりはうまくやれるようになったと思うだろうし、それを実感できれば、過去の経験が生かされているように思われるのだが、実際にある程度は経験が生かされているとしても、それを上回るような新たな事態に直面して、これまでにやったことのないことをやる成り行きになった時に、それをやる際に過去の経験が生かされるかといえば、うまくいけば過去の経験が何らかの形で役に立ったと思われるかも知れないし、うまくいかなければそれが反省材料となって、教訓として将来に生かされることを願うのかも知れないが、それでは結果を自らに都合の良いように受け取っているだけで、そういうご都合主義的な解釈を受け付けないような思いがけない事態に至ると、どう判断すればいいのかわからなくなって、そこでお手上げ状態となってしまうかも知れないが、果たしてそんな経験をどう生かすかとなると皆目見当がつかないかも知れないが、そうなってみてからでないと何とも言えないようなことが経験として生かされるとも思えず、実際にそうなってから感動したり驚いたりするだけで、それ以外に何がもたらされるわけでもないことをいくら数多く経験したところで、それが何の役に立つわけでもないと思いたいが、経験にはそういう面もあることも踏まえておかなければならないと思ってみたところで、そんなことはさっさと忘れて、ただ過去の経験を今やっていることやこれから直面する事態を乗り切るために役立てたいと思うだけかも知れないが、直面している事態を自らに都合の良いように解釈することが誤りであり過ちなのかといえば、それもそう解釈した結果がどうなるかにもよるだろうし、そう解釈して対応した結果がうまくいけば、それで良かったことになるし、うまくいかなければそれではダメだったことにもなるし、具体的にどんな事態に直面してそれをどう受け止めてどう対応したかにもよるだろうが、何かをやった結果としてそうなるのは当然のことのように思われるし、そうなることが取り立てておかしなことでも不可思議なことでもないだろうが、そうなった結果に驚いてしまうという反応が、思いがけない結果に直面したことを示しているだろうし、求めていたわけでもない結果がもたらされてしまうことが驚きをもたらすわけだが、それが今後に役立つとか役立たないとかいうせこくてみみっちい功利的な思惑から抜け出すには必要なことかも知れず、そうなれば利益を求めることを至上の目的とする世の中の制度から外れることができるかも知れないが、それができると思ってしまうと、できることが利益になると思われてまずいのかも知れないし、できるとかできないとかいうことでもなく、ただ単にそうなるということでしかないのかも知れないが、それを求めようとしてしまってもまずいのだろうし、求めているわけでもないのにもたらされてしまうから驚いてしまうわけで、別に驚きを求めているわけでもないことが驚きをもたらすというパラドックスを体験するには、前もって予測や予想などはしない方がいいのかも知れず、したところでそれが裏切られるような結果がもたらされるわけだが、予想していたことや予測していた範囲内から外れる結果がもたらされることが、貴重な体験として記憶されて、それまでの固定観念や先入観を打ち砕くような作用をもたらして、それが役に立つというよりはためになるようなこととして肯定的な実感を伴ってくるのだろうが、自分のためになると共に自分以外の他の人や世の中のためになるようにも思われてしまうとしても、他の人たちにとっては何でもないことかも知れないし、自分の勝手な思い過ごしに過ぎないことかも知れないが、思わぬ事態に至ってしまって驚きと共に肯定的な感触を得ることからそんな思いが生じてきて、何か貴重な体験をしたような気になってしまうのだろうが、そういうのはまれにしか起こらないことだろうし、その逆に年がら年中繰り返し起こっているような事態であれば、またかと思われるだけで、大して重要なことだとも思われないし、気にもとめないようなことかも知れないが、そんなことの中にも何かためになるような肯定的な感触得られるきっかけが含まれているのかも知れず、それを意識して探す必要もないだろうが、何を意識しようとしてもすぐに忘れてしまうようなことが大半であるにしても、何かの役に立つとか自分や他人や世の中のためになるように思われること以外でも、普通に様々なことを体験しつつあり、それらが経験や教訓や苦い記憶などとして蓄積することも、反芻して後悔したり都合良く忘れ去られてしまうこともあるだろうし、またそんなことを思い出す暇さえないようなせわしない生活を送っている人もいるかも知れないが、それだけではないことが意識にとっては驚くべき事態なのかも知れず、どうやっても思いがけない事態に直面して、どうしたらいいのかわからず困ってしまって、苦し紛れに何かをやればさらに状況がこじれてきて、結果的にひどい目に遭ったような被害妄想にとらわれてしまい、それでも生き続けていられて、自身の生活が成り立っていれば、それほどひどい事態でもないはずだが、そんな事態を否定的に捉えると、何か自分だけが人一倍の苦労や苦痛を強いられているような気がしてしまうのだろうが、そんなことを思ってしまう機会はいくらでもあるのかも知れないし、そう思ってしまったからといって、それだけでその人がどうなるわけでもないのだが、否定的な意味でどうにかなってしまうとすれば、実際にその人の生活が成り立たなくなったり、破産したり死んだりすることにもなるのだろうが、そうならないように努力し続ける必要があるというよりは、結果的にそうなっても仕方がないようなことをやっている状況を意識できれば幸いなのかも知れない。


2月2日「正当な理由」

 何かをやる機会を得ようとして正当な理由を探し求めているわけでもなければ、口実としての理由を探し求めていることに気づかないわけでもなく、別にもっともらしいことを言いたいわけでもないのに、何かの弾みで言葉が先行してしまうと、引っ込みがつかなくなって、言ったことを実行せざるを得なくなるわけでもないのだろうが、ちょっとしたきっかけから有言実行という言葉の呪縛から逃れられなくなってしまうのかも知れず、気の緩みというわけでもないが、絶えず機会を捉えて何かをやるきっかけを掴もうとしているのかも知れないし、そんな気がなくても結果から見ればそうならざるを得ない成り行きになってしまっていて、すぐにはそれが何を意味するとも思えないだろうが、特に何を意味しているわけでもなくても、何かをやった結果が何らかの意味を知らせてしまうわけで、意味も理由もわからないままではいられないのは、何かの泥沼へと引き込まれている最中にそう思っているわけではなくても、途中の段階から時間を逆転させて後戻りできるわけでもなく、先を急ぐにしても回り道を避けられないにしても、結果がどうなるかわからないことをやっていることに変わりないのかも知れないが、そう思っているだけで、結果などやる前から歴然としていて、ありふれた失敗から逃れられるわけでもなく、それを失敗だと認めるわけにはいかないだけで、失敗を成功と言い換えているわけではないが、どこまでもやっていることを継続できるわけでもないのに、続いているうちは惰性でやっているように装いながら、それが不可能への挑戦だと事を大げさに捉える強がりにも飽きてしまって、実際にはたわいないことをやっている程度に事を捉えるしかないのだろうが、それでも形作りの儀式化には歯止めがかからず、日常の行事化によって退屈な日々を乗り切ろうとして、そんなことを飽きもせず繰り返している何でもないような人の動作を見るにつけ、制度の類いが人を生かしておくのにも、それなりに限界や制約があることは承知しているのだろうが、制度によって生かされている人にありがちな内容のなさを、ことさら問題視するわけにもいかないだろうし、そのどうとでも受け取れるようなとりとめのなさを、どう取り扱えばいいのかわからず途方に暮れているわけでもないが、それに関して無駄に迂回しながら言葉をこねくり回しても、もとから内容がないのだから、物足りなさを感じるだけで、単に語彙が貧困でうまく表現できないようなことかも知れず、それが悪戦苦闘とは別種の予定調和でもない何かだとすれば、何かに導かれて活動しているとしか言いようのない行程を意識が辿っているだけかも知れないが、そういったことの繰り返しが何かを構成しているわけで、そこに何かがあると思ってしまうのは、少なくとも何もなければ退屈だからそう思うのとは違ったきっかけからそう思ってしまうのだろうが、何もないと自身の存在も活動も正当化できないから、最低限でもそこに何かがあり、自分がそれにかかわっていると思いたいのかも知れず、大して関係のないことに興味を惹かれてしまうのも、何かにかかわっていないと生きていけないことを実感しているからかも知れないが、世の中で生きていくには、誰にとってもかかわらざるを得ない物事があるという前提条件があるかどうかはわからないが、中にはかかわりたくてもかかわらせてもらえない物事もあるだろうし、特に正当な理由がなくても否応なくかかわっている物事もある反面で、納得できる理由があってかかわろうとしても拒否されてしまうこともあるだろうし、逆にかかわりたくないのにかかわらざるを得ないことや、自らの意志とは関係なく勝手にかかわってしまう物事もあり、実際にそれにかかわっていることについて、何か納得できる正当な理由があれば安心できるが、納得できなくてもかかわってしまっている実態があれば、何かいやな感じがしたままかかわってしまっているわけで、不快感を抱きながらかかわっている物事があれば、そういった物事には常に批判的な姿勢を保とうとしていて、できれば自らの気分が良くなるように物事を変えたいわけで、それが身勝手な願望でなければ、変えるに当たって正当な理由がほしいだろうし、そこにかかわっている他の誰もが納得できるような理由を得たいわけだが、なければねつ造してでも理由を強引に持ち出して、力尽くで変えるために権力や暴力の助けを借りる場合も出てくるだろうし、そういうことが大がかりにおこなわれると世の中が混乱するだろうが、それも何かの過程で起こることであり、そういう成り行きになってもかまわないのかというと、そういうことをやらないと物事が都合の良いように動かないからやるのだろうし、それによってひどい事態になれば、そういうことをやってしまう当事者が非難されるわけだが、そういうことをやらないと済まなくなるような成り行きというのが、何かをやるに際して正当な理由がないとできないことをやろうとする成り行きであり、多数の人員や物資や装備や機械などを利用しておこなうには、それ相応の組織的な体制が整っていないとできないことであり、そういう体制を組織して維持するにも、その存在や活動に関して正当な理由が必要とされるだろうし、そうした理由に納得できない人を黙らせるには、それなりの権力や武力や暴力が必要とされるのだろうが、体制そのものが、体制に逆らう人を黙らせるような何らかの仕組みを内包していて、そういう仕組みや機能を社会の隅々にまで行き渡らせることができれば、より盤石な体制となるのかも知れないが、そうなるにはそこに住んでいる民衆の同意を必要としている場合が多いだろうし、同意させるには体制を維持存続する正当な理由が必要となり、それを大義名分として示さなければならなくなる機会が訪れた時に、何か大げさな主張がおこなわれるわけだろうが、そういった主張が大げさであればあるほど、その裏返しとして、大げさな主張をしなければならない切実な事情も生じているのかも知れないが、そういう意味で大義名分的なもっともらしさを、そのまま真に受ける人もあまりいないのかも知れず、その裏で隠しておきたい不正や不祥事がいくらでもあることは、ありがちな事情として誰もが想像してしまうことでもあるわけだ。


2月1日「普通に生きる」

 普通に生きていることの何が普通なのかに関しては、よくわからないこともありそうだが、例えば普通に生きている人にとって政治的な話題が拒否反応の対象だと、そういう人は普通のタイプというよりはロボット型の功利主義者かも知れないが、そういう人にとって功利的な損得勘定の他に優先すべきことがあるかというと、例えば集団の内部での派閥争いや権力闘争が優先されるわけでもないのかも知れず、そういう政治的な争いには背を向けていると、他にやるべきことがあるかといえば、他にも様々な優先すべきことがあるかも知れないが、そもそも普通に生きている以外にどんな状態があるのかというと、普通に死んでいる状態があるかも知れないが、中には普通ではない生き方も死に方もありそうで、普通に生きていても特にやるべきことがあるとは思われない時もあるだろうし、またやらなくてもいいことをやっている場合もありそうで、何がやるべきことで何がやらなくてもいいことかは、何かをやった結果からそう思われる場合もあるだろうし、やる前からやるべきだと思っていても、やった後ではやるべきではなかったとか、やる必要もなかったと思われてしまうかも知れないし、やるべきとは思われないことでも、うまくいけばやって良かったと思われるし、やる必要もないようなことをやってうまくいけば、やる必要があったのではないかと勘違いするかも知れないし、成り行き次第では優先すべきこともやるべきことも変わってくるだろうが、少なくとも何かをやっている状況であれば、普通に生きていることになるのかも知れず、何もやっていなくても生きている場合もあるにしても、やるべきことをやっている気になれば、張り合いも出てくるし、積極的に活動しているつもりになれるのかも知れないが、それだけがやっていることの全てではないだろうし、特にやるべきとか必要なことだけをやっているわけではなく、やるべきではないことや、やめた方がいいようなことをやっている場合もあり、そういう場合はやっていることがうまくいかなくなって、大抵はやっていることに失敗してしまうのだろうが、中にはやめた方がいいようなことをやっていても、それがたまたまうまくいってしまう場合もあるだろうし、結果的にうまくいってしまえば、やるべきことをやっているように思われてくるだろうし、それがたまたま偶然にうまくいっているとは思いたくないだろうが、うまくいっていることの必然的な理由や原因を見つけ出そうとしてしまうかも知れないし、実際にそんな理由や原因を見つけたつもりになって、それが成功する秘訣だと思い込んでしまうかも知れないが、別にそこに落とし穴が待ち構えているとは限らないが、調子に乗っていると油断が生まれて痛い目に遭うようなことにもなりやすいだろうし、そういうところではよくある成り行きになってしまい、予定調和のような結果に至って愕然とするわけだが、そういうところでこうすればこうなるような展開や進行が普通に起こりやすく思われるのだろうが、それが普通に生きていることの証しとなるかどうかは微妙なところかも知れないが、そうなってしまうのを避けようとせず、避ける気も起こらないような心境で漫然と生きていれば、何か普通に生きているような実感が湧いてくるのかも知れず、そんな心境になれるには、他人がやっていることを自分もやっているという安心感が必要だろうし、そんな安心感を得るためにやっているつもりがなくても、自然と他人がやっているようなことを自分もやり始めてしまうわけで、要するに他人の真似をしてしまうわけだが、それが特に悪いことだとも思えないし、そうやって他人がうまくいっていれば、それを真似た自分もうまくいくはずだと思われて、誰もが同じようなことをやり始めてしまうと、そこから競争が起こって、確かに競争に勝てばうまくいくのだろうが、競争に負ければうまくいかないから、同じようなことをやってもうまくいく人といかない人が出てしまうわけだろうが、やっていることの何もかもが競争へと発展するわけでもないだろうし、中には競争に至らない範囲内で誰もが同じようなことをやっている状況も生じて、それも普通に生きていることの中で起こることだろうし、特にやっていることが成功するわけでもなくても、同じような動作や行為が社会の中に定着することがあり、それが慣習となったり制度となったりするわけだが、意識して決められたことをやるように仕向けてくるのが制度であり、意識しなくても誰もが自然と同じことをやっているのが慣習といえるだろうが、制度や慣習にとらわれて他人と同じことをやっている範囲内では、普通に生きているように思えるものの、制度や慣習に逆らって違うことをやろうとすると、それをやらせないような力が働いて、結果的に阻まれてしまうから、他人と違うことをやるには、制度や慣習の範囲内でやっているように装わなければならず、それに抵触しない範囲内で違うことをやろうとしている人もいるだろうが、制度や慣習を破っていることを隠しながら何かをやっている人や団体もいるだろうし、そういう人や団体は違法行為や一般的には許されない行為をおこなっているわけだが、中には慣習として違法行為をやっている場合もあり、違法行為が世の中で黙認されていれば、なし崩し的に制度が形骸化していることになるわけだが、そういうところで何を優先させるべきかが問われてくるとすれば、当然のことながらロボット型の功利主義者は利益を優先させようとするかも知れないが、それが誰にとっての利益になるかが怪しくなってくるのかも知れず、自らや所属している団体の利益を優先させているつもりになれれば、場合によっては制度も慣習も破ってまで利益を優先させていることになるだろうが、自らが不利益を被っても団体の利益を優先させたり、自らや所属している団体が不利益を被ってでも制度や慣習を守ろうとしたり、さらには制度を破ってまで慣習を守ろうとしたり、逆に慣習を破って制度を守ろうとしたり、そういうところでその人や所属している団体の立場や境遇や、制度や慣習の内容や傾向や、それらが社会に定着している度合いや、定着に至るまでの歴史的な経緯などが複合的に作用や影響を及ぼしてきて、結果的に何か納得できないような行為や動作や行動を人や団体にもたらすのかも知れず、それが社会の中で人が普通に生きている中でそうなっていれば、実際にそれが普通に起こっていることにはなかなか気づけないのかも知れない。