彼の声14

1999年

9月30日

 パンク・ロックで「君が代」ですか。はっきり言って超ダサイよね。忌野ってめちゃくちゃカッコ悪いなあ〜。なんか勘違いしているよ。それに比べてジミヘ ンのアメリカ国歌の演奏は、とりあえずはカッコいいよね。彼のギターが彼独自のオリジナルな奏法なのに対して、忌野の場合はただパンクから借りてきただけ のイミテーション・サウンドだもんね。ジミヘンのギターが感動的なのに対して、忌野の歌は、「君が代」推進者に対する単なる嫌がらせレベルだよ。本物と偽 物の違いは明白ですね。それがわからない奴はどうしようもないよ。救いようがないです。

 そしてオウムですか。ま、地下鉄サリン事件で謝罪しないのは当然ですね。たとえば、日本政府は南京大虐殺について中国に謝罪したの か?731部隊の人体実験に対しては?従軍慰安婦に対しては?確か韓国に対しては戦後五十年もたってから過去の植民地支配に対して謝罪したよね。それも渋 々したんだよね。しかし北朝鮮には謝罪なしだよね。それから、共産党幹部宅を盗聴していた件については、裁判で盗聴していたことがはっきりしたにも関わら ず、警察は謝罪どころか盗聴していた事実すら認めていないよね。まあ、オウムも日本政府を見習って、あと五十年たったら謝罪すればいいんじゃないの (笑)。
 
 

9月29日

 なんだかな〜、しかしよく考えてみると、自分にとってのPCの使い道っていったいなんなんですかね。PC-UNIX系のOSとそのアプリケーションをイ ンストして、それが正常に動作するように設定して満足感に浸ることが目標なんでしょうか(笑)。とりあえず今のところ、PC遊びの醍醐味はそこにあるのか もしれまんせんね。なんだか倒錯しているなあ。でも、訳の分からない迷路にはまってはらはらどきどきしたり、時には途方にくれたりしちゃった挙げ句に、不 完全ながらも一応妥協できる範囲内で動き始めるととりあえずは満足しちゃうわけです。なんだかこのごろは実用ではほとんど使っていないしなあ。まあPCの 置いてある自宅にいないんだからしょうがないですけど。こんなんじゃ、私がLinuxに対してあんまり文句を言う資格はないのかもしれませんね。ああ、そ うか、この場で文句を垂れるのも、PC遊びの内なのかなあ(爆笑)。まったくしょうがねえ奴でちゅね。ようするに、人の真剣さや真摯な態度を打ち砕くため にこの遊びはあるのかもしれません。では真剣さや真摯さが打ち砕かれた後にどんな態度をとればいいのだろうか。わかりませんが、割の合わない無駄なことを やることで、これもひとつの教育的効用でもあるのでしょうか。やってらんないけどやってしまう、ということかな。やっぱ、意味不明なのか。
 
 

9月29日

 ああそうか、Wnn6用のmuleとcanna用のemacsは競合しちゃうのか、ということで面倒くさいので、ワープロのdp/NOTEを買ってきて インストしようとしたら、何かまたごちゃごちゃメッセージが出てインストしてくれません。それでまたもや試行錯誤の挙げ句やっとさっきわかったんですが、 どうやら先にWnn6をインストするとdpkeyとかいうのが邪魔してdp/NOTEがインストできないらしいです。つまり、まず先にdp/NOTEをイ ンストしておいて、後からWnn6をインストしなくちゃならないようです。しかしオムロンのソフトってどれもこれも一筋縄ではいきませんね(笑)。

 ありゃ、なんだかおかしいぞ、dp/NOTEで書いてブラウザで見ると、そこだけ半角ローマ字のフォントが違うぜ(爆笑)。

 いや違う、そうじゃない、PowerBookのNetscapeでみると、dp/NOTEで書いたところだけ太文字になっている (笑)。......じゃない!違う違う、なんだ、ただ単にタグを余分につけていただけでした(何やってんだ〜)。ひ〜、頭が混乱しているぜ!
 
 

9月28日

 一週間冷却期間をおいたおかげでようやく冷静になったらしく、なんとかLASER5 Linux 6.0にWnn6をインストールできました。やり方としては、CD-ROM中のWnn6のディレクトリ全部をユーザーディレクトリにコピーして(私の場合 は # cp -R Wnn6 ~koike/Wnn6)、インストールのシェルスクリプト./Installの一行目の/bin/shを/bin/bashに変更すればいいのですが、 どうもLinuxでは、rootで #(Bシェル)になっているのに実際は $(bash)らしいです。う〜ん、なんだかなあ、ユーザーが自主的にファイルを修正しなけりゃインストールできないなんておかしいよ。しかもそれの説明 が見あたらないんだよね。オムロンの人もレーザー5の人もちゃんと動作確認してから出荷しくれよ!
 
 

9月28日

 呪いの言葉など無意味である。非意味が求められている。空洞に響き渡る反響音。誰も意味を理解できない声ではない音。空隙から生ずるノイズに耳を傾け る。何も理解できない音を感じる。鏡には誰の人影も映らない。ただ音が反射するばかりだ。何が聞こえるのか。呪いの音楽では物足りない。呪詛の言葉は響か ない。どこが始まりなのかまるでわからない声ではない音。誰にも理解できない無声の音。なぜ顔に満足できるのか。顔に名前でも重ねるつもりなのか。重なら ないだろう。顔と名前は一致しないものだ。顔は呪詛には欠かせない。髑髏だとさらに効果的だ。呪いが顔に付着する。しかしそれを越える音が響き渡る。顔を 突き抜け虚空で乱反射する。もう何も理解できないだろう。突然、音が光になる。更なる加速についてゆけない。もう現実が逐次的に変化する。隙間のない連続 体で空洞が満たされる。音が響くための空隙が見失われる。もう何も振動できないほどの周密さ。光とは何か、非意味である。音とは何か、空間の振動である。 言葉の断念。声が潰れる。顔にはへのへのもへじが書き込まれる。言葉と顔の一致が非意味に一致する。秘密はない。むきだしの顔の表面を見よ。そこには何か 書き込まれているのか。そこにどんな意味を付け加えられるというのか。もはや顔は呪いとはならない。もう誰も狼狽しないだろう。誰も共感しないだろう。意 味を見つけだす要素が排除されている。しかし誰も排除しない。見ることが聞くことに転化する。光を聞く。音を見る。スペクトルが音となり、空気の振動が楽 譜となる。光の振動が音楽になる。しかし誰も関与できない。ただそこにあるのみだ。手が出せない。いじることができない。ただ感じるだけだ。変形が不可能 な周密さ。ではどうするのか。答えはない。それを呪ってみても仕方ない。ノイズと見なせば無視できるだろう。しかし呪詛は効かない。神秘の力など初めから 無効だ。神では説明すらつかない。暗闇でふるえるばかりだ。しかしふるえの音もノイズでかき消されてしまうだろう。もう何もかもがバラバラだ。いい加減あ きらめたらどうだ。これ以上の抵抗は無理だ。無駄な抵抗はやめてノイズに同調しよう。すでに外部の世界だ。空洞の内部へは二度と戻れないだろう。
 
 

9月27日

 近頃は苦し紛れに雑なことばかり書いてます。頭の中のネットワークがめちゃくちゃだから雑なことしか書けません。しかしこれも根拠のない言い訳ですか。 だいたい言い訳というものは根拠のないいい加減なものです。

 しかしなんでそんなに国家を毛嫌いするのか明確な理由はありません。べつに過去おいて国家から不当な弾圧を受けたわけではないし、税 金も国民年金も滞りなく支払い続けているし、選挙の時にひねくれて共産党に投票する以外はまさに模範的な日本国民なわけです(笑)。あ、そうか、もうあと 数ヶ月で36歳になろうとしているのに、まだ結婚していないから、保守主義者から見たら模範的とはいえませんか。健全なる成年男子は国家繁栄のために結婚 して2人以上の子供をもうけるべきですか(生長の家かよ!)。やっぱこんなこと書いていること自体不健全だし、模範的な国民とは言い難いですね。すいませ ん、書いているうちにわかりました。私はこんな低レベルなことで国家を毛嫌いしているのです。なさけない。

 やっぱこれも冗談の一種なんだろうか。どうでもいいことですね。でもいやな奴らが権力者気取りでのさばっているのを見ると無性に腹が 立つのは事実です。それでもって、そいつらを選挙で選んでのさばらすがままにしているのが、他ならぬ健全で模範的な「コクミン」なわけです。で、そういう 奴らの天下を手助けしているのが健全で模範的なマスコミ関係者なんですから、さらに嫌気がさします。普通の神経の持ち主なら、こんな閉塞状況に反発して反 国家主義者になるのが当然だと思いますが、どうなんでしょうか、健全で模範的な「コクミン」の皆様は、まだ議会制民主主義に一縷の望みを託していらっしゃ るのでしょうか。よくわかりませんね。

 ま、議会制度や天皇制などがそのまま存続していってもべつにどうということはないですが、そういったものは自然に廃れていく方向に もってゆきたいですね。実際世の中の流れは、人々の無視や無関心によってそういう方向に動いていっているんじゃないかと思います。とりあえずそれをくい止 めようと画策している健全で模範的な勢力を批判していかなければなりませんね。冗談で?いや、これからも無視や無関心な人々を応援すべく、無責任に書いて ゆきましょう(笑)。こんな文章が本当に応援になっているのかよくわかりませんが。
 
 

9月26日

 今回は私の誇大妄想について語ります。このごろ考えていることは、どうも集団として固まるのは良くないんじゃないかということです。なにやら集団でひと つの運動(市民運動や消費者運動や労働運動や宗教運動など)を展開すると、その規模が大きくなると必ず国家権力とぶつかってしまい、それと対立することが 逆に国家に利用されて国家の存在意義を強めてしまうことにつながるということです。例えばインドネシアの暴動などは、軍隊と対立している学生や市民の願い は、暴力による弾圧のない自由にものが言える民主国家を築くことにあるわけで、結局は、それも民主国家を築くというひとつの国家主義でしかないわけです。 そこで気づくことは、そもそも国家自体が、一定の地域の住民が集団でひとつに固まってひとつの制度(法律など)を共有しているひとつの運動なのではないか ということです。つまり大衆運動自体が、集団がひとつの方向を向いて運動する(ある一定の取り決めや理念に基づいて運動する)その形態そのものが、国家そ のものの運動に類似してしまうのではないかということです。これでは運動の行き着く先はすべて国家主義につながってしまいます。そこで思いつくのが、無視 や無関心の積極的な利用の可能性です。これは個人主義の発達が前提となりますが、すべての人々がまるで別々の方向を向いているような状況を作り出せないか ということです。それは人々の無関心によってどのような大衆運動も成立しなくなるような状態です。と同時に、当然国家が主催する行事など(戦争から義務教 育まで)もほとんどの人が興味を示さず参加しません。だから私は学校に行かないいわゆる不登校の子供たちに期待しています。ぜひ教育関係者や保護者の方 は、立ち直らせるための変な洗脳はやめて、そのままの形で子供たちを成長させてほしいですね。それから、例えばテレビの多チャンネル化(分散化)は、国家 のメディア(NHKなど)によるマインド・コントロールを不可能にするのではないかと思います。そして、そのように事態が推移していくと、結局国家による 人々に対する強制の最後の頼みの綱は警察と軍隊となります。ようするにインドネシアの現状が浮き彫りにしているとおり、暴力による強制しか道は残されてい ないわけです。でも大丈夫、規律訓練的な教育制度を不登校によって解体させれば警察も軍隊も組織できなくなるでしょう(笑)。ともかく個々人が固まって団 結できなくするために人々の絆(家族や地域の結びつきから)をバラバラにしなくてはなりません。でもそうなると、国家の弱体化につけ込んで外国が攻めてく るだって?ま、国連の経済制裁や武力介入に期待するのもいいですが、とりあえずそうならないように全世界的に国家を弱体化させなくてはなりません。そのた めにインターネットが存在するんですよ(笑)。
 
 

9月25日

 今オウム真理教に必要なのは宗教改革ですね(笑)。何かと目立って物議を醸している集団生活はやめて、一般のサラリーマンのように通勤生活に移行すべき です。出家は在宅出家にすればいいんじゃないですか。それに、せっかくパソコンを作っているんだから、それを活用して各信者の自宅をネットワークでつない で、なるべく集会はやめてメーリングリストや電子会議で済ませばいいんですよ。やっぱ、拠点づくりよりもIBMのeビジネスを導入すべきでは(爆笑)。し かしこの程度のことはすでに実行しているのかな。
 
 

9月24日

 今日本政府が国家を存続する上でもっとも必要としているのは、北朝鮮とオウムですね。北朝鮮のミサイル発射を阻止しないと日本が危ない、今現在日本政府 は国民の命と安全を守るために、アメリカ・韓国と緊密な連携を取りながら対話と抑止の政策でがんばっています。また、大量殺人事件を起こしたオウムがあな たの町にやってきてあなたの生活を脅かそうとしている、国民の命と生活を守るために、今こそ国がオウムの進出を防ぐために必要な法整備を早急に行うべき だ。今、国営放送局のNHKを使って盛んに流されているは、こういう国家の敵から国民を守るために国家の存在意義を強調する政治的プロパガンダなんですけ ど、この危機感を煽るタイプの政治宣伝をいったいどれだけの「コクミン」が真に受けているのか、私にはいまいちわからないんですが、どうなんですかね、た とえば次の選挙で自民党が勝てば、こういった政治宣伝の有効性が証明されたことになるんですかね。あるいは、政府自民党の経済政策がある程度効果を上げて いるおかげで景気が上向きつつある、という宣伝に対しては、いったいどれだけの「コクミン」がこれを信用し景気の上向きを実感しているのでしょうか。やは りこういった宣伝には、ダメ押しの、肯定的な世論調査結果を付け加えて(内閣支持率とか)さらに説得力を増そうとする傾向もあるようですが、いったいいつ までこういった類の翼賛報道が有効性を持つものなのかよくわからなくなってきました。本当にこれらのプロパガンダが機能しているおかげで日本という国家が 存続しているのだろうか。もしかして、こういうことをやっている側とそれに反対している側の両方とも思いっきり思い違いをしているんじゃないか、と感じる ようになってきました。とりあえずこういうくだらない三文芝居にはいっさい関知しない、あるいは無視する人たちがどんどん増えていってほしいです。
 
 

9月23日

 なんだか今回のことでいろいろ疑念やら妄想を抱き始めたんですけど、もしかして日本のLinux関係者って詐欺師の集まりなのかなあ。ちゃんとした知識 をユーザーには教えずに自分らで独占していて、断片的な情報を雑誌や著書で小出しにしながら、あるいは適当に不具合を仕込んだOSを定期的にリリースしな がら、それに食いつくカモにタカりながら銭儲けにいそしんでいるのという構図なんですかね。.................もういいかな。
 
 

9月22日

 なるほど、KDEをアップデートさせようとしてreadmeにしたがって

# ./kde.sh

としたときもPermission deniedがでました。何かシェルの設定をやらないといけないのかなあ?でも説明が何もないからわかりません。

 それから、前々から不思議に思っていたことがあるんですが、なんでダイアルアップでの接続の仕方程度の簡単なことを説明しないんです かねえ、おかしいです。ダイアルアップ設定してからターミナルウインドウのktermかxtermを開いてsuコマンドでrootになって

# usernet

とコマンドを打てば接続画面が現れて、画面中のpppボタンを押せばいいだけなのに、この説明が一言もないんですよね。解説書を書いて いる人は頭おかしいんじゃないのか。だって、専用線やケーブルモデムの人なんてまだ少数派で、大多数の人は電話線を使っているわけでしょう。まあサーバに 使うのなら関係ないのか。でもFreeBSDの解説書には、ダイアルアップ設定から接続の仕方までちゃんと書いてあるよね。
 
 

9月22日

 結局Wnn6はうまくいかないのであきらめました。もういいや、日本語環境はデフォルトのままemacs+cannaでいきましょう。しかし、なんでこ んなにうまくいかないのか不思議です(やっぱ詐欺かあ?)。もうLinuxは疲れることばかりでいやになりました。無駄な参考書や雑誌ばかり買って金ばか りかかるしうんざりです。とはいっても、PowerBookの47万円から比べれば微々たるものですけど(笑)。でもまあ、いまさらWinに戻るのもカッ コ悪いし、もうしばらくこのちゃんとした説明書が一つもないこの馬鹿OSにつきあいますか。しかしなんできちんとひとつひとつやりかたを教えてくれないの かほんとに腹が立ちます。知りたければ自分で探せですか、ああ、サポート権が付いているから電話やメールで質問してくれですか、そのために1万円も払った んでしたね。ようするに買った私が馬鹿だったのかも知れませんね。もう私の頭の限界を越えたOSなのでしょう。もっと頭が軟らかくてこまめな若者なら使い こなせるのかも知れません。
 
 

9月21日

 LASER5 Linux 6.0を買ってインストールしてみました。今のところ日本語入力でまともに使えるのは、今使っているemacs+cannaだけみたいです(笑)。 gEditでは今書いているこのファイルが表示できないし、Netscapeはファイル操作しようとすると止まってしまいます。また、Wnn6 ver3.0は自動インストールができません。インストレーションガイドに従って

# cd Wnn6
# ./Install

とすると、

bash: ./Install: Permission denied

となるだけでInstallが実行できません。またATOK12については、インストールはできますが、どのアプリケーションで使える のかよく分かりません。はぁ〜(疲労)、はっきり言って、私にとっては、MacやWinと比べたらLinuxは詐欺ですね。とりあえず、これからなんとか Wnn6だけでも手動でインストして、muleあたりで使えるようにがんばってみましょう。
 
 

9月20日

 みっともないね、東チモール騒動を収めるために白人様(オーストラリア)の御指導を仰がなくてはいけなくなりました。これでまたもや「アジアは知性や理 性のない遅れた地域」というオリエンタル神話が継続されますね(笑)。結局、欧米諸国がインドネシアに対して経済制裁をちらつかせるまで傍観者を決め込ん だ日本政府の政治力のなさが浮き彫りにされましたね。まったく、国連安保理の常任理事国入りをもくろんでいる割には、北朝鮮の軍事的脅威ばかりを騒ぎ立て て自国の利害しか頭にないようなイメージしかないし、まるで国際貢献している印象がないんですよね(自国の利害と国際貢献を結びつける抜け目のないオース トラリアとはえらい違い)。いっぱいお金を出して地道な努力はいろいろやっているのかもしれませんが、肝心の政府が政治的センスが皆無なんだから悲惨です よね。「金ばかりじゃなくて、汗や血も出せ!」と国内に向かっていくら訴えても、あるいは中央アジアに国連監視要員として派遣されて殺された人を国内でい くら英雄扱いしようと、国外には何も伝わらないし結局無視されるだけですよ。大事なのは、政府が国外に向かって毅然とした態度ができるか否かでしょう。仮 に相手が友好国であっても(アメリカであっても)、非道なやり方にはきちんと非難しそれ相応の措置を下さないと、いつまでたっても信用されないし、なめら れっぱなしですよね。
 
 

9月19日

 雑な即興に冷たい視線を感じる。しかし精密さとは無縁のいい加減な文章を楽しむ。書くことが気晴らしの娯楽へと退化する。意図的な支離滅裂には辟易する が、過激な実践の不可能を知る。そのような状況からマンネリの本質を理解したつもりになる。実際は何も理解していない。理解する気もなく戯れに流される。 いったいどこまで漂流するつもりだろう。あの世まで、彼岸まで、口からでまかせ。常に省略される生き方が好きだ。しかしそれは意味不明かもしれない。ただ わざとらしさが嫌いなのだろう。しかしナチュラルな感覚というやつも嫌いだ。自然さを強調するところがわざとらしいから。だが、わざとらしくない表現は存 在しない。そこに人間が介在する限り、常にわざとらしくなる。海底1万メートルの深海から何百億光年彼方の宇宙の果てまで、テレビカメラや望遠鏡あるいは コンピュータ・グラフィックスとBGMでわざとらしく演出される。目的は違うが超微細な素粒子までが巨大な粒子加速器で大げさなデコレーションを施され る。このように自然に対するロマンとは総じて大げさでわざとらしいものと相場は決まっている。ただ、意図しない結果に感動するだけだろう。そこに物語やド ラマは介在できない。人間は偶然を必然に加工して物語やドラマを作る。わざとらしくするわけだ。しかし中には加工に失敗して意図しない効果が引き出される 場合もまれにある。そこに感動するのかもしれない。ただ、この程度の説明では感動できない。人を意図して感動させることなど不可能なはずだ。意図的に感動 させられるような人間はレヴェルが低い。こちらの意図を越えて人は感動するはずだ。だから別に人を感動させようとは思わない。感動したければ勝手に感動す ればいい。逆に、いやな気持ちになっても責任は持てない。こちらからは他人の気持ちまで制御しようとは思わないし、実際できないだろう。自分の書いている 文章でさえコントロールできないし、しようとも思っていない。
 
 

9月18日

 どうやればいいのか、どのように執り行えばいいのだろう。いったいいつからゲームが始まっていたのか。ルールもわからずにいきなりサイコロを振る。なぜ サイコロが出現しているのか。それがゲームの決まり事なのか。サイコロの目の出方は偶然かもしれないが、でる目は決まっていて6通りしかない。それが偶然 といえるだろうか。そのような限定された束縛がゲームのルールである。サイコロの目の出方が無限にあれば通常のゲームは普通は成立しない。しかし無限の ルールがあるゲームだって考えられるはずだ。あるいは逆にルールのないゲームであってもいいだろう。しかし、何の制限もないゲーム、それがゲームといえる のか。それをゲームと呼べばいい、ただそれだけでゲームが開始される。どんなゲームかは知らない。ある者にとっては陳腐な連想ゲームと映るだろう。しかし それはゲームのある一面だけを見ているにすぎない。そのようにゲームを見ている者でさえ、すでにゲームに参加している、そんなゲームだ。自分がゲームには まっていることに気づかない、無限のルールがあると同時に何一つ決まったルールのないゲーム、しかもすでにゲームは始まっている、もはや様々な束縛で何一 つ自由にならない立場なのに、無限の自由が選択できるような可能性を見せつけるゲームが。手の届かない自由が夜空いっぱいに煌めく星々のように広がってい る。ではゲームをどのように執り行えばいいのか、どうやればいいのだろう。何かルールを見つけようと努力すればいいのか。それにはこんな答えが響く。見つ ければいい、見つけたルールがおまえを限定し束縛してしかるべき立場へと導くだろう。そこでおまえはあがりだ。あがりとはおしまいのことだ。それで満足で きるのならがんばってくれ。せいぜい人生の意味やら意義やらを探すことを目標としてがんばってくれ。それだけのことだ。単純な人間はルールによって単純化 される。ではそうならないためにはどうすればいいのか。そうならないわけがない、すべての人間は単純化される、それがルールだ。それでは人間であることを やめればいいのか。やめられない、おまえに決定権はない、おまえは必ず他者によって人間と断定される。それをいかに拒否しようとおまえは人間だ。そして人 間は単純化される。それは必然的な成り行きだ、宿命だ。もはやおまえはあがりを拒否できない、あがりとはおしまいのことだ。これもおまえの宿命だ。そうい うことだ、もうすでにゲームは始まっているのだ、このゲームから降りることはできない。それがこのゲームのルールだ。
 
 

9月17日

 思いこみで思い上がりを誘発させ、ありもしない妄想に耽ってみせる。妄想そのものがくだらないわけではない。妄想に耽ること、そんなこと自体は別に思考 するに値しない。何を思い上がっているのか。どのような思いこみがあるというのか、それでどうやって思い上がりを誘発させようというのか、何も明らかでな い。またしても毎度おなじみの嘘なのか?今まで何度も「嘘」という言葉を使ってきたが、嘘に対して何か特別な思い入れでもあるのか。それが嘘だと思いこむ こと、そのような毎度おなじみの紋切り型的展開を見越して、先回りをし、そんな行為はくだらない言葉遊びだと高をくくること、それが誘発された思い上がり なのか。しかし、またもや自家中毒の無限ループなのか。これでは話が先に進まないから、内的無限ループを抜け出すために安易な実例を示してお茶を濁す(本 当に安易な選択だ)。例えば漫画やアニメの世界では、犯人の嘘を見破り、そんな自分の卓越した推理力を誇示し、優越感に耽る主人公、それが思い上がりなの か。自分があたかも名探偵であるかのような妄想。しかしなぜ名探偵なのか、画面上や紙面上以外に事件がどこにある?事件などどこにもない、いや、どこかに あるだろうが、少なくとも読者や視聴者には関わり合いのないことだ。しかしなぜ自由のない物語の主人公を批判するのだ。何の反論もできないことで批判する のは不公平だ。思い上がりは彼の責任ではないだろう。では思い上がらせるように設定した作者の責任か?いや思い上がりを期待する編集者、読者、視聴者の責 任か?ようするにこれも無限ループなのか。卵が先か鶏が先か、くだらない。と、こうやってありもしない対話を誘発させ、偽りの思いこみを構成させる。いか にも対話させているような思いこみ。ありもしない妄想としての対話。そして、こうやって思いこみと妄想でなにやら複雑なことを述べている自分の優秀さ誇示 してみせる、それこそが思い上がりだ。どこが複雑だというのか、この程度の複雑さで優秀さを誇示するとは、愚か以外の何ものでもない。そもそも複雑さで優 秀さを誇示しようとすること自体がおかしい。それは優秀さを誇示することにはつながらない(複雑なことを簡潔に述べろだって?やれるものなら勝手にやって もらおうじゃないか、是非成功例を見せていただきたい、それができる人は是非OSのマニュアルを書いてほしい)。それに優秀さを誇示するという発想自体が 優秀ではない。昔テレビの深夜番組でやっていた有名大学対抗の空疎なディベート合戦を思い出そう。自分たちの優秀さを誇示しようとすることが、端から見る といかに愚かな行為と映ることか。さらに言えば、自らが優秀であろうとする姿勢自体が愚かなナルシシズムだ。優秀であろうとする目標自体が抽象的である。 他者より秀でるというイデオロギー、それが競争社会で養われた妄想である。比べるものがあるという共通了解から競争が成り立つ。そんな幻想からは遠く離れ てしまった。何を比較しろというのか。比較対象を特定するという行為が煩わしい。そんなことは意図的に忘れてしまった。成績とは無縁でありたい。しかしそ れは叶わぬ希望でしかないだろう。少なくともプライベートではそうなってほしいが、プライベートの範囲がどこからどこまでなのか判然としない。たぶんプラ イベートという言葉の意味の成立条件自体が、個人主義者の思いこみから派生した妄想なのだろう。
 
 

9月15日

 なるほどMP3はあんまり曲順とか考えずに(物語性の無視)、気晴らしのBGMと割り切れば(今までは割り切っていなかったのか?)、結構楽に前回より かなり多くの78曲集めることができました(合計で6時間)。これで、新しく買ったCDから気に入った曲を加えたり、聴く度にランダム選曲させればしばら くは飽きないでしょう。

 しかしこうやって78曲も並べると、ひとつひとつの曲に対する思い入れが完全に薄れますね。CDを買って初めて聴いたときの感動など は簡単に摩耗して、以前はすごく気に入っていて聴く度に感動した曲も、単なるBGMの中の一曲でしかなく、まるで相対化されてしまいます。それに、手軽に 高音質で操作できてしまうから(昔、苦労しながらFMからラジカセでカセット・テープに録音してテープがすり減るまで聴いていた時代が懐かしい)、思い入 れとともにありがたみも薄れますね。

 当たり前ですが、新しい技術というものは、音楽そのものを変質させるだけでなく、それを聴く者の音楽に対する接し方まで変えてしまう ようです。いや、以前の音楽に対する思い入れや接し方自体が実は相対的なものであって、その時代の音楽技術に依存していたと言うべきでしょうか。まあこれ は音楽だけにいえることではなく、例えばこんな言説自体、私のこのごろの文章が、以前はモーリス・ブランショに依存して書いていたのが、今ではミシェル・ フーコーに依存して書いていることの証拠かもしれませんが(笑)。
 
 

9月14日

 数ヶ月前にメモリを128MB買ってLinuxマシンに増設しようとした時点でわかったんですが、メモリをつけるとCD-R0Mドライヴにぶつかってし まってPCの中身がケースに入らなくなってしまいます。元からついていたメモリは背の低いタイプで大丈夫なんですが、わずか2ミリ弱背が高いばかりに買っ てきた128MBをつけることができずに、なまじっかカッコつけて省スペースPCなんか買ってしまったことを思いっきり後悔してしまったんですが、今日 やっと問題が解決してメモリを増設して64+128=192MBにすることができました。

 で、どうやって解決したかというと、まずはCD-ROMドライヴの裏についていた緩衝材(発泡スチロール系)をはがして強引に取り付 けたら、内部の骨組みがちょっとゆがみましたが、メモリとCD-ROMドライヴの両方とも取り付けることができました(両者が隙間なくぴったりついている 状態)。そうすると全体が1ミリ強ぐらい膨らんでしまってFDドライヴとCD-ROMドライヴのところがケースに収まり切れません。それでどうしたかとい うと、収まり切らなかったケースの部分をノコギリで切り落としました(大爆笑)。

 いや〜、いかに世の中広しといえども、ケースをノコギリで削ってメモリを増設したのは私ぐらいなものでしょう(大馬鹿)。実際、キッ チンでPCケースをノコギリ(金ノコの刃の部分)で削りながら、自分はひょっとして気が狂っているんじゃないかとこの間の通り魔事件のニュースが何度も脳 裏をかすめましたよ。なんだかこのまま大声をあげながら部屋を飛び出しだして通りで大暴れしそうな衝動に駆られました(ホントかよ!)。しかし、なんでこ んな訳の分からない展開になってしまうのだろうか。これもひとつの才能か(笑)?
 
 

9月13日

 ミサイル発射と経済制裁に関するアメリカと北朝鮮の協議が暫定合意したそうだけど、また例によって国営放送局のNHKが政治的プロパガンダで日本国民を だまそうとしている(怒)。NHKは臨時ニュースまで使って、しかもそのニュースと時を同じくして飛び込んできた、そんなことより遙かに重要度の高い (ニュース・バリューの高い)、世界の関心が遙かに集まっている東チモール情勢でインドネシア政府が国連平和維持軍の受け入れを表明したニュースをさしお いてまでして、北朝鮮のミサイル発射実験の一時凍結の見返りとして経済制裁を一部緩和する、という合意内容に対して、アメリカ議会の野党共和党がクリント ン政権の弱腰姿勢に対する非難を強めるだろう、という毎度おなじみの見解(憶測)だけを一方的に繰り返しているわけですが、しかし、自分たちに都合の悪い 立場から見た情勢分析については絶対に伝えようとしない。

 よく考えてみてください、北朝鮮からの軍事的脅威がなくなったら在日米軍はどうなると思いますか?あるいは台湾問題が解決してしまっ たら?日本の国土に駐屯している大義名分がほとんどなくなってしまうではないですか。米軍が日本から撤退するようなことになれば、アメリカの世界戦略に とっては大きなダメージとなります。そうなっては困るから北朝鮮とも中国とも現状維持のために議論が平行線をたどるように演技しているわけでしょう。 NHKは、なぜ協議が合意に達したのか、現状を維持することで北朝鮮とアメリカの利害が一致したから暫定合意に達したことをなぜきちんと伝えないのでしょ うか?合意結果が気に入らないからそれを非難する見方をただ一方的に伝える、それが公正中立な立場かよ!ふざけるな!
 
 

9月12日

 簡単な理解にうろたえる。1+1=2、自由な発想を抑圧する計算式。何の展開も許さない。そこで立ち止まる。立ち止まったまま後ろを振り返ると、視界が 急激に遠ざかってゆき、劇的に昔の思い出がよみがえる。わからない。ドラマチックな気分にはどうしてもなれない。刺激的な遭遇を避け続ける。見ていた。接 触はしない。顔の見えない声がかすかに響く。氷の中に宿る冷たい炎。炎が氷の表面に映っているだけかもしれない。幻影の炎から言葉を写し取る。そして言葉 の痕跡が踊りだす。かすかに響きあう影の言葉。言葉の群れから一瞬炎が立ち昇る。それを見つめる冷たい視線の先にかろうじて響きあう不可能な断言。私は語 る。そんなことは不可能だ。なぜ語らなければならないのか。嘘を語らなければ誠実さには到達し得ないだろう。しかし嘘はつきたくない。したがって誠実さは 断念しなければならない。しかしそれでも言葉に真実は宿らない。真実を語ろうとすることなど不可能だ。したがって何も語れないだろう。説明が省略されてい る。何を説明せよというのか。不可能について説明しなくてはならない。そんなことは不可能だ。つまり逃げ口上しか語れない。そんなことは不可能だ、と語っ ていればいいのだ。しかしここからフィードバックする。言葉の美しさを追い求める視覚的比喩表現に幻滅する。それから幻影の炎はどうしたのだろう。どこへ 消えたのか。氷は冷たい。氷は何も語らない。氷について人が語る。そこで立ち止まる。視野が急激に狭まる。突然の盲目状態。後ろ向きの視線に気づく。解け ない謎に未来を託す。そしてふるえながら後ずさりして現在から退場する。現在の思考が消滅する瞬間、一瞬呪縛が解ける。幻影の炎が一瞬立ち昇る。言葉の曖 昧さで守られて炎がかすかにきらめく。何かが到来する。終わりの瞬間が近づく。しかし時間の速度が遅くなる。終わりに近づけば近づくほど遅くなる。終われ ないだろう。
 
 

9月11日

 何を知ろうというのか。たとえば、未来について。安易だ。あるいは、たとえば、枯淡の風景について何か気の利いた知識を持ち合わせていないだろうか。人 をだますこと、詐欺の手法、あっさりとした手口、あっさりだまされる。枯淡の境地。未来に思いをはせる。過去からのこだまに呼応する。さすらいの果てに見 いだしたもの。堂々巡りの末にたどり着いた出発点。なぜ戻ってきたのだろう。道に迷う。つかみとった砂粒。サラサラと指の間から落ちてゆく。遠くから聞こ えてくるかすかな音。影に躓く。たどたどしいギターの演奏にとまどう。ギターの特長としてのたどたどしさにもの足りなさを感じ取る。かすれた雑音の連続に 不満を持ち、不快な気持ちになる。しかし、とぎれとぎれの効果的なサンプリングでなんとか持ち直す。導き出された公式に異論はない。夢から覚める。今こそ 簡潔さと明快さに折り合いをつけよう。なぜ?安易な気分で暮らしたい。吠える犬。眉間のしわ。蛇の無表情。そこから先は崖だ。落ちてゆき奈落の底に暮ら す。地底からわき上がる怨嗟の声。無視する。これでいいだろう。こんな妄想で満足すればいい。手軽な妄想。神話の世界。神々の戦い。巨人族との死闘。しか しいずれも勝利してしまう。巨人族は敗れ去る運命しかあてがわれない。それが宿命的な神話の欠陥。だが、その欠陥によって人を引きつける。とりこにする。 無条件な従順が求められる。意味を見いだせ!という命令。砂粒からの進化で対抗する。砂漠の乾燥によってひからびた神話。北の森林地帯の記憶を奪い取る。 南の雨の記憶。海底に降り積もるマリンスノウ。微生物の死骸に群がるカニやエビ。ようこそ。
 
 

9月9日

 いびつな体験からいびつな身体が形成され、いびつな身体にいびつな精神が宿る。そうではない。いびつな精神からいびつな身体が形成され、いびつな自己を いびつな体験に導く。そうとも言いきれない。いびつな身体からいびつな体験が生まれ、いびつな体験からいびつな心が生まれる。どうとでも言える、言葉の順 序を恣意的に操作しているだけだ。このような悪意ある様々な言葉の組み合わせから、たちまち結論に達する。どこに重きを置いているのか。何を中心にして巡 る言説なのか。いびつであること、「いびつ」という言葉、それがこのようないびつな文章を生成させる原動力だ。それについてなにがしかの説明で納得させる つもりはない。始めがいびつな出だしだったので文章もいびつになってしまっただけだろう。いや、いびつな出だしの前にいびつなきっかけがあったはずだ。何 がきっかけだったかは思い出さない。説明のつかない記憶は忘れたことにしている。世界の始まりや宇宙の始まりを説明しようとする情熱には終わりがない。ど こからが始まりなのか限りがないから。結果論の世界。結論から原因を突き止めたつもりになる。精神錯乱を来さないためには賢明な選択だ。破綻を招かない程 度の安全な思考力。そこで満足しておくのが賢明な生き方だろう。無限の世界を外部から眺めようとすること、そんな狂気の沙汰に動揺する。狂った情熱こそが 真理にたどり着くのだろう。真理を発見したと思うことが、すでに狂気の世界に足を踏み入れている証拠かもしれない。しかし自分が正常だと思うこと、それこ そが狂気の沙汰だ。健全な身体も健全な精神も狂ったファシストの妄想である。が、こんなキメ台詞にはうんざりする。カッコの良いセリフに酔うことには抵抗 がある。かっこいいセリフで大衆を酔わせるのがファシストの常套手段だからだ。しかし現代は大衆を言葉で酔わせるほどのファシストなど存在できない時代だ ろう。もはや言葉は武器とはならない。言葉自体に信頼がない。誰も人の発する言葉など信用していない。言葉は低次元で循環しているだけだ。しかし、こんな カッコの良い断言にもうんざりする。現代にふさわしい適切な言葉など知らないし知りたくもない。しかしこれもくだらない断言だ。なるほど、現代おいて言葉 は低次元で循環するばかりなのだろう。こうして、自分で言葉を循環させて自分のあらかじめ設定しておいた結論に達する。これこそが言葉の恣意的な操作だ。 いびつな文章からいびつな幻想が生まれる。
 
 

9月8日

 ははは、新聞青年が逆上して刃物を振り回しながら路上で大暴れですか。いや〜、なかなかいい味出していらっしゃる。ま、今日は異常に蒸し暑かったから、 頭にきて暴れたくなる気持ちも分からないではないですけど(笑)。まきぞえを食って死んだり怪我をなさった方はご愁傷様です。
 
 

9月8日

 PowerBookがなんとか戻ってきました。しかし間抜けなことに、パスワードを設定していなかったから、修理した人にはハードディスクの中身が丸見 えでしたよ(笑)。その気になればスイッチを入れてネットサーフィンとかやれたし、私宛のメールの中身ものぞくことができましたね。それで、あわててさっ きloginのパスワードを設定したり、メールのパスワードも受信するたびに入力するようにしたんですけど、もう遅いですかね、後の祭りかな(続笑)。で もまあ、別に見られちゃ困るようなやましい秘密など何もないからどうということはないですけど、ということは、私は今のところ仮に警察に盗 聴されても全然平気な奴かもしれません(爆笑)。じゃあなんで今さらパスワードを設定するのかといえば、それはなんとなくカッコイイからですかね(バカッ タレ!)。はぁ〜、まったくふぬけた奴です。もう頭が脳軟化症かもしれません。こういうのを抜け殻状態とでもいうのでしょうか。

 しかしこんな私でも、何もこだわりがないというのは、それはそれでつらいものがありますね。生き甲斐がないというか、はりあいがない というか、ただ生きて機能しているだけでは実につまらないものです(結果的にそうであったとしても)。やはり私は軟弱者なので、気休めのためのくだらない 夢や希望や神話や妄想が必要なのかもしれません。そこで御多聞に漏れず私もMP3に凝ってみようと、PowerBookを買ったときのポイントカードのポ イントでMac用のMP3プレーヤーを買って、自分の持っているCDコレクションの中から好きな曲をエンコードしていったんですが、たちまち三十曲ぐらい で行き詰まってしまいました(笑)。やっぱCDは百枚くらいしか持っていないので三十曲が限界みたいです。あとは昔FM放送から録音したテープをWAVE ファイルにして加工したり、インターネット上でMP3ファイルを探してダウンロードですかあ。面倒くさいなあ、そこまでやる根気と時間がない。やっぱ、テ ンションの低いふぬけ野郎にはこの程度の趣味であってもちょっと荷が重 い作業ですね(爆笑)。
 
 

9月6日

 中央アジアではイスラム教徒が戦争ごっこ、東チモールではインドネシア系住民が戦争ごっこ、アフリカでもスーダンやアンゴラなどでやっているようです ね。今や大勢の人々が集団で参加する戦争ごっこは、世界の辺境でとりおこなう地域イベントと化しました(村おこしかよ!)。一方、世界の中心を自負するア メリカの地では、戦争ごっこは一人または数人でやるきわめてパーソナルな性格を持つ傾向にあります。株で大損して自暴自棄になったおっちゃんが発狂して銃 を乱射したり、人種主義に目覚めたあんちゃんが武装して仲間といっしょに学校に殴り込みをかけたりしています。このような戦争ごっこの両極化(地域と個人 への偏在化)は、いったい世の中に何をもたらしているのか、また、どのような事情を反映しているのか、これについて私に言えることは、これらの現象は、公 の場での暴力の居場所が徐々になくなってきている証しかもしれないということです。おおっぴらに暴力を行使できなくなっているので、国際社会の目の届かな い地方で鬱憤を爆発させるか、妄想やクスリで正気を捨てるかしないと力づくには到達できない、あとはスポーツやテレビゲームでの戦争の疑似体験(人工的に 調整され去勢された暴力)しか残されていない(神奈川県警の集団暴行事件のように人目に隠れた閉鎖空間では依然として暴力が健在ですが)。これが二十世紀 において世界文明が進歩してきたことを裏付けるひとつの成果かもしれませんね。ま、ヒューマニズムの勝利というやつですか(爆笑)。
 
 

9月5日

 よく決まり文句に、「スポーツは筋書きのないドラマ」というのがありますが、しかし一方では、それを伝えるマスコミやマスコミにコントロールされたファ ンが望んでいるのは、「メイクミラクル」だの「メイクドラマ」だのの、いわゆる「筋書きのあ るドラマ」なんですよね(笑)。他に「筋書きのあるドラマ」のヴァリエーションとしては、「王者XXまさかの敗退」という、いわゆる番狂わせがあります か。男の実力者が「王者」で女の実力者が「女王」となっちゃって、勝って当然負ければ非難されちゃうわけですね。これはようするに、プロレスだとか大相撲 だとかの世界観が他の種類のスポーツにまで拡張されているんじゃないかと思います。つまり、はじめからわかりきっている「筋書き」という型枠にはめ込んで 安心したいわけで、たまに「筋書き」から逸脱した思いもよらない事態が起こっても、その時は「スポーツは筋書きのないドラマ」という「筋書き」(錯乱しな いための安全弁)が用意されているわけです。まさに至れり尽くせりの歌舞伎見物ですよね。実際プロ野球などで人気選手がバッターボックスに立つと、花形歌 舞伎役者に対する観客の掛け声と同じ種類の決まりきった声援が飛ぶわけで、もう何から何までがお仕着せの通過儀礼の連続で、もはや機械仕掛けの演劇空間で す。そうか、これが「劇空間プロ野球」ですか(爆笑)。ああ、やっとオチまでたどり着きました。
 
 

9月3日

 へ〜、電信八号だと相手がどんなメールソフトを使っているかわかるんですね。で、この間からLinux関連のメーリングリストに入ってからとい うもの、毎日数十通もメールが来るようになってしまってちょっと困っていますが(そろそろやめようかな)、電信八号でメールを見るようになって、やけに MicrosoftOutLook製が多いなあ、と気になって、最近来たメール50通でどれくらいOutLook製なのか調べてみたら、何と50通中19 通がOutLookでした(笑)。他に自分が分かる範囲でAL-Mailが9通、Becky!が7通、Win版のEudoraとWinbiffが1通ず つ、合わせると50通中37通、74%がWinで書かれたメールです。おいおい!せっかくLinux入れたんだからLinuxのメールソフト使えよ(爆 笑)!そういう私も今は人のWinマシンでWin用のメールソフトである電信八号で見ているわけですが(とほほ)。でも、私は今まで2度ほどメーリングリ ストに投稿しましたが、その時は律義に件名が文字化けするにもかかわらずLinuxのNetscape使いましたけどね(やせ我慢か?)。まあ、中には一 人だけMew Version 1.93 on XEmacs 20.4を使っている偉い方もいらっしゃいましたけど、Linuxブームといわれているけど所詮現実はこんなものかとちょっとがっかりしました。

 ところでRed Hat Linux メールマガジンを出している人のMailerの項目は

X-Mailer:Joinus for Clickincome

となっているんですかが、これはいったいどんなメールソフトなんでしょうか。それとも、Internet Mail Serviceと同じようにメールソフトそのものの名称ではないのかな?
 
 

9月1日

 よくテレビや雑誌等で討論や対談が行われることがありますが、時間的な制約もあって、また、討論者や対談者や司会者などの力不足もあるのかもしれません が、なかなか議論が煮詰まらないで不完全燃焼のまま終わることが多いように見受けられます。中には、偶発的な感情の爆発や、その反対の、お互いが傷つかな いようにするための意図的な馴れ合いが見苦しい場合もあります。それで今回は、なるほどここまでやればまともな討論や対談というものが成立するのか、と感 動した対談を見つけたので、ちょっと長いですが、「ミシェル・フーコー思考集成II」の「50 フーコー教授、あなたは何者ですか」(P・カルーゾとの対談。慎改康之訳)の中から紹介します。 
- それでは、あなたにとって重要な問題、すなわち主体=人間の消滅というテーマ、そしてあらゆる形態のヒューマニズムの消滅というテーマに戻ることにしま しょう。あなたのこれら二つの主張の射程について、もう少しわかりやすく説明していただけないでしょうか。まず最初にお聞きしたいのは次のことです。あな たにとってとりわけ嫌悪すべきものと見えたヒューマニスト達を指し示すため、あなたは「柔弱なヒューマニズム」(サン=テクジュペリやカミュのそれのよう な)ということを語られました。すると私はそこから、あなたにとってもやはり敬意に値するヒューマニズムというものが存在するということを結論するべきな のでしょうか。

- 確に、私は「柔弱なヒューマニズム」という表現を使いました。このような言い方は、明白な言語学的理由によって、私が、それと対置されることによって肯定 されるでもあろう柔弱でないヒューマニズム、頑強なヒューマニズムというものの存在を考えているということを示唆しています。しかし、よく考えてみると、 「柔弱なヒューマニズム」とは全くもって冗漫な言い方でした。むしろ、「ヒューマニズム」というものがとにかく「柔弱さ」を含意しているのだ、と言うこと にしましょう。

- あなたもおわかりかと思いますが、そのようなあなたの言葉は多くの人々にとって、というかほとんどあらゆる人々にとって非常に挑発的なものに聞こえます。 したがって、あなたがその言葉によっておっしゃりたいことをもう少し詳しく説明していただきたいのですが。

- ならば、まさにヒューマニズムの使用そのものが挑発なのだ、とお答えしましょう。私が念頭においているのはあなたもきっとよくご存じ風景であって、という のも私達はおそらくそれを一緒に生きてきたのではないかと思われるからです。すなわち、一九四八年にスターリニズムとキリスト教民主主義の支配権とを正当 化するのに役だったのがまさにそのヒューマニズムであるということ、そしてカミュあるいはサルトルの実存主義のなかに我々が見いだすのがまさにこの同じ ヒューマニズムであるということは、あなたもご存じかと思います。そしてあげくの果てに、このヒューマニズムは、ある意味で、過去二十年間のあらゆる思 考、あらゆる文化、あらゆる道徳、あらゆる政治にとっての娼婦のようなものとなってしまいました。したがって、今日においてヒューマニズムを美徳の模範と して持ち出そうとすること、それこそが挑発であると私は思います。

- しかし、与えられたひとつのヒューマニズムを美徳の模範とすることが問題なのではありません。あなたは、その諸前提が曖昧ないし時代遅れとなってしまいそ のうちに矛盾を抱えることになってしまったヒューマニズムを非難なさっているわけですが、私がうかがいたいのは逆に、今日において、もはやいかなるかたち においてもヒューマニストでないということがどのようにして可能なのかということです。

- 私が思うに、人間諸科学は、人間の真理、その本性、その誕生、その運命などといった、「人間的」であるような何かの発見をもたらしたわけでは全くありませ ん。さまざまの人間諸科学が実際に研究しているのは、人間とは全く別のもの、すなわち、システム、構造、結合、形式などといったものです。したがって、も し我々が人間諸科学に真剣に携わろうとするなら、何よりもまず、そこに人間を探さねばならぬという考えを執拗な幻影とみなし、それを破壊する必要があるで しょう。

- 科学のレヴェル、認識のレヴェルにおいては確にそのとおりかもしれませんが、しかし道徳のレヴェルにおいては.....

- 政治のレヴェルにおいては、と言いましょう。私の考えでは、道徳は今や政治と性とに漏れなく還元することが可能であり、性についてはこれ自体がまた政治に 還元可能です。したがって、道徳とは政治なのです。この五十年間の経験によって(そしてまたそれ以外のものによって)証明されたのは、ヒューマニズムとい うこのテーマが何も生み出すことができなかったばかりか、それは最も危険な政治操作を可能にしたということ、つまり、このテーマが有害であり災いをもたら すものであるということです。ところで、政治に携わっている人々にとっての実際の問題は、人工増加指数が上昇するままにしておくべきかどうか、重工業と軽 工業のどちらを奨励したほうがよいか、消費の量とその増加とはあるひとつの経済状況のなかで経済的な利点を示すことができるかどうか、などを知ることにあ ります。政治的な問題とは以上のようなものであって、つまりこのレヴェルにおいても、我々は決して「人間」に出会うことはないのです。

- しかしあなたはあなたなりにひとつのヒューマニズムを提示しているのではないでしょうか。何故ひとつの経済的な動向を他よりも支持し、何故人工増加指数を 調整するのでしょうか。そうしたすべての政治的操作を通して、結局は、人間の幸福が目指されているのではないでしょうか。

 経済の基礎にあるのが人間でないとしたら、それもただ単に労働力としてではなく目的としての人間ではないとしたら、そこには一体 何があるというのでしょう。この点に関してあなたは、人間の「消滅」、人間の「解体」といったニヒリスト的発言を、少なくとも部分的には撤回しないわけに はいきますまい。要するに私には、あなたがそうした発言に絶対的な価値を与えているとは思えないのです。しかしもしあなたがそこにそのような価値を認めて いるのだとしたら、それをはっきり言っていただきたいし、可能ならそれを正当化していただきたい。あるいはあなたはそれを、ただ単に、脱神話化のひとつの スローガンとして理解しているのかもしれませんが。

- それをひとつのスローガンとみなしてはほしくありません。私の発言が今やひとつのスローガンとなってしまったこと、それは事実ですが、しかし私の意思に反 してのことです。人間という観念が長年にわたって図らずも我々に及ぼしてきたすべての不都合によって私が抱くことになった確信の一つが、そうした発言と なったのです。

- 不都合......それはやはり人間に対しての。おわかりでしょうが、あなたの要求はやはりそれもヒューマニストの要求です。あらためてお聞きしたいので すが、あなたはいったいどこまでヒューマニズムを否定することができると考えていらっしゃるのでしょうか。というのも、具体的にあなたが告発しているの は、自らの諸前提が時代遅れとなってしまった・ゥあるいはあまりに制限の多いものであるために、自らのうちに矛盾をはらむものとなってしまったヒューマニ ズムだけなのですから(つまりあなたのなかには、より現代的で、より現在にふさわしく、より柔軟であるようなヒューマニズムという、一つのイデオロギーが 存在しているということです)。

- 私は、テクノラート的ヒューマニズムの主唱者とみなされたくありませんし、敢えてそれを自らそれとして表明しようとはしない種類のヒューマニズムの主唱者 としてもみなされたくありません。確に、テクノラートほどのヒューマニストはいないというのは事実です。他方ではしかし、ヒューマニズムにまつわる雑然と した神話をいっさい使用することなしに、左翼政治を行うことが可能なはずです。人工増加や消費、個人の自由、各人にとっての快の可能性などといったものの あいだの関係を考慮しつつ、人間という概念を決して拠り所とせずに、社会が機能するための最適条件を、それを手に入れつつ規定することが可能であると私は 思います。機能の最適条件は機能の内部において規定され得るのであって、それが「誰にとって」よいものであるかを言い得る必要はありません。テクノラート について言えば、彼らはヒューマニストであり、テクノクラシーはヒューマニズムのひとつの形態です。彼らは実際、「人間の幸福」とは何であるかを規定しそ れを実現する力持つのはただ自分達だけであると考えているのです。

- しかしあなた自身にもそれと同じ問題があるのではありませんか。

- いいえ、なぜそんなことをおっしゃるのですか。私は逆にテクノクラシーをヒューマニズムに関連づけて、それらの両方に対して反対しているというのに。

- はい、しかしそれはあなたがテクノラート的ヒューマニズムのなかに悪しきヒューマニズムを見ているからです。つまりあなたはそのヒューマニズムを、もうひ とつ別の、ヒューマニストのより正当なあり方に対置しているのです。

- しかしそれがどうして「ヒューマニスト」ということになるのでしょう。私が言っているのはただ、社会が機能するために今日において可能な最適条件を、政治 的に規定しようとすることが我々には可能であるということだけです。

- しかし社会が機能しているということは、ひとつの社会を構成している人間が機能しているということです。

- もちろん、人間が存在することをやめたと言うことによって、私は何も、生物的種ないし社会的種としての人間が地上から消え去ったということを言おうとして いるのでは全くありません。社会が機能するということは確かに、相互的な関係のなかで個々人が機能しているということでしょう。

- ただし、ヒューマニズムにまつわる諸々の神話を、相互関係のうちにある人間の機能の関係と結びつける必要は全くないということですね。

- 我々は一見ヒューマニズムの問題について議論しているようですが、実はもっと単純な問題、すなわち幸福という問題にかかわっているのではなかろうかと思わ れます。私は、少なくとも政治的な面において、ヒューマニズムを、幸福を作り出すことを政治の目的とみなす態度そのものとして定義することができるのでは ないかと考えます。ところで、私には、幸福という観念が本当に思考可能であるものだとは思えないのです。幸福などというものは存在しません。人間の幸福に ついてはなおさらのことです。

- では、あなたは幸福の観念に何を対置するのでしょう。

- 幸福の観念には何も対置することはできません。AにBを対置できるのは、Aが存在するときのみです。

- ならばあなたは、幸福という観点から問題を提起するかわりに、機能の仕方という観点から問題を提起しなければならないと考えていらっしゃるのですね。

- そのとおりです。

- あなたはそれで十分であると思われるのですか。機能の円滑さに対するそうしたフェティシズムは、少々マゾヒスティックではないでしょうか。

- 人間に対して、十八世紀の終りに他の生物種に対してとられた態度と同様の態度をとることを、受け入れなければなりません。つまり当時のひとは、他の生物が 機能しているのは誰かのためにではなく、すなわち自分たちの自身のためでも、人間のためでも、神のためでもなく、それらは機能しておりただそれだけである ということに気づいたのです。生体は機能する。それは何故機能するのか。自己を再生産するためだろうか。そうではない。自己を生命のうちに維持するためだ ろうか。そういうわけでもない。生体は機能する。生体は極めて両義的なやり方によって、すなわち生きるためであると同時に死ぬために機能する。つまり、よ く知られているとおり、生を可能とする機能とは絶え間なく消耗を及ぼす機能でもある故に、生を可能とするものはまさに同時に死を生み出すものでもあるとい うことです。種が機能するのは、自分自身のためにでも、人間のためにでも、神の最も偉大なる栄光のためにでもなく、それは機能する、ただそれだけなので す。これと同じことが、人間という種についても言えます。人間という種には、ある程度まで自分の機能をコントロールすることが可能であるような神経システ ムが備わっています。そしてそうしたコントロールの可能性が、人間は目的というものを持っているはずだという考えを絶えず生み出すことは明らかです。つま り、我々が自分の機能をコントロールする可能性を持っているからこそ、我々はそうした目的なるものを発見するのです。しかしこれは、我々の通常の考えを逆 転させることになります。我々は、自分自身が目的を持っているからこそ自分の機能をコントロールしなければならない、と考えるけれども、実際は、そうした コントロールという基盤の上に立って初めて、あらゆるイデオロギー、哲学、形而上学、宗教といったものが可能となるのであり、そして今度はそうしたものが 生み出すある種のイメージによって、機能をコントロールする可能性が方向づけられることにもなるのです。私の言いたいことがおわかりでしょうか。つまり、 コントロールの可能性こそが、目的という概念を生み出す、ということです。しかし実際には、人間にはいかなる目的もありません。それは機能し自分の機能を コントロールして、そのコントロールを絶えず正当化するのです。それらが正当化でしかないことを認めて受け入れなければなりません。ヒューマニズムとはそ うした正当化のうちの、最後のひとつなのです。

- しかし次のようには言えないでしょうか。つまり、そうしたコントロールのシステムが円滑に機能するためには、おそらく、諸々の正当化が必要なのであ る、と。ヒューマニズムはそのとき、人間の意味にも諸目的にも絶対的な価値を与えると主張することなしに、社会がうまく機能することを容易にする ような諸条件のひとつとなり得るのではないでしょうか。

- あなたのそうした仮説によって、私がしばらく前から考えていたことについてより強く確信が持てるようになりました。つまり、人間ないし人間という観念は十 九世紀において、神の観念がそれ以前の数世紀にわたって機能していたそれと幾分同じような仕方で機能した、ということです。神が存在しないという考えに人 間が耐え得るなどということは到底不可能であろうとひとは信じていたし、十九世紀においてもなおそれは信じられていました(「もし神が存在しないとした ら、すべてが許されるということになってしまうだろう」とひとは繰り返したものです)。人間が神なしで機能しうるかもしれぬ、という考えにひとは恐怖した のであり、そこから、人間性というものが機能し続けるためには神という概念を維持しなければならないという確信が生まれました。あなたは今私に、たとえそ れが人間性が機能するための神話にすぎないとしても、人間性という概念が存在することはおそらく必要なのだ、と言われる。それに対し私は次のように答えま しょう。そうかもしれないし、そうではないかもしれない。神の観念の場合と全く同様に、と。

- しかしそうはおっしゃっても、そこにはひとつの相違があります。つまり、私は人間性というものが超越的ないし形而上学的な価値を獲得しなければならないと は言っていません。私が言っているのはただ、人間が存在している以上、自らが機能しているその内部において人間は何らかの仕方でお互いに前提し合わぬわけ にはいかないということです。その上、全体化する神話の不在ということ以上に神話的なことはおそらくないと言えるでしょう。少なくとも、今日においてはそ れが言えます。いずれ人間性が神話なしに機能し得るかもしれぬということを、ア・プリオリに拒否することは確かに不可能であるとしても(いずれにせよそれ は私にはありそうにもないことのように思われるのですが)。

- 「現在何が起っているのか」を言うことが哲学者の役割であるとすれば、今日の哲学者にとってはおそらく、人間は自らが神話なしに機能し得るということを発 見し始めていることを明らかに示すことが、その役割であると言えるでしょう。諸々の哲学や諸々の宗教の消滅は、おそらく何かそうした種類の事態に呼応して いるのかもしれません。

- しかし哲学者の役割というものが本当にあなたの言われるようなものであるとするなら、何故あなたは哲学の消滅を語るのですか。もし哲学者がひとつの役割を 持つならば、どうしてそれが消え去るのでしょう。

- 私は諸々の哲学の消滅について語ったのであり、哲学者の消滅について語ったのではありません。一般にひとつの文化の現在を診断することを任務とする特定の 諸領域において、ある種の「哲学的な」諸活動が存在している、とわたしは考えます。現在の診断、これこそが、我々が哲学者と呼ぶ人々が今日において果たす ことのできる真の役割なのです。 

 しかし、「しかし」の連発でフーコーに執拗に食い下がるヒューマニストの執念にはすさまじいものがありますね(笑)。いや〜ホントに、弁の立つヒューマ ニストというのは恐ろしいものです。たぶん、対談相手がフーコーでなかったら、次のような切り返しでヒューマニストの方が勝ち誇っていたところでしょう。  
しかしあなたはあなたなりにひとつのヒューマニズムを提示しているのではないでしょうか。 
 例えば、筑紫哲也の多事争論ならここで終わっているところでしょう。一般の視聴者はまんまと丸め込まれて、そうかこれもひとつのヒューマニズムなんだ、 と納得してしまうでしょうね。しかし対談はそのあとも執拗に続き、ついにフーコーのこの言葉が発せられます。 
種が機能するのは、自分自身のためにでも、人間のためにでも、神の最も偉大なる栄光のためにでもなく、それは機能す る、ただそれだけなのです。これと同じことが、人間という種についても言えます。 
 これについては、そのとおりだ、としか自分には言えませんが、たとえこれが真理だとしても、これではあまりにもあからさまで「救い」がないです。やはり このページの読者の方の大半は、生きるための「目的」という観念にこだわるヒューマニストの味方なのかもしれませんね。しかし、「社会が機能しているとい うことは、ひとつの社会を構成している人間が機能しているということです」と述べるヒューマニストと、「社会が機能するということは確かに、相互的な関係 のなかで個々人が機能しているということでしょう」と述べるフーコーとは、一体何が違うかわかるでしょうか。「人間」と「個々人」とは、どちらが抽象的で どちらが具体的なのでしょうか。
 
 

8月30日

 ありゃまあ、今度は18通メールが消えてしまった。メールをサーバに残しておく設定にするのを忘れて、同じ過ちを二度も繰り返してしまいました。どう も、このフリーウェアのMm-Mailは、特定の形式のメールを受信するとクラッシュしてしまうようです。まさか今話題のアウトルックで書いたメールか (爆笑)。たぶん何らかの添付ファイルの付いているメールじゃないかと思うんですが、本当のところはよくわかりません。それで、Mm-Mailはやめて、 今度は電信八号にしてみました。ちょっと使い勝手は悪いですが、有名なフリーソフトだから信頼性は高いような気がするので、とりあえず、 PowerBookが戻ってくるまでは我慢しましょう。本当はNetscape Messengerが使いたいですけど、それはこのPC(パナソニックホームパソコンWOODY)の持ち主の設定にしておかないとまずいしね(でも彼はこ のPCを使わない)。 
 
 

8月29日

 民主党の鳩山や自由党の小沢が主張しているように、憲法が世の中の現状に対応できなくなったから改正すべき、ここまではわかりますが、実際の彼らの目的 は、今ある憲法を強化するすることにあるわけで、ようするに彼らは形を変えた護憲派です。社民勢力の護憲派との対立は偽りの対立といわざるをえません。現 実に、積極的か消極的かの違いはありますが、日本国憲法の成立当初の最大の目的であった、天皇制の維持継続については、両者の主張は維持継続で一致してい ます。 

 自らが真の改憲派だと主張したいなら、または真の国家主義者を標榜したいのなら、まず第一に、真の国民主権を確立すべく、憲法から天 皇条項をすべて削除して、日本国を立憲君主制から共和制へと移行させるべきでしょう。これに関しては、イギリスは国王がいても立派な民主国家じゃないか、 とイギリスの王制の例を持ち出して反論する人がいるかもしれませんが、イギリスの場合は、国民が国王に反逆して、長年の権力闘争によって国王から国民が主 権を奪い取って民主制を確立したのであって、国民による天皇への反逆がほとんど表面化しない日本には当てはまりません。歴史が違います。確かピューリタン 革命の時は国王が処刑されています。それでもまさか司馬遼太郎風に、日本でも鎌倉時代には、後鳥羽上皇が島流しに遭った、南北朝時代には足利尊氏が後醍醐 天皇に反逆した、当時は鎌倉武士や足利尊氏が民衆(国民)を代表していたんだ、なんて反論してきたら、もう黙って白旗揚げるしかありませんが(爆笑)。  

 そうだ、時代錯誤のついでに、日本が共和制に移行した暁には、天皇勢力は独自に昔ながらの律令制に戻ればいいんじゃないでしょうか ね。天皇崇拝者は自らの財産を天皇に寄進して天皇の臣民になればいいのです。天皇はそれに対して右大臣だの左大臣だのの官職を与えればすむことです。共和 国政府はそのような律令制総体を宗教法人として認めてやればいいでしょう。これで天皇崇拝者は堂々と何の矛盾もなく臣民と国民の両方になれるわけですか ら、こんなハッピーなことはないと思いますが、どうなんでしょうか、自称改憲派で国家主義者のオザワ君は私の考えに同調してくれるでしょうか?たとえば西 武の堤オーナーなどは、成り上がり者にふさわしく豊臣秀吉みたいに太政大臣を目指してほしいですけどね。 
 
 

8月27日

 まいったなあ、このWin95マシンにフリーのメール・ソフトを入れて、自分宛てのメールを読もうとしたら、受信途中でクラッシュしてしまい、10通ほ どなくなってしまいました。何でだろう?他のメールはちゃんと読めるのに、何かウィルスメールでもあったのかなあ?まぁ、どうせ大半はLinux関連の メーリングリストからのものだから、それほどの痛手ではないと思いますが、もし、私宛てに質問メールでも送ってくださった方で、何かしらレスポンスがほし い方がいらっしゃいましたら、お手数ですがもう一度送ってみてください。 

 しかし、この日本語入力システムのMS-IME95は腐っているなあ。何で「私」が「渡し」になっちゃうのだろう。これから比べれ ば、LinuxはCannaで十分だよな、無理してWnn6を入れる必要ないよなあ。あ、そうそう、Linuxといえば、アメリカのRed Hat社と日本の販売元の五橋研究所との交渉が決裂したとかで、Red Hat Linuxの日本語版が出なくなっちゃうそうで。どうしようかなあ、代わりに五橋研究所が出すらしいLASER5 Linuxとかを買ってみようか。でもその前に、雑誌の付録CD-ROMに入っていたVine Linuxでも入れてみようかなあ。しかし、一度それで味を占めちゃうと、決してOSを単体では買わない、「付録CD-ROM乞食」に堕してしまう可能性 ありだよなあ(爆笑)。 
 
 

8月25日

 いや〜、PowerBookの背面のふた(いろいろな接続ポートがあるところ)のバネがはずれて、ふたがうまく閉じなくなってしまい、昨日修理に出した ので、しばらくはバッグが軽い(約マイナス3キロですね)生活になりました。おかげで足取りも軽い(笑)。しかし、PowerBookって簡単には分解で きないものなんですね。特殊な星形のドライバーを買ってきてネジをやっとのことではずしたものの、ケースのつなぎ目がまるではずれないんです。普通ネジを はずしたらケースもパカッとはずれるものだと思っていた自分の常識がもろくも崩れさりましたよ(笑)。なるほど、PowerBookは自分では修理できな いPCだったのか。 

 そして次はLinuxマシンです。この間、オムロンの人から、日本語 redhat Linux 5.2でもWnn6は動くはずだとのメールをもらったので、昨日の昼から今日の深夜まで12時間ぐらいずうっとPCの前に座ってインストール+環境設定を 繰り返していたんですが、これがうまくいきません(爆笑)。OSも4回も再インストしてしまったので、設定の仕方とか詳しく書いてくれたメールもなくなっ てしまいました。もう茫然自失です。それでやっとわかりました。要するにオムロンの人にはできることが私にはできないのです(笑)。でも、ちょっとだけ光 明も見えました。途中で頭に来てRed Hat Linux 6.0(英語版)を入れたら、新しいカーネルとsndconfigで、今まで音が出なかったオンボードサウンドのESS1869が有効になりました。どう やら次のヴァージョンからは、Linuxマシンでも音楽が聴けそうです。まあ、今の5.2でも、カーネルとsndconfigをヴァージョンアップすれば 聴くことはできるでしょうが、ま、やる気になれませんね、もうインストや設定はこりごりだぜ!ひ〜。 
 
 

8月23日

 解釈について、何か特別なやり方というものが存在するのだろうか。ありきたりな出来事について、あっと驚く解釈を遂行して、それを読む者を唖然とさせ、 焦らせ、結果として、わけのわからない行動に駆り立てさせる。これが解釈にアクチュアリティを持たせるひとつのやり方だと思う。 

 別に今までそればかりをねらって解釈してきたわけではありませんが、テレビのコメンテーターのしゃべるような「ありがちな意見」は何 とか避けようとしてきたことは確かです。まあ、こんなマイナーなページでいくらひねくれた意見を述べたとしても、その影響力は微々たるものかもしれません が、私の勝手な希望としては、物事の解釈の多様性が世界の多様性に結びつき、何とかファンキーな世の中になってほしいです。幸福だとか不幸だとかいう対立 軸は私にはありません。ファンキーであってほしい、ただそれだけです。ま、全然やっていることが的はずれなのかもしれませんが(笑)、自分のやっているこ とが正しいか間違っているかなんていちいち気にするのは野暮だと思うので、とりあえずは、選択肢としては、こんなふうに勝手気ままに気分次第で適当に書い ていくしかありません。それが私に与えられた場というやつでしょう。この場がいつまでもつかなんて知りません。こんなふうに書いている、ただそれだけで す。 

 ようするに、自分については、なるべく物事をシンプルに考えようとしているのかもしれませんが、同時に、それは「逃げ」の姿勢なのか もしれませんね。何から逃げているのかといえば、それは、周りの環境からの影響で複雑に作用する「自分の心」から逃げているのでしょう(笑)。と、こう書 くと、私の弱点を見つけたと鬼の首でも取ったかのように喜ぶ人がいますかね。そして、今こそ自分の汚れた心の内側を見つめなおせ!なんて説教を垂れる宗教 おやじとかが現れたりして(爆笑)。嘘ですよ。ようするに、気まぐれで「逃げ」という言葉を使ってみたので、とっさに、熱血漢が悩みを持った人に向かって 叫ぶ「君は本当の自分から逃げている!」というメロドラマの台詞が思い浮かんだのです。今のはそれのヴァリエーションの一つですね。 

 こんなふうに、そのときの気分で偶然に繰り出された「逃げ」という言葉から、自分の心の状態をねつ造できるわけです。このように 「心」がその社会や時代の支配的言説(紋切り型)から生まれるのだとしたら、それはかなり退屈なことですね。結局「心」は言葉や文章で説明せざるを得ない のですから、当然ボキャ貧の人は紋切型表現に頼るしかありません。ということは、文章表現力の豊かな人や弁の立つ人が心豊かな人になっちゃいますね(爆 笑)。ひょっとすると、「人の心」は技術の問題に還元できますか?ところで、こんな解釈には腹が立ちますか? 
 
 

8月22日

 おやおや、自民党内では早くも「公明党不要論」が囁かれ始めたようです(笑)。総裁候補の加藤や山崎が公然と言い出したらしいですが、そうですよね、重 要法案はことごとく国会を通過させたんだから、もう公明党の利用価値はほとんどありませんよね。ただでさえ、当初は反対していた盗聴法案に対する筋の通ら ない寝返りには各方面から非難が集中しているし、支持母体の創価学会のイメージも、似たような宗教団体のオウム報道が過熱すればするほどマイナスだし、と りあえず、裏切り者はいつこちらを裏切るとも限らないから、利用できるときだけ利用して、後はポイ捨てが一番いいかもしれませんね(爆笑)。ま、今度は民 主党を味方につけて、衆議院の比例代表議席数を大幅に削減すれば、公明党も終わりでしょう。 
 
 

8月20日

 君に歴史があるのか、君がこの世に生まれてきてから現在までの君の身辺に起こった出来事の総体が君の歴史だと言うつもりだったの?君は、そんなに退屈な 直線状の時間に縛り付けられていたいのか。そんなに自分が自分であるための確証がほしいのか。昨日まではそう思っていたそうじゃないか。何を知りたいん だ。海岸線の複雑さについてフラクタル構造で説明しほしいのか。星空の輝きと月明かりの相乗効果でロマンチックな雰囲気になれるとでも言うのか。ドブの中 で溺れる苦しさを体験したいとか?それとも、いわれのない罪で悶絶したいか。君はマゾかぁ?違うのか、楽しい思い出を語ってほしかったのかい。安易だな、 わかっていない。そう断定するのが癖なんだ。全てを捨て去るのが宗教だ。そして出家するわけだ、自分が救われたい一心で。それはオウム真理教だな。イノセ ントな人々には修行がお似合いだ。しかしそれに対する対照例は示さない。イノセントでない人などありふれているからな。それにイノセント・マンのどこが純 粋だというのか。気分次第で気分など葬り去る。そして、どのような気分だったかは示さない。全てを捨て去れば、気分が楽になるそうだ。これがオチだ。手に 入れられないものを求めること。飽くなき挑戦。貪欲な前進。連想ゲーム。まるで屋根がないみたいな風通しの良さ。こういう意味不明なひねりが好きだった。 こんな気分にはなりたくないそうだ。軽蔑する兆候をいかに早く察知するかが問題だった。しかしプライドは捨てたくないそうだ。全てを捨て去るわけにはいか ないらしい。そこにつけ込む、悪人だからな。もうこんなチャンスは二度とやってこないと思い込ませること。それがゲームのルールだった。生ぬるいな。そん な台詞を繰り出すほど余裕があるとでも思っているのか。全くの勘違いだ。結局ゲームなど始めから成立していなかったのだ。いかさまバクチにはまっていただ けだよ。勝ち誇るための手順からして既に妄想の領域で演じられていたわけだ。しかし、真夜中の薄ら笑いに直面することは楽しい。それも強がりの一種かぁ? 馬鹿にされてるぜ!これで感情的になる。なんだ、まだ勝ち誇りたいか、足下にひれ伏してほしいか。なにがなんでも自分が主人公でないと気が済まないらし い。つまり、これが「裸の王様ゲーム」の概要だ。なるほど、これもひとつのオチなんだな。要するに貴様はオチがないと気が済まないようだ。貴様は小咄が好 きなのか?落語ファンか?しかしこういうありきたりな展開は気にくわない。後で後悔するぞ!こういう月並みな展開で悶絶するわけだ。良心の呵責というやつ だ。ドブの中で溺れるとはこういうことだ。そしてさらに、こういう断言調が嫌いなんだ。要するに自分の嫌いなことを断言したわけだ。果てしない言い逃れ、 その先に幻の終末が存在する。幻影のまなざしに溺れる。こんなふうに苦しくなると溺れるそうだ。いや、既に溺れているじゃないか。ついでに、愛に溺れる、 と書いてみる。これでロマンチックな雰囲気はクリアしただろう。しかし、次は「海岸線の複雑さ」だ。無視する、面倒臭い。いったいどういうルールなんだ? そろそろまとめに入らねば。いくらか飽きてきた。楽しいゲームにもいつかは飽きがくる。そんな感覚を楽しむ。こんなものが「言語ゲーム」だとは口が裂けて も言わない。しかしそれの否定を書いてみる。結論など退屈だ。しかしまたもや根拠の不明な断言だ。単なる好き嫌いだろう。しかしまだ途中かもしれない。  
 
 

8月17日

 しかし、「人としての誇り」だの「世界に通用する人を育てよう」だとかいう言説を積極的に推奨しているようじゃあ、私も単なる幼稚なヒューマニストです ね(笑)。まあ、自分が日本人であることに、何やら抽象的な価値や観念を有している人々よりは、いくらかマシかも知れませんが、「日本人」という共通概念 と同じように、「人間」という共通概念も多分に抽象的です。ようするに大同小異で、その気になればそこにいくらでも勝手なヒューマニズム的妄想を付け加え ることができますからね。「一人の人間の命の重さは地球より重い」とかね(笑)。 

 そういえば、ミシェル・フーコーは対談の中でヒューマニズムについてこんなことを述べています。 

- それで一体人間はどうなるのですか。人間の新しい哲学が作られつつあるのでしょうか。あなたの研究はすべて、人間諸科学の領域ではないでしょうか。  

- たしかに一見したところ、レヴィ=ストロースやラカンやデュメジルの発見は、人間諸科学と呼ばれるものの領域です。けれども意義深いのは、これらの研究 が、人間に対してわれわれの抱いてきた伝統的なイメージを消すだけではなく、私の考えでは、これらの研究はすべて、研究や思考における人間という考えその ものを無効にしようとしています......十九世紀からわれわれの相続したもっとも重い遺産、そして早急にそれを清算するときが来ているのですが、それ はヒューマニズムです...... 

- ヒューマニズムというと。 

- ヒューマニズムとは、道徳、諸価値、和解を用いて、解決することのまるで出来なかった問題を解決する方法でした。マルクスの言葉をご存じでしょう。人類は 自ら解決できる問いしか問わない。私はこう言えると思います、ヒューマニズムは自ら問うことの出来ない問いを解決するふりをする、と。 

- 一体どのような問いなのでしょうか。 

- それは人間と世界の関係という問題、現実という問題、芸術的創造の、幸福の、そして理論的問題である資格のまったくないさまざまな妄想です......わ れわれのシステムはそんなものを決して相手にしたりしません。私達の現在の課題はヒューマニズムから完全に自由になることであり、その意味 で、私達の仕事は政治的なのです。 

「ミシェル・フーコー思考集成II」37マドレーヌ・シャプサルとの対談(根本美作子訳)より

 また、別の箇所ではこうも述べています。 
- 要するに、教養人はもう流行らない、と......良き一般教養が断罪されているわけですか、もう専門家しかいなくなるのでしょうか。 

- 断罪されているのは教養人ではなく、われわれの中等教育(ヒューマニズムに支配された)です。フランスで - そして何よりも外国で - 何が起っているかを理解させてくれるような基本的な学科を、私達はまるで教わっていません......もし教養人が今日、数字や略号だらけの野蛮な文化の 印象をもっているとしたら、それはただ一つの事実に因っています。私達の教育システムは十九世紀のもので、もっとも安直な心理学や、どうしようもなく使い 古されたヒューマニズム、趣味の諸範疇、人間の心、といったものがまだ蔓延っています......何もわからない気がしても、それは、いま起っていること のせいでも、教養人のせいでもなく、教育の在り方のせいなのです。 

- けれどもこの新しい形の思想は、数学があろうとなかろうと、冷たくてかなり抽象的に思われるのですが...... 

- 抽象的ですか。それにはこうお答えしますね、ヒューマニズムが抽象的なのだと。諸々の心の叫びや、人間的人格の、存在の主張は、すべて抽象的です。つま り、われわれの現実の世界である科学技術的世界から断ち切られている。ヒューマニズムで私が一番怒りを覚えるのは、それがいまや、もっとも反動的な思想を 匿うついたてになってしまったことです。おぞましい、考えられないような結合が形成されるのです。たとえばサルトルとテイヤールとか......何の名に おいてかと言えば、人間のです!誰が人間の悪口を言うでしょう!ところがわれわれの世代の人たちが今試みようとしているのは、知と技術に対して人 間を主張するのではなく、われわれの思考、生活、在り方が、もっとも日常的な部分にいたるまで、科学技術的世界の同じシステマティックな組織に与してお り、したがって同じ範疇に属していることをまさに主張しようとしているのです。抽象的なのは「人間の心」で、人間を、彼の科学、彼のさまざ まな発見、彼の世界に結び付けようとするわれわれの研究は具体的です。 

- そうですね...... 

- こうお答えしましょう、妥協の生ぬるさと、本物の情熱に特有な冷たさを混同してはならないのです。「冷たい」システム理論家である私達のもっとも好む作家 はサドとニーチェです。彼らはたしかに「人間の悪口」を言っていました。しかし同時に彼らはもっとも情熱的な作家ではなかったでしょうか。(同)

 そうですね、たとえば、学校内で殺傷事件などが発生した場合、その学校の校長先生は、決まって、自分達が今まで何もやってこなかった事実と、事件に対す る教育の無力さを、隠し取り繕うための言い逃れのアリバイ工作として、必ず、「これからは人の命の大切さを教えて行きたい」というヒューマニズムを持ち出 してきますよね(笑)。じゃあ、これまでは命の大切さを教えてこなかったのか、そして、これからそういう教育をしたとして、殺傷事件は発生しなくなるの か、については何の確証もないわけですから、まさにヒューマニズムが何の解決にもならないことを証明しちゃってますよね。 

 で、話を「日本」という固有名に戻して、当時38才だったフーコーに比べると、現在35才の私の話はかなり低レベルですが(笑)、と りあえず、自分が、たまたま日本という国に生まれて、たまたまこの地で暮している、という現実以上の何らかの積極的な意味を「日本」に求めない方がいいん じゃないか、ということです。そこから先は、肯定否定のどちらであっても、どのように考えようと、ようするに妄想の世界です。たとえば、浦和レッズの熱狂 的なサポーターが、「ボクちゃんは浦和市を誇りに思うぜ!浦和市を心から愛しているぜ!」と叫んじゃった場合、それはあくまでも、浦和レッズというサッ カー・クラブ・チームを愛し誇りに思っている(現在の成績ではちょっと阪神ファン状態?ですが)ことの付け足しであり、行政区分としての浦和市自体につい ては、別に何とも思っていないでしょう。それと同じように、サッカーの日本代表サポーターがどんなに日の丸の旗を思いっきり振り回していようと、それはた だ日本代表イレブンを応援しているだけであって、別に愛国心に目覚めたわけではなく、その時点では、日本国や日本人を誇りに思うなんてこととはまるで関係 のないことです。 

 ただ問題なのは、そして注意しなければならないのは、そのような応援の熱狂を御用マスコミや政治家が利用しにかかるときです。有名政 治家のスポーツ観戦、あるいは天覧試合をマスコミが囃し立てるときが危ないのです。間違っても、オブチ首相も僕たちと同じ熱烈な日本代表サポーターなん だ、なんて親近感を持ってはいけません。そう思わせることが彼らの策略です。彼らはいつも、そういうオツムの弱い人々を自分達の味方につけて(思い通りに 操縦して)勢力を拡大したいわけです。まあ、ベルリン五輪のヒトラーじゃあるまいし、いつまでも同じやり口で権力側に絡めとられないように願いたいもので すね。 
 
 

8月15日

 「日本人としての誇り」だってえ!ばっかだよなあ、オツムが弱いよ。よおく考えてみなよ、何かが余分だろ?その余分な何かを取り払えば、かなりまともな 言葉になるぜ。わかるだろ?決まってんじゃん!「日本」という固有名を取り払えばいいんだよ!54年前にさかのぼって大げさな馬鹿話する暇があるなら、ま ずは「人としての誇り」について考えろ!これは単なる言葉遊びじゃないぜ。同じことが、「世界に通用する日本人を育てよう」についてもいえる。なぜ、日本 人が世界に通用しないかといえば、それは「日本人」だからだよ。「世界に通用する人を育てよう」にすればいいんだよ!別に「日本人」じゃなくてもかまわな い、在日朝鮮人であってもいいし、不法出稼ぎ中国人であったってかまわないだろ。そのような行為を実践することが「国際化」ってことだよ。小難しい屁理屈 で反撃する前に、その程度のことわかれよ!馬鹿野郎! 
 
 

8月14日

 とりあえずは言葉のサンプリングからきっかけをつかみましょう。そう、階段の陰に隠れたあなたの影の色、薄墨の黒が鮮明に浮かび上がる。浮き彫りにされ た憎悪、心の貧しさがそのまま反映された声。砂上の楼閣の上に接ぎ木された思想。崩れ去るがままにその軌跡を描画する。その薄暗がりで黒い紙切れが交換さ れる。何が書いてあるのかわからない。伝達されない言葉の群れ。実は何も書かれていなかった。結局は意味が見つけられなかったのだろう。しかし想像力は あったようだ。黒に関する文章。とりあえずの統一感を醸し出す。強烈な言葉だ。欺瞞という断定。それは欺瞞だ。演劇的台詞。黒い欺瞞。野蛮な叫び声。持続 することはできない。なぜ憎むのか、自分の思い通りにいかないからなのか。何かを止揚しなくてはならない。それの繰り返しが日常生活となる。それに対す る、嘘だろう、という決まり文句。それも繰り返される。いつまでも引き留められ前進も後退もできない焦り。ただ焦燥感だけが目の前に堆く積み上がる。そん な視覚的比喩表現にはうんざりする。だが、やはりそれも嘘だろう。ただ通りかかっただけだ。おまえの心臓を握りつぶす。どうだ、どきっとしたか、驚いた か。隠された要請を実現したまでだ。刺激がほしかったはずだろう。彼は昨日知らせてきた。自らの敗北を認めた。彼をうんざりさせた数々の物語。彼は便器の 下で水に流されて消えていった。きっと今頃は下水管の中で腐っているだろう。そんな物語では納得しないか?惰性の関係には決着はつかない。慣性の法則に 従って移ろいゆくだけ。いつかは決着をつけねばなるまい。それは時代劇の台詞だ。決着をつける機会など巡ってくるわけがない。きっといつまでも宙づり状態 だろう。しかしそれにどこまで耐えろというのか。別に耐えなくてもいい。そのままの状態でいればいい。それが宙づり状態なのだ。心地よい宙づり。着地する 大地がない。重力から見放された身体。衝撃的な出来事などどこにも存在しない。全てはニュースの中の間接的風景。全てが隔たりの経験でしかない。いつも直 接体験はフィクションだった。それがヴァーチャル・ワールドなのか。そこで様々な鈍感さが養われる。いいだろう、先鋭性なんて所詮フィクションだ。肌触り こそがフィクションの最たるものだ。そんな断言は退屈だ。それが予定調和なんだ。途中から間違っている。所詮接ぎ木の思考しかできないということか。砂上 の楼閣の住人。足下から大地が崩れ去る。基盤は何もない。押し寄せている荒廃には誰もが無頓着だ。しかし荒廃を指摘する者こそ自らの言説の無根拠性に気づ かない。ただオオカミ少年の役を割り当てられるだけ。結局無視の重圧に耐えきれなくなり、被害妄想で自滅する。しかしこれもフィクションだろう。こんな物 語はありふれている。強がり痩せ我慢によって自発的に演じられる演劇空間。そんな下らぬ三文芝居には加わりたくない。なにも強制参加ではないはずだ。勝手 な思いこみによって馬鹿芝居を演じているだけだろう。そこに台本があるという勝手な思いこみ。もういい加減やめようじゃないか。いや、やめないのだろう。 やめたときが自己崩壊の危機につながる。自殺しちゃうわけだ。しかし、それも仲間内での自殺の美談で正当化される。そういう弱者の連帯が鬱陶しいんだ。や はりこれからも宙づり状態だろう。 
 
 

8月13日

 あ〜あ、とうとうこの間のハイジャック犯は起訴されちゃいましたね。やっぱ、キチガイでも世間を騒がせた上に人一人を刺し殺しちゃうと、なにがなんでも とりあえずは刑事被告人にしないとまずいんですかね。世間様が納得しないですか。たとえば、精神鑑定した上でキチガイと認定して不起訴処分とかにしちゃう と、人殺しなのに罪を問われないなんて絶対に許せねー!とかぎゃーぎゃー騒ぐルサンチマン野郎がいっぱい発生するんでしょうね。ま、そういう馬鹿どもが国 家を必要とし、現実に今の日本国を支えているのかもしれませんが。 

 もうちょっと心に余裕というか、ユーモア精神があればいいのになあ。たとえば、そいつを自衛隊に体験入隊させて、戦闘機の操縦訓練を 積ませて、数年後ぐらいにF15戦闘機あたりを操縦させて、そいつの夢だったレインボーブリッジの下をくぐらせてやればいいのになあ。ま、これがフィク ションの世界というものですか。そうね、これがブルース・ウィルス主演の「ダイ・ハード」の続編なら、確実にハイジャック機でレインボーブリッジの下をく ぐり抜け、おまけに新宿の高層ビル街を機体を真横に傾けながらすり抜けちゃうところですね(笑)。やっぱ、現代では、寛容さというものは、フィクションの 中でしか機能しないものなのか(よくありがちなまとめ言葉)。 
 
 

8月11日

 何だ、筑紫は「便所の落書き」で困っていたんですか(笑)。なんでも、東芝のクレーム対応のまずさを訴えたWebページを「便所の落書き」とけなしたと か。「噂の真相九月号」のいろいろなコラムで事の経緯が取り上げられていたので、ようやく事態が飲み込めましたよ。やっぱ、私は世情に疎いです(爆笑)。  

 そうですね、筑紫といえば、昔「朝日ジャーナル」の編集長をやっていたんですよね。私は、当時彼が編集長をやっていた頃の「朝日 ジャーナル」を、国士舘大学の近くにある世田谷区民図書館に行ってはよく読んでいました。たしかそのころは、田中康夫の「ファディッシュ考現学」が載って いて、そればかり読んでいた記憶があります。田中的過剰生活とはまるで無縁ですけど、もしかしたら私のこのひねくれた文章は、田中康夫からの影響が大なの かも知れませんね(笑)。それと高校時代に読み漁った大藪春彦の小説かな?う〜む、田中康夫+大藪春彦ですか、我ながら、かなりいびつな読書経験ですね (そういえば、中学の夏休みの読書感想文の題材は太宰治の「人間失格」でした)。でも、そのおかげで、後に「朝日ジャーナル」を購読するようになってから 本多勝一が「貧困なる精神」で登場した時も、それを読んでもたいして驚かなかったし、ホンカツ教信者にならずに済みました(笑)。 

 田中や大藪の事の善悪を越えたハチャメチャさから比べれば、本多の思考や行動パターンは、遥かに行儀の良い常識の範囲内だと当時は感 じました。それなのに本多は、大藪小説の主人公みたいに個人で敢然と巨悪に立ち向かっちゃうわけです(実際は、彼は大企業である朝日新聞社の社員だったわ けですけどね)。これじゃあ絶対に勝てませんよね。ジャーナリストは建前上は犯罪者にはなれないんだから、決して大藪小説のヒーローたちみたいに勝利する ことはできません。しかし著作の中の本多個人は、大藪ワールドの住人みたいに、憎悪の塊となって、いくぶんステロタイプ化した巨悪に向かって呪の言葉を強 烈に浴びせ続けるのです。まるでペンが機関銃と化したみたいに。この辺のフィクションと現実の落差に、当時から疑問を感じていましたね。 

 そして月日は流れ、本多は、同じく大藪作品のヒーローのできそこないみたいな宅八郎に影響されておかしくなっちゃいました。自ら手を 汚さずに口先やペン先だけでは絶対に大藪的復讐は成就しないでしょう。しかもそれはフィクションの中での話です。宅の場合は、本多とは違い、いくぶんかは 犯罪者となる覚悟ができていたのかも知れませんが、それもオタク的愉快犯レベルでのことです。やはりその辺に、勇ましい言葉とは裏腹の矛盾を感じました。  

 そして月日はさらに流れ、今や、スターリン本多(かっこいいネーミングだよね)の代わりに、ペログリ野郎の田中康夫が市民運動の先頭 に立っちゃっているわけです(笑)。そして近頃の彼はホンカツ・チルドレン(及川健二とか)とも共闘しているみたいだし、ホントにわけのわからない展開に なってきました。こういうのを「理性の狡知」とでも言うんですかね(爆笑)。私は無責任野郎なので市民運動の成果などに何も期待しませんが、ともかく自分 の想像を越えた形で世の中が流れていってほしいです。退屈な予定調和は大嫌いです。 
 
 

8月10日

 どうやら、この春から自民・自由・公明の各党が一致団結して成立させようとしている、一連のガイドライン法案や盗聴法案や国旗国歌法案は、日本という国 民国家が解体する前の保守陣営による最後の悪あがきみたいですね。おそらくこれが、この時期の政治情勢に対する21世紀の歴史家の共通認識となるでしょ う。遠からず、国民の国家に対する無関心によって国民国家は消滅するでしょう。つまり、国民が国民でなくなるわけです。いくらマスコミが世論調査で政治に 対する関心を誘おうとしても無駄です。そんなものは無視です。また、ジャーナリストの筑紫哲也や黒田清とかが危機感を煽って国家に対する関心をつなぎ留め ようと必死みたいですが、それも無駄です。彼らのような旧人類も当然国家とともに滅び去る運命です。こりゃあ、来世紀はきっと明るい未来が待っているぜ (ホントかよ!)。 

 ははは、今回は、信用暴落のノストラダムスに代わって、この私がいい加減な予言を披露させていただきました。 
 
 

8月8日

 なんだか自民党に対する小沢一郎の政治手法って、アメリカに対する北朝鮮のやり方に似ていますね。経済制裁やめないとミサイル発射しちゃうよ、と同じ文 法で、衆議院の定数削減法案を審議入りして衆議院を通過させないと連立やめちゃうよ、と脅しているわけですから(笑)。要するに両者の共通点は、ダダをこ ねる少数派といったところですか(続笑)。貧しき者の悲哀は万国共通であって、身の丈を越えた虚勢を張って交渉相手を困らせているつもりが、相手はただ薄 ら笑いを顔に浮かべながらなだめるばかりで、いっこうに自分の主張を聞き入れようとしないジレンマがありますね。まあ、結局自民党は、小沢の顔を立てる方 向で、文字通り形だけの妥協案を提示したりしているわけですが、でもそれを小沢が呑むとなると、ますます連立政権内での小沢の影は薄くなり、自由党も党勢 はじり貧でしょう。要するに北朝鮮と同じです(笑)。やっぱ、少数派や貧乏人の恫喝は効かないよね。さあ、どうする小沢君!この際だから素直に自民党に 戻ったら(笑)。もっとも、今さら戻ってもかつての勢力を回復するのは到底無理でしょうから、日本のトップに立つという夢を実現するためには、海部俊樹の ような操り人形型首相でもめざすしかないでしょうけどね。 

 ま、こんなマイナーなページを小沢が読んでるわけありませんが、ニュースを見ているうちに金正日と小沢一郎の共通点が思い浮かんだの で書いてみました。二人とも2世政治家で、かたや貧乏国の名目上の支配者で、もう一方は零細政党の党首なんですよね。それなのに、そういうマイナーな境遇 なのに二人とも威張っているのが笑えます。がんばれご両人(嘘)! 
 
 

8月5日

 ちょっとスターウォーズについて言い足りないことがありました。旧作(エピソード4,5,6)がなぜおもしろかったかと言えば、途中で主人公の入れ替え があったからです。ストーリーの途中からルーク・スカイウォーカーは主役から脇役へと成り下がりました。そうです、いつの間にやら脇役の宇宙海賊ハン・ソ ロが主役になってしまっていたのです。そしてストーリーの方も、ルークの神話的冒険(修行して超能力を身につけたり父親とエディプス的対立をしたりの)は 脇へ追いやられ、途中からはハン・ソロとレイア姫のラブストーリーが完全にメインとなりました。時間的にどちらの話が長く画面に映っていたかではなく、ど ちらの印象が強かったかといえば、私の場合は文句なく後者でした。少なくとも当時の私の心の中では、退屈な「善と悪の聖戦」よりも「下世話な恋愛話」が 勝ったのです(笑)。これはもしかしたら、制作者の意図を越えた映画そのものの変質なんじゃないですかね。実際、作者のルーカス自身もルークの性的な禁欲 に耐えきれなかったのか、エピソード6ではレイアにみだらな格好をさせていますし、現代のアメリカ男の地がもろに出ちゃったような気がするんですが、どう なんでしょうか。ということは、この調子でいくと、これから作るエピソード2,3も期待できるということか(爆笑)? 
 
 

8月4日

 ふぅ〜、やっと日本語かな漢字変換システムのWnn6がFreeBSDのmuleで使えるようになりました。やっぱ、Ver2.0は設定が難しいです よ。それに説明書もわかりにくいです。まあ私が勝手に間違えているだけですけど(笑)。そうですよね、Wnn6にはWnn6用のmuleをインストしない とちゃんと動きませんよね。あ〜、こんなことが今まで気づかなかった。でも、ktermだとエラーが出るし、Netscapeの設定はややこしい。もうい いや、とりあえずFreeBSDのmuleだけで使いましょう。Linuxのほうは、この間発売されたTurboLinux4.0ではATOK12と Wnn6 ver3.0が搭載されているらしいから、当然、次に買おうと思っている日本語 rethat Linux6.xにも同様についてくるでしょうから、そのときまで待ちましょう。 

 それで話は変わりますが、スターウォーズのエピソード1をみました。簡単に言えばチャンバラ時代劇ですね。それに古代のギリシアや ローマとアーサー王伝説あたりが加味されているのは以前のシリーズと同じようなものです。それから、あんまりちゃんとみたことないですけど、古代ローマあ たりを舞台とした「ベンハー」とかいう映画の中で、主人公がコロセウムみたいな場所で馬車馬レースみたいなのをやっている場面のパクリがありました。映画 の中では、ガキの頃のダースベイダーが馬の代わりにジェットエンジンに引っ張られて醜い宇宙人相手に同じような競技をやっているわけです。それとカエルと おもちゃの兵隊の白兵戦は、古代ギリシアのマラトンの戦かローマとカルタゴの戦争のパロディみたいなものですね。 

 しかし、科学技術が現代より遥かに進んでいる世界にもかかわらず、社会構造そのものは共和国だとか王国などが混在していて、メインの ストーリーが東インド会社の植民地戦略みたいなエピソードだし、要するに19世紀以前のヨーロッパ(主にイギリス)がそのまま銀河系全体に広がったような 状況です。そして社会構造と同じように、出てくるコンピュータシステムも古い中央集権型です。前のシリーズのデススターと同じように、中央の制御システム を破壊したり、それを操作している人物を捕えれば一件落着してしまうわけです。たとえば、中心が無である日本の天皇制よりは遥かに単純な構造ですね。  

 それから、ジェダイの人々はチベット仏教とオウム真理教を足して2で割ったような感じです。結局彼らの力のよりどころは超能力に負っ ているところが大きいわけですから、それは彼らと対立している暗黒の力と同根です。その力に魅入られたアナキン少年の末路を暗示するものがあります。ま た、ジェダイマスターのおじさんが、赤いお顔の孫悟空(京劇か市川猿之助風)みたいなコミカルなキャラクターに刺されてあっけなく死んじゃうところは ちょっと間抜けな感じがしました。まったく、ハイテク戦争なのに決着はチャンバラなんだもんな(笑)。 
 
 

8月3日

 忘れていたことがある。それが思い出せない。だから忘れたままなのだろう。しかしそれは、あるきっかけで忘れていたことを思い出したのだから、忘れてい たことがある、と述べたのではなかったのか。が、それを一瞬思い出してまた次の瞬間にはもう忘れてしまったので、結局思い出せないままなのだろう。このよ うなことは日常生活の中ではよくあることだ。しかし、確かに忘れていたことがあったはずだ。それは何か?そこから忘れていたことを再構成しようというの か。そう、新たな記憶をねつ造してみる。そうやってまた嘘をついてしまうのだろうか。その通りだ。 

 遠いと感じるのは、それがだいぶ昔の記憶だからだろう。遠い日の思い出、というありきたりな思い出。君は耽美的な世界が好みなのか。 唐突な割り込みだ。リリカルな雰囲気、という雰囲気が私にはいまいちわからない。意表をついた発言だ。友人は最近隠遁生活をやめたらしい。さらに話が飛 ぶ。君の心が完成したとき、君は自閉する。完成ということはそこで何かが閉じるということだ。セッションは完成しない。いつまでも未知の共演者の席を空け ておく。そして徐々にフェイドアウトしていきながら、無限遠の彼方の終わりを連想させる手法だ。実際には終わらない。それが遠近法的手法。それが君の得意 分野だった。唐突な断絶は好きじゃない。無責任だ。誰に対して?知らない人に対して。 

 思わず何かを叫んでいたらしい。周りの騒音で聞こえないんだ。自分の発した叫びより周りの騒音が勝つ世界。そんな世界だ。そういうロ マンチシズムには吐き気がする。そうやって迂回していく物語もある。言葉を常に先取りしていき、話にスピード感を持たせる。そして絶えずずれていく。つい には、いったい何を話しているのかわからなくなる。それがねらいだ。雰囲気だけのスピード感。それが好きなんだ。マジになることをいつも回避しているわけ だ。そんな話はくだらないだろう。中身が何もない。そこが好きなんだ。だが、これもひとつの嘘だ。そう、嘘が好きなんだ。 

 忘れかけていたんだ、この感覚を。ジャズしかない。インチキ臭いフレーズでクラシックから盗み取れ。何を?技術と知的な雰囲気を。何 もかも中和させるんだ。くさい歌謡曲でさえジャズで中和できるだろう。そんな希望的観測。ゴミみたいなミリオンセラーを輝かせるんだ。無理か?知らない。 ジャズは無責任だ。何もかもやりっぱなしで後始末はつけない。部屋一面に散らかった薄汚れたおもちゃだよ。それが本能だろう。本能の赴くまま散らかし続 け、次第にフェイドアウトしていく。あとに残ったものは使用不可能ながらくただけ、だが、そのがらくたがミリオンセラーの歌謡曲になる。それをありがた がって聴く数百万のがらくた人間。なぜありがたがるのか?残骸の中にも砕け散った宝石のかけらがあるからだよ。と、こういうロマンチシズムには吐き気がす る。ジャズ的選民思想。わかる奴だけがわかる。でもこういう嫌らしい言い方しかできないだろう。しかし、それを個人の趣味の問題に還元するのはいやだ。だ からこんな風に述べるしかない。哀しい物語。しかしこれが希望でもある。可能性がある。 
 
 

8月2日

 先日、足長蜂に後頭部を刺されて、ちょっとだけ痛い思いをしたんですが、幸い、中途半端の天然パーマで長くてぼさぼさの髪の毛にじゃまされたらしく(そ ういえば半年ぐらい床屋に行っていない)、あまり深くは刺されなかったようで、それから二日経過した今は、ちょっとかゆみが残る程度になってしまいまし た。それで、そのとき思ったんですけど、何でハチって偶然に巣の下を通りかかっただけで攻撃してくるんだろう?自分は何もあんたらハチさんに何の危害も加 えようともしていないし、別にあんたらと餌の取り合いの生存競争を繰り広げているわけでもないのに。そうか、ハチに人間の論理や常識は通用しないのか、 と、そこではたと気がつきました。これが自然との共生というやつか(笑)、と。しかしそれじゃあ、例えばエコロジストのみなさんのありきたりなスローガン である、自然との共生をめざそう、といった類ものは最初から完全に無効ですよね。そんなこと言う前にすでに我々人間はみんな思いっきり自然と共生しちゃっ ているわけですから。しかもそれはエコロジストのみなさんの思い描くような理想化された甘ったるい夢想とは違い、時にはハチに刺されて痛い目に遭うような 辛い共生なんですよね(笑)。そうです、我々には自然と共生するしないの選択ができないんです。生まれたときから強制的に自然と共生させられているわけで す。それ以外の世界は存在しません。現実に、我々は毎日ゴキブリやダニと共生しています。 

 でもまあ、以上に述べたことも、所詮一人の人間が偶然ハチに刺されたことがきっかけで考えついた人間の側の論理にすぎず、結局虫には 通用しないよね(笑)。虫には勝てませんよ。ここでこうしている間にも、ベランダの夏みかんの木の葉っぱがアゲハの幼虫にサクサク食べられちゃっているん だろうな。去年の夏などは、ほったらかしにしていたら丸坊主にされてしまいました。今年はなるべく見つけ次第駆除するようにはしているんですが、なにしろ 一週間に一度しか戻れないから、戻ったときにはもう数匹の毛虫がとりついていて、たまに気がつかなかったりすると大きな青虫に成長していたりするんです。 そうなると、もういいや、はやいとこさなぎになって成虫にでもなってどこかへ飛んでいってくれよ、とあきらめてしまうんですが、でも実際はそうはならず に、さなぎになった段階で寄生虫に内部から食い荒らされて小さな穴のあいた空っぽの抜け殻が残るだけで、今のところ一度も成虫になったのは確認していない んですが、それでもアゲハは性懲りもなく小さな植木に大量の卵を産み付けにくるわけです。全く無駄な努力なのに、と思うこと、これも人間の論理であり、所 詮虫には通用しません(笑)。春先にはアブラムシにやられて、夏にはアゲハの幼虫と葉っぱの内部から食べる変な虫にもやらて、たまに尺取り虫も現れて、植 木を見るも無惨な姿に変えてゆく、これじゃあ観葉植物としての機能をまるで果たせません。いっそのこと、農薬や殺虫剤を使用すべきですか。え?そうすると エコロジストが、虫を殺すな!小さな命を守れ!と怒りますか(爆笑)。う〜む、自然との共生ってムズカチイものなんでちゅね。