彼の声141

2020年

10月25日「偶然に起こること」

 それを均衡と言っていいのかどうか疑問が残るかも知れないが、何かが偶然に起こることよって何の均衡が実現するかとなると、何事も極端な事態には至らず、物事が一つに集中せずに適度に分散した状態が保たれて、その結果として誰の思惑からも外れる事態となり、当てが外れてしまえば、それで世の中の平静が保たれるわけでもないが、そうなるには偶然に起こる出来事が必要だと思われなくても、必要もないことが偶然に起こってしまうと、そこで感覚が狂わされてしまい、それが起こるまでは平静を保っていたのに、思わぬことが起こると心がかき乱されて、冷静でいられなくなって、事態にどう対処すればいいかわからず、場合によっては途方に暮れてしまうかも知れないが、それが何だかわからず、何を意味するのかもわからず、誰の思惑からも予言や予想からも外れたことが起こると、それによって物事の緊張を解きほぐす効果が生じるとしても、何かの均衡が実現するというよりは、均衡が崩れるきっかけがもたらされると捉えた方がしっくりくるかも知れないが、それが起こる以前の均衡が崩れて新たな均衡がもたらされるには、いったんそれまでの均衡が崩れる必要があると考えれば、そうなるきっかけをもたらすのが、そこに関与している誰の思惑からも外れる出来事であり、それが偶然にもたらされると誰にとっても思いがけない出来事となるから、そんな出来事に調子を狂わされて、それまで保っていた均衡が崩れてしまうのかも知れないが、なぜ以前の均衡が崩れなければならないかといえば、別に理由があるわけでもなく、偶然にそういうことが起こるだけで、何かそこに意図や思惑が介在しているわけではなく、むしろそこから意図や思惑が生じてくるわけで、例えば以前にもたらされていた均衡の中では不利益を被って不遇を託っていた者がいれば、その境遇を覆す機会が到来したと思われるだろうし、そうした出来事を利用して何か仕掛けてくるかも知れないが、そういうことまでが偶然に起こる出来事に含まれるのかも知れず、そうなるとそれを利用して何かをやろうとする意図や思惑が生じるわけで、そういう意図や思惑をもたらすきっかけが偶然に起こる出来事であれば、やはりその出来事が起こらないと、そういう意図や思惑も生じなかったわけだから、人の意図や思惑もそれだけで先行して生じるわけではなく、何かが起こったことがきっかけとなってそういう意図や思惑が生じることになるわけで、それはそこで起こった事態に対処するための行為となって現れることもあるだろうし、出来事が何らかの事態をもたらしているわけだから、それへの対処としてそういうことをやろうとするわけだが、そういう行為がうまくいってもいかなくても、それをやること自体がそれ以前とは違う行為をやっていることになり、それ自体が変化をもたらしたことにもなり、実際にそういうことをやる人が大勢現れて、それが流行現象などに発展すれば、何かそれまでとは世情が一変したように感じられるかも知れないが、それが一過性で終わるか世の中に定着するかでも状況が変わってくるだろうが、たとえ一過性で終わって流行が収まったとしても、その時の経験がそれまでとは違う物事の見方や考え方をもたらしている可能性もあるだろうし、何かしら人々の記憶に刻まれて、もはやそれ以前の思考状態には戻りようがなくなってしまい、それがもとで事態への対処や対応もそれまでとは違ったものになれば、世の中が変わったからそれに伴って対処や対応も変わったことになるが、いったんそうなればそれが必然的にそうなったと思われて、偶然の出来事によってそんなきっかけが与えられたことなど忘れられてしまうかも知れないが、そこに至るまでの間に人の生き死にも断続的に起こりながら世代交代も進んでいけば、一人の人間がそれら全てを経験するわけではなく、何世代にもわたって進行することになれば、ある一人の人物の意識の中では世の中の変化を実感できないのかも知れず、そういう面まで含めて考えるなら、人も世の中も絶え間ない変化を被っていることになるはずだが、それもそうなった結果から絶えず過去を振り返りながら、過去からの継続性や連続性を探し出して安心しようとするわけだから、保守的な思考の中では偶然の変化が無視されてしまうわけで、それに代わる過去から連綿と続く一貫性が求められて、そうした一貫性に基づいた価値観や観念を導き出そうとするわけだから、そこから偶然を排除した必然的なフィクションも構成されてしまい、しかも現状の世の中でそれに適合しない要素を改めようとすれば、そこで自分たちが現状に適合しようとするのとは逆に、自分たちが構成したフィクションに現状を適合させようとしてしまうわけだから、結果的にかなりの無理が生じてしまうのかも知れず、実際にそれが政治や経済の領域でおこなわれてしまうと、何か現状に合わないおかしなことをやってしまうことになり、事態はそれだけでは済まなくなるだろうし、そういうことを無理にやろうとするから、現状との間で摩擦や軋轢などの抵抗が生じてきて、それによって社会的な対立や争いなどが引き起こされるなら、それを通じても世の中の変化がもたらされるだろうが、その際にもそういうことをやろうとする人や勢力の意図や思惑を外れるような偶発的な出来事を引き起こして、それをきっかけにして世の中の支配体制などが転覆することもあるだろうし、そこでも世の中の状況の推移を敏感に察知して、それに対応したことをやろうとする人や勢力が主導権を握る可能性が高くなるだろうが、それが世の中の変化に抗っているように思われることでもあるかも知れず、実際に世の中の変化に抗っているつもりが、実はそれが世の中の変化に対応した行動であったりすれば、当人の思いとは真逆なことをやっていることになるわけだが、その場の情勢の中では案外そういうことが頻繁に起こりうるのかも知れず、当人が思っていることと実際におこなっていることが一致していないと、何か間違ったことをやっているように見られてしまうかも知れないが、それまでの常識に照らし合わせてそれが間違っているように思われるとすれば、世の中が変化してその常識が覆されるような結果がもたらされるなら、その時には間違ったことをやっているように見られた人が、結果的には世の中の変化に対応したことをやっていたことになるわけで、そうなると現状に抗って何かをやっているように見えることが、変化する以前の状況に抗っていることになり、それがそのまま変化しつつある状況には対応していることになるのではないか。


10月24日「不条理への取り組み」

 世の中で容認されていることの中には、何か不条理のような理屈と共に成り立っていることもありそうなのだが、それの何が不条理かといえば、うまくいく行為にはそれとともにあるようなうまくいかない行為が必要であり、そのどちらか一方がうまくいけば他のもう片方がうまくいかなくなり、どちらもうまくいくということはあり得ず、必ずどちらか一方がうまくいくともう片方がうまくいかなくなり、そこで勝敗が分かれるのだが、うまくいったことに関しては特に問題はないとしても、うまくいかなくなってしまったことについては、それの何がまずかったのかを指摘できるとしても、そのまずいことやってくれたから、もう片方がうまくいったわけだから、うまくいった方からすれば、まずいことをやってくれた方に感謝しなければならないはずで、まずいことやったからといって、うまくいかなくなった方を批判したり非難する気にはなれないだろうし、結局そんなことをやっているから駄目なんだと批判するのは、それを見ている傍観者や野次馬の方であり、そういう立場は見ているだけで文句を言っているわけだから、どちらかといえばずるい立場と言えるが、何か言って批判したところで、特に利益が得られるわけでもなければ、相手にされるようなこともなく、いくら批判したところで何の効果もなければ、それがどうしたわけでもないのだろうが、それを見ていればそれに関して何か言わざるを得ないような立場というのもあるだろうし、それに関して何か言う立場というのが社会的に確立されていれば、そこから何らかの利益が得られる場合もあるだろうが、それが何かを言う対象に依存して成り立っているわけだから、その対象がなければ何も言うこともできないとすれば、対象次第では何を言っても利益には結びつかない場合もあり得るだろうし、利益に結びつかないことがまずいのかとなると、何かを言っていることがまずいという以前に、言う対象がまずいということになり、言っている内容や言っていることではなく、それが利益に結びつかないことがまずいのであれば、そういう方面ではそういうことになるが、それとは別の方面では利益がなくても何か言うだけは言えるような成り行きもあるだろうし、何かを言うこととそこから利益を得ることが必ず結びつくわけでもなく、結びつかなくてもかまわないのであれば、特に問題はないわけだが、そうなると利益に関してはうまくいくこととうまくいかないことが直接結びついているわけではなく、それどころかうまくいってもいかなくてもどちらでもかまわない場合さえあるだろうし、勝敗を気にせずに何かをやっていられるなら、そんなにお気楽なことはないとも言えるが、その場の状況次第ではそうなってしまう可能性もあるだろうが、それとは違ってそこで利益を得る目的が生じて、さらに利益の獲得を目指す人が他にも多数いれば、そこで競争が起こって、その中の誰かが利益を得られると、他は利益を得られないことにでもなれば、利益を得られた方がうまくいって、利益を得られなかった方はうまくいかなかったことになるだろうが、そういう一攫千金を目指す賭博的な成り行きがある一方で、そこに参加した誰もがそれなりの利益を得られるような成り行きもあるかも知れず、実際に得られる利益の多い少ないはあるとしても、世の中で誰もが利益を得られているから、そこで多くの人が暮らしていける成り行きがあるわけだが、その一方でやっていることがうまくいって成功すれば多額の利益が得られるが、逆にやっていることがうまくいかずに失敗すれば利益を得られないどころか多額の負債を背負い込むような成り行きもあるわけで、成功すればより多くの利益が得られて、失敗したらより少ない利益しか得られないどころか、場合によっては負債まで抱え込んでしまうような成り行きがなぜ生じるかというと、成功するにはそれなりの利益を投資しなければならず、まずは投資するための利益を得なければならないという不条理があるわけで、何もないところから利益を得ることはできず、利益を得る前提として別に利益を得ていなければならないわけで、すでにそれなりの利益を得ていれば、その利益を投資してさらなる利益を得ようとする成り行きが可能となり、何もなければ他から利益を借りて負債を抱え込んで、マイナスの状態から投資を始めることになるだろうし、そんなことまでやる必要があるか否かということではなく、そういう成り行きの中ではそうなってしまうのであり、やる必要があるからといって必要なものが得られるとは限らず、それも努力次第で得られるのであれば、努力のしがいがあり、そういうことになれば理屈の上でももっともらしく思われるだろうが、実際には努力したかどうかに限らず、その場の偶然に左右されるようだと、結果的に努力が報われなければ不条理に思われるだろうし、両方の傾向が入り混じっているようだと、どちらもあり得るということになるが、その場合でも努力しないよりはした方が必要な利益を得られる可能性が高まると捉えるなら、そういう理屈の方がよりもっともらしく思われるはずだが、そうとも限らないことが実際に起こってしまうと、何かそれが不条理に思われてしまうわけで、そんな不条理をなるべく起こさないようにするために、努力した分だけ報われるような制度や機構を公的に設けようとするわけだが、そうなると努力した内容を評価できるか否かが問題となってくるだろうし、制度や機構が設けた努力目標を達成したか否かで判断されてしまい、それとは違う努力をいくらしたところで何の評価も得られず、制度や機構の意向に沿った努力をしなければならなくなるわけだが、結局はそうした意向に沿った努力をしようとする者が大勢現れてくれば、そこで競争が起こって利益の争奪戦となってしまうわけで、それを避けるために事前の審査をおこなって、審査を通った人に利益を与えるようなことになれば、それが試験制度に発展してしまい、審査したり試験することによって、制度や機構に利益がもたらされることにでもなってくれば、審査したり試験する側に回れば利益に与れることになるだろうし、そうなると制度や機構に沿った努力をしようとする者たちが制度や機構に利益をもたらすことにもなってきて、それらの人たちが制度や機構の食い物にされていることにもなってくるかも知れず、結局は利益を餌にしてそこに群がってくる大勢の人たちに競争をやらせて、そこから利益を得るようなやり方が制度や機構の目的ともなってくるわけだから、餌につられて群がってきた人たちにしてみれば、まさにそれこそが不条理そのものだと言えるかも知れないが、それでも審査や試験に通って競争に打ち勝って実際に利益を得られた人にとっては、自らの努力が報われたと思うだろうし、それがもっともらしくて道理に適った制度だと思うのではないか。


10月23日「巧妙な手口」

 何らかの偏見や先入観などから生じる固定観念にとらわれていると、それに基づいた身勝手な理屈を信じたままになってしまうかも知れないが、他人にそれを信じ込ませることによって、有利な状況をもたらそうとするやり方もあるだろうし、世の中の多くの人をそこに拘束して動作させる何かの制度や機構を管理運営する側にとって、管理対象となる人たちにそれを信じ込ませることが、管理する側が有利な運営をおこなうためには必要となれば、そういった固定観念にとらわれてしまう人を利用しようとする成り行きが生じるのだろうが、もっとあからさまに人を洗脳したり勧誘する手口としてそういうことがおこなわれる場合もあるわけで、その手口がたわいないほどたわいない人たちが引っかかるとしても、安易にそういう手口に引っかかる人が大勢いないとその手の商売が成り立たなくなってしまうし、もちろん一度引っかかって痛い目に遭った人をさらに引っかけるための手口もより巧妙化してくるわけで、そういう手口の巧妙化や悪質化は、そこから利益を得られる限りで進化し続けるわけだが、中には引っかかってしまう人だけがひどい目に遭うだけではなく、引っかけようとする人たちの方がより一層悲惨な目に遭うような成り行きもあるだろうし、そうなるとその種の映画などで見受けられるように、詐欺師の末路ほど悲惨なものはないとなるわけだが、さらにはわざと詐欺に引っかかったふりをしながら詐欺師や詐欺的な制度や機構を利用しようとする試みもあるのかも知れないが、世の中にはそれを詐欺だとは一概に言えないような制度や機構もいくらでもあるだろうし、そういう制度や機構を利用しながら普通に暮らしていれば、それを詐欺だとは思わないわけだが、同じ制度や機構の利用者の間でも、うまくそれを利用して利益を得られた人にとっては詐欺ではないが、うまくいかなくて多大な被害や損害を被るような人が出てくると、実際にそうなってしまった人は詐欺だと思うかも知れないし、被害を受ける人が多くなると被害者の会とかを結成して法的な手段に訴えるような成り行きとなるのだろうが、そうなるケースは稀だろうし、大抵の制度や機構はそれが利用されていればそれに関係する団体によってそれなりに管理運営されているわけだろうが、当然のことながらうまくいっていない面もあるだろうから、それが公的な制度や機構であれば政治的な問題となってくるだろうし、それについてあれこれと政治の場で論議されることになれば、それが改革の対象となってくるのだろうが、実際に改革するとなると、改革する側にとって都合の良いことをやろうとするわけだが、もちろんその際には、建前上はそうした制度や機構を利用する側にとっても利益となるようなことをやろうとするだろうが、それが本当にそうなるかといえば、改革する側と利用する側とで利害が一致していればそうなる可能性が高いだろうが、全面的に一致しているかというと、必ずしもそうとはいえない面もあれば、そういうところで制度や機構を利用する側にとって不利益となるようなことを指摘して、改革に反対する動きも出てくるだろうし、そういう成り行きとなればそれに関して論議した上で、改革に対する賛否を問えばいいわけだが、それがそういう範囲内には収まらないようなことにもなってくれば、何かそこからこじれた事態になってくるのだろうが、そのこじれた事態というのがそこにかかわってくる誰にとっても得にならないことにでもなれば、さらに事態が混迷してくるわけだが、そこに介入してくる人や団体にとっては、介入することによって利益を得たいのだろうし、それがどんな利益であるかによって、介入の正当性や介入してくる人や団体に対する社会的な信用や信頼が問われてくるのだろうが、事態をこじれさせてこじれた事態の中で動き回ることによって何らかの利益に結びつけば、それもそこから利益を得ようとする行為になるわけで、そういう人や団体としては事態がこじれるほどそれを口実として動き回る理由が生じるわけだから、事態をできるだけこじれさせようとするのだろうし、それが昔ながらの総会屋的な存在として立場が確立されるようなことにでもなれば、何か脅迫まがいの行為によって生計を立てるようなことにもなってくるのだろうが、そういった行為がどこまで許されるかとなると、そうした事態に介入してくる人や団体などの間の力関係から許容範囲が決まってくるのだろうが、たとえそういった行為が世の中で横行する事態になっても、そんな騒ぎは枝葉末節なことに過ぎないのだろうし、そうしたことの原因となる制度や機構などが維持運営される際には多少のトラブルはつきものなのであり、それを運営する側もそれを利用する側も、そこから生じるもめ事を嗅ぎつけて介入してくる側も、そうした制度や機構にとらわれている中では、それとともに機能する運命共同体的な枠組みの中に入ってしまっているのであり、そこにいったんかかわってしまうとなかなかそこから抜け出られないような構造に組み込まれてしまって、その中で限定された動作を強いられてしまうのだろうし、それを外部から見ている人には、何か不合理で面倒なことに縛られて、身動きがとれないように感じられてしまうかも知れないが、そこに拘束されていないと活動がままならないというか、活動する理由が生じてこないのかも知れず、何かに拘束されて何らかの動作を強いられてしまうから、それに逆らったりする感情が生じてくるわけで、またそれを維持管理する上でそうした感情が生じてくるのをいかに抑え込むかが活動の主な内容となるだろうし、そもそもそういう機構や制度がないとそんな活動も生じてこないし、それらの人たちが存在する理由や意義もなくなってしまうわけだが、そういったことから自家撞着のような論理も持ち出されてくるのだろうし、そこに機構や制度があることが前提で、そこにかかわってくる人や団体の活動が成り立っていて、そこでは各々の人や団体などの都合が許す限りで、活動を成り立たせる前提条件を自身に有利となるように作り変えたいのだろうが、そうするに当たって他の人や団体の同意を取り付けたいわけで、しかもその際には何とかして自らに有利な条件を相手に呑ませたいのだろうし、そのための策略をあれこれと巡らす場合もあるだろうし、その際にはその場の力関係が利用されるだろうが、そうやってうまく相手を丸め込むことができれば、そうなった時点では有利な立場になったと言えるだろうが、そこで終わりではないのはもちろんのこと、そこから先に絶え間ない管理や運営の作業が待っているわけで、いったんそういう立場になって、そういうことをやり出すときりがないわけだが、何から何まで管理しきれないし、運営に当たっても絶えずトラブルがつきまとってくるだろうし、そういう作業にのめり込んでいってしまうと、そうした機構や制度にとらわれて、それと一体化することになってくるだろうし、もはやそれなしでは何もできないことにもなってきて、それを外部から見れば身動きがとれずに縛られているように感じられてしまうわけで、それが制度や機構自体が仕掛けてくる巧妙な罠だと見なしても、別にそれらに人のような人格があるわけでもなく、ただの機械仕掛けの装置に過ぎないのかも知れないが、それらにとらわれてしまった人たちもそうした装置の部品に過ぎなくなってしまうわけだ。


10月22日「気になっていること」

 忙しいときでも退屈を持て余しているときでも、気になっていることはあるだろうが、そこで活用しなければならないのは、意外と日頃から気になっていることではなく、誰も気づかないようなことであり、それを活用して他人が気づかないようなところで差をつけなければならないのかも知れないが、実際にそうやって差をつけたつもりになっても、それを他人に気づかれなければ自己満足に浸っているだけであり、他人にとってはそれがどうしたわけでもないだろうが、逆に誰もが気づいていることをあからさまに指摘するようなことはしないのかも知れず、それが気になるところでもあるわけだが、あえてそこには触れずに差し障りのない範囲内で言及できることについて語ろうとして、何かそれでは肝心なことが何も述べられていないような気もするわけだが、誰もが差し障りのあることに気づいているかというとそうでもなく、それに気づいていないのにそれを避けて語るようなことになってしまうわけで、なぜそういう芸当ができるかとなると、はっきりとは気づいていないとしても、おぼろげながらそれに言及してはまずいことがわかっていて、そういうところで空気を読むとかその場の雰囲気を察知することができて、そうすることによって触れてはならないことを避けながら語れるようになるのだろうが、それがわかっているだけに、そういうことをあからさまに語る人には同調できないわけだが、もちろん同調できる面とできない面とが語りの中で混在している場合もあり、そういうときには是々非々の態度をとらざるを得ないが、それをしないで全面的に同調したり賛同するような人を信用できるかというと、何かそういう態度が欺瞞を含んでいるように感じられると信用できなくなってしまい、それも信用できない面とできる面とが混在していれば、そういうときにも是々非々の態度をとるしかないわけだが、そういうことにも誰もが気づいているのかも知れず、しかもそれに気づいていながら、あえてそのことには触れようとしないから、そういう態度にも欺瞞がつきまとっていて、それを信用できるとかできないとかいうのとは少し違うところで、そういうものだと受け止めるしかなく、それも気になるところだが、気になったところでそれについてはっきりと述べるわけでもなければ、やはりあえてそれについては言及しないような態度をとってしまい、差し障りのあることに言及するのを避けているわけで、そういう態度にも絶えず欺瞞がついて回り、それをいかにごまかすかが腕の見せどころとなるようなことにもなってしまうわけだが、そうなると何か存在の定かでない相手との間で架空の駆け引きをおこなっているような様相を呈してきて、特定の相手を想定しているわけではないとしても、いつどこから何が飛んでくるとも限らないような状況の中で、敵の攻撃から身をかわす仕草を見せているようなことにもなってしまい、そこに誰がいるわけでもないのに、誰かがそこにいることを想像しながらそんな態度を演じてしまうと、それが世間の同調圧力に屈した態度に見えようと、誰がそれを見ているわけでもないだろうし、誰も何も見ていなくてもそんな態度を演じてしまうとすれば、それは誰の意志とも関係なく自動的におこなわれていることになり、誰もがそんな態度を演じている世の中がそこに形成されていることにもなるのだろうが、本当にそうかというとそうでもないのであり、誰も何も演じているつもりはなく、自然な動作としてそうなっているだけであって、別にそれが気になるようなことでもないのだろうが、誰の演技に気づいているわけでもなく、誰も何も演じているつもりがないのだから、それを演技と見なすこと自体も間違っていて、ではそれが何なのかといえば、自らの意志に基づいてそんな態度になっているわけではないとしても、何かその場の状況に応じた意図や思惑があるから、そういう態度になっているとみておけばいいのかも知れないが、それが見え透いているように思われてしまうと、そうした意図や思惑の当てが外れてしまい、意図した通りのことも実現しないし、思惑通りにもならないわけだが、意図や思惑が態度に表れてしまうようだと、それを相手から見透かされてしまい、そうした意図や思惑に対応した行動に出られてしまうわけだが、それも相手がいることが前提でおこなわれることなのだろうが、果たしてまともに相手をしてくれるような存在を想定できるかとなると、一方的に相手を打ち負かすようなことを主張してくる相手の相手をするメリットがあるかとなると、普通はそんなことを言ってくる輩の相手などしたくないだろうし、いくらお人好しでよほどの余裕があっても、戦うメリットのない相手は相手にしない方針で臨むのが無難であり、それでも言いたい輩には勝手に言わせておけばいいだろうし、言わせておくのがデメリットになるようなら、直接には対峙しないで、裏から陰湿な妨害工作のようなことをやってくるかも知れないが、要するに正々堂々とした対決には持ち込めないし、持ち込ませないような意図や思惑が働いてくるわけで、なぜそういう成り行きになってしまうのかといえば、何のメリットもない相手と戦うのは差し障りがあるからだろうし、相手がどんな卑怯なことをやってくるとも限らないし、それ以前にお互いに卑怯なことをやり合った末に、まともに正々堂々とした戦いになるはずもなく、すでにそんなことにはなりようがない成り行きの中で、誰とも知れない正体の定かでない何かと戦っているつもりでいれば、その延長上で行動しているわけだから、特定の誰かと戦うような成り行きにはなっていないわけで、戦う対象すらわかっていないのに、それでも何かと戦っている気でいるのだから、それこそ勘違いもいいところかも知れないが、そういうことまで考慮に入れるなら、相手にされないような相手とは戦わない方がいいだろうし、こちらが戦っているつもりであっても相手にされていない可能性がありそうで、そもそも特定の誰かを敵と見なすこと自体が間違っているのかも知れず、敵でもなければ味方でもなく、実際に何らかの争いに巻き込まれてみないことには、はっきりとは敵も味方も区別がつかないし、区別がつかないような状況の中で暮らしている限りは、無理に特定の誰かを敵と見なしたり味方と見なすようなことは避けなければならないが、不快なことをやっている人や勢力を敵と見なさなくてもかまわないのと同様に、好感を持てる人や勢力を味方と見なさなくてもかまわないわけで、それが中立や中庸の立場を装うのとは違い、全面的に敵対したり賛同することはできないということであり、どのような人や勢力であってもそれに対する敵意や賛意が入り交じっていることは踏まえておくべきかも知れない。


10月21日「幸運な巡り合わせ」

 偶然にそうなっているとしか思われないことについて、理屈や理論では説明できない現象や出来事などいくらでもあるかも知れないが、それを説明する必要もないこともいくらでもあるだろうし、説明を要しない些細なことであっても、わざわざ説明するまでもないことであっても、それに驚いたりあっけにとられるようなこととは違って、何かの運命の巡り合わせのようにして迫ってくるものを感じてしまい、どう考えてもそれが偶然にそうなっているに過ぎないのに、それに遭遇しているのが何かの必然であるかのように思われてしまうこともあるわけで、なぜそうなってしまうのか理解できないのだが、何か自らにまとわりついて離れないような運命を感じてしまうとすれば、やはり説明しがたいような必然的な運命の巡り合わせであることを確信してしまうわけだが、それが勘違いであれば何のことはないとしても、その時点では勘違いだとは思えないわけだから、本気で何か凄いことに巡り会ってしまったような気がしてしまうわけで、しかもそれが自分にとっては凄いことだと思われても、他人にとっては何でもないことであり得るとすれば、自らに特有な事情に関係することであり、自分にとってだけ特別な出来事であるようにも思われて、そうなるとそれが幸運な巡り合わせだとも、あるいは正反対の事態だと最悪な運命の巡り合わせだとも思ってしまうわけだが、そんな思い込みが生じてしまう理由としては、自分と他人とではそれを受け止める際に感じる出来事の重みが違ってくるからだろうし、それが自分の身に降りかかっている時にはさも重大なことのように思われるが、それが他人の身に降りかかっているのを見ているだけであれば、あくまでも他人事であり、悲惨な目に遭っていれば少しは同情するかも知れないし、幸運がもたらされていれば少しは羨んだりするかも知れないが、他人事であれば自分にとってはどうということはないだろうし、他人事だとは思えない範囲内で同情したり羨んだりもするのだろうが、自分の身に降りかかっていることであればそんな余裕はないわけで、まずはその事態に対処しなければならず、しかも対処を誤れば致命的な結果を招くようなことであれば、全身全霊を尽くして事に当たらなければならず、それだけ本気度が違ってくるのだろうが、そういう傾向の事態であれば誰もが事を深刻に受け止められるだろうが、そうではなく他人にとっては何でもないことかも知れないが、その延長上で自分にとっても何でもないことだと思ってもかまわない程度のことであり、しかもそれに関しては他人のことなどどうでもよく、他人がそんな事態に直面したところで何でもないのに、なぜか自分にとってはそうでもないような気になるとすれば、ではなぜ自分がそんな事態に直面しているかといえば、やはりそこに自分に特有な事情が絡んでいて、それをどう受け止めればいいかの判断基準がわからず、どう受け止めてみてもしっくりこないような事態に直面していると、それを何でもないことだと突き放してしまう気にもなれないし、そうかといって特に深刻な事態に陥っているわけでもないとすれば、他人から同情など期待できないし、同情されるどころか、誰も何とも思わないようなことであれば、気にする方がおかしいのかも知れないが、何でもないようなことだらけであっても他に何もなければ張り合いがないだろうし、それが自らに特有な事情をもたらしているかといえば、他人から見れば何ももたらされてないように見えるかも知れないが、それでも自身にとっては何でもない些細な物事がいくらでももたらされていて、それらのことごとくが特に取り立てて深刻な事態も重大な局面ももたらしていなければ、やはりそんなことはどうでもいいように思われてしまうわけだが、それが何の巡り合わせでもなければ、そんなことでしかないわけだが、何かの巡り合わせてそうなっているとしか思えないほど、それが必然的な運命の巡り合わせでそうなっているように思われるとすれば、他人からすればそんな大げさに捉えるようなことでもないのだろうが、自身にとっては気になって仕方がないようなことでもあるのかも知れず、気になる事情というのが何でもないと思われることであり、何でもないでは困るというか、困っているようには見えないのだろうが、特に困り果てる理由もないところが張り合いのないことなのかも知れず、果たして誰もが深刻な事態や重大な局面の中で事に当たることを望んでいるかといえば、確かにそうなれば張り合いがあるだろうし、世の中のそういう事態や局面の中に飛び込みたいという願望が、戦場カメラマンのような存在をもたらしたのだろうが、それとは逆に何でもないような出来事の連続が凄いことだとは思えないし、特にそれを気にするようなことでもないとしても、それが何か凄い事態に結びつくのではないかという妄想が生じてくると、その期待がことごとく裏切られてしまうような事態になればひどく落胆して、そんなふうに何もなくてがっかりするようなことが連続すれば、退屈紛れに自らが何か大それたことをやってしまいたくなるのも、それほど不思議ではないとしても、本当にそれをやるような成り行きに至るには、そこに至るまでの間に様々な紆余曲折があるのかも知れず、途中から思わぬ方向へ逸れてしまって、当初には思いもよらなかった事態に巻き込まれてしまえば、それこそ思いがけぬ事態に直面したことから生じる驚きと共に、何かそこに得体の知れない宿命のような因果応報を感じ取って、そんな事態に遭遇してしまったことが運命の巡り合わせのように感じられるかも知れないが、その遭遇した何かというのも他人にとっては何でもないことであれば、特に他人から気にされるようなことでもないだろうし、そこに何らかの事情が介在していると、妙に気になってしまい、それが他人にとってはどうということはないのに、自分にとっては気になって仕方がないようなことになるのかも知れず、それが現代の世の中で普通に起こっていることであれば、誰もが自身にとっては気になって仕方がないような出来事に遭遇しているのに、社会全体から見ればそれらのことごとく何でもないことであっても、それが何でもないようなことにこだわってしまう存在としての一般市民の実態となっていて、それらのことごとくが何でもないことが現代に特有な問題となり、そんな何でもないことにこだわってしまう何でもなさが、一般市民を何でもない存在にしてしまっていると捉えるなら、その何でもなさに阻まれて真の社会的かつ政治的な問題が顕在化してこないと思われるかも知れないが、それも社会的かつ政治的な幻想であり、そういう幻想でさえも何でもないことに含まれてしまうのかも知れない。


10月20日「変化への対応」

 何が人を変えるのかとなると、時代が人を変えるのかも知れないし、何らかの事件や出来事が人を変えるのかも知れないが、影響を受ける程度であれば、何かの書物から影響を受けるかも知れないし、あるいは他人から影響を受けるかも知れないが、書物でも映画でも漫画などでもかまわないが、何かの物語が人を変えるかというと、そうかも知れないし、そんなはずがないかも知れないが、それがどんな物語かといえば、その時代の誰もが知っている物語であったり、あるいは誰も知らないが、古書などに記された過去の物語を人知れず読んで影響を受けるようなこともあるかも知れないが、人が変わる必要もないのかも知れず、その必要がなくても自然に変わって行ってしまうのかも知れないが、人が変わったとしても身の回りの状況も世の中も変わるだろうし、人自身も絶えず生まれて死んで世代交代が起こっているだろうし、人から人へと受け継がれる慣習や伝統や財産や資産などがあるとしても、受け継がれた先で消滅したり使い果たされてしまえば、何もなくなってしまうだろうし、自然の風化作用や浸食作用によってなくなってしまう地形や環境もあるだろうから、人の変化も時代や世代の移り変わりも自然に起こることに含まれていて、人為的に起こされた変化であっても、それが人自身に変化を促す要因となるにしても、あるいは集団内の組織や構造が変わるにしても、それらの変化に応じた人材が必ず出てきて、環境の変化に適応するのかも知れず、誰も適応できなければ人類が消滅するのだろうが、誰もいなくなっても世界は残るだろうし、どうなってもかまわないのは、誰もそうは思わなくても、そうは思わない人が誰もいなくなってしまえば、その先がどうなってもかまわないのだろうが、現状ではそういう水準で考えていることではないのはもちろんのこと、現状のままの社会や世の中があることを前提として、今後それをどう変えるかとか、あるいは変えずにどう守っていくかとか、あらゆることを想定して対応したり対処しようとしているわけでもないし、できないことも色々とあるだろうが、人為的に変えられることと自然の成り行きとして変わっていってしまうことを同等に考えるわけにもいかないだろうし、人為的に変えようとしていることも、変えたところでそれだけでは済まないで、その副作用として思わぬ変化を起こしてしまう場合もあるだろうが、対応しようとしても対応しきれない変化もある一方で、変化に対応することで関係している物事がうまくいくこともあるだろうし、人は誰でも周囲の変化に対応してうまく事を運ぼうとしているわけでもないし、不器用であれば世の中の変化に対応できずに取り残されてしまう場合もあるだろうが、古い慣習やしきたりを守っている集団や地域共同体などがあれば、外との交流を閉ざすことによって、内部にいればそれなりに安泰でいられるのだろうが、内部が退屈であれば外に出て行くだろうし、人は誰でも自由を求めて世界各地をさまようわけでもないが、どこか居心地の良い場所で安住したいという思いもあるのかも知れず、それが平凡な日常の退屈さと隣り合わせであるとしても、そういう漠然とした思いを実現するために犠牲にしなければならないことがあれば、意外と金銭的な損得勘定抜きであやふやな思いの方を優先させることもあるのかも知れないし、強いられてそうするよりは積極的に様々なしがらみを断ち切って、たとえそうすることによって多大な損害を被ってでも、割の合わない苦労を惜しまないとしたら、そういうときには功利的な打算などはどうでもよくなってしまうのかも知れず、それでうまくいけば言うことなしだが、実際にはうまくいかないことも多いから、功利的な打算が働いてしまうのだろうし、それでもあからさまにせこくずるく立ち回ると、他人から軽蔑されてしまうから、なるべくそういう否定的な面は表に出したくないのだろうが、そうしないと利益にありつくことができなければ、隠れてやりたくなるだろうが、なるべくそういう否定的に見られることはやりたくないわけで、それよりはもっと他人から良く見られたいだろうし、かっこいいことをやって他人から羨望の眼差しで見られたいという思いもあるだろうが、そういう見栄を張りたい思いというのも、いざとなったら割と躊躇なく捨ててしまえるのかも知れず、それまでは人並みにこだわっていたことが、何かのきっかけを境にしてきれいさっぱり洗い流されて、社会の中で生きていく過程で身についてこびりついてしまう垢のように汚れた情念がどうでもよくなってしまう心境になれるかも知れないが、そんな機会が誰にも平等に巡ってくるわけでもなく、大半の人は身についたこだわりを捨てられずに、せこく打算的な面が周囲にはばればれなのに隠すそぶりを見せながら生きていくことになるのだろうが、自由な状態になることを望むなら、必ずそういう機会が巡ってくるわけで、なぜそうなってしまうのかといえば、多くの人がせこく打算的に生きている現状があるからで、そんな中で自由を求めてしまうと、自然に周囲から押し出されてしまうわけで、誰もがせこく打算的に生きることの競争を繰り広げている中では、自由を求めることはそれとは相容れないから、こだわる力が弱まってしまい、社会との結びつきが切れてしまうのかも知れないが、完全に切れてしまえば生きてはいけないから、相対的に結びつきが緩む程度に収まっていれば、それなりの自由を得られるだろうが、それも程度の問題だろうし、自由を求める思いが強いほど、慣習などのしがらみが邪魔に思われてくるのかも知れず、邪魔に思われても周囲との間で協調が成り立っている範囲内に収めようとすれば、自由を求める思いを抑えて打算的に振る舞うしかないだろうし、そういう妥協的な態度を潔しとしなければ、周囲の迷惑を顧みずに自由を求めてしまうだろうし、それによって周囲との関係がうまくいかなくなって、そこから物理的あるいは心理的な面で様々な損害を被ってでも、それでもなお自由を求めてしまえば、功利的な新自由主義などとは別の自由を求めていることになるのだろうが、そういう自由は自らの社会的な関係を壊す自由であり、利益の追求によって社会そのものを壊す功利的な新自由主義とは性質が少し異なるわけだが、それによって変化が生じることには変わりないだろうし、どちらにしても自由を求めることが変化をもたらすわけで、それが良くも悪くも変化を促すとすれば、何か自由は社会の敵であるかのように思われるかも知れないが、社会がそのままの形で永遠に保たれるわけでもないだろうし、実際に時代の変遷と共に社会も移り変わってきたわけだから、変化した結果をいやでも受け入れざるを得ないわけだが、変化させまいとする力に抗って変化するわけで、そういうところで必ず軋轢や抵抗が起こるだろうし、その際に変化を促す側につくか変化を押しとどめる側につくかの二者択一とはならずに、どちらの面も入り交じったような態度や姿勢になってしまうのかも知れず、それが結果を見てみなければわからないようなことであり、また結果から見てもどちらについていたのか不明確な立場というのもあるのかも知れないが、ことさらに自らの態度を鮮明にしなくてもかまわない場合もあるのかも知れない。


10月19日「功罪半ばすること」

 様々なことが様々な分野でおこなわれている中で、それが様々な方面にわたっているだけに、特に統一感がとれているわけでもないはずだが、その中である特定の方面で特定の分野の中で語ろうとすれば、何かまとまりのある言説となるだろうが、様々な方面で様々な分野の中から同じような傾向の物事を選び出して語れば、統一感のとれたまとまりのある言説となるかも知れず、中には意識しなくても自然とそういう傾向になってしまう成り行きもあるかも知れないが、そこに恣意的な思惑が介在してそうなっていると、それを意識できないと恣意的な選んだ物事の間で統一感がもたらされているから、何かそれらの間では辻褄が合っているように思われるのだろうが、もとから統一感のない物事は選んでいないわけだから、選んできたそれらが全てのように思われてしまうと錯覚が生じてしまうわけで、それらが全てではなく、世の中のほんの一部分に過ぎないことだと意識できれば、少しは思考にゆとりがもたらされるのだろうが、そういう傾向で一辺倒になっているようだと意識がそこへとのめり込んで、それ以外のことは眼中にない心理状態となって、そういう傾向に凝り固まってしまうのだろうが、それが良いか悪いかではなく、時にはそうならないとわからないこともあるわけで、時と場合によってそういう傾向へと意識を集中させることと、他の様々な傾向へも配慮することを使い分ける必要があるのかも知れないが、両方をいっぺんに同時並行的にできるような器用さを持ち合わせている人はまずいないだろうし、そういうところで一方的な傾向へと凝り固まってしまう人と、他の様々な傾向へも配慮できる人との間に何らかの違いが生じてくるのだろうが、どちらが良くてどちらが悪いとも言えない場合もあるだろうし、その人がだけが独りよがりに事を進めても、それに関係する人たちが同調してくれないと事が進まないだろうから、周囲の人たちが同調しやすい傾向を探って、他の人たちの同意を得ながら物事を推し進めるような成り行きになるのだろうが、実際に現状の世の中で他の関係者が同意できるような傾向というのがあるのだろうし、それが実際に世の中でおこなわれていることの支配的な傾向となるのだろうが、そういう傾向に凝り固まる人の中から成功者が出てくることは確かだが、多くの人がそういう傾向に凝り固まるほど、その中でおこなわれる競争も熾烈を極めて、成功する人もそれだけごくわずかな人数に絞り込まれてくるだろうし、成功した人にもたらされる富や名誉も多大にもたらされる一方で、それだけ成功できない人も大勢出てくるわけで、ごく限られた人によって富や名誉が独占されることになるのだろうが、他の大勢の人たちは富や名誉にはありつけず、その代わりにそれらの人たちは成功した人を盛り立てる観客になるか、成功した人に対して嫉妬の感情を高ぶらせるか、成功することをあきらめてそういうことには無関心になるか、他にも様々な在り方や態度が可能かも知れないが、そうなってしまうと成功した人に対する自身の在り方や態度が普通に求められてしまって、意識がそういう傾向への依存体質から抜け出せなくなってしまうわけだが、そうやって多くの人たちが成功した人とそれに関係するその他大勢の人たちという構図にとらわれてしまうことが、そういう傾向が世の中に定着する成り行きを示しているわけで、それが慣習として定着する面も制度として定着する面もあるだろうが、そうなることによって利益がもたらされるなら、そういう傾向になるように人々を誘導しようとする試みも生じるだろうし、意識がそういう成り行きに巻き込まれてしまうと、それ以外の傾向を意識できなくなって、それ一辺倒になってそこへとのめり込んでしまう危険も生じてくるわけだが、そうなることが危険だとは感じられないどころか、利益を得られるなら自ら進んで積極的にそうなろうとするだろうし、そうなっている時点でそういう傾向の中で成功するための競争に加わっているわけだが、そこでおこなわれる競争への参加者が多いほど、そういう傾向への凝り固まり具合もより強まるわけで、そういう傾向へとのめり込んでしまった人にはそれ以外の傾向が感知できなくなってしまうから、それ以外の傾向になる選択肢もなくなって、それ一辺倒になってしまうのだろうが、中にはのめり込めない人もいて、そこから適度な距離を保つ余裕があれば、それ以外の傾向も感知できるだろうし、世の中がそれだけではないことも理解できるはずだが、理解できたとしてもそこから利益を得ることしかできなければ、そういう傾向に依存するしかないだろうし、依存せざるを得ない状況の中で生きていれば、そうなるしかないわけだが、それが資本主義経済の中で生きていることの問題点かも知れないが、いったんその中に身を置けばそうなるように仕向けられてしまうから、そういう傾向には抗いようがなく、生まれたときからそんな環境の中にいれば、空気のように意識しなくてもそうなってしまい、誰もがそういう傾向に凝り固まってしまうのも無理もないわけで、それ自体をとやかく言う気にはなれないが、できれば他の傾向も含めてバランスをとりたいわけで、そういう傾向に凝り固まってしまった人に向かってそれ一辺倒になるなと諭しても、聞き入れてもらえないのはわかりきっていることだが、誰もがその中で成功しているわけではないどころか、ほんのわずかな人しか成功していないわけだから、成功していないその他大勢の人たちは、そういう傾向から距離を置いているはずなのだが、成功している人たちの方しか向いていなければ、それに気づかないだろうし、そういう方へと目を向けさせているのが他ならぬメディアであり、それにつられて曲がりなりにも世の中で成功している人は好意的に取り上げるべきだと思えば、それが政治家となると批判したり否定的に取り上げることには抵抗感が伴うだろうし、そういう傾向からもどちらかといえば成功している部類に入りそうな与党的な政治家を好意的に取り上げる一方で、どちらかといえば成功していない部類に入る野党的な政治家をあら探しのようにして否定的に取り上げる成り行きもあるだろうが、もちろんその逆の立場もあって、与党的な政治家のあら探しをしてその否定的な面を強調する場合もあるだろうし、そういう傾向の中で成功することが、必ずしも好意的なことをやったから成功するわけではなく、場合によってはあくどいことをやらなければ成功できない面があるとすれば、実際に成功するにはそういうことをやらざる得なくなり、しかもそれをやること自体が成功できない人には許せないことであれば、それを隠蔽することも成功するにはやらなければならないことになってしまうだろうし、結局後ろ暗いことをやりながら成功するわけで、そうなると世の中で成功した人には必ず人には言えないやましいことをやった過去があることになり、それを隠蔽しようとするからそれが格好のゴシップネタになるのだろうが、そうやって悪事を重ねないと成功できない世の中というのも、それを好意的に取り上げると欺瞞になってしまうわけだから、そういう傾向に凝り固まること自体が功罪半ばする諸刃の剣的な危険を伴っていることになるのではないか。


10月18日「消費者の存在」

 何か思い違いをしているとも思えないとしたら、普通にそう思っているだけかも知れないが、企業が投資するということが、すでに人件費として従業員に賃金を払っていることだとは認識されないだろうし、また商品を造るための材料を買い付けてくることだとも認識されないだろうし、そういったすでに既存の機械や設備を使って商品を造ることが投資とは認識されない代わりに、何か新規に事業を立ち上げるために資金を調達して土地を購入して建物や設備をこしらえる場合には投資だと認識するわけで、さらには株や債権などの金融証券を購入することも投資というわけだが、それら全てに共通することとして、資金を投じて利益を得ようとする行為を投資と呼ぶわけで、その中ですでに通常の業務として日々繰り返されていることは再投資とも呼ぶわけだが、それも投資には違いなく、常に投資していないと企業が成り立たないことは確かであり、企業が作り出してくる物や情報やサービスを消費してくれないと、そこから再投資に必要な資金を得られないわけで、投資する資金を借りてくるなり、株式を発行して調達するなりしても、それは一時的なものだろうし、肝心の事業が継続して行くには商品を買って消費してくれる別の企業や消費者がいないとならないわけだが、それに関して例えば百万円程度の比較的安い軽自動車を十台造るのと、一千万円程度の比較的高い高級車を一台造るのでは、どちらが人件費や材料費がかかるかといえば、普通に考えて一台造るよりは十台造る方が人件費も材料費もかかるはずだが、どちらも売れれば一千万円でしかないわけだから、どちらが儲かるかとなると、一千万円の高級車が一台売れる方が百万円の軽自動車が十台売れるよりは儲かるだろうし、しかも消費者十人に自動車を一台ずつ売るよりも、一人の消費者に一台の自動車を売る方が手間暇もかからないし、それだけ販売コストも安上がりになるだろうから、どう考えてもそれとは逆に価格の安い商品を大量に売る薄利多売の業者の方が手間暇もコストもかかってきて、その中でも手間暇や経費などのコストをできるだけ抑えることができる業者が競争に勝ち抜けるわけで、手間暇や費用などが多くかかるということは人件費もそれだけ多くかかることと同義だろうし、それだけ人を多く雇っていることになるだろうが、そういう分野で競争が激しくなれば、当然コストを削減すると共に人件費も安くしようとして、従業員の賃金を抑制しようとしてくるだろうし、またそれが叶わなければ機械化を促進して従業員の数を減らそうとしてくる場合もあるだろうが、そうなると競争自体によってコストを削減できなかった業者が脱落して、競争に勝ち残った業者の事業規模がそれに伴って拡大する結果をもたらして、効率的で低コストな生産と流通と販売の体制を実現することになるわけで、現にここ三十年でコンピューターの処理能力の大幅な向上によって実現した情報関連技術の発展に伴って産業の傾向がどう変わったかといえば、比較的コストを気にしなくても済むような高級品や奢侈品を扱っている欧米の企業は中国などの富裕層の増加と共に結構商売が繁盛している一方で、コストを気にかけなければならない薄利多売の企業の方は欧米などではアマゾンやウォルマートやイケアなどのようにますます巨大化して寡占化してくると共に、中国やインドなどの企業もそこへ割り込んできたわけだから、その煽りを食っているのが日本の企業だろうし、コストの削減に伴って人件費も削減しなければならない部門でも、機械化して従業員数を削減できない分野では、賃金が低く抑え込まれてしまうわけで、情報関連技術の発展がコスト削減に関してどのように寄与したかといえば、ネット販売などの活用によって流通コストの削減に寄与しただろうし、産業の機械化では世界でも最先端の技術を持っていた日本の企業も、ネットワークの活用では言語的な地域性も災いして、欧米の企業などが先行している世界規模での消費者の獲得に関しては後れをとってしまったのだろうし、もちろん全ての面で後れをとってしまったわけではないものの、例えば企業に部品を供給する部門では台湾や中国や韓国などのメーカーの方が低コストを実現して優位となってしまったわけで、そういう部門でも日本の企業が煽りを食ってしまった面もあるだろうし、そういう面まで考慮に入れるなら、どう考えてみても消費税の導入によって日本経済が駄目になったという単純な論理だけでは説明しきれないわけだが、それ以外でも多様な価値観を持った消費者を育ててこなかったことも災いしているのかも知れず、それについては日本で目立つ傾向として、メディアを通じて何か一つの価値観を一方的に押しつけようとしてくるわけで、コンビニ的かつホームセンター的に商品の品揃えを一つの傾向に統一して、消費者の選択の幅を狭めて繊細な神経を抑圧して、画一的な型枠にはめ込もうとするわけで、そういう傾向がかえって消費者の購買意欲を減退させてしまっているのかも知れないが、それは日本だけではなくコスト削減に伴った世界的な傾向でもあるだろうし、人々がそういう傾向を嫌っているから消費が伸び悩んでいて、それはただ単に貧乏になっただけでそうなっているわけではないはずだが、それも商品を必要以上に買わなくても生きていけるような情勢になっているのかも知れず、そうであるなら人々が消費を手控えてしまうことが必ずしも悪い傾向とも言えず、それで生活が成り立つならかまわないようなことでもあり、それが良いとも悪いとも言えないわけだが、経済が活性化して消費が伸びないと困る人や企業もいくらでもいる中でも、消費者が節約してもかまわないわけで、それ以前に企業でもコストを削減して節約しようとしているのだから、我慢比べな面もあるだろうし、それに加えて行政でも効率化して節約を目指そうとすれば、我慢比べが伝播していると言えるわけで、それで困るような人や勢力が盛んに消費を刺激するようなことをやろうとするのだろうが、そういうことをやっている人や勢力に限って、自分たちに都合の良い一方的な価値観を押しつけてくるわけで、そういう傾向に嫌気がさして消費意欲が減退していることがわかっていないのかも知れず、一方的な価値観の押しつけではなく、価値観の多様性を提示しないとますます窮屈な社会となってしまい、一方的な価値観に締め付けられて不快感が増してくるだけで、結局は一方的な価値観の押しつけを執拗に続けている人たちは、それと自覚せずに彼らが偽りの対立を装っている中国や韓国のような社会に日本を変えたいわけだが、さらにそんな彼らと対立を装っているような人たちも、対立しているつもりの相手と対立するような一方的な価値観を他人に押しつけようとしているわけで、そういう敵対感情の煽り立てが一方的な価値観の伝播や増殖を促しているといえるだろうし、政府の一方的な傾向の押しつけを批判している勢力も、それと対立する一方的な主張を人々に押しつけようとしているのであれば、案外それは彼らが日頃から利用しているコンビニやホームセンターなどの一方的な傾向を肌で感じて影響を受けた結果なのかも知れない。


10月17日「納得しがたい説明」

 世の中では理屈ではわからない現象も度々起こっていることは確かだが、それが起こった後から何らかの理屈を当てはめると納得できることもあるし、その時点ではわからないことが後からわかってきて、それで何とか現象をもっともらしく説明できるときもあるだろうが、辻褄が合わないままでも済んでしまう場合もあり、辻褄を合わせる気が起こらなければそのままとなってしまい、特に思考的な探究の対象とはならなければ、大して疑念も抱かないのだが、疑念を抱きながらも疑念を解消できなければ、疑念を抱いたままとなってしまい、疑念を抱きながらも疑念を解消するために、何とか辻褄を合わせようとすれば、辻褄の合わない理由を探っていることになるわけだが、理由や原因がわかったとしても、それでも辻褄が合わないままとなってしまう場合もありそうで、どうなるにしても辻褄が合わないことを認めざるを得なくなってしまえば、辻褄が合わなくてもそれでかまわないことになるのだろうが、果たしてそんなことがあり得るのかというと、それを明らかにしたいわけで、辻褄が合わなくてもかまわない事例を提示して、その現象を説明したいわけだが、それが具体的にどんな現象であるか明らかにしたいわけだが、それをうまく言い表せずに四苦八苦しているのかも知れず、辻褄が合うようにもっともらしい理屈を持ち出すことをしないで説明しようとして、困難に直面しているのかも知れないが、もとからそんなのは無理なのかも知れないし、無理を承知で辻褄が合わないことにこだわり続けて、おかしな事態に陥っているとすれば、このままでは徒労に終わる可能性も高いが、具体的にそれが世の中の経済的な現象であることを示そうとしているわけで、またそれに対して政治的な方面から辻褄が合うような対応をしようとすることが、いかに間違っているかも示そうとするわけだが、そもそも辻褄が合わないことが納得できないわけだから、それに対する対応が間違っていることを示したところで納得できないだろうし、要するに納得しがたい説明になってしまうのかも知れず、そんな説明では理解してもらえないだろうが、そうならざるを得ないと述べてしまうと、納得できる説明を放棄していることになってしまうだろうし、それではまずいわけで、まずいのにそうならざるを得ないとなると、説明そのものが間違っていることになってしまい、そうなれば説明が間違っていることを認めざるを得ないが、事前に間違っていると認めた上で、それでも説明すると、問題なのは世の中に出回っている通貨の量なのではなく、通貨の使われ方なのであり、通貨が消費に使われるよりも投資に使われる量の方が多ければ、消費に使われる方には通貨が回ってこないだろうし、通貨の供給をどんなに増やしても消費に回ってこなければ、通貨を消費することしかできない人には、相対的に少ない通貨しか回ってこないわけで、ならば政府が消費するだけの人たちに直接通貨を供給すればいいということになっても、消費された通貨がまた投資目的に使われてしまえば、やはり消費するだけの人たちには少ない量の通貨が回ってこないわけで、結局は政府が消費するだけの人たちに延々と通貨を供給し続けても、消費する割合よりも投資する割合の方が多ければ、相対的に消費するだけの人たちは貧乏になってしまうわけで、通貨の供給過多となって物価が上がってインフレになっても、いつまで経っても貧富の格差が解消されないことになってしまうわけで、だから通貨の供給だけで問題を解決しようとする試みはうまくいかないわけだが、しかも消費するだけの人たちは労働することによっても投資目的に使われていて、労働者の労働を消費することによって投資が成り立つわけだから、労働者の労働を消費して利益を出せれば投資に成功することになるわけで、結局労働するだけでは労働によって労働力を消費させられた上に、得られた賃金などの報酬を商品の買うときに消費されられて、そうした二重の消費によって投資の対象となっているわけで、そういう面でも消費する通貨よりも投資する通貨の方が割合が大きいのであり、政府が消費者に通貨を供給するだけでは、それらが投資に回される限りは、何の解決にもならないことになるわけだが、実際に投資しなければ労働も成り立たず、労働が成り立たなければ労働だけで生計を立てている人が困ってしまうわけで、要するに現状の世の中では労働するだけでは貧乏になるのが当然の成り行きになっているわけだが、政府が労働者やその家族に通貨を供給すればするほど、その通貨が回っていく先で投資目的に使われることになり、消費するより投資したり投資目的に蓄積する割合が大きくなってしまい、そこから税として過剰に徴収することになれば、投資が滞って投資の対象となる労働が成り立たなくなる可能性が出てくるだろうし、結局どうやっても問題は解決しないのだが、では誰もが投資する側に回ればいいとも言えないだろうし、たとえ投資する側に回ったとしても投資に成功するとは限らず、投資する側でも食うか食われるかの弱肉強食の現象が起こっていて、投資に成功する割合よりも失敗する割合の方が大きくないと、投資そのものが成功しないわけで、多くの失敗した投資資金を回収しながら投資に成功することになる一方で、投資に失敗した人たちは労働する側に回ることになるだろうし、投資する側が投資資金を得るための労働に使われた上で、さらに商品を買うことによって投資する側に資金を提供することになるわけで、どうやっても搾取される立場から抜け出すことはできないわけだが、投資する側にとっても投資の過程で労働力を消費してくれる労働者と、投資した成果としての商品を買ってくれる消費者を必要としているわけで、労働者と消費者が供給されないと投資が成り立たないわけだが、仮に労働力の大半を機械で肩代わりさせると、それまでに労働した報酬として賃金を提供することによって作り出していた消費者をどうやって作り出すかが問題となるわけだが、ベーシックインカムで作り出すにしてもたかが知れているし、そもそもそういう辻褄合わせは机上の空論に過ぎない可能性があるわけで、結局は投資する側が消費する物や情報やサービスを、投資によって作り出すという自給自足になっていく可能性もあり、そうなるとそれが何のための投資なのかということになるだろうが、投資する側が一方的に投資するだけの立場になっているとも限らず、労働する側の中から資金を貯めて投資の競争に勝ち抜いた者たちが投資する側に回るという成り行きもあり、投資する側の者も元々は労働する側にいた人も多いだろうし、例えば若い頃は労働する側にいて、そこから投資する側に成り上がってきた事例も結構あり、そうした成り上がり者の家族や親族が生まれながらにして先代の資産を受け継いで、はじめから投資する側に入っている事例もあるものの、そうならないように相続税や資産課税などを重くして、富のバランスをとろうとしてもうまくいかないわけで、投資に成功して資産を蓄える者が出てこないと、投資する意欲が減退してしまうだろうし、そうなるのを見越して先回りして対処しようとしたり、うまくいくように調整したり制御するのにも限界があるわけで、結局は不完全な対処法しかなく、そういう不完全な制度や法律の穴や欠陥の隙を突いてうまく立ち回ろうとする者が必ず出てくるから、いたちごっこやモグラ叩きのようならちがあかないこととなるしかないわけだが、それでかまわないとなるとやる気をなくすから、そういった方面では永遠に改善や改革などの対処をし続けるような成り行きとなるのではないか。


10月16日「今できること」

 できないことを夢想するよりもできることをやるというのは現実的に思われるが、できることやるというのも夢想していることであるのかも知れず、できそうなことをやろうとしてもできないことがあるのも事実だろうし、それができるかどうかはやってみてから判断するしかない場合もありそうで、やってみてできなければ、できると思っていたことが実際にはできなかったことになるわけで、できることをやると思っていたことが夢想に過ぎなかったことになるのだろうが、逆にできないと思っていたことができるようになることもあるだろうし、現状で何ができて何ができないかを判断するときには、その判断が正しいか間違っているかも結果的に判断されることであり、何かを主張している中で、主張していることが実現できると断言しても、それが実現できそうに思われても、実際に実現してみないことには、そうした断言が正しかったか間違いだったかはわからず、実現を試みる段階にまで至らなければ、いつまで経っても断言に留まり続けるしかなく、最悪の場合はいつまで経っても主張し続ける段階に留まり続けて、主張を実現するためにそれができるはずだと断言し続けることになってしまい、それが実現できないことを主張者の身をもって示していることになってしまうわけだが、そういう意味でその種の政治的な主張の大半は空約束に終わってしまう運命なのかも知れず、それ自体はありふれていて、そういうものだと解釈しておけばいいことでしかないわけだが、だからといって何かを熱っぽく語るパフォーマンスを真に受けないことが無難であるわけでもなく、真に受けなくてもかまわないが、そういう行為を批判する理由もないのかも知れず、それをやり続けることが今できることになっているわけで、そういう人にとっての今できることが、何かを主張し続けることになるわけだが、主張し続けている限りはその実現を試みる段階には至っていないことになるだろうし、その段階に至らなければ主張を続けることしかできないだろうが、それでは困るわけで、それも主張を実現する気があれば困るということであり、実現する気のない主張をいつまでも続けていたいとは思わないだろうが、またそうしたことを熱っぽく語るパフォーマンスをいつまでも見続けていたいということでもないだろうが、結果的にそうなってしまうと、やはり困るだろうが、もしかしたら結果的には誰も困っていないのかも知れないが、主張を実現するという展開に至らない限りは、それを主張し続けるという今できることをやり続ける成り行きになってしまうわけで、そうならないための現実の方策として用いる手段が、現状の政治的あるいは行政的な領域で実際におこなわれていることであり、それをどう表現すればいいのかというと、大抵の人たちは批判の対象とするか、実際に何かを熱っぽく主張するだけの人にとっても批判の対象となっているわけだが、もちろん体制側の人たちはやっていることの見苦しい弁護や正当化をしながら開き直るわけで、そうせざるを得ないようなことをやらざるを得ないということが、今できることの現状を物語っていて、それだけ何かを熱っぽく主張している人と実際に政治や行政の場でおこなわれていることが隔たっているわけだが、そこからわかることは、実際にできることに関して、それほど多くの選択肢があるわけではないのかも知れず、実際におこなわれていることからそれほど隔たったことができるとは思われず、そう思ってしまうことが正しいか間違っているかも、実際に現状でおこなわれていることから大きく隔たったことをやる成り行きになってみないことには何とも言えないところだが、そんなことができるとは思われないと多くの人たちが思っている限り、何かを熱っぽく主張する人の勢力が主張を実現する機会も巡ってこないだろうが、思いがけないところからそんなことをやる機会が巡ってくることもあり得るかも知れず、それが主張通りのこととは限らず、主張の意図していることから外れたやり方でそれが試される場合もあるだろうし、そういう主張に基づいたやり方では駄目だということを示すために行われるような成り行きになってしまえば、それがそういった主張に基づいたやり方を潰す目的となってしまい、それもそれを狙ってそういうことがおこなわれるわけではなく、結果的にそうなってしまえば、そんなつもりではなかったとしても、そういった主張に反対する勢力としては願ったり叶ったりとなるわけだろうが、そういう思惑がもとからあるわけではないとしても、何かをおこなった結果からそういう思惑があることを想像してしまうわけで、それが結果から語られる物語として都合良く誰かの頭の中で構成されてしまい、そういうことがもっともらしく語られてしまうのが陰謀論的な言説となるわけだが、それも官僚的な組織の中で構成員たちが各々の役割分担に則って行動すると、必然的にそういう結果がもたらされることにもなり、それが政治的な行為に携わる人たちを苦しめることになるわけで、そんな成り行きに巻き込まれてしまうと、その人が事前にどういう考えを持ってどんな主張をしようと、そんなことにはお構いなく機械的にそれらを反映しない結果がもたらされて、そんな結果を渋々受け入れざるを得ないことにでもなれば、その人が事前に思い描いていたことなどは実現不可能な絵空事に過ぎなかったことになってしまうわけだが、それが現状でもたらされている結果の大半であるなら、何か辻褄が合っているようにも思われてしまい、そんな現状に納得するしかなくなるかも知れないが、それに納得できない人が現状に反するようなことを熱っぽく主張しているわけで、それも現状を構成している要因に含まれるだろうが、それとも違った視点があるかとなると、たぶん新自由主義的な見地からすれば、現状よりもさらに政治的あるいは行政的な権限や権力が及ぶ範囲を狭めたいわけで、相対的に企業の力を強めて政府の力を削りたいわけだが、政府の中で主導権を握っているつもりの勢力からすれば、やはりそうなってしまっては困るはずだが、自分たちにすり寄ってくる企業関係者がそれを狙っているとは思っていないだろうし、企業関係者の方でも政府を利用したいわけだから、あからさまに政府の力を弱めようとは思っていないだろうが、少なくとも利用価値のある政府ではあってほしいだろうし、あまりにも政府の力を削ぎすぎて、企業にとって利用価値のない政府になってしまっては困るはずだが、双方共に主導権争いをやっているつもりもないだろうし、政府や議会の与党などが敵視しているのは企業などではなく、議会の野党勢力であるはずだが、野党勢力の方でも政府や議会の与党や経済界やマスメディアなどが利害共同体となって一体化していると見なしたいだろうが、たぶん根本的なところで政府と企業とは組織として競争関係にあるのかも知れず、そんなのは思い違いで勘違いもいいところであり、政府の方が圧倒的に優位な立場であるのは火を見るよりも明らかなように思えるかも知れないが、それでもなお政府の力をできるだけ削ぐのことが、新自由主義的な見地からすれば、現状の中で今やるべき妥当な戦略となるのかも知れない。


10月15日「的外れなこと」

 時事的な話題に関して何を語ってみても、それに関する情勢分析から抜け出せず、それでかまわないとしても、日々の話題や出来事に気をとられているうちに、見逃している世の中の動きや状況があるかも知れないし、それを察知するにはどうすればいいかと問われても、確立されたやり方があるわけでもないが、やろうとすれば暗中模索になってしまうのは仕方がないにしても、それをどう表現すればいいのかわからず、わからないことを意識しながら語っているとしても、何かそれが的外れなことを語っているように思われてしまうわけだが、それだけでもメディア上で語られている主流の言説から外れたこと語っていることになるわけだが、一方で主流の言説にも疑念を抱いていて、それがあるから意識して外れたことを語ろうとしてしまうのだが、語ろうとしても語れないこともあるだろうし、語りようのないことを語ろうとして、結局語り得ないことに気づいて、語るのを断念してしまう場合もあるだろうが、そうなるからといって現状で語れることを語ろうとすれば、メディア上で語られている主流の言説になってしまうわけだから、そういうことしか語れないような成り行きに応じて語ろうとしているのかも知れないし、だからそれについて語っていればいいのだろうが、それについてはメディアが語るための話題を提供していると考えておけばいいだろうし、実際に政治の領域からも経済の領域からも社会の領域からも時事的な事件や出来事などの話題が提供されているわけだが、それら以外に何か語る必要があるのかといえば、必要があるから語るのではなく、そうなっている時点ですでにメディアによって語らされてしまうわけで、そういった語らされてしまっている状態から抜け出して語る必要があるのかといえば、そんな必要はないわけで、必要もないのに語ろうとすれば的外れになってしまうのは当然のことだが、それもそういう成り行きになってしまうわけだから、致し方のないことなのかも知れないが、意図してそれを狙っているわけではなくても、自然にそうなってしまうとすれば、それについて語らざるを得ないのかも知れないし、果たして語らざるを得ないことを語っているのかといえば、その必要もないのだからそうではないわけで、語り得ないことや語らざるを得ないこととは違うことを語っている可能性もあるとすれば、そこで語らざるを得ないことがメディアから提供されている話題であることは明白だろうが、では語り得ないことが何かといえば、それがそれ以外のことであるとすれば、普通に考えてそれ以外のことは語り得ないわけで、語り得ないことを語れるわけがなく、それでも語ろうとすれば、的外れになってしまうのも当然のことであり、メディアが提供する的を外れているのだからわざと外しているわけではないものの、成り行き上そうなってしまうわけだから、的を外れたところに何があるとしても、その何かを探していることになるのかというと、それを探し当てられるかどうかが問題となっているわけでもないが、それを探し出す成り行きになっていることは確かであり、探しながら何か的外れなことを語っているわけだが、その的外れな語りの内容こそが探している当のものであるはずがないとしても、そこに的を外す力が働いている可能性もあるわけで、その力が何かといえば、そこへと引き寄せられてしまう引力のようなものなのかも知れず、それが何かはわからないままなのかも知れないし、そんなものなどもとからありはせず、ただの空虚な真空地帯へと引き寄せられているだけかも知れないが、語る在り方としてはそんな姿勢でいる方が些細なことに惑わされずに正気を保っていられるのかも知れないし、それが正気なのかというと、それよりは素直にメディアが提供する話題に応じて語る方が、世間的には正気であるように見られるかも知れないが、正気であるように見られることと正気を保つことは違うのかも知れず、世の中が狂気に包まれている中で正気を保つには、逆に世間的に見れば正気とは思えないようなことを語っている方が、正気を保つには必要なのかも知れないが、果たして現状の世の中が狂気に包まれているのかといえば、狂気というよりは、そうなってしまうのが当然のことのように思われてしまい、それを狂気の沙汰だとは誰も思わないことの中に狂気が潜んでいると述べるのもおかしいが、正気でやっていることが正気の沙汰でないようなことをやっているのだとすれば、具体的に何がそうなのかといえば、すぐには何も思いつかないどころか、現状でおこなわれていることの全てがそうであるはずもないことであり、それを正気の沙汰でないとか狂気の沙汰だと見なすこと自体が世間的に見れば的外れであって、世の中で普通におこなわれていることは、正気の範囲内でおこなわれていることに過ぎないわけだが、そういうことが普通におこなわれるための仕組みとか制度とかが確立されていて、そうした仕組みや制度に則っておこなわれていることが、普通におこなわれていることである一方で、そうした仕組みや制度から外れて、仕組みや制度を凌駕するようなことをやろうとすれば、それこそ正気の沙汰でないことや狂気の沙汰となってしまうのであり、それらを凌駕しようとするのではなく、それ以下やそこに至りもしないことをやっていれば、それで何とか正気を保っていられるのかも知れず、やっていることが的に至るまでに達せず、要するに成功しないわけだが、成功に至らないことをやっている人などいくらでもいて、成功に至らないからこそ正気を保っていられるわけで、逆に成功してメディア上で脚光を浴びてしまえば、そこから先は正気の沙汰でないことをやらざるを得なくなって、やっていることの何もかもが過剰な反応をもたらして、そういう反応にいちいち対応していると、意識が狂気に包まれてしまい、正気でないような心理状態となってしまうのかも知れないが、そこまで行かないと世間的な意味で成功したとはいえないのかも知れず、そんな意味で政治や経済や学術やスポーツや芸能などの分野で成功した人たちは、何かしら狂気に取り憑かれている面があるのかも知れないが、他の人々の期待に応えようとするからそうなってしまうのかも知れず、それが人々の夢や幻想や妄想などを実現することであるとすれば、そういった夢や幻想や妄想などの中に狂気が潜んでいることになり、それ自体が普通の状態から隔たっているわけで、そういう状態を避けようとするのではなく、普通の成り行きに従っていれば、そういう状態にはならないのかも知れないし、わざわざ的外れなことを語ろうとしなくても、メディアが提供する世の中の話題について素直に語っていれば正気を保っていられるだろうし、それだけで済んでいるうちは何の問題もないわけだが、そこから疑念や疑問が生じてくると、だんだんそれだけでは済まなくなってきて、そこから的外れな領域へと語る内容が逸れていってしまうのではないか。


10月14日「毅然とした態度」

 今まで経験してきたこととこれから経験することが地続きで連続しているように感じられるのは、過去の経験から導き出された教訓の類いを、これから経験していく中で生かそうとしていることの表れかも知れないが、それが未だかつて経験したことがない事態であれば教訓など生かしようがないが、かつて経験したことと似たような面を感じられるなら、そこで過去の教訓を生かそうとするだろうし、そんな気になって絶えず過去の経験との類似点を探し出そうとしまうわけだが、勘に頼りすぎると誤ってしまうから合理的に考えようとして、物事の正しい筋道を探り当て、それに基づいてこれからやるべきこととやってはならないことを決めてしまえば、後は実践あるのみに思われるかも知れないが、そういう単純な割り切り方ができない場合もあるだろうし、やろうとしていることに関して疑念を拭い去れなければ、絶えず用心してかかるに越したことはないとも思うわけだが、やるべきことややってはならないことを決めてかかるのは、迷いを振り切りたいことの表れかも知れず、そういった試行錯誤や紆余曲折を嫌う単純思考の持ち主についていく気になれるかというと、確かに気の迷いの感じられない潔さには惹かれるだろうが、どんな状況下でもそれ一辺倒になってしまうようだと危うく感じられるだろうし、人の群れを統率するリーダーとしては、そういう面が欠かせないようにも思われるだろうが、いつでもそういう役回りの人が必要とされるわけでもないとしても、多くの人がそういう人が主人公の物語に慣れ親しんできた経緯もあるかも知れないし、そんな経緯からその手の人材が必要とされているような気がすると共に、中にリーダー的な立場を担おうとして、そんな役柄を自然に演じてしまっている人もいるのかも知れず、やっていることの中身より、そんな人の毅然とした見せかけの態度に惹かれて、そんな人やそんな人が代表となっている政治勢力を支持してしまう人も多いのかも知れないが、政党などの代表者となれば誰もがそんな役柄を演じてしまうから、それだけで支持する政党を決めるわけでもないだろうが、支持していることの言い訳としては、毅然とした態度でやるべきことをやっている印象がものを言うだろうし、何よりも敵と戦う姿勢を見せることや敵を排除する決断を下すことが求められるだろうし、そんなことをやっているように装うことが、群れのリーダーとして頼もしく見えることの必要条件かも知れず、それが英雄的な行為に見えてしまうところが、その手のフィクションや歴史物語などから得られる幻想なのだろうが、そんな英雄幻想に取り憑かれて敵と激しくやり合っている姿をメディア上にさらすのも、宣伝効果を期待してやっていることだろうが、その一方で物事の正しい筋道に沿ってやらないと、かえって逆効果となってしまうのかも知れないし、そんな見せかけの演技を見せられている人たちがそこまで気づくか疑問な面もあるだろうが、少なくとも知性を持ち合わせていない人たちは、やっていることの中身よりは、リーダー格の毅然とした態度や決断に惹かれてしまうわけだが、そういう成り行きの中で過去の教訓が生かされていない面があるとしたら、何がそうなのかといえば、過去の独裁的な政治家の類いが毅然として敵と戦う態度を貫いた結果がどうなったかとか、そういう態度が民衆を熱狂させた結果がどうなったかとか、そういうところから教訓が生かされていない面が導き出されてしまうわけで、それでもかまわないのかも知れず、現状でも充分すぎる教訓話が構成されてしまうのかも知れないが、そんな教訓話も物語として慣れ親しんできた経緯もあって、そういうことまで含めて、その手のフィクションや歴史物語から得られる幻想だろうし、今までに経験したことの延長上で語られることでもあり、現状でおこなわれていることにそんな幻想が付着していて、それが箔付けとなって、何やら大げさなことがおこなわれているような気がしてしまうわけだが、それが意外とメディア上で騒ぎ立てるほどのことでもないとしても、成り行き上は騒ぎ立てられるわけで、そうなることを狙っているわけではないとしても、成り行きとして騒ぎ立てないわけにはいかないことでもあり、その裏で誰かが暗躍しているとか、陰謀が巡らされているとか、そういうことまで含めてその手の報道には箔付けが施されていて、そこに物事の本質があるような気がしてしまうのだが、実際に何か重要な事実が見つかるかも知れないし、それに関してもっともらしいことが言えるかも知れないのだが、それも世の中でおこなわれていることの延長上で、その程度のことならやってもいいだろうという判断に基づいてやっていたりもして、そういった世間の常識に照らし合わせて妥当に思われることが、意外と物事の正しい筋道から外れたことにでもなれば、世間の常識の方が間違っていることになるわけだが、そうなると世間の常識に慣れ親しんでいる人からすれば納得しがたいだろうし、世間の常識と物事の正しい筋道とが背理してしまうとすれば、世間の常識に抗って物事の正しい筋道を示さなければならない事情が出てくるわけで、そういうことをやってきたのが哲学者や思想家や宗教家の類いとなるわけだが、それが政治家となると民衆の味方を装って世間の常識に追従することになるのか、あるいは毅然とした態度で、哲学者や思想家や宗教家のように、世間の常識に抗って物事の正しい筋道を示すのか、どちらの態度を選ぶかが、政治家としての真価が問われるところかも知れないが、その一方で学者というのはどちらかといえば、哲学者や思想家や宗教家に近いのかも知れず、そうなると当然のことながら世間の常識に抗って物事の正しい筋道を示すのが使命だと思っているだろうし、そういうところで学者の真価が問われるとすれば、これも当然のことながら政府に与する御用学者の類いなどは、権力の番犬に成り下がった学者の風上にも置けない愚劣な存在だと思われるし、排除されるべきはそちらの方であり、そういう毅然とした態度が世間の常識に照らし合わせてどうなのかといえば、どう考えても物語的な幻想から導き出されるのは、権力に抗う反骨精神を持ち合わせた学者こそが真の学者であると思われるのではないか。


10月13日「行政の効率化」

 何かの隙を突いて功利的な追求をする時には、まだ目的化が起こっていないのだろうが、功利的な追求をする制度や仕組みを構築することになってしまうと、功利的な追求の目的化が完成してしまうわけで、それだけに凝り固まってしまって、それ一辺倒の体制が出来上がってしまうのだが、それ一辺倒だからこそわかりやすく、それに関しては多くの人々の間で利害が一致するのだろうが、それだけでは済まなくなることもわかりきっていて、うまくいかない面は不問にするのだろうが、結局は不利益を被って文句を言ってくる人を黙らせようとするわけで、そういう行為に関して何が欠けているのかというと、それ一辺倒で押し切ろうとするわけだから、すでに無理なことをやっていて、無理を押し通そうとするにはそれ相応の犠牲を必要としていて、敵ではなく味方の中からそれなりの数の犠牲者が出ることが考慮されておらず、もちろんその程度のことは事前に承知していて、ついてこれない人は見捨てられてしまうのだろうが、欠けているのはそんなことではなく、それでうまくいっている気になれるわけで、実際に無理を押し通している間はうまくいっているのだろうが、うまくいっていればそれでいいはずだとしても、逆にうまくいっていない方がいい場合もあり、そういうところが納得しがたいだろうが、制度の運用に関して運用している側の都合を優先させれば公平さを欠くだろうし、それもわかりきっているだろうが、公平さに関して配慮してしまうと、都合の良いことばかり言っていられなくなって、制度を運営する側に求心力がなくなってしまうわけだが、それは功利的な追求の目的化に問題があるのだから仕方のないことであり、制度を運営する側がそれをやってはまずいと言われても、そういう目的で制度を運営していればそうなるしかないとしても、公平さに配慮してしまうと制度の運営がうまくいかなくなり、制度がうまく機能しなくなってしまうのだろうが、それでかまわないと言ってしまうとおかしいわけだが、そこで危うい均衡を維持しなければならないわけで、制度を完成させてしまうとそこで終わってしまい、後は制度内が腐敗する余地しかなくなって、それを避けるには絶えず制度を構築している状態に保たなければならないわけだが、それがわかりづらいだろうし、そうではなく制度を何らかの状態に固めたくなってしまうわけだが、固めてしまうとわかりやすくなるが、わかりやすくなってしまうと制度自体の問題点も明らかになってしまうだろうし、問題があるのに無視して押し切ろうとすれば、そういった強権的な行為が批判を浴びるのも当然のことだが、そうなることを承知の上で強権的なことをやらざるを得ないのであり、それは制度が何らかの傾向に凝り固まっていることから生じる結果なのだろうが、制度を運営する側としてはそういうことをやっていたいわけで、面倒なことは避けて単純な運営に終始していれば楽に感じられるわけだが、それと引き換えにして無理なことをやり続けることになるわけだから、確かに運営は楽だがそれだけ運営する側にも制度を利用する側にも、それ相応の負担がかかってくるわけで、その負担にどこまで耐えられるかの我慢比べをやらなければならず、そういう制度に世の中が支配されていると、そこからの脱落者も後を絶たなくなるわけで、それだけ世の中が荒廃した状態になるのだろうが、それでも制度を運営する側としてはうまくいっていることになるわけだから、そういうことをやり続けたいわけだが、脱落者が多くなってくると制度に頼らない生き方をする人も多くなってきて、制度そのものが形骸化してきて、制度を運営する人や団体の世の中への影響力も低下してくるだろうが、制度内では相変わらず強権的な行為をやっていられるわけだから、それにかかわっている人や団体の間では、依然として支配的な影響力を維持していて、その範囲内での強権体制が成り立っていることになるわけだが、要するにそれは北朝鮮的な体制に特有な傾向となるわけで、もっと広い範囲で中国やロシアでも強権体制が成り立っているように見えるかも知れないが、それらの体制からの脱落者を世界中で受け入れている現状もあるだろうし、絶えず脱落者が出る過程が進行中だと認識しておけばいいのだが、脱落者が出ないようにするにはどうすればいいかと考えるよりは、脱落者を受け入れるような制度を作らなければならないと普通は考えるわけで、それが強制収容所のような制度となるわけだが、アメリカやオーストラリアのように、脱落者を受け入れた場所が一つの国家として形成された事例もあるものの、他にも刑務所や精神病院や老人の介護施設など、脱落者を収容する施設が結構あるのだろうが、そういった施設が多いほど、社会に許容力がなくなっている証拠となり、それだけ世の中を支配する制度に柔軟性が欠けていることになるわけだが、制度だけで世の中が成り立っているわけでもなく、制度に頼らずに生きていければいいとしても、全く頼らずに生きていくことは不可能かも知れないし、現状でも大抵の人は複数の制度を利用しているだろうし、一つの制度だけでは足りないところがあるにしても、複数の制度を同時並行して利用できれば、足りないところを補いながら何とか生きていけるわけで、そういう意味でも一つの制度の中でいくら強権的な支配体制を確立しても、それだけでは何がどうなったことにもならず、また強権的な支配体制を確立するために全ての制度を一つにとりまとめようとすれば、社会全体が北朝鮮化するしかなく、それこそ多数の強制収容所が必要となってきてしまうだろうが、要するに強権的な支配体制を確立することと行政機構の改革とは別問題であり、むしろ真逆の傾向さえあるのかも知れず、行政機構の妥当な在り方を目指すには、まずは強権的な体制を取り除くことが必要であり、権限や権力を一つに集中させるのではなく、逆に分散化させて、どこに権力の中心があるのかわからない方がいいだろうし、また行政機関そのものは単に事務処理を専門におこなう機関へと特化して、何の権力も権限もなくせば無駄が省けるわけで、それとは反対に権限や権力が集中しているからこそ、そこへ人や物やカネが集まってきて、機構を肥大化させてさらに権限や権力を強化しようとしてしまうのであり、それでは行政の効率化に逆行してしまい、機構内部での地位や身分の階層化や権力闘争ばかりに無駄な労力が費やされてしまうことになるのかも知れない。


10月12日「統治する意志」

 誰の言いなりになっているわけでもないと思うのは、誰もが思うところかも知れないし、自らの意志で行動していると思いたいだろうが、誰の言いなりになっていなくても、守るべき規範があり、世の中の慣習に従っている面もあるだろうし、自然にそうなっていれば、そういう方面では無自覚なのかも知れず、何かの言いなりになっていることに気づかないこともありそうで、それを言いなりとは普通は言わないのだろうが、それが悪いことだとも思わないし、自然にそうなっているなら特に何を問題視することもないわけだが、自らの意志の言いなりになっているわけでもなく、意志が何かの言いなりになっている場合もありそうだから、意志に逆らって何かをやろうとすることもあるのかも知れず、普通は何かを求める欲望を意志の力で抑え込んでいるのかも知れないが、その辺のところは意識の中で複雑に理性と感情が入り組んでいて、何をどう表現してみてもしっくりこない場合もありそうだが、意志の力にまかせて強引に何かをやろうとするのではなく、自然に何かをやるように押し出されてくると、それをやる成り行きになり、それをやりたいともやりたくないとも思われなければ、自らの意志に従っているわけでも逆らっているわけでもないことになり、他の何かの言いなりになっているとも思われなければ、全ての行為がそんな成り行きからおこなわれるわけではなくても、自然に何かをやる機会が巡ってくることもあるかも知れず、その機会を逃さなければ、そこで何かをやることになるだろうが、それが自他の意図や思惑にとらわれずにやることになれば、その場の成り行きでそんなことをやっていることになるのかも知れないが、やる機会を逃してしまうことがあれば、自らが守ろうとするこだわりに惑わされて逃してしまったのかも知れないし、他人に邪魔されたのかも知れないが、他にも色々と機会を逃してしまう要因があるとしても、それもその場の成り行きだと思っておけば、その機会ではなかったことになるのかも知れず、中には執念深くその機会を狙っている場合もあるかも知れないが、いくら機会をうかがってもその機会がやってこないこともある一方で、不意にやる機会が巡ってくれば、それをやる準備ができていなかったりして、ぶっつけ本番でやってもうまく行く場合もあるが、その時の成り行き次第でうまくいったりいかなかったりするにしても、結果的にそれをやってうまくいけば、機会を捉えてやるべきことをやったような気になれるだろうし、うまくいかなければまだその機会ではなかったと思うしかないが、そんな場合でもそれほど自らの意志を意識しなくてもいいのかも知れず、そこで何かをやるに際して介入してくる要因の一つとして、自らの意志もあるぐらいに思っておけば事足りる場合もありそうで、逆に自らの意志を意識してしまう場合には、それをやらなければならないと切実に思ってしまい、そう思うと何はともあれ強引にやろうとしてしまうわけで、それが失敗の素となるのかも知れないが、そういう時には焦っていることを自覚できるだろうし、焦っているのを自覚しているのにそれをやってしまって失敗するわけだから、失敗すべくして失敗するようなことをやってしまうわけだが、それもその場の成り行きであれば、避けられない運命なのかも知れず、失敗を避けようとして避けられないような場合には、失敗を受け入れるしかなく、そういう場合は失敗する機会を逃さなかったことになり、何かをやる機会を逃さずにやることの中にはそういう機会もあるわけで、それも結果として受け止めるしかなく、その後の機会にその時の経験が生かされることが期待されてしまうわけだが、機会を生かす機会がやってこない場合もあるだろうが、機会がやってきてもそれを意識できなければ生かされないままに終わってしまうか、意識しなくても無意識のうちに生かしている場合もありそうで、そういう場合もいちいち意識しなくても自然に対応できていればそれでかまわないわけだが、自然に対応できないような成り行きになるとすれば、欲が出てしまうからであり、そうなると意志の力で欲が出てしまうのを抑え込もうとしたり、その場の情勢に応じて欲の出方を調節するようなことにでもなれば、やっていることがうまくいっていることになるのかも知れないが、そうなってしまうともはや自然の成り行きでやっていることにはならず、恣意的な調整と人為的な管理と共に意図的にそんなことをやるわけだろうが、それが管理や調整などを伴った統治のあるべき姿だと思ってしまうと、勘違いを含んでしまうのかも知れず、そこには常に管理や調整を免れてしまう面があって、それが自然にそうなってしまう面であり、偶然の巡り合わせでそうなってしまう面でもあり、そういうことまで管理も調整もできないわけで、そういう面までも考慮に入れた統治の在り方というのがあるかとなると、それは統治対象とはならないわけだが、そういう意味で統治しようとする意志には限界がつきものなのかも知れず、統治できないことには首を突っ込まない方がいいのだろうが、そういう面までも考慮に入れた統治には常に統治が破綻する危険性を考慮に入れておかなければならないとしても、たぶん統治にはそれ以上の危険もあって、統治するということは統治しすぎることと同義であり、統治しようとして統治を進めていくと絶えず統治しすぎてしまい、それが管理の行き過ぎであったり調整をやり過ぎてしまうわけで、管理が過剰におこなわれると自由がなくなり、調整をやり過ぎると談合体質になってしまい、どちらにしても自然からの反発や反抗が強く出てきて、それが人々の意志となって世論や民意を形成するようになるわけで、そういうことまで考慮に入れるなら、統治には統治を緩めることも必要となってくるわけだが、どのように緩めるのかとなると、人々の自由意志にまかせることになるのかも知れないが、意志に自由があるわけがなく、意志は欲望に拘束されていて、意志の力で欲望を調節しているつもりでも、欲望を調整してうまくやろうとする欲望があるわけで、欲望を制御して支配しようとする意志こそが欲望の統治に結びつき、それが統治そのものであるなら、そこに全てを統治しようとする意志が現れているわけだが、またそれが統治して支配しようとする欲望の表れでもあるわけだから、まさに欲得尽くの統治を表していることになるのだが、それを打ち砕くのが自然の狡知なのかも知れず、自然に導かれて誰もが自身の欲望に忠実に行動すれば、調整も管理もままならなくなって統治が破綻するわけで、無為自然ではうまくいかなくなってしまうと思われるわけだが、それがホッブス流の思想の浅はかなところであり、そうなるところでは慣習の力が働いてきて、慣習に支配された社会が形成されて、慣習の力が慣習に逆らう力を抑え込んでいる限りで社会が安定するだろうが、その一方で慣習に基づいて法律も制定されて、そこで法治主義が成り立っているようにも見せかけられて、理性を納得させようとするのだろうが、慣習にも合理性が考慮されていない面があるから納得させるには至らず、さらにそこから合理性の論理を突き詰めようとすれば統治の行き過ぎをもたらして、またそれも統治がうまくいかない原因となるのではないか。


10月11日「代表者の権限」

 何かの手の内で踊らされている感覚が、それに関してすぐに思いつくことかも知れないが、何に関してそう思うのかというと、それがうまく言い表せないのであり、そうとしかいいようのないことに関して、自らがそうなっているかも知れないし、他の誰かもそうなっているのかも知れないが、実際には誰もそうなっているわけではなく、そんなのは嘘かも知れないし、誰も踊っていないのではないかとも思ってしまい、そんな思いつきが疑わしく感じられてしまうのだが、またそれが何の手の内なのかというと、それもうまく言い表すことができず、それでは何を述べていることにもならなくなってしまうが、それがいつもの何でもないことであれば、何かの決まり文句のようにしてそんなことを述べているまでだが、それに関して無理に述べるとすると、たぶん何かに対する真摯な姿勢というのが誰かが演じていることになるのだろうが、真摯な姿勢そのものではなく、それを演じていることになると、何か違和感が伴ってきて、嘘かも知れないと一瞬思ってしまうのだが、嘘ではなくそれが真の姿なのかも知れないし、誰もが何かを演じているのが真の姿であって、それ以外にはあり得ないのではないかとも思ってしまうわけだが、真の振る舞いが演じていることでしかないとすると、社会そのものが演劇空間となっていて、誰もがそこで何らかの役柄を演じているに過ぎず、それが真の自分だと思い込んでいるに過ぎないのではないかという疑念が湧いてくるわけだが、それこそがありふれた思い込みであり、何かの手の内で踊らされながらそんな疑念を抱いてしまうのかも知れず、それで何か手の込んだ策略に引っかかっているわけでもなく、そこから目を覚ませと何かに促されているわけでもないのだが、それを強引に具体的な事物に結びつけて語ろうとすると、やはり嘘になってしまうような気がしてしまうわけで、行き詰まりの原因が特定の個人にあるわけではなく、団体を構成する組織的な官僚機構に問題があると言ってしまうと、官僚機構の動作とは相容れない人にはその通りに思われてしまうわけだが、そんな官僚機構に支えられながら、まるで張り子の虎のような見せかけの標的として、特定の人物が政府や地方自治体の代表者として物事の前面に出てくると、官僚機構を代表する人物を攻撃しなければならなくなり、そんな標的を攻撃しているうちに、標的が長年の攻撃にさらされて傷ついて劣化してくると、新しい標的と取り替えられて、またその新たな標的に向かって以前と同じような攻撃が加えられる成り行きになるだろうが、政府や企業や政党や宗教団体なども、規模が大きくなるにつれて団体を管理運営する官僚機構が幅を利かせてきて、団体を代表する特定の人物の意のままにはならなくなるように思われるが、だからといって団体内の特定の人物が発言することには変わりなく、その人物が権力を行使しているようには見せかけられるだろうし、それが見せかけられているだけではなく、本当に権力を行使して何らかの決定を下すわけだが、その決定がおかしいと外部からの批判にさらされることがあるにしても、それが官僚機構の意向に沿った決定であれば、たとえその人物の意志で決定を下したとしても、官僚機構と一心同体の様相を呈していれば、どんな決定を下しても官僚機構を利する決定を下したことになり、それが団体の管理方針に沿ったことをやっていて、団体の代表者としては当たり前の動作となるわけだが、それによって何か不都合が生じてきて、管理方針とは相容れない何かが団体の内部で生じてくることになれば、それを排除するような意志決定が代表者の名前で下されるにしても、それが団体内の規則に照らし合わせてみてもおかしな決定であると、官僚機構やその意を汲んで動作している代表者にしても、団体の公共的な在り方を逸脱したことをやっているわけで、そんな状態が自家中毒的な様相を呈していることになるのだろうが、団体の利害しか念頭になく、そればかりを優先させてしまうと、外部の人や団体との交渉や取引がうまくいかなくなり、それが外部の人や団体との間で利害調整を怠っていることになるわけだが、団体の内部を官僚機構の意向に沿って管理しすぎると団体内の規則までも逸脱したことをやる羽目になってしまい、さらにはそれに伴って外部の人や団体との対立や軋轢も高まって、そうなると団体自体が自滅の兆候を見せ始めていることにもなるだろうが、官僚機構の意向に従ってしまうとそれがわからないだろうし、官僚機構といってもその代表者が意のままに制御できるようなものではなく、機械的な動作に従うしかない面があり、それが制度的な動作とも言えるわけだが、それが団体を拘束する制度そのものを空洞化させる動作にもなり、団体を腐敗させる動作にもなるわけで、そういう諸刃の剣的な特性が団体を構成する官僚機構にはあり、そうなってしまう成り行きを団体の代表者が止めることができるかとなると、官僚機構の意向に沿った動作をしている限りは無理であり、そうかといって官僚機構と全面対決してしまえば、代表の座を追われてしまう可能性が高まるだろうし、どちらにしてもうまくいかないことは覚悟しておく必要があるかも知れないが、逆にギクシャクした関係を保つ必要もあるのかも知れないし、馴れ合いの関係になってしまうと官僚機構に籠絡されてしまったことになるだろうし、官僚機構を構成する個々の官僚たちも機構全体に籠絡されてしまっているわけだから、代表者であってもそのうちの一人となって機構と一体化してしまえば、やはり官僚機構の意向に沿った動作しかできなくなってしまうわけだが、それが見せかけの機構改革のようなことをやり始めてしまうこととも重なって見えてしまうと、何か見え透いたこけおどしのような体裁となってしまうわけで、枝葉末節なところばかりつついてお茶を濁しているみたいなことをやっていると、改革の本筋から外れていると思われてしまうわけだが、根本的には組織内の必要悪として官僚機構があるだけで、機構内の役職を減らして事務的な作業を合理化すれば、自ずから官僚機構の力も弱まるはずだが、それを阻むように動作するのが官僚機構の特性と言えるわけで、意向に沿ったことばかりやっていると自然に機構が拡張して膨張するのを阻止できなくなるわけだが、それとともに機構内の空洞化や腐敗も進行していくわけだから、そんな成り行きを客観的に見れば、自滅の道を歩んでいることになるわけで、そうなってもすぐに自滅するわけでもなく、かなりの長い期間にわたってゆっくりと事態が進行すると共に、関係する周囲の人や団体にもそういった傾向が伝播して、何か不快な気分にさせるような印象を抱かせているのが現状だとすれば、何かしっくりくるように感じられるのかも知れない。


10月10日「間違った判断」

 結果が悪ければ間違ったことをやっていたと判断されてしまう以外に、何をやってもうまく行かない場合もありそうだが、だからといって下手に介入するよりは何もやらなくてもうまく行くかも知れないと考えるのは、ただの願望に過ぎず、介入したくないという思いを正当化したいだけかも知れないが、何もせずに傍観しているだけで状況が悪化するなら、悪化する状況を何もせずに放置したのが悪いことにされてしまい、何をどう判断しても結果から判断すれば何とでも言えてしまうだろうし、結果が悪いとは必ずしも言えなければ、悪い結果がもたらされたと決めつけることから、悪い結果をもたらした犯人捜しをしてしまうことが、そもそも間違っている可能性もあるわけで、こんなふうに述べてしまうと、屁理屈をこね回しているだけのように思われるかも知れないが、それが戦略的な決めつけであっても、それ以前にそういった決めつけを利用してうまくいった前例があれば、それを真似してそういうことをやってしまう人も出てくるだろうし、そこで人や団体の行為や活動が作用や影響を及ぼし合いながら絡み合っていて、それを全面的に支持したり支援する気になれなければ、まだ直接の介入をためらっていることになるだろうし、ためらうも何も端から相手にされていなければ、傍観しているだけでもかまわないわけだが、何かしらそれに言及するようなことがあれば、間接的に触れていることにはなるだろうし、その戦略的に主張しているように思われる内容に賛同できないわけだから、何かそれとは違う意見を持ち合わせていることは確かであり、それを直接表明すればわかりやすいだろうが、なぜそうしないのかといえば、それとは違う意見にも疑問を抱いているからだが、何かをやった結果が思わしくないからといって、しかもそれが間違いだったと指摘されているにもかかわらず、やはりそれをやらざるを得ないような成り行きになっているとすれば、実際にそういうことをやってしまうわけで、そういうことをやってしまった結果として現状がもたらされているとすれば、そんな現状は認められないとしても、認められない立場を表明しようと、現状が現状のようになっていることは認めざるを得ないだろうし、それを認めた上で間違ったことをやったから現状がもたらされたと批判するのだろうが、それがわかりやすい主張であるにしても、そういう主張には賛同できないわけで、主張としてはそれでかまわないとしても、実践としてはそうはいかないと思われてしまうのであり、間違っていたとされる行為以前の状況には戻しようがなく、それよりは現状を認めた上で、現状の中で現状に沿ったことをやろうとするわけで、しかもそれが結果から見れば間違ったことだと見なされてしまう可能性もあるわけで、そうなればそういうやり方では結果的に間違ったことだと見なされてしまうようなことしかできないわけだが、それでもそういうことをやろうとしてしまうわけだから、実践自体がそういう成り行きの中でしか可能でないことがわかってしまうわけだが、実際にそんなことをやってうまくいかなければ、結果的に間違ったことをやっていたと判断されてしまうわけだから、そういう判断に基づいた主張をする側はいつでも正しいことを主張していられるにしても、間違ったことだと判断されてしまうようなことをやらざるを得ない側としては、うまくいかないなりにもそういうことしかできないわけだから、うまくいかないことをやり続けるわけで、またそれを批判する側はそれが間違っていると批判し続けるわけだが、うまくいかないことをやり続けられるという事実が、それを間違っていると批判し続けている人たちがどう受け止めるのかというと、このままでは大変なことになると騒いで、近い将来においてやっていることが破綻して、やり続けられなくなると主張するしかないだろうし、延々とそんなことを主張し続けるしかないわけで、それもうまくいかないことをやり続けられる成り行きに含まれているわけだが、批判する側も批判される側も現状の成り行きに沿ったことをやり続けていると見ておいた方がいいだろうし、それらは現状ではやらざるを得ない行為なのかも知れないが、それ以外に何ができるかというと、普通はうまくいく行為を模索するわけで、どうやればうまくいくのか試行錯誤するわけだが、それがやり続けられるとも限らないだろうし、うまくいかない行為ならやり続けられるが、うまくいく行為ならやり続けられないとなると、普通は逆なのではないかと思うところだろうが、要するにそこで判断が間違っているわけで、現状でやり続けられていることを間違っていると見なすことが間違っているとすれば、うまくいかない行為をやり続けているのではなく、現状でやり続けられているのだからうまくいっていると見なすしかないだろうし、またそれを間違っていると批判し続けていることも、現状で批判し続けられているのだからうまくいっていると見なすしかなく、どちらもうまくいっていて、うまくいっている行為を間違っていると判断することが間違っているわけだが、現状ではそうだとしても将来においてはわからないだろうし、わからないことは現状では判断しようがないわけだが、判断しようがない将来のことを予測したり予言したりもするわけで、だからこのままでは大変なことになると騒ぎ立てるわけだが、現状でも大変なことになっていると騒ぎ立てる場合もあるだろうし、実際に騒いでいる人たちの主張を真に受ければ大変なことになっているはずだが、それでもうまくいかないことをやり続けているわけだから、そんなことをやり続けている人や団体を支持したり擁護している人たちや、そんな状態を放置している人たちの罪は重いと判断してしまいがちになるわけだが、それも間違った判断かというと、そう判断してそういう人たちを批判し続けることができれば、それをやり続けることがうまくいっていることになり、続けられる限りで続けようとしていることがうまくいっていることになるわけだが、確かにそれをやり続けられる人がいる一方で、中には続けることができなくなってやめてしまう人も結構いるだろうし、そういう事例まで考慮に入れれば、うまくいっている人や団体もいる一方で、うまくいかなくなってやめてしまう人や団体もいるだろうし、似たようなことをやっていてもうまくいくこともある一方でうまくいかないこともあるだろうし、やっていることが正しいか間違っているかに限らず、それがうまくいくこともいかないこともあると見なしておくのが妥当なのではないか。


10月9日「狂気に取り憑かれること」

 何も当てがないということは見込みがないということだが、大抵は何もなくても何か当てがありそうに思われて、漠然と見込みがあるんじゃないかと思っていたりもするのだが、客観的にはそれが何の根拠もない幻想に過ぎないこともわかっているわけだが、何か見込みがあるように振る舞っていないとやる気が出ないわけで、ただ漠然と何かの惰性で生きているだけではつまらないから、嘘でもかまわないから騙されたつもりになって、実現できそうな目標や目的を設けてみたりもするわけだが、それに向かって努力しているかというとそうでもなく、そんなことはすぐに忘れて気がつけば何もやっていなかったり、あるいは他の見込みのありそうなことに目移りしたりして、目移りしても実際に何もやらなければ無気力になっているだけだが、何もやらないということが何かをやっていることになるかというと、何かをやらなければならないという強迫観念に逆らっているのかも知れないが、否応なく何かをやらざるを得ない状況に追い込まれていればやらざるを得ないとしても、もっと気軽にやれることをやろうとして、実際にそれをやっている場合も多いかも知れないが、やっているうちにそれでは済まなくなるとすれば、やっていることにのめり込んでしまうような成り行きがそうさせるのだろうが、のめり込んでも深刻な状況にならなければどうということはないわけで、そういうことをやるように仕向けられているわけではなくても、自然とそんな成り行きになってしまえば、もとからそれをやる気でいたのかも知れないし、それを実際にやっている現状があれば無気力でも何でもなく、やる気があってそんなことをやっているに過ぎないことでしかないだろうが、それをやるに際してもやっている最中であっても、絶えず疑念を抱きながらそれをやっていて、全面的にやっていることを信用しているわけでもなければ、うまくいっているわけでもないのかも知れないが、その程度のことだと割り切っているようなら、それを全面的に肯定しているわけでも否定しているわけでもなく、ほどほどのところで見切りをつけるつもりになっていたりして、身が入らないとはそういうことを言うのかも知れないが、それをどうでもいいことだと突き放してしまうようなことはせずに、それなりに真面目に取り組んでいるように見える程度にはなっていれば、周囲から見ても何か問題を抱えているようにも見えないわけだが、まさかそこに狂気が潜んでいるようにも見えないだろうし、狂気にはそう感じられるのにふさわしい振る舞いが必要だと勝手な先入観を抱いている人も多いかも知れないが、それが普通にとらわれている偏見であり、一見普通に感じられる人が狂気にとらわれていると周囲の人々に認識されるまでにはそれなりに時間がかかるのかも知れず、そういう兆候が露見しなければそのままとなってしまうようなことかも知れないし、それも取り立てて問題視するようなことでもなければ、どうでもいいことの範疇に入ってしまうわけで、そもそも何かをやるに際していちいち狂気にとらわれる必要もないのだろうが、その必要もないのにとらわれてしまうのが狂気の狂気たるゆえんだとしても、気休めや気晴らしにとられているのでもなければ、何か深刻な問題を抱え込んでいるのかも知れないが、それが意外と経済的な事情であれば誰もが納得するかも知れないし、そんなありふれた事情であっても、事情を抱え込んでしまった当人にとっては深刻な問題となるわけで、気休めや気晴らしとしての狂気よりはそちらの方が大変な事態となり、そうなれば身が入らないどころではなくなって、そんな事態に対処するために精一杯のことをやろうとして、まだ何とかなる見込みがある間は真剣に取り組むだろうが、うまくいかなくなってその見込みもなくなれば投げやりになってあきらめてしまうのかも知れず、あきらめてしまえばそれっきりとなって気もおかしくなって、そうなって初めて狂気に取り憑かれるかも知れないし、それなりに深刻な問題を抱えていれば狂気に取り憑かれてしまうのもやむを得ないかも知れないが、そうなったからといってそこでおしまいになってしまうとも限らず、そこからが真の正念場となってきて、その狂気を利用して何をやるかが問題となり、狂気にまかせて殺傷沙汰でも起こしてしまえば、それこそありふれた事件にしかならないが、それを狂気だと解釈しない方が正気の対応であったりするのかも知れないし、狂気でなければ何なのかといえば、時には正気でないことをやるのが正気であることの証しでもあり、正気であれば時には狂気に駆られることもあるだろうし、やっていることがうまくいかずに投げやりにもなることもあるだろうが、正気の沙汰でないことを正気のつもりでいる人たちがやっているのが政治でもあり、その内容が世の中の正気でない行為を反映しているとすれば、それが経済活動を反映している場合もあるだろうし、経済的に追い詰められた末にやらざるを得ないことを政治の場に持ち込んでしまうと、政治も経済事情と連動して追い詰められてしまうのかも知れず、追い詰められているから余裕がなくなって正気の沙汰でないことをやってしまうのだろうが、正気の沙汰でないことをやるのが政治だと解釈すれば、政治の場でおこなわれていることは正気の沙汰でないわけだが、正気の沙汰でなければ狂気だと単純に解釈しなくてもいいのかも知れないし、正気であるからこそ時には正気の沙汰でないこともやってしまうのであり、経済的にも政治的にも追い詰められているなら、普通に正気の沙汰でないことをやっていればいいのかも知れないし、正気であることにとらわれる必要もなく、そうかといって狂気にとらわれる必要もないだろうが、たぶん狂気に取り憑かれている方が面白いのかも知れず、正気でいるより狂気に取り憑かれていた方が面白いことをやれる気になってしまい、その気になることが狂気の正体かも知れないし、世の中が興味深くて面白そうに感じられると、それが狂気に取り憑かれていることの証しとなってしまうとおかしいが、そのおかしく感じられることが狂気そのものであり、周囲の人たちから見ると明らかにおかしいのに、おかしいことをやっている当人が至って気にしていなければ、その人が狂気に取り憑かれていることになるのだろうが、追い詰められて狂気に取り憑かれるよりは、積極的に面白いことをやろうとして狂気に取り憑かれる方が可能性がありそうで、それが何の可能性なのかわからないところも面白そうだが、そういう意味で面白そうなことをやっている人が狂気に取り憑かれるのは肯定すべきことなのかも知れない。


10月8日「辻褄の合わない活動」

 自らの思い通りにはいかないのは他人も思い通りにはいかないからであり、対立関係にあれば自らの思いと他人の思いがぶつかって各々の思いが相殺されて、どちらの思いも実現できなくなることもあるだろうが、思い通りのことをやろうとすること自体が間違っていれば、中には間違ったことをやってもうまく行く場合もあるだろうが、その間違い方にもよるが、大抵はうまくいかないから間違っていると思われて、それが思い通りにはいかないことの理由となってしまうのだろうが、それを語る範囲内では恣意的にフィクション化できるから、思いを語ることはできるが、やろうとすることを実行に移すとうまくいかなくなるとしても、そんなことは承知の上で思い通りにはいかないことを嘆いてみせるような演技をしたり、そんなことまで考慮すれば、たとえ思い通りにはいかないからといって、必ずしもそれが問題だとは思っていない場合もあるわけだが、やろうとしていることが思い通りになることを望んでいないはずがないとしても、思っているのはそれだけではなく、他にも様々なことを思っている中で、思い通りになるかならないかも、その中の一つとして思っていることであり、思い通りにはならないと思いつつも、やっていることはそのまま継続していたり、たとえそれが他人の思いとぶつかっていても、対立ではなく協力関係の中でぶつかっていれば、思いがぶつかりつつも互いに妥協し合って関係を継続させている場合もあるだろうし、それが腐れ縁とは言えなくても普通の協力関係の中で起こっていて、それが対立と協力が結びついていることの例となるのかも知れないが、何かしら関係していれば対立や協力や連携などが伴いながらの関係となっていて、何かのきっかけでその関係が切れることも再び結びつくこともあるだろうが、潜在的な関係というのもあるのかも知れず、お互いに関係しているつもりがなくても意識が感知できないところで間接的に関係していたり、因果関係がよくわからないのに活動が連動していて、なぜか知らないが共鳴現象や相乗効果のようなものが生じてしまうと、両者の間に関係があるのではないかと疑ってしまうのだが、そういうことまで含めると関係自体がはっきりしたものではなくなってしまうのだろうが、関係を語る際にはよくわからない関係まで語られることはないだろうし、普通は政治的な面でも経済的な面でもはっきりとよくわかる利害関係や権力関係などが語られるとしても、想像で語られる範囲内では表向きではない裏で誰かと誰かが結びついているようなことまで語られて、そこからフィクション的な要素が入り込んできて、誰もが興味を惹かれるような陰謀や謀略が巡らされていることまで想像してしまうわけだが、想像によってもたらされる各要素の結びつきを語る際に辻褄が合いすぎるとフィクションのように思われて、逆に疑わしくなってくるのだろうが、それについて語っていること自体が語っている対象へと介入していることになり、語ることによって対象との間に関係が生じて、対象へと何らかの作用や影響を及ぼそうとして、語ることによって思い通りの効果をもたらしたいわけだが、その効果というのが疑惑の関係を暴くとかのジャーナリズム的な欲望の成就に結びつけば、それも今度はフィクションではなく、ノンフィクション的な興味を惹かれる内容となるのかも知れないが、それも話の辻褄合わせが先行してしまうと疑わしくなってくるだろうし、語ることによって疑惑の真相が暴かれるようなこととは違う方面で、当たり前のようにおこなわれている経済活動から、語ることによって単純化できないようなややこしい関係が生じてきて、それが語り得ないことでもあり、それについてはうまく語れないが、うまく語れない部分については語られないままになってしまう一方で、語ることができる部分だけ語ると話の辻褄が合ってしまい、話の辻褄が合っているのに疑わしく思われるようなことを語ってしまうわけだが、辻褄の合う部分だけ語っているから疑わしく思われるのだろうが、そうする以外には語りようがなければそうなるしかないだろうし、そうやって疑わしくも辻褄の合う話が語られることになるわけで、それが政治的な主張となると、微妙な雰囲気が醸し出されるとと共に、そんな微妙さを強引に振り払うための煽り立ても横行するのだろうが、いくら都合の良いことだけを語気を強めて主張しても、疑わしさが晴れるわけでもなく、逆に疑わしいから語気を荒げているように感じられて、何か強い調子で訴えかけられることがあれば、訴えかける人やその人が所属する団体にとっては都合の良いことが当然のことのように訴えかけられるわけだが、それらとは対立する誰かやその誰かが所属する団体があり、それらを攻撃するために強い調子で訴えかけられることが多いだろうが、そうした訴えかけの対象となる人々に向かって何らかの行動を促している場合も多く、そういう場合は言う通りのことをやってほしいということであり、命令するのではなくお願いしているわけで、どうか我々の言うことを聞いてくださいということだろうが、素直に言うことを聞くわけにはいかない事情があるだろうし、それが資本主義経済の中ではややこしい関係をもたらす事情でもあるのだろうが、それに関してはまず大前提として、何のための資本主義経済なのかといえば、利益を追求するための経済であり、利益を上げるにはどうするのかといえば、資本を投資して利益を得ようとするわけで、その資本をどうやって得るのかといえば経済活動によって利益を蓄積する必要があり、要するに消費してしまうとまずいわけで、無駄な消費を抑えて資本を蓄積して、その蓄積した資本を投資して利益を得るわけで、しかも誰かが消費しないと利益を得られないわけだから、要するに資本主義経済の中では消費者が利益を搾取される犠牲者の立場を強いられるわけで、その中で誰もが利益を追求しようとすれば、当然のことながら消費するよりは蓄積して投資する側に回りたいわけで、搾取される消費者の立場にはなりたくないわけだが、消費者がいないと経済が回っていかないわけだから、根本的に辻褄の合わないシステムになっているわけで、それを行政的な方策によって辻褄を合わせようとするわけだから、そういうことをやろうとする政治的な主張に無理があるように思われてしまうのは当然のことかも知れないが、曲がりなりにも資本主義経済が成り立っていて、それなりに経済が回っている実態があることは確かであり、そうなっている理由や原因を資本主義経済の内部や外部に求める必要があるかというと、それ自身に求めるしかないのかも知れず、その際には辻褄が合っていないことをごまかすよりはそれを利用する必要があるのかも知れない。


10月7日「必要とされること」

 特にその人が何もやっていなければ、何かをやる必要から見放されているのかも知れないが、その時はそうだとしてもいつも必要から見放されているわけでもないだろうし、生きていれば何かしら必要を感じてその必要に応じて何かをやるわけで、全ての時間にわたって必要から見放されていれば、もうその人は生きてはいないわけで、実際に生きる必要からも見放されてしまえば死ぬしかないかも知れないが、そう思っても実際に生きていればそうではないわけだが、それが死ぬ必要からも見放されていると考えると、死ぬのに必要も何もないだろうし、必要だから死ぬとは限らず、死ぬ必要を感じて自殺するよりは、寿命を迎えて死ぬことの方がしっくりくるだろうが、それでも何かの加減で生きる必要からも死ぬ必要からも見放されているように感じられる場合もあるかも知れないが、その時はそうであっても必ずしも必要のあるなしと生死が結びつくとは限らず、それが結びついているように思われても、真の意味で必要から見放されていることになるかどうかも怪しいところだが、その場の情勢によって何らかの立場や境遇の人が必要とされなくなる社会よりは、どのような情勢の中でも全ての人が必要とされる社会の方がよさそうに思われるだろうが、それは何に必要とされるかにもよるだろうし、他の人や団体から搾取されるために必要とされるのはいやだろうし、何らかの形で利用されるにしても利用のされ方によっては、必要とされることが必要とされる人に不利に働いたり負担や重荷になるのはごめんだろうが、必要とは他の人や団体から必要とされる以前に自分から必要を作らなければならず、自分に必要とされる人間になる必要があるというと、何かもっともらしく思われるかも知れないが、無理に必要を作る必要もなく、必要がなくても生きていけるならそれに越したことはないし、必要のあるなしとは関係なく生きていければ、それでかまわないのかも知れないが、生きていけなければ生きる必要から見放されて死んでしまうにしても、それでもかまわなければ、それが取り立ててどうということはないわけだが、それがどうということがあるように思われるとしたら、人も団体も存在しているだけで価値があると思い込めるような環境の中で存在していることになるのかも知れないし、それが自己保存的な自己肯定にもつながるかも知れないが、そう思い込む必要があると思わされているだけかも知れないし、誰もがそう思わされるような世の中の成り行きに巻き込まれているのかも知れないが、必要もないのにそう思わされているわけでもなく、そう思い込んでしまうことに関して、何らかの利益を想定できればわかりやすいだろうが、ただ漠然と何の根拠も示されないでそう思い込めと命令されているわけでもないし、誰もが必要とされるもっともらしい理由が見つかれば安心できるだろうが、それに関して例えば日本の国会で野党が騒ぎ立てるようなことがあると、国民にとってはどうでもいいことなのに野党が屁理屈をこねながら騒ぎ立てている、という印象を国民の意識に植え付けるための工作がおこなわれているように思われてしまえば、しかもそれがメディア上で賛否両論併記的なやり方で話題作りされていることでもあったりして、それらを意図的な工作だと断言するようなことだとは思われなければ、成り行き的にそうなっているに過ぎないことかも知れないが、騒ぎ立てる必要があると勝手に思い込んでしまうことが、そんな成り行きにつながってしまうのかも知れないし、そうであればその必要があると思い込んでしまうことが不要で余計なことでしかなく、誰にとっても不必要なことをやっているだけであれば、無駄な労力を使っていることにしかならないわけだが、世の中で何らかの社会的な構造が出来上がっている限りで、その構造を維持するための必要が生じていて、それが構造の自己保存的な自己肯定の傾向を示していて、そこに生じている何らかの枠組みを維持するためには、それにかかわってくる人や団体に必要をもたらさなければならず、人や団体がかかわる必要を感じなければその枠組みを保てず、人工的に作られた構造が瓦解してしまうのかも知れず、野党的な立場でそこにかかわろうとすると、そういうことをやる必要がもたらされて、常にそういう立場を意識しながらそこにかかわっていれば、マスメディアも安心してそんな役割分担の範囲内でそれを報じるだろうし、そうすることによってその場に構成されている枠組みが安定するわけだろうが、当然そんなことばかりやっていると役割分担が固定されてしまって、いつまで経ってもそんな立場や境遇から抜け出せなくなってしまうわけだが、その必要がなくなるまでは抜け出せない反面、抜け出せない限りで何らかの必要が生じるに伴って、その必要に応じた立場や地位があてがわれて、その立場や地位に応じたことをやる必要が生じてくるわけで、そういった必要の循環を否定的に捉えれば悪循環になるわけだが、肯定的に捉えればあてがわれた立場や地位に留まろうとして、そういう立場や地位に固執している限りで、その立場や地位から生じてくる自己保存的な自己肯定を当然のこととして受け止められて、大した疑念も抱かずに自らに割り当てられた役割分担をこなそうとするのだろうが、それとともにそうした役割分担を課してくる構造の中で必要とされていることを実感できるのではないか。


10月6日「山本太郎の主張」

 簡単に言えることには簡単にわかることが含まれていて、簡単にわからせようとして簡単に言うわけで、簡単にはわからないことや簡単には言えないことがあればそうはならないわけだが、明快な主張はわかってほしいから明快に主張するわけで、疑念を抱かれるようなことは主張したくないだろうが、それでも疑念を抱かれてしまうとすれば、主張している側の思惑が外れているわけだが、できるだけ多くの人にわかってほしくても中にはわかってくれない人も出てくるだろうし、少しはわかってくれない人が出てしまうとしても、多くの人がわかってくれればそれでかまわないわけで、そうなれば主張が多くの人に伝わったことになり、主張が多くの人に受け入れられたと思いたいのだろうが、それでも主張に反するようなことをやろうとしている人も多くいれば、では主張が多くの人に受け入れられたというのは嘘なのかと疑念を持たれるかも知れないが、そうではなく、確かに多くの人が主張を受け入れたとしても、その一方で主張に反することもおこなわれる可能性があるということであり、主張が多くの人に受け入れられることと主張に反することがおこなわれることが両立可能な場合があるわけだが、では主張がうまく伝わらなかったからそうなったのかというとそうではなく、うまく伝わったとしても、それに反することがおこなわれる可能性があり、主張は主張として受け入れておいて、その一方で主張に反することをおこなう事情が切実であれば、それをやろうとするわけで、そこで主張に反することをやらなければならない事情が生じていて、主張よりも事情の方を優先する必要があれば、そういうことをやろうとするわけで、その事情というのがそこに至る過程で積み重ねられた経緯であり、その場だけの主張よりは経験として積み重ねられた経緯の方に重みや厚みがあり、主張は理解できるが今さらやろうとしていることをやめるわけにはいかない事情の方が勝ってしまうわけで、そういう意味で何かをやるにはそこに至るまでの継続性や連続的な経緯や事情の積み重なりがものを言うわけで、たとえやろうとしていることが間違っていると指摘されようと、すでに後戻りができない段階まで達していると思われてしまえば、そのままやろうとしていることをやってしまってもいいように感じられるのだろうが、本当にそうなのかといえば、そうでもないように思われるものの、そういうところでは現実の利権関係や心理状態がものを言うわけで、そういったものがもっともらしく思われる主張を打ち砕く原動力になるのだろうが、実際に打ち砕かれることになれば、そういう主張が明快に感じられるほど、明快ではない面や部分には触れていないことが明らかになるのかも知れず、今まさに大阪都構想に反対する山本太郎が街宣活動で主張している内容に関して、果たして意図して触れようとしない面や部分があるのかないのか、それとも単にそれに気づいていないだけなのか否かが、都構想の賛否を問う住民投票の結果次第では明らかになるかも知れないし、その辺が注目されるところかも知れないが、大阪市が東京に続いて日本で第二の都市だと言っても、人口から見れば横浜市の方が多く、それでも都市圏としてみれば神戸や京都も含めて関西圏の中心都市であり、横浜市の方は川崎市や千葉や埼玉も含めて東京圏に入ってしまうから、大阪の方が格上かも知れないが、大阪も内情はともかく形だけでも東京と対等に見られたいという思いも住民にはあるだろうし、そう見られるための第一歩としての位置づけが都構想には込められていて、もちろんそれは外見だけで中身が全く伴っていないという主張が今のところは妥当かも知れないが、それは今回だけで終わるわけではなく、これからさらに外見を整えてゆけば、努力次第では自然と中身が伴ってくるかも知れないという住民の期待もあるのかも知れず、そんな将来への甘い夢を餌にして新自由主義に染まったエコノミックアニマルたちに大阪が食い尽くされてしまうと危惧の念を抱くのも、現状で抱くもっともな認識かも知れないが、山本太郎が主張するように現状がひどい状態だからこそ、そんなひどい状態に維新の会や自民党政権がしてしまったからこそ、起死回生に導く手段として今まさに大阪都構想が実現されなければならないと屁理屈を言えるかも知れないが、そんなことをやればさらひどい事態になると山本太郎や反対派が主張しているわけだから、その通りになるかも知れないが、そういう主張がもっともらしく思われるほど、その通りになってしまうように思われるほど、やはりそういう成り行きになってしまうわけで、要するにそういう成り行きになってしまいそうだから、山本太郎も必死になって都構想反対の街宣活動をしているのだろうし、そんな姿を見ているとそうなる可能性の高さを実感させられるわけだが、実際に数ヶ月前の東京都知事選挙でも山本太郎が都知事選挙に立候補して、小池知事の再選を阻止しようとして必死になって街宣活動をやっていたわけで、そういった経緯を踏まえると今回もそうなってしまう可能性が高いだろうし、本当に今回もそうなってしまえば、山本太郎が街頭で必死になって何かを訴えかけるようなことがあれば、しかもそれによって何らかの事態を阻止しようとしているなら、その事態が本当に実現してしまうとみておいた方がいいことにもなってしまうわけだが、そういうことに山本太郎自身が気づいているのに、あえてそこには触れようとしないのか、あるいは単に気づいていないだけなのかが、前回の都知事選挙に続いて今回の住民投票の結果からわかることかも知れず、それがわかるとしても結果からわかることであり、現時点では気づかなくても当然であり、結果が出た時点で考慮することであり、現時点で結果を先取りして利いた風なことを述べること自体がおかしいわけだが、それでも山本太郎が危機感を募らせることが本当に実現するとなると、山本太郎には予言者の資質があることになり、今後は山本太郎が何か騒ぎ始めたら、その騒いでいる内容が実現すると山本太郎が予言していると解釈すればいいことになってしまうが、本当にそうなるかどうかが、今回の大阪都構想に関する住民投票の結果からわかるかも知れず、そうであれば山本太郎自身は、何か街頭で騒ぎ始める度に、それと自覚することなく自らが体現している予言が実現するか否かの試練に直面しているわけで、彼自身はそんなことなど全く知るよしもないだろうが、現代における予言者の在り方として山本太郎的な存在が何らかの特徴的な傾向を示しているのかも知れず、偽予言者として役割なら同じようなことをやっている他の政党の代表者たちもそれなりに加わってくるだろうが、その辺が現状で次第に明らかになりつつあることなのかも知れないし、それらの中で誰が真の予言者だと見なしても、当人たちには何の関係もないことであるにしても、後世にその真偽が委ねられているかいないかも含めて、今後だんだんと山本太郎の活動と共にこの時代の興味深い特徴や傾向が明らかになってくるかも知れない。


10月5日「道具的な思考」

 人が何かをおこなう際に使う道具が役立つことは確かで、実際にものを作るには道具が欠かせないが、それと同じように思考も何かの役に立っているはずで、何かをおこなう際には考えながらおこなっているはずだが、思考とは別種の感覚として感性にとらわれると、考える以前に感じることが大事に思われてくるわけで、そんな感性を役立てようとする意志から生じてくるのが、考える手間をかけずに従わせようとするやり方になるわけだが、人を道具として使うにはその対象となる人に考えさせてはまずいだろうし、その人が道具として使われていることに気づいてしまうとまずいから、そうなっていることに気づかせないようにして他人を利用しようとするわけだが、それに関して方便として有効に思われる煽り立ての文句としては、考えるな、考える前に感じ取れ、というのが人の感性に訴えかけるには、何かその気にさせるような洗脳として役立ちそうだが、その人が自主的に考えることが、その人を使う上で障害となってくるとすれば、それ相応の危険を伴うようなことに使おうとしていて、軍隊や警察や消防などに従事する人になれば、日頃の訓練によって身体が自動的に動くように仕向けるわけで、こういう状況になったらこう動け、という動作を訓練によって体にたたき込んでいるはずだが、そういう人たちを指揮する立場になりたいという願望が命令通りに人を操ろうとする人にはあるだろうし、そうした軍隊や警察や消防などに関連する式典を視察に行って、気分を高揚させているように見える政治家や幹部級の官僚などにはそういうところがあるだろうし、集団の一糸乱れぬ行進などを見ると興奮してしまうわけだが、そんな大げさなことではなく、単に道具を使って何かの機械などを作るに際しても、作業に伴って生じるそれなりの困難や苦難を乗り越えて、思い通りのものが作れて、それがうまく動作すれば嬉しくなってしまうだろうし、それが機械でなくても日用品やおもちゃの類いでもかまわないが、作っている最中にも高揚感を得られるわけで、それが道具でも機械でもそれを使って思い通りに何かをおこなっている最中には、考える以前に感じ取っているはずで、何を感じ取っているのかといえば、思い通りの感覚を感じ取っているのかも知れず、それが自己陶酔になるわけだろうが、自分だけで何かをやっているだけではなく、他人を使って自己陶酔に浸ることが、自分だけで自己陶酔するよりも強烈な高揚感を得られるだろうし、そうなると自己陶酔を得るための道具として他人を使うことが自然の成り行きとして生じてしまうのだろうが、それが強権的な行為を伴って弊害を生じさせていて、そうした自己陶酔に浸るほど道具として使われる身になっている他人のことを考えていないし、自己陶酔に浸っている自らが他人からどう見られているかも考えていないわけだが、そんなことを考える以前にそれを感じ取れるかとなると、それを感じ取れる人がプロスポーツなどの分野で名将と呼ばれる優れた指導者や監督になるのだろうが、それを感じ取るということはそうなってしまってはまずいということであり、それも考える前に感じ取るべきことに含まれてくるのだろうが、それでもその種の自己陶酔は避けようがなく、何よりも世の中で成功することが自己陶酔をもたらすわけだから、そうなってしまってもかまわないが、その種の優れた指導者や監督になると、それを使われる身となった選手やスタッフたちや応援してくれたファンなども讃えながら共に分かち合うことも忘れないようにしているわけだろうが、それが政治家の類いとなるとそれでは済まなくなってきて、そもそも現状が政治家が自己陶酔に浸れるような世界ではなく、強権的な独裁者が軍隊や警察などを指揮しながら民衆を動員して、それをもたらすような虚構の式典を催すことはあるだろうが、またオリンピックや万国博覧会などの大げさなイベントも昔はそうだったかも知れないし、開会式や閉会式などの会場の特別席などに陣取って悦に入っている姿も目撃されていたかも知れないが、それはその手の催し物の範囲内でそうなっているだけで、実質的には何でもないことだろうし、それで何か政治家としての仕事をしていることにはならないのはもちろんのこと、それよりはより良い生活を求める国民の道具となって働いてほしいだろうし、国民の役に立つことが求められているはずだが、その国民の中の一部が反国家的な勢力だと認定されて敵視されるようなことになってもまずいだろうし、建前としては政治家も官僚も公務員となれば、分け隔てなく全ての国民に奉仕する立場となるはずだが、それも建前ではなく実質的にそうなることが求められているはずだろうが、やはり現状ではそうなっていない面があるだろうし、逆に公務員だけではなく国民を上から指導する気になっているように見えてしまうと、そこから自己陶酔が生じているようにも感じられて、配下の官僚や国民を国家繁栄のための道具として使おうとしているような傲慢さもうかがわれて、そういう感覚が組織的な上下関係を伴った政党や政府の官僚機構の中で養われてしまうわけだが、要するに人を道具として使う思考がどこから生じてくるのかといえば、組織的な上下関係を伴った権力関係から生じてくるわけで、そこで監督的な立場の者が配下の者たちを道具として使って、集団としての組織を管理運営する動作が常態化するわけで、それが何らかの機構とそれを運営する制度が効率的に動作する上では必要不可欠に思われるわけだが、集団としての機構や団体にはそういう傾向あり、集団を組織として効率的に動作させようとするとそういう傾向が強くなってしまう成り行きが確かにあるが、それとともにそういう傾向に抗う面も出てくるだろうし、それが非効率な馴れ合いなどを悪習としてもたらして組織が腐敗してくるわけだが、それも人の道具化から生じる弊害であり、人の存在を道具と見なして軽んじてしまうから、人に対して敬意を払わなくなって、倫理観が薄れるとともに功利的な損得勘定が組織内にはびこって、自らと配下を従えた派閥の利益を優先するようになって行ってしまうわけだが、そういうところに道具的な思考に特有の欠陥があるのだろうが、それを避けるには単に人と道具を区別して混同しないようにすればいいのかも知れないが、そういった集団としての組織の中に身を置くと構造的な機能として人の道具化に抗えなくなってしまい、そうならざるを得ないと述べてしまうとどうにもしようがないわけだが、組織的な上下関係から生じる権力の行使に逆らうことが、自らが道具になることを拒否することになるわけだから、そうすることが損な役回りになっても、多くの人が権力の行使に逆らうと組織内の効率化が阻害されるとしても、人の道具化を阻止するにはそれが必要であり、そうなると集団内で争いが絶えなくなってしまうわけだが、それが組織の宿命であり、それも人の道具化から生じる弊害といえるのではないか。


10月4日「皮相上滑り」

 単純に批判されるようなことは、批判されるようなことをやるに至る経緯が紆余曲折を伴っていて、結果から見れば単純に批判できるが、そうなってしまった途中の経緯の中に批判されるようなことをやる切実な理由が含まれていて、それを単純に批判する側はそこに至る途中の経緯を考慮に入れずに、結果だけを見て単純に批判できるわけだが、もちろん途中の経緯にしてもごり押しをせざる得ない事情があればそれも批判の対象となるわけだが、ごり押ししてでもやらざるを得ないだけに、それだけやろうとする意志に情念がこもっていて、無理なことを押し通そうとしているわけで、そんなことをなし崩し的に容認してしまうような人は根負けしているわけだが、やろうとする熱意にほだされて根負けしてしまうような人に向かって、やること自体が論理的に間違っていると主張する人たちの訴えかけが聞き入れられるかというと、それはなかなか微妙なところだろうが、利益を求める情念に突き動かされて無理を押し通してきたのが資本主義的な経済活動であるわけだから、歴史的な経緯からすればいつも理性に対して情念が勝ってきたわけで、そういう行為がもたらしたひどい結果を目の当たりにすれば、そうした情念に突き動かされたごり押し的な行為を批判するしかないわけだが、そうした情念にとらわれた行為に打ち勝つために執拗に批判を繰り返す人たちも、それとは別の情念に突き動かされているわけで、どちらの情念が勝つかとなると、結構理不尽な結果がもたらされることが多く、無理なことを押し通そうとする人たちが勝つと理不尽に思われて、結果的にも無理が祟ってひどい状況に陥る可能性も高そうだが、それでもひどい結果がもたらされたと訴えかける人に同調できるかとなると微妙なところだろうし、ひどいの程度にもよるが、たとえそれがひどい状況だとしても、そこで普通に暮らしている人が大勢いれば、その程度のひどさはどうということはないと感じられるかも知れないし、どうということはなければひどくないと見なされて、そんな状況に慣れればそれが通常の状態となってしまい、結果的に無理が通ったことになるのだろうが、そこまで行くと当初の事情もどうでもよくなってきて、何のためにそんなことをやったのかも忘れてしまうのかも知れず、そんなことをやること自体が目的化されてしまって、目的を達成するために尽力したわけで、達成された後のことまで考えていなかったわけではないのだろうが、その後まで情念が持続しなければ、後は野となれ山となれになってしまうだろうし、無理なごり押しも通ってしまえばそれ以上は無理を押し通せなくなってしまうかも知れないし、そこからさらなる野望が用意されてれば、そこで終わりとはならずに、また性懲りもなく情念を傾ける標的を定めて、それに向かってごり押し気味に突進しようとするだろうが、最初のごり押しが強すぎると後が続かないだろうし、最初のごり押しによって精根尽き果ててしまえば、もはやごり押ししている状況ではなくなってしまうわけだが、果たして実際にそうなるのかといえば、そこで何をやっているかで判断するしかないが、判断するまでもなくわかりきっていることかも知れず、何かをやった結果としての状態の良し悪しではなく、そういう人たちが活動している状態が継続すればいいということであり、ごり押し的な行為をやった結果として何らかの状況がもたらされることは確かなのだが、そういう人たちは何よりもごり押し的な行為をやり続けたいわけで、それをやり続けられるような環境にしたくて様々な策略を巡らすわけだが、それが功を奏してそればかりやり過ぎるような状態となってしまうと、ファシズムやナチズムやスターリニズムのような集団暴走行為へと発展するわけだろうが、そういう暴走行為にも前例がいくらでもあるだけに、だんだんとそこへ至る途中で、自然とブレーキが働いてきて、何か中途半端に終わってしまうような結果がもたらされるのかも知れないし、それを促進するような行き過ぎた利益追求原理にしても、合理的に感じられるのは功利的な面に過ぎず、それ以外の面で利益追求原理から派生してくる弊害が顕著になってくると、そういう活動に付き合わされている人たちも嫌気がさしてきて、それに伴ってごり押しの持続力が減退してしまうのだろうが、弊害がどこから生じてくるかといえば活動そのものからであり、行政的なごり押しをいくらやったところで、肝心の経済活動の中身が伴っていないとどうにもならないわけだが、それが機械的な技術革新であり制度的な効率化となるのだとすれば、それをいくらやっても物理的な限界が待ち受けていて、人の生活や暮らしがついてこれない可能性が出てきて、そこからの脱落者の方が多くなってしまえば活動が空回りしてしまうわけだが、いくら技術革新や制度改革をやろうとしても、費用ばかりかかってしまえば利益が出ないし、そうやって次第に資本主義的な経済活動そのものが変容を被っていけば、利益の追求よりも優先すべきことが生じてくるかも知れず、それが何かといえば利益を度外視した技術革新や制度改革となるかも知れないし、そうなるともはや資本主義経済ではなくなってしまうかも知れないが、それでも人の生活や暮らしが成り立っていればかまわないわけで、ただ必要に応じて費用をかけるだけに終始するようなことになってくれば、利益を得られるなら何でもやるという情念のもって行き場がなくなってしまい、それに伴って人の意識や心を変えなければならない事態となってくると、生活や暮らしの中身も変容を被ってくるのかも知れないが、現状ではそこまで至っていないし、現状でやっている技術革新や制度改革も、利益を追求するための技術革新や制度改革になっているだろうから、そういう傾向が高じて行き詰まりや弊害をもたらしているのだろうし、果たしてそうではない技術革新や制度改革があり得るかとなると現状では疑問に思われるだろうが、その辺はまだ探求不足な面があるのかも知れず、現状でも批判勢力による批判のよりどころとなっていることすらも、諸外国や世界平均に比べて日本の経済成長率が低いか下手するとゼロやマイナスですらあるということであり、そういうところでも経済成長神話という幻想に取り憑かれているわけだが、それに輪をかけて批判勢力による批判の対象となっている保守勢力についても、たかだか明治維新以後にねつ造された保守的な伝統という嘘を守りながら、しかも世界でも最先端の技術革新や制度改革を目指しているように装うという自己矛盾に陥っているわけで、そういう無理をごり押ししようとするわけだから普通に考えても空回りするしかないのだろうが、それでも利益の追求という情念の面では経済界と利害が一致しているにもかかわらず、その一方で従来通りの保守的な商慣習にとらわれて、むしろ結果的に技術革新や制度改革を抑制している面もあるわけだから、どうやってもちぐはぐなことをやっているとしか感じられないわけで、そんな事情もそのままに保ったまま自分たちのやり方でごり押ししようとする現状を見れば、気の弱い人ならこのままでは日本が終了してしまうと危惧の念を抱くのも無理はないわけだが、それらの行為のほとんどが、かつて夏目漱石が指摘していたように皮相上滑りだとみれば、特にそれがどうということはなく、ただ単に活動が空回りしているだけと捉えておけばいいのかも知れない。


10月3日「制度的な不都合」

 何かこれまでにないことをやれば、それに起因して思わぬところで揺り戻しが起こるにしても、それも激震が走るという表現では合わないような揺れもありそうで、揺さぶられてもびくともしないなら、何の問題もないかも知れないが、ちょっとの揺れでも過剰反応するわけでもなく、ではどうなんだと問いたいわけでもなく、何か騒ぎ立てる度に、みっともないからそっとしておこうと思われる程度のことなら、みっともないと思われている人や団体が過剰反応していることになるのかも知れないが、小間使いのような小さな人物を分不相応な地位に就けたわけでもないのだろうが、みっともないことを平気でやってひんしゅくを買ったように見せかけて、それもわざとひんしゅくを買うようなことをやって世間を騒がせているのかも知れないが、そんな物言いでは何を言っていることにもならないのかも知れないし、制度的な方面からそれ相応の言説が構成されるにしても、そういう人たちがそんなことしか言えないのもわかっているが、どうでもいいような小さなことにこだわって権力を行使しようとする態度が了見の狭さを感じさせて、何かそういうところで不快感を覚えるわけだが、それが関係者にとっては枝葉末節で些細なことではないのかも知れないが、部外者にとっては物事の本質に触れるようなことだとは思われないし、それも何か勘違いしているのではないかと疑わしく思われてしまうわけだが、メディア的な効果によってこちらが勘違いさせられているのかも知れず、そうした勘違いが印象操作から生じていることは確かなのだろうが、それも織り込み済みで何を判断するわけでもなく、大して憂うような状況だとも思わないわけだが、それでももっと状況を楽観視して前向きに物事に取り組む姿勢になるかというとそうでもなく、それが前向きではないとすると、後ろ向きなら否定的な比喩となってしまうが、では横向きや下向きや上向きならいいというわけでもないだろうし、実際に何に取り組むかで方針も異なってくるわけだが、その程度のことだとしても、そんなどうでもいいことを語るわけにはいかず、もっと何か大げさで重要に思われることを語りたくなってしまうわけだが、それが何だかわからないでは済まないからといって、無理にそうした物事をねつ造できるわけでもなく、そうなると結局は世の中の制度や慣習に沿ったことを普通に語れば、それなりにしっくりくるのだろうが、やはりそれが本心から語りたいわけでもないようにも思われて、では他に何か語りたいことがあるのかとなると、あるにはあるが、それがうまく語れないから面倒な事態になってしまい、そんな語りようのないことよりも、もっと身近な世の中で話題となっていることについて語るにとどめておけば、何かしら格好がつくだろうが、そうはならないだろうし、それよりも絶えずわかりきったことを蒸し返そうとしてしまうのかも知れず、そのわかりきったことが何かといえば、世の中で普通におこなわれていることであり、それが経済活動や政治活動などに関係することになるのだろうが、どうしてそれがわかりきったことになるのかといえば、誰もが不問にしていることだからかも知れず、人々の間ですでに暗黙の了解事項となっていることを改めて蒸し返して問題視したいわけでもないとしても、それがもはや問題とはなっていないのに、なぜかそれについて語ろうとするわけで、そうする理由がよくわからないのはそれに気づかないだけかも知れず、気づいていながら無視しているわけでもないが、無視してもかまわないようなことを語ろうとするわけで、それが人々の習慣から生じる日常の中では感知できないようなことでもあり、やはりどうでもいいような些細なことには違いないのだが、それを無理に取り上げて問題視するのではなく、実際にそれを経験するのであり、それが何をもたらすわけではないとしても、何ももたらしたようにも思われないのに、気がつけばそれについて語っているというと何かごまかされたようにも思われるわけだが、何かを体験したり経験することは、それについて語ることにもつながるが、直接それについて語っているわけでもないのに、間接的にも語っていないはずなのに、そうしたことが自然に想像されてしまうわけで、それが制度的あるいは慣習的な繰り返しの動作とは違う体験となり、その場限りの体験に過ぎないのに、それが忘れようにも忘れられない鮮明な光景をもたらしているわけでもないのに、やはりそれについて語ってしまうのだろうし、なぜそんなことを語るのかよくわからないからといって、なぜとかどうしてとかいう理由を求めているのではなく、また語りようのないことを語るとかいう不可能なことを語ろうとする試みからも外れて、逆に簡単に語れることを語ろうとしているのでもなく、語ろうとしなくても語れるようになってしまうのであり、それが自らの意志とは無関係に語っているようにも思われてしまうわけだが、そうした勘違いもメディア的な印象操作とは違うだろうし、語ろうとしているから語るというのとは違っているとしても、それを勘違いだとも思っていないわけだが、結果的に語っているわけだからその時点で語ろうとしているはずだと解釈するわけにもいかず、そこで何かが破綻してしまうわけだが、その何かというのが自らの意識の統一性や連続性なのかも知れず、何かまとまりがあるように思われる前提が間違っていて、それが結果からそう思われてしまうところの遠近法的倒錯だと認識してみても、それでは知識の誤用に過ぎなくなってしまうだろうし、そういうところでは制度的にも慣習的にもそれらに基づいた統一性や連続性を前提としていて、そうしないと制度も慣習も成り立たないわけだが、その場限りの体験や経験をもたらすのは制度や慣習を打ち破る事件性を伴った出来事であり、結局それについて語ることが制度や慣習の退屈な持続を一瞬断ち切ることになり、それを真に受けるとそれなりの勘違いをもたらすわけだが、それが制度や慣習に逆らってもたらされるわけでもなく、それらを打ち破ったように感じられるとしても勘違いでしかないわけだが、だからといって勘違いを否定的に捉えたり無理に肯定的に捉えたりする必要はなく、それが一瞬の勘違いでしかないことを理解しておけばいいのかも知れないが、無理に理解しようとするようなことでもなく、理解できなければそれでかまわないだろうし、理解したと思ってもそれは勘違いでしかないだろうが、そこにあり得ない幻想を見出して勘違いする方がいいのかも知れないし、勘違いできなければそれでもかまわないわけだが、勘違いしていてもかまわないような余裕がほしいのかも知れないが、現状ではそんな余裕などありはしないし、望むべくもない状態なのかも知れない。


10月2日「語る対象」

 他人が物語る対象をそのままの形で受け止められるかというと、受け止めるということがどういうことなのかよくわからないが、他人によって言い表された物事を直截そうは受け取らずに、妙に歪曲したり、意図的かつ恣意的にずらした表現を使ってそれについて再度語ろうとすれば、元の表現を別の新たな表現で言い表そうとしていることになるのだが、なぜ元の表現をずらそうとするのかといえば、他人によって語られた対象に違和感を覚えるからかも知れないが、世の中には言葉ではうまく言い表せない物事があるのはわかりきっているが、言い表せないことを無理に言い表そうとして、しかもそれがすでに他人によって語られた物事であれば、他人の表現を恣意的にずらそうとする意図が、語る者の身勝手さをもたらしていて、他人の表現に違和感を覚えるからそれを恣意的にずらして、自らにとっての自然な感覚に引き寄せようとして、そうすることによって違和感を解消できるとしても、それに伴って表現の対象となった物事自体からもずれてくるのかも知れず、元の違和感を感じさせるような表現を伴った物事が、自身の意識の中で変形を被って別の物事になってしまい、何かそれがしっくりこないような収まりのつかない事態に陥ってしまえば、次第に物事をどう捉えればいいのかわからなくなってくるだろうが、どう捉えてもそれで物事を捉えたことになり、その人なりの表現を伴って物事を捉えたことになると思っておけばいいことでもあり、その表現に違和感を覚えれば、確かに自分なりの表現で捉え直してみればいいだろうし、それでしっくりこなければしっくりこないような物事の捉え方になっているわけで、そこではそうなってしまうと思うしかなく、それはそういうことであり、それ以上はどうにもならないことだが、たぶんそういうところから語るべきではなく、普通に世の中に生じている具体的な物事について語ればいいのであり、それ以外には何も語りようがないのかも知れないが、語りようがないことについて語っても何がどうなるわけでもなく、そこには語る対象となる物事があるわけだが、何もなければ語りようがなくても、何かを語っている実態があれば、語る対象がそこにあるわけで、なぜ語りようがない対象が語る対象としてそこにあるのかがよくわからないところだが、それが何だかわからないでは済まないのかも知れないし、それを語る対象として表現しなければならないわけだが、表現することができなければそもそも語っていないわけで、語っている限りで何かしら表現できていて、そこで言い表している物事がそこで語る対象となっているわけだが、それをどう捉えているかというと、語る対象となる物事の評価などとは違う捉え方をしていて、どうしても批判的に捉えがちになってしまうのを避けようとするわけで、だからといって無理に肯定したいわけではなく、わざと違和感を伴うように語ろうとしているわけではないとしても、何か言い表せないような部分を残しておきたいわけで、それが語り得ない物事の部分でもあるわけだが、それを省いたり避けてしまうともっともらしくて安心できるが、何かが抜けているようにも思われるわけだが、その抜けている何かがうまく言い表せない部分であり、それがないと語り足りないように思われてしまうわけだが、そういう意味で語る対象となる物事には語るのに不向きな部分があり、それが何らかの形で示されていないと納得できないわけで、もっともらしいが嘘っぽく感じられる内容になってしまい、違和感を覚えるのだが、それで済ませてしまうこともできるのであり、大抵の人はそれで済ませているのかも知れず、だから世の中にはもっともらしくてわかりやすく違和感のない言語表現があふれているのかも知れないが、なぜ一見違和感がないのにそれに違和感を覚えてしまうのかといえば、それでは物事の辻褄が合いすぎているからかも知れないが、そういったわかりやすい言語表現では捉え切れていない物事の部分があることに勘づいているからかも知れず、それが辻褄の合わない部分であり語り得ない部分となるのだろうが、それについて語ろうとすると、語り得ないことを語ろうとすることになるわけで、結局はうまく語れずに、わけのわからないことを述べていることになってしまうのだろうが、どうしてもそれを避けて通るわけにはいかず、それを避けてわかりやすくてもっともらしく語るわけにはいかなくなってしまうのかも知れず、そうなると難儀しながら無駄な骨折りを繰り返すことになってしまうのかも知れないが、そうしないと語ろうとする対象について語ったことにならないわけだが、ではそういう紆余曲折や回り道を避けて通って、もっともらしく感じられるように語れる部分だけ辻褄が合うように語ろうとするとどうなるのかといえば、物事を正確にも完全にも捉えきれないのはもちろんのこと、それを真に受けるとそこから物事についての肯定的な幻想が生まれるわけで、またそこからわかりやすい批判も生まれるだろうし、その肯定的な幻想を抱く人とそれに対してわかりやすい批判をする人との対立や争いも生まれるわけだが、そうやって物事のわかりにくい部分を省くと予定調和の二項対立が生じるのだが、そういう対立を真に受けると誰もがどちらか一方の陣営へと誘い込まれて二項対立の中へと拘束されてしまうことになり、何やら単純明快な争点を巡って争っているふりをするのであり、それが見せかけの演技であることに気づかなくなってしまうわけだが、そういうことを煽っている輩が世の中にいくらでもいるように感じられてしまうわけだが、それはメディア的な錯覚であって、メディア自体がそういう見せかけの演技を誇張して伝える傾向がある一方で、またそういう偏向報道に騙されるなというマッチポンプ的な方向にも人々を誘導していて、どちらにしても人々の意識をわかりやすくてもっともらしく思われる水準へと保とうとしているわけだが、それによって何がどうなっているのかといえば、現状の世の中がもたらされていると認識しておいてもかまわないが、それで何か不都合が生じていなければそれでかまわないことになるのではないか。


10月1日「礼儀を尽くす」

 人には誰でも非常識なところがありそうだが、常識を知らないのは当たり前のことかも知れず、人の非常識なところをたしなめるために面倒な常識を設けたい思惑があるわけではないだろうが、他人からたしなめられて非礼をわびるどころか逆に反発する場合もありそうだが、普通は自らの非礼をわびて改めるそぶりを見せるのが無難なところで、本当に改めるつもりがあるかどうかはその場の当人の都合や事情にもよるだろうが、自らに固有なペースやリズムを乱されないようにするには、時には非常識なことをやったり、他人に対して礼儀をわきまえないようなことをやってひんしゅくを買ったりしてもかまわない場合もあり、それよりも優先すべきことがあって、それを押し通すには非常識で非礼な行いになってしまうのを恐れない場合もありそうで、他人からそれを指摘されて謝罪するかも知れないが、それを知りながらあえてそんなことをやっている場合には本心から謝罪するわけでも反省するわけでもなく、そうなるとその後も時と場合に応じて同じようなことを繰り返すかも知れず、そうすることによって迷惑を被る他人よりも自身の利益を優先したり、信念を貫こうとするわけで、それも時と場合によっては妥当に思われるだろうが、もちろん非礼なことをされた他人は面白くないだろうし、程度によっては怒り心頭に発してしまう場合もありそうだが、わざと他人を怒らせる目的でそんなことをやる場合もあるだろうし、それもその場の状況次第でいかようにも判断できるし解釈できるかも知れないが、それを杓子定規に受け取る必要はないだろうし、そんなことをやられた側も柔軟な対応を心がけておけば相手の術中にはまらずに済むかも知れないし、それが執拗にこだわるようなことでもなければ受け流しておけばいいことでしかなく、世間の常識を知らないのはお互い様で、やられた側も他では他人に対して非礼なことをやっている場合もあるかも知れず、だからお互いに非礼な行為をやり合えばいいとはならないが、そんなことなど気にかけなくてもかまわないような成り行きもあるだろうし、そこで何を優先させるかは状況次第で判断されるところでもあり、その人次第な面もあるだろうが、判断よりも行動が先行すれば後から何を判断しても後悔するかしないかということになるだけで、それ以外の何をもたらすわけでもなければ判断するようなことでもなくなってしまうだろうが、非礼なことをやってしまった他人とその人との関係の深さや親密度によって、対応が異なってくるのは言うまでもないことで、親しい人や隣近所や職場や交友関係にある人ならわびるが、疎遠な人や敵対するような人に対しては非礼なことをやってもかまわないと思っているわけではなくても、自然と態度に出てしまう場合もあるだろうし、誰に対しても同じような態度はとれないものの、人によってころころ態度を変えるようなことはよしとしなければ、なるべく一様な態度で臨むように心がけるかも知れないが、功利的な利害などを重視していれば、逆に丁重な扱いにも裏があり、他人を騙して利用する算段を巡らせていれば非礼な扱いはしないし、落ち度を指摘されれば大げさな調子でわびるかも知れず、そうであれば他人に対して礼儀を尽くしているように見えても、裏では何を考えているかわからず疑わしく思われてくるわけだが、実際にその場でその人に接してみないことにはわかりようがなく、その場でもわかりようがないこともあり、言葉で説明しても説明しきれない作用や要因が重層的に絡み合ってくれば、それをどのように受け取っても釈然としない態度や対応になってしまい、人によっても立場によってもそれに対する受け取り方が変わってくるかも知れないが、誰から見てもわかりやすい受け取り方をしておけば世間的には無難かも知れないが、世間に向かって自分をよく見せようとしてアピールしている場合もあり、当人にはその自覚がなくても自然とそんなアピールをしていることが態度に出てしまって、そんな態度に出ることによって周囲の人たちを安心させる狙いがあるわけだが、それもそういう意図でそんな態度に出ている自覚もないだろうし、そうなっているところではその人の意識が世間の集団意識と同化しているわけだろうが、それが世間に対する見せかけの態度であり、それとは別に当人に特有な思惑もあるだろうし、それに関してはどこからどこまで世間に同化していて、どこからがそうした同化を装った偽装を利用する魂胆があるかもよくわからないところだろうが、結果的にわかりやすいことをやってしまうと愚かで浅はかな人はそれを真に受けて安心してしまう一方で、あまりにもわかりやすいと裏があるのではないかと疑心暗鬼も生じてくるし、裏があろうとなかろうとその場ではそう受け取っておいて、そこからまた状況が変われば、その状況に合わせて妥当に思われる解釈をしておけばいいのかも知れないが、何をどう解釈してもそこでおこなわれていることとは直接関係がなければ、無責任な態度でいられるだろうし、直接関係があっても勝手に見当違いな解釈をしてもかまわない立場の人もいるだろうし、人がどのような態度を示してそれに対して他の人がどう反応しても、それなりにそういう態度や反応が世間的に通用してしまうこともあるし、それらを容認できない人たちがそれを批判したり当事者たちに非難を浴びせかけようと、それに対する態度や反応も人それぞれに異なってしまってもかまわないだろうし、それが何か世論や民意となってはっきりと示されないようなら、世間的にも大したことでもないのかも知れないが、それを大げさに捉えて誰もが気を惹くように煽り立てる人にとっては大したことにしたいわけで、それが大したことでもないのに大したことにしたいのか、本当に誰もが関心を抱くべき大したことなのかは、結果的に大騒ぎになれば大したことだと思われる一方で、その大騒ぎが一過性に終わってしまえば大したことではなかったことになるのかも知れないが、いずれにしてもそれで済んでしまえばもうそれは過ぎたことになって、時が経つにつれて世間からも忘れ去られてそれっきりとなってしまうが、それをいつまでも根に持っていて、何かの機会にその時にやられたひどい仕打ちに対して復讐するようなことになってしまうと、それでは出来の悪いテレビドラマの脚本程度のことになってしまうし、そんなくだらぬ尾ひれがつくようなことは大したことではないといえるだろうが、その復讐が大量無差別殺人事件などに発展すれば、マスメディアでセンセーショナルに騒ぎ立てられることにはなるだろうが、そういうことも世間的にはありふれたことではあるだろうし、世間的にありふれているから大したことではないといえるかとなると、そんな事件を起こした加害者やその家族や被害者やその家族やその関係者などにしてみれば紛れもなく大したことであり、実際に深刻な事態に陥っているわけだが、そういう成り行きになってしまうことを未然に防ぐことはできないのかも知れないし、交通事故のようなものかも知れないが、結果がどうなるにしても前もって準備や対処ができなくてもその場で対応するしかないことであっても、それを経験した後からやれることもあるだろうし、やってしまったことを後悔するなら、後悔した後からその後悔を生かすようなことをやろうとするのかも知れず、それがどんなことになり、どんな結果をもたらすにしても、さらにもたらされた結果からやれることが見つかればそれをやろうとするだろうから、そうやって何かをやり続けて活動が継続している間は生きていることになるだろうし、生きていれば何かしら世の中のことがわかってくるのかも知れない。