彼の声137

2020年

2月17日「確からしいこと」

 確からしいことは信じられることであり、信じてもかまわないと思われるかも知れないが、実際に信じているのはそんなことではなく、確からしくないことまで強引に信じようとしているのかも知れず、自意識の都合に合わせて自らに都合の良いことを信じようとしているのかも知れないが、そうなると確からしいとしても自身にとって都合の悪いことは信じようとはしないだろうし、それに伴って信じられることの基準が公平さを欠いてずれてしまうのかも知れないが、そうやって信用できない信仰が形成されるとしても、自分でそれを信じている限りで自業自得なのだから、身から出た錆のように自らを苦しめる信仰に煩わされながらも、そういった偏見や固定観念を改めようとすることで、そんな自縄自縛気味の殻を打ち破るような行為が何か肯定的なことをやっているようにも思われるだろうし、主体的にそんなことをやっている気がすれば自己改革をやっていることになるのかも知れず、それが本当に自己改革になっているのかというと、自分でそう思っているだけで、勝手な思い込みに過ぎなければ何でもないことになってしまうのかも知れないが、何が偏見や固定観念なのかについて正しい理解や認識がもたらされているわけでもなければ、それ自体が自らの都合に合わせた信仰をさらに信じることにしかならないだろうが、それについての正しい理解や認識にしてもどうやってそれが正しいと知ることができるのかといえば、何らかの世間的な権威に照らし合わせてそれを判断するとなると、その権威が間違っていれば間違った理解や認識になってしまい、そんな理解や認識の正しさに頼ること自体が信用できないことにもなってしまうわけだが、そうした理解や認識が正しいか間違っているかではなく、どうやってそんな理解や認識に至ったのかを明らかにすることが、そういった理解や認識に至る成り行きを知る上で重要になってくるとすれば、そういう成り行きに巻き込まれてそういう理解や認識に至る過程の中で、他にもそんな成り行きに巻き込まれて同じような理解や認識に至った人が大勢いれば、それが世間的な世の中の流れかも知れないし、誰もがそんな理解や認識に至ってそれが正しい理解や認識だと信じてそれを共有しているような状態となっていれば、そうやって世間が構成されていると見なしてかまわないだろうし、そういう世間的な理解や認識に留まっている限りで世間的な紋切り型に囚われていることにもなるだろうが、それが確からしく思われることであれば正しい理解や認識とはその程度のことであり、そんな理解や認識が正しかろうと間違っていようと、それ自体は何でもないことのように思われてくるだろうし、それよりはそういう世間的な紋切り型に惑わされないようにすることが肝要なのかも知れず、またそういった傾向の特徴を捉えることができれば他の多くの人が信じている固定観念や偏見の類いがどのようなものなのかを把握できるのかも知れないし、何が固定観念や偏見であるかを見分けることができるようになれば、そんな理解や認識に至る成り行きがどういうものなのかも知るに至るのかも知れないが、実際にどんなふうにしてそうなってしまうのかといえば、大抵は物事を単純化してわかりやすいように理解しようとすることから、わかりにくい面を省く傾向が生じるわけで、なぜそれがわかりにくいのかというと、都合良く理解できないからわかりにくいのだろうし、それが正しいことだと認めてしまうと今まで信じていたことが嘘になってしまうから信じるわけにはいかなかったりするわけで、そうなると今まで信じていたことと新たに加わった確からしいこととの間で整合性がとれるような説明が必要とされて、そういう説明が固定観念や偏見に囚われている意識にとってはわかりにくいだろうし、そこで自らの考えを改められなければ新たに加わった確からしいことを受け入れるわけにはいかないし、新たな理解や認識を拒絶して今まで信じていた理解や認識に留まろうとすれば、自己改革の機会を逸して自縄自縛気味に旧来の思考の中で自閉することになってしまうわけだが、周囲の人たちもそうなっていれば心強いだろうし、そうであれば新たな理解や認識を受け入れること自体が間違っていると思われてしまい、どういう経緯でそういう理解や認識が生じてきたのかを知ろうともせずに、そんなことは知らなくてもかまわないような気になってしまうのかも知れないが、そういう決めつけが物事の単純化そのものであり、そうやって都合の悪いことを受け付けない限りでそれを新たな理解や認識として受け入れた人たちとの間で差異が生じてしまい、どちらの人たちが現状の環境に適合するかで優劣が決まるような成り行きになるとすれば、そういった理解や認識を受け入れるか否かが重大なことになるわけだが、果たしてそんな成り行きが実際に生じるかといえば、そういう理解や認識に基づいておこなう活動がどれほど世の中に作用や影響を及ぼすかでその深刻度も変わってくるだろうし、特にそれほど大した作用や影響を及ぼさないようならそんな不都合な理解や認識を信じる必要もないと思われるかも知れないが、それが直接それらの人たちに作用や影響を及ぼすのではなく社会全体の傾向を変えるような結果をもたらすのなら、それらの人たちには気づかないようなことなのかも知れず、知らないうちにそういった理解や認識がじわじわと広まっていって、そういう広まり方に何の抵抗感も反感も感じないような特性があれば、それを受け入れるか否かで人の優劣が決まるようなことではなく、世の中の情勢や状況の変化に合わせて活動していればそれと自覚せずに自然と理解や認識も変わってしまうようなことかも知れず、そうであればあえて今までの理解や認識を意識して改める必要はなく、今までの理解や認識を固定観念や偏見として批判するまでもなく、未来のどこかで過去を振り返ってみれば過去にそういう成り行きがあったことが明らかになるだけで、それをことさら取り上げて強調する必要もなければ、普通に暮らしている限りで意識する必要すらないことになってしまうだろうし、そんなことなら現状で誰もが抱いている固定観念や偏見を批判的に示す必要もなくなってしまうわけだが、ただ現状の中で行き詰まり感や閉塞感が漂っていることに気づいてしまう人がいるとすれば、どうやってそういう感覚がもたらされるのかを知るには、そういった固定観念や偏見から抜け出て新たな理解や認識へと至る必要があるのかも知れないし、実際にそういう固定観念や偏見に囚われているから現状が行き詰まっているように感じられるのかも知れず、そう感じられること自体がそれらの固定観念や偏見を通して現状を捉えようとしていることになるのかも知れないし、そんな現状の捉え方では新たな人や物事の動勢を感知できず、そういった動きや進展があることを知り得ないから閉塞感を覚えるのだろうし、そうやって未来への希望や可能性が潰えているように思われると終末的な感覚に囚われて、末期的な時代の中で生きているような感覚にもなるのかも知れないが、そう感じるから今まで抱いてきた物事の理解や認識では駄目なのではないかと危機感を募らせるのかも知れず、そういった危機感が何かこれまでにないような物事の理解や認識を求めて意識を新しい発明や発見へと向かわせることになり、そんな要請に合うような物事の理解や認識を生み出そうとすると同時に、すでに使い古された理解や認識を過去の時代遅れな固定観念や偏見として捨て去るような意向も生じさせ、未だにそういった理解や認識にしがみついていたい人たちとの間で無用な摩擦や軋轢を引き起こすのかも知れない。


2月16日「現状の打開」

 現状を打開する必要があるかといえばあるともないとも言えるのかも知れないが、現状の政府を批判している人たちは打開したいだろうし、政府が変われば現状を打開できるのかというとそれもできるともできないとも言えるかも知れないが、そういう水準でどうこうするということではなく、各人が打開する必要を感じていれば打開しようとするだろうし、その必要を感じなければ現状のままに留まろうとしているかも知れないが、現状について何をどう感じていようと、現状そのものが変わり続けている面も変わらない面もありそうで、そういう面が気に入らなければ変えようとするし、気に入ればそれを維持し続けようとするだろうが、変えようとしても変わらない面もあるし、変えようとしなくても変わってしまう面もありそうで、変化に対応しようとしたり対処しようとしたりする反面で、対応も対処もしきれない面もありそうだが、それなりに対応できたり対処できたりするから何とかなっている面もありそうで、日々やっていることが様々なことに対応したり対処していることになるわけだろうが、やっていることに意味や意義を求めてしまうと、それがやっていることを正当化することにつながってしまうのかも知れないし、正当化することが現状への対応や対処となるかといえば、対応や対処しきれないから正当化するしかないのかも知れないし、そうやってやっていることに否定的な面があるのを認めようとしないのかも知れないが、やっていることを正当化することによって現状を打開できるかというと、他からやっていることについてとやかく言われたら反論せざるを得なければ、それがやっていることの正当化になるわけだから、他から何を言われてもやっていることをやり続けることが現状を打開していることになると同時に、それが現状維持にもつながるだろうし、そうなると現状を打開することが必ずしも現状を変えることになるわけでもなく、逆に打開できずにやっていることをやめてしまえば現状を維持できずに変わってしまったことになるわけだから、そうなってしまえば変わろうとして変わったのではなく、変わりたくないのに他から作用を及ぼされて変えられてしまったことになるわけで、それが当人には悔しいことかも知れないが、いつまでもやっていることにこだわってやり続けてもらちがあかない状況であれば、かえって他から作用を及ぼされてやめさせられてしまった方がいい場合もあるだろうし、実際にそうなればやっていることの正当化をあきらめざるを得なくなるわけで、それが当人にとって良かったのか悪かったのかはどちらであってもなくても無関係な人にとってはどうでもいいことかも知れないが、何かしらそこに利害関係を構築できる立場であれば、それをやめさせることが利益になるようならやめさせようとするだろうし、続けさせることが利益になるようなら続けさせようとするだろうが、そんな思惑からそこに介入して状態が有利になるように持って行こうとするのだろうが、それも無関係な人にとってはどうでもいいことであり、果たしてそういうことと全くの無関係になれるかといえば、そんな立場などどこにもなく、何かしら多少は関係のあることにしか興味が向かないだろうし、それを意識してしまうことが意識する対象との関係を生じさせてしまうことになれば、そういう対象があることを認識しているわけだろうが、そう都合良く利害関係を構築できるわけもなく簡単に他人のやっていることに介入することもできないわけだが、そこに利害関係があるように思われればそれを関心の対象とはするだろうし、それについて言及する成り行きにはなるのかも知れず、実際に他人のやっていることを否定的に見るならそれを批判することにもなるし、肯定的に見るなら評価することにもなるわけだが、果たして他人のやっていることを批判したり評価することが利害に結びつくのかといえば、無視されれば何でもないことになってしまうだろうし、共感されれば利益になったり非難されれば不利益になったりするのかも知れないが、そうなったとしても直接には何も起こらないかも知れないし、それも何でもないことなら別にやる必要もないことになってしまうのかも知れないが、他人のやっていることをどうこういうわけでもないとすれば、まずは自分のやっていることを優先するような成り行きになるだろうし、それが他人のやっていることにぶつからない限りは直接関係することもないのかも知れず、そうであるなら関心があるのは自分のやっていることになるだろうし、そんなことは当たり前のことであり、自分のやっていることをどうにかしなければ現状を打開できず、何とかしたいのは自分のやっていることを満足のいく状態や内容にしたいということになるのかも知れないが、そうであるなら他人のやっていることをとやかく言う余裕はないはずだが、それはそれでこれはこれということになれば、他人のやっていることをとやかく言っている自らを正当化することにもなるだろうし、世の中にはそういう立場に安住してしまう人もいるわけで、それが正当化できる行為とは思われなければ、そんなことをやっている人を評価するわけにもいかなくなってしまうのかも知れないが、それを否定できるかというと取り立てて評価はしないがそういう立場があることは認めておいた方が無難に思われるなら、肯定も否定もしないことになるだろうし、そうであれば無関係とも言えるかも知れないが、そうではなく他人のやっていることを分析することになると、それは評価とは違う行為になるだろうし、評価する手前に留まって他人のやっていることを明らかにすることが分析することになり、そうした分析内容を自分のやっていることに役立てることができれば、評価よりは分析の方に関心が向くことになるのかも知れず、また他人のやっていることと比較して自分のやっていることを明らかにする必要があるとすれば、他人のやっていることを理解したいからその分析内容に関心を抱くだろうし、それが他人による他人のやっていることの分析であっても自分が他人のやっていることを分析した内容であっても、そのどちらにも関心を抱くのかも知れないし、またそれが自分のやっていることを自分が分析するのにも役に立つかも知れず、結局はそうやって他人のやっていることや自分のやっていることを理解しようとしているわけで、そうやって理解することが自分のやっていることにも役に立つだろうし、絶えず分析し続けることが自らのやっていることにフィードバックされていれば、それが現状を打開し続けていることにもなり、そういった状態を維持し続けていることにもなるのかも知れず、そこでそういうことをやり続けることが何かをやっていることになるとすれば、それが自らが生きている内容のすべてではなくても、それを絶えず把握しようとしていることにもなり、そうすることに肯定的な意味や意義を求めて、やっていることを正当化しようとしても、絶えずそうした把握から逃れ去る何かがあるとすれば、それが不確定な何かであり、把握しきれない内容となるのかも知れないが、たぶんそうした求めていることから外れるような何かに可能性があるのかも知れず、その可能性が変化する可能性であれば、それが思いがけない変化をもたらす可能性になるだろうし、自らがやっていることを自ら把握しようとして把握しきれない面があるから、そうした面が自らに作用して思いがけない変化をもたらして、それがやっていることの行き詰まりを打開することになれば、現状を打開するにはそれが必要であり、しかもそれが必要だとは認識できないことが思いがけない変化をもたらすわけだ。


2月15日「見せかけの価値」

 意識がそこにある事物を認識するとき、それがすでにそこに存在していることが明らかになっていると、その存在の確かさを信じられるが、そこになかった物事を新たに一から人工的に作り上げるようなことになると、実際にそれを作っている作業などに出くわしたときには、すでにそこに存在している物事とは違って不自然な印象を伴ってしまうだろうが、そういった事物を作り出す作業を人目に触れさせずにすでに元からそこにあったように見せかけることができれば自然な印象を伴うだろうし、そんなことをやろうとする行為自体は不自然な印象を伴ってしまうのかも知れないが、できあがった事物を観て自然な印象を受ければその存在の確かさを実感してもらえるだろうから、そこに不自然な印象と自然な確かさとの間に生じる落差があるとしても、それがあることを知っているのはそういった物事をこしらえ上げようとする当事者だけであり、できあがった事物を観るだけの人にはわからないし、そうした何かを観るだけの体験には常にそれを見せかける側の思惑がつきまとってしまうのかも知れないが、あらかじめそれが人工物であることを承知していればそれが人工的に作り出された経緯を想像するだろうし、そうした想像力に不自然な印象と自然な確かさとの間に生じる落差を埋める働きがあるとしても、なぜそうやって想像力を働かせて事物がそこにある経緯を補って恣意的に認識を調整するのかというと、そうすることでそれがそこにあるように見せかける側の意図や思惑に対抗しようとしているのかも知れず、そこでそれを見せかける側と見せかけられた事物を観る側との間で駆け引きがおこなわれているわけで、見せかける側は観る側を信用させようとする一方で、観る側は見せかける側の意図や思惑を推し量ることによって信用しようとしているのかも知れないが、そこで何を信じようとしているのかといえば事物の存在を確かさを信じようとしているわけだが、果たしてそんなことが必要なのかというと中には余分なことだと思う人もいるだろうし、別に人工物であることがむき出しになっていてもかまわなければ問題ないわけだが、ではなぜ自然な印象を醸し出したいのかといえば、そんな印象を伴うことに価値を感じるからそう見せかけたいのだろうし、観る側もそんな印象を求めているのかも知れないが、それが贅沢な雰囲気ならそれだけそれを作り出すための費用がかかっているのかも知れず、実際に費用を余分にかけていればそれを体験する側に金銭的な負担がかかってくる場合もあるし、そういうことを承知でそうした贅沢な体験がしたい人がいれば、そうした需要と供給が一致する限りでそこに見せかけの価値が生じているのだろうが、それは付加価値の一種には違いなく、それを求めるほどの余裕がなければそんなことにまで気を配る必要もないわけだが、そういう雰囲気を醸し出すことが競われていれば、そうした競い合いに勝ち抜いた者に何らかの利益がもたらされる場合もあるだろうし、それが金銭的な利益であれば実際にそれを負担する者もいるわけだが、そうやってそういうことをやる行為に経済的な価値が生じて、そういうことにかかわっている人や集団がそこから利益を得ることによってその生活や活動が成り立っていれば、その存在の確かさも感じられるかも知れないが、果たしてそういう付加価値を求める必要が恒常的に生じるかといえば、大抵の人にはそんなことを求めるほどの経済的は余裕がないとしても中には裕福な人もいるだろうし、そんな付加価値を求める人が大勢いる限りでそうした需要が生じるとすれば、それだけ裕福な人が存在する必要があるわけで、そういう人たちを存在させるだけの経済規模が必要となり、そうした経済を支えている人たちのほとんどはそうした贅沢にはありつけないとしても、そんな中でもうまく立ち回って富を蓄えることに成功した人だけにそうした贅沢が許されるような余裕が生じるとなると、そうした贅沢を享受できない人たちには不公平に思われるかも知れないが、そんな贅沢には見せかけの価値しかなく、それにありつけなくても元から必要のない贅沢でしかなければ特に問題はないだろうし、また贅沢がしたいという欲望をやり過ごすことができれば不平不満は生じてこないはずで、不平不満が生じても我慢すればいいことだが、逆に問題なのは生活が成り立たない人がでてくることであるというのなら、すでにそこで人が生活していればその人の生活が成り立っていることになり、生活が成り立たなくなれば存在できなくなってこの世からいなくなってしまうだろうし、そういう意味ではそこで経済活動が成り立っている人だけが存在できるわけで、実際にそうした経済規模に見合った人口が生じているわけだが、それが成り立っているように見せかけることによって取り繕うわけにもいかないだろうし、人が生活しているように見せかけることに価値が生じるわけでもないし、人口を過大に見せかけても経済規模が大きくなるわけでもなく、そこで人が生活している実態がそのまま経済規模に反映するわけだが、その一方で人が所有している資産の蓄積というのは他の地域との相対的な比較においてその経済活動の活発さに比例して増えるだろうし、資産を増やすにはそれだけ経済活動をおこなう必要があり、しかも蓄積できるほど余分に富を蓄えなければならないわけで、余分に生産して余分に価値のある物事と交換して余分に蓄える行為を繰り返せば資産を余分に蓄えることに成功するわけだが、そうやって必要とするよりも多くの物事を作り出して蓄えるわけだが、その必要とするよりも多くを作り出して蓄える行為が不自然な印象を伴うのかも知れないし、資産を増やすには蓄えるのが必要だから蓄えることになるわけで、蓄えるために蓄え増やすために増やすという不自然な行為が繰り返される実態があり、そうした不自然な実態を自然に見せかけるには、使うために蓄えているように装う必要があるわけで、そこから資産を投資するために蓄えるような行為が正当化されるわけだが、結局何のために投資するのかといえば資産を増やすために投資するわけで、使うために蓄えているようでいて最終的には増やすために使うという倒錯的な行為を自然に見せかけるために使うことを強調するわけだが、そうした見せかけの行為によって経済活動を活発化させている現状があるとすれば、そんな経済活動にも不自然な印象がつきまとってくるかも知れないが、そうした行為を正当化するにはそれを自然な印象を伴うように見せかける必要があるだろうし、そこで有意義なことがおこなわれている印象をまとわせる必要が生じてくるわけだが、そうなるとそれが誰にとっても必要だと思い込ませるために、欲望や感情に訴えかけるようなことがおこなわれて、多くの人がそれを求めるように仕向けるわけだが、そうするには競わせることが必要となってくるのかも知れず、簡単には手に入れることができずに、苦労して何らかの競争に勝ち抜かないと手に入れられないような物事なら、それだけ希少価値があることにもなるだろうし、手間暇や費用をかけた上にそれと引き換えにして何かを失うようなそれなりのリスクを伴うような物事を求めさせることによって希少価値を生じさせるわけだが、それが最終的には富を獲得することにつながって資産を蓄積することになれば、それ自体が価値のある行為となるだろうし、誰もがそれを獲得するためのゲームに参加するような成り行きへ持って行ければ、それに参加する人が多ければ多いほど経済活動も活発化するし、そんなゲームに参加している人の中から資産を蓄積することに成功する人が一定数の割合で出てくれば、そうした行為にも自然な印象が伴ってくるのではないか。


2月14日「妄想の罠」

 その人が何に影響されているかはその人を取り巻く社会的な関係や存在の状態や様態にもよるだろうが、人の振る舞いが世の中に及ぼす影響というのも人によってはたかが知れているだろうし、その人が一般大衆の中の一人でしかないような存在なら、それをいちいち気にする必要もなく、大抵は放っておかれるのだろうが、そこから及ぼされる作用や影響をはっきりと意識できるかというとそうでもないだろうし、また特定の誰かから何らかの間接的な影響を受けようと直接の作用を及ぼされようと、その人自身の自主性を重視するならそんなことはすでに織り込み済みのこととして主体的に振る舞ってもらうしかなく、他から様々な作用を及ぼされたり影響を受けながらも、それを自覚できれば意識してそれに従ったり逆らったりして、あるいは自覚できない面においてはそんなことは気にしないで主体的に生きていくしかないのだろうが、逆に社会や世の中へあるいは特定の個人や団体などへ何らかの作用や影響を及ぼそうとするような野心あるいは目的などがある人は、個人であるいは何らかの集団を組織して罠のような何かをその標的とする対象へ向かって仕掛けるのかも知れず、個人で仕掛けるのならその規模も程度も大したことにはならないだろうが、集団として社会に何らかの作用や影響を及ぼそうとするなら大がかりな組織的な活動が伴ってくるだろうし、その集団が政党形態や行政形態や企業形態などになってくれば、その集団が取り扱っている物や情報やサービスを通して社会に何らかの作用や影響を及ぼそうとするのだろうが、そこにはそれらの集団が利用する法律や制度も絡まってくるだろうし、作用や影響を及ぼされる側はそれに従ったり逆らったりしながら、従うことを通してあるいは逆らうことを通して作用や影響を及ぼされてしまうのだろうが、そこで踏まえておかなければならないことは、それらに従えばその法律や制度が意図する内容に基づいた作用や影響を及ぼされてしまうのは当然だとしても、それに逆らったところで作用や影響を免れることはできないだろうし、そこで逆らうような動作を強いられてしまうこと自体が何らかの作用や影響を及ぼされた証しとなってしまうわけだが、そういう意味ではその標的となっている人や団体がそれに従うことも逆らうこともそう仕向けている側の想定内であり、従わせたり逆らわせたりすることから何らかの結果を引き出しているわけだろうが、ではそうした作用や影響を避けたりそこから逃れるにはどうしたらいいかと言えば、その標的にならないようにすればいいのだが、向こうから勝手に標的を定めて何かを仕掛けてくるのだから避けようがなく逃れようがないのかも知れないし、仕掛けてくる罠の内容や程度が大したこともなければ、わざと罠にはまって見せて仕掛けた側を満足させて済む程度ならそれでかまわないようなことにもなるのかも知れないが、果たしてそんな手の込んだことをやる必要があるのかといえば、それ自体が自意識過剰な妄想でしかなく、誰が仕掛けたわけでもない罠でもない罠にはまって見せているだけかも知れないし、そうやって特定の誰かが意図的に罠を仕掛けているようには思われないような何でもない状況というのが、普通の日常の中で体験しているほとんどの状況かも知れないし、そこで何に従っているとも何に逆らっているとも意識できないまま、ただ漫然と日々を過ごしているようならそれでもかまわないのかも知れず、あえてそんな状況から抜け出そうとは思わないだろうし、そんなことよりも意識してこだわっている他のことがいくらでもありそうで、そんなことに気をとられているうちに誰かが仕掛けた罠にはまっているとしても、特にそれを意識する必要がない場合もあるだろうし、特にこれといってこだわるようなことがなければそういう罠を意識する成り行きにはならないのかも知れないが、ちょっとしたことにも過剰に反応するような過敏な神経を持ち合わせていれば、罠を仕掛けた側の思うつぼにはまって期待通りの反応が引き出されてしまう可能性もあるのかも知れず、そうなることを期待して誰かが意図して些細な罠をメディア上に仕掛けているわけでもないのだろうが、罠でもない仕掛けを罠だと錯覚するのもお人好しすぎるし、仕掛けでもなく罠でもないのにそれを恣意的な仕掛けや罠だと錯覚するのも、何かそこで退屈を持て余していることの表れなのかも知れず、そういう仕掛けでもない仕掛けに反応すること自体が娯楽と見なしてしまうとまずいのかも知れないが、なぜか罠でも仕掛けでもない何かにはまってしまったように装う演技が求められていて、誰がそれを求めているわけでもないのにそんな演技を強いられるような成り行きになってしまうとすれば、それが何らかの社会的な動作なのかも知れないが、そこに意味や理由を求めてしまうと身勝手なフィクションを構成してしまうのだろうし、そんな動作に裏の意味や隠された意図を想像してしまうことが無意識の罠にはまっている証しかも知れないが、そういう妄想を抱くことすらも娯楽に含まれるとすれば、何でもないことにこだわっていることになるだろうし、それ自体がおかしな感覚をもたらしているのかも知れないが、それが自然な感覚でありそうなるのが自然な成り行きであるとすれば、別にそこで気が狂っているわけでもなく、普通の感覚でそんな成り行きの中にいることにもなるのかも知れず、それはただ漠然と日々を送っていることと同じことになってしまい、それこそがそれ自体でしかないのかも知れないが、そんな日常の日々から抜け出せるかというと、抜け出せないし抜け出す必要もなければそれは罠でも仕掛けでもなく、誰が何を仕掛けているわけでもないのに、そんな仕掛けが勝手に形成されているような気がしてくるかも知れないが、そう思ってみてもかまわないところが何でもないことの証拠なのかも知れず、そこに何かがあるように思われると同時に何もないようにも思われて、そう思ってしまうことも何かに惑わされているようにも思われてしまい、そんなことを思っているときりがなくなってしまうのかも知れないが、きりがなくてもかまわないのかも知れないから、いくらでもそう思っていればいいのかも知れないし、暇にまかせてそう思い続けることでかろうじて正気を保っているつもりになれるならそれでもかまわないのかも知れず、そんなことでしかないと気にとめておけばそれで済んでしまうことであり、それ以上の詮索は禁物かも知れないが、そこから詮索しようと思えばいくらでも詮索できそうに思われるなら、それは詮索の底なし沼でしかないだろうし、そんな底なし沼にはまるように仕向けられているわけでもそれが罠のすべてでもないはずだが、それ以上の動作を求められているわけでもなければ、そうなるように求められていなくても勝手にそんな底なし沼にはまり込んでしまうのかも知れないが、それ以上の動作とは何かといえば、少なくともそれはそれ以下の動作ではないだろうし、そんな動作そのものでもないはずだが、そこでどう振る舞えばいいのかと考える余裕があるとは思えないし、そんなことを考える以前に振る舞っているそれが振る舞うべき動作なのかといえば、そんなことを事前に決めてかからなくても済んでしまうような状況なのかも知れず、実際にそうなっている時点ですでに罠も仕掛けもかいくぐっている最中なのかも知れないし、たとえそんな事態に巻き込まれていようといまいと、そんな気にならなければ意識せずに罠や仕掛けから脱出できているような成り行きになっているとしたら、やはりそれは何でもないことになってしまうだろうし、運悪く罠や仕掛けにはまったとしてもその中で平然と生きていることになるのかも知れない。


2月13日「事態の過小評価」

 様々な出来事が組み合わさることによって何かの機会が巡ってきているような気がするのは、それを取り巻く状況から判断するなら、やはり気のせいでしかないのかも知れないが、気のせいでもかまわないのだろうし、気のせいでしかないことが重要なのかも知れないが、別に重要でなくても気のせいでしかないことにこだわっていればいいのかも知れないし、気のせいであることを利用して何かを語ろうとしているのかも知れず、それが気のせいでしかないのにさも重大で深刻な事態に直面しているように装いたいのかも知れないが、それも気のせいでしかないのかも知れず、事態は重大でも深刻でもなく、どう見ても大したことだとは思えないはずだが、それについて語るとなると大したことであるかのように装わないとならないのかも知れないし、大したことではないのに大したことのように装うのだから、装うこと自体に無理が生じているのかも知れないが、無理を承知で大したことのように装うわけだから、その場にかかわっている人たちが口裏合わせをするだけでは足りず、それ以上にその場で起こっている出来事が実際に大したことである必要があるのだろうが、それでも大したことが起こっているわけでもなければ、それは気のせいではなく本当に大したことなど何も起こっていないと思うしかないのかも知れないが、それがどういうことなのかといえば、単にそれについて語っている人たちの思いが裏切られているのであり、大したことが起こっていると見せかけたいのではなく、本当に大したことが起こっていると思うからそれについて語っているのであり、別にわざと大げさに語っているのではなく、そこで感じたままのことを語っているつもりなのであり、それについて語っている人たちにとっては大したことであり重大なことでもあり深刻な事態なのだろうが、なぜそうは思えないのかといえば、わざと過小評価しているわけではなく、そんなふうに受け止めるしかないのであり、そういう事情が生じているのであり、そんな事情に基づいて事態を過小評価したいのだろうが、そうやって見過ごしている現状から目を背けて他に何をやっているのかといえば、本当に起こっていることを過小評価しているわけだが、なぜ過小評価するのかといえばその方が都合が良いからだが、その都合の良さがどこから生じてくるのかといえばそれらの人たちが抱えている事情に照らし合わせれば都合が良いわけだが、その事情とは何かといえば事を穏便に収めたいということだろうし、穏便ではないとしても穏便に見せかけたいのであり、穏便に収めれば見せかけたことになるわけだろうが、しかしそれについて語るとなると嫌でも大げさに語らざるを得ないのであり、ならばそれについては語らないようにしたいのだろうが、誰もが関心を持っていることを語らないわけにはいかないだろうし、語らないわけにはいかないようなことならそれだけでも重大で深刻なことのように思われてしまうわけで、語らないように誘導するのが困難を極めているのかも知れないが、それが駄目ならそれとは別の話題へと関心を誘導するしかないのかも知れないが、果たしてそれ以上に関心を呼ぶような話題があるのかとなると、それを人工的に作り出すのに苦労している実情があるのかも知れず、盛んにわざと気を惹くような不自然な発言をしてみたり、あるいは過去の事件を蒸し返して事件化してみたりしているわけだろうが、それがどこまで成功しているかといえば、それは今後に起こるだろう紆余曲折の如何にもよるだろうが、わざと紆余曲折を起こそうとしてみてもその場の偶然に左右されることもあるだろうし、思い通りの紆余曲折とはならないのだろうが、それでもそうならないよりはそうなっただけでも気休めとしての効果があるのかも知れず、できればそれが気休めなどではなく期待通りの効果を上げればいいのだろうが、そこで何を期待しているのかといえば事が穏便に収まることが期待されているわけだが、すでにわざとそれとは別のことで騒ぎ立てているのだから、穏便に収まるどころか相乗効果によってより一層騒ぎが複合的に大きくなる可能性もあり、そうであるならそんなことをやっていること自体が逆効果でしかないわけだが、それがありのままの現状を構成していて、そこで様々な出来事が複合的に組み合わさることによって何かの機会が巡ってきたような気がするのは無理もないことかも知れず、そんな機会を捉えて何かさらなる効果的な作用を世の中に及ぼしたいのかも知れないが、それが気のせいでしかなければ当てが外れたことになるわけだが、果たして事の真相が明らかになるかというと、うやむやになってしまう可能性の方が高いだろうし、結果的に大事には至らずに事態が収束してしまえば大したことはなかったことになってしまうし、そうであれば事を穏便に収めたことにもなるのかも知れないが、何かそこで重大で深刻なことが起こっていたかどうかが永遠にわからずじまいとなってしまえば、気のせいであったと思っても差し支えないわけだろうが、それは今後に起こることが鍵を握っていて、何が起こるかは現時点では推測の域を出ないことかも知れないが、パニックになることを期待していたずらに恐怖を煽ってみても何の得にもならなければ、機会を捉えてやるべきことでもないはずだが、ただ単にそれについて語ろうとしているだけであればそれが何らかの出来事に発展する可能性も低いだろうし、何かを語ることが重大な結果をもたらすとも思えないが、他に何か隠そうとしていることがあるわけでもなく、すべての物事が出揃っていることは確かであり、その中で何が重大で重要で深刻な状態を示しているわけでもないだろうが、出揃っている物事が効果的に組み合わさるとそこに何らかの怪物的な存在が浮かび上がってくるのかも知れず、それがすでに組み合わさっているのではなく、言説の中で効果的に組み合わせる必要があるのかも知れないが、それも恣意的に意図や思惑に基づいて組み合わせるのではなく、その場の状況に合わせて組み合わせてみれば、その内容が何らかの真実を物語っていることにもなるのかも知れないし、それらが相乗効果をもたらすのか、あるいは打ち消し合って大して深刻な効果ももたらさないのかは、その場の状況次第な面があって、それを語る側が決められるわけでもなく、それについて語る側としては過大評価にも過小評価にも結びつかない程度で語ることが肝心なのかも知れないが、それについて語ろうとすればそれを強調して他とは区別して語るような成り行きになってしまうだろうし、それだけでも過大評価が伴ってしまうのかも知れないが、そうではなくなるべく事を荒立てないように語ろうとすればそれが過小評価に結びつくかというと、何かを過小評価するには他の何かを過大評価してそれと比べて対象への評価を低く見積もるような操作をせざるを得ないとすれば、やはり何かを過大評価しない限りはうまく過小評価できないのかも知れないし、そういうところで恣意的な意図や思惑が浮き出てきてしまって、何かを語ることによって過小評価することは難しいのかも知れず、そういう意味では過小評価するよりは語らないでおく方が無難なやり方となるだろうし、要するにそこで何かが起こっていることを隠すには、それについては語らない代わりに他のことについて大げさに語るわけで、それとは関係のないことを過大評価するようなことをやるわけだが、それでもそれが過大評価と受け取られる限りで、あえて語らないでおく対象を想像させてしまうだろうし、何にしても何かを語る限りでそこに恣意的な意図や思惑がその中に含まれてしまうわけだ。


2月12日「効果のない主張と批判」

 何かをやるに際して簡単な理屈でうまくいくかというと、それはやっている内容にもよるのかも知れないし、実際にうまくいかなければ簡単な理屈ではうまくいかないことが明らかとなるわけだが、うまくいけば簡単な理屈でもうまくいくと言えるかも知れないし、うまくいくときとうまくいかないときがあれば理屈通りにはいかない場合があるのかも知れないが、確率的にうまくいく場合といかない場合があるのかも知れないし、そこに何か込み入った事情や条件などが介在してくるのかも知れないが、そんなことをやる側としては簡単な理屈でうまくいくようなことをやりたいから簡単な理屈を持ち出してくるのだろうが、簡単な理屈でやれると主張していることを実際にやろうとすると、うまくいかなければ理屈が間違っていると言われても仕方のないことだが、誰かが誰でもわかるような簡単な理屈を用いて何か主張していれば、それは簡単な理屈を用いて主張することができるということであり、その人がやっていることは何かを主張していることであり、主張の中で何かをやれると主張していても、主張している時点では別に主張に基づいて何かをやっているわけではなく、その人にはただ何かをやれると主張することはできるが、それ以外に実行力があるわけではなく、主張するということに関してそれを実行しているに過ぎず、またそういう人に限って簡単な理屈を用いて批判を繰り返しているような状態になっていて、その批判の対象となるような人や団体のやっていることがうまくいっていないと批判しているようなら、やはりそれは簡単な理屈を用いて批判することができるということであり、そうであれば簡単な理屈を用いてできることは何かを主張したり批判することになるわけで、そんな主張や批判を信じられるかとなると、主張や批判ができることは実際に主張したり批判しているのだから信じざるを得ないにしても、その先の主張や批判の中身を信じられるかといえば、主張や批判だけでは信じるか信じないかはどちらとも言えないのかも知れず、それ以外の要素を加味すれば信じたり信じなかったりすることに関して何かもっともらしい理由が生じてくるのかも知れないが、別にそれを信じたり信じなかったりすることにこだわらなくてもかまわないのかも知れず、そういう主張や批判があると受け止めておくだけでかまわないようなことであれば、特にそんな主張や批判を重視する必要はないし、場合によっては無視してもかまわないと思われるなら無視するだろうし、無視してもかまわないような主張や批判ならその程度のことであり、実際に誰にでもわかるような簡単な理屈を用いて主張したり批判しているとすれば、そんなのは誰でもできるようなことでしかなく、実際に誰もがそんな主張や批判をしているのならそんな主張や批判は世の中にありふれていて、そうであるにもかかわらず主張や批判が活かされていなければ、要するにそんな主張や批判は機能していないことになり、主張しても批判しても効果がないということであり、逆に効果がないから誰もが安易に主張したり批判したりできるわけで、効果がないようなことを主張したり批判しているわけだから、逆にそれ自体が主張や批判の効果を打ち消すような効果があるということにもなるわけで、誰かが戦略的にそんな効果を狙っているわけではないとしても、誰もが同じような主張や批判をすることによって、それが誰でもできる紋切り型の安易な主張や批判となり、そういう主張や批判を世の中に蔓延させることによって他の主張や批判が出てこないようにさせる効果があるわけで、実際にそんな主張や批判がなされているのにそれが活かされていないような状況となっていれば、そういう状況をもたらしているのは誰でもできるようなありふれた主張や批判のおかげでそうなっているわけだが、それによって世の中がうまくいっていないのかといえばそうでもないのかも知れず、誰もが無効な主張や批判を繰り返していてもかまわないような状況が実現しているわけで、そんな主張や批判とは裏腹な状況となっていることが、そうなっていることに関してはうまくいっていることになるのかも知れないのだが、それがどういうことかといえば主張とは逆のことをやっていたり批判の対象となっている人や勢力にとってはうまくいっていることになるわけで、要するにうまくいっていないと批判されている批判そのものが無効なのだから、批判が無効である限りで批判の対象となっている人や勢力には好都合な状況がもたらされていて、少なくともそういう面ではうまくいっていることになるのだろうが、逆に言うなら主張や批判が無効となっているのだから、主張や批判をおこなっている人たちにとってはうまくいっていないことになるのかも知れないが、それも誰もがそんな主張や批判をしている状況がもたらされている限りで、誰もがそんな主張や批判ができているのだから、主張や批判ができるということに関してはうまくいっているわけで、そんなふうにして誰でも主張や批判ができる世の中が実現しているわけだから、そういう面では民主主義が実現していることになり、民主主義とは誰もが自由に主張や批判をしても構わない状況を実現することだとすれば、まさにそれが実現していてそういう状況となっているわけだから、逆に言うなら誰もが自由に主張したり批判できる状況とは、その主張や批判が無効である限りでそうなるのかも知れず、要するに差し障りのある主張や批判をされるとその主張や批判の対象となっている人や勢力が困ってしまい、それが政府などの行政に関する主張や批判だとそれを押さえ込まなければならなくなるから、そうなると結果的に民主主義に反したことがおこなわれてしまうわけだが、ではそうならないようにするにはどうすればいいのかと言えば、そんな主張や批判をされたところで支障をきたさないような状況を作ればいいわけで、そういうことの妥協点として生じているのが、誰でも自由に主張したり批判できるがそうした主張や批判が活かされるとは限らない状況となるわけで、そういう状況の中では誰もが自由に主張したり批判したりしているつもりであっても、そういう主張や批判がことごとく無効な主張や批判であり、無効であることが気づかないというか、無効な主張や批判をしている自覚がないような状況となっているのかも知れず、そういう人たちは自業自得気味に足並みをそろえて無効な主張や批判を繰り返すことによって団結しているわけで、他の主張や批判を許さないような空気を作り出してそういった同調圧力を世の中に及ぼしている自覚もないのかも知れず、そうやって横並び感覚で執拗に同じような紋切り型の主張や批判を繰り返すことによって民主主義を実感しているわけで、もちろんそうした批判の対象となっている人や勢力が民主主義を踏みにじるような行為をおこなっていると批判するわけだが、そう主張することが他の主張を封じ込めるような効果を及ぼしていることには無自覚なのかも知れず、それももちろん他の主張は一切無視することによってそれを実現しようとするわけで、それが逆説的に誰もが自由に主張や批判をおこなえるような民主主義的な状況を作り出しているわけだから、そういった行為を批判するのは民主主義に反した行為になるのかも知れないが、むしろそれを逆説的に捉える必要はなく、それこそが民主主義の実現だと捉えておけばいいのかも知れないし、多くの人たちが同じような主張や批判をおこなうことが民主主義のあるべき姿だとするなら、そうすることによってしか民主主義は実現しないのではないか。


2月11日「正義の都合」

 物事の全体を見通せないのは誰にもありがちなことかも知れないが、別にそれでまずいわけではなく、むしろそれが当たり前のことであり、誰もが部分的で一面的な認識しか持ち合わせていないのかも知れないし、また物事といっても興味を持ったり関心を抱いたりした物事に限られるだろうし、すべての物事に関心があるわけでもないのも当然だろうが、その人の都合の良いように物事を理解していることもあるだろうし、それが本当にその人にとって都合の良いことなのかとなると必ずしもそうではなく、他の誰かあるいは何らかの団体にとって都合が良ければ、それらから作用や影響を及ぼされている可能性もあるだろうし、それらにとって都合の良いような物事の理解をその人が強いられていれば、それを意識できるかとなると特に意識するような成り行きにはならないのかも知れず、そんなことにまで気が回らなければそれで済んでしまうようなことかも知れないし、その人にとって都合が良いように思われていれば普通はそれでかまわないわけで、他からそう思い込まされている限りでその思い込まされていることには逆らえず、その人にとって都合の良いように思われると同時に他の誰かにとっても都合が良いのだから、それ自体が他との間で無用な対立や争いや戦いをもたらさないから双方にとって都合が良いことだろうし、そうやって都合が良くなるように他へ作用や影響を及ぼすことが戦略的にも都合が良いやり方となるわけだが、一定の傾向や内容の理解や認識を世に広めるということはそういうことであり、なるべく多くの同調者を募って自分たちの勢力を拡大する上でそういうやり方が戦略的に有効に機能するのだろうし、そういう意味で他から信じてもらえるような物事の見方や考え方が共通の理解や認識として役立つわけだが、なぜ支持や同調を得られるのかといえば支持者や同調者にとってもそう見たり考えたりすれば都合が良いと思われるからだが、そんなふうにして何らかの理解や認識を共有する人たちでまとまることができれば、それらの人たちにとっては都合が良いように思われるわけで、そういうまとまりが何らかの団体として存在するようになり、それが社会的なまとまりであったり国家的なまとまりであったりするわけだろうが、すでにそうやってまとまっているとしても絶えずまとまろうとする限りでまとまりを維持できるわけで、そんなふうに絶えずまとまろうとするように仕向けるためにも、そのまとまりの中で共通の理解や認識を保持しようとするだろうし、そうなるための戦略がまとまりの中で講じられることにもなるのだろうが、それが都合の良い理解や認識を人々に信じさせるための宣伝や煽動となるわけで、そのために利用されるのがマスメディアとなるわけだが、間接的な思い込みだけではなく直接的な実感となればなおのこと好都合なわけだから、そうなると人々の暮らしや生活に直接の作用や影響を及ぼさないとそういう段階までには至れないわけで、そうなるにはメディア的な宣伝や煽動だけでは足りないだろうし、そういう物心両面での心地よさを実感するには経済的な豊かさが必要となってくるわけだが、それが実現できるかというと他との競合関係も考慮に入れると、なかなか思い通りにはいかない現実があるわけで、しかも単なる経済的な豊かさでは満足してもらえない段階にまで至っている可能性もあり、付加価値としてそれに加えて自分たちがやっていることが正義であるような状態を求める傾向にもなってくるのかも知れないが、具体的に何が正義かというと、現代的な傾向としては例えば環境破壊や汚染などの面で他へ迷惑をかけないことが正義であったりして、そういう面にまで踏み込んで理解や認識を他と共有するとなると、現状の世界でおこなわれていることの中で、自分たちの主張との間で整合性がとれないような行為を批判することにもなってきて、そうなると他との間で生じている対立や軋轢も激化するわけだが、果たしてそれで都合が良いかとなると全面的に都合が良いわけではなく、ある面では都合が良いかもしれないが別の面では都合が悪いことも出てくるだろうし、それでも正義を主張したければ都合が良い面だけを強調したり都合が悪い面を隠蔽したりするわけだろうが、そんなことをやっていると正義を主張すること自体に欺瞞や偽善がつきまとってきてしまい、正義にこだわっている限りでそうなることは避けられないのかも知れないが、自分たちにとって都合の良い正義の主張が、それと対立したり軋轢が生じている他の人たちにとっては迷惑な主張となって、結局は迷惑なことをやっている他の人たちを批判している行為が他の人たちにとっては迷惑な行為になってしまうから、お互いに迷惑をかけ合っていることにもなり、迷惑をかけているのはお互い様なわけだが、環境破壊や汚染を引き起こしていること自体が迷惑な行為だと主張することが正義だと思われるのだからその点は譲れないだろうし、その点にこだわることが正義であるわけだから、たとえそれによって他へ迷惑をかけているとしても、優先すべきは正義の主張や批判の方であり、その点ではそれらの人たちの都合が優先させるべきなのだが、主張していること自体がそれらの人たちの都合を主張していることでしかなく、主張すること自体はいくらでも主張できるし、批判することもいくらでも批判できるのだが、それが実際におこなわれていることに対して主張したり批判しているわけで、実際におこなわれていることの効果としてそれに対して何かを主張したり批判したりしている現象が伴ってくるわけだから、それらが一体化していてそれ自体が一つのまとまりを伴った出来事であり、正義の言説がそこに加わっていると捉えられ、そこでおこなわれていることに付随して生じる正当化の言説であり、そこでおこなわれていることに対して自らの立場を言葉で正当化していることになるだろうが、そういった正当化によって自らの都合を説明しているのだから、それがそういった行為への賛同であれば、おこなっている人たちとそれに賛同している人たちとの都合が一致している一方で、そういった行為への批判であれば都合が折り合わないどころか対立していることにもなって、どちらに正義があるかを巡ってもめているとも言えるわけで、そうなると結局それをやめさせることができるかどうかで正義のあるなしが決まってきて、批判する側に正義があるとすれば、それをやめさせることによって正義があることを証明しようとするわけで、言葉による批判だけでは無理なら実力行使をやるような成り行きになってくるだろうし、実際にそれが抗議活動などの反対運動に発展すると、具体的に裁判に訴えたり公的な政治権力に頼ってやめさせようとしたりするわけだが、そこでおこなわれていることに政府などの公的な機関が絡んでいると、民主的な政治制度が機能しないとやめさせることはできないだろうし、いくら反政府的な運動をやったところで民主主義が機能しなければ弾圧されて抑え込まれてしまうしかないわけだが、民主的な政治制度が機能するには経済的な豊かさが実現していなければならず、それを実現するために自然破壊や汚染に結びつくような行為をやってきた経緯があるとしても、今までにそういうことをやってきたからこそ、そういった行為に歯止めをかけなければならず、それをやることが正義に適った行為になるとすればそうやって状況が変化すると共に正義の主張も移動することにもなり、状況の変化に対応した正義を求めなければならないわけだが、そうなると以前には思いもつかなかったような正義の主張が今後状況の変化に伴って出現する可能性も出てくるのではないか。


2月10日「政治的な主張の限界」

 普通に何が正しくて何が間違っているかに関して、現状で正しいと思われるような認識が将来のある時点においては間違っていると見なされることがあり得るだろうし、それが何かを特定することは現時点ではできないかも知れないが、過去のある時点では正しい認識と思われていたものが現代では迷信となってしまったものもいくらでもあるわけで、そういうことから推測すれば現時点で正しいと思われる認識のうちで将来において迷信となってしまうものを予想できるかも知れないが、では具体的に何がそうなってしまうのかといえば、それは政治的に信じられている認識となるかも知れないし、また科学的な認識の中でも将来において間違っていることが判明してしまうものも出てくるかも知れないが、例えば政府の財政赤字や消費税の在り方や原発や化石燃料の必要性や地球温暖化などのように、現在においても見解が分かれている認識もあるだろうし、そうやって何が正しくて何が間違っているかを主張し合うようなやり方が政治の場で普通におこなわれていること自体が、実際にそれに基づいて政治がおこなわれているわけだから、現状でおこなわれていることが間違っていると安易に主張できてしまい、すでに現状でおこなわれていることが否定されて、その時点で将来において認識の間違いが明らかになることが先取りされていて、その理由が現状でおこなわれていることがうまくいっていないからだということになるのだが、そうであるにもかかわらず間違ったことが平然とおこなわれている現状があるわけで、だからこそ間違った現状を正さなければならないという主張になるわけだが、果たしてそれが間違っていると認識してもかまわないのかというと、たぶん正しいと認識しているからそういうことがおこなわれているのだろうし、将来においては覆されるかも知れないが、現時点では少なくともそれをおこなっている側には正しいと認識されていると判断しておいてもかまわないのかも知れず、またそれをおこなっている側にも間違ったことをやっていると認識されているにしても、それが実際にできてしまっていることは事実なのだから、間違ったことが実際にできてしまうという事実は認めざるを得ないわけで、やっていることが正しかろうと間違っていようとそれができてしまうということが、現状の確かさを物語っているのだろうし、しかもそれが将来においてもできるかどうかはわからないにしても、現状でそれをおこなっているのだから、少なくともそれをおこなっている側が現状の中で主導権を握っていることも確かであり、逆に言えばそれをおこなっているからこそ主導権を握っていられるのかも知れず、そうであるなら現状では間違ったことをおこなわないと主導権を握れないという事実が厳然とあるのかも知れず、要するに正しいことがおこなえない現実があることになるわけだが、本当にそうかというと実際に正しいことがおこなわれない限りはその現実を覆せないわけで、ただそれを主張しているだけでは実現できないし、実際におこなわなければならないわけだが、現時点ではそれを主張しているだけで実現できていないわけで、なぜそうなっているのかといえば間違ったことがおこなわれているからだが、現時点ではどこまでもそうなっているわけだから、どうにもなっていない現実があるわけで、それをどうにかするには間違ったことをやめさせなければならないわけで、その間違ったことをやめさせるにはどうしたらいいのかということがうまくいっていないからこそ、間違ったことがおこなわれている現状があり、そういう意味でも現状でおこなわれていることがうまくいっていないわけで、結局何が間違っているのかといえば、現状でおこなわれていることが間違っていて、それは間違ったことをやめさせようとするやり方も間違っていることになるわけだが、そうなると現状でおこなわれていることが間違っていると主張する側も、その間違ったことをやめさせられない限りは、自分たちのやり方も間違っていることになり、自分たちの主張の正しさを証明するには、まずは現状でおこなわれている間違ったことをやめさせた上で自分たちが主張する正しいことをおこなって、それがうまくいくことが明らかにならない限りは自分たちの主張の正しさを証明できないわけで、要するに自分たちの主張を正しさを証明できていないのにもかかわらず自分たちの主張が正しいと主張しているわけだからその主張が正しいことにはならないわけで、またよそでは正しいことが証明されているというならここでもその正しさを証明して見せなければならないだろうし、ここでその正しさを証明して見せない限りは、どこまでもその正しさは仮説の域を出ないことであり、どうやっても現状のままでは不利な状況に陥っているのだが、それでも現状でおこなわれていることが間違っていて自分たちの主張が正しいと主張せずにはいられないわけだから、その正しいことが実際におこなわれてそれがうまくいったことが確認されるまでは、主張が正しいことにはならないわけで、いつまで経っても正しいことが証明されないことを正しいと主張し続けることしかできないのだから、それ自体が現状の中では不利な状況であることを示していて、そんな不利な状況を打開できない限りは自分たちの主張が正しいことにはならないし、また現状でおこなわれていることをやめさせることができない限りは、それをやめさせようとするやり方が間違っていることにもなるわけで、そうなっている限りは現状でおこなわれていることに反対する人々はやり方を間違えていることになってしまうわけだが、やり方を間違えているにもかかわらず自分たちの正しさを主張せずにはいられないのだからそんな主張自体も間違っていることにもなってしまうわけで、もちろん主張のすべてが間違っているわけではなく、現状でおこなわれていることが間違っているということが正しいなら、間違っていることをやめさせようとするやり方が間違っていることになり、では主張しているだけで間違ったことをやめさせようとはしていなければ、少なくともその場では主張自体が正しいことが永遠に証明できないわけで、正しいことが証明できない主張が正しいわけではないし、それを証明するには現状でおこなわれている間違ったことをやめさせて自分たちの主張することおこなわないとならないわけで、それが現時点ではおこなえない現状を打開しない限りは自分たちの主張の正しさを証明できないのだから、要するに正しいことを主張しているだけでは駄目だということは明らかになってしまうわけで、しかも現状でおこなわれていることが間違っていると主張しているのだから、まずはその間違ったことをやめさせなければならないわけで、そして結果的にやめさせられなければやめさせようとするやり方が間違っていることにもなり、そうなると現状でおこなっていることが間違っていることの中には、自分たちのやり方も間違っていることが含まれてくるわけで、ともかく現状でおこなわれていることが間違っていると主張する人たちはその間違っていることがおこなわれている限りで、それをやめさせられない自分たちも間違っていることが明らかとなってしまっていることに気づかないとならないわけだが、果たしてそれに気づいているかとなると、まさか自分たちも間違っているとは主張できないだろうし、それに気づいているか否かにかかわらずまだ証明されていないのにもかかわらず自分たちの主張が正しいと一方的に主張するしかなく、それが政治的な主張の限界となっているわけだが、果たしてそんな主張が本当に正しいか否かは、現時点ではわからずじまいとなるしかないのではないか。


2月9日「自由と束縛」

 自由に生きようとすることは結果的に周囲から及ぼされる様々な作用や影響に逆らいながら生きることを意味するのかも知れないが、家族や他人からの直接の作用やメディア経由で受ける心理的な影響以外にも、集団で構成する何らかの団体や機構の組織的な束縛から逃れようとすることも意味するかも知れないし、それ以前にすでに社会の中で生きているわけだから、それだけで有形無形の何らかの束縛を受けていることも確かであり、それに伴って身体的な束縛と共に心も束縛されているかも知れないし、言動や行動や活動もそれと関係する人や集団によってそれなりの束縛を受けている可能性もあり、そういう面も考慮すれば自らに施される様々な束縛に抗いながらも、それらと共存しながら主体的に生きようとする限りで、その人の心身に多少の自由がもたらされているのかも知れないが、端的に言うならどれだけ身勝手に生きられるかでその人の活動の自由度が決まると考えても差し支えないだろうが、その身勝手さが周囲からの反発を招くなら、それが原因で絶えず争いや戦いに巻き込まれてしまうかも知れないし、周囲がその人と争っても戦っても無駄だと判断すれば単に無視されるだけだろうし、そうやって無視されていも当人が社会の中でおこなわれている何らかの行為や活動に介入しようとすれば、相手にされなければ無視されるだけだろうが、向こうから相手にするだけのメリットがあると判断されれば、そこから何らかの接触がおこなわれることになり、それが交渉や取引や争いや戦いに発展するかはその場の状況次第だとしても、何らかの関係が生じればその関係がそれなりの束縛をもたらすわけで、それだけでもそういう方面では自由ではいられなくなるのだろうが、そういった方面に四六時中かかりきりになるとは限らず、それと同時に他の様々な方面でも関係が生じていれば、関係の数だけ束縛が生じているわけだろうが、それらの関係している対象との間で相互作用を生じさせているわけだから、その作用の程度や傾向に応じて束縛の強度も変わってくるだろうし、関係する対象に強く束縛されているほど自由度が減少するわけだが、束縛が心地良ければ許容されるし、不快に感じるようなら交渉したり取引したり争ったり戦ったりしながら自らの自由度を拡げようとするだろうし、そうすることが関係そのものであるとも言えるわけで、そんなふうにしてその人の自由度が広がれば、その分だけ相対的に相手の自由度が狭まる可能性もあるだろうし、そんな関係の中で主導権を握った方が相手に対して勝手なことをやれるようなことになるのかも知れず、それが権力関係と言えるのだろうが、そうであれば相手との関係において無関係であれば双方共に自由でいられるが、いったん何らかの関係が結ばれるとどちらが主導権を握るかで、主導権を握った側の自由度が増えると同時に主導権を握られた側の自由度が減るという不均衡が生じて、主導権を握った側が有利な状況となる一方で主導権を握られた側が不利な状況となるわけだが、それでどちらか片方あるいは双方共に不満なら絶えず双方の間で交渉や取引や争いや戦いが起こるわけで、そういうことが続いている間はどちらもそういった行為に束縛されて、それだけでもそういった方面では自由ではなくなるだろうし面倒な事態にもなっているわけだが、そういう関係に束縛された状態になっていることにメリットを感じていればそういう状態を保とうとするだろうし、そこから利益がもたらされている限りでそういう状態を受け入れるわけで、その分自由度が減っても文句はないのかも知れないが、たとえそこから利益がもたらされているとしても、そういった状態が煩わしくなれば関係を解消しようとするのかも知れず、そう意味で利害関係といえども他のすべてに優先されるとは限らず、たとえそのことで不利益を被ってもかまわないような心境や状態にもなるわけで、どのような関係であっても絶対というのはないはずだが、相対的な関係では不満なら絶対的な関係を目指すのかも知れず、自らが絶対的に有利な関係というのが自らの自由度が最大限に大きくなった関係だと言えるのかも知れないが、そこに関係がある限りで何らかの束縛も生じていて、いくら絶対的に有利な関係を目指そうとしても無関係ほどには自由な関係にはなれないだろうし、そういうところに勘違いや思い違いが生じているのかも知れないが、相手が妥協したり譲歩した分だけ自らが有利になったと錯覚するわけで、それだけおごり高ぶってしまえば隙が生じて、隙を突いて相手から反撃されるかも知れないし、そういう意味では交渉や取引や争いや戦いの関係であれば双方共に気を抜けないわけだが、交友とか愛情などの信頼し合う関係であればお互いに気を許しあう関係になるだろうし、それだけ心身共に余裕が生じているから許し合える仲になれるわけだろうが、そこからも憎しみや妬みなどが生じてきて関係が壊れることもあるだろうし、何がどうなっても絶対はあり得ないわけだが、何も誰もが絶対的な関係を目指しているわけでもないだろうし、大抵は相対的な関係で妥協するだろうし、良好な関係を保っている限りで満足しているはずだが、自由であることを望むときりがないとしても、ただ漠然と自由な状態を望んでいれば関係をできるだけ薄めようとするのかも知れず、完全に自由になってしまうと無関係となって孤独にさいなまれてしまうから、他者との間で適度な関係を維持しつつも相対的な自由度を確保したいのかも知れず、その適度な関係というのが薄められた関係であり、しつこくつきまとわれないような状態に関係の程度を調整しようとして、つかず離れずな距離感を絶えず調節していて、それも他人には身勝手と受け取られるかも知れないが、そうやって感じられる身勝手さがその人が求める自由につながっているのかも知れず、濃くて強固な関係を嫌う傾向にあれば、そこから生じる束縛を許容できないということであり、何かに依存するのが不快に感じられるということでもあるだろうし、そういうところで自由な状態をどう捉えてどう感じるかで、人によってはそういう状態を嫌ったり中途半端で無責任に思われるかも知れないが、逆に何事にも深入りしないことで、そこから生じる束縛から逃れようともしているわけで、そういう傾向を求めている限りで自らにも他者にも自由が生じていると言えるだろうし、また自由が生じている限りで自らも他者も決して思い通りにはならないし、意識する対象への管理も制御も中途半端に留まることを意味するわけだが、そんな自由を許容できるかとなると、自らの意向や利益をある程度は放棄できるなら、放棄した分だけ自由になったと言えるのかも知れず、それだけ自らの権力の行使を放棄することにもなるだろうし、放棄した分だけ他者との関係が弱まることにもなるわけだろうが、その分だけ対象となる他者の自由度も高まるわけで、それが無関係となれば自らの力が他者に及ばないから、そういう面では完全に自由となるわけだが、それも身勝手かといえば関係がなければ身勝手とも思われないし、何でもないことになってしまうだろうが、少なくともそれは相手を屈服させて相手に対して思いのままに権力を行使するような自由とは正反対の無関係の自由となるわけで、どちらが本当の自由なのかといえば、どちらもその人にとっては自由だと言えるだろうが、相手にとっては思いのままに権力を行使されるのは不自由この上ないだろうし、不快な束縛を受けていることになるのかも知れないし、普通はそれだけで許容限度を超えているはずだが、逆に完全に無関係であれば別に自由であるという意識も自覚もないような状態となってしまうわけだ。


2月8日「満足感を得る戦略」

 世の中でうごめいている人たちが実質的に何をやっているかといえば、人によっては何もやっていないかも知れないが、大抵の人なら何もやっていないわけでもなく、何かしらやろうとしていることをやっているつもりになれるだろうが、そのやっているつもりというのが実際にはそれ以上のことをやっていたり、また場合によってはそれ以下のこともやれていなかったりするわけで、やっているつもりのことに実質が伴っていなくても、何か満足できることをやっているという実感は抱いていたりして、またその実質というのが何なのかがよくわからないわけだが、ただ金銭的な利益が伴っているという基準では、それが自ら主体的にやっていることになるとは限らず、やりたくもないことを必要だからやらざるを得ないようなことにもなってしまうわけだが、そうなるとやはりその場の状況に合わせて何かやっているというのが自然な成り行きになってしまうわけだが、そうだとすれば何もやっていないように思われる人も、その場の状況下では何もやっていなくても間に合っていることになるだろうし、その場では確かにそうだが別の場では何かをやらざるを得ない成り行きであったり、実際に何かをやっていた時期もあったのだろうが、それがある時期から何もやらなくても間に合ってしまうような成り行きになってしまったのかも知れず、そういう意味では何かをやっているかやっていないかの基準というのも、その場の状況に合わせて別の基準を当てはめて判断しなければならなかったり、そもそもなぜそんな基準から判断するのかといえば、その理由がわからなければ基準が基準としての体をなしていないし、場合によっては基準などなくても無視してもかまわないが、ではなぜ何かをやっているかやっていないかで語ろうとしたのかといえば、それだけでは何を語っていることにもならないのではないかと疑念を抱くように誘い込もうとしていたのかも知れないが、それもそう語ってしまえば何でもないようなことになってしまうわけだが、何かを語るには語るきっかけとなる何らかの判断基準を示して、それについて一通り語ってみれば、そんなことは何でもなかったことが明らかとなり、結果的にはそんなことを語る必要もなかったということになってしまいかねないが、やはりそれでも語っている内容に何らかの実質が伴っているように思い込みたいわけで、それが語ることの意義であるかのような幻想も抱きたいのだろうが、それが幻想であってもかまわないし、幻想を抱けることが語ることの効果として実質が伴っていることであってもかまわないのかも知れず、普通は幻想を抱くことだけでは実質が伴っていないことになるのかも知れないが、実質的な満足感というのはそういうものでしかないのかも知れず、それとは違ってたとえ何らかの活動に金銭的な利益が伴っていても、それを貯め込んでいるだけでは満足感しか得られないだろうし、金銭を使って何かを得ればそれが実質となるかも知れないが、得たものに満足できなければ、それを得ることで実質は伴っていたかも知れないが不満であったり、それなら得られなくても幻想を抱いているだけの方が満足感に浸っていられたのかも知れず、もちろんそれだけでは物足りなくなってしまうから何か実質的なものを得ようとするわけだが、その実質的な何かを得ようとするときが試練の時なのかも知れないし、そこでうまく満足感を得られるようなものを手に入れられれば、試練をくぐり抜けて満足感を得ることに成功したわけだろうが、その満足感も一過性のものでしかなく、一通り何かを得たことで満足感に浸っていると、またそんな体験をしたくなってまた満足感を得られるような別の何かを求めたくなってしまい、その際には今までに体験した満足感よりもより一層大きな満足感を得ようとしてしまって、そうなると身の程知らずな試練にその身をさらすような危険も伴ってきて、そんな試練に打ち勝って得たいものを得られれば、確かにより一層の大きな満足感を得られるかも知れないが、まかり間違えば自らの破滅を呼び込むことにもなるだろうし、そういうところで危険を回避するには、ほどほどのところで満足しておかなければならないだろうし、満足感を得たいという欲望を放っておけば留まることを知らないわけだから、そうした欲望を抑えつけて身の丈に合ったことをやるように心がければいいのかも知れないが、その身の丈という程度がどれほどなのかも判断がつかないところだろうし、結局はやりたいと思うことをやってみるしかそれを知る術はなく、実際にそれをやってみれば結果的にそれができたかできないかで身の丈の程度が明らかになるわけだが、たとえその時にはできなかったとしても条件が違えばできると思われる場合もあるだろうし、そうなるとまた機会をうかがって条件を整えて再挑戦するような成り行きにもなるかも知れないが、そういう判断が正しいか間違っているかは、やはり実際に挑戦してみないことには何とも言えないだろうから、どこまでも結果がどうなったかで判断するしかなく、満足感を得るにはそれ相応の試練をくぐり抜けないとならないわけだが、いつまでもそんなことに挑戦していられなくなるだろうし、そんなことをやっている途中で力尽きてしまうことだってあり得るわけで、そういうことを恐れるような成り行きになれば、やはりある程度のところでやっていることに見切りをつけて満足感を得る行為を断念するようなことにもなるのだろうが、今度は戦略を変えてより安易に満足感を得やすいやり方を模索するようにもなるのかも知れず、なるべく困難に直面せずに安易に手軽な満足感を得られるような方法に惹かれてしまうわけだが、そういう満足感を提供するのがメディアの役目にもなってくるし、またそれに連動して娯楽産業が提供するサービスの類いがそういう傾向になりがちになり、そうした誰もが得られる手軽な満足感を求めて多くの一般大衆がその手の娯楽に群がって、そういう方面の産業が興隆してきたわけだろうが、いつまでも同じ娯楽を提供し続けているとやがて飽きられてしまうから、目先の流行に合わせたり自らも流行を作り出そうとしながら、より多くの人々が魅力を感じられるような娯楽を提供しようとしたり、あるいは多額の金銭の所有者向けに選ばれた人向けの虚栄心を煽るような豪華な娯楽を提供するような傾向にもなるだろうし、それも貧富の格差をもたらす資本主義経済の傾向に合わせた戦略としてそういう二極的な傾向にもなるわけだろうが、どちらにしても人為的に工夫を凝らして満足感をもたらそうとしているわけで、人々にそうした夢を提供しているとも言えるわけだから、それに実質が伴っているとしてもそこから得られるのは幻想の類いには違いなく、人々がそこで直面しているのは人工的な仕掛けとなるだろうし、それがいかに至れり尽くせりのサービスだとしても、身の安全を保証されている限りで体験しやすいように調整されて飼い慣らされた試練とはいえない何かを体験していることになるわけだが、それで満足できるかとなれば満足したように思わされてしまうのだから結果的には満足したことになるのだが、そこには間接的な意図や思惑が差し挟まれていることは確かであり、それが人為的な制御であり、そこでサービスを提供する側に操られていることにもなるし、果たしてそれを全面的に受け入れてもかまわないのかとなると、中には抵抗感や反発を抱く人も出てくるだろうし、そうした人の存在を最小限に食い止めることができればサービスを提供した側は勝利したことになるわけだが、ではサービスに満足してしまった人が敗北したことになるのかといえば、満足したのだから少なくともそんな気にはならないわけだ。


2月7日「人為的な構成物の寿命」

 人や集団に関係した様々な活動において、何らかの成果を上げていることはいくらでもあるのかも知れないが、それが何を標的にした成果かといえば、特定の人や集団や不特定数の人々や場合によっては社会全体を対象としていたりもするのかも知れず、その中のどれでもないとするなら、何の成果も上げていないのかも知れないが、ただ漠然と何の目的もなく働いているわけでもないだろうし、何らかの成果を期待するような意図や思惑や目的があって誰もが働いていると思いたいところだが、結果的にはうまくいかない場合もあるだろうし、何の成果も上げられずに失敗に終わった活動もいくらでもありそうだが、その成果というのが直接の金銭的な利益の獲得を目指しているのであれば、それが経済活動の類いになるわけだが、それ以外にはどんな成果が目指されているのかといえば、それによって何らかの組織や団体や機構などのまとまった人為的な構成物を維持しつつ増大させたり強化するような成果となる場合もありそうで、そのために経済活動や経済行為をやっていることにもなるわけだが、何のためにという目的がそれ自身やそれ自体の維持継続や強化を目指しているなら、それは当然のことでありどのような人為的な構成物にも言えることになってしまいそうだが、それ以外の目的があろうとなかろうと、すべての目的はそれ自体へと向かっているだろうし、それを構成している人や物や情報の類いはそのために使われることになるわけだが、そういうそれ自体で社会を構成しているような物事にはどのような力がそれ自体に加わっているのかといえば、そこに何らかのまとまりを生じさせるような圧力がその内外から加わっているからそれ自体で何らかの構成物を生じさせているのだろうが、それがその構成物を維持継続させる力ではない場合もあるだろうし、それがそれを破壊しようとする圧力であれば、それに抗う力が内部から生じてくるのだろうが、それを維持する力と破壊する力が拮抗していればそれがそのままの形を保っていられるのかも知れず、維持する力が勝っていればそれ自体の構造が強化されるし、逆に破壊する力が勝っていれば弱体化して壊れて行ってしまうだろうし、そういう力がどうやって生じてくるのかといえば、人為的に生じてくることもあるし自然に生じてくることもあるだろうが、それが人為的に生じていることであればそこに利害が絡んでいて、それを維持継続して強化することによって利益を得られると判断している人や勢力などは、それを守り防衛するために力を及ぼそうとするだろうし、その存在が障害となって活動が弊害を生じさせていると判断している人や勢力などは、それを攻撃して破壊するために力を及ぼそうとするだろうし、そうやってそれを巡って戦いや争いが生じているわけだろうが、それとは別に経年劣化や摩擦や消耗などによって瓦解を促すような自然の作用も及ぼされているだろうし、いくら人為的に工夫を凝らしてそれを維持継続させようとしても、それ自体に寿命があればどうにもならない面があるのかも知れず、そうであれば維持継続させるための経費や労力などが割に合わなくなれば、ある程度のところで見切りをつけて壊れるにまかせるようなことになってしまう場合もありうるだろうし、過去にはそうやってうち捨てられて廃墟となってしまった構成物などもいくらでもあるのだろうが、それが目に見える建物や設備などの構成物とは限らず、例えば王国や帝国などの過去に繁栄して栄華を極めた国家形態などもいくらでもあるだろうし、現状で成り立っている国家形態なども用をなさなくなればいずれは廃れて別の形態へと移行する成り行きになるのかも知れないが、現状の形態を守り防衛する側もそれに攻撃を加えて破壊しようと目論む側も、意識が現状の形態に囚われていれば現状の範囲内でどうにかしようとしていて、そこに意識的な限界があるのだろうが、すでに現状の形態に寿命が来ていれば、やがてどちらの側の思惑からも外れる成り行きが待っているはずだが、だからといってどちらの側も来たるべき形態を先取りするわけにはいかないだろうし、だから現状の形態を巡って争いや戦いを繰り広げている人や勢力は、現状の形態の寿命が尽きると共に滅び去る運命にあるのかも知れないが、当事者たちにはそんなことを考慮に入れる必要もないだろうし、現に誰も考慮していないしできないわけだが、それでもかまわないしそうなるしかないのかも知れないが、少なくとも寿命が尽きるまではそれにかかわらざるを得ないだろうし、それを維持継続させるために無理で無茶で強引なことをごり押ししている人や勢力も後を絶たないし、またそれをやめさせようとして盛んに批判や非難を繰り返している人や勢力もそれに対する執拗な攻撃をやめようとしないし、そういった退屈で予定調和な攻防劇が続いているうちは現状で成り立っている形態が維持継続されていることになるわけだが、いつまでもそれが続けられるとも思えないし、いつかは限界が来てどちらの側も消滅してしまった時が終焉の時なのだろうが、その時が来るまではどちらの側もやめたくてもやめられない状況が続いていくしかないだろうし、それは自主的にやめるとかやめないとかの選択自体があり得ないのかも知れず、そこで誰かがやめても他の人がやめようとしないから、またそれに加勢する人も出てくるから延々と続いていくしかないのかも知れないが、ではいつになったら終わりの時が来るのかといえば、それは誰にも予想や予測のつかないことかも知れないし、最終的には自然の成り行きが決めることになるかも知れないが、その時が来るまで待ち続けることもできないだろうし、結局はそれにかかわる限りでそれを巡る攻防のどちらか一方につくことしかできないわけだが、それだけが世の中のすべてを覆い尽くしているわけでもなく、他にも別の場所や時の中で別の何かを巡って攻防の争いや戦いを繰り広げている人や勢力も存在していて、そういうことにかかりきりになっている人たちには他のことは眼中にないだろうし、他のことは無視できる範囲内で活動している場合もあり、それがそういう範囲内でおこなわれていることであれば、他の人たちが無関心であっても傍観者でしかなくてもかまわないのかも知れず、それらの人たちが関知しないところで何らかの争いや戦いが繰り広げられていることでしかないのかも知れないが、誰もがそれに魅力を感じなければもうすでに寿命が尽きているかも知れないし、たとえそこから金銭的な利益が得られていても、それがつまらなくてくだらないように感じられる活動であれば惰性で続けられているようなことでしかないだろうし、それにかかわっている人がいかに大勢いるとしても、そんな人たちはどうでもいいような人たちでしかないわけで、それらの人たちの命運もすでに尽きているのかも知れないが、それでもそこにかかわってくる人や物や情報がそこへもたらされている限りでその存在が確認できるだろうし、それが存在しているように見せかけることもメディア上ではおこなわれているわけだが、すでに命運が尽きている状態をいつまでも執拗に長引かせることができるかとなると、そういう行為にも自ずから限界がありそうに思われるかも知れないが、現にそうなっている状態を見せられているとすれば、見たければそれを見ていれば済んでしまうようなことでしかないのかも知れず、見たくなければ見ないように目を背けていればいいのだろうし、それに直接かかわっていない人たちにとってはそういうことでしかなく、しかも見ていないのに見ているように装っているとすれば、それは意味不明な行為となってしまうのかも知れないが、それでかまわないのならやはりそれで済んでしまうのかも知れないし、実際に済んでしまっている実態が現状の中にはあるのではないか。


2月6日「世間と世論と自意識の関係」

 何か時事的に興味を惹くことについて語ろうとして、それについて言及しているのだから、当人にしてみればどうでもいいようなことに首を突っ込んでいるわけではないはずだが、その自覚がなくても端から見ればどうでもいいように思われることだと、それが何かといえばあえてこだわる必要もないことにこだわっているのかも知れないが、なぜそれにこだわる必要がないのかといえば、それがその人にとって重要なことだとは思えないからだろうが、こだわっているのだから少なくとも軽視できないことだと感じられるのかも知れず、何が重要であろうとなかろうと、その人にとってではなく世間的には重要なことだと思われるならそれについて語るのが当然のように思われるわけだろうが、その世間的な重要度が何によって判断されるのかといえば、メディアがそれについて報じる頻度となるのかも知れず、メディアがそれについて度々報じて世論を喚起しようとしているのなら、それが世間的に重要なことだと判断したから頻繁に報じているのだろうし、そんなメディアの動きに連動してそれについて語ろうとしているのだから、そうするのが当然のことように思われるのは普通の感覚なのかも知れず、それが語っている当人にとってはそうは思われないとすると、世間と当人の間でずれが生じていることになるのかも知れないが、そうであるならメディアがやろうとしている世論の喚起ともずれていることになるだろうし、そんな世間とも世論ともずれている人が世間にも世論にも同調しようとするのはなぜかといえば、世間にも世論にも媚びていることになるのかも知れず、しかし媚びる必要があるのかとなると、当人がその必要を感じているというよりは、その人の意識がメディア現象に巻き込まれているからそうなってしまうといった方が妥当なのかも知れないが、果たしてそんな現象に巻き込まれている人が世間にどれほどいるのかとなると、そうしたメディアにかかわっている人ならかなり多くの人を巻き込んでいる感覚があるのかも知れないが、そうしたことに関心のない人にはそうは感じられないだろうし、人によっては全くの無関心でいられるようなことかも知れないが、多くの人が多少の関心はあるとしても、意識が全面的に巻き込まれている感覚はないだろうし、そんな多少の関心がある人が世間の大部分を占めるなら、そんな世間自体の重要度もどうということはないわけだが、そんな世間を相手に多少は興味を惹きそうな話題について語ろうとしているのだから、それが重要なことだとは思えないのも当然かも知れないが、そんなことがメディアが報じている内容の大半であれば、それによって世論を喚起することに何か意味や意義があるのかといえば、メディアにとっては意味や意義があることかも知れないが、そんな世論に同調したり媚びる人にとってはどうでもいいことかも知れないし、しかもその人にとってはそうだとしても、その人の意識の中ではそうではないから同調しようとしたり媚びようとしてしまうわけで、そうであるならその人の存在と意識の間にずれが生じているのかも知れないが、そんなずれを生じさせているのがメディア報道であるのかも知れず、当人には大して重要ではないことに関心を持つように仕向けているのがメディアであり、そうやって巻き込まれて関心を持ったことがその人にとって重要なことだと思われてしまうとすれば、それが思い違いであることが明らかだとしても、それによって世論が喚起されるとすれば、そういった世論も思い違いに基づいた世論であり、そんな世論は当てにならないわけだが、中にはそれを真に受ける人や団体もいるだろうし、そうやってそれを真に受けた人や団体が判断を誤ってしまうのかも知れないが、誤った判断によって何がもたらされるのかというと、大して重要とも思われないことを重要だと思うのだろうし、そうやって事を大げさに捉えて、大したことでもないのに大騒ぎするわけだが、そうした大騒ぎの陰に隠れて見過ごされてしまうことも出てくるわけで、また見過ごされることを狙って、大して重要でもないことに世間の関心を向けさせようとするのかも知れないが、そういった世論誘導がどれほど功を奏しているのかといえば、それも功を奏していると思うのが思い違いかも知れないし、要するにそうやってねつ造される世論自体に誰も関心を向けないようなことになっているのかも知れず、世の中の大部分の人たちは真に受けていないのに一部の人や団体だけが真に受けて、メディアが大騒ぎしていることに誰もが関心を持っていると思い違いをしているとすれば、そんな世間も世論も虚構でしかなくなってしまうわけだが、そもそも何が重要で何が重要でないかの判断もそういったメディア的な報道のされ方に基づいていれば、それを真に受けた人の中では重要という意味に反したことが重要に思われてしまうわけで、その人にとっては大して重要ではなくてもその人が真に受けているメディアの報道や世間の反応や世論から判断すれば重要に思われてしまうのだから、それがその人にとっても重要なことではあるわけで、そうなるとそれ以前のその人にとって大して重要ではないという認識自体が間違っていることになり、誰がそう判断したのかといえば他の誰かがその人を端から見てそう思われたのだから、その人の判断が間違っていて思い違いをしていることになり、その人にはそうは思われなくても、メディアの報道を真に受ける人にとっては重要なことであり、メディアの報道を真に受けて世間で騒がれている話題が重要であるのは、それを真に受けることによって重要度が増すのであり、それを真に受ける人にとっては重要でも真に受けない人にとっては重要ではなく、それが重要であるか否かはそれを真に受けるか受けないかで決まってくるのかも知れず、真に受ける人にとってはメディアの報道が重要度を決めているわけで、その人の判断はメディアに依存しているわけだが、案外そういう面ではそうであっても他の面では別の判断が生じてくるのかも知れず、何が重要であってもなくても、重要であるからといってそれはメディア的には重要であるということであり、他の面ではそうではないかも知れないし、そうであればその重要度というのもメディアに限ってのことであり、他の面ではどうということはない重要度であるとするなら、それを重要だと判断すること自体が大して重要ではないという矛盾が生じてしまうわけだが、それがどういうことかといえばその人の生活の中でメディアの占める割合が大したことでもなければ、感覚としてメディアの中で重要と思われることがその人の生活の中ではそうでもないということになり、メディアに接している間だけは重要だと感じられることも、それ以外の時には大して重要だとも感じていないのかも知れず、メディア的な重要さがその程度のことであれば、当人にしてみればどうでもいいような部類に入るわけでもないとしても、時と場合によって重要であるか否かが違ってくるということであり、そういう重要度の大小の使い分けが何を意味するのかといえば、その人の意識の中で占める割合も生活の中で占める割合も、その時々で関心のある物事を持ち出してきたり引っ込めたりしていて、何か恒常的に関心があって重要に思われることというのがそれほどないというか、それほどなくてもかまわないような生活を送っているわけで、そんなふうに生活している人はそれだけ心身に余裕があるということだろうが、そういう人が世の中に多ければ多いほど世間的な関心も薄められているのかも知れないし、メディアが騒ぎ立てていることを真に受ける人もそれほどはいないのかも知れない。


2月5日「意志や思惑を超える作用」

 過去の経緯がどうであれ、現状のような状況が形成されていて、現状に至るまでにそれなりの紆余曲折があったにしても、その紆余曲折の中で人や物や情報が動いた結果として現状がもたらされたわけだが、そうやってもたらされた現状の中でも新たな紆余曲折が生じている最中だろうし、その中で人や物や情報がどう動くかで未来が決まるはずだが、すでに決まってしまった固定的な面とまだ決まっていない流動的な面があるにしても、またそこからも固定化している面に働きかけて動かそうとする作用と、流動化している面に働きかけて一定の傾向に固定化させる作用とがぶつかり合ったりすれ違ったりして、そこに介入してくる様々な作用を被りながら現状が変化し続けていると捉えるなら、まだ何か期待や希望を抱く余地が残っているのかも知れないが、それでも現状に落胆したり絶望している面もあるだろうし、現状をどう捉えるにしても思い通りになっていない面については不満を抱いているのだろうが、具体的に何をどうしたいのかがよくわからないところがあれば、それについては関知しないか無視しているのかも知れないし、直接の利害があると感じられるところだけかかわろうとしていて、そういうところしか意識できない場合もありそうで、後はメディアから影響を及ぼされて関心を持たされている面もあるだろうし、さらに身の回りから直接の作用や間接的な影響を及ぼされて関心を持たざるを得ない面もあるはずだが、そんな作用や影響によって自意識が形成されて個人や集団としての存在が意識されるのかも知れないが、そんな個人や集団の存在を信じられるかというと、信じないわけにはいかない面があるとすれば、それは制度的にあるいは慣習的に個人や集団として区別されて特定されていると意識せざるを得ない面であり、そんな個人や集団を標的にして動作して機能している装置や機構があるわけで、そんな装置や機構を動かすために個人や集団が働いているわけだろうが、もちろんそこから利益がもたらされるから個人や集団が働いていて、それが金銭的な利益であれば資本主義経済にかかわっている装置や機構になるだろうし、それを利益だと感じられなくても、何らかの意志や思惑が介在して装置や機構を利用している場合もあるだろうし、また当人の意志や思惑に関係なく何らかの装置や機構に取り込まれている場合もあり、そういう場合は他の意志や思惑によって操られていることにもなるだろうし、それが人の意志や思惑ではないとすれば自然にそうなっているとしか言えないわけだが、それを装置や機構だとは意識できない場合もあるのかも知れず、人工的な装置や機構でなければ自然の仕組みの中で動作していることになるわけで、人工的な装置や機構も自然の仕組みの中で動作していると捉えるなら、何らかの装置や機構に取り込まれているとしても自然の仕組みの中で動作していることには変わりないわけだが、そうだとすればたとえ金銭的な利益を得るために活動しているとしても、自然から及ぼされる作用や影響に逆らっているわけでもないことにはなるが、ただそれが自然破壊のような行為に結びついていれば、何か自然と対立しているように思われるのかも知れないが、自然破壊と共に人も滅びるような成り行きになっていれば、自然が人を滅ぼそうとしてそんな作用に誘導しているのかも知れないし、そういう意志や思惑が自然にあるかとなると、それは人が感じ取れるような人の意志や思惑とは違うものかも知れないが、普通は自然に意志や思惑があるとは見なさないし、宗教的にはそれが神の意志や思惑になるとしても、それを感じ取って自然破壊は人を滅ぼすからやめさせようとする意志や思惑が人に生じているなら、人が抱いている意志や思惑が人の意識の中で循環しているだけなのかも知れず、そんなふうに人がやっていることが人に利益をもたらすように思われるとしても、単に利益だけがもたらされるのではなく不利益や弊害も一緒にもたらされるようなものなら、何かそこで工夫を凝らさないとならなくなるのだろうし、それも一応は功利的な思惑から生じることなのだろうが、人によって立場によってもそこまで配慮できる場合とできない場合もあり、そういうところで利害が対立して争いが起こっているわけだが、本当に利害が生じているのかとなると実利や実害を直接感じ取れないと実感できないような人もいるだろうし、様々な利害が様々な水準で混ぜ合わさっているような場合には単純な比較をするわけにもいかず、そうなるとどれほどの利害が生じているのかよくわからなくなってしまうわけで、そこに金銭的な金額が提示されていても、計算の根拠を信じられなければ金額自体も信用できないし、そういう意味ではどこまでもあやふやなことでしかないが、確かに実害を被っているとは思われない人にとってはそうであっても、何らかの実害を被っていてそれをそのことのせいにしたい人であれば、そこから利益を得ている行為をやめさせようとするだろうし、そこで実際に対立や争いが起こっているわけだが、それに関しては他人や他の集団を味方につけようとしてデマを流したり煽動したりする人や集団も出てくるだろうし、そういうデマや煽動につられてそんなことをやっている人や集団の味方になる人や集団も出てくるし、それもそんなことのバリエーションの中で動作して機能している行為でしかなく、それが人工的な装置や機構に付随しておこなわれていることであれば、そうした装置や機構に取り込まれた人や集団に生じる意志や思惑が介在しているわけだが、たぶんそうした意志や思惑を超える作用というのはそんな人や集団には制御できないだろうし、それを感じ取れなければ対処も対応もできないのかも知れないが、ではそれらの人や集団が何を感じ取っているのかといえば、ただ漠然と焦燥感を覚えているのかも知れないし、何か振り払おうとしても振り払えない誰かの視線を意識しているのかも知れないが、それが誰の視線であるわけでもなく、単なる自意識過剰な思い込みに過ぎなければ、実際に生じている被害は自分たちのせいではないと声高に主張することもないわけだが、何かを声高に主張したり宣伝や煽動によって人々の気を惹いたりする行為が目立っていれば、やはり何かを感じ取っていることになるのだろうし、その感じ取っていることが何に起因しているのかといえば、それらの人たちの活動が周囲の環境に及ぼしている作用や影響が、そのままそれらの人の意識に跳ね返ってきているのかも知れないし、そんな跳ね返りがそのままそれらの人や集団の活動に作用や影響を与えながら、その活動に何らかの変容をもたらしているのかも知れず、そうだとすると他から目立った作用や影響を受けなくても、自ずから変容していってしまう可能性があるということにもなり、それが自業自得気味に起こる自滅であるのかも知れないが、なぜそうなってしまうのかといえば元からそうなる因子がそれらの活動には内包されていたのかも知れないし、活動自体が起承転結などの成り行きを伴っていて、同じような定常状態を恒常的に維持できるようなものではなく、それなりに起伏に富んだ経過を経てある時期を境にして収束に向かう傾向があるのかも知れず、それは実際にそうなってみないことにはわからないことであり、そうなった結果からわかることでしかないわけだが、それであれば活動の中に身を置いている人たちにはわかりようのないことかも知れないし、それをおこなっている立場の人たちにはどうすることもできない成り行きになるだろうし、そうなったらなったでそんな結果を受け入れるしかないことなのではないか。


2月4日「思いがけないことの持続」

 人が人の語る内容に何を期待するのかといえば、例えば話の論理的な整合性や納得のいく合理的な内容かというと、その場の状況にもよるだろうが、何か思いがけないことを言われると慌てるかも知れないし、予想外の内容に言葉を失う場面もあるのかも知れないが、思惑通りの成り行きになることを期待しているわけでもないだろうし、別に何も期待していないのかも知れず、何か途方もない秘密が明かされたとしても嘘だと思ったりもして、そこで何に反応するかはその場の気分次第であったり、結果的に何の反応もなくても取り立てて何が不都合であるわけでもなく、どんな反応を期待されようと、そんなのはどうでもいいことだと高をくくっていれば済んでしまうようなことかもしれないし、相手が何をどう語ったとしてもそれだけでは何でもない場合には、何を期待していたわけでもなかったことになるのかも知れないが、そうであれば特に予想外で想定外の話の内容でなくてもちょっとしたことに驚くかも知れないし、別に驚くような内容を求めていたわけでもなくても、何の先入観も前提条件もなく素直に感動できるのかも知れないが、それがあらかじめ予想されていたことではなくそうなるべくしてなったわけでもないなら、その場の偶然の巡り合わせで起こった感動となるかも知れず、そういう意味では驚いたり感動したりするには何の準備も心構えも要らないわけだが、そうやって不用意に驚きや感動に出くわすのとは違って、事前にそうなるための入念な下準備をしてから、そうなろうと決めたその時に満を持して目的の何かに出会おうとするような場合には、そこで起こることが前もって想像していた通りのことであってほしいわけだが、それが思いがけず出鼻をくじかれたり、途中でわけのわからない紆余曲折に巻き込まれたりすれば、何か当初の目算が狂いに狂って出会う以前に気が散ってそれどころではなくなってしまうかも知れないが、それも偶然の巡り合わせとしか思われないし、そうなる予定が未定となって思い通りに事が運ばずに焦り苛立って我を忘れた状態で何かに直面すれば、それがすでに直面している思いがけないことの延長上に出くわす未知の事態であり、そうなればその場で何をどうしたらいいのかわからなくなってしまうかも知れないが、そこでやるべきことが取り立てて思い浮かばないのに何かをやっている実態があれば、たとえそれが当初に抱いていたやるべきことではないとしても、そこでその人が実際にやっていることがその場の状況に合っていることなのかも知れず、そうやって未知の事態に対応していることがその人にとっての未知の事態でもあり、それがこれまでにないことであれば、何か新しいことをやっていることになるのかも知れないが、それでかまわないのかというと、そうやってその場をうまく切り抜けられたら、それがその場での正しい対応になるのかも知れないし、切り抜けられずにどうにかなってしまったら、そのどうにかなってしまった状態というのが、その人にとっての失敗や挫折を意味するのかも知れないし、その人にとってはそうであっても、そういう成り行きにその人を追い込んだり罠にはめるようなことをおこなっている人が他にいれば、その人にとっては事がうまく運んでしてやったりと思うかも知れないし、思い通りの結果を得られて満足することになるかも知れないが、そう何から何までうまくいくようなことも稀であり、大抵はうまくいった面といかなかった面の両面があるわけだろうが、実際にそうなったとしてもそれ以降も何かやっている実態があるとすれば、そこでうまくいったりいかなかったりしたことがそれ以後のやっていることにも引き継がれているのかも知れず、それが実際に何らかの形で引き継がれている限りで、やっていたことが無駄ではなかったことになるのかも知れないが、特にそれが役に立ったとも思われなくてもかまわないわけで、さらに役に立つどころか邪魔や障害となるようなことであってもかまわないのかも知れず、要するに誰かの思惑通りで予定調和の継続に持ち込まれてしまってはまずい場合もあり、そうなると絶えず相手がやっていることをねじ曲げるような作用を伴うことにもなるのかも知れないが、それでかまわないとなるとそこで争っていたり戦っていたりもすることになるわけだが、別にそうならなければいけないわけでもないのにそうなってしまうとすれば、そこに争点が生じていることにもなるだろうが、争点を巡って争っているとなると、事前にその争点が明らかとなっていたわけではなくても、その場で誰かと誰かが対峙することになると自然とそこに争点が生じるような成り行きになるのかも知れず、ではなぜ対峙しなければならないのかといえば、ただ単にその場に現れた両者がお互いに譲らないからかも知れないが、譲る必要があるのかといえば、互いの進路が交わっていれば譲ろうにも譲れない点が生じてしまうのかも知れず、そうでなくてもわざと対峙するようにタイミングを合わせているのかも知れないし、要するに特定の誰かと争いたいから争うタイミングを計ってそこに出現した可能性もあるわけだが、そのために事前の周到な下準備が必要となるなら、争うことに何らかのメリットを感じているからだろうが、その理由としては誰かの進路を妨害しないとその先へ進めないような成り行きになっているのかも知れないし、そうであれば直接対峙して争うことが有効な妨害となるだろうし、争っているうちは互いに前進ができないから互いが互いの邪魔をしていることになるわけだが、そうなると相手の邪魔をしている間は自分も邪魔をされていて前進できないことになってしまうとまずいような気もするが、他人と争うことが目的となれば、争っていること自体が目的を遂行していることになるだろうし、それが前進していることだと解釈しておけばいいのかも知れないが、相手の目的も争うことだとすれば、お互いに争いながら前進していることになってしまい、それが双方の共通の目的となれば別に争うことに関しては何の不都合もないわけだが、何かそこでおこなっていることがそういうことでしかないとすれば、それが双方にとってやるべきこととして当然のことをやっているとしても、むやみやたらと争っているだけで、争えば争うだけ消耗していることにもなるのだろうが、争うだけのことしかやっていないと他から糧が得られないから、やがて疲弊して争いをやめなければならなくなってしまうだろうし、そうなれば糧を得るための行為をおこなう必要が出てくるわけだが、争う以外ことが何もできなければ他から糧を供給してもらわないと争いを継続できないわけで、そうなると他から糧を供給してもらうような仕組みを作らないとならなくなるわけで、それが争いを見世物とするための成り行きになるのかも知れず、実際に見世物として成り立つような争いが世界のあちらこちらでおこなわれている状況があるわけだが、ではそういう争いの劇場化によって何がもたらされているのかといえば、それを観ている人たちに争う暇を与えない間がもたらされていると言えるだろうし、見世物としての争いがそれを観ている人たちの争いを奪っていることになり、少なくともそれを観ている間は他人と直接争わずに済んでいるわけだが、そうなっていることに何のメリットがあるのかといえば、それを娯楽として楽しんでいられるというメリットがあるわけだが、それもある意味では時間の浪費であり、観ている間は糧を得ることができないわけだが、それを観させている側はその間に糧が得られる仕組みとなっているわけで、他の人たちが争いを観て楽しんでいる時間の浪費が争っている当事者が糧を得る時間となっているわけだ。


2月3日「革命の原因」

 革命という出来事が何を表すのかはそれを言葉として使う状況によってニュアンスが違ってくるだろうが、革命が起こった際には起こるべくして起こったように思われても、しかも何らかの人や勢力が革命を起こそうとして起こしたようにも思われるとしても、革命そのものを制御できるかとなると、やはり何らかの人や勢力が自分たちの有利になるように制御しようとするのだろうが、しかも結果的にそれなりに制御できてそれらの人や勢力が主導権を握ることができたとしても、それでも思い通りになる面とならない面とがあるだろうし、思い通りにならない面とは、それらの人や勢力もそこから生じている成り行きに受動的に巻き込まれている面だが、そういうなるようにしかならない面とは、そういう成り行きを制御しようとする人の力を超えている面だと言えるが、そういう面では思いがけないことが起こっていたりもして、それがそこで主導権を握っているつもりの人や勢力を逆に操っているようなことにもなり、場合によってはやりたくはなかったことをやらざるを得ないような事態に追い込んだり、そのことが起因してそれらの人や勢力が破滅に導かれたりして、そうやって革命の最中で一時的に主導権を握ったが他の人や勢力から追い落とされて没落するような人や勢力の末路を生じさせるのだろうが、最終的に混乱を収束させて内部抗争を勝ち抜いて生き残って主導権を確立した人や勢力がいたとしても、それらの人や勢力にとっても当初に思い描いていた構想が実現したわけでもないだろうし、何らかの偶然が作用して思わぬ形で政治的な実権を握る機会が転がり込んできたのかも知れないし、始めから計画的に事を進めて思い通りの結果を得ることに成功するような革命などあり得ないのかも知れず、そうやって結果的に革命後に政治的な支配体制を築いた人や勢力に革命の最中におこなった悪行などの責を負わせるようなわけにはいかないだろうが、結果から物事を判断するようなことになればそうなるだろうし、そんなふうにして革命を招いたような悪政を隠蔽する目的で革命そのものを否定的な行為に見せかけようとする意図や思惑から、革命を起こした人や勢力を悪者扱いする人が後を絶たないわけだが、では結果的に革命を招くような悪政をおこなっていた旧支配体制の中で実権を握っていた人や勢力を悪く言うことができるのかといえば、それも結果的に悪政となるような成り行きに巻き込まれていたわけだろうし、それが悪政となった時点で判断すれば悪政を招いた人や勢力を悪く言って批判する成り行きにはなるだろうが、やはりそれらの人や勢力には状況や成り行きを制御しきれない面があったから後の時代にその責を負わされて悪く言われるような結果を招いたわけで、そうやって過去の否定的な出来事を招いた張本人として名指しされるような人や勢力にはその場の状況を制御しきれない力足らずな面がつきまとっているわけだが、そもそも何らかの人や勢力が思い通りにその場を支配して制御できていれば、他人から悪く言われるようなことは起こらないのかも知れず、そういう意味では後の時代において否定的な評価を受けるような人や勢力は、総じてその場の状況や成り行きを制御し切れていなかったから思いがけない想定外の出来事や成り行きを招いて、そのせいで後の時代に悪く言われるようなことになったのだろうが、そうやってうまくいかない面を伴った物事を悪く言う行為自体に説得力があるのかというと、愚かで浅はかな人ならそれでも納得するかも知れないが、人や勢力がその場で起こっている成り行きの中で主導権を握って自分たちに有利になるような結果をもたらすために活動していることは確かだが、そうやって自分たちが巻き込まれている状況を完全に支配して制御できるかといえば、一応はその場の主導権を握っているつもりになれる程度の状況をもたらしているのなら、それなりにうまく制御できている面もある反面でうまく制御できていない面もあるのかも知れないし、またそれに気づいている面と気づいていない面もあるのかも知れないし、それもそうなっている時点でうまくいっていない面に関しては現在進行形で他から批判や非難を浴びているだろうし、その場の支配力が他を圧倒するほど強ければ強権を発動して批判や非難を封じ込めることができるのかも知れないが、そういう独裁的な権力を行使できても、いつまでもそういった状況を保てないのが世の常であり、それがそういった支配体制が終わった後の時代に悪く言われる原因となるわけで、しかもそうした強権体制を長く維持すればするほど、そうした支配に対する不満が溜まりに溜まって、それがより大きな革命を招く原因ともなってくるだろうし、結局は何らかの人や勢力がその場の成り行きを制御しようとして政治的な主導権を握って支配体制を築くこと自体が、その場を制御しきれない要因を作るというパラドックスを招くことにもなるわけで、そうすること自体がうまくいかない原因そのものとなるわけだが、ではどうすればいいのかと言えばその場の判断ではそうせざるを得ないからそうしてしまうわけで、要するにそうならざるを得ない事態に巻き込まれていってしまうわけだが、そういう面が制御しきれない面であり、どのような人であっても勢力であってもその場の成り行きを思い通りに制御しようとすればそういう面が生じてきてしまうわけだろうが、では思い通りに制御しようとすることをやめればいいのかというと、その人やその勢力がやらなければ他の人や勢力がやろうとするだろうし、そういうことをやろうとして他のとの抗争に勝ち抜いてその場の主導権を握った人や勢力がそういう状況に陥ってしまうわけだから、誰がどんな勢力がその場の成り行きにかかわってきても、その場で他との抗争に勝ち抜く人や勢力が出てくればそうなってしまうわけだから、そんなことをやろうとしなければそういった抗争に参加しないだけであって、それに参加しなければ主導権を握れないだろうし、主導権を握って思い通りのことをやりたければ参加するしかなく、参加して他の人や勢力に勝って主導権を握ればそうなってしまうだけであり、結局はそうならざるを得ないのであり、そういう成り行きに巻き込まれてしまえばそうならざるを得ないような結果となってしまうわけだが、たぶんそんなことをやっているうちに、そんなことを繰り返しているうちにそれとは違う成り行きというのも何かの偶然の巡り合わせによって生じてくるのかも知れないし、そんなことにばかり気をとられているとそれに気づけないのかも知れず、そういう成り行きに囚われて今までとは違う結果を体験した人や勢力がそれと自覚せずに活動している実態が、後の時代に活かされてくるわけで、そんなことの繰り返しに飽き飽きしているような実感があるとすれば、もしかしたらすでにそれとは違う成り行きの中で生きていることになっているのかも知れず、その成り行きの中で生きている人にはそれがわからないとしても、後からそれに気づくような機会がやってくるのかも知れないし、それがいつになるかはそんな成り行きの中で活動している人には知るよしもないことかも知れないが、そういうことが嫌というほど繰り返された後には嫌でも誰もが実感できるようなことかも知れず、それは現状の世の中で生きている人たちが過去の革命の中で嫌というほど繰り返された成り行きを知っていることとは似ても似つかないことかも知れないが、少なくとも現状の世の中で生きている人たちが現在進行形で繰り返していることを未来の人たちが知ることができるまでには、さらにそれなりの時間と経験を要するのではないか。


2月2日「主義主張の形骸化」

 社会の仕組みとその動作が単純ではないことは誰もが理解していることだが、それが複雑すぎて理解しきれない面があるとしても、その一方で単純な理解で間に合わせている面もあるだろうし、その単純な理解というのが特定の主義主張で物事が動いているように見なすことだが、そんな認識でもかまわない面があると同時に、そういう認識でもかまわないように仕向けている勢力も存在していて、それが特定の主義主張を掲げる政党などの政治勢力であるわけだが、もちろんそれは暗黙の申し合わせ程度のことかも知れないし、そうではないことは誰もが承知しているが、言葉でそれを表現すると、単純な主義主張に基づいて物事が動いているような説明となってしまい、実際に特定の政党がそういう主義主張の名称を使っているわけだから、そんな政党はそういう主義主張に基づいて動いていると見なせるだろうし、そんな単純な理解でも間違ってはいないわけだが、それらの政党が実際におこなっている内容はそんな主義主張とはかけ離れたことをやっている面もあるわけで、そういう意味ではその政党の名称として使用されている主義主張を額面通りに受け取るわけにもいかないだろうし、その主義主張自体も言葉で示されている意味とは違うことをやっていたりもして、主義主張に基づいてやっていること自体が全く主義主張を反映していない場合もあるわけで、そうなるとそれは単なる見せかけの主義主張であり、主義主張から連想される印象を隠れ蓑にして、それとは全く別のことをやっている実態もあり、だからそういうことをやっている仕組みとその動作が単純ではないことは誰もが承知していることなのだが、そうであってもその主義主張から連想される意味が尊重されているように装うわけで、それにかかわっている誰もがそういうことにしておきたいのだろうが、実態がそうなっていないところがわかりにくいだろうし、しかも実態が全く違っていても誰も気にもとめないし、そうであってもかまわないような暗黙の申し合わせがあるとしても、そんな申し合わせがあるという自覚さえなく、やはりそんな主義主張を尊重しているように装うわけだが、実際に何をやっていようと印象だけはその主義主張に基づいていると見なしたいわけで、そうなっている時点で印象と中身が全く別物でかけ離れているのに、言葉を使って何か主張するときには相変わらずそれを強調するのだから、もはや嘘をついているとしか言いようがないわけだが、そんな主張をしている側にもそんな主張を受け止める側にもその自覚がなく、そこでもそんな嘘をついてもかまわないという暗黙の申し合わせがあるわけでもないのに、実際にそんな嘘がまかり通っているわけで、そうやって言葉がその意味とはかけ離れた次元で流通している実態があり、しかもそれを修正する気も意味と内容が合うような別の言葉で置き換える気もない人たちが、平然とそんな言葉を使ってそんな言葉の意味とはかけ離れたことをやっているわけで、そういう言葉から連想される印象だけ都合の良いときにだけ利用しながら、その意味を無視するようなことをやっている実態というのは、それに違和感を覚えない人が世の大多数を占めているとしてもおかしいことは確かだろうし、そのおかしさを誰も真正面から言葉にして表現できないとしても、やはりおかしいことには変わりないし、そんなおかしさに誰もが気づくべきなのかも知れないが、気づかない方が都合が良いような情勢となっているのかも知れず、何よりもそういうことをやっている当事者たちが世の中の主導権を握っている実態があるのだろうし、実際にそうなっているからそういうことがまかり通っていると見なすしかないわけだが、実際におこなっていることの大半が主義主張からかけ離れているとしても、そんな形骸化した主義主張を捨てられない事情もあるのかも知れず、要するにおこなっていることが特定の主義主張では表現できなければ、そしておこなっている内容に合わせた主義主張を掲げては都合が悪ければ、従来通りの主義主張を掲げながらもそれを裏切るようなことをやらざるを得ないわけで、しかも誰もがそれをおかしいとも思わないような状況となっているのに、そんな状況自体も誰もおかしいとは思えないわけだから、もはやそういう面ではどうにもならない事態となっているのだろうが、それを深刻に受け止めるようなことにはならないだろうし、実際に深刻でも何でもなく、むしろそれが当然のことのように感じられるわけで、そうであるなら狂った世の中になっているはずだが、誰もが狂っていることを自覚できないわけだから、たとえ狂気の世界が実現していようと何でもないわけだが、そういう面だけから世の中を捉えようとすること自体がそもそもおかしいのかも知れないし、もっと何か多面的かつ多元的に捉えるべきと言えばそんな気もしないでもないが、そうなっている実態の否定的な面を強調する一方で、肯定的な面も強調しておく必要もあるとすれば、特定の主義主張の形骸化によってもたらされる状況そのものが、主義主張の強調では捉えきれない行為や動作や活動の多様性を示しているとも言えるわけで、特定の主義主張に基づいた思考や活動では通用しない世の中になっているからそれが形骸化してしまったわけだが、そもそも元からそうなっていて、それを特定の主義主張によって強引に世の中を変えようとして失敗した経緯があるのに、それを失敗だと認められないからいつまでもそんな主義主張を掲げていて、未だにそんな主義主張に基づいて世の中を作り変えようとしているのかも知れず、それをあきらめたわけでもないのだろうが、もはやそうしようとする自覚もないのかも知れないし、要するに惰性でそんな主義主張を掲げていて、その看板を下ろす機会を見失ってしまったのかも知れないが、今さら看板を下ろすのは自分たちの負けを認めることになってしまうから下ろすに下ろせいないとしても、そういう否定的な印象が染みついた主義主張の看板がある一方で、肯定的な印象を担った主義主張の看板もあるだろうし、それが自由だの民主だのの看板であるわけだが、それが何となく肯定的な印象を伴っているだけに、たとえ自由にも民主にも反したことをやっていようと看板を下ろす必要はないだろうし、そういう意味では世間的な印象として肯定的に受け入れられる主義主張を看板として掲げておくことが肝要であるかも知れないが、実態としてもそこから全くかけ離れている印象があるわけでもないだろうし、看板というのはそれを観た人に好意的な印象を抱かせるものなら看板の機能として目的に適っているだろうし、掲げている主義主張も看板と同じような機能だと見なすなら、たとえそれが誇大広告の類いであろうと、結果的にうまく機能している限りで目的に適っているわけだろうし、そういう面ではおかしくも何ともないわけだが、ではなぜ主義主張通りのことをやってほしいのかとなると、それらの主義主張にはこうあるべきという理想が含まれていて、理想を掲げているなら理想を実現させるために活動してほしいわけで、活動内容がそこからかけ離れていれば批判されるのが当然の成り行きだが、果たしてそういう主義主張を真に受ける人が世の中でどれほどいるかとなると、少なくともそれを誇大広告の類いだと認識しているなら、それを真に受けているわけではないことになるだろうし、それ以前に看板は看板であり主義主張は主義主張であって、別にそれを結びつけて捉える必要もなく、結局そのようなものだと漠然と捉えておいて、その人の意識の中でその場の情勢に合わせて都合良く解釈していれば済んでしまうようなことなのかも知れない。


2月1日「崇拝の対象」

 世の中には何らかの権威となるような人や団体が存在していることは確かであり、そうした存在を成り立たせているのはそうした権威を崇める信者が存在しているからだが、崇めるように仕向ける仕組みが存在していることも確かであり、そこで崇められる存在と崇める存在との間で上下関係が成り立っているわけだが、そうやってなぜ崇拝の対象を求めているのかといえば、崇拝する見返りとしてその対象から利益を得たいという下心があるのかも知れないが、そこまで意識していないのかも知れず、ただ崇拝しているだけで幸せな気分になれるということであれば、それ以上に何を求めてもいないのかも知れないが、それは対象の特性にもよるだろうし、特定の神仏を崇拝しているだけならそれでもかまわないだろうし、それがアイドル的な存在であっても同じようなことかも知れないが、それが政治家や政党の類いであれば、何らかの実利を崇拝する見返りとして期待するのかも知れず、それは崇拝ではなく単なる支持ということになるだろうが、その実利というのが幅広い解釈を許すだろうし、具体的には贈収賄的な悪い意味として受け取られるものから、生活における物心両面での豊かさや暮らしやすさやゆとりや自由や幸福などのようなものまで色々と求めるものがありそうだが、そういう個人的なものではなく国家的な繁栄だとか国の威信を高めて世界に誇れる国にしてほしいとかいうものになってくると、崇める対象が国家そのものになってきて、何やらきな臭い気配が漂ってくるかも知れないが、今どきそういうおかしな思い入れにのめり込む人もあまりいないのかも知れないし、崇拝する対象に何を期待する以前に、自らの活動の範囲内で自己実現するようなことの方が優先順位が高そうだが、そういう意味では崇拝している対象に全面的な信頼を寄せているわけでもないのかも知れないし、何かの片手間で気休め程度にとりあえず崇拝しているつもりになっているだけであれば、取り立ててその対象を重視しているわけでもないことになってしまうが、そういった対象への思い入れというのもそれなりに程度の差がありそうで、社会情勢からもその程度に強弱が生じてくるのかも知れず、あまり普段は意識しないようなことであれば、何かを崇拝するということ自体の重要度は低そうだが、それは生活に占めるそれへの関わり度合いにもよるだろうし、宗教的に生活と一体化しているようなら、それだけ意識の中で崇拝対象が占めている割合が高まるわけだが、それも形式に割り切ってしまえば宗教的な儀礼のようにして、その対象へ祈りを捧げたりする特定の動作を欠かさずおこなっていれば済んでしまうようなことになってしまうわけだが、それを意識するか否かにかかわらず、他の行為や思いとの折り合いをつけようとすれば、他への支障をきたさない程度にとどめておくのが肝要に思われるのかも知れず、そういう意味で表面上は大げさに崇拝しているように装っている人ほど、態度として目に見える儀礼的な行為とは裏腹に、ルーティンワークのような割り切り方で対処している面もあるだろうし、それがその人にとっての大事に至らないための対処法になっていれば、かなり冷めた対応と言えるのかも知れないが、それとは対照的に熱い思いと共に過剰な期待を寄せている人には、他の人たちも同じように対象を本気で崇め奉っているのではないかという思い込みがあるのかも知れないし、そういう人には人によって対象との間で温度差や距離感に違いがあるのがわからないだろうし、そうなると一部の過激な信徒でしかなくなってしまうわけだが、そんな人が多くなれば他の中途半端な人たちが退いてしまうし、自らの信者を増やして社会への影響力を強めたい人や勢力にとっては、それが良いことなのかあるいは弊害となるのかは、そういった人や勢力の活動内容や活動状況にもよるだろうが、それが公的な政治勢力として普通に生きている人の生活にかかわってくる面が増えるに従って、思い込みの強い過激な信者が邪魔になってくるような成り行きもあるのかも知れないし、そういった勢力の政治活動が大げさな利害の衝突に直面しない限りで気休め程度の支持を表明しているような人たちにとっては、多少の不都合には目を瞑るとしてもなるべく大事にならない程度にとどめておきたいのかも知れず、そうなるとかえって何事においても事なかれ的な態度であった方が好都合なのかも知れないし、事を荒立てるのではなく穏便に済ます術を心得た人や勢力の方が信頼できるだろうし、もちろんそんな人や勢力は大げさな崇拝の対象とはならない代わりに、どちらかといえば事務的かつ実用的な範囲内で支持できるわけだが、それは大義のないことであり大げさな幻想を抱けないから物足りない印象を感じるだろうし、政治とは本来そんなものではないはずだと思いたい人も出てくるかも知れないが、その一方で公の政治そのものには無関心な人たちからすれば、面倒なことにならなければそれでいいわけだろうし、例えば社会的な弱者を助けるとか貧富の格差を縮小するとかいったことではなく、社会的な弱者は無理に努力して強者にならなくても弱者のままでもかまわないだろうし、貧しい人は貧しいなりに生きている限りで生きていればかまわないようなことであれば、事なかれ的には妥当な成り行きなのかも知れず、もちろんあからさまにそんなことを言えば多くの人から反感を持たれてしまうから言わなくてもいいことは言わずにおけばいいわけだが、その代わりに嘘っぽく感じられないようなことを述べればいいのかも知れないし、それが何かと言えばありのままの現実をそれなりに説明するにとどめておけばいいのかも知れないが、そんなことで済ませられるかというと政治的にはそうではないだろうし、それよりは嘘でもかまわないから人々に幻想を抱かせるようなことを言わなければならないのだろうが、その辺のさじ加減が微妙なのかも知れないし、そういう意味では政治的な立場というのが盤石な地盤の上に形成されているわけでもないから、確定的なことは主張できないのかも知れないし、いっそのこと立場がないといった方が正解かも知れないが、どうなるにしろ崇拝とか尊崇の対象となること自体が余分なことであり、それよりは時には軽蔑されたり馬鹿にされつつも、何とか現状の中でかろうじて活動が成り立っている程度でかまわないのかも知れないが、もちろん支持者はそれ以上を求めるだろうし、実際にそれ以上の存在となるように何かしら見てくれを取り繕ってはいるわけだが、それに成功している勢力は世界広しといえども皆無だろうし、現状を見ればその程度でかまわないと見なすしかないのかも知れないが、そういう面で批判を力で抑え込むよりは、絶えず批判の対象となっているだけでもマシな方だろうし、現状の世界で政治的な面で尊敬を得るのは不可能な情勢と言えるのかも知れないから、妥当な状態と言えば、様々な方面から批判を受けながらも政治的な主導権を握っていることが、勢力としてはあるべき姿なのかも知れないし、逆に批判されなくなっているようだと批判を封じ込めている以外にはあり得ないのかも知れず、さらに崇拝の対象となっているようだと独裁的な強権を振るっていることにもなるかも知れないし、どちらにしてもネガティブな状態と言えるわけで、そうであるならなるべくなら賞賛や崇拝の対象となるよりは批判や非難を受けながらも活動が成り立っている状態を保つことが、政治勢力として理想ではないにしても現実的な在り方と言えるのではないか。