彼の声136

2019年

12月11日「活動の継続」

 たぶん根拠の定かでない信仰や信用が間違っているわけではなく、もちろん信仰や信用にとりつかれている人には確固とした信じるに足る根拠が感じられるのだろうが、それが正しいとか間違っているとか良いとか悪いとかではなく、それを信仰したり信用するような成り行きに囚われていると言えるのかも知れないが、なぜ信仰したり信用するのかといえばその対象に魅力があるからといってしまうと身も蓋もないが、心が惹かれるなら魅力があることになるのだろうし、惹かれなければ魅力がないとも言えるわけだが、そんな魅力のあるなしにかかわらず人の生活にかかわってくる物事もあるだろうし、それに魅力が感じられたり感じられなかったりすることが、人によってもその場の状況によっても変わってくる場合もあるだろうが、魅力が感じられない物事に心身が支配されるようなことも起こるのかも知れず、別に信じてもいないのに好きでも嫌いでもないのに、そうした言葉では言い表せないような無関心の中で虚無的な空気に囚われていて、それに阻まれてそこから先へと思考が働かなければ、すでにそうした面で何かのコントロール下にあって、それを意識できないままに操られてしまっているのかも知れないし、そうしたコントロールによって役割分担として二つの陣営に分かれて対立を強いられているとしたら、そこで暮らす人々に分割と対立を強いている対象に誰もが関心を抱かざるを得ないのかも知れないが、それについては至って無関心であるからというよりは、その手前で分割や対立へと誘導されてしまって、そこへと関心が向かないようにされてしまっているのかも知れず、そうなっている時点で何らかのコントロール下におかれてしまっているわけだが、それが特定の機関や団体ではなく、それらが管理している特定の制度や法律の類いでもなければ、社会的な慣習の類いにコントロールされているのかといえば、それらのどれか一つというわけではなく、かといってそれら全体から複合的な作用や影響を及ぼされながらコントロールされているとなると、何かコントロール主体が特定できないようなことにもなってきてしまい、果たしてそれがコントロールと言えるのかという疑問もわいてくるが、そんなふうにして何にコントロールされているのか特定できないのにそれでもコントロールされているとなると、やはりそんなことに興味を持つような成り行きにはならないわけで、別にそれをコントロールとは認識しなくても認識できなくてもかまわないだろうし、結局何だかわからないがそこで分割と対立が生じていて、人々がそこで二手に分かれて争っていることになるのかも知れないが、そういう成り行きを利用して煽り立てをやっている人や勢力にとっては、そうなっていることが自分たちの活動の前提となっているだろうし、そうなっていないと活動が成り立たないわけだから、そうなっていないとかえってまずいわけだろうが、果たしてそうならないような状況というのが今後訪れるのかとなると、少なくとも現状ではそうなっているわけだから、そうなっている状況を利用することで活動が成り立っている人や勢力としては、今後ともそういう状況が続いてほしいから、そういう状況を維持するような目的で活動しているはずだが、そういった目的を自覚しているかというとそうではなく、それ以前に人々を二つの陣営に分割する理由や対立して争う理由の方に魅力を感じるわけで、そうしないと活動を維持できないというよりはそうしなければならないと思うわけで、なぜそうしなければならないのかその理由を知ろうとは思わないだろうし、自分たちの活動を維持するためにそうしていると思っているわけではなく、二つの陣営に分かれて対立して争っている方が都合がいいわけで、そうなっている理由ならいくらでも導き出すことができて、実際に二つの陣営に分かれる理由や対立する理由や争う理由ならいくらでもあるわけだが、それらを単純化して経済的な利害といってしまうと、何かまやかしに囚われているように思われてしまうわけだが、しかもそうした状況を政治的にコントロールできるかのように思っている人も中にはいるかも知れないが、すでにそうなっている時点でコントロールされているのに、それをさらにコントロールできると思ってしまうのだから、そう思わされているだけで幻想に過ぎないようにも思われてしまうわけだが、そう思ってしまう人にとっては幻想ではなく、政治的な主張としてそういうことができると訴えかけるしかないだろうし、そうでないと自らの主張を維持できないわけだが、それも理由の後付けに過ぎないだろうし、すでにそうなってしまっていることに後から理由をつけて納得しているわけで、やはりそれを自覚できるかとなるとそれ以前にそうなってしまっているのだから、自覚する以前に後から付け足した理由の方に気をとられていて、そこまで気が回らないわけだが、それを意図せざるそれと自覚できない原因と結果の取り違えと見なしてしまうと、何か狐につままれたような感覚になってしまうのかも知れないが、そういうところで何か都合良く起承転結な物語へと導いていく意志が介在してきて、それに適った言説へと意識が導かれていって結局納得してしまうわけで、そうなってしまう途中で立ち止まって自らが誘導されていることを意識できないし、そうなってしまうことに疑念を抱けないわけで、そうやって誰も彼もがコントロールに屈してその結果として自らもたらしたつもりのもっともらしい言説の虜となってしまい、そこから抜け出せない境遇になっていることについても何とも思わないだろうし、それが自らが自らを管理コントロールしている実態でもあるわけだが、なぜそうやって自らに合わせた型枠に自らを流し込んで安心したいのかその理由があるとは思えないが、それが自らの活動を維持するためには必要不可欠な限界付けなのかも知れず、何とかそんな枠内に活動が収まるように自らをコントロールするわけだが、果たして自らをコントロールしているつもりになれるかというと、つもりではなく自分の意志で直接コントロールしているはずだと思っているのかも知れないが、それ以前になぜ自分で自分をコントロールする必要があるのかに関して、疑問に思うことがないこと自体がおかしいとは思わないわけで、そうした自制心がどこから生じてくるのかといえば、やはり自らの活動を維持するためには必要なわけだが、なぜ活動を維持しなければならないのかといえばそうやって活動を維持していないと生きていけないと思うのかも知れないが、やはりそう思う以前に生きている現実があるわけで、別に生きていなくてもかまわないとは思うはずがないが、それ以前に生きているのだから生きている限りで活動が維持されていて、それ以前にそうなっているのだからそんな理由など知らなくてもかまわないわけだ。


12月10日「投資の機会」

 現状のメディア上で散見される主張や意見の中で何が大して変わらないのかといえば、批判する側と批判される側の質が大して変わらないのかも知れず、そこで立場や境遇が違う以外には本質的に差がないように思われるわけだが、そんな体質が同じで立場や境遇の相対的な違いに過ぎないようなこと関して何をどう判断すればいいのかとなると、それが絶対的な差異では決してないと思うしかないような範囲内で、そこに絶対的な差異があるかのように見せかけようとして、批判する側が差異を強調しているのであり、その強調の仕方がどれもこれも似通っていてそういうやり方にも前例がいくらでもあるからそれが相対的な差異であることを示していて、なぜそうなってしまうのかといえばそこに批判する側とされる側の役割分担が成り立っている限りで、両者が同じ作業空間を共有しているわけだが、それが何をやる作業空間なのかといえばそこで何らかのやりとりである討議の類いをおこなう空間であり、そこで相手を批判したり相手から批判されている限りで、そうした批判が成り立つ範囲内で両者が共存しているから、批判する側とされる側の双方の違いも相対的な範囲内であることが示されているわけだが、ではなぜそこから立場が対立するような役割分担が生じてしまうのかといえば、そこに対立が可能となるような差異が生じていて、その中でどちらも自らの主張が可能だと思われるからそこで対立できるわけで、しかも対立しているからには自らの主張が正しくて相手の主張が間違っていなければならず、その間違った主張をおこなっている相手を批判してそんな相手と対立しているからには、そうやって対立関係が成り立っていることが対立している相手にも認められなければならないし、そうやって双方が対立しながらもある意味ではその存在を認め合っているわけだが、そんなふうにして対立が生じるとしても本当にそうなのかとなると、実際に双方が主張していることを実行してみなければわからないだろうし、しかも批判したりされたりしている主張のどちらもが実行可能となってどちらの主張を実行してもそれなりにうまくいくようだと、批判も対立も意味のないこととなってしまうわけだが、果たしてそんなことが起きるのかとなると、それもやってみればわかることだが、もちろん批判の対象となるようなことをやらせてはならないから批判していて、しかも実際にそういうことがおこなわれているからそれをやめさせようともしているわけで、それをやめさせる理由として何らかの弊害が生じていて、そうした弊害をなくすために弊害を生じさせている行為を批判しているわけで、それが主張内容だとすればそれをやめさせるために主張しているわけだが、やめさせる代わりに何をやるかまでは批判には含まれない場合もあるが、今おこなわれていることに代わってやるべきことまで提案しないと主張に説得力が生じなければ、そういうことまで主張に含まれる成り行きとなるわけだが、実際に現状でおこなわれていることとまだ現状の中ではおこなわれていないこととの比較となると、これから何の実績もないことをやるに際してそれ相応のリスクがないとは言えないだろうし、そういう意味では多少の弊害があるにしても現状でおこなわれていることの方が実際におこなわれている実績がある分で評価されることにもなるだろうし、それに比べて現状でおこなわれていないことをやるとなるとその実現性が疑われるわけで、それに関してはこちらではおこなわれていないが他ではおこなわれていてしかもそれなりに評価されている実績があると、こちらでもおこなわれやすくはなるだろうが、どこでもおこなわれていないようなことをやるとなるといくら主張に説得力があってもなかなか信用を得られないわけで、そういう面で全く新しいことをやるような提案は受け入れられない可能性が高いわけだが、それでもいつかはどこかでそんなことがおこなわれる可能性はあるだろうし、実際にこれまでもそんなことがおこなわれてきたわけで、何らかのきっかけからそういうことがおこなわれる機会が巡ってくるのかも知れず、またこれまでも巡ってきていたわけだが、どうやってそんな機会が巡ってくるのかは実際にそうなってみないとわからないのかも知れず、そんな機会を捉えておこなわれることが実際にあるだろうし、中にはそういう機会を強引に作っておこなわれることもあるかも知れないが、それ以前に様々なことが提案される中で何らかのきっかけからそんなことが偶然に選ばれておこなわれるに至るのかも知れないし、それが偶然にそうなるのだとすると事前に何をどうやればそうなるかなんてわかるわけもないが、それでも絶えず何か新しい提案がおこなわれていることは確かであり、少なくともそういった提案がおこなわれていないとそれをやる機会すら巡ってこないし、そういう意味で提案することに関してはそれを提案する意義も意味もありそうだが、それが実際に行われる成り行きになるかどうかは実際にそうなってみないことには何とも言えないのかも知れないし、実際にそんなことを提案してそれがおこなわれてしかもうまくいった実績があれば信用を得られる可能性も高まるのだろうし、何事も前例があればその実現性も高まるわけだが、そういった前例主義に凝り固まっているようだと冒険ができなくなって、その一方で他で前例のないことがおこなわれてしかもそれがうまくいって大成功するようなことが起こると、前例主義に凝り固まっているような勢力はそうした面で後れをとってしまい、そういう分野では主導権を握れなくなってしまうわけだが、主導権を握る必要があるかとなると、現状でうまくいっていて何も前例のないことをやってまで失敗するリスクを負う必要もなければ、そんな一か八かの冒険や賭けに打って出るようなことはやらないだろうが、そうやって現状の成功の上であぐらをかいているようだと、保身や防御ばかりに気をとられているうちに新しいことは何もできなくなって、他の新しいことを積極的にやっている勢力との競争に敗れて衰退してしまうことにもなりかねないが、それもありふれた成り行きである限りでそういった前例などいくらでもあるのだろうし、まさに今の日本の現状がそうであるならば、今が行政や産業などの各分野で新しいことを主張したり提案している勢力へと積極的に投資する機会なのかも知れないが、それが現状でうまくいっていないから誰もが衰退の兆しを感じ取って危機感を募らせているにしても、では実際に今までにない新しいことを主張したり提案している勢力に投資する人や勢力がどれほどいるかとなると、それなりにいるのかも知れないが、そういう人や勢力がこれまでの前例や現状でやっていることの延長上でしか判断や評価を下せないとしたら、新しいことを主張したり提案している人や勢力が受け入れられる可能性はそれだけ低くなるだろうし、実際に受け入れられていないから衰退の兆しが感じられるとしたら、要するに失敗するリスクを恐れて誰も彼もがせこく縮こまっていると言えるのかも知れないが、それでも多くの人や勢力が無謀なことをやって失敗してしまう中でわずかな成功例が出てくるのかも知れず、そうやって誰かが失敗しないとそんな失敗を糧や教訓にして他の誰かが成功する機会も巡ってこないのかも知れないし、何らかの分野で成功者が出るにはその何倍もの失敗者の実践が欠かせないような成り行きがあるのかも知れない。


12月9日「物事の根本原理」

 そんなのは改めていうまでもないことだが、世の中では様々な事情や経緯が複雑に絡み合って錯綜していて、それらの実態を全体として把握できない状況の中で誰もが生きているはずだが、意識の中では自身に及んでくる様々な作用や影響を特定したいし、そうなっている理屈を単純明快に把握したいのかも知れないが、そんなふうに把握しようとする限りで自身の置かれた状況や自身を取り巻いている環境についての正確な認識や理解に至れるとは思えないわけだが、それでも大抵の場合は物事を単純化して捉えておいた方が考える手間が省けるし、いつもそんなことばかり考えているわけでもないにしても、そこで直面している世の中の状況や傾向について疑念を感じるところがあるとすれば、それが個人の力ではどうにもならないようなことだと思われるにしても、それをあからさまにおかしいと思う以前にそれが世間的には当然のことのように受け取られていること自体がおかしいと思われるわけで、そういうところで世間の常識的な感覚に疑念を抱くことになるのかも知れないが、それを世間と認識してしまうところがそもそもの単純化であり、何かというとすぐに世間のせいにして物事をいい加減に把握してしまうわけだが、果たしてそんなふうに把握してしまう自身にとっての真の思考の対象が世間なのかと言えばそうではないような気もしてくるし、では他に何かはっきりとそれと特定できる対象があるのかというと、それをうまく特定できないからとりあえず世間について何か考えているように装っているのかも知れず、そうなっている時点で自身の思考自体がおかしいのかも知れないが、とりあえずの対象でしかない世の中とか世間とか社会とかいう言葉で漠然と捉えようとしている物事が何なのかをうまく説明できない原因というのが、そこで様々な事情や経緯が複雑に絡み合って錯綜しているからだと考えると辻褄が合いそうに思われるわけだが、本当にそうなのかというとそれも物事をいい加減に捉えていることの証しかも知れないし、自身が捉えようとしている物事はそんな言葉では正確に表現できないようなものなのかも知れないが、それを言葉で無理に表現しようとするから違和感が伴ってきて、言葉では正確に表現できないようなものともこととも定かでないようなものを言葉で表現しようとしているわけだからそれは当然の感覚かも知れないが、それが世の中であり世間でもあり社会でもあるとすると、そうやって各々の言葉で表現しているものやことが同じものなのかそれとも微妙にニュアンスの異なるものなのかを言葉で表現できないもどかしさを覚えるとともに、それぞれが重なる面や部分があるにしてもそれとしてはっきりと対象を特定できないから、妥協的な表現としてその場の都合や成り行きに応じて妥当に思われる言葉をその都度適当に当てはめているつもりなのだろうが、苦し紛れにそんな言葉を使って逃げているのかも知れないし、どちらにしてもそこからはっきりとした内容を抽出しようとすると困難に直面してしまうだろうし、というかそれができないわけだが、実際にうまくそれを言い表せない事態を逆に利用しながら言葉を弄している現状もあるわけで、それが何なのかと考えるふりをしながら一方ではそうした成り行きを述べているわけで、そうやって考えていることと述べていることの間で何らかの連携が生じているとすれば、それが思考の対象としても言説の対象としてもうまく定まらないことに起因しているわけで、そんなふうにしてそれと特定できないことについて考えながらもそれについて述べているつもりにはなれるが、そこで考えていることと述べていることの間に差異が生じていればそれが両者のつながりとしても隔たりとしても感じられるわけで、そんなつながっていながらも隔たっている状態をどうやれば埋められるのかとなると皆目見当がつかないというか、考えているうちにあるいは述べているうちに何とかなるような気がするからそれを差異やつながりや隔たりとして保持していられるのかも知れず、またそこにはっきりとわかるような差異やつながりや隔たりがあるからこそ、それらを利用して思考を巡らせて言説を弄していられるのかも知れないし、そんな差異やつながりや隔たりをもたらすものこそが世の中であり世間であり社会でもあり、それが思考と言説の対象となるのかも知れないが、そうだとすると思考と言説の間にある物事が世の中や世間や社会を構成している当の対象となっていて、それらについて考えながら述べている対象となる物事によって世の中や世間や社会が構成されているのだとしても、そうやって言葉を循環させてしまうと逆に腑に落ちなくなってしまうわけで、何かそこにごまかしやまやかしが潜んでいるようにも思われてしまうわけだが、そんな得体の知れない物事を説明しようとすることによって何に近づいているのかと言えば、そんな物事を成り立たせている根本原理のようなものに近づいているつもりなのかも知れないが、それが実態としてごまかしやまやかしになっているわけで、そんな原理などどこにもありはしないのにそれがあるかのように装ってしまうことが何かを考えながら述べていることの実態であり、実質的には何について考えているのでも何を述べているのでもないのに、何かについて考えながら何かを述べているように装われてしまうから、そんな装いに費やされた言葉の連なりが結局は空疎な内容をもたらしていて、そうなっている限りで何も考えていないし何も述べてはいないことになってしまい、その考えながら述べている何かが何でもないことになってしまっているのかも知れないが、それでもかまわないというわけでもないのにそれで済ませられるなら、そこからさらなる疑念が生じてきて、そんな疑念とともにさらに言葉が費やされると、何やらそれに起因する様々な事情や経緯が複雑に絡み合って錯綜しているような様相を醸し出せるのかも知れず、そうであるならそんなごまかしやまやかしが言葉の対象となる世の中や世間や社会を支えている当のものであることが証明されるというか、それも装われたごまかしやまやかしの類いであり、何も証明されていないのに証明されたように装いたいのかも知れないが、それもうまく表現できていないからそんな試みが失敗に終わっていることを示していて、そうやって世の中や世間や社会という言葉が示す対象を言葉で説明することに失敗している現状が示されたからといって、そこに世の中や世間や社会という言葉で示そうとする対象があることも確かであり、依然としてそれらに関して語っている現状もある限りで、それらを言葉で表現しようとしているのであり、執拗にそれらを表現しようとすることにこだわっているわけだが、たぶんそこに至るまでの過程において思考と言説の対象を取り逃がしているからそれを表現することに失敗しているであり、それ自身がそれらを構成する根本原理となっているのかも知れないが、そう表現してしまうとやはりそんな説明がごまかしやまやかしの類いとなってしまうわけだ。


12月8日「変革の逆行」

 根本的なところで人が生きるために存在しているように政府は政府を維持するために存在していて企業は企業を維持するために存在していることにはなるだろうが、別にそれは政府や企業の構成員の一人一人が意識してそう思っていると言うよりは、また組織のトップや幹部たちにそんな自覚があるわけでもなく、組織の構成原理からそういう作用が発生してくると捉えた方がしっくりくるかも知れないが、構成原理とは何かと言えば単に体制を維持しつつも隙あらば勢力拡大を図ろうとするのが組織の構成原理だと捉えればいいのかも知れないが、現状の体制を維持できなくなれば構造や構成の変革が必要となるかも知れないが、実際に変革を訴える人たちに変革を促す力があるかとなると、力がなければそんな訴えかけとは裏腹に変革が遅々として進まずに、そんな事態が放置されれば組織自体が時代遅れとなって世界の大勢から取り残される結果を招くのかも知れないが、実際にはそんな単純な経過や結果となるわけでもなく、変革を訴える人たちもその主張内容が時代遅れである可能性があるわけで、だから変革が促されずに現状を維持する傾向が強くなってしまうのかも知れないが、そうだとすると変革を促そうとする人たちの力が弱かったから変革が遅々として進まなかったわけではなく、そうした人たちが変革を促そうとして訴えかけることによって逆に変革が阻まれるような効果がもたらされるのかも知れず、そうだとするとそれらの人たちは変革者を装っているだけで、その実態は変革者でも何でもなく単なる保守主義者でしかない可能性もあるのかも知れないが、それに関して始末に負えないのは自身が変革の偽装者だという自覚がないことであり、それどころか自分たちのような人間が変革を訴えるのが当然のことだという自負すらも持っているだろうし、しかも自分たちが事ある度に変革を訴えかけているのに一向に変革が進まないことにいらだっているのかも知れないが、その原因が自分たちの訴えかけにあることなどこれっぽっちも思っていないだろうし、自分たちの存在自体が変革の足かせになっていてかえってその言動が変革の芽を摘んで変革を抑圧して変革を遅らせている張本人が自分たちだという自覚があるわけではないし、そんなことなど夢にも思わないのが変革の偽装者なのかも知れないが、どうやって彼らが変革を訴えかけながらも変革を抑圧しているのかと言えば、要するに自分たちの味方と見なした人や団体を擁護して自分たちと敵対していると見なした人や団体を執拗に攻撃することによって変革を阻んでいるとすれば、擁護している味方自体が守旧派的な保守勢力となるわけだが、実際にそうした勢力も偽りの変革を訴えることがあるだろうし、それの何が偽りなのかと言えば自分たちの勢力を温存させる意図が見え見えであり、そんな自分たちの勢力が変革を阻んでいるという自覚がなく、それが自己防衛的な見苦しい言動に表れているのかも知れないが、もちろんそうした自己正当化が変革の訴えかけに含まれているわけだからその自覚がないわけで、そういうところが始末に負えない病的な傾向を示しているのかも知れないし、それに気づかないままそんな訴えかけを延々と繰り返しているわけだからもはやそうなっている時点でそうした訴えかけの内容に変革を促す力など宿っているはずもないわけだが、どうしてそんな傾向になってしまうのかというと、そんな人たちのそもそもの存在基盤が現状維持を図ろうとする勢力の内にあり、そんな中で自身がそれと気づかないままそういった勢力内に張り巡らされている様々なしがらみにそれらの人たちの心身が絡め取られている状態となっていて、そういう面では身動きがとれないのにそんな状態のままで変革を訴えかけているのだから、変革にとって都合の悪い事情がそんな自分たちの存在状態そのものであることに気づかないのはもちろんのこと、逆にそれに気づいてしまうと自分たちの存在自体が変革の障害となっているのに変革を訴えていること自体が自己矛盾となってしまうわけだから、そこから何をどうやっても変革には至らないわけで、そうであるからこそ自分たちにとって都合の良い敵を設定してそうした仮想の敵に向かって変革を訴えかけることによって自己保存を図ろうとしているわけだから、そういう自己矛盾の回避自体が欺瞞にしか逢着しないわけだが、そういう成り行きは案外誰にでも起きてしまうことかも知れず、その人の活動がうまくいっていること自体が現状のままでもかまわないことを示していて、そうした人たちがいくら現状の変革を訴えかけてもその一方で自分たちの活動がうまくいかなくなるような事態は避けたいわけで、その避けたい事態となることが現状の変革に結びつくとすれば、そうなってしまう時点で自己矛盾に陥らざるを得ないわけで、そういう意味で現状の変革を訴えかけている人がいたら、その人の活動が維持される範囲内では変革よりは現状維持の力の方が強く働いていると思っておいた方がいいだろうし、そういう方面でいくら変革を訴えかけているとしても、自身の活動のうまくいっている面ではそういった現状維持の力が強く働いていることは自覚できないのかも知れないし、それを自覚できないからこそその人にとっては自己欺瞞など生じていないことになるのかも知れないが、外部からその人の活動を客観的に観察するなら当然のことながら変革の訴えかけとは矛盾する保守的な自身の活動状況が見受けられることになるわけだが、だからといってその人と敵対しているわけでもなければそれをことさらに言い立てるような成り行きにはならないし、その限りでそういった傾向がそのまま放置されることになってしまうわけで、それでかまわなければ変革への訴えかけが逆に変革を妨害して抑圧するような成り行きになってしまうだろうし、そうなっている限りで現状が維持されるわけだろうが、果たしてそれでいいのかといえば変革を訴えかけている当人にとっては問題ないわけで、実際にいつまで経っても変革を訴えかけていられるわけだからそうやって変革を訴えかける活動の現状が維持されているわけだが、そういうことだからいつまで経っても代わり映えのしない訴えかけを延々とおこなっている人がいたら、その人の現状が維持されていることになるわけで、そういった現状維持の傾向がある限りでその人にとっての変革を当人が阻んで抑圧していることにもなるわけだが、そんなふうに変革を訴えかけながら現状の維持に貢献している人たちが大勢メディア上に巣くっている現状が世の中の変革を阻んでいることになるのかと言えば、当人たちがそれに気づかなくてもかまわないような現状がある限りでそうなっていることになるわけだが、それでも変革が必要なのかと言うとそうでもないのかも知れないが、そんな変革の訴えかけが成り立たなくなったときが実際に変革がおこなわれている最中なのかも知れないし、メディア上からそんな現状批判の声が聴かれなくなったときが変革が完了したときなのかも知れない。


12月7日「目的と期待と成果の分離」

 別にそれが詐欺師の手口だとは言えないが、何か次第に主張の中で用いていた無理な論理にほころびが見え始めると、今度は手を替え品を替えて何を持ち出すのかと思えば、なぜか極めて当たり前なことを主張しているかのように装うわけだが、そういう印象操作がわざとらしく感じられるかと思えば聴衆には意外とすんなりと受け入れられてしまったようで、それでも過去に煽っていた主張の内容は変えようがないはずだが、もうそれは済んでしまったことであり、今さら蒸し返しても後の祭りだと言わんばかりに、その件については改心もせずに平然とまともそうな印象を醸し出すために主張の内容を微妙に衣替えしたつもりなのかも知れないが、それでも奇っ怪なことを述べていた過去の印象は拭えないはずだが、その奇っ怪なことが何かと言えば、これまでの常識を外れた画期的なことを主張していたように思われるのは過去のことであり、そんな過去の経緯を訂正もせずにいけしゃあしゃあとそれまでとは正反対の常識的なことを誠実な振りを装いながら主張しているとすれば、普通は誰もが異変に気づくはずだが、なぜかその辺はいっさい触れられずに何事もなかったかのように常識的な範囲内の内容に主張を軌道修正している現状があるとすれば、少なくともそれが誠実な対応だとは言えないはずだが、たぶん誠実であるか否かの如何にかかわらず戦略的な傾向を重視しながらやっていることであれば、結局その程度で騙せるような聴衆を前にして政治的な主張を繰り返していることになるのかも知れないが、そんな成り行きから何がわかるのかと言えば、主張の中身とはその程度のことであり、周囲の状況や反応に応じてころころと中身を変えられる程度の内容だとすればそんな主張の有効性や実現性も怪しいのかも知れないが、どこの誰がそんなことをやっているわけもないとなるとそれは完全に作り話を述べているだけかも知れないし、実際に現状の中で起こっている何を問題視しているわけでもないのかも知れないが、要するに事件の目撃者が事件に直接かかわっているわけでもなく、たまたまそれを目撃しただけかも知れないし、逆に関係者は何も目撃していないのかも知れず、目の前で起こっていた事件を誰も見ていなかったことになるのかも知れないが、そうではなくその人が重要だと思う人物にその人が実際に出会っていたとしても、出会っていただけで単に部外者であったにもかかわらず、後から関係者面して自分がその人と親しかったように装うこともできるだろうし、またその人の政治思想や活動には共感することが多かったようにも語ることができるわけだが、それが勘違いの身内意識からそんなことを語っているのだとしたらそれも大したことではないのかも知れないし、別に傍観者的な立場でそれの何を問題視する必要もないのかも知れないが、たぶんそれを語っている人の頭の中では辻褄が合っていて、当人はもっともらしいことを語っているつもりにもなっているのだろうが、果たしてそれがそれだけでは済まないようなことだとすれば、では何が問題なのかと言えば何も問題ではなく、何の問題もないからそのままスルーされてしまうのだろうし、実際にそこで語られていることはといえば語ることが目的と化している限りで語ることが実現していればそれでかまわないのだろうし、さらにそれが文字の連なりとして記されていれば文章として実現しているわけで、それも一つの実現でありそうすることが目的であったということになるだろうし、語っている中身が実際に語られてそれが文章として記述されて映像としても記録されることが語ることの目的となっている限りで、それでかまわないことになってしまうわけだが、そうではなく何かを実現しようとしてその手段として語っているのだとすれば、その場合の語りと語ること自体が目的と化している語りとは何が違うのかと言えば、大抵の人は違いなど認識できないだろうし、誰かが何か魅力的なことを語っていると思われても語り自体が魅力的なのか語りの中身が魅力的なのかの区別などつけられないだろうし、ただ漠然と心地良く語りを聴いているに過ぎないのかも知れず、それ以上でも以下でもなければそうしたことは曖昧なまま放置されるばかりで、誰もがそんな状況になっていることの責任などとりようがないわけだが、では果たしてそんな心地良い演劇空間を共同作業の成果として構成している人たちは何かの関係者なのかと言えば、そこで誰かが何かを語っているというパフォーマンスに関しては関係者かも知れないが、語っていることの中身を実現することに関しては少なくとも聴衆は部外者でしかないのかも知れないし、ただの傍観者がそのほとんどを占めていれば語っている中身には何の実現性もないのかも知れないが、果たしてそうではなくそこから語っている中身を実現するための積極的な協力者や加担者が生じてくるのかと言えば、たとえそれら人たちが全面的な協力者や加担者となったとしてもそういった人たちの力量は未知数だろうし、実際にそれを実現するに際して役に立たなければいくら協力者や加担者が増えてもかえって実現する上で妨げにしかならない場合もあるだろうし、そうした善意の無能者や妨害者を惹きつけるのがそれらのパフォーマンスの効果だとすれば、パフォーマンス自体の効用がマイナスに振れていることになるのかも知れないが、ではどうやれば効果や効用がプラスに振れるようなパフォーマンスになるのかと言えば、それもやってみなければわからないところかも知れないし、確かにやり方を工夫すれば聴衆を惹きつける魅力を醸し出すことができるとしても、それと語っている中身を実現させることとは別問題だとすれば、では何のためのパフォーマンスなのかと言えば結局は語ることを目的とするパフォーマンスなのかも知れないし、またそれが文章となったり映像となることを目的とするパフォーマンスなのかも知れないが、それ以外にどうなることが目的として成り立つのかと言えばパフォーマーが世間の人気者になるためのパフォーマンスである可能性も高いわけで、それが必ずしも語っている中身の実現には結びつかないとしても、その人が人気者になって選挙に勝利してその人の勢力が議会の主導権を握るまでになって、その結果としてその人が行政府のトップに立つようなことにでもなれば、その人の語っていた中身が実現すると思いたいだろうが、実際にはそうならない場合が多いのが民主主義的な政治制度であり、その人が行政のトップになっても何もできないままに任期を終えてしまったり、また途中で辞任に追い込まれてしまったりする場合が多いから、結局パフォーマンスでいくら多数の聴衆を惹きつけても、また多くの人たちが願っていることを実現するために、そして困っている人を助けるためにそんなことをやっているとしても、それが結果に結びつかなければ徒労に終わってしまうことになるのかも知れないが、とりあえずそれを実現させるための手段として大衆の人気を得ないと目的を実行に移す機会にも恵まれないわけだが、たとえ実行に移す段階にまで至ったとしてもそれに成功するとは限らないわけだから、いくら事前に用意周到な戦略を立てて説得力のある意見を主張していくら大衆の人気取りに成功したとしてもそこから先は不透明であり、実際にうまくいった例しはほとんどなく、そのほとんどは事前に想定していなかった事態に直面して苦渋の決断を迫られた末に現状の維持を図ろうとする勢力との間で屈辱的な妥協を強いられて中途半端な結果しかもたらせないのかも知れないし、それが現に政治的な主導権を握っている勢力が抱える深刻な問題でもあるのではないか。


12月6日「メディアと資本主義」

 人は誰でも資本主義経済の中で生きている実感があれば、そういう自覚がなくても自然と金銭的な価値を追い求める傾向になるはずだが、だからと言って誰もが裕福になれるとも思っていないだろうし、経済的に成功できるのはほんのわずかな人や企業であり、競争に勝てなかったその他大勢に属する人や企業が社会の中で大して重要とも思えないような流れ作業のような仕事をあてがわれる事実も知っているはずだし、そんなことがおこなわれている光景を誰もが毎日のように見ているはずだが、その一方で誰もが関心を惹かれてしまうのはそんなつまらない光景ではなく、それは何やらメディア経由で見せられる成功者が楽しそうに興じている振る舞いであったり、希少価値を担った特権的な人物がおこなっている社会的に注目度の高い行為や活動であったりするのだが、それらが何を意味するのかとなると、その他大勢の人たちがやろうとしてもできないような行為や活動であるのかも知れないが、よく見ればそんなふうに思わせるような演出がメディア側によって施されていて、何か魅力的に見えるように飾り立てられて箔がつけられているわけだが、その必要があるのかと言えば人の気を惹くにはそういう演出が必要なのかも知れないが、気を惹く必要がなければ要らないだろうし、メディアにとっては人目を惹きつける魅力が必要だからそんな飾り立てをやっているだけで、そういった飾り立ての舞台装置を取り去れば案外そこでは何でもないようなことがおこなわれていて、それらの大半はその他大勢の人たちがやっている日々のどうということはない行為や活動の延長上でおこなわれていることに過ぎないのかも知れないし、それだけが取り上げられてスポットライトを浴びて過剰に誇張されたり強調されて煽り立てられてしまうと何やら魅力的に見えてしまうのかも知れないが、そうであるならそういった演出からもたらされる外見の姿が魅力的に見えるだけで、行為や活動の内容は意外と空虚で何でもないことでしかないのかも知れないが、それを見ている意識が見せかけの演出に惑わされているだけであれば、そんなことに気づいた時点で魅力が失われてしまうのかも知れず、人々にそれを気づかれないようにする工夫が凝らされているから容易には気づかないような状態となっていれば特に問題はないのかも知れないが、案外誰もが薄々気づいていて、気づいてしまうと他に楽しみがなくなってしまうのが怖いから、よく見れば気づいてしまうような虚飾のほころびからそれと自覚することなく目を背ける習慣を身につけている可能性もあるだろうし、そうやって見る側と見せる側との暗黙の申し合わせによって成り立つような舞台装置の上で何かが演じられているのであれば、それは見せる側が見る側に押しつけている見る上でのマナーの類いになってくるわけだが、そういう但し書きや契約事項に同意した人のみが楽しめるような娯楽がメディアから提供されているのであれば、他に何もなければ誰もがそんな馬鹿げたルールに同意せざるを得ないような事態となっているのかも知れないが、もしかしたらそれはメディアとそれを享受する人々との間で成り立っている規約の類いを超えて、もっと広く資本主義経済の中で生きている人たちが守るべき規約としても成り立っているのかも知れず、とにかくそこでは何でもかんでも金銭的な価値に換算しなければならず、金銭的な価値に換算できる行為や活動だけが魅力的に感じられるような訓練を日頃の生活の中で労働と消費の両面から受けていて、そんな訓練の成果として売り物ではない労働を売って買う必要のない商品までも買わされていることに誰もが薄々気づいているのに、それに気づいて売ったり買ったりしなくなってしまうとたちまち経済が立ちゆかなくなるから、誰もが気づいていながらも気づかないふりをしなければならず、それに気づいてうっかりそれを実行してしまった人は規約違反でそこから退場させられてしまうようなことも起こるかも知れないが、それが具体的にどんな行為なのかが誰もわからないような申し合わせとなっているのかも知れないし、本当はわかっていてもうっかり口を滑らせないようにお互いがお互いを監視し合っている可能性もあるのかも知れないが、それも舞台上で演じられている芝居の類いなのかも知れないし、実際に不要なものが売れていないから世の中がデフレとなっているわけで、それでは困るから人々に無駄で無意味なことをやらせようとしてメディア上で無駄で無意味なことが盛んに煽り立てられている実態があるのかも知れず、そこでおこなわれているような無駄で無意味な行為を一般の人々にもまねてもらって、実際に無駄で無意味なことに金を使ってほしいわけだが、もちろんそんなことに金を使ってしまえばたちまち資金が底を突いて借金まみれとなって身動きがとれなくなってしまうことも誰もが知っているから、うかつには乗ってこないわけで、そうやってお互いがお互いに疑心暗鬼となっているのかも知れないが、それでかまわないとなると誰もがそれなりに賢くなっている証拠かも知れないわけだが、その賢さがデフレをもたらしているとすれば別にそれでかまわないわけで、もちろんメディア上で煽り立てをやっている人たちはそれでは困るだろうから、盛んにあの手この手で趣向を凝らして消費を煽っているわけだが、果たしてそんな見え透いた煽り立てに踊らされてしまうことが賢い態度なのかと言えば、誰もそうは思わないから現状のデフレ状態が延々と続いているのだろうし、要するにその手のデフレから生じた世の中の貧困化を憂うような人に騙されてはいけないのであって、デフレ状態のまま資本主義経済を終了させることが賢い選択なのかも知れないが、社会の中でそれなりの立場や地位にある人が表立ってそんなことを述べてしまうとそれこそ規約違反となってしまうのかも知れないし、その辺は暗黙の申し合わせとしてデフレからの脱却を訴える政治宣伝に同調するふりをしておけばいいわけだが、ふりをするだけでなくその気になって試行錯誤をやろうとしてしまう人たちも中にはいるだろうし、それも試行錯誤をやっているふりをしたいだけで、実際に政治宣伝の段階では試行錯誤の方法をプレゼンしているに過ぎないのであり、それこそが大衆市民社会を覆っているシミュラークルの類いであり、演技としての試行錯誤の模造品がメディア上で提示されているに過ぎないことなのかも知れないが、そんな出来の悪そうな大衆演劇を楽しめるかとなると、楽しむとか楽しまないとかいう問題ではなく、実践的な行為として誰もが日々の暮らしの中で実行するようなことかも知れないわけだが、実際に何を実行しているかというと結果的にデフレを招いているようなことを実行しているわけで、しかもそれが自分たちのせいだとはこれっぽっちも思っていないだろうし、悪いのは利益を上げながらも内部留保として貯め込んでいる大企業であり、そんな大企業からの支援を受けて大企業を儲けさせている政府が悪いのだと思い込ませようとしている人たちもいるのだろうが、本当にそうだとしてもそんな大企業もそこで働く従業員と商品を買ってくれる消費者がいないと成り立たないだろうし、政府にしても政府を支持する国民がいないと成り立たないわけで、そういうところに何か釈然としないものを感じるのが当然かも知れないが、それを感じさせないようにしたいのが政治宣伝であり、メディア上で現におこなわれている演劇の意図なのかも知れない。


12月5日「自ら墓穴を掘る」

 現時点で何の機会が巡ってきているのかわからないが、理由ははっきりしないが何かの機会が巡ってきていると考えるのが妥当に思われるとき、その機会を捉えて何をやるかが問われているのかも知れないが、勝手にそんな妄想を抱いてみても何のことやらさっぱりわからないかも知れないし、少なくともそれに関して現状から何か学ばなければならないことがあるとしたら、現状の中で何やら説得力を感じられるような人の主張や意見から学ばなければならないのかも知れないが、その人に倣うことによって自らも説得力のある意見を主張できるかとなると、学んだ人とは立場も境遇も異なると自らの主張や意見と自らの立場や境遇との間でうまく整合性がとれなくなってやっていることと述べていることが矛盾してきてしまうのかも知れないし、そうなると困るから自らの立場や境遇に合わせた主張や意見を述べるようなことになると、その内容に学んだことが反映されなくなってしまいそうだが、その辺の整合性をどうとるのかとなると、学んだ人と同じような立場や境遇になるように自らの立場や境遇を変えなければならなくなるとしたら、果たしてそんなことができるかとなるわけだが、たぶんそういうことではなくて、その人の主張や意見がその人の立場や境遇を反映していないのは当たり前のことかも知れず、だからこそ身の程をわきまえないようなことを言い放つ人が後を絶たないのだろうし、そんな人たちは自らの主張や意見と自らの立場や境遇がかみ合っていないのにそれを放置しながら両方ともこなそうとするからおかしくなって行ってしまい、そうやって自らの墓穴を掘っていることになるのかもしれないが、別に自分で自分の墓穴を掘っているのが悪いことではなく、効率や経済性を考慮するなら逆にそうしてもらった方が手間がかからないし安上がりでちょうどいいわけだが、ではそんな人たちとは違って自らの主張や意見と立場や境遇がかみ合っていることの方がいいのかといえば、良いか悪いかではなくそうなってしまう人がいる一方でそうはならない人もいるということでしかないだろうし、どちらもあり得るから本人がどちらかを選べるかとなると選べる人も選べない人もいるのかも知れず、それも選べたからと言って良くて選べないからと言って悪いということでもないのかも知れないし、単に自らの主張や意見や立場や境遇のどれかまたはそれらすべてを選ぶ機会に恵まれている人もいるかも知れないし、どれかを選べてどれかを選べなかったり最悪の場合はどれも選べない人もいるかも知れないし、そうなると人それぞれで選べる度合いも異なってくるのかも知れないが、それらの中でどうなれば自ら墓穴を掘る事態になってしまうのかというと、どのような場合でも墓穴を掘ってしまうことになるのかも知れないし、またそうはならない場合もあるのかも知れないし、それも一概には言えないことだとなると、ではどうすれば良いのかと問われるかも知れないが、それは他人に問うようなことではないのかも知れないし、自身に問うてもわからないことかも知れないが、こうすれば良いとかこうしておけば安心だと言い切れないような状況の中で誰もが生きているのかも知れないし、絶えず自ら墓穴を掘るような自滅の機会が巡ってくるような状況の中で、運が良ければ墓穴を掘らなくても済むような成り行きの中で生きていけるかも知れないが、その代わりに他人が罠を張って待ち構えていてそんな落とし穴が自らの墓穴となってしまう可能性もあるだろうし、そういう意味ではどんな意見を主張してもどのような立場や境遇になろうと安心できないわけだが、それでも主張や意見を述べる機会が巡ってきてしまえば述べるような立場や境遇に追い込まれてしまうだろうし、誰に頼まれたわけでもないのに自発的に主張や意見を述べているような立場や境遇になってしまうわけで、そんな主張や意見を良いだの悪いだのと評価することもできるし、実際にやっていることが述べていることと違っているではないかと指摘することもできるわけだが、だからといって正しい評価をしている人や述べていることとやっていることがかみ合っている人が良いとは言えない場合もあるわけで、またそれが良いとは言えない人が悪いとも言えない場合もあるだろうし、そんなふうに考えていくと何が良くて何が悪いかの判断がつかなくなってしまい、そういった判断や評価を生業としている人たちには困った事態となってしまうかも知れないが、それでも良し悪しや善悪の判断が必要となってくるから必然的に過ちを犯してしまうわけだろうが、そんな誤った判断から勘違いが生じるとしても、そうした勘違いからも何らかの物事が生じてくるわけで、そうなった結果から判断してそれらの良し悪しや善悪を言えるかも知れないが、途中の過程ではわからない場合もあるだろうし、何かこうすれば良くなると信じていることを試した結果が思わしくなくても、やってみないことには判断のしようのないこともあるだろうし、それ以前にあれをやっては駄目だこれをやっては駄目だと批判ばかりしてみても、では何をやれば良いのかとなるとこうすれば良いと主張する人を信じられない場合もあるだろうし、それについて現状の延長上で物事を動かすことに関しては何やらそうすることに安心感が伴ってくる一方で、そこから外れたことをやろうとすることには抵抗感を覚えるのが普通であり、抵抗を感じながらもやった方がいいのではないかと判断するような場合には、他からも周囲からも抵抗が生じてくることは覚悟の上でやらなければならない成り行きになってしまうわけで、実際に普段は支持してくれる周囲から反対されながらもやってしまってその結果失敗すればそら見たことかとなるわけだが、そこで何かの巡り合わせで成功してしまえば周囲の反対者を沈黙させることができるかも知れないが、それと引き換えにして勘違いや自らへの過信も生まれてくるかも知れないし、そのときはたまたまうまくいったとしても次もうまくいくとは限らないし、またさらに運やつきに恵まれて連続してうまくいったとしても、いつかは破綻してしまうことだってあり得るだろうし、極端な話として百回うまくいったとしても一回失敗してしまえばそこでおしまいということだってあり得るだろうし、そんな場合でもやってみないことにはわからないのかも知れないし、やってみた結果として良し悪しや善悪を言うのは簡単だが、それをやるに至るまでに数々の困難や苦難が待ち受けているとすれば、結果から良し悪しや善悪を評価する人よりは無謀に思われることを蛮勇をふるってやろうとする人や勢力の方が信用できる場合もあるだろうし、どちらに期待するかとなると無謀に思われることに挑戦する人たちに期待する方がかっこいいわけで、何もやらないような人たちがそんな人たちに期待してしまうのが人情でもあるわけだが、もちろんそこでも何もやらないような人たちよりは無謀に思われることに挑戦する人たちに期待してしまうわけで、そんな人たちに無根拠な期待を寄せている人たちが自分たちで自分たちの墓穴を掘っていることになるのかというと、仮にそうだとしてもどちらかと言えば墓穴の外よりは墓穴の中の方が心地良い場合もあるのかも知れない。


12月4日「犯人捜し」

 物事にはその発生や生成や進展や経過などに伴って様々な要因や事情や経緯や関係などが絡んでくるが、具体的にそこから何がわかるかとなるとそうした物事自体とそれに関係する人や団体や制度や慣習などの有り様がわかるかも知れないが、わかったとしてもそこから何が言えるかとなると、そうしたことについて知り得る限りのことが言えるのかも知れないし、知り得たところで何がどうなるわけでもないのかも知れないが、そこから人や集団が具体的なアクションを起こすような成り行きになれば事態が動き出すわけだが、事態が動き出すにしてもアクションを起こした人や団体の思惑通りに事態が動くわけでもなく、そこに絡んでくる別の物事や関係してくる人や団体や制度や慣習などからの干渉を伴いながらもそこから生じてくる協力関係や対立関係の中で事態が推移するわけだろうが、中には協力でも対立でもないような無関係の関係や他の関係も生じてくるだろうし、それが必ずしも直接の関係ではなくても間接的な影響を及ぼしながら事態をコントロールするような成り行きも生じるのかも知れないし、それがコントロールという直接的な作用というよりは共鳴や共振程度の現象であれば取り立てて対処や対応の対象とはならないだろうし、別に無視してもかまわない程度の些細なことに過ぎないのかも知れないが、そんなことが周囲で無数に生じているとそれに気づかなくても何か気になってくるのかも知れないし、それを肯定的に手応えという感触と捉えると何やら自分たちの起こしたアクションが有効に機能しているのではないかと思われて、そこからさらに活動を進展させる上で糧や励みにもなるのかも知れないが、そういう成り行きとは逆の否定的な作用や影響もあるだろうし、何か直接的に活動を妨害したり阻止するような行為もおこなわれるようならそこで対立や争いが起きていることになるわけだが、そういうのとは違ってかわしたりいなしたりはぐらかしたりするような何とも対処しようのないことがおこなわれることもあるのかも知れず、そうなると何もかもがかみ合わずにすれ違うことばかりで、いくら行動を起こしてもそれがどこにもぶつからずに衝撃のことごとくが吸収されてしまうような薄気味悪い成り行きとなってしまうと、それをどう受け止めればいいのかもわからずに途方に暮れてしまうのかも知れないが、現状がそんなふうになっているかと言えば幸いなことにそこまで事態が進展しているとは誰も感じていないだろうし、少なくとも肯定的な反応も否定的な反応もそれなりの感触を伴ってあるはずであり、直接の協力関係や対立関係も誰もが感じられる程度にはあるのだろうが、だからといっていなしたりかわしたりはぐらかしたりする動作も状況に無視できない作用を及ぼしているのかも知れないし、その辺はどこまでがそういう作用なのかよくわからないところかも知れないが、そこに介入してくる力の方向が交差したりぶつかり合ったりするのではなく、ねじれの方向に通り過ぎて行ってしまったり平行線をたどってしまったりして、交わらない場合がほとんどであるのが普通の状況なのかというと、空間的にはそうだとしても物事を平面的に捉えるなら平行線以外は必ずどこかで交差したりぶつかるように思われるわけだが、果たしてそれが比喩として現状に当てはまるのかというと、比喩ではなく直接の介入の対象となる物事と対峙したいわけだろうが、思考や介入の対象とは見なせない物事も世の中には無数にあるのかも知れないし、こちらが無視してもあちらからちょっかいを出してくることだってあり得るし、こちらからちょっかいを出したい対象には無視される一方でこちらが無視するような対象からは逆にしつこく絡まれたりして、そんなこちらからはどうにもコントロールできないようなすれ違いの中で疲弊してしまうのかも知れないが、自分だけでなく誰もがそんなじれったい思いでいる可能性もあるだろうし、そういった方面では誰の思い通りにもならない社会構造になっているのかも知れないが、それでも何かしら力が交わったり重なったりする面も多少はあるだろうし、そういった面を利用して誰かが何らかの団体が社会に作用や影響を及ぼそうとするのかも知れないが、そういった作用や影響が思惑通りに機能して意図した通りの結果が得られればいいだろうが、実際にはそうはならない面が大きいから何かと様々な方面でもめ事が起こっているわけだが、元から通りそうにない無理なことをやろうとしている実態もあるだろうし、それが現状で主流となっている行為を弊害が大きいからなくそうとする試みなのかも知れず、それは弊害とともに利益ももたらしているからなくそうとしてもなくならない行為でもあるわけだが、なくそうとしてもなくならない限りでそこから利益を得ている側が主導権を握っている一方で弊害を被っている側がそういった行為をなくそうとしていることになるのだが、果たして全面的にそうかというと弊害を被っている側は被っている度合いが高い人や団体ほどなすすべもなく弊害を全面的に被っている一方で、利益を得ている側は弊害よりは利益の恩恵に与っているほど現状の中で主導権を握れているなら、どう見ても弊害を被っている側に勝ち目がないように思われるわけだが、それとは少しずれたところで弊害を意識できない人たちが多数派を占めている可能性もあるだろうし、それが弊害をなくそうとする人や勢力がつかんでいるつもりの一縷の望みであり幻想を抱く余地なのかも知れず、それらの多数派を占める人たちが弊害を被っていることに気づかせることができれば、それらの人たちから支持を取り付けて現状で主導権を握っている人や勢力から主導権を奪還できると思われるわけだが、果たして本当にそうなのかというとそうしたことの前提を構成している土台からどちらもが利益も弊害も受け取っていて、それをなくせば弊害が減じられると思っている制度の類いを成り立たせている元の土台の部分が弊害を生じさせている実態があるから、たとえ制度の類いを取り去っても弊害が残ってしまうとしたら、それとともに裏切られたという思いも残ってしまうだろうし、しかも弊害があるから一方で利益がもたらされているとなると、ではどうやれば弊害をなくすことができるかという問いそのものが無効となってしまう可能性があり、そうであれば現状で利益と弊害の両方を生じさせている土台の部分をどうにかしない限りは弊害を取り除くことができないことになってしまうわけだが、そんな問いがもたらされるにはやはりそれを誰もが知ってもらうためにもまずは弊害をもたらしている制度の類いを取り去る必要があると主張することができるにしても、それよりは根本的なところで元となっている土台からは利益も弊害も生じないような処置を施すべきなのかも知れないし、そんなことが実際に可能なのかというと、現にそうなりつつあるから何か焦って犯人捜しのようなことになって、そのやり玉に挙げられているのが件の制度の類いとなっているわけだが、果たして本当にそうかといわれると疑念を抱いている人も少なからずいるから、現状ではそんなことをやっている勢力にそれほどの支持は集まっていないのではないか。


12月3日「判断の暴走」

 誰も彼もが都合のいいことしか言わない世の中で何を信じたらいいのかわからないのが普通の感覚だろうが、それも実態としてメディアや街頭で屁理屈のようなことを主張する煽動者の言葉を信じてしまう浅はかな人が世の中の大半を占めている状況があるとすれば普通だとはいえないわけだが、他人の言葉も自分の言葉も信じられなければ言葉など信じなくてもかまわないのかも知れないが、そんな状況を客観的に捉えるなら信じないと思っている人たちもその場の状況に応じて信じたり信じなかったりするわけだろうが、それでも自分の言葉は信じているはずで、信じているからこそ自己正当化にこだわるのだろうが、果たして自分の言葉が信じられなくなることがあるのかといえば、間違っていることを自覚すれば信じられなくなるはずだが、なぜ間違ってしまうのかとかと言えば、間違っていることを悟る以前に疑念がわいてくるわけで、結果が思わしくないから間違っているのではないかと疑念を抱いてしまうことが、間違っていると確信する以前にその前段階として思ってしまうことではあるのだが、そこから間違いを確信するまでに間違っていることの証拠を集めようとする場合があるだろうし、中にはそういった紆余曲折や逡巡の過程を省いて突然間違いに気づいてしまうことだってあるはずだが、どちらにしてもそんなふうに間違っていることに気づかなければ間違っているとは思わないはずだが、間違っているとは思わないことが間違っているとしたらその間違いには気づけないだろうし、要するに間違いに気づけないから間違ってしまうことになるわけだが、人は誰しも完璧にはほど遠い状態だから間違うのが当然であり、当人が自身の間違いに気づこうとしても無理な場合もあるだろうし、しかも当人が間違いに気づいたとしても他から権力を行使されて正しいことができないような立場や境遇に追い込まれてしまうことだってありそうだが、そうであるなら自らがある程度は間違ってしまう事態を容認せざるを得なくなってくるわけだが、逆に絶対に間違えまいとして石橋を叩いて渡るような慎重な振る舞いに固執してかえって萎縮してしまうことも間違っていることに含まれるかも知れないし、そんなことも含めるとある面においては正しいことであっても別の面から見ると間違っているように思われるのが人がおこなっていることの大半なのかも知れず、そういう意味でなら何が正しかろうと間違っていようとかまわないことになってしまい、では何をどう判断したらいいのかわからなくなってしまうのも無理はないが、少なくともその場で何らかの差異を感じ取って判断するしかないだろうし、その判断が必ずしも正しいか間違っているかの判断とは限らないのかも知れず、他にも多方面から様々な判断の要素が入り交じりながら判断を迫られるわけで、それが相対的に客観的で総合的な判断につながるのかも知れないが、中には判断しないこともその場の判断に含まれるのだろうから、その場では判断を保留したり判断そのものとは無縁の行為をおこなったりして、そんなことが積み重なったり積み重ならずに分散してしまうこともあるかも知れないが、そんな経緯や経過自体も判断の一部となっていて、そうやって何らかの判断を伴いながら誰もが現在に至っているわけだが、そんな現状がどうであれこれからも何をやるにも何らかの判断が伴ってくるわけだから、そんな判断の中でも正しい面と間違っている面と正しくも間違ってもいない面と正しくも間違ってもいる面が混在しているだろうし、もちろんそれが正しいか間違っているかの言葉の意味とは異なる面も判断に含まれるわけだから、そういった面を省いたり無視すれば判断の単純化につながって、それだけ物事の把握や把捉の精度が落ちるわけだが、それでも通用する水準があるだろうし、そういった水準で述べていることが他から共感や支持を得られる限りでその範囲内で通用していることになるのだから、そういう水準では確かに何でもかんでもそれが正しいか間違っているかの判断で済んでしまうわけで、それがすべての水準で通用するわけでもないとしても、通用している範囲内にそういう判断をしている人が生息できている限りで何事もなくその人の言説環境が維持されるわけだが、それもそんな水準以外に生息している人たちにはどうでもいいことというよりは粗雑な判断としか見なされない場合もあるだろうし、そういう人たちには相手にされないだろうが、支持や共感を得られる範囲内では相手にされているわけだから、そういった判断を相手にするような人たちとともに成り立つような判断の水準もあるわけで、そういったことが何にたとえられるかとなると比喩的な範囲内では古典物理学と量子力学の違いと言えるかも知れないし、古典力学では正しいか間違っているかのどちらかの状態に決定できることが量子力学ではどちらの状態もあり得るから不確定となるわけだが、そういった比喩が有効な範囲もそれぞれに限られてくるだろうし、どちらかと言えば正しいか間違っているかの判断をはっきりさせた方がわかりやすくて一般の社会では好まれるだろうから、たとえそれが間違った判断を含んでいるとしても世間に媚びている限りで正しいか間違っているかの判断を迫られてしまい、間違っている可能性があることを承知で判断してしまうこともあるだろうし、それが高じて何でもかんでもたとえ屁理屈でこじつけてでも正しいか間違っているかの判断を加えて強弁してしまうことだってあるだろうし、商売としてそんな判断を強いられるような状態に意図して自らを追い込んでしまう成り行きだってあるのかも知れないし、そんなふうになっている時点で客観的には間違った判断をしてしまっているわけだが、そればかりをやり続けてしまうともう後には退けなくなってしまい、何が何でも物事を正しいか間違っているかの判断に引き込んで評価するような成り行きになってしまうわけで、そうなってしまうと周りから何を言われても聞く耳を持たないだろうし、そんなことをやっていられる限りでやり通すことになり、次第に周囲からもあきれられて相手にされなくなっても強引にそういう水準に留まっていられるような環境を身の回りにこしらえてでもそんなことを繰り返すことになるわけで、それがそういうことをやっている人の末路なのかも知れないし、死ぬまでそんなことを繰り返していればそれで済んでしまうようなことでしかないのかも知れないが、その人にとってはそれでかまわないのかも知れず、周囲の他の人にとってもその人に関係する人たちにとっても、その人がそんなことを繰り返しているだけで安心していられるのかも知れないし、その程度の人だとその人の限界を把握できているだけでもそれが織り込み済みのこととして扱えるから、それ以上の対応や対処をしなくても済むからありがたいわけで、そういった計算が成り立つ範囲内でなるべく寝た子を起こさないようにそっとしておけばそれでかまわないこととなってしまうのだろうし、そんなふうにして折り込み済みの安心材料となってしまった人も世の中には大勢いるのかも知れない。


12月2日「未知の体験」

 人の意識の中では自らの意志で自発的かつ主体的にやっていることと外から作用や影響を及ぼされて受動的にやらされていることの区別がつくかというと、その場の状況から区別がつくこともあるしつかないこともあるだろうが、スピノザ的なことをいうなら人も世界の一部に過ぎない存在なのだから区別がつこうがつくまいがそんなのは大して意味のないことであり、何かをやっている現状に満足していたり不満を抱いていることに過ぎず、自分の意志で自発的かつ主体的にやっていることが良くて、他から作用や影響を及ぼされて受動的にやらされていることが悪いとはならないはずだが、それでも自発的かつ主体的に自分が主導権を握りながらやりたいことがあるのは確かであり、それが自意識過剰で自己中心的な幻想に過ぎなくても身勝手な幻想を抱きながら自らの夢を追い求めていたいわけだが、それは自発的かつ主体的にやっているつもりの面と他から作用や影響を及ぼされながらやらされている面を同時かつ平等に認識できないからそんなふうに思ってしまうのであり、それに関して客観的に考えるなら人がやっていることにはどちらの面もあり、両方の面があることを自覚できればいいわけだが、その場の成り行きや事情から片方の面しか意識できない場合もあり、どちらかの面がもう片方の面よりも強く作用している場合もあるだろうから、そんな意識に囚われながら何をやっていようとそういった心理状態に満足していようと不満を抱いていようと、例えばその人が行政のトップの役職に就いていようと末端の職員であろうと、メディアから注目を浴びていようと無視されていようと批判にさらされていようと批判の対象外となっていようと、そんなことには興味のない人たちにはどうでもいいことでしかないのかも知れないが、世間的に騒がれていることには多くの人たちが興味を持つだろうし、そうした話題に関して思考を巡らせることになるはずだが、誰もが同じような認識や見解を持つに至るかといえばメディア的に騒がれるようなことに関してはある程度はそういう傾向になるだろうが、それが良いか悪いかに関しては良い傾向だと思う人も悪い傾向だと思う人もいるだろうし、批判されていれば悪い傾向の面が強調されていることは確かだろうが、その悪い傾向に関して同調できればそれに対して批判的な態度に傾くだろうし、それなれば自らもその対象に対して同じように批判するのかも知れないし、そんな批判をおこなっている自らの立場を正当化するのだろうが、その際にそんな態度でいる自らに驚けるかというと驚くよりは当然のことをやっていると思うのかも知れず、またそういった批判の対象となるようなことに関しては批判されて当然だと思うのかも知れないが、そうやって批判することによって意識から何が抜けてしまうのかといえば、驚きの感覚が抜けてしまって、批判の対象が何かすごいことをやっているという驚きや感動の感覚が麻痺して、批判にかまけて驚くことや感動することがなおざりにされてしまっているから、そこに生じている魅力を取り逃がしているのかも知れないし、そういった魅力の取り逃がしが後々に響いてしまうのかも知れず、それがすでに知っていることの範疇で起こっていることではなく、誰もが経験したことのない未知の体験であれば批判する以前に驚き感動するはずで、驚いたり感動する対象には魅力があり、魅力があるからそれに興味を持つわけで、少なくともそれがありふれた対象ではないはずで、あり得ないようなことがおこなわれているから驚いたり感動するわけだが、たとえそれが悪い行為であり否定されるべき行いであるとしても、それを言葉で表現するに当たって驚きや感動を抜きには語れないはずで、まずは批判するよりはそれに対する驚きや感動に重点を置いて表現したくなるはずだが、それが抜けていると他から共感を得られないだろうし、そんな批判に重点を置いた言説には魅力が生じないのだが、なぜ魅力が生じないのかといえばそれまでの批判と同じようなことがそこで語られているだけで、それが未だかつて誰も経験したことがない未知の体験であることが示されていないからだが、なぜそんなことを示す必要があるのかといえば、これまでと同じような批判をやっていては駄目だということを知らせなければならないだろうし、それを知らせても聞く耳を持たない人が大半であることを考慮するなら、それがいかに魅力的で驚きや感動に満ちたことかを示す必要があるのかも知れず、それが伝わらないと興味がわいてこないのであり、それ以前の批判者の自己正当化ばかりが前面にせり出してくるような言動にはうんざりさせられているから、何かそれに類する以前と似たような批判に遭遇するとまたかと思って不快になるしかなく、同じような人たちによる同じような批判の繰り返しがまたしてもおこなわれて同じような結果になってしまうのかと予想できてしまうところが、何か予定調和の結果が循環しているだけで事態が何も進展していないように思われてしまい、そんな停滞した状況に飽きてしまうわけで、そうやって飽きもせず繰り返される批判の循環には何が足りないのかといえば、それがこれまでにない未知の驚くべき感動的な出来事であり、そんな魅力的な事態に遭遇して自身が驚いたことがまず率直に語られなければならないのかも知れないし、何よりもそうしたことがおこなわれてしまうことがこれまでにはあり得ないことであり、またそんな行為を許してしまう自分たちも手の施しようのないていたらくであることを率直に認めなければならないのかも知れないし、そうやって何かもかもが新たな段階に来ていることが示されなければならず、しかもそうなっていること自体が善悪の判断を超えるような事態なのかも知れず、良いとも悪いとも判断できないからこそあっけにとられてしまうようなことであり、そんな事態をもたらしているのが批判の対象であるだけでなく、それを批判している自らも含めた社会状況そのものがもたらしているようなことなのかも知れず、そんな状況の中でまず優先させなければならないのは、そんな事態に直面して驚くことであり、驚いて感動している限りでそんなことを平然とやってのける人たちに打ち負かされてしまっている実態を素直に認めなければならないのだろうが、その後に何ができるかといえば、以前と同じような批判で済ませるのではなく、これまでにない新しい事態に遭遇したのだから、それに対する批判もこれまでにない新しい表現を使うように心がけなければならないのかも知れず、そうやって事態への対応や対処を一新すれば、批判内容にも人を惹きつける魅力が宿る可能性が出てくるだろうし、そうなれば頑なに同じような批判の言説を繰り返すような人たちにも言葉が届いて、そんな人たちにも良い意味での作用や影響が及んで批判内容の見直しを迫られるような機会がもたらされるのかも知れない。


12月1日「富裕層と貧困層の役割分担」

 たぶんそれらの関係をそう捉えること自体が間違っているのかも知れないし、それが役割分担なのかといえばそうではないと思いたいところだが、そんな社会的な関係が恒常的に成り立っているとすれば、それが社会の中で何らかの機能を果たしているのかも知れないし、それを役割分担と見なしてもかまわないような構造が社会の中に形成されているのかも知れず、実際に社会の中では何らかの役割分担があり、例えば家族の中での役割分担とか職業的な役割分担とか集団で何らかの作業をする際に割り振られる役割分担とかなら誰もがはっきりとわかることだが、それらとは違って資本主義経済の発展に伴って生じてくる富裕層と貧困層という二つの層の在り方が役割分担であると見なすと、何かそれは違うのではないかと思いたくなるわけだが、普通はそれが役割分担などではなく、人々が経済活動した結果として富裕層と貧困層が生じてくるわけで、それらの層の機能や役割が後天的にあるとしてもそれは人為的に割り振られた役割分担ではないだろうし、単にそれらの層が生じてきた結果として何らかの役割が生じていると見なすならそう思われるだけで、別にそれらの層に属している人たちが積極的に意識して一定の役割を担っているわけではないはずだが、それでも実際に二つの層が存在していることは確かで、またそれらのどちらにも属さない中間層というのが、資本主義経済の進展とともにだんだんと少なくなってきて、結果的に富裕層か貧困層のどちらかへと吸収されてしまう傾向にあるのが必然的な成り行きなのか偶然的な成り行きなのかといえば、近年において世界的な傾向として貧富の格差が顕著になってきたような統計的な裏付けがあれば、何やらそれが必然的な傾向に思われてくるだろうし、そんな成り行きの中でも貧困層の中から何らかのやり方で経済的に成功すれば成り上がって富裕層の仲間入りができて、また富裕層の中で何らかのきっかけから経済的に失敗して落ちぶれれば貧困層の仲間入りをすることになるわけだが、そうやって富裕層と貧困層の間で若干の人の入れ替えが起こるとしても、一応は義務教育によって人の意識の同質化が図られているのだから人の中身は本質的な面でどちらの層に属していても変わらないのかも知れず、たとえ富裕層専用の英才教育などをおこなう特殊な教育機関があるとしても、一方ではマスメディアの普及によって人の意識の平準化が図られている状況もあるわけだから、そういう面での差異は相対的な水準に留まるだろうし、結果的には同じようなメンタリティを持った人たちが収入や資産などの面での経済的な格差に伴って富裕層と貧困層に区分されるというのが相対的な役割分担と捉えておけばいいのであって、民衆のうちで誰がどちらの層に属していようと当人以外では大した問題とはならないのかもしれないが、成り行きとしてなぜそうなるのが当然のことのように思われるのかといえば、社会の中での集団的な組織構造の中で富裕層がなるような職業や地位がある一方で、貧困層がなるような職業や地位がある限りで、そうした身分を成り立たせる富裕層と貧困層が必要というよりは、ある職業に就いたり地位になると富裕層になれる可能性が高まり、別の職業に就いたり地位になってしまうと貧困層になる可能性が高まり、要するにそこで収入に差が出てくるわけで、それに応じて権力や権限の大小や強弱が生じてくる場合もあるだろうが、なりたい人が多い割には限られた人しかなれないような職業や地位があれば、そんな人気のある職業に就いたり地位になれば多額の収入を得られるからその人は富裕層になり、また誰もがやりたくないような安い収入しか得られない職業に就いたり地位になれば貧困層になるしかなく、そうなるとその人の家族もそうなってしまう傾向があり、富裕層の出身者が教育を受ける機会や職業選択や結婚などにおいて相対的に有利になる一方で、そのしわ寄せが及んで貧困層の出身者は相対的に社会の中で不利な立場を強いられ、そうした職業や地位が世襲的に固定化される度合いが高まれば富裕層と貧困層も世襲的に固定化されてしまうのだが、そうした傾向をなくそうとする気運が社会の中で高まるかとなると、社会の中で主導権を握っているのがどちらかといえば富裕層に属する人たちであるから、自分たちの地位や立場を守ろうとする傾向が強ければ現状を維持するような成り行きへと持って行きたいだろうし、そういったことを意識しなくても自然と自己正当化したり保守的な態度になるだろうから、普通に考えてそういう傾向になるのが自然な成り行きなのだろうが、それに対して貧困層が反発を強めるような成り行きもあるだろうが、貧困層が団結して富裕層と戦うような成り行きになるかといえば、義務教育によって意識の中身を同質化してしまうのでそういう成り行きにはなりにくい世の中ができあがっているのだろうし、多くの人たちがよほどひどい仕打ちを受けていると実感されない限りは革命など起こりようがないだろうし、それよりは自らも経済的に成功して富裕層の仲間入りがしたいという思いの方が強くなるのかも知れず、貧困層に属する誰もがそう思っている限りで富裕層の敵となる可能性は低いだろうし、またどうやっても成功できる可能性を見いだせずに金持ちになる夢をあきらめても、あきらめた時点で自らの至らなさを感じるだけだから富裕層への敵対感情が高まることはなく、さらに誰もが富裕層になれないということはなく、貧困層の中からも競争に勝ち抜いて経済的に成功する人が少数でも出てくれば、それが励みになって努力していればいつかは報われるような気にもなるだろうし、そうやって若者たちが金持ちになる夢を抱き続ける土壌が形成されている限りで、貧困層と富裕層との間で対立や争いが未然に防がれるような成り行きにもなるだろうが、果たしてそれでいいのかといえば貧富の格差を問題視するような人たちには納得がいかないところだろうし、社会主義や共産主義を信奉する人たちは誰もが平等に富を分かち合えるような社会の実現を目指しているわけで、そういった人たちは政治的な手段を使って自分たちの主義主張を実現しようとするわけだが、それが現状でうまくいっているわけでもなく、どちらかといえばそれらの人たちが問題視するような傾向が改善するどころか逆に強まっているように思われるから危機感を募らせるわけで、だからそうした現状を何とかしなければならないという思いも強まってくるわけだろうが、現状を政治的に改善するために民主主義的な制度があることは確かだが、現状のような富裕層と貧困層をもたらすような経済制度に寄生して政治的な制度が成り立っていることも確かなのかも知れないし、そうなっている限りで根本的にはそうした傾向を改められないような限界も生じているのではないか。