彼の声140

2020年

9月30日「語り得ないこと」

 ありふれた実感に基づいて語るとすれば、普通に起こりえることが現に起きていて、何のことはない日々が延々と続いているはずだが、特に大したことがないように思えるのは、実際に暮らしているからだが、暮らしているだけでは不満なのかといえば、不満もあるだろうが仕方がないとあきらめている面もあるし、現状が何によって圧迫されているわけでもなく、何のせいでこうなったとも思われなければ、取り立ててどうということはないはずだが、普通に起こりえること以外に何が起きているのかといえば、何かが起きているはずだが、それが取り立ててどうということはないように思われるとともに、驚くべきことが起きているとも思われず、驚くに値しないのかというと、以前は驚いていたことが最近ではどうでもよくなってしまい、以前とは意識が様変わりしてしまったようにも思われて、本当はそうではないのかも知れないし、そんなふうに装っているに過ぎないのかも知れないが、それにしては世界が一変してしまったようには思えないにしても、何かに関心を抱くことから遠ざかってしまったようにも思えるし、何に対しても関心が薄れてしまったと言えるわけだが、人の愚かさも自分の愚かさも骨身にしみてわかったともいえないが、愚かなのではなくそれが普通なのだと言いたいところだが、どうもそうも言っていられないようで、愚かであるのが普通の状態で、逆に賢くあることがあり得ない状態かも知れないが、賢い人も世の中にはいくらでもいて、それが特に驚くべき状態なのではなく、それこそがありふれた状態であり、賢くあるからこそ愚かなのかも知れないし、賢さと愚かさが同義であるような世の中になっているかも知れないわけだが、何かそういうところが表現できないようなややこしいことになっているのかも知れないが、それも考えすぎであり、はっきりと特定の人物を名指しして、その人が愚かだと断言すべきかも知れないが、そんなことを断言する行為自体も愚かさの表れとなってしまうような気もするわけで、だから下手なことは断言すべきではないと述べてしまうと、それでは小心者の戯れ言でしかなくなってしまうのかも知れないが、ではどうするべきかとはならず、どうあるべきかでもなく、どうもしなくてもいいのかも知れないし、すでにそんなことには関心がないわけだから、それについてはあえて何も語るべきではなく、すでに語り得なくなってしまったことをどう語ればいいのかわからないのは当然であり、それに関して思い悩むことなどないのかも知れないが、相変わらずこだわるべきではないことにこだわっていて、また何にこだわっているのかはっきりしているのに、物事の推移を眺めているうちに時が経ってしまえば、何事もなかったことになるだろうし、実際に何事かが起こり、それについて語る羽目に陥らない限りは何事もなかったことにしておいてもいいだろうが、語り得ないことについて語るにはまだ何かが足りないのであり、その何かについては語らなければいいのかも知れないが、それがはっきりと特定できるような物事とは違い、何かのままに留まってしまうにしても、それが語り得ない何かだとすれば、相変わらずそれについては語り得ないのであり、語り得ないことまで語る必要はなく、語らないままに留まってしまうわけで、何かのままに留まる何かとは、やはり語り得ないことになってしまうのだろうが、そのまま語らないままでいられるかとなると、放っておけばいつの間にか語り出してしまうのかも知れず、そうやって自然に語り出すまで待たなければならないのだろうが、それについて語ることがそれほど気が進まないのかといえばそうでもあり、それが何だかわからないのだから、語りようがないのかも知れないが、それでも相変わらず語ろうとしているのであり、語ろうとして何かに惑わされていることは確かなのだが、その確かさにしても自信がなく、そんなものなどもとからありはしないのかも知れないし、ないことを語ろうとして語ることができないのかも知れないが、それが政治や経済とは無関係のことであり、思想や哲学とも無関係かも知れないが、では何と関係があるのかといえば、自分自身に関係があり、何でもないことを語ろうとしている自分に関して関係のあることかも知れず、他の何と関係があろうとなかろうと、間違っていようと自分を信じることが肝心であり、強引に自己肯定しながら自分とは無関係なことを語ろうとして、結局は語れないことに気づいているに過ぎないのかも知れず、しかもそれが語り得ないことの全てではなく、語り得ることすらそのほんのわずかしか語っていないということが、他の全てが語り得ないように思われてしまうことの原因かも知れないが、それらのほとんど全てのことが語り得ないように思われることが、何かそれが嘘のようにも思われてきて、実際にはそれよりもさらに多くのことを語らずにいて、それに気づいているのにその中のほんのわずかなことについてだけこだわってしまうのであり、やはりこだわっていることが些細などうでもいいようなことであれば、すでにその中の何でもないことだけ選んで語っているようにも思われてくるわけだが、果たして本当にそうなのかというと、それも嘘でしかなければフィクションの中でそんなふうに思っているに過ぎないことなのだろうが、それの何がフィクションなのかといえば、世の中で語られていることの全てが嘘でありフィクションでしかないと思いたいのかも知れず、そんなのはあり得ないことだろうが、たぶんそれでかまわないのだろうし、そう思っておけばそれで済むようなことかも知れないが、それで済まないとなると、何か真実について語られていることがあると見なすしかないわけだが、何がそう見なされているのかといえば、例えばそれが天気予報の類いであれば、その予報が真実だと思っておけばいいのだろうし、それくらいなら信じてもかまわないだろうが、それとは違って世の中にはどうしても信じられないこともあるだろうし、その信じられない真実というのが、日本が終了するだの落ち目になっているだのと当たり前のことのようにいわれていることではなく、また誰かが宝くじに当たったの大金をせしめたのということでもなく、それとこれとは関連性がないことだが、普通に何か政府に政策があって、その政策に従って何か実態のあることがおこなわれていることが信じられないのかも知れず、何らかの政策があってそれをおこなった結果として日本の現状があるということではなく、日本の現状に合わせて政治的にも行政的にも何かがおこなわれていて、それが政策といえば政策なのかも知れないが、それを政策とは言わなくても済んでしまうようなことでもあり、確かに何かしらそこでおこなわれていることは確かだが、それが良いだの悪いだのと評価されるようなことでもなく、何かそこに包まれている空気に逆らわなければ自然とそうなってしまうようなことがおこなわれているに過ぎず、それが取り立ててどうということでもないから、そんな空気の中で人や物や情報がうごめいているように感じられるわけだが、それらの良し悪しを判断する以前に、そうした空気に逆らって何かをやろうとすると、やろうとすることが阻まれてしまい、周囲が一斉に止めに入ってくるわけで、何かそれが出過ぎた真似をしているように見えてしまうのであり、そう見えてしまうから誰も何もできないような状況に陥っているのだろうが、何もできないといってもその場の空気を乱さないことならやれるわけで、それがたわいなくも見え透いたことであり、特定の勢力が批判できて別の特定の勢力が擁護できるようなことでもあり、誰もが安心して批判できてまた誰もが安心して擁護できてさらにまた誰もが安心して無視できるようなことならやってもかまわないわけで、安心して何かをやるわけだから、それをやることがわかりきったようなことがおこなわれている限りで安心できるわけで、それ以外のことをやろうとすると止められてしまい、それによって予定調和の安定が保たれているわけだが、それで誰もがかまわないと思っているとすれば何の問題もないだろうが、それでかまわないとしても何の問題もないわけではなく、全てが滞りなくおこなわれているように見えるとすれば、それが全てではなく、滞りをもたらすことがおこなわれていないのが問題であり、そこでギクシャクしてあちこちにぶつかるような紆余曲折が起こらないとそこから抜け出られないわけで、そういう蛮勇をふるうようなことがおこなわれなければならないわけだが、それができる人材が日本にいるかとなると、人材はいくらでもいるかも知れないが、蛮勇をふるう機会を与えられていないのかも知れず、そういう人たちは事を滞りなくおこなう上で障害となってしまうから、遠ざけられているのだろうが、そうだとしてもそれらの人たちの方から主導権を握るような行動に出ないと、いつまで経っても何かをやる機会が巡ってこないわけで、だから行動を起こすのはそれらの人たちの方であり、我こそはと思う人がいれば積極的に行動に打って出ないと何もできなくなってしまうだろうし、たとえ行動に打って出たところで周囲の人たちに止められてしまうのが関の山だろうが、止められてもそれに刃向かって無理矢理にでも行動しなければならないだろうが、そうやってそこで何らかの軋轢が起これば、そこから思いがけない紆余曲折が起こるのかも知れないが、まだ現状ではそれが足りないのかも知れないし、一見そういう行為と同じように感じられる煽動行為にしても、煽動の内容に関して特定の勢力の同意を得てそういうことをやっているわけだから、結局はそれが台本ありきの予定調和の演劇空間となってしまうわけで、それでは蛮勇をふるうどころか幼稚園児のお遊戯発表会のような様相を呈していることに、やっている当人たちも見ている人たちも気づかないことになってしまっているのかも知れないし、それがお遊戯にならないようにするにはそういうことをやるに際してお墨付きを与えている勢力が話が違うと止めに入るようなことをやる必要があり、それができなければそうした勢力が飼っているただの番犬でしかなくなってしまうわけだが、番犬はよく吠えるし、飼い主の言うことを聞いている限りで吠えることを許されているわけだが、吠えすぎて近所迷惑になるほど吠えても番犬には違いなく、そういう吠え方ではただ迷惑なだけで、状況を悪化させるだけなのかも知れない。


9月29日「政府と企業と政治」

 政府と企業がどう違うのかと言えば、政府が税収と公債を主な財源としているのに対して企業は経済活動によって収益を得ていて、両者の間で財源が違っているように思われるかも知れないが、政府が国債などの公債を発行するのとは少し違うが、企業も社債を発行することもあるし、また企業が従業員などの労働者を働かせて、そこから利潤を得ているのとは少し違うが、政府も人や企業に経済活動をおこなわせて、そこから税収を得ているわけで、企業が人を働かせて得られた収益の中から金銭を徴収しているのと同じように、政府も人や企業を働かせて得られた収入の中から金銭を徴収していると考えれば、どちらも似たようなことをやっていることになるわけだが、少し違っているように見えるのは、政府が公務員を働かせて収益を得ているわけではないことだが、それは企業の方でも事務職員を働かせて収益を得ているわけではなく、政府が各省庁や都道府県庁などの官僚機構を擁しているように、企業にも事務や経理などの部課や管理職などの役職があるわけで、そこでも似たようなことをやっているわけだが、両者の間でかなり違っているように見えるのは、政府のトップには選挙によって選ばれた人が就くのに対して、企業のトップには直接的には取締役会や株主総会で選ばれた人が就くわけで、そこが大きな違いのように見えるかも知れないが、実質的に無名の一般人が選挙で選ばれるはずがなく、社会的に名の知れた肩書きや役職がないと選挙で当選することはできないし、それは企業の中でも一般の従業員や株主がいきなりトップに選ばれることがないのと似たようなことかも知れないが、一般の民衆が幻想を抱くことがあるとすれば、それは民主主義に関する幻想だろうし、誰もが平等に一人で一票を投票する権利を持っているはずで、それは株主総会でより多くの株を持っている人や団体に主導権を握る力があるのとは違っているように思われるが、それが政党や政党内の派閥や外部の宗教団体や労働組合など各種の圧力団体が一定数の組織票を持っているのと同じことであり、何の団体にも所属していない一人の市民では組織には太刀打ちできないだろうし、そういうところで民主主義の幻想が崩れ去ってしまうわけだが、何もないところで民主主義があるわけではなく、経済的な富や社会的な権力の不平等を背景としてあるだけに、誰も自由で平等な立場では政治に介入できないし、多数の票を獲得しないと当選できない選挙という制度が不平等や不均衡を生じさせていると言うと、何かそれは違うような気がするものの、では主張の中身だけで多くの人の支持が得られるかというと、それも違っているような気もするわけで、それよりは社会の中で有利な立場や地位にある方が多くの人の支持を獲得しやすいだろうし、政治に関する主張の中身でも社会の中で有利な立場や地位に応じた内容になるだろうが、それ相応の主張をしておけば無難に思われるような内容というのもあるのかも知れず、そういう意味ではその人の社会的な立場や地位に依存した生活をしていて、特にそれ以上主張するようなことがなければ、公的な政治に介入する必要もないわけだが、そうなるとその人が仕事で従っている会社の上司や町内会の役員やメディアの識者や司会者のような立場や地位にある人に投票することになってしまうかも知れないが、そうではなく多くの人がそうであるところの、大した経歴も肩書きもなく、世間的に認められるような役職などにも就いていないような人には、間違っても投票しないだろうし、そもそもそういう人が立候補するはずもないわけだが、もちろんそんな人が多くの支持を得られるような内容の主張ができるとも思われないだろうが、そういう意味では自分たちと同じような無名の一般市民に投票すれば真の民主主義が実現するかも知れないのに、そんなことはあり得ないと誰もが思ってしまう時点で、無名の一般市民に含まれる人たちは自分たちと同じ境遇の代表者を議会に送り込む気がなく、そうである限りで民主主義を放棄していると言えるかも知れないが、結局自分たちが常日頃から従っているつもりの指導的な立場や地位に思われる人に投票してしまうわけで、それでは企業内と変わりなく、それが社会の制度や慣習に意識や思考がとらわれていることの証しとなるわけだが、選挙自体が制度であり、制度に従えば自然とそうなってしまうだろうし、それが社会の指導者を選ぶ制度であるならば、指導者にふさわしい人を選んでしまうわけで、要するに自分たちと同じ無名の一般市民では指導者にふさわしくないと思われてしまい、自分たちを代表する者は少なくとも自分たちより立場や地位が上の者でないと困ると思い込んでいるわけだが、実際に選ばれる人がどうかというと、確かに立場や地位は上かも知れないし、経歴や肩書きや役職も申し分ないかも知れないが、指導者としてふさわしいかどうかとなるとそうではない場合も多いだろうし、実態としては無名の一般市民と大して変わりない人が選ばれているのかも知れないが、ただそれが世間的に成功した人であるだけに、人一倍強欲であったり、あくどいことをやってのし上がった人物であったり、地縁血縁や親の財産を利用して地位や役職や学歴を手に入れた人であったり、ひどい人物が選ばれてしまうことの方が多いだろうし、そういう面でそれが無名の一般市民が選ぶ人物としてふさわしいかどうかというと、皮肉や嘲りをかますにはふさわしい人物かも知れないが、普通に考えるなら無名の一般市民を搾取する側の人たちが選ばれているわけで、要するにそうやってひどい人たちの食い物にされているわけだが、それでも騙されている感覚にはなれないだろうし、だからそんな人たちに投票してしまうのだろうが、詐欺師に騙されているとしても、騙されている間はそれらの人たちを信用して信頼しているだろうから、別に直接の被害や損害を被っていると思えなければそれで済んでしまうようなことかも知れないが、無名の一般市民の中からそういう人材が出てくるとも言えるのかも知れず、世の中の時流に乗って運にも好機にも恵まれてうまく立ち回った人が、成功の証しとして選挙で多くの人の支持を得て議員や大臣になれば、誰もが賞賛する立身出世の物語の主人公にふさわしい達成となるわけだが、しかしそれでは政治の中身が伴っていないような気もするわけで、政治のそうではない面から付け足すことがあるとするなら、何やら内政や外交などに関してもっともらしいフォーマットが出てくるだろうし、それがそれらの型にはまったことをやっていればそれなりに格好がつくようなことであり、そうなれば官僚機構やマスメディアによって用意された政治家にふさわしい立ち振る舞いになるわけだが、そうなってしまう時点でやれることが決まってきて、それも社会の制度や慣習から生じてくる役割分担に沿った行為や作業となってくるのかも知れないが、そうであれば政治家にも社会の制度や慣習にとらわれたことしかできないという縛りがかかっていて、そこから外れることはできない仕組みになっているはずだが、それは企業が経済的な利益を追求するという制約から逃れることができないのと同じで、政府も政府自体を維持存続するための活動から外れることができないし、政府にかかわってくる政治家や官僚もその縛りを解くことはできないわけで、それが人や企業などの団体から税を徴収することであり、政府が企業のように倒産する可能性はないものの、組織として成り立っているように見せかける力が絶えず機構内に働いているだろうし、それが国民の目を欺くための各種の偽装や隠蔽工作に結びつくのかも知れないが、その偽装や隠蔽を暴き出すというメディアの使命とも表裏一体をなしていて、特定の人や勢力が企業から利益を優先的に引き出す行為と政府からも利益を優先的に引き出す行為が複雑に絡み合っている中で、そういう不正行為が絶えず企業にも政府にもあることを匂わすのが、メディアのジャーナリズムとしての役割でもあり、そちらへと民衆の目を向けさせながらそれに対する不正の追及を議会の野党勢力に課すように仕向けてくるのだが、そうやって課される役割分担から生じる行為に目を奪われているうちに、根本的な問題から目を背けさせることに成功していると述べると、そんなはずがないと思われてしまうかも知れないが、では根本的に何が問題なのかといえば、企業が利益を追求する行為であり、政府が税を徴収する行為であるわけだが、それをやらないと企業も政府も存続できないわけだから、そういう意味でそれが根本的な問題となるわけで、それなしでは済ますことのできない問題でもあるわけだが、それを現状の延長上で考えるなら、企業も政府も存続させつつも、企業の利益を追求する行為も政府の税を徴収する行為も続けさせる一方で、それらがおこなわれることによって生じる弊害をなるべく減らすようなことが求められるわけで、それに対して政治的にできることは制度や法律を修正したり改正したり新設しながら、弊害の軽減につながるように何らかの調整をすることになるだろうが、一般の市民に求められることは、なるべく企業や政府に依存しないような生き方を模索することかも知れず、それらへの過度な依存が国粋的な国家主義や功利的な利益追求の新自由主義をもたらすわけだから、より多くの人たちがそういう傾向を求めてそちらへと向かってしまうと、それだけ企業や政府から過度に搾取されることにつながって、企業や政府が栄えるほど民衆が疲弊してしまうわけで、そういうところで企業や政府が栄えると共に民衆も栄えると勘違いしているのかも知れないが、実際に企業が民衆から利益を搾取して政府も民衆から税を搾取するわけだから、その搾取した利益や税を使って企業規模も政府の官僚機構も増大していくわけで、そういう傾向をわかっていないと、大企業を敵視するが、その代わりに大企業から民衆を守ってくれる大きな政府を実現するという幻想を振りまく政治家や政党や官僚機構の罠にかかってしまうわけで、そういう幻想を振りまいている人たちの方でも民衆を守るために大きな政府を目指しているわけだから、それが悪いことだと一概には批判できないわけだが、大きな政府にするために国債などの公債を利用するとなると危険な香りが漂ってくるわけで、それをやってみればわかることかも知れないが、実際にそれをやるに至るかどうかは、そういった勢力を民衆が信用して信頼を寄せるかどうかにかかってくるのではないか。


9月28日「問題意識」

 世の中で当然のことのようにおこなわれていることに納得できなければ、それをおかしいと思うのは納得できないのだから当然であるとしても、その納得できないことを納得できるようにしたくて問題提起して、それが無理なこじつけではなく、極めて自然な反応としてそうなっていれば、その場で起こっていることに連動してそうなっていて、そうすることがもっともらしく感じられるからそうなるのだろうが、少なくともそうなることに関して納得できる理由を求めていて、なぜそうなってしまうのかについて、納得できる理由を知りたいのだろうが、現状では納得していないのだから、疑念を抱くのはもっともなことであり、それがその事態に対処する行動に結びついていれば、それだけ疑念を抱いている人に切実さが感じられるだろうし、そうなってしまうことが当然のことのように感じられるなら、疑念を抱いている当事者ではない人にとっても、それが興味深く感じられて、問題提起している当事者の事情を詳しく知りたくなってくるのだろうし、そうやって当事者の活動に当事者ではない人も引き込まれて、善意の連帯を装いながら当事者の活動に共感して、当事者と問題を共有するのが当然だと思われてくれば、それだけ多くの人が問題を共有することになり、それが社会問題化して、社会全体として問題に取り組む成り行きになってくれば、そうすることが当然のことのように思われてくるわけで、メディアが取り上げることも政治の場で取り上げられることも、大抵はそうした問題になるのだろうが、それとともにもっと根本的なところで、メディア自体に問題があるように思われたり、また政治に関しても政治家や政党や議会や政府なども含めてやっていることに納得できなかったり、さらには社会や経済やその中で活動している人や団体にも問題があるように思われる場合もあるだろうし、またそれに加えて問題提起している当事者にも問題があると思われるなら、問題提起することにも問題があるようにも思われて、問題提起すること自体にも納得できなくなってしまい、そうなると問題提起する人が信用できなかったり、問題を共有するどころか、問題提起する人に問題があることを他の多くの人たち訴えかけて、それを新たな問題として多くの人たちとともにそれを共有したくなってしまうのかも知れず、それが問題だと思われてしまい、当人には問題をややこしく込み入らせようとしている自覚はないだろうが、そうやって実際に様々な問題が人々の頭上でぐるぐる旋回しながら舞い上がって方々へと飛び散って分散してしまえば、何が真の問題なのかわからなくなって、考えるべき焦点が定まらずにその場が混乱するだけとなって、そうなればそんな成り行きになることを狙ってその人が破壊活動をしているようにも見えてしまうだろうし、現状を混乱に陥れている当人がひたすら問題提起しまくる人であったりすれば、結構それによって利益を得ているのがその人が批判している当事者であったりもして、そういうところで結果的にどうなっているかが、そこでの判断材料になり、しかも判断としては下手に陰謀論的な穿った見方をしないで、状況をそのままに受け止めておいた方がいい場合もあり、人や団体の意図や思惑を自分の都合に合わせて想像してしまうのではなく、自分の都合を考慮せずにありのままに受け止めるべきであり、無理に正しい判断をしようとは思わない方が、より妥当な認識に落ち着く可能性もあるだろうが、あまりそこで目先の損得を考えない方がいいだろうし、それらの活動がすぐに効果をもたらすようなことなら、すぐに化けの皮が剥がれるようなことにもなるかも知れず、それだけ嘘がばれるのも早く、そうでなければそんなことはやらないわけで、そういう思惑でそんなことをやっているとしても、結果的にそれが地道な活動に結びつけば、それに伴って活動内容も主張の内容も徐々に修正されていくだろうし、そういうことまで考慮に入れるなら、現時点でいくら荒唐無稽なことを主張していようと、それが荒唐無稽ではなく現実的な主張であると言い張っていても、そういうことも含めて好意的に受け取っておけばよく、無理にそれらの人たちと問題意識を共有しなくてもかまわないわけで、共感もしないで問題意識も共有せずにどうやって好意的に受け止めるのかといえば、好意的に受け止めているふりをすることになるかも知れないし、そうでなければ批判的に受け止めて、実際に荒唐無稽なところを批判すればいいわけだが、それよりは現状で無難なことをやっている人たちを支持しない方が良心的に感じられるのかも知れず、そちらの方が安易なことをやっているわけだから、それを消極的に支持してしまう多数派こそが批判されるべきかも知れないが、中には積極的に支持している人もいるだろうし、その一方で現状ではあり得ないような荒唐無稽なことを主張する人たちを小馬鹿にするわけだが、果たしてそういう状況を好意的に受け止めるべきかといえば、そうではないような気がするわけで、気がするだけでなく、それでは納得できないのだろうし、納得できないのに現状を好意的に受け止めるわけにはいかないわけだが、その一方で現状に納得せずに問題提起を繰り返す人たちにも納得できないだろうし、そんな人たちも現状に含まれてくるから納得できないわけだが、そこで何が間違っているように思われるのかといえば、納得できないことを納得できるようにしたくて問題提起していることが間違っているように思われるわけだが、それが間違っているのではなく、逆に正しいことをやろうとしているわけで、現状で正しいことをやろうとするから間違っているように思われるというと、またいつもの逆説的な物言いになってしまうわけだが、納得できないことをそのまま放置するわけにはいかないだろうし、そういう意味で正しいことをやろうとするのが当然の成り行きに思われるわけで、納得できないことを問題提起する人たちが正しいことをやろうとしているのは疑いの余地がないわけだが、それを間違ったことだと見なしてはならないだろうし、正しいことをやろうとしていると見なしておけばいいわけだが、それに対して共感を覚えないし、問題を共有することもできなければ、ではどうすればいいかとなると、妥協的な態度を取るとなると好意的に受け止めているふりをすることになり、好意的に受け止めていることをアピールするわけで、さらには彼らを無視できない重要な存在だと見なしているわけだが、それが何を意味するのかといえば見せかけているわけで、演技としてそういうことをやっているわけだが、それでいいのかといえば、客観的に見れば問題提起している人たちが騙されていることになるわけだが、騙している人たちにとってはそれでかまわないわけで、それでかまわないからこそ現状を好意的に捉えておけるわけで、戦略的な見地からすればそれでうまくいっていることにもなるわけだが、それをやられてしまうと騙されている人たちが勘違いしてしまうだろうし、自分たちが他の勢力から認められていると思い込んでしまうわけだが、それを一歩下がって建前上の支持でしかないことを承知しておけば、双方の間で騙し合いや化かし合いの様相を呈してしまうのかも知れないが、それでもそれらの人たちの意図や思惑とは関係のないところで事態が勝手に進展してしまう可能性もあり、結局はそちらの方が思いがけない事態や結果をもたらして、それによって当初に抱いていた狙いや目論見を変更せざるを得なくなって、そういう成り行きに従うしかなくなってしまい、自分たちの浅はかな考えを改めざるを得なくなるわけで、そういう成り行きへと意図して持って行けないだろうし、人為的にはどうしようもないわけだが、それでも機会を捉えて何かやる成り行きにはなるだろうし、そんな機会が巡ってくればやらざるを得なくなってしまうのかも知れないが、機会が巡ってこなければこれまで通りの成り行きとなってしまうだろうし、これまで通りのままでは何も起こらないのかも知れないし、たとえ何かが起こったとしてもそれを活かせないまま終わってしまうのかも知れないが、それでもかまわないような成り行きだと状況を捉えておいてもかまわないだろうし、現状はその程度のことに過ぎないわけだが、だから現状を好意的に捉えておいてもかまわないわけで、そうなっている限りでまだ心身に余裕があり、意識してうまく立ち回る必要もなく、これまで通りの主張を繰り返していれば何事も済んでしまうわけだが、そんなありのままの現状をそのまま受け止めている人々の方でも、それでかまわなければ何も現状が変わらないのかといえば、たぶんそうでもないだろうし、絶えずそれらの人たちが意識できないところで状況が変化していて、思いがけないことが都合の悪いところで起こってしまい、そうなればそれもありのままに受け止められるかとなると、無理にも都合良く受け取ってしまうかも知れないし、都合が悪いことからは目を背けて無視しようとするだろうし、そういうところでそれらの人たちの意図や思惑が破綻していて、思い通りにはなっていないわけだが、それでも絶えず思い通りになっているように見せかけようとするだろうし、またそんな見せかけに騙されてそれらの人たちを消極的に支持する多数派が存在しているようにも見せかけられてしまうわけだが、当人たちが多数派に含まれていると思っていても実際には一枚岩で団結しているわけでもないし、それも思い込みの幻想に過ぎず、何かそういうところでも当てが外れているはずだが、誰もそうは思わないし、意識してそう思い込もうとしているだけかも知れないが、そんな思い込みにも助けられて自分たちの幻想を信じているわけで、信じているだけならまだしも、そうなっていると思い込んでいるだけに、始末に負えない様相を呈しているわけで、どう見てもそうなっていないのに、そうなっていると仮定しながら事を進めてしまうから、さらにややこしいことになってしまい、自分たちのやっていることが破綻しているにもかかわらず、それを破綻とは受け取らない態度を貫こうとして、さらなるおかしな状況を招いているのに、それもそうなって当然のことのように振る舞っているわけだから、そんな振る舞いには納得できないのも、誰もが抱く普通の感覚だろうが、それをおかしいと思うのが当然のことであり、そんな納得できないことを納得できるようにしようとしても徒労に終わるしかないのかも知れないが、それでも徒労に終わるようなことをやろうとするのが正しいことのように思われてしまうのだから、その辺がご苦労なことでもあるわけだ。


9月27日「違和感」

 違和感といえば違和感には違いないが、違和感をもたらすような成り行きになるのは当然に思われ、それがわかりきった違和感でしかないのも当然のことであり、違和感をもたらしている行為を間違っていると見なしてしまうのは少し違うような気もするし、違和感をもたらすような行為になってしまうのもわかるが、理解できるからといって違和感を拭い去ることはできないし、そうなるのが当然のことのようにして違和感を感じさせることをやっているわけだが、それではまずいのかといえば、そうなるしかないのだから、まずいにしてもまずくないにしても、そんなことをやらざるを得ないと捉えておくしかないし、それをやらない選択肢がないようなことをやっているわけだが、それはそれでそういうことであり、そうなる以外にやりようがないことをやっているわけだが、そう思われるのだから、それに対して違和感を感じることをわざわざ表明しなくてもいいような気もするわけだが、違和感を感じると述べてしまうのも当然の成り行きには違いなく、そう述べておかないと誤解を招くようなことに関して、それ以外にどう述べればいいのかよくわからないのだが、間違っていると指摘するのは簡単だが、それではまずいような気がするわけで、それが間違っていることなら他にも間違っていることを指摘しなければならず、他にも様々な行為に関して間違っていると指摘して回るときりがないだろうし、それらの全てが間違っていてもかまわないわけだが、間違っているのにそれでかまわないわけだから、矛盾しているように思われるかも知れないが、では正しいことをやるとどうなるのかといえば、成り行き上正しいとはいえないだろうし、間違ったことしかできないような成り行きになっていて、誰も正しいことができない以上は、それが間違っていると指摘しても意味がないように思われてしまい、だからそれが間違っていると指摘することにも違和感が伴ってしまうわけだが、それ以外には表現しようのないことがおこなわれているわけで、それに関してどう捉えてみても違和感が伴ってしまうということから逃れられず、いくらでも違和感を表明できてしまえるということも意味がないようにも思われるが、とりあえず違和感を表明せずにはいられないことをやっている人がいくらでもいる世の中で生きているわけだが、それも当然の成り行きであり、そうなっていることに関しては特に違和感はなく、違和感を表明せずにはいられないようなことをやっている人がいくらでもいる世の中になっていることについては違和感がないということが、何を意味するのかよくわからないが、違和感を抱かせる原因が何なのかはよくわかっていて、それもそう述べてしまうと誤解を招いてしまうのかも知れず、それに関してもどう表現すればいいのかよくわからないのだが、人がどうでもいいようなことにこだわっていると思ってしまうことが間違っていて、さらにそれがどうでもいいことではないと反駁するのも間違っているとすれば、その人にとってはどうでもいいことが、別の人にとってはどうでもいいことではないということだが、誰にとってもどうでもいいこともありそうで、また誰にとってもどうでもよくないこともありそうだが、それをどうでもいいかどうでもよくないかでは判断できないこともあるだろうし、人がこだわっていることに対してどのように判断すればいいのかもよくわからないこともあるわけだが、そういうところで差異が生じて、その差異が違和感をもたらすわけで、人がこだわっていることに対して何か違うと思ってしまうのだから、違和感が伴うのは当然のことであり、なぜそんなことにこだわっているのかよくわからないから違和感を感じて、それがこだわるようなことだとは思われなければ、それを表明する機会が巡ってくれば実際に違和感を表明するわけで、何かそれは違うのではないかと疑問を呈することになるわけだが、なぜ違うのかといえば、他人がこだわっていることが自身にとってはこだわらなくてもいいことであり、そう思ってしまう時点でそのこだわりが理解できないわけだが、自分にとってこだわらなくてもいいことにこだわってしまう他人の存在を認めてしまうと、自分の立場がなくなってしまうように思われるなら、その他人とは対立関係にあるわけだが、その対立関係が何かを介して表裏一体の関係になっていると、そこで対立していること自体が見せかけの対立であり、そういった対立を真に受けてしまうと、物事の本質を見失ってしまうことになり、ではそこで見なければならない物事の本質とは何かといえば、そこで見せかけの対立を構成している構造そのものになるわけで、そうであれば物事の本質を提示するには、そこで見せかけの対立を利用して世の中を動かしている仕組みを明らかにしなければならないわけだが、どうもそういう成り行きにはならずに、見せかけの対立に留まらなければならず、しかも対立している双方の陣営にも加わらずに、それに対して第三の勢力を築こうとしているのでもなく、立場がないままに留まろうとして、実際には留まれないわけで、それらのどこにも留まれない状態を保てるわけでもないだろうが、なぜか安定した立場には留まらずに、流動的に推移する情勢に翻弄されるがままになってしまうわけだが、そういう成り行きをどう表現すればいいのかわからず途方に暮れてしまい、その一方で見せかけの対立についても具体的に言及しようとして、それもうまく表現できずに悩んでいるようだが、都合の良いところだけ取り出して、それについて言及するのに都合の良い立場を取りながら、都合の良いことを述べてしまうと、やはり違和感を覚えてしまうわけで、そうした都合の良いところだけつなぎ合わせて都合の良いことだけ主張するのが煽動行為には違いないのだが、都合の悪いことまで主張してしまうと煽動とはならないし、もちろん都合の良いことだけ主張していると思われてしまうと都合が悪いわけだが、それに気づかない愚かで浅はかな人たちを相手にするのが煽動行為でもあり、それに違和感を覚えていること自体が煽動に騙されていないことの証しとなるだろうし、結局は対立を煽るような煽動を真に受けなければそれで済んでしまい、それだけでも違和感を覚える理由や原因をそれ以上は追求する必要もないわけだが、たぶんそうした煽動をやめさせられないまでも、それを真に受けてしまう愚かで浅はかな人を少しでも減らしたいのかも知れないが、それも要らぬお世話かも知れないし、放っておいてもかまわないようなことであり、むしろそんな人たちが少しでもいないと世の中が回っていかないわけだが、では煽動に騙されてしまう愚かで浅はかな人がいないと回っていかない世の中でいいのかというと、そうした世の中に違和感を覚えているのだから、それでいいはずがないわけだが、一方でそうならざるを得ないようにも思われていて、そうなってしまうことが当然だとも思っているわけで、どう考えてもそれではおかしいわけだが、しかもおかしいのにおかしいことが当然のように思われてしまうわけだから、何か釈然としないものを感じていることも確かなのだが、世の中の全ての人の立場や境遇の良し悪しを相殺するとプラスマイナスゼロになるかというと、そうではないから時間が未来へと向かっていて、それがプラスの方向へ振れていると思いたいし、少しでも人の愚かさや浅はかさを減じるように時間が作用して、それを考える時間をもたらしていると受け取っておけばいいのかも知れないが、それにしてはともすれば勘に頼って考える手間を省こうとしてしまい、立場がないよりはあった方が安心できるし、対立に加わればすぐに敵対するどちらかの立場を得られるような気がしてしまうわけだが、それ以前に相手にされていないことに気づくべきで、誰かの相手になるような立場が元からないわけで、またその誰かが誰でもない誰かというわけでもないはずだが、それもよくわかっていないのに、その場の情勢に応じて敵対するように仕向けられているわけだが、無理に敵対するような情勢ではないのかも知れず、やはりそれ以前に何と敵対したいのかもよくわかっていないようで、そうやってよくわかっていないのにすでに首を突っ込んでいて、何だかわからない状況の中で戸惑い迷っているわけだが、そういうわかっていないことを無視して省いて物事を単純化して敵対するように仕向けないと、世の中が回っていかないのだとすれば、何かそれでは間違っていると思われるし、もっと世の中がややこしい状態になっていることを認めた方が、誰もが正直になれるような気もするわけだが、世の中にはそれができない立場というのもあるらしく、煽動者には煽動を真に受けてくれる群衆が必要であり、群衆には賢く振る舞う余地がなく、両者の利害や思惑が一致すれば協力して世の中を動かそうとするだろうし、果たしてそれで世の中が回っているのかといえば、そういう方面ではそれなりに作用や影響を及ぼしているのだろうが、そういう方面だけが世の中の全てではないし、それとは違う方面で何かやっている人たちもいるはずで、それだけでないことも誰もがわかっているはずだが、またそれだけが全てであるように見せかけているわけでもなく、他の面の方がかなり大きな割合を占めていることもわかっていて、わかっていながらそちらの方面ではそれによって盛り上がっているはずだが、そんなことに違和感を表明するまでもなく、別に嫌気がさしたわけでもないのにそこから遠ざかろうとしているのかも知れないが、飽きていることは認めざるを得ないだろうし、飽きるほどその手の煽動に直面したわけでも参加したわけでもないのに、なぜか知らないが飽きているわけで、煽動者の方でも周囲から飽きられていることに気づかないわけでもないだろうが、飽きられてしまったとしてもやめるわけにはいかない事情もあるのかも知れず、煽動が無駄だと悟るまではやめられないのだろうが、それを悟ってもやめるわけにもいかないほどの強い使命感に突き動かされているのかも知れないが、飽きるとかいうのではなく、煽動の中身に関して何かもっともらしいことを述べる必要に迫られているのかも知れないが、それが微妙に違和感を伴うような内容であるだけに、それをうまく説明できずに悩んでいる状況なのかも知れない。


9月26日「期待と失望を超えて」

 世の中でおこなわれている様々な行為がそれと連動して起こる様々な現象に結びついているとしても、他の何につながっているわけでもなければ、個々の行為が大した広がりも持たずに狭く限られた領域でおこなわれているだけに留まる場合もありそうで、それに直接かかわっているわけでもなければ、部外者が勘違いな期待を寄せる方が間違っているだろうし、それを見ているだけの人が何か期待を抱くとしても、期待そのものがたわいないことでしかなければ、そこで何を期待しようとどうということはないわけだが、それも何らかの行為に連動して起こる現象の類いだろうし、それだけでは大した現象ともならず、期待がすぐに失望につながるわけでもなく、そこから時が経って通りすがりに抱いたかすかな期待も薄れて、忘却作用とともに期待していたことすら思い出せないほど意識が遠ざかってしまえば、不意に何かのきっかけからそれを思い出して、一時的に期待をもたらしたことを振り返る余裕も出てきて、稀にそれが思考の対象となる場合もありそうだが、そうなったところでそれが何をもたらすわけでもなければ、ただそれについて考えているに過ぎず、その考えていることだけに留まり続けることが、それ以外には何ももたらさないことになり、その逆に行動ばかりが先走って空回りしている場合もありそうで、何かをやり続けることからそれ以外の何も生まれてこなければ、それだけに留まっていることになり、そこで自足しているだけで済んでしまい、それでかまわないことになってしまうと、やはりそこからも期待が忘却に移り変わって失望すらも生じさせない成り行きが生じて、またそれも後から振り返って思考する対象となるわけで、そうやって物事をやり過ごすことに慣れてしまうと、何かに期待を寄せることとそれについて考えることとそれとは別に行動することとその行動について考えることが結びつかずに絡み合ってこないわけだが、普通はそうはならずにそれなりに相互作用を引き起こしてそこから何らかの成り行きがもたらされるだろうし、その成り行きも思考対象となるはずだが、それとともに行動が引き起こされてさらなる現象となって世の中に影響を及ぼすと、それが状況の変化をもたらすかも知れないが、それが思考する人や行動する人とどう関係しているのかは、実際にそうなってからわかったりわからなかったりするのかも知れず、そこで何を期待しても期待するだけに留まっていたら、やがてそれが忘却作用を被りながら、期待するだけに留まっていた自らに失望してしまい、そこで何もしなかったことを後悔するだけに終わってしまうのかも知れないが、そうであるなら期待するだけに留まらずに、期待を寄せている対象へと積極的にかかわろうとしなければならなくなり、その上で失望しても少なくともかかわろうとしたことについては後悔するはずもないことになれば、自らの行動に関して何かしら手応えを感じているのだろうし、自らの内へと引きこもっている状態から脱したことにもなるのかも知れないが、そういう意味では思考と行動をかみ合わせて動作させる必要があり、思考だけとか行動だけで物事を済まそうとしてはならず、その両方を伴うようなことをやることが、人の活動としてはバランスが取れていることになるのだろうが、意識してそうなるように心がけても思い通りにはいかないだろうし、結果的にそうなるしかないとなれば、実際にそうなればやっていることがうまくいっていることになるかも知れないが、うまくいってもいかなくてもそれだけで満足したり落胆するようことでもなく、そうなりそうな機会を捉えて思考と行動とを調整するように心がければいいだろうし、結果がどうなるかも大事なことだが、そこに至る過程においてうまく立ち回るというよりは、うまく立ち回れなくてもそれ自体が否定されるべきことでもないのかも知れず、そうなってしまう過程において思考と行動とをかみ合わせることが重要であり、それを言葉で表現するともっともらしく辻褄が合ってしまうとしても、実際には辻褄の合わないことをやってしまう事態もありそうで、結局はその場の成り行きからそうなってしまうわけだから、辻褄が合っても合わなくても、どちらの事態にも対応しようとするわけで、そこで思考と行動をかみ合わせて直面する事態に対処することになるわけだが、たぶんそこで思考と行動がかみ合わないと、考えていることとやっていることの辻褄が合わなくなってしまうのだろうが、そうなること自体が直面する事態に対処した結果であれば、それでかまわないわけで、それでうまく対処できたことにはならないとしても、それなりに対処した結果としてそういう事態になってしまったのだから、それも一つの結果として受け止めておけばいいのだろうし、そうなりながらも思考と行動をかみ合わせようとしているわけで、それ自体がうまくいっていないことの証拠かも知れないが、そうなっている限りで思考と行動が結びついて、そこで何とかしようとしていて、うまくいっていないから何とかしようとしているのであり、うまくいっていなくても何とかしようとしている限りで思考と行動が結びついているわけで、それらも含んで人の思考と行動があるわけだから、何かがおこなわれた結果から物事の良し悪しを判断したところで、それが物事の一部しか考慮していないことは確かだろうし、誰がそんな判断を示そうともそれを真に受けても受けなくても、それなりに考慮に入れていない面があるだろうし、判断を示している人が何かしらの権威であるとしても、そうした判断が疑わしいようなら疑うだけの理由や根拠を見つけようとして、それなりにそれについて考えてみたことになるだろうし、それに関して意外と権威者面してもっともらしいことを述べている人が、その人に特有の先入観や固定観念にとらわれている可能性があるわけで、しかもそれが世間的な常識の範囲内に収まるようなことであれば、その人に特有というわけでもなく、世に広まっている支配的な観念に同調しているだけであったりして、そういうところで世間で共有している価値観の類いと権威者面してもっともらしいことを述べる人との連携が明らかになってくるかも知れないが、それが好意的に見られているとしても批判的に見られているとしても、世間的な価値観というのが多分にご都合主義的な傾向があれば、根本的なところでは辻褄が合っていないだろうし、そういう傾向が行き過ぎる面において批判的に見られているとしても、適度な範囲内に収まっていれば好意的に見られてしまい、いったいどの程度なら行き過ぎになってしまうのかについても、その場の事情によって変わってくるようなら、やはりそれはご都合主義的な傾向となってしまい、それに関してももっともらしく正しいことを述べているように思われる人がその方面で権威者面ができるわけだろうが、それを一般の人が全面的に信頼する必要はないだろうし、といっても浅はかな人たちがそういう意見に同調してしまうわけだが、それが世論などに反映してしまうとしても、そうした世論にも同調する必要はないだろうが、やはり多くの人たちがそれを受け入れて安心感を抱くようなことになってしまい、そうやって多くの人が同調しやすい価値観が形成されてしまうわけだが、それに逆らうとか従うとかでなく、そういう経緯を伴って価値観が形成されていることを理解しておけば、それに逆らうか従うかの二者択一の対象ではなく、直接には自身がかかわってこないことであり、間接的に構成される最大公約数的な代物でしかないだろうし、自らの思考や行動がそれに左右されてはまずいわけで、たとえそれに逆らったところで従ったところで勘違い以外に得るものは何もなく、それよりは自らの勘に従うか逆らうかの二者択一の方が重大な結果をもたらすかも知れず、普通は勘を頼りに行動した結果としてうまくいったりいかなかったりするのだろうが、勘とともに合理的な判断基準を組み合わせて行動すればうまくいくような気がするが、それも言葉で表現するのと実際の行動とは異なり、実際に行動してみると途中で勘が狂ってきたり判断基準が見つからなかったりして、勘を惑わす要因や判断をさせないような成り行きも伴ってきて、そうなっている時点ですでに迷い悩むような状況へと引きずり込まれてしまい、どう対処すればいいのかわからなくなっているわけで、それを後から言葉のやりとりによって説明しようとする時点で、もうすでに手遅れになっていたり過ぎ去っていたりもして、手の施しようのないことになっていれば、それに関してそれ以上は事態の進展をあきらめるしかないわけだが、そういうところで人や集団の間で思考や行動がかみ合っていなくても、何かしら事態を進展させる要因を探し出して、それを利用できれば、それが状況を変える突破口になることもあるだろうし、だからそれに関して期待を寄せたり失望したりしているだけでは、まだ至らない境地があり、そこからさらなる思考と行動が求められていて、それを怠って結果を先取りして判断しようとすると、権威者面した煽動者たちの予想や予言の術中にはまって、そこから先の思考や行動をあきらめてしまうことにもなりかねず、そうなってしまうのを避けるには、できるだけそこに至る途中の段階に留まって、思考と行動をかみ合わせて活路を求める以外になく、そうやって権威者の断言を真に受けずに自らの判断にも疑念を抱きつつも、絶えず可能性の段階に留まることができれば、それが事態に対処している最中でもあるわけだが、それでも何らかの結果を受け入れつつ何かをやっていることになるだろうし、権威者の断言にももっともらしく思われる面がそれなりにあるから、その人が権威者面をしていられるわけで、また自らの判断にも納得できる面があるからそう判断しているわけで、それらの全てを受け入れずに拒否することはできないし、無理に拒否するのはおかしいわけだが、それを受け入れたり受け入れなかったり、拒否したり拒否できなかったり、自らの判断でそんなことができると思われたり思われなかったりするとしても、そうなってしまう途中でそれについて考えながらそれ相応のことをやり続けるしかなく、面倒くさがってそれを怠ることのないように心がければ、その良し悪しは不明だとしても、それなりになるようになるのかも知れない。


9月25日「黄金の誘い」

 夢の中で何かを見つけ出そうとしているようだが、それが実在するはずもなく、架空の何かでしかなければ現実の世界では見つからないだろうが、少なくとも現実離れした言説の中にはない何かなのかも知れず、それが何だかわからないということではないだろうし、誰もがわかっている物事であるはずだが、少なくともそれは新自由主義的な価値観を避けて通る過程の中で見つけ出されるべきことなのかも知れず、誰もが忌み嫌う言葉をあえて持ち出して提示するのにもそれ相応の理由がありそうだが、要するにそれを避けて通ってはまずいわけで、そのただ中で思考する必要があり、そこから取り出される黄金こそが誰もが求めている価値の源泉であり、素直にその事実に気づくべきなのだが、それに気づかないふりをしながら思考する必要もあるだろうし、黄金とは違う何かをその思考の中から取り出そうとすれば、当然その代替物として人間という概念が目に飛び込んできて、それに飛びついた人たちが黄金を人間に言い換えて自身の論理の辻褄合わせをするわけだが、たぶんそれで正解を得られるだろうが、あえて間違わないと正しい答えには行き着かないことが証明されてしまい、辻褄合わせには欺瞞がつきものであることをうかがわせるわけだが、それだけでも奇術師がやるような見世物になってしまうのに、さらにそれに加えてシルクハットから鳩を出すようなことをやろうとして、だめ押し的なことをやる羽目になってしまうわけだが、しかもそれが回り道の全ての過程ではなく、さらなる別の迂回路を用意しようとして、新道の造成工事をやる予算をひねり出そうとしているのかも知れず、そうなると果たして本当に正解に至りたいのか疑問に感じられてしまい、そこまでやる理由を知りたくなってきて、それが罠へと誘導する仕掛けであることに気づかなくなってしまうのかも知れないが、気づいていながら誘導されてしまうわけで、誘導されないと演技を続けられなければ、それが自発的にやっていることではなく、誘導されていないとできないことであることも明らかになってくるわけだが、たとえそんな演技に見とれていても、大事な肝は押さえておかないとならないだろうし、彼らが激しく対立していると思っている対象自体が彼らを生かしている当のものでもあり、彼らがそれと自覚することなく引き受けている役割と、彼らが対立している対象が演じる役割とが表裏一体をなしていることに気づけば、そこで起こっていることの辻褄が合ってしまうわけだが、新自由主義的にはそれではまずいわけで、それが否定すべきことであるように見せかけるには、対立を本当の対立だと認識すべきであり、そこで対立している立場のどちらを選択するかで、その後の運命が変わってくると思い込むべきだろうし、現時点がまさにその運命の分かれ道にさしかかっていると認識すべきなのだろうが、なぜかそれに気づかなくてもかまわないのかも知れず、むしろ彼らの演技をやり過ごしてしまってもかまわないわけで、見て見ぬふりをしておくのがその場の状況に応じた態度となってしまえば、現状で信じられるのは彼らが提示する人間ではなく、黄金の誘いの方なのだが、それを金儲けのチャンス到来と受け止めると、少し違うことになってしまうわけで、あくまでもそれは何かのきっかけに過ぎず、それがメインではないとなると、では何がメインとなるのかということだが、それがその時になってみないとわからないことになってしまうと、何か無責任な与太話のようにも思われて、それよりは一見筋が通っているように感じられる彼らの方がよほど信用できるわけだが、信用できそうな彼らの演技をやり過ごして与太話のような意味不明な誘いを信用しろというのはおかしいし、無理に信用する必要はないが、信用できなくても黄金の誘いに乗ってしまうのは愚かだとしても、その場の成り行きに従うとそうなってしまうのであれば、それを肯定的に捉えておいた方がいいだろうし、実際に信用すべきことの証しが辻褄が合っているように思われるもっともらしい話とはならないわけで、そういう話には裏があって嘘がつきものというのが一般的な真実だろうし、それよりは意味不明な与太話の方がマシというわけではないが、比較するならそうなってしまい、無理に比較しなくてもかまわないが、また無理に信用しなくてもかまわないのであり、それよりは疑念を抱きながらも成り行きにまかせる姿勢というのもありかも知れず、与太話を信用できるかできないかといえば、信用できないのが当然だとしても、与太話を利用して何をやるかとなると、俄然与太話に利用価値があるように思われてしまい、与太話に興じている人たちをうまく騙して金儲けに結びつけるというわけでもないにしても、もっともらしくて辻褄が合っているように思われる成り行きから外れるには、意味不明な与太話を信じているふりをしながら外れてしまいたいわけで、それが戦略的な態度であって、誰にも勧められるようなことでもなく、窮余の策だとでも思っておいてもかまわないだろうが、たぶんそれも少し違っていて、逆に筋の通ったもっともらしい主張をしている人たちの方が追い込まれているようにも思われて、そんなことを主張せざるを得ないこと自体が、もはや後がないことの印しであるようにも思われるわけだが、たとえ後がなくてもその人たちにとっては何でもないことであり、与太話などではどう考えても話に説得力が伴わないわけだから、誰もが信じられるようなまともなことを主張するしかなく、彼らにふざけた夢を見ているゆとりはないわけだが、だからそこから外れなければならないといってしまうと、やはり外れる根拠も理由も何もなく、外れるべきではないことが明白になるだけに、より一層話に説得力を持たせようとして、あれこれと工夫を凝らして嘘を本当のことであるかのように見せかけてしまい、それが彼らにとっての合理的なやり方だと思われるほど、より一層不合理な与太話を利用してそこから外れようとしてしまうわけで、それは作用反作用の法則に従っているようにも思われるわけだが、たぶんそれでかまわないのではなく、それがそこから外れる唯一のやり方でもないとしても、外れようとしている限りでどんなやり方で外れてもかまわないのであり、たまたまそんな与太話を入手できたからそれを利用しない手はないということであり、そんな偶然の巡り合わせに感謝すべきかも知れないが、感謝したところで何の御利益もないかも知れないが、与太話でも何でもかまわないから、藁をも掴む思いでそんなことをやっているわけでもなくても、今のところは溺れている実感も湧いてこないとしても、たぶんこれから黄金の誘いに騙されて溺れてしまい、そんな溺死してしまう未来像を抱きながらもそこから外れようとしているわけで、あえて溺死してしまう危険を冒してまで、まともで筋の通った主張から外れる必要があるのかといえば、必要があるなしではなく、必要があるなしというもっともらしい根拠付けから外れようとしているわけで、そうでもしないとそれらの流れに巻き込まれてしまって、無用な二者択一を迫られて、どうでもいいような回り道を強いられてしまうわけで、それでもかまわないような成り行きになっているところが、何か納得しがたい世間的な傾向を感じられるわけだが、メディアを挙げてそういう傾向へと持って行こうとしていて、それは御用メディアだけでなく反体制的なメディアも含めてそういう方向へと傾いているのであり、それこそが騙されてはならないことになるのかも知れないが、騙されたように見せかけておかないと納得できないのかも知れず、その騙されていることの顕著な傾向として利用できるのが黄金の誘いとなるわけで、そうやって物事をわざと込み入らせて、ひねくれた解釈を施しているように見せかけておかないと、予定調和の二者択一を迫られてしまうわけでもないとしても、何かの予防措置としてそんなことをやっているつもりであっても効果のほどは定かでなく、やる必要のないことをやっているだけであっても、何もやらないよりはマシに思われてしまい、それを予定調和の二者択一と見なしていること自体が間違っていて、本当は伸るか反るかの重大な岐路に立たされているのかも知れないが、それをやり過ごせるかどうかが試されているとすれば、何か勘違いにもほどがありそうだが、そんな勘違いな行為こそが真の回り道であり、情勢に逆らって意識して回り道をしようとしていて、それだけ情勢に流されてしまうことを危険視しているのかも知れないが、危険視するも危険視されるようなことはやっていないし、情勢からも無視されていると思っておいた方がいいだろうし、一向に順番が回ってこないことに嫌気がさして苦し紛れにそんな行動に訴えかけているのでもないとしても、その場でうまく立ち回ろうとしてはまずいのかも知れず、それよりはその場の情勢から外れたところで何かをやっていた方が安全かも知れないが、それでも黄金の誘いに乗ってしまうこと自体が危険であり、またそれがその場の情勢から外れた行為に結びつくとも限らず、むしろその場の情勢に結びついてしまう可能性の方が高いだろうし、それを無理に表現するなら新自由主義的なやり方を肯定しながらそこから外れるようなことをやろうとしているのであり、そんな無理なことを狙ってやろうとしているのではなく、結果的にそうなってしまうのだろうが、そこから外れるやり方というのはやり方でさえなく、やり方としては何も確立されていないのに、他の何らかのやり方に従ってやろうとすると、そのやり方に逆らってしまうことになるのだとすれば、その過程で逆説的な作用が生じているはずだが、それは作用反作用のような単純なことではなく、元のやり方が間違っているから途中で無意識の修正が入ってしまうわけで、やっていることが元のやり方に反していることに気づかないままやり続けていると、当初に設定していた目標とは全く違う方面にずれていってしまい、そうやって思わぬ結果がもたらされて愕然としてしまえば、それがやっていることが成功した証しとなるわけだが、そんなことまで予想しながらやっている人など誰もいないだろうし、誰の思惑からも外れる結果を得ることが成功だとも思わないはずだが、それが自然の狡知からもたらされる奥深い真理なのかも知れないが、そんな真理にたどり着こうとしているわけでもないのだから、たとえそうなったとしても誰の知ったことでもないわけだ。


9月24日「新自由主義的な国家統治」

 当たり前のことだが、政府による国家の統治には限界があり、経済運営も他の国や世界経済との兼ね合いがあるから国の経済を完全には制御できないのはもちろんのこと、中央銀行を政府と一体化させるのも制度的にも構造的にも制約がありそうだから、政治家や政党が主張する通りの経済政策ができるとは限らないだろうし、そういうことを踏まえれば政府の役割を限定的に捉えておくのが無難だろうし、議会との関係も各々で分権的な立場を維持した方がいいだろうし、支配や被支配の関係ではなく、同等の立場で役割分担するような関係となるのが機構的にも望ましいのであり、そういう意味で特定の政党が議会で多数派となったところで、また特定の人物が首相になったところで、何でもできるとは限らないような制度になっているだろうし、統治者がいて国家を統治するというよりは、政府という国家統治機関が存在していて、そこに政治家や政党や官僚や官庁などが関与してくると捉えておくべきで、それぞれが政府に対して部分的な関与に留まるような在り方でいいとしても、政治家が何か主張するとなると、主張の範囲内では主張権を握って主張しているわけだから、主張していることができると主張するしかないだろうし、実際に主張していることをやろうとするわけだから、自らが政治的な主導権を握っておこなうようなことを主張せざるを得ないわけで、そういうところで主張と実際の行為との間でずれが生じてしまうのは仕方がないとしても、そういう主張を真に受ける側がそれを考慮できるかとなると、それを支持するとなると主張通りのことができると思って支持するわけだから、その段階ですでに勘違いが生じているのかも知れず、もちろんそうした主張をできるわけがないと批判する側にも勘違いが生じているだろうし、さらには主張する側にもできると思って主張しているわけだから勘違いが生じていて、そういう意味で政治的な主張というのは、それにかかわってくる人たちに勘違いを生じさせる原因となっているのかも知れないが、そんな勘違いの中でも最たるものとなると、現状でおこなわれていることを簡単には変えられないということであり、政治的な主張の中ではすぐに現状でおこなわれているのとは違うことができるかのような主張となって、変えた後で何をやるかが主張内容となってしまい、変えるまでの過程が考慮されていないわけで、実際に現状でおこなわれていることを変えるとなると、そこに関与している人や団体などとの交渉や取引をおこなわなければならず、それがうまくいかないと頑強な抵抗に直面して、変えられないまま、やろうとしていることをやる段階にすら至れないことになって、結局は掛け声倒れに終わってしまうわけだが、何かを主張している段階ではそういうことまで考慮に入れられないわけで、また主張している人が交渉術の類いに長けているかどうかは未知数であり、またその人がそういう方面では期待できないとすれば、主張している人と協力関係にある人や団体の中にそういう方面で期待できる人材がいないと、どんなに主張の中身に期待が持てても、それが実現できない絵に描いた餅となってしまう可能性が高いわけで、主張している人の人柄に魅了されても、その巧みなプレゼン力に感動しようと、それだけでもそれなりの数の人から支持を得られる可能性は高いだろうが、主張していることが実現できるかどうかはそれとは別であり、変えようとしている対象があるとすれば、その対象となる相手がいるわけで、相手との駆け引きにおいて後れを取るようでは、それだけ変えられない可能性が高くなるだろうし、それなりに世間的に名の知れた人が説得力のある主張をすればそれなりに多くの人の賛同や支持を得られることは確かだが、それによって主張が実現する可能性が高まることは確かだろうが、それでもまだ主張が実現できるとは限らず、それは主張の中身にも実現に伴って働きかける対象にもよるだろうし、特に現状でおこなわれていることを著しく変えようとすれば、それに関与している人や団体が黙っていないだろうし、果たしてそれらの人や団体を説得できるか否かが主張を実現する上で鍵となってくるだろうが、説得できないまでも黙らせることができれば、それだけ主張を実現できる可能性が高まるかも知れないが、それに伴って他の方面から問題が生じてくるかも知れないし、それに関して現状で敵の数が多ければ多いほど、また敵の力が強ければ強いほど、それらの敵に阻まれて主張が実現できない可能性が高まるだろうし、実際に何か批判する対象があって、その対象を批判していれば敵対していることになり、批判すればするほどそれだけ敵を作っていることになるわけだから、批判と共に主張していることを実現できる可能性を低くしていることにもなるわけで、批判と共にしか主張できないようなことであれば、それが主張を実現不可能にしてしまうような主張になっている可能性もあり、そういう意味で故意に敵を作りながら何かを主張していること自体が戦略的に間違っているわけだが、もちろん批判しているからこそ、批判対象となっている人や団体に批判的な人たちから支持や賛同を得られているのだが、逆に批判している対象を支持している人や団体とは敵対関係になるだろうし、敵対関係を作り出すことには成功しているのだから、批判が実現しているのは敵対関係そのものであり、その時点では主張を実現することにはなっていないわけだが、要するに群衆的な敵対心を煽り立てるやり方からは対立を激化させることはできても、建設的なことは何も生まれてこないし、ともすれば世の中を破壊するだけに終わってしまう傾向があるわけで、敵を倒すという目先の目標に惑わされているうちに、その先の戦略を欠いていることに気づけなくなってしまうのだろうが、その先の戦略とは何かといえば、それができるだけ多くの人や勢力を味方に引き入れる戦略になるとすれば、そこで批判が先行してしまったことが仇となり、なかなか味方が集まらなくなってしまい、批判ばかり煽り立てる少数派という殻を打ち破れなくなってしまうわけだが、逆に結果的にそういう状態になっていることが国家的な統治がうまくいっていることになり、批判勢力を少数派として存在させておければ、それを鬱積した民衆の不満のガス抜きをするために使えるわけで、それを狙ってそういう状況を作り出しているわけではなく、結果的にそうなってしまう状況を利用するわけだが、なぜそうなってしまうのかといえば、民衆が抱く欲望を阻害しないようにしておけば自然にそうなるのだろうし、その欲望というのが経済的に豊かになることであり、それも全ての人が豊かになれるわけではなく、他人より豊かになって優越感に浸れる状況になればいいわけで、そういう状況を作り出すのが資本主義経済であり、そこで人々が経済的に豊かになるための競争を繰り広げて、競争に勝った者が豊かになるわけだが、では競争に負けた者がどうなるかといえば、あきらめられない者たちが挑戦を繰り返す成り行きになればいいのだろうが、挑戦しても無駄だと思われるほど貧富の格差が広がってしまうと、経済的に豊かになるという夢を信じられなくなってしまうだろうし、そうならないようにあれこれと工夫を凝らすのが新自由主義的な国家統治となるわけだが、それが豊かになるための経済競争をできるだけ長引かせる戦略でもあり、そういうところで始めから破綻するのが目に見えている面もありそうで、本気になって信用できるような代物ではないわけだが、それでも破綻しない戦略など戦略ではないだろうし、戦略には破綻がついて回るわけで、勝ち負けを伴う競争を前提としている限りで、うまくいく面といかない面とが表裏一体となっているわけだろうし、欲望そのものが他人よりも豊かになって優越感に浸りたいということだから、優越感に浸れない人がうまくいかないこともわかりきっているわけだが、それを狙って実現させようとするのではなく、資本主義経済を続けてゆけば自然とそうなってしまうわけだから、別に戦略として特別に何かをやろうというのではなく、逆に無為自然な状態を保ちたいわけで、そういうところで何か批判する対象を設定してしまうところも勘違いかも知れないし、結局は何もやらないことを批判するようなことになってしまうから、では何かやればいいとなれば、それをやって失敗する事態が引き起こされてしまうわけで、要するに現状の資本主義経済を維持したまま何かをやろうとする人や勢力がことごとく失敗を繰り返すような成り行きになってしまうわけだが、それを批判するだけでなく積極的に何かを提案しようとする人たちがそれをわかっているかといえば、たぶんわかっていないだろうし、だから提案することに成功したとしても、それを実現させようとする過程で失敗を繰り返すわけだろうが、そうした失敗の繰り返しが豊かになるための経済競争を長引かせることになれば、結果的に新自由主義的な国家統治としてはうまくいっていることになるわけだから、そういう積極的な提案は歓迎されるだろうし、これからもどんどん提案してもらって性懲りもなく失敗を繰り返してほしいわけだが、そんな失敗するための提案の一つとして大阪都構想もあるわけだろうし、果たしてそれが経済競争を長引かせることになるかどうかは、やってみないことには何とも言えないだろうが、たぶんそれを批判する人たちが提案していることもそうした失敗するための提案の一つとなる可能性もあるだろうし、要はそういう提案を絶えず試し続けることによって資本主義経済の延命を実現させたいわけで、彼らが逆にそれと自覚することなく資本主義経済を破壊するためにそんな提案をしていることになれば、それこそが真の成功となるだろうが、それもそれを狙ってそんな提案ができるわけでもなく、結果的に明らかになることでしかないだろうし、何も一つの試みだけでそうなるわけでもなく、様々な試みが重層的に絡み合って積み重なった末に資本主義経済が破壊される可能性の方が高いだろうし、そういう意味で新自由主義的な資本主義経済の延命策が何らかの結果をもたらすのはまだまだ先のことになるかも知れないが、少なくとも資本主義経済が延命している間は新自由主義的なやり方が功を奏しているといえるのではないか。


9月23日「地続きの関係」

 実際には見えていない光景を想像しながら語っても、それ自体は何の違和感も伴わないありふれたことだが、語っている内容が奇異に感じられるとしても、それが場違いであったり、常識外れなことを語っていると認識しておけばいいだろうが、自分を安心させたり納得できるように解釈して、捉えている対象を歪めてしまうのもよくありがちなことかも知れず、その結果他人が言わんとすることを理解していない場合もあり、そんなふうに独りよがりな世界観の中で思考が自足してしまうのもよくありがちなことで、そうなってしまった人もいくらでもいて、大抵の人には大なり小なりそんな傾向があるのかも知れないが、それでも何かしら伝わっていて、それがその人の思考に何らかの作用や影響を及ぼすから、いつまでも自閉した世界観を保てるわけでもないのだろうが、その一方で自我を一定に保とうする傾向もあるだろうから、特定の主義主張にとらわれていることを自覚している場合もありそうだが、そうした主義主張に合わせて世界を見てしまうと、それに合わない思考の持ち主を批判したり合う思考の持ち主を擁護することになるのだろうが、単純にいえばそういうことになるが、何かしらそこからずれたことを主張している人もいるだろうし、そういう人がよくわからない思考の持ち主だと思われるなら、批判や擁護の対象とはならないかも知れないが、それを無理に何らかの主義主張にこじつけて批判することもできるだろうが、狭い思考の範囲内ではそんなことがやれるとしても、実際にはそれをやる機会など巡ってこないかも知れず、特定の主義主張など大して理解していなければ、他人の思考やそれに基づいた主張などそれほど考慮せずに、自身の利害や好き嫌いの感情から判断してしまい、内面的な思考より現実の人間関係や社会関係から善悪を判断することになり、それが普通におこなわれていることの大半であり、それではまずいわけではないし、それでかまわないことの方が多いとしても、それと政治的な主義主張が入り交じっているのも普通に見受けられることで、他人が自分より年下だと生意気に思われたり、さらに大した地位でも立場でもないのに偉そうなことを言いやがってと思われれば、その人の主義主張や思想信条にかかわらず端から拒否して受け付けないことにもなり、大抵のことがそんな判断で済んでしまえば、その人を取り巻く社会関係の中に身も心も従属していることになるわけだが、たぶん誰もがそういった社会関係や人間関係の中で生きているとしても、そんな地続きのしがらみを振り払って何かそこから飛躍したことを考えてしまう機会もあるはずで、地縁血縁だけが全てではないことを実感できる機会を得られるなら、直接の利害や好き嫌いの感情から求まるのとは異なる判断も可能になるだろうが、逆に地縁血縁に縛られている方が有利に思われる人たちにとっては、そちらの方が居心地がいいだろうから、他の人たちも地縁血縁の中に縛り付けようとするだろうし、そんな人たちにとっては地縁血縁的な利害関係がそのまま好き嫌いの感情に結びついていて、そういう関係をないがしろにするような人は感情的にも許せないと思うわけだが、それが社会的な立場や地位の有利不利にも直接連動していれば、そういうところから不公正なことがおこなわれる実態が浮かび上がってくるはずだが、公的な政治の領域では建前上はそれが許されないことだとしても、実際には許されないことがなし崩し的にまかり通っている実態があるとすれば、何かそういうところで違和感を覚えるのが普通の感覚だが、違和感を覚えること自体が普通ではないようなことになっているわけで、それに関して世襲制はもろにそう思われるが、官僚制はそうではないように思われるだろうが、それが直接の血縁に基づいているとは思われないとしても、地縁とはそれなりに関係があるわけで、具体的に言うなら省庁的な地縁が政治と深く関わっていて、各省庁の出身者が都道府県知事になったり国会議員になっているわけで、また弁護士や医師や芸能メディア関係者などが議員になりやすいとなれば、職業的な地縁も政治に深く関わっていることになるわけだが、別にそれが不公正だとは思われないとしても、それを当然視するのはおかしいだろうし、そこに微妙な問題があると見なしてもいいのか、あるいは無視してもかまわないのかは、程度の問題として片付けられてしまうことかも知れず、それよりは主義主張や思想信条の方を優先させることができるわけでもなく、普通に政策の中身で判断してほしいのだろうが、それも建前としてそう思っているに過ぎなければ、実質がどこにあるのかとなると、それらが入り交じっていると見なしておくしかないが、理性では政策の中身で判断しようとするにしても、理性を働かせる機会などあり得ない境遇にある人もいくらでもいて、政策自体も地縁に基づいた利害関係から出てくることであれば、元から理性など出る幕がないわけで、そうなれば完全に建前として政策の中身で判断しているように装うしかなく、政策を掲げて政治的な主張をしていること自体が演技でしかないことになってしまうわけだが、実際に演技でしかない政策の主張をまともな判断材料とはしていないことが選挙結果に出ているにもかかわらず、建前として政策を掲げて選挙を戦っているように装うのだろうし、それが振る舞いに過ぎなければ戦う前から結果がわかってしまうわけだが、それとともに政策の中身も演技を本当らしく見せるための飾りに過ぎないように思われて、実行するための政策ではなく民衆に媚びを売るための政策になってしまえば、訴えかけがますます見え透いた演技に思われてくるわけだが、果たして実行するための政策と民衆に媚びる政策がどう違うのかと問うても、それをはっきりと区別することはできないだろうし、それも両者が適当に入り交じっていると見なしておくのが妥当かも知れないが、地縁的な確実性を信じられるほど政策が建前でしかないという認識にとらわれてしまうだろうし、それだけ政策で勝負すること自体が演技でしかない可能性も高まってしまうのだろうが、実際に地縁や血縁に基づいて社会が構成されているのだから、そういうことを抜きにして政治が成り立つわけがないだろうし、どういうところで地縁や血縁よりも理性を優先させるべきなのか、それもよくわからないところであり、それについて何かもっともらしい基準が理性を重視する人から示されるとしても、それが実質的には無効な建前上の基準となってしまう可能性も高いわけで、またそれに関連して公私混同もどういうことなのかが理解できないし、公私の区別をどうつけたらいいのかも建前上はつけられる程度のことであり、本質的なところでは公私混同していて、自身の都合で公私の区別をつけたり公私混同するわけだろうが、それが自身の都合を優先させる面では常に公私混同していて、公人としての自身と私人としての自身も自らの都合に合わせて混じり合っているのだろうが、その公私混同をわかりにくくしている原因として、個人としての利益の私益とも公共の利益としての公益とも異なる、自身が属しているつもりの集団の利益として族益や省益や党益や社益や職益などを優先する傾向があるだろうし、それが私益を優先するのとは少し違っているように感じられるとしても、公益とも言いきれないだろうし、そんな集団の利益を優先する社会は氏族社会だと言えるだろうが、広い意味では人種や民族や宗派の利益を優先することも世界的には普通に感じられるわけで、さらに一般的にはどの国の政府も国家の利益である国益を優先させるわけで、そんなことまで含んでくると一概に公私混同と言っても、それをはっきりと悪いことだと言えるとしても建前上言えることであり、公私混同よりも特定の集団の利益を優先させる姿勢が問題なのかも知れないが、どの政治家も国民の利益を優先させざるを得ないし、それも口先だけでははっきりと口にすることはできるが、実際に国民の全てを優先しているのかとなるとそうではないし、国民の間でもそれなりに利害関係が錯綜していて、最大公約数的な優先の仕方では漏れてしまう人も当然のこととして出てくるだろうが、その中で特定の階層を優先させれば別の階層が不利になってしまう可能性もあり、また見え透いたきれいごととして生活弱者を優先する政策を掲げると、生活弱者の範疇に入る人たちが多数派とならなければ、たとえそれらの人たちから支持を得られたとしても多数派勢力にはなれないが、その一方で多数派に属しているつもりの人たちが生活弱者の範疇に入る少数派を優遇するだけの度量があるかとなるわけだが、そこで公共の利益を重視できるか否かが問われてくるわけだろうが、建前上はその度量があるように装うだろうが、それも口先だけの建前でしかなければ実質が伴ってこないし、意識の中で生活弱者を優遇することが公共の利益に結びつかない人もいるのかも知れないし、結局は啓蒙活動をしないと公共の利益も理解できないし、公共の利益という概念自体が間違っている可能性もあるわけで、それは利益ではなく、利害を度外視して他人を助けることであって、他人を助けることによって自らが利益を得られるわけでもなく、社会全体が利益を得られるわけでもなく、自らが不利益を被っても、また社会全体が不利益を被ってでも他人を助けることになれば、どう考えてもそれでは多くの人の理解を得られないから、方便として他人を助けることが社会全体の利益となると言うしかないのかも知れず、それに関してもっともらしく善意に受け取れば信じられるような理屈を並べて公共の利益を説く気にはなれないし、逆に感情的になって公共の利益の必要性を説いている人たちを攻撃する気にもなれないが、少なくとも地縁血縁関係の中で身内の者を助けたり助けられたりするのは当然だとしても、それに加えて自分が関係のない人を助ければ良いことをしたと思うだろうし、また関係のない他人から自分が助けられたりすればありがたいと思うだろうし、その程度のことにとどめておくのが無難なところであり、それ以上を求める必要はないだろうが、大げさな啓蒙活動をしないとならないような状況になってしまうと、それだけ社会の不幸度が高まっていることの証しとなってしまうのかも知れない。


9月22日「本物と偽物の区別」

 何に関してもその必要がなければ本物と偽物の区別などないのが普通の状態だが、区別をつける必要が出てくるのは本物を自認したい側の事情でそうなるとしても、本物に見せかけたい側としては区別がついてしまうと困るから偽装の戦略が発動するのかも知れないが、本物に見せかける必要がなければ偽装などする必要はないし、それ以前に何が本物で何が偽物なのかについて明確な基準がなければ、区別などつけようがないはずだが、たとえ本物に見せかけたい側の事情や都合で区別をつけるための明確な基準が確立されたとしても、区別をつける必要がなければ基準など無視すればいいのだろうが、本物に見せかけたい側としては騙したいわけで、騙すことによって何らかの利益が得られるから騙そうとするのだろうし、そうであれば本物か偽物かの区別に絡んで利害が生じているわけだが、それが利害に結びつくから本物か偽物かの区別が必要になると話がわかりやすいが、果たしてそれ以外で本物か偽物かの区別が必要なのかというと、それ以外の事情はあまりないのかも知れず、利害が絡んでこなければ本物でも偽物でもどちらでもよさそうだが、事を単純化すれば本物だと認められると利益が生じて偽物だと損害が生じるなら、偽物を本物に見せかけて利益を得ようとするわけだが、利益を得るには安く買って高く売ればいいわけで、安い偽物を高い本物に見せかけて売れば利益が得られるなら、本物が高くて偽物が安くなければならず、そうなると本物と偽物との違いに関して利害の他に価格が高いか安いかも絡んでくるわけだが、さらには本物だと高くても売れるという前提がないと利益を得られないだろうし、何かの高級ブランド品であればそういう条件に当てはまりそうだが、そんな条件には当てはまらない事物もいくらでもありそうで、実際にそういう事物なら本物と偽物の区別などつかないだろうが、肯定されるものが本物で否定されるものが偽物だという印象を利用した主張ならいくらでもあるだろうし、そこからまがい物の概念が生じてくるのかも知れず、本物に見せかけた偽物というのがまがい物になるだろうが、本物に見せかけるために何をやるかといえば、宣伝や煽動だろうし、そこからこれ見よがしの宣伝や煽り立てをやっている者はまがい物くさいという印象も生じてきて、ネトウヨがエセ右翼だと見られるのはそういうことをやっているからで、しかも売国奴としての新自由主義者と結託しているから、それらの人たちがまがい物を売りさばく詐欺集団と見なされてしまうわけだが、本物であっても商品の広告や宣伝が当たり前のようにおこなわれている現状もあり、そういった傾向は印象としてそう思われてしまうのであり、それを真に受ける必要もないのかも知れないが、またそういう傾向に染まっている逆の例として政権批判派の存在もあるだろうし、それらの人たちの宣伝や煽り立ての紋切り型としては日本終了という類いの文句がよく使われるわけで、あいつらのようなまがい物の詐欺集団に政権をまかせていると日本が没落して終わってしまうという危機感の煽り立てになるわけだが、それらの言説に共通する欠陥を挙げるとすれば、偽物やまがい物を否定的に扱っていることであり、実際に偽物やまがい物が世の中に広く出回っている状況が何を示しているのかといえば、それだけ世の中が繁栄していることになるのかも知れず、偽物やまがい物に騙される人が多いほど本物の価値が上がるのだろうし、そういう意味で偽物やまがい物に騙されるなと警告するだけではまだ言い足りないのであり、偽物やまがい物やそれらをつかまされて騙される多くの人たちの存在を肯定的に評価する必要があり、それらの人々の存在が世の中の繁栄に寄与していると見なしておけばいいと述べると、何かそれこそが偽物やまがい物の言説となってしまうかも知れないが、さらにその逆に世の中が繁栄していることこそが危機的な状態であり、繁栄が危機と隣り合わせであることを人々に実感させる必要があるのかも知れないし、そういうことまでに考慮に入れると、まがい物的な言説の特徴が浮かび上がってきて、それが一方的に本物と偽物を区別して本物が良くて偽物が悪いと煽り立てる言説であり、そういった単純化した言説では物事の真の姿を捉えられないから、そういう言説を宣伝や煽動の道具にして活動している人々こそがまがい物だと言えるのかも知れず、しかもそんな人々を否定的に捉えてはならないということでもあり、その中から世間で脚光を浴びる人が出てくるのであり、そういう意味でもまがい物の言説が蔓延していることが世の中の繁栄を物語っていて、さらにはそんな世の中の繁栄を否定的に見ていることもその種も言説の特徴でもあり、偽りの虚栄に浮かれていると大変なことが起こると警鐘を鳴らしているのであり、そうやって本物と偽物の区別から様々なまがい物の言説が生じてくるわけだが、そこで重要なのは多くの人々がまがい物をつかまされて騙されているからこそ、騙されてはならないという警告が生きてくるわけで、そこで多くの人々が騙されている現実があるからまがい物がまがい物として活躍できる余地があり、まずは多くの人々が騙されないと何も始まらないわけで、多くの人々が騙されてしまうような世の中になっていないとまがい物たちも困ってしまうわけだが、またそれとともに比較対象としてまがい物やまがい者が存在していないと本物の価値も上がらないということでもあり、さらに多くのまがい物同士でその中の誰が本物であるかの競争も繰り広げられていて、そうした競争に勝ち抜いたまがい物が本物として認められるという不条理なことも起こっていて、そういう意味では本物よりもまがい物の方が重要だと言えるのかも知れず、このままでは日本が終わってしまうとか滅びるとか煽り立てているまがい物たちの主張には、繁栄しているから衰退するという因果応報の片方を故意に言い落としているという見え透いた詐欺が含まれているとしても、それを否定的に受け止めることも肯定的に受け止めることも、同時に両方の意味で受け止めるしかないだろうし、そういった部分的な真実を語るまがい物が世の中にはびこっている状態が、世の中の繁栄を物語っていると同時に衰退も物語っているのであり、そこに繁栄してから衰退するという時間的な順序を設けると物語になってしまい、それが物語であるからこそフィクションとして多くの人々に信じられてしまうことにもなるわけだが、確かにそういうフィクションに逆らって繁栄と同時に衰退が起こっていると述べてしまうと違和感を覚えるだろうし、普通の感覚としては繁栄は過去のことであり、今が衰退のまっただ中にいると認識していていた方がしっくりくるだろうし、それと同時に今まさに繁栄を誇っている富裕層への敵意をむき出しにするという態度でいれば真の多数派に所属しているように思われて安心できるわけだが、そういう態度も今この世の中で繁栄したいなら富裕層にならなければならないという逆説を故意に言い落としているわけで、暗黙の内に資本主義経済を受け入れていれば富裕層にならなければ繁栄できないわけで、それも違うように思われるだろうが、富裕層のいない世界を実現したければ少なくとも現状の繁栄を放棄しなければならず、現状とは違う繁栄を実現するには現状で成り立っている資本主義経済を変えなければならないことも論理的な帰結として認めざるを得ないだろうが、それも違うと思われるとすれば、ではどうすればいいのかということになるわけで、それに対する明確な答えを持ち合わせている人がいるとなると、そんな人や政治勢力を支持する成り行きになるのだろうが、果たしてその答えとなる政治的な主張を信用できるかとなると、それは少なくともまだ実現していない主張になるわけで、要するにそれも物語的なフィクションの段階に留まっているわけだが、それもまだフィクションだからこそ信じられるとすれば、逆にフィクションではない現実の方が信じられないということであり、実際に富裕層が繁栄を誇っている現状の資本主義経済下での繁栄を逆に衰退のまっただ中にいると信じているわけで、まさにフィクションを信じて現実を信じられないという倒錯した意識になっているわけだが、そうなってしまう人々を否定的に捉えてはならないのかも知れず、それが資本主義経済下における普通の認識であり、ごく少数の富裕層を繁栄させる一方でその他大勢の人々を衰退へと追い込んでいるのが、資本主義経済がもたらす真の現実なのだが、それこそが繁栄と同時に衰退が起こっているということであり、その中で繁栄している人々はそれが当然のこととして繁栄を享受していて、その一方で衰退のただ中にいる人々が繁栄を実感できないのも当然のことだとしても、それでも物語的なフィクションを信じている人々は繁栄してから衰退するという因果応報を信じないわけにはいかないし、それが歴史的な錯覚であることに納得できないわけだが、それらの人々には納得できない現実があるということもある意味で当然だろうし、それを当然のこととしてもたらしているのが、他ならぬ資本主義経済であるわけだから、しかもその資本主義経済を前提として自らの主張を組み立てている人が、このままでは日本が終わってしまうとか滅びてしまうとか煽っているわけで、それも逆説的な不条理に思われて仕方がないのだが、そんなまがい物の主張や煽動を真に受けることが間違っているとも思えないのも、衰退のただ中にいると実感していれば無理もないことなのだろうし、そういうところで論理的な辻褄合わせをやってしまうことが間違っているのかも知れず、そんな現状の中でより妥当な認識に至るには、辻褄の合わないことや成り行きをそのまま受け止めるしかないのかも知れず、そうなればたとえ辻褄の合わないことを主張している人であっても、奇異な印象を受けるにしてもそうなるのが当然の成り行きだと納得できるだろうし、それらの人々が現状に適合する正しいことを主張していると思っておいてもかまわないだろうし、辻褄が合わないのに正しいということがおかしいと思われるにしても、辻褄が合わないような事態を作り出しているのが資本主義経済の特徴であり、それを頭の中で無理に辻褄を合わせようとすると間違った結論に導かれてしまうのかも知れない。


9月21日「新自由主義的な見地」

 単純に外に向かって閉じた社会と外に向かって開かれた社会の二種類があるわけではないが、時と場合に応じて両者を使い分けることができるわけでもないにしても、そういう傾向を感じさせる面が社会にはあるのかも知れないし、外に向かって開かれているように装いながらも肝心なところでは閉じている面もあるだろうし、そういうところはその場の都合に応じて恣意的に見せかけたいだろうから、見かけを真の姿だと見てほしいからそういうことをやるのだろうが、見せかけている側としては別にそれでかまわないわけで、見せかけだけで済むならそれに越したことはなく、本当は済まないとしても済んだことにしておきたいだろうし、本当は単純に外に向かって閉じたり開いたりという表現では収まりきらないような微妙な状態になっているのだろうが、また社会が問題なのではなく特定の個人や集団の問題として取り扱いたい場合もあるだろうし、そういうところでもその場の都合が絡んできて、何を標的とするかもその場の都合に左右されてしまい、そこで何が語られているとしても、それ以外のことまで考慮されていたり、逆にそれ以外は全て無視されていれば、意図的かつ無意識に対象を取捨選択しながら語られていることだけでは収まりきらない対象の存在がうかがわれるのだが、たぶん語るに値しない物事について無理に語る必要はないのだろうが、多くの人がそれについて語らされてしまう傾向にあるのが、現代の大衆市民社会と呼ぶのが妥当に思われる社会の特徴なのかも知れず、それでも語る必要もないのに語ってしまう一方で、語られるべきことが語られずに、語っても無視されてしまう傾向にあると述べてしまうと、何か独りよがりな偏見にとらわれているようにも思われてしまうが、それについて語られるべきことと語る必要のないことの区別などつけようがなく、つけられるとしても人によっても立場によっても語られるべきことが異なってもかまわないはずだが、何の権威でもない者がそんなことを決められるはずもなく、わからなくてもかまわないだろうが、日本の政治状況の中では今が特に語らなくてもかまわないような時期に入っているのかも知れず、語るに値しない人たちが政治的な主導権を握っているというと馬鹿にしているように思われるが、誰にとってもそうではないはずだとしても、何かの小休止を思わせる状態が醸し出されていて、その先には何も待ち受けていないような気がしてしまい、それが社会の空洞化を暗示させるわけではないにしても、少なくとも語られるべきことはそんなことではないように思われるとすれば、では他に何が語られるべきなのかというと、現状では主導権を握っていない人や勢力がこれから主導権を握る過程が語られるべきことになればいいのかも知れないが、それもいつの時代でも起こるありふれた成り行きになるだろうし、語られるべきことがそんなありふれた成り行きでは困るわけでもないだろうが、もういい加減にそういうことからは遠ざかるべきではないかとも思われてきて、単なる権力闘争とは違う物事の面から政治が語られるべきだとすれば、具体的にそれが語られるべき内容として示されなければならないところだが、それ自体が的外れな内容となることを承知であえて無理に語るとすれば、それを避けて通るようなことしか語られないだろうし、それとは何かといえば具体的な政策の内容となるにしても、魅力を感じられず、世界的に何か特定の政策が好意的に受け止められて脚光を浴びるような時代ではなく、それが間違っているから脚光を浴びる以外にはあり得ないわけだが、批判もすでに出尽くしているだろうし、同じような批判が延々と繰り返されつつも、そうする以外にはやりようがなく、何もないのをオリンピックや万博でごまかすやり方も19世紀や20世紀の焼き直しに過ぎないわけだが、そういうものが政治だと思っておいてかまわないのかも知れず、それに対して批判する側が庶民の暮らしや貧富の格差がどうのこうのと問題提起するしかなく、それとこれとは別問題であっても関連性を指摘できないわけでもなく、さらにあってないような経済政策として資本主義経済に追従することしかできないのだから、全てが経済に行き着くわけでもないが、勝手な決めつけと共に景気が良かったり悪かったりと天気予報のようなことを述べていれば、何かそこから結果が導き出されてきて、それが政策の成果となればいいのだろうが、要するに舵取りをやっているように見せかけるわけで、本当に舵取りをやってしまうと失敗が目に見えているからやるわけにはいかないとしても、何もやらないわけにはいかないからエアギターのような仕草で演技をこなすしかないわけだが、そんな演技がばれていながらばれていないように装いつつも、いつの間にかそれが演技ではなく何か実質的な成果を上げていることになってしまうのかも知れず、それをメディアが好意的に報道して民衆の支持を取り付けられるとそうなってしまうわけで、それは活動の実態がないのに株価が値上がりするようなものかも知れないが、そこから実質的な実績が生じてしまうわけだから、やはり政治とはそういうものだと見なしておいてもかまわないのかも知れず、天気予報をやっている人が天気を制御しているわけではなくても、予報が当たれば有能だと思われるわけでもないが、気象予報士が美人で若い女性なら人気が出るかも知れないし、またそうでなくても話術が巧みで弁舌爽やかであれば好感が持てるが、そんな人が政治家になれば好感を持たれるのも想像に難くないだろうが、たとえ朴訥な人柄が誠実さの証しであっても、そうは見えない人との組み合わせによってより効果的に見せかけることもできるわけで、そんな見栄えばかり気にするのは浅はかで中身がないと思われるだろうが、人の意識の深層心理には響いていて、そういう見てくれを競うような成り行きにはなっていないだろうが、何でもないと困るわけで、本当は何でもないのに何かあるように見せかけていると思われるのもまずいが、世界のどの国でも行政的な形態が確立されていて、それに沿ったことをやっているふりをしていれば政治家が務まるようにはなっているのかも知れず、政治家にそれ以上を求めてはまずいとしても、幻想の中ではそれ以上を期待してしまい、それが無い物ねだりの幻想に過ぎないことも誰もが承知していることかも知れないが、やはり幻想に留まっていてもまずいのだろうし、政治に中身があることを期待して政策のプレゼンを評価したりしなかったりすれば、プレゼンのレベルでの評価になるとしても、たとえそれが実行に移される可能性が低くても、何か期待感が高まるような気にはさせるわけで、まだその段階では政治に実質が伴っているわけでもないだろうが、それを技術的な見せかけに過ぎないと貶す気にはなれないだろうし、そういう意味で直接手を下すのとは異なる行為を伴うのが政治の本質的な傾向なのかも知れず、間接的に何かを指示することになる場合が多いのだろうが、果たして行政が政治家や政党の指示に従っているかとなると、従っているふりはしているだろうし、制度的にも従って動くことにはなるだろうが、行政は行政に特有な活動内容があり、それをおろそかにはできないだろうし、その上で政治の指示に従うことになるのだろうが、行政の方からも有形無形の働きかけが政治に対してなされていて、そんなことを今さら問題視するわけにもいかないが、別に政治と行政とが敵対関係にあるわけではなく、それよりも連携や協力の関係にあることは確かであり、行政にはできないことを政治の側が行政に対してやらせようとしているわけではないとしても、慣例とは違うことをやらせようとすればそれなりに抵抗が起こることは確かであり、政治の側で改革を訴えるということはそういうことであり、行政の側で許容できないようなことをやらせようとしてしまい、そこで抵抗が起こると政治と行政の間で抗争が繰り広げられるのだろうが、それを民衆の側がどう受け止めるかが肝心なところであり、それによって行政の停滞を招いたとなれば政治の側にその責任があるかのように思われるだろうが、まともに改革を断行しようとすればそうなってしまうのかも知れず、そうなって政治の側が行き詰まってしまえば、改革も道半ばにして頓挫することにもなるだろうし、行政の中で無駄に予算が浪費されて官僚の蓄財などが横行している実態があるとすれば、政治の側でそれを改めるようなことをやらなければならないのだろうが、行政を通じて行政にやらせようとするのだから、やはりそこに構造的な無理が生じていて、行政改革できないような構造となっていれば、政治の側から改革を断行しようとしても必ず頓挫してしまうのかも知れないが、だからといって行政の言うなりになってしまうと、表向きは何の滞りもなく物事が進んでいるように見えて、実際には行政機構を利するために行政が活動している面ばかりが優先されてしまうだろうし、それも組織的な傾向としては当然の成り行きになるわけで、放っておけばそうなるしかないとしても、国家を繁栄させるために行政が存在するという建前では民衆が国家の犠牲になりかねないので危ないだろうが、国民に奉仕するのが行政の使命だと言うのもまやかしには違いなく、それと同じように国民に奉仕するのが議会や政府の使命だと言うのもまやかしだろうし、たぶん実質的にはそうではなく、それらは単なる統治機構だと見なしておくのが無難なのかも知れず、あまりそうした統治機構には幻想を抱くべきではなく、新自由主義的な見地としては、企業とは別の形態を伴った組織として政府があり、住民が選挙や住民投票などの政治的な行為を通して政府にかかわることができるとしても、現状ではそれが限定的な関わりに過ぎないのだから、住民が政府の統治対象となっている事実がある限りで、政府の方が住民よりも力を持っているだろうし、住民の側からは政府に対して文句を言うのは当然のことだとしても、住民の側から政府に対して積極的な支持を表明するとなると、統治されているのになぜ統治者に対して支持を表明しなければならないのか、その理由を考えてみる必要があるのかも知れず、何かそういうところで民主主義の幻想にとらわれている可能性があるのかも知れない。


9月20日「社会からの退場」

 現状を分析する際に現状を一様に否定的に捉えるのは容易なことであり、そう捉えると現状を批判しやすいからそんな傾向になりやすく、そう捉えた上で現状を安易に批判しているから、そんな現状に勝る状況をすぐにでも実現可能なことのようにも思われると、それが現状の執拗な持続をうまく説明できないことの困難から逃げていることにもなり、さらにはそれが現状から逃避する成り行きにとらわれていることの顕著な傾向を示しているようにも思われて、そういう意味で現状への安易な批判は現実逃避の印象を免れないわけだが、それとともに現状が現状のようになっていることの確かさをどう説明すればいいのかわからず途方に暮れて、苦し紛れに単なる偶然の巡り合わせで現状のようになっていると思えば、それを改めて確実にそうなっていると説明するまでもなく、そこで説明を放棄してしまってもかまわないはずだが、それができなければ偶然にそうなっているだけでなく、必然的にそうなってしまうことを示したくて因果応報としての歴史の連続的な経緯からもっともらしく述べてしまうと、突発的に起こる歴史の事件性を無視してしまうから、それが歴史的な連続性への違和感となり、そんな説明では納得できなくなってしまうわけで、そこには偶然性と必然性を両立させられないのに辻褄を合わせようとする自業自得な面があるから、そんな現状の説明に対する疑念につきまとわれてしまうわけだが、現状が現状のようになっていることから、現状に対する批判が生じてしまうのはやむを得ないとしても、批判する以外に対処しようがなく、それで対処しているつもりになっていることについても疑念を抱かざるを得ないとしても、現状を批判することによって現状とは違う可能性を示そうとしていて、それも現状への対処法ではあるのだろうが、そうすることによって現状から逃げていると言われると、それは違うと思うだろうが、実際に現状を容認できないから現状を批判するのは確かだとしても、批判してもそんな批判を含んだ現状が現状であることには変わりなく、いくら現状を批判しても現状が絡みついてきて、現状を批判する度に現状が現状である事実に押し込まれて心理的にはじり貧となってゆき、それが絶え間なく後退戦を強いられているように思われて次第に精神的に追い詰められていくしかなく、それが高じて現状からの思考的な撤退を余儀なくされてしまうと、そんな逃避を正当化するためにあり得ない提案をする羽目に陥り、そうやって現状を改革するために現状から飛躍したあり得ない提案に一縷の望みを託すわけだが、それを実現させるには現状が現状のままでは無理であり、現状を変えなければ実現できないことを提案しておきながら、それが現状を変えるための提案にもなっていて、どちらにしても現状ではあり得ないことを提案していることになるわけで、それだけ現状の中で精神的に追い込まれていることにもなるわけだが、なぜ現状ではあり得ない提案をするほど追い込まれているのかといえば、ただ現状を認めることができないからであり、現状を認められなければ現状ではあり得ない提案をせざるを得ず、それが現状を認めることがいかに難しいかを物語っていて、実際に現状の中でひどいことがおこなわれていると主張しているわけだが、ひどいことがおこなわれているから現状を容認できないとしても、だからといって現状ではあり得ないことを提案をすることになってしまうと、それがそのまま現状への対処法になってしまい、そうすることによって現状と折り合いをつけていて、そうやって現状の中でうまく立ち回っていることになるわけで、そういう提案をおこなう立場を現状の中で確立しようとしているわけだが、それ以外に対処法があるかといえば、現状を批判する人たちが容認できないことをやっている側に回るしかないのだが、誰もがそれをやれるわけでもないし、結果的に現状を肯定しながら現状の中でうまく立ち回っている人たちが、現状の中で主導権を握っているのは確かだとしても、うまく立ち回れていない人たちは主導権を握れないし、そういう意味で世の中には現状にうまく対応できる人と対応できない人がいるわけだから、誰もがうまく対応できるわけではないのは当然のことだとしても、対応にも様々な対応の仕方があるだろうし、個々の対応の仕方によって様々な在り方があるわけで、その中では必ずしも現状を批判する人たちが容認できないことばかりがおこなわれているわけではなく、批判の対象外となるようなこともいくらでもおこなわれていて、そういうことをやっている人たちには当然のことながら批判が当てはまらないわけで、そういう面では現状に対する批判とは無関係になってしまうのだが、そういうことも含めて現状が構成されているわけだから、現状への批判が現状の全ての対象を網羅しているわけではなく、そうであれば現状を批判する者が現状によって追い詰められていると思うのは思い過ごしに過ぎない面もあって、批判から外れる面では追い詰められているわけではなく、ただ批判とは無関係な現状があるに過ぎないわけだが、しかもそういう面においては批判が空振りしていて、批判の的を外れたところに現状があり、そういう現状は批判材料とはなり得ないわけで、そんな中にいれば現状から逃避する必要すらないわけだが、相変わらず批判の対象としての現状もそれと地続きなところにあり、それをどう捉えればいいのかといえば、現状の中で容認できないことがおこなわれているのは確かだとしても、それが現状に対する批判と共に強調されているわけだが、それをやめさせるためにも改めさせるためにも現状ではあり得ないことが提案されているが、そういう提案に賛同できるかというと、それがあり得ないと思われると賛同できないし、あり得ない提案をしている人も信用できないが、では現状の中で容認できないことがおこなわれていることについてはどうかというと、すでにそれがおこなわれているわけだから、たとえそれを容認できない人がいるとしても、実際にやめさせることができないからそれがおこなわれていて、それが容認できない現状をもたらしているわけで、実際に容認できない人たちがそれを批判していて、その批判への賛同者も少なからずいるだろうし、さらに批判の対象となっている容認できないことをやめさせるためのあり得ない提案にも賛同者が少なからずいて、それなりの数の人がそれに賛同してくれるから、それへの批判者もそれをやめさせる方法の提案者も存在していられるわけで、そういうことも含んで現状が構成されているわけだから、批判者も提案者も現状の中に存在していて、それらの人たちが現状から逃避しているわけでもないことになり、それどころか現状の中に役割分担を伴って絡め取られていて、現状を批判する役や現状を変える方法を提案する役を担う存在となっているわけで、そういう役割分担を受け入れている限りでそれらの人たちが現状の中に存在できるわけだが、では現状から逃避するにはどうすればいいのかというと、そういう役割分担を拒否する以外にはあり得ないだろうし、現状の中で何の役目も果たさなければ現状を構成する社会には要らなくなってしまい、そういう存在になろうとすることが現状から逃避することになるのかも知れないが、積極的になろうとしなくても自然になってしまうのかも知れず、現状から逃避しようとしなくても自然に外れてしまえるとすれば、現状から逃避する必要さえないことになってしまうのだが、本当にそんなことが可能なのかといえば、普通に考えて社会からの退場がその人の死を意味するはずだが、中には死んでもなかなか退場させてもらえない人もいるだろうし、いったん社会的な役割分担を積極的に受け入れてそれなりの地位や名誉を社会から与えられると、死ぬと英霊の類いとして祭り上げられてしまい、そんな人物の名前が刻まれた祭壇の類いが何かの記念碑として各地に建てられている現状もあるわけだが、現状の批判者や現状の改革を提案する者もそうなってしまえば、それらの記念碑の類いが歳月の経過と共に朽ち果てて無に帰すまでは社会からの退場が完了しないわけで、それらの人たちが自らの死後のことまで考慮しているわけでもないだろうが、大抵の人たちはそうはならずに一般的な墓の中に遺骨と共に埋葬されて、それによって社会からの退場が完了したと捉えておいてもかまわないが、それも現状の一部を構成していて、人によってはそんなことなどどうでもいいように思われるだろうが、そんな現状までが批判や改革の対象となることはあまりないだろうし、そういう面では批判も改革も及ばない領域が世の中にはそれなりに残されていそうだが、そんな領域も地続きで存在する限りで批判や改革を受け付けない人たちにとっては心強い自己正当化のよりどころとなっているだろうし、その代表格として靖国神社や伊勢神宮などがあるわけで、そんなふうに批判や改革をはぐらかす材料には事欠かず、批判者や改革者にとってはそんなことまで考慮に入れていなくてもかまわないようなことまで援用して、それらの批判や改革の提案を受け付けないことの根拠や理由として示されてしまうわけだから、言いがかりやこじつけにもほどがあるように思われるかも知れないが、現状を維持するとは全ての現状を維持することであり、もちろんそんなことは不可能だとしても、それを言うことができる水準ではそのつもりになれるわけで、そういうやり方が批判を抑え込んだり改革を阻む上で有効に機能していることも確かであり、だからこそ批判や改革の提案がなかなか受け入れてもらえないのかも知れないが、それでも自然の成り行きとしてひどいことがおこなわれていれば自然発生的にそれに対する批判が湧き出てくるだろうし、改革を提案する人物や勢力が現れるのだろうが、それに対してどう対処すればいいのかとなると、それがあり得ないことのように思われれば、聞く耳を持たずに黙って受け流していればいいのかも知れないし、気に障るなら嫌がらせでもやればいいのだろうが、そんな反応や対処も場合によっては逆効果になってしまうこともあるだろうし、火のないところに煙は立たないが、それが炎上商法の対象となれば火付け役を買って出たい人がいくらでも現れるのかも知れず、そういう成り行きになるのを期待するわけではないが、それが偶然の巡り合わせであると共に必然的な成り行きになることを願っている人もいくらでもいるのかも知れない。


9月19日「インチキな行為」

 そこで何をやっていても、実態の定かでないことをやっていると、インチキなことをやっているように思われてしまうかも知れないが、定かな実態があるということが何をもってそう言えるかとなると、そこに具体的な何かがないとそうは言えなくなってしまうのかも知れず、そういう意味でやっていることが具体的な何かに結びつくことがインチキではないことの証しとなる一方で、行動や言動が何の結果にも結びつかないと、他人から信用されないだろうが、それに関して自らの行動や言動からどんな結果がもたらされるかも重要であり、行動や言動が反映した結果となれば何らかの効果があったことになるだろうが、反映しなければ何の効果もなかったことになるだろうし、行動や言動の当事者だけではどうにもならなければ、協力してくれる人の存在が不可欠になってきて、そうなると行動や言動によって他人を動かすことが何らかの効果を上げたことになるわけだが、中には他人を騙して動かすようなこともおこなわれるから、一概に他人を動かすことが良いとは言えないが、その人の行動や言動が他人を巻き込んでおこなわれていれば、何かそこで成果を上げているように見えてしまうだろうが、それがあらかじめ集団で示し合わせておこなわれる組織的なパフォーマンスであれば、成果が上がっているように見せかけているに過ぎないだろうし、それも組織的な協力関係を背景とした活動である限りで、組織内では成果が上がっていることになるにしても、社会的な広がりがないように思われると限定的な成果となってしまい、外部から集団でインチキなことをやっているように見えてしまえば、新興宗教か何かが自分たちだけで何かやっていることになってしまうわけだろうが、そういうことをやっている人たちはそれでかまわないにしても、ではそれ以外で何かやることがあるのかといえば、他に何もやることがなければそんな行為を観ているだけとなってしまいそうだが、観ているだけで済んでしまうわけもないだろうし、実質的にはどのような行為も経済活動の延長上でおこなわれていて、経済活動に結びついていると何かそこに中身を伴った実態があるように見えてしまうわけだろうが、その中でも人を騙しておこなうような詐欺的な行為もあるから、経済活動にもそれなりにインチキがつきまとっていると述べてしまうと、インチキではない経済活動も当然あるはずだと批判されてしまうかも知れないが、そこから利益を余分に取ろうとする限りでインチキをやらざるを得なくなるだろうし、余分に取らないと余裕が生じないから、他人を犠牲にしてでも余分に利益をせしめようとするわけで、そうなると他人を騙す成り行きになるのだろうが、騙すだけで終わるわけがなく、そこから発展する普通の成り行きとして騙し合うわけで、騙し合って騙され合いながら経済が発展していき、そこでは騙し合いを競うようなことになり、騙す方よりも騙される方が悪いことになるだろうし、騙されないようにするには騙す必要に迫られるわけでもないが、騙される割合よりも騙す割合の方が勝っていれば、その分だけ利益を得られたことになるだろうし、そうであれば利益を得るには積極的に他人を騙す側に回らなければならなくなり、実際に他人を騙して利益を得られた人や団体が成功するわけで、そうやって騙した者勝ちな世の中になるわけだが、ただ他人を騙すことだけにかまけていても真の詐欺師にはなれないだろうし、騙すだけでなく騙されたふりをしないと騙していることにならず、騙されたふりをしながら他人を欺いたり出し抜く必要も出てきて、それだけ騙す技術が巧妙になってきて騙し合いも進化するわけだが、それが騙し合いや騙され合いに伴って発展する経済的な成果でもあり、単純に他人を騙すだけでは利益を得られず、複雑で込み入った手順を踏んだ末にやっと利益にありつくような成り行きになってくれば、当然の結果としてそんなことができる限られた少数の人や団体にしか多額の利益がもたらされなくなってくるだろうし、そうやって次第に利益の独占状態となってくるわけだが、そんな不平等で不公平な成り行きを回避するにはどうすればいいかとなると、人を騙すのではなく、騙すことを拒否する正直者が利益を得られるような制度にしなければならないわけだが、何もせずに利益がもたらされることはないだろうし、何かをやらないと利益がもたらされないという実態が、正直なだけでは利益を得られないことと同義になるわけだが、では正直なこと以外に何が求められるかとなると、他人に利益をもたらす必要があり、他人に利益をもたらすことで他人から信用されるわけだが、ではその利益がどこから来るのかというと、他人を騙して利益を得て、その利益を別の他人と山分けするような都合の良いことになればいいのだろうが、放っておけば自然にそうなってしまうのかも知れず、それが詐欺集団というと聞こえが悪いが、他人を騙すための大がかりな組織を集団で協力して作り上げることになるわけで、それが合法的な範囲内では株式会社となるわけだが、実際に出資した株主に利益がもたらされれば詐欺ではないし、株主と会社との関係では詐欺にはならないわけだが、それが従業員と会社との関係や、会社が扱う商品とその商品を買う客との間の関係になると、会社が利益を上げた分だけ従業員や客の利益が損なわれても、普通はそれを詐欺とは言わないが、もちろん否定的な意味で搾取されていると因縁をつけられる場合もあるだろうが、それを良い意味で受け取って共存共栄の関係が保たれているように感じられると、少なくとも騙されているとは思わないだろうし、騙しているつもりもないだろうが、それを騙して金銭をせしめていると受け取るのは言いがかりも甚だしいが、それでも会社が客や従業員から利益を得ていることは確かであり、もちろん株主に配当として利益を還元していなければ株主からも利益を得ていることになるだろうが、もちろんそれをインチキだとは言わないし、実際にそこにかかわっている誰もが承知の上でそんなことがおこなわれているわけだが、しかも何かがそこにもたらされているからそこに多くの人がかかわっていて、会社から金銭や労力や時間などを奪われつつも、それに見合った何かを会社がもたらしているから詐欺とは思われないわけで、そうであれば詐欺か詐欺ではないかの判断の目安となると、もたらすよりも奪われる方が多ければ詐欺だと思われるが、奪うよりももたらされる方が勝っていれば詐欺だとは思われないだろうし、そういう基準で考えれば詐欺か詐欺でないかは相対的な損得勘定の範囲内で決まってくるわけだが、それとは別に騙す意志があって騙せば詐欺になるだろうし、騙す意志がなくても結果的に騙したことになっても詐欺になってしまうが、他人を騙して利益を得たり身内を騙して利益を得るという感覚が、直接そうは思われない場合が多いから普通にその自覚がないわけで、ちょっと身内や友人に騙されただけで詐欺の被害に遭ったとは思わないだろうし、そんなことの延長上で詐欺師は相手の頭に身内意識を植え付けてから騙して金銭を奪い取るわけだろうが、それが手法として確立していればその手法の範囲内ではインチキな行為ではなく、確実なやり方として編み出された手法に則って詐欺に成功すれば、正しいことをやって金銭を得たことになるだろうし、さらにそれが公の法律として規定されたやり方になれば、もはや詐欺でも何でもなく、金銭を得るための正規のやり方になってしまい、例えばそれが民衆から税を徴収する方法となっていれば誰も文句を言えないが、それでも税の使われ方が不公正に思われれば詐欺だと思うかも知れないし、実際にも公務員が民間よりも不当に高い給与を得ていると感じられるわけだが、公務員の側でも職種によってはサービス残業を毎日のように強いられて、行政に命を削られながら搾取されていると思っている可能性もあるだろうし、何かそこで不利益を被っているように思われれば、他の誰かが不当に利益を得ていることを疑ってしまうわけだが、少なくとも自身が他人からインチキなことをやっていると思われるのは心外だろうし、敵以外の他人からも身内からも悪く思われたくないからごまかすわけで、もちろんごまかす必要がなければそれに越したことはないわけだが、それが実質的にインチキな行為だろうと、断じて自らそれを認めようとはしなければ、自らの行為を正当化するための言い訳ならいくらでも用意しておきたいし、実際に言い訳をする機会を得られれば延々と言い訳し続けるかも知れないし、それだけ自分に対しては甘く他人に対しては厳しいわけで、そうやってインチキな行為を正当化して自分をごまかしながら生きていければ、そういう情けなくてみっともない人間になってしまうわけだが、しかもそれに輪をかけて味方や身内のそういうひどい面をかばうために威張り散らすような人もいくらでもいる世の中なのだから、何か救いようのない世界となっているのかも知れないが、そういう否定的な面ばかりに目を向けていられないわけで、実際にもそこから目を背けて平静を装っていれば何事もなくその場が丸く収まってしまうだろうし、他人の非をあげつらってばかりいると嫌われ者になってしまうし、できるだけそういうところは伏せて穏便に事を済ませたいわけだが、そんなやり方を公の政治にまで延長してしまうと馴れ合い以外の何ももたらされないだろうが、しかもすでに許容の限度を超えた馴れ合い政治と化してから無駄に長い歳月が経過してしまったわけだから、もうそろそろそういうひどい悪習とはおさらばしないと大変なことになると思いたいところだろうが、それに慣れきってしまってそれ以外にはやりようがない人たちが主導権を手放さない状況に陥っているわけだから、さらにこんな状態が延々と長引くことは覚悟しておかないとならないのかも知れないし、しかも昔のように戦争へと突き進んで破滅に追い込まれてリセットするような成り行きはすでに克服されてしまったとすれば、これからいくら長引いても何の不思議もないわけだが、そうであれば現状で通用していることのことごとくがインチキなやり方に基づいているのではなく、ある意味では正しい手法に則っておこなわれていることであり、正しいことをやっている勢力が社会の中で主導権を握っていることになるのかも知れないが、だからといって絶望する必要もないし、大したことは何もおこなわれていない範囲内で我慢の限界にはまだ達していないのかも知れないし、それも昔とは違う傾向や程度でそれ相応の破滅に導かれている最中なのかも知れない。


9月18日「新自由主義の受け入れ」

 些細な違いにこだわっていると大きな差異を見逃してしまう可能性がありそうだが、違いがあろうとなかろうと、それが取り立ててどうということがなければ、比較すること自体が意味のないことかも知れず、何と何を比較して、そこから興味深い違いや差異が導き出されても、それが興味深いと思われる限りで、それが興味深いことには違いないが、興味深いに留まっている限りで興味深いことでしかなく、興味深いことから一歩も外に出られないわけだが、そこから一歩外に出るとはどういうことなのかと言えば、自らが興味深いことをやる成り行きになるのかも知れないし、実際に何かをおこなって、本当にそれが興味深いかどうかを確かめてみる必要がありそうだが、そこまで至る必要があるのかと言えば、そんな義務も必要もなければ確かめるには至らないだろうし、またそれが興味深いと思われても、それができるかどうかは別問題であり、できないことをやる必要はないはずだが、それとこれとを比較することができるからそんなことをやっているわけで、しかもそれができるとしてもこだわる必要がなければやらないだろうし、比較することにこだわっているから何かと何かを比較しているわけだが、そんな比較によってそこで生じている大きな差異を見逃しているとすれば、その差異が比較からは導き出されないことであり、的外れな比較をしていることになるだろうが、わざと的を外しているわけでもないだろうが、的を射てしまうとまずいのかも知れず、あえて的を射ないようにするために的外れな比較をやっている可能性もあるだろうし、それらを比較することがさも重要なことであるかのように見せかけると共に、人をどうでもいいような些細な違いにこだわるようにけしかけている場合があるわけで、それがそういった煽動の意図するところであれば、その手の煽動には引っかからないように注意しなければならないだろうが、ではそこで見逃されている大きな差異とは何なのかとなると、比較している対象を十把一絡げにできるような差異となるわけだが、その差異が何なのかがどうでもいいような些細な違いにこだわった比較からは出てこないことであり、実際に前任者と前任者の意志を引き継いだ後任者との比較からは出てこない差異がそこで生じていて、それらを比較することによってそこに差異が生じているのを覆い隠そうとしているわけだが、そんな偽りの比較に騙されているというわけではなく、騙されたように装いながら後任者を支持する人が後を絶たないわけで、比較自体が見え透いたごまかしであることを重々承知していながら、前任者と共に後任者を支持する方便として比較を利用したいわけで、どちらも一蓮托生だったのに状況が変われば急に両者を比較して、前任者にはない利点が後任者にあるように見せかけようとして、そんな比較を持ち出して後任者を持ち上げるようなことをやるわけだから、それがどうでもいいような比較であるのは誰もが承知していることだとしても、それでも後任者を支持するに際して正当化できるもっともらしい理由が必要となれば、そんな比較がまるでとってつけたようにこれ見よがしに持ち出されてくるのであり、後出しじゃんけんもいいところだろうが、誰もがそれに騙されているわけではないとしても、騙されたように装いたい人がいくらでもいるとなると呆れてものも言えなくなってしまうかも知れないが、結局現状の内閣を支持しているのはそういうひどい人たちなのだから、そんな状況からこのままでは日本が終わってしまうと心配してしまう人が出てくるのも無理もないことだろうが、それでも日本が終わるわけではないのも誰もが漠然とそう思っているところだろうし、その程度のことだと思うしかないわけで、それも現状の日本と他の国々を比較してそう思ってしまうことでもあり、そういう面でも比較が役に立たないわけで、自分たちがひどいことをやっている言い訳として都合の良い比較を持ち出してくるわけだから、比較自体が恣意的なご都合主義に基づいていて、まともな比較になっていないわけで、えこひいきするためにそんなことをやっているわけだが、そういうことを当然のことのように正々堂々とやってしまう世の中だと思っておけば間違いないとしても、誰もがそれに気づいていながら自覚がないというところが納得できないかも知れないが、納得する必要がないのかも知れないし、世の中には納得できない成り行きがあって、しかもそれが普通に通用してしまうから不条理に思われてしまうのだが、その不条理な成り行きにこだわってしまうと世の中の支配的な常識から外れてしまい、それが高じるとこのままでは日本が終わってしまうとかいうあり得ない妄想にも取り憑かれてしまうのだが、そういう妄想にとらわれた人の方が、嘘も方便のようにして世の中の流れに乗っている人よりも良心的に見えてしまうことも、それこそが不条理そのもののように思われてしまうわけだが、たぶんそこでも両者の比較が的外れなのかも知れず、同じ成り行きから二種類の人が出現してしまうのであり、そんな二種類の内の一方が憂国の士となってこのままでは日本が終わってしまうと心配してしまう人たちであり、そしてもう一方が嘘も方便とばかりに騙されたふりをしながら世間の主流を担う人たちであり、それらの人たちが表裏一体となって世間を構成しているのだろうが、それらの人たちの内のどちらか一方につくとか、どちらか一方を支持するとかいうのではなく、それらを十把一絡げにできるような差異がそこで生じていると見ておいた方がいいのかも知れず、その差異が何かというと、さらにややこしく事態を捉えることになってしまうかも知れないが、それは国家という存在を前提しているか否かで差異が生じるのだろうし、国が他の全てに優先して存在していると思っているわけではないが、成り行き的にそういう結論へと向かってしまう人と、それとは別の方面に向かってしまう人との間で差異が生じるのかも知れず、その国家とは別の方面というのが、国家に代わる枠組みの実現とはならないわけで、要するにそれは政治や経済に関係する団体として政府や企業などの各種団体があるという捉え方であり、それが新自由主義的な物事の捉え方になるわけだが、そこでは国家という枠組みが絶対的な枠組みとして確立されているわけではなく、いつでも変更可能なボーダーレスな枠組みとして国家という枠組みがあるものの、それに代わる絶対的な枠組みを構築しようとするわけではなく、むしろさらにボーダーレス化を推し進めようとするわけで、そういう意味で新自由主義的な価値観として脱国家化が推進されるわけだが、そうなると国家と別の国家との比較も意味をなさなくなるだろうし、国と国の比較自体が的外れな比較となってしまうわけだが、もちろんそうなってしまうと困るから憂国の士が反新自由主義的な立場からそういった価値観を批判するわけだが、それに対して世間の主流を担っている嘘も方便を利用する人たちも、表向きは新自由主義を批判するだろうが、やはりそれも嘘も方便の内に入る偽装的な姿勢であり、なし崩し的に新自由主義に染まり続けているわけで、そういうところで新自由主義陣営と反新自由主義陣営との比較も意味をなさない的外れな比較となるだろうし、それは偽装された対立であり、新自由主義に反対している人たちの中に新自由主義をなし崩し的に受け入れてしまう人たちが含まれていて、表向きは反対しているものの、それが真の意味での反対とはならないというややこしい様相を呈しているわけで、そういう実態を知ってしまうと憂国の士も不条理感を覚えるしかないだろうが、憂国の士を気取っている人たちの中にもなし崩し的な新自由主義の受け入れをそれと自覚することなく容認せざるを得ない状況に追い込まれつつある人もいるわけだから、何かそういうところで憂国の士という立場や姿勢自体も信用できないものであり、それも嘘も方便の内に入ってしまい、そうなるとどこからどこまでが嘘も方便なのかよくわからなくなってくるだろうし、それと自覚することなく嘘も方便を利用している人がかなりの数にのぼっているのかも知れないし、当人がそれと自覚できないのだから、中には自分こそが本物の憂国の士だと思い込みながら、このままでは日本が終わってしまうと煽り立てながら現政権を批判し続ける憂国の士を反日勢力と見なして攻撃している人も数多くいたりして、憂国の士同士が同士討ちとなっている状況もあるだろうし、まさに嘘も方便で新自由主義に反対しながら実際には無自覚に新自由主義を推進している陣営としては、願ったり叶ったりの状況が実現しているのかも知れないが、そういうややこしい状況を単純化して考えてしまうと、やはり的外れな比較を嘘も方便で利用する以外にないだろうし、実際に単純化している方が思い悩むこともなく精神の健康を保っていられるのかも知れないが、その精神の健康というのが状況を正確に把握しないことによって保たれているわけだから、何かそこでも不条理感を覚えてしまうわけだが、そんな状態から脱するには今まで信じてきた固定観念や先入観を捨てて世の中のありのままの情勢を捉えないとならないわけで、それを固定観念や先入観にとらわれている人たちに求めるのは酷なことなのだが、それが現状では無理だとしても、時が経つにつれて無理ではなくなり、将来的にはそれが当たり前の認識になってくるだろうし、その頃になれば過去の人たちがいかに不合理な偏見や先入観にとらわれていたかを思うと不思議でならなくなってしまうかも知れないが、少なくとも現状の中ではそうではないわけだから、それらの人たちを馬鹿にしたり愚かだと見なすのも逆に愚かで馬鹿げたことかも知れず、そういう意味では現状の中に留まっている限りで、憂国の士と嘘も方便の士との対立や争いをそのまま真に受けておいてもかまわないし、どちらか一方の陣営に加わって政府批判と擁護との戦いに参戦しておけば迷うことなく充実した時を過ごせるのかも知れず、その際にはまかり間違っても敵や味方が自身の立場を裏切るような偽装を無自覚におこなっているなんて思わない方がいいだろうし、それが予定調和の演技にならないように振る舞うしかなく、それでもどうしても状況の不条理さに気づいてしまうと自らの演技を信じられなくなってしまうから、何かそこでそうした不安や心配を一掃するような価値観が必要となってきて、それがいわゆる国家主義であり、対立する双方共に国家主義へと導かれていってしまうのかも知れないが、しかもそれがなし崩し的な新自由主義の受け入れとして機能してしまうと、やはりそれこそが不条理そのものとなってしまうのかも知れない。


9月17日「人心の一新」

 メディアの宣伝によって実質的に何が起こるわけでもないが、宣伝を真に受けた人たちが幻想を抱くことはできるわけで、それは詐欺に騙されるようなものかも知れないが、心地良い幻想を抱けるなら騙されていた方がマシだろうし、騙されている間は心地良く過ごしていられるのだろうが、それが一時的な効果であることも踏まえておかないと、騙している方が勘違いして、詐欺で騙してうまくいってしまうと後が怖いことを後から思い知るわけだが、実際にもうまくいけば騙した方も騙された方もそんなことは忘れてしまうし、そうなればそれが詐欺ではなかったことにもなりかねず、メディアの詐欺に騙されるなと警鐘を鳴らしていた方が間違っていたことになってしまうわけだが、それでもかまわないことになってしまうと、本当にうまくいったことになるだろうし、それで何の問題もないのかといえば、本当に何の問題もなければいいが、誰も何も指摘しなければそういうことになってしまうわけで、それに関しては何の問題もなく、問題なのは他の枝葉末節なことになってしまうわけだが、そこまで行くと実際に詐欺で騙してうまくいってしまったのかも知れないし、さらには詐欺などではなくまともな行為だったことにもなってしまい、それを詐欺と見なすこと自体が間違っていて、誰も詐欺などに騙されていないことになってしまうが、それ以前に何が起こるわけでもないと高をくくって油断しているわけでもないだろうが、実際に起こっているそれを無視しているわけで、それは宣伝しなければならないこととは違って、それが起こったことをわざわざ宣伝しなくてもいいとなると、すでに誰もがそれを知っているわけで、実際にそれが起こったからそれなりに人心も一新されて、それも人心が一新されたように装っているに過ぎなければ詐欺になってしまうわけだが、すでに起こってしまったそれを無視しながら忘れようとして、人心を一新して再出発したことにしたいのかも知れないが、起こってしまったそれをさっさと忘れようとしているなら反省がないだろうし、しかも何を反省する必要があるのかわからなければ反省しようがないだろうが、それが悪いことだとは思えなければ反省などする必要がそもそもないわけだが、実質的にはそれほど人心が一新されたわけでもないだろうし、これまでと同じような人たちが同じようなことをやる成り行きになっていれば、特に人心が一新されたことを強調する必要もないわけだが、ではそこで起こったことが何なのかといえば、大したことは何も起こっていないことになり、その程度のことで人心を一新する必要もなく、そうであれば人心を一新したことにはならないはずで、人心を一新したように思われたのは単なる思い過ごしになってしまうわけだが、さらにそうであればそこで何が起こっているわけでもなく、それに伴って何を宣伝する必要もないはずだが、それでも実際に何らかの宣伝がおこなわれて、どうしても宣伝をおこなう必要に迫られているように見えるわけで、彼らがそこで宣伝しなければならない状況に追い込まれている原因が何かというと、それが実際にそこで起こったことに起因しているとしか思えないわけだが、そうではあればそこで起こったことがそれなりに重大なことであって、それに伴って人心を一新して再出発する事態になったわけだろうが、なぜかそれをことさらに何でもなかったように装いたいわけだろうし、実際に何でもなかったかのように装うために大がかりな見せかけのイベントがおこなわれて、それを宣伝したメディアとメディアの宣伝を真に受けた民衆もグルになってその場を何とか取り繕ったわけだが、それが滑稽な事態をもたらしているのかというと、誰もそれを滑稽だとは思わないし、普通に滑稽な事態などではなく、それどころか極めて自然な成り行きに感じられるわけだが、それとともになぜかそれが許容の限界を超えた事態に思われてしまうところが被害妄想にとらわれている証拠かも知れないし、何の反省もなくこれまで通りのことをやっているふりを装っているように見えてしまうところが腹が立つのだろうが、だからといって他にやりようがないわけだから、そうなるのが当然の成り行きであり、そんなところでいちゃもんをつけるのもおかしいのだが、おかしいのを承知でいちゃもんをつけるような成り行きになってしまい、そうやって状況が自らの意向とは相容れないことを思い知らされるのだろうが、それでもそれなりに状況の変化に対応しているからそうなってしまうのであり、そんな葛藤を伴いながら状況と格闘しているつもりになれるわけだが、それが空回りの上滑りであることも承知していて、そういう面では確かにうまくいっていないわけだが、うまくいっているように見せかけると詐欺になってしまうことを思えば、そのままの状態でうまくいっていない現状をさらしておくしかないのかも知れないが、それでも普通に暮らしているように感じられる範囲内ではうまくいっていると自らに言い聞かせた方が無難だろうし、実際に誰もがそう思って状況を肯定的に捉えたいのかも知れないが、それが自らに嘘をついていることの証しだとも思えないだろうし、本当に生活が苦しければその原因を政治のせいにはできないということになり、そこでも自らに嘘をついていることになってしまうかも知れないが、そうなると八方塞がりなのになおもそんな行き詰まった状況を引き受けていることになるのかも知れず、それだけ心身の面でも経済的な面でも余力があることになってしまうが、果たしてそんな余力のある人が世の中にいるのかというと、経済的に余裕のある人ならいくらでもいるのかも知れず、そのいくらでもいるうちに自分や自分の家族が含まれていれば何の問題もないわけだが、そうでなければうまくいかないことから生じる不満のはけ口を政治に持って行くことを禁じられている中で自助努力以外に何ができるかとなると、単に自らの至らなさを思い知るしかないし、努力が足りないからうまくいかないのだ、と自らに言い聞かせるのかも知れないが、それは妄想の中で生じるフィクションに過ぎないと思っておけばいいとしても、フィクションではない面においては政治に関心を持っていて、政治の領域で起こったことをそれなりに真に受けているはずだが、それをどうにかしたいと思っていて、できれば都合の良い方向や傾向へと持って行きたいという思惑が生じているわけで、それが誰にとって都合が良いのかというと、それに関しては誰もがわかっていることであり、そうした都合が実際に世論調査の内閣支持率などにも表れていて、それを肯定的に受け止めたい人にとって都合のいい結果がもたらされているはずだが、そういうことは話題にしたくないわけで、それはそれとしてこれ見よがしにどうだといわんばかりに示しておけば済むことでしかなく、それが問題ではないはずだが、では何が問題なのかといえば、やはりそこで現実に起こったことをどう受け止めるかであり、真に受け止めなければならないのはそこで起こったことがその後の成り行きに活かされているかどうかだが、それがこれから活かさなければならないことにもなり、それをどう活かすかが問われているのだろうが、果たしてそれを人心の一新によって活かしたかというと、まだ結果が明らかになっていない現段階では何とも言えないところかも知れないが、多くの人がそんなこととは関係なく振る舞おうとしていて、実際に誰もがこれまで通りの振る舞いに終始していれば、何が活かされたことにもならないだろうが、本当にそうなってしまうと、そこで起こったことは何だったのかということにもなりかねないが、これまで通りに振る舞おうとしている人たちにとっては、振る舞いをこれまでとは変えてしまうと負けを認めたことになってしまい、だから是か非でもこれまで通りに振る舞おうとするわけで、実際に誰もがそう振る舞っているつもりになっているはずだが、果たしてそれで通用するのかというと、それはこれから起こる成り行きが示すことであり、彼らの振るまいが通用しなくなってそのことごとくが空振りに終わるようなことにでもなれば、人心が一新しただけではなく状況も一新したことになるだろうし、果たして本当にそうなるかどうかに関して、そのリトマス試験紙のような役割を担っているのが、これまでと同じように強がりなことを言い放つ人物の存在になるのかも知れず、早速一発かましたつもりになっている人もいるようだが、枝葉末節などうでもいいところを強調して、それを群集心理に訴えかけながら大勢で騒ぎ立てて、物事の本質的な部分から目を逸らしてしまうのも相変わらずなところでもあり、果たしてそんな相変わらずなやり方が今後も延々と通用してしまえば、そこで起こったことが活かされていないことになるのはもちろんのこと、それを活かそうとしない限りでそれらの人たちがこれまで通りに振る舞っていられるわけだから、何かそういうところでややこしい成り行きが生じて、真に人心が一新されたことを実感するには、そういう枝葉末節な騒ぎ屋の皆さんが世間から一掃されるようなことにでもならない限りは無理かも知れないが、それが叶わないことも状況的には明らかだろうし、そういう意味で人心が一新されて状況も一新するようなことにはなり得ないのだが、それでもそうなることを願うことはできるし、たとえそれが今すぐには叶わない願いだろうと、願うことをやめる必要はないだろうし、そうなるように願っていればいつかは願いが叶うと思っていればいいのかも知れないが、それと同時に行動も起こさなければならず、そこでどう行動するかは今さらいうまでもなくわかりきったことかも知れないし、わかりきった行動を起こせばいいのだろうが、たぶんそれがそこで起こったことに起因する率直な反応になるだろうし、そうなってもらっては困る人たちがそうならないように色々と画策している最中であるとしても、そんな画策に反応してわざわざそれらの人たちを利するようなことをやる必要はないし、それを無視することはできないとしても、そんな画策が実際に空回りしていることを示せればいいわけだが、現状でもそれをやらせるだけやらせておいて、ネタ切れになるのを待っている段階なのかも知れないし、実際にその種の煽り立てや騒ぎ立てがいつまで続くか見物でもあるわけだ。


9月16日「体制という概念」

 果たして印象操作や世論操作をやること以外にメディアの役割があるのかとなると、政治方面ではそれしかできないわけだが、それ以外の方面があるのかと言えば、経済方面では商品の広告宣伝が主な役割となるだろうが、そんな政治体制や経済体制の一部に組み込まれているのがメディアだと見なしてしまうと、何か社会を支配する固定的な体制があるかのような幻想を抱いていることになるのだが、それらの体制が何らかの傾向に固定されているとしても、組織的に一枚岩となっているわけではないだろうし、それらを中国や北朝鮮や旧ソ連などの共産党的な国家支配機構と同一視するのは誤っているだろうが、どうしても日本の場合はその手の印象操作や世論操作のやり方があからさますぎるから民衆がメディアから小馬鹿にされているように見えてしまい、そうした体制に逆らっているつもりの人たちには腹立たしく感じられてしまうわけだが、だからといって人としてゴミクズのような人たちが大臣になっているとあからさまに本当のことを述べてしまうと、実際にそんな人たちをそれなりに多くの民衆が支持しているわけだから、小馬鹿にしているどころか民衆が大馬鹿だということが明らかとなってしまい、それもメディアとしてはまずい状況となってしまうだろうし、やはり曲がりなりにも世間で通用している大人に対してあからさまに否定するような表現を使っては駄目だろうが、そうなると穏便な表現を使うのが妥当になるわけで、結局は現状で使われている差し障りのない表現に落ち着くわけだが、そうなっているからメディアの印象操作や世論操作に騙されるなと騒ぎ立ててみても、それもそうやって騒ぎ立てること自体が反体制的な態度の典型のようになってしまうわけだから、それも反体制的には差し障りのない妥当なやり方に見えてしまい、そんなふうにしてメディア上でおこなわれる行為のことごとくが予定調和の空振りに終わってしまうような様相を呈しているのが現状だろうし、そういった方面ではメディアがうまく機能していて、人が何をやってもそれらの体制に絡め取られて何でもないことになってしまうのであり、その全てが無駄な悪あがきにしかならないと言ってしまうと、もはや手も足も出ないような絶望的な状況に陥っているように思われてしまうかも知れないが、それでもそんな盤石な体制の上であぐらをかいて長期政権を維持していたように見えた人が体調を崩して持病の悪化によって政権を放棄してしまったわけだから、それが体制を維持するだけでも相当な無理がかかっていることをうかがわせる証拠だと見なしてもかまわないだろうが、体制自体がそれにかかわっているつもりの人たちの共同幻想によって成り立っている架空の体制に過ぎないわけだから、それを維持しようとする人たちにとってもそれを壊して自分たちにとっての理想の体制を構築しようとしているつもりの人たちにとっても堅固な実態があるわけではないし、様々な団体や組織がそれなりに協力や連携の関係を築いていることは確かだとしても、それらを堅固な一つの団体や組織に統合してしまうと硬直化して互いに身動きが取れなくなってしまうわけで、そういう意味では幻想の体制となっていた方がそれらの人たちにとっても各々の団体や組織にとっても都合が良いわけだが、だからといって幻想の体制によって何がおこなわれているのかとなると、現状維持以外にはやりようがないわけで、そうなるとその中で何かができるかのような嘘をつかざるを得なくなって、結局は口先だけで何もやらないから人としてゴミクズだと思われても仕方がないにしても、それらの人たちが意図してそんな体制の犠牲者の役を引き受けているわけではなく、実際に何かやれると思うからその職に就きたいのだろうし、その職に就いた人は何かをやっていると思っているだろうし、そう思わせるような体制になっているわけだが、やはり大したことは何もやっていないように見えてしまうわけで、そういうところで当人が思っていることと実際にやっているつもりの内容との間にそれなりの落差があり、当人にその自覚がないように見えてしまい、そういう面でも何か無能者の集団のように内閣や議会が見えてしまうわけだが、そう見えてはまずいと思うのも当然だろうし、大政翼賛的なメディアとしても何かをやっているように見せかけないとならなくなるわけだが、見せかけようとすればするほどそんな見せかけようとする魂胆が見え透いているように感じられて、ますます見せかけの罠にはまり込んでしまうわけだが、そういう見せかけの体制から離れたまだ少数の政治勢力でしかなければ、部外者の立場で理想論や大言壮語な主張をしても違和感を持たれないだろうし、それも少数派だからそんなあり得ない主張をしていられると受け取られてしまうと、それ自体が見せかけの体制の一部に組み込まれているようにも見えてしまうわけで、結局は体制内で少数派としての役割を担うなら理想論や大言壮語を主張できて、それが多数派になるに従って現状維持的で穏当な主張しかできないような仕組みになっていると捉えられるだろうし、そうであれば街頭で大げさな煽動行為をやっている人たちも、彼らが少数派としての役割を引き受けているからそんなことがやれていることになってしまい、あらかじめ決められた役割分担の範囲内で予定調和なことをやっているに過ぎなくなってしまうわけだが、果たして政治的な行為や主張にとらわれている人たちが、そういった予定調和の範囲から逸脱することができるかというと、そんなことをやっている結果からそれを体制として把握すればそう見えてしまうわけだから、彼らがどんな行為や主張をしても結果を都合良く解釈すれば何とでも言えるだろうし、そういう意味で体制という概念がその手の政治的な解説や説明をする上で重宝されるかも知れないが、そんな解説や説明に納得してしまうと予定調和の現状維持にしか行き着かないわけで、そこから逸脱するにはどうすればいいかとなると、変化を恐れないことが重要だろうし、また予定調和の範囲内に留まってしまうことも恐れてはならないだろうが、では具体的にどうすればいいかといえば、理想論や現状ではあり得ない大言壮語なことを主張している少数派の政治勢力を支持すればいいわけだが、しかも少数の人たちが少数派を支持するのではなく多数の人たちが少数派を支持しなければならず、さらにそれが一時的な流行現象に終わらないように、絶えず多数の人たちが少数派を支持し続ける必要があるわけだが、普通に考えてそんなことはあり得ないわけで、現状であり得ないことをやれば予定調和の範囲から抜け出すことができるわけだが、それもわかりきったことであり、わかりきったことができないから現状の予定調和な体制が維持されているわけだが、そんな予定調和の成り行きに嫌気がさして少数派のあり得ないことを主張している勢力を支持したところで、その勢力が多くの民衆から支持されて多数派となれば、また何もできずに現状維持的な状況となってしまえば、さらに新たな少数派の政治勢力を支持しなければならなくなって、そんなことの繰り返しも予定調和の成り行きにしか思われなければ、そういう無駄な抵抗を繰り返すのはやめてはじめから多数派の現状維持以外は何もできない政治勢力を支持すればいいのではないかと思われてしまうかも知れないが、それでは変化する可能性を放棄してしまったことになるだろうし、実際に日本では多くの人が政治的な領域での変化の可能性を放棄してしまっているように見えるが、それを少数派のせいにするのは本末転倒だろうし、怠惰に流されて変化を恐れて変化を嫌うから弱い者いじめのように少数派を叩くわけで、そうすることもこれまでに延々と繰り返されてきた予定調和の成り行きになるかも知れないが、そうやって自ら出口を閉ざしたり開いている出口に背を向けて、洞窟の暗がりの中で都合が良くて心地良い幻想を抱きながら暮らすことも、原始時代から延々と繰り返されてきた集団的な風習だろうし、別にそれがそれほど悪いことだとは思われない限りで、多少の不満には目を瞑ってそんな暮らしに満足しているように装うわけだろうが、我慢や辛抱がいつまでも続くとしても、また政治には幻想を持てないという幻想をいつまでも抱き続けるにしても、このままの状態がいつまでも続く保証はなく、保証がないからといってすぐにやめるわけにもいかないだろうが、相対的には我慢や辛抱を続けられない人が多くなれば自然な変化が起こるだろうし、政治に何を期待しても落胆しかもたらさないと思われるとしても、変化に伴って生じるリスクを引き受けないと決心がつかないこともわかりきっているが、それも現状で主導権を握っている多数派次第な面もあり、実際に変化が起こるときには変化を起こさないとまずいようなことをやってしまうわけで、彼らが何もやらなくてもその何もやらないことが何かまずいことをやっているように見えてしまい、それが民衆の勘違いだとしてもそれが起因となって変化が起こってしまうのかも知れず、たとえそうなったからといって民衆が悪いことにはならないだろうし、いつの時代でも悪いのは政治的な主導権を握っている政治勢力となり、特に悪くなくてもそう見えてしまうのだろうし、現状でもゴミクズのような人たちが政治的な主導権を握っているように見えてしまえば、そう見えるような情勢が世の中に構成されていると捉えておけばいいのかも知れず、実態としてもそれらの人たちと民衆との間でそれほど違いがあるわけでもなく、それらの人たちがゴミクズのように見えれば、そう見えてしまう人たちもゴミクズの類いなのかも知れないし、そういうところはお互い様なのかも知れないが、そうだとしてもそれなりの役職に就いていてそれなりの権力を持っている人たちがゴミクズのように見えてしまうと、そういう人たちを支持している人たちも情けなくなってしまうだろうし、だから見てくれをごまかすために言葉によって装飾を施してしまうわけでもないだろうが、そういうメディア的なごまかし行為が我慢がならないなら、そんな行為が横行している現状に辛抱できないなら、そういった我慢や辛抱を続けられない人が多くなればなるほど、それだけ変化が起こる確率が高まると思っておけばいいのではないか。


9月15日「ゲームの達人」

 新たに出揃ったその顔ぶれがこれまでの印象や固定観念や先入観などの何を裏切っているわけでもないが、そうなった経緯に関して何か反省すべきことがあるかといえば、そんなことがあるわけもなく、理由もないのに反省すべきではないし、何を反省してみても何も始まらないし、反省しても何の得にもならないということであり、だから特に反省を活かすような陣容ではなく、なぜそうなってしまったのかという問い自体が出てこないようにそれらの人選がおこなわれているのであって、それがただの気の迷いからそうなってしまったわけではなくても、特に理由や原因など何もなくてもそうなってしまうような結果でもあり、そこが知りたいところでもなく、相変わらずそんなことなど何も知らなくても誰も困らず、誰もそんなことなど知りたくもないし、それがどんなことでもないのだから反省するまでもないことであり、他に何がどうなっているわけでもないし、そうなる以外にやりようがないところだろうが、それでも何かが着実に積み重ねられているのであり、簡単に言うならゲームの範疇で経験が積み重なって、それを経験した日数だけ技術的にうまくなろうとしているのかも知れないが、それはゲームの範疇でそうなるしかなく、ゲームにのめり込める環境を整えれば他のことに気兼ねする必要がなくなってしまい、これでいいのかと問う以前にそうなりたいのであり、ただのゲームだと割り切ってそんなことをやっているとは思えないだろうが、そんなことをやっている限りでそうなってしまうわけで、試合巧者になろうとすればそこで誰かと戦っていることになるわけだが、試合であると共にゲームであればもっと広い範囲で戦い以外の要素も入ってきて、協力だとか連携だとかそれなりに活動の幅が広がってくるだろうが、それでも勝ち負けの結果が避けられない限りで勝つための協力であり連携になるわけで、ゲームに勝つためにやっていることだからそうなる以外にあり得ないわけだが、果たしてそれがゲームだと割り切ってしまってもかまわないのかといえば、やっていることがゲームだとは思われなければ、やっていることが信じられなくなるだろうし、そんなことをやり続けていてもかまわないのかと疑念を抱くようになってしまい、そんな迷いや戸惑いがゲームに勝利するだけが全てではないことを悟らせるに至るかも知れないが、今後そうなる可能性があるかというと、それは何かの終わりを機にそんな思いにとらわれるのかも知れず、おそらくそこに至るまでが恐ろしく長い道のりであり、下手をすると途中で息絶えてしまう可能性の方が高いのかも知れないが、そんな面倒で何の得にもならない状況になるのがいやであれば、単に試合巧者になることを目指すしかないだろうし、勝つという結果が伴わない限りは試合巧者になれるわけではないが、勝つことを目指している限りで、他の面倒なことを気にする必要もなく、誰もがそうなろうとしてしまうのかも知れず、そんな経緯から多くの人がゲームにのめり込んでいる段階に留まってしまい、なれもしないのにゲームの達人になろうとするのだろうが、それがゲームでも試合でもないということが、人が生きている限りで体験するほとんど全てから導き出される答えになってしまうと、ではゲームにのめり込んで試合に勝とうとしている過程が何なのかというと、そこで催されているイベントに興じていることになるだろうし、それが憂さ晴らしや気晴らしでやっていることなら非日常的な娯楽の範疇に収まってしまうわけだが、それをやる専門家としてそんなことやっていれば、当然のことながらそれが仕事になるだろうが、さらにはゲームや試合をやらずにそれを観ているだけであれば観客になってしまい、また観ているだけはでなく、ゲームに参加して試合をおこなっている特定の誰かやチームを応援しているとなると、その誰かやチームのファンとなってしまうわけで、そうやって制度的に役割分担が細分化されるほどその役割を演じるような傾向が強まってきて、それ以外のことに気を遣う必要がなくなってきてしまうのだが、本当はそうではないにもかかわらずそう思ってしまうのだから、それだけ意識の中で活動のフィクション化が生じていると言えるのかも知れず、そこでは他のことは気にしなくてもいいと思われことが危険な兆候であると共に、そう思ってしまう人がとらわれている制度への順応度合いが高まっていることも示していて、そうやってその人がとらわれている制度がその人の活動を役割分担を伴いながら単純化して、それだけ人のロボット化も進行してしまうわけだが、そんな制度の都合に合わせて機能するようなロボット化に逆らって活動する機会を得られれば、そんな活動ができている間はゲームから心身も離れていられるだろうし、またゲームとは違う経験をそこで積み重ねることもできるわけだが、一方でゲームにのめり込んでいる間はゲーム内での経験が積み重なって、ゲームに勝とうとする限りで試合巧者になることを目指してしまうわけで、人が社会の中で生きていく限りはどちらの経験も積み重ねることになり、どちらの経験も大事だと言ってしまうと、その二つしかないわけだから大事なのは当たり前のことなのだが、意識の中ではゲーム内での経験が優先されてしまい、それ以外の経験が軽んじられてしまうのはよくありがちだろうが、その中でも何か目的が伴わないような経験が軽んじられてしまう傾向があるだろうし、それを重視する理由がないから、そうなってしまうのは当然のことなのだが、それを切り捨てたり省略することはできないだろうし、人は目的だけのために生きているわけではなく、実際にそれ以外の経験が積み重なっているとすれば、それが重要で大切だから積み重なっているわけではないにしても、やはりそれ以外のところでも生きていることの証しとしてそうなっているわけで、そんな経験も含んでその人の人格が形成されていることになり、人としての構成物には目的以外の要素も含まれてくるわけだが、意外とそれが参加しているつもりのゲームにも響いてきて、その人の存在としての特異性を醸し出しながらゲームに関与してくるわけで、そうなるとその人がいくらゲームのルールに精通していて勝つための技術に長けていても、それが邪魔してどうにもならないようなことになってくるわけで、そうやってゲーム外での経験がゲーム内でものをいうことになれば、ゲーム内でいくら技術的な精度や強度を高めても、それなりに向上する面があるにしても、そういう技術ではどうにもならないような領域が別にあることにもなってきて、そうなるとそこで不条理感を覚えるわけだが、それはゲームに勝つことを目的として養われたわけでもなく、何だかわからないが自然にそういう経験が積み重なってそうなってしまったわけで、そうなってしまった当人にはどうすることもできないような個性としてその人の中で結晶化してしまったわけで、そうなってしまった人をどう扱えばいいかをゲームのルールが教えてくれるわけでもなく、そういうところで他の人たちを途方に暮れさせるような人が稀に出現してしまうとしても、それも自然の成り行きに違いなく、それがゲームの勝敗にどう関与するわけでもなければ取り立てて気にするようなことでもないだろうが、少なくともそういう面では制度の支配を免れているわけで、それが制度やそれに基づいておこなわれるゲームとは無関係な方面でも役立つかどうかはわからないだろうが、そうなるように努力することはできないし努力する理由もないわけだが、そうなろうとする目的が生じないような生き方ができればそれに越したことはないわけでもないが、それ自体が何でもないことであり、誰もが何でもないような生き方ができるわけではないとしても、制度によって生じる役割分担から外れるところで生きていければ、そうなっている人が制度にとっては何でもない人となるだろうし、たとえその人が何かの拍子にゲームに参加することになって、勝敗とは関係のないところで他の参加者やゲームの運営者を途方に暮れさせたとしても、やはり何でもないことであり、無視してもかまわないことだろうが、その人がわざと何らかの意図や思惑を抱いてそうしているわけでもなけば、それがその人にとっては通常の振る舞いであり、驚くようなことは何もしていないはずだが、それがどうしたわけでもないと思う必要もないことでもあり、実際にまだゲームに不慣れなだけで、それ以外は誰も何も思わないのかも知れないが、その人が制度の意向に従ってゲームに染まる必要もないのかも知れず、制度側に属する人たちにとってはそれでは困るかも知れないが、その人がそれで困らなければそれかまわないのかも知れず、そんな人は別にゲームに勝とうとしなくても生きていける可能性があり、ゲームそのものが不要かも知れないが、それとは違ってゲームに勝つことを目的として参加している人たちにとってなぜゲームが必要なのかといえば、普通に考えて勝つことが目的だから勝つためにはゲームが必要となるわけだが、そこでゲームに参加した全員が勝って目的を果たすようなことが起こるかといえば、そんなことはあり得ないだろうし、誰かが負けてくれないとゲームそのものが成り立たないわけで、要するにそこに目的が生じてしまうと、それがゲームである限りで必ず目的を果たすことができない人が出てきてしまうだろうし、もちろん勝ち続けることも負け続けることもないような仕組みやルールにしておけば、いつかは勝って目的を果たすことにもなるかも知れないが、勝敗以外の目的がゲームに生じるかというと、ゲームを楽しむために参加していると普通に思いつくわけだが、楽しめなければ参加したくないだろうし、そこでゲームを運営する側が楽しめるように趣向を凝らすとしても、それでも相変わらずゲームを必要としない人が出てきて、それがどうしたわけでもないとしても、そうやって制度側の思惑を外れさせることがゲームに参加するしないにかかわらず求められていて、それが自然から人に向かってなされる要請だとすれば、そんな要請などあり得ないと思ってしまってかまわないだろうが、あり得ない要請に応えようとしてもかまわないのではないか。


9月14日「物語的な効果」

 それが何を意味しているわけではなくてもかまわないのだが、物語の執拗な持続を侮ってはならないし、それがいつまで続くかわからないような途中経過の中で不安を抱きながらも、実際にいつまでも執拗に続いていくとしても、心身が物語に絡め取られていなければそれだけ自由に振る舞っているつもりになれるし、それが真の自由からはほど遠い状態だとしても、我慢ができる範囲内で勝手な妄想を抱きながら振る舞っていられるかも知れないが、そこで何を我慢しなければならないのかといえば、心身が物語に拘束されていないと他人から共感を得られるような動作ができないわけで、物語とは無関係に勝手な振る舞いばかりやっていると、物語に拘束された活動しかできない人から見るとそれが許されない行為だと感じられてしまうのかも知れず、そういう意味で他人から共感を得られないことについては我慢するにしても、一方で過去から連綿と続いてきた成り行きの延長上でその人が振る舞っているように見えれば共感が起こり安心感を抱かれるわけで、そんな効果を狙って実際にその人の生い立ちや幼少期のエピソードなどが肯定的に語られるわけだが、そこで忘れてはならないのはそんな昔の思い出などではなく、ここ数年間においてその人がやってきたことであり、最近おこなってきた悪行を相殺するためにそんな過去のエピソードが持ち出されてきたのだとすれば、そんなことを物語る輩の魂胆がそこから透けて見えるだろうが、それを意図してそんなことが物語られるのではなく形骸化した儀式の一部としてそうなってしまうのだとすれば、それを物語る人に悪意はなく、ただの制度的な範囲内で物語られているに過ぎないことなのだが、そういう制度的な行為によってその人が守られてしまうのであり、その範囲内では誰もが肯定的な印象を得られて、それが最近の悪行から生じる悪い印象を薄めたり忘れさせる効果があり、相対的に人柄として好印象を抱かせるわけだが、それが騙されてはいけないと警鐘を鳴らすほどのことでもなく、そんなことはすぐに忘れられてしまうような一時的な効果しか持ち得ないとしても、それでもかまわないわけで、それ自体が些細などうでもいいことでしかないと思われても、やはりその程度の効果でもかまわないということであり、それが物語的な効果だと見なしておいてかまわないわけだが、そういう範囲内ではその人がこれまでにやってきたことの中で肯定的な面ばかりが誇張されて伝えられてしまうことが、意図してそんなことが語られるのはわかりきっているとしても、それでもかまわないならそんな行為を許してしまうことも物語的な効果に含まれるだろうし、そうやって都合の良い面ばかり伝えようとする一方で、それに反発すれば今度は都合の悪い面ばかり伝えようとするわけで、その結果として無用な対立や争いが起こればそれも物語的な効果に含まれるだろうし、そこでも物事の肯定的な面ばかり伝えようとするから、それへの反動として物事の否定的な面ばかりを伝えようとして、そこで対立や争いが誘発されるという効果がもたらされて、そこへ至らせるほんの些細なきっかけをその種の物語が提供していればそれでかまわないわけで、それも誰が意図してそうなるように仕組んでいるわけでもなく、誰が仕組んだわけでもないのに、制度的にそうなるようにあらかじめ仕組まれていて、そんな成り行きに多くの人が巻き込まれてしまえば、それが物語的な効果のおかげでそうなってしまったことになり、そんなふうにして予定調和のくだらない対立や争いが生じると言ってしまうと、意図せず無自覚に誘導されて対立や争いに巻き込まれた人たちが浮かばれないが、制度的にそんな仕組みに引っかかってしまうようになっているわけだから、そこで起こる対立や争いもたわいないことでしかないのかも知れず、制度的なたわいなさの範囲内で対立したり争っているだけでは大事には至らないわけで、そこから逸脱して制度を破壊するような傾向が伴ってくれば、それに対するブレーキが利いてきて、たわいない範囲内へと引き戻すために誘導するような作用も及ぼされるだろうが、それが何のための制度なのかといえば世の中の安定を保つための制度であり、そこで対立や争いが起こるにしてもたわいない範囲内で起こっていれば世の中の安定が保たれて、そうなるような成り行きへと誘導させるために、為政者の悪行から生じる否定的な印象を薄めたり忘れさせる目的で、その人の生い立ちや幼少期のエピソードなどが好意的に語られるわけだが、それが一時的な効果しか持ち得ず、さらにその人の悪行が積み重なれば否定的な印象の方が勝ってしまうわけだが、それもはっきりと悪行だとわかるようなことはやらなければいいわけで、すでにその時点で学習効果が発揮されて、そこに至る様々な行為の積み重ねが教訓をもたらして、その教訓に裏打ちされた巧妙なことをやれば、悪行の印象が拭い去られる可能性が出てきて、それが悪行とも善行とも区別のつかないことになって、しかもその場の成り行きに沿ったことをやっているように思われると何かしら全面的ではないにしても部分的には説得力が生じて、そんな面を肯定的に捉えればそれなりに好印象を得られるわけだが、ではその場の成り行きに沿ったことというのがどういうことなのかといえば、やはり物語的な継続性から生じる過去から連綿と受け継がれてきた行為になるだろうし、それが現状から取り出されたフィクションを構成する要素としてサンプリングされたものであったとしても、それを提示されると継続性という面では部分的には納得のいくものとなるだろうし、そこでも騙されてはならないと警鐘を鳴らしたくなるだろうが、過去からの継続性や連続性というフィクションを信じている人たちには心地良く感じられてしまい、それもたわいないことであり、多くの人にとっても許容限度内に収まってしまうのだろうが、そうなることを狙ってそうしているわけではなく、それも制度的な成り行きに沿っておこなわれることであり、それが具体的にどんな制度なのかというとうまく説明できないかも知れないが、何かの比喩として制度という概念を用いているわけではなく、そういう成り行きをもたらすのが制度だと見なしたいのだが、それが何の制度なのかといえば、世の中を一定のレベルで安定化させる制度であることは確かで、それでは相変わらず具体的な内容がわからないし、正確には制度とは呼べないかも知れないが、やはり制度的な成り行きに沿ってそういうことが絶え間なくおこなわれていて、それを熟知している勢力がその場の主導権を握っているはずだが、熟知しているといってもそれをはっきりと意識しているわけではなく、頭で理解する以前に身についているわけで、それは慣習的な作用とも言えるだろうが、そこに閉鎖的な共同体の掟のようなものが暗黙にあると言ってしまうと許容限度を外れてしまうわけだから、そういうところはオブラートに包み込んではっきりとは見せないようにしているわけだが、そんな暗黙の了解事項として制度を隠しながらもそれがあることを誰もが承知しているという回りくどい状況が過去から連綿と続いてきたのかというと、それがフィクションであるなら実際にはそうではないはずだが、そういうことにしておいた方が都合が良いわけだろうし、それが虚構であるのは誰もが承知していることだが、承知していてもそうは思っていないわけで、それどころかそんなフィクションを守らなければならないという義務感まで抱いていて、現実に多くの人たちによってフィクションが守られている限りで世の中が安定していることになっているのだろうが、世の中の安定を装っていると言った方がより正確に現状を捉えていることになるだろうし、そこでも騙されてはならないと警鐘を鳴らしたくなるとしても思いとどまるべきで、警鐘を鳴らすという行為も比喩的にそういう表現が用いられるわけで、それもフィクションの中で演じられる架空の行為であって、そうではないことを知りつつ過去からの継続性や連続性を信じるという演技に対して、誰も騙されてはいないのに見え透いた演技に騙されるなと警鐘を鳴らすという比喩表現を使ってしまうわけだから、それ自体がたわいないことであるのは明白だが、そんなふうにしかやりようがないし何も語りようがなければ、ではそれ以外に何があるのかと問われてしまうかも知れないが、やはりそこにも物語的な効果があるだろうし、そんな効果によって世の中の安定が保たれていることになっているはずだが、多くの人がそれを信じているつもりになっているとしても、一方でかすかな疑念がまとわりついて離れないから鬱陶しいわけで、そんな鬱陶しいハエや蚊のような執拗さを示しているのが、誰もが知っている事実としての現状認識であり、それを知っていてその実態を把握しているにもかかわらず、建前としてはフィクションを守ろうとするわけで、だからうっかり真実を語ってしまった人に対しては、それが無名の一般人なら何事も起こらなかったようにして執拗に無視するし、一方でそれが誰もが知っている著名人であれば容赦のない攻撃を加えるわけで、そうすることが閉鎖的な村落共同体の掟を破った人に対する当然の仕打ちだとは誰も自覚していないが、制度的にはそういう成り行きになってしまうと述べると、何か奥歯に物が挟まったような物言いになってしまうわけだが、少なくとも何らかの思惑を抱いて意図してそういうことをやっているわけではないから、それほど罪悪感は覚えないし、むしろそうすることが当然だと思われてしまうわけだが、それが間違っているどころか正しい行いのように思われるとすれば、それでかまわないわけではないとしても、そこから無理に離脱する必要はないだろうし、多くの人がそういうフィクションにとらわれている限りで、それはそれとしての利用価値が生じているところでもあり、そういうフィクションを逆手にとって何かこれ見よがしなことをやるというわけでもなく、そんな人たちを尻目にそれとは関係のない方面で活動している人もいくらでもいるかも知れないし、それを目指すというのではなく、それに対する自然の対応として、フィクションに騙されるなと警鐘を鳴らすような煽動とは違うことをやる成り行きになれば、何かそういうところでこれまでの継続性や連続性を断ち切っていることになるのだろうが、もちろんそれらの継続性や連続性自体がフィクションでしかないわけだから、それをこれ見よがしに断ち切るようなパフォーマンスも見え透いた演技にしかならないわけだが、その辺の模索がこれ見よがしにならないように見えれば自然な対応になるのではないか。


9月13日「簒奪者の言い分」

 誰かが誰かの意志を引き継いで何をやっているつもりであっても、それが独りよがりでそう思い込んでいることであれば、それなりに勘違いが生じているはずだが、誰かに明確な意志があったとしてもそれがあからさまに表明されていなければ、それを後から何とでも独りよがりに解釈しようがありそうで、引き継ごうとする以前に自らの意志でそれを勝手に解釈しようとしていて、そうであれば他人の意志を引き継ごうとする以前に自らの意志があり、自らの意志で誰かの意志を引き継ごうとしていること自体が誰かの意志を利用したいからそんなことをやっていて、それが誰かの意志を自らの意志に基づいて勝手に都合良く解釈しようとする意志となり、そうなっている時点で誰かの意志よりもそれを勝手に都合良く解釈しようとする自らの意志の方が勝っていて、結局は誰かの意志こそが自らの意志であり、誰かを利用しているに過ぎず、そんなことをやっていること自体が誰かの意志を尊重していないのかも知れず、実際に誰かの意志を踏みにじるような行為となっていれば、誰かの意志を引き継ぐというのも真っ赤な嘘であり、誰かの意志を引き継ぐふりをしながらその意志を踏みにじるようなこともできるのかも知れず、そうであれば誰かの意志を引き継ぐという行為が外見的にはかっこよく見えるとしても、その実態としては真逆なことをやっている可能性もあるわけで、それは誰の意志に限らず自らの利益になることは何でも利用しようとする貪欲さの表れなのかも知れず、その口実として誰かの意志を引き継ぐというかっこいいことを表明してしまうのかも知れないが、それが誰の意志であってもそれを引き継ぐと自らの意志で表明してしまうと、その意志には利用価値があるということであり、それ以前に利用価値があると勝手に解釈して、他人の意志をねつ造していることにもなるだろうし、そういう利用価値があって引き継ぐふりをしながら簒奪したいものとして、社会的な地位や権威や役職などがあり、それらに共通しているのが権力を行使できる立場であって、簒奪する際に簒奪する行為を正当化する口実として前任者の意志を引き継ぐと表明するわけで、それが必ずしも赤の他人とは限らず血縁者となればなおのこと様になるだろうし、例えば父や祖父の墓前で息子や孫があなたの意志を引き継ぎますと宣言すれば保守的なパフォーマンスとしては申し分のない効果を発揮するかも知れず、また時の権力者のナンバー2の地位にある部下がその権力者を押し退けて自らが権力者となってナンバー1の地位に就いた際に、押し退けた人物に向かってあなたの意志を引き継ぎますと薄ら笑いを浮かべながら言い放つ場面などはその種のフィクションの中ではよくあるパターンだろうが、今どきそんな成り行きをそのまま真に受けるほど世間知らずな人もいないが、その手のパフォーマンスは演技としてそういうことをやっていると受け取っておいてかまわないだろうし、それが演技でなければ何なのかというと儀式的な形骸化を被っている可能性があって、何らかの権力を行使できる地位や役職に就いた人が前任者から引き継ぐ際の儀式において権力の継承を宣言しなければならない決まりがあり、そうすることが誰の目にも形骸化された儀式だと映れば、それをのまま正式な継承と受け取るか、正式な継承に見せかけた掠奪や簒奪と受け取るかは、権力を引き継いだ人物がその後に何をするかで判断されるところだが、それがどこまでも見せかけに過ぎなければ、関係者の真意や裏でうごめいている思惑としてもよくありがちなことが想像されてしまい、そういうことも含めてその種の演技や儀式に織り込まれていて、そこに関与する人たちの行動や言動の何から何までがもっともらしく思われるようなことばかりになってしまうと、そういう成り行きの全てがこれ見よがしな形骸化したパフォーマンスのように見えてしまうわけで、それが儀式の効果として人々に諦念や嘆息や無関心をもたらすのだろうが、そうなってしまうこと自体までがその種の儀式に参加する者が抱く典型的な反応であり、それこそが儀式に参加させられていることの顕著な兆候なのだろうが、誰に頼まれたわけでもないのに無自覚に儀式の参加者の演技をしているわけで、さらに多くの人々がそういう思いにとらわれていること自体がそれらの人々に向かって儀式の主催者から権力が行使されていることにもなってしまうのかも知れず、お前らはただの観客であってこの退屈な儀式を黙って観ていることしかできないのだという権力者のメッセージが観ている各々に降りかかっているわけで、それに対して人々が何もできなければ、それが沈黙の同意となって権力者に服従していることになってしまうのかも知れないが、それも実質的に服従しているわけではなく、儀式の中での演技として服従しているように装っているだけであれば、人々の存在自体も形骸化していることになるわけだが、そうなるといったいどこからどこまでが形骸化していてどこからが実質を伴っているのかがよくわからなくなってくるだろうが、たぶん全てが形骸化していると共に全てが実質的な内容も伴っていて、それらが権力の行使という力によって成り立っているはずだが、それがダークマターのように誰にも感知できないのかも知れないが、力の源泉となる暗黒物質がどこから生じているのかといえば、前任者の意志や遺産が過去から連綿と代々引き継がれるような保守的な重力場から生じているのかも知れず、そんな重力場に身を置いている限りは、その種の権力の継承に伴う引き継ぎの儀式を延々と観させられることになるわけで、それが民主的な政治制度の代わりをしているのが日本の現状かも知れないが、他の諸国でも大なり小なりそういった傾向があるだろうし、大抵の場合は民主的な政治制度自体がそんな儀式を執りおこなうための隠れ蓑となっているのかも知れず、儀式が非民主的な権力継承の隠れ蓑なのではなく、民主的な政治制度そのものが隠れ蓑となっているのだからまさに本末転倒しているわけだが、それでかまわないわけがないとしても、見せかけの力がそれでもかまわないように見せているわけで、何でもかんでもそう見せかけられているのだからそれが通常の状態に見えてしまい、いったんそれを許してしまうと延々とそうなって、そうなってしまっている時点で後戻りが利かなくなってしまうのかも知れず、後戻りしようにもそれを後戻りだとも思われなくなってしまうだろうし、では後戻りではなく何なのかといえば、前進しようとしてその前進がままならないように思われるわけで、今こそ民主主義を実現しなければならないと思いつつも、それがなかなかうまくいかないから悔しい思いをしているのかも知れないが、それこそが思い違いの勘違いと言ってしまうと、何か裏切られたような気分となってしまうかも知れないが、そこからの真の前進とは民主主義の実現ではなく、それは前進させることですらなく、では何なのかと言えば物事を前進させることでも後退させることでもなく、前進させようとしても後退させようとしてもそこに留まり続けることになってしまうとすれば、そこに形成されている保守的な重力場から永遠に離脱できなくなってしまうような気がしてくるかも知れないが、それでかまわないのであり、それが見せかけの儀式に過ぎないと自覚しておけばいいのであり、そこに関与してくる人たちがやろうとすることのことごとくが見せかけの演技に過ぎないことを理解しておけば、それ以上にそれを受け取る必要はないだろうし、演技以上でも以下でもなく演技そのものだとみておけば、そこに実質的な効果など伴わないことをもわかるはずで、逆にそれを真に受けて彼らの言い分を信じてしまうと、そこから心理的な効果が伴ってくるわけで、彼らが提示してみせる政治的な主張が実現すれば、世の中の状況が今以上に満足できる状況になると思われてくるだろうが、それが演技として主張しているに過ぎなければ、台本の指示に従ってそう主張しているに過ぎず、彼らにそれを実現させる力があるわけではなく、その場の役割としてそういうことを主張する役を演じているだけで、それが人々が観させられている儀式の中で演じられていることであれば、観客にとっては役者や俳優が語る主張の中身に実現性があるなしとは関係なく、その演技に魅了されることになれば満足するだろうが、もちろんそれが形骸化した儀式に過ぎなければ退屈な内容に飽きることはあっても魅了されることはないし、実際に誰もがそこから離脱したいのにできないから苛立ちながらもそれと自覚することなく儀式に参加していることになるだろうが、それに対して主催者の側でも何とかして観客を引き留めようとしてそれと自覚することなく四苦八苦しているのかも知れず、そういう実態を客観的に捉えるなら、もちろん客観視できないから誰もがそれを自覚できないわけだが、演じる側が自らの空疎な演技のマンネリ化に必死に耐えているのと同様に観客の側でも演技者の退屈な演技に飽き飽きしているのにそこを立ち去るわけにも行かず、どちらもが困っているはずだが、保守的な価値観を簡単に捨てられない事情が妙に責任感を生じさせていて、双方共にそこで必死になって死に物狂いで各々の役割を演じないとさらに内容の儀式化や形骸化が進行してしまい、どんどん行動や言動が空疎な無内容になっていってしまうのだろうが、それを自覚できないわけだから、そうなるにまかせるしかやりようがなくなっているとしても、その一方でそれだけではないということも自覚できず、そんな演技を誰もが無自覚にやっている間に新たな簒奪者が目の前に迫っていることすらも自覚できないわけで、その簒奪者が誰でありどんな勢力を代表しているかは、実際にそうなってみれば誰の目にも明らかになるはずだが、現状で簒奪者が心がけなければならないことはそうなる気配すら感じさせないことが肝心であり、戦略的なやり口としても誰もが保守的な義務感から退屈な演技や儀式に見とれている演技をしている間に裏口からこっそりと侵入するようなことになるのだろうが、それが比喩的に何を意味するのかも、実際にそんなことが起こってみないことには何とも言えないが、それが演技や儀式とは違った本物の実践になればいいのだが、それも見せかけだけの革命ごっこになってしまうと、それを期待していた人々も落胆するしかないのではないか。


9月12日「消費税という争点」

 ちょっとしたきっかけから物事の実態がわかってくるとしても、それとは別の方面からわかってくる物事の実態をそれと比較しながら考えてみないと、それだけでは一方的に偏った知識を構成してしまうような気がするのだが、それに関してわかっていることが他に関してわかっていることと結びついてこないと、知識としての広がりを持ち得ないわけで、そういう意味で知識にはそれなりの普遍性が備わっていないと他では活用できないはずだが、では何らかの知識が他の知識と結びついて、それなりの広がりを持った範囲を網羅できる普遍的な知識となり、それがさらに他の知りたいことを知る手がかりや手助けとなれば、そこで知識が活用されたことになるのかといえば、普通はそう思われるだろうが、その一方でそんな知識と知識の結びつきが何かとってつけたような活用になってしまうと、疑わしく思われてくるわけだが、それが何かといえば、それに関して具体例を挙げて説明するとなると、うまく説明できずに四苦八苦してしまい、実際に何と何とが結びついているのかさえよくわからず、そこで知識が活用されているとは思えなければ、では何なのかということになってしまうが、それが何か知らないというわけではないが、そうなってしまう成り行きが確かにあって、それに関して例えば世界のどこかの地域や国で経済成長によって金融的な資産が形成されて、そこで有り余った資金の使い道に困ると、土地バブルや株バブルが生じて土地や株が値上がりすることになるわけだが、それらが値上がりしすぎて実態を反映していないことがわかってしまうと、バブルがはじけて土地や株の価格が急激に値下がりして、その恩恵に与っていた企業なども多数倒産して、値上がりに費やされた資産の大半が失われてしまい、そんな現象がバブル崩壊と言われるわけだが、それも普通に起こる普遍的な現象であれば、すでに起こってしまった現象を何か否定的な過ちとして教訓的に捉える必要はないわけで、そういう成り行きの中ではそういうことが起こりやすいといった程度に捉えておけばいいのかも知れないが、その後の成り行きの中で日本の事例に関しては政策の失敗を挙げることが、慣例としてこれもよくありがちなことかも知れないが、安易に陥りやすい知識の活用法として定着しているわけだが、それが政府批判としてやりやすいから盛んにおこなわれていて、失敗の具体例として真っ先に挙げられるのが消費税の導入となるわけで、そのバブル崩壊後の失われた数十年をもたらしたのが消費税の導入だと指摘すると、何かそういった経緯をもたらした物事の辻褄が合うわけで、それに関しては正確な事の経緯として税の直間比率を是正するために消費税が導入されたわけで、それまでの景気の動向に左右されやすい所得税中心の税制だとバブル崩壊などの極端な景気悪化には対応できないから、政府の主要財源を賄う上で安定的に税収を確保できそうな間接税の導入が求められるようになっていった経緯があったわけで、そんな経緯を踏まえて消費税の導入という方向になし崩し的に傾いて行ったわけだが、また年金財源の将来的な破綻の危険性も指摘されて、それも安定的な財源の確保というお題目を後押しする理由にもなったのだろうが、それに対する反対意見としては所得の少ない人にとっては増税となってしまうということが誰にもわかる事実として指摘され続けてきたわけだが、また段階的に消費税の税率が引き上げられる度に、それに伴って法人税率が引き下げられて、そこから企業を優遇しているという批判ももっともらしく唱えられてきたわけで、金持ちや大企業を優遇して貧乏人や中小企業を痛めつける政策だと批判できるわけだから、政府を批判するにはうってつけの題材となり、それに伴って政府を批判する政治勢力が消費税の引き下げや撤廃を訴えるのは無理もないことなのだが、政府としては取りやすいところから税を取るのが自然な成り行きだろうし、そういうところで政府や議会の与党と政府に対する批判勢力との対立を鮮明化させるには、消費税の是非を争点としておいた方が都合が良いのかも知れないが、それだけではないと言ってしまうと他に何があるのかということになるわけだが、税制をいじっただけではどうにもならない面があるのかも知れないし、それが政治の領域では対処できないようなことなら政治とは別の方面で考えるべきことかも知れないが、もっと根本的な問題として経済活動によって蓄積された資産という概念が実態の定かでないものなのかも知れず、それの価値となると価値のあるなしや大小を価格で測ることになるわけで、価格があったりなかったり高かったり低かったり上がったり下がったりしても、その対象となるもの自体が変化しなければ価格に何の意味があるのかということになるだろうし、質が向上したり劣化したり量が多くなったり少なくなったりすればそれに伴って価格も変動するだろうが、バブルが膨らんで土地や株の価格が急激に上がったり、バブルがはじけて土地や株の価格が急に下がっても、土地や株自体の質や量が変化したことにはならないだろうし、ただその価格が急激に変動したに過ぎないことであって、それに伴って価格を体現している資産の額も急激に上下動したわけで、もちろん価格の上下に応じて質が向上したり劣化したり量が増えたり減ったりしたと比喩的に表現することもできるわけだが、そんな比喩表現を用いた説明を信じられるかとなると、あるレベルでは信じられるとしても別のレベルでは信じられないと表現するなら、そのレベルとは何かということになってくるのかも知れないが、結局それが価格の高いものが価値が高くて高品質であるという幻想を招き、使い切れないくらいに多額の金融資産を所有していればその時点では価値の高い資産になるだろうし、そういうことを信じてもかまわないわけだが、一方で政府を批判する政治勢力が消費税率を引き下げたり撤廃した後のことを考えているかというと、もちろんそれなりにもっともらしいことを考えているだろうし、そうした考えの中身を信用できるかできないかがそれらの勢力に対する支持や不支持につながると思いたいが、もちろんそうではない面やそれとは異なる面での支持や不支持の方が現状では圧倒的に大きな割合を占めているようにも思われるし、そういうことも踏まえた上での消費税論議だと捉えてしまうと、こちらが本気で受け止めていないような感じになってきてしまって、本気で消費税の引き下げや撤廃を訴えている人たちには申し訳ないのだが、それ以前にどうしても考えがちになってしまうことがあり、人や人が大勢で寄り集まって集団となって組織されて機能する企業などが中心となっておこなう経済活動や、税収や公債などを財源として組織的に活動する政府や地方自治体などの行政の在り方を問いたいわけで、それが個人の範疇を超えて手に負えない大げさなことであるのは承知の上で考えていることなのだろうが、そういった集団の活動を前提として現状の世の中が構成されているのだからそれ自体を根本から変えようがないとしても、それらの中身や活動の傾向が変わっていく可能性はあるだろうし、実際に変わってきた歴史的な経緯もあるのだから、それに伴って様々な人や勢力が恣意的にそれらの集団の理想的な在り方を模索してしまうのも自然の成り行きとして当然あるが、それは現時点で考えていることでもあり、現時点での状況が今後変わってしまえば、その時点に応じた理想的な在り方が模索されてしまうだろうし、そういう集団の理想的な在り方がその時点に至った歴史的な経緯に応じて移り変わっていく成り行きもあるだろうから、現時点で企業活動や行政活動に関して理想的な在り方を模索することも、今後の情勢の変化に応じて変わっていってしまうことも予想されるだろうが、そういうことまで考慮に入れると現時点で消費税の引き下げや撤廃を訴えている勢力にしても、今後の情勢次第では別の争点を持ち出さざるを得ないことになる可能性もあるわけで、そうであればそれはそれとして、それだけではないにしてもそれを主要な争点として訴えかけていることに関しては、そのことの是非を問うのはもちろんのこと、それ以外の問題にも配慮することが肝要だろうし、それ以外のことはといえば、身近な問題としては例えば夫婦別姓を容認するか否かということであったり、身近でない問題としては憲法九条と現状との整合性であったり、他にも貧困や経済的な富の不均衡であったりもするわけだが、政党などの政治勢力の主張としてはそういった具体的な問題に関して、もっともらしいことを主張したり妥当に思われるような見解を示すことしかできないだろうが、一般の人たちがそれを真に受けるかどうかはよくわからないわけで、それに関して理想論のような幻想を抱く必要はないし、また従来からあるような保守的な固定観念や先入観にとらわれることもないわけだが、そうはいっても大半の人たちは何とかそれらを単純化してレッテル貼りがしたいわけで、それに関してすぐに理想論ばかり掲げて具体策がないとか、現状維持的な政策から少しでも外れたことを主張すれば鬼の首を取ったかのようにそら見たことかと騒ぎ立てたいだろうし、そうやって否定的なレッテル貼りの中に閉じこもって、ありのままの現状がもたらしているみすぼらしい姿から目を背けようとしてしまい、結局は現状の中で政治的な主導権を握っている保守勢力へと信頼を寄せるか無関心を装うかのどちらかになってしまうだろうが、それではまずいというわけではなく、不用意にそれではまずいと言ってしまう空気を読めない人たちからも目を背けながらも、それなりにうまく立ち回ろうとして、実際にうまく立ち回ることに成功したように思われる人も、そう見える人もいくらでもいるだろうが、そんなことまで考慮に入れれば、それほど消費税の引き下げや撤廃を主張する勢力だけが間違っているとは思われないだろうし、もちろんそれらの勢力が全面的に間違っているわけではなく、現状の中ではそれなりに正しいことを主張しているわけだが、そのそれなりに正しいことを主張している部分では支持してもかまわないわけで、現にそれなりの人たちがそういう主張に賛同してくれるだろうが、それ以外にも実現可能かどうかはともかく、より多くの人たちが賛同できるようなことを主張することが求められているのかも知れない。


9月11日「汚い戦略」

 不快な広告をわざと見せて観る人の気分を害させるのは今やネット界隈の常套手段だが、そんな広告を観させられて反吐が出そうになる度に、その手の広告を見せているグーグルやヤフーという企業は人間のゴミクズの掃きだめなのではないかと想像してしまうのだが、世の中には人が嫌がることをやって生計を立てる職業というのがいくらでもありそうで、それもその種の職業の中の一つと考えれば仕方のないことなのかも知れず、逆にきれいなものばかり観て毎日を過ごすことの方が、世の中の常識から外れたおかしな感覚になってしまうのかも知れないし、その手のネット企業が世の中の常識を作っていると思うとさらに腹が立ってくるとしても、結局それこそが世の中のほんの一部を占めている汚い部分を極端に拡大して見せているに過ぎないことであり、それが世の中の全てを覆っているわけではないし、そういった広告を見させられて気分を害される度に彼らの戦略に引っかかっているわけで、彼らが世界をわざと汚く見せようとしていることはその手の広告を見る限りは明白な事実だが、そういった人々に汚い戦略をとらせるような成り行きが生じていて、それが行き過ぎた功利主義の行き詰まりを実感させもするが、彼らにしてみれば行き詰まっている感覚ではなく、むしろうまくやっている感覚なのかも知れないが、こちらとしてもそれに対抗してヤフーのアカウントを抹消して、ヤフーのサイトはできるだけ避けるようにしたり、グーグルニュースではヤフーニュースと産経ニュースは意識して観ないようにしたり、ユーチューブを広告なしで観られる方法を独自に編み出したりして、そういった思わぬ方向での努力を強いられてしまう成り行きになってきたわけだが、そうやって情報を発信する側があらかじめ恣意的に加工して提供する情報を受け取る側が自身の都合に合わせて取捨選択したり再加工して受け取るようなことをやらざるを得なくなり、相手から不快なことをやられるとやられっぱなしになるのがしゃくだから、こちらもそれに対抗して何かしらやるような成り行きになってしまう過程で、自然と以前の状態から別の状態へと移行してしまうわけで、それが進化と言えるのかとなると疑問に感じてしまうが、少なくともそれがどちらの戦略や思惑からも外れた成り行きをもたらしていることは確かであり、そんなふうに状況がどんどん思わぬ方向へ変化して行く中で、何かこだわるべきことがあるかとなると、あからさまにやられたらやり返すということではなく、自然とねじれた対応になるのかも知れず、それはこだわっているというよりは、自然な反応を心がけるとそうなってしまうわけで、相手を全面的に拒否するのではなく、相手の利用できるところは利用した方がいいと思われるだろうし、そうやって互いに共存共栄を図ろうとする成り行きになればいいのかも知れないが、それでも相手が不快な存在であることは変わりなく、相手から見ればこちらが不快な存在になってしまうわけだが、そうなると世の中には不快な人や集団がいくらでも存在していることになるだろうし、そんな不快な存在を敵と見なして攻撃を仕掛けても、仮に敵を倒しても倒しても次から次へと不快な存在が現れてくるだろうが、実際には不快な存在を倒したり抹殺するのではなく、不快な存在と戦っているポーズを他の人たちに見せながら、自分たちの戦いに賛同して加わってくれる味方を募っているのであり、相手を打ち倒すことに戦いの目的があるわけではなく、味方となってくれるより多くの賛同者を募ることに目的があって、それが勢力の争いの様相を呈しているわけだが、そこで争いや戦いに決着をつけるべくそうしているわけではなく、結果的には争いや戦いを維持継続しながら、そこから味方となってくれる人や集団を利用して利益を得ることが目的となっていて、そんな状況を作り出すには毎日のように人々が不快感を抱いて争いや戦いが起こりやすくする必要があるだろうし、そのために不快な広告を垂れ流すような配慮がなされているのかも知れず、グーグル傘下のユーチューブでは申し訳程度に一部の広告や動画を削除する機能があるが、削除する理由の選択欄にはこちらの理由に該当する選択肢がなく、さらに腹立たしい思いにとらわれてしまって、本当に何から何までうんざりさせられるような仕組みになっていて、そういうことのとどめの決め台詞として、そんなにいやなら動画を見るなよ、という嘲りの文句も向こう側から伝わってくるようにもなっているわけで、まさにそれが安倍政権を長期政権へと導いたネトサポと称される集団がやっていたことでもあったわけだが、それはかつて自動車王ヘンリー・フォードがわざと壊れやすい部品を使った自動車を販売して、人々がより多く自動車を購入するように促していた戦略と似たような面もあるのかも知れないが、そういう敵対的な功利主義を突き詰める必要があるかとなると、それがそんなことをやった結果がどうなっているかが示しているところではあるわけで、心理的な面では敵対行為をやり過ぎると呪詛合戦のような様相を呈して、敵に呪詛の言葉を投げかけるとそれが倍になって自身に降りかかってくるような事態も起こるだろうし、そんな呪いの効果で自身の健康が害されるのは心理的な否定作用が効果を上げていることの証拠となるだろうが、そういうことを嬉々としてやってそれなりの成功を収めた人はろくな死に方はしないだろうし、何か怪死とか変死とかいう死に方をした人にはその種の呪詛の効果が作用や影響を及ぼしている可能性があるわけだが、それもオカルト的な臆見や偏見に基づいた意見として片付けられてしまう傾向にはあるだろうが、現代の科学的な合理主義に貫かれた敵対的な功利主義に対抗するにはオカルト的な神秘主義が必要に思われてしまうところが安易さの極みでもあり、呪詛の効果に期待してしまうようではすでに負けを認めているようなものかも知れないが、負けてもかまわないところがその程度のことなのであり、そういうところでは惨めな敗北感に打ちのめされていてもかまわないだろうし、何事も全てに勝つことはできないわけで、どうやっても今の現状では死につつある自らをある一定の期間を超えては維持できないわけだから、何をやっても何に勝ったつもりになっていても、結局は自らを襲う死には勝てないわけだから、どんな勝利もつかの間の勝利であり、またどんな敗北も永遠には続かず、必ず自らの死によって断ち切られてしまうのだから、自らの敗北をそれほど恐れることはないわけだが、それが勝敗の次元で捉えるようなことではなく、ただ単に争いや戦いを継続させる口実として作用していれば、それらは常に相対的な勝ち負けでしかなく、その瞬間だけに勝ったり負けたりする状態が構成されているのであり、それが何によって構成されているのかといえば、文字や画像や音声や映像などの複合体が構成しているわけだが、それが現実の物理的な作用や影響を伴って自身の生身の肉体へと力を及ぼしているかというと、そうでもない面もかなりの割合を占めているだろうし、それよりは心理的な面での作用や影響の方が圧倒的に大きいはずで、そういう方面で作用や影響を及ぼすように特化しているのがネットメディアの類いになるだろうし、もちろんそういう心理的な作用や影響を及ぼすような情報素材を作る過程で多くの人の生身の肉体が酷使されていて、そんなふうにして作られた情報に踊らされて心理面でも肉体面でも一定の方向や傾向へと誘導されてしまうにしても、そうなったからといってそこで終わりではなくその先があるわけで、そこでもその先に待ち構えている動作として、やられたらやり返すようなことには必ずしもならないのかも知れず、そこでも妙にねじれた対応に導かれてしまうとすれば、それが自然な対応だと見なしてもかまわないだろうし、自然にそうなってしまうように自らの心身を積極的に制御しながら誘導しているわけではなく、そうならざるを得ないような成り行きへと自らを追い込んでいるわけでもなく、敵対しないような意識が自然に働いてしまうわけで、それは相手が敵対するように仕向けてきていることを意識するとそこから逃れるために自然にそうなってしまうとも言えるわけで、要するに敵対的な功利主義に起因する戦略は敵対してくれる相手がいないと利益を得られないという成り行きにとらわれていて、そんな戦略の相手に敵対してしまっては相手の思うつぼだろうし、そんな理屈を頭で理解しているわけではなくても、相手の挑発に乗せられて感情的に激高しすぎると疲れてしまい、敵対する気力が萎えてしまえば自然とそうなってしまうだろうし、それ以前に現状ではいくら敵対関係を煽ってみても敵対できる要素があまり見つからず、そういった煽り立て自体が空振りに終わっている面も少なからずあるだろうし、もはや敵対するだけの元気も出ないから、それよりはさっさと負けていた方が楽なのかも知れず、負けたとしても大した損害も被らないだろうし、ネット上で不快な広告を見せられるだけなら割と簡単に我慢ができるだろうし、いやなら見なければいいという嘲りにも率直にそうだと思って従えばいいことでしかなく、実際に不快な広告に出くわしたらそこで画面を切り替えるようなことにもなってしまって、ユーチューブでは最後まで動画の類いを観ないような習慣も身についてしまい、最後まで観る価値などないことにも気づいてしまっているわけだが、何かそういうところで何事も軽いのりで対処している成り行きにとらわれてしまい、そこで発信されている情報のことごとくを真に受けないようなことにもなって、それを否定という強い調子で否定するわけでもなく、生ぬるい態度として肯定も否定もしないような判断へと自然に導かれてしまい、物事の白黒をはっきりとつけるようなことにはならないし、そのどちらでもかまわないわけではないとしても、そういった渦中へと心身の全てが巻き込まれてしまうようなことではなく、足首までちょっと浸かる程度にとどめておきたいわけだが、要するにそうやってくだらない事象へとのめり込んでしまうのを避けたいわけだろうが、それが本当にくだらないかというと、全身が巻き込まれてみないとわからないだろうし、そういう意味ではくだらないことかどうかも判断をしないような状態を維持したいわけで、それは意識して判断を保留するということではなく、保留するまでもないことであり、そういう微妙な均衡を保ちたいのかも知れないが、それは均衡を保つことでさえもないのかも知れない。


9月10日「今やるべきこと」

 漠然と妄想の中で思い描いている未来の姿が虚構であるのは承知しておくしかないが、妄想を抱きながらそこでおこなっているそれが真実から遠ざかろうとする演技なのかというと少し違うのかも知れず、少なくとも何も得られないことをやる気にはなれないが、やる気もないことをやっている現実を認められない場合もあるだろうし、そうであれば妄想からは何も得られないというのも誤りかも知れないが、特に妄想に従って何をやっている実態もなければ、ただそれは勝手に妄想しているだけだろうし、妄想しているだけなら何もやっていないのと同じことでしかなく、妄想していることを実行に移さないと何をやっていることにはならなくても、中にはそれを実行せずにはいられない状況に自らを追い込まないと何もできない場合もあるにしても、それに関してよくありがちなのは妄想は妄想として妄想の段階に留まっている一方で、実際には妄想とは無関係なことを普通にやっている場合の方が多いのかも知れず、それで間に合ってしまうならその程度の妄想でしかないわけだが、ではそれでかまわないのかというとそうではなく、そんなことをやっている間にも妄想を実現する思いが強くなってくれば、現状でやっていることと並行してそれを実行するための準備を着々と進めるような成り行きにもなってくるだろうし、そうなればそれはもはや妄想から抜け出て実現可能な行為だと思われてくるわけだが、それが実現可能な行為として現実味を帯びてくると、それに伴って実世界の中で現実に作用している制約や制限なども考慮に入れる必要が出てくると共に、妄想の中で思い描いている理想像からは次第に遠ざかってゆき、理想と現実の狭間で思い悩みながらも、それを実現させることを優先して妥協的なことをやらざるを得なくなるのもよくありがちな成り行きだろうが、そんなことをやっているうちにそこからもずれていってしまい、その結果として当初の思いとは裏腹なことをやっている場合もあるだろうし、結局そうなってやりたくもなかったことをやっている現実の中にとらわれているとすれば、こんなはずではなかったという思いも強くなるかも知れないが、ではやりたかったことがなんなのかというと、それが現状では実現不可能な妄想の中で思っていたことでしかなければ、やりたかったことなどできるはずもないことであって、こんなはずではなかったと思うのが当然の成り行きなのだが、それでかまわないかというと、そうなってしまったことについてはそうではないが、実際に曲がりなりにも何かをやっていることについてはそれでかまわないのかも知れず、そんな否応なく妥協を強いられる成り行きの中でそれなりのことがやれていれば、結果的にはそれでかまわないことになってしまい、それっきりで終わってしまう人もいくらでもいるだろうが、そこからやっていることをどうするかが問題となってくる場合もあるだろうし、当然それでは不満ならそれ以上のことをやろうとするだろうし、そうやって身の程をわきまえないようなことをやって失敗してそこで終わってしまう人もいくらでもいるだろうが、中にはそこでは終わらない人も出てくるのかも知れず、それが終わる終わらないという基準ではわからないようなことをやっている場合となるのかも知れないが、少なくともその人が生きているうちは何かをやっているわけで、そのやっていることが他人の興味を惹かなければ無視されてしまい、そんなことをいくらやっても誰からもかまってもらえず誰からも文句も来ないかも知れないが、それでも何かをやっているわけだから、やっていることに関してはそれでかまわないことになってしまうのかも知れず、誰がかまわないと思うわけでもなく、やっている当人も不満を抱きながらそんなことをやっているのかも知れないが、不満を抱いていてもかまわない状況というのもあるだろうし、そうなればそこでその人が得られていることは、不満を抱きながらもそれをやっている状況そのものになり、それほどそれをやる気になっているわけではなくても、少なくとも何も得られないことをやっているわけではなく、得られているものに不満があるということであり、それが贅沢な悩みを抱いているとまでは言えないが、それなりに不満は抱いてもっと満足感を得られるようなことをやりたいわけだろうし、実際にもそんな状態から抜け出そうとしているのかも知れないが、そんな成り行きの中では何をやってもうまくいかないのかも知れず、やるべきことはそういうことではなく、何かをやろうとする意志とは関係のないことであり、それが誰にとってもやるべきだとは思われないことをやる羽目になってしまうのかも知れないし、そんなことはやろうとも思わないことをやってしまえば、それは誰の指図でもなく当人の意志や思惑とも異なり、その場の情勢が決めることでもあるだろうし、その情勢がその場に居合わせた誰の現状認識とも違う傾向を示している可能性があるわけだが、そんなことをやるのがその場の情勢に合ったことになる可能性があるわけで、そういう意味でその場に合ったこととしてもっともらしく思われるようなことをやるとは限らず、全くの場違いなことをやることになれば、その人がそういうことをやる成り行きにとらわれていると言えるだろうし、それをやることがその場でその人にもたらされた運命のように思われるかも知れないが、そんなことをやってしまう限りで、そんなことをやったおかげでその人がどうなろうと、やることに成功しようと失敗しようと、その人がその場の情勢に合わせてやるべきことをやったことになるのかも知れないが、誰もそうは思わなくてもそうだといえるとすれば、誰にとってもそうだと思えなくても、当人にとってもそうだとは思えなくても、その場でその人がそんなことをやる成り行きがもたらされたことになり、それをやったおかげでその人がどうなろうと、またその人に関係する人がどうなろうと、さらにその人とは無関係な人がどうなろうと、たとえ無関係な人がそのとばっちりを受けようと、その人がそんなことをやってしまったことについては、後からどう言い繕ってみても事実としては言い逃れのできないことであり、それが取り返しのつかないことであっても、その後始末をつけるのに大変な苦労や苦痛が伴うとしても、やってしまった者勝ちであろうとやってしまった者負けであろうと、それが大げさなことであればそれ相応の影響を受けてその場が揺れ動くはずだが、それでも済んだことはどうとでも言えるのであり、また済んでしまったことはさっさと忘れてしまえるのであり、忘れてほしくないと思う人が大勢いるとしても、その人にとって都合が悪ければ忘れようとして、たとえそれがトラウマとなって忘れた頃に度々思い出されて、その時の苦い記憶が執拗によみがえってくるとしても、なおもいやな過去は忘れようとして、忘れられなくても忘れているように振る舞おうとするかも知れないし、そうやっていやなことは徹底的に無視してなかったことにしたいわけだが、それでもなかったことにはならず、古傷をほじくり出すように突きつけてくる人もいくらでも出てくるかも知れないが、今やるべきはそんなことではなく、絶えず自らの意志や思惑や利害とは関係のないことをやろうとしている可能性があるわけで、それがやるべきことだとは思えないとしても結果的にやってしまうなら、それを後から思えばやるべきことだったと思われる場合が出てくるわけで、そういう経過を振り返ってみると、今やるべきことを当人がわかっていない場合が結構多いことがわかるかも知れないが、もちろんその時点ではわかっていないわけで、その時にどう考えてもやるべきとは思われないようなことをやる羽目になったときには、案外それがそこでやるべきことだとは気づかないとしても、それをやってしまう成り行きには逆らわない方がいいのかも知れないし、そこで無理に理性を働かせて物事の道理をわきまえてやろうとすることをためらってやらずに済ませてしまうと、それが忘れた頃になって不意にその時の記憶がよみがえってきて、あのときやっておけばよかったと後悔することになるのかも知れず、それも全ての躊躇がそういう成り行きをもたらすわけではなく、それをやるかやらないかがその人の人生の中で決定的な岐路だと思われるようなことについて後悔や自責の念がもたらされて、その人を心理的に痛めつけるわけだが、それも後からならどうとでも言えることだと軽くいなしてしまえれば何でもないわけだが、それを何でもないことだと思えるようならそれだけその時点から遠く離れていて、遠く離れてしまうような経過の中で、その時点での経験と同等かそれよりもさらに程度の重い出来事をいくつも通過していればそう思えるだろうし、そういう意味では今やるべきこともこれからやるべきこともひたすら絶え間なく経験を積み重ねることでしかないわけだが、その経験の質や内容によってその人の満足度も異なってくるとしても、単に満足度という尺度ではうまく言い表せないような微妙なことも経験してくるだろうし、そういった経験を忘れたり思い出したりしながら、何かそれが運命のいたずらでそうなったように思われてしまう頃にはその人の終わりが近づいているのかも知れないが、それでは済まなくなるとそれ相応の情念や執念がその人の心の中に生じてきて、場合によってはそれが怨念のように変貌して、それがその人の不可解な行動や言動を伴って周囲に作用や影響を及ぼすと、何らかの物質的な歪みを伴いながらその人自身を含めた周囲一帯に怨念が付着して、そのことが原因でその場の時空を歪めてしまうようなことにでもなれば、その人だけでなくその人に関係する周囲の人たちもそんな怨念に取り憑かれながら、それ相応の行動や言動が発動してしまうだろうし、それがどういう結果をもたらすかは現状からはうかがい知れないところかも知れないが、それに関係して今やるべきこととなると、そんな前世代から絶え間なく受け継がれて降り積もってきた怨念の類いを祓い除けるというよりは、それはそれとして放置しておいてもかまわないだろうし、そういうことから及ぼされる作用や影響も含めてやるべきことが決まってくるのかも知れず、またこれといってやるべきことが決まらないままとなってしまう事態もあり得るわけだが、少なくともそういうやるべきことにこだわりすぎないことが肝要であり、それは政治的な面でも経済的な面でも言えることなのかも知れず、むしろ怨念の類いにとらわれないようにするには、絶えずやるべきことをはぐらかすことが肝要となる場合もあるのかも知れない。


9月9日「菅義偉という人物」

 事実が思っているほど重要だとは思えなければ、重要なのは事実よりも事実を装った嘘かも知れないが、人を騙すにはいかに本当のことのように嘘を語るかが重要になってくるが、そもそも騙す必要がなければ嘘をつく必要もなく、嘘が重要だとも思えなくなるだろうが、騙す必要もないのに騙してしまったり、騙すつもりもないのに結果的に騙してしまうこともあるだろうし、そうなると騙してしまうことが思いがけないことになるわけだが、思いがけなく嘘をついてしまう成り行きというのが、事実を述べてしまうと都合が悪くなるからだろうが、そんなできれば嘘をつきたくないのに嘘をつくしかないような成り行きというのが、思い通りにはいかない成り行きになるわけだろうし、そんな時に見え透いた嘘をついてしまうと、嘘をつかれた相手もそれが嘘であることがわかってしまうし、その人が嘘をつかざるを得ない状況に追い込まれていることを察して騙されたように装ってしまうことにもなるかも知れず、そうなると双方共に見え透いた嘘を共有することになってしまうわけだが、その一方でそれが嘘であるという事実も共有しているわけで、そうなると見え透いた嘘よりも嘘を共有している事実の方が重要となってくるだろうし、また嘘をつかざるを得なくなった経緯や理由も重要となってくるだろうが、真実である事実を隠していることもばればれなのに、なぜあえて見え透いた嘘をついてしまうのかという成り行きもその場では重要となってくるわけで、安倍内閣において官房長官を務めてきた人物が事ある度ごとにそういうことをやって、嘘を共有している関係者の間で信用を獲得してきたことが、総理大臣という役職を獲得する上で有利に働いたことは誰もが認めざるを得ないだろうし、彼を好意的に報じるメディア関係者たちもそんなことは重々承知していることだろうが、要するにそんなメディア関係者たちも嘘を共有している仲間のうちに入るのだろうし、そうやって見え透いた嘘を共有する一大勢力による談合によって日本の政治が牛耳られていることになるわけだが、果たしてそれが好ましい状況なのかといえば、誰も好ましいとは思わないにしても、やむを得ないとは誰しもが思うところかも知れず、今回はそうなってしまった経緯が経緯であるだけに、緊急の措置として暫定的に彼が総理大臣になってもらうのが関係者の誰にとっても都合の良いことになるわけだろうが、そんなことは現状の政権を批判する誰もがわかっていることであり、政権を批判する側もそんなわかりきったことはあえて問題にせず、通常の感覚で誰が総理大臣にふさわしいかを論議したいわけで、それも嘘の共有になってしまうかも知れないし、そんな感じで日本全国に嘘の共有が広がってしまい、政治にかかわろうとする人たちは誰もが嘘つきたちをかばうために自らも嘘つきとなって嘘の共有に加担してしまうような成り行きになっていて、それ自体が嘘を共有する集団による見え透いた演技でしかなく、そういうところで民主主義の見苦しい面がさらけ出されるわけだが、そんな見え透いた嘘つき集団を率いて政治を執りおこなう役割を担ってしまうのが彼なのであり、まさにそれは適材適所であり、これ以上ない役回りとなってしまうわけだが、しかしそんな彼に何ができるかとなるとよくわからないのであり、それなりにそつなく役をこなして期待に応えてしまうことも想定の範囲内だが、そうなれば誰もが安心して支持してくれるだろうし、特に目立った懸念点も見当たらないことになってしまうが、それでかまわないのかと言えば、彼の力量からすれば上出来の部類に入るだろうが、実際に見え透いた嘘を共有する嘘つき集団にとってもそうなれば願ったり叶ったりの状況になるわけだろうし、それ以外の状況などこれといって想定する必要もないのかも知れないし、その想定する必要がないところがその程度のことという軽い感触を得られるわけで、そんな軽い感触を抱いたまま状況が推移していってくれればそれでかまわないだろうし、彼らにはそれ以外にやりようがないだろうし、他に何を大げさにおこなえるわけでもないはずだが、たぶん現状で可能な政治的な行為というのもそれ以外にはあり得ないのかも知れず、こんな現状よりさらに深刻で大げさな状況になればなったで、彼とは違うその状況に合っているように思われる人物が彼に代わってその役職を担うことになるかも知れないが、少なくとも現状がそうなっているとは思われていないのかも知れず、そうである限りで彼がそんな役職を担ってもかまわないような雰囲気が見え透いた嘘の共有によって全国津々浦々にまで行き渡っていると思ってもかまわないのかも知れないが、それも事実ではないし、それこそが事実を装った見え透いた嘘かも知れないが、たとえ政治的な領域で語られることの全てが見え透いた嘘で塗り固められているからといって、誰もそれを本気で信じているわけではなく、嘘を真に受けているわけではないとしても、その嘘を信じているわけでも真に受けているわけでもないと思えることが油断を招いていると述べると、何かそれは心配しすぎではないかとも思えるが、かえって心に余裕があるという感触が危ないのかも知れないし、そうであればもっと事態を深刻に受け止める必要があるのかも知れないが、深刻に受け止めたところですでに現状の中にとらわれている人たちはそれ以外にやりようのないことをやってしまっているわけだから、それが見え透いた嘘の共有であり、そうすることによって現状で進行中の成り行きをやり過ごして受け流しているわけで、そういう意味では状況を深刻に受け止めるどころか、必死で精一杯の行為がそれなのかも知れず、まさにそれ以外にはやりようのないことをやっている現状があるわけだが、そういう成り行きの中で何が可能かを模索してみても、すでにやっていることが可能だからそれをやっているわけで、それ以外にはやりようがなく、その唯一可能な選択肢が菅義偉という人物を総理大臣にすることであり、実際にそうしようとしているのだろうし、まさにそうなりつつあるわけだが、それも途中経過という過渡的な現象の一部を構成するエピソードでしかないわけだが、それが何の途中経過なのかというと、大げさに騒ぎ立てられる日本終了というフィクションを完成させるための途中経過だとは冗談抜きでは誰も思っていないだろうが、環境活動家の類いが騒ぎ立てる世界終了というさらに大げさなフィクションの中では取るに足らない些細な挿話に過ぎなくなるにしても、それは完成してみなければわからない成り行きの途中経過に含まれる一コマで起こっていることであるのは確かで、それが結果的にどうなろうと、その途中経過の中でうごめいている人たちが結果にまで関与することはないのかも知れず、結果の中ではその結果に応じた人たちがそこでうごめいているとすると、途中経過の中でうごめいている人たちと結果の中でうごめいている人たちが連続的に結びつかなければ、その途中で不連続な断絶が起こっていることになるのかも知れず、現状に批判的な人たちがやろうとしているのはそうした断絶を起こすことであり、それは現状の中でとらわれている人たちにはできないことかも知れないし、見え透いた嘘を共有している限りで断絶を起こすどころか、断絶を阻止するために大勢でよってたかって見え透いた嘘を守りながら共有しているのだから、現状を作り上げているのもそれらの人たちであるはずだが、それが気のせいである可能性もあり、それらの人たちが現状を作り上げているというよりは、現状の中で支配的な成り行きに従って、どうということはない人物がどうということはない勢力の意向に沿ってどうということはない役職を担ってしまう状態が思いのほか長引いてしまうのかも知れず、それをどうということはない人たちが批判するわけだが、それがどうということはないだけに、他の多くの人たちもそれがどうということはないのだから是認してしまうだろうし、多くの人にとってはそれでかまわないわけで、それでかまわない限りで見え透いた嘘もなし崩し的に共有してもかまわないわけだが、それでは済まない状況になれば、やはりそんな状況に応じてそれなりに状況に適合するような人物が役職を担うことになるだろうが、それは現状でもそうなのかも知れず、現状に適合する人物として菅義偉という名の人物が総理大臣に選ばれようとしているわけだろうが、それがどういう経緯で選ばれるにしても現状に適合するとはどういうことなのかということが今ひとつピンとこないだろうし、それは前任者にも疑わしい点がいくらでもあるわけだが、それに関しても見え透いた嘘を共有できる人物が現状の中では適任ということになると、何か釈然としないものを感じるだろうし、では嘘を共有できないとどうなるかといえば、現状で成り立っている政治秩序が崩壊してそれがまさに日本終了となるなら、そんな日本なら終了してもかまわないと思われてしまうわけで、嘘を共有できる限りで続いている秩序であれば、嘘ではない真実が示すところは、すでにその種の日本という国家的な枠組みが崩壊して終了していることになるのかも知れず。本当にそうかといわれても実感など何も湧いてこないし、それ自体がまた別の嘘の共有から生じているフィクションなのではないかと疑いたくなってくるわけで、そうであれば事実としてそういった嘘も含めて様々な嘘が出回ってそれらが相互に作用や影響を及ぼし合っている中で、優勢な傾向として菅義偉という人物が総理大臣にふさわしいという嘘が全国的に広まっていて、そんな見え透いた嘘を共有する大勢の人や勢力に支えながら、実際に菅義偉という人物が総理大臣の職に就こうとしているわけで、それが取り立ててどうということはなければすんなりとその通りのことが起こるわけで、実際にそうなれば見え透いた嘘を共有する人がいかに世の中に多いかが証明されるわけだが、それがどうということはない限りでそんなどうということはない状況が長引くだろうし、それでは済まなくなるまではそんな傾向が長続きするだろうし、現実にそれでは済まなくなる日がいつやってくるかは現時点では誰にも予想がつかないところだろうが、そう遠くないうちにそうなってしまうか、あるいはいつまでもずるずると執拗にそんな状態が長引くかは、もしかしたら現状で多くの人々に共有されている見え透いた嘘の内容によって左右されるのかも知れず、人々が一刻も早く見え透いた嘘をつき続けることの愚かさや恥ずかしさに気づくことを願っている人もそれほど多くはいないだろうが、それよりは結構早々と人々の関心がそんなことよりも優先すべき何かが切実に求められる成り行きへと移行する可能性もあるのではないか。


9月8日「怪しい情勢」

 たぶんそれは気のせいかも知れないが、非日常的な気分というのは普段とは異なる雰囲気を感じているからそんな気分になれるとしても、いつもとは違うことをやっているからといって、日常の中でそんなことをやっていれば非日常にはならないわけだが、それでも気分だけは非日常を体験したければ、気晴らしでも気まぐれでもかまわないから普段とは違うことをやろうとするだろうし、それでそんな気分になれるのなら非日常といってもその程度のことでしかないが、それがそれほど突飛な行為だとは思えないにしても、少なくとも日頃の行いから外れているように感じられると、後からそうなってしまったことに関して諸事情を勘案してみると、そんなことをやるに至った経緯や理由がそれなりにわかってくるとしても、何か辻褄の合わない意味不明なことをやっているように思われるとよくわからなくなるし、突然そんなことをやり始めたように思えるなら、天啓か何かに命じられてやり始めたのかも知れないが、それが天啓でなくても突然何かをひらめくことがあるわけで、そんなひらめきの理由や原因を探っても、もっともらしい理由がないから突然ひらめいてしまうのであり、それを後から思えばそのひらめきによって人生の転機が訪れたかのように思われる時もあるかも知れないが、実際に転機と呼べるような大げさな何かが起こらない限りはそうは思えないだろうが、それはそういうことだと思っておいてかまわないようなことであり、突然何かが到来するとはそういうことであり、そこでそれまで連続していた成り行きが突然断ち切られて、そこから先はそれまでとはがらりと変わった成り行きになってしまえばそれが転機だと気がつくが、いつそんなことになるとも限らないから先行きが不透明に思われるとしても、それはそんなことになった結果から思うことであり、実際にそうなるまでは誰もそんなことになる予感もしないのかも知れないし、予感がしたところで十中八九は外れるに決まっているが、それでも時には退屈紛れにそうなってほしいと思うこともあるし、そんなことを思っている時点でそんな期待が裏切られてしまうことも予感しているわけだが、その人がとらわれている状況やその人を取り巻いている環境が何かの飽和点に至ったときにそうなる場合があるのかも知れず、それがどうやってそこに至るかは、その人自身がそうなるように促しているのかも知れないし、あるいは周囲からもたらされる何らかの作用がそうなるように仕向けているのかも知れないが、いずれにしてもそれに対して何の準備も気構えもしていないうちに転機が訪れては困る人もいるだろうし、普通にそうなるからそれが転機になるわけだが、それに向けて入念な下準備や予行演習などをおこなっていれば、それでは転機とは言えないだろうし、集団で組織的に何かを画策するとなると、否応なくそうなってしまうわけだが、それ以前にそんなことをやり始めるきっかけがあって、それがそんなことをやる転機になっているわけだが、いつの間にかそんなことをやらざるを得ない状況に追い込まれている場合もあり、そんな時に何かが突然ひらめくのだろうが、実際にそれをやらなければならないと思うわけで、そこからそれを決行する機会をうかがいながら入念な下準備や予行演習などを密かにおこなって、それが成功する確率をできるだけ高めようとするのかも知れないが、誰かがそんなことをやっていると、それに伴って微妙に世の中の空気が変わってくるのかも知れず、その変化を敏感に察知した人がそれを嗅ぎつけて、そこへと関与したり介入してくるとさらに不穏な空気が漂ってくるわけで、そうやって次第に怪しい情勢になってくるわけだが、一般の人がそんなことを嗅ぎつける必要はないだろうし、そんなことをやる対象が何になるかに関しても、現状ではその対象が大げさな物事にはなり得ないような情勢かも知れないが、それでも些細でどうでもいいようなことをやるために入念な下準備や予行演習などやらないし、何かしら大がかりなことがおこなわれようとしているのかも知れないし、今後に注目すべき動きが出てくるかも知れないが、そういう成り行きがフィクションの中で実現されることが多いのに対して、現実の世の中ではどんなことがおこなわれるかといえば、無計画で行き当たりばったりなことばかりがおこなわれているように感じられるとしても、それなりに計画的で見込みのあるようなことがおこなわれているように装われるわけで、それが装われているように思われるからそこから疑念が生じてくるわけだが、装う必要があるのかといえば装わざるを得ないようにも思われるし、それだけ現状に関して行き詰まりも感じているわけだろうが、しかし行き詰まりを打開するために何かをやっているように装っているとすればごまかし以外の何ものでもないだろうし、わざわざごまかしているようにしか見えないことをやる必要があるのかといえば、それ以外にはやりようがないからそうせざるを得ないのかも知れず、だからそれとともに現状の行き詰まり感も漂ってくるわけだが、そういう意味でも現状が何かの飽和点にさしかかっているとも感じられるわけだが、それに関してそれと似たような情勢が世界の歴史から見つかるかとなると、どうにもならないような行き詰まりの中からさらなるややこしい紆余曲折が生じてきて、また一段と行き詰まってくるような事例もいくらでもあるのかも知れず、そうなるとそれが飽和点の間近でも何でもないことになってしまうわけだが、それでも現状でやらなければならないことがあるとすれば、少なくともこれ見よがしに装われていることを真に受けない方がいいだろうし、何かそこに選択肢があるかのように装われていれば、それがごまかしでしかないことは一目瞭然であるにもかかわらず、それを承知でそんなごまかしを実行しようとしている政治勢力に加担して消極的な支持を表明するようなら、そんな人たちはただの腰抜けでしかないわけだが、それでも支持を表明せざるを得ない状況に追い込まれているとすれば、普通はそんな人たちに未来はないと思いたいところだが、現状が普通の情勢でなければ、意外とそんな人たちにこそ未来があり、しかもそんな人たちの天下が続くような未来であれば、将来に関して絶望的な気分になってくるかも知れないが、たとえそれが絶望的な未来であるとしても、気分としてそう思っているだけで、気分を害されていることにしかならず、その一方でそれが生きる糧にもなっているのかも知れないし、実際に気分を害された人たちはそんな現状を何とかしたいわけで、その中から何とかしようとする人たちが出てくるわけだが、そうなってしまう成り行きの中でも、それをやることの前提条件として、現状を現状とは違う現状に見せかけようとしている人たちの天下が続いていることが前提となるわけだが、ある程度はそうだとしても全面的にそうなっているわけではなく、いくら装っても装いきれない面が出てきているからそんな装いを信じ切れないわけで、何かそれらの人たちのやっていることが中途半端で、それがうまくいかないのは当然のことのように思われて、果たして現状でもその人たちの天下になっているのかといえば、それも装われていることの一部でしかなく、それらの何もかもが装われた見せかけに過ぎないわけでもないが、そうしたごまかされた装いと本当の実態との区別がつきにくく、区別がつかないような世の中になっていて、区別をつけなくても済むような世の中にもなっているのかも知れないが、そういう意味でもその人たちの天下になっているように装われていた方が何かと都合が良いのかも知れず、実際に何でもないような人たちが何でもないようなことをやっているように装われていて、それが装われているのではなく、本当に何でもないようなことをやっているのかというと、それを批判している人たちはそうではないどころかひどいことをやっていると主張したいのだろうし、またそんな何でもない人たちを支持する人たちは何でもないどころかちゃんとしたことをやっていると主張したいのだろうが、それでも何かが装われているようには見えるだろうし、その実態がつかめないようなことがおこなわれているのかも知れないが、その実態が見せかけだけの装われているだけのことでしかなければ、それ以外の実態など元からないわけで、見せかけだけの装われた実態でしかないわけだが、それが見せかけだけの装われた実態でしかなければ、それが批判の対象ともなるだろうし、またそれを支持するとなると見せかけだけの装われた実態を支持していることになるわけだが、それで何か不都合なことになっているのかといえば、それが見せかけだけの装われた実態とは違う真の実態であることを明らかにしたい人たちにとっては不都合かも知れないが、真の実態こそが見せかけだけの装われた実態であれば、そんな面倒なことをやらなくてもすでに実態が明らかになっているわけで、それの何が不都合でもないわけだが、それらの人たちは何かをやろうとする動作を遂行したいわけで、それがすでにそこで明らかになっていることを改めて明らかにするような二重の動作となってしまい、それが見せかけだけの装われた動作になってしまうわけだが、それに関して何かを見せかけるという動作がもっともらしく見えるには、誰もがそれを見て納得して安心できるような物事を見せなければならず、それがそこであからさまに見せられている物事でもあるわけで、それを改めて見せることができれば、見ている物事のそれ自体がすでにそこで見せられている物事であり、それ以前にそれを何度も見ているのだからそれに関しては納得せざるを得ないし、そういう人たちはそういう物事を見せるものだという先入観を抱きながら見ているわけだから安心して見ることができるわけだが、それが見ている人たちにとって不都合な真実ではないだろうし、そうやって見ている人たちにとって都合の良い物事を延々と見せ続けることによって、それを見せる人たちがそれを見ている人たちに支持されることになるわけだが、それが本当にそこにある実態からかけ離れた見せかけだけの装われた実態になるかというと、実態からかけ離れているわけではなく、実態こそが見せかけだけの装われた実態なのだから、そうやっていつの間にか見せかけだけの装われた実態こそが真の実態であるという暗黙の了解事項がそれらの人たちの間で共有されることになるわけだ。


9月7日「戦う理由」

 あり得ないことが起こるはずがないと書き記すと、あり得ないのだから起こるはずないのは当然に思われるかも知れないが、それは文の意味が正しいということであり、人が文の意味の正しさと実際に出来事が起こるか起こらないかの判断を混同してしまっていると述べると、何か騙されたかのように思われて、そんなはずがないと思ってしまうかも知れないが、誰かがあり得ないと思うことと実際にそれがあり得ないこととは違うだろうし、あり得ないと思っている人の思い違いであれば、実際にあり得ないと思っていることが起こる可能性があるだろうが、思い違いではなく他の多くの人も起こるはずがないと思っていたことが起これば、あり得ないことが起こったことになるわけだが、ではあり得ないことが起こるはずがないという文が間違っているのかといえば、文の意味としては相変わらず正しいのであり、実際にありないことが起こったという文もあり得ないことが起こるはずがないという文もどちらも文の意味としては正しいわけだが、そういう意味で誰かが述べていることが正しいとしても、実際にその述べていることを裏切るようなことが起こる可能性があると述べると、それも何かはぐらかされたような気になってくるわけだが、単純に誰かが述べていることが正しいと思われている中で、それを裏切るようなことが起これば、誰かが述べていたことが間違っていたことになればいいのだろうが、普通にそうなる場合がほとんど全てだと思われるわけだが、中にはそうとも言いきれないような事態になる可能性もあると述べると、それは違うのではないかと思われるわけで、そんなはずがないとも思いたいわけだが、それがあり得ないことが起こることだと述べると、それも何か騙されたように思われてしまうわけで、屁理屈のような類いを述べている気がしてしまうわけだが、それでもそういうところで一般的にも世間的にも正しいと思われる何かに多くの人が実際に騙されていると述べると語弊があるかも知れないが、実際にとんでもないことを平気で言い放つ著名人の類いもいるわけで、その人が意図してデマや嘘を語っているとは思えないし、本気でその人がそんなことを信じていると思っておくべきだろうが、そんな場合は世間的にそれなりに認められた著名人が信じられないことを信じていることになるわけで、その人をデマゴーグだと思っておいてもかまわないものの、本気でそんなことを信じて口にしていることをそのまま受け止めておくべきかも知れず、実際にその人がそれを信じているとすれば、その人のメディア的な人気を支えている大勢の一般人も同じことを信じていると見なしておくべきだろうし、そういう意味で実際に大勢の人があり得ないことを信じているわけで、しかもそんな人たちにとってはそれがあり得ないことどころではなく、普通に当然のことのように信じられることでもあり、それが世間的な偏見や先入観として支配的な集団意識を形成しているわけだろうが、そういう面では物事の道理だとか理性に勝ってしまう何かが作用していて、それを大雑把に言えば歴史的な経緯であり、その種の差別や偏見を助長する社会的な成り行きだと捉える必要があるのかも知れないが、それが何に伴って生じるのかと言えば経済活動や政治活動によってであり、またそのどちらとも重なる活動として宗教活動もあり、それらの活動が組み合わさって絡み合いながら歴史的な経緯を生じさせているわけだろうが、そういった活動の中でそれなりに活躍して成功を収めるような人には、それを信じるに足る確かな感触があるし、それを利用して社会の中でのし上がってきたという自負もあるだろうし、そういった経緯からその人の存在や人格が確立されているわけだから、それを否定されるとその人の存在や人格を否定されたことになるだろうし、それ自体がその人にとってはあり得ないことであり、それを否定する輩には戦って勝たなければならない成り行きになるしかないし、実際にそこで争いや戦いが生じているわけだが、そういう人はそれなりに社会的に成功した人物だから財力も権力も地位も名声もあるだろうし、そうしたことから社会的な信用も生じていて、その人がとんでもないデマゴーグであることがその人を信用している多くの一般人には信じられないわけだが、そういう意味でもその人が意図してデマを流したり平気で嘘をついていると思ってはならないとすれば、そうではなくその人にとってはそれが本当のことであり信じられることでもあり、それを信じるに足る証拠として、その人が実際に世間的に成功してそれなりの名声を得ている事実があるわけで、それがそういった人たちを成功させるような世の中の成り行きや歴史的な経緯が生じていると言ってしまうと、何か鶏が先か卵が先かの議論になってしまうかも知れないが、それが一体化して同時的に起こっていることだと捉えるしかないのかも知れず、人々の集団的かつ組織的な経済活動や公的な政治活動や慣習的な宗教活動などが複雑に絡み合って社会が形成されていて、そうした中から日常的に生じてくる社会的な偏見や先入観などから人々や集団の間でそれなりに格差や優劣も生まれて、そうなっている情勢をうまく利用できた人や勢力が主導権を握ることに成功するわけだから、そこで成功した人や勢力にとっては、すでにその種の社会的な偏見や先入観などを利用することが成功するためには必須の条件となっていて、それを否定すること自体が理不尽なことでしかないわけだが、逆にそんな偏見や先入観の対象となっている人や勢力にとっては、それが障害となっているから成功できないどころか、それによって迫害され虐げられている場合もあるから、それを利用して成功してしまう人や勢力が存在すること自体が理不尽なことでもあり、そんな偏見や先入観をなくすにはそれによって成功している人や勢力と戦う成り行きになってしまうわけで、そういう意味で争いや戦いは避けられず、実際にも世界中でその種の争いや戦いが起こっているわけだが、双方共に自分たちがやっていることを理不尽だとは思えない一方で、相手のやっていることや思っていることを理不尽だと思うわけで、根本的なところで相手の存在や活動を認めがたいわけだが、たとえ認めがたいとしても実際に相手が存在していて活動している事実があるわけで、しかもそうした争い戦う相手がいないと自分たちが抱いている偏見や先入観が成り立たないわけで、しかもそうなるとその存在や活動を認めがたい対象としての敵がいないと自分たちの存在や活動も成り立たないような不条理に直面しているはずなのだが、そこまで考えつく手前で思考停止することによって、自己崩壊をかろうじて食い止めていることにもなり、敵がいる限りでしか成り立たない活動を正当化するには、敵がいないという前提はあり得ないわけで、あり得ないことが起こるはずがないと思っているわけではなく、絶えずその手前で思考停止していて、もちろん意識してそんなことをやっている自覚などないだろうし、自らが思考停止しているなんて思ってもいないわけだが、そうなっている限りで意識の中であり得ないフィクションが生じていて、そのあり得ないフィクションを信じているわけだが、あり得ないフィクションの内容とは何かと言えば、自分たちが認めがたいと思っている敵と戦うことによってしか自分たちが存在できないという事実があり得ないということであり、しかもそんなことはあり得ないと思っている自らの思いをそれ自体としては自覚できないわけで、そこに至る途中で思考停止しないと存在の自己崩壊が起こってしまうのかも知れないが、それこそがあり得ないことだと思われるにしても、では思考停止をやめて敵がいないと自らが存在できない事実を認められるかというと、そういう方向には思考が働かないようになっているのかも知れず、それとは別に敵と戦うことだけに意識を集中させていて、まずは敵に勝つことが第一の目標であり、それに続く第二第三の目標が定かでないかも知れないが、その先がないわけではなく、もちろん先がないといっても敵のいない世界を妄想することはできるが、それも現状ではあり得ないフィクションであり、敵がいない世界よりは、すでに戦うべき敵がいて、その敵と戦っている現状によりリアリティを感じているだろうが、その一方でそこから事態が進展して敵を敵とは思わない方向へとずれていってしまう成り行きもありそうで、敵とは見なさず支配して管理する対象だと思うわけで、そうなると敵ではなく利用して搾取する対象となるわけだが、そうなる以前にすでに自分たちの味方も支配して管理する対象となっていて、それらの人や勢力を利用してそこから搾取することによって成功しているわけで、そんな成功に手を貸して味方となっている人たちからすれば、自分たちが味方から利用されて搾取されている意識はあまりないのかも知れないし、むしろそれを意識してしまうと利用されて搾取されているのではないかという疑念が強まって、それを確信するようなことになれば味方から離反して敵対するようになるだろうが、そうなってしまう経緯を客観的に捉えるなら、それらの成功者や成功した勢力によって利用され搾取されて割を食っていると思う人や勢力が敵対してくるわけで、そうであれば世の中で成功すること自体が他の人や勢力を利用してそこから搾取することによって成功するわけで、またそれとともにその人や勢力の成功によって割を食った人や勢力が敵となるわけだが、たとえそれらの成功者や成功している勢力の味方であっても、それらから利用されて搾取されていると思いが強くなれば敵になってしまうわけだから、本当の意味での敵も味方もないわけで、現状の中で確かに敵がいたり味方がいたりするかも知れないが、それが絶対的な関係というわけではなくいつでも敵と味方が入れ替わるような相対的な関係でもあり、その時点では敵が味方になったり味方が敵になったりすることなどあり得ないと思うかも知れないが、その時点ではそれが正しい現状認識だと思われるとしても、そんな認識を裏切るようなことが起こればその認識自体が間違っていたことになるのかといえば、その時点では確かに正しかったのだろうし、それはそれとして認めるとしても、その時点以外ではそんな認識を裏切るようなことが起こっても何の不思議もないことも可能性としては正しいのかも知れない。


9月6日「予想通りの騒ぎ立て」

 窮地を脱するとは窮地の中に留まり続けることではないし、そこから脱していないのにそれでかまわないなら、そんなのは窮地でも何でもないわけだが、そんな窮地でも何でもないような窮地に留まりながらも、窮地を脱する算段ばかり巡らしているようでは、何かやっていることのことごとくが空振りに終わっている印象を免れないのかも知れないが、そんな成り行きの作り話をいくら妄想してみても、それがどうしたわけでもないことは明らかだが、それが明らかだとしてもなおどうしたわけでもない妄想を抱いてしまい、そんな妄想に適合するような現実の成り行きを探し出そうとしてしまうようでは、それが妄想である限りで実際に起こる成り行きがそんな逆説的な傾向を示しているわけではないこともわかりきっているとしても、そうではない成り行きをそんな成り行きに当てはめて表現しようとしてしまうのもよくありがちなことかも知れないし、そんなことばかり追求していると、それとは違う普通によく経験する成り行きから生じる当たり前の結果を真に受けることができなくなってしまいそうだが、そんなふうに物事をわざわざ裏返さないと納得できないような思考にとらわれてしまうと、何を考えるにも手間ばかりかかってしまい、無駄で余計な迂回ばかりを繰り返していることになってしまいそうで、そうやって結論に到達するのをひたすら先延ばしにしているように思われてきて、何でもないような結論が出てしまうのを恐れているわけでもないのだろうが、それが意味のない回り道であり迷わなくてもいい迷路だとは思えないところが、何かひねくれて物事を捉えていることの証しかも知れないが、そうさせている何かがそこにあると思うしかないようで、それが勘違いであることも承知しているはずだが、そういう面倒な迂回路や迷路を辿らないと導き出せないような見解もあるらしく、予期せぬ出来事に出くわすにはそういう成り行きを経る必要があるとしても、何事も故意にそんな出来事に出くわせるわけでもないし、また出くわしているわけでもないのにそんなつもりになっているようなら、それは妄想の中でそうなっているのかも知れず、それ自体が見せかけの虚構でしかないわけだが、現状がそう見せかけないとならないような成り行きになっているとすれば、見せかけようとしているそれがその人が切実に求めている何かになるのかも知れず、その何かが何なのかといえば、それが現状そのものであれば、やはり現状をそう見せかけたいということだろうが、少なくともそれが何でもないような現状であっては困るのだろうし、それなりに騒ぎ立てていることを正当化できるような現状に見せかけたいわけだろうが、逆に騒ぎ立てるようなことでもないと装われているからそれがおかしいと思われるのかも知れず、そういうところで込み入った事情がもたらされているのだろうし、そんな事情が現状に反映されていないと納得できないわけだろうが、口先だけなら何とでも言えるわけで、簡単に言えてしまうことがリアリティを実感できないことの原因なのかも知れないが、では何も言わなくても実感できることがあるのかというと、それが騒ぎ立てていることとは違う何かなのかも知れず、そちらの方が現状で出くわしている予期せぬ出来事なのかも知れないが、それには気づいていないのか、あるいは気づいているのに気づかないふりをしながら、それ以外にも出くわしている何かに注目していて、そちらの方は予想の範囲内で出くわすような出来事であり、むしろ騒ぎ立てたいのはそちらの方であり、そうであれば予期せぬ出来事が起こったことを騒ぎ立てているわけではなく、予想通りのことが起こったことを騒ぎ立てたいわけだが、ではそれを予想したのが誰かといえば騒ぎ立てている当人であり、自身の予想が当たったと当人が騒ぎ立てているわけだが、本当に当たったのかというと当たっていない面を無視していて、当たっている面だけ強調して当たった当たったと騒ぎ立てているわけで、それが予想が当たったことに関するよくありがちな反応でもあるわけだが、それも予想の範囲内でそんなことがおこなわれているわけだろうし、そんな行為も含めて全てが予想通りとは行かないまでも、そういった方面に目を奪われていれば安心できるだろうし、安心したいからそうするとは思えないが、自然にそういった方面に目が向いてしまうとしても、それもよくありがちなことでしかないわけだが、それ以外にも何かが起こっているわけで、それが思いがけないことでも驚くべきことでもなくても起こっていれば、それが取り立てて注目する必要も言及する必要もないことであり、それが騒ぎ立てる必要もないことなのだが、それも別に予期せぬ出来事ではないだろうし、予期しなくても済んでしまうような出来事でもあるわけだが、それでは済まない現状があるとすれば、やはり騒ぎ立てなければならなくなり、それが予想通りの騒ぎ立てである限りで安心できるわけだが、そうであれば予期せぬ出来事が起こったと騒ぎ立てているわけでもないのだが、逆に予期せぬ出来事を無視するために、それとは別の何かに関して騒ぎ立てているのだとすれば、それに関して騒ぎ立てる方が騒ぎ立てる側にとっては都合が良いわけで、そういう意図的な騒ぎ立てと予期せぬことが起こったと騒ぎ立てるのとは種類も傾向も異なるはずだが、意図的に騒ぎ立てる側にしてみれば、その騒ぎ立てを真に受ける人が意図的なわざとらしい騒ぎ立てを予期せぬことが起こったときの騒ぎ立てだと勘違いしてほしいわけで、それがそういうことをやる側の思惑なのだが、そういう魂胆が見え見えの騒ぎ立てだと不快に思われるわけだが、そんなうんざりするような騒ぎ立てばかりやる輩がメディア上で跳梁跋扈していた約八年間が果たしてこれからもさらに続いていくのかというと、そうなる兆しはあるだろうし、実際にそういうゴミクズたちもそれを継続させようとしているわけだろうが、もしかしたらそうはならないのかも知れないし、どうやらあちら側でもかなり疲れて消耗しているらしく、元気も精気も感じられなくなってきているのかも知れないが、どうもゴミクズたちの首領様の死が近づいているようにも見えてしまい、本当にそうなればそれが予期せぬ出来事だと騒ぎ立てたいわけだが、それがゴミクズたちの終了につながるかというとそうはならないような気もするし、誰が死のうと生きようといつの世でもゴミクズたちが腐肉に群がるウジのようにわいてくるのが普通の成り行きだが、そうなってしまうと誰が困るのかというと、それは困る人もいくらでもいるだろうが、困らせないと人は成長しないし、人の中にもゴミクズへと成長してしまう人もいくらでもいて、人を困らせるためにゴミクズがいるとしても、彼らが人を成長させるために困らせている感覚はないだろうし、ゴミクズたちの方でも困りたくはないわけだが、自分たちが困らないようにするためにあれこれとゴミクズにふさわしいことを画策しているはずだが、それが困った事態を引き起こしているとは思っていないだろうし、実際に困った事態を引き起こしているのは彼らが攻撃している人たちの方であり、だから困った事態になるのを未然に防ぐために攻撃しているはずだが、攻撃することによって困った事態が引き起こされていることに関しては、攻撃する側とされる側で見解の相違がありそうで、どちらも相手を攻撃している面もありそうだが、どちらかといえば攻撃している方が体制側に属しているのが普通の状態で、たぶんそういう現状認識も予定調和の範囲内にあり、それらの人たちをゴミクズだとストレートに表現して騒ぎ立てることも予想通りの反応であり、それこそがゴミクズたちの思うツボな成り行きでしかなく、そういう状況を作り出したいわけで、実際に八年近くもそれを維持継続してきたわけだが、ここに来てそれがさらに続いていくのか、それとも何かの転機が訪れつつあるのかは現時点ではよくわからないことであり、下手に思っていることを予言として言い放ってしまうと、それが的中しないどころか、それとは真逆の事態になってしまうのかも知れないが、それでもかまわないはずがなく、たとえ予言が当たるとしても外れるとしても誰も予期しなかった出来事が起こった方が良いわけで、しかもその予期せぬ出来事を無視して予言が当たったの外れたのと騒ぎ立てるのが予定調和の展開となるわけだが、その場で騒ぎ立てる誰もが無視したくてうずうずするような出来事が実際に無視されるとしても、結局はそこから目を背けてみせるような人たちが大勢でよってたかって作り上げているつもりなのが世間そのものであり、しかもそんな世間に無視されているのがそれらの人たちのほとんどでもあるわけで、何かそういうところで誰の思惑からも外れるような現状が構成されていて、それが逆説的にそんな無視されるような人たちに支えられているというさらなる逆説が成り立っているようにも思われ、どうやっても解きほぐしがたいような現状の混迷がそこに構成されているわけで、現状についてそういう捉え方をしてしまうこと自体が誤りだとも思われてしまい、もっと素直にわかりやすくありのままの現状を捉えた方がいいに決まっているはずだが、そうはさせないような何かが現状の中にあると思ってしまっても、それも勝手に抱く妄想に過ぎないのかも知れないが、そういうところでもうまく現状を表現できない何かがあり、それが心のどこかに引っかかっていて、わかりやすく現状を捉えることの妨げになっているわけで、どう考えても納得しがたいところでもあり、無理に納得してしまうと自らに嘘をついているように思われてくるのだが、その一方でなぜ人がゴミクズ化するのかといえば、そうはならない可能性が低いからだとしか言えないような面があり、それもまともな答えになっていないし、相変わらずそういうところではひねくれた見解になってしまうわけだが、それについて単純に考えるなら、それをゴミクズだと見なしてはならないのであり、ゴミクズが人であってはならないということだろうが、では人をゴミクズにさせるのが何かといえば政治経済の現状であり、それらはいつの時代でも人をゴミクズに変えてきたと言ってしまってもかまわないほど正しい状況認識をもたらしているように思われるが、それでも人をゴミクズだと見なしてはいけないのだろうし、人を人であるようなものだとも思ってはならないのかも知れない。


9月5日「批判のフィクション化」

 批判の対象を意図的に貶めるのはよくありがちなことだが、批判の対象を賞賛してみせるのも批判とは別の思惑が見え隠れしてあざとい感じがするが、では批判の対象をどうすればいいのかといえば、どうもせずに批判すればいいことになるだろうが、批判するのだからどうもしないわけにはいかないだろうし、批判の対象をどうにかしたいから批判するわけだろうが、批判するだけでどうにかなるわけでもない場合もほとんどだろうし、そういう意味では批判が何かをやるきっかけになればいいのかも知れないが、すでに批判していること自体が何かをやっていることの一部を構成しているのかも知れないし、そのやっていることの何かというのがまとまりのないことであれば何をやっているわけでもないような気がしてくるだろうが、それを批判とは見なさなくてもかまわないのかも知れず、実際に何を批判しているわけでもなければ、特に批判を意識しなくてもかまわないわけだが、それでも何かを批判しようとしていることになれば、その対象について語っていることになるわけだが、それが何だかわからないということはあり得ず、何かについて語っていることは確かだとしても、それについて語っているそれをうまく表現できていないのかも知れないから、結果的に何だかよくわからないことを語っている可能性があり、何を批判しているのでも何を語っているのでもないのに、何かを批判しながら何かについて語っていることになれば、それを語ることによって明らかにしなければならないが、それについて語りながらもそれをやり過ごそうとしているようで、そこを通過しつつあるのかも知れず、それを全く無視しているわけでもないのに、その前を通過してそれとは別の何かについて語ろうとしてしまうのであり、それについては語らずに別の何かを語ることによって間に合わそうとしてしまうわけで、そういうやり方が理不尽に思われるかも知れないが、意図してそういうことをやっているわけだから、何か確信犯的にそれを貶めていることにもなり、そういう対応をやられると腹が立つだろうが、その方が語りやすいからそういうことをやるわけで、それが効率的な語り方になるはずだが、相変わらずそこで何を語っていることにもならないだろうし、たぶんそれでは何を批判していることにもならないのかも知れず、何かそれとは違う何かであり、たとえそれが何でもないことに近いとしても、それでも多少は何かについて語っているはずで、その語っているはずの何かについて語っているわけだが、それが批判ではない何かだとすると語っている対象を批判しているわけでもないことになるはずだが、それを貶めているわけでもなく、賞賛しているわけでもないとすれば、たぶん批判していること自体も意味のないことであり、なぜかそれを批判しながらその対象をやり過ごそうとしていて、それで語っていることにしたいわけで、そうなっている時点ですでに決着がついているわけだが、何の決着がついているのかといえば、批判している対象に敗北していて、敗北を認めることが批判していることと同じになってしまっているのであり、それを貶めたり賞賛している時点で、その対象との関係においてはっきりと優劣がついていることになり、それが負け犬の遠吠えのような批判をもたらしているとすれば、やはりその時点で批判対象から相手にされていない証しとなっているわけだが、では相手にされない代わりに何を語っているのかといえば、そこにはない架空の何かについて語っているわけで、すでに敗北しているそれに似せて架空の何かをそこにこしらえているのであり、それが批判しやすいように加工された何かになるわけだが、架空の何かについて語っていればそれはフィクションになるはずだが、現実に存在する何かに似せて対象をねつ造しているわけだから、現実にはあり得ないものではなく、それがあたかも実在しているように装われていて、実在しているように思い込ませたいわけだが、そう思い込んでいるのが批判している当人であったりして、そうなるとそこにはない架空の何かを批判していることに気づいていないことになるわけで、それがその批判がもっともらしく思われることと重なっているとやっかいなのだが、そうなっている時点で架空の何かが実在しているように思われていて、実際にそれが的を射た批判内容と思われてしまうわけだから、批判することに成功しているようにも思われてしまうわけだが、そうした批判がもっともらしく思われるとしても、逆にもっともらしく思われる批判であるほど何の効果もないような批判になってしまうわけで、それが批判することだけに特化した批判といえるわけだが、そういう意味では批判する側は批判するだけに終わってしまってはまずいわけだが、実際にいかにも的を射ているようなもっともらしい批判が世の中に蔓延しているほど、当の批判されている対象の側では大した痛手も被っていないし、それなりに安泰でいられるわけだが、なぜそうなってしまうのかといえば、批判そのものがわかりきったことを批判しているわけで、そんなことは周知の事実なのにそれを改めて批判しているわけだから、誰もがそれに共感するにしても、共感する人はそんなことは承知していて、すでにわかっていることが提示されるからもっともらしく思われて安心して共感できるわけで、そうなっている時点でそれが既成事実として世の中に広まっていることでしかないわけだが、それの何がフィクションなのかというと、もはやそれは批判の対象でさえなく、特にわざわざ取り上げられるまでもないことであり、しかもそれがわざわざ取り上げられて批判されるべきことでもあるから、そんなことはわかりきっているだけに、批判されたところで何の衝撃も効果も持ち得ないわけだが、そういう意味でそれは安全な批判対象となっていて、批判的な行為の対象であると共に娯楽の対象でもあり、その批判的な消費という娯楽が経済的な利益にも結びつくわけだが、実際にそういった批判本の中で誰もが好むような内容が暴露されて、それがベストセラーを記録したりもして、メディア上でその手の書物が賞賛されることにもなるわけで、それが批判のフィクション化といえるわけだが、ではフィクションにはならない真の批判になるとどうなるのかといえば、批判している人や勢力が批判対象から攻撃されてひどい仕打ちを受けたり、また批判対象に打ち勝って批判者や批判勢力が社会の主導権を握ることになるわけだが、別にそれらのどちらか一方になるだけとは限らず、ある程度はフィクション化も進行するだろうし、また真の批判がそれなりに効果や衝撃をもたらすこともあるのだろうが、警戒しなければならないのは批判のフィクション化の方であり、それを真の批判だと思ってはならないだろうし混同するわけにも行かないわけだが、その段階に留まっている方が楽なのであり、批判がフィクション化されているだけで済んでいれば、それで何の問題もないように感じられてしまい、実際にそんなフィクション化を楽しんでいる多くの人たちにとっては、事を荒立てないようにしたいわけだろうが、批判している側からすれば事を荒立てないと批判が有効に機能しないわけで、事を荒立てたいから批判するわけだが、双方の思惑の妥協点で批判のフィクション化が起こるわけで、批判はある程度許すが無害化された批判なら許されるとなると、暴露本的なジャンルに囲い込まれてメディア的な褒め殺しと共に無害化の処理が施されることになるのだろうが、そこでは批判の対象となる人物も世間的な許容の範囲内に収まるような紋切り型にはめ込まれて、どこにでもよくいそうな人物としてなじみ深さをまとうことになるわけだが、それを物事の単純化と言ってしまうと少しずれた印象を伴うかも知れないが、そうした処理によって何が抜け落ちるのかといえば、そこから外れる要素であり、その人が必ずしもそうとは言い切れないから安心できないわけだが、安心できないと何が生じるのかといえば、その人物やそれを支えている勢力への不信感であると共に、批判のフィクション化を安心して楽しめるような世の中をなめた人たちには及びもつかない力であり、絶えず物事を疑い続ける力が生じてくるから、そこから物事に対する真の批判も生じるはずだが、果たしてそれを真の批判と見なすことができるかとなると、やはり日頃から批判のフィクション化に慣れ親しんでいる人にはそうは思えないわけで、何かそこに誰もが安心できる紋切り型が示されていないとそれが批判だとは気づかず、そのままそこを通り過ぎてしまって、何事もなかったことになってしまうのかも知れないが、それでもかまわないと言ってしまうと何か当てが外れたように思われるだろうが、何も批判の全てに即効性があるわけではないだろうし、後からじわじわと効いてくるような批判もあるのかも知れず、その時にはそれが批判だとは思われなくても、気づかないうちに世の中の状況が様変わりしているようなことになれば、そこにその時には批判だとは気づかれないような何かが介在していた可能性があるわけで、未来に存在する誰かによってそういった物事が当時から数十年後や数百年後に指摘される頃には、当時に流行っていた紋切り型の娯楽対象などほとんど忘れ去られているわけで、それに関して思いつくのはヘルダーリンの詩やサドの小説やニーチェの著作などだろうが、誰もがそうなるべくして努力することなどできないし、実際に当人たちが生前後世の人々から恐れられるように振る舞おうとしたわけでもないし、むしろ当時の世の中から除け者にされていた人たちがそれと自覚することなく当時の世の中を批判するようなことを述べていたわけで、そういう人たちばかりが無自覚に批判を繰り返していたわけでもなく、当時においても著名な人物が批判的な書物を著して権力者によって処刑された事例もあるわけだが、世間から除け者にされるか弾圧され迫害されるようなことになれば、何かその人が事を荒立てるようなことをやっている場合が多いとしても、逆に世間から賞賛されるようなことをやっている人であっても、逆説的にそういう成り行き自体が世間への反面教師的な批判として機能することもあるだろうし、それが微妙な事態であり、素直に受け止められないようなことになるわけで、そういう意味で真の批判には何かわかりにくい要素がそれなりに付着しているのかも知れない。


9月4日「数の論理」

 それがただの情報に過ぎなくても、それを知ることによって何か得られるものがあれば、その情報には得られた分だけの価値があると思われるが、それを知ることによって得られたものがただの気休め程度なら、大して価値を感じられないし、人によっては何の価値も感じられない場合もあるだろうが、得たものが金銭的な価値であれば、誰であっても得た金額に応じて価値を実感できるだろうし、実感できる限りでそれなりに信頼できる価値の指標を共有していることになるわけだが、それを得たと実感できるのが売買や貸借という行為を介してであり、そこで交換した物や情報やサービスに価格として数値的な情報が付着していれば、それが売買となり、また貸借によって一時的に貸したり借りたりすれば、借りた物や情報やサービスを借りるときや返すときには、利子などの前もって決められた金額の数値情報を貸した側に渡さなければならない場合がほとんどだろうし、その際に数値情報が付着した紙や金属が紙幣や硬貨となって、それらの貨幣を直接受け渡しする場合と、電子機器やカードなどの電子媒体を使って、間接的に数値情報だけを受け渡しする場合もあるわけだが、それが必要であるかないかの基準と価値があるかないかの基準が重なる面と重ならない面とがあり、そこで安易に必要だから価値があって不要だから価値がないと考えると当てが外れる場合があるだろうし、価値があってもなくても必要であったり不要であったりして、必要であってもなくても価値があったりなかったりもするわけだが、そこで恣意的に基準を調整して必要があるから価値があるように見せかけたり、価値のある物や情報やサービスを得る必要があるように思わせるのが宣伝や煽動の類いであり、そういった宣伝文句や煽り立てを真に受ければ、その気になって自分にとっても他人にとっても必要な物事に価値があると思い込んだり、宣伝や煽動の対象となっている価値を得る必要があると思ってしまうわけだが、安易にそう思ってしまう人もそうはいないだろうし、誰もがそういった宣伝や煽動には騙されないぞと一応は身構えているはずだが、ある程度はそういった宣伝や煽動を受け入れないと生きづらくなってしまうのであり、それを拒否できないような成り行きの中で生活していて、そうであるなら戦略的に受け入れているふりをするような成り行きにもなってきて、そういうところで正直者ではいられなくなってくるわけだが、それも誰もがそんなふりをすることばかりにかまけていると、そんなふりをする演技者ばかりいる世の中になってしまい、誰もそんな物事に価値があるとも必要だとも心底から思っているわけでもないのに、流行としてそういう物事が流行っていることにもなるわけで、しかもそういう演技がインフレ状態となっている中では、そうするのが当たり前のことなのだから、誰もがそれを演じているという自覚さえなく、その気になって演技を競い合っているわけで、それが自発的に演じているとは思われないにしても、演じるように促され仕向けられながらも、自らの意志で立ち振る舞っているつもりになっているはずだが、何によってそう仕向けられているのかといえば、世の中が演じるように仕向けていることになるだろうし、それを人の集団意志と見なしてしまうとピンとこないだろうが、そこでもそれなりに信じられる価値として提示されているのは、金銭的な価格で表示されている数値情報であり、それ以外に確かな情報が何もないかのように思われて、数値情報だけに依存してしまうとそれだけではないことを忘れてしまい、たとえそれを忘れているふりをしながら振る舞っているつもりであっても、高い数値を得る必要を切実に痛感しながら、高い数値を得ることに価値があると思い込むような演技を強いられるわけだが、経済的な面での数値情報が金額に表れる一方で、政治的な面での数値情報は得票数に表れるわけで、それがどんな人であってもかまわないし、とにかく得票数が多ければそれでかまわず、たとえ愚かな人たちが大勢で投票してもその中身は問われず、競っている相手より多くの票数を得られれば勝つことができるわけだから、なりふり構わずに多数派工作しているように振る舞うわけで、そうやって客観的な指標として得られた数が多いか少ないかで世の中が動いているように実感されて、そういう数値的な確かさが信じられる唯一の価値基準となってくるわけだろうが、そこでも漠然と多くの数を得られるようなことをやればそれが良い傾向だと思う一方で、本当は数の多い少ないではなく中身だ質だと内心思いながらも、欲望の対象となるのはあくまでも数値目標であり、できるだけ多くの数を獲得したいわけで、そうやって獲得した数の多さを競うゲームにのめり込むように仕向けられているわけだが、本当はそうではないが演技としてそう強いられていることになれば、若干の救いがあるようにも思われるだろうし、そんな自覚があるわけでもなく、なりふり構わず貪欲に数の多さを目指しているとしても、それがゲームに過ぎないことがフィクションとしての間接的な印象を伴っていて、そういう社会的な共同幻想としての数の多さを求めている一方で、多くの数を獲得している誰かの愚かさや浅はかさを馬鹿にするような自己矛盾からも目を背けることによって、何とか心理的な均衡を保ちながらフィクションの中で演じていることを自覚せずに済んでいると解釈すると、そんな小難しいことではないと反感を抱かれるかも知れないが、そういう面でわかっていながらわからないふりをしていることに無自覚でいるような込み入った心理状態をうまく説明できないわけで、そうやって誰もが自らのうちに抱え込んでいる自己矛盾を回避していることは確かなのだろうが、あえてそれを解釈しないで説明しないままにしておくわけで、あるいは自らに嘘をつきながらも嘘をついていることを忘れているわけだから、そういう多くの人の欺瞞や偽善が政治や経済の領域で矛盾や弊害となって顕在化していて、それをあからさまには語ろうとせずに、都合の良いところだけ取り出して、自分のことは棚に上げて他人の非をあげつらってしまうのもよくある成り行きであるとしても、そういう曖昧ではっきりしない善悪の基準をはっきりさせることができないから、そういったことの反動としても、とりあえずの暫定的な方針として数の論理に頼らざるを得ず、何はともあれ数の多い少ないで一応の決着をつけておかないと先へ進めない仕組みになっているのかも知れず、それが最終的な決着ではないとしても、そうであれば原因と結果を入れ替えて、数を多く獲得することが目標となり、多くの数を獲得することによって、その場を制圧するような戦術をとることになるわけだが、そればかりになってしまうと他のことがおろそかになって、数の多さばかりを競う粗雑な単純化と引き換えにしながら、それ以外の方面には気を配らないような奇形的な対応が幅を利かせてくるのであり、そういう態度や動作の奇形化が世の中の矛盾や弊害そのものにもなってくるわけだが、それを押しとどめなければならないかというと、そんなことは意識できないだろうし、そういう方面では心理的にも肉体的にも制御が利かないのかも知れないが、だからといってそのままでもかまわないのかといえば、そういう成り行きになってしまうのだからかまわないどころか、かまうことさえできないわけだが、実際にそういうことを追及しすぎてしまう人にはそれなりのリスクや副作用が伴ってくるだろうし、そんな人の破滅や成功やそれらの同時的な達成をとやかく言うには及ばないのかも知れないが、ご都合主義的にその良い面を賞賛して悪い面を批判するようなことをやってしまうにしても、それも演技に含まれていて、本気でやっているようには感じられなくても、フィクション的な偽装感覚で演じているわけでもなく、心理的にも肉体的にも数の論理に踊らされていることは確かなのだが、誰もがそこでやらされている感を感じ取らないといけないのかも知れず、そんなことをやってもたかが知れているという否定的な評価ではなく、否応なくそうなってしまうというあきらめの気持ちと共に、それでも相対的に数を多く獲得した人を認めておいた方が無難だろうし、それがそれほど多くは数を獲得できなかった人よりは相対的に優れていることの証しとして認めておけばよく、そうやって数を多く獲得した人の手腕を評価するとしても、そこでおしまいとなってもかまわないし、それ以上の何かを獲得することを目標としてもかまわないが、たぶんそうではなく、それをあからさまにまがい物と本物との違いとして設定するわけにはいかないが、何かそれとは異なる未知の次元や指標もあり得るのかも知れず、またそうした次元や指標を想定しなくてもかまわないだろうが、明らかに奇形的な数の多さという状態があり、そこにやり過ぎ感やまがい物感が伴ってくるわけで、そういった数の多さを獲得することと引き換えにして失ったものの方が多ければ、その人を偉大だとも立派だとも思わないだろうし、それよりも何でもないように思われる人が途方もない数を獲得したような印象を伴うようなら、それこそが数の多さの本質を物語っているのかも知れず、何でもなくてもまるで宝くじに当たったかのように偶然の巡り合わせでそうなってしまう成り行きもあって、それが他人から羨ましく思われたり妬ましくも思われることの典型例となるだろうが、とりもなおさずそれが多くの人が抱く願望や欲望の投影された姿であり、できればノーリスクでそうなりたいわけだが、逆にノーリスクで数の多さを手に入れた人を許せないわけで、それと引き換えにして失ったものの方が多くないと納得できず、そんなことばかりにかまけているから悲惨なことになるのだと見下したいわけで、そうやって成功した他人に対して抱く羨ましい気持ちと妬ましい思いの入り交じった感情の発露が、事の善悪の混合物としてよくわからない判断停止を引き出すのかも知れず、数の多い少ないこと自体がはっきりした判断の指標となるとしても、多いからどうだとか少ないからどうだと言い始めると何か恣意的なご都合主義が現れてくるだろうし、そうなるのを避けるには多い少ないこと以上の判断をしなければいいだろうが、実際にもそれはそういうこと以上でも以下でもないのかも知れない。


9月3日「退屈な結果」

 今さらわかりきった結果を覆すことなどできないが、なぜ結果がわかりきっているのかといえば、そういう成り行きだからとしか答えようがないのかも知れないが、それは答える必要がないことでもあり、すでに誰もがそう思っているのだからあえてその理由など示すまでもなく、納得できる理由などなくてもそうなってしまうように思われるのだから、たぶんそうなるだろうと思っておけばいいことでしかないとしても、それでもあえて理由を求めるとすれば、わかりきった結果が退屈だからとしかいえないが、それが何の理由なのかといえば、わかりきった結果がその通りになるのを阻止する理由とはならないだろうし、そんな理由を示したところで結果が覆るわけでもなく、それ以外に何がどうなるとも思えないのに、なぜかそこから懸念が生じてきて、結果的にわかりきったことが実現したとしても、そんな結果が退屈に感じられることに変わりはなく、またそうなってしまうことが嘆かわしく思われるなら、そこから安易に破滅や崩壊の予感を抱くことはためらわれるとしても、たとえそれが必然的にもたらされたからといって、それをもたらしたから安泰でいられるとは限らず、すでにそうなることが事前にわかりきっているのだから、あえてそんなことをやるまでもなければ、省略してもかまわないことでもあり、省略してもしなくても結果が変わるはずもなければ、ではなぜそれを省略せずにやろうとするのかといえば、わかりきった結果が覆る可能性をなるべく低くしておきたいのであり、だからそれを省略せずにあえてそれをやって自分たちの立場が盤石であることを示したいのだとすれば、それによってたとえ強引なことをやっている印象を抱かれても得るものがそれなりにあれば、功利的な損得勘定からすればそれでかまわないだろうし、それを省略することによって被る否定的な印象よりもその結果から得られる効果が期待されているわけだが、その期待が裏切られることがあるとすれば、それが思いがけなくもたらされる余計な何かであり、実際にわかりきった結果がもたらされることによって退屈な印象を持たれてしまうと、それによって結果が覆るはずがないとしても、そんな印象がもたらされた以降においてそれが懸念材料となってしまうわけだが、結果がわかりきっているのにだめ押し的にそれをやろうとするわけだから、退屈な印象を免れ得ないのもわかりきったことであり、そうなることがわかりきっているのにそれをやらざるを得ないということ自体が、すでにそんなことをやってしまう人たちの限界を物語っていて、そんなことを平然とやってしまう人たちが何をやったところで退屈でどうでもいいような印象しかもたらさないだろうし、それに関してはそうなる結果は揺るぎようがないわけだが、それこそが覆すことのできない結果であるとしても、なぜそんな結果がもたらされてしまうのかといえば、それらの人たちの立場が盤石であるからで、盤石な立場であるからこそ、あえて危険を顧みないような冒険などする必要がないのであり、だから退屈な結果しかもたらせないのだが、それでかまわないのであり、それでかまわないからこそ盤石な立場の上であぐらをかくことしかできないわけだが、それ以外にやりようがないことが致命的な欠陥に見えてしまい、退屈なことしかできなければつまらない人にしか見えないわけだが、それでも立場が盤石なのだからそれに伴ってそれなりの権力や権限が生じてくるわけで、そうした権力や権限を利用して盤石な立場を築いたわけだろうが、そこで生じている権力や権限と盤石な立場のどちらが先に生じたのかといえば、同時に生じたとしかいえないだろうし、権力や権限を使えば立場を盤石にすることができて、盤石な立場には権力や権限が伴ってくるわけで、それこそが予定調和の相乗効果に他ならないわけだが、そんなことはわかりきっているからそれが退屈に感じられてしまうのであり、そうなってしまうことがつまらない成り行きでもあり、そんなことは結果を見るまでもなくわかりきっていて、そんな揺るぎようのない盤石な結果しかもたらせないわけだが、その局面ではそうだとしても、退屈に感じられるからすでに飽きてしまっていて、まだ結果がもたらされていない段階で飽きられてしまっているのだから、もはやそんな結果など織り込み済みの既成事実に過ぎないだろうし、その場の情勢に何の衝撃ももたらせないわけだが、別に衝撃をもたらさなくてもかまわないだろうし、すでに盤石な立場を築いているのだから、せっかく盤石に築いた立場を揺るがすような衝撃がもたらされてはかえって困るわけで、それであればたとえ退屈でつまらなくて飽きられていても、そんな現状が何物にも代えがたいのであり、それ以外の状況など望むべくもないことなのだが、それが今後の懸念材料となってしまうわけだから、すでに始まる前から詰んでいる状況かも知れないが、それでも下手に動くわけにはいかず、余計なことをやればさらに状況が悪化しかねないのだから、現状をひたすら保ちそれを維持しようとしなければならず、見方を変えればそれが八方塞がりの恐ろしい事態に見えるかも知れないが、気のせいだと思うしかないだろうし、そんな盤石で退屈で死にそうな立場を死守するべくひたすら我慢し続けるしかないだろうが、すでにそうなった人もいるわけだからそれが厄払いとなって、今さら重圧に耐えきれずに精神的に追い詰められて潰瘍性大腸炎になることもなく、それに関しては破滅や崩壊とは無縁なのかも知れないが、では何が懸念されているのかといえば、何もできないことが今まで以上により一層明らかになるということかも知れず、実際にこれまでも何もできなかったのだから、その延長上でこれからも何もできないということにはならないかも知れないが、少なくとも今までは何をやろうとしても何もできなかったという実績が現状に重くのしかかっていて、そんな実績を引き継いで何もやらないままに留まろうとする覚悟ができているわけでもないだろうが、人の意志や思惑がどうであろうとその場の成り行きに直接反映されるわけでもなく、意志や思惑とは無関係というわけではないとしても、逆にその場の成り行きが人の意志や思惑をもたらして、それがなかなか思い通りにはいかない成り行きになっていれば、それに伴ってやろうとしていることを断念させるような成り行きになっていると思わせるわけで、そうなるとそれに応じた意志や思惑が生じるわけだが、そういう成り行きに逆らうにしても従うにしても、意識してこれまでの延長上で同じような振る舞いに終始しようとすれば、そこからずれてきてしまうのかも知れず、これまでは意識せずにやってきたことが、すでに意識せずにはできなくなっているだけでも、情勢がこれまでとは違ってきたことに気づかなければならず、たとえそんな情勢の変化に気づいていても、気づいているだけではどうすることもできず、実際にどうすることもできない代わりに執拗に自分たちの立場を盤石なものにしようとするわけで、そうなっている時点で窮屈な守りの姿勢をとらざるを得ず、そんな姿勢に凝り固まっているだけでもそれ以上に新しいことは何もできなくなっているわけで、しかもそんな現状を違うものに見せかけようとして、何やら言葉だけでもそれ以外の可能性があるようなことをやっているように装うしかないのかも知れないが、それが外に向かって主張しているように見せかけながらも、実際には自らに向かって言い聞かせている面の方が大きいとなると、自己催眠のような効果をもたらすのかも知れず、絶えず自分を信じろと自らに言い聞かせながら現状から目を背けていることに気づかないわけで、そうした自己催眠効果によって自らに対する過大な自信がもたらされるとしても、要するにそれは自家中毒に陥っているに過ぎないことなのだが、それがこれから明らかになると予言してみても意味のないことであり、そういったことでさえもまだ何も始まっていない段階ですでに織り込み済みとなっている可能性さえあって、そういう面では不確定要素が何も見当たらず、何もかもが前もってわかりきっていることだとすれば、もはやこれからどうなる可能性もありはしないわけだが、そうなるように仕向けられていると見なせば何がそう仕向けているのかといえば、それがこれまでにおこなってきたことを引き継ごうとする意志がそうさせているように思われるかも知れないが、引き継ぐことしかできないような立場に前もって自らを追い込んでいるわけで、それが負の遺産でしかないことにも気づいていながら、そうするしかないような立場にならないと現状で主導権が握れないわけで、それが苦渋の選択だとは夢にも思わないだろうし、それよりは千載一遇のチャンスとばかりに巡ってきた野心を実現する機会をものにしなければならない気持ちの方が遙かに強いだろうが、そんな誘惑に抗しきれないこともわかりきっていて、それが詰んでいることの証しでしかないといってしまうと、そんな詰み自体が成功することの証しでもあるわけだからそれを詰みだと捉えること自体が誤りでしかないわけだが、では成功すればそれでいいのかとなると、成功してご満悦となって終了してしまった人も、あるいは予定調和の成功を前にして疑問を抱いて立ち止まって失敗してしまった人もいるだろうし、どちらでもかまわないとはいえないし、誰もが成功したいところだろうが、それはその場の成り行きが決めることだといってしまうと無責任なことになってしまうわけだが、少なくともその人に責任が生じるのはその人の思い込みの中だけではなく、今までの延長上で何かをやろうとすること自体が、何か自らに対する責任逃れのようなことにもなりかねず、前任者から責任を引き継いだつもりになっても、前任者がやってきたことに依存する面では責任を逃れていて、そういう意味で新たにこれまでにないことをやろうとするよりは責任が軽減されているわけで、それが保守的な傾向にある人のずるいやり口でもあるわけだが、逆にそういう責任逃れな面を引き受けている限りで画期的な業績は何も残せないわけだから、その人が主導権を握っているつもりでいる限りでその人の権力や権限を利用していかに自らの有能さや偉大さを誇ってみても、時代が変わってその人がいなくなれば、途端に化けの皮が剥がれて、大した業績は何も残さない保守派のうちの一人に過ぎないことが明らかとなって、それが覆るはずのないわかりきった結果となるわけだが、そんな人はそれでもかまわないということもわかりきっているわけで、そういう面ではどうということはない人が何かの主役に収まったつもりになれるわけだが、それをどうということがあるように見せかけるのがメディア的な腕の見せどころでもあるわけだ。


9月2日「常識と非常識」

 人には常識よりも優先すべきことがあるとすればそれは非常識であり、では非常識なことをやる必要があるのかといえば、非常識なことはやってはいけないのであり、やってはいけないことをやってしまうから、それが非常識なことになるわけだが、世の中の常識を打ち破るには非常識なことをやればいいというわけではなく、なぜ世の中の常識を打ち破ろうとするのか、それがわからなければ常識にとらわれていてもかまわないし、常識の範囲内でできることであればそうすればいいわけだが、積極的にやろうとして非常識なことをやってしまうわけではなく、常識を知らないからやってはいけない非常識なことをやってしまうわけで、常識を知らないのがよくありがちなことでもあり、非常識なことやってしまってから常識を知る場合も多いだろうし、そういう意味では常識と非常識とが結びついていて、どちらか一方だけ単独であるわけではなく、大抵の場合は両者が緊密に連携していて、まずは非常識なことをやってみないと常識がわからない場合が結構あるわけだが、それを非常識だと決めつけてくるのが常識を守っている人たちの方であり、そうやって常識を守らない人を攻撃するわけで、攻撃された人は自分が何を間違っていたのかよくわからずに戸惑ってしまうわけだが、そういう意味で誰も常識を教えてくれないことも多く、他人から嫌がらせをされてからそこに常識があることに気づくと、常識が不条理な事態を引き起こしているように思われるから、常識を守るのが不快なことにもなるわけだが、それが不快なことであれば、自然な動作に逆らって不自然な常識が打ち立てられている可能性があり、そうやって他人に対して勝手なルールを課すようにして常識を守らせようとする動作自体も、無理強いするような権力の行使を伴っていて、そうなると常識を無理に守らせようとすること自体が非常識なことにもなりかねず、はっきりと常識と非常識を区別できない場合もありそうなのだが、それに関しては常識自体が狭い地域的な限定を伴っている場合もあって、例えば未開の部族などに一般的には奇異に感じられる風習の類いがあれば、部族内ではそれが常識として通用しているとしても、それ以外では非常識な行為である場合も多いだろうし、そうなるとそこでの常識が他では通用しないことになるわけだが、そういうところでは他人に対して不自然な行為を常識として押しつけてくるようなことが、権力の行使として常識的におこなわれていることであったりもして、それが不快な常識が世に広まる原因であればわかりやすいわけだが、あからさまにそういうことがおこなわれるわけではなく、同調圧力のように暗黙の了解事項として周りからじわじわと押しつけてくる場合もあるだろうし、そうやって同調圧力をかけないと常識が世の中で通用しなくなってしまうからそうするのであり、その場の成り行きとしてそういうことをやらざるを得なくなってしまうとすれば、常識を通用させるにもそれなりに理不尽なことをやらなければならないことにもなり、それに対する反発もそれなりに出てくるだろうし、そうやって圧力とそれに対する反発とのせめぎ合いの中で常識と非常識との境界が揺れ動いているといえるだろうし、何が常識で何が非常識であるかについては、納得できるような論理も理屈もないのかも知れず、その場の成り行き次第で常識が非常識になったり非常識が常識になったりすれば、他人に常識を押しつけてくる勢力が非常識なことをやられては困るからそうするわけで、そうであればそれを常識だと思ったり非常識だと思うこと自体が、他から押しつけられた常識を受け入れていることになるわけだから、そんな前提を土台として常識を打ち破るような非常識なことをやらなければならないと思ってみても、すでにその時点に常識にとらわれていることになるわけで、だからといって常識にとらわれない思考や行動ばかりにこだわるわけにも行かないだろうし、何がそこでの常識なのかについてはできる限り把握するしかないだろうし、常識を把握した上でそこでどう振る舞うべきか検討する必要があるとしても、把握しきれないこともあるわけだから、それに関して行動を妨げるような障害に出くわす度に、やり方や振る舞い方を検討し直すしかないわけだが、その一方で身勝手な振る舞いに終始してしまう場合もあるだろうし、常識を無視して自由にそうすることができれば楽だろうが、常識を他人に押しつける側からすれば、そんなことをされては困るから、従わない人には脅しをかけてくるだろうし、そこで恫喝に屈するか屈しないかのせめぎ合いや駆け引きがおこなわれることになるかも知れないし、双方の間で妥協が成立すればそれがそこでの新たな常識として、力の均衡が保たれている間は守られることになるのだろうが、そこでも常に隙あらば自分たちのやり方を押し通そうとして、自分たちにとって都合の良いやり方が新たな常識として通用するように画策するわけで、そういうレベルではどちらがどうというわけではないが、どちらの常識が他の人たちにとって都合が良いかについても、それが常識として機能した方が都合が良い人や勢力が多いほど、そのやり方が常識として通用する可能性が高くなるかも知れないが、都合が悪いと思う人や勢力が多くても、同調圧力が強かったりそれを常識として押し通す力が強ければ、時として理不尽で不公正なやり方がその場の常識としてまかり通ってしまう場合もあるだろうし、気が弱くて社会の中でもそこで主導権を握っている様々な集団に依存している度合いの大きい人ほど、そうした強制的な力には逆らえず、常識を守り押しつける勢力に組み込まれてしまう可能性が高くなるだろうし、そういう多数の弱者が寄り集まって構成される集団が理不尽な常識を押しつけてくるわけだから、それ自体が不条理そのものに思われるかも知れないが、そういう意味では世の中でおかしな常識がまかり通る一方で、それに反する非常識な行為を叩くような行為が蔓延しているほど、社会全体が閉鎖的で自由な振る舞いに対して不寛容な傾向が強まっているのかも知れないし、そうなるとそこで暮らす人々に対する心理的な圧迫も強まるだろうし、それに伴って鬱病などの心の病も広まる傾向も出てくるかも知れないが、表面上は平静が保たれて人々が社会の秩序や礼儀や慣習などを重んじているように見えるとしても、そこから逸脱する人を叩くような行為が顕著な傾向となって現れていれば、そういう常識を守ることが困難になってきているからそうした事態にもなってくるわけで、そうであれば人々がとらわれている常識がおかしいからそうなっていると思いたいところだが、そうではなくそれが非常識に対する正常な反応だともいえるわけで、常識から外れた人を見せしめとして叩く姿を世間に見せつけることによって、他の人たちが怖じ気づいて結果的に社会の常識が保たれるのは、成り行きとしては常識的な範囲内で起こることであり、それは多数派が少数派を攻撃する事例としてはありふれたことなのかも知れず、そんな常識的な行為が当然のことように世の中でおこなわれているとしても、それの何がおかしいわけでもないのだが、当然のことのようにおこなわれている中でも、なぜか常識外れなことをやってしまう人が次々に現れてしまうから、常識外れなことをやってしまう少数派という存在にしても、常識的な範囲内で一定数は出てくるわけで、しかも常識を他の人たちに守らせようとする多数派にしても見せしめとして叩く対象となるその種の少数派に分類される人々を必要としていて、また少数派に属する人々の方でも、理不尽な常識を押しつけてくる多数派に逆らうことによって、自分たちの存在意義やアイデンティティを示そうとするわけだから、双方にとってもそこでの対立や争いが必要不可欠となってきて、それに依存しながら自分たちの存在価値やアイデンティティを保とうとしているわけだから、それこそが予定調和な社会の有様を構成していることにもなり、真に打破しなければならないのはそうした予定調和の社会構造だと思われるところだが、それも何かイデオロギー的な傾向に染まった思考になってしまい、実践する中ではそうはならず、それが常識だろうと非常識だろうとその場の状況の中で利用できるものは何でも利用するようなことをやってしまうわけで、そういう意味で常識にとらわれないことは、非常識にもとらわれないことにもなり、どちらも状況に応じて利用しながらも、決してどちらか一辺倒にはならず、どちらかの立場や態度に固定されてしまうと、どちらかの陣営に留まりながら対立する相手を攻撃することしか眼中にないようなことになってしまうから、その中ではそういう立場や姿勢が常識として通用するにしても、それと対立する陣営にいる人から見ても常識か非常識かの二者択一的なわかりやすい存在でしかないのかも知れないが、そういう人が他にもいくらでもいて、ただのありふれた組織の歯車の中の一つとしか思われなければ、何か自尊心を保てない惨めな立場になってしまうのかも知れないし、本当に歯車になってしまえばそんな自覚すらないのだろうが、そういう面ではいくらでも馬鹿になれる人がそういう立場に甘んじているのかも知れず、もちろん仕事上だけでそんな立場を強いられていることになれば、仕事を離れれば自由を実感できるだろうし、それも妥協的な成り行きだと思っておけば、事務的な振る舞いに終始しながら受け流していれば済むことかも知れないが、そうなっていれば身も心もそんなくだらないことに捧げているわけではないと思えるだろうし、常識と非常識との戦いもそれに伴ってゲーム感覚でおこなわれていることに過ぎなくなり、そこにかかわっている誰もが常識も非常識も心底から信じて守ったり逆らったりしているわけではなく、その場の事情や経緯から渋々そんなことにかかわっていることでしかないとすれば、それもその程度の軽い戯れの範囲内でやっていることにもなるだろうし、まかり間違っても命がけという言葉は使ってはいけないのかも知れないが、何かの冗談でなら許されるとしても、それ以上に生きがいという気晴らしの遊びの類いでは味わえない感覚を得たければ、やはり本気になれるような他の何かを探す必要が出てくるのではないか。


9月1日「予言者の言説」

 別にその人が何かの捨て石となっている自覚はないのだろうが、それの何が気に入らないのかといえば、実際にもそうなるはずがないことなのに、それについて語っていくと、その人がそうなるように予言されてしまうのであり、それが実際の状況に合っているわけでもないのに、それについて語っていくとそうなってしまうのだから、そこで語りやすいことを語ってしまう傾向があるわけで、実際に起こる物事の成り行きでなく、それについて語っていくとそんな内容に結びついてしまって、そうやってその場の状況の中で語りやすいことを語ってしまうことが、実際に起こる物事の成り行きとはずれてしまうことに気づかないと、その場で語りやすいことが実際に起こるかのような錯覚が生じてしまうわけだが、しかも語りやすいことがその人にとってはもっともらしく思われるわけで、それがそうなる可能性が高いかのように思われてしまうのとは違うことなのに、予言者のようにそうなることを断言したくなってきてしまい、それが物事を語る際に陥りやすい傾向であることに気づかないまま、そうならざるを得ないとかそうなるべきだとかいうことを平気で断言してしまうわけで、だからといって逆にその場で語りにくいことが、そうなる可能性が低いわけではなく、それとこれとは別のことであり、その場で語りやすかったり語りにくかったりすることと、そうなる可能性が高かったり低かったりすることが結びつくわけがないはずだが、なぜかその場で語りやすいことを語ってしまうと、それがそうなる可能性が高いことを断言するような内容になってしまい、いつの間にかそんな予言者的な言説の虜となって、そんなことを語るのがその場の振る舞いとしてふさわしく思われて、結果的にそれについて語る人の多くが、誰に頼まれたわけでもないのに自ら進んで予言者的な役割を引き受けてしまう実態があるのかも知れないが、そう語るのが語りやすいことなのだからそうなる可能性が高いとしても、そんなことを語りやすいからそんなことを語る可能性が高くなるといっても、語っている中で語っている対象のそうなる可能性が高いと予言したことの確実性が増すわけでもないだろうが、その可能性が高くなったように思われてしまうこと自体がおかしいわけで、それでもなぜかそこで語っている行為と語っている内容が同じ傾向になってしまい、それがもっともらしく思われることの原因かも知れないが、いくらもっともらしく思われる可能性が高くても、それによって自らが予言していることが的中する可能性が高くなるわけでもなく、ただそんなことを予言したり断言してしまう可能性が高くなってしまうわけだから、やはりそれがおかしいと思う必要があるのかも知れないが、おかしいと思うことがその場の成り行きに逆らうことになれば、なかなかそうは思わないわけで、そう思うことができなくなるように何かによって仕向けられているわけでもなくても、それでも多くの人がそこで語りやすいことを語るような傾向があれば、そんな傾向に適うのが予言や断言であり、そんな予言や断言の内容としてそうなる可能性が高いと思われることを予言したり断言するように仕向けられていることになり、仕向けられている思うこと自体がおかしいのかも知れないが、やはりそれらの人がそうなる可能性は高いわけで、少なくともそれに逆らう可能性は低いだろうし、またそういう成り行きをおかしいと思う可能性も低いだろうが、そうなる可能性が高かったり低かったりすることが何を意味するのかといえば、そうなることの可能性をあれこれと推測したいわけで、別に確かなことを述べているわけでもなく、不確かな可能性について語っているに過ぎないことなのだが、それがなぜ確実に起こることを予言したり断言することに結びつくのかといえば、そう語るのが語りやすいから語るのだろうし、その場で何かを語るという成り行きの中ではそんなふうに語ることが自然の成り行きに思われるのであり、そういったことの帰結として何かもっともらしい予言や断言がその場で下されて、話が締めくくられることになり、その場に居合わせた誰もがそんな結論に納得できれば、その場が丸く収まったような気になるのかも知れないが、語られる行為としてはそうだとしても、語られる対象の方はそうではなく、そこからさらなる紆余曲折を伴いながら揺れ動いていく可能性が高いだろうし、しかもそれがそれ以前に語られていたことから逸脱する展開になれば、事前に語られていた予言や断言がそんな展開に伴って覆される可能性も高いだろうし、そうやってその場の成り行きがそれ以前になされた予言や断言を置き去りにしながら未知の領域へと進展して行ってしまう可能性が高ければ、それ以前にその場の語りやすい成り行きに従って下された予言や断言など何の意味もないことになってしまうわけだが、そんなことにまで予言や断言が言及できるわけもなく、前もって把握できるようなことでもなく、普通に予言も断言もしなかったことが起こってしまい、そういう意味では何かが起こる以前に語られる予言や断言にはそれなりの限界があるわけだが、それでもそんなことを語りやすいからそんなことが語られる可能性は高く、語りやすいことが語られるとそれがもっともらしく思われて、安易にその内容が信じられてしまうわけだが、だからといって語られやすくて信じられやすいことが確実に起こるとは限らないし、逆にそんなことばかり起こっていたら誰も苦労はしないだろうし、前もってなされる予言や断言とは違った思いがけないことが起こるから、誰もがそれに対処するためにそれなりの苦労が伴うのだろうし、うまく対応できずに大変な思いをすることもあるわけだが、それでもそんなことを語りやすいから盛んに予言したり断言するだろうし、またその内容がもっともらしく思われるから信じられやすく、実際にそんなことを安易に信じてしまう人が大勢いて、そんな人たちによって世論の大部分が構成されているとすれば、そうやって絶えず安易な方へと向かっていくように仕向けられて、時にはそれによって痛い目に遭うのだろうが、それでも懲りずに浅はかでいい加減な予言や断言を信じてしまうだろうし、それもそうなる可能性が高いから、予言や断言の中でそうなる可能性が高いと予言されたり断言されていることが、そんな予言や断言を信じてしまう可能性が高いことにつながってしまい、それとこれとは次元の異なることであり、直接にはつながっているわけでも結びついているわけでもないと思いたいだろうが、そんな成り行きの中で同じような傾向として実際に両者がつながっていて、直接結びついているよう思われれば、そうなっているからこそそんな成り行きの中でなされる予言や断言の内容がもっともらしく思われると述べてしまうと、何か疑わしいことを述べているように思われるかも知れないが、それが虚構のつながりであり、架空の結びつきだとすれば、もっともらしく思われてしまうこともフィクションとしてもっともらしく思われるわけで、たとえ現実の成り行きや経過と直接一致しなくても、物事について語られる言説の中ではもっともらしく思われて信じられるのであり、それとこれとを区別することが難しく、区別できないからこそそういった予言や断言の言説が成り立つのだろうし、それがはじめから虚構だとわかっていれば、誰もそんなものをもっともらしくは思わないし信じないはずだが、そこに現実に存在する要素が言葉としてちりばめられているからもっともらしく思われてしまい、成り行き上それを信じざるを得なくなるわけだが、現実に存在する要素がそれだけではないということに気づかないわけで、もちろんそんなことは考えてみればすぐにわかることだが、もっともらしく思われる範囲内では気づかないというか、語る際に語るにふさわしいと思われる要素を選んで、それらをもっともらしく思われるような配置や順序に調整して語っているわけだから、もっともらしく思われて当然なのだろうが、そういった話の筋には合わない要素は選ばれないのも当然のことであり、そうしないと言説としてうまく構成することができなくなってしまうからそうせざるを得ないわけだが、だからそうし向けられてしまうというと循環論になってしまい、そうなってしまうことをそうなってしまうように語っているわけで、それ以上はどうやってもそういうことしかならないのかも知れないが、そうなるのを回避するための方便として自然に語るという表現が使われて、語りやすいことを語るように仕向けられると自然の成り行きとしてその種の予言や断言に至ってしまうとしかいえなくなってしまうのだが、たとえそんな予言や断言に至ってしまう可能性が高くても、その種の予言が断言の中で述べられていることのそうなる可能性が必ずしも高いわけではなく、何によってそう仕向けられているとも思えないとしても、その場で語りやすいことを語るように仕向けられてしまうとその種の予言や断言に行き着いてしまうわけだが、何かを語るように仕向けられているから語るのではなく、自発的に自らの意志で語っているように思われるかも知れないが、その場で多くの人がそんな傾向になってしまうとすれば、どう考えても誰もが前もって示し合わせたわけでもないのにそうなってしまうわけで、またそういうことを語るように他から依頼されたわけでもないのに自ら進んで自発的に誰もが同じようなことを語っているとすれば、やはり結果的にはそう仕向けられていると見なした方が妥当だと思われるだろうし、そんなことを語りやすいように調整された場がそこに形成されていると見なしてもかまわないだろうが、誰が恣意的に調整したとも思えないし、誰がそうするように命令しているわけでもなくても、誰もがそれ以外のことを語るのを自粛しながら、それ以外の内容が出現してしまうのを抑圧しているわけで、そういう内容はわかりにくく、そういう内容にはついて行けないから、それを無視せざるを得ないのかも知れないが、逆に誰もがわかりやすい内容を求めてそういう内容を積極的に語り、それが真実だと思いたくなる気持ちもわかりすぎるくらいにわかるだろうが、それが信仰であり、そういう信仰を世に広めようとしていることの表れでもあり、無自覚にそんなことをやっている自らを正当化したいだろうし、そんなふうにして予言者の言説が世に広まるのかも知れないが、そこに含まれる願望としてのフィクションに関しては、たとえ実際に起こる出来事の内容とは食い違ってしまってもそれは不問にされるべきことになり、それによって信仰が揺らぐことはないわけだ。


8月31日「組織の論理」

 自然な考えが自然に思いつくように、自然な成り行きが自然に生じるのは、何か人の都合とは別にそうなるように思われるが、では人の都合が不自然なのかというと、自然にそう思われる時もありそうだが、時にはそうは思われないし、それが自然な成り行きだろうと不自然に思われようとも、どちらでもかまわない場合もありそうで、そう思われるときにはあまり気にしなくてもよさそうだが、そこに誰かの強引な思惑が透けて見えるとこれ見よがしなことがおこなわれている最中であったりもして、そうなると不自然なぎこちなさが目立ってしまうわけだが、それも人の立場によって感じ方が違ってくるのかも知れず、集団の内部で上層部の意向に従っていればそうなるのが自然な成り行きであり、たとえそれが強引なやり方であろうと権力が行使されているのだから極めて当然のことのように思われるが、集団の外部から集団内の利害とは直接関係のない立場から見れば、それが強引かつ不公平なやり方に見えるだろうし、集団内が特定の思惑に支配されていて、その思惑というのが集団内の各人がせこい保身に汲々としている印象を抱かせるわけだが、今の自民党内がそんな印象に覆われているとしても、党内にいればそう振る舞うのが正解なのであり、そこでは誰もが間違った振る舞いをするよりは正しく振る舞うことの方が自然な成り行きに思われるだろうし、その場の情勢に合わせて正しく振る舞うことがそこでは求められていて、少なくとも今は危険を冒して一か八かの賭けに出るときではなく、大勢に従っておいた方が得だと判断するのが、その場の状況に応じた極めて当然の振る舞いに至る正しい答えとなるはずで、それの何が間違っているわけでもないのだが、そうなってもらわないと困るのであり、誰が困るのかといえば、自民党を批判する人たちにとっては困るだろうし、この期に及んであまりかっこいいことをやってもらっては立つ瀬がないだろうし、組織の論理に縛られて自己の保身に汲々としている官僚的な小物集団のように思われてほしいのであり、実際にそういう印象をまとうにはうってつけの人物がトップに立つ最有力候補として現れたのだから、それが旧ソ連で18年間もトップの座にあったブレジネフの次に指導者の地位に就いた人物のような役割になることが明白であれば、まさに願ったり叶ったりの成り行きになりつつあるわけだが、今の段階ではそうだとしても、ここから事態が二転三転してこじれることになれば、歴史は繰り返すという格言を裏切ることになるわけだが、それだけの元気が今の自民党にあるとは思えないし、ここではすんなりと予定調和の結果に至ってしまえば旧ソ連の共産党のような末路となってしまう可能性も出てくるわけだから、批判勢力としては寝た子を起こすような真似は慎むべきであり、それほどまでに事の成り行きが一致するわけではないとしても、そういう印象を醸し出すような雰囲気に包まれていること自体が付け入る隙を生じさせていて、何かそういうところで波乱の展開を予感させるのかも知れないが、本当にそうなるというよりは、そうならざるを得ないのに実際にはそうはならないのが世の常であり、そこにも不確定要素や要因がいくらでもあって、それらが絡み合うと思いがけないことが起こるのであり、そうなることを期待していると、その期待が裏切られて平凡な結果に終わってしまうのかも知れないが、そうなってもならなくてもかまわないだろうし、そんなことはどうでもよく、事の本質はそれとは別のところにあり、それによって世の中がどうにかなるように思われてはまずいのかも知れず、どうにもならないからこそどうでもいいような茶番が繰り返されて、世の中が変わることを望んでいる人々を落胆させるわけで、そんな変化を希望したり期待して結果的にそれが裏切られる成り行きも茶番として繰り返されているのであり、そうではないということがわかっていないわけだが、何がそうではないのかと言えば、それが必然的な成り行きにはなりがたいということであり、常に偶然の巡り合わせのようなことが起こるから、そこに付け入る隙が生じているように思われて、実際にそうなることを望んだり期待するのだろうが、またそれが偶然の巡り合わせのようにしてはぐらかされてしまうから、それによって希望が打ち砕かれて期待が裏切られたように思われる時もあるだろうが、それだけではなくまた別の可能性も出てくるのかも知れず、それが思いがけないことであり、それ以前にもすでに思いがけない事態がもたらされているはずだが、起こった後からそれなりに理由付けや根拠付けをすれば、それが必然的に起こったようにも思われるかも知れないが、いつも後付けとしてそんなもっともらしい説明に終始していては何事もらちがあかないだろうし、すでに起こったことをもっともらしく説明することばかりにかまけていないで、自分たちでこれから思いがけないことを起こさなければならないわけで、意図してそんなことが起こせるとも思えないだろうが、何か現状の中ででたらめなことをやらないとならなくなってしまうのかも知れず、それがでたらめに思われるようなことを意識してできるわけがないとしても、結果的にでたらめに思われるようなことをやってしまえば、予定調和の結果から外れることになるかも知れないが、それをやっている人たちにとっても思いがけない結果となるわけだから、そういう意味では誰にとってもでたらめに思われてしまうわけで、そんなことがうまく行くはずがないだろうし、どう考えても成功は望めないわけだが、それをやってしまったのが十年前の民主党政権だともいえるわけで、その時の教訓を活かしてまともなことをやろうとすれば、それもうまくいかなければどうにもならなくなってしまうだろうが、まずは教訓を活かす機会を得なければ何もできないままとなってしまうわけで、何もやらなくても何とかなってしまう自民党政権とは違って、それなりに目新しいことをやらなければならないという強迫観念にとらわれてしまうと、当然の結果として失敗に至ってしまうのだろうが、それでもかまわないというと傍観者気取りで無責任なことを述べているように思われるかも知れないが、また性懲りもなく失敗する機会を得るためにやらなければならないことがあるとすれば、政権を交代させることになるわけだが、それらの勢力にそんなことができるわけがないと思われているのであり、そんな先入観を覆すことができるかといえば、実際に覆したときにそれがわかるわけだが、今はそれがわからない段階であり、今後もそんな段階に留まり続けるとしても、逆に政治的に成功することが何もしない長期政権になってしまうわけだから、そういう意味では今後とも失敗することが求められているのかも知れず、しかも失敗を恐れて何もしない長期政権になるよりは失敗して短期政権で終わる方がマシであるならば、なぜそれ以外にはならないのかといっても、そういう問い自体がおかしいとしかいえないが、それが偶然の巡り合わせから導かれてしまう必然性でもあり、何かをやろうとすればそれができなくなり、そんな希望も期待も裏切られてしまうようにしか事態が進行しないとすれば、なぜか知らないがもとからできないことをやろうとしてしまい、また裏切られてしまうようなことを希望したり期待してしまうわけで、そうであるならそんなこと思わせる現状がそういう成り行きをもたらすのか、あるいはそんな現状をわきまえないようなことを思わされてしまう成り行きがあるのかは定かでないが、何もやらないか何かをやって失敗するかの二者択一しか残されていないのが現状の政治でもあり、そんなはずがないと思ってみても、何もやらないのに何かをやっているように装ったり、失敗したのにそれを成功したと強弁するようなことしかやってこなかった経緯もあるわけで、そんなことを平気でやるような勢力しかやる機会が巡ってこない状況を変えてゆかないとならないだろうし、それを変えるにはまずは失敗を失敗として認めてそこから出直す必要があるのかも知れないが、そんなきれいごとは誰にでも言えることでしかなく、失敗を認めたところで失敗を教訓としたところで成功するとは限らないし、功利的には失敗を隠したり、逆に成功したと強弁することの方がよくありがちだとしても、中には失敗することに成功することができる人もいるわけで、失敗したくないと誰しもが思うところであり、実際に失敗したおかげでひどい目に遭ったと感じることも多いが、わざと失敗するのではなく、必然的に失敗するようなことをやるわけでもなくても、なぜかその時は失敗したおかげでその後がうまくいくこともあるわけで、しかもそれが誰にとってもうまくいったようには思われないとしても、それはそれでかまわないわけで、そういうところが普通によくわからないわけだが、そこで下手に成功してしまうとその種の成功によって世の中にありふれた成功者のうちの一人に過ぎなくなってしまい、そんな成功者などいくらでもいるような成功者として位置づけられてしまうから、そうなったらそこでおしまいなわけで、そういう意味では成功してしまうことが失敗してしまうのと同義となる可能性があり、そうはなりたくないというか、そんなことは意識しなくても成り行きとしてそこで失敗したおかげで、成功しておしまいとなってしまう事態を免れるようなことにもなり、そういった一発屋的な悪い成功例を回避することによって、そこからさらなる飛躍やその後の持続的な活動に結びついた事例もあるだろうし、そういう成り行きは意識してコントロールできるわけがなく、やはり偶然の巡り合わせによって否応なくそうなってしまう成り行きの中で起こることでもあり、そんな機会に恵まれるのと恵まれないのとでは雲泥の差となって、その人の人生や価値を決定づけるのかも知れず、そんなことまで考慮に入れるとすれば、あまりにもせこく立ち回って小さな成功にこだわりすぎると、小さな自己満足を大げさに捉えるようなまがい物的なせこい人間になってしまうわけで、そうはなりたくなければ時には豪快に失敗してみることがその後に良い成り行きをもたらすのかも知れず、そうであれば十年前の民主党政権の豪快な失敗にも数十年単位の長い目で見れば何らかの効用があったのかも知れない。


8月30日「過去の亡霊」

 普段は見えていないものが何かのきっかけから急に見えるようになることは稀にしか起こらない現象かも知れないが、果たしてそんなことが本当に起こるかというと、実際にそんな経験をしてみないことには何とも言えないが、それでも普通に考えて亡霊というのは幻影の類いだろうし、何かの亡霊が見えるとなるとその人の心に何らかの負荷がかかっているのではないかと疑われるわけだが、それを過去の亡霊というと何やらありふれた比喩表現の類いとしていくらでも事例となるものが出てきそうで、例えば何かがそこで起こっていて、それを何かの現象と見なしてもただの出来事と見なしてもかまわないが、そこで起こっていることに何か特徴的な傾向が見られると、それがそれを語る上で欠かせない傾向だと思われるかも知れないが、なぜそれについて語ろうとするのかといえば、それがその人にとって興味深い出来事や現象だから語ろうとするのだろうが、語りたいと思わせるにはただ興味深いだけでは語ることには結びつかないのかも知れず、それ以前に何か主張したいことがあり、それを主張するためにそこで起こっていることを利用しようとしていれば、それを語る上で欠かせないのがその人の主張となり、そうなるとそこで起こっていることとその人の主張がうまい具合に結びつくからそれについて語りたくなってくるのかも知れず、事の順序からいえばまずは語りたい主張ありきで、それについて語るきっかけとなる何らかの現象や出来事が起こることが期待されるわけだが、果たしてそこで期待通りのことが起こったのかとなると、起こった後から期待通りのことが起こったように見せかけたいのかも知れず、本当に期待通りのことが起こったと語りたいのであり、必然的にそんなことが起こったと主張したいわけで、そうやってその人の主張とそこで起こったことが結びつくわけだが、はじめからそんなことを主張したかったのかというと、それが起こったからそれを利用してそんなことを主張するわけで、それとは別のことが起これば、またそれに絡めて同じようなことを主張するのかも知れず、そうなるとどんなことが起こっても同じようなことが主張できるかのような幻想を抱いてしまうかも知れないが、実際にその手の人たちはどんなことが起こっても同じようなことを主張してしまうわけで、要するにそこで起こったことから目を背けてしまうからそんな芸当ができるのであり、そこで起こったことを見ていないわけだが、ではそれを見ない代わりに何を見ているのかといえば幻影の類いを見ているのであり、しかも何が起こっても同じ主張に結びつけてしまうわけだから、そこで見ているのはありふれた過去の亡霊かも知れず、何が起こってもそこに出てくるのは同じような過去の亡霊であり、そんな亡霊自体がその手の人たちが主張する同じような紋切り型の主張内容でしかないわけだが、内容に中身があるのかというと中身のない空疎な主張でしかなく、空疎な無内容を主張することに何の意味や意義があるのかといえば、それを主張すること自体に意味や意義があるわけで、そんな空疎で中身のないことまで主張できてしまう自分たちの権力や権限の強さを誇示しているわけだが、ではそこで起こった真実の現象が何なのかといえば、それは過去から繰り返し主張されているようなことではなく、その場限りのことが起こったのかも知れないが、それがその場限りでしか起こらないと利用できないわけで、少なくともそこで起こったことが他でも起こらないと、それについて語ってもありがたみが感じられないだろうし、それを功利的に有効活用したいなら繰り返し何度でも利用しないと損だろうし、実際にそれを利用できるように歪めたり整形したりするわけで、言語表現によってそういう操作を施してから自分たちが利用できるようなことが起こったと主張したいわけだが、それが誇張表現であったり煽動表現であったりするわけで、しかもそうやってわざと意識して事実をねじ曲げているのではなく、自分たちが利用できる言語表現の型枠に押し当てると必然的にそうなってしまうわけだから、そういうところは誰にでもそれとわかるような表現形態が確立されているわけで、何かそれに関してその人たちに都合の良いことばかり不自然に強調されていたり誇張されていれば、ああまたいつものように同じようなことをやっているんだなと思っておけばいいわけだが、それを茶化したり馬鹿にしたりしてはまずいだろうし、工夫を凝らして褒め殺しのような手の込んだことまでやるまでもないのだろうが、そこを黙って素通りできないようなことを仕掛けてくるわけで、そんな仕掛けに引っかかって何らかの否定的な反応で応じてしまうことも期待されているわけで、それがすれ違いざまに肩がぶつかったと因縁をつけてくるヤクザのやり口でもあり、今まさに石垣のり子という人に対してもその手の人たちがよってたかって叩いている最中なのかも知れないが、それもある意味では自業自得な面もあるだろうし、実直で清純そうに見える人がその手の人たちに恫喝されていたぶられているのを見ると嬉しくなってしまう人も大勢いるだろうが、そういう予定調和の茶番劇に目を奪われても事の本質を見逃してしまうだろうし、今後もそんな既成事実の積み重ねが繰り返されていくうちに、その場限りの事件性が覆い隠されてしまうわけで、そこにかかわってくる誰もが意識してわざとそんな行為に及んでいるわけでもないのだろうが、それらの人たちに共通の仕草というのが、一様にそこから目を背ける動作であり、早くそんなことは忘れたいのであり、いつまでもそこで起こったことにかかわっていてはまずいように思われるのだろうし、何とか早急にそこに穿たれた裂け目や傷口を覆い隠して、一瞬ではあっても真の姿が見えてしまったことについては、誰も何も見なかったことにしたいわけで、だからなるべくそこから目を背けつつ、執拗なヤクザの因縁つけからも素早く身をかわしながら、足早にそこを通り過ぎなければならないわけだが、それでも過去の亡霊がいつまでもどこまでも追いすがってくるわけだから、普通の人なら根負けしてしまうのかも知れず、気の弱い人ならヤクザの恫喝に震え上がってしまって、そこから立ち去れなくなってしまうかも知れないが、そういうところでどう対応していいのかよくわからなくなって、しばらくは多くの人が様子見の態度をとるかも知れないが、少なくとも誰もがそこから目を背けようとしていれば、それに倣って真実から目を背けていてもかまわないだろうし、またその手の人たちの恫喝に屈してその手の人たちがやっていることに加担してもかまわないし、さらには今まで通りに消極的な現状維持の態度で無関心を装っていてもかまわないだろうが、人それぞれで様々にやりようがあるにしても、それでも大抵の人のやることはすでに決まっていて、またやらないことも決まっているのかも知れず、それがこれから明らかになるわけだが、たとえそれが明らかになったとしてもがっかりする必要はないだろうし、予想通りだと皮肉を込めた予言者気取りの諦念を表明してもかまわないわけだが、それでもいくら忘れたつもりでも誰もがしっかりとそれを覚えているわけで、それらの人たちの馬鹿さ加減も無意識のうちに脳裏に刻まれてしまっているわけで、反吐が出るようなゴミクズたちが跳梁跋扈しているように思われながらも、それらの全てが空回りしていることに誰もが気づいてしまったわけだから、これからその真実が世の中にどのような作用や影響を及ぼすのかがよくわからないにしても、すでに何らかの作用や影響の効果が出ていて、その結果としてそういう真実が明らかになってきたわけで、その真実をどう受け取ろうとしても、すでに受け取っているからそれに対して何らかの反応も起こっているわけだが、その反応が病状としては潰瘍性大腸炎の悪化として起こったわけだが、それが事の真実であり、真実の一部を構成する氷山の一角に過ぎないのかも知れないが、その全貌が明らかとなるかならないかはどうでもいいことではないが、その手の人たちにとっては何としても隠し通したいことなのだろうが、全貌を明らかにしたい人たちにとっても、それを隠し通したい人たちにとっても、そんな思惑とは無関係に事態が推移しつつあるのかも知れず、思惑を裏切るようなことは起こらないとしても、全てが枝葉末節なこととしてそれにかかわった人たちと共にゴミ箱に投げ込まれてしまうような事態ともなれば、状況が一新されてしまうというのとは違い、そこいら中に散らかったゴミをともかく片付けようとする思惑が働いて、ゴミにこびりついている因縁の類いにいちいちこだわっていては清掃作業がはかどらないわけで、そうなるともういいやと言うことになってしまうのかも知れず、汚れていようがいまいがゴミには違いないのだから、ゴミはさっさと片付ければいいという論理がまかり通ってしまうと、ゴミを分別する手間を省いて、ゴミを再利用する手間も省いて、全てをただのゴミとして焼却処分して埋め立てれば一気に片がつくだろうし、そういう大雑把なことをやりかねない時期が近づいているのかも知れないが、そんな全てをリセットしようとする衝動を押しとどめるにはどうすればいいかとなると、それとは逆に手間暇をかけてゴミを分別して使えるものは洗って加工して再利用することになるわけだが、そんなことをやるだけの根気が誰にあるのかとなると、そこから目を背けないで真摯な態度で真実に向き合える人にはまだ根気が残っているかも知れないが、それ以前に自分がゴミだとは多くの人たちが思っていないだろうし、その手の人たちも自分たちがヤクザだなんて思ってもいないわけで、そういうところで真実に向き合えない事情や経緯がそれなりに生じているのかも知れず、まさか自身がゴミやヤクザであることが真実であるはずがないだろうし、そんなのはただの馬鹿げた自己卑下に伴って生じる比喩表現であり、もちろん断じて真に受けるわけにはいかず、遙かにマシな存在だと誰もがそれなりに信じられる自尊心を保ちながらそう思っているはずで、そうであるからこそ皮肉な態度で逆説的な物言いをもてあそぶ不届きな輩を取り除きながら真摯な態度で真実と向き合う必要があるわけだが、では誰もがそこから目を背けているものは何かといえば、それが自らの真の姿であり、過去の亡霊などとは違った現状の中に存在している自分自身なのかも知れない。


8月29日「成功例の実態」

 ほどほどのところでやめておくことができない性分というわけでもないだろうが、その加減というのがよくわからないだろうし、やりすぎないようにやることは難しく、やりすぎてからやりすぎていることに気づいて、さらにもはやその時点から後戻りができなくなっていることにも気づいてしまえば、ほどほどのところでやめておくことができなかったことにも気づくだろうが、そんなことにも気づかないままだと、何やらわけがわからないままおかしな成り行きに巻き込まれてしまうのかも知れず、それが身から出た錆というわけでもないだろうが、そこで何かに誘導されてそうなったと他へ責任転嫁することができれば、過ちを犯してしまったことから生じる心理的な動揺を少しは軽減できるかも知れないし、自らの意志で主体的に振る舞いながらそんな行為に及んでしまったわけではなく、他の何かに操られながらそんなことをやってしまったという責任逃れの言い訳が自身にとってどれほどの妥当性を感じられても、そんな事情には関心のない他から見れば普通に無視されることかも知れず、それ以前にそれがわざわざ他人を操ってまでやるほどのことでもなければ、自らが勝手に勘違いしながら暴走しているだけであったりして、そんな成り行きにとらわれてしまうと行為者と行為とが一体化しているのは当然のことだが、自らの意志でやっているという思いよりも、何かの現象に巻き込まれているような感覚の方が強くなって、それだけその場の成り行きの一部として動作していることになり、そこで動作しているのが何かの装置であれば機械の歯車のように動作していることになるだろうが、それを機械と見なすと何らかの目的に従って一方的にしか動作しないように思われて、一度スイッチを入れると何らかの工程が終了するまでは止まることができなければ、そういう動作のことを機械的な動作と呼んでもかまわないわけだが、機械にもそれを一様に機械的な動作とはいえないような面もあり、様々な用途に合わせて動作の傾向や内容も異なってくるだろうし、言語的な比喩として表現される機械とは異なる印象を伴うような動作をする機械も中にはあるのかも知れず、そういうところから人の動作を機械の比喩で表現することの妥当性が疑われてきて、そういった比喩表現では人の行為や動作の実態をうまく言い表せなれば、それとは異なる比喩が模索されることになるかも知れないが、それが何の比喩でも言い表せないような現象もあるのかも知れないし、同時代的に同じ形態で同じことをやっていても同じ経緯や過程を伴わない場合もあるわけだが、それでも比較対象として取り上げられて興味深い現象をもたらす事例もあり、それに関して実態を反映しない虚業から実態が作り出される例として金融的な印象操作があるだろうし、株式の時価総額なども実際に事業の生産過程から収益を積み重ねてそれなりの時価総額となったトヨタと、事業の生産過程からは大した売上も利益も出していないのに時価総額でトヨタを抜いてしまったテスラとの対比が、今や21世紀的な典型例となりつつあるが、それはメディア的な印象操作によって長期政権を実現してしまった安倍政権などとは傾向も内容も異なるだろうが、もちろんテスラの成功にもイーロン・マスクというカリスマ的な経営者に率いられた企業というメディア的な印象操作が少なからず関与していて、企業や経営者の実力でそうなったとは全面的には正当化できない面もあるだろうが、その一方で20世紀的な企業の成功例として歴史にその名を刻まれつつあるトヨタにしても、その事業から生み出される製品の生産過程や流通過程において、従業員や販売員や下請け企業などの犠牲の上に成功がもたらされたような正当化できない矛盾を抱え込んでいるわけで、単に金銭的な損得の基準だけでは計り知れない何かが含まれているわけだが、その種の成功例がある種のメディア上で賞賛されることになるとしても、それだけでは済まない面もいくらでもあり、それがそうした成功例と共に進行していく世の中の成り行きに直接の作用や間接的な影響を及ぼしているわけだろうが、テスラの成功と共に内燃機関で動く自動車が廃れて電気モーターで動く自動車が世の中の主流となっていくとしても、あるいはそう簡単にはならないとしても、せめぎ合っている直接の戦場がそこにあることは確かだろうが、それに伴ってそれとは別の分野でも、何らかの勢力がそれとは別の場所や多少なりとも重なる場所でもせめぎ合っているのかも知れず、それも直接争っているわけでも戦っているわけではなくても、確かに何らかのせめぎ合いが生じていて、そうしたせめぎ合いの中からそれとは違う何かが生じてくる場合もあるわけで、それを何かの価値観と言ってしまうとかなりずれたことを指摘しているように思われるかも知れないが、それが結果的に出てくる損得勘定や収支決算を無視するような試みであり、金銭的には損する可能性が高いのにあえてそれを実施するように仕向けてしまうが、それは環境に優しいとかいうメディア的な印象操作とは違うだろうし、効率が良かったり悪かったりする以前に、例えば内燃機関の自動車の排ガスを吸い込むのがいやだったりもするわけで、また太陽から自然の放射線を浴び続けているのに、原発から出る放射線には敏感に拒否反応を示すだろうし、癌になるリスクが少しでも増えれば自己防衛本能に由来する感情が発動するのかも知れないが、それを偏見と見なしてしまうとやはりそれとは少し違うようにも思われるわけで、そういうところで少しでもそういった反応を抑え込もうとすれば反発されたり反感を買うのはもちろんのこと、それが何からもたらされるのかを考えてみれば、他人の都合や利害には安易に同調したくないし、何よりも他からいいように利用されて馬鹿を見るのはこりごりだということであり、本当にこりごりするほど利用されているのかといえばそれは単なる被害妄想であり、自身も他人をいいように利用している面が結構あるのかも知れず、そういうところは割り引いて考える必要があるのかも知れないが、それを割り引いて考えてもそこには他者に対する不信感が渦巻いていて、安易に騙されないぞと思っていれば、それだけでも金銭的な損得勘定など容易に無視できて、それよりも優先すべきことがあるとすれば、それが何なのかということだが、それは合理的な理由や根拠などではなく、それ以前にその場の成り行きを優先しなければならず、普通にいやな感じがしたらそれを遠ざけたりそこから遠ざかるわけで、そのいやな感じをもたらすのが自動車の排ガスであったり原発の放射線であったりすれば、それとは違う何かを求めるようになるだろうし、しかもそれを実現できるだけの金銭的な余裕があれば自宅の屋根に太陽光パネルや屋内に蓄電池を設置して電気自動車を買い求めるかも知れないし、そんなことはやめて電力会社から電気を買って安い内燃機関の自動車を買った方が遙かに安上がりだと説かれても、ではフェラーリやランボルギーニなどの燃費が悪くて日本の道路事情ではその性能をほとんど発揮できないようなスーパーカーを買う金持ちはどうなのかとなると、やはり金銭的な損得勘定などは無視しても余りある見栄や虚栄心がそうさせるわけだから、そういうところで金銭的な損得勘定という一つの価値基準では計り知れないような様々な事情や条件が介在しているとしても、そうした事情や条件に伴って実現可能な選択肢の幅も自ずから広がっていくわけで、他人がそうするから自分も真似してそうすることがあるとしても、他人とは違うことをやった方が自尊心が満たされる場合もあるだろうし、そうすることにあまり合理的な理由や根拠がなくてもそれを優先したくなる場合が出てきて、それを優先して実際にそれを実現してしまえば、もうそこでそれ以前の段階では合理的な理由や根拠だと思われていたことが吹っ飛んでしまうわけで、実際に世界一の生産台数を誇っている企業の数十分の一しか自動車を生産していない企業が、株式の時価総額で世界一の生産台数や販売台数を誇る企業を上回ってしまうことなど普通はあり得ないわけだが、コンピューターなどの情報処理技術の飛躍的な発展の結果として、それを利用して金融資産自体を飛躍的に増やす技術も飛躍的に進歩したおかげもあって、それ以前では考えられないようなことが起こったわけだが、それはそれ以前の20世紀的な産業技術の飛躍的な発展に伴った企業規模の飛躍的な巨大化にしても、19世紀的な蒸気機関が主体の産業技術では考えられないようなことであったわけで、何かそこででたらめのような事態が起こる度に、それまでの一般的な常識に基づいた合理的な理由や根拠などが改められるような事態が起こって、結果的に多くの人を驚かせるわけだが、その後からそうなった事態に基づいてそうなることが必然の成り行きに思われるような合理的な理由や根拠も導き出されるだろうし、そうやって後追い的に後付け的な理由付けや根拠付けがおこなわれるわけだが、そうした理由や根拠が何の役に立つのかといえば、普通は過去に起こった出来事を説明するのに役立つわけだが、そこからそうしたことの延長上で未来に起こる出来事を予想したり予言したりするのにもそうした理由や根拠が利用されるわけだが、それがそれ以前は当たり前に思われてきた合理性を打ち破った出来事や現象に基づいて打ち立てられた理由や根拠であることが忘れられてしまうわけで、そうであるならこれから起こるかもしれない驚くべき出来事や現象は、現状で合理的に思われる理由や根拠を打ち破るような事態をもたらすかも知れず、そうなったときには当然のこととして、現状でもっともらしく思われるような合理的な理由や根拠などに基づいた予想や予言も外れる事態となるだろうし、もちろんそうなればなったで後付け的に予想が当たったの予言が的中したのと騒ぎ立てる輩がいくらでも現れるだろうが、そういうことを性懲りもなく繰り返すのが機械的な動作の比喩で語られる内容であり、倦むことなく繰り返されるそんな予定調和の行為によって、それまでの常識にとらわれた予想や予言を打ち破って成功した常識外れな現象の実態が、紋切り型の比喩表現によって覆い隠されることになるわけだ。


8月28日「保守派の強み」

 世の中にはできることとできないことがあるにしても、普通に考えればできると思うからやろうとするのであり、中にはできないと思ってもあきらめきれずにやろうとしては失敗してしまう場合もあるかも知れず、途中まではできたとしてもそこから先がうまくいかないこともあるだろうし、そうなるとできそうでできないから、そういうことをやっている人は焦れったくなって、やめるにやめられないような心境となり、そうやって何も成し遂げられないような中途半端な状態に留まってしまうのかも知れないが、それもよくありがちな成り行きだろうし、何事も目論見通りには行かないからそうなりやすいのであり、そうやって一時的に行き詰まってからがそうした試練を乗り越えるために工夫を凝らさなければならず、それが一時的な行き詰まりで済むか、行き詰まったままあきらめてしまうのかの二者択一となるわけでもないだろうが、何かをやっている最中というのがどちらともいえないような中途半端な状態であり、そんなどちらに転ぶかわからないような状態を保つことが、何かをやっている最中の継続に結びつくわけで、そんな状態を延々と維持することに何の意味があるわけでもなくても、そこから成り行きを進めて何らかの結果を出さないことには意味も意義もないと思われるだろうが、結果が出てしまうことがそんな中途半端な状態の終わりを意味すれば、いつまでも中途半端な状態に留まっている人は終わってしまうことを恐れているのかも知れないが、いつかは終わるのであり、いつかは終わることがわかっていれば、終わらないようにするにはできるだけ中途半端な状態に留まることが最善ではないにしても次善の策であり、はじめからそうなることが目標ではないものの、成り行き上そうなってしまうようなこともあるだろうし、真の目標に至る途中ではそんな状態に留まり続けて機会をうかがうような事態にもなるわけで、その期間が長いか短いかはそこでやっている内容にもその場の情勢にもよるだろうが、そんな状態を保とうとして保てるわけでもなければそういう状態を強いられてしまう場合もあり、それが外部的な要因や内部的な事情から強いられてしまうにしても、なかなかそこから抜け出せずに停滞している状態が思いのほか居心地がよく、かえってそうなっている方が都合は良ければわざとそんな状態を保っているようにも思われて、そういう状態を保っていることから生じる利益や利権があれば、利益や利権に与るには逆にそういう状態を保つことが目的となってしまい、そういう状態の目的化が事のはじめから生じるのではないにしても、途中からならいくらでも生じてくるのかも知れず、事の是非はともかくそうなってしまうことが状態を安定させているのだとすれば、そういう状態に慣れてしまえばいつまでもそんな状態に留まり続けたいという思惑も生じてきて、逆にそこから抜け出てしまうことを恐れるあまり、抜け出そうとする行為を押しとどめるようなことまでやってしまえば、それが停滞の期間をさらに長引かせるようにも作用してしまい、それを悪循環と見なすわけにはいかなければ、そうなっていることを正当化するような論理や理屈が求められるだろうし、それを保守派の論理と見なせば現状の妥当性が感じられるようになるのかも知れないが、集団の中でお互いに抜け駆けしないように警戒しながら足を引っ張り合っているのが停滞を長引かせる戦略となると、そういうやり方が通用しているうちはひたすらそんなことをやり続けて、お互いの心身を消耗させながら状況的にはじり貧に陥っても、集団の中での相対的な安定は保てるわけで、それが賢い戦略かというと視野狭窄に陥っていればそう思われるとしても、それ以外にやり方が見つからなければ自然にそういった成り行きへと落ち着くわけで、その良し悪しは悪いに決まっているだろうが、だからといってそれよりもマシなやり方を見出せるわけでもなく、集団の内部がそれ一辺倒になってしまえばもはやそんなことをやっている人しかいなくなり、いったんそうなってしまえばそれ以外の可能性が何もないように思われてしまうかも知れないが、それは集団の内部でそうなっているに過ぎず、集団の外部や他の集団ではそれとは異なることをやっている可能性もあるわけだが、集団の内部しか見ないような視野狭窄に陥っているとそれがわからないわけで、そんな集団には未来がないように思われてしまうかも知れないが、未来がない代わりに現状の停滞があるのだろうし、そんな停滞の中に未来への可能性が見出されてしまうわけで、それを幻想や妄想と見なしてしまうと身も蓋もないが、集団の内部では誰もそうは思っていないはずで、現状が現状として確かな手応えを伴った実態が感じられる限りでまだそれなりにやりようがあると思われてしまい、実際に誰もがそういう成り行きへと持って行こうとするのかも知れないが、そういう試みが必ずしもうまくいかなくてもかまわないのであり、そこでも強引にそういう成り行きへと持って行ってしまうのではなく、持って行こうとする過程の中に留まり続けることが目標となり、そうやって絶えず何かをやり続けている状態の中に留まり続けることによって、停滞していると同時に安定した状況を作り出したいわけで、それが保守的な戦略の全てとは言わないが、そうした戦略をあからさまに表明したり積極的に推進しようとするのではなく、なし崩し的にそういう状態へと落ち着いてしまうようにしたいわけではなくても、集団の中では何事もそうなるように仕向けられるような秩序が構成されていて、そうなる可能性が高いというか、世の中の情勢が推移している中では必ずそうなってしまう時期があり、そんな限られた期間の中でうまく立ち回って主導権を保とうとするのが保守的な戦略であり、またそんな期間をできるだけ長く保とうとするわけだが、たとえそんな期間の中で口先では改革を唱えていても、改革が実現してしまっては困るというか、実際にも改革を実現させようとは装うわけだが、しかもその気になって改革を断行しているつもりであっても、なぜか結果が伴ってこなければ、それでもかまわないとは口が裂けても言わないが、改革を実現させるというよりは改革を実現させるためにあれこれと努力している期間の中で主導権を保っている状態が保守的には求められているわけで、そういうところがややこしいところでもあるが、わざとそうしているわけではないとしても自然にそうなっているように見えてしまうわけで、そういうところでわざとそうしているとか民衆を欺いているとか批判することもできるわけだが、そういう批判を真に受けて批判している勢力に加担しても得られるものは何もなく、むしろそこで主導権を握っている保守派の方へと向かえば得られるものがあるかも知れないし、それが社会的な地位や名誉や金銭的な利益であれば他に言うことは何もないのかも知れないが、うまく立ち回ってそうしたものを得る人も少なからず出てくるだろうし、自分たちになびいてくる人や団体にそうしたものを分け与えることによって保守派の主導権が保たれるわけで、それが現状で横行している政治的な行為の実態でもあるわけだが、それでもあからさまにそういった行為が顕在化してしまってはまずいだろうし、違法行為は隠蔽されなければならないにしても、それだけではないように見せかける必要に迫られるから、何やらオリンピックだの万博だの大げさなイベントの類いを目くらましのように仕掛けようとするわけで、そんな類いの中にはリニア新幹線だのも含まれるわけだが、果たしてそんなことが実現してしまうことが停滞の時期と言えるのかとなると、そうした大規模な何かを実現するために努力しているうちは世の中が発展しているように思われるかも知れず、たとえそれらが実現したとしてもその利用者が大していないとしても、何か目に見える大げさな構築物を大規模に造っている実感を多くの民衆が共有できるわけで、それはエジプトのピラミッドでもギリシャのパルテノン神殿でも中国の万里の長城でも奈良の大仏でも似たような効果を狙って造られたのかも知れないが、そういったものを造る成り行きも何か自然の成り行きのように思われるとすれば、そこに人類の文明の普遍的な共通性を見出さずにはいられないが、そこで多くの民衆が自然な成り行きに従っているように感じられてしまうのも保守派の強みだろうし、それに比べればそうした行為に逆らう理性や知性に特有な何かとってつけたようなぎこちなさを不快に感じられて、多くの民衆にそれらが敬遠されてしまう成り行きもあるのかも知れず、他の何よりも欲望を催す感情に逆らって身を律することができないわけで、それができないから歯止めとして法律の類いがあるとしても、どちらをとるかと言われれば法律に違反してでも感情を優先させてしまうだろうし、もちろん建前上は法律を守っているつもりだろうし、実際に法律を破ってひどい行為に及んだ人を叩くようなことまでやってのけるのだが、その裏では自分や身内の法律違反は黙認するだろうし、身内の中では法律以前に守るべき掟があり、それが社会的な共同体の慣習に従うことでもあり、それも無自覚に従っている限りで結果的に法律違反に至ってしまっても矛盾すら感じないのかも知れず、そういった方面では嘘をついても違法行為をやっても無自覚に黙認されて、嘘を嘘とは思わないし違法行為がいつの間にか合法行為に化けてしまってもそれが当然のことのように思われてしまい、そうなると何をやっても都合の良いように解釈すればやりたい放題のように思われるかも知れないが、そういう行為が横行している現状を嘆いて批判したり糾弾するような事態にメディア的な状況が傾く時であっても、そこでもいつの間にかもっと悪いことをやっている人や集団が他にいることになってしまい、それが隣国の政府や国内の反国家的な勢力であったりと、次々に目くらましの対象を挙げては逆にそれらの悪行を糾弾していくわけで、もちろんそんなことを信じているのは少数派かも知れず、大半の人たちはそんな行為にも見て見ぬふりをして、無関心を装いながらも目先の利益を追い求めているうちは、現状維持へと姿勢や態度を落ち着けるわけだが、それでも済んでいるうちは実際に現状が維持されているのかも知れないし、それでは済まなくなるような心境にいつかはなれるかと言えば、そうなったときにはそこでも性懲りもなくうまく都合の良いように立ち回ろうとするのではないか。


8月27日「小細工なしの状態」

 物事を単純化して捉えるような思考から離脱する必要があるかというと、それも一概には言えないし、思考の対象となる物事にもよるだろうが、物事の白黒をはっきりさせれば、それが単純な思考から導き出された答えになるのかといえば、そう受け取ってもかまわない場合もあるだろうが、例えば囲碁の盤面がそれだけで何を意味するとも思えないし、ルールを何も知らない素人が途中の段階でどちらが優勢なのかを見極めることは困難であり、ただ白い碁石と黒い碁石が乱雑に四角い碁盤の上に置かれている光景を見ても、どういう理屈に基づいてそれらの碁石が並べられているのか理解できないだろうが、白か黒かどちらかの碁石で碁盤上の一定の領域を囲めばそれが獲得した陣地であり、最終的に広い陣地を獲得した方が勝ちなのだが、それに加えて相手の碁石を自分の碁石で囲めばその石を取れるルールもあり、言葉で説明すれば単純なことのように思われるが、実際にやってみるとそこに複雑な読みが入っているのがわかるだろうが、それを単純に陣取りゲームだと見なすこともできるわけで、興味のない人はそれでかまわないわけだから、そういう水準では物事を単純化して捉えてもかまわないわけだが、人によってはそれでは済まないことにもなるだろうし、囲碁というゲームにのめり込んでいる人にとってはそうも行かない事情が出てくるわけだろうが、それが他人事に過ぎなければそんな事情など無視してもかまわないのだが、そこではそれでもかまわなくても、それとは別の何かにのめり込んでいれば、そこではそうも行かなくなってしまうわけで、他人から見れば単純化して捉えてもかまわないことであっても、単純化できない事情を抱え込んでしまった人にとってはそうも行かないだろうし、実際にそうも行かないと自らがとらわれている事情を優先しなければならないわけだが、それを優先したからといって何のメリットも感じられない他人にとっては何でもないことになってしまうかも知れないし、その人が勝手にその人の事情を優先させているだけのことだと単純化して解釈できるわけだが、それだけでは済まなくなるとしたらそれはその人にかかわってしまうからだろうが、その人にかかわることに何のメリットも感じられなければ、わざわざかかわるようなことはしないだろうし、何かしらメリットを感じるから他の誰かがその人にかかわってくると解釈してしまうことも、物事の単純化になってしまうだろうが、それが誰にとってのメリットとなるのかについても、その人にかかわろうとする人にとってメリットとなるのか、あるいはかかわる対象となる人にとってメリットとなるのか、さらには双方にとってメリットとなるのかによって意味合いが異なるだろうが、何のメリットもないのにかかわるような成り行きになってしまうと、そういうメリットがあるだのないだのの単純な理屈では理解できないことになってしまうだろうし、なぜかかわってしまうのかよくわからないままかかわってしまったときが、それに関してうまく説明できないような現象となって、それを説明しようとする人を悩ませるわけだが、そういった物事の割り切れなさをうまい理屈によって単純に割り切れるとは思えないだろうし、それを強引に割り切って説明してしまうとフィクションになってしまうわけだが、それがそこで生じている物事の単純化ともなるわけだから、そういうところでわかりやすい説明に出くわせば、その十中八九はフィクションだと見なしてもかまわないかも知れないが、逆にはじめからフィクションを装っているのに、何やらそこに込み入った事情が絡まってくると単純な理屈では割り切れなくなってしまい、そういうところでは単純な物事の成り行きを複雑に込み入らせて魅力的に見せかけようとしているのかも知れないが、そういうことまで考慮に入れるとそこに恣意的な思惑が介在していることになり、それが人の解釈を阻もうとする思惑であり、解釈から逃れ去るような面を意識させたいわけで、なぜそうさせたいのかといえば、魅力を感じさせるには謎が必要なのかも知れず、すぐに解釈できてしまうような物事だと解釈できた途端に関心がなくなってしまうから、そうならないようにするには安易な解釈を阻むような謎が必要となってくるとすれば、それがもとからあればあえて謎をねつ造する必要はないが、それがなければ後からそこに謎を付け加えるような細工が必要となってくるのかも知れず、それが物事を魅力的に見せかけるための人為的な小細工となってくるのかも知れないが、中にはどうやっても手の施しようのないあからさまな物事もあるだろうし、大抵の人はそういった物事には魅力を感じないし興味がないのかも知れないが、そういった物事にかかわっている人はそれを何とかしてごまかしたいわけで、例えば何か別の興味深い現象をそれと関連付けて語ろうとするのかも知れず、それが歴史的な経緯となってくるとひたすら古代へと遡って、そこで何か重大な物事の起源が生じたという話をねつ造する成り行きになってくると、そういった今あからさまにおこなわれていることの大げさな理由付け自体に魅力が生じてくるのかも知れないが、そうなった理由や原因や起源にいくら魅力があっても、現状であからさまにそうなっていることには魅力がないわけで、そこに何か錯覚や勘違いが生じているのかも知れないが、要するに理由付けとしてねつ造された歴史的な起源を切り離して、現状でおこなわれていることだけについて考えてみれば、それがどうということはない争いや戦いに過ぎないわけで、それを煽っている人や勢力までが毎度おなじみのメンツでしかなければ、それに伴って生じている騒ぎ自体も延々と繰り返されてきたことでしかなく、そういうことまで考慮に入れると別にそれが興味深い現象だとは思えないわけだが、そこにかかわってきた新たな要素を付け加えると何かこれまでにない新しい局面が出てきたようにも思われるわけで、それが昔ながらの歴史的な起源のねつ造などではなく、現状で起こっていることの別の側面になるとすれば、これまで説明に用いられてきたわかりやすい理屈とは別に、容易には理解しがたいような謎の作用が新たにもたらされていることになるが、それが現状の資本主義的な経済の論理とは違う何かだとしても、それによって資本主義経済が脅かされているのではなく、ただそれとは無関係な面が顕在化しているように見えるのであれば、たとえそれが新たな成り行きの出現であっても、実際に何をもたらすのでもなく、想定された変化の一つとして新たな要素が付け加えられたに過ぎないわけだが、そこにかかわってきたのがこれまでとは全く違う種類の人たちということではなく、むしろ伝統的にそうした問題について発言してきた人たちではあっても、そのかかわり方がこれまでとは一線を画するような仕方でかかわってくれば、そうなっていること自体が世の中の状況の変化を物語っていて、何か風向きが変わってきたというよりは、根本的な変化の兆しが感じられるような事態となってきたはずだが、まだそれは兆しでしかなく、本格的に世界の変動が引き起こされているわけではないし、そうなるには下手なこれ見よがしの小細工ではなく、何か誰にとってもはっきりと感じられるようなことをやらないと、いつまで絶っても兆しのままに留まってしまうのかも知れず、それが兆しのままであればやがてそんな期待も落胆に変わって忘れられてしまうだろうし、それでかまわなければこれまでの延長上で世の中の物事が推移していくしかないのかも知れないが、誰がそんな変動を引き起こせるのかといっても、他の誰でもなく自らが世界の変動に加担しなければならないわけだが、それによって世界がどう変動するのかといっても、そんなことは誰も知るよしもないことだろうし、結局は誰も知らないうちに世界が変動し続けていて、その変動についていくとかいかないとかということとは無縁の領域で変動していて、今がそんな変動の一端が顕著に表れている時期でもあるのだろうが、それが人や集団の活動に無視できない作用や影響を及ぼしているとしても、意識は昔ながらの歴史的な経緯の連続性にとらわれているだろうし、そうならざるを得ないとすればそれでかまわないわけだが、そうやって相変わらずの心理状態の中で以前と同じようなこだわりを持って事態に対処している気でいれば、多くの人がそんな気になっているうちに勝手に世の中が変化してしまえば手間が省けるのかも知れないが、たぶんそういうことではなく、それなりの困難が待ち構えていて、それは今もそうなのだろうが、そんな困難をかいくぐっているうちに人々の心の中でもそれなりの心境の変化が起こって、そんな心境の変化に合わせてこれまでの行動や行為も改められるのだろうが、それもこれまで通りの論理や理屈に基づいて行動して動作するような人たちとの争いや戦いの中で変わっていくのかも知れず、それがそれらの人たちには論理や理屈ではなく心情や感情にまかせてそんなことをやっているように思われるにしても、論理や理屈を正しいと思う気持ちを正当化したいからそんな心情や感情も生じてくるわけで、そういう人たちにとってはこれまで支配的に機能してきた世の中の秩序に反逆するような人たちが許せないだろうし、それもかけ声やポーズだけではなく本気で世の中をぶっ壊すような行動に出ている人たちが恐ろしく思われるから、自己防衛としての攻撃をもたらすわけだが、それが見せかけではない本当の動乱状態に陥っていることを実感させるわけで、しかもそれに輪をかけて別の方面からの力も加えられていて、それらが複雑に絡み合いながら混乱に拍車をかけるような相乗効果をもたらしているようにも思われるのだろうが、それが世界中でそうなっているように見せかけているのが、メディア上でおこなわれる様々な出来事の誇張表現であり、もちろん本当にそうなっているから誰もがそれを真に受けて危機感を募らせるわけだが、たぶんそれはメディアが仕組むような小細工などではなくあからさまにそうなっているのであり、過去の歴史的な経緯などを持ち出すまでもなく現在進行形でそうなっているわけだから、それが真に動乱の時代のただ中にいることの証拠でもあり、いつの間にかそうなってしまったと思っておけばいいのかも知れない。


8月26日「自由落下の法則」

 人がどこまでも落ちていくのは自由落下の法則に基づいていて、その落下に歯止めをかけているのが地表面となるのかも知れないが、それは比喩表現ではなく現実に起きていることでもあり、人の落下を食い止めるために地面があると考えておけば安心できるかも知れないが、それでも落下し続けているのであり、絶えず下降し続けているはずだが、何がそうさせているのかと言えば地球の重力が人を地球の中心へと引き寄せていて、人と地球との間には万有引力が働いていると解釈してもかまわないが、それが常時働いている力なのだから、地上で生きている限りは逆らいようのない力でもあり、それがいやなら宇宙空間にでも飛び出して地球圏外へと移動してしまえばいいのかも知れないが、誰もがそんなことができるわけでもなく、できたとしても地球圏外で生きていけるかというと、そのままではほぼ全ての人が生きていけずに死んでしまうだろうし、地球圏外へと飛び出すこと自体が現状では無謀で不可能なことかも知れず、そんなことを実行に移せる人も現時点ではほぼいないわけだが、それが何を意味するのかというと、人が落ちてゆくのは仕方のないことだと解釈するのではなく、人の落下を地面が阻んでいると考えるのでもなく、日々の日常生活の中でそんなことを意識しているわけではなく、絶え間なく常時働いている力はそんな現実がそこに実在していることの前提条件でしかなく、その条件を受け入れるか受け入れないかの選択肢などないわけで、そんな力が自身に働いていることを忘れているのが普通の感覚だろうし、しかもそれは知識として習ったことでしかなく、それを忘れていても普通に暮らしていけるわけで、それがどうでもいいことではないとしても、それ以外のことに関心があってもかまわないのはもちろんのこと、そんな知識を思い出すことよりも優先すべきことがあるのが普通の状況であり、実際にほとんどの人がそれ以外のことを優先させていて、それはそう言われてみれば思い出す程度のことでしかないわけだが、他にも現状が成り立つ上で欠かせない前提条件などいくらでもあるかも知れないが、そうした条件をいちいち調べ上げる必要はなく、知らなくても現状の中で生きて行くには支障をきたさないことなどもいくらでもあり、そういった様々な条件が現状を構成する要素となっていて、それらが相互作用を及ぼし合って絡み合いながら現状が構成されているわけで、そうなっていること自体が当たり前のこととして多くの人に受け入れられているわけだが、それを受け入れられない人も中にはいて、受け入れられないような立場や境遇があるかというと、現状に対して抵抗感を覚える人には現状を構成する要素の中で受け入れられないものがあり、それをはっきりと特定できる人もいる一方で、はっきりとはわからないが、ただ漠然と現状への嫌悪感を抱いている人もいるだろうし、各々で抵抗感や嫌悪感にも差異があるとしても、それも現状を構成する要素に含まれていて、そんな現状に対する抵抗感や嫌悪感と共に現状が構成されているともいえるわけで、その辺が一筋縄ではいかないところでもあるわけだが、要するに現状に逆らっている人も現状の構成要素であり、現状に逆らっているからと言って現状に絡め取られていることには変わりなく、それに伴って現状からもたらされる様々な作用や影響を及ぼされながら存在していて、そういう意味でたとえ現状に対して抵抗感や嫌悪感を抱くことに関して正当な理由や原因があっても、だからといって現状に対して抵抗感や嫌悪感を抱いている人がまともだとは一概に言えないわけで、その人にもその人が主張している内容にも抵抗感や嫌悪感を覚えるような要素が含まれていて、その人が抱いている抵抗感や嫌悪感がその人にも当てはまるようなことにもなっていて、不快な対象について不快なことを述べている不快な人がその人自身であったりもするわけで、その人が不快な対象として批判している人についての意見には共感できるとしても、その人自身も不快な対象となっているわけだからその人を支持することはできないという二重の否定を伴ってしまい、だからその人が駄目だというわけでもなく、そんなふうに思ってしまう人についても他の人にとっては不快な対象でしかないかも知れず、結局は現状に対して抵抗感や嫌悪感を抱いていれば、現状の中で存在している人にも抵抗感や嫌悪感を覚えるような面が含まれていることにもなり、その種の不快感を覚えるからこそ似たもの同士がいがみ合うような現象も起こるわけで、それは物体の質量や物体との距離によってその重力から受ける影響も異なるように、抵抗感や嫌悪感などの不快感を覚える度合いも、その人と接している時間の多い少ないや距離が身近であるか縁遠いかによっても異なるだろうが、不快感を覚える強さの度合いに応じて人の良し悪しを判断しても、それは相対的なものだろうし、直接関係している人とメディアなどを通じて間接的にしか知っていない場合とではその人に対する感じ方もだいぶ違うだろうから、その人が他の人に対して感じていることとその人に対して他の人が感じていることが同じ程度や傾向を伴っているわけではないのは当然のことだが、そういう意味で人の言っていることを鵜呑みにできないのも当たり前のことだとしても、そういう前提を考慮せずに勝手に好感を抱いてしまうことも嫌悪感を抱いてしまうこともあるだろうが、それとともに実際にその人が何をやったから駄目で何をやったから良いと言ってしまえるし、またその人が何を言っているから駄目で何を言っているから良いとも言えるだろうし、それらのことも含めてもなお単純に人の良し悪しを言うことができて、別々の基準や価値観を混同しながら良いだの悪いだのと人の品定めをやってしまうこともあるわけで、そうなってしまっていることに品定めの類いにとらわれている人がどこまで自覚できるかと言えば、それが疑わしく思われるからその人が信用できなくなってくるわけだが、中には他人から必要以上に信用されて買いかぶられる必要を感じていていない人もいるだろうから、誰もが同じように万人受けするような人になる必要もないのであり、逆に人によっては嫌われている方が好都合な人というのもいるのかも知れず、そういう意味ではわざと特定の他人に対しては不快感を抱かせることが戦略として有効な状況もあれば、そう振る舞う人も出てくるのかも知れず、それに関しては左翼と称される人々に嫌われることが身内の右翼の中ではそれなりに信用を得られるのかも知れないし、それらの人たちを左翼というカテゴリーに括って嘲笑してみせることが身内から仲間として認められる条件となっていたりもして、そういうことをやっている人たちの心の内に生じているのがその種の不快感を抱かせる源泉であり、それが宿痾のように日本の政治状況を決定づけていて、たとえその人が現状の政治情勢について批判的な態度で対峙していても、根本的なところで信用できない人物に分類されてしまうわけで、それは相対的な差異とは違う決定的な何かなのであり、その何かというのが人の心を支配しているように感じられるわけだが、それが改まらない限りは誰もが平気で左翼差別を繰り返しながら、その種の人々を嘲笑し続けるだろうし、果たして本当にそれらの人々が左翼だと見なせるかというと、左翼だと見なされている人々の中でもその種の不快感を周囲にまき散らすような醜悪な心の持ち主がいくらでもいるのかも知れず、そういう行為がその人の信用が地に落ちる原因となるわけだが、そうやって身内同士でいがみ合いながら互いに互いの信用を地に落としながら自由落下の法則に従ってしまうわけだから、そういうところが自業自得に思われても仕方がないのだが、そんな支配的な空気から遠ざかって海外に目を向けてみれば、ドゥルーズが死ぬ数年前に「現在私は、自分を完全にマルクス主義者だと考えています。例えば、「管理社会」について書いた記事は、マルクスが彼の時代には知り得なかったことを語っているにもかかわらず、完璧にマルクス主義的なテクストです。マルクスは間違っていたなどという主張を耳にする時、私には人が何を言いたいのか理解できません。マルクスは終ったなどと聞く時はなおさらです。現在急を要する仕事は、世界市場とは何なのか、その変化は何なのかを分析することです。そのためにはマルクスにもう一度立ち返らなければなりません。」と語っていたのが思い出されるが、そんなことを語っていたからといって人はドゥルーズを左翼には位置づけないだろうし、小難しくも読むのに難儀しそうな分厚い哲学書の著者でもあるドゥルーズの信奉者なら、自らマルクス主義者だと宣言しているにもかかわらず、その人を左翼に分類しないのは不条理そのものになってしまうかも知れないが、その人が普段から左翼だと小馬鹿にしている人たちと師と仰いでいるドゥルーズを同列に扱うなど言語道断であり、左翼は左翼でドゥルーズとは別にいて塵や芥のような存在として小馬鹿にしたり嘲笑できる対象が用意されている一方で、ドゥルーズについてはそういう矮小な左翼的な小物とは別格の存在として取り扱うような差別を平然とやってしまうわけで、しかもそれが当然だと思われてしまい、ひょっとしたらドゥルーズ本人も自らを他のマルクス主義者とは一線を画していたなどと想像できてしまうところが、そういった偏見の根深さを物語っているわけだが、そんな宿痾を抱えながらも、それとは別の方面から考えなければならず、それに関しては少なくとも他の左翼とドゥルーズを分けて考えてしまうようなことはせずに、そういう差別意識を心情的にやり過ごすことはできないにしても、何かの弾みでそんな差別に加担してしまうような言動に至ってしまうとしても、そういうことを思わず口走ってしまうような重力場の中に自らがとらわれていると考えておけばいいのかも知れず、そこから離脱することはできないとしても、知識としてそうなってしまう傾向があることを踏まえておけばいいわけで、何か思考したり行動するときにはできるだけそうならないように注意しながら思考したり行動するしかないだろうが、それでも何かのきっかけでそうなってしまったら、それに気づいた時に反省するしかないのかも知れない。


8月25日「何でもない時代状況」

 それを信念と言ってしまうと勘違いになってしまい、誰もがそんなことを考えているわけでもないし、それ以外に何を考えているわけでもないのだろうが、なぜか今でも頑なに信じていることがあるらしく、それが何かといえば現状でも昔からありふれていたことだと認識しなければならないことでもあり、それを衆愚的な状況と見なしてしまうと間違った認識になってしまうかも知れないが、それでもそう見なしてもかまわないのだが、それを認識するのではなく、その中で何をやればいいのかと問うのでもなく、そんな安易な問いに答えようとするのでもなく、誰もがその中で何らかの振る舞いに及ぶはずだが、それに反応して何らかの姿勢をとるのではなく、それが定まった姿勢というよりは型にはまった形態や動作とは違う行為に至る必要があり、それが何なのかはっきりしないまま、何を述べているのでもない領域に留まり続けることによって言説の困窮をもたらしているのかも知れないが、自身が何でもないような時代の中で生きている何でもないような存在であることに耐えられるかと言えば、誰もがそうは自らの現状を捉えていないだろうし、大抵の人はそんな現実から目を背けているはずだが、それをもたらしているのが世間的な何かであり、その世間的な何かに身を委ねている限りでそこから目を背けていられると言えば、それが間違った認識のようにも思われてくるわけだが、何でもないような人たちに向かって何かを訴えかけている人も中にはいるだろうし、何を訴えかけているかといえば、あなた方は何でもないような時代の中で生きている何でもないような人たちだと訴えかけているわけではないだろうし、すでにあなた方は終了してしまった人たちだと訴えかけているわけでもなく、もはやあなた方には何の可能性も残されていないと訴えかけているわけでもないが、逆に世の中の何でもない現状を憂い、これから夢や希望の持てる世の中にしていこうと訴えかけているのかも知れず、それが何でもない時代に生きる何でもない人たちに向けたありふれたメッセージとして機能しているのかも知れないが、そんな人が言いたいのはひねくれて現状を否定的に捉えては駄目だと言うことかも知れず、もっと現状を肯定的に捉えて前向きに生きていこうと訴えかけているのだろうが、現代が何でもない時代であってそこで生きている人たちも何でもないことが否定されることなのかというと、この時代が何でもないはずがなく、この時代に生きている人たちも何でもないはずがないと思えば、それは否定されるべき認識となるはずだが、ならば果たして現状で何が肯定されるべきことなのかと言えば、それに関して取り立てて何も皆目見当もつかなければ、やはり何でもないことだと思われてしまうわけだが、それでも何でもないことが肯定や否定を含まなければ何でもなくてもいいのかも知れないが、そうであれば人々に向かってわざわざ何でもないことを訴えかける必要はなく、ましてや終了してしまった人たちだと言い放ってしまうとあからさまに否定していることになってしまい、そういう意味では否定的に受け取られる言葉の使用は避けたいところだが、ではこの時代やその中で生きている人々をどう表現すればいいかとなると、まずは現代を過ぎ去った時代のように表現すべきではなく、現代の中で生きている人々を一つの言葉を用いてこうだと決めつけるのも何か大雑把すぎて正確さを欠いているように思われるが、全体として時代の雰囲気を表現するならそうならざるを得ず、しかも現代や現代人を否定的に捉えることもありふれているだろうし、そう表現すればそんなふうに思われてしまうようなことを安易に述べてしまえるわけで、そうやって何でもない時代に生きる何でもない人々として現代と現代人を否定的に表現することになるのだが、それがあながち間違ってはいないように思われる面が世の中にいくらでもありそうなら、そう捉えてもかまわないだろうし、別にそう捉えることを否定する必要はないわけだが、それと同時にそうではない面もいくらでもありそうなら、そういう面も考慮に入れた別の表現も可能となるはずだが、そのどちらでもかまわないということではなく、どちらかと言えばわざと挑発的な意味を込めて、現代を何でもない時代と捉えて、現代人を何でもない人たちと表現した方が面白そうであり、あからさまにそう表現すること自体が煽動的な行為にも結びつくのかも知れないし、本当にそうかというとそうでもない面もあるだろうが、それが真実として現代を何でもない時代だと捉えて現代人を何でもない人たちだと見なしたいわけで、そう言い放つことによって叱咤激励するような意図はなく、言い放っていることでさえもないわけだが、では何なのかと言えば、本当に何でもないことであり、それは肯定でも否定でもなく、皮肉を込めてそう述べているのでもないということがわかりにくいのかも知れず、それと比較してかつても何でもないような時代があったかというと、いくらでもあったのかも知れず、それが何でもないと直接表現されることはないが、何でもなくてもかまわないような時代が過去にもいくらでもあって、その時代には何でもないような人が実際に大勢暮らしていて、そこでは誰もが何でもないままに生きて死んでいったはずだが、その何でもなさと現代の何でもなさとの間に違いがあるかと言えばそれなりに違うだろうが、それでも何でもないこと自体は同様に何でもないのかも知れず、少なくともそれが栄光の時代とは認識されないわけで、しかもそうであるからといって何でもない時代の中で何でもない人たちがどう生きるべきかが問われているわけでもないだろうし、そこでは誰もが何でもない時代にふさわしく生きていて、何でもないようなことを思い、何でもないようなことをやりながら生きているわけで、それが何でもないことの証しとなっているから、何でもないような世の中だと思われるわけだが、そんな時代状況をもたらしているのが何かと言えば、人々の何でもないような思いや考えであり、それに伴って生じる行動や行為でもあり、さらには何も思わず何も考えずに何でもないような行動や行為に駆り立てられている日常でもあり、それが何かをやっているように見せかけながら実質的には何もやっていないという活動の形骸化が、何でもないような時代状況をもたらしているともいえるのかも知れないが、それらのことごとくが本当に何でもないように感じられるどころか、逆にそれをそう言葉で表現することから遠ざけられていて、何でもないのにわざわざそれを言葉で表現したり、それについて述べる必要を感じられないのであり、だから何でもないことには言及がないのかも知れないが、ではその代わりに何について述べられているのかと言えば、たわいないことを述べているのかも知れず、それがたわいないことだとは思われないのかも知れないが、それをそうは思わないこと自体がたわいないことであり、そんなたわいなさを感じさせないようにするために、何もかもが大げさに言い立てられているのであり、それが言葉による煽り立てになるわけだが、そんなことが大げさにメディア上で取り上げられてさも重大事のような捉え方をされているわけだから、それがより一層のたわいなさや何でもなさに感じられてしまい、そんな騒ぎ屋によるインフレ的な言語表現や過剰演出にもそれがこれでもかと度重なると飽きてしまい、次第にその手の煽動からも遠ざかってしまえば、さらにより一層何でもない感が心の中で増幅されてしまうのかも知れず、いくら騒ぎ立てられてもむなしさがこみ上げてくるようなら、それが何でもないことの証しだと思われてくるかも知れないが、果たして世の中の全てをそう捉えてもいいのかと言えば、それが全てではないとしても感覚として何でもない面にばかり接していれば次第に麻痺してくるわけで、そこで世界とはそんなものかと思ってしまうと世の中をなめていることになるわけだが、そう思うように仕向けられているとすれば、そう仕向けている何かに従っておいた方がいいのかも知れず、それもそこでは素直に従っておいて、そう仕向けている何かを安心させておいてから、機が熟す頃合いを見計らって隙を突いて反逆の狼煙を上げるとか、そういう作り話めいたことではなく、単に何でもないと思うように仕向けられているだと状況を捉えておいてもかまわないのかも知れず、たとえそれが勘違いだろうとかまわないのであり、そこから反転攻勢をかけるわけでもないし、反逆や反転攻勢などの逆転をわざわざ狙わなくてもかまわないのであり、そういう寝た子を起こすような騒ぎ立てならメディア上の煽動者たちが飽きるほどやっていることであり、もはやそういう騒ぎ立てには誰もが辟易しているだろうし、それ自体が終わっているわけで、すでに騒ぎ立ての時代ではないことを誰もがわかっているのに、その終了に気づかないふりをしているのかも知れないし、そんな偽装を真に受けてしまうと、かえってそこで勘違いしてしまうのであり、今やそういった騒ぎ屋による煽動に踊らされる成り行きを脱して新しい試みに挑戦しなければならない時期にさしかかっているといえるのかも知れないが、それに気づいている人がどれほどいるかとなると、はっきりしたことは何もわからないだろうし、それに気づいている人も今のところは暗中模索の最中かも知れないが、その暗中模索や試行錯誤をやっている人もそんなに多くはいないだろうし、そういった試みが市民権を得て世間に定着して、それを真似た商売が横行するような情勢になってしまえば、もはやそんな行為は実質的にはオワコンとなってしまい、そういった行為にはパフォーマンスとしての形骸化が進行中でもあり、それに気づくだいぶ前から腐食や腐敗に蝕まれながら終了が間近に迫っていると捉えておいた方がいいだろうし、またそういう状態が破綻しないように保ちながら、終了を先延ばしにしようとする妥協的な試みも執拗におこなわれるわけだが、それが何でもないような時代の閉塞感も同時に醸し出しているわけで、そんな焦れったくも往生際の悪いことを延々と続けようとすればするほど、そんなたわいない行為を大げさに見せかけようとするだろうし、そうやって時代も時代の流行に踊らされていた人々も終了しているのに、その終わりをひたすら引き延ばそうとすること自体がその手の何でもないことの全てかも知れないが、それでもそれをやり続けようとして多くの人たちが努力しているのが偽らざる現状なのではないか。


8月24日「自主的な判断」

 人の活動が他人から影響を受けて他人と同じような活動になるのは普通の成り行きのように思われるが、それも何から何まで同じになるわけでもなく、一人だけでなくいろいろな人から影響を受けるから、それらの影響が混じり合って、さらにその人独自の生い立ちや事情や経緯も少なからず活動に作用や影響を及ぼすから、それらが複雑に絡み合って他人とは違う面も出てくるだろうし、さらにはその人の人間関係や社会的な立場や地位や境遇などによっても活動の内容が限定されてくるから、そうした条件や制約に縛られた活動になってくると、その人の意志や意向だけでは活動が成り立たないことにもなってきて、そうなると思い通りにはならないことも多くなってくるし、場合によってはそれだけ精神的なストレスも増えることになるだろうが、それと引き換えにして得られるメリットもそれなりにあれば、そこで損得勘定のような打算が働いて、多少の不満があってもそんな立場や境遇を受け入れることになるかも知れないが、受け入れられなくても強いられてしまうかも知れないし、さらにはそうなるように仕向けられてそう促されていると、それに依存しないと生きていけないようにされてしまったり、そういう作用や影響が様々な方面から及ぼされると、果たして自発的にそんなことをやっているのか疑問に思われてくるかも知れないが、外部からの作用や影響をどの程度意識できるかも自らの主体性や自主性に少なからず影響を及ぼすし、自らの意志で判断しながらやっていることがそう判断するように仕向けられているとしたら、そう判断するように仕向けている誰かの思惑に操られているようないやな感じを覚えるわけだが、そうはいっても年がら年中そんな猜疑心にとらわれているわけでもなく、それは何かのきっかけから魔が差してふと思ってしまうことでもあり、疑う余裕がなければとりあえず必死になって目の前の課題に取り組んでいるだけで時間が過ぎ去ってしまい、そんなせわしない状況にとらわれてしまえば、それ自体がそういう状況へと誘導している誰かの思うつぼであっても、その誰かというのがよくわからない場合もあるだろうし、それが特定の誰というわけでもなく、世間的な集団意志のような傾向の同調圧力のような作用かも知れないし、そういった得体の知れない漠然とした作用や影響に従えばいいのか逆らえばいいのかよくわからない状況の中で何らかの判断を迫られると、それだけではどう判断すればいいのかわからないし、またどう判断してもそう判断するように仕向けられているようにも思われてしまうし、そうやって迷い戸惑っているうちに無駄に時間を費やしてしまい、結局何も判断しないことを選択してしまって、それもそう仕向けられているように思われてきて、そんなことを疑い始めるときりがないのだが、そこでどう判断したところでその判断を疑うように仕向けられてしまうとすれば、またそこで何をどう判断してもそんな判断など何の効果も影響もなく事態が進行中であれば、そこに巻き込まれている各人が各々で様々な独自の判断に基づいて行動しているつもりでいても、全体としての物事の推移や流れを押しとどめるような力にはならず、そんな状況に応じてそこに様々な判断のバリエーションがもたらされているだけで、そこに用意されている選択肢の一つを誰かがたまたま選んでいるに過ぎないとすれば、そうした判断自体がそこで事前に与えられている中から選んでいることでしかなく、自主的には何も判断していないことになってしまうかも知れないが、それもそう思えばそう思わされているように思えてしまうようなことでしかなく、どう思ってみてもそれでかまわないようなことでしかなければそう思っておいてもかまわないのだが、自らの思いを特に他から分離しなくてもよければ、それが自らの思いや考えに基づいた判断でなくてもいいと思うしかないのかも知れず、それがその場の状況に応じた判断となってしまうわけだが、そう判断したところでその場には何の影響も効果も及ぼしていないように思われるなら、自らが何の影響力も持ち合わせていない存在だと思うか、その場の状況に完全に溶け込んでいて、その場と一体化してしまっているのか、そのどちらかでありどちらでもあればそういうことでしかなく、どちらでもなければ自身がその場とは無関係な存在であり、無関係なことをやっていると思うしかないが、それもそう思うように仕向けられていたり思わされているとしても、それでもかまわないのかも知れず、かまわないどころかそう思っておいた方が気楽になれるのかも知れないが、そうなっているだけでも当人にとってはありがたいのかも知れないし、そこで何か重荷を背負わされるような使命感の類いとは無縁でいられるような状態へと持って行きたいという思いがそうさせているとしたら、もしかしたらそれが自主的な判断でそうさせているのかも知れず、そうなればしめたものというわけではなくても、自由とはそうやってもたらされるものでしかあり得なければ、それがそこでの真の自由だと思うしかないし、自らが主体的に判断する自由がその場に介入しない自由でしかなければ、それは消極的な自由だといえるかも知れないが、では自主的に判断してその場に介入するとどうなるかといえば、場合によってはその場でおこなわれている争いや戦いに巻き込まれることになるだろうが、実際にそうやって争いや戦いに巻き込まれてしまう人もいくらでもいるのかも知れず、当事者からしてみれば誰に頼まれたわけでもないのに勝手に争いや戦いに介入されると鬱陶しいだろうが、そういった行動を促すような魅力が争いや戦いにはあるのかも知れず、だから争いや戦いの当事者たちはそれをゲーム化したいわけで、参加条件や参加資格を事前に決めて、その条件や資格を満たさない者を排除した上で自分たちが主導権を握ってゲームそのものを管理して、結局そこから利益を得たいわけだが、そんなゲームに誰が参加するのかといえば、誰もが利益を得るために参加するだろうし、そういうゲームの主催者がゲームに参加するように多くの人たちを促して、実際に利益を餌に誘惑してゲームへと誘導しようとするわけで、そんな誘惑に屈した人たちが利益を求めてゲームに参加することになるわけだが、ゲームの中で勝てば利益を得られるし、勝って利益を得るためにあれこれと戦術や戦略を練ることにもなるが、ゲームの参加者たちは様々な局面で自主的に判断しながら行動しているつもりになれるだろうが、そう判断するように促されているわけだから、そこでどう判断してもゲームの主催者の手の内で転がされていることにもなるだろうし、そうなっていること自体がすでにゲームという罠にかかっていて、実際に罠にかかりながらもがいている状態がゲームの中でプレイしていることになるわけだが、果たしてそんな状態でも自主的に判断していることになるかといえばそこではそう思っておけばいいのかも知れず、そう見せかけておいてさらにそこでゲームの主催者を出し抜くための算段をあれこれと巡らしているつもりになれば、真の敵はゲームの中で戦っている相手ではなく、ゲームを主催してそこで参加者たちを戦わせて利益を得ている主催者であり、そんな主催者に反逆しているつもりになれば少しは気が晴れるだろうし、果たしてそんな不利な状況で真の敵に勝てるかというとたぶん勝てないだろうが、勝とうとは思わなくてもかまわず、勝つつもりでそんな算段を巡らしているわけではなく、ゲームそのものものがつまらなくて飽きてしまったから気晴らしにゲームの中からゲームを管理する主催者に戦いを挑むような無謀なことをやり始めてしまったのかも知れないが、それもフィクションの中ではよくありがちな話の設定だろうし、それさえも本気でそんな気になってしまうとそれこそが罠にかかっていることになってしまい、用心してかからないとミイラ取りがミイラになってしまうようなたとえ話の中に閉じ込められてしまうわけだが、それでもゲームの参加者が本当に利益を求めてそんな行為に及んでいるのか定かでなく、ゲームの内容によっては単なる気晴らしで参加しているにすぎないのかも知れないし、そういう意味でどこまで本気なのか単なる気晴らしなのか定かでないところが謎をもたらすわけで、たとえそこで自らの財産や生死をかけているとしても、その一方で単なる気晴らしや気まぐれでそんなことをやっている場合もあり、またそんなゲームの主催者にしても同様の定かでない動機があったりなかったりするのかも知れず、何事も本気でやっている感を阻害するような間接的な環境が地球全面に張り巡らされているような感覚をもたらしていて、それがフィクションの効果なのかも知れないが、それの何がフィクションなのかといえば、すでに誰もがそれに気づいているはずだが、同時に忘れてしまっているようなことでもあり、それに関して人の心理状態がフィクションから構成されていると思い込んでしまってもかまわないが、それでは不都合なら現実に起こっていることだと見なせばいいことでしかなく、そこでもどちらでもかまわないわけだが、どこまでもそうなっているわけではなく、そういうわけにもいかない場合があるとすれば、それらの全てが現実の世界で起こっていることだと思っておけばいいことでもあり、その場の都合でそれをフィクションと見なしたり現実の世界で起こっていることだと見なせるわけで、そこに明確な判断基準があるわけではないとすればいったいどこに判断基準があるのか定かでなくなるが、基準にも幅があって基準点がその場の状況に応じて揺れ動くような仕組みになっていれば、その場の状況に応じて恣意的に判断を曖昧にしておいてもかまわないように思われるが、全く判断しないということにはならないのかも知れず、何かしら判断しながら事態の進行に沿って行動しているとしても、それをゲームだと見なさなくてもかまわないのかも知れず、ゲームに参加してゲームに興じている状態から意識が外れることができればそこで自主的な判断が可能になり、ゲームの主催者の管理から離れて判断できるようになれば、それがゲームとは無関係な次元で判断していることになるわけだが、たとえそれができるとしても誰もがそれを実行できるわけでもないだろうし、現状で実行できる人はそれなりに限られてくるのかも知れない。


8月23日「労働の搾取」

 通念として労働者の利益が搾取されていることを幻想と見なすことが正しいとは思えないが、資本主義的な経済活動からもたらされる利益の出所が労働の搾取から出てくるとすれば、何やらもっともらしく思われるのは明らかなところではあるわけだが、実際に産業革命以来何がおこなわれてきたのかというと、機械の改良や革新が物資の生産量や流通量を増やして生産速度や流通速度を速めて経済の規模や資産の量や額を増大させてきたわけで、そう考えれば利益が機械の改良や革新によってもたらされたと見なしてもいいように思われるわけだが、その一方で現代でも世界のどこかで労働者が低賃金の長時間労働に苦しめられている現状もあるだろうし、そういうところでは労働が搾取されていることが顕在化しているわけだが、それは資本主義経済でなくても起こっていることであり、奴隷労働とか農奴制とか歴史上様々な搾取がおこなわれてきたわけだが、もちろん搾取されるのは労働だけではなく物資や金銭も領主や王侯貴族などによって一般の住民の財産が搾取されてきたわけで、日本でも江戸時代においては厳しい年貢の取り立てによって多くの農民が飢餓に苦しんできたわけだが、その延長上で企業や企業家や資本家などによって支配下の労働者が搾取されていると見なすと構図的にはわかりやすいだろうし、さらにそこから類推すると、政府によって国民が税金を徴収される形で搾取されているとも見なされるかも知れないが、そういった搾取の論理からだけでは経済の発展に伴う物質的な豊かさが何によってもたらされているかがよくわからなくなってしまうわけで、ただ一方的に搾取されるだけではどんどん貧しくなるばかりなのに、その一方で搾取している側が豊かになるという構図で貧富の格差が広がってゆくことになるわけだが、果たしてそれだけで世の中の状況を説明できるとなるとそうともいえないのかも知れず、そういう傾向が一切ないというのは嘘になるが、そればかり言い立てるとやはりそれでは誇張表現になってしまい、それが煽動者の主張となるわけだが、少なくとも住民が搾取されているとしても、搾取の対象としてある程度の数が存在していていないと搾取が有効に働かないわけで、しかも資本主義経済の中では住民が商品を買ってくれないと経済そのものが成り立たず、一般の住民が買うような商品を製造して売っている企業が存在する限りは、その商品を買えるだけの収入のある住民が存在していることになり、また政府などの行政機構としても住民がどんどん貧しくなってしまうと国力が低下してしまうし、もちろん国民が貧しくてもそれだけで国家がなくなるわけではないし、北朝鮮のような事例もあるわけだが、果たして国民がそうなることを望んでいるかというとそうではないだろうし、それに関して反体制的な煽動者などは日本がこのままでは北朝鮮のようになってしまうと政府の無策を糾弾するかも知れないが、政府だけで何とかなるようなことでもないのかも知れないし、そうかといって企業活動だけで住民の暮らしが豊かになるわけでもないだろうが、そういうところでよくわからない微妙な相互作用が働いているにしても、それに関して人は誰でも部分的で狭い視野しか持ち合わせていないだろうし、物事の全体を見通すことができないわけで、何かこうすれば国民の暮らしが良くなると主張する政治家がいて、そんな主張への賛同者もそれなりにいるとしても、その政治家の主張通りのことができるかとなるとそうはならないだろうし、そういう主張はそれを実現するために主張される以前に人々の支持を集めようとしてそんな主張をしているわけだから、多くの人に支持される主張が実現可能かというとそうでもなく、逆に多くの人から支持されるようなことを主張している場合があるだろうし、それが高じると結局はその政治家にとってもその政治家の支持者にとっても都合の良いことばかり主張するようになってしまうわけだが、そういう面ではそうなるに過ぎないことであり、そうであってもそういった主張が世の中に何らかの作用や影響を及ぼして、世の中に何らかの肯定的な変化をもたらす可能性もあるかも知れず、そればかりを一概に否定するわけにも行かないわけだが、そういうことの延長上で労働者から支持を集めるために、労働者が搾取されていることを強調する煽動者も中にはいるだろうし、現代ではそういうあからさまな主張は流行らないかも知れないが、政治家の類いがそういう内容の主張を掲げたとしても、そういう政治家や政党が世の中の主導権を握れるかというと、それも世の中の情勢次第な面があるとしても、歴史的な事例を示すなら人口の大半を占める農民が搾取され続けて飢餓に苦しんだ江戸時代が二百五十年も続いたことを踏まえるなら、たとえ現代が民主主義の時代であり、国民主権が憲法に明記された立憲国家であるとしても、搾取されている側が政治的な主導権を握ることなどあり得ないのかも知れず、稀にそういう事態になるとしても、政治的な主導権を握ること自体が搾取される側から搾取する側に回るということになり、実際に税を徴収することによって民衆を搾取する立場になるわけだが、そこでも民衆から支持を得るために大企業や金持ちからより重く税を徴収するとか都合の良い主張をしてしまうわけで、果たしてそういう主張が実現可能なのかというと、ある程度は可能であるとしても、それは現状でもそれなりに実現されていることでもあり、それでもまだ大企業や金持ちが優遇されていると主張するわけだが、それが現状で主導権を握っていない政治勢力の主張であるとなると、そんなことを主張している現状そのものが、そうした主張が実現困難であることを物語っているようにも思われてしまうわけだが、それがその種の勢力の現状での立場や境遇を反映した主張であれば、そういう政治勢力やそうした勢力に所属する政治家はそういう主張をするものだという紋切り型に合致してしまい、またそんな主張に賛同してそんな勢力を支持する人たちもそれなりに限定された社会的な立場や境遇にある人に限られるとすれば、そんな主張に対する支持や賛同もそれらの人たち以外には広がらず、極めて限られた人たちからの支持や賛同しか得られなければ、そんな勢力が政治的な主導権を握ることはあり得ないわけだが、そういう意味ではどちらかといえばそういう勢力が敵対しているつもりの搾取する側の勢力が政治的な主導権を握っていることになるだろうし、しかも民主的な政治制度が確立している国では政治的な主導権を握っている側を民衆が支持していることになるだろうし、もちろんそれらのどちらも支持しないような無関心層が過半数を占めるとしても、そんな層に属している人たちは消極的な現状維持派であり、本当に現状で主導権を握っている政治勢力に嫌気がさしていれば反対勢力に投票するだろうし、どんなに優柔不断な言い訳を繰り出そうが、それができなければ現状でもかまわないということであり、逆に言うならそういったどちらも支持しないような無関心を装う人たちによって現状で成り立っている政治体制が支えられていることになるわけだが、結局それらの人たちには現状を改めるような力がないし、現状を刷新するような妙案を持ち合わせているわけでもないだろうし、そういう人たちの存在そのものが現状を物語っていると解釈しておけばいいのかも知れないが、それでもかまわないといってしまうとではどうすればいいのかと問われるかも知れないが、結局は現状を刷新するような妙案を思いついた人がそれを主張すればいいということになってしまうだろうが、たぶんそれでもかまわないのであり、実際に思いつきでそんなことを主張している政治家や識者などいくらでもいるのかも知れず、メディア上にはその手の主張があふれかえっているのかも知れないが、それに関心があるかとなると、それなりに関心を持っている人もいる一方でほとんど関心のない人もいるだろうし、そういったことに関心を持つ人の割合を増やしていくことが現状を刷新する上で有効な方策になるかも知れないが、そういう政治的な関心事とは別に、ここ二三百年間の傾向として何が言えるかとなると、何によって何がもたらされてきたのかということに関して、必ずしも政治主導で物事が推移してきたわけでもないように思われるわけで、政治よりも経済的な関心事が先行していて、それに政治的な関心が追従するような成り行きになっているのかも知れず、要するに世の中の変化を正当化する論理が政治的な主張の中には含まれていて、世の中の変化に伴って政治的な主張も変化していくとすれば、その逆に政治的な主張に従って世の中を変化させることなどできないのかも知れず、そうであれば政治的な主張など無意味で無効なのかといえばそういうわけではなく、絶えず世の中の変化に対する反応を示しているわけで、そこで強調されていることがたとえ否定的に取り上げられているとしても、世の中の変化に対する反応としてそう主張することが可能となっていて、それが現状で主導権を握っている勢力から出される主張となると肯定的な反応となる一方で、現状で主導権を握っていない勢力から出される主張となると否定的な反応となるわけで、主導権を握っていないからこそ現状の否定的な面が強調された内容になって、それがそのまま現状で主導権を握っている勢力に対する批判として機能するわけだが、それも一種の現状認識であり、そうなっている現状を自分たちの立場や境遇を反映するような都合の良い言葉で表現していることになるのだが、そういった言葉で強調された現状を変えていかなければならないと主張する限りで、それらの人たちに都合の良いように現状を変えたいという意思表示となるわけだが、すでに現状を都合の良いように表現しているわけだから、それを都合の良いように表現していること自体が現状からのずれを生じさせていて、要するに変えるのに都合の良い部分を強調していることになり、現状からそこだけを取り出して変えられるかというと、他の面も絡んでくるわけだから、当然のことながら言葉で都合の良いように表現するようには現実の現状は変えられないわけだが、少なくともそれを主張することはできるというところが、そういった主張の悩ましいところでもあるわけだ。


8月22日「物事の状態」

 人が何らかの物体に力を加えて、その物体を折り曲げたり切断することになれば、その物体の形状を変形させたことになるが、変形という状態の変化とは少し違うが、その物体を別の場所に持ち運んだり、物体の形状によっては一カ所に集めて貯蔵することもできるだろうし、それらの動作を複合的に組み合わせれば、物体に物理的な力を加えて資本として蓄積することになり、さらにその延長上の動作として物質から情報を抜き取っても情報としての資本を蓄積することになるのかも知れず、貨幣や株式や債券などがそういった部類になるだろうが、また物質としても情報としても蓄積された中から一定量を取り出して、それを再利用したり消費することもできるだろうし、そうやって何らかの物質や情報を利用したり消費するには、それ以前にそれを変形して持ち運んで貯蔵するような動作が必要となれば、それなりに手間暇がかかることになり、それが手間暇をかけるだけの価値があると判断するから実際に手間暇をかけるわけだが、実際にそうやって手間暇をかけた物や情報が売買されているし、また報酬を払って手間暇をかけさせている場合もあるが、さらには手間暇をかけている行為を見せて料金を徴収するようなこともおこなわれているだろうし、もちろん物や情報を利用したり消費するのにも料金がかかるわけで、それらの中で何に金銭的な価値が生じるかはその場の成り行きにもよるだろうが、それを資本として機能させる思惑から、何に対しても金銭的な価値が生じるように持って行きたいだろうし、そうした方が便利で効率的に思われるような物事に金銭的な価値が生じるわけだが、いったんそういう物事が世間に知れ渡ると逆に金銭を支払わないとできないような物事に誘導しようとするわけで、金銭を支払わせるように誘導している側からすればただで勝手にやられてしまってはまずいわけだから、何とかしてただでやってしまうような行為を取り締まって、金銭を支払わないとそれができないようにしたいわけだが、その一方で自分だけはただやれるようにしたいが他人には金銭を支払わせたくなる場合もあるし、要するに自分の都合でそんな思惑が生じてくるとすれば、それを実行することが権力の行使となってくるのかも知れないが、それとは違って金銭をかけないとできないような行為もあるわけで、それが物理的に大勢の人の力を必要としたり大規模な機械を使った作業になり、それを実行するには必ずそれなりの費用がかかってきて、その作業に専念してくれる人に報酬を支払ったりそれをおこなうために必要な機械の購入費用やそれを動かすための電力や燃料などを賄うための費用も生じてくるだろうし、そういうことをおこなうためには前もって貯めておいた資本が必要となってくるわけだが、もちろんそういうことをやるためにまずは資金を集めることから始めるわけだが、そういうことをやるための目的の内容や程度や傾向に応じて、金銭的な費用の有無や額にもそれなりに差が出てくるだろうし、それらの何をどう優先して判断すればいいかは一概には言えないところでもあるわけだが、それらの成り行きが複合的に組み合わさると物事の集中と分散の同時並行的な進行が必ず起こってきて、その中で物事が集中する場所ではそれらを集中させるような力を肯定する価値観や論理や理屈が正しいように思われるとしても、それとは逆に物事が分散するような場所では、当然のことながら物事を集中させる力を肯定する価値観や論理や理屈が間違っているように思われるだろうし、さらに物事を集中させるのでも分散させるのでもなく、そのままの状態に保とうとする成り行きの中ではどちらとも言えないようなことになってしまうのかも知れず、そういう意味でその場の情勢や状況に合わせて何が良くて何が悪いかを判断する成り行きになるとしても、またその判断が恒常的に正しいわけでも間違っているわけでもないとしても、確かにその場の情勢や状況に合わせて何をどうするべきか判断しなければならなくなるとしても、その場の判断が結果的に正しかろうと間違っていようと、それは結果的にわかったりわからなかったりすることであり、あまりそういう判断にこだわる必要もなければそれで済んでしまうことでもあり、こだわる必要があればそれでは済まなくなるとしても、済まなくなってから判断すればいいことだろうし、何か一定の状態に凝り固まるように強いられたり、間違った判断を促されるような成り行きに巻き込まれてしまうこともあるだろうが、その中で物事を集中させるような動作が生じるところではそこで何かを作り出す動作が生じて、物事を分散させるような動作が生じるところでは作り出された何かを拡散させるような動作が生じていて、またそのどちらの動作も起こらないところではどちらの動作もやる必要がないからどちらの動作も起こらないのかも知れず、そういう意味では物事の生産と流通が集中と分散として連動していることになり、そのどちらの動作も起こらないということがあり得なければ、どこかで絶えず物事の集中と分散が連動して起こっていることになるだろうが、そうなっている状態の全てを把握して見通すことができないのであり、人はその中で部分的な動作を担うことになってしまい、自らが担っている動作にこだわってしまうとそれとは相容れない別の動作を認めることができなくなって、それを否定しにかかるわけだが、そうすることが必要なのかというと、それにこだわっている限りで必要だと思われてしまい、こだわらなければ気にならなくなってしまうわけだが、それにこだわって気にするような役割分担が生じてしまうと、自らがそういう役割を担っているつもりになっている人がそれを否定しにかかるような成り行きになるわけで、それを他の人が真に受ける必要があるのかといえば、それも真に受ける必要があると思われるような役割分担が生じてしまえば、そんな役割を担っているつもりの人がそれを真に受けるわけで、そうやってどこまでもきりがなく役割が細分化してしまうかといえば、そういう役割の細分化にも流行り廃りなどに伴う限界があるだろうし、何らかの特定の役割が巷で流行ることもある一方で、別の特定の役割が廃れることもあるだろうし、そういった流行り廃りの傾向もその場の成り行きに応じて顕在化することもある一方で、逆に何も起こらないこともあるのかも知れないが、誰もそんなことをいちいち把握する気にはならないだろうし、何かその場で何らかの役割が顕在化していると、その役割を担っているように見える人や団体に注目してしまうこともあるし、メディアがそれらに注目するように仕向けたり仕掛けたりすることもあるかも知れないが、火のないところに煙は立たないだろうし、何かがそこで顕在化しているからメディアもそこに注目するわけで、そういう意味ではそうなってしまうきっかけが様々に起こっている中で、特定の何かがたまたまそこで流行るようなことになるのかも知れないが、たとえそうなったからといって、そういう成り行きの中で何か注目を浴びて成功するような人や団体が出てくるとしても、それがどういう経緯でそういう成り行きになっているからといって、そこから興味もないのに無理に注目するように仕向けられていることに対して反発するような心理状態となったところで、そういう成り行きに意識がとらわれてしまうこと自体がそうなるように仕向けている動作に応じてしまっていることになるわけだから、どうしようもなくそんな成り行きに巻き込まれてしまうことになるわけだが、たぶんそうやって多くの人を巻き込んでそんな流行り廃りの現象が世の中で拡大していくとしても、その一方で拡散して薄れていってしまうような成り行きも顕在化してくれば、それが同時並行的に廃れてくるかも知れないが、そういう意味で物事の流行り廃りが同時並行的に起こっている中で、流行っている方に注目させられると流行りの現象へと巻き込まれてしまうし、またそれに飽きてくればそれが廃れつつある成り行きの中に意識が巻き込まれることにもなり、そこでもそれらを同時には捉えられず、どちらか一方の現象しか把握できないのかも知れないし、それにこだわってしまうともう一方の現象には反感を抱いたり否定的な感情を持ってしまうのかも知れず、そうなるとなかなか両方の間で意識の均衡をとるのも難しくなってくるのだろうが、無理に均衡を実現しようとする必要もないのかも知れず、何かが流行っているように思われればそちらの方に意識を向ければいいとしても、それに飽きてしまったり廃れてきたことを察知すればさっさとそこから意識を離脱させれば事なきを得るのかも知れないが、それにこだわりすぎてしまうとなかなかそんな状態から抜け出せずに、そういう現象が廃れるのと共にその人の精神状態も悪化してしまい、何やらこじれた様相を呈してしまうのかも知れず、そうなってしまった人は何か心の病が重篤化しているようにも見えてしまって、それが高じると心身共に悲惨な境遇へと落ち込んでしまうのかも知れないが、そういう心理的な次元では捉えられないような様相を呈する場合もあるだろうし、もっと直接の衝動として顕在化すれば何らかの事件となって世間の脚光を浴びるようなことにもなるだろうが、そういう成り行きがそういう方面では顕在化せずに、延々と潜在的な領域に留まれば、何も起こらないような状態が持続するわけで、それが物事の集中も分散も連動して起こらない状況だと思われるのかも知れないが、そこで何事も全てがそうなっているわけではなく、そんな状態を維持できるだけの物事の集中や分散がそれなりに起こっているとしても、それが全体として相殺されて見えてしまえば、大したことは何も起こっていないように感じられてしまうのかも知れず、しかもそれらが同時並行的に起こっていて、微妙に釣り合っているような状態が醸し出されていれば、それが現状で起こっていることのように見えてしまうわけで、そんな状況の捉え方をしてしまうとメディア上でおこなわれる一方的な煽り立てとは無縁の認識をもたらしてしまうかも知れないが、たぶんそれでかまわないのかも知れず、たとえそれが見当外れの誤った認識であり、とんでもない勘違いであったとしても、そうであればそれが勘違いであることがわかってから認識を改めればいいだろうし、それが致命的な結果をもたらして何かが終了しても後悔するまでもなく、やはり現状では誰もが見当違いなことを認識しているような気がするわけだ。


8月21日「悪夢にうなされる日々」

 同じ世の中で誰もが暮らしているのだから、人は誰でも同じような成り行きにとらわれていることになるだろうが、ある程度はそうだとしてもその成り行きというのが誰にとっても同じように感じられるかというとそうでもないのかも知れず、例えばアメリカの人たちにとってはトランプ政権の四年間が悪夢の四年間だと感じている人もいるだろうし、同じように日本の人たちにとっても安倍政権の八年間が悪夢の八年間だと感じている人もいるだろうが、中にはそれに負けじとメディア上でそれ以前の民主党政権の三年間が悪夢の三年間だと盛んに吹聴して回る人もいるかも知れないが、そういった悪夢の何年間という表現を用いてメディア上で煽り立てて回っている人に何か違和感を感じてしまう人も結構多いのかも知れず、果たして人々の暮らしがそれほど時の政権の政治活動から影響を受けているのか疑問に感じてしまい、誰がどのような政治勢力が政権の座にあってもそんなに世の中が変わるものでもないように思われるとすれば、それが思い違いであるか、あるいはその種のメディア的な煽り立てに反感を抱いてしまうのか、その辺は人によって感じ方が異なるかも知れないが、確かに安倍首相にとっては民主党政権の三年間は悪夢の三年間だったのかも知れず、多大な精神的な苦痛に耐えた三年間だったのかも知れないが、それもそれ以前の麻生政権や第一次安倍政権の政権運営のまずさから民主党への政権交代を招いたわけだから、安倍氏や麻生氏にとってはたとえそれが悪夢の三年間だったとしても自業自得だったのかも知れないし、そういうところまで考慮に入れれば、政治活動をおこなっている当事者にしてみれば悪夢の数年間という実感がそれなりにリアリティを伴ってくるはずであり、それはアメリカのトランプ政権以前に政権を担っていたオバマ氏やバイデン氏にも悪夢がリアリティを伴って実感されるところかも知れないが、政治にはあまり関心のない一般の人たちにとってはどうかというと、そういう実感もそれなりに薄められたものになるだろうし、メディア上で悪夢だ悪夢だと吹聴して回る煽動者の言い分を真に受ければそう思うところもそれなりにあることも確かだが、直接の被害や損害を感じられなければ間接的にそう思うだけだろうし、その辺が実際に毎晩悪夢にうなされている人と比喩としての悪夢に共感を抱く人との間で感じ方の程度が異なるのも当然だろうが、たぶん実感があまり伴わない悪夢と表現される世の中の状態が政治的な作用や影響を及ぼされていることを示しているのかも知れず、はっきりとは感じられないが、政治に対しても行政に対してもそれらの動勢や情勢を伝えるメディアに対しても不快感や不信感を覚えるのであり、さらには一般の人々に対しても同様の不快感や不信感を覚えていて、世の中が一体となってそんな漠然とした不快感や不信感を蔓延させながら、しかもそれが増幅するような効果を及ぼしていて、特に疑惑を招くようなことをやっている政権を支持している人が大勢いることと、それを伝えるメディアに対して不快感や不信感を募らせるのだが、誰が不快感や不信感を募らせているのかといえば、それを述べている自身が不快感や不信感を募らせているわけだが、そうなっている状態が悪夢を見ていることになるのかといえばそういうわけではなく、むしろ当然のこととしてそうなっていて、以前からそんな状態が数十年間にわたって続いていて、それが通常の状態であり、それ以外があり得ないのだとしたら、生まれてこの方そういう方面では延々と悪夢を見続けていることになってしまい、それを悪夢と表現してしまうこと自体が何かの冗談のように思われて、だからメディア上で悪夢だ悪夢だと強い調子で吹聴して回っている煽動者に対しても、何か漠然とした不快感や不信感を覚えてしまうのであり、それを違和感と表現すればしっくりくるのかも知れないが、何か不快感も不信感も違和感もごっちゃになって感じられてしまうのかも知れず、その中で取り立てて何が大きな割合を占めているのかよくわからないのであり、しかもそうであってもかまわないようなどうでもいいことでもあり、どうでもいいのにそんな否定的な思いでいること自体もちょっとずれているようにも思われるわけだが、そんなことばかり延々と感じているわけでもなく、そういう違和感を伴うような表現がそう思わせるのであり、それを悪夢と表現することが大げさに感じられて、何か誇張して煽り立てているに過ぎないことのようにも思われるわけだが、そんなふうに煽り立てている煽動者にしてみれば煽り立てざるを得ない事情があるのだろうし、そうでもしないと世間から注目されないとか、そういった事情を想像してしまうのだが、本当にその人が毎晩のように悪夢にうなされているとしたら、当事者でもないのに自意識過剰なようにも思われるし、煽動している当事者なのだからそういう面では当事者意識があっても当然かも知れないが、それとこれとは次元の違う問題のようにも思われるし、それよりは政権に絡んで出てくる不祥事や不正行為などを挙げていくときりがないような状況というのが、ジャーナリスト的な視点から見れば悪夢だと表現できる面もあるわけで、しかもそれが民間の経済活動の中では当然のこととしておこなわれていることでもあり、もちろん法律に違反する面が発覚すれば警察権力によって取り締まりの対象ともなるわけだが、さらに政権中枢に絡んでくるような違法行為に関しては隠蔽工作もおこなわれていて、それに検察官僚なども手心を加えているような疑惑も上がってくれば、まさに悪夢だと表現しても何の違和感も伴わないのかも知れないが、それが今に始まったことではなく、今までにも延々とおこなわれてきたことの延長上でそうなっているのであり、そういう成り行きに対して見て見ぬふりをしながら政権を支持している人たちもそれなりにいるだろうし、人々のそういった態度が許せないと思う人も大勢いるだろうし、そういった面を強調すれば悪夢という表現を用いてもかまわないようにも思われるわけだが、それでも実際に悪夢にうなされているわけではなく比喩としてそんな表現を用いている限りで、それ相応の誇張表現であることには変わりないが、さらに悪夢という表現では物足りないというか、それに追い打ちをかけるような否定的な表現を模索している煽動者もいくらでもいるのかも知れないし、政権の不祥事や不正行為だけでなく経済政策や運営のまずさを指摘する人たちも後を絶たないし、それはここ数十年間にわたって延々と言われ続けてきたことでもあるわけだが、そうなってくるともっと規模の大きな世界経済に関する歴史的な経緯や地政学的な事情も絡んできて、一国だけの問題では取り扱えないようなことにもなってくるのかも知れず、日本だけでどうこうなるようなことではないのは確からしいのだが、そういう面では日本よりもさらに経済的な悪化や富の不均衡に伴って悪夢を見続けている国や人など世界中にいくらでも存在するような状況となっているだろうし、それは日本から見て比較的恵まれているよう見える国でも悪夢にうなされている人たちが大勢いるのかも知れないが、日本国内でも貧困に陥ることによって悪夢にうなされている人もいるだろうが、逆に経済的に恵まれて多額の資産を抱えている人でも悪夢にうなされているのかも知れないし、それの何が悪夢なのかといえばさらなる蓄財への欲望や貯め込んだ財産を他の誰かに奪われてしまうのではないかと不安感が募ってきたり、詐欺師に騙されはしないかと常に他人に対して不信の眼差しを向けながら猜疑心に苛まれていたりして、そんな贅沢な悩みなど抱いていられるだけでも幸せな証拠かも知れないが、それも程度によってはそうなってしまう成り行きの中で比喩として悪夢だと表現できるかも知れず、そういう意味では何が悪夢なのかについて人によって立場によってその人の境遇によっても共感できるものもできないものもあるだろうし、どういう状態が悪夢なのかについての共通の尺度があるわけではなく、それに共感したり納得するには、悪夢にうなされているという表現が用いられる背景やそういう表現を用いるに至る経緯を知る必要があり、一概にそれに対して不快感や不信感や違和感を表明するのは浅はかなことかも知れないが、そういうことをあまり深く考えずにそんなことを感じているわけだから、それ自体がいい加減な感覚でしかないのかも知れず、何となくそう思われてしまうこと自体が世の中の状況を漠然と感じていることでもあるわけで、要するに自分はそれを悪夢だとは実感していないのだろうし、もっと何かどうでもいいような状況だと軽く見ていて、悪い意味でなめてかかっているのかも知れず、そんな心理状態でいると遠からず些細なことから躓いて痛い目に遭うような気もしているわけだが、どうしても痛い目に遭って自ら墓穴を掘るような窮地に陥らないと本気になれない性分なのかも知れず、そうなったときにはもはや手遅れとなって手の施しのないような惨状を招いているのかも知れないが、別にそんな経験を何度もくぐり抜けてきたようには思われないし、いつ何時であっても生ぬるい環境の中で何もできないまま退屈を持て余してきたようにも思われてしまい、それがどうなれば悪夢にうなれる日々に結びつくのかよくわからないかも知れないが、そんなふうに言葉を記している時点ですでに語っている内容がフィクションとなってしまっていて、世の中に対する実感からかけ離れた内容になりつつあるのかも知れないが、わざとそうやって不明確でうやむやな内容へと持って行くのがその場の状況を捉えるには有効に作用している可能性もなきにしもあらずだが、そんな空気を的確に表現するには悪夢という言葉ではあまりにも一面的で一方的で粗雑な煽り立てにしかならないのかも知れず、それもそういう言葉に反応してしまう感性の持ち主が世の中にはいくらでもいるだろうから、そんな人向けの商売としては悪夢という表現がうってつけの言葉として使われる成り行きにはなるわけだろうが、それでもそういう表現に反応してしまう粗雑な人たちとはかかわりたくないわけだ。


8月20日「杓子定規な考え」

 虫の知らせというのとは少し違うかも知れないが、予感に従うと危ないということであり、何が危ないのかというとここにいては危ないというのがありふれた予感の内容になるかも知れないが、ここにいてもいなくても危ないような気がするだろうし、ここがどこなのかどうでもいいとは思わないが、ここから逃げることばかり考えていては駄目なような気もするだろうし、苦し紛れにそんなことを考えているわけでもないだろうが、この程度では済まないことが起こるような気がするというのは、ではどの程度のことがこれから起こるのかとなると皆目見当がつかないわけで、それについて語る機会を逸しているような気もするし、今はその機会ではなく、他の何を語る機会でもなく、ただ言葉を記す機会でしかないわけだが、予感というのが語られる成り行きの中では、予感が大げさな何かが起こることを告げているから語るような成り行きになってしまい、大抵は危機的な事態が起こるとかの内容になるだろうが、そんな予感がすること自体がフィクションの中ではありふれているにしても、現実の世界ではどうかというと、何かが起こってからそれ以前からそんなことが起こるような予感がしていたような気になるわけで、事後的にそんな気になっているわけだから、その時点ではすでに何かが起こった後でしかなく、すでに起こった出来事から影響を受けてそんな予感がしているだけなら、遅きに失しているというか、その種の予感は当てにならないということになるかも知れないが、それよりは普通に普段から思っていることの方が当てになる場合もあるだろうし、メディア上ではコロナウイルスの世界的な蔓延によって盛んに危機が煽られているにしても、それに影響を受けて何を思うのかといえば、普段から快く思っていない知人の誰かがコロナに感染して死ねばいいと思っているかも知れないし、もし株が暴落したらその機会に乗じて株を買い占めれば後から値上がりして大儲けができるかも知れないと思うかも知れず、その機会を虎視眈々と狙っている人も結構いるだろうし、そういうことを想像してしまうのもフィクションと混じり合ったくだらない思いでしかないとしても、たとえ何かの冗談でふざけてそんなことを思っているとしても半ば本気の部分もあるのかも知れず、そういうことまで含めればたわいないことでしかないとしても、状況が深刻な事態だからといって誰もがそれを真に受けているわけではなく、実際にまだ深刻な事態には直面していない大抵の人はそんなくだらない想像力を駆使して無責任なことを考えてしまい、普通にそうなってしまうことだから、別にそれがどうということでもないわけだが、何かそういう面で思惑が外れているわけで、そう思ってしまっても別に勘違いしているわけではなく、それが状況に対する素直な反応であり、そんなことを思っている自覚があるとしてもそれを意識していないし、そんなことは大げさに指摘するまでもないことであり、本音ではそう思っていてもあえてそんなことは語らないし、語るまでもないことであり、文章として記す対象にもならないようなことだとしても、誰かがそんなことを思っていることは想像できるだろうし、実際に想像しているわけだが、現実の世界がそれと重なっていて、予感もそんな想像の延長上で感じていることでもあり、そんな思いの反映として予感していることであれば、それ相応の馬鹿馬鹿しさやくだらなさも含まれていて、それはメディア上で語られる建前のような内容とはそれなりにずれているだろうし、もっと不謹慎な内容でもあるわけだが、たとえ不謹慎だからといって想像できてしまうのだからいくらでもそんなことを想像してしまうだろうし、実際にこれから想像通りにことが起こることを期待してしまうわけだが、そんな予感がするというのにはそんなことも含まれていて、実際にそうなったら面白いとも思っているわけで、それに関して思うのはそんなことであり、そんな予感がするという空想には思いがけないことも含まれているわけだが、それとは違ってもっと真面目に考えるべきことがあるかというと、それが建前上で考えていることになるのかも知れないが、常にそこで念頭に置いているのが敵対しているつもりの人や勢力を出し抜いたりやっつけるために考えていることになると、そこには必ず不純な動機が介在してくるだろうし、何かそういうところで時事的な物事について語っている人の魂胆がわかってしまうと、その人の意図や思惑と共に攻撃な姿勢も垣間見えてきて、たとえ語っている内容が真面目に感じられるとしても、それと同時にこれ見よがしな知識のひけらかしにも皮肉な物言いと共に小ずるい計算がうかがえて、何となくそれが世の中で流行っているありがちな形式に則った思考形態から生じているように思われてしまうわけだが、それ以上に何がどうなっているわけでもなくても、そうならざるを得ないような成り行きの中でそんなことが語られていることは当たり前のことだろうが、それ以上にどう語られているわけでもないということから、その種の言説を真に受けるわけにはいかない理由も生じてくるのかも知れず、そういった言説を成り立たせる上で大前提となるような人や勢力の間の敵対関係がそこで生じているとは思われなければ、そんなふうに語られている内容自体が信用のおけないもののようにも思われてきて、そう思われてしまうと果たしてそれが真面目に考えるようなことなのかと疑問にも感じられて、それも同じように馬鹿馬鹿しくもくだらない想像力の産物なのではないかと疑ってしまい、本当に真面目に考えるようなことでもないとしたら、ではいったい真面目に考えるべきこととは何なのかということになるかも知れないが、そういうことの全てが真面目に考えるべきことなのかも知れず、冗談半分などではなく本気でそう思っている人がほとんどであり、想像しているだけではなくあわよくばそれを実現したいとも思っていて、そんなふうに自らの不謹慎な願望を叶えるためには手段を選ばないような成り行きになってしまうのかも知れず、それに比べたらコロナウイルスなど何でもないわけで、それによって他人が不幸に陥ろうが死のうが何とも思っていないかというと、そう思ってしまう時もあるし、そうは思わない時もあるというどちらにも受け取れるような微妙な心理状態なのかも知れないが、そう思ってしまうことに関して何か大げさな理由や原因を設定できれば納得するかも知れないし、それも想像力を駆使して意識の中で強引に結びつけてしまうようなことにもなり、それ自体が動機の無根拠を覆い隠すようなことにもなりかねず、そうやって何とか自らの動機の正当性を裏付けたいのだが、そんなことを実現させようとする動機が真面目な考えから生じていることを確かめようとする過程で、歴史的な必然性などを持ちだしてくると俄然真実味が増すようにも思われるわけだが、それも想像力を駆使して強引に結びつけるようなことになるわけで、そうやって大げさな理由や原因を持ってくると個人としての自分だけではそれを支えきれなくなってきて、そういった自分の力だけでは支えきれない面を補う対象として国家だの民族など人種だの宗教だのが持ち出されてくるわけだが、要するに自分一人のためだけではなくさらに家族のため友人のために何かしなければならないと思うことの延長上に、さらにそこから想像力を膨らませて国家のため民族のためにできることをやらなければならないという使命感まで空想するようになれば、そんなちっぽけな自らの願望を実現するためでしかないことが、何かもっともらしい大義名分を伴ってやらなければならないことにもなってくるだろうし、しかもそれが例えば見ず知らずの赤の他人のためという無根拠で利害もよくわからないこととは違って、自らが属している集団の利害として正当化できるようにも思われるわけで、そうなるとよくありがちな例として国の役に立たないような人は殺してしまってもかまわないという論理も出てくるだろうし、本当は不快感を覚えるような気に入らない人に対して死んでほしいという軽はずみな思いでしかないのに、介護するのが面倒だからこれ以上費用を負担できないからさっさと死んでくれという切実な思いを、どうにかこうにか理性や愛情で抑え込みながら、何とか辛抱してこなしている自らを楽にさせる言い訳として、何かの拍子に魔が差してそんな論理に飛びついてしまうことになれば、悲惨な結果をもたらすだろうが、そこまで追い込まれる人はほんのわずかしかいないにしても、そんな成り行きも想像力を駆使して構成されたもっともらしいフィクションでしかないとしても、何かを想像してその想像に基づいて行動をする人を思い浮かべてしまうと、その行動を裏付けるようなもっともらしい理由や原因も想像してしまうわけだから、そこから延長される当然の成り行きとして、現実に起こっている物事に対しても想像力を駆使してもっともらしい理由や原因を想像してしまうわけで、しかもそれがそんなことを想像している自らにとって都合の良い理由や原因となっていることも自覚できるだろうが、もっともらしく思ってしまうわけだからそれを信じてしまい、そういう理由や原因に基づいてそんなことが起こっていると思われてしまうわけで、そういう成り行きに関して考えなければならないことは、現実に起こったことから影響を受けて自らの想像力が発動するということであり、少なくとも自らが想像した自らにとって都合が良くてもっともらしく思われるような理由や原因に基づいてそんなことが起こっているわけではないということは踏まえておかなければならないだろうし、仮にその理由や原因が当たっているとしても、想像力を駆使して現場で確かめた状況証拠をつなぎ合わせて推理した理由や原因が当たっているように思われるだけで、それでもそんな理由や原因に基づいてそんなことが起こったと想像していることには変わりなく、そういう方向ではそれ以上には事態が進展し得ないことは踏まえておくべきであり、そういう方向へといくら過去へ理由や原因を求めて遡ってみても、もっともらしく思われるような理由や原因がいくら出てきたとしても、実際にタイムマシンにでも乗って自らの身体と共に過去に赴いて調べたわけではないことは踏まえておくべきなのではないか。


8月19日「事態の進展」

 この先それらの事態が好転することもあるかも知れないが、今のところは何か確実な兆候が認められるわけでもないし、仮にそんな兆候が感じられるようになってもそれをはっきりと認識できるわけでもなく、そうかといって今さらそれらの何を否定してみても始まらないが、既存の構造や制度があり、それにかかわっている人も少なからずいて、そうした人たちがそれらの構造や制度の中で活動している限りで、それらがそれなりに機能していることになるだろうが、そういう勢力はそれでかまわないのであり、何がどうなろうと政治的な主導権を握ろうとして多数派工作するのが常であり、それに関して好意的な幻想を抱くには及ばないし、別に好意的な幻想を抱く人たちを否定したいわけではないが、通常の成り行きの範囲内で受け止めておけばいいことでもあり、世の中の特定の方面で新陳代謝の類いが起こっていて、その一環で政治勢力の再編も部分的に起こっていることだと解釈しておいてもかまわないが、それに伴って何を期待するということではなく、そうかといって何も期待できないというわけでもなく、それなりに期待できることもあるだろうが、それとこれとは別問題ということでもなく、別問題ではないこれとは何かといえば、もっと漠然とした世の中の兆候かも知れず、しかも今のところはそれが問題であるはずがなく、何かそういった方面で釈然としない成り行きになっているとしても、それでかまわないことになってしまえば何の問題もないわけだが、本当にそれでかまわないかどうかは現状では判断しようがないが、それ以前に何を問題視したいわけでもなく、それに関して何を述べたいわけでもなく、ただそれに対する反応としてひたすら特定の形態に凝り固まろうとする態度には違和感を覚えるわけで、何かに対して身構えているつもりなのかも知れないが、その身構えている対象というのが何だかわからない世の中の兆候となる場合もあるだろうが、何かそれが空振りに感じられるわけで、身構える必要もない何かを意識していて、それから逃れようとしているようでいて、逆に取り込まれているようにも感じられて、それが誰かの手の内で転がされているような不快感を伴ってしまうのかも知れないが、それでもかまわないような気がしてしまうとすれば、気にする必要もないことになってしまい、たとえ塵や芥のような存在につきまとわれて利用されてしまうとしても、つきまとって利用しているのが塵や芥のように思われてしまうこと自体が、それが世の中の支配的な兆候の一部のように感じられるわけで、それよりもさらに不快なたとえとして、例えば蚊に刺されたりダニやヒルに血を吸われていると思うとぞっとしてしまうが、世の中の支配的な兆候というのがそんなおぞましい行為を促しているとは思いたくはないし、人の存在や活動がそんな吸血虫の類いにたとえられるはずもないだろうし、何かもっと好意的に受け止められるようになれば、それなりに救われた気にもなれるだろうが、そうであってもなくても世の中には勝ち誇った態度でこれ見よがしなことをやってしまう浅はかな人がいくらでもいるとしても、そんな人たちにはそういうことをやらせるだけやらせておけばいいわけだが、そうやって特定の物事に作用や影響を及ぼうとしているわけだから、そういった行為にどう対応しようとしても、対応するだけで作用や影響を及ぼされていることになってしまうのかも知れず、別にそれを避ける必要もないわけだが、なるべくならそういった行為に依存しないようにしたいわけで、疑問を感じるような行為から作用や影響を受けているなら、さっさとそういう行為とは袂を分かって、別の方面へと退避する必要があるかというと、それも作用や影響を受けていることの証しとなってしまい、そうやってまとわりついて離れないような執念深さに根負けしてしまい、結局はそういった方面とは一切縁を切って、それらの一切合切をリセットする気にもなり、そうやってそこから退散する準備を進めている最中なのかも知れないが、それ以前に何度もそんな経験を積み重ねてきた経緯もあるのかも知れず、だから手慣れた調子でいつものように離脱計画を練ってさっさとそれを実行してしまうわけだろうが、果たして逃げ切れることができるかといえば、すでに執拗に追いかけ回されてうんざりさせられているのかも知れないが、それさえも何度も経験済みなのかも知れず、どうやっても逃げ切れないと観念してしまえば、普通は逃げるのをやめてしまうはずだが、それでも逃げ続けている気でいるようなら、何かそれが思い違いであるのかも知れず、そこから逃げているつもりが同じ場所をぐるぐる回っているだけで、全くそこから遠ざかっていなければ、意図的に逃げる方向を狂わされているのか、そもそも逃げられない仕掛けになっている可能性もあるのかも知れず、それ以前に何度も逃げようとして逃げ切れていないこと自体がおかしいわけで、結局は本気で逃げるつもりがあるのか、それさえも疑わしく思われるようなら、それ自体が予定調和の成り行きであり、逃げ切れないことがわかっているのに逃げるそぶりばかり見せて、それが逃げる演技でしかないことにも気づいていないのかも知れないが、そうやって反転攻勢の機会をうかがっているわけでもなく、ただ逃げる姿勢を執拗に見せているに過ぎないことかも知れないが、そこに意図や思惑があるとは思わない方がいいのかも知れず、素直に逃げようとしているだけで、それにしてはただ結果が伴っていないだけだと捉えておくのが無難なところであり、そこで何らかの意志に基づいて何かをおこなっているはずなのに、思い通りの結果には至らないことの方が多いのかも知れず、それが現状の世の中で生じている支配的な傾向でもあり、そこで誰もがそんな成り行きにとらわれているわけでもないだろうし、そうなっていることに気づいていなければそうは思わないわけだが、そこから逃げようとしているのに逃げ切れていないことに気づいているにもかかわらず、性懲りもなくさらにそこからも逃げようとしているわけで、それをどう捉えればいいのかといっても、やはり逃げようとしているとしか捉えられないわけだが、そういう予定調和の逃走劇からどうやれば抜け出せるかとなると、現状では皆目見当がつかないところだが、逃げずに戦う姿勢を示す必要があるということになればだいぶ状況がわかりやすくなってくるだろうし、実際にそうすればすぐにも問題が解決するように思われるわけだが、ではいったい何と戦うのかその対象を定められるかとなると、どうもその辺から成り行きが怪しくなってくるわけで、戦うも何も相手にされていないわけだから、戦っている感覚にはなり得ないような対象しか目の前には存在し得ず、それと戦う気にはなれないわけで、要するに逃げようとすれば執拗に追いかけてくるし、では開き直って戦おうとすれば相手にされないようなこととなり、そういう対象というのは、世間的にもそれと認められるようなわかりやすい何かと戦っているように装いながらも、実際にはそれとは別の何かに攻撃を加えるようなねじれたことを仕掛けているわけで、それがその人なりの処世術の類いとなっているわけだろうが、そんな処世術の餌食になっても何の得にもならないだろうから、さっさとそこから退散したいわけだが、それが処世術なのだから執念深く追いかけてくるわけで、これまでにもそんな処世術を身につけた人に度々絡まれてきた犠牲者もいくらでもいるのだろうが、そんな犠牲者がどうなったかといえば、未だにそんなことをやり続けているのかも知れず、結局は犠牲者よりも処世術を身につけてそれを利用しまくる人の方が圧倒的に多いのが現状であり、それが現状で生じている世の中の傾向でもあり、そうした無数の小人物たちの天下であるにしても、なぜかそんな人たちが戦っているつもりの大人物などどこにもいないのかも知れず、要するに小人物たちが別の小人物たちを相手に商売をやっているだけで、そんなみすぼらしい商売には付き合っていられないように感じられるわけだが、他に誰かまともな人がいるのかとなると、たぶんまともな人は沈黙を守っていて、何かを言えばたちまちそれを小人物に利用されてしまうから黙るしかないのかも知れないが、人を黙らせるためにその手の小人物が活動しているわけではなく、まともな人に何かを言わせてそれを利用したくてそんなことを執拗にやっているわけだろうが、もはや最近ではそうした商売のネタになるような犠牲者がどこにもいなくなっているのかも知れず、だからその手の小人物の方でも同じネタをいくらでも飽きがきても何度でも使い倒しているわけだが、ではそうした小人物たちが何を抑圧しているのかといえば、たぶん抑圧するような対象がどこにも見当たらず、抑圧しようにも抑圧の動作が空回りするばかりかも知れないが、それとは別に商売上の敵も一応は用意されていて、それが反体制的な商売には欠かせない体制側の登場人物でもあるわけだが、その手の登場人物たちから相手にされているかというと、そういった登場人物たちはチンピラ風情は無視するに限るような暗黙の掟のようなものを守っていて、戦いのための舞台や土俵すら全く用意されていない状況となっているのかも知れず、そこで戦っても何の得にもならないから普通に戦わないわけだが、そうやって世の中では直接の戦いがことごとく回避される成り行きになっていることも支配的な傾向なのかも知れず、そうであるなら戦わずして逃げるに限るに越したことはなく、何から逃げているわけでもないのに勝手に追いかけられていると思い込める状況になっているのかも知れないが、それが被害妄想かというと一概には言えず、追いかけてくる相手としてその手の小人物を想定しておけば被害妄想にとらわれているわけでもないと納得できるわけだが、果たして自らを納得させるために小馬鹿にしてもかまわないような小人物を安易に設定できるかとなると、それも何か勘違いのようにも思われてくれば、そういったフィクションを構築するのも馬鹿馬鹿しい気分となってきてしまい、そう思われるならやめた方が身のためだろうが、何かから逃げ切るためにそんな込み入ったフィクションを構築しようとしているわけでもなく、すでにそこから逃げ切れているからそれがフィクションだと思われてしまうのかも知れない。


8月18日「幻想を肯定する態度」

 幻想を抱く必要がないということは、すでに幻想を抱いているからか、あるいは幻滅しているかだが、本当に幻想など抱いてはいない場合もあるのかも知れず、幻想を抱かなくても生きていける人が世の中にはいるかも知れないが、ではそれとは違って幻想を抱いている人がどんな幻想を抱いているのかといえば、普通は人それぞれで異なるはずだが、共同幻想という同じような幻想を多くの人が抱いている場合もあるだろうし、その幻想の中身を知りたいわけでもないが、想像してそのたわいない幻想の中身を馬鹿にしたい誘惑に駆られながらも、何かそうではないような気がすると共に、別に他人から馬鹿にされるような幻想を抱いてもかまわないのではないかと思い、幻想を拒否するような強がった態度にはなれないことに気づくのであり、幻想とは他人から馬鹿にされるような内容だと相場が決まっているとしても、だからくだらない幻想を抱いていることを悟られないように気を遣っているのかも知れず、大抵の人は恥ずかしい願望を抱いていることを隠しながら生きているのかも知れないが、中にはそれが恥ずかしい願望だとは思わずに真顔でそれを明らかにしてしまう人もいるだろうし、それこそ羞恥心の欠けた人だと思われてしまうとしても、それよりは知性や理性のない空疎な人たちが跳梁跋扈しているのが現代の特徴であり、羞恥心が欠けている程度では何でもないことになってしまう現状もあるだろうし、そういう意味で人としての許容限度がどの程度なのかがよくわからない一方で、くだらないことにこだわりながらメディアに露出して人気が出てしまう人もいくらでもいるわけだから、それをくだらないと思うこと自体がおかしいのであり、どうでもいいようなくだらない差異にこだわって、そこにちょっとした差異が生じるように仕向けて、そんな差異から利益を得るようなことがおこなわれているわけで、他人と比べてたわいないような差異を作り出すための費用が生じて、優越感に浸りたい人にその費用を負担させるような仕組みになっていて、もはやそこにしか金儲けの余地がなくなっているような気にさせているわけだが、多くの人がそれをくだらないことだとは思わない限りで経済が回っている実態もあるわけで、そうであればそんなのは幻想に過ぎないと思うしかないだろうが、一方でそんな幻想を抱かせているのがメディアであり、しかもそんな幻想を抱いている人を馬鹿にしてはならないどころか、そんな幻想を抱いている人たちに支えられて政治的な主導権を握っている勢力もあるわけで、そんな現状を踏まえてしまうと、何かそういった幻想とは無縁の知性や理性を伴った人たちが政治的な主導権を握るべきと考えてしまうこと自体が、もっとも現実離れした幻想であり、それこそが現状ではあり得ない荒唐無稽な妄想でしかないわけだが、普通にそれとこれとを地続きで認識できないわけで、政治と経済とが互いに密接に結びついている中で、経済の方面では些細でどうでもいいようなことにこだわるくだらない人たちが跳梁跋扈するように仕向けられているのに、政治の方面ではそんなこととは無縁の知性と理性を兼ね備えた人たちが主導権を握ることを望むような無い物ねだりが普通は通用しないはずだが、それがわからないような世の中の構造になっているのかも知れないし、それがうまくいっているように見える国では、実際に本音と建前のように分かれているように見えるのだろうし、それこそが欺瞞でしかなく、むしろそうした欺瞞とは無縁の日本の現状の方がまともな姿を見せているのかも知れないが、もちろん良識派の人々は欺瞞が成り立つ国になることを夢見ているのであり、当然のこととしてそれが無い物ねだりだとは思えないわけだが、それが欺瞞だとも思わないし、それを欺瞞だと思うこと自体が間違っているわけだが、それに関しては都合の良いように考えてはいけないのかも知れず、矛盾を止揚するような思想を信じるわけにも行かないし、そこに厳然と矛盾があり、当然のこととして矛盾があることを認める必要があるわけだが、それとともに知性と理性を兼ね備えたような人が政治的な指導者となることを夢見ていてもかまわないだろうが、それを阻むような経済的な事情もあるだろうし、欺瞞が成り立っているように見える国を羨むのも当然の成り行きとしてあるにしても、そうした国の経済を支えているのが日本などの欺瞞が通用しない国であることも考慮に入れておく必要があり、どちらが良くてどちらが悪いと比較するなら日本の現状の方が悪いことにはなるだろうが、ある意味で日本の方が良心的であり、ひどい現状をそのまま見せている方がまともに感じられるわけだが、そうなっているだけでもまだこれから良くなる可能性があるのかも知れず、現状でいくらひどい人や勢力が政治的な主導権を握っていようと、それを包み隠さずそのまま人々の前にさらけ出しておくことが肝心であり、お前らみんなこんなクズで馬鹿な奴らのいいなりになっているんだということを見せつけておけば、少しは目が覚めるのかも知れないし、このままではいけないと思う人も少なからず出てくるかも知れないが、それを欺瞞で覆い隠そうとするのは良くないだろうし、ひどい実態を欺瞞で覆い隠そうとすることが具体的にどのような仕掛けとなって表れるのかといえば、良識派が羨んでいる国を見れば一目瞭然とは行かないだろうが、その一端がうかがい知れる機会も巡ってくるかも知れないし、それを見習う気になっているとしても、それがそのまま日本で通用するとは思わない方がいいだろうし、実際に通用していない現状があるわけだが、通用させようと思わない方がいいというよりは、また日本には日本のやり方があるとも思わない方がいいというよりは、そういう幻想を抱いておけばいいのかも知れず、日本でも良識が通用するような幻想を抱けばいいだろうし、また日本には日本のやり方があると思っておいてもかまわないわけだが、そんな幻想や思い込みがこれまでも裏切られてきたし、これからも裏切られ続けることも念頭に置きながらも、それなりに試行錯誤していくしかないのかも知れず、それらの幻想や思い込みが裏切られ続けたといっても、それも全面的にそれとは逆の状況となっているわけでもないし、実際に政治的な主導権を握っているつもりのひどい人や勢力の思い通りにもなっていないわけだから、それなりにうまくいっていない現状の中でうまくいっているように見せかけようとしているが、それも見え透いた見せかけでしかないことも誰もがわかりすぎるくらいにわかっているはずだろうし、どうやってもうまくいかない現状になっているはずだが、だからといってどうにもならなくなっているともいえない面もあり、それなりにどうにかなっている面もあるのかも知れず、そういう面では何とかなっているように見せかけているというよりは、何とかなっていることを認めざる得ないだろうし、うまくいっていることもそれなりにあるはずだが、そうしたうまくいっているところをできるだけ拡大させようともしているのだろうが、無理にそういうことをやらなくてもいいのかも知れず、そうかといって矛盾を止揚するわけでもなく、さらに無為自然を重んじるわけでもなく、ではどうすればいいかと問うことになるかも知れないが、そんな問いもそのまま放置しながら試行錯誤を繰り返してゆけばどうにかなるわけでもないだろうし、結局は何をどうすればいいかという問いに答える必要があるように思われてしまうわけだが、それに関してまずは現状の持続に手を貸すようなことはやらない方がいいのかも知れず、本当に現状がひどいと思うならひどい現状をもたらしているように見える人や勢力には手を貸さないことが、ひどい現状を変えるには必要なことだろうし、それらの人や勢力がひどい現状をもたらしているとは言い切れない面があるにしても、少なくとも関係各方面のたゆまぬ努力が功を奏して現状で主導権を握っているように装われているわけだから、そうした努力に加担してはならないのかも知れず、加担しているとは思われないとしても、経済的な利益を追求する行為に伴ってそんな努力が実を結んでしまい、しかもそれが必ずしもうまくいっていないわけだから、努力の全てが無に帰しているわけではないとしても、それに伴って些細でどうでもいいような差異を強調する行為に加担してはならないのかも知れず、そういった方面で努力を惜しまないような行為には加わらない方がいいわけで、そこから幻想が生まれてそういう努力が報われるように思われてしまうことから全ての誤りが発生しているとはいえないが、それでもそこで煽られている差異の強調を真に受けてしまうから、それに伴って知性や理性の発現が阻まれてしまうのであり、それが些細でどうでもいいことだという認識が抑え込まれてしまうから、そこにこだわるように仕向けられて、そうやってくだらない差異を提供する商売の餌食となるだけなく、さらにはそういうみみっちい商売で金儲けをやっている企業活動を推進している政治勢力まで支えていることにもなってしまい、それが現状を悪循環に導いているとまでは感じられないとしても、実際に良識派が羨んでいる国の企業の餌食にもなっているし、そういうちょっとしたことが梃子のように働いているのかも知れず、何かのきっかけからそうやって抑え込まれている人々の知性や理性が働くとどうなるかは現状ではよくわからないが、もしかしたら良識派が羨んでいる国とはまた違った状態へと移行する可能性もあるだろうし、その状態が良いのか悪いのかも、現状ではまだそうなる兆しさえ見えていないのだから何とも言えないところだが、現状でも悪い意味で世界的にも特異な状態となっているのかも知れないから、実際にそうなったとしてもさらに特異な状態へと移行するのかも知れず、そんなあり得ない状態を目指すのは荒唐無稽なことだとしても、何か否応なくそうなってしまう兆候が現状の中にあるとしたら、そういう可能性を無理に抑え込む必要はないだろうし、また良識派が羨む国を無理に見習う必要もないのかも知れない。


8月17日「デマを信じる勇気」

 真実を語る勇気とは関係なく、世間で流布されているデマの類いとは一線を画すようなことを語れるのかというとそうでもなく、それ以前に何が真実で何がデマなのか区別がつかないようにも思われるし、結局は何でもないようなことを語るのだろうが、ありふれた現実という虚構の構築を物語るのはいつものように誰でもないような匿名の誰かであり、そこで誰が何を構築しているのかわからないことが実態としては何も構築していないように思われるかも知れないが、たぶん何かの物語を構築しているのであり、その物語が人を安心させようとしているのかも知れず、それに感化されて安心してしまってもかまわないわけだが、それでも安心できなければ何やらそれなりの装備が必要になってくるようで、実際に世の多くの人たちが何らかの装備に頼っている現状があるのだろうし、それが気休め程度の効果をもたらしていて、それによって何やら平静が保たれているように見せかけられているわけだが、それが誰に向かって見せかけられているのかといえば、何らかの装備で身を固めている人たちに向かって見せかけられているわけで、そんな成り行きの中で自分がどう振る舞えばいいのかというと、特に意識して振る舞う必要も感じられず、それ以前に通常の振る舞いに終始しているはずだが、別にそれを意識する必要はなく、だから何でもないような現状が示されているわけでもないだろうが、そんな現状に合っているようなことが語られているわけで、それが世の中の現状について語っていることにもなるわけだが、果たしてそこで現実とは異なる虚構が構築されているのかといえば、たぶん全く異なるわけではなく、ならばそれなりに現実と重なっているのかというとそうでもなく、そのどちらでもないといってしまうと嘘になるだろうが、たぶん記された言葉の連なりは現実の模造品を構築しようとしているのかも知れず、構築しようとしているとしてもうまく構築できずに、所々に見せかけることに失敗している偽装箇所が見え隠れしているのかも知れないが、それが現実の模造品を作ることによって生じる限界でもあるわけで、言語表現だけでは見せかけることができなければそこに付け足されるのが映像表現であり、言語表現と映像表現の組み合わせによって現実の模造品が構成されて、そうやって提示された模造品を信じるように仕向けられているわけだが、仕向けられているのだから仕向けている誰かに配慮して素直に従ってしまってもかまわないだろうし、何かの模造品を信じることが偶像崇拝につながるとしても、それも普通にありふれていることだから許容される範囲内かも知れないが、信じることで救われるかというと、それによって救われたと思うなら、何かに救われるということがそういうことだと捉えておけばいいわけで、そうやって信じる対象として模造品が提示されているのだから、それを信じるのも一興だろうし、それに対してひねくれた感情を抱くのもありがちな反応であるとしても、回りくどいことをするのが面倒なら仕向けられていることには素直に従うべきで、たとえ従ったからといって自己責任で従うわけだから、従った人がひどい目に遭ったところで無視すればいいわけだが、果たして何かを信じることがその何かに従うことになるかというと、信じることと従うことを混同すればそうなるかも知れないが、信じても従わなかったり従っても信じなかったりすることもあるだろうし、信じるように仕向けられているのに従わず、従わないのに信じてしまうとすれば、それがどういう状態を示しているのかというと、頑なに拒否することがかえって信じてしまうことにつながってしまい、何かをより深く強く信じるには、そこに至る過程において頑なな拒否反応が伴ってくるわけで、激しい弾圧にさらされた宗教ほどその弾圧をくぐり抜ければ広範な支持を得ることになり、そうであれば強い拒否反応を伴うようなことを信じるように仕向けられていることが危険な兆候となるわけだが、果たしてそんな危険を現状で誰もが察知しているのかといえばそうでもなく、それよりは安易に信じてしまえるようなことが世間に流布されているのかも知れず、実際に誰もが簡単にできることをやっている現状もあるだろうし、安易なやり方で危険を防いでいるつもりかも知れないが、それが何をもたらしているのかというとそれなりに中途半端な状況だろうし、それでかまわないかといえば誰もが仕方がないと思うところでもあり、それ以外には有効な対策がないように思われるから、次善の策としてそんなことをやっているつもりかも知れないが、何かにやらされているとは思っていないだろうし、同調圧力に屈していればそれに対する抵抗感も募ってくるはずだが、逆にそうし向けられていることを利用してうまく立ち回ろうとしている人もいるだろうし、状態としては何かがんじがらめにとらわれているというよりは、たわいないことに付き合わされているといった感じ程度に受け止められるのかも知れず、そうなっているからといってそこにとらわれている全ての人が深刻な事態となるわけでもなく、実際にその程度で済んでいればそれでもかまわないわけで、そんな中途半端な状況から抜け出すそぶりを見せてしまうと、それが見え透いた偽装を伴ってしまうのかも知れないが、すでにそんな装いをほとんどの人が強いられている実態があるのだから、今さらこれ見よがしな偽装を仕掛けるのも意味のないことかも知れないし、すでにその程度で済んでいる実態があるわけだから、わざわざ寝た子を起こすような真似はしない方がいいだろうし、そういう意味でデマだとわかるようなデマには素直に従ってそれを信じているように装えば何事もないわけだが、中には素直に従えない人も出てくるわけで、そんな人がデマと戦ってデマを流布する人たちに勝利しようとするわけだが、誰もがそんな人の味方になって一緒に戦うかというと、大方の人は戦わずして見て見ぬふりをするだろうし、そんな成り行きもさらに多くの人たちに受け流されてうやむやにされてしまうわけだが、結局はその場が丸く収まるわけでもないにしても、どうということはない日常の風景に吸収されて何事もなかったかのように平静が保たれるだろうが、それでも確実に犠牲者の類いが出てきてそれが丁重に弔われることにもなるし、またそのまま放置されて野ざらしになってしまうこともあるだろうが、さらにそれ以上に事態が進展すれば、その辺一帯が地均しされて舗装されてしまえば、もはやその痕跡さえとどめていない状態にまで無化されてしまうわけで、そこまで丁寧に後始末をする必要があるのかといえば、それもその対象となる事物や人の状態にもよるだろうが、そうなる過程で飽きてしまってその場を立ち去ってしまう人の方が圧倒的に多いのかも知れず、最期まで成り行きを見届けるような辛抱強い人はそんなに多くはいないだろうし、中にはその痕跡を後から掘り起こして再利用するような考古学的な興味を抱く人もいるわけだが、そういう人も稀に出てくるにしても、大抵の人はそんなことがかつてあったことなど忘れていて、忘れるも何もその場に立ち会っていなければ気づきもしないわけだが、その場に残されているのが仮に誰かの遺骨の類いであっても、そこに墓標の類いでも用意周到に建てられていれば事件性はないわけで、そんな墓標が書物という形態に収まっている場合もあるだろうが、その種の記録すら残せない場合がほとんどだろうし、そういう意味では人の活動やそこから生じる事物の類いはその場限りのものだと思っておいてもそれほど間違ってはいないだろうし、その場限りで生じている物事を擁護できるような余裕のある人もそれほどはいないわけで、だからそれを見て見ぬふりをしておくのも無難な態度のように感じられるわけだが、他にどのような態度が可能かといえば、見て見ぬふりはせずにそれと軽く戯れてみるのも一興だろうし、そうやって犠牲者の役目を一時的に担ってみてもそれほどの害はないのかも知れず、そういう意味ではその手のデマを信じる勇気が必要となってくるのかも知れないが、それも信じているように装うだけでなく積極的に信じてみた方がかえって免疫がつくかも知れないし、その種の免疫が何の役に立つとも思えなくても、思わぬところで効果がもたらされるとも限らないし、そんなことを期待する気も起こらなければ単に受け流しておけばいいのかも知れないが、期待されるのはそういうことではないのかも知れず、それよりは何事も経験しておくことが大事であり、生きている限りでその種の経験を避けて通るわけには行かない場合が出てくるわけで、そういう意味で避けては通れない人が経験すればいいことであり、避けられる人はさっさと避ければいいことでしかなく、そういう経験には個人差がつきものであり、何事も経験する成り行きになれば経験しておくに越したことはなく、別にその良し悪しを考えるいとまを与えないような経験なら、とりあえず受け流すのではなく受け入れておくべきことであり、そういったものをどの程度受け入れられるかが自らの器の大きさを測る上でそれなりに目安となってくるのかも知れず、器の小さな人は受け流すこともできずに大げさな拒否反応を示して騒ぎ立てるだろうし、そういう気の小さいに人に誰もが合わせる必要はないわけで、人それぞれで器の大小があるとすれば、容量の大きな人にはそれなりに異物を受け入れて処理できる能力が備わっていて、そういう人に誰もが合わせられるわけでもないだろうが、異物や毒物に対する抵抗力を高めるには、そういった物事を積極的に受け入れてそれと格闘する習慣をつけておいた方がいいだろうし、それも年をとってからだと体力が衰えてしまって、格闘しても負けてしまってそのまま重篤に陥ってしまうかも知れないが、若いうちから研鑽を積んで訓練しておけばそれだけ抵抗力も長く持続するようにはなるのかも知れないし、自らの器を大きく保つにはそれなりに日頃の鍛錬が欠かせないのかも知れず、その鍛錬の対象として現状の試練があり、遅きに失することのないようにするには、何事も面倒くさがらずに経験しておいた方がいいのかも知れない。


8月16日「予想と予言」

 予想というのは当たらなくてもかまわないから予想に留まり、必ず当たる必要はないのかも知れないが、それに比べて予言となると当たることは稀なのに当たることが義務づけられていて、何かインチキ霊媒師のようなうさんくさい印象を伴いながら真顔で予言せずにいられず、当たらなくてもかまわない予想に留まっていては御利益がなく、神からの啓示として神秘的な雰囲気をまとった預言のような縛りが生じてしまうのかも知れず、だから予言は信じられないと言ってしまうと予言を馬鹿にしていることになってしまうのかも知れないが、何を予言してもかまわないのであり、それでも大抵は何かの終わりを予言してしまうのだろうが、中には終わりの始まりを予想するというさらなるうさんくささをまとうやり口も横行するとしても、何かを断言せずにはいられない性分でもないのに、成り行き上断言せずにはいられない役割を担ってしまう人が不幸になるわけでもないだろうが、現状で明らかになっていることがあるとすれば、それは前もって予想されたことでも予言されたことでもなく、予想や予言を裏切って現れた現実というわけでもないのだが、たぶんある程度予想されていたことでもあるのだろうが、そのある程度の程度というのがどの程度なのかに関しては様々な程度があるのかも知れず、それが大したことはない程度であればありふれているように思われて、また予想外のことが起こっていればそれが驚くようなことでもあり、驚くといってもそれほど驚かなくてもかまわないのかも知れないが、さらには忘れた頃に予想や予言が的中したりもして、そうなると驚くべきことが起こったようにも思われて、前もって誰かが予想していたり予言していた通りだと盛んに喧伝されるかも知れないが、それでもそれが現実に起こっていることの全てであるはずもなく、ほんの一部ですらないわずかな一致点を著しく誇張して伝えるわけだが、予想や予言のそういう面を考慮に入れるなら、まずは踏まえておかなければならないのは、そういった誇張されて伝えられる予想や予言に惑わされてはならないということであり、そんなことよりは現に起こっていることに注意を向けるべきで、それが過去に起こったことの繰り返しではないことを感知すべきかも知れないが、それでもまだ不十分かも知れず、たとえ予想通りのことや予言通りのことが起こってもそれに驚くべきではなく、たまに計算結果が合うことも起こる程度に捉えておけばいいのであり、それよりは思いがけないことが起こったら素直に驚けばいいのであって、それが予想されたことであっても予言されたことであってもそんなのは無視すればいいだろうし、そうやって予想も予言も忘れたふりをしてもかまわないだろうが、他に何か気にかけることがあるとすれば、それは現実のありのままの姿であり、その現実をどう評価しても肯定も否定もできない面があり、それをそのまま受け止めなければならず、別にそれが予想されたことであったり予言されたことであると捉える必要はないのであり、過去に発せられた言葉の反映とは無縁の実態を把握しておけばいいのかも知れないが、だからといって現状から発せられる予想や予言の内容を無理に無視する必要もないし、その種の断言の無根拠ないい加減さをからかう必要もなく、予想や予言はそういうものだとありふれた行為として受け止めておいてもかまわないだろうし、そこでそういうことを断言しなければならない事情を察して哀れみの言葉を投げかけるまでもなく、現状の照り返しとして言葉が生成される成り行きに感動できればいいのかも知れないが、感動したままになってしまってもそこから何が生まれるわけでもないし、そういった認識から逃れる必要があればそれらの言葉を無視した上で成り立つ言説を構築する必要に迫られるわけだが、それが予測や予想や予言に基づいた決定論的な未来を拒否するようなことになればいいだろうし、未来について語るのを拒否することがそのまま現状に留まることを意味するわけでもないだろうが、そこに未来への可能性があるとすれば予言者には無理なことになってしまい、そういう意味で予言者は過去に下された予言の中につなぎ止められて未来へは行けない人であり、その多くは外れた予言と共に忘れ去られて滅び去る人でもあるわけだが、仮に予言が当たったとしてもその多くが終末論的な内容であれば、他の多くの予言者と共に終末論的な予言の発信者として同列に扱われるしかないだろうし、物事の終わりを予言する人が他にもいくらでもいるからそんなのは何でもないことになってしまい、結局は他の多くの終末論の中のバリエーションの一つとなるだけでしかないわけだが、では予言することを拒否する以外に予言者の役割を免れることはできないのかといえば、他の何かのついでにほんの付け足しとして気軽に予言すればいいのかも知れず、それが主題とはならなければいいのだろうし、言いたいことや述べたいことは別にあり、それを言ったり述べたりするのに必要な手順として何かの予言を経由する必要があれば、そこで特に大げさな予言をする必要がなくなり、予言はあくまでも本題を語るためのきっかけに過ぎなければ、軽はずみに予言してしまうことによって未来への可能性を閉ざしてしまうような弊害を減じられるかも知れないが、そういうことであればそれを予言とは受け取られないようにするためにも、予言ではなく予測や予想にとどめるような工夫が求められるだろうし、それも外れても困らないようなことを語ればいいのかも知れないし、他に語るべきことがあればそれをメインにして語ればいいわけだが、その語るべきことが他にあるという前提が、語るべきことが何もないという事実を浮かび上がらせるような結果も招いてしまい、予言の他に何も語るべきことがない人が未来を予言をすることにもなるわけで、現状に関して何らかの断言がしたい人が何かを語る上で必要となるのがその種の予言であり、予言したいというよりは断言がしたいわけで、このままではそうならざるを得ないと主張したいから、それを断言せずにはいられなくなって、それをさらに強めれば、こうなると断言するわけで、自らの主張通りのことが起こると断言するわけだが、それについてそうなるのが当たり前のことを断言するとすれば、例えばお前はいつか必ず死ぬはずだと断言できるだろうし、それが語る対象についての終末論的な予言のもっとも単純な事例となるだろうが、比較的当たる可能性が高いのもその種の内容に収斂するだろうし、それは何らかの計算に基づいてそれを割り出すというよりは経験からわかっていることであり、何はともあれ終わりを予言しておけば外れることはないわけで、それが安易な内容だと思われないようにするには、それが断言されるまでに至る過程においてそれなりのこけおどしが必要となってくるだろうし、予言するという目的を物事の終わりを示すことに結びつけるには、それなりの理由が提示される必要も出てくるかも知れないが、その理由というのが現状の否定的な面となるだろうし、現状で否定的な面が顕在化しているから、その顕在化している否定的な面をそのまま放置すると世の中が終わってしまうという結果に至るわけだが、本当にそうかというと、実際に否定的な面が顕在化しているのに世の中が終わっていないという事実も一方で厳然とあるわけだから、それらの理由や原因と結果や結論とが結びつく根拠が想像以外では何も示されていないことになるだろうが、終わる兆候を示す何らかのデータを使って表やグラフを用いるとしても、現状の延長上に終わりを想定するわけで、そういう意味で現状にとらわれているのは確かであり、それが同時に過去のデータから予測される未来となるわけだが、さらには予測を裏付けるデータをサンプリングしていることにもなるわけで、どうやっても自らの断言にとって都合の良い要素を選んでくるようなことになってしまうわけで、都合の悪い要素が出てくれば断言が阻まれてしまい、将来に起こることを断言する目的でそんなことをやっているわけだから、目的を阻害するようなデータが示されてはまずいだろうし、そういった目的ありきでデータを調整するようなことをやってしまっては科学的な行為とはいえなくなってしまい、それとは違って成り行きとしての科学的な探求からは、当初に想定していたこととは違う結論が導き出されるようなこともあるだろうし、それが思いがけない発見であり、そこから何らかの発明にも結びつくわけで、必ずしも予定調和な結果には至らないわけだが、そういうことを考慮するならその種の予言者の多くが結論として何かの終わりを用意していること自体が非科学的な実態を示しているわけで、またたとえ科学的な探求の結果として何らかの終わりが示されるとしても、重要なのは結論ではなくそこへと至る探求の内容であり、しかも示された結果は未来にはなく、あくまでもここで示された結果であり、未来に起こる出来事がここで示されているに過ぎないわけだが、別に科学的な探求がおこなうべき全てではないとしても、予測や予想や予言が全てではないのも当然だが、それでも何か断言したいわけで、こうなるべきとかこうならざるを得ないことを言説によって示したいわけだが、それも全てではないとすれば、そうはならないことやそうなるべきではないことが示されてもかまわないだろうし、そういった予測や予想や予言を裏切るような結果に至るのも普通に起こることであり、実際に日々そんなことが絶え間なく起こっているわけだから、そういう断言が終わりを示す同じような傾向を示してしまうとしても、そんなことを断言する人たちの思い通りの結果にはなっていないからこそ、それらの人たちの募りゆく焦燥感がますますその種の断言の繁茂を許すのだろうし、それでもいくらでもその種の断言ができるからこそ、可能な限り断言しまくるわけだが、いくら断言してもかまわないような断言であるからこそ、その種の断言がありふれていると共に現状に対しても未来に対しても何の効果もないことが明らかになってしまうのかも知れない。


8月15日「富の循環」

 それが効果として顕在化しない場合もあるだろうが、様々な物事から及ぼされる力が複雑に絡み合いながらも、あるとき何かの極端な傾向となってそれらがいっぺんに噴出して、それが爆発的な破壊力を生じさせる場合もあるかも知れないが、少なくとも現状でそうなっているわけではなく、それよりは何かの行き詰まり傾向を見せているように思われるのだが、それが何の行き詰まりなのかがよくわからないのかも知れず、本当に世の中の現状が行き詰まっているかどうかもはっきりしていない可能性もありそうだが、印象としてありふれたことをいうなら確かに何かが行き詰まっているのであり、その何かがはっきりするときが今後やってくるかどうかは現状では何とも言えないが、例えばそれが世界的な経済の行き詰まりであれば、多くの人がそれを指摘して危機感を煽っているところのものでもあり、ある意味でそういえばわかりやすくなってしまうわけだが、果たしてそれがそうではないということがいえるかというと、ひねくれた自らの猜疑心に従うなら、本当は行き詰まっていないのではないかと疑いたくなってくるわけだが、ごく一般的に考えるならその行き詰まりを解消しているのが人や物や情報の循環であり、それらが生成と消滅を繰り返しながら世の中で循環していれば行き詰まらないわけだが、それも人為的に循環させているというよりは自然に循環していれば、どこかに資産として金銭的な富の蓄積があるとしても、資産として機能するには何らかの目的を担って使われる必要があるわけで、資産が使われれば循環するしかなく、そうやって一時的に蓄積された富は何らかの目的で使われることになり、どこかに蓄積されているとしても蓄積されたままで終わるはずがないわけだが、それが一般の人には無関係な大規模な事業に使われるとしても、また飢えた貧しい人たちにはその富が回ってこなくても、世の中のどこかで回っている限りで行き詰まってはいないのであり、そういう意味で何らかの富の循環システムが世界で作動している可能性があるわけだが、それも不均衡な回り方をして平等には回っていないから人々の間で不平不満が溜まっていることも確かだろうが、それでも行き詰まってはいないわけで、しかもそれに伴って各人の能力や資質に応じて分相応な成り行きをもたらしている可能性もあるわけで、愚かな人には愚かな行為に見合った悲惨な境遇がもたらされる一方で、賢い人には賢く動いた分だけ思い通りのことができて、結果としてより多くの富がもたらされるかも知れないが、それも個人的な力という面の他に団体としての組織力がものをいう場合もあり、その中には家族や一族などの血縁的なつながりから地縁や業種や職種などのつながりもあるだろうし、そんなところから交友関係も生じて、人や団体の間の結びつきを利用したネットワークを介して物や情報やサービスの交流を活かしてうまく立ち回れば、そこで立ち回れている限りで何やら自身が世の中で活躍できているような気になれるだろうし、それに伴って多少なりとも富の循環システムの恩恵に与れていることにもなるはずだが、またそうなっていればたとえその人に見過ごすことができないような愚かで不快で嫌われる面があっても、ネットワーク内で利用価値が生じていればそれなりに悪口や陰口をたたかれながらも利用されるだろうし、利用される限りでその人にそれなりの富がもたらされる成り行きにもなり、それがその人にとって好都合な状況をもたらしていることにもなるのかも知れないが、そうしたネットワーク内の直接の利害関係から外れた位置に存在している人からすれば、何であんな嫌な奴があんな高い立場や地位にいてそれ相応の富や権力を持っているのか、と反感や嫌悪感や不公平感を抱くのは当然だろうが、そういう人は個人的にそんな思いを抱いているから、団体の組織力や人や物やサービスなどの交流を介したネットワーク効果を考慮に入れていないわけで、それだけ思慮が浅く想像力が足りないわけだが、それでもそれが公的な立場や地位であれば他の多くの人もそうした思いに共感するし、その人の世間的な評判にも少なからず影響を及ぼすわけだが、それよりも地縁血縁などの慣習的な結びつきや職業的な集団の力が勝っていれば、その人の立場や地位が守られることになるだろうし、未来永劫死ぬまで安泰でいられるわけではないとしても、執拗に長期間にわたって立場や地位を維持するような成り行きをもたらすかも知れないが、その人だけではなく他の大勢の人たちもそういった社会的な結びつきや力の恩恵に与っていれば、その人が何らかのきっかけから失脚しても同じような人がまた同じような立場や地位に就くようなシステムが出来上がっていて、たとえ法律の上では誰でもその立場や地位になれるとしても、慣習としてそれを許さないような社会構造となっていると、公的な制度や法律が形骸化していることにもなるわけだが、それも社会を安定的に保つ上では欠かせないようなシステムとして出来上がっていれば、やはりそれも人為的に構成されているように見えて実は自然にもたらされていると見なしておくべきかも知れず、そうした自然システムを人為的に取り除くことは容易にはできないし、しかも自然システムの土台の上に人為的なシステムが構成されていることになっていれば、実際に無理なのかも知れないが、そうだとすればいかに理不尽に思われてもそれを人為的に取り除こうとするのとは違った働きかけが必要となってくるわけで、それが自然にもたらされた慣習などを利用しておこなう行為になるわけだが、それが人為的かつ理性的に考えるような戦略や戦術などとは異なる可能性もあるわけで、そういうところで微妙に思惑がはぐらかされてくるのかも知れないが、もちろん人がそれを思考するのだから人為的かつ理性的に考えて実際の活動に反映させる面も含まれるし、また感情的にひどいことをやっている人や勢力を許せないと思うこともあるだろうし、そういう心理作用なども複雑に絡み合って思いがけない事態をもたらすのかも知れないが、そうなるとしても何かはっきりした結果がもたらされることはないのかも知れず、それを公的な法律や制度の改正や新設などに結びつけることになっても、それだけで解決できるとは思わない方がいいだろうし、そういう面で絶えず自然からの作用を考慮に入れておく必要があるだろうし、それがよくわからない作用や影響だと対処しようがないわけだが、何かをやろうとするとなぜかそこからずれたことをやる羽目になったり、妙な成り行きに誘導されてしまったりすれば、やはりそれが自らの能力や力量を超えたところからもたらされる作用や影響だと思うしかないし、そうやって人為的な働きかけがはぐらかされたり阻まれたりするわけだが、そうなってやっていることがうまくいかなくなってしまったりしても、そうなっているだけでも人為的な働きかけがそれなりに効いていることにもなるわけで、少なくとも何をやってもどうにもならないわけではなく、働きかければそれなり反応や反作用がもたらされるわけだから、それも相互作用を起こしている証拠であり、その人の働きかけと共に他の人や団体などの働きかけも一緒になって絡んできて、それらが相互作用を起こした結果としてそうした反応や反作用がもたらされて、それがたとえその人の思い通りの結果にならなくても、他の人や団体などの思い通りにもなっていない可能性があるだろうし、それらの働きかけの中で相対的にうまくいっている人や団体があるとしても、それも完全に思い通りのことができているわけでもなく、それなりにうまくいっていない面があるのが普通だろうが、それも自然の成り行きに身をまかせることができればそれほど苦にはならないのかも知れず、そういう意味でその場の環境や状況や情勢などにいかに同調して、それらの成り行きにうまく合わせて物事を効果的に利用できれば、そこでうまく立ち回っているように思われるだろうし、そこで自身が活躍しているような気になれるわけだが、それもその場に取り込まれているに過ぎないことであり、その場の環境や状況や情勢に同化してしまい、抵抗感を感じられないような心境になっているだけで、そんな人や団体がその場を支配しているというよりは、その場の成り行きに合っている人や団体がその場では有利な立場や境遇になっていて、その場の成り行きに合ったことをやっている人や団体がその場ではうまくいっているわけで、そのやっていることというのが、そこから場所的にも時代的にも隔たった人にとっては、どうでもいいようなたわいないことをやっているように見えてしまったり、何やら浅はかで馬鹿げたことに興じていて、それで人生を棒に振っているような享楽にも見えてしまえば、その場では確かに支配的な役割を担って主導権を握ることができたとしても、取り立ててそれがどうしたわけでもなく、別の時代や別の地域で暮らしている人にとっては何の価値も意味も意義もないようなことであれば、少なくともその人が偉大だとは思われないし、何か重要な業績を残したことにもならず、そうであれば尊敬されるどころか、かえって軽蔑や嘲笑の対象となるようなことをやっているように見えてしまえば、ではその場でずる賢く立ち回り用意周到な策略を巡らして競合する他の有力や人物や勢力を出し抜き、結果的に支配的な立場や地位を得て栄華を誇るようなことになったとしても、それが何になったのかといえば、そうやって手に入れた富や資産の単なる浪費にしか結びつかなければ、ただそういうことをやっているだけでしかなく、しかもそこでうまくいくというのがそういうことにしかならなければ、そういう成り行きに合わせて成功してしまうこと自体も、何か皮肉な結果を招いているようにも見えてしまうわけで、そういう意味で果たして現状の世界で成功している人や勢力が、後世の時代において肯定的かつ好意的な評価対象となるのかといえば、疑問に思わざるを得ないようなことやっているのかも知れないし、この時代ではどうでもいいような人や勢力が跳梁跋扈しているようなこととして普通に語られるのかも知れず、それでかまわないような空気に世の中が覆われている時代が現代なのではないか。


8月14日「間違った行為」

 そこで何の辻褄合わせをしているわけでもなければ、やっていることの何が良くて何が悪いという判断から良いことをやることになり、普通は誰もが良いことをやろうとするはずだが、なぜか中にはひねくれ者がそんな判断には従わずに悪いことをやろうとしていれば、何が良くて何が悪いと判断したその判断を信じていないことになり、悪いと判断したのにあえてそれをやろうとする理由としては、なぜかそれをやらざるを得ない状況に追い込まれてしまったことになるかも知れないが、なぜそうなってしまうかについては、その場の成り行きといってしまえば身も蓋もないが、たぶんそれでかまわないのかも知れず、実際にも当初は悪いと判断したことであってもその後の風向きが変わってきて、その判断を覆してもかまわないことになれば、それもその場の判断でしかないだろうが、たとえその判断が間違っていたことが後から発覚したとしても、その時にはそう判断した方が良かったわけで、良かれと思ってそう判断して、それが間違いだと気づけばその場で判断を改めて、またそこからやり直せばいいと思われるかも知れないが、そうはいっても世の中にはやり直せることとやり直せないことがあるだろうし、いったんそれをやってしまうと後戻りができない場合もあって、そんな後戻りできない状態で間違いが発覚したら、後戻りしなければいいということになるかも知れないが、現状がそんな状態なのかといえば、そういう面もある一方で、それだけではない面もありそうで、やり直せないこととやり直せることがあれば、やり直せないことはやり直さなくてもいいだろうが、やり直せることがあればやり直せばいいだろうし、そんなことをやっているだけでも元の状態からそれなりに移動したことになり、当初にやろうとしていたこととは違う別のことをやっていることになるのかも知れないが、それをやっている人の意識も当初の意識から変化したことになるわけで、そうやって当初の状態へは戻れなくなってしまうわけだが、それで良いのかといえば当初の意識からすれば良くはないだろうが、いったんそんな状態になってしまえばそれが悪いとはいえないだろうし、そうなると当初の判断とそうなったしまった後での判断が違っていても、それなりに納得できるのかも知れないし、やっていることの辻褄が合わなくても結果的にそうなってしまったのだから、それはそういうものだと認識しておくしかなく、たとえそこでは納得できなくても、やり直せないことがはっきりしていれば、後戻りできないその状態を前提として、そんな前提を受け入れた上でその後の活動を続けるしかなく、それが必ずしも過去との連続性を保つことにはならず、過去の時点では悪いと判断したことや間違っていると見なされたことを現状でやっている場合もあるかも知れないし、さらには過去の時点では想定もしていなかった状態になっている可能性もあるだろうし、そういう意味では現状でやっていることが過去の時点ではできなかったことであるとすれば、それだけやっていることが進化したことになるだろうし、それが必ずしも進化とはいえない面があるにしても、以前とはやっていることが様変わりしていれば、実際に何か違うことをやっているわけで、それが以前とは状況が様変わりしているからか、あるいは単に立場や境遇が変わってしまったかは、その両方かも知れないが、そうなってしまった理由や原因がどうであれ、そうなってしまった状態を受け入れている限りでそんなことができていれば、その場の状況や情勢に合わせて活動の内容も変わってしまったことにもなり、そうなるとそこで何をやるべきかということよりは、すでにその場でやっていることがその場に合っていることになっていて、何をやるべきかと考える間もなくその場に合わせたことをやっていることにもなり、後付け的にもっともらしい理屈や論理で説明するまでもないことをやっていて、かえって理屈や論理では説明できないようなことをやっていたりもして、しかもそれが理屈や論理に基づいた判断では悪いことであったり、間違っているとされることであれば、理屈や論理に基づいて批判されるようなことをやっていることにもなり、何かおかしなことがおこなわれているように思われるだろうが、それがおかしいと思われることでさえもその場の状況に合った思いでもあり、そこでそう思うからそれとは違うことをやるように促されて、それとは違うことをやろうとする人や勢力に支持や賛同が集まる場合もあるだろうが、そういう意味ではその場の状況や情勢が変化の途上にあり、そんな過渡的な状態の中で様々なことがおこなわれて、それらが試された分だけそれ相応の結果が伴ってくるわけだが、それらの結果自体もその場の状況や情勢を変化させる要因になり、それらを試すことがその場に合っているように思われるから試すわけだが、それをやってしまうと取り返しのつかない結果を招いたり、後戻りができなくなるようなことも試されているだろうし、さらにはその場で通用している理屈や論理を無視したことまで試されていれば、そうなっていること自体が世の中が変革されたり歴史の転換点にきていることの証拠となるのかも知れないが、果たして現状でそんなことがおこなわれているかというと、多くの人たちはそれに気づいていないだろうし、誰も気づいていないところで誰にも気づかれないようなことがおこなわれているのかも知れないし、また誰もがそれに気づいていてそれが間違っていると批判されている現状もあるわけだが、実際に間違っていると思われることがおこなわれていれば、それがその場の状況や情勢に合っていて、しかもそれに対してそれが間違っていると思うのもその場の状況や情勢に合っていれば、それらが複合的に作用し合ってその場の状況や情勢の変化を促しているのかも知れないが、それが誰の目にも変化に感じられるかとなるとそうでもないのかも知れず、誰もそれを変化だと気づかなくても実際に変化している場合もあるわけで、実際に間違っていることがおこなわれていること自体が変化の一端を示していたりもするわけだが、少なくともそれを間違っていると批判している人たちには変化を実感できないだろうし、そんな人たちはこれまでに通用してきた常識や理屈や論理にとらわれているから間違ったことがおこなわれていることに気づくとしても、世の中が変化しているから間違ったことがおこなわれているとは思わないかも知れず、それよりはこれまでに通用してきた常識や理屈や論理に合ったことがおこなわれてほしいわけで、確かに世の中が変化していなければ常識や理屈や論理などに適合したことがおこなわれるべきだが、それが廃れつつあるとすれば、そうしたものには適合しない間違ったことがおこなわれるようになり、それが世の中の変化を表していて、それらの人たちは変化に気づく以前に間違ったことがおこなわれていることに気づいて批判するわけで、そうやって批判するだけで手一杯となってしまえば変化に気づく余地がなくなってしまい、間違った行為を批判するだけの人となってしまうわけだが、そんな批判を押し退けて間違った行為が世の中でまかり通ってしまえば、それによって世の中が変化したことになるわけだが、その間違った行為がいつまでも通用するとは限らないだろうし、それに対して間違った行為をやめさせようとする圧力も次第に強まってきて、そんな両者のせめぎ合いによっても状況や情勢が揺れ動いて、そこからも変化がもたらされるかも知れないし、一概に間違った行為がまかり通るだけでは済まなくなる場合の方が多いのかも知れないし、そういう意味では世の中は一方的には変化しないわけだが、そうであっても間違った行為によって取り返しのつかない事態を招いたり、もはや後戻りが困難な状況になってしまえば、それらを批判している人や勢力も今まで通りのやり方では済まなくなってしまうだろうし、そうなれば自分たちが守ろうとしている常識や理屈や論理の修正を迫られて、その場の状況や情勢に合うような理屈や論理を編み出さなければならなくなり、編み出されたそれがうまく状況や情勢に適合すれば、新たな常識となって世間にも認められるかも知れないが、それもはっきりしない場合の方が多いだろうし、それがなし崩し的にそういった常識の類いが妥協の産物のような不完全で納得しがたい内容となりながら定着してしまい、何事も否応なくそうなってしまうから流動的な経過を辿って流行り廃りを経ながら移り変わっていくだけで、確固とした揺るぎない価値観としては定着しがたいからそれらを巡って絶えず争いや駆け引きなども伴ってくるだろうし、うまく状況や情勢に適合できずに絶え間なく変化する余地が残されているから、たぶん現状で間違ったことをやってしまっている人たちにしても、そのままそれをやり通すわけにはいかなくなって、絶え間なくやっていることの修正や場合によっては方針転換などを迫られるわけだが、そうであってもいったんやってしまえばやり直しが利かない面が出てきてしまって、そういう面では取り返しのつかないことをやってしまい、もはや後戻りができなくなってしまうわけだが、それを間違ったことだとして批判している人たちにしても、取り返しがつかないことをやってしまっているだろうし、いったん批判し出すと後戻りができなくなって、はしごを外されて批判しっぱなしになってしまうとしても、後には退けない状況へと追い込まれてしまうわけだが、だからといってそれらの人たちにはもはや未来がないというわけでもなく、いつまで経っても批判する立場からは退けずにそこに留まっている場合もあるし、逆にそんな人たちを未来永劫そこに留まらせておいて他のことは何もやらせないようにしておくという措置もあり得るだろうし、そうなるとそんな人たちには変化する余地がなくなってしまい、いくらでも批判することはできるが、それ以外のことは何もできず、批判する以外では何の力もなくなってしまい、そこに世の中の変化を促す原動力が生じないことになってしまうのかも知れないが、逆にそんな人たちがいるからこそ、それ以外の人たちに世の中の変化を促す力がもたらされるのかも知れず、それが現状で間違ったことをやる能力に結びつくのではないか。


8月13日「身内意識」

 言説の対象となるのが何であれ、それが現実の世界の中で存在していて、何らかの活動が伴っていれば、そこから何らかの出来事や現象が起きているはずだが、それがたわいないことのように思われると、馬鹿にしたくなってくるのはもちろんのこと、そうしたことを軽く見てしまいがちになるだろうが、それが世の中に深刻で重大な作用や影響を及ぼしているように思われると、そういった出来事や現象を大げさに捉えてしまい、それを何とかしなければならないと思うと共に、場合によっては国家存亡の危機をもたらすようなこととして社会問題化したくなってくるだろうが、果たしてそういった物事の全てが大げさに受け止めるようなことなのかというと、そう思われるとしても結果的にはそれよりは遙かに低次元で進行中の取るに足らない物事であったりして、それはそういう出来事や現象が収まるべきところに収まって一段落ついてみるとわかることであり、メディアで大げさに煽り立てられることがそれ相応にたわいないことであったりして、そのそれ相応というのが煽り立てているメディアやそれに携わっている人や勢力の程度を物語っていて、的外れな物言いで勘違いなことがいわれているようなら、それが深刻で重大に思われるほど逆にたわいないことになってしまうわけだが、果たしてそこで言語表現や映像表現などによって付け加えられる深刻で重大に思われる印象というのが、そのままの程度や傾向として受け止めるべきなのか、はたまたそれこそが勘違いでたわいないこととして小馬鹿にしておけばいいのかといえば、どちらにも受け取っておいてもかまわなければそれなりに多面的な印象を伴った物事になるはずだが、それらの重層的かつ複雑で入り組んだ印象の中で何を強調してもそれ以外の印象がなおざりにされてしまい、そうした強調の仕方自体が強調している人の誇張表現から生じていることであり、それを受け止める側がそれを真に受けるか否かも受け止める側の恣意性が絡んできて、どちらにしても相対的な範囲内でそう受け止めているに過ぎないことでもあり、少なくともそれによってその人が深刻で重大な事態に陥らない限りは、まだ他人事の状態でしかなく、その人の伝えていることが他人事を伝えているだけであれば、その人にとってはそれが他人事でしかないわけだから、それを受け止める側も他人事でしかないのかも知れないし、他人事ではなければ実際に深刻で重大な事態に陥っているわけで、他人事である限りはたわいないことだと見なすのは判断を誤っているかも知れないが、そこに距離や隔たりを感じていれば直接対象と向き合っているわけではなく、少なくとも直接のかかわりを免れているわけで、それと直接かかわっていない限りで傍観者の立場になれるわけでもないが、傍観もしていなければ関心もないということにもなりかねず、そうなっているだけでもその人にとっては深刻で重大な事態ではないことの証しとなってしまい、それを深刻で重大なことだと思ってしまうこと自体がおかしいわけで、それがたわいないことだとは思わないとしても深刻で重大な事態に陥っていない状態ではあるわけだから、他人にとっては深刻で重大なことであっても自身にとってはそうではない限りでそれが他人事であるはずであり、そういう意味で他人事でしかないのにそれを自らに引き寄せて自らにとっても深刻で重大な事態だとは認識できないにもかかわらず、その辺で曖昧で両義的な意味やかかわりが生じているのかも知れず、それに関して例えば地球環境や自然環境などの汚染が社会問題として取り上げられるような成り行きになれば、自身には大して直接の作用も影響も及んでいないように感じられるのに、それが深刻で重大なことだと思うしかないようなことになってしまうわけで、それがたわいないことだとは思えないし、そういった方面で活躍している環境活動家などと問題意識を共有させられてしまい、自らと地続きである程度が薄いとしても他人事だとは思えず、自らには大して被害が及んでいないのに人類共通の問題として何か深刻で重大な事態に直面しているような認識となってしまうとすれば、それをそう捉えてしまうこと自体が自らが設定したつもりの前提とは違っているように思われて、それとこれとは傾向の異なる問題だと思うしかなく、そういう意味で単純な価値観や判断の前提が崩れ去っているわけだが、それに関しては結構他にも先入観を裏切るような事態に直面していることに気づいていないのかも知れず、身近に思われるかどうかは人によって異なるような政治や行政や経済に絡んだ物事から、大抵の人なら関心を持っている生活や娯楽関連のスポーツや漫画やペットや自動車などの趣味の領域に至るまで、何やらいちゃもんや言いがかりのような難癖をつけながら特定の物事に関して誇張や強調表現を使って世間的な話題となるように煽り立てて、そこに引き込もうとする煽動者の類いが人々の頭に問題意識を植え付けようとするわけだが、その中のどれか一つというわけではなく複数の話題に関心を持っている人がほとんどだろうが、特にそれらの話題の間で優先順位をつけているわけではなくても、身近な心身の健康や家族や交友関係などに関する問題を優先させるのは自然な成り行きかも知れず、それだけに自らの関心を限定しているわけではないだろうが、他のそれらとは傾向の異なる公的な領域で生じている社会問題などには無関心でいられることも確かであり、無関心でいられるような社会構造となっているとすれば、それがどういう構造になっているのかといえば、メディアを通して入ってくる情報と身近な領域で心身に直接かかわってくる物事との間でそれなりに区別がつくような構造となっているわけで、さらにはスポーツや漫画やペットや自動車などの趣味に関することなら、それらに関するメディアを通して入ってくる情報との間で直接の利害が一致すれば、それほど抵抗感が伴わない限りで好意的な印象を持つわけだが、それとは違って政治や行政や経済などの公的な領域の問題となると、そこで生じている煽動者たちの間の対立や敵対関係などに誘導されてしまうと不快感も伴ってきて、そこでおかしな先入観を植え付けられてしまうと、それらの煽動者たちの頭の程度に応じた滑稽な偏見にとらわれてしまうわけだが、洗脳されていればそれを滑稽だとは思わないのは当然のことだとしても、それだけではまともか滑稽かの判断ができないわけだが、実際に滑稽なことをやっている人たちが政治家として公的な領域で活躍しているようにメディアを通じて報道されているわけだから、しかもそんな政治家を擁護する識者が煽動家と役割をかけ持ちしながらメディア上で普通に振る舞っている状況があれば、それを滑稽だとは思えなくても当然だろうし、逆にそれを滑稽だと断じること自体が間違っていると思われるわけだが、そこでそれらの人たちのやっていることや主張していることの何が滑稽であり何がまともかといえば、それらの人たちが何を尊重して何を嫌悪しているかを見ればそれがわかると思われるようなら、よほどそう思っている自らのうぬぼれに鈍感なのかも知れないが、たぶんそういう人たちを滑稽だと思ってはいけないのかも知れないし、逆にまともだとも思ってもいけないのかも知れず、何らかの成り行きの中でたまたま偶然の巡り合わせでそんなことをやる羽目に陥っていて、他の誰がやってもかまわないようなことをその人もやっていて、その人が否応なくそういうことをやる役割を担わされているとすれば、誰に頼まれたわけでもないのに自主的にやっているつもりであっても、少なくとも他の大勢の人が支持してくれることを当てにしながらそんなことやっているわけで、もしそれが滑稽に見えるようなら逆にそれが滑稽だとは思わない人の存在も想定するしかなく、しかもそれを滑稽だとは思わない大勢の人の支持を当てにしながらそんなことをやっているのだから、その人が行政の代表者であればその人にそんなことをやらせるだけの権限や権力が生じていて、その人を支持したり擁護したりする人もメディア上の識者や煽動者だけではなく、その支持や擁護の程度や傾向も積極的に支持したり擁護する以外でも、何か色々と消極的ないいわけじみたことを並べながらの支持や擁護だとしても、それらの人たちにはそれなりの追従者がいるわけだろうし、たとえそれが滑稽なことであると認めるにしても、そんな滑稽なことをやらざるを得ないような成り行きにとらわれていて、それがその人の本意ではなくやむを得ずやっているのだとさらなる言い訳を用意したいわけで、そうやってどこまで愚かな行為にその人が導かれてしまうとしても、それでもその人をどこまでも擁護し続けるような身内意識がその人の支持者に生じてしまっているとすれば、いくら滑稽なことをやっても許されるような成り行きも生じてしまっているわけだが、そういった身内意識を生じさせるのがその人がまとっている親近感なのだろうし、親近感を抱かせるような振る舞いを演じることこそがそういった政治家には求められていて、逆にまともに思われるような振る舞いであっては親近感が生じてこない可能性もあり、むしろお笑い芸人や司会者のように人を笑わせたり安心させる芸を身につけたり、そのお笑い芸人がワイドショーなどで小馬鹿にする一般人のおっさんやおばちゃん的なキャラクターを演じることもその場の状況に応じて求められるかも知れないし、そういった身近な身内意識を抱かせる対象として家族や交友関係の中で存在している人たちがいるわけで、そんな人と似た面があれば愚かで滑稽な行為も許されるような心理状態となってしまい、逆に世間知らずのような振る舞いに終始しながら利いた風な説教をたれる学校の先生のような左翼的なキャラクターを野党政治家にかぶせて反感を抱かせる成り行きなども生じているのかも知れないし、そうした日常の経験から生じる距離感のなさが公的な領域に無視できない悪影響を及ぼしていて、それとこれとを区別する意識や見識を阻害するような成り行きになっているのかも知れない。


8月12日「予想される未来像」

 そうなる危険性を指摘しながらも、そうはならない可能性にも言及できれば、それが予言ではなく予想の範囲内に落ち着くのかも知れないが、決定論的な確実性とは違った確率論的な計算可能性というのも、数値を算出する過程で不明確な根拠や理由が出てくるだろうし、そういうことをいくら述べても曖昧かつ不確実な面が出てくるだけで、できればそういうよくわからない面は語る内容からは除外したいわけだが、物事の真の姿というのがあるかどうかはよくわからないとしても、少なくともそれを知るにはそういうよくわからない面をわかるようにしたいわけで、そういう面での探求というのが果たして意味のあることかどうかもわからないにしても、現状でよくわからないことをわかるようにしたいという願望に引っ張られて、そういうことについて探求している人もいくらでもいるだろうが、それらが無駄な努力に終わる可能性は否定できないだろうし、それらの大半が何の結果も得られずに終わったり途中で放棄されて、何も残せずに世の中から忘れ去られてしまうにしても、中には何らかの結果を得られてその中のいくつかが世間の注目を浴びるようなことにもなるかも知れないが、その一方で徒労に終わったように思われる大半の試みの中にも興味深い事例がいくつもあるのかも知れず、そういう事例を見つけるために歴史的な文献などの資料を調べている人もいるのかも知れないが、そういった過去の事例を調べることが、そのまま未来への予言や予想につながるとしたら、それはあり得ないように思われるかも知れないし、過去から現在への延長上に未来のあるべき姿が浮かび上がってくるように思われるとしても、そう思ってしまう人の願望が未来に投影されているだけではないのかと疑いたくなってくるわけだが、それでも多くの人がそこから未来についての興味深い予言を語りたいわけで、そうなるに違いないとかそうならざるを得ないとか、そういった探求者の誰もが予言者として振る舞う誘惑から逃れられないだろうし、中にはそういう役割が自らに課せられていることをはっきりと自覚している人までいるのかも知れないが、確かにそんな誰に頼まれたわけでもない役割を善意から引き受けてしまう人がいる一方で、それに逆らって頑なにそうなることを拒否する人もいるわけで、そのどちらが信用できるかとなると、その人が語っている内容にもよるだろうが、そういう次元ではなくすでにメディア上で予言者として機能していて、実際に競合する他の予言者と共に予言し合うゲームに参加しているという自覚まであれば、それは別に大げさなことではなく、何らかの制度化されたシステムの中に自身が絡め取られていることにもなるだろうし、たぶんそういう成り行きが現にメディア上で進行していて、それはそれとしてそういうことの一環として行われていることでもあり、その利用者にとってはゲーム感覚で楽しむ対象ともなっていて、誰もが気軽に参加できて飽きたらさっさと抜け出られるようなことでもあり、たとえそれが特定の機関によって管理の対象となっているとしても、全ての面でそうなっているわけでもなく、他にも様々な管理対象がある中で、誰もが複数の管理機構の対象となっている限りで、絶対的かつ強力な力によって一つの機構が服従させようとしているわけでもなく、部分的かつ効率的に特定の目的や目標を伴ったある面では管理するとしても、他の面にまで管理対象を広げてしまうと非効率だから、そういう面では自由放任的な措置が採られているわけで、たぶん中国の共産党的な支配体制にはそういう面が考慮されていないのだが、それが実態との間でずれを生じさせていて、共産党の上層部では人民を支配している感覚が支配的な傾向として作用しているとしても、人民として支配の対象となっている人々の間では、資本主義的な利益追及の面での自由放任的な傾向を意識しているだろうし、それを策略や戦略として自覚している人は少ないとしても、それによって共産主義的な支配体制を出し抜こうとする傾向が働いていて、そういう傾向から支配機関の目をそらせる目的でそうなっているわけではなくても、目くらましのような作用を伴いながらも香港などの民主派勢力が利用されていると共に、ウイグルなどの民族的な自立運動も利用されていて、そういった両面に共産党の支配機関が立ち向かっているうちに、資本主義的な利益追求に伴って生じる欲望の増大が政治面に対する骨抜き作用も生じさせていて、それらが複合的に混ざり合いながら水面下で進行中であり、そこから体制の崩壊などの単純な未来像を予測できるほどの明確な兆候は感じられないとしても、気軽で無責任な予言ゲームの中では絶えず共産主義体制の崩壊が予言されるだろうし、そんな予言を遊戯として利用する人たちは素直にそうなってほしいから、自らの願望の実現としてそういうことを頻繁に予言するわけだが、それが本当に実現すれば面白いだろうし、自らの予言が実現すれば愉快であり、楽しいことには逆らえないし、逆らう理由もないわけだが、その一方で資本主義的な金儲けも楽しいし、楽しいことには逆らえないし逆らう理由もないわけだが、さらにその一方で共産主義的な支配体制は楽しくないし、楽しくないどころか支配される対象となっている人民たちにとっては不快だし、不快な状況からは一刻も早く抜け出たいわけだが、その一方で人々は気晴らしの娯楽としての資本主義的な金儲けの誘惑にも屈してしまい、それによって心を腐食されてしまっているから正義への意志も生じないような心理状態ともなっているだろうし、それが共産党的な支配体制にとってはマイナスに作用していると普通は思われるのかも知れないが、実態としてはそうでもないどころか、いったい何に対してマイナスなのかあるいはプラスなのかが不明確であり、そういった面での事の善悪がわからないような状態となっているのかも知れず、一応ポーズとしては腐敗撲滅キャンペーンをおこなっているようには体裁を取り繕っているのだろうが、当然のことながら取り締まっている当事者も腐敗を免れてはいないだろうし、果たして資本主義的な金儲けと共産主義的な支配体制を両立させるとなると、かなりの無理を伴ってくるように思われるだろうが、実質的には無理なことであるにしても、形骸化作用と共にあれば両立可能だろうし、実際に他の国でも資本主義的な金儲けを民主主義の絶え間ない形骸化と共に実現している実態があるわけで、そうやって見せかけだけの政治体制を資本主義的な金儲けと両立させることが現状での世界のトレンドとなっているわけだから、実質的には体制が崩壊して骨抜きになってしまうとしても、見せかけだけはそれを維持することが可能なわけで、普通はシロアリに内部を食い荒らされた家屋が倒壊するような比喩が言説的には有効に思われるが、資本主義的な金儲けの欲望に内部を食い荒らされて倒壊寸前の共産主義体制という構図を中国の現状に重ね合わせてみても、そうした比喩表現と実態との間にはそれなりにずれがあるだろうし、そうした表現を用いる上で何を捉えればいいかといえば、現状の中で何が成り立っていて、そうした現状から自らが何を想像していて、それを恣意的にどんな予想に結実させようとしているかについては、その背景となっている制度や仕組みに自らがどれほど真摯な態度で向き合っているかで決まり、ゲームでも程度の強弱や娯楽なのか生死をかけた深刻な状態かによってもだいぶ内情が異なってくるわけだが、資本主義的な金儲けの中でもそれらのどちらかというわけではなく、全ての面が重なり合って混じり合っていて、軽い気持ちで娯楽の一環でやっていることなのに、そこから地続きのどこかでは殺し合いをやっている人たちもいたりして、いったいそれらのどこからどこまでが普通の状態として認識してもかまわないのかがよくわからないわけで、それら全てを普通の状態と見なしてしまうと、当然のことながら相容れない面が出てくるだろうし、両立不可能に思われるようなことが地続きでつながっていたりもして、それらが一体化しているはずなのに、それを言葉で表現するとその全てを表現しきれなくなってきて、何か一方的な言語表現になってしまい、事の本質から外れてしまうわけで、そのどちらを信用すればいいのかといえば、言語表現のフィクションの面より現実で成り立っているように見える実態の方が一見信用できそうに思われるわけだが、そこにもそう見ている自身の思い違いや勘違いが伴っている可能性もあるわけで、結局は何を信用できるか否かは括弧に入れておいて、とりあえずはそれを体験してみるしかないだろうし、実際に体験してみても体験させている側に騙されてしまうこともあるだろうが、そうした騙されてしまうことも含めて体験してみるしかなく、そこで世の中の実態を把握しようとするのだろうが、全てを把握しきれるわけでもなく、把握しきれないところは想像力にまかせて勝手に自身の偏見と共に想像してしまうわけだが、そこでもそんなふうに想像させられてしまうような見せかけの仕掛けが視界を覆っている場合もあるわけだが、そうした仕掛けの延長上に世界各国の政治体制があると捉えておいてもかまわないのかも知れず、そうした政治体制の中には日本の体制やアメリカの体制や中国の体制もあるわけだが、それらのどこからどこまでが社会の実態を反映したものであろうと見せかけの幻想を反映したものであろうと、やはりそれらを含んだ体制として捉えるしかなく、たとえそれがシロアリに内部を食い荒らされて倒壊寸前の体制だと表現されていても、確かにそういう部分が見受けられるとしても、逆に柔軟で弾力に富んでいて、またスポンジのような吸収力もあり、外部からどんなに攻撃を加えられてもそれらをことごとく跳ね返したり、また底なし沼のように何を突っ込んでもただ内部へと沈んでいくだけであったりして、そういった言語表現が当てはまるような箇所も見つけられるかも知れない。


8月11日「誇張された世界像」

 現状では誰もが思っているような世の中の状態が実現しているわけではなく、人が思っているのとは違う世の中の実態もあるのかも知れず、その実態というのが何かの出来事をきっかけにして思いがけないところで露呈したら面白いだろうが、たぶん露呈したところで気づかない場合もありそうで、相変わらずその人の思い込みの中で実態とはかけ離れた世の中が構成されているに過ぎないとしたら、そういう人は死ぬまで世の中の実態に気づかないままとなってしまうのかも知れないが、それが人として普通の認識の範囲内で起こっていることであれば、そこから何がどうなるわけでもないのかも知れず、かえって世の中の実態を知ってしまった方がまずいようなことであれば、知らないままの方がいいということもあり得るだろうし、その知らない方がいいと思われる実態というのが、メディア的な典型例とは違う何かになるわけだが、そのメディア的な典型例というのが、例えばハンナ・アーレントの『全体主義の起源』ではヒトラーやスターリンに関する部分なのだろうが、それは書物全体の三分の一を占める部分で扱っているに過ぎず、残りの三分の二では別のエピソードが語られているのに、メディア的な典型例に注目してしまう人はその三分の二を無視してしまうわけで、例えばその中にはフランスの著名な政治家であるクレマンソーについて語られている箇所もあるわけだが、ドレフュス事件に際して軍の官僚的な隠蔽体質を追及して、それは真実の隠蔽を強要する上層部とそれを語らなければならない義務感との板挟みになって関係者に自殺者まで出た点でも、現代の日本でモリカケ事件に際して政府の隠蔽体質を追及した野党と重なる部分があり、野党を攻撃するネトウヨたちと同じ役割を担っていたのが、モッブと呼ばれる反ユダヤ主義の煽動に踊らされた群衆であり、ネトウヨの背後に宗教団体の日本会議がいる一方でモッブを背後から煽動していたのがイエズス会であり、正義感に駆られて民主主義を守るためにユダヤ人のドレフュスを救うべく尽力したつもりのクレマンソーや作家のゾラなどの良識派は、モッブからの度重なる誹謗中傷を受けたり現状維持を望む国民の前に選挙でも自身の党派の有力者が落選したりして、孤立無援を余儀なくされたわけだが、その時の敗北がよほど堪えたのかどうかは知らないが、その後左翼から保守派に転向して大臣や首相を歴任する頃になると、すっかり保守反動政治家となって炭鉱労働者のストライキでは軍を投入して鎮圧したり軍備拡張を唱えて帝国主義的な植民地政策を推し進めたわけだが、それがヒトラーやスターリンなどの極端な典型例にばかり目を奪われていると、より現代の情勢に近いクレマンソーの例を見逃してしまうわけで、そういう意味で現代のメディアで跋扈している典型的な論者が、自身の主張にとって都合の良い典型例ばかり歴史的な事例から選び出してつなげて、それを現状に絡めて提示すると、何やら妙に誇張されたこれ見よがしな世界情勢や国内情勢として示されてしまうわけだが、そんな人たちだけでなく例えば比較的な良心的に見える山本太郎辺りが訴える選挙演説の内容にもそういう傾向がうかがえるし、そういうメディア的な典型例を真に受けてしまうと意識の中で世界のフィクション化が進行してしまって、世の中の実態から遊離した心理状態となってしまうのかも知れないが、そういう人たちには世の中の実態というのがその人たちにとっての中途半端な程度であることがわかりにくいだろうし、煮え切らないようなはっきりしたことが示されない物事の中間領域に意識が留まれないわけで、そんな停滞しつつ遅々として進まないのに結果的には何かが起こりつつあるような過渡的な状態の中で何がどうなっているのかといえば、それについて物語る気が起こらないようなことが起きていて、それを物語ってしまうと何でもないことがただ連続しているだけとなってしまうのかも知れず、そういう何でもないようなことの連続がメディア的な典型例で取り上げられないのは当然のことだが、メディアが好んで取り上げる人物であるヒトラーやスターリンにしても、そうした何でもないことの連続の中で生きていた時期もあっただろうし、彼らがそうなってしまったきっかけとなった特定の事件に巻き込まれなければ、彼らもそのまま何でもないような一般人として生涯を送ってしまったのかも知れないし、ヒトラーやスターリンのような人物が歴史を作ったかのように思われるのは、物事の結果として提示された歴史を物語るからそう思われるわけで、それがメディア的な典型例として提示された事例でもあるわけだが、それに関していつも念頭に置いておかなければならないのは、それだけではなかったということであり、それが全てではなく、そのほんの一部分を取り出して誇張して表現すればそうなるということなのだが、そうしないとメディア的な言説に合致しないからそうせざるを得ないとしても、それをそのまま真に受ける必要はないわけで、絶えずそうではない面があることを考慮に入れておけばいいのかも知れないが、何とかそれを伝えようとする人が自らの主張に合致するような事例を持ち出して、それに注目するように仕向けてくるとしても、なぜそういう人がそういうことをやるような成り行きになるのかといえば、そこにわかりやすい物語的な構造が示されているからかも知れず、そんな物語的な構造に沿って話を組み立てて語ると説得力が出てくるように思われるわけだが、多くの人が信じてもらえるような話の内容にしたいわけで、実際に多くの人が興味を持つような内容にできれば世間の注目を集めるだろうし、そういう目的に合致した話にするとなると結局メディア的な典型例を持ち出すことになってしまい、わかりやすい人を主人公に据えたわかりやすい事例について語ろうとしてしまうわけで、そうなるとアーレントがナチスドイツの数十年前のフランスで起こったドレフュス事件の重要性をいかに強調したところで、それがメディア的な典型例とは合致しなければ無視されてしまうだろうし、多くの人は『全体主義の起源』で強調されている起源には何の関心もなく、なぜナチの親衛隊への入隊資格がイエズス会の入会資格と同じものなのかという興味深い経緯にも何の関心も持たないわけだが、それよりは当時のモッブたちが煽動によって踊らされたユダヤ金融資本による世界支配という陰謀論を真に受けてしまう人が現代でも多いだろうし、そうやって昔も今も同じような成り行きにとらわれてしまう人がいくらでもいるところが、メディア的な典型例にしか興味を示さない人がいかに多いかを物語っているわけで、そういう意味で多くの論者がメディアで同じようにことについて同じようなことを何度も主張しているようなら、世界の実態はそれだけではなく、それが全てではないということを念頭に置いてそれらの主張を理解しておいた方がいいだろうし、世界ではアメリカや中国などが覇権を巡って争っているだけではなく、どの国がどの国の味方となったり敵となっているとしても、大企業は商売ができる限りでどの国でも商売をやろうとするし、どの国が繁栄していようと衰退しつつあるとしても、それを政府による統治の善悪から説明しようとすれば、その中で何が良くて何が悪いのかがもっともらしくいえる場合もあるだろうが、それもそれだけではなく、たまたまそうなっているとしか言えないようなことであれば、悪い面がなかなか改まらないようなことにもなっているだろうし、アメリカは○○だから◯◯であり、中国は◯◯だから◯◯だといえるとしても、それだけが全てではなくそれ以外の面もあるわけだから、そうだからといってそれが特定の国が繁栄したり衰退したりする原因や理由とはいえないだろうし、ただそこで原因や理由の一つやいくつかを挙げただけのことであり、それがそのままそうなる原因や理由に結びつくとは限らないところがよくわからないところでもあり、そのよくわからなくてうまく説明できないところを示すのが難しいわけで、だから結局わかりやすいことをわかりやすい事例を挙げてわかりやすく説明してしまい、そういうわかりやすさが物語的な構造から生じていることに気づけないわけで、そこで物事の単純化が生じているわけだが、それも他人がそんな内容の説明をしているのを批判しているからといって、批判している当人が物事の単純化をおこなっていないかというとそうでもないわけで、他人のことは批判できても自分のことは批判するわけでもないだろうし、そうなると互いが互いの単純化を批判し合うようなことにもなってしまいかねないが、実際にそうなっているかというとそれもよくわからないわけで、そういう面ではよくはわからないのにわかったような主張にしようとして、もっともらしく感じられるように主張の体裁を取り繕う傾向もあるだろうし、そういうところで◯◯だから◯◯だという言い回しを多用するような主張となっていると、◯◯だからという理由や原因と◯◯だという結論が本当に結びついているかどうかを確かめてみる必要がありそうで、そこで理由や原因が他にも無数にあり、結果も一つではなく複数の結果を伴っているようなら、ただそれらの中でもっともらしく思われるような原因と結果を恣意的に結びつけて提示しているだけだと思っておけばいいだろうし、それがその人の立場や主張を正当化するように結びついていればなおのこと都合が良いだろうし、立場や主張を正当化できるような原因と結果を恣意的に選んで結びつけている場合も多いのかも知れず、逆に自らの立場や主張に反するような原因や結果などは口が裂けても言えないし選ばないだろうし、それであればその人の立場や主張に反するような事例を挙げられれば、別にその人を論破したことにはならないとしても、それだけが全てではなく、それ以外の原因や結果もそれなりにあることがわかるのではないか。


8月10日「スピリチュアルな精神主義」

 自身が苦境でもないのにそんなことを考える人はいないだろうが、フィクションの中で苦境に陥っている登場人物が苦境を切り抜けるにはどうすればいいかと考えるのは当然だろうが、現実の世界でも苦境に陥っている人がそう考えるかというと、実際にそう考えることも多いだろうが、別のことを考える機会を得るとそうでもなくなり、別のこととは何かといえば、これは苦境などではないと考えることであり、例えばこれは神から与えられた試練だと考えたり、そうなると考えるのではなく天啓としてもたらされるわけだが、実際に神の声が聞こえてしまうのだから、考えるまでもなくそれに従ってしまえば考える暇もないわけだが、そういった考える暇を与えないような命令の類いを下されてしまうと、何はともあれ従うわけだが、そこで疑念を抱いてしまうと、命令に背いたことになってさらなる苦境に陥ってしまうような気がするわけでもないのだろうが、天啓の類いには素直に従っておいた方がいいと思うのは、なぜかそれに従うと苦境を乗り越えられたように思われるわけで、実際にそういう体験をしたからそう思うのだろうが、確かにそれは考えるのとは違って単に命令に従うだけのことなのだが、ではそこで考えてしまう場合は何を考えるのかといえば、その苦境の中に留まり続けるにはどうすればいいかと考える人はまずいないだろうが、考えるまでもなく苦境に慣れようとしてしまうだろうし、なぜかこれが普通の状態なのだと思いたくなってくるのかも知れず、苦境に陥るとはこういうことなのだと認識したいわけで、今後のためになる経験として苦境を体験しているつもりになれるとしたら、何やら学習の対象として苦境を利用するようなことになってしまうわけだが、果たしてそう思う人がどれほどいるかというと、そんな統計もなければわかりようがないだろうが、そんなことを思うだけまだ心理的な余裕があって、そんなのは真の苦境ではなく苦境をなめているのではないかと思われてしまうかも知れないが、誰がそんなことを思うのかといえば、自身の心の内に住まう他者がそう思ってしまう可能性もあるだろうし、そんな他者が存在する心を想像してしまうところが嘘っぽく思われないわけでもないが、それは心に住まう守護霊か何かだと思うしかないだろうし、守護霊の忠告も天啓と同じように素直に従っておいた方が身のためだと思うなら、過去に忠告に従ったおかげでうまくいった経験もありそうだが、何かそうやって考えるいとまを与えずに命令してきたり忠告してきたりする便利な存在が何かといえば、それを神とか守護霊だと思っておいて差し支えなければそう思うしかないだろうし、あるいは自身がそこで迷わないようにするための無意識の配慮だと思っておいてもかまわないが、苦境でも何でもなくても年がら年中神からの天啓やら守護霊からの忠告が下されるようだとありがたみもなくなってしまうだろうから、普段は何も意識されないで何の気配も感じられないが、肝心な時に待ってましたとばかりに命令や忠告が下されるようになっていれば都合が良いだろうが、何が肝心な時かといえばまさにそうなった時が肝心な時だとわかるわけで、神や守護霊の声が聞こえた時が肝心な時であり、その声を聞き逃さないことが肝心でもあるわけで、そういう面では実際にそうなればわかりやすいだろうが、いつもそうなるとは限らないとなると何かややこしくなってくるわけだが、そういうことは徐々にわかってくるようなことであり、そこでも経験がものをいうわけで、そういうことを何度も経験していくうちに、神や守護霊の声を聞き取りやすくなってくるというのもあるのかも知れず、最初の頃はそれが声だとは気づかずに聞き逃してしまって実際に痛い目に遭っていたのが、そういう経験を何度も積み重ねていくうちに次第にそれが到来する予感や兆しを感じ取れるようになってくるのかも知れず、そうなるとあるとき急にそんな声らしき声と意識が同期するようになり、それを何かの声だと認識できるようになれば、それを聞き取れるようになったと思い、場合によっては言葉としてはっきりとした内容になっていることを意識できるようになれば、そうなればしめたものかも知れないが、そうなったからといって経済的な利益にありつけるわけでもなければ幸せになれるわけでもなく、ただ声に従っている限りで迷わないということであり、声に従っていれば良い結果がもたらされるように思われるとしてもそれが分不相応に良い結果がもたらされるわけではなく、逆に分不相応な結果がもたらされないように配慮されているということでもあり、自らにとって分相応な結果がもたらされているように思われるとすれば、何か道を踏み外さないような配慮がその手の啓示や助言には込められているようにも思われるわけだが、そうであればただ声に従っているだけでどうにかなるわけではなく、自らも積極的に何かをやるように促されて主体的に活動することにもなるわけだが、その時に何かをやる機会が巡ってきていると声が知らせてくれるような気がして、それを期待してしまうわけだが、逆に何も聞こえてこないと今はやるべき時ではないと判断してしまい、果たしてそう判断してしまったことで機会を逃してしまったのか否かはわかりようがないが、声に従ってやるべき時にやるべきことをやっていると思われるときもあるわけだから、結果的に何とかなっている限りで声に裏切られたとは思えないわけで、声に従っているから何とかなっていると思われる限りで声に対する信頼が揺らぐことはないわけだが、そうした信頼が揺らぐようなことが今後起こるかというと、その時になってみないことには何とも言えないが、それが自分に関することだけではなく他人に関することにも絡んできて、この人にかかわってはまずいとか、この人には絡まないようにした方がいいという声まで聞こえてくれば、それが他人に対する評価ともいえるわけで、しかもその他人というのがひどいとか悪いということではなく、その人が運から見放されているとか、その人はその程度の段階に留まる人でしかないからかかわらない方がいいとか、下手にかかわってしまうと自分もその程度に留まってしまうと思われると、どこからともなくそんな声が聞こえたような気がしてしまうわけで、その人にとってはそれが分相応なことなのに、それが自分にとっての分相応とは違っているように思われて、自分の方がその人より才能や才覚が上だとか下だとかいうことではなく、行き先が異なるのにいつまでも付き合っていると、こちらの行き先も違ってきてしまうように思われてしまうのかも知れず、さらにその人にはもはや伸びしろが全く感じられず、すでに行き着くべき到達点に行き着いてしまっていて、自分とは関係のない場所で凝り固まってしまっているようにも見えてしまい、そうなると今さら自分がかかわってもどうなるものでもなく、そのまま放っておくしかなければ、そこで立ち止まる必要も感じられず、そのまま通り過ぎてしまうわけだが、そんなことを思っている自らもある面ではそういう凝り固まり具合を見せている可能性もあるだろうし、他人に見捨てられて放って置かれるような状況となっているかも知れないが、少なくとも自らに届いてくる声にはそういう内容は含まれていないわけで、届いていてもそういう声は雑音としか感じられず、それは自分がそう思っている他人にしても同じことかも知れないが、その人にはその人にしか聞けない声しか届かず、他の人に届く声は雑音としか感じられないのかも知れないが、確かにその声はその人の心に響くが他人の心には響かないとしても、中にはそうではなく多くの人の心に響く声もあり、何らかの共感を伴うような声が多くの人の心に響いている可能性もあるだろうが、それでも心を閉ざしてそういう声をシャットアウトしているように感じられる人も中にはいるだろうし、それが聞く耳を持たない人のように見えるわけだが、なぜ聞く耳を持たないのかといえば、何らかの防音装置を心の中に構築しているのであり、それがその人に固有のこだわりというだけではなくその手の人たちに共通のこだわりとなっているように感じられるなら、その手の人たちが共通の思想信条に心を洗脳されてしまっていることにもなるわけで、しかもそれらの人たちに金銭的な実益がもたらされて、権力的な力にも拘束されていれば、声よりもそちらの方が圧倒的に強く利いていて、それに伴って都合の悪い声には耳を塞いで見たくない光景には目を閉じていても一向にかまわないような立場となっている可能性もあるわけで、いったんそうなってしまえば声の力など何の効果も発揮しないのかも知れないし、声に従わなくても大丈夫であり、むしろその人がとらわれている経済や権力の制度や構造がその人を守ってくれていて、そうなるとその人としてはそちらを優先するのが当然であり、そんなわけのわからない非合理な天啓や守護霊のささやきに耳を傾ける方がおかしいわけで、世間的な一般常識に照らし合わせても普通にそう思われるわけだが、それでもそういう事情と共に心に余裕があれば声が響いてくる余地も生じるだろうし、声と事情が相容れなければ事情の方を優先させるとしても、両者の傾向や方向が一致してかみ合うようなら声にも配慮するのかも知れず、そうなれば声も信用されるかも知れないが、逆に声の方がそれらの事情よりも強く心に響くようならどちらを優先させるべきか思い悩むのかも知れず、そういうところで現状の延長上で事情を優先させてしまうと、そこから飛躍する可能性を絶たれてその場に凝り固まってしまい、誰もがそれと認識するようなその場で構成される典型的な人物となってしまうのかも知れないが、そういう人物の方が安全に思われて安心されることは確かであり、そういう人を擁護する人も批判する人も、その人を安心しながら擁護して安心しながら批判するだろうし、それが世間的にも認められて通用している人となるわけだが、人のそういう面だけを見ているような人に人としての魅力があるかというと、それも安心して安全に取り扱うことにしか関心のない人であればその程度の人で済んでしまうのではないか。


8月9日「システム的な動作」

 システムは決められた動作を繰り返しおこなうための仕組みだが、人の活動には物や情報を生産して流通して消費することの繰り返しが含まれていることは確かであり、それがシステム的な動作であることも確かだが、そんなシステムから逸脱する動作も人の活動の中には含まれていて、それは機械の誤動作や誤作動とは違って必ずしも誤った動作ではなく、同じ動作の繰り返しだけでは活動が完結しないところが人と機械の違いといえるわけだが、ではその同じ動作の繰り返しではない活動とは何かとなると、それをうまく表現できなければ何だかわからなくなってくるわけで、考えあぐねたついでに人と機械の違いを強調することに何の意味があるのかと疑念が湧いてくれば、そこから方針転換して人と機械の違いを強調する必要がそもそもないはずで、同じだとは誰も思っていないだろうし、同じでなければ違いを強調する必要もないはずだが、では逆に同じところを強調する必要があるかというと、そこに人と機械を比較する意図が介在してくるわけだが、違うものを結びつけるには同じところを強調する必要が出てきて、なぜ両者を結びつけようとするのかいえば何らかのシステムの中で人と機械を連携させる必要が生じてくるからで、連携させるには人が機械の動作に合わせて決められた動作を繰り返しおこなう必要が出てきて、そうなると動作を機械によって限定されて制御されてしまうような人間疎外の面が出てくるわけだが、それでも生活の全ての時間にわたって機械と連係した動作を強いられているわけではなく、仕事などに関連して限られた時間だけ動作することになり、その時間帯だけ我慢すればいいようなことにもなるから、それに伴って機械との連携を強いられるシステム的な動作も限られた時間内でおこなわれることであり、それ以外の時間帯ではシステム的な動作を意識しないで生活していられるわけだが、確かに機械から離れれば機械と連携したシステム的な動作はやらずに済むが、人の生物としてのシステム的な動作は続いていて、また社会に関連するシステム的な動作ともかかわっているから、それらに関連して一定の決められた動作を繰り返している実態があるわけで、それらの動作は人間疎外にはならないのかというと、動物としての人の習性が生物的な面や社会的な面を含んでいるからそれ自体が人間の構成要素でもあり、むしろ疎外とは逆になっているわけだが、ではなぜ機械と連携することが人間疎外をもたらすのかといえば、根本的にやりたくないことをやらされている場合がストレスをもたらして、機械との連携にしても、受動的に機械に使われるのではなく、主体的に機械を使って何かをやっている場合には、それが人間らしい行為だと思われて疎外感も覚えないわけで、そこで何らかのシステムに組み込まれて決められた動作を強いられてしまうのではなく、自分で動作を決定できるということになれば、それが自由意志を持つ人間的な動作となるわけだが、果たして誰もがそんな動作ばかりやっていられるかとなると、大抵はそれだけでは済まなくなり、他との協調を求められて受動的な対応もやらなければならなくなるわけだが、そういった対応を求めてくるのが人であり、他人との間で対等な立場で協調できれば文句はないのかも知れないが、機械の動作に合わせて決められたことをこなすだけになってしまうと、何か自身が人として扱われていないように感じられて、そこから疎外感が生じてくるのかも知れないが、逆に流れ作業のような単純作業に慣れてしまえば、仕事なんてこんなものだという蔑視も生じてくるだろうし、そうやって心がすさんでくればそんな人間になってしまうわけだが、それは機械との連携から生じてくるだけなく人間関係そのものからも生じてくることであり、人に使われるだけの不平等な関係に甘んじていれば次第に心がすさんでしまう場合もあるかも知れないが、そういった状態から抜け出すには、それを強いているシステム的な動作からも外れる必要が出てくるだろうし、自らがとらわれているシステム的な動作に不満を感じれば、そこから外れようとするのも当然の成り行きになるわけだが、それが機械にはない人間特有の動作かといえば人でなくても動物であればそこから逃れようとするだろうし、他から何かを強要されればそれに逆らおうとするわけだが、果たしてそこでシステムそのものが有効に機能しているかとなると、どういう面で有効に機能しているかが問われてくるのかも知れず、システムに人を従わせることに成功していればそういう面では有効に機能していることになるが、従っている人の心がすさんでしまえば、そうなるように仕向けているのならそれも有効に機能していることになるだろうが、人の心がすさんでしまうのがまずい状態であればシステムによって弊害が生じていることにもなるわけで、では心がすさんでしまわないようにするにはどうすればいいかとなれば、前向きな気持ちで積極的に仕事に取り組めるようなシステムにする必要があるかも知れないが、どのような仕事でも一律にそうなるようにはならないだろうし、仕事の内容や種類によってはどうしても前向きに取り組めなければ、そういう仕事もあるとあきらめるかどうしても嫌なら転職するか、さらには無職のままでもかまわないような成り行きになってしまえばいいのかも知れないが、とりあえずそこでシステム的な動作が有効に機能していてそこから経済的な利益などがもたらされていれば、それを維持継続させるような成り行きが生じるだろうし、そういうところでそこにかかわっている人や団体の意向が利いてきて、必ずしもそれに不満を抱いている人の思い通りにはいかない成り行きが生じてしまうわけだが、そこで不満があるからといってあからさまにそれに逆らうのではなく、何かうまい立ち回り方を模索するような成り行きにもなるのかも知れず、そこから戦略的な動作や行動も生じてくるのかも知れないが、そんな動作や行動もシステム的な傾向を伴ってくるとなると、それがシステムに逆らうようなシステムとなれば、少なくともそこで動作しているシステムとは違った傾向を伴ってくるだろうし、そうやってシステムには別のシステムで対抗する成り行きになれば、そこでシステムと別のシステムがかみ合ってそれが一連の動作に結びついて結果的に一つのシステムに融合されてしまうかも知れないが、それとは違ってシステムそのものを瓦解させるように働けば、システムに逆らうという目論見通りにはなるだろうが、そうやっていったんは既存のシステムを瓦解させることに成功したとしても、それだけでは済まなくなって、また新たなシステムを構築せざるを得ない成り行きになってしまう可能性もあるだろうし、結局そこでなぜシステムが動作しているのかといえば、それが必要だからという理由がもっともらしく思われるなら、どんなにシステムを壊しても性懲りもなくまた新たなシステムが構築されて、そのシステムの中で苦しむ人が出てくるような成り行きになってしまうのかも知れず、そこにかかわってくる誰にとっても望ましいシステムにならなければ、そこで人と人との間で不平等や不均衡などをもたらす格差が生じていることにもなるだろうし、では果たしてそういった格差をなくすようなシステムを構築できるかとなると、たぶんそういったシステムを構築しようとする試みも様々に試されてきたはずだが、その結果として現状があってしかも現状でも人々の間に格差が厳然とあれば、そういった試みが必ずしもうまくいっていないことを現状が示しているだろうし、これからもそういったシステムの構築が模索されると同時に、逆に人々の間に格差をもたらすようなシステムの構築も模索されている実態があれば、双方の間で対立や争いなどのせめぎ合いが生じていることにもなるだろうが、その一方で何か意図や思惑や目的や目標などがはっきりしないシステムが作動している現状もあるのかも知れず、それをシステムと見なすこと自体が意味をなさないことかも知れないが、自然に構築されているように思われるシステムが人や社会を含んだ世界の中で作動していて、それが地球表面の大気循環システムであり、また地球内部のプレートテクトニクスでもあるわけで、さらに太陽などの恒星の内部では核融合反応がシステム的に動作しているだろうし、そういった自然のシステムが人の生活と密接にかかわっているわけだが、それらは今のところは人にはどうすることもできないシステムであり、人がそんなシステムに依存することを強いられ、ある意味では人の活動自体がそれによって制限されて支配もされているのに、そうなっているからといって疎外感は抱かないし、それに対して従属的な関係を強いられているのに、そこから抜け出そうとしているわけでもなく、それらに対してそれなりに人工的な構築物を作って、それらからもたらされる弊害を軽減するような対策を講じていることは確かだが、次元の違うレベルでそんなことをやっているだけで、そういうレベルとは違って、あくまでも人が対峙しているつもりになれるのは人が作ったシステムに対してであり、最近も世界的に流行中のコロナウイルスそのものに対して対策を講じているつもりが、それにかこつけてよこしまなことを企んでいる勢力の存在や動向を危惧するわけで、しかも真の敵はコロナウイルスではなくそれを利用して悪だくみ実行しようとする悪党たちだという論理がまかり通ってしまうわけだが、そういうことのどこからどこまでが信憑性があるのかはよくわからないところだが、そういう成り行きにも何らかのシステムが関与しているのかも知れず、何らかの勢力がそういった方向へと目を向けさせようとする思惑が絡んでくる限りで、それも何らかのシステム的な動作と捉えておいてもかまわないかも知れないし、それの良し悪しはさておき、少なくともそれに関しては自然からの作用と人為的な作用を混同しないように注意する必要はあるのかも知れない。


8月8日「安心材料」

 状況の変化に対応するために何をやらなければならないかとなると、まずはその場の状況を把握しようとするのかも知れないが、それよりは体裁を取り繕うことを優先させるのかも知れないし、状況の変化にうまく対応しているように見せかけたくてそうするのかも知れないが、あるいは平静を装っているのかも知れないし、内心焦っているように見られてはまずいと思うなら、そうなるのが当然の反応となるだろうし、状況の変化よりは自らの見てくれにこだわってしまうのもよくありがちな態度となって、そうやって何を優先させているのかといえば、自尊心の維持を最優先していることになるのかも知れず、そんな姿勢が周囲からは虚栄心の強い人だと思われることになり、結果的に否定的な印象を抱かれてしまうわけだが、果たしてそれが状況の変化に対応していることになるのかというと、当人はそのつもりであっても周囲の人たちにとってはその人の本性がむき出しになったように思われて、状況の変化によって化けの皮が剥がれたことになれば、状況の変化に伴ってその人の印象も変化したことになるわけだから、しかもそれがその人が状況の変化に対応した結果であれば、結果的に人としての印象が悪くなってしまって、少なくとも対応がうまくいったことにはならないだろうし、当人がそれを把握していなければなおさらまずいことにもなるだろうが、周囲の人たちにとってはそれによってその人の本性が明らかとなったわけだから、むしろ状況の変化が良い方向に働いたことになるのかも知れず、周囲の人たちとしてはそれによってその人に対して悪い印象を抱いてその人を支持しなくなるのかといえば、なぜかそうならず、逆にそんな人を支えようとするのかも知れず、その人が人並みに虚栄心を抱いていることが安心材料となり、そういう人が世の中で権威のような存在になっていると安心できるし、自分たちと同じ人間であり仲間なんだと好感を抱くかも知れないが、そうなると逆にそういった権威の嘘やごまかしを暴いたり言い立てる人にはかえって警戒感を抱くだろうし、仲間意識を抱いている人を攻撃しているわけだから敵と見なされることになるし、場合によっては嫌悪や憎悪を覚える対象にもなってくるかも知れないが、そういった世間的な権威となる著名人や政治家などの嘘やごまかしを暴き立てる人にしても、真の保守とは何かといった感じのご都合主義に染まっている場合も多く、そんな人のご都合主義的な姿勢や思想の嘘を暴き立ててみれば大同小異なことにもなりかねないが、たぶんそういう人たちはそれでかまわないのであり、それ以上にどうこう言えるようなことにはならないわけだが、では他に何か判断や評価の基準というのがあるかとなると、特にこれといって有効に思われるはっきりした基準があるわけでもなく、そういった権威の嘘やごまかしを暴き立てる人の存在も含めて安心材料となるのかも知れず、そういう人たちがそういうことをやって保守的な人たちから反感を買うとしても、その程度で済んでいるうちが許容範囲なのであって、そういう成り行きから逸脱して世の中の状況が未知の状態へと移り変わっていってしまうことが、それらの人たちにとっての真に恐れていることになるのかも知れず、そうならないようにするためにも自分たちが許容できる範囲内で敵対者の役割を担った人たちと予定調和のいざこざを繰り返していたいわけだが、果たして世の中の状況がそこから外れて未知の領域へと踏み込むような成り行きになるのかといえば、そうなってみないことには何とも言えないが、それも誰もがそれと認識できるような成り行きにはならないのかも知れず、気づかないうちに気づかないところから変わっていって、変わったことに気づかないままとなってしまえば、それは変化でも何でもないことになってしまうのかも知れないが、実際に誰もが実感できるような変化とはそういうのとは違い、メディア上で盛んに変化したことが言い立てられるわけで、最近でもコロナウイルスの世界的な流行によって世の中の状況が一変したと執拗に言い立てられているだろうし、それとともに誰もが変化を実感していて、しかもそこには安心材料など何もないように思われるし、それどころか不安が増すばかりの状況となっているはずだが、果たしてそれでもかまわないのかといえばかまわないのかも知れず、それでかまわないような状況となっていて、そうやって誰もがはっきりとわかるように騒ぎ立てられていること自体が安心材料であり、多くの人たちが不安感に駆られていること自体も安心材料であり、不安に感じることがなぜ安心をもたらすのかよくわからないかも知れないが、少なくともそれは自分たちの日頃の行いが悪いからではなく、自分たちのせいでこうなったわけではないと思われるところが安心材料となるのかも知れないし、世界中でそうなっているわけで、しかも最初の発生地域に自分たちの国は含まれないし、被害が深刻となっている地域にも今のところは自分たちの国は含まれないし、少なくとも非難される立場にはなく、大多数の人たちが加害者意識とは無縁でいられて、むしろ自分たちが被害者面をしていられることが何よりも安心材料なわけだが、そうやっていくら安心材料を並べても不安感を拭い去るには至らないし、安心を実感することはできないわけだが、それでもメディアによって不安感を煽られるのには慣れているし、政府や地方自治体などの行政の対応がお粗末なのにも慣れているし、そういったお粗末な対応をメディア上でいつもの人たちがいつものように批判したり非難したりしていることにも慣れっこになっているし、そうやって何もかもがいつも通りの成り行きだと思っていられる限りで相対的に安心していられるわけで、それらが許容できる範囲内で推移しているからパニックにはならないわけだが、そんなふうに不安感を許容限度の範囲内に押しとどめておくことができているうちは心境の変化も起こらず、今まで通りになっている面では自然と現状維持へと落ち着くとしても、たとえこれから思いがけない事態に直面しても心が動かずにおかしな行動へは至らないのかも知れず、それが何が起こっても今までに経験してきたことの延長上に結びつけようとする動作となり、そうやって心理的な合理化作用が働くわけだが、そこで今までには経験しなかった出来事の新たな傾向や兆候を見逃してもかまわないわけで、逆にわざと見逃してしまった方が安心できるだろうし、何事にも動じようとしない態度がそうさせるわけだが、そういう自らの態度を正当化することが虚勢を張ることになっていれば、少なくとも安心と共に誤算も生じているはずだが、そんな誤算も功利的な面で損害はもたらしていないように思われている間は安心感の方が勝ってしまうだろうし、何事も安心していられる限りで不安感を抱きながらも不安感を抱いている自らに安心できるわけで、少なくとも不安感を抱いているのだから、それなりに不安感を抱く原因となっている危険を察知していることになり、それだけ自らの危険を察知する能力に自信が生じているわけだが、相対的な範囲内では誰もがその手の危険を察知する能力があるだろうし、自らに他人と同じような能力があるからといって、そんな自信も他人と同程度の自信にしかならないだろうし、いつその自信が過信に結びつくとも限らないし、それが何の根拠もない自信でしかないとしても、不安に感じているのは自分だけではないから、他の多くの人たちもメディアを通じて不安感を煽られているのだから、それらは誰とも共通の一体感を伴った集団的な不安感である限りで心強いわけだが、そういった不安に感じているのは自分だけではないという安心感が何をもたらしているのかといえば、それ自体で何の根拠もない安心感でしかないが、それも安心材料に数えようと思えば数えられるだろうし、そこでも必ず心理的に助けられてしまうような安全装置が作動して、危機を真に受けることができない心理状態となってしまい、危機を真に受けるということ自体がそういった数々の安全装置に支えられながら真に受けることになるのだろうが、それが真の意味での危機的な状態なのかというと、よくはわからないがそうかも知れないし、いつかそれよりはさらに強く激しい程度や内容を伴った危機的な状態というのがやってくるかも知れないが、そうなったからといって心理的な備えがすでにできていれば、それが想定外の思いがけないほどの危機だとしても、すでに日本が滅びるだとか没落するだとか前もって予言していた人たちにとっては、そら見たことかとしか感じないだろうし、そんな事前の予言を真に受けていた人たちにもそう思われることでしかないとすれば、そんな危機でさえも心理的にはその程度のこととしか受け止められないわけで、そうやってこの先どんな事態がやってこようと前もって平常心を保つための心構えができていれば、そのことごとくが何でもないことになってしまうのかも知れず、現状でもそれらの人たちには感知できないことが無数に起こっていて、そこから目を背けるために予言や断言を駆使しながら平常心を保とうとしているわけで、それも心を乱されないための安全装置として作動していることになり、多くの人にそんな安全装置が備わっているからこそ、何でもないような現状が維持されているように感じられるのだが、それが勘違いや思い違いだとしたら、すでに何らかの変化が世の中で起こりつつあるのかも知れないし、すでに平常心を保つための安全装置が作動している人にはそれに気づけないわけだが、むしろ気づかなくてもかまわないのかも知れず、そういう人たちには下手に気づいてほしくないわけで、そういう人たちが気づかないうちに変化しないと、変化自体がそういう人たちよって阻まれてしまい、かえってまずい状況に陥ってしまうのかも知れないが、それが誰にとってまずい状況なのかといえば、現状で生きている誰にとってもまずい状況でもなければ、未来に生まれる人たちにとってまずい状況となるのかも知れず、そう思ってしまうのも勘違いや思い違いかも知れないが、それをまずい状況だと受け止める必要もなく、それ自体が取り越し苦労でしかなければ、その程度で安全装置が作動してしまう人など恐るるに足らない人たちかも知れないが、それも現状でもたらされている安心材料となってしまうのかも知れない。


8月7日「予言への対処」

 勝利というのは、何に勝利したいのか前もって定めていた標的から逸脱して、当初は想定していなかった対象が戦っている途中から登場してきて、その対象に勝利したように思われるからといって、それで勝利したことになるかというと、そこで何かゲームの規則のようなものがあれば、それに照らし合わせて判断すればいいことかも知れないが、そういったものが定まっていなければ、あまり事の勝敗にこだわるべきではないのかも知れないし、結果的に何に勝利したところで何の栄誉も得られなければ、勝利自体に意味がないことにもなってしまい、そこでおこなっていることが必ずしも勝負の類いではないのかも知れない、と疑念を抱いておくぐらいが妥当な認識になるかも知れないが、それでも結果的に生き残っていれば、そこで何かに勝利したと幻想を抱いてもかまわないのかも知れないし、結局そこでおこなわれているように思われる勝負の類いとはその程度の内容に過ぎないものだと判断せざるを得なくなるのかも知れず、あまりそういったことに真剣にかかわろうとしても当てが外れるだけでなく、騒ぎすぎるとはしごを外される危険性もあり、そうであるならその手の遊戯からはなるべく距離を置いて静観するのが無難な姿勢といえるだろうが、自分が世の中でおこなわれていることの中の何かにかかわっていることは確かであり、そのかかわっていることについて語る機会が巡ってきたとしても、それが語るべきことだと確信しているわけではなく、それとは別の興味深いことについて語りたいのに、語ろうとすると語っているうちになぜかそこからずれていってしまって、気がつけばそれとは全く関係のない内容を語っているわけではないが、結果として言葉が記された文章の中では、記している自分とは関係のなさそうなことが語られていたりもして、それが何かのゲームについてであり、そこで何に勝利したのでもないのに、何に勝ち誇ったように語る成り行きにもならないとしても、なぜかそこでおこなわれているゲームの規則がわかっていないらしく、それではゲームの参加者としては失格かも知れないが、少なくともそこでかかわっている何かがゲームに関することであり、それでゲームに参加していることになるのかというと、そのかかわっている何かとゲームとは関係があるのに、そんな状況をどう捉えればいいのかわからないわけだが、安易にわかった気になるよりはわからないままでいる方がいいように思われるし、それに関して今さらちまたで流行っている終わりを巡る予言合戦に参加したところで相手にされないだろうが、何かを宣言せずにはいられないということが、その何かについて語らざるを得ない成り行きに巻き込まれていることになるのかといえば、もしかしたら語らざる得なくても語る必要もないのにそれについて語らされている場合もあるかも知れないし、それが少なくとも何かの終わりを予言することには違いなく、果たしてそれが終わりなのかどうかも疑問に思われるとしても、とりあえず終わったことにしないと先へ進めないような気がするのなら、やはり終わりを宣言せざるを得ないのだろうが、宣言するのよりは終わりに備えることの方がより重要となってくるらしく、終わりにどう対処しなければならないかを説く人まで出てきているご時世のようだが、それらを真に受けるか否かではなく、どうやらすでにそうではなくなりつつあり、既成事実として終わりを受け入れている人もいるようで、気が早いというか、何か終わりを巡る競争がここに来て一段とエスカレートしてきている印象を受けるわけだが、しかもそれとともにそういった人たちを出し抜くチャンスも巡ってきたようにも思われるし、そう思ってしまう時点でゲームに参加していることになってしまうわけだが、果たしてそれが勝ち目のあるゲームなのかというとどうもそうではなく、すでにそうやって先回り競争している人たちが周回遅れとなりつつあるのではないかと危惧の念を抱くのも的外れだとしても、要らぬお節介で助言しようとしてはいけないのではないかとも思われて、それよりは現状で勝とうとしてはいけないわけで、誰から誘われたわけでもないのにゲームに参加しているつもりになってはいけないし、親切心から訳知り顔で助言しようとしてもいけないだろうし、始めから相手にされていないことを利用して他の何かをやる機会を得た方がいいのかも知れず、実際に他にやるべきことがあると思っておいた方がいいだろうが、ではやるべきことをやっているかというとその自信がないのが正直なところだろうし、現状でやるべきことがそれだと断言できるわけでもないのも当然のことだとしても、やるべきことが何もない時代に生きているわけでもないだろうし、それをやるべきことだと定めるのがおかしいと思うわけで、そのやるべきことが何かの終わりを予言することであり、またその終わりに備えることだと思われてしまうのも何かそうなってしまう成り行きがあって、そこに参加している誰もがそう思ってしまうとしても、そういうことに鈍感だとゲームに参加しそびれて、そこから置いてきぼりを食っているとも思われてしまい、今さら参加しようとしても相手にされないだろうし、すでに置いてきぼりを食ってしまったのだから、今さら他人に同調して何かの終わりを予言しても、その終わりに備えようとしても、もはや手遅れとなってしまっているのかも知れず、ではどうすればいいかとなると、そこでおこなわれているゲームに参加しているつもりにならなければいいのかも知れないし、こちらがそのつもりがなくても勝手に参加していることにされてしまって、しかも何かの終わりを一緒になって宣言しないし、その終わりにも備えてはいないわけだから、もはや敗者の烙印を押されて改めて相手にされていないことになっているのかも知れないが、それでもかまわないといいきれるかというと、かまわないはずがないとしてもそこからどうすればいいのかとは問われないような成り行きになっているのかも知れず、それがこちらの思うつぼになっているというわけではないが、むしろあちらの思うつぼであって、すでに葬り去られていることになっているのかも知れないし、それに以前に葬り去る対象にさえなっていないとすれば杞憂に過ぎないことだが、それをあまり真に受けるようなことでもなく、対処するようなことでもない状態となっているのかも知れず、そういう意味では危機が叫ばれているのにそれが杞憂に終わることを予言したいわけではなく、できるだけその種の予言とは別のことを語ろうとしているのかも知れないし、あまりこれ見よがしの断言口調を使う気にはなれないわけだが、少なくともその種の予言が当たったとされて何かの終わりが多くの人たちの間で事実として認められても、それは単に予言が当たったことにはなるだろうし、また前もって終わりに備えていた人たちがその種の終わりの際にうまく対応することができたとしても、それもそれらの人たちが賢かったことにはなるだろうが、こちらとしてもそれでかまわないわけで、そういうことに関してはそれで一件落着したことにして、それ以上に何がどうなるわけでもないと思っておいてもかまわないが、なぜかそれとは別の方面で誰かが何かをやっていることになっていれば、そちらの方でもそのやっていることが継続されていることになるだろうし、そちらでもそれでかまわないことになれば、そちらの方面でもそういうことに関してはうまく対応できたことになり、現状でそうなることを目指しているわけではないにしても、結果的にそうなる予感がしているわけで、すでにやっていることが分散してしまっていて、特定の国とか企業とかに覇権や主導権が握られているわけではない状況が実現されてしまっている中では、そこで誰にどの国にどの企業に勝利がもたらされてもかまわないことになっているわけで、そんなのは勝利ではないと解釈してもかまわないだろうし、また勝利とは反対の敗北がどの国にどの企業にもたらされるとしても、そこで誰が負けたわけでもないことにはできないが、誰もがそんな国とも企業とも関係ないとはいえないにしても、その国の中で主導権を握るような政治勢力であっても、あるいは特定の企業経営者であっても、そうした政治勢力や企業経営者に対して終わりが宣告されても、それらはゲームの中で宣告されることであって、ゲームから離れれば終わりでも何でもなく、すでに特定のゲームとは無関係に生きていてもかまわない世の中になっていて、そういった状況が終わりの予言者にとっては想定外なのかも知れないし、終わりの宣告そのものが宙づりにされてしまう成り行きになれば、ゲームの中での勝負が意味をなさないわけではないが、いくら終わりを宣告されても宣告された対象が相変わらず世の中で活動している実態があれば、すでに終わってしまっているはずなのにその終わりが無視されているようにも思われるだろうし、果たして物事の終わりがそれでかまわないのかといえば、それが普通の成り行きであれば終わりとは所詮そういうものだと思うしかないだろうし、何が終わってもその後があれば、では終わりを大げさに宣言したあれは何だったのかということにもなってくるわけで、そうなってしまうと予言者たちの信用が崩れ去るわけでもないのだが、始めから信用などなかったのかも知れないし、大衆の気晴らしや気休めのための予言でしかなければ別にそれを重視することもなく、特にそれに備えなくても受け流せるし、受け流せなければ消え去るしかないとしても、いつの時代でもどんな時勢でも多くの人たちが消え去ってきた経緯が何かしらあったわけで、現にそんな経緯の一つが今起こっていることでもあり、現に多くの人によって懸念されていることでもあるわけだが、そうした懸念がある程度は当たっているとしても、それもある程度は当たっているに過ぎないことだともいえるわけで、それがそうなっているに過ぎないことだと受け流されてしまう動作によって多くの人たちが闇から闇へと葬り去られてしまうとしても、それらの人たちを闇へと葬り去ろうとしている勢力の終わりを宣言する予言者たちも一緒になってついでに葬り去られようとしていて、結局は葬り去る側が自分たちの終わり宣言した予言者たちに対して勝利を宣言することになるのかも知れない。


8月6日「無意識の力」

 この世界が終わりそうで終わらない悪夢に覆われているわけではないが、それを人の欲望の実現といってしまうと単純すぎるようにも思われるだろうし、欲望よりは無意識の実現といった方がその自覚がないだけに意識とのずれを実感できるのかも知れず、意識してやりたくないことをやっている感も浮き出ていて、何か救いようのない愚かさをさらけ出しているようにも思われるが、顕在化しているのはそれだけではなく人とは無関係な面もいくらでもありそうなのに人がそれを実感できず、人が世界に関与している面しか意識できないのかも知れないが、それだけで世界が構成されているわけでもないのはわかりきっているとしても、自然と人と世界とのかかわりしか意識できなくなってしまい、さらにそこから症状が悪化すると人と人とのかかわりしか念頭にないような思考になってしまうのかも知れず、普通の精神状態でそうなるのが当然だとしてもそこで意識できないのが自然からの作用であるとしても、それでも絶えず自然から作用や影響を及ぼされながら活動しているわけで、別に症状が悪化しているわけではなく、そういう面では意識が思っていることからずれた活動になっている可能性もあるだろうし、意識にとってはそれが謎の面を構成しているのかも知れないが、自身が何を考えて何をやっているのかわからないということもあるわけで、考えていることを自覚できないのだから意識にとっては自分自身が他者となってしまっているとしたら、自分を他者と認識する自意識自体がおかしいようにも思われるわけだが、そんな自意識も意識を取り巻く自然とのかかわりの中で形成されている可能性もあり、自らに意識が含まれる面と自然に含まれる面とが重なり合って意識を構成しているとすれば、そんな意識の他者性と意識にとっての自身がまとっている身体の他者性とが二重の意味で他者性を意識させるのかも知れず、それが意識と身体との隔たりを実感させるのかも知れないが、意識にとって何かずれたことを身体がおこなっているとすれば、第一に身体が自然とのかかわりの中でやっていることとして認識される可能性もあるだろうが、またそれは社会とのかかわりの中で意識からずれたことをやっている可能性もあるだろうし、それらが意識による身体の制御を阻んでいて、自然と社会が自意識に優先して身体を制御していると受け取られるかも知れないが、たぶん制御しようとしているのでも支配しようとしているのでもなく、ただ身体と自然と社会とが相互作用を起こしているのであり、さらにそれに加えて意識と身体と自然と社会も相互作用を起こしていれば、そうやって意識が認識しようとする世界が意識の中で構成されているとも言えるだろうし、そういう認識が意識にもたらされているとしても、それは意識が認識していることでしかないだろうし、そういった認識からずれたところで身体も自然も社会も構成されて動作している可能性があるだろうし、実際に認識からずれた面が身体にも自然にも社会にもあり、それが意識できない面でもあり、それが意識には無意識の領域だと思われるかも知れないが、そこまで考慮できるかとなると、よくはわからないが意識できないのに配慮している可能性もあり、それが恐れや躊躇などを伴い、自らの限界を超えて意識を及ぼそうすることへの恐れや躊躇があり、そういった領域へと思考を巡らすのを避けていて、それが触れてはならない禁忌の領域を形成しているのかも知れないが、普段からそれを意識しているわけではなく、それと自覚することなく避けている可能性もあり、制御できないことには手を出さず説明できないことは無視する傾向があり、そういう面が意識の中ですっぽり抜けていることを自覚していないというよりは、自覚しないようにしていることを忘れているのかも知れず、さらに忘れていることすらも思い出さないようにもしていて、その辺は用意周到かつ念入りに避けるような戦略も身についているとすれば、それが無意識の戦略といえるのかも知れないが、戦略なき戦略というわけでもなく、それが戦略であることを自覚しないようにする戦略といってしまうと、何か不自然な恣意性をまとっているように思われるかも知れないが、自然にそうなっているように見せかけていて、意識にとって都合の良いところだけ意識するようになっているわけだが、そういった精神構造をこしらえ上げた人は自分のことは棚に上げて他人の欠点をあげつらうようなことを平然と言えるようになるのかも知れず、そういうお前はどうなんだという自己反省の回路が欠落しているように思われるかも知れないが、戦略的にそういう面が動作しないようにしているわけだから、それだけ一方的な傾向になれるわけだが、そういう人にも触れるのを恐れたりためらったりする領域があり、それが自然や社会との相互作用によって自らが思わぬ方向へとずれて行ってしまう領域なのだろうが、そこへと引き込まれるようにして立ち入ってしまった人がおかしくなってしまうとしても、おかしくなる傾向や内容は人によっても異なるだろうし、思わぬきっかけからおかしな行動や言動に走ってしまい、それが馬脚を現したような言われ方をされることもあるだろうが、わざとそうしているわけでもないのに結果的にはそれがわざとそうしているように見える場合もあるのかも知れず、そのわざとそうしているように見えてしまうところが油断のならないところでもあり、何かそうしていることの真意が他にあるかのように思われてしまうとすれば、それが無意識の戦略的な効果となって表れていることでもあり、馬鹿なことを言ってみたり滑稽な行動に出てみたりしている一方で別の何かから目を逸らさせようとしていたりもして、そこまで計算しているわけでもないのだが、それをそのまま馬鹿で愚かな人だと思っておいてもかまわないのだろうが、結果的にはそうした馬鹿さや愚かさを良い方に受け取ることが期待されていたりして、それが親しみやすさが醸し出す罠にもなっているわけだが、誰もそれを罠だとは思わないだろうし、実際にそんなことを恣意的に仕掛けている方も罠を仕掛けているとも思っていないのかも知れないが、親しみやすさの共有という点ではこれからもっとおかしなことがおこなわれる上では良い方向に働いているだろうし、さらにおかしなことをやっても受け入れてもらえるようにする上では、それが受け入れられるための呼び水ような役割を果たしているのかも知れないが、そこまで計算に入れておかしな行動や言動に出ている自覚はないだろうし、結果的にそうなって初めて無意識の戦略が功を奏したことになるとしても、そんな行動や言動に出ている時点ではそんなことをやっている当人さえ気づいていないわけだから、他の誰もその時点では気づかないわけで、そうなっている時点でそうなるための土台が踏み固められているとしても、そんな馬鹿で愚かな行動や言動に親しみを覚えて一緒になってさらにおかしなことがおこなわれるための土台を踏み固めている他の大勢の人たちも、自分たちも共犯関係となって一緒に馬鹿で愚かなことをやるための土台を踏み固めている自覚がないのだから、その手の親しみやすさから生じる善意が誰にとっても思いがけない結果ともたらすとは誰にも予想がつかないところだろうし、それが人と自然と社会の相互作用によってもたらされる思いがけない事態となるとしても、後世の人たちには滑稽でわけのわからない儀式のように思われるかも知れないが、そんなことを共同作業のようにしてやっている人たちにとっては、何かそうすることが必然的な成り行きに思われるとすれば、それがやって当然のことをやった結果として当然の事態をもたらしたように思われてくるわけで、それの何が思いがけない事態をもたらしたようにも思われなければ、それが思いがけない事態であるとも思われないのだから、そうなるために意識を慣らす目的で、事前に馬鹿で愚かな行動や言動がおこなわれたことも気づかれないだろうし、そうやって結果から見れば一連の動作がつながっているように見えるわけだが、たぶんその時点から場所も時間もある程度は隔たってみないことにはそれがわからないわけで、それに関しては戦争末期の記録映像として残っている大げさな学徒出陣式も提灯行列も神風特攻攻撃も馬鹿で愚かな行動であり、当時の世の中が狂気に包まれていた証拠映像でもあるわけだが、それを真面目に悲劇と解釈してしまうと滑稽さが欠落してしまって、思いがけない事態となっていることを忘れさせてしまうわけで、またそれを当然の帰結ように語るとなると、やはり物事の本質を見逃してしまうことにもなり、誰もがそんなことをやるために生きてきたわけでもなかったはずで、もっとまともで普通の日常の中で暮らしているはずだったのが、何かのきっかけから成り行きの歯車が狂いだして誰もが狂気の沙汰に巻き込まれてしまったのに、それを後から戦争の悲劇を二度繰り返さないというようなもっともらしい認識と共に正気の範囲内で捉えようとしてしまうと、それは違うと思うような感じで受け止められてしまうわけで、そういう狂気を正気の側に引き寄せて解釈してしまうのをおかしいと思うなら、最近でも風邪の予防には外出から戻ったらうがいする習慣を身につけようという日常の親しみやすさから、特定のうがい薬がコロナウイルスに効果があるようなデマが広まって、マスクと同様にうがい薬を買い占めて一儲け企もうとしていることが狂気の沙汰であることに気づけるはずだが、そこから何でもかんでも金儲けに結びつけようという資本主義的な意識や動作も、狂気の沙汰だと思われるかも知れないが、そういう面では狂気と正気の境目が曖昧ではっきりしていないわけで、そういう傾向のどこまでが正気の範囲内で、どこからが一線を越えた狂気の領域になっているのかが、誰にとってもよくわからないような事態となっていて、そういった狂気と正気の区別が一概にはつけられないところに、狂気と正気の間に境界線があるということ自体が幻想に過ぎないことを伺わせているのかも知れない。


8月5日「世間一般の常識」

 常識にとらわれないことをやろうとする時には、常識そのものが疑わしいからそういう成り行きになるのだろうが、常識を意識しなければ常識にとらわれないことができるかというと、無意識が常識にとらわれていれば無理かも知れないが、やっていることが非常識に思われる時には消極的ながらも常識を意識している可能性があるだろうし、普段から思考したり行動する指針として常識を念頭に置いていれば、何をやるにも常識に照らし合わせて思考したり行動するかも知れないが、そうであっても常識からずれてしまう可能性もあるのかも知れず、それも世間一般の常識という程度の捉え方をしていて、世の中の多くの人が漠然と守っているつもりだが、普段はこれといって特定されないような曖昧ではっきりしないものであり、それを破ったりないがしろにすればそれと気づくようなことでもあり、何となくそれが常識のように思われることを誰もが共有していても不思議ではないように思われるのだが、その一方で意外と非常識なことも世間でまかり通っていたりもして、常日頃から威張り散らしているような人や勢力が非常識なことを強引にやっているのに、それを世間が黙認するような成り行きもあるだろうし、そういう意味では世間一般の常識にそれほど強い拘束力はないのかも知れないが、立場の弱い人ほどそれに従わざるを得ないようなことでもないだろうが、常識に逆らうことに利があれば平然と逆らってもかまわなければ、その程度のことでしかなくなってしまうわけだが、それでも何をやるにも常識がついて回るだろうし、それに逆らうようなことをやるには誰もが容易にやれるわけでもなく、やるに際して一定の歯止めがかかるような成り行きがあるのかも知れないが、それにとらわれているからといってそれほど苦にはならないことかも知れず、しかも苦にならないだけにとらわれやすく従いやすいようなことであるから、それが守るべき常識として機能するわけで、そうやって実際に大勢の人がそれにとらわれているから、時にはそれに逆らったり無視する人や勢力に利がもたらされることもあるだろうが、そういった抜け駆け的にもたらされる利益であれば、抜け駆けに対する非難や制裁を伴うこともあるから、それに逆らったりそれを無視するにもそれ相応のリスクが伴うので、それなりの覚悟がないと容易には逆らえないだろうし、うまく立ち回らないと首尾よく利益にありつくことはできないのかも知れないが、そういう功利的な動機ではなくても常識に逆らう成り行きが出てくるだろうし、それが倫理的な動機になるのかも知れないが、逆らっても直接には何の利益も得られないどころか、かえって不利益を被ったり身の危険にさらされる可能性さえあるのに、なぜそうまでして逆らわなければならないのかといえば、そうすることが道理に適っているように思われるのかも知れず、実際に道理に適っているように思考したり行動すれば、確かにその場では不利益を被るかも知れないが、その代わりに目先の利害に惑わされない姿勢を保てるわけで、そちらの方が重要に思われるのは歴史認識に由来しているのかも知れず、目先の利害に惑わされた人がその後どうなったかは歴史が示していることであり、しかもそれが近代の歴史が示していることだから灯台もと暗しでわかりにくく、下手に遠く過去に遡りすぎると功利的に都合よく解釈可能な神話的な歴史となってしまい、現代人にとって都合の悪い反面教師的で歴史的な経緯がなかなか出てこないわけだが、もちろん近代の歴史であっても都合の悪い面を隠蔽する成り行きが出てくるわけで、それも功利的な思惑からそんな成り行きが生じてしまうわけだが、全ては今ここでおこなわれていることを優先させたい思惑から生じているわけでもないだろうが、自然とそういう成り行きになってくるだろうし、現状で世の中の主導権を握っているように見える人や勢力であってもなかなか思い通りには事を運ぶことができずに、うまくいかない状況の中で焦燥感を募らせているのかも知れないが、その焦燥感をもたらす要因の一つとしては目先の利害に惑わされて功利的に動く人ばかりではないという事実もあり、必ず少数ではあっても物事の道理をわきまえる人が出てくるわけで、そういう人の存在が障害となって立ち塞がってきて、功利的な思惑だけでは物事が進まなくなってしまうわけで、だから焦って拙速に事を運んで過ちを犯してしまい、結果的に自分たちの浅はかさを公衆の面前にさらけ出すことにもなってしまうわけだが、だからといって物事の道理をわきまえた人に主導権が移るわけでもなく、依然としてそんな人たちに主導権があるような状況の中で、それこそおごり高ぶった思い上がりからではないにしても性懲りもなく同じような過ちを犯し続けるわけだが、もちろんそうなったとしても主導権を手放すつもりもなく、延々とより一層そんなことをやり続けようとするわけで、それこそが出口の見えない迷路状態をもたらしているのかも知れないが、それらの人や勢力にとっては自分たちが主導権を握れている限りでそうなっていてもかまわないわけで、できるだけそんなうまくいかない状態を長引かせようとしているわけでもないのに結果的にはそうなってしまい、人々がそんな状況下でもそれが通常の状態だと思うように仕向けているわけでもないのだろうが、結果的にはそういう成り行きに慣らされてしまい、そんな状態の中から世間一般の常識も出てくるわけだが、そこでも主導権を握っているつもりの人たちの無理が通れば道理が引っ込むようなことをなし崩し的にやろうとしてしまうだろうが、もちろんそれもうまくいかずにややこしい事態になってしまい、それもそうなってしまった事態に世間が慣れるように仕向けるわけだが、それを一般の人たちが常識的に考えておかしいと思ってしまってはまずいわけだから、何とかごまかそうとして事ある度に御用メディアを動員して目くらましの煽動や宣伝を仕掛けてくるだろうし、その一環として敵対勢力と見なした国や民族や宗派などとの対立も煽り立てて、人々の目をそちらへと向けさせようとするわけだが、そんな見え透いたやり口が通用するのも常識的な範囲内に限られるだろうし、必死の煽り立てもそれなりに効果が上がっているように見える時期があるにしても、期待したほど長続きするわけでもないだろうし、やがて何をやっても飽きられてごまかしが利かなくなってくれば、さらに過激な仕掛けが用意されることもあるだろうが、そうした煽り立てがエスカレートしていけば、場合によっては戦争へと行き着く場合もあるのだろうが、それも必ずそうなるとも限らないことでもあり、歴史が繰り返すことも繰り返さないこともあるわけで、結果的にそれらの人や勢力が恣意的に持って行こうとする世の中の状態とはかけ離れた思いがけない状況がもたらされるとしても、それを予想するのも意味のないことであり、現状では先行きが不確実な要素がいくらでもありそうに思われるが、それに関して常識的な線では戦争への危機が懸念されるとしても、世の中で主導権を握っていない人たちの中には物事の道理をわきまえる心の余裕が生じていて、そんな人たちが抵抗勢力となって主導権を握っているつもりの人たちのごり押し的なやり方に歯止めをかける役目を担うようなことにもなるわけで、要するに世の中の主導権を握っているつもりの人たちは物事の道理をわきまえる心の余裕が生じないからごり押し的なことをやろうとする一方で、世の中の主導権を握っていない人たちには物事の道理をわきまえる心の余裕が生じてしまうからごり押し的なやり方には抵抗感を感じて逆らおうとするわけだが、そうかといって道理をわきまえた人たちが世の中の主導権を握る成り行きになるかというと、道理をわきまえない人たちが世の中の主導権を握るような成り行きになっていればそうはいかないだろうし、なぜそうなってしまうのかといえば目先の利害に惑わされるような成り行きが生じているから、それだけ功利的なことをやろうとする圧力が強まっていて、道理を引っ込めてでも無理なことをごり押ししなければならない状況に追い込まれているのだろうが、なぜそんな状況へと追い込まれてしまうのかといえば、それだけ経済的な利益を獲得するための競争が激化していると言えるだろうが、それもやっていることがうまくいかないことから生じる焦燥感がそうさせるのだろうし、こんなはずではなかったという状況がもたらされているからこそ、それをどうにかしなければならないという思いが強くなって焦りが生じてくるわけだが、そういうところでこんなはずではなかったというこんなはずとは逆のその人なりの理想的な状況を思い浮かべているわけだが、そんなふうに思い込んでいる理想的な状況というのが絵に描いた餅的なあり得ない代物なのだろうし、そういう思い込みをもたらしているのが意外と世間一般の常識から生じていたりもして、それが常識外れのとんでもない思想の類いであれば、それこそがとんだお笑いぐさとなってしまうかも知れないが、結構そういうところで常識だと思い込んでいる物事が常識外れであったりするからややこしい事態をもたらしているのであり、常識だからといって当然のこととしてそれが大前提だと思い込んで物事を考えてしまうとおかしな結果がもたらされて、何か納得しがたいような事態となってしまうわけだが、そういうところで世間的な常識を疑ってみるような心の余裕が必要かも知れないが、誰もが世間一般の常識を疑う機会を得られるわけでもなく、特に世の中の主導権を握っているつもりでそれらを主体的におこなっている人たちにしてみれば、それをやることにかかりきりになっているわけだからそんなことにまで考慮する余裕がないわけで、だから物事の道理をわきまえないような拙速なことをごり押ししてしまいがちになってしまうわけだが、そうなると結局は言うことを聞かない道理をわきまえた人たちに攻撃を仕掛けたり抑圧するような成り行きになってしまうのかも知れない。


8月4日「教育の効果」

 そこで何が機能していて何が機能していないのかといえば、なぜかある時には機能しているのに別の時には機能していない場合もあるだろうが、それが機能している場合でもどう機能しているのかわからないような機能の仕方というのもあるのかも知れず、何か無駄で無意味に思われるようなことでも、その場ではそれがどう機能しているのかわからなくても、たとえそれが期待外れに感じられるようなことでも、気づかないところで思いがけない効果をもたらしているのかも知れず、その思いがけない効果が何でもないことであっても、それが思いがけない効果であり、期待外れとしか思えないとしても、何でもないことをもたらすように機能していれば、たとえそれが期待外れに終わったとしても、そうなるように機能したのだからそれでかまわないわけで、何でもないことをもたらすように機能したのだからそれはそういう機能だと思うしかなく、それが機能すると何でもないことがもたらされて、それが期待外れであってもかまわないような効果なのだが、ではそこで何がどう機能しているかといえば、例えば知識を教えるという行為が何でもないことであったりして、たとえそれが学問と呼ばれようと、別に役に立つことを教えなくてもかまわないわけで、実際にある時には役に立つこともあるかも知れないが、またある人にとってはそれが役に立つかも知れないが、別の時には何の役にも立たないかも知れないし、別の人には全く役に立たないようなことを教えるのが、学問と呼ばれる行為の学び習うことによって生じる効果であり、役に立たないことを学び習っても無駄で無意味に思われるのは当然だが、実際に学校などの教育機関では日々無駄で無意味に思われるようなことを教えていて、当然それを学び習っている側の学生は、こんなことを習っても何の役にも立たないと思っているかも知れないし、例えば日本でもっとも偏差値の高いとされる大学を中退した著名人がそんなことを言い放って、世間から注目を集めるような成り行きとなるかも知れないし、それはそれでそういうことを言い放つには役に立ったわけだが、たぶん機能するのと役に立つのとは違うことであり、役に立たなくても機能している場合もあるだろうし、逆に役に立っても機能していない場合もあるのかも知れず、例えば物を売買することによって金儲けの役に立つことにはなるが、それが生産としては機能しなかったりするかも知れず、経済を機能させるには流通させるだけではなく生産しなければならず、売買は流通に含まれているだけで、まずは流通させる物を作らなければならず、もちろん流通した物を消費しないと流通が滞ってしまうだろうし、そうなると物の生産と流通と消費がおこなわれないと経済が機能しないことがわかるわけだが、それを教えるのが学問であり、そこで物事の道理を教えるわけだが、ではなぜ役に立たないと思われるのかといえば、必ずしもその人の役に立つことを学ぶわけではないからで、役に立たないことでも学ぶだけの意味があるかとなると、意味があるとは思えなければ学ばなくてもかまわないだろうが、意味がなくても学んでもかまわないのかも知れず、役に立たないことであっても学んでもかまわないわけで、学ぶ必要のあるなしにかかわらず学んでもかまわないだろうし、それを学ぶことがそこで機能していることになり、教える側と学ぶ側が機能していればそこで教育が成り立っていることになるのだろうが、そうした機能に何の意味があるのかと問うならば、それが無駄で無意味なことだと思われるなら、教えることをやめてしまうかも知れないし、学ぶことをやめてしまうだろうが、無駄で無意味で役に立たないと言い放つ人がどう見えるかも判断材料となるだろうし、愚かに見える人がそんなことを言い放っていれば、教えることや学ぶことをやめてしまった人が愚かに見えることになるだろうし、愚かに見えるのが嫌なら教えることも学ぶこともやめない方がいいと思うかも知れないし、別に愚かに見えてもかまわず、役に立つことやって利益を得られればそれでかまわなければいいわけだが、そういう意味では人それぞれに違うことをやっていればよく、教育の中で機能することを受け入れる人もいるだろうし、それが無駄で無意味で役に立たないと思って機能することをやめてしまう人もいるということであり、そうなってもかまわないような成り行きにとらわれてしまう人もいて、そういう人にとってはそれでもかまわないわけだが、誰もがその人の真似をする必要はなく、その場の成り行きに従って教育の中で機能することを受け入れてもかまわないわけだが、そうなってしまった自らを正当化するのもその場の成り行きから生じることだろうし、自己アピールとして日本でもっとも偏差値の高いとされる大学に入学して中退したことを自慢してもかまわないだろうし、中退した理由として大学が無駄で無意味で役に立たないことを教えているからだと批判してもかまわないだろうが、その人にとってはそういうことかも知れないが、別の人にとってはそうではない可能性もあるだろうし、その人の意見に同調するのも同調せずに逆にその人を批判するのも、そんなことをやろうとする人の勝手かも知れないが、それでも教育という行為に何らかの意味があるとすれば、それは教育という行為を機能させるには教育の中で教える側と学ぶ側の存在が欠かせないということであり、それは経済が機能するには物や情報やサービスの生産と流通と消費が欠かせないことと同じようなことかも知れないが、機能することに何か意味があるとは思わなくてもかまわないのかも知れず、また機能することが何かの役に立つとも思わなくてもかまわないのかも知れないが、それでも実際に何かの役に立ったと思うこともあるだろうし、そこで教育の有用性やありがたみを実感することもあるだろうが、少なくとも教育を受けてきた人が世の中のほとんど全てであることは確かで、それも人それぞれで受けてきた教育内容も異なるだろうし、一概には教育が役に立つか否かは判断できないわけだが、別に役に立たなくてもかまわないような教育内容もあるだろうし、もちろん教育が役に立ったと思う人は教育のありがたみを実感するような体験をしたわけだろうし、それはそれで結構なことだろうが、またそこから教育の在り方を問うような問題提起をしたい人もいるだろうし、そういう人は問題提起をすればいいわけだが、関心のない人は無理にそういった問題提起を真に受ける必要もないだろうし、別にそこでそういう成り行きへと持って行こうとする意図をはぐらかそうとする気も起こらなければ受け流しておけばいいわけだが、何にでもすぐに首を突っ込む性分を抑えきれなければそういう意見にかみついて批判しようとしてもかまわないだろうし、そこでもそれに対する反応として様々な反応の仕方が想定されるだろうが、その様々な反応の仕方のどれ一つとして実行されなければ、そういう意見が無視されたことになるだろうし、そこに何か誰でも教育を受けてもかまわないような制度があれば、教育を受けたい人が受けるような成り行きになるだろうが、受けたくても受けられないような人がいれば、そんな人が教育を受けられるようにするのが政治の役目だと主張する人も中にはいるだろうし、そういう人にはそういうことを主張する成り行きが生じているわけだが、そこでも教育が何かの役に立つと思われるだろうし、自らがやろうとすることの役に立つから教育を受けたいと思うのは自然な動機や理由となるだろうし、そう思う人にとっては確かに役に立つのであり、そういう意味では教育が何かの役に立つ可能性が充分にあるわけだが、役に立つだけではないのも教育の本質的な面なのかも知れず、その中には教育を役に立つ内容にしようとする思惑を裏切るような面もあるのかも知れず、役に立つ立たないという直接的で功利的な面とは違う啓蒙的な面も教育にはあるだろうし、功利性を重視する人には教育の啓蒙的な面を毛嫌いする傾向もあるかも知れないが、何とかそのうさんくさくて人道主義という役に立たない啓蒙的な効果を削って実用本位の教育カリキュラムを作ろうとするのだろうが、それこそが中身のない空疎なロボット人間を作ってしまうようにも思われてしまい、そういった方面で教育の在り方を問いたい人もいくらでもいるのかも知れないが、結局そういうところから無駄で無意味なことをやるのが人間らしさをもたらすような逆説が生じてしまい、そういうところから教育の割り切れなさも醸し出されてくるわけだが、なぜか社会に直接役立つような実用本位なことばかり教えてもまともな人間にならないわけで、それは社会の中で生きていくのに直接役立つことを教えろと主張する人の愚かさや浅はかさも際立たせるわけだが、そういう人にはなぜ自らが愚かで浅はかに見えてしまうのかが理解できないだろうが、そうは思わない人にも理解できないことかも知れず、何かうまく言い表せないようなことが教えられていて、それをはっきりと割り切ろうとする人には無駄で無意味なことを教えているように思われるわけで、もちろんそんなことまで考えない人にとってもわけのわからないことを教えている印象があるわけだが、教えている側の人でもそういう印象を持っているのかも知れず、なぜそんなことを教える成り行きになってしまったのかよくわからないまま納得もできないまま教えている人もいるのかも知れないが、そういう面では教えている側にとっても教わっている側にとってもお互いに暗中模索の中で答えが見つからないような試行錯誤を伴っているのかも知れず、そこで何を教えればいいのかわからないような成り行きの中で教え、また何を教わればいいのかわからないような成り行きの中で教わっていれば、案外そんな状況が教育的な効果をもたらしているとも言えるのかも知れない。


8月3日「自由と平等と秩序」

 普通に考えられることは世の中の何もかもが均等な割合で変化しているわけではなく、何か偏った方向や傾向に凝り固まってしまう成り行きがあるから、そこで不均衡や格差などの弊害が生じてしまうのだろうが、大抵の場合は特定の人物や団体や勢力などが有利になるように画策して、また特定の人物が中心となって連携して動く集団も生じてくるだろうし、それが公的な機関である政府だろうと、私的な企業や各種の団体であろうと、それらが世の中で群雄割拠するような状態を作り出しているわけだろうが、それもはっきりと各々の勢力分野ごとに分割されている面と互いに混じり合って重なり合いながら勢力範囲や境界線が曖昧化している面もあるのだろうが、何か一定の範囲内でそこを統治する主体の主導権が確立されていれば、それが国家のような勢力範囲を形成することになるだろうが、そういった一定の勢力圏を構成しているように見えるにしても、そんな中でも独自に動いているように見える人や集団も存在しているだろうし、そこでも統治形態を主導する勢力への依存度が高い人や集団と依存度が低い人や集団が存在するだろうが、各々の集団の中でも構成員の間でそれなりに平等な状態が維持されている集団がある一方で、権力的な力の強弱に基づいて上下関係の階層構造がはっきりと確立されている集団もあるだろうし、そういうわけで現状でも自由度の強弱や平等不平等の傾向にも幅がある中で、果たして自由と平等の両面での傾向を同時に強めることができるかというと、自分が自由になるためには他人を不自由にしなければならないという状態を実現するように仕向けるのが権力関係であり、それに伴って一方的に自由に権力を行使する側と権力の行使される側の不自由さが際立ってくると、そこで両者の間の不平等な関係も顕在化してくるわけだが、そうやって人が自由であることと他の人が不自由であることがつながってきて、そうなっている限りで人と人との間で不平等な関係が生じているわけだから、自分の自由を実現するためには他人の不自由が必要となり、自由な状態と不自由な状態が共存している状態が権力関係を伴った不平等な状態でもあるわけだが、それらの状態が循環的につながり合っているとも言えるだろうし、では逆に人々の間で平等な状態を実現しようとすればお互いに不自由さを分かち合わなければならなくなり、活動の自由を封じられて他人に遠慮しながら不自由さに耐えていると不満がたまってくるだろうし、そういう状態が極まったのが全体主義的なナチズムやスターリニズムといえるのかも知れないが、果たしてそういった指導者の下での悪平等ではない、互いに自由な立場での平等というのがあり得るかとなると、資本主義的な自由主義が目指すのがそうであるかも知れないが、今のところそれは労働者の犠牲の上に成り立つ資本家たちの自由な立場での競争する自由であり、資本家のために労働してくれる不自由で不平等な他者の存在を前提していて、それが誰にでも平等に成功する機会が与えられているかのような幻想を抱くことによって空想されるフィクションに過ぎないわけだが、そういったアメリカン・ドリーム的なフィクションが誰にとっても幻想で終わるわけではなく、実際に誰かが成功して自由を手に入れられるわけで、手に入れたそれを自由だと実感できるわけだが、それが真の自由なのかといえばそういうのが自由だと思うしかないわけだが、中にはそんなものが真の自由なのではないと思う人もいるだろうし、そこから人によって立場や境遇によっても自由に関して見解が分かれるかも知れないが、平等に関してなら誰もが平等な立場というのを想像できるし、人々の間で平等に関しての共通認識が成り立つかも知れないが、平等に振る舞うには自身が自制しなければならず、それは他人の存在がそうさせるわけだが、自分が自制したからといって他人も同じように自制してくれるかというと、他人がそれにつけ込んで利益を得ようとしたり立場が上になるように抜け駆けしたりすれば信じられなくなるだろうし、そういう意味では自由と平等が両立しがたい面があるわけで、そうかといって誰もが平等となるように法律を定めようとしても、それは法律上の平等であって、違法行為を処罰する項目を法律に設けても、やはり利益を得る自由を求めて違法行為に手を染めてしまうし、あるいは自由に振る舞ってしまったら結果的にそれが違法行為であったりもして、そんな事件や出来事を伴いながらも平等を実現しようとする行為と自由を求める行為とが相争う世の中が実現しているのだろうが、自由と平等の他にも秩序を求める行為もあるだろうし、何らかの秩序を実現させようとすれば自由な振る舞いにも平等な関係にもある程度の制限や制約が課されることになるだろうし、秩序が成り立っている中では完全な自由も平等も実現されず、世の中の秩序を乱さない範囲内で自由で平等な関係が求められるわけだが、秩序というのはその中で誰かを有利な立場にして他の誰かを不利な立場にする傾向があるだろうし、それが権力関係に基づいた秩序にもなるわけだが、秩序の中で立場や地位が固定したものと捉えれば確かにそうだが、ではその中で立場や地位が流動的に変化する秩序というのを考えられるかといえば、何らかのやり方を用いて定期的にその立場や地位に就く人を取り替えられるようにすれば、例えば選挙でその立場や地位に就く人を選んだり、あるいはくじ引きで選んだり輪番制で交代するようなことをおこなえばいいだろうが、それでもいったんその立場や地位に就いた人やその人が属する勢力が、できるだけ長期間にわたってあるいは恒常的にその人やその人が所属する勢力の中の誰かがその立場や地位に就けるように画策してしまうだろうし、そういう画策が功を奏している現状もあるわけで、それがそれなりの弊害をもたらしていればまたそれをなくすようなことをやらなければならなくなるだろうし、それ以前に果たして秩序が必要なのかといえば実際に何らかの秩序が世の中で成り立っている限りで、それが必要だから成り立っていると考えられるだろうし、またその中で特定の立場や地位がないと秩序だとは言えないだろうが、真の自由を実現するには立場や地位にとらわれない自由が必要となるし、真の平等を実現するには特定の権限や権力を伴った立場や地位そのものをなくさなければならないから、自由を実現するにも平等を実現するにも秩序が邪魔となるわけで、そうなると自由と平等が相容れないばかりがその両方ともに秩序とも相容れないようなことになってしまい、世の中で自由と平等と秩序を完全に実現することは不可能になってしまうわけだが、人にも社会にも三者共に必要だと思われるだろうし、その性質や傾向から他に制限や制約を課すようなことになってしまうわけだから、それらを両立させるというよりは不完全かつ部分的に実現するようなことになってしまうのかも知れず、それが自由を目指す人にとっても平等を目指す人にとっても秩序を目指す人にとっても歯がゆいところなのかも知れないが、それ以外にも人によって目指すべき方向や傾向があるだろうし、それが他と相容れないようであれば、それも目指すことが不完全かつ部分的にしか実現できないことになるだろうし、そういう意味で何か一つの言葉で言い表せるような状態を目指すこと自体が無理なようにも思われてくるわけだが、中には自由と平等を目指すとか互いに相容れない状態を目指すべきこととして掲げるような粗雑なスローガンが平然と主張されている現状もあるだろうが、たぶん現状の政治や経済の分野でおこなわれていることは、そういう大雑把な矛盾には目を瞑ってもっと視野を狭めて、目先の利害から活動の理由や根拠を求めるようなことがおこなわれているだろうし、そうすることで活動していくうちに利害対立から味方同士でも敵同士でも仲違いすることが目に見えているとしても、そうなるまでの間では活動がそれなりに維持できるわけで、そうやって活動が維持できているうちは何か一定の目標なり目的なりを達成するための共闘や連携や協力の関係も成り立っているわけだが、それが自由と平等と秩序とその他諸々の何かとの間で脆い均衡が保たれているから、何とかそれにかかわっている大勢の人たちが力を合わせていられるのだろうが、何かのきっかけからその均衡が崩れてしまうのはよくありがちなことであり、実際にその手の集団や勢力の離合集散が絶え間なく起こっているのかも知れないし、そんな中でも現状の世の中の傾向によく適合する勢力が比較的長期間にわたって集団的な構造や秩序を維持しているだろうし、勢力の規模が大きければ世の中の主導権を握っているようにも見えるだろうし、それが政権政党であったり覇権国家であったりグローバル企業であったりするのだろうが、それらの中で自由や平等や秩序がある程度は保たれているとしても、それが何らかの勢力である限りはその内部でそれなりの権力関係が張り巡らされていて、それが自由とは反対の不自由や平等とは反対の不平等や秩序とは反対の無秩序などをもたらしているだろうし、その中でわかりにくいのが無秩序かも知れないが、権力関係を用いて秩序を破壊する行為がおこなわれるわけだが、それが勢力そのものの自壊作用をもたらすのであり、勢力内での権力関係が強すぎるとかえって崩壊も早まるのかも知れないが、そういうところでも中途半端な妥協が惰性的で慢性的な互いのなれ合いの中で成り立っていれば意外と粘り強さが生じてくるのかも知れず、それとともに腐敗状態も顕在化してくるわけだが、そういった負の側面も現状のだらけきった均衡を保つ上では効果的に利いていたりもして、そういう嫌な面を嫌うのも当然の反応だが、一方でそれらが怠惰な魅力も醸し出しているわけで、自由だ平等だとかっこいいことを主張するのは容易であるにしても、それだけでは済まない成り行きになってくると、状況をどう捉えてみても理性や知識だけは不十分となってくるのではないか。


8月2日「終了の意味」

 成り行き上そんなことを述べても何の得にもならないことを述べてしまう場合もあるだろうが、物事の進行形態が何を示していると思われても、豚の場合は国の誤った判断によってオーエスキー病ウイルスに対して全く効かないオムニマークのワクチンを接種することになって、全国的に大量の豚が死に続けるという事態になったわけだが、それから数十年が経過した今でも世界中の病原ウイルスが日本に持ち込まれて蔓延している状態であっても豚に関しては畜産業が成り立っている状態だろうし、かえって零細農家が続々と廃業した末に大規模業者にとっては好都合な状況となったわけだが、豚コレラワクチンに関してはワクチンを製造した製薬会社と国から委託を受けて接種を担当した獣医師が金銭的に儲かったのだろうが、人に関しても同じような成り行きになるかどうかはわからないが、新型コロナウイルスに関してもワクチンを製造する製薬会社と接種を委託される医師や病院がかなりの金銭的な利益を得られるかも知れないし、国の拙速な判断でワクチンに関して一社と独占契約をしてしまうと、しかもそれが大して効かないワクチンであれば悲惨な結果をもたらすかも知れないが、どうせ製薬企業の方でも現状が待ってましたとばかりに金儲けのチャンス到来なのだから、こぞってワクチン開発に乗り出している最中なのだろうし、そういった状況で政府が誤った判断をしてしまう可能性も充分にあり得るわけだが、現状でも対応を誤っていると批判されているところでもあり、別にそんなことは今に始まったわけではなく、昔からそうなのだからどうということはないと言ってしまうと、何やら人命がかかっているのに冗談では済まないように思われるかも知れないが、人も安易な判断ミスであっさり死んでしまい、いくら人が死んでも誤った判断をなかなか改めないのが行政の恐ろしいところだと言ってみても、それ自体が紋切り型的な常套句でしかないし、それによって政府も国も終了してしまうわけではなく、間違った行政の闇の実態を暴く社会派ジャーナリストの飯の種となるべくそうしているわけでもないだろうが、性懲りもなく同じような過ちを延々と繰り返す方が政府にとっても好都合なのかも知れないし、それの何が好都合なのかと言えば、それが中国やロシアや北朝鮮やトルコやシリアなどのような圧政とまでは行かないにしても、国民に負荷をかける重石として機能している可能性があり、かえって甘やかさないで痛めつけておいた方がなめられず、国民が奴隷のように政府に従ってくれる状態を作り出せるのかも知れないし、それも比喩的な表現であり本物の奴隷というわけではないにしても、心理的な負荷が働いていることは確かだろうし、十年前の民主党政権のようにいい顔ばかり向けようとして国民にもメディアにもなめられてしまうと、未だに何か災害が起こる度に愚劣な煽動者たちが現政権の愚策は棚に上げて民主党政権のせいにしようとしてくるわけで、結局は良心的な国民の声を聴いてきれいごとのようなことをやろうとすれば、ヤクザな人たちがそれを妨害しつつ無知な大衆を煽動しながら攻撃を仕掛けてくるし、そういう人たちは力を持った勢力を支持するわけで、その力というのが社会的な権威から生じてくるように思われるとすれば、その手の権威がその場をしきって権力を行使する成り行きに従うことになるだろうし、そんなふうに圧力をかけられて従わされていることに慣れてしまえば、そこから安心感が生まれてきて、たとえそれが怠惰な安心感だとしても、それに逆らって攻撃を仕掛けられるよりはマシに思われるだろうし、そうなってしまうとそこからなかなか腰が上がらなくなってきて、大して居心地が良いわけでもないのに、自らが積極的に動いて下手に脅されるよりは、その場をしきっている側の指示に従っていれば、それがうまくいかなくてもしきって指示を出している側の責任であり、それに従っているだけの自分たちには何の責任もないと思われるわけだが、もちろんしきっている側を批判してもとやかく言われなければ批判するだろうし、批判するならお前が代わりにやってみろとは言われなければ、それも好都合な状況であり、それを延々と批判していればいいようなことにでもなれば、喜んで安易に批判し続けるわけではないにしても惰性として批判することを強いられて、わざと批判させているわけではないにしても、実際に批判されている側にとってもそれが好都合な状況であり、どんなにうまくいかないことをやっていても、代わりにやってくれる勢力がいないのだから、やり続ける立場を他に明け渡すわけにはいかないという大義名分が成り立つわけではなくても、実際に惰性でやり続けているような状況を維持できているのが現状となり、そうやって現状がうまくいっていなくても、それでもその立場に固執しているようには見えるだろうし、そういう立場が安定して存在している限りでそこに重力が生じていて、その重力に引きつけられてそこから移動することが困難になってしまい、それが紋切り型的な立場であり、紋切り型的な立場にある人は紋切り型的で同じようなことを延々と言い続けるわけで、もし誰かがそんな立場を占有していつまで経っても同じようことを言い続けているとしたら、その人は紋切り型的な状態に縛り付けられていると見なしておけばいいわけだが、もちろんその人だけがそんなことを言っているわけではなく、他の人たちも同じようなことを言っていて、それが国でも政権でもかまわないが、言葉を繰り出す対象としている何かが終了するぞと言い続ける人が他にも掃いて捨てるほど大勢いれば、そういった紋切り型的な言説を共有せざるを得ない立場というのがそこにあるわけで、何かそう言わないとその人が占有する立場を保つことができないわけでもないのに、そう言わざるを得ない成り行きがその場の状況から生じていて、そう言わせている対象がそんなことをやっていると終了してしまうわけでもないのに、なぜか終了という言葉にほどよくフィットするようなことを、それが絶妙な感覚というわけでもないのに思わずそれを口にしてしまうようなことを性懲りもなくやっていて、そこでそういうことを言うのがそこでのパラダイムにとらわれていることの証しと言えるわけでもないのだろうが、何かそう言わないと気が済まないような状況になっているわけで、それをもたらしているのがその言葉の対象となっている人や勢力であることは確かなのだろうが、それらの人や勢力がそういうことを言わせているわけではなく、それを言う側がお互いに示し合わせたわけでもないのに誰もが同じようにそんなことを言っているわけで、それが件の流行病に合わせて流行っている流行り言葉というわけでもないだろうし、このままでは日本終了だと危機感を煽っている人たちに悪意があるわけでもないとしても、実際には終了しないのに終了すると言わせられてしまうところが、紋切り型の流行病に罹患していることになってしまい、それが本物の流行病ではないとしても、言葉の流行病のような比喩としての病を連想させてしまうところが、そういう人たちが置かれた立場の安定感や安心感をもたらしているのかも知れず、多くの人たちがそう言ってしまう状態に安心してしまうと何か逆説的な響きを伴ってしまうわけだが、なぜ人々を安心させるために危機感を煽らなければならないのかと言えば、それが言霊としての効果を期待しているのかも知れず、それらの人々が同じ言霊を共有していると考えれば、それが魂の共鳴現象ともいえるのかも知れず、終了という言葉を強く念じれば終了させることができると考えているわけではなく、そんな馬鹿げたことを考える以前に、実際にそれを言葉として発音したり表記することによって念じている効果を出しているとすれば、それらの人たちは結果として言霊の存在を信じていることになるのかも知れないが、それを意識して信じているわけではなく、それを念じてしまっている現実が意識しなくても信じていることになってしまうのかも知れず、このままでは終了してしまうということは、自分たちがその対象に働きかけて終了させるのではなく、向こうから勝手に終了してしまうということであり、労せずしてそうなってしまえば楽なことなのに、それを念じなければならないとしたら、何かかみ合っていないような印象を受けるわけだが、そこが紋切り型の不完全なところかも知れず、そんなことを大勢の人たちが口にしたり文字として記したりしていること自体が考えてみればおかしいわけだが、果たして本当に終了するのかといえば、これから予想される状態を終了だと判断したいのかも知れないが、そんな状態の中でも人が普通に暮らしていられるとすれば、それを先回りして終了と見なす根拠というのが、終了という言葉の響きに合っているに過ぎないというわけでもないだろうが、恣意的な状況を表す言葉を発することによって思いを遂げたいという行為が言霊的な作用を期待しているのであり、それにはどうしても終了という言葉を使わざるを得ない事情がそれらの人たちに生じているわけで、なぜそんな言葉を使うのかといえば、そんな言葉を用いて批判したいわけだろうし、単なるその場の状態を予想して表現しているに過ぎないのに、そうなってほしいという意志の表れがそんな言葉を選択させてしまい、それによって他の大勢の人たちの思いとも共鳴して世の中に広く共感を呼び起こしたいわけだから、そういった善意からもその言葉を是が非でも自らの主張に混ぜ込みたいだろうし、それがその人のいわんとする真意という大げさなことに結びつくとは思えないにしても、何か多くの人たちが共有する共通認識のような言葉の意味になってくるのかも知れず、それがそう語らなければならないような意志も伴って、そんな言葉の選択に結びついてしまうのではないか。


8月1日「知り得ないこと」

 どう考えても一般的な認識としては、流行病の流行程度で国がどうなるわけでもないと思いたいところだが、何が一般的な認識なのかといえば、自らの想像力にまかせてそう思っているに過ぎないことかも知れないが、そんなことの延長上で人の気持ちもどうなるわけでもないとも思いたいところだが、それでもそれに対する通常の反応としては国も人もどうにかなってしまったように思われるだろうが、逆にどうなるわけでもないと何の根拠もないのに強がって見せてしまうのも通常の反応だとは思えないにしても、そこで何を見せるかというと人のうろたえた姿ではないだろうし、常識的な認識として誰が誰に向かって何を見せたいということではなく、普段通りに振る舞っているように見せたい人もいるかも知れないが、メディア的な伝え方としてはいつものように国も人もどうにかなってしまったように見せたいことも確かであり、どうにかなってしまった過去の事例を持ち出して騒ぎ立てたいところかも知れないが、それに対する人々の反応もいつものようにそんなのは騒ぐほどのことでもないような前例であり事例でしかないと感じてしまい、そうやってメディア上で騒ぎ立てて流行病が流行病のように一定期間にわたって流行った末にいつの間にか終息してしまえば、いつまでも騒いでいる人たちがはしごを外されて置いてきぼりを食ってしまうことにもなりかねないが、現状でも経済がどうにかなってしまったように思われるだろうし、実際にどうにかなっていることも確かだろうが、それでも騒ぎ立てている人たちがいつものように騒ぎ立てているのだから安心しているだろうし、そんな人たちが相変わらずメディア上でいつものように騒ぎ立てている限りで通常の状態なのだが、そうであれば本当に深刻な状態になればいつも大変だと騒ぎ立てている人たちが黙ってしまうのかも知れず、誰もが実際にそうなってしまうことを密かに期待しているのかも知れないが、そうならなければいつものような大騒ぎでしかないだろうし、それが実質や実態を伴っているから空騒ぎではないにしても、通常のレベルでいつものように大騒ぎしているのだろうが、そんな連中が騒ぐ気力も失せるような深刻な事態ともなれば、何か世の中が様変わりしたように思われるのかも知れないが、これから実際にそうなるかというと、実際にそうなってみれば何か感動的な光景に出くわすことになるのかも知れず、そんな光景を想像しながらも期待外れに終わることも充分に考えられるわけで、現状で騒いでいる連中は最後の最後までしぶとく生き残って騒ぎ続けるのかも知れないし、そうなればいつまで経っても同じような人たちがいつも通りの騒ぎ立てている光景に飽きてしまい、もはやそれ以上にどんなにすごいことが起こっても騒ぐまでもないことのように思われてしまえば、どんなに凄い光景に出くわしても感動できなくなってしまうのかも知れないし、実際に凄いことを体験しているのに至っていつも通りに感じられて、そういった平常心を養う上ではそれらの人たちがいつも通りに騒ぎ立てていることが役立っているのかも知れないが、今さら奪われてしまった感動体験を返してくれと言われても、もちろんそうなってもそんなことを言ってくる人は誰一人としていないだろうが、何を言っても後の祭りでしかないことも確かだが、誰もが現状によって感動したいわけでもないだろうし、そんな現状も通常の状態でしかなくなった時が日常への復帰でしかないのかも知れないが、そうなるまでにどれほどの犠牲を払う必要があるかとなると、生き残った人にとっては他人が勝手に犠牲になっただけのことでしかなく、当人にとっては痛くもかゆくもないどころか、かえって余計な人たちが消えてしまってすっきりしたように思われてしまうのかも知れず、その余計な人たちが現状で大騒ぎしている人たちであればありがたいのかも知れないが、普通は消えてほしくない人があっさり消えてしまう一方で、消えてほしい人がいつまでもしぶとく生き残っているわけで、そんな現状で消えてほしい人が自分自身であれば灯台もと暗しとなってしまうわけだが、まさか自身が消えてほしい人に含まれてしまう人だとは誰も思っていないだろうし、果たして誰が誰にとって消えてほしい人なのかと言えば、自分にとっては他の誰かであることは当然だとしても、その他の誰かにとっては自分かも知れないとまでは思い至るはずもなく、誰もがお互いにそう思っていれば、そういう思いが相殺されて、誰にとっても他の誰かがかけがえのない人になるわけでもないだろうが、それもありきたりの感覚にはなるにしても、誰もがそれ以上の事態になることを求めているのかも知れず、それがどんな事態となるかはその時になってみないことには誰にとっても知り得ないことかも知れないが、求めているのにそれを知り得ないとはどういうことなのかと言えば、それを自覚できないということであり、自身の求めている状態を知り得ないのだから、普通はそんなことを求めているわけではないと思いたいだろうが、それがどんなことかを知り得ないわけだから、その時がきてからでないとわからないとすれば、その時が来ることを期待するしかなく、そうなると自らが求めているのは自らが何を求めているのかを知ることになり、その時が来てみないことにはそれを知る機会を得られないことになるだろうが、その時が永遠に来なければそれを知り得ないままとなってしまうだろうし、誰もがそれを知らないまま死んでしまえば実際にもそうなってしまうわけだが、そうならないためにはどうすればいいかとなると、現状でそれを知る手立てがなければそんなことまで知る必要なく、それよりは実際にそうなった時まで知る楽しみを取っておこうとする方が賢明かつ妥当なやり方となるのかも知れないが、現状ではやり方もやりようもないのだからそのままになってしまうしかなく、そんなことは普段は忘れているだろうし、その時になってから初めてそう思うことでもあるから、先回りして知ろうとするようなことでもなく、それよりは現状の中でできることをやろうとすることの方が重要に思われるわけだが、それも実態にやってみなければわからないだろうから、結局は試行錯誤の暗中模索となるしかなく、誰もがそうなっているわけでもないだろうが、少なくとも自らはその最中だと思うしかない状況の中で生きているつもりであっても、意外とやるべきことがわかっているつもりにもなっているのであり、実際にやるべきことをやっている感触を得ていれば安心できるだろうし、たとえそのつもりで全く見当違いのことをやっているとしても、それが実際にやれている限りでやるべきことをやっている感触を得られているだろうし、誰もが見当違いのことをやっているとしたら、では見当違いではないこととは何かとなると、それがやるべきだとは思われないことであったりすれば誰もが間違っていることになってしまうわけだが、間違ったことができるわけだから、それが間違っているとは思われないのはもちろんのこと、それが間違っているという前提自体が間違っていて、実際にできることができているとすれば間違っているわけではなく、その全てが正しいとは思われないにしてもできることができていると思うしかないだろうし、実際にできているのだからそんなことは当然であり、改めてそんなことは確認するまでもないことであり、つべこべ御託を並べていないでそれをやればいいということになってしまうかも知れないが、やるべきことがやれている現状が現状そのものなのだから、現状のままでかまわないことにはならないとしても、現状でおこなっていることとは別に暫定的な目標があれば、それを目指すことがやるべきことであるだろうし、それをなぜ今やらないのかといえばまだ時期尚早であり、やるべきことをやる機会が巡ってきていないことを実感しているのかも知れないし、その機会が巡ってくることを密かに待ち望んでいたりもして、そうなるとそんな秘めた計画を実行する機会をうかがいながらも、現状では仮の姿を装いながら何か他から疑われないようなことをやっているふりをしているのかも知れないが、それがふりだけではなく実質的にもやるべきこととして真剣に取り組んでいることであれば、それをやることによって実質的な結果も伴ってくるはずだが、そんな実態があればそれなりに中身を伴った活動にもなって、他から見てもやるべきことを懸命にやっているように見えるだろうし、そんな人の姿を見れば誰もが安心感を得られて、文句も不平不満も出てこないのだろうが、そんなふうにやっている感を出すことばかりにかまけている一方で、何か結果が伴っていないように見えてしまうと、それが演技ではないかと疑われてしまうのかも知れないし、演技であっても演じることがその人の仕事であればかまわないのだろうが、果たして政治家の仕事が政治家を演じることになってしまうと、演じていること以外には何も実質的な結果が伴っていないことにもなるだろうし、それでいいのかと問われればそうではないと返答せざるを得ないだろうが、それでいいのかと問うている人たちがその手の騒ぎ屋ばかりだとそうやって問うこと自体も演技に含まれているように見えてしまうわけで、そうやってメディア上で演じられていることの何から何までもが演技でしかなければ、そこに世の中の実態が反映しているとは思われないだろうし、しかも演じているという自覚もなく演じられていることであるとすれば、演じること自体が自己目的化していて、そうなっている限りでそこに実質的な中身があるとは思わない方がいいのかも知れないし、中身のない空疎な演技を見せられているだけで、そこに実態が伴っていないからこそ、それがいつものように空騒ぎに終わってしまうのかも知れないが、それが中身を伴った騒ぎであれば、騒いでいる通りの世の中になっているはずだが、そうなると自ら感じている世の中の実態を信じられるか否かが問われていることになるのかも知れない。