彼の声133

2019年

7月31日「演技の目的」

 人によっては自身に何らかの目的が生じていることに気づかない場合もあるかもしれないが、それに気づかないまま目的を遂行しつつあるとしたら、それ以外の面ではどうなのかというと、それとは別の目的をはっきりと自覚していて、その目的を遂行しながら活動しているつもりになっているとしたら、それがその人の勘違いであればわかりやすいが、勘違いなどではなく、その人が自覚している目的と自覚していない目的とが同時並行的にあって、自覚している目的を遂行しながらも、それと同時に自覚していない目的も自身が気づかないまま遂行中であるとしたら、そんな目的が何のためにあるのかと問われるかもしれないが、それはその人にとっての目的とは言えないのかもしれず、それどころか誰のためでもない目的というのがあるとしたら、ではなぜそんな目的が生じてしまうのかといえば、人にはその人の意図や思惑とは無関係に生じてしまう動作があり、それが持続的にある一定の傾向を持った動作であるとしたら、そういう動作が何らかの目的を遂行する動作になっている可能性があるわけで、その目的が具体的にどんな内容なのかといえば、例えばその場の状況がその人を救うためにその人に無意識の動作を誘発させていれば、状況にその人を救う目的があることになるかもしれないが、状況に意識や意志があるわけでもないと思えば、そんなのはフィクションだと思うしかないが、その場ではそんなことは思わないにしても、そんな成り行きが起こった後からそんなことを想像することもあるかもしれないが、実際に状況に救われたと思ったら、そんな可能性を想像できるかもしれないし、それはその人のための目的であり、誰のためでもない目的だとはいえないかもしれないが、その人が救われることがその人のためではなく、また他の誰のためでもなく、たまたまそうなったに過ぎないと思われるなら、では何のためにその人が救われるべきなのかといえば、何のためでもなく、ただ結果的にその人の無意識の動作によって救われただけでしかなければ、そんなのは目的でも何でもないだろうし、それ以前に目的とは人が抱くことであり、他の動植物も生きるために何らかの目的を遂行しているわけだろうが、それに関してちょっとひねた人なら、人は死ぬために生きているとか、まるで謎かけのような目的があるつもりになれるかもしれないが、目的にも様々な程度や内容や傾向があるだろうし、人にはその場の状況に応じてふざけたものから真剣なものまで千差万別の目的が生じるとすれば、その中で特定の目的にこだわる必要があるかといえば、こだわっている人もいるだろうし、特にこだわっていない人も中にはいるだろうが、単純なものでは生きているだけで生きることが目的となったり、また自殺したい人なら死ぬことが目的となったりもするかもしれないが、たまたま生きていたり、たまたま死ぬ気になったりすれば、それはその場の都合に合わせて適当な目的を捏造しているだけで、そこでまた気が変われば、そんな目的などすぐに破棄するような成り行きにもなるだろうし、そうなるとそういう目的はあまり持続しないことになるわけだが、そんなどうでもいいような目的も含めて、人には様々な目的が同時並行的に生じることもあるだろうし、またそれを特に意識も自覚もしない場合さえあるのかもしれず、たぶんそんな状況なら、取り立てて目的にこだわるようなことにはならないわけだが、自分だけで勝手にそんなことを思っているだけなら、それだけのことでしかないわけだが、例えばメディア上で自らの目的を公言するような場合となると、一度言ってしまうと引っ込みがつかなくなって、それに囚われた活動しかできなくなってしまうのかもしれないが、中には目的をはっきりとは明かさずに、真意を隠しながら活動するような場合もあるだろうし、そういう場合は他人をそそのかして目的のために利用するようなこともやってのけるだろうし、あからさまにそんな傾向があると他人から信用されなくなってしまうだろうが、他人から信用や信頼を得ないと成就できないような目的なら、そんなことなどおくびにも出さずに、平然と見破られないように巧妙に演技をしている場合もあるだろうし、それが迫真の演技であるなら、それのどこまでが演技でどこからがそうでないかに関して、当人にも自覚がない場合もあるのかもしれず、そうでなくても人の振る舞いというのは、他人の目を気にしだすと、自然とその場の慣習やしきたりなどに従っているように見せかけるために、演技をしているような成り行きになってしまうわけで、そうなると演じることがその場での目的となってしまい、自然に振る舞っているつもりが、自覚なき演技となっていて、振る舞うこと自体が演技であるような、演技とそうでない面が混じり合った動作となって、それに伴って自らの動作がその場の成り行きに従うために演技を強いられていることに気づけなくなってしまうわけで、そんな中でもその人の挙動や言動の内容に違和感を覚えるようなら、その人が周囲の人々や団体との間で軋轢を伴いながら、不本意な演技を強いられているとみなすこともできるのかもしれず、それがその人にとっての精一杯の抵抗である可能性もあるわけで、それと自覚することなく、周囲の人々に向かって自らの不快感を伝えようとして、結果的に挙動不審となるような動作に表れてしまうのかもしれないし、ではなぜそんな回りくどいことはせずに、直接不快感を伝えないのかといえば、気まずい雰囲気にならないように周囲の人々に配慮しているのかもしれず、どちらにしても挙動不審の印象を周囲の人々に与えてしまうと、その場が気まずい雰囲気になってしまうのかもしれないが、それでも周囲の雰囲気が悪いからではなく、自らの挙動不審の動作に原因があるように思わせたいのだろうし、それがその人にとっての精一杯の演技であり、それが周囲の人々への配慮の証しとなるにしても、周囲の人々にとってはそんなのはわからなくて当然だろうし、ただその人の挙動不審の動作が不気味に感じられるだけとなってしまうのではないか。


7月30日「騙される側の論理」

 その人にどのような思惑や戦略があるにしても、政治的な主張として、それなりにつじつまが合うようなことを主張していれば、それを単につじつまが合わないことにまでは言及が及んでいないと捉えるなら、その通りのことでしかないわけだが、もちろんその人がそれに気づいていない場合もあるだろうし、またそうではなく、それに関して気づいていながら、不都合なことにまでは意図して言及を避けているようなら、不誠実な態度になってしまうわけだが、外部からその人が誠実であるか不誠実であるかについて判断するのは難しいだろうし、そうであるなら、それをその場で判断するよりは、実際にその人が主張通りのことを実行できるか否かに関して、その人やその人が関わっている政治勢力に主導権を握らせて、やらせてみればいいわけで、そんなわけでやらせてみた結果から判断するのが、公平なやり方になるのかもしれないが、実際問題としてその人やその人が中心となって活動している政治勢力に主導権を握られてしまってはまずいと思う人が、世の中の主流を構成しているなら、主張を実行する機会が得られないままとなってしまうわけだが、それが政治に関する主張である限りは、実際にもっともらしいことを主張している人に、主張通りのことをやらせてみないことには何も始まらないわけで、やらせもしないで、その主張を頭ごなしに否定するのは意味のないことだろうし、それよりは実際にやらせてみれば、それなりにもっともらしい主張の問題点が浮かび上がってくるのかもしれず、そうなった時点で主張通りのことではなく、何らかの修正や妥協や譲歩や調整が必要となってくるわけで、実践としての政治活動を行なっていけば、そういう事態になるのが当然のことかもしれないが、ただ主張しているだけではそこまで至れないわけで、だからもっともらしい主張をしている人や勢力には、主張通りのことをやらせてみないことには、その先の段階へと進めないし、そういうわけで、政治活動としては何かを主張しているだけの段階から、主張通りのことを行う段階へと進む必要が常に生じているわけだが、それには民衆の支持や賛同が不可欠だろうし、多くの人たちが実際に支持したり賛同してくれないと、主張を実行に移す段階へは至れないわけだから、民衆の幅広い支持や賛同を取り付ける上で、メディア上で自分たちの主張に関して宣伝や煽動を行なう必要も出てくるだろうし、それが活動の成果を求める戦略的な行為になってくると、場合によっては民衆を騙したり誘惑するような行為にまでエスカレートしてしまうこともあるわけだが、そこでもそういった行為をやっている人や勢力が、民衆に対して誠実であるか不誠実であるが問われてくるわけだが、少なくとも人を騙すようなことをやっている人や勢力が誠実だとは言えないだろうし、また騙されているのがわかっているのに、そんなことをやっている人や勢力を民衆が支持しているとしたら、騙されている民衆の側にも問題があることになるわけだが、中には騙されていないと気が済まないような心理状態の人も大勢いるのかもしれず、そういう人たちは騙されているのとは別の方面で、騙されていることから生じるデメリット以上のメリットが生じていることを強調したいわけで、そういった功利的な損得勘定に果たして妥当性があるかとなると、当然のことながら騙されているのを承知で特定の人や政治勢力を支持している人たちにとっては、妥当性があると思いたいのだろうが、それが心理的な幻想に過ぎなければ、それは実質的なメリットではなく虚構としてのメリットとなるわけだろうが、それが具体的にどんなメリットなのかといえば、それらの支持者を含んだ勢力が団結力を保つには、そういった虚構的なメリットを信じることが必要となってくるわけで、それが国民や民族や教徒としての団結力であるわけだが、実際には集団内の経済格差などに伴って、富裕層と貧困層との間で利害が衝突しているにも関わらず、それらの階層を包摂する国家や民族や宗教などから生じる集団的な意識が、同質な集団でいることの団結力という虚構的なメリットを唱えて、そういった実際に生じている利害の衝突を覆い隠してしまうわけで、結局そんな心理的な幻想に囚われている人たちの中で、貧困層に属している人たちは富裕層に属している人たちの手先や手下となって、虚構のメリットを世の中に広めるために活動することになるのだろうが、もちろんそれらの人たちにしてみたら、別に富裕層の手先や手下になっているわけではなく、自分たちが信じているつもりの国家的・民族的・宗教的な価値観に心酔しているように感じられるのだろうが、それもそういった価値観と対立する価値観を有していると思われる敵対勢力が存在する限りで、リアリティを実感できるわけで、それが具体的には隣国にいる敵対勢力であったり、またそれは国内に潜伏中の反社会的・反国家的な勢力であったりするのだろうが、それもそれらの勢力と激しく対立していると思い込んでいないと、リアリティを実感できないわけだから、是が非でも対立を煽り立てる事情が生じてしまうわけで、そういうところからもそれらの人々にとって都合の良いフィクションが生じてくるわけだが、もちろんそれが全面的に虚構であるわけでもなく、実際に激しく対立している面もあるだろうし、それが自作自演であるだけではなく、敵対勢力からの攻撃的な挑発もあるし、自分たちも敵対していると思い込んでいる勢力に対して盛んに挑発行為を繰り返しているわけだろうが、そういった行為にも戦略的な面が生じていると、敵や味方を騙したり誘惑したりしている面もあるわけで、そうなるとそういった行為にも誠実さが問われてくるわけだが、その誠実さというのが、何に対しての誠実さであるかといえば、やはり自分たちが信じている国家や民族や宗教などの価値観に対して誠実であるならば、敵や味方を騙したり誘惑しても許されると思われるのかもしれないが、その一方で単なるどこにでもいるような普通の一般人に対して誠実なのかと問われるなら、そうした功利性を基準に判断するなら、そんなことは問題外となってしまうのではないか。


7月29日「付き合いの程度」

 普通は世の中で人に関係して起こっている出来事に関しては、その人に関係のある出来事が、その人にとって何らかの判断を下さなければならないことに絡んでくるのかもしれないが、意外と直接には関係のない出来事が回り回って、その人が気づかないところから何らかの影響を及ぼしてくることもあるわけで、何かそういう面で、その人の活動の変化がその人の気づかないところから生じているとすれば、それはその人の意図しない変化となるのかもしれず、そうやって気づかないうちに誰もが少しずつ変わって行ったり、あるいは短期間のうちに劇的に豹変してしまうこともあるのかもしれないが、そういう場合は当人も自らの変化に気づいているだろうし、それとは違って気づかないこととなると、少しずつ気づきにくいところから変化していく場合になるのかもしれないが、それも変化の仕方や程度や傾向なども千差万別で、一概にこうだとは言えない面もあるのかもしれないが、その人の活動が変化するとその人自身も変化したように見えるかというと、そう見える時もあるだろうし、またそうは見えない時もあるのかもしれないが、その変化を周囲の人たちにどう受け止められるかによっても、その人の印象が違ってくるのかもしれないし、それが時には好印象になったり悪印象になったりするのかもしれないが、それは人の主観が判断することかもしれないが、その反面で実質的な変化というのが客観的な世界の中でどう表れているかまではなかなかわからないのかもしれず、それとは対照的に、恣意的な印象操作によって、いくらでも好印象や悪印象を演出できるのかもしれず、それが何らかの功利的な集団や団体になってくると、自己演出によって世間から好印象を得られるように、あれこれと戦略的に画策することになるのかもしれないし、そういった見せかけの印象によって人や団体が世間から判断されることが多ければ、そんな人や団体の虚像が一人歩きして、中には悪印象が雪だるま式に増えていってしまう場合もあるだろうが、意図的にそうなるように画策するような成り行きもあるわけで、そういうことも含めて人や団体の印象ほど当てにならないものはなく、そこには必ず虚像が含まれていると見ておいた方がいいのかもしれないが、もちろん虚像だからと言って、それが信用できないというわけでもなく、何かを信用すること自体が、その人にとって都合の良い虚像を心の中で作り上げるような動作に結びついている場合もあるわけだから、そういった他人や団体などを信用すること自体が、ある意味では信用できない心理作用になってしまうだろうし、信用するという行為自体がその程度のことだと思っておいて差し支えないわけだが、要するに一方では人や団体を信用したりしなかったりすることもあるが、他方ではそんな信用したりしなかったりする人や団体と関わりを持つことになると、信用している面と疑っている面が入り混じった印象を抱くことになるのかもしれないし、それを全面的に信用したり全面的に疑ったりする必要はないだろうし、信じられる面と疑わざるを得ない面の両面をバランスよく保っていれば、その対象となる人や団体に関して、極端に肯定したり否定したりすることを避けられるのかもしれず、それに関しては同時代的に同じ世界に存在している人や団体が、肯定や否定や賞賛や非難の対象となっていること自体が、それらの人や団体の間でそれなりに差異があるにしても、それが絶対的な差異ではなく相対的な差異であるから、曲がりなりにも様々な人や団体などが同じ世界の中で共存している実態があり、確かにそんな中で全面的に支持して賛同するような人や団体が存在するとしても、またその逆の全面的に否定すべき人や団体も存在するとしても、それらの人や団体に対する全面的な支持や賛同や、あるいは全面的な否定というのは、そうする人の主観的な印象が含まれている面があるだろうから、そういった面がある限りはそんな他人の印象を全面的に信用するわけにはいかないだろうし、信用するわけにはいかないという思い込みも信用できないわけだが、そんなふうに考えてしまうと、どこまでも信用できないだけで、それがどうしたわけでもないことになってしまうわけだが、たぶん信用できない人や団体と関わるのは良くないように思われるにしても、何らかのきっかけから関わるようになってしまえば、それなりにお互いの活動に差し障りがない程度には付き合おうとするだろうし、そういう面を考慮に入れると、全面的には支持も賛同も否定もできないような人や団体などと関わっていかなければならないのが、通常のありふれた状況なのかもしれないし、そんな中で特定の人や団体を全面的に支持したり、やっていることに全面的に賛同したり、その反対に特定の人や団体の活動から存在までを全面的に否定して、関わり合いになるのを頑なに拒否したりするのは、何か不自然な態度のようにも思われてしまうだろうし、それがSNSなどのネット上ではそんな態度に基づいた極端な意見が横行しているとしても、実社会ではそれでは済まないことは誰もが経験的にわかっているはずであり、そういう意味でネット上の意見などは信用できる面とできない面とが半ばしていると捉えておくべきかもしれず、特に政治家や政治団体に対する全面的な支持や賛同や否定や拒否などは、そんなふうに激しく言い立てるものだとみなしておく以外はあり得ないのかもしれないが、そういう意見に全面的に同調するようなことはやめておいた方が無難だろうし、それらの人や団体が同じ環境の中で共存している限りで、何かしら通じ合う面があると思っておいた方がいいだろうし、それは勇ましいことを述べている人たちが気づいていない面でもあり、そういう面であまりにも偏狭で潔癖症的な態度をしていると、許容限度がだんだんと狭まってきて、ちょっとしたことに過剰で過敏に反応してしまうようにもなって、それがその人の主観的な感情などを反映しているとしても、世の中の客観的な実態からはそれなりにずれている可能性も生じてきて、そうなっていること自体が信用できない虚構の振る舞いになってしまっているのかもしれない。


7月28日「分散思考」

 現状は誰にとっても特にどうということはない状況というわけでもないだろうが、それでも将来に関して楽観的な見通しを抱いているとしたら、それがその人には心理的にも経済的にも余裕があることの証拠となるのかもしれないが、たぶんそうであろうとなかろうと、何事においても必要以上に事態が深刻であることを煽る必要はないだろうし、本当に深刻な事態を招いているとしても、それを言葉で表現すれば、表現自体が事の深刻さとは裏腹に、どうということはない内容になってしまう場合もあるだろうし、それを言葉を用いて間接的に表現しているに過ぎなければ、そうなって当然かもしれないし、意図的に楽観的な見通しに固執しているわけではないとしても、余裕のある人ならなるべく大げさな表現になるのを避けようとするのかもしれず、もちろん大げさに騒ぎ立てたい人はそれでは困るわけで、事態の深刻さをことさらに強調しないと気が済まないから、そういう人はいつも状況を否定的に表現したいだろうし、それを真に受けた人が危機意識を持ってほしいと思っているのかもしれないが、恣意的に他人をそういった心理状態へと誘導しようとすると、状況によっては当てが外れる場合もあるだろうし、何よりも言葉を使って人を誘導しようとすること自体に、それなりの無理が生じているはずで、すでにそういう意図や思惑が生じている時点で、その人の思い通りの状況ではないことを示していて、思い通りになっていないから、人を誘導して思い通りの状況を人為的に作り出そうとしているわけで、そうやって深刻な事態だと煽り立てている人がいれば、誰もがその人の煽り立てを真に受けて、深刻な事態だと思ってほしいわけだから、逆にその時点では多くの人が深刻な事態だとは思っていないことにもなるだろうし、そうだとすれば、深刻な事態だと煽り立てている人と、まだそうは思っていない大多数の人たちとで、どちらが正しい情勢判断をしているのかといえば、そんなことはどちらでも構わないのかもしれず、どちらが正しかろうと間違っていようと、何かを煽り立てている人と、それを真に受ける人と、そういった煽り立てを相手にしない人と、他にもどちらともいえない人もいるかもしれないし、その場の情勢に関してそれをどう捉えようと、各人で千差万別の捉え方があるというわけでもないにしても、人によって立場によって、事態を深刻に受け止めたり受け止める必要がなかったりする場合もあるのかもしれず、そうであるなら、事態の深刻さを煽り立てる人の誘導に乗ってしまう人と、そうでない人の両方が出てくるだろうし、それだけ事態の深刻度に関して、人それぞれで感じ方や捉え方に差があることになるだろうし、そんな状況であれば、そうした状況の程度に応じて事態に対する判断や認識も、人それぞれで異なっても構わないことにもなるのかもしれず、そしてそれへの対応も様々に異なってくるなら、それが各々の程度に合わせた対応となるだろうし、そうなると煽り立てを真に受ける人が多いほど、煽り立てた人の目論見通りとなることは確かだが、逆に煽り立てを真に受けない人が多いほど、危機意識を抱くように誘導しようとした人の当てが外れることにもなるだろうし、どちらになるかはその場の情勢次第なわけだろうが、どちらでもない場合もあるのかもしれず、そういう場合は煽り立てを真に受けているのかいないのかはっきりしないような態度となるだろうし、またどちらにも受け取れるような態度というのもあるのかもしれないし、しかも戦略的に態度を曖昧にしているわけでもなければ、やはりそういう態度をどう捉えたらいいのかわからなくなる可能性も出てくるわけで、それとは違って情勢が深刻な事態であることをことさらに煽り立てるような人にとっては、それは意図的で戦略的な態度であるわけだろうが、その対極の態度として、意図的でも戦略的でもない態度というのもあるのかもしれず、実際にそういう態度でいれば、状況が深刻な事態であろうとなかろうと構わないような心境になれるのかもしれないし、そうやって他人の言動に惑わされずに、少々のことでは動じない態度でいることが肝要かもしれず、そういうところで態度を固定しないで柔軟な対応ができれば、安易な煽り立てには誘導されないで、しかも頑なな態度とも無縁でいられるのかもしれないが、それが具体的にどういう態度なのかとなると、それを言葉で表現できてしまうと、その言葉によって態度が固定化されてしまう危険があるだろうし、そういう意味ではそれを表現しようとする言葉を常に裏切るような態度でいられたら、それが硬直化とは無縁な柔軟性を伴った態度だと言えるのかもしれないし、そうなれば特定の思想にこだわるようなこともなく、しなやかな心身の動作が身についていることにもなり、特定の煽り立て一辺倒の硬直化した動作とは違った動作を行えるようになるだろうし、またそういった動作にしても、特定の傾向の言葉によって決めつけられた形容を伴ってしまうと、そうではなくなってしまうわけで、そうであるならそういったレッテル貼りのような決めつけから逃れ去るように動作ができれば、柔軟でしなやかな心身の状態を維持できるのだろうが、そうなるには何か心身を鍛えるような努力が必要なのかといえば、それも違うのかもしれず、たぶん一定の傾向に従って心身を鍛えてしまうと、やはり一定の傾向に凝り固まってしまう可能性があるわけで、そうした一定の傾向に凝り固まってしまうのを避けるには、思考を様々な傾向や程度の範囲に分散させる必要が生じてくるだろうし、しかもそこでも思考の位置と方向を動的に絶えず動かしていないと、自然と特定の位置と方向へと凝り固まってくるわけで、そういうことを常に意識していれば、特定の傾向と程度を伴って作用してくる外部からの働きかけにも柔軟に対応できるだろうし、そんな類いの中でもよくある、お仕着せがましく善意の連帯などを強要してくるような同調圧力にも屈しないで済むような、心身の柔軟性としなやかさを身につけられるなら、同時に分散思考的な物事の捉え方もできている証拠となるのかもしれない。


7月27日「人扱いと物扱い」

 現代において人が物として扱われることに関しては、労働者が労働力商品とみなされるなら、確かに商品として売買の対象となって、物扱いされているようにも思われるわけだが、売買といっても労働者の側では単に働いて賃金を得るだけで、自分の労働力を商品として売っている感覚ではないだろうし、実態としても待遇や賃金などの面で満足できれば、それで構わないようなことになってしまうし、物としての商品ではなく、人格を伴った人として扱われているように思われるなら、実感としても物扱いされているわけではないことになるのかもしれないが、そういうのは相対的な感覚であり、待遇が良ければ人として扱われていると思い、悪ければ物扱いされていると思うこともあるだろうし、それに関してはっきりと人扱いと物扱いの間で区別がつくかというと、普段からそういうことを意識していなければあまり自覚はないだろうし、実際にも普段は気にしてない人がほとんどなのかもしれず、そうでなくても世界的に賃金労働者という形態が当たり前のように社会に定着している実態があるので、そこで人が物扱いされていようがいまいが、大して問題とはならないのかもしれないし、それよりは待遇や賃金の面で満足できる仕事が求められているわけで、またそれに関して一般的には、正規雇用と非正規雇用の間での待遇の格差の方が問題視されているし、それが正社員とパートタイム労働者の間の格差となり、正社員の方が人扱いされている度合いが高く、パートタイム労働者の方が物扱いされている度合いが高く、さらに正社員の中でも管理職と平社員の間でも人扱いから物扱いへと格差が感じられる場合があるだろうし、そして管理職の中でも、取締役などの幹部社員と課長や係長などの中間管理職との間で格差もあるし、そういった組織的な階層構造の中で上に行くほど人扱いの度合いが高く、下へ行くほど物扱いの度合いが高くなるように思われるかもしれないが、物扱いに関してよく言われることは、組織的に動作するシステムの中で人の機能を機械の歯車に喩えられることがあるだろうし、また人を使い捨ての消耗品に喩えることもよくあるわけだが、いずれにしても人を何らかの道具や機械の部品に見立てることが、人を物として扱っているように連想させるわけで、そういった人の道具的な活用というのが、企業や官庁などの集団的な組織形態の中で行われていることであり、それらの団体が機械ように稼働するには、集団の上層部に位置している管理職や経営者などが、一般の労働者を道具のように扱いながら操ることが求められているのかもしれないが、その実態がどうかとなると、管理者や経営者は人体の中では頭脳に位置する部分で、一般の労働者は手足に位置する部分だとみなせば、どちらも人体の一部には違いないわけだが、そんな単純に当てはめられるようなものでもないだろうし、一般の労働者も普通に思考力があって、考えながら活動しているし、また管理者や経営者にしても組織的な役割分担が割り当てられているだけで、組織的な集団意思によって操られている面もあって、必ずしも自由に勝手気ままに振る舞えるわけでもなく、実際に経営がうまくいかなくなって業績が振るわなくなってくれば、退任や辞任しなければならなくなるだろうし、そういう面まで考慮に入れれば、人扱いというのは幻想に過ぎないのかもしれず、資本主義的な企業経営や国家主義的な官僚機構の中では、そういった集団的な組織形態に所属している限りで、誰もが集団を生かすために道具的な動作を強いられることになるわけで、それを物として扱われているとみなせばそうとしかいえない面があることは確かだが、そこで人を物として扱っているのは誰かとなると、集団がその構成員を道具のように使いながら動作していることになるわけだから、特定の人物には還元できないし、そうなるとその集団を統率する指導者的な役割を担うような人物に関しても、誰でも構わないような事態になっている場合もあるわけで、誰がどのような人物が企業の経営者であろうと政府の首相や大統領であろうと、それなりに集団としては問題ないようなことになってしまい、そうなると人として立派に見えるような人物であるよりも、どこにでもいるありふれた普通の人物が組織のトップにいる方が、集団にとっては都合がいいような事態にもなるのかもしれないし、実際にそうした特に優れているようには見えない人物が組織のトップにいる場合には、そうした人物が集団意思に操られている可能性があるわけで、その人物でさえも集団から物として扱われていることにもなるだろうし、そういう集団は集団内の上から下までの全てで官僚制が行き渡っていて、全ての人員が集団の道具と化して動作していることになるのかもしれないが、もちろんそうした事態に集団の内外の誰もが気づいているわけでもないだろうし、それに伴って何か暗愚な人物が集団のトップにいるように思われると、その人物の愚かさを批判する人が大勢出てくるわけだが、特に日本の現状だとそういった傾向が強いのだろうが、それはその人物が集団の意向に従っているからそう見えてしまうわけで、それを批判している人たちはトップを替えれば全てが変わるかのような安易な幻想を抱いているのかもしれないが、集団の体質としてそういう面が目立っているわけだから、そういう集団を許容している社会全体にもそういった人を道具として扱う傾向があるのだろうし、人が物として扱われる傾向が強い世の中では、誰がどんな役回りを引き受けても構わないような仕組みが出来上がっていて、実際に誰がどんな役割を担っても、社会が変わらないように感じられるなら、それだけ社会情勢が安定していると同時に、社会全体が飽和状態となっていて、それ以上は何の変化も期待できないような状況となっているのかもしれないし、実際に何十年もそんな状態が続いていれば、誰がどんな人物が集団のトップになっても、集団の意向に忠実に振舞っている限りは何事も起こらないような状態になっているのではないか。


7月26日「荒んだ集団意識」

 社会の中で人や集団の様々な行為や活動が交錯し合ってお互いにぶつかり合っている状況では、うまくいかないことはいくらでもあるだろうが、うまくいかないなりにも妥協や譲歩しながらも、それなりに行われている活動もいくらでもあるわけで、そうした中でうまくいこうがいくまいが、何かをやっていればそれで構わないような成り行きもあるのかもしれず、そのとりあえず何かをやっている成り行きというのが、実質的にも何でもないようなことだと、何をやっていようがいまいが、どうでもいいような成り行きになってしまうわけだが、それでも妥協や打算の果てにやっている当人にとってはどうでもいいようなことになってしまっていても、周囲の関係者にとってはそうでもないようなこともあるだろうし、中にはその逆もあるのかもしれないが、何かそういうところで当人が勘違いをしている可能性もあって、実際にどうでもいいように思われることでも、何かしらやっている成り行きがあれば、そのやっていることが当人の気づかないところで、周囲に何らかの肯定的あるいは否定的な作用や影響を及ぼしている可能性もあるわけで、そういう面まで考慮に入れるなら、それがどうでもいいように思われても、とりあえず実際に何かをやっている成り行きを軽視しないで、それを継続できるようなら継続していく方が、それなりにその場の状況の中では妥当なのかもしれないし、少なくともそれをやめるような成り行きにならなければ、それをやり続けていく方が当人にとっても周囲の人たちにとっても都合がいい場合もあるだろうし、はっきりとこんなことをやっていては駄目だと自覚する事態に至るまでは、実際にやり続ける成り行きに従っていた方が、そこから思わぬ展開が待ち受けているとも限らないから、素直にその場の状況に乗っかって、やれることをやり続けるような状態を保持している方が無難なのだろうが、たとえそれを惰性でやっているように感じられるとしても、その一方でやめるのが怖いから継続させることが目的と化しているような場合もあるだろうし、そうなると本当にやっている中身がどうでもいいような空疎なことが行われている可能性もあるわけだが、やるかやらないかはその場の自身が判断するとしても、それとともにそのような行為を受け入れている周囲の状況を見極めることも大事になってくるだろうし、それがその時点ではわからないとしても、後からそれがわかってくる場合もあるわけで、そうだとしたらそれがわかるまでは、それを続けた方がいいと思い込める場合もあるわけで、そんなふうにして何か曖昧ではっきりしないような状況の中で、何の展望も得られないように思われるとしても、そこから様々な紆余曲折を経ながらも結果的にそれをやり続けている現状があるならば、それをやることに関して何らかの意義や意味があると判断しておいた方がいいのかもしれないし、たとえそれが勘違いであって、後からその勘違いや思い違いがわかってしまっても、その時点ではそれをやり続ける成り行きに囚われていることは確かだろうし、そうであればやはりそれをやることに意義や意味があると思っておいた方がやはり無難だろうし、結局そういう思い込みの積み重ねが、行為の持続力へと結びつき、後になってやったことの成果として響いてくるのかもしれないし、その成果が必ずしも自分を利するわけではなくても、やり続けていること自体が自らの利害とは無関係な面で、その場に生じている成り行きとして肯定できるのかもしれず、なぜ利害とは無関係なのに肯定できるのかといえば、とりあえずそこで何かしら活動しているから、そこに自身が存在している実態があるわけで、それはそれだけのことだと言えるのかもしれないが、そんなことの繰り返しがそれとは別の何かを呼び起こしている可能性があるわけで、その呼び起こしている対象として、自らの存在とともに行為や活動としての現象もあるだろうし、自らがその場の状況に応じて何かしら活動していることによって、自らの存在を自覚することが、そういった活動自体を肯定することにつながるわけで、それがないと周りの集団意識に自己が取り込まれて、そこで意識が埋没してしまって、自分自身を存在と活動の実態を伴った自己として取り戻せなくなってしまうのかもしれないし、逆にそんなふうに集団に同化させらてしまった様々な個人を取り込んで、社会の中で次第に成長していく集団意識というのが、そこに何らかのご都合的な固定観念や場合によっては単純化したデマや偏見なども生み出すのかもしれず、それがそこで何か新しいことが起こっている実態を押しつぶすように作用すると、全ての物事が事なかれ主義的に惰眠をむさぼるように機能して、そこで何か新しいことが起こっているのに誰も気づかないような事態も生じるとともに、何事にも増して現状を維持しようとする凡庸さと愚かさが勝ってしまうような状況となってしまうわけで、今の日本がそんな状況であるか否かは、人それぞれで見方や評価も異なるだろうが、たとえそこで行われている行為や活動のことごとくが稚拙で杜撰で愚かしく見えてしまうとしても、そこから成長する要素や改善する余地や兆しや可能性が感じられるなら、すぐに安易に否定してデマや偏見で塗り固めようとないで、素直に見守っていくしかないだろうし、場合によっては積極的に手助けするような成り行きになれば、肯定的に状況を捉えられるようになるわけだろうが、それが何事にもすぐに安易で否定的な判断や評価を下すような集団意識に囚われた人たちの後ろ盾を背景にして、集団の功利的な利益を求めようとする意識が働いてしまうと、これから良くなる兆しを見せているささやかな活動が、そういった集団の打算的な利益を獲得しようとする行為の犠牲となってしまうだろうし、それが集団の内外で犠牲者が出ることと引き換えにして、現状維持というその場限りの消費がもたらされるような成り行きになるわけで、そういったことが集団内でまかり通っていること自体が、個人の尊厳を奪うような成り行きと一致してしまうだろうし、そういうことが横行するような世の中は真に荒んでいると言えるのではないか。


7月25日「税に関して」

 現状では誰もそんなことは問題視していないが、政府という組織がこれからも半永久的に存在し続ける上で、解決しなければならないことに関して、徴税という行為をどうするかが問題となってくるように思われるわけだが、最終的には徴税をしないで政府を運営するにはどうすればいいかが課題となるとすると、政府が民間の産業分野に進出して自前で予算を調達するような成り行きになればいいわけだが、果たしてそんなことが可能かというと、産油国でもない限りは、まず現状ではあり得ないだろうし、安易に国有企業などを増やしても、現状の世界の流れに逆行してしまうことになるし、特に多額の費用がかかる分野として軍事分野があり、そこから収益を上げることは不可能だろうが、他にも警察や消防なども軍事ほど費用がかかるわけではないにしても、商売としては成り立たないだろうし、そのような費用をどこから捻出するかとなると、現状では税収に頼るしかないわけだが、例えば電力やガスや上下水道や道路の補修などのインフラ関連の事業を一体化して、一元的に政府が管理するようなことを行えば、そこからそれなりの活動費用が捻出できるかもしれないし、そして農業や林業などに関しても、資本主義的な開発によって土地を荒廃させるよりは、社会主義的な公社制度などを活用すれば、それに関連して農協などの組織も政府で一元管理するようなことを行えば、利益は出ないとしても収益を上げて事業を継続できるような成り行きへと持っていければいいのかもしれないが、どうなるにしても現状では非現実なことであり、今すぐにどうこうできるわけではないだろうが、部分的には、例えば農業公社などを設立して、生活保護を受けている2百万人の中から、働きたい希望者を募って公社職員として雇って、耕作放棄地などを使って農作業を行わせて、生活保護費をそのまま給与にして、しかも貯蓄が可能なようにしたりして、そういった方面でやり方を工夫すれば、それなりの成果が上がるかもしれないし、そういう事業がうまく軌道に乗れば、食料自給率も上がる可能性もあるかもしれないが、それも現状では非現実的なことであり、そんなことをやるような機運が高まっているわけでもないわけだが、考え方としては、産業として採算が期待できないような分野に関して、それが社会の中で暮らしている人にとって必要不可欠であれば、社会の構成員が公平に資金を出し合って、そういった不採算部門の事業を継続させるのが、公共事業としての在り方なのかもしれないし、そして公平に資金を出し合うことが徴税の意味として妥当な解釈となるのだろうが、税を納めたら生活が成り立たなくなるような人から税を徴収するわけにもいかないだろうし、そういうところでどのような人や団体からどれだけ税を徴収すればいいのかが問題となってくるわけだが、それ以前の問題として、果たして税金を投入しないと成り立たない事業が、社会にとって本当に必要不可欠なのかといえば、ただ単に税金で賄うことを前提として、そうした事業が行われるようになってきた経緯もあるわけだから、そういう成り行きがあるとしかいえないわけだが、そもそも政府の存在自体が徴税とともに発展してきた経緯があるだろうし、結果として徴税がなければ政府の運営が成り立たないような仕組みとなっているわけで、そんなことは当然であり、そういった経緯自体が疑念を抱くようなことではないし、さらに徴税の他にも公債などの借金によっても費用が賄われているわけで、それだけ政府自体が組織として肥大化しているとも言えるわけだが、普通に考えてそういった経緯は、成り行きとしては場当たり的で、特にそうなったことに関して合理的な根拠や理由があるわけでもなく、結果としてそうなってきたに過ぎないことだから、これから状況次第でどうなるとも限らない面もあるのだろうが、少なくとも将来において、例えば月や火星などに人の社会を一から作ろうとする機会が巡ってきた時には、住民からの徴税によって行政機構を運営するような成り行きにはなり得ないだろうし、そういうところでは初めから社会の構成員の役割分担が決められていて、そこで全員が生きていくのに必要な物資を計画的に生産して、各自に分配するようなシステムが構築されるだろうし、そうなればそこでは貨幣経済など成り立たないような気もするわけだが、ではなぜ実際の地球上で成り立っている社会では、各人の間で不平等で不公平な貨幣経済が成り立っているのかといえば、政府が成り立っている以前から社会が存在していて、その社会に政府が寄生するような形態となっているわけで、貨幣自体も政府が存在する以前から流通していて、後から政府が製造して一元管理するような形態となってきたわけで、つまりすでに社会や貨幣経済が生じているところに、そうした社会の征服者として政府が出現したわけだから、後発的に生じてきた政府にはどうにもできない面があるのだろうし、一応は政府が中央銀行とともに貨幣の発行を管理しているにも関わらず、完全に制御したり恣意的に操作できるわけでもなく、勝手に政府の予算として何もないところから貨幣を生じさせるわけにはいかないわけで、手順としては国債などの公債を発行して借金を抱え込むような形態をとらないといけないわけだから、そういうところで微妙な面があるわけだが、そうであるから予算を確保するには人や団体から税を徴収して、それを予算として使うような成り行きになるわけで、すでにそうなっているところで、民間では売買や貸し借りに伴って、物や情報やサービスなどの商品との交換を介してしか手に入れることができない貨幣を、制度として交換を経ずに強制的に徴収しているわけだから、そういうところで合理性とは無縁の行為となっていて、そこで無理が生じているとも言えるわけで、果たしてそういう不合理な面をそのままにしておいても構わないのか、とは現状では誰も思わないだろうが、社会の様々なところで物事の合理性を突き詰めていくような成り行きがあるとすれば、いつの日か徴税という不合理な制度を改めるような機会が訪れる可能性もあるのではないか。


7月24日「大掛かりな舞台装置」

 社会の中で様々な制度の形骸化が世界的に進行中であるのは今に始まったことではなく、また活動の制度化に逆らうような政治運動の類いも、世界的に活発化していることも事実かもしれないし、しかもその運動の内容が支離滅裂で、単に騒いでいる一部の血気盛んな人たちが、昔ながらの単純な論理や理屈を用いてごり押し的な主張を繰り返しているに過ぎないことも確かで、騒いでいる割には笛吹けど民踊らずで、多くの人たちが事態を静観しているようにも見えるわけだが、実際に政治の場において何が起きているのかといえば、何かをやっているように見せかけるだけのパフォーマンスしか行われていない状況なのかもしれず、果たしてそれ以外に何ができるかとなると、例えば行政に口先介入して、事態をかえって混乱させたり悪化させるようなことしかできないのかもしれないが、別にそれで構わないとなると、では何のために政治を行っているのかといえば、それは気休めの類いとしか言えないようなことかも知れないし、そうであるならもはや政治に未来はなく、あるのは現状の醜悪さだけだと思うしかないのかも知れないが、ある意味ではそれで構わないような状況なのかもしれないし、なぜそうなのかと言えば、政治的には真にやることがないということに誰もが気づき始めたのかも知れず、もちろん政治活動をしている人たちはそんなことはないと思っているだろうし、実際にやるべきことを自覚しているし、それを政治の場で実現したいとも思っているわけだろうが、それが昔ながらの政治的な課題であることは確かなのかも知れず、実際に社会主義者や共産主義者などが昔から訴えてきたことなのだが、それが未だ実現せず、この先も永遠に現状の国家と資本の連携が続く限りは、実現不可能な政治的な課題なのであり、それが実現不可能だからこそ、現状で主導権を握っている保守派の類いが、延々とそれについてごまかしやはぐらかしを行わざるを得ないことでもあり、実際には保守派どころか、事態を静観している多数派の人たちも、はっきりとは自覚はしていないが、内心それに気づいていて、そんな現状の中で強引に改革を訴える軽はずみな人たちの政治運動を冷めた眼差しで見下しているのかも知れないが、そういうことをわかった上で、まだ何か政治にやれることがあると幻想を抱くこと自体が欺瞞でしかなく、実際にも何もできないのが偽らざる実態であり、だからこそ誰もが醜悪な現状だと思うような成り行きになっているのかも知れないが、それと同時にその醜悪な現状を維持しなければならないと本能的に自覚しているのかも知れないし、実際に嘘やごまかしが下手な日本の現政権が、もはや誰もがそれに気づいていてわかっていながら、それでも現政権を支持せざるを得ないような滑稽な事態になっているわけで、それをごまかすために、例えば頭の弱い人たちに向けて、共産党は人殺しだとかいうデマを流したりして、そんな苦しい昔ながらの常套句を思わず口走ってしまう人も中にはいるらしいが、武力を用いて国家的に独裁的な権力を奪取した政治勢力に関しては、共産主義であろうと何であろうと、大量虐殺を伴っている場合が多いわけだが、そういうところで否定的な固定観念を人々の意識に刷り込んで、何とか見え透いた嘘とごまかしを黙認させるような成り行きに持って行きたいのだろうし、もちろんそんなことをはっきりと自覚している人などほとんどいないわけで、集団的な防衛本能として多くの人々の意識の中でそういう偏見を伴った固定観念が生じてしまうから、それによって醜悪な現状が維持される傾向にもあるのだろうが、それを醜悪とも意識しないようにもバイアスがかかっているわけだから、現状を醜悪と表現すること自体にも抵抗感を覚えるだろうが、では果たして現状を現状のままに保てるかというと、現状で国家と資本主義の犠牲となっている人たちを黙らせることによって、現状を保とうとするしかないだろうし、しかもそれを犠牲とは自覚させないようにするための工夫も必要だろうし、それがある意味では昔ながらの、貧乏でも人一倍努力すれば、その中から社会の各分野で成功する人が出てくるという仕組みであるわけだろうが、それも現実にはそうではない面の方が優勢であることに気づいてしまってはまずいわけだが、実際には生まれながらに裕福な環境で育った人の方が社会で成功しやすいことも誰もが知っているわけで、知っていながらも、貧乏から這い上がって成功した人を讃えることによってごまかそうとするわけだが、あまりにそういうごまかしが見え透いていると、昔ながらの単純な論理や理屈を用いてごり押し的な主張をする人たちには通用しなくなってくるわけで、そういう人たちにとってはそういうごまかしよりも、貧乏人が金持ちから搾取されているという固定観念の方が優勢であり、何よりも被害妄想としてはそちらの方がリアリティを持つわけで、自分たちはいくら努力しても社会の底辺に押し込められて低賃金長時間労働を強いられる下層民から抜け出せないという妄想に囚われている方が、しっくりくるわけで、そういった虐げられた怒りを糧として政治運動を行えば、何か正義の味方のような漫画チックな気分にはなれるだろうが、実際に政治運動しているつもりの誰もがそうかと言うと、そんなわけでもなく、意外と恵まれた環境にいる人たちが善意からそういった運動を支援する場合の方が多いのかもしれないし、そういう人たちがリベラル的な価値観の信奉者となることがある一方で、逆に現実の底辺労働者たちが極右思想にかぶれて、国家と資本の手先となってしまう傾向もあるだろうし、それらの人たちがそれなりに役割分担しながら、国家と資本に逆らう人たちと国家と資本の手先となる人たちによる戦いが繰り広げられているように装われること自体も、現状をごまかすための大掛かりな演劇的な舞台装置にもなっているわけで、たぶん多くの人たちがそういった昔ながらの見え透いた三文芝居に薄々気づいていて、そういうごまかし方にも飽きているから、選挙での投票率が下がってしまう傾向にあるのかもしれない。


7月23日「誘惑に動揺すること」

 社会の中で人や団体が絡んで人為的に作られた制度などのシステムや、様々な紆余曲折を経て自然に形成された慣習などが、人の活動に制約や制限を課しながらも、活動そのものを成り立たせていることは言うまでもないことだが、そうやってそこで何らかの活動が成り立っている時点で、その特定の活動に関わっている関係者と、その活動とは無関係な人とが社会の中で生じていることになり、また大抵の人は特定の活動には無関係であっても、別の特定の活動には関わっていて、そんな人たちは自分たちが関わっている以外の他の活動には関心がなくて、もちろん世の中のすべての活動を知らなくても当然なのだろうが、そうやって人は世の中で行われていることに関して部分的な範囲内のことしか把握していないことになるわけだが、誰もが多かれ少なかれそうだろうし、人それぞれで把握している範囲にもその方面にも偏差があるだろうが、自らが把握している範囲内のことであっても、把握の仕方によっては、他から及ぼされる様々な作用や影響に囚われて、作用や影響を及ぼしてくるメディアなどに特有のおかしな偏見やこだわりが意識に絡みついてきて、結果的に信ぴょう性が薄かったり妄想や偏見に基づいた不正確な把握になってしまっている可能性があるわけだが、もちろん作用や影響を及ぼしてくるメディアの誘惑や誘導に引きずられて、メディアにとって都合の良い固定観念を意識に刷り込まれてしまうこともよくあるわけだが、そういったことから生じる偏った情報発信や受信がそれに関わってしまう人々の間で繰り返されて、そんな恣意的かつ意図的な情報操作に洗脳された人たちが大量発生するような事態も生まれてくるだろうし、その結果としてメディアやそのメディアを通して影響力を行使する企業や政府などに都合の良い偏見や妄想に囚われてしまうとともに、そういう勢力が推奨するある種のわかりやすさに特化した、安易に単純化された論理や理屈に基づいた、紋切り型的な物事の見方や考え方に囚われてしまう人も大勢出てくるわけで、そんなふうにして、それらの結果から生じる稚拙で部分的で単純化された状況の把握にとって都合の良い現状認識が、そういった人たちの意識の中で形成されると、それがその時代を代表するような風潮や傾向を表していることにもなり、何かそういう面で、その時代に生きている人々に特有な限界を感じさせることにもなるわけだが、それを否定的に見ても公平さを欠いているようにも思われるし、安易にそういう風潮や傾向を否定することもそういった現状認識に含まれていて、そういう否定的な認識も世間に広まる傾向にあるから、それに同調することも何か違っているように思われることは確かなのだが、それらすべての認識が間違っているから悪いというのではなく、必然的にその時代に特有の風潮や傾向に囚われた誰もが、間違った認識と判断を犯してしまうという捉え方では、やはりそれでは一面的過ぎるのであり、それを間違いとみなすよりは、確かにそれを後から振り返れば間違っているように思われるわけだが、その時点では可能な部分的で限定された状況の把握からは、そういう認識や判断に導かれてしまうのも無理はないわけで、またそんな人たちをその時点でいくら批判しても、聞く耳を持たないのも当然のことだろうし、そんな何を言われても馬耳東風な人たちが、時代の風潮や傾向に乗っかってそこで主導権を握っているとみなしても、それほど間違ってはいないのかもしれないが、たぶん表面的にはそうであっても、実質的にはそれらの人たちが物事の主導権を握っているというよりは、時代の風潮や傾向に踊らされているといった表現の方が妥当なのかもしれないが、何に踊らされているのかといえば、例えば現状の日本で話題となっている芸能事務所のお家騒動などのような物事の本質とは無関係な枝葉末節な些事に踊らされていると言えるのかもしれないが、やはりその時点ではほとんどの人たちがそれがくだらない茶番劇に過ぎないことに気づかないわけで、それが人々を政治的な無関心に導く世論誘導の類いであることが、後から振り返ればわかるようなことでしかないわけだが、その時代に生きている人たちのほとんどが、その程度のことがわからないまま一生を終えてしまうのかもしれず、すでにそうやって生きている時点で取り返しのつかない状況となっているわけだろうが、それでもそれと自覚することなくそういうことをやってる関係者を否定的に見ない方がいいだろうし、なぜそうなのかといえば、そういう枝葉末節な些事の積み重なりがその時代を形成していて、いつの時代でもそんな状況でしかないのかもしれず、世の中にはそんな些事に心を奪われた人たちしかいないのかもしれないし、それ以外の人が誰も存在しなければ、それらを否定しても意味がないだろうし、要するに時代の風潮や傾向に囚われないような人が誰もいなければ、それを否定すること自体も時代の風潮や傾向に囚われた否定されるべき認識となってしまい、そうであるなら、まずはそんな状況を肯定してみた方がマシかもしれないわけだが、マシといっても、そういった自分たちの商売にとって都合の良い話題へと人々の関心を引き込むメディアの意図や思惑に逆らうなということではなく、そういう誘導に気づきながらもそれはそれとして真に受ければいいわけで、そしてそれを真に受けた上で、そういった話題の中にもメディアの意図や思惑から外れた要素や要因があることに気づければ、その分だけ宣伝や煽動によって単純化されたくだらない紋切り型の認識とは違う、複合的で多元的な認識となるだろうし、そこで演じられている芸能人やお笑い芸人たちの茶番劇の中にも、その中で恣意的に区分けされている正義の味方的な役割分担とそうした役割分担の人物たちと対立する悪の親玉的な人物とのやり取りの中から、どちらの側にもそういう見え透いた役割分担の構図とは相容れない偽善や欺瞞が潜んでいることを感じ取れるようなら、やはりそれだけより複合的かつ重層的な現状認識に近くなってきたことを示しているだろうし、そうやってできるだけわかりやすく単純化された紋切り型的な現状認識から遠ざかることが、そこに恣意的な作用や影響を及ぼそうとしてくるメディア的な操作にも動じないことに結びついてくるだろうし、またそういった現象を安易に肯定したり否定したりするのではなく、肯定しようとさせたり否定しようとさせるような誘惑にも動じないことが、より複合的で込み入った現状認識を得る上では求められることなのではないか。


7月22日「思惑の違い」

 世の中に存在している人工物の中で、何らかの構造物や建物や機械類などの物質的な存在感は、誰もが当たり前のように感じられるかもしれないが、その一方で社会というのは、そこに社会があると認識しているとしても、何か確固とした形を伴った構造物があるわけでもないし、社会の中で暮らしているつもりになっている人々の共通認識として、そこに社会があるとみなしているに過ぎないわけだが、ではそれが国家となると、社会とどう違うのかといえば、それを管理統治している政府があり、一応はそれが目に見える組織形態も伴っているし、それに関連した土地建物などの人工的な構築物や機械類なども所有していて、それらを利用する公務員と呼ばれる専門の職員が集団で活動しているわけだが、それはあくまでも政府という団体であり、厳密には政府=国家というわけでもないはずだが、たぶんそれらを同一視している人は意外と多いだろうし、それで構わないと思っているというか、そんな自覚さえなく政府=国家と普通に認識してしまっているのかもしれないが、それの何が問題かとなると、別に問題視している人も皆無なのかもしれないし、実際にも何の問題もないのかもしれないが、国家を何かひとまとまりの構成物をみなしてしまう人も多いのかもしれないし、確かに国境で囲まれた区域を国と認識するのは当然だろうが、例えばその中で暮らしている人の全てが、政府が催すイベントに参加してくれるかとなると、選挙などの投票率を見てもそうではないし、国内にいながら国家的な行事に参加しない人が大勢いるわけだから、普通は国民として国家に忠誠を誓うような成り行きにはならないし、誰もが積極的に政府=国家に関わろうとしているわけではなく、それほど意識の中では関わることが最優先事項というわけでもないのかもしれず、それよりは触らぬ神に祟りなし程度の感覚である方が一般的なのかもしれないが、関わるといっても税金を納めたり選挙の時に投票するぐらいでは、他の様々な物事への関わりから比べれば大した関わりではないだろうし、少なくともそれが最優先事項とは認識していないだろうし、もちろん生活の様々な面で政府や地方自治体などの行政サービスが関わってきていて、それに気づいていないから、政府との関わりを意識できないのかもしれないが、そうした行政サービスなどと選挙での投票との間の関連性についても、日頃はあまり意識していないのかもしれないし、それよりは民間の企業などとの関わりにおいて、企業が提供する物や情報やサービスなどを利用することの方が、より直接的に意識するだろうし、なぜ意識できるのかといえば、それを売買によって利用するからであり、ではそれが政府から税金を徴収されるのとどう違うのかといえば、税の使い道が個々の住民の利害や満足度などとは、直接的に結びついているわけではなく、しかも売買が建前上は売る側と買う側の自由意志に基づいて行われるのに対して、税は徴収する側の一方的な強制によって行われ、住民の側が税の徴収から逃れることはできないわけで、仮に選挙で減税を主張する政治勢力に投票したからといって、税収を財源として住民に対して行政サービスが行われることには変わりないだろうし、その行政サービスが住民の生活に直接関わってくる面と、あるいは直接には関わってこない面と、それらが個々の住民から徴収される税の額との間に、明確な相関関係があるわけではなく、別に税金を払った額に応じて、行政サービスの質を変えるようなことは行われないし、そういう面での損得勘定は成り立たないわけだが、そうであるなら選挙で単純に減税を政治公約に掲げる政治勢力に投票することに、どのようなメリットがあるのかといえば、そうした政治勢力が主導権を握れば、それなりに税金が安くなる可能性はあるだろうが、それに伴って政府の活動内容がどう変わるのかと言えば、それだけではよくわからないし、実際にやってみなければわからない面が大きいわけだろうが、少なくとも徴税によって政府の活動が成り立っていること自体が変わるわけではなく、そういう面で減税を政治公約に掲げる政治勢力に幻想を抱くことはできないし、根本的なところで税の強制徴収という制度自体を変えようとするわけではないところが、政治的な面でも行政的な面でも限界があるわけで、そうした制度をそのまま維持しつつも、住民に税の使い道に関して肯定的な幻想を抱かせようとするところに、何か政治勢力にとって都合の良い欺瞞が潜んでいるのかもしれないが、すでにそうした政府の活動を前提として世の中が成り立っているのだから、そうした方面で根本的な変革を期待すること自体が現実的でないことは承知しつつも、そうしたことは不問して相対的な水準で改革を目指すような政治勢力に期待することも、それなりに限定的なものにしかならないだろうし、それが魅力的に感じられるかと言えば、よほどの世間知らずでない限りは、大したことはないと思うのが普通の感覚だろうし、現状でも世界の中で主要な国々の政府が行なっていることの間に大した違いはないことは、誰の目にも明らかなことかもしれないし、それでも政治的な宣伝としてはちょっとの違いを大げさに強調するのが常ではあるわけだが、それにしても相対的な範囲内での変革や改革の内容にそれほど魅力があるようには思えないことは確かであり、それよりはむしろ生活に占める行政の関与の割合を少しでも減らそうとすることの方が、自由を幻想させるのかもしれないし、そうした政府に関係した行政システムが形骸化した方が、それだけ政府の力も弱まるのかもしれず、そうであるなら、そういった自由を幻想するような人たちには、そちらの方が魅力的に感じられるのかもしれず、そういう面で政治活動を通して住民の役に立とうとする政治勢力にとっては、何か思い違いをしている面があるのかもしれないし、そういうところで住民の側と政治勢力の側との間で、それなりに思惑の違いがあるのかもしれない。


7月21日「現実の虚構化」

 たぶん現実を受け入れることが困難な人たちは、現状を批判的に見ているのかも知れないが、そんな人たちも自分たちが批判している現状に含まれていることは確かであり、それは現状を肯定的に見ている人にとってもお互い様であるわけだが、そんな現状に含まれている人たちの現状認識が信用に足るものかと言えば、たとえ現状を批判的に見ている人たちの認識と現状を肯定的に見ている人たちの認識を足して2で割っても、信用できるものになるとは思えないだろうが、ではどちらかの認識が正しくてどちらかの認識が間違っているのかと言えば、正しいか間違っているかの判断などしようがないのかもしれず、双方の人たちによってそんな現状認識が実感を伴って抱かれているわけで、客観的な立場からすれば、それはそういうものだと受け止めておくしかないのかもしれず、取り立ててそれらの認識が正しいか否かの判断などしない方が無難だろうし、どちらもそれなりに正しくそれなりに間違っているのかもしれないし、それに関してどう評価しようと、肯定できる面では肯定するしかないだろうし、否定できる面では否定するしかないわけだが、どちらにしてもどうということはないのかもしれないし、そんなことはあり得ないが、現状を肯定することも否定することもフィクションにしかならないとしたら、では現状認識の中でフィクションではない面があるのかといえば、現状を否定的に見ている人たちと肯定的に見ている人たちが存在していること自体は、フィクションではなく現実なのかもしれないし、そんなふうに現状に対する見方が肯定する側と否定する側とに分かれていることも事実だとみなすなら、そういう見方を正しいとか間違っているとか判断するのではなく、両方の側からそれなりに妥当な見方があるということになるのかもしれないし、そういう見方をしている人たちがいて、各々で自分たちの見方や捉え方に関して、それなりに実感を伴った確かな感触があるということなのかもしれず、それが勘違いや幻想に過ぎないと見るか、実際にそういう面があるとみなすかは、そういう見方を支持するか否かで異なってくるだろうが、それもそんなことだと受け止めるしかないのかもしれず、それをそのまま受け止めるとしても、たぶん真に受ける必要はないだろうし、かといって冗談半分で茶化すような小細工なども必要なく、要するに現状をどう捉えようと、現状の中で生きていて生活が成り立っている人たちにとっては、それが当たり前のことであり、別にそれが奇異な印象を伴っているわけでもないだろうし、危機的な状況だとも感じられない人が世の中の大半を占めているとしても、なおのこと現状を否定的に見ている人たちは危機感を募らせるだろうし、それも毎度のことであれば、危機感を募らせることもマンネリ化しているだろうから、それ自体が危機的な状況とは無縁なのかもしれないし、危機感を募らすのにも飽きてきているとも言えるのかもしれず、そういった言説的なマンネリ化が現状に対する無関心も呼んでいるのかもしれないが、そういう感覚にもそれなりにフィクショナルな傾向があるだろうし、実際にはそれほど危機意識を伴った言説的な内容ではなく、日頃の日常的な活動から実感を得るわけだから、そういう言説としての危機感を真に受ける必要もないのかもしれないし、意外とそういう態度が、現状の中では妥当な態度なのかもしれないが、現状に批判的な人たちにはそれが面白くないだろうし、もっとそれらの人たちが抱いている危機意識を他の人たちが深刻に受け止めてほしいとも思っているのだろうが、それはそう思う人の勝手でしかないだろうし、そういう方面で人の意識をコントロールするには至ってないから、危機感を真に受けてはくれない状況となっているわけだろうが、コントロールするも何も、それとは別の方面から一般大衆の意識が制御されているのかもしれないし、しかもそれを制御というと語弊があるのかもしれず、それよりは自縄自縛な傾向があるのかもしれないが、実際にそうなっていても当人にしてみたら自業自得とは思えないだろうし、何か他へ責任転嫁したい気になってしまうのかもしれないが、いくら他へと責任転嫁しようとしても、責任の引き受け手がそう簡単に見つかるわけもないだろうし、無理に責任を転嫁しようとすれば、そうやって他へと責任をなすりつけようとする行為そのものが、わざとらしくもリアリティを失って、単なるぎこちない演技と化すだけで、それを認められなければ、結局はどこへも持って行きようのない愚かさを自らが背負い込むしかなく、そんな追い込まれ方自体も、現状に対する批判となって生じてくるわけで、そうなると現状についての否定的な見方が、自己へと向かってくることになってしまい、そういった自覚なき自己否定状態が、周囲へと鏡面反射しているように思われて、何かそこで自己とは異質の他者の存在を認められないような心理状態になっていて、そういう思い込みが災いして、そこには外部の世界が映らなくなって、そういった思考を否定神学とみなしてしまうと、それこそ予定調和な成り行きになってしまうわけだが、ではそれを回避して、そこで自らを脱構築するような自己を構成できるかというと、そういうのは自家撞着であり、無理にやれば不毛な試みになるしかないのかもしれないが、だからと言ってそこからありもしない外部を想像してみても、それこそが作り事の虚構になるしかなく、そういうことをどこまでやっても漸近的に自己自身へと近づくしかないわけだが、ではなぜそういう心理状態の人たちが自らの外部を意識できないのかといえば、そういう人たちの認識から出発すると、周囲から孤立した人同士の交流にしか至らないのかもしれず、その逆に集団的な構成体に同化してしまった人にとっては、今度は個人が存在できなくなってしまうだろうし、どちらにしても物事の捉え方が両極端に振れてしまって、その間に存在する奥行きや厚みを持った対象としての人物や団体にならずに、何かカリカチュアのようなマンガチックなキャラクターにしか至らないわけで、もちろんそうした成り行きがフィクションにしかならないのは、そういう人たちが語っている場のことごとくが演劇空間でしかないのと同じことかもしれないのだが、それは他の大多数の人たちが何の変哲もない日常の中で活動している実態とは相容れない様相を呈していることにもなるのかもしれない。


7月20日「気づきにくいこと」

 一見無駄で無意味に思われることでも、その場の成り行きでそんなことをやる羽目になれば、やってみた方がいいのかもしれないし、逆にその人が信奉している価値観や論理に照らし合わせて、意義や意味があるように思われても、その場の成り行きに逆らってまで無理にやろうとすれば、その無理が祟って取り返しがつかない深刻な事態になってしまうのかもしれないし、そんなふうにしてそこで何かをやろうとする人や団体の目論見をはぐらかすように事態が動いているとしたら、まずはその場の成り行きを見極めた上で、その成り行きに沿うようなことができれば、それで構わないのかもしれないが、その成り行きというのが、必ずしも成り行きに沿うようなことをやろうとする人や団体に利益をもたらすとは限らないのかもしれず、例えばその人たちは捨て石のような役目しか担えないにしても、その人たちが助けようとしている人たちが助かればそれで構わないような成り行きであるかもしれないし、その場の成り行きがそういう成り行きであれば、そういう成り行きを受け入れるのが、その場の成り行きに沿った行為になるとしたら、実際に成り行きに沿った行為ができるかというと、できない場合もあるだろうし、そうなるとそこでその場の成り行きに沿った行為ができるか否かも、その場の成り行きに含まれている場合もあるだろうし、もしその場の成り行きに沿った行為ができないことがその場の成り行きであるならば、そこで何かをやろうとする人や団体が、そのやろうとすることに失敗するのがその場の成り行きになるわけで、実際にそうなったとしても、そこでやろうとすることに失敗することが、その人にとっては思いもよらぬ想定外の結果をもたらすことになれば、そういう面まで考慮すれば、その場の成り行きに沿ったことをやろうとして失敗に終わったとしても、それでも構わないのかもしれないし、そういう意味ではその場の成り行きに沿ったことをやろうとすることは、そうした行為がたとえうまくいかなくても、やはりその場の成り行きに沿ったことをやろうとした方がいい場合もあるだろうし、やろうとして失敗しても、そういうところで自分たちの信じている理屈や論理にこだわる必要もなく、それよりは実際にその場で起こった結果を素直に受け止める必要があるのかもしれないし、どう受け止めればいいかというと、ありのままの結果をそのまま受け止めるしかないだろうし、それが実際に起こった結果であるなら、そういうことでしかないのかもしれないが、それがそこで行われたことによって、何らかの作用や影響を受ける人や団体が存在すれば、そうした人や団体から何らかの反応が返ってきて、それが好意的な反応であれば、その行為がそれらの人や団体から支持されたことになるだろうし、否定的な反応であれば支持されないどころか、場合によっては批判や非難の対象となるのかもしれないが、中には特に反応がない場合もあるだろうし、あからさまに無視されている場合もあるだろうが、それなりに作用や影響を被っているのに、何の反応もない場合もあるのかもしれず、それがどういうことかといえば、特に意識する必要のない行為となっている場合があるわけで、無反応であるのにも関わらず、それなりに作用や影響を及ぼすような行為があって、そういう行為は肯定の対象とも否定の対象ともならず、ただそんなことが行われていることがそのまま受け止められるだけで、それ以上でも以下でもない反応というのも世の中にはあるのかもしれないが、少なくともそういう反応はメディア上でも話題とはならないだろうし、それの何が問題視されることもないのだろうが、もしかしたら世の中で行われているほとんどの行為には、そういう類いの反応しか示されないのかもしれず、確かにそういうことを行なっている人や団体もそれなりに存在していて、そうした行為が行われているから世の中が回っている面もあるのだろうが、特にそうしたことに関して世間が関心を持たないなら、何の賛同も支持も得られなくても普通にそういうことが行われていて、批判も非難もされないから問題視されることもなく、だからといって何の抵抗感もなく続けられるようなことでもないのかもしれず、それなりに嫌がられていたりする面もあるものの、それ自体がやめるわけにはいかない行為でもあり、そういう行為に携わっている人や団体が、世間から賞賛や非難を浴びることもないだろうが、それでもそれが続けられることによって、何らかの社会的な機能を果たしていれば、必要不可欠な行為として一般的には認識されているだろうし、それはそういう類いの行為でしかないわけだが、別にそれで構わないわけで、世の中にはそういう類いの行為があると認識されているだけでしかなく、それ以外の何物でもなければ、それ以上の肯定や否定の対象にもならないだろうし、それで済んでしまうようなことでしかなければ、そんなことを特に問題視するような成り行きにはならないだろうし、実際にそれの何が問題であるわけでもないわけだが、そんな成り行きがまかり通ってしまうこと自体が、人知れず世の中の傾向や風潮などを示しているのかも知れないし、そんな肯定も否定もされないような行為によって、人の意識や社会の風潮などがコントロールされているようだと、改めてそれを恣意的にどうにかしようとする目論見には結びつかないだろうし、誰も気に留めないようなことであれば、そのまま放って置かれるしかないだろうし、別にそれで構わないわけだが、それとは違って人や団体などが意識してコントロールしようとしている物事が、実はそれをいくらコントロールしようとしても、大した成果は上がらずに、そうした目論見はいつも空振りに終わるようなことである可能性もあるわけで、もしかしたらそうしたことの最たるものが、何やら選挙の時に立候補者などが必死になって主張している内容であったりするのかも知れず、そういうところでそれらの立候補者たちもそれを支援している民衆も、そうした成り行きにはぐらかされている可能性があるのかも知れず、しかもそうやってはぐらかされて目論見が失敗に終わっても一向に構わないような状況となっている可能性まであるわけだ。


7月19日「コミュニケーションの有効性」

 何かしら他人に対して配慮することができれば、その配慮の内容にもよるが、少なくとも他人に対してあからさまに攻撃を仕掛けるようなことには、それなりに抵抗を感じるようになるのかもしれないが、そうではなく日頃からネット上などで他人に激しく罵詈雑言を浴びせたり、配慮を欠いた汚い言葉を用いての嘲りを繰り返すような人は、少なくともそういう場では、他人に対して配慮を欠いているし、それが直接の対人関係の中でもそうであれば、その場の状況にもよるだろうが、そういう行為が場違いな印象を受けるようなら、普通の精神状態ではないように思われるだろうし、何か精神に異常をきたしていると疑われることもあるのかもしれないが、そういう意味でもその場の状況の中で居合わせた誰もが妥当に思われるような態度をとれると、その場に居合わせた他人に対して配慮していることにもなるだろうが、そういうところで単に他人と調子を合わせているだけだと、ネット上で炎上商法をやっている著名人などに対して、よってたかって大勢で口汚く罵ったり嘲笑したりすることも含まれるだろうし、果たしてそれが他人に対する配慮なのかというと、ある意味ではそうかもしれないが、そういう次元とは異なる面では、そんな行為の流行や蔓延が世の中の一般大衆の心を荒廃させて、良心や良識を衰退させていると思われるのかもしれず、その通りな面もあるのかもしれないが、いずれにしても、世の中の全てがそういう傾向になっているわけではないだろうし、そういう不快な感情を世の中に蔓延させることが、人々に利益をもたらすとは思えなければ、そんな傾向には嫌悪感を抱くのが真っ当な感覚なのかもしれないが、中にはそういう不快な雰囲気に感化されてしまって、感情のバランスを欠いて、他人を口汚く罵ったりするのが普通の感覚だと認識してしまう人も出てくるのかもしれないし、そんな人たちの中から他人の身を配慮せずに平気で直接の攻撃を仕掛けるような人も出てくるのかもしれないが、たぶんそういう人たちは、自身も他人から配慮されていないように思われるのかもしれず、社会から除け者にされて邪魔者扱いされているように思われるなら、当然のこと被害妄想に陥ってしまうだろうし、そうなれば日頃から自分を無視するような他人に配慮するいわれはないように思われるし、周りが全て敵だと認識するようなら、敵に対して攻撃を仕掛けるのが当然のことにようにも思われるし、そんな意識が高じて、実際に無差別な殺傷事件を起こしても、良心の呵責など感じないだろうし、場合によったら、ざまあみろとでも内心思っているかもしれないし、そんなふうにして自分が悪いのではなく、自分を無視する他人が悪いとさえ思うようなら、完全に精神に異常をきたしているともみなされてしまうのかもしれないが、そこで異常であるか正常であるかの違いに、はっきりとした区別がつくわけでもないのかもしれず、そんなことを思ってしまう状況というのが誰にでも起こり得ることかもしれないし、それが実際にそうなってしまうのは、稀にしか起こらないとしても、そうなってしまった人が凶悪な事件を起こしてしまうと、何か世の中が、そんなことが起こりやすいような傾向にあるかのように思われてしまうのかもしれないが、そうなってしまうのを防ぐにはどうしたらいいかというよりは、ただ単に他人に対してできる限り配慮するように心がけることが肝要だろうし、そうするには他人がどう思っていてどうしたいのかを注意深く知ろうとすることも重要だろうし、それには他人と直接言葉を交わして意思疎通を図るしかないだろうし、それができなくても、その場の状況の中でどう振る舞えば事を穏便に済ませられるかに関して、妥当な振る舞い方を模索する必要があるのかもしれないが、もちろんそれだけでなく、時には毅然とした態度を示す必要もあるだろうし、相手からの不当な攻撃やいかがわしい誘惑には屈しない態度が求められるわけだが、そこでどういう場合にどういう態度で臨めばいいかに関しても、その場の状況などから妥当な振る舞いが自ずから導き出されてくるのかもしれないが、そんな態度の妥当性に関しても、特にはっきりとした判断基準があるとは言えないだろうし、それを誰が教えてくれるわけでもないだろうから、そういうことに関しては誰もが手探り状態なのかもしれず、だからできるだけ人と人とがコミュニケーションをとりながら、どういう時にはどういう態度でどう振る舞うのが妥当なのかに関して、模索し続けることしかできないだろうし、それを怠ってしまうと、周囲から孤立して思い込みの世界の中で自閉してしまうのかもしれないし、それほど極端な自閉状態になる人は稀だとしても、程度の差がそれなりにあるにしても、自閉状態を解消するには他人とコミュニケーションを図るしかないのかもしれないが、そのためにもSNSなどのメディアが存在しているはずだが、それが一方では炎上商法や大勢で特定の人物を攻撃するためのツールになっていたりもするわけで、それにかこつけて特定の物事を宣伝したり煽動することと、他人とコミュニケーションすることとの間で、重なり合う面も相容れない面もあるとともに、両者の区別をしなければならない場合もあるのかもしれないし、それに関しては、何かを決めつけて、決めつけたことに関して肯定したり否定したりすること自体は、コミュニケートした結果としてそういう判断が出てくるとしても、そこに至るまでの過程で言葉を交わすことの方が重要なのだろうし、そういう意味では結果よりも過程の方が重視されるべきかもしれないし、言葉を交わすことによって絶えず結果を修正したり変更したりできることが、コミュニケートすることの意義となるのかもしれず、その場合、結果とは暫定的なとりあえずのものであり、それを決めつけて固定するようなことを行なってはいけないのかもしれないし、絶えず結果が可動的な状態にあることが、コミュニケーションの有効性を維持するには必要なことなのではないか。


7月18日「理想と現実の狭間で」

 人が何かを語る上で、主張や告白や制度的な言動の他に何があるかとなると、ただ客観的な視点から状況を説明する成り行きがあるだろうが、意識の中ではそれらをいちいち区別しているわけではないだろうし、その場の状況や都合に合わせて適切なことを述べようと心がけることもあるが、それさえも意識せずにただ勘に基づいて適当に語っている時もあるだろうが、それが他人との会話であれば、言葉のやり取りの中で相手から共感を得られるように配慮しながら意思疎通を図ろうとするだろうし、またそれが対等な立場であれば、こちらからもあちらからも何かを一方的に言い立てるようなことはあまりしないはずだが、そこに何らかの権力関係が生じていれば、力の強い側が弱い側に向かって、一方的に指図したり命令や指令を発することがあるだろうし、そういった権力関係が身分の上下などの階層構造を伴って制度的に確立されていれば、それに関係する業務の範囲内ではそうすることが当然のように思われるわけだが、またそれは慣習的な面でも年齢の上下や親子の関係や社会的な地位などを意識するようなら、目上の者が目下の者に向かって何か指図するような成り行きにもなるだろうし、そうした指図の内容がその場の状況や権力関係に照らし合わせて妥当とみなされるなら、それも当然のことのように思われるだろうし、普通はそういう面で異議を唱えることにはならないはずだが、では異議を唱えるような成り行きになるとしたら、それはどういう経緯を伴ってくるかと言えば、指図の内容が制度的あるいは慣習的な力の及ぶ範囲を逸脱するような内容であったり、また制度面で言えば不正行為を伴っていたり、慣習的にも指図される側を騙すようなことが行われるなら、そうした指図や命令や指令に従わなくても構わないはずだが、その時点ではわからずに後からわかるような場合もあるだろうし、そうであればその場では従わざるを得なくなるわけで、また従ったばかりに不正行為の場合は共犯関係になってしまって、そのことの責任を問われることにもなるだろうし、また騙された場合にはそれなりに被害や損害を被るのかもしれないが、そういった権力関係を度外視して、人と人が言葉を交わす際に本当に対等な立場で言葉を交わすことを望んでいるかというと、それは時と場合にもよりけりだろうが、そこに利害が絡んでくれば、自らを利するように振る舞おうとするのかもしれず、そうなると戦略的に相手を出し抜いたり、場合によっては騙すようなことが行われるかもしれないし、それが合法的な範囲内で行われているようにみなされれば、相手よりも有利な立場になろうとすることに関して、特に良心の呵責も感じないだろうが、ではそういった面で対等の関係を意識するような成り行きになるかというと、意識しようとしまいと、それを望むだけでは実際に対等な関係になれるわけではなく、関係する人たちがお互いに配慮し合うようなことがなければ、そういう関係を実現できないし、配慮することを心がけても、ひとたびそこで対立や争いなどが生じれば、途端に各人が自身に有利な状態へと導こうとするだろうし、そうなるのを防ぐために、いくら制度的に様々な条件や制約を設けてみても、実践的な面で対等な関係を維持するのは難しいのかもしれず、それに関して理想を言えば対等な関係にすることが望まれるとしても、そこに様々な事情や経緯が絡んでくるとそうもいかなくなってくるわけで、そこに理想と現実の間にギャップがあることは、誰もが認識することかもしれないが、それでも理想を追い求められるかというと、そこにも理想を実現する上での様々な条件や制約が生じてくるのかもしれず、そういった条件や制約がどこから生じてくるのかと言えば、やはり現状の中で生じている制度的あるいは慣習的な権力関係だろうし、しかもそういった権力関係が、現状で成り立っている世の中を構成しているわけで、要するにそれなしでは世の中が立ち行かないのかもしれず、またそれをなくすような成り行きにもなってはいないし、なくすどころか絶えずそんな関係を強化するような傾向さえもあるだろうし、そういう面を考慮するなら、現状の世の中で人と人とが対等の関係になることなどあり得ないのかもしれないが、だからと言って誰もがそれをあきらめるわけでもなく、理想を追い求めるような傾向もそれなりに生じていることも確かであり、なぜそういう傾向になるのかと言えば、不利な関係を強いられている人が少なからず存在しているからだろうし、そういう人たちが対等な関係を望んでいるのはもちろんのこと、有利な立場にある人たちも良心の呵責から、できれば対等な関係にしたいと思う時もあるだろうし、そういうところに倫理観が生じる余地があるわけだが、それと同時に現状の不平等な関係の中でそんなことを思っているわけだから、実際の関係はそうではないことが明らかとなっていて、しかもそんな関係の中で有利な立場を利用して利益を得ている人も少なからずいるわけで、そこでも思っていることと実際に行われていることの間にギャップがあるわけだが、それを埋めて思っていることと行われていることを一致させられるかとなると、やはりそうもいかない事情や経緯があるだろうし、逆にそういうところで実際に行われていることを正当化するようなことを思ってしまうと、それが倫理観の欠如として言動に表れてしまうわけで、そういう面では思っていることに行われていることを合わせようとすることが、現状では不可能だとしても、やはりそれを実現しようとしなければ、そこに倫理観が生じてこないわけで、そういう意味でそういった倫理観自体に無理な面があることは確かなのだろうが、それでもそういう理想を追い求めることで倫理観が生じてくるわけだから、どう考えてもそういう方面の思考には、功利的な理屈では割り切れない面があるだろうし、それを不条理と捉えると、わざわざ倫理観など持たずに功利的な面を追求すればそれで構わないように思われてしまうのかもしれないが、そうなると今度は人と人とが対等な立場でのコミュニケーションを図ることができなくなってしまうだろうし、それが嫌なら現実に生じている不快な権力関係から脱却するためにも、そこで功利的な理屈や論理が破綻するような不条理を抱え込む羽目になってしまうのではないか。


7月17日「正直で生真面目な態度」

 何かを主張する人が果たして真実を述べているか、それとも嘘をついているかに関しては、そのどちらでも構わないわけではないが、たとえ嘘をついているとしても、それが見え見えの嘘であれば、誰もが了解済みの嘘である可能性があるのかもしれず、しかも嘘をついているのが政治家であれば、デマを拡散して政敵を攻撃するのは保守系の政治家ではよくあるケースだろうし、ある意味そういう人は確信犯であるわけだが、そういう政治家の支持者もそんなことは百も承知で了解済みだろうし、中には一緒になってデマの拡散に手を貸している人も結構いるのかもしれないが、そういう政治家と支持者たちがその後どうなるかといえば、たぶんどうにもならないだろうし、何事もなくそんな人たちは生まれては消えていく運命なのかもしれず、いつの時代でもそんな人たちはいくらでもいて、またそんな人たちが大勢いるからといって、何がどうなるわけでもなく、資本主義経済と国民国家が誕生して以来、大衆市民社会のエキストラとして、そして人としての存在の重要性から見放された存在として、そういう人たちに特有な分相応なたわいない行動や言動とともに、ハエのように大量に湧いて出てくる宿命にあるのかもしれないが、それらを腐肉に群がる蛆虫のように形容すると語弊があるだろうし、実際にはそんな形容とは無縁の空疎な存在かもしれないわけだが、少なくともそういう人たちを否定的に見てはいけないのであり、むしろその存在と行動と言動が現代社会の成立にとっては必要不可欠な成り行きがあるのかもしれず、それがどんな成り行きなのかといえば、無駄で無意味なことに莫大なエネルギーを費やしていることに無自覚でいられる成り行きかもしれないし、またそれが気休めとしての民主主義の幻想に過ぎないことを自覚させるような成り行きかもしれないわけだが、それも否定的に捉えてはいけないことだろうし、逆にそういう誘惑に屈しないで、そんな真実を捻じ曲げるようなことをやらなくても、普通に正直で生真面目に振る舞える範囲内で行動や言動を行うことが、人としてごく自然な動作であることに気づくための紆余曲折を経験している最中なのかもしれず、そうなるに至るまでは、どうぞ気が済むまで嘘をついたりデマを拡散してもらうしかないのであり、そういうやり方から卒業できた他の人たちは、そういう人たちの行動や言動を率直にありのままのこととして受け止めるしかないだろうし、そんなことをいくらやってみても、大衆市民社会の中ではエキストラ以上の役割など担えないことを身に染みて感じてもらうしかなく、またそんな人たちを束ねるデマゴーグのリーダーのような存在を引き受けている著名人の類いでさえ、一度そんなことをやってしまった時点で、良心的な人たちからの信用を失って、軽蔑の眼差しで見られるようになってしまえば、その先に待ち受けているのは、やはり何でもないようなたわいない境遇を引き受けなければならないだろうし、それでも当人にとってみれば、それなりに大勢の支持者たちに囲まれて、成功者として著名人の仲間入りができたわけだから、それで満足しなければならないのかもしれないし、現状の大衆市民社会においてはそれ以上の地位などあり得ないのかもしれないが、それが何でもないことだとは思えないだろうし、たぶんその人たちにとってはそれが何か価値のあることであるはずなのだが、そういうことでさえも肯定的に捉える必要があるとすれば、では他に何を否定すればいいのかとなるわけだが、何も否定する必要はないとなると、そこに差異が生じないことになるわけで、逆にそんな差異がないところに無理やり差異を生じさせようとするから、嘘をついたりデマを拡散しなければならなくなるのかもしれず、実際にそういうところで無理が生じているわけだが、そうなると実質的には嘘やデマによって対立を構成している双方には差異がないから、無理に嘘やデマによって差異を作っていることになるわけだから、そういった対立や敵対関係自体がフィクションでしかないと言えるわけで、要するにその手の人たちは自分たちが抱いている幻想の中で偽りの対立を演じて、争っているつもりになっているわけで、それが実際に思考や感情や身体の動作も伴っているわけだから、客観的な世界の中でも実社会の中でも心の中でも対立を装わなければならなくなり、当人たちもそのつもりのはずなのだが、そうであるならもし嘘やデマをやめたら両者に間に差異がなくなって、対立も争いも不要になってしまう可能性があるだろうし、実際にそうなれば、そういう行為によって成り立っている政治が機能しなくなってしまうかもしれないが、それに関しては政治には別の機能の仕方があるのかもしれず、それが正直で生真面目に振る舞うことであり、嘘やデマなどの無駄で無意味なごまかしを経由せずに、率直にごまかさないで話し合うことであり、戦略的なはぐらかしなどとは無縁の交渉や取引を行うことでもあるわけだが、果たして実際にそんなことが可能かというと、現状の中では不可能かもしれないが、現状がいつまでも現状のままであるはずがないし、世の中は絶えず状況の変化にさらされているはずだろうが、その変化の傾向というのが、無駄で無意味なことを省いて効率的な動作をもたらそうとする傾向であれば、嘘やデマに基づいた不毛な対立や争いをやめようとする成り行きになるはずだが、果たして本当にそうなるかというと、少なくとも現状の中では先行きは不透明だろうし、実際に見え透いた嘘をつきながらくだらないデマを拡散中の人たちも、それをやめてしまったら他にやることがなくなってしまうのかもしれず、彼らの存在意義もそういうことをやることから生じてくるのかもしれないし、そうやって絶えず物事の本質から目を背けることによって自らを正当化しているわけだから、それをやらないで真摯な態度で物事と直接向き合うようになるまでには、この先相当な紆余曲折を伴うことを覚悟しなければならないのかもしれず、それも避けては通れない宿命なのかもしれないが、現状でもだんだんと嘘やデマの利用可能範囲が狭められている成り行きがあるのかもしれないし、実際にそれを狭めるように作用するのが、自然な態度として正直で生真面目に振る舞うことであり、実際に見え透いた嘘やデマに飽きてきたら、そうするより他はないのかもしないが、やはりそれに気づくまでの道のりがまだ結構長いのかもしれない。


7月16日「そそのかす側の論理」

 人をそそのかすような言動の中では、そそのかす側にとって都合の悪いことは述べられていないはずだが、そそのかされる側にとっては都合の良いことが述べられているはずで、そうでなければそそのかされるわけがないわけだが、実際にそそのかされた結果がそそのかされた人にとって都合の良いことになるかどうかは、都合が良いか悪いかのどちらかの結果がもたらされるはずだが、都合が良いことにならなければ騙されたと思うのだろうが、元からそんなに期待していなければ、都合の良いことにならなくても、それほど怒りの感情など湧いてこないだろうし、他人からそそのかされてその気になってしまった自らが浅はかだったと悟るぐらいで、その程度であればどうということはないのかもしれないが、期待通りにその人にとって都合の良いことになれば、そそのかした側に感謝するだろうし、ありがたいと思うかもしれないが、そう都合良くそんな事態になることも稀だろうし、それよりは当人の思い込みでしかない場合も結構あるのかもしれず、果たしてそれが当人にとって本当に都合の良いことなのかどうか、あからさまに損害や損失を被った場合を除いて、ただ何となくそう思われるような場合だと、騙されているというよりは、何でもないような状態なのに、他人からそれが良い状態だと言われてみれば、そんな感じがしないわけでもないとなるわけで、そんな可もなく不可もないような状態が、その人にとって都合が良い状態と認識するような成り行きになってしまうのかもしれないが、他人をそそのかして何かをやらせるということが、特に実利も実害もないようなことなら、取り立てて問題視するようなことでもないのだろうが、そこに実利や実害とみなせるようなことを発見できるかとなると、それもそうしたことを発見したい人の都合に合わせて見つかってしまう可能性もあるだろうし、実際にそれが金額として計上できれば、他の人たちもそれを信用するのかもしれないが、それも実際に収入や支出として金銭が支払われている事実があれば、誰もが納得するものの、金銭価値に換算して出された数値の類いだと、やはりそういうことを主張したい人の恣意的な操作を疑ってしまうだろうし、何かそういう面で定かでないと思われれば、それも信用できない数値になってしまうだろうが、利害という概念にしても、利益が出れば良くて損失が出れば悪いとは一概には言えない場合もあるだろうし、利益を出すことで失われる何かがあるかもしれないし、また損失を出すことによって得られる何かもあるかもしれず、誰かが損失を出さないと別の誰かが利益を得られなかったり、その逆もあるのかもしれないが、それが表裏一体の現象であれば、少なくとも一方的に利益を出し続けたり、一方的に損失を出し続けるようなことにはならないわけで、そこで一方的に利益を出し続けることが、その人にとって都合の良い状態であれば、そんな状態が長続きするわけがないだろうし、利益を得ている一方で、何かしら失っているはずなのに、ただその人がそれに気づいていない可能性もあるわけで、その失っている何かが金銭価値に換算できなければ、それが利益と表裏一体となっているとしても、気づかなくて当然かもしれないが、世の中には失うものが何もないような境遇の人もいるだろうし、そういう人なら、何をやってもプラスにしか振れないような心境になれるかもしれないが、そうであるならたとえ多額の負債を背負いこんでも、その人にとっては負債がやる気を呼び起こすことでプラスに思われる場合もあるだろうし、その人の活動が成り立っている限りで、活動している間は利害を度外視するような心境になれるのかもしれないが、果たしてそれがその人にとって都合の良いことかとなると、物は言いようで、そそのかす人の口車に乗って何かを行なっている間は、結果が出るまでは好都合な状態であるように思われてしまえば、しかも結果ですらも、そんな結果の中で五体満足で生きていれば、どんなに損失を被っていても、それだけでも都合の良いことのように思われてしまうのかもしれず、もちろん借金で首が回らなくなって自殺にでも追い込まれてしまえば、それが身の破滅には違いないのかもしれないが、最終的にそうなってしまうにしても、そこに至る途中の段階では、何か希望があるかのように幻想を抱いたり錯覚に陥っているとも限らないし、大抵は結果がはっきりと出るまでは、その気になって活動しているわけで、それが端から見ればじり貧状態なのに、虚勢を張っているように見えたり、前途洋々に思えるような成り行きでも、実際に状況が突然暗転して窮地に陥るようなことになるかもしれないし、そういう意味であまり目先の利害にとらわれないことが肝要なのかもしれないが、ともかく状況をひたすら悪いように捉えたり、またどんなことが起こってもそこからポジティブな積極性につなげようとしてしまうのは、そんなことをやっている人の恣意的なフィクションでしかなく、そこで損失が出ているように思われても、それが利益であるように言いくるめたりすることも、現実に収入や支出としてそれなりの金額が計上されていても、それでも物は言いような面があるだろうし、そういうところで絶えず人をそそのかすような言動が待ち構えていて、実際にどのような事態にも対処できるかのような幻想を抱かせてしまうわけで、そして実際に対処している間は、何とかなるような幻想を維持できるだろうし、そういった幻想をいつまで保つことができるかは、やはり実際にそうなってみないことにはわからないし、何らかの結果が出るまではそんなことが続けられ、しかも結果が出ても、何食わぬ顔してそれを継続しようとするわけで、要するに誰かがそういう行為に待ったをかけない限りは、延々とそんな行為が繰り返されてしまう可能性があり、それがいつかは破綻すると高をくくっていると、なぜかいつの間にか破綻を通り過ぎてまで活動が続けられてしまうわけで、そうなると破綻が破綻でないかのような演技まで行われてしまうのではないか。


7月15日「噛み合わない論理」

 物事を論理的に考えようとすると、その物事に当てはめようとする論理とは別の論理の存在を忘れがちになってしまうわけだが、人が利用しようとする物事には、その物事が存在して動作するための理屈があり、その理屈を正当化する論理もあるだろうが、その論理が別の論理と衝突するところで、双方の論理の担い手となる人や団体が対立するわけだが、対立することが対立している当事者たちにとって都合が悪いわけではなく、逆に対立することによって、自分たちの信奉している論理の正しさをアピールすることにもなるだろうし、そうした論理の何が正しいかといえば、それは対立している別の論理が間違っていることを指摘できれば、相対的に自分たちの信奉している論理が正しいと思われるのかもしれないが、対立している側も同じように対立している論理の間違いを指摘しようとすることから、双方ともに自分たちの論理が正しくて、自分たちの論理と対立している論理の方が間違っていると主張するだろうから、客観的にどちらの論理が正しくてどちらの論理が間違っているかを明らかにするのは難しくなるわけだが、どちらの論理にしても、その論理を基にして物事が動作している面ではそれなりに正しいわけで、ただその論理にとって都合の悪い面に関しては、功利的な姿勢では、都合の悪い面を明らかにすることは損になるわけだから、あえてそこには触れたくないわけで、その触れたくない都合の悪い面を暴露するような人たちとは対立せざるを得ないだろうし、またそういう都合の悪い面を暴露しながら批判してくる人たちにしても、その人たちの信奉する論理にとって都合の悪い面があるのかもしれず、そうなるとやはり功利的な見地から、そこには触れたくないし、他の人たちがそれに触れないように神経をとがらせているわけで、そうやって双方ともに触れられたくない都合の悪い面を隠蔽しながら、自分たちの信奉する論理の正しさをアピールしようとするから、そういう面ではあまり信用できないわけだが、また実際には論理が正しいか間違っているかというよりは、それが何らかの物事とともに生じている活動を正当化する論理であるから、その活動自体が成り立っている面では論理的に正しいだけで、そうした活動とは無関係な面では論理自体も無関係だろうし、そういう面ではその論理が正しいか間違っているかに関しても考慮する必要がないわけで、そうした論理が通用する範囲外では、何ら問題とはならないだろうし、そうなっている限りで活動と論理がセットになった現象自体を無視しても構わないわけだが、その現象が具体的に何かといえば、それが世の中に存在していてお互いに影響や作用を及ぼし合っている現実の物事であるわけだが、ではなぜそれらが世の中に様々な影響や作用を及ぼし合っているのに、それが通用しない範囲外があって、そこではそのような物事を無視しても構わないのかといえば、そこに及ぼされている複数の作用や影響が打ち消し合って差し引きでゼロになることもあるのかもしれず、またちょうどゼロにならなくても、それらの現象から及ぼされる影響や作用よりも自らが世の中に及ぼしている影響や作用の方が大きければ、やはりそれらから受ける影響や作用は大したことにはならないだろうし、そしてそうでなくてもその人が世の中で取るに足らない存在であれば、そんな取るに足らない存在に対して恣意的に影響や作用を及ぼすメリットはないだろうし、そういう面でもそうした影響や作用を及ぼすターゲットにならなければ、それらの現象から及ぼされる影響や作用を無視しても一向に構わないような立場や境遇もあるわけで、そういうわけで世の中の誰もがわざわざ特定の現象に注目しなくても構わないような成り行きがあり、誰もがそこから同じように無視できない影響や作用を及ぼされているわけでもなく、強力な影響や作用を及ぼされている人や団体が存在する一方で、無視しても構わないような微々たる影響や作用しか受けていない人や団体も存在しているだろうし、それに伴ってそれらからの影響や作用が届く範囲内も、ある特定の方面では比較的広い範囲にまで及んでいる一方で、別の方面ではその広がりも限定的な狭い範囲内に限られている可能性もあるだろうし、そんなふうにして世の中には互いに相容れない論理が直接衝突せずに共存できるような環境が形成されている面もあるとすれば、そこでいくら不条理な現象が起こっていようと、そういった面から目を背けていれば、それで済んでしまうような立場や境遇もあり得るだろうし、また何らかの現象から特定の方面では甚大な弊害が生じているとしても、それとは別の方面では大した弊害も感じられないどころか、むしろそうした現象から恩恵を受けているような立場や境遇もあるのかもしれず、だから世の中の誰もがそういった現象に対して批判的になれるわけでもなく、むしろそんな批判自体に反駁するような立場や境遇もあって、そんな批判に対する反駁を平気で行う人たちが存在すること自体が、そうした現象から生じる弊害に立ち向かおうとする人たちにとっては、不条理極まりない状況だと思われるだろうし、そういった人たちには理解できない成り行きがそこで生じているわけだろうが、そういう面も含めて世の中の現状があるわけだから、そんな現状を論理的な理屈を用いて説明しようとすると、何か釈然としない違和感が伴ってくるのかもしれず、それに関してはある一つの論理では説明のつかない現象が生じていて、それに関しては複数の互いに噛み合わないような論理の絡み合いからしか説明できないだろうし、またそういう説明にはそれなりに矛盾が含まれてくるのも当然のことであり、実際に世の中の全てをうまく説明することはできないわけだが、そうであっても特定の分野に関してはそれなりに矛盾のない説明が可能かもしれないし、その説明に用いる論理が特定の分野に依存して生じている論理であるから、そうなるのも当然のことかもしれないが、それ以上に何を説明しようとしても、そこにはうまく説明が噛み合わないような現象が含まれてくるわけで、そうした現象の中で活動している人や団体にとっては、そこでどのような弊害が生じていようと、活動が成り立っている範囲内では問題がないし、また弊害を指摘して活動自体を批判してくる人たちが少なからずいるとしても、そんな批判には屈するわけにはいかない事情を抱え込んでいるのかもしれない。


7月14日「優先すべきこと」

 現状の中で優先すべきことは、人それぞれで異なるだろうが、国家的な優先事項と個人が優先すべきことが異なるのは、普通に考えて当たり前のことかもしれないが、そもそも国家的な優先事項というのが何なのかについては、勝手に政治家の類いが思い込んでいることが、果たして本当に優先事項なのか、よくわからないところだろうし、そもそも優先事項が一つとは限らないわけだから、その中で何を優先事項に選んでも、他にも優先すべきことがあれば、そうなると優先事項自体が、それを優先事項とみなす人の都合で選んでいるに過ぎず、他の人にとってはそれが優先事項でなければ、何を優先すべきかを巡って、人それぞれで見解の違いがあることになってしまうわけだが、何を優先すべきかはその場の状況から導き出されてくることであり、人それぞれに物事への対応の程度や傾向に微妙な違いがあれば、優先すべきと思われることも違ってくるのかもしれず、また現状で優先すべきことと過去や将来において優先すべきことも変わってくるだろうし、結局は現状で行なっていることが優先すべきこととなってしまうのかもしれないが、実際にはその時々で優先すべきでないことをやっているとしたら、それをやることによって何らかの失敗を経験することになるかもしれないが、それを回り道と捉えるなら、それなりに必要な迂回だったのかもしれないし、もしかしたらそこで何をどうやっても、結果的にそれができれば、それが優先すべきことだったように思われ、それができなかったり失敗に終われば、もしかしたらそれは優先すべきでなかったかのように思われるかもしれないが、それも一つの経験でしかないから、それが後からためになったり、役に立ったように思われれば、やはりその時点では優先すべきことだったようにも思われてくるし、できないことを自覚したり失敗することによって、そうやって痛い目に遭うことが、それなりに教訓としての経験を積むことになり、結果的にはそこではうまくいかない経験を積むことが優先すべきことだったようにも思われてしまうのかもしれず、そうやって自分に都合のいいように物事を捉えれば、恣意的にその場での優先事項を決めているような成り行きになってしまい、本当にそれが優先すべきことであったのか否かは、客観的にどうとでも受け取れることになってしまうのかもしれず、それよりはそこで何かを行なっていることが、その人にとっての望みであり、それなりに暗中模索や試行錯誤を経て、何らかの状態や境遇に至れば、それが何かをやった結果としてもたらされたことだと思いたいだろうし、そう思い込むには、そこで優先事項を決めて、自らがそれに主体的に取り組んでいるように思い込みたいのかもしれず、そういう感触を得たいがために、優先すべきことを選んで行なっているような気になりたいのかもしれないが、実際にはそこで何を行なっていても、結果的にそれができたりできなかったりして、うまくできれば成功したように思われ、うまくいかなければ失敗したようにも思われ、それが場合によって優先事項を見誤ったから失敗したようにも思われるなら、そこで優先して行うべきことが何だったのかが、後からわかることになるのだろうが、それもその失敗した時点でそう思われることであり、そこからまたしばらく間をおいて改めて考えてみれば、その時点での失敗も後々活かされるような成り行きを経験するかもしれないし、実際にそれを経験してみれば、その場ではうまくいかずに失敗したことで、そうした失敗を教訓として活かすことができたように思われてくれば、それも通らなければならなかった迂回であり、やはりその場で優先すべきは安易にうまくいって成功することではなく、うまくいかずに失敗することで、それを反省して教訓として活かすことだったと認識できるわけで、それもその人がやってきたことの正当化でしかないわけだが、そういう正当化ができるということは、確かに途中の一時期はうまくいかなかったにしても、結果的にはそれが糧となって成功したように思われるからだろうし、そういう意味ではその時点で何が優先すべきことだと思われるにしても、優先すべきことだからやらなければならないと態度を決めて行なった結果として、それがうまくいったりいかなかったりすることが、その人にとっては他では得難い貴重な経験になるわけで、たとえ他の人にとってはどうでもいいことでしかないかもしれないが、それがその人が生きている実感をもたらすわけだから、そういう実感をもたらすようなことを行うことが、その人にとっての優先すべきことのように思われてしまうわけで、そうであるならそうやってもたらされた経験が、その人自身の存在そのものを構成するような内容となるのかもしれず、そうした経験を積み重ねながら前向きに生きているように思われるから、やはりそこで自分にとって優先すべきことを行なっているような気になるのかもしれず、別にそれが勘違いであろうと、全く見当外れなことをやっているとしても、将来においてその時の経験が活きてくるような予感がすれば、他から何を言われようと小馬鹿にされようと、それを是が非でもやり通さなければならない使命感なども芽生えてくるだろうし、そのやっている内容ややり方がいかにひどくてずさんなものであろうと、そういった使命感を抱きながら何かを行なっている人を止めるのは難しいだろうし、たぶん人はそうやって無根拠な思い込みとともにいくらでも過ちを犯してしまう傾向があるのかもしれないし、またいくら過ちを犯しても他に危害が及ばない限りは放って置かれるだろうし、そういう他から見ればどうでもよくてたわいないことを必死になって行なっている状況というのも、結構世の中では多く見受けられることかもしれないし、そんなことがあちらこちらで行われている状況を全体的に眺めれば、それらが他の何にも増して優先して行われるべきことだとは到底思えないわけだが、やはりそれはそういうことを行なっている当事者になってみれば、必死になって全知全霊を傾けて行わなければならない最優先事項のように思われてしまうのではないか。


7月13日「新たな行為」

 どのようなことをやろうとしても、一人でやれることは限られているが、集団で組織的にやろうとしても、その集団を組織すること自体が、個人の力ではなかなかできないことだろうし、そういう意味でも社会の中で活動するには、人と人との連携や協力が欠かせないわけだが、制度的にも連携や協力し合うための仕組みがあれば、その制度を利用することで集団が組織的に連携や協力するような成り行きになるわけだろうが、具体的にはそれが行政から生じる制度であったり、企業から生じる制度であったりするわけで、行政から生じる制度は税金を徴収することによって成り立ち、企業から生じる制度は物や情報やサービスなどの売買から成り立っているわけだが、どちらも金銭が絡んでくる制度であるから、経済活動が絡んでくるわけだが、そこから功利的な利益の追及が行われて、それに伴って利益を得る見込みのない行為がなおざりにされる傾向も出てきて、そこで直接の利害とは異なる倫理的な価値観が問われるわけだが、果たして金銭的な利害と倫理的な価値観をどう調整すればいいかとなると、にわかには納得できるような調整法を思いつけないのかもしれないが、金銭的な利害にしても倫理的な価値観にしても、社会規範のような誰もが共有しているはずの価値基準から生じていて、徴税も売買もそのような行為をやって当然のように思われて、極めて自然な行為に感じられるから、それ自体の是非を問うようなことにはならないわけで、少なくともそういう行為を受け入れた上で、徴税に関しては公平な負担になるようにするのが倫理的な配慮であり、また売買に関してもそこからどれほどの利益を得ようとすることが倫理的に許されるかが問われているだろうし、そうなるとそれらは相対的な行為となってしまい、徴税や売買が否定的な行為とは認識されないわけだが、むしろ生きるためには必要なことだと捉えれば、例えば狩猟採集民が自然から獲物を狩るように、徴税に関しては統治している民衆から稼ぎのうわまえを跳ねるように税を取り立て、売買に関しては物や情報やサービスと金銭との交換の中で余計に金銭をせしめるような行為となるだろうし、そこで倫理的な見地から妥当な許される範囲内に税や利益を設定しようとすれば、狩猟採集民が自然から獲物を狩り過ぎて、自然環境そのものが破壊されない範囲内での収穫量が定まるように、徴税に関しても税を取り立て過ぎて、そこに暮らしている住民が疲弊して住んでいる土地を放棄しかねない範囲内での徴収額になるだろうし、また売買に関しても特定の産業分野で利益を搾り取り過ぎて、別の産業分野で利益が出なくなるようなことが起こらない範囲内で利益を得るようなことになるのかもしれず、果たしてそんなことが可能かというと、徴税に関してはある程度は徴税制度を管理運営している政府内で調整可能であるが、売買に関しては市場の自動調整機能に委ねられている面もあるから、人為的な調整ではうまく行かない可能性があるだろうし、その結果として景気循環が起こったり、特定の産業分野に著しく利益が偏るとともに、別の産業分野ではなかなか満足できるような利益が得られない構造となってしまうだろうし、もちろん同じ産業分野内でも競争があるから、利益を得られている業者と得られていない業者との間でそれなりの格差が出てくるだろうし、一般的には同じ産業分野内で覇権を確立した少数の企業に優先的に利益がもたらされて、その他の従属的な企業にはかろうじて活動が成り立つほどの収益しかもたらされない傾向もあるだろうし、さらに業界内で覇権的な立場を確立した企業の創業者などにも莫大な富がもたらされるわけだが、そういった利益が出ている産業分野や業界内で覇権を確立した企業などに対して課税を強化することによって、バランスを取ろうとする試みも行われているだろうが、その一方で政府が産業分野や企業などの国際的な競争力を重視するなら、そうした分野や企業にあまりにも課税しすぎて、国際的な競争力を失って国内経済が失速してしまうとまずいわけだから、逆に税制の面でも優遇してそうした分野や企業のさらなる成長を促すような政策になる傾向もあるわけで、そういうところで徴税の公平性ということが、どのような水準で公平化を図るかに関しては、微妙な問題が絡んできて、単純な理屈や論理ではうまくいかないだろうし、そう行った方面からの支持や賛同を得られにくい面もあるわけだが、徴税と売買の次元で倫理的な効果を出そうとしてもそれなりに制約が出てくるわけで、そういった面での功利性と相殺するような行為が必要となるなら、それが無償の贈与になるわけだが、それを全面的にやってしまうと、徴税や売買の理屈や論理が成り立たなくなってしまうだろうし、果たして同じ次元で両者が共存できるのか疑問に感じられるだろうが、現状でも遺産の相続などに関しては慣習としても法律的にも認められているわけだが、あとは寄付とかも普通に行われている行為であるが、それらは徴税や売買と競合しない範囲内で是認されていることであり、そのような行為だけで単独で成り立つわけではなく、遺産の相続などに関しても売買などの経済行為によって富を蓄積したから、それが相続の対象となったわけで、また相続するにも相続税がかかってくるから、結局はそこには売買や徴税が絡みついてくるのであり、そうなっているからそれなりに是認されている面もあるのかもしれないが、そこから人為的に贈与の分野で新たな行為を付け加えられるかとなると、それがどのような行為になるかは現状では皆目見当がつかないかもしれないが、それも今後において必要に応じて出てくるような行為となるのかもしれず、それに関しては現状で進んでいる経済行為の行き過ぎが、何らかの事態を引き起こす可能性はあるだろうし、また様々な物事が社会の中で循環していることも確かなのだから、それらのどこかで行き過ぎが生じれば、それに対する揺り戻しが起こるのはよくあることだろうし、過剰な富の蓄積がある時いっぺんに無に帰すような事件が起こるかもしれないし、また誰にも気づかないところでそういう成り行きが徐々に進行中かもしれないし、それがたとえ現状では認められないような行為であろうと、次第に認められるような行為になって行く可能性もあるだろうし、そういうところが現状で成り立っている行為だけに目を向けていると、意外と気づかないのかもしれない。


7月12日「関係の牢獄」

 自分に正直になれるなら、他人にも正直になれるかというと、実態としてはそうはならず、自分に正直になれるということは、自分が抱く欲望に対して正直に振る舞うことになり、そんな欲望を成就する目的で、他人には嘘をついたりごまかしたりすることになるかもしれないし、また逆に他人に対して正直になれる時には、自分の率直な気持ちを包み隠さず他人に告白してしまうから、それが他人の気に触ることであれば嫌われてしまうだろうし、実際に嫌われてしまえば反省して、今度は他人から良く思われようと思うことが正直な気持ちになり、そうなると他人から好印象を抱かれるように振る舞おうとして、そんな演技の中では場合によっては嘘やごまかしを駆使してでも、他人から好かれようとするだろうし、そうやって自分に対して正直になれる時には、他人には正直になれないことにもなるわけで、また他人に対して正直になれる時には、自分に正直な欲望を断念しなければならない場合もあり、どちらにしても自己と他者との関係の中でお互いに正直に振る舞うのは容易なことではなく、さらにそこに利害関係が絡んでくると、さらなる騙し合いに発展する場合もあるだろうし、そんなふうにしてお互いに都合のいいことばかり言っているうちに相手が信用できなくなってくれば、喧嘩別れになるのはいい方で、経済的な要因などから別れられない事情が生じてくれば、表面上は和気藹々と振る舞っているように見せかけながらも、裏に回れば相手の陰口を叩き合っているような陰湿な状況になってしまう場合もあり、そんな状況の中ではお互いに相手に対して正直になれない関係となって、そんな関係を長年にわたって腐れ縁のように続けていると、否定的な感情が蓄積していって、それが限界を迎えると、いつ不満が爆発してもおかしくない一触即発な状況となってしまう場合もあるだろうが、大抵の場合は、お互いの好きな面も嫌いな面も良い面も悪い面も素直に受け止めて、許し合うような仲になることもあるだろうし、そうなれば正直になれようがなれまいが、そんなことは問題とはならなくなってしまい、良くも悪くも安定した関係になってしまうのかもしれないが、そうなるとそこでは何よりも関係を壊さないことが優先されて、それに比べれば少々の嘘やごまかしなどは大目に見られてしまうのかもしれないし、そんなのは関係を維持するための潤滑剤に過ぎなくなってしまうのかもしれないが、そんな関係の中では利害に関して妥協が成り立っていて、他にも様々な面で調整されているのかもしれず、それがなあなあの関係だと言えるのかもしれないが、そういう馴れ合いとかもたれ合いが生じている関係の内部では、関係の外では通用しないような不正な行為が通用している可能性もあり、要するにそれが談合体質なのかもしれないし、異質な他者を排除して、同質な者同士で利害を共有しているわけだが、そうした利害自体も大して重要視されているわけではなく、確かに関係を維持する理由として利害の共有があるにしても、大事なのはあくまでも関係の維持の方であり、たとえ大して利益を得られなくても、なぜか関係を維持すること自体が目的化しているわけで、そのうち関係を維持するためには少々の犠牲を厭わないような意識も生まれてきて、外部から見れば利益を得られていないどころか、自由がなく虐げられて束縛された状態であるのに、それでもそこから離れられない精神状態となっていることが奇異に感じられるかもしれないが、見捨てられて路頭に迷うぐらいなら、むしろ牢獄の中で不自由な生活を送っている方が安心できるのかもしれないし、そんなふうにして何らかの関係の内部で家畜のような状態となってしまった人には、自分が置かれた状況というのが、それ以上は良くなる可能性のない状態となっているのかもしれず、そういう人にとっては、主体的に自由を求めて束縛関係からの離脱を試みようとする人の方がおかしいと思われるのかもしれず、無駄な悪あがきにしか見えないのかもしれないが、そのどちらが正しくてどちらが間違っているということではなく、ただ単にどちらかになってしまう可能性があって、またどちらとも言えないような立場にもなれるのかもしれず、束縛された関係の中で安住しているつもりの人にとっては、そこがその人の分相応な居場所であるだろうが、そこから自由を求めて離脱しようとしている人にとっては、そこは退屈で死にそうな場所に感じられるのかもしれないが、また最初からそこから外れている人にとっては、ただの無関係な場所でしかないのかもしれないし、果たして最初から外れている状態があり得るのかと言えば、そうした関係を築けない人は、否応なく外れているわけで、関係に関して無頓着な人というのも存在する余地があれば、実際にそういった人が大勢存在している社会というのもあるだろうし、それに関して人と濃密な関係を築けないということは、他人のやっていることに共感できない体質だと言えるのかもしれず、実際に共感できなくても不都合がなければ、それで構わないわけだが、少なくともそういう人は大勢で行う共同作業には向いていないだろうし、実際に孤独に生きている人の中には、そういう人が少なからずいるのかもしれないが、それが自由な状態なのかと言えば、たぶん自由でも不自由でもなく、そもそも自由と不自由の対比が成り立たないのかもしれないのだが、では自由を求める人は、なぜそれを意識できるのかと言うと、不自由な境遇を経験しているから、しかもその不自由な境遇が不快でたまらないから、その反動で自由な状態を夢想するわけで、そんな人にとっては不自由な状態から離脱できれば、それが自由な状態だと思われるだろうし、実際に離脱できれば自由を実感できるわけだろうが、初めから不自由を実感できなければ、自由を求めようとはしないだろうし、現状の不自由な境遇でさえも、それが当たり前の状態であり、中にはそれさえも自覚できない人もいるだろうし、そんな人は不自由な牢獄の中でも大して不満を感じていないだろうし、逆に自由を求めて牢獄の外に出ようする人たちの足を引っ張って引き戻そうともしているのかもしれない。


7月11日「肯定する力」

 たぶん他人を思いやる余裕があれば、それだけ利己的な意識から離れられるかもしれないが、その他人というのが嫌いな人だと、思いやるどころか不幸になってほしいとさえ思う場合もあるかもしれないし、結局自身にとって都合のいい他人は思いやることができるかもしれないが、都合の悪い他人を思いやることができないとなると、それこそ利己的な意識そのものとなってしまうわけだが、思いやるだけで何もしなければ、心の中で思いやっているだけで、思いやる対象となっている人にとっては、何のメリットもないように思われるかもしれないが、少なくとも思いやっている限りで、直接の意地悪や嫌がらせなどの攻撃がないだけでも、マシだと思うしかないのかもしれないが、逆に思いやる心などひとかけらもないどころか、逆に悪口や嫌がらせなどを仕掛けてくる相手を思いやることができるかとなると、たぶんそんな人を思いやることが肝要なのかもしれず、それも何か別の魂胆があって思いやるのではなく、たとえひどい人であっても心の底から思いやることで、その人に対して憎悪の感情が芽生えないことが精神衛生上好ましいのかもしれず、それも自分のために他人を思いやるという利己的な思いの一種かもしれないが、実際にそうなればお互いに攻撃の応酬とはならないだろうし、自分から仕掛けない分だけ無駄な労力を使わずに済むから、身体の面でもそれなりにダメージが少なくなるのかもしれず、そうやって物事をできるだけ良い方向へと持って行こうとすれば、世の中の傾向を否定的に捉える意識からは脱却できるのではないか。そこでなぜ世の中の傾向や動向を否定的に捉えることがいけないのかといえば、否定的に捉える方が楽だからというと、何が楽なのかにわかにはわからないかもしれないが、要するに自分の思い通りにいかない面は、気に入らないから誰もが否定的に捉えたいわけで、またそれを否定してしまうと、常に自分が悪いのではなく、相手が悪いのであり、またそんな相手を含んだ世の中が悪いということは、比較的簡単に言えることであり、そうやって対象を否定することによって自己満足に浸れるのかもしれないが、ではそれを肯定してしまうと自己満足に浸れないのかというと、思い通りにいかない面を肯定することは、自分に足りない面があるから思い通りにいかないと解釈することもできるわけで、そうであるなら自分の方が至らないのだから、何かもっと研鑽を積んで精進して、満足できる自分に持っていこうとするだろうし、それだけ積極的に活動することになるわけで、そういう意味で、何か気に入らないことがあっても、それを否定せずに、そこから何か肯定的な面を掴み取ろうとすれば、否定的に捉えてそのままとなるよりは、そんな現状よりも良く見える可能性があると言えるのではないか。そして現状を否定的に捉えて、このままではだめだから改善しなければならないというよりは、だめなのではなく、だめとは判断せずに、そこにも肯定的な面があるはずであり、それを探し出そうとすれば、探しているうちに、それまでには見えてこなかった面が見えてくるようなら、安易に否定せずに探してみた甲斐があったことになるのかもしれず、そうなれば結果的にだめと決めつけて否定するのとは違うやり方を模索できたことになるわけで、そうやって物事を肯定的に捉える習慣が身につけば、否定してあきらめる手前で踏みとどまることができるだろうし、たとえどんなにひどい人がひどいことをやっているように見えても、そのやっていることを成り立たせている要因があり、そこにはその人だけでなく、その人と関係している人や団体の行為や活動もあるわけで、そうした様々な行為や活動との連携の中で、その人の行為や活動も成り立っているとすれば、それが成り立っていること自体は肯定しないとならないだろうし、それまで否定してしまったら、その人の行為や活動が成り立っていること自体の肯定性との間で矛盾が生じてしまい、その矛盾をごまかすために、それを否定する言説の中にフィクションが入り込んできて、言説自体の信憑性が怪しくなってくれば、それに気づいた他人から信用されなくなってくるだろうし、そういうところで何かと他人の行為や活動を全否定してしまう言説のフィクション性があらわとなってくるのかもしれず、全否定という奥行きのない構図は、確かにわかりやすいし、そんなことを主張する人と一緒になって気に入らない物事を全否定していれば、それ以上考える必要がなくなって、楽になってしまい、物事の微妙な面を見極めようとして、研鑽を積んだり精進するような成り行きにはならなくなるだろうし、それが娯楽として単純明快なフィクションを求める傾向とも重なって、否定する手前で踏みとどまるような動作をもたらせなくなってしまうわけで、そうやって物事の単純な解釈に依存してしまうと、実際にはそれでは済まなくなってくるわけで、要するに誰からも否定されるようなひどい活動が成り立っている事実をうまく説明できなくなってしまい、何やら悪い人たちが悪事を働いているような単純化された解釈になってしまうわけだが、そういう言説のフィクション化を回避するには、まずはそういうひどいことをやっている人たちのことを思いやって、そういう状況をもたらしている原因を探るとともに、どのようにしてそういう行為や活動が行われているかを説明しようとしなければならないだろうし、それを説明しようとすることによって、説明に使う材料をあれこれと探す成り行きになって、そうした成り行きの中で、ひどいことをやらざるを得ないような理由や原因も導き出されてくるわけだが、中には理由や原因とは無関係な動作も得られるのかもしれず、それが行為や活動を肯定する動作であり、肯定するのに必要な力も出てくるわけで、その力を引き出すのがそれらの行為や活動を肯定しようとする意識であり、それがそんなことをやっているひどい人たちを思いやる心なのかもしれないが、またそれがその人たちがそんなことをやっているおかげで、それを肯定的に捉える自らはそんなことをやらなくても構わないような境遇でいられるのかもしれず、それとは逆に実際にそれを全否定するような人たちには、そういう行為や活動が回りに回って、ある時立場が変わってみれば、かつてそういうことを全否定していた人たちが、知らない間にその人たちも自分たちが否定していたことをやらざるを得ない立場に追い込まれているわけで、しかもそんなことをやっている人たちにはその自覚がない場合もあるわけだ。


7月10日「現状を変更するには」

 別に立派な見識と人格を兼ね備えた人が政治家になるとは限らないのは当然のことだが、それよりはどこにでもいそうな月並みな見識と人格を併せ持ったありふれた人が政治家になることの方が、選挙に関する制度的な成り行きとしてはそうなる可能性が高いだろうし、実際にそういう人が政治家となっている現実があるのかもしれないが、それで構わないような政治的な制度となっていることも事実としてあるだろうし、選挙で人を選ぶ判断基準としては、立候補者が立派な見識と人格を兼ね備えていようといまいと、それだけが投票の際の判断材料となるわけではないこともわかりきっているし、確かにイメージとしては政治家の見識や人格を問うような傾向があるとしても、それはその人の見識や人格を疑われるような不祥事を起こした際に問われることであり、そうでなければ普段からそういう方面で何を言われることもないし、それはその程度のことでしかないわけだが、それ以外で何が問われているかとなると、政治家なら政策の中身だろうし、それもメディア上で問題視されているようなありふれたことに関する意見程度のことでしかない場合もあるわけだが、他に何かこれといってその人に特有な意見とか主張があるとしても、それは他の民衆にとっても切実なことでないと、なかなか民衆からの支持や賛同は得られないだろうし、そういう意味では広く民衆と共有できるような政策を掲げないと、政治家としての役目を果たせないことになってしまうわけだが、いくら民衆から支持や賛同を得られるような政策を掲げても、それを実行できないようだと、やはり政治家としての役目を果たせないだろうし、そうなると結局は、政策を実行できるような立場になることを目指すような成り行きになるだろうし、またそうやって目的を遂行するには、政権与党に入ったり、与党になりそうな政党に入党するのが近道となるわけだが、そういった事情を考慮しないで、政権与党や与党になりそうな政党を目の敵のように批判するだけの立場になってしまうと、政策実現能力がないかのように見られてしまうし、また政権与党や与党になりそうな政党に関しても、そういった批判をされて当然の事情を抱えている面もあるだろうし、どちらにしても、批判されて当然だが、その代わりにそれなりに政策実現能力がある勢力と、政策実現能力はないが、いくらでも批判することが可能な勢力とに、役割分担が固定化されているところが、現状の日本では問題となっているわけで、それに関して理想を言うなら、どのような政治勢力でも政策を実行できるような制度にしていけば、政治的な方面での不具合が解消されるのかもしれないが、それは制度的な問題以前に、個々の政策が互いに相容れない面もあるだろうし、ある政策を実行しようとすれば、別の政策がその政策を実行を妨げる障害となっていれば、様々な政策の中で実行することが比較的容易な政策と、他の政策との兼ね合いから実行することが困難な政策とがあることにもなるだろうし、そうなるとそれらの政策の中でどの政策を優先して実行すべきかを、各政策を掲げている勢力同士で話し合って調整しなければならなくなり、そういうことを行う場が議会であるはずだが、議会がそういうことを行う上でまともに機能しているかとなると、政策を実行する側とそれと批判する側とに役割分担が固定化されている限りで、各政策を調整する機能が果たせていないことにもなるだろうが、それはメディアの伝え方にもよる面もあって、実際にはそれなりに議会内で調整が行われて、様々な勢力の意見を加味した政策を実行するための法案が成立することもあるわけだが、そういうのは各勢力の間で対立する要素の比較的少ない面のある政策になるだろうし、そうではなく調整が困難な政策があるとすれば、選挙でどのような政策を掲げている勢力に投票するかに関して、民衆の側に選択が迫られるわけだろうが、実際に選挙での争点がそういうことでしかなければ、単純に実行してほしい政策を掲げている政治勢力に投票するような成り行きになるはずかもしれないが、そういう成り行きに持っていかれると困る勢力があれば、他にも自らの勢力が有利になるようなことを争点として打ち出してくる場合もあるだろうが、そういうことも含めて民衆の側が選挙の際にどの勢力へ投票するかを判断すればいいわけだろうが、その結果としてどのような勢力が政治的な主導権を握るにしても、それ自体が過渡的で相対的な出来事や現象とみなしておいた方がいいのかもしれないし、それとは違う特定の政治勢力が長期間にわたって主導権を握るような定常的な状態を望んで、どのような勢力でなければならないという固定観念を抱いてしまうと、そこで状況の固定化が起こって、政策を実行する側とそれを批判する側という役割分担を強いるような成り行きになってしまうわけで、そうなるとそれに伴って主導権を握っている側も、主導権を手放したくはないから、何やら政権担当能力などという根拠の定かでない幻想をふりまいて、それに関してもっともらしい理屈を並べるようなことも行われて、民衆の側がそれを信じて真に受けてしまうと、政治的な状況の停滞を招くわけだろうが、たぶんそういうところで民衆の側に事を大げさに捉えすぎる傾向があるのかもしれず、政治的な政策というのは、その制度的な手続きや手順に従って、それなりに変更や改善ができる仕組みになっているのだから、それに伴って政治勢力の側でも、どのような変更や改善をするかに関して方針を調整するのに伴って、離合集散が頻繁に起こっても構わないだろうし、そこであまりにも現状で成り立っている秩序が壊れるのを恐れて、定常状態の安定化を望んでも、そこで有利な立場と不利な立場が固定化して、それらの間で格差が広がると同時に、構造的にも老朽化や腐敗を招くだろうし、そういう傾向が目立ってきたら、民衆の側で主導権を握っている勢力の交代を促さないと、いつまで経っても状況の固定化から抜け出せなくなってしまうわけで、要するに現状の変化を望むなら、政治勢力の側にではなく、民衆の側が決断が迫られているということを認識すべきなのではないか。


7月9日「勝利のない戦略」

 どのような行為や活動であってもそうなるわけではないだろうが、少なくとも争いや対立などを伴うような場合には、自然とそうなる傾向があるのかもしれないが、そうなった時に戦略的に振る舞うことの意義は、そうすることによって効率よく効果的に目的を遂行して願いを成就できれば、それに越したことはないわけだが、ただの力まかせやその場その時の運まかせや、相手との駆け引きなどの際にもそれなりに経験や勘を頼りにするにしても、それらを効果的に組み合わせることで、戦略的な振る舞いが生じてくるのだろうし、それも簡単に遂行できるものから、それをやり遂げるには大変な困難を伴うものまで色々あるだろうし、またそれに応じて戦略の内容や程度や傾向も異なってくるわけだが、それとは異なる次元で、根本的なところで目的が定かでないのに、それでも戦略的に振る舞うような成り行きがあるとしたら、それがあえて勝とうとしない戦略であり、また積極的に戦おうとしない戦略でもあるかもしれないのだが、それの何が戦略なのかと言えば、普通は戦略的に振る舞うことで戦って勝利を目指す人や勢力に対抗して、それと同じように戦略的に振る舞ってしまえば、それは悪くて戦争、良くて競争にしかならないわけで、そうなると戦って勝利することが目的になってしまうだろうし、それでは従来通りの戦略的な行為の継続にしかならず、それ以外のやり方を模索できないわけだが、果たしてそれ以外のやり方があるのかと言えば、いくらそれを模索しても戦い方のバリエーションが増えるだけで、戦いそのものを回避するような成り行きにはならないのかもしれないが、戦うことを受け入れるならそれ以外のやり方がなくても構わないのかもしれないが、それでもそれ以外のやり方を模索しようとすれば、それがあえて戦おうとも勝とうともしないやり方になるのかもしれず、そうやって戦略的に戦略的な行為に逆らおうとするややこしいやり方がもたらされるのかもしれないが、別にそんなひねくれたことをしないで、素直に戦って勝つことを目指せばいいと思うのかもしれないが、状況的に勝つ必要がなければ戦う必要もないし、また戦う必要がなければ勝つ必要もない場合もあり得るだろうし、そもそも対立や争いは必要に応じて行われることであるから、その必要がない成り行きや状況をもたらせれば、戦うこととも勝つこととも無縁でいられるのかもしれず、それも全く戦いがない状態を人工的にもたらすことは無理だとしても、その程度がなるべく無害と呼べる範囲内にとどまるようなら構わないのかもしれないし、果たしてそんな状況が実現できるのかといえば、現状ではあり得ないように感じられるだろうし、実際に相手に危害や損害を与えるような戦いが行われている限りは、それはただの夢想に過ぎないわけだが、別に実際に行われていることを見習う必要がなければ、それとは違うやり方を模索しようとするだろうし、戦う必要がある人や団体が対立したり争っている一方で、その必要がない人や団体は特に対立も争いもしないわけで、現状ではその二つの状態があって、それが一方の状態だけになることはないだろうし、だからたとえ対立したり争う成り行きに巻き込まれても、そこであえて戦略的に戦おうとも勝とうともしない態度を貫けるかとなると、実際にそういうことを実践してみて、それに少しでも成功すれば、それに関するノウハウが蓄積する可能性が出てくるのかもしれず、それをやろうとする人や団体としてはそうなる可能性を信じて、そういうやり方を模索していくしかないのかもしれないが、現状でそんなことをやっている人や団体が存在するかとなると、皆無ではないかもしれないが、はっきりと意識してそんなことをやっている人はまずいないだろうし、中には何かの加減でそうなってしまう成り行きがもたらされることもあるかもしれないが、そのほとんどは見過ごされているのかもしれず、別にそれでも構わないわけだろうが、特にそれが戦略的なやり方ではなくても、自然な成り行きとしてそうなってしまうなら、それでも構わないだろうし、何かそういうところで意識しないでそうなっていると、誰もそんなことには見向きもないような成り行きになってしまうわけだが、逆にそうなっていることが、そういうことの余地を生じさせる可能性をもたらしているのかもしれず、それに関してはわざと意識してそんなややこしいことをやろうとするよりは、そういうことを意識しなくても自然にできてしまう方が、それだけ無駄な力が入らなくて楽な感じがするわけだが、そういうことに興味を持つ人がいるなら、無理なくできる範囲で部分的にやろうとすればいいわけで、いきなり全面的にやろうとして挫折するよりは、ちょっとずつ戦いとも勝利とも無縁な回り道に迷い込む程度の方が、かえって新鮮な驚きがあるだろうし、そんな余地を心の片隅で意識しておく程度でも、そういう成り行きになるきっかけをうまく捉えられるのかもしれず、それ自体も何が何でもやろうとするようなことではないのかもしれないし、そういったところではっきりとした違いではなく、微妙な濃淡を感じ取れる繊細さも求められてくるだろうし、そうやって徐々に戦略的なわざとらしさから離脱できれば、自然な感覚で戦いとも勝利とも違う方向で活動が成り立つようになるのかもしれず、そうなるにはまずは物事の単純な割り切りとは異なる感性が必要とされるだろうし、そういう面でも現状の中で行われていることに関して、何かそういうことと地続きな面を探すような方向で妥当なやり方を模索することになるのかもしれないが、それに関して少なくとも言えることは、そういうやり方は競争原理に基づいた資本主義的な功利性とは無縁な方向での模索と言えるだろうし、たぶんそういった制度化された争いである競争よりも、さらに高次元で実現しようとする制度的な行為となるとともに、またそれは従来の制度とも重なり合う面もあるのかもしれないが、何らかの方便とは違う、中身のある直接の活動として成り立つようなことになるのかもしれない。


7月8日「批判を駆逐する批判」

 なぜかその場の成り行きに従って動いているつもりが、途中からその場の成り行き自体に疑いを抱くようになってしまうと、いつしか気づかないうちにその場の成り行きに逆らうようになってしまう可能性があり、そうなるとそこで何かと何かの衝突が起こっているのかもしれないが、何と何が衝突しているのかといえば、自意識と自らの動作が衝突している可能性があるだろうし、そこで自らの動作をつかさどっているのが身体の動作であり、しかもなぜか意識と身体が異なる動作を引き起こそうとしていて、なぜそうなってしまうのかといえば、外部からの刺激に操られて意識が反応する一方で、身体の方では自己防衛本能が発動しているのかもしれず、そうやって思考と動作がかみ合わなくなってくるのかもしれないが、そういう場合はどちらを優先させればいいということよりも、身体の動作が自然な成り行きへと導いていく傾向があるのかもしれず、いくら思考を集中させて意識を覚醒させようとしても、自然に眠くなってしまえば、逆らえずに眠ってしまうだろうし、カフェインなどの力を借りて、無理やり意識を活性化させても、そこで無理をすればそれだけ後から来る反動が大きくなるだけで、なかなか意志の力だけで切り抜けられない事態となってくるわけで、実際に無理をしすぎると病気になってしまうし、頑張りすぎて体調を崩して寝込むような成り行きになってしまえば、それだけ激しい消耗を経験したことになるのだろうが、それが度重なると寿命を縮めてしまうだろうし、その辺は意識の方が承知しておかなければならないことであり、そういった意識と身体の間の調整がうまくいかなくなれば、心身ともにおかしくなってしまうわけだろうが、たぶんそうなってしまった人も世の中にはいくらでもいて、外部から加えられるストレスによって心身ともに消耗しきってしまえば、それだけ老化が早まるだろうし、そうなってしまった人は、見た目にもやつれた印象に感じられてしまうわけだが、そうならないためにはどうすればいいかとなると、それはその人が置かれた環境が、その人にストレスを加え続けるような環境であれば、その人の力ではどうしようもない面があるのかもしれないし、そうした自助努力を超える劣悪な環境になってしまうと、その人がどうこうというよりは、公的な制度として統治機構が統治している範囲内では、なるべくそういった劣悪な環境にならないようにしなければならないだろうし、実際に政府などは自らが統治している住民が快適な生活環境の中で過ごしてもらうために、様々な方策を打ち出していかなければならない傾向になっているのかもしれないが、そういうことはそこに住んでいる住民が実感することでもあり、実際ひどい居住環境や労働環境であれば、政府に何とかしてほしいと願う成り行きになってくるのかもしれないし、そういうところで何らかの政治勢力が住民たちの要望を聞いて、それを行政に反映させるように尽力しなければならないのが、民主的な政治制度が目指すところだろうが、中にはそれだけではない実態もあるだろうし、実際に政治勢力が政府の官僚機構や産業界やメディア業界と癒着してしまうのも、よくある成り行きであり、また住民の側でも主義主張や資産格差や職業や年齢などの面で決して一枚岩ではなく、また住民側と政治勢力や官僚機構や産業界やメディア業界とが必ずしも対立しているわけでも敵対関係にあるわけでもない面もあるだろうから、その辺の関係が様々に錯綜していて、その中でも特定の政党や各省庁や内閣府や企業やメディアなどを批判する一方で、それとは別に特定の政党や企業やメディアなどを支持して、それらの勢力のやっていることに賛同するような成り行きもあるわけだから、各々の住民も自分の都合で特定の勢力を批判する一方で、また別の勢力を支持するような事態ともなっているわけだから、そうやって全体としてはそれなりに均衡が取れている面もあって、そうやって様々な人や勢力が別の様々な人や勢力と何らかの関係を持ちながら存在していれば、そこに醸し出されている均衡を崩して社会全体の傾向を変えるには、並大抵の活動からもたらされる作用では、かえって均衡状態に跳ね返されてしまうだろうし、それが実際に特定の人や勢力やメディアが、現状で成り立っている均衡状態の中で主導権を握っている政党や政府や企業やメディアなどの勢力をいくら批判しても、それらの勢力の主導権がほとんど揺るがないことによって示されているわけだが、たぶん別に揺るがなくても構わないのかもしれず、逆にそうした批判は批判として、現状の均衡状態に何らかの形で寄与している面があって、その範囲内で批判が成り立っている状況もあるだろうし、そういう意味では批判も現状を成り立たせる意味では必要だろうし、実際に必要とされている面があるのかもしれないが、ではなぜ必要かといえば、それとは違う批判や提案を駆逐するために必要な面があるだろうし、そこでそういった批判が批判を支持する人や勢力によって安心感を伴って容認されていれば、そうした安心感や批判を容認する姿勢が、現状の均衡状態やそこからもたらされる状況の安定に寄与していると言えるのかもしれないし、逆にそういった均衡状態や安定に寄与しない批判や意見になると、それらの人や勢力などはそういった批判や意見を容認できないだろうし、なぜ容認できないかといえば、それを安心して支持したり賛同するような内容ではないからだろうし、それらの人や勢力などにとっては、そういう批判や意見が広く世間の支持や賛同を集めてしまっては、今までに行ってきた批判が意味をなさなくなってしまうのだろうし、だからそういった容認できない批判や意見は無視するか、無視できなくなれば弾圧するなり抑え込むしかないだろうし、そんなふうに批判勢力でさえもそんな動作に及ぶようなら、少なくともその時点で均衡状態が崩れてきている証拠となるのだが、実際にそういった批判や意見が世の中でどのように作用や影響を及ぼすのかといえば、たぶん現状で成り立っている批判勢力も含めて、全ての勢力の神経を逆撫でして各人の心に突き刺さるような批判や意見になるのかもしれないが、そういった成り行きを空想するのはロマン的な幻想に過ぎないだろうし、実際には誰もが意表を突かれていることに気がついて驚くというよりは、気づかないうちにじわじわと人々の心身を侵食してくるような成り行きがあるのかもしれず、そうやって世の中のほとんどの人の心身や勢力の組織構造を蝕むように作用が及んでくれば、自ずから世の中が変わっていくのだろうが、それは誰にもどんな勢力にも危機的な状況をもたらすかもしれないが、それに気づかないように事態が進展していけば、世の中が変わる可能性が高まるのかもしれない。


7月7日「数千万分の1の権力」

 たぶん政治の領域で世の中のすべての物事が賭けられているわけではないのは、客観的には確かなことであり、そこで主張されている内容も、実際に民衆の支持を得て政治的な主導権を握った勢力が、政府などの官僚機構を利用して行われることも、それが世の中に部分的に作用したり影響を及ぼしたりする程度であることも確かであり、主張としては世の中を変えるために政治を行っているにしても、実際に政治によって世の中が変わるかといえば、状況によっては変わることもあるだろうが、逆にその状況が政治や他の分野に作用や影響を及ぼすことによって、世の中が変わることもあるのかもしれないが、政治的な主張としては世の中を今よりも良くしたいわけだろうし、世の中を良くするにはどうすればいいかという問いに対して、誰もが支持して賛同できるような説得力のある主張をしたいわけだろうが、その一方で、そういった政治的な主張から離れて、世の中の状況に関して客観的に確からしいことを語るとなると、そうやって語られたことに関して民衆がそれを支持したり賛同できるかというと、もしかしたら支持もされないし賛同もされないような内容になってしまう可能性もあるのかもしれず、それに関してはそもそもそういった内容は支持や賛同の対象とはならないのかもしれないし、そういう意味で民衆が支持したり賛同するような主張の内容が、客観的に確からしいのかといえば、それよりは人々に支持や賛同されやすいような幻想を抱かせる主張の内容でないと、支持も賛同も得られないとしたら、そういった主張は客観的に確からしいわけではないのかもしれないし、逆にいくら客観的に確からしい真実を語ったところで、多くの人から支持や賛同を得られるとは限らないのかもしれず、それ以前にどういう判断基準でそれが真実とみなされるかも、はっきりしないところかもしれないわけだが、ともかく政治的な課題としては、客観的に確からしい真実を語ることよりは、世の中を良い方向に変えて行かなければならない、ということであると同時に、民衆に心地よい幻想を抱かせて支持や賛同を得ることも、政治活動に含まれてくるのかもしれず、それが必ずしも客観的に確からしい真実を語ることとは一致しない場合があるのかもしれないわけだが、またそれとともに他と政治的な立場の違いを際立たせる意味で、現状で行われている政治に対して批判的な立場をとって、現状の政治に批判的な人々から支持や賛同を得ようとする思惑もあるわけで、そういう面を考慮すると、現状で何ができるのかがはっきりしないし、実際に行われていることが、現状でできることの一例であるにしても、ではそれ以外はできないのかというと、実際に試してみてできれば、そういうこともできることになるわけだろうが、それが試してみる機会を得るには、民衆の支持を得て選挙で勝利して政治的な主導権を握らないと、試してみることすらできないのかもしれず、そうでなければ現状で政治的な主導権を握っている政治勢力を説得して、それらの勢力の協力を得ながら試すことは、原理上は可能だろうが、実際にはそうことを試そうとする勢力は、現状で政治的な主導権を握っている勢力を批判して、対立して争っているわけだから、現実問題としては無理な面があるのかもしれないわけだが、それが実現できるかどうかは主張している時点ではわからない面もあるだろうし、そうであるからとりあえず何か期待できるような主張内容であれば、そんな主張をしている政治勢力に選挙の際に投票すればいいわけだが、その時点ではわからないとしても、投票したからと言って、その勢力が政治的な主導権を握れる可能性があるかどうかは、それだけでは何とも言えないところだろうし、そういう面を考慮するなら、あまり事態を大げさに捉える必要はないのかもしれず、主張する側は大げさで深刻なことを訴えかけるのかもしれないが、それを受け取る側としては、軽い気持ちで大したことではないと思っておいた方がいいのかもしれず、その辺の落差を意識できれば、おかしなこだわりから脱却できるのかもしれないのだが、そのおかしなこだわりというのは、政治に興味がないから選挙に行かないとか、無関心であることを正当化するとか、与党もダメだが野党もだらしないとか、そういう感覚になるのにはそれなりに納得できるような背景があるにしても、それが軽い気持ちで大したことでなければ、政治に興味があろうとなかろうと、軽い気持ちで適当な候補者に投票しても構わないだろうし、また無関心であれば選挙で投票してはダメだというわけでもないし、与党もダメだが野党もだらしなくても、ダメな与党の候補者に投票してもだらしのない野党の候補者に投票してもどちらでも構わないだろうし、そういうところでおかしな決めつけから生じる先入観に操られてしまっている人がいかに多いかがわかってくるのかもしれないが、選挙で投票すること自体がそんなに大げさなことでも深刻なことでもない状況の中で、だから投票しなくてもいいと決めつけてしまうなら、それはそれでそういうことでしかないわけだが、逆にそんな大げさなことでも深刻なことでもなければ、気軽に投票しても構わないわけで、実現の見込みがあるとは思えなくても、何か面白そうなことを主張している候補者に投票したところで、その人の一票でしかないわけだから、中にはその一票の重みを重く受け止めてしまう人もいることも事実だろうが、軽い気持ちで投票しても一票であることには変わりなく、そういうところで日本では投票しなくても罰則はないわけだから、投票してもしなくてもどちらでも構わないということも当然だとしても、そういうところでもそれを深刻に受け止めないことが肝要なのかもしれないし、ただの投票でしかないことも客観的には確からしいことかもしれず、有権者には一票しか割り当てられていないわけだから、数千万人の有権者がいるとしても、一人ではその数千万分の1でしかないという事実をどう受け止めればいいかとなると、それを誇張したり強調する必要もないだろうし、そのまま受け止めるしかないのかもしれない。


7月6日「伝える側の論理」

 意識が何に興味を持っていても、それが実体を伴った活動に結びつくとは限らないし、ただ心の中で思っているだけでは、何でもないことだと思いたいが、何かを思っていること自体が、外部から何らかの影響を被っていることは確かで、外界で起こっている何らかの出来事に心が反応している可能性があるわけだが、それも自覚なく反応していれば、自分が心の内で勝手に思っていることだと思うかもしれないし、別にそれで構わないわけだが、心の中で思っているだけでも、それは何らかの兆しなのかもしれないし、それでも取り立ててどうということはないと思っているうちは、それ以上の行動を伴わないから、安心感をもたらすのかもしれないし、それが何に対する安心感なのかと言えば、現状が変わらないことに対する安心感なのかもしれないし、そうであれば無意識のうちに世の中の安定を望んでいるのかもしれないが、本当にそれがどうということはないと思っているかというと、内心びくびくしているのかもしれないし、いつ何かのきっかけで、その安心が崩壊して不安に転化するとも限らないと思うなら、すでにその時点で不安を感じているのかもしれないが、それも心の内で思っているだけではどうということはないのかもしれないが、それが身体の動作に表れると、それに気づくと驚くだろうが、気づかなければ何でもないのかもしれないし、それに関して自身が奇行に及んでしまうと、他人からは気を病んでいるようにも感じられるわけだが、奇行に及んでいる人は、自身の異常に気づかない場合が多いだろうし、そういうことを考慮に入れると、人は心の中で思っているだけではなく、絶えずそれが動作となって表れてしまうわけで、ただそれに気づかなければ、何とも思わないだけで、気づいてしまえば驚くしかないのかもしれず、実際に他人の異常な動作には大抵の人は気づくだろうが、自らの異常な動作には気づかないことが多いのかもしれないし、それがはっきりした身体の変調を伴うようなら、嫌でも気づくだろうが、心の変調には気づきづらいのかもしれないし、それを他人から指摘されようものなら、即座に否定して怒り出すこともあるだろうし、普通はあからさまに指摘するのではなく、当人が自覚するように仕向けようとするわけで、だからそれとなく遠回しに間接的に述べてみたりして、なるべく当人を傷つけないように配慮するわけだろうが、中にはそうした配慮に気づいた時でさえ怒り出す人もいるだろうし、要するに何か他人から馬鹿にされているような被害妄想を抱いてしまうわけだから、できれば他人に対してそういう真似はしたくないのかもしれないが、親切心から知らせたい気になることもあるだろうし、その必要が生じたら自身が当人から悪く思われようと、知らせてしまうこともあるわけだが、なぜその必要が生じてしまうかと言えば、その人が異常に気づいて、治療に専念するなりして早く立ち直って良くなってほしいから、あえて悪者になることを厭わずに知らせようとしてしまうのかもしれないが、それが当人にとって良いことなのか悪いことなのかは、当人の受け止め方次第な面もあるだろうし、知らせたおかげで良くなったら、知らせたことが功を奏して良くなったと言えるだろうし、逆に知らせたことでさらに病が悪化すれば、知らせたことがかえって余計なお世話で藪蛇だったことにもなるのかもしれないが、どちらにしても他人に何かを知らせることで、何らかの事態を引き起こしたことになるわけだから、ただ心の中で思っているだけでなく、それを他人に伝えた方が、何らかの効果を期待できる可能性が高まるのかもしれないが、それを良い方の効果が出るように伝えるにはどうすればいいかとなると、何かこれといって方法が確立されているとは思えないわけだが、それなりに工夫を凝らして伝える必要はあるのかもしれないし、そういう配慮を考えずに、あらかさまに真実とみなしたことを述べるだけでは、それを受け止める側の立場を考慮していないことになるだろうし、そういう意味で自分たちの都合でしか物事を伝えられない傾向があると、それを受け止める側の支持を期待できない可能性が出てくるわけで、自分たちは真実を伝えているのだから、それを受け止める側が無関心であれば、悪いのは無関心である方だと思ってしまえば、それで結果的に支持が得られなくても、独善的に居直るような成り行きになってしまうだろうし、そういう成り行きを回避するには、ではどうやれば自分たちの伝えたいことが世の中の幅広い層から支持を得られるのかという問いが出てくるわけだが、そもそも自分たちが伝えたいことと、世の中の幅広い層が知りたいことが異なっていれば、問い自体が愚問になってしまうだろうし、また知りたいことを知ったとしても、それを伝えた側を支持するかとなると、ただ単に知りたかっただけで、知りたいことを知ることと、知りたいことを伝えた側を支持することとは別問題かもしれないし、要するに伝えたいことを伝えたからと言って、伝えた側から支持されるわけでもないわけだが、結果的に伝えたいことを伝えたのに支持を得られなければ、伝えた内容が魅力に乏しいか、内容自体がお粗末な出来だったか、あるいは気に触るようなことを伝えて怒りを買ったのか、他にも色々あるだろうが、それが政治的な主張となると、大抵は都合のいいことばかり伝えようとする姿勢を見透かされている可能性があるだろうし、なぜそういう内容には真実味が欠けているかというと、真実味をもたらす要素が必ずしも良い内容とは限らないわけで、逆にごまかしを疑われたり、嘘をついているように思われる方が、支持者にとっては心強いのかもしれず、嘘やごまかしを利用せざるを得ない状況であることを支持者が気づいてしまうと、余計に助けなければならないと思わせる効果があるのかもしれないし、そうなると見え透いた嘘やごまかし主張するような勢力の方が、熱心な支持者が生じるような逆説的な状況が生まれる場合もあるのかもしれないが、しかも敵対する勢力に向かってあからさまにわざとこれ見よがしに嘘やごまかしを言い放つことが、敵対勢力への効果的な攻撃と受け取られてしまう場合さえあるだろうし、そういう意味でも倫理観の欠如した功利主義がはびこる世の中では、まともな主張が通用しない状況となっているのかもしれない。


7月5日「幻想としての功利性」

 世の中に存在する物事の何が正しくて何が間違っているかを決めるには、正しいと思っている物事への信頼や信仰が不可欠かもしれないが、別に何が正しいかを決めなくても構わないような状況の中では、特に何を信じなくても構わないような場合があるのかもしれないし、そんなふうに正しいと思う物事を信頼したり信仰するのとは無縁な心境に至ることができれば、あらゆる束縛から自由になれるわけでもないだろうが、物質的には何らかの束縛を受けるにしても、精神的には自由な心境になれるだろうし、その精神的な自由が幻想に過ぎないとしても、また実質的には精神的に自由な状態を信仰していて、自由によって心を束縛されているとしても、さらに自由を感じられる心境になれることこそが正しい精神状態だと思い込んでいても、そうなっていること自体が他の束縛から解放された状態だと思いたいのかもしれないし、それが間違った認識であることに気づかなくても、取り立てて不都合は感じられないのかもしれないが、自分で勝手にそう思っている限りでは、それが取り立ててどうということはないわけだが、そこで問題となってくることがあるとすれば、他人がそれをどう思うかだろうが、そうであっても他人がどう思おうと構わないような立場でいられたら、例えばそれが他人から相手にされずに無視されるような立場であったり、あるいは他人を黙らせるような権力を持っていたり、そのどちらであっても構わないのかもしれないが、そのどちらでもなければ、それなりに自分についての他人の言動を気にするような立場になるのかもしれないが、それが単なる心理的な状況ではなく、その人の活動が実利を伴っているようなら、経済的な利害関係を他の人や団体と結んでいる場合があるだろうし、それ以外でも家族や交友などの関係もあるが、そういった様々な社会的な関係の中では、自身の思惑というよりは、自身に関わりのある人や団体の意向に合わせた活動を行わざるを得ないことも多いのかもしれず、それも関係する人や団体と共同作業をやる範囲内で行われることだろうが、そういう場合は関係する他の人や団体から了解を取り付けてから、目的の作業を行うことになるだろうし、そういうことを行う際には、自らの意向と了解を取り付けようとする他人や団体の意向を調整して、普通は双方が許容できる範囲内のことを行う成り行きになるわけだが、そこから外れたことをやってしまうと、双方の信頼関係が崩れて、その程度によってはもめたりして関係がこじれてしまうわけで、そして最悪の場合は喧嘩別れのようになって、関係を解消するような成り行きになるだろうし、それが関係を継続しようとする思惑がある側にとっては最悪の結果といえるだろうが、逆に別れたがっている側にとっては最悪でも何でもなく、むしろ好都合であり望むところでしかないわけだが、そんなふうにして、その場の状況次第で、あるいは関係者の思惑や行為によっては、利害調整がうまくいかずに関係が壊れてしまう場合もあるだろうし、また利害とは別の面でもうまくいったりいかなかったりすることもあるのかもしれないが、そうなった結果としてどうなったかではなく、人や団体との継続中の関係の中で、何をどう進めるかを巡って、互いに了解を得ようとする成り行きがあるわけで、それに関してはそこで話し合いが行われたり、交渉や取引が行われる成り行きがあるわけだが、そういった成り行きの中で、自らや自分が属する陣営を有利に導くために戦略的な交渉術などが駆使されて、功利的な観点から様々な術策が用いられる場合もあるわけだが、そうしたことの良し悪しとは別に、そこで何かしら討議や協議が行われること自体は、そこで直接の作業とは異なる次元で話し合いなどの共同行為が行われている証しとなるわけだが、なぜそれが行われるのかといえば、話し合いが行われている時点では、直接の作業を一旦は停止させて、これから作業をどう進めるかを巡って調整が行われる必要があるからであり、それが普通は利害調整と見られることが多いのかもしれないが、中にはそれとは違う場合もあるのかもしれず、実際に直接の作業を伴わないような話し合いのための話し合いのようなことも行われる場合もあるわけで、そういうのは見世物としての見せかけの話し合いである場合もあるだろうし、実質的には何も決められないのに、何かやっているように見せかけるためのパフォーマンスのような話し合いがあるわけで、なぜそんな無駄に思われるような手間暇をかける必要があるのかといえば、そこには気休め的な意味合いや世間の注目を集めるためのイベントとして成り立つような場合もあるだろうし、ではなぜ世間の注目を集めなければならないのかといえば、そこで話し合いに参加している人たちの世間体や体面を保つには、定期的にそんなイベントを行う必要が出てくるからかもしれないが、それも功利的な観点から判断されるようなことだろうし、それ以外の意味や意義がないのかとなれば、そういった話し合いが行われている光景を一般の人々に観せることに意味や意義が生じる場合があるわけで、そういう傾向のイベントは政治的な会議であることが多く、それが公的な行事だから公開の場で話し合いが行われ、それを主にメディアを通じて一般の人々に観せているわけだが、そういうところからも信頼や信仰などの幻想が生まれるだろうし、そこで話し合っているどちらが正しくてどちらが間違っているかを決めるのも、そこに参加している人への信頼や信仰に負っている面があるわけだが、そういった幻想としての信頼や信仰ではなく、論理や理屈を伴った正誤であれば、論理的に正しかったり理屈が間違っていたりすれば、そこで正しいか間違っているかを決められると思ってしまうわけだが、それが誤解を生む原因となっているのかもしれず、述べていることの論理や理屈が正しかったり間違っていたりする次元と、信頼や信仰の次元が離れていれば、論理や理屈の正しさが通用しなくなってしまい、たとえ論理的にも理屈の上でも間違っていたり誤っていることを述べている人たちが、別の面で信頼や信仰を勝ち取っている現状があれば、やはりそこにあるのは功利的な幻想であり、そういった幻想に囚われている人たちが論理的にも理屈の上でも間違っている勢力に信頼や信仰を寄せている面があるのかもしれない。


7月4日「リベラル的な進歩主義の宿命」

 人の動作や行動や活動には論理的に考えても理屈に合わないことがあるのかもしれず、それが妥当に思われる時には、理屈や論理とは違う方面からバイアスがかかっている場合があるわけで、それが偏見という意味合いを持つと、例えば伝統的価値観とか、社会規範や慣習から、そういう習慣的な行為に基づいて当然と思われるような動作や行動や活動がそれに当たる場合があるわけだが、外部の人にはそう見えても、内部の人にとってはそれが当たり前のことのように思われるわけで、そういった偏見を偏見とは思わないような動作は、他にも民族意識や国民意識などの感情の高まりから生じることもあるだろうし、そういう場合は偏見というよりは衝動的な動作となるのかもしれないが、それと似た面があるにしても、伝統的な価値観や社会的な慣習から生じる動作には、部族的な利害関係の固定化という面があるのかもしれず、たとえそれが不合理な動作を伴っているとしても、それを共有することによって部族としての団結を誇示しようとするわけで、もちろんそれによって他の部族との違いを確認したいだろうし、自分たちの部族には他の部族にはない固有の価値観に基づいた伝統があることを誇りに思うような成り行きになるわけだが、部外者からすればそれがどう見ても不合理な動作を含んでいるとしても、それを共有できる人が同じ部族の一員として認められるわけだろうし、そのような動作の不合理性を指摘されると内政干渉のような反発を受けるだろうし、我々には我々のやり方があるのに、それを認めないどころか、逆にその動作をやめろと言ってくるような人は、もはや仲間とは認められず、場合によっては敵とみなさなければならないわけだが、たぶん単純に考えればその通りかもしれないが、心の中ではそう思っているのかもしれないが、実際の反発の仕方はそうではないだろうし、それとは別の枝葉末節なことを理由にして反発してくる場合があるだろうし、そういうことを言ってくるから信用できないわけではなく、例えばそれとは別に同胞の裏切り者だから信用できないとか、外国の手先だから信用できないとか、そして裏切り者である理由とか、外国の手先である証拠とかをでっち上げてくる場合もあるだろうし、そうやって何とかそこから争点を逸らそうとしてくるわけで、そうやって不合理な伝統を守ろうとすること自体も不合理かもしれないが、仲間内ではそれがまかり通ってしまうわけだから、何かそういうところで、不合理な屁理屈をこねてまで守り抜かなければならない価値観に囚われた精神の類いに支配されているとしか言えないのかもしれないが、それが宗教的な精神なのか国家的な精神なのか民族的な精神なのかは、どうとでも言えることかもしれないが、それを幻想と言ってしまえば身も蓋も無いわけだが、その一方で、そういった不合理な慣習を指摘して、それを頑なに守り抜こうとする勢力を批判する側も、その大半は教条主義的な紋切り型に囚われたことしか言えないだろうし、そういうところで不合理な伝統を守ろうとする側とそれをやめさせて進歩的な改革を目指すリベラル勢力が対立するのは、予定調和の成り行きとなってしまうわけだが、不合理な伝統を守ろうとする勢力にとっては、それが民族的・宗教的・国家的なアイデンティティをもたらしているように思われてしまうわけだから、もちろん直接そんなことを思っている自覚はなく、それを頑なに守り通そうとする態度で示されていることでしかなく、それが無意識の動作になっているわけだから、そうなった経緯は省略されて、原因と結果が短絡されているわけで、そうなるともはや守る理由など問題とはならず、そういった動作の不合理性なども問題とはなりようがなく、それを守り通すことが自分たちの存在の証しのような思い込みに支配されているわけで、さらにそれも自覚がないわけだから、どうにもこうにも説得しようがないわけで、何を言われても、すぐにそこから争点をずらして、それとは別の枝葉末節なことを問題視するような袋小路に持って行こうとするわけだから、そういう面では物事の合理性を追求する教条主義者にはお手上げかもしれないし、そして対立しているという現実ですらが、また自分たちの敵と対立して戦うことで、自分たちの勢力の存在意義を確認するための活動になっているわけで、しかも敵と対立すればするほど自分たちの勢力の団結力を誇示する絶好の機会になってくるだろうし、どうやってもそれ以上の進展は望めないのかもしれないが、そこで対立を強めるのではなく、コミュニケーションを試みるしかないのかもしれないし、そうやって対立から対話へと絶えず働きかけを行いながら、対立しようとする意図や思惑をはぐらかすような動作が求められるのかもしれず、そんなふうに辛抱強く根気強く対話する成り行きへと持って行こうとすれば、もちろん相手側も争点をはぐらかしながら、屁理屈をこねてくるだろうが、別に双方が根負けすることはなくても、絶えず対話へと誘い込もうとしている側が、対立しようとしなければ、相手側の思惑通りとはならないだろうし、そうやって対立を避けてはぐらかしていれば、頑なに不合理な伝統を守ろうとする側の団結も、相対的に緩んでくるのかもしれず、それでもそう都合良くすぐに効果が誰にでもわかるようにはっきりと出るわけでもないだろうが、なるべくなら対話が成り立つような配慮はできるだけ心がけた方がいいだろうし、そういう意味でもまずは相手の非をなじって罵倒するようなことはせずに、論理的に筋道を立てて説得するような態度で対話を試みるしかないのかもしれず、それでも普通は聞く耳を持たないだろうし、逆に別のそれとは無関係な方面から対話相手の非を言い立てるのが関の山かもしれないが、それでも相手の屁理屈にキレて怒り出したら相手の思う壺だろうから、どんなに馬耳東風な態度をされても、丁寧に礼儀をわきまえた対応に終始するしかないわけで、そういうところも相手が好き勝手に嘘八百を並べ立てているのに、こちらにはそれができないところが不条理そのものかもしれないが、たぶんリベラル的な進歩主義を主張するにはそうならざるを得ない宿命があるとでも思うしかないのかもしれない。


7月3日「現状の相対性」

 一般的には人は何かしら目的を持って生きているはずだが、ただ目的のためだけに生きているわけではなく、他にも様々なことをやりながら生きているはずで、それが目的から外れるようなことになったり、目的に逆らうようなことになったりする要因となるわけで、そして当初の目的から外れることで、別の目的が生じてきたり、また目的に逆らうことが目的と化したりするのかもしれず、そうやって目的がいつの間にか目的ではなくなってしまい、また目的でなかったことがいつの間にか目的になったりして、本人もそれに気づかない場合もあるだろうし、状況によっては目的が不確定なこともあるだろうが、実際に生きていくうちに次々に新たな目的が意識されてくるようだと、その人の意志でその都度目的を決めていると思い込んでいても、実際には周りがその人の目的を決めるような場合まであるだろうし、その人が目的を求めて、気に入った目的を遂行しながら生きているとしても、当人がそれで主体的に生きているつもりであっても、それは当人の思い込みに過ぎないのかもしれないし、別にそうであっても特にそれが当人にとって不都合であるわけでもないのかもしれないが、何か目的を持ってそれを遂行するために生きている、と型に嵌めたような認識では割り切れない面が人の活動にはあるだろうし、だからと言ってそうではない面を強調しようというのでもなく、客観的に考えるなら、周囲の人や団体などとの相互作用の中で生きているわけだが、それらは常に相対的な関係でもあり、ある程度はその場の成り行きまかせな面もあるわけで、そういう相対的で成り行きまかせな面を正当化できるかというと、やはり特に何もなければ正当化する必要もないし、またその中で自らの存在や他人や団体との関係も、特に何もなければ正当化する必要はなく、その場の成り行きの中でできることをやっている状態が保たれていれば、それで構わないのかもしれないが、もちろん成り行きによっては何もないわけではなく、何か自己との関係や他との関係がうまくいかなくなってくると、そんな中で自分を優先させようとすると、自分の立場や存在を正当化しようとしてくるだろうし、そうなってしまうと自分が囚われている目的を遂行することが、まるで果たさなければならない使命のように感じられて、そうやって意識が目的に凝り固まってしまうのだろうが、それも自意識過剰や周りとの対立や衝突によってストレスがもたらされるから、それに対抗するためにも自らが生きる支えが必要となって、それが目的を遂行することであり、目的を遂行することが自分にとっては必要不可欠であり、また自分なしでは目的を遂行することができないと思い込めれば、なおさら自己にこだわってくるわけで、果たして本当にそうであるかとなると、周りにいくらでも自分の代わりになる人材がいるようなら、それが勘違いであることが明らかになるのかもしれないが、当人にしてみればそうは思いたくはないだろうし、目的を遂行するのは誰でも構わないわけではなく、それをやるのはあくまでも自分でなければならないと強く思うことから、個人主義的な傾向も生じてくるのかもしれないが、実態としては個人の力で何かをやっているように見えて、周りから支えられている面も結構あるだろうし、そこで個人の力を強調したり、あるいは周りのサポート力を強調したりして、そうした強調に合わせた説明を行えば、時には強調された個人の都合に合わせた正当化が成り立ったり、また個人をサポートする何らかの団体の都合に合わせた正当化も成り立つかもしれないし、どちらにしても何かを強調すれば、強調した存在や立場の正当化が行われる一方で、強調しない場合の人や団体などとの関係や、そうした関係の中で生じているその場の状況などの相対性が忘れられてしまうわけで、そういうところで強調がこだわりを生み、こだわりがこだわっている存在の正当化を生み、そうやって現状認識のフィクション化が促進されてしまい、それとともに客観的な現状認識が歪められてしまうわけで、そして歪められた現状認識とともに、それらを正当化する宣伝や煽動が行われて、そんなことの繰り返しの中で、いつの間にか無理なことがまかり通るような状況になってしまうわけだが、それも現状を変えるためには必要な過程なのかもしれないが、実際に無理なことがまかり通ってしまうわけだから、それだけ状況への負担も大きいわけで、それに伴って時にはひどいことが行われてひどい状況がもたらされるわけだが、そうしたことをやった反動もそれだけ大きくなるだろうし、それに関して今の日本の現状に批判的な人たちは、まさにそんなことが現状の日本で行われていると指摘したいわけだが、たぶんそういう認識も少しは正しいのかもしれないし、そんな人たちの主張ももっともな内容であるのかもしれないが、そういうことを強調することも、強調している当人やその人が支持している勢力の存在や活動を正当化することになるわけで、そこでも強調している面がフィクション化しているのかもしれないし、それに伴って宣伝や煽動の要因が生じてくるわけだろうが、そうやって様々な方面から宣伝や煽動が行われることで、そこで何らかの均衡状態が成り立っているのかもしれず、そうやってその場の状況の相対性が醸し出されている面もあるだろうし、結局は様々な方面で様々なやり方によって、そこで目的を遂行しつつある行為者たちの都合に合わせた状況のフィクション化が行われることがあるとしても、それらが対立を生んで衝突することで、お互いのフィクションが相殺し合ったり打ち消し合うことで、それが一方的な強調と正当化からもたらされる現状認識の歪みを補正する効果も生じさせているのかもしれず、それが客観的には何でもないような日本の現状を成り立たせていて、そこで偽りの対立を演出して演技している人たちの思い通りにはならない結果をもたらしているのかもしれないし、そんな状況の中でも盛んにもっともらしいことを訴えかけている人たちが大勢いるとしても、それらが相殺し合ったり打ち消し合うことによって、それらの行為の傍観者たちの心には響かないのかもしれず、また傍観することすらしない人たちは、そんなことには無関心でいるだけかもしれないが、逆にそういったフィクションの演劇的な盛り上がりとは無関係なところで、何でもないような人たちが情勢の主導権を握るような時代となっていくのかもしれず、しかもそれらの人たちは、自分たちが主導権を握っていることすら意識しないのかもしれない。


7月2日「主張と宣伝」

 何かを主張することと宣伝することがどう違うのかというと、同じような行為として重なり合う面もいくらでもあるのかもしれないし、特に何らかの主張をメディア上で宣伝する行為はよく行われることだが、はっきりした違いがあるとすれば、それは主張は宣伝しなくても主張できるのに対して、宣伝は何よりもその中で主張しなければならないということかもしれず、場合によっては宣伝する必要のない主張というのもあり、そういう主張だと、宣伝しなくても主張に賛同する人が出てくるかもしれないし、そういう意味で宣伝よりは主張の方が、幅広い意味合いを含んだ行為であり、主張によっては倫理面での配慮が求められるのかもしれないが、それとは違って宣伝というと、戦略的かつ功利的な行為になるだろうし、利益を得るために宣伝するようなことが普通に行われるわけだが、そうなると宣伝の中で主張されている内容は売り文句となるし、少なくとも宣伝している当事者にとって都合の悪いことは主張しないだろうし、当事者を利するような都合のいいことばかり宣伝されるわけだが、宣伝ではない主張はそうではないだろうし、実際に主張者にとって都合の悪いことであっても主張しなければ、自身の倫理観が許さない場合があるのかもしれず、そういう意味で信用できる主張の中身には、主張者にとって都合の悪いことまで主張されていれば、それが利害とは違う次元の主張になっているから、それなりに信用できるのかもしれないが、主張と宣伝が完全に一致しているような主張となると、何か不自然な印象を伴ってしまうのかもしれず、それは主張の内容にもよるかもしれないが、そんな違和感から主張者にとって都合の悪い事実でも想像されてしまえば、あまり信用できない主張に思われてしまうだろうし、そんな主張の賛同者というのも、主張者と利害が一致しているから賛同するということが、その一方で利害が一致しない人たちの存在が想像されてしまうわけで、実際に利害が一致しない人にとっては、賛同し難い主張となってしまうだろうし、場合によってはそれが批判や攻撃の対象ともなってしまうのではないか。また一見賛同できるような主張であっても、何か主張者が賛同者たちに媚びているような主張内容だと、賛同者たちを利用して利益を得ようとしているかもしれないし、そういった面が見え見えの主張だと、やはり疑念を抱いてしまうし、場合によっては利用され食い物にされて搾取されてしまうような不安を抱かせるし、やはりそういう面を考慮するなら、主張者と利害が一致しているとしても、全面的に賛同するのではなく、常に用心してかからなければならないだろうし、そうした宣伝や主張に踊らされているうちに、梯子を外されるようなことがあれば、ひどい目に遭うだろうから、そうした行為に付随して催されるイベントなどにのめり込むようなことはやめた方がいいのだろうが、中にはそういったのめり込むような人たちを大量動員しないと成就しない主張というのもあるだろうし、そういった主張にはそれなりに犠牲者が付き物となるわけで、一般的に言っても、それが政治的な主張の宿命かもしれないのだが、犠牲になる人たちの大半は、初めから自らが犠牲になるとは自覚していないだろうし、結局自覚しないまま無駄死にするようなことがあれば、それは悲惨なことのように見えてしまうわけだが、そういう損な役回りというのも、結果的にそれを引き受けてしまった人にとっては、何か光栄なことのように思われてしまう場合もあるだろうし、何か崇高な大義のために命を捧げるようなことにロマンを感じてしまうのかもしれないが、それが政治とは無関係な商業的な宣伝であれば、命までは取られない代わりに、それ相応の金銭を取られるような成り行きになるわけで、そんなのは商品の宣伝としてはありふれた顛末であるわけだが、そういう意味で主張や宣伝にもそれぞれに程度と傾向に違いがあって、宣伝であっても商品の宣伝なら、そんなのは当たり前の成り行きでしかなく、その中で功利的な主張がされていても、別に疑念を抱く必要もないわけだが、それが政治的な宣伝になってくると、ひたすら利害を煽るような倫理観が欠如している内容なら、冷静な心理状態であれば信用できないし、場合によっては批判や非難の対象ともなってくるだろうし、そういうところで倫理的な面と功利的な面との間で違いを感じ取れるなら、それが妥当な判断に結びつくのかもしれないが、その判断というのが主張に賛同したりしなかったりするだけであれば、主張の内容にもよるが、直接の当事者意識には結びつかないのかもしれないが、主張に賛同して主張者と共に活動するようになれば、やはりそれだけ直接の当事者意識を実感できるだろうし、そういう実感を共有したいから、政治的な呼びかけに応じてデモや集会に参加する人が出てくるわけで、それが経済行為とは無関係であっても、何か得るものがあると思いたいだろうし、実際にそうした活動が実を結んで、主張者とその勢力が政治的な主導権を握って、賛同者たちの願いを実現できたら、そこで功利的にも倫理的にも何らかの成果が得られるわけだろうが、そこに至るまでが多大な犠牲を強いるような成り行きになると予想されてしまうと、そんなあてにならないことよりも、目先の利益を優先してしまう人も出てくるだろうし、その目先の利益というのがたわいない幻想に過ぎなければ、ただの宣伝に踊らされているに過ぎないことになってしまうわけだが、それでも楽しければ構わないような心境になれるなら、それで済んでしまうわけだろうし、そういった娯楽的な快楽を求めることと政治的な主張を実現することとが、普通は比較の対象になるはずもないことなのだが、そんな比較を意識することなく娯楽を求めてしまうことが、結果的に政治的な主張の実現を断念することになるとも思えないだろうし、そういうところでどのように様々な宣伝と主張と活動がつながっているのかなんて、その場ではわかりようがないだろうし、実際に意識して功利的に振る舞って、利益を得られたと思い込んでいても、その利益がたわいない幻想に過ぎなければ、そこで損失や損害を被っていると判断しても構わないわけだが、普通はそうは思わないわけで、そのそうは思わないという実感が、倫理観の欠如した実感であれば、結局はそれによって功利的にも間違った判断をしていることに気づかない場合もあるだろうし、そういうところで意外と功利的な意識と倫理的な意識が一致しているのかもしれず、倫理的に振る舞うことが結果的に利益をもたらすとしたら、その場では遠回りしているように感じられるとしても、自らの倫理観を信用した方がいい場合も結構あるのかもしれないし、過去の歴史的な経緯を正しく知っていれば、迷わずに倫理観を尊重することになるのではないか。


7月1日「三つの世界」

 人が実際に存在している世界は、現に今ここに存在している客観的な世界だが、他に世界があるかとなると、中にはSFや宇宙論で言うところのパラレルワールドなどが空想されることもあるが、そうではなく、実際に同時並行的に直接体験しつつある世界としては、人の意識の中にある主観的な内面の世界と、また多くの人たちが共同幻想のように抱いている人間社会があるわけだが、それらは現実の世界と重なり合っていて、物も情報も意識の中で共有しているから、別に分けて考える必要もないのかもしれないが、それぞれの世界で通用することとしないことがあり、普通に考えて法律や慣習や商取引などは人間社会でしか通用しないし、また個人が抱く妄想や幻想は内面の世界でしか通用しないが、では現実の客観的な世界で通用することは何かと言えば、直接の身体的な活動であり、また道具や機械類などの科学技術や産業技術を利用した活動となるわけだが、もちろんそれらは人間社会でも通用するわけだが、言語を使ったコミュニケーションとなると、主に人間社会と個人の内面の世界で使われるわけで、そんなふうにして人の活動や行為には、三つの世界のうちでどの世界で通用するかに関して、向き不向きや一長一短があるのかもしれないが、その中でも言葉を使ったコミュニケーションは、道具や機械類を使った活動にはその使い方を理解する上で必要不可欠であり、また身体的な活動においても、集団で動作するにはお互いに意思疎通を図って連携や協力する上でも必要不可欠であるが、現実の世界の中で自己や自己が属する集団の利益を獲得するために活動していくと、社会の中ではどうなるかというと、他の人や集団と利害が衝突して、対立して争わなければならなくなる場合が出てくるわけで、そうなると社会を壊さないためには、言葉を使ったコミュニケーション行為を駆使して、対立や争いを収めて、交渉や取引などによって人や集団の間で利害調整を行う必要が出てくるだろうし、そうしないと最悪の場合は戦争になって社会が壊れてしまうわけだが、戦争にまでは至らないとしても、経済競争などの争いに敗れた人や集団が、飢えや貧困などの悲惨な境遇に追い込まれるような事態も待ち受けているわけで、実際にそうなってしまった人や集団が移民や難民となって、世界中で行き場をなくしている現実があるわけだが、実際にそれを促進しているのが、道具や機械類などの科学技術や産業技術を駆使した、あるいは心理的な権謀術策なども時には駆使するだろうが、それらが経済活動や行政活動や政治活動や軍事活動などになるのだろうが、一方でそれらの中で経済活動は利益を生んで富を増やして、人々の生活を物質的に豊かにしているわけだし、単純にそうした活動を悪者扱いできないどころか、人の生活も社会も文明もそうした活動によって成り立っているわけだから、そうした活動から発生する利害対立や争いともうまく付き合っていかないと、世の中が回っていかないわけで、そういったことを考慮するなら、結局は一方では対立して争いつつも、他方では協調して協力し合う関係を築くような矛盾した人や集団の在り方を認めなければならないだろうし、それは一方を重視して他方を軽視するようなことではなく、実際にそういう傾向になっても、絶えず両者の間でバランスをとったり、あるいは否応なく矛盾した対応を取らざるを得ないような成り行きになってしまっても、そこで何とか踏みとどまって、矛盾した状態を維持しつつも、時には嘘も方便のような言動を駆使したり、そして戦略的にわざと損な役わまりを引き受けたりしながら、物事の白黒をはっきりさせるような結果に至るのをひたすら回避しつつも、決定的な破綻には至らないようにごまかし続けるわけだろうが、たぶんそういった状態を長引かせることも、関係者の間でコミュニケーションを図る目的となっているのかもしれないし、それは意図せざる自覚なき目的でもあるだろうし、そういった単なる時間稼ぎ的な行為が功を奏している間は、社会情勢も小康状態にあるわけだろうが、別にそれが褒められた状態ではなく、そういう行為が賞賛の対象ともならないだろうが、それが対立や争いから生じる衝撃を吸収する緩衝材のような役割を果たしているとも言えるわけで、そういう意味でコミュニケーション行為が必ずしも対立や争いなどの問題を解決するために使われるわけではなくても、それなりになくてはならない行為であることは確かだろうし、逆に対立を煽り立てて争いをもたらすには、ディスコミュニケーションなどの状態に戦略的に持って行こうとする傾向があるだろうし、頑なに対話を拒否しておいてから、仲間を相手に一方的に対立している対象の悪口を言いまくるようなことをやるわけで、それも戦略的にやっているとは意識していない場合もあるだろうし、その場の否定的な感情に身をまかせていれば、自然とそんな傾向になってしまうのかもしれないが、そういうところで個人の内面の世界の中でくすぶっている被害妄想などが、客観的な世界での利害関係と連動している面もあり、その二つが組み合わさって実際に社会の中で対立や争いをもたらすわけだから、それらがつながっていて関係し合っていることは確かだろうし、そういう面を考えるなら、特にそれらを三つの世界に分ける必要もないのかもしれないが、それでも思い違いを防ぐ意味でも、人の活動の源泉がどこから生じているのかを認識する上で、それらを区別する必要があるのかもしれず、それに関して現実の世界で人や集団の間の利害関係を優先すれば、そこから対立や争いが生じて社会が混乱するし、また人の内面の世界で被害妄想などの否定的な妄想が膨らんでくれば、やはり社会の中で他人や他の集団を信用できなくなってくるし、なぜそうした妄想を抱くのかといえば、客観的な現実の世界で個人や所属している集団の利益を追求する過程で、他の人や集団と競合関係になって、実際に対立や争いが起こり、そうなっている相手から直接攻撃されていれば、それは妄想でもなんでもなく、直接の物理的な暴力あるいは心理的な攻撃だと言えるのかもしれないが、そうした攻撃をまだ受けていないのに噂話などで不安を煽られると、そこから妄想が膨らんでいってしまい、それがちょっとしたきっかけを作って、そこから対立や争いが生じてこじれると、お互いに罵倒し合うような関係となったり、さらにそれがエスカレートすれば、直接の暴力を伴った争いにも発展してしまうのではないか。


6月30日「徴税の理想」

 世の中で物や情報やサービスなどの売買が行われている限りは、それらの売買から利益を求めるような功利的な意識が生じるのは当然のことなのだが、またそれなしでは現状の社会が成り立たないのだから、人の活動の中で何が優先されるかと言えば、経済的な利害であるのは言うまでもないことだろうが、ではそれだけで世の中が成り立たないのかとなると、売買とは違って強制的に税を徴収する制度があるから、そういった徴税活動がある分が、経済活動だけでは世の中が成り立たない要因となっているわけだろうが、さらにそれに加えて金銭の貸し借りもあって、それに利子も付け加わってくるから、そういった要因が複雑に絡み合って、事態をわかりにくくしている面があって、そういう面に疎い素人には、それらの全体がどういう理屈で成り立っているのかわからないだろうし、そういった方面の専門家にも把握しづらい面があるのかもしれないが、少なくともそれらの活動が必要に応じて行われている実態があることは確かであり、特に政府が行なっている徴税活動が、民間の売買や資金の貸し借りなどの活動にどのような影響を及ぼしているのかが、わかりにくいところかもしれないが、民間でも何らかの制度を管理運営しているところでは、制度の利用者や利用団体から使用料などの類いを徴収しているわけで、それの延長上で政府も管理運営している公的な制度の利用者である人や団体から使用料を徴収していると捉えれば、それなりに納得できるのかもしれないが、税の徴収方法や仕組みが複数の制度に分かれていて、それらが複雑怪奇に絡み合って込み入っている実態があるわけで、それが公的な制度であるからには、利用者への公平な負担が求められるわけだが、どのようにすれば公平な負担になるのかがはっきりしないところだろうし、また実態としても公平負担の理念とは裏腹に、場当たり的に制度の増改築を重ねてきた経緯があるだろうし、そういうどうにもならない面があるから、抜本的な改革はいつも先送りにされてきたのかもしれず、それよりは現状の制度のままでも、それなりに税収が確保されているわけだから、下手に制度をいじって全体のバランスをおかしくしてしまわないような配慮もあるだろうし、そういうところで現状維持的な妥協の産物として、現行の制度が維持継続されている実態もあるのだろうが、それに関してこうすれば公平な税負担の理念が実現すると主張している人もいくらでもいるのかもしれないが、もしかしたらそういった理念よりも、まずは増改築を重ねて複雑怪奇になってしまった制度を簡略化して、誰にでもわかりやすい簡単な仕組みにしていくことが、遠回りのようでいて、後から利いてくる可能性があるのかもしれず、それは税制に限らず、政府が管理運営している全ての公的な制度についても言えることかもしれないのだが、そしてその最終的な目標というと、それは現状から飛躍しすぎていて、めちゃくちゃな目標かもしれないが、最終的には徴税なしでも活動できるような行政の形態を目指すべきかもしれず、では活動の費用はどうやって捻出するのかとなると、タダ働きのボランティアで間に合うようになれば理想かもしれないのだが、要するに暇を持て余していて、時間的に余裕のある人が空き時間を登録しておいて、週に何時間か持ち回りで行政に関する作業をこなすような制度内容にしていけば、それで間に合ってしまえばその程度のことにしかならないだろうし、町内会の延長上のような感じで、権力関係などもそれほど生じなくて、そういう面では願ったり叶ったりとなるかもしれないが、もちろん現状では荒唐無稽な妄想でしかないことは承知しているが、実際に政治や行政に関する様々な公的な制度が複雑怪奇になりすぎて、また制度の改善も改革も行き詰っていて、しかもそれに対する世間の関心も薄いし、民衆も無関心を決め込むような傾向があるとすれば、遠からずそれらの制度は形骸化を免れないだろうし、実際に形骸化の途上にあるとすれば、それに合わせて少しずつ制度を簡略化していけば、一気に崩壊するようなこともなく、だんだんと無駄で非効率な面が取り除かれて、ついには簡単で手間隙のかからない制度に行き着くのかもしれないし、いきなりこんなことを述べてしまうと、頭がおかしいとしか思われないだろうが、そうなる過程で税の公平負担や富の再分配だとかの幻想も宣伝としては利用できるかもしれないが、あくまでも最終的な着地点が現状ではあり得ないような結果に持っていければいいわけで、それに関しては強引にそういう方向へと舵を切ろうとしては駄目だろうし、こんなことをあからさまに述べている時点で、何か計画するとしても成功する見込みなどないだろうが、そういうこととは別に、恣意的かつ意図的に持って行こうとするのではなく、自然の成り行きに逆らわないことが肝要だろうし、世間の無関心に合わせて、制度の形骸化を促進させるような配慮が求められるのかもしれないし、また促進させるといっても、それと気づかれないようなやり方が求められるだろうし、それに関して効果的なのが、行政の無駄や非効率を改善するという大義名分だろうし、実際に制度を簡略化することで誰にもわかりやすい制度に改善していけば、そういう面でそれなりに民衆の支持も得られるだろうし、そういう努力が功を奏して現実に税負担も軽減されれば、なおのこと民衆からの支持を得られそうだし、それどころか産業界からも支持や支援も得られるかもしれないが、そういうところで行政サービスの低下を懸念するようなメディアの論調が出てくる可能性もありそうで、そこで必要とされるのが、産業技術を用いた機械化や自動化になっていくだろうし、現状でも民間などではそういう傾向があるわけだから、行政でもそれを利用しない手はないわけだが、果たして実際にそうなっていくかどうかは、あまり予想したり予測する必要はないだろうし、それよりは世の中の自然な傾向や成り行きに活動を合わせていくことが重要なのかもしれず、現時点では結果的にそうなる必要も必然もないだろうし、ただの頭がおかしい輩の妄想に過ぎないことだとみなしておいて構わないわけだが、実際に過去に狂人の妄想が実現した例もあるのかもしれず、ここでそれを期待しているわけでもないのだが、公的な制度の形骸化を利用するには、そういうことも念頭に置いておく方が、大げさな終末論的な予言とは違った気楽な態度で現状と向き合えるのかもしれない。


6月29日「民主主義の危機」

 便宜的に何か特定の主義を否定的に捉えて批判するような成り行きがあるとしても、その主義自体に実態がなかったり、またいかようにも受け取れる多義的な内容であれば、批判自体が空疎で無内容になってしまうわけだが、そういう主義が自由主義であったり民主主義になるかといえば、共産主義や社会主義ならまだしも、民主主義を否定的に捉える向きはあまりないだろうが、自由主義はといえば、特に新自由主義を悪の代名詞ように使って批判的な主張が行われる場合があるわけだが、そうであっても政治的な主張の主流は、今やそういったあやふやで大雑把なイデオロギー的な批判とは違って、特定の公的な制度をどのように改善したり改革するかということに主張の重点が置かれることの方が多いだろうが、中にはそういう成り行きとは別の傾向として、例えば危機を煽るような内容となると、よく民主主義の危機を訴えるような主張もあるだろうし、そういう意味では民主主義という主義は比較的肯定的に受け取られることが多いわけで、民主主義をあからさまに否定できるかというと、あからさまにではなく、なし崩し的に民主主義を形骸化させるようなことが行われるから、一部では民主主義の危機が叫ばれているわけだろうが、そうなるのも制度に欠陥があるからなのかというと、民主的な政治制度の中で、例えば選挙制度の改善や改革を訴えるような主張に落ち着くわけだが、制度が有効に機能していないから危機的な状況に陥っているというのはもっともなことだとしても、その一方で制度自体を民衆が信用していなかったり、軽視している場合もあるだろうし、だから制度の形骸化に歯止めがかからなければ、制度の改善や改革では状況を変えられない可能性もあるわけで、実際にそうなっていて、もはや形骸化が止めようがない傾向だとすれば、そんな状況に合わせて、民主主義が形骸化の危機に瀕していること自体も、肯定的に捉えても良さそうだが、そこは世間の一般的な雰囲気として、あからさまに民主主義を否定できない空気があるのだろうし、その辺が微妙なところかもしれないが、傾向としては選挙での投票率が現実に下がってきているわけだから、実質的には民衆が選挙制度を信用していないか軽視していると言えるだろうが、そういうところではっきりしたことは断言できないし、断言してしまうと的外れな意見になってしまうのかもしれず、かといって現状をそれで構わないとは言いたくないだろうし、何かそういうところで煮え切らない現状があるのかもしれないが、だからと言ってあるがままの現状を受け入れるというのではなく、そんな現状の中で各々がやれることをやればいいわけで、そのやれることの中には、民衆が政治に関心を持つように啓蒙活動をしている人もいるのかもしれないが、たぶん何もしなくても構わないだろうし、実際に特に何もしていない人が世の中の大半を占めているのかもしれないが、そういう状況の中で言えることは、もしかしたら特に民主主義という主義自体が、何にも増して最優先されるような重大で重要なことではないのかもしれず、それに関連して選挙に行かない奴は国民の主権を自ら放棄する愚か者だと罵倒されるようなことでもないだろうし、そういう大げさなことではなくて、もっと気軽に何かのついでに気が向いたら投票に行くぐらいの程度である方が、現状に合っているのかもしれないし、また誰に投票しようと誰が当選しようと構わないような現状認識であれば、斜に構えてもっともらしい屁理屈をこねて、意識してわざと投票に行かないような気にはならないのかもしれず、またその程度であれば危機意識も欠如するとともに、どうということはない心境になれるのかもしれないが、そうであれば無理な批判をしている人たちに与しなくても構わないだろうし、何が無理なのかといえば、すぐに何かというと終末論的なことを言い始めてしまう人も結構いるのかもしれないし、またその際当人も何か政治的な主張をしているとしても、他の政治的な主張をしている人は何もわかっていないと主張してしまえば、そういうところで自分だけがまともであり、自分や自分の支持者以外の人たちは愚かなことばかり主張していると思ってしまうし、そこで愚かなことを主張しているのはお互い様だという認識が欠如しているわけだろうが、たぶん主張するだけなら、そういった主張には全て愚かな面があると思っておいた方が無難なのかもしれず、大抵はその主張を実行に移すとうまくいかなくなってしまうわけで、そんなふうにしてうまくいかなくなってしまったことが、自らの目論見や目算の甘さを実感させるわけで、まだそこまで至っていない段階では、誰もが好き勝手にいい加減なことを述べられると見ておいた方が、それなりに妥当な認識になるのかもしれず、そういうところで他人の揚げ足取りなどやりたい放題な状況だとしても、できればそういう誘惑をぐっと抑えて、自らの主張も他人から揚げ足取りをやりたい放題にされてしまうかもしれないことを自覚した方がいいのだろうが、そんなことを自覚すればそれなりに謙虚になれるわけだが、別に謙虚になれたからといって、何がどうなるとも思えなければ、やはり好き勝手なことを主張して、その主張に合わないことを主張している他人を馬鹿にしていればいいのだろうが、そういう成り行きを客観的に眺めてみれば、その程度のことしか主張できない自らが愚かであることは明らかだろうし、その程度でも構わない状況の中で何か適当なことを主張している成り行きがあることも理解できるかもしれないが、果たしてそれが危機的な状況なのかといえば、どう贔屓目に見てもそうではないのかもしれないし、それでもただ自らが危機を自覚できないだけで、本当は深刻な状況であれば、危機感を煽っている人たちも浮かばれるだろうが、そう思ってしまう誘惑からも距離を置いて、なるべく軽い気持ちで現状に軽く浅く触れるぐらいに留めておければ、無理な論理やおかしな屁理屈をこねながらそんな自らを正当化しなくても済んでしまうのかもしれないが、実際にはそれで済まないような状況となっていれば、それなりに危機を真に受ける必要も生じてくるのではないか。


6月28日「価値と利害」

 ありふれた成り行きに従うなら、普通はその人にとって価値のある物事を獲得することが利益になると思われるだろうが、当人が利益を得られたと思っても、結果的にそれを得たことで被害や損害を被ってしまうこともあるだろうから、客観的に見たら利益を得る場合も不利益を被る場合も両方あるだろうし、そういう意味で物事の価値とそこからもたらされる利害は区別して考えるべきかもしれないが、価値そのものについては総じて金銭的な価格が高い物事が価値が高いと思われがちだろうが、それで概ね間違ってはいないものの、中には金銭では買えない価値を強調するような人もいるだろうし、そういう面では何に価値があるかを巡って、その人の主観に左右されるような価値もあるわけだから、その辺のところははっきりしない面もあるわけだが、また利害についても同じように一概には言えない面があるだろうし、たとえ満足のいく金銭的な利益を得たとしても、その見返りに健康を害したり命を落とすようなことがあれば、その人にとって何が利益なのかについて、それを利益とみなすのかあるいは不利益とみなすのか、それとも利益を得ると同時に不利益を被ったとみなすのか、それについても人によって判断や認識が異なる場合もあるわけで、そういう面では価値も利害も一応は金銭的な価格という判断基準があることは確かだが、それと同時にその人が結果的に得たり被ったりした報いも考慮に入れると、何かはっきりしない面が出てくることは確かであり、また対象となる物事からその人にもたらされる作用や影響と、その人の関係者や関係団体や、あるいは無関係な他人や他の団体にもたらされる作用や影響も異なってくる場合もあるだろうし、やはりそういう面まで考慮に入れると、対象となる価値や利害をどう捉えるかは、人や団体によってそれなりに差が出てくるだろうが、その対象と比較する他の対象の違いによっても、価値や利害に差が出てくるだろうし、そういう面で全ての人や団体が評価基準を一致させられるわけではないだろうから、人それぞれで判断や評価が異なってくる面があるのは当然だとしても、そういう相対的な判断や評価とは別に、実際にもたらされた物事があるわけで、そこに何がもたらされたかについては、客観的な事実として何らかの存在や現象を伴っているはずだが、その現象の中にはそこに何らかの物事をもたらすとともに、そこで消費された何らかの物事やそれにかかった費用もあるだろうし、何かをもたらすことで費やされた費用と何かを消費することで費やされた費用があるわけだが、それらの費用の中から経費が支払われる対象の人や団体にしてみたら、そこから利益が出てくるわけだが、何かをもたらすには何かを消費しなければならず、それが物事の生産に費やされる材料と労働であるわけで、さらに生産される現場の賃料とかもかかってくる場合もあるだろうし、また生産に使った機械類の消耗に伴う償却費もかかってくるだろうし、そしてそれに加えて各種の税金もかかってくるし、資金を借りていれば返却しなければならない資金に加えて利子もかかってくるわけだが、そういう様々な費用が全て支払われている実態があるから、そういった物事をもたらして消費する活動が成り立っているわけで、その中から例えば税金に関する部分だけを取り出して、その負担が多いだの少ないだの公平に負担されていないだのと、議会や政府内などで議論されることもあるわけだが、全体から見たらそれは部分的な面に過ぎないわけだが、そこだけを強調して、そこを改善できたら、それなりにうまくいくかのようなことを主張してくる人もいるかもしれないし、それはそれでそういう政治面での主張となるだろうが、そういう面での人為的な制御とは別に、あるいはそういう人為的な制御や働きかけと連動している面もあるにせよ、自然の成り行きというのもあるだろうし、もちろんの自然の成り行きには人為的な行為や活動も含まれているわけだが、それが人為的な制御の一種である政治的な行為や活動によって作用や影響を受けるにしても、それらの行為や活動も自然の成り行きから作用や影響を受けているだろうし、そうした各方面からの相互作用や影響が及ぼされた結果が現状をもたらしていることも確かであり、その中には否定的な評価が出てくる面もあるだろうし、また大して効果のない行為や活動もあるわけだが、そうしたものの中に、世の中の特定の面や部分を強調して、そこを改善すれば今までうまくいかなかった面がうまくいくようになるという主張も出てくるわけだが、実際にその対象となる領域で主導権を握っている人や団体がそういう主張を受け入れて、主張通りのことをやってみた結果として、今までにうまくいかなかった面がうまくいくようになれば、そこで主張の正しさが証明されたことになるのだろうが、それが政治的な主張ともなると、なかなかそこまで至らずに、その途中の段階で主張する側が主張しっ放しになってしまっている一方で、主導権を握っている側はそういった主張を無視して、主張とは違うことを実際に行なっていたりもするわけで、そうなっている状況をどう受け止めればいいかは、主張の中身を支持する人たちと、主導権を握っている側を支持する人たちとの間で、真逆の評価を伴ってくる場合もあり、実際にそうなるとそこで対立や争いが起こるわけだが、いくらそういった面をメディア上で取り上げて強調してみたところで、それが全体から見れば部分的な面にすぎなければ、そういうことに関心を寄せる人もそれなりに限定されてくるだろうし、そうなると主張通りのことが実現するめどが立たないままとなってしまうわけだが、それでもそういうことを主張する人たちが、メディア上で主張する機会や余地があれば、事ある度にそういったことを主張する成り行きになるだろうし、実際に世間的に著名な識者が、そういった主張をメディア上で繰り返している実態もあるのかもしれないが、それも全体としてみれば部分的な行為となるだろうし、世の中はそういった様々な部分的な行為の集合体として成り立っているのかもしれないが、それが価値のある行為や活動だと判断されるには、主張内容が実践に移されてからでないと判断のしようがないのかもしれないし、それにはまず主張が実践に移されることが必要となってくるわけだが、そこで実践に移されたら困る勢力があれば、そうなることを阻んでくるわけで、そういうところで主張が実践に移されて価値を担うことになるかどうかの分かれ目が生じてくるわけだが、部分的な面ではそこで利害に基づいた対立や争いが生じているとしても、それ以外の利害とは無関係な人たちが、そういうことに関心を持てば、対立するどちらにもつかずに客観的な判断や評価を下そうとする成り行きになるのかもしれないし、そうなるにはまず主張を実践に移してやらせてみてから判断や評価を下すような余裕があれば、妨害せずにやらせるような可能性も出てくるのかもしれない。


6月27日「価値へのこだわり」

 人の意識の中では世界には様々な価値を担った物事があり、人はそれらのうちで自らが興味を抱いてこだわっている特定の価値のある物事を得るために活動しているつもりになれるのかもしれないが、その一方で特に何を求めているのでもない心理状態の時もあるだろうし、何に価値があるとも思えないような心境になることもあるのかもしれないが、実際に経済的な事情などが災いして大した物事は何も得られない立場や境遇であれば、そうした物事を得るのを断念してしまう場合もありそうだが、そうなると何か自分が大したことのないちっぽけな存在に思われてしまい、別にそのことで自暴自棄になることもないだろうが、そんな自分とは違って大した物事を得られているように見える他人を羨んだり妬んだりする場合もあるかも知れないが、もちろん人が得ようとしている物事は千差万別だろうし、そんな中には自らの立場や境遇に合った分相応な物事が見つかる場合もあるのだろうが、そういう場合とは全く違って、人の存在を特別視しないような客観的な見地から人や社会を眺めれば、とりあえず巨視的なレベルではただ地球の表面で多くの人々がうごめいているに過ぎず、そうなっている状態が人以外にとっては何の意味があるわけでもないのかもしれないが、世界をそんな客観的かつ自然な状態として捉えてしまうと、その中で人や団体が何をやっていようと知ったことではなく、もちろん知ったことではない主体として設定できる対象というのもあり得ないのかも知れないが、確かにそういう水準では何がどうなっているわけでもないとしても、それが人や団体によって構成される社会的な水準であったり、それと連動した各自の各々の意識の中で生じてくる主観的な水準となると、やはり何か特定の目的を伴った行動や活動が自身に生じているようにも思われるだろうし、それが社会に存在する様々な人や団体の関係の中で複雑に入り組んでくると、意識の中ではそれらがこんがらがった様相を呈しているように思われるのかも知れないのだが、そこでも誰もがそんなことまで意識しているわけではなく、自分が関係している範囲内に限定すれば、取り立ててこんがらがった感じはしないのかも知れないし、もちろん何かのきっかけで感情のもつれからこじれた人間関係になってしまうと、いつまでも不快感が尾をひく成り行きになるだろうし、そういうところではなかなか関係の正常化や修復が難しい面もあるのかも知れないが、それも誰にでも起こり得ることであれば、社会の中ではありふれた状態でしかないだろうし、それを当人が深刻に受け止めていても、それとは無関係な他人にとってはどうでもいいことでしかないだろうし、そういう意味では独りよがりで深刻ぶっているに過ぎないことかも知れないが、それが個人的なことではなく、社会全体とか国や地域のこととかになってくると、別に独りよがりで深刻ぶっているとは思えなくなってくる場合もあるだろうし、何か世の中で大変なことが起こっているのに、それを他の人たちがなかなか気づいてくれないような焦れったい心理状態となってしまうのかも知れないし、それもそんな心理状態の人が他にも大勢いるようなら、ありふれた心理状態と言えるだろうが、もちろんそれも人以外にとっては何でもないようなことでしかないだろうが、人の方でも人以外のことなど考慮に入れないだろうし、それでも自身が飼っている犬や猫などのペットのことは考慮に入れるのだろうが、そういうところでどんな物事に価値を見出しても、一方ではそれを得たところで自己満足以外の何がもたらされるのでもないとしたら、やはりそれではつまらなくなってしまうだろうし、それが自身だけでなく、他の人にとっても価値が認められるような物事なら、なおのことそういった物事に価値があることを信じられるわけだが、逆にそんな物事には全く価値を感じられないのに、他の多くの人たちがそういう物事にこだわっていると、何か自身が除け者にされているみたいで腹が立ってくるだろうし、そうなるとそういう物事にこだわっている人たちを小馬鹿にしながら批判したり、場合によっては語気を強めて罵倒したりするようなことにもなるのかもしれないが、逆にそういう感情的な拒否反応を引き起こすのが目的で、他の多くの人たちがその人にとっては何の価値も感じられないようなくだらない物事にこだわっているように思われるなら、たぶんそれも独りよがりの被害妄想の類いになるのかもしれないが、実際にその人にとっては感情を逆撫でされるようなことをやられたら、そういった行為に向かって罵声の一つぐらいは浴びせるだろうし、それについては世の中にある様々な物事の中には、そういった対立や争いを引き起こすような正反対の価値や傾向を伴った物事というのが結構あるのかもしれないし、そこに各々の立場や境遇によっては相容れない価値観がもたらされていることになるだろうし、それもそういった価値観には興味のない人にとってはどうでもいいことでしかないのかもしれないが、対立したり争っている当事者たちにとっては深刻な死活問題であったりするわけで、それが単なる政治信条の違い程度で片付けられるようなことであれば、さほど問題はないのかもしれないし、そういう問題に対する受け止め方も人によっても立場や境遇によっても千差万別の違いがあるのだろうが、わざと大げさに深刻ぶりたい人も中にはいるわけで、そういう人はわざと騒ぎ立てることで他人よりも目立ちたいという思惑があって、そういう態度にはその対象となっている問題の中身よりは、その問題に対するスタンスにこだわることによって、そこから何らかの価値を生じさせようとする目論見があり、その問題をどう扱うかで他人と差別化を図りたいような狙いが入ってくるようだと、完全に物事の本質からずれているわけではないとしても、わざと我田引水的に自らに問題を引き寄せて、自らがそこから生じる対立や争いの中で主役の座を占めたいような下心が透けて見えてしまうと、周囲の人たちや関係者からは呆れられてしまうだろうし、やはりそういう態度は本末転倒だと思われてしまうのではないか。


6月26日「倫理意識の高まり」

 倫理というとその中身が何なのかが、はっきりしない面があるのかもしれないが、簡単に言えば、自分の利害を超えて他人を思いやることが倫理と言えるのだろうが、それに関して自分の命を顧みずに他人を助けようとする成り行きに巻き込まれてしまうと、実際に命を落としてしまうことだってあり得るだろうし、そういう成り行きは稀にしか起こらないことだとしても、普通の感覚からすれば、できればそういう成り行きは避けたいところだろうし、誰もそこまでの倫理観は自分にも他人にも強要はできないし、大抵は自分の安全が確保されている上で、他人を助けることができれば、それなりに倫理的な行為にはなるのかもしれないが、そう都合良くそんな事態には巡り会えないだろうし、直接的にそういう行為を行う以外でも、例えば政治的な面で、選挙で倫理意識の高そうな候補者や政党に投票するとか、実際にそういう候補者や政党が、社会的に不利な立場や境遇に陥っている人たちを助けようとする主張や政策を打ち出していれば、それを実行できるかどうかは、議会や政府内で政治的な主導権を握らないとできない面があるものの、一応はそういう政治家や政党が倫理意識が高いと判断されるのだろうが、一般的には大抵の政治家や政党もそういう類いの主張や政策は打ち出してくるし、そうなると実際に政治的な主導権を握っている政治勢力が何をやっているかで判断しなければならないことだろうし、そういう主張や政策とは裏腹なことをやっていると判断されれば、そういう政治的な勢力は信用できないから、選挙では別の政治勢力に投票すればいいのだろうが、現実にはそれ以外にも様々な判断材料があるから、結果的に倫理意識の高そうな政治勢力が主導権を握るとは限らないわけだが、政治的にはそうだとしても、経済の面で倫理意識を期待できるかとなると、例えば環境面で配慮のある企業であれば、例えば活動にクリーンエネルギーを活用していたり、あるいは乱開発などによって自然の生態系を破壊するようなことをやっていなければ、環境汚染や環境破壊などの面で人々に害を及ぼさないから、倫理意識の高い企業だと言えるだろうし、また自社や関連企業などで低賃金長時間労働などの劣悪な職場環境にならないような配慮があれば、やはりそういう人道面で倫理意識の高い企業に見えるかもしれないが、やはりその企業だけの問題ではなく、他の企業や業種で、環境汚染や低賃金長時間労働などの問題が起こっていれば、結局は政治や行政の側でそういう方面で規制をかけて、そういうことのないような方向へと持っていく努力が求められるだろうし、そうなると政治と行政と経済などが連動して、包括的な取り組みが求められることになるわけだが、それも単なる政治宣伝や行政宣伝などでアピールするだけでなく、実際に行なっていることの中身から判断しなければならないことだろうし、そうなると一般の人たちがそういうことに関してまともに判断できるような見識を持ち合わせていないと、それが政治や行政には反映しないわけで、特に民主的な政治制度が確立されている国や地域に住んでいるならば、そういう方面で敏感に反応できるような人々が世の中の多数派を構成していることが望まれるのだろうが、実際にそういう人たちが世の中の多数派を構成しているような国や地域では、それなりに倫理意識の高い社会が形成されていることになるのだろうが、それも理想的にはそうかもしれないが、世界全体で見れば様々な問題が山積しているわけだから、特定の国や地域だけで倫理意識の高い社会が形成されていても、そのしわ寄せが他の国や地域へと及んでいないとも限らないし、実質的には世界全体がそうなるまでは、あまりそういった倫理に関しては幻想を抱くべきではないし、何かしら問題がある国や地域の状況を改善するには、結局は世界全体での取り組みが求められるところだろうし、そういう意味では国連などの国際機関を通じた取り組みに期待するしかないのかもしれないし、またアメリカや中国などの主要な覇権国が自国内だけでなく、他の国や地域へも積極的な働きかけが求められるのかもしれないが、どちらの国でも自国内の問題を解決しているとは言いがたい状況であるわけだから、そういう面ではまだまだ問題の解決や改善への道のりは遠いわけだが、日本ではどうなのかというと、環境汚染や環境破壊の面でも職場環境や家庭環境や社会環境などの面でも問題山積状態といえば、その通りかもしれないし、何かしらそういった方面で様々な問題が指摘されていて、それに関して政治や行政などの対応が不十分だと言われているだろうし、これからも何かしら問題が指摘され続けるだろうが、一般の人々がそういった問題に関して政治や行政への働きかけをしないと、制度的にはどうにもならないわけだが、どうやって働きかけをすればいいのかとなると、直接の議会や行政への陳情の類いもあるだろうが、普通に考えられることは、そういった問題に関して積極的に取り組む可能性の高そうな政治勢力へと、選挙の際に投票することだろうし、制度的にはそういうことになるわけだが、その際に最も判断材料として重視すべきなのは、現状で主導権を握っている政治勢力がそういったことに関して積極的に取り組んできた否かを、判断材料にすればいいわけだが、結局はそれ以外の判断材料が優先されるようだと、そういう問題は軽んじられてしまうだろうし、それで構わないのなら、そういう方面での改善は見込めないわけだが、実際には全面的に白黒がはっきりしているわけではなく、現状で主導権を握っている政治勢力でも、何かしらそういう問題に関して取り組んでいる面があることは確かだろうし、そういう面をどう評価するかが、一般の人々に求められていることでもあるわけだろうが、またそれは現状で主導権を握っていない勢力にも言えることであり、それらの勢力がそういう面での主張にどれほどの真実味や実行力があるかも、そうした方面での判断材料となるだろうが、そういう面とは違った面で、例えば功利的な利害関係については、どの勢力でも自分たちの勢力を利するようなことをやろうとするわけだから、そういった利害と、一般の人々との利害が一致するなら、利害の一致する政治勢力に投票すればいいことになってしまうわけだが、そういう利害に関しては宣伝も含まれているし、政治勢力の側でも都合のいいことしか宣伝したがらないだろうし、宣伝を真に受けて支持するようなことで構わないのかとなると、結果的に騙されるようなことにもなりかねないだろうし、それは倫理的な方面でも言えることだが、一般的には倫理的な方面よりも功利的な方面での宣伝に力を入れる傾向があるわけで、果たしてそういった功利的な面を信用できるかとなると、そこには実態の定かでない空疎な幻想も含まれていることは踏まえておくべきなのかもしれない。


6月25日「現状認識の矛盾」

 なぜ人は現状を否定的に捉えるのかといえば、否定的に捉えている人の思い通りにはなっていない現状があるからだろうが、では自身の思い通りになっていない現状を肯定できるかとなると、たぶん肯定できる人もいるだろうし、肯定するには自身の思い通りになることを断念しなければならないかというと、たぶんそうでもないのかもしれず、現状が思い通りになっていないことを受け入れながらも、いつかは思い通りになることを願っているのかもしれないし、またそんなことを願いつつも、別に願いが叶わなくても構わないとも思っているのかもしれず、そういう現状に対する態度は、どっちつかずの煮え切らない態度と見られるかもしれないが、別に見られているわけでもない場合もあるだろうし、密かにそんなことを思っているだけで、普段はそんなそぶりも見せずに、何も悟られないような言動を心がけているのかもしれないし、さらに心がけるのも何も、そんなことは自覚しないで、自然な態度としてそうなってしまうのかもしれないが、実際に現状をどう捉えるか、という判断そのものを意識しなければ、ただ現状の成り行きの中に存在しているだけで、そんな状態を自身でどう思っているわけでもなければ、現状を特に意識することすら自覚しない心境でいられるのかもしれないが、別に改めてそんなことを思う必要も感じなければ、それで済んでしまうのかもしれないが、中にはそれでは済まない人がいて、そんな人は自身の思い通りにはならない現状が気に入らなければ、現状の中で気に入らない対象を批判することにもなるわけだが、その対象が人であれば、自分の主張に合わない人を否定的に捉えて批判することになるわけだろうが、そうするには自分の主張を正当化するような理屈や論理を持ち出してきて、その理屈や論理に反するようなことを行なったり主張している人を批判することになるのだろうが、ではそういう人たちを肯定できるかというと、もしかしたら肯定できる可能性もあるのかもしれないし、どうやって肯定すればいいかとなると、その人の主張を正当化するような理屈や論理は、その人に特有の立場や境遇から生じてくると考えれば、それとは違う立場や境遇からは、その立場や境遇に合わせた別の理屈や論理が生じてきて、中にはそれがその人の理屈や論理に反するような理屈や論理になってしまう可能性も出てきて、そうであれば自らの主張に合わない人たちを否定して批判するにしても、そういう人たちが存在している現状は認めざるを得ないし、その人とは違う別の理屈や論理に基づいて活動している実態があれば、その活動が成り立っていること自体も認めざるを得ないし、そういう活動から生じている状況が、その人の思い通りになっていない現状そのものだとすれば、思い通りになっていない現状も認めざるを得ないし、そんな現状を否定的に捉えつつも認めざるを得ないという複雑な態度となる可能性があるわけで、それが現状を肯定して、現状の中でその人の主張に合わない人も肯定することになるのかというと、それを肯定とは言わないにしても、何かそこに込み入った事情や状況がもたらされていることは認めるしかないわけだが、たぶんそうではなく、もっと単純に自分の主張に合わない人を否定していれば、それで済んでしまうような状況になればいいわけだが、それが自分の思い通りになる状況であれば、要するに思い通りにならない現状を否定的に捉えて、その中で自分の主張に合わない人を否定することが、その人にとっての思い通りの現状だと言えるわけで、つまり思い通りになっていない現状とは、その人の主張に合わない人が存在している現状であり、しかも思い通りになっていることとは、その人の主張に合わない人を否定することであり、それをどう捉えればいいかとなると、現状そのものは、その人の主張に合わない人が存在していることで思い通りにはなっていないにも関わらず、その主張に合わない人を否定すること自体は、思い通りに否定していることになるだろうし、それを客観的に捉えるなら、現状の中では思い通りになっていない面もあるが、それを否定すること自体は思い通りに否定しているわけだから、そういう面では思い通りのことができていることになるわけで、結局は思い通りになっていないのに思い通りになっているわけだから、思い通りになっている面は肯定するしかないだろうし、自らの主張を肯定している限りで、その主張に合わない人を否定することが、思い通りに否定することになり、否定している自らは肯定せざるを得ず、それが思い通りになっていない現状のある面を肯定していることにもなるわけだが、なぜそんなややこしい込み入った事態になってしまうのかといえば、単純に自らの主張に合わない人を否定するからそうなってしまうわけで、しかも否定している現状は肯定せざるを得ないし、そうなると何やら頭の中がこんがらがってくるかもしれないが、実際はそんなふうには考えないだろうし、そんなふうには現状を捉えないし、ただ自身の主張とは合わない人が存在する現状の中で、それが自らの思い通りになっていないから、そういう現状を否定的に捉える一方で、そういう自身の主張とは合わない人を否定するだろうし、そうやって否定している自らやその主張は肯定しているわけだが、自らが自身の主張とは合わない人を否定している現状は肯定的に見ているわけで、そういう部分では自身の思い通りの現状となっていて、そんな現状を肯定的に捉えているはずだが、別にそれをややこしいとは感じていないだろうし、別に自らの態度や判断が矛盾しているとも思わないし、それどころか自身の態度や判断が首尾一貫しているとも思っているだろうし、実際にもその通りなのだが、果たしてそれで済むかとなると、ただ主張しっ放しであれば、それで済んでしまうわけだが、そういう態度で押し通せるかとなると、実際に自身の主張と合わない人と直接対峙することになると、そうはいかない可能性が生じてくるわけで、そんなふうにして他人を無視しきれなくなってくると、お互いに譲歩したり妥協したり利害調整を行うような成り行きにもなってくるのではないか。


6月24日「差し障りのある言述」

 言述する上で差し障りのない内容と言えば、誰もが共感できる内容か、あるいは誰もが気にも留めないような内容か、さらには誰もが安心して批判したり馬鹿にするような内容か、他にも色々あるかもしれないが、それらは総じてありふれた内容になりそうだが、では差し障りのある内容となると、その言述を読んだり聞いたりすると、普通の人が平静を失って激昂するような内容かもしれないが、そのどちらでもなく、普通に平常心を保ったまま理解してもらえるような内容になればいいのかもしれないが、そういう内容の言述なら世の中にいくらでもあるだろうし、特にそれがどうということはないわけだが、同じ対象に関して昔言われていたことと最近になって言われていることの違いに関して、その落差が著しく大きいと、何かそれが奇異な印象を伴って不信感を覚えるわけだが、自分のような年代の人間にとって、その典型といえば、政治家の田中角栄の評判であり、昔は金権腐敗の権化のような言われ方をされて、ロッキード事件で失脚した後も、独裁者として自民党を影から操っている「目白の闇将軍」などと呼ばれ、それは現状の安倍首相に対する批判以上の強烈な批判のされようだったわけだが、それが最近はその田中角栄の有力な子分だった小沢一郎の影響もあるのか、なぜか好印象を伴って語られる対象に様変わりしてしまったわけで、また田中角栄に操られて首相になって、「田中曽根内閣」と揶揄された中曽根康弘ですらが、いつの間にか世間の尊崇を集める大政治家のような言われようで、当時の自民党内の派閥政治の中ですぐに勢力の強い派閥につく「風見鶏」というニックネームをもらって、小物ぶりを発揮していた昔の面影など、今や誰も口にしなくなったし、オバマやトランプに媚びるような態度を見せる安倍首相と同じように、日本はソ連の脅威からアメリカを守る不沈空母だ、などと物騒なことを言って、レーガンに媚びていたこともあったのだが、今ならさしづめ、日本は中国の脅威からアメリカを守る不沈空母だ、などという皮肉な言い回しに使われそうだが、結局そういう成り行きを経験してきた自分の感覚からすれば、現状の安倍首相を批判している人たちの存在も、結局は歳月の経過とともに忘れ去られてしまうような気がしてならないわけだが、たぶんそうした言述にも賞味期限があって、特に現状の世の中の情勢に関して、何かメディア経由で世相を評して言われるようなことなどは、大抵は短ければ数ヶ月で、長くても数年後には忘れ去られてしまうようなことなのだろうし、そういうことの類いとして政治家などへの批判も、短期間で加熱するほど短期間で沈静化してしまうようなものかもしれないし、昔から長続きした例しはないのかもしれないが、そういう現象は表面的な成り行きであって、様々な時代においてそういうことが数限りなく言われてきた一方で、それらの言述には共通する一定の傾向があるのかもしれず、それが現状の政治に対する不信感であるのは言うまでもないことだろうが、そこで何かしら政治的な行為が行われている実態があるからには、そうしたことをやらざるを得ない何らかの問題が世の中に生じているわけだろうし、そういう問題に対処するために政治的な行為があるわけだろうが、そういう行為に対して民衆の間で不信感が生じるのは当然のことだろうし、現状でうまくいっていない実態があるから、そこに問題が生じているように思われるわけで、その問題に対処するために政治的な行為が行われて、それもうまくいっていないように感じられるならば、それに対して不信感を覚えるのは当然のことだろうが、そういう不信感とともに政治が行われるのも当然の成り行きだろうし、そうなっていること自体は何の不思議でもないわけだが、民衆の側がそういった不信感をいかに持続できるかが重要なのかもしれず、そういうところではあまり物事を功利的に考えない方がいいだろうし、逆に物事を功利的に考えてしまうと、長い物には巻かれろ式に、いつまでも文句を垂れていないで、働いて税金を納めて国民としての義務を果たせ、などというような、本当は突っ込みどころ満載な訓示を真に受けてしまうのだろうし、本当は働かなくても商品を買えば消費税を取られるし、他にも各種の税金を払っている実態があるわけだし、また働こうとしても事前の書類審査や面接で落とされて、働かせてくれない実態もあるだろうし、また自分で起業しようにも、成功する可能性は万が一にもないだろうし、結局は人の活動というのは、働くという基準から考えれば、一応は金銭を得られる活動と得られない活動とがあって、どちらの活動もやれる限りでやっている実態があるわけで、そのやれる限りでやっている実態の中には、デモなどの政府に対する抗議活動も含まれるわけだから、それも様々な活動の中の一つでしかなく、そういった活動に囚われている人たちにとっては、自分たちが主体的にやっている活動の効果や効力を信じるしかないだろうし、それを信じられなくなってしまった時点で、活動から脱落していくしかなく、実際に活動が沈静化してくれば、その効果や効力に疑問を感じて信じられなくなった人が増えてきた証拠となるだろうが、そういう不信感を覚えさせる要因としては、やはり功利的な誘惑であり、それが何かしら利益に結びつくとは思えなければ、信じられなくなってくるわけで、では功利的な成果に代わるモチベーションは何かと言えば、感情的な怒りとなるわけだろうし、批判する対象を強く許せないと思えば、批判にもそれだけ熱が入るわけだが、それも怒りの感情だけでは熱し易く冷め易いわけで、何か他に信じられる理屈や論理があれば、そういった理屈や論理を維持できる限りで活動していられるのかもしれないが、その活動を持続させる上で必要な合理的な根拠となる理屈や論理を、現状でも誰もが求めているのだろうし、そういう理屈や論理を明確に提示できる人を政治的な指導者として求めるような成り行きもあるだろうし、またそうした指導者の候補となりそうな人たちも、そんな理屈や論理を求めているのかもしれないが、それが主張の段階から実践の段階へと移るには、それだけ多くの人々の支持や賛同が必要となるわけだが、そこへと至るにも、絶えずそれに対する世間の不信感との戦いが待ち受けているのかもしれない。


6月23日「主張の違い」

 普通は何か主張すべきことがある場合は、それを世の中の多くの人々に向かって知らせたいことを主張するわけだろうが、その際にはすでに誰もが知っていることを改めて知らせても意味がないし、世の中の多くの人が知らないことを知ってほしいから、それを知らせようとするわけだろうが、それとは違って世の中の多くの人に支持され賛同されるようなことを主張する場合には、誰もが知っていることをあえて主張して、そういうことを主張して他の多くの人々から共感を得たいということだろうが、それらのどちらがまともな主張かというと、主張する目的が違えばその内容も変わってきて当然だろうから、どちらが良くてどちらが悪いとは一概には言えないのかもしれないが、世の中の多くの人が知らないことを知ってほしくて主張する場合にも、多くの人々から支持や賛同や共感を得たいことには変わりないだろうし、主張している当人はそれを期待して主張するわけだろうが、結果的には支持も共感も賛同も得られない場合もあるだろうし、そうなることを承知であえて主張する場合もあるのだろうが、多くの人の支持や共感や賛同が得られなくても、心ある人ならわかってくれることを期待して、あえて世の中の趨勢に逆らうようなことを主張する場合もあるわけだから、それも主張の目的としてはあり得ることだろうし、特におかしいわけでもないわけが、そういった目的に応じて主張が異なってくることが何を意味するのかというと、世の中で主張する人の立場や境遇が異なっているから、その主張にも違いが出てくると考えれば、それは極めて当たり前のことになってしまうわけで、それ以外の意味などないようにも思われるわけだが、中には自身の立場や境遇を超えて主張したいことも出てくるだろうし、そうなるとより普遍的な主張になるのかもしれないが、普遍的な主張であれば肯定できるとも限らないし、世の中に出回っている様々な主張の中には、普通に肯定や否定の対象となる主張もある一方で、どちらでもない主張やどちらとも言えないような主張もあるだろうし、そういう主張なら特に世間的な話題になることも物議をかもすこともないのかもしれないが、その反対にわざと世間的な話題となることを狙って、物議をかもすようなことを主張する輩も出てくるわけで、それが俗に言う炎上商法なわけだが、そういう主張をする人はあらかじめ世間の反応をある程度読んで、賛否両論が巻き起こったり良識ある人たちから顰蹙を買ったり、反感を抱かれるようなことをあえて主張するのだろうし、実際にそういう現象が起こっている時点で、世の中の多くの人が知らないことを知らせようとしているわけでもなく、また多くの人の支持や共感や賛同を得られなくても、心ある人ならわかってくれることを期待しているわけでもなく、単に世の中の多数派を占める一般大衆なら誰もがわかっていることをあえて主張しているわけで、そうであるならそういうことを主張する側も、ある程度は世の中のどういう人たちが共感して賛同してきて、どういう人たちが眉を顰めて拒否反応を起こすかの見当がついているわけで、そうなることを承知の上で主張するわけだから、要するにそれは主張の内容についての賛否をはっきりさせて、対立を煽るようなことをやっているわけで、それこそが煽動そのものなのだろうが、煽動が目的でそういうことをやるのは、倫理的な態度よりは功利的な態度を優先させているわけで、もちろん倫理と功利とを対立する概念と捉える限りでそうなるわけだが、なぜそうやって功利的に振る舞おうとするのかといえば、倫理的な態度を信じられないからかもしれず、あるいは嫌悪しているのかもしれないが、倫理的な態度になることが、功利的な思惑に逆らうことを意味するだろうし、そういう意味で倫理的な態度とは何かというと、自らの利害を度外視して社会の中で他の人や団体と接することであり、自身の社会的な立場や境遇を超えて主張することでもあるわけで、それが普遍的な態度であり普遍的な主張となるのかもしれないが、そういう態度や立場を肯定できるかといえば、自身の利害にこだわっていれば肯定できないだろうし、また自身の利害を度外視すれば肯定できるわけだろうが、それが良いか悪いかというと、自身も普遍的な態度になれて普遍的な主張ができれば肯定できるだろうし、そういう態度にはなれずにそういう主張ができなければ肯定できないわけだが、たぶんそれは誰もが承知していることではなく、逆に功利的な煽動者が世間的な支持や共感や賛同を集めるような世の中では、そういう風潮を不快に思う人たちが、世の中の多くの人々に向かって知らせたいことでもあるのかもしれず、そういう世の中の風潮に逆らうことが普遍的な態度であり、誰もがそういう態度になろうと呼びかけることが普遍的な主張になる可能性があるのかもしれないが、果たしてそういう主張が世の中の多くの人々から支持や共感や賛同を得られるかとなると、それだけでは物足りないのだろうし、世の中の風潮に逆らうだけでなく、積極的に行うべきことを示せるかが重要となってくるだろうし、では果たして世の中で具体的に何を行えばいいのかとなると、自身の利害を度外視して活動すればいいのかもしれないが、具体的にそれがどういう行為になるのかというと、それが言葉ではうまく表現できないようなことなのかもしれず、それを態度で示すとか、それが活動内容から滲み出てくるように感じられるなら、それが普遍的な活動になるのかもしれないが、それも個々のケースによって異なってくるのかもしれないし、一般的に言って、普遍的な活動とそうではない活動との間にはっきりした差があるとは認識できないかもしれないが、活動のある面では普遍性を感じられるとしても、別の面ではそうは感じられないような活動もあるのかもしれないし、そういうところで全面的な普遍性にこだわる必要もなく、できる範囲内でなるべく活動に普遍性を持たせるように努力するしかないのかもしれないし、それに関してはそれとは逆のケースを考えてみれば、自ずからそういう傾向がわかってくるのかもしれず、要するに執拗に自らの利害にこだわるようなことをやるのは、少なくとも普遍性からはかけ離れているだろうし、あるいはちょっとしたことで執拗に相手の落ち度を責め立てたり、その延長上で他人に厳しく自らに甘い態度をモットーにしているようなら、やはりそれは功利的な態度であるだろうし、ではそういう態度を回避するにはどうしたらいいかとなると、その人にはどうしようもできない立場や境遇もあるのかもしれないが、無理のない範囲内で試みるべきとしか言えないようなことであり、それほど厳しく身を律する成り行きにならないように心がけるしかないのではないか。


6月22日「はっきりしない事情」

 厳密に言うなら経済的な利害関係は単純な損得勘定から成り立っているわけではないだろうし、世の中の資金の流れを完全に網羅するような関係図などを作成してみないことには、全体としてどうなっているのか把握しようがないだろうが、たぶんうまく作成できないだろうし、そういうことをやろうとしても、途中のどこかで帳尻や辻褄が合わなくなってしまいそうだが、そういうところで陰謀論などの幻想を抱いてみても始まらないのかもしれないし、それに関する認識や理解はいつも部分的な範囲内に限られてしまい、全体としてはよくわからないところがあるわけだが、よくわからないだけに、誰かがどこかで悪どい金儲けをやっているようにも思われてしまうだろうし、そういうところの真偽は定かでないにしても、それが作り話であろうとなかろうと、何となくそんな話を信じてしまうような成り行きがあるのかもしれず、そういう否定的な面をなるべく排除して、普通に物事の生産と流通と販売と消費などの関係から資金の流れを考察しようとすれば、大まかではあるが何がどうなっているのかに関して、それなりの理屈がわかってくるかもしれないのだが、果たしてそこから政府の財政赤字などがかさんでしまう原因が、構造的な問題なのか、あるいは陰謀論などでよく見かける悪者扱いされるような犯人が特定できるのかがわかればいいわけだが、とりあえず現状でははっきりしたことはよくわからないだろうし、それでもその手の批判者としては悪者扱いできる犯人を特定して、それを排除できれば健全な財政運営が成り立つかのようなことが主張できるかもしれないが、果たしてそれでいいのかどうかは何とも言えないところであり、その辺のところがはっきりできればいいわけだが、少なくとも普通に考えて、単純な材料費や人件費などから割り出される価値と、それらを費やして提供される物や情報やサービスなどの価値が同じであるはずがなく、それに関して極端な例を挙げるとすれば、例えば同じ材料費と手間暇をかけて油絵でも描いたとしても、素人が描いた絵に価値があるとは思えないし、その大半は価格がついた商品にさえならないだろうが、著名な画家が描いた絵には高いものでは数十億円以上もの価値がつくこともあるだろうし、そういうは日常ではあり得ないような極端な事例でしかないとしても、普通に行われている労働の価値にしても、どのような労働に対してどれほどの賃金を払うかは、中には明確な規定や基準があるかもしれないが、そうした規定や基準の根拠も特に合理的なものではなく、ただ他との比較で慣習的に決めている面もあるわけで、また一定の利潤を出すにはどれほど賃金に抑えなければならないかが決まってしまい、労働の内容というよりはそういう面で賃金が決まってしまえば、例えば物や情報やサービスなどの売買の際に、どこかの産業分野でぼったくりなどによって過剰に利益を得ることに成功すれば、そこで多額の資金が吸い上げられて、そのしわ寄せが他の産業分野に波及して、結果的に安い賃金しか得られないような分野が生じてしまうかもしれないし、そうなると低賃金で長時間労働などの産業分野が生じてしまう可能性があるだろうし、それもぼったくりなどではなく、単なる需要と供給の関係から自然に価格が釣り上がってしまう面もあるわけだから、そうやって安く作って高く売れた結果を、不当に暴利をむさぼっているとは言えないし、そういうところで倫理的にどうこう言えるような成り行きにはならないだろうし、そういう面では利潤を追求する功利主義に倫理を求めることはできないわけだが、また特定の企業が生産過程を機械化して自動化することで人件費などのコストを削減できれば、それと競合する同業者や場合によっては他の産業分野で働く人たちの賃金にも影響が及ぶだろうし、そんなふうにして働いて賃金を得て生活していること自体は、世間的には肯定的に見られるだろうが、それで働いている内容に妥当な価値が付与されているわけではないだろうし、要するに分相応な報酬と分不相応な報酬との間に、はっきりした差があるとは言えないわけで、他と比べて極端に高い報酬を得ている人がいても、それに関してちゃんとした計算できる基準があるとしても、その基準の根拠が妥当かどうかはよくわからないわけだが、実際に他と比べて極端に高い報酬が払われている実態があって、その報酬を払っている関係者もそのことに納得していれば、それで問題はないのかもしれないが、そこではそうであっても、そういうことが行われている実態が、他の分野にどのような作用や影響を及ぼしているかまでは配慮する必要はないだろうし、そんな配慮が倫理的に求められているわけでもなく、たとえそういう産業分野において莫大な額の資金が世の中から吸い上げられていて、またその事実が世間の人々に及ぼす心理的な影響も計り知れないものがあるとしても、だからと言って合法的にそういうことが行われている実態があれば、それをやめさせるわけにはいかないわけで、実際にはそれに起因する社会的な弊害が政治的にも行政的にも無視できなければ、法整備などを通して何らかの規制措置が講じられるわけだろうし、その典型的な例としてはEUなどによるグローバルIT企業への規制が有名だろうが、果たしてそういう高度な判断がそう何度も各国の政府にできるかといえば疑問だろうし、そういう規制措置の妥当性に関しても、その結果がどうなったかについて、そんなに詳しく検証されているわけでもないだろうし、そういう面で、それが正しいやり方であるか否かについて、はっきりとした妥当な根拠や理屈があるわけでもなく、ただ場当たり的にそんな策が講じられているに過ぎないだろうし、本当のところはよくわからないのかもしれず、そういう面ですぐに簡単な損得勘定など基にして、その対象となっている特定の人たちや団体を悪者扱いするのは、拙速に過ぎないことかもしれず、特にそれが公的な制度に基づいた対象になると、その制度自体の改革を訴えるならまだしも、制度の恩恵を受けている人たちを悪者扱いするのは、ちょっと論点がずれているだろうし、そういうところでおかしな理屈や論理を持ち出して煽り立てるような人がいれば、そういうのは何か別の面で問題となっている事態から争点を逸らすためにそんなことをやっていると見られても仕方がないところであり、金銭的な損得勘定以外でも、例えば専業主婦などの家事や育児はタダ働きでやっているわけだから、たとえ年金を払う額ともらう額が一致しようと一致しなくても、そのタダ働きの分が考慮されていないわけで、そういう部分で単なる金銭的な損得勘定では割り切れない面が出てきてしまうわけだ。


6月21日「同時並行的な現象」

 何かが計画的に行われることに関して、実際に計画通りに事が進むと、計画に携わった人たちは安心できるだろうが、確実にそうなるかというと、結果的にそうならない時もあるだろうが、そうなるように努力することになるわけで、計画を実現するにはその計画の規模が大きくなるほど、多くの人や団体がそれに関わってくることになるだろうし、それらの人や団体にとっては、計画を実現させることが目的となり目標となるわけだが、確かに仕事などの面ではそうなるとしても、それ以外にも生活の隅々にまで計画的に行うような動作が入ってくると、それだけ気まぐれに自由に振る舞える余地がなくなってきて、窮屈な思いをすることになるだろうが、それも慣れてしまえば、それが当たり前のように感じられるのかもしれず、そんなふうに様々な計画に取り囲まれて生きている人には、計画通りに事を進めようとすることからくるストレスに苛まれることもあまりないのかもしれないが、それも計画の内容にもよるだろうし、それなりに財政的にも時間的にも余裕のある計画を組めれば、それほど心理的に追い込まれることもないのかもしれないし、また比較的容易に達成できるような計画であれば、それだけ楽な気分でいられるかもしれないし、さらにたとえ計画通りに事が進まなくても、そして最悪の場合、計画が頓挫したところで大して物質的あるいは精神的な痛手を被らないようなら、なおのこと気楽になれるだろうが、そんなどうでもいいような計画だとやりがいが感じられなくなってしまうのかもしれないし、それがどういう内容の計画になるかも、その場の状況に左右される面もあるだろうが、少なくとも世の中で何かを計画的に行わなければならない状況が生じていること自体が、それに関わっている人々が集団で組織的に活動することを強いられていて、それに関してはそもそも人の文明的な活動としては、太古の時代の巨石文明の頃から、集団による組織的な活動が行われてきたわけだから、そんなことからも人類の文明には何かを計画的に行う団体の存在が欠かせないことがわかるわけだが、もちろんそのことの良し悪しではなく、そういう前提を受け入れた上で、例えばそういう活動に関係する人たちの心身両面でのストレスを緩和することが課題となってくる場合もあるだろうが、そういう大雑把な問いの立て方をしてしまうと、何やら社会主義的な思考形態となってしまうだろうし、そうなるのも避けられないことかもしれないが、それとは違って例えば、いかにその手の計画に囚われないように生きていけるか、と考えるのは、そういった計画に関わってストレスを感じている人が考えるようなことであるだろうし、また計画に囚われない自由な暮らしを求める人にも、そういう傾向があるのかもしれず、そういう人は、そういう暮らしを実現するには何をどうすればいいか、と問うかもしれないが、その何をどうすればいいかとということ自体に、それを実現させるための計画が生じてきてしまうわけで、計画的に計画的な生活から逃れるような自家撞着が生じてしまうだろうが、その一方で、他の人たちが計画的な活動を行なっていることが前提となる面も含まれてきて、世の中の全ての人がそうした活動から逃げてしまえば、文明そのものが崩壊してしまうから、そんなことはあり得ないのかもしれないが、成り行きとしてそうはならないところがあるわけで、その実態としては、そこに集団で計画的な活動を行う必然性が生じているのと同時に、計画に囚われない生き方を模索する人も出てくるわけで、そういう意味で人の活動というのが、絶えず相反する複数の活動が同時並行的に行われるような成り行きになるのかもしれないし、その同時並行的な複数の活動の中のどれが良くてどれが悪いかを評価しようとする前に踏まえておかなければならないことは、それらが互いに関係し合っているということであり、関係しているからこそ、対立したり連携したりする可能性が出てくるわけだが、対立するとなると、当然どちらが良くてどちらが悪いかをお互いに主張し合うわけだが、それも両者が関係し合っている中で主張し合うわけだから、良い面と悪い面がつながっている可能性があるわけで、そうなると言葉では何とでも言えるものの、良い面と悪い面を物理的に切り離すことができない可能性も出てくるわけで、それ以前に良い面と悪い面が同時に存在している実態があるわけだから、どちらかが一方的に良くて、どちらかが一方的に悪いということにはなっていないわけだが、対立していてお互いが批判し合うような成り行きになると、それに伴って生じる言説として、そういう良し悪しを決めるような主張が生じてきてしまい、そうなるとそういった言説を伴った批判自体が、実態を反映していないことになってしまうのかもしれないが、そういうことに気づかないと、そういった実態を反映しない批判が空回りしてしまい、批判としては機能しなくなってしまうのかもしれないが、別に機能しなくても構わない状況もあり得るわけで、言説の内容を実現するようには機能しないとしても、別の面で機能している可能性もあるわけで、それがあえて批判させることによって、批判対象が存在することから生じるストレス発散や批判対象へのくすぶっている不満のガス抜き効果として機能することでもあり、そういうこともそこで行われている活動に伴って同時並行的に生じてくるわけだから、一方的な良し悪しの決めつけでは捉えきれない面として、良いとか悪いとかいう判断や評価を揺るがすようなことが起こっていて、そういう現象によって両者の関係やつながりを保とうとするわけだが、それが単純な判断や評価を伴った言説では表現できないところかもしれないが、批判そのものを維持するにはそういった単純な判断や評価がまかり通っている方が好都合な面もあるわけで、それに対する良し悪しを伴った批判自体も、それらの活動に伴って生じていることであり、対立を維持するにはそういった批判が必要になってくるわけだが、それと同時に連携する必要も生じてくると、またそれとは違った言説が必要となってくるのではないか。


6月20日「立場の違い」

 何か信用できそうな理屈や論理を用いた物事の合理的な説明は、そうした理屈や論理では説明できない物事を除外した上で説明しているわけだが、意図的に除外しているのかというと、そうでもありそうでそうでもないような、個々の事例によって異なるのかもしれないが、ではそういった理屈や論理では説明できないことをどうやって説明するのかといえば、それとは違った理屈や論理を用いて説明できるかもしれないし、そうなると特定の理屈や論理を用いて説明できる物事と、それとは別の理屈や論理を用いて説明できる物事とが、それぞれに異なった分野に属する物事として分類されるわけだろうが、そうやって分野ごとに異なった理屈や論理が当てはまれば、それで問題ないように思われるかもしれないが、各分野を超えた説明が必要となった時に、個々の分野ごとの理屈や論理ではうまく説明できなくなるわけで、それに関してはそうした分野を超えるレベルで通用する理屈や論理があれば、その理屈や論理を用いて説明できるわけだが、それで問題なければそれに越したことはないように思われるだろうが、各分野ごとで通用する理屈や論理と、それらの分野を超えたレベルで通用する理屈や論理があればいいということになると、果たしてそういう理屈や論理に普遍性があるかというと、特に各分野を超えたレベルで通用する理屈や論理があれば、それが普遍性を持った理屈や論理だと言えるかもしれないが、それが個々の分野では通用しない理屈や論理となれば、やはり普遍性があるとは言えないのかもしれないし、そういう意味では物事の説明に使われる理屈や論理に普遍性があるとは言えなくなってしまうのかもしれないが、もちろん具体的に理屈や論理の内容を述べていないので、それはあくまでも仮定の話でしかないわけだが、別に普遍性があろうとなかろうと、物事をもっともらしく説明できて、その説明に説得力を感じられるようならそれで構わないだろうし、そういうことと普遍性があるかないかは別問題でしかないのかもしれないが、では説明の対象となる物事自体に普遍性があるかとなると、異なる複数の分野の複数の物事に共通した面があれば、そういった面には普遍性があるように思われるだろうし、そんな様々な物事に宿っている共通の面を説明できれば、その説明にも普遍的な面があることになるのかもしれず、そうだとすれば普遍性や普遍的な面というのは、様々な物事やその説明の中にある部分的かつ一面的な共通点になるのかもしれないが、それが物事やそれに関する説明の全てではなく、それとともにその物事やそれに関する説明の中にある固有の傾向や特徴が興味深いわけで、それらをまとめた説明になると、様々な物事の共通点や類似点をあげる一方で、個々の物事に固有の特徴や傾向なども説明することになるわけで、そこから言えるのは、世の中に存在する様々な物事には普遍的な面と特殊な面とが共存していることになるわけだが、その普遍的な面から言えることと特殊な面から言えることが噛み合うとは思えないし、それに関して例えば、特定の人物やその人が行なっていることを批判する際に使われる理屈や論理が、普遍的な面に関することであり、それに対してその人物やその人の支援者たちが、その人物やその人の行為を正当化するために持ち出してくる論理や理屈が、特殊な面に関することであれば、両者の主張が噛み合わなくなるわけで、もちろんわざと噛み合わないような反論を行う場合が多いのかもしれないが、そうでなくても批判する側は、なるべく批判内容に説得力を持たせて、他の多くの人たちに支持してもらいたいから、普遍的な理屈や論理を持ち出してくるわけで、それに対して批判の対象となるような人や団体となると、そういった不特定多数の人々ではなく、自分たちと共通の利害関係にある仲間たちから支持してもらえればそれで構わないわけで、だからそういった仲間たちの間で支持されるような特殊な理屈や論理を持ち出してきて、仲間たちの支持を得られるようなことを主張してくるわけで、だからそういった人たちにしてみれば、別に批判してくる人たちに支持される必要はなく、むしろそういった批判者たちとは敵対関係にある方が、仲間たちの間では信用されるだろうし、そこから変節して下手に普遍的な理屈や論理に賛同して、批判者たちと同じような主張になってしまうと、今度は仲間たちから裏切り者扱いされてしまうわけで、そういう面で批判する側とされる側とでは、それなりに立場の違いが生じているだろうし、そんな立場を超えてお互いにわかり合ってしまえば、両者にとって不都合な事態になってしまうのかもしれず、そういうところで両者の立場を分かつのは、普通に考えれば功利的な利害関係となるわけだが、ではそういった功利的な利害関係を超えた関係を築けないのかというと、それが倫理的な友愛関係となるのかもしれないが、そういう関係に至る条件としては、利害関係がどうでもよくなってくる時だろうし、なぜどうでもよくなってくるのかといえば、それはお互いに共通の敵が生じれば、その敵に対峙している間は、同盟関係を維持できるのかもしれないし、そうであるなら戦略的に共通の敵をこしらえあげるような動作も起こるのかもしれず、それが国家主義的な面では隣国との紛争になるだろうし、隣国との対立を煽ることで国内の対立を沈静化させるようなことが行われる場合もあるのだろうが、それがどこまで有効かとなると、国内を知性よりも感情の方が優っている状況に持ち込めば、それなりに戦略が有効に機能する場合もあるだろうが、相対的に隣国との対立より国内の対立の方が身近で切実に感じられるようなら、まずはどちらの対立を優先させるべきかに関して知性が働くだろうし、また対立そのものに関して、対立をどのように解決すればいいかに関しては、感情よりも知性よりも理性が働いてくるのかもしれず、そうやって感情だけに囚われている場合だと、ただ対立を煽って、対立すること自体にストレス発散の捌け口を求めるだけにとどまるが、それ以上を求めるなら知性や理性が必要となってくるわけだが、果たしてそれらが必要なほどに切実で真剣な心境になれるかとなると、日頃から物事についてまともに考えなくても通用していれば、そんな心境には至らないだろうし、大抵は憂さ晴らしや気晴らし程度の心理状態で世の中の物事に接していれば、知性も理性も不要になってしまうのではないか。


6月19日「改革の結果」

 社会の中で何らかの勢力や団体が、人の活動の全てを制度化できるわけでもないだろうが、現代の世の中で支配的な制度形態となっている国家と資本の論理からすれば、なるべく多くの人々をそれらの制度に囲い込んで、人々が制度に囚われた状態に保とうとするわけで、実際に囲い込んでおいて、その制度がうまくいかなくなれば、制度に囲い込まれた人たちから文句や苦情が出てくるのは当然のことだが、うまくいかなくなった制度を改革する機運が高まっても、改革によっても制度に囲い込まれた人たちが損害や損失を被るようなら、やはり文句や苦情が出てくるのは当然のことだが、それでも制度を維持運営している側が、制度を改革しないことにはどうにもならなくなれば、何らかの機会を捉えて改革することにはなるだろうが、改革がうまくいくとは限らないし、うまくいかなければ、やはり制度に囲い込まれた人たちが損害や損失を被ることになるのだろうが、それでも全てにおいてうまくいかないわけでもなければ、制度が実際に破綻するまではそれなりに存続することになるだろうし、存続している限りは、制度から恩恵を受けている面もそれなりにあるのかもしれず、実際に制度から恩恵を受けている人たちは、制度を管理運営する政府なり企業なりを支持することになるわけだが、制度に不満がある人たちは当然のことのように政府や企業を批判するだろうし、そういう批判を踏まえて制度が改革される成り行きになる場合もあるかもしれないが、改革しようにもできない場合もあるだろうし、また改革してもうまくいかない場合もあるわけで、それぞれの場合に応じてそれなりの事態や成り行きになるわけだろうが、制度にも様々な内容と傾向があるだろうし、必ずしも制度を利用する人の全てに恩恵がもたらされるわけでもない場合もあるわけだが、実際に政府が管理運営する公的な制度ともなれば、その利用者の全てに何らかの恩恵がもたらされるという理屈に基づいた制度となっているわけだが、恩恵が少なければそれでも文句や苦情が出てくるだろうし、もっと多くの恩恵をもたらすように政府に要求してくる人も少なからず出てくるかもしれないが、それが理屈の上でもうまくいかないことがはっきりしてくると、やはり改革するしかないということになるのかもしれないし、改革の方法や内容を巡って議会などで議論が交わされることにはなるだろうが、結果的に出てくる改革案は制度を管理運営する側の都合が反映されたものになるだろうし、そうなると批判する側にとっては不満が残る案に落ち着くのだろうが、そういう改革ですらも制度に則って行うような成り行きになるわけで、制度に関しては制度的な範囲内でしか改革や変更ができないような仕組みになっていれば、そういう制度が世の中の変化に対応できないような仕組みになっていると、改革しようがなくなってしまう場合もあるわけで、そうなるとその制度の他に、新たに別の制度を作るような成り行きにもなるのかもしれないし、しかもそれでも今までの制度を廃止できなければ、今までの制度と新たに作られた制度との関係が複雑に入り組んでくることにもなるわけで、さらにそういうことが繰り返されると、世の中に様々な制度が張り巡らされて、各制度間の相互作用などが複雑に絡み合って、どんな制度がどれだけ世の中に作用や影響を及ぼしているのか、その実態をつかみきれなくなってくるのかもしれないが、現状でもそうなっているのだろうから、その中の一つの制度だけに焦点を絞って、その制度だけを改革しようとしても、他の制度との兼ね合いから、あまり効果を期待できない面が出てくるのかもしれず、しかも全ての制度を抜本的に改革するのは容易ではないだろうし、無理にそういうことをやろうとすると、世の中が混乱して、かえってそこから生じる弊害の方が大きくなってしまうことだってあり得るだろうし、そういう面を考慮するなら、あまりその手の改革には期待できないのかもしれないが、そうであるならそうやって社会を無数の制度でがんじがらめに縛ろうとするのではなく、逆に制度の縛りを緩めて弱体化させるような方策が求められることにもなるのかもしれず、たぶんそれも一律の規制緩和ということとは違う傾向が求められるのかもしれないし、またそういうことを具体化する段階でうまくいかなくなってしまう可能性もあるだろうし、そういうことを実際にやってみないことには結果が伴ってこないわけだが、その結果も思惑通りであったり満足できるようなものとはならないかもしれないし、そういった当てが外れたり想定外の結果となってしまうことを行なった方が、かえって結果的に予定調和の現状を打破できるのかもしれないが、思惑通りにもならないということは、それに伴って大変な混乱をもたらすかもしれないが、そうした混乱の中から世の中の新たな可能性が生じてくるのかもしれなし、結果的にそうなるとしても、少なくともそんなことをやろうとする勢力は、まずは思惑通りになるようなことをやろうとするわけで、それに伴って人々の支持を得られるようなもっともらしい理屈や論理に基づいた主張をするだろうし、それが公的な政治の領域でなされる主張ならば、やはりそういったまともな主張をする勢力を支持した方がいいはずだが、実際にそういう成り行きになれば、そういう勢力が民衆の支持の後押しを受けて政治的な主導権を握って、自分たちの主張に基づいた改革を行おうとするのだろうし、それが多数の民衆の支持を背景として行われることになれば、民主主義の理想にも適っているわけだろうが、たとえそうなったところで、それらの勢力の思惑通りの結果がもたらされるとは限らないだろうし、むしろ思惑とは正反対の結果がもたらされてしまうケースの方が多いのかもしれず、それはそういった面における過去の歴史的な経緯が知らせていることでもあるわけだが、それで構わないといってしまうと、思惑通りの結果を目指して改革を行なった勢力や、それを支持した民衆の期待を裏切ってしまうことにもなるわけだから、構わないわけがないのだろうが、たとえそうであっても実際にそうなってしまった結果が積み重なって、世の中が変化してきたわけだから、そういった勢力を支持するにはそれなりの覚悟が必要となるだろうし、民衆の側で期待を裏切るような結果がもたらされてしまうことも受け入れる覚悟がないと、そういった改革を目指す勢力を支持する成り行きにはならないのかもしれない。


6月18日「宗教と思想」

 宗教的な思想とそうではない思想との違いは、特にはっきりした違いはないのかもしれないが、とりあえず神なしで理屈や論理を構成している思想は、宗教とは無関係に思われるかもしれないが、神と同じような働きをする概念を思想の核として持っていれば、やはりそれは原理的には宗教的な思想と同じような内容に感じられるし、その辺が宗教とそれ以外の思想との間で見分けがつきにくいところでもあるのだが、元々は宗教から派生して、ある時期を境にして、神なしでも理屈や論理が成り立つような思想へと変容したものもあるのかもしれず、そういう面でも神のあるなしで内容の善悪を判断するようなことには、あまり説得力を伴わない場合があるだろうし、その思想が神の存在を核としていようといまいと、まずは個々の思想の内容で判断するしかないだろうし、またそういうことも含めて様々な思想について、その善悪や良し悪しを判断する必要もない場合もあるのかもしれず、その辺もその場その時の状況に応じて、利用できたり参考になるような思想があるかもしれないが、そういう意味でも思想全般に関しては、あまり一方的に否定したり肯定するようなことにも、そういった論調には与しない方が、それなりにバランスのとれた認識や判断に至れるのかもしれないが、では他に何か判断基準となるような指標があるかとなると、例えばその思想に倫理的な傾向があるなしに関して、他者への配慮がある思想なら倫理的な傾向が強いと言えるだろうし、逆に配慮の薄い思想だと、その傾向が弱いと言えるのかもしれず、そこから判断できるのは争いを好まない傾向があれば、それだけ他者への配慮があって、倫理的な傾向が強くなり、逆に争いを厭わなければ、争いに勝利して自らの利益を確保するような功利的な傾向の強い思想となるだろうが、それもその場の事情によって、本来は争いは好まない姿勢だったし、そんな内容の思想だったのが、後から争う必然性が生じてしまうと、方針転換して争いを正当化するような内容を後付け的に加えてくるような事態になることもあるだろうし、そうなると思想の内容に矛盾や不合理が生じてしまうわけだが、それが宗教的な傾向の強い思想だと、神を利用して辻褄を合わせるようなことをやってくるわけで、そうなってしまった思想だと、その内容の中に倫理的な面で肯定的な面と否定的な面とが共存しているような具合となってしまうだろうし、果たしてそれがひとまとまりの思想と言えるか疑問を感じてしまうわけだが、それが宗教であればそれなりに納得がいくわけで、神への信仰の下では、善良な隣人への愛と、悪とみなした対象を退ける面とが共存できるわけで、それが元々は汝の敵でさえも愛するような全方位的な態度だったのかもしれないが、時が経つにつれて思想の内容にも変容が伴うのは当然のことであり、それに対する態度としては、そういう思想に心身ともにのめり込むのではなく、ある程度は距離を置いて中立的な立場を取れる余地を残しておかないとまずいのかもしれないし、その余地のない人たちは戦闘的なイデオロギーで理論武装することにもなるのかもしれないが、果たしてそれが理論武装かと言えると、実際の活動に合わせて思想の内容も変わってくるのだろうし、結局は行なっていることを正当化するような思想になるわけだが、そうだとするとまず初めに思想ありきというわけではなく、まずは活動ありきで、その活動を正当化するような思想を後付け的に加えてくるような成り行きになってしまうわけだから、それを他の関係のない人たちが利用できるかというと、利用できる面があるにしても、自分たちの都合に合わせて思想内容も変えるようなこととなってしまうのかもしれず、そうなると思想自体が切実なものではなく、単に自分たちの活動に箔をつけるために利用しているだけとなってしまい、思想そのものの存在意義もそれだけ薄れてきてしまうだろうし、それがどうでもいいようなものではないとしても、やはり思想本来の力が限られた範囲内でしか発揮されないようなものとなるしかないだろうし、それとは違って本来の思想というのは、その思想に出会ったことによって、その人の生き方や人生が根本的に変わってしまうような力を宿したものが、本来的な意味での思想と言えるだろうし、それはある意味では宗教にも言えることかもしれないが、そこで思想と宗教の違いは何かとなると、お互いに混じり合っている面もあるかもしれないが、思想から宗教へと変容してしまう面もあるのかもしれないし、また思想が宗教に取り込まれてしまう成り行きもあるだろうし、さらに宗教の中で独自の思想が生じてくるような成り行きもあるわけで、そうした思想によって宗教から別の宗教や宗派が分派してくるような成り行きもあるわけだが、それが宗教改革になれば、宗教が思想によって活性化することにもなり、そうした活性化によって社会も変容してきて、そこから時代が変わるような成り行きにもなってくるわけだが、現代においてそれほど宗教が大きな影響力を持っているかといえば、イスラム教以外ではその可能性が少ないように感じられるだろうし、またイスラム教に関しても、それが宗教として活性化される可能性は少ないのかもしれず、どちらかといえばその衰退によってイスラム社会が変容を被る可能性の方が高いのかもしれないが、そういう成り行きとは違って、例えば現状で宗教だとはみなされないような主義主張に関して、近い将来それが宗教と認識されるような事態にでもなれば、そこで時代が変わる可能性があるのかもしれず、果たしてそれが宗教だとみなされて過去の遺物扱いされるかどうかは、現状ではあり得ないことだと思われるかもしれないが、一方でその主義主張は思想だとも思われていないだろうし、さらにそもそもそれを主義主張とみなすのも何か違和感があるような代物ではあるわけだが、それらが現代人の生活に直接関わってくるものであるだけに、それとの距離感も取れないし、中立的な立場にもなれないような対象であって、それだけ身近で距離感なしに食い込んでくるようなものなのだが、それが資本主義と国家主義の混合物ような概念であるわけで、それだけ現代人にとって把握しにくく厄介な代物に直面しているわけだが、それについて少なくとも言えるのは、その特徴としては比較的倫理的な傾向が薄く、それに反比例して功利的な傾向が強まってくるような傾向があるのではないか。


6月17日「知の活用」

 世の中では様々な物事が複雑に関係し合っていて、そんな状態を把握するのが困難な場合があることは確かだが、中には単純極まりない理屈で把握しても構わないような物事もあるかもしれないし、また自分に関係のない物事なら、別に詳しく正確に知る必要もないのかもしれないし、関係のある物事でさえ詳しく正確に知っているとは言えない場合もあるだろうが、意識してそんなことを知っていようといまいと、別に今まで通りの判断で大丈夫なら、改めてそんなことを知る必要も考える必要もないわけだが、物事を知るということはそういうこととは別に、これから活動していく時の判断材料として、そういった物事に関する知識が役に立つこともあるのかもしれず、もちろん知っているだけでは何の役にも立たない場合もあるだろうが、また役に立つとか立たないとかいうのとは別に、何かを知ろうとすることが、その人の生きがいになっている場合もあるだろうし、世の中にはそんな好奇心旺盛な人ばかりいるわけではないとしても、何かを知ろうとすることが、そのままその人に活動につながっていくような成り行きもあるだろうし、実際に興味を抱いた物事について知ろうとすることが、その人が進もうとする方向を決めるような可能性もあるわけで、そういう意味でもまずは知りたいことを知ることが肝心なのかもしれないが、何を知ろうとするにしても、それ以前に知っていることが先入観となってそれが邪魔をして、なかなかまともに知るに至れない場合もあるだろうが、意識して知ろうとしなくても、勝手に知ってしまうこともあるだろうし、また苦労して考えてみないと知って理解するに至らないこともあるのかもしれず、そういった経験から物事を知ることにも様々な程度と傾向があることを知るに至るはずだが、それが知っていることの全てとは言えないにしても、少なくとも知っていることを利用して主張する内容のほとんどが、何を語っても同じような程度と傾向になってしまうようだと、そうした主張には奇異な印象が伴ってきてしまうわけだが、それを奇異な印象だとは感じないで、そう語るのが当たり前のような感覚で、そういった主張に同調する人たちにとっては、それ自体が何でもないことかもしれないが、大抵はそれと意識せずに知ったことに想像や憶測を織り交ぜながら語るような場合に、そういった傾向を伴うことが多くなってくるかもしれず、何か多くの人々に知れ渡っている内容自体が、信じ込ませるための見せかけ罠であり、その裏に知られてはまずいような事の真相があるかのように語ってみせるのが、そういった人たちが使う常套句となっているわけで、果たしてそれで何かを知っていることになるのか疑問に思われるわけだが、そういうのは普通は人を驚かすために使う芝居がかった演技の部類に入る表現だろうし、主張している内容のことごとくがそればかりだと、そういう演技が見え見えの主張を真に受けるわけにはいかないだろうが、日頃からそういう主張に慣らされている人にとってみれば、何かを主張するとはそういうことだという固定観念に囚われてしまっているのかもしれず、実際にそういう人たちは何を語らせても、一般の人たちには知られてはまずいようなことが、一般の人たちに向けられて語られるわけだが、そんな人たちに言わせれば、常に政府寄りの人は嘘をついていることになるだろうし、またそれと一緒になって政府の宣伝機関と化したメディアも、国民に向かっていつも嘘をついていることになるわけで、そしてそんなことを主張する人たちが、部外者的な立場なのになぜか事の真相や真実を知っていて、それを無知な一般人に向かって暴露する成り行きになるわけだが、果たして本当にそうなのかというと、とりあえず宣伝や煽動などのやり方としてはそういうのがわかりやすいし、その内容が面白かったり興味深ければ、信じてもいいような気分にはなるわけだが、その際に内容を信じることと内容が真実であることは、とりえずは結びついているとみなしても構わないだろうし、またたとえ内容が真実でなくても信じても構わないわけだが、それはそれとして、それとは異なった成り行きがあっても構わないだろうし、その成り行きというのが、ただ単に普通に世間に知れ渡っていることが真実であっても構わないわけで、わざわざそれらの人たちに教えてもらって、事の真相を知ってびっくりしなくても、自分で普通に知ったことが真実だと思っていても構わないだろうし、また事の真相や真実だと見なされるような内容が世の中に見当たらなくても、真実であるかどうかもわからないことであっても、単に世間に知れ渡っていることで間に合ってしまうことだってあるのかもしれず、それで間に合う範囲内で知ることを済ませてしまう成り行きもあるわけで、実際にもそんな範囲内の知識で間に合っている人たちが世の中の多数派を占めているからこそ、事の真相や真実を知らせて人をびっくりさせようとする戦略が空回りして、それらの人たちの宣伝や煽動があまり効果を上げていない実態があるのかもしれないが、そういう人たちは人たちで一部で凝り固まって、同類の人たち同士で意気投合して盛り上がる場が確保されているのかもしれず、そういった人たちが盛り上がる場がSNSなどのソーシャルメディアになるのかもしれないが、一部は普通のメディアにもそういった人たちが流出しているわけだろうし、それも一興なのだろうが、実際にそこに参加している人たちも大勢いるわけだから、それが何かしら世の中に作用や影響を及ぼしていることも確かかもしれないが、そういう現象に関して普通に気づくべきなのは、それでも構わないのかもしれないが、そうでなくても構わないのかもしれないし、そうでなくても構わないようなことを多くの人たちが知っているのかもしれず、そんなこととともに、そんなこととは違うことも知っておくべきかもしれないし、なるべくなら両方知っていれば、そんなこと以外のことを知っている分だけ、それだけ知識が増えて判断材料も増えて、それだけ妥当な判断に近づく可能性も高まるかもしれないし、下手に片寄った知識ばかり身につけるよりは、同じような程度と傾向の知識とともに、それ以外の様々な程度と傾向の知識に触れることで、バランスのとれた物事の判断に結びつくのではないか。


6月16日「身体の動作」

 世の中では、政府が管理運営する制度や法律、また民間の企業や各種団体が管理運営する様々なサービス、そしてそれと意識することなく従っている社会的な慣習や掟、さらに使用している道具や機械類による制御など、人が日常の中で多くの決まり切った動作に囚われて制御されている実態があるわけだが、自分自身も自分の意思や意志によって制御されている面もあるが、たぶんそれ以外で制御されていない面もあるのかもしれず、それが自主的に動いている面であり、それが時には自分の意思や意志にも逆らって動けるかというと、たぶん動けるだろうし、もちろん他にも様々な社会的な制約や決まり事に逆らって動いてしまうわけだが、なぜ動いてしまうのかといえば、特に理由がない場合もあるだろうし、あるいは自らを制御しようとしてくる様々な作用から逃れようとして動いてしまう場合もあるわけで、それが自分の意思や意志に従った動作となると、そうとも言える面もあると同時に、そうとも言えないような面もあるのかもしれず、意思や意志としては自らを制御しようとしてくる社会的な作用に従おうとしているのに、なぜか身体が勝手にそれに逆らって逃れようとしてしまうと、自らが把握しているつもりの意思や意志以外にも、別の意思や意志があって、あるいは本能と呼ばれるようなものがあって、それが作用して別の動作を誘発するようにも思えるかもしれないが、本当のところはよくわからないわけで、ただ単にそれを身体の動作とみなせば、自らの身体が自らの意思や意志に逆らっているとしかいえないような動作となるわけだろうが、それは何も身体だけの動作でもないのかもしれず、例えば考えるという動作においても、自らの意思や意志に逆らって考えることもあるのかもしれないし、また考えようとする意思や意志に逆らって考えるのをやめてしまう動作もあるのかもしれず、それが身体の動作かというと、ただ単に脳の神経ネットワーク内の動作でしかないわけだが、脳も身体の一部であるわけだから、それも一応は身体の動作とみなしても構わないだろうし、そうみなしてしまうと、自らの意思や意志とは別に身体の動作があることになるわけだが、それを意思や意志で制御できる面もあるかもしれないが、できない面もあるのかもしれず、その意思や意志で制御できない面での動作が何から生じているのかと言えば、結果的に身体が動いているわけだから、それは身体自身の動作と言えるだろうし、それ以外には、例えば神から指令を受けて動いているとか、自己防衛本能によって動いているとか、無意識の動作によって動いているとか、いろいろ想像できるかもしれないが、そうした想像を省けば、単に身体の動作としか言えないだろうし、意思や意志に捉われなければ、人は身体の動作によって動いているとしか言えない面があるのかもしれず、それが何を意味するのかといっても、何を意味しているわけでもないのかもしれないが、例えば自らの意思や意志を尊重する以前に何を尊重した方がいいのかと言えば、身体の自然な動作を尊重した方がいい場合もありそうだし、そうした面で意思や意志に頼りすぎないことが肝要な場合もあるのかもしれないが、なぜそんなことが言えるかとなると、それが自らの意思や意志である以前に、制度や法律や慣習などの社会的な制約や決まり事によって制御されて、そんな意思や意志が生じている場合があるわけで、それが自らの意思や意志であるのに、それと同時に社会の意向であり、また自らを制御している団体の意向である場合があるわけで、そういう面があるからこそ、そんな意思や意志に対して身体が拒否反応を起こすのかもしれず、そういう場合は、まずは自分の意思や意志を疑う必要があるわけで、自分の意思や意志で動こうとしているのに、本当はそうでないとなると、何か自己矛盾や自家撞着を起こしているように思われるかもしれないが、それが身体としては自然な反応や動作であるのかもしれず、そういう面で身体が拒否反応を起こしているのに、それを意思や意志の力でねじ伏せて、自分から進んで無理なことをやろうとしてしまうと、ともすればそれが過労死や過労自殺の原因となったり、またごり押しの宣伝や煽動や虚偽答弁などになってしまったり、そうやって社会の制度や慣習などによって、自分が押しつぶされてしまうような結果をもたらすのかもしれないし、そういう成り行きを避けるには、何よりも自分の意思や意志を信用し過ぎないことも肝要なのかもしれないが、自分がそうしなければならないと強く思うことから生じる責任感というのも、自分の意思や意志である以前に、社会的な制度や慣習などに従おうとするから、そんな意思や意志が生じてしまう可能性もあるだろうし、それも身体の動作に逆らって強引に意思や意志の力によって動作しようとしているわけで、やはりそういうことを度々やってしまうと身を滅ぼす危険性が高まるのかもしれないし、そういうことをやるのにもそれなりの限度があるだろうし、その時の自分の体調を考慮せずに過度な責任感から無理をしてしまうと、命を縮めるような成り行きとなるだろうし、その時は意思や意志の力で乗り切っても、そんなことを何度もやりながら活動していると、疲労が蓄積して癌などの重篤な病に冒されることにもなるわけで、そういうところで世の中の制度や慣習やしきたりなどを破ってでも、身体の自然な動作に従うことが求められているのかもしれないわけだが、誰に求められているのかといえば、自身に求められているとしかいえない面があるわけで、それを天や神の啓示とか大げさに思い込んでしまうこともあるかもしれないが、大抵の場合はそんな大げさなことではなく、何気ない些細な判断の積み重ねが、後々大きな差となって自らの身体に響いてくるのかもしれないし、それが時には身体の一部である脳から主に生じている精神にも響いてくる場合もあるだろうし、自らの思い込みによって自分の主体的な意思や意志に従って動いているつもりであっても、社会やその中の団体や徒党や一族や家族などの意向を尊重しようとするあまりに身勝手な責任感が生じて、自分一人で独りよがりに苦労や苦痛を背負いこんでしまっていることに気づかず、そうなると周囲の意向を尊重しているようでいて、逆に周囲に迷惑をかけていたりもするわけで、そんなふうにして自滅してしまうような成り行きが結構あるのかもしれない。


6月15日「民主主義の活用」

 たぶん民主主義はそれ単体では社会の中で機能しないだろうし、資本主義や国家主義とセットになった状態で実質的に機能し始めるわけで、その他に自由主義や社会主義なども加えて、それらの間でうまくバランスをとりながら、世の中を平和に保つことが、政治的な課題となってくるのかもしれないが、それらの主義を反映した制度や法律が社会に定着していれば、一応は近代的な国家体制として認められるのかもしれないが、それらの中で一番定着しにくいのが民主主義を反映した制度や法律なのかもしれず、特に資本主義と国家主義は民主主義とは相容れない性質があるし、原理的には資本主義と国家主義の行き過ぎに歯止めをかけるために民主主義的な制度や法律が必要だと考えればいいわけだが、そういうところが資本主義と国家主義に囚われている人には理解できないのかもしれず、資本主義の功利的な価値観や国家主義の法と秩序の価値観からすれば、それらの推進の邪魔をするようなデモや抗議活動には反感を抱くだろうし、それらの勢力から左翼的な民主派が目の敵にされるのも当然かもしれないが、逆に民主主義を利用するやり方もあるわけで、資本主義の側で民主主義を利用したのが新自由主義と呼ばれる自由主義であり、また国家主義の側で民主主義を利用したのが社会主義や共産主義であったわけだが、どちらもうまくいかずに民主主義を損なう結果を招いたわけで、そんな経緯を踏まえて現状では元から親和性の高かった資本主義と国家主義の連携が改めて世界の国家体制の主流となっているのかもしれないが、資本主義と国家主義だけでは、資本主義からは貧富の格差や金権腐敗などの弊害が出てくるし、国家主義からは官僚主義や強権的な独裁体制などの弊害が出てくるし、いずれの弊害も歯止めをかけるのは難しいし、実際に民主主義的な制度や法律がうまく機能していない国家では、どちらの弊害にも歯止めがかからずに、それによって一般の民衆が苦しんでいる実態があるのだろうが、もちろん資本主義と国家主義から生じる恩恵を受けている人たちの中には、苦しんでいないどころか、豊かで快適な生活を満喫している人たちも大勢いるだろうし、そんな人たちからすれば、別に自分たちの生活や活動の邪魔をしてくるうるさい反体制派などは体制側から弾圧されて当然だとは思わないだろうが、政府の政策などに反対や抗議をする人たちのことは、無関心を装って見て見ぬ振りをするのが普通の反応かもしれないが、実際にはそんな豊かで快適な生活を満喫できる人たちが抗議活動などに参加する心の余裕が生じれば、民主主義的な制度や法律が社会に定着することになるわけで、それらの人たちの助けなしには民主主義を擁護する勢力が国家的な主導権を握れないだろうし、それが世界各国で労働者階級だけによる革命が起こらなかった理由でもあるのだが、そうだとすると資本主義と国家主義と民主主義が三位一体となった欧米諸国などに特有な民主的な国家体制が、それなりに安定している理由も自ずから明らかとなってくるのかもしれないが、そこでは豊かで快適な生活を満喫している人たちが、自分たちの仲間を増やしたいという感覚から民主主義を擁護しているのかもしれないし、そういう感覚は得てして甘い幻想に終わりがちになってしまい、実際にそれらの豊かで快適な生活を裏で支えている人たちが、途上国などで苦しい生活を強いられていることをわかっていないのかもしれないが、もちろんすべての面でそうであるわけでもないだろうし、またそれらの人たちの豊富な資金を利用して、苦しい生活を強いられている人たちの中から、特に飢餓や疾病などで命の危険にさらされている人たちを多少は助けられるわけだし、そういった慈善行為によって自己満足に浸れるにしても、それでは根本的な問題の解決とはならないのは当たり前のことであり、そういうところでブルジョワ的なリベラリズムの限界が垣間見えてくるのかもしれないが、たぶんそれを否定的に見る必要はないだろうし、実際にそれでうまくいっている面があるわけだから、肯定せざるを得ない面もあるのだろうが、それとは異なるやり方を模索しても構わないだろうし、実際に現状でも様々な弊害があらわになっているわけだから、模索してくべきなのかもしれないが、模索する余裕がある人たちも暇と金を持て余しているブルジョワな人たちであれば、現状の延長上で模索することになるしかないわけだが、普通に日々の生活に追われている人たちが、そんな大げさなことをできるはずもないだろうし、そういったことの模索に関しても現状で主導権を握っているのは、資本主義と国家主義の側に属している人たちになるわけで、だから現状の社会が存在しているわけだが、そういった国家規模の模索に関してはそれで構わないというか、そうならざるを得ない面があるわけだが、それとは違う面で違うことができるとすれば、それが最も低いレベルでは個人の立場での態度に関する模索となるだろうし、具体的には政治的な面ではどんな勢力を支持するとか、選挙でどのような候補者に投票するとかを決めることになるのかもしれないが、それとともにどのような発言を支持するとか自身でどのような発言を心がけるとかも、個人のレベルでできることにはなるわけだが、そういうことを行う上で何を心がければいいかとなると、単純な体制批判のような全否定だと、どうしてもフィクションになってしまうのかもしれず、その全否定している人や団体が実際に普通に活動できている実態があるということが、考慮に入れられていないことを主張しては、そうした実態を反映しない主張となってしまって、そうした主張をしている人たちの信用度がそれだけ減じてしまうリスクが生じてしまうのかもしれず、そういう意味でそういう人たちが支持している人や勢力が何を実行できるかが問題となってくるわけで、反対しているだけで何も実行できないと判断されると、それ以上の支持の広がりが期待できないから、どうしても少数派にならざるを得ず、それを回避するには何か実現可能なことを主張して、それを実現するために尽力するような成り行きに持っていければいいのだが、そうなると多数派を否定して批判しているだけでは無理になってしまうだろうし、そういうところで多数派を巻き込んで実現可能な政策を主張していくような戦略が生じてくるのかもしれないが、もちろんそれでは根本的な問題の解決とはならないわけだが、その辺がうまく言葉では示せないところなのかもしれないし、言葉ではなく行動で示さないとならない成り行きになってくるのかもしれない。


6月14日「事後的な現状」

 様々な物事が現状の世界に作用や影響を及ぼしていることは確かだが、その中には過去の歴史的な経緯もあり、過去から現在までの経験や記憶の積み重なりが人の人格を作っているのと同じように、現状の世界を構成しているのも、過去から現在までの歴史的な経緯の積み重なりの結果であるように思えることもあるが、そうであるなら過去の出来事が現状の世界に及ぼしている作用や影響を知ることが、現状を分析する上で重要となってくるわけだろうが、過ぎ去ってしまったことを今さらなかったことにすることはできないとしても、過去の経緯にひたすらこだわり続けるのも、柔軟性を欠いた頑なさの表れであるだろうし、過去にひどいことをされて、そのことについての十分な償い受けていないというのも、過去にこだわらざるを得ない理由となるわけだが、その一方で意識が過去につなぎとめられていると、現状の世界の中で新たに起こっていることについては、過去との比較でしか判断できないことにもなるだろうし、しかもそこから過去にこだわっている自身に都合の良い見解を導き出す傾向にもなるのかもしれず、それが軒並み悪いというわけでもないだろうが、少なくとも思考の自由度がそれだけ制限されることになるだろうし、だからかえって現実離れした突飛なことを思いつかずに済むという利点もあるかもしれないが、世の中の大多数の人はそれで構わないとしても、中にはそれでは済まなくなるような境遇になってしまう人もいるのかもしれず、それが具体的にどんな境遇なのかは実際にそうなってみないことにはわからないだろうが、少なくとも過去とは違った新しいことが起こるから、過去と現在とで違いが出てくるのだろうから、現状の世界を知るということは、過去とつながっている面とともに、過去にはなかった新しい面も知ることにもなるわけで、その新しい面というのが、過去に生成した様々な要素が新たな組み合わせで結びついて生成されたり、またそれが何もないところから全く新しく生じてきたように思われたり、それ以外にも様々な要素や傾向を伴っているように思われるかもしれないが、その全てが過去とのつながりから説明できるわけでもないところが、そこに新しい要素や傾向があることになるわけだが、それが過去と現在との相違点だとすれば、実際に現在の世界でそういう要素や傾向を見つけられるかとなると、総じて過去よりは進歩していることになっている科学技術以外でも、これまでになかった世の中の傾向があれば、それが現在を特徴づける傾向となるのかもしれないが、たぶん誰もそれに気づけないから、その代わりに過去にこだわるしかないのかもしれないし、だから何かというと過去の経緯を持ち出してきて、それを使って現状を説明しようとしてしまい、その結果としていつまで経っても意識が現状に追いつかない実態があるのかもしれないのだが、そうなるのはある意味では仕方のないことかもしれず、その誰もが見逃している現在の傾向というのが、誰にとっても不確定要素であり、そこから予測不可能な偶然の巡り合わせや成り行きがもたらされるのかもしれないが、だからそういう予想外や想定外の機会をいち早く捉えて、それに対応できた人や団体が、機先を制して現状の中で主導権を握ることになるのかもしれないが、そうなったことに誰もが気づくのは、そうなってからだいぶ時間が経ってからかもしれないし、気づいた時にはもう手遅れとなっていて、多くの人や団体が主導権争いに後れをとってしまうのかもしれないが、そういう成り行きに関しては、誰にも平等に主導権を握る機会が与えられているわけでもないにしても、ある程度はやった者勝ち的なところがあって、他から遅れて気づいた人には、いつでも貧乏くじを引いたように思われるとしても、そこでもそんな感覚が鈍い人にも、それなりの利点があるのかもしれないし、目先の利害に惑わされるような感性が鈍ければ、かえって他よりも遅れて気づいた分だけ、先人が試行錯誤して築いたノウハウの蓄積をそのまま利用できる可能性もあるわけで、また先人がやり残したことや失敗して途中で打ち捨てられた残骸の中にも、それなりに利用できるものを見つけられるかもしれないし、そういうものを後から遅れてきた人や団体がうまく利用できれば、それなりに成功できる可能性もあるわけで、そういう物事を見つけられる嗅覚を養えるかとなると、そこでもそれなりに機先を制するのとは異なる独特の感覚が必要となるのかもしれないが、そういうことに関してもほとんどの人が気づけない実態があれば、そういう方面でうまくいった人には、何かの偶然の巡り合わせや成り行きから、たまたま幸運にありついたような感覚になってしまうのかもしれないが、そういうところでも現在を特徴づける傾向というのがあって、何かの成り行きでそういった傾向に沿った活動していた人が、そういう方面で成功する機会を得るのかもしれないし、そういうことに関しても、そこからだいぶ時間が経ってから、そういう成り行きをうまく説明できるような理屈や論理などがわかってくるのかもしれないが、そうやって後から説明する分には、もっともらしくさもそうなって当然のごとくに説明できるとしても、それが現に起こっているのと同時には説明できないだろうし、そういう面ではいつも何かが起こった後からしか、それをうまく説明することはできないのかもしれないが、それを先取りして、これから起こることを予測したりすることに関しては、やはり不確定な面がつきまとうだろうし、たとえそういう予測が当たったとしても、事後的に予測が当たったことを自分で宣伝するようなことをやってしまうと、何か眉唾的ないかがわしさがついてまわるわけだが、そういった何かを予測する感覚にも、もしかしたら現在を特徴づける傾向が出ているのかもしれないし、大抵はそれに気づかずに、過去との連続性や整合性などを考慮しながらもっともらしいことを述べようとしてしまうわけだが、そういう面に目を奪われていると、やはり現在を特徴づける傾向を見逃してしまうのではないか。


6月13日「民主主義の危機」

 現状で民主主義が制度的に危機的な状況になっているとすれば、それは政府の官僚機構と折り合いが悪いことに起因していて、官僚機構の方では常に上から国家と国民を統治しようとしているのに対して、民主主義的な制度が意図しているのは、国民の中から選ばれた代表者が国民の意向を政策に反映させながら、官僚機構を使って国家統治を行うことにあるわけだが、そこで国民の意向と官僚機構の意向が合わなければ、どちらが優先されるべきかとなるわけだが、国民の中から選ばれた代表者たちが官僚機構に懐柔されていると、官僚機構の意向が国民の意向にすり替えられて、官僚機構に操縦された国民の代表者たちによって国家統治が行われるような成り行きになるわけだろうが、こう述べてしまうと何かわかりやすく感じられるかもしれないが、実際に国民の意向というのがまとまった形であるかというと、そうとも言い切れない面があるのかもしれず、それに関して例えば世論調査の結果として示されるものが国民の意向なのかというと、調査を行う機関によって恣意的に調査項目や調査内容が誘導尋問のように調整されている可能性もあるだろうし、制度的には選挙結果に国民の意向が示されていることになるだろうが、選挙で勝利して政権を担った国民の代表者たちが、官僚機構に手懐けられて従わされていれば、結局は官僚機構の意向通りの国家統治が行われることになるだろうし、そういう意味では実質的に民主主義という制度は破綻していることになるわけだが、それでも国民の意向というのが、例えば税金を安くして福祉を充実させろというのであれば、政府としても無理な面があるだろうし、福祉を充実させるには予算が必要で、予算が国民の税金によって賄われていれば、税金を安くしたら福祉を充実できないということになるわけだから、それはできない相談となるわけだが、そうであるなら国民の意向としては、無駄な予算を削ってその分を福祉予算に当てればいいとなるだろうが、その国民目線で無駄な予算というのが、政府にとっても官僚機構にとっても必要な予算となるわけだろうし、そういう面で国民と官僚機構との間で折り合いがつかなくなるわけだろうが、その政府や官僚機構にとって必要な予算には、予算目当てにたかってくる人や企業を優遇するために使う予算もあるわけで、そういう人たちも国民の内に入るし、また官僚機構で働いている公務員も国民の内に入るわけで、そうした人たちが既得権益を持った特権階級として官僚機構とグルになって、国政を牛耳っていると、そういう予算のおこぼれに与れない人たちが損な立場になるわけだが、こう述べてしまっても何かわかりやすく感じられるかもしれないが、実際には予算のおこぼれに与かれないし、税金も安くしてもらえない損な人たちですらが、そんな状態の政府や政権政党を支持している実態があるとしたら、何か不条理に感じられるかもしれないが、よく考えてみれば選挙で当選する国民の代表者が特権階級の出身者で占められていれば、そうなって当然だろうし、普通の一般人が選挙に立候補することもほとんどないのかもしれないし、仮に立候補して選挙で当選したところで、特定の政党に属していなければ何をやったらいいのかわからないだろうし、そもそも民主主義の制度自体が、特に有効に機能する必要のない制度なのかもしれないし、それは政府の官僚機構にも言えることなのかもしれず、何だかわからないが無駄で無意味なことをやっているのが、政府という組織の実態であり、そのために莫大な予算が使われているわけだが、それを効率的かつ有効に機能させるための理屈や論理はいくらでも主張できるだろうし、そうするためにもっともらしく筋の通った提案をする人もいくらでもいるだろうが、そういった主張や提案がいくらでもできるということが、実際にいくらでも主張や提案が行われた結果として現状の実態に結びついているわけで、要するにそういった主張や提案も有効ではなかったことになるのかもしれないし、これからもそんな主張や提案がされ続けるだろうが、事態が一向に改善しなければ、やはりそれも無駄で無意味なことに含まれてしまい、そういったことも含めて、政府という組織の実態があり、そんな中でもそれなりに多くの人たちが活動していて、それほどうまくいかないなりにも、一応はそんな活動が維持されている限りで、政府が存在し続けるだろうし、そんな政府や政権政党などを一般の人たちも支持し続けるだろうし、今後何かのきっかけで政権交代が実現したところで、それほど事態が好転するわけでもなければ、一般の人たちもそういうものだと納得するしかないだろうが、別にそういう現状や実態を無理に肯定する必要もないわけで、おかしいと思われるところがあれば批判すればいいだろうし、メディアも政府のおかしなところを指摘し続ければ、それなりに政府の方でも改善せざるを得なくなるかもしれないし、そうやって絶えず批判し続けるしかやりようがないのかもしれず、そういう批判を怠ったり押さえ込んだりすると、たちまちおかしな動作が増えてくるわけで、そういう意味では放っておいてはまずいだろうし、誰もが気づいたところから政府に対して批判することが、政治に参加することにもなるわけで、それを放っておいても有効に機能するような制度だとはみなさない方がいいだろうし、少なくとも民主主義の体裁を保つには、一般の民衆が政府や官僚機構のやっていることにいちいち文句やいちゃもんをつけていかないと、民主主義にはならないわけで、そういうことに無関心になってしまったら、民主主義を放棄したことになってしまうわけだから、その辺を自覚しておいた方がいいのかもしれず、そういうところでは自らの立場や境遇や他人の目線などを超えて発言したり主張したり批判しなければならないわけで、そんな場があるところでは積極的に参加すればいいのだろうが、もちろん何の名声もないような一般人が何かを言ってみたところで、単に無視されるだけだろうし、それでも構わないとなると、それも無駄で無意味なことになってしまうのかもしれないが、結局はそういう無駄で無意味な行為を多くの無名の一般人が行うことが、なぜか最終的には民主主義を成り立たせることになるのかもしれず、そうなることを信じて政府に対して批判を繰り返すような無名の一般人が大勢必要であるのが、民主主義の不条理なところかもしれないが、そういうことの範疇には、デモに参加して負傷したり警察に拘束されたりする行為も入るわけだ。


6月12日「危機意識の共有」

 確かに現状に対して危機意識を持つことが、現状を改革しようとする動機となるにしても、それが改革なのか改善なのか改悪なのか、はたまた結果的には現状を維持することにしかならないのかは、実際に現状を変えるために何かやってみた結果からしか判断できないところかもしれないが、それ以前に現状を変えるために何かやっているというよりは、現状の中で場当たり的に次々とやるべきことが出てきてしまって、それに対応して何かやっているうちに、気がついたら現状が変わっていたりする場合もあるだろうし、特に危機意識を持たなくても現状が変わっていってしまったら、わざわざ危機意識を抱くこともないわけだが、別に現状が変わらなくても困っていなければ、無理に現状を変える必要も感じないだろうが、そうであっても気づかないうちに現状が変わっていってしまうこともあるのかもしれず、そうなるとその人が何を感じていようと何をどうしようとしていようと、そんなこととは関係なく状況が変わっていってしまえば、ただそんな状況の変化の中でその人が翻弄されるだけとなってしまう場合もありそうだが、そんなこととは別に何らかの集団で行う組織的な行為によって、意図的に現状を変えようとする勢力にとっては、それが政党や政府などの政治勢力なら、そのために政治的な主導権を握って必要な権力を行使して、現状を変えようとするのだろうし、企業などの経済的な勢力なら、事業などの経済活動を行いながら現状を変えようとするだろうし、またそれに関しては普通はそうした勢力がそれぞれで単独で行うというよりは、他の様々な勢力と連携して多種多様な分野で活動しながら、そうした活動を通して現状を自分たちの勢力が有利になるように変えて行こうとするわけだが、そうなるとそれだけやっていることが複雑に入り組んできて、それに伴ってそこに介入してくる様々な勢力の意図や思惑も複雑に絡み合ってきて、特定の勢力による現状を変えようとする意志が、そのままその場の状況に作用するわけでもなくなってくるだろうし、そうなるとそんな中でいくら現状に対して危機意識を持っていても、それがそのまま現状の改革に結びつくわけでもなくなってしまうのかもしれないし、それでもそういうところで危機意識を共有している人たちが団結して、政治的な活動や経済的な活動を協力して行うような成り行きになってくる場合もあるだろうが、そういう活動が実を結んでそうした勢力が政治的あるいは経済的な主導権を握って、現状の改革に着手することになるとしても、そこに至るまでの段階でも様々な紆余曲折を経ることになるだろうし、そういった紆余曲折の中で改革への意志がすり減ってしまうこともあり得るのかもしれず、またそういった勢力の中でも様々に意見や考え方が異なる人たちが含まれている可能性もあるわけで、そうなると改革の内容についても進め方についても、特定の個人が当初に抱いていたこととはそれなりに違ったものになってきてしまうだろうし、またそういった勢力に協力してくる勢力や敵対するような勢力からの作用も絡んできて、結果的にますます改革の内容や進め方などが変質を被ってきてしまう可能性もあるわけで、そうなると最終的には誰も思ってもいなかったような内容や進め方になってしまい、それが否定的な傾向を伴うようなら、各方面から批判にさらされることにもなるだろうし、実際に様々な勢力との間で利害調整や妥協などを経ると、もはやそれは実質的な効力も効果も期待できないような骨抜きの改革案に堕してしまう可能性まであるわけで、そうなってしまうと、当初に危機意識を共有していた人たちは、ますます危機感を募らせることにもなるだろうが、中にはそんな意識もすり減ってしまい、何かやっているような気分になるだけで満足してしまう人たちも出てくるかもしれず、実際に権力を行使できる立場に就くことが目的の立身出世を目指すような人もいるわけだから、そういう人たちが現状に対してどこまで危機感を共有しているかは疑問だろうし、危機意識に関する切実さの面では、現状を改革することよりも、危機的な状況を利用していかにして自分が成功できるかの方が優先されてしまう場合もあるわけで、そういう功利的な面に囚われてしまう人は、確かに当初はまともに危機感を共有していたかもしれないが、実際に活動していく過程で、別の目的も生じてきてしまうわけで、そういう目的の中で最もありふれているのが立身出世の願望となるのだろうし、実際にライバル関係にある人たちと競い合うような成り行きに巻き込まれたら、自然とそういう願望が芽生えてきてしまい、そういうところでは危機意識の共有や現状を改革する意志などよりは、勢力内の主導権争いや権力争いなどの方がリアリティを感じられる成り行きもあるだろうし、そういう争いは組織的な権力構造から自然に生じるものだから、そういう構造自体も改革しなければならないと危機感を募らせてほしいのかもしれないが、そこまで考えが及ぶ人が果たして主導権争いや権力争いに勝利して、政治的な主導権を握って、自らが成功するために利用してきた構造を改革しようとするかどうかは疑問だろうし、逆に独裁的な傾向を強めて、ますます他の人たちが危機感を募らせるようなことをやらないとも限らないだろうし、そうなると現状を改革するという宣伝文句によって政治的な主導権を握ろうとするような、本末転倒な事態になってしまっているわけだが、果たして政治家や政党などの勢力に、そういう面で倫理観を要求できるかというと、それ以前に立身出世目的や権力を握ること自体が目的の人たちと、まともに民衆の大多数が求めるような改革を目指す人たちとの間で、明確な区別がつくかとなると、区別がつくどころか、その両方が入り混じっているのが普通なのかもしれないし、さらにそもそも民衆の大多数が求めるような改革などフィクションであり、そんなのもあり得ないのかもしれないし、そういう面ではっきりしない現状があるのかもしれない。


6月11日「負のスパイラルの回避」

 実感として世の中がひどい状況に陥っていると感じるなら、現状を否定的に見ていることになるのだろうが、ひどい状況から目を背けていても普通に生活ができていれば、少なくとも普通に生活ができている範囲内ではひどい状況にはなっていないわけで、そういう範囲内では現状を肯定的に見ても構わないだろうし、そうであれば現状では否定的な面と肯定的な面とが混在していると捉えられるわけだが、その否定的な面と肯定的な面がつながっていて相互に補完関係にあるとしたら、それらの面が表裏一体となっている可能性もあるだろうし、そうなると否定的な面と肯定的な面の相互依存状態から否定的な面だけを改善するのは困難かもしれないわけだが、実態としてはどうかとなると、例えば経済格差などに関しては、金持ちがいるから貧乏人がいて、貧乏人がいるから金持ちがいるような、あるいは権力関係の中では、権力を行使する立場あるから権力を行使される立場があり、権力を行使する立場がなければ権力を行使される立場もないような、そういったゼロサム的な両者を重ね合わせると差し引きゼロとなるような関係の上に、否定的な面と肯定的な面がつながっているとは思えなければ、物事にはそれとは異なる別の面があるわけだろうが、それが何かといえば、それに関してすぐに思い浮かぶのが、過去から未来へと一方向に進む時間的な経過であり、それを考慮すれば物事が否定的な面と肯定的な面の間で変動しながらも、過去から未来へと両者の釣り合いとは無関係に向かっているわけだから、別にバランスを考慮せずに否定的な面だけを改善しようとすれば、その反動で肯定的な面が悪化する可能性もあるだろうが、そうなったらなったで、今度は悪化した面を改善しようとすればいいわけで、そうやって絶えず現状に対して新たに改善しようとする動作を付け加えるようなことを行なっていけば、その過程でそういった動作からの作用や影響を被って他の面で事態が悪化することがあろうと、それに気づいたところからまた悪化した面を改善しようとすればいいわけだが、実際にも個人としても集団としてもやっていることは、そういうことでしかないのかもしれず、他に悪影響が及ぶからといって改善をためらっていれば、否定的な面がそのまま残ってしまうだけだろうし、逆に否定的な面をそのままに保つことによって、それと対になっている肯定的な面を保とうとするやり方もあるだろうし、そういうやり方を突き詰めると、否定的な面をさらに悪化させれば、その反動で肯定的な面がさらに良くなるような可能性もあるのかもしれないし、功利的にはそういうやり方が推奨されるような分野もあるのかもしれないが、実際にそうなるとすれば、否定的な面でひどい立場や境遇を強いられている人たちが黙っていれば、そういうやり方がまかり通ってしまうわけで、それが嫌なら声を上げて抵抗する必要があるわけだが、果たしてそれに気づけるかとなると、事態が複雑に入り組んでいて関係する物事が錯綜していれば気づきにくいだろうし、中でも意図してそういうことをやっているわけでもないのに、結果的にそうなってしまっている可能性もあるわけだから、声を上げて抵抗する対象が定かでない場合さえあるのかもしれず、そうなると誰もが気づかないうちに、どんどん事態が悪化していってしまう可能性があり、そういった負のスパイラルをもたらす要因が具体的に何かというと、逆にうまくいっている面を強調するような動作なのかもしれないし、そういう面をメディアなどで誇張して宣伝しまくっていると、それがうまくいかずに悪化している面を覆い隠すような遮蔽幕として有効に機能するのかもしれないが、さらにそのバリエーションとしては、自国ではなく、隣国などのうまくいかずに悪化している面を誇張して宣伝しまくれば、やはりそれも自国でうまくいかずに悪化している面を覆い隠すような遮蔽幕となるのかもしれず、それに関してはそういうことを意図してやっているように見えるかもしれないが、意外とやっている側としては、需要があるから供給があるような成り行きがあるのかもしれないし、実際に事態が悪化している成り行きの中にいる人たちが、メディアなどで自国のうまくいっている面に惹かれてしまう一方で、隣国などのうまくいっていない面を報道されると嬉しくなってしまうから、そういう話題への需要が多くなると、メディアの方でもそういった話題を好んで取り上げるような成り行きとなってしまうのかもしれず、そういった他人の不幸を喜ぶような風潮が、自己満足とともに慢心を呼んでしまい、自画自賛気味に自己正当化する一方で、それに伴って自分たちが直面している悪い面を改善しようとする気持ちを減退させてしまって、そんな人たちの間では現状維持的な気分が蔓延してしまうだろうが、現状を維持すること自体が絶えず現状を改善し続けないと維持することすらできない可能性もあるわけだから、それだけでも衰退をもたらすような要因となっているのかもしれないが、ではその逆に現状を改善しようとする気になるにはどうしたらいいかというと、このままでは駄目だと思うことだろうし、要するにそれは現状を否定的に見ることになるわけで、現状のままにとどまっていれば駄目になってしまうから、そこから危機感とともに向上心も生まれて、現状よりもより良い状況をもたらそうとするわけだが、そういう傾向とは逆に現状を肯定することは、現状に順応しようとする気を起こさせて、現状のままに留まろうとするわけだが、それで現状を保てるかというと、それとは無関係に時間が進んでいってしまうわけだろうし、時間が進めば人工物は老朽化して人も老化して、やがて寿命が尽きて死を迎えることになるわけだから、結果的には現状を保てなくなってしまうわけだが、そうやって現状自体が時間の経過とともに変化しているわけだから、現状に順応するにしても現状の変化に対応する必要があり、結局は現状で通用しているやり方をいつまでも維持することはできなくなってくるだろうし、そうなると現状の変化に対応する新たなやり方を模索し続けなければならないわけで、そういうこと考慮すると現状を否定的に捉えるというのは、今この時点での現状に対応したやり方では、やがて通用しなくなるということを踏まえて、現状を否定してより良い状況にするためのやり方を模索することになるわけだが、その一方で現状に順応するやり方にしても、絶えず変化し続ける現状に対応できるようなやり方を模索し続けることにもなるのではないか。


6月10日「特別な存在」

 世界のどこでどのようなことが行われていようと、それと日本の現状を比較して何か述べることができるとして、なぜそういうことを述べたくなるのかというと、そこに述べる人の都合が反映していると言えるだろうし、日本の現状を批判するためにそういうことを述べたいのなら、その人が肯定したいことが比較対象となる出来事に含まれているわけだが、それ以外でも世界各地で起こっている出来事を日本の現状と比較して、肯定したり否定したりすることができるかもしれないし、実際に日本の現状を批判するための比較とともに、中にはそういった批判に反発して、日本の現状を賞賛するための比較もあるだろうし、そうやって日本の現状の良し悪しを言うために、世界の出来事を利用することができるわけだが、そういう比較ではなく、ただ単に世界で起こっている出来事を肯定したり否定したりすることもできるかもしれないし、日本と比較することなく、そういうことを述べるとなると、少なくとも日本という国や地域のことは、特に言及の対象とはならないわけだが、それが何を意味するのかというと、国や地域を越えて世界がそれなりにつながっていることを意味するだろうし、実際に世界各地で起こっている出来事が、情報として日本にも伝わってきているわけだから、日本で起こっている出来事について肯定したり否定したりすることができるのと同じように、他の国や地域で起こっている出来事についても肯定したり否定したりすることができるだろうし、実際にそういうことを述べている人もいるだろうし、また日本と比較してどうこう述べている人もいるわけだが、少なくとも日本の現状が何か特別な状態だとは思わない方がいいのかもしれず、日本で起こっていることが世界のどこでも起こり得ることだとは思えなくても、最低限の認識として日本でも世界の他の国や地域でも、人が普通に暮らしている現実があるだろうし、実際に世界のほとんどの国や地域でも普通に人が暮らしているから、そこで曲がりなりにも社会が成り立っているわけだが、普通に暮らしている人たちの認識として、自分たちが暮らしている国や地域が現状よりもさらに良い状態になってほしいと思うなら、そうなるためには何をどうしたらいいかという問いが生じてくるわけだろうが、そうなると自助努力でできそうなことの他に、政治や行政などの面でできそうなことが検討課題として出てくるわけで、まずはそういう面でできそうなことを政治的な要求として提示できればいいわけだが、そうなると他との比較として、世界の他の国や地域で行われていて、それが羨ましいと思えば、日本でも行われた方がいいのではないかという提案にもなってくるだろうし、また世界の他の国や地域で行われていることがひどいことだと思うなら、それが日本でも行われたら困るし、そういうことが今後日本でも行われるような兆候が感じられるなら、そういう兆候をもたらしている勢力を批判するような成り行きにもなるだろうし、さらに日本で行われていることが、世界の他の国や地域と比べても賞賛できることであるなら、それを世界の他の国や地域にも積極的に広めたいと思うだろうが、そうなると日本だけが他と比べて特別に悪かったり、また逆に日本だけが特別に良かったりするのはまずいことになるだろうし、日本だけが特別に悪いところがあるならば、世界の他の国や地域を見習って、悪いところを改めようとしなければならないだろうし、また日本だけが特別に良いところがあるならば、それを世界に向かって積極的に広めようとしなければならないとなるのかもしれないが、そういう考えを突き詰めると、日本だけが世界の中で特別な存在であってはならないようなことになってくるわけだが、それに関してたぶん功利的な見地から願望が生じるとなると、逆に世界の中で日本だけが特別な存在であってほしいと思われるわけで、そうやって日本の独自性を強調してくると、日本が他の国や地域と同じようになっては困るだろうし、日本には日本独自の流儀があり、それを批判されるいわれはないと思ってしまうだろうが、果たしてそれを守れるかとなると、特に鎖国をしているわけでもないし、海外と普通に人も物も情報も交流している現状があるのだから、少なくともすべての面にわたって日本の独自性を守り通すわけにはいかないわけで、しかも日本にとってだけ都合のいいところだけ、海外の文化や制度を取り入れるとなると、他の国や地域の人たちから見たら、普通にずるいと思われるだろうし、実際にそんなふうにして都合のいいところだけ取り入れようとしても、自然の成り行きとして他の文化や制度も取り入れてしまうだろうし、海外の方でも日本の良いところがあれば、積極的に取り入れてしまうから、結局は日本だけが特別な存在ではなくなってしまうわけだが、願望として日本だけが特別な存在でありたいと思うような人たちが存在すること自体も特別なことではなく、世界の他の国や地域にも、その国や地域だけが特別な存在でありたいと思う人たちも少なからずいるだろうし、そんなふうに思うこと自体が、何ら特別なことではないわけだから、すでにそう思ってしまうこと自体が、そんな願望自体を裏切ってしまっていることに気づいた方がいいわけで、しかも世界の全ての人たちがそう思っているわけでもないだろうし、そういうことを考慮するなら、自分たちの国や地域の特殊性を誇ってみせることが、賞賛され肯定されることなのか、批判され否定されることなのか、それともそんなのはどうでもいいことなのかについては、そのおかげで生活に支障をきたすようなことがあれば、そういう面については批判されるだろうし、また観光などの資源として利用したい人たちにとっては、そういった独自の文化や生活習慣が利益を生む可能性もあるかもしれないが、そういう功利的な利用とは関係のない人であれば、やはりそんなのはどうでもいいことでしかないのかもしれないが、虚栄心としての国民感情に囚われている人にとっては、何か日本が世界の中で特別な存在であってほしいという願望が強いのではないか。


6月9日「価値観の相違」

 人には様々な意見があって当然だが、それとともに様々な活動もあるだろうし、活動の種類が様々にあるから、それぞれの活動に応じて様々な意見も生じてくるのだろうが、また個々の活動には関係のない意見も生じてくるかもしれないが、個々の活動から生じてくる利害とは異なる意見を述べられるかとなると、そういう意見を述べる事情がどこから生じてくるのか疑問に思われるかもしれないが、それが他の人や団体や社会の諸事情も考慮した意見になってくるのかもしれないし、それが公共の利害を考慮した意見になるのだろうが、そうした諸事情を考慮した意見と自らの利害が合わない場合は、どちらを優先させなければならないかといえば、たぶん大抵の場合は自らの利害が許す範囲内でしか他の諸事情を優先するわけにはいかないだろうし、そうなると自らの利害が他の人や団体や社会の利害となるべく一致するような範囲内でしか、意見を述べられなくなってくるのかもしれないが、それでは都合のいいことしか述べられなくなってしまうだろうし、都合の悪いところはあえて何も言わないような態度でいると、そういう態度は欺瞞と見なされてしまうかもしれないが、そうであってもその辺を隠してうまく立ち回ることができれば、都合のいいことだけを述べていられるような態度を保っていられるだろうし、それが周囲の環境の中でうまく作用すれば、他人からも好感を持たれるようないい人でいられるのかもしれないが、それも一つの社会的な立場ではあるわけで、そういう立場でいられるような人と、どうやっても人から嫌われるようなことを言わざるを得ない立場というのも中にはあるのかもしれず、またさらに特に他から意見を求められるような立場ではない人もいるわけで、それらの事情を考慮するなら、その人の意見の内容だけで判断できる範囲も限られてくるだろうし、意見だけでなくその人の活動の中身も考慮しないと、良し悪しを判断するわけにはいかなくなってくるわけだが、もちろんその人の良し悪しなど判断する必要のない状況もあるかもしれないし、何が良くて何が悪いかを判断できない場合は、意見にしてもそういう意見があって、また活動にしてもそういう活動があるとしか意識しないだろうし、意見も活動もそれを良いとも悪いとも感じなければ、それが特に問題になるわけではなく、そのままでも構わなくなってしまうわけで、そうやって何もかもがそのままでも構わなくなってしまえば、特に意見も主張も述べるような成り行きではなくなってしまうわけだが、果たしてそんな状況があり得るかといえば、あるとしても全ての人がそんな状況の中で生活しているわけでもないだろうし、そういう成り行きの中でも、人それぞれの程度に差があるだろうし、差がある状態をどこまで認められるかとなると、やはりそこでも人それぞれで許容限度にも差が出てくるわけだろうが、そうやって人それぞれに生じる程度の差をどう捉えることができるかとなると、その場の状況の中で判断するしかないわけだが、何を判断するのかとなると、個々の事態の中でどう対応すればいいかを判断するわけだろうし、そうなると結局は自らの都合を優先させることになるわけだが、その都合というのが他の人や団体や社会の諸事情も考慮した都合であれば、公共の利害にも合致した都合になるわけだろうが、全てにおいて合致できるとは限らないから、時には公共の利害に反するようなことをやってしまうわけだが、そこで他の人や団体や社会の賛同や支持を得られるようなことをやらなければならない事情が生じてくれば、そういう面で公共の利害を最大限尊重するようなことをやろうとするわけで、実際にそうなるなら、そういう事情となる目的や内容によっては公共の利害を尊重するようなことを行うことになるわけで、行なっていることの全てがそうではないにしても、目的や内容によっては公共の利害を尊重せざるを得ない行為も出てくるわけで、その尊重せざるを得ない公共の利害というのが具体的に何かとなると、人によってもその人の社会的な立場や境遇によっても認識に違いが出てくるかもしれないが、そういうところで多くの人が共通の認識を持つには、何が良くて何が悪いかの基準が社会の中で確立されている必要があるのかもしれないが、確立するには絶えず人と人が交流してお互いの立場や境遇を超えて、誰もが同意できる共通認識を構築していく必要があるのかもしれないし、実際にメディアがそういう判断基準や共通認識を養う役割を担っている面もあるのだろうが、メディアが信用できるかというと、時には宣伝や煽動や洗脳などを伴っているわけだから、全面的に信用するわけにもいかないだろうし、信用できない面ではメディアを批判しなければならないだろうが、何でもかんでも批判するわけにもいかないし、また全面的に信用するわけにもいかないし、そこで信用できる面とできない面とを自らで判断しなければならないわけで、そうなると判断をメディアに全面的に依存するわけにはいかないし、自分で判断基準や共通認識を確立しなければならなくなり、しかも社会情勢の変化に応じて絶えずそれらを更新し続ける必要も出てくるだろうし、そういう面では価値観を固定していては更新できなくなってしまうわけだが、常に価値観が変動していては、価値観ではなくなってしまうし、そこで考慮しておかなければならないことは、社会情勢といっても全てが変動しているわけではなく、変わる面と変わらない面があり、変わらない面については価値観が固定していて、変わる面については価値観が変動する可能性があるわけだが、それに関しては新たに知ったことについて、その知ったことを考慮して価値観を変えるかどうかを判断するわけで、新たに知り得たことが自らがそれまでに保持していた価値観を揺るがすようなことであれば、そこで価値観を変えなければならないと思うだろうし、それが心に響かないようであれば従来の価値観を保持しようとするだろうが、心が特定の価値観によって支配されているようだと、頑なにその価値観を保持しようとするだろうし、また他の人や団体や社会から価値観の変更を促されても、それに従うどころか反発するようだと、そういう人には何か特有の事情があるのかもしれないし、そういう価値観には疑念を抱かせるような面があるのかもしれない。


6月8日「うまくいかない事情」

 何か政治的な主張をする際には、それなりにもっともらしいことを主張するような成り行きになるだろうが、そのもっともらしいという表現については、主張の基になっている理屈や論理の面で筋が通っているように感じられると、それが何かもっともらしいことを語っているように思われるわけだが、語ることに終始しているだけではそれで済んでしまうかもしれないが、例えば政権与党などになって、実際に行政と連携して何かを行う成り行きになってくると、そのもっともらしい主張とはだいぶずれたことをやっている実態となってきてしまうだろうし、それを外部から批判しようとすれば、いくらでも批判できるようなことが実際に行われているわけだが、それをどう捉えたらいいかとなると、普通に考えるなら主張通りのことができていない実態があるわけで、そうなっていることについて支持できるかとなると、支持することはできないだろうが、そうなってしまうことについてはある程度は理解はできるのかもしれないし、そうなると行なっていることに関してはあまり支持できないが、それでも政治勢力としては多くの人たちからそれなりに支持されるような成り行きになってしまうわけで、そういう実態に関して、そういった勢力を批判する側からすれば、何か筋が通らないような態度だと感じられるだろうし、そういうことも含めて、もっともらしい成り行きからはかけ離れた実態になっているわけだが、それを批判しようと思えばいくらでも批判できるということが、そういった批判自体も特にその場の状況の中で有効に機能しているわけではなく、そういう面でそれなりに信用できる理屈や論理に基づいた筋の通った主張や批判も、現実の世の中ではうまく効果を上げないような実態があるのかもしれず、逆にそれがうまく機能してしまうようだと、批判の対象となるような行われていることが、うまくいかなくなってしまうのかもしれず、それに関しては現状でも批判されているわけだから、必ずしもうまくいっているわけではないにしても、批判が支持を集めて、現状で成り立っている行為や活動をやめさせるような事態になってしまうと、それに関わって活動している多くの人や団体が困ってしまうわけで、だから現状で行われている行為や活動を継続していくには、それに対する批判が機能して、他の多くの人や団体の支持を集めてしまってはまずいわけで、そういう事態になるのを防ぐために、批判が機能しないような状況になっているのかもしれないが、それに関しては特定の何らかの措置によって、批判の無効化が図られているわけでもないだろうし、それに関係する様々な要因がその場に作用や影響を及ぼしている中で、それ対する批判だけが妨げられているわけでもなく、他の要因との作用や影響の相互作用によって、相対的に批判の働きが弱められている可能性があるのかもしれず、そんな状況下では、逆に批判の効果を高めるための有効な方法が確立されているわけでもないだろうし、だから批判する側も手探りの状態で批判していくしかないわけで、またそんな批判を封じ込めようとする側も、特に有効な対処法を編み出しているわけでもないのかもしれず、結果的に批判がそれほど有効には機能していない状況となっていることに関しては、それが批判する側の対応がまずいからそうなっているわけでもなく、また批判の対象となっている勢力の対策がうまくいっているわけでもなく、実際にも一方的にどちらがどちらを圧倒しているわけでもないだろうし、むしろどちらも決め手を欠いているから、とりあえずはそれなりに共存共栄の関係を維持しているような状況となっているのかもしれないが、どちらにしても主導権を握っている分野はあるだろうし、中でも実際に政権与党となって行政とともに政治的な主導権を握っている現状があるわけだから、そうでないと批判の対象ともならないだろうし、そういう面で批判される側が政治的な主導権を握っているのは当然のことであり、それ自体は何の不思議でもないわけだが、それを批判している側からすれば、そういう事態を覆したくて批判しているわけだから、なかなか政治的な主導権を握れていない状況に危機感を募らせるのも当然だろうが、ではそんな事態を覆すには何をどうすればいいかとか、もはやそういうことではないのかもしれず、そういうこととは別に、批判は批判としてもっともらしい内容で批判していくしかないし、主張も同様に理屈や論理の面で筋の通ったもっともらしい主張をしていくしかなく、そういうことをやった上で、機会が巡ってくるのを待つしかないわけで、たぶんそれ以上のことはできないだろうし、だから無理にそんな事態を覆そうとする必要もなく、ただ誠実な対応を心がけるぐらいしかやりようがないわけで、それ以外では批判や主張の中身が説得力を伴うように工夫を凝らして磨きをかけるしかないだろうが、そういうことをやったとしても、実際に政治的な主導権を握る機会が巡ってきて、主張を実行に移す段になれば、現状で批判しているような事態になることは覚悟しておいた方がいいだろうし、主張通りのことができるとは限らないことは、現に主導権を握っている側を自分たちが批判していることからも、容易に察しがつくだろうし、またそれに関しては、批判勢力を支持している側の人たちも、期待外れに終わる可能性が十分にあることは承知しておいた方がいいだろうし、そうなった時に安易に期待が裏切られたことを感情的に非難しないで、何とか支持し続けて支えて行かなければならない成り行きにもなるだろうし、そうなると現状で批判の対象となっている勢力を支持している人たちと同じような立場にもなってしまう可能性もあるわけで、場合によっては自分たちの信念を曲げてまで、それらの勢力を支えるような成り行きにもなってしまったら、そうなった時には、理屈の面でも論理的にも筋の通った主張が実行に移されても、それが必ずしもうまくいくわけではないことを実感できるだろうし、そこに何らかのうまくいかなくなるような事情が生じてくることを知るに至るのではないか。


6月7日「協力すること」

 人も集団も社会もそれら自身とともに、それらを取り巻く周りの環境から様々な作用や影響を及ぼされながら存在しているわけだが、周りの環境が人や集団や社会に及ぼす作用や影響は、良いと判断できるものも悪いと判断できるものも、また良くも悪くもどちらにも判断できるものやどちらにも判断できないものもあるだろうし、また人や集団や社会が周りの環境に及ぼす作用や影響も、同じように良いものも悪いものもどちらでもあるようなものも、またどちらでもないようなものもあるだろうが、基本的にそうした判断をするのは人であり、人の判断には正しいものも間違っているものも、どちらでもあるものもどちらでもないものもありそうで、また判断そのものがどうでもいいようなものもありそうだし、さらに物事を良いだの悪いだのと判断するだけではどうにもならないような事態もあるのだろうが、良いと判断したものを高評価して悪いと判断したものを低評価すれば、それがその人の主張となるだろうし、そうした主張が他の大勢の人からも支持されれば、支持される程度によっては既存の集団や社会にそれなりの作用や影響を及ぼすことにもなるだろうが、その作用や影響にも良し悪しの判断がつきまとうだろうし、人がそういったことをどう判断するかで、人も集団も社会も何かしら作用や影響を及ぼされて変化する可能性があるわけだが、だからといって作用や影響によって他の人や集団や社会がその人の思い通りに変化するわけでもないことは、その人自身が百も承知しているところだろうが、それでもその場の状況に作用や影響を及ぼして、その人の思いを他の人や集団や社会が無視できないような状況に変えたいとは、誰もが思うところでもあるだろうし、その人の目的がその場の環境を変えることであれば、それに伴ってその環境の中で存在している人も集団も社会も変えることにはなるだろうが、その人の目的がその人自身を変えることであっても、それによってもその人自身を含んだ周囲の環境を変えることにもつながるだろうし、それに伴ってその環境の中で存在している人も集団も社会も変えることにもつながるかもしれないが、それがその人の思い通りの変化になるかは、その人の思い込みにもよる面が大きいのかもしれず、それよりも特に思い通りになるか否かにはこだわらなければ、変わろうが変わるまいが、まずはその人自身について、それまでの自分のままでも構わないのかどうかを判断しなければならないだろうし、それは自分が変わらなければ周囲も変わらないという理屈を信じられるかにもよるだろうが、自分がそれまでのままで、周囲だけ自分の思い通りに変わってほしいと思うなら、自分だけが何か特別な存在でない限りは、そうはいかないだろうし、果たして自分が他人と比較して何か特別な面があるかとなると、少なくとも自分という存在が周囲の環境の一部を構成していて、何らかの集団にも所属していて、自分を取り巻いている社会の構成員でもある限りは、そういう面では他人もそうなのだから、何ら特別な存在ではないだろうし、そうであるなら少なくとも自分が変わらなければ周囲も変わらないだろうし、所属している集団もその構成員である社会も変わらないと見ておいた方が妥当なところではあるわけだが、その一方で自分が周囲を変えるような特別な存在へと変わることができるかとなると、それは自分の周囲の環境の中での立場や境遇に応じて、変えられる程度も内容も変わってくるだろうし、集団や社会の中での力関係などにも関係してくるところでもあるわけだが、そういうことは自分だけでなく他人も考えていることでもあり、他人もその人自身を変えることによって、周囲の状況を変えようとしていれば、そういった人たちの活動に伴って生じる相互作用によって、その場の状況や環境が変わっていく可能性があるわけで、そういうことまで考慮すれば、その場に居合わせた誰もが自分自身を変えようとしているだけで、その変えようとする傾向や内容が他人と一致しない限りで、そういった活動からその場の状況や環境が変わるにしても、誰の思い通りにも変わらない可能性が出てくるわけだろうが、それとは違ってその場に居合わせた誰もが協力して、同じ方向へと力を合わせて変えようとすれば、それらの人たちの思い通りの方向へと状況や環境が変わる可能性が高くなるかもしれないわけだが、そこでも変わる程度については、それなりに見込みとは違ってくるのかもしれないし、そういう面ではどうやっても不確定要素が残ってしまい、それがそういったやり方に対する疑いを生じさせる要因でもあるわけだが、それでも利害が一致すれば協力が実現して、その限りで協力して、協力した人たちの思惑通りの変化を起こそうとするだろうし、そういった活動が実を結ぶにしても結ばないにしても、まずは協力が実現すること自体が、ある意味では変化を体現していることになるだろうし、今までは協力できなかったのができるようになったことで、協力に加わった人たちが変化したことにもなるわけで、それも各人が目指した変化と言えるのかもしれず、たとえそこから思わしい結果が得られなくても、それなりに何らかの変化が実現したことにはなるわけで、そして協力したのに思わしい結果が得られないということについては、力が足りなかったと判断しても、あるいは当初は想定していなかった他の要因があったとしても、それに関しては少なくとも協力すること自体に非があったとは思えないだろうし、結果がどうなるにしても協力して何かをやること自体が悪いことだとは、協力した当事者たちには言えないわけで、そうであれば協力する機会があれば協力しておいて損はないわけで、たとえ協力のための交渉が決裂して、協力がご破算になったところで、またその機会がやってくれば、協力関係を模索すればいいだろうし、要するにその場の状況や環境を変えるには、それが成功するにしても失敗するにしても、変えようとする人や団体の間で、何らかの協力関係を模索するような成り行きになるわけで、そうやって協力することが協力した人や団体を変えることにも結びつき、人や団体が協力することによって変われば、それが思い通りの変化ではなくても、すでに協力が成り立った時点で何らかの変化が実現したことになるのではないか。


6月6日「救世宗教」

 いつの時代でも社会の中で人と人の間に生じている不平等な状態をなくすことが、救世的な思想として不利な立場や境遇を強いられている人たちの間で広まる傾向があるわけだが、実際に人為的にそれができるかとなると、現状で成り立っている社会の構造や仕組みを変えなければ無理であることは、そういった活動に携わっている人たちならわかっているはずだが、そこからどのようなことをやれば社会の構造や仕組みを変えられるかを巡って、そういうことをやっているつもりの人たちの間でも、果たしてやっていることが効果を上げているのか、わからないところがあるのかもしれないが、少なくともそんなことをやっていたり、やろうとしている人がいる限りは、そういう活動自体に何らかの効果があるのかもしれないし、一方では不平等な格差を広げるような功利的な活動や成り行きがあるとしても、それに逆らったり抵抗する活動や成り行きも生じていれば、社会全体としてはそれなりに均衡が保たれているはずだろうが、具体的にどんな活動が行われていて、どういう成り行きになっているのかというと、普通に生活している範囲内ではよくわらないだろうし、中には慈善事業のようにわかりやすい反面、焼け石に水的なあまり効果が上がっていないようにも思われる活動もあるわけだが、かつての社会主義革命のように、急激に社会の構造や仕組みを変えるような試みはことごとく失敗に終わっているし、現状の世界ではほとんど行われてはいないだろうが、そういう目に見えるようなはっきりとした活動でも成り行きでもなく、それとは気づかれないところで、それと自覚せずに行われていることがあるのかもしれず、それが様々な物事を節約しながら生活することであったり、あまり外へは出歩かず、場合によっては引きこもったまま生活することであったりするわけで、それを節約生活といえば肯定できるかもしれないが、引きこもりというと否定的に見られてしまうだろうし、個々のケースで捉え方が異なるかもしれないが、それらは総じて活動を抑える傾向になるわけで、その極端な例として、確かに働かずに引きこもっていれば、無駄に生きているみたいで、世間的に白眼視されることにもなるわけだが、では働けばいいのかとなると、それは働いている内容にもよるだろうし、また資金に余裕があれば、働かずに遊んで暮らしていても構わないわけで、そこでも個々のケースで良し悪しを判断したり評価する成り行きもあるかもしれないが、その人の立場や境遇が社会的に不利な状態でなければ、別に助ける対象とはならないだろうし、そうなると有利な状態と不利な状態に関して、どう定義すればいいのかといえば、とりあえず困っている人を助けようとするのだろうし、何かそういうところで、社会の中で困っている人を探し出して助けるようなことをやれば、そういう活動が成り立つことになるのかもしれないが、それだけでは社会的な不平等をなくすことにはつながらないだろうし、普通は政治的な活動によって、そういう人たちを助けるような制度を作ろうとしたり、また不平等を助長するような制度があればそれを改めようとするわけだが、それも部分的な試みである限りで、慈善事業のように焼け石に水的な効果しか期待できないとは思わないだろうが、もちろん慈善事業に携わっている当事者も、そんなことは思っていないはずだが、公的な制度として行うことや民間の事業として行うことの他に、何ができるかとなると、中には宗教的な活動もあって、それも民間で行われる事業の一種かもしれないが、それは物質的な面ではなく、心理的な面で気休め的な効果を求めようとする傾向があるのかもしれず、現世での状態がどのような状況にあっても、それとは次元の異なる価値観に照らし合わせれば、そんなことは問題とはならない心理状態へと至れれば、社会的な不平等感などどうでもいいことになってしまうわけで、そうなれば不幸を不幸とは感じない心境になれるだろうし、他から見てどんなに不幸な境遇に見えても、当人が救われた気持ちになっていれば、それで構わないような成り行きになってしまうのかもしれず、もちろんそんな単純な理屈では納得できなければ、何か課題を与えられて、それをクリアすれば救われたり、修行を行なって悟りの境地に至れば救われたり、そういった類いの試練を乗り越えて救われる成り行きになれば、何やら納得する人も多いのかもしれないし、それも宗教的な制度として、そういうやり方が確立されるような成り行きがあるわけだが、しかしそうなると試練を乗り越えられなければ救われなくなって、そこで格差が生じて不平等になってしまうわけで、そうであれば金儲けに成功すれば救われるような資本主義の論理と同じような内容になってしまうし、それではそうした宗教の矛盾が明らかとなってしまうのかもしれないが、逆に何もやらずに引きこもっているだけで救われてしまうと、一生懸命働いている人にとっては不公平ではないかともなるだろうし、結局は働かざる者は食うべからずという単純な論理にすがりついて、働かずに引きこもっている人を悪く見るのが当然な感覚にもなるわけだが、それがキリスト教などの救世的な宗教においては、他人と比べてどうこうというよりは、他人がどのような状態や状況であろうと、それを悪く見るのは良くないことだと教えられるだろうし、それよりはまずは自分に専念して、自分が救われるのにふさわしい存在になりなさい、とかいう教えによって、他人や身内を悪く見て攻撃したりする衝動を抑え込むことが、その人にとっての課題であり、そういう心理状態になることが修行の中身になる場合もありそうで、そういう教えが世に広まれば、争いのない平和な世の中にもなるという理屈もあるのかもしれないが、もちろんそれだけが宗教の全てではなく、社会との関わりの中で、そんなことばかり言っていられないような面も出てくるわけで、またそんなふうに教えなければならないこと自体が、そうではない状況の中でそういうことを教える成り行きをもたらしているわけで、少なくともそういうことが行われている間は、そうではない状況になっているわけだ。


6月5日「効果と逆効果」

 世の中で行われている様々な行為や動作がそれなりに関係して、お互いに作用し合って影響を及ぼし合いながら、何らかの効果を上げることがあるわけだが、その効果というのが良い効果であるか悪い効果であるかは、そこでの判断や評価と別の時や場所での判断や評価が異なることはよくあるのかもしれず、そうであるなら、そこでの判断や評価に一喜一憂しても、それが杞憂に過ぎないこともよくあるのかもしれないし、それに関して効果を否定的に捉えて危機感や不安や恐怖を煽り立てるようなこともよく行われるだろうし、果たしてそれが的を射ているような煽り立てなのか、あるいは不確かな憶測を誇張して煽るデマに過ぎないのかも、実際に煽っている当事者にも判断がつきかねる場合もあるのかもしれず、そういう煽り立ても世の中に何らかの効果を及ぼすわけだから、思惑通りの効果を狙って煽り立てをやっている場合もあるのだろうが、平時で通常の心理状態では、そういう煽り立てをいちいち真に受けるような人もあまりいないとは思うが、それも時と場合によっては深刻に受け止めるような成り行きになってしまう場合もあるだろうし、そういう煽り立てが一時的に功を奏して、煽り立てている側の思惑通りの効果を上げたとしても、効果は効果であり、煽り立ての効果というのは、それが実質的に何らかの心理作用を伴っているとしても、煽り立てからもたらされる作用に過ぎないだろうし、そういう効果や作用だけで世の中が回っているとは限らない面もあって、実際にそういう面では煽り立てだけではうまくいかないだろうし、煽り立てとは違った行為や動作から得られる実質的な効果や作用が求められる場合があるわけで、結局そういう面では煽り立てだけでは通用しないことにもなるわけだが、他にも様々な行為や動作が必要となってくれば、そういう行為や動作によって実質的な効果や作用をもたらすべく、それ以外の対応が求められるのだろうが、それが政治的な面となると、煽り立てていることと実際に行っていることとがしばしば釣り合いが取れなくなるわけで、実際には何をやっているわけでもなくても、民衆の気を惹こうとして、他との兼ね合いを考慮せずに、特定のことだけを煽り立てるようなことをやってしまうわけで、それも政敵の失策につけ込もうとする思惑などがあって、自らの主張や行為と比較対象となるところだけを強調してしまい、そうなるとしばしばこれまでにやってきたこととの間で、一貫性を欠くようなことにもなり、またそこを政敵に見透かされて逆に批判のネタに使われたりして、そうやって自業自得気味に墓穴を掘ってしまうようなことになれば、民衆の信用を失って、政党などの勢力が後退してしまう要因ともなってくるだろうし、確かにそういうところでは戦略的にも戦術的にも臨機応変な対応を迫られるのかもしれないが、あまりにも節操を欠いてコロコロと主張や態度を変えてしまうと、やはりそれが災いして民衆から信用されなくなってしまうだろうし、そういう意味では主張と行為との間で一貫性を維持して、誠実に思われるような対応ができればいいのかもしれないが、それにはその場その時だけ都合のいいようなことを煽り立てるようなことはやめた方がいいのかもしれないし、できるだけそれに関する言動や主張の首尾一貫性を保っておいた方がいいのかもしれず、それを保てなくなったら、正直に理由を語るしかないだろうし、そうなるとそれまでとは違う言動になってしまったことを謝罪しろ、だとかの文句を言ってくる人も少なからず出てくるだろうし、そういう時にも必要以上にへりくだる必要もないわけで、状況や立場や境遇が変われば意見や主張も変わらざるを得ないことは、ある程度は仕方のないことであり、それがわからない人にまで支持される必要はなく、そうでなくても全ての人から支持されるようなことを主張できるはずもないだろうし、そういう面では自ずから政治的な主張には限界があって当然なのかもしれないが、政治的な主張と政治的な行為が連動しているとしても、主張していたことがそのまま行為として実行されるかとなると、その途中で紆余曲折が伴えば、妥協や調整を経て、主張通りのことができなくなる場合もあるだろうし、そうなった場合にそれをどう受け止めるかは、民衆の判断に任されているわけだろうが、別に主張通りのことが行われなくても、途中の経緯に納得できれば、特定の政治勢力への支持をやめない場合もあるわけで、そういうところでも、批判したい人たちは主張と実際に行われていることが違う点を強調して、そこを突いて煽り立てたいわけだが、そういう煽り立てがことごとく空振りに終わっているとすれば、民衆の方でも主張通りのことが行われていないことについては、ある程度は理解して納得していると考えるしかなく、そういう面で批判勢力の方でも誤算があるわけだが、そういう事実を受け入れがたい人は、執拗にその点を強調しまくって、それを批判のネタに使いまくるわけだが、たぶんそういうところで情勢を見誤っているのだろうし、そんな人たちもそれと自覚せずに、その人の都合に合わせて、その人の主張にとって都合のいい部分だけを選んで、そこだけ強調しまくるわけで、そういう主張が民衆から支持を得られていなければ、民衆の方でも、そんなことは百も承知でそれらの批判対象を支持している一方で、批判者を支持していないわけで、要するにそういう煽り立ての繰り返しがうざいと思われて、逆効果になってしまっている可能性まであるのかもしれず、そうやって自身が反感を買っていることがわからない人が批判一辺倒になっていると、そこで負のスパイラルとしての悪循環が生じていることにもなるだろうし、そういう行為をやればやるほど、批判する側もされる側も双方ともに頑なになっていくわけで、しかも自らの誤りや負けを認めるわけにもいかず、途中で降りるわけにはいかないから、そういう方面で凝り固まってしまうと後戻りが利かなくなってしまい、そんなことばかり繰り返し主張するしか、他にやることがなくなってきて、いつしかそういう行為を支持する少数の固定客とともに、世の中の主流から外れたところで、独善的な主張を繰り返す動作に囚われて、それっきりになってしまうわけだろうが、たぶんそれで構わないような分野も中にはあるのだろうし、それがいわゆる伝統芸と呼ばれる分野なのかもしれないが、少なくともそういう人たちも含めて社会が構成されているのだから、そのおかげで全ての人を納得させるような意見や主張があり得ないことが明らかとなってしまうのかもしれない。


6月4日「資本主義と国家主義」

 宗教の神秘と呪術を取り除いていくと何が残るかというと、突き詰めて考えれば教祖などの哲学的な教えにたどり着くかもしれないが、その一方で儀礼的な形骸化を推し進めて行けば、礼儀作法などの型にはまった動作の集合体となるのかもしれず、それとともに疑念を抱かずに考えることを押さえ込んで行けば、信者がただ何も考えずに決められた動作を繰り返すだけのロボットとなってしまうわけだが、動作以外でも決められたことを繰り返し言うだけの紋切り型的な言動の人となってしまうわけで、そうなってしまった人がそれを自覚しているかというと、指導者の立場になればある程度は自覚しているのかもしれないが、信徒のレベルでは自覚せずに正しいことを述べていると思っているだろうし、実際に形骸化した宗教の戒律などに照らし合わせれば、正しいことを述べていることになるわけだが、別にそれは間違ったことでも批判されるようなことでもなく、信者が多数を占める教団の中では取り立てて問題となることもないのだろうが、誰もがそういう宗教的な戒律が全てを支配するような教団の中で暮らしているとも限らず、現代的な感覚では生活の中で宗教が占める割合は部分的な水準にまで下がってきているはずだが、一般的にはそうであっても、人によっても地域によっても程度に違いはあるだろうし、また宗教によっても人を支配する程度にも差がありそうで、その内容にも様々な傾向がありそうだが、そういうこととは別に、世の中のほとんどの人がそれを宗教だとは自覚していない信仰の形態もあるわけで、現代においてそれを代表する信仰が資本主義と国家主義であるわけで、例えば資本主義において、誰もそれを型にはまった決められた宗教的な動作だとは思わないだろうが、売買という商品と金銭を交換する動作があるわけで、その際には交換できると信じていないと交換しないことは確かであり、通常の状況であればほとんど全ての人が商品と金銭を交換できることを信じているはずだが、戦争や経済危機などによって政府が財政破綻してハイパーインフレなどになれば、誰もが自国の通貨と商品を交換できることを信用しなくなる場合もあるだろうし、そんな非常事態の時でもなくても、政府がやっていることを信用できなくなる時には、やはり国家主義を疑っているわけだが、通常の場合ではなぜ国家の存在を信じているのかといえば、統治機関として政府があるからだろうし、政府がなければ国家もないわけだが、その支配地域が各国に分割されているとしても、南極大陸を除く世界のほとんどすべての地域に及んでいるし、そういう事実からもそれを信じないわけにはいかないわけだが、逆に資本主義と国家主義によって全世界が覆われているから、相対的に他の宗教の力が制限されているわけで、大抵の場合、他の宗教では人の全ての生活を支配することはできないわけだが、他の宗教と比較して資本主義と国家主義の強みは何かといえば、生活を全面的に支配する必要がないことであり、ただ商品と金銭が交換できることを信じていれば資本主義の信者になれるし、国民としての自覚があれば国家主義の信者になってしまうわけで、そういう有無を言わさぬ直接の結びつきが、他の宗教では実現できないような単純な関係であるわけで、それを普通は宗教とはみなさないことも、人を自覚なしの信者に仕立て上げる上で有利に作用しているのかもしれず、そういう面で他のどの宗教よりも合理性の水準が高いのかもしれないし、何よりも資本と国家とがお互いに浸透し合っていて、補い合う相補的な関係となっているから、それなしではいられない状況を作り上げていると言えるのかもしれず、そういう意味で人の生活を全面的に支配しているわけでもないにも関わらず、それなしには生活が成り立たないように思わせているわけで、実際にもそうではないだろうし、資本とも国家とも無縁な狩猟採集生活や自給自足の生活をしている人たちも、世界各地にいることは確かだが、そういう生活をしている人たちが多数派を占めることはないだろうし、それ以外の資本と国家に依存する人たちをそれらへの信仰によって大量に作り出してきたのが、ここ二百年余りの産業革命以降の世界的な傾向ではあるわけだが、それが今後とも続くとは限らないだろうし、もちろん現時点では誰も資本と国家が衰退するとは想像もつかないところではあるわけだが、現状で世の中のほとんどの人たちが、それらへの信仰を前提として生活していることは確かだとしても、あからさまにそれなしで物事について考えようとするのでも、そういった信仰をなしで済ませようとするでもないとしても、絶えず意識や思考をそれらの信仰にとらわれないようにしておくことも大事なのかもしれず、現状で進行中の成り行きが宗教の神秘や呪術からの解放を目指す傾向があるのだとすれば、資本主義と国家主義の神秘的な面や呪術的な面からも解放される必要があるだろうし、それ以前にそれらの何が神秘や呪術などの面を担っているのかを理解する必要があるのかもしれないが、そもそもほとんど全ての人たちがそれらを宗教だとは思っていないわけだから、それらの神秘的な面や呪術的な面がわからないのも無理はないだろうし、そうであるならそれらの何が神秘的で呪術的な面であるかを知る必要があるかとなると、たぶん意識して知る必要もないのかもしれず、それよりもそんなことは自覚しない方が何かと都合がいいのかもしれないし、そうした都合に配慮するなら、無理にそれらを宗教だとは思わない方がいいのかもしれないが、それに関して普通に感じることは、理屈や論理以前の動作として必要に迫られて商品と貨幣を交換しているにも関わらず、そこからそうした行為を正当化する理屈や論理を求めようとしてしまうことが、あたかも無から有が生じるかのように神秘的なのであり、また何の後ろ盾も裏付けもないのに、憲法や法律が存在している事実によって、その存在を尊重して守らなければならないと思ってしまうことが、呪術的な傾向があるのかもしれないわけだが、そこからも多くの国民がそれらの法律の類いを守っているからこそ国家が成り立っている、という後付け的な理屈や論理が導き出されてしまうわけだから、そういうところに疑問を抱いてしまうと、たちまちそれらが信仰の類いでしかないことを理解できるかもしれないが、もちろんそんなのは宗教の範疇には入らないし、その程度のことは意識するまでもないことなのかもしれない。


6月3日「変えようとすること」

 現状の世の中で大勢の人や団体が関わって大規模に行われていることを、そう簡単に変えられるとは思えないが、それは変えようとする内容や程度にもよるだろうし、変えられる見込みが全くないかというと、実際には変えようとしなくても何かしら部分的には変わることもあるわけだから、中には変えようとして変えられることもあるはずだと思いたいが、世の中で主導権を握っていない少数派が変えようと主張するだけでは、なかなか変わらないし、変えようとする対象となっていることを行なっている側からすれば、簡単に変えられてしまうと困るから、簡単には変えられないようにそれなりに方策を講じているはずだろうが、中でも公的な制度を変えようと主張すれば、場合によってはその制度を管理運営している側と争わなければならなくなるだろうし、もちろんそれに関しては制度を変えるための制度もあるわけだから、制度で決められている変えるための手続きに則ったやり方で変えようすればいいわけで、実際にもそうやって様々な制度の内容が、変えるための手続きに則って少しずつ変えられている状況にもなっているわけだから、そういう制度的な動作の範囲内では変えられている面もそれなりにあるわけだが、それについて批判や文句を言っている人たちの言い分通りには変わっていないどころか、彼らの言い分からしたらいつも改悪されていると主張するわけだが、なぜそうなってしまうのかといえば、単に批判や文句を言う人たちが世の中で主導権を握っていないから、そういった少数派の人たちの主張が反映されない状況となっていて、そういう制度的な面では確かにそういう傾向があるのかもしれないが、別の面ではそういった主張や批判などには含まれないところで、それなりに変化が起こっているのかもしれず、そういう制度以外の変化として、例えば仕事をしないで引きこもっているような、社会から必要とされない人が増えていると指摘されれば、それが社会問題だと思われるかもしれないが、必要とされない程度にも個々の事例で差があるだろうし、少なくともそんな人であっても、生きている間は何かしら消費しているわけだから、そういった消費者として社会から必要とされている面はあるわけで、そういう状態の人を世間的に格好がつくように、何らかの仕事に就かせるのも、それなりに大変だろうし、現状でそうなっている状態を無理に変えようとすることが、その人にも周囲の人たちにも多大な軋轢やストレスをもたらす可能性もあるわけだから、状況を無理に変える必要もないのかもしれないし、変えようとするその方向性が間違っている可能性もあるわけで、すでに引きこもっている状態なのだから、そこから世間的に通用するような模範的な社会人にするのは難しいだろうし、そういう方向へと導こうとするよりは、意味がわからないかもしれないが、逆に引きこもりを極めるような方向へと進んだ方が、かえって自然に感じられるのかもしれず、それに関して具体的に何をどうするかとなると、個々のケースで対応が異なってくるかもしれないが、それが社会問題化していると多くの人々の間で認識されているようだと、それなりに大勢の人たちが引きこもっているわけだろうし、それ自体がありふれた現象だとみなすしかないだろうし、要するにそれは、そういう状態が何でもないような状態から、引きこもりとして問題視されるような状態へと、世間の捉え方が変化してきたことになるのかもしれず、それが制度とは無関係な変化かというと、ある意味では制度的な変化と言える面もあり、職業的な労働の制度に加われない人たちが引きこもる可能性があって、しかも親が比較的裕福だと、仕事をせずに引きこもっていても、食わしてもらえる環境となっているから、引きこもりが可能となっているわけだが、それが別に由々しきことだとは考えない方がいいのかもしれず、食わしてくれる親が先に亡くなったら大変だなんてお節介なことを考える必要もないのかもしれず、そうなったらその時に考えることでしかなく、また家庭内暴力とかの問題があっても、それも隠すようなことでもないだろうし、それを放置するのではなく、そういうのが専門のカウンセラーに相談するとか、そういうことでもないのかもしれないし、まっとうなやり方として、何としても状況を世間的な許容限度内に収めようとすると、かえってこじれて深刻な事態を引き起こしてしまうのかもしれないが、要は引きこもったままでも生きていけるなら、そういう状態をそのまま受け止めた方がいいだろうし、そうなっている状態を卑下したり後ろめたく思ってしまうようだと、事態を悪化させる危険性があるのかもしれないが、世間体を気にすればそうなるしかないのだろうが、そうだとしてもそういう状態を前向きに考えていくしかないのかもしれず、どうしてもそれを安易に否定しがちになるのが当然の反応だとしても、結局はそういう当然の反応に逆らうことでしか、事態を前向きに考えることには結びつけられないのかもしれず、そういう意味で現状を否定するのは簡単なのだが、それを思いとどまることには、それなりに努力を必要とするのだろうし、それは制度的な変化にも言えることかもしれないし、現状の問題点などいくらでもあって、それを否定的に批判することもいくらでもできるわけだが、そうやって批判するのを思いとどまって、そんな問題だらけの現状を肯定的に評価することはできないとしても、現状で成り立っている行為や活動が、どのように行われているかついては、それを否定的に批判してみても、実際にそこで行われていることなのだから、それ自体は認めるしかないだろうし、認めた上で、それをどう変えた方がいいかについて、もっともらしくも納得できるような提案をしたいのかもしれないが、たぶんそこでも、現に行われていて、成り立っている行為や活動をやめさせるのではなく、それを活かしながら変えていくような提案ができればいいのかもしれないが、そういう微妙な判断や調整を伴うような提案がなかなかできないだろうし、提案したところで批判している人たちには受け入れがたいことになってしまうわけだろうが、しかし批判している人たちが賛同しやすいような、批判対象の行為や活動を本当にやめさせることができるかとなると、やめさせる前提条件となる世の中で主導権を握ることができていない状況がある限りは、やはり難しいだろうし、だからといって現状で行われていることを活かしながら現状を変えることも、同様に世の中で主導権を握ることが前提条件となるかもしれないが、それに関しては現状で主導権を握っている人や団体にそれをやらせるような成り行きにできればいいわけだが、そういうことだと、やはりそういう人や団体を批判している人たちにはおもしろくないわけで、そういうところでも微妙な判断や対応が必要となってくるのかもしれないが、安易に批判するだけの態度から抜け出すには、そういうことも選択肢の一つとして検討した方がいいのかもしれない。


6月2日「理屈や論理を超えた必要性」

 何かしら社会的な人間関係や組織的な集団が絡んで行われる行為は、ある程度は継続して同じような結果がもたらされることが期待されているだろうし、それを制度的でシステマチックな行為だとみなすなら、それなりに納得できる理屈や論理に基づいて考えて、筋が通っていそうなことでも、それが実際にその理屈や論理の通りに行われるかというと、周りからそこへと及ぼされる他の様々な作用や影響によって、そうはならないことの方が多いのかもしれないが、だからといって理屈や論理なしでは物事についてまともに考えられないし、関係してくる他の人や団体にも納得して協力してもらう上でも、信用できる理屈や論理が必要となってくるわけだが、それだけで協力してくれるわけでもなく、実際には他の理屈や論理に基づいた行為が干渉してくるから、大抵はそういったそこへと作用や影響を及ぼしてくる他の理屈や論理に基づいた思考や行為との間で、対立や争いを鎮めるための調整が行われるわけで、その結果としてそういった特定の人や団体の活動が、それらの人や団体の思い通りや思惑通りの結果には至らない場合があるわけだが、そういった調整のやり方にも、それなりに信用できる理屈や論理に基づいた筋の通ったやり方が求められるだろうし、結果的にはその通りにはならないにしても、そうした行為に至る動機としても、それを行う上で納得できる理屈や論理が必要となってくるわけだが、そうは言っても実際に行なっていることに関して、理屈通り論理通りになっていないことからくる不満が生じてくるだろうし、そういう面ではその人が信じている理屈や論理に合わないことが行われていることに関して批判するのはもっともなことであり、そうした批判に賛同する人も出てくるだろうし、そういう成り行きもそこで行われていることに対する周囲からの作用や影響の内に入ることだが、そうした批判に加わるなり、また批判に反論するなりして、そこで行われていることに介入してくる人や団体が、何を求めているのかといえば、やはりその人が信じて妥当だと思っている理屈や論理に則ったことが行われてほしいと思っているのかもしれないが、そう思っている人やそういう人たちが徒党を組んで結成している団体が他にもいれば、他の人たちが信じて妥当だと思っている理屈や論理も、その人とは違う理屈や論理である可能性があるわけで、そうやって様々な人や団体が少しずつ違う理屈や論理を信じていれば、それらの人や団体がまとまって共同作業を行うにはそれなりの困難を伴うわけだが、そこでも信用できる理屈や論理に基づいた調整がうまくいけば、それなりに信じて妥当だと思っている理屈や論理が少しずつ違う人や団体の間で共同作業のようなことができる可能性が出てくるだろうし、できる限りそういう成り行きに持っていければ、より多くの人や団体が共同作業に参加できるようになるのかもしれないが、実際にそういうことができるかとなると、そんな都合のいい理屈や論理がすぐに見つかるわけでも編み出されるわけでもなく、結果的にはうまくいかないことが多いだろうし、またうまくいかないなりにも行なっていることが継続されていけば、なし崩し的に惰性で続いていくような成り行きにもなるわけで、そういう成り行きの中で行われている行為となると、理屈の上でも論理的にも必ずしも筋が通っているわけでもないが、それでも他からの様々な作用や影響の間でうまい具合に均衡が取れていれば、そうした均衡が取れている間は、それなりに行なっていることが長続きすることもあるわけで、また長く続いているうちに、それが慣習となったりそれに基づいて制度が作られたりすれば、それだけ安定して継続していくことにもなるだろうし、いったんそうなってしまうと、理屈や論理よりは実際に続いている事実の方が信用されるわけで、そうなると理屈の上でも論理的にもうまく説明できないようなことが、惰性によって延々と続けられるような成り行きにもなるだろうし、そういう成り行きを理屈や論理に合わないからといって、簡単にやめさせることはできなくなってしまうわけだが、それが伝統的な風習の類いであれば、よほどのことがない限りは、それをやめさせるような機運は高まらないだろうが、それと競合するような行為が新たに生じて、時代状況としてそういう新しく生じた行為の方が、何かと便利であったり良い印象を伴うようであれば、それまで主流だった古い行為が次第に廃れてきて、それと入れ替わりに新しい行為が流行り出すような成り行きもあるだろうし、どのような行為がそうなるかは、実際にそうなってからでないと、確かなことはわからないし、事前に誰にも予想がつかない場合もあるだろうが、そうなった結果から考察してみれば、そういう行為が流行る成り行きに関して、それなりにもっともらしい理屈や論理が導き出される場合もあるだろうし、それが誰にとっても納得できる理屈や論理ならば、そういう行為を行う上で、それを正当化する理由にもなるわけで、そうやって後付け的に世の中で流行っている行為に関して、もっともらしい理屈や論理が加わってくる場合もあるわけだが、それとは違って最初から誰もが納得できそうな理屈や論理に基づいて、計画的かつ合理的なことを行おうとすると、その途中で思わぬところから弊害や障害が生じてきて、しかも納得できそうな理屈や論理を破綻させるような事件も起こったりして、そんな経過をたどって結果的に行われることとなると、当初に抱いていた理想からは程遠いことが行われるような成り行きにもなるわけで、そうなってしまうと、そこに関係する誰もが不満を抱きながらも、嫌々仕方なく行うようなことにもなるだろうし、しかも嫌でもやめられないような事態にまで至れば、まさにそれは悲惨な結果をもたらしていることにもなってしまうわけだが、そんなひどい事態にまでは至らないとしても、世の中で行われている行為のほとんどには、多かれ少なかれそういう面があるのかもしれないし、そういう嫌な面には目を背けながら行なっている実態があれば、嫌な面の他にも、そういうことを行う必要性もそれなりに生じているのだろうし、どのような行為にもそれを行う必要があるから行われている面があるわけだ。


6月1日「世の中の実態と政治情勢」

 政治批判をしている人たちは、何でもないようなことを大げさに騒ぎ立てているわけではなく、彼らの認識からしたら重大で深刻な事態であるから騒ぎ立てていて、そうした事態を招いた為政者たちを批判しているわけだが、そういう姿勢は彼らの認識からしたら間違っていないだろうし、実際に為政者たちが招いた重大で深刻な事態によって、多大な損害や被害が発生していると主張するわけだが、そんな主張をする彼らに何か誤算があるとしたらそれは、世の中の大半の民衆がそうした批判を重大にも深刻にも受け止めてはくれないことかもしれないが、もちろん彼らの主張を真に受けてくれる人たちもそれなりにいて、そういう人たちが彼らの支持者になるわけだが、世の中の大半の民衆が彼らの主張を支持するようだと、彼らが批判する為政者が失脚する可能性も高まるだろうし、そうなることを期待して盛んに政治批判を繰り返すわけで、結果的に彼らが批判する為政者が彼らの批判によって失脚したら、彼らの主張が世の中に受け入れられて、彼らの権威もそれだけ高まることを意味するわけだが、そうはなっていない現状があるならば、彼らの批判活動がうまくいってないことを意味するだろうし、実際には世の中の大半の民衆が彼らの批判を真に受けてはくれない状況があるのかもしれないが、批判によって為政者の退陣や失脚を目指すならば確かにそんな現実があるかもしれないが、それだけが目標や目的とは限らないだろうし、そういうはっきりした目標や目的のために批判しているというよりは、ただ多くの人に知ってほしいことを訴えかけている場合があるだろうし、それによって民衆から支持を取り付けるというよりは、民衆が知ってほしい情報を提供することが目的である面もあるのかもしれず、そうであるなら特に民衆から支持を取り付ける必要もなく、ただの情報提供者としてメディア上で情報発信をする側に留まっていれば、主張や意見の全てにおいて、特定の為政者や政党を名指しして直接批判する必要もなくなってしまうのかもしれないが、実際にすべての面においてそういうことができるかというと、そうでもないだろうし、特定の政治家や政党や政府がやっていることに絡んで、その内容のひどさを民衆に知ってほしいということであれば、結果的には直接の政治批判となってしまうのだろうが、批判対象となる政治的な行為において、果たしてそれを行なっている特定の政治家や政党や政府のせいにできるかとなると、それらが批判対象となるならそうなるしかないのだろうが、ではそれに関して別の政治家や政党や政府がやることになれば、現状でやっていることとは違う結果になるのかといえば、やってみなければわからない面があるものの、それらを批判している人たちからすれば、別の政治家や政党や政府がやれば、少なくとも現状で行われているようなひどいことにはならないと思いたいだろうし、結果的に彼らが理想とする状態になるとは限らないにしても、少なくとも現状で行われていることよりはマシになるはずだと思いたいのかもしれないが、そういう比較も仮定でしかないわけだから、あまり信憑性があるものではなく、とりあえずは現状で主導権を握っている人や勢力が存在している限りは、それ以外のことは行われていない状況となっているわけだから、他の誰がどんな勢力がそれらの勢力に成り代わって何が行われているわけでもないし、そうれであればただ現状で行われていることを批判するにとどまるしかないわけだが、果たしてそれ以外のことが言えるかとなると、他の人や勢力がやればもっとマシになるとしか言えなければ、もちろんそれは願望でしかないから、現状では確かではないわけだが、それとは違って確かな現実はどうかというと、とりあえずは彼らに批判されている人たちが主導権を握って、批判されるようなことが行われている実態があるわけで、そうだとすれば批判されるようなことは、現状で行うことが可能であり、実際にもそれが行われているわけだから、批判されながらも現状で主導権を握っている勢力によってそれが行われている実態があるわけで、それが現状で主導権を握っている勢力の実績にもなっていて、批判を受けながらも実際に行なっているわけだから、それだけ実行力も備わっていて、また批判に屈しない現状があるなら、それも批判に屈しないという実績にもなっているわけで、結局それらの勢力が政治的な主導権を握り続けるには、そういった実績を着実に積み重ねていくことが必要条件となり、その中には批判に屈しない姿勢というのも含まれているわけだが、その一方で批判勢力の実績として世間的に認められることはといえば、まずは批判対象となっている勢力が批判に屈してくれないことには、いくら批判を試みても実績とはいえないだろうし、そういう面では批判の対象となっている勢力が政治的な主導権を握っている限りは、批判勢力の実績が何もないことになってしまいそうだが、実質的にはそうであっても、世論調査などで批判勢力の言い分に賛同したり支持する割合が多ければ、それを実績とみなす傾向もあるだろうし、そうであれば世論調査で支持や賛同を得やすいことを主張できれば、それを自分たちの実績として誇ってみせることにもなるのかもしれないが、そうなると現状で主導権を握っている勢力の方でも、世論調査で自分たちの勢力への支持や行なっていることへの支持が高いことを、自分たちの実績として誇ることになるだろうし、どちらにしても世論調査で支持や賛同を得られているように見せかけたいわけで、そのためには調査項目をいかに自分たちが支持や賛同が得られるような内容に調整するかが重要となってきてしまうだろうし、そうなると結局は政治的な主導権を握っている側とそれを批判する側とで、世論調査の項目や内容を自分たちに都合のいいように調整して、自分たちの主張がいかに民衆の支持や賛同を得られているかのように見せかけるための、ごまかし合いをやっているような様相を呈してしまうわけで、果たしてそれが世の中の実態を反映しているかとなると、単に調査項目を調整して支持や賛同を得られているかのように見せかけているだけだから、そうした世論調査自体がフィクションに近づいてしまうのかもしれず、そういう面で世の中の実態からかけ離れた調査結果になってしまうのは、実際によくあるケースかもしれないし、それ自体が宣伝や煽動の類いでしかないことは民衆の方でも理解しておくべきかもしれない。