彼の声142

2021年

1月22日「自己の連続性」

 現状で考えていることが未来のある時点では違う考えになっている可能性はあるが、現状では現状で考えていることを優先的に考えていることは確かで、未来のある時点で考えていることを考慮することはできないわけだが、それ以前に未来のある時点で自分が何を考えているかなんて現時点では知ることはできないわけだが、現状で考えていることが現状に依存して考えているように、未来のある時点で考えていることもその時の状況に依存して何かを考えていて、それは過去のある時点においても同じようにその時の状況に依存して何かを考えていたわけだが、そうであるなら自分の考えていることが、自分だけの事情や都合に応じて考えているわけではなく、その場やその時の都合や事情に応じて考えていることも確かで、考えているだけでなく行動や行為もその場やその時の都合や事情に応じて生じる成り行きに沿った行動や行為になるだろうし、もちろん自分の都合や事情もその場やその時の自らがおかれた状況から生じてくるわけだが、そういうことを意識が考慮しているかというと怪しいわけで、案外意識の中では過去の自分も現在の自分も未来の自分も、何か継続して一貫性のあることを考えていると思っていて、そういった一貫性のある考えに基づいて行動や行為していると思っているし、少なくとも他から何らかの作用や影響を受けていることは自覚できるだろうが、その一方で内発的で自発的に物事を考えていて、実際にそれに基づいて行動して行為しているつもりでいるのだが、自身が思いがけないことを考えていたり思いがけない行動や行為をおこなってしまうことに驚くことはあっても、それが理解できないわけで、なぜそんなことになってしまうのか、どうしてそんなことをやってしまうのか、その時には理解不能かも知れないが、それからしばらく経ってからその時のことを振り返ってみれば、ある程度は辻褄が合うような理由や原因を思いつくこともあるかも知れないが、何か腑に落ちない思いにとらわれてしまって、謎のままになってしまうこともあるだろうし、そういうところで思いがけずに不利な事態に陥ってしまうと、罠にかかってしまったとか、他の誰かの仕業を疑ってしまうのだが、偶然の巡り合わせでそうなってしまったと思うしかない場合もあるし、少なくとも他から何らかの作用や影響が及ぼされていることを意識せざるを得ないわけだが、それ以外でも過去から連綿と続いてきた外部からの作用や影響が自らの中で蓄積して、ある限界を超えると何らかの症状となって顕在化してきて、それをはっきりと意識できるようになる場合もあるだろうし、作用や影響といってもその程度や傾向によっては意識できたりできなかったり、それを自覚する際の成り行きや状況も違ってくるかも知れないが、その場やその時の状況に応じて都合良く辻褄合わせができれば、自己の連続性を保つことができるかも知れないが、突発的に何かをやってしまうような不連続で離散的な面は相変わらず理解できないかもしれないし、そうであれば連続性を保てる部分だけが自己であり、他は無意識にやってしまうことだと見なせば、精神的には整合性を維持できるかも知れないが、普段から意識して自己の連続性を保とうとしているわけではないし、思いがけないことを唐突にやってしまうのも自分だと思うしかないし、そんなことをやってしまうことについては謎のままでもかまわないだろうが、自分でも驚くようなことを自分がやってしまうことについては自己制御が利かないわけで、それを無意識の衝動だとかもっともらしく説明してみても、少なくとも納得はできないだろうし、自己の中で突然何かが弾けたにしても、それがいつまでも尾を引かないようにしたければ、自分をごまかさずにはいられなくなるかも知れず、そこから自己合理化作用のような心理作用が働いてくるのかも知れないし、自分のやってしまったことをなかったことにしたいところだが、それができないところがいつまでも尾を引いてしまうのだろうが、そういった自分の弱点や欠陥をさらけ出すような行為が何を意味するわけでもなく、意味も理由もなくそうなってしまうと捉えておくしかないのかも知れないが、そうやって何かのバランスが保たれている可能性もあり、それが自らの心身の均衡であれば肯定的に受け取っておけばいいし、それに関して自身と周囲の環境や人々との間で何らかのせめぎ合いが起こっていて、そこで精神的なストレスなどが限界が超えると、その圧力を解放する作用として地震のような現象となって、そういうことが突発的に起こると捉えるなら、実際に精神医学や心理学などの分野でそうした現象が解明されているかも知れないが、意識は絶えず自己の連続性を保とうとする傾向があるのに対して、そういった連続性が幻想に過ぎないことを知らしめるためでもないのだろうが、絶えずその連続性を断ち切ろうとする事件や出来事が自己の内部からも外部からももたらされるような成り行きになっているとすれば、どうしてそういう成り行きになってしまうのかといえば、世の中が自己の連続性を保てるほど平穏無事な状態になっているわけではなく、そこでは絶えず人と人とがぶつかり合い、また集団と集団もぶつかり合って、それらが絡み合ってもつれ合い、相互に作用や影響を及ぼし合っているから、そういう作用や影響に自己がさらされると、思わぬところから思わぬ反応が唐突に出てしまって、それが自分から出た反応であれば驚くしかなく、動揺して困惑するしかないのかも知れないが、そうなった結果が肯定的に受け止められるような事態となれば、それが自己防衛反応だったと都合良く解釈したくなるし、逆に否定的な事態となってしまうと、自らの失態だと認識したり、過ちとして反省したりもするのだろうが、自分のせいだと思うしかない場合もあるし、誰かのせいでそうなってしまったと他に責任を転嫁したくなるような場合もあるだろうし、その場の状況に応じて様々なケースが考えられるだろうが、原因と見なすことができるのが自己であれ他の誰かであれ、あるいはその場の状況がそうさせたのであれ、そうやって原因と結果を安易に結びつけようとすることも、自己の連続性やその場の成り行きの連続性を信じようとすることの表れかも知れず、偶然の巡り合わせによって何かが突発的に起こってしまったと考えるわけにはいかない都合や事情がその場に生じているなら、やはりそれは世の中で物事が連続的に起こっていることを頑なに信じようとしているからかも知れない。


1月21日「やらなければならないこと」

 何か特定のことをやらなければならない状況と、特にそれをやる必要もない状況とは、はっきりと異なっているはずなのだが、ある人にとってはやらなければならないことが、別の人にとってはやらなくてもかまわない場合もあるだろうし、誰にとってもやらなければならないこともあるにしても、同じ状況の中でやらなければならないことが人によって異なるとしたら、そこにやらなければならないことについての役割分担があるのかも知れないが、組織的な集団内でなら確かにあるかも知れないが、何の関係も関連性もない人々の間で役割分担が生じているとは思えないし、それがはっきりと意識されることではないとしても、社会の中で自然と棲み分けのようなことが生じていて、特定の階層に属する人々にとってはやらなければならないことが、別の階層に属する人々にとってはそうでもないことであったりすれば、それがそういうことのように感じられるかも知れないが、やらなければならないことが何か深刻な事態をもたらすようなことでなければ、それをやらなくてもどうということはないだろうが、やらなければならないということだから、何かそれをやらないとまずいことになるわけだろうし、そのやらなければならないことによっては、それが社会問題となることもありそうだが、例えば個人的な事情でやらなければならないことであれば、たとえその人がそれをやらなかったばかりに深刻な状態に陥っても、他の人にとっては問題がなければ、別にそれが社会問題となるわけでもないだろうが、その人にとっては切実なことであれば、その人が個人で解決しなければならないことになるのかも知れず、もちろん個人で解決できなければ、周囲の人や何らかの団体の協力を得ながら解決するような成り行きもあるだろうが、そうではなく社会全体で解決しなければならないような問題があるかとなると、それが政治や行政が取り組むべき問題や課題だと思われてくるのだろうが、取り組むべき問題や課題があるかのように見せかけているのではないかという疑いも生じているかも知れないが、何が見せかけているのかといえば、メディアが見せかけているのであり、ある種のメディア上では本当にそういう問題や課題があることが指摘されているわけだが、もしかしたら政治や行政の存在がそういう問題や課題を生じさせているのかも知れないし、それはメディアという機関の存在にもいえることかも知れないが、そういう問題や課題を取り扱うメディアが機能するにはそういう問題や課題があることが前提となり、また行政機構が存在してそれが機能すると、そういう問題や課題が生じてきて、それを取り上げてどうにかしなければならないと主張する政治勢力も登場してくるのだろうが、メディアなどの報道機関や政府などの行政機構が社会の中で機能するということは、それなりに機能するからそういう問題や課題が生じてきて、そういう問題や課題が生じてこないと機能しないし、それに伴ってそういう問題や課題に取り組まなければならないと主張する政党などの政治勢力も登場してきて、それらはそういう問題や課題と共に生じてくるわけだから、それら自体がそういう問題や課題そのものである可能性もあるのかも知れず、自分たちのやっていることが問題や課題そのものであり、問題や課題を自ら生じさせながら、それらに取り組んでいるような自作自演をやっているとなると、何かそういう面でおかしなことになっているように思われるのだが、誰もが気づかなければならないのはそういうことであり、それらの機関が提示してみせる偽りの問題や課題ではないのではないかと疑念を抱けるのだが、果たしてそれらが偽りの問題や課題なのかというと、そういう問題や課題自体がそういうものでしかあり得ず、それ以外ではないのだから偽りも何もありはせず、そういった取り組むべき問題や課題として提示されるのはそういうものだと見なすしかなく、それらを偽りの問題や課題だと見なすと、偽りではなく真の問題や課題があるかのように思われるかも知れないが、どこにもなければそれ以外の問題も課題もありはせず、そういった機関や勢力が提示する問題や課題とはそういうものでしかあり得なければ、それらは彼ら自身の存在や社会的な機能から生じる彼ら自身が取り組むべき問題や課題であり、彼ら以外の人たちが取り組むべき問題でも課題でもないわけだが、メディアの機能として社会全体に向かってそれらが社会全体で取り組むべき問題や課題として提示されるとしても、社会という実態が果たしてあるのかとなると、どうもそういう実態というが想像の産物である可能性もあり、そんなものなど実際にはないのに、あるかのように装わないと、その種の言説が成り立たず、社会について何か語るという行為が空疎な演技となってしまうのかも知れないが、それが演技ではなく何かの実質があり、実質的に機能しているように見せかけるのがその種のメディアの役割であって、そこでも何かの実態があるかのように見せかける機構が働いているわけだろうが、それ以前に普通に誰もが社会の中で生きていると思っているわけだから、そういう前提で生きている限りで、そんなのは当然のこととして認識していることでさえも無自覚なのかも知れないが、どこかの国でおこなわれる大統領の就任式において、何か社会全体で取り組むべき問題や課題が提示されるような演出が毎度のことのように施されるのも、そういったことを背景としておこなわれることだと解釈しておくのが妥当かも知れないが、人々が問題意識を共有することによってそういった機能が発動するわけで、そういう問題や課題の種類や内容や傾向などに応じて、その種の機構も組織されることとなるから、その種の組織の在り方や機能も、そういった社会的な問題や課題と共に生じていると捉えるしかなく、何かそういうところでそれらの機構や組織と共にそれらの問題や課題も生じているような同時性が感じられるわけだ。


1月20日「期待通りでも期待外れでもない」

 何も起こらないはずがないと思っていると何かが起こり、そこまでは期待通りの成り行きだったのだろうが、何かが実際に起こっているのに、それが何の効果もないようなことであれば、ではどんな効果を期待していたのかと言えば、自分にとってプラスになるような効果を期待していたのだろうが、逆にマイナスに働いているようであればがっかりするだろうが、起こっているそれが自身にとってプラスかマイナスかなんてすぐにわかるはずもなく、わかったつもりになれることもあるだろうが、何かが起こることを期待したこと自体が見当外れだったのかも知れないし、それでも実際に何かが起こったのだから、期待外れではなかったと思っておけばいいのかも知れないが、その期待値が高すぎれば、高すぎる期待値とはかけ離れた結果がもたらされてがっかりするのはよくあることだろうし、そう思い込んでいること自体が見当外れであれば、思いがけないことが起こっているのにそれに気づけないのかも知れず、期待していた以上でも以下でもなく、期待していたのとは少し趣の異なることが起こっているとすれば、何か違和感が伴ってくるのだろうが、それがどう表現すればいいのかよくわからないようなことであれば、まだ気づいていない傾向や内容が起こっていることの中に含まれているのではないかと疑われてくるし、それに気づこうとしているのに気づけないもどかしさを感じるのかも知れないが、何かそういうところで期待していたのとは違う何かに気づいているのだろうが、それがわかるまでには至らないのが思いがけないことでもあり、そういう面で期待とも予想とも違った成り行きになっているわけだろうが、期待を全く裏切っているわけではなく、何かが起こるという予感が的中したことに関しては、期待を裏切っているわけではないわけだが、ただそれが実際に起こってみると、起こっていることに自身の思いや動作を合わせられずに、戸惑いや焦りばかりが募ってきて、かえって何も起こらなかった方がよかったと思えるほどであれば、やはり当てが外れているとしかいえないような状況がもたらされていて、起こっていることから自身が疎外されているように思われると、もはや自分が用のない存在になってしまったような不安感も募ってくるかも知れないが、確かに何かが起こると期待していた思いなど、実際に何かが起こってしまえば用済みの思いとなってしまって、そんな思いを抱いていた自身も、それだけでは用済みとなってしまうのかも知れず、用済みとならないためには、その起こったことを利用して何かをおこなわなければならないだろうし、それが起こったことに対応する動作や行動に結びつけば、そこで初めて自らに何らかの効果をもたらすわけで、それをしないで傍観者のようにただ黙って観ているだけでは、観ていること以外には何ももたらされず、それ以上の何を期待しても当てが外れてしまうのだろうが、それ以前に何かが起こるという予感が的中したのだから、その見返りとして何らかの褒美がもらえるような気がしてしまうのだろうし、何かが起こったのに、それを期待した自身には何ももたらされないとなると、何か話が違うような気がするにしても、そういうところで因果応報のような効果を期待してしまうと、それが勘違いとなってしまうのかも知れないし、その場で起こっていることに介入しないと何の反応もないのは当然だろうし、介入しようとしても参入を拒否されたり無視されてしまうようなことも起こり得るわけだから、それは起こっていることの種類にも内容にも程度にもよるだろうし、それにかかわろうとする自身の置かれた立場にもやろうとする内容にもよるだろうが、少なくともこれまでにはなかったことが起これば、それを利用して自由に振る舞えるチャンスが生じて、そのチャンスを生かしてそこで主導権を握れば、思い通りのことをやれる可能性が出てくるわけだが、それが思い通りだと思ってしまうこと自体も見当違いで、そう思いながらも実際にはそこで起こったことに対応して何かをおこなっているだけかも知れないが、やっていることとその場の成り行きとが連動しているように思えれば、思い通りのことがやれているような気がしてくるのだろうし、何かその場の状況が自分に味方しているようにも思われてくるのだろうが、実態としてはその場の状況に自身がとらわれて操られていて、状況の推移や成り行きに応じて動いているだけなのに、たとえそこで困難に遭遇しても、それを克服したような結果がもたらされると、自力で問題を解決したような気になれるのかも知れないし、もちろん他の誰かや集団などと連携して何かをやっていれば、それらの助けを借りておこなっていることであり、自分一人の力で成し遂げたようには思えないだろうが、何の抵抗もなくスムーズに事が運ぶよりは、それ相応の争いや戦いに巻き込まれた末に、何らかの肯定的な結果を勝ち取った上で何かを成し遂げたような成り行きになれば、そうした困難が大変に思われるほど、自らの力や努力や才覚や根性などの面で自信をもたらすわけで、実際に争いや戦いには勝者がつきものとなり、中には勝者なき混沌とした泥沼状況となることもあるだろうが、少なくとも勝者と見なされる人や団体が出現するような結果がもたらされれば、そこで起こっていたことに誰かがあるいは何らかの集団が介入して、それらの思い通りの結果がもたらされたり、あるいはそれが思いがけないどんでん返しであったとしても、そうなった結果から期待通りであったり期待外れであったりする思いが生じてくるのだろうが、そういう思いを抱いていること自体が、他の誰かにとってはそれが思いがけないことかも知れないし、あるいはそれを直接体験した当事者が思いがけないことが起こっていたことを忘れてしまっている場合もあるだろうが、そうであってもなくても、何らかの出来事が起こってそれが一応の終息を迎えれば、途中の過程で起こった思いがけないことなどどうでもよくなってしまうのかも知れず、少なくとも結果が自らに有利な状態をもたらしていればそう思われるし、逆に不利な結果となってしまうと、途中で犯した思いがけない過ちや失敗が後悔の念をもたらして、いつまでもそれを根に持って悪夢となってその時の記憶が度々よみがえってくるような事態となれば、それが心的なトラウマとなるのだろうが、どうなるにしてもそれが人や集団をどのような境地や境遇へと導くにしても、過ぎ去った出来事が戻ってくることはないのは確かなところなのではないか。


1月19日「否定的な魅力」

 善と悪とが表裏一体となって一つの物事に含まれていたり、何かの良い面と悪い面とが切り離すことができないほど強く結びついているように見えるのは、物事の肯定的な面を強調すれば、それとは反対の否定的な面もはっきりと見えてくるということになるが、逆に悪い面ばかり強調すれば、良い面が何もないようにも思われて、何かを全否定するような論調には、決まってその物事の良い面には絶対に言及しようとしない頑なな意志や意向が感じられるかも知れないが、物事の悪い面を嬉々として指摘したがるような人には、批判中毒となっている傾向もあるのかも知れず、またそういう人を惹きつける物事には、何かしら否定的な感情を刺激する魅力があるのかも知れないし、少なくともそれについて言及せざるを得ないような親和性が、そういう人とそういう物事との間に生じている可能性もありそうだが、しかも肯定的に取り上げるわけにはいかない都合や事情もあるとすれば、それを否定する自らを、否定している対象とは反対の肯定的な立場に置きたいという意向の表れともなるだろうし、そうなるとそこから考えられるのは、自らを肯定するためには、その反対に位置する否定する対象を必要としていて、その対象を否定して、しかもそれを全否定すればするほど、その反対に位置する自らを全肯定していることになるわけだが、わざわざ全否定しなければならない都合や事情がその人自身にあるようにも思われて、その人と全否定している物事との関係性が、善と悪や良い面と悪い面とが表裏一体の関係にあるのと似ているのではないかと疑われてしまえば、何かを全否定すること自体がその人の悪い面であり、そんな全否定されるような面がその人にもあり、それがあることを他人に悟られないようにするために、注意や注目が自らが否定している対象に集まるように、必要以上に激しく否定しているのではないかと勘ぐられてしまうとすれば、それがその人の過ちになるのだろうが、そういうところまで考慮に入れていれば、わざわざ対象を全否定などしないだろうし、他人から浅はかな人だと見られたくなければ、対象を一方的に激しく否定するようなことはしたがらないのかも知れないが、それも時と場合によりけりだろうし、他人から支持や賛同を得られるようなことを主張したいという意図や思惑があれば、わざとらしく感じられるような大仰で芝居がかったことを言ってしまう場合もあるだろうし、そういうことを意識してやっているのか、あるいは無意識にそういう面が出てしまっているのかは、それを受け止める側が判断するしかないが、差異のないところに無理矢理差異を作り出そうとする意図はなくても、何かを主張すること自体が差異を作り出そうとすることになり、差異を作り出すには手っ取り早く何かを肯定したり否定したりして、肯定する対象と否定する対象との間に差異を作り出せばいいとしても、果たして両者の間に強調できるような差異があるかとなると、差異があるように表現されないと主張にならないわけで、何が良くて何が悪いと断言するに足る理由や根拠を言葉で説明しようとして、主張に説得力を持たせようとするのだろうが、それが実際におこなわれていることであれば、おこなわれる理由や根拠も示さなければならないだろうし、それがおこなわれている理由や根拠に説得力があり、なおかつそれが良いことであったり悪いことである理由や根拠にも説得力があれば、それらを総合的に判断するとなると、少なくとも一方的な断言には至れなくなってしまうのではないかと思われてしまうし、それをわかりやすくはっきりとした一つの価値観に基づいて一方的に語ってしまうと、何かそこには都合の悪い面にはあえて言及しないようなごまかしが含まれているのではないかと疑われてしまうわけだが、主張の中で何かを否定したり批判するわけだから、そうする理由や根拠に説得力があればそれなりの支持や賛同を得られるだろうが、そういう否定されたり批判されるようなことがおこなわれていたり、そういう物事が存在していれば、それをおこなっていることにも、それが存在していることにも一定の支持や賛同が得られているだろうし、そういった状況から妥当な判断や解釈を導き出すなら、少なくとも何かを全面的に支持したり全面的に賛同したりすることには、危険な面があるのかも知れず、実際にそれが全面的にそうなっているわけではなく、何かしらそれと対立している物事があれば、そうしたことがおこなわれたりそうしたものが存在することにもそれなりの支持や賛同が集まっているから、実際にそうしたことがおこなわれていたりそうしたものが存在しているわけで、それに伴ってそれに関連しておこなわれていることや存在しているものとの間で、何らかの調整がおこなわれたり共存するための妥協が成り立っている場合もあるだろうし、それ以外にも世の中でおこなわれていたり存在している様々な物事の間で調整や妥協が成り立っていれば、それらの間に辻褄が合うような理屈や論理では調整も妥協も成り立たないような状態があるのかも知れないし、そうなると敵対し合って争いの関係になっていたり、互いに無視し合って反目するような関係となっている場合もあるにしても、さらには表面上は友好関係を装ってそれなりの取引や交渉があったり、常に争い反目し合いながらも、時には利害が一致して助け合うこともあるのかも知れず、その時々で相手への接し方も異なってくる場合があるのだろうが、そうなっている中で肯定したり否定したり支持したり批判したりと、時と場合によってそれらを使い分けている可能性もあるわけで、その一方で恒常的にある一定の対象を批判し続けるような成り行きもあるだろうが、そんな一方的で恒常的な批判の姿勢を保っていること自体にも、批判している対象への依存やそれと一体化している面でそれなりの欺瞞や偽善が生じて、そういった面を隠しながら批判し続けているような事情が明らかになるにつれて、支持や賛同が徐々に減っていって先細りになってしまうのだろうが、そういうところで一点突破的なやり方の欠陥が現れてくるのではないか。


1月18日「足りないもの」

 何かが足りないと思うのは、不足しているものを探そうとしているからそう思うのかも知れないが、何も不足していなければ、それが思い過ごしだったことになるとしても、そんなことはあり得ず、普通に足りないものがいくらでもあって、少なくとも現状で欲しいと思っているものが足りないはずなのだが、何が欲しいのかわからないはずがないとしても、別に欲しいものを明かす必要はないだろうし、何が足りなくても足りないものが何なのかも明かす必要もなければ、何を探しているかも明らかにしないとなると、ではなぜ何かが足りないことだけは明かすのかといえば、それが不足しているものでも欲しいものでも探そうとしているものでもあるかも知れないし、そうではなくただ何かが足りないような気がするだけで、それが何だかわからないから、そのわからない何かが足りないと思っているだけかも知れないが、わからないままでもかまわないのかも知れないし、それが何なのか、わかろうともしていないのかも知れないが、ただそんな気がすることが重要で、そんな気がするからそれを模索している気になれるのかも知れず、何を模索しているのかわからないから、何かを模索しているつもりになれるのかも知れないが、その何かを模索しているつもりになっていれば、それが何であっても、絶えずそのつもりになっていられるのかも知れないし、さらにはそのつもりというよりは、模索しているそれが、足りないような気がする何かなのだろうし、その何かとは何なのかを特定することが模索なのではなく、ただ何かを模索しているつもりになりたいのかも知れず、その辺が微妙に曖昧なことになってしまうのかも知れないが、そんなのはどうでもいいわけでもなく、実際に絶えず何かを模索しているつもりになっているのであり、何かが足りないと思い続けていることが重要なのかも知れないが、それがそう思っている意識の都合が反映した何かになるのかも知れず、その場の状況に合わせて都合の良いことを思いたいのであり、その場の状況というのが、何かが足りないような気にさせる状況なのだろうが、その足りない何かが実際に存在している物事になると、それを求めて活動することになるわけだが、実際に資金が足りなかったり人員が足りなかったり資材が足りなかったりして、それらを調達するにはどうすればいいかとなると、それ相応のことをやらなければならなくなり、そこから本当の模索が始まるというか、すでに活動している中で模索していて、活動しながら模索しながらその活動や模索に必要とされる具体的な物事を求めているわけで、そんなことをやっている最中には、何かが足りないような気がするだけは済まない事態となっていて、もはやそんな気がしている段階ではないわけだが、それが気のせいというわけではなく、本当に求めているものがあると思い込んでいて、そんな思い込みに従って行動していて、それが思い込みであると共に、実際に求めている理由を言葉でうまく辻褄が合うように説明できれば、なおのこと求めていることが正しいようにも思われてくるだろうし、何か説得力があるように思われるのだろうが、そこにもその場の状況から生じる都合や事情が反映していて、その都合や事情を考慮すればそうすることが切実に感じられるわけで、さらには他の何かによってそう仕向けられていると見れば、その通りかも知れないし、例えばそれをうまく辻褄が合うように説明できれば、その場で通用している論理によってそう仕向けられていて、その論理に従えば辻褄が合うような説明が可能となるわけだが、そういう論理が通用するような成り行きになっているわけで、そういう論理に従ってその場の成り行きが動いていれば、やはり論理に従うことが求められているように思われてしまうわけだが、果たしてその場で通用しているように思われる論理に従えばうまくいくのかというと、論理に従えばうまく辻褄が合うように説明できるとしても、実際に辻褄が合うようなことをやろうとしてもできない場合があるわけで、要するに実際にはその場で通用しているように思われる論理に従って物事が動いているわけではなく、そうした辻褄が合うような論理に逆らうようなことがおこなわれていて、それを辻褄が合うような論理に従おうとする人たちが間違っていると批判している場合があるわけだが、実際に間違っていると批判されていることがまかり通っている現実があれば、辻褄が合うように思われる論理の方がその場では通用していないわけで、実際にそうすることが論理的に辻褄が合って正しいと思われるとしても、現実にはそれとは違うことがおこなわれているとすれば、何かそこに矛盾が生じているはずなのだが、それが何だかわからず、うまく説明できないような状況となっていれば、どう考えても辻褄が合うような論理に従って行動してもうまく行かないのではないかと思われてしまうわけで、辻褄が合うような論理的な説明に説得力があるだけに、どうしても合理的な観点から見てしまうと、その場で現実におこなわれていることが間違っているように思われてしまうわけだが、実際にそんなことをやっている人たちからすれば、それが実際にできているという実感の方が勝ってしまうだろうし、実際にやれることをやらざるを得ないし、いかに論理的に辻褄が合うように説得されても、すでにやってしまっていることを今さらやめるわけにはいかないし、やっていることを続けざるを得ない都合も事情も生じているわけだから、なおのことをやり続けるわけだろうが、それを批判する側も論理的に辻褄が合うような説明をしている都合上、後には退けず、批判をやめるわけにも行かないだろうし、そうやって実際に何かをおこなっている側とそれを批判する側の間で、互いの言い分が平行線に終始して、後には退けないせめぎ合いが続いていくのだろうが、そういう状態もその場でやれることを決める条件となっているのかも知れないし、すでにそうなっていることに関しては、その場に様々な力が作用や影響として働いていて、それら力が重ね合わせられた状態の中で、実際に何かがおこなわれている状況となっているのであり、そこに働いている力の一つとして論理的に辻褄が合うように思われる説明もあるわけだが、そういう説明には確かに説得力があるものの、それだけがその場に作用や影響を及ぼしている力ではなく、他にも様々な力が作用や影響を及ぼしている中の一つとして、そうした説明から生じる批判もあり、そうした批判に何が足りないのかといえば、論理的に辻褄が合う説明では説明しきれない何かになるのではないか。


1月17日「余計な真似」

 何かの渦中で何をやっているわけでもなければ、大勢の人や集団の様々な意図や思惑が渦巻いているはずもなく、ただそんな状況を想像しているに過ぎないのかも知れないが、フィクションの世界ではそんな状況を思い描けるのかも知れず、事を大げさに妄想しがちになっている誰かが誇大妄想狂というわけでもないだろうが、大抵の状況はそんな過剰な妄想と共に臨むと当てが外れて、単なる作業中の光景に出くわして落胆してしまうのかも知れないが、そこでは何もおこなわれていない場合もあるだろうし、ではなぜ人が大勢集まっているのかといえば、単なる何かの待合室でしかないのかも知れないし、何かを待っているだけで、呼ばれた順に診察室のような部屋へと入ってゆくだけだったりして、それ以外の何を意味することもなければ、そこでどんなに多くの人が集まっていて、各自の心の中で思い思いの意図や思惑が渦巻いていようと、そこから何がどうなることもないのかも知れないが、時にはそんな大勢の人の意図や思惑が何かのきっかけから絡み合って、そこから互いに作用や影響などを及ぼし合って共鳴現象を起こすこともあるのかも知れず、実際に起こってみなければそんなことが起こるなんて信じられないことだが、そんな何でもないような何かの待合室の中で、そこに集まっている各人の思惑や欲望がいくら渦巻いていても意味のないことかも知れないが、各人が分断されている状態というのが、そういう待合室の中で誰もが手持ち無沙汰な状況となっているか、あるいは各人に役割分担が施されて何かの作業場のような状況となっているか、そのいずれでもない状況というのもありうるかも知れないが、そのいずれでも大勢の人が集まっているのに、その中の誰もが特定の目的にとらわれていて、その目的のために集まってきているだけで、同じように集まってきた他の人たちに用があるわけでもなく、目的となる各人の用事を済ませれば、また別に別に思い思いの方角へと散っていくだけだろうし、それだけのことであれば個々にどんな思惑があろうとなかろうと、集まっている他人のことなど知ったことではないはずだが、そんな人たちに他の何を期待するわけでもないし、何か別の行動を期待する方がおかしいだろうが、大勢の人が一箇所に集まるとはそういうことかも知れないし、あるいは繁華街の交差点に信号待ちの人が大勢集まっているような状態を思い浮かべてもかまわないが、そういう場合もそこに一時的に集まっている通行人の人々に何を期待するわけでもないし、ただそんな光景を思い浮かべているだけに過ぎないことだが、そこで何も起こらなければそのままで時が経過して、何事もなく事態が推移するだけかも知れないが、そうなっている状態がごく普通の状態であり、そこで何か突発的な事件や事故が起こる必然性など何もないわけだが、偶然が作用すれば何かが起こるのだろうし、実際に交通事故の類いが日常茶飯事で起こっているわけだが、そんなことが起こったところで事故処理作業がおこなわれて、しばらく経てば何事もなかったかのように体裁が整えられるかも知れないが、ひき逃げ事件にでもなれば、目撃者情報を求める看板が現場に設置されるかも知れないし、犠牲者を供養するための花が添えられることもあるだろうが、それも事故処理作業の一環と見なしておけば済んでしまうことかも知れず、誰がそこで犠牲になろうと、その人が著名人であったり無差別テロなどのニュースで話題になるような特異な事件にならなければ、親族や交友関係にあった人以外は、大して気にもとめないことかも知れないし、余計な詮索の対象とはならないわけで、それが事なかれ主義の表れというわけでもないだろうが、そこでどのようなことがあっても処理作業がスームズに運べば、何事もなかったかのように事態が推移する一方で、中にはいちゃもんをつけてくるような人も出てくるだろうし、そこでおこなわれていることが気に入らなければ、文句を言ってくる面倒な人もいて、事を穏便に収めたい側にとってはそういう人が邪魔者となるわけだが、余計な真似をしたい側にとってはなるべくごねて相手を困らせたいのかも知れないが、別に損得勘定が働いてごね得を狙っているわけでもなければ、何かしら文句があるからごねるわけで、余計な真似をしていると見られてしまうとしても、何か気に入らないから文句を言いたいわけで、そういうのを自己主張だと見なしてもかまわないというと、何か自己主張が悪いことのように受け取られかねないが、何かに介入するとは多かれ少なかれ、すでにそこで何かをやっている人や団体にとっては迷惑な存在となるわけで、できればそういう面倒な人はその場から排除したいわけだが、そういう人が出現しないと、実際に何事もなく事態が推移して、そこでの処理作業が済んでしまうのかも知れないが、世の中でおこなわれることがそういう処理作業ばかりになってしまうと、誰もがそんな作業に従事するだけの存在となってしまって、作業以外には何も起こらないような世の中になってしまうかも知れないが、誰もそんなことにはならないと思っているだろうし、実際に世の中には他人のやっていることに文句を言いたい人がいくらでもいて、いつ何かのきっかけで文句を言う機会が巡ってくるとも限らないから、誰もがそんな文句を言う機会が訪れるのを心の片隅で密かに待ち望んでいるのかも知れず、そうなるとフィクションの中にある架空の待合室では、そんな文句を言いたい大勢の人でごった返していることになるかも知れないが、そういう人たちが果たして何か一つの問題に対して意見が一致して団結することがあるかとなると、隣り合って座っている誰と共闘するわけでもなく、個々に身勝手な文句を言うために行動しているだけかも知れないし、何かそういうところでその手の人々が個別に分断されているような状態となっているのかも知れないが、そういう人たちから見れば、馬鹿で低脳な群衆が彼らにふさわしい幼稚でお粗末な煽動や宣伝に騙されて、何か集団で騒ぎ立てている光景が、歯がゆくて仕方がないのかも知れないが、どっちもどっちというわけでもなく、それも社会を円滑に動かすための処理作業の中で人間が分別ゴミのように扱われて処理されていることの表れなのかも知れないが、その実態がどうなっているかを具体的に示す手段があるかとなると、誰にもそんなことは示せないような社会の仕組みとなっているのかも知れない。


1月16日「自己物語化と自己信仰」

 それ以上に何の進展もないように感じられるのに、なぜかそこから進展があるような場合には、何らかの見込み違いが生じているとしても、思惑が外れている中でどう振る舞えばいいのかわからずに戸惑うかも知れないが、何が見込み違いだったのかといえば、そもそも始めから見通しが甘かったから当てが外れてしまうのはよくあることだろうし、計算が成り立つようなことをやろうとしているわけでもなければ、見通しも見込みもいい加減になるのも当然だろうし、そんなことをやり始めればすぐに行き詰まってしまうと予想しておくのが無難なところだが、実際にやり始めてみるとそうでもなく、逆に当初には思いもしなかった成り行きとなって戸惑うのも無理もないだろうが、うまくいかないなりにも継続が保たれ進展があるのは、実際にそうなっている結果を踏まえた上でそう思うわけで、そうならなければそんなことは思わないわけだが、結果的にやっていることが継続して、何か新たな進展があると、それが予想外の成り行きに思われてくるのかも知れないし、そうなった結果を知ったからそう思うわけで、そうならなければそうは思わないという当たり前のことに気づかないわけでもないのだろうが、よく考えてみないとそこまで気づけないことも確かであり、振り返ってみれば、当初から確かな見込みや見通しがあるわけでもないことをやり始めるのもよくあることで、それも後から考えてみれば、そんなのは当たり前のことなのだろうが、そんなふうに何らかの結果が出てからよく考えてみるとわかることがあるわけで、そういうところで思い違いや勘違いや錯覚などが生じてくるのだろうし、それは仕方のないことなのかも知れないが、そうなっていることを前向きに受け止めるしかなく、さらにそこからやっていることを継続させて何らかの進展を目指そうとするのだろうが、そういった未来への期待を込めた思いと今までにやってきたことを振り返って思うことが結びついていること自体が、何か意識の中で自己正当化のフィクションを生じさせていて、必然的な経過を辿るような成り行きに沿ったことをやっている気にさせるわけで、こうなることはわかっていたと思われてしまうのも、そうした自己物語化から生じる錯覚かも知れないし、偶然にそうなっていることを意識できないわけだが、そういった物語の主人公としての自分を意識の中で作り出す作業が、誰にでも必然的に起こりうることなのかどうかは何とも言えないところだが、果たしてそういう成り行きから抜け出す必要があるかというと、それも何ともいえないところかも知れず、中には自己物語化によってうまくいっている人もいるのだろうから、その辺は人それぞれで事情が異なってくるのかも知れないし、一概にこうだとはいえないことなのかも知れないが、そうなる成り行きの中で自分を信じろと強く思うのは、迷いが生じてやっていることがうまくいかなくなることを恐れるからそう思うのだろうし、実際にうまく行かなくなりそうになっていると思うから、余計に自分を信じて気を強く保とうとしているわけだろうが、そうやって自己をある一定の傾向や強度に保とうとすることが、外界の変化や外からの介入に柔軟に対応できないという弊害ももたらすのかも知れないが、柔軟に対応しすぎると相手のペースにはまってしまって、相手の言い分を通しすぎると自らの不利や不利益を招くから、ある程度の強情さも必要だろうが、相手の力を逆手にとって逆利用する巧妙さも時には必要となり、そういうところで臨機応変な対応が求められると言っても、実際にその場に身を置いて当事者になってみないことには、そんなことがやれるかどうかはわからないというか、その場に身を置いてみてもわからないし、やってみてからそれができたりできなかったりするだけで、それもそうなった結果から言えることであり、それも後から振り返れば言えるようなことであるから、そういう意味でそれがもっともらしく感じられるようなことは、何かが起こった結果からしか言えないようなことを、先回りしてそれを予言して言い当てているように装う言い方となるのだろうが、それに関して典型的な言い方となると、そら見たことか、という言い方やそれに類する言い方だと思い当たるようなことがあれば、そういうのは結果を見てからでないといえないようなことを、事前に言い当てているように装う典型的なごまかしでしかないわけだが、事前にそれに類する意見を様々な結果を想定して述べておいて、その中のどれかが当たれば、そら見たことかといえるわけで、それが似非予言者気取りの人の戦略だと見なせばその通りかも知れないが、それもそんなことが起こった後からよく考えてみなければ気づかないところであり、考えている間にタイムラグが生じるから、その間だけ似非予言者を気取っていられるわけだが、その程度のことは大したことではなく、そんな似非予言者気取りの人は重要人物にはなれないし、時が経てばすぐに忘れられてしまうわけだが、それがどうしたわけでもないとしても、そういうことを言いたがる人が後を絶たないという現象はいつの世でも起こりうるだろうし、そういうことを言いたがる人に自身が含まれていることに気づけない人も多いのかも知れず、そういうところでも自分を信じすぎていると、意外と自身がその手の世間的な紋切り型にはまってしまっていることに気づけないわけだが、そうなっているとしてもそれが取り立ててどうしたわけでもないし、他にいくらでもいる中に自分が含まれていようといまいと、客観的に見ればそんなのは自分にとっても世間にとってもどうでもいいことなのだが、自己物語化と自己信仰にとらわれているフィクションの主人公の自分としてはそれでは済まないだろうし、自分に希少価値がないとその手の物語が成り立たないわけで、自分だけは他とは違う特別な存在だと信じるに足る証拠が欲しいし、場合によってはねつ造してでも自らに嘘をついてでもそういった自分を高める希少価値を求めるわけで、その希少価値というのがありふれた似非予言者になることだという勘違いも生じているのではないか。


1月15日「政治的な関心事」

 政治に幻想を抱かなければ、特定の主義主張とは違うことを政治に求めるようになるだろうが、それが現状の世の中の実態を反映していないからといって危険な兆候というわけでもなく、むしろ危険な兆候にならないと政治に魅力を感じないような人たちが政治を歪めて捉えているように見えるのかも知れないが、危険な兆候とは何かといえば、例えば他の国との間で紛争を起こそうとすることが危険な兆候となるのだろうが、その口実を見つけたいのであり、見つけたいから探そうとするわけだが、人々の関心をそちらへと向けさせたい思惑があるとしか思えないようなことが実際に起こると、それをめがけていっせいに騒ぎ出すメディアもあるだろうし、政治的な関心がそういう方面にしか向かないと、それに伴って恣意的に歪められた物事の認識や解釈や捉え方が横行してしまうだろうが、実際に起こっていることをメディアが伝えているのは確かで、そこに人々が関心を向けるはずだが、それが政治的な関心事ではない場合もほとんどだから、大したことでもないと捉えておくのが無難なところかも知れないが、世の中には様々な程度や傾向の関心事があって、その中のいくつかが政治的な関心事になるとしても、全体の関心事の中で部分的な範囲内で政治的な関心事もあると捉えるなら、確かにそれが大したことでもないと認識できるかも知れないが、関心事というのはそれに心を奪われることだから、部分も何もありはせず、いったんそこへと関心を向ければ全面的に心を奪われるわけで、そんなことに関心を抱いている人は全面的に心を奪われているのだろうから、そんな人に向かって他へも関心を向けた方がいいと諭したところで聞く耳を持たないだろうし、そういう人がそれ一辺倒になってしまうのも仕方のないことかも知れないが、そんな人がいるからこそ、そういう人々に向けてその種の話題を提供するメディアも成り立っているわけで、そこに需要と供給の関係が成り立っていると見ればその通りかも知れないし、そういった情報のやりとりを介した経済活動もそんな背景から成り立っていると理解しておけばいいのだろうが、それだけで事が済むわけでもないだろうし、他の関心事や出来事とも結びついて相互作用や影響を及ぼし合いながら、それらを取り巻く様々な関心事や出来事とも結びついて絡み合い、そこからさらなる複雑な情報の集合体へと成長したり、逆に各要素が相殺し合って魅力がなくなり、関心を抱けなくなってしまうかも知れないし、どんな物事に関してどのような角度からどの程度の強度や傾向で関心を抱くかは、人それぞれで異なるだろうが、伝えようとする話題に関心を抱くように仕向けてくるメディア側としては、自分たちが伝える情報により多くの人々が関心を抱いて心を奪われて欲しいから、より強く関心を抱くように工夫を凝らすだろうし、そうなると刺激的な言葉や音声や画像や映像などを満載した情報となるかも知れないし、そういった情報の過剰な装飾や強調に心を奪われてしまう人も多くいるのかも知れないが、そういう情報の人工的な増幅効果にも限度があるだろうし、素の情報に魅力がないといくら刺激的な工夫を施しても、大してそういった方面の価値を高められないのだろうが、価値といえばすぐに思いつくのが希少価値であり、例えば世界の中で一つしかないへんてこりんな国があり、それが何やら絵に描いたような軍事独裁国家で、そこで定期的な催し物として軍事パレードがおこなわれると、そういった出来事がある種の人々にとって興味深い関心事となるのかも知れず、そんな人々にとってはそんな出来事を伝えるメディアからもたらされる情報が希少価値を持つかも知れないし、そんな出来事に関心を抱いている人なら、それが軍事的な脅威だと騒ぎ立てても、それなりに真に受けるかも知れないが、そんなことには関心のない他の大多数の人にとっては、定期的な催し物程度の認識しか抱かないかも知れないし、また馬鹿なことをやっている程度の受け取られ方しかされなければ、大したことではないと捉えられていることになるだろうし、実質的にはその人の生活や経済活動に直接絡んでこないような情報は大したことはないわけで、また直接絡んでくるとしてもその程度や傾向によって、深刻に捉えたり逆に無視できる程度であったりもするだろうし、現状で世界的に深刻な問題だと受け取られているコロナ禍であっても、感染しても無症状であるなら、建前としては周囲の雰囲気に合わせて深刻そうに振る舞うだろうが、本音ではラッキーだと思うかも知れず、人ぞれぞれにその人のおかれた状況や状態に応じて捉え方が異なるなら、こんなに大騒ぎになっているのに、状況を軽視する人の態度はおかしいと感じる人もいる一方で、世の中が騒ぎすぎだと感じる人も出てくるだろうし、メディアが作り上げる世論の傾向としては、メディアの性質上は騒ぎ立てる方へと誘導したいだろうから、世の中が騒ぎすぎだと感じる人の方が分が悪いわけだが、実際に身近な人が感染して重症化したり死んでしまえばいやでも事を深刻に受け止めざるを得ないし、自身や家族が職を失って生活が困窮するようなことにでもなれば、本当に事実として大変な事態になっているわけだが、そういう人を助けるのが政治や行政の役目だと大義名分を振りかざすこともできるが、そういうことを主張するというよりは、実際に助ければいいのだろうが、その助け方が不十分に感じられるとしても、実際に政治や行政に携わる人や団体や機構が助けようとしているわけで、そのこと自体には多少の文句はあるにしても、概ねやって当たり前のことをして欲しいと誰もが思っているだろうし、そういうところで特定の主義主張への賛否を差し挟む必要は生じないはずだが、それでもまだ大半の人たちは大変な事態に陥っている当事者ではないのだから、それ以外の物事へと関心を抱く余裕もあるだろうし、中には騒ぎを利用して金儲けを企む人々も大勢いるだろうが、その良し悪しはさておいて、どんな状況下であっても普段と変わりないことをやろうとするわけだから、それに伴って通常通りに人や物や情報が行き交っている面もあるわけだ。


1月14日「グローバリズムとナショナリズム」

 グローバリズムが世界を一つにするという標語とグローバリズムが世界を滅ぼすという標語が表裏一体の関係にあることは誰もが知っていることかも知れないが、グローバリズムとは正反対の主義主張だと思われているナショナリズムもグローバリズムと表裏一体の関係にあり、さらにそこにそれらと違う地域主義も混じり合ってくると、何かそういうところがややこしくてわかりにくくなってくるわけだが、例えばスペインでいうなら、バルセロナを中心都市とするカタルーニャ地方や南のアンダルシア地方や北のバスク地方などが、文化や経済などの面で首都のマドリードを中心とした国家的なナショナリズムとは対立する地域ナショナリズムとなって、実際にスペインからの独立運動なども起こっているし、それと似たような例としては、南ドイツのバイエルン州なども有名だろうし、さらにはフランスのノルマンディー地方も文化的に一つの地域を形成しているし、またそういうところがはっきりと分かれているのがイギリスで、イングランドとスコットランドとウェールズと北アイルランドに分かれて、かつてはアイルランド全土も連合国として属していていたわけだが、実際に独立して、北アイルランドを残して一つの国家となっているが、そういった地域分離主義が、国家主義のナショナリズムやさらには汎国家主義のグローバリズムと完全に別々の主義になっているかというと、実態としては三者が矛盾しながらも混じり合っているわけで、簡単に言うなら小さなナショナリズムが地域分離主義であり、大きなナショナリズムがグローバリズムだといえるのかも知れず、グローバリズムとナショナリズムが結びつくかというと、何か違和感を覚える人もいるかも知れないが、実際に日本の地域分離主義勢力で、大阪方面で有力な維新の会が、議会でも多数派を占めながら知事や市長の座も占めて、大阪府や大阪市の行政に深く関わっていることについて、それを批判する側がいつも持ち出してくるのが、新自由主義批判であるだろうし、新自由主義批判といえばグローバリズム批判と一体化しているし、さらには維新の会自体が右派のナショナリストの集団である実態もあり、そういうところがまさに矛盾し合う三つの主義主張が混じり合っている格好の事例を提供しているわけだが、結局それらを推進したり批判する側が何をやっているのかといえば、簡単に言えばご都合主義なのであり、主義主張が内部で矛盾しているのにそこから目を背けて、都合の良い部分だけを取り出して、それを自分たちの宣伝に使っているわけで、実際にそれを推進する側は地域主義を掲げて、地域の住民から支持を取り付けられて、批判する側はそれとは逆のグローバリズムや新自由主義的な面を批判に利用して、互いに都合の良い面ばかり強調するわけだから、両者の主張がかみ合ってこないのは当然のことだが、それらが矛盾しながらも混じり合っていることをうまく説明できなくなり、地域主義とグローバリズムのどちらか一方を強調すれば、それによって地域住民から支持を取り付けられたり、相手を一方的に批判できるわけだから、それではいつもながらの予定調和な成り行きにしかならないわけで、それを地域ナショナリズムと呼ぶからそういう面がよく伝わらないのかも知れず、矛盾している面が混じり合っていることをうまく言い表すために、もっと適切な言葉を使うとすれば、それを地域グローバリズムと呼んだ方がより現状に適合するかも知れないが、要するに新自由主義的に世界の覇権を巡って各地域が競い合っていて、例えば左派リベラルの総本山であるカリフォルニア州や右派ナショナリストの総本山であるテキサス州のように、世界的に認められる地域を目指していて、それに関してグローバリズムが地域文化を破壊したとかいう寝言のような宣伝文句を煽動道具に使っている愚かな人も未だに健在かも知れないが、例えば京都文化を世界に誇りたいというのは、完全にその手の煽動文句とは矛盾していて、世界が京都文化を観光業によって支えて欲しいわけで、一方でグローバリズムが地域文化を破壊したと煽動しているのに、京都文化だけは世界から観光客を呼び込むことによって盛り立てたいのだから、ご都合主義もいいところだろうが、そういうのは地域主義のバルセロナがガウディの建築物目当てで世界から観光客を呼び込んでいるのも有名だろうし、地域グローバリズムとしては当然の成り行きになるのだろうが、その一方で国家的なナショナリズムも地域文化を破壊してきたわけで、実際に世界各国の政府が義務教育を推進することによって、各国固有の共通言語を小学校などで習わせて、地域特有の方言をなくそうと努力してきた結果として、国内のどの地域に行っても言葉が通じるようになり、国民の間で団結力が強まって国力も増強されたことになるわけだが、その反面で地方言語などの地域色が薄められて、そういった中央集権化に伴う政策によって地域文化が多少は弱められたことになるだろうが、それをあからさまに地域文化が破壊されたとナショナリストが政府を批判することはしないだろうし、その辺も矛盾から目を背けるご都合主義なのかも知れないが、さらにはグローバリズムを推進する側としては世界共通言語のような役割を持っている英語が話せるようにしたいわけで、ナショナリストが国語としての日本語を日本を象徴する言語として誇りたい一方で、日本人が英語を話せるようにしたいグローバリストがナショナリストと共闘して、共通の敵を左翼やリベラルに定めて攻撃するのもご都合主義かも知れないし、そういうのも自分たちが直面している矛盾を意識しないようにするための無意識の戦略になるのだろうが、そうやって世界中でもっともらしいことを主張している人たちが矛盾から目を背けるために戦略的な態度を取っているわけだから、そういったグローバリズムが地域文化を破壊したとかいう一見もっともらしく感じられる宣伝文句が、主張者のご都合主義を反映したフィクションでしかないことは理解しておいた方がいいのかも知れない。


1月13日「幸運を掴む」

 偶然にそうなってしまうことがなぜ起こるかなんてわかりようがないが、起こった後からわかることがいくらでもあれば、わかるということはそういうことだと思っておけばいいのかも知れず、わかったからといって、わかったことが役に立つとは限らないし、役立てようとも思わないのかも知れないが、偶然にわかったことが何かの役に立つ場合もあるだろうし、そうなればラッキーだったと思えばいいだろうが、それもそういうことが起こった後から思うことであり、何かの拍子にそんなことが起これば、幸運を掴んだような気がするのだろうが、そうなるように努力することはできないだろうし、目的を持って目標を掲げて何かをやっている途中で偶然にそんなことが起これば、幸運に恵まれたような気になるのかも知れないが、努力していたから幸運を呼び寄せたと思うのもよくありがちな錯覚かも知れず、努力が報われたと感じることが錯覚などではないと思っていてもかまわないだろうが、出来事を自らに都合良く解釈するのも、気分を良い状態に保つ秘訣かも知れず、そんなふうにやっていることがうまく行っているような気になっていれば、その時だけは気分が良いだろうが、そうならない時には気分が良いとは思わないだろうし、そうならない時の方がかなり多いから、たまたま何かの拍子にやっていることがうまくいったように思われた時には、その時だけは普段より気分が良くなるのだろうが、そういう状態が長続きするわけでもないから、幸運を掴んだような気になるのはほんの一瞬だけで、そんな一瞬を目指して努力しているわけではなくても、実際にそうなれば、今までの努力や辛抱や精進が報われたような気になり、ちょっとだけ普段よりは気分が良くなるのだろうが、それも長続きすることはないから、そんなことはすぐに忘れて、またいつものように努力や辛抱や精進しながら苦労しているように思われるとしても、意外と実際には大した努力も辛抱も精進もしていないから、何もかもが中途半端な状態となって、何も達成できずに途中で放棄されたり、結局はうやむやのまま、なかったことになってしまったりして、それでも何かをやっているような体裁を取り繕うために、努力や辛抱や精進しているように装われているだけで、やっていることの中身が何もなければ、それ自体が嘘になってしまうわけだが、普通はそうはならないだろうし、実質的に効果があることがどこかでおこなわれていないと世の中が成り立たないから、大勢の人たちがそこで生きている限りで、それらの人たちが生きていけるのに必要な物資が生産されて流通して消費されているわけで、偶然にそんな状態がもたらされているというよりは、人が生きようとしているから、生きるために仕事をしているのだろうし、多くの人々が何らかの職業に従事している結果として現状の世の中がもたらされていて、必然的な成り行きでそうなっていると認識できる面もあるが、個々の事例で誰がどんな職業に従事しているかは、偶然の巡り合わせでそうなっているとも認識できるし、そんなことをいちいち偶然か必然かの判断をするようなことでもないが、実際にそうなっている人にとってそれが幸運なのか不運なのかは、その場の状況から判断できたりできなかったりすることだろうが、そんなことの良し悪しを判断するまでもなくそうなっているとしか言いようがない成り行きでもあるだろうし、たとえ何かの判断ミスからその時には幸運を掴み損ねたと思っても、後から思えばその時はそれでかまわなかったと思えるような成り行きとなってしまったり、逆に好判断から幸運を掴んだとその時には感じたものの、それがきっかけとなって後に災いや不幸な出来事がもたらされてしまえば、それを覚えていれば後悔するかも知れないが、大抵はすでにそんなことは忘れてしまっていて、どうしてそんな事態に陥ってしまったのかわからないまま、その場ではその時の状況や事情にとらわれながら右往左往してしまうのだろうが、事の経過を連続的に捉えられないというか、連続的に捉えるのにも限度があって、長期間にわたってちょっとずつ何らかの作用や影響が及ぼされていると、そうなっていることを当然視してしまい、それが自然な状態だと認識してしまうから、そういう微々たる作用や影響は考慮されないわけで、結局はそれとはっきりと感知できる作用や影響だけを考慮して判断してしまうから、思いがけない結果がもたらされると、どうしてそうなったのかがすぐにはわからず、何か信じがたいようなことが目の前で起こっているように思われて、焦って判断を誤ってしまうわけだが、何の判断を誤ってしまうかは、その時の状況にもよるだろうが、すでに信じがたいことが目の前で起こっていること自体が、何かの判断ミスからそうなってしまったのかも知れないし、それ以前に誰が何をどう判断しようと、起こるべくして起こることであれば、それが必然的な成り行きから起こったことになるのだろうが、例えば周期的に起こる巨大地震などは、そういう地震が起こった後からそれが周期的に起こることを科学的に調べられるわけだが、それが人の力を遙かに凌駕するような自然現象であれば、起こることを阻止できないだろうが、それによって誰かに幸運がもたらされることもあるだろうし、それがきっかけとなってやっていることがうまくいくようなことにでもなれば、そのきっかけをもたらしたのは人知を超えた自然現象だったことになるかも知れないが、幸運がもたらされるというよりは、幸運を掴むとなると、積極的にそれ相応のことをやって幸運を掴みに行かなければならなくなり、それが身の程知らずなことでもなければ、身の丈に合った幸運となるだろうが、その程度の幸運ならちょっとした一瞬味わうような幸運でしかないのかも知れず、そんな誰にでもちょっと努力すればできるようなことが、ちょっとした幸運を掴み取る上では必要となってくるかも知れないが、そうなると幸運の程度や傾向にもピンからキリまであることになり、それを幸運だと感じるか否かも個々人のその時の状況や状態にもよるだろうし、必ずしもそれを幸運だと思わなくても済んでしまうようなことなら、日々の日常体験の中で起こっていることでしかなく、要するにそれが大した幸運でもないわけだが、そうであればたとえちょっとした幸運に恵まれたとしても大げさに騒ぐようなことでもないのかも知れない。


1月12日「停滞と蓄積」

 何かが回りに回って一周してくると、それによって世界一周が達成されるわけでもないだろうが、自身の回転スピードを速めれば目が回ってしまうし、目が回らないようにするには、なるべくゆっくりと世の中を見渡す必要があるのかも知れないが、何を言説の対象として、その場の気まぐれな思いつきから意味不明なことを述べてみても、それが何のたとえになるというわけでもなく、目の前の光景を見たまま感じたままに表現できれば何でもないことだが、何がどうなっているのでもないことの表れとしてそんなことが起こっているとすれば、そんな回転運動にはついて行けずに心身の動作が間に合っていないのかも知れないが、うまくいっていないことは他にもあり、誰かが動かそうとする物事が動かずに、世界各地で様々な物資の停滞が起こっていれば、それらが必要なところへ回っていかない状況がもたらされていることになるが、その一方で物資の停滞は蓄積を意味していて、蓄積された物資を保管しておければ、それが当面の蓄えとなり、その蓄えを使って必要な時に必要な分だけ消費して、それでもなお備蓄が残っていれば、今度は物資が余っていることになるのだが、余っているのに出し惜しみしていれば、その分物資がどこかで不足して、必要とされているところに回っていかない状態も、故意にそんな状態を作り出すことによって物の価格を高めようとしているのかも知れないが、備蓄するにも保管費用が嵩んでしまうとかえって損失になってしまうし、数量にも期間にも保管できる限度がありそうだが、それも何を備蓄しているかにもよるだろうが、何も蓄えるつもりがなくても自然に蓄積してしまう成り行きもありそうで、絶えず動き回っていれば疲労が蓄積して、限界を超えて動き回れば、それが怪我や病気の原因となるだろうが、怪我をしやすかったり病気にかかりやすい人は長生きできないかというと、可能性としてはありそうだが、それだけが長生きできない原因の全てともいえないだろうし、そんな体質の人も中にはいるかも知れないが、身の回りの環境が怪我をしやすかったり病気にかかりやすい環境であれば、危うい環境の中で生きていることになるだろうし、それでも怪我や病気の程度が総じて軽いものであれば、身体へのダメージもそれだけ少なくて済みそうで、逆にそれによって怪我や病気への抵抗力がついて、身体が強化される可能性もありそうだが、大して気にするようなことでなくても、癌や糖尿病などの生活習慣病となると、気づかないうちに病状が進行して重篤化するような結果をもたらして、気づいた時にはすでに手遅れとなっている場合もありそうで、そういう成り行きがもっともやっかいなのかも知れないが、それと同じような世の中の状態を想像して、何やらそういう類いの危機意識を抱いてしまう人もいくらでもいて、世の中の状態をそういった病気にたとえて警鐘を鳴らすような論法もありふれていているが、何の理由も根拠もなくそんなことを言い始めるわけではないだろうし、心身の状態と世の中の状態とが連動して共振現象を起こしているような成り行きがあり、現状がまさにそんな状態だと思われて、そうなっていることを世間に向けて訴えかけたくなって、何かの拍子にそんなことを述べてしまうこと自体がその種の共振現象そのものかも知れないが、そうやって何かの振動が世界を揺り動かしているように思われて、それに多くの人が敏感に反応してしまうと、そういう風潮が大規模な流行現象を招いて、それに呼応して暴動の類いが発生したり、暴動の前兆現象として、特定の対象への敵意をむき出しにした煽動がメディアを通じて世の中に広まったりするのかも知れないが、それも人々の不安につけ込んで煽り立てられていて、そんな不安を引き起こすのが先行き不透明な世の中の情勢なのだろうが、これから何が起こるのかわからないような不安感に心がとらわれていれば、ちょっとした振動にも敏感に反応して、それを起因として何か大げさな事態に至るような気がして、そういう不安感がメディアを通じて過剰に共鳴現象を起こせば、実際に何かが起こる可能性が高まるかも知れず、そんな気がしてしまうこと自体も物事を大げさに捉えていることの表れなのだろうが、そういう負のエネルギーが不満や不信感と共に世の中に蓄積していれば、それを利用して暴動などの暴力的な動作を引き起こそうとするのが煽動などの目的となるにしても、すでに世界各地で歴史上何度もそんなことが起こっていて、それをやった結果も否定的な事態となって出ているにもかかわらず、さらにそれが性懲りもなく繰り返されようとすること自体が、そんなことをやること自体に抗いがたい魅力を感じるのだろうし、それがそういうことをやる原動力となるのだろうが、社会の秩序や治安を守り維持しようとする側としては、普通はそういう兆候を事前に察知して抑え込もうとするのだろうが、逆にそういうことが起こったことを口実にして、現状の打開や刷新を目指すような成り行きも起こりかねないし、わざとそういう行為を放置しておいて、頃合いを見計らって、そういうことをやった首謀者や勢力を一網打尽にしたい思惑も生じるのかも知れず、事前に罠を仕掛けておくというよりは、敵対勢力が勝手に自滅するのを待つという戦略もあるだろうし、そういうことが起こった結果から推察するなら、そんな予定調和な成り行きも想像できるだろうが、すでに結果が出てしまって、否定的な結末を迎えた後からそんな顛末を想像しているのだから、そういうのは危機感の表れとは無縁の退屈な後付け解説でしかないだろうし、事態を正確に把握していないだけでなく、そういうことをやってしまう側の心情や事情をわかっていないわけで、暴動を起こすような人たちへの敬意が足りないのは当然としても、敬意を示す理由のなさが、事の真相を捉え損ねていることの表れなのかも知れない。


1月11日「反省する態度」

 世の中で行き交っている人や物や情報には、それらの数量や大きさや強弱や価値などにもよるが、それら単体だけではなく、目的に応じてそれらを複合的に組み合わせることによって特有の作用や影響がもたらされて、またその利用目的や使用目的に応じて効果の違いも生じてきて、さらにはその利用や使用のしやすさやしにくさにも差が出てくるだろうが、そういった差異をどう捉えてみても、実際にそれらを利用したり使用してみないことにはわからないことがあるだろうし、その必要のあるなしというよりは、そこからもたらされる何らかの事態を意識が捉えていたりいなかったりもするだろうが、具体的に誰かが何かをやっている状態を意識が捉えているにしても、そこから派生する作用や影響を何らかの現象として、意識が捉えていたりいなかったりするといっても、それについて考えている内容がそういうことではないような気がするのは、気のせいというわけではなく、いちいちそれに反応している場合も、気づかずに反応していない場合もあるだろうが、反応したからといって、その反応にもいろいろな反応があるし、それに激しく反発したり、逆にわざと無視してみたりと、そういう反応自体が人の動作となって現れたり現れなかったり、意図して隠そうとしたりもするのだろうが、それもそういう水準でそれについて考える成り行きにもなるし、思考に直接結びつかないこともあるが、他人の反応をいちいち気にしてみたり、逆になるべく気にしないようにしてみたりと、それも反応に対する反応となるが、そういうところでうまく言い表せないような違和感や拒否反応につきまとわれることもあるし、いやな感じがして、やめた方がいいような勘が働いてしまうと、そういう成り行きを避けようとして、そうならないようにしたいのにそれに直面してしまうのがいやで、何とかそこから遠ざかろうとするのかも知れないし、それが気のせいであるにしても、危険を察知して近づきすぎないように配慮して、わざと遠回りしてそれと遭遇しないように心がけても、何かのきっかけから否応なく遭遇してしまうと、いやでも直面している状況に対処しなければならなくなって、困惑しながらも何とかその場を乗り切ろうとするのかも知れないが、乗り切れなければどうなるかといっても、その場の成り行きに応じて様々な結果が伴ってくるにしても、それに応じて何らかの態度や姿勢をとっても、そうなった後からいくら反省してもとりとめがないように思われるなら、それでも気になって仕方がないと、いつまでも執拗にこだわってしまうのかも知れないが、これといって納得できるような結論が出るわけでもなければ、ただ無駄に考えているだけで時間を浪費してしまい、それがどうしたわけでもないと思うしかなくても、否応なくそうなってしまえば、それについて何か考えを巡らして、そうなってしまったことについて反省してみたり教訓を得ようとするかもしれないが、そこで考えてみたことが後になって生かされるかどうかは、その時点では何とも言えないところであり、今後の人生の中で生かすために考えていることもあるかも知れないが、あまりそういうことは意識せずに、ただ失敗の原因を明らかにしようとするだけであれば、今後に生かす生かさないとは関係なく、原因を究明することだけにとどまって、いくら究明しようとしても何も得られなければ、ただ無駄に時間を費やしてしまったことになるだけだが、そうなると反省もできずに教訓も導き出せずに途方に暮れてしまうかも知れないが、反省しようにも反省できない事態に陥れば、他に何を考えるわけでもなく、反省しても仕方がないと思うしかないだろうし、反省できないのだから仕方ないとも思わないのかも知れないが、要するに何も考えられなくなってしまい、考えても無駄だと思えば考えないし、そういった反省することさえも拒むような成り行きになってしまうと、何かを考えるような成り行きにはならず、その代わりにどうなるかといえば、どうもならなければそれでもかまわないのかも知れないが、どうにかなってしまうこともあるだろうし、そのどうにかなってしまうことが、反省とは違う何かをもたらすのかも知れず、その中には反省からもたらされる過去の因習からの離脱を試みるような成り行きもあるだろうし、過去にとらわれない態度がそこから生じてくれば、それで過去をなかったことにするわけにはいかないものの、それでは都合が悪いことを認めて、そういう方面では都合が悪い状態にとどまるものの、全面的にそんな成り行きになるわけではなく、部分的に都合が悪いということであり、それをそのまま放置するような状態となってしまうことであるにしても、そういう部分ではそうなるだけであって、それとは別の部分までもそうなる必要がなければ、それでかまわないわけで、そういう成り行きが過去の反省とは別の面で活発化すれば、そういう方面ではそうなってしまうだろうし、そうやって正しいと感じるような論理や筋道とは違う成り行きが自然に生じてしまい、それがなし崩し的にそういう方面を覆ってしまうことが実際に起こってしまうのかも知れず、それでもそうなるより仕方がないと誰もが納得できるわけもなく、いつまでも執拗にそういう成り行きが間違っていると指摘し続ける人も出てくるかも知れないが、そういう人が考えている正しい論理というのが理想的な正しさである限りで、それは実現不可能な正しさでもあって、実現不可能なことをいつまでも実現しようと訴えかける人もそれなりの数で存在していることも事実だろうが、そうなってしまう人はそれでもかまわないにしても、そうならない人の方が多ければ、そういう人たちはある程度は間違っていることを承知しながらも、現状でやれることをやろうとするだろうし、実際にやれる限りでやっていることが、現状でおこなわれていることであり、それが間違っていると思われるなら、それなりに批判や非難を浴びながらおこなわれていることになるだろうし、そんな行為に加担している人や団体も、そういう批判や非難があることは承知でやっていることであるから、建前上は正しいことをやっていると主張する一方で、本音ではそうではないかも知れないし、そうではなくてもやらざるを得ないことをやっている気になっているのではないか。


1月10日「哲学のすすめ」

 なるべく世の中に広く流通しているありふれた思考形態に陥らないようにして物事を捉える必要があるかといえば、そんな必要を感じなければ、誰もが日頃から親しんでいる物事の捉え方でもかまわないだろうが、定型の思考に沿った捉え方になってしまうと、これまで通りの捉え方しかできずに、それでは何か限界を感じるとすれば、これまでにはない捉え方を試みてみた方が、新たな発見につながるような気がするのかも知れないが、そんな気がするだけで、そんなことをやろうとして簡単にできるわけでもなく、そんなことをやっているつもりでも、他人から見れば他と大して違わないような物事の捉え方しかしておらず、勝手にそう思い込んでいる人だけが、他とは違った物事の捉え方をしているような気がしているだけかも知れないが、その程度でもかまわないのかも知れず、その程度で済んでいるうちは他人と同様に、自分独自の物事の捉え方を模索していると思い込めるのであり、実際にそう思い込んでいる限りで、何か前向きに物事を捉えようとしていることになるのかも知れず、客観的には他人と大して違わないようなことを考えているに過ぎないのに、自分独自に何か模索しているような気になることが、世間並みに物事を考えていることの証しとなり、それだけでも何も考えていないよりは少しマシな気になれることが肝要で、そんな気にさせるような対象として哲学と呼ばれる分野があって、考える対象が何であれ、それについて哲学することは良いことだと漠然と思っていれば、何か考えているような気になれるかも知れないが、一般的にはそれでも考えていることになり、それでも哲学的な思考だといえるのかも知れず、そんな気になっているだけでも、前向きに自らを取り巻く世界について考えているつもりになれて、それによって他人とは少し違う物事の捉え方ができたような気になれるかも知れないが、その程度であってもかまわないとは思われなければ、そういった思考形態から抜け出て、場合によってはさらにそこから思考を発展させる必要が生じてくれば、そうやってその人独自の思考形態を極めなければならないのだろうが、本気でそう思っているわけではなく、戦略としてそういう態度でいられることが目的であるなら、そんな態度でいれば何とかなるような気がするからそう思われるのだろうが、だからといってそんな態度に凝り固まっている架空の人格を演じているつもりにはなれないかも知れないが、そうなるとどうも話の途中から嘘が混じってしまっているようにも思われて、次第にそんな態度にはなりきれていないような気もしてきて、そこから結局は自らを偽っていることに気づいてしまい、その場限りの間に合わせの戦略が不発に終わったことを悟るしかないが、他の何を悟っているわけでもないだろうし、思考している対象が空疎だからこそ嘘がばれて、何も考えていないことが明らかとなってしまうだけで、何か他に馬鹿げたことを考えていたわけでもなかったのだから、何も考えずに他人と争うばかりが取り柄でもないのは、何も考えていないからそうなっているわけでもなければ、自身の頭がおかしいことを自覚していないわけでもなく、世間で流行っているように思われる一方的な論理に従っているだけで心地良いような気がするとしても、一過性の流行に踊らされている自らの愚かさを少しは自覚しているわけで、それが別に狂気にとらわれていることの証しとなるわけではなくても、そういった傾向へと感性が傾いていって、結局は隣で騒いでいる人物と同じような行動の虜となってしまい、それが感染症の一種だとも思われて、確かにそんな動作にとらわれていれば心地良いにしても、そこから抜け出るタイミングを逸していることに軽い戸惑いを覚えるのだろうが、それが軽薄で安易な行動であることには変わりないのだから、そんな動作から抜け出ようと思えば意外に簡単に抜け出られて、そうなる過程で他から引き留められるわけでもないことを確信しながらも、その場の居心地の良さに引きずられながらそんな惰性の行動にとらわれてしまっている自分が逆に頼もしく思われて、行動するのではなく考えることが欠けている事態をどう捉えてみても愚かしく、何も考えずにただ感性にまかせて行動しているわけでもなくても、既存の何かに仮装している自らが実質的な内容を持ち得ないことが歯がゆいとしても、それが政治的な行動に伴って生じる内容のなさに起因してそうなっているわけでもないのだろうが、原初的な仮装が神の姿をまとって出現するわけだから、ありふれた成り行きにまかせればそうなる他ないのだろうし、哲学者の類いが他人とは違う思考を装うことの嘘を見抜けないと、誰もが他人と同じようなことを考えていることにも鈍感となってしまい、独自に考えていることが他人の考えていることと一致してしまうのが我慢がならないわけだろうが、仮装ではなく本来の姿としては、真面目な詐欺師が政治家であり、インチキ霊媒師が哲学者だといえるのだろうが、詐欺師でも霊媒師でも仮装していれば偽物であり、見るからにどことなく安っぽさを感じさせるだろうが、それでも様になっているように見えるなら、騙されたふりをしておだてておけばいいだろうし、そんなことをやったからといって何の得にもならないと思うのではなく、得にならなくても何かの得になったように装えば、それも偽りの演技に過ぎないにしても、演じている間は演じている自らを信じられるだろうし、案外そうなっている限りで誰もがその気になって仮装の役割を演じていられるのかも知れず、そこまで事態が進展すれば偽物も本物のように見えるかも知れないが、偽物と本物の区別がつかないところが偽物の価値でもあり、それが偽物だとばれてしまえば価値がなくなってしまうだろうし、なるべくばれないように偽物を演じなければならないのだが、普通は偽物を演じているのではなく、本物であるかのように見せかけるわけで、そういうところが嘘っぽい演技であることを感じさせて、いかにも偽物のようなふりをするのも、それが演技であることがばればれな雰囲気を醸し出しているようなら、信じるわけにはいかないような気になってしまうわけだが、それでも信じているように見えてしまうと、信じている人が愚かに見えてしまって、それこそ何の得にもならない演技となってしまうのではないか。


1月9日「国家体制の実態」

 19世紀といえば世界的に大衆市民社会が広まった世紀だが、アメリカの南北戦争が終結したのが1865年で、日本の明治維新が1867年、イタリアの統一が1870年、ドイツの統一が1871年であり、現代のような形態の国家体制が、短い数年の間に相次いで成立した一方で、多民族を包摂する古い帝国の形態だった清帝国が滅亡したのが1912年で、ロシア帝国が滅亡したのが1917年、オーストリア=ハンガリー帝国が滅亡したのが1918年、オスマン帝国が滅亡したのが1922年であり、やはり20世紀の短い期間に相次いで旧世界を代表する国家体制が崩壊して、それと入れ替わりに現代的な世界が出現したことになるが、現代を特徴づける国家の形態としては、形式的には司法と立法と行政を分立させる三権分立の形態であり、三権のそれぞれに裁判所と議会と政府という機関があるが、政党と呼ばれる政治組織が議会と政府に介入して、三権分立を脅かす存在となり、また裁判所が機構の面で行政機関と一体化していると、政府が影響力を行使してきて、それも権力の分権を脅かしていて、形式的な三権分立が実質的には形骸化している国も多いわけだが、そうした国家体制が統治の標的にしているのが市民社会であるとしても、市民社会を経済の面で支えている主体が実質的には民間の企業による経済活動であって、政府が全面的に市民社会を支えているわけでもないが、市民社会といってもそれを社会と称しているだけで、何か組織的にまとまった形態を伴っているわけではなく、そんな社会を操作したり制御する機関として、公的な面での三権分立を担う各機関とは別に、企業や政党やマスメディアといった類いの民間の組織が自然発生的に生じてきて、他にも宗教団体などがあるだろうが、それらの組織的な団体が社会に影響力を行使して、またそれと同時に三権分立を担う公的な機関にも影響力を行使しながら活動していて、そういう実態に反して各国の政府が各国を支配して統治していると形式的に捉えてみても、それ以外にも支配や統治に関与している民間の組織的な団体の存在が見えてこないわけで、例えば中国の共産党や日本の自民党などは、政府に深く関与しながら政府と共に二重統治体制を築き上げているし、アメリカの民主党や共和党などの二大政党なども似たような存在だろうが、そういう公式的な面と実質的な面が建前と本音のような表裏一体を構成しているのが現代的な国家体制の特徴であり、それに関して政党の発祥地であるイギリスなどは国家体制なき統治体制と捉えられたりしているわけだが、社会の中から自然発生的に生じてきた組織的な団体が公的な国家機関を侵食しているという実態が、政府という国家機関による国家の統治という公式的な見方を虚構化しているようにも思わせるのであり、それに対して企業が政党に資金を提供して国家を支配させているのはおかしく、主権は国民にあり、国家は国民のものだという公式的な見解も、実態を反映していないというか、そういう捉え方では不十分であるのをわかっていながら、あえてそういう公式的な見解にとどまりながら正義を主張しているように装っていて、実際には企業や政党やマスメディアなどが社会を部分的にそれぞれの領分に応じて分割しながら統治している実態から目を背けているようにも感じられて、それらが公式的にも非公式的にも影響力を行使して国家統治に関与していることは確かであり、それを国家統治と見なしていいかどうかは、公式的には間違っているかも知れないが、少なくとも政府による公式的な国家統治と混じり合っていて、中国などでは政党の力が露骨に顕在化しているから、公式的な国家統治を形骸化させているわけだが、それが世界的な傾向であり現代の統治体制の特徴ともなっていて、さらには政党自体も国家の官僚制と一体化を深めながら形骸化しているともいえるだろうし、そういう意味では社会を統治する主体が空疎であり、企業も政党もマスメディアなども政府のように組織的には官僚化が進展すると共に形式的な構造が抜け殻と化してしまうといえるのかも知れないが、それが組織の実態であり、空疎な実質なき形式的な組織でしかなくなるわけだが、その一方で法律が世の中で守られている状態を実現するのが法治国家の統治だといえるだろうし、その法律を作るのが議会であり、国民の要望に応えるような法律を作って、政府が作った法律を守らせようとするわけで、また裁判所が法律に違反した人や団体を裁くわけだが、果たして国民の要望に応えるような法律を作れるかというと、実質的には現状の社会を維持することが優先されていて、そうすることが国民の要望なのかというと、そういう要望もあるにはあるだろうが、その一方で社会の状態をより良い状態へと変えてゆこうとしているだろうし、では社会の状態を現状よりも改善することが国民の要望なのかといえば、それに反対する国民はまずいないだろうが、どうすれば改善することができるかとなると、そのやり方の面で国民の間で意見の違いが出てくるし、他人の意見に反対したい人ならいくらでもいるだろうが、そんな社会の状態をうまく調整しながら制御することが統治となり、できるだけ良い状態へと持って行こうとするのが政府などの統治機関の活動となるだろうが、そういった統治の実態をどこまで民衆が信じているかとなると、少なくとも古代のシャーマンが古代の人々に向けて語ったフィクションよりは、現代のメディア上で政治家や学者やジャーナリストなどが社会について語るフィクションの方が、現代人にとっては信じやすい内容であるのは確かだが、統治の実態に関してどう語ればいいかとなると、フィクションとはならないような語り方があるとは思えないし、民衆が統治されていることを信じる度合いによって、統治の有効性にも差が出てくるとしても、国家への信仰や信用や信頼の度合いがいくら高くても、実質的にそこで何がおこなわれているかに関して、正確な情報が社会に行き渡っていないと、ただ民衆が国家を信じているだけになってしまうだろうし、また信じていなくても信じているように装っているのが北朝鮮などの実態だとしても、何かそういうところで現代的な国家体制の虚構性が浮かび上がってきているのではないか。


1月8日「矛盾する思考」

 納得がいかないことには、後から納得できる可能性もあるだろうが、納得がいかないからそれについて考えるわけで、考えてそれに関する納得ができるような結論を導き出そうとするわけだが、いくら考えても、考えがまとまらずに、考えあぐねて、納得がいかないままとなってしまうこともあるだろうし、考えたからといって全てにおいて納得できるわけでもないわけだが、ともかく納得がいかないからそれについて考えていて、納得ができるような結論を導き出したいわけだが、具体的に何について考えているのかといえば、それが捉えどころのない漠然とした物事だとうまく形容しがたく、何について考えているのかもよくわからないが、それでも何かを考えているつもりになっている場合もありそうで、それをうまく表現できないところが納得しがたいわけだが、安易に納得しないように何かにつけて疑い深くなっている可能性もあり、納得したくて考えているのと納得したくないから疑い深くなっている心理状態が頭の中でせめぎ合っていると、納得できるような結論がそこから導き出されるとは考えにくいが、何かの結果が出てから判断するのと、結果が出る以前に物事が進行中の過程において考えていることが食い違うのはよくありがちなことだろうし、結果が出てからそれはそういうことだと安易に結論を下してしまうことが、果たしてまともな判断に基づいているのかと疑い出すときりがないだろうが、意外とそういう結論が正しいことのように思われて、結果から判断して途中の過程において考えていたことが間違っていたことだと否定してしまいがちになってしまい、考えていたことが無駄になってしまったように思われるのだが、結果から結論を下すことが途中の過程を省いて判断していることになるのかというと、結論を下すという行為自体が途中で起こる迷いや戸惑いなどの紆余曲折をなかったことにしたい表れで、途中でわけのわからない迷路のような迂回や逡巡があったにせよ、結果的にこうなってしまったのだから、それを肯定的に受け止めるにしても否定的に受け止めるにしても、こうなってしまった結果を受け入れるしかないと区切りをつけたいから、何らかの断言と共にこれはこういうことだと結論を下したいわけで、それで納得しようがしまいが、そのことはそこでおしまいにしたいから結論を下して、それまでにやってきた物事を総括したいのだろうが、実際には何も終わっていなければ、そういう物事に納得したいがために下される結論というのが虚構に過ぎない場合があるだろうし、そんな結論に違和感を覚えたり疑わしく思われるようなら、その虚構性に気づいていることの表れとなるのかも知れないが、そうであっても結論を下さなければならない機会や時期を捉えて結論へと持って行きたい思惑が生じて、いつまでもうじうじと途中の過程にこだわっていられると鬱陶しくて仕方がないようなら、強引にでも結論を下してその件はそこで終わりにしたければ、唐突に何かの終わりが宣言されるような成り行きになるだろうし、そうやって何かの幕引きが図られるようなことがおこなわれて、そういう演劇的な展開によっていつまでも納得しがたく燻っている不満を抑え込もうとしてくるわけだが、そんな成り行きによって意図的に何かが隠蔽されたように思われてしまうと、そんな都合の悪い何かが途中で露わになっていたかも知れないと思われてしまい、それが納得しがたく違和感を伴うような何かであり、何かの幕引きによってそれにこだわろうとする意識を抑え込もうとする意図が介在しているようにも思われて、それが何なのかを考えようとしてしまうと、さらに疑念が深まってきて、そうなると隠された何かを明らかにしようとする謎解きの探究心にも火がついて、そこから無駄な情熱が費やされるような成り行きにもなるのかも知れないし、強引に結論へと持って行こうとする思惑が陰謀論的な邪推をもたらして、かえってやぶ蛇なことにもなってしまえば、それを終わらせようとする行為がかえって逆効果を生んでしまったことになるわけだが、すでにそうなっている時点で結論という虚構にさらに別の虚構の尾ひれがついて、誰の思惑からも外れて勝手に世の中を泳ぎ回って、それによってさらなる思いもしなかったような虚構が構成されてしまうとも限らず、世の中にそんな虚構の情報が拡散する度に、雪だるま式に虚構から生じた妄想が膨らんでいってしまうかも知れないが、そうはいってもそれらが陰謀論的な紋切り型に収斂するような成り行きもあって、その種のカルト話の定型に則った内容になれば、多くの人がそれを今までにささやかれてきた陰謀論の一種と断じて安心するかも知れないし、そうなるのも結論の一種であり、それはそういうことだと結論を下して片付けたいわけで、それもそういう結論へと持って行こうとする思惑が働いていると見なしておいてもかまわないことだろうが、それでもまだ途中の段階だといえるだろうし、実際にまだ昨年から続いているパンデミックと言われる世界的な流行が収束しておらず、それが途中からアメリカの大統領選や中国情勢などと合流して、話が盛り上がってきた最中の段階で語っていることに過ぎないわけで、結論など下す段階には至っていないだろうが、早計に結論を予想したい人ならいくらでもいて、現状に関して何か言いたい人がもっともらしい予想や予測をやりたがるのだろうが、そんな予想や予測自体もフィクションの一種であり、話に尾ひれがついて世の中を泳ぎ回っている過程で生じてくる虚構の話でしかないわけだが、それらも納得がいかないことを納得がいくように説明したいという欲求から生じてくるのだろうし、何か辻褄が合わないようなことを辻褄が合うような話に構成したいわけで、そういう作業によって言説が生み出されるわけだから、恣意的に辻褄が合うようにしようとする箇所から疑念が生じてくるのも無理はないわけだが、謎を謎のままで終わらせてしまうと話にならないから、謎解きの過程として辻褄合わせが介在してくるのだろうが、その手際の良し悪しによって話の出来が左右されるにしても、それが誰かが物語る話でしかないだけに、実際の現象とは別のこととして受け止めるしかないわけで、それを混同して真に受けてしまうと陰謀論などの餌食となってしまうのかも知れない。


1月7日「役割分担から離れて」

 特定の人物の手腕に幻想を抱くわけにはいかないのは、社会的な役割分担に従ってその人が動いている場合には、決められた役割の範囲内でしか動かない人に、それ以上のことをやって欲しいと期待するのは虫のいい話かも知れないからだが、社会的な役割分担とは何かといえば、仕事などの職業的な動作も含まれてくるだろうが、それ以外にも家族や交友関係や地域社会の中での役割がありそうだが、そうした役割の他に何かやる必要があるかといえば、必要があるからやるというのではなく、何かの役割を担っているからやるという以外でやることになるのかも知れず、普通にやっていることはやる必要があるからやっていると考えるしかないが、中にはやる必要もないことまでやってしまっている場合もあるだろうし、逆にやる必要があるのにやらない場合もありそうだが、そもそも必要があるかないかの判断がつかないようなことまでやっている場合もありそうで、なぜそんなことをやっているのか、やっている当人にもよくわかっていないようなことをやっているとしたら、何だかわからないが、その場の成り行き上やらざるを得ないようなことをやっている場合もあり、そんな場合にはそれをやっている当人にはわからないような必要がその場で生じているのかも知れないが、その人には自らがやっていることに関して、なぜそんなことをやらなければならないのかわかっていないにもかかわらず、なぜか知らないが、そんなことをやらざるを得ないような状況に追い込まれてやっている場合もありそうで、誰もそんなことをやる必要も感じていないのにやっているとしたら、当人も含めて誰もその必要を感じていないようなことをやっている可能性もあるだろうし、そうなれば誰にとっても必要を感じないことをやっていることになるだろうが、その必要を感じないからといって、不要なことをやっているともいえない場合もあり、誰もわからないような必要がその場に生じているのかも知れず、例えばその場がうまい具合に回っていれば、その場でよくわからないことをやっている人がいるとしても、やっていることがその場に良い効果をもたらしている可能性があるかも知れず、そうであれば一見必要のないことをやっている人がいるように感じられるとしても、結果的にその場がうまく回っていれば、不要に思われることをやっている人も何かの役に立っている可能性があり、逆にその場がうまく行かない場合には、必要に思われることをやっていても、かえってそれが逆効果となって、うまくいかない原因が必要だからやっていることである可能性もありそうだが、その場がうまくいかなくてもかまわない場合もあるだろうし、うまくいかなくてもそれが好都合な人がいれば、その人にとってはその場がうまくいっている必要もないわけで、そうなるとその人とその場にいる他の人たちとは利害が一致しておらず、場合によっては敵対関係にあるとしても、その場にいる人たちにはそれがわからない場合もあるだろうし、原因が何だかわからないが、その場がうまくいっていなくても、その場で平然としていられる人がいれば、そんな人にとってはそれでかまわないわけで、その人が他の人たちと敵対する意志がなくても、結果的に利害が一致していなければ敵対している可能性があるだろうし、その人には他の人たちのことなど眼中になくても、そんな態度でいること自体が敵対していると見なされて、何かのきっかけで仲間から攻撃を加えられるようなことにでもなれば、それもその場がうまくいかなくなる原因と考えられて、そういう人がその場から排除される可能性もあり、そうなればその人の存在自体がその場では不要になってしまい、場合によっては不要であるどころか、害をもたらす存在として抹殺しようとするような動きでも出てくれば、完全に敵対関係にあることが明らかとなるだろうが、そうではなく、害どころかその場に利益をもたらしているのに、逆にそれが出過ぎた真似をしていると受け取られて、それがその人を排除する理由となってしまう場合さえありそうだが、さらに抑圧だとか圧政だとかの害悪をもたらしているからこそ支持されている人や勢力もいて、そういう場合には利益よりも害悪の方がその場では必要とされていて、もちろんそういう人や勢力に与する人たちにとっては、そんな害悪こそがそれらの人たちの利益になる一方で、逆に言論や思想信条の自由などが害悪をもたらす不要なものとされてしまうだろうし、そうやって立場や状況が違えば必要となるものも不要となるものも逆になってしまい、一概に必要か不要かの判断がつかなくなってくるのかも知れないが、それが必要か不要かの判断と善悪や利害の判断とが結びつかずに、ただ欲望を煽り立てるということもおこなわれていて、煽り立てられるものを求めるという動作があり、しかも禁止したり抑圧することによって逆にそれを煽り立てることもあるわけで、そうやって煽り立てられたものを求めるように仕向けられてしまうと、そういうことを仕向けている側も仕向けられている側も、それが必要なのか不要なのか良いことなのか悪いことなのか利益をもたらすものなのか不利益をもたらすものなのかを判断する以前に、それを求めるように仕向けてしまうわけだから、それらの判断そのものが意味をなさないわけで、それが必要で良いことで利益になることだから求めていると思うのは、それを求めるように煽り立てられて仕向けられているからそう思うわけで、求めた後からそれが必要で良いことで利益になると自らに言い聞かせているだけで、それを求めるように仕向けられて煽り立てられていることには無自覚で、そうやって煽動の罠にかかっているのだろうが、別に煽り立てている側も罠にかけているという自覚もないだろうし、何だかわからないがそう仕向けていて、民衆を煽動して、思いのままに操っている自分たちの力を誇示したいわけで、それが権力を行使していることの実態であるだろうし、そういう過程において抑圧だとか圧政だとかの害悪がもたらされるわけだが、そうなっていること自体が必要だから良いことだから利益になることだからおこなっているというもっともらしい理由や根拠が後付け的についてくるわけだ。


1月6日「意味不明の根拠」

 先行きが不透明ということの何の先行きが不透明なのかがわからなければ、不透明も何もあったものではないが、何かの先行きが不透明だとしても、その何かが何なのかを特定しなければ不透明だとはいえないが、それでも不透明なような気がすれば、よくはわからないが先行きが不透明だと思うしかないが、それが何であっても、いったんそれが過ぎ去ってみれば、茶番としか思われなければ、たとえそれを茶番だと思うことが不謹慎であっても、それも何が茶番かもわからなければ、茶番だと思うこと自体が意味不明だが、何だかわからないが何かが茶番なのであり、それが何だかわからないが先行きが不透明であり、それが何だかわからないが茶番だと思われて、その何かが微妙におかしいのであり、それが何だかわからないところが焦れったいのだろうが、それが今までにない新たな事態を予感させ、もうすでにそんな事態となっているのだが、それが何だかわからないことは相変わらずで、例えばそれを戦争なき戦争状態だと表現するなら、戦争とはいえなくても何か紛争の類いが起こっているのであり、そんなことは今までにも数知れず起こってきた事態だといえるのかも知れないが、たとえそうであってもこれまでとは違う何かを感じられるから、新たな事態が到来したと思われるのだろうが、なぜか知らないがその何かをうまく表現できないのであり、何かこれまでとは違う事態なのだが、まだそれがよくわからない段階だから先行きが不明に思われて、またそれが何かの茶番である印象も感じ取っているから、あまり事を深刻に捉えないようにしておきたいわけで、そうであっても感染症の世界的な流行によって多くの人命が失われているのに、状況が深刻でないはずがないが、それとは別に茶番な事態も同時並行で進行中のように思われて、別ではなく両者がほどよく入り混じっているのかも知れないが、それをどう捉えるかとなると、何だかわからないが意味不明なことが起こっていると捉えるしかなく、何か底が抜けたバケツに水を貯めようとしている感じだと表現すればしっくりくるかも知れないが、何がそうなのかがわからないわけで、何もかもがそうであるわけもないだろうが、辻褄の合わないことを辻褄が合うように説明しようとすれば、それが無理なことはわかりきっているのに、そんな説明をしている自分にどうしても納得したいだろうし、目の前で起こっている事態から目を背けながらも、目の前で起こっている事態を自らに都合の良いように解釈したいわけで、そんな解釈が世界中で横行していることが明らかとなっているのに、それがおかしいことを心情的に認めたくない人たちもいくらでもいて、できればそれを世界的に認めさせたいわけで、自分たちの心に巣くっている狂気が狂気ではないと主張したいのだろうが、では狂気でなくて何なのかといえば、例えばそれを世界のありのままの姿だと捉えれば、世界の実情がそれらの人たちの心に投影している姿が狂気だと感じられるわけだが、そうであればありのままの姿が狂気なのだから、そんな狂気などあってないようなものであり、それを狂気だと否定的に表現しているに過ぎず、否定的に捉えるのがいやなら、狂気とは逆の正気だと表現してもかまわないのかも知れないが、正気でそんなことをやっていること自体が無理に思われるとすれば、やはり無理なことをごり押ししているように見えるわけだから、それらを否定されるべき行為や行動だと捉えておいた方が妥当であり、しかもそれがどう見ても正気の沙汰でないと感じられるのだから、心が狂気に包まれていると表現してもそれほど間違っているわけではなく、狂気とはそういうものでしかないのかも知れないが、それを病気の一種だと見なしてしまうと、狂気という表現からずれてきてしまうのかも知れず、狂気は狂気であって、病気とは少し形態が異なり、狂気を病気だと見なしてしまうことが、狂気の本質を取り逃がしてしまうことになるのかも知れないが、狂気の本質とは何かといえば、それが集団で騒ぎ立てるような行動を伴うわけで、個人が発症するのが病気と見なされる狂気かも知れないが、集団で騒ぎ立てるような狂気は病気の類いとは異なり、それ自体が社会現象に含まれるだろうし、社会的な感染症だと見れば狂気も人から人へと伝染する病だと見なされるかも知れないが、病気であれば騒ぎ立てる元気もなくなるだろうし、そういう意味では個人が狂気にとらわれても暴れることがあり、そういうところで一般的な病気と狂気とは区別しなければならないだろうが、人が集団で暴徒と化す現象をどう見るかとなると、妥当な表現としては狂気にとらわれていると見るのが正しいのかも知れず、しかもそれが無理な要求をしながら暴れているからその種の集団が狂気に包まれているように見えてしまうのだが、そういった人為的な暴風雨の類いが鎮まった後で何が判明するかといえば、その渦中で騒ぎ立てている人にとっては大変なことが起こっているように思われるかも知れないが、何を巡って紛争の類いが起こったのかを冷静に検証してみるなら、根拠のない噂話から生じるデマや流言に呼応して起こっているようなことなら茶番でしかないだろうし、そんな茶番に踊らされている人が思いのほか大勢いること自体が何か驚きを通り越して呆れてしまうようなことなら、やはりそれが集団的な狂気の類いに感じられてしまうわけだが、それを心理的な病気の類いだとは見なせないし、何か正気のまま狂気を演じているような滑稽さを感じさせるのだが、そもそも狂気などあってないようなものだと見なすなら、やはり茶番でしかないわけだが、そんな茶番の渦中に巻き込まれている人たちからすれば、正気でそんなことをやっているわけで、そんな状況をどう捉えてみても、悲惨な事態であるよりも滑稽な事態である面の方がより顕著に見えてしまうわけだ。


1月5日「気休めの効果」

 現状で何をどうすればいいのかを指摘できても、それを実行するとなるとできない事情が出てきて、できない事情を優先させれば、それをやるように指摘する意見と対立することになるわけだが、そこからなぜやるべきことをやらないのかと批判されても、やれない事情があるからやらないのだろうが、それをやったところで、今度はやれない事情があるからうまくいかない可能性も高いかも知れないが、やるべきことを指摘して、それをやれと主張する人にとっては、主張の中でそんなことまで考慮に入れていない場合もあるだろうし、そうなると主張通りのことがおこなわれない可能性が高いのかも知れず、そんなふうに世の中で様々なことが主張されていても、主張されるだけにとどまっていることなどいくらでもありそうだが、そんな主張を支持したりそれに賛同している人たちもいくらでもいて、そんな主張がいくらでも店ざらしとなっている一方で、何かをやる立場の人や団体がやれることは限られていて、もろもろの事情からやるべきことを何もやっていないように見えるとしても、そんな彼らにも支持者や支持している団体や勢力がそれなりに存在するから、相変わらず何かをやる立場でいられるわけだが、それがやるべきことをやらないのとは別の事情で支持されている場合もあるだろうし、支持するかしないかの争点がそこになければ、それを批判する人たちにはやるべきことをやっていないのに何であんな連中を支持する人が大勢いるのか不思議でならないだろうが、そんな批判が的外れだとはいえないにしても、的を射た批判がそういったことに関してもっともな批判だと思われて、批判がある程度は支持されるとしても、批判している人や勢力が支持されるとも限らず、それらの人たちが批判専用の人や勢力としてみられていれば、そんな人たちが実権を握って主張通りのことをおこなう機会がやってくるとは限らず、批判としてはもっともらしいことを批判しているが、実権を握っているのは相変わらず批判者から無能呼ばわりされている人たちであり、無能呼ばわりされている人たちが何かをやるに際して実権を握っていて、現状でやっていること以外のことができるわけでもないが、逆に現状でやっていること以外のことは何もできないから、現状で実権を握っているようにも見えるわけで、要するに無能呼ばわりされるから実権を握っていられて、それを批判する人たちは実権を握っていないから批判するだけに終始するしかなく、そこで実権を握れば批判者から無能呼ばわりされるような立場になるわけで、その場ではそうであっても他ではそうではなく、実権を握っていることに関しては無能でないから実権を握っているのであり、逆に批判している人たちがいつまで経っても実権を握れなければ、実権を握ることに関しては無能なのかも知れず、よそではそうではないかも知れないし、実際に実権を握っている人たちを無能呼ばわりすること自体がそもそもできないようになっている地域もあるだろうし、また批判される以前に無能呼ばわりされないようなことをやっている地域もあるだろうが、そのやっていることに対しては別の批判がされていて、やるべきことをやらずに無能呼ばわりされる人たちが実権を握っているように見える地域もある一方で、やるべきことをやっているように見えるが、別の方面から批判されている地域もあり、そういうことを踏まえれば、こことあちらでは状況の深刻度や傾向が違っているのかもしれないが、その地域に特有の事情もあるだろうし、そういった事情に絡んでやっていることの内容もそれに対する批判の内容も変わってくるのだろうが、やはり無能呼ばわりされるにはそれ相応の理由や根拠もあるだろうし、よそでやっているようにそういった批判を力で封じ込めるではなく、無能呼ばわりされないようなことをやる必要があるのだろうが、そうなった状況からそう言われてしまうのだから、それとは別の状況になればそういう声も聞かれなくなるだろうし、どんな状況下でもそんな批判が後を絶たないような成り行きもあるだろうが、うまい具合にそんな批判を逆利用することによって現状が成り立っているのかも知れないし、誰がそれを利用しているのかと言えば、他ならぬ無能呼ばわりされている人たちかも知れないが、無能呼ばわりしている人たちもその対象となっている人たちを無能呼ばわりすることによって、自分たちが無能呼ばわりされることを避けているのかも知れないし、どちらにしても誰かが無能呼ばわりされるような状況がもたらされていれば、そんな状況を利用して何かをやっている人たちもいるだろうが、そういう批判によって溜飲を下げるようなこともおこなわれていて、それが表面的な取り繕いに結びつくとしても、それ以上にどうなるわけでもないところが気休め的な効果にとどまるのだろうが、そうした気休め的な効果がもたらされることが期待されているわけではなく、実質的な効果が期待されているわけだろうが、そうなっている状況自体が実質的な効果なのかも知れず、うまい具合に世の中が回っていることの表れとして、無能呼ばわりされている人たちに主導権を握られているわけで、それが何をやるための主導権なのでもなく、何もやらないための主導権でもないのかも知れないし、何かをやらないでおくための主導権なのかも知れないが、そうかといって積極的に無謀なことをやるための主導権でもなく、その辺の微妙なバランスを保つための主導権なのかも知れず、それを意識せずにやっているわけではなくても、何かしら当事者や関係者が意識できないところで何かの微妙なバランスが保たれているのだろうが、それによって不利益を被っているように思われる人たちは、自らそれを批判するか、批判している人たちを支持したり、批判に賛同して加担しているつもりになっているのだろうが、本当のところは誰にもわかっていないのかも知れず、そんな状況の中で今後の予想も誰かがもっともらしいことを予想してみせるだろうが、それが当たったり外れたり、ある程度のところで概ね予想通りに状況が推移したり、少しは違っていたりするのかも知れないが、それも気休め的な効果の範囲内で当たったり外れたりする程度のことかも知れず、実際にそうなってみてから判断されることだろうが、仮にそうならなくてもそうなったことになってしまうかも知れないし、どうなろうと自分の予想通りだったと言い張る人もいくらでもいて、そういう人たちは、そら見たことかと言いたいから、思いがけない出来事にはなるべく驚かないようにしたいのではないか。


1月4日「流行現象の渦中」

 何かをおこなった結果がどうなるにしても、そうなった結果から見れば物事の辻褄が合って納得がいく成り行きだとしても、実際に進行中の成り行きの中に身を投じていれば、その時点では先行きが不透明に思われて、そこからどんな結果がもたらされても、どう考えても納得しがたいことがあるのかも知れず、やっていることがうまくいかずに思わしい結果が得られなければ、そう思うのも無理もないところだろうが、他の人から見ればうまくいかなくて当然だと思われるようなことであっても、それをやっている当人にはわからない場合があり、うまくいかない原因を他人から指摘されても納得できなければ、やっている当人にしかわからないこだわりがあって、他の人には理解できないところで変にこだわっていることでもあれば、そんなことにこだわっているからうまくいかないのに、それを他人から指摘されると逆に怒り出すようなことになってしまえば、やはり当人の感覚がずれていて、それが当人にとってはどうしてもこだわらなければならないことだと思われても、他人にとってはどうでもいいようなことであれば、そういうところでおかしくなっているのだろうが、おかしいことをやっている当人には、相変わらずそれがおかしいことだとは理解できず、いつも通りに振る舞っているはずなのに、なぜかやることなすことがことごとくうまくいかないのが不思議でならないような気になってしまい、いったんそんな成り行きになってしまうと、当人にも周囲の人たちにもどうすることもできないような状況となってしまうのかも知れないが、ちょっとしたきっかけからそうなってしまうのかも知れず、そのちょっとしたきっかけがちょっとしているだけに気づきにくいところでもあり、他人にとっては無視してもかまわないようなどうでもいいことであっても、当人としてはどうしてもこだわりたくなってしまい、そんなことにこだわってしまうからやっていることのバランスがおかしくなって、結果的にやることなすこと全てがうまく行かなくなってしまうのかも知れないが、そうなってその人がおかしくなってしまっても、その人がいなくてもどうということはなければ、そんなどうでもいいことにこだわっている面倒な人は、次第に他から相手にされなくなってしまうのだろうし、そうやってそういう人が世間から消えてしまえば、別にそれでもかまわないわけで、それで何事もなく世の中が回っていれば、そういう人の存在はさっさと忘れられてしまうのだろうが、その人が一時は世間的にも著名人であったとしても、そうやっていつの間にか消えてしまう人もいくらでもいるのだろうし、実際にそういう現象を目の当たりにしてみれば、その人の存在やその人のこだわっていたことが、ある時期においては確かに重要だと思われるにしても、またその人の言っていることや振る舞いに説得力が感じられても、それからしばらくしていつの間にかその人の存在が忘れ去られてみると、それが何でもないことのように感じられて、それどころかその人を重要人物であるように感じていた当時のことが滑稽に思われるようなことにでもなれば、そこから時代状況が様変わりしてしまったことになるだろうし、いったんそうなってしまった結果から見ればそれが当たり前のことのように思われるとしても、当時に流行っていた何かの現象の渦中に身を置いてみれば、なるほど多くの人たちが今から思えばどうでもいいようなことにこだわって、そんな流行現象に踊らされていて、その渦中にいないとどうでもいいようなことにこだわれないわけが、そうした現象が過ぎ去って、そこからそれなりに距離を置いて冷静になってみないとわからないのかも知れず、そんな流行現象の中で先頭を切って突っ走っているつもりの誰かの存在やその人のこだわりが、その時期には確かに重要でそれにこだわる必要性も理解できたのに、そうした現象からいったん遠ざかってしまうと、次第に何でもないことのように思われてきて、それなしでも現に生きている自らの存在がそれを証明しているように思われてくれば、完全に身も心もそこから外れてしまったことを意識できるだろうが、そうなってしまうまでの過程において、心がこじれてしまう人もそれなりに出てくるだろうし、今では誰も見向きもしなくなった物事に執拗にこだわっている人がいれば、そんな人が時代から取り残されてしまった存在の典型例となってしまうのかも知れないが、そんな人であってもそれなりに活動が成り立っていれば、何かそういう方面でそういうことを真に受ける人がそれなりの数で存在していて、もはやそれは一時の流行現象などではなく、社会の中でしっかりと根を張っているような形態となっている可能性もあるわけで、そうなっていればそうしたことにこだわるにもそれなりの効果や効力が期待できるのかも知れず、何かそれにこだわることが欠かせないような成り行きの中で生きているなら、それが慣習となっていたり、あるいは制度的な形態でそういう行為を押し進めている団体が存在していたりする事例もあるだろうし、そうなっていることに関しては、いったんそうなってしまった後では、そうすることが周知の事実として当然視されている中では、誰もが何のためらいもなくそんなことをやっているのだろうが、そんな慣習や制度的な形態とは無縁な人から見れば、かなり滑稽に見えてしまうようなこともあるのかも知れず、それは外界から隔絶した地域に住んでいる少数民族などの衣装や生活習慣が、奇異に見えてしまうのと似たようなことかも知れないし、そういう意味では絶えず世界規模で人や物や情報が行き交っている中では、誰にとってもそれを当然視できる慣習や制度となっている可能性が高いわけだが、そうであっても絶えず無理な論理や慣習を流行らせようとする成り行きもあるのかも知れず、それが政治的な領域でも経済的な領域でも多数派を獲得しようとする勢力がやろうとしていることでもあるのかも知れない。


1月3日「複合的な構成物」

 そこに何かが構成されていることは確かだが、それをどう形容すればいいのかよくわからなくても、それにかかわっている人も物も情報も構成物の部品とは思われなければ、物や情報ならともかく、人が自ら何かの部品だとは思わないだろうが、それが構成物であると共に何らかの装置かも知れないし、そこで何かの機能を果たしているなら、機械の一種と捉えられるかも知れないが、人や物や情報が組み込まれた機械を想像してみても、機械というよりは何らかの企業形態と捉えた方がしっくりくるかも知れないし、はっきりした企業でなくても組織的な団体や機構だと見なせば、そういう団体なら世の中にいくらでもありそうだが、そんな団体がいくつもかかわって構成されるのが制度の類いなのかも知れないし、人や物や情報を効果的に組み合わせて動作することによって、世の中に何らかの制度が構成されていて、それを利用する人の暮らしが安定して維持されていると捉えればいいのかも知れないが、それをそう解釈する限りで、肯定的に捉えているわけでも否定的に捉えているわけでもなく、そうなっていると述べているだけだが、それでは不満なら、他にどう述べればいいかといっても、何とも言えないような捉えどころのなさがあれば、それとの関わり合いの中で、時にはそれについて言及することもあるということだと捉えておけば、それ以上は特に何を述べなくても、それで済んでしまうしかないだろうが、それに依存しながら何かを述べることになってしまうと、その際にそれへの依存度がそれなりに高ければ、そんな傾向がそれについて述べることの前提となって、それに関する言動が成り立っていることになるだろうし、そうである限りでそれなしでは言動が成り立たない状態となってしまえば、その存在を否定するわけにはいかなくなり、否定しないまでもそれへの批判を控えるようになってしまうと、それと一心同体の状態となってしまうわけでもないだろうが、そうなってしまうのが困るようであれば、それへの依存度を必要に応じて軽減するような工夫が求められるかも知れないが、特定の何かに依存しているといっても、依存しているのはそれだけではなく、それ以外にも複数の何かに依存していて、しかも依存の度合いや仕方もそれぞれの対象ごとに傾向や程度が違っていれば、特定の何かと一心同体というわけでもなく、それなりの距離を介して力の均衡が保たれている場合もあるだろうし、そうなるとそれらとの結びつきの状態も一様ではなくなって、それなりに強度や粘度や硬度といった様々に異なる形容しがたい微妙な感触の違いも出てきて、それらを単純化して一概にこうだとはいえないような関係性が伴ってくれば、そういうところでつかず離れずの微妙な距離感覚を意識することが肝要となってくるかも知れないが、具体的に特定の何との間で距離を保っているかもよくわからないようなら、それを特定の何かと意識しなくてもかまわないのかも知れず、何だかはっきりとはわからないが、様々な物事が混じり合った複合的な何かとの間で何らかの関係性を保っていて、かかわっている物事がそれ単体で動作しているわけではなく、結びついている物事との関係の中で動作していて、また直接には結びついていなくても、間接的に及ぼされる影響力も動作する要因となっている可能性もあり、そういう微妙な作用や反作用まで考慮するときりがなくなるにしても、何かの加減で偶然の巡り合わせのような成り行きが起こって、当初は全くの無関係だった複数の物事が、ある時期を境に関係し始めることもあるのだろうし、そういう成り行きをどう捉えればいいかといっても、何かの偶然でそうなったとしかいえないようなことかも知れず、それに関してそれ以上の言及は意味がないかも知れないが、関係し合っている物事を構造的に理解しようとすると、そこに必然的な結びつきを想定せざるを得なくなって、そうなると結びついてしまう理由や根拠も必然的に導き出されてしまうだろうが、たぶんそういった物事の結びつきから導き出される必然性からフィクションが構成されてしまうだろうし、そんなフィクションの中でこうだからこうだと断言するような成り行きにもなってしまい、それが一般に信じられるような迷信へと発展するかどうかも、その場で物事が結びつく偶然の成り行きが絡んでくるのかも知れないが、それも運命の出会いのように捉えてしまうと、どう考えても必然的に出会ってしまう宿命的な結びつきのように思われてしまって、そこでも心情的に偶然性を排して必然性へと傾いてしまうだろうが、あまりそういうところでそうなってしまうことに関して深く根源的に物事を考えているつもりにはならない方がいいのかも知れず、何かのついでにちょっと浅く軽く考える程度にとどめておけば、そこに存在する物事やそこで起こる出来事の必然的な因果関係を信じてしまうような成り行きを避けられるかも知れないが、思いがけず起こるような出来事や不意に出現する思わぬ成り行きに気が動転してしまうと、そこから衝撃を受ける分だけ事を大げさに捉えてしまうわけで、そうなるとそれが宿命的に起こったことのように思われて、それが起こった必然的な理由が思い浮かんでそうなる根拠まで思いついてしまい、それを信じざるを得なくなってしまうのかも知れないが、場合によってはそれが天から下された啓示のようにも思われて、それ以後はその天啓に従って生きるような宗教人となってしまうような人も出てくるのかも知れず、誰もがそうなるわけでもなくても、そんな大げさなことはまれにしか起こらないとしても、稀に起こる大げさな出来事に出くわせば、やはりそれなりに衝撃を受けるだろうし、そこから自身に向けたメッセージの類いを読み取ったと思い込んで、それを頑なに信じ込んでしまうような成り行きになって、そこから人が変わったような言動や行動に及んでしまえば、神から啓示を受け取って宗教活動をしているように見えてしまうかも知れないし、それが宗教ではなく企業活動や政治活動などに結びつくこともあるのかも知れないが、過去にそういった契機があったことを物語る何らかの成功者がいれば、そういう人にはそういうことが確かにあったとしても、他の人にも必ずそういう契機が訪れるとは限らないだろうし、そういうことがまれにしか起こらないから、大抵の人はそんなことには遭遇せずに人生を終えてしまうのかも知れないし、遭遇してもそれに気づかなかったのかも知れない。


1月2日「象徴的な効果」

 社会に対して象徴的な何かを提示してそれを問題視するやり方には、人々がそれに注目して取り組むべき課題であるかのように思わせようとする配慮が込められているのかも知れないが、その問題提起されている何かが誰にとっても取り組むべき課題というわけでもなければ、そうした配慮を無視してもかまわない事情や経緯もありそうだが、それが象徴的なことではなく実質的な効果や効力のあることなら、そうした効果や効力を求める人には配慮すべきことなのだろうが、誰もがそれを求めているかというと、特に求めているわけでもないが、誰もが求めるべきことだと推奨されているようなことなら、求めておいた方がよさそうに思われるのだろうが、本当にそれが効果や効力のあることだとは思えなければ、直接的な効果や効用ではなく、象徴的な効果の類いなのではないかと疑いたくなってくるのだが、象徴的な効果とは何かといえば、本当にそれに効き目があるのかないのかは判然としないが、確かにそれとわかるようなことをやっていて、それがそういうものだと誰もが理解しているようなことなのだろうが、直接の効果を感じ取っているわけではないのかも知れず、半ば慣習としてそういうことがおこなわれているのだろうが、制度的にもおこなわれていて、それが形骸化した制度のようにも思われるから、中には形骸化に関して危機感を抱いている人もいて、危機感を抱いているから問題提起するのだろうが、そうは見えないような人があえて問題提起しているように思われてしまうと、そういう人が危機感を抱いているように装いながら何かそれとは別の魂胆があって問題提起しているようにも見えてしまい、それがその種の職業的な身振りのようにも思われて、その職業的な身振りというのが学者や知識人風の人によく見受けられるようなことだと、何やらメディアを通じて広く公衆の気を惹こうとしているようにも見えて、要するに問題提起を演じているに過ぎないことではないかと疑ってしまうわけだが、それに関して簡単な例を想像するなら、ポピュリズムを象徴するような人物が民主主義を象徴するような国の大統領となれば、知識人を象徴するような学者の類いが民主主義の危機を叫ぶようなことが起こり、それが日本で関心を集めたいなら、民主主義の危機を叫んでいるように装っているのが、日系人を連想させる象徴的な名前の著名な学者となるかも知れず、普通はそんな単純な事態とはなりがたいだろうし、何かしらどこかしら時間的にも場所的にもずれが生じてきて、ややこしくも込み入った成り行きの中で、何が象徴的な効果を発揮しているのか容易には判別しがたくなるだろうが、象徴的な効果とはどのような効果なのかといえば、誰もが知っているわかりきったことをこれでもかとだめ押し的に周知徹底させるような効果なのかも知れず、民主主義が形骸化しつつあるから民主主義の危機が叫ばれるというのも、古代ギリシアの昔からそうなっていたわけで、民衆の中から有力な人物が頭角を現してきて、公的な政治の場で民衆の力を借りて独裁的な権力を振るうことが、民主主義的な政治の場で起こるよくありがちな成り行きで、それが民主主義を象徴するような出来事でもある反面で、民主主義を危機に陥れる成り行きにもなり、そういうことをやっていたのが古代ギリシアではペリクレスが有名だが、ペリクレスの死後、民主制を象徴するポリスであるアテネが非民主的なポリスを象徴するスパルタとの抗争に敗れて没落したり、またその少し後には共和制ローマが行き詰まって、非民主的な帝制へと移行して絶頂期を迎えたり、さらに現代では民主主義を象徴するアメリカが非民主的な中国との抗争において劣勢を強いられるようなことになれば、やはり民主主義の危機が叫ばれるのだろうが、何かの危機が叫ばれるというメディアを象徴するような言い回しをどう解釈すればいいかというよりは、そうなっている時点でもうすでにそういう言い回し自体が形骸化していると捉えておくのが無難なところでもあり、形骸化したことを主張するからそれが象徴的な効果を発揮して、そんなのはわかりきったことだとだめ押し的に周知徹底されることになり、そういう効果を狙ってそういうことが叫ばれているように装われること自体が、すでに象徴的な効果が発揮されていることの表れとなっていて、そうなっていること自体が象徴的な効果を感じさせるわけだから、それよりも遙か以前から延々とそういった効果が及ぼされているようにも思われてしまい、延々とそういう効果が及ぼされている中で、さらにだめ押し的にそんなことの危機が叫ばれるようなことがおこなわれて、もういい加減にそういう成り行きから逃れたくなってきたところで、やはりだめ押し的に危機をもたらす成り行きになっているように思われてしまい、そういう意味で象徴的な効果とはまさにエンドレスな効果なのかも知れないが、なぜそういった効果がいつまでも持続するのかといえば、それが危機だとすれば、危機に対応することが危機が叫ばれるような効果をもたらすことになり、それが危機に対する象徴的な対応なのであり、象徴的な対処法として危機感を募らせてメディア上で危機が叫ばれるような表現がもたらされるのだろうし、誰もがわかりきっていることとして危機が叫ばれるという象徴的な言い回しで危機の到来が表現されるわけだが、それによって危機が回避されるかというと、回避されるどころかまさに危機が到来していて、危機が到来しているから危機が叫ばれるという表現で危機の到来が告げられているわけで、危機の到来を告げることしかできず、それによって危機が乗り越えられるわけでもないのだろうが、相変わらずエンドレスで延々と危機の到来が告げられているうちに、いつの間にが危機が過ぎ去ってしまえば、危機を乗り越えられたように思われるのかも知れないが、危機の到来を告げることが危機への対処法だといえるのかとなると、それが象徴的な効果を発揮していることになるのかも知れず、効果があるのかないのかわからないというよりは、実効的な効果は何もないかも知れないが、その代わりに象徴的な効果があることになってしまうのかも知れず、そういう類いの効果を称して象徴的な効果というのかも知れないが、要するに何らかの機関が緊急事態を宣言すれば、それに対応してしかるべき何らかの措置が講じられるにしても、宣言自体に効力があるとするなら、それは象徴的なものであり、それに実質的な効力を持たせるには具体的に何らかの措置を講じなければならないわけだ。


1月1日「虚構の社会」

 真実の限界をフィクションが打ち破れるわけでもないだろうが、それが真実であるように思われることを多くの人たちが信じることによって、そういう真実が社会に多大な影響を及ぼすことになり、それを真実だと思うことが社会の支配的な価値観となってくれば、それを真実だと信じている人たちが社会の多数派を占めていることにもなるわけだが、それが当たり前のように思われているから、普段は取り立ててそれを意識しているわけでもなく、それについては何とも思っていないようなことなのだろうが、別にそれが迷信だと思われているわけでもなく、そうかといって信じるように促されているわけでもなければ、信じていることさえ意識していないのかも知れないが、それが何かと具体的に示されるようなことでもなければ、誰もそれに関しては何とも思っていないようなことかも知れず、そうであればそれをことさら問題視することもないはずだが、それが何なのかと問われることもなく、特に指摘されるようなことでもなければ、別に支配的な価値観ともいえないようなことだろうが、それに関して例えばそこに社会があると思うことが、何か問題があるとは思えないはずだが、社会があること自体がフィクションだとは思わないにしても、逆に社会が仮想現実の世界だと思ってみても、それほど間違ってはいないのかも知れず、社会とは人と人とが交流している場であり、またそこが物事が売買されている場となっていれば市場と呼ばれるわけだが、社会も市場もあることは確かであり、それが存在することを多くの人たちが当たり前のように信じているわけだろうが、実際に多くの人や企業などが集まって売買の取引がおこなわれている場があるにしても、ネット上の仮想現実の世界にそういう場があることも確かであり、そこに社会が構成されているように思われたり、また現実の都市空間でも社会が形成されているようにも思われるのだろうが、そうなっていること自体が当たり前に思われるから、そのこと自体が特に問題視されるわけでもなく、そうなっていることが人々の共通の認識として当然視されていることが前提となって、そこから個々の事例として様々な問題が指摘されるわけで、そうなることを成り立たせる前提となる社会や市場があること自体を問題視してもとりとめのないことになってしまうだろうし、そこから何をどう考えればいいのか皆目見当がつかなくなってしまうだろうが、たぶんそこに盲点となる何かがあるのかも知れず、それが明らかにしようとしてもできないことなのかも知れないが、そういった通常であればうまく説明できないようなところに、当たり前に思われるようなことの虚構性が潜んでいるのかも知れないが、それを取り立てて問題視するような成り行きにならない限りで、普通に社会や市場が存在していることが多くの人々の間で信じられているわけで、それが問題であるはずもないことなのだが、実際に社会の中で人々が交流すれば、肯定的な友好関係から交友関係が生じて、それがさらに親密な関係になれば家族関係や親族関係に発展する場合もあるだろうが、そういう関係の中で喜怒哀楽などの感情が絡んでくれば、肯定的な面だけではなく否定的な敵対関係も同時に生じてきて、そこから争いや諍いも起こるわけだろうが、それがさらに規模が大きくなってくると、地域的に同じ言語や宗教などの生活習慣を共有する民族や、さらにそれが行政単位で区別されて国民となったりすれば、争いや諍いも大規模で破壊的な状況をもたらすだろうし、またそれとは別の傾向を伴った市場での物や情報やサービスなどの売買や貸借も絡んでくれば、企業的な集団による活動もおこなわれて、そこから利害や損得の関係も生じてきて、国家的な行政単位でそうした活動を規制したり促進したり、法律の網をかぶせて取り締まる必要も生じてくるし、国家間でも取り決めを結ぶ必要も生じてくるわけだが、そういうことまで含めて当然のこととして認識しているわけで、そうなってくれば人や集団の間で争いや諍いが起こる度にそれが問題視されて、問題を解決するために何らかの策が編み出されて講じられるわけだろうが、根本的なところでそこに社会や市場があるという前提で人や集団が活動していて、そうした活動に伴って様々な問題が生じてくるわけで、人や集団が交流すればそれに伴って争いや諍いが生じるのも当然だろうが、交流しないわけにはいかないし、しかも中には最初から争うことを目的とした人や集団の活動もあるわけだから、そういうけんか腰で活動している人たちとは争わないわけにはいかない成り行きが生じてきて、そういう活動自体が問題視されて当然なのかも知れないが、そういった初めから戦わざるを得ない宿命の人たちが存在している限りで、かなり状況がこじれているともいえるわけで、できれば争いたくはないし争わないようにするにはどうすればいいかということではなく、活動そのものが戦闘に特化しているわけだから、争うこと自体が生活の糧を得るための手段となっていて、生きるために争うわけで、そういう人たちと交流すること自体が争い戦うことにしかならず、それがそういう人たちにとっての生産的な営みとなるわけだが、そうなってしまうこともそんな成り行きの中では当たり前のこととして受け取られているだろうし、社会の中にそういう面も織り込まれていて、そういうことが行われる過程が普通にあることが、そういう場では取り立てて問題視されているわけではなく、争うための専用の場が社会の中に設けられていると認識しておけばいいわけで、そういう場の中では当然のこととして日々通常の活動として争いが繰り広げられていて、状況によってはそれが気晴らしの見世物として機能している場合もあり、そういう娯楽や競技としての制度的な争いであれば、そういう水準では何の問題もなく、それでも問題があるとすれば、その場に適用されるルールの範囲内で問題となることもあるだろうが、ルールさえ守っていれば、一応はその範囲内での行動が許されるだろうし、ルールを逸脱しない範囲で行動しているように装えば、争っていてもかまわないわけだろうが、それも根本的なところではこじれた社会状況を隠すようなルール自体を問題視しない限りで成り立つ活動となるのではないか。


2020年

12月31日「語る真実」

 この世界の中で何か語りたい対象があれば、それについて誰かが語ろうとするだろうし、実際に語りたりたい対象について語っているはずだが、語る対象としてそれにかかわっているつもりになっても、ただ語っているだけのことであれば、語っている事実や実態があるということでしかないわけだが、中にはそれだけでは済まなくなる場合もありそうで、例えばそれを賞賛したり批判したり、その良し悪しを判断したり評価すれば、そうした判断や評価に関して、他から反応がもたらされる場合もあるかも知れないが、それ以外に語る理由が見つかるかとなると、特に理由がなくても語っている場合があるのかも知れないが、何のために語るということでもなければ、少なくともそれに関して正しいと思うことを語ろうとするだろうし、わざと意図して間違った情報を伝えようとするのでなければ、自然とそれに関する真実を明らかにしようとするのかも知れず、真実を明らかにすることがそれについて語る目的となるはずだが、果たしてそうではない語りがあるかとなると、中にはあるのかも知れないが、あったとしてもそういう内容に興味を持てるかといえば、興味を持つとすれば、そういう意図とは関係なく、そこで何らかの真実が明らかになっているのではないかと思ってしまい、それがどういう内容で何が語られても、語り手の意図や目的よりも、語り手の真意を探ろうとして、そこで真実が語られていると思ってしまえば、それを受け取る側が勝手にそう判断していることにしかならないわけだが、そういう思い込みを語る側が打ち破ることができるかというと、打ち破る必要もなく、そんなことをしようとするだけ無駄であり、それ以前に何かを語るということが、語っている対象の真実を明らかにしようとすることになってしまうのかも知れず、語った結果として真実が明らかとなったかどうかは、それを受け取った側が判断するしかないだろうが、少なくともそれを受け取る側としては、それについて語られている限りで、それを語っている者の真実を明らかにしようとしていて、たとえ騙そうとして事実とは違うことを語ろうとも、語り手がなぜ騙そうとしているのか、その真意を探ろうとするわけで、そうなると騙そうとして事実とは違うことを語ろうとする理由が何なのかが、探ろうとする真実となって、それが語り手の真実として語りの中で明らかとなっているのではないかと思うわけで、そういうことを探ろうとする限りで、事実とは違うことが語られている中にも真実が隠されていると思ってしまい、それを知ろうとしてしまうのだろうが、果たしてそこに本当に真実が隠されているかというと、隠されているのではなく、それが語られたこと自体が真実かも知れないし、語られたのではなく書き記されているのであれば、そこに書き記されていること自体が真実であり、語られたこととして何からの形で情報がもたらされていれば、そうした情報を受け取ったこと自体が真実となるわけだが、そう思えば思うだけ何かがずれてきてしまうのかも知れず、何がずれてくるのかといえば、そこで何が語られようと、そんなこととは関係なく、語られたこと自体からずれてきて、語られたことよりも、そこに真実が示されていると思い込むことへと関心がずれてくるわけで、何らかの真実が示されていることを探ろうとすればするだけ、そこで何が語られようと、誰が何を語っていようと、そんなことには無関心になってしまうのかも知れず、その代わりに、例えばそこで誰かが嘘をついたと思われると、嘘をついたその内容ではなく、嘘をついたことに自体に関心が移ってしまい、なぜ嘘をついたのかその理由を探ろうとしてしまうわけで、どういう経緯や事情が介在して、誰がそこで嘘をつかざるを得なくなったのか、その理由がそこで語られている内容の中に隠されていると思ってしまい、そこに隠されている謎を解き明かそうとして、何やら思考や想像を巡らして、語られた内容から想定される真実へと関心がずれていって、それに関してもっともらしくて妥当に思われるような事の真相を語ろうとしてしまうのかも知れず、そうなればなったで、なるほどそれに関する語りの内容も興味深いものとなってくるのかも知れないが、そういう成り行きの中で何が見失われてしまうのかといえば、実際にそこで起こったことであり、そこで起こっていた現象なのかも知れず、その代わりに知りたい真実として、出来事が起こった理由を知りたいのであり、そういうことが起こる事情や時代的な背景を明らかにして、そこからそこで起こっていた現象の仕組みや原理を解き明かそうとするのかも知れないが、本当にそういう成り行きになってしまうのかというと、例えば幕末から明治維新にかけての日本を取り巻く欧米各国の思惑とか、その後の日本が戦争へと巻き込まれていったことに関して世界情勢がどうであったかとか、アメリカとの戦争に敗れた後で、しばらく日本を統治していた占領軍であるGHQの思惑とか、そこに隠された意図を恣意的に想像して、そういう想像を基にして都合良く史実を再構成してみたりと、そうやって歴史をうまく修正したところでどうなるわけでもないのだろうが、それなりに自己満足へと導かれて、そういう試みに賛同する人々もそれなりにいて、そういう人々にとっての都合の良い歴史を世の中に広めることにもある程度は成功するとしても、それだけのことで済んでしまえば、取り立ててどうということはなく、それほど遠くない昔からそんなことが延々とおこなわれてきたことの延長上で同じようなことが繰り返されているに過ぎず、大なり小なりそういうことが世界各国でおこなわれているわけだろうが、そういうことに関して他に何か明らかになっていることがあるとすれば、少なくともそれとは違うことも語られていて、そちらでもそれなりに興味深いことが語られているわけだろうが、そちらでは財務省が日本を支配しているとか、政府の経済対策が失敗したから日本が何十年もデフレに苦しんでいるとか、そこでもそれなりにもっともらしいことが語られているとしても、そちらでも相変わらず事の真相を探るような行為が倦むことなくおこなわれている実態があるのかも知れない。


12月30日「理解の程度」

 何かがわかってしまうということが、それがわかったと思った人の気のせいではなく、実際に何かが発覚したことになれば、周知の事実となったわけだろうが、例えば伝染病の世界的な流行が明らかとなっても、自身に自覚症状がなければ、検査をしない限りは自分が感染したかどうかはわからないわけだが、それと同じことではないが、何かがわかるということに関して、そのわかり方には人によって差異があり、それが周知の事実だとしても、それに関して誰もが同じようにわかっているわけではなく、人によってはよくわからないようなわかり方もあるのかも知れず、たとえその人が何かがわかったと判断しても、それが他人がわかったという判断とは異なっている可能性もあり、何かその人独自のわかり方というのもあり得るかも知れず、そうであれば何がわかったかに関して、その人のわかり方と他の人のわかり方の程度に違いがあれば、同じわかったという表現でも何らかの違いが生じていて、それをわかっていることに関して各人でわかり方が異なると理解しておいた方がいいのかも知れないが、普通はそんなことまで考慮しないだろうし、誰かが特定の物事に関してわかったと表明すれば、それを聞いた人は自分と同じようにその人もわかったと判断してしまうわけで、そこからその人の理解の程度に関して誤解が生じるとしても、そんなことまで気にする余裕がなければ、理解を共有しているつもりで話を進めてしまってから、相手が自分と同じようには理解していないことに気づいた時には、話が違うということになるだろうし、そこから相手に対する疑心暗鬼も生じてきて、それが相手との諍いの素となる可能性もあるわけだが、そういう成り行きを逆用して、わざと勘違いさせて相手を罠にかけるようなこともおこなわれるだろうし、そうなると相手との関係が騙し合いの敵対関係となってしまう場合もありそうだが、騙し合いにも程度があり、ふざけてからかうような間柄では仲間同士でやっている範囲内に収まる程度であり、そんな相手を敵と見なすのは勘違いにもほどがあるということになり、そういうところでも人によって受け取り方が異なるだろうが、そんな人によって異なる微妙な差異を抜きにして、判断や受け取り方の程度や傾向を共通の基準や尺度を基にして一致させようとすると、そういうことができる場合とできない場合が出てくるだろうが、そこで本気でそうしなければならない場合と悪ふざけや冗談で済ませられる場合とで、各人の判断がその場の状況に応じて揺れ動くだろうが、あまりにも共通の認識を意識してしまうと、相手の真意を理解できなくなってしまうだろうし、ある程度は自身や相手の勘違いや思い違いを許容しないと、その場の収拾が困難になるというか、困難になってもかまわない場合もあるだろうが、どうなってもかまわないとは誰も思わないにしても、そう思うことさえも思い違いや勘違いの可能性もあり、どうやっても各人で受け止め方や理解や認識に違いが出てくることを前提にして、各人がその場で思い思いに振る舞っていると受け止めるしかないのかも知れないが、わかり合えたり理解し合えることもあるだろうし、そうなっていることに納得できる場合もあるだろうが、それも思い違いや勘違いではないかと疑い出すときりがなく、疑い出すような成り行きになれば疑うしかないにしても、そういう成り行きにならなければ無理に疑う必要もないだろうし、そういったことに関してどんな状況を想定してみても推測の範囲を出ないことであり、実際にその場で判断したりしなかったりするしかなく、それ以上は何をどうすることもできないのだろうが、結局は誰もがそれを理解できて認識が一致することを前提として共通の決まりが作られるわけで、それが公的な法律の類いとなるわけだが、そういった方面ではわかっていることを前提として話が進められてしまうわけで、実際にそれを知らなければ、知らなかった方が悪いことにもなってしまうだろうし、それを知っていることが周知徹底されるような成り行きになってしまうのかも知れないが、いくらその種の啓蒙活動によって知らせようとしても、中には理解できなかったり誤って理解してしまうような人も出てくるから、できるだけ多くの人と意思疎通を図って、理解や認識の程度を一致させておくことも重要となってくるのかも知れないが、そうした試みが絶えずおこなわれている範囲内で、世間的な共通認識のような常識が各人の心の中で意識されるのだろうし、そんな常識を踏まえておけば、それに従っている範囲内で他の多くの人たちと価値観を共有しているつもりになれるわけだろうが、実際には共有していなくてもそのつもりになっていれば、他の人たちと調子を合わせられるわけで、そうやって多くの人たちが価値観を共有して物事の理解や認識が一致しているように振る舞っている限りで、そこに世間が生じて、何か社会的な一体感も生まれるわけだが、そういう成り行きや状態を客観的に把握するなら、そこに集っている各人が他の人たちの振る舞いに合わせて演技しているように見えるだろうし、思い思いに常識人を演じているわけだが、演じていることを意識しているわけでもなく、自然の成り行きとしてそうなってしまうわけだから、それが無意識の演技となり、それと自覚せずに他の人たちとの相互作用に従いながら、その場に合うようなもっともらしい役柄を演じていることになるのかも知れないが、そうなっている自らの実態を改めて自覚しようとしているわけでもなく、普通はその場の成り行きに合わせているだけかも知れないが、中には戦略的な演技を意識している人もいて、自らの目的に応じた役柄を演じようとして、もっともらしくも自然な演技を心がけているのかも知れないが、そんな演技を他の人から見透かされてしまう場合もあるだろうし、それが何かわざとらしくてぎこちない振る舞いに見えてしまうと、下手な演技であることがばれてしまうだろうが、それ以前に世間の常識に合わせて演じていることと、それとは別に意識して演じることが、演技の中で混じり合っている場合がほとんどであり、それがその人の自我や自己として心の中で構成されているのかも知れない。


12月29日「蓄積と活用」

 そこに何かが蓄積されているとすれば、例えば技術の蓄積が機械の確実な動作をもたらし、資本の蓄積が企業活動を助け、そういった蓄積を想像しても、ただ蓄積されているだけではなく、それが何かの役に立っているはずで、役立つということは活用されていることになり、蓄積されていたものが活用されて、蓄積と活用が連動して何かがおこなわれるわけだが、目的としてはそれを活用するために蓄積するのであり、また蓄積するために活用する場合もあり、どちらがどちらの目的となる場合もあるわけだが、どちらかが欠けるともう片方が成り立たない場合もあるだろうし、蓄積されていないと活用できないし、活用しないと蓄積できないことにもなるが、そういった活用するための蓄積や蓄積するための活用が、人の活動そのものだといえるのかも知れず、蓄積と活用のどちらかが目的となるように活動の方向が定められ、その結果として蓄積するための活用と活用するための蓄積の理由や根拠がもっともらしくはっきりしているように思われるわけだが、蓄積から活用へと活用から蓄積へのどちらかの方向へ進んでいる時には、やっていることがもっともらしく思われるのだが、では何のために蓄積と活用を繰り返しているのかと問われると、それほど答えに窮するわけでもなく、例えば生きるためにそうしているとか、楽しむためにそうしているとか、そうするための理由や根拠を色々と示せるだろうが、それが活用するために蓄積しているとか、蓄積するために活用しているとかの直接的な目的と比べると、弱く間接的な理由や根拠であるような気がしてしまうわけで、そういう直接的な理由や根拠以外の理由や根拠を示すことが、何かごまかしや欺瞞であるようにも思われてしまえば、すっきりとは納得できないのだろうが、その一方で直接的な理由や根拠だけでは何か物足りないように思われてしまえば、果たしてそんなことのためだけにそんなことを繰り返していること自体が、虚しくも意味のない行為ではないかと思われてきて、だから間接的な理由や根拠を挙げて、やっていることのもっともらしさを醸し出したいのかも知れないが、それどころか直接の理由や根拠でさえも根源的なところではあってないようなものなのかも知れず、単に蓄積したいから蓄積しているだけであって、また活用したいから活用しているだけだとすれば、蓄積するのも活用するのも、他の何のためにやっているのでもなく、それ自体がやりたい行為であって、やりたいからやっていることでしかなければ、特にやっていることの理由や根拠など別に要らないわけだが、果たして本当にそれでかまわないのかというと、実際には周囲の人や物事とかかわりがあって、そんな周囲との社会的なかかわりや関係の中では、それだけでは収まりがつかないようなことになっているわけで、それをやっていることに関してもっともらしい理由や根拠がないと周囲が納得してくれないだろうし、何かをやるに際して周囲に迷惑をかけながらやらざるを得ないとなると、迷惑をかけている分で説明が必要となってくるわけで、またそこで物事や労力の売買や貸し借りがおこなわれて、他人や集団の力を借りたり利用しなければならなくなるから、説得力に欠けることやろうとしても力を貸してくれないし、資金がなければ買えないし借りられないし、それに関する知識や技術や技量がないと使いこなせないような物事もあるだろうし、結局は社会の中で何かをやるには、それやるのに必要な様々な物事を蓄積したり活用しなければならなくなり、そういった物事の蓄積や活用の実態がないと、人と人との間で信用や信頼関係も構築できないし、そういう面での社会的な行為ができなくなってしまうわけだが、すでにその中で暮らしていて生活が成り立っている限りで、それができていることにもなるだろうし、それができないと生きていられないことになってしまい、実際に生きられなくなって死んでしまう人も出てくるわけだが、だから根源的なところではやりたいことをやろうとしているだけであっても、周囲とのしがらみにつきまとわれて、結果的にやりたくもないことをやらされていたりして、やりたいことをやろうとすれば、それを直接やろうとするまでには、それに付随する様々な手続きを経てからでないとできないような成り行きになっていたりもするわけで、さらにはやるに至る途中の紆余曲折に巻き込まれて、やりたいことをやれないまま人生を終えてしまったり、やっているうちに別の方向へと逸らされてしまって、当初はやろうとも思わなかったことをやっている羽目に陥ってしまったりもするのだろうが、そもそも当初から何かをやるという目的自体が定かでなかったりもして、何か目的があったわけでもないのに、その場の成り行きで何かをやる羽目になってしまえば、それでもかまわなかったりもして、そうやって当人にはよくわからない成り行きの中で何かをやっていることにもなるわけで、そういうことまで考慮に入れるなら、始めから何かをやると決めてかかるだけが行為や行動の全てではなく、その場の成り行きに従って何かをやっているうちに、それに付随してそれをやるに当たって必要なノウハウが蓄積されていって、それをうまく活用できれば、だんだんやっていることがこなれてきて、結果的にやり始めた当初よりはやっていることがうまくできるようになるわけだが、そうなるまでには様々な失敗も繰り返されて、それが致命的な失敗になってしまうと、うまくやれるまでに至らないうちに継続できなくなって、それをやめなければならなくなることにもなるだろうし、そういう事態になるのを運良く避けることができれば、それなりに継続してやっている状態に持って行けるだろうが、その場の状況によってもそうなりやすい成り行きにもなりにくい成り行きにもなるだろうし、またそこに至るまでの経緯や紆余曲折によってもそうなりやすかったりなりにくかったりもするのだろうが、それも人が社会の中で生活しているからそういう成り行きがもたらされるわけだから、その場の状況からその場にいる人にそういうことをやらせるような成り行きが生じているともいえるわけで、たとえその人がそれをやる意志を持っているとしても、その場の状況がそういう意志を生じさせているともいえるわけだ。


12月28日「無意識の作用」

 普通に考えて意識を向ける対象として無意識があるとは思えないし、意識して無意識に語りかけることが何を意味するとも思えないだろうが、そこに無意識という定まった対象があるわけでもないとすれば、では無意識とは何なのかといえば、ただの方便ではないだろうし、何の方便でもないのかも知れないが、意識が把握できない心理的な領域で何かを思っているらしく、それが何かのきっかけでわかることもあるだろうし、わからないことの方がほとんどかも知れないが、そこに無意識を想定すると何かしらわかったような気になって、無意識が意識に何か語りかけているような気がしてしまうのかも知れないが、それが何だかわからなくてもかまわないだろうし、何もわからなくてもわかった気になっていれば、それでかまわないのかも知れないし、そんな何でもないようなことについて何か語っているように見せかけながら、その裏で無意識に何か考えていればそれでもかまわないのかも知れず、本当に考えているかどうかは怪しいところだが、無意識にまかせて思考を働かせることが、効率的な思考法としてうまく意識の中で機能しているような気になってしまえば、でたらめにもほどがありそうだが、そんなふうに無意識にまかせて何か適当でいい加減なことを語りたいのかも知れないが、そんなことを意識しているわけでもなく、人の心の中に無意識の領域があるとも限らず、人と人との関係から無意識の動作が導き出されることもあるとすれば、意外と社会全体から人の集団的な無意識が生じてくることもあるのかも知れず、それに関して例えば経済の領域で一人一人が利己的に自分だけの利益を求めようとすれば、それによって経済活動が活発化して結果的に社会全体の利益となる一方で、逆に社会全体で平等に利益を分かち合うために計画的に経済活動を組織してしまうと、一人一人の利己心が抑制されてしまうから、やる気が削がれて経済が停滞して、かえって社会全体が不利益を被ってしまうことが二十世紀の社会主義国では実際に起こったとされて、そういう場合には社会全体に集団的な無意識が作用していることになるのだろうが、そういうことにどこまで信憑性があるかは定かでないにしても、そこから政治や行政が民間の経済活動に直接介入するのはよくないとされて、経済活動において自由な競争を促進するように法整備を進めるのが新自由主義的な国家統治の在り方となるのだろうが、競争が促進された結果として特定の企業による市場の独占がもたらされることも確かで、そうした企業の活動によって自由な競争が阻害されてしまうから、自由な競争を維持するには独占企業をなくすような措置が政治や行政の場で求められるわけで、具体的には独占禁止法といった類いの法律が制定されているわけだが、その一方で自国の企業が世界市場の中で優位な立場を占めるには、大企業に成長させる必要も出てくるわけだから、外国の企業による市場の独占は困るが、自国の企業が世界市場を席巻して欲しいわけで、そういうところで矛盾が生じてしまうわけだが、そういう矛盾にまで考えが及ばないようにするためにも、無意識の調整が力を発揮するのかも知れず、その手前で思考が停止するように無意識のブレーキがかかるわけだが、それが神の見えざる手のようにして人の意識を操っているように感じられて、絶えず自身の活動に都合がいいように物事を解釈する一方で、他人の都合を無視するように無意識の働きかけが作用して、結果的に利己的な活動を促進させて、そこで力の均衡が保たれる限りで活動の自由が実現するのだが、自由といっても利己心にとらわれていることには変わりなく、自己の利益を追求する自由が自由と言えるかとなると、そういう自由もあるということにしかならないが、何をもって自由と見なすかはその人の勝手であり、勝手にそれが自由だと思っていればいいわけで、そういう利己心から自由になることのない矛盾した自由を求めていることになるだろうが、それも矛盾だと気づく手前で無意識の作用によって思考停止しなければならないだろうし、そうやって無意識の助けを借りて偽りの自由を真の自由だと思い違いしているわけもないだろうが、それでは何か間違っているような気がしないでもなく、自己の活動の整合性を意識できるのは無意識の調整力によるところが大きいとしても、そんな気がするだけかも知れないし、そんな気になるためだけに無意識が必要とされているわけでもなければ、では何のために無意識が必要なのかといえば、必要だから無意識が作用するわけでもなく、必要でなくても絶えず無意識が作用していて、無意識に取り立てて目的や目標があるわけでもなく、無意識が意識に働きかけた結果として、そこに自己が形成されているように思われるだけで、別にそう思わなくてもかまわないだろうし、意識だけで自己が形成されていると思っていてもかまわないにしても、意識だけでは説明できないような思考や行動が意識される限りで、そこには無意識が関与していると思うしかないだろうし、そういう作用が無意識から及ぼされていると考えると納得できるようなこともあるから、それを無意識からの作用だと見なしているわけで、確実に無意識と言えるようなものがあるわけでもなく、何か実体の定かでない感触を得ているつもりになっているだけかも知れないが、それも自分の内から生じていると思うのも間違っているのかも知れず、周囲の人や社会やメディアなどとの関係から生じていると思っておいた方が妥当かも知れないし、そういう人や集団との相互作用から無意識が生じてきて、それが意識できない相互作用であるだけに、関与している人や集団にも制御しきれない面があり、作用した結果として何らかの事態がもたらされていることが確認されるとしても、そこから結果的にそんな作用が及ぼされていると思われることでしかないわけだから、そうなってしまった結果を後からどうすることもできず、事前にそんな作用が及ぼされることを想定して、先回りして何かを仕掛けるようなことがおこなわれるわけでもないだろうし、そういう作用が及ぼされないようにあらかじめ何らかの措置が施されることもないのではないか。


12月27日「世界の可能性」

 世界の一方には人の自由な政治活動を許さない独裁的な支配体制があり、もう一方には一握りの超富裕層と巨大企業に経済的な富を独占された格差社会があることになっていても、それでは世界の一面しか捉えていないことになり、恣意的に極端な例を挙げているだけで、それ以外には何も述べていないことになってしまいそうだが、それでもその種の典型例を挙げてそれを否定的に語るのはたやすく、それが簡単に批判できそうなことになり、そんな批判でかまわなければ世界情勢など取り立ててどうということはないのかも知れないが、結果的にそうなってしまっても、何かそこにはそれなりに納得できる真実が示されていて、そうした真実を語ることにそれなりの意味や意義があるようにも思われてしまうのだろうが、実際には普通の感覚に照らし合わせてどんな状況の中で人が生きているのかというと、そんな大げさなことからはかけ離れた枝葉末節で些細な物事に意識を絡め取られて、しかもそれがくだらないことのように感じられる何かに執拗につきまとわれて、そんなことにこだわることしかできない小さくてみすぼらしいゴミのような存在がお前の真の姿だと蔑まれているようにも思われて、そんな状況もある意味では真実を物語っていることにもなるのかも知れないが、それも大げさなこととは真逆のフィクションとして物語られていることにもなるだろうし、そんなことには動じないといったら嘘になるようなみっともない感情にとらわれて、時にはそこからもたらされる不安と動揺と羞恥心にまみれて何も手につかなくなり、自分がその程度の人間でしかないことを嫌というほど思い知らされてしまい、誰もがそう思わされてしまうような社会情勢の中で生きているわけでもないとしても、人それぞれにそれなりに他人との違いを感じられるような世の中になっているはずで、そんな違いを肯定的に受け止めて、他の人との間に生じるちょっとした差異にこだわらなければならず、それを感じられるだけでも何かそこに意味があるような気になれるのかも知れないが、そう思われてしまうことが何かの罠であるはずがなく、誰もがそんなことにこだわってしまうから、実際にひどい世の中になっているわけでもないだろうが、それよりは世界を全体的な視点から上から大げさに眺めるような妄想は避けて、身の丈に合った部分的かつ相対的な差異に気づかないと、納得できるような実感を得られず、そうしないと大げさな事実との比較の中で自らの存在が矮小化してしまうのかも知れないが、またそうである限りで自らの存在が何ら特別なものではなく、他人と比較しても何か取り立てて差異があるわけでもないようにも思われて、そんな存在自体がかけがえがないというわけでもなく、自分がどこにでもいそうな無名の誰かに過ぎなければ、その存在を他から軽んじられても仕方がないはずだが、そうだとしてもそれを打ち消すようにこれから世の中の仕組みが根底から覆されるような幻想を抱く必要もなく、誰にとっても他の誰かが何ら特別な存在とはならないような何でもない世の中になっているわけでもないとしても、実際に特別な存在など誰にとってもあり得ないのかも知れず、誰もがどうということはない存在に過ぎず、それをくだらないことだとは思わないまでも、自分にとっては自分が特別な存在だとしても、他人が自分とは関係のないところでかかわっていることについてはそう思われてしまい、しかもそれが自分がかかわっていることとそれほど違わない限りで、自分がかかわっていることについてもそう思われてしまい、それが思い違いとは思えない確かな証拠があるわけでもないのに、その延長上にどうでもいいようなくだらない事態が待ち受けていて、実際にそうなってしまうとしても、それをくだらないことだと思ってはならないにもかかわらず、そういう思いにとらわれてしまえば、そんなどうでもいいことにかかわってしまう自らを卑下することになり、そこから自らの存在への嫌悪とそんな自らが存在している世界への失望感を抱いてしまうのだろうが、それ自体がくだらない思いなのだから、そう思うこと自体が間違っているような気もしてしまい、もっと世界を積極的に肯定した方がいいのかも知れないし、そんな世界に存在している自身も肯定的な存在だと見なす必要を感じてしまうのかも知れないが、考えようとする方向がそれとは違う方面へと向けられていれば、思考が自分の存在よりも重要な何かを見つけ出そうとしているようにも思われてしまい、そうなれば自分のことなどどうでもよくなってきて、それよりももっと重要で根源的な物事が世界にはあるような気がしてくるのかも知れず、それを知るために考えている気になれれば、自分がどうなろうとそんなことは問題にもならないこととなり、それに比べれば自分の存在などあってないようなものだと思うのかも知れないが、それが何かを知ろうとしているわけだから、まだその存在に気づいていないことになり、未だ知り得ない何かよりも、すでに知っている自らの存在の方が何でもないとしたら、それがどういう状況なのかよくわからなくなってくるかも知れないが、何かの冗談でそんなことを妄想しているわけでもないだろうし、何らかの確信があるからそう思うのだろうが、まだそれを知り得ないのだから、確信も何もあるわけがなさそうにも思われるが、現状がそんな気にさせるような状況なのかも知れないし、それが世界情勢の一部だと見なすのも大げさすぎるだろうが、そのヒントを掴んでいるつもりになっているからそう思われるのかも知れず、それでもそれが何なのかを言葉で表現しなければならないと思うと、なぜか当てが外れてしまい、根本的なところで思い違いが生じているのかも知れないが、うまく表現できないから当てが外れてしまうとしたら、では表現する必要がないのかといえば、それでは何を述べているのでもないことになってしまうのかも知れず、たとえ当てが外れているとしても言葉で表現するしかないのだろうが、うまく表現できないにしても何かをつかみかけているとすれば、実際にそれを表現していることになっていて、誰かがそんな感触を得ているのではないか。


12月26日「意志の具現化」

 誰かの意志に敬意を払わないと、それが災いして世界で何か不幸な出来事が起こるわけでもないだろうが、敬意を払ったところで何も起こりようがないなら、誰かの意志が心の中で生き続けていると思っておくだけで、それ以外に何が実現しているわけでもなければ、誰かの心の中で生き続ける意志と言っても、それをどうやって認識できるのかといえば、その人が自らの意志を直接伝えるか、あるいは何かをおこなって行為や行動で示す場合もありそうだが、行動や行為からその人の意志を想像できるかといえば、実際にそこで何が実現しているのかといえば、例えば何かをおこなった結果としてもたらされる特定の個人や団体の損得や利害が額や量として示されれば、それがそこで誰かの功利的な意志が実現した額や量のように思われるだろうが、具体的にそれが誰かが利益を得ようとして何かをおこなった結果であればわかりやすいが、額や量というよりは形となって何が実現するかとなると、直接その人が何かを作れば話が早そうだが、そこで具現化された造形が何を示しているのかといっても、例えばそれが芸術作品の類いであれば、それらしい言説がその方面にかかわっている人たちが納得できる形態を伴って用意されているのかも知れないが、それを誰かの意志として言葉で説明することが、果たして表現として妥当なのかというと、どうもそうではないように思われるとすれば、言葉ではなく作品そのものから感じ取らなければならないだろうし、しかも感じ取ったそれが作者の意志の表れと思ってしまうと、何か物事を単純化しているような気がしてしまえば、そうではないと捉えておいた方がいいのかも知れないし、単なる意志の具現化だけでそういったものが作られるわけではなく、そこでその人を介してそういうものが作られる経緯や事情が複雑に絡み合っていると捉えておいた方が納得できる場合もありそうだが、そう捉えることによって真相が明らかになるわけでもないだろうし、それだけでは済まないような様々な事象が介在していると考えてもきりがなく、どう考えても納得しがたいような何かを感じるとしたら、それが気のせいでなければ、そういうものだと思っておくしかなく、いくら考えてもきりがなければ、たとえそれでは捉え方が粗雑だとしても、作者の意志が作品として具現化されたと思っておけばいいだろうし、その程度の認識でもかまわない場合がほとんどかも知れないが、それで済ませてしまう人にはわかりようがないことなど世の中にはいくらでもあるだろうし、少なくとも人を納得させるためにそういった作品が作られるわけでもなく、納得しがたいから人は延々と試行錯誤をやり続けて、それに伴って何らかの作品がそれなりの数となって生み出されるのだろうが、その時々でそこから醸し出されているように思われる誰かの意志を想像して、そういうことを想像させる誰かに敬意を払うとしても、それ以外でそこにもたらされている事象をどう受け止めてみても、それが自分に直接かかわってくるような成り行きにならなければ、無視してもかまわないようなことになってしまい、それでは敬意など払っていないことにもなるだろうが、自分に関係のあることだとは到底受け止められない経緯や事情もあるだろうし、何よりも全く違う時代状況の中で生きていればそう思うのも当然だが、それが同時代的な状況だとしても社会的な立場や境遇の違いから真に受けるわけには行かない場合もあるだろうし、そうなってしまうことに関してもいくらでも粗雑な言い逃れの理由がねつ造できてしまって、そういう意味で他人のやっていることに関して、自分の身になって捉えることなどほとんど不可能かも知れないし、しかもそれを自分の身になって捉えようとしても、それに関して勘違いなことを思ってしまえば、他人にとってはありがた迷惑で要らぬお節介にもなりかねないだろうが、それでも困っている他人を無償で助けたいと思ってしまうことも結構あるだろうし、そうすることによって何か善い行いをしたような気にもなれるのだろうが、そういった他人への共感作用がどうやって生じてくるのかといえば、そうなっている時点で誰かの善意に感染しているのかも知れないし、それが将来的に誰かの意志の具現化にも結びつくのかも知れないが、特定の誰の意志に感染しているのではなく、思わぬところから特定の誰かを経由して感染の経路が知れることがあるにしても、それも粗雑に考えて人類共通の普遍的な心理作用だと捉えておけばいいようなことかも知れないし、結局はそういった事象からの距離感がそれへのかかわりの程度や傾向を示すだろうし、距離が近いと感じるほど自分の身になって考えてしまうだろうし、逆に距離が遠く感じれば無視しても罪悪感など全く覚えないだろうが、誰もが自らの問題だと思わせようとして、距離を縮めようとする行為が、メディアを通じておこなわれるその種の呼びかけや訴えかけの類いとなるわけだろうが、そういう呼びかけや訴えかけが言葉を用いておこなわれることになり、中には映像や図式や音声などを用いてより臨場感を演出しようとするようなこともおこなわれるわけだが、それも一種の作品として提示されているわけで、そういった作品に接した人がそれをどう受け止めるかはその人次第な面があるとしても、それが何かの模造的なものでしかなければ、真の実態がそこに現れているわけでもなく、大勢の浅はかな人たちがそれを真に受けることがあるとしても、中にはそうしたシミュラークルの空疎な張りぼて構造の実態に気づいてしまう人もいるだろうが、もしかしたら本物と模造の違いを言語表現では適切に説明できないのかも知れず、また何が本物で何が模造であるかも本質的には区別などつかないのかも知れないが、絶えず何かを本物に見せかけようとする意志が働いていて、そうした意志を具現化する試みが模造の増殖をもたらすのだろうが、そうやって世の中が模造だらけとなってしまえば、何が本物で何が模造なのかを示す必要もなくなって、模造であることが特に問題だとは思われなくなってしまうのかもしれず、そういう意味で模造には模造の役割があるとしても、それが本物であるように見せかけるのが模造の役割であるとすれば、模造を模造だと認識できない限りでその役割を果たしていることにもなるとしても、何が本物であるかもわからなくなってしまえば、それが模造であること自体も意味のないことになってしまうのかも知れない。


12月25日「探し物」

 別にそれが戦略的な態度というほどのことでもないだろうし、意図的に何かを取り逃がしているつもりになって、その取り逃がしてしまった何かを探しているふりをしているのかも知れないが、たぶん探している何かが見つかることはないだろうし、そのうち何を探していたのかも忘れてしまって、何事もなく通常の動作に戻ってしまうのかも知れないが、何が通常の動作なのかといえば、何かを探している動作であり、相変わらず何かを探していることには変わりなく、さっきまで探していたのが何だったのかもわからないのに、探している動作だけが継続中というのもおかしなことだが、何かを探しているふりをしていないとまずいわけでもなく、本当はふりではなく実際に探しているつもりになっていて、ただ何を探しているのかがわからないまま、探している動作が継続中なのかも知れないが、探している物事を特定できないと探していることにはならないかというと、探しているふりをしているだけになってしまえば、探している動作自体が虚構の動作となってしまうが、何を探しているのかを知ろうとしているというよりは、何を取り逃がしてしまったのかを知ろうとしていて、探しているのは取り逃がしてしまった何かであり、そうであれば虚構の動作などではなく、何を取り逃がしてしまったのかがわからないから、それを探していることになり、それが何だかわからないが、何かを取り逃がしているような気がして、取り逃がしてしまった何かが何なのかが気になって仕方がないから、その取り逃がしてしまった何かを探していることになるわけだろうが、そうであれば探しているふりをしているわけでもなく、実際に取り逃がしてしまった何かを探しているはずだが、ではなぜそれが探しているふりをしているような気がしてしまうのかといえば、探している動作を伴っていなければ探していることにならないかというとそうでもなく、逆に動作を伴っていれば探していることになるかというと、ふりをすることが探している動作を伴うことだから、探している動作を伴っていないからといって、探しているふりをしていることにはならないが、探している動作を伴っていなければ、本当に何も探していないのかも知れないが、それでも探しているのであれば、何かを探す動作と共に探しているのではなく、思考を巡らしているだけかも知れないし、何を取り逃がしてしまったのかが気になるから、頭の中でその時の記憶をたぐり寄せて、何を取り逃がしてしまったのかを思い出そうとして、それが探す動作を伴わない探究になるわけだが、見つかるとは思っていないのかも知れないし、忘れた頃になって何かの拍子に不意に思い出すこともあるのかも知れず、そうなると探していないにもかかわらず、思いがけず見つかってしまうことにもなるのだろうが、そんな気がしてしまうわけで、不意に以前から探していたものが見つかったような気がして、それを探していたかどうかも定かでないのに、探し物が見つかったような気がしてしまうのだから、それも見つかったふりをしているだけかも知れないが、本当にそんな気がしてしまうのだから、ふりではなく本当に探し物が見つかったことにしておいてもかまわないのかも知れないが、そんなところで事の真偽を突き詰めて考えるようなことはしないだろうし、そんなつもりでいれば済んでしまうようなことなのだろうが、それでは済まなければそれが自分にとって重要なことだと思われたり、何か深刻な事態を迎えているような気がしたり、そこで人生の岐路に立っているような気がしてしまえば、それを取り逃がしたりそれが見出されたりすることがよほど大変なことだと思われるのかも知れないが、気のせいでしかなければどうということはなく、気のせいではなく本当にその人にとっては重大なことであっても、他の人には関係のないことかも知れないし、人によって世の中の状況によってそれが重要で重大なことになったりならなかったりするのかも知れないが、誰にとっても重要で重大なことであれば、その人が個人で探しているようなことではないのかも知れないが、見つかってから誰もがその重大さに気づくようなこともあるだろうし、それに気づくのに時間がかかるようなら、見つかった時点では何とも思われないようなことかも知れず、そこから何らかの意図や思惑が介在してきて、それがさも重要で重大なことであるかのように装われる必要があるのかも知れないが、そうした装いが必要とされるのはどうしてなのかといえば、それを利用して何かを仕掛けてくるような成り行きが生じるからで、そんなことを仕掛けてくる人や勢力がいるとすれば、そんな人や勢力がそこから利益を得ようと目論んでいることにもなるだろうが、それが何であれメディアを通じてそうした発見が大々的に報じられるようなら、すでにその重要さや重大さが周知の事実になっているのだろうし、なぜそれが重要で重大なことなのかに関して、誰もが納得できるもっともらしい理由が説明されるような体制が成り立っていて、そういう既存の体制に従って周知の事実としてその重要性や重大性が語られるわけで、すでにそうなっている限りで何が発見されなければならないかも前もって明らかとなっている場合もあるだろうし、そうであれば未知の何かが発見されるというよりは、発見されてしかるべき何かが発見されることになるのだろうが、そういう予定調和の発見とは違う発見が可能なのかといえば、そういうのは発見とは言わないのかも知れず、では何と言えばいいのかといえば、後からそれが発見されたことになるわけで、驚くべき物事が発見されたということにしたい意図や思惑が働いて、それに合わせた物事へとそれに関する情報が加工されて、何でもない物事が驚くべき物事ということにされてしまうわけで、さもそれが大げさな物事であるかのように装いたいのであれば、そう装うために過去の記憶がたぐり寄せられて、必要なら過去に発見された大げさな物事との比較がおこなわれて、それと似たような物事なら、それと同じように大げさな物事だと何かの権威によって認定されるわけで、そうなればそれが世紀の大発見となるわけだが、そこまでして発見するような物事もあまりないことも確かであり、大抵の物事は発見されるまでもなく発見されたことにも気づかれずに発見された物事にとどまる限りで、それを発見とは言わないから発見として無理矢理ねつ造しない限り発見されたことにはならないわけだ。


12月24日「自分を信じること」

 他人が何を信じていようと、その人とのかかわりを意識する限りで、何を信じるかはその人の勝手というわけにはいかなくなるだろうが、中には誰もが本当のことだと信じたくなるような嘘もある反面、嘘だと信じたくなるような本当の話や出来事もあるとしても、人の思いとは関係なく、それを信じざるを得ない成り行きや逆に信じられないような成り行きもあり、何かを信じるということ自体があまり信用のならない心理作用だとしても、たとえ間違ったことをやっていても自分を信じなければならないと思うことも結構あって、自分を信じたところでどうなるわけもない場合の方がほとんどかも知れないが、それが気休めであれ、気を落ち着かせるためにそう思うのであれ、何はともあれ、まずは自分を信じないことにはどうにもならないような気がしてしまい、自信のないことをやっているから余計に自分を信じろと自らに言い聞かせてしまうのだろうし、間違っているのではないかと疑いを抱くのと、自分を信じろと自らに言い聞かせる囁きが同時に襲ってくるわけで、それが心の内の葛藤を表しているのだろうが、不安や疑念を抱かせる状況的な経緯もあるから、実際にやっていることがうまくいっているようには思われなければ、不安感が募ってきて、そんなことをやっている自らを信じられなくなると共に、逆に自分を信じろと自らに言い聞かせるような励ましにもなってくるのだろうが、そうなっている限りでやっていることがまだ続いていて、あきらめるような状況にはなっていないのだが、あきらめてしまったらそこで終わりだと思ってしまうから、余計に自分を信じろと自らを叱咤激励することにもなってくるのだろうし、他にどうすることもできなければ気持ちの強さで苦境を乗り切ろうとして、それが端からは悪あがきのようにも見えてしまえば、すでに詰んでいる可能性もあるかも知れないが、そんなことはお構いなしに焦り気味に強引なことをやってしまって、かえって自ら墓穴を掘っているような事態になっているとしたら、そういう成り行きがその人の遠からぬ終わりを予感させるものとなるのだろうが、誰がそんな光景を間近で見ているとも限らないから、やっていることを周囲にひけらかすようなことはやりたくないものの、フィクションとしてならそれを見せることができるのかも知れず、実際に誰かの終わりを物語るフィクションも探せばいくらでも見つかるのかも知れないし、そういう成り行きも世の中にはありふれているのだろうが、往生際の悪さというのも人の習性としてはよくありがちなことかも知れず、いつまでも未練がましく執拗に粘って、最後の最後まで自らの運命に逆らい続ければ、何かそうなるのがその人の宿命のような結果がもたらされて、それが否定的な教訓として後世に語り継がれるようなことにでもなれば、それもそれなりに他の人たちにとっては意義や意味のある行為となるだろうが、そうなることを狙って実際にそうなるわけではなく、普通はそうはなりたくないのに思いがけず否応なくそうなってしまうわけだから、当人にとっては災難の類いを体験していることになるわけだろうが、執拗に悪あがきをやっている最中はそうは思っていないだろうし、まだうまく苦境を切り抜けられる可能性に賭けているのだろうが、それでも次第に終わりが見えてくれば観念するより他はなくなるだろうし、もはや進退窮まればそれ以上の抵抗を控えることになるのだろうが、それまでは後退戦を繰り広げながらも執拗に悪あがきを繰り返すのかもしれず、そんな往生際の悪さを誰が見せているとは言わないが、そんな成り行きを見せつけられてしまうと呆れを通り越して感動すら覚えるわけで、いくら自分を信じすぎて自意識過剰な心理状態を極めても、それだけではどうにもならない事態に直面しているわけだが、その対処の仕方があっぱれだとも到底思えないが、そんなことをやりながら今の今まで生きてきて、それなりに世の中で通用してきたのだから、そういうやり方が通用するような世の中でもあったわけで、その場の状況や成り行き次第ではそんなことをやってもかまわないとは思われないにしても、実際にやってしまうわけだから、それがある意味では凄いことだと感じられるとしても、ある意味とはどんな意味なのかと言えば、呆れを通り越して感動すら覚えるような意味だと言ってみても、なお意味不明なのかも知れず、そんなことをやっている人や団体はもはやフィクションの中で活動していると見なしてもかまわないのかも知れないが、意外とそこが居心地が良くてそれで困らないような環境となっていれば、そんな中でも普通に何不自由なく生きて行けて、そこだけで活動が完結しているようにも思われてしまえば、ではそれと比べて現実の世界では何が起こっているのかと言えば、フィクションの世界を成り立たせるために莫大な労力と資源が費やされるような成り行きにでもなっていれば、まさにこの世の地獄と化しているのかも知れないが、それも程度や傾向によっては、取り立ててどうということはないことにもなっていて、実際にそうなっていても大して誰も気にもしないような状況が実現しているなら、そんなのは当たり前のことでしかなく、それをいちいち問題視するような事態とはならないのだろうが、それだけ人工的で人為的な制度や設備などに取り囲まれながら多くの人々が生きていることにもなり、現実の物事よりも虚構の情報に接している時間や割合の方が多ければ、実際にフィクションに依存しながら生きていて、信じている物事も現実に存在する物事よりも虚構の情報を信じている割合の方が大きければ、客観的に見ても虚構の中で生きていることになるのかも知れないが、そうであるなら特定の人物や団体が最後の悪あがきのように見えることをこれ見よがしにやっていても、それらの人物や団体に属している人たちにはうまく事が進んでいるように感じられて、現状が勝利が目前のような事態にも思われて、だから自らを信じて、自分たちの勢力が世の中の主流派を構成していること信じて疑わずに、自分たちの活動に日々邁進しているつもりになっているのかも知れないが、実際にそんな活動が成り立っている限りで、それらの人たちが夢から覚めることもないのではないか。


12月23日「物事の多面的な解釈」

 複数の人が同じ対象について別々に語れば、人によってその人の立場や境遇の違いによっても、語る対象の捉え方が異なる可能性が出てくるから、それに応じて語る内容にも差異が生じるだろうが、同じ人が同じ物事について語る際にもそれまでとは捉え方が違えば、そこから以前とは異なる解釈や説明を導き出せるだろうが、ある一定の傾向に思考が凝り固まってしまった人が、またそれとは別の傾向に思考が凝り固まってしまった人を批判したり非難する際には、一方的かつ独善的なことを言い放つ場合が多く、批判や非難の対象をこうだと自身に好都合な型枠にはめ込んで決めつける時に、批判や非難するには不都合な要素を取り払っていることは確かで、そういう不都合な面も含めて言説の対象を語るとなると、批判や非難とは違った内容が出てくるだろうし、そうなると少なくとも批判や非難とは違う何かが語られることになるはずだが、意図的にそれを意識して語る場合がほとんどだとしても、それを意識しなくてもそれと自覚することなく語っている場合もあるだろうし、そういう場合には語る内容が一方的な傾向になるのを控えようとする配慮が自然に醸し出されてくるのかも知れず、そこで一方的に批判や非難することによっては語れないようなことを感じ取っていて、それを語らないと対象をうまく表現できないから、そうするより他ないのかも知れないが、そういった物事の面や要素を感じ取るには、物事を多面的かつ多数の要素の集合体として捉える必要が出てくるだろうし、批判や非難するのに都合のいい面や要素だけに着目せずに、それ以外の面や要素があることを感じ取らなければならないだろうが、最初から目的として批判や非難することに言説を特化していると、そんなことまで語る必要すらなく、ただ一方的かつ一面的に述べ立てることに終始してしまうのだろうが、そういう目的で語ろうとするのだからそうなるのは仕方がないとしても、それを受け取る側がそれに同調する必要はないのかも知れず、もちろんそういう目的で多くの人たちが寄り集まれば、それに同調して一緒になってそういう傾向に凝り固まる必要があるのだろうが、対象となる物事の否定的な面や要素を告発するという目的にはそういうやり方が適合するとしても、それが一方的かつ一面的な批判や非難だと広く一般に知れ渡ってしまうと、ただそういう面や傾向を強調したり誇張して伝えているだけで、それ以外の面や傾向を意図的か無意識かはどちらであるにしても無視しているように感じられてしまって、ご都合主義的かつ偏向した意見としか思われなければ、当然のことながら広範囲の支持や賛同は得られないはずだが、そこに特定の党派や主義主張への忠誠度が関与してくると、そういった方面では逆に偏向した意見や主張の方が支持や賛同を得られやすい傾向が出てきて、そういった集団の中で好まれる傾向への凝り固まり具合を構成員同士で競い合うような成り行きになってしまい、それが集団への忠誠度を測る目安となってしまえば、そういう偏向的な傾向ばかりが集団内で高まるのだろうが、集団の団結力を強めるにはそれが不可欠な面もあるにしても、そうまでして維持しようとしている集団自体が末期的な状況となっている可能性もあるわけで、そういった多様性や多面性の欠如した集団には未来がないとも言えるが、だからといってそれを後から人為的に付け足すわけにも行かないだろうし、集団にもその結成や誕生から成長するに従って栄枯盛衰の成り行きが伴ってきて、人為的な制御や調整が利かない面や部分もあって、衰退を押しとどめることも破滅を回避できない局面も出てくるのかも知れないが、そうやって集団内で同質化の濃度が高まりすぎるから集団自体が崩壊の危機に直面するのか、他の要因で集団自体が存亡の危機に直面するからそれに伴って集団内の同質化の濃度が高まってくるのかは、どちらでも解釈が可能なのかも知れないが、他の面や要素を無視すれば、そういう傾向に凝り固まった主張や意見も信用できるだろうし、集団内が構造的にそれらを無視した方が都合のいい形態になってしまい、実際に偏向した主張や意見の持ち主の権力が集団内で強まるから、そういった主張や意見が集団内でまかり通るようになってしまうのだろうが、さらにそこからメディアなどでそういった主張や意見が頻繁に見受けられるようなら、そういう主張や意見を喧伝する人物を支えている何らかの集団の存在を想定しておいた方がいいだろうし、それが組織的な集団なのか、あるいは実際にそういった主張や意見にシンパシーを感じる人が世の中に数多く存在するかは、それもどちらも言えることなのかも知れず、そうなると本当にその手の集団が危機的な状況を迎えているどころか、逆に繁栄の絶頂期にあるような事態になっているとすれば、そんな偏向した傾向に凝り固まった集団の意向がまかり通るような世の中自体が危機的な状況にあるような気もしてくるだろうが、それもそういう面や要素を強調したり誇張して表現すれば危機的な事態のように思われるのだろうし、実際にそういった危機的な事態を何度もくぐり抜けた末に現状の世の中に至っているわけで、そうであるなら現状の世の中でも危機的な面や要素がそれになりにあって、それらを強調したり誇張して危機感を煽っている人や勢力もいくらでも存在するだろうし、そんな現状の中で誰もが普通に生活しているわけだろうが、それが普通の状態であっても、その中には危機的な面や要素も織り込まれていて、いつ何時でもそういった面や要素が顕在化したり活性化するとも限らず、実際に何かの拍子にそういった事態に陥ってしまう可能性もいくらでもあって、それなりの人や集団がそういった事態に直面していて、それが深刻な事態としてメディアで取り上げられて伝えられているわけだが、それもそこだけを強調したり誇張して伝えられれば、それを真に受けた人々の間では危機感が共有されることになるだろうが、それを真に受けなかったり、そんな報道を知らない人々の間では危機感が共有されないだろうし、そういう人々にとっては危機的な状況ではないのかも知れないが、だからといって危機的な状況に陥る可能性は常にあるわけだから、そうなった時がそれらの人々にとっての危機的な状況となるわけだ。


12月22日「メディアからの影響」

 知っていることの中には役に立たない知識などいくらでもあるかも知れないが、そういった知識がメディアからもたらされて、それに興味を持ったから記憶に残って知識となっているわけで、メディア以外からも知識がもたらされるにしても、メディア上で様々に語られる話題の中には興味のないこともいくらでも含まれていても、何かしら誰かしら興味を抱くのだろうし、その中から何に興味を持つかはその人次第な面もあるにしても、多くの人々が興味を持つような話題がメディアを通じてもたらされていることは確かで、人の興味とメディアが提供する話題が一致するから、人がメディアに関心を持つことになり、そういった人とメディアとの相互作用によって世間が形成されているとしても、人の意識がメディアにとらわれてしまう面があるから、メディアの世論調査から明らかとなる世論の特徴的な傾向にも意識がとらわれて、そこで多くの人にもっともらしく思われるような意向や意見が共通認識ともなり、そんな認識にも多くの人の意識がとらわれてしまうのだろうが、メディアにも様々な種類や傾向があって、人によって共有しているメディアも異なれば、それに応じて意向や意見や認識などに若干の違いも出てくるだろうし、全体として最大公約的な傾向もあるだろうが、そういった多数派的な傾向からの距離や隔たりを意識すれば、それがその人の個別的な傾向にもなるのだろうが、それも数値的な偏差として意識するわけでもなく、何となく他に対して差異や違和感として意識できる程度の曖昧な傾向でしかないのかも知れず、それによって自らが世の中の多数派や主流派に属していると思ったり、少数派や異端派に属していると思ったりすることもないだろうし、それは特定の何かから直接受け取るような認識ではなく、何かを介した間接的な認識に過ぎず、それによって直接の利害関係を意識することもないのかも知れないが、それだけに大したことでもないと思うだろうし、何かのついでに受け取るような傾向がほとんどであり、そうした世間的な傾向を共有することによって、多くの人々の間で漠然とした連帯感や一体感が生じることも確かだろうが、はっきりとそれを意識することはなく、そういう間接的に及ぼされる影響によって人の意識がどうなっているかなんてよくわからないし、それも大して意識しないことでもあり、特に問題にもならないことなのだろうが、世の中にはそういうよくわからない面があるから、その全てをはっきりとは把握できないし、それに関してはっきりしたことも言えないわけだが、そういう憶測や推測の域を出ないことに関しては、何を述べてもそれ以上はよくわからないかも知れないが、その手のよくわからないグレーゾーン的な影響力の行使というのは政治的な権力の行使とは違うし、経済力などから生じる影響の類いとも明らかに違うのだろうが、特に陰謀論的な意図や思惑が介在しているわけではなく、個々のメディアが組織的な団体として存在しているとしても、それらが互いに連携していたり協力関係にあるのも確かだとしても、談合のような利害が一致した関係とも言えないだろうし、確かに広告を巡っては利害が一致しているのだろうが、広告収入をもたらす企業もそれなりに千差万別であり、企業が一致団結して大手メディアに圧力をかけているわけでもなく、総じて一致している面よりは分散している面の方が大きいように感じられるのだが、意図的で直接の力の行使というよりは、特に意図も思惑もない面からの影響が人々の意識に及ぼされていて、それが人の意識を捕らえて放さないような執拗な影響を及ぼしているのかも知れないが、よくわからないだけに対処も対策もしようがないし、それでも何となくではあるが、そういう影響が現代の世の中の支配的な傾向を反映しているようにも感じられて、はっきりしたことはよくわからないのだから、そんなのは気のせいだといえばその通りかも知れないし、そんなありもしないような影響に関して何を述べても意味のないことかも知れず、それが世の中に支配的な影響を及ぼしているといってみたところで、では何を支配しようとしているのかといえば、世の中の空気を支配しようとしていると言うなら、そんなのはあってないようなものとなってしまいそうだが、意識とはそういうものなのかも知れず、たとえ空気のようなあってないようなものだとしても、それにとらわれていると安心感や不安感を伴い、それにとらわれている人々を一定の傾向にまとめ上げて、それによって何かしら力を発揮するのであり、その時点ではそれに抗ったり逆らおうとするのは簡単なことかも知れないが、それ自体が空気のようなものだから、大して気にもとめていないような程度に留まり、意識して抗う気も逆らう気も起こらずに、世間的な淡い一体感と共にただ何となく従ってしまうわけで、その程度のことだからそうなってしまっても何の問題も感じないだろうが、そういう作用が度重なると結果的に抗いようがなく逆らえないような影響力として顕在化してしまい、一つ一つの作用や影響は大したことはなくても、またその度ごとの局面でもどうということはないのだろうが、それが何かの拍子に複数の力が絡み合って合成されるような結果がもたらされると、それが同調圧力のようにして個々の人には抗いがたい力となって、その場を支配するような作用を及ぼすのかも知れず、そうなってしまってからはもう手遅れとなってしまうのだろうが、手遅れにならないうちに何とかできるようなものでもなく、手遅れにならないうちは何でもないことであり、そんなことは誰も気にもとめないようなことだろうが、その程度や段階に留まっているうちは何の問題もないことだから、潜在的に作用や影響を及ぼされていても何も感じないわけで、そういう作用や影響が世の中に及ぼされていることは確かであるにしても、それを取り立てて何か論じるような成り行きにはならないわけで、ただそこから距離感を覚える人にはそれなりに漠然とした違和感や抵抗感が意識されるのだろうが、だからといってはっきりと拒否したり拒絶するような動作にはならないわけだから、何か変だと思うぐらいなら意識がそこを通り過ぎてしまうだろうし、自分には関係のないことだと思う程度で済ませてしまうわけだが、実際にそれで済んでいるうちは何でもないことであり、たとえそういった傾向が世間で流行っていてもそれほど気にしていないが、それが何とはいわないが、何かそういう傾向が善意の押し売りのようにお仕着せがましく感じられるようになると、いやな感じになってくるわけだが、すでにそうなってしまう頃にはもはや手の施しようがなく手遅れとなっていても、それでも多くの人たちが何とも思っていない場合があるのではないか。


12月21日「考えること」

 なぜそうなってしまうのかわけがわからない時には、理由がわからなくてもそういう成り行きに従っておいた方が得策かも知れないが、理由などなくてもそうなっている場合もありそうで、何だかわけがわからないが、なぜかそうなってしまう成り行きや現象があり、それについていくら理由を考えても答えなど何も出てこなければ、そういうものだと思っておくしかなく、そこから強引に見当違いな思いつきに至るかも知れないが、理由にこだわる必要すらないのに、勝手にこだわっているだけかも知れないし、それでも考えることがあれば、そうなってしまう理由を考えてしまい、なぜそうなってしまうのかを考えることが、考えるという動作そのものであり、そう考えてしまう理由が特になくても、そういう成り行きになってしまい、それ自体について考えてしまうであり、それが考えるという動作そのものだと否応なく思い当たってしまうとしても、そんなふうに考えてしまうことに疑念を抱くとしたら、そういう時にはそんなことは考えない方がいいというわけでもなく、たとえ答えが見つからなくてもとりあえず考えてみた方がいいのかも知れず、そうやって考えることによって冷静になれるなら、それが考えることの効果であるはずだが、冷静になって考えているとは限らず、焦りながら思考を巡らしている場合もあるだろうし、何を焦っているのかわけがわからなくなっているとしたら、それはいくら考えても答えが見つからないから焦っているのだろうし、答えがすぐに見つかれば冷静になれるが、すぐに見つかると思ったのになかなか見つからなければ、次第に焦ってくるだろうし、そうであればただ闇雲に考えればいいというわけでもないのだろうし、冷静になって考えるコツがあるのかも知れず、コツを掴めば冷静に考えられるかも知れないが、いつ何時でも冷静になっていればいいというわけでもないのだろうし、時には焦る必要もあるのかも知れず、焦りながら考えることにも何かしら効用があるとすれば、その場の状況や情勢に合わせて考える仕方までも変えてゆかなければならないのかも知れないが、そんなことまで事前に想定してから考えるわけでもないだろうし、その場の気分次第で即興で考えたり考えなかったりして、焦って考えたり冷静に考えたり、そんなことにまで気が回らずに、他の何を意識する余裕もなく考えることに集中したり、逆に他の物事を意識しすぎて気が散って集中できなかったり、いくらでもその場の状況や情勢のバリエーションを想定できそうだが、そんなことまで考える必要があるのかというと、それを語るために考えていることでしかなく、必要がなければそんなことまで考えないだろうし、何かを考えるということが無駄に考えることとは異なるとすれば、結果的に無駄か無駄でないかを判断しているだけで、考えている時点ではそれが無駄かどうかまでは考えてはいないだろうし、とにかく考えてみてから判断するしかなく、いくら考えても結論が出ないようなら、考えても無駄だと思うものの、気づかないところでそこで考えたことが何かの役に立っている可能性もあるだろうし、特に何かの役に立つことを考えようとしているわけでもないのだろうが、目的も理由もなく考えているとすれば、無意識に考えていることでしかなく、それを意識する必要もないのだが、たとえそれが実践に結びつかない思考であっても、無駄に考えることが考えても無駄だという結論に結びついて、それによって考えていることとは別の行動が促されて、それが迷いのない実践となれば、無駄に考えることによって心の整理がついたことにもなるだろうし、それが無駄に考えることの効用となるのだろうが、ことさらに思考の効用や活用を考える必要もない場合もありそうで、何かを考えていること自体はそのまま考えさせておけばいいだろうし、それよりも優先すべきことがあればそれをやればいいということになれば、やるべきことの優先順位を考えればいいということになるだろうが、そこでも思考が優先してしまって、他の何かがおろそかになってしまえば、考えること自体が余計で邪魔なのかも知れないが、それに関して考えるより先に感じろと言われるようなことが、思考よりも感性を優先させる必要性があることを示しているわけだろうが、そう言ってしまえるような状況の中で何かをやっていることを実際に感じ取れるかというと、他人に向かってそんなことを言い放つようなら、それに関してはよほどの自信があるのだろうが、その人がどういう立場からものを言っているかによっても、それをどう捉えるかに違いが出てくるだろうし、それもただかっこいいことを言い放つような状況でしかなければ、その程度のことだと思っておいてもかまわないだろうし、また何かの極限状態の中で感性がものを言うような状況と共に活動しているなら、そう言うのももっともなことだと実感できるだろうが、誰もがそんな状況の中で活動しているわけでもなく、何かのフィクションの中でそんな台詞が出てくれば、そういう脈絡がフィクションの中で構成されていて、そんなことを言う役柄にはそういう台詞がぴったりと当てはまるような場面も設定されているわけで、そうなるとそういう場面ではそういう台詞を言うものだという先入観がフィクションを楽しむ側の脳裏に植え付けられて、結果的に納得させられてしまうのだろうが、本当に現実の世界でいつ何時でも考えるより先に感じなければならないかということではなく、ただその場の状況に応じてそんなような気になることもあるわけで、そうなるとそういう状況では考えるより先に感じなければならないと思い込んでしまうかも知れないが、すでにそう思っている時点でその場を通り過ぎてしまっていれば、まだ考えるよりも先に感じる習慣が身についていなかったり、別にそんな習慣を身につけなくても生きていけることをそう思っている当人の動作が証していたりして、そういうところでフィクションと現実の世界の違いが明らかになるとしても、そんなことまで普通は考えないだろうし、フィクションと現実の世界に違いがあろうとなかろうと、いちいちそんなことを確認する必要もなく生きていて、それなりに意識の中でフィクションと現実が入り混じっているのが一般人の通常の心理状態だろうし、それで何不自由なく生き行ければどうということはないわけだが、他にも生きていくのに不自由を感じることなどいくらでもあり、生きていけばそれらの不自由に否応なくかかわってしまうから考えてしまうわけで、何かしら困難に直面すれば、それを感じるだけではどうしようもないからそれについて考えてしまうわけだ。


12月20日「世界との距離感」

 思考の対象となる物事に対して先入観や偏見を抱くのは、その物事に関する情報を自身に都合のいいように受け取っていて、勝手にこうだと決めつけてしまうのは、それなりに納得できる理由があるからであり、それが自身の判断を正当化できる理由にもなるのだろうが、さらにそれが自身の社会的な立場や境遇から生じていれば、その場の社会情勢や支配的な傾向に自身の意識がとらわれている証拠となるかも知れないが、物事をこうだと決めつけることによって自身の世間的な立ち位置が決まってくるとなると、それを自らの意志で決めつけているつもりになっていても、世間がその人を介して世間の支配的な傾向に基づいて判断を下しているようなことにもなり、それだけ世間とその人が一心同体化している証しとなるのかも知れないが、そう何から何まで全てにおいて世間的な価値判断にとらわれているわけでもなく、人によって立場や境遇によっても多少の偏差があるのだろうし、世間的な価値判断といってもこうだと一概には決まらないような成り行きもあるだろうが、世間的な価値判断への同調傾向が強い人ほど、それが自らの判断だと信じて疑わない度合いも強く、逆に常日頃から自らの判断に疑念を抱いている人は、世間的な価値判断の傾向を敏感に察知していて、それと自らの判断との差異を測ろうとして、それによって世間と自身との間の微妙な距離を感じ取ろうとしている限りで、何とか自らが固有の存在であることを意識できるかも知れないが、それも幻想に過ぎないだろうし、そういうことに関しては自らの内部と外部との境界が曖昧化していると共に、どこからどこまでが自らの判断と見なせるかといっても、それを自らで判断したと意識できれば自身の判断には違いないのだが、そうした判断には世間から何らかの作用や影響を及ぼされている可能性も拭いがたく感じるだろうし、自身の内部と外部を区切ることなど一概には確定できないのは当然だとしても、自身の外部で下される判断に疑念を抱くように、自身の判断にも疑念を抱いていることも自覚できれば、疑念を抱いたからといって、ただ疑っているだけかも知れないが、そんな疑いを抱きつつ自らが存在していることを意識できれば、その分だけ自らの存在を他との比較の中で相対化していることにもなるだろうし、逆に自らの存在を絶対視することなど、普通の心理状態ではあり得ないかも知れないが、自らを信じることが大切だと思いながらも信じ切れない面も残しておかないと、自身を相対化できないし、絶えずいつでも相対化していなければならないとは思わないにしても、疑念を抱きつつも自らを信じるより他ない事態に直面しても、なおも疑念が残ってしまうと、そういうところで中途半端な迷いが生じてしまって、なかなか踏ん切りがつかず、何か割り切れない思いにとらわれてしまうのかも知れないが、決断せざるを得ない状況に追い込まれてしまえば否応なく決断して、それによってどんな結果がもたらされても、結果を自らが招いたこととして受け止めるしかなくなってしまうわけだが、それを世間のせいにするのではなく、自分のせいにしてしまうことから、自己責任論への誘惑に抗しがたくとらわれてしまうのかも知れないし、他人の失敗をその人のせいにするのは、喜んでそう決めつけるにしても、自らを取り巻く社会状況が自らに不利に働いていると思い込んで、それを自分が失敗した原因と見なすも勝手な決めつけには違いなく、多くの人たちの失敗を利用して成功できるようなこともあるだろうし、成功も失敗も時の運に左右されやすい面があるにしても、構造的に多くの失敗の中からわずかな成功がもたらされる場合もありそうで、そういうことに関しては失敗とか成功とかが本質ではなく、社会の構造に伴ってそういう成り行きがもたらされている可能性もあるわけで、そこで多くの人や団体が失敗しているとしても、それが否応なく必然的にもたらされていることであれば、たとえ失敗したからといって、それを否定的に捉えるのではなく、そこで終わりというわけでもなく、そこから何かしら学び取って利用しなければならないわけで、しかもそれを利用したからといって、それがすぐに成功に結びつくわけでもなければ、それどころかさらなる失敗に結びついてしまうとしても、さらにそこから何かを学び取って、それを利用しながら活動するような成り行きとなり、そうなると恒常的に失敗を繰り返しながら活動を続けていることになり、そういうことをやり続けられている限りで活動し続けることに成功しているわけで、そういう意味では成功と失敗とが一連の動作の中で順番に回ってくるような成り行きになっている場合もありそうで、そうだとするといかにして失敗を繰り返せるかが成功することの鍵となりそうだが、そうなる程度もやっていることの内容や傾向によって変わってくるだろうし、そこでも法則となるような成り行きを発見できたりできなかったりするのだろうが、何をやるにしても限度や限界があり、絶対に失敗するとは限らないとしても、失敗を繰り返していればいつかは必ず成功するとも限らず、途中で続けられなくなって、そのまま継続が途切れてしまうことの方が多いのかも知れないが、そういうところで世間的な決めつけに惑わされて、成功を取り逃がしている可能性も、それを失敗だと決めつけて成功への糸口を見失っている可能性もあるだろうし、何事も常識にとらわれている限りで安心できるかも知れないが、常識にとらわれないように意識するとしても、そんな意識も世間的な傾向の範囲内で常識にとらわれるなという格言の類いにとらわれている可能性もあるとすれば、それも世間的な常識にとらわれていることの範囲内で意識していることにしかならず、そういうことまで含んで常識にとらわれないことも時として意識せざるを得ないとしても、逆に常識にとらわれている人たちを利用して何かをやるような戦略的な思惑も生じてくるのではないか。


12月19日「知の活用」

 過去のある時期から時間と空間を越えて現代に何がもたらされるかというと、何らかの過去の出来事が文献などの記録として残っていれば、それが過去の情報として現代にもたらされたことになるだろうし、そういった過去の痕跡を探し求めても、そこから未来を見通すことができるかというと、未来ではなく現代に役立てたいと思うところでもあるだろうが、怪しげな過去の予言が的中したと騒ぎ立てたところで、それがよくありがちなオカルト話の域を出ないことにしかならないとしても、メディアを通じて騒ぎ立てるわけだから、それが話題となれば現代において役に立っていることになるだろうが、事前にわかっていたことを新たに見つかった新事実として改めて蒸し返して持ち出すまでもなく、過去の曖昧な記憶をたぐり寄せて、それを生かしてこれから起こることを的中させようとすることが、過去がすでに起こってしまったことの集積であるのとは対照的に、未来がこれから起こるかも知れない未知で未定の領域であるという単純な事実が見落とされているような気がしないでもないが、過去の延長上に現在や未来があると考えれば、未来に起こることの原因が過去にあると考えるのもそれなりに辻褄が合いそうで妥当に思われるし、そうであるなら未来に起こる出来事を予想するには過去の情報が欠かせないと考えることにも、もっともらしさが伴ってくるだろうが、というか予想するという行為自体がそういうものでしかあり得ないのだが、たぶん未知の未来があるのと同じように未知の過去もあるだろうし、今では忘れ去られて失われてしまってどうやっても知り得ないような過去の記憶や痕跡があるのかも知れないが、それはあるのではなくもうなくなってしまったわけで、過去に何があったかに関して全てを知ることはできないわけだが、知り得ないことを知ろうとすることが、過去に向かって知り得ないことを探そうとすることと未来に向かってまだ知らないことを予想することの間で何らかの差異があるのは当然かも知れないが、その差異が何なのかをうまく言葉では表現できないのかも知れず、結局は過去へも未来へも知り得ないことを探ろうとする思いが同じ傾向を伴っていて、それを知って現在の状況の中で役立てようとしているわけだろうが、その役立て方というのが他の人たちは知らないが自分だけが知っているという状況をもたらして、それを知っている分だけ自身が他よりも有利な立場になりたいのだろうが、そういう自分だけが知っている秘密を明かすことが世間の注目を集めることにもなるだろうし、そうした効果を狙って誰もが知りたくても知り得ないような情報を求めるわけだが、それを知ることとそれを活用することにも差異が出てくるとすれば、それを知っていても活用できない可能性も出てくるわけで、自らに利益をもたらすような効果的な活用法を編み出さなければならず、それができなければいくら秘密を探り当てても宝の持ち腐れとなってしまうのかも知れないが、そうではなく自分の利益とはならないまでも、世のため人のために知り得たことを役立てたいと考える場合もあるだろうが、大抵の人たちはそんな大げさなことは知り得ないわけで、人並みに知っていることしか知らない場合がほとんどだろうし、自分だけが知っていることがあるとしても、何の価値も利用法もないようなどうでもいいことしか知っていない場合もほとんどかも知れず、知っていることに価値があるとしたら、それが希少価値であればその人に利益をもたらすようなことになるかも知れないが、もちろん活用法を知らなければ宝の持ち腐れになってしまうだろうし、活用できる立場にならないと活用できないような知もあるのかも知れず、その立場にない人がいくら知っていることをひけらかしても誰からも見向きもされない一方で、その立場にある人が誰もが知っていることを明らかにすれば、他の多くの人たちから共感を呼んでその人への支持や賛同が集まるとすれば、そういった知が社会的な立場や地位と結びついていて、そういうことに共感して支持や賛同を示してしまう大勢の人の意識がそういった社会的な傾向に支配されていることにもなるが、そういう人たちが世の中で多数派を形成しているとしても、それらの人たちが寄り集まって組織的な集団となっているわけでもなく、たまたま何かの機会を捉えて多くの人たちの意識が共鳴現象を起こしただけで、そこから人為的な支配や管理を想像してしまうのは間違っているのかも知れず、そういう共同幻想としての社会的な傾向に意識を支配されている人たちは、何かの機会を捉えては大勢で共感や支持や賛同などの多数意志を示す傾向があり、それが政治の分野では選挙結果となって現れたり、経済の分野では特定の商品が売れたりする傾向を示すだろうし、さらにはメディア的な現象として特定の映画や漫画やゲームソフトなどが大ヒットする場合もあるだろうし、それらの共感や支持や賛同を集める物事に共通する要素や要因があったりなかったりするものの、群集心理として他の多くの人たちの傾向に合わせたり行為を真似たりする傾向になるにしても、それが今までやってきたことや信じてきたことや考えたり思ってきたことの延長上にあると捉えられるから、多くの人たちが安心してそれへの支持や賛同を示すのだろうし、政府などの公的な機関がいきなり今までとは全く違うことを人々に強要するわけにはいかないとしても、同調圧力を加えてくるような集団心理としては、今までとは違うことをやろうとする人や勢力に対してそういった圧力を加えてくるだろうし、そういう意味ではそういった方面からもたらされる社会的な傾向というのが、過去と現在と未来の連続的な一貫性をもたらそうとしていることは確かであり、集団意志として誰もが知っていることを活用できるような社会を実現させようとしているのかも知れないが、それとは裏腹に誰も知らないことを活用して一人だけ抜け駆けして利益を独り占めにするような行為を阻止する意図も、集団意志には込められているのかも知れない。


12月18日「対比の意味」

 何らかの物事に普遍的な面があって、誰にでもそれが理解可能であれば、そういった理解可能性に関して、その物事には普遍的な傾向があると言えるが、その物事に普遍的な面がうかがえれば、どちらかといえばそれが肯定的に受け取られることを狙って語られることが多いのかも知れず、またそれとは逆にその物事の特殊性が語られるとすれば、少なくともその物事には普遍的でも一般的でもない特殊な性質や傾向があると主張したいのだろうが、そういった面が強調されるなら、その物事にそんな印象をまとわせることにどういう意図があるのかといえば、それが普遍性との対比で特殊であることが強調されていれば、否定的な印象をまとわせたいのかも知れないが、特殊な物事というのがその場だけでしか通用しないことだと述べたいのであれば、それとの対比で普遍的な性質や傾向を持った物事が肯定的に語られる成り行きとなりそうだが、特殊な物事にも普遍的な面があることになれば、特殊性と普遍性を兼ね備えた物事になるだろうし、どちらか一方の性質や傾向を強調するというよりは、大抵の物事には特殊性と普遍性の両面があるということであれば、そういった物事の対比自体がまやかしであることが明らかになるかも知れないが、果たしてそれが本当にまやかしと言えるかとなると、対比される内容を見てみないことには何とも言えないが、例えば大雑把な西洋と東洋の対比だとか、日本の特殊性の強調だとか、そういった方面では明治維新以来、様々な紋切り型的な常套句があふれかえっていて、もはや言い古された出がらしの感もあるだろうが、それとは違って、例えば古代ギリシア・ローマ思想のプラトン主義とキリスト教のプロテスタンティズムとイスラム教の商業精神と朱子学や陽明学などの中国の儒教系思想の共通性だとか、そんなのはあり得ないし、共通性ではなく個々の思想の違いや特殊性を明らかにした方がもっともらしく感じられるだろうが、たぶん時代も地域も異なるところに共通性を求めれば、何かそれが普遍性を持っているような気がして、またそれがまやかしにも感じられてしまうかも知れないが、そこにどんな真実があるかといえば、その時代や地域の特殊性を正当化するという面で、何かしら工夫を凝らしていて、しかもそれが普遍性を持つように体裁を取り繕い、当時の全世界を覆うような共通の価値観となるようにしたかったのかも知れないし、そういった時代や地域に限定された特殊性を普遍的な価値観にまで高めたいという願望に共通の普遍的な傾向があり、そこから類推すれば、現代の世界で共通の価値観として意識される物事に関しても同じようなことが言えるのかも知れず、それが真理として意識されるようなことであっても、果たしてその真理が正しいこととして実現されているのかというと、現状ではまだそうなっていないが、これから到達すべき目標であり、達成すべき目的があったりすれば、頭の中で思い描いている理想でしかなく、虚像でしかないが、虚構であるからこそ、それを実現しなければならないという思いが強まるわけで、そういう思いは世界共通であり、そこに普遍性があるわけだが、到達すべき目標や達成すべき目的の内容には、時代や地域に限定された特殊な事情や理由がまとわりついているだろうし、そんな事情や理由を具体的に示されるとリアリティを伴ってくるのだろうが、そういった事情や理由を提示することがまやかしだとは思えないが、時代や地域が違えばまた別の事情や理由が出てくるわけで、それがそういった目標や目的の特殊性を形成するのだろうが、そういう思いを抱くのは普遍的な傾向であり、それが普遍的に感じられるから肯定的に受け止められるし、そういう思いを抱くことを正当化したくなるわけで、実際にそれを肯定的に受け止めてそれを実現することを正当化したい人たちが活動の主体となって、それを実現しようとして何らかの到達や達成へと至るわけだが、それが当初から抱いていたこととは違ってくるのが歴史の常だろうが、何らかの到達や達成に至れば歴史が動いたことになるだろうし、そうやって実際に歴史が動いてきたわけだが、それを肯定的に受け止めるにしても、結果が悲惨であれば否定的に受け止めるにしても、そうなった結果を受けて、そこからも新たな目標や目的が生じてくるだろうし、そういうことを実際にやろうとして、やっているつもりの人や団体がいるとしても、そういう人たちがやっていることが最終的な結果をもたらすわけではなく、絶えず途中経過がもたらされると捉えておくしかないだろうし、まだそこがゴール地点ではないし、ゴール地点などあり得ないと同時に無数にあるのかも知れず、また逆説的にそういった目標や目的を取り去ることが目標であり目的として定めるような成り行きもあるかも知れないが、どうなるにしても現状が続いていて、それが変化したりしなかったりする現状であり、現状との対比でどのような世界の理想像を思い描いても、現状で問題となっている不具合や不都合を取り去った理想像になることは確かであり、そういった不具合や不都合を取り去ることが目標や目的になってしまうのだろうが、やはりそこでも現状ではそれらを取り去ることが不可能だと見なして、しかもそれらを逆利用することによって、それらを不具合や不都合だとは感じさせないような新たな状態へと持って行きたいと思う人も出てくるのであり、そういう人は現状をあるがままの姿として肯定的に捉えると共に、現状を改善する方向性として、現状で顕著になっている傾向をより一層顕著になるようにしようとするだろうし、それが現状の進化形態と言えるのだろうが、それが現状の問題点としての不具合や不都合を取り去りたい人たちとは真逆の試みであるように感じられてしまうわけで、客観的に見てどちらの試みも現状の中では完全には実現していないわけだが、どちらの人たちが思い描いていることも、現状の中で自分たちの立場や境遇に応じて出てくる傾向を強調しているわけで、そうした傾向が主張へと結実して、そうした主張に適合した目標や目的が生じてくるわけだが、それを実現したいという思いには共通の普遍的な傾向があるのではないか。


12月17日「語り得ない部分」

 現状でわかっていることだけ語ろうとすれば、何とか話の辻褄が合っているように装えるとしても、辻褄が合う部分だけ述べていても、語る対象となる物事の全てを語っていることにはならないだろうし、それに関して語れるところだけしか語っていないのは当然だとしても、語り得ないようなことにまで言及しようとすれば、うまく語れなくなってしまうのかも知れず、意識してそういう部分は避けて語ろうとしても、語っていくうちに話の成り行き上語り得ないところにまで踏み込んで語らざるを得なくなれば、結果的に語ることに失敗してしまうかも知れないが、例えばそれが何かを主張するのとは違う内容になると、話の中で何も主張していないわけではないとしても、主張とは違うところにまで言及しようとして、あるいは言及しようとしなくても言及せざるを得なくなるような成り行きになれば、結果的に何を語りたいのかわからないようなところまで語ってしまう場合もありそうで、そういったところに語り手の主張とは違う何かが潜んでいて、そういう部分が出現してしまうのは、語り手が語っている全てを制御しきれないからかも知れないが、無理に制御しようとしてはいけないのかも知れず、逆にそういう部分がないと話に魅力を感じられないようなら、積極的にそういう部分を語る必要があるのかも知れないが、求めようとして求まるものでもないのかも知れず、むしろ求めようとして求まってしまうようでは魅力がなくなってしまうのかも知れないし、それは語り手の外部から否応なくもたらされる、語り手の把握から逃れるような何かかも知れないが、それがわかっていないことであり、わかっていないことにまで言及するのは、語り手の外部から何らかの作用や影響が及ぼされない限りは不可能なのかも知れず、そこで外部との対話が生じていて、そういう意味では内部だけの論理でいくら話の辻褄を合わせようとしても、外部からの作用や影響には通用しないのかも知れず、だからといって内部の論理を放棄すればいいわけでもなく、内部で通用している論理を絶えず外部からの作用や影響と戦わせて、外部からの作用に対応できるように内部の論理を更新し続ける必要があり、更新し続ける限りで話の内容が予定調和の紋切り型に堕してしまうのを避けられるだろうが、逆に外部との間に防護壁を設けて、外部から作用や影響が及ぼされるのを阻止できれば、都合の良い作用や影響だけを出し入れすることで、内部の論理を一定の状態に保つことができるかも知れないが、そういった防護壁の役割を果たすのが何かといえば、そうした論理を基にして構成される制度や法律になりそうで、またそうした制度や法律を利用したり守っている人や団体も存在するだろうし、それに基づいて人や団体の活動が成り立っているようなら、それが世の中で通用していないと困るわけだから、是が非でもそういう論理を守ろうとするだろうが、内部だけに留まっていないで外部にも活動の領域を広げたいなら、外部でも通用するように内部の論理にも改良を施す必要が出てきて、そんな必要から普遍性を伴った論理が求められるのだろうが、必ずしもそれが一定の論理である必要はないのかも知れないし、相矛盾する複数の論理の組み合わせであると共に、場合によってはそういった論理を無視したり反故にして活動する場合もあるとすれば、絶えず反逆や裏切りがつきものの活動になるわけだが、結局は人や団体の間で何らかの論理を基として取り決めが結ばれて共通の守るべき掟となるにしても、それだけで活動を完結させることはできずに、時と場合によってはそこから外れることをやらないとならなくなり、そうなると掟破りの行動となってしまうわけだろうが、人の意識が世の中の全てを把握できない限りは、完璧な論理も取り決めもあり得ず、人や団体が活動していけば必ずそこから外れることをやらざるを得なくなり、そこで何かを決めて守らせること自体が、その場の状況が変われば守れないことを意味していて、それでも決まりを守らせようとすればそれだけ状況が一定に保たれて安定する可能性が高まるにしても、そこに作用や影響を及ぼしてくる全ての物事を把握できないから、思いがけないところから何らかの介入がもたらされて、それに伴って決まり事を守れなくなったり約束が反故にされてしまう成り行きとなってしまうわけだが、そうなった時にそれにかかわっている人や団体がどう対応するかでも、その後の成り行きが変わってくるわけだろうが、そういうところでこれまでの取り決めを守ることにこだわってしまうと、状況や情勢の変化に対応できなくなって、そういう人や団体は衰退したり破滅してしまうのかも知れないが、そうならないと主導権の交替が起こらないのかも知れず、これまでの取り決めとそれを主導してきた人や団体に替わって、新たな取り決めとそれを主導する人や団体が登場してくれば、そういう成り行きと共にその場の状況や情勢も刷新されて、新たな時代へと世の中が移り変われば、それが歴史的な出来事となるのだろうが、現状の中で主導権を握っているつもりの人や団体としては、そうなってもらっては困るわけだから、そういう成り行きを阻止しようとするのも当然なわけだが、現状の中で主導権を握って何かを主張したり語っている人たちには、そういうことは語り得ないだろうし、そういう人たちにとってはそういう部分が語り得ないことになるのだろうが、他にも語り得ないことなどいくらでもあって、それは自らの内的な論理に従っているつもりの人にはその論理に反することが語り得ないことになるのだろうが、時と場合によってはそれを語らざるを得なくなる瞬間がやってきて、中にはそれと自覚することなく語っている人もいるだろうし、周囲の誰もそれに気づかない場合もありそうだが、何かを語るという動作も語っている自らの内だけで完結するわけではなく、絶えず外部からもたらされる作用や影響にさらされながら語っているわけだから、自らの語りを制御できない部分が語りの中で生じていて、それを語っているのに自覚していない場合があり、自らが思いがけないことを語っている実態を把握できていないわけだ。


12月16日「真偽の判断」

 機械とは違って物事の真偽を人が判断すると、その判断を巡ってややこしい諍いが起こったり、その後の成り行きがこじれてきて、その場の判断がトラブルの原因となったりすることもあるだろうが、その判断が論理的に正しくても、実際におこなわれていることはそれとは違ってきたり、正しくないことでも迷信として信じられていれば、誤ったことの方が都合が良かったりするのかも知れず、正しいことがやろうとしていることの全てではなく、間違っていることでも延々とやり続けられている場合もあるだろうし、その人にとっては正しいことが、別の人にとっては間違っているとすれば、そういう正しさには普遍性がないだろうし、人によってもその人の立場や境遇によっても、何が正しくて何が間違っているかが違ってくれば、それに関しての真偽の判断自体が無効になってくるかも知れないが、だからといって正しいか間違っているかではなく、有効か無効かで判断しようとしても、それも人によって違ってくれば、さらには時と場合によって判断が違ってくれば、何が正しくて何が間違っているかに続いて、何が有効で何が無効かの判断も、人の立場や境遇や、その場その時の状況や情勢に応じて変わってくることになるだろうし、世の中にはそういう面があるにしても、別の面では物事の真偽が恒常的に確定している場合もありそうだが、その場の状況や情勢に応じて何をやればいいかが特に確定していない場合もあるだろうから、何をやってもうまくいかず、何もやらなければもっとひどいことになるようなら、ではどうすればいいのかといえば、どうやってもかまわないが、どうやってもやらなくてもうまくいかないことになるのかも知れず、それでもどうすればいいかといえば、正しいと思うことは主張できるだろうし、こういう場合はこうすればいいと主張できるわけで、そう主張したところで主張通りのことがおこなわれる確証はないとしても、主張することはできるわけで、他の人たちがその主張に耳を傾けることもできるし、主張者の言い分に納得したりしなかったりすることもできるだろうし、主張通りのことをやろうとすることもできるかも知れないが、結果的にやれるかどうかはわからないとしても、その時点では正しいと思われる主張がおこなわれて、それに対して他の人たちが納得したりしなかったり、それに賛同したりしなかったり、それを支持したりしなかったりしても、少なくとも間違ったことをわざと主張することはないだろうが、それらをことごとく無視して何かをやろうとする人や勢力があろうとなかろうと、そういうこともできるわけで、実際にそういうことがおこなわれている実態があるのだろうが、正しいと思うことを主張して正しいことをやろうとする限りで、正しいことを求めているわけだが、正しいことを求めている人たちは実際に正しいことがおこなわれて欲しいと思っていて、正しいことを主張して正しいことをやろうとする人や勢力に賛同して、正しいことをやろとしている人や勢力を支持することになるわけだが、そういった主張の場で何が正しいことなのかが示されるわけで、そういう行為の正しさが何によって証明されるかといえば、その後の成り行きによってそれが明らかになることもあればならないこともあるだろうが、明らかになってしまってはまずいこともあるとすれば、それがそれらの人たちの支持や賛同によっては明らかにはならないことかも知れず、またその後の成り行きや結果からも明らかにはならないことであれば、そもそもそれは真偽の判断がつかないことでもあり、実際に正しいことを主張して正しいことをやろうとしているのに、それが正しいか否かの判断が怪しいということでもあり、それを正しいと判断すること自体が疑わしく、たとえそれを正しいとは判断しなくても、そういった判断自体が間違っている可能性につきまとわれていて、判断してもしなくてもどちらでもかまわないということではなく、そこで判断せざるを得ないのだろうが、正しいと判断すれば納得して主張に賛同したり主張を支持するわけだろうが、それが正しいかどうか判断しようがないということではなく、実際に判断しているわけだが、そうした判断自体が疑わしいわけで、もしかしたら正しくなくても間違っていてもかまわないのではないかと思っても、それを支持したりそれに賛同してもかまわないのではないかということかも知れず、何か主張を支持したりそれに賛同するには、それが正しいか否かには関係なく支持したり賛同している可能性があるわけで、真偽の判断を保留したまま支持したり賛同しておいて、結果がどうなるかに期待してしまうわけで、しかもその結果が良かろうと悪かろうとどちらでもかまわないようなことにでもなれば、何かが起こったり変わったりするきっかけとしてそういった行為が機能することに期待しているわけで、確かに何かを主張する側は自身が正しいと思うことを主張しているのだろうが、主張に賛同したり支持する側としては、主張の内容に関してそれほど厳密には真偽の判断はしていないのかも知れず、その場では判断しようのないことであるわけでもないが、もちろん熱心な支持者や賛同者はそれが正しいことを信じて疑わないだろうが、そうではない人たちは正しくても間違っていてもそれほど気にはしていないのかも知れず、それよりはそれをきっかけとして世の中を揺るがすような何らかの動きが起こって、それに乗じて何かを仕掛けたいと思っている人や勢力もいるだろうし、そういうことを明確に狙っているわけではなくても、その場の変化に対応して何かをやりたいわけで、それが何なのかはその時になってみないとはっきりとはわからないだろうし、その時になってもそれと自覚しないまま何かをやってしまうのかも知れないが、漠然とそういうことを期待しているとも自覚していない可能性もあるだろうが、そうやってそれを支持しているのか賛同しているのかも定かでない人や勢力を味方につけることができれば、それに伴って何らかの動きが世の中で起こるのかも知れないが、特に何も起こらなくてもかまわないのかも知れず、実際に何かが起こっていてもそれを察知できない場合もあり、誰もが感知できないようなことが起こっていれば、何も起こっていないのと同じことでしかないが、そういうことも含めて真偽のほどは定かでないが、それに便乗して何かをやろうとする人や勢力の動向が、世の中を動かすには欠かせない要素や要因となるのかも知れない。


12月15日「過去の教訓」

 過去の教訓が生かされないのは、それが現状では通用しないからかも知れないが、そもそも現状の中で生かすべき教訓があるのかというと、そんなのは探せばいくらでもありそうで、中にはすでに生かされている教訓もいくらでもありそうだが、必ずしも教訓とはならないようなこともいくらでもあるのかも知れず、では教訓でないなら何になるのかといえば、過去の誤りや過ちの再現となるようなことであれば、確かに教訓が生かされていないことになるだろうが、否応なく繰り返し起こってしまうようなこともあるのかも知れないし、同じ誤りや過ちを何度も繰り返していると、いつの間にかそれが誤りでも過ちでもなくなってしまうわけでもないだろうが、なぜか執拗にひたすら同じ誤りや過ちが繰り返されるような成り行きもあって、それによって実際に多くの人が何度も痛い目に遭っているのに、それでも性懲りもなく同じ誤りや過ちが繰り返されてしまうようなら、死ぬまでそんなことをやっている人がいるのかも知れないし、その人が死んでしまっても他の誰かがまた同じような誤りや過ちを繰り返してしまうのかも知れず、そうなるとその人だけに特有の誤りや過ちなのではなく、まさに人類共通の普遍的な誤りや過ちだとすれば、それが何かといえば、殺人や窃盗などの犯罪ならいくらでもあるのかも知れないが、多くの人がそういった誤りや過ちを犯しているのに、全ての人がやるわけではなく、やるのがいつもごく一部の人に限られているなら、たとえそんな誤りや過ちが数限りなく繰り返されても、世の中の平静が保たれていて、そういった行為を処罰する法律などが適用されていれば、それによってある程度は歯止めがかかっているわけだろうが、処罰されない誤りや過ちなどもいくらでもありそうで、実際にそれをやってしまうと痛い目に遭うからやりたくはないのだろうが、中にはやれば利益がもたらされるような誤りや過ちがあるなら、誰もが率先してそれをやりたがるだろうが、誰にでも利益がもたらされるわけでもなく、それに挑戦する大半の人が利益を得ることに失敗する一方で、ごくわずかの成功した人にしか利益がもたらされないとなると、誰もがやるのを躊躇してしまうだろうが、もたらされる利益が半端ない額になるのであれば、それでもやろうとする者が現れるだろうし、ハイリスクハイリターンなことをやるにはかなりの勇気が要るだろうが、しかも失敗すると多額の費用が嵩んだり命の危険にさらされるようなことにでもなれば、挑戦する者もごくわずかな人に限られるようなことにもなりそうだが、それの何が誤りや過ちなのかといえば、実際にそれをやっていく過程において様々な小さな失敗が嵩んでいって、それが挑戦者の足を引っ張るように作用すれば、最終的には続けるのを断念せざるを得ないことにもなるだろうし、結果的にそうなってしまうにしても、それでも幸運に恵まれてやり遂げることに成功した人にとっては、途中で犯した数々の誤りや過ちも結果良ければ全てよしでどうということはないわけだが、やり遂げることに失敗してしまった人にとっては、途中で犯した数々の誤りや過ちが失敗の原因となり、それに再挑戦するような成り行きになった時にでも、それらの誤りや過ちが過去の教訓として生かされる可能性もあるかも知れないが、それがその人の生涯をかけた一回きりの挑戦であれば、その人が生かすことはないだろうが、他の誰かが同じような挑戦をおこなおうとする際に、先人の経験として文献などの記録が残されていれば、それが教訓として生きる場合も出てくるだろうし、そうであればそういったことに挑戦する際には、まずは先人の挑戦記録などを探し求めて、それを参考にしながら挑戦する成り行きになりそうだが、そういった個人でおこなう挑戦や冒険の類いなどではなく、数多くの人や物や情報などが複雑に絡み合ってくるような社会的な動作となると、その中で何らかの誤りや過ちが犯されても、特定の誰の責任になるわけでもないようなことがおこなわれてしまう場合もあるだろうし、また誰が何をやっているわけでもなくても、例えば世の中の空気や雰囲気が何かに対する嫌悪の感情として向けられていれば、そういった空気や雰囲気を背景として、嫌悪感を向ける対象となる特定の勢力や階層を差別したり蔑視するようなことが、当たり前のようにおこなわれてしまう可能性もあるわけで、そういう空気や雰囲気に慣れ親しんでいる人であれば、そんな感情を抱いても何の罪悪感も羞恥心も抱かないだろうし、またそういう空気や雰囲気が意図的に広められる以前に、そういう傾向の社会が構成される上で欠かせない要素や要因としてそれが組み込まれているようなら、それを正当化するようなメディア的な動作となって、そういった空気や雰囲気を強めたり広めるような行為がおこなわれるだろうし、しかも表向きにはそういった傾向に対して否定的な立場や態度をとっていても、それが建前でしかなく、本音の部分ではそういった傾向に凝り固まった感情を温存させているようなら、より巧妙な装いを伴って根深いところで、微妙にそういう面を醸し出すようなことがおこなわれている可能性もあり、わかる人にはわかるが、わかる人だけに目配せするような配慮と共に、ちょっとした一見何でもないようなところで、そういうことがおこなわれているようであれば、そういった社会には表裏があり、表向きには部外者やよそ者を歓迎するようなことも慣習的な動作として確立されている一方で、裏に回れば地元民にだけわかるような隠語を使いながらひそひそ話をやっているような閉じた共同体が形成されていたりして、そういう村落共同体のような形態であればそれ以外のところでは人畜無害なのかも知れないが、別にそうなっていること自体が誤りでも過ちでもないだろうし、そういう傾向をとやかく言うような成り行きにもならないだろうが、そういう傾向を共同体の垣根を越えて社会全体にまで拡げようとすれば、誰にとってもおかしくなっているように思われるのかも知れず、そんなことが意図して人為的にできるわけでもないし、特定の誰がどんな勢力がそれをやろうとしているわけでもないだろうが、そういう方面で限度や限界を超えようとは思っていなくても、保守的な傾向として自然にそういった共同体的な結びつきを強めようとしてしまうわけで、そういった傾向が強まると政治や経済などの分野で身内意識が高められて、それに伴って公的な公平さや公正さが抑圧されてしまうわけだが、そういった面は法律などでは規制しようのないことなのではないか。


12月14日「一連の現象」

 何らかの成り行きを説明する内容が、その成り行きをもたらしている現象への対処や対応に役立つと思われても、具体的にどんな現象に直面しているのかといえば、例えば伝染病などの世界的な流行に直面しているのであれば、伝染病が人から人へと感染する成り行きを説明できれば、それが感染を防ぐための対処や対応に役立つはずだが、中にはそれをうまく説明できても、それに対する有効な手立てが見つからない場合もありそうで、しかもそれを防ぐための手段ではなく、逆にそれを促進するような対処や対応がとられている中で、何をどうすればいいのかよくわからなくなっているのかも知れず、要するにそれを防ぐことと、それを防ぐことによって生じる副作用のような別の何かを食い止めることが、二律背反のような現象を引き起こしてしまうわけで、どちらを優先させてもそれに応じてうまくいかない面が出てくれば、結局どちらかを優先させれば別の方面で弊害が生じることを受け入れなければならず、そういった判断を迫られているのだろうが、踏ん切りがつかずにどっちつかずの中途半端な対応に終始してしまい、そういった対応がかえって不信感を増幅させるような悪影響をもたらしているとしても、それによって別の何かを利する結果がもたらされているとすれば、それでもかまわないようなことにもなって、結局何が良いのか悪いのかわからずじまいになってしまって、それでもかまわないような成り行きとなっている面ではそれでかまわないだろうが、それがどういうことなのかうまく説明できないとしても、そんな成り行きの中で多くの人がわけがわからずに右往左往している現状があるにもかかわらず、結果的にそれでかまわないような状況となっていれば、それがどう考えても納得できないのにそうなるしかなく、そんな説明では納得できないだろうし、納得させるために何を説明しているわけでもなく、ただそうなるとしか説明できないようなことなのかも知れないが、そんな説明が何のためになるのかもよくわからず、ただぐだぐだな成り行きをぐだぐだに説明しているだけで、それが何のことやらさっぱりわからなくてもかまわないと思っているわけでもないのだろうが、時にはそういった説明でもかまわないような気がしてしまうとすれば、そうやってうまく行きそうもない成り行きを説明していることにはなるが、それがそういった成り行きへの対処や対応にもなっていて、そうやって人を煙に巻くようなことをやろうとしてうまく行かなくなっている可能性もありそうだが、そんなことは承知の上でそんな説明に終始していて、それへの対応がそんな説明をもたらすとなると、説明自体がそこで生じている現象に含まれてしまい、それに直面して何かやろうとすることの中にそんな説明も含まれているのであり、当然それに対する批判や非難もそれに含まれているだろうし、それが一連の現象となって人や社会を巻き込んで進行中と捉えればいいのかも知れないが、それだけでは済まないところが捉えどころのないところでもあり、それに関わろうとすればそんな現象に巻き込まれてしまい、またかかわろうとしなくても巻き込まれてしまう場合もあるだろうが、かかわりたくなくても否応なくかかわってしまえば、逃げ道がないわけで、逃げ道がなくても時の経過と共に事態の収束を予想できればそれが出口であり、そういう意味では出口があるのだろうが、それも否応なく勝手に終息してしまえば、出口を探さなくてもたどり着けなくても、そんなことはお構いなしに出口へと導かれてしまうこともあるだろうし、それが出口でなければ困ってしまうわけでもなく、逆に出口から出ない方が安全なのかも知れないし、巻き込まれた現象の中に留まっていた方が、意外とそれで済んでしまうようなことでしかなく、何かの拍子に思いがけず出口から外へと出てしまうと、そこで待っているのが自らの死であったりすれば、そこで後悔する間もなく死んでしまうだろうし、では死にたくなければ自らが巻き込まれている現象の中に留まって何をやればいいのかというと、それに対処したり対応していればいいのだろうし、たとえその仕方が誤ってしまってもかまわないわけではないが、対応を誤ればそのまま死につながるわけでもなく、ただ迷路の中に別の迷路が生じてきて、その迷路の中で迷っている間は現象の中に留まっていられるわけだろうが、迷いから覚めて何かしら悟りの境地にでも達してしまうと、それだけ自らの死に近づいたことになってしまい、人為的に自らの死を遅らせるにも限度があるだろうし、死にたくなければ悟らないことが肝要であるなら、迷路で迷っている方がマシというわけでもないだろうが、自然と死に近づいているのであればそれを受け入れるしかなく、受け入れられなくてもいずれは死んでしまうのだから、そんなことには気づかないふりをしながら迷路で迷っていられるかといえば、そうなる成り行きになってしまえば自然にそうなるしかないとしても、自らそれを選択できるわけでもなく、何かを選ぶ成り行きにはならず、自然とそうなってしまうのだろうが、そうなってしまうのを待つまでもなく、すでにそういう成り行きに巻き込まれていて、そういう成り行きに従って生きているのかも知れず、自身ではそれに気づかないだけで、それに気づいてしまうことが悟りの境地に達したことでもあるのかも知れないが、そんな機会がやってくるのを待っているわけでもないだろうし、そうなってしまうのを遅らせようとしているのでもなく、自然体で臨みながらも何やら戦略的な策を講じようともしていて、結局どっちつかずの中途半端なことをやってしまうのが誰もが経験する誤りや過ちになるのだろうし、それでもかまわないと思うどころか後悔先に立たずな心境になってしまうしかないのだろうが、そこで直面しているのが自ら招いた状況でもあるわけだから、何かしら納得できるような面も意識せざるを得ないわけだ。


12月13日「国家幻想」

 国家に対して国民が幻想を抱くとしたら、それは国家が国民を守ってくれるという幻想かも知れないが、それが社会主義的な福祉国家幻想だとしても、実際に国民を守る主体として政府と呼ばれる行政機関があり、政府が国民を守っているという幻想を抱けるかも知れないが、幻想ではなく実際に治安機関の警察や国防組織である軍隊などが国民を守っている実態を示すこともできそうだが、警察や軍隊はどちらかといえば国民を守ることよりも、反政府活動などを取り締まったり暴動を鎮圧することによって、行政機関である政府を守ることの方を優先している傾向もあるだろうし、それらの組織も政府に含まれているから当然といえば当然なのだろうが、そのことの延長上で考えられるのは政府が政府を支持してくれる国民を守っているということでしかないが、その一方で政府が行政活動によって国家を統治しているという実態も示すことができるだろうし、統治することと守ることの間にどのような違いがあるかとなると、国民を守ることも統治に含まれると捉えればいいのだろうが、要するに政府には国民を守ることの他にも統治に含まれる活動をおこなっているということであり、そうした統治実践の中に国民を守ることも含まれていると考えておけばいいのかも知れないが、ただで守るということではなく、国家主義的な論理からすれば、国民に対して見返りを求めていることにもなり、国民が国のために働いて欲しいという要求が出されていて、国民が国に尽くした見返りとして国民を守るという理屈が持ち出されてくると、国に尽くさない国民は守る必要はないという理屈も出てくるだろうし、そういう理屈が成り立つかどうかは法律的には不明確な面があるだろうが、何かを求めるにはその見返りとなることをやらなければならないという慣習的な通念に従うなら、そんな論理や理屈も正しいように思われてしまうわけだが、その延長上で経済的な論理からも、税金を払っているのだから払っている分は国家に貢献しているはずだという思いも生じてくるだろうが、では払う額が少ない貧乏人は国家に対する貢献度が少ないのかという理屈も出てくるだろうし、さらには金持ちや大企業は他の国民や下請けの中小企業から利益を搾取しているのだから、その分多額の税金を払うのは当然だという論理も出てくるだろうし、そんなことを考えていくとその人の社会的な立場や境遇に応じて、国家や政府に対する身勝手な理屈や要求がどんどん増殖していってしまうようにも思われてくるが、それらの何が正しくて何が間違っているかとか、何が良くて何が悪いとかではなく、実態としてはどうなっているかということでしかないだろうし、結果的に国家に反逆したり政府に反発したり、違法行為をおこなっていたり、税金を払う額が相対的に少ない貧乏人であったりしても、そういう人が生きていけるような必要最低限の生活が確保できる法的かつ制度的な保護措置が表向きには講じられていて、運用面でうまく行っていない場合もあるのだろうが、政府の他にも民間の団体が生活困窮者を助けているから、たとえ経済活動から脱落したり適合できなくても何とか生きていける人もそれなりにいるわけだが、それに関しても憲法などを持ち出してきて、絶対に正しい国家と国民の在り方を求めようとしても、それは言語的な正しさを求めることにしかならず、実態とは必ずしも重ならない面も出てきてしまうだろうし、そういう面では実際におこなわれていることを基にして考えなければならないのだろうが、そうであれば実際に政府が税収を基にして予算を組んでいる都合上、何の歯止めもなく際限なく国債が発行されるような事態は避けたいだろうし、そうでなくても国債の発行に歯止めがかからない事態となりやすいのだろうが、過度なインフレにならなければ国債を発行してもかまわないといわれても、普通に考えて税収に見合った予算にとどめたいだろうし、そういう基準で予算を組んでいる担当者や担当部局からすれば収支の均衡を図りたいわけだろうが、税収の基となる経済活動にも自ずから限界や制約もあり、思い通りには予算が組めないだろうし、また政府の官僚機構の規模や維持運営費用も放っておけば際限なく膨らんでいってしまう傾向もあるだろうし、政府が国家を統治していることは確かでその実態もあることも確かだろうが、統治しきれるかとなると、際限なく統治することはできず、統治しきれない面が出てくると共に、どこかで統治の限界や制限を設定する必要も出てくるわけで、そういう意味ではその国の経済活動の規模に見合った統治というのが新自由主義的な合理性となってくるのだろうが、実態として政党や各省庁の利権や利害関係などを優先させていると、それに絡んで予算を無駄に浪費している箇所が次々に明らかになってきて、無駄な予算を削るための行政改革の必要性が唱えられるような事態にもなり、そこで利権を守ろうとする抵抗勢力とのせめぎ合いがおこなわれているうちに、そういうことがうやむやになって改革が骨抜きされてしまい、各勢力の力関係に応じて予算配分が決まってしまえば、その種の利権構造が強化されるばかりとなって、そんな政財官の癒着体質に伴って必要なところに予算が回っていかない一方で、贈収賄の温床となるような私利私欲を満たす方面での予算の無駄遣いや浪費が横行する事態となってしまうのだろうが、そういった面も含めて統治には限界や制限があり、現状でおこなわれていることからそれほどかけ離れたことはできないのかも知れないが、主張する分にはかけ離れたことを主張できるだろうし、そういった主張をしている勢力が政治的な主導権を握れば、実際に現状からかけ離れたことをやろうとするだろうし、実際にやろうとして失敗した事例も歴史上数多くあるのだろうが、たとえそういう試みが失敗に終わったとしても、そこから紆余曲折を経て思わぬ結果がもたらされるのかも知れないし、そういうことを主張している勢力を支持してもかまわないわけだが、少なくともそういった主張を支持することと実際におこなわれていることとの間には、何らかの相互作用が生じていて、現状でおこなわれていることに対する反応として、そういった主張が唱えられていて、それが一定の支持を集めている実態があるわけだ。


12月12日「影響力」

 そんなことは結果から見ればそうなって当たり前のことなのだろうが、偶然にもたらされる数奇な運命に翻弄されて、必死の努力も報われず残念な結果に至ってしまい、何かが水泡に帰したような無力感を味合わされることも稀ではないとしても、そもそも必死になって努力する成り行きにはならず、怠惰に流されて無駄で無為な時を過ごして、そこでたわいない娯楽の虜となって、それ以外は何もしないようになってしまえば、それこそ必然的にもたらされる堕落なのかも知れないし、様々な紆余曲折を経たあげくに、思わぬ結果としてそうなるにしても、事前に思い描いた通りにはならないのも当然なのだろうが、果たして物事に事前と事後があるのかというと、そこで起こっていることと共に意識があり、その前後がどうなっていようとそんなことと共に生きていて、実際にその場で生きて存在しているから、そこから遠ざかることもできずに、遠くからその場で起こっていることを俯瞰的に眺めている余裕はないし、その場で生じている物事に意識がとらわれていて、それに近づきすぎているからかかりきりになってしまって、それ以外のことができなくなり、それ以外のことがわからなくなってしまうのかも知れないが、それ以外のことがわかる必要もなく、わかる必要もないからその場で生じていることにかかりきりになってしまうのだろうが、そうやって何か一つの物事にかかりきりになってとらわれてしまうことが、そうなってしまった人の限界と制約を生じさせていると同時に、そうならないと他には何もできなくなってしまうのかも知れないが、実際に何かをやっていて、何かをできている実態があれば、そんな状況の中でそれにとらわれているわけで、それにかかりきりになっている人がいるわけだが、かかりきりになっていることよりも、その物事が具体的にどんな中身なのかが問題であるようにも思われて、それが世の中にどんな作用や影響を及ぼしていて、それによって世の中がどうなっているのかも気がかりなところだろうが、それがどんな中身であってもどんな作用や影響を及ぼしていようとも、そんなことはどうでもいいとは思わないだろうが、それにかかりきりになっている人がそれにとらわれている状況そのものが、すでに世の中に及ぼされている作用であり、そこから影響を及ぼされている実態そのものであるのかも知れず、それにかかりきりになるように仕向けられて、その場にとらわれてしまっている実態がそれを物語っていて、人をそうさせて人がそうなってしまうことが、そこから及ぼされている作用や影響の表れであり、その人がそこから作用や影響を及ぼされてそうなってしまっているのであり、そうなってしまうのがその人だけでなく、他の大勢の人たちもそうなってしまうとすれば、それがその物事が世の中に作用や影響を及ぼしていることの証しとなるのだろうが、そうしたことにも時期や期間があるだろうし、いつまでも恒常的に作用や影響を及ぼし続けるわけでもないだろうし、人為的な物事ならその大半は一過性の流行り廃りに左右されて、現状の巷で流行っている物事がいつまで持つかは定かでないものの、メディア的な操作によって流行らせているとすれば、メディア側の事情としても、いつまでもそれにかかりきりになっているわけにはいかないし、目先を変える意味でも絶えず次々に新たな流行現象を起こさないと商売が成り立たないだろうし、そういう意味では人為的に流行り廃りの現象を起こすことになるのだろうが、それが世の人々にどのような作用や影響を及ぼすのかといえば、娯楽としてそれを享受することになれば、それが一過性の興味を惹く現象となるだろうし、多くの人々がそれを消費することによって、それを流行らせた側に利益がもたらされることになるわけで、そういうことだと割り切って捉えれば、そこから及ぼされる作用や影響にもそれなりの限界や制約があることにもなるだろうが、そういった流行現象にとらわれた人が何を享受したかといえば、それにとらわれていた時間内で気分が高揚したり、そんな自身の状態を肯定的に受け止めて、何か良い経験をしたという思いが記憶として残るはずだが、ではそういった流行現象が過ぎ去った後には何が残されるのかというと、それが以前と変わらぬ世の中でしかなければ、結局そういう流行現象では世の中を変えるに至らなかったことが明らかになるはずだが、そんな世の中でもかまわなければ一向に困らないわけで、そうやって絶え間なく一過性の流行現象を享受していれば済んでしまうような生活を送っていることになり、そういう世の中の状態を肯定的に捉えていることにもなりそうだが、普通はそういうことまで気が回らないだろうし、そんなことを自覚する余裕もなく、ただ漫然と様々な事態を通過している間に時が経ち、人の人生もさっさと過ぎ去ってしまうのだろうが、中にはある一つの物事に生涯にわたってとらわれてしまう人もいるだろうし、そういう人はそこに固定されてしまうのだろうが、別に一箇所に固定されてしまうだけではその良し悪しを判断することはできないだろうし、やはりその物事の中身がどんなものなのかがその人にとっては重要となってくるわけだが、そこに固定されてそれに魅了されてしまうことが、何を意味してどんな作用や影響を受けるとしても、そうなってしまう人が多かろうと少なかろうと、そうなってしまう人が普通に暮らしている限りで、その人を含んだ環境が安定して存在することを意味していて、そういう環境が安定して保たれている限りで、そういう部分では世の中の平静が保たれていることになるのだろうが、現状がそれだけでは済まないことになっているとすれば、そこから世の中に変動や激動をもたらす可能性も生じているはずだが、不安定な面がないと世の中は変わらないだろうし、そういった不安定が人為的にもたらされているというよりは、安定と不安定の両方を求めているのを自覚できないし、それが矛盾した欲望でもあるのだろうが、実際に両面がもたらされているから、それを自ら求めているような気になってしまうのかも知れず、それを錯覚だと見なすのも少し違っているのかも知れない。


12月11日「実現すべき状態」

 現状ではあり得ないことを語っているとしたら、それはフィクションになるしかないだろうが、実際に未だかつておこなわれていないことをやろうとしているのであれば、それも実現するのが困難に思われるだろうし、それでもそれが実現できることだと主張しているのであれば、実際にそれがおこなわれるまでは仮説の域を出ない話になるだろうが、可能性としては実現可能なことを語っているとしても、まだ実現していないわけだから半信半疑にならざるを得ないだろうし、過去におこなわれていたことを再度おこなうのよりも、これまでにない新しいことをおこなうのは、それだけ実現できる可能性が低いように思われるし、しかもこれまでの慣例から外れるようなことであれば、なおさら無理に思われるだろうが、それを実現しようとする発想が違和感をもたらすのかも知れないし、これまでの常識を覆すようなことをおこないたいということが、常識にとらわれた思考の持ち主には受け入れがたいことになり、それが話を信用させる上で障害となるだろうが、そんなことは承知の上でそういうことを語っている可能性もあるだろうし、あえてそんなことを語るのには隠された意図があると勘ぐってしまいたくなる人もいるかも知れないが、そう思うのも無理はないとしても、端からそれを否定するのではなく、戦略的な見地からそれを何かに利用できないか検討してみるのも、一考の余地がありそうで、誰も本気で取り合わないようなことをやろうとしているわけでもないのだろうが、たぶんフィクションの領域ではありそうなことを語っていて、しかもそれがフィクションではなくなる可能性に賭けているわけでもなく、実現できると本気で思っているところが頼もしくも見えてしまい、誰がそう見ているのかといえば、そんな人物を想像しているわけではなく、実際に誰かの目の前に実在する人物が立って訴えかけているわけで、伊達や酔狂でそんなことをやっているわけではなく、物事の真正面から取り組んでいるつもりなのだろうが、そういった姿勢が一定の支持を得られているのも確かであり、そういうところで状況が大変なことになっているような雰囲気を醸し出していて、もしかしたらそんなやり方では現実から逃げていることになるのではないかと疑念も少し感じられるものの、では他に現実とどう向き合えばいいのか方法があるかといえば、現状で実際におこなわれていることの範囲内で活動すればいいとしても、そもそもそういう活動が行き詰まっているのなら、現状ではあり得ないことを夢想するだけではらちがあかないのは当然としても、あり得ないことを実現させようとしているのではなく、それが実現可能なことだと訴えかけているのであり、どうやれば実現できるのかそのやり方を説いて回る必要があるから、そういう行為が政治活動に結びつき、何かしらそういった方面で活動がおこなわれることになり、それに関してはそういう成り行きが制度として確立されていて、そういった制度を活用することになるのだろうが、それはそれとしてそういう活動をおこなわせておけばいいということではなく、誰がそれをおこなわせているわけでもなく、特定の誰かが自発的におこなっている活動であり、そういう活動なら実現可能であり、実際に政治活動が実現していて、その上に政治活動を通して実現させようとしていることがあって、そのために政治活動をおこなっているわけだが、それを実現するには政治活動をおこなわなければならないところが、何もないところから直接には実現できないことを示していて、それも政治活動を通して実現されることであり、そういう制度的な実現というのは直接には実現できないことであり、それ相応の制度をこしらえ上げた上でしか実現できないところが、それが決まり事や約束事であることがうかがわれて、ある一定の取り決めを結ぶような交渉や取引によって決定されることになり、それに関して関係者の間で合意を形成したいわけで、それがこれまでの取り決めが不当で人道に反することだから反故にして、新たな公正でより人道的な取り決めにしたいということであれば、これまでの取り決めでは不利な立場で苦境を強いられてきた人たちを救いたいという思いがあるのだろうが、そういった制度的な欠陥や不具合を告発する行為が政治活動にはつきものだとしても、新たな取り決めを結ぶための前提として他の取り決めも変更しなければならなくなり、他の取り決めを変更しようとすると、それに絡んでまた別の取り決めとの間の整合性も問題となってきて、そういうところが実現の困難さをもたらしているのだろうが、制度の仕組みとしてはある一つの箇所を変更するとそれとは別の箇所で歪みが出てきて、その箇所も変更すればまた別の箇所でも歪みが出てくるようなことになるわけで、結局そうやって制度の方々で歪み出てくると収拾がつかなくなってくるわけで、そうであれば制度全体を一から設計して構築し直すような成り行きにもなってくるのだろうが、それをやるとなると大変な労力と費用を要するから、躊躇してしまうことにもなるのかも知れないが、ただでさえ無理に無理を重ねながら制度を維持運営しているわけだから、すでに公正さを保てない面も制度の方々で出ていて、それに関してあちこちから批判や非難の声も上がっている現状があるなら、何かしら制度の犠牲になってしまう人も一定数は出ている現状もあって、そういった個々の案件に制度を管理運営する側がいちいち対応できていないだろうし、そんな状態を制度疲労と呼ぶわけだろうが、そんな傍観者的な見方ではらちがあかないわけで、実際に制度のおかげで不利な立場や苦境を強いられている人たちを救うために政治活動をおこなうしかなく、そういう切実な動機と共に活動に身を投じている人たちがいるわけだが、そんな活動自体も欠陥や不具合だらけの制度に則った活動であり、その有効性が疑問視されている中で活動しているわけで、客観的に見れば焼け石に水的なことをやっているようにも見えるのだが、それに関してあえて世の中に広まっている通念とは異なることを述べるとすれば、公的な制度はそれを管理運営する政府の官僚機構や政権与党よりも、それを利用している民衆の側に主導権があり、民衆の側が制度をまともに利用する気さえあれば、民衆の良識が通用するような内容に作り変えられる可能性があるのかも知れないが、それが現状ではあり得ないフィクションのように思われてしまうわけだ。


12月10日「功利的な主張」

 その場の状況に合わせて都合の良いことを主張しているように感じられると、そういう主張は信用できないような気がしてしまうだろうが、その場の状況に合わせたことをやっているように感じられると、そうするより他にはあり得ないことであれば、それは仕方がないことのようにも思われて、そういう意味ではその場の状況に合わせた主張というのも、そう主張するより他はあり得ないような仕方のないことかも知れず、たとえ主張の前後で一貫性がなくても、状況の変化に合わせて主張を変えている可能性があり、そういう面は承知しておかなければならないのかも知れないが、では状況の変化にもかかわらず、主張の一貫性を保とうとすればどうなるのかというと、状況の変化に対応できない時代遅れの主張のように感じられてしまえば、そんなことを主張する人の立場もなくなってしまうのかも知れないが、状況の変化にとらわれない普遍的なことを主張していれば、そういう普遍的な傾向を好む人たちからはある程度の支持や賛同が集まるかも知れないが、そういう主張には状況に応じた効果が得られず、それが理性的で人道的な主張となるにしても、直接的な利益に結びつかなければ即物的な効果を期待する人たちからは敬遠されてしまうだろうが、それに応じるには功利的な主張となり、その場の状況や主張者の都合に流されやすく、結果的に首尾一貫性を欠いた主張となりやすいだろうが、そういう主張に支持や賛同が集まれば、それなりに実効性が生じてきて、そういった支持や賛同を利用して主張者が実効的な力を持つに至るわけで、それが実利に結びつくような主張となるのだろうが、そういった功利的な主張を単純化すれば、利益の見返りに言うことを聞くような主張になるだろうし、利益になることをやるのが功利的な主張となり、利益と見返りにおこなう行為を交換することを約束して、実際におこなったことが効果が上がるとその見返りに利益が得られることを主張するわけだが、本当に利益が得られるかというと、実際にそれをやってみないことには明らかにならないだろうが、それが利益になると約束するわけだから、それを信じられる人がそういった主張の支持者になり、そういう支持者が大勢集まれば、主張者に資金を提供して主張者がやりたいことをやらせようとする成り行きになり、やらせた見返りとして支持者に利益がもたらされれば、そういった主張者にはさらなる支持が集まり、それに伴って主張者の権勢や権力もさらに強まるのだろうが、より多くの信者を集められれば主張者により多くの利益と権力がもたらされるという仕組みとなり、実際にそうなれば信者にもたらされる利益よりも、主張者にもたらされる利益の方が桁違いに大きくなるだろうし、信者がそういうからくりを理解していても、それを上回って余りあるような幻想を主張者がやっていることに抱ける限りで成り立つ商売となるだろうが、それを商売と見なしてしまうと抵抗感を覚えるかも知れないが、そこで判断材料となるのが主張者の人間性や性格や人格や品格などがどうこうというよりは、主張者が中心となっておこなわれていることに魅力を感じるわけで、それに関しては特定の政治家や企業経営者などに根強い支持が集まる場合にそういうことがいえるだろうし、その手の人たちは夢を売ると共に利益をもたらすような幻想を振りまいているから、そういう人を応援したい人たちが夢と利益を求めて群がってくるのだろうが、それが具体性の乏しい漠然とした期待であったりすると、それだけ思慮に欠ける浅はかな人たちが応援していることになるが、何かしら行為に具体的な事業などの実態が伴っていると、それだけ過大に評価される傾向になり、そうした過大評価からも利益を得られて実力以上のことができるようになる成り行きがあるだろうし、夢が現実になるとはそういうことを言うのかも知れないが、その実現される規模が大きければ大きいほど、そこに資金や資源が集中して、様々な物事が惜しみなく消費されることになるのだろうが、結局のところそこからどんな見返りがもたらされるのかといえば、意外と夢に賭けて応援したり資金を提供した人たちが犠牲となって、結構それとは無関係の人たちに利益がもたらされるようなことになるかも知れないし、そうなればそれらの人たちとしては当てが外れているはずだが、他の無関係な人たちには思わぬ利益がもたらされて、中には利益がもたらされていることすら自覚できない人もいるかも知れないが、結果的にはそれで良かったことになるかも知れないし、そういうことは夢に賭ける人たちには見通せないのかも知れず、見通せないから夢の犠牲になってしまうわけだろうが、結果的にはそれでもかまわないような成り行きになってしまえば、犠牲となった人たちの存在もそれなりに世の中の役に立ったことになり、そうなってしまうからといって、誰もが期待を寄せるような夢を語って多くの人たちを誘惑した人物に悪気はないだろうし、まず第一にそういった人物が一番の夢の犠牲者でありかつ利益の享受者となるのは当然だとしても、そうなるのがその人物になるとは限らず、夢の犠牲者となるのが無名で無数の先駆者たちになる一方で、その夢を引き継いだり盗み取ったり横取りした者が、最終的に利益の享受者となる場合の方が多いのかも知れず、そういう集大成をおこなった者として富と栄光を独り占めにするような成り行きがあるとすれば、そういった類いで歴史上の偉人と称されるような人物には用意周到で腹黒い戦略を持ち合わせている可能性さえあるわけで、そういう意味でも功利的な主張をする人物には用心しないとならないのだろうが、功利的な利益誘導だけでは良心的な人たちは騙せないだろうし、そこに普遍的な価値観を忍ばせている場合も結構よくありがちな傾向なのかも知れず、理性的かつ人道的な価値観と共に功利的な主張をすれば、それによって好印象を得られる可能性が出てくるのではないか。


12月9日「決起の呼びかけ」

 納得のいく説明というのは話の辻褄が合っているから納得できるとしても、納得させようとして話の辻褄が合うように説明するわけだから、説明の水準では納得できるかも知れないが、説明の内容を信じられるかというと、信じてもかまわないとは思うかも知れないが、それだけでは済まなくなると話が違ってくるわけで、何かをやるように呼びかける話になると、納得がいくような説明であっても、それだけではやる気にはならないかも知れないし、特に話がうますぎると騙されているのではないかと警戒されてしまうだろうし、例えばそこに組織的な上下関係があれば、立場や地位が上位の者が権力を行使して、下位の者に何かをやらせる成り行きがあるとしても、そういう集団的な拘束条件がなく、見ず知らずの他人同士でしかも対等の関係であるなら、話を聞いて納得しただけでは動いてくれない場合が多いのかも知れないし、説明をする側が話を聞いてくれる人たちに向かって、これまでとは違うことをやって欲しいと頼むようなことになると、他に条件や事情なければ、頼みが聞き入れられる可能性があるかどうかは何とも言えないだろうが、説明以外で何かしらその場の状況に応じた条件や事情があって、それらに適合するように行動を促すようなことであれば、話を聞き入れて行動してくれる可能性が高まり、説明する側も何の意図や思惑もなく人々に向かって行動を促しているわけでもなく、その場の状況がそうした意図や思惑をもたらして、それをもたらす条件や事情がその場に生じていて、説明をする側がそれに応じたことを呼びかければ、人々が動いてくれるのではないかという期待も高まるのかも知れないが、そうなる条件や事情というのが、その場に特有な条件や事情であり、一概にはこうだと言えないようなその場限りのことになるのかも知れず、そこに及ぼされている様々な作用や影響が複雑に入り組んでいる中で、数々の偶然が重ならないと事件が起こらないようなことかも知れないし、そうなるともならないともいえるような成り行きの中で、たまたま何かのきっかけでそんなことにでもなれば、そうなるきっかけの一つとして、結果的に人々に行動を促すような呼びかけもあったことになるだろうし、唐突に要請したからといって必ずそうなるわけでもないが、そうした要請がなされること自体も、その場の状況に応じてそんな要請が出てくる可能性がある中で、実際にそういった行動を促す呼びかけがおこなわれるに至るのだろうが、それがそのまま行動に結びつくとは限らず、他にも様々な条件や事情が重ならないと行動には結びつかず、往々にしてそういった呼びかけが不発に終わる場合も多いのかも知れないし、その方が世の中が平穏無事に保たれて多くの人にとっては都合が良かったりするものの、そうしたことが起こらないと事態の進展がなく、その場が停滞したままとなって、行き詰まり状況が延々と続いていってしまえば、重苦しさや息苦しさが社会に蔓延して、そうした雰囲気から影響を受けて、様々な否定的な現象や事件が度重なるようになって、ますます世の中がじり貧に陥ってしまうのかも知れないが、そうなったらなったでそんな状況に応じて、そんな状況をもっともらしく説明する言説も生じてくるだろうし、そんな世の中を変えるにはこれまでとは違うことをやらなければならないと誰かが訴えかけるのだろうが、そんな訴えかけのほとんどが空振りに終わるような状況というのもあるかも知れず、いくらでも訴えかけることができるような状況になっているのに、しかも警察権力による治安の維持を名目とした取り締まりの対象にもなっていなければ、訴えかけ自体が無効であることが明らかになっている可能性もあるだろうし、完全に無効というわけでもなければ、ある程度は有効に作用するにしても、それによって統治体制が脅かされるまでには至らなければ、許容される範囲内でそういった訴えかけがおこなわれていることになり、それがどの程度まで許容されるかは、法律などで規定されている範囲内であればいいということになるだろうが、その程度で呼びかけや働きかけがおこなわれているうちは本当の危機ではないのかも知れず、あるいは本当の危機というのもその程度で済んでしまうようなことかも知れないが、実際にそんなことがおこなわれているのであれば、世の中にそういった呼びかけの中で指摘されているような問題や弊害があることは確かだとしても、それをなくしたり改善しなければならないと訴えかけられていること自体が、容易にはなくすことも改善することもできないような成り行きとなっていることも示していて、だからそうした訴えかけがおこなわれるのだろうが、その一方で問題や弊害と共に世の中が成り立っている面もあって、その程度や傾向や内容によっては、社会が現状のままに保たれるには欠かすことのできない問題や弊害である可能性もあり、現状のままでは困るからそれを改革しようと訴えかけるのだろうが、現状がある限りでそんな現状に依存して成り立っている物事もいくらでもあって、そんな物事にかかわっている人や団体からすれば、余計なことをしてくれるなということになるだろうが、さらにいえば、そうした問題や弊害を指摘する訴えかけと共に現状の世の中が成り立っている可能性さえあり、そうした訴えかけをおこなう改革勢力と問題や弊害と共に存在する保守勢力との間で力の均衡がとられている限りで現状が維持されるようなことになっていれば、現状が変わることになれば力の均衡が崩れたことになるだろうし、今後何かのきっかけから均衡が崩れて世の中が変わることも充分にあり得るわけだが、そうなったとしてもすでに現状の中で存在している勢力のせめぎ合いでしかないのだから、そう何もかもが変わるわけでもなく、また問題や弊害が改善されたりなくなったりするわけでもなければ、では何が起こるのかといえば、攻守が入れ替わってこれまで批判していた側が批判される側になるだけかも知れないが、現状が現状のままに保たれるには、時にはそんな攻守の入れ替えも必要となってくるのかも知れず、それがどんな現状なのかといえば、絶えず状況が変化し続ける状態を現状だと認識するしかないのではないか。


12月8日「根源的な欲望」

 以前と同じことをやった結果が以前と何も変わらないとは限らないが、誰もが執拗に同じようことをやる成り行きにとらわれていれば、何かそれを強いるような事情がそこにはありそうで、それに関して世の中の慣習にとらわれた人の思考と動作が以前と同じ結果をもたらそうとして、以前と同じようなやり方で同じようなことを仕掛けてくる成り行きが考えられるが、そういうことをやるにも程度や限度もあるだろうし、大したことではなければ普通に続いていてもおかしくはないし、続いていることに関して他のどこから文句が出ることもなければ、どうということでもないのだろうが、慣習に従ってそれをやればどんな結果を得られるかが、あらかじめわかっていれば、それを得るためにやらなければならないことも自ずから決まってきて、その通りのことをやってその通りの結果を得るためにその通りのことをやろうとするわけで、そうすることによって思い通りの結果がもたらされるには、それにかかわってくる他の人や団体も慣習に則った動作をしなければならないだろうが、なぜそんなことをやるのかといえば、そうすることによって何らかの利益を得られること以外にも、それなりにもっともらしい理由があるかも知れないし、その理由も慣習を存続することから得られる理由となれば、それが慣習にとらわれた行為を正当化する理由となるにしても、理由など知らなくても、ここはこうするものだと型どおりのことをやるように教え込まれていれば、わざわざそれに逆らう理由もないだろうが、周りの人たちが同じようなことをやっているのに、自分だけがそれとは違うことをやるには相当の勇気が要るだろうし、どうしても逆らわざるを得ないような切実な理由や事情がないと逆らえないだろうが、そんな理由や事情がない限りは、誰もが以前と同じようなことをやる成り行きに従ってしまうはずだが、そうすることが自然の成り行きに沿っているように思われるのであれば、そこではそれ以外のことをやる理由も事情も生じてこないはずだが、そういう成り行きを維持するために無理なことをやる必要も生じてくれば、それが不自然な動作となって、場合によってはそれを隠蔽するようなこともやらざるを得なくなって、そこから慣習的な動作にもそれだけでは成り立たない微妙な裏事情があることがわかってくるのかも知れないが、たとえそれが自然な動作に見えても同じことを延々と繰り返すには、それなりに無理な力が必要となってくるのかも知れず、そういう動作が大がかりになればなるほど、そういう面が隠しきれなくなってくるのかも知れないが、中には取り立てて隠す必要のない慣習的な動作もあるだろうし、そうなるとそれをことさら暴き立てる必要もなく、大っぴらにそれがおこなわれてしまうわけだが、実際にそういうことをやる人たちは、何も隠し立てすることなく大っぴらにそういうことがやりたいのだろうが、それができない事情があれば隠れてそういうことをやらざるを得ないわけだが、何を大っぴらにやりたいかは、人それぞれで立場や境遇も異なる面では違ってくるはずだが、誰もがそれを大っぴらにやりたいとなると、立場や境遇の違いを超えてやりたいことになるのだろうが、それが何だかわからないということでもなく、それ以前に果たしてそれが慣習にとらわれた行為なのかというと、そうは思われないのかも知れないし、何か慣習以前に人の根源的な欲望に従った行為のように思われるなら、そこで慣習など問題とはならないはずだが、それが慣習に則った行為なら、そうすることが自然に思われて、そういう面では否定されるような行為ではなくなり、慣習の後ろ盾を得ておこなわれるようなら、そんな慣習にとらわれている他の人たちもそうした行為は否定できないだろうし、そうなればそれをやるについての正当化できる理由として、それをやるに伴って依存している慣習に則っていることが挙げられるわけで、それが慣習に従うことによって得られる効果となるのだろうが、そういう意味で慣習と人の根源的な欲望とが結びついているように思われるかも知れないが、それを大っぴらにやる上で障害となる物事があるとすれば、慣習を共有する人たちだけに利益がもたらされるようなことであり、それを共有しない人たちがそこから利益を得ようとすれば、それは利益を盗むことにつながり、慣習を共有する人たちから激しい拒絶反応に遭うかも知れず、そういう人たちからすれば、自分たちが守っている慣習を共有する者にだけ利益がもたらされるようにしたいわけで、慣習を守らない人が勝手に利益にありついてしまえば、慣習を守るために継続的に費やされている労力が無意味になってしまうだろうし、あくまでも慣習を守ることの見返りとして利益がもたらされるような成り行きになっていないと、執拗に慣習を守っている意味がないことになってしまい、そういう面で慣習を守ることの不都合が生じてくるのだろうが、そこから慣習にとらわれることへの嫌悪感も生じてくるだろうし、面倒な慣習に縛られなくても普通に生きていける世の中にしたいと思うのとは裏腹に、慣習を守ることによって利益を得ている人にとっては、それが危険思想のようにも思われてくるのかも知れないが、そこから表裏が生じてきて、表向きには慣習にとらわれない自由な世の中を夢想していても、その裏では何らかの慣習を守って利益を得ている実態もあり、それが無自覚におこなわれているようなことにでもなれば、ややこしい事態となっている可能性もあり、保守的な政治勢力を支持している人などにはよく見受けられるのだろうが、実際に大臣などが贈収賄に絡んでいたのが次々に明らかになっても、そういうことをやってきた政権や政権与党への支持は変わらなかったり、そういうことが常習的におこなわれてしまう切実な理由や成り行きも承知していても、それが一向に改まらなくてもそういうことをやっている人たちへの支持は変わらないだろうし、それでかまわないわけがないのだろうが、そうなってしまう成り行きを結果的に受け入れていることになるわけだ。


12月7日「理解の程度」

 何かしら世間の風潮やメディアで話題となっていることに関心を持っていれば、それなりに世の中の大雑把な傾向や自身を取り巻く物事の経緯や成り行きを把握しているつもりにはなれるだろうが、ただ何となく日々を過ごしているだけでも、世の中の動向を意識してしまうのは、自然の成り行きでそうなってしまうとしても、そうなって当たり前のようなことをいくら考えても、そこから何を理解したいのかよくわからないかも知れないが、何かを理解しようとして理解したつもりになっていることがあっても、それが自身が生きていく上で役に立つと意識しているわけではなくても、実際に何かの役に立っているとしても、無駄にそんなことを考えているだけかも知れないし、それをきっかけにして何かあり得ないことを思いつけば、別にそれを実行に移すわけではなくても、それをやればどうなるかを想像して、実際にやるに至らなくても、頭の中でそれをやっている自身の姿を思い描いてしまうだろうし、それもそんな程度に留まっていれば、それがどうしたわけでもなく、そんなことばかり年がら年中妄想しているわけでもなく、暇な時に気晴らしにそんなことを思う時もある程度だろうが、そんなことの延長上で世の中を理解しているつもりなったところで、それはその人の頭の中で考えていることに過ぎないだろうし、誰もが考えていることが同じような内容になってしまうわけでもないだろうが、世間の風潮からもたらされるのが、誰もが思ったり考えたりすることのように思われたり、ただ漠然と誰もが同じようなことを思ったり考えていることが、世間の風潮からもたらされることだとすれば、多くの人の意識が世間の風潮と一体化しているような状態になっていて、それに伴って同じようなことを思ったり考えたりする同じような人たちが、世間として世の中に構成されていることになるのかも知れないが、それが各人の意識にどんな影響を及ぼしていようと、個人のレベルではどうということはなくても、一定の傾向となって世間を構成していて、そこで多くの人が何らかの固定観念を共有しているような状態をもたらしているとすれば、各人の意識がそうした固定観念で全て覆われているわけではなくても、部分的には共有してつながっていて、それが容易には切り離せない結びつきを示していれば、組織とは違う世間という集団を構成しているように感じられるのかも知れないが、それを集団と捉えるのも間違っているのかも知れず、あくまでも架空の集団に留まり、それを想像できるだけで、実際には集団としてのまとまりもなく、実態のない集団といってしまうと虚構にしかならないのだが、そんな世間の意向に同調してしまう人はいくらでもいるだろうし、それがその人にとっては何でもないようなことであっても、何らかの意向が作用しているように思われてしまうのだが、そういった意向が伝わる空気を恣意的に作り出そうとしているわけではなくても、自然とそれに従ってしまう成り行きがあって、それが自然の成り行きに思われてしまうこと自体がおかしいのかも知れないが、中にはそうした成り行きに逆らっているように見えてしまう人もいて、従ったり逆らったりしているように見えてしまうこと自体が、世間の存在を意識させてしまうわけで、それを意識している限りでそこから有形無形の作用や影響を及ぼされているように感じられて、そうやって意識が世間の術中にはまってしまうのだろうが、その一方で何でもないと思っていれば何でもないことでもあり、何でもなければ何でもないと思うこともないだろうが、誰もが世間知らずのように振る舞えるかというと、世間知らずではまずいと思えば世間を知ろうとして、そんな世間を恐れて従ったり、反発して逆らったりしてしまうと、世間を意識していることになってしまうわけだが、そうかといって何をやるにも世間を意識しているわけでもないだろうし、逆らう勇気が要るようなことをやろうとする時に世間を意識するわけで、そうなると世間の意向に逆らうようなことをやろうとしていることになるのだろうが、それを意識していなくても自然と逆らってしまう成り行きになってしまうと、世間知らずなことをやってしまうわけだが、逆に世間の意向に従いながら生きているように見えてしまうと、どこにでもいるような単なる保守的な小物の小市民のようにも見えてしまって、そう見られてしまうと自尊心が傷ついてしまうだろうし、それも実際に他人からそう見られているというよりは、そう見られているように意識してしまうということであり、そんなことを想像してしまうわけで、そういうところでも実態の定かでない世間という集団意識の存在を想像して、自分が世間から軽く見られているような妄想を抱いてしまうわけだろうが、それも世間の術中にはまっていることになり、そこから逃れる術を知らないと、そんな妄想ばかりが膨らんでしまい、そんな人が多ければ多いほど世間への同調圧力もそれだけ強まるのかも知れないが、それも実態としては何でもないことの範疇に入ってしまうようなことでしかなければ、では世間とは何なのかというと、そんなことは意識してもしなくても、そんな範疇で世の中に働いている集団意識の類いなのかも知れず、何かこれといって恣意的に働きかけられるようなものでもないのだろうが、受動的にそこへと意識が浸透していると、そこから作用や影響を及ぼされて、そこに構成されている集団的な意向に従うか逆らうかの選択を迫られているように思ってしまうのだろうが、それを意識したり自覚できなければ、無視して行動してしまうわけで、そうなると世間知らずな行為や行動に及んでいるように思われてしまうのだろうが、誰が思っているのかといえば、他人がそう思っているのではないかと自身が思ってしまうわけで、それが単なる思い過ごしに過ぎなければどうということはないのだが、中には何らかの反応も返ってきて、それが自らの行為や行動を抑え込もうとしているように感じられると、何かそれが世間から及ぼされた圧力だと思われるわけだが、そこに直接の利害関係が絡んでいれば、特定の人や勢力との敵対関係があると想定できるのだろうが、それがあるとも思えなければ、何か得体の知れない何かから圧力を及ぼされているような気がしてしまうわけだ。


12月6日「失敗の継続」

 どうやってもうまくいかないことをやっているような気がするが、やめるわけにはいかない事情があれば、うまくいかないながらも続けていくしかないようにも思われて、それに依存しながら生きていくしかなければ、何かしらそこに肯定的な意味や意義を付け加えたくなるだろうが、そんなことまでやらなくてもかまわないように思われるなら、幻想など抱くまでもなく、うまくいかないことをやっているに過ぎず、そこにはっきりした目的や目標などが見出されても、それだけでは済まないように思われるなら、現状でわかっていない部分があることも考慮しておかないと、無理矢理とってつけたような目的や目標に惑わされて、勘違いな思いも甚だしくなってしまうから、素直におかしなことをやっていることは認めておいた方がいいだろうし、実際に誰もがおかしなことをやっているのであり、それが現代文明の特徴でもあるのかも知れず、普通に狂気にとらわれているのであり、文明人というのは狂人である面を考慮しておかないと、うまく説明できないようなことをやっている意味や意義を理解できないだろうし、どうやってもうまく行くはずがないから、やっていることの大半が実際に失敗しているのであり、それを失敗とは言わずに試行錯誤だと認識しているのも、当たり前のようにそう思っていて、延々と失敗を積み重ねながら失敗し続けていること自体が、成功している証しであるわけでもなく、やっていることが行き詰まっているのに、さらにそこから性懲りもなく失敗し続けていて、そうなっていると思われてしまうことが、本当のところはよくわかっていないのに、わかっているところもあるからそれができるようにも思われてしまうわけで、実際に試行錯誤の一環として失敗することができて、それを継続させるには失敗するようなことをやらざるを得ないわけで、それを失敗と見なしてはまずいのかも知れないが、どう見ても失敗しているのであり、成功しているようには見えないから失敗しているように見えるのだろうが、どちらともいえない面もあるかも知れないし、とりあえず失敗していると見なしておけば、そこからまた試行錯誤を続けられるわけだが、ではそれとは違って成功するとどうなるかといえば、もはや試行錯誤をしなくてもいい状態になり、そこで行為が完了してしまい、他にやることがなくなってしまえば、何もできなくなって、そうなってしまうとまずいのかも知れず、そうならないようにするには失敗を続けることが必要なのかも知れないが、それを失敗と見なしては、やっていることが否定されてしまうから、失敗ではなく試行錯誤の途中と見なしておく必要があるのだろうが、少なくとも成功しているわけではないだろうし、成功するために試行錯誤を続けているという目的が成り立つにしても、ではいつになったら成功するのか皆目見当がつかなければ、ただ失敗を継続しているに過ぎないともいえてしまい、成功する見込みがなければ試行錯誤自体が失敗には違いないが、それでも継続することには成功しているわけで、試行錯誤を続けることにも成功していることになり、そういう面では成功していて、それとは違う成功があるのかといえば、試行錯誤を続けている限りはそれ以外の成功はあり得ないのかも知れないが、試行錯誤をやめた時点で、結果として成功したか否かがわかるのかも知れず、それをやめるまでは成功したかどうかの判断が保留されているわけで、それは試行錯誤を続ける限りはわかりようのないことでもあり、結果として成功したか失敗したかの判断を保留するために、試行錯誤を続けているわけではないとしても、試行錯誤すること自体が目的化すれば、それでもかまわないような成り行きになってしまい、いつまでも試行錯誤をやり続けられるなら、それに成功していると見なしてもかまわないような状況となるわけで、そこで目的や目標が変容してしまうわけだが、そこで生じているのが行為の分節化ともいえるのかも知れず、試行錯誤自体がそれをやることに特化されて、それだけをやっていればいいことになってしまい、その結果がどうなろうと、それをやっていること自体が一つの行為として独立して、それだけを専門にやるような役割分担が生じてしまうのかも知れないが、それが何の役に立つのかはわからないが、延々とそれをやり続けられるような成り行きになれば、それをやり続けている限りでそれでかまわないようなことになってしまうのだろうが、それ以外に何ができるのかといえば、何もできなくなってしまえば、そういうことをやっているだけの状態となって、そんな役割分担の中で自足してしまうわけだが、それがそこでの成功と引き換えにして他での成功を断念することにつながって、それでかまわないのかというと、そんなことまではわからないのであり、そこで何かの継続が成り立っているに過ぎなければ、他で何があろうとなかろうと、そんなことまで考慮に入れる必要がなければそれで済んでしまうようなことでしかなく、それ以上に何がどうなっているわけでもなく、そこで何に失敗しているのかといえば、そこから抜け出して他の何かをやることに失敗しているわけだが、そこで自足できているのだからそんなことまでやる必要はないのかも知れず、そこで役割分担されていることをこなしていれば済んでしまうようなことでしかないのかも知れないが、そうなっている限りでその場の状況にとらわれてしまっていて、他のことにまで気を使えなくなってしまうのだろうが、そういう立場や境遇になってみないとわからないこともある一方で、そんなことがわかったからといって、他でそこでわかったことが知識や経験として活かせるかというと、他のことまでやるに至らなければ、そんなことまで考慮に入れる必要はなく、行為がそこで完了して終わってしまい、そこで終わってしまって良いのか悪いのかもわからず、そういう面ではわからずじまいになってしまうだろうが、そんなところで試行錯誤にとらわれたままになってしまってもかまわないかどうかも含めて、何かそれとは別のことをやる機会が不意に訪れた時が、その人の力量が試される時かも知れず、それを自覚していなくても、誰もがそうなる機会が自身にやってくるのを密かに期待しているのかも知れないし、そうなった時のために現状で試行錯誤がおこなわれているのではないか。


12月5日「求めているもの」

 他人が何を求めているかはある程度は予想がつくかも知れないが、自身が何を求めているかが自分ではよくわからないところがあるのかも知れず、そこから類推して他人が求めている物事を予想しても、本当のところはよくわからないのかも知れず、本当に求めているものなどわかりようがなく、求めているものをその人がはっきりと表明したところで、嘘をついているのではないかと疑い出すときりがなく、当人が嘘をついている自覚がなければ、さらにわけがわからなくなってくるだろうし、その人を取り巻く社会的な利害関係がわかれば、その人にとって利益になるものを求めていると推測できるが、それを求めることが本当にその人の利益になったかどうかは、結果からしか判断できないだろうし、実際に利益を求めた結果として利益になるものが得られたのに、そこから慢心が生じて結果的に破滅する羽目になれば、求めているものが得られたからといって、その時点では良かったはずだが、それがその先の破滅を招いてしまえば、そこで利害が逆転してしまったことになるわけだが、何かを求めて活動している途中で気が変わって、ある時点から別の何かを求めるようになれば、求めている物事が時間の経過や場所の移動や成り行きの変遷と共に移り変わることにもなるわけだが、求めているものが求まるとは限らないし、求めているわけでもないものが求まってしまうこともしょっちゅうあることだろうし、それが求めていたものになってしまう場合もあるのかも知れず、結果が良ければそれでもいいことになってしまい、結果が悪ければ当初はそれが求めていたものであっても、求めていたわけではなかったことになってしまい、結果次第で求めていたか否かが変わってくるようなら、その場の情勢に応じて気が変わったことになるだろうが、結果的に何を求めていたことにしておいても、得られたものが自身にどんな作用や影響を及ぼすかで気が変わってきて、結果的に良い感触を得られた時点でそれを求めていたように思われてしまうなら、その時点で何を求めていようと何を得られたつもりになっても、そんなことは当てにならなくなってしまうのだろうが、全てが結果的にわかったような気になってしまっても、そんな気がするだけだろうし、それもその場の気分次第で当てにならないことかも知れず、何かもっと確実に実感が湧いてくるような物事を求めたいなら、計量ができたり計算が成り立つようなものを求めればいいということになり、具体的に量の多少や質の優劣や価格や金額の高低のついたものを求めても、それもその時点での量や質や価格や金額になり、それらも情勢の変化に応じて基準が変動するだろうし、何事も何ものも変動しないものなどないわけだが、その時点で求めているものが欲しいことには変わりなく、欲しいものを求めていることにしておけばいいとしても、何かによってそれが欲しいと思わされたり、求めるように仕向けられていれば、それが当人の意志や意向でそう思っているとしても、そう思わされたり仕向けられてしまう成り行きになってしまうわけだから、本当に欲しかったり求めているわけではない可能性もあるだろうが、本当か嘘かもどちらでもかまわないのかも知れず、どちらであっても欲しいものを求めていることにしておけば、その場ではそんな欲望に従って行動することになり、そうなっている限りでその人が生きがいを感じていることにもなるだろうし、多くの人が生きがいを感じられる世の中になっていれば、そう思わせてそう仕向けている何かの思い通りになっているのかも知れないが、中にはそんなものには騙されるなと警鐘を鳴らしたい人もいるだろうし、欲しいものを求めているだけでは生きていることにはならないと主張するなら、では他に何が必要なのかというと、それが人によってもその場の状況や立場や境遇によっても異なってくるなら、一概には言えないようなことになってしまうわけだが、必要とは思われない物事も思いがけずもたらされたり失われたりするようなら、だいぶ現実の世界に近づいていることを実感できるかも知れず、また大抵の時には生きがいを感じられても感じられなくてもかまわなかったりするものの、時には生きがいを強烈に求めていたりもして、時と場合によって気分次第でどうなってしまうにしても、そこから一定の心理状態になりたい時もなりたくない時もあるだろうし、良い気分の状態はなるべく長持ちさせたいが、いやな気分でいる状態はさっさと過ぎ去って欲しいと思うものの、自分の力ではどうにもならない時もあるだろうし、その場の巡り合わせが悪いとひどい状態が延々と続いて気が滅入ってしまうが、それも気のせいでそう思っているだけかも知れないし、具体的にそんな気にさせるようなことが身近に起こっていれば、嫌でも直面している事態に対処しなければならなくなり、対処しているうちに情勢が変わってきて、結果的に何とかなれば一安心するわけだが、安心したのもつかの間、そこからさらなる苦難が待ち受けていれば、引き続きさらなる対処が求められて、そんな運命に翻弄されるのがその人の活動そのものになってしまうだろうが、求めていたわけでもない対処を求められてしまうわけだから、しかも求められているものを拒絶できなくなってしまえば、そこに自発的な行為が入り込む余地がなくなってしまい、強いられておこなうことしかできなくなってしまうわけだが、それでいいのかという判断もできないわけで、そうなれば自由な立場などあり得ないのだろうが、自由な立場というのも、何かによって自由な立場を強いられてしまうような成り行きになってしまえば、それが強いられた自由という逆説的な効果を発揮するのだろうし、自由がないのに自由を強いられてしまう状況というのが、死活問題としてもたらされているとすれば、そこでどう生きればいいのかということになるわけだが、要するに死んでしまえばそこで終わりなのに、終わりたくなければ自由な立場を利用して何かをやらなければならないわけで、しかも自由な立場では何もできないとなると、他との間で不自由なコネクションを築く必要が生じてきて、面倒なことを強いられてしまうわけだが、それを嫌うならいつでも自由な立場で餓死しようと野垂れ死にしようとその人の自由なわけで、それが新自由主義の真実なのかも知れない。


12月4日「自由の代償」

 自由を求めるのではなく作り出すことが、作り出された自由を消費することにもつながるわけだが、自由を作り出すには状況に働きかけて自由を阻害するような要因を取り除かなければならないわけで、そうする過程において自由とは真逆の規制や禁止などの法整備や制度の活用が求められて、結果的に自由を作り出して消費するために社会を管理したり統治するようなことがおこなわれてしまうわけだが、それは実際に経済活動の自由を作り出して消費するために、経済活動を制御するための規制や禁止事項を法律で規定したり、制度として活用する行為がおこなわれていることからも明らかで、中国のように経済活動の自由を作り出して消費する一方で、政治活動の自由を規制したり禁止するのはあからさまでわかりやすいが、経済活動の自由も政治活動の自由も共に作り出して消費するとなると、ややこしくてよくわからない混沌とした社会状況をもたらすのかも知れず、それが現状で実現している世界的な状況かも知れないが、中国のようなやり方がいいとは誰も思っていないだろうし、政府による国家統治を効率的かつ効果的におこなうために、政府に抗議したり刃向かったりする民衆の政治活動を規制したり禁止する傾向になるとしても、規制したり制限する対象としての民衆の活動がないと、政府の統治が成り立たないわけで、統治すること自体が自由な活動を規制したり制限を加えることなのだから、そこでおかしな循環が起こっていて、自由を作り出しておいてからその自由に制限を加えるようなことがおこなわれていて、そうやって作り出された自由を効率良く消費するために、適度に調整して制御するようなことが統治や管理の実態となるわけで、それを中国のようにあからさまにわかりやすくやってしまうと、それに対して世界の方々から抗議や非難の声が上がるのも当然だろうが、政府としてやりたいことはそういうことであり、自由を作り出す一方で規制や制限を加えるような矛盾したことを同時進行でおこなわなければならず、それが統治としては当然の成り行きである一方で、やっていることがおかしいと思うのも当然だろうし、そもそも自由を規制したり制限すること自体がその対象となる人々の自由を奪うことになり、しかもそれらの人々に自由があるからその自由を規制したり制限できるわけだから、まずはそれらの人々が自由に活動できる環境を法律や制度によって整備しないとならないわけで、そういうところが何か釈然としないわけだが、政府としては民衆を政府にとって都合の良い方向や傾向へと誘導したいのだろうし、政府が統治する国家が繁栄するように民衆が活動してもらいたいのだろうが、それが企業が繁栄するように従業員を働かせるのとはわけが違い、企業の経営陣が企業を管理統治するのと政府の官僚機構が国家を管理統治するのとでは、その難易度も手法や利用できる術にもかなりの違いがあるだろうが、そもそも民衆の全てが企業の従業員に当たる政府の公務員ではないし、企業の株主に当たる政府の株主でもないし、行政サービスの享受者だとしても、企業が扱う商品を買ってくれる顧客や消費者とは違うし、また政府が発行する国債を買う債権者でもないし、納税者だとしても、企業も法人として納税者であるだろうし、何から何まで少しずつずれが生じていて、政府と企業を比較するアナロジーでは似ている関係性があるとしても一致しない面も多々あるわけだが、人や企業の活動の自由を作り出して、その自由の消費を管理して調整しながら国家を統治するだけでは、統治がうまくいかなくなるのも当然かも知れないが、世界的に政府による国家統治の在り方がそういう傾向になっていることも確かだろうし、政府が資本主義経済に介入して、それを管理統治するようなことをやらざるを得ない成り行きになっているというと、では他の成り行きになる可能性があるのかといえば、それが昔ながらの戦争への軍事的な介入であったり、警察権力を利用した社会の治安への介入であったりするのだろうが、そうした政府の介入に対して民衆がどういう姿勢で臨まなければならないかというと、これといって決まり切った姿勢を定めるわけにも行かないだろうし、各々の置かれた状況に応じて姿勢にも違いが生じてくるだろうが、政府のやり方に反発して反抗するのも成り行きとしてはよくありがちなことであり、やむにやまれずそうなってしまう人々を警察や軍隊を使って力で抑え込もうとするのも世界的にはよくありがちな成り行きになるとしても、経済的にはどうなるかといえば、経済活動の結果として生じる貧富の格差に応じて姿勢にも違いが出てくるだろうし、何よりも理性よりも利害関心が絡んでくると、自身の経済活動に伴って生じる利害を優先させる傾向になってくるのだろうが、そこから錯覚や誤解や偏見などが生じるのかも知れず、それに関して果たして政府が国家や民衆を富ませることができるのか、というところが判然としないわけで、政府という存在は単なる交通整理をやっているだけではないかという疑念も生じてくるわけで、もちろん交通整理がうまくいかないと物事の流れが停滞してしまって、結果的に経済状態も停滞してしまう面もあるだろうが、それも一つの要因ではあるものの、それだけではなく、他の物事も絡んでくるだろうし、物事の全てが政府による管理統制を経る必要があるかというと、そんなことはないのもわかりきったことだろうが、その加減や調整の程度や傾向がよくわからないのかも知れず、それもその場の成り行きで政府がどこまで関与してくるかが決まってきて、中国などは共産党の一党独裁体制が機能しているように見えるから、全てを政府で一元的に管理統制する傾向になってしまうのだろうが、他の民主的な諸国が中国を見習うわけにも行かないものの、どうしてもその国の事情や状況に伴って政府の役割や在り方にも多少の違いが出てくるのだろうし、根本的には人が生きて存在する限りで世の中も成り立っているわけだから、民衆の自由な活動をどう実現するかが、政府も含めて社会の在り方として考えてゆかなければならないのかも知れないが、少なくともそれに対する明確な答えや望まれる方向性が明らかとなっているわけではないのも確かなところなのではないか。


12月3日「思いがけない食い違い」

 何か思いがけないところで不意に思いがけない出来事に遭遇するのは、稀にしか起こらないことだと思いたいが、何かの気休めや気晴らしとしてそう思いたいわけでもなく、それが思いがけないことのように思われるのが、肯定すべきことのようにも思われるわけだが、過去にもそんなことがあったのを思い出したからそう思われるわけでもないだろうし、またそれをきっかけにして日常のありふれた成り行きから脱出したいと思っているわけでもないだろうが、それが思いがけないことであるはずがないと思いたいわけでもないし、事前に思いがけない出来事に出くわして驚きたかったわけでもないだろうが、素直に驚くような出来事に出くわせば、それが思いがけない出来事なのだろうが、実際には驚かず、別にそれが驚くべきことだとも思われなければ思いがけない出来事ではないだろうし、驚かなくても思いがけない出来事になるかといえば、それが思いがけない出来事だとは気づかなければ、思いがけない出来事にはならないのかも知れないが、その人が気づかなくても他の人には思いがけない出来事だと思われるかも知れないし、それに関して屁理屈を並べ立てれば、他にもいくらでも例外的な思いがけない出来事を想定できそうだが、想定する必要などなく、屁理屈など並べ立てるまでもなく、何かこれまでに遭遇してきた思いがけない出来事とはまた違った思いがけない出来事に遭遇して驚いてしまうことがありそうだが、世の中で起こっていることを自らの主張に絡めてもっともらしく説明しようとすれば、そうすることがその人にとっては正しいことのように思われるとしても、それを説明しているわけだから、説明の内容と実際に起こった出来事とは重なるところが多々あるだろうが、時には説明と出来事との間に思いがけない食い違いが生じてしまうこともあるのかも知れず、他の人がそれを指摘していれば説明している当人がそれに気づかなくても確かに食い違っている面があるのだろうが、食い違っているどころか主張の正しさを示す事例としてその出来事が持ち出されていれば、食い違いなどあり得ないはずだが、出来事の一面を取り上げれば、それが主張の正しさを証明することになるとしても、それとは別の面を取り上げると、それとは別の主張の正しさを証明することになれば、どちらの主張の正しさもその出来事から説明できることになるとしても、それらの主張が互いに対立する主張となると、ではどちらの主張が正しいのかと問われるだろうが、対立するどちらの主張も正しければ、どちらの主張の正しさも示す事例となる出来事が相対立する両義的な面を持ち合わせていて、矛盾を孕んだ出来事である可能性があり、その出来事を利用して複数の対立する主張がもたらされるとしても、それらの主張のどちらが正しくてどちらが間違っているとしても、どちらの主張もそれと対立する主張の中では間違っていると批判できる場合もあり、そのどちらかの主張に与して、対立する主張が間違っていることをもっともらしく説明できれば、それはそういうことであり、それを主張している水準ではそういうことがいえるわけで、それとは別の、例えばその主張を実現しようとする水準では、どちらの主張にも問題点が浮かび上がってくるかも知れないし、複数の互いに対立するようなことをもっともらしく主張できるような状況なのだから、どの主張にももっともらしく納得できる言い分があり、しかもそれとは対立する主張の間違っている点を上げて批判できることにもなれば、どの主張を実現しようとする過程においても事前に批判されていたことが問題点となって、その実現を阻むような障害として立ち塞がってくるのだろうが、なぜそういうことが生じてしまうのかといえば、主張の目的自体が正しいことを主張して間違っていることを批判することになるからであり、そこに対立する複数の主張が共存できる環境がもたらされていれば、それらの主張の正しさを裏付けるもっともらしい事例が生じていて、しかも他の主張をもっともらしく批判できれば、その批判を裏付けるようなもっともらしい事例ももたらされているだろうし、そうやって様々な主張や批判の正しさを裏付けるような複数の事例が共存していれば、あるいは何らかの出来事をある面から捉えればもっともらしい主張に活用できて、またそれとは別の面から捉えればもっともらしい批判にも活用できれば、それが主張の正しさを裏付けると共に、批判の正しさも裏付けて、主張の正しさもその中でおこなわれる他の主張に対する批判の正しさも裏付ける事例がもたらされていて、それを主張する水準では正しいと思われるとしてもそれは主張する水準での正しさであり、世の中がそういう主張がもっともらしく思われるような状況にあるということでもあり、そういう意味では世の中の状況に適合する主張をしていることになるのだろうが、過去にもそういった複数の対立する主張がおこなわれていた時期などもいくらでもあって、そういうことの延長上で現状でも複数の対立する主張が共存できるような状況がもたらされているのだろうし、主張の内容がもっともらしく感じられるからといって、主張の中で他の主張や実際におこなわれていることに対してもっともらしい批判がおこなわれていて、しかも批判の正しさを裏付けるような事例も示されていても、それも主張や批判の水準では正しいことが述べられているだろうが、それはそういうことだと捉えておくしかないだろうし、主張している当人が間違っていると思われるような主張も批判もできないのであり、そこで何らかの主張や批判がおこなわれていれば、主張者や批判者にとっては正しいと思われる主張や批判しかできないわけで、それが主張や批判の水準での制約や限界となるわけだが、要するに何かを主張したり批判するという目的にとらわれてしまうから、その目的に応じるには正しいと思われる主張や批判しかできないわけで、そこで間違っている面や矛盾している面がそぎ落とされて、結局はもっともらしくは思われるが不完全で正しい陳述になるしかないわけだが、それが文学や芸術の類いになると、間違っている面や矛盾している面などが加わってきて、一方的で一面的でしかない政治的な主張に比べて表現の厚みや内容の複雑で多種多様な面を構成できるが、それでは政治的な主張とはならないわけだ。


12月2日「知りたくても知り得ないこと」

 そう思っている以前に物事を難しく考えすぎている傾向があるのかも知れないが、少なくとも自分が自覚できないことを自覚しようとしているかどうかなんて、自分にはわかりようがなく、そういう方面へ思考を傾けていること自体が勘違いのなせる業かも知れないし、すでに的外れなことを考えているとしたら、そうなってしまう理由を知りたいと思う以前に、自身が気づかないことを知ろうとして、それが知ろうとする理由に含まれてしまうのかも知れないが、知りたいのは理由ではなく、原因でもなく、普通に気づかないことに気づきたいのであり、それに気づこうとして、それに気づくことがそれを知ることになり、何かを知るという思考動作になるのだろうが、そうだとしても知りたいのはそんなことではなく、実際に気づくのは知りたいことではなく、知るつもりも知りたくもないことに気づいてしまい、何かそこで当てが外れているのだろうが、当てが外れているという自覚もなく、それを自覚できないことを知らずに、知りたいことを知ったことにもならず、それでも何かに気づいたつもりになって、それを知った気でいるのかも知れないが、そんなことを知ったところで何がどうなるわけでもなければ、無駄に思考を巡らせていることにもなり、そんなことにも気づかずに、知りたいことを知ろうとしているわけで、それでは当てが外れているのも当然だろうが、視点も焦点も定まらないまま、何を見ているわけでもないとしても、目を開いていれば何かが見えているのと同じように、別にそれが知りたかったわけではなくても絶えず何かを知ってしまい、それが知り得たことだとも気づかずに、すでに知っていることに気づかないわけだが、何かそこから的外れな方面へと思考が向かってしまうとしても、自然とそんなことを考えさせるような成り行きにとらわれてしまうのだから、それが偶然に起こっている成り行きだとは思われず、必然的にそうなってしまう理由や原因を探ろうとしてしまい、そこからさらなる無意味な徒労が待ち受けていることにも気づかないまま、思考の迷路へと導かれてしまい、そこで何やらわけのわからぬ逡巡を繰り返す羽目に陥ってしまうのだろうが、それで済んでいるうちは精根尽き果てるまでそこに留まって、無駄なエネルギーを浪費していればいいのかも知れないが、実際にはそうはならず、絶えず節約と効率を考えて、できる限り手間をかけないで、さっさともっともらしくて納得できる結論にたどり着きたいわけで、場合によっては手っ取り早く他から情報を盗んできて、強調したり誇張したり味付けするなりして、それを何かに利用したいわけだが、何に利用するのかといえば、利益を得るために利用したいのなら、利益を得ようとする対象と接触して取引をおこなわなければならず、取引がうまくいかなければ利益に結びつかないだろうし、利益を求められないような事態に直面して、何も得られずに途方に暮れることにでもなれば、その時点でやっと的外れなことをやっていたことに気づくのかも知れないが、それに気づくまでにも様々な紆余曲折が伴ってきて、気づくまでに至れない可能性の方が高いのかも知れず、結局はそうなって、知りたいことが知り得ないまま、求めようとする対象からも逸れていってしまうような成り行きに至ってしまえば、やはり当てが外れて途方に暮れてしまうわけだが、そんな試行錯誤をやってみたところで、依然として知りたいことが知り得ない状況に変わりがなければ、それが知ろうとしても知り得ないことだと悟るしかなく、それを知ろうとすると必ずそこから逸れていってしまい、知りたくもないことを知るに至るか、わけのわからぬ紆余曲折の果てに、それとは無関係な方面へと向かってしまうか、そんなことをやっているうちに、いつの間にかそんなことは忘れてしまうか、忘れた頃にそれを知るに至っても、すでにそんなことは興味のないことになってしまっていて、知りたいときに知り得ないと何の意味もないことだということがわかるのかも知れないが、たぶんそれでも知り得ないことを知ろうとして、無駄に思考を巡らそうとするのかも知れず、知ることと思考を巡らすことが結びつかないことに気づくまではひたすら考えるとしても、何かのきっかけでそれが結びついたらついたで、今度はそこから妄想が膨らんであり得ないことを知り得たつもりになって、陰謀論者のように自らの都合に合わせた恣意的なフィクションの虜となってしまうのかも知れないが、そうやって横道や迂回路を経由してどこにたどり着くのかというと、一周して元いた場所に戻ってくるわけでもなく、何らかの達成感を伴った境地に至ることもあるだろうが、そこからそれほど遠くないところに死の地点があって、そこが目指すべきゴール地点だとは思えないのだろうが、誰もがそこへと至って、時には疾走しているつもりで思ったほど遠ざかれなかった遅々として進まぬ歩みを終了してしまうのだろうが、その人が何から遠ざかろうとしていたのかというと、意外とそれは出発地点ではないのかも知れず、では何なのかといえば、遠ざかろうとしていたのではなく、逆に近づこうとしていたわけで、それが死の地点だと思えば納得がいくこともあるだろうが、どこからそこへと近づこうとしていたのかが、近づいている時にはよくわからないのかも知れず、何かの拍子に不意にその地点が現れて、それに魅了されてしまうとそこへと引き寄せられて、歩みを終了させられてしまうのかも知れないが、実際にそうなってみないことには誰にもわからないのかも知れず、現状でその地点にまだ充分に近づいていないと、それはまだ知りたくても知り得ない地点であり、逆にその地点に近づいていることを察知できるような至近距離にまで近づいてしまうと、すでに手遅れとなっていて、そんなことを知ったところでそれが何に利用できるわけでもなく、利用するいとまを与えないような強制終了のような終わり方となってしまえば、それがその人の運命だったとあきらめるまでもなく、ただの終わりに違いないわけだが、どういう終わり方をしても終わりには違いなく、終わりをどう飾り立てても終わってしまった当人にとっては何でもないことかも知れない。


12月1日「時代的な限界」

 その時代の支配的な傾向が世の中にどんな作用や影響を及ぼしていようと、その中で生きている人にとってはどうでもいいことではないが、普通に気づかないことかも知れず、気づいたところでどうしようもなくそんな作用や影響を及ぼされながら生きていくしかないだろうが、それに逆らうとか従うとか意識してできないことであれば、そんなことは気にしないで生きていくことしかできないのだろうし、意識したらしたで、そこで何をどうすればいいかといっても、それ以前に普通はそれよりも優先順位の高いことに気を遣うだろうし、直接かかわっていることをやるしかなく、そのかかわっていることをやっていく上で、時代の支配的な傾向から作用や影響を受けて、やっていることが何か特徴的な結果に至ってしまうとしても、自然にそうなってしまうようなことでしかないだろうし、そうなってしまったことからそういうことがわかるとしても、それはそれでそうなるとしか言えないことであり、そういった傾向から抜け出さなければならない必要を感じなければ、そうなってしまってもかまわないようなことでしかないのかも知れず、時代の支配的な傾向としてその時代に生きている人が何かやればそういう傾向になってしまうのであれば、それはそういうことでしかないわけだが、それ以前に優先すべきことというのが、その人にとっての直面している課題になるにしても、そうした課題にその人を直面させるのがその時代の支配的な傾向なのだとすれば、否応なくその時代に生きる人はそうした課題に直面することになってしまうのだろうし、その人にとっては選択の余地もなくそうなってしまうのであれば、そうなってしまうのは避けがたいことでもあり、避けられなければそういった時代の傾向に従いながら生きていくことしかできないのだろうが、それが従っているとも意識できず、従っている自覚さえなえければ、別にそんなことは何とも思わなくてもかまわないようなことであり、普通に生きていればそうなってしまう程度のことであれば、従うとか逆らうとかの選択の余地もないことになってしまい、そうであれば取り立ててどうということはないわけだが、実際にもその時代に生きている人にとってはどうということはなく、それを意識できないのだからそうなって当然だろうが、それを意識して変えてゆかないと時代的な限界を乗り越えられないとすれば、普通に考えてその時代に生きている人は誰もその限界を突破できないはずだが、結果的に突破できないとしても、それを知ろうとすることはできるのかも知れず、結果的に知るには至れないとしても知ろうとすることはできるとすれば、それを知ろうとした方がいいのかどうかは何とも言えないところだろうが、知ろうとしてそれが叶わずに徒労に終わるとしても、それを知ろうとする姿勢を保っておいた方がいいと思われるなら、なぜそうなってしまうのか理由は定かでないが、それが正しいか間違っているかということではなく、正しいことをやらなければならないとか、そうするのが正しい姿勢というわけでもないかも知れないし、ただそれを知りたいだけかも知れないが、何かに導かれるようにしてそうなってしまう傾向というのもあるのかも知れず、誰もがその時代の支配的な傾向を知ろうとしているわけでもないし、時代の支配的な傾向を知ろうとすることがその時代の誰もがとらわれている支配的な傾向でもないとしても、そんな傾向に逆らう気も起こらないどころか、そういう傾向を積極的に知りたいと思うのだから、そんな傾向に従っているはずだが、従うとか逆らうとかではなくそれを知ろうとすることが、いったい何に結びつくのかがよくわからないわけで、それを知ることによってその時代の支配的な傾向に従いながら何かをやっている人に対して、何か作用や影響を及ぼすことができるのか、ということを知りたいということではなく、実際にそれを利用してそれらの人たちに作用や影響を及ぼそうとしているのかも知れないが、それを知っているからといって、それを利用して何ができるかとなると、それらの人たちがその時代の支配的な傾向に従いながら何かをやっていることを示すことしかできないだろうし、たとえそれを示したとしても、そこから何がどうなるかは、それを知った人たちがそれを知った上でどう振る舞うかということでしかないだろうし、その人たちがその時代の支配的な傾向にとらわれていることを知ってしまえば、それを意識することでそれ以前とは微妙に振る舞い方が変わってくれば、それによって何らかの変化をもたらしたことになるだろうが、それが特に思い通りの変化というわけでもなく、どう変化するかはそれを示した人にとってもそれを意識した人たちにとってもよくわからないところかも知れず、その時代の支配的な傾向がその時代の世の中に何らかの弊害をもたらしているのなら、それによって弊害が緩和されるかも知れないが、特に弊害をもたらしていたわけでもなければ、そこから何が変わったところでどうなるわけでもなく、逆にそれに伴って新たな弊害が生じてくるかも知れず、そうなればそれを示すことがかえって逆効果となってしまうわけだが、それも効果とか逆効果とか狙った効果ではないとすれば、別に効果を気にするようなことでもないのだろうが、では何のためにそれを示すのかとなると、知り得たことを知らしめたいということでしかなく、それを知らしめることによって何がどうなろうと、そんなことまで感知しているわけでもなく、そこからどうなろうと知ったことではないということかも知れないが、少なくとも何かをどうにかしたいからそんなことをやろうとするのだろうし、そういうややこしくも込み入った成り行き以前に、普通に時代の支配的な傾向にとらわれた世の中で何らかの問題が生じていれば、それをどうにかしたいからその時代の支配的な傾向を明らかにして、そんな傾向にとらわれている人たちに向かってそれらの人たちがとらわれている傾向を示して、そんな傾向にとらわれていては駄目だということを示したいのだろうが、それが駄目かどうかは実際にそんな傾向にとらわれている人たち自身が判断することでしかないのかも知れない。