彼の声136

2020年

1月20日「相対的な信用度」

 一見まともそうなことを述べているようでいて、その実そうでもないような疑わしい面を伴っていれば、まともそうなことを述べていることに関してはそんな雰囲気に騙されて少しは好印象を抱くとしても、そうやって肯定的な幻想を抱いている限りでは騙されているとも思われなくても、疑わしく思われる面では何か騙されているようにも感じられるわけだが、それほど強く疑っているわけでもなければ、それとは違う面を伴った対象の真の姿を見極めようとしているわけでもなく、それほど対象に深く関わっているわけでもないのかも知れないし、抱いている疑念をそのまま放置しているのなら、そこから深刻な悪影響を及ぼされているとも思っていないだろうし、むしろ好印象と共にたわいない幻想を抱いているのであって、そこから冗談半分に軽薄な快楽を得ているに過ぎなければ、それが深刻な事態を招いているのではなく、その程度でしかなければ何でもないことになってしまうわけだが、それが時と場合によっては違ってくるのかも知れず、何でもないと感じられることがそもそもの勘違いであり、すでにそこから重大な事態が始まっているのかも知れないが、それがわからなければそれについてまともに語ることもできないわけだが、それに関して何か信用できる面があるとすれば、その対象となる人や勢力の今までにやってきたことが実績となって信用を生じさせているわけだが、それに対する他の人たちの反応としての距離の取り方や場合によってはいちゃもんの付け方が何か不自然な印象を感じられるとしたら、そこから距離をとっている人やそれに対していちゃもんをつけている人たちの方がおかしいと思われるのかも知れず、そうであるならその対象となっている人や勢力の方がまともに感じられてしまうだろうし、それも他の人や勢力と比較することで得られる相対的なまともさに過ぎないわけだが、全面的に信用しているわけではなく、もちろん全面的に信用できる人や勢力などありはしないだろうし、そもそもそんなことを感じている自分自身も心底から信用しているわけでもないのだが、それらの全面的には信用できない人たちの特徴として顕在化しているように思われるのが、例えば誰もが批判できるようなことをその誰もが批判できることを利用して、その尻馬に乗って批判しているように思われるところであり、そういうところでずる賢く立ち回っている印象を受けるわけだが、もちろんそんな印象を抱いてしまう限りで、そのずる賢さについてもそれほどうまくいっているわけでもなく、それほどずる賢くも見えないからそこには限界も垣間見られて、結局そんなずる賢く立ち回っている手腕がそもそも信用できないわけだが、それよりは批判されるようなことをやっている人たちの中でも信用できる手腕の人もいて、それがその人が今までにやってきたこととして実績に感じられるわけで、そんな実績に対する批判にもいちゃもんつけ的な軽薄さが伴っていれば、やはりそれを批判しているような人たちの方が信用できないことにもなるわけだが、そうやってそれらの人たちの間に相対的な信用の高さや低さを感じられるとすれば、その中では相対的な信用度の高い人や勢力を相対的に支持することにもなるわけで、その辺が単純には良し悪しを割り切れないところであり、そこに様々な留保すべき点が出てきてしまい、そんな中で相対的に信用度の低い人たちによく見受けられる無い物ねだり的な批判には、何か根本的な欠陥が伴っているようにも感じられて、それを理想主義といってしまうと語弊があり、理想主義ではないように見せかけていると言えるのかも知れないし、それなりに現状に対して譲歩しているようにも装っているのに、その譲歩する姿勢が一方的な傾向を伴っていて、これ以上は譲歩できないという点を強調しながらその点を変えようとはしないところが、実際には柔軟性を欠いて硬直した頑なな姿勢を物語っているだろうし、譲歩すべきはその点ではなく、むしろそこは無理に譲歩するようなところではなく、そことは別のところで柔軟な対応が求められるのに、柔軟に対応すべきところでは頑なな姿勢を保とうとするわけで、何かその辺で主張していることとやっていることがかみ合っていないようなちぐはぐな印象を受けるのだが、それが絶対に悪いというわけでもなく、そんなところも含めて相対的な信用の低さを感じられるわけで、それもいざというところで出てくる無い物ねだり的な批判に比べればどうということはないのかも知れないが、その無い物ねだり的な批判というのもそんな人たちの都合から生じている面もあるだろうし、無い物ねだりというのが批判している対象にはないと思っていることを求めているのと同時に、批判対象には実現できないことであり、またそれが自分たちにはあると思っていてできると思っているのかも知れないが、そのあると思っているものが本当にその人たちにはあるのかというと怪しいわけで、実績としてそれらの人たちがまだ成し遂げていないことであれば、要するにそれは空手形でしかないわけだが、それを成し遂げるには他の人たちがその人たちを支持しなければならないのかも知れないが、実績としてはまだ多くの支持を得られていない段階であれば、その人たちが批判対象に無い物ねだりをしていることがそのままその人たち自身にも当てはまることになってしまうのかも知れず、その辺も微妙なところかも知れないが、それと共に批判の矛先が二つの対象に向かっていたりもするだろうし、それに関してはまず大前提として他の多くの人たちも批判している対象があると共に、それを一緒に批判している他の人たちをも批判していて、他の批判者や批判勢力よりも自分たちこそが真の批判者であることをアピールしているわけだろうが、そこに批判者や批判勢力同士の競合や競争も生じているわけだが、それと同時に自分たちの主導で批判勢力をとりまとめたい思惑もあって、そこに交渉や取引や譲歩や妥協などが絡みついてくるのだろうが、まだ批判勢力の中では少数派でしかないにもかかわらず威張ってしまってはまとまるものもまとまらないのが当然の成り行きだろうが、それも計算の内のように感じられてしまうのかも知れないし、当人たちは交渉術のつもりなのかも知れないが、どこまで本気でそんなことをやっているつもりなのかについても皆目見当がつかないところであり、そういう面では最初から交渉など決裂していると見なしておいてもかまわないのかも知れないが、そんな中ではできるだけ威張らないように装っている勢力が相対的には信用度が高いのかも知れないが、そんなことまで計算の内であるのなら単に主張の中身から判断するしかないだろうし、そんなところでいくら相対的な信用度をアピールしたところで大同小異でしかなく、それをどう判断したりどう評価しても意味のないことかも知れないし、根本的にはそれがどうしたわけでもないことになってしまうわけだが、そんなことまで考慮に入れて何を示したいのかといえば、事の深刻さも重大さもそこにはないということであり、そんなレベルで自らの立場や姿勢をアピールしているような人や勢力などを信用できるわけもなく、しかも信用できないとしても支持しているように装うことはできるわけで、とりあえず支持を装っていればそれで済むようなことでしかないとすれば、それらの人や勢力を支持しているつもりになっていればいいのかも知れないし、そんなつもりで待ちの姿勢を保っていればいずれは何かわかるような機会がやってくるのかも知れない。


1月19日「前進することの意味」

 他人から憎まれるようなことや恨まれるようなことをやらなければならない立場というのが誰にももたらされるわけではないとしても、憎まれたり恨まれたりしないように振る舞っているつもりでも、時と場合によってはそんな成り行きに巻き込まれてしまうこともありそうで、社会の中で他の人や集団にかかわって生きている限りは、常に自身にとって都合のいいようには振る舞えないことがあって当然だが、なるべくならそうならないようにしたいだろうし、そうなると自身がかかわっている他人や集団などとの関係が悪化しないように配慮してしまうのだろうが、それと共にそうした他人や集団から及ぼされる圧力のような作用には反発してしまう場合もあるだろうし、それがそれらとの諍いの原因となってしまうわけで、そうやって関係が悪化すると対立したり争うことにもなってしまうわけだが、そういうところで折り合いが悪くなって、自分の都合とかかわっている他の人や集団の都合が相容れないことが判明して、逆らうか従うかの選択を迫られてしまって思い悩むわけだろうが、そんな中でも普通はできるだけ自分の都合を優先させようとするだろうし、それでうまくいかなければ妥協や譲歩を迫られるわけで、誰もがそうやって社会の中で生きているのだろうし、その場その時の状況や情勢に合わせて判断する基準も変わってくるが、そこで揺るぎない恒常的に成り立つ判断基準がないから思い悩むわけだが、結果的にはその場でやれることやできることをやっていることになるのだが、それが一つしかないというわけでもなく、他にもやれることやできることがあったかも知れないのに、何らかの行為をやったりやらなかったりする羽目になってしまうわけだが、必ずしもそれがやれたりできるからやってしまうというよりは、やってみてやれたらやるだろうし、結果的にやれなかったらやることに失敗してしまうわけだが、それに成功したか失敗したかの判断も都合のいいように解釈してしまう場合もあり、必ずしも成功したとは言えないような場合にも成功したことにしてしまう場合もあるだろうし、結果が気に入らなければ失敗したと判断してしまう場合もあるだろうが、結果的にはそれで良かった場合もあるわけで、そういう場合は失敗することに成功したわけだが、そうやってうまくその場を切り抜けられたからといって、当人にとってはそんな結果が気に入らないわけだから、何か釈然としないものを感じているわけだが、そこから思わぬ方向にやっていることがずれていってしまうとしても、それが当人にとっては想定外の紆余曲折であるだろうが、そういうことを経験してみないとわからないことがあるわけで、そこで単純にやっていることの良し悪しを割り切れないところが納得がいかないにしても、それがあるとないとでは雲泥の差がついてしまうことだってあり得るだろうし、そういうところで誰にとってもわかりやすいような判断に寄りかかってしまうと、それでかまわないように思われるとしても、これまでにない成り行きになる可能性を捨てて無難な結果を選んでしまったような後悔が残ってしまうのかも知れず、結果的にそれは冒険の手前で引き返してしまったことになるのかも知れないが、そのまま冒険したところで取り返しのつかない事態に陥ってしまえば元も子もないわけで、そういう場合にはどちらが良かったかは判断がつかないところだろうが、実際に無難なことをやる方を選んでしまったのだから、無謀なことをやって取り返しのつかないことになる事態を避けられたとしてもそうしなかったことを後悔することになるわけだが、自分はそれでかまわないとしても他人の冒険に関してはとやかく言いたくなってしまうのかも知れず、そういうところで偉そうに他人の行為を批判する筋合いもなければそれに越したことはないわけだが、そこでとやかく言う立場に回ってしまってもまずいわけで、まずいのにそういう立場を強いられてしまうこともあるだろうし、そこでも強いられたことに従うか逆らうかの選択を迫られていると思ってしまうと、何かそういう方向に誘導されてしまっているような居心地の悪さを感じてしまうわけだが、そういう選択や判断を回避できなければそれを意識しないように心がけるしかないのかも知れず、結果的にそれを意識しないうちに何かを選択したり判断していることになってしまえば、うまくその場を切り抜けられたことになってしまうのかも知れないし、それは判断停止ではなく判断を通り過ぎてしまうことになるのかも知れないが、それもごまかしの一種かも知れないわけだが、少なくとそこで思い悩む事態は避けられていて、そうやってこれまでも様々な選択や判断の前で立ち止まらずに生きてきた可能性があるとすれば、それ自体が冒険だったのかも知れないし、今もそうやって冒険を続けている可能性もあるわけだが、なぜそこで立ち止まれないのかといえば結果的にその必要がないからとしか答えられないかも知れないが、それが無難なやり方なのかといえばそうでもなく、むしろ絶えず取り返しのつかないことをやっているのにそれに気づかないような事態となっているのかも知れず、しかも今もそれを続けている実態があるのだとしたら、そうやって生きていること自体が取り返しのつかないことなのかも知れないが、要するにやり直せないことをやっているわけで、そういう面では誰もがやり直しが利かないことをやっていて、それは無難なことでも安全なことでもなく、深刻で危険な冒険でしかないのかも知れないが、少なくとも結果的にそうなってしまっているのだから後戻りはできないだろうし、それを前進し続けていると見なすならこれからも前進し続けることしかできないし、自分がそうなっているのに他人がそうなっていることを批判する筋合いはなく、実際に自分も他人もそうやって時間の進行方向へ向かって前進し続けているわけだが、一方で成り行き的には常に紆余曲折の最中であるのかも知れず、常に一方方向へと向かっているわけではなく、それが思いがけないような遠回りや迂回の連続であったりすると、それを知れば何かもっとうまいやり方がなかったものかと後悔するわけで、そうやって意識が常にうまく効率的かつ功利的に立ち回ろうとするのをあざ笑うかのように、状況が運命のいたずらに翻弄されているかのような停滞や道草や堂々巡りの繰り返しのような様相を呈していれば、なぜそうなってしまうのか理解に苦しむところだろうが、やはりそこでも思い悩まなくても済むように心がけようとしてしまうのかも知れず、実際にそこで立ち止まらずに先を急いでしまうから、さらにそこから余計に遠回りするような成り行きが待ち受けていて、そんな思いがけない紆余曲折を経てさらなる経験が積み重なるわけだが、後からそれが無駄ではなかったと正当化する必要もないのかも知れないし、実際に無駄で無意味な紆余曲折でしかなくてもそれでかまわないと思うしかなく、それでかまわないのに後悔してしまうとさらに無駄に思い悩むことにもなるのだろうが、果たしてそんな逡巡が深刻で危険な取り返しのつかないことなのかといえば、逡巡しながらも前進してしまっている実態があるのだから、いくら思い悩んでも押し出されてしまうような時間的な経過があるわけで、それはそうなってしまう人にはどうにもならないような成り行きでしかないのではないか。


1月18日「謎な部分」

 現状を誰かの思い通りに変えることが難しいとしても、その誰かに政治的な権力が集中していれば、ある程度は思い通りになるとしても、他にも思い通りに世の中を変えようと思っている人はいくらでもいるだろうし、そう思うことが誇大妄想でしかないとしても、現状が現状のように構成されていることの前提条件を変えられるはずがないとしても、変えるのに必要と思われる様々な制約や条件などが変われば現状が変わる可能性はあるだろうし、そうした制約や条件などが何によって変わるかといえば、そこに作用や影響を及ぼしてくる様々な要因や要素があるわけで、その中には人の思いや意志も含まれているだろうし、それがそれらの中に占める割合としてどの程度のものになるかは、作用や影響を及ぼす対象によっても異なるところだろうが、世の中の現状を変えるとなると範囲が広く漠然としすぎていて、他にも要因や要素がいくらでもあって、その中で人の思いや意志が占める割合は微々たるものでしかないだろうが、それだけでは変わらない可能性の方が高そうだし、思いや意志だけでなく何らかの行為として直接の作用を及ぼす必要が出てくるだろうが、直接の行為が人の思いや意志から生じてくるわけだから、行為と思いや意志が関係し合い結びついているように思われるかも知れないが、関係し合い結びついているのはそれだけではないだろうし、現状を構成する他の要因や要素から行為と思いや意志が生じてくる可能性も考えられるとすれば、それが何かといえば必然的なもの以外でも偶然の巡り合わせのようなものなら恒常的に作用や影響を及ぼしているのではなく、単発的に起こる事件や出来事となるのかも知れないし、しかもそれが一回ではなく複数回起こるかも知れないし、実際に様々な事件や出来事が様々な回数で起こっているのだろうし、そうなるとそんな事件や出来事が無数にあって、それらをいちいち特定できないかも知れないし、そんなことまで考慮していてはきりがなくなってしまうが、だから物事をもっと単純化して何か特定の事件や出来事に作用や影響されて特定の思いや意志が生じて、それに基づいた行為が行われるような理屈が必然的に求まってしまうわけで、そういう理屈に説得力を持たされるために辻褄が合うような事件や出来事や思いや意志を選び出してしまうわけだが、それだけではないのは当然なのだろうが、そういう成り行きを必然的に説明しようとするとそうなってしまい、それが必然的な成り行きを伴ったもっともらしい内容の説明となってしまうわけだが、そうなってしまっても世の中のすべての物事がそういう説明でうまく説明できるとも限らないだろうし、いくら詳細に説明しても納得できない謎な部分が残ってしまうのだが、そういう部分を無視してしまうと必然的に説明できる面にしか関心が向かなくなってしまうだろうし、そういう面だけで世の中が成り立っていると考えてしまうと、それが思い違いや勘違いの原因となってしまうのかも知れないが、そういう説明には得てして説得力の面で疑問を感じるような不用意な断言が含まれていて、そんな根拠の怪しい断言がどこから生じているのかといえば、説明している人の思いや意志から生じているわけで、またそういう思いや意志が何と結びついているのかといえば、その人の自己正当化や自画自賛の類いと結びついていて、説明と共に説明している自らの優秀さや有能さをひけらかしているように感じられて、どうだといわんばかりに必然的にそうなることを断言してしまうと、そういった断言が疑問に思われて、その部分で説明が空回りしているような印象を受けてしまい、何か話に説得力ないように感じられてしまうわけだが、それを断言するということは自信があるのだろうし、必然的にそうなると断言しているのだからそうなるということに関しては他人からも信用してもらえると判断しているわけだが、それが疑問に感じられてしまうのだから、実際に疑問に感じている人が多いほど、それがその人の見込み違いであり勘違いであることになってしまうわけで、そういう面ではその人の説明が疑問に感じられる人の間では通用していないことにもなってしまうわけだが、それにその人が気づいていないとなると、そうなっている時点で説明の内容に説得力が伴っていないことにもなってしまい、その人の自信とは裏腹にそういった断言口調のひけらかしが仇となって自業自得気味に自ら墓穴を掘っていることになるわけだが、その人が世の中を変えようとする熱い思いや意志と共に、そんなことをこれ見よがしに言い放っているのなら、そういう行為によって変わるのは世の中ではなくその人自身となってしまうだろうし、まさにそこでその人の世間的な信用が地に落ちようとしているのかも知れないが、元々そんな信用もなければ単なる身の程知らずで大言壮語の誇大妄想狂であり、誰からも見向きもされないような人でしかないわけだが、どちらにしてもそんな思いや意志とそこから生じる自己正当化や自画自賛のひけらかしでは駄目だとなると、ならば他に何が必要なのかと問われるかも知れないが、問うこと自体が意味不明なのかも知れず、そういう人がどうだというわけではなく、世の中には結果的に変わるタイミングや時期があって、それは実際に変わった後からわかるようなことかも知れないし、また変わってからも誰からも気づかれないかも知れないが、変わったと判断された後からその原因が求められて、その中には誰かの思いや意志も少しは作用や影響を及ぼしていたかもしれないと説明できるかも知れないが、そんな説明に納得できる人が多ければ、それが世間的にも信じられて、誰かの思いや意志に端を発してそこから世の中が変わったと思われるかも知れないが、普通に考えてそれだけで世の中が変わったとは思われないだろうし、そうなれば他にも様々な要因や要素が求められて、それらが複雑に絡み合って作用や影響を及ぼし合いながら結果的に世の中が変化したと説明されるだろうし、どうしてそんな説明が必要なのかといえば、例えば世間を納得させるために必要なら、世間が納得するような最大公約的な要因や要素によって世の中の変化の実態が説明されるのかも知れないし、また世間ではなくただ単に自分が納得できればそれでかまわないのなら、他の人には信じてもらえなくてもかまわないようないい加減で説得力の乏しい原因をこじつけて、それで世の中が変わったことにしておけばいいだろうし、そうなると何かの冗談でそんなことを思いついているだけかも知れないが、そういった個人の勝手な思い込みがバタフライ効果のように世の中にかすかな影響を及ぼしているだけでも、そんなくだらない妄想が時期や時宜に適っているようなことが起これば、意外とそれが世の中に効果的に作用して、それを契機にそこからさらに世の中が変わってしまう可能性もゼロではないだろうし、そうやって何でもないような要因や要素が原因となって世の中が変化してしまうようなら、実際にそうなったとしても誰もそんなことは信じてくれないだろうし、誰もそんなことが原因で世の中が変化したとは言わないし、そんなことをこれ見よがしに断言口調で言い放つような人は、何かの冗談でそんなことを言っている以外では、場合によっては気が狂っていると思われるかも知れないが、そんなことも考慮に入れるなら、世の中を思い通りに変えようと思っている人も、その人の世間的な地位や名声如何では、その時期や時宜に適っていれば、そんな思いや意志を表明することによって何らかの作用や影響を世の中に及ぼせるかも知れないし、場合によっては気が狂っていると思われるかも知れないが、それはそんな思いや意志をこれ見よがしにひけらかした後からわかることかも知れない。


1月17日「真の自己」

 誰もがそうは思っていないのかも知れないが、逆に誰かがそう思っているのかも知れないし、それがどう考えても思い違いではないと思っているとしたら、何がそうなのかといえば、たぶんそれは政治情勢の類いだろうが、そんな政治情勢がそんなことを思っている人に何をもたらしているのかといえば、端的に言えば不満をもたらしているはずだが、そんな現状に不満を抱いている人には何もわかっていないのかも知れず、わからないということが不満の原因となっている可能性もあるだろうが、当人はわかっていると思っているから不満を抱いているわけで、当人がわかっていると思っていることが何もわかっていないことの証拠となるとしたら、そこで思い違いが生じていることになるのだろうが、それは無理もないことであり、わかっていないはずがないと思うだろうし、わかりすぎるくらいにわかっているから現状に不満を抱いているのであり、わかりすぎるくらいにわかっていることというのが現状そのものであり、逆に現状について知りすぎているとも思っているのかも知れないが、その知りすぎている現状こそが思い違いの内容であり、それを思い違いだとは思わないから、そんな思い違いについて不満を抱いているわけだが、なぜ不満を抱いているのかといえば自らの思い違いに気づかないことが不満なのかも知れず、誰がそう思っているのかといえば、それが当人であるはずがないだろうし、当人はそれに気づいていないのだから、当人の思い違いを当人が気づくはずがなく、当人ではない誰かがそれに気づいていて、それを当人に知らせようとしているのかも知れないが、聞く耳を持たないのが当人の特性であり、当人以外の誰の意見にも耳を傾けないからそれが思い違いだと気づけないわけで、だから当人の思い込みの中で意識が凝り固まっているのであり、それが当人を当人として現状の中に固定しているわけだが、そんな当人が固定された現状というのが当人の思い込みすぎないとすれば、現状は絶えず流動的に変化し続けていて、当人が当人の思い込みにこだわっている限りで、そんな流動的に変化し続ける現状を捉え切れていないわけで、そこで現状に関する固定観念に囚われているわけだが、その固定観念というのが現状に対して不満を抱き続けている原因となっている可能性が高いわけで、その人が独りよがりな固定観念に囚われていることがその人に不満をもたらしているというトートロジーが構成されていて、そうした固定観念の呪縛から解放されない限りは現状に不満を抱くことしかできないのであり、しかも不満を抱いている自らに満足していて、不満を抱けることこそがその人にとってのアイデンティティとなっているのかも知れないが、単にそれは思い通りにいっていない現状でしかないわけだが、そんな現状に不満を抱き続けている限りで自己の存在を確認できるのだから、自己とは現状とは相容れない存在なのかも知れず、思い通りになる状況と結びついているのが自己であるとするなら、それは現状の中にはないわけで、自己が虚構の理想状態の中で存在しているとすれば当然自己も虚構だろうし、自らの思いの中に自らの自己があるという入れ子状態となっていて、そんな自己などあり得ないはずだが、そのあり得ない状態となっていることに気づけないのだろうし、普段はそんなところまで思い至らないわけだが、どう考えても自己について考えるような成り行きにはなりがたいし、意識が自己に近づきすぎているから自己が自己に気づけないと思うわけでもなく、自己から意識が生じているわけだから、意識している自己が自己ではないとは思わないし、自己そのものがそこにあると思っている意識が自己の内部にあるのであり、考えてみればそれ以外ではないはずだが、そういう意味で自己と意識との距離はゼロであり、そうであるなら近づきすぎているどころか一心同体だと言えるわけだが、そんな意識が自己について何がわかっているのかといえば、たまに思い出すような過去の自己についてならわかっているはずだが、現状の中に存在している自己については何もわかっていないのかも知れず、そういう意味で意識し続けているのは常に過去の自己でしかなく、過去の記憶の中に自己が存在しているに過ぎないわけだが、それ以上に何がわかるわけでもなく、意識の限界がそこに構成されているわけだが、どこに構成されているのかといえば過去の記憶の中に構成されているわけで、その限界を超えて何を認識できるわけでもなく、そうであるなら意識が過去ではない現在の状況を認識できるはずがないだろうし、認識しているのは常に過去の現状であり、それが現在の現状ではないのだから、認識しているつもりの現状とは虚構の現状でしかないわけだが、では真の現状とは何かといえばそれは推測や憶測によって生じる想像上の現状となるだろうし、そうやって現状を想像しているわけだから、不満を抱いている現状も想像上の現状に過ぎず、たとえ現状に不満を抱いているとしても真の現状に関しては、推測や憶測以外には何もわかっていないことになり、過去の現状に基づいてその延長上に現在の現状が意識の中で構成されているから、推測や憶測から構成された現状に不満を抱くということは、自らの想像力に不満を抱いていることにもなるわけだが、それは自らの想像が自らの思いを裏切っていることにもなるだろうし、なぜ不満を抱くような現状を想像してしまうのかといえば、そこに至るまでの過去の経緯に不満を抱いているから、そこから想像される現在の状況にも不満を抱いてしまうのであり、思い通りにはいかなかった過去から現在の状況を想像しているわけだが、そこに不満があるということはまだあきらめていないということでもあり、まだそこから改善の余地があると思うからそれをどうにかして満足のいく状態に持って行きたいわけで、そういう意味では現状の中で活動している目的として、満足のいく状態へと持って行くことが現状での活動の目標となっているはずだが、そうだとすると現状に不満を抱いていないと活動できないのかも知れず、現状の満足してしまうともう何もやることがなくなってしまい、そうなってしまうのが怖いから絶えず現状に不満を抱いているように自らを仕向けている可能性もあるわけで、そうなると現状に不満を抱いていることは確かだが、そんなふうに不満を抱いている自らの姿勢には満足しているのかも知れず、そうやって絶えず現状に不満を抱く姿勢を保とうとして、現状に不満を抱いている自らを意識が想像しているとしたら、それも想像上の自己の姿に過ぎないだろうし、真の自己ではあり得ないはずだが、真の自己の姿がどうであれ、わかっているのが想像上の自己でもかまわないだろうし、真の自己の姿などわからなくても一向に困らないのかも知れず、意識にとって必要なのは現状に不満を抱いている想像上の自己であり、そんな自己の姿を想像しながら不満を解消するために現状の中で活動しているのが真の自己であるかどうかはわからないが、とりあえずはそんな自己が真の自己であってもかまわないだろうし、そういう自己の姿を想像しながら現状の中で不満を抱き続けている自己が存在していると思い込んでいるわけだが、誰がそう思い込んでいるのかといえば、文章の中に記されている架空の誰かがそう思い込んでいるだけかも知れない。


1月16日「メディアとの距離感」

 何か特定の国と国とが覇権争いをやっていると見なすことができれば、それらの国を取り巻く国際情勢に関して、その対立関係を軸としてそれにかかわってくる他の国との同盟関係や敵対関係なども考慮に入れて、双方の軍事力や産業力などを加味した国力を比較することによって、どちらが有利か不利かを判断できるかも知れないが、そもそもの覇権争いというのが面と向き合って対決の様相を呈しているのかとなると、そうした関係が二国間だけでなく多国間的な関係があって、別の国とも対立していたり同盟していたりして、しかもその対立や同盟の程度や強度も千差万別であって同等の比較対象とはならなければ、二国間の対立関係だけを論じること自体が現状とは合っていないのかも知れないし、それでもそこだけを強調するような趣旨に関して何か合理的な根拠が示されていれば、そういう面ではそう述べている内容にも説得力が伴っているのかも知れないが、別の面ではそうとも言い切れないような傾向があれば、そういう面ではそうであるが別の面ではそうでもないようなことにもなるだろうし、そしてそういう言説を受け取る側にとっても、その人の現実の生活がそんな国際情勢とはほとんど関わり合いのない暮らしとなっていれば、ただの興味本位でそんなことを真に受けているに過ぎず、それについてその人がどう思っていようと、またその人の活動内容がどのようなものであっても、その人が存在している水準と真に受けている言説の水準が全く釣り合っていないようなことでしかなければ、客観的にはそういった人と言説の関わり合い自体が何でもないこととなってしまうのかも知れず、結局そんなことはその人が気にするまでもないことであり、例えばその人が最近観た映画の内容とその人の生活が無関係であるように、その人がネットニュースで読んだ国際情勢の分析とその人の生活が無関係であるとすれば、どちらの無関係を真に受けるべきということでもないだろうし、両方とも同じように無関係であるとは言い切れないにしても、虚構の世界との無関係と現実の世界との無関係を単純に比較するわけにもいかないだろうが、そういう無関係についての度合いや程度というのがその人が思っているほどでもないとしても、少なくともどちらの世界にも自身との間に無視できない隔たりがあることを感じ取れるはずだが、そこに隔たりなどなく直接それらの世界と意識がつながっているように思われてしまうと、当事者でもないのに当事者意識を抱いていることになってしまうだろうし、それが勘違いの原因ともなるだろうが、もちろんそれらの情報を提供している側としては勘違いしてのめり込んでほしいわけで、ただの一般人が映画の出来に関して批評家のまねごとのような意見を述べたり、国際情勢に首を突っ込んでいるような気分になってそれらの対象と戯れてほしいのだろうが、やはり客観的にはどうあがいてみても不均衡で不釣り合いな力関係でしかないのに、それらについて分不相応でもっともらしい意見を持ってしまうと、それ自体が誇大妄想に類する内容であり、対等の関係ではあり得ないのに、対等にもの申しているような感覚に陥ってしまうわけだが、たぶんそういうところから自己と自己を取り巻く世界との間に修復しがたい亀裂が生じてきて、そこに亀裂が生じていることに気づかないまま意識が亀裂を飛び越えて向こう側の世界とつながってしまうと、亀裂を隔てて生じている落差や距離を無視するようなことを平気で述べてしまうことにもなるわけだろうが、そうなってしまうことがおかしいと感じられるならそこで距離感を意識していることになるわけで、実際にそれを意識できれば、そんなことについて大真面目に議論したがるような方向にメディアによって誘導されていることに気づけるのかも知れず、そういう世論誘導のような操作によって自身の感覚が狂わされているとすれば、そういう成り行きは避けたいとも思われるはずだが、それに気づかなければそういう話題に距離感なしに接してそれについて大真面目に議論するに気にもなるだろうし、自身がそういった話題に介入しているような気にもなるわけだろうが、本当に介入できているのかといえば、実態としては一方通行のような状況でしかないのに、こちらから作用や影響を及ぼせるような気になっているのであれば、それこそがメディアによって仕掛けられた罠であり、そこに錯覚が生じていることになるのだろうが、本当にそうなっているのかというと、どうも確信が持てないわけで、それは意図して罠を仕掛けているつもりでもないメディア側の関係者の方でもそう思っているのかも知れないが、その辺は双方共に勘違いや思い違いがあるのかも知れないし、何かはっきりとこうだと断言できるような仕組みにはなっていないのかも知れないが、たぶんそういうことに対して直接向き合うような構図からは少しずれていると捉えておけばいいのかも知れず、その少しのずれが無視できない亀裂だと思われるなら事を大げさに捉えていることにもなるわけだが、何かそういうところで自身が深刻な事態に陥っているとは思えなければ事を大げさに捉える必要もないだろうし、それが気晴らしの話題でしかないことを承知している程度で済んでしまうぐらいが分相応で釣り合いがとれているような距離感で接していることになるのなら、そういうことにしておいてもかまわないだろうが、そういう感じ方は自身がこの世界で生きている時間の経過にも比例して真実味や実感が増してくるのかも知れず、時間が経過するほど自身の活動の幅が狭くなってくるように思われるなら、現状の延長上で今までと同じような経過や結果が待ち受けていると感じるだろうし、そうなると変化に対しての感性が鈍っていることにもなるわけで、変化するわけがないと感じるほど安定した環境の中で暮らしていると実感していて、要するにそういう時間経過に慣れてしまっているわけだろうが、それも起伏の乏しい時間経過からもたらされる錯覚に過ぎないことではあるわけだが、それが状況判断としても正しいと思われるだろうし、その正しさが自己と周囲の環境からもたらされているとすれば、そんな環境への依存度もそれだけ高くなっているわけで、自身がそういう感覚に陥っていると、急激な環境の変化に対応できない可能性も高くなっているはずだが、そういう人はそれでかまわないわけで、そんなふうにして環境の急激な変化に対応できずに破滅する可能性の高い人もいる一方で、そんな人は現状ではそうなる確率が限りなく低いと思うことが正しい情勢判断である限りで、逆に現状でいくら環境の急激な変化に対応できそうな人がいるとしても、そういう人は実際に急激な環境の変化が起こらない限りは現状の環境への依存度が高い人と比較すれば不利な状況にあるのかも知れないし、それもどちらが良くてどちらが悪いとも言えないし、またどちらがどの程度の依存度や適応力があるのかを測る基準というのも、これといって明確に示せないようなあやふやなものでしかなければ、そんなことを述べていること自体が大して根拠もないことでしかないわけだが、そういう意味でそこに何らかの対象についての言説がもっともらしく提示されているとしても、それを真に受けるような成り行きが誰にとっても同じような程度や強度で生じているわけでもないのだから、人それぞれで感じ方も受け止め方も異なるのは当然のことだろうし、そうであるならそういった話題との距離感もそれを受け止める人によって違ってくるはずだが、要するに自分がそう思っているほどには他人もそう思っているわけではないことは確かなのかも知れない。


1月15日「規範化に逆らうこと」

 人の行為に関して何かこうあるべきと見なされるようなことが模範的な行為として考えるまでもなく推奨される場合は、そんな規範化された行為が多くの人によって共有されていて、そこから著しく外れたことや正反対のことはやってはいけない行為となるだろうが、やってはいけないとかやるべきではない行為ができないかというとできる場合もあるわけで、そういう場合はやるべきではないことをやっていることになるわけだが、やるべきではないと思っている人たちから非難されたり反感を持たれてしまうにもかかわらず、そういうことをやっている人たちが政治的な主導権を握っている場合には、何か二重規範のようなものがあって、一般の人たちはやってはいけないが特定の人たちならやっても許されるようなことがあり、そんなやってはいけないことをやっている人たちによって政治的に世の中が支配されているような状況があると、一般の人たちにとっては不快な世の中になっていることになるのだろうが、本当にそうかというと世の中の多数派がそういうやってはいけないことをやっている人たちを政治的に支持している実態もあって、そういう状況の中ではやってはいけないとされているようなことが誰もがやってみたいと思われるようなことであったり、あるいはやってはいけないことをやらざるを得ない成り行きになっていたりもして、そんな誘惑に屈してやってしまうような人を建前としては非難するかも知れないが、本音の部分では仕方のないこととして許容するような心境となっている人たちが世の中の多数派を構成している場合もあるだろうし、そうなっているとそういう行為を声高に非難する人たちの方が少数派となってしまい、逆にそういう建前ばかりを重んじる人たちの方が空気を読めない人として多数派から敬遠されてしまうことにもなるわけで、そういうところで本音と建前の二項対立が形成されている中で、どちらの側へ帰属すべきかとなると、そういう予定調和の構造を把握しているならどちらの側へ帰属しても居心地が悪いわけで、そういうのは避けて通る方が賢明な判断にも思われるだろうし、そうやってなし崩し的にこうあるべきと見なされるような規範が無効化してしまうのかも知れないが、それでもそういった二重基準が有効に作用するような状況の方が世の中の多数派にとっては都合がいいのかも知れず、一般の人たちがやってはいけないことが特定の人たちにだけは許されるようなことをやってみたいと思われるわけだから、そういう人たちに憧れるだろうし自分もそういう身分になってみたいと思われる限りで、そんな人たちが多数派を占めている世の中の均衡が保たれて安定するのかも知れず、実際にそういう世の中になっているのだとしたら、そういった大義のない多数派には与しない方が賢明な判断だと思われる一方で、そういう世の中の状態を否定的に捉えて批判している側にも与したくはないだろうし、そんなどちらの側にも与しない立場などあり得ないと思われるかも知れないが、無理に正しくあろうとしたり欲望に屈して誤ったことをやってしまう人たちを無理に擁護するようなことを避けられるならそれに越したことはないのかも知れず、そんな中途半端な立場に留まることがどちらの側にも振れない柔軟な姿勢といえるかも知れないが、少なくともそれは模範的な姿勢ではないし、そんな姿勢が規範化されているわけでもなく、誰もがそんな姿勢を保てるわけでもないから推奨されることもないだろうし、要するに誰からも支持されないし共感もされないことを承知しておけばいいのだろうが、そういった公共の利害とは無関係に振る舞うことに何の意味があるのかといえば、特に意味や意義のあることを積極的にやろうとしなくても済んでしまうのなら、それがどうしたわけでもないが、そんなどうしたわけでもないことをやっていられるだけ余裕があることになるのかも知れず、その方が疲れないし心身の消耗を抑えられるような気がするわけだが、それも気のせいでしかないと認識しておいてもかまわないだろうし、そういうのは事なかれ主義として非難されるべきことだと見なしておいてもかまわないだろうが、何かそれに関して疑問を感じたり引っかかるようなものを意識している状態を保っておけば考える余地が生じるわけで、その余地がないとどちらか一方に振れて物事を単純化して捉えてしまうし、それでもかまわないのだろうがあえてこだわるなら、何かそういった二項対立を招くような成り行きとは違った方面を模索したいのかも知れず、そこからもっともらしく思われるような結論には至れないのかも知れないが、単純な結論へと振り切れてしまうほど切羽詰まった事態に直面していなければ、無理に結論へ至ろうとしなくてもそのままの状態でやっていけるのかも知れないし、やっていけている限りでそのままでいればいいのだろうが、だからといってそれを他人にも強いることはないだろうし、何事も無理強いしないことが肝心だろうが、そうであるなら二項対立にこだわっている人たちを小馬鹿にしたりしない方がよさそうで、そういう立場の人たちがいるからこそそんな立場を避けていられる自分が存在していると捉えておけばいいわけで、そういう意味では自分の代わりにそんな立場を担ってくれている人に感謝した方がいいのかも知れないが、こちらが感謝してもその感謝が向こう側へ伝わるわけでもなく、向こう側としては自分たちの味方になってくれる人には感謝するかも知れないが、それを傍観するような部外者気取りの存在にはむしろ腹が立つのかも知れず、敵でも味方でもない人に感謝されるいわれはないだろうし、味方でないのならせめて敵となってかまってほしいとも思っているのかも知れないが、ちょっかいを出すほど余裕がないというわけでもなく、こんなことを語っていること自体がちょっかいを出していることになってしまうのかも知れないが、ちょっかいを出すことを正当化しているわけでもなく、それが正しい行為だと思っているわけでもないし、むしろ間違ったことをやっている自覚さえあるにしても、それもそんなことをやりたいという誘惑に駆られてやっていることになるのかも知れず、それ自体がやってはならないことをやらざるを得ないような事態に陥っているのかも知れないし、やるべきことをやらずにそこから著しく外れたことをやってしまう成り行きに巻き込まれているのかも知れないが、それは特定の権力を行使するような立場の人たちが保持している二重規範とは違って、誰もがその気になればできるようなたわいない行為に過ぎないし、何でもないような行為でしかないと見なせば非難されるような行為でもなく、むしろ誰からも無視されるような行為と見なしておいてもかまわないだろうが、それが特別なことではないのだからことさらに煽り立てる必要もないことでもあり、それをどう受け止めようとかまわないことである限りで、そんなことをやる必要もないのにそんなやる必要もないことをやっている現状が何をもたらしているのかといえば、少なくとも他とは違ったことをやっていることになるのかも知れないし、実際に何でもないことを述べているのにそれでかまわないように思われるわけだ。


1月14日「現状への抵抗」

 多くの人が現状で醸し出されている何かに逆らっているとしたら、それを逆らっている対象としてはっきりとは自覚できていないのかも知れないし、ただ何となく漠然と抵抗感のようなものを覚えるのかも知れないが、それが例えば人々の思考や行動を何らかの枠や型にはめ込めるような作用を伴っていれば、それに類する何らかの人為的な強制に逆らっていることになるわけだが、それが具体的に何かとなるとわからなくなってしまうのかも知れず、その何だかわからないが人為的な作用に逆らいながら生きているから、いやな感じがするわけで、そのいやな感じが世の中の雰囲気に表れているとすれば、当然のことながら経済情勢などにも反映されている可能性があるのかも知れないが、それがよくわからない傾向であるだけに、はっきりとその対象となる物事を特定できないのかも知れず、またそれがいやな感じと共にそれを利用して物事を良い方向へも導いている可能性があれば、結果的にはそれでかまわないようなこととなってしまうのかも知れないが、意図してそういう方向へと持って行こうとしているのではなく、その対象を自覚することなく逆らっている感覚がそういった方向性を醸し出していて、自然とそうなっているとすればそういう感覚が世の中に広まっていて、それを感じる集団意識によって世の中の現状が生成されているようなことになっていれば、それは人為的にはどうしようもないことなのかも知れず、それを人為的にどうにかしようとする意図や思惑が政府や企業などの団体の集団意志としてあるから、それらの団体の都合に基づいた型枠に人々の意識をはめ込もうとして、そういう何かを強いるような作用を人々の意識が感じ取っているから、それがいやな感じに表れていて、何となく世の中に人々の抵抗感が漂っているように思われるのかも知れず、それを強制的に変えようとしても、変えようとするからそれに対する抵抗感が醸し出されるわけで、変えようとする集団意志とそれに対する抵抗感のどちらが先でどちらが後というわけでもなく、それが同時に生じていると捉えた方がいいのかも知れないが、政府や企業の集団意志というのはそれらが存在していること自体から生じているのだから消し去ることは不可能なのだが、そういった団体から生じる集団意志に逆らう意識も同時に生じるわけで、そうなっている時点でそれ以上はどうにもならないことかも知れないが、それでもどうにかしたいから人為的な画策が講じられるのだろうし、そういう画策を促すのが資本主義的な経済情勢から生じる要請であり、その中で政府や企業などの団体が活動しているから、それらの活動がうまくいくようにかかわっている人々も貢献しなければならない、という強制が生じてしまっているわけで、そんな成り行きへと人為的に持って行こうとするからそれに対して抵抗感を覚えると解釈するなら納得がいくかも知れないが、そんな推測でかまわないのかというとそれだけではないような気もするだろうし、何かもっと根本的なところで人の神経を逆なでするようなことが平然と行われているのかも知れず、要するにすでに答えが出ているのにそれを認めようとしないばかりか、そこから人々の意識を逸らそうとしているわけで、答えは別のところにあるかのように偽装するわけで、そうやって何とかして現状の延長上で事を済ませようとするのだろうが、それが無理であることも認めようとしないばかりか、そこからも人々の意識を逸らそうとしているのかも知れず、そうやってすでに出ている答えにたどり着いてしまうのを何とかして阻止しようとすると同時に、できるだけそこへたどり着くのを遅らせようともしているわけだろうが、いずれはそんなごまかしの甲斐もなく誰もが答えへとたどり着いてしまうのかも知れず、それもわかっているからこそ誰もが答えへたどり着く前に、できるだけ時間稼ぎをしながら現状を維持しようとしているのかも知れないが、そういう見え透いたごまかしについても多くの人が薄々は勘づいているから、そんなことが行われている中でも抵抗感が漂っていて、それが悪あがきだとわかってはいても、そこに政府や企業などの団体が存在していてそれらが活動している実態があるのだから、悪あがきだろうと何だろうとやらざるを得ないような成り行きになっていて、そこでそれらの団体が主体となって経済活動が行われているわけで、またほとんどの人たちもそんな経済活動に付き合わされているわけだから、いやいやそんなことをやらされているとは思っていないしそんな自覚はないのだろうが、そこでもいやな感じがつきまとってくるだろうし、そのいやな感じにも怠惰や疲労や消耗などの否定的な実感が絡みついてくるし、それらが相乗効果をもたらしてさらにいやな感じにもなっているのかも知れないが、一方でそんないや感じを忘れさせてくれるような幻想も求めているのかも知れないし、それが現状を継続させる方法といえるのかも知れないが、それも現状をそのまま継続させるのではなく良い傾向や方向へと導くような方法とされているわけで、何かそういうことをやる方法や理論のようなものを主張に織り交ぜながら政治的な宣伝や煽動をやっているのだろうが、それを現状で政治的な主導権を握っている勢力への批判となって向かっていくようにけしかけているのに世論がなびいてこないから焦っているのかも知れず、そこにもすでに出ている答えから民衆の意識を逸らすような作用が働いているわけで、そうなるとすでに政治的な主導権を握っている勢力の側でやっていることとそれを批判する勢力がやっていることがともに同じような傾向や方向を伴っているから、そのどちらに対しても抵抗するような感覚をもたらしているのであり、それらの現状を現状のままに受け止められずに現状から意識を逃避させようと画策するような行為に対して抵抗する感覚というのが、特にヒステリーのような目立った反応とは違う静かで無関心な傾向や方向を伴っているから、政治的な宣伝や煽動を画策する側を焦らせているわけで、焦っているから余計に騒ぎ立てて危機感を煽って、やれデフレを克服することこそが経世済民だの、積極財政に舵を切ることこそが認識のコペルニクス的転換だのと大げさな表現を用いてまくし立てているのだろうが、それ以前に現状が抵抗の効果として現れている現状であり、そう現状を捉えることが認識のコペルニクス的転換などとは無関係の素直な現状認識であるのかも知れず、実際に多くの人々がそう自覚せずに資本主義経済に対して抵抗を試みていて、それが十九世紀に欧米の精神病院に収容された患者たちがヒステリーを起こすことによって、当時の間違った治療に対して抵抗を試みていたのとは違った形態であっても、現状のデフレ状態から抜け出して経済を正しい方向へ導くための方策をもっともらしく主張するような見え透いた偽装工作を民衆の集団意識が見抜いている可能性があるわけで、ほとんどの人にはそんな自覚はないにしても、何か漠然とそうした主張の嘘っぽさを感じ取っているから、そういう宣伝や煽動には乗り気でないような雰囲気が漂っていて、それ以前に民衆の集団意識が政府や企業の活動に抵抗している実態があって、だからこそ消費が伸び悩んでいるわけだろうが、それは単に政府の政策が間違っているからそうなっているのではなく、政府や企業の活動からもたらされる経済状況であると同時にそんな経済状況の中で政府や企業が強いられている態度や姿勢そのものに対する民衆の抵抗感が生じていると捉えた方が妥当なのかも知れないが、たぶんそれへの正しい対応や対処法などはなく、現状の中で人々が対応したり対処していることが、正しいとか間違っているとか判断したり評価すること自体が意味のないことであり、現にそうやっていることが現状をもたらしていて、そんなふうにして民衆の静かな抵抗によって経済的な状況が変わりつつあるのかも知れないが、そこには誰のどんな団体や勢力の都合が反映しているともいえないような状況がもたらされているのではないか。


1月13日「制度に殉じることの意味」

 世の中に張り巡らされている人を拘束する有形無形の制度の網が人の心身にどのような作用や影響を及ぼしているのかを考える上で、心身を制度によって拘束されて制御されている人たちの生活や活動の実態を把握することが必要だろうが、制度にも様々な形態があるだろうし、一概に制度が人をどのような傾向や方向に導いているともいえないだろうが、何の目的で制度が存在しているのかといえば、それに関して容易に考えられるのは制度の網に捕らえられた人たちを制度によって管理するために制度があると捉えると、中には制度を管理する側が自分たちの利益を得るためにそうしている他にも、善意で人を助けるという使命感に突き動かされてそんなことをやっている場合もありそうだが、そうやって管理される側からしたらそこから利害関係が生じて、実際に損害を被るようなことにでもなればそれが仇となって恨みを買う場合もあるわけで、そうやって殉教のような事態も起こるわけだが、そんな人助けが仇となって殺された人をその人の支援者やその人の尽力によって利益を得た人たちが、その恩義に報いるためにまるで聖人のように祭り上げることもあるわけだが、それとは違ってそんなふうに誰かが人柱となってこしらえ上げられた制度に囚われて生きていくことになる人たちは、制度に囚われた他の人たちと同じように生きていくしかないわけで、それで誰も困らないならそれに越したことはないだろうが、もちろん中にはうまくいかずに困ってしまう人たちも出てきて、そういう人たちが制度を作った人たちを逆恨みする場合もあるのだろうが、そのままの状態にはせずに制度を改革しようとする人たちも出てくるだろうし、それが何のために改革するのかといえば、うまくいかずに困ってしまう人が出ないように改革しようとするのだろうが、制度には制度に従う人だけでなく制度に逆らう人も出てくるわけで、そういう人は見捨ててもいいのかとなると、なるべくそういう人が出ないようにできるだけ制度内に取り込もうとするとさらにそういう人たちを取り込むために制度を拡張する必要に迫られるだろうし、その延長で世の中の全体を制度で覆い尽くすようなことを目指してしまうと、すべての人を制度によって支配するような全体主義的な社会になってしまうだろうし、大抵はそんなことをやっている途中で無理が祟ってそういう試みは破綻してしまうだろうが、それでも制度に心身を支配されてしまうとそういう傾向や方向へと突き進んでしまうのかも知れず、そんな制度を管理している機構の動作がそういうことを目指して動いていれば、機構を動かす歯車になってしまった人々にはそういう動作を止めることはできないし、機構が管理する制度に囚われてしまった人々と共に機構の動作に従うことしかできないのかも知れないが、それでかまわないのかといえばそんな制度を管理する機構としてはかまわないだろうし、機構が滞りなく動作している限りで、それに携わっている人たちやかかわっている人たちにとっては何の問題もないのかも知れないが、果たしてそれで滞りなく動作していくのかといえば、機構の中で働いている人たちにも制度に囚われている人たちの中にも不満があれば、そこから滞りが生じてくる可能性があるわけだが、不満を抱く余裕を与えないようにするには絶えず人が動き回るような仕掛けを作ればいいわけで、矢継ぎ早に課題を出してそれに従事するように命令を発するような機構の中に人を閉じ込めておけば、出された課題に取り組んでいる限りで他のことにまで気が回らないから、機構の不具合や制度の欠陥に気づくこともなく、課題を克服するために一心不乱に働き続けることになるわけだろうが、そういった動作が何の成果ももたらさなければそれがただの空回りとなってしまうのだが、どんな些細なことでも一つの成果と見なすように心がけるなら、何かそういった成果を見つけてはやっていることが前進しているように思われるだろうし、そんな制度の中で生きている限りで他と比較する機会に遭遇しないようになっていると、制度の中で流通している情報だけで物事を判断しなければならず、そうなると井の中の蛙大海を知らずという状況に陥ってしまうわけで、そういう他からの情報が遮断されているような密閉された制度を構築できれば、制度内に捕獲した人たちの制御もそれだけ容易になるのかも知れないが、そんな特殊な環境にどれほどの人たちを取り込めるかとなると、そういった制度を管理している機構の力にもそれなりに限界があるし、そんな制度と競合するような他の制度を管理する機構も存在していれば、否が応でもそれとの比較に直面してしまう機会が生じてしまうし、そうなった時に競合する他の制度や機構との比較で劣っている面があらわになれば、その人が囚われている制度や機構の限界を知ることになって、その制度や機構への信頼が揺らぎ、それらへの幻想が崩壊する危機にも直面するのかも知れないが、そうなってしまうのを防ぐには競合する他の制度や機構に関する否定的な情報を盛んに喧伝する一方で、それと比較して自分たちが囚われている制度や機構の優れた面を盛んに宣伝すればいいのかも知れないが、果たして喧伝や宣伝の類いで何とかなるかといえば、そこにもそれ相応の限界がつきものだろうし、そういった喧伝や宣伝の嘘がいずれはばれてしまうとしたら、結局は制度や機構の中身を競合する他の制度や機構よりも優れたものにしていかないとならないわけだろうが、それ以前に物事を一つの制度や機構の中だけで完結させようとするから無理が出たり限界があらわになってしまうわけで、そうでなくても人は複数の制度や機構に属している可能性があり、世の中には様々な制度や機構が競合関係にも無関係にもあって、その中で人は重層的に複数の制度や機構にも属していたりもして、それに対応する物事に合わせた制度や機構が存在しているから、そうした物事はそれ専門の制度や機構の中で処理するような仕組みにもなっているだろうし、人がそうした制度や機構に合わせるようなことがあるにしても、その中で処理される物事に対応して制度や機構もそれ相応の専門化が進んでいる場合もあるだろうし、そうなると人がその制度や機構に完全に支配されるようなことにはならず、逆に制度や機構がその中で処理される物事に対応するために特化している場合もあって、そうした面を考慮に入れるなら何か一つの制度や機構を作り上げることに奔走してそれに殉じるような人こそが周囲の状況が見えていない場合もありそうで、自身が生涯をかけて取り組んでいる事業の類いにかかりきりになっていたから、そこにすべての資材を集中させてしまい、もしかしたらそれ以外の選択肢もあり得たのに、そういう選択肢の存在に気づかなかったばかりに、そこから無理が生じてそんな無理を押し通そうとしてしまったから他人から不信や疑念を抱かれて要らぬ恨みを買うような成り行きにもなって、それがもとで命を奪われるような結果を招いてしまった可能性もあるわけで、それでもそういう人にはそうなる宿命としか言えない面もあって、その良し悪しを論じること自体がおかしいのかも知れないし、どうなるにしてもそうなってしまったこと自体には、それなりの必然性とそれなりの偶然性が混じり合っていて、なるべくならそういうことに気づいた方が身のためという程度のことにしかならないのかも知れない。


1月12日「貨幣の貸し借り」

 基本的に人は自然から物質を摂取してそれを扱いやすいように加工して消費しながら生きているわけだが、生物としての構成上そういう行為から逃れられないし、そんなことをやりながら生きていくしかないわけだが、それが文明の発展とともに集団で効率よく行う方法を競い合うような成り行きになっていく中で、それらが活動していくのに必要な物や情報やサービスなどを入手する際にそれと交換する媒体としての貨幣の使用法にも、それなりに工夫が凝らされてきたわけだが、交換媒体としての貨幣の使用法には直接物や情報やサービスと交換する以外では貨幣自体の貸し借りができるわけで、物や情報やサービスなどの商品と交換する際には貨幣自体の価値を信用できるか否かが判断材料となってくるのに対して、貸したり借りたりする際には貸す側にとって借りる側が返済できるか否かが貸す上での判断材料となってくるはずだが、政府と貨幣を発行している中央銀行との間での貸し借りに関しては、実質的には政府と中央銀行が一体化しているとしても建前上は中央銀行が政府から独立していないと、そもそも両者の間で貨幣の貸し借りという行為自体が成り立たないし、その辺をどう捉えたらいいかで微妙な見解の相違が出てくるのかも知れないが、あまりにもご都合主義的に解釈して無理なことをやってしまうと、国際的に貨幣自体の価値が信用のおけないものとなってしまう可能性が出てくるだろうし、貨幣の貸し借りという行為に関して常識的な範囲内に収めるには、政府が中央銀行から返済が不可能に思われるほど莫大な額を借りてしまうのは問題であり、その辺に関して政府の収入である税収に応じて返済可能な額が決まってくるはずだが、その常識的な範囲内というのがどれほどなのかがよくわからないところであり、またその限界を見極めるとなると実際に限界を超えて政府の財政が破綻するまで負債を膨張させるわけにはいかないし、そういうところであまり現状を都合良く解釈しない方がいいのかも知れず、基本的な考え方としてはなるべく負債は減らした方がいいのだろうし、また政府の収入を確保する上での徴税のやり方に関しては民衆や企業などの各種団体との間での不公平感を和らげるような改革が必要とは言われているが、人々の生活が苦しくなるほどの重税を課すのは論外だろうし、それよりは生活が苦しい人を政府が支援することが求められるわけで、実際にそういうことがおこなわれているにしても効果が上がっているかどうかは微妙なところだろうし、そういう面で世の中の各層の中にも様々な思惑があるのかも知れないが、果たしてそれが貨幣の貸し借りなどの調整や流通だけで解決できるような問題なのかといえば、どうもその辺で思い違いや勘違いが含まれているのかも知れず、貨幣とは基本的に物や情報やサービスなどの交換に際して使う媒体であり、生活が苦しいなら貨幣を得るよりは必要な物資を得ることを優先させるべきと思われるはずだが、必要な物資を得るには貨幣が必要だと考えると貨幣を得ることが優先されてしまうわけで、そこが資本主義的な貨幣経済の問題点なのだろうが、実際にそういう経済の中で暮らしているのだからそうなるのも無理はないわけだが、いくら発想を転換して貨幣を得るよりも必要な物資を得るべきと唱えても、貨幣がないと物資を得られない状況を変えない限りは実態を伴わないわけで、そうなると安直に貨幣の貸し借りや流通を操作や調整してどうこうしようとするよりは、さらに根本的なところで自然から物質を摂取してそれを加工して消費する過程を改良するようなことをやらないとどうしようもないだろうが、そういう面を考えずに政府でも民間でもすぐに安直に必要なところへ資金を優先的に投資するような方向に持って行ってしまうだろうし、何でもかんでもまずは優先的にどのような分野へ資金を投資するかということになってしまって、肝心なその内容をどうするかということの手前で話が終わってしまいがちになり、その先に話が進んでいかないのかも知れないが、それよりもさらに手前のところで現状の世界を覆っている資本主義的な貨幣経済をどうするかに関しても改良の余地があるのかも知れないし、資本主義経済そのものの在り方を議論せずに資本主義経済自体は自明の前提として捉えて、その中で貨幣の配分や流通などを調整するだけで事を済ませようとする傾向もあるだろうし、どうやっても現状の中で根本的に成り立っていると思われるところを保持しながら、その先で何とかならないかを模索するようなご都合主義的なことを考えてしまうわけで、そういう方面で見せかけのごまかしやまやかしが幅を利かせているのだろうが、実際にすぐできることとなるともっともやりやすいのが文字や音声や映像や図表などを使ってプレゼンをやるに留まり、そうやって見せかけのごまかしやまやかしでお茶を濁していれば状況が自然に推移してなるようになるのかも知れず、その中でうまく対応して立ち回りながら成り行きがなるようにまかせていれば、それで済んでしまうようなこととなってしまうわけだろうが、それはこれまでもそうだったしこれからもそうなるしかないのかも知れないし、そんな中でも誰かが大真面目に現状で成り立っている資本主義経済を変える方法を模索していたり、また資本主義経済の在り方を自明の前提として捉えて、その中で貨幣を都合良く操作してより効率的な活動の立ち回りを模索していたり、さらには経済よりも根本的なところで人の生き方や活動そのものの改良を目指すことを模索していたりもするのかも知れないし、そういった様々な方面での様々な模索が複雑に入り組んで絡み合いながら互いに作用や影響を及ぼしながら世の中が変化していくのだろうし、また現状で成り立っている何らかの分野で主導権を握っているつもりの人や勢力としては世の中が自分たちが有利な現状のままに変化しないように、様々な歯止めや制限や制約を設けて世の中の安定に寄与している面もあるだろうし、それも意図してそんなことをやっているわけではなく、それらの人や勢力の活動自体がそのような効果をもたらしている場合もあるわけで、それが体制維持的で保守的な活動そのものでもあるわけだが、そういう様々なことがおこなわれている中で自らの意志やその人が所属している団体や勢力などの集団意志がそのままダイレクトに世の中に作用や影響を及ぼしている面は少ないのかも知れず、それよりは他の人や勢力などとの兼ね合いの中で、互いに競争していたり協調していたりする面で共通の傾向や方向性が生じていて、それが世の中の経済的な傾向であったりこれから進んでいく方向であったりするのかも知れないし、そういった傾向や方向で世の中が推移していく中で、例えば安直に資金の投資先の選別や貸し借りや流通の調整や操作で済ませようとする傾向や方向性が生じていて、もちろんそれだけでは済まないからなかなかそういったことにかかわっている人や勢力の思惑通りには事が進んでいかないわけだが、またそんなふうにして人や勢力の意図や思惑があるにしても、必ずしも意図や思惑通りには事が進まないから事の進め方を巡って軋轢や対立や争いが起こるわけで、そういった事情を加味すれば世の中の成り行きも経済の先行きも不透明な面が常に残されているだろうし、そういうところから想定外の思わぬ事の成り行きが生じてくる可能性もあるわけだ。


1月11日「蛇足の評価と言説」

 物事が起こった結果を自分では動かせないのに、動かせる立場でもないのに、その結果が気に入らないからといって貶すことしかできないのでは、単に馬鹿げたことを述べている気がしないではないが、そういうことも含めて端から見れば馬鹿げたことに見えてしまうようなことをやってしまう成り行きがあって、それが他人の行為であれば、いくら馬鹿にしても良心の呵責など感じないのかも知れないが、自らの馬鹿げた行為を貶したり馬鹿にするような卑下は避けたいところであり、少なくとも反省するより先に自尊心を意識してしまえば、何かそれについて正当化する機会を捉えて自らがやった行為を賛美したり自画自賛しようとするかも知れないし、それが世間的に正当化できるような行為であれば他人の共感や同情を期待できるかも知れないが、一方で他人の不幸を面白がるのが世の常であるのは常識の範囲内で意識してしまうことでもあり、そうやって何よりも自らの体裁を取り繕うような動作が先行してしまうと、それ以前に起こっている興味深い成り行きを見落としてしまうことにもなりかねず、それをその時点では興味深いとは感じられなかったのだから、興味深いわけでもないはずだが、そこからある程度間を置いてそうなってしまった成り行きを振り返ってみれば、途中経過の中では見落としてしまっていたことに後から気づくかも知れないし、そんなふうに過去を振り返る余裕がなければそうはならないにしても、その余裕がなくても過去を振り返らざるを得ない成り行きに巻き込まれてしまうことだってあるだろうし、また振り返ったところで何も見いだせないかも知れないが、当人にはそれが馬鹿げた行為だと認識できなければ、実際にそう見えてしまう人とは事態の捉え方も感じ方も距離感も違うだろうし、そう思ってしまう感覚が正しいか誤っているか良いか悪いかはさておき、そんなふうに評価してしまう手前に留まって何を考えられるのかと言えば、人を馬鹿げた行為に走らせる原因を特定しようとしても、そんな原因などに興味を惹かれることはなく、ただその馬鹿げた行為そのものに興味を惹かれて面白がってしまい、ただそんなことをやっている人が滑稽に見えてしまうのだからもうそれだけで満足してしまうわけで、その原因がどうであれそれが理不尽なことであろうなかろうと関係なく、ただ滑稽な行為をやった人を貶したり馬鹿にしたりしては、面白く思う心を抑え込んで、それについて否定的に考えようとしてしまっているだけで、そうした行為に驚いて感動してしまった事実から遠ざかって、それを通り越してそうなってしまった原因を探ろうとしてしまうと、そういう人は肝心なものを観ているのにそれを思考の対象とも言説の対象ともしていないことになり、それが驚いて感動してしまった対象そのものであり滑稽にも見える行為なのに、なぜ滑稽に見えてしまうのかと言えば常識を外れているからだろうが、常識からずれてしまうことが意図的にそうしているわけではないから滑稽に見えてしまうのだろうし、意図せずに当人の思惑とも違った効果を発揮しているからそれが想定外の驚きや感動をもたらしているのだが、そんな面白い結果をもたらしてしまったわけだから、そういうことをやってしまった人にはもうそれだけで無条件に拍手喝采を浴びせるしかなく、その人のそういうパフォーマンスの是非をあれこれとあげつらうのは大した意味はないようにも思われてしまうわけだが、それを後からああだこうだと評価してしまうのも蛇足であり、そんな評価をもっともらしく下すこと自体がつまらない行為でしかないわけだが、そんなつまらないことをやってしまう人たちは当然それについて語りすぎているのであり、一方でそうなる手前に留まって面白がっている人たちは自身の領分をわきまえているようにも見えるわけだが、そう見えるからといってその人が偉いわけでもなく、むしろ他人の行為や行動に断定的な評価を下すような人ほど偉そうに見えて尊大な印象を伴ってしまうわけだが、そうやっていくら恣意的にもっともらしい評価を下したところで、そういう行為が他からは尊大に見えてしまうのだから、そんな評価を下してしまうこと自体が蛇足であり余計な行為でしかないわけだが、余計なことをやらざるを得ない立場や境遇というのも社会の中での役割分担としてあるのかも知れず、それがメディア的な機能から生じているとしても、そんな役割分担を意図せずに任されてしまった人たちには酷なことかも知れないし、誰に頼まれたわけでもないのに自ら進んでそんなことをやってしまう人たちも悲惨な境遇だといえるのかも知れないが、そうした成り行きを超えて蛇足の評価の対象となってしまった人の行為が世間に驚きと感動と滑稽な印象をもたらしたわけで、もうそれだけで他人の行為に余計なお世話のような評価を下してしまう人たちとは比較にならないような凄いことをやっていると言えるだろうし、見世物としてもそれ以上の成果を上げることは不可能かも知れないが、そんな興味深い事態が現実に引き起こされていること自体が、それが偶然の巡り合わせのような世の中の各方面からの様々な作用や影響が及ぼされた結果としてもたらされているとしても、そんなことが引き起こされてしまった成り行きの中で、その当事者となった人の行為が物語っている内容が奇異な印象を伴っていることに関しては、それをなかったことにするわけにはいかないような違和感を覚えるし、そういった行為に対して尊大な態度とともに否定や肯定の評価を下すことによって、そこにむき出しになっている事実から目を背けるように誘導しようとする思惑にも逆らって、もうすでにそこに留まることもできないのを承知で、その時点に留まるふりをすることによって見えてくる架空の光景を想像してみれば、たぶんそこには世間的な常識からかけ離れた何かが示されていたのかも知れず、それが何かはすでにそこを通り過ぎてしまったので思い出そうとしても思い出せないのかも知れないし、それに代わって自分の都合に合わせた勘違いな幻影を妄想しているだけかも知れないのだが、そうだとしても興味深い現象であって惹かれるものを感じるとすれば、行為の常識からの外れ具合が奇異な印象を抱かせるのだろうが、外れてしまう原因がそう感じさせるのではなく、外れていること自体が常識の非常識さを浮き立たせているのかも知れず、そこに至るまでにおこなわれた数多くの非常識な行為が常識的な行為の積み重ねによって積み重ねられてしまうこと自体が奇異な印象をもたらしていて、そうやって奇想天外で意表を突いたことがおこなわれたのに、それを思いついた人たちもやらせた人たちも実際にそれをやってみせた人もそれを面白がって観ている人たちも、誰もが常識の範囲内で物事を捉えようとしていることが滑稽なのかも知れないし、またそれを世間の常識の範囲内に引き寄せて断定的な評価を下そうとする人たちも、それが非常識に見える行為なのにそれに常識的な評価を下そうとしているのだからそんな評価自体が滑稽に感じられてしまうし、そんなわけでそこにかかわろうとしている人や関係者や当事者までもが実際に自らの常識的な枠を突き破って非常識なことをやってしまっていることに気づかないばかりか、それでも自分が守ろうとしている常識の範囲内で動作しているつもりになっているところも滑稽なのかも知れない。


1月10日「公正なルールの嘘」

 公正に感じられるルールというのは、すでに不公正なやり方によって世の中の主導権を握った勢力が、自分たちの有利な状況を他の勢力から覆されないようにするために公正なルールを提案している可能性があり、そうなっている時点では公正でも何でもない状況なのだが、そうやって世の中で様々な勢力の有利不利が確定しないうちは公正なルールなど提案できず、それ以前におこなわれていた権力争いの決着がついて、その争いに勝利して有利な立場を確保した側から公正なルールが提案されて、そういうルールを社会に定着させる制度とともに何らかの勢力の有利な状況が確保されている限りで、それに連動して公正なルールも維持されることになり、だから別に公正なルールが守られているからと言って、そのルールを外れたところでは公正な競争がおこなわれているわけではなく、逆に公正なルールが破られて不公正なことがあからさまにおこなわれている状況というのは、世の中で主導権を握ってきた勢力にとっては、もはや公正なルールを維持する余裕がなくなってきたと言えるわけで、だからなりふり構わず不公正なことをやってでも自分たちの有利な状況を保ちたいわけで、そうでもしないと有利な状況を維持できないからこそあからさまに不公正なことをやってしまうわけだが、だからといってそれが末期的な状況だとも限らないし、そうなっているからなりふり構わず不公正なことをやっている体制側が批判されることになるわけだが、それでも批判する側が公正なルールに従っているうちは勝てないわけで、勝てないからいつまでも公正なルールにこだわっていないで不公正なことをやり始めるとそれが体制側の罠であり、待ってましたとばかりに不公正なことをやっていることをとがめて取り締まられてしまうわけで、そうであるなら公正なルールに従っていても勝てないし、不公正なことをやればとがめられて攻撃されてしまうし、どちらにしても批判勢力は負ける宿命にあるわけで、それでは勝つためには何をやればいいのかとなるわけだが、そういった公正か不公正かの次元で勝負してはならないのかも知れないし、それとは別の方面から勝ち負けなどにはこだわらずにやれることをやっていればいいのかも知れないが、実際にそんなことをやっているうちに世の中が変わってきてしまうのかも知れず、要するに公正なルールを定めて自分たちの有利な状況を維持しようとする体制側にとってもそれを批判する勢力にとっても、それとは違う方面から違うことをやり始めた勢力の活動を食い止めることができなくなったときが、そういった公正なルールに基づいた制度が崩壊するときであり、だからといってルールを無視して勝手なことができるのかと言えば、それはその時の世の中の状況次第だろうし、ルールに従ったゲームや競争などが世の中の主流となっている状況下では、他の何を勝手にやってもうまくいかないのかも知れないし、それ以外は何もできないような状況となっているのかも知れないが、実際にそれとは別の方面から別のことをやれるような状況がどうやって出現するのかというと、そうなってみないことには何とも言えないようなことかも知れないし、そうなってしまった後から振り返ってみれば何らかの必然的な成り行きがあったように思われるにしても、その時点では誰もが気づかないのかも知れず、それに気づく気づかないというレベルではなく、実際に何かのきっかけでそれができてしまうようなことでしかないのかも知れないし、その時点で偶然の巡り会わせようなことが起こって、それが運良くか運悪くかは後になってみないとわからないが、そういう出来事に巻き込まれた人や勢力の中から、そうやって起こる変化にうまく適応してその中で主導権を握るような人や勢力が登場してくるのだろうし、そこで自分たちの勢力にとって有利な状況を盤石にするために、誰もが納得できるような公正なルールに基づいた制度を提案して、他の人や勢力がその制度に従うように誘いをかけるわけだが、その際にはもちろんそういったことを提案する側がその制度を管理するような成り行きに持って行きたいわけで、それが実現した暁には制度を管理する勢力が有利になることは火を見るよりも明らかだが、ルールに従っている範囲内で公正な競争などが実現しているように感じられるわけで、そうなるとルールに従っている人たちがルールに従わない人たちのルール違反をとがめるような成り行きになってしまうわけだが、そんなことをやっている限りはルールを管理する勢力の手の内で転がされているだけで、そこでルール違反をしたのしなかったのの争いを高みの見物を決め込まれては、いつまで経ってもルールを管理する側には勝てないわけだが、別にそこで勝つ必要はないのだろうし、勝つことができるのはルールに従った競争の範囲内であり、ルールとは違うことをやる側にとってはそこで勝たなくても他でも勝たなくてもかまわないわけで、そんな予定調和の勝ち負けとは違う次元で活動が成り立つようになればそれでかまわないのだろうし、だから公正なルールにしろだのそこでルールに則ったことをやれだのルールに従わないやつは駄目だのとあれこれと文句を言っている輩は言わせておけばいいわけで、それはそれでそういう人たちはそういう範囲内で正しいことを主張しているわけだから、それを批判したり馬鹿にしたりしてはまずいのだろうし、そういう主張をそのまま放置しておくだけでなく、そういう主張を支持したりそれに賛同しておけばいいのだろうし、ただそれだけに留まらずに他のことを模索する余力も必要なのかも知れず、そんなことを主張したりそういう主張を支持したりそれに賛同するだけで精一杯となってしまうと、そんなルールの範囲内で生きていくしかないわけで、そういったルールに基づいた制度を管理する側に管理された生き方しかできないわけで、もちろんそういった管理をする機構に入ればそれを管理する側になれるだろうし、そうなると官僚機構の一員となるわけだろうが、そこでも管理するルールに基づいた活動を強いられて、時にはルールを逸脱するような行為もおこなわなければならない事態にも直面するわけだろうが、それが発覚すればここぞばかりに批判や非難に晒されるだろうし、そこでもそういった不正行為をおこなった場合のルールに基づいて処罰されることもあるだろうし、時にはルールから逸脱した越権行為によって助かることもあるのだろうが、そうなればそうなったでそういうことの範囲内でああだこうだと文句を言う人が出てくるだろうし、そこでもそういう人たちとの間で争いが起こるわけだろうが、とりあえずそういう成り行きはどこまで行ってもどのような形になっても争いに決着がつくまでは争うことになるわけだから、そこからどのような形であれ争いに勝った側の言い分が通れば事態が収まるわけだろうが、それで納得がいかなければまた別の機会に別の事案を巡って争うことにもなるだろうし、そういった争いが公正なルールに基づいた争いになるかどうかはその場の状況次第だろうが、そこでもまた公正な争いにしろだのと文句を言ってくる人が出てくるわけだから、そういう文句を言ってくる人の主張はその人の価値観に基づいている範囲内では正しい主張であり、それを支持したりそれに賛同したければそういう価値観を受け入れるような成り行きになるだろうし、そんな他人の価値観や推奨するルールにどれほどの公正さを感じられようと、そんな価値観やルールに従っている限りで、従わせる側にとっては有利な状況となる一方で、従う側にとっては従わせられている面では不利な状況となっているわけだ。


1月9日「日本精神病」

 他の多くの人たちが否定的に評価している対象に肯定的な評価をするのは勇気が要ることかも知れないし、その逆もしかりかも知れないが、たぶんそのどちらかの立場をとることが何らかの世間的な話題に対する反応としてはよくありがちなことなのかも知れず、またそういった話題に対する反応や態度から距離を置くことも、何となく多くの人たちが思うところなのかも知れないし、要するに当事者としても傍観者としてもそんな話題に加わる気が起きないからそこから一歩退いて距離を置こうとしてしまうわけだが、その反対に何でもかんでも世間的な話題に食いつかなければならない立場というのもメディアにかかわるような人たちにはあるにしても、それらすべてが何でもないことの範疇に入ってしまうような立場というのもあるかも知れないし、そんな立場などなくてもかまわないのだろうが、立場がないことも何を意味するわけでもなく、ただそれへの言及を避けているだけかも知れないし、それが何のことやらわからないように語ろうとしているのかも知れないが、ではその代わりに何を語ろうとしているのかといえば、軽薄な冗談でごまかそうとしているのかも知れないし、それがその程度のことでしかないのを暗にほのめかすでもなく、それを悟られないように語ろうとしているのかも知れないが、要するにそういった対象に直接対峙してしまうのは避けた方がいいのかも知れないし、実際にそれへの言及をあからさまに表明してしまうことが、何か危険を伴うようなことだとは思えないにしても、その時点ではそうすることが至極まっとうな対応のように思われてしまうことが、そこから時間が経ってしまうと近づきすぎていたようにも感じられるだろうし、不用意にそれに関して決定的な断言を用いて語ってしまったばかりに自業自得気味に自分で自分の首を絞めてしまったように思われるなら、後悔先に立たずな状況に陥っているのかも知れないが、それも自分勝手に抱いている妄想の類いに過ぎなければ気にするまでもないことだろうし、自身がそんなことを気にするような立場や境遇とはなっていないと思われるなら、ではなぜメディアからの誘導に屈してそんなことを語らされてしまっている人たちの存在に気づいてしまうのかは、その理由がよくわからないことになってしまうだろうが、それに気づいたからと言ってそれについて語る必要があるとは限らないし、必要があるからといって語らなければならないとも限らないのかも知れず、不用意に語らずに済ませられるならそれに越したことはないわけだが、それでも他に語るべきことがあるとは思われなければ、とりあえずそれについて語って何も語らない状態から脱したいのかも知れないし、別に何も語らない状態に留まることが居心地が悪いとは思えなければそれでかまわないのだが、義務感からそんなことを語っているわけでもなく、他の誰に促されたわけでもないのに勝手に語っているに過ぎないことかも知れないが、そんな境地に到達することが何を意味するとも思えなければ、世間的な話題について適当なことを語るのが意味や意義を持つように思われてもかまわないのだろうが、そんな状態から自然に逸脱してしまうことが、そこから距離を置いていることを意味しているのだろうし、実際に距離を置いてそれらの事態を眺めてみれば、自ずから見えてくるものがあるのかも知れないし、それがそれについての不必要な言及だと思われるようなら、やはり語っている誰もが語りすぎていることになるのかも知れず、そういった無駄に思われるような雀群のさえずりから距離を置いて何を語るのかといえば、当然それらとは無関係な物事について語ることになるのかも知れないが、それの何が無関係なのかといえば、ただそれについての言及から距離を置いているだけでは何を語っていることにもならないわけだが、例えば日本脳炎という病気が蚊に刺されて感染するウィルス感染症の類いであるのに対して、日本精神というのが病の一種と見なされるならそれを日本精神病と命名した方がいいのかも知れないが、特に日本精神の持ち主であることを自認している人など誰もいないのかも知れないし、それを大和魂と表現すれば歴史的にそんな言葉が頻繁に使われていた時期もあったのかも知れないが、その時期というのがかつて日本という地域が末期的な状況を呈していた時期と重なるなら、日本精神病患者が多発している時期というのも何らかの末期的な時期と見なしてもかまわないのかも知れないし、それに関してどういう症状が日本精神病と見なされるのかといえば、すぐに思い当たるのが日本の現状に関して憂うような症状だろうし、また危機感を募らせるのもそれに類する症状かも知れないが、それがかつて大和魂を強調して破滅に向かって突き進んでいた時期とどう違うのかというと、躁鬱の症状の中でかつて大和魂を強調していた頃が躁状態にあったのが今では鬱状態となっていて、自らが住んでいる地域の現状に希望を持てずに精神的に沈み込んでいるということかも知れないが、そうなっているからといって実際にその手の危機感について誰もが語りすぎているのだから、鬱状態なのにおしゃべりが過ぎやしないかと思われるなら、そんな病は幻想に過ぎず、日本精神病など誰も発症していない架空の病でしかないといってしまうと身も蓋もない話となってしまうわけだが、たぶんそれでかまわないのだろうし、それが現にあると言ってしまうとフィクションとなってしまうわけで、そんなありもしない病について語っていること自体もフィクションに過ぎないわけだが、フィクションを語っているついでに現実の歴史について何か思いついたことを述べるなら、世間的な話題についてメディア関係者が語りすぎている状態というのが世界のどこから発生したのかと言えば、19世紀の欧米に産業革命とともに出現した大衆市民社会の中で起こったことだと思われがちだが、日本の江戸時代でも江戸や大坂などの大都市で町人文化として語りすぎな状態が発生していたのかも知れないし、それは他の世界各地で文明が興隆していた時期にもそこに大都市が形成されていれば、そこで暮らしている民衆向けに文芸や演劇などを用いた何らかのメディアが発達していたわけだろうが、それが末期的な状況だと思われるのはその先で必ず文明の衰退が起こっているからで、そんな文明の栄枯盛衰も世の常だから歴史的にはどうということはないわけだが、文明の中で暮らしている人たちは不安や不満に囚われてしまうわけで、できるだけ自身が囚われている文明を長引かせようとしてあれこれと画策する役割がメディア関係者には課されているように思われるのかも知れないし、そんな自覚がなくても自然とそういう方向や傾向に誘導されてしまうとしても、それも自覚していないのかも知れないし、その気もないのに結果的にそうなってしまうのがその場の状況に囚われてしまった人たちの宿命でもあるのだろうが、確かにそれらの人たちはそれ以外のことには無頓着で、語りすぎていることを気にかける余裕などありはしないわけだが、それ以外に何があるのかといえばそれらの人たちには関心のないことが無数にあるのだろうが、その中でも日本精神病患者が煩うような傾向として顕著なのが、日本という地域を特別視せざるを得ない傾向だろうし、自らが日本という地域に所属していることを意識しているからそうなってしまうのかも知れないが、そういう所属意識がどこから生じてくるのかと言えば、第一にはその地域に特有の言語を使っているからだが、そうだとすれば日本脳炎がその地域に生息している蚊から感染するのに対して、日本精神病はその地域で使われている言語から感染する傾向が強いのではないか。


1月8日「社会による人の支配」

 世の中を支配しているのは特定の人物や勢力ではなく、様々な制度や慣習などが複雑かつ重層的に絡み合った社会そのものが人を支配しているのかも知れないが、そもそも制度や慣習を作ったのは人であり、社会の中で人が何らかの制度や慣習によって思考や活動をコントロールされていて、そういった制度や慣習で構成されている社会そのものによって人が支配されているとしても、普通に考えてそういう状態は当たり前のことであり、現に社会が存在しているとすれば社会そのものの構成上そうやって存在している以外にはあり得ないのかも知れないが、それを支配と捉えても支配している主体が社会そのものなのだから人のような支配欲を伴った意志が社会にあるとは思えないし、社会の中で生きている人にとってはたとえそれが支配されていると見なされてもどうということはないし、それが当然のことなのだからそういう状態をどうすることもできないのかも知れないが、そんな社会も時代の変遷とともに変わり続けていて、当然それは社会の中で暮らしている人の活動が変えているわけだろうし、社会に人が支配されている状態は変わらないとしてもその中身は変えられるわけで、それを社会による支配と見なす必要もないわけだが、では多くの人に同じような思考や動作を強いる制度や慣習によって人が支配されていると見なしても、さらに制度を管理している政府や企業や慣習を持っている民族や宗派などによって人が支配されていると見なしても、そういった制度や慣習やその担い手である政府や企業や民族や宗派を含んでいるのが社会であり、結局は同じようなことになってしまうのかも知れないが、それらが複雑に絡み合いながら関係し合って社会を構成しているのだから、少なくともそれらの要素が社会の中で共存していることは確かで、共存している複数の要素が単体で他のすべてを支配しているわけではなく、またそれらの間に上下関係などのヒエラルキーを決められなければ、やはり社会の頂点に何らかの人物や勢力が位置しているとは言えないだろうし、そうであれば社会全体が様々な要素の間で複雑なネットワークを構成しつつ、その構成員である人や構成要素である物や情報や機構や勢力や団体などを含んで存在していると見なした方が妥当なのかも知れないし、あえて支配という言葉にこだわるなら社会そのものがその構成要素に含まれる人を支配していると表現してもかまわないのだろうが、それらの構成要素には軍事や産業や行政などの何らかの分野や部門で覇権を握っているように見える国や企業や宗派や民族や勢力などもあるし、それらの中で特定の構成要素が世界の頂点に君臨していると見なせば、それによって世界が支配されていると主張することにそれなりの説得力が生じるのかも知れないが、そこに上下関係や階層構造を当てはめることにどれほどの合理性や妥当性があるのかといえば、そこで構成されている権力関係をどう捉えるかにかかってくるのかも知れず、それが支配者を頂点とするピラミッド構造になっていれば、その頂点に位置する人や勢力を世界の支配者と見なせるのだろうが、頂点は一つではなく多数あって、しかもそれらが多角的に構成されていればそれらの間に上下関係や階層構造は認められないだろうし、またそれぞれの頂点がネットワーク状につながっていれば、権力関係というのは必ずしも恒常的に固定した状態で成り立っているわけではなく、権力が行使される度ごとに優劣や勝ち負けが生じるような動的な関係であり、むしろ上下関係や階層構造に揺さぶりをかけるような性質もあるのかも知れず、その度ごとに権力を行使してどちらの立場が上かを確認しなければならないとすれば、実際に権力を行使された側が力に屈したり従うことによってしかそれが確かめられないわけで、そうであるなら支配していることを確認するにはその都度権力を行使して相手を従わせければならないわけだから、権力を行使し続けないと支配関係を保てないわけで、いくら自身がピラミッドの頂点に立っていることを自認していても、その底辺に位置している人や勢力に直接権力を行使して従うことを確認してみないと、支配しているか支配されているかがわからないわけで、本当に特定の機構や団体が世界全体を支配しているのであれば、そんな機構や団体は世界中の人や勢力に四六時中権力を行使し続けて服従していることを確認する必要があるわけで、そんなことは物理的に不可能であるならそうした支配関係は幻想に過ぎないだろうし、実際に世界のどこかで絶えず紛争や戦いなどが起こっているのだから、それが続いている間は上下や優劣の関係が成り立っておらず、そうなっている限りで権力の行使に失敗しているわけだから、支配できていない状態となっているわけで、そうであるなら政府や企業や民族や宗派などのレベルでは権力の行使も支配の関係も限定的なものとなるだろうし、また制度や慣習などのレベルでも人々がそれらに常時囚われているとは言えなければその支配も限定的なものとなるわけだが、限定的でない権力の行使や支配の関係があるのかといえば、そんなものはあり得ないと見なすならそれらによる世界全体の支配もあり得ないし、その代わりに場所や時間に限定された権力の行使があり、それに従う人や集団などが確認される限りで、そこで一時的に上下や優劣や支配の関係が成り立っていることがわかるわけだが、それらの人や集団が権力の行使に逆らった時点でそうした関係が壊れたこともわかるだろうし、そういう意味では恒常的に権力の行使が成功するわけでも支配関係が成り立つわけでもないわけだが、特定の制度に恒常的に囚われている人や集団などが存在していれば、その制度を管理している機構の支配下にある人や集団に対しては権力の行使が恒常的に成功しているように見なされるだろうし、何らかの慣習に囚われている民族や宗派が存在していれば、それらの民族や宗派に属する人々は特定の慣習に支配されていると見なされるだろうが、もちろん世界にはそれ以外の別の制度や慣習もあるだろうし、特定の制度や慣習が全世界を支配していることにはならないはずだが、例えば資本主義経済が全世界を覆っている現状があるなら、世界が資本主義という制度に支配されていると見なされるだろうし、また貨幣を媒体とした売買という物や情報やサービスを取引する慣習が全世界を覆っている現状があるなら、世界が貨幣を介した売買という慣習に支配されていると見なされるだろうが、もちろんそれは見なされるということであり、資本主義的な制度が成り立たない地域や局面もあるだろうし、売買が成立しない場合もあるだろうから、それらによる支配が常時成り立っているわけではなく、それらを利用した権力の行使が常時成功しているわけでもなく、要するに支配しているように見なされたり権力の行使に成功しているように見なされたりするだけで、実際には支配が成り立っていることを確認するには権力の行使をおこなってそれに成功したことが確かめられないとならないわけだから、常時そんなことがおこなわれているわけではない限りで、それは見なされているに過ぎないことであり、それが成り立っていることを知るにはそのたびごとに実際に権力を行使して確かめてみないとならないわけだ。


1月7日「経世済民の実態」

 政治的なご都合主義の典型を表す言葉としては経世済民があり、意味としては世の中を良く治めて人々を苦しみから救うこと、となるのだが、中には世の中が治まってしまっては困る人もいるし、また苦しみのただ中で生きている人にとっては死ぬことが苦しみから救われることかも知れないし、世の中の肯定的な面ばかりをいいとこ取りしても否定的な面を無視しているだけで、たとえ経世済民的な状況を実現しても、そういった言葉で表現されている面が強調されていることにしかならないわけで、その種の肯定的な意味を持った決まり文句を使って何か自らの主張を飾り立てるような行為がメディア上では後を絶たないようにも見えるわけだが、他にも政治的な弾圧や抑圧に抗議するような典型的で反体制派的な立場などがあるように思われるが、その弾圧や抑圧と表現されるような体制側からの圧力にも社会状況に応じて程度に差がありそうだし、実際に政治的な弾圧や抑圧からの解放を目指すと称する勢力が政権交代などによって政治的な実権を握れば、今までとは別の圧力を他の勢力にかけてくる可能性もあるかも知れないし、そんなことを考慮に入れれば現状で出回っている何らかの問題を解決しようとしたり社会から取り除こうとすれば、それに代わって別の問題が思いがけないところから生じてくるかも知れないし、現状の中で何をどういじってもそれだけで済むようなことにはならず、必ず新たな問題や課題が生じてくるのは当然の成り行きであり、そういう意味ではあまり単純な幻想を抱かない方が身のためだろうが、そんなことを心がけても特定の問題に対して明確なことを主張したり批判したりすれば、それが物事の単純化につながってしまうわけだから、主張していることを実行したり批判を真に受ければ世の中が良くなるかのような幻想を抱いている安易な人たちから支持されたり批判されるようなことはなるべく主張したり批判したりしない方がいいのかも知れないが、そもそも何らかの主張や批判を支持したり批判したりするのはいつも決まって物事を単純化して捉えるような安易な人たちであり、そうなってしまう時点でそういった主張や批判の単純明快さが世の中の実情からかけ離れたフィクションともなっているわけで、もうそれだけでもそういう主張や批判に群がってしまう人たちには経世済民的なご都合主義がまとわりついているわけだが、ではそうならないような主張や批判をしたところで誰からも相手にされないようなことにもなりかねないが、それでいいのかといえば良いとも悪いともいえないようなことかも知れないし、主張とも批判とも受け取られないようなことを語ったところで世の中には何の作用も影響も及ぼせないように思われるかも知れないが、直接目に見えるような効果を期待する方がおかしいのかも知れないし、その辺は様々なことを考慮しながら語りたいと思っているかどうかも怪しいことを語れる範囲内で語るしかないのかも知れず、その場の状況に沿ったり従ったり抗ったり反発したりしながら何を語れるのかとなると、実際に語っていることが結果的にそうなっているかも知れないが、そうはなっていない場合もあるだろうし、少なくともその場の状況に連動するようなことを述べれば、その場の状況の一部を構成するような言説となるしかないが、実際に政府による国家統治が誰の目にもうまくいっていないように見えるなら、それに連動して経世済民的な状況の実現を主張する人が多くなるだろうし、そういう言葉が流行していること自体がそれとは別の言葉によって現状が表現されていることには誰も気づいていない証拠となるのかも知れず、そこでいわれていることに耳を傾けない代わりに示されるのが現実離れした主張や批判となり、そんな主張や批判がそこで現にいわれていることを覆い隠してしまい、場合によっては多くの人の判断を誤らせているのかも知れないが、ではそういった主張や批判が覆い隠してしまうような言表とは何かといえば、現状を肯定も否定もせずにそのまま言い表していることであり、それを良いだの悪いだのと評価する以前にいわれていることなのかも知れないが、それを良いだの悪いだのと評価することによって覆い隠そうとする意図や思惑があるわけだから、そうした意図や思惑を抱いている人たちにとって評価の対象となる言表がそのままの形で世の中に出回ってもらっては困るような事情があるのかも知れず、だからそれらの言表に良いだの悪いだのの評価をつけて世間に流通させたいわけだが、そういった評価がそれを良いだの悪いだのと評価する人たちの都合を反映しているわけで、そうであるなら耳を傾けるべきなのは、それに対する良いだの悪いだのの評価を伴った主張や批判の言説ではなく、そうした言説を招くような言表そのものだろうし、言表の内容を知るにはその言表への反応となる良いだの悪いだのの評価を知る必要があるだろうが、耳を傾けるべきなのはそれに対する評価の言説ではなく、その対象となる言表そのものであるわけだから、それに対する評価の言説に惑わされないように心がけなければならないだろうし、それにはそこで生じているものや起こっていることではなくそれらの物事に対する世間の反応に騙されないようにすることが大事なわけだが、それと同時に世間がそうした反応によって物事を都合のいいように加工したりねじ曲げている実態を知ることも大事であり、それによって世間の都合を理解することにもつながり、そうした都合のいい評価や解釈を世間で流行らせようとする人たちの意図や思惑を知ることにもなるわけで、またそれはそんな加工やねじ曲げを伴う以前の言表が何を物語っているかを知ることにもなるだろうが、それが直接そこで生じているものや起こっていることにつながっていない場合もあるだろうし、物事に都合のいい評価や解釈を施そうとする言説自体が、そこからさらにそうした言説を加工したりねじ曲げたりする素材になる場合もあるわけだから、そういう場合は元の言説自体がものでありことでもあり、そうなるとそこでものとことの関係に注目しなければならないし、そうやって物事が別の物事と関係し合ってさらに別の物事をもたらすような関係に注目する必要があり、どこまでも物事の関係が連鎖していることに注目しなければならないだろうし、そうした物事の関係がどこかで途切れたりどこまでも続いていったりするのだろうが、そうした物事の連鎖や断絶の途中経過としてその中継点で何らかの加工やねじ曲げの言説に出くわすわけで、要するにそこでそういった評価や解釈が最終的に決定した状態だと捉えてはならないのだろうし、実際に安易な人たちはそこで考えることをやめてしまい、暫定的に示された物事の評価や解釈を最終的に決定したものだと受け取ってしまって、そういう評価や解釈の中で凝り固まってしまうから、そこから先で生じる物事の流動的な変化を捉えきれなくなって、時代や状況の変化について行けず取り残されてしまうわけだが、それでもそういった人たちが世間の主流派を形成して自分たちに都合のいいように変化を食い止めようとはするだろうし、実際に変化を食い止められずに時代や状況から見放されてしまっても、今度は自分たちの都合を反映した決まり文句を使って自らの立場や境遇について自己正当化を図ろうとするわけで、それが世の中のあるべき状態として経世済民という言葉で当てはめて現状の良し悪しを論じたり、抑圧からの解放という金科玉条のような活動の指針を恒常的に保持しようとしたりするわけで、そういうことを論じたりそういう指針に沿った活動をおこなっている限りで決まり切った立場でいられるなら、それに越したことはないわけだが、果たしてその実態がどうなのかといえば、それは現状が物語っていることでしかないだろうし、実際にそれらの人たちに対して言表されている内容が現状を物語っているわけだ。


1月6日「制度と慣習による拘束」

 人は自分も他人も信用していない場合でも、その人が囚われている何らかの制度や慣習を信用している場合はあるだろうし、自身も含めて多くの人たちを同じような思考や動作に導くような社会的な決まりの類いを信用することは、社会の中で生きていくに伴って生じる自然の成り行きだが、そういった決まりが人の行動や活動していく方向や傾向に少なからず作用や影響を及ぼすにしても、それに囚われてしまうのは避けようのないことであり、普通は否定されるようなことではないだろうが、それでもそうなってしまうことを当然視してしまうようだと、そこから生じる弊害の類いには無自覚となり、それを共有しない人や集団への差別や攻撃を助長するような成り行きにもなって、そういった行為から生じる対立や争いが社会問題化する場合もあって、それを共有しなかったりそれとは相容れないあるいはそれと競合するような他の制度や慣習に従うような人や集団が存在する限りで、そういった決まりの類いに普遍性があるわけではないことは踏まえておくべきなのかも知れないが、人や集団をそういった決まり切った思考や動作に縛り付けておくことで得られる効用もあるだろうし、それが人を一定の規模の集団として管理することにつながるわけだが、管理することの中には観察して調査したり監視して検査することもあるわけで、何のためにそんなことをやるのかといえば、集団を恣意的にコントロールしてそこから利益を得るためにそうするわけだが、そこから利益を出すには働かせなければならないだろうし、そこに拘束された人々を働かせるには働かせるための制度を創設して、勤勉に働く習慣を身につけさせる必要があり、そのためには働くのに必要な知識を教えて技能を習得させたり、働くことが良いことであり、そうすることによって富を得られて生活が豊かになると啓蒙する必要もあるだろうし、実際に豊かな生活が実現すればそれをもたらした制度や慣習を信用するわけだが、そうなることに成功した人もいるし失敗した人もいるようなら半信半疑にならざるを得ないだろうし、そこには競争があり競争に勝ち抜くには絶え間ない努力や創意工夫が必要となると、そこで成り立っているのは勝者と敗者をもたらす制度であり、そこでは競争という争いに勝たないと豊かな生活にありつけないことにもなり、それが人を競わせ争わせるゲームであることが明らかとなるわけだが、働くこと自体が他人と競ったり争ったりする結果をもたらし、そうした競争のゲームを管理している機構はそこに参加している人々の競争から利益を得ているわけだから、競争をやめさせないようにしなければならないわけで、そのためには場合によっては競争をやめたり競争から脱落する人たちを罰するようなルールを設けて、実際に観察して調査してやめた人を発見して罰することもあるだろうし、脱落しないように監視して競争の成果である仕事の出来を確かめるために検査することもあるだろうし、そういった管理の目的が人々をその場に拘束して働かせること以外ではなく、そこに至るまでに人々には働く習慣が身についているから働くのが当然だと思っているし、本気で働かざる者食うべからずと思っているだろうし、実際に働かないと食っていけない制度となっているわけだろうが、それでも世の中には働いていない人もいることは確かであり、働かなくても生活が成り立っている人もいるのだろうが、ただ漫然と働き続けている人にはそんな立場や境遇の人たちの存在は眼中にないだろうし、いったん働き出したらそれを継続させるような成り行きが生じて、それをやめるわけにはいかない理由や事情も生じてきてしまえば働かざるを得なくなるわけで、それが借金やローンの返済ともなればそういう制度に拘束されていることがはっきりしてくるわけだが、慣習として働き続けている人にはただ働くことが目的と化していて、それ以上の理由も事情も必要ないわけで、いくら稼いで莫大な資産を形成しても延々と死ぬまで働き続けて、ただそれだけのことなのかも知れず、ゲームとはそういうことでありそこでゲームを楽しんでいればいいわけだが、楽しめるような立場や境遇になれる人も限られてくるだろうし、そうなっていること自体が仕事に成功していることの証しとなるのだろうが、そういう限られた成功者を生じさせる過程で膨大な数の犠牲者や敗残者も生じるわけで、またそれが世間的に見て当然のことのように思われてしまうのも、そういう結果をもたらす制度や慣習を世の中の多くの人々が信じている証拠ともなるわけだが、それを犠牲者や敗残者たちも信じているようだと競争に負けた自身の存在を正当化していることになるのかも知れないが、その人数からいえばそういった制度や慣習を支えているのは成功者よりも犠牲者や敗残者の方だろうし、自分たちが犠牲となって場合によってはただ一人の成功者を讃えるためにそれらの人たちが存在していること自体が、何かおかしな倒錯した状況なのかも知れず、世の中で悲惨な境遇にある人ほどカリスマ的なリーダーを求めていたり、そういった象徴的な存在が成功することをまるで自分のことのように喜ぶような風潮が制度としても慣習としても定着していることが、そうすることが当然視されているほどそれだけ悲惨な境遇にある人が大勢いることにもなるのかも知れないが、その一方でゲームのプレイヤーとしてではなく観客として観ているだけなら余裕があるわけで、そういう人たちはそこでは働いていないで他人の労働を観て楽しんでいるのだから消費者の立場となっているわけで、他の場所では働いているのかも知れないし、今は働いていなくてもかつては働いていたのかも知れないが、少なくともそこでは働いていないわけで、それが蓄えた富を消費する楽しみとなっているのかも知れず、そういう楽しみを満喫できる立場に誰もがなれるとしたら、それをもたらしている制度や慣習を信用するだろうし、それが働いて富を得た対価として釣り合いがとれていると信じている限りで、そういった楽しみをもたらす制度や慣習を肯定できるはずだが、そういう娯楽としての見世物の内容が競争のゲームであることと、現実の紛争が起こっている地域に大国の大統領などが軍事介入して死傷者が出るのとは、普通は別次元の出来事だと捉えるわけだが、少なくともそれを伝えるメディアは同じ画面上や紙面上で見せているだろうし、それも制度的にも慣習的にも当然のことのように見えるわけで、また軍事介入する大国の大統領なども紛争のゲームに介入して、勝利して自国を有利に導いて国民の人気を得たいわけだが、観ている観客を満足させることによって観客から賞賛されたいという目的があるという点では、娯楽のような見世物のゲームと変わるところはないわけで、さらに待ってましたとばかりにその種の非人道的な軍事攻撃を非難する人々にとってそういう行為は忌むべきものとなるわけだが、そういうことを言わせられてしまうということもそういった制度や慣習の一部として動作していることの範疇に入るのかも知れず、そういう反応を引き出されてそういう非難の声明を出さざるを得ない人たちも、そんな決まり文句を出力するようにコントロールされてしまっているような居心地の悪さを覚えているのかも知れない。


1月5日「経済と行政の仕組み」

 資本主義経済の中で人が大勢必要とされるのは主に労働者と消費者としてであり、労働者が働いて賃金を得て商品を生産して消費者としてその商品を買えば経済が回っていくわけだが、その一方で企業が労働者を使って商品を生産してその商品を消費者に売る、という企業活動が継続できるだけの労働者と消費者がいればいいわけで、それ以外の余分な労働者も消費者も要らないわけだが、逆に労働者と消費者が不足すれば企業活動が立ちゆかなくなり、資本主義経済が回っていかなくなるわけだが、またその一方で人の生活が成り立つには生きていくのに必要な生活物資が足りている必要があり、それを商品として買えるだけの収入があればいいわけだが、その収入は売る商品がなければ働いて得るしかなく、働くには企業に雇われなければならない場合が多いわけだが、さらに一方で政府の活動が成り立つにはそのための人員と費用が必要であり、また人員を雇うための費用も必要であるから、それらの費用を徴税によってまかなうことになるわけで、税収を得るにはその対象として収入のある人や企業を必要としていて、税収の額に応じて政府の規模も定まってくるわけだが、それらの存在の間で何が問題となってくるのかといえば、人も企業も政府も必要以上の収入を求めてしまうわけで、それが通常の活動から得られなければ借金して得るしかないわけだが、借金してでも得ようとするから収支のバランスが狂ってくるわけで、借金がかさんでくると通常の活動では返せなくなって、そうしたゆがみが経済活動にも支障をきたすようになるわけだが、そもそも人と企業と政府の中で何が余分な存在かといえば、人が生きていくのに必要な生活物資の生産にかかわらない政府の存在が余分であり、政府が税を徴収しているから余分に費用がかかってしまい、その分だけ収入が足りなくなって借金がかさんでしまうわけだが、では政府の活動を縮小していけば収支のバランスがとれるのかといえば、バランスはとれるだろうが世の中は経済活動だけで成り立っているわけではなく、国家統治に関する行政活動も必要とされるから、それをおこなうために政府が存在しているわけで、行政活動を専門におこなう機関としての政府が活動していくための資金を人と企業が拠出することになり、政府が存在して活動するための余分な費用の捻出をどうやっておこなうかが問題となってくるわけだが、普通は徴税と公債によってまかなわれていて、実際に借金と見なされる公債でまかなわれる部分が膨らんでくると問題視されるわけで、それを許容限度に抑えるには人が余分に働いてその分の費用を負担して政府の活動を支えることになるわけだが、そういう面では人は自身や家族を養う以上に政府が活動する分まで余分に働いていることになるわけだが、そうであるなら人の金銭的な負担を減らすには減税して政府の活動を縮小すれば済むはずだが、実際にはそうならない要因として権力関係があるわけで、世の中に張り巡らされている権力関係の中で一番弱い立場におかれているのが単独で存在している個人であり、逆に集団で力を合わせればそれだけ強くなるのは当然だが、集団の規模としては企業の中でも大企業が大きいだろうが、それ以上に政府の規模も大きいし、集団の規模が大きいほど力が強くなるのは自明のことであり、しかも政府は独占的に国家を統治する行政に携わっているから、個人では政府には逆らえないし、政府に従わざるを得ないような立場になってしまっているわけで、そんな政府の権力に対抗するには集団で力を合わせて政治勢力を結成して議会で主導権を握って、そこから議院内閣制や大統領制などで制度が異なるにしても、言うことを聞く行政の長を選出して政府を動かさなければならないわけで、そういったことをやる過程でも様々な問題が生じてくるのだが、その一方で政府の活動を縮小させるだけで人の経済的な負担を減らせるのかというと、ある程度は減らせるとしても現状で行政活動を完全になくすわけにはいかないだろうし、実際に行政活動が必要とされているから政府という機構が存在しているわけで、常識的には無政府状態というのは考えられないわけだが、その常識的な先入観として政府が企業などの生産活動にはかかわらないという建前を取り払ってしまうなら、例えば政府が企業と競合する産業の分野に参入すれば、そこで収入を得られた分だけ税負担を減らせる可能性もあるわけで、もちろん生産効率が悪ければ費用がかさむだけで企業との競争に勝てないどころかかえって負担が増すような悪循環となってしまうが、その産業の分野を独占的に政府が担うようなことにしていけば、しかも経済効率が悪くて企業がやりたがらないような分野を政府がやればいいわけだが、そこでもそういう分野で余分に費用がかかってしまうとそれが税負担となってしまうし、それに関しては農林業などの一次産業の分野が該当するだろうが、さらに電気・上下水道・ガス・鉄道・道路・港湾・空港などの公共インフラに関しては政府が独占的に関与して料金を安くしても、そこでも余分に費用がかかってしまうとその分が税負担になってしまうわけだが、収入が少ない人でも必要な分を確保できるようにするには、経済的な利害に囚われた企業よりは強制権のある政府が関与するしかないわけで、そうなってくると何よりも人が生きていくことを優先するような行政になってきて、それに伴って経済的な収入を犠牲にするようなことをやるとなると収入の多い人や企業の税負担を重くするようなことにもなるだろうが、そこでも権力的な事情を考慮するなら収入の多い人や企業ほど力が強く、力を持っていればそれに比例して物事を有利に運べるだろうし、実際に物事を有利に運べればさらに収入が多くなって力が増すわけで、そうやって発言力や政治力や経済力などの権力を増してきたから、さらに有利な状況を築いているわけだが、そういった相乗効果的な成り行きを現状で収入が少なくて不利な立場となっている人たちが覆せるかとなると、普通に考えれば難しいわけだが、人数を考えるなら収入が多くて有利な人たちよりは収入が少なくて不利な人たちの方が圧倒的に多いわけで、ただ不利な立場の人たちが力を合わせられるかとなるとそれが難しいから実際にそれらの人たちは不利な立場を強いられているわけだが、どうやれば力を合わせられるかとなると、収入が多くて有利な立場にある人たちの言うことを聞かないことだろうし、そうすることが自動的に不利な人たちの力を合わせることにつながるのかといえば、厳密にはそうとはいえないかも知れないが、少なくとも有利な人たちの言うことを聞かないだけでも、それらの人たちの権力を弱めることにはつながるだろうし、そういった行為の積み重ねによって相対的には権力の格差を縮められるだろうが、権力格差を縮めることが経済格差を縮めることにつながるかといえば、厳密にはそうではなく、経済格差が広がることを食い止める効果はあるだろうが、たぶんそういった効果は見えにくく、すぐに効果が現れるようなことではないから確信が持てないのかも知れないが、それ以上に経済力や権力にものをいわせて有利な人や企業などがメディア上で宣伝攻勢を仕掛けてくるから、そんな宣伝や煽動に不利な人たちが乗せられて、自分たちが有利な人たちをさらに利するようなことをやってしまっていることに気づいていない面の方が大きいのかも知れないが、それに気づかせないような巧妙な仕掛けが社会の様々なところに施されているのかも知れないし、それが不利な立場の人たちが労働者として働いて商品を生産するのと引き換えにして賃金を得て、その賃金を使って消費者として商品を買う仕組みとしても現れているのではないか。


1月4日「話の恣意的な限定」

 きっかけはいつも突然にやってきて、そうなるに至る途中で引き返す余裕があればそうはならなかったのに、結果的にはいつもそうなってしまうのだから、何かそうなる必然性があるように思われてしまい、そんな成り行きには規則的な傾向があって、実際にそんな範囲内でそれらの活動や行為が安定していれば、意図的にそうしているのだとしても自然とそうなってしまう面もあるのかも知れず、ともすればそこから外れそうになるのを絶えず軌道修正しながらそんな状態を保っているのかも知れないが、そうだとしてもそんな成り行きの渦中にいる人たちはそれに気づいていないようにも見えてしまい、何かそういうところで間抜けな印象を拭い去れないわけだが、目的がそこにあるのだとすれば目的通りの効果を発揮しているわけだから、意識してそういう結果になるように持って行こうとしているのは確かかも知れず、それはそれで職人芸のような用意周到さでそういう好みの範囲内で固定しているのだから、それに好感を抱いている人もそれなりにいるのだろうし、だからそんな行為が継続的におこなわれているのだろうが、それにしてはいつも同じ調子でそんなことをやられると単調な傾向になってしまうのは致し方のないところで、そんな単調さの中に主張の首尾一貫性を確認できるにしても、それ以外の何をうかがわせるわけでもなく、それ以外の何があるどころかそれ自体を主張しているのだから、それを真に受ければその意義に納得できるかも知れないが、いつも決まってそういうことを主張しているわけで、別にそれとは逆のことを主張しているわけではなく、むしろ主張通りのことが起こってほしいのだろうが、しかし実際にそうなってしまうとそれは批判されるようなことになってしまうだろうし、実際にそうなってしまっているからそれを批判しているわけで、要するにそうなるべくしてそうなっていることを批判しているわけだが、逆説的にそうなっているわけではなく必然的にそうなっていて、必然的にそうなっているからそうした主張が成り立つわけで、それ以外ではなくその通りのことが起こっている現状を批判しているのだが、何かそこでおかしなことが起こっていて、そうなった結果とそうなった結果を批判していることが同じ状況の中で生じていることに関して疑問を抱けないわけだが、そうならなければ批判が成り立たないし、そんなのは当然のことだろうが、その一方で批判自体がそうなった結果に依存していて、実際にそうなればそういう批判をおこなわざるを得ないわけだが、そうはならないという可能性も批判しないという選択肢もなく延々とそうなっていて、それについて延々と批判を繰り返すしかないわけで、ただそうした状況がそこにもたらされている限りでそうなるしかなく、そこで予定調和の結果と行為が繰り返されているわけだが、この世界でそういうことが起こっているわけだからそうならざるを得ないとすれば、そうなるのも自然の成り行きであり、それを人為的に調整したり修正したりすることができるのかも知れないが、もちろんそのつもりはないし、それができないとは思っていないだろうが、実際にあるがままの現状を受け入れるような成り行きとなっていて、それが延々と同じことの繰り返しとなっているのかも知れないが、それが繰り返しだと思うゆとりがないのかも知れないし、そう思う以前にそうなってしまっているわけだが、それでもそんな事態が変化しつつあるのかも知れず、それらの人たちが関与している場所とは違う方面で変化しつつあるのかも知れないが、そんな変化が現状の中で起こっているとしたら、それに気づく必要があるのかも知れないが、それらの人たちが反応するのは飽きもせず同じことが繰り返されていることの中であり、実際にそうしたことがおこなわれていてそれに対する批判がセットとなって起こっている現状があるわけだが、それがメディア経由で物事の一面を見せているにしても、他の面も同時に見せているわけで、その一面的な光景の中で起こっている予定調和の出来事が言説の対象となっているのだが、物事の他の面に関しては言及がされずそのまま放置されている現状もあるわけで、そうした関心とそれに対する言及の一面性が、それに関心を寄せて言及する人たちには不自然には思われないのだろうし、そうやって物事のある面だけに関心を寄せてそれを主張や批判の対象としているわけだから、そうした主張や批判が成り立つのは物事のある面だけであり、その限られた面から外れるとそんな主張や批判は成り立たなくなってしまうわけで、その領域だけで成り立つ主張や批判というのがその専門分野での言説となるわけだが、果たしてそれが他の分野でも通用するような普遍性を持っているかとなると、それ以前にそうした普遍性を持つ必要があるのかとなると、普遍性を持っていれば他でも通用するような内容となるのだろうし、それだけ他の分野でも共感を得られるのかも知れないが、共感を得る必要がなければそんなのは余分なことであり、そうやって物事の一面だけにこだわっていれば済むならそれに越したことはないわけで、それで済むような範囲内に話を限定してしまえばいいわけだが、たぶん言説の対象となる物事自体がそこから外れているのであり、そこから外れていることに言説の担い手たちが気づいていないわけで、だから的を射ないようなことがそこで語られていて、語る必然性もなく批判する必要もないようなことにまで言及されているわけだが、そこでその人たちが語りたいことと語る対象となっている物事との間にずれが生じていて、そのずれを無視して語りたいことを優先させているから、無理に語る対象を語りたいことに引き寄せて語っていることとなり、それが語る対象とは無縁の領域で成立しているわけで、その対象に直接かかわっている人たちからしたら、自分たちとは関係のないところで自分たちがかかわっている対象が使われていることに戸惑いを感じるだろうし、そんな対象の利用がおこなわれていることに関しては不自然に感じるのが当然の受け止め方だろうが、直接の関係者からしたらそんなのは関知しないことであり、ただ自分たちとは無関係のところで無関係のことが語られているわけで、そんなのは無視して当然のことでしかないわけだが、果たして語る対象やその関係者から無視されるようなことをその出来事とは無関係なところで無関係な人たちが語っている現状に何の意味があるのかとなると、そこにはそれについて語っている人たちの都合が反映しているのだろうし、それらの人たちは自分たちの都合に基づいてそういうことを語らなければならないわけで、そういう事情がそれらの人たちに生じていて、その事情というのがそんな出来事をネタにしてそれとは無関係なことを語らなければならないということであり、そうでもしない限りは自分たちの主張や批判を維持継続できないのだから、それだけそれらの人たちは無理なことを強引に語っていると言えるわけで、そんなことまで語らざるを得ないほど状況的に追い込まれているとも言えるわけだが、なぜそんな状況に陥ってしまったのかといえば、要するに自分たちの主張や批判の首尾一貫性を維持しようとするからそうなってしまったのだろうし、執拗にそんなことにこだわり、こだわりすぎて語るべき対象から外れてしまっていることにも気づけなくなってしまったのではないか。


1月3日「見せかけの差」

 相対的な差と絶対的な差はそういう表現を使うと根本的に違うように思われるかも知れないが、差を強調したい時は絶対的な差があるように主張するのだろうし、それが大した差ではない時の相対的な差とは違うことを示したいのだろうが、それを恣意的に強調したいのだから強調したい事情が強調したい人にはあるのかも知れず、そういうところで見せかけの誘導が介在していると、それを真に受けると騙されてしまうわけで、大した差でもないのにそれが絶対的な差であるかのように見せかけられて、そんな見せかけに騙されてしまうと判断が狂わされてしまうのかも知れないが、その判断が何かと言えば相対的な差でしかない差を絶対的な差だと誤ってしまうことだろうが、その差が何かというと見せかけの差となれば、そう見せかけている人の嘘を見破れないことになるだろうし、何をそう見せかけているのかと言えばその人が見せかけたい物事をその人の事情や都合に合わせて見せかけているはずだが、そういう誘導的な思惑に騙されながらその人の事情や都合などに合わせて物事を比べれば、その人が見せかけたいように物事を見ていることになるのかも知れないが、そんなふうに物事を見ている限りでその人のコントロールを受けていることになるのだろうが、それが個人としてのその人というよりはメディアとか企業とか政府とかの何らかの機構からそういった作用が及ぼされているようなら、それらの機構が担っている制度を利用することで特定の人物よりも広範囲かつ満遍なく世の中に作用や影響を及ぼせる可能性があるだろうし、実際にそういった効果を発揮できるから個人よりはそれらの制度的な機構の方が社会への影響力が強いのだろうが、そういう機構から及ぼされる影響下に特定の人物が存在している場合もあるだろうし、例えば同じ物事の差異を強調する人が大勢メディア上にいるなら、それらの人たちはそういった影響下に存在していると見なしてもかまわないわけで、それが制度的なことを述べている人の特徴となるわけだが、何かその人独自のこだわりや価値観ではなく、他の大勢の人たちと同じような傾向に感じられる人たちというのは、そういった何らかの機構が担っている制度によってコントロールを受けている人たちなのかも知れず、そういう人たちに関してはそれぞれに個体差があるとしてもそれが見せかけの差である傾向が強いだろうし、その差よりも同じような傾向の方が勝っているように感じられるなら、それらの人たちの間に絶対的な差はなく、相対的な差の範囲内に散らばっているような人たちだと捉えておけばいいのかも知れないが、そんな十把一絡げに扱えるような人たちがどんな傾向にあるかといえば、特定の機構が社会の中で機能するのに都合がいいような思考や動作を持ち合わせていて、それは機構が担っている制度の中で機能するような思考や動作となっているわけで、要するにそれらの人たちは機構や制度と一体化しているといえるのかも知れないが、社会自体が様々な機構や制度の集合体と捉えるなら、その中に存在して活動している人たちもそんな社会と一体化しているのは当然のことだろうから、そんな状態が取り立てて異常とは言えないわけだが、そうであるなら社会と一体化しているレベルでは人と人の間にある差は相対的な差に過ぎないだろうし、そこに何か強調できるような絶対的な差があるとは言えないわけだが、それでも何やら人と人の間に絶対的な差あることを強調するような人がいれば、その人が囚われている制度的な機能として他との差を強調するような動作を伴っているのかも知れず、その中でその人が囚われている制度からもたらされる何らかの価値観を基準として、その差を強調しなければならない役割を担っていて、そういうことを主張するように制度的にコントロールされていると見なしておけばいいのかも知れないし、またそれとは別の制度的なコントロール下にある人がその人と対立して、そういう主張を批判するような言説を担っているなら、その人もそんな役割分担を伴った機構に所属する制度的な思考や動作の持ち主となるわけだが、そうやって人はどこまでも制度的な言説の担い手して存在しているわけでもないだろうし、それらの機構や制度にも不具合や至らない点がそれなりにあるのかも知れないし、そういったところではその手の制度的な言説が破綻していたり通用しない面もあって、そんな機構や制度の力が及ばない方面では制度的な言説とは異なる言説が生じる余地があるとすれば、そこでは制度の影響下で生じる相対的な差の範囲から外れた内容が語られているのかも知れないが、それが制度的な言説とは違う絶対的な差を生み出しているかと言えば、その差をことさら強調しなければそれが取り立てて絶対的な差だと主張する必要はないのかも知れず、むしろ他との比較が求められるような差ではなく、単に他とは違うことを述べていられるということかも知れないし、実際に制度的な束縛に囚われないようなことを述べていられるならそれに越したことはないわけだが、そういうレベルではことさらに他の差を強調する必要がなければ、他との差を強調するような制度的な拘束から外れていて、それとは逆にいつも他との差を強調するような言説の内容が必要とされているところでは、他との比較を伴った制度的な拘束下にある言説が必要とされていて、そういう言説の担い手は絶えず何かと何かを比較するような制度の枠内で、その制度が設定している基準に従って制度の対象となる物事について述べていることになるのかも知れず、そんな制度の対象となる範囲内に収まる比較対象の間に何らかの差があるとしても、いくらその差を強調して特定の比較対象の利点や欠点を指摘してみても、そうした制度内ではそれは相対的な差でしかないだろうし、制度から離れればそんな差など無視してもかまわないような差でしかなく、その人がそんな比較を伴った特定の制度とは無縁の方面で暮らして活動しているならそんな差に囚われる必要はないし、そんな差をことさら強調するような人の主張に耳を傾ける必要もないわけだが、たとえそうであってもそういった主張をひたすら煽り立てるような人は、それを真に受けるような人を制度に取り込もうとしてくるわけで、それを狙って主張の煽り立てをやっていることにもなるだろうし、要するに自らが囚われている制度にできるだけ多くの人を引きずり込んで自分の主張の賛同者を増やすことが、その人にとってのノルマであり社会の中での役割分担となっていて、だから盛んに比較対象となる物事の差を強調して他の人たちがその差を真に受けるように持って行きたいわけで、多くの人々がそこに差があることを自覚することがそうした差を基準として物事の優劣を決める制度が成り立つ前提条件となるわけで、いったんその人がそんな比較基準を認めてしまうとそれに基づいた価値観を受け入れて制度のコントロール下に入って制度に従いながら生きていくことになり、そうなるとそうした制度を担って活動している機構の管理下で思考や動作を一定の基準に適合するようにも求められるだろうし、そんな基準を満たした人の思考に沿って生じる主張が制度的な言説となるわけだ。


1月2日「状況のコントロール」

 普通に考えて人の行為や活動にはそれをやる理由がありそうだが、理由があることを意識しながらやっているレベルでやっていることと、例えば理由もわからず何かにやらされていることの間には、明確な違いがあると思われるかも知れないが、何かをやる理由というのが果たして自発的な理由なのかと言えば、何かのちょっとした加減で自発的にやっていると思わされているかも知れないし、そういうことをやるような成り行きの中で、その成り行きに沿ったことをやっているとなると、積極的に自ら進んでやっているように思わせるような成り行きになっていて、そうする以外にあり得ないような状況だからこそ、そう思ってしまうようなことであれば、それをやるに際して生じている理由というのが、そういう状況の中ではそうする以外にあり得ないからそんなことをやっているということになると、たとえ自らの判断で主体的にやっていることであっても、そんな状況の中でそうする以外にあり得ないようなことをやっているのであり、そうするに当たって主導権がその人にあると思っていても、その場の状況がそれを強いていて、その人にとってはそれをやる以外に選択の余地などなく、そんなことをやらざるを得ないからやっているのであり、そうなると必ずしもそれが自発的にやっているとは言えなくなってしまい、その場の状況の中でやらざるを得ないことをやらされていることになるだろうし、そうなるとその人に起因する自発性や積極性などはあまり意味のないことになってしまうのかも知れず、何かその場の状況や成り行きの中で決められたこと以外は何もできないだろうし、それ以外のことは何もやれないのに、それでも自らの意志でそんなことをやっていると言えるのかとなると、それはその人の独りよがりな思いでしかないようなことになってしまうのかも知れず、しかもそんな思いなどとは無関係にそんなことしかやれないとなれば、いくらそれが自分の意志で主体的にやっていることだと言い張ってみても、他から見ればその場の状況に制御されているだけと見えてしまうようなこともあるのかも知れないし、そうでなくても結果的にはその場でできることしかやれないわけだから、確かに自らの意志で決めたことをやっている気になれるならそれに越したことはないわけだが、そんな意志にこだわりきれない場合にはその場の成り行きに沿ったことをやらざるを得ないだろうし、そういったこだわりにどこまで忠実でいられるかはその場の状況次第であることは承知しておかなければならないとしても、その場の状況にコントロールされながらその場の状況に合わせたことをやってしまうことが、そういったコントロールを自覚できないままやってしまっていることの中で、自主性とか主体性とか積極性などの自分の内面から生じてくるような作用を感じられるのかも知れないが、逆にやっていることに抵抗感とか反発などを感じられるようなら、何か外部から力を加えられて強制的にやらされているような嫌な感じを覚えるわけで、どちらにしても結果的に満足がいくようなことができればそれでかまわないようなことになってしまうのかも知れないが、結果が思わしくなくてそれに関して自分の力不足や至らなさを感じられるなら自らの力量次第でどうにかなる余地があると思われるし、また他から妨害されてうまくいかなかったという思いが強ければ、それに関しては自らの力ではどうにもできない面を感じていることになるわけだろうが、普通はどちらの面もありそうだが、そう思わせるようなその場の成り行きや物事の推移があれば、それがそういう行為や活動の成否を決める条件だと思われるだろうし、そんな条件の限界内でやれることが決まってくるのかも知れないが、そういう条件があることはやってみて初めてわかるようなことかも知れないし、またわからないままかも知れないし、そんな手探り状態で何ができるかを確かめながらやっているとしても、やれることをすべて試すことはできないのかも知れず、また何をやってもうまくいかなければやってみた範囲内ではうまくいくことが一つもなかったことになってしまうだろうし、そんな場合にはその場で何がやれて何がやれないかの条件さえ見つからなくなってしまい、たとえやれる範囲内で条件を特定できたと思ってもその範囲を外れてできることが他にあったり、範囲内でもできないことが後から見つかったりする場合もあるだろうし、そうなるとそれをやるに当たって想定する前提条件自体が絶えず暫定的なものに過ぎず、結局そんな条件など考慮せずにただ闇雲にやれることをやっているだけのような状況にもなってきて、そうなるとだんだんその場の都合に合わせてやっているだけのような感じになってきてしまうわけだが、その都合というのが漠然とその場で決まっているやれることの前提条件のようにも感じられるが、そんな感じがするだけで実際にはよくわからないまま勘にまかせてやっているだけで、それでうまくいくような予感がするからそんなことをやっているのかも知れないが、それがその場で生じている状況や成り行きにコントロールされながらやっていることになってしまうのかも知れず、それをやる際に感じられるこだわりというのが、こだわらざるを得ないような成り行きに誘導されているようなら、やはりその場の状況によってこだわるようにコントロールされているわけだが、そうしたこだわりによってその場に関与する人たちの役割分担が決まってきてしまう場合があるだろうし、そこで何らかの対立や争いがあれば対立や争いをもたらすようなこだわりが生じていて、その人がそこに至った経緯に応じてこだわりが生じて、そのこだわりに伴ってその場での立場や役割分担が決まってくれば、そこで生じてくる対立や争いもその立場や役割分担に沿うような分割が起こって、そうやって二手に分かれて対立して争うような成り行きになるとしても、その場に存在している人たちがそこに至った経緯というのが、対立や争いが起こる前提条件を形成しているわけだから、人にそういう経緯をもたらす世の中の状況や成り行きからそういう前提条件が生じてくるわけだろうし、そんな状況や成り行きに巻き込まれてしまった人たちにはその前提条件を変えようがないわけで、そうやって否応なく巻き込まれてしまう状況や成り行きからそんな人たちが大勢生まれてくるようなら、それらの人たちにはどうにもできないところでそれらの人たちの行く末や運命が決まってしまっていることになるわけだから、そうなっているだけでもはやそれらの人たちの力量を超えた事態の中でそれらの人たちが存在していることになり、そこでどうしようもないような対立や争いが起こっているとしてもそうなるべくしてそんな対立や争いの当事者となってしまっているのだから、それより遡って対立や争いを起こさないようにするわけにはいかなかったわけだが、そうなるとそれらの人たちがやれることとなるとそんな対立や争いが起こる前提条件を変えることではなく、現状で起こっている対立や争いをどう収めるかしかないわけだが、対立して争ったままでもかまわなければ、そのままそういう状態を放置していてもかまわないわけだが、そういう状態に不都合や不便を感じているならどうにかして収めようとするだろうし、そういう状態の中にいる方が好都合ならそんな状態を保とうとするだろうし、その辺で判断が分かれるところなのだろうが、そこから状況をどうするかもそんな状態がどうなるかも、やはりその場を構成している前提条件がかかわってくることなのかも知れない。


1月1日「2020年代の展望」

 過去の時代についてなら、それについて記されている書物などの内容からその時代についての確定的な物事の見方や考え方を参照して、それを頼りにそれなりに固定した見解にたどり着けるかも知れないが、同時代的な状況の中で何をどう考えたらいいかといえば、それも現状についての意見や認識がメディア上で語られているし、過去と同じように書物などの中で現代という時代に関する確定的な見解も語られているだろうが、その確定したものの見方や考え方が現時点に近づくにつれて曖昧になってくるようにも思われて、そういう意味ではそうした現代的な言説に関しては信用できなくなってきてしまうのかも知れないが、現時点から未来の話となるとさらにわからないことばかりになってしまい、それが未来についての予想や予言となると現状の延長上で語られてしまうからもっともらしくは思われるにしても、思いがけない事態の到来など予想しようがないし、実際にそういうことが起こるだろうからより一層わからないことばかりの不確定な話となってしまうだろうが、現状の中で起こっていることが起こるべくして起こっている必然的な面と偶然に起こっている面の両面があるように思われるとしても、何が必然で何が偶然なのかはにわかには判断がつかないところかも知れないが、現時点では年代的に2020年代が何か特別な年代とも思えないし、現状の世界の中でうごめいている人や集団や組織的な機構が何か特別な印象をまとっているようにも思えないが、何が特別で何が特別でないかの判断もつきにくく、特別であるなしに関してもそう思う人の主観的な印象に過ぎないかも知れないが、誰もが漠然とそう思っているほどには何もかもが大した事態につながっていくわけでもないだろうし、そのほとんどはそうはなり得ないような代物でしかないのかも知れないが、それらが大げさに騒ぎ立てるようなことでもないのに、それを騒ぎ立てる人たちにとっては大げさなことだと思われるのかどうかも不明かも知れないが、とりあえず騒ぎ立てられている物事についてはそれを強調したり誇張したりする何らかの必然性が感じられるのかも知れないし、そういうことをやっている人たちにはそうすることによって何らかの利益が転がり込む皮算用があるのかも知れないが、ただ自己満足を得るためにボランティアで騒いでいる人たちもいるだろうし、何かそうすることに使命感を感じているとしたらそれは時代の要請かも知れないが、そんな要請が現実にあるわけでもないとすればそれは虚構の要請であり、そんな要請を天啓のように感じ取ってしまった人の思い込みに過ぎないことかも知れないし、神からの命令とはそうやって思い込みの強い人に下されるのかも知れず、そこにも何やら必然的な成り行きがあるとすればそれは宗教的な必然性だろうが、そういった宗教的な必然性が現状の中で働いている傾向でもあるのかも知れず、どこから何が作用しているのかは定かでないとしても、そんな霊感が物語っている内容に意識が囚われながらも何か得体の知れないものを感じ取っているのだから、それに関して信用に足る証拠などが提示されるなら信じてしまってもかまわないのかも知れないが、そういったもっともらしい状況証拠が提示されてしまう成り行きというのもフィクションにありがちな話の展開でもあり、そうやって何から何まで虚構だと見なしてしまってもすべてを疑ってしまうことにしかならないだろうが、それでもかまわないように思われるなら現状を否定的に捉えているのかも知れないし、それよりは否定も肯定もしないようなバランスのとれた現状の捉え方へと軌道修正した方がいいのかも知れないが、過去に起こった出来事をなかったことにするのは言説的なまやかしに過ぎないとしても、そこに偶然が作用していることを考慮できないような事の成り行きに持って行ってしまうともっともらしい作り話になってしまい、過去を物語る上では偶然に対してどれほど配慮できるか否かでその話の信用度も異なってくるだろうし、何もかもを必然的な事の成り行きから話を構成しようとしてしまうのは物事を一面的にしか見ていない証拠であり、そこに複数的かつ多元的な物事の絡み合いを構成できればたとえその話がフィクションであっても信用に足る内容となるだろうし、そういう意味でそれを語っている者の意図や思惑を超えた世界を提示することが語り手に課せられた使命であり、それが人知を超えた普遍的な神からの啓示なのかも知れないが、そこにはそれと自覚することなく人間の水準に留まろうとする作用も絶えず働いていて、それがその人の意図や思惑通りに語ろうとする欲求となるわけで、そういった枠内に留まっているうちはいくら話をもっともらしく見せかけようとしてもそれに成功したと思い込めるような話の出来であっても、まだよくできたフィクションの範囲内に留まっていることになるだろうし、そういった単線的な話の展開が語り手の思惑通りになってしまうのは、それを語っている者にはどうにも制御が利かないところであり、それが陰謀論のように思われてしまうのは語り手の思惑通りに話が進んでしまうからであって、何かその話を影から操っている黒幕が他にいるわけでもなく、語り手とその関係者が作り上げた話というのはたとえそれが練りに練られた趣向が凝らされていても、そうした意図や思惑から外れてしまうような偶然の作用が伴わなければ予定調和の範囲内にまとまってしまうわけで、そうやってそれが想定内に留まっている限りはフィクションの内容がこの世界の広がりを表現し切れていないだろうし、必然的にそうなってしまう面とそうではなかった可能性があるのに偶然にそうなってしまった面が表現されていないと、物事が表裏一体を形成している姿を言説が構成し切れていないことになってしまうわけで、しかもそれが動的に動いている面も表現しないとならないだろうし、何かそういうところで不確定なことを述べていないと真実味を醸し出せないというか、そんなことまで配慮しなくても話の内容が面白ければ興味を持ってくれるだろうし、興味を持ってくれる人たちの頭の程度が低ければそれだけその手の陰謀論のようなフィクションでも騙されて満足してくれるのだろうが、それが程度が低いと思われてしまうのだから、何かそう思われてしまうような至らなさがそこにあるとしか思えないわけで、それが語り手の意図や思惑を超えた偶然の作用を話に感じ取れるか否かにかかってくるのかも知れず、少なくとも何らかの対象について語っているのだから、語り手には捉えきれない面がその対象にはあって当然だろうし、それを浅はかな断言や決めつけによって覆い隠そうという魂胆が見え見えでなくても、そうした謎の面が語りの中で表現されているか否かで話の信用度も違ってくるだろうし、しかもそれが語っている当人にはその自覚がなくても表現されているようなら、ますます話にリアリティが醸し出されてくるのかも知れないが、それがこれから想定されることを語ろうとする際にも利いてくることかも知れず、語っている当人が意図せずに語っていることの中にその時代の傾向や方向性などが含まれていて、またそれにはこれから生じてくる状況や起こるかも知れない出来事の予兆を感じさせるものも含まれているのかも知れない。


2019年

12月31日「フィクションと現実」

 単純な論理で何を説明してもいい加減な内容にしかならないのは当然かも知れないが、わかりやすくするにはそうしないとならないのかも知れず、そうなると話の内容がフィクションになってしまうのかも知れないが、もちろんフィクションが単純な論理だけから構成されているわけではなく、その内容にも様々な傾向や方向性や特徴があるだろうから一概には言えないが、別に現状をフィクションから説明することもないだろうし、現実の状況を現実に起こっていることやその際に思っていることや考えていることから説明すればいいわけだが、そう思っていることや考えていることがその人が思い描くフィクションとなり、そうやって現実に起こっていることにその人の思いや考えから生じたフィクションを当てはめながら説明すると、そんなフィクションを構成するに当たって生じる物事の単純化からそれに固有の論理や理屈が導き出されて、そんな論理や理屈に基づいて説明を物語として再構成すると、当人にとっては何やら納得できてもっともらしく思われるような内容となってしまうわけだが、たぶんそういう水準に留まっていては説明している内容が当人の恣意的な都合が反映されたものになってしまうだろうし、そんな自らの思いや考えに沿った内容ではまずいとも思えないだろうが、それで済むならそれに越したことはなく、大して疑念も抱かずにそんな説明から導き出された現状に対する認識の中で心穏やかに自足していられるのかも知れないが、そういう現実はすでにそれを解釈したつもりの人の都合に引き寄せられた現実であり、その人の頭の中ではしっくりくるかも知れないが、価値観や認識を共有しない他の人には違和感が伴う内容かも知れず、そういう意味で他の人にはフィクションだと思われてしまうのかも知れないが、その人と価値観や認識を共有する人にとってはもっともらしい内容に思われるだろうし、またその人と利害が一致する人にとってもそういう現状の解釈が好ましいと思われるのかも知れないが、そんなふうにして他の多くの人たちがもっともらしい内容のフィクションを共有できれば、それらの人たちを包み込んでいる世間の集団意識もそんな解釈の内容を共有しているのかも知れないし、そうやって社会全体でもっともらしいフィクションを共有できれば何やらそれが神話的な効果を発揮して民族に固着したアイデンティティのようなものが構成されることになるのかも知れないし、それを民族とは呼ばすに国民と呼んだり何人と呼んだりしても大して変わらないだろうが、そういう固定観念に囚われている人たちが現状の中で同じような認識や解釈を共有していることになれば、そうやって世間の中で固有の思いや考えが循環しているような状況がもたらされていて、そういう思いや考えに囚われた人たちにはそれらの人たちに固有なフィクションによってつながるような共通の感覚があるのかも知れないが、そういう感覚に違和感を抱くような人がいれば、その人には多くの人たちがおかしな固定観念に囚われていると思うだろうし、それが否定的に思われれば偏見だと認識されるわけだが、実際にそういう偏見に囚われた人たちが他の人たちを差別するようなことをやっていれば、それがそれらの人たちが共有している悪習であり、場合によってはやめさせなければならないことだと思われるのだろうが、もちろんそれをやめさせようとすればそれらの人たちから反発や抵抗に遭うだろうし、そうやってなかなか改まらないような慣習に囚われた人たちの存在が、それらの人たちが住んでいる地域では紛争を引き起こすような要因ともなっているわけだろうが、そうなるとそれらの人たちが共有しているもっともらしいフィクションがそんな現状をもたらしていることにもなるわけで、そうやって共通の思いや考えとともにフィクションも現実の中で循環していることにもなるわけだが、それがそれらの幻想や妄想を抱えた世間を構成しているような状況ともなっているわけだから、そういった世間の中で知ったかぶりの知識を共有しているつもりの人たちには外部から何を言われようとも聞く耳を持たなくてもかまわないような連帯感や安心感があるのかも知れず、そういう範囲内で生きていける人たちをより多く抱えた世間ほど安定していて、それだけ内外からもたらされる変化への耐性も備えていて、内部や外部からちょっとやそっとの揺さぶりをかけられてもびくともしない強固な構造を有しているのかも知れないが、それと同時にそんな世間に囚われているわけだからその中にいる人たちにはそれが重荷にもなっているだろうし、容易にはそこから抜け出せないとなるとそこで何らかの抑圧を受けている面もあるのかも知れず、要するに世間の意向に従わざるを得ないような不自由な思いがあるわけだが、連帯感や安心感と引き換えにして不自由な思いを強いられているわけだから、自由を求めるにはそんな世間から抜け出す必要があるのかも知れないが、逆に自由を求めるような事情や理由が生じなければ世間の中に引きこもったままでいてもかまわないだろうし、同じような人たちが他にも大勢いれば引きこもっていても孤独感に囚われることもないだろうし、逆に自由を求めると周囲から孤立して孤独感にさいなまれることにもなるだろうし、周囲の人たちにはその人が身の程をわきまえないことをやろうとしているようにも見えてしまい、それがその人に対する差別となって集団による攻撃的な敵意を誘発するのかも知れないが、それも自由を求めようとしている人が特定の民族的あるいは宗教的または国民的なつながりを持っていて、他の人たちともっともらしいフィクションを共有している限りでのことであり、その人がもとから根無し草的な立場や境遇であるなら、すでにそういう面では自由になっているはずなのだが、そう都合よく根無し草的な立場や境遇になれるわけでもなく、世間と何らかのつながりがないと生きていけないような立場や境遇になっているのが普通の人が囚われている状況だろうし、だから連帯感や安心感を失うのが怖くて自由を犠牲にしてでも世間との間で価値観や認識を共有しているのだろうが、そうまでして世間に従属していても見返りが何もなければ世間に対して不信感を抱くかも知れないが、果たしてそんな人たちが見返りと言えるようなものを手にしているのかといえば、それこそが世間からもたらされている連帯感や安心感だといってしまえば心理的なものでしかないだろうが、たぶんそういう人はそれだけではないと思いたいだろうし、また世間から離れてしまうと失うものの方が圧倒的に多いとも思いたいだろうが、そんなことを改めて損得勘定するような機会があるのかといえば、それもなければただ漫然と世間の意向に従っているに過ぎず、それを世間の意向だとも意識していないかも知れないが、では何なのかといえば自らの判断で主体的に活動していると思っているのかも知れないし、そうやって活動している状況がたまたま世間的な風潮と合致していればそんなことは改めて考えるまでもないことであり、それを外部から見れば世間の意向に囚われているように見えても、当人がそうは思わなければそれでかまわないようなこととなってしまい、そんな人たちが大勢より集まって世間を構成していることになれば、その内部にいる人たちにとっては何でもないことになってしまうわけだが、そんな人たちが敵視したり争っている人たちが他に存在していれば、そんな人たちとはフィクションや認識や価値観を共有しない人たちが実際に存在していることになるだろうし、それが果たして世間の外部の敵と遭遇していることになるのかあるいは世間の内部にもそういう敵がいるのかは定かでないかも知れないが、ともかくそれらの人たちと敵対している人や勢力が存在する限りで、そういう世間的に共有できるフィクションや認識や価値観を受け入れられない事情や理由も生じていることになるわけだ。


12月30日「無い物ねだり」

 すでにできあがっていて安定している社会の構造や枠組みを意図的に崩壊させるような行為には多大な労力や犠牲がつきものかも知れないし、意図的にそんなことをしなくても放っておけば自然に崩壊してしまうのかも知れないが、そんな崩壊を予言して不安を煽り立てるのは、できれば崩壊してほしくないという意向の裏返しかも知れないが、そこで人々が気づいていないのが崩壊を免れてそれなりの均衡を保っている現状が自分たちを苦しめている元凶なのに、そんな現状を守っている政府に倫理や道徳を求めてしまう矛盾であり、その一方で政府が推進している資本主義経済の中では情け容赦ない金儲けの論理が支配していて、そうやって搾取された富を徴税というやり方で強制的にピンハネすることによって政府が成り立っているのに、そんな政府に倫理や道徳を求めてしまうのだから無い物ねだりにもほどがあるわけだが、そういった倫理や道徳に基づいた政治や行政をおこなう姿を人々が夢想することによって政府に求心力が生じているわけで、しかもそんなふうに思っていることと実際に思っている対象がおこなっている内容が明らかに食い違っているのに、そんな政府に対して無い物ねだりの倫理や道徳を求めてしまうことが当然のことのように思われてしまうわけで、要するに洗脳とはそういうことを言うのかも知れず、おかしいのは無い物ねだりをしている人々のなのに、そんなことを思っている当人たちはそれに気づかないのだから、しかもそんな人々の無い物ねだりによって政府が成り立っているのに、政府がおこなっていることは無い物ねだりを裏切るような行為ばかりであって、実際に資本主義経済の中ではそんな無い物ねだりが通用するはずもなく、情け容赦ない金儲けをやらないと競争に負けてしまうわけだが、そういうことをやっている企業に搾取されている人々が政府に無い物ねだりの助けを求めてしまうことによって政府の存在意義が保たれるわけだが、もちろん政府としては資本主義経済の中でおこなわれている企業などの経済活動から徴税によって上前をはねているわけだから、実際にひどいことをやらせている側がきれいごとなどの偉そうなことは言えないわけで、当然の帰結としてそんな無い物ねだりを叶えることはできないわけだが、無理だとはっきり言ってしまうとフィクションがばれてしまうから、人々の無い物ねだりを叶えようとしているふりを装うわけで、それができないとは口が裂けても言えないところが、政府と資本主義経済との間で均衡が保たれている要因なのかも知れないが、政府としても企業としてもどちらの側からも人々から富を搾取しないとやっていけないことは明らかなのに、そんな搾取に苦しめられている人々は政府に助けを求めるしかなく、助けを求めるように調教されていると言ったら語弊があるにしても、そんな調教に成功しているからこそ政府にも存在意義があり、人々が政府に対して倫理や道徳の実現という無い物ねだりをするように仕込まれているわけだが、そんな政府を批判する側はそれが実現されていないことを批判するわけで、そうやって批判しながら政府に対してその実現を迫っているわけだが、政府にできることはといえば無い物ねだりを実現しようとするふりを装うことしかできないわけで、そんなふりを装うことでしかその存在意義がないのだから政府の立場も苦しいわけで、結局はマスメディアと協力して倫理や道徳を実現しようとする演技を見せることによってごまかすしかないのだろうし、そういう意味ではマスメディアの協力が政府の存在を保つには必要不可欠となってくるわけだが、それだけではいずれごまかしやまやかしの演技がばれてしまうから、それ以外にも人々が未来へと希望を抱き続けられるようにしなければならないわけで、そんな経緯から少数派ではあっても清廉潔白なことを主張できる政治勢力が必要となってきて、そんな勢力がやがて人々の期待を一身に背負って選挙に勝利して政治的な主導権を握り、政治の面でも行政の面でも倫理や道徳を実現するのではないかと希望を抱かせるわけで、そういった勢力は少数派でいられる限りで清廉潔白な立場や主張を維持できるわけだが、実際に多数派となって政権を奪取するようなことになってしまうとその立場や主張を維持できなくなってしまい、そうなるとそこで人々の期待が裏切られてしまうから、また新たな少数派で清廉潔白を装えるような政治勢力へと期待が集まるわけだが、そんなことが繰り返されることによっても何とか人々の無い物ねだりな要求もその維持存続が可能となるわけだから、そういった清廉潔白なことを主張する政治勢力も少数派でいられる限りでその存在意義が生じるのだろうが、果たしてそんな予定調和の均衡がいつまで続くのかと言えば、現状ではよくわからないだろうし、わかっているのは働かされて生産した富を搾取され続ける人々がいないと資本主義経済が成り立たないということだが、搾取されすぎて商品の購買力がなくなってしまうと政府と資本主義経済の間で成り立っている均衡が崩れてしまうわけで、そうなってしまう兆候として考えられるのは、人々が無い物ねだりをする気力が失せてしまうような状況の出現かも知れないが、そうならないための方策として有効なのが定期的な政権交代であり、実際に清廉潔白なことを主張している勢力を政権につかせて政治をやらせることだろうが、もちろんうまくいかずに失敗するわけで、失敗して人々の期待が裏切られてしまうから、その失敗を糧として次なる勢力が新たに登場するわけだろうし、そうやって清廉潔白なことを主張する政治勢力の側でも世代交代や新陳代謝を繰り返していかないと、政治や行政の場で倫理や道徳を実現するというフィクションを維持できないわけで、そこでもごまかしやまやかしの演技が求められていて、そうした勢力の側でも世代交代や新陳代謝をしているように見せかける演技が必要となってくるわけで、実際にいつまでも代わり映えのしない同じ顔ぶれて同じような主張を繰り返していると人々が幻想を抱けなくなってしまうだろうし、そういう意味でも定期的な勢力の再編成や主張者の顔ぶれの一新が必要となってくるのかも知れないが、いったんそういう役割を担ってしまうときれいごとを言っていられて気分がいいからなかなかその立場を他の人に譲れなくなってしまうのだろうし、そうやっていつまでもその地位にしがみつこうとして死ぬまでその立場を死守するような人が大勢出てくると、世代交代も新陳代謝も起こりづらくなくなってきれいごとを主張する場も停滞してしまうから、一般の人々もそういう人たちには期待できなくなってしまうわけだが、果たしてそういったことにまでごまかしやまやかしの演技が浸透したままでいた方がいいのかと言えば、実際にそんなことをやっている当事者にしてみたら好都合なのかも知れないが、働かされて搾取されるような役割分担の人たちからすれば逆に無い物ねだりの幻想から抜け出すにはそうした勢力が信用されなくなってしまった方がいいのかも知れないし、現状でも政府の側でも企業の側でも政府を批判する側でもそういうフィクションを維持できなくなってきているのかも知れず、だからこそそういうメディアぐるみの予定調和の演技には無関心な人が増えているのかも知れないし、実際にそれらの勢力がそれと自覚することなく協力しながら築いてきた国家と資本主義による社会の支配構造や枠組みが崩れかかっているのではないかと思われるわけだが、そんなことを思ってしまうのも幻想であり、それらが崩れることを期待することでさえ無い物ねだりの類いかも知れないが、同じ無い物ねだりであるなら予定調和にならないような期待や希望を抱いていた方が精神衛生上は好ましいのかも知れない。


12月29日「価値のあるなし」

 何か計量や計算できるものに価値があるのは、任意の量を基準として量が多ければ価値が高かったり量が少なければ価値が低かったりと判断が容易にできて、そうやって価値の目安を容易に表現できるからだが、計られた量の大小を比較することにどのような意味や意義があるかとなると、示された数値の大小が価値のあるなしに直結してそれによって良し悪しの判断ができるわけで、そういった価値の実態を確信してもかまわないのかといえば、信じられる基準があればそれを目安にして価値を確信できるのだが、そういった価値は量の大小である限りにおいて相対的な価値だとも言えるわけで、それを売ったり買ったりの市場取引がおこなわれていれば、その取引量に応じて価値も変動するだろうし、そうなると価値を計る基準や目安も変動するわけだが、そうでなくても価値というのはその場の状況に左右されるものであり、希少であれば価値が上がってありふれていれば価値が下がるわけだが、逆にありふれているものには安心感が伴ってくるだろうし、周囲の誰もが持っているものを自分も持っていると思うことによって自身が世の中の主流に入っているという安心感を覚えるわけだが、それもある意味では価値のあることだろうし、誰も持っていない希少なものを持っていると優越感を覚えて誰もが持っているありふれたものを持っていると安心感を覚えるわけだから、その場の状況や状態に応じてどちらの価値にもそれなりに需要があるわけで、それがその人のその場の都合に合わせた価値観を形成するのだろうが、例えば貨幣などは誰もが持っているものをより多く持っていることが価値が高いことになるだろうし、そこで量の多さが価値の高さを物語るわけだが、そういう場合は量の多さが利点だと判断されるわけで、場合によってはそれとは逆に欠点の少なさが価値の高さを示すこともあるだろうし、そういう意味では利点が多くて欠点の少ないことが価値の高さを示して、利点が少なくて欠点の多いことが価値の低さを示すことになるだろうが、そうなると利点が多くて欠点も多い状態や利点も欠点も少ない状態もあり得るだろうし、そうやって判断材料が多くなってくると、一概に価値が高いか低いかを言えなくなってくる場合もあるわけで、その場で提示される条件や状況に合わせてその中で何がどうなっていれば価値が高いか低いかを判断するようなことにもなるわけだが、それが相対的な価値でしかなければ条件や状況が変われば価値判断も変更せざるを得ないし、条件や状況次第ではそもそもの価値判断自体が無効で無用になってしまうことだってあり得るだろうし、価値のあるなしが行動や活動の指針にはなり得ないような事態に直面したら、何をどう判断したらいいのかわからなくなってしまうかも知れないが、そうなっても身勝手な自分なりのこだわりから固有の価値判断をしてしまうのかも知れないし、そうやって自己満足に浸っていられるならそれでかまわないような事態もありうるのかも知れないが、その場ではそれでかまわないと思われても、その人がそう思っているだけで周囲の人たちにはその身勝手さを迷惑がられたり、そんな異端と見なした人を迷惑がるような人たちが共有しているのが、世の中の主流を構成するありふれた安心感であり、自分たちが希少なものを持っていないからこそ、逆に希少な人の存在を快く思わないような妬みになってしまって、それを希少な価値だとは思われないのだから、身勝手なことをやって迷惑がられるような人に世間的な価値はないことになるわけだが、確かにその時にはそれが身勝手な行為だと世間の一般常識の範囲内では思われるとしても、その場の情勢が変われば逆にありがたがられるようなことになる可能性もあるのかも知れず、そういう可能性まで考慮に入れると、現状の中でおこなわれていることの良し悪しを世間的な価値判断に基づいて断言することがもっともらしく思われる場合があるにしても、実際にそれがおこなわれていることであるのだから、そういう行為をおこなえるような状況となっていて、それをおこなえる条件が整っていることにもなるのだろうし、たとえひどいと思われるようなことがおこなわれているとしても、それを許しているような状況があるのだから、そうした状況が変わらない限りはおこなわれてしまう可能性が高いだろうし、それがひどいと思われるならそういうひどいことがおこなわれてしまう世の中をひどいと思っている人たちは変えようとしなければならないわけだが、果たして変えようとして変えられるかとなると、その如何にかかわらず変えようとしなければならないと思うなら、そう思う人たちは世の中を変えようとするだろうし、実際にそんな人たちが大勢いるわけだが、そんな人たちの尽力によって少しずつでも変わっている面もあるのかも知れないし、またそれにもかかわらず変わらない面もあるのかも知れないが、果たしてそれが良い方向や傾向の変化なのかあるいは悪い方向や傾向の変化なのかは、そういう尽力を快く思っていたりいなかったりする人々の立場や境遇や思想信条などによっても判断の分かれるところかも知れないが、それも相対的なことだと判断するなら、そういう方向や傾向の尽力の強さや費やされた時間や経費や動員された人数の多さなどによってもその価値を計ることができるかも知れないし、そんな価値によって物事の意味や意義が決まってしまうのなら世話がないが、そんな判断も人によって立場や境遇によっても受け止め方が異なってくるだろうし、その良し悪しを断言できるような特定の価値観に凝り固まることの良し悪しも、そうした価値観が世の中のどこまで通用しているかで、それに対する捉え方や考え方も異なってくるだろうが、そんなことを考えていたりおこなっている人たちがそれなりに存在しているということも、現状の世の中が現状のように構成されていることの条件や前提となっているわけで、そういう意味では現におこなわれていることを基準として判断しなければならないし、それらの行為や活動を可能にしている条件や前提がどうやって生じてきたのかを明らかにできれば、それへの対処や対応も自ずから明らかになってくるのかも知れないし、そういう傾向や方向で思考を巡らしてそれに対しておこなうべき行為を模索していくことが肝心なのかも知れないが、そうである限りで誰もがただ闇雲に活動しているわけではなく、その活動を可能としている条件や前提に囚われながら活動しているわけで、それがやめさせるべき活動だと思うならそれを可能にしている前提条件を変える必要が生じてくるわけだが、それが政治的な行為として単に制度や法律などの改正や新設によって可能なのかといえば、そんなふうにして政治的な行為を目指す人たちはそう思うだろうし、そういう方向や傾向で尽力しようとするわけで、またそういった尽力に期待してそういう勢力を支持したり応援する人たちもそれなりにいるわけだが、それだけでかまわないのかといえばそうは思っていない人も大勢いるのかも知れず、そんな人たちが何をどうしようとするかで現状を構成する前提条件も変わってくるのかも知れないし、そういう意味では現状の中で存在している物やおこなわれている事の良し悪しを判断できるような、そのよりどころとなっている価値観を信じている人々の意識を変えていくような試みも求められているのかも知れない。


12月28日「偏見や臆見に囚われた意識」

 意識が何かに囚われている時にはそれが妄想であっても欲望であってもそれを思うことについては切実な理由がありそうだが、その理由を意識できなければ外部からもたらされる何らかの作用に影響されたり刺激されてその対象に囚われてしまうのだろうが、その対象が何らかの論理や理屈に基づいた行為や活動であるとすると、論理や理屈に突き動かされておこなう行為や活動であるからこそ、それをやらなければならないという使命感や責任感で凝り固まってしまうのかも知れないが、一途にそういうことをやろうとするのだから他のことが見えていない可能性があるわけで、そうなるとそれをやるに伴って絡んでくる障害や妨害などの邪魔な作用を無理にでも取り除く必要が生じてきて、それに伴って他との兼ね合いに関してバランスを逸したことをやってしまいがちになり、そういったことが悪影響を及ぼしてくると次第にやっていることがうまくいかなくなってしまうのかも知れないが、それ以前に元から無理なことを強引に推し進めてきた経緯があるのかも知れないし、そうやって結果的に失敗に終わった行為や活動を後から振り返って考察してみればもっともらしい失敗の原因を色々と指摘できるのかも知れないが、それをやっている途中ではなかなか気づかないだろうし、だからすでに動き出してしまった大がかりなプロジェクトなどを途中で止めるのは困難なのかも知れないが、それを外部から批判するような行為はいくらでもおこなわれるだろうし、失敗に終わるとか破綻するとか予想したり予言することもいくらでもできるのだろうが、もちろんそれをやっている当事者はそういう意見には耳を貸さないだろうし、そういう否定的な意見が放置されている限りでそういった意見によってやっていることが中止に追い込まれることもなく、実際に悪影響が及ぶと判断されればそういう意見を述べる人は弾圧されるし、実際に否定的な意見が封殺されるようならそういう意見を述べる人にもその内容にもそれなりの世間的な影響力があることになるのだろうが、そういったやっていることとそれを批判する意見との真正面からの衝突がなければ、何らかの対象への批判は無効と判断してもいいかというとそうとも言い切れない面もあるのかも知れず、中には批判されている当事者にもそれを批判している人にも気づかれない要因や作用があるかも知れないし、そういう要因や作用がそれらの関係者の気づかないところで何らかの作用や影響を及ぼしていて、それによって関係者や関係団体などの行為や活動がそれらの人たちが思ってもいないような方向や傾向にねじ曲げられてしまって、それを放置していると後からとんでもないような事態になってしまうことがあるのかも知れず、しかも実際にそんな事態になっているのに誰もそのことに気づかない場合もあるだろうし、それどころかそれが既成事実や織り込み済みのこととして問題にならない場合もありそうで、誰もそれをとんでもないことだとは思わなければ実際にとんでもないことではないわけだが、よく考えてみないとそれがわからない場合もあるわけで、そこで何かおかしいと思って引っかかるものを感じているのになぜかそこを素通りしてしまうから、そのとんでもなさを実感できずに今に至っているようなこともあるのだとしたら、それについて改めて考えてみる価値があるとしても誰かがそれに気づかないことにはそういう成り行きにはならないだろうし、そういった誰も気づかないようなとんでもないような事態が世界の方々で起こっていて今までにも起こってきたしこれからも起こってしまうとすれば、人の意識が捉えている世界はいつも部分的に過ぎず、捉えている部分に関しても恣意的な強調や誇張や無視や過小が伴っていて、当人にはその自覚がなくてもそうなってしまっていて、そういうところで大多数の人たちの都合が優先されているようだとそれらの都合の悪い真実が人々の偏見や臆見の陰に隠れていたりするわけで、そこを素通りせずに立ち止まって注意深く探してみれば何か見つかるのかも知れないし、その結果として誰もが見逃してきたとんでもない事実が明らかにされるようなら、それに気づいた人たちの見方も考え方もそれ以前とは様変わりして、大多数の人たちが抱いている偏見や臆見が改められる可能性も出てくるわけだが、いったんそうなってしまえば今度はそれが当然のことのように思われてそれも織り込み済みとなってしまうから、それ以降はそれも何でもないことの範疇に入ってしまうのかも知れないが、そうやって改められる偏見や臆見がある一方で、また新たに生じてくる偏見も臆見もあるだろうから、その都度それに気づいたところから改められるしかないわけだろうが、そこでも世の中の大多数の人たちにとって都合のいい論理や理屈が優先されている中で無視できない問題が生じているようだとそれがなかなか改まらないのかも知れないし、具体的にそれが資本主義経済や企業などの経済活動に関する問題であったり国家や政府などの行政に関する問題であったりするのかも知れないが、実際にそれがなかなか改まらないのだから現状では誰もそれが偏見や臆見だとは思っていないのかも知れないし、そう思っている人がいるとしてもそれに気づいているのはほんの一握りの人たちかも知れないし、大多数の人たちからは無視されて問題視されていないようなことかも知れないが、それが妄想だとは思わないにしても欲望となって人々の意識に取り憑いているようなことであれば、実際に多くの人たちがそんな欲望の赴くままに活動しているのだろうが、そこに多くの人たちが信じられるような論理や理屈が介在しているとすれば、欲望という感情的な面よりも理性的な思考も伴っているだろうし、そうであるからそれに促されて動作する行為や活動を正当化できるのだろうし、そういうことをおこなって何が悪いのかと開き直れるのかも知れないが、別に開き直っている感覚もないのかも知れず、やって当然のことをやっているに過ぎないと思われるとしたら何の問題も感じられないわけで、そんな何の問題も感じられないようなことから問題が生じているとも思われないわけだが、実際にそこから何か問題が生じているとすればそれが現状で問題になっているだろうし、それが経済活動や行政活動から生じている問題であれば誰にとってもそれと意識されるような切実な問題となっているはずだが、そこで問題と意識されるような面と何の問題もないと思われている面とが表裏一体となっていれば、そうなっていること自体が問題の核心を構成しているのかも知れないが、多くの人たちが意識しているのは問題の核心ではなくむしろ問題となっている面と何の問題もない面とが別々のことだと捉えられていて、それとこれとは別々に対処すべきことであり実際に別々の対応がとられていて、問題となっている面に関してはそれ単体で対処するような成り行きになっている一方で、何の問題もない面については逆に肯定的に受け止められて、それをさらに推し進めるような成り行きにもなっていて、だから問題がいつまで経っても解決しないというか、解決してしまったら逆に推進している面が滞ってしまって困った事態となってしまうだろうし、そういう面では解決しないようにする作用が働いているわけで、だからこそ現状では経済的な問題も行政的な問題も解決しがたいような事態となっているのかも知れないし、逆に解決してしまった時が現状で主流となっている経済的な枠組みや行政的な枠組みが崩壊した時になるのではないか。


12月27日「生きるための指針」

 人が生きていく上で何をどうすればいいという答えを求めることが目的ではないはずだが、自分で答えを探すとなると求めようとする答えに裏切られたりはぐらかされてしまう可能性もあるだろうし、だから他人が提示する答えに満足しようとするわけでもないだろうが、その場の状況から導き出された答えは状況が変われば通用しなくなる恐れがあるにしても、その場の状況に合わせて生きていることは確かであり、そうかといってその場の状況に左右されない恒常的かつ普遍的な答えがあるわけではなく、何の条件も制約もなければ具体的に何をどうすればいいかまではわからず途方に暮れてしまい、何をやれとも何の指示もされないような状況では答えなど出しようがないだろうし、そんな答えにもなっていない答えでは活動の糧とはならないだろうし、結局は答えに頼るのではなく、自らが生きていること自体から目を背けようとしないことがとりあえずの暫定的な指針でしかないだろうし、それが何の指針なのかは不明かも知れないが、他の何に結びつかなくてもかまわないのかも知れないし、答えに至らないことが何を意味するとも思えないが、それが目的ではないことは確かなのかも知れず、確かというと確実にそうとも言えないのだから確かではないかも知れないが、その場の条件や制約とは無関係でありたいのなら答えや目的の確からしさとも無縁でありたいのかも知れず、そんなふうに思っている時点でおかしいのかも知れないし、すでに思ってもいないことを書き記しているのかも知れないが、何を書き記しているつもりもないといえば嘘になるだろうが、心理的に余裕があるとはそういうことかも知れず、余裕がなければそんなことなど考えている暇もないし、何か答えを求めている時点で現実に体験しつつある世界から外れて考えようとしているわけで、現にここにある現状を構成している条件や制約を考慮に入れずに考えようとしているからフィクションにしかならないのかも知れないが、それでかまわないわけで、求めているのが答えなのではなく、答えを求めようとする姿勢を保とうとしているだけで、答えを求めているふりをしているだけとなってしまうわけだが、やはりそれでもかまわないのだろうし、それ以外にはあり得ないような成り行きに誘導されつつも何に誘導されているのかわからなくなってしまい、実際に何でもないようなことを述べていることになり、それが当初の目的ではなかったはずだが、何かを考えているうちにその何かに誘導されてしまい、そうやって何に誘導されているのかを確かめられるわけだが、それを確かめたところで答えなど出るはずもなく、それが答えだと確信できるわけでもないだろうし、確かめたいのに確かめようとはせずに答えを出すのも先送りにしていること自体が生きていることになるのかも知れないし、そこで安易に確信を得てしまうと目的を達成したことになってしまい、そこから先の時間と空間では生きていることにならないのかも知れないが、そんな生きていない人たちが何をやっているのかといえば目的の国で暮らしていることになるのかも知れず、目的の国とは何かといえば、何か確信を持って断言できるような何かがそこにあって、そうした断言できる何かが求めている目的でもあり、求めていて目指している目的とともにその人の生きる糧も生きる道も定まっているような場所が目的の国であり、それを否定してしまえば何が生きる目的なのかわからなくなってしまうだろうが、それ以前に定まった目的があるのだからわからなくなってしまった状態には留まれず、そうなってしまった状態に留まる理由などないわけだが、留まる理由も根拠も定かでないのにそんな不安定な状態に留まれるかというと、留まっている必要もないのにそこに引っかかっているのかも知れないし、否応なくそうなってしまうのがその場に留まれる条件であり、その場に留まっている限りで生じる制約でもあるのかも知れず、答えや目的に至らない状態の中でそういった場が生じてくるのかも知れないが、それは答えが求まってしまったり目的が定まってしまったりすれば消失してしまうつかの間の場でしかないだろうが、結局人はそういったつかの間の場で生きているのかも知れないし、それ以外の確信や断言とともに安定して固定してしまった時空では生きていることにはならず、では生きているのではないとしたらどのような状態なのかといえば、少なくとも実感としては生きながらに死んでいるとは思えないにしても、死んでいる人間が自らに生きていると嘘をついているわけでもないだろうが、そういう状態を否定的に捉えるのではなく肯定的に捉えられるわけだから、それを目的に殉じて答えに囚われた状態と見なしてはならないだろうし、もっと何かそれ以上に肯定しなければならない過剰な状態と見なした方がいいのかも知れないが、あまりに自らの立場や境遇を肯定してしまうとそうした自己正当化以外の何ものでもなくなってしまうだろうし、要するにそれは自己正当化のために生きていることになるとともに、自らの存在と行いをひたすら肯定し続けることにもなり、絶えず自らにそれを言い聞かせることにもなるわけで、そうやって自らが自らを励まし続けているのだが、いったんそうなってしまうと果たして自らではなく他人を励ます余裕があるのかと問われてしまうかも知れないが、自らを励ませるのだから他人にも同じように励ましの言葉をかけられるはずだし、そうやって励まされている他人も元気をもらって頑張れるのかも知れないが、たぶんそこには自己否定や自己卑下が入り込む余地がないから元気でいられるのかも知れないし、たとえその人が死期が近い末期癌患者であっても気持ちだけは元気でいることを装えるわけだろうが、そうなってしまうと元気で生きていることが目的となるだろうし、それが元気であるだけでは空元気でしかないかも知れないという疑念の余地が生まれてはまずいのかも知れず、そうした疑念が生じないようにひたすら元気でいるふりをしていなければならないとしたら、それもある意味でつらくて疲れることであり、そうした空元気の状態を演じることで逆に消耗してしまう人も中にはいるのかも知れないが、意外と躁鬱の躁状態というのはそういう状態なのかも知れないし、そういう状態を回避しようとするなら素直に落ち込む時は落ち込んでいてもかまわないだろうし、自己否定や自己卑下をもたらすような状況では健気に空元気を装う必要もないのかも知れないが、無理に肯定と否定の抑揚をつける必要もないだろうし、それが演技にならない程度の心理状態を保てればいいのだろうが、そうはいっても演技に囚われてしまう状況の中では何かのふりを演じざるを得ないだろうし、そんなふりをしているのを自覚できればいいわけだが、それを自覚できないからこそ何かというと過剰な自己肯定を伴ってしまい、そうした自己正当化が習慣と化してしまうとひたすらそうなってしまうわけで、そうなる手前でそれに気づいて思いとどまろうとすることができないし、思いとどまる必要を感じなければそれを自覚することもないわけだから逡巡などあり得ないわけだが、そうやって死期が近い人はひたすら自らの生を消耗し続けることによって元気を装えるのかも知れない。


12月26日「争いの形態」

 社会の中で人と人とが争うのはよくあることだが、争いから身を守るためにも争いを有利に運ぶためにも人が大勢より集まって集団となるのもよくあることであり、さらにそんな集団同士で争うのもよくあることだろうが、それが暴力を用いた集団同士の争いになると戦争の様相を呈してくるわけだが、それが暴力とは言えないにしても集団の内外で権力を使って人を従わせる行為もよくおこなわれることであり、そこで人が集団に対してあるいは立場や地位が上位の者に対して従わなければならない事情や経緯が生じて、争いというのはそうした権力の行使によって他人や他の集団を従わせる目的で発生していて、争って勝った方が立場や地位が上位となり負けた方が下位となって、下位の立場や地位となった人や集団が上位の立場や地位となった人や集団に従わなければならなくなれば、そこで生じている事情や経緯として争いの結果からもたらされた立場や地位の上下関係が生じるわけだが、そうした立場や地位の上下関係の中で下位の立場や地位となった人や集団が自らの不利な状況を打開するために上位の立場や地位の人や集団と争うのもよくあることだが、それが争う理由であり事情や経緯ともなるわけで、そういう意味では争いをもたらす権力の行使は争う理由であり事情や経緯であるとともにそれが争いそのものでもあり、そうした権力の行使と暴力の行使とは同じ力の行使であり、力の程度や傾向や種類の違いによって権力の行使となったり暴力の行使となったりするわけだが、暴力の行使もルールに基づいたものなら戦争ではなくゲームとなるだろうし、もちろん戦争にもルールがありゲームも戦争の類いだから両者の区別も曖昧だが、権力の行使もルールに基づいた力の行使であり、そのルールを決めたのが争いに勝利した者や勢力であれば争いの延長として自分たちが有利になるようにルールを決めて、そのルールを争いに負けた者や勢力に押しつけていることになるだろうし、当然そんなルールであれば押しつけられ課された者や勢力には不満なわけで、不満を解消するには自分たちにも納得がいくルールにしなければならないから、ルールを決めた者や勢力と争わなければならなくなり、そうやって争いが延々と続く状況となって今に至っているわけだろうし、その延長としてこれからも争いが続いていくのだろうが、ルールというのは誰もが納得するような形態には決してならないだろうし、何かしら不利に思われるルールが決められたらその決定に反対して抗議する成り行きになるだろうし、実際に反対して抗議する者や勢力が後を絶たないわけだが、そうなると決定した者や勢力が反対したり抗議できないように力で抑え込んで黙らせようとすれば、そういう力の行使も権力の行使であり場合によっては暴力の行使にもなるわけだが、そういったことの延長として反抗するような人たちに教育を施して従順になるように調教するようなことも権力の行使の一形態として実施されるわけで、それが学校教育の一環として子供たちを対象におこなわれているはずだが、それもあからさまな権力の行使や暴力の行使だとは思われないような配慮がとられていて、体罰の禁止などの方便としての高邁な教育理念などが掲げられているはずだが、実態としては調教の一種だろうし、そこでも力の行使に反発して抵抗してしまう人たちが後を絶たないわけだが、そうやってルールを押しつけてくる者や勢力と争い戦いながら人が生きている現状は延々と生まれてから死ぬまで続くことになるのだろうし、程度や傾向の違いこそあるものの生きている間中争いがやむことはないのかも知れないが、その一方で争いをやめさせようとする力も常に働いていて、やめさせるまでには至らないとしても争って死傷したり不幸になったりしない程度に争いの程度を弱めるような試みがおこなわれるわけで、そういうところで争わずに人を愛するようなことを推奨する宗教なども生じてくるわけだが、そこでも人道的な愛を世界に広めるために、争う人々と戦っていることにもなるだろうし、その戦いが一見暴力を伴わないように思われるかも知れないが、そういう見方の人はそこでおこなわれている宗教的な儀式に目を奪われて物事の本質を見ていないことにもなるわけで、何よりもそこで大勢の人たちが宗教的な儀式に参加していることがその宗教や宗教的な指導者から権力を行使されていることになり、そうやって儀式に参加させられて特定の行動や動作を強いられたり金銭を使わされることに反発したり抵抗を感じる人も出てくるだろうし、それもそれを許容できる人とできない人とで受け止め方が異なるが、そういったその手の宗教に対する受け止め方の違いからも争いが生じかねないし、人が大勢より集まって一定の心理状態や動作や活動を強いるようなことがおこなわれる中では必ず権力の行使が伴うだろうし、そういった権力の行使に従ったりそれを許容できる人とできない人の間にはそれに対する認識や受け止め方の違いが当然生じてくるわけだが、そこで生じている差異を解消するにはそういったことに従うか従わないかのどちらか一方に態度を統一する必要が出てきて、従わない人たちを従わせるような権力の行使や場合によっては暴力の行使がおこなわれる可能性も出てきて、そういうことをやること自体が争いになるわけだが、それが何であるにしてもたとえ争いをやめさせるような心理状態になるにしても他者に対する寛容を説くような思想になるにしても、一定の状態や態度を世界中に広めること自体がそれに反発したり抵抗したりする人たちとの争いを誘発することになるわけで、そういうところでその種の啓蒙活動が権力の行使や暴力の行使などの弾圧に直面して破綻するわけだろうが、啓蒙する側はそれを破綻とは言わずに殉教ということもあるだろうし、実際に殉教という虐殺に直面した人々を聖人として祭り上げるような風習もあるわけだが、それでもそれが啓蒙という布教活動の原動力となって権力の行使や暴力の行使との戦いとして非暴力などの活動を推進しようとするのだから、それが非暴力などの体裁をとっている限りで浅はかな人たちは戦いや争いとは違うものだと思ってしまうわけで、それがその手の宗教の巧妙な罠だといってしまうと他に反宗教や非宗教のような宗教形態があるのかと問われてしまうかも知れないが、そんなものはあり得ないだろうし、宗教がどのような形態になってもそれを世界に広めようとすれば宗教に反発する人や抵抗する人との間で何らかの争いを伴うわけだが、たぶんそういった争いに勝利してはまずいのだろうし、また争いに負けてもかまわないし負けるわけにもいかないのだろうが、そういう状態や状況を言語的に表現しようとするとまやかしやごまかしになってしまい、それ以前の状態に留まれるかというとそうもいっていられないのだから無理なのかも知れないが、そうやって人が個人としても集団としても争っている状態に留まっていられる限りで何とかそこで生きていることにはなるわけで、その生きている状態の中で活動を継続できればそのまま生き続けられていることにもなるだろうし、とりあえずそういう状態を保っていられればその人にとってはそれでかまわないようなことにもなるわけだ。


12月25日「世間の特徴」

 一見筋が通っているように感じられてもっともらしく思われる話というのは、何かそういう内容を語る人の意図や思惑が透けて見えるようなことになりやすいが、そういう話に騙されたり飛びつくような人たちは世間に流通している紋切り型の見方や捉え方に囚われていることも多く、そういう内容を物語る著名人と受け取る一般大衆との結びつきを強める上でその手の本当らしいデマやフィクションが無視できない重要な効果を発揮しているのかも知れないが、そこで著名人も一般大衆もその手の本当らしいデマやフィクションを本当のことだと信じてしまっている可能性が高いわけで、そうやって誰もが囚われてしまう偏見が構成されてしまうわけだからそういう物語自体がその場の世間的な状況が受け入れやすいような内容となっていて、そうした状況に合わせて一般市民が信じられるようなもっともらしい話をでっち上げるのが大衆市民社会の中でオピニオンリーダーを気取るような人たちにはありがちな行為なのかも知れないが、そうやって本当らしいフィクションを著名人と一般市民が共有することによって忘れようとしているのがそれらの人たちにとっては都合の悪い実際に起こった出来事であり、それを思い出さないようにするためにも都合が良くて辻褄の合う話をねつ造して共有しようとするのかも知れないが、それらの人たちは意識してそうするわけではなく、それなりの意図や思惑があるとしてもそこに構成されている世間という集団意識によってコントロールされているといえるのかも知れず、そこで世間にとって都合のいい話をでっち上げることが著名人の中でも学者や評論家などの知識人に分類されるような人たちには求められていて、そうすることによって世間を安定させて世間に囚われている人々を安心させる役目を担っているのだろうが、そういう行為が批判されるべきことかというと批判されるどころか場合によっては歓迎されることだろうし、普通に見逃されて許容されるようなことであるのが世間の一般常識に囚われた人たちの共通認識となっているのかも知れず、たとえそれが見え透いたデマや風説に基づいたフィクションであっても許される一方で、逆に世間にとって都合の悪い事実を暴露するようなことをやると空気を読めない行為として世間からもメディアからも叩かれるような成り行きとなってしまい、そうなることを恐れて事実が隠蔽されてしまうような事態も起こるだろうし、そうだとすると世間というのはそこに囚われている人たちが心地良くなるような虚構によって保たれていることになるのかも知れないし、そこに暮らす人々が安心と安全を求めて世間とそれを支えるメディアを支持しているとしても、心地良くなるだけでは満足しないわけで、逆に不快に感じるような対象も用意されているというか、そういう役割を担った人や団体も都合良く登場してしまうのが世間のややこしいところではあるわけだが、そういう人や団体も世間が叩きやすいようにフィクションによって加工処理されていて、ここを叩けばいいというポイントが前もって設定されているというかそういう話がでっち上げられていると見なした方がしっくりくるのかも知れないが、誰に頼まれたわけでもないのにそうなっているところが不可思議に思われるとしても、そんなやられ役を割り振られた人や団体も叩くのに格好の欠点や傷を抱えながらもその存在を世間に許容されていて、何かというと安全弁のガス抜き効果を狙っているわけでもないのに周期的に事ある度ごとに世間からもメディアからも叩かれながらもその存在を保っている一方で、そういった存在が邪魔をして世間にとって真に脅威となるような人や団体の登場が阻まれているというか、逆に世間を脅かすような存在が登場しないように前もって叩きやすい素材が確保されているといえるのかも知れず、そういう素材が体制側にも反体制側にも存在していて、どちらの側でもまるで予定調和のようにしてそういった双方にとって叩きやすい素材を叩くような成り行きになってしまうわけで、逆に叩きにくいような素材は世間の話題に上らないように除去されているのかも知れないが、叩く側にとって叩きやすい対象を叩くのが当然の成り行きなのだから、意識のフィルターに叩きにくい素材が引っかかってこないのも当然のことであり、そこでも叩くのに都合の悪い真実が意図的に避けられていると言うよりは、何かを叩くという動作に適している素材が世間から提供されていると捉えた方がしっくりくるような成り行きとなっているわけで、そうやって気に入らない対象を叩く役割の人たちも気に入らない対象として叩かれる役割の人たちも世間の術中にはまっているわけだが、いつまでもそれらの人たちが予定調和の範囲内で活動できるかと言えばそうでもないだろうし、そこから微妙に意識をずらされているような成り行きも多少はあるのかも知れないが、それがそれらの人たちにとっては思いがけない事件や出来事となるわけだろうが、そういう事件や出来事に遭遇してもなお許容できる枠内にそれらをはめ込もうとする作業が待ち受けていて、そういう作業を担当しているのが知識人という種類の人たちであり、それらの人たちによってそういう事件や出来事が安心して世間に受け入れられるようにもっともらしい加工が施されるわけだが、そういった加工処理も完璧とは言いがたい面もあってそれらの人たちの力量を超える事件や出来事だと手に負えないし、そういった事件や出来事に関してもっともらしく辻褄が合うような論理を用いて説明しても何かぎこちなく不自然な印象を伴うようだと、その論理に破綻やほころびが生じていて説明に無理があるように思われてくるし、そういうところから世間が隠蔽したくてもできないような不都合な真実が見えてくるのかも知れないが、そういうことが世間の一般常識に囚われた人たちに感じ取れるかというと大抵はスルーされてしまうようなことかも知れないし、そういった真実があることを暴露しようとしてもその名前や肩書きに世間的な権威が伴わないような人がいくら述べても無視されてしまうだけで、そこでも世間的なフィクションに囚われた人たちには何を言っても通用しない面があるわけだが、逆にそういう人たちは世間の変化とともに忘れ去られてしまう人たちであり、世間に対しては世間を変化させる機能も変化に対応できる柔軟性も持ち合わせていない人たちであるから、そんな世間の消失とともに滅び去る可能性もあるだろうが、実際にそうなってもどうということはなく、世間が変化すれば変化した世間に合った人たちが新たに登場してきて、世間の変化とともに徐々に世代交代が進んで世間に合った人たちが主流を構成してしまうから、何事もなかったかのようにそこに世間が存在していることになるのかも知れないが、そんな世間が何でもないことであればそこに暮らしていて世間の主流を構成しているような人たちも何でもないような人たちなのだろうし、そんな世間を維持して支えるような役割を担っている人たちも何でもないような人たちであるのかも知れないし、別にそういう人たちを賞賛したり批判したりする理由もないだろうし、そこに存在しているのが当たり前のような人たちとともに世間が構成されていると捉えるしかないのではないか。


12月24日「幻想の実態と理念の実現」

 豊かさの幻想を貨幣の獲得や所持や蓄積が抱かせるとしても、周りの人たちもそれを共有していないと幻想を信じられないわけで、他人が同じ幻想を抱いていることを確認するには直接確かめてみる以外ではメディア上でそういう幻想を抱いている人を発見するしかなく、そうであるならメディアから富の幻想が常時振りまかれていれば安心できるわけだが、ではそんな幻想を裏切るような幻滅をもたらすような行為がおこなわれているのをメディアが取り上げればどういう反応が引き起こされるかというと、安心できなくなって恐怖に囚われてしまうからそういう幻滅をもたらすような行為は許せないと思うだろうし、それが例えば共産主義などへの敵意となるわけだろうが、それが幻想などではなく実感が伴うにはどうなればいいのかというと、もたらされて獲得されて蓄えられた富を消費してみれば実感がわいてくるし、贅沢な暮らしが豊かさを実感させるわけだが、誰もがそれを実感できるわけではないから多くの人たちが幻想のままに留まっているのかも知れないが、そういった富への幻想とともに権力への幻想はどうやれば実感できるかと言えば、他人に何かを指図してその他人が命令に従ってくれれば権力を実感できるだろうし、そういう他人が多ければ多いほど自分に権力があることを実感できるわけだから、何らかの団体の長になればより大きな権力を持っていることを実感できるわけで、富と権力の両方を実感するにはどうすればいいかというと、金銭を払って指図に従わせればいいわけで、具体的に労働者を雇って働かせればいいわけだし、そうなると企業の経営者となれば富と権力の両方を実感できるはずだが、そんなことを実感してもなおそれが幻想に過ぎなければ、ではなぜそれがどうやっても幻想にしかならないのかと問われるかも知れないが、人が大勢より集まって群れて群れの中で共同作業をやって生きていくのに必要な物事を生産して、それを分配して消費しながら群れの規模を維持するには、そういった富と権力の幻想が必要となってくるのかも知れず、ならば幻想は群れとしての集団的な本能から生じてくると見なせば、群れの中での主導権争いを起こすための欲望として富と権力の獲得を目指すような成り行きが自然に生じてくるのかも知れないし、どうしてそれが必要なのかと言えば、そういう欲得ずくの集団を維持するために富と権力の幻想が必要なのかも知れないが、では欲得ずくでない集団というのがあり得るのかとなると人には欲得ずくで集団を構成する本能があるのかも知れないし、そういった欲得ずくの集団から身を守るために欲得ずくではない集団を構成できるかとなると、すでに欲得ずくで人々から富を奪い権力を行使するような集団が存在しているからそれとは違う集団の在り方を夢想するわけで、それもある種の幻想に過ぎないだろうし、実態としてはそこで欲得ずく構成された集団同士が争っているに過ぎず、どちらの集団も欲得ずくで群れていることを隠蔽して自分たちに正義があることを正当化するために、欲得ずくの集団から身を守るために集団を構成しているという大義名分にすがろうとするわけで、そう見せかけるには欲得ずくでないことを装う必要が出てきて、それが民主主義の理念に基づいた政治制度になるはずだが、それには物心両面で余裕がないとそういう制度の土台が欲得ずくで構成されていることがあらわとなってしまうわけで、そうやって経済的な余裕のなさが欲得ずくの実態を暴くような結果を招いているにもかかわらず、自分たちに正義があることを信じて疑わないような幻想の虜となっている人たちにしてみればそういう実態は認めがたく、その代わりに志の低い政治家の腐敗や劣化や官僚たちの事なかれ主義がそうした事態を招いているとか、企業経営者が倫理や道徳をおろそかにしているから欲得ずくの本性がむき出しになっているとか、そういった精神論で事態の沈静化を図ろうとするのかも知れないが、実際に経済的な貧窮を実感している人たちにはそういったごまかしは通用しないだろうし、そういう人たちも自分たちの経済的に不利な情勢を打開するために欲得ずくで民主主義的な政治制度にすがろうとするわけだから、そもそもそういう欲得ずくな実態を隠すための制度が民主主義なのだからその辺に勘違いがあるだろうし、民主主義によって経済的に豊かになれるわけでもないわけだが、ではどうすれば豊かになれるのかと言えば金銭的な金儲けに成功すれば経済的な豊かさを実感できるし、権力を行使できる地位や立場になれば他人に指図して従わせることによって何か偉くなったようにも思われるし、実際にそうなる人が出てくるわけで、もちろんすべての人がそうなれるわけでもなく、全体から見ればほんの一握りの人しかそういう実感が抱けないわけだが、確率的に低いとしても絶対に無理というわけではないのだから、誰もがそうなる幻想を抱くことはできるだろうし、そんな幻想を多くの人たちが共有している限りで、そんなふうにして一握りの成功者が出る制度が許容されているわけだが、実際にはそうなりたいという欲望を抱いて同じ欲望を抱いている他人との競争に勝てればそうなるわけだから、そうなる過程で多くの脱落者が出るのは当然の成り行きであり、しかもその多くの脱落者にもそういう成り行きを納得してもらわないと制度の存続がおぼつかなくなってしまうから、そういうところでそういう人たちに幻想を抱かせるようなごまかしやまやかしが必要となってくるわけで、そういったものの中の一つが民主主義の理念であり制度だと捉えればいいのかも知れないが、そう捉えてもらっては困るわけで、それがごまかしやまやかしの一種ではなく実質的な効能があると多くの人に信じてもらわないと、それらの理念や制度を維持存続できないわけで、だから政治家が民主主義を信じる民衆の力を結集させて民衆から富を搾取しているような一部の特権階級から権力を奪うことによってすべての人たちが豊かになれるような社会を実現させようと訴えかけるわけだが、しかしそんなことを訴えかける政治家が温存させようとしているのが資本主義経済であるわけで、その資本主義経済が何をもたらしているのかと言えば競争に勝ち残った一握りの人たちが豊かになるような制度であり、そこで二律背反的な実態が浮き彫りとなってくるはずだが、妥協策として政府の権力や権限を利用した徴税と富の再分配などが提案されるわけだが、そうなると政府による権力や権限の独占を招いて、昔の社会主義国のように資本主義経済自体がうまく回らなくなってくる可能性が出てくるわけで、実際にケインズ流の社会主義的な傾向がうまくいかなくなってきたから規制緩和などの新自由主義的な傾向が出てきたわけだが、喉元過ぎれば熱さ忘れるということわざが当てはまるかどうかは疑わしいかも知れないが、今度は規制緩和などの傾向が行き過ぎた感が顕著になってきたからまた昔の社会主義的な傾向の主張が目立つようになってきたのだろうし、もちろんそういう主張をしている人たちは自分たちは昔の社会主義とは違うことを強調するだろうが、実態としてどうなるかは今後の状況が示してくれるだろうし、今さらのように新自由主義批判などをやっている人たちが信用できるかというと、大本の資本主義批判ができないのだからそれもごまかしやまやかしの類いと見なした方がいいのではないか。


12月23日「功利的な嘘」

 特定の人物の証言が信用できるとしたらその人物は信頼に足る人物といえるかも知れないが、その人物が騙されているような気がするならそれでも人物としては信用できるかも知れないが証言は信用できないのかも知れないし、相手を信用したりしなかったり証言を信用したりしなかったりする自身が騙されていれば自身も信用できないかも知れないが、自身も相手も証言も正しかったり誤っていたりする可能性もあるし、具体的にそこで何がどうなっているかはその場の状況から判断するしかないのかも知れないが、何か自身や自身の判断や相手や相手の証言を信用したりしなかったりすることに関してはそれだけで何がどういうことでもないのだろうし、またその場の状況や情勢を見極めるにしてもそれだけで何がどういうことでもないのかも知れず、ではそこで何が知りたいのかというと何かがどうにかなっていることが知りたいのだろうが、依然としてその時点では何もどうにもなっていなければまだその先があるということだろうし、その先まで行ってみないことにはどう判断すればいいのかわからないことにもなるだろうし、その先とはどこなのかと言えばそれはどこかの場所なのかも知れないしいつかの時なのかも知れないし、どこでもない場所でありいつでもない時であればいくら進んでも待ってもたどり着けないのかも知れないが、そう思っている間にも時空を移動していることは確かであり、どこへもたどり着けないとしてもどこかにたどり着こうとしていて実際にたどり着いていることは確かであり、そうなっている事態を信用できるのかと言えばできるか否かに関わりなく自身がそこまで来ているわけだが、それがどこかと言えばここでありここでもなければどこかでしかないわけだが、それがどこでもない場所であり時であるかといえば、そうではなくそこは紛れもないここでありこの時であるならば、ここにいてここにあることを信用してもいいのかも知れないが、場所や存在を信用するということが何を意味するのかとなると何でもないのかも知れないしどういうことでもないのかも知れないが、やはりそれだけでは何とも言えないことであり、それ以外の情報が知りたいのかも知れないし、実際に知っていることと知っていないことが現状の中で混ぜ合わされていて、それらの知をどう見分ければいいのかわからず途方に暮れているのかも知れないが、知は既知とも無知とも未知とも関わりがあるだろうし意識の中では知への渇望が留まることを知らないとしても、知ることだけでは済まなければ実際にそれを体験してみないと信用できないのかも知れず、自身にも他人にも騙されてしまうのなら騙されてみないとわからないこともあるだろうし、騙されていることに気づかなければ知らないままとなってしまうこともあるだろうが、騙されるつもりがないのに騙されてしまうことはあるにしても、騙すつもりもないのにその場の成り行きで相手を騙してしまうこともあるだろうし、騙すつもりで騙してしまうのならわかりやすいのだが、果たしてそれだけで事態を説明できるかと言えば自分も相手もそう思い込みたいだけで、相手を騙すつもりがあって騙しているのだと非難したいわけで、何とかそうやって思っていることとやっていることが一致していると思い込みたいわけだが、そういう辻褄の合うことばかりでないことはわかっているのに相手を批判したり非難したい時には都合良くそういう決めつけの論理を持ち出してしまうわけで、そうやって相手に非があることを主張してしまうわけだが、そういう主張を信用できるかとなるとそこに功利的な判断が絡んでくると自らを利する限りで信用することになるだろうし、自らを利すると判断すれば信用できない主張でも信用するような嘘が入り込んできてしまうわけで、そうなってくると相手の主張を信用するしないということではなく自らを利するという自らの判断を信用することになるわけだが、すでにそういう信用には嘘が入り込んでいるわけだから、相手の主張に嘘が含まれているとしても問題ないような事態となってしまうわけで、そういう込み入った事情があるのを無視できるわけがなくても一概にそれらを信用できるか否かの基準で判断できるかというと、自身に都合がつく限りでそんな判断で済ませてしまうなら自分に嘘をついてでもそんなことをやっていることになるわけで、そうやって相手に非があることをとがめるわけだからそんなことをやっている人たちを信用できるかとなるとそれが見え見えなら信用できないわけで、そんなふうにして相手の非を一方的に騒ぎ立てるような人は信用できないわけだが、そうやって相手の非を一方的に騒ぎ立てている人たちのすべてが功利的な嘘に染まっているかというと、自分で自分に嘘をついているのだから自分を騙している限りでそれに気づいていない場合があるわけで、そういう人たちは正義を主張していると思っているだろうし、そうやって相手の非を探し出しては騒ぎ立てることしかできないのかも知れないし、その反面で自身の非を探し出す能力が欠けているのかも知れず、そういう面で精神的なバランスが欠けている印象を受けるわけだが、そうやって自他共に多方面に渡って主張しないで一方的な主張を繰り返すような人たちに特徴的なのが功利的な偏りにあるのかも知れず、それが戦略的で意図的な言い落としだとは思えなければその人自身が気づいていないのかも知れないし、もはや無意識の条件反射となって発動するような習慣として身についているのかも知れないが、それもそういうことを繰り返し述べることによって鍛錬されてしまうから、いったんそういう動作が身についてしまうとそういう動作に凝り固まってしまってもはや直しようがないのかも知れないし、実際にそういった一方的に他人の非を探し出しては批判や非難を繰り返すような人はいつまで経ってもそんなことをやり続けているし、それ以外のことはできないと言ってしまうと少し違うのかも知れないが、ともかくそういうことをやる条件が整った舞台が用意されていて、用意されていなければ自分でそういう舞台をこしらえてでもそんなことをやろうとするわけで、そういう舞台を提供しているのがメディアであり、それがメディアの機能と言えるのだろうが、それだけがメディアの機能ではないにしてもそういった一方的な主張とは違うことがメディア上で言えないかとなると、物事の一面だけをクローズアップして拡大解釈する機能がメディアには備わっていて、そういう機能に一方的な主張が合っているわけで、それが宣伝や煽動という行為そのものであるわけだが、その一方で対立や対決というゲーム機能もメディアには備わっていて、相対立する一方的な主張同士を対決させてその優劣をつけさせようとする機能があり、そういった対決も売りにしているわけだが、そういう対決も見世物としての功利的な需要があって成り立つものなのだろうし、その功利的な需要にも特有のご都合主義的な嘘が含まれていて、それが見世物となっている限りで対決している双方に利益がもたらされている仕組みであるわけだから、そういう面では利害が一致していて対立している双方の利害が完全に相反しているわけではなく、それが偽りの対立である面もあるわけだ。


12月22日「執拗さの繰り返し」

  世の中で単純な論理では割り切れないようなことがおこなわれている実態に関して何を述べればいいとも言えないが、実際にそこへと引き込まれるようにして巻き込まれながら何かを述べてしまう人が後を絶たないわけで、しかもそこでおこなわれていることを良し悪しで評価しようとすると、おこなわれていることが単純な論理などでは割り切れないにもかかわらずそうした評価が単純な論理に基づいていることになってしまうわけで、そこで単純な論理が破綻しているように思われるわけだが、もちろん安易に良し悪しの評価を下している人にはそうは思われないし、そうやって単純な論理を持ち出してその論理から導き出される基準を他の様々な物事にも当てはめて、そこでおこなわれていること以外にも他でもおこなわれていることやそれをおこなっている人や団体を良いだの悪いだのと評価してしてしまえば、それで世の中でおこなわれている様々なことが片がつけば楽なのかも知れないが、実際には何も片付いておらず、その証拠にそうした評価がいくら下されてもその対象となっている様々な行為や活動やそれに携わっている人や団体はびくともしないわけで、結局物事を良し悪しで単純に評価するような論理が無視されたままになっているのに、それでも評価せざるを得ない人たちが延々と単純な論理に基づいてその論理に合ったり合わないことをやっている人や団体を賞賛したり批判し続ける姿勢を崩さなければ、それが実質的に何を意味するかとなると、ただ単に賞賛や批判の言説が無駄に浪費されていることになるのかも知れないが、そんなことをやっている人たちはそれでも延々とそうするしかなく、実際に延々とそんなことをおこないながら言葉を浪費し続けるわけだが、それを浪費だとは思わないのはもちろんのこと、何か気が利いたことを述べているような感覚にも囚われてしまうのかも知れないし、そうした自己満足を得るためにはあまり物事を難しく考えないで単純な良し悪しで評価してその場を切り抜けられるならそれに越したことはないわけだが、そうした評価の賛同者が他にも大勢いれば安心するし勇気づけられるし、そうやって善意の賛同者たちと連帯して単純な論理では割り切れないようなことから逃避していればそれで済んでしまうようなことであれば、それ以上はそれについて考えることもなく、実際にそれで済んでしまうようなことであるなら大して深刻な問題でもないはずだが、そんな人たちに限ってそんなことに関して大げさに誇張して騒ぎ立てる必要が生じてしまうわけだから、何かその辺で単純な論理では割り切れない込み入った事情が生じているとしか思えないわけだが、そんなふうにして単純な良し悪しの論理で割り切って評価できるような何でもないことであるにもかかわらず、いつまで経ってもそれを執拗に取り上げ続けていつまで経っても単純な良し悪しの論理で割り切った評価をこれでもかと下し続けて、それでも気が済まずに同じことについて延々と同じ評価を下し続けているのは、要するに自らが下した良し悪しの評価が世の中に定着していないからその評価が定着するまではそんなことを延々とやり続けるしかないのかも知れないが、すでに口が酸っぱくなるまで同じことをこれでもかと同じ評価で蒸し返しているわけだから、そろそろあきらめてそんな行為が無駄で無意味なことだと悟った方が身のためだと思われるわけだが、それを一向にやめようとしないところがやはり単純な論理では割り切れないような込み入った事情を抱えていることをうかがわせるわけだが、それが何なのかとは考えずにその代わりに同じ動作を延々と繰り返しているのだから、そうやって繰り返さずにはいられないその人の執拗さにはきりがないようにも思われるのだが、そうやって執拗に同じことにこだわり続けるのがその人の特性だと見なしておくしかなく、そんなふうに割り切ってそれで済ませてしまえれば楽なのかも知れないが、そうは問屋が卸さずそういう紋切り型の繰り返しからこちらが離脱しようとすると今度は向こうから追いかけてきて、いつまでも執拗に追いすがってそれを見せつけようとするわけで、こちらが目を逸らせば目を逸らした方に回り込んでそれを見せつけてきて、こちらがそれに同意しない限りは、または同意を拒否するような仕草を見せて自分たちの行為に気づいたことを確認するまでは一向に離れようとしないわけで、もちろん拒否し続ける限りで延々と取り憑いてくるのだからきりがなく、そうやってかまってもらえるまでは引き下がろうとしないような鬱陶しい執拗さがそもそもの拒否の理由なのだからストーカーのような面もあるわけだが、要するにそういうストーカーまがいの行為を繰り返している人たちも他の人たちから執拗にそういう行為を繰り返しされた結果としてそうなってしまったのかも知れず、そういう意味では現状でそんなことを執拗に繰り返している加害者は元の被害者であって、そうやって執拗な行為が人から人へと伝播しながら世の中に広がり続けている実態があるのかも知れないが、そうであるならそれはある種の伝染病なのかも知れないし、そういう紋切り型的な宿痾を現状で構成されている大衆市民社会がその成立とともに抱え込んでいる実態があるのかも知れないが、そうだとするとなぜそうなってしまうのかという問いでは対処できないような問題であり、なぜそうなってしまうのかではなくどうやってそうなってしまうのかを解き明かさない限りそれへの対処に結びつかないのかも知れないが、すでにそれを病気にたとえていること自体が他でも見られるような紋切り型にはまっていて、それを単に良し悪しの基準の内で悪い方の否定的な意味を伴った病気と見なして済ませていることにもなってしまい、その時点で紋切り型病に感染していることになってしまっているわけだが、そうであるならそれを否定的なたとえでは表現せずに肯定も否定もしないように注意深く表現する必要があり、そんな現象に直面する度に注意深くそれについて考えてみる必要があるわけで、そこで誰にでもわかるような安易な表現に逃げてしまうと自ずから良し悪しを伴った単純な論理で割り切ってしまっていることになってしまうわけだから、そういう意味ではいちいちそういう表現を使う手前で立ち止まって考える習慣を身につけるしか、そういう症状を回避する手立てはないように思われるわけだが、すでにそれを症状と見なして病気にたとえようとしかかっているわけで、そういうところで執拗に紋切り型が忍び寄ってくるわけだから、多くの人がそうなってしまうのも無理はないだろうし、そもそも何かを言葉で表現すること自体がそういう紋切り型に頼らないとうまく表現できないような事態になっていて、そうであるならそれは避けようとしても避けられないような症状でしかないのかも知れないが、それへの対症療法的なことを心がけるなら常にそれに気づくように注意し続けるしかなく、それに気づく度に反省して改めるように心がければそういう動作が習慣として身につくかも知れないし、それを実践し続けることによってしか避けられないし、避けられないまでも重篤化は回避できるのかも知れないが、今度は執拗にそんなことをやり続けることが執拗な紋切り型の攻撃からの対処法になってしまうわけで、それも同じことの繰り返しになってしまうのだから、そんなことを心がけている時点で完全な治癒はあきらめた方がいいのかも知れない。


12月21日「新自由主義の論理」

 経済の分野での自由といえば従来からある解釈だと利益を追求する自由だと言えるが、利益を追求するためには他のすべてを犠牲にしてもかまわないわけでもないだろうが、他の何にも増して利益だけを優先させるなら結果的にそうなってしまう可能性があるわけだが、その一方で利益ではなく自由を優先させるなら利益に囚われない自由もあるわけで、そういう意味で経済活動の自由というのは利益からも解放された自由といえるのかも知れず、その辺で従来の利益に囚われた新自由主義とは一線を画す新たな新自由主義という立場もあるのかも知れないが、では利益のあるなしにかかわらず経済活動をおこなえる自由というのをどうやれば実現できるかというと、例えば利益の素となる貨幣の媒介なしに経済活動をおこなう可能性を模索するとか、貨幣を介さない経済活動など不便この上ないのなら貨幣を使うにしても利子の出ない貨幣を発明するという可能性もあるのかも知れないし、そうであるなら単に利子を取ることを禁じるルールにすればいいということになるのかも知れないが、禁止のあるルールでは自由の原則に反するなら何よりも自由であることを尊重して貨幣を介在させることも利子を取ることも許される経済にすれば現状と変わらなくなってしまうわけで、では新たな自由主義経済とは従来からある経済と何が違うのかとなるわけだが、何も変わりないといっても制限や禁止事項を設けるのではなく、何の制限も禁止事項もない経済にすれば従来からある経済とは違う経済になるかも知れないが、もちろんそれも現状ではあり得ないことであり、実現不可能なことかも知れないが、そういう方向でそうなる可能性を模索することはできるだろうし、実際に現状の新自由主義的な経済の中でもそういう方向で事が進んでいるのかも知れないが、自由であることにこだわりすぎると逆に不自由になってしまうだろうし、また民間の経済活動だけでなく徴税を利用した政府の経済活動もあるわけで、いずれにしても一方的な傾向へと進むのではなく、分散的で多方面へと向かう傾向が求められるのかも知れず、なぜそういう傾向が推奨されるのかといえば、一つの方向だけだと偏りが生じてその方向での競争が激化する一方で他の面がおろそかになってそれが弊害となってしまうわけで、そういう意味では多元的かつ多面的にあらゆる方向へとあらゆる可能性へ向かって物事が分散していくことが望ましいのかも知れないが、その一方で安易な便利さを求めて物事を単純化しようとする傾向も出てくるだろうし、そうなると分散とは逆の一カ所へと力を統合して集中させるような作用も働いてくるわけで、そうやって無理に力を集中させることに伴ってそれをおこなうための組織も機構も複雑化して非効率となってくるわけだが、そういう意味で分散化にも集中化にも限界があることは確かであり、また何を分散化させて何を集中化させるかに関しても現状をどのような方向や傾向へと持って行きたいのかを決める上で考慮しなければならないだろうが、果たしてそういう考慮が現状の中で有効に機能するのかもよくわからないことかも知れず、そんなことを事前にいくら考えてみても実際にやってみなければわからないことも多く、そうやって思考や推測や言説ばかりが先行しても行動や活動が伴わなければ机上の空論の域を出ないわけで、そういう意味ではそれに類するような政治の領域でおこなわれる政策提言に実効性が伴う可能性は低いだろうし、実施されても弊害ばかりが目立つようならたちまち批判に晒されて立ち往生してしまうわけだろうが、それは政府がおこなうことだけに限らず民間の企業でおこなわれる事業にも言えるだろうし、実際に様々な弊害や失敗に直面しながらもその都度工夫を凝らしながらそういった困難や苦難を乗り越えてうまくいった面についてはそれなりの結果を得られるわけで、そういう面を考慮せずに思考や推測や言説などを先行させて何を論じようと机上の空論に過ぎないわけだが、そんな机上の空論についてあれこれと論議することが果たして有意義なのかというと、世の中にはそういった実践とは無関係な方面で活動している人も結構いるだろうし、実際にそういう人たちはそういう方面でそれ相応の勢力を形成していて、それがもっともらしい権威だと信じられるような雰囲気があれば、そういう人たちの言うことを真に受ける人たちも大勢いるのだろうが、それも物事が多方面に分散した中で機能している一つの方面でおこなわれていることであり、実際にそうやって各方面で専門分野が形成されていて、専門分野ごとに対応したことおこなわれているわけだが、そうなっている実態を人々がどう受け止めるかも各々の分野の間で生じている力関係や連携や対立などの関係を考慮しながら判断するしかないわけで、そうやって新自由主義的な分散傾向が実現していることになり、そんなふうにして各々の分野が分散している情勢の中で全体をまとめて制御することはできないし、誰もどのような勢力も制御しようともしていないはずだが、そんな中で生じている一つの分野として政治の分野があるわけで、実際にそうなっているからこそかつてのような全体的な力が現状の政治分野には備わっておらず、ただメディア的な誇張表現によってのみ全体的な力があるかのように装われているわけだから、それが実感も実質も伴っていないから真に受ける人も相対的に少なく、実際に政治に無関心な人も結構な割合に上っているはずだが、そんな矮小化された分野が世の中の全体を覆って支配しているとは思えないものの、それでも形骸化したとはいえ制度的にはそういう傾向を伴っているだろうし、雰囲気としては全体的な傾向をまとっているように装われているから、それを真に受ける人たちにとって深刻な問題として意識されるわけだが、逆にそれを見て見ぬふりができる人にはスルーしても良心の呵責など覚えないだろうし、その辺の落差や深刻度の違いを互いに理解できていない面もあるだろうが、少なくともそういった分散傾向が均等に分散しているわけではなく、分散している中でも政治に関する分野は相対的には大きな割合を占めている方だろうし、それが絶対的に重要な分野だとは思えない人が多いとしても、その相対的な重要性に関しては制度的な面でそれなりに示されていて、他の分野とは一線を画す面もあるだろうし、そういう面を考慮するなら多くの人が真に受けるべき分野ではあるのかも知れないし、そういう相対的な重要性に関して大げさに煽って誇張して表現する必要はないにしても、多くの人たちが関心を抱きうるようにはしておく必要があるだろうが、それに関して新自由主義的な見地からすれば、従来からある思考停止したキャッチフレーズとしての紋切り型的な表現を使って官から民へと一様に捉えるのではなく、逆に制度的には民間人が官僚機構を支配するための格好の機会を提供していると捉えればいいわけだが、実態としては官庁の許認可権を背景とした天下りなどを始めとして官僚機構の民間支配に利用されている面もあるだろうし、そうであるからこそ民間の人たちはそういう意識を普通に改めるべきなのかも知れない。


12月20日「死ぬまで続く無限循環という矛盾」

 世界の中で地域情勢にもそれなりに偏差がありそうだが、それでも似たような傾向があるとすればそれは行政機構としての政府の在り方や世界を覆っている資本主義経済などから生じてくるのかも知れず、別にそれが何を物語っているとも思われなくても、何か特定の政治家が過去にやったとされる対応や対処が災いしたのか幸いしたのかは知らないが、それが遠因となって後からそのとき世界が動いたと言えるような事件に遭遇して驚きうろたえてみてもかまわないのかも知れないし、特に驚くこともうろたえることもなければ普通にそんなことが起こっていて、それがどうでもいいことだとは思えないにしてもそれどころか一過性ではあるにしても世間の話題となるような興味深い事件となり、それに関連して特定の人物のやったとされることが良かったり悪かったりするような評価を伴っていれば、それこそが驚くべきことだと見なしてもかまわないはずだが、そんな驚くべきことにどれほど魅力を感じられようとそれを語るべきかどうかはそれに魅力を感じている人次第な面があるのかも知れないし、その人に語る資格があろうとなかろうと勝手に語っているのならそのまま語ってもらえばいいわけだが、それ以外にも語らざるを得ない事情や経緯がその人にあるにしても、そんな事情や経緯とは関係のない人たちにとってはどうでもいいことかも知れないし、それがその人の都合で勝手にこじつけられた理由であるにしても語らざるを得ない事情や経緯がその人にあるのだから語らないわけにはいかないのだろうし、そうやって語られる内容に興味のない人にとっては相変わらずどうでもいいことでしかないのかも知れないが、その語らないわけにはいかない内容というのが何かといえば、世界のどこかの地域で生じている歴史的な事情や経緯であるなら、そういった歴史的な事情や経緯が生じていることに関して何かもっともらしい理由があるのかも知れないし、そのもっともらしい理由をその人が発見したのならそれを物語るべきだと思うのかも知れないが、その物語るべき内容というのが相変わらずその人の都合に合わせたものでしかないとすれば、なぜかその地域の歴史的な事情や経緯とそれについて語らざるを得ないその人の事情や経緯が結びついているとしかいえなくなってしまうのかも知れず、なぜそんな摩訶不思議な事態が生じているのかといえば、それは誰に頼まれたわけでもないのにそれについて語らざるを得ない事情や経緯がその人によってねつ造されているのかも知れないし、なぜそんな事情や経緯をその人がねつ造しなければならないのかといえば、例えばその人が気に入らない人物がおこなったことについてあるいはその人物であろうとなかろうと気に入らないことがそこでおこなわれていて、それについて批判や文句を言わないと気が済まないからわざわざその人とは大して関連のない歴史的な事情や経緯をその人が語らざるを得ない事情や経緯に結びつけてでもそれについて語らざるを得ないような事態となっているのかも知れないが、もしかしたらそんな事態がそこで生じていること自体がその人を取り巻いている社会の環境からもたらされていて、その人がそれについて語らざるを得ないような成り行きに世の中の風潮が導いている可能性があるわけで、そんな世の中の風潮に流されてそんなことを語っている人に自由があるのかといえばそういう面ではないのかも知れないし、少なくともそんなことを語らざるを得ないのだから語らない自由はないし、それを語らなければその人の存在理由もないのかも知れないが、そんな人の存在を許容できるかといえば世の中の風潮がそれを許しているといってしまうと、そんな世の中の風潮にその人が絡め取られてしまってその人には語る内容を選択する権利さえないように思われるかも知れないが、その人が飽きもせず同じようなことを延々と物語っている実態があるとすればその人がそんなことしか語れない状況に追い込まれているといえるのかも知れないし、それに関して批判するような人が他にいれば、実際に批判している人にもその人が追い込まれている状況は変えられず、しかも変えられないどころかその人の語っていることに同伴しながら延々とその人に対して同じような批判を繰り返している実態があれば、その人の批判者もその人が囚われている状況に巻き込まれていて、その人とともにその人の批判者も延々と同じようなことを述べていられる環境がそこに構成されているといえるのかも知れないが、ではそんなことの繰り返しとは全く異なることが語られている事例が他にあるかといえば探せばいくらでもありそうだが、そのいくらでもありそうに思われる事例がそういった延々と同じようなことを述べている人たちに何らかの作用や影響を及ぼすことによって、倦むことなく繰り返されている無限循環からそれらの人たちを救い出すことができるかとなると、救い出せるとか出せないとかいう以前にいったんそうなってしまった人たちには何らかの目的意識が生じていて、その目的をそれらの人たちがどこまで自覚しているかはよくわからないところかも知れないが、そこでそれと自覚されない可能性もあるにしても遂行されている目的というのが、死ぬまでその目的に殉じ続けなければならない自家撞着であるのかも知れず、目的のために死ぬのではなく死ぬまで目的を遂行し続けるという目的であり、しかもその目的の中身というのは案外単純明快なものであって、気に入らない人を批判するという類いでしかないのかも知れないが、そういった批判にやましさを感じるなら批判したついでの言い訳として、その反対に気に入った人を賞賛するという行為を付け加えればバランスがそれなりにとれるかも知れないが、それが気に入らない人を批判することの裏返しとしてそんなことを述べているのが見え見えであれば、どちらにしても批判するための人物と賞賛するための人物とを代わる代わる言説に登場させているだけで、しかもそこで批判するための基準と賞賛するための基準が恒常的に固定されていて、そうなるとやはり結局はそういう固定された基準に従って批判する人と賞賛する人を延々と物語り続けるという循環を死ぬまで繰り返す事態となってしまうわけだが、では果たしてその公準が何かのきっかけで変わることがないのかというと、変えたくないというとその人が意識して変えないようにしていると思われるかも知れないが、そうではなくその人が無限循環に囚われているからこそ変えたくても変えられないと見なせばいいのかも知れないし、実際に基準を変えてしまうと同じことが言えなくなってしまうわけだから、同じことを繰り返し述べるには批判と賞賛の基準を変えるわけにはいかないのと同時に、基準を変えなければ同じことを延々と述べていられるということである限りでそういう紋切り型が成り立っているわけで、そこで歴史の変遷にかかわらずに恒常的に成り立つ公理が存在しているようにも思えるかも知れないが、そういう捉え方自体が歴史的な発明品の類いでしかないのかも知れないし、それはその人が生きている限りでその人の意識の中で存在する普遍の公理でしかなく、確かにその人は死ぬまでそんな公理と公理に基づいた公準に囚われているとしても、他の人たちにはそんな公理も公準も通用しない場合がほとんどだろうし、それでもその人を支持している人たちには通用していると同時にその人を批判している人たちには反対の意味で裏返しの公理や公準として通用しているわけだが、その人に興味のない人たちにはそんなことなどどうでもいいこととなってしまうのかも知れないし、またそれが世間の紋切り型として世間に通用するようなものなら他の人たちもそういう公理や公準を信じているのかも知れない。


12月19日「心動かされる虚構」

 例えば何の条件も制約もない状態で言葉を記すことは何でもないことかもしれないが、そうであるならそれ以上に言葉を記さないことも何でもないことであり、またそこに記された何でもないような言葉の連なりをどう読むかも何でもないことかも知れないし、さらにそれをどう解釈してみても何でもないことの範囲内に留まってしまうのかも知れないが、そもそもそうするに当たって何の条件も制約もない状態というのがあり得ないことだろうし、そう述べている時点で何の条件も制約もない状態というのがフィクションでしかないわけだが、実際には何でもないような言葉を記す行為やそれを読む行為やそれを解釈する行為自体から何らかの条件や制約が生じてきてしまうのかも知れないし、そうはいっても普段はそんなことなど何も意識しないで言葉を記しているしそれを読んでもいるしそれを解釈してもいるだろうが、そんなことをやっていること自体は何でもないことかも知れないが、そんなことをやっている自身でも他の誰かでもかまわないが、その内容に心を動かされることはあるのかも知れず、心を動かされてそれが何らかの行為や活動に結びつけば、それが何でもないことだとは言えなくなって、実際に心を動かされた人にとっては、またそれが何らかの行為や活動に結びついた人にとっても、何でもないこととは異なるようなそれなりに意味や意義のあることだと思われるかも知れないが、そんな成り行きになってしまうのはどうしてなのかというと、その内容が伝わったから心を動かされて何らかの行為や活動に結びついたわけで、逆に伝わらなければ何も起こらないのかも知れないし、何も起こらなければそれは何でもないことになってしまうわけだが、その違いというのが情報が伝達されたか否かということに関して差異が生じたわけであり、何でもなければ情報が伝達されなかったことになるが、心を動かされたり何らかの行為や活動に結びついたら情報が伝達されたことになるのだから、それが文章を記したり読んだり解釈するような何でもない行為から生じているとしても、それらが自身や他へ伝わることによって何でもないことの条件や制約を打ち破って何らかの行為や活動をもたらしたのだから、それこそが言葉を使ったフィクションの効用といえるのかも知れないが、そうであるとしてもその何でもないことのフィクションの中身が明らかにされない限りはいくらこんなことを述べてみても依然として何でもないことを述べていて、またそうしたフィクションに触発されて感動した中身やおこなわれた行為の内容が明らかにされない限りはいくらこんなことを延々と述べてみても依然として何でもないことを述べているに過ぎないかも知れないが、その感動や行為や活動の内容が何なのかといえばやはりそれは何でもないことなのであり、そうやって記されている内容は何でもないことだが実際におこなわれた内容はそうではなく、何か意味や意義のあることのように実感されてしまうわけで、たとえそれが失敗した内容であっても間違った行為であってもそれをおこなった当事者たちにとっては何かしら意味や意義のあることであり、それなりに実感を伴っていることでもあり、当事者は実際にやってみた手応えを感じているはずだが、それを外部からも内部からも失敗だの間違っているだの誤りだの過ちだのと批判できるとしても、それが言葉で表現されている限りで何でもないことであるが、そういった批判に心動かされて真摯に受け止めれば、真摯に受け止めたこと自体が意味や意義のあることだと思われるわけだが、それがさらに何らかの行為や活動に結びつけばそういった行為や活動をおこなっている当事者にとっては意味や意義のあることをやっていると実感されるだろうし、そうやって何かを言葉で表現するフィクションから心を動かされる心理作用や実際の行為や活動が生じてくるわけだが、そういう成り行き自体もそれが言葉で表現される限りでフィクション化されて何でもないことのように思われてしまうのかも知れず、何かそこから感動や行為や活動に結びついて実際に何かをおこなっている当事者との間で無視できない差異が生じてくるわけで、その差異に気づけない人たちが誤って実際の感動や行為や活動も何でもないことのように思ってしまうのかも知れず、そんな感動や行為や活動の内容が不快に感じられて批判している自らの言語的な実践と批判の対象となる感動や行為や活動とが同等の水準でおこなわれているわけでもないのに、何とか批判という言語的な実践によって感動や行為や活動の当事者たちをやり込めようとしてしまうわけで、執拗にそうした行為に訴えかけるような人は謙虚さに欠けていると思われてしまうし、また自らの何でもないような言語的な実践を過信して取り返しのつかない過ちを犯しているようにも思われてしまうわけだが、当人にその自覚がないからそうした行為を執拗に繰り返すわけだが、なぜ自覚が生じてこないのかといえば自らの言語的な行為の虚構性に鈍感であるということがいえるのかも知れないが、特に相対的に聡明な人ほどそうなってしまう傾向があるのかも知れず、しかも言語的な虚構性に無自覚な人ほど自らの相対的な聡明さに気づいていて、そこから自らの言語行為に対する過信が生まれてくるのかも知れないが、逆に自らが操る言語的な虚構性に気づいている人ほど相対的な聡明さを信じておらず、自らの相対的な聡明さを自認しているような他人の過信にも気づいていて、あわよくばそんな他人の過信につけ込んでその人を利用してしまおうと企んでいるわけでもないのに、結果的に利用できてしまったりもするのかも知れず、そういう人の餌食になりやすいのも相対的な聡明さの水準に留まろうとしてしまう人であり、自らがそれらの人や勢力の餌食になって利用されていることにも無自覚でいられるかというと、餌食になっている人ほど結果的に利用されながらも自らが過信している責務を立派に果たしていると思ってしまうのかも知れず、そんな相対的な聡明さの水準で守ろうとする責務というのが世間的な秩序の維持とか法の遵守とかいうこれも元を正せば言語的な虚構でしかないのかも知れないが、別にそれが思い違いや勘違いではなく正しい行いとして信じられることだからこそそれらを守ることによっても過信が生じるのかも知れないが、果たして秩序や法の守護者を自認する当人がそれらの言語的な虚構に感動しているのかといえば、どうもそれは感動とは別の何かに従っているだけなのかも知れないし、それが正義といってしまうとありふれてしまうのかも知れないが、真理と述べてしまうとますます信じられる対象となってしまうだろうし、社会的な正義や真理の守護者というのが果たして感動的な存在であるかというと、感動というよりは官僚という区分がふさわしく思われるだろうし、そういった自らの聡明さを自認する官僚という立場には常に言語的な虚構がつきまとっているのかも知れず、そういう類いの人は実際に感動や行為や活動をもたらさない代わりに権力にまつわる命令や指導などの上から目線で下す言語的な実践をもたらすわけで、何かというとすぐにこういうことをやれだのこういうことをやらないやつは駄目だのと上から目線の命令口調で他人を指導したがるわけだ。


12月18日「国家の弱体化と権力の分散化」

 何か政治腐敗や強権的な独裁権力を目の当たりにすると、何やら国家の存在が諸悪の根源のように思われるかも知れないが、国家をどうやればなくせるかとなると、世界を統一するしかないかも知れないが、そうなると行政機構としての世界政府のような存在が現状で存在している各国の政府と同じような役割を果たすことになって、現状の国家体制と大して変わらないような感じになってしまいそうだが、そうではなく無政府状態にできないかとなると、治安の維持に懸念がありそうで、現状から考えればあり得ない妄想でしかなくなってしまうかも知れないが、たぶん国家をなくせばいいというよりは政府の権力を弱めればいいというのが妥当な方向性であるとすると、それには軍事力の削減というのが物理的な課題となってくるかも知れないが、軍事力を削減するには兵器や人員を維持するのに必要な経済力を弱めればいいということになってきてしまうと、ではどうやれば国家の経済力を弱められるのかという問いも出てきて、そこで思考が行き詰まってきてしまうが、北朝鮮などの独裁国家の事例から考えれば経済の弱体化を軍事力で補うという発想も出てくるわけで、経済的に困窮すると軍事力や警察力などの暴力を用いて民衆の不満を黙らせるような威圧的な行為によって国家的なまとまりを維持しようとする傾向にもなってきて、かえって経済の弱体化は逆効果にしかならないわけで、やはりそういう方向でも思考が行き詰まってしまうのかも知れないが、要は力のバランスであり様々な方面での力の均衡を図ることが肝要であり、経済力にも軍事力にも警察力にも屈しない力を民衆の側が持てばいいということになるのかも知れないが、果たしてそんな力がどこにあるというと、きれいごとを言うなら民主主義の力ということになるのだろうが、民主主義の力がどこから生じてくるのかといえば民衆の経済力ということになってしまうと、何か言葉が循環してしまって何をどうすればいいのかますますわからなくなってしまいそうだが、何をどうすればいいのかと問うことではないとするなら、そういった目的意識とは違う方面で力を養うしかないだろうが、それに関して安易に人と人との協力関係とか信頼関係を強めるとかコミュニケーション能力を高めるとかいうことでもなく、単に人と人とが分散化してしまうのを食い止めようとしないことが肝心なのかも知れず、例えば多くの人が政治に無関心でそれを放置したから特定の勢力による独裁を招いたとか結論を下して、今度は民衆がそれに対して断固として抗議の声を上げなければならない、とか思う必要もないのかも知れないし、何かそういうところでこうなったからこうなってしまったという原因と結果を直接結びつける必要はなく、もう少し回りくどく紆余曲折を伴っているのではないかと疑ってみた方がいいだろうし、それが結果などではなく途中経過でしかなく、それだけが原因などではなく他にもいくらでも原因に該当する要因があり、それらの要因が複雑に絡み合って現状を構成していて、そういう安易な断言をはねのけるような柔軟な構造とともに現状が存在していて、それを言葉では適切に表現できないような事態ともなっていて、だからこそ思考がそこで行き詰まってそれ以上は原因を突き止められなくなってしまい、そうであるならそこが限界なのだからさらに原因を追究する必要もないだろうし、それよりはその辺に散らばっている様々な要因が分散している状況を把握するべきかも知れないが、そこにもそれ相応の限界があるだろうし、何事にも限界や制限があることは踏まえておかなければならないし、それを超えて思考を続けることができなければそこで断念するしかなく、断念したらしたで今度は別の方面から思考すればいいのかも知れないし、あるいは考えることやめてしまってもかまわないのかも知れないが、それをやろうとして努力するのではなく、そうかといってやらざるを得なくなるまで放置するのでもなく、何か事件とか出来事の当事者として対応や対処を余儀なくされるというか、そういう感覚で事に当たれば対応や対処にもそれなりに真実味が出てくるのかも知れないが、それが驚くべき事件や出来事なのかというと、たぶんそうではないだろうし、すべては日常の延長上で起こっていることの範囲内にあるのかも知れないし、それだけではどうということはないのかも知れないが、それでもメディア経由で伝わってくる人為的な作用への反応とは別の感覚を伴うのかも知れず、それに関してなぜ当事者にならなければならないのかといえば、特に説得力のある理由も根拠も見当たらないにしても、意識の中では無理に外部からの作用へ同調しなくてもかまわないような余裕がほしいのかも知れないし、特定の対象への心理的あるいは身体的な依存を意識してしまうとかえって不自然な動作を伴ってしまい、それを意識させるように人為的な細工がメディアに施されていることは確かだが、それを意識してしまうことが意識させられている当事者としての自覚をもたらすわけで、メディアがそれを意識させるのとは別に自分が自主的に意識してしまうことに気づくべきなのかも知れず、メディアが意識させようとしているのとは別の面を意識できればそれだけ心に余裕があることになるだろうし、それも些細なことでしかなければどうということはないわけだが、そんな些細なことを意識できるだけでもシームレスな状態とは異なり、自分とメディアとの間に継ぎ目があることに気づいていることになり、それは実社会での人と人との関係や人と何らかの組織や団体などとの関係でもいえることかも知れないが、別にそれらの一体感を得られなくてもかまわないだろうし、もちろん自らが他との一体感に浸っている状態を認識できればいいのかも知れないが、そういうことが認識できなくなると当事者意識が薄れてきてその場に漂っている空気や雰囲気に呑まれてしまうわけで、時にはそうなってしまうこともあるにしてもいつまでもそうなったままでいては相手の思うつぼになってしまうわけだが、その相手というのが特定の人物やその人物が所属している団体であればわかりやすいが、そこに漂っている空気や雰囲気に呑まれている場合だと、何やら実態の定かでない世間のようなものとなってしまうから始末に負えないというか、無責任な感覚になってしまって当事者というよりは傍観者に近い状態となってしまうわけだが、いったん傍観者となってしまうとそこでおこなわれていることから排除されてしまうから、そこへと介入できなくなってしまうわけだが、それと政治に対する無関心とどう違うのかとなると、大抵の場合は同じことのように思われてしまうわけだが、それに対するメディアの論理としては、もちろんそんなことをメディアに携わっている人たちが意識しているわけでもないだろうが、それらを観て反応する観客がほしいわけで、要するにメディアにとっては民衆が政治に無関心であっては困るのだが、それはあくまでも観客として振る舞ってほしいわけで、政治を執り行う当事者を増やしたいのではなくそれを観ている観客を増やすためにメディアが機能しているわけであり、そういうメディア的な機能に依存して操縦されないように意識する必要があるのかも知れないし、そういうところで安易にメディア的な話題の提供と一体化しないで距離を置いておく必要があり、そういった客寄せ的な行為には無関心であってもかまわないわけで、それに関してどのメディアが良くてどのメディアが悪いとか宣伝しながら善意のメディア批判を装うような宣伝マンには注意する必要があるわけだ。


12月17日「経済情勢の必然的な成り行き」

 社会の中で人が暮らしているから現状のような経済が成り立っているわけだが、そこで物や情報やサービスとともに貨幣が流通していて、貨幣が物でもあり情報でもあることがその活用の面で幻想的な効果を生じさせるわけで、商品と交換できて貸し借りもできるからその両面で理屈も生じてきて、その理屈を利用して何かこれまでにない画期的なことができるのではないかと幻想を抱く人が出てくるのも当然の成り行きであり、そういうことをやるに際してそれを信じられる人は利害が一致する限りでそうした行為を支持してそれに賛同するだろうが、信じられない人や利害が一致しない人は支持しないしそれに賛同しないのはもちろんのこと、そんなことをやられては困ると思って阻止しようとする人も出てくるだろうし、そうやってそれをやろうとしてそれが世間的に話題となってくると、それを支持したり擁護する人たちとそれを批判したりやめさせようとする人たちがさらに大勢出てくるわけだが、それがその場で守られているルールの範囲内でやろうとすることならルール上はやってもかまわないことになるが、ルールを破るようなことをやろうとするならそれは違法行為でありルール違反として取り締まりの対象となってしまうわけだが、やるに際して都合のいいようにルールを変更してやろうとすれば、まずはルールを変更しようとしなければならず、それに際してもルールを変更する理由に納得して賛同する人と納得できずに変更に反対する人とが出てくるだろうし、結局どのようになるにしても何かをやろうとすればそれに介入してきたりかかわってくる人がそれなりに出てくるわけだが、かかわってくるすべての人を納得させて賛同させることはできないだろうし、またすべての人がやろうとしていることに反対してそれをやめさせようともしないだろうし、やろうとしていることが実現するかどうかはそもそも理屈が合っているのかいないのかにもよるだろうが、それにかかわってくる人がどれほどいるのか、またかかわってくる人たちにどれほどの力あるかにもよるだろうし、他にも様々な要因が作用し合い影響し合ってやろうとしていることが実現できるかどうかが決まってくるのかも知れないが、少なくともそれが経済に関することならそれ以前にすでにそこでおこなわれていることがかかわってくるだろうし、何かそういう面ですでにそこでおこなわれていることの延長上で物事が決まってきてしまうことが多いわけで、そこから大きく逸脱することが突然できるとは思われないから、何か画期的なことをやるに際してはそのほとんどがうまくいかないのかも知れないし、他にも様々なことがおこなわれている中でそれと競合するいくつかの行為や活動との兼ね合いからやれることややれる範囲が決まってきてしまうのかも知れず、そうなってしまう時点でやろうとしている人や勢力の思惑通りとはならないのは当然だとしても、事前には全くわかっていなかった障害が立ちはだかってくることもあるだろうし、そうした障害を克服できなければやろうとしていることを断念したりそこから撤退しなければならなくなるような事態も出てくるかも知れないし、実際にそうなってしまった試みもこれまでに無数にあることは想像に難くないし、場合によってはそうなってしまう事態を想定しながら何かをやろうとしているわけでもないにしても、そういった活動を支持してそれに賛同している人たちが現状でどれほどいようといまいと、またそれに反対してそれを阻止しようとしている人たちがどれほどいようといまいと、実際にそれをやろうとしている成り行きが生じていて、しかもそれを支持したりそれに賛同している人たちが大して権力も資産もないように思われる人たちであれば、実際に世の中にいる大多数の人たちがそんな人たちである可能性が高いし、そうであれば他の人たちもつられて支持したり賛同する流れも生じてくるだろうし、逆にそういう流れに逆らって斜に構えてそういった試みの欠点や至らない点をいちいちあげつらうような人はそれらの人たちには不快に感じられるし、大抵はひねくれた人と見なされて相手にされないわけだが、たぶんそれでかまわないのかも知れないし、たとえそういった行為や活動に致命的な欠陥や欠点があったとしても、実際にそれが実行する上での障害と認識されればやって行くにつれてそれを克服するようなことがおこなわれるだろうし、それを克服できなくてそうした行為や活動がうまくいかずに失敗に終わるようなことがあっても、それが経験や教訓となってその後の活動や運動に活かされる可能性もあるだろうし、活かされなくてもどうということはなく、現にそういった権力や資産をほとんど持たないような人が世の中の大多数を占めるような状況が生じている限りで、それらの人の支持や賛同を取り付けて何かをやろうとする人や勢力が入れ替わり立ち替わり現れることも必然的な成り行きだろうし、そういう状況が生じていること自体がそんなことをやろうとする動機や目的となってしまうわけで、だからいくらそんなことをやろうとしている人や勢力にいちゃもんをつけてそれをやめさせようとしても無駄とはいわないにしても、そういういちゃもんつけをやる動機や目的もそこから生じてくるわけだから、要するにそんなことをやろうとする人たちとそれに賛同する人たちとそれにいちゃもんをつけてやめさせようとする人たちがセットになって出現すると考えておけばいいのかも知れないが、それにいちゃもんをつけるような人たちにはその対象に致命的な欠陥や欠点があるように思われることが、それをやろうとする人たちやそれに賛同する人たちには逆に利点だと思われるようなら、それらを重ね合わせると効果が相殺されて結局何でもないようなこととなってしまい、それにいちゃもんをつける人たちがそこで思っていることとそれをやろうとしている人たちやそれに賛同している人たちが思っていることが表裏一体となってその場で生じている事態を構成しているといえるわけで、そんな相反する思いの人たちを存在させてしまうのがその場で生じている経済情勢だとも言えるわけで、またそういった経済情勢が続く限りでそんな人たちが次々に生み出される成り行きとなって、それらの人たちの行為や活動によってそういう情勢が維持されるような循環が生じているのかも知れないし、そんなふうにして人と物とサービスと貨幣が流通していることの効果が現状の経済状態をもたらしているといえるのかも知れないが、そうだとすればそんな効果によって生じてくる人たちの行為や活動から現状以外の何がもたらされるわけでもないと考えられてしまえるわけだが、そんな現状でさえも刻一刻と変化し続けているわけだから現状が現状のままで変わらないわけがなく、そんな現状の変化とともに人や物やサービスや貨幣の状況や状態も刻一刻と変わり続けているのだろうし、そんな現状を変えようとする人たちにもそれを阻止しようとする人たちにもその行為や活動にそれなりの必然性が生じているわけだ。


12月16日「真理の無効化」

 世の中で起こっている様々な事例を比較するにはそれらの対象の共通点と相違点を見いだしてそれに関して何らかの評価を下せば比較したことになるのだろうが、特定の対象と比較する別の対象を肯定的に捉えたり否定的に捉えたりしても何を述べていることにもならなければ、そうした比較が空振りに終わってしまったことになるのかも知れないが、では何のために比較するのかといえばその対象を擁護したり批判したりするため以外には比較する理由がないのかというと、擁護も批判もせずただ単に比較するようなこともあるのかも知れないし、そうなるとそれらの善悪や良し悪し以外で比較すること自体に意味や意義があることになりそうだが、たぶん興味深いのはそういうことなのかも知れず、同じ言説の中で二つまたは複数の対象について述べれば当然それらを比較していることになるわけだが、それらの内でどれが良くてどれが悪いとかいう評価を下さずにただ比較するだけにとどめることが果たして比較として成り立つのかと問われるかも知れないが、そうした判断や評価を伴わない比較が何かそういった判断や評価とは別のことを述べているわけで、では別のこととは何かといえばそういった比較の言説内容からそれを読み取るしかないわけだが、それが述べている対象以外にまで及んでいればそこで述べられている対象から外れて何か興味深い内容が含まれているのかも知れないが、そこには不在のそれらの比較対象を超えて想像される物事への言及を読み取ることができれば、そうした物事がそこでの言説の対象となっていると見なしてもかまわないのかも知れないし、それに関して述べていることがそこから具体的に何かと何かを比較してどちらがどうのこうのと述べるよりは重要なことなのかも知れず、それを知らせるために特定の物事を選んで比較しているのだとしたら、ではなぜそこでわざわざ遠回りして何かと何かを比較する必要があるのかとなるわけだが、そこで何かと何かを比較する論理自体がそうした対象を絞り込みながらそれらを比較するように作動していて、何かそこでそれらを比較するように促している作用に意識が囚われていて、そうした比較を促す論理を取り去ってしまうと比較自体に大して重要性がないことにもなってきて、そうであるなら比較そのものより比較を促す論理自体に注意を向けなければならないことになるだろうし、またそうした比較に惑わされて意識が論理に操縦されていることに気づけないと、論理を押しつけてくる主体の存在を意識できないことにもなって、そうした主体が何かと何かを比較させて比較の範囲内で良し悪しや善悪を判断させてそれらの対象を評価させることによって、別の何かに気づけなくさせるような作用を及ぼしていることをわからなくさせているのかも知れず、それに気づくにはそんな作用を及ぼしてくる論理に引き込まれないようにそこから迂回する必要があり、そうであるならそこでの比較は比較として比較するだけにとどめて比較するように促してくる論理とそうした論理を押しつけてくる主体を意識する必要があり、そうやって意識を迂回させながら考えてみればそれらの比較を超えて比較を促す論理を構成している何らか構造と、そうした構造を成り立たせて支えている物事の配置が見えてくるのかも知れないが、なぜそんなややこしくも手の込んだ手順を踏まないと物事の全容が見えてこないのかといえば、意識がそういった作用を及ぼしてくる主体によって単純に洗脳されているわけではなく、それ以前に何か疑似餌のような意識を納得させるもっともらしい論理が提示されていて、その論理に従うように仕向けられているわけで、それが例えば目の前に穴の開いたコインをぶら下げられて振り子のように振られると催眠術にかかってしまうような作用を構成しているのかも知れないし、そういった比喩を信じられなければ学校教育などの場で絶えず繰り返し単純かつ平面的に対立する二つの物事を比較するように訓練されてきたといえばしっくりくるかも知れないが、それを二つとは限らない比較対象物を想定してしかも善悪や良し悪しなどの二項対立とはならない立体的かつ分散的で時空的な比較に拡張できるかといえば、そうなってしまうと比較とは認識できなくなってしまい、そういうところで学校教育によって植え付けられた先入観を振り払えないから、そうした単純な比較の論理に意識が囚われてしまっているわけで、そうした状態につけ込まれてどうでもいいような比較対象をあてがわれてその先の認識にたどり着けないようにされているのだろうし、そうした論理内に閉じ込められた意識によっては見えてこないような領域があることに気づけないわけだが、では果たしてそんな偽りの比較を意識がスルーできればそれが見えてくるのかといえばそれは見えるのではなく感じ取れるようなことかも知れないし、見えてくるのは見せかけの虚構に過ぎず、それを見せかけの虚構だと感じ取れることが重要なのかも知れないし、しかもそれ以前に偽りの比較自体が物事の真理さえも構成していて、それを真理だと思い込むように仕向けるために学校教育がおこなわれてきたのかも知れないし、教育によって教え込まれた真理自体がフィクションでしかなければ、フィクションではない真理などあり得ないのかも知れないし、そんな物事の指針や指標となる真理なしで社会の中で生きていけるのかといえば、生きては行けるかも知れないが真理を信じ込まされている人たちとは意見や主張が合わなくなることを覚悟する必要もあるのかも知れないし、社会の制度や法律に従う限りでそうした人たちの論理に合わせるような動作を強いられて、確かにそんな意に沿わない面では多少は生きにくくなるのかも知れないが、だからといって世の中の大多数の人に逆らうようなことにはならないのかも知れず、そうではなく学校教育の類いに反発して逆らうような人たちも学校教育の効果によって生成された人たちであり、要するに教育の肯定的な効果によって生成された人たちが世の中の多数派を占める一方でその否定的な効果によって生成された人たちは非行青少年を経由して少数派を形成して、それらが善悪や良し悪しの論理によって二項対立を形成するわけで、そうした見せかけの対立や争いに気をとられてしまうとその先へとたどり着けなくなってしまい、そこへ留まって絶えず物事の善悪や良し悪しの判断や評価に囚われている限りで、そうした善悪や良し悪しの範囲内で相対的な優劣を競うようなゲームに巻き込まれていることにもなり、そこで判断力に長けた人は有能だと見なされるだろうし、鈍い人は無能の烙印を押されてしまうかも知れないが、そういう面で有能であろうと無能であろうとそれらの基準となる真理自体がフィクションに過ぎないのだから、フィクションが通用しない面では有能無能の判断や評価も無効となってしまうだろうし、では具体的にどのような面でそういった判断や評価が無効となってしまうのかといえば、物事の善悪や良し悪しの判断がつかない面で無効となってしまうわけだが、普通に生きていて実際にそうした事態に直面するのかというと、どうあがいてもそうなってしまう成り行きというのがあるのかも知れず、そうなってしまう運命から逃れられないような事態となってしまうと、たとえそれが良くても悪くてもそれ以外にはあり得ないのだから、そうなってしまう結果を受け入れる以外にはあり得ないわけで、結果的には真理に従うのでも逆らうでもなく、真理に適合していようといまいと受け入れざるを得なければ真理自体が無効であることも認めざるを得なくなってしまうわけだが、普通はそうなっているにもかかわらずそれを意識できないわけだ。


12月15日「メディアの罠」

 人の行為や活動にはその場そのときの状況に応じて生じてくる事情や経緯があるにしても、それ以外で何かやっていることに関してそれをやる理由があるのかというと、ちゃんとした理由があってやっていることの方が圧倒的に多いように思われるかも知れないが、必要だからやっていると思われるようなことにも、それをやる口実として無理に必要を作り出しているような事情や経緯もあるのかも知れず、その何かをやる口実というのがやっていることをもっともらしく見せかけるために苦心してこしらえられていて、それが無理なこじつけのように思われるなら、そうまでしてやる必要があるのかと思いたくなるかも知れないが、それをやるについて疑問や迷いを感じながらもやらざるを得ないような成り行きの中でやっていれば、積極的にやっているのではなく受動的にやらされているような感覚になってしまうことだってあるだろうし、そんな心理状態でやるに際しても様々な経緯や事情が考えられるわけだが、それをやった後から結果だけを評価しようとすればうまくいっていない面に関してはあれこれと批判材料が出てくるかも知れないが、そういうことをあげつらうような行為の中で生じてくる経緯や事情とそれ以前に何かをやっている際に生じている経緯や事情とは性質も傾向も異なるだろうが、そうした経緯や事情を考慮しないで原則論のようなことならいくらでも言えるにしても、そのいくらでも言えるようなことをいくら言ってみても言っている以上にはならないことも確かであり、実際にいくらでも言えることをいくらでも言っている状況の中で他に何をやればいいのかわかるわけでもなく、わからなければそのままいくらでも言えることを言い続けることしかできないのかも知れず、しかもそんな果てしないおしゃべりがどこでおこなわれているわけでもなく、実際にはメディアという形態の中で文字として記されたり映像や音声として記録されて配信されたりしているわけだろうが、それ以上に何か事態が進展する兆しを感じられなければそのままの状態が延々と続いていくだけかも知れないし、そんな状態にはすでに飽き飽きしているから、その次のステージへと気持ちも身体も向かいたいのかも知れないが、果たしてその次があるのかとなると、その次も延々と言いたい放題なステージが待ち受けているだけかも知れないし、そうやって何もできない代わりに何かを言い続けるだけの行為の連続に飽きて疲れて音を上げてもそんな行為が繰り返されるだけかも知れないが、実際にそれ以外には何もできなくてもかまわないのかも知れず、そんな限界の内にしか言葉の自由がないことが逆にそれ以外の行為の不自由さを感じさせるかも知れないが、それを不自由だとは思わないような鈍い人たちが言いたい放題なことをいくらでも言っていられる現状があり、そうした言葉の無間地獄のような状態からどうやれば抜け出せるのかとなると、別に抜け出す必要はないのであり、抜け出そうとしなくても自然と抜け出せる人は抜け出てしまえるだろうし、きっかけのつかめない人はいくらでもそこに留まり続けて、いくらでも言いたい放題なことを言っていられるわけだが、別にそれが地獄だとは思わない人もいるわけで、言いたい放題なことを言っていられることが苦痛に感じられなければそれでかまわないだろうし、苦痛であるよりはむしろ快感である度合いの方が大きければ耐えられるわけだろうが、感覚が麻痺しているからそう感じられるわけでもなく、さらにより一層快感を覚えるような仕掛けが施されているわけで、それがメディアによって仕掛けられた罠でもあるわけだが、それを避けて通る必要もないだろうし、避けては通れないのがメディアという装置であり、実際に避けられないわけだが、それに気づかなくても気づけなくても苦痛を快感に感じさせるような装置に身をまかせていれば自然と理解できるようなこともあり、それが言うは易しおこなうは難しというような単純なことではなく、やろうとしてもやれないこともあるし変えようとしても変えられないこともあるのだが、それがなぜやれないのかと言えば他のことをやっているからそれとの兼ね合いからやれない経緯や事情が生じてしまい、またなぜ変えられないのかと言えばそれを変えるには他のことも変えなければならないし、それだけを単独で変えるわけにはいかないから他のことを変えるとなると、変える必要のないことまで変えることになって、それに伴って他のことに支障をきたしてしまうから変えられないことにもなって、変える前にそういったそれに絡みついている他の経緯や事情をどうにかしなければならないわけだが、それに気づくには実際に変えようとしてみないと気づけないわけで、そういった経緯や事情を抱えているからこれまでにも変えようとして失敗した経緯や事情が積み重なっていて、そうやって失敗が積み重なるとますます変えにくいような経緯や事情が増えていってそれが悪循環となってさらに変えにくくしてしまっている可能性もあるわけで、そういった経緯や事情を無視して蛮勇を奮って変えられるかとなると、そういうことができる機会も何かのきっかけでやってくる可能性はあるだろうし、そういった機会を捉えて変革を断行できればいいわけだが、そういうことをやってしまうとそれについては変革できるかも知れないが、それに伴って絡みついていた経緯や事情を無視することで生じる副作用が色々と出てくるだろうし、それが無視できない弊害となればそれについても対処や対応を迫られて、そういった対処や対応が場合によっては果てしなく続いてしまうから、そこでもやっているうちに飽きや疲れが出てくるかも知れないし、たぶんこれまでにもそういったことが度々起こってきたからそれについて語る行為も際限なく繰り返されてきたのかも知れず、そしてそういった語りの繰り返しがメディアを生じさせたわけで、そういう意味ではメディア自体が人がおこなう行為について語ることへの対処や対応に伴って形成されていて、それ自体がそういうことを語らせるための装置でもあるわけだから、すでにそれをいくらでも語らせるための仕掛けがそこでできあがっているわけで、だから誰もがそこで語る機会を得られる限りで、それについていくらでも語り続けられるのだろうし、いくら語っても語り足りないような仕掛けとなっていて、そこでむきになって語れば語るほどさらに際限なく語らされるような仕組みともなっていて、いったんそんな仕掛けの虜となってしまえば語っているだけでその人の寿命が終わってしまうような結果となって、そこから先への進展など望めないわけだが、もしその人がそこで語っている主張を実行するような機会を得たとしても、実行したらしたらでそれについての意見や評価につきまとわれて、それにいちいち応対していればまたそれについて語る状態へと引き戻されてしまうわけで、そういった行為に対する意見や評価をどれほど無視してもそれに対する興味が尽きない限りで行為や活動に絡みついてくる言葉の連なりへと対処や対応を迫られるだろうし、現にそういった対処や対応をおこなう場がメディア上に設置されているわけだ。


12月14日「批判と提案」

 普通は秘密を知りたいと思うところをすでに知っていることを改めて知りたいとは思わないだろうが、別に知りたいとは思わないことを知ってしまうのもよくあることかも知れないし、それを知ったとしてもその自覚がなかったり、それと気づかずにいつの間にか知ってしまうような成り行きもあるのかも知れず、そんなふうにして自身が何を知っているのか完全には把握できていないのかも知れないし、そうであるなら逆に何を知らないのかも完全には把握していないことになるのかも知れないが、知ったり知らなかったりするに限らず、それを知っているとしてもそれが正しいことか間違っていることかを判断できる対象も内容も時期も機会も限られていて、何でもかんでも恒常的に正しいか間違っているかが決まっているわけでもないだろうし、何かをやった結果から判断して結果がうまくいかなければやったことが間違っていたと判断するかも知れないが、では正しいことをやれば結果的にうまくいくのかというと、そうではない場合もあり得るとすれば、逆に間違ったことをやったとしてもうまくいく可能性があるかも知れないし、やっていることが正しいか間違っているかで結果の良し悪しが決まらないし判断できないとしたら、ではなぜそれが正しかったり間違っていたりするのかと問われることになるだろうし、その理由がわからなくなってしまえば正しいか間違っているかの判断が無効となってしまい、そうではなく結果がうまくいけば正しいことをやったからうまくいったと判断して結果がうまくいかなければ間違ったことをやったからうまくいかなかったと判断すれば良いように思われるはずだが、ではなぜ間違ったことがまかり通っていてそれを批判する側がそれは間違っていると批判するのかとなると、間違ったことをやっている側にとっては結果的にうまくいっているからそれができているわけで、そうなるとそれを批判する側の論理としては間違ったことをやってもうまくいく結果がもたらされてしまうことになり、もちろんそれを批判する側としては結果的にうまくいっていないから批判しているはずだが、それをやっている側からすればうまくいっていると言い張るだろうし、そこでやっている側とそれを批判する側とで結果についての判断が分かれるわけだが、結局批判する側は自分たちにとってはうまくいっていないから批判するわけで、では自分たちにとってはうまくいくようなことをやればいいということになると、それをやったら現状で批判されている側がうまくいかなくなる可能性が出てきて、そうなると今度は現状で批判している相手から逆に批判されることになるだろうし、果たしてそこまで考えて批判しているのかといえば、どうもそういうことではない場合が多く、批判している側も批判されている側も双方にとってうまくいくやり方を模索しているわけではない場合がほとんどだから対立や争いが避けがたいわけで、そういう意味で現状の中で批判している人や勢力の言い分が正しいか間違っているかの判断としては、それが批判している側を一方的に利するようなことを提案しているとすれば、それをやれば対立や争いを招く可能性が高いだろうし、実際に対立や争いを招くなら相手から妨害されて提案していることを実現できる可能性もそれだけ低くなるわけだが、しかし現状でも批判とともに対立して争っているのだから、果たして双方が納得いくようなやり方が見つかるかというとそうは思えないから批判している側も自分たちが利するようなことしか提案できないのかも知れず、そうなるとどちらが有利に事を運んでも対立も争いも避けられず、それらの人たちがやろうとしていることがうまくいく可能性もそれだけ低くなるだろうし、どちらにしても対立や争いをもたらすようなことをやろうとすればそれが実現する可能性も低くなり、そうかといって交渉や取引などによって妥協や譲歩を図ろうとすれば中途半端で効果の弱いことをやるような成り行きになってしまって、どちらにとってもうまくいくようなことではなくなってしまうわけだが、そうなると残された選択肢として争いに勝利して相手を打ち負かして葬り去ってしまえばいいということになってしまうわけだが、そうなると戦争になってしまうだろうし、戦争を避けるにはルールに基づいたゲームにすればいいわけだが、ゲームになると負けた側が絶えず不満を抱え込んで存在していることになるわけだから、絶えず世の中でそうした不満がくすぶり続けることになって、結果的に犯罪行為や不正行為の絶えないすさんだ社会となってしまうわけで、どうやってもすべての人や勢力に利益がもたらされて納得するようなことはできないことになってしまうわけだが、それでかまわないのかといえば現状でそうなっているわけだから実際に批判的な態度でいる人たちには納得しがたい状況となっているわけで、だから現状を批判的に捉えて現状の中で主導権を握っている人や勢力を批判しているわけだが、批判している側を利するようなことをやるように提案しているとすれば、批判勢力が争いに勝って主導権を奪ってそれをやった場合には今度は主導権を奪われた側がそれを批判することになるだろうし、そうやって度々主導権がどちらかに移ってやっていることも度々正反対に替わるようだと世の中の混乱が避けられない事態となるかも知れないが、そんなことをやっているうちにどちらか一方ではなく別の新たな傾向や方向性を持った人や勢力が出現して、そういった人や勢力が主導権を握ってこれまでにない新しいことをやれば案外うまくいくかも知れないし、もちろんうまくいっている時期も程度も限られてくるだろうが、そういう可能性も考えるなら現状のように停滞と引き換えにした安定を望むのは間違っているのかも知れず、そうであるならむしろ現状の中で様々な人や勢力が立ち替わり入れ替わりながら動的に様々な試行錯誤がおこなわれている方が好ましい状況だといえるのかも知れないが、そういう状況は特定の人や勢力が作り出そうとしてできるわけではなく、あくまでもそのときの世の中の情勢を見極めてそれに合わせたことをやろうとするような人や勢力がその場の主導権を握る可能性が高くなるわけだから、そこでいかにして他の人や勢力の同意や賛同を取り付けるかが主導権を握る上で鍵となってくるはずだが、それができるか否かもその場で生じる偶然の運不運や突発的な出来事や恒常的な世の中の傾向などにも左右されるだろうし、中には突然起こった混乱に乗じて主導権を握ろうとする人や勢力も出てくるはずだが、そうやって握った主導権もいつまでも長続きするとは限らないし、何もかもがその場の運次第ではないにしても、運をつかむのも実力のうちだろうし、つかんだ運もいつ逃げていってしまうかもわからないし、そういうことまで考慮に入れるときりがなく、どうなるにしても現状に不満を抱いている人や勢力が主導権を握るようなことになれば、必ず現状を変えるようなことをやろうとするはずだから、現状に不満を抱いている人たちはそういう人や勢力を支持したり応援したりそういう勢力に入ろうとするだろうし、そうやって現状で主導権を握っている人や勢力やそれらの支持者たちと対立したり争うことになるわけだが、そこで考えるべきことというか、考える余裕があれば、それらのどちらをも利するようなことであったり、さらにどちらにも利益をもたらさないようなことが可能かどうかを考えてみる必要もあるのかも知れない。


12月13日「世界における日本の立ち位置」

 事の経緯や経過をもっともらしい推測に基づいて本当らしく語ることができれば、現状が現状のようになっていることに関してある程度は納得できる説明を導き出せるはずだが、そうではなく現状の中で自らの立場を利するようなことを語るとなると、何か自己正当化するための内容を一方的に語るような成り行きになってしまうだろうし、そういう話の内容を信じられるかというと、そんなことを語っている人と共通の利害関係にある人ならそんなご都合主義的な話の内容でも信じられるかも知れないが、そうでない人には何か引っかかるものが感じられてしまうだろうし、そうした思いを反映すべく現状で生じている利害とは無関係に推測できればそれとは違った内容が当然のごとく導き出されてしまうのかも知れないし、果たしてそのどちらの話を信じられるかとなると別にどちらも信じなくてもかまわないのかも知れないが、少なくともより公平な視点や観点に基づいた現状の利害関係とは無関係な話の内容に感じられる方が好ましく思われるのかも知れず、それが何かというと現状の中で生じている利害関係がどうやって生じてきたのかを明らかにするような話の内容になっていれば、現状のようになってしまった経緯について語っていることになるわけだが、果たしてそれが公平な視点や観点で語っていることになるかというと、現状の利害に囚われている人にとってはそうは思えないのかも知れないし、その辺は致し方のないところかも知れないが、そうなった経緯がどこから生じてくるのかと言えば、日本の経済状況から推測するとなると貿易に依存した対外関係から生じていることになり、外国から資源や農産物を輸入してより付加価値の高い工業製品を輸出して貿易黒字を維持するには、競合する外国の工業製品との比較において品質だけではなく価格の面である程度は安くないと買ってくれないだろうし、そうなると資源を外国からの輸入に頼っている割合が高いと資源や製品の輸送費の分だけ製造のどこかの段階で安くしないとならなくなるし、そうなると結局は人件費を安くすればそれが実現できるわけで、またそうやって日本の経済が外国との貿易で成り立っている限りは、それは製造業だけでなく関連するすべての業種や産業において人件費を抑えないとバランスがとれないだろうし、実際にそうしているから貿易赤字がそれほど拡大せずに対外債務も増えず自国の通貨の独立性も維持されているし、なぜハイパーインフレにならないのかと言えば貿易不均衡が拡大して対外債務がかさんで外国からそれほど借金していないからであり、そういう状態を維持するには人件費を抑制して貿易に携わる産業の国際競争力を保つしかなく、それには人件費の抑制とともに通貨レートを円安に誘導する必要もあって、実際にある程度はそれに成功しているから、円安になっている分だけ外国との比較において日本の賃金が他の先進諸国より相対的に安い面もあるだろうし、物価も相対的に安いから外国人観光客も大勢やってくるような状況にもなっているのかも知れないし、そんなふうに現状が現状のようになっていることを説明してみれば、現状に批判的な人たちも納得はしないまでもそういう面があるということは理解してもらえるのかも知れないが、同じ貿易立国でもドイツの場合は自動車などでも付加価値の高い高級ブランドの比率が高いから高い賃金で短時間労働でも大丈夫だし、また慢性的に巨額の貿易赤字を抱えているアメリカは世界を席巻する巨大IT企業の本拠地があるし、金融部門でも世界の中心的な役割を果たしているし、映画や音楽やプロスポーツなどの娯楽産業などでも世界の中で中心的な地位を占めているし、軍事部門でも今のところは覇権的な力を有しているから通貨も国家としての信用も不動のまま高止まり傾向にあるし、そういうところに日本との違いがあるわけだが、ならば日本はこのまま状態でいいのかというと、現状に不満があるから現状に批判的になって現状を変えようとする意見がそれなりに出ていることは確かだが、政治的に変えられる面はそれなりにあるのかも知れないし、まずはそういう面を変えてゆけばいいのだろうが、それに関しては意外と遠回りに感じられるようなところから変えていった方がいいのかも知れず、それがリベラル寄りな面であり、具体的には夫婦別姓を認めたり死刑を廃止したり、法律や慣習などの面で保守的に硬直化しているところを心理的に寛容な方向へと持って行くことが大事なのかも知れないし、そうやって心の柔軟性を高めないと身体も同じような動作で凝り固まったままだろうし、個人としても集団としても活動のあらゆる面で一つ方向や傾向に凝り固まらずに多面性を維持できれば心身のバランスがとれるのだろうが、それが具体的にどういうことなのかと言えば個人の立場では一概には言えないことかも知れないし、人それぞれでやるべきことが異なってくる可能性もあるだろうし、何かこうすればいいとかいう提言ではうまくいかない場合があるとすれば、特に何をやればいいとは言えないわけだが、現状では駄目だと思うなら現状とは異なる変化の可能性を探ればいいのだろうし、現状の中で安住していられるならそのままでもかまわないわけだが、このままでは駄目だと思うならまずは心を柔軟に保って、周囲の意見や態度や活動などに寛容になる必要があるのかも知れず、それに関して例えば現状を変えるために何か無謀なことを主張している政治勢力が存在していれば、その無謀な面を批判しながらもそういった勢力を支持して、そういった主張だけに留まらせておかないで、実際に政治をやらせてみればいいのであり、やらせてみて無謀な面が災いして失敗したとしてもそこから学ぶ機会があれば、性懲りもなく主張をそれなりに修正してまたチャレンジする気になるだろうし、現状の維持だけでは駄目だと思うならそうやって現状の変化を実現させようとする勢力に活躍の機会を与えてそれなりに失敗させないと経験が蓄積しないわけで、それを怠ると現状の維持だけに汲々としながら変化する可能性の芽を摘んで先細りとなっていってしまうだけだろうし、そうなる前に何とかしたいと思うなら、まだ国家的に対外債務がかさんでいない状態の今が試行錯誤のラストチャンスだと言えるのかも知れないし、別に手遅れになってもかまわないのなら今まで通りの延長上で現状の維持に汲々としていてもどうと言うことはないわけだが、いずれにしても政治的にコントロールできる範囲は限られているだろうし、コントロールできなくても自然の成り行きによってそれなりに変化していってしまうのかも知れず、現状で主導権を握っているつもりの勢力であっても世の中のすべての方面で主導権を握っているわけではなく、現状維持に汲々としている限りで主導権を握れているように見えるだけで、そこから外れてしまうと主導権を手放さなければならなくなってしまうから自縄自縛気味にそんな傾向に凝り固まっているだけで、そういう面では余裕が全くないだろうし、そうであるからこそ暗愚な人が行政の頂点に立っていられるわけだが、それはそれで日本の現状を反映した結果として示されていることなのではないか。


12月12日「貨幣に内在する暴力」

 貨幣には貨幣を使うことによって生じる固有の力があり、権力にも権力を行使するに伴って生じる固有の力があるにしても、それぞれが別の力として働くこともある一方で、両者が連携することによって力が合わさってより強力に働くこともあるだろうし、また両者が対立することによって力が相殺されることもあるだろうし、さらに他の力も介在してきて複合的に動作することもあるかも知れないが、それらを直接使うことによって何らかの効力が発揮される以外では、それを持っていることが意識されるとその威光によって有利あるいは不利な状況をもたらす可能性もあるだろうし、人々はそれを想像するとその力が働くことを恐れたり期待するわけで、そうなるとその力を持っていることを誇示することによってその場をコントロールするような行為もおこなわれるわけだが、そうした行為が効果を上げるにはそれに関係する人や集団がその力の威力を信仰したり信用していないと効力が発揮されないだろうし、それが力の宗教的な効果となるわけだろうが、それは実際に力を直接使う場合にも言えることであり、貨幣の場合には相手が商品との交換や貸し借りに応じてくれないと効力を発揮しないし、権力なら力の行使に従ってくれないと力が発揮されないわけだが、どうしても応じてくれなかったり従ってくれなかったりした場合は、最終的には暴力を使って無理矢理従わせるようなこともおこなわれるわけで、そうなると最終的な暴力の行使が何に由来するかといえば軍事力や警察力となるわけで、結果的には政府による強制力がものをいうわけだが、そういう意味では貨幣も権力も暴力を背景とした力の誇示が信仰や信用を生じさせていると考えてもかまわないのかも知れないが、少なくとも権力に関してはそれを想像できるにしても、貨幣に関しては直接には暴力が背景にあるというよりは等価的な物や情報やサービスなどとの交換や貨幣の貸し借りができるからという意識の方が強いのかも知れないが、なぜそれが可能なのかといえば国家による保証があるからだろうし、それも最終的には軍事力や警察力にものをいわせて人々を従えている実態があり、暴力に恐れを抱いて政府に従っているわけで、それが暗黙のうちに示されているとしても普段はそれを意識していないから、ただの便利なアイテムとしか感じられないわけだが、その交換したり貸し借りができるという共通の申し合わせが何に由来しているかを考えなくてもルールを共有できてしまうということが、それに対する信仰や信用の力だとも言えるわけだが、もちろん国家が軍事力や警察力を維持するには兵器や武器やそれを使う人員を調達できる経済力があることが前提となっていて、経済力から軍事力や警察力を背景とした権力や貨幣の力が生じているわけだとすればではその経済力が何から生じているのかと考えてしまうと、それにかかわっている物事が循環してしまい、何が大本となる源泉なのかを特定できなくなってしまいそうだが、それらの力が互いに関連し合って絡み合い支え合うことによって総合的な力が生じていると捉えておくのが無難なのかも知れないし、そのすべてを暴力から連想する必要もないはずだが、力を求めてしまうと最終的には暴力に行き着いてしまう傾向もあるだろうし、逆に力を弱めるにはどうしたらいいのかといえば、力を集めるのではなく分散させるようなことをおこなう必要があるわけだが、では何によって分散させられるのかというと、それも何らかの力を用いて強制的に分散させるとなると、そこでも強力な力が必要となってしまうだろうし、そうやってどうしても力を合わせることが必要に思われてしまうわけだが、そういうところで思い違いがあるのかも知れないし、大勢の人が力を合わせて何かをおこなうことが良いことだという先入観に囚われて、無理な煽動がおこなわれてかえって世間の反発を招いてしまう事態となってしまうのかも知れないが、そういう面では力を合わせるのにも限度あるのかも知れないし、必要以上に力を合わせようとしなくてもかまわないのかも知れないが、必要以上という必要とはどれほどなのかがわからないわけで、必要としている力の程度がすでにその限界を超えるような力だと、もうその時点で分不相応で身の程知らずな妄想に囚われていることにもなるだろうし、しばしば人の想像力というのはその人が集められる力の限界を超えてしまうわけだが、そういった錯覚に囚われた人々の想像力が限界を超えて膨らんでしまうことが、逆に力への過信や盲信を生じさせている実態があるのかも知れないし、それが政治的な主張に表れてしまっていることが何か現実離れしたことのように思われてしまうのかも知れず、それがそういう限界を超えた想像力にまかせた主張に結びつくとしても、そこに限界があることを主張を実現する過程で思い知らされるようなことがしばしば起こるのかも知れないが、それもそうした主張を受け止める際に想像してしまうことであり、何か主張が現実離れしているように思われてしまうとすれば、そんな主張が実現できるわけがないと思われるからだろうが、そうした主張には何が足りないのかといえば世間の一般常識を打ち破るような力が足りないということになるのかも知れないが、そこでも何やらよくわからない力が想像されてしまうところが、そんなことを抱いてしまう人の世間の一般常識に囚われた偏見や錯覚が介在している可能性もあるのかも知れず、そういう面で力が信仰や信用などの想像力に基づいていてあやふやで定かでなく、それを主張している側もその主張を受け止める側も互いに都合のいい妄想に囚われている可能性があるわけだから、そのどちらの言い分が正しいか間違っているかではなく、主張していることが実際におこなわれてみないことにはわからない面があるわけだが、そこでも人々から信用されている人や勢力がおこなえば好意的に受け止められることによって実現する可能性が高くなるかも知れないし、逆に多くの人から反感を買って反対されているようなことを強引におこなうような事態となれば、それだけ実現できる可能性が低くなり、それでも権力や貨幣の力を使って強引に実現してしかもそうやって反対を押し切っておこなったことが弊害を伴うようなら、実現した後も根強い反対運動に直面する事態ともなるだろうし、そうなると反対している人々を軍事力や警察力を用いて排除するようなことがおこなわれるなら、そこで暴力が顕在化してくるわけだが、そんなことが頻繁に起こるようなら社会が混乱していることにもなるし、そんなことをやっている政府への民衆の信用や信頼もなくなって国力もそれだけ低下するわけだろうが、そういう意味で国家的な暴力というのはそれが暗黙のうちに留まっていているうちは貨幣の力となって経済に貢献するのかも知れないが、それが権力として強引に行使されて民衆に向かって直接の暴力となって顕在化するようだと、国家的な混乱を招いて経済が悪化する原因となるだろうし、それも経済の悪化からそうした行為が誘発されることが多いわけだから、貨幣の力と権力のどちらが先でどちらが後かはわからないし、互いが互いに作用し合って循環しているとしか言えない面があるわけだ。


12月11日「活動の継続」

 たぶん根拠の定かでない信仰や信用が間違っているわけではなく、もちろん信仰や信用にとりつかれている人には確固とした信じるに足る根拠が感じられるのだろうが、それが正しいとか間違っているとか良いとか悪いとかではなく、それを信仰したり信用するような成り行きに囚われていると言えるのかも知れないが、なぜ信仰したり信用するのかといえばその対象に魅力があるからといってしまうと身も蓋もないが、心が惹かれるなら魅力があることになるのだろうし、惹かれなければ魅力がないとも言えるわけだが、そんな魅力のあるなしにかかわらず人の生活にかかわってくる物事もあるだろうし、それに魅力が感じられたり感じられなかったりすることが、人によってもその場の状況によっても変わってくる場合もあるだろうが、魅力が感じられない物事に心身が支配されるようなことも起こるのかも知れず、別に信じてもいないのに好きでも嫌いでもないのに、そうした言葉では言い表せないような無関心の中で虚無的な空気に囚われていて、それに阻まれてそこから先へと思考が働かなければ、すでにそうした面で何かのコントロール下にあって、それを意識できないままに操られてしまっているのかも知れないし、そうしたコントロールによって役割分担として二つの陣営に分かれて対立を強いられているとしたら、そこで暮らす人々に分割と対立を強いている対象に誰もが関心を抱かざるを得ないのかも知れないが、それについては至って無関心であるからというよりは、その手前で分割や対立へと誘導されてしまって、そこへと関心が向かないようにされてしまっているのかも知れず、そうなっている時点で何らかのコントロール下におかれてしまっているわけだが、それが特定の機関や団体ではなく、それらが管理している特定の制度や法律の類いでもなければ、社会的な慣習の類いにコントロールされているのかといえば、それらのどれか一つというわけではなく、かといってそれら全体から複合的な作用や影響を及ぼされながらコントロールされているとなると、何かコントロール主体が特定できないようなことにもなってきてしまい、果たしてそれがコントロールと言えるのかという疑問もわいてくるが、そんなふうにして何にコントロールされているのか特定できないのにそれでもコントロールされているとなると、やはりそんなことに興味を持つような成り行きにはならないわけで、別にそれをコントロールとは認識しなくても認識できなくてもかまわないだろうし、結局何だかわからないがそこで分割と対立が生じていて、人々がそこで二手に分かれて争っていることになるのかも知れないが、そういう成り行きを利用して煽り立てをやっている人や勢力にとっては、そうなっていることが自分たちの活動の前提となっているだろうし、そうなっていないと活動が成り立たないわけだから、そうなっていないとかえってまずいわけだろうが、果たしてそうならないような状況というのが今後訪れるのかとなると、少なくとも現状ではそうなっているわけだから、そうなっている状況を利用することで活動が成り立っている人や勢力としては、今後ともそういう状況が続いてほしいから、そういう状況を維持するような目的で活動しているはずだが、そういった目的を自覚しているかというとそうではなく、それ以前に人々を二つの陣営に分割する理由や対立して争う理由の方に魅力を感じるわけで、そうしないと活動を維持できないというよりはそうしなければならないと思うわけで、なぜそうしなければならないのかその理由を知ろうとは思わないだろうし、自分たちの活動を維持するためにそうしていると思っているわけではなく、二つの陣営に分かれて対立して争っている方が都合がいいわけで、そうなっている理由ならいくらでも導き出すことができて、実際に二つの陣営に分かれる理由や対立する理由や争う理由ならいくらでもあるわけだが、それらを単純化して経済的な利害といってしまうと、何かまやかしに囚われているように思われてしまうわけだが、しかもそうした状況を政治的にコントロールできるかのように思っている人も中にはいるかも知れないが、すでにそうなっている時点でコントロールされているのに、それをさらにコントロールできると思ってしまうのだから、そう思わされているだけで幻想に過ぎないようにも思われてしまうわけだが、そう思ってしまう人にとっては幻想ではなく、政治的な主張としてそういうことができると訴えかけるしかないだろうし、そうでないと自らの主張を維持できないわけだが、それも理由の後付けに過ぎないだろうし、すでにそうなってしまっていることに後から理由をつけて納得しているわけで、やはりそれを自覚できるかとなるとそれ以前にそうなってしまっているのだから、自覚する以前に後から付け足した理由の方に気をとられていて、そこまで気が回らないわけだが、それを意図せざるそれと自覚できない原因と結果の取り違えと見なしてしまうと、何か狐につままれたような感覚になってしまうのかも知れないが、そういうところで何か都合良く起承転結な物語へと導いていく意志が介在してきて、それに適った言説へと意識が導かれていって結局納得してしまうわけで、そうなってしまう途中で立ち止まって自らが誘導されていることを意識できないし、そうなってしまうことに疑念を抱けないわけで、そうやって誰も彼もがコントロールに屈してその結果として自らもたらしたつもりのもっともらしい言説の虜となってしまい、そこから抜け出せない境遇になっていることについても何とも思わないだろうし、それが自らが自らを管理コントロールしている実態でもあるわけだが、なぜそうやって自らに合わせた型枠に自らを流し込んで安心したいのかその理由があるとは思えないが、それが自らの活動を維持するためには必要不可欠な限界付けなのかも知れず、何とかそんな枠内に活動が収まるように自らをコントロールするわけだが、果たして自らをコントロールしているつもりになれるかというと、つもりではなく自分の意志で直接コントロールしているはずだと思っているのかも知れないが、それ以前になぜ自分で自分をコントロールする必要があるのかに関して、疑問に思うことがないこと自体がおかしいとは思わないわけで、そうした自制心がどこから生じてくるのかといえば、やはり自らの活動を維持するためには必要なわけだが、なぜ活動を維持しなければならないのかといえばそうやって活動を維持していないと生きていけないと思うのかも知れないが、やはりそう思う以前に生きている現実があるわけで、別に生きていなくてもかまわないとは思うはずがないが、それ以前に生きているのだから生きている限りで活動が維持されていて、それ以前にそうなっているのだからそんな理由など知らなくてもかまわないわけだ。


12月10日「投資の機会」

 現状のメディア上で散見される主張や意見の中で何が大して変わらないのかといえば、批判する側と批判される側の質が大して変わらないのかも知れず、そこで立場や境遇が違う以外には本質的に差がないように思われるわけだが、そんな体質が同じで立場や境遇の相対的な違いに過ぎないようなこと関して何をどう判断すればいいのかとなると、それが絶対的な差異では決してないと思うしかないような範囲内で、そこに絶対的な差異があるかのように見せかけようとして、批判する側が差異を強調しているのであり、その強調の仕方がどれもこれも似通っていてそういうやり方にも前例がいくらでもあるからそれが相対的な差異であることを示していて、なぜそうなってしまうのかといえばそこに批判する側とされる側の役割分担が成り立っている限りで、両者が同じ作業空間を共有しているわけだが、それが何をやる作業空間なのかといえばそこで何らかのやりとりである討議の類いをおこなう空間であり、そこで相手を批判したり相手から批判されている限りで、そうした批判が成り立つ範囲内で両者が共存しているから、批判する側とされる側の双方の違いも相対的な範囲内であることが示されているわけだが、ではなぜそこから立場が対立するような役割分担が生じてしまうのかといえば、そこに対立が可能となるような差異が生じていて、その中でどちらも自らの主張が可能だと思われるからそこで対立できるわけで、しかも対立しているからには自らの主張が正しくて相手の主張が間違っていなければならず、その間違った主張をおこなっている相手を批判してそんな相手と対立しているからには、そうやって対立関係が成り立っていることが対立している相手にも認められなければならないし、そうやって双方が対立しながらもある意味ではその存在を認め合っているわけだが、そんなふうにして対立が生じるとしても本当にそうなのかとなると、実際に双方が主張していることを実行してみなければわからないだろうし、しかも批判したりされたりしている主張のどちらもが実行可能となってどちらの主張を実行してもそれなりにうまくいくようだと、批判も対立も意味のないこととなってしまうわけだが、果たしてそんなことが起きるのかとなると、それもやってみればわかることだが、もちろん批判の対象となるようなことをやらせてはならないから批判していて、しかも実際にそういうことがおこなわれているからそれをやめさせようともしているわけで、それをやめさせる理由として何らかの弊害が生じていて、そうした弊害をなくすために弊害を生じさせている行為を批判しているわけで、それが主張内容だとすればそれをやめさせるために主張しているわけだが、やめさせる代わりに何をやるかまでは批判には含まれない場合もあるが、今おこなわれていることに代わってやるべきことまで提案しないと主張に説得力が生じなければ、そういうことまで主張に含まれる成り行きとなるわけだが、実際に現状でおこなわれていることとまだ現状の中ではおこなわれていないこととの比較となると、これから何の実績もないことをやるに際してそれ相応のリスクがないとは言えないだろうし、そういう意味では多少の弊害があるにしても現状でおこなわれていることの方が実際におこなわれている実績がある分で評価されることにもなるだろうし、それに比べて現状でおこなわれていないことをやるとなるとその実現性が疑われるわけで、それに関してはこちらではおこなわれていないが他ではおこなわれていてしかもそれなりに評価されている実績があると、こちらでもおこなわれやすくはなるだろうが、どこでもおこなわれていないようなことをやるとなるといくら主張に説得力があってもなかなか信用を得られないわけで、そういう面で全く新しいことをやるような提案は受け入れられない可能性が高いわけだが、それでもいつかはどこかでそんなことがおこなわれる可能性はあるだろうし、実際にこれまでもそんなことがおこなわれてきたわけで、何らかのきっかけからそういうことがおこなわれる機会が巡ってくるのかも知れず、またこれまでも巡ってきていたわけだが、どうやってそんな機会が巡ってくるのかは実際にそうなってみないとわからないのかも知れず、そんな機会を捉えておこなわれることが実際にあるだろうし、中にはそういう機会を強引に作っておこなわれることもあるかも知れないが、それ以前に様々なことが提案される中で何らかのきっかけからそんなことが偶然に選ばれておこなわれるに至るのかも知れないし、それが偶然にそうなるのだとすると事前に何をどうやればそうなるかなんてわかるわけもないが、それでも絶えず何か新しい提案がおこなわれていることは確かであり、少なくともそういった提案がおこなわれていないとそれをやる機会すら巡ってこないし、そういう意味で提案することに関してはそれを提案する意義も意味もありそうだが、それが実際に行われる成り行きになるかどうかは実際にそうなってみないことには何とも言えないのかも知れないし、実際にそんなことを提案してそれがおこなわれてしかもうまくいった実績があれば信用を得られる可能性も高まるのだろうし、何事も前例があればその実現性も高まるわけだが、そういった前例主義に凝り固まっているようだと冒険ができなくなって、その一方で他で前例のないことがおこなわれてしかもそれがうまくいって大成功するようなことが起こると、前例主義に凝り固まっているような勢力はそうした面で後れをとってしまい、そういう分野では主導権を握れなくなってしまうわけだが、主導権を握る必要があるかとなると、現状でうまくいっていて何も前例のないことをやってまで失敗するリスクを負う必要もなければ、そんな一か八かの冒険や賭けに打って出るようなことはやらないだろうが、そうやって現状の成功の上であぐらをかいているようだと、保身や防御ばかりに気をとられているうちに新しいことは何もできなくなって、他の新しいことを積極的にやっている勢力との競争に敗れて衰退してしまうことにもなりかねないが、それもありふれた成り行きである限りでそういった前例などいくらでもあるのだろうし、まさに今の日本の現状がそうであるならば、今が行政や産業などの各分野で新しいことを主張したり提案している勢力へと積極的に投資する機会なのかも知れないが、それが現状でうまくいっていないから誰もが衰退の兆しを感じ取って危機感を募らせているにしても、では実際に今までにない新しいことを主張したり提案している勢力に投資する人や勢力がどれほどいるかとなると、それなりにいるのかも知れないが、そういう人や勢力がこれまでの前例や現状でやっていることの延長上でしか判断や評価を下せないとしたら、新しいことを主張したり提案している人や勢力が受け入れられる可能性はそれだけ低くなるだろうし、実際に受け入れられていないから衰退の兆しが感じられるとしたら、要するに失敗するリスクを恐れて誰も彼もがせこく縮こまっていると言えるのかも知れないが、それでも多くの人や勢力が無謀なことをやって失敗してしまう中でわずかな成功例が出てくるのかも知れず、そうやって誰かが失敗しないとそんな失敗を糧や教訓にして他の誰かが成功する機会も巡ってこないのかも知れないし、何らかの分野で成功者が出るにはその何倍もの失敗者の実践が欠かせないような成り行きがあるのかも知れない。


12月9日「物事の根本原理」

 そんなのは改めていうまでもないことだが、世の中では様々な事情や経緯が複雑に絡み合って錯綜していて、それらの実態を全体として把握できない状況の中で誰もが生きているはずだが、意識の中では自身に及んでくる様々な作用や影響を特定したいし、そうなっている理屈を単純明快に把握したいのかも知れないが、そんなふうに把握しようとする限りで自身の置かれた状況や自身を取り巻いている環境についての正確な認識や理解に至れるとは思えないわけだが、それでも大抵の場合は物事を単純化して捉えておいた方が考える手間が省けるし、いつもそんなことばかり考えているわけでもないにしても、そこで直面している世の中の状況や傾向について疑念を感じるところがあるとすれば、それが個人の力ではどうにもならないようなことだと思われるにしても、それをあからさまにおかしいと思う以前にそれが世間的には当然のことのように受け取られていること自体がおかしいと思われるわけで、そういうところで世間の常識的な感覚に疑念を抱くことになるのかも知れないが、それを世間と認識してしまうところがそもそもの単純化であり、何かというとすぐに世間のせいにして物事をいい加減に把握してしまうわけだが、果たしてそんなふうに把握してしまう自身にとっての真の思考の対象が世間なのかと言えばそうではないような気もしてくるし、では他に何かはっきりとそれと特定できる対象があるのかというと、それをうまく特定できないからとりあえず世間について何か考えているように装っているのかも知れず、そうなっている時点で自身の思考自体がおかしいのかも知れないが、とりあえずの対象でしかない世の中とか世間とか社会とかいう言葉で漠然と捉えようとしている物事が何なのかをうまく説明できない原因というのが、そこで様々な事情や経緯が複雑に絡み合って錯綜しているからだと考えると辻褄が合いそうに思われるわけだが、本当にそうなのかというとそれも物事をいい加減に捉えていることの証しかも知れないし、自身が捉えようとしている物事はそんな言葉では正確に表現できないようなものなのかも知れないが、それを言葉で無理に表現しようとするから違和感が伴ってきて、言葉では正確に表現できないようなものともこととも定かでないようなものを言葉で表現しようとしているわけだからそれは当然の感覚かも知れないが、それが世の中であり世間でもあり社会でもあるとすると、そうやって各々の言葉で表現しているものやことが同じものなのかそれとも微妙にニュアンスの異なるものなのかを言葉で表現できないもどかしさを覚えるとともに、それぞれが重なる面や部分があるにしてもそれとしてはっきりと対象を特定できないから、妥協的な表現としてその場の都合や成り行きに応じて妥当に思われる言葉をその都度適当に当てはめているつもりなのだろうが、苦し紛れにそんな言葉を使って逃げているのかも知れないし、どちらにしてもそこからはっきりとした内容を抽出しようとすると困難に直面してしまうだろうし、というかそれができないわけだが、実際にうまくそれを言い表せない事態を逆に利用しながら言葉を弄している現状もあるわけで、それが何なのかと考えるふりをしながら一方ではそうした成り行きを述べているわけで、そうやって考えていることと述べていることの間で何らかの連携が生じているとすれば、それが思考の対象としても言説の対象としてもうまく定まらないことに起因しているわけで、そんなふうにしてそれと特定できないことについて考えながらもそれについて述べているつもりにはなれるが、そこで考えていることと述べていることの間に差異が生じていればそれが両者のつながりとしても隔たりとしても感じられるわけで、そんなつながっていながらも隔たっている状態をどうやれば埋められるのかとなると皆目見当がつかないというか、考えているうちにあるいは述べているうちに何とかなるような気がするからそれを差異やつながりや隔たりとして保持していられるのかも知れず、またそこにはっきりとわかるような差異やつながりや隔たりがあるからこそ、それらを利用して思考を巡らせて言説を弄していられるのかも知れないし、そんな差異やつながりや隔たりをもたらすものこそが世の中であり世間であり社会でもあり、それが思考と言説の対象となるのかも知れないが、そうだとすると思考と言説の間にある物事が世の中や世間や社会を構成している当の対象となっていて、それらについて考えながら述べている対象となる物事によって世の中や世間や社会が構成されているのだとしても、そうやって言葉を循環させてしまうと逆に腑に落ちなくなってしまうわけで、何かそこにごまかしやまやかしが潜んでいるようにも思われてしまうわけだが、そんな得体の知れない物事を説明しようとすることによって何に近づいているのかと言えば、そんな物事を成り立たせている根本原理のようなものに近づいているつもりなのかも知れないが、それが実態としてごまかしやまやかしになっているわけで、そんな原理などどこにもありはしないのにそれがあるかのように装ってしまうことが何かを考えながら述べていることの実態であり、実質的には何について考えているのでも何を述べているのでもないのに、何かについて考えながら何かを述べているように装われてしまうから、そんな装いに費やされた言葉の連なりが結局は空疎な内容をもたらしていて、そうなっている限りで何も考えていないし何も述べてはいないことになってしまい、その考えながら述べている何かが何でもないことになってしまっているのかも知れないが、それでもかまわないというわけでもないのにそれで済ませられるなら、そこからさらなる疑念が生じてきて、そんな疑念とともにさらに言葉が費やされると、何やらそれに起因する様々な事情や経緯が複雑に絡み合って錯綜しているような様相を醸し出せるのかも知れず、そうであるならそんなごまかしやまやかしが言葉の対象となる世の中や世間や社会を支えている当のものであることが証明されるというか、それも装われたごまかしやまやかしの類いであり、何も証明されていないのに証明されたように装いたいのかも知れないが、それもうまく表現できていないからそんな試みが失敗に終わっていることを示していて、そうやって世の中や世間や社会という言葉が示す対象を言葉で説明することに失敗している現状が示されたからといって、そこに世の中や世間や社会という言葉で示そうとする対象があることも確かであり、依然としてそれらに関して語っている現状もある限りで、それらを言葉で表現しようとしているのであり、執拗にそれらを表現しようとすることにこだわっているわけだが、たぶんそこに至るまでの過程において思考と言説の対象を取り逃がしているからそれを表現することに失敗しているであり、それ自身がそれらを構成する根本原理となっているのかも知れないが、そう表現してしまうとやはりそんな説明がごまかしやまやかしの類いとなってしまうわけだ。


12月8日「変革の逆行」

 根本的なところで人が生きるために存在しているように政府は政府を維持するために存在していて企業は企業を維持するために存在していることにはなるだろうが、別にそれは政府や企業の構成員の一人一人が意識してそう思っていると言うよりは、また組織のトップや幹部たちにそんな自覚があるわけでもなく、組織の構成原理からそういう作用が発生してくると捉えた方がしっくりくるかも知れないが、構成原理とは何かと言えば単に体制を維持しつつも隙あらば勢力拡大を図ろうとするのが組織の構成原理だと捉えればいいのかも知れないが、現状の体制を維持できなくなれば構造や構成の変革が必要となるかも知れないが、実際に変革を訴える人たちに変革を促す力があるかとなると、力がなければそんな訴えかけとは裏腹に変革が遅々として進まずに、そんな事態が放置されれば組織自体が時代遅れとなって世界の大勢から取り残される結果を招くのかも知れないが、実際にはそんな単純な経過や結果となるわけでもなく、変革を訴える人たちもその主張内容が時代遅れである可能性があるわけで、だから変革が促されずに現状を維持する傾向が強くなってしまうのかも知れないが、そうだとすると変革を促そうとする人たちの力が弱かったから変革が遅々として進まなかったわけではなく、そうした人たちが変革を促そうとして訴えかけることによって逆に変革が阻まれるような効果がもたらされるのかも知れず、そうだとするとそれらの人たちは変革者を装っているだけで、その実態は変革者でも何でもなく単なる保守主義者でしかない可能性もあるのかも知れないが、それに関して始末に負えないのは自身が変革の偽装者だという自覚がないことであり、それどころか自分たちのような人間が変革を訴えるのが当然のことだという自負すらも持っているだろうし、しかも自分たちが事ある度に変革を訴えかけているのに一向に変革が進まないことにいらだっているのかも知れないが、その原因が自分たちの訴えかけにあることなどこれっぽっちも思っていないだろうし、自分たちの存在自体が変革の足かせになっていてかえってその言動が変革の芽を摘んで変革を抑圧して変革を遅らせている張本人が自分たちだという自覚があるわけではないし、そんなことなど夢にも思わないのが変革の偽装者なのかも知れないが、どうやって彼らが変革を訴えかけながらも変革を抑圧しているのかと言えば、要するに自分たちの味方と見なした人や団体を擁護して自分たちと敵対していると見なした人や団体を執拗に攻撃することによって変革を阻んでいるとすれば、擁護している味方自体が守旧派的な保守勢力となるわけだが、実際にそうした勢力も偽りの変革を訴えることがあるだろうし、それの何が偽りなのかと言えば自分たちの勢力を温存させる意図が見え見えであり、そんな自分たちの勢力が変革を阻んでいるという自覚がなく、それが自己防衛的な見苦しい言動に表れているのかも知れないが、もちろんそうした自己正当化が変革の訴えかけに含まれているわけだからその自覚がないわけで、そういうところが始末に負えない病的な傾向を示しているのかも知れないし、それに気づかないままそんな訴えかけを延々と繰り返しているわけだからもはやそうなっている時点でそうした訴えかけの内容に変革を促す力など宿っているはずもないわけだが、どうしてそんな傾向になってしまうのかというと、そんな人たちのそもそもの存在基盤が現状維持を図ろうとする勢力の内にあり、そんな中で自身がそれと気づかないままそういった勢力内に張り巡らされている様々なしがらみにそれらの人たちの心身が絡め取られている状態となっていて、そういう面では身動きがとれないのにそんな状態のままで変革を訴えかけているのだから、変革にとって都合の悪い事情がそんな自分たちの存在状態そのものであることに気づかないのはもちろんのこと、逆にそれに気づいてしまうと自分たちの存在自体が変革の障害となっているのに変革を訴えていること自体が自己矛盾となってしまうわけだから、そこから何をどうやっても変革には至らないわけで、そうであるからこそ自分たちにとって都合の良い敵を設定してそうした仮想の敵に向かって変革を訴えかけることによって自己保存を図ろうとしているわけだから、そういう自己矛盾の回避自体が欺瞞にしか逢着しないわけだが、そういう成り行きは案外誰にでも起きてしまうことかも知れず、その人の活動がうまくいっていること自体が現状のままでもかまわないことを示していて、そうした人たちがいくら現状の変革を訴えかけてもその一方で自分たちの活動がうまくいかなくなるような事態は避けたいわけで、その避けたい事態となることが現状の変革に結びつくとすれば、そうなってしまう時点で自己矛盾に陥らざるを得ないわけで、そういう意味で現状の変革を訴えかけている人がいたら、その人の活動が維持される範囲内では変革よりは現状維持の力の方が強く働いていると思っておいた方がいいだろうし、そういう方面でいくら変革を訴えかけているとしても、自身の活動のうまくいっている面ではそういった現状維持の力が強く働いていることは自覚できないのかも知れないし、それを自覚できないからこそその人にとっては自己欺瞞など生じていないことになるのかも知れないが、外部からその人の活動を客観的に観察するなら当然のことながら変革の訴えかけとは矛盾する保守的な自身の活動状況が見受けられることになるわけだが、だからといってその人と敵対しているわけでもなければそれをことさらに言い立てるような成り行きにはならないし、その限りでそういった傾向がそのまま放置されることになってしまうわけで、それでかまわなければ変革への訴えかけが逆に変革を妨害して抑圧するような成り行きになってしまうだろうし、そうなっている限りで現状が維持されるわけだろうが、果たしてそれでいいのかといえば変革を訴えかけている当人にとっては問題ないわけで、実際にいつまで経っても変革を訴えかけていられるわけだからそうやって変革を訴えかける活動の現状が維持されているわけだが、そういうことだからいつまで経っても代わり映えのしない訴えかけを延々とおこなっている人がいたら、その人の現状が維持されていることになるわけで、そういった現状維持の傾向がある限りでその人にとっての変革を当人が阻んで抑圧していることにもなるわけだが、そんなふうに変革を訴えかけながら現状の維持に貢献している人たちが大勢メディア上に巣くっている現状が世の中の変革を阻んでいることになるのかと言えば、当人たちがそれに気づかなくてもかまわないような現状がある限りでそうなっていることになるわけだが、それでも変革が必要なのかと言うとそうでもないのかも知れないが、そんな変革の訴えかけが成り立たなくなったときが実際に変革がおこなわれている最中なのかも知れないし、メディア上からそんな現状批判の声が聴かれなくなったときが変革が完了したときなのかも知れない。


12月7日「目的と期待と成果の分離」

 別にそれが詐欺師の手口だとは言えないが、何か次第に主張の中で用いていた無理な論理にほころびが見え始めると、今度は手を替え品を替えて何を持ち出すのかと思えば、なぜか極めて当たり前なことを主張しているかのように装うわけだが、そういう印象操作がわざとらしく感じられるかと思えば聴衆には意外とすんなりと受け入れられてしまったようで、それでも過去に煽っていた主張の内容は変えようがないはずだが、もうそれは済んでしまったことであり、今さら蒸し返しても後の祭りだと言わんばかりに、その件については改心もせずに平然とまともそうな印象を醸し出すために主張の内容を微妙に衣替えしたつもりなのかも知れないが、それでも奇っ怪なことを述べていた過去の印象は拭えないはずだが、その奇っ怪なことが何かと言えば、これまでの常識を外れた画期的なことを主張していたように思われるのは過去のことであり、そんな過去の経緯を訂正もせずにいけしゃあしゃあとそれまでとは正反対の常識的なことを誠実な振りを装いながら主張しているとすれば、普通は誰もが異変に気づくはずだが、なぜかその辺はいっさい触れられずに何事もなかったかのように常識的な範囲内の内容に主張を軌道修正している現状があるとすれば、少なくともそれが誠実な対応だとは言えないはずだが、たぶん誠実であるか否かの如何にかかわらず戦略的な傾向を重視しながらやっていることであれば、結局その程度で騙せるような聴衆を前にして政治的な主張を繰り返していることになるのかも知れないが、そんな成り行きから何がわかるのかと言えば、主張の中身とはその程度のことであり、周囲の状況や反応に応じてころころと中身を変えられる程度の内容だとすればそんな主張の有効性や実現性も怪しいのかも知れないが、どこの誰がそんなことをやっているわけもないとなるとそれは完全に作り話を述べているだけかも知れないし、実際に現状の中で起こっている何を問題視しているわけでもないのかも知れないが、要するに事件の目撃者が事件に直接かかわっているわけでもなく、たまたまそれを目撃しただけかも知れないし、逆に関係者は何も目撃していないのかも知れず、目の前で起こっていた事件を誰も見ていなかったことになるのかも知れないが、そうではなくその人が重要だと思う人物にその人が実際に出会っていたとしても、出会っていただけで単に部外者であったにもかかわらず、後から関係者面して自分がその人と親しかったように装うこともできるだろうし、またその人の政治思想や活動には共感することが多かったようにも語ることができるわけだが、それが勘違いの身内意識からそんなことを語っているのだとしたらそれも大したことではないのかも知れないし、別に傍観者的な立場でそれの何を問題視する必要もないのかも知れないが、たぶんそれを語っている人の頭の中では辻褄が合っていて、当人はもっともらしいことを語っているつもりにもなっているのだろうが、果たしてそれがそれだけでは済まないようなことだとすれば、では何が問題なのかと言えば何も問題ではなく、何の問題もないからそのままスルーされてしまうのだろうし、実際にそこで語られていることはといえば語ることが目的と化している限りで語ることが実現していればそれでかまわないのだろうし、さらにそれが文字の連なりとして記されていれば文章として実現しているわけで、それも一つの実現でありそうすることが目的であったということになるだろうし、語っている中身が実際に語られてそれが文章として記述されて映像としても記録されることが語ることの目的となっている限りで、それでかまわないことになってしまうわけだが、そうではなく何かを実現しようとしてその手段として語っているのだとすれば、その場合の語りと語ること自体が目的と化している語りとは何が違うのかと言えば、大抵の人は違いなど認識できないだろうし、誰かが何か魅力的なことを語っていると思われても語り自体が魅力的なのか語りの中身が魅力的なのかの区別などつけられないだろうし、ただ漠然と心地良く語りを聴いているに過ぎないのかも知れず、それ以上でも以下でもなければそうしたことは曖昧なまま放置されるばかりで、誰もがそんな状況になっていることの責任などとりようがないわけだが、では果たしてそんな心地良い演劇空間を共同作業の成果として構成している人たちは何かの関係者なのかと言えば、そこで誰かが何かを語っているというパフォーマンスに関しては関係者かも知れないが、語っていることの中身を実現することに関しては少なくとも聴衆は部外者でしかないのかも知れないし、ただの傍観者がそのほとんどを占めていれば語っている中身には何の実現性もないのかも知れないが、果たしてそうではなくそこから語っている中身を実現するための積極的な協力者や加担者が生じてくるのかと言えば、たとえそれら人たちが全面的な協力者や加担者となったとしてもそういった人たちの力量は未知数だろうし、実際にそれを実現するに際して役に立たなければいくら協力者や加担者が増えてもかえって実現する上で妨げにしかならない場合もあるだろうし、そうした善意の無能者や妨害者を惹きつけるのがそれらのパフォーマンスの効果だとすれば、パフォーマンス自体の効用がマイナスに振れていることになるのかも知れないが、ではどうやれば効果や効用がプラスに振れるようなパフォーマンスになるのかと言えば、それもやってみなければわからないところかも知れないし、確かにやり方を工夫すれば聴衆を惹きつける魅力を醸し出すことができるとしても、それと語っている中身を実現させることとは別問題だとすれば、では何のためのパフォーマンスなのかと言えば結局は語ることを目的とするパフォーマンスなのかも知れないし、またそれが文章となったり映像となることを目的とするパフォーマンスなのかも知れないが、それ以外にどうなることが目的として成り立つのかと言えばパフォーマーが世間の人気者になるためのパフォーマンスである可能性も高いわけで、それが必ずしも語っている中身の実現には結びつかないとしても、その人が人気者になって選挙に勝利してその人の勢力が議会の主導権を握るまでになって、その結果としてその人が行政府のトップに立つようなことにでもなれば、その人の語っていた中身が実現すると思いたいだろうが、実際にはそうならない場合が多いのが民主主義的な政治制度であり、その人が行政のトップになっても何もできないままに任期を終えてしまったり、また途中で辞任に追い込まれてしまったりする場合が多いから、結局パフォーマンスでいくら多数の聴衆を惹きつけても、また多くの人たちが願っていることを実現するために、そして困っている人を助けるためにそんなことをやっているとしても、それが結果に結びつかなければ徒労に終わってしまうことになるのかも知れないが、とりあえずそれを実現させるための手段として大衆の人気を得ないと目的を実行に移す機会にも恵まれないわけだが、たとえ実行に移す段階にまで至ったとしてもそれに成功するとは限らないわけだから、いくら事前に用意周到な戦略を立てて説得力のある意見を主張していくら大衆の人気取りに成功したとしてもそこから先は不透明であり、実際にうまくいった例しはほとんどなく、そのほとんどは事前に想定していなかった事態に直面して苦渋の決断を迫られた末に現状の維持を図ろうとする勢力との間で屈辱的な妥協を強いられて中途半端な結果しかもたらせないのかも知れないし、それが現に政治的な主導権を握っている勢力が抱える深刻な問題でもあるのではないか。


12月6日「メディアと資本主義」

 人は誰でも資本主義経済の中で生きている実感があれば、そういう自覚がなくても自然と金銭的な価値を追い求める傾向になるはずだが、だからと言って誰もが裕福になれるとも思っていないだろうし、経済的に成功できるのはほんのわずかな人や企業であり、競争に勝てなかったその他大勢に属する人や企業が社会の中で大して重要とも思えないような流れ作業のような仕事をあてがわれる事実も知っているはずだし、そんなことがおこなわれている光景を誰もが毎日のように見ているはずだが、その一方で誰もが関心を惹かれてしまうのはそんなつまらない光景ではなく、それは何やらメディア経由で見せられる成功者が楽しそうに興じている振る舞いであったり、希少価値を担った特権的な人物がおこなっている社会的に注目度の高い行為や活動であったりするのだが、それらが何を意味するのかとなると、その他大勢の人たちがやろうとしてもできないような行為や活動であるのかも知れないが、よく見ればそんなふうに思わせるような演出がメディア側によって施されていて、何か魅力的に見えるように飾り立てられて箔がつけられているわけだが、その必要があるのかと言えば人の気を惹くにはそういう演出が必要なのかも知れないが、気を惹く必要がなければ要らないだろうし、メディアにとっては人目を惹きつける魅力が必要だからそんな飾り立てをやっているだけで、そういった飾り立ての舞台装置を取り去れば案外そこでは何でもないようなことがおこなわれていて、それらの大半はその他大勢の人たちがやっている日々のどうということはない行為や活動の延長上でおこなわれていることに過ぎないのかも知れないし、それだけが取り上げられてスポットライトを浴びて過剰に誇張されたり強調されて煽り立てられてしまうと何やら魅力的に見えてしまうのかも知れないが、そうであるならそういった演出からもたらされる外見の姿が魅力的に見えるだけで、行為や活動の内容は意外と空虚で何でもないことでしかないのかも知れないが、それを見ている意識が見せかけの演出に惑わされているだけであれば、そんなことに気づいた時点で魅力が失われてしまうのかも知れず、人々にそれを気づかれないようにする工夫が凝らされているから容易には気づかないような状態となっていれば特に問題はないのかも知れないが、案外誰もが薄々気づいていて、気づいてしまうと他に楽しみがなくなってしまうのが怖いから、よく見れば気づいてしまうような虚飾のほころびからそれと自覚することなく目を背ける習慣を身につけている可能性もあるだろうし、そうやって見る側と見せる側との暗黙の申し合わせによって成り立つような舞台装置の上で何かが演じられているのであれば、それは見せる側が見る側に押しつけている見る上でのマナーの類いになってくるわけだが、そういう但し書きや契約事項に同意した人のみが楽しめるような娯楽がメディアから提供されているのであれば、他に何もなければ誰もがそんな馬鹿げたルールに同意せざるを得ないような事態となっているのかも知れないが、もしかしたらそれはメディアとそれを享受する人々との間で成り立っている規約の類いを超えて、もっと広く資本主義経済の中で生きている人たちが守るべき規約としても成り立っているのかも知れず、とにかくそこでは何でもかんでも金銭的な価値に換算しなければならず、金銭的な価値に換算できる行為や活動だけが魅力的に感じられるような訓練を日頃の生活の中で労働と消費の両面から受けていて、そんな訓練の成果として売り物ではない労働を売って買う必要のない商品までも買わされていることに誰もが薄々気づいているのに、それに気づいて売ったり買ったりしなくなってしまうとたちまち経済が立ちゆかなくなるから、誰もが気づいていながらも気づかないふりをしなければならず、それに気づいてうっかりそれを実行してしまった人は規約違反でそこから退場させられてしまうようなことも起こるかも知れないが、それが具体的にどんな行為なのかが誰もわからないような申し合わせとなっているのかも知れないし、本当はわかっていてもうっかり口を滑らせないようにお互いがお互いを監視し合っている可能性もあるのかも知れないが、それも舞台上で演じられている芝居の類いなのかも知れないし、実際に不要なものが売れていないから世の中がデフレとなっているわけで、それでは困るから人々に無駄で無意味なことをやらせようとしてメディア上で無駄で無意味なことが盛んに煽り立てられている実態があるのかも知れず、そこでおこなわれているような無駄で無意味な行為を一般の人々にもまねてもらって、実際に無駄で無意味なことに金を使ってほしいわけだが、もちろんそんなことに金を使ってしまえばたちまち資金が底を突いて借金まみれとなって身動きがとれなくなってしまうことも誰もが知っているから、うかつには乗ってこないわけで、そうやってお互いがお互いに疑心暗鬼となっているのかも知れないが、それでかまわないとなると誰もがそれなりに賢くなっている証拠かも知れないわけだが、その賢さがデフレをもたらしているとすれば別にそれでかまわないわけで、もちろんメディア上で煽り立てをやっている人たちはそれでは困るだろうから、盛んにあの手この手で趣向を凝らして消費を煽っているわけだが、果たしてそんな見え透いた煽り立てに踊らされてしまうことが賢い態度なのかと言えば、誰もそうは思わないから現状のデフレ状態が延々と続いているのだろうし、要するにその手のデフレから生じた世の中の貧困化を憂うような人に騙されてはいけないのであって、デフレ状態のまま資本主義経済を終了させることが賢い選択なのかも知れないが、社会の中でそれなりの立場や地位にある人が表立ってそんなことを述べてしまうとそれこそ規約違反となってしまうのかも知れないし、その辺は暗黙の申し合わせとしてデフレからの脱却を訴える政治宣伝に同調するふりをしておけばいいわけだが、ふりをするだけでなくその気になって試行錯誤をやろうとしてしまう人たちも中にはいるだろうし、それも試行錯誤をやっているふりをしたいだけで、実際に政治宣伝の段階では試行錯誤の方法をプレゼンしているに過ぎないのであり、それこそが大衆市民社会を覆っているシミュラークルの類いであり、演技としての試行錯誤の模造品がメディア上で提示されているに過ぎないことなのかも知れないが、そんな出来の悪そうな大衆演劇を楽しめるかとなると、楽しむとか楽しまないとかいう問題ではなく、実践的な行為として誰もが日々の暮らしの中で実行するようなことかも知れないわけだが、実際に何を実行しているかというと結果的にデフレを招いているようなことを実行しているわけで、しかもそれが自分たちのせいだとはこれっぽっちも思っていないだろうし、悪いのは利益を上げながらも内部留保として貯め込んでいる大企業であり、そんな大企業からの支援を受けて大企業を儲けさせている政府が悪いのだと思い込ませようとしている人たちもいるのだろうが、本当にそうだとしてもそんな大企業もそこで働く従業員と商品を買ってくれる消費者がいないと成り立たないだろうし、政府にしても政府を支持する国民がいないと成り立たないわけで、そういうところに何か釈然としないものを感じるのが当然かも知れないが、それを感じさせないようにしたいのが政治宣伝であり、メディア上で現におこなわれている演劇の意図なのかも知れない。


12月5日「自ら墓穴を掘る」

 現時点で何の機会が巡ってきているのかわからないが、理由ははっきりしないが何かの機会が巡ってきていると考えるのが妥当に思われるとき、その機会を捉えて何をやるかが問われているのかも知れないが、勝手にそんな妄想を抱いてみても何のことやらさっぱりわからないかも知れないし、少なくともそれに関して現状から何か学ばなければならないことがあるとしたら、現状の中で何やら説得力を感じられるような人の主張や意見から学ばなければならないのかも知れないが、その人に倣うことによって自らも説得力のある意見を主張できるかとなると、学んだ人とは立場も境遇も異なると自らの主張や意見と自らの立場や境遇との間でうまく整合性がとれなくなってやっていることと述べていることが矛盾してきてしまうのかも知れないし、そうなると困るから自らの立場や境遇に合わせた主張や意見を述べるようなことになると、その内容に学んだことが反映されなくなってしまいそうだが、その辺の整合性をどうとるのかとなると、学んだ人と同じような立場や境遇になるように自らの立場や境遇を変えなければならなくなるとしたら、果たしてそんなことができるかとなるわけだが、たぶんそういうことではなくて、その人の主張や意見がその人の立場や境遇を反映していないのは当たり前のことかも知れず、だからこそ身の程をわきまえないようなことを言い放つ人が後を絶たないのだろうし、そんな人たちは自らの主張や意見と自らの立場や境遇がかみ合っていないのにそれを放置しながら両方ともこなそうとするからおかしくなって行ってしまい、そうやって自らの墓穴を掘っていることになるのかもしれないが、別に自分で自分の墓穴を掘っているのが悪いことではなく、効率や経済性を考慮するなら逆にそうしてもらった方が手間がかからないし安上がりでちょうどいいわけだが、ではそんな人たちとは違って自らの主張や意見と立場や境遇がかみ合っていることの方がいいのかといえば、良いか悪いかではなくそうなってしまう人がいる一方でそうはならない人もいるということでしかないだろうし、どちらもあり得るから本人がどちらかを選べるかとなると選べる人も選べない人もいるのかも知れず、それも選べたからと言って良くて選べないからと言って悪いということでもないのかも知れないし、単に自らの主張や意見や立場や境遇のどれかまたはそれらすべてを選ぶ機会に恵まれている人もいるかも知れないし、どれかを選べてどれかを選べなかったり最悪の場合はどれも選べない人もいるかも知れないし、そうなると人それぞれで選べる度合いも異なってくるのかも知れないが、それらの中でどうなれば自ら墓穴を掘る事態になってしまうのかというと、どのような場合でも墓穴を掘ってしまうことになるのかも知れないし、またそうはならない場合もあるのかも知れないし、それも一概には言えないことだとなると、ではどうすれば良いのかと問われるかも知れないが、それは他人に問うようなことではないのかも知れないし、自身に問うてもわからないことかも知れないが、こうすれば良いとかこうしておけば安心だと言い切れないような状況の中で誰もが生きているのかも知れないし、絶えず自ら墓穴を掘るような自滅の機会が巡ってくるような状況の中で、運が良ければ墓穴を掘らなくても済むような成り行きの中で生きていけるかも知れないが、その代わりに他人が罠を張って待ち構えていてそんな落とし穴が自らの墓穴となってしまう可能性もあるだろうし、そういう意味ではどんな意見を主張してもどのような立場や境遇になろうと安心できないわけだが、それでも主張や意見を述べる機会が巡ってきてしまえば述べるような立場や境遇に追い込まれてしまうだろうし、誰に頼まれたわけでもないのに自発的に主張や意見を述べているような立場や境遇になってしまうわけで、そんな主張や意見を良いだの悪いだのと評価することもできるし、実際にやっていることが述べていることと違っているではないかと指摘することもできるわけだが、だからといって正しい評価をしている人や述べていることとやっていることがかみ合っている人が良いとは言えない場合もあるわけで、またそれが良いとは言えない人が悪いとも言えない場合もあるだろうし、そんなふうに考えていくと何が良くて何が悪いかの判断がつかなくなってしまい、そういった判断や評価を生業としている人たちには困った事態となってしまうかも知れないが、それでも良し悪しや善悪の判断が必要となってくるから必然的に過ちを犯してしまうわけだろうが、そんな誤った判断から勘違いが生じるとしても、そうした勘違いからも何らかの物事が生じてくるわけで、そうなった結果から判断してそれらの良し悪しや善悪を言えるかも知れないが、途中の過程ではわからない場合もあるだろうし、何かこうすれば良くなると信じていることを試した結果が思わしくなくても、やってみないことには判断のしようのないこともあるだろうし、それ以前にあれをやっては駄目だこれをやっては駄目だと批判ばかりしてみても、では何をやれば良いのかとなるとこうすれば良いと主張する人を信じられない場合もあるだろうし、それについて現状の延長上で物事を動かすことに関しては何やらそうすることに安心感が伴ってくる一方で、そこから外れたことをやろうとすることには抵抗感を覚えるのが普通であり、抵抗を感じながらもやった方がいいのではないかと判断するような場合には、他からも周囲からも抵抗が生じてくることは覚悟の上でやらなければならない成り行きになってしまうわけで、実際に普段は支持してくれる周囲から反対されながらもやってしまってその結果失敗すればそら見たことかとなるわけだが、そこで何かの巡り合わせで成功してしまえば周囲の反対者を沈黙させることができるかも知れないが、それと引き換えにして勘違いや自らへの過信も生まれてくるかも知れないし、そのときはたまたまうまくいったとしても次もうまくいくとは限らないし、またさらに運やつきに恵まれて連続してうまくいったとしても、いつかは破綻してしまうことだってあり得るだろうし、極端な話として百回うまくいったとしても一回失敗してしまえばそこでおしまいということだってあり得るだろうし、そんな場合でもやってみないことにはわからないのかも知れないし、やってみた結果として良し悪しや善悪を言うのは簡単だが、それをやるに至るまでに数々の困難や苦難が待ち受けているとすれば、結果から良し悪しや善悪を評価する人よりは無謀に思われることを蛮勇をふるってやろうとする人や勢力の方が信用できる場合もあるだろうし、どちらに期待するかとなると無謀に思われることに挑戦する人たちに期待する方がかっこいいわけで、何もやらないような人たちがそんな人たちに期待してしまうのが人情でもあるわけだが、もちろんそこでも何もやらないような人たちよりは無謀に思われることに挑戦する人たちに期待してしまうわけで、そんな人たちに無根拠な期待を寄せている人たちが自分たちで自分たちの墓穴を掘っていることになるのかというと、仮にそうだとしてもどちらかと言えば墓穴の外よりは墓穴の中の方が心地良い場合もあるのかも知れない。


12月4日「犯人捜し」

 物事にはその発生や生成や進展や経過などに伴って様々な要因や事情や経緯や関係などが絡んでくるが、具体的にそこから何がわかるかとなるとそうした物事自体とそれに関係する人や団体や制度や慣習などの有り様がわかるかも知れないが、わかったとしてもそこから何が言えるかとなると、そうしたことについて知り得る限りのことが言えるのかも知れないし、知り得たところで何がどうなるわけでもないのかも知れないが、そこから人や集団が具体的なアクションを起こすような成り行きになれば事態が動き出すわけだが、事態が動き出すにしてもアクションを起こした人や団体の思惑通りに事態が動くわけでもなく、そこに絡んでくる別の物事や関係してくる人や団体や制度や慣習などからの干渉を伴いながらもそこから生じてくる協力関係や対立関係の中で事態が推移するわけだろうが、中には協力でも対立でもないような無関係の関係や他の関係も生じてくるだろうし、それが必ずしも直接の関係ではなくても間接的な影響を及ぼしながら事態をコントロールするような成り行きも生じるのかも知れないし、それがコントロールという直接的な作用というよりは共鳴や共振程度の現象であれば取り立てて対処や対応の対象とはならないだろうし、別に無視してもかまわない程度の些細なことに過ぎないのかも知れないが、そんなことが周囲で無数に生じているとそれに気づかなくても何か気になってくるのかも知れないし、それを肯定的に手応えという感触と捉えると何やら自分たちの起こしたアクションが有効に機能しているのではないかと思われて、そこからさらに活動を進展させる上で糧や励みにもなるのかも知れないが、そういう成り行きとは逆の否定的な作用や影響もあるだろうし、何か直接的に活動を妨害したり阻止するような行為もおこなわれるようならそこで対立や争いが起きていることになるわけだが、そういうのとは違ってかわしたりいなしたりはぐらかしたりするような何とも対処しようのないことがおこなわれることもあるのかも知れず、そうなると何もかもがかみ合わずにすれ違うことばかりで、いくら行動を起こしてもそれがどこにもぶつからずに衝撃のことごとくが吸収されてしまうような薄気味悪い成り行きとなってしまうと、それをどう受け止めればいいのかもわからずに途方に暮れてしまうのかも知れないが、現状がそんなふうになっているかと言えば幸いなことにそこまで事態が進展しているとは誰も感じていないだろうし、少なくとも肯定的な反応も否定的な反応もそれなりの感触を伴ってあるはずであり、直接の協力関係や対立関係も誰もが感じられる程度にはあるのだろうが、だからといっていなしたりかわしたりはぐらかしたりする動作も状況に無視できない作用を及ぼしているのかも知れないし、その辺はどこまでがそういう作用なのかよくわからないところかも知れないが、そこに介入してくる力の方向が交差したりぶつかり合ったりするのではなく、ねじれの方向に通り過ぎて行ってしまったり平行線をたどってしまったりして、交わらない場合がほとんどであるのが普通の状況なのかというと、空間的にはそうだとしても物事を平面的に捉えるなら平行線以外は必ずどこかで交差したりぶつかるように思われるわけだが、果たしてそれが比喩として現状に当てはまるのかというと、比喩ではなく直接の介入の対象となる物事と対峙したいわけだろうが、思考や介入の対象とは見なせない物事も世の中には無数にあるのかも知れないし、こちらが無視してもあちらからちょっかいを出してくることだってあり得るし、こちらからちょっかいを出したい対象には無視される一方でこちらが無視するような対象からは逆にしつこく絡まれたりして、そんなこちらからはどうにもコントロールできないようなすれ違いの中で疲弊してしまうのかも知れないが、自分だけでなく誰もがそんなじれったい思いでいる可能性もあるだろうし、そういった方面では誰の思い通りにもならない社会構造になっているのかも知れないが、それでも何かしら力が交わったり重なったりする面も多少はあるだろうし、そういった面を利用して誰かが何らかの団体が社会に作用や影響を及ぼそうとするのかも知れないが、そういった作用や影響が思惑通りに機能して意図した通りの結果が得られればいいだろうが、実際にはそうはならない面が大きいから何かと様々な方面でもめ事が起こっているわけだが、元から通りそうにない無理なことをやろうとしている実態もあるだろうし、それが現状で主流となっている行為を弊害が大きいからなくそうとする試みなのかも知れず、それは弊害とともに利益ももたらしているからなくそうとしてもなくならない行為でもあるわけだが、なくそうとしてもなくならない限りでそこから利益を得ている側が主導権を握っている一方で弊害を被っている側がそういった行為をなくそうとしていることになるのだが、果たして全面的にそうかというと弊害を被っている側は被っている度合いが高い人や団体ほどなすすべもなく弊害を全面的に被っている一方で、利益を得ている側は弊害よりは利益の恩恵に与っているほど現状の中で主導権を握れているなら、どう見ても弊害を被っている側に勝ち目がないように思われるわけだが、それとは少しずれたところで弊害を意識できない人たちが多数派を占めている可能性もあるだろうし、それが弊害をなくそうとする人や勢力がつかんでいるつもりの一縷の望みであり幻想を抱く余地なのかも知れず、それらの多数派を占める人たちが弊害を被っていることに気づかせることができれば、それらの人たちから支持を取り付けて現状で主導権を握っている人や勢力から主導権を奪還できると思われるわけだが、果たして本当にそうなのかというとそうしたことの前提を構成している土台からどちらもが利益も弊害も受け取っていて、それをなくせば弊害が減じられると思っている制度の類いを成り立たせている元の土台の部分が弊害を生じさせている実態があるから、たとえ制度の類いを取り去っても弊害が残ってしまうとしたら、それとともに裏切られたという思いも残ってしまうだろうし、しかも弊害があるから一方で利益がもたらされているとなると、ではどうやれば弊害をなくすことができるかという問いそのものが無効となってしまう可能性があり、そうであれば現状で利益と弊害の両方を生じさせている土台の部分をどうにかしない限りは弊害を取り除くことができないことになってしまうわけだが、そんな問いがもたらされるにはやはりそれを誰もが知ってもらうためにもまずは弊害をもたらしている制度の類いを取り去る必要があると主張することができるにしても、それよりは根本的なところで元となっている土台からは利益も弊害も生じないような処置を施すべきなのかも知れないし、そんなことが実際に可能なのかというと、現にそうなりつつあるから何か焦って犯人捜しのようなことになって、そのやり玉に挙げられているのが件の制度の類いとなっているわけだが、果たして本当にそうかといわれると疑念を抱いている人も少なからずいるから、現状ではそんなことをやっている勢力にそれほどの支持は集まっていないのではないか。


12月3日「判断の暴走」

 誰も彼もが都合のいいことしか言わない世の中で何を信じたらいいのかわからないのが普通の感覚だろうが、それも実態としてメディアや街頭で屁理屈のようなことを主張する煽動者の言葉を信じてしまう浅はかな人が世の中の大半を占めている状況があるとすれば普通だとはいえないわけだが、他人の言葉も自分の言葉も信じられなければ言葉など信じなくてもかまわないのかも知れないが、そんな状況を客観的に捉えるなら信じないと思っている人たちもその場の状況に応じて信じたり信じなかったりするわけだろうが、それでも自分の言葉は信じているはずで、信じているからこそ自己正当化にこだわるのだろうが、果たして自分の言葉が信じられなくなることがあるのかといえば、間違っていることを自覚すれば信じられなくなるはずだが、なぜ間違ってしまうのかとかと言えば、間違っていることを悟る以前に疑念がわいてくるわけで、結果が思わしくないから間違っているのではないかと疑念を抱いてしまうことが、間違っていると確信する以前にその前段階として思ってしまうことではあるのだが、そこから間違いを確信するまでに間違っていることの証拠を集めようとする場合があるだろうし、中にはそういった紆余曲折や逡巡の過程を省いて突然間違いに気づいてしまうことだってあるはずだが、どちらにしてもそんなふうに間違っていることに気づかなければ間違っているとは思わないはずだが、間違っているとは思わないことが間違っているとしたらその間違いには気づけないだろうし、要するに間違いに気づけないから間違ってしまうことになるわけだが、人は誰しも完璧にはほど遠い状態だから間違うのが当然であり、当人が自身の間違いに気づこうとしても無理な場合もあるだろうし、しかも当人が間違いに気づいたとしても他から権力を行使されて正しいことができないような立場や境遇に追い込まれてしまうことだってありそうだが、そうであるなら自らがある程度は間違ってしまう事態を容認せざるを得なくなってくるわけだが、逆に絶対に間違えまいとして石橋を叩いて渡るような慎重な振る舞いに固執してかえって萎縮してしまうことも間違っていることに含まれるかも知れないし、そんなことも含めるとある面においては正しいことであっても別の面から見ると間違っているように思われるのが人がおこなっていることの大半なのかも知れず、そういう意味でなら何が正しかろうと間違っていようとかまわないことになってしまい、では何をどう判断したらいいのかわからなくなってしまうのも無理はないが、少なくともその場で何らかの差異を感じ取って判断するしかないだろうし、その判断が必ずしも正しいか間違っているかの判断とは限らないのかも知れず、他にも多方面から様々な判断の要素が入り交じりながら判断を迫られるわけで、それが相対的に客観的で総合的な判断につながるのかも知れないが、中には判断しないこともその場の判断に含まれるのだろうから、その場では判断を保留したり判断そのものとは無縁の行為をおこなったりして、そんなことが積み重なったり積み重ならずに分散してしまうこともあるかも知れないが、そんな経緯や経過自体も判断の一部となっていて、そうやって何らかの判断を伴いながら誰もが現在に至っているわけだが、そんな現状がどうであれこれからも何をやるにも何らかの判断が伴ってくるわけだから、そんな判断の中でも正しい面と間違っている面と正しくも間違ってもいない面と正しくも間違ってもいる面が混在しているだろうし、もちろんそれが正しいか間違っているかの言葉の意味とは異なる面も判断に含まれるわけだから、そういった面を省いたり無視すれば判断の単純化につながって、それだけ物事の把握や把捉の精度が落ちるわけだが、それでも通用する水準があるだろうし、そういった水準で述べていることが他から共感や支持を得られる限りでその範囲内で通用していることになるのだから、そういう水準では確かに何でもかんでもそれが正しいか間違っているかの判断で済んでしまうわけで、それがすべての水準で通用するわけでもないとしても、通用している範囲内にそういう判断をしている人が生息できている限りで何事もなくその人の言説環境が維持されるわけだが、それもそんな水準以外に生息している人たちにはどうでもいいことというよりは粗雑な判断としか見なされない場合もあるだろうし、そういう人たちには相手にされないだろうが、支持や共感を得られる範囲内では相手にされているわけだから、そういった判断を相手にするような人たちとともに成り立つような判断の水準もあるわけで、そういったことが何にたとえられるかとなると比喩的な範囲内では古典物理学と量子力学の違いと言えるかも知れないし、古典力学では正しいか間違っているかのどちらかの状態に決定できることが量子力学ではどちらの状態もあり得るから不確定となるわけだが、そういった比喩が有効な範囲もそれぞれに限られてくるだろうし、どちらかと言えば正しいか間違っているかの判断をはっきりさせた方がわかりやすくて一般の社会では好まれるだろうから、たとえそれが間違った判断を含んでいるとしても世間に媚びている限りで正しいか間違っているかの判断を迫られてしまい、間違っている可能性があることを承知で判断してしまうこともあるだろうし、それが高じて何でもかんでもたとえ屁理屈でこじつけてでも正しいか間違っているかの判断を加えて強弁してしまうことだってあるだろうし、商売としてそんな判断を強いられるような状態に意図して自らを追い込んでしまう成り行きだってあるのかも知れないし、そんなふうになっている時点で客観的には間違った判断をしてしまっているわけだが、そればかりをやり続けてしまうともう後には退けなくなってしまい、何が何でも物事を正しいか間違っているかの判断に引き込んで評価するような成り行きになってしまうわけで、そうなってしまうと周りから何を言われても聞く耳を持たないだろうし、そんなことをやっていられる限りでやり通すことになり、次第に周囲からもあきれられて相手にされなくなっても強引にそういう水準に留まっていられるような環境を身の回りにこしらえてでもそんなことを繰り返すことになるわけで、それがそういうことをやっている人の末路なのかも知れないし、死ぬまでそんなことを繰り返していればそれで済んでしまうようなことでしかないのかも知れないが、その人にとってはそれでかまわないのかも知れず、周囲の他の人にとってもその人に関係する人たちにとっても、その人がそんなことを繰り返しているだけで安心していられるのかも知れないし、その程度の人だとその人の限界を把握できているだけでもそれが織り込み済みのこととして扱えるから、それ以上の対応や対処をしなくても済むからありがたいわけで、そういった計算が成り立つ範囲内でなるべく寝た子を起こさないようにそっとしておけばそれでかまわないこととなってしまうのだろうし、そんなふうにして折り込み済みの安心材料となってしまった人も世の中には大勢いるのかも知れない。


12月2日「未知の体験」

 人の意識の中では自らの意志で自発的かつ主体的にやっていることと外から作用や影響を及ぼされて受動的にやらされていることの区別がつくかというと、その場の状況から区別がつくこともあるしつかないこともあるだろうが、スピノザ的なことをいうなら人も世界の一部に過ぎない存在なのだから区別がつこうがつくまいがそんなのは大して意味のないことであり、何かをやっている現状に満足していたり不満を抱いていることに過ぎず、自分の意志で自発的かつ主体的にやっていることが良くて、他から作用や影響を及ぼされて受動的にやらされていることが悪いとはならないはずだが、それでも自発的かつ主体的に自分が主導権を握りながらやりたいことがあるのは確かであり、それが自意識過剰で自己中心的な幻想に過ぎなくても身勝手な幻想を抱きながら自らの夢を追い求めていたいわけだが、それは自発的かつ主体的にやっているつもりの面と他から作用や影響を及ぼされながらやらされている面を同時かつ平等に認識できないからそんなふうに思ってしまうのであり、それに関して客観的に考えるなら人がやっていることにはどちらの面もあり、両方の面があることを自覚できればいいわけだが、その場の成り行きや事情から片方の面しか意識できない場合もあり、どちらかの面がもう片方の面よりも強く作用している場合もあるだろうから、そんな意識に囚われながら何をやっていようとそういった心理状態に満足していようと不満を抱いていようと、例えばその人が行政のトップの役職に就いていようと末端の職員であろうと、メディアから注目を浴びていようと無視されていようと批判にさらされていようと批判の対象外となっていようと、そんなことには興味のない人たちにはどうでもいいことでしかないのかも知れないが、世間的に騒がれていることには多くの人たちが興味を持つだろうし、そうした話題に関して思考を巡らせることになるはずだが、誰もが同じような認識や見解を持つに至るかといえばメディア的に騒がれるようなことに関してはある程度はそういう傾向になるだろうが、それが良いか悪いかに関しては良い傾向だと思う人も悪い傾向だと思う人もいるだろうし、批判されていれば悪い傾向の面が強調されていることは確かだろうが、その悪い傾向に関して同調できればそれに対して批判的な態度に傾くだろうし、それなれば自らもその対象に対して同じように批判するのかも知れないし、そんな批判をおこなっている自らの立場を正当化するのだろうが、その際にそんな態度でいる自らに驚けるかというと驚くよりは当然のことをやっていると思うのかも知れず、またそういった批判の対象となるようなことに関しては批判されて当然だと思うのかも知れないが、そうやって批判することによって意識から何が抜けてしまうのかといえば、驚きの感覚が抜けてしまって、批判の対象が何かすごいことをやっているという驚きや感動の感覚が麻痺して、批判にかまけて驚くことや感動することがなおざりにされてしまっているから、そこに生じている魅力を取り逃がしているのかも知れないし、そういった魅力の取り逃がしが後々に響いてしまうのかも知れず、それがすでに知っていることの範疇で起こっていることではなく、誰もが経験したことのない未知の体験であれば批判する以前に驚き感動するはずで、驚いたり感動する対象には魅力があり、魅力があるからそれに興味を持つわけで、少なくともそれがありふれた対象ではないはずで、あり得ないようなことがおこなわれているから驚いたり感動するわけだが、たとえそれが悪い行為であり否定されるべき行いであるとしても、それを言葉で表現するに当たって驚きや感動を抜きには語れないはずで、まずは批判するよりはそれに対する驚きや感動に重点を置いて表現したくなるはずだが、それが抜けていると他から共感を得られないだろうし、そんな批判に重点を置いた言説には魅力が生じないのだが、なぜ魅力が生じないのかといえばそれまでの批判と同じようなことがそこで語られているだけで、それが未だかつて誰も経験したことがない未知の体験であることが示されていないからだが、なぜそんなことを示す必要があるのかといえば、これまでと同じような批判をやっていては駄目だということを知らせなければならないだろうし、それを知らせても聞く耳を持たない人が大半であることを考慮するなら、それがいかに魅力的で驚きや感動に満ちたことかを示す必要があるのかも知れず、それが伝わらないと興味がわいてこないのであり、それ以前の批判者の自己正当化ばかりが前面にせり出してくるような言動にはうんざりさせられているから、何かそれに類する以前と似たような批判に遭遇するとまたかと思って不快になるしかなく、同じような人たちによる同じような批判の繰り返しがまたしてもおこなわれて同じような結果になってしまうのかと予想できてしまうところが、何か予定調和の結果が循環しているだけで事態が何も進展していないように思われてしまい、そんな停滞した状況に飽きてしまうわけで、そうやって飽きもせず繰り返される批判の循環には何が足りないのかといえば、それがこれまでにない未知の驚くべき感動的な出来事であり、そんな魅力的な事態に遭遇して自身が驚いたことがまず率直に語られなければならないのかも知れないし、何よりもそうしたことがおこなわれてしまうことがこれまでにはあり得ないことであり、またそんな行為を許してしまう自分たちも手の施しようのないていたらくであることを率直に認めなければならないのかも知れないし、そうやって何かもかもが新たな段階に来ていることが示されなければならず、しかもそうなっていること自体が善悪の判断を超えるような事態なのかも知れず、良いとも悪いとも判断できないからこそあっけにとられてしまうようなことであり、そんな事態をもたらしているのが批判の対象であるだけでなく、それを批判している自らも含めた社会状況そのものがもたらしているようなことなのかも知れず、そんな状況の中でまず優先させなければならないのは、そんな事態に直面して驚くことであり、驚いて感動している限りでそんなことを平然とやってのける人たちに打ち負かされてしまっている実態を素直に認めなければならないのだろうが、その後に何ができるかといえば、以前と同じような批判で済ませるのではなく、これまでにない新しい事態に遭遇したのだから、それに対する批判もこれまでにない新しい表現を使うように心がけなければならないのかも知れず、そうやって事態への対応や対処を一新すれば、批判内容にも人を惹きつける魅力が宿る可能性が出てくるだろうし、そうなれば頑なに同じような批判の言説を繰り返すような人たちにも言葉が届いて、そんな人たちにも良い意味での作用や影響が及んで批判内容の見直しを迫られるような機会がもたらされるのかも知れない。


12月1日「富裕層と貧困層の役割分担」

 たぶんそれらの関係をそう捉えること自体が間違っているのかも知れないし、それが役割分担なのかといえばそうではないと思いたいところだが、そんな社会的な関係が恒常的に成り立っているとすれば、それが社会の中で何らかの機能を果たしているのかも知れないし、それを役割分担と見なしてもかまわないような構造が社会の中に形成されているのかも知れず、実際に社会の中では何らかの役割分担があり、例えば家族の中での役割分担とか職業的な役割分担とか集団で何らかの作業をする際に割り振られる役割分担とかなら誰もがはっきりとわかることだが、それらとは違って資本主義経済の発展に伴って生じてくる富裕層と貧困層という二つの層の在り方が役割分担であると見なすと、何かそれは違うのではないかと思いたくなるわけだが、普通はそれが役割分担などではなく、人々が経済活動した結果として富裕層と貧困層が生じてくるわけで、それらの層の機能や役割が後天的にあるとしてもそれは人為的に割り振られた役割分担ではないだろうし、単にそれらの層が生じてきた結果として何らかの役割が生じていると見なすならそう思われるだけで、別にそれらの層に属している人たちが積極的に意識して一定の役割を担っているわけではないはずだが、それでも実際に二つの層が存在していることは確かで、またそれらのどちらにも属さない中間層というのが、資本主義経済の進展とともにだんだんと少なくなってきて、結果的に富裕層か貧困層のどちらかへと吸収されてしまう傾向にあるのが必然的な成り行きなのか偶然的な成り行きなのかといえば、近年において世界的な傾向として貧富の格差が顕著になってきたような統計的な裏付けがあれば、何やらそれが必然的な傾向に思われてくるだろうし、そんな成り行きの中でも貧困層の中から何らかのやり方で経済的に成功すれば成り上がって富裕層の仲間入りができて、また富裕層の中で何らかのきっかけから経済的に失敗して落ちぶれれば貧困層の仲間入りをすることになるわけだが、そうやって富裕層と貧困層の間で若干の人の入れ替えが起こるとしても、一応は義務教育によって人の意識の同質化が図られているのだから人の中身は本質的な面でどちらの層に属していても変わらないのかも知れず、たとえ富裕層専用の英才教育などをおこなう特殊な教育機関があるとしても、一方ではマスメディアの普及によって人の意識の平準化が図られている状況もあるわけだから、そういう面での差異は相対的な水準に留まるだろうし、結果的には同じようなメンタリティを持った人たちが収入や資産などの面での経済的な格差に伴って富裕層と貧困層に区分されるというのが相対的な役割分担と捉えておけばいいのであって、民衆のうちで誰がどちらの層に属していようと当人以外では大した問題とはならないのかもしれないが、成り行きとしてなぜそうなるのが当然のことのように思われるのかといえば、社会の中での集団的な組織構造の中で富裕層がなるような職業や地位がある一方で、貧困層がなるような職業や地位がある限りで、そうした身分を成り立たせる富裕層と貧困層が必要というよりは、ある職業に就いたり地位になると富裕層になれる可能性が高まり、別の職業に就いたり地位になってしまうと貧困層になる可能性が高まり、要するにそこで収入に差が出てくるわけで、それに応じて権力や権限の大小や強弱が生じてくる場合もあるだろうが、なりたい人が多い割には限られた人しかなれないような職業や地位があれば、そんな人気のある職業に就いたり地位になれば多額の収入を得られるからその人は富裕層になり、また誰もがやりたくないような安い収入しか得られない職業に就いたり地位になれば貧困層になるしかなく、そうなるとその人の家族もそうなってしまう傾向があり、富裕層の出身者が教育を受ける機会や職業選択や結婚などにおいて相対的に有利になる一方で、そのしわ寄せが及んで貧困層の出身者は相対的に社会の中で不利な立場を強いられ、そうした職業や地位が世襲的に固定化される度合いが高まれば富裕層と貧困層も世襲的に固定化されてしまうのだが、そうした傾向をなくそうとする気運が社会の中で高まるかとなると、社会の中で主導権を握っているのがどちらかといえば富裕層に属する人たちであるから、自分たちの地位や立場を守ろうとする傾向が強ければ現状を維持するような成り行きへと持って行きたいだろうし、そういったことを意識しなくても自然と自己正当化したり保守的な態度になるだろうから、普通に考えてそういう傾向になるのが自然な成り行きなのだろうが、それに対して貧困層が反発を強めるような成り行きもあるだろうが、貧困層が団結して富裕層と戦うような成り行きになるかといえば、義務教育によって意識の中身を同質化してしまうのでそういう成り行きにはなりにくい世の中ができあがっているのだろうし、多くの人たちがよほどひどい仕打ちを受けていると実感されない限りは革命など起こりようがないだろうし、それよりは自らも経済的に成功して富裕層の仲間入りがしたいという思いの方が強くなるのかも知れず、貧困層に属する誰もがそう思っている限りで富裕層の敵となる可能性は低いだろうし、またどうやっても成功できる可能性を見いだせずに金持ちになる夢をあきらめても、あきらめた時点で自らの至らなさを感じるだけだから富裕層への敵対感情が高まることはなく、さらに誰もが富裕層になれないということはなく、貧困層の中からも競争に勝ち抜いて経済的に成功する人が少数でも出てくれば、それが励みになって努力していればいつかは報われるような気にもなるだろうし、そうやって若者たちが金持ちになる夢を抱き続ける土壌が形成されている限りで、貧困層と富裕層との間で対立や争いが未然に防がれるような成り行きにもなるだろうが、果たしてそれでいいのかといえば貧富の格差を問題視するような人たちには納得がいかないところだろうし、社会主義や共産主義を信奉する人たちは誰もが平等に富を分かち合えるような社会の実現を目指しているわけで、そういった人たちは政治的な手段を使って自分たちの主義主張を実現しようとするわけだが、それが現状でうまくいっているわけでもなく、どちらかといえばそれらの人たちが問題視するような傾向が改善するどころか逆に強まっているように思われるから危機感を募らせるわけで、だからそうした現状を何とかしなければならないという思いも強まってくるわけだろうが、現状を政治的に改善するために民主主義的な制度があることは確かだが、現状のような富裕層と貧困層をもたらすような経済制度に寄生して政治的な制度が成り立っていることも確かなのかも知れないし、そうなっている限りで根本的にはそうした傾向を改められないような限界も生じているのではないか。