彼の声138

2020年

5月31日「嘘つきの味方」

 複数の物事が組み合わさって思いがけないことが起こると、それがたまたま偶然にそうなってしまったとしても、何かそうなる運命だったように思われてしまう成り行きというもあるだろうし、何かそうなった結果から論理的に辻褄が合ってしまうと必然的にそうなったように思われてしまうわけだが、それについて語る際に必然的な成り行きとして説明すれば、原因と結果の因果関係を語ることになってしまうわけだが、もちろん一つの原因から一つの結果がもたらされるのではなく、複数の原因が組み合わさって複数の結果をもたらすのが現実の世の中で起こっていることだろうし、それらの全てを語りきれないとしても、それらの中から語りたいことを語ろうとするのだろうが、語り得ないことを語ろうとしてそれに失敗してしまえば、それをうまく説明できないことに気づくかも知れないが、なぜうまく説明できないのかといえば、話の辻褄を合わせることができないのかも知れないし、そうかといって説明できるところだけ語ると、語るのに都合の良いところだけ語っているような印象が伴ってしまうのかも知れないが、では語るのに都合の悪いことを語れるかとなると、果たして語るのに都合の悪いことを語ろうとしていることを意識できるかとなると、すでに何かを語っていれば都合の良いことしか語っていないし、都合の悪いことを避けながら語っているはずだが、それは語っている人にとって都合の悪いことであって、それが語るのに都合の悪いことになるかといえば、確かにその人にとっては都合の悪いことにはなるだろうが、それが語り得ないことかといえば、その人にとっては確かにそうかも知れないが、他の人にとってはそうではないかも知れないし、何かその人にとって都合の悪いことを暴露するような目的を伴うなら、好んでそういうことが語られてしまう成り行きもあるだろうが、それと純粋に語り得ないこととはどう違うのかといえば、例えば辻褄が合わないことを辻褄が合うように語ろうとすれば、辻褄が合わないことは語り得ないだろうし、逆に辻褄が合うことを辻褄が合わないように語ろうとしても語り得ないだろうが、無理に語ろうとすれば嘘偽りを語っていることになるだろうが、嘘偽りでもかまわなければわざとそう語っていることになってしまうわけだが、なぜ嘘偽りでもかまわないのかと言えばそんなふうにしか語ることができない場合があるだろうし、そこに嘘偽りしか語れないような事情が介在してくるわけだが、それを受け取る側がそんな事情を察知してしまうと嘘がばれてしまうことになるわけだが、逆にばれてしまうことを見越してすぐにばれるような嘘しかつかない場合もあるわけで、そうなると他人から嘘つきだと思われても平然としていられるような立場や境遇というのも容認される可能性が出てきて、それの何がおかしいというわけではなく、実際にそんなことが許されるような世の中となっているわけで、むしろその人を嘘つきだと糾弾すること自体が憚られるようならそこで都合の悪いことが逆転していることになり、普通は嘘がばれることが都合の悪いことなのにすぐにばれるような嘘をつく人を嘘つきだと糾弾することが都合が悪くなるとしたら、何かおかしな事態となっているはずだが、そこで嘘つきだと糾弾する行為が空回りするような成り行きが生じていて、世間がすぐにばれるような嘘をつく人の味方となっていることになるが、そんな事態となっていることが世間にとっては都合が良いのかと言えば、それが容認されていれば都合が悪いどころかむしろそうすることが推奨されているとまでは言えないとしても、特定の立場や境遇の人にはそれが許されるようなことになっているのかも知れないし、すぐにばれるような嘘をつくことによって、都合の悪い事情が明らかにされるのをはぐらかそうとしているとも言えるのかも知れず、都合の悪い事実を指摘されたから、それに対してすぐばれるような嘘をついて追及をかわそうとしていて、そういうやり方がまかり通るような言論環境を作り出しているのが、すぐばれるような嘘をつく人と共に世の中の主導権を握っている政治勢力であれば、何か納得がいくように思われて話の辻褄が合うのかも知れないが、そんな都合が悪くなるとすぐにばれるような嘘をついて追及をかわそうとする人を誰が支持しているのかと問われると、その人を支持していることになってしまう人たちにとっては都合が悪いことになるわけで、それは問われてはならないことであり、誰もその人を積極的には支持していないが、代わりにその人を嘘つきだと糾弾している人たちを攻撃することによって、都合の悪いことが問われてしまうのを押さえ込んでいることになるわけだが、たぶんそういうやリ方に無理があることも重々承知しているだろうが、すでにかなりの長期間にわたってそういうやり方を押し通してきたのだから、今さらやめるわけにもいかないだろうし、事ここに至ってやめるにやめられない状況に陥っているのかも知れないが、そこで何をやめた方がいいのかといえば、すぐにばれるような嘘をつく人の味方として振る舞うのをやめた方がいいわけだが、果たしてそれができるかとなると、今まで長期間にわたってやってきたことの非を認めないといけなくなってきて、普通はそれができないからずるずると惰性で現状維持の方向に引きずられていってしまうわけだが、それもたぶんそうなってしまう人がほとんどだろうし、何らかのきっかけからすぐにばれる嘘をつく人が失脚するまではそういう姿勢を保つことになるわけだが、実際にそういう事態が起こってしまえば、そういう人たちは何事もなかったかのように態度をあっさり変えてしまい、もちろん今まで嘘つきの味方であったことなどおくびにも出さずに平然と振る舞おうとするだろうが、それを世間が許容するかといえば人々に向かって許容するように同調圧力をかけてくるだろうし、それで文句が出なければ世の中が丸く収まるのだからそうなってほしいだろうが、実際にどうなるかはその時になってみないことにはわからないことだが、たぶんそこに至るまでにはそういうあからさまな事態になることを避ける試みが方々でおこなわれることになり、何とかそうやって世の中で良識が保たれているように見せかけるのかも知れないが、そうなるために具体的にはどのような努力がなされるのかといえばやはり現状ではよくわからないだろうし、結果的に世の中全体が嘘つきを消極的ではあったとしても支持してきたことの尻拭いができなければ、良識が保たれているようには見えないだろうし、恥知らずな行為が相変わらず蔓延しているような状況が続いていってしまうことになるかも知れず、否応なくそうなってしまえば世間の雰囲気が自虐的な心理状態に覆われているとも感じられるだろうし、逆にそうなっている限りで不用意に強がったり思い上がらずに謙虚な態度を保てるのかも知れないが、それでもうまく取り繕って安心してしまえば慢心が生じて、謙虚な態度が保てなくなってくるだろうし、強がりな人たちはどうあっても自虐史観的な心理状態から逃れたいわけで、だからこそ嘘つきでもかまわないから自己中心的な態度を正当化をしてくれる代弁者を支持しようとするのだが、嘘つきにとってはそういう人たちが格好の標的にもなるわけで、そんな自分に正直な人たちを味方につけることによって世の中の主導権を握ろうと画策して、ある程度はそれに成功したわけだろうし、比較的長期間にわたってそんな人たちにとって有利な状態を維持してきたのだろうが、その内実がどうであったかといえば、まだ全てを振り返る時期ではないとしても惨憺たる状況を呈しているようにも思われるだろうし、それの何が惨憺たる状況なのかといえば、すぐばれるような嘘を平気でつくような決して尊敬されることはない役回りを強いられてきたわけで、そんな状態を正当化すればするほど正当化している自らの情けなさをさらけ出すことにもなりかねず、それも不問にしておかないと正気を保てないのかも知れないが、そうやって傷ついた傷口に塩を塗るようにして、その人たちを嘘つき呼ばわりしている人たちも攻勢を強めてくるし、それもうるさいハエや蚊につきまとわれていると思えばかろうじて自尊心も保たれるのかも知れないが、その自覚がなくても何か根本的におかしいことになっているのかも知れず、嘘も方便とばかりにこそこそ逃げ隠れしていないでもっと立派で正々堂々としたことをやっていられるような状態になりたかったことは確かだろうし、それができないのはどうしてなのかと疑問に思われるかも知れないが、事の成り行きとしてはそういう正々堂々と振る舞おうとした人たちが一掃された後の時代の中で事態が進行中だと捉えるのが無難なのかも知れないが、実際のところは人が正々堂々と振る舞える余地があるのはフィクションの中にしかないと思っておいた方がいいのかも知れない。


5月30日「悲劇に装われた笑劇」

 好き嫌いや利害とは関係のない次元で何がおこなわれているかと言えば、その場の成り行きに沿ったことや成り行きに逆らったことがおこなわれていて、その場の状況に合ったことや状況に合わないこともおこなわれているだろうが、それが好き嫌いや利害と一致したり一致しなかったりすることもあるだろうし、そういうことはあまり意識されずにおこなわれていることもあるだろうが、何かをおこなった結果からそう思われたり思われなかったりすることもあるだろうし、おこなう前からそれを意識しておこなおうとする場合もあるだろうが、それに関してどう思っても謎な面というのも出てくるだろうし、何だかわからないがそうなってしまって、そうなってしまったことが何を意味しているのかよくわからない場合もあるのかも知れず、特に積極的に自らの意志で動いてそれを成し遂げたわけでもないのに、何だかわからないが周囲の様々な方面から作用を及ぼされたり影響を受けたりしながらそうなってしまって、そうなってしまったことに関してどう捉えても自らの業績とは言えないようなことであっても、結果的にはそんなことに自らが少なからず関与していて、そうなってしまったことについては多少の責任が自らにもあるとは感じているものの、全面的に責任があるとは思えないし、自分よりも明らかな役割を担っていた人が他にいれば、どちらかと言えばその人により大きな責任があるだろうし、そうであれば自分には相対的により小さな責任しかないと思われる場合には、責任逃れをしたところでそれほど良心の呵責は感じないだろうし、そうなってしまったのは自分のせいではないと主張しても問題はないように思われるとしたら、誰もがそうするのかも知れないし、それに関与した誰もがそう思っているとしたら、それはそんなことの範疇の中で起こったことに過ぎず、そうやって関与した誰も責任を取ろうとしない事態となってしまい、それが否定的な結果を伴った出来事であれば、何か釈然としないことになってしまうのだろうが、それが無責任体制の特性とも言えるだろうし、その場の空気が自然とそうなる成り行きへとそこへかかわってくる人たちを導いてしまい、そうなってしまった後からひどい結果をもたらした責任を追及するようなことになっても、すでに誰もが責任逃れをすることしか眼中になく、自分のせいではないと責任のなすり合いをするような有様なら、誰もがそういう心境でその場に関与していたわけで、そんな集団的な雰囲気が醸し出すその場の空気にそこに居合わせた人たちが支配されていたことになるわけだが、だからといって具体的にどんな指示や命令に従って動いていたわけでもなく、意識して何をやっていたとも思えないだろうが、結果的に何らかの事態をもたらしてしまったわけで、それが否定的な事態であればそれを批判されたり非難されたりするわけだろうが、それが身に覚えないのない濡れ衣というわけでもないとしても、少なくとも自らに非があるとは認めたくないだろうし、非があるとしても自分よりはもっと大きな非があると思われる人が他にいて、その人が批判されたり非難されたりするのは仕方のないことだろうが、そのとばっちりが自分にまで及んでしまうのは納得がいかないだろうし、自分には相対的に少ない責任しかないはずで、それを自分に非があるかのように言われてしまうのは心外であり、そうなってしまった責任の所在が誰にあるかに関しては争う用意があるとすれば、その場に関与した他の人たちもそう思っているだろうし、それが高じて罪のなすり合いに発展してしまうのは致し方のないことだろうが、そうやって事後的に問題の処理がおこなわれるにしても、そこで何かが起こっている最中では誰もそんなことは意識していないわけで、その場に居合わせた誰もがそこで生じている成り行きに導かれながら何をおこなっていたとしても、自分の意志で主体的に活動していたわけではなく、何らかの役割分担に沿ったことをおこなっていたとしても、誰からその役を割り振られたわけでもないのに、その場の構造から生じてくる役にはまってしまっていたわけで、それがその人の受動的な特性と言ってしまえばそれこそ事後的な辻褄合わせでしかないわけだが、そうやってあてがわれた役の中には死に至る危険を伴うような成り行きも含まれているわけで、結果的にそこで死んでしまった人が被害者の役を演じて、その人を死に至らしめた周囲の人たちが加害者の役を演じていたわけだが、そんな予定調和の死亡遊戯のような劇的な結果がもたらされたとしても、別に誰もそうなった責任を引き受けようとは思わないだろうし、そんな劇が架空の台本通りに進行したわけでもなく、たわいない遊戯の中にたまたま特定の人の死が含まれていたとしても、その人が死んだからといってくだらない劇が終わるわけでもないだろうし、そこでは終わったように思われるだろうが、また別のどこかで同じようなシナリオに基づいた同じような劇が繰り返されるわけで、そこで人が死んだからといってそれが悲劇というわけでもないだろうし、悲劇というよりは笑劇の一種なのかも知れず、人が死んだのだから事後的な辻褄合わせとしては悲劇に装われるとしても、それがおこなわれている最中は笑劇でしかないわけで、そこに居合わせた誰もが面白がっていて、そういう役柄を演じるのが楽しくてしょうがないからやめられないわけで、そういうことをやるのが楽しいから多くの人たちがそこへと群がってくるのだろうし、たとえそんな楽しみが招いた結果として否定的な事態がもたらされたとしても、それをもたらした人たちを批判したり非難したりする人たちも、そういう批判したり非難したりする正義の味方のような役割を求めてそこへと群がってくるのだから、それがまだそこで劇が続いていることを物語っているわけで、それが劇の第二幕として機能しているのかも知れないが、そこで多くの人が気づかなければならないことは、そういえば以前にもこんなことをやっていたような気がすることであり、それはすでに第一幕を見せられた時点に気づかなければならないことだったのかも知れないが、気づいた人はそんな茶番劇に付き合っている自身の愚かさにも気づいてしまい、そんな自己嫌悪を振り切りながらさっさとその場から退散するわけだが、気づかない人たちは誰かを死に至らしめた人たちを批判したり非難したりするというこれ以上ない絶好の機会をいつまでも堪能していたいわけで、そうやって絶対的に優位な立場を占めながら何やら利いた風な紋切り型の説教を繰り返すわけで、その醜悪な言動の内容に吐き気を催しながらも何とか正気を保とうとする限りで、誰もがこれからもこんなことが繰り返されるだろうことを予想してしまうわけだが、なぜそんな茶番劇を楽しむのを早々に切り上げてどこか他の場所へと向かわなければならないのかというと、そこが危険地帯なのではなく、多くの人たちによって踏みしめられた強固で安定した地盤の上に構成された舞台であり、そこでメディアのかけ声に合わせていくら踊らされても何も得るものがないのはもちろんのこと、そこで娯楽に興じているだけではどんどん愚かになっていってしまうわけで、しかもそれが危険な兆候なのではなく、むしろ安全地帯で安定した生活を送れるのかも知れないが、その安全で安定していることが養鶏場で飼われているブロイラーような状態になっていて、だからといってメディアの餌食として飼われているとは思えないだろうが、肉食用のブロイラーではなくケージ飼いされた採卵用の鶏であるとしたら、毎日産む卵が何として機能するかといえば、パック詰めされてスーパーの店頭に並んでいる光景を想像してみても、何を思い浮かべられるわけでもないだろうが、いったんそうなってしまえば養鶏場の中に閉じ込められてしまってどこへも行けなくなってしまうわけで、そんなふうに情報によって囲い込まれてしまう前に何をどうしたらいいのかというわけでもないにしても、自らの境遇を無理にありふれた比喩に当てはめてみる必要もなければ、まだそこから離脱できる可能性が残されているだろうし、そこから離脱して何をどうするとも思い浮かばないとしても、離脱することが場所的な離脱ではないとしたら、例えばそこにいながら別の光景を思い浮かべられればいいわけで、大勢の人たちが同じ光景を見ている必要がなければ、そう仕向けている意図や思惑からずれるような視線を獲得する成り行きに至るのではないか。


5月29日「間違った行為」

 たとえやっていることが間違っていると見なされても、それが何を以て間違っていると判断されるかが問題だが、少なくとも間違っているということが理屈ではまずいことなのだが、実際には間違っていてもかまわない状況になっていることもあるだろうし、間違った行為がまかり通っているとそれに対して批判が起こるわけだが、批判されながらも間違ったことがおこなわれていると、何かそれが間違いではないように思われてくるわけで、そうなると間違いが容認されていることになるわけだが、誰がそれを容認しているつもりがなくても間違ったことがおこなわれていればそうなってしまうし、そうなるとそれが間違いであると判断して批判している人たちが、間違っていることがおこなわれているのにそれを止められないわけだから、負い目を感じさせられて、自分たちに止められないことの責任があるように感じられてしまい、逆にそこをつけ込まれて間違ったことをやっている人たちから攻撃されてしまうことだってあるだろうし、そうなればますます間違ったことをやっている人たちがつけあがって盗っ人猛々しく振る舞うようになってくるわけで、普通にそうなってしまう成り行きの中で情勢が推移している場合もあるわけだが、つけあがって威張っている人たちが堂々と振る舞って、その威張っている状態を世間が放置しているように思われてしまうと、それ自体が間違っていることのようにも感じられてしまうわけだが、それは間違ったことをやっているわけではなく、間違った行為をやめさせることができないということであり、やめさせることができないこと自体は間違っているわけではなく、それを間違いだと見なしてしまうこと自体が間違いだとしても、やめさせることができないという現実が間違ったことをやっている人たちに負けているような敗北感をもたらしてしまうわけだが、やっていることが正しいか間違っているかの判断と、その結果としてもたらされる勝ち負けが関係しているとすれば、普通は正しいことをやった人たちが勝利するような成り行きとなるはずだが、どうもそうではないような結果がもたらされると、何かが間違っているような気がしてくるわけだが、たぶんそれも普通にそうなってしまう成り行きの中で情勢が推移していれば、取り立てておかしな状況となっているわけではないはずだが、やはりそれなりに違和感を覚えるとすれば、それをおかしいと思うのが正しい認識のように思われるわけで、そう思われるならそこで間違った行為がまかり通っている状況を正さなければならないと思うだろうし、そう思ってしまう人がそれなりに存在するだけで、それがおこなわれていることに対する批判や抵抗として機能するわけで、いくら威張って批判や反対を押し切りながら強引なことがおこなわれていても、いったんそんな否定的な印象につきまとわれてしまうと、いずれはうまくいかなくなるはずだと思われてしまうだろうし、現状でも多くの人からそう思われているならすでにうまくいかなくなっているはずで、そうなっているから実際に批判されたり反対されているわけだろうが、そんな批判や反対に打ち勝ちながらおこなわれていることが、実際におこなわれていることのほとんどなのかも知れず、逆に誰もが賛同して支持するような正しいことがおこなわれることは稀で、現状の世の中で何かおこなえばそれなりの賛同や支持があるからおこなえるとしても、それと同時にそれなりの批判や反感なども必ず伴ってしまうだろうし、ある程度はそうなるのは仕方のないことだとしても、結果的にそれをやっていられるようなら世の中でそれなりに機能している面があるわけで、全くの無駄で無意味で何の利益ももたらさないどころか弊害しかもたらさないようなことなら、そんなことははじめからおこなわれないだろうし、それをおこなうことによって何かしら機能していて、しかも批判されたり反対されているとすれば、それなりの弊害ももたらされていて、それをやめさせるには機能してしまうのを阻止するしかないわけだが、すでに何かしら機能していてそれなりに利益をもたらしている行為をやめさせるのは容易なことではなく、何かそれとは異なる別のやり方を機能させて、それと競合させることによって別のやり方が弊害をもたらすやり方に打ち勝つように仕向けなければならず、そうしないとすでにそこで機能してそれなりの利益を出している行為の穴埋めができないわけで、単にそれをやめさせるだけでは済まないわけだが、そんなことまでそれを批判したりそれに反対している人たちができるかとなると、現状では難しいと思われるからなかなか賛同や支持を得られない面もあるかも知れないが、それでも強引に力で押し切ってやめさせるような成り行きになることもあるだろうし、何かそういうところで理不尽なことをやらないとうまくいかないわけで、うまくいかないからこそ理不尽なことをやる成り行きになってしまい、それこそがうまくいかないことを示しているわけだが、それも間違った行為には違いないわけで、間違った行為をやめさせるために間違った行為をやる羽目になってしまえば、ただでさえおかしいのにそれに輪をかけておかしなことをやらなければならなくなって、それによってますます不条理感が増してしまうだろうが、それもそうなることが必然的な成り行きであるかのように思われてくるとすれば、ではいったい正しい行為とは何なのかと問うなら、事前に定めた内容の通りにおこなうことが正しい行為であれば、実際にやってみてその通りにならなければ、事前に定めた内容が間違っているか、実際におこなっている行為が間違っているかのどちらかだとなるかも知れないが、どちらも間違っていれば正しい行為がわからずじまいになってしまうかも知れないし、どちらも正しければ正しい行為が複数あることになってしまうわけだろうが、そもそも利益を得られて機能しているから正しいとも、弊害を伴ったり機能しないから間違っているとも言えないのかも知れないし、それが間違っているからやめさせる必要があったり正しいからおこなうべきだとも言えなければ、ではどのような行為をおこなうべきかについて明確な判断基準がなければどうすればいいかとなるわけだが、成り行きとしては結果的に何らかの行為がおこなわれていて、そんな行為が世の中でそれなりに機能していれば、そこから利益を得る人や弊害を被る人が出てきて、そんな結果を踏まえてそれを正しいとか間違っているとか言う人も出てくるわけで、そんな人も出てこなければそこで何らかの行為がおこなわれているとしても、それが取り立ててどうということはないわけだが、少なくともそれをおこなっている当事者がいるわけで、その人にとっては何か意味や意義のある行為だと思われるのかも知れず、そんなふうに感情抜きで客観的に行為の良し悪しを判断することができないから、何やら変にこじれたり回りくどい紆余曲折などを伴ってくるのだろうが、実際にそれをおこなっている当事者にしてみれば、他から偉そうに批判されれば反発するだろうし、やめさせられるような成り行きになれば抵抗するだろうし、それだけ悪事だろうと何だろうと真剣に取り組んでいるだろうし、やっていることに全身全霊を注ぎ込んでいるのかも知れないが、それによって弊害を被っている人にとってはたまったものではないだろうし、弊害を被っている人にとっては絶対に間違ったことがおこなわれていて、それをやめさせなければ自身が悲惨な目に遭うわけだから絶対にやめさせようとするだろうし、そんな成り行きになればやっている人とやめさせようとしている人とがどのような形であれ戦うしかないわけだが、それに関して普通に考えるなら弊害が出ていればそれをなくそうとするしかないだろうし、弊害がなくならなければやめさせるしかなく、それによって得られる利益と被る弊害のどちらを優先させるかとなれば、被る弊害の程度や傾向にもよるだろうが、それに関しては社会の一般常識に照らし合わせて判断することになるかも知れないが、そこから何らかの利益を得ている人にとって都合の良い比較が持ち出されてしまうと、おかしな成り行きに持って行かれて、それを真に受けてしまう人たちと共に利益が優先されるようなことがおこなわれてしまうわけで、それも戦いの中で勝利を得るための戦略となるだろうが、そんな成り行きも戦いを見ている人たちに少なからず影響を及ぼすだろうし、見ている人たちがそれをどう思うかがその後の世の中の情勢を左右することになるのかも知れない。


5月28日「否応のない対応」

 社会の中で人が活動していて、人の活動が社会を作っていることは確かだが、そういうレベルではそういうことでしかないとしても、人の活動に伴って生じていることが人の活動でしかなく、それが人の活動に対応した人の活動であることは確かだが、人の活動と人の活動に対応した人の活動との間に区別がつくかとなると、たぶん個々の対応関係を特定できればその場では区別がつくかも知れないが、なぜ区別をつける必要があるのかと問うならよくわからなくなってしまうかも知れないし、何のためにそうするのかがよくわからなければ意味のないことになってしまうわけだが、例えば他人から批判されようとして批判されるようなことをやっているわけではないとしても、結果的に批判に対応するためにはわざと批判されるようなことをやっているわけではないとしても、その場しのぎの目くらましとしては批判されるようなことをやっているとしか思えないようなことをやっているわけで、そうやってその場の状況が形成されているとすれば、すでにおかしなことになってしまっているわけだが、たぶんそんなことは承知の上でそうなっているのであり、そうなることを想定しているとしか思えないようなことがおこなわれていて、それがそれで済んでしまうようなことでしかないとしても、それで済んでしまったらそんな状況の中で批判を繰り返している人たちは、批判させながらその場をしのいでいる勢力の術中にはまっていることになるわけだが、わざとそうやっているとは思えなければやはりそういうやり方に対応するしかなく、それがその場に対応した批判になってしまうわけで、その場の状況に対応して何かをやるとなると、その場でおこなわれていることに対する批判となってしまい、そうすることによって批判させている側の術中にはまっているとしても、他にやりようがなければそうするしかなく、その一方で批判させている側も批判されるようなことしかできないのであり、双方がその場の状況に対応すればそうなってしまうわけで、そうやってその場が形成されていることになるわけだが、それが予定調和の辻褄合わせと言えるかとなると、別にそうなることを目指してそういうことをやっているわけではなくても、結果的にそうなってしまうわけだから、そう解釈してもかまわないわけだが、そんな解釈に何か肯定的な意味があるわけでもなく、意味のない解釈に終始しているようにも思われてしまうわけだが、それ以外に何ができるわけでもないだろうし、誰が仕掛けたわけでもないのにその場に術がかけられて、その術にかかることがその場の状況に対応することになれば、術にかかっている人の間では何らかの役割分担が成り立っていて、役割分担によってその場の人間関係が構成されているのだろうが、たとえそれが敵対関係であっても予定調和に至ることを狙っているわけで、すでにそういう関係が成り立っていること自体が、その場における批判がはぐらかされている証拠となってしまうのかも知れないが、その場の状況に対応するにはそうするしかなく、そうする以外には何もできない人たちがその場の状況に対応していると言えるのかも知れず、そうやって対応できなければその場で機能するような役割を担えず、その場に介入することができなくなってしまい、その場には登場してこないわけだが、それが何を意味するのかとなると、その場から排除されていることになるわけだが、別にそれでかまわないわけで、排除されても困らなければその場には介入してこないし、登場してくることもないわけだが、そうやってそれ以外の人たちが登場してこないから、その場での役割分担が成り立っていると言えるわけで、そうなっていないとその場にいる人たちが状況に対応しきれないだろうし、その場のいる人たちが対応しきれる範囲内でその場の状況が構成されているとも言えるわけで、だからその場がその場として存在しているとも言えるわけだが、そうであるならその場を変化させるには、その場を構成する役割分担を成り立たせないようにする必要があり、それにはその場では無効となっている批判を有効にしなければならないわけだが、どのように批判すれば有効な批判となるかといえば、すでに批判が有効に機能しているわけだからそのままでもかまわないだろうし、現状を成り立たせる上で批判が有効に機能しているわけだが、逆に現状が成り立たないようになるような批判が現状の中で可能なのかといえば、現状が現状のままに成り立っている限りはそれが不可能だからそんな批判はあり得ないわけで、現状が現状のままであり続けるには、現状を変えようとする批判が無効のままになっていなければならず、無効のままになっている限りで現状を成り立たせるには有効に機能していることになるわけで、現状を変えるには無効となっている批判を有効にしなければならず、批判が有効になるには批判への賛同者が増えればいいのかというと普通はそう思われるところだが、いくら賛同者が増えても分散していれば有効には機能し得ないだろうし、批判の賛同者を一つの勢力に結集する必要があると思われるわけだが、それも普通はそう思われるところなのだが、どうもそうなることを目指して批判勢力を共闘させようとするとまずいのかも知れず、批判勢力を一つに結集して共闘させようとするとかえって不具合が生じてきてしまうとしたら、それがどんなことなのかといえば、それはそういうことをやっていく過程で生じてくることであり、それを克服しなければならず、実際に克服しようとしているわけだろうが、たぶん現時点では克服できていないだろうし、これからも克服できないままとなってしまいそうだが、克服できなければ現状がそのまま続いていってしまうのかといえば、そのままの状態で続いていくわけではないだろうし、そうでなくても現状は自ずから変化し続けているわけだが、その変化が現状に介入している誰の思い通りにもなっていないということであり、思い通りになっていないからこそ現状に対する批判も可能となっているわけで、現状を思い通りに変化させることができていないという面では、確かに批判が有効に働いていないことになるだろうが、だからといってそれを無効と見なすのも間違っているのかも知れず、有効には機能していないがそれが無効とまでは言えないわけで、その一方で批判を浴びている勢力のやっていることも批判される理由となるまずい点があるにしても、それに対する批判と共にそんな行為によって現状が構成されていることは確かであり、まずいことをやって批判されることが現状の中での役割分担となっているわけだろうが、それによって批判勢力を術中にはめていると見なしても意味のないことだろうし、むしろ術中にはまっているのはそれらの行為を見ている人たちであり、自分たちが傍観者の役割を担わされているとは思えないだろうが、それに気づかないことが術中にはまっていることになってしまうとすれば、そこから脱却しなければならないのはそういう無効な役割分担からであり、現状の維持に関して一番利いてくるのは傍観者が多数派を形成していることであって、傍観している人が多いほど現状が維持される可能性が高まり、そこから変化を求めるには傍観していないで現状に積極的に介入しなければならず、介入してくる人が増えるほどそれが現状維持に関する不安定要因となって、ちょっとしたきっかけから現状を安定させている均衡が崩れて変化が起こりやすくなるだろうし、そういう意味で現状を打破するには多くの人や勢力が積極的に介入しなければならないわけだが、それに対して現状の維持を図ろうとする側も黙って見ているわけではないし、変化を阻止するために様々な策を講じてくるだろうが、その策としては普通は現状に対する批判勢力が一つに結集するのを防ぐためにはぐらかそうとするわけで、どうもそれが批判勢力の思惑と同じではないにしても間違っているのかも知れず、その辺で批判する側もされる側も勘違いしていて、保守派が偽りの批判派を担ぎ出して批判勢力を分断させることに成功したと思っている中で現状が変化していくわけで、そこで変化を促進しているのが分散力と言えるだろうし、批判派を分断すればするほど分散させればさせるほど、そうやって批判派の力を弱めるほど、それに伴って自分たちの力も相対的に弱まっていってしまうわけで、そうやってどちらの勢力でも何でもないような人たちの集まりになっていってしまうわけだが、それでもかまわないのかと言えば、現状でもそうなるのが当然の成り行きになっているのかも知れない。


5月27日「都合の良い解釈」

 人が人に向かって実際に伝えていることの中身には伝えようとしていること以外にも余分な情報が含まれていて、それは伝えようとしている当人も気づいていない可能性があるだろうが、それは余分な情報であって不足しているわけではなく、もちろん伝えようとしていることが伝わっていない可能性もあり、また情報を受け取る側が勝手に解釈してしまう場合もあって、その勝手な解釈が正しいか誤っているかは伝える側と受け取る側とで見解が分かれるところだろうが、情報を受け取る側が都合の良いところだけしか受け取らないと、伝えようとしたことの全てが伝わることはなく、むしろそのままの形で伝わることの方が少ないのかも知れないし、そこに解釈が介在してくるとそうなって当然となるだろうし、かえってそうならない方がおかしいのだろうが、それでも伝わってしまうことがあり、どう解釈しても伝わってしまう内容があるわけで、それが伝えたいことではない場合もあるだろうし、逆に伝えたいことが伝わらずに苛立ってしまう場合もあるわけだが、その中でも伝えたくないことが伝わってしまったら困ってしまうだろうが、そういう場合は受け取る側が伝えたい側の意図や思惑を勝手に想像してしまい、伝えたくないことを隠そうとしていると解釈するわけで、伝えようとしている側が伝わってしまっては困ることを隠していると推測するわけだが、その代わりに見え透いた嘘偽りを伝えて、情報を受け取る側を騙そうとしたりはぐらかそうとしているのではないかと考えて、それが情報を伝える側にとっては都合が悪く情報を受け取る側にとっては都合の良い解釈となるわけだが、そうなれば情報を伝える側と受け取る側が敵対関係にあることが明らかとなり、情報を伝えようとしている側は敵対する側に伝えようとしているわけではなく、自分たちの味方や支持者に都合の良い情報を伝えようとしているわけで、それを敵対する側が勝手に都合が悪くなるようにねじ曲げて解釈されては困るわけだが、そう解釈する側が敵対者であることを事前に承知していれば、はじめからそんな人たちは相手にしていない場合もあるだろうが、それも余計で余分な情報が伝わっていることの証しとなるだろうし、伝えようとしている情報にそう解釈できる余地が伴っていると考えることもできるわけで、それは何も敵対している人だけがそう思ってしまうわけではなく、敵でも味方でもない人もそう思うかも知れないし、そう思ってそう解釈することによって敵対者だと見なされてしまう場合もあるわけだが、どう思われてもどう解釈されても気にしない人もいるのかも知れないし、他人に都合の良いように解釈されることまで想像が及ばない人までいるだろうが、どう解釈されてもかまわないような内容を伝えているかも知れないし、特に伝えたいことを意識せずに伝えることなどあり得ないにしても、伝えようとしている当人にもよく理解できないことを伝えている場合があり、何だかわからないが伝えなければならないと思うかも知れないが、そんな使命感に突き動かされて伝える内容には、人から人へとひとりでに伝わって世の中に拡散するような傾向があるのかも知れず、拡散させるように仕向けるような命令を含んだ情報というのもあるかも知れないし、そんな情報内容に操られながら他へ伝えようとしてしまうなら、これは伝えなければならないと思わせるような情報が含まれているわけで、そういう情報は言いふらそうと仕向けるように人を誘惑する内容となっているからだろうが、そうなると伝える側にとっても受け取る側にとっても都合の良い情報となるわけだが、逆に伝える側にとって都合の悪い情報は伝えようとしないだろうし、受け取る側にとっても都合の悪い情報も聞く耳を持たないだろうし、そういう情報があるのかといえばそれが実際に伝わらなければ情報ではないだろうし、人から人へと伝わるから情報なのだからそんな情報などあり得ないと思うかも知れないが、都合の悪い情報が不快な情報なら伝えようとしないだろうし、受け取った側もそれを不快だと思えば、それをわざわざ他へは伝えようとしないだろうし、そうなるとそこで情報の伝達が止まってしまうわけだが、そんな不快な情報を抱え込んでしまうとそこから悪影響を被ってしまい、それが精神的な負担となってしまえば、情報を自らのうちにとどめておくことができずに、何らかの形で外へ吐き出すような動作が生じてしまうだろうし、それが機会を捉えて他人への攻撃的な衝動となって表れてしまうことだってあり得るのかも知れず、そういう意味でも他人が嫌がるような不快な情報を拡散するような人は、その人の心の中で攻撃的な衝動を促すような感情の素となる情報が溜め込まれていてそれが渦巻いていたりして、しかもそういう情報に感化されて賛同してしまう人も結構多いのかも知れず、そういう人たちが受け取った情報を都合の良いように解釈して、さらにそうやって加工した情報を世の中に広め拡散するような動作が生じれば、何やら現代的な情報化社会に表れる典型的な傾向となってくるわけだが、安易にそういう傾向に染まってしまう人が多ければ多いほど、それに伴ってそういう傾向を利用して利益を得ようとする人もそれだけ多くなってくるだろうし、そうなると人には安易にできることに群がる傾向があり、たとえそれが社会に悪影響をもたらすことであっても、誰もが安易にできるからそういうことを多くの人がやってしまうわけで、それが他人を直接攻撃して傷つけることができなければ、誹謗中傷によって他人の心を傷つけることになったりするわけだろうし、そういう攻撃的な衝動を抑えられないほど不快な情報を自らのうちに多量に溜め込んでいれば、それだけ不快な傾向を恣意的に強めて吐き出す持続力も大きくなるだろうが、心の容量が小さければ絶えず他から備給されていないとすぐに尽きてしまうから、そういう悪意を伴った小さな心の持ち主たちが分散的にネットワークでつながって、絶えず情報のやりとりをしながら全体として力を強めるような傾向もあるのかも知れず、それも情報化社会の顕著な傾向かも知れないが、そうなっていればそれらのネットワークの中で特定の箇所を寸断しても他とのつながりがあるからあまり効果を上げないだろうし、そういう意味では安易に他とつながってちょっとした情報を気軽に共有できることが、かえって執拗な攻撃を持続的に繰り出せる可能性をもたらすわけで、そんな集団的な嫌がらせによって周囲を取り囲まれてしまったらたまったものではないが、そんな攻撃も無名の誰でもないような人には向かわないわけで、そこからうかがい知れることは、誰でもないような無名の小集団が世間的に少しは名の知れている特定の個人に対して攻撃を仕掛ける場合があるわけだが、さらに多数の無名の誰でもないような人たちも集団で結束することなく分散して存在していて、そういう人たちにとってはそんな小集団による執拗な嫌がらせとは無縁であり、そこで何やら互いに足の引っ張り合いをやるような成り行きにもならず、何でもないままとなっているのかも知れないが、果たしてそういう人たちの間で情報の共有というのができているかとなると、その必要がなければそうはならないし、そういう人たちには各々に都合の良し悪しがあって、その都合がネットワークを介してつながることがあるかといえば、それほど広範囲にはつながらないのかも知れず、そういう方面では執拗な持続力も生じないのだろうが、安易な悪意の供給ならできて善意の共有はできないのかといえばそれなりにできるのかも知れないが、少なくとも善意で他人を攻撃することはないだろうし、攻撃するならそこにどのような理由があろうと悪意と見なされるだろうし、そういう意味で悪意を伴った攻撃が目立ってしまうわけで、他人を攻撃することでしか意思表示ができないわけでもないのだろうが、目立とうとするなら攻撃するしかないだろうし、しかもその攻撃の対象として善意の連帯があるわけで、他の人たちが善意によって連帯しているのが気に食わない人も大勢いるだろうから、それだけで攻撃する理由になるとすれば、そういう悪意による攻撃に対する防御として善意による連帯があることも確かだが、自らが何でもないような存在であればそもそも攻撃を受けないだろうし、攻撃を受けなければ善意によって連帯する必要もないわけで、そういう理由で攻撃を受けない人たちの間には善意の連帯が広がらない可能性があるのかも知れず、そういう意味でもどちらが目立つかとなれば悪意による攻撃の方が目立ってしまうのかも知れないが、それも都合の良い解釈となってしまうわけだ。


5月26日「わかりにくい差異」

 何らかの差異が根本的な差異であることを理解するには、その差異が他の差異とは違うことを認識する必要がありそうだが、他の差異と同列に扱ってもかまわないような差異であるなら、それは相対的な差異でしかないだろうし、そうした差異をいくら並べても以下同様にいくらでも同じような差異が続いてしまうだろうが、そうではなくその差異のあるなしによって物事の認識に根本的な変容が伴うような差異であれば、それが根本的な差異になるわけだが、そんな差異の存在を認識できるか否かでも、それを認識できる人とできない人との間で根本的な差異が生じるかとなると、それも微妙なところかも知れないが、世の中の一般的な傾向としては差異が生じていないように装いたいわけで、そこに差異が生じていることを知られてはまずいような思惑が介在していて、普通の一般人が差異を指摘しても無視されてしまう一方で、何らかの権威者が差異を指摘すれば納得するかも知れないが、権威者が何らかの差異を指摘することによって逆にその差異が隠蔽されてしまうような効果を伴うわけで、要するにそれがもっともらしいように思われてしまうことによって、その差異が何でもないことになってしまい、誰もそのことに驚かなくなり、そこにそういう差異があるのが当然のことになってしまうわけだが、その差異が具体的に何かといえば、それが他ならぬ権威者と一般人との間に生じている差異だろうし、そこに差異があって当然のように思わせるのが権威者の存在であるわけで、それが権威者のブランド的な価値でもあるわけだが、それを下から支えているのが権威者に対する一般人の思い込みであり、そう思い込ませるのがメディアの役目ともなるわけだろうが、そこに根本的な差異があるかのように思い込まされている人が多いほど、その人が権威者として成功している証しともなるわけだが、ではそういうまやかしではない真の根本的な差異とは何かといえば、それはメディアによってはコントロールできない差異となり、権威者も一般人もすぐには認識できない微妙な差異となるかも知れないが、なぜそれが根本的な差異となるのかといえば、その差異があることによって何らかの区別が成り立っていて、その区別によって社会そのものが構成されているからだが、それが模造品を生み出す差異でもあり、その差異を認識するには模造品とそうではないものを区別しなければならず、区別できなければ区別できない自らも模造品となってしまうような結果をもたらすわけで、そうであるならそれを認識するのではなく区別することによって差異が生じてくるようなことになり、それが微妙な行為となってくるわけだが、果たして模造品とそうでないものをどうやって区別すればいいのかについては、それを特定できるような基準が恒常的にあるわけではなく、その都度判断を要するようなことであり、区別することができなければ模造品とそうではないものの区別がつかなくなってしまい、模造品を本物であるかのように思い込んでしまう危険が伴ってくるのだろうが、果たしてそれが危険なのかというとそうでもなく、それどころか積極的に模造品を肯定的に評価することによってメディア的な権威者になれる可能性もあるわけで、本物よりもまがい物を評価する方が世間一般のウケが良いような傾向もありそうで、その辺も微妙なところでもあるわけだが、なぜそうなってしまうのかといえば、功利的にはそうする方が利益を得られるのだろうし、まがい物を売ることによって金儲けが成り立っているような経済的な事情もあるのかも知れず、それだけ本物が希少であり数も量も少ないのかも知れないが、果たして何が本物なのかといえばそれは売り物ではなく、金銭と交換することによって取引されるようなものではないからそれが本物だと言えるようなものであり、それはそこから切り離して売られるようなものであってはならないのだろうし、そこにあるものでしかないと言えるものでもあり、実際にその辺に転がっている石ころの類いも本物であるわけだが、普通は石ころに金銭的な価値が生じることはないわけだが、人の労働によって採掘されるされるような資源となると金銭的な価値が生じるだろうし、労働した分の経費がかかるから少なくともそれを売ることによって経費を捻出する必要が出てきて、なぜわざわざ採掘しなければならないのかといえば、人がそれを使うからであり使用価値があるわけだが、それをわざわざ使う必要があるわけでもないのに、使わなければならないかのように見せかける必要が出てくるものもあるわけで、それを使うように仕向けるために宣伝したり煽り立てるのがメディア上に登場する権威の類いであり、そんな宣伝や煽動の文句にそそのかされて一般の人々が使うものが模造品でありまがい物となってくるわけだろうが、そうである限りで一般の人々が権威に騙されていることになるわけだが、果たしてそれではまずいのかといえば、そうやって経済活動が成り立っている限りではまずくないどころか、そうなってもらわないとメディアとしても権威者としても逆にまずいだろうし、積極的にそういう状況を作り出して成り立たせるためにメディアも権威も活動している面もあるのだろうから、それ自体が世の中を構成しているとも言えるわけで、そうだとすると宣伝や煽動によって無理矢理売られているものはまがい物や模造品の類いだと見なせるわけだが、実際にそうしないと売れないわけだからそれだけ無理に売られていると言えるだろうし、たとえそれが自然の産物であっても労働によって無理に取ってこられるからそれだけ経費がかかってきて、経費がかかった分を回収できないと損失を被ってしまうだろうし、損失を被らないようにするには無理にでも宣伝して煽り立てて売る必要があり、それを売るためにも宣伝や煽動の経費がかかってくるから、さらに多く高く売らなければならなくなるし、そうやって無理に無理が積み重なっていくわけだが、そんな行為が成り立っていれば実際に売れていることを意味するだろうし、それだけ買う側が騙されているとも言えるわけだが、そうしなければ売れない成り行きが生じているわけだから、そういう成り行きの中ではそうせざるを得ないだろうし、実際にそうやって模造品やまがい物が売られているわけだが、それを模造品やまがい物と見なしてもかまわないのかというと、それも微妙なところでもあり、そもそもなぜ文明が生じたのかいえば、例えば農業において何を作ろうとしたのかとなるわけで、自然にもたらされる食料を人工的に作ろうとしたのが農業であり、そうだとすれば農産物というのは自然に産出される食料の模造品でありまがい物の類いだと見なすことができるだろうし、そうだとすれば労働によって人工的に作られるものは皆自然に産出される産物の模造品でありまがい物の類いとなってしまうだろうが、果たして自然物を模倣したものだけが人工的に作られているものの全てかといえば、自然には存在し得ないものも人工的に作られている可能性もあるだろうし、それこそが模造品でもなくまがい物でもない真の人工物だと言えるかというと、自然から得られた資源を使って作られているわけだから全くのゼロから人工物を作れるわけではなく、それが無から有を生じさせたとされる神と自然物を加工することによってしか人工物を作ることしかできない人との間にある決定的な差異となるわけだろうが、神という概念でさえ人が自然から着想を得て作り出した人工の存在でしかないと考えるなら、人が作り出す人工物は全て模造品でありまがい物でしかないことになりそうだが、そこまで考えるなら別に模造品やまがい物を否定的に捉えることもないだろうし、それらは全て人の役に立つ人工物だと見なしておけばいいだろうし、人工物の間では何の差異も生じなくなってしまうわけだが、そうなってしまってはまずい場合もあるだろうし、それが物事を区別して一方を肯定してもう一方を否定する行為となるわけで、そういう区別をもたらしてその区別が納得できるような判断基準を伴っていれば、それを区別するように訴えかける人が権威者のような立場を得て、そうやって物事の良し悪しを区別する人が権威者としてメディア上で認められる場合もあるだろうが、果たしてその人が模造品と本物を区別できているかとなると、その判断基準によって区別できていたりできていなかったりするのかも知れないし、別に模造品を本物と見なしていてもかまわないような条件も設定できるかも知れず、そういうところで権威者となっている人自身が模造品やまがい物の類いに過ぎなくても成り立つようなメディア環境や政治環境もあるわけだ。


5月25日「こだわりの意味」

 人にとって国家的な枠組みが何を意味するかというと、行政的な区分だと考えておけば事足りるだろうが、それ以上に何か意味を付け足す必要があるかとなると、肯定的な意味を付け足したいかも知れないし、否定的な意味は当然付け足したくはないはずだが、国家を肯定的に意味づければ何か国家について良い印象がついてくるかというと、自国も含めて特定の国家に肯定的な印象を抱いたり、あるいは否定的な印象を抱いたりすることが、その人自身の意識の中で占める割合が大きければ、自身と国家との結びつきが相対的に強いことを示しているだろうが、他の何と比べて相対的に強いのかとなると、住んでいる地域や家族や所属している企業や他にも何らかの団体があるかも知れないが、そういう相対的なものではなく自分自身が絶対的に結びついている対象があるわけで、それが自分自身であり、自分自身が自分自身に絶対的に結びついている状態から比べれば、他の何事も相対的な結びつきでしかないのかも知れず、その相対的に結びついているものの中で、比較的安易に結びつきやすいのが国家的な結びつきであり、またそこから人種的な結びつきや民族的な結びつきや宗教的な結びつきなども芋づる式に出てくるかも知れないが、そういう結びつきが取るに足らないどうでもいいことだと思っている人は少ないにしても、改まってそういう結びつきを強調し始めると違和感を伴うのは、それ以前に自分との結びつきが絶対的な関係としてあるからであり、自分との絶対的かつ強力な結びつきから比べれば、他の何との結びつきも相対的なものに留まるのかも知れないし、自分が何人である前に自分自身であることが、自分が自分自身であれば何人であってもかまわないとは思わないかも知れないが、現状の中で生きている経緯を考えてみれば、他の誰とも大して違わない生活を送っていれば、別に何人であったとしてもかまわなかったことがうかがい知れるのかも知れず、逆にそうであっては困る事情が出てくるとすれば、その事情というのが国家的なこだわりとなってくるのかも知れないが、その国家的なこだわりというのが行政的な統治の良し悪しとなってくれば、何やら実質を伴ってくるかも知れないが、それは個人の力ではどうにもならないところでもあり、政府に直接働きかけられる立場になければ、議会で活動する政党や政治家などの政治勢力を支持したり要望を託すことになってくるわけだが、そういうことだと割り切っておけばそういうことでしかなくなるわけだが、他に何かこだわっていることがあるかとなると、そのこだわっていることを特に大げさに考える必要があるかとなるわけだが、こだわる暇や余裕があるかとなってくると、暇や余裕のある人のこだわりというのは趣味や娯楽的なこだわりとなってくるのかも知れないし、それ以前に職業的なこだわりや家族や交友関係などの個人的な事情から生じてくるこだわりがあるかも知れないが、そんな中で国家的なこだわりの占める割合というのがどれほどのものかとなると、何かのついでにこだわっているようなことであれば、大して重要性のない程度のこだわりになってしまうだろうが、自分が自分自身に絶対的に結びついていることを考慮するなら、自分自身についてこだわっていることと政治や行政の場でおこなわれていることとがどう関係してくるかについて着目する必要が生じてくるのかも知れず、自分自身についてこだわっていることに反するようなことが政治や行政の場でおこなわれているようなら、そういう行いについては賛同できないわけで、それが政治や行政の場からすれば一般の個人のこだわりなど取るに足らないことであり、無視するのが当然のことかも知れないが、それにこだわっている自身にとっては無視できないことになってくるだろうし、そこに非対称で不均衡な関係が生じていることにもなるわけだが、世の中の情勢がどうなろうと自身のこだわりを維持していられる限りでこだわることになるだろうし、そのこだわりに反するようなことが政治や行政の場でおこなわれていれば、同調圧力に屈しない限りは賛同できないだろうし、それどころか場合によっては激しく反発することだってあるだろうし、その人のこだわりを優先するならそうなって当然の成り行きとなるわけで、その人にとってはその人自身との結びつきが他の何よりも強いわけだから、それはそういうことでしかないわけだが、果たして自身へのこだわりを曲げて政治や行政の場でおこなわれていることに賛同することができるかとなると、互いに両者が歩み寄ればいいだろうし、もちろん実態としては政治や行政の場で主導権を握っている勢力の方が強いわけだから、一般の人たちの方が歩み寄って賛意を示すことになるわけだが、わざわざそうしなくてもはじめから同じこだわりを共有すればいいわけで、実際にもこだわりを共有できる勢力を支持して選挙に時にその勢力へ投票しているとすれば、より多くの人とこだわりを共有できた政治勢力が多数派を構成して政治的な主導権を握ることとなり、実態としてもそうなっているはずだが、そうだからといってそうしたこだわりを共有できない人が自身のこだわりを曲げて多数派に賛同できるかとなると、普通に考えてその必要がなければ賛同しなくてもかまわないだろうし、実際にもそれなりの人たちが支持も賛同もしていないだろうし、そういう人たちにとってはそれで済んでいるはずだろうが、それではまずいのかといえば別にまずくもないはずだが、政治や行政とのかかわりはそういうことでしかなく、職業として直接そこに介入するか市民運動などに参加する人以外にとっては、支持を表明したり賛意を示したり反対を表明したり批判するぐらいしかやりようがないわけで、そんなことがおこなわれている状況の中で、まずは自身へのこだわりが優先されるし、自身に配慮しなければならないし、自らの活動の中で自らを活用しようとするわけで、そんなことをやっている過程で派生的に他人への配慮も生じてきて、さらに自身が関係したり所属している集団に対する配慮も否応なくしなければならないだろうが、そんなことをやっている中でも絶えず自身へのこだわりや配慮との間で均衡をとろうとしたり調整しようとするわけで、そんな面を考慮するなら他者の存在を尊重するには、その他者もその人自身へのこだわりを持っていて自身への配慮を欠かせない状態であることを尊重するしかなく、そんなふうにして自身へのこだわりや配慮から自由にはなれないわけだが、それが政治や行政へどのような作用や影響を及ぼしているのかといえば、自身へのこだわりや配慮とは関係のない面では無関心となるだろうし、こだわりや配慮の邪魔をするようなことがおこなわれていればそれに反発して批判するだろうし、政治や行政がその人に配慮しているように感じられるならそんな政治や行政を支持するだろうし、それもある面ではそうであっても別の面ではそうではない場合もあるわけで、そういうときには是々非々の対応を余儀なくされるだろうし、また敵の敵は味方だとかいう敵対関係や対立関係を妄想している人がいるとすれば、自身が仮想敵だと定めている勢力と対立している勢力だと決めつけて、そんな勢力を支持している場合もあるのかも知れず、そういう捉え方もだいぶ怪しい論理に基づいているのだろうが、そんな自身へのこだわりが他から刷り込まれた世間的な偏見や固定観念などの紋切り型であることも多いわけで、しかもそれが安易であるほど他からも安易な共感を得やすく、それが安易であることを承知しながら娯楽の一環として面白がっているような成り行きにもなっていて、そういう経緯をどこまで真に受けるかも自身へのこだわりの内容や質となって表れてくるだろうし、そうなるとその中に世間一般で流行っている紋切り型的な偏見や固定観念が多く含まれているほど、他からの安易な支持や共感を得られる一方で、世間的な流行り廃りからの影響もそれだけ大きく被ってしまい、そんなこだわりを抱いている人は他にもいくらでもいて、いくらでもいるからそれが流行っているうちはもてはやされるが、いったん廃れてくるとすぐに顧みられなくなって、世の中からも忘れ去られてしまうような成り行きにもなるわけで、そういう流行り廃りのこだわりというのが世間的にこれまでにも周期的にもてはやされては忘れ去られるような循環を繰り返してきたのだろうし、そんなこだわりに感化された人たちもいくらでも現れては消え去って、世間から忘れ去られてきた経緯もあるのではないか。


5月24日「辻褄合わせ」

 それの何が辻褄が合わないのかといえば、それが何だかわからないということではなく、ある面においては知りすぎるほどわかっているのに、わかっているつもりでいると、何か辻褄の合わない結果がもたらされていることに気づくわけで、それが当たり前の結果なのだろうが、そうなった経緯やそこに至る成り行きの中で、どう考えても辻褄の合わないことが起こっているように思われるわけだが、どんなふうに途中から辻褄が合わなくなるのかがわからないのかも知れず、当たり前の結果がもたらされているにもかかわらず、その結果に至る途中がおかしいと、結果だけを見れば特に疑念は抱かないのだが、よくよく考えてみればおかしいのだとすると、そこに至る途中の辻褄を合わせようとして、そうなってしまう途中経過に注目するしかないわけだが、その途中というのも何の変哲もない途中経過でしかなければ、ではなぜ辻褄が合わないように思われるのかがますますよくわからなくなってくるわけで、どう考えても辻褄が合わないように思われるそれとは何なのかとなるわけだが、それが資本主義的な経済活動の成り行きだとすると、何か腑に落ちないように思われるかも知れないが、たぶんそれは当たり前のどこでも起こっている成り行きなのに、その経済活動の全体を見通せないために、そこから錯覚が生じた結果として活動が成り立ち継続されることになるわけだが、活動している人たちにはそれが錯覚だとは理解できないわけで、しかも実際に一時的にはそれが金銭的な利益として数字に表れるから、何かそこで利益を得たように実感されるのだが、それがよくよく考えてみればおかしいことに気づくわけだが、そこまで考えなければ気づきようがなく、そうなる過程の全体を見通すことができないだけに、なかなかそこまで考えてそれに気づく人も少ないのだろうが、気づいたところで辻褄が合っていないわけだから、考えれば考えるほどますます謎が深まっていき、それをどう捉えればいいのかわからなくなってくるわけだが、そこまで考えない人たちは全体ではなく部分的な範囲内で、ただ金銭的な利益を追求していればそれで済んでしまうわけで、そこから先は考えないようにすることが経済活動をしていく上では肝要なのかも知れず、意識してそうしているわけではなく勘でわかってくるようなことかも知れないが、勘が働く人たちは皆そうしているらしく、わざと馬鹿になっていることを自覚できる人も中にはいるのだろうが、少なくともそこでは勘を鈍らせて馬鹿になっておかないとならないわけで、下手に利口になってそこで探究心を働かせて、その先の過程を考えてしまうと、何か辻褄が合わないようなことに気づいてしまうわけで、何だかわからないが途中でおかしなことになっていると思われるにしても、それの何がおかしいのかを追求し始めると、やはりよくわからなくなってしまうのかも知れず、賢明な判断としてはそれについては不問にしておくしかないのかも知れないが、全体として資本主義的な経済活動を捉えようとすると、どうしてもその疑問に突き当たってしまうのだろうし、その疑問についてはうまく表現できない面もあるわけだが、そこで無理に辻褄合わせをしようとしてしまうと、社会主義的あるいは共産主義的な思考となってしまうのかも知れないが、そういう思考は頭の中で辻褄合わせをしている分で無理が生じていることは確かなのだが、辻褄合わせの誘惑に打ち勝つことは難しいだろうし、そういうところでどう考えても現実に生じてしまうおかしなところを頭の中で合理化してはまずいのだろうが、辻褄を合わせようとすればそうせざるを得ないような成り行きになってしまうのかも知れず、その辺が微妙なところなのだろうが、誰もが全体的な視点から見ることができないし、見る立場が実際にないわけだから、それを想像してしまうとフィクションになってしまい、要するに完結し得ない活動であり、それを頭の中で完結させて調和した状態を思い浮かべてしまうと、どう考えても辻褄が合わなくなってくるだろうから、やはりそこまで考えずにその手前に留まるしかなく、それが部分的で不完全な思考をもたらすわけだが、そういう思考に基づいた活動が経済を活性化させると同時に、そこから過度な競争を招いて破滅や倒産にいたる人や企業も増えてくるわけだが、そうなればなるほどその中から競争に勝ち抜いて大成功する人や企業も出てくるだろうし、そうやって数多くの失敗や挫折や破滅や倒産を糧として、一人の人物や一つの企業が脚光を浴びるような結果をもたらすわけで、初めからそうなることがわかっていれば、十中八九以上は失敗するわけだから、挑戦すること自体が無謀なことかも知れないわけだが、結果的に成功したほんの一握りの人や企業の栄華を見れば挑戦したくなってくるわけで、それが錯覚であり錯覚しないと挑戦者も増えないし、挑戦者が増えて挑戦に失敗する人や企業も増えないと、成功して栄華を誇る人や企業も魅力的に見えない、という理屈になっているわけだろうが、そういう理屈を理解して多くの人や企業が挑戦をやめてしまってはまずいわけで、あくまでも多くの人や企業が挑戦し続けて、多くの人や企業が失敗し続けないと、その中から成功して栄華を誇る人や企業も現れないわけだが、本当にそうかというと誰もそれについては語りたがらないし、統計的にそういう傾向があるとしても、それを否定的に解釈しないようにしているだろうし、統計にしても条件を変えればいくらでも肯定的な結果になるように調整できるだろうし、挑戦をそそのかす人たちも数多くの失敗者が出ることは承知しているのに、しきりに成功するためのノウハウを教えようとするだろうし、そうやって都合の良い統計結果を示そうとする人たちも、成功するためのセミナーを開催して受講者を集めて稼ごうとする人たちも、成功する夢を売って稼ごうとする面では詐欺師でしかないわけだが、成功者の栄華を見せつけられると自然とそうなってしまうわけで、人を騙そうとしてそうしているわけではなく、そうやって面倒を見た人たちが心から成功することを願っているだろうし、悪気があってそういうことをやっているわけではないのだろうが、善意でやっている面と金儲けを目的としてやっている面とで辻間が合わないし、その辺の整合性をとろうとしたり結果から考えるとやらない方がよかったりするのだろうが、そういう職業に就いていればやらざるを得ないだろうし、そこに至る途中の経緯がどういう紆余曲折を伴っていようと結果的にそうなってしまい、しかもそういう職業が成り立っていれば、そういうことをやるのが当たり前となってしまうだろうし、別におかしなことをやっているわけではなく、そういうことをやるのが成功するための前提となってしまったり成功するための近道だと思われるなら、積極的にそういうことをやるような成り行きになってしまい、そうなってしまった時点ではそれなりに辻褄が合っているわけだが、途中経過を考慮に入れると何かおかしなことをやっているようにも感じられてしまうだろうし、やる前から多くの人たちが失敗することを前提としているわけではないにしても、結果的にそういう現実がある中で成功者を生み出すためにそういうことをやろうとするわけで、それは現状で栄華を誇っているどのような分野でも言えることだろうが、それが当たり前の社会を根底から変えて、誰もが成功できるような世の中を人為的にもたらすことは、少なくとも現時点では不可能だろうし、成功という概念自体が失敗すること前提として、多くの失敗がある中で成功しないと成功したとは言えないわけだから、そうなった結果から考えれば何も誰もが成功する必要がないばかりか、必ず多数の失敗者が出ないと成功したとは言えなくなるだろうし、そういう意味では必ずしも成功しなくてもいいだろうし、実際に多くの失敗者が出ている中でも、多くの人たちが普通に暮らしているいる限りで、誰もが成功する必要もないと思われるだろうが、誰もが成功したいと思っていることも確かであり、実際に成功して栄華を極めている人を見てうらやましいと思うわけで、うらやましいと思うから多くの人たちが成功を目指すわけでもあり、多くの人たちが成功することを目指すから競争が激しくなって多くの人たちが失敗して、多くの人たちが失敗するからその中から一握りの成功者が現れるわけで、そんな成り行きが自然で当たり前のようにも思われるわけだが、成功を夢見て失敗した多くの人たちにとっては理不尽なことでもあるわけだ。


5月23日「外連味のない態度」

 人にはそれぞれに違った運命が巡ってくるはずであり、巨視的に見ればそれが大した違いにはならなくても、進んでいく方角が違えば違った風景や地形に出くわす程度には異なってくるだろうし、その違いからそれぞれに違ったこだわりが生じることもあるだろうが、生きていく上で何にこだわるにしても、そのこだわりから致命的な誤謬が生じるぐらいでないとこだわったことにはならないのかも知れず、正しいことをやれば文句のないところかも知れないが、誰からも文句が出ないようなことがやれるかとなるとそうもいかないだろうし、文句を気にしなければ勝手なことがやれるかというと、やはりそうもいかないだろうし、それをやることにこだわらないと、他からの文句に打ち勝ってやれないだろうし、文句を言ってくる人にとってはそれが致命的な誤謬だと思われるかも知れないが、当人にとってはそうすることにこだわっているのだから、それが致命的な誤謬であろうとなかろうと、そうしなければ気が済まないようなことでもあるだろうし、間違いに気づいてやめようとしない限りはやり続けようとするかも知れず、間違いに気づいてもやめられなくなってしまうかも知れないし、やろうとしてできなければあきらめるかというと、あきらめきれなければいくら失敗しても性懲りもなく挑戦し続けるだろうし、そうなればそれをやることにこだわっていることになるわけだろうが、そんなこだわりから何がもたらされるのかと言えば、周囲の人たちもそれに引きずられて巻き添えを食ってしまう可能性があり、その人に迷いがなく何の躊躇もせずに目標に向かって一直線に突き進むような成り行きになってしまえば、その人を信じて付き従うような人たちもそうなってしまうだろうし、それがとんでもない致命的な誤謬に向かって突き進んでいるようなことであれば、その人の正直で外連味のない人柄に惚れ込んだ善良な人たちもそんな成り行きに巻き込まれてしまい、結果としてとんでもない事態が引き起こされるかも知れないが、そこまで事態が進展すれば大したことなのかも知れず、普通はそこまで行かないうちにうまくいかなくなってしまうだろうし、そうでなくても正直者が馬鹿を見るような世の中になっていることが通常の状態なのだろうから、正直者のやることには多くの人の賛同が得られないような傾向があるだろうし、それよりは人道を外れたひどいことを平気でやれるような人たちが、欲得尽くで動くような人たちを味方につけて主導権を握り、善良な人たちの反対を押し切っておこなうようなことが主流となるわけで、それがありふれた成り行きであり、そんなありふれたことが普通におこなわれている中で、それとは違うことをやるとなると、やはりそれが致命的な誤謬を含んでいるように思われてしまうだろうし、何か場違いなことをやろうとしているように感じられて、なかなか世間の賛同を得られずに実現できないままとなってしまうのかも知れず、そういうことはそうなる運命なのであり、実際に実現できなければ致命的な欠陥を抱えているように思われてしまい、まだ他のどこでも実現していないことをやろうとするからそう思われるわけで、しかもそういうことをやらなければならないと思われるからやろうとするのだろうし、否応なくそういう成り行きになってしまうわけで、誰かがそれをやろうとしなければならず、それが現状でひどいことをやっている人たちではなく、ひどいことをやっている人たちを批判している人たちがやろうとしなければならないわけだから、そうなっている時点で多大な困難が生じていて、現状の中で主導権を握らないとそれができないわけだから、現に主導権を握っている人たちを押し退けてやらなければならず、それがなかなか押し退けられないわけで、現状では欲得尽くでやっている人たちの方が強いわけだから、それも単に欲得尽くだけで片付けるわけにもいかない事情もあって、すでに様々な方面から及ぼされる作用や影響の間で利害調整がおこなわれた結果としておこなわれていることでもあるだろうし、それをいったんやめて改めて合理的な見地から再調整することが困難となっているわけで、しかも現状で主導権を握っている勢力を批判しながらそれができるかとなると、かなりの無理があるだろうし、それがそこで生じている事情でもあり、そんな事情を考慮すれば現状できることは自ずから限られてくるだろうし、実際にできることはといえば現状で主導権を握っている勢力がやっていることを批判することぐらいしかできなくなってしまうわけだが、それとともにそれに代わる現状でやらなければならないことを主張することもできるわけだが、そこで主張していることをやるには主導権を握っている勢力とどう折り合いをつけるかとなるだろうが、日頃から批判して対立しているのだから、折り合いをつけるにもそれなりの困難がつきまとってくるだろうし、しかも対立したままでは主張を実現できないし、そんなわけで実現するのが無理になってくるわけだが、果たしてそこから事態を打開できるかとなると、実際に打開できていない現状があるのかも知れず、打開するのが困難であるから主張を実現できずに主張しっぱなしになっているわけだろうが、なぜそういう主張が出てくるのかと言えば、現状でおこなわれていることに不満があるからだろうが、そういうことがおこなわれる経緯にも納得しがたいだろうし、だからそれに対して批判や非難が絶えないわけだが、その一方で批判している人たちが納得できるようなことがなぜおこなわれてはいないのかと言えば、すでにおこなわれていることがあるからであり、しかも様々な事情や経緯を伴っておこなわれているから、それらの事情や経緯などの妥協の産物としてそういうことがおこなわれていて、そこに至るまでにはそれなりの紆余曲折が生じているだろうし、そうなってしまった結果だけをどうにかしようとすると、そこに至るまでの事情や経緯や紆余曲折などを無視することになって、すでに後戻りできない状態でそうなっていることを考慮に入れないことになってしまうわけだが、要するにこの期に及んで全てをリセットしてちゃぶ台返しをできるような力があるかといえば、そんな力はないから批判や主張することしかできなくなってしまうわけだが、現状を批判している人たちはそういうことをしようとしているわけだろうし、それに対する支持や賛同もそれなりに集まっているわけだろうが、現状ではどうにもなっていないとすれば今後もどうにもならないかも知れないし、十中八九はそうだろうが、それをどうにかする術があるかとなると、どうにもならないのにどうにかしようとするわけで、そこに無理があることは確かだが、その無理を可能とするには何が必要なのかといえば、何もかもが必要であると同時に何も必要ではないのかも知れないし、そういうことを主張してやろうとすることも、その場で生じている事情や経緯に含まれて、さらに他にも様々なことが主張されて実現しようと画策されている中で、それらの主張と実践が複雑に絡み合い錯綜し合っている中でそんなことがおこなわれていると捉えておくしかなく、そんな主張さえもできない人たちも含めてそこに介入して作用や影響を及ぼして主導権を握ろうとする人や団体の中から、妥協や譲歩や談合などの産物として実際におこなわれていることがあるわけだが、そこに一義的な合理性や正義などが反映されていないのはもちろんのこと、誰の思惑通りに事態が推移しているわけでもないだろうし、誰にとってもこんなはずではなかったと思うしかないようなことがおこなわれていて、それでもおこなわれていることは確かであり、たとえ主張とも理想ともかけ離れたことがおこなわれているとしても、それをやめさせることができるかも知れないし、実際にやろうとして途中で頓挫してしまったこともそれなりにあるわけだから、どう考えてもどう見てもおかしなことや理屈に合わないことが実行に移されようとしていれば、それを止めようとするのが当然の成り行きになるだろうし、それをやろうとする側の魂胆も見え透いているならそれを批判しなければならなくなるわけで、それもその場に介入してくる事情や経緯に含まれるとしても、結果的にどうなるにしてもそういう介入がその場で生じている成り行きを変えることにはなるだろうし、他にも様々な方面から直接にも間接的にも介入してくるわけだから、そうするのが当然の行為となるだろうし、やろうとすることの邪魔をするわけだから、たとえやろうとする側とは敵対関係になるとしても、そこにやらざるを得ないような事情が生じてくる限りで、そんな事情に照らして邪魔することも正当化されてしまうわけだ。


5月22日「御託を並べる前に」

 現状の中で何か不利益を感じていればそれが不満となって現れるわけだが、不満を感じていなくても不利益を被っている人もいるかも知れないし、また逆に何らかの利益を得ていても不満を感じている人もいるかも知れないが、不満を解消するために何かしら行動に出る人もいるだろうし、実際に行動してみればそれなりに不満が軽減するかも知れないし、少なくともそれが気晴らし程度になれば効果が出ていると感じられるかも知れないが、気晴らし程度では不満だと感じるなら実質的な効果を得るためにさらなる行動を起こすかも知れないが、逆に不満を抱いたまま何もせずにじっとしていられるなら、行動の手間もかからず効率的に事態に対処しているつもりになれるかも知れないが、そうなるとその程度で済むような不満なら大した不満でもないことになり、何もせずにじっとしていられるだけ余裕があることにもなりそうだが、誰もが何もせずにじっとしていられなくなれば、それが行動につながって世の中がそれなりに動き始めるだろうし、ただ座して死を待つような無気力な人はすでに死ぬ運命にとらわれているとしても、そんな運命を自分で変えなければならない機会が巡ってくるかも知れないし、誰かに助けを求める前に自分で助かろうとする限りで何かしら行動するような成り行きになるわけだが、それでも助からない人が出てくるかも知れないし、実際に助からない人が死んでしまう事態に直面すれば愕然とするかも知れないし、自らが助からないことを悟ればただ座して死を待つだけの人も出てくるかも知れないが、それが自らにとって不利益なのかと言えば、他人が死ぬことが自らの利益につながることもあるだけに、自分が死ぬことも自らの利益につながると確信すれば自殺することもあるだろうし、自殺する理由がそんな理由であるはずがないと思うかも知れないが、他人が自殺する理由などいくらでも想像できるのと同様に自分が自殺する理由も想像できるかも知れないし、中には自殺する理由もないのに自殺する人もいるかも知れないし、誰もが自殺する理由などありはしないと思えば誰も自殺などしないかも知れないが、何でもかんでも死に結びつけて考えること自体が荒唐無稽に思われるなら、ただ座して死を待つような人もそんなにはいないのかも知れないし、まだ死ぬと決まったわけではないと思うならさっさと行動を開始しなければならないし、それが死ぬための行動ではなく生きるための行動であるならば、まだ死が間近に迫ってきているわけではないのかも知れず、無駄な御託を並べている暇などありはせず、さっさと行動を開始しろとなるが、ただそれが何のための行動なのかというと、行動する理由がわからない場合もあるわけで、何かしら行動しているつもりなのだろうが、それが何のために行動しているのかわからないまま、なぜか考えるよりも御託を並べるよりも行動が先行している場合もあるわけで、それが無駄で無意味な行動なのかというとそうでもないと思いたいのかも知れないし、実際にそうではないことを祈りながら行動していれば、行動が実を結んで何かしら肯定的な成果を得たいだろうし、その成果が何かと言えば利益を得ることだと普通は思うだろうが、そうではない場合があるとすればそれが何かと言えば、行動することによって自らが不利益を被ることを覚悟しながら行動している場合もあるのかも知れず、それが利他的な行動であれば他の誰からも文句も出ないかも知れないが、自らが行動することによって他人にも迷惑がかかって他にも不利益をもたらす可能性があるとすれば、それでも行動する必要があるのか疑問に思われるかも知れないが、そんなのは疑問に思うまでもないことかも知れず、誰が行動を起こしてもその大半は他の誰からも無視されて何の成果も得られずに無駄骨に終わってしまうのが関の山であり、そうであればただ座して死を待つのみの方が効率的なのかと言えばその通りかも知れないが、たぶん無駄に行動を起こした方が楽しいのであり、愉快な気分になりたければさっさと行動を起こすべきだろうし、しかもそうやって行動を起こしたとしても大抵は他から無視されて不愉快な思いに至ってしまっても、やはり行動を起こさないと何も変わらないどころか、ただ座して死を待つのみとなってしまい、誰からも見向きもされないままとなってしまうだろうが、しかも大半の人たちがそうであってもかまわないからこそ、そんな成り行きには逆らうしかないのかも知れず、それが絶望的な状況なのかといえば見方によってはそうかも知れないが、それは昔からそうだったのであり、今後ともそうなるしかないのかも知れないし、それ以外の状況などあり得ないのかも知れないが、誰もがそうなってしまうとしても、誰もがそうせざるを得ないような成り行きになってしまえば、やはり無駄骨に終わることを覚悟しながらそうするだろうし、実際にやってみればそれが無駄骨などではないと思いたくなるのかも知れないが、実際に無駄骨に終われば落胆するしかないとしても、そんな落胆が事前の甘い期待を裏切ってしまうから、それによって自らが前進したことになるのかも知れず、それを前進とは見なさなくてもかまわないが、何か理由を見つけ出す余裕もないまま行動すれば何かしら変えることができるのかも知れず、特に何を変えようとしなくてもかまわないだろうが、結果的に何かが変わればその分だけ行動の成果となって現れてくるわけで、それが自らがやりたかったことだと正当化しなくてもかまわないのだろうが、自ら行動して何らかの結果を得るとはそういうことであり、実際に行動する前にあれこれと御託を並べている暇もなく行動できれば、何らかの結果や成果が後からついてくるような感じになるのかも知れないし、たとえそれが否定的な結果や成果であっても失敗と見なされても、かまわず行動を続けられるようなら、そうやって行動を続けられていること自体が何らかの成果そのものであり、それが生きていることの証しとなり、自らが生きている現状を実現していることになるわけだが、そんな現状によって自らが生かされていることを実感できれば、そうやって生き続けている自らを肯定できるだろうし、生きている現状をさらに未来へと延長しようとするのだろうが、それが何を意味するのかと考える余裕があってはまずいのかも知れず、自らの行動に意味を求めると何かそこに肯定的な意味づけをする必要に迫られて、そんなものなどなくても結構だと開き直ることができなくなって、結果的に自分で自分の首を絞める結果となり、それが自殺の原因にもなるのかも知れず、ただ行動の意味など考える余裕もなく行動を続けることができれば、そうやって行動していること自体が行動していることの結果であり成果にもなり、行動の意味や意義という気休めや言い訳などを介在させることなく行動を続けられることにもなるわけで、そうやって意味や意義がなくても行動できればただの行動にしかならないとしても、それ以上の何がもたらされても、それ以外の何ももたらされなくても、相変わらず行動している以外は平然としていられるかも知れないが、平然としているだけでなく時には思いがけない事態がもたらされて驚いたり感動したり、行動した結果として喜怒哀楽の感情がもたらされたりすれば、それが行動したことの結果であり意味や意義だと思われたりするだろうし、無理にそうなろうとしなくても自然とそうなってしまえばいいのかも知れず、実際に行動してみればそうなるような結果がもたらされて、そうなってしまうよう成り行きにも巻き込まれて、そこで何かしら思うことにはなるだろうし、だからこそ行動すべきとは言えないだろうが、とりあえずは行動して何らかの結果がもたらされるまでには持って行った方が、生きていることの意味や意義を知るまでに至れるかも知れないし、行動の意味や意義や理由を知りたくて行動するわけでもないとしても、それを知るに至ればそういうことだったのかと感心するわけで、たとえそれが思い違いで勘違いだとしても、そうなっただけでも行動した甲斐があったことになるのかも知れないし、行動する前にそんなことまで考慮する余裕はないだろうしその必要もないだろうが、現状が不満なら何かしらその不満をどうにかしようとして行動を開始してしまうだろうし、そうやって開始された行動のただ中で何を考えているとしても、そこでいったん立ち止まって行動に至った経緯や原因や理由を探ろうとする余裕がなければ、とりあえずいくところまでいかないと気が済まないような成り行きになってしまうだろうし、そうやっていくところまで至ってしまえば、もはやそこから後戻りできないことに気づくのではないか。


5月21日「おぞましい音と振動」

 機械と道具の違いに関して、印象としては道具の進化形態が機械だと見なしてもかまわないような気はするが、機械も道具に含まれる反面で機械ではない道具もいくらでもあるから、機械には機械に固有の特徴や傾向があり、道具からは逸脱する面があるだろうが、それが何かというと、人にとって役に立つ道具から離れて、人とは無関係に自立する可能性なのかも知れず、それは機械に内蔵されている動力装置から生じる可能性であり、機械が人の制御なしに自力で動き回れる可能性を示していて、そうなると生物とは違うにしても生物のような活動が可能となってくるわけだが、そこからさらに自力で自己増殖が可能となれば完全に生物的な特徴を得るに至るだろうが、現状ではまだ人の力を借りないと増殖できないから自立した存在ではないわけで、果たしてそう遠くない未来において機械に自己増殖機能が追加されるかどうかは、現時点では何とも言えないところだろうが、それが人にとって脅威になるとか人に代わって機械が文明の主役になるとかいう話ではなく、現状でも機械が人の思惑から外れた存在になりつつあるのかも知れず、確かに機械が人の役に立っていることは事実だが、それ以上の何かが人にも社会にももたらされていて、それが人に利益や弊害をもたらしている面もあるだろうが、人とは無関係な方面にも作用や影響を及ぼしている可能性があり、それが人にとっては知ったことではないかも知れないが、逆に興味深いところかも知れず、機械が人を超える可能性がそういうところから生じる可能性があり、そういうところから機械の独自の可能性が広がってゆくのかも知れないが、それが何かというと人とは無関係だから人には関知できないところでもあり、そういうところが人にとっては歯がゆいかも知れないが、人の周りに機械が増えてゆくにつれて人を取り巻く環境も変わってゆくことは確かだが、人が感知できるのは人に関係する面でしかないだろうし、人にとってはそれでかまわないわけだが、人とは関係のない面が人に及ぼす影響があるかとなると、人に及ぼす影響なのだから人と関係する面になってしまい、そうではない面が人に影響を及ぼすわけもないだろうが、何かそういうところで人が除け者扱いされている面があり、そこから及ぼされている作用や影響が人の思惑とは無関係に世界を変えようとしていて、それによって変わってしまった世界の中で人が存在していることは確かだが、少なくと人が思っているように変わっていくわけではなく、関知していないところが変わっているわけで、それが機械が世界に及ぼしている作用や影響によって変わりつつあるとしたら、世界を変える要因としては人よりも機械の方が大きな存在になりつつあるということになり、世界は人によって変えられているだけではなく、機械によっても変えられていて、しかも徐々に機械そのものによって変えられていく面の方が大きくなりつつあるとしたら、すでに世界を変える要因としては人よりも機械の方が大きな作用や影響を及ぼしつつあり、それも人が機械を操作しているのだから人に関係する面だと思われるわけだが、それを人とは無関係な面と見るのは無理があるだろうが、人が機械を作ったにもかかわらず人とは無関係な機械独自の存在感があるわけで、それに含まれるのが機械独自の音であったり振動であったりするわけで、その中には人が意図してそういう音や振動を出そうとして調整している場合もあるかも知れないが、人が出すつもりもないのに出てしまうような音や振動は機械独自の音や振動であるだろうし、さらにどうやっても減らすことも増やすこともできないような物質的な量や大きさや重さなどもあるだろうし、それがそこに存在しているだけでそういった物事が生じていて、それが人の意図や思惑を超えた物質的な存在感として機械そのものから醸し出されてくる何かであり、人が加工も変更もできないような何かなのだろうが、それらが人に限界や制約を課している面もあるだろうが、それとは無関係な面もあるのかも知れず、機械が動くと音や振動を発してそれ相応の動きを伴って稼働している実態があるのだろうが、それらの何から何までが人に向かって作用しているわけでも影響を及ぼしているわけでも機能しているわけでもなく、中には人とは無縁な方面へと向けられている物事もあるのかも知れないし、機械が向けているわけでもなく、勝手にそんな方面へと伝わっているだけかも知れないが、それがどう作用して影響を及ぼして機能しているわけでもなくても、それによって世界が変わっていくとしたらそういうものなのかも知れないし、それ以上に何が起こっているとも言えないだろうが、それは人が言えないのであり、人とは無関係なところでは何とも言えないだろうし、特に何も言う必要もないのだろうが、人が何も言えない方面で世界が変わっていくとしたら、それは人とは無関係に変わっていくとしか言えないのかも知れないし、それを人がどうすることもできなければ機械がどうにかしているわけで、人の思惑から外れたところで機械がそういった方面に作用して影響を及ぼして機能していると言えるわけで、人がそれを言えなくても人ではない何かが言っているわけでもなくても、文章としてそういうことを記せるわけで、そこで何かが言っていることになってしまうわけだが、その一方で人の方は何を言っているのかというと、何やら決まり切ったことを言っていることにもなり、それがなぜか機械的にオウム返しのように言われていることでもあり、それが紋切り型的な言語表現にもなり、何か多くの人たちが一斉に決まり文句のような言葉に関心を寄せてしまうわけだが、そんな機械的な反復表現が人の心を駄目にしているわけで、人が機械の動きや動作を模倣するというおぞましい行為がおこなわれていて、それは白痴の音と振動でもあり、その機械的な動作が白痴を思い起こさせるわけだが、誰に思い起こさせるわけでもなく、文章の中でそう記される可能性があるだけかも知れないが、例えば人とは無関係な機械的な音や振動が人にも伝わって、そんな音や振動が人を白痴化させているとすれば、それが人と無関係とは言えず、実際に機械的な音や振動が人に作用や影響を及ぼしていると言えるだろうが、機械的な音や振動が人とは無関係な方面へと鳴り響いている一方で、やはりそれとは無関係に人の方でも機械的な動作と共に白痴的な振る舞いをおこなっているとすれば、両者の間には何の関係もないことになって、それぞれにそんなことになっているだけでしかないのだろうが、そこに何の関連性もないとするとそれらを無理に関連付けて捉えるわけにもいかないだろうし、無関係な方面で無関係なことが起きているだけと言うことになるだろうが、たぶんそう捉えておいてもかまわないのだろうし、そう捉えておくべきことかも知れないが、そこから似たような現象を連想してしまうとしても、相変わらず無関係のままに捉えておくことが肝心なのかも知れず、かえって下手に反応してはまずいだろうし、やぶ蛇とならないように注意しておくべきなのかも知れないが、機械的な音や振動がうるさいと感じても、それが気のせいではないことは確かであり、それが心地良く感じるとしても気のせいではないだろうし、何かしら作用や影響を及ぼされていると捉えておく方が安心できるわけだが、そこから人の機械的な動作を連想して文章の中で結びつけてはフィクションになってしまうだろうし、何かそこに一線を引いて区別しておく必要があるのかも知れず、人の決まり文句を繰り返す白痴的な言語表現というのは、それ自体が人特有の社会的な動作であり、機械とは無関係に起こっていると捉えておけばいいだろうし、また機械が発する耳障りな音や振動も人の意図や思惑を外れて起こる現象であり、どちらも意図して不快感を与えようとしてそうなっているわけではなく、結果的に不快感を覚えたり、耳障りに聞こえたりしているだけで、そういう感覚を覚える人がそれらの現象の標的や目標となっているわけではなく、たまたまそこに居合わせるとそういうことが起こってしまい、何か嫌がらせを受けているような被害妄想に陥ってしまうわけだが、そういう騒音や雑音に惑わされてはいけないのだろうし、別にそれが騒音でも雑音でもなく、誰に向けて発せられているわけでもないのかも知れないが、それに反応して記される言語表現としては、それなりに思考して趣向や工夫を凝らすべきなのかも知れず、たとえ結果的にそれが回りくどくもったいぶった表現になろうとも、何かしら考えてから出力すべきなのかも知れない。


5月20日「関係の逆転」

 周囲から及ぼされている力を感じ取ることは、それに逆らうために感じなければならないと同時に、その力を利用してそういう力が支配する環境から抜け出ようとしなければならず、なぜそうしなければならないのかというと、そうする理由を知りたければそうするしかないような自家撞着に陥っているからかも知れないが、要するに理由がわからないのにそうしていることが、その理由を求めているというややこしい事態に直面しているわけで、自然とそうなってしまうことが人の認識や感覚の限界を生じさせていると捉えるしかないわけだが、それが論理的には不完全で完成しようがない動作であり行為でもあるだけに、そうしていることに対する疑問や疑念も生じてきて、すでにそうなっている時点で自らの動作が自らに絡みついていて、解きほぐしようのない謎も生じさせているのかも知れないが、それが自らの外部から及ぼされる作用や影響への防御として機能するのであり、そうやって及ぼされている力には素直には従えないことも示していて、それが自らにとっても力を及ぼしくる側にとっても思いがけない反応でもあり、どちらにとっても予想外の働きを伴ってくるわけで、それを素直に及ぼされた力に対する抵抗と捉えてもかまわないのかも知れないが、何か一筋縄ではいかないような余計で余分な動作を伴っているから、そこから幻想としての被害妄想の類いも生じてくるのかも知れず、こちらが逆に攻撃されているのではないかと思い違いをして身構えてしまって、それが空振りに終わってしまうと何かはぐらかされてしまっているようにも思われてきて、ますますそれが攻撃されていることの効果だと勘違いしてその気になってしまうのだろうが、どちらの側でもそうなってしまう理由がよくわからないから、なぜそうなってしまうのかその理由を知ろうとして、さらに余計で余分な思惑や動作を伴ってしまうから、それだけ妄想も雪だるま式に巻き込まれてきて、その中身が大したことでもないのにそれを取り巻く余計で余分な邪念ばかりが膨らんでしまい、さらにそんな邪念ばかりに取り囲まれたおかしな事態に陥って身動きがとれなくなってきてしまうのだろうが、たぶん何をやってもそうなってしまってもはや収拾がつかなくなっているとしても、そんな混乱のただ中で何かをおこなっているわけだから、その何かが自らにも周囲にもまた意図して効果を及ぼしているつもりの対象へも大して効果を及ぼしていないにもかかわらず、それへの過度な思い入れやそこからもたらされた妄想や幻想が大きい分、何かをやっている感が伴ってきてしまい、そんな何かやっている感に支えられながらどうということはない現状が成り立っているのかも知れず、しかもそれでもかまわないわけで、現状の中で生きているだけで大なり小なりそうなってしまうのかも知れないが、そういう事態に追い込まれてしまっているとは捉えない方がいいのかも知れず、それよりはそこから期待や希望のごとき肯定的な兆しを感じ取ろうとしなければならず、実際にそういう肯定できる何かを見出すことができるかとなると、それには現状の捉え方を改善するだけでは駄目だろうし、自らが現実に行動を起こす必要が生じてくるはずだが、実際に何をどうすればいいかとなると誰もそんなことは教えてくれないし、誰から教わるわけにもいかないだろうし、他の誰かに期待するよりは、自分で何とかしなければならないことの方が大きいのかも知れないが、少なくともそうなるにはそれについて語ることではなく直接それをおこなわなければならないわけで、そこでおこなっていることを肯定すべきなのだろうが、それについて語る必要がないかというと、そういう機会に恵まれたら語る成り行きになるにしても、そんな成り行きにならなければ語る必要はないのかも知れず、それよりは実際におこなうことを優先しなければならないのだろうが、語ろうとすれば安易に語れてしまうだけに、その語る安易さに流されて必要もないのに語ってしまうと、その分でおこなうことの方がおろそかになってしまうのかも知れず、下手をすると何もしていないのに語ることだけはできてしまうから語ることの虜となってしまって、そこから抜け出られなくなってしまい、自らの語りに自らが支配されるような成り行きになってしまうと、それこそが自家中毒になってしまうだろうし、そうならないようにしなければならないと言うよりは、もしかしたら積極的にそうなるべきであり、そうなって自分で自分の語りの虜となっていることを自覚しなければならないわけだろうが、そういう成り行きを一通り経巡らないと次の段階へ進めないのかも知れず、そうなっていることを自覚できれば自然とそこから離脱するようなことになってきて、それは自らの意志でそうしようとするというよりは自らの意志に逆らいながらそうなってしまうことを避けようとするのだろうが、それでも自然とそこから離脱できてしまえば、何か腑に落ちないような状況の推移の中で、どうしてそうなってしまうのかわからずに途方に暮れてしまうのかも知れないが、途方に暮れてしまった時点でなぜかそこから離脱できていることになり、すでにそこから次の段階に入っているわけだが、そこでも何をどうすればわからないような成り行きに巻き込まれているとすれば、自らではどうにもできない運命に翻弄されていることになるのだろうが、巻き込まれている事態というのは大抵はそうなってしまうわけで、そういう事態を意識が受け入れられないとしても、否が応でも自然と対応しなければならない成り行きになってしまうから、巻き込まれている成り行きの中で順応しようとするわけだろうが、うまく順応できないうちに次から次へと予期せぬ事態に直面して、そういう局面を何とか切り抜けようとすることがその人がおこなっている行動になってしまい、自らが主体的にやりたいことをやろうとする以前にやるべきことが次から次へと生じてくるわけだから、それをやるだけで手一杯となってしまうわけだが、果たして実態としてはどうなっているのかといえば、やるべきことややらされていることを後付け的にやりたいことをやっているように見せかけようとしているのかも知れず、それこそが自分のやりたいことであったかのようにも語ろうとしていて、意識してそう語ることがその場の状況への対応でもあったりして、だから何か自分のやりたいことを表明するような人がいるとすれば、その人はそういう成り行きになってしまったから、そういうことを語らざるを得ない状況に追い込まれてしまっているわけで、何かをやりたいという意志が初めにありきではなく、そういうことをおこなっている自らを正当化するために、自ら進んで自らの意志でそういうことをやっているのだと主張したいわけで、それがその人の語りたいことであり、その人が語っているフィクションとなるわけだろうが、現実にそういうことをおこなっているのだからフィクションだとは思えないだろうし、自らの意志でそれをおこなっていると思い込んでいるところがフィクションであるわけだが、別にそれがフィクションであってもかまわないだろうし、おこなっていることを語ってしまうと、それが否応なくフィクションとして味付けされてしまうわけで、そこで恣意的に場面構成がされて、自らの意向に沿う部分だけが語りとして取り上げられてしまい、その他の部分は意図的にあるいは無意識に排除されて、そうやって何やら都合の良いところをだけを語っているようにも思われてしまうわけだが、都合の悪いところは意識していないだけで、実際には思いがけないことまで語ってしまっている場合の方が多いのかも知れないし、その場の状況や成り行きにまかせて調子に乗って意図せずに語ってしまっているのかも知れないが、語ってしまってからそれに気づいて後悔することもあるだろうが、気づかないままとなってしまうことも結構あるだろうし、気づいても自らの意志で語っているような気になってしまうこともあるわけで、そうやって語らされてしまうことによっても自らの意思や意志が形成されて、そういう成り行きがその人の心を形作って育むような成り行きも生じてきて、それがその場の状況に対応することであり、その場の状況に応じて心境に変化が生じることでもあり、そんな成り行きや状況からその人自身が構成されているわけだろうが、そうだとすればもとからそんな人が存在しているわけではなく、その場の成り行きや状況の中で何かに対応したり対処しているうちにそんな人ができあがってくるわけで、その人となりを語る上で、その人の経験したことがその人を作り上げてきたように語られることになるわけだろうし、その人の意志に先行してその人の経験があることは確かだが、その前後関係を逆転して語るとフィクションになってくるのかも知れないし、その人を好意的に語る上ではその人の意志を先行させて語ることが重要となってくるわけで、それを語る者の意志に基づいて、良い心を持っていたから善い行いができたというフィクションにしたがるわけで、その逆に邪悪な心を持っていたから悪い行いをやったとも言えるわけだ。


5月19日「グローバル企業の使命」

 国ごとの産業力が何か実質的な意味を持つとしたら、それがその国の政治や行政と連携している面になるだろうが、そういう政治や行政とは切り離されて活動するグローバル企業の産業力が何を意味するのかといえば、特定の国には属さない経済力を意味するのだろうが、それでもそうしたグローバル企業で働く人やそのユーザーや消費者がその国に存在する面ではその国の経済に貢献しているだろうし、またその大半が節税しているとはいえ、企業から行政へそれ相応の税金も払われているだろうし、現地法人もあるから、その国の政治や行政とも多少なりともかかわりを持っているわけだが、それでも特定の国に属する政治や行政の意向とグローバル企業の意向とが一致しているとは言えないだろうし、企業が特定の国の所有物になる必要はないわけで、政府と企業が国策企業などのように一体化してはまずいのかも知れず、ある程度は自主独立な団体として政府とは一線を画していないと、アメリカの軍産複合体のように大統領でさえも逆らえないような権力が生じてしまう可能性さえあるだろうが、政治や行政が経済とかかわりを持つ形態がそういった企業を介して作用や影響を及ぼそうとして、その意向を反映させようと画策するような傾向があるわけで、そういう意味で行政の思い通りに動く国営企業や国策企業ばかりになってくると、企業や経済の自立性が削がれて談合体質が強まるような弊害が生じてくるわけだろうが、その一方で民衆がそういった集団的な力に立ち向かえる可能性を高めようとするなら、政府や議会や政党や企業やマスメディアなどが利権を共有して談合体質になってしまうとまずいわけで、それよりは各々の集団が利害を異にして対立し合う面を残しつつ分立して分散していた方が御しやすいだろうし、そういう意味ではそれらの集団が国家の下に結集するようなことになってしまうと、それだけ民衆に対する支配力も強まるだろうし、国家主義や国粋主義などに帰依する者にとっては好都合だろうが、それ以外の者にとっては鬱陶しい事態となってしまうわけで、そうだとすれば政府や地方自治体などの意向とは必ずしも一致しない企業が存在していた方が都合が良い面もあるだろうし、企業の方でも政府や地方自治体などの行政的な意向に対して是々非々の態度をとれるようになるには、グローバル企業となって一つの国で商売ができなくなっても他の国で商売ができるような体制を築くしかないわけだが、そうなると行政の力も企業の力も増大して、民衆の力ではどちらに対しても太刀打ちできなくなってくる可能性も出てくるわけで、行政とグローバル企業とが連携して協力関係を結んで民衆を支配するような事態にもなるかも知れないし、果たしてそんな成り行きになったら政治を利用することで対抗できるかどうかも怪しいところだろうが、行政が統治する対象として民衆を必要としていて、企業が労働者や消費者として民衆を必要としている面では、それなりに民衆に支持されるようなことをおこなっていかないとならないわけだから、一方的に支配してその意向に従うように仕向けてくることもないのかも知れないし、民衆の方でもそうたやすく国民として他の国への対抗意識を植え付けられて、政府に従うように洗脳されるほど愚かでもないだろうし、また企業が売り出す商品を買うにも資金にも限度があるだろうし、ある一定の限度を超えて無理に支配しようとすれば世の中がおかしくなってしまうわけだろうが、実態としてはそういうことではなく、行政や政治家や政党やメディアや企業や他の人や団体なども、絶えず自分たちを支持してくれるように宣伝して煽動してくるわけで、そんな訴えかけの傾向として危機感を煽るのが一般的なやり方となっていて、例えば隣国の軍事的脅威が差し迫っているだの、グローバルIT企業があなたのプライバシーを狙っているだの、国際金融資本があなたの財産を狙っているだの、政府や政権政党が国民の安全と財産と自由を奪うために法律を改正しようとしているだの、国民の財産を企業に売り渡しているだの、政府と一体化したメディアが国民を洗脳しているだの、政府や政権政党にとって都合の悪いことを報道しようとしないだの、反日勢力を操って国家を危機に陥れているだのと、そういう危機的な情報を伝えている自分たちを支持してほしいと訴えかけているわけだろうが、確かにそういう危機的な要因が世界中に散在していて互いに絡み合って作用や影響を及ぼし合っている状態なのかも知れないし、それなりに主張や意見には説得力があるかも知れないが、そういう主張や意見に賛同したりそれへの支持を表明してみても、何かそれに対する見返りを期待するわけにもいかないような状況なのかも知れず、それはそういうことを訴えかけている人たちの境遇を想像してみれば、あまりそういう人たちに期待するのも酷な世の中の状況となっているような気がするわけで、それがどういう状況なのかといえば、そういう危機的な情報を受け取っている側にあまり危機感を感じられないのかも知れないし、危機感を煽られることを楽しみにしているような余裕も感じられて、そういうところで主張を真に受けないような感覚が世の中に蔓延しているのかも知れないし、その手の情報過多な状態に慣れてしまっていて、その気になるにはより強くて刺激的な情報に接しないと本気になれないものの、刺激が強すぎるとフィクションだと認識してしまうし、そういうところでそのままダイレクトには情報が伝わらないような環境の中でその手の人たちが情報発信をおこなっている現状なのかも知れないが、しかもそうなっていてもかまわないような情報発信の環境でもあるわけで、玉石混淆という比喩にもならないようなもはや玉でも石でもかまわないような環境となっていて、そういう成り行きになってしまってもかまわないような事態の進行でもあるわけで、もうそうなっている時点で権威という存在があり得ず、それを信用したり信頼してもその信用や信頼から信用や信頼の対象が権威にはなれないし、何か特別な存在として信者から崇め奉られるような成り行きが生じないような世の中になっているから、そういう人たちに危機感を煽られても真に受けられないし、世間話の類いと同程度の水準でそういう情報を受け取っている実態があるのかも知れず、それがまずいことなのかというとそうでもないわけで、その程度でかまわないような世の中だと実感するしかないだろうし、それだけ人の存在やその生死に価値が生じない世界となっているのかも知れないし、もはや誰が存在していても誰が生きていようと死んでいようと、そんな人は他の誰とも取り替え可能であり、かけがえのない存在とは感じられず、それは他人だけでなく自分にも当てはまることかも知れないが、自分でさえも当てはまることなのだから当然のことながら危機感を煽り立てている人たちにも言えることであり、そういうことをやっている人たちが誰であってもかまわないし、それが特定の誰かである必要も必然性も感じられないような世の中であり、メディア上でそんなことをやっている人たちがいくらでもいること自体が、その存在の希薄さを物語っていて、しかもそんな人がいくらでもいた方がいいわけで、それらの人たちの中から危機感の煽り立ての権威者などが出現してしまうこと自体がおかしいわけだが、それでもそれらの人たちが他の人たちからの支持を取り付けたくて必死に訴えかけているわけだから、そういう行為を嘲笑するのは失礼だろうし、馬鹿にしたり嘲笑するのではなく素直に受け止めるしかなく、できればその内容を真に受けたいところだが、それを伝えているメディア環境がそういう成り行きを阻止しているわけで、そういう意味でメディアの民主化というのがそういう効果をもたらしていて、しかもそういう効果を否定すべきでもなく、それどころかそういう成り行きを今後も推進すべきであり、メディアから伝えられる情報とはそういうものだと受け止めるべきでさえあるわけだが、そういう誰も権威にはなれないようなメディア環境をもたらしているのが他でもないグローバルIT企業なのだから、そういうメディア環境を利用して危機感を煽ればそういう成り行きになってしまうのもうなずけるところでもあり、そういう意図や思惑からそんな環境を提供しているわけでもないにしても、その辺に自然の狡知が介在していると想像できるのかも知れず、何かがそこではぐらかされているのだろうが、そういうはぐらかしによって煽られた危機が回避されているのかも知れないし、それが一方では危機感の煽り立ても可能にしていて、両義的な成り行きが同時並行で進んでいるわけだ。


5月18日「感染経路」

 良い印象を抱かせる物事には魅力があるように思われるが、悪い印象を抱かせる物事にも魅力があるのかも知れず、印象のない物事には魅力を感じないわけだろうが、良くも悪くも何か印象に残る物事には人の心を惹きつける力があるように思われるわけだが、それが商品の魅力となるとブランド力になるだろうし、性能的には大して変わらない商品でもブランドの魅力がある分で高くても売れる商品になるわけで、また高くしても売れるからコストを気にせずそれほど必要もないのに良い素材を使って高性能にして手間暇をかけて作って付加価値をつけても売れる商品にもなるわけで、そうなると買う側も良い素材を使っていて高性能で手間暇をかけているから良いと勘違いしてくれるし、確かにそういう面が良いことも事実だが、ブランド力による信用がないとそうやって良くしても売れないから、不必要に良い素材は使えないし性能も必要最低限にして手間暇を省いた商品にするしかないだろうし、そうなると安さを売りにした低コストな商品となってしまうわけだろうが、そうやってできるだけ多くの人に買ってもらって、安くてもそれなりに魅力があるように思わせることに成功すれば、それなりの信用が生じるだろうし、そうなれば高級ブランド商品と同じように高品質で高性能でしかもちょっと安い商品を出せば売れる可能性が出てくるだろうし、そうやって売ることに成功すれば信用と共にブランド力も獲得するようなことになってくるのだろうが、中には悪い印象を抱かせることによってでもブランド力を維持できる場合があるのかも知れず、気に入らない客には不快な思いをさせて追い払って常連客だけ優遇すれば、常連客は自分たちだけ優遇されて特別扱いしてくれるから優越感に浸れるわけで、そういう商売の売り文句としては、あなた方は特別なのだからあなた方だけに特別なサービスを提供します、という類いになるわけだが、そういう対象となる「あなた方」に含まれてくるのは、何も純粋な商売の客というカテゴリーに収まるだけはなく、国家的・人種的・民族的・宗教的などの範疇も入ってくるだろうし、いわゆる選民思想の類いになると、その範囲内に入る人々を引き留めておくための様々な差別化や宣伝文句や煽り文句が生じてくるわけだが、そうやって他から差別化されて宣伝文句や煽り文句でその気になった人たちは、自分たちが特別な存在であることを年がら年中確認したいし自覚していたいわけで、そんな特別な存在であることを確かめるために必要な存在が、選ばれなかった人たちの存在となるわけで、それらの人たちが不快な思いをして悲惨な境遇にあるほどそれに比べて特別なサービスを受けている自分たちの優位を確認できるし自覚できるかも知れないが、その特別なサービスというのが優遇している以外の人たちを攻撃して、不快な気分にさせて悲惨な境遇に陥れるような内容だと、プラスの面がなくてマイナスの面しかないようにも思われてしまうかも知れないが、選別という行為にはそういう面があるだろうし、それしかできなければもはや末期的な状況とも言えるわけだが、実態としてそうなっていれば優遇されていると思い込んでいる人たちも一緒になってそれ以外の人たちを攻撃しているわけで、そうなっている時点で逆にそれらの人たちが他から孤立して何らかの境遇に追い込まれてしまっているのかも知れないが、たぶん程度の差こそあれ世の中にはそういう集団もそれなりに存在している実態があるだろうし、そういうのがいわゆるカルト集団と呼ばれる存在なのだろうが、そういう集団を見て他の人たちがどう思うかが肝心なところかも知れず、普通は怖がって避けるような成り行きになるし、なるべくかかわらないようにするのが妥当で一般的な対応となるだろうが、その国の政治的な主導権を握っている勢力がそうなってしまうと、嫌でもかかわって相手にしなければならなくなるだろうし、実際にそういった勢力から攻撃されてしまうと、社会的に不利な立場を自覚せざるを得ないような気になってしまうかも知れないが、それが気のせいというわけではないだろうし、実際に何らかの攻撃を受けて不利な状況を自覚せざるを得ないのかも知れないが、どうもそういう実感を真に受けてはいけないのかも知れず、それが被害妄想とはいかないまでも被害妄想を抱くように仕向けられているというか、それ以前にそういった勢力の内部で被害妄想が蔓延していて、それらの勢力に属する人たちが自分たちの抱いている被害妄想から仮想敵を定めて攻撃を繰り返すことによって、他の人たちにも被害妄想を伝染させようとしているわけで、そうやって被害妄想を他の人たちに伝染させることによって被害妄想に陥った人たちを自分たちの陣営に取り込むことによって自分たちの勢力を拡大させているのかも知れず、そういう人たちが政治的な主導権を握っているように思われるとすれば、それだけ世の中に被害妄想が広まったことになるわけだが、それが現状の日本に当てはめてみれば欧米からの侵略を受けてきたという被害妄想なのだろうが、それは世界の他の地域でも言えることであり、近年ではイスラム原理主義に内在する被害妄想や、また中国の国威発揚にも同じような被害妄想が内在していて、そうした被害妄想がさらに欧米諸国にも伝染して逆の被害妄想も生んでいるわけだが、それらに比べれば日本国内の被害妄想も軽度な部類に留まっているのかも知れないが、そうやって様々な程度や傾向を伴った被害妄想が世界中に蔓延しているのかも知れないが、それも前世紀の二度の世界大戦などによってもたらされた戦争の惨劇に伴ってある程度は免疫が残っているから、第三次世界大戦とかいう大げさな出来事が今のところは起こらずに済んでいるのかも知れし、そんなふうに歴史を都合良く解釈するには及ばないのかも知れないが、日本についていうならそういった被害妄想を近隣諸国への言論的な攻撃に転化している人たちもいるし、さらに国内の批判勢力への言論的な攻撃にも転化しているわけだろうが、そうした攻撃対象というのが実態のあるものだと思わなくてもかまわないし、自らが攻撃対象に属していると考えてしまうとそれこそが被害妄想に陥っていることの証しとなってしまい、自身もそれらの人たちに対して被害妄想を募らせなければならなくなってしまうから、そうやって世の中に被害妄想が伝染していくことを自ら体現していることになって、被害妄想の実体化というのはそうやって実現するわけで、そうなるのはある程度は避けようのないことであり、他でも感染者が相次いで発生しているわけだから、そうなってしまってもかまわないのかも知れないが、感染しても軽症にとどめるようにしなければならないとすれば、どのようにすれば軽症で済むのかとなるわけだが、のめり込まず深入りせずにそれらの主張を軽薄に肯定しておけばいいのかも知れず、実際に世の中の多数派に属している人たちはそうしているのかも知れないが、それで済んでいるうちはその程度でかまわないだろうし、実際に感染防止のために気休め程度でマスクを着用するぐらいで済んでしまっている現状があるのだろうし、それとその手の被害妄想を同一視するのもかなり粗雑でいい加減な物事の捉え方になってしまっているが、そう捉えることが被害妄想の軽薄な肯定につながり、それはその程度で済ませて、それとは別の方面でメインの活動をしなければならないとすれば、それがどのような活動になるのかについては何とも言えないところだが、要するにそういったブランド的な戦略に染まりすぎてはいけないわけで、ブランドという虚像より実質的な内容の方を重視する必要があり、それが興味を抱いて直接かかわろうとする物事の内容となり、それが良い印象や悪い印象を抱かせるような魅力があるとしても、そういった印象の向こう側に存在している物事の実態を捉えることが肝心で、虚像をもたらすような何かがあればそれを確認する必要があるわけだが、それを確認できなければそこには虚像以外の何もないことにもなってしまうが、何もない可能性もあるわけで、何もないからこそそこから被害妄想が生じて、そんな思い込みを糧として世の中に印象だけが魅力を伴って広がり、それが好印象を伴ったり悪印象を伴ったりして、好印象を受ける勢力の仲間になって悪印象を受ける勢力と敵対して攻撃を繰り返すことにもなるのだろうが、そこに何か実体が伴っていると感じてはまずいような虚構の舞台が構成されているのかも知れない。


5月17日「経済的な価値と政治的な意味」

 価値が高いとか低いとかいうことと値段や価格が高いとか安いとかいうことが、普通は比例関係にあるのは確かだが、たまに値段や価格が安くても価値が高いと言えるような物事も見つかったりして、そういうのは貨幣との交換価値が低くても利用価値や使用価値や消費価値などが高いと言えるわけだが、人の労働がなぜ価値が高いのかといえば、安く使って儲けることができれば価値が高いことになるわけで、その場合も賃金や報酬などの貨幣との交換価値を低くして働かせて、値段や価格の高い物や情報やサービスなどを売って満足できるような利潤を得られるなら、労働の対価としての賃金や報酬などが安いにもかかわらず、高い利潤を得られる分だけ価値の高い労働となるわけだが、ただ単に人を安く使って儲けを出そうとすると安く使われた側は不満を抱くだろうし、そこで工夫を凝らすような成り行きになるわけだが、工夫の成果として以前と同じ労働量なのに以前よりも儲かるようになればいいだろうし、場合によっては以前よりも楽な労働なのにさらに儲かるようになればもっといいわけだが、果たしてそんなことが可能なのかといえば、道具を使えばそれができるわけで、それも道具などは誰もが使っているからそのままでは差が出ないはずだが、道具を改良して以前よりも効率良く仕事をこなせるようになればいいだろうし、そうした道具の改良が機械的な技術革新になるわけだが、工夫して改良した分だけ機械の価格が高くなってしまうと儲けがそこに吸収されてしまうし、そのままではまずいだろうが、そこでも機械を使った分だけ人件費を減らすことができればその分だけ儲けを出せるかも知れないし、人件費を減らすということが直接人出を減らすことにつながる場合もあるかも知れないが、逆に人出はそのままでもより多くの仕事量をこなすことができればいいわけで、しかも仕事量が増えたにもかかわらず労働内容がきつくならなければ文句が出ることもないだろうし、それを実現するには道具としての機械的な機構の改良だけではなく、作業の手順や仕組みなどのシステム的な改革も必要となってくるだろうし、設備や施設なども含めてそれにかかわってくるあらゆる面で改良や改善の可能性を探っていく成り行きになってくるだろうが、何をどうやるにしても結局は金銭的な儲けを出すにはどこかで安く上げないと利潤が生じてこないわけで、そういうところで何かまっとうな金儲けのやり方があるかのような幻想を抱くべきではないのかも知れず、何をどうやってもどこかで安く買って高く売る結果をもたらすことによってしか金儲けが実現することはないだろうし、そうすることが価値の高い行為になるわけだが、そうであったとしても何か工夫を凝らして金儲けに成功すればそれを正当化せずにはいられないだろうし、そのやり方が詐欺などのごまかしやまやかしでないという確信があれば、なおさらまっとうなやり方で金儲けに成功したように思われるわけだが、逆に他人の金儲けに難癖をつけたい側からすれば、どこかでごまかしやまやかしをやっているのではないかと疑うのが当然の成り行きであり、何かしらそういう面を見つけてそこで不当に儲けていると批判するだろうし、それをまっとうな金儲けだと賞賛したり正当化するか不当な貨殖行為だと批判するかは、そういった行為から受ける印象や行為を評価する人の立場にもよるかも知れないが、結果的には安く買ったり高く売ったりしてその差額を儲けることにしかならないだろうし、それを世間的な良識に照らし合わせて良いだの悪いだのと判断することになるのかも知れないが、その世間的な良識に照らして金儲けに利用された人がひどい境遇にあれば、ひどいやり方で金儲けをやっていることになるだろうし、そういう金儲けには価値がないどころか害があることにもなるだろうが、そうなると金儲けに利用される人がひどい境遇にならないような金儲けのやり方が価値が高くて推奨されることになるわけだが、それが具体的にどんなことなのかといえば、そういう人たちが労働者として無理のない仕事内容で普通に生活が成り立つような報酬を受け取り、また消費者としても満足できる快適な生活を送れるようになっていれば、世間の一般常識の範囲内であれば取り立てて文句がないところだろうが、そんな幻想を抱かせるような社会環境になっていればいいわけで、実際に普通に生活が成り立っている人が大半を占めている現状がある限りで世の中が安定していて、すでにそうなっているわけだから、それなりに不満があるとしても満足できる面もあるわけで、それが経済的な事情から生じていることであるとしても、その不満のはけ口として政治の場があること自体が、経済的な事情を政治的に解決しようとするところに無理な面や勘違いな面があり、そういうおかしな迂回が生じていることに人々が何の疑念も抱かないようになっているところがごまかしでありまやかしでもあり、それが資本主義経済を延命させる成り行きも生じさせていて、どうやっても政治的には解決しようがないことを解決できるかのように装わなければならないところが詐欺だと見なしてもかまわないだろうが、それを否定的に考えるなら確かにそうなるが、それが政治に付与された肯定的な価値だと見なしてもかまわないわけで、政治が人々に幻想を抱かせることしかできないとすれば、政治とはそういうものだと割り切っておけばいいのかも知れないが、価値そのものが幻想から生じるものでしかなく、普通にやっていることがうまくいけばやっていることに価値があるかのように思われる反面で、やっていることがうまくいかなくなれば価値がないかのようにも思われてくるのかも知れず、そうであれば価値があるだのないだのと幻想を抱くこともその人の気持ちの持ちようでしかないだろうし、実際に得られた金銭の額や所持している資産の額や生活や仕事の程度や内容をどう評価してみても、そこで現にその人や家族が生活している実態があれば、そうなっているということにしかならないわけで、そこで生活がうまくいっていなければ、事と場合によっては政治的に何とかしてほしいと思うことがあるにしても、経済的にうまくいっていなければ、それを直接経済的にどうにかしなければならないのに、そうではなく政治的にどうにかしようとする限りで、何か経済の外部から政治的に作用を及ぼしてどうにかしようとするわけだから、少なくともそれが間接的で迂回的なやり方にならざるを得ないだろうし、そこに政治と経済の結びつきが生じてくるにしても、経済的に何とかしないで政治によって経済を制御しようとする限りでそれは政治的な迂回となり、迂回した分だけ間接的になって幻想を抱かせるのかも知れないが、政治的な迂回を経ないで直接経済の範囲内で何とかしなければならないとなると、どのように工夫を凝らしてみても、結局は安く買って高く売って儲けるという結果をもたらさない限りはうまくいくことはないだろうが、そんな何の幻想も抱かせないような結論へと直行するのを避けるには、やはりそこから横道に逸れて政治的な迂回を経由して幻想を抱かせるような成り行きに持って行かないと、政治的な行為をやった価値が生じてこないわけで、しかもその過程で税金という必要経費も生じてきて、その分だけ安く買って高く売って儲けるという経済事情を圧迫するだろうし、どうやっても政治的な行為をやればやるほど費用が嵩んでしまって、経済的にはその分が負荷となってくるわけだが、ならば政治的には何もやらなければいいのかとなると、行政による統治がないと無法地帯となってしまうから経済的な商取引も成り立たないし、行政の統治に対抗するには政治を利用する必要が出てくるし、そういう面では確かに政治的な行為が必要不可欠となってくるわけだが、人々が政治を利用して行政による統治に対抗できるかのような幻想を抱かせることも政治的な行為に生じてくる価値になるだろうし、そういう意味では政治的な行為というのは、経済を制御できたり行政を制御できたりして、万能の力があるかのような幻想を伴っているわけだが、実態としてそうなっているかというと、確かにそんな幻想を抱くことができるとしても、本当に政治が経済や行政を制御しているかといえば、経済の中では経済論理に従って商売がおこなわれていて、行政の中でも官僚機構による統治がおこなわれているわけで、そこに政治が入り込む余地があるかとなると、入り込んで制御しているように装うことはできるのかも知れないし、装うことに成功すれば人々が政治に対して幻想を抱くことができるわけだ。


5月16日「物事の成立条件」

 合理的に考えることが習慣となっていると、不条理な事態に直面した時にうろたえてしまうかも知れないが、そうでなくてもうろたえてしまうだろうし、自らが合理的ではないことをやってしまった時にもうろたえ方が半端ないかも知れないが、どう考えても整合性のとれない様々な事情や条件が絡み合っている時などは、どうやっても合理的な判断をできない場合も出てくるだろうし、それでもやらざるを得なければやってしまうのかも知れないが、やらざるを得ないというわけでもないのにやってしまった場合には、やはりそんなことをやっていること自体が何か間違っているような気がしてくるだろうし、実際にも間違ったことをやっていると認識しているわけだが、しかも間違っていてもかまわないと思われるなら、かまわないと思われてしまうことすらも間違っていて、その反対に正しいことをやる気にはならないわけで、そういうところでも何かが根本的に間違っているわけだろうが、そうであってもかまわないと思われてしまうところが、わざと合理的な正しさを避けていることになるのかも知れないが、そこが微妙なところであり、確かに避けているとしても留意しておかなければならないところでもあり、全くでたらめなことをやろうとしているわけではなく、逆に物事が成り立つ合理的な条件を見定めようともしているわけだが、だからといって合理的なことをやろうしているわけではなく、そこから少しずれたことをやろうと考えているのかも知れないが、やはりそこが微妙なところなのだろうし、直に合理的なことをやろうとするとその場の状況によって拒絶されてしまうから、すぐには拒絶されないようなやり方を模索する上で物事の合理的な成立条件を探る必要が出てくるわけだが、合理的なやり方でまずいのはやる前に事前に合理的なやり方を見つけようとしてしまうところであり、また何かをやった結果からも合理的なやり方を見つけ出そうとしてしまうところでもあり、どちらにしても現状で動いている成り行きの中で何かをおこなわなければならないのに、おこなう前にやり方を決めてしまったり、おこなった後でどうやれば合理的だったのかを導き出そうとしてしまったりして、現状から外れたところで一定のやり方を決めようとしてしまい、事態の成り行きの流動性を考慮しないから、そこから合理的な成立条件が求まってしまうわけだが、そうではなく物事の動的な推移を考慮に入れるなら、刻一刻と成立条件も変化しているわけで、そうなると事前に成立条件を決めても、それが全ての時間や場所で成り立つわけでもなく、事前の段階では確かに成り立つとしてもその場その時で条件が変わってきてしまうと成り立たなくなり、事前に成り立つ条件から決めておいた合理的なやり方がその場では通用しなくなるわけで、また事後的に合理的な成立条件を定めるとなると確かにそうなった結果からは合理的な成立条件が求まるとしても、いつも結果がそうなるとも限らないわけで、その場やその時の結果からはその場やその時の合理的な成立条件が求まるとしても、別の場や別の時ではその条件では成り立たない場合も出てくるわけで、そうなってくると全ての場所や期間で恒常的に成り立つような条件というのはあり得ないことになり、事前や事後の条件から成り立つやり方を求めたとしても、その場やその時では条件が異なってくれば、事前や事後から求められたやり方では通用しなくなってくる可能性があるわけで、そういう意味で物事を合理的に捉えるということは、何らかの条件が成り立つ瞬間を捉えて、その場その時で決まる合理性を導き出すことはできるが、成り立つ条件が刻一刻と変化している中では、その場その時では確かにそうすることが合理的だと思われるにしても、その場その時がいつまでも同じ条件のままで続いていくわけではなく、それなりに条件を変えながら動的に物事が動いていて、その場その時では合理的なやり方であったやり方が、別の場や別の時では合理的であるとはいえなくなってくる可能性が出てくるわけで、そうであれば事前にやり方を決めてかかったり事後的に最適なやり方を求めようとすることには、そうやって求めたやり方を現状の中で用いるにはそれなりの限界や制約があるだろうし、そういった限界や制約を取り払うにはルールや法律などの決まり事を定めて人の動作を一定の範囲内にとどめようとするしかなく、要するにある一定の条件下でやっていいこととやってはいけないことを事前に決めておいて、こういう場やこういう時にはこういうことはやってもいいがこういうことはやってはいけないと決めて、こういう場やこういう時にかかわってくる人に制限や制約を課してそれ以外の動作は禁止しておけば、実際に決められた動作以外の動作を排除できるわけだが、排除しようとしても抵抗されることがあるだろうし、抵抗できないようにするには強制措置が必要となってくるだろうが、強制措置をおこなう以前に説得しなければならないだろうし、その説得が受け入れられるには内容が合理的でなければならないだろうし、こういう場やこういう時にはこういうことをやるのが合理的であることが事前に関係者の間で合意を得られていれば、納得して合意した人は合意内容を守ろうとするだろうが、納得せずに合意しない人の扱いをどうするかが問題となってくるわけで、そういう人はあらかじめ排除しておかないと合意内容が守られることはなく、そういう面でも合意できない人を排除するような強制措置が必要となってくるわけだが、人をそうやって制御するのにも限界があるだろうし、事前に制約や制限を課して合理的なやり方を守るように仕向けてみても、その場その時の状況や情勢から合理的でない事情が生じてくると、そんな事情から作用を及ぼされたり影響を受けて、合理的なやり方を守れない人や団体が出てくると、そういう人や団体と合理的なやり方を守らせようとする人や団体とが対立したり争う成り行きにもなってくるわけで、結果的に合理的なやり方を守れない人や団体の方が勝利すれば、事前に定められたルールや法律がねじ曲げられたり、そういう人や団体にとって都合が良いようなルールや法律に改定されたりして、そうやって事前に決めておいたルールや法律の類いが覆されてしまい、結果的に物事の成立条件が変化していってしまうわけだが、そういった事前の取り決めを絶対視せずにその場その時の状況や情勢に応じた対応や対処ができれば、そういう成り行きとは異なった成り行きに持って行けるかも知れないし、そういう成り行きの中で対立や争いとは異なる可能性を模索することもできそうだが、それが合理的なやり方を模索することから少しずれるような成り行きになるか否かは何とも言えないところだろうが、物事の進め方に関する合理的な方向性は尊重すべきだろうし、そうしないとより多くの人や団体を納得させることも合意や同意を取り付けることも難しくなってくるだろうが、そういった相手を納得させたり合意や同意を取り付けるだけではどうにもならない事情や事態も出てくるかも知れず、それを克服する上で重要となってくるのが時宜や機会を捉えた働きかけや訴えかけになるわけだが、そういうところでも臨機応変で柔軟な対応や対処や交渉術や取引の際に繰り出す話術なども重要となってくるかも知れないが、それらも合理的に納得できる範囲内でそういうことをやろうとするのだろうが、それだけではどうにもならない事情や事態というのが特に克服する必要のない成り行きになってしまったり、例えばその場で生じている不条理な結果をそのまま放置するようなやり方となってくるのかも知れないし、うまくいかないなりにも泥縄式で事態の収拾を図ろうとするやり方であったりして、納得がいかなくても合意や同意を取り付けられなくても、そこで渦巻いている不信感や不快感や不満感や疑心暗鬼などの負の作用や影響を利用して、将来に禍根やしこりを残したまま強引に決着を図ったり、なし崩し的に抵抗や反発を押し切ってしまったりして、相手を迷路に誘い込んで迷わせているうちに勝手に事態を進行させたり、後は野となれ山となれとばかりに自然の風化作用や人心の忘却作用に期待したりして、合理的な決着に持ち込もうとしなければ他にいくらでもやり方があるわけで、そうやって人の善意を踏みにじるようなことをやりながら物事を推進することもそれなりにおこなわれてきた歴史的な経緯もあるだろうし、それが合理的なことをやろうとする意志を打ち砕くには有効なやり方にもなってくるわけだ。


5月15日「擬制と擬態」

 人は生きている限りで何かをやっていることにはなっているのかも知れないが、それなりに何かをやっているはずなのに、どういうわけか何でもないような結果をもたらしてしまい、何でもないように見えてしまうことが狙いというわけでもないにしろ、どう見ても何でもないようなことをやってしまっているとしか思えなければ、それによって何か負い目のようなものを感じてしまうだろうし、それでも何もやっていないのとは違って、何かをやっているような感覚にはなれるのだろうが、実態としては何でもないようなことをやっているわけだから、それをやれていることに意義があるようには思えないにしても、またそれによって何でもないように思われてしまうことを裏切ろうとしているわけでもないだろうが、確かに何かをやっていることが何でもないこととは違っているわけで、それが無駄で無意味に思われるのに、逆に利益を求めて功利的に振る舞うよりも余裕があることになり、たとえそんな状態をもたらしているのが他の何かであり、他から利益を奪っているからそこでは余裕があるだけで、その一方で無駄で無意味なことをやるために利益を奪われてしまった何かは、奪われた分の利益を求めてせわしなく動き回ることになるかも知れないし、その何かというのが他の誰かかも知れないし、あるいは何でもないようなことをやるために奉仕する何らかの集団になるのかも知れないが、そういう実態から言えることは、利益が無駄で無意味なことに使われるとしても利益を求める活動自体は正当化されるだろうし、利益を求めて積極的に活動をおこなっている主体がまともに見えるとしても、そうやって集められた利益が無駄で無意味なように思われることに使われている実態が不問にされるとしたら、何かそれが不条理なことのように感じられるかも知れないが、それが世の中の偽らざる実態だとすれば、たとえ不条理に思われても苦労しながら何かをやっていれば、こんなに苦労しているのだからと思われてしまうことが、それが徒労に終わったとしても何か意義があったような気にさせて、結果的には無駄で無意味なことをやっていることになっても、やっている当人にはそうは思われないわけで、周囲から負い目を感じさせるように仕向けられてもそれなりに抵抗するだろうし、それを続けることが同調圧力に対する抵抗となるわけだが、実際に続けられていることが他の何よりも肯定的な実感をもたらすわけで、それを無駄で無意味なことに感じさせるように仕向けてくるのも同調圧力の一種だと思っておけばいいのかも知れないが、それとは違って真面目に働いているように見える何もかもが、世のため人のために世の中の役に立っているように見える仕事であり、実際に大勢の人たちがそれに携わっていると実感させられていることは確かなのかも知れないが、その一方でそれでは済まないようなこともおこなわれていて、何の役にも立っていないような無駄で無意味なことをやっているように見える人もそれなりにいるだろうし、そうした無駄で無意味なことをやっているように見える人たちのために、世のため人のために世の中の役に立っているように見える仕事に携わっている人たちがいるのだとすれば、そういう人たちが無駄で無意味なことをやる人たちに利用されていることになるのかも知れず、しかもそんな人たちから利益を奪い取られているとすれば、それが許されないことのように思われるかも知れないが、たぶん利益とは余分なものであり、余分なものは無駄で無意味なことに費やされる傾向があり、しかも無駄で無意味なことには価値があるわけで、無駄で無意味なことをおこなわせるだけの価値があり、そういうことをおこなわせるだけの費用を稼ぐことが大変な困難を伴うとすれば、やはり苦労して無駄で無意味なことをおこなうことにはそれ相応の意義があることになるわけだが、なぜそうなのかと言えば世のため人のために世の中の役に立つような仕事に就いている人は、それだけで世間から肯定され賞賛されるようなことをやっているわけで、賞賛されなくてもそうするのが当然のようなことをやっているだろうし、少なくとも批判され非難されるようなことはやっていないわけで、それに比べて無駄で無意味なことをやっているような人たちは、絶えず世間から負い目を感じさせるように仕向けられているわけで、それだけでも困難が伴うだろうし、そんなことをやっていないで世のため人のために世の中の役に立ち誰からも認められるような仕事をしろという圧力に晒されていて、そういう圧力に逆らって無駄で無意味に見えるようなことをやり続けるには、それなりの度胸と反骨精神なども必要となってくるのかも知れないが、その一方でずるくせこく立ち回っているからそんな状態を保っていられる実態もあるのかも知れないし、ずるくせこく立ち回れない人たちは世間に認められるようなかたぎでまっとうな仕事に就かなければならず、その分で誰からも後ろ指を指されない代わりに大した利益にもありつけないし、逆にずるくせこく立ち回っている人たちから結果的に利益を奪われていることにはなっているが、誰もがずるくせこく立ち回れるわけでもなく、そう立ち回ろうとして失敗して落ちぶれてしまった人も多く、一時的に立ち回ることに成功したとしてもそれが長続きしないのが大抵の成り行きであり、結局はうまくいかなくなって大半の人たちはかたぎでまっとうな仕事に就かざるを得なくなるのかも知れず、そうなってしまうだけにずるくせこく立ち回って無駄で無意味なことをやっているように見えてしまう人たちが希少性を獲得して、価値があるにしても不当な利益を得ているようにも見えてしまうだろうし、実際にそのことで批判されたり非難されているわけだろうが、それにもかかわらずそんなことをやり続けられているとしたら、何かその人に特有の才能があるかのようにも見えてしまうし、当人もまんざらではないような気になってしまうのかも知れないが、逆説的な価値があるかのように思ってしまうと勘違いとなってしまうのかも知れず、たぶん今まで通りに無駄で無意味なことをやっていると思っていた方がいいのかも知れないし、世間からの同調圧力に逆らいながらやり続けている限りで、力の均衡がかろうじて保たれるようなことでもあり、そうすることに肯定的な価値を見出してしまうとかろうじて保っている均衡が崩れて、続けられていたことが続けられなくなってしまうようなことにもなってきて継続を断念するような事態にも直面してしまうのかも知れず、実態としてもその気になって失敗してしまった人たちが被った損失や損害の分が、その気になるのを抑えて謙虚な気持ちで力の均衡を保ちながらずるくせこく立ち回っている人たちが受け取る利益となってくるのかも知れないし、その一方でそういうゲームから離れたところでかたぎでまっとうな仕事に就いている人たちに、必要上の利益がもたらされることはなく、無駄で無意味なことをやる余裕が生じない程度の利益しか得られないから、生活していくのに必要なだけの費用で間に合うような成り行きになってしまい、実際にそうなっている人たちが大半を占めている社会は安定しているだろうし、そこに社会が存在していて普通に成り立っているということ自体が、そんな社会を成り立たせている人たちが大半を占めるような状態を実現させているわけで、その中で社会にとっては何の役にも立ちそうもない無駄で無意味なことをやっているように見える人たちが少数派を占めているのも当然のことであり、そうなっていることに取り立てて不都合はないわけだが、もちろん不都合を感じるからこそ、無駄で無意味なことをやっているように見える人たちは自分たちのやっていることを正当化したがるし、自分たちのやっていることを世間が認めてほしいと思うだろうが、そんな人のやっていることを認めてしまったら、かたぎでまっとうなことをやっている人たちが浮かばれないだろうし、そんなことをやっていないでかたぎでまっとうなことをやれと絶えず世間から同調圧力をかけられている限りで、それに逆らいながらもずるくせこく立ち回ってかろうじて力の均衡を保ちながら、無駄で無意味なことをやっているように見えることを継続させることができるのかも知れず、そういう圧力が消えてしまうとほったらかしにされてしまうから、試練を課されているようなことにはならないし、度胸を試すような成り行きにもならず反骨精神も芽生えてこないから、根本的なところでやる気がなくなってしまうのかも知れず、そうなると本当に無駄で無意味なことをやっていることをしみじみと実感するのではないか。


5月14日「争いと交渉と交流」

 人が人を利用するのは人には利用価値があるからだと思って利用するわけではなく、普通に利用し合っているからだが、人が人を利用しないと生きていけないかといえば、そういう状況の中で生きている人もいるだろうし、そう頻繁に利用しているわけでもない人もいるかも知れないが、人と人とが関係を持つということは、普通に考えても互いに利用し合う関係を持つことになるだろうし、それが対等の関係である限りでそれほど問題とはならないはずだが、そのほとんどが対等ではなく不公平であったり不平等な関係であるから、不利な立場を強いられる側から文句が出てくるわけで、文句を言わせないようにするには対等な関係を装って相手に納得してもらって同意を得る必要があるわけだが、実際に対等な関係であるかとなると、相手を一方的に利用している面ではそうではないかも知れないし、それもそういう状況になる成り行きがあって、そうではない面ではそんなふうにはなっていないのかも知れないが、そもそも何から何まで対等な関係にはなれないだろうし、どちらかが主導権を握るようなことになってしまうのが普通の成り行きだから、主導権を握られてしまって不利になってしまった側に文句があるにしても、人を利用しようとするわけだからその過程で主導権を握ろうとするだろうし、そうなればそういう成り行きになるのは避けがたいわけだから、どちらが主導権を握るかで争いになるのも避けがたいわけだが、少なくとも争いの中でどちらか一方が主導権を握ってもう一方を従わせようとするわけで、もちろん完全に優劣がはっきりするというよりはある程度は妥協や譲歩の余地が生じて、劣勢となった側の言い分もそれなりに通ることも多いだろうし、また優劣がつけがたい結果がもたらされるなら双方の言い分がそれなりに反映するようなこととなって、争いというよりは交渉の様相を呈してくる場合もあるし、そうなった方が穏便な決着になりやすく、どちらが主導権を握るかで争っていること自体があまり重要なことではなくなるわけで、どちらが主導権を握るにしても主導権を握って優位に立った側が相手の言い分を尊重する成り行きになってくれば、主導権を握られた側にしても交渉結果に納得できる可能性が高まるだろうし、そうやって争いを丸く収めることができればそれが交渉の成果となるわけだが、そこで対峙している双方がそんな成り行きへと持っていこうとする意志があれば、割と交渉もまとまりやすくなるだろうし、逆に妥協も譲歩もできない成り行きが生じてしまうと交渉がまとまらなくなるわけだが、あえて交渉を決裂させた方がどちらかあるいは双方の利益になると判断すればわざとそういう成り行きへと持って行こうとするだろうし、そうなるにしても交渉せずにいきなり争うのではなく、まずは交渉して決裂するような結果に持って行こうとするわけだから、交渉することのメリットは感じているのだろうし、そうすることによって直接争うことによって生じる被害や損害を最小限に食い止める効果があると思われる限りで、互いに妥協や譲歩の余地を探ろうとするだろうし、その余地を見出せれば交渉する成り行きになるわけだが、そうすることが双方の思惑を超えて状況を変容させる可能性もあるのかも知れず、それが相手に対する直接の攻撃を減じる結果となり、攻撃しなければ被害や損害も少なくて済むだろうし、少なくとも経済的な被害や損害を避けるには、あえてまとめる気がなくても交渉を継続させるような成り行きになるかも知れないし、辛抱強く粘り強く交渉し続けることでそうしている間は優劣がはっきりせずにどっちつかずの状態が保たれるわけで、その間にも経済活動を継続させていれば、そうなっている結果から見れば国家間の交渉の継続が国家間の経済活動の継続を生じさせていることにもなるわけで、それが戦争に至らないようにさせるための妥協的なやり方になるのかも知れず、度々決裂しつつも断続的に交渉が行われるような成り行きが戦争に至るのを防いでいるわけだが、そこから双方の思惑から外れる紆余曲折が生じる余地も出てくるだろうし、それは国家のレベルでも企業のレベルでも個人のレベルでも生じてくることかも知れないが、それは交渉というよりは交流という形態をとり、利害関係から外れたところで生じる成り行きになるだろうが、双方に余裕がないと生じてこないわけで、さらに交流しつつも交渉や争いも断続的におこなわれる限りでそれらが重層的に絡み合って、簡単には切り離せないような結びつきが生まれてくるわけだが、そういう関係になることを目指すというよりは結果的に生じる関係になるだろうし、交流を続けることによってそういう成り行きが生じてくるわけだろうが、そうなる前提として利害関係がないときっかけも生じないだろうし、利害関係が生じるところでは争いも生じるし、いきなり平和な交流が出現するわけではなく、競争や競合などの利害に基づく関係が複雑に絡み合った結果として、そこから派生する副産物として生じてくるわけだから、それ単独で成り立つようなものでもないわけだが、少なくとも双方が全面的に戦うような成り行きになることを阻むような足かせとして機能する可能性はあるかも知れないが、それも双方の出方次第でそうなることもあるしならないこともあるだろうし、結局は気休め程度の交流にしかならない可能性の方が高そうだが、そうした交流が続いている間は比較的争いの鎮静化した状態が維持されるわけで、利害関係と比べれば枝葉末節なことかも知れないが、そういう交流があるだけでも全くないよりはマシな関係となるだろうし、何かそういうところで微妙な紆余曲折を作り出すような成り行きから直接の全面対決のようなとげとげしさを和らげるような効果が期待されるにしても、さらに派生的な現象として文化や芸術などの方面で活動が活発化してくると、どうしても幻想がもたらされるだろうし、何かの目くらましとして娯楽の提供と享受が人々の最大の関心事になってきてしまうわけで、そういう見せかけの繁栄や虚栄に心を奪われていると、それと同時にそれに折り重なるようにして繰り広げられている競争の過酷さを忘れてしまい、他人によって繰り広げられる競争を見て感動するような観客の立場に意識が固定されてしまって、その先へと思考が及ばなくなってそこで思考停止してしまうわけだが、そういう意識の状態を保っている限りでも世の中の平和を実感できるわけだから、世の中がそういう面ばかりではないことも承知しているつもりであっても、ついついそこに留まってしまうわけで、いったんそういう意識の状態に慣れてしまうと、そこから離れるのが嫌になってしまって、それとは異なるような過酷で悲惨な面に目を向けさせようとしてくるジャーナリズム的な行為にも反感や反発を覚えるかも知れず、逆に真面目にそういう世の中の実態を伝えようとする人たちを嘲笑したり小馬鹿にしたりするような風潮に同調してしまい、何かそういうところで生真面目さを嫌うような傾向になってくるわけだが、そんなことを思っているだけでもそれなりに余裕があることにはなるだろうが、そういう心理的な余裕というのも幻想の一種かも知れないし、世の中の実態や現実から目を背けることによってその手の幻想が生じてくるのだとすれば、そこに目を向ける余裕がないことの表れとも見なせるだろうし、そういう意味ではその手のメディア的な交流が良い意味でも悪い意味でも人の心に作用してくるわけだが、そんな現実や実態を知ることによって実際におこなう行為や行動などの活動が変容を被り、争うことの暴力的な傾向を減じて交渉や交流によって事を収めるように作用すればいいのかも知れないし、それも争いの内容によっても争っている双方の事情によってもそのまま争うべきかそれとも交渉や交流に移行すべきかの判断が必要となってくるかも知れないが、様々な面から総合的に判断するにしても、そこに至る経緯や紆余曲折からそこから外れる何らかの活動が生じてきて、そこでおこなうことやおこなうべきことをはぐらかしたりその邪魔をするような成り行きも生じてきて、意図せぬ変容を伴ってくれば、思いがけぬ事態にもなってくるのかも知れず、逆にそうならないと予定調和の結果がもたらされて飽きてしまうわけで、飽きてしまえば関心も薄れて直面している事態にまともに向き合う気もなくなって油断も生じてきて、そこからも思わぬ事態になってくるのかも知れないが、どうなるにしてもそれ相応の変容は避けられないのかも知れない。


5月13日「おこなうこと」

 現状でおこなわれていることができることの全てではないだろうが、実際におこなわれているわけだからできることがおこなわれているわけで、他にもできることがあるかも知れないが、現状でおこなわれていないことがおこなわれているわけではなく、現状でおこなわれていることがおこなわれているのは当然のことだろうが、それ以外でもおこなわれる可能性があったことは確かであり、そんな仮定の話をいくらしても意味のないことかも知れないが、それだけ現状でおこなわれていることは希少な何かなのかも知れないし、あるいはただの偶然でそんなことがおこなわれているに過ぎず、取り立ててどうということはないことがおこなわれていて、希少でも何でもないのかも知れないが、とりあえず他のことがおこなわれることはない代わりにそんなことがおこなわれている現状があるわけで、そんなことがどんなことなのかといえば、実際に現状の中でおこなわれていることになるわけだが、実際におこなわれてしまうわけだから、少なくともおこなうことができたかも知れないのにおこなわれなかったことよりは現状の実情を反映しているわけで、実際に何がおこなわれて何がおこなわれなかったのかが重要なのだろうが、実際におこなわれていることによって現状が構成されていて、そこで人や団体が何かをおこなっていて、しかも様々なことがおこなわれている実態があり、それらが互いに作用や影響を及ぼし合い、錯綜して絡み合っている現状があるわけだから、そうなっている時点で現状でおこなわれていないことをおこなうように主張している人たちには不利な状況であり、いくらそれをおこなうことによって生じる利益や利点を訴えても、それが実際にはおこなわれていないわけだから、なかなか信用してもらえないわけで、逆にひどいことやどう見ても不合理なことがおこなわれているとしても、それが実際におこなわれているわけだから、おこなっている人たちが信用されて、おこなわれていないことをおこなうように主張する人たちよりも、それをおこなっている分だけ有利な立場にあるわけだろうが、そこに様々な作用や影響が及ぼされている中でおこなわれているだけに、それをおこなっているつもりの人たちの力だけでおこなわれているわけではなく、他からも作用が影響が及ぼされているわけだから、その分だけおこなっているつもりの人たちの自由にはならないわけで、それをおこなっているように見える分だけ有利な状況になっているはずだが、実際にはその人たちの思い通りになっているわけではなく、それを主体的におこなっているように思われると確かに思い通りにはなっていると思うが、実態としてどうかとなると他から作用や影響を及ぼされている面がそうではないわけで、そういう面で思い通りになっていないことが気づきにくいのかも知れず、行為の当事者として思い通りのことができていると思われる面では有利な立場を意識できるが、そこに様々な作用や影響が及ぼされた結果として何かがおこなわれていると捉えるなら、たまたまそこでその人が行為の当事者となっているだけで、それが偶然の巡り合わせでそうなっているとするなら、別にその人でなくてもかまわなかったのにたまたまその人に何かをおこなう役割があてがわれているだけで、そうなっている限りでたとえその人が行為の当事者であってもその人でなくてもかまわないようなことにでもなっていれば、誰がおこなってもかまわないようなことをその人がおこなっているだけで、それをおこなっていること自体はそれほど重要なことではなく、別に誰でもかまわないような役割分担としてその人に役割があてがわれているだけだとすれば、たとえその人が自らの意志で主体的に物事に取り組んでいるつもりであっても、その人の思い込みとは裏腹にただ周囲から及ぼされる作用や影響によって操られている面が大きかったりするわけで、そういうことを考慮に入れるならその人が他と比べて相対的に有利な立場にあるとは言えなくなってくるだろうし、また何かをおこなうように主張する人も、実際におこなっている人たちに向かって何かをおこなうように主張することによって作用や影響を及ぼそうとしているわけで、その人の他にも別のことをおこなうように主張する人もいるとすれば、そういった人たちも含めて様々な人たちが実際に何かをおこなっている人に、自分たちの各々の主張通りのことをおこなうように求めている中で、そういった作用や影響を及ぼされている中で実際に何かをおこなっているわけだから、誰が有利不利というわけでもなく、そこで何かを主張する人と実際に何かをおこなっている人とに役割分担がされていて、それらの人たちの間でも互いに力を及ぼし合っている関係が生じているわけで、そんな中で実際に何かがおこなわれているわけだから、そのおこなわれていることに対して別のことをおこなうように主張している人からの作用や影響も及ぼされていて、さらにそれとは異なることをおこなうように主張する別の人もいれば、複数の人たちがそれぞれに異なることをおこなうように主張している中で、実際に当事者によって何らかのことがおこなわれている現状があり、それらが相互に関係し合っている中で何かが主張されたり実際におこなわれていたりもするわけで、その中では主張する立場の人や団体と実際におこなっている立場の人や団体が対立して争っている場合もあるだろうし、また時には主張する立場とおこなう立場が入れ替わったり、さらには何かを主張しながらも別のところでは何かをおこなっていたり、逆に何かをおこないながらも別のところでは何かを主張している場合もあるだろうし、主張するだけの役割というわけでもなく、時には何かをおこなう立場になることもあるし、またその逆になる場合もあるだろうが、そうやって立場や役割が入れ替わるごとに、双方の力関係や見かけ上の有利不利も逆転したり拮抗したりすることもあるだろうし、それがはっきりした対立関係というよりは複数の立場や役割が入れ替わり立ち替わり現れたり消え去ったりしながら、流動的に事態や成り行きが推移する場合もあるわけで、そうなってくるとどちらが恒常的に有利であったり不利であったりするわけでもなく、めまぐるしく力の強弱も有利不利も変わっていくようなことにもなるだろうし、そうなってくれば固定的な役割分担や立場や境遇があるわけでもなく、その場の状況や情勢に合わせて一時的にとりあえずの役割や立場を決めることにもなってくれば、役割や立場が変わっていくことによって生じる状況や情勢の変化に合わせて、臨機応変に対応したり対処するような成り行きにもなってくるだろうし、それがその場でおこなうことにもなってくるわけだが、そうなると状況や情勢の変化に応じたことをおこなうから、当初におこなっていたことからずれてきたり、場合によっては全く違うことをおこなっていたりもするのかも知れず、主張の内容も状況や情勢に合わせたことを主張するようになれば当初の主張からずれてきたり、場合によっては全く違うことを主張するようになってしまったりして当初の主張とは整合性がとれなくなってくれば、矛盾したことを主張しているような印象を伴ってきたりもするだろうし、そうやっておこなっている内容も主張の内容も変わってくれば、当初とは状況も情勢も変わってきたからそうなってしまったことになるわけで、それに関してどう説明しても納得がいかないようなことにもなってくるだろうし、実際におこなっていることも主張していることも納得がいかなければ、それがうまくいっていないことになるだろうが、うまくいかなくても実際に何かをおこなっていたり何かを主張していれば、そうなっている限りでそんなことをおこなっている人が存在していて、そんな主張をしている人も存在していることにもなるだろうし、それがうまくいかないことをおこなっている現状をもたらしていると共にうまくいかないことを主張している現状ももたらしていて、そんな状況が実際に存在していることになるわけで、そしてそんな状況の中でうまくいっていないことを批判したり糾弾するようなこともおこなわれていて、うまくいっていないからこそそんなことがおこなわれている現状があり、それがうまくいっていないことを示しているわけだが、その一方でそういう行為が現状の中でそれなりに機能している面もあるだろうし、要するに現状がうまくいっていないからこそ現状への批判がうまく機能している面もあるわけだ。


5月12日「統治の意味」

 人が行政の統治から解放される必要があるかと言えば、そういう問いに合理的な意味があるとは思えないが、政府による統治がおこなわれていて、その是非と言うよりはいかにうまく統治できるかを追求する成り行きになっているだろうし、そういう意味では政府による統治が前提となっていて、統治されないという状態は思考の対象外となっているわけだが、普通に考えて強権的かつ強圧的な管理や支配を意識させると民衆の抵抗や反発を招くだろうし、いかにすればそういう否定的な傾向を弱められるかが統治する側の課題となってくるはずだが、さらに統治する側が不正な行為や不当な行為をおこなっているとやはり民衆の抵抗や反発を招くだろうし、それも統治する側の否定的な傾向となってくるわけだが、そういう否定的な傾向がなければいいのかというと、それだけではなく統治の内容に肯定的な傾向がないとまずいわけで、民衆の役に立ち生活の助けとなるような統治にしなければならないわけだが、それに関して自国の政府に迎合的なメディアが隣国の政府の統治をことさら否定的にあげつらうようなことを頻繁におこなっていれば、自国の政府のまずい統治から民衆の関心を逸らそうとしていることになるが、民衆の役に立ち生活の助けとなることと強権的かつ強圧的な管理や支配をおこなうことが必ずしも背反するわけではなく、時には強権的かつ強圧的な管理や支配をおこなって、それが結果的に民衆の役に立ち生活の助けとなれば、そういう統治に関しては毀誉褒貶相半ばするような評判になるだろうし、それは統治する側が不正な行為や不当な行為をおこなっているにもかかわらず、それなりに民衆の役に立ち生活の助けとなるような統治をおこなっている場合にも言えることだが、さらに言えば特に強権的かつ強圧的な管理や支配をおこなっているわけではないし、また取り立てて問題となるような不正行為や不当な行為をおこなっているわけでもなくても、大して民衆の役にも立っていないし生活の助けにもならないような統治をどう評価すればいいのかと言うことにもなるわけだが、普通に考えて批判的なメディアの姿勢としては、強権的かつ強圧的な管理や支配をおこなっていればそれを批判するだろうし、また不正な行為や不当な行為をおこなっていればそれも批判するだろうし、さらに民衆の役に立っていないし生活の助けにもなっていなければそれも批判するだろうし、政府の統治に関して何か否定的な傾向があればそれをメディアから批判されるのは当然のことなのかも知れないし、手心を加えて迎合的な姿勢を見せるようなら、それは政府の統治とメディアの報道姿勢が一体化していることにもなるだろうが、それも批判的なメディアにとっては批判対象となるわけで、そういうことも民衆の側で承知しておかなければならないことであり、しかも民衆の側にも政府の統治やそれに迎合するメディアの支持者もいるだろうし、また批判的なメディアの支持者もいるだろうが、そういうことも含めて統治がおこなわれている現状があるわけだから、それらの中でどれか一つの要因を取り上げて評価しても他の要因との兼ね合いもあるわけで、それをどう判断して評価するかとなると難しくなってくるかも知れないが、中にはそれら全ての面にわたって否定的な評価を下して批判するような人がいるにしても、政府によって国の統治がおこなわれることについては不問にしているわけで、そういうことまで考慮に入れるなら、何か批判できる面があればそれなりに批判が成り立つだろうし、それなりにもっともらしいことが述べられていればそういうことだと受け止めるしかなく、それに関して屁理屈のような論理や事情を持ち出して反論するようなことがおこなわれるなら、やはり的を射た批判がおこなわれているからそういう反論も出てくるわけで、それもそういうことだと受け止めるしかないだろうし、そういう面も考慮しながら物事を見ていくしかなく、政府による統治からそういった些末な現象も派生してくるわけだから、統治自体に無理な力も加わっていて統治を成り立たせるには不合理なことをおこなわなければならない事情も出てくるのかも知れないし、それが統治への批判をかわしたり押さえ込んだりする行為となって生じてくるわけで、そういう成り行きの中で考えなければならないことは、果たしてそういうことをやっている人たちがまともに見えるかとなると、無理なことをやっているように見えるなら、そういう人たちには正義や正当性がないように見えるだろうし、そういう人たちが正義や正当性を主張しているなら、そんな主張にも無理があるようにも感じられるわけで、そうであってもなくても統治がうまくいっていない面があればそれを批判されて当然なのに、隣国の政府の統治であれば重箱の隅をつつくような批判をしている人が、自国の政府の統治への批判については屁理屈を持ち出しても擁護するようなら、そんなことをやっているだけでも無理が生じているわけだが、そうせざるを得ないようなことになっている限りで、政府の統治にもそれなりの無理が生じていると捉えておけばよく、そんな政府の統治への批判にもそれなりにもっともらしく妥当な面があると捉えておけばいいだろうし、だから政府の統治をやめさせなければならないとは主張するわけでもないのだが、少なくとも政権交代して政府を変えなければならないとは主張するだろうし、そういう成り行きになってしまうのを阻止するために、現状の政府への批判をかわそうとしたり押さえ込もうとするわけだが、何か批判が出てきてそういう成り行きになってくるようなら、そういう思惑が働いていると状況や情勢を捉えておけばいいわけで、それ以上に深読みする必要はないわけだが、中には陰謀やら黒幕の存在をほのめかしておかしな方向へと持って行こうとする人まで出てくるかも知れないが、それも批判をかわそうとする意図でそういうことをやっているわけで、そういうことをやり始めるときりがないわけだが、それだけ無理な力が加わっていることの証しとなるだろうし、何をやってもうまくいかない時にはそれだけ必死になって馬鹿げたことまで本気でやり始めてしまうのかも知れないが、そういうことまで含めて統治としておこなわれているとすれば、統治には際限がないということにもなるだろうし、それこそ統治し出すと際限なく統治しようとするわけで、またそんな統治を正当化し出すときりがなく何から何まで正当化し出してそれに対する批判を一切受け付けなくなるし、結局統治というのは不完全なままに留まるべきだし、そうならないと統治の対象を完全に支配して管理するまで統治の力を緩めようとしなくなるわけで、そもそもそういう政府などの上からの統治が前提なのではなく、民衆が自らを統治しなければならないわけで、自分で自分を統治することが統治の基本であって、自分が自分を統治できるようにした上で他人との関係や家族や友人との関係や集団の中での人間関係などをどうするかとなるわけで、自分で自分を統治できていれば政府の統治を無理に擁護する必要もないだろうし、政府にしてもまずは政府内の統治をしっかりおこなった上で、国や民衆との関係をどういう状態に保つかとなるだろうし、政府内の統治に関して無理なことを強引に進めて、それを外部から批判されて逆上してしまうようであれば、政府内の統治がうまくいっていないことを外部に向かってさらけ出していることにもなるだろうし、そういう意味で統治とは統治しようとする対象が自身も含まれていることを忘れてはならず、自分自身の統治がうまくいっていないと他からの信用も信頼も生じてこないし、自分自身の統治さえうまくできていないのに他の統治をまかせられるかとなると、普通はまかせられないとなるだろうし、まずは自分自身の統治を滞りなくおこなえることが他の統治をまかせられるかどうかの判断基準となり、そうなると自分自身の統治さえままならないのだから他の統治などまかせられないと思われても仕方のないことであり、政府に関していえばまずは政府内の統治がスムーズにおこなわれていることが、行政的な面では民衆の政府への信用や信頼を左右するだろうし、政府や地方自治体への批判もそういう見地からおこなわれることが多いのではないか。


5月11日「政治と経済と哲学と宗教」

 特に環境が激変したとも思っていないはずだが、ちょっとしたことが変わっただけで何もかもがこれまで通りにはいかないことが、何か困った事態に直面していることを示していて、そのちょっとした違いが人の意識を変えて、それがきっかけとなって社会変革のような何かをもたらすのかも知れないが、それに関して大雑把に言えば人心が宗教にとらわれた時代がようやく終わりに近づいていて、それに代わって政治と経済にとらわれた時代がすでにだいぶ以前から始まっていたはずだが、なぜ宗教ではなく政治と経済なのかがよくわかっていないというか、その政治と経済の結びつきの意味が偶然の組み合わせなのか、あるいは組み合わせられるべくして組み合わせられた必然的な組み合わせなのかが、何か違和感を伴った組み合わせなのではないかと疑問を抱かせるわけだが、それ以前に宗教から人を解放するのが哲学であったはずだが、どうも宗教から解放されないうちに、新たな宗教として政治と経済が人心をとらえたわけで、哲学自体に限界があったのかも知れないが、そもそも心が何かから解放されることが必要なのかといえば、それもよくわからないところかも知れないが、そこで生じている傾向としては経済を政治によって制御しようとしているわけだが、それはそれ以前の傾向として宗教を哲学によって制御しようとしていたこととつながってくるわけで、それを安易な発想といってしまうと何か物事を軽く考えすぎているような印象も伴ってきてしまい、実際に哲学も政治もその対象となる宗教や経済を制御しきれていないことを重く受け止めるべきなのだろうが、さらには宗教でさえも制御しきれなかった哲学を用いて政治を制御しようと試みている人もいるらしいし、それも何かを用いてそれとは違う何かを制御しようとする試み自体が失敗に終わっている証拠となってきて、何かを制御しようとすることが安易な発想とも言えるわけだが、実質的には何やら倫理的な道徳心を持って政治と経済に対処するような成り行きになってくるだろうし、それを哲学といってしまうとちょっとずれた感じになってしまうわけだが、では哲学とは何かということになってきてしまうわけだが、それに関して明確な定義はないのかも知れず、普通に倫理的な道徳心を持つことが哲学的に物事を考えることにつながっていくようにも思われて、それはそれでかまわないとすれば、そこに政治と経済が加わってくると、それらを制御しようとするのではなく、哲学的な視点から政治と経済を解釈しようとしているわけで、制御する対象とはなりがたく、解釈することが制御するには至らないわけだが、それでも宗教への迷信を哲学が打ち破ろうとしたように、経済の行き過ぎを政治によって抑え込もうとはするわけで、そうするには政治にも哲学が必要だと思われるわけだが、ただ漠然と国を富ませるには経済的な発展が必要だと説くだけでは哲学が欠けているだろうし、ではそこにどんな哲学が必要なのかというと、経済の発展のために人が犠牲とならないような人道的かつ倫理的な道徳心が必要だと思われてくるわけだが、そういうありふれた見解以外で何を考える必要があるかとなると、政治に対する捉え方を変える必要が出てくるわけで、政治の場を世の中の各方面や各分野の間で生じる軋轢や利害を調整するための交渉の場と捉えるなら何も大げさに哲学を持ち出すまでもなく、単にそこで交渉すればいいわけで実際にも交渉しているわけだろうし、そうした交渉の場に関心を持つ人や団体がかかわってきたり介入してくるのも当然の成り行きになるわけだが、それ以上に何を考える必要があるかとなると、特に制限を設ける必要はなく誰でもかかわってきてもいいわけで、誰もが介入する権利があると捉えておく必要もあるだろうし、それ自体が大したことでもないし事を大げさに捉える必要もないわけだが、そう捉えるなら政治も経済もその程度のことであり、宗教や哲学に比べれば下世話でいかがわしいジャンルとなるだろうが、日常的な次元でおこなわれていることの延長上で論じられることだから、学問や形而上学などに格上げする必要もなく、ゴシップとかワイドショーとかの類いと同等の水準になってしまうだろうし、そうなっている限りで政治的な交渉も情念と情念のぶつかり合いのような様相を呈してくるわけだが、そこに理性を介在させる必要があるかとなると、理性よりも功利的な利害を介在させようとするだろうし、そうなれば高尚なことは抜きで世俗的な範疇でくだらない紆余曲折を経ながら馬鹿げた屁理屈も持ち出されて何かうんざりするような低レベルでけんか腰のやりとりをやった末に、誰もが納得しがたいような結果に至れば、それこそが政治的な決着だと言えるだろうし、そういう成り行きを経ないと誰もそこから引き下がらないだろうし、政治的な効果というのはそういうものだと捉えておくべきで、そこで理性的できれいごとの結論が出てしまってはまずわけで、年がら年中不快さのただ中でだまし合いや化かし合いがおこなわれているのが政治の本質と言えるわけだが、なぜそうなってしまうのかといえばそれが社会や世の中の実態だからだが、それは経済にも言えることであり、相手からいかに利益を搾り取るかが第一の目的となって、そのためには平気で嘘をついてもかまわないようなことになるわけだが、もちろんそれを嘘とは言わずに宣伝や広告と呼ぶわけで、うまいことを言ってそんな宣伝文句に騙された客を呼び込んで商品を売りつけることになるわけだが、そんなふうに人を騙して儲けることに良心の呵責を感じては駄目だろうし、騙しているとは思わずに誠実な対応を心がけていると自らに言い聞かせることで、自分で自分を騙してしまうようでないと商才がないことにもなるだろうし、そういう成り行きの中でそれなりに対応できれば、その中からうまくいく人も出てくるのだろうが、たぶんうまくいかなくてもかまわないわけで、うまくいかない人にはいかないなりの生き方があるわけで、嘘をつくのが下手なら正直に生きていけばいいだろうし、政治や経済に絡んだだまし合いや化かし合いに嫌気がさしたらそこから遠ざかればいいわけで、そうすればそんなこととは無縁の生き方ができる人も中には出てくるのかも知れず、そうやって得手不得手や好き嫌いや快不快の水準で生き方を選択できればいいわけだが、大抵の場合はそうはならずに、自身や家族の生活のために不得手でも嫌いでも不快でも、やらざるを得ないことをやる羽目になってしまうのかも知れないが、それでもかまわないだろうし、それなりにストレスを抱えながら生きていける範囲内で生きていくしかなく、多くの人がそんな立場や境遇に苦しんでいれば、そんな不幸な立場や境遇をなくしていくことが政治の目的になってくるかも知れないし、商売としてもなるべくストレスのかからないやり方を模索していくような成り行きとなってくるのかも知れず、意識してそうなることを目指そうとしなくても、自然にそういう成り行きになってくるようなら、何かそこで人々の意図や思惑が一致して、そういう成り行きに持って行こうとする傾向が生じていることにもなるだろうし、それは個々人の態度や仕草に現れてくるわけで、何か不得手で嫌で不快な動作を避けようとしてしまい、それでもやらなければならない成り行きになってしまうとぎこちない動作となって、それが相手にも通じてはっきりと口に出さなくても、お互いに通じ合うようなことが起こり、そういう動作を避けることでその場の利害が一致してしまうと、それを避けながら何とか話をまとめようとするわけで、そうやって相手の心情を推し量るようになってくると、何か心の通じ合った相手にはひどいことができなくなってくるだろうし、ひどいことをやって儲けようとする欲望を抑えながら誠実な対応をしてしまう成り行きになるのかも知れないが、それがどこまで通用するかはその場の状況にも条件にも事情にもよるだろうし、なるべく避けられるうちは避けるにしてもやらざるを得ない時にはやらかしてしまうだろうし、その辺が人が人としての自尊心を保てるような環境にしていくことが課題ともなってくるだろうが、そういうことをやるのも政治的な課題ともなれば、何か世の中が誰もが望んでいる方へと向かう成り行きになってくるだろうが、そんな場合でもそれなりにそれに反する事情が生じてくるだろうし、それが現状の中で生じている政治的な事情であり経済的な条件でもあるわけで、そうした事情や条件を変えることも政治的な課題となってくるのかも知れない。


5月10日「成功者」

 誰が他の誰かより有利な立場になっているとしても、別の誰かに対しては不利な立場となっているかも知れないし、そういう場合の有利不利は相対的なものかも知れないが、そこに組織的に関与してくる団体があれば、団体そのものが関与している個人に対しては有利な立場になっているのかも知れないし、その団体も他の団体に対しては不利な立場を強いられている場合もあるのだろうが、どういう事情で有利不利が生じているかでも、そこで生じている関係そのものが問われてくるかも知れず、不当なやり方で不利な立場を強いられていると、そんな関係を改めようとするのはもちろんのこと、納得できる関係でも不利な立場を強いられている側にとっては面白くないわけで、場合によっては手段を選ばず不当なやり方を用いてでも有利な立場になろうとするかも知れないし、一方で有利な立場になっている側も手をこまねいているわけではなく、自らの有利な立場をさらに盤石なものにするための策略を講じてくる可能性もあり、どちらにしても自らの立場を有利なものとするために手段を選ばないような状況になってくれば、不当なやり方を用いてでも相手に勝とうとしてくるわけで、そうならないようにするには公正なルールを世の中に行き渡らせてそれを守らせるような行政による統治が必要となってくるかも知れないが、そうなると統治する側が他の何に対しても有利な立場になってくるだろうし、統治する側に対しても何らかの歯止めをかけなければならなくなってくるだろうが、統治に歯止めをかける立場を占めている側が統治する側と結託すれば、そんな歯止めも有効には機能しなくなるだろうし、結局は統治される側が不当な統治には抗議しなければならなくなるわけで、それができなければ不当な統治がまかり通ってしまうわけだが、そうならざるを得ないような成り行きになってしまう場合もあるだろうし、それに対して抗議の声を上げているのに、そんな抗議活動もうまくいかずにひどい世の中になっているのに、それでも多くの人たちが平然としている場合もあるわけで、否応なくそうなってしまうから心ある人は世の中を変えなければならないと思うだろうが、それでも多くの人がひどい世の中になっているとは思わなければ何も起こらず、政治や行政のせいでひどい世の中になっていると思えば、多くの人が選挙で政権交代を促す側に投票するだろうが、実際にそうならなければ、心ある人が思っているほどひどい世の中にはなっていないのかも知れないし、ただ単に鈍感な人が世の多数派を占めているのかも知れないが、それが政治や行政のせいだと決めつける気にはなれないのかも知れず、もっと広範囲に世の中の様々な方面でそうなっている傾向を感じられるとすれば、何か社会そのものに根深い問題があるようにも思われてくるだろうし、それはひどいとかひどくないとかいうことではなく、否定すべきことではないのかも知れないが、現状の中で様々なことが起こっているわけだから、現状の中で普通に生きている人にとっては、そうなることにそれほど違和感はないのかも知れず、そんな現状を変える発想がそもそも生じてこないのかも知れないし、それよりは現状に合わせて生きていこうとするだろうし、現状の中でうまく振る舞い立ち回って成功しようとするわけで、成功するにはまずは現状を受け入れた上でその中で成功している人のまねをしようとするだろうし、また成功している勢力や団体に入ろうともするわけで、逆にそれができなかった人が現状に対して文句を言うわけだが、そんな文句が聞き入られることはなく、何かメディア上で現状に対して文句を言っている人がいれば、その人も何らかの形で成功している範疇に入るだろうし、現状に文句を言ったり現状を批判するのにも、文句を言ったり批判している人の中で成功して有利な立場にならないと、他の多くの人たちから無視されて相手にもされないわけで、たとえその人が現状の中で不利な立場を強いられている人の代弁者を気取っていても、その人自身は成功して有利な立場となっているわけだから、何かそういうところで釈然としないかも知れないが、本当にその人が現状の中で不利な立場を強いられている人の味方なのかといえば、そうであるにしてもまたその人自身も不利な立場を強いられている面があるにしても、それを主張できる面では他の主張しても無視されて相手にされない人たちよりは有利な立場にあるわけで、そういう意味ではそこで生じている有利不利の関係も相対的な傾向があるし、少なくともその人やその人が主体となって活動している勢力が世間から相手にされているだけでも、それなりに成功していることになるわけで、そういう面ではその他大勢の人たちよりは有利な立場にあると言えるだろうが、一方で世の中を変えるということは、そういう面まで変えなければならないということであり、例えば誰も成功して有利な立場にはなれないような世の中になってしまうと、そんな不利な立場を強いられている人の代弁者さえも必要なくなってしまうわけで、果たしてそういう世の中が実現できるかといえば、誰も実現できないだろうし、どんな人や勢力も世の中で成功して有利な立場になろうとする限りで、そんな世の中を実現させるつもりもないだろうが、そのつもりがなくてもだんだんと世の中の傾向がそうなってきている可能性もあるだろうし、実際に現状の中で何らかの主導権を握っているように見える人や勢力の実態や内情がどうなっているかといえば、多くのメディア上で指摘されている限りではお粗末そのものであり、どう見ても暗愚な人たちがその中で幅を利かせているように見えるだろうし、それを批判する人たちの言い分が間違っていなければ、ひどい人たちがひどいことをやっているだけで、そういうひどい人たちを支持して支えている人たちもひどい人たちでしかないわけだが、果たしてそれらの人たちが成功して有利な立場になっているのかといえば、そうなっているとしても暗愚だからそういう有利な立場を活かせていないようにも見えるだろうし、ある面では有利な立場になっているとしても別の面では不利な状況に追い込まれているようにも見えるわけで、その不利な状況というのがそれらの人たちを支持して支えている人たちもひどい人たちでしかないから、そんな人たちの業績というのが歴史的な評価基準からすれば全く評価されないような内容となっているだろうし、このままでは歴史的に見ればどうでもいいような人たちと見られてしまって、評価に値するような業績は何も残せない状況に追い込まれているわけで、それはその人たちの力を超えている面でそうなっているわけで、その人たちのせいではなく、時代そのものがどうでもいいような時代になってきていて、その人たちにはどうすることもできないわけだが、逆にそんな人たちがいなくなることが歴史的な評価を高めるような時代になるとも言えるだろうし、実際に現状が行き詰まっているとすれば、この先に歴史的な転換点が待ち受けている可能性もあるだろうが、それがもう誰もどんな勢力も成功して有利になるようなことはない時代へと変わっていくことになれば、もはや歴史や時代もどうでもいいようなことになってくるのかも知れず、そういう成り行きや傾向の顕著な例として、たとえ世の中で成功して有利な立場になっても、そうなっていること自体が何でもないようなことになってきているのかも知れないし、そうなろうとすることにあまり肯定的な価値を見出せない世の中になっていることの証しとして、実際にひどい人たちが成功して有利な立場になっているとしたら、そんな人たちを支持して支えようとすることも肯定できないだろうし、そんな人たちの仲間になろうとすることもひどい人たちの仲間になることになってしまうし、ひどい人にならないと成功して有利な立場にはなれないようなら、そんなひどい社会や世の中を肯定するわけにもいかないし、そうではないような世の中にしなければならないと思うのかも知れないが、実際にそうではないような社会や世の中になる過程で、成功して有利な立場になっても何でもないようなことになりつつあるのかも知れないし、そうなることに価値や魅力を見出せないような傾向となってきているとするなら、では他にどんな物事に価値を見出せばいいのかとなると、価値を見出せなくてもかまわないような状況になりつつあるのかも知れないし、どういう状況におかれてもそれなりに生きていけるにしても、誰もが生きていけるわけでもなく、中には生きてはいけないような人も出てきて、そんな人たちが人知れず消えてゆくような世の中になりつつあるのかも知れない。


5月9日「流行現象」

 流行現象にはそれに付随してそれを利用する流行現象も加わってくるようだが、それも流行現象には変わりなく、関連する複数の流行現象がひとまとまりとなって複合的な流行現象を形成しているわけだろうが、流行に乗って人や物事が動いていると、流行が終息した頃になれば、それにかかわってそれとともに脚光浴びていた人も物事も、流行を脱してそれなりの存在として世の中に定着していなければ飽きられてしまうのかも知れず、そうならないように現状の中で必死にアピールしている最中の人もいるらしいが、流行を利用してそういった存在を盛り立てている周囲の魂胆が浅はかに見えるようなら、すでに馬脚を現していることになるのだろうが、それを見て見ぬふりを装うのがメディアの態度だろうし、そんなメディアに騙されてそんな人物や物事に好感を抱いてしまうのも、大衆の愚かな群集心理の表れかも知れないが、たぶんそこで注目すべき何かが逸らされているわけで、それを逸らすように世論を誘導しているつもりなのだろうが、逸らされてしまってもかまわないのかも知れず、逸らされるようでないと群集心理の体をなしていないし、それを批判する人たちの批判材料にもならないわけだから、そんな思惑もひとまとまりとなって複合的な流行現象に含まれてしまい、そんな方向へ世論を誘導しようと画策する人もそれを批判する人も一緒になって、世間的な流行現象の一翼を担っているわけだろうが、そんな見え透いた動きをわかっているならそこに留まっていてはいけないのだろうし、そこに一枚加わってそんな現象を盛り立てる側に回ろうとするのも浅はかな魂胆となってしまうなら、そこから一定の距離を置いて考える必要があるのかも知れず、ではそこで何を考える必要があるのかといえば、そんな現象にかかわっておこなわれる政治とそこから作用や影響を被る経済について考える必要があるのかも知れないが、どちらにしても物事の表層でうごめいていて、誰もが心を奪われている現象の一部を構成しているわけだが、そこから作用や影響を被る物事にしても、一過性の作用や影響である限りで、それが肯定的なものなら一過性の繁栄をもたらし、否定的なものなら一過性の衰退をもたらすわけだが、そんな一過性の範囲内で動いている物事と共に活動している人や団体にしても、その範囲内で完結してしまうような活動ならそこだけで通用しているに過ぎないだろうが、そこでの流行現象がその後の世の中に何らかの作用や影響を及ぼすにしても、その際におこなった活動が知識や経験となってその後の人や団体の活動に活かされるにしても、まだ流行が収まらずに流行現象の中で活動している最中でもあり、現状の中でどうにかしようとしているわけだから、その現状をどうにかしようとする活動を続けていくしかなく、どうにかしている姿をメディア上でアピールすることも活動に含まれるのだろうが、それが政治的な活動であろうと経済的な活動であろうと、それを流行現象に結びつけながら効果を上げているように見せたいわけだから、それへの対応や対処が適切になされているようにも装いたいのだろうし、しかも流行現象が否定的な傾向を持っていれば、それを終息させる上で効果を上げているように思わせたいのだろうが、その辺が腕の見せどころというか、やっていることがうまくいっていると主張したいわけだが、もちろんそうは見えなくてもかまわない面もあるだろうし、うまくいかないなりにも必死で努力しているようにも見せかけたいのかも知れないが、さらにそうでもなくてもかまわない面もあるだろうし、いくら努力してもどうにもならない面も見せれば、世間の反応もあきらめムードとなって、逆にそんな中でも必死になって働いている人や団体に対して同情的な傾向になってくるかも知れず、そうなることを故意に狙っているわけではなくても、物事を肯定的に受け止めようとする善意に期待できるだろうし、少なくとも世間の一般常識に基づいておこなわれていることなら、全面的に批判されるようなことはおこなわれないわけで、それが政治的な範囲内でおこなわれていることであれば、世論のそれなりの支持を背景にして主導権を握っている勢力がおこなうことである限りで、そうした世間の許容範囲内のことがおこなわれるわけで、もちろんそれに対して批判的な姿勢をとっている人からは当然のことのように批判されるわけだが、それはある程度は織り込み済みであるだろうし、そういう批判者はそれ以前から批判していてその延長上で今回の件でも批判しているわけだから、いくら批判したところで相変わらず批判していることになってしまうだろうし、そうなっている限りで批判の効力が減じられてしまっていて、そういう面を割り引いてみておく必要もあるわけで、その内容が的を射た批判であってもそれなりにもっともらしい批判となっているだけで、それ以前の批判も同様にもっともらしかったのだから、今回ももっともらしく適切で的を射た批判をおこなっているとしても、批判に賛同する人たちがそう思うのとは対照的に批判の対象となっている政治勢力やその支持者たちの反応も、それ以前の批判の時と同様な反応になるだろうし、それが織り込み済みの反応になるわけだが、確かに批判されるようなまずいことをやっているわけだろうが、それはそれ以前にも同様に批判されるようなまずいことをやってきた延長上でおこなわれていることなのだから、今回の件も同様にまずいことがおこなわれているだけで、たぶん今後も同様に批判されるようなまずいことがおこなわれていくのだろうし、それはそうした政治勢力が主導権を握っている限りで今後も続いていくことであり、これまでもそうだったしこれからもそうなっていくだけで、今回の件で何か特にひどいことがおこなわれているとは思えないだろうが、それを批判している側としては今回の件でも相変わらずひどいことがおこなわれていることになるだろうし、それは今後も続いていくことになるわけだろうが、いつまで続いていくのかといえばそうした政治勢力が主導権を握っている限りで続いていくだろうが、いつまでもそうした勢力の天下が続いていくのかといえば、いつかは途切れるだろうがそれがいつになるかはわからないし、批判している人たちはこのままではひどい事態になるし現状でもひどい事態になっていると危機感を募らせるわけだが、その一方でそんな現状が実際に続いていて現状が維持されているわけだから、現状を維持するような何らかの力が作用しているのかも知れないし、それは今回の流行現象が起こる前から続いていることなのだろうし、また流行現象が去っても続いていく作用なのかも知れないが、そうだとすれば今回の流行現象が何ら事態を変える力がないほど現状を維持する力の方が強いことにもなるわけで、もちろん力が及ぼされている次元や方向が異なるから、二つの力が作用し合わないことになっているのかも知れないし、それは世界の他の国でも言えることかも知れないが、そうなると今回の流行現象を利用して主導権を握っている政治勢力を批判しても無駄かも知れないが、無駄であろうとなかろうと実際にまずいことがおこなわれているのだからそれを批判せざるを得ないし、それは以前もまずいことがおこなわれていたのを批判していたのとは異なるところでまずいことがおこなわれているから批判しているはずだが、どちらにしてもまずいことがおこなわれていればそれを批判せざるを得ないわけで、そしてこれからもまずいことがおこなわれるならそれを批判するしかないわけだが、そうやってまずいことがおこなわれている現状が維持されるわけで、そうだとすればまずいことをおこなっているから現状が維持されるようなことになっていると考えるしかないだろうが、逆に言えば現状を維持するにはそれを批判されるようなまずいことをおこなう必要があるかというと、そうは思いたくはないところだろうが、現状の中でおこなわれているまずいことが現状を維持するには適切だから批判されるようなまずい現状が維持されるようなことになっているとすれば、現状で主導権を握っている政治勢力にしてみれば、そうすることによって主導権を握っていられるのだから、たとえそれが批判されるようなまずいことであろうとかまわないわけだが、もちろんそれをまずいことだと批判している側にとってはそうなっていること自体がまずい状態なのだろうが、それを批判している側には現状をどうすることもできなければ、現状がこれからも続いていくことになるわけで、逆に言えば現状をどうにかするにはそれ以外の人たちの力が必要になってくるわけだ。


5月8日「追い込まれること」

 わかっていることが何を意味するのかと言えば、わかっている以上のことを意味するわけではなく、それを意味することがわかっているはずだが、ではそれを意味する以外で何がわかっているのかと言えば、わからないことがわかっているかというと、わかっていないのかも知れず、わかっていないからわかっている以上のことができるような気がするわけだが、実際にやってみればそれがわかるのかというと、わかることもあるだろうしわからないこともあるのかも知れず、やってみてわかったことがあればもっとよくわかりたくてさらにやろうとするだろうし、さらにやればもっとよくわかることも出てくるだろうが、依然としてわからないこともあるのかも知れないし、わからないことをわかろうとすることが何かをやる動機となってくるだろうが、どこまでやってもわからないことがつきまとってくるかも知れないし、どこまでもやれるわけでもなく、やがてやれることに限りがあることに気づくわけだが、気づいたところでそこでやっていることをやめるわけにもいかない事情があればやめられないわけで、何かやめられない事情があることもそれをやり続ける上での動機や原動力となるだろうが、やめたくてもやめられないだけにそれだけ追い込まれていることにもなるだろうし、そういう追い込まれ方が何か悪い兆候のようにも思われるわけだが、何かをやらざるを得ない状態に追い込まれないと、何もできないような成り行きもあるのかも知れず、そうやって何かをやらざるを得ない状況に自らを追い込みながら何かをやろうとすれば、当然の成り行きとしてそこから無理が生じてきて危機的な状況となってくるかも知れないが、無理なことを強引にやろうとしているわけだからそれ自体が危機的な兆候なのだろうし、自業自得でそうなっているとすれば当然の成り行きであることもわかるだろうが、そんなことがわかったところで何がどうなるわけでもないだろうし、無理なことを強引にやらざるを得ない状況に変わりないわけだが、それを無理でないように見せかけようとすればそれが嘘やごまかしやまやかしになってくるだろうし、しかもそれをやらざるを得ないような状況に追い込まれているわけだから、それがばれても見え透いていても強引にやり続けなければならないような成り行きになってしまうわけで、そういう成り行きの中で耐え続けることができれば、それをやり遂げているような感触を得られてそれが自信になるのだろうが、そういう自信が無謀なことをやっている感覚を麻痺させて、さらなる危険地帯へとその身を誘うのかも知れないが、そういう成り行きが身の破滅を招く危険性があることは確かだが、大なり小なり程度の差があるにしても、誰もが危険な目に遭いながらもそれをどうにか切り抜けて生き残ったから今があるわけで、切り抜けられなかった人はそこでおしまいとなって世の中から消えてしまったのだろうし、そうやって生き残った人が多ければ多いほど世の中が繁栄している証拠となるだろうが、生き残っている人の状態がどうなっているかといえばそれなりに状態にもばらつきがあり、誰もが同じ状態でいるわけではないし、その時はそうであっても別の時にはそうではないかも知れないし、時期によっても場所によっても立場によっても人の状態に違いが出てくるだろうが、それを人それぞれの個人的な違いと見るか社会的な立場上や境遇の違いと見るかは、そう見る人の事情によって異なってくるかも知れないが、その違いを容認できるかどうかも、その人の事情によって異なってくるとすれば、生き残れる人をできるだけ増やそうとするのか、あるいは生き残れそうもない人は見捨てるべきなのかも、あからさまに見捨てるような態度はとれないにしても、結果的にそうなってしまうことを容認するような風潮を推進している人たちに対する見方にも、それを見る人の社会的な事情が反映していることになるわけだが、自らがそういう状況に追い込まれていなければできれば窮地に陥っている人を助けることに賛同したいだろうし、そうでなくても世間体を気にして賛同しているように装いたいところだが、実際に助ける立場になれるかといえば、直接にはなれなくてもそれに賛同するか賛同を装うことは割と簡単にできるわけで、そういった賛同者から寄付の類いを募ってそれを利用して人助けをやるような成り行きにもなるだろうが、行政の制度としてもそういった人を助けるような制度があるにしても、それでも助けられない人が出てくると、そういう人は見捨てられた人となるのかも知れないが、中には積極的に見捨てられたい人もいて、放っておいてほしい人もいるだろうし、そういう人は助けられようとしないだろうし、助けられるのが嫌だと思うのかも知れないが、さすがにそういう人までは誰も助けられないのだろうが、そういう人に自滅や自殺以外の可能性があるとしたら、それは助けられなくても生き残る可能性かも知れず、見捨てられて放っておかれているのになぜ生き残ってしまうのかいえば、なぜか知らないがそんな成り行きになってしまうとしかいいようがないだろうが、そうなることを目指すのではなく、結果的にそうなるように仕向けられてしまうことがあるとすれば、それがどういう成り行きでそうなってしまうのかといえば、そうなるように追い込まれてしまうということであり、周囲から嫌がらせをされて、その場では生きづらくされてそこから追い立てられてしまうと、自然とそういう成り行きになってしまうのかも知れず、そうされることによって逆にその人の周囲が生き残れるような環境となってくるわけだが、そういう環境が人為的に整備されてそうなるわけではなく、自然環境自体が生き残れる環境となってくるのかも知れず、たとえ人為的な社会環境が構成されていても自然がそこに浸透してきて、その人を生かす手助けをすると考えられるかも知れないが、実際にそうだとするとそれがどういうことなのかといえば、何かがそこで作用して社会の中でうまく立ち回れる余地が生じてくると言えるのかも知れず、そんな余地を見つけることが重要であり、しかもそれは見つけようとして見つかるのではなく、自ずから見いだされてくるような成り行きかも知れないし、窮地へと追い込まれていくように思われるのに、追い込まれた先に出口があるような成り行きになっていて、別にそこへと至るのが迷路になっているわけでもなく、周囲がそこへと押し出してくれるわけで、それが善意でそうやっているわけではなく、それどころか悪意を込めてその人を破滅に追いやろうとしているのに、追いやった先に都合よく出口があるとなぜかそこから出られてしまい、そうなると押し出した側が悔しがってしまうわけで、それが不条理な成り行きに思われてくるのかも知れないが、たぶんそれが自然の狡知であり、そこに悪意が渦巻いていると、そんな悪意をはぐらかすような成り行きがもたらされてしまうのであり、人の悪意が悪意を向ける対象を助けることもあるわけで、そうやって自然に助けられてしまう人というのは、その人に向けられた悪意を利用することで助かってしまうのだろうが、利用しているつもりはないだろうし、その人も悪意に利用されていることにもなるわけだが、悪意を向ける人も悪意を抱くように仕向けられているわけで、そうだとすれば人に悪意を抱く成り行きになるようなら注意しなければならないだろうし、悪意を抱いてその対象となる人を攻撃すると結果的にその人を助けることになる可能性があるわけで、そうやって悪意を抱くように仕向けられている可能性を考慮するなら、逆に悪意を抱いてしまった人が罠にかかっているのかも知れず、意図せずに悪意を抱かせるような振る舞いをしてしまう人がいれば、それを自覚することなく他人に悪意を抱かせてその悪意を利用して助かろうとしているのかも知れないが、人は誰でも他人から良く思われたいだろうし、わざと戦略的にそういうことをやっているとは考えづらいが、少なくともその人が様々なことを経験してそこに存在しているとすれば、何かしら自然に学習して身についていることがあるわけで、周囲がその人に悪意を抱くことがあれば他の多くの人もその人に悪意を抱いている可能性があり、そうであればこれまでにも様々なところで様々な人に悪意を抱かれてきた可能性を想像してみた方がいいだろうし、しかもそんなふうに悪意を抱かれながらもそんな状況を何らかのやり方で切り抜けてそこにその人が存在しているわけだから、危険なのはむしろその人に悪意を抱いてしまう自分の方だと悟る必要があるわけで、その延長上で考えられるのがそんな悪意を利用してその人にうまく立ち回られてしまう成り行きであり、そこまで想像することができれば悪意に駆られてその人をうかつに攻撃してしまうとその人の思うつぼにはまってしまう危険性があることに思い至れば、その人を追い込んでいるつもりが自分が追い込まれてしまう可能性も想像できるわけだ。


5月7日「安心すること」

 意識が身勝手な被害妄想にとらわれている時には、ちょっとしたことでも悪い兆しに思われてしまうのかも知れないが、将来について何を悲観してみても取り越し苦労かも知れないし、逆に何か妄想を覆すようなことをやって、被害妄想から脱却しなければならないのだろうが、意外とそれが妄想ではなく実際に何らかの作用を及ぼされて、妄想に陥るように仕向けられているのかも知れず、その仕向けられている対象というのが自分一人が標的にされているわけではなく、大勢の人が一様に仕向けられている場合もあるわけで、それがメディアを通した宣伝や煽動の類いなのかも知れないが、ではそう仕向けられて妄想に陥った人たちが実際にどうなるのかと言えば、仕向けている何らかの団体から利益を奪われることになるのかも知れず、実際にそうやって被害妄想に陥った上に利益を奪われてしまえば、まさに踏んだり蹴ったりで泣きっ面に蜂だが、それを逃れるには自分で何とかしなければならないだろうし、何とか工夫を凝らしてそれなりの対策を講じて、そう仕向けてくる作用に打ち勝つまでには至らないにしても、一矢を報いるぐらいの感触が得られるようならその程度で満足すべきかも知れないが、妄想を抱くように仕向けてくる作用に完全に打ち勝つことはできないにしても、妄想から逃れようとして抵抗しているような状態に保っておいてそれだけで手一杯になれば、さらに他の妄想にとらわれることもないだろうし、その程度で済んでいればまだマシな方かも知れず、それはそうやっておいて、それとは別の方面で別のことをやるしかないのかも知れないが、そうなっていればそういう妄想に関してはやり過ごしていることになるのかというと、完全にやり過ごすには至らないとしても、部分的にはやり過ごしている面もあるように思えるようなら、その程度で何とかなっている証拠と言えるのかも知れず、それは病が重篤にならずに済んでいる状態と言えるのかも知れないが、完治からはほど遠いにしても致命的な状況とは感じられないわけだから、それなりに抵抗できていると言えるだろうし、そうやって何かに抵抗できていると思われるならそれもある意味では妄想でしかなく、その実態がどうなっているとしても妄想の中では何かと戦っている最中なのかも知れないし、そうなっている限りでそこでは戦っていることにしておいて、それとは別のところでは別のことをやっているつもりになっていれば、そこでも何か別の戦いを繰り広げているつもりになれるだろうし、そうやって様々な方面で戦線を拡大していけばやがて自身が持ちこたえられなくなってきて、精神に破綻を来す兆候が出てくればしめたものというわけでもないだろうが、戯れにそんなことを妄想できるようならそれなりに余裕が出てきた証拠かも知れず、何かそういうところで事を深刻に捉えるのをはぐらかすような事態が生じているわけで、それがそれ以上の何を意味するわけでもないだろうが、そこではぐらかされているのが自身が抱いている妄想全般であるとしても、やはり完全に抜けきろうとしてはまずいのかも知れず、ある程度は軽度の妄想に浸っていないとまた別の妄想にとらわれかねないし、そうやって自身の中で様々な妄想を適当に競わせておくべきであり、それらのどれ一つとして支配的な状態に至らないようにしておくことが肝心なのかも知れないが、果たしてそんな状態を保てるのかと言えば、自信がないと思っておけばいいわけで、実際にも妄想に打ち勝つことができずにとらわれたままになっているわけだから、心の弱さを自覚しておけばいいのだろうし、自身の力の限界を確認しておけば過信することもなく、妄想との付き合いの中でもそれだけ謙虚な姿勢を保てるかも知れないし、そうなっていれば少なくとも自身の力を過信してしまう事態からは逃れていることになり、良い方向にも悪い方向にも振り切れずに中庸を保ちながらも何かの機会をうかがう姿勢でいられるわけで、そうなっていられるなら自身の力の他にも妄想も利用していることにもなるだろうし、その場に留まろうとする上で自身の力だけでは足りないと感じるなら妄想の力も借りる必要があるのかも知れず、そこで何かを妄想していられることがその場に留まっていることの証しとなるなら、妄想の力をも利用していると思っておいた方がいいのかも知れず、そうやって妄想に陥るように仕向けられていることを逆に利用できている限りで、そうなるように仕向けている何かとの間で一定の妥協が成立していることになれば、そういう状態が保たれていることにもなり、それ以上の妄想の侵攻を許していないからかろうじてそこに留まっていることにもなるわけで、そのかろうじての状態を保っていることが肝心で、そこから安心できるような状態へと持って行こうとするとまた別の妄想にとらわれてしまうのかも知れず、それでもかまわないと言えるようならすでに余裕があって、安心してしまっている状態になっているのかも知れないが、そこで妄想状態を脱したと捉えてはならないだろうし、そういった安心できる状態こそが妄想にとらわれていることになるわけだが、なぜ妄想にとらわれていないと安心できないのかと言えば、実際に安心できないような世の中で暮らしているからで、そこで安心するには妄想を提供する何かに依存しないと安心できないわけで、そうした安心できる何かを提供する団体の類いが安心できる何かを提供して、それに依存することによって安心するように仕向けてくるわけで、そういう意味で安心できる妄想にとらわれることによって安心するわけだろうが、ただで安心できるわけではないだろうし、安心するには安心できるような妄想を受け取るのと引き換えにして利益を提供しないとならなくなるような仕組みとなっていて、そんな仕組みを利用すれば安心できるわけだが、それが妄想ではなく実質的な安心を得られるのかと言えば、妄想でない本当の安心というのが妄想が含まれた安心なのかも知れず、それを信じないと安心できないわけで、そんな安心自体が売りに出されていて、それを買えば確かに安心を買ったと思い込めることによって安心できるわけだが、その安心のサービスというのが完全な安心を提供しているわけではなく、そこには何らかの条件や限界が設定されていることも確かだろうし、それが買った価格に応じた程度の安心になるわけだが、その安心に価格が設定されているわけだから、価格の安い安心よりは高い安心の方が安心の程度が高まるわけだが、そうなればいくらでも高い安心を買えるわけでもなく、少なくとも買える限度があり、それを超える安心は買えないのだから、安心と言っても限度や程度のある安心であり、そういうところでいくら安心しようとしても限度や程度があることを知ることになり、そんな限度や程度が安心への過信を許さないわけで、そういう面で妄想から覚めなければならないわけだが、一方で安心に価格設定があるから、安心を提供する側に価格を超える安心を提供するわけにはいかないという事情があるわけで、それは実質的には安心の出し惜しみであり、そう捉えるなら安心を提供する側への不信感も芽生えてくるだろうし、そんな不信から安心を提供する側に裏切られているのではないかという詐欺心や不安感も生じてきて、それも悪い意味での妄想を募らせていることになるわけだが、そうなると結局は現状の世の中では安心できないからといって安心を提供する団体の宣伝文句に乗せられて安心を買ったとしても、それでもまだ完全には安心できないどころか猜疑心や不信感や不安感までも妄想してしまうとすれば逆効果になってしまい、それこそが被害妄想そのものだとしてもそんな被害妄想にのめり込んでいくのを何らかのやり方で押しとどめておかないとならないわけで、それが別の妄想をそれと競合状態にしておくやり方になるのかも知れないが、では精神の均衡を実現する目的で猜疑心や不安感や不信感などを相殺するために何を競合させればいいかとなると、それに関しては皆目見当がつかないというわけでもないだろうが、意外とそれらとは正反対の感覚とは違って、何か立体的にねじれの関係になるようなものなのかも知れず、それがそういった感情や妄想をはぐらかすような偶然の巡り合わせになってくると、一見何の関係もないような作用となるのかも知れず、それをどう捉えたらいいのかわからないうちに、一時的にそれらの感情や妄想を忘れてしまうようなことになれば、それで済んでしまうのかも知れないが、それが一時的な効果であるだけに長続きするわけでもなく、絶えずそういった感覚になるような何かを探し求める成り行きとなってくるのではないか。


5月6日「役割分担から外れて」

 何か理屈に合わないことがそこでおこなわれているのはどうしてなのかといえば、確かにその理屈には合わないが別の理屈には合うのかも知れないし、そこに複数の理屈が介在していれば複数の理屈に合わせようとして折衷的なことをやろうとしてしまうと、結果的にはどの理屈にも合わなくなってしまい、そうなると理屈に合わないことがおこなわれているように感じられるのかも知れないが、たとえ理屈に合わなくてもやってしまえばやった者勝ちなことになってしまうのかも知れず、反対されようと批判されようと、それをおこなっている状況になってしまえば途中でやめるわけにはいかなくなって、やっていることが多少はうまくいかなくても、勢いや惰性でやってしまうような成り行きになってくれば、そこで主体的に何かをおこなっている人や団体がその場で主導権を握っていることにもなるだろうし、そうなると誰も止めようがなくなって、とりあえずやっていることが一区切りつくまでは主導権を他には渡さないようなことにもなってきて、割と順調に最後までやり切ってしまうようなことにもなってくるのだろうが、果たしてそれでいいのかとなると、それに反対している人たちやそれを批判している人たちは当然のことのようにそれでは駄目だと主張するしかないだろうし、実際にそういう人たちにとっては駄目なことが平然とおこなわれるような状況となってしまうわけだが、それでいいのかとなるといいわけがないと言うしかないのだろうが、それでいいわけがなくてもそれをおこなっている状況があるのだから、そこではそうなるしかないわけだが、それはそんなふうにしか事態が推移しないことかも知れず、そんな成り行きまかせの中でそれに反対したりそれを批判したりする役割分担を担う人もそれなりに出てくるわけだが、その場の状況から見捨てられてしまうのはそういう人たちの方であり、それがうまくいかなかった時の保険としてそういう人たちの存在があるのかも知れないが、うまくいかなくてもそれをやった者勝ちであり、それをやってしまえばもう後戻りが利かなくなってしまうから、やっている時点で反対したり批判しても後の祭りとなってしまって、その先へと事態が推移してしまえばその場の反対や批判が意味をなさないことになってしまうわけだが、後からだからあのとき反対したり批判したのに誰も聞く耳を持っていなかったと振り返ってみても、やってしまった人たちと共に事態をくぐり抜けてきて、すでに共犯関係となっている大多数の人たちにとっては、今さら何を言っているのかとなるしかなく、反対や批判の意見に聞く耳を持たないのは当然のことだろうし、そうやってアリバイ工作のようにやっている途中で反対や批判をおこなってみても無駄なのかも知れないし、そういう人たちはその場ではそういう役割分担になっているからそれをやらざるを得ないわけだが、それを担う立場にはなりたくてもなれない人もいるだろうし、またその場で何かをおこなっている人たちとは別の方面で何かをおこなっている人たちもいるわけで、そうなっているなら無理にかかわらなくてもいいような成り行きにもなって、自らがそんな成り行きに従うような立場になってしまえば、それへの積極的なかかわりから逃れられていることにもなるだろうし、そういう面では当事者意識を持たなくてもかまわないような立場でいられるわけだが、そうであればその場へと積極的にかかわろうとしなくてもそれに同調しなくてもかまわないし、それに反対したりそれを批判したりすることにも賛同しなくてもかまわないわけだが、そうなってその場にかかわることによって課される役割分担を逃れたとしても、それで何になるかというと、ただそういう成り行きの中では機能しなくなるだけで、役割分担を逃れているのだから機能しなくて当然だし機能する必要もないわけだが、それでいいのかといえば役割分担の中では何もやれないわけだから、何かをやる権限もないし、それに反対したりそれを批判する成り行きにもならないわけだが、ではそれをただ傍観するしかないのかといえば傍観さえしていないのかも知れず、ただ単にかかわらないだけでしかなく、そんなことができるわけでもなければ、すでに身の回りがそういう状況に覆われていて、それにかかわらざるを得ない成り行きになっていれば、嫌でもかかわってしまうようなことにもなってくるわけだろうが、そうなってもなおのことを関わりもせず傍観もしないようなことができるかとなると、そんなわけにはいかないだろうし、こちらが何もしなくても向こうから何らかの作用や影響を及ぼしてきて、そんな作用や影響を及ぼされながら暮らすことになってしまうわけだが、だからといってそれに対して積極的に意識して何らかの対応や対処をしなければいけないのかというと、そういうわけでもないのかも知れず、それに関して強いて言うなら自然の成り行きにまかせるようなことになってしまい、それは理屈ではなく理性的に対応するわけでもなく、そこから外れるようになることを目指すわけでもなく、自然にそうなってしまうようなことでしかないわけだが、そうなってしまうというのが実際にはどうなっているのかといえば、取り立てて目立った動作を起こさないようなことになるかというと、そうであってもかまわないし、そうでなくてもかまわないわけだが、その辺が微妙なところであり、何もやらずに傍観を決め込むのとは少し違うところなのだろうが、平然とそれをやり過ごしているわけではなく、冷静沈着とは無縁でそれなりに思い悩むこともあるのだろうが、思い悩んだからといって事態を打開できるわけでもないのに思い悩むわけだから、それなりに作用や影響を及ぼされて困っているわけで、それだけ悪影響を被ってしまっていることにもなるわけで、実際に心身に堪えているわけだろうが、だからといって打ちのめされて全面降伏しているわけでもないだろうし、打ちのめされかかっているといえば、そう見えるならそうなっていると見なされてもかまわないわけだが、たぶんその程度でかまわないのであり、そこからさらに深くのめり込む必要もないわけで、それに対してそれなりの抗体ができているように見える程度に打ちのめされていることにはなるだろうが、本当に抗体ができているのかといえばそう見える程度のことでしかなく、本当かどうかは定かでない程度のかかわりに留まれるなら、それでかまわないわけだが、本当に留まっていられるのかといえば、そう見える程度の留まり具合であり、それもその後はどうなるかわからないような具合でしかないわけだが、そこでどちらか一方に振り切れないことが肝心で、どちらかというのはそこでおこなわれていることに全面的に賛同するかそれに反対したりそれを批判したりする側になるかの二者択一を迫られるような立場に追い込まれないようにすることが肝心なのだろうが、そんなずるい立場になれるのかというと、はっきりとはそういうどっちつかずの立場になっているように見えてはまずいのだろうし、実際にはどっちつかずというわけではなく、そういうのとはちょっとだけずれるようなことをおこなっているといえば、意識してわざとそういうことをおこなっているわけではなく、自然にそうなってしまうわけで、その自然にそうなってしまうというのが理屈では説明できないところかも知れないが、それが理屈に合わないことかというと、それもちょっと違うのかも知れないし、そうなってしまう理屈というがどこかにあるかも知れないが、そういう理屈にはたどり着けないような程度でそうなってしまっているわけで、そういう立場を正当化できる何らかの理屈を確立するまでには至らないような程度でそうなっているのだろうし、その場ではその程度でかまわないような状況であるからそうなってしまい、実際にそこで生じている対立や争いとは異なる第三極を構成するような立場などあり得ないのかも知れず、積極的にそういう立場を誰かが担うような状況でもないだろうし、だから中途半端な程度でかまわないのかと言えば、それもそうとは言いきれないような程度なのだろうし、あえて言うならそういうところで全力を尽くして立ち向かうようなことをしてしまうと、そこで消耗しきってしまって、その次の段階に至る前に力尽きてしまうから、そこでは力を抑えておくべきだと判断すれば、それもずるいと思われてしまうかも知れないが、その程度の相手と対峙しているとみても、それも何となく見当違いであるような微妙な状況の中に誰もが存在しているのかも知れない。


5月5日「貨殖的な行為」

 世の中で必要な資金というのがどの程度あればいいかとなると、人が働くことで金銭的な報酬を得てその報酬で暮らしていける分があれば間に合っているように思われるだろうが、それより多くの報酬を得られてその分を貯蓄に回していれば、貯蓄した分だけ余分な資金なのかというと何とも言えないだろうし、またその分を投資に回しているようなら投資関連の金融業界が潤うことになるが、同じ額の報酬を得ていても家族を養ったり家や車のローンなどに回ってしまい、貯蓄や投資に回すような余裕がなければ資金が足りないのかと言えば、それも何とも言えないだろうが、資金というのはあればあっただけ使い道がある一方で足りなければ節約するしかないだろうし、節約してもまだ足りなければ生活できなくなってしまうわけだが、資金はあればあっただけ使い道があるからといって、それを足りないところへとただで回す成り行きにはなりにくく、余っているようなら投資してさらに多くの資金を集めるために使おうとするだろうし、逆に足りなければ節約して手持ちの資金で何とか食いつなごうとするかも知れないし、足りないからといって借りれば、利息をつけて余分に返さなければならず、利息を払う分だけ資金を他から持ってこなければならないわけで、そういう意味では資金というのは必要なだけあればいいというわけではなく、さらに必要以上にないと経済が回っていかないのかも知れず、なぜ必要なのかといえば売買や貸し借りに必要だからということになるが、それ以上に何が必要なのかといえば未来への投資が必要とされて、投資先がないと金融関連の業界では困った事態になるわけだろうが、資金を増やすために資金が必要という論理がそもそも破綻しているのかも知れず、しかもそういう論理が成り立っていないと金融業が成り立たないだろうし、そういう意味では矛盾したことをやっているわけだが、たぶん矛盾しているからこそ魅力があるわけで、矛盾したことをやってしかもそれを成功させることに魅力を感じるわけで、それが貨殖の論理から生じる抗しがたい欲望であり誘惑なのかも知れないが、実際にそれが堂々とおこなわれているわけだから、それがおかしいとは誰も思っていないだろうし、それに成功している人や団体はやって当然のことをやっているわけで、そういう人や団体の働きによって資本主義経済が発展してその経済規模も大きくなって人口も増えて多くの人が物質的な豊かさを実感すると共に、そうした経済的な豊かさにありつけない貧民もそれだけ増加してその経済格差も問題視されているわけだが、果たして経済の実態をそんなふうに捉えてもいいのかというと、そういう面もあるとしてもどうやってそういう問題を解決するのかとなると、政治的に解決しようとする人や団体が絶えず現れてくることも確かだが、それらの人や団体の活動によって問題が解決した例しがあるかとなるとまだ解決していないことも確かであり、現状でもそういう問題を解決しようとする人や団体が現れては消えることが繰り返されているが、それらの人や団体の主張の中身となると何らかの手段によって資金が足りないところへと資金を供給しようとする試みになるわけだが、資金というのは必要なところへと絶えず集まってくるとしても、どこに集まってくるのかといえば資金を増やそうとするところへ集まってくるわけで、資金の足りないところへ集まってくるわけではなく、それを政治力によって強引に持ってこようというのだから、そういう面が経済の論理に反しているわけだが、しかも経済の論理自体が矛盾しているわけだから、それに反した政治的な主張の方に正義が生じてしまって事態をややこしくさせているわけだが、政治的な主張としては正義を主張しなければならないだろうし、経済的な貨殖の論理が矛盾しているわけだからそれを正さなければならないと訴えるのは当然のことであり、そういうところで政治的な困難と経済的な困難が重ね合わせられて、ますます問題の解決を困難にしていると捉えればいいのか、そうでなければどう捉えるのが妥当なのかわからないところだが、これまでの経緯から考えるならそういう政治的な試みがうまくいった例しはないだろうし、経済的な貨殖の論理が矛盾しているにもかかわらず魅力的に感じられて、貨殖的な行為に引き寄せられていってしまうのは当然の成り行きであり、それに一定の歯止めをかけるには行政的に課税するしかなく、実際にそうやって得た資金を貧困に苦しんでいる人たちに回すようなことを主張するしかないわけだが、それによって問題が解決するわけではないとしても、解決しないからといってうまくいっていないと見なしてはならないのかも知れず、焼け石に水的な気休めの効果を期待しつつも、気休めにもならない実態を率直に受け止めるようなことを繰り返しながら、それを繰り返すことがその場しのぎとして有効に機能している実態もあるわけで、そういう政治的な主張を掲げる人や団体が今後とも現れ続けることもその延長上にあり、それが政治的な批判の対象となる貨殖の論理を延命させるというか、貨殖の論理を批判しながらそれに依存することによって政治的な主張が結果的に延命するといった方が妥当だろうが、そういう結びつきが強いだけにどちらも続いていくことになるだろうし、実際に論理的に矛盾していて破綻しているから、予言的な言説の中ではいつかは破綻して大変なことが起こると予言せざるを得ないし、そういった予言までもがそれを批判しながらそれに依存することによって今後も繰り返し予言されるような成り行きになるだろうし、未来永劫そんなことが繰り返されるように思われながらも、いつかは矛盾が露呈して破綻すると予言せざるを得ないわけだから、それ自体がそうした行為や試みの執拗さを物語っていて、いつまで経ってもそんな絡み合いや結びつきを解消できずに、延々とつきまとってくるストーカーのような成り行きになってしまうのだろうが、それが嫌ならそこから目を背ければいいと言えるだろうし、実際に多くの人が矛盾から目を背けて見て見ぬふりをしながらも貨殖の論理を容認しているわけで、中には積極的にそれをおこなって成功して巨万の富を築き上げる人も出てくる一方で、大半の人たちはうまくいかずに大した富も得られずに成功した人に羨望のまなざしを向けているわけだが、そうした富や資産に課税して不均衡を解消すると主張することはできるし、実際にある程度は課税されてある程度は富の不均衡の解消に役立っている面があるとしても、貨殖そのものを禁止するわけにはいかないし、貨殖的な行為によって経済が成り立っている面もあるだろうし、結局は禁止するのではなく抑制するような中途半端なことしかできないわけだが、政治的な主張としてそれができるようなことを主張しなければならないし、そういう主張自体の有効性にも疑念がつきまとうことも承知でそんな主張を飽きもせず繰り返さなければならないわけだから、それも貨殖の論理が矛盾して破綻の危険性と共に成り立っていることに依存しながら主張しなければならないところが煮え切らないところだが、そういう予定調和の成り行きとは別の方面から何か斬新かつ画期的なことを主張できるかとなると、そんなことを主張する必要があるのかといえば、今のところはあるようには思われないし、実際にそういう主張はどこにも見当たらないし、現状ではそんな主張はできないのかも知れないし、主張したところで誰も注目しないのかも知れないが、その代わりに注目するのが貨殖の成果としての物質的な富の見せびらかしだろうし、そういう富の見せびらかしをやっている人に注目するわけで、それを見てうらやましいと思うわけだが、うらやましいと思う人の生活が成り立っていないわけではなく、それなりに生活が成り立っているから暇な時に富の見せびらかしを見てうらやましいと思う余裕があるわけで、そんな人たちも貨殖的な行為の協力者であり共犯者と見なされてしまうかも知れないが、それを批判して政治的な主張に転化して利用している人や団体も大して変わらないだろうし、そういう行為に依存しながらもそれを批判に利用せざるを得ないわけだが、それもそんな行為に付随して起こる現象に含まれる限りで、それとは違う方面から何か主張しようとする人がいれば、そういう主張を抑圧する働きがあるのかも知れないが、果たしてそういうことが本当に主張できるのかといえば、まずはそんなことを主張している人の存在を確認しなければならないし、確認できなければ自らがそういう主張を試みる必要があるのではないか。


5月4日「語る偶然と必然」

 それが偶然の巡り合わせでそうなっているとしても、そこで語らなければならないことが特にあるわけでもなければそれ以外のことを語ればいいだろうが、語るに当たって何を利用しようとしているわけでもなければ、何も語れなくなってしまうかも知れないが、語る必要のないことまで語ろうとしているわけでもなければ、語らなければいいわけだが、偶然に語っているのではなく何かに語らされている場合もあるだろうし、そうなると語らざるを得ないようなことを語っていると思われてくるかも知れないが、偶然に何らかの事件に巻き込まれてしまって、それについて語りたくなってしまうのはよくあることかも知れず、偶然にそうなってしまったのにそれについて語るのは必然的な成り行きになるわけで、語らざるを得ないような機会が偶然に巡ってきたことになるだろうが、そうなった時に果たしてそのまま成り行きに従って語った方がいいのか、それとも語らざるを得ないような成り行きに逆らって語らないでおくのも選択肢としてあるのか、果たして語らざるを得ないのに語らないでおくことができるのかということだが、そもそもそんな選択肢などあり得ず、語らざるを得ない時にはすでに語ってしまっているわけで、語るのを躊躇する機会などあり得ないのかも知れないが、そうであってもなおのことそれについては語らないでおくことで何らかの効用を得られるかとなると、その代わりにそれとは別のことを語る機会を得られるかも知れず、普通はそんなことなどあるわけがないと思ってしまうだろうが、そういうフィクションであればいいのかも知れず、必ずそうなると思っておいてもかまわないだろうし、それを信じられなければ冗談でそうなると思っておいてもかまわないが、それも一つの成り行きであり、偶然に巡ってきた必然的な成り行きをあえて見送って、わざと何だかわからないような成り行きに自らを持って行くことができれば、迷路で迷っているような気持ちになれるのかも知れず、それも口からでまかせの嘘かも知れないが、とりあえずそこで一呼吸入れておきたいわけで、そんな成り行きから逃れられたと自らに言い聞かせる余裕を感じたいわけだが、たぶんそれも嘘だろうし、その場の状況を嘘で塗り固めることによって災い転じて福となすような成り行きへともっていきたいわけだが、果たしてそんなことができるのかと言えば、無駄な悪あがきに過ぎないのだろうし、そんなことをやっていると思い込んでいる時点ですでにその場の状況によって語らされてしまっているわけだろうが、それを自らのペースに引き込んで語りたいのかも知れず、そう語りたいのに実態としてはそうはなっておらず、語らされてしまっていることには変わりないのかも知れないが、そうなってしまっているのに意識がそこからずらされてしまっていることがあるのかも知れず、そうやって無駄な抵抗を繰り返しているはずなのに、そうではないように思われてくるわけで、それも気のせいだと言ってしまえばその通りかも知れないが、なぜかそれについては語りたくないような気になってくるとしたら、それがそこでの効用であると言えるのかも知れず、そうなれば自らを騙してそんなことを試してみた甲斐もあったことにはなるだろうし、そういうことも含んだフィクションを語っているはずなのだろうが、具体的な内容がまだ見えてこないのかも知れず、それを付け足す必要が生じてきているとすれば、ではどんな事件に巻き込まれてそれについて語る必然性が生じているのかを語る必要が出てくるのかも知れないが、その事件というのは現に今も巻き込まれていると感じている事件であって、それを事件と呼んでいいのかとなると、一般的には事件ではなく何らかの現象であり、しかもそれが今も現在進行形で世界的に流行っている現象かも知れないのだが、それはかも知れないではなく現に流行っていて、それが何かと言えば誰もが語りたくなってしまうような現象であり、実際に多くの人たちがそれについて日々語り尽くすほど語っている現象だと言えば察しがつくだろうが、なぜかそこを通り過ぎてしまい、それを避けながら中身のないことを語っていて、こうして無駄に言葉を費やしている現状があるわけだが、それが語らされてしまっていることに対する同調圧力へのせめてもの抵抗であって、しかも中身が何もないことを語っているのだから、語ることにすら失敗していると言えるのかも知れないが、今はそれでかまわないと思いたいわけで、ではいつかかまわないわけにはいかなくなって、それについて積極的に語るような成り行きになるのかと言えば、いつまで経ってもかまわないのかも知れず、今後もそれについては一切触れずに別のことを語ろうとすればいいのであり、なぜそうするのかと問われるなら、さしあたって理由など見当たらないと述べておいてもかまわないだろうが、何となくそうしているだけかも知れないし、そうでなければ何か他に理由と呼べるようなことを探しながら語っているのかも知れないが、それが見つからないままで語り終えてしまうような成り行きを目指しているのかも知れないし、しかも意識してそうなることを目指しているのではなく、そうやって語ることに失敗しようとすることが、その場の情勢から導き出される最適解と言ってしまうと嘘になってしまうが、語っていること自体が嘘であり、本当は言葉を記しているに過ぎないことであるのもその場で実際におこなっていることの正しい解釈であるかも知れず、そういうところで誰がそこで語っているかに関してはフィクションの中で語られていることになるのだろうが、語らざるを得ないのはそういうこととは違ってもっと具体的なその場で起こっている現象であり、語る対象とならざるを得ないような世界的な流行現象であるわけだが、その世界的な現象に対する解釈がそれ自体ではなく、それを利用して別の何かに対しておこなわれているとすれば、何かそれがずれているように思われてしまうわけで、しかもそれが何かに対する批判ともなれば、それにかこつけて無理に批判の対象へと矛先を持って行くことになってはまずいわけで、そういうところでその手の批判者にはそれなりの見識と自制心が求められているのかも知れないが、それに無自覚であればそうなってしまうだろうし、どうなってしまうのかと言えばその世界的な現象を利用してそれ以前から批判してきた対象を相も変わらず同じ姿勢で批判し続けなければならなくなってしまうわけで、それでも批判の支持者はついてくるだろうし、場合によっては支持者をある程度は増やすこともできるだろうし、そうすることによってそれなりの効用と成果を得られるわけだが、それでいいのかと言えばいいに決まっているはずだが、そんな人たちはそれでもいいことは確かかも知れないが、そうでなくてもかまわない成り行きもあるわけで、それが世界的な流行現象と共に偶然に巡ってきた機会だと言えば、そうであると見なしてもかまわないような成り行きの中で語っている現状もあるわけで、その機に乗じて何か画期的なことを語っているわけでもないが、どうとでも言えるようなことを述べていればそれでもかまわないのかも知れず、それについて語らざるを得ないような誰もが陥るそれについての情勢分析とやらを横目でチラ見しながらニヤけているだけでも、その機会を捉えていると言えるのかも知れないが、それだけでは何をやっていることにもならないだろうし、それ以上の何を情勢から求められているわけでもないにしても、実際にそんな人たちに勇気づけられて何か別のことを語ってしまう人が出てくるかも知れないし、出てこなくてもかまわないだろうが、この期に及んで期待するのはそんなことにならざるを得ないのかも知れず、それをどうやって避けて通ろうとしても避けられないわけだが、もちろん凡庸な人なら意識してそれについて語ろうとしてしまうだろうし、そうやって結局は世界的な流行現象によって誰もが語っている内容を語らされてしまうわけだが、それはそれで仕方のないことであり、今もそれについて誰もが同じようなことを語ろうとしているわけだが、語りたくても語り得ないままに語り終えてしまえばそれについて語ることに失敗したことになるのだろうし、それを意識して狙っているとしても意味のないことであり、たぶん語るように仕向けられているような空気を感じているから、それに対する抵抗感が生じてくるのだろうが、それも素直な対応になってしまうと、意識してそれに抗っているような感じになってしまうわけだが、果たしてそれを意識しながらもそれとは別のことを語れるかと言えば、率直な実感としてはよくわからないとしか言えないことかも知れず、そう思っておいてもかまわないような成り行きの中で誰もがそれについて語っている現状があるのではないか。


5月3日「政治に関する行為」

 何ができるわけでもないのに何もできないわけでもなく、では何ができるのかといえばそれが何であってもかまわないようなことであり、例えばそこで誰かが何かを演じているとすれば、それは何かをやっているように見せかける行為であり、見せかける以外では何をやっているわけでもないのに、見せかけているのだから何かを演じていて、少なくとも何かをやっているように見えるわけで、演技であることがわかっていれば見え透いた行為になるだろうが、迫真の演技であればそう見えるだけでもそれを観ている人には本当に何かをやっているように見えてしまうわけだが、それが演技だとわかっていても少なくともそこで何かをやっているという前提で演技を観ていて、そうなっていれば他に何ができるわけではなくても、実際に何かを演じていることにはなるだろうが、演じているだけでかまわないのかといえば、それを観ているだけの人にとってはかまわないかも知れないが、実際に何かをやってほしいと思っている人にとっては、演じているだけではなくやってもらいたいことをやってほしいわけで、それをやってほしいから例えば選挙に行って誰かに投票したのかも知れないが、そう思って選挙に行って投票するということも、実際に投票する人の中にはそんなふうには思わない人もいるだろうし、ではなぜ選挙に行って投票したのかといえば、支持している政党や候補者がいて、ただその政党の候補者に投票しただけで、特にやってもらいたいことがあるわけでもなく、またその人がやってもらいたいことを投票した政党や候補者ができるとも思っていなければ、大して期待していないだろうし、それほど積極的に政党や政治家を支持しているわけでもないことにはなるだろうが、そうであればその人も選挙に参加しているように装っているだけで、それを演じているだけでしかないのかも知れないが、果たしてそれでいいのかといえばそれでもかまわないのかも知れないし、少なくとも政治に無関心で選挙にも行かない人よりは行って投票するだけでも有意義な行為だと見なされるかも知れないが、そんな場合であっても参加しているふりをしているわけではなく、実際に参加していることになるだろうし、投票しているふりをしているわけではなく実際に投票しているわけで、それは演技ではなく実際に投票したことになるわけだが、投票したことがその人に何の効果も作用ももたらさないということもないはずだが、誰かに一票入れることが大したことではないと思うのは当然だろうし、そういう意味では選挙にあまり過大な期待を寄せるわけにもいかないわけだが、一票を投票するにとってはそうだとしても、投票の対象となる政党や政治家にとっては重大で深刻なことであるだろうし、当選するか落選するかは雲泥の差であり、落選してしまえばただの人になってしまい、議会や政府内で活動ができなくなってしまうから、今まで当選していた人が落選してしまうのは大きな痛手となるわけだが、投票する側がそんな事情を考慮できるかといえば、その人やその人が所属する政党の支持者なら考慮するかも知れず、議会や政府内で有力な存在となっている人が選挙で落選すれば大変なことだと思うかも知れないし、そんなことまで考慮して投票しなければならないのかといえば、たぶん考慮してしまう人が大勢いるからそのおかげでその人に何らかの権力が生じて、実際に議会や政府内で有力な存在であり続けるのかも知れないし、そのおかげでそういう人が連続して選挙で当選し続けるような成り行きも生じるのかも知れないが、しかもそれがその人の政治家としての実績となって肯定的に評価されているようなことにもなっていて、大物政治家とみられていたりもして、そうやって選挙で落選し続けるような泡沫候補者などとは雲泥の差が生じているわけだろうが、そういう成り行きを生じさせているのが何かといえば、それが世間と呼ばれる実態の定かでない何かなのかも知れないが、何かは何か以上の何かではなく、どこまでも何かの水準に留まる何かなのかも知れないが、そんな何かを実態を伴った存在として認識している人も大勢いるだろうし、やはりそう思っている人が大勢いるから世間に何らかの力が生じていて、そういう力に抗えないと思っている人も大勢いるから、実際にそういう力を感じている人にとって世間は重要な存在だと感じられるわけだが、そんな人たちにとってはそれは見せかけの力であるはずもなく、自分たちがそんな世間の意向に従っていると思っていることも、演技ではなく実際に従っているつもりになっているはずだが、そんな人たちに向かって目を覚ませと呼びかけても無駄だろうし、そもそもそんなことを呼びかける対象として実態の定まった人たちが存在しているかとなると、それも定かではなく、実際にそんなことを呼びかける人がいるわけでもないだろうし、そんな呼びかけをする人を想定すること自体がおかしいわけだが、そんなふうにして何から何まで空想の産物でしかなければ何を述べていることにもならないかも知れないが、そう思うなら世間的な水準からもたらされる常識的な認識にこだわる必要もなく、政治に関して現状を構成している支配的な枠組みに縛られた思考もやめて、何の前提条件もなしに物事を考えるべきで、何かそこで世間の一般常識に沿った範囲内で何かが演じられていても、それが見世物的なパフォーマンスの類いであれば真に受ける必要もないだろうし、演技ではなく実際に何かがおこなわれているとしても、大した効果も上がらず作用も実質的な力を及ぼされているとは感じなければ、そんなものだと思っておけばいいようなことでしかないだろうし、それ以上に何を恐れることも怖がることもなければ大して深刻な事態でもないはずだが、そうは思い込めなければやはり世間の力を恐れていることになるだろうし、そこから同調圧力のような力を感じられるなら意識が世間の意向に同調するように仕向けられているわけで、そんな作用や影響を及ぼされているといえるだろうが、何から及ぼされているのかといえば周囲からもメディアからも及ぼされているわけだが、及ぼされているといっても実際にそれによって何をやるのかといえば、選挙に行って一票を投じることにしか結びつかなければ大したことではないわけで、別にそれを逐一完全に監視されているわけではないだろうし、誰か特定の候補者に投票するように命令されているわけでもなく、投票にさえ行かない人も大勢いるわけで、そんな状況の中で事を深刻に捉えるのもおかしいはずだが、それでもそんな政治的な現状を維持するように仕向けられてそんな空気に同調してしまうようであれば、それは他の誰のせいでもなく自分のせいだと思うしかないわけだが、実際にそうなってしまう人が大勢いる現状があるのだろうし、そうなっている限りでそんな政治的な現状が維持されるわけだろうが、やはりそういうことでしかなければ大したことではないのかも知れないし、そんな大したことでもないような現状が維持されることも大したことでもないのかも知れないし、そんな現状を支えている人たちも大したことはないはずだが、そんな大したことはない人たちの意向が世間の意向であり、そうやって生じる世間の同調圧力に大勢の人たちが屈しているとは誰も思っていないだろうが、屈しているわけではなく抗っているわけでもないのだとすれば、では何をやっているのかといえばそういった方面では何もやっていないのかも知れず、何もやっていないし何とも思っていないのに、世間の同調圧力に屈しているとかそれに抗えないとか言われると、そんなことを言われる前提自体がおかしいし、現実には誰もそんなことを言っているわけではないだろうし、それは同調圧力に屈している人たちに向かって目を覚ませと呼びかけている人も誰もいないのと同じことで、それ自体が空想でしかないわけだが、そんな空想を語るべきではないのかも知れず、そんなのは語る必要もないことかも知れないが、では何も語らなくてもいいのかとなると、語るのではなく実際に何かをやればいいのかも知れないし、何をやるのかといえば政治に関心があれば選挙に行って誰かに投票すればよく、それでは気が済まなければ立候補すればいいだろうし、また関心がなければ投票に行かなくてもいいし、立候補もしなくてもかまわないだろうが、何もやらなくてもいいということになればそれについて語らなくてもいいし、どちらにしても大したことにはならないのではないか。


5月2日「脚色の程度と度合い」

 何かを語ると語り方によって語った内容が説得力を持つ場合もあるだろうが、語っている内容に説得力を持たせる目的で話の辻褄を合わせようとすると、それが意図的に操作をしていることになってしまって、操作した分だけフィクションの度合いが高まってしまうかも知れないが、フィクションでも何でも内容の辻褄が合うと話に説得力があるように思われるわけで、そもそもフィクションだと大抵は内容に説得力を持たせる目的で話の辻褄合わせをするだろうし、内容に説得力があったり話の辻褄が合っていたりすることがフィクションであるか否かの判断基準にはならないし、それによって語っている内容がフィクションであるか否かの区別はつかないと考えておいた方がいいのかも知れないし、かえって本当のことを語っているのに説得力がなかったり話の辻褄が合わないことなどいくらでもあるだろうし、フィクションである方がそれだけうまく語ろうとするから妙に説得力があったり話の辻褄が合いすぎている場合が多いのかも知れないが、何かに見せかけるというのは演じることに通じるだろうし、本当のことを語っているように見せかけることが内容に説得力を持たせようとしたり話の辻褄を合わせようとすることに結びつくことは確かで、本当のことを語るのにもその内容にはピンからキリまであるのと同じことではないとしても、フィクションを語る内容にもピンからキリまであることも確かで、語っている内容が本当のことなのかあるいはフィクションを語っているのかを見極める明確なコツがあるわけでもないのかも知れないが、それが本当のことであるように見せかけようとしているのを感じ取れる場合があるだろうし、それが意図的で恣意的な操作をうかがわせる語り方であったり話の内容であったりするのかも知れないが、語っている事情や背景を想像すると何となくわかってきたりすることもあるだろうし、それらを一概に本当の話であるかフィクションかの判断基準とするわけにもいかないだろうが、フィクションであっても本当のことを語っていたり、本当の話でもフィクションである面もあるだろうし、本当の話であるかフィクションであるかということが、それをどう受け止めるかの判断基準とはならない場合もあるだろうから、それをどう判断するかに関して何ら適当な基準を伴わないようであれば、それが本当の話であろうとフィクションであろうとどちらであってもかまわない場合さえあり、その場の状況と語る側とそれを受け止める側の事情や都合によって、それをどう判断するかが決まってきたり決まらなかったりするのかも知れないが、本当の話に脚色してそれを語る人の都合や思惑が反映するようにしたい場合にはその人が置かれた状況の中で主導権を握りたくて語っているわけだから、それを聞く人たちがその人の都合や思惑が反映された話の内容を真に受けてほしいわけで、さらに話を受け止める人たちから支持や信用や信頼を得たいという目的で、話を受け止める人たちの都合や事情も反映されるような話の内容にするためにも脚色する必要もあるだろうし、そうなると共感を得るような話の内容になってくるわけだろうが、そうなってしまう時点で当初は本当の話だったのが、そこにかかわってくる人たちにとって都合の良いように脚色されたフィクションへと変貌してしまうことになるわけだが、そんなふうに意図しなくても興味深く面白おかしく語ろうとすれば自然とサービス精神が介在してきてそうなってしまうだろうし、世の多くの人から共感を得るような話というのはそういう傾向になってくるのかも知れず、そういう話の内容はそれを語る人やそれを受け止める人の思いや願望が詰まっていれば共感を呼びやすいだろうし、それが世の中の状態や傾向を反映した内容にもなりやすく語る目的に応じた内容にもなりやすければ、自然と観衆としての人々に受け入れやすいような内容に収斂してくるわけで、観衆の求めに応じて語るような成り行きになってくればそれだけ多くの人々の支持や共感などを得やすくなり、そんな観衆を喜ばす目的で語られる内容にどのような意味や意義があるのかといえば、要するに娯楽の対象となるわけで、語る人がウケ狙いで語ろうとすれば自然とそういう傾向になってくるだろうが、果たしてそれでかまわないかといえば語っているのがお笑い芸人の類いならそれでもかまわないだろうが、それがテレビのお笑い番組ではなくニュースの類いだとしても、それを観ている人に区別する気がなければどちらでも同じように受け止めるかも知れないし、人々から共感を得られるような内容にした方がいいのは当然の前提になってくれば、できれば反感を買ったり不快感を与えるような内容にはしたくないだろうし、実際にそうなってしまえば非難されて糾弾されて謝罪するようなことにもなりかねないが、そんな成り行きにもしばしばなるわけで、誰かがそんな結果を招いて謝罪する事態ともなれば、それこそが観衆を喜ばすようなウケ狙いとは違った本当のことを語ったことにもなるかも知れず、普段からウケ狙いで語っているようなお笑い系の人がうっかり口を滑らせて本当のことを語ってしまう機会が巡ってくるとすれば、それがそういう結果を招いて謝罪に追い込まれてしまうような場合なのかも知れないし、そういう場合は共感と反感とが紙一重の関係にあるといえるかも知れないが、共感を得られる内容が建前のようなきれいごとだとすれば、反感を買うような内容は本音であって、誰もがそう思っているが口に出してはまずいような内容なのかも知れず、誰もがそう思っているからこそ何かのはずみでうっかり口を滑らせて語ってしまうのかも知れず、そんな禁句のようなことを口にすれば待ってましたとばかりに世間から叩かれるわけで、それもある意味では予定調和の成り行きなのだろうし、そうやってうっかり本音を漏らすがごとくに本当のことをしゃべってしまう著名人を世間の叩き屋の類いが待ち構えているような衆人環視の状況下で、飛んで火に入る夏の虫のように口を滑らす機会が巡ってくる仕掛けがメディア上に設置されているともいえるのかも知れず、そうであれば世間がそんな役回りを求めていて、そんな求めに応じてしまう人もあらかじめ用意されている中で、実際にウケ狙いの語りで名を上げた著名人の類いに世間から叩かれるような本音を漏らす機会が巡ってくるのだろうし、そういうことも含んで世間が成り立っているわけだから、逆に共感を呼ぶような建前ばかりを語っていると飽きられてしまうから時には本音を語って叩かれて謝罪するような成り行きも必要なのかも知れないし、飽きられかけるタイミングで本音を漏らして叩かれるようなあうんの呼吸を心得ておかないとまずいのかも知れず、そんな予定調和の成り行きそのものが飽きられてしまう可能性もなきにしもあらずだろうが、どこまでが予定調和の成り行きでどこからがそこから外れる成り行きなのかも、実際にそこから外れるような成り行きになってみないことにはわからないだろうし、そうなっても多くの人たちは気づかないかも知れないが、それとは無関係に世間の主流から外れたところで本当のことがいくらでも語られている実態もあるとしても、それがメディアには取り上げられないのかも知れないし、成り行き的には多くの人々から共感を得られるようなことが取り上げられると共に、それとは対照的な反感を買ったり批判や非難の対象となるようなこともそれを批判する目的で好んで取り上げられるだろうし、それが話題となりやすいようなことがメディア上では取り上げられるわけだが、語られる目的がそれが話題となることを期待して語られるとすればそうなるのが当然の成り行きだろうし、それ以外に語る目的がないのかといえば、普通に考えるならニュースの題材としては話題となることを目的に語られるわけだからそれでかまわないわけだが、たぶん当てが外れることもあるだろうし、目的を意識しないで語る場合もあるし、何となく語っている分には目的など意識しないわけだが、少なくとも語ろうとしているのだから他へ伝えたいわけで、相手を騙そうとしているのでない限りで本当のことを伝えたいだろうし、伝えたいことを伝えようとしているのだから伝えたくないことは伝えようとしない限りで、伝えたいことだけを伝えようとしていて、そこに伝えたくないことが含まれているはずもないが、中にはそんな思惑から外れるようなことが含まれている可能性もあり、それが伝えたい人が思ってもみないような真実であるのかも知れない。


5月1日「無自覚な判断」

 現状では誰が特に難しい判断を迫られているわけでもないだろうが、もっともそうは思っていない人もいくらでもいるのかも知れないにしても、何をどう判断しているとも思えないほど自然な成り行きになっていれば、判断するようなことは何もないのではないかと思ってしまいそうで、意識して判断しているわけではなく、後から振り返ればそんな成り行きの中で何らかの判断を伴っていた箇所を特定できるかも知れないが、その場では何らかの判断したことを意識していなかった可能性があり、それを意識していないのに結果的にはそこで判断したから、その判断に基づいて行動したような成り行きになっていて、意識して判断したわけでもないのに判断していることになってしまえば、そうした判断の対象を認識しているわけでもなく、それを認識していなくてもそれに対して何らかの対応や対処をおこなっていることになれば、自意識のあずかり知らないところで何かがおこなわれていることにもなり、それに対して自らが責任を負えるかといえば、実際に何かおこなっていればそこから責任が発生することにはなるだろうし、そういうところでどうやっても自意識には制御不可能な自らの行為や活動があるのかも知れないが、それに気づくことも難しいのかも知れないし、そういう意味では自意識を超えて動作する機能が自らには備わっていると捉えておいた方がよさそうだが、それが有効に機能しているのかといえば、自意識を経由しない動作であるだけに何とも言えないところだろうが、自らを信じるなら自意識過剰とならずに判断できていればうまく働いている可能性があるのかも知れず、その際には自らの中で自意識を経由して判断するか否かを判断している可能性もあるのかも知れないが、何がそれを判断しているのかといえば自らの守護霊か何かが判断している可能性もあるかも知れないが、その場の状況やタイミングや成り行きからそうなってしまっているだけで、特に自らで判断しているわけでもなく、あるいはそれを自意識が気づいていないか無意識のレベルで判断しているか、そういう無意識のレベルを意識が守護霊のようなものと認識しているのかもよくわからないところだろうが、とにかく自意識にはあずかり知らないところでそんな判断がおこなわれていると仮定すれば、自意識にはそういう判断に介入できないだろうし、それに従うも何もそうなってしまうのだから、そうなったことに気づいてから自意識の方でも対応したり対処するしかなく、それがそもそも余計なことであり、素直に従っていればいいのかも知れないが、その場で気づいて気に入らなければ何とかしようとしてしまうだろうし、それを自意識の方で修正しようとしたり新たにやり直すようなことにでもなれば二度手間になってしまうだろうが、それもその時の状況や成り行き次第な面もあるだろうし、うまくいっていれば何もやることはないだろうし、うまくいっていないと判断すれば論理的かつ合理的な判断に基づいた動作をおこなおうとしてしまうかも知れないが、それがやぶ蛇であったり蛇足であったりして、実際に痛い目に遭えば以後は疑念を抱いたり疑問に思われても素直に従うようなことにもなってしまい、そうなると後からそれに気づいておかしいと思いつつも無意識や守護霊の判断を優先するだろうし、それによって辻褄の合わない一貫性に欠ける動作となってしまうかも知れないが、結果的にうまくいくようなら信頼してしまい、端から見ても挙動不審のような感じになってしまうかも知れないが、それでも自らを信じて行動したり活動するような成り行きとなり、それが時として驚くような効果を発揮するような事態になれば、後からそれに気づいてもそこではそうしなければならなかったと思うしかないだろうし、そういう動作や事態に慣れてくるとだんだん疑念や迷いを伴わなくなってきて、突如として大胆不敵なことをやってしまっても、それが自然にそうなってしまったようにも感じられてくるのかも知れないが、果たしてそうなっても理性が歯止めをかけるようなことが起こるのかといえば、実際にそうなってみないと何とも言えないかも知れないが、たとえその場ではそうするより他なかったとしても納得できなければ、よくわからないままとなってしまって、それはどう考えても謎の行動であり動作でもあるのだろうが、それが度々起こってそういう経験が積み重なった末に現状がもたらされているのだとすれば、そんな現状を受け入れるしかないだろうし、自らの動作には自意識では解明できない謎な面があるとしかいえないわけだが、それで何とかなっているとすればまだ自分としても周囲の状況としても許容範囲なのかも知れないが、自分では何とかなっていると思っているだけで、そんな自分にかかわっている他の人々にとっては許容限度を超えているとすれば、自分に対してそれなりの対応や対処をせざるを得ないにしても、実際にそれ相応に扱っているのに全く自分の方では苦になっていなければ、たとえそれが否定的な扱いであっても無意識や守護霊が自分を守っていて、苦にさせないように自意識を制御しているのかも知れないし、その辺は自意識の側でいいように判断するしかないわけだが、それが実態としてどうなっているとしても、またその実態に関しても自意識が都合の良いように解釈してしまっているのかも知れないが、それも心理的な負担とならないようにそう解釈するように仕向けられているのかも知れないし、そうやって何から何までうまく制御されていれば言うことなしだが、自分だけがいるわけではなく他の人たちも世の中には存在しているわけで、他の人たちの方でもそういう動作や制御がおこなわれていれば、社会の中で人々の間で何らかの相互作用が働いているだろうし、そういう意味では自分だけに有利に働くような動作も作用もないわけだが、自分に関してなら自己が一番身近に存在しているわけだから自分を制御するのに一番有利な立場にあるのは自分自身であり、それは他の誰にもいえることだろうし、各人が一番有利な立場で自分自身を制御しているとすれば、その際には自分を信じることができれば有利に働くはずで、信じることができずに論理や理屈にこだわればそうした論理や理屈に縛られて自縄自縛になりかねず、また他からの助言を当てにすれば聞く耳を持っていることにはなるが、そこでも騙されないためには自らの勘を信じ切れることも大事になってくるだろうし、そこで迷ってしまうと判断を誤ってしまうのかも知れないが、たとえその時点では間違った判断を下してしまっても後から思えば結果オーライであったりして、実際に痛い目に遭わないとわからないこともあるわけだから、一つ一つの判断ミスに一喜一憂してしまってはまずいわけで、そういうことまで自意識に考慮できるかといえば、その場の感情に流されてしまえばうまく事態に対応できなくなってしまうだろうし、そうやって痛い目に遭うのも経験のうちだとしても、それが致命傷になってしまってはまずいわけだから、そういうところでどの程度の判断ミスなら許容の範囲内なのかが自意識では判断しかねるところなのかも知れず、そこで何らかのフィードバック機構がうまく働いてそれなりに調整や修正ができればいいのかも知れないが、そう都合良く万事が万端に整っているわけではないにしても、何かしら傷を修復するような作用が働いていればそれを自意識とは別のところで何とかしようとしていて、その時点では何とかならないとしても、そこから時間が経つにつれて何とかならない程度が徐々に緩和されていくように動作や活動を調整したり修正していければ、いったん生じた傷口が徐々に塞がっていくような作用が生じていることにもなるだろうし、そういった自己修復作用が特に意識しなくても発動していれば、結果的にはそれなりに何とかなっている状態が保たれていることにもなり、そういうところではっきりとした解決が図られなくても解決法が確立されていなくてもなし崩し的に何とかしようとしていて、それが自意識では把握できないところでもあるのだろうが、無理に把握しようとしなくてもいいだろうし、はっきりさせようとするとかえってそれが発動するに際して障害にもなりかねなければ、そのままにしておいた方が無難なのかも知れず、そういう面で全てを把握しようとして自意識の管理下に置こうとするとそれだけ自意識以外の機能が削られてしまって、融通の利かない事態に陥ってしまうのかも知れない。


4月30日「何でもない思い」

 厄災がいつの間にか消えてなくなるわけがなく、何かしら禍根を残しながら人々の記憶に留まり続けるはずだが、人の方はいつの間にか消えてなくなってしまうのかも知れず、人と共に厄災の記憶も消えてなくなるかも知れないが、そういう成り行きとは関係なく現状があり、現状の中で起こっていることが一過性だとしても、まだ過ぎ去っていない出来事と共に人も活動していて、過ぎゆく時間の中で人の活動も何らかの出来事となってそれなりの印象をもたらすはずだが、時間の経過と共にそんな出来事もいつの間にか意識から遠ざかり、新たに起こる出来事に押し退けられて記憶の中で陳腐化していき、相対的な比較対象へと減じられてしまうかも知れず、どうやってもそんなふうにしかならないのだから、これから何かをやろうとする者が何を期待しようと結局は何でもないことになってしまうとしても、少なくとも期待している間はまだ希望を持てる何かであり続けているはずで、それが単なる気休めであるはずがなく、思っているよりも素晴らしい何かだと思いたいだろうし、実際に誰もがそう思っているはずで、これからもそう思い続けていたいのだろうが、果たして誰もが期待している何かとは何なのかといえば、具体的に誰かがそれを明らかにしなければならず、そうでなければ誰にとっても何でもないことになってしまうだろうし、そうではないからそれに期待しているはずだから、それが何でもないような物事ではないことを誰かが証明しなければならないはずだが、果たしてそれが何なのかが今後明らかになるかというと、将来に関しては不透明だが、今のところは何でもないままとなっているとしたら期待外れであり、そういう意味では何も期待に応えてはいないわけだが、これからも何でもないままに留まり続けるとしたら、期待が裏切られたままとなってしまうかも知れないが、特に何を期待していたわけでもないのかも知れないし、すでに何に対して何を期待していたことすら誰も覚えていなければ、やはり何でもないことになっているわけだが、たとえ今も政治に対して何か期待しているとしても時が経てばさっさと忘れてしまうだろうし、忘却するために期待しているようなものでもあり、期待が落胆に変わるまでもなくその場限りの期待でしかないわけだが、現状でおこなわれていることの延長上で何をしようとしても現状以上のことが起こることはなく、現状がもたらされていることを受け入れるなら、それが期待からかけ離れているとしても受け入れるしかなく、それ以上の何かが起こっていることを知るよしもないが、たぶんそれ以上の何かが起こっていて、それを知り得ないから現状の延長上で現状が推移しているとしか思えないだろうが、それが思い違いであったことをいつかは悟るだろうし、現に今も悟っているはずで、現状が現状のようになってしまうなんてちょっと前までは思いもしないことだったはずだが、もうすでにそれを忘れてしまっているわけで、それを悟っていることすら意識できず、今でもまだ現状が現状の延長上で推移していると思っているはずだが、何か当てが外れているとしたらそれは現状から自身が見放されていることかも知れず、現状に対する自身の思いなど何も考慮されていないことは確かであり、現状が人の思いなど考慮することはないのはわかりきっているが、人の方は自らの思いが現状に反映されると思い込みたいわけで、自らが現状の中で機能していると思いたいわけだが、どのように機能するのかといえば、現状の中で主体的に振る舞って主導権を握りたいわけだが、他から見向きもされなければそれが勘違いであることを思い知るはずだが、他の誰かが何かしら自分のことに関心を抱いているような気になってしまうわけで、だから必死になって自らの存在を他の誰かに向けてアピールするわけだろうが、それが空振りに終わっているとは思えないだろうし、自らの必死のアピールに対して何かしら反応があると思いたいわけで、それがかすかな反応に過ぎなくても意識の中で増幅させて満足を得たいわけだが、そう思っている時点で事を大げさに捉えているのだろうし、何でもないことに過剰に反応してしまっているわけだが、そんな過剰反応でも自己満足に浸れるわけで、それが実際には何でもないことだと思っていても意識して過剰反応していることを自覚しつつも、かすかな反応を増幅することに喜びを感じるのだろうし、そう思ってしまう時点で自らの存在を過大評価しているわけだが、過大評価してしまうことに喜びを感じているのだから普通の感覚でも自らを過大に評価しているわけで、それが通常の精神状態なのだから自己中心的に物事を考えてしまうのも当たり前のことなのだが、そうなっているからこそ自己が存在していると思えるわけで、そうなっていなければ自己など意識することもなく、無私の精神状態でいられるかも知れないが、そんな自らの過大評価によって世の中がどう見えるかとなると、何か自分はわかっているような気になれるのかも知れず、何がわかっているのかといえば世界がわかっていると思い込めるのかも知れないし、世界についての正しい認識や見識を自らが持っているような気になれるのかも知れないが、少なくとも現状に自らの意識を照らし合わせてそう思っているのだから現状認識についても正しい認識を持っているはずだが、それが全くの思い違いではないにしても自らを過大評価しつつ現状を認識しているわけだから、そう認識している自らが現状の中でそれなりに機能していると思われるだろうし、そんな自らの存在を認めてくれている人もそれなりにいると思ってしまうわけだが、その認知の程度が自らに対する過大評価に基づいていれば、何か自らの思いが世の中に行き渡っているような気になってしまうわけだが、たぶんそこに落とし穴があるわけでもないとしても、その人を落とし穴に落とそうとする思惑すらなくても、黙っていても自らにかかわってくる何かがあると思ってしまい、その想像上の作用を及ぼしてくる対象に対して身構えてしまうわけだが、そんな身構えすらも空振りに終わってしまうとすれば、独りよがりな自作自演で何かをやっているような気になっていることを自覚する必要があるかも知れないが、何かのきっかけでそれに気づいてしまうとしても、それすらも気づいてしまったように演技しているだけであったりして、そうなると際限のない自己演出の罠にはまっていることになるかも知れないが、別にそれが自ら掘った落とし穴に落ちてしまったことにはならないだろうし、罠でも落とし穴でもなく、単なる自意識過剰でしかなければ、それも通常の状態だと思っていればいいのかも知れないし、大抵の人は誰でも自らを過大評価して自意識過剰な精神状態になっていて、そうなっていないと自己を保てないのかも知れず、自己が自己として意識の中で構成されるにはそうしないと自己が生じないのかも知れないが、それが病的な自己というわけでもなく精神を病んでいるから自己が存在するわけでもないだろうし、健全な精神が無私の精神であれば、自己の存在が無私からかけ離れているから病気だと短絡的に捉えるのも無理がありそうで、意識の中に自己が存在するからその存在を肯定したり正当化することにもなるだろうから、そうやって自己を育んでいることを意識していれば、そんな自己の存在を外の世界に向かってアピールしたくなるだろうし、自己を外の世界と対峙させて世界に向けて自己主張したくなるわけで、別にそれが身の程知らずな行為だと思わなければ、そういう世界に対して自己主張するような態度を恥じることもなく、何やら大言壮語するようなことにもなってしまうのかも知れないが、その内容が自分が世界を知っているということであれば、では世界がその人の存在を知っているのかとなると、世界を知っている自己の存在と世界とが釣り合っていないとならないような気になってくるのかも知れず、そんなことまで考慮してしまうと自己に対する過大評価も行き過ぎているようにも思われて、世界の方では自己の存在などこれっぽっちも気にかけていないのに自己の方では世界を知り尽くしていることにでもなれば、それは単なる一方的な思い込みに過ぎないようにも思われてきてしまい、自己の知っている世界など世界全体のほんの一部に過ぎないようにも思われて、そんな自己に対する過大評価も急速に萎んでしまうのかも知れない。


4月29日「人助けの手法」

 助けようとしても助からない人が出るようだと、助けようとしている人の助け方がうまくいっていないと指摘する人も出てくるが、指摘するだけでは人を助けることには結びつかず、直接人を助けようとしなければならないわけで、そして助けようとしても助からない人が出る現実に直面してみれば、そこから人を助けるやり方を改善しようとするかも知れないが、それを実際にやっている人たちが世界中にいるにしても、それを見ている人も世界中にいるらしく、見ている誰もが助けようとしても助からない人が出ることを知るに至るわけだが、自分が助からない人にはなりたくないし、それ以前に助けようとされる人にもなりたくないし、また助けようとする立場にもなりたくないかも知れないが、助けなければならないと主張したり呼びかける立場には簡単になれるかも知れないし、人の助け方がまずいと指摘する立場にも簡単になれるかも知れないが、なるべくそういう人助けにはかかわらないようにすることもできるかも知れないし、誰もが自分の意志でそういう立場を選べるわけでもなく、否応なくそういう成り行きに巻き込まれて気がつけば人助けをやっている場合もあるだろうし、それらの何を批判しなくてもかまわないのであり、また何を批判してもかまわないだろうが、主張したいのはそういうことではないらしく、たぶんここで助かったり助からなかったりすることがそれほど重要なことだとは思えなければ、すでに助かっているからかも知れないが、まだ自分の身には何も起こっていない段階でそれはないだろうとも思われるわけだが、結構気づかないうちにそういう段階を通り過ぎてしまったようにも思われてしまえば安心できるかも知れないが、それが思い違いであり、これから自分の身に何が起きるとしても、もうそれはどうでもいいというわけでもないにしても、それなりに直面する事態の中で対処することにはなるだろうが、あまり本気になれなければやはりそんなことはどうでもいいような気分になってしまうだろうし、そういう傾向を無視するわけにもいかず、そうやって危機をやり過ごしているつもりになれることで自分が助かるわけでもないが、自分でさえ助けられないのに他人を助けられるはずもなく、往々にして身が入らない人助けというのはそうなってしまうのかも知れず、嫌々ながら助けようとしているうちに自分も助からなくなって、自分が助からない成り行きに巻き込まれていることに気づいた時にはもはや手遅れとなっていて、助けようとして助けられなかった人の道連れになってしまったらとんだ災難かも知れないが、そうなるように仕向けられているのかも知れないし、そもそも伝染病というのは他人を道連れにして自滅したい願望が反映された病なのかも知れず、そんな人の社会的な願望に自然が応えていて、災難に巻き込まれないようにするには他人を見捨てて我先に助かろうとしなければならず、助かるには助けを求めてくる他人を見捨てられる非情さが必要かも知れないが、助からなくてもかまわなければ助けようとすればいいわけで、世の中には助からなくてもかまわないような人もいくらでもいるのかも知れないし、そういう人たちが善意で人助けをしようとしているわけではないとしても、少なくとも人助けが仕事の人は助けを求めてくる人を助けざるを得ないだろうし、そうやって伝染病に感染して命を落としてしまった医療関係者もかなりの数に上るらしいが、世間はそういう人たちを讃える必要が出てくるだろうし、実際にメディア上で讃えられているはずだが、仕事でも善意でもなく人を助ける気になるかといえば、大抵の人は助ける気にはならないだろうが、嫌々でもかまわないから助けようとすればいいのかも知れないし、嫌々ではなく積極的に伝染病にかかりにくい行動をとるように助言している人も大勢いるだろうし、何かそういうところで世のために人のためになりたいと思うのかも知れないが、意識してそうしなくても自然にそうなってしまう場合もあるのかも知れないし、そう意識しないことが肝心で、自らに積極性を求めない態度を貫けば自然にそうなるわけでもないのだろうが、そういう成り行きに従うのでも逆らうのでもなく、自然体でいるように心がけるのでもなく、他人を助けようとしないのに結果的に他人を助ける成り行きに巻き込まれるまで待っていればいいというわけでもなく、そう仕向けるような世の中の流れを敏感に察知してそういう流れに身をまかせようとするのでもなく、そうかといって何もしないで事態を傍観するにまかせるのでもなく、ではどうすればいいのかというと、普段通りに暮らしていればいいのかも知れず、それ以上に特に身構える必要もなく、これまで通りに生活すればいいわけで、これまで通りに暮らしていく中でできることをやればいいとなると、自ずからできることが限られてくるだろうし、それをやっていればいいということであり、そのやっていればいいということの中には直接の人助けも出てくるかも知れないし、他人に何か助言するような成り行きにもなるかも知れないが、そうなればそれをやればいいということになってくるだろうが、それ以上のことをやる必要はないのかも知れず、それ以上のことをやろうとすると共倒れになりかねないから、その辺は自らの限界を心得ておく必要があるのかも知れず、また他人と協力するにしてもお互いに共倒れにならないように注意しながら行動するしかないだろうし、もちろんこんなことを述べてみても実際にはさっさと他人を見捨てて自分だけ助かろうとするかも知れないし、情勢次第でどうとでもなる可能性があるわけだが、それもこれまで通りに生活していることの延長上で起こることであり、普段の行いがいざというときに出てしまい、普段の心がけも出てくるだろうし、そうなった時に普段やり慣れていないことをできるはずもなく、非常時であろうと何だろうと普段通りのことしかできなければ、そんな融通の利かない自らに驚かされるかも知れないが、何かのきっかけで火事場の馬鹿力が出せたとしても人一人の力などたかが知れているだろうし、そんなものに期待する必要もないのかも知れないし、他に何を期待する必要もないのかも知れないし、何も期待できなければ残されているのは普段通りに振る舞うしかないわけだが、果たして非常時に普段通りに振る舞えるかとなると、多くの人は取り乱してしまい冷静には行動できないのかも知れないが、そうなると普段から心がけておくことがあるとすれば、どんな状況においても冷静に対処しようと心がけるしかなく、普段からそう心がけておけばいざというときにも冷静に対処できるかも知れないし、そういう意味では普段の心がけが大切になってくるわけだろうが、そんなふうに何から何まで意識して制御できるわけでもないだろうし、そうやって都合良く言葉を循環させれば何かもっともらしいことをいえるわけで、そんな言葉の循環に騙されてはならないだろうし、言葉で何かをおこなうやり方を定めようとしてはならないのかも知れず、まず確立すべきはそういうことではなく、あらかじめ備えておくべきことではなく、そういう身構えを超えて柔軟に対応する必要があるのかも知れないし、自分から型にはまった方向へと持って行こうとしても、自分の力を超える出来事の前では歯が立たないわけで、そんな事態に直面してそれなりに試行錯誤するにしても、解決できない場合があることも覚悟しておく必要もあり、実際に解決できなければそのままになってしまうとしても、なぜかそうなってしまってもやれることが出てくるわけで、そうなればそれをやるしかないような状況になってしまうとしても、それをやりながらもその場を切り抜けようとするわけで、実際に切り抜けつつあるのだとしたら、その場で生じている問題を解決できていないのにその場を切り抜けつつあるのだろうし、そういう成り行きに身をまかせていると慣れてきてしまうわけで、問題を解決できない状態に慣れてしまうことが解決ではないにしても、誰もがそうやって免疫や抗体を獲得できるわけではないだろうが、中にはそうなってしまう人もそれなりに出てくるのがその場を切り抜けることになってしまい、何も解決していないと思うかも知れないが、そう思っている人たちがその場を切り抜けたことが確かな事実として現状を構成しているのではないか。


4月28日「人為的な操作」

 普通は必要な物事には価値があるように思われるかも知れないが、その物事に金銭的な価値があるかどうかはその対象にもよるだろうし、例えば空気は人が生きていく上では必要不可欠だが、高い山や水中や宇宙で活動する以外では普段生活している圏内では金銭的な価値はほとんどないだろうし、水もそのままの状態で存在する海水や川や湖の淡水や氷河の氷ならほとんど金銭的な価値はないが、ダムや工業用水や農業用水の水ならそれを造るのに人手がかかった分の金銭的な価値が生じてくるし、そのまま飲める水道水やペットボトルの水も濾過するのに人の手がかかる分で金銭的な価値が生じてくるし、空気も人為的に使うために酸素ボンベなどに封入すれば人の手がかかるからその分で金銭的な価値が生じてくるわけだが、そうやって人手がかかったとしてもただで提供される物事には金銭的な価値は生じないし、使うのに料金がかかる物事にはかかった分だけ金銭的な価値が生じてくることになるだろうが、もちろんそれだけの価値があるかとなると人それぞれで受け止め方に違いが出てくるわけで、価値があるとは思えない物事でも使うと料金が生じてしまえば、使った人が思っている価値が支払った料金に反映されない場合もあり、不満ならそれだけ価値のない物事に無駄な金銭を使ってしまったと思うし、満足ならただでも価値のある物事だと思うだろうし、使った金銭の額と価値があるかないかとは別になるだろうが、その人の主観的な価値観とその物事に使う金銭の額から生じる一般的な価値には差があって当然であり、それを混同するわけにはいかないが、普通は価値があるとは思えない物事に金銭を使いたくないだろうが、使う必要があれば好き嫌いとは関係なく使わざるを得ない事態になるだろうし、そうなると主観的には必要のあるなしと価値のあるなしとは無関係に思われてくるが、客観的には必要があれば必要とするだけの価値があるから必要になってくるともいえるわけで、そういうことになればその人の好き嫌いとは無関係に価値があったりなかったりすることになってくるだろうが、その人を含めて多くの人がほしいと思ったり、実際にオークションなどで高値で競り落とされるようなものなら価値があると思われてしまい、そういう意味では物事に価値があるかないかに関しては様々な条件や基準があって、ある条件や基準から何らかの価値が生じても、別の条件や基準においては価値があるとは思われない場合もあるのかも知れず、その物事に価値があったりなかったりすることと、その物事を所有したり見物したり使うのに金銭を払うことの間には、それなりの因果関係や相関関係があるわけだが、場合によっては価値と必要のあるなしが違ってくるかも知れないし、金銭を払う必要があるから払うが価値とは関係なかったり、金銭を払う必要はないが価値があると思われたりするわけで、さらに金銭を払う価値があるとは思われないものに金銭を払わざるを得なかったり、金銭を払う必要もないのに金銭を払ってしまったりもして、金銭を払う行為自体に価値があったりなかったりもするわけだから、価値と必要と金銭を関係づけたり関連づけたりしようとすれば、それこそ条件や基準などの面できりがなく際限がなくなってきてしまうかも知れないが、たぶんそういうことに関してはあまり深く考える必要もなく、価値の高い物事は金額も高いと思っておいてそれほど間違いはないはずだが、それとは別に自らの価値観にもこだわってもかまわないだろうし、時には両者の間で矛盾をきたすこともあるかも知れないが、それが不都合ならその場でその都度判断すればよく、うまく判断できなければ放置するしかないだろうし、そういうことをいちいち細かく考えても論理的な整合性や法則を導き出せるとは思えないし、理性ではうまく考えられないような成り行きがあって、そこに情念が介在していると捉えても単純すぎるだろうし、普通に考えるなら物事の製造や流通にコストがかかっていれば、その物事にはかかったコストに見合った金額が価格として設定されるだろうし、それに専従的に携わっている人が生きていける程度の収入がもたらされないと、継続的にそういった物事は存在し得ないだろうが、実際に安定した収入をもたらさないとそういった物事は世の中から消えていく運命なのかも知れず、そういう意味ではそれに専従的に携わっている人にとっては、自らが携わっている物事にはそれ相応の価値があることになるだろうし、それに携わることによって得られる収入の金額がその物事の価値と一致するはずだが、中にはたとえ満足のいく収入が得られなくても、自らが心血を注いでかかわっている物事にはそれに対する思い入れの分だけ価値を感じているだろうが、それとは無関係でそれに無関心な人には価値を感じられないだろうし、いくら多大な精力や労力を注ぎ込んでかかわっている物事であっても、他から共感を得られなければ価値がなく、それどころから反感や嫌悪感を催すような物事であればマイナスの価値さえ生じてくるかも知れないが、そうやって無駄に無益なことをやっている分には、実際にそれをやっているわけだから、やっている当人にとってはやることに価値を感じているからやっているわけで、もちろんそれ以外に必要だからやっていると思っているかも知れないし、価値も必要もなければ思い違いをしているのかも知れないが、その人にとってどうであってもその人をそうさせている要因が他にもあって、そう仕向けるような成り行きになっていれば価値があろうとなかろうと必要があろうとなかろうと、なぜか理由がわからないままそんなことをやっている状況がもたらされている場合もあるかも知れず、何だかわからないが何か得体の知れない何かに導かれるようにしてそんなことをやっているとすれば、それをやるのが宿命であるかのように思われてくるかも知れないし、単なる偶然でそうなっているとしても他の誰がそれをやめさせようとしてもやめさせられないようなことにもなっていれば、そうなっていることに関しては誰も止められないような状況が実現していたりして、そうやって価値があるとも必要があるとも思われないようなことがおこなわれている実態があれば、何かそれが不条理の極みのようにも思われてくるかも知れないが、それが何であれ実際におこなわれていれば、それに携わっている人やかかわっている人に何らかの恩恵や弊害をもたらしているのかも知れず、その恩恵や弊害に誰も気づかなくてもかまわないようならそれで済んでしまっているのかも知れないし、何だかわからないがそうしなければ気が済まないようなことがあって、そうすれば気が済むからそうしていて、それ以外には何も思わなくてもかまわないならそれで済んでしまうわけで、特にそうすることに価値があるとかそうする必要があるとか思わなくてもいいような行為が世の中にはあるのかも知れず、それがどんな行為であるかに気づくのは難しいかも知れないし、気づかないままでいても支障をきたさなければそのままとなってしまうだろうし、わざわざそういうことを取り上げて問題視するようなことでもなければ、誰も価値があるとも必要があるとも思わないのかも知れないし、そうなっていた方が都合が良かったりもして、そういうところで事を荒立てるとかえって面倒な事態に陥ってしまうのかも知れないが、意識しないでおこなう動作の中にはそういう行為が多く含まれているだろうし、それを慣習的な動作といってしまうとそうではないものまで含まれてしまうかも知れないが、そんな中で何が良くて何が悪いかを選別して良いことをやろうとすれば、良いことをやることが価値のあることで、価値のあることをやる必要があるかのように思われてくるかも知れないが、その中で何が良くて何が悪いかを選別することが良いことだと思うからそんなことをやるわけで、果たしてそう判断することが良いことなのかと言えば、理由があやふやだとわからなくなってくるだろうし、そういった動作が連鎖的に起こるとしても最初の動機が結構よくわからない場合があるのかも知れず、そんなことをやっているうちにそうすることが良いことだと信じられてしまい、それが自己肯定や自己正当化のなせる業であったりして、そうなると大したことでもないわけだが、やっているうちにやれてしまっていることが自信につながってしまうのだから、そういう自らの思い込みがそうさせている実態もあるのではないか。


4月27日「分相応な身分」

 人が普通に生活している範囲内で買える商品が普通の商品だといえるかも知れないが、では普通でない商品があるかとなると贅沢品などは高くてごく限られた高収入の人しか買えないが、企業などが買う業務用の商品もあって、資源などは直接消費するのではなく製造業などが加工して商品の材料に使うための商品であり、人の労働もその際に使う商品と見なすこともできるだろうが、労働は人から切り離して売り買いすることはできず、それを商品と見なすと人道的に抵抗感が伴い、労働を労働力商品と形容してはいけないような事情があり、何か売り買いする商品とは違う特別なものと見なす傾向があるわけだが、その一方で人の労働に伴って商品と同じように金銭が動いていることは確かであり、製造業でもサービス業でも労働に伴って人件費が発生して、労働することと引き換えに報酬として賃金が支払われるから、労働者の生活が成り立っていて、また労働者が賃金を使って商品を購入するから産業や経済も成り立っているわけだが、そうやって労働者が労働して商品を作ってその商品を買うことによって現状の社会が成り立っていて、労働していない人の生活も労働によって支えられているわけだが、人は労働をしたくて労働しているわけではなく、労働しなければ生きていけないから労働しているわけで、何かそういうところでやっていることとやりたいことが合わないから心がこじれてくるわけだが、そういう事情を受け入れた上で誰もが生きていると考えると、何かそれは違うのではないかと思われてくるわけで、やりたいことがもとからあるわけでもないだろうし、やりたいことが全てやれないわけでもなく、その場の状況に合わせて生きていく中でやりたいことが生じてきて、そういう意味ではその場の状況に応じたやりたいことをやりながら生きているともいえるわけだから、それほどその場の状況から心が疎外されているわけでもなく、その場の状況に応じて心も生じていて、自らのやれる範囲内でやりたいことをやろうとしているわけで、それ以外でやりたいことがあれば、それは自らがやれる範囲外にもやりたいことがあることになり、現状ではそれがやりたくてもやれないことになるわけだが、何がそれをやりたいと思わせるのかといえば、周囲の状況がそう思わせるのだろうし、そう思わせるような状況の中で生きていることになるわけだが、高望みするように仕向けられているわけで、何によってそう仕向けられているのかといえば、価格の高い商品が魅力的に見えるわけで、それを買えるような身分になりたいと思わされるのだろうし、そうなると現状でやれないことは価格の高い商品を買うことになり、価格の高い商品を買うことが目標となれば、価格の高い商品を買えるような身分になることも目標となって、そうやって立身出世的な願望が生じてくるわけだろうが、誰もがそれを実現できるわけでもないから、そうやってやりたいと思うことが現状ではやれなくなってくると、現状に対する不満から心がこじれてくるわけだろうが、それをやり過ごすことができるかとなると、大抵の人はやりたくてもやれないわけだからやり過ごすしかないだろうし、そういう身分になって高い商品を買って見せびらかしている人をうらやましいと思う反面で反感を抱きつつも、自分にはそれがやれないわけだから我慢して分相応に振る舞うしかないだろうし、また高い商品が買えないぐらいで心がこじれてしまうのは情けないとも思うだろうし、そういう理由で立身出世を目指すような願望というのも子供じみているようにも思われるだろうし、そんな願望を実現した人よりは実現できない人の方が多いわけだから、そういう願望自体もフィクションである面の方が大きく、気晴らしの延長上で時折そう思うことがあるにしても、現実の生活の中でそれほど大きい比重は占めていないのかも知れず、そうである限りで心がそれほどこじれているわけではなく、そういう願望をやり過ごしている限りで分相応には生きられていて、むしろ中途半端にそういう願望を実現してしまった人の方が心のこじれ具合が重篤になる危険性が高いのかも知れず、ちょっとだけそういう成り行きになってしまうと行き着くところまで行き着かないと気が済まなくなるのかも知れず、そういう人ほど虚栄心に踊らされて上を目指そうとする願望が強くなっていって、身の程知らずなことをやってしまって身の破滅を招くような事態にもなりやすいようなら、その入り口にも達しないような人たちの方が幸いだといえるのかも知れないが、一方で理性が働くとそんな気になってしまうのはどうしてなのかと考えてしまうわけで、人をそんな気にさせるような世の中の仕組みを知りたくなってしまうわけで、経済的な豊かさや立身出世を煽るような傾向へと人を導く仕組みや構造を知るに至れば、自身がそれを解き明かしたような気になってそれを他の人々に知らせたくなるわけで、実際にメディアを通してそれを知らせている人もそれなりにいるにしても、別にそうなっていることを知らせることによってそういう傾向に歯止めをかけようとしているわけでもないだろうし、ただ知識として知り得たことを他の人たちに知らせたいという願望が生じてくるのかも知れず、それもそういう傾向に人を導くような成り行きが世の中で生じていることにもなるわけで、そうだとすれば世の中で人をある一定の傾向に導くような成り行きがあれば、そういう傾向があることを知ろうとする成り行きもあり、さらにそれを知るに至れば知り得たことを他の人たちにも知らせようとする成り行きもあり、そうやってある一つの傾向に他の傾向が絡み合って一筋縄ではいかないような複合的な傾向を呈しているわけだが、それらの全てが見せかけの傾向とはいえないにしても、その中である一つの傾向に巻き込まれてしまうと、そんな傾向の中でその傾向が求めている特有の役割を演じさせられてしまい、そうした役割の中で活動が完結してしまうような成り行きに至ってしまうと、それだけにかかりきりとなってしまうわけで、そうなってしまった人の活動を見せられるとそれでいいのかという疑問が生じてくるのかも知れないが、その人にはそれだけではなく別の面もあるのだろうが、それを見せられるとただそんな役割を演じている過ぎないように思われて、そんな役割に固定してしまった人をそれだけの人として軽んじてしまうような傾向にも導かれてしまうわけだが、たぶんそれが錯覚であり、そんな面しか見せられていないからそんなふうに錯覚させられてしまうのだろうが、それを錯覚だとは思わないようになってしまうとそこで思考の単純化が起こってしまい、世の中を単純な人の役割分担で捉えるような割り切った考え方に導かれてしまうのかも知れず、そうならないようにするにはメディアを通して見せられているそれをそのままの姿で受け止めるわけにはいかなくなるわけだが、ではそれをどう受け止めればいいのかといえば、それがそこで演じられている見世物であることを自覚するしかないわけで、そう自覚した上でさらにそこで演じられている面とそうではない面を見分ける必要が出てくるだろうし、そうではない面を見分けられるならそこで演じられているのとは違う面を想像することができるだろうし、そうなればそれだけ世の中の実態に近づくことができるかも知れないが、あくまでも想像していることでしかないのだから、それが真の姿だとはいえないだろうし、そこから直接には真の姿を知ることができない代わりに、間接的にそれを伺うことしかできないわけだが、真の姿があると思ってもいけないのかも知れず、その代わりに人が何かを演じている現実があるわけで、その人が巻き込まれている傾向から演じるべき役割を決められて、それを演じる成り行きになってしまうと、それがその人に割り当てられた分相応な身分に思われてくるわけで、要するにそういう身分を演じていることになるわけだが、それをその人の真の姿だと錯覚してしまうとおかしな捉え方になってしまうのかも知れないが、そういう演じている姿を真に受けるならそう捉えざるを得なくなってしまい、そういう単純な人の役割分担によって世の中が成り立っていると思われてしまうわけだが、果たしてそれでいいのかといえば疑問に感じられてしまうわけだから、そうではないことは想像できるにしても真の実態を捉えるには至らず、想像に留まっている限りでそれは思い込みのフィクションでしかないのかも知れない。


4月26日「正義と不正義」

 別に貧乏人に正義があるわけではなく、金持ちに不正義があるわけでもなく、どちらにも正義や不正義があったりなかったりするのかも知れないが、貧乏人が何かの加減で金儲けの機会を得て金持ちになれば、休日にはゴルフがしたいかも知れないし、自家用ジェットに乗ってビジネスで世界中を飛び回りたいかも知れないし、豪華クルーズ船に乗って世界中を旅したいかも知れないし、要するに贅沢な生活がしたければ、そんな王侯貴族のような生活をすることに正義があるかとなると、普通は正義とか不正義とかではなく、現実に金があるからその金を使って贅沢な暮らしをしているだけかも知れないが、貧乏人から見ればどう見ても正義があるとは思えないだろうし、他人の贅沢な暮らしを見るとうらやましいと思うと同時に妬ましいとも思うだろうから、何か後ろ暗いことをやって金持ちになったんじゃないかと邪推するかも知れないが、誰もが金持ちになれるわけでもなく、また誰もが貧乏人になれるわけでもないだろうが、どうやって金儲けをしたかが印象を左右するわけで、ただ同じ商品を安く買って高く売ってその差額を儲けたと聞けば、それを高く買わされた人は騙されたと思うかも知れないし、そんな詐欺みたいな商売に正義はないと思うだろうが、製造工程で技術革新して流通段階で効率化を図って競合する他の商品よりも安く造って安く流通して、それによって他よりも多くの利益を得ることに成功したと聞けば、何かそうやって金儲けすることが正義のようなことにもなってくるだろうし、またスポーツか何かの競技で優勝して大金を得たり、それに関連する企業と高額のスポンサー契約を結んだり、宝くじが当たって大金を得たようなら、誰も文句は言わないだろうし、また同じ商品を安く買って高く売って利益を得たとしても、株式市場や外国為替市場や商品先物市場などでやるなら誰も文句は言わないが、従業員を安い給料で長時間こき使って人件費を浮かせて利益を出せば不正義であるように思われるし、不良債権を含んだ金融証券を売って儲ければ詐欺だと思われるだろうし、それが人であれ何らかの団体であれ自分たちのやっていることに関して正当化できる面を強調して、やっていることが正義であるように印象づけたいわけで、また他人や他の団体がやっていることを批判したければ、やっていることに関して正当化できない面を強調して、やっていることが不正義や不正行為であるように印象づけたいわけだが、どんなやり方になるにしてもそこで金銭的な金儲けをやるとなると、安く買って高く売ることでしか儲けられないわけで、安く造って高く売るにしても、造る段階で何らかの安い買い物をしているから儲けが出るわけだが、あるいは他人のまねをすれば自分の努力を節約できるし、どうやっても他の何かを利用した分が安上がりに済むわけで、そういう行為に正義があるとは思わないし、他の何かを利用した分が不正義に思われてしまうかも知れないが、利用しなければ何もできないのかも知れないし、そうであれば人や団体の行為には正義と不正義が入り交じっていることにはなるわけだが、そういう面があるからあまりに自らの行為に正義があると強調しすぎると何かそれが偽善や欺瞞に思われてくるわけで、それが売り買いにしてもあるいは貸し借りにしても、他人を利用した分が自らの利益に結びつけば、利用された他人にしてみれば利益を奪われたように感じられて、それが不正義であるかのように思われるわけだし、それを自助努力によって利益を自分でもたらしたかのように主張されると嘘をついていると批判することにもなるだろうが、そこに金銭が絡んでくると金銭そのものが数値的な損得としてはっきり現れるから、なおのことそこで誰がどれだけ得をして誰がどれだけ損をしたかがはっきりすることにもなり、誰かが金銭的にプラスになればその分他の誰かがマイナスになるはずだとしても、貨幣そのもの新たに発行すればいいということになれば、発行した分だけ貨幣価値が下がることになるだろうし、どうやってもどこかで必ず歪みが出てくることになるはずだが、それを歪みだとは見なさなければいいということにでもなってくれば、何か騙されているような気になってくるわけだが、そこで何かをやっている間に時間的な経過を伴っていて、そこで何かをやった時間が利益をもたらしたと主張して、それが自助努力だと見なせるならそうしたことをやって利益を得た自らに正義があるように思われるだろうし、何の努力もせずにただ商品を安く買ってそれを高く売って利益を得たように見なされるなら正義を主張できないが、何かをやった時間の中で安く買うための工夫を凝らしたり高く売るための工夫を凝らしたように思われるなら、そうした工夫を凝らした分が自助努力だと見なしてそこでおこなった努力を正当化できれば、そうすることが正義であるかのように主張できるかも知れないが、自分が一方的に正義を主張しても他人がそれを認めてくれないと正義にはならないだろうし、結局はどういうことをやれば正義になりどういうことをやれば不正義になるかに関して、それにかかわってくる誰もが納得できる決まりを作るような成り行きになってくれば、そうした決まりを作ることにかかわった人たちの間で、一定の調整や妥協が成り立つ範囲内では、正義と不正義の定義に関して納得せざるを得ないようなことにはなるかも知れないが、それにかかわっていない人たちが納得するかというと、それとは別のしかも対立する基準や条件などを保持しているようなら納得できないかも知れないし、そうなればそういう人たちも含めてより広い範囲で納得できる決まりを新たに作るような成り行きになるかも知れないが、そうはならずにそこで意見や価値観が対立して争いに発展すれば、結果的に争いに勝った側が負けた側に対して自分たちに都合の良い決まりを押しつけてくるかも知れないし、そうやって一応の決着がつけばいいが、決着がつかなければいつまでも対立が続いて、争いが絶えないようなことにもなってしまうかも知れないが、現状の世界でもそんな経過を辿っている面があるだろうし、そこで何らかの正義を掲げて他に向けて主張している人や団体は自分たちに都合の良い決まりを他の人や団体にも守らせたいわけだが、他にもそんな正義を掲げてそんなことを主張している人や団体がいるわけで、そうやって様々な人や団体が自分たちに都合の良い正義を掲げて都合の良いことを主張している状況がある中で、それらの正義や主張のどれが真の正義であり正しい主張であるのかを決めることができるかといえば、誰がどんな団体が決めても他の人や団体は納得しないかも知れないし、そこで対立や争いが起こって争いに勝利した人や団体が他の人や団体にその人や団体に都合の良い正義や主張を押しつけてきても、少なくとも世界の全てでそれを通用させることができているかというと、現状でそれに成功した人や団体はまだ現れていないはずだが、たぶんこれから先も現れることはないかも知れないし、対立や争いが延々と繰り返されることにはなるだろうが、少なくとも売買や貸し借りに伴って生じる金銭的な損得に関してなら、相手がいるから売買や貸し借りが成り立つのだから、自助努力だけによって儲けたことにはならないだろうし、双方ともに儲かるようなウィンウィンの関係というのも、それらとは別に利益を奪う対象がある限りで幻想に過ぎないのかも知れず、そういうところで必ず欺瞞や偽善などのやましい面がついて回ってくるわけだが、では自らの正義を主張しなければいいかとなると正義を主張できなければ自らのやっていることを正当化できないわけで、自らの行為を正当化できなければ他から何をされても文句を言えないようなことになってしまうだろうし、他との関係がある限りで自らの行為を相手に認めてもらう以外に、その関係の中で何をやることもできなくなってしまい、そうなると相手の同意を得るかさもなければ相手と争って勝つかの選択肢しかなくなってしまうかも知れないが、それ以前に相手にしなければいいというのもあるし、嫌なら関係しなければいいという主張も成り立つ場合もあるかも知れないが、そもそも争わなければよく、争って負けてもかまわないということになってくると、自ら正義を主張しなくてもいいし、自らの行為を正当化しなくてもかまわないことにもなってくるかも知れないが、果たしてそうやって他から放って置かれる立場に誰もがなれるかといえば、なれるとすれば社会そのものが成り立たなくなってしまうのかも知れない。


4月25日「ユダヤ金融資本による世界支配」

 人が動けば歴史も動くような錯覚があるかも知れないが、錯覚などではなく本当に人も歴史も動いたところで、それ以前に物事も動いていたのかも知れないし、物事を動かしていたのが人だとしても、物事に動かされていたのも人かも知れないし、誰がその物事の中心にいたとしても、その人にはどうにもできない成り行きがあったのだろうし、どのような勢力がそこで動いていた物事に隠れて暗躍していたとしても、その物事自体が自然の流れの中でそうなっていたのだから、どんな勢力がそれを影から操っていたと解釈しても、そういう陰謀的な動きだけではなく、歴史の表舞台で動いていた成り行きをそのまま受け止めればいいのだろうし、それがどうということはないといってしまえば話がそこで終わってしまうが、そこからさらに歳月が流れて実現した現状がどうということはないのだから、過去の一時期の歴史的な情勢もそれと地続きな面があり、それを過大に評価するわけにはいかず、確かにそこで暗躍していたとされる人や勢力にとってはそれがメインの活動だったわけだが、それと同時並行的に他でも活動していた勢力にとっては、そこだけにメインで関わり合っていたわけではなく、他の様々な方面でも活動していれば、そこだけで活動していた人や勢力をそれほど重視していたわけでもなかったのかも知れず、そこだけを大げさに捉えるのは過大評価でしかないだろうし、そういった過大評価に基づいた歴史観を真に受けるのも何か的外れな印象となってしまい、別の方面で手がけていたこととそこで手がけていたことの間でバランスを考慮しなければいけないわけで、その勢力にとってそこでおこなっていた事業や商売の類いよりは遙かに大きなことを他でおこなっていれば、そんなに大した規模でもないことをことさらに重視するわけにはいかないものの、そこでおこなっていたことにかかわっていた人や勢力の歴史について注目するなら、確かにその人や勢力にかかわって暗躍していたとされる勢力の陰謀などをことさらに強調せざるを得ないが、それが同時並行的に他の様々な地域でも展開されていた事業や商売の一部でしかなければ、その勢力にとってはほんの些細なことに過ぎないのに、そこだけ歴史として区切って語ろうとしてしまうとそれを大げさに陰謀として捉えるしかなくなって、何かそういうところでバランスがおかしくなってしまうわけだが、そこだけを語ろうとすればそうなるのも無理はなく、しかもそう語ることしかできないような立場があるわけで、実際にその国の歴史についてそう語ってしまうと、その国で起こった大げさで重大なこととして語るしかなく、それが間違っているとは思えないし、その国の歴史としてみればそうならざるを得ないわけだが、そういうところから離れて別の事情を考慮するなら、例えばロスチャイルドをその代表格とするユダヤ系の銀行家や銀行業が、どうやってユダヤ人差別が普通におこなわれていたヨーロッパで各国の王侯貴族の間で信用を得られたかといえば、資金は貸すが政治には一切口出ししないという家訓を守っていたから実際に信用され重宝されたわけだが、そういう事情から遠く離れた日本から見ればそんな区別など全く考慮できないわけで、何やらヨーロッパの列強諸国とユダヤ系の銀行が一体化していると見なすしかなく、ユダヤといえばロスチャイルドということにもなり、それ以外はあり得ないような固定観念を抱きながら明治時代の日本がロスチャイルドに支配されていたという単純化が成り立つのかも知れないが、ロスチャイルドにしてみればあくまでもメインの活動は欧米でおこなっているわけで、アジアでも日本よりは中国やインドやインドシナなどでの商売の方が遙かにでかいだろうし、そういうところで日本から見るのと欧米から見るのとでは視点と重心が異なるだけでなく、欧米特有の事情を日本では考慮できないだけに、資金は貸すが政治には一切口出ししないというユダヤの金貸し業特有の家訓ですらも、そんなのは建前であり本当は裏でユダヤ金融資本によって欧米全体が支配されていると妄想してしまえるわけだが、その実態がどうなっているかは日本の一般人がどう妄想を抱いてみても正確なところはわからないだろうし、はっきり言って現実の生活とは一切関わり合いのないことでもあり、実態がどうであろうと知ったことではなく、その手の陰謀論好きの人たちが娯楽の一環で騒ぎ立てているに過ぎないことかも知れないが、金融業界だけの意向で近代世界の歴史が動いてきたと見なしても、何か無理があるというか、それ以外の事情が多すぎるように思えるかも知れないが、政治的な動向を何でもかんでも金融に結びつけて考えればそれなりに説明がつくかも知れないし、何か巨大な勢力が裏で操って世界経済を支配していると説明するとロマンを感じてしまうのかも知れないが、そういう世界レベルで起こっているらしいことを現実の一般人のレベルで生活が成り立っていることから想像すると、かなりの思考的な飛躍を必要とするだろうし、そんなふうに連続性を考えるわけにはいかず、世界レベルと個人の生活レベルを別のこととして分けて考えるしかないのだが、19世紀までのヨーロッパの王侯貴族などはその辺を分けないで公私混同をやっていたわけで、宮廷費用を捻出するためにユダヤ系の銀行から資金を借りていたわけだろうし、実際にルイ・ナポレオンなどは別に王侯貴族ではなかったわけだが、大統領時代に貴族のまねごとをして宮廷費用が嵩んで銀行からの借金まみれで破産寸前まで追い込まれてしまっていたから、クーデターを起こしてナポレオン三世になって、実際にロンドンの銀行に当時の金額で八十一万四千フランもの巨額の借金を一挙に返済したそうで、さらに大統領時代は年間六十万フランの年棒だったのが、クーデター後に一挙に千六百万フランに増額してその後十数年にわたって宮廷ごっこをやっていたわけだから、確かにそんな時代においてはユダヤ系の銀行業者も全盛を誇っていたのかも知れないし、そんな宮廷ごっこの尻拭いのようにしておこなわれた普仏戦争の賠償金が五十億フランを超えていたそうだが、その交渉をまとめたのがロスチャイルド傘下のプロイセンの宮廷銀行家なのだから、そういう時代においては確かにそれなりの力があったはずで、信用もされていたわけだろうが、別にロスチャイルドの陰謀によってルイ・ナポレオンがクーデターを起こしてナポレオン三世になったわけでもないだろうし、もちろんそれによって借金が返されてロンドンの銀行は助かったはずだが、また普仏戦争がロスチャイルドの陰謀によって起こされたわけではないにしても、賠償金の交渉をうまくまとめ上げたおかげで、ロスチャイルド傘下の銀行には多額の手数料の類いが入ったことは確かだろうし、その後の日露戦争辺りでも日ロ双方に戦争費用を貸して、多額の利子収入をロスチャイルド系の銀行が得たとしても、ロスチャイルドの陰謀によって日露戦争が引き起こされたわけでもないだろうが、実際にそうやって利益を上げた実績があるとすれば陰謀論者は黙っていないわけで、ナポレオン三世のクーデターも普仏戦争も日露戦争も全てロスチャイルドの陰謀で起こったと語れば面白い話になってしまうだろうし、そういう話に尾ひれがついてヒトラーもスターリンなどもロスチャイルドと裏でつながっていて、今なおロスチャイルドによる世界支配がおこなわれている話にはなるだろうが、そういう話で全てが説明できるということ自体が、現状の世界情勢とはかけ離れているようにも思われてしまうわけで、そういったことで利益を出す銀行の業務と世界支配との間にどういうつながりがあるのかとなると、支配しているのになんで銀行の業務をおこなう必要があるのかという話にもなってくるわけで、銀行の業務は支配を悟られないための隠れ蓑であるとかいう話にもなってくると、支配自体がかなり回りくどく面倒なことにもなってくるわけだが、要するに現実の銀行業務と世界支配の間で力関係の釣り合いがとれなくなってくるわけだが、そういうところで世界支配をしなくても銀行業務は成り立つし、世界を支配するために銀行の業務をする必要もないことにもなってくるとすれば、そういう話のつじつまが合わなくなってきてしまうのではないか。


4月24日「現場感覚」

 そこでどう考えるかはその人次第だろうが、そこには様々な基準や条件があると捉えるなら、世の中では様々なことがおこなわれているように思われるが、それが経済的な利益を求めておこなわれていると見なせば自ずからやっていることは限られてくるのかも知れず、そんなふうに条件を定めてみても、そこから何が言えるわけでもないかも知れないが、それ以外に何にこだわっているかで、やっていることの内容もその良し悪しを言うような成り行きにもなってくるわけだが、うまくそういう条件を回避することができれば楽な立場にはなれるものの、誰もが回避できるわけでもなく、それどころか誰もそれを回避できないから、そこで衝突が起こるわけで、何かと何かがそこでぶつかり合っていることになるのかも知れないが、中には衝突を回避して楽な立場を確保している人もいるのだろうし、安全な場所から衝突を眺めているような人もいて、そうやって何かの事故を見物していれば、それが暇つぶしにもなってしまうかも知れないが、それでも単なる暇つぶし以上の活動につなげたい人も出てくるだろうし、要するにそこから経済的な利益を抽出しようとしてしまうわけだが、そこでもそうなるのを回避できるかとなると、回避するよりはそうなるようにする方が難しいだろうし、実際に経済的な利益を求めようとする人のうちで、それに成功するのはほんのわずかに過ぎないのだろうが、それ以外の大半の人たちはその場で起こる事故を眺めることしかできないわけだからそんな目撃者は意外に大勢いるのかも知れず、またそんな目撃者のうちでもそれを騒ぎ立てる人もそれなりにいて、騒ぎ立てに同調する人やそれを面白がる人が多いほど、それがメディアを通じて世間の話題となる可能性が高くなるわけだが、いったん話題となってしまうと、それを直に目撃した人よりも遙かに多くの人たちがそれを見物しているつもりになれるのだが、直に見物しているわけでもないのだから、それだけ加工された情報に接していることにもなり、興味本位の様々な添加物を施された情報を受け取っていることにもなるわけで、そういった情報の味付けに対して好き嫌いが伴ってくることも確かだが、そこに何が添加されているかを感じ取ることも重要となってくる場合もあるかも知れないが、それ以前に何の目的で情報を得ているかとなると、世間的な話題の共有でしかなければ、それ自体が重要なことだとも思えないし、普通は情報から何を得るかで生きるか死ぬかの瀬戸際に立たされるとも思われないだろうし、そんなことに結びつくとは到底感じられないようなことを日々メディアを通じて得ているわけだが、その程度のことから塵も積もれば山となるようなことに至るかとなると、そうはならない場合がほとんどかも知れないが、中には他人にとってはどうでもいいことにこだわる成り行きになってしまうこともあるわけで、こだわったからといって何がどうなるわけでもないとしても、それにこだわることから後になって大きな違いが生じてくることもあるのかも知れず、なぜか理由は定かでないがちょっとした違いをそこから感じ取ってしまうとそうしなければそうはならなかったことを知るに至る場合もあるだろうし、それを知ったからといってすぐにどうなるわけでもないだろうし、知らなかったからといって死ぬわけでもないだろうが、いったんそれを知ってしまうと物事の見方が以前とは違って見えるようになることもあるわけで、それが新たに知識を得たことの証しともなるわけだが、そんな知識を得たところで社会で生きていく上で直接の有利不利をもたらすわけでもないが、知り得なかったことを知り得たことは大きいような気がするわけで、そこで何を知り得たのかといえば、ちょっとしたことでしかないのかも知れないが、その他人にとってはちょっとしたことでしかないことが、自分にとっては大きな違いであるかのように思われると、それが勘違いなのかも知れないが、勘違いでなければ何らかの差異をもたらしているような気になるわけだが、それが何かといえば言葉で表現できないとなるとよくわからないことになってしまい、たぶん実態としてもそんなことでしかないのかも知れず、自分にしかわからないような微妙な違いといってしまうと、嘘かも知れないが、嘘でもかまわないとなるとますます真偽のほどが怪しくなってくるが、もったいぶって語らないようなことになるかというと、意外と簡単にそれを語ってしまうのかも知れないが、語ったところで相変わらずはっきりしないのかも知れず、そこで有利不利とも損得とも関係のないようなことに興味があるかといえば、大半の人は興味を示さないだろうが、その程度のことでかまわないだろうし、場合によっては笑ってしまうような馬鹿げたことになってしまうかも知れないが、他人が慌てているのを感じ取ると楽しくなってくるわけで、何に慌てているのかといえば、他人の死に慌てているわけで、それが意外と簡単にあっさり死んでしまうことに慌てているのだろうし、昨日も死んで今日も死んで明日も死んでしまえばいつかは我が身と想像してしまうだろうし、誰かが死ぬはずがないのに死んでしまったことの驚きとともに、実際に誰かが死んでしまってからそんなはずがないと思うのだから、事後的にそう思っているに過ぎないことなのに、その突然の死に衝撃を受けている自らに驚いてしまうわけだが、おそらく実際に他人の死の目撃者となる人はいくらもいないだろうが、あたかも自分が直接目撃したかのように錯覚してしまうのはそれに驚いてしまうことからそう錯覚してしまうのだろうが、その狼狽ぶりがうかがえてしまうところが別に強がっているわけでもないのに面白がっているような感覚になってしまうわけだが、面白がっている自らも多少は狼狽しているはずなのだが、狼狽するよりは面白がってしまう割合の方が高そうに思われるところが、何か他人事であることを実感させられるわけで、そんな他人事であるはずの死が明日にも自分に訪れる可能性があるとしても、今日のところは面白がっているわけで、中にはそんな状況を敏感に察知して、ここぞとばかりに世間の反応を小馬鹿にする騒ぎ屋の類いもいるだろうが、別にそういう逆張り行為に反発する必要も感じられず、むしろ他人の死を他人事として受け止める感覚が当たり前のように感じられることに新鮮な驚きを覚えるわけで、それが今までの状況とはひと味違うところかも知れないが、そこから時が経って忘れ去られてしまうような一過性の感覚であるとしても、実際にそれを自身が体験できたのは貴重なことのように思われてしまうだろうし、そんな有利不利とも損得とも違うことを貴重だと思うのだから、功利的な基準からすればだいぶずれていると思わざるを得ないだろうが、それが自然な感覚だと思うのだから偽らざる実感だろうし、たとえそれによる経済的な損失が甚大なものとなるにしても、そんなこととは比較にならないほど大きな驚きをもたらしつつある現状に感動しているのかも知れず、本当に経済的な損失よりも驚くことの方が優先されるとすれば、損得の感覚などは消し飛んでしまっても一向にかまわないことにはなるわけだが、果たして本当にそうかといえばそんなはずがなく、そんなことを思っていられる立場ではない人が世の中の大半を占めていることが、事態を深刻な状況にしつつあるのかも知れないが、そんな実感を抱くこともメディアの報道に惑わされている証拠にもなってくるだろうし、果たして真の実態がどうなのかといえば誰も知るよしもないことかも知れず、真の実態がどこで示されるとも思えなければ自らが感じている通りのことを信じるしかなく、自らが感じている通りだとすれば面白おかしな状況でしかないのだろうが、たぶん世間のものとされる感覚とはかなりずれているわけで、もっと真面目ぶって深刻に状況を受け止めて、場合によっては政府の対応を非難する必要もあるだろうが、なぜ騒ぎ立てないのかといえば騒ぎ立てるよりは感動している割合の方が大きいのだろうし、明日は我が身かも知れないのに他人の死を面白がっていられるのは、実際に誰かが突然死んでしまったかのようにメディアを通じて報じられる現象そのものを面白がっていて、それを直接目撃したわけでもないのに事件の現場にいるような臨場感に酔いしれているのかも知れないが、同時にそれが錯覚であることも承知しているわけだ。


4月23日「謎の行為」

 興味のない人にとってはどうでもいいことだが、それに付き合わされている人にとっても何でもないようなことであっても、現状で慣例のようにして続いている行為をやめさせることは難しく、またそこから新たな慣例を作り出すことも難しいだろうし、そういう意味では守り従うべき慣習や規範のような慣例となって続けられていることは、それを一朝一夕には変えづらいことは確かだが、容易には変えられないからといって多くの人が困っているわけでもなく、実際に困っていないから続けられているのだろうが、何かの機会にそういった慣例を破って、これまでにやったことがないことをやってしまう人も中にはいるのかも知れず、実際にそれをやってしまった後にどうなるかはその後の状況次第な面があるとしても、何かのはずみにそうなってしまう成り行きがあるわけで、そういう意味で一見誰もが守り従うべき慣習や規範のように続けられている慣例的な行為には、それを破ってそこから逸脱してしまう可能性も秘められていて、中にはそうした慣例を破っておこなったことが功を奏して、そういうことをやってしまった人をその場の状況の中で優位な立場に押し上げることもあるかも知れないが、逆に慣例を破ったことをとがめられて、その人がその場に形成されている共同体から追放されてしまうことも起こり得るのかも知れず、慣例を破ったことがどういう結果をもたらすかはその場の情勢次第な面があるとしても、少なくとも慣例を破る人の方が破らない人よりも他から際立つような立場や存在となる可能性があるわけで、逆に慣例を守り慣例に従うことはそうやっている人たちの間で横並び感覚をもたらして、そのことに関してはそうすることによって他から際立たないような効果をもたらすわけだが、自分たちのやっていることを慣例にしようとして、それを他の人たちにも強いたり、それに従わなかったり破ったりした人をとがめようとすればそれが威圧的な行為となるだろうし、そうやって個人としては際立たないが集団として権威的に際立とうとするわけで、そういう人たちに威張られると嫌な感じがするだろうし、誰もが逆らえない慣習や規範の味方のように装いながら他の人たちを自分たちに従わせようとすることが不快な行為となるわけだろうが、そういう不快感がはっきりした意志となって表れなくても、何かのきっかけで個人が突発的に慣例を破るような行為となって発現する場合があるわけで、それは権威を笠に着て虎の威を借る狐のような振る舞いに対する嫌悪感を伴っているのかも知れないが、そんなふうに反発している当人は全くそれを意識していない場合もあり、自身でもどうしてそうなってしまったのか気づかないままに行動していたりするわけで、その結果として示されているそれが、少しそこから距離を置いてみれば確かにそんな具合に動作しているように思われるとしても、はっきりとそうだといえるわけでもなければ謎の行為や動作となってしまうわけだが、それが多くの人にもわからないままの方が当人にとっては好都合なのかも知れず、下手に理由がわかってしまって権威に媚びへつらう人たちから攻撃されてしまっては嫌な思いをしてしまうから、そういう慣例的な行為からは少しずれているが、そのずれがどういう理由でずれているのかがよくわからないようなことをやっていれば、何か不器用でうまく慣習や規範に合わせられないように思われているぐらいがちょうどいいのかも知れず、そうやってやり過ごしている限りで慣例に逆らったりそれを破ったりしていることになるだろうが、全面的にそうなっているわけでもなく、部分的にそうなってしまっていることが慣例の類いを他の人たちに強いている立場の人たちには悩ましいところかも知れず、何かもっとうまく自分たちに合わせてほしいし、できれば直々に指導したいところだが、下手に指導してうまくいかなければ自分たちの指導方法がまずいように思われてもやぶ蛇だろうから、そういううまく合わせられない人は放っておくしかないような成り行きになってしまえばしめたものだろうし、それを狙ってそうやっているわけではなくても自然にそうなっているように見えればいいわけで、そんなうまく他の人たちに動作を合わせられない人を見るとじれったくなってくるだろうが、それが同調圧力に対する抵抗だとは思われないための無意識の戦略だとは夢にも思わないだろうし、当人もそれを意識せずにそうなってしまっているのだから、いくらそれを意識させようとしてもどうしようもないことなのかも知れず、当人が意識してそういう成り行きに持って行っているわけではなく、当人にとっても周囲の人たちにとっても自然にそうなってしまっているとしか思えなければ、それを無理に矯正しようとは思わないだろうし、そういう成り行きがその人がそこに存在できる可能性ともなっているのだろうが、そんな余地が生じていること自体が慣習や規範を伴った慣例的な行為の限界でもあるわけで、全ての面にわたって強制できなければそれを強制する側の権力も不完全にならざるを得ないのだが、その程度のことは大目に見ないとかえって同調圧力に対する反発も大きくなってしまうだろうし、自分たちに直接の害が及ばない程度の逸脱は無視しておくのが無難な対処法となり、そんなふうにして曖昧なニュアンスを伴ったグレーゾーンのような領域が生じてしまうのだろうが、そういう領域が自然に拡大してくると慣例の類いも廃れてくるわけで、そうならないように逸脱する行為を取り締まる必要が生じてくるのかも知れないが、それが公的な制度でもなく法律で定められているわけでもないのに、どういう理由で取り締まるのかが微妙なところだろうし、そういうところがその手の同調圧力の不徹底な面でもあるわけだが、大したことをやっているわけでもないのに何かの権威面をしてしまう人に限って、他人に対してその手の同調圧力を仕掛けてくるのかも知れず、また権威面をしたがるような人ほど他人との連帯を模索してしまうのだろうし、そんな他人との連帯を築いていく中で自らがそういう連帯に伴って生じる集団の中で権威として振る舞いたいのかも知れないが、所詮はそれ自体が何らかの権威の後ろ盾を得ながら権威面していることになるわけで、そんな後ろ盾を得た上での権威となっている限りで二重の意味で空疎な権威でしかないわけで、果たしてそんな仮面の権威面をした人に従う義理があるのかといえば、それでも従う人がいたらその人はさらにその下の立場になってしまうわけで、そんなみみっちい立場を伴う連帯を基にした集団に属しているのは情けないことになってしまうのかも知れず、自分たちのみみっちい姿に気づかない人がそういう集団に属しているのかも知れないが、いずれにしてもいったんそれに気づいてしまえば情けなくなってそこから離れていってしまうだろうから、そういう集団はある程度の規模以上には膨らまないだろうし、そういった程度の集団でもその中で権威面した人の商売が成り立っていればそれでかまわないようなことになってしまい、何らかの権威のファンクラブのようなものとして活動しているような実態もあるのだろうが、それに関して普通に考えるならそういう中間搾取者を通してでなく、直接権威とつながっていたいと思うところだろうし、実際にはそういった中間搾取者がその殻を打ち破って真の権威となることはなく、偽の権威となってファンの代表者気取りでそこに群れ集う人たちに対して何らかの同調圧力をかけてくるのだろうが、誰もがそういう同調圧力に従うわけでもなく、それどころかせこい人は自分もファンの代表者気取りになって真の権威のおこぼれに与りたいと思うかも知れないが、恩恵を受ける立場にも誰もがなれるわけでもないところが、そこに生じる階層構造の特徴となるわけだろうし、そこでも無意識の逸脱作用が生じていて、何かのきっかけで自然とそこから離れていってしまう成り行きが誰にも生じる可能性があって、実際にそうなってしまう成り行きが生じているとすれば、それ自体が慣例的な行為を利用した人の群れの中で起こっていることだろうし、そこに群れ集うことが慣例となるように仕掛けている人がその中で権威面したいわけだろうが、そういった群れ集うような呼びかけに応じてしまう人たちもそうした集団の中で他の人たちに対して同調圧力を及ぼすことによって権力を及ぼしたいのだろうし、それが権力ゲームの本質的な特性といってしまうと何か偉そうな講釈をたれているようなことにもなってしまうが、それがある程度の範囲内に収まっている限りでたわいないことのように思われるなら、どうということはないだろうし、そういうのが不快ならさっさとそこから離れればいいわけだ。


4月22日「それとのかかわり」

 それについて語ってきた歳月の経過が何を物語るわけでもなく、それでも何かを物語ってきた実態があるとしても、そこからさらに残された時間の中で何とかしなければならないことがあるかというと、人それぞれにそれがあったりなかったすれば、自身がそれを知らない場合もありそうで、知らない間に何かを成し遂げていれば都合が良いかも知れないが、それが自身とは関係のないことであるはずがないだろうが、そこで誰が何をやっていても、やっていることに自身がかかわっていることは確かだろうが、他にもかかわってくる他人がいれば、自身よりもその他人の方が主体となって物事にかかわっている割合が大きければ、自分の方はそのかかわっていることに関してはそれほどこだわりが生じていない場合もあり、場合によっては今やその主体となってかかわっている他人に全面的にまかせていたりもして、自身はそこから少し距離を置いて退いた立場になっていれば、後は他人にまかせてそのかかわっていることから抜けてもかまわないとまで思っているようなら、そういう事情がどこから生じてくるのかと言えば、それが必ずしも自身から生じてくるのではなく、自身とは全く関係のない方面から自身をそこから遠ざけるような成り行きが生じていて、実際にそんな作用によって自身がかかわっていることから抜けてしまうような事態が起これば、何かそうなってしまうことについては自身にはそれほど責任がないような気持ちになれるかも知れないが、絶えずそんな成り行きと隣り合わせであれば、いつそこから遠ざかってしまってもかまわないような状況となっているのかも知れないし、そうやって自分がそこから排斥された後にまだやるべきことが残っているとは思われなければ、もう何もやる必要がなくなってしまったことになってしまうのかも知れないが、果たしてそう簡単に他力本願でそこから抜けられるかと言えば、実際にそうなってしまってから抜けられたことを実感することにはなるだろうが、現状ではまだその段階にはないようなら、未だにかかわり続けていることにはなるだろうし、自身を押しのけてそれへの関わりの中で主導権を握りつつある他人にしても、まだ完全にはかかわりの主体にはなりきっていないのかも知れず、その他人にしてもいつそこから抜けてしまうような成り行きになってしまうとも限らないだろうし、そこにどんな思惑が巡らされているかは知り得ないところだが、もとから誰がその主体となってもどうということはない活動なのだから、今さら自分が主導権を握るつもりもないのだろうが、それ自体が誰との関わりの中でどう変わっていこうと自らにはあずかり知らないような成り行きになりつつあるのかも知れないし、すでにその実態がどうなっているのかさえよくわからなくなりつつあるのかも知れないが、そうなっているにもかかわらず自らがそれにかかわっているような現状もあるのだろうし、何かそれが自らにとっては重要なことであるかのように思われてしまうのも当然のことなのかも知れず、だからそこから抜けようとしても抜けられない事情も生じているわけだろうが、その一方でかかわりが薄くなりつつある面に関しては矛盾しているようにも思われるわけだが、そうまでして言及しつつあるかかわりとはなんなのかと問うなら、なぜかそれを明らかにすることができないのかも知れず、どういうわけか自らが直接かかわっているつもりの物事に関して直接には何も述べられないような成り行きになっているわけで、そんなものなどどこにもなく、そこで自らを押しのけて主導権を握りつつある他人の存在も嘘であるなら、話も簡単に済ませられるかも知れないが、そんなふうにして回りくどく語っている現状の中ではそうであっては困るのだろうし、自らが困らないように語ろうとするなら、是が非でも他人の存在が欠かせないのかも知れず、その他人が架空の存在であっては困るわけで、そうでなければそこから抜けるような成り行きにはなり得ないだろうし、自らがそこから抜け出るには代わりに語ってくれる他人の存在が欠かせないわけだが、なぜそうまでしてそこから抜け出ることを願うのかといえば、もはやそこには自らの居場所がないはずもなく、まただいぶ前からそこに居座ったままになっているわけでもないだろうが、居座ったままになってしまっては困る事情があるなら、そんな自身を押しのけて代わりにそこに居座ってほしい他人がいるわけでもないだろうし、別にそこで誰かと場所取りゲームをしているわけでもないだろうが、現状でそんな場を占有しているつもりの人たちが何を語っているのかといえば、大して面白くもないような内容であるわけでもなく、そもそもそこは何を語る場でもないのかも知れず、それどころか何をやることが求められているとも思えないような場でしかないのかも知れないが、そんな何でもないような場がそこにあるとも思えなければ、もとから語る場など存在さえしていないのかも知れないが、そうだとすればそこに何かの場があるように見えるのは蜃気楼のようなものなのかも知れないが、それについてくだらぬ内容をくだらぬ人たちが語っているように思ってはならないだろうし、それが何も語りようのない物事だとも思えないわけだが、語ってはならないようなことも何もなく、誰もがそれについて様々な方面から語っていることは確かなのかも知れないし、それにしてはその大半が的外れな内容にも思われるわけでもないだろうし、それについてもっともらしく思われるようなことを誰もが語っているはずなのだろうが、語るだけでは駄目というわけでもないだろうし、それについて語れることはもはや語り尽くされているのかも知れないが、それでもさらに語ろうとしているのかも知れず、そうだとすれば語りすぎているのかも知れないし、語る必要のないことまで語っていて、語らなくてもいいことまで語ってしまっているから、語ること自体が余分で無駄なことなのかも知れないが、まだそこから語ろうとしていることは確かなようで、誰もがもういい加減語るのに飽きてしまったのかも知れないが、やはりすでに語っている現状があるわけで、誰もがそれについて語っていることにはなるわけだが、それがなんなのかと問われるなら、それは現状でしかないだろうし、そこで誰もが現状について語っているわけだろうが、その現状というのがつかみどころのないものなのかも知れず、どう語ればいいのかもわからないまま語っている現状があるわけで、誰もがそんな現状にかかわり合いながらも現状について語っているわけだから、すでにそうなっているだけでも語りすぎているのかも知れず、本当に現状について語りすぎているのだとすれば、では語らなければいいのかといえば、語る以外には現状を捉えられないのかも知れず、現状を言葉で捉えようとすれば現状を語る以外にはあり得ないわけで、そういう意味で現状を言葉で捉えようとすると語りすぎてしまうのかも知れないが、語りすぎないようにするにはどうしたらいいのかというと、それが語らなければいいということではないのかも知れないし、少なくとも語る必要があるのだろうが、語りすぎないような語り方を模索しなければならないということにはならないのかも知れず、現状について語ろうとすれば語りすぎてしまうのが必然的な成り行きになってしまい、それでも現状について語ろうとすれば語りすぎてしまうのを承知で語らなければならないのかも知れないし、実際に語りすぎてしまっていることを承知で語っている現状があるのだろうし、現状がそれについて語る者を語りすぎるように仕向けているのかも知れないが、では語りすぎるように仕向けられている者たちがそれを自覚しているかというと、そうでもないような人たちが大半を占めているとしても、なお語りすぎな現状があるのかも知れず、しかもそんな語りすぎな現状自体が、語られすぎていることを利用してそれが現状を見えにくくしているような煙幕として機能させていて、語られすぎていることが逆に見えにくくさせているという状況を醸し出しているのかも知れないが、そういう謎な面を語ろうとするから、本当は謎でもないのにそれを語ることによって謎に見せかけるような効果があって、何かそこに謎に満ちた現状があることになっていて、その謎を解き明かそうとして語りすぎるような成り行きになってしまうのかも知れず、そうであるなら謎ではないように語ればいいのかとなるわけだが、語ろうとすること自体が謎をもたらすのかも知れず、現状について語ろうとすればそこに謎があるような内容になってしまうのかも知れない。


4月21日「特徴的な傾向」

 社会の中で人の振る舞いや立ち回りに何か特徴的な傾向があるとすれば、それが誰にでもそういう傾向があるわけではないとしても、集団の中で目立つ傾向であればそう思われるような傾向かも知れないし、他の多くの人から共感を集めるような振る舞いや立ち回りであれば、確かにそれが人の群れの中では目立つだろうし、多くの人に好意的な印象を与えるかも知れないが、逆に悪い印象を伴うような振る舞いや立ち回りで目立つものもあるだろうし、それが目立って多くの人が気づくことであれば特徴的な傾向になるだろうし、良くも悪くもどちらにしても多くの人の注目を集めるような行為にはなるだろうが、それによって多くの人から同じような反応を引き起こされる行為であれば、そういった反応も多くの人が持っている同じような傾向だと言えるだろうし、それこそが人の群れとしての特徴的な傾向だとも言えるだろうが、なぜ同じよう行為に対して同じような反応が引き起こされるのかといえば、それが人の集団的な習性だといえばもっともらしく聞こえるかも知れないが、別にまとまって群れているわけではなく、別々の場所に散らばっているのに同じような反応となってしまうとすれば、何か共通の慣習のような動作に多くの人が囚われているのかも知れないが、それを自主的にやっているとは思わないにしても、無意識の反応となって多くの他人と同じ動作になるとも思っていないだろうが、何かそういうところで同じ条件下に置かれると同じ動作を誘発してしまうことに関しては、そこに人の自由意志があるとも思えないし、誰もが自主的にそんな反応をしているわけではないことは確かだろうが、それも人の集団の群れとしての動作だと見なすなら、群集心理とはそういうものに他ならず、個人がそんな群集心理に従うのは人としての本能のなせる業かも知れないし、他人と同じことをやっていればとりあえず安心感を抱けるというのもあるかも知れないし、それだけ不安感がそうさせるというのもあるだろうが、ともかく群れから離脱してはぐれないように他人と同じ動作をするというのは、それだけ危険が身近に迫っていると感じられることがそうさせるわけだから、ある程度はパニック的な動作とも言えるだろうし、理性や平常心からは隔たった動作とも言えるのかも知れず、そういうところで群衆の心の弱さが出ていることにもなるだろうが、実際に心の弱い人は集団となって自然に群れる傾向があるといえば、ある程度は当たっているのかも知れないし、自分がどうしたらいいのかわからない時は周囲の人たちと同じように振る舞えば安心できるわけだろうが、そういう成り行きに誘導するような仕掛けが何らかの陰謀によって巡らされているということではなく、仕掛けられているというよりは自然にそうなってしまうと言った方がしっくりくるだろうが、それでも多くの人がそうなるように仕向けられると思いたいわけで、人為的に仕向けられていると言っても特定の意図や思惑によってそうなっているというよりは、構造的にそうなっていると見ておくべきかも知れず、多くの人がそうなるような構造となっているから、そうした構造によってそう仕向けられていると見なせばいいわけで、簡単な例を挙げるならスーパーのレジに並ぶように仕向けられているから、多くの人たちがスーパーに行けばそこに大勢で並んでしまうのだろうし、道路の赤信号で止まるように仕向けられているから、多くの人が車で出かければ自然と赤信号で止まって渋滞が起こるわけだが、そんな単純なことで説明できるようなことでしかないのに、果たしてそこから群集心理と言えるような弊害がもたらされるのかとなると、それを否定的に弊害とは見ない方がいいのかも知れないし、むしろそうした心理状態を利用して個人がうまく立ち回る必要があるのかも知れないが、なぜそうしなければいけないのかと言えば、単純に逆張りをして利益を得ようとするのとは少し違うのかも知れず、自分は他の人たちとは違ったことをしなければならないと思うに至ればそれでかまわないのかも知れないし、そう思っただけでもそれに気づいたことになるわけで、具体的に何をどうするかまで思い至らなくてもそう思っただけでも群集心理に誘導されてしまうことの歯止めとなるだろうし、そう思う人が少しでもいればそこから活動の可能性が広がるかも知れないが、それが保険として機能する場合もあり、群集心理に惑わされて多くの人たちがレミングの集団自殺のような行為に導かれてしまった時に、それに気づいた少数の人たちが生き残って、その後の繁栄の礎となるような話もあるかも知れないが、そもそもレミングの集団自殺自体も迷信でしかないだろうし、そういうことでもないのかも知れず、何かパニックに陥って群集心理に誘導されながら生活必需品の類いを大量に買い漁ってしまう人たちはそれでかまわないわけで、そうやって大勢でスーパーのレジに並んでいるうちにウィルスに感染してしまっても、それはそれでそういう現象でしかなく、そういう人たちを非難するような筋合いでもないだろうし、またそういうことに関して鈍感でそういう行為に出遅れてしまう人たちも大勢いるだろうし、そして生活必需品を買いそびれてしまって困った事態に陥ってしまっても、それもそれでそういう成り行きでしかなく、困っていても困っているだけのことでしかないわけだが、それがたわいないことのように思われるような世の中になっていることに気づけばそれでかまわないような成り行きとなっているわけで、実際に人が大勢死んでいるのに、それがたわいないことだと思うのは不謹慎極まりないことかも知れないが、たぶんたわいない現象の中でも人は死んでしまい、それを馬鹿げたことだと言えばなおのこと不謹慎であり、そんなことで死ぬのは間抜けだと小馬鹿すれば非難されてしまうかも知れないが、馬鹿げたことも不謹慎な思いも悲惨なことも同時に起こるわけで、そんなことで死んでしまった人は気の毒だがそういうことでしかなく、そういう現象に巻き込まれてあっけなく命を落としてしまうのはよくある成り行きなのだから、普段からいつ死んでもかまわないように備えを万全にしておく必要があるとしても、そんなことまで気を配る余裕がある人も世の中にはそれほど多くはいないだろうし、そういう意味でも誰もが自らの死の準備をしておく必要もないのかも知れないが、自らの死の準備をするほどの価値が自らにあるのかと問われるなら、そんな価値もない人たちが群集心理に惑わされて生活必需品のパニック買いをしてしまうのかも知れず、死の準備をする価値もない人たちがいくら死んだところで死の価値が暴落するわけでもないだろうし、果たして人に死ぬ価値があるのかといえば死ぬ価値よりは生きる価値があるようにも思われるだろうし、では群集心理に惑わされるような人に生きる価値があるのかと問うなら、たぶん生きる価値があると思うから生きようとして我先にパニック買いに走るのかも知れないが、そもそもそんな心理状態の時に自らに価値があるかないかとか考えないだろうし、人に価値があったりなかったりすること自体がフィクションでしかないのかも知れず、価値があったりなかったりしても、人は生きて死ぬことしかできないだろうし、それ以外の状態がそもそもあり得ないのだから、それに価値があるだのないだのと考えること自体が間違っている可能性もなきにしもあらずだが、そんなきっかけでもない限りは、改めて自らに価値があるとかないとか考えないだろうし、それ自体が何か通常ではあり得ないような特殊な状況なのかも知れず、そういうおかしな問いを思い至らないような心理状態でいることが肝要なのかも知れないが、他人の行動に惑わされて自らも大勢の動向へ誘導されてしまっても、それが自然な振る舞いである限りで否定的に捉える必要はなく、それによって何か不都合な事態に陥っても、誘導されてしまった自らの愚かさを嘆くに至ることもあるかも知れないが、そうなるのも一興だと思うようであれば何か余裕をくれているように思われるかも知れないが、こんなふうに述べていること自体がフィクションであり、実際にそう思っているわけでもなく、もっと何か別の方面で思っていることや考えていることがあるわけで、それを文章の中で表現しないというのもおかしな成り行きかも知れないが、それだけ直接的な感情の発露とはならないように心がけているのかも知れず、何か他に用心すべきことがあるから、わざと回りくどく周到に直接出てくる感情をはぐらかしながら語る必要が生じているのかも知れない。


4月20日「判断ミスを生かす」

 状況を的確に把握できれば何に惑わされることもないはずだが、惑わされているのは案外惑わそうとしている方かも知れないし、何に惑わされているのかと言えば、それが惑わそうとしている人の心理状態であったり、金銭的な利害に関してなら価値と価格の関係に惑わされているのかも知れないが、価値があるとは思えなくても価格が安ければ買うかというと、必要だと思えば買うだろうし、価値があると思えば価格が高くても買うかといえば、それが買える価格なら買うかも知れないが、では価値があるとは思えなくてしかも価格が高ければ買うかとなると、普通は買わないだろうが、何らかの事情から買ってしまうこともあるかも知れないし、その事情というが通常では理解できない事情であったりすれば、何か買った人の頭がおかしいのではないかと思うかも知れないが、そういう心理状態というもあるだろうし、ここでは買っておいた方がうまくいくような気がすれば買うわけで、それは買う価値があるとかないとか、価格が高いか安いかというよりは、ここでは買っておくべきと判断したりここで買っておけばうまくいくような気がするなら、価値や価格の判断とは別に買うという判断を下す場合もあるのかも知れず、実際にそれでうまくいってしまえば、価値や価格とは別に買うという判断を下したことが正しかったように思われてしまうだろうし、それを買ったことがきっかけとなって、別の方面からうまくいくような成り行きが生じてくれば、確かにそうやってうまくいった結果がもたらされるからその場で買ったことが正解であるように思われてしまうわけだが、その一方で価値があるとも思えないようなものを高い価格で買ったことについては判断を誤っていることにはなるだろうし、要するに誤った判断をしてもうまく行くような場合があるということであり、それがうまくいったと思われただけで本当のところはよくわからないとしても、そんな気にさせただけでも心理的には買ったことが良い方向に作用していて、その場ではそれでうまくいったと思っておけばいいようなことだろうし、それがその後のその人の経過や成り行きにどのような作用や影響をもたらそうとも、うまくいったと思われた時点ではそういうことでしかなく、それ以上に深く考えるようなことでもないだろうが、それがその程度のことでしかなければ、大して重大でも深刻でもないようなことであり、その場ではそう思ったが、別の機会に思い起こせば、大して価値もないようなものを高い価格で買ってしまって馬鹿なことをやってしまったと反省するかも知れないし、そんなことを後から思い起こすことができるだけでも、その後の成り行きがそれほど深刻な状況には陥らなかったことを示しているのかも知れないが、可能性としては価値がなく価格も高くて買う必要もないと判断して実際に買わなかった方が、その場の判断としては正しかったかも知れないわけだが、そういうせこい判断よりも無駄で無意味で不要なものでも買えるだけの余裕があった方が心理的なゆとりという面では良い傾向に思われるわけで、それが微妙なことであり、その場の情勢にも左右されることでもあるわけだが、そういうところでせこく功利的に立ち回ろうとしてしまうと、小さな利害にこだわって大局的な判断を誤ってしまう危険も出てくるのかも知れず、その大局的な判断というのが漠然としていて、つかみ所のないことかも知れないわけだが、実際にも把握しかねるところであり、正確に把握できるようなことでもないのかも知れないが、大雑把なことというのがせこく小利口に振る舞っている人にはわからないことでもあるのかも知れず、もちろん人には分相応があって、小利口に振る舞っている人には分相応な生き方が伴ってくるのであり、そういう人を馬鹿にしてはいけないだろうし、そういう人にいくら大局的な判断が大事だと説いてみても納得しないだろうし、そういう人にとってはそういう判断は分不相応でしかないわけだが、そういうのとはまた違った判断というのもあるのかも知れず、判断する必要を感じられなければ判断しないだろうし、単に買えれば買うし買えなければ買わないだけで、それを買うか買わないかの判断が伴うような状況ではなく、そんなところでは大局的な見地も何も生じないだろうし、それを大げさに考えるようなことではなく、ほんの軽い気持ちで買う程度のことであれば迷う間もなく済んでしまうわけで、そうやってそれなりに無駄な買い物をする一方で、またその中から後で役に立つものも出てくれば、その場でそれを買っておいて正解だったと思うかも知れないし、そう思わなければ買ったことすら忘れてしまっていて、後からどういう理由でそれを買ったのか思い出せない場合もあるだろうが、そういう場合は大した理由もなく買ってしまったものであったりして、買った理由を思い出せないのが当然であり、そうであれば買ったことをそれほど後悔もしないだろうし、後から要らないと思えばさっさと捨ててしまうようなものでしかなければ、無駄だの役に立たないだのと否定的な気分になることもなく、大して心理的なダメージも伴わないような成り行きとなってしまうわけだが、そういうことも踏まえればすべての判断で正しさを求めるのは無理だと思っておいてもかまわないし、自らがそれほど有能ではないと悟っていれば、ある程度の判断ミスは仕方がないと思うしかなく、要は判断ミスを犯した後から挽回するしかないだろうし、むしろ普段からちょくちょく判断ミスをしていないと、そこからどう挽回すればいいのかわからなくなってしまうわけで、そうやって日頃から判断ミスを犯してその後始末の訓練をしておけば、かなり深刻な判断ミスを犯した時に、その時の経験を生かして対応できる可能性が出てくるだろうし、また自分の判断はすべて正しいと思い込むような独善的な傾向になるのを避けるためにも、日頃の些細で小さな判断ミスが必要不可欠になってくるのかも知れないが、そもそも自分が全て正しい判断をしていると思い込むことが致命的な判断ミスである可能性もあるだろうし、そういう意味では自らの判断を常に疑ってかかる必要も出てくるのかも知れないし、判断した時よりもむしろ判断した結果がどうなるかを見極める必要も出てくるわけだが、常に疑っていればその後のちょっとの異変にもすぐに気づくだろうし、ちょっとしたことで自らの判断ミスを悟れる可能性も出てくるわけだが、それも過敏で過剰な反応になってしまってはまずい場合もあり、冷静に対応するにはその程度や深刻度を見極める必要もあるわけだが、要するに判断の程度や深刻度にもそれなりに差異があるのだから、その後の対応にもそれなりの差異が出てくるということであり、ちょっとした判断ミスを大げさに捉えても過剰な対応になってしまうし、深刻な判断ミスに気づかなければこじれた事態に至ってしまうかも知れないし、その場だけの対応ではうまくいかなければ継続的な対応が求められるだろうし、そういうところで臨機応変で柔軟な対応が求められるわけだが、それが自分一人では手に余るようなら他人や他の団体などからの助けや協力を仰がなければならなくなり、そういうところでも日頃から関係する方面で人脈などを築いておけばいざというときに心強いわけだが、たとえそういうところまで準備や配慮が万端に整っていてもうまくいかない時があるかも知れず、いくら安心できるような状況であっても用心するに越したことはないわけだが、用心しすぎてもうまく行かない場合もあり、どちらにしても両義的に状況を捉えておくことが肝心なのかも知れないし、一方的に義理や筋を通すようなことにはならない場合もあり、それができないからある程度は裏切りや恨みや妬みなどが生じるのはやむを得ないことでもあり、そこから怨讐を伴いながら争いや戦いが生じるのもよくあるケースだろうし、そこでもそれなりに対応しないとさらに悲惨な結果をもたらしてしまい、もうそうなっている時点である意味では手遅れなのかも知れないが、手遅れになってしまっても対応しなければならず、むしろそうなってからの対応の方が重要となってくるだろうし、それが正しい判断や対応がとれなかったことの証拠ともなるわけだが、大抵はそんなうまくいかない状況の中でそれにかかわる対応に追われているうちに人生の大半を消費していることになるのかも知れず、それが一方的に良いとも悪いとも判断がつかないところでもあって、とりあえずはそうなっていることを受け入れた上で新たに判断しなければならないことが出てくるわけだ。


4月19日「政治の使命」

 政治に何ができるかという問いには、政治に対するある種の疑念が含まれていそうだが、何もできないという答えが正解になってはまずいだろうし、何もできなくても何かやっているふりをしている必要もありそうで、それでも何かをやっていることになるのかも知れないし、実際に何かをやっている実態がありそうだが、それに関しては一定の留保が必要なのかも知れず、何もできないということではまずいが、何もできなくてもかまわないというか、それでも仕方がないような事情もありそうで、何かもっともらしいことを主張することができるにしても、主張した通りのことをやるわけにはいかず、やれない事情があるのかも知れないが、それが受け入れるわけにはいかないのであり、それができないことを主張せざるを得ないということであり、主張していることとやっていることが食い違うのが当然であるような成り行きに巻き込まれているのかも知れず、なぜそうなってしまうのかといえば、政治には何もできないという正解が政治的な行為には常について回っているからかも知れないが、それ以上は何を述べるわけにもいかないのであり、実際に何もできない現状を肯定すべきかも知れないし、そんな現状を好意的に受け止めなければならないのかも知れないが、当然それではまずいだろうし、何かをやってもらわないといけないのかも知れないが、果たしてそれが積極的にやるべきことなのかといえば、そうではなく絶えず消極的な姿勢を保って事に当たらなければならず、できることではなくできないことをまずは表明する必要が出てきて、あれもできないしこれもできないという表現に留まるべきで、では何ができるのかと問われたら何もできないと答える代わりに、絶えず回答を避けてはぐらかしていなければならず、回答する代わりに問いには問いで答える必要もあるわけで、ではあなたには何ができますかと問い返さなければならないのかも知れないし、そうやってとりあえずは時間稼ぎをやる必要があり、その間に次なる問いを準備しなければならないということになれば、そうやって答えることを先延ばしにしていることになるが、それでかまわないのかと言えばかまわないどころか、積極的にそうしなければならず、さらに政治に何を期待するのかと民衆に向かって問いかける必要も出てくるだろうし、いったい何をやってほしいのかと問われているのは、少なくとも政治をやる側にはなく、政治をやらせる側が問われているのだろうし、問われても答えようがないような状況に問う側を追い込む必要があるのかも知れないし、回答に窮するような人に答えてもらわなければならないのかも知れないが、そんな人がどこにいるのかといえば、特定の政治勢力を支持するような人たちに答えを求める必要があるのだろうが、返ってくる答えはいつも決まって、魅力に乏しいありきたりな意見になるしかなく、そうでなければ政治などに興味を持つべきではないということになりそうだが、すでにそうなっている時点で何も答えるべきではないことが明らかになっていて、あらかじめ用意されているありきたりな主張を回答としなければならないような成り行きから抜け出るわけにはいかず、そんな状態に留まりながらも、それとは別の期待を表明する必要に迫られているのかも知れないが、誰がそういう演技を強いられているのかといえば、それは誰でもなく、強いて言うなら誰もが世間並みの装いを保っておく必要があり、その世間並みの装いというのがありきたりな回答を用意することであり、そこから逸脱しないようにする必要があるのかも知れないが、なぜそんな必要に迫られてしまうのかと言えば、世間がそれを求めていると思い込んでおく必要もあるのかも知れず、それに対して違和感を表明するようなことをしてはいけないし、そう答えることが当然であるような成り行きになっていないと、そういう成り行きの自然さを醸し出せなくなってしまうから、そんな雰囲気に十分配慮する必要があり、用心深く積極的な振る舞いを避けつつ何もできないことを匂わせながら何かができることを主張しながらも、実際には何かをやっているふりを装う必要もあるわけだろうが、それが無駄で無意味なことであってはまずいのだろうし、それが有意義なことであるように見せかけるというか、実際にそうすることが有意義であり、何かをやるよりは何かをやっているように見せかける方が政治的な振る舞いとしては有意義なことであり、そうしないと政治という行為から逸脱してしまって、それは行政の領分に入ってしまうわけだが、行政に向けて何かをやるように働きかけるのが政治の役目にはなるだろうが、それ以外には何もやりようがないのが政治でしかないわけだが、たぶんそれ以上の役目を担わされているのも政治でもあり、行政の意志を一般の人々に伝達するのも政治の役目となっていて、その上で行政の統治に一般の人々を従わせるために政治が利用されていて、政治から行政へと働きかけているように装いながらも、実質的には行政から政治へと働きかけられているわけで、何を働きかけられているのかと言えば、行政の意向に従うように働きかけられているのであり、従わなければ何もできないようにされてしまうわけだが、すでに何もできないようになっているのに、その上に何もできないようにされてしまうのだから、そういう意味で政治は行政の意向には逆らえず、行政の意向に従わざるを得ないのだが、それでもなぜそうしなければならないのかに関しては、その理由が定かではないようになっていないとまずのかも知れず、ただ従うような成り行きになっているだけだと、それが行政の意向だと感じられる限りでそうなっているのだから、構造的あるいは組織的にそうなっているとしか言えないのかも知れないが、そうした構造や組織からそういう意向が出てきてしまうのだからそれ以外にはあり得ないわけで、それでは何のことやらよくわからないだろうが、なぜかそういう成り行きになってしまうのであり、そんな成り行きの中で政治が行政の意向に従っている限りで行政による統治が安定して機能するわけで、そうなっている限りで政治には何もやることがなくなってしまうわけだが、そういう成り行きに抵抗しながら政治の側で何かをやろうとすれば、行政による統治が不安定となってうまく機能しなくなってしまうわけだが、そうなると行政の意向に逆らって政治の側で何かをやっていることにもなり、行政による統治機能を阻害することによってそれができるようになるわけだが、そうやって政治が行政に対して戦いを挑んでいることにもなるわけで、政治と行政とが戦争状態に突入しているわけだが、結果的に政治が行政に対して勝利すれば行政の統治が破壊されて、政治の側の意向が統治に反映されるようになるわけだが、それによって何が起こるかというと、行政の再編成が起こるだろうし、それに伴って行政の側で混乱が生じるわけだが、混乱は一時的な期間でしかないだろうし、混乱が収まればまた政治の意向が反映されて再編成した行政による統治が再開されるわけだが、それが政治の側にとって望ましい傾向になっていれば問題はないのかも知れないが、そうはならずに行政の側で骨抜きにされていれば、相変わらず行政の意向が統治に反映されていて、その意向によって政治も操られることにもなるだろうが、それが政治の側にとって都合が悪ければ、やはり行政に戦いを挑まなければならなくなるだろうし、それによって行政の統治が機能しなくなって混乱をきたすとしても、そうしないと政治の側の意向を行政に反映させることはできないだろうし、絶えず戦っていないと反映させ続けることはできず、いったん戦いが治まってしまえば、また行政側の意向がすべての面で息を吹き返して、政治を操るようになってしまい、政治には何もできなくなってしまうわけだが、何もできないことがまずいのかというと、むしろそれによって行政の統治が安定するのだから、行政の側にしてみればその方が好都合だろうし、また政治の側にしてみても何もせずに黙って行政の意向に従っていれば、それで平穏無事になっているのなら何の問題もないのかも知れないが、逆に問題があって、その問題を政治主導で何とかしようとすればそれこそが問題となるわけで、行政を敵に回してもそれに取り組まなければ政治の存在意義がないとするなら、行政との間で戦争状態となるしかなく、それが政治の使命であり宿命となるのかも知れない。


4月18日「知るに至る行為」

 物事のすべてを知る必要がないのは、知ろうとしても知り得ないからだろうが、では知る必要がどうやって生じてくるのかといえば、知ったことを利用したいから知ろうとするのだろうが、そればかりではなく知る必要もないことを知ってしまったり、さらに必要かどうかもわからないことを知る可能性もあるだろうし、興味を持てばそれを知りたいと思うだろうし、面白そうなことを知ろうとするのだろうが、知ろうとしなくても知ってしまうこともあるだろうし、それが必要だと思うかどうかなどには関係なく知っていることと知らないことがあり、役に立つことも立たないことも知っていたり知っていなかったりして、それを知っていても知らなくても大して気にしていないのかも知れないし、様々なことを知っていることは確かだが、また様々なことを知らないことも確かだろうし、生きていれば様々なことを知ることになるが、忘れてしまうこともあるだろうし、知る機会が巡ってこないこともいくらでもあるかも知れないが、それを知らなくても大して困らないことは確かであり、生きている間に知り得ることは限られているが、忘れてしまうことも多く、忘れてしまってもかまわないことも多いだろうが、不要だからといって都合良く忘れてしまうわけではなく、必要だからといって都合良く覚えているわけでもなく、忘れることと覚えておくことに関しては思い通りにはならないわけで、自らの知識を頭の中で完璧に管理したり整理できるわけでもないが、忘れるべきでないことを書き留めておいて、必要に応じて教訓のように読み返すことはできるだろうし、そうやって頭の外では管理したり整理しておくことはできるわけだが、大抵の人はそこまではやらないだろうし、気休め程度には絶えずメディア経由で知識を補充していて、それで間に合っている人がほとんどかも知れないし、物事を知ることの重要性をそれほど意識しないような世の中の情勢となっているのかも知れないが、知るに留まるか知ったことを行為に活かせるかも知っていることの内容にもよるだろうし、知識のすべてが活動や行為に結びつくわけでもなく、知っているだけのことでしかない場合がほとんどかも知れないし、それを活動や行為に活かすやり方を思いつけないのかも知れないが、逆に活動や行為の中でそれに合うような知識が伴ってきて、そこで何かをおこなうことの中で知るに至るわけで、おこなうことと知ることが一体化していて、知るだけでしかない場合が活動や行為に結びつかないのは当然のことかも知れず、活動や行為に結びつく知識は活動や行為とともに知ることになるのかも知れないが、逆に何かを知るための活動や行為というのもあるわけで、それを調べたり探したりする活動や行為になるわけだろうが、どちらがどうというわけでもなく、その場の成り行きに合わせて何かをおこなうことから何かを知り得たり、また何かを知ろうとして何かをおこなったりするのだろうし、それ自体が何らかの活動や行為でしかないわけだが、そこから何やら科学技術的な幻想も生じてくるわけで、何か画期的な理論を発見してそれを使って世の中を変えることができるのではないかと思ってしまう場合もあって、実態としては科学技術の発展に伴って、そうした科学技術が成り立つ理論が求められてきたわけで、それ以前に自然現象を合理的に説明できる理論も求められてきたわけだが、果たしてコペルニクス的な転回と言われるような理論が先行して、それによって世の中が様変わりしたと考えてもいいのかといえば、そうなった後からそうなった結果をもっともらしく説明しようとすれば、実際にそう説明した方が何か画期的なことであるかのように思われるからそう説明したいわけで、何かが画期的なことであるかのような説明のやり方として、そういう説明の仕方が事後的に編み出されたと見なすのが妥当なところかも知れず、要するにそういう宣伝や煽動の手法と捉えておいてもかまわないだろうし、何でもかんでもどうでもいいようなことまでコペルニクス的転回のように説明したがるのは、そういうのは眉唾物だと見なしておけばいいだろうし、望遠鏡によって天体観測の精度が上がってそれまでの主流だった天動説では説明できなくなってきたから地動説を唱えるしかなくなったわけだろうが、それと並行して当時のヨーロッパで権威として機能していたキリスト教会の制度が行き詰まって異端審問で反体制派を火あぶりの刑にしたりの末期的な症状を呈していたから、地動説を唱えることが教会の権威に異を唱えるような異端審問の対象となって命がけの行為となってしまった経緯があるのだろうし、そういうことの象徴的な行為としてコペルニクス的転回などと強調してみても、たまたまそうなっただけのことでしかなく、それ自体は偶然の巡り合わせと捉えてもかまわないのかも知れず、なぜキリスト教会の制度が行き詰まってしまったかといえば、その一因としてあげられるのが、あまりにも罪の告白や懺悔を信者や教会の内部で司祭などに厳しく強いたために、誰もが強迫観念に取り憑かれて精神的に追い詰められていってしまった経緯があるらしく、そういう組織的な締め付けのやり過ぎな傾向が、それに抗議するプロテスタントなどの宗派が分裂して宗教改革につながっていったのだろうし、そういう成り行きの中で派生的な挿話として天動説から地動説への移行があったわけで、別にそれによって世の中が様変わりしたわけでもなく、確かにそうなった結果から見れば天文学に関しては認識の一大転換だったのだろうが、何かそれ自体が誇大宣伝のような印象を伴っているのかも知れず、当時の成り行きとしては些細なことでしかなかったわけだが、時が経って後から振り返ってみれば、それが歴史を塗り替えた偉大な発見であるかのように語った方が、そういう語り方を好む社会的な申し合わせに合っているように感じられるわけで、要するにそれは画期的な印象を持たせるための箔をつける目的で用いられるような表現としてよく使われるのかも知れないが、客観的に考えるなら天動説から地動説へと理論的な転換があったから世の中が変わったのではなく、それよりはヨーロッパの中世が社会的に行き詰まってしまって、それが教会や国家形態などの体制の転換をもたらしたわけだろうが、それと同時並行的に天体観測の精度の向上によって天動説から地動説への転換もあったわけで、またその副産物としてニュートンによって万有引力の法則が発見されたわけだが、物理学的な視点を強調するなら何よりも万有引力の法則が歴史を塗り替える一大発見であり、それによって世の中が様変わりしたように語りたいわけだろうし、現代から振り返ればヨーロッパの中世からルネッサンスに至る歴史の中で、宗教改革と並んで天動説から地動説への転換や万有引力の発見などが同程度の画期的な出来事であるかのように語られても何の違和感もないだろうし、実際にそういう語られ方をされてしまうのかも知れないが、そこから逆に宗教改革のようなことをすれば世の中を変えられるとか、メディア上でコペルニクス的な発想の転換を示せば世間の認識も変わるとか、万有引力の法則のような物理学的な大発見をすれば世界を変えられるとか思ってしまうわけで、それが全くの勘違いなのか、あるいは実際にそうなるかは、そういうことをやってみればわかることかも知れないが、実際に宗教改革を主導したとされるルターやカルヴィンも、コペルニクスやニュートンも、彼らが直接手を下して世の中を変えたわけではないし、はじめからそういう目的があったわけでもないだろうし、そういうところからおかしな論理的な倒錯が生じてしまい、現代でも普通に科学技術や産業技術の革新や進歩によって世の中が変わるかのような幻想を抱く人が絶えず出てくるわけで、それが幻想ではなく実際に世の中のある面では何かが変わったことが確かめられたりするわけだが、それがちょっとしたことでしかなく、別の面では相変わらずな状況が続いているとしても、そのちょっとしたことを画期的なことであるかのように誇張したり強調するような語り方も、それを好意的に受け取る人々に幻想を抱かせるわけだが、知り得ることはそれだけではないだろうし、知っただけでは済まなければ何かそこからおこなうべきことが出てくるのであり、人々が実際にこれまでとは違う何かをおこなうからそれに応じて世の中も変わるわけだ。


4月17日「認識と行動」

 何を意識していなくてもその場で何かをおこなっていて、さらに特定の相手と対峙している状況なら真剣度が違ってくるかも知れないが、例えばそこで誰かが何かのゲームに興じていれば、その中で時には不利な状況になったりまた時には有利な状況にもなったりするかも知れないし、不利な状況になっていてもそこから劣勢を挽回して有利な状況へと至れるかも知れないが、それがゲームである限りでまだそれ以外の何かがあるわけで、ゲームとは違う状況も同時に体験しつつあるのかも知れず、それが憩いのひとときであれば何か余裕に感じられるかも知れないが、そうではなく真剣勝負のような感触があるなら、ちょっと深刻な成り行きになるかも知れず、何かを賭けている場合もあるだろうし、そういったそこでのゲームよりも重い部分というのが、何かその人の生き様の一端をうかがえるかも知れないのだが、そこに生身の人間がいるとは思われなければ話の真実味も薄れてくるだろうし、特定の誰かが実在しているだけでゲーム以外の何かが加わってくるのであり、それがその人に固有の事情になるわけだが、そういう部分を一切考慮せずにいられたらそこが仮想空間であるかのように思われてくるかも知れないが、人の認識とはその程度のことなのかも知れないし、そこで何を認識していようとその認識を遙かに超えた状況の中で生きているわけで、何が認識を凌駕しているかといえば、実際に何らかの力が加わっているということであり、それがどのような力であってもそれによって世界が動いていて、認識では捉えられないような動的な現象がそこで起こっているといってみても、まだ何かが言い足りないような実感が伴ってくるだろうし、実際に言葉では表現できないような何かが起こっているわけだろうが、それをどう認識してみても物足りないわけだが、認識の水準ではそこに留まるしかなく、そんな認識を超えて何を認識することもできないし、認識は相変わらず認識の水準に留まるしかないわけだが、だからといって安易に認識以外の何かを付け加える必要もないかも知れないしそこで何かを認識していればそれでかまわないのかも知れず、たとえ何らかの力が加わっているとしても、力が加わっている事実を認識しておけばいいわけで、そんな認識以上の何が加わっているとしても、意識は認識の水準に留まっていればいいわけで、そんな意識が行動を起こせるわけではないと思っておいてもかまわず、意識を超えて何かが動いているとしても、それを意識できないのなら意識しなくてもかまわないし、たとえそれが原因で意識がその場に置いてきぼりを食ってしまっても、そんな意識は見捨ててその場から立ち去ってしまってもかまわないわけだろうが、そんなふうに意識せずに行動すれば認識に邪魔されずに何かをおこなっているつもりになれるかも知れないが、認識によってもたらされる先入観から自由になれるかとなると、自由になれなくてもかまわないわけで、むしろ先入観に囚われたまま行動していた方が安心できるだろうし、先入観から目的や目標が生じてくるわけだから、その人が目指すべき何かがそこから生じていて、それに向かって努力していれば何らかの達成に至れる場合もあるだろうし、実際に何かを達成したという認識を得られるなら、何らかの目的を持って行動して目標とする結果を得られたような認識の連続性を意識できて、それで行動の辻褄が合うのかも知れないし、そういう因果関係が人を安心させて自らの行動に納得できるのかも知れないが、たぶんそれ以上の認識は要らないだろうし、下手に根拠のない不安感に苛まれたくなければその程度の認識に留まるべきだろうし、事のすべてを知る必要はなく、自らに都合の良い部分だけ知っているつもりなれるならそれでかまわないわけだが、そうなると認識自体が真実を認識しているわけではないことになるし、自らの都合に合わせて破綻を来さないように調整された認識になるわけだが、それで何とかなっているうちはそれでかまわないし、何とかならなくなっても認識を改める必要もないのかも知れないが、そうなったらなったでそんな認識は見捨てて先を急げばいいのかというと、先を急ぐ理由などどこにもなければその必要もないわけだが、それでも先入観に囚われた認識に留まれずに、自身の都合を優先させて無理に留まろうとしてもそこから押し出されてしまうのかも知れず、そこで自身を押し出す力が働いていることになるのだろうが、そういう力に逆らおうとしても力が強ければ逆らえずに押し出されてしまうし、別に押し出されてそれによってどうにかなるにしても、どうにかなったままでも生きていけるならそれでかまわないわけだが、逆に自身の抵抗力が勝ってそこに留まることができたとしても、それが正しい認識とは言えなければ何かしら副作用が生じてくる可能性もあるだろうし、そうなると先入観から固定観念や偏見などが生じてくるのがありがちな結果となるのかも知れないが、そういったものに助けられてその後の自らの振る舞いがうまくいくのかといえば、うまくいったと思うこともあるだろうし、うまくいかなかったと思うこともあるかも知れないが、それもそういう認識でしかないだろうし、認識の水準に留まっている限りでうまくいったりいかなかったりしているつもりになっていればそれでかまわないようなことかも知れず、それ以上のことを認識しようとしなくてもかまわないのかも知れないが、そんなふうに生きている限りでそういうことになってしまうのだろうし、それがどうしたわけでもなければそういうことでしかないわけだが、そういう認識となっていること自体が何かの救いとなっていたりいなかったりすることもあるだろうし、そこから何らかの行動が誘発されて行動した結果として何らかの状態に至ったりそんな状況の中で生きていることにもなるわけだが、そうなってしまった人についてどのように認識しようと、それも正しい認識となるか間違った認識となるか、どちらでもないような認識となるにしても、それが取り立ててその人に不都合な結果や成り行きをもたらさない限りで、そんな認識を抱いていてもかまわないことになってしまうのかも知れず、どうやっても何らかの認識に囚われていることになって、そこから抜け出ようとしなければそこに留まり続けることになるかも知れないし、あるいは外部から力が加わって押し出されてしまうことになるとしてもそれはその人に固有の成り行きでしかなく、その人に関わり合いのない範囲でなら放っておかれることでしかないわけだが、それで何か不都合なことにでもなれば、それに関しては誰かが何かしらかかわってくることになるかも知れないし、それが不都合に思われる人がその人に向かって何らかの力を及ぼそうとするわけだろうが、そうやって人と人との間で何らかの関わり合いが生じてくるとしても、そこでも双方の間で何らかの認識が共有されたり、されずに認識の違いが露呈したりしなかったりするわけだが、お互いに力を及ぼし合った末にどうにかなったところで、結果的に生じた状況の中でどちらが有利になったり不利になったりするにしても、それも後からさらに力を加えることで変更できれば、どちらかにとって不都合な面があればそれを変更したり修正するためにさらに力を及ぼしてくるだろうし、それがうまくいけばそれに伴って認識も改められたりするわけだが、そういう意味ではその場で生じる認識が必ずしも固定されているわけでもないだろうし、過渡的な状況の中で絶えず認識が更新されるようなら、いったん抱いた認識を後生大事に保持しておく必要もないわけで、後からいくらでも改められるなら、さっさとその場の情勢に合わせて認識を改め続けていてもかまわないだろうし、そういうわけで認識もそれに伴って生じる行動も絶えず変えられる範囲内で変化させればいいということになれば、その人にかかわってくる人や団体にしても、その関係が恒常的に固定されるわけでもなくなり、何か敵対するようなこじれた関係になりかかって嫌なら、さっさとそういう認識を置いてきぼりにしてそこから押し出されてしまえばいいわけで、何か力が加わってくればその力を利用して押し出されるようになればいいのだろうが、逆に認識を固定してこだわりを生じさせてしまうと自ずからその場で抵抗してしまって、その場に留まろうとしてしまうわけで、そうなるとこじれた事態になってしまって、無用な対立や争いが生じてしまうわけだ。


4月16日「労働の実態」

 それが物でも情報でもかまわないが、何かを採取したり生産したり加工したり輸送することが労働としては一般的な行為であり、その過程で労力を消費するのが労働になるわけだが、少なくとも何かしらおこなっていて何もしないというのは労働ではないにしても、労働が他の労働と比較される時の基準となるのが時間と量と強度と質になるだろうが、時間は長いか短いかになり量は多いか少ないかになり強度は激しいか穏やかかになって比較的わかりやすいが、労働の質となるとその内容が他と比べて価値が高かったり低かったりするわけで、一般的には誰でもできるようなありふれた労働は価値が低いが、専門の技術や資格を持った人しかできない労働は相対的に価値が高いだろうし、また需要があるのに供給が少なく必要とされるのに誰もができるわけではない高度な作業だと希少性が高まって価値も高いが、需要も供給もそこそこあり、あるいは常に供給過剰でありかつ単純な作業だと価値が低いだろうし、価値が高い労働だと報酬も高く価値が低い労働だと報酬も低そうだが、それも相対的な傾向であり例外はいくらでもありそうで、誰でもできるし実際に多くの人がやっているが、その中でもごくわずかの人しか高収入を得られない労働があるかも知れないし、逆にやろうと思えば誰でもできてそれなりの収入も得られるが誰もやりたがらない労働もあるかも知れないが、さらにそもそも労働とは言えないような賭け事や違法な詐欺行為などもあるだろうし、合理的な理屈や論理が通用しないような収入を得るやり方があるかも知れないが、労働とは呼べないような行為まで含めて金銭的な収入を得ようとする行為に関して、そこに絡んでくるのが物や情報やサービスの売り買いになるが、他にも直接の強奪や賠償や贈与などもあるし、また金銭や土地や物や情報やサービスの貸し借りによって賃料や利子を得るやり方もあるわけだが、労働だけがその中で特別な行為ではないし、逆に労働自体が他の金銭を得る行為よりもありふれている実態もあるわけで、他の行為と比べて現状の経済活動の中では労働が必要不可欠であり、人の労働なしには成り立たない世の中になっているわけだが、金銭的な収入を得るために労働することが人の活動の中で主流となってきたのはそれほど昔からではなく、単なる売り買いだけであれば通常の商売であって、誰もが気軽にものの売り買いをやれていた時代もかつてはあったはずだが、それが現代に近づくにつれて役割分担の専門化が進んでしまって、何かを採取するのも生産するのも加工するのも輸送するのも売買するのも貸し借りするのも、それを専門とする職業に携わる人や団体でないと、それだけで生活が成り立つほどの収入が得られなくなってきたわけで、それをやることだけが専門のプロ集団によって素人が市場から閉め出されてしまった歴史的な経緯があり、誰もが気軽にやれるようなことではなくなったと言えるわけだが、もちろん現代でもフリーマーケットなどの場では素人も参入できるが、それもそれを専門にやっている人たちでないとその収入だけで生活が成り立つわけではないし、それは昔からそうだったと言える面もあるだろうが、ただ昔は農民が人口の大部分を占めていて、農業の傍らで生活の足しに工芸品などを作って、農作物などとともに町の市場で直接売ったり、それらを専門に扱う商人に売ったりするぐらいが主な金銭的な収入源だったのかも知れないが、農業で自給自足ができている限りで金銭的な収入がほとんどなくても生活が成り立っていただろうし、さらに農業が普及する以前は狩猟採集生活だったわけだから、農業が普及することによって狩猟採集を専門にやる人の他に農民が加わって、次第に農民が人口の大部分を占めるようになって、さらに産業革命以降は労働収入だけで生活する人がそこに加わってきて、そこから次第に労働だけによって金銭的な収入を得てそれだけで生活する人とその家族が人口の大部分を占めるようになってきたと言えるわけで、農民も狩猟採集民もそういう成り行きに合わせて自分たちの生産物や採集物を売って生活するようになってきた限りで、農業も狩猟採集も金銭的な収入を得るための労働になってしまったわけだが、そうやって経済行為のほとんどが金銭的な収入を得るための労働に収斂してしまい、それ以外の活動は収入を得る以外の行為に限定されてしまったのかも知れないが、それだけ金銭的な収入と労働には強い結びつきがあって、それなしには生活が成り立たないようになってしまったわけだが、実態としてはそうした労働者に扶養されている人も大勢いて、ことによると人口の半分が労働していないことになり、扶養されている以外では年金生活者や失業者なども含まれるだろうし、労働者は人口の半分で済んでいる実態があるのかも知れないが、別に労働して金銭的な収入を得ることが義務づけられているわけではなく、労働しないと法律違反になるわけでもないし、労働しないと生活できない人が労働しているだけで、そういう事情がなければ労働しなくてもかまわないだろうし、労働していないからと言って他人から批判される筋合いもないし、非国民扱いされるいわれもないわけだが、懸命に働いて家族を養ってぎりぎりの状態で生活している人からすれば、働かずに遊んで暮らしているような人には腹が立って仕方がないかも知れないし、もちろんそういう人は世の中でそんなに多くはいないだろうし、何らかの事情があってそうなってしまった人を、働かないという理由だけで非難するのも筋違いだろうが、共産主義ではないのだから強制的に誰もが平等で同じ程度の生活に統一することはできないし、税負担などの公的な面ではできる限りで不公平のないようにしないと、過度の負担で苦しんでいるような人にとっては、行政などの面での法律や制度がおかしいと思うのも無理はないところだろうが、一概に労働といってもその時間と量と強度と質などの面で差異があることは当然であり、少しの労働で多額の収入を得られる人がいる一方で、多大な苦労や労力を要しても割に合わないようなことをやっている人も中にはいるだろうが、それらの合理性とか公正さとか公平な内容を何によって決められるわけもなく、割に合わないことをやらされている人にとってはたまったものではないことは承知しつつも、できるだけ合理的で公正で公平な基準というのを決めるような政治的かつ行政的な配慮もあり、一応は労働基準などを定める法律や制度も公的には整えられてはいるのだろうが、それでもそういう法律や制度から逸脱するようなことをやるような成り行きもあるだろうし、実際に法律違反となるような過度の労働をやらせると罰せられることにもなるだろうが、そもそも始めから公的な法律や制度ありきで労働という行為がおこなわれてきたわけではないし、その実態に関してあまりにもひどい面が明らかになってきたから、それに対して公的な法律や制度の網をかぶせて人々の生活を守らなければならないような経緯になってきたわけで、そういう労働のひどい面に関してはそうであっても、逆に楽で快適な労働であれば別にかまわないわけで、そういう方面での模索は合法的な試みだろうし、ただ収入が多すぎればその分が公平を期すために税金で持って行かれるような制度にはなっているだろうが、うまく立ち回って楽に収入を得ることが倫理的な罪悪感に結びつくわけでもなければ、そういう方面でうまくやろうとする傾向になるだろうが、少なくとも他人に直接損害を与えたり罠にかけて陥れてまでそんなことやれば倫理的に許されない行為になるだろうが、そういう自覚を抱かせないような行為であれば何もやましいところはないだろうし、実際にわずかな人たちがそれなりに努力して工夫を凝らして大金を得ることによって、他の大勢の人たちが迷惑を被るとは考えられないわけで、実際にそういう成り行きになっているからこそ、それを問題視する人もいるわけだが、そういう行為を法律や制度によって直接禁止したり抑制するようなことにはならないだろうし、ただ収入が多いとそれだけ税金を余分にかけたりすることしかできないわけで、そういう意味では人の行為を人の行為によって制御したり誘導するにもそれなりの限度や限界があることは確かであり、そうした制御や誘導によってやり過ぎや行き過ぎた行為に歯止めをかけるにしても、さらにそれを上回るやり方を編み出して歯止めを打ち破るような行為も出てくるわけだ。


4月15日「権力関係」

 労働とは普通は雇い主から報酬を得て働く行為になるが、労働の内容が現状のようになっていることに関して、何かそこに不都合な面があることは確かだろうし、それを何とかしたいと思うのも自然な成り行きであるにしても、労働の内容に応じて報酬の多い少ないがあるのをなしにしようとすれば、現状の社会そのものを根底から変えなければならないだろうし、実際にはそれができないから現状の社会が存続しているわけだが、そうであるにしても自然に変わっていっていく面もあることは確かで、どう変わっていっていくかと言えば過去の社会と現状の社会を比べればそれが明らかとなるはずだが、一方で変わっていない面があるかといえばそれが権力の関係であり、力のある者が力のない者を従わせて、力のある者がより多くの富を得て力のない者は少ない富しか得られないことであり、そういう傾向は昔も今も変わらないが、力のない者は生きていけないかというと、力のない者が存在しないと力のある者も存在できないわけで、力のある者は従わせる存在を必要としていて、また自らに多くの富をもたらしてくれる者も必要としているわけで、力のある者は力のない者に依存しているのであり、力のある者は力のない者に依存しないと生きてはいけないわけだが、現状の社会そのものが力のある者を存在させるためにあるとも言える一方で、もちろん力のない者がいないと社会そのものが存続できないわけだが、力のない者は力を得ようとするわけで、力を得て力のない者を従わせて力のない者を利用してより多くの富を得ようとするわけだが、そうなればなるほどより多くの力のない者を必要として多くの力のない者に依存することになるわけで、そうやって力のある者は力のない者に対して権力関係を強めて依存関係を深めていくわけだが、その一方で力の強弱ではなく対等の関係というもあるわけで、力の弱い者が力の強い者に対して媚びへつらったり、力の強い者が力の弱い者に対して傲慢な態度で臨んだり無理難題を押しつけたりするのが不快に感じるようなら、なるべく対等の関係を目指すわけで、人間関係の中でお互いの存在を認め合いお互いの意志や意向を尊重するなら、なるべく対等な関係を目指すわけだが、世の中のすべての面で対等な関係が成り立つかとなるとそうも行かない場合もあるだろうし、それが指揮命令などの上下関係の動作を伴った組織的な構造となるわけだが、それも強制的な指導や命令が不快に感じられることから次第に敬遠されるようになってくれば、そういった関係を伴った組織的な構造の傘下に入ることも嫌われる傾向が強まるだろうし、そうやって社会の中で上下関係よりも対等の関係の方が幅を利かせてくれば、力関係も対等になるに伴って富の配分も対等になってくるわけで、そうなるには他人の立場や存在や意志や意向などを尊重する必要があるわけだが、どこまでも一方的に尊重できるかとなるとそうもいかない面があって、それが自分の立場や存在や意志や意向などを優先しなければならない場合であり、自分と他人のどちらを優先しなければならないかとなると、普通は自分を優先する場合が多いだろうし、一方的に自分を最優先できるかといえば、他人が存在するわけだから、また他人を利用しなければならない場合が出てくると他人と交渉したり取引したり妥協しなければならなくなるだろうし、自分を優先しつつも他人にも配慮しなければならなくなり、それが他人との間で対等な関係になる限りで連携や協力が成り立つわけで、すべてにわたってそうなるわけではなく、対等の関係よりも上下関係を伴った組織の力が勝っている面ではそちらの方が強いことが明らかとなってしまうわけだが、そうなると上下関係の中で下に位置する弱い立場や地位の人たちが、どこまで自らの立場や境遇に甘んじていられるかも、そういった組織が有効に機能する上では重要となってくるのだろうが、そういう組織的な集団構造が成り立つ上で欠かせないのが組織内の競争関係や権力闘争だろうし、上下関係の中で下に位置する者が競争や闘争に打ち勝って上に立とうとするわけで、そういう競争や闘争に魅力を感じられる限りでそういう争いが活発化して、それによって集団自体も絶えず新陳代謝がおこなわれて活性化する場合が多いわけだが、そんな上下方向での競争や闘争と横方向での連携や協力のどちらを優先させるべきかとなると、その場の状況や情勢によって優先すべき関係も変わってくるだろうし、どちらも可能であればどちらか一辺倒になるわけでもないだろうし、人の存在形態や生き方が多種多様になるほど人間関係もそれだけ多種多様になってくるわけで、そんな状況の中でも多くの人が生きていければ、そこでは必ずしも力の強弱や富の大小だけが優先すべき価値のすべてとはならないだろうし、他にも交友関係の広さや狭さとか、他との依存関係の強弱に伴って他から自立した生き方の自由度とか、どれほど他人に配慮しつつ自己にも配慮できるかに関してなら、他人との間で対等な関係をいかに多く築くことができるかとか、それも多い少ないではなくできるだけストレスの少ない関係を築けるかどうかも重要となってくるのかも知れず、それ以外でも配慮すべきことが無数に出てくるかも知れないが、その人とその人を取り巻く環境の中で絶えず他との関係を模索していくとともに、自己との関係も調整するような成り行きになってくれば、できるだけ悲惨で不幸な境遇とはならないように生きてゆこうとするのだろうし、実際にそうやって生きていければそれに越したことはないわけだが、悲惨で不幸な境遇になってしまったら普通はそこから抜け出そうとするだろうし、抜け出すのに他人の助けが必要となれば、悲惨で不幸な境遇になってしまった人を助けるような人と人の関係のネットワークや組織などが生じてきたり、政府などの公的な機関が助けるような成り行きもそれに関する制度や法律の制定とともに生じてくるのだろうが、そういうところで助けることのできるあらゆる可能性が模索されるなら多種多様な存在様態が出てくるかも知れないし、一方的に人を助けようとするのではなく別の面では他から助けられるような関係が生じてくればそこで持ちつ持たれつの関係が構築されるかも知れないが、そこでも一方的な依存関係ではなく自立的な関係も必要となってくるだろうし、そうなるとやはりなるべく偏りのない対等な関係を模索する方が好ましくなってくるわけだろうが、ともかく権力関係というのが力や富の面で著しく偏りのある関係となるわけで、そこで優位な立場になれば他人の意向や意見に煩わされずに好き勝手に振る舞えるような幻想が生じてきて、他人を支配したり管理したり統治したりと、もちろん個人がそういった立場になれるわけではなく、集団としての組織を伴った機構が多くの人を支配したり管理したり統治することになるわけで、たとえ集団の頂点に立っても実質的には集団の意向に従うような存在にしかなれないわけだが、そこで支配者のような幻想を抱くだろうし、そういう幻想がもたらされるから集団内での競争や闘争に勝ち抜いて頂点に立とうとするわけだが、それもその人が抱く浅はかな願望に過ぎないことであり、好き勝手なことができるわけでも好き勝手に振る舞えるわけでもなく、集団の意向に従って集団が集団として機能している限りで抱くことができる幻想に過ぎないわけだが、そういう集団が社会の中で優勢になって万能の力を発揮するかといえば、そういう面も確かにあるだろうが、他にも有力な集団がそれなりに存在していて複数の集団の間で競争や闘争が繰り広げられている実態もあるわけで、そうなっている限りで組織内で弱い立場を強いられている人たちは絶えず不満を抱いているだろうし、何とか組織内の競争や闘争に勝ち抜いてより優位で強い立場になろうとするか、あるいは不満を抱きつつも弱い立場に甘んじているか、さらには自由を求めて組織から離脱するかの選択を迫られる場合もあるだろうし、その場の事情や情勢や条件に応じて様々な選択肢が出てくるかも知れないが、どうなるにしろ人の多種多様な在り方が模索されて実際にその在り方が成り立つようなら、それなりに選択の自由度も広がるのではないか。


4月14日「自己の存在」

 ここに至って今さら今以上の何を模索しなければならないかとなると、実際に何をやろうとしているのかといえば、それ以前に何かの機会が到来しているのだろうが、いつものようにそれが何だかわからないし、特に神からの啓示がもたらされているわけでもないし、それを感じ取っていなくても機会を捉えて何かをやる成り行きにはなっているのかも知れないが、その成り行きというのがかなりの紆余曲折を伴っているようで、始めからそれをやるつもりになるわけではなく、何かのついでに途中からやりたくもないようなことやらされる成り行きに誘導されていってしまうのかも知れないが、それ以前にすでにそれ以外の何かをやっているつもりになっているだろうし、実際にやっていることは確かであり、しかもやっていることに関してはそれなりに手応えも感じているはずだろうが、さらにその上にいったい何をやることになるのかといえば、それはいつものようにその時になってみないことにはわからないらしく、実際にそういう成り行きになった時にやることがわかるわけだろうが、まだその時になっていない時点では当然わからないだろうし、実際にも何をやればいいのかわからない宙ぶらりんな状態となっているのかも知れないが、それでも困っているわけでもないようで、今までやってきたことをそのまま続けているわけだが、それで何か不都合があるかといえば特に都合が悪いというわけでもないだろうし、この先どうなるにしても予定は未定のままに留まり、それ以上は何がわかるわけではなく、それ以外もどうなるわけでもないのかも知れないが、どうなってもそれでかまわないようなことになってしまうのかも知れないし、実際に現時点でもそうなってしまっているわけだが、必要から離れているのはそういうことであり、以前は何が必要だったのかといえば、それが無駄で無意味なことではなかったはずだが、現時点ではもはや無用になってしまったことであるのかも知れず、何が無用になってしまったのかといえば、以前はまだ抱いていたこだわりが無用となってしまったのかも知れないが、なぜかそれが現時点では思い出せないわけで、よもや忘れてしまったはずもないことだろうが、思い出せないふりをしているわけでもないのに思い出せず、思い出せないからといってそこで立ち往生しているわけでもなく、意識の方はすでにそこから前へ進んでいるつもりでいるらしく、以前に抱いていたこだわりを置いてきぼりにしながらその先へと急いで進んでいるつもりになっているようだが、何かそこに落とし穴や勘違いがあるかも知れないのだが、それを察知できるかというとそうでもないようで、それもわからない状態でそのまま前進し続けているのかも知れず、何かそれが生き急いでいるようにも感じられるわけだが、当人は全く意に介さずさっさとその場を立ち去って先を急いでいるらしく、何かその歩みがだんだんと加速しているようにも感じられるわけで、それが気のせいといえばそんな気がしないでもないし、そんなことを述べている時点で語っていることがフィクションになっているかも知れないわけだが、そういう成り行きから外れる必要があるかというと、現状では外れようとはしていないのだから、外れようとするこだわりはないのかも知れず、外れなくてもかまわないと思っているのかも知れないが、当人がどう思っていようと外れる成り行きになれば外れてしまうのかも知れないし、外れるか否かは当人の意志とは無関係に決まることかも知れず、それは他の誰が決めることでもないだろうが、いったんそういう成り行きに巻き込まれてしまえば否応なくそうなってしまい、そうなることを恐れて前進するのをためらっていては何もできなくなってしまうし、そんなことまで考慮する必要はないのかも知れないが、すでに自身が巻き込まれている成り行きの中でやれることをやっている現状もあるわけで、そのやれることというのが何かこの先へとつながることかといえばよくわからないことでもあるだろうし、結局は手探り状態で不確実なことをやっているわけだが、実際に現状でもまさかこんなことになるとは少なくとも半年前の時点では誰も予想していなかったはずであり、後出しじゃんけんのようにこうなることを予言していたかのように語る人が今後も次から次へと現れるかも知れないが、何かが起こった後からは何とでも言えるわけで、起こったことは仕方がないとしても、すでにこの先に起こることに備えておかなければならないのかも知れず、そのために準備をしている最中かも知れないわけだが、なぜそう思ってしまうのかといえば現状でも準備をしている最中なのであり、だから意識が先を急いでいるのかも知れないが、それが何かの冗談ではないにしても、いったい将来のために何を準備しているのかといえば、それが自身ではわからないとなるとそんなのは嘘でしかないのかも知れないが、当人がそれと自覚することなく何かを準備しているのかも知れず、自らの知らない間に周囲で様々な物事が作用や影響を及ぼし合った末に、結果的に何とかなってしまうような成り行きであれば、そうなれば楽な展開となってしまうわけだが、すでに自らの勘が自らに対してそう告げているようにも思われてしまうとすれば、それがどういうことなのかについて自身では説明のつかないことになってしまうわけだが、それでかまわないような成り行きになっていればいいわけで、そんな虫のいい話があるはずがないと思うならその通りなのかも知れないが、自らの都合の良いように状況を解釈するならそうではなく、虫のいい話などあるはずがなくてもそれを信用していなくてもそうなってしまうのかも知れないし、もはやそういう成り行きには抗しがたく自らの力ではどうすることもできないのかも知れないが、それでかまわないような気がするわけで、なぜそうなのかがよくわからないところだろうが、わからなくてもかまわないのだから、では自暴自棄になっているかといえばそうでもないだろうし、たぶんかなり込み入った状況ではあるのだろうが、そんなことは気にするでもなく先を急いでいるのかも知れず、先を急ぐ理由がわからないのに自然に先を急いでいるのだから、自らの本能がそれを察知している可能性もあるわけで、たとえそれが勘違いであってもかまわないような気もしているのだから始末に負えないわけだが、そもそも先を急ぐとはどういうことなのかというと、具体的に何をやっているわけでもなければそれも嘘になってしまうのだろうが、気持ちが急くという表現では何か苛ついていることにもなってしまうのかも知れないが、至って当人は冷静であり、自分が冷静な状態でいると思っているのだからそれが本当であれば安心できるわけだろうが、安心していると思いがけないことが起こるのかもしれず、その前兆をすでに感じ取っているから安心しているのかも知れないし、これからさらに思いがけないことが起こるのを期待しているのだとすれば、それも虫のいい話だろうが、自らの将来が明るいことも感じ取っているのかも知れないし、果たして本当にそうなるかどうかは実際にそうなってみないことにはわからないだろうが、そういうところが何の根拠も定かでないのに不確かな未来に希望を託すようないい加減さであるのかも知れないし、もしかしたらそう思っている時点で自らの終わりも近いのかも知れず、終わりが近いからもはや自らの未来のことなど気にかける必要もなく、もはやどうでもいいことも感じ取っているのかも知れないが、果たしてその真相が今後明らかにされる時がやってくるかどうかは、やはりその時になってから気づくかも知れないし、あるいは何も気づかないまま終わってしまう可能性もなきにしもあらずだが、それでも自らに関わりのある様々な物事が自らを中心に渦巻いているように思われるのは自己中心的な思い込みでしかないのかも知れず、その実態としては社会の片隅でどうでもいいような小市民がひっそりと暮らしているに過ぎないことでしかなければ、それがどうしたわけでもなく、そんなちっぽけな存在の人間が何をどう思ってみても何ともないようなことでしかないだろうし、それが相対的には誰であってもそんなことの延長上のことでしかないのかも知れないが、それでも自己という存在を感じているわけだから、それなりに思うところがあるわけだ。


4月13日「形骸化する指標」

 現状で何が形骸化しているのかと言えば、何もかもが形骸化しているわけではないにしても、形骸化している面が顕著になってきている分野もあるかも知れないが、中には形骸化しているように見えるのに、それなりに機能している面もあるのかも知れず、そんな形骸化しつつも形骸化することによって機能しているような分野というのが、政治や経済に関する分野であるのかも知れず、それらの何が形骸化しているのかと言えば、形骸化すること自体が一つの機能だとも言えるわけで、むしろ形骸化しないと機能しないような傾向があるのかも知れず、下手にそういった分野で意味や意義があることをやってしまうとかえってそれらが機能するに際して邪魔になってしまうのかも知れず、その辺がよくわからないところかも知れないが、何やら意味や意義のある中身があるわけではなく、形式的な手順に従って動作していればそれでかまわないようなことになっているわけで、それがどうしたわけでもないだろうが、とりあえずそんなやり方がまかり通っている限りで動作が滞りないように見えればそれでかまわないような成り行きになっていて、それが誰のためにそうなっているわけでもなく、もちろん民衆のためにそうなっているわけでもないとともに、為政者のためにそうなっているわけでもなく、国家のためにも政府のためにも企業のためにもそうなっているわけでもないとしても、それでかまわないようなことになってしまい、それが形骸化でないとしたら何なのかということかも知れないが、それでも普通に何もかもが動作して機能しているように装われていればそれでかまわないわけで、実際には正常に動作しているとは思われなくても、さらに何も機能していないように思われても、そうなっている限りで形式的な面での動作や機能が円滑に働いているように思われてしまうところが摩訶不思議なのかも知れないが、それでもいいことにはならないのだろうが、やはりそれでもかまわないわけで、誰もそれで良いとは思っていないのにそれでもかまわないところが摩訶不思議なのかも知れず、そういうところが人知を超えた状況と言えるのだろうが、何がそういう状況なのかと言えば、例えば政治や経済にまつわる様々な指標がそうなのかも知れないし、もはや選挙結果も世論調査の結果も政権や政党の支持率も、株価も為替相場や債券相場も金利も原油や金の価格も有効な指標とはならないわけで、すべてが世の中の状況や情勢に応じて上がったり下がったりしても許容できる範囲内で上下しているだけで、許容限度を超えて上下することはなく、そうならないと作動しないようなリセット機能が麻痺しているのかも知れないのだが、要するに政治情勢の延長上で起こる全面戦争や経済情勢の延長上で起こる恐慌が起こらないような状況となっているわけだが、そういう破綻しない状態がいつまで続くかは誰にも予想がつかないところであり、その手の危険を察知して警鐘を鳴らしたい人たちはここぞとばかりにそんな危機感を煽り立てるのだろうが、一向にそうなる気配さえ漂ってこないような状況となっているわけで、もしかしたらすでにそういう成り行きは克服されているのかも知れないが、はっきりとした理由があってそうなっているわけではないし、そういった成り行きを防ぐための強固な防波堤の類いが築かれているわけでもないのに、なぜかそうはならないような成り行きになっているわけで、本当にそうはならないのかはもうしばらく経ってみないことにはわからないのかも知れないが、もうしばらくというのがいつまでというのもはっきりしないだろうし、実際にそうなるまではそうならないということしかわからないだろうが、いつまで待っても破綻の瞬間がやってこないどころか知らないうちに危機も過ぎ去ってしまったりもして、どういう成り行きになってもそれ以上の進展がなければ、そうなることを危惧していた人たちの思いが肩透かしに終わるしかないだろうが、それが様々な指標が形骸化することによって機能する成り行きなのかも知れず、それがいつまで機能し続けるかは誰にも予測がつかないところかも知れないが、とりあえず思いがけないことが起こるまでは機能し続けるのかも知れず、もちろん思いがけないことが起こったとしてもどうということはないのかも知れないし、実際にそうなってから誰もが大騒ぎした方がストレスの発散には結びつくわけだが、そう都合良くリフレッシュする機会が訪れるわけでもないのかも知れないし、大したことは何も起こらずに気分がモヤモヤしながらも、今すでに起こっている大したことが通り過ぎるのをじっと待つしかないのかも知れず、それが大したことではあるにしても、それだけでは物足りないから今以上の危険が到来すること危惧してしまうのだろうし、それが妄想に終わるか現実に起こるかはまだ何とも言えないところだろうが、そんなことを想像し出すときりがないわけで、今回の件でも確実に景気が後退することは確かだろうが、だからといっていつまでもこのままになっているわけでもなく、危機感を煽っている人たちの当てが外れることも想定内ではあるわけだが、もちろんそれが想定の範囲内に収まるとしても煽っている程度には危機であるわけだから、乗り越えられない危機ではないにしても乗り越えた先に何が待ち受けているのかと言えば、少なくともそれは危機以前の状況ではないだろうし、危機を乗り越えただけ何かが進展するわけで、それが民衆の意識にどんな効果をもたらすかはそうなってからでないとわからないのかも知れないが、そうなってからでもわからないのかも知れないし、何か切実に願うことなど何もなければ危機以前の状態に逆戻りかも知れないが、まだそれは序の口で危機を乗り越えたことにすらならないことであるのかも知れず、その先に起こるのは危機とも自覚できないような危機ですらないような事態であるとしたら、結局それは何でもないことなのかも知れないが、たぶん危機感を抱くよりは何でもない状況の中で何も抱かない方がかえって危機的な状況となる可能性もあり得るだろうし、何もしなくても通り過ぎてしまうことにことさら危機意識を抱くこともないだろうが、それでは何かを乗り越えたという実感が湧いてこないだろうし、何でもかまわないからとりあえず大騒ぎしていないと気が済まないというのもストレスの解消の観点からしたら有効なのかも知れないし、現状では何でもないということではないのだから、大騒ぎしてもかまわないような状況ではあるわけだろうが、別にストレスを解消するために騒いでいるわけではなく、本当に危機的な状況だと思うから騒ぎたい人が騒いでいるわけだろうが、騒ぎたい人に騒ぐ権利があるかといえば、権利のあるなしではなく騒ぐのが当たり前の状況だと思われるのかも知れず、そうなるのも当然の成り行きなのかも知れないが、騒がず慌てずじっとしている状況でもあるわけで、多くの人が危機が過ぎ去るのをじっと待っているような状態なのだろうし、そういう人たちは無理に騒ぐ必要がないわけだからそのままになってしまうだろうし、それ以外にどうしろというのかと問われることもなくじっとしているしかないにしても、それでは困るようなら政府の対応を批判したり非難したりすればいいのかも知れないが、実際にそういう成り行きになっている人たちがいるにしても、それ以外にはどうすることもできなければそうなるしかなく、それもそうなった時に起こる様々な反応のうちのある面に過ぎないことであり、今のところはそうなるとしても今後の展開次第ではまたそれとは異なった反応もあるかも知れないし、現状で政府の対応を批判したり非難している人たちはそれが今後の行動に結びつくことを期待しているだろうが、それだけではないことも踏まえておくべきだろうし、これからどうなるにしても今後の成り行き次第であり、それは政治や経済だけの問題ではないかも知れないし、人としての生き方や倫理の問題になるのかも知れないが、そんなことまで考えるまでもない事態でしかなければ、以前と変わらない状態へと戻って行ってしまう可能性もなきにしもあらずなのではないか。


4月12日「なし崩しの変化」

 あらゆる成り行きが必ずそうなるわけでもないが、中にはなし崩し的にそうなってしまうような成り行きがあり、そうなっていく過程においては少しずつ変化していくのでわかりにくく、それとは違って何かが一気に変われば誰の目にも変化が一目瞭然となるのかも知れないが、なし崩し的な変化はそうはならず、一見何も変化していないようで、水面下で微細な変化が進行中であるかも知れないのだが、それがわかるのは変化のただ中にいる人ではなく、実際に変化した後から変化とは無関係な人によって変化したことが明らかになる場合もあるだろうが、そういう発見もなければ誰にも気づかれない変化というのもあるのかも知れず、果たしてそれを変化とはいわないのかも知れないが、何かがなし崩し的に変化する時にはそういうことも起こるのかも知れず、そういう変化を起こしている主体があると、その主体となっている人や団体がそれを自覚して何かを少しずつ変えて行っている実態もあるかも知れないが、それが不特定多数の互いに相手を知らない大勢の人たちが無自覚にそんなことをやっている場合もあるだろうし、それによって崩されている物事が何かといえば、大雑把に言えばそれが世の中の慣習の類いになるのかも知れないが、その中には言葉遣いも含まれるだろうし、当初は誤った言葉遣いとされる言葉の使い方が徐々に使う人が増えていってそちらの方が優勢になっていって、時が経ってみればそういう言葉遣いが主流になっていたりもするわけで、なし崩しという表現も以前は誤っているとされる否定的な使われ方が現状では主流となっているだろうし、何か嫌なことをごり押し的にやらされるような時に、なし崩し的にそう強いられるような変化になってしまうのかも知れないが、そういう否定的な変化をごり押し的に起こさせる場合でなくても、肯定的に何かを少しずつ変えていくようなこともなし崩しの変化というわけだろうし、どちらにしても変化を起こす主体が意識して状況や情勢を少しずつ変えていくような場合になし崩しという言葉使われるはずだが、果たしてそれを変える主体がはっきりしない場合にも使えるかというと、もしかしたら誤用になってしまうかも知れないが、変える主体がはっきりしなくても何かが世の中で少しずつ変わっていくような変化もなし崩し的な変化と言えるのかも知れず、普通はそれをなし崩しとはいわないかも知れないが、そういう場合にはそれを変えようとする明確な意志がなくても変わっていってしまう成り行きがあるように思われるのであり、物事を人為的に変えるとなるとそうはならない場合の方が多いだろうし、変えようとする強い意志を持った人が変えてゆかなければならないと主張して変化を起こそうとするのが、一般的には世の中を変えるために何かを主張する人の構想となるわけだろうが、そういった主張の中で明らかにされる構想としてはその方が一般的であり、特定の何かを変えると主張する人がそうならざるを得ないわけだが、大抵の場合はそう主張する人に変える力があるというわけではなく、自分一人では変えられないから皆さんの力を貸してほしいと大勢の人々に向かって呼びかけることになるわけだが、果たしてそれがうまくいくのかとなると、やはりそれも大抵の場合はそんな主張の段階から実行する段階へと移行できずに、そういう変化の構想自体が店ざらしとなっていつの間にか立ち消えとなってしまうのかも知れないが、そういう成り行き自体もなし崩し的な変化と言えるのかも知れないし、主張する度に少しずつ内容が後退しながら現状と妥協していって、最後には現状を追認するようなことになってしまえば、それが民衆の賛同を得られなかった主張のなし崩し的な変化と言えるのかも知れないが、それも誤用に含まれるのかも知れないし、それでは単に世間の壁にぶつかって主張が砕け散ったに過ぎないとしても、そういう主張が現れては消えるサイクルを繰り返しているうちに、それでも何かが少しずつでも変わって行くようなことになれば、なし崩し的な変化が起こっていると言えるのかも知れないが、誰にも気づかれずに変わっていけばうまく変わっていることになるのかも知れず、それがこれ見よがしな主張そのものによって変わるのではなく、そういった主張が次々に現れては消えていく有様に人々が目を奪われているうちに、水面下で少しずつ何かが変わっていく成り行きとなっていれば、それをなし崩し的な変化と言ってもかまわないのだろうが、誰もそれに気づけないとすればそういう変化を肯定も否定もできないだろうし、無理にそういう変化が起こっていることを突き止める必要もないのだろうが、そうなる過程で現れては消えるこれ見よがしな主張が無駄かと言えばそうでもないのかも知れず、それも水面下で起こっているなし崩し的な変化に呼応して起こっていることであり、人々にそれが気づかれないようにするための囮のような役割を担っているのかも知れず、これ見よがしな主張に目を奪われているうちになし崩し的な変化が進行していくような役割分担となっていれば、現れては消えてゆくような泡沫的な主張の数々も決して無駄ではなかったことになるわけだろうが、もちろんそういう変化が主張者たちの望むような変化とは限らない場合の方が多いだろうし、むしろ誰もが思ってもいないような変化であれば、次々に現れては消えてゆく主張者たちの思いも浮かばれないと思われてしまうかも知れないが、全くの無駄死にというわけでもないだろうし、それによって世の中が変化していくのか、あるいは世の中の変化に合わせてそういう人たちが現れては消えてゆくのかは、どちらとも言えるようなことであり、世の中の変化とそういう人たちの出現と消滅とが一体化していると捉えておけばいいのかも知れず、そういうのは人の一生よりも遙かに長期間にわたる変化となるだろうし、それは様々な国の行政や政治の体制が移り変わることにも関係しているだろうが、それも短期的に騒ぎ立てては世間的な壁に阻まれて敗れ去る人が絶え間なく出てくるおかげで、そういう否定的な存在自体によって何か世の中の不条理感が漠然と醸し出されて、人々の間で不安感が募っていくような成り行きになり、そういうことが少しずつ効いてくると、それが世の中の長期的な変化を進行させる原動力となるのかも知れず、そういう意味で現れては消えゆく主張者たちの存在と活動が生かされてくるのだろうし、そういう人たちが世の中の犠牲者の役割を引き受けていつの世でも問題提起をしてくれるおかげで、世の中の長期的な変化が引き起こされるような成り行きになっているのだとしたら、そんな人たちを世間の主流派に刃向かう反逆者として叩く人たちにもそれ相応の役割分担が生じていることにもなるだろうし、そうやってまともなことを主張しているのになぜ世間から叩かれるのかという不条理感が醸し出されて、それが世の中を変化させる原動力になっているのだとしたら、そういう人たちは他の人々に不条理感を抱かせるような役割分担だと言えるわけで、そうであれば執拗にきれいごとを主張する人にねちっこく絡みついて粘着して、側面から揚げ足取りの類いをやり続けるような人の存在と活動も、それなりに意味や意義のあることになるのかも知れず、それも少しずつ変化するようななし崩し的な変化には不可欠だとすれば、一気かつ急激に変化しないための歯止め役として、そういう人たちの存在と活動があると捉えればいいのかも知れないし、常にそういった出る杭を打つような役割分担が生じていて、そういう人たちに打たれながらも、次から次へとモグラたたきのように現状の変化を促す主張者が現れることで、しかもそれらの主張者たちの主張がそのまま実現するわけではなく、それらの主張者たちの思ってもみないような世の中が結果的に実現すれば、モグラたたきをやっている人たちの苦労も少しは報われると見なしてもそれほど間違ってはいないだろうし、そういう試みによって世の中が一気にかつ急激には変わらないものの、それでも誰も気づかないところで少しずつ変化しているわけだから、そういう少しずつの変化に徐々に慣れながら変化していくような成り行きになるとすれば、それだけ緩やかで許容できる変化となりやすいのかも知れないが、それによって世の中で暮らす人々の有り様が以前とは様変わりしたとしても、相変わらずそれに対して批判的な姿勢で何かを主張する人が出てくるだろうし、絶えずそういう人たちにとっては気に入らない状況がもたらされるような成り行きにはなるのではないか。


4月11日「理解に至る機会」

 何かを理解するということはタイミングが合わないと理解したことをうまく活用できない場合があるのかも知れず、確かにその時はわからなくても機会がやってくればわかるようになることもあるのだが、それが行動に結びついて機能すればわかったことが役に立ったことになるわけだが、そうなるタイミングでわかることが求められるような場合もあるのかも知れず、別のタイミングでわかったとしても時機や時宜を逸していて、大して役にも立たないどころか、そこでわかったことを利用して誤ったことをやってしまう場合すらあり、そこでわかるよりは別のタイミングでわかった方がそれを利用しておこなうことがうまくいく場合があるかも知れないのだが、例えばせっかくその場で誰かに教えてもらったのになぜかその場では相手が何を言っているのか理解できず、相手との意思疎通もうまくとれずに話し合いや交渉が不調に終わったのに、後から別の機会に別の何らかの事態に直面した時に急にその時その場で何を言われていたのかがひらめいて、その時に教えてもらったことを用いてうまく立ち回って事なきを得るようなことがあると、もしもその場で相手の口車に乗っていたら、相手に言いくるめられてかえって面倒なことになっていたかも知れないことがわかってきてしまったりして、本当にそうなのかは実際にそうなってみないことには何とも言えないことは確かだが、その時にはなぜ相手の言っていることが理解できずにしどろもどろな返答になってしまって物別れに終わってしまったのかは、ただ単にこちらがぼけていてうまく意思疎通がとれなかっただけだったかも知れないが、確かにその場では相手のペースで話が進んでいて、それに対するこちらの自覚なき警戒感がそういう成り行きをもたらしたとも考えられるのかも知れないのだが、それも気のせいかも知れないし、その場で相手の言うことを理解できた方が良かった場合もあるかも知れないが、なぜかそこでは理解できずにそれが疑念として頭の片隅に残っていて、後になってから何かの機会に急にその時の記憶がよみがえってきて、その時は理解できなかったことがなぜか急に理解できて、しかもそれがその理解したことを使って行動しなければならない時であったりして、そんな結果から物事をいいように解釈すればそうなるが、本当にそうなのかはたまたまそういうときもあるということでしかないのかも知れないし、そこではそうやってうまく事態を切り抜けられたのかも知れないが別の機会ではそうはならない場合もあるだろうし、現に最初の機会では相手の言うことを理解できずにうまくいかなかったわけだから、それをその時はその方が良かったなどとこちらの都合の良いように解釈すること自体が間違っているかも知れないのだが、後から思い起こしてみるとそう思うしかないようなことなのだから、たぶん都合良くそう思っておいてもかまわないのかも知れず、そんな成り行きからわかることは物事を理解するにはいつどんな状況でも理解できればいいというわけではなく、理解する時機や時宜に適った時に理解することが肝心であり、それがいつやってくるかは実際に理解したことを活用する機会がやってきた時にそれと気づくことがあるわけで、それを自ら選んだり調整することができるわけでもないのかも知れず、何だかわからないが機会が向こうからやってきて、その時にそれを理解することになるしかなく、それ以外ではいくらそれを理解しても理解したことが役立つとは限らないのかも知れず、役に立たなければ無駄な知識として記憶の中に埋もれてしまうか忘れてしまうのかも知れないが、それでも何か気になるようなことがあって心の片隅に引っかかっていると、あるとき急にそれが思い出されるような機会に直面して、なぜかそこでそれを活用する成り行きになってしまうのかも知れないが、それが偶然にもたらされた機会だとしても、何か運命の巡り合わせのような驚きをもたらしたりして、強く印象に残って心に刻まれると、そこから何かの教訓を得たようにも思われてしまうわけで、相手が何を言っているのかうまく理解できないような状況に至った時に、そこでは相手の意図や真意を執拗に探ろうとしてはいけないのかも知れず、それもその場の状況にもよるし自分と相手との関係にもよるだろうが、善意で相手に合わせてよくわからないのに同意しているように装ってはまずいのだろうし、その場で無理にわかろうとしてもおかしな理解の傾向を伴ってしまうのかも知れないし、そういう時にはその場で決着をつけようとはせずに話が物別れに終わっても仕方がないと思う程度にとどめておけば、やがて機会を捉えて事態が進展する可能性があるのかも知れないし、自然にそういう機会がやってくるのを待っていればいいということでもなく、なぜか不意に機会がやってくるわけで、思いがけずに急転直下のようなことになる場合があるのであり、そうなった時にうまく対応できればその場を乗り切れるのだが、しかもその場を乗り切った時にそれがわかるわけだから、うまく乗り切れずに失敗してしまった時も無数にあるのかも知れないが、その場をうまく乗り切った時には以前の機会にはわからなかったことが急にわかるようになったり、以前から抱いていた疑問や疑念が急に解消して、なるほどこういうことだったのかと改めて以前の相手の真意や意図を理解したように思われるわけだが、とりあえずそう思われるだけで本当にわかったかどうかはわからないとしても、自分なりに理解したことを活用してそこではうまく立ち回って事なきを得たような気にはなれるわけだが、それはただ単に以前の機会においては切り抜けられなかった経験がその場では生かされてたまたまうまくいったように思われるだけかも知れないが、それでも以前よりは少しは賢くなって自らがかかわっている物事を前進させることができたと思っておいても差し支えはないのかも知れず、それが大したことというわけではなくややもすると面倒なことになってしまうのを何とか避けられた程度のことでしかないかも知れないが、その程度のことであってもうまく切り抜けられたと思われるだけでも上出来なわけで、些細なことであってもそれがこじれたままであっては気になって仕方がないような状態となってしまい、そんなことに気をとられているうちにそれに影響されて他のことまでうまくいかなくなってこじれてきてしまえば、それらが相乗効果のように作用して心理的なダメージが蓄積していってしまうわけで、そうなるとともすれば気を病んで鬱状態にもなるだろうし、いったんそうなってしまうとすべての物事が立ちゆかなくなって自滅的な傾向になりかねなければ、そうなるのを未然に防ぐためにも些細なことであってもこじれないようにはしておきたいわけで、そうであれば何か身辺で気がかりなことがあればそれを放っておいてはまずいだろうし、できるだけ機会を捉えて対応した方がいいのかも知れないが、それもこちらの都合のつく時に対応しようとするとうまくいかないのかも知れず、あちらからやってくる機会を捉えて対応する必要があり、それがいつやってくるのかわからないところも気がかりなのだろうが、辛抱強く待たなければならない時もあるだろうし、また最初はうまくいかなかったとしてもそこで簡単にあきらめてはまずかったりして、しかもうまくいかないことでさえもその時の経験を後から利用できたりもして、それもこちらの都合を優先させていると見逃してしまうようなことでもあり、どうやってもこんがらがってもつれ合うような成り行きの中でも、そこをうまく切り抜けられるような機会がやってくることがあり、そうした時機や時宜を捉えて行動すればうまくいくこともあるのかも知れないが、それが偶然の巡り合わせでそうなるのか、あるいは事前に経験する失敗がそれをもたらすのかはよくわからないところだが、そうして向こうからやってきた機会を活かせれば何とかなることもあるわけで、だからといってすべてがそうなるわけでもなく、またうまくいったからといってすべてがうまくいったようにも思えないし、何か双方が痛み分けというか、そうなる相手が定かでない場合の方が多いのかも知れないが、ただそうやって事態が何らかの進展を見せて、それにかかわっている自らも破滅も破綻もせずに生き残っているような実感とともに、かろうじて難局を切り抜けたような気になってしまうわけだ。


4月10日「漠然とした状況」

 物事の状態がどのような途中経過を辿ろうと結果と言えるような状況に至れば一安心といったところかも知れないが、その結果が何を示しているかも事の成否を判断する上で鍵となってくるわけだが、何をどう判断しようと肯定も否定もできないような結果だと見なすしかなく、そうなったことによって損得とは別の何かを感じざるを得ないような心境に至ってしまうと、それをどう捉えたらいいのかよくわからない事態となってしまうのだが、そんなことが現状の中で起こっているとしたら、それが取り立ててどうということはないと思うしかないのかも知れないが、そういう意味ではあまり事の成否にはこだわらない方が自然な物事の推移に感じられるわけだが、少なくとも下手な小細工をするぐらいならなるようにまかせて事態の推移を見守るぐらいしかやりようがないと、どう考えてもそれ以上は何もできない事態に遭遇していると捉えるしかないのかも知れず、そうなっている限りで何も判断のしようがないわけだが、それでも事態を否定的に捉えることはいつでもできるわけで、実際にそう捉えて批判的な態度になっておけばそれでかまわないのだが、どうも本気でそう思っているわけではなく、そう思わせようとする時流に流されたふりをしているようでもあり、一方でこれが何かをやる絶好の機会だと不謹慎ながらも思わせようとしているのかも知れず、実際に何かの機会が巡ってきたことは確かなところだろうが、今のところはそれが何だかわからないような状態のままに現状が推移している可能性があり、何かの機会が巡ってきているのにそれが何だかわからないということが気がかりな点ではあるものの、それでも一向にかまわないような成り行きになっているようにも思われて、そんな状態から事態がどう推移しようとなるようにしかならないわけだが、そういうこととは別というわけでもないのだろうが、そこで気を利かせて何かやらなければならないことが出てくると、それをやればどうにかなるような気になるのかも知れないが、得てしてそういうのが過ちの一因となってしまうのかも知れず、下手に介入してしまうとやぶ蛇になってしまったり、そういう面では理性も理屈も通用しない状況があって、結果がどうなっても納得がいかず、納得しようとするとそれが状況を乗り切る上で邪魔な思念になってしまって、結局は納得しがたいような事態のままに留まっていた方が身のためであるようなことにもなるわけで、よく考えてみればそれが理不尽なことかも知れないわけだが、そうならざるを得ないような成り行きになってしまうわけで、自然の成り行きというのは時としてそういう納得しがたいようなことになる場合があるのかも知れず、それをどう捉えてみてもおかしいのだろうが、人の論理や理屈に照らし合わせればそう思うしかないとしても、現にそうなっているわけだからそれを受け入れるしかなく、それ以外にもうまい切り抜け方があったかも知れないが、実際にそれに気づかなかったわけだから、それを後から気づいてもすでに時宜を逸していて、今さらそうしようとしても手遅れとなってしまっていて、もう後戻りが利かないような状況になってしまっているわけで、そうであるからその場で最善のやり方を思いつくのは至難の業なのかも知れないが、たとえ最善ではなくてもそんな事態を乗り越えて今があるなら、何とかなったということにはなるわけだが、果たしてそれで難局を乗り越えたことになるかというと、実際はそうでもないのかも知れず、自分では何とかなったと思っていても周囲の人たちはそうは思っていなかったりするわけで、実際に何ともなっていない状況が続いていれば何も乗り越えられていないわけで、相変わらずどうにもならないような状況の中に自らが留まっていて、これからもそんな状態のままに留まり続けるとすれば、いつかはもたらされるだろう破綻や破滅の時を何とか先延ばしにしているだけなのかも知れず、少なくともそれで事態を乗り切ったとも破綻や破局を回避したとも言えないだろうし、それが今も刻一刻と目の前に迫ってきていると解釈しておいた方が妥当なのかも知れないが、それでもなお生き続けていれば、そんなふうに生き続けている自らを信じるしかないだろうし、何とか現状の状態に留まれている自らを信頼して、これからもそんな状態を保つようにしていくしかないのかも知れないが、そう割り切ってしまってもまずいのかも知れず、実際に割り切れずに曖昧模糊とした状態になっているなら、それについて疑念を抱き続ける必要があり、下手にわかった気になってしまうと落とし穴があって、絶えず疑念を抱きながら辺りを見回して注意深く歩を進めていかないといつおかしな成り行きに巻き込まれてしまうとも限らず、実際にも気づかないうちにそうなっていて、気づいた時には取り返しがつかなくなってしまっているとしたら、現に今もそうなのかも知れず、今もそうなのにその上にさらにおかしな成り行きになってしまえばもはや手の施しようがない状態になってしまうのかも知れないが、それなのにまだどうにかなっていると思っているわけだから、まだ事態は限界の手前にあるのかも知れないが、その限界という状態ですらも相対的なものでしかなく、それが何の限界なのかが定まっているとは言えない状態で、自らが勝手に限界と定めた地点をとうに越えて事態が進行しているのに、まだその限界にこだわっているとすればもはや矛盾しているような事態となっているだろうし、そうなると限界を超えた先には何があるかと問われるかも知れないが、要するに限界自体が限界ではなかったことになってしまって、その先にもまだ進むべき道があるとしか思えないような成り行きになってしまうわけだが、それが本当にそうなのかあるいは勘違いに過ぎず、そこで行き止まりになっていることに気づかないまま、その先に向かって歩んでいるつもりになっているだけなのかは、もうしばらく歩んでみないことには何とも言えないことかも知れないが、それもそんな比喩を用いてそんなことを述べているに過ぎないことであり、歩むとか歩まないとかいうことではないとすれば、もっと適切な表現を施すなら事態を正確に言い表すことも可能となるのかも知れないが、それも言葉で表現することと実際にそんな状況の中で生きていくことは違う範疇に属することであり、別にどこか目標とする地点へ向かって歩みを進めていくようなことではなく、何らかの範囲内で右往左往しているだけなのかも知れないが、少なくともそれで何とかなっていることにはならないだろうし、何ともなっていないのに何とかなっていると思い込もうとしているかも知れないが、そう思い込んでいれば何ともなっていないとしても気が紛れるのかも知れないし、何とかなっている状態というのがその程度であってもかまわないのかも知れず、その程度で済ませられるならその程度の事態でしかなく、それをことさらに大げさに深刻な事態だと捉える方が間違っているのかも知れないが、実際に深刻な事態だと大げさに捉えるしかないような状況の中で暮らしている人も中にはいるわけで、そんな人たちとはそれなりの温度差があるにしても、その温度差を言葉で表現することによって縮めようとするとフィクションになってしまうわけで、そうやって独りよがりな論理や理屈を用いて自らの立場や姿勢や主義主張を正当化し出すと、何か途中からおかしくなっていってしまうのかも知れないが、そういう成り行きにも他に賛同者がそれなりの人数で現れると俄然威力を発揮して、そういうやり方でその場の主導権を握ってしまうようなことにもなって、たぶんそういうところから社会的な権力関係などが生じてくるのかも知れないが、そうだとしても積極的にそんなことをやるようになってしまうとそれが不均衡で不平等な力関係をもたらして、その場の関係が強い立場の人と弱い立場の人とに分かれてしまうわけで、そうやって強い立場になった側はそれで不満はないだろうが、いつの間にか弱い立場になってしまった人たちにしてみれば、何かそれが不正行為のように思われてしまって、不快な気分になって不満を募らせてしまうのはもちろんのこと、それこそが理不尽な仕打ちだと思ってしまえば、そこからこじれた成り行きになっていってしまうのだろうが、それもその場で生じる自然な成り行きと見なせば、そうやってある立場や境遇の人たちにとっては不合理で不都合な事態となってしまっても、それを解決したり解消するのには多大な困難が待ち構えていて、どうやってもうまくいかなければ不満ながらもそういう状況を受け入れざるを得なくなってしまうわけだ。


4月9日「売買の形態」

 物事の比較は何をどういう理由でどういう基準で比較するかで意味も程度も変わってくるだろうが、物事によっては少しの違いが顕著な差を生むこともあるだろうし、それはその性質や傾向や捉え方などにもよるのかも知れないが、何らかの事情から違いを強調する必要があれば、そこに顕著な差があるように思わせたいだろうし、それが気のせいとまでは言えないだろうが、違いを強調したいという思惑から比較の対象となる物事の間の差異が、決定的な意味や意義の違いを示しているかのように語られる場合もあるかも知れないし、そんなふうに語られるとしてもそういった比較に関心のない人にとっては比較自体がどうでもいいことになってしまうかも知れないが、逆に違う物事が同じ価値を持つかのように認識される場合もあり、そういう類いで代表的な比較がものの価格になるわけだが、違うものが同じ価格で売り買いされていれば性質や用途が異なるのに同じ金銭的な価値を持つと認識されるわけで、売買される時にたまたまそうなってしまうわけだから普通はそれで何の不都合もないだろうが、思い込みの中では同じ価格のものが同じ価値を持っているかのように錯覚してしまうわけで、それを錯覚だとも認識していないわけだが、そういう錯覚によってしか売買が成立しないわけだからそれは信仰のようなものだろうし、もちろんそれを信仰だとも思っていないわけだが、売買という当たり前の行為が成立するには、この商品にはこれくらいの価値があるという思い込みが売り手と買い手の間で一致しなければならず、もちろん一致しなくても諸般の事情から、この価格では売りたくないのに売らざるを得なかったり買いたくないのに買わざるを得なかったりするわけだが、そういうことも含めて売買という行為には不信感もつきものなのかも知れないが、それをしないと生活も活動も立ちゆかないような世の中となっていて、誰もが必要に迫られてそれをやらざるを得ないような成り行きの中で、自給自足の生活が成り立たないほとんどの人が生きているわけだから、今さらそういう慣習や風習の類いを根底から変えるわけにはいかないし、人為的に変えようとしても変える担い手となる人も団体も存在しないだろうし、変えられない限りでそういう慣習や風習の類いがこれからも延々と続いていくしかないだろうが、人為的に変えられなくても自然に変わっていってしまう成り行きもあるかも知れないが、自然に変わっていってしまうような成り行きの中では、そういう成り行きにいくら逆らっても徒労に終わってしまうだろうが、それとは違って人為的に何かを変えるような成り行きの中では、それによって都合の悪い変化が伴う限りでそれに抵抗する人が必ず出てくるわけで、世界のほとんどすべての地域で売買がおこなわれている現状があるわけだから、それを人為的に変えようとするのに伴って生じる困難は並大抵のことではないだろうから、実質的にそんなことはあり得ないわけだが、たぶんそういう慣習や風習を変えようとするのは荒唐無稽なことだとしても、それ以外の面でそこから生じる不都合な面を是正できるのではないかと考える人が後を絶たないわけで、これまでもそういう人や団体が入れ替わり立ち替わり現れては何らかの理論や実践を試そうとしてきたのだろうし、実際に現状でも試している人や団体が存在するわけだろうが、現状でおこなわれていることの中ではできるだけ現金を使わないで売買をおこなうキャッシュレス化の流れが顕著になってきているわけだが、それは売買に使う通貨自体の物質的な面をなくして単なる数値情報だけにしてしまえば、それによって通貨を一元的に管理できて通貨自体の製造や流通のコストがかからなくなるというわけだろうが、それに伴って通貨を情報としてやりとりする通信インフラの整備が欠かせないし、そういう通信網が整備された上でそういうことが成り立つわけで、大規模な災害などによって通信網が寸断されてしまえばたちまちそれができなくなってしまうわけだが、そういう場合でも衛星通信などの手段があるし、実際に通信機器と情報管理のシステムさえあれば情報のやりとりができるだろうから、意外と災害などにも耐えられるようにはなっているのかも知れないが、そうだとしてもそれらをやりとりする電子機器などの物質からは逃れられないわけだから、結局は紙幣や硬貨などの物質から機械としての物質に売買の媒体が変化したことにしかならず、それが産業技術の革新や進歩によって実現したことにはなるだろうが、結果的にはそれに伴って生じるある面での大規模集約化や別の面での分散化などの作用が、それを利用する人々に実質的な便利さと思い込みとしての幻想などをもたらすにしても、その一方で物事の売買という本質な面での変化が起こるかといえば、現時点では何とも言えないだろうし、誰も気づかないような変化がそれなりに起こって、時が経ってみればそれによって世の中が様変わりしてしまうのかも知れないが、それは誰の思惑からも外れるようなことなのかも知れず、そうなったとしてもそういう変化に人々が自然に対応するからそうなってしまうだけで、それが必ずしも人々が思い描くような合理的なやり方とは相容れなくても、自然にそうなってしまえばそれに従うしかなくなってしまうだろうが、そこでも理性を働かせて誰もが納得できる状態に持って行こうとする成り行きになれば、何らかの人や団体などが合理的な形態になるように調整しようとするだろうし、そういうところで慣習などからの作用や影響によって自然にそうなってしまうような状態の中で生きている人たちが人為的な調整や修正を施された合理的なやり方に抵抗するだろうが、現状でもそうしたせめぎ合いが世の中の至る所で生じているのだろうから、その中でも様々な思惑やそれによっておこなわれる画策などが絡み合いながら状況が推移しているわけで、そうした中でそれについて何かを主張するとなると、もっともらしく合理的なことを主張するような成り行きにはなるだろうし、そうやって何かを主張するとなると確かにそうなるとしても、そんな主張に従って実際に何かもっともらしく合理的なことがおこなわれるかとなると、その過程において周囲からそれにかかわってくる人々の様々な思惑が絡みついてきて、場合によってはおかしな方向へと趣旨がねじ曲げられてしまって、当初の目論見のかけらも残らないような異様な様相を帯びてきてしまうこともあるだろうし、そうはならないようにするための歯止めとなるような役割を担った人や機構がしっかりと舵取りしなければならないだろうが、それができるかどうかもそれにかかわってくる人や団体などの性格や思惑に左右されてしまうのかも知れないが、どんな成り行きによってどんな結果がもたらされるにしても、そんな中でもそれにかかわってくる人や団体がそこで活動できていればそれでかまわないようなことになってしまうだろうし、できればそれが直接かかわっている人や団体だけでなく、他の人たちや団体などにとっても許容できる状態となっていればかまわないわけだろうが、一部の人や団体だけに利益をもたらすような仕組みとなってきて、しかも他の人たちには利益を得るどころか損害さえも被るようなことになってくると、社会の中では許容しがたいものとなってくるだろうし、実際にそうなっているとそれに対する反発や抗議の声などが上がって、そういうところから混乱が起こるわけだろうが、そうならないようにするためにはどうすればいいかと普通は考えてしまうわけだが、そう考えてしまうことからはもっともらしい合理的な主張しか出てこないのかも知れず、そういう主張が現状でおこなわれている不合理で込み入った状態を改革するような試みをもたらす原動力にはなるだろうが、それはもうすでに現状の中でも起こっていることだろうし、そこでどう判断するかになるのかも知れないが、当事者として直接何らかの物事にかかわっていれば当然のことながら不合理で込み入った状態の中で様々な物事をやりくりしながら活動しているわけで、そういった当事者にしてみれば外部からもっともらしく合理的な主張を掲げて文句を言ってくる人の相手はしたくはないだろうが、それとは対照的に無責任な立場にいるつもりのその他大勢の部外者を装う一般の人たちにしてみれば、どちらかと言えばもっともらしく合理的な主張を掲げて文句を言ってくる人が著名人であって、しかもメディア上でそういう主張を繰り返していれば、多くの人たちがそんな著名人の味方にはなるかも知れないが、そういう主張が実現するかどうかまでは何とも言えないところであり、たとえ実現しなくても気力が続く限りはそうした著名人がメディア上で主張を繰り返して、それに対して一般の人たちからの一定の賛同が集まり続けるのではないか。


4月8日「主張の実現と障害」

 何かを語るということはそれを語っている状態を実現していることになるが、何かを主張することも語ることの一種だが、語るだけでなく主張している内容を実現しようとしていて、例えばこうしなければならないとかこうするべきと訴えかけることは、こうすることを実現しようとしているわけだが、それ以前に何かを主張している状態をそれを語ることによって実現していることにはなるが、さらに主張している内容を実現しなければならないわけだから、主張している時点ではまだそれが実現していないわけで、そういう意味で何かを主張することは主張している内容を実現しないと動作が完結しないことになり、ただ主張しっぱなしになっているだけでは実行力が欠けていることになるわけだが、主張している内容がいつまで経っても実現されずに店ざらしになっているままだと、そんな未だに実現できていない主張の内容を支持できるかとなると、それは内容にもよるだろうし、主張している人にもよるだろうが、少なくとも現状の中で実現できそうもないことを主張している人を支持する人は、実現できるかできないかではなく実現してほしいことを主張しているから、その内容に共感してその人を支持するわけで、主張を実現できるかできないかとは別に実現してほしいことを主張しているか否かも、主張している人を支持するか否かの判断基準にはなるわけだが、主張している人が政治家であればその有言実行力が問われて、実現できないことばかり主張している人には実行力がないことになるだろうが、一方で議会や政府などの場で主導権を握っていれば、実現してほしいことではなく、実現できそうなことを主張して有言実行しているように装うこともできるだろうし、そうであれば実現してほしいことと実現できそうなことの間で何らかの差異があることになるわけだが、その一方で多くの人が実現してほしいことを主張する人や勢力に多くの支持が集まって、そうやって支持を集めた人や勢力が議会で多数派を占めて、多くの人が実現してほしいことを実現させようとするのが本来の制度的な趣旨であるはずだが、結果的にそうなっていなければ多くの人が実現してほしいことを主張しているつもりの人や勢力に実際に支持が集まっていないことになるわけで、主張している人や勢力はそのつもりであっても実際に多くの支持が集まってはいないのだから、多くの人がその主張を支持しているわけではないことにもなるだろうが、たとえ主張内容を支持する人が多くても主張している人や勢力を支持するわけではない場合もあるだろうし、その人や勢力ではなく別の人や勢力が同じことを主張すれば支持するようなことにでもなれば、主張している内容ではなく主張している人や勢力が多くの人から嫌われていることになってしまうわけだが、そうなると単純な主義主張の問題ではなく大衆の感情的な情念の問題となり、そういう人や勢力に対するおかしな偏見や固定観念が民衆の間で根強く信じられていて、そんな情念から生じる偏見や固定観念などに助けられてどうでもいいような人たちが議会や政府内で幅を利かせている場合さえあるかも知れず、もちろん実現してほしいことが諸般の事情から実際には実現することが難しい場合もあって、そのことを多くの人たちも承知していて、実現してほしくても実現性の乏しい荒唐無稽な主張には支持が集まらない場合もあるわけだろうが、それも偏見や固定観念からそう思い込まされているだけで、実現しようとすればあっさり実現できるかも知れないのにそれを民衆の情念が阻んでいる可能性もあるわけで、そんな障害があるような場合には有言実行だけでなく不言実行的な行為も活用しなければならなくなるだろうし、理性的に考えて実現可能なことが実際に実現できないように思われるなら、それを実現しなければならないと主張するだけではなく、その実現を阻んでいる様々な有形無形の障害を取り除こうとしなければならなくなり、それだけ実現することの難しさが明らかとなってくるわけだろうが、そんなことをやってまでそれを実現しようとするために費やされる労力と無理に実現しようとしなくても現状のままでも何とかなっている面を考慮すれば、実現した方がいいことは確かだが実現しなくてもかまわないような心理も働くだろうし、そういう打算的な思惑によって世間的な現状が構成されている中で、そんな思惑に逆らって何かを主張すると、かえって反感を呼んできれいごとを言うなと打算的な人や勢力から足を引っ張られたりすることもあるのかも知れず、そんな状況の中できれいごとだと思われるようなことを主張していてもかまわないのかと疑念が湧いてくるかも知れないが、それもそういう人や勢力を支持する勇気のある人が世の中にどれほどいるかで、そういう人や勢力が存在できるか否かが決まってくるわけで、そういう意味では民衆の感情から生じてくる世の中の風潮が理性的に思われる物事を推進する力の強弱を左右するのかも知れないが、打算的な人や勢力は絶えず世間的な風潮に同調しようとしていて、そうである限りで政治的な面での主導権を握れていれば、そういった風潮に逆らうような主張が実現するのがそれだけ難しくなるわけだろうが、果たして理性的に考えれば実現した方がいいような物事がそんな世間的な風潮と一致することがないのかといえば、実際に理性的に考えて実現した方がいいような物事が実現してみれば、結果的にそれが世間的な風潮と一致したと見なしてもかまわないのかも知れないが、大抵の場合はそうではなく、世間的な風潮に逆らってでも強引に実現させてしまうわけで、それが政治的な権力の行使になるわけだろうが、そんな民衆の反対を押し切るようなことがおこなわれる契機がいつ起こるかといえば、何らかの社会的な混乱に乗じてどさくさ紛れにそれをやるような成り行きになってしまうのかも知れず、それが結果から見れば革命的な行為の実現となるわけだろうが、それを後付け的にあたかも民衆の圧倒的な支持に基づいてやったかのように見せかけるのが至難の業かも知れないが、実際にそういう行為がこれまでに度々おこなわれてきたのだろうし、それがまれにしか起こらないことであり、しかも大抵は無理を押し通そうとするから内容的には惨憺たるものとなってしまう事例も多いだろうが、そもそもそれ以前の段階で、理性的に考えて実現した方がいいような物事が打算的な思惑から実現されていないこと自体に、かなり無理な負荷がかかっているのかも知れず、それも革命が起こる原因と考えられるわけだが、そうだとすればいつまでも打算的な思惑から理性的な主張を抑え込んでいると、そのことで生じる無理な負荷が溜まりに溜まった末に、何かのきっかけで巨大地震のような反動となって革命的な事態を招くと言えるわけで、そうならないようにするには勇気を出して多少の労力はいとわずに理性的な見地からすればやった方がいいように考えられる物事をおこなう必要が出てくるわけだが、果たしてそれを現状の中で政治的な主導権を握っている人や勢力がおこなえるかとなると、実際におこなえばおこなった分だけ将来に想定されるような革命の危険度が軽減されることになるかも知れないが、本当に革命が起こるような事態となるかといえば現状では何とも言えないだろうし、現状では何とも言えないようなことを果たして考慮する必要があるかとなると、目先の利害だけに偏っているような功利的な見地からすれば、それよりは他に優先すべきことがあればそちらを優先しておこなおうとするだろうし、そういうことを優先しておこなうような人や勢力が現状の中で政治的な主導権を握りやすいのかも知れないが、果たしてそういう傾向を改めなければならないかというとやはり理性的に考えるなら目先の利害だけでなく長期的な視野でやらなければならないことも出てくるだろうが、そういうことができる人や勢力が政治的な主導権を握るには、そういうことができる人や勢力が現れないことには民衆も支持しようがないだろうし、結局は民衆の中からそういうことができるような人や勢力が出てきて多くの民衆の支持を集めて政治的な主導権を握るような成り行きになればいいのだろうが、現状でそうなっているかといえば、実際に現状を分析してみればそれが明らかになってくるかも知れないが、そういう分析にも目先の利害や打算的な思惑が絡んでいれば、そういう傾向に偏った分析結果がもたらされるのではないか。


4月7日「幸運の予感」

 機会を待つというのは普通は何か当てがあって待っているわけだろうが、何の当てもなく機会を待つというのは、それが何の機会なのかわからないところが意味不明かも知れないが、知らないうちに何かの機会が巡ってきて、当人の思惑とは関係のないことをやる羽目になってしまうのかも知れず、それを当人が意識して待っているわけではなくても、何となくそんな予感がするというのは気のせいかも知れないが、何かを待つというのにはそういう面もあるのかも知れず、何だかわからないがそんな気がしてそんな機会がやってきてからそれがわかったような気もするかも知れないが、それも気のせいかも知れないし、意識して何を待っていたわけでもないのに、何かの機会がやってくるとそれを待っていたような気になってしまうのだから、いい加減な思い込みでしかないのかも知れないし、都合の良いように出来事を感じ取っているだけかも知れないが、それでかまわないと思うなら、やってきた機会に幸運の兆しが含まれている場合もあり、それによって何かのきっかけをつかんだような気になれるなら、結果的には機会に恵まれたつもりになれるのかも知れないが、つもりではなく本当に幸運をつかむような機会に恵まれたことになるかというと、それはその後の成り行き次第だろうし、本当にうまくいったように思われるなら実際にうまくいったはずだが、それも気のせいに過ぎなければ何でもないことになってしまうわけだが、どちらにしろ気分の問題程度のことならそれほど深刻なことではないわけだが、その程度の範囲内で物事が推移しているだけでも何でもないことでしかないわけだが、そんなことより遙かに深刻な事態に巻き込まれていればそんなふうに思っている余裕はないはずで、そんなふうに思えているだけでも幸運なのかも知れないが、そんな状況が退屈に思われるならそれが不運だと思われる場合もあるのかも知れないし、もっと何か物事に真剣に取り組めるような状態になりたいと思うなら、そういう成り行きの中で活躍したいと思っているのかも知れないが、そんな状態を不運とまでは言えないだろうし、退屈を持て余している身分でいるだけでも幸運なことなのかも知れないが、気持ちとしては不運だと思ってもかまわないようであれば、そこで感じられる幸運も不運も大したことではなく、その程度のことを幸運だとか不運だとか思うのはおかしいのかも知れないが、そういう範囲内で物事が推移している中で生きていれば、そう思ってしまうのも仕方のないことだろうし、世の中が安定していれば誰もがそんな境遇になってしまうのかも知れないし、そういう状態が本当に幸運なのか不運なのかはそうなっている人たちの感じ方次第だろうが、もっと誰もが納得できるようなはっきりとした運不運を実感したければ、それ相応の賭けに出なければならないだろうし、冒険のようなことをやってみないと運試しにはならないだろうが、それで不運な目に遭えば取り返しがつかないことになってしまい、賭けや冒険に出たことを後悔することになるだろうが、そういう意味で本当の運不運は自らを危険に晒してみないとはっきりしないわけで、それは自らの意志でそうする場合もあるだろうが、そんな事態に巻き込まれてしまう場合もあるわけで、そういうことを考慮すればそういう事態に巻き込まれていないだけでも幸運だと思うしかなく、自らがはっきりとそういう事態に巻き込まれていることを実感できれば、その結果として自らが幸運か不運かを知ることになるかも知れないが、それに気づかないまま何らかの事態に巻き込まれてしまっているようなら、大してそれを実感できないまま事態が過ぎ去ってしまえば、自らが幸運か不運かもわからないままとなってしまうだろうが、結果的に五体満足で生きていれば幸運かも知れず、そうであればはっきりと自らの幸運を実感できるのは稀なことかも知れず、不運なことになれば誰もがそれを実感するかも知れないが、不幸であることがそのまま不運なのかというと普通はそう思うが、場合によっては不幸になっていることが幸運をもたらしたりして、それも自らが不幸だと思っていても他の人から見れば不幸であるどころか恵まれすぎているからかえってそれが不幸に思われたりする場合もあるだろうし、要するに波瀾万丈の人生を送った末に幸運をつかんで成功すれば幸福を実感できるかも知れないが、始めから恵まれた生活を送っていて何一つ不自由がないように見えるなら、端から見ればそれは幸運で幸福なことのように見えてしまうだろうが、実際にそんな生活を送っている当人は退屈で死にそうに思われたりして、それがありふれた状態と思われるようならフィクションの中では確かにそんな人物はありふれているかも知れないが、実際の世の中ではそんな人は稀にしかいないはずだが、逆説的にはすぐにそんな境遇をすぐに想像できるわけで、それが資本主義経済からもたらされる物質的な豊かさを享受した人の典型例として示されていたりして、そうではない状態から成功してそんな状態になってしまうことは確かに幸運であり幸福になったと言えるわけだが、始めからそうなっている状態の中で生きていると退屈で死にそうに思われてしまい、もうそれ以上の状態を望めなければそれが不幸で不運なことのように思われてしまうのかも知れず、そうであればたとえ幸福であっても不幸であっても、そのままの状態に留まっていると飽きてしまって何とも感じられなくなってしまうが、そこから良いと感じられる状態へと移行できれば幸運だと思い、逆にそこから悪い状態へと移行してしまうと不運だと思ってしまうかも知れないが、元から良い状態で良い状況の中で生きていれば、そこからさらに良い状態へと移行することは稀かも知れないし、それよりは元が良い状態や状況なのだからそこからちょっとでも状態や状況が悪化したら、不運で不幸になったように思われてしまうのかも知れず、そもそも誰にも好不調の波があるだろうし、そんなに良い状態や状況が長続きするとは思えないし、またそれと同じように悪い状態や状況も長続きするとは思えなければ、そこから運気が上昇すれば幸運が到来したと思われるだろうし、逆に運気が下降気味になれば不運が訪れたと思うかも知れないし、そういうのも気のせいといってしまえばそれまでの話になってしまうわけだが、社会の中で暮らしていても自然の中で生きていても、他から様々な作用や影響が及ぼされているわけだから、それらから作用や影響を受けて良い状態や状況になることもあれば悪い状態や状況になることもあるだろうし、その作用や影響が顕著に表れた時には結果から判断して幸運や不運を感じ取れるかも知れないが、それを感じ取れなければ幸運でも不運でもないのかも知れないし、そう思わなければそれでもかまわないのだろうが、思う思わないの範疇であればその人の勝手でしかないだろうし、それよりはそう思うことによって何らかの変化を起こしたその人の活動が、他の人や世の中にどのような作用や影響を及ぼすかが、他の人たちにとってはそれなりに実質的な意味や意義を伴うことになるだろうが、それに関しても他の人たちがそれを意識できれば何かしら思うだろうが、意識できなければ何とも思わないし、それを自覚できないまま作用や影響を及ぼされていても、互いに作用や影響を及ぼし合っているような相互作用的なものだろうし、そういう様々な人や物や情報の相互作用の中で社会が形成されているわけだが、その中で何らかの状態や状況の変化を被って、それが自身に良い変化をもたらしているようなら幸運だと思うし、悪い変化をもたらしているようなら不運だと思われるだろうが、自分でも自分に対して良い変化をもたらすように画策したり努力するだろうし、他人に対してはそうでもないかも知れないが、少なくとも自らに対しては悪い変化をもたらすようには画策も努力もしないはずだが、誰もが幸運に巡り会うことを願って、幸せになりたいとは思うところだが、良かれと思ってやったことが逆効果になることはよくあるだろうし、逆に他人が不運に見舞われて不幸になるように画策するようなこともしばしばおこなわれることであるにしても、それも逆効果をもたらして他人にとってはそのおかげで幸運に恵まれて幸福になってしまえば、それを当人が知ることにでもなれば自らが自業自得気味に不運や不幸を招いたことを悟ってしまうだろうし、それを因果応報と捉えるなら誰にもそういう機会がいつ訪れるとも知れないし、別にそれを待っているわけでもないが、やはりそれと自覚せずに他人に対してそういうことをやってしまっているのかも知れない。


4月6日「判断の是非」

 誰もが日々何かの誘惑に屈して何かをやっていることは確かだが、誘惑に屈するというよりは導かれているとも解釈できそうで、それが肯定的な傾向に感じられるなら抵抗もしなくなり、さらに誘惑に屈することが悪いことで誘惑に導かれるのが良いことだと両義的に捉えれば、良くも悪くもあり肯定的にも否定的にもなってくるかも知れないが、その場その時の状況の中でそこで誘惑に屈するのはやめた方がよくて別の場面では誘惑に導かれておいた方がいいような具合になっていれば、是々非々の態度にもなれるのかも知れず、それが良いか悪いかはその場に至ってみないと判断できないのは当然のことかも知れないし、中にはその場に至ってもなお判断しかねる場合もあるかも知れないが、前もってこうなればこうするべきと決めておくわけにもいかない場合もあるだろうし、その場の条件や状況に応じて臨機応変に対応したところで、それが合っているか間違っているか判断できないようなところもあるとすれば、そういうケースばかりではなく良いか悪いかを簡単に判断できる場合もあるわけだが、その場で生じている成り行きに導かれるままについて行くしかなく、それでどうなろうと結果を受け入れるようなことになってしまえば、そうなるがままとなってしまうわけだろうが、そういう場合でも意識せずに様々なことを判断しているのかも知れず、その中には判断を迷ったままになることも含まれるとすれば、判断しないことも一つの判断となり、特に意識して判断しなくても勝手に導かれてしまうような成り行きとなってしまえば、自動的にそうなっていることにもなるだろうし、人の動作の中にはそういう面もあるのかも知れないが、そればかりとは限らないし、判断を迷ったり迷わなかったり割と簡単に判断できたりできなかったりして、何を判断するにも同じような感覚で判断できるわけでもなく、判断しなくてもかまわないようなことまで無理に判断してしまえばそれが過ちとなってしまうのだろうが、そこで判断すべきか否かに関してどう判断すればいいかとなると、それも判断しようがないことかも知れず、最終的にはこうなればこう判断すべきと思われがちだが、そういうところでも無理に判断してしまうような過ちを犯してしまうのかも知れず、焦れて拙速に判断してしまって失敗して痛い目に遭ってから判断の誤りに気づいてから、そうならざるを得なかったと受け止めるしかないのかも知れないし、あるいは判断が遅すぎて手遅れになってからもそういう成り行きだったと受け止めるしかないのかも知れないが、そうは受け止められずに過ちや誤りを認められなければ、さらに無駄な悪あがきを繰り返す羽目になって往生際の悪さを露呈してしまうのかも知れず、結局は何かしら判断を要することになってしまうとしても、そこまで至れるならよくやった方であり、いつまでもぐずぐずしていないで、途中でやっていることをさっさと切り上げてそこから遁走してしまうのも、結果的にそれでうまくいったことになれば早めの判断が功を奏して的確だったことにもなるだろうが、結果が良くなければここはこうすべきだったと後から反省するのも、反省する余裕があるだけでもマシだと言えるかも知れないが、それもそんな余裕がある時もない時もあるだろうし、やっていることの程度を考慮するならいちいち反省しなくてもかまわないようなこともいくらでもあるのかも知れず、何でもかんでもやった後からここはこうすべきだったと反省しているようでは、程度の強弱や大小がわからないようなおかしな感覚に囚われていることになるだろうから、何か一律かつ一様な傾向にすべての物事を捉えて判断するのはおかしいし、それが事と場合によっては危険な兆候を見せている面もあるかも知れず、物事の存在や動作や推移の程度や傾向に抑揚やめりはりを感じ取れないと、何事も平板で単純化された傾向に捉えてしまい、そうなってしまうと途中で踏みとどまれずにどちらか一方に性急に至ってそれで良し悪しを判断しておしまいとなってしまうわけで、そういう傾向を持ち合わせた人がいる一方で、また別の傾向を持ち合わせた人もいれば、他にも様々な傾向の人たちによって様々な傾向の判断がされていれば、その中からその場の状況に合わせた判断をした人が成功することになるだろうが、ある人がその場で成功して別の人が失敗することによっても、成功したり失敗したりした出来事を起因としてその場の情勢や状況が変わるのだろうし、またそういう人によって成功したり失敗したりする光景を目の当たりにすれば、それを目撃した人の判断にも影響を与えて、人の振り見て我が振り直せとばかりに今までの感覚の延長上で判断したらまずいと思われるなら、自らの感覚を修正したり調整しようとしてくるかも知れないし、それが以後の判断に生かされるなら感覚の修正や調整が功を奏したことになるのかも知れないが、それに呼応して他の人たちも自身の感覚を修正したり調整してくるとすれば、そうしたことも加味して情勢や状況も刻一刻と変化するだろうし、そうやって情勢や状況の観察者や体験者の心理状態や態度や行動の変化もその場の情勢や状況にフィードバックされてくるわけだから、そういうことを考慮したり配慮し出すときりがなくなるわけだが、実際にきりがなくなるように情勢や状況が推移しているのだろうし、そういうきりがないような情勢や状況の中で思念や情念が根負けしてしまうと、居直って物事を単純化して捉えて何でもかんでもこうだと断定したり断言したりするようになってしまうのかも知れないが、そういう人が多くなればなるほど相対的に根負けせずに丁寧かつ誠実に対応しようとする人がうまく情勢や状況を切り抜けられる可能性が高まるのかも知れず、そういう面でもそういう傾向の中で人々の間で感性や感覚による競い合いや競争がおこなわれているとすれば、否応なくそれに参加させられてしまうような成り行きが生じているわけだろうが、そういう競い合いや競争にのめり込んで感性や感覚を磨けば鋭い感性や感覚の持ち主になれるかも知れないが、それもそういう情勢や状況の中にいることを関知できなければそういう成り行きにはならないだろうし、さらにそれを意識して関知している人もいる一方でそれと自覚することなくそうなってしまう人もいるのかも知れず、意識してそうなろうと努力するには限界がある一方で、そういう状況に巻き込まれて自然に感性や感覚が磨かれてしまうような人には、どんなに努力してもかなわない面がありそうだが、そういう面ではそうだとしてもそれとは別の面ではそうでもないかも知れないし、すべての面にわたって感性や感覚が磨かれるような成り行きにはなりがたく、逆にある方面では鋭くあるよりも大雑把で鈍感である方がうまくいく情勢や状況というのもあるのかも知れず、そういう意味で人には完璧さや完全性をもたらすことができないとなればすべての面にわたって完璧で完全である存在が神だと想像してしまうわけで、そういう想像力から神への信仰が生じるとすれば宗教の類いにもそれ相応の合理的な面があると言えるだろうし、人ができそうなことの全面的な可能性に関して一人ではある特定の面での限定的な能力しか持ち合わせていないにしても、多くの人たちが連携して力を合わせて協力し合えばそれだけ全能の神に近づくことができるような気になれるのかも知れず、そういう面では自然と協力し合わなければならないような誘惑が生じてくるわけだろうが、その一方で多くの人たち協力するためには各人の感覚や感性を調整して一致団結する必要も生じてくるし、そういうところで集団を一元的に統治するような必要も生じてきて、それには個人間や勢力間の対立や争いの関係も調整を余儀なくされるだろうし、実際にそういう方面でうまくいっているとは言いがたい情勢や状況があるにしても、うまくいく可能性があるように思われる限りで、そういう方面での努力も断続的に続けられる成り行きにはなるだろうし、実際にそういう努力が様々な方面で続けられている一方で、それに伴ってそれを阻むような対立や争いも断続的に起こっているだろうし、結局はそんな情勢や状況の推移の中で世の中が絶えず変化し続けるような成り行きとなっているのではないか。


4月5日「社会貢献」

 人には何らかの社会的な役割があるとしても、自らの意志でそれを担うことができるかというと、中にはそれを担いたいと願って実際に担うことになる人もいるかも知れないが、大抵の場合はそんな使命感を抱くわけでもなく、自らのやっていることに関してもそうすることが社会的な役割だと認識しているわけでもなく、それがやりたいことであっても、あるいはやりたくないのに強いられてやらされていることであっても、そんなことをやっている自らに何か社会的な役割があると思いながらそれをやっている人はそんなに多くはいないだろうし、まずそう思うことがあまりないだろうが、やっていることに社会的な役割があるかないかを問われるようなことがあれば、真面目に考えるならそういう役割が何かしらあるのではないかと思う人もそれなりに出てくるかも知れないし、そういう脈絡があって初めてそういうことを考えてしまうような成り行きになるかも知れないが、少なくとも初めから意識することではないはずであり、社会的な役割を意識したところで自らのやっていることに関して、それを意識して改めて真摯に取り組むようになるわけでもないし、何か社会をよくするためという使命感に駆られてやっているかと問われるなら、中にはそうだと答える人も出てくるかも知れないが、そう問われることがあるかとなるとそんなことはないだろうし、そういう意味で世のため人のために何かをやるという行為は希有なことであるのは確かなのかも知れないが、実際にそんなことをやっている人がいるとしても、そのやっていることが本当に世のため人のためになっているかと問われるなら、それを意識しているのだから当人はそのつもりでやっているのだろうが、その人にかかわっている他の人がどう思っているかまでは考慮するようなことでもないだろうし、ましてや本当に世のため人のためになっているかを検証するような成り行きになることはまずないだろうし、その辺は当人の思い込みだけでそんなことをやっているだけだとしても、それを外部からいちゃもんをつけて批判するようなことにはまずならないだろうし、またそういう意志をあからさまに表明しながら何か人道的なことをやっている人を攻撃してはまずいわけだが、ならばそういう行為が推奨されるかといえば一般的には推奨されるような行為だろうが、確かに建前としてはそうだとしても誰もがそんなことをやっているわけではないだろうし、そうではないようなことをやっている人が世の中のほとんど全員だとしても別に社会が崩壊するわけでもなく、そもそも社会の役に立つことをやるということが何を意味するのかといえば、現状でおこなわれているすべての行為によって現状の社会が成り立っていると捉えるなら、すべての行為が何かしら社会の役に立っていることにもなるだろうし、もちろんそう捉えることもできるが別にそう捉えなくてもいいということでもあり、中には何の役にも立たないようなことをやっている人もいるし、それどころか社会にとって有害なことをやっている人もいるわけだが、それもやっている当人がそれを自覚しているかとなると、それどころか案外社会に貢献しているつもりでいたりして、それを有害であると決めつけること自体が他の誰からも支持を得られないようなことであったりして、さらに言えば逆に社会にとって有害な存在と見なされて排除されたり弾圧されるような人こそが、真に社会のためを思って善行をおこなっているようなことになっていたりもして、それもその人を排除したり弾圧している側からすれば、そうするに足るもっともな理由や大義名分があったりもするわけだが、要するに社会の中では様々な思惑が渦巻いていて、何をやるべきで何をやってはいけないかの価値基準が建前上はあるとしても、それに基づいて行動できるかとなると誰もがすんなりと従えるわけでもないだろうし、中にはそれに反することをやらざるを得ない人も出てくるわけで、そういうことをやっている人を取り締まったり罰する役割を担うような機関もあるわけだから、そういう機関に所属する人はそんなことをやる役割を担うことになるだろうし、またそういう機関自体が社会の役に立っていることになり、社会を健全に保つにはそういう機関が必要であり、それ自体が社会に貢献していることになるわけだが、そういう機関に取り締まられたり罰せられたりする側の人たちからすれば、自分たちが違法なことをやっている認識があるにしても、そんなことをやらざるを得ない境遇になっているわけだから、世の中にはそういう立場や境遇もあるということにはなるだろうし、そんなことも含めて社会が成り立っていて、そういう立場や境遇の人たちはそれを取り締まったり罰したりする機関の役割を成り立たせている意味で、否定的な意味で社会の役に立っていることになるはずだが、普通はそれを社会の役に立っているとも社会に貢献しているとも言えないし、端的に言って社会にとっては有害な存在でしかないわけだが、そういう行為を無理に正当化する必要はないにしても、中には全面的に否定することはできないような行為もあるだろうし、やむにやまれずにやってしまったことなら情状酌量的なことにもなってしまうだろうが、そういう相対的なレベルではなく、善悪や良し悪しの判断を外れるようなことをやってしまう場合もあるわけで、それが具体的どんな行為かとなると、そういうことが実際におこなわれてみてからでないと何とも言えないのかも知れないが、そういうのがまれにしか起こらないことであれば普段から考慮するようなことでもないのかも知れないが、何をやったからといってそれが役に立つとか立たないとか良いことであるか悪いことであるかとか、すぐにその場で判断されるような成り行きにはならない場合の方が多いのかも知れないし、その程度や傾向やその場の状況にもよることではあるわけだが、そういう判断がされるような成り行きの中で何かがおこなわれたなら、そういう判断にもそれなりにもっともらしさが感じられるだろうが、そんな成り行きではない状況の中で唐突にやっていることの善悪や良し悪しや役に立つか立たないかなどの判断がされても、すぐにそれを真に受けるようなことにはならないのかも知れず、それよりはその場の状況や成り行きに合わせておこなわれることの方がそんな状況や成り行きの中にいる人にはしっくりくるだろうし、そうであるなら絶えず善悪や良し悪しや役に立つか立たないかの判断を伴いながら何かがおこなわれるというよりは、その場の状況や成り行きに合うようなことがおこなわれることの方がもっともらしく思われるわけで、そしてその場ではそうするのが当然のことのように思われるとしても、それをやった後からやったことの善悪や良し悪しや役に立ったか立たなかったかが判断されて、そうやってそれに対する評価がおこなわれるような成り行きになることもあるだろうが、すべての物事に対してそうした判断や評価がおこなわれるわけでもなく、その必要が生じたときにそんなことがおこなわれるのであり、それがいつどのような経緯で必要になるかは、そういう成り行きになってからその必要性が生じてくるとしか言えないわけで、それを判断するような成り行きが何らかの事情から実際に生じてくるわけだろうが、そういう事情が出てくることを前もって考慮できるかとなると、中にはできるときもあるのだろうが、大抵の場合はやってしまった後からそれが深刻な事態を引き起こした場合に限って、善悪や良し悪しの判断がおこなわれる場合も出てくるだろうし、中にはそんなことをやってしまった人を罰する目的でそういう判断がおこなわれる場合も結構あるわけだが、逆に特定の誰かを賞賛する目的でそういう判断がされる場合には、初めからそれが善い行いであることを前提に判断がおこなわれるわけだから、そういうのはあらかじめ結果ありきの見え透いた判断になるだろうが、それを批判するような人たちにとっては、そういうお手盛り企画の見え透いた行為の横行が社会に害悪をまき散らしていることになるかも知れないし、実質的には何の中身も伴っていないような偽りの社会貢献を賞賛して、それに対してわけのわからない怪しげな賞を贈るパフォーマンスを宣伝するような行為自体が何の役にも立たない有害な行為であると主張するような輩も出てくるわけだ。


4月4日「区別の強調」

 世の大多数の人が普通に暮らしている中で、ごく一部の人が何かに逆らっていて、それが自然な感情の発露であるように感じられるとしたら、逆らっていること自体が自然な行為と見なしてもかまわないのかも知れないが、具体的に何に逆らっているのかと言えば、他の多くの人が従っていることに逆らっているのであり、それが制度や法律の類いであれば明確な違反行為となるのかも知れないが、慣習や規範の類いであれば違反行為とは言えないが、それに従っていたり守っている人たちからは白い目で見られているかも知れないし、あからさまに非難されることはないが、反感を抱かれている場合もあり、場合によっては除け者扱いされていたりもして、その周囲で不穏な空気が漂っていたりするのかも知れず、そうやって何か世の多数派に属する人たちと微妙に振る舞いの異なる少数派と見なせるような若干の人たちが世の中には存在しているのかも知れないが、はっきりとその存在が確認できるというわけではなく、それらの人たちもある面では多数派に属していたりして、何かの拍子に多数派から区別されて少数派と見なされるときもあるだろうが、恒常的にそうであるわけでもないかも知れないし、それがある時期には特定の民族とか宗派とか人種とかに見なされるとしても、それを意識しなければ他の人たちと変わりない生活を送っている限りで差異を強調しなければ区別できないような集団でしかないわけだが、中には何かにつけてそれを区別したがるような歴史的な経緯が生じていて、そういった事情を重視するような人はそれらの人たちを他と区別したくなるのだろうが、根本的には人に過ぎないわけだから人として扱う限りは他の人たちと同じように扱うしかないだろうし、少なくとも他の動物というわけでもなく犬でも猫でもなく人でしかないし、言葉を交わしたり人間関係の中で付き合いが生じることもあるわけだが、その程度の範囲内で収まればどうということはないわけで、他と争う契機が生じない限りは平和なままになってしまうかも知れないが、何らかの利害に絡めて差異を強調してしまうとその理由付けとして区別をしたがる思惑が生じてしまい、そこから集団と集団との対立や争いに進展してしまうこともあるのだろうが、そうなるに至るには地域的な事情も介在してくるだろうし、争う理由が生じない地域ではそうした差異を伴った集団とはならないわけだが、そういう意味では差異を強調する理由として争うために差異を強調するわけで、他の集団との争いの中でそうした集団が形成されてきたとも言えるわけだから、他と争っている過程で集団としての利害も生じてくるわけで、まずはそうした集団がありきではなく、対立したり争う口実として他との差異を伴った集団が人為的に構成されるとも言えるのかも知れず、そうした集団が自然に形成されるというよりは、人為的な意図や思惑を伴いながら構成される面の方が大きいのかも知れないが、そうなるきっかけや過程においてはそうだとしても、そうなった結果から見てしまうと自然発生的に生じたように思われてしまい、そうなったのが自然の成り行きに感じられるから納得するとともに集団内では強固な連帯意識が生じて、その結束が固いように外部からはうかがえるだろうが、確かにそんな時期もあるのかも知れないが、恒常的にそうだというわけでもないだろうし、争いが続いている限りで集団としてまとまっているわけで、他と争う理由がなくなればまとまっている必要もなく、何かのきっかけで争わなくなってしまえば集団が維持できなくなってしまい、実際に他と争わなくなって消えてしまった集団などいくらでもあるだろうが、その一方で集団を維持するために絶えず他の集団と争う口実を求めているような成り行きもあるだろうし、争いが先なのか集団の形成が先なのかといえば、何らかの争いから集団が形成されるのは間違いのないところだが、いったん集団が形成されてしまうと争うための口実を求めてしまうわけだから、あたかも何らかの集団がもとからあって、その集団が他の集団と接触したことによって争いが起こったことになってしまうのかも知れないが、そうなった時期だけを取り出せば確かにそういう認識でも間違ってはいないように思われてしまうとしても、そこではそれ以前に他との争いとともに生じてきた経緯が考慮されていないから、何らかの集団が平和に暮らしている地域へと他の集団が侵入してきてそこで争いが起こったとなれば、もとから住んでいた集団に正義があるかのような論理がまかり通ってしまうわけだが、もとから住んでいた人々が何らかの集団として結束しているように見える時点で、すでにそれなりの争いが絶え間なく続いてきた歴史があって、そんな争いの歴史とともに様々な集団が現れては消えていった経緯があり、その中で厳密に先住民として認められる集団があって、過去の存在したとされる集団と現状の中で存在している集団との間でそれなりに遺伝的にも文化的にもつながりがあっても、他の集団との間でもそれなりに混交も進んでいるだろうし、そういった集団の在り方として集団に固有の文化を守ろうとするのが当然の成り行きにはなるだろうが、その一方でそうした集団が消滅しつつあるとすれば、集団として結束する必要がなくなってしまったことを意味するだろうし、またそれは他の集団と争う必要がなくなったことも意味するのだろうが、そういう文化的なレベルで構成される集団の争いがなくなるとともに、それが別のレベルで構成される集団の争いに引き継がれている可能性もあるだろうし、それが行政的なレベルで生じる集団の争いなら国家間の戦争になって、また経済的なレベルで生じる集団の争いなら企業間の競争になるわけだが、それらのレベルも混ざり合って互いに絡み合っている場合があるだろうし、そうやって様々なレベルで他との区別が強調されて、その区別を口実にして争いがおこなわれているとすれば、争うための口実として他との区別を強調することによって集団の結束を維持しているのは変わりないとしても、例えば文化的な面や宗派的な面や民族的な面や行政的な面や企業的な面などすべての面で区別が一致するわけでもないところが、争うための口実の曖昧さをもたらしているのかも知れず、ある面でははっきりと区別できるにしても別の面では区別できないようなことになれば、それだけ争う口実が減じられて弱くなり、争いの程度も相対的に低調になってくるような傾向があれば、争いの中で利益を得ようとする勢力にとっては困った事態になってしまうのかも知れないし、もちろん争いを煽り立てる側としては争うのに都合の良い面だけ取り上げて強調するわけで、そうやって他の人や勢力を味方に引き込んだり敵と見なしたりしながら争いを拡大させようとするのだろうが、そういう煽動行為がうまくいくには他の人や集団が乗ってこないといけないわけで、それはその場の情勢にも左右されるだろうが、少なくとも他との区別が曖昧になっているような傾向があれば、それが原因でうまく争えないようになってくるかも知れないし、そういう意味で争う理由として自身と他をうまく区別できないような成り行きが生じているところでは争いが起こらないわけだろうが、なぜ区別がうまくできないのかというと、少数派を自認するような人たちにとっては世の中の成り行きに逆らうような理由がなかなか生じないかも知れず、それに関しては簡単には反発するきっかけを与えないような世の中になってきているというと、何か強制的に多数派に従わされているような感覚になるのかも知れないが、それなら不快な気持ちになるとともに嫌悪感や反感を抱けるわけだが、そうではなく何が多数派とも思われないというか、それと同時に誰も多数派に反感を抱く少数派にはなれないような状況となっているのかも知れないし、それだけ多数派と少数派の区別が曖昧となっていて、そのどちらでもないような立場でもないような境遇になっているとしたら、他と自分と間に何らの違いを設けて区別する理由も争う理由もないわけで、それ以前に自分は自分であり他人は他人であるだろうし、その他人にしても別の他人との間で区別する理由も争う理由もなければ、わざわざ同志を募って徒党を組んで敵対する集団と争う契機が生じないような成り行きとなってしまっているのではないか。


4月3日「配慮すべき対象」

 人を助けることは人に配慮することにもなるだろうが、人が政治に何を求めているかといえば、政治活動の対象となる人たちを助けたり、その存在に配慮してほしいということだろうが、政治が助けたり配慮するのは人だけでなく企業もその対象となるだろうし、経済的な事情からどちらかというと人よりも企業を優先して助けたり配慮したりするときもあるだろうが、企業を助けたり配慮することが人を助けたり配慮したりすることにつながるかといえば、人が企業で働いたり企業が売る商品やサービスの消費者になるわけだから、当然つながる面があるはずだが、税負担などの面で企業の負担を軽くした分を人への負担を重くすることで釣り合いをとろうとすれば、人からは不満が出るのも当然かも知れないが、人への税負担を重くした分で人への行政サービスを充実したり拡大すれば、そういう面においては支持を得られるかも知れないし、企業の税負担を軽くすることでそこで働く人の給与が上がったり、売る商品やサービスの価格が安くなれば文句もないかも知れないが、そうはならなければ批判が出てくるかも知れず、では逆に人への税負担を軽くして企業への税負担を重くすればいいと単純に言えるかとなると、それによって企業の国際競争力が低下して経済が悪化してしまうという危惧が生じてくるかも知れないが、そうであれば人も企業も減税して行政の予算を減らせばいいという主張も出てくるかも知れないし、実際にそういうことをやってみればどうなるかがわかるだろうが、それ以前に税の公平化を図ったり行政を効率化して無駄な出費を減らすように努力したり、そういうことが政治活動として期待されているのかも知れないが、そういう面ではそうであるとしても別の面ではまた別のことが期待されているだろうし、何かそういう期待に応えてそれなりの政治的な主張がおこなわれているかも知れないが、期待することと配慮することが違うのは当然のことであり、他人に対して配慮しない人たちに何を期待しても無駄かも知れないし、他人に配慮しない人たちがいくらもっともらしいことを主張していてもそれは宣伝でしかなく、そんなのは実現しない空約束に過ぎないことかも知れず、そういう主張や主張している人やその人が所属している政党などの勢力に期待すること自体が愚かなことかも知れないが、期待する以前に人が何に配慮しようとしてもそれができるかということに関してもそれなりに限界があるのかも知れず、さらに配慮したところで期待したような効果が上がるのかということに関してもそれ相応の限界があるだろうし、そうであれば実際にその人なりその人が所属している勢力なりが他の人や団体などに何をどのように配慮しているのかを知らないと何とも言えないことになってしまうのかも知れないが、その際にはそういう他に対する配慮がわからなくても自身に対する配慮ならその人の態度や姿勢や仕草などからうかがえるのかも知れず、そういうところを注意深く観察してみればある程度は想像がつくかも知れないし、それが勘違いでなければそこからその人やその人が所属している勢力への信用や期待も生じてくるかも知れないが、まずはそういうことを考慮した上でそれに合わせて期待するのでないと、ただ漠然の都合の良いことを期待しても期待外れに終わる可能性が高いだろうし、そんな期待自体も大して真剣に期待しているわけでもなければどうということはないわけで、他に対していい加減な期待を寄せている程度の自身が信用のおけない存在でしかないわけだが、さらにはそんないい加減な期待を寄せている対象自体も大したことはないのかも知れず、そうやって自身に対しても期待している他の対象に対しても配慮を欠いているとしたら、そういう姿勢や態度がまかり通っている自身の状態も自身を取り巻く世の中の状態もくだらないのかも知れないが、それもそんなことを思っていること自体が勘違いであり、自身のくだらなさを世間に投影しているに過ぎず、そうなるとそもそも自己への配慮を欠いていることになるわけだろうが、そんな態度や姿勢を改めるにはどうしたらいいかとなると、まずは自己へ配慮しなければならないだろうし、自己に対してどう配慮すべきかということになれば、自身に対して謙虚になることが他人に対しても誠実に対応することにつながるならそうすればいいだろうが、それと同時に自己の能力の限界を知れば自己に対して過大な期待を寄せるのを思いとどまるだろうし、自己に対してそうすることができればその延長上で他人に対してもそうすることができるかも知れないし、そうであれば自己への配慮が他人への配慮につながり、逆に自己に対する配慮の内容や傾向が他人への配慮や傾向をうかがわせるのかも知れず、それに関して良くいわれることは自己に甘い人はその反動で他人には厳しかったり、逆に自己に厳しい人は他人には甘いということではなく、自己に厳しいからこそ他人には誠実で丁寧に対応してくれたり、その辺が微妙にニュアンスが異なって必ずしも対照的とはならないわけだろうが、一概に自己に甘いという表現でもどう甘いかで他人に対する態度や姿勢も変わってくるのかも知れないし、単純には言えない面があるわけだが、また他人に媚びたり追従する人が自身に対してはどうなのかとなると、自己そのものが希薄というか、世間とか世の中の多数派とかの意識に一体化していて、その人に確固たる自己があるとは思わなくても済んでしまうようであれば、その人自身も他の誰とも取り替えが利くような存在であったりして、そういう存在が大衆と呼ばれる存在なのかも知れないが、外部から見ればそう感じられるとしても当人は自己に対してそんなふうには思っていないだろうし、その人に固有の自己があるはずなのだろうが、相手が何か世間的にありふれているように思われて典型的な人格を伴っていると感じられてしまうと、そういう人にはこう対応しておけばいいような事務的かつマニュアル的な対処の仕方が思い浮かんで、実際にその通りに対応してそれで済ませることができれば安心してしまうわけだが、そう対応された他人からしたらその人も自分のことをそういう紋切り型の対応に終始するようなありふれた人だと思うだろうし、実際にそれでかまわないならそれに越したことはないわけで、別にそう思われてもかまわないような状況の中で対応してそう思われたのならそれがどうということはないわけだが、そういうところで他人から良く思われようとしても意味のないことかも知れないとしても、功利的な思惑から自然と相手から良く思われようとしてしまうのかも知れないし、逆に嫌われてもかまわないと思えばぞんざいな対応に終始してしまうかも知れないが、戦略的にわざと軽く見られるように振る舞うなら、軽薄に媚びを売ったりお世辞を言ってみたりして、自分はこの程度の輩だからそう思っておいてくださいと意思表示しているみたいな成り行きにもなりかねないし、そういうところで虚々実々の駆け引きが繰り広げられるようなことになってしまうと、そんなことをやっていること自体が物事の本質からかけ離れたところで見え透いた芝居を打っているだけのような気がしてきて、むなしくなってしまうかも知れないが、果たしてそういう回りくどいことはやらずに相手の顔色をうかがうようなことはせずに率直かつ誠実な対応に終始できるかとなると、まず自分に自信があって相手を信用できれば自然にそうなるかも知れないが、自信がなくて相手を信用できなければお互いに腹の探り合いのような駆け引きをおこなってしまうのかも知れず、それもその場の深刻度や相手の関係の濃密度にもよるだろうが、一律に同じような対応とはいかない状況があるとすれば、それだけ複雑で錯綜した人間関係や物事の関係の中で生きていることになるだろうし、そういうところでも世間に向かって自らの誠実さをアピールするような下心があれば、相手が誰であっても丁寧かつ誠実な対応に終始しているように見せかけるかも知れないが、そういう人もそんな魂胆が見え透いているように感じられるとそういう方面では信用されないわけだろうが、詐欺師のように迫真の演技ができるようなら浅はかな人は信用するかも知れないし、それもその場の状況から演技であることがばれてしまうような成り行きも生じてしまうのかも知れないし、そんな演技をすること自体が馬鹿馬鹿しく感じられるようなら、自己にも他者にそれなりの配慮をする気になるだろうし、なるべくごまかしやまやかしを避けて、後々面倒なことにならないように自分に対しても相手に対しても真の自己を見せようとするのではないか。


4月2日「正しい行為」

 うまくいかなくても平然としていられるような成り行きとなっていれば、何をやってもどうということはないのかも知れず、なぜそれがどうということはないのかといえば、やり方を間違えても何とかなるからであり、やり方を間違えなければなおのことうまくいくのかも知れないが、やったことがないのにやり方を知っているわけでもないだろうし、やり方を間違えながらも正しいやり方を模索していくしかないにしても、何が正しいとも思えなければやっていることが正しくなくてもかまわないのかも知れず、肝心なのはやっていることが正しいとか間違っているとかではなく、自身がそこで何かをやっていることが生きている証しであり、それがそこにいることの最低条件だとしても、それ以外には何もなければそれで十分であり、他に何があろうとなかろうと、それらは余分で枝葉末節なことに過ぎなければ、もうそれだけで何かをやっていることの条件を満たしていることになり、それがどうということはなくてもそれでかまわないのかも知れないが、それ以上を求めるのが欲張りな態度に見られてしまうにしても、やはりそれでもかまわないわけで、それ以上を求めているふうを装ってそこで何かを模索しているような雰囲気が醸し出されていればいいわけだが、そうなっていることが何を表していることになるのかといえば、そこに真実がもたらされていればいいとなると誰がそれを真実だと認めるのかとなるわけだが、真実は真実であり嘘や偽りがないことが真実であり、ごまかしやまやかしではない行為が求められることになるだろうが、それが行為の正しさとは相容れないことになり、正しくあろうとすればごまかしやまやかしを許容せざるを得なくなって、正しい行為をやっているように見せかけようとしてしまうわけで、そうなると間違ったことをやっているという真実を覆い隠してしまうわけだが、そういう意味で行為の正しさにはごまかしやまやかしがつきものとなってしまい、実態としては間違ったことをやっているのにそれを正しいことをやっているように見せかけてしまうから、そういうところでやっていることが破綻しているわけで、さらに破綻を認めようとはしないばかりか、破綻していないようにも見せかけようとしてしまうわけで、そうやってごまかしやまやかしによって絶えず正しく見せかけようとする度に嘘や偽りが蓄積していって、破綻の規模が雪だるま式に大きくなってしまうわけだが、果たしてそれが本当に正しい行為なのかといえば、そういうことを平然とやっている側にとっては正しい行為だと強弁するしかないわけで、そこに欠けているのが真実であり、真実を明らかにして真実を語る勇気が欠けているわけだが、正しいことをやろうとすれば間違うことを恐れて、間違っていることが発覚するのも恐れてしまい、やっていることを嘘や偽りで塗り固めようとするから真実が隠されて、そういうことをやっている分だけ余計に手間暇がかかって、そんな手間暇の中には言葉による言い繕いも入ってくるわけで、それがやっていることの正当化であったり強調や煽動や宣伝になってくるわけだが、そこにどんな真実が含まれてくるかといえば、そういった言い繕いや言い訳が隠している真実が含まれているわけで、それを隠しているということも真実になってきてしまうだろうし、そうやって正しいことをやっているように見せかけるわけだから、見せかけようとすればするほど嘘偽りの言葉が増えてくるわけで、そういう見せかけの言葉が何を言っているのかといえば真実を語っていることを強調するわけで、自らが真実を語っていると主張してそれを宣伝して煽動するわけだが、それが正しい行為なのかといえば真実を語っているように見せかける目的に適っていることに関しては正しいわけで、そういう意味で真実を語っているように見せかける行為は正しいのであり、それが嘘偽りであり本当のことを語っていないとしても正しい行為であるわけだから、正しいことをやろうとする目的には適っているわけだが、ではその反対に本当のことを語ることが間違っているとしたら、それがどういう意味で間違っているのかといえば、間違いを自ら明らかにするのは正直なことだが、間違ったことをやっていると信用を失うだろうし、信用を失うとそれができなくなってしまうかも知れないし、それも間違いの種類や程度やその場の状況にもよるわけだが、信用を失うことややっていることができなくなるのを恐れて、間違いを明らかにできなくなる場合があるとすれば、正直には振る舞えなくなってくるわけで、そうなるとその場での正しい判断としてはごまかしやまやかしによって間違ったことをやっている真実を覆い隠すことになるわけだが、果たしてそれが本当に正しい判断なのかといえば、その後の成り行きにもかかわってくることだろうし、それでうまくいけば正しい判断だったことになるしうまくいかなくなれば間違った判断になるかも知れないが、その場の判断が正しかろうと間違っていようと、どちらにしてもうまくいかなくなることだってあり得るだろうし、逆にどちらにしてもうまくいくことだってあり得るわけだが、そうなると判断が正しいか間違っているかなんてどうでもいいことになってしまうわけで、ではそんなどうでもいいことに手間暇をかけて思い悩むのが嫌ならどうすればいいかとなると、本当のことを語っても困らないような生き方をするしかないだろうし、いつ何時でも真実を語っていられるように行為を調整する必要が出てくるのかも知れないが、そういう生き方をしていられてそういうことをやっていられるようにするにはどうしたらいいかとなると、自ずから生き方も行為も限られてきて、要するに他人に迷惑をかけないような生き方をしなければならないだろうし、さらに他人に迷惑をかけても困らないようなことをやらないといけなくなるわけだが、それが具体的にどのような結果を招くのかといえば、一人で孤独に生きていくような成り行きになってしまうのかも知れないし、他人との共同作業や付き合いをできるだけ減らすようなことにもなってしまうのかも知れないが、それが結果的には孤独死などの自滅を招くようなことになれば、ある程度は嘘偽りやごまかしやまやかしを駆使してでも、それによって他人を利用して迷惑をかけながら生きていくことを受け入れるような成り行きになるのかも知れないし、場合によっては他人を騙して不幸にしてでも自身が幸福になろうとしたり、他人との争いや戦いに勝利して富や名声をつかみ取りたいと思うのかも知れず、そういうことをやるのが正しい行為であり正しいやり方だと信じて疑わなければ、それだけ心身ともに強くなれるだろうし、そんな正しい生き方や正しいやり方を実践して成功した人もいくらでもいるのかも知れないが、誰もがそういうことをやるべきということでもないだろうし、やれる成り行きになってしまった人はそうなって、そんなことをやっている中から成功する人もそれなりに出てくるのかも知れないが、それでも競合したり競争する他人との駆け引きの中で成功したり失敗するわけで、うまくいくときもあるだろうしうまくいかないときもあるだろうが、そこでも結果的にうまくいけば正しいことをやってきたようにも思われるだろうし、うまくいかなければ間違ったことをやってしまったと思われるときもあるだろうが、正しいことをやったからといってうまくいかないときもあるだろうし、逆に間違ったことをやっても結果的にうまくいくときもあるのかも知れず、そんな成り行きを自身の都合で信じたり信じなかったりしながら何とか生きている現状があるのかも知れないが、それが本当の実態であり真実であるかといえば、そう思い込んでいるだけであったり、実態は全く違っていたりもして、そういうことの実態を詳細に調査すれば本当らしいことが明らかになるかも知れないが、それも調査の程度にもよるだろうし、それらの中で何が本当で何が嘘なのかは、そういうことに興味がなければどうでもいいことであったりして、そんなことは嘘でも本当でもどちらでもかまわないような生き方をすればいいのかも知れない。


4月1日「作為的な行為」

 わざとらしく作為的な行為は自然さを感じられないが、では自然に感じられる行為には作為がないのかといえばそんなことはないだろうし、作為的なわざとらしさを感じられない分、より巧妙な仕掛けが施されているのかも知れないが、そういうことではなく実質的におこなわれている内容を捉えなければそれについて語っていることにはならないが、それが見せかけやごまかしではなく実際におこなわれていることでないと評価できないのはもちろんのこと、ではそこでおこなわれていることの何を評価できるのかといえば、実際に世の中に作用や影響を及ぼしている内容が評価の対象となるわけだが、それを誰が評価するのかといえば知らない物事は評価できないから、それに気づいている人が評価するしかないわけだが、どう評価するのかといえばそれの良し悪しを評価すればいいということになると、良ければ賞賛して悪ければ批判するようなことになるわけだが、それの何が作為的なのかといえば、何でもかんでも良し悪しで評価するような成り行きへともっていきたいところだが、そうなると良くも悪くもない行為をどう評価すればいいのかとなるかも知れないが、普通に評価しなくてもかまわないだろうし、評価する必要がなければどうすればいいのかと言えば無視すればいいだろうが、それがおこなわれているのにあえて無視するとなると、おこなわれているのに気づいていないように思われてしまうだろうし、それがしゃくになって気づいているのにあえて無視していることを示そうとすると、わざとらしく作為的な行為となってしまうのかも知れないが、小心者の小物ほどあえてそんなことをやろうとするのかも知れないし、そうでなくても自意識過剰気味に自己アピールしたい輩は自らの判断や評価が正しいことを主張したいわけだが、もちろんそれと同時に自らが小心者の小物には見えないように振る舞おうとするわけだから、またそんな取り繕いもわざとらしく作為的な行為となってしまうわけだが、そういう悪循環から抜け出すにはどうすればいいのかとなると、普通に気にしなければいいのだろうし、気にしないように思い込もうとすれば余計に気になってしまうなら、今度は気にすればいいのだろうし、そうやって周囲の目線を気にしたり気にしなかったりしながら、自家中毒気味に周囲への自己アピールを欠かさなければ、どこにでもありふれた無名の一般人として生きていけるのかも知れないが、そういう意味では自己への配慮とはその人を分相応に取り扱うことになるわけで、どんなに作為的に自らを超えて大きく立派に見せかけても所詮は浅はかな魂胆を周囲に見透かされてしまうのかも知れないが、別にそうなったからといってその程度のこととして小馬鹿にされながらも安心されるだけだろうし、誰もがその程度の輩でしかないわけだからそれがどうしたわけでもないわけだが、それ以上を目指す必要があるかとなると必要はないといってしまうと身も蓋もないだろうが、例えば誠実に見せかけようとするのではなく誠実に振る舞おうとするのでもなく、自然な振る舞いが誠実に感じられるなら申し分ないわけだが、少なくとも作為的に振る舞うのをやめれば自然な振る舞いになるだろうし、それが誠実な振る舞いに感じられるかとなるとそうでもなければどうしようもなく、実際にそうならなければ意識して誠実に振る舞おうとするしかないだろうし、自らの作為的な見せかけをなるべく取り除こうと努めるしかないが、それと自覚することなくそうなっているとそれができないわけで、それができなければその必要がないのかも知れないし、当人が必要だと思ってもできなければどうしようもないわけだが、そうであるならそのままでもかまわないだろうし、それと自覚することなくそうなっているのだからそれがその人にとっての自然な状態なのかも知れず、それを無理に変える必要はないわけで、周囲から小心者の小物だと評価されようと気にしなければいいわけだが、本当に小心者の小物であれば気にするだろうし、気にしないということができないから小心者の小物でしかないわけだが、ならば大いに気にして周囲からそう思われないように作為的に振る舞えばいいわけで、そんな否定的な評価を払拭するために普段とは逆の振る舞いを演じようとすれば自然とそれが身につくのかも知れないし、そんなふうに振る舞うことも自己への配慮と言えるかも知れないが、そうすることがそれなりの危険を伴うならそれを積極的に引き受けなければならないだろうし、それがどのような危険なのかといえば、そうすることで周囲のその人に対する見方が変わって、もはや小心者の小物だと小馬鹿にして安心するわけにはいかなくなって、甘く見てはまずいと思われるとともに不安感も伴ってきて警戒されるかも知れないし、そうなると小心者の小物たちはその人を仲間外れてしてしまうかも知れず、結果的に周囲から孤立して誰からも助けてもらえなくなってしまい、そうなるのが嫌なら周囲からの同調圧力に屈して卑屈になるしかなくなって、元通りの小心者の小物のように振る舞って周囲を安心させなければならなくなってしまうのかも知れず、それもわざとらしく作為的な行為になってしまうだろうが、そうやって周囲の小心者の小物たちに溶け込んで追従してこびへつらっている限りで、周囲はその人を小馬鹿にしながらも安心するだろうし、そういう生き方が情けないと思うなら孤立を恐れずに立派に振る舞うように心がける必要が出てくるわけだが、それがその人にとっては分不相応な態度だとしても誰もがそんな二者択一を迫られているわけでもないだろうし、自らが変わればそれが周囲にも作用や影響を及ぼして周囲も変わる可能性が出てくるわけで、自ら周囲を変える覚悟がなければそんな心境にはなれないだろうし、そういう意味では勇気を出して自己改革とともに周囲の改革を目指す必要に迫られるかも知れないが、それ自体がそんな思い込みに基づいたフィクションでしかなく、実際には自らや周囲の人たちを過剰にに意識していて、物事を良し悪しだけで判断しようとするから良い面も悪い面も過大に見積もっているわけで、世の中で群れて群衆を形成している誰もが小心者の小物ばかりとは限らないし、いつも多数派に追従していてこびへつらっているような人もそんなにはいないだろうし、たまにはそう見えてしまう時があるとしてもそんな時ばかりではなく、誰もがそんなことをやっている人たちを冷ややかに見下すようなこともなく、我関せずと見て見ぬふりをしているわけでもなく、そうはなっていない時の方が日常の大部分を占めている一方で、フィクションの中ではそんな小心者の小物たちが主要な登場人物を目立たせるための便利なキャラクターとして頻繁に登場するから、現実の世の中でもそうなのではないかという偏見が生じてしまい、もちろんほとんどの人たちにそんな自覚はないだろうが、それを意識できないから偏見や先入観としてこびりついているわけで、だから物事を判断したり評価するときにはそういう面が過剰に出てきてしまうのだろうし、それと自覚することなくそう思ってしまうのが自然な成り行きに感じられるだろうが、すでにそうなっている時点で意識がそう思わせるような作為的なフィクションに汚染されてしまっているのかも知れず、意図的にそう思うように仕向けられているわけでもないにしても、フィクションの効果としてはそんなふうに感じさせるようになっているだろうし、だからといって現実の世の中にそれを当てはめる必要はないわけだが、それもフィクションと同様にそう思っておくことでそうではない現実をやり過ごしているのかも知れず、現実を単純化して捉えるならそう思い込んでいる方が都合が良いように思われてしまうのかも知れないが、そう思い込んでいる限りで現実の世の中をフィクションと同じように捉えていることになるわけだから、それが作為的な現実の捉え方であることは確かだろうし、そうやって現実を過剰に意識しつつもその良い面や悪い面を誇張して捉えて肯定的にも否定的にも過大に評価しようとしているのではないか。