彼の声129

2018年

11月30日「言葉と物」

 虚構はそれ自体として捉えれば現実であり、虚構を人為的に作っている現実があるわけで、虚構として構成されたものが現実に存在していて、虚構も現実の一部を構成しているわけだ。要するに物としての物質的な現実と、その中身の情報としての虚構とが一体化しているわけだが、具体的な現実としての虚構の姿は、書物の紙面に刷り込まれたり、モニターやスクリーンの画面に映り込んでいるわけだが、人の意識の中でも虚構の光景が見えているだろうし、人がそれを現実だと思うかとなると、意識の中では現実と虚構が区別されていて、情報としても現実の内容と虚構の内容とが区別されていて、それに関してjは、実在するありのまま現実を、そのまま記述や音声や映像に情報化した内容は現実とみなして、そこで人が恣意的な操作や加工を施して、実在しないのに実在するように見せかけて、記述や音声や映像に情報化したものは、虚構とみなされるが、両者を厳密に区別できるかとなると微妙な面もあって、実在しないのに実在するように見せかける技術が精緻になると、それがいったん情報化されてしまうと、何が現実で何が虚構なのか区別がつかなくなる場合もあって、区別はされるが判別ができないことにもなるのだろうが、そもそも実在するありのままの現実の全てが情報化されているわけでもなく、そこに恣意的な選択の心理が作用していて、都合の良い現実だけ見せて、都合の悪い現実は見せないようにする思惑が作用していれば、そんな現実が部分的には実在するとしても、その都合の良い部分だけが全てではないわけだから、それも厳密には、そんな都合の良い現実は実在しないのに、実在するように見せかけていることにもなるわけで、それを虚構とみなしても、それほど間違っているわけでもないことになるのかもしれず、そうなるとそこに恣意的な選択の心理が作用している限りで、少なくともそれがありのままの現実とは言えなくなるわけで、そういう意味ではそれがいったん情報化されてメディアを通して伝わってくる現実には、その全てに虚構的な要素があるとみなしておいても構わないのだろうが、たとえそんな虚構的な要素があるからといって、別にそれを否定する必要もないわけで、そうでなくても情報化された現実は、それ自体が恣意的な加工が施されているわけだから、そういうものだとみなすしかないだろうし、それはそれで一つの現実と捉えておけばいいのかもしれず、逆にそういうところで、ありのままの現実の価値をことさらに強調する必要もないわけで、確かにメディア経由の情報には、そうした虚構の要素が付きまとってくるわけだが、メディアという存在自体は虚構ではなく、メディア自体がありのままの現実の一部を構成していて、メディアがありのままの現実に、恣意的な操作や加工を施して伝えていることが、メディアの存在を含めたありのままの現実だと解釈しておけばいいだろうし、そういう意味でありのままの現実にも、それを理解するにはそれなりの解釈が必要となってくる場合があるのだが、またそうやってもたらされるメディアの情報であっても、メディア側が恣意的に伝えたいことを伝えているだけとは言えない面もあって、その中には特に伝える気がなくても伝わってしまう情報が含まれていて、そういったメディアの思惑を外れる部分を、情報を受け取る側が読み取ることができれば、そうした情報を読み取ることによって、よりありのままの現実に近づくことができるかもしれないが、それも現実に関する一つの解釈に結びつくだけで、そうした解釈から何がわかるとしても、それだけでは何をやる動機も生じないのかもしれないが、少なくともメディアが伝えたい物事と、その意図がなくても伝わってしまう物事の間から、メディアが伝えたがらないような物事が浮かび上がってくるかもしれず、またそういった物事を比較することで、なぜメディアが特定の物事を優先して伝えたがっているのかを推測することもできるかもしれないし、さらに人々がどんな情報に惹かれて、どんな情報を求めていて、そうした情報の中で何を信じているのかを知ることもできるかもしれないが、そういった情報を受け取る側の恣意的な解釈によって、世の中で何が起きているのかも理解しないとならないだろうし、特にメディアから受け取った情報を否定的に解釈して、そうした解釈をソーシャルメディアなどを通して、世の中に広めようと画策している人が結構多いだろうし、それを肯定的な解釈ではなく否定的に解釈して、批判に結びつけようとする風潮が、世の中に何をもたらしているのかを見極める必要があるのかもしれない。

 要するに物事の真相は、メディアが伝えたがっている物事とは別のところにあるとみなしたい人が多いから、それが否定的な解釈を伴った批判に結びついているわけだが、それも単純すぎる思考だろうし、物事の真相というのは、これといって特定できないものなのかもしれず、もちろん真相を究明したつもりの人は、それを特定したつもりになれるだろうが、それだけが物事の真相ではなく、それ以外の全てを含めたものが物事の真相であり、そうした全てから恣意的に一部分を切り取ってきて、それが真相であるとして、自ら誇示したいわけで、そうやって自分だけが知っている真実を断言口調で示したいという欲望が、ある意味ではメディア的な欲望とも言えるわけで、その「そうではなく真相はこうだ」という強調を伴った断言こそが、それを悪く言うならメディア病とも言える症候なのではないか。またそうである限りで、そこには必ず強調したい物事を部分的に切り取ってくる癖がついているわけで、何かその部分に物事の真相の全てが詰まっているかのように強調したいわけだが、そういう強調を伴った断言はことごとく、それだけが全てではない、という反駁に直面するわけで、またそうした反駁が、それとは別の部分を切り取ってきて、そうではなく真相はこうだ、という強調を伴った断言も誘発して、結局そんな断言とそれに対する反駁との間で、物事の真相がぐるぐる回って循環する成り行きになるわけで、それを全体として見れば、そうやって自分だけが知っているつもりの真相が増殖していって、それらが物事の真相の全てとなるなら、結局それは物事自体であり、それについて言及したい個々の人が示すそれらの強調したい一部分ではなく、そうした物事の全てが真相となるわけだが、そもそも記述でも音声でも映像でも、その全てを語り尽くすことはできないだけに、それらの恣意的な操作から導き出された断言の一つ一つは、悪く言えば虚構に過ぎなくなるわけだが、それを虚構と断じてしまうと身も蓋もないから、そうした虚構を真相という言葉で表現するしかないわけだが、そんな真相自体が虚構だとすると、何か不都合なことがあるのかといえば、不都合であればそうした不都合は伝えたがらないだろうし、結局はそれが真相であることを強調して伝えるしかなく、それを受け取る側に信じてもらうしかないわけだが、もちろん情報を受け取る側にとっては、それが真相とされるよりは虚構とされた方が興味深いわけで、だからこそ、物事の真相はメディアが伝えたがっていることとは別のところにあるとみなしたいのであり、そうやって情報を受け取る側の興味も、メディアの情報が虚構であることをめぐって循環するわけだが、それももちろん全てが虚構だとは断じ難いだろうし、何かしらそこには真実が含まれていることを信じたいわけで、そうした真実の一つが、それだけが全てではないということであり、それを言い換えれば、物事の真相はその物事自体であるわけだが、それを言葉で表現すると、それだけでは済まなくなるわけで、それ自体としてしまうとそこで終わってしまうので、それを別の何かと対比させないと文章とはなりがたく、何か似たような別の事例と対比させて、そうであるならこうでもある、という帰納法的なやり方を使って、それだけ文章を長引かせるわけで、またそうなれば、そこからさらに似たような別の事例を持ち出してきて、そうであるならこうでもあって、さらにああでもある、というふうに、さらに文章を長引かせることにも成功するわけで、そんなことをやっていくと、結局は物事の全体から似たような部分を複数切り取ってきて、それを複数の似たような事例として語ればいいわけで、それが文章を長引かせるコツと言えなくもないが、さらにそれと「そうではなく真相はこうだ」という文を適当に組み合わせれば、何かもっともらしい内容の文章が出来上がるのかもしれないが、果たしてそんな文章から何がわかるかと言えば、そうした言葉による表現自体が、虚構を膨らましているとも言えるわけで、同じ物事を別々の部分に切り分けて、それらを対比させて、そうではなく真相はこうだ、と言い換えてみたり、また全体から複数の部分を切り取ってきて、別々の物事を比較しているように装いながら、そうであるならこうでもある、と言い換えてみたりしながら、そうした部分的な物事を使って言い換えを行うことが、虚構の操作と言えるのかもしれないが、実際にそうした虚構の操作によって現実を捉えようとしているのは確かであり、それ以外のやり方では意識が現実を捉え切れないのであれば、そうするより仕方がないのだが、他にどうしようもなくそうなってしまうにしても、そこで踏まえておかなければならないのは、そういった操作によって虚構が生じていることであり、言語的な行為の対象が紛れもない現実であるとしても、それを表現するには虚構の操作が必要不可欠であることは理解しておいた方がいいのかもしれない。


11月29日「問題の解決」

 やっていることにどこまで手間暇をかけられるかが、そのやっていることの出来にも影響してくるのだろうが、ただ闇雲に手間暇をかけてもうまくいかないだろうし、効果的なことをやらないと、かけた手間暇が無駄になってしまいかねないから、どうやればうまくいくかに関して、ある程度は知識や経験がないと、手間暇をかける意義もないわけだが、それがなければ新たに学ぶ必要が出てくるわけで、また学ぶにしても効果的に学ばないとうまくいかないわけで、どう学んだらいいかに関しても、ある程度の知識や経験が必要になってくるわけだが、しかしどう学べばいいかを学ばなければならないとなると、そうやって何をやるにも、それをやるに関しての循環的な傾向が伴ってくるわけで、そういうことを考慮していくときりがないわけだが、そんなふうに何かをやっていくに従って、それに関連してやらなければならないことが新たに出てきて、そんなことをやっていくと、結果的に自然と手間暇がかかってくるわけで、実際にそんなことをやってみた経験から、手間暇がかかることを実感するわけだが、それに関しても、他から学んだ通りにやると、うまくいくことがわかったりして、そこから学ぶことの大切さを理解するわけで、それも実際にそういうことをやってみた経験から実感するわけだが、そうやって物事が循環的にぐるぐる回って、そこで様々なことが関連し合い、また何事も一筋縄ではいかず、場合によってはどうやればいいかについて、はっきりしたことは何も言えない事態にも直面してしまうわけだが、それでも実際に何かをやれば、それに伴ってそれなりにわかってくることもあると同時に、そこから新たに疑問や疑念が生じてくれば、それについて調べたり学ばなければならない成り行きも生じてくるわけだ。やはりそういう意味でもどこまでやってもきりがないわけだが、少なくともその場でできる限りのことはやろうとするだろうし、やりきれない部分については、そこからうまくいかない原因が生じてくるかもしれないし、また現状でうまくいっている部分についても、状況が変わればうまくいかなくなってくる場合もあるし、やはりそういうところが一筋縄ではいかないわけだが、やっていくうちに当初の方針を変えざるを得なくなったり、いくらでもやっていることが変わっていく可能性もあるわけで、そうやって新たな事態に直面すると、これまでの経験やそこから得た知識では対応できない面も出てくるから、さらなる試行錯誤をやらなければならなくなってきて、結果的にわけがわからなくなってくるかもしれないが、そういうところであまりに事態を単純化して捉えて、一つの結果から一つの原因を決めつけて、そこが悪いから全てが悪いかのような短絡した思考になるのは避けなければならないだろうし、そこで様々な物事が循環的に関わってくるから、やりきれない面があるにしても、そうした物事がぐるぐる回っているサイクルを維持できている限りで、何とか活動が成り立っていくわけで、またそうした活動に伴って、やりきれない面があるから、そこから様々な不具合や矛盾が露呈してくるにしても、そんなことに対処しているうちにも、それなりに情勢が変わってきて、事態が好転することも暗転することもあるわけだが、そうした対処も活動の一部としてそれなりに機能しているわけだから、そんな中でも活動の継続が図られる限りで、それなりに対処が功を奏していることにもなって、そういう部分で不都合な事情を抱えながらも、さらに関わっている物事を循環させながら、活動を継続させようとするわけで、そうした活動が何を意味するとも思えないかもしれないが、それはそこで行われている様々な活動からもたらされる効果が相殺し合っているから、それを全体としてみれば何がどうなっているわけでもないとしても、部分的には何らかの効果を上げていて、そうした効果がもたらされているから、それをもたらす活動の意義も感じられて、それが活動を継続する上で必要なモチベーションともなってくるのだろうが、そうやって様々な物事の絡み合いの中で行われている活動は、それを部分的に単体として取り出してみれば、何かつじつまの合っていることをやっているように見えるのだろうが、そこに絡んでくる他の活動との兼ね合いから見ると、そんな活動などあってもなくても構わないようにも思われてしまう場合もあるだろうし、もっと合理的かつ効率的に活動を再編すれば、無駄で無意味な活動が削ぎ落とされて、何事も迅速にやってのけるようなシステムを構築できるかもしれないのだが、一度それをやってしまうと、やはりきりがなくなってしまうわけで、いくらでも限界いっぱいまで活動の合理性や効率性を追求したら、無駄で無意味な活動に携わっている人たちが要らなくなってしまうわけで、今度はその人たちの処遇をどうするべきかが、新たな問題として生じてくるわけで、結局そういう部分で新たに不都合な事情が生じてくるわけだ。

 またそういう部分では現状でやっていることが基準となっていて、そこで生じている不具合に対処する上で、そのやっていることをから生じている前提を、どう変えていくかが問題となってくるわけだろうが、果たして前提そのものを変えられるかとなると、まずは現状の中で活動しているのだから、そうした現状を支えている前提をなかなか意識できないわけで、その現状の活動を支えている前提というのが、もはや変更不可能なほど必要不可欠な前提条件となっていて、それだけ現状に深く根ざしているほど、そこから生じる不具合などの問題も、容易には取り除けないわけだが、またそうなっているほど、それが不具合とは認識されていない場合もあるわけで、逆にそれが不具合であるどころか、利点であると認識される場合もあり、実際にそこから利益が生じていれば、むしろ取り除くわけにはいかなくなってしまうわけだが、そういったものの典型的な例として挙げられるのが国境であり、国境があるからそこで人や物や情報など流通が制限されることによって、特定の国が豊かになったり、逆に特定の国が貧しくなったりするわけで、そうなると豊かな国の住民にとっては、国境があるから利益をもたらしていて、貧しい国の住民にとっては、国境があるから不利益をもたらしていて、豊かな暮らしができないと思われるだろうし、だから貧しい国の住民が移民となって、豊かな国へと越境を試みようとするわけだが、なぜそうなってしまうかとなると、単に貧しい国の政府の統治が失敗しているからだ、とその国の政府に責任転嫁することもできるが、そうした国ができた歴史的な経緯がある限りで、その国が成立した前提条件として、もとから貧しくなることを宿命づけられているような場合もあって、他にもそれに関してそうなってしまった原因をあげていくときりがないわけだが、またそうなると逆に国ごとに発生している経済格差から利益を得ようとする試みも行われるわけで、国境が人や物や情報の流通を阻む不具合の象徴であるとしても、そうした不具合を逆手にとって、そこから利益を得ている現状もあって、そうした現状を部分的に範囲を都合よく区切って、国内問題として考えてみれば、比較的豊かな国では、自国の利益を確保するためにも、自国にとって都合の良い国境の管理が求められてくるだろうし、具体的には自国にとって都合の良い人や物や情報を国境を挟んで出し入れしたいわけで、都合の良い人や物や情報は積極的に受け入れたり、積極的に外国に提供したりする一方で、都合の悪い人や物や情報は国境でシャットアウトするわけで、それによって自国を富ませる一方で、また外国から都合の良い人や物や情報が入ってきて、都合の悪い人や物や情報が入ってこないようにするために、対外的にも様々な策を弄するわけだろうし、そういうことを世界各国がやってきた結果が、現状の世界情勢や、そこから少なからず影響を受けている各国の国内情勢なども生じているわけだが、その国の政府にとってはそうであっても、またその国の政府を支援している勢力や、支持している人々にとってはそうであっても、中にはそうではない人々や勢力も国内には存在していて、そうした人々や勢力が、政府の方針に反対しているわけだが、その反対の中身というのが、大枠では、都合の良い人や物や情報が入ってきて、都合の悪い人や物や情報が入ってこないようにすることに関しては、同意しているものの、ただし政府のやり方では、都合の悪い人や物や情報が入ってきてしまうし、逆に都合の良い人や物や情報が入ってこなくなってしまう、という主張が大半であり、それに対して例えば、国境の制限を取り払って、人や物や情報を自由に行き来できるようにしたいと主張している人は、ほとんどいないのかもしれないし、そんなことをやったら国そのものが崩壊してしまうと思っている人が、多数派を占めている可能性もあるわけだが、そういう意味で、人が関わる物事から派生する問題の根本的な解決という手段があるとしたら、そうした物事が成り立っている前提条件そのものを取り払えれば、確かに根本的に問題が解決するかもしれないが、それと同時にそうした物事自体が成り立たなくなることを意味していて、実際にそうなってしまったら、そうした物事に関わっている人や集団や、それらによって構成されている組織的な機構そのものが要らなくなってしまい、そうなってしまってはまずいから、できる限り根本的な解決は避けて通らなければならなくなるわけで、そうでなくても前提条件がそう簡単に突き崩せるわけではなく、そもそも根本的な解決など不可能なのだろうが、中にはそうした試みを行なった例もあるわけで、そんな解決を目指した事例として挙げられるのが、ヒトラーやスターリンの主導で行われた全体主義的な試みであり、弊害を生じさせている原因と思われる民族や国家を全て取り除いて、世界を統一する運動だったわけだが、実際にはそんな試みもうまくいかなかったのであり、そういった試みにも、それ特有の前提条件やそこから派生する問題が内包されているわけだ。


11月28日「炎上商法」

 何をやるにしても、それをやっていくうちに、やっていることによって自縄自縛となってしまうのは、そこに至る自らの言動や行動が災いしているからだろうが、何かにこだわって、そのこだわっていることに縛られて、そんなこだわりから離れられなくなってしまうとしても、そうしたこだわりは誰にでも生じてしまうことであり、逆にこだわりがないと、そこから何をどうやればいいのかわからなくなってしまうし、少なくとも何かをやるきっかけとしても、何かにこだわらないと何もやりようがなくなってしまうわけだが、こだわり過ぎてもそればかりとなって、他のことができなくなってしまうから、その辺の加減や調整がうまくいかないわけだが、自主的にその辺のバランスを取るように心がけても、周囲から及ぼされる作用や影響によって、過剰なこだわりを抱くように仕向けられてしまうと、そうした自助努力では太刀打ちできなくなって、心身が制御不能に陥って感覚のバランスが崩れてしまうわけで、それが高じると、いわゆるマニア的あるいはオタク的な依存症へとつながるのかもしれないが、大抵はそんなところまではいかないし、自縄自縛の状態にも程度の強弱があって、例えばちょっとしたことでも大げさに騒ぎたい人たちは、大したことでもないのにすぐにそんな程度の強い言葉を使いたがるわけで、その辺の実態とそれに対する表現との間で、人によって感じ方に偏差が生じるのは当然のことだが、そんな偏差を自覚していても、時としてそうした言葉を使うことに対しても過敏に反応している可能性もあって、何か自縄自縛な状態が深刻な状態だと思い込みたくて、それが軽度に思われるにも関わらず、そんな大げさな言葉を使って騒いでいるのが我慢がならないところが、やはり神経過敏症であり言葉に対する過剰反応かもしれないのだが、そんな言葉の表現の程度をどう定めるのも、言葉を使う人の勝手だろうし、それに関しては、近頃何かと言うと炎上とかいう言葉を使いたがる風潮もあるだろうが、気にくわないことをやっている人に向かって、大勢の人から非難が集中することが、炎上という表現によって、メディアによっておもしろおかしくも軽薄に取り上げられるとしても、やはりそんな炎上の程度にもピンからキリまであるだろうし、そんなわけで何かの程度を言葉を使って表現するのにも、実際の程度と言葉を使って表現された程度の間で、それを使って表現する側にも、そうした表現を受け取る側にも感覚的な偏差が生じるわけで、もちろん偏差を感じられなければ、ピッタリしたちょうど実態と合っているとような表現に感じられるわけだが、実態と表現との間で生じる程度の感じ方をめぐって、人によって違いがあることは確かであり、それに関して自らが感じた程度を、他の人が感じた程度と同じ程度に合わせるのは困難だろうし、たとえそれを大げさな程度だと感じて、それを他の人たちも大げさに感じてほしいと主張しても、そんな主張がそのまま受け入れられるわけでもなく、またなぜそれが大げさな程度であるかを詳細に説明したところで、そんな説明に対しても、人それぞれで感じ方が異なるだろうから、それを説得力のある説明として受け入れられる人は、確かにそれが大げさな程度だと思うかもしれないが、説明を受け入れない人はそうは思わないだろうし、そうやってその程度に対する温度差が、それを受け取る人々の間で生じるわけで、それに関して人々の間で共通の価値尺度が生じていれば、多くの人が同じ程度の感覚を共有できるわけだろうが、それもそういう共通の価値尺度を世の中に広めて信じ込ませようとするメディアを、人々がどの程度信用しているかにもかかってくるだろうし、そうした信用の程度も、メディアが実施する世論調査などから求められるかもしれないが、そうした世論調査自体が、共通の価値尺度を世の中に広めるために行われていることでもあるだけに、さらにそうした世論調査などの結果を信用できるかが、そうした価値尺度を信用できるかに連動してきて、そうなるとそうした価値と信用の循環構造をどう理解すればいいのかわからず、疑心暗鬼になってくるかもしれないが、そういった疑念さえも、人によっては全く抱かないだろうし、そもそもそんなところまで考えなければ、疑念など生じようがなく、考えが及ばない人にとっては、疑心暗鬼になることすらがフィクションでしかないわけだが、それ以前にそういった程度の定まらないことについていくら考えても、定まった結論など出てこないことはわかりきっていて、逆にそういった程度の定まらないことに関して、一定の解釈を施して、その解釈を他の人たちに押し付けようとする行為が、社会の中で横行しているのかもしれず、そういった解釈の押し付けがメディアを中心にして行われていることであり、そういった押し付けに抗う気にならなければ、いいようにされてしまうわけで、そうならないためには、絶えず疑念を抱いている必要があるのかもしれないが、疑念を抱くには、それについて考えてみないことには何事も始まらないわけで、実際に考える余裕がある人は疑念を抱くだろうし、余裕のない人はメディアを信じやすくなってしまうわけだ。

 だがそんなことを考えれば考えるほど、そんな考えに囚われて自縄自縛となってしまう可能性もあるわけで、そういった思考の追求もほどほどのところで切り上げる必要もあるのかもしれないが、考えるだけでなく、実際に何かを行わないとならなくなるだろうし、その行なっていることが、メディアを通して自らの考えを表明することになるのだろうが、それが実際にメディア上で行われている解釈の押し付けになるわけで、もちろん考えを表明している人たちは押し付けているつもりはなく、一定の解釈を提示して、それをどう受け取るかは、受け取る側の判断に委ねられているわけで、それを一方的な押し付けと受け取るのは、どう考えても無理があるだろうし、そこにも強制力を伴った押し付けではなく、絶えず情報を受け取る側に選択の機会が与えられている、と解釈しても構わないようにはなっているはずだが、そうした選択にもある一定の傾向があるなら、それでは選択になっていない場合が出てくるわけで、例えば全ての選択肢が同じような傾向になっていて、どれを選んでも変わらないように思われるなら、それは選択を装った押し付けになるだろうし、そういうところで技術的な工夫が凝らされているわけで、どれを選んでも一緒だが、一応は選択肢があるように見せかけられていて、そうやってメディアから情報を受け取る人たちの意識を一定の傾向に均していこうとするわけだが、それがメディアだけなく、例えば選挙の時の政治的な選択肢であったり、商品を選ぶ時の選択肢であったり、さらに何かを表現する時に使う言葉の選択肢であったりするわけだが、そんな中でも使う言葉を選ぶ時の選択肢になると、少なくとも世間的に通用する今風の言葉を使おうとするわけで、しかもなるべくなら目立つように、他の人の気を惹くようにしたいわけで、そうなるとそれを安直に理解して、何でもかんでも、ちょっとしたことであっても、例えば現状で流行っている炎上という言葉を使えば、他の人の気を惹くように思われるだろうし、たとえそれが大げさに思われようと、ふざけて使っていることにすれば大目に見てもらえるだろうし、そうやってこちらの都合で勝手に状況をいいように捉えて、とにかく人の気を惹くような工夫を凝らして、何かもっともらしく見せかけようとするのだろうが、確かにその場ではそれが正しいやり方に思われるのだろうが、そういう言葉が他でも流行っていること自体が、他の人もそういうやり方になってしまっていることを示しているわけで、さらにそうなっていること自体が、そういう言葉を流行らせているメディアによって、人の感性が均されてしまっていることも示していて、要するに炎上という言葉を使った紋切り型の表現が世の中で流行していることを、その人自身が自らの言語表現によって体現していることにもなるわけだ。そこまで状況が進行してしまえば、それがメディアによる解釈の押し付けだとは思わないだろうし、何でもかんでも、そこでちょっとした諍いが起これば、それを炎上と解釈すること自体が、実際の炎上とは似ても似つかない状態であろうとなかろうと、それを炎上という言葉を使って解釈すること自体によって、その程度や状態が均されて、それに対する感覚も平均化されるように誘導されていってしまうわけで、実際の状態がかなりひどくても大してひどくなくても炎上となってしまうから、そんな言葉を使った表現を受け取る度に、次第に感性が鈍感になってきて、何とも思わなくなる頻度も多くなるだろうし、そうなってくると本当に深刻な状況が起こっているのに、誰も何とも思わないような状況が生じてくる可能性もあるだろうし、そうやって紋切り型的な言語表現の流行から、その状態の程度が曖昧になってきて、何が起こっても同じ表現でしか報じられないから、事の深刻さを理解できなくなってくるし、そうした傾向が世の中に蔓延してくると、誰もが同じようなことしか感じないから、それに関して大して深く考えもせずに、同じような態度や反応になって、同じようなことしかやらなくなるだろうし、同じようなことしかやらなくなるから、それを表現するのに同じような言葉しか使わなくなるだろうし、だから同じような言語表現が世の中で流行るのだろうが、そうやって様々なことが連動して循環しながら、様々な物事の平均化が促進される一方で、何事も安易に済まそうとする傾向も強まってきて、安易に済ますことができる手法も世の中で流行ってくるわけだが、それが便利さの追求だろうし、またそれが物事を効率的に処理できるやり方の追求にもなるわけだが、またそれが追求されるほど、それと反比例して、それを実現するための技術的な処理も複雑怪奇になっていくわけで、結局いくら世の中が便利になっても、全てが便利になるわけではなく、あるところでは便利になったように思われても、その便利さを実現させるためのシステムが次第に大掛かりかつ複雑化していってしまうという不条理が発生するわけで、またそうなるほどそのシステムの全体が人の意識では把握できにくくなって、その内部での部分的な役割も細分化されすぎて、そこでどんな処理が行われているのか理解するのが困難となってくるわけで、それが現代文明の自縄自縛的な傾向なのかもしれない。


11月27日「社会と個人の関係」

 世の中で何か対立する立場があるとすれば、社会的な立場と個人的な立場があるかもしれないが、それらの立場の間で、例えば社会的な立場上は都合の悪いことが、個人的な立場上では都合が良い場合があるかというと、社会のルールに反して個人の利益を追求する場合があるが、そもそも社会の中で個人の立場というのが単独であるかとなると、それは個人の勝手な思い込みの中ではあるかもしれないが、立場自体が他との関係を前提としているわけで、その人と関係している他の人や団体からすれば、そんな身勝手な立場など認められず、それはあくまでも関係し合う人や団体との間で、何らかの立場が生じることになるわけで、そういう意味で立場は単独では存在し得ないわけだが、便宜的には個人の立場というのがあるし、社会の中で公的に正当化されているルールに抵触しない限りで、個人の立場というものが尊重されなければならないわけだが、なぜそうしなければならないかというと、個人が個人のままでは社会の中で弱い存在になってしまうからだが、なぜ弱い存在なのかといえば、他に個人よりは強い存在があるからで、それは集団としての存在であり、個人が単体で心身ともにどんなに強くても、通常は多くの人が寄り集まって構成される集団で対抗すれば、退けることができるわけで、また集団が組織的に構成されると、集団内の特定の役割に応じて役職が生まれて、その役職に伴ってその役割に応じた特定の権限や権力も生じてきて、そうした権限や権力が及ぶ範囲では、それを行使することによって、他よりも強い立場になれるわけで、それが社会的な立場だと言えるわけだが、そうした集団によって付与されている権限や権力を、集団とは無関係な個人の利益のために使うことが、ルール上は禁じられていて、そういった権限や権力は、集団が社会の中で機能するために必要な権限や権力であって、それ以外のために使うことは不当な使用であり、いわゆる職権乱用となるわけだが、そうした職務的な立場から離れて、個人としての立場からは何が生じるかといえば、個人の権利として、基本的人権という法律的な規定があるにはあるが、それが法律的には定められているとしても、それを他が尊重してくれるかとなると、他とは他の個人や個人以外の集団を構成する団体となるわけだが、それらが他の社会的な立場を優先する限りで、個人の立場は後回しにされてしまうわけで、そういう意味で個人は個人でしかない限りで、弱い立場となってしまうわけだが、それでも個人同士で関係を結んで、それが対等な関係である限りで対等な立場にもなるわけだが、現実問題として個人だけの関係で成り立つような社会にはなっていないし、そこには必ず集団としての何らかの団体との関係が生じてきて、そういった関係の中では、団体による何の組織的な後ろ盾もない個人は弱い立場となってしまうわけだが、そんな中でも個人が強い立場になれないわけではないし、例えばその個人が莫大な資産を所有していれば、その資産を利用することで有利で強い立場になれる場合もあるだろうし、資産以外にも社会的に有用で利用価値の高い何かを所有していれば、それを利用することによって強い立場になれるわけで、そんな利用価値の高いものの中では、資格とか技能とか知識とか経験とか、その個人が身につけることのできる様々な物事が、その場の状況の中でうまく機能する限りで、それなりに強い立場になれるのだろうが、そうなると今度はそうした物事を利用して、社会的な立場を獲得する成り行きにもなってくるのであり、そういう利用価値の高い物事を身につけている個人は、それ自体で利用価値が高いから、団体の方でも放っておかないだろうし、その団体内のしかるべき役職に就いてもらって、それなりに高額の報酬を払って、団体のために働いてもらいたいと要請してくるわけで、そんな要請を受け入れて、あるいは個人の方が自らを売り込んでくる場合も多いだろうし、そうやって団体のお眼鏡に敵った個人が、団体内で何らかの責任ある役職に就いて、その役職に応じた権限や権力を行使するような成り行きになるわけで、そういう意味でも個人が個人的な立場のままではいられない成り行きが社会の中で生じていて、たとえその個人が個人的な立場の重要性を意識して、それを尊重する姿勢を貫いているとしても、それを社会に向かって主張したり正当化するような成り行きになってくると、そうした主張や正当化を社会に広めるために、必要に応じて何からの団体を結成したり既存の団体に入ったりして、そこから自然と社会的な立場が生じてくるような成り行きとなってくるわけで、別にそういう成り行きによって、個人としての立場の弱さを改めて実感させられるとしても、弱ければ弱いなりに、個人で活動していく成り行きもあるだろうし、少なくとも集団で構成される団体にとって無用な存在とみなされたら、個人は個人のままとなるしかなく、中にはそれでも構わないような状況もあるわけだ。

 そういう場合には社会的な立場と個人的な立場が対立ではなく共存していると言えるのかもしれないが、それが無用ではなく、互いに互いを有用な存在とみなせば利用し合う関係となるだろうし、それが実際に実現している具体例としては、企業と消費者の関係であったり、政府と住民の関係であったりするわけだが、それらとは異なる関係があるかというと、やはり互いが互いを無用な存在とみなす無関係の関係があるかもしれないが、実際にはある程度は関係があったり、またある程度は無関係であったりするわけで、全てにおいて関係があったり、また全てにおいて無関係であったりするわけではなく、関係の程度にも強弱の違いがあるのだろうが、社会的な立場を利用して行使される権限や権力に対して、それが合法的な行使である限りで、個人の立場で合法的に逆らえば、それ相応の報いを受けるだろうし、もちろん違法なやり方で逆らえば処罰されるわけだろうが、では個人の立場で他の個人に対して権限や権力が生じるかというと、そこに何らかの契約関係が結ばれていれば、契約に基づいたやり方で権限や権力を行使することになるだろうし、また法律に基づいた扶養義務や婚姻や相続などの関係から、権限や権利が生じることもあるだろうが、それらも社会的な立場から生じる関係であって、そういう意味で個人としての立場に何らかの規定を施してしまうと、途端にそれが社会的な立場になってしまうわけで、何かそこに決まりが伴ってくる限りで、個人としての立場ではなくなってしまうのだが、そうなると社会的な立場と個人的な立場は、対立するのではなく両立しない面があるのかもしれず、しかも何らかの規定や決まりが伴う限りで社会的な立場が生じるのだから、そうした決まりや規定がない限りで、個人的な立場があるとしたら、社会の中で暮らしている限りは、必ずそこには法律などの決まりが伴ってくるのだから、そうした決まりや規定を意識する限りで社会的な立場となってしまうわけで、ではそれらを意識しない時には個人的な立場で居られるかというと、自身がそう思っていても、他の人や団体ではそうは思ってくれなければ、やはりその限りで社会的な立場が伴ってくるわけで、そうであるなら社会の中では個人的な立場の生じる余地がないのかとなると、そうとも言い切れないだろうし、それに関しては個人が社会的な立場を無視して、あるいはそれを考慮しないで何かを行えば、それが個人の立場からやった行為になるのかもしれず、そういうのは分をわきまえない振る舞いとして、しばしば否定的に捉えられてしまうだろうが、そうした行為が個人的な立場から生じる行為として、社会的に規定されるのではないか。もちろんそれは社会的な決まりやそこから生じる身分や地位をわきまえていないから、分不相応な行為として非難されるわけだが、逆に分をわきまえたことをやると、周囲から安心されるだろうし、何か妥当なことをやっているように思われて、特にそれに関して非難されたり処罰されるようなこともなく、そこで行われる物事が丸く収まるような結果をもたらすのかもしれないが、しかしそうなったらなったで、そこには何の驚きもなく、かえってそうなり過ぎると、何のおもしろ味もないようにも思われてくるのではないか。そうなるとそれも気にくわないような意識が、そういうことをやらされてしまう世間に対する反発の感情とともに生じてくるわけで、結局そんな感情を抱くことから、社会的な地位や身分にこだわらない個人的な立場を意識するようになるわけで、そうなると社会的な立場とは対立する概念として、個人的な立場を主張する人たちが出てくるわけだが、その際に彼らが、自たちの立場を正当化する上で掲げる宣伝文句によく使われる言葉として、自由という概念が使われるわけだが、要するに社会の束縛を断ち切って自由になろうと主張するわけで、そういった主張に賛同する人たちが増えてくると、またそこで自由な社会を作ろうとして集団で徒党を組んでしまい、やはり徒党を組んだ途端に、そこに役割分担が発生して、そうしたコミュニティが社会化してしまうわけで、結局そこで新たな自由という名の束縛に支配されてしまうわけだが、そこで自由が実現するわけでもないのに自由を求めてしまうのが不条理な要求であるとしても、自由を求めている間は自由を夢想していられるわけで、それは個人の立場を主張しているうちは、個人の立場があるように感じられるのと同じことなのかもしれず、それに対して人や団体との間で決まり事が成立すると同時に、そこに社会的な関係が生じたように思われるのとは対照的な成り行きであるわけだが、そこでも物事の成り行きが流動的に推移しているうちは、そこでは何も決まり事が成立していないから、個人の立場で自由を享受しているつもりになれるわけだが、そこからいったん何らかの決まり事が双方の同意のもとに規定されてしまうと、その決まりに同意した人や団体の活動が、その決まりの範囲内に制限されてしまい、そういった制限や制約が伴う関係が双方の間で守られている限りで、そこに社会が成立していることになるのではないか。


11月26日「話のリアリティ」

 何をやるにしても、やっていることのつじつまが合わなくなるようなら、そこでやっていることの全てを把握できていないから、やっているうちに気づかないところでつじつまが合わなくなってきてしまうわけだろうが、それは何かについて語ることにも言えるだろうし、必ずしも語っている対象の全てを把握しているわけではないから、語っている当人が気づかないところで、つじつまが合わなくなっているのだろうが、だからといって当人がそれに気づいて無理につじつまを合わせようとすれば、今度は今まではつじつまが合っていたところで、つじつまが合わなくなってくるのかもしれず、そういう意味で話のつじつまが合わなくなるのは、当人の技量を超える部分では仕方のないことかもしれないのだが、全てを語ることができないだけに、妥協策としてつじつまの合う部分だけ語ろうとすると、何やらもっともらしくも嘘っぽい話の内容になってくるだろうし、そういう話がフィクションに特有のご都合主義的な恣意性や自在性を纏うとしても、それだけ話にリアリティを持ち得なくなるから、語っている当人がどんなにつじつまが合っていることを強調してみても、それを受け取る側には何か内容が嘘っぽく感じられてくるし、しかも当人の主張とは合わない部分は語ろうとしないから、それだけ一方的で独善的な内容となってしまうわけだが、当人がそうなっていることを承知で語っている場合もあるわけで、中にはそんな嘘っぽい話でもありがたがって拝聴してくれる人がいるから、そういう人向けに商売をしている人もいるわけで、そんなつじつまが合う嘘っぽい話と、つじつまが合わなくても妙にリアリティのある話のどちらがいいかは、それはそんな話を受け取る側の好みの問題となるかもしれないが、できればつじつまが合って、しかもリアリティのある話になればいいのだろうが、話のつじつまが合うことと話にリアリティがあることは、必ずしも両立するとは限らないだろうし、また語っている側にはリアリティがあっても、それを受け取る側にはリアリティを感じられない場合もあるわけで、そういう面で話にリアリティのあるなしは、語っている側が一方的に決めることは難しく、ある程度は語りを受け取る側の判断に任されている面もあるわけだ。だから語る対象に関して詳細に調べて、自らが言わんとしている論理に適合する部分を抽出して、それを筋が通るように組み立てて、理路整然とした話に構成して語っても、それを受け取る側には何かできすぎた話に思われるようなら、やはりリアリティを感じられないわけで、話の内容にほころびがないことが、逆にフィクションのように思われてしまうわけだが、では話にリアリティを持たせるにはどうしたらいいかとなると、語っている当人が語りたいこと以外の内容が話に含まれていて、しかも語っている当人がそのことに気づかない場合などが、話に妙にリアリティが伴うわけで、要するに語り手のコントロールを逃れる部分がいかに語りの内容に含まれているかが、話のリアリティに直結してくるわけだが、それは語り手にはどうにもならない部分であり、手の施しようがない部分でもあって、それを語り手の責任にするわけにもいかない部分でもあるわけだが、やはりそれが含まれていないもっともらしい話は、どんなにうまく語ってみせても嘘っぽく思われてしまうし、語る話術や文章の表現力などではごまかせないのかもしれないし、だからこそ話を受け取る側に直接リアリティをもたらすのだろうし、そういう部分では、語り手はそういった話のリアリティに敗北を喫しているとも言えるのかもしれないし、そういうところがごまかしの利かない部分なのではないか。またそうやって話の内容自体がその語り手を裏切る形で、語り手の都合に合わせて話に施した嘘やごまかしを、話のリアリティを通して話の受け手に向かって、語り手に気づかれないように告発しているわけで、話を受け取る側にはそうした部分を見つける努力が求められているのかもしれず、そういった語り手が気づかないような話の真実が、その語り自体を通して話の受け手に伝わるようだと、やはりその話にはリアリティが伴っているわけで、その部分では語り手が話を制御できていないから、確かに話のつじつまが合わないようにも感じられて、何かおかしいように思われるのだが、そこが語り手の構築したフィクションとは異なる話の真実の部分であり、話の内容自体が語り手や作者を裏切ってでも、それを受け取る人たちに伝えたい部分でもあり、話を受け取る側がそういう部分を汲み取ってあげないと、語り手や作者の話術や文章作成術の術中にはまってしまって、何やらもっともらしくも嘘っぽい話を信じてしまうのだろうし、またそんな語り手や作者の信者となって、彼らが工夫を凝らして構成してみせるフィクションを楽しむだけとなってしまうわけだが、娯楽としてならそれでも構わないだろうし、たとえそれが深刻な社会問題や大げさな国家や社会についての大言壮語であっても、楽しむ対象としてなら何の問題もないのかもしれない。

 しかし話を楽しむ対象として以外に、どう受け取る必要があるかとなると、それは話を受け取る側のコントロールが利かない部分であり、どう受け取ったらいいのかわからないような話にはリアリティが伴ってくるのかもしれず、またどう受け取ってみても腑に落ちないような話にも、その部分にリアリティが感じられるだろうし、そんなどうにも解釈し難いような部分にリアリティを感じるのかもしれないし、そうなると受け取る側の都合よりは、話そのものの都合を優先させるしかなく、要するに話自体を直接そのまま受け取るしかないようなことになるが、話の内容をすぐに自身の都合に合わせた論理で単純化して、それでわかったような気になるのを拒む部分がリアリティを感じさせるわけだ。それは話をする側にも言えることで、話す対象に自分の都合に合わせた論理によって単純化を施して語ろうとすると、話自体に裏切られてしまうわけで、話自体がそうした論理とは矛盾する部分を含んでいることに、話す側が気づかないと、そこで話のつじつまが合わなくなってくるわけで、話を受け取る側がそれに気づくように話自体が仕向けてくるのだろうし、それは話す側の技量を超えたところでそうなってしまうから、話す側としてもそういう部分をコントロールしようがないわけだ。話自体が話を受け取る側に対して、そう仕向けてくるとはにわかには信じがたいだろうが、そういう部分は話す側が話す内容によって語らされてしまうわけで、必ずしも話す側に主導権があるとは限らず、話す対象が話す人にそれについて話すように仕向けている限りで、そういう部分では話す側が話す対象によって語らされている面があるわけで、そこで自身が把握できないことまで語らされていることに気づけないわけで、そういう部分が、話者の思惑を外れて、直接話を受け取る側に届くわけだ。そんな意識して語ろうしなくても語らされてしまう内容が、その対象には含まれているわけで、そういう話を受け取る側としては、話者が恣意的に内容を自分の論理に従えようとしているところを見抜く必要があるだろうし、さらに話の対象の中で、自身の論理にとって都合の良い部分だけを恣意的にサンプリングしてきて、それらを組み合わせて自身にとって都合の良い内容を構成している部分も、把握できればそれに越したことはないだろうし、そして何よりも話の対象自体が、話者の論理に逆らうようなことを、話者自身を通して語らせようとしている部分に注目する必要があるわけで、そこで話者の論理が破綻しているとともに、そこから話の真実が見えてくるわけで、それが話者自身が認めがたい真実でもあるわけで、話者自身は何とかそれをごまかして、それなしで話を成り立たせようとしているわけで、そこを技術的にごまかすことができれば、自身の都合や論理を反映した、つじつまの合ったもっともらしい話に仕上がるはずなのだが、話の対象がそれを許さないのだろうし、どうやっても話者自身が設定した話の枠に収まりきらない部分が出てきて、そこを無理やりはめ込もうとすれば、無理が生じてそこだけはなく、他の部分にもほころびが目立つようにもなるだろうし、そうした破綻を最小限に食い止めるために、持てる技術を駆使して話に過剰な装飾や厚化粧を施そうとするのだろうが、そういう処理ばかりにかまけていると、今度はそういった話を受け取る側が、そういう技巧の粋を凝らした工夫にわざとらしさや不自然さを感じるようになるわけで、そして話者がそうしなければならない理由をあれこれと詮索していくと、そこに隠しようのない真実がむき出しになっていることに気づくのかもしれず、なぜそうなってしまうのかといえば、それには話者が話す対象に惹かれて、それについて語ろうとする理由を考えてみなければならず、そこに自らの都合を反映した論理に合わない部分があることを、それと自覚することなく嗅ぎ取っていると捉えれば、例えばそれについて執拗に批判を繰り返している限りでは合っているだろうし、またそれを事ある度に持ち出して賞賛しているとしたら、そこに自らの都合を反映した論理に合う部分があることを、今度は自覚しているわけで、そういう部分で批判しているとしたら、批判の論理に適合するように語ろうとするだろうし、適合しない部分は削ぎ落とそうとするのだろうが、それがその話の核心部分を構成していると削ぎ落とせないわけで、しかも批判したがっている部分と批判とは適合しない部分が重なっていると、そこで技術的なごまかしが必要となってくるわけで、そうしたごまかしの最たる手法が、あえてそこには言及しないやり方であり、さらに自らが批判したい対象には、その批判に適合する部分をことさらに強調して言及するが、その逆に自らが賞賛する対象には、その批判に適合する部分には言及せず、また自らが批判したい対象の中でも、賞賛に値する部分に関しては言及を避けるだろうし、そうやって批判の対象と賞賛の対象との両方で、その都合の良い部分はことさらに強調して言及するが、都合の悪い部分にはなぜかその言及が及ばないわけで、しかもそうしたことを無自覚に行っている場合さえあるわけで、そういう部分で語っている当人に自覚がないと、その人が語っている内容からごまかしの真実が浮かび上がってくるだろうし、それに関して例えば特定の政治家や企業経営者などを批判したり賞賛したりしていると、そういうことが起こりやすくなるわけで、現状の中で曲がりなりにも成功して著名人となっている人たちなら、それが政治家であっても企業経営者であっても、批判できる部分と賞賛できる部分の両面を持ち合わせていて、だからこその現状の世の中でまかり通っている論理に適合して成功したと言えるわけであり、そこにはそうした世の中の現状を批判的に捉えたい人がその批判の中で適用する論理も含まれていて、結果的に政治家や企業経営者として同じような立場を占めているにも関わらず、その片方だけを著しく強調して批判したり、もう片方だけを著しく強調して賞賛したりするのはおかしいわけだが、批判や賞賛の論理としてはそうせざるを得ないわけだ。


11月25日「関係の多様性」

 たぶん敵対とも協力ともあまり関係のない、人や集団のお互いの視線から外れるようなねじれの位置を占める錯綜した関係というのが、二項対立のようなわかりやすい対立の構図をはぐらかして、それが一見何でもないように見えて、その実それなりに本質的な影響を社会に及ぼしていて、実際にそういう関係が、利害の定かでないことを、そこに関係する人や集団に行わせる作用があるのかもしれず、しかもそうすることによって、積極的にこう着状態を打開するための活路を見出そうというわけでもなく、むしろ関係する誰の思惑からも外れるように作用して、結果的に利害に関することは何ももたらさないような成り行きとなり、それによってさらにその場での混迷の度が深まるかもしれないが、少なくともそれは対立とも連携とも違って、そもそも敵味方がはっきりしないから、それ自体が関係とはいえないのかもしれないが、便宜上それも関係の範疇に含めると、そういう関係は人為的に作られるわけではなく、むしろ人為的に作ろうとする関係が何かの加減で変質して、自然にそうなってしまうような関係かもしれず、またたとえそんな関係が実現したからといって、そこに関係しているに人たちにとっては、それが特に注目に値するようなことでもなく、それに気づいたとしても大して注目されないからこそ、何でもないこととして見過ごされてしまうのかもしれず、実際そこに関係する人たちの間では何でもないことだから、特にそれを人為的に壊す気にもならず、そのまま惰性で続いていってしまうような関係かもしれないが、壊す気も起こらない関係だからこそ、その場の状況にも自然に溶け込んで、意外とそれが長続きするのかもしれない。当事者にとっては、そんなお互いがお互いの方を向かないねじれた関係が、何を意味するとも思えないだろうが、互いに向き合わないから、敵対し合えないし、かといって協力する気も起こらず、敵対し合えず協力する気も起こらないから注意も引かないし、注意も引かないからあまり気にはならないのかもしれないが、それだけで全てがうまくいくわけでもなく、他にそれなりに連携や協力の関係や敵対や反目の関係などがある中で、それらの関係が様々な方面へと行き渡って、それらが複雑に絡み合うから、結果的にそこから様々な方面へ一定の距離を置いたねじれた関係が生じるのかもしれず、そうした関係が良い意味では緩衝材の役割を果たして、連携や協力の関係もそれほど強固にならない割に、敵対や反目の関係もそれほど激化しないままでいられるから、そこで敵でも味方でもないどっちつかずの立場が成り立つ余地が生まれて、またそんな余地が社会の中に広がり、互いの視線を合わせないようなねじれた関係が保たれている限りで、敵対や協力を強いるような煩わしさとは、ある程度の距離を置いたままでいられるわけで、確かに人が社会の中で生きていれば、必ずそういった煩わしくも必要に迫られるような関係に囚われてしまうわけだが、それと同時に社会の構造が複雑になるほど、それだけでは済まなくなって、結局そこから微妙にずれるような、どっちつかずの立場を取れる余地も拡大してきて、そんな立場を維持していても、それらの煩わしい関係から完全に縁が切れるわけでもないが、それでもある程度はそれらの関係から距離を置けるようになるわけで、そうやってそうした関係から一時的に隔たっている限りで、それなりに個人の立場で憩いの時を過ごせるのかもしれないが、そういったわけがわからない立場というのは、それとは違う敵味方のはっきりした関係が、あまりに強固な結びつきにならないようにする作用もあり、社会の中で強固な結びつきを必要とする特定の関係が優勢になって、一つの傾向に凝り固まって硬直化してしまうのを防ぐ効果もあるのかもしれない。だからと言ってそうした作用を積極的に活用する成り行きにはならないだろうし、ただの消極的な姿勢として、敵や味方を積極的には作ろうとしないから、一般的にはそうした関係は力を持ち得ないわけで、そういう意味では何の用途にもならず、ただの無駄な関係に過ぎないのかもしれないが、少なくともそれを肯定はできないとしても、かといって否定する気にもなれないだろうし、要するに何でもないことでしかないわけだが、その何でもないと感じられることが、空気を読むとか同調圧力などとは違った意味で、空気と同じ役割を果たしていて、そこに空気があるから、そうした空気によって社会が過熱も冷却もしづらいような具合となっているのかもしれない。

 また人や集団が何かをやろうとして、他の人や集団と積極的に連携や協力の関係を築こうとする場合には、誰とでもどんな集団とでもそうするわけではなく、利害の一致を模索できる範囲内で、そうした連携や協力の関係を結ぼうとするわけで、一般的に言ってそれは、対象となった人や集団と関係を強める方向へ進もうとするのだろうが、その対象が特定の人や集団である限りで、別の人や集団とは関係が疎遠になる可能性もあって、そうやって人や集団の間で関係の濃淡が生まれるのだろうが、そうした関係の濃淡や強弱とは違った関係があるとすれば、それとは方向や傾向の違ったものになるだろうし、力が強かろうと弱かろうと、その方向が違えば交わることはないわけで、互いの行き先が異なれば、同じ方向へと歩むこともないだろうし、また必ずしも一つの方向ばかりにこだわろうとしているわけではない場合もあり、人は様々な物事に興味や関心を示していて、また集団の中でも様々なことが行われていて、それらが必ずしも一つの方向や傾向を示しているわけではなく、それらが多種多岐にわたっていれば、それらのうちのどれか一つの事柄だけ、あるいはいくつかの事柄に渡っていても、他の人や集団との間で利害が一致する事柄に関してのみ、必要に応じて関係を強化できれば、それで済んでしまう場合もあり得るだろうし、何も全ての物事に関して関係を結ぶ必要がなければ、それだけ調整も簡単に済みそうだし、それに越したことはないわけで、さらにある部分では関係を強化したいが、別の部分では利害が異なるとすれば、その部分では対立の関係となる場合も出てくるだろうし、そういう方面での関係の強化とはなり難いどころか、下手をすればそこから関係が悪化して、敵対関係は形成されて、それが激化する場合もあるだろうし、そうなると特定の関係を強めようとすることとは相いれなくなってしまうだろうし、そこで関係に関する矛盾も生じてきてしまうわけだが、あえてそういう部分には触れないようにしたければ、そういう利害が異なる人や集団とは、無用なトラブルを避けるためにも、一定の距離を置いて、付き合える部分だけ付き合うような成り行きとなるわけで、そうなれば関係を強化することだけに一辺倒に進むわけにはいかなくなり、他との関係も考慮して、それなりに距離やバランスをとった関係を模索しなければならなくなるだろうし、そういう成り行きから、必ずしも利益を得るために関係を結ぶよりは、ある程度は利益を犠牲にしてでも、敵を作らないような関係のあり方を模索する場合もあるだろうし、またそれに関しては相手に儲けさせるような関係もあるのかもしれず、そうやって自らがそれらの関係の中で突出して有利な立場にならないようにするわけで、目立ってしまうことで思わぬところから攻撃の標的となってしまうと、利益どころか損害を被りかねないだろうし、その辺を様々な方面と関係を結ぶ上で考慮しなければならなくなるわけだが、さらにまた利害とは関係のない面でも、他の誰かを助けたくて、利害抜きで関係を結ぼうとする場合もあるだろうし、そういう場合は実際に助けていることさえ明らかにしないで、陰ながら援助するような関係となるわけだが、そういう場合はそれを宣伝にも利用しない関係となるだろうし、単に関係する対象が好きだからその活動を助けようとするだけで、それによって見返りのない資金をつぎ込んでも後悔しないだろうし、その人やその集団に資金的な余裕があれば、そんなことも行われるだろうが、そうやって他者を一方的に利するような関係とは、さらに異なる関係もあり得るのかもしれず、例えばただその場の成り行きに逆らわないようにしているだけでも、結果的にはその場の成り行きとの間で関係が生じているわけで、しかも逆らうとか逆らわないとかの水準ではなく、それさえも意識せずに、その場の成り行きの中で生きていて、そこで生活が成り立っていれば、それはその場の成り行きと一体化していると言えるのかもしれず、そうなるとその成り行きの一部と化しているわけだが、そういった関係となると、何かそれについて意識することも思考の対象ともならないから、やはりそれは何でもないことになるわけで、距離も位置も隔てることなく、その場に一致していると言えるだろうし、そこまで近づき過ぎてしまうと、もはやそこから離れたいとか、その場に縛られているとか、そこから自由を求めて抵抗しているとか、そういう意識にはならないわけで、ただそこにいるのが当然なのだから、それ以上の境遇を求めていないわけで、そうなっている人に向かって連携や協力を求めても、得るものは何もなく、かえって邪魔者扱いされてその場から追い払われるのがおちだろうし、そういう意味で、すでにその場と一体化してしまった人や集団は、その場との関係が全てとなっていて、足りないものも余っているものもないから、それ以上の関係を必要としないわけだ。


11月24日「人の物化」

 人が物として扱われるケースは、人が人を使う時に生じてくるが、それとは逆に物である機械が人に見立てられて扱われたり、愛玩用のペットなども人のように扱われたりする場合もあるにはあるが、そこで人と物の違いを強調するよりは、人を物として扱う方が何かと便利だから、人の物扱いが一般的に生じて、そういう時の物というのは、道具としての機能を果たすことになり、物を道具として使うように、人を道具として使うから、そこで人の物化が生じるわけだが、では物ではなく、人を人として扱うとはどういうことかといえば、自分と対等かそれ以上の存在とみなして接することになるわけで、そうなると対象となる人に対して謙虚な姿勢で臨むことになるだろうし、そうした姿勢で臨めば、その人から信用や信頼を得られて、そこから対等な立場での連携や協力の関係が結ばれることにもなるわけだが、そうなると、それと人を道具のように扱うのとはどう違うかというと、対等な連携や協力の関係だと、何をやるにも相手の同意を必要とするのに対して、道具的な使用の場合には、相手の同意を得ないで、こちらの都合に合わせて勝手に使うことになり、その方がこちらにとっては好都合だが、相手にとっては相手側の都合が考慮されずに、好き勝手に好きなだけ使い回されてしまうから、たまったものではなく、それが高じると時にはまるで奴隷のように扱われるから、それが一般的に人権を無視したひどい行為とみなされてしまうわけだ。そういうことがなぜ起こるかといえば、使われる側が弱みを握られていて、使う側がそれを利用していいように使おうとするわけで、その弱みというのが経済的な事情とか立場の上下関係とかがあるわけだが、そういう使い方にも限度があるだろうし、使われる側が使われ過ぎて、過労がたたって病気になったり死んでしまったら使えなくなってしまうわけだが、代わりがいくらでも都合がつけば、消耗品のようにして使い物にならなくなるまで使われた挙句に使い捨てられて、場合によっては死ぬまで働かせることになるのだろうが、そういう使い方だと使う用途が限定されてくるだろうし、誰でもできることならそういう使い方ができるだろうが、その人にしかできないことだと、その人が死んでしまうと代わりがいなくなって、他にやれる人がいなくなってしまうので、そういう使い方ができないわけで、そうなると結局は誰でもできるような作業で、しかも交代要員がいつでも都合がつくような条件が整う限りで、そういう使い方もできるかもしれないが、そういう作業にはわざわざ人を使わなくても、機械にやらせればいいということになれば、作業の需要そのものがなくなってしまうわけだが、機械を使うにはその設置や稼働において、それなりのコストがかかるから、人を使う場合と比べてどちらが得かという話になるだろうし、人を使った方がコストがかからなければ人を使うし、機械を使った方がいい場合は機械を使うし、また機械を使った場合には、使い過ぎて環境破壊につながる場合も出てくるし、さらにまた人にしかできないことや、機械にしかできないことだと、それぞれに使う必要が生じてくるわけで、そうやって中には人が物扱いされて、ひどい使われ方をされる場合もあるだろうが、全てがそうはならないわけで、時と場合によって、人が物扱いされる程度も異なってきて、世の中の全ての仕事が奴隷労働のようなことにはならないわけだが、奴隷労働のような仕事が成り立つ条件を、法律で禁止や制限などを設けて抑制することはできるだろうが、違法行為としては存続するだろうし、違法行為として成り立つ条件は、政情不安や内戦などによってその国の治安の悪化すれば、そうした法律が守られないような状況となって、それだけそうしたことをやる敷居が低くなってくるわけだが、根本的なところでは、人が人を使わなくても困らないような世の中になっていけばいいのだろうし、その必要がなくなればそうした行為は行われなくなるだろうが、逆に言えば、人が人を使って何かをやる必要が生じる限りは、なるべくならその人の都合に合わせて人を使いたいだろうし、そうなると使った見返りとして、金銭的な報酬を払えば使えるような成り行きが生じてくるわけで、実際にそうした用途に応じて、サービス業などの需要が生じてきて、現状でもそうした職種に就いている人が、全産業人口の過半数を超えるような状況となっているわけだが、そうなると何かをやらせるための条件として、それに見合った報酬を払えばいいことになるわけで、報酬を払いさえすれば合法的に人を物化できる可能性が生まれてくるわけで、しかも物化される側の人の方でも、満足できる報酬と引き換えなら、喜んで物化されるような風潮も生まれてくれば、人の物化に関して特に抵抗が起こらなくなってくるのではないか。

 そもそも人は物に含まれるだろうし、人と物を区別する必要もない場合もあるわけだが、人が人を一方的に物化するのではなく、物扱いされた人の方でも、人を物扱いしている人を物扱いしている可能性もあるだろうし、人を物扱いすること自体が、その人に対する攻撃を意味するなら、お互いに攻撃対象となる人を物扱いして攻撃しているわけだろうが、その一方で報酬を払ったからといって、人を物扱いしているつもりはない場合もあるだろうし、何かをやってもらった謝礼として感謝の気持ちで報酬を払うなら、別にその人を物扱いしているわけではなく、ちゃんと人として遇していることになるわけだろうし、そうなるとその人の気持ち次第で、対象となる人を人と扱っているか物として扱っているかが分かれてくるわけだが、またその気持ちは態度にも表れて、丁寧な態度で接しているように思われれば、ちゃんと人として接してくれているようにも思われるだろうし、逆にぞんざいに粗末な扱われ方をされれば、人としての扱いを受けていないように感じられるかもしれないし、さらには慇懃無礼な扱いというのもあって、そこから微妙に屈折した感情が生じてくるかもしれないが、人を人として扱わないことは、その人を敵とみなしていることの表れであることは変わらず、そこに敵対関係が生じていると、そういった相手を自分と同じ人間とは思いたくないような感情が芽生えてくるわけだが、ではなぜそう思うのかといえば、相手が自分の思い通りにはならないということだろうし、しかもそういう相手を思い通りに制御したり操縦できると、その相手を物化したことになるわけで、要するに人を物化するということは、思い通りにならない相手を屈服させて、自分の思い通りにさせることによって生じるわけで、そういう意味では攻撃的な敵対感情に基づいているわけだが、普段からあからさまにそう思うことはあまりないとしても、そういう感情が誰にとっても全くないわけではなく、他の様々な喜怒哀楽などの感情の中で、そういった敵対的で攻撃的な感情もうごめいていて、何かのきっかけで機会が巡ってくると表に出てくるのかもしれず、それが自分が相対的に有利な状況となった時だろうし、具体的には有利な立場から不利な立場の者に向かって指図するような成り行きになるわけで、そうなった時に満足感が得られるわけだろうが、通常の平和な世の中ではそんな状態が長続きすることはなく、そうした立場も状況の変化に応じて様々に移り変わってゆき、ある状況では人に命令する立場であっても、別の状況では人から命令される立場になったりして、普通は恒常的に人に向かって命令し続けるような立場にはなれないわけだが、そうやってその人が様々な立場を経験して、その立場に応じた振る舞い方を身につけるような成り行きになってくると、立場に応じた相手の気持ちがわかってくるわけで、そうなると自然な成り行きから、少なくとも相手の気分を害するような不快な思いをさせてしまうと、その相手に攻撃的な敵対感情が芽生えてくることがわかって、そうなると自分が不利な状況に立たされた時には、復讐心に駆られてその相手から仕返しをされる危険があることを理解するわけで、そうであるなら関係を持った相手にはなるべく不快な思いをさせないように、それになりに丁寧かつ真心のこもった対応をするように心がけるようになるだろうし、少なくとも相手をぞんざいに扱ったり、侮って見下しながら慇懃無礼な対応をして、小馬鹿にするような真似は控えるようになるだろうが、それでもそうなるまでにはそれなりに様々なことを経験しないと、それがわかるまでには至らないだろうし、中には死ぬまでわからないような人もいくらでもいるのかもしれず、そういう面では人によって対応にもその人なりの差が出てくるのだろうが、老齢にさしかかってもなお、他人にいばり散らしていたり、あるいは立場が上の人にはごまをすって、立場の下の人に向かってはぞんざいに振舞っているようなら、その人には人生経験が足りなかったということになるだろうし、そんなことをしても周りから咎められないような環境で生きてきたことを明かしているかもしれないし、それはそれでそういうことが通用しているうちは、それで構わないような状況があるわけで、その良し悪しは、そういう環境の中で生きている人の感じ方次第でしかないだろうし、別に他人を不快に感じるのが日常茶飯事の環境の中で生きていれば、相手に不快な思いをさせても何とも思わないわけで、中にはわざと不快な思いをさせて、ざまあみろと思って気分がせいせいするかもしれないし、そんなことをやられた相手の方でも、機会を捉えて仕返しをして、同じようにざまあみろと思って、気分がせいせいするかもしれないし、そんなことをやったりやり返したりしながらも、時には仲直りして酒を酌み交わしたり、そうやって愛憎入り混じった環境の中で暮らしている人もいるだろうし、それで構わないならそうなってしまうわけだが、たぶんそうなっている限りでは、人と人とは対等の関係になっていて、そういう意味で人の物化は避けられていて、そこでは人を人と認め合うような世の中になっているのではないか。


11月23日「虚構の罠」

 社会の中で何か人や集団が関わって何らかの活動が行われていると、そこで行われている具体的な活動が何であれ、それについて言葉で語るとなると、実際の活動から分離して情報操作の領域が生じてくるのかもしれず、それを言葉で表現しようとする限りで、言葉による活動内容の装飾化や虚構化は避けられず、実際に活動していることを言葉を使って表現するわけだから、言葉で語る分だけ、そうした活動にも実体を伴わない虚構の部分が入り込んでくるわけで、そんな活動の中でも、そこで何かをやらせるに当たって、言葉による命令や司令を発して、それへの言葉による反応として、同意や拒否などの意思表示を伴って動作が行われ、またそうした反応をしている意識の中でも、言葉で考えながらやっているわけだから、活動に言葉という情報が介在していることは明らかなのだが、普通はそれを虚構とはみなさないだろうし、言葉を使って操作している部分と実際の動作を分けるわけにはいかないものの、それでも言葉を使って何かを伝えようとしている部分では、言葉という情報による動作の操作が行われて、そういった操作としての指示を信じて同意すればそれに従うし、信じなければ拒否して従わない、という選択がそこで行われるわけで、そうした情報操作が活動に伴っている限りで、実体を伴わない虚構の面が出てくるわけで、またそういう虚構の面が大きいほど、情報過多で印象偏重の実体の定かでない活動となってくるだろうし、そうであるからこそ、そこに価値があると信じられるなら、信じられる限りで、そこから金銭的な価値をいくらでも膨らますことも可能となるわけだ。またそうなると、他の物質的な実体を伴った物に関する取り扱いの活動との間で、価値のバランスが狂ってくるだろうし、虚構的な信用が膨らめば、それだけ虚業的で金融的な方面での資産が膨張するわけだろうが、そうなるとそれと比較して、一般の人々の生活に必要な衣食住に関係する物資である、生活必需品などの価値が相対的に低下するだろうし、そういった方面に関わって活動している人々も、相対的に価値の低い存在となってくるわけだが、それは特定の業種や業界別の区分での差異ではなく、同じ業界や業種の中でも、物を直接取り扱う部門が単純作業となって、価値が下がりやすくなる一方で、情報を操作する部門が複雑で集約的な作業を一手に引き受けるような、付加価値を得やすい構成となり、結局はそういった情報を操作する部門が少数精鋭で構成されて、そうなって統括本部と化した部門で働く知的エリートが、物を取り扱う部門で働く一般の作業員に、上から指示を出す役割となるわけで、また情報を取り扱うといっても、末端の情報端末を操作して作業する人たちは、やはり上からの指示を仰ぐ役割を担い、例えば一般の消費者への応対を担当する部門として、一定数の低い価値の人員を必要とするわけだ。それは企業でも労働組合でも役所などの官僚機構などでも同じことであり、大規模になって組織が肥大化すれば、全体を統括して情報をコントロールする部門で活動する少数精鋭のエリートたちに権力や権限が集中して、そういった人たちは必然的に貴族化するわけで、だからそうしたエリート層の中にいる特定の人物の良し悪しを、ああだこうだと評価してみても、それは木を見て森を見ないことにしかならないだろうし、それよりはそこで生じている組織の構造的な役割や権限から、その人の活動の内容が限定されてくるわけだから、そうした限定的な活動の中で、権力や権限が集中している立場の人ほど、報酬も高くなりやすいし、多くの部下を抱えて命令や司令を下す役割上、勝手なことができるような幻想を抱きやすいだろうし、またそれに伴って自らの能力への過信も生じやすく、そういう人が不正を行なって不当な利益を得ようとすれば、その額もそれだけ大きくなるわけで、そんな経緯を考慮すれば、大企業のトップがそういった不正などの事件に関与すれば、それだけメディアも大きく報じて世間の注目も集まるし、何か世の中にとって重大なことが起こったように思われるかもしれないが、組織的な役割や権限からすれば、そうなって当然な成り行きがあるわけだから、それを一般の人たちのレベルで深刻に受け止める必要もないだろうが、興味本位の世間的な話題としては共有できるだろうし、そうした最大公約的な話題の共有から、その人の公人としてのモラルなどが問題となって浮上してくるわけだが、そうなると組織としての構造的な問題など忘れ去られて、単に人物本位で良し悪しを云々するような成り行きにもなってきて、その人が企業内で生じている役割や権限の範囲内でやったことが、あたかもその人の個人的な能力や責任においてやったかのような倒錯的な物言いも出てくるわけで、そういうところをごっちゃにして、その人の固有名ばかりに依存したことを言いたがる人が多くなってくると、何か清廉潔白で有能な人がトップに立てば、その企業の経営も良くなるような幻想も生まれてくるだろうし、そうなると逆に業績の良い企業であれば、その企業のトップも、何か物凄く有能な人であるかのような幻想も生まれてくるわけだ。

 もちろんそんな単純なわけではないことは、普通のレベルで多くの人たちが理解していることだが、一方でその人の固有名に依存して半ば伝説化するような挿話を用いて、人物本位的な幻想も安易に抱いてしまうし、そういうところでも結果として明らかとなった、その人に関する実績や業績を都合よく解釈してしまいがちになるわけだが、さらにまた、それに関して言葉で語る内容からも、それ相応の幻想を伴ってくるわけで、語る技術や文章作成術によって、気分が良くなったり悪くなるような技巧を凝らされた内容を信じてしまうと、やはりそうした語りによって、幻想を抱くように誘導されてしまうわけで、それどころか語っている本人や文章を書いている作者までが、自らの語りや文章に酔ってしまって、幻想を抱きながら語り、そして言葉を記すことになってしまうわけだろうが、そういう面を割り引いて考えれば、そんな語りからもたらされる幻想を安易に信じない程度には、平静を保っておくことが肝要だろうし、何よりも集団による組織的な活動には、その中での固有の役割分担からくる権限に応じたことしかできないわけで、そうした制限や制約の範囲内でやっていることであるなら、いかに組織のトップといえども、全能の権限や権力があるわけでもないし、中にはそうした権限や権力があるように装われている場合もあるだろうが、それが全てではないことは、冷静になって考えてみればわかることだろうし、何よりもそこに集団的な組織形態があるわけだから、その中で活動している多くの人たちが、それぞれに割り振られた役割をそれなりにこなしているから、全体としてそうした活動が成り立っているわけで、それを組織のトップの実績や業績と同一視するような単純化は避けた方が無難だろうが、それでもトップにはトップとして割り振られた役目を果たしているから、組織のトップでいられるわけで、そういう面での手腕を評価すればいいわけで、また組織のトップにまで上り詰めた経緯にしても、それなりに有能だからトップになれたわけで、そうした立身出世に関する有能さに関しても、それなりに評価するしかないわけだが、トップに立った経緯とトップに立ってからの経営手腕の類いは、それとこれとは別な面もあるだろうし、それぞれに別々に評価すればいいことでしかなく、そうやって様々な面から評価しようと思えば、できないことはないだろうが、そこからその企業やその企業のトップに関して、何か肯定的あるいは否定的な幻想を抱くにしても、それに関する様々な条件づけや定義づけの範囲内で、肯定的あるいは否定的な評価を下すしかないだろうし、それに関して何かその企業に特有の事情があれば、それを考慮すればいいことでしかないだろうし、まさかそれを敷衍して国家や国民性の問題にまで言及してしまうと、それ相応のいい加減さや偏見が付きまとってくるだろうし、それを一言で言い表すとか一つの問題に集約させるとか、そんなふうに論理を単純化すればきりがないだろうが、それだけどうでもいいような認識や解釈が伴ってしまうし、それに関して何か一つのことを批判すれば、そこからその批判対象への全否定につながるような単純化は、できれば避けたいところだろうが、それについて手短に語るとそうなりがちになってしまうのも仕方のないところかもしれないが、企業が否定の対象となる時は、何か不正事件が起こった時とか、公害や環境破壊などの当事者になったり、従業員の雇用や待遇などの面で差別や不当な扱いがあった時など、様々なケースが考えられるわけだが、確かにそれが社会問題化する場合があるわけで、それに関して行政や政治の取り組みを期待したり、またそれへの取り組みが不十分だとして、政府や政治家を批判する成り行きにもなるだろうし、それらを連動させて国家全体の問題として、何か大げさに語ることができるとしても、相変わらずそれらは個々の問題でもあるわけで、何かそれに関して包括的なことを言えるとしても、社会的にも集団としての組織的な構造の中でも、限定的な役割分担と権限の制約があって、全てを一気に解決できるわけでもないのに、それを一気に批判できるということが虚構なのかもしれず、要するにできるわけでもないのに語ることはできるという非対称な関係が、言葉を使うことによって実現しているわけで、そうした言葉の虚構性を踏まえておかないと、いくらでも大げさに語って、どんどん誇大妄想に近づいていってしまうわけで、そういう語ることの自在性が、人の意識を幻想の虜にしてしまうのだろうし、現実の制約を超えて過剰に語れてしまうことから、宣伝や煽動にも結びついてしまい、結果的に語っている内容がリアリティを失って陳腐化したり、紋切り型と化してしまったり、しかもそれをもっともらしく語る技術に磨きをかけると、自身も他の人もそれを本当だと信じてしまうわけで、そうやってますます虚構の罠にはまり込んで、ありのままの現実から飛躍して、ありそうでありもしない妄想を抱いてしまうわけだから、そういった虚構の誘惑から逃れることは難しいのかもしれない。


11月22日「理想と現実の類似」

 少なくとも世の中の現状は人が思い描くような理想的な状態ではないし、そう思っている人が世の中の大半を占めていれば、それは確からしいことになるわけだが、それに関して例えば現状を理想に近づけるために、現状を改革しなければならないと思っている人も少なからずいるだろうが、現状は現状で、実際に現状に至った様々な経緯から構成されているわけだから、そうなってしまったことに関しては、それなりの妥当性があるだろうし、それに対して理想的な状態といえば、現状が構成する現実からかけ離れた状態であるから、現実離れしているとは言えるわけだが、一方で理想的な状態も、現状の中で人が思い描く状態であることは確かで、そうである限りで現状からそれなりの影響を受けていて、そういう面に関しては、それほど現状からかけ離れているとも言えないわけで、現状を反映して理想的な状態も思い描かれているとも言えるわけで、さらに現状自体も、人がそう認識している限りでの現状なのだから、意識が現状の姿を、そのありのままに捉えているとは言い切れない面もあり、そこには恣意的な思い込みも多少は含まれるだろうし、また理想状態を思い描いている意識さえも現状に含まれるわけで、そうだとすると人が思い描く理想状態も現状に含まれていて、現状の一部として理想状態を思い描いている人も存在しているわけだ。そういう面では、理想と現実を対立した概念と捉えるわけにはいかないのかもしれないし、人の意識というフィルターを通して見た世界から、意識の中で現実と理想の二つの状態が生まれてくるわけで、どちらもある意味では想像上の状態であり、その中でここに現にあると思い込んでいるのが現実の状態であり、また今はここにはないが、これから実現しようと思っているのが理想の状態だと言えるわけだが、さらにそれとは別に、これから先に実際に実現される状態というのもあるだろうし、それが実際に実現される現実の状態でもあり、それが誰にとっても思いがけない状態と認識されれば、少なくともそれは理想の状態ではないだろうし、実現された現状が、誰が思い描いた理想状態とも違っていれば、誰の恣意的な思い込みからも外れていると言えるわけだが、それも現状の延長上で生じる限りで、今ある現状とこれから実現させる現状との間には、それなりに類似関係が成り立つかもしれないのだが、それが思いがけない面を含んでいれば、それだけ人が思い込んでいた現状認識から外れる部分が、現状の中にあったということになるのかもしれず、実際にそうした思いがけない事態に直面する度に、人はそれまでに抱いていた現状認識を改めなければならないと感じるだろうし、そうやって現状認識を改める度に、自らの思い描いている理想状態も変更を被るだろうし、結果的に現状も現状認識も理想状態も、人が直面する思いがけない事態に連動して、変更を余儀なくされるのではないか。だからそうした思いがけない事態に直面してもなお、自らが目指そうとする理想を変えようとしなければ、そうした理想を頑なに保持しようとするほど、現状認識が現状に合わなくなっていってしまうのかもしれず、現状の変化に応じて認識を改めることを怠れば、現状に対応して活動している他の人や集団との意思疎通も、次第にうまくいかなくなって、そこからも外れていってしまうだろうし、そうやって時代の変化から取り残される人が出てくるのかもしれないが、そういう人たちも含んで現状が構成されている面もあって、そういう人たちがいるからこそ、現状が全面的には変化せずに、そこで思いがけない事態が起こったところだけ、それに対応して現状が変化すると言えるのかもしれず、それ以外が変化しなければ、今ある現状とこれから実現される現状との間で、それなりに類似関係が成り立つ部分が出てくるだろうし、そういう部分で保守的な伝統とか慣習とかが存続されていくわけで、そういった継続されていく面があるから、現状が全面的に一新されることはないわけだ。要するに時代に取り残されそうになっている人たちが、頑なに現状認識を変えようとしないことも、変化に抗う要因としては、世の中にそれなりの無視できない作用や影響を及ぼしていて、そういった抵抗勢力が根強く各方面で権力や権限を握っていれば、それほど劇的に現状が変わることはないわけだが、そういった勢力に属する人々が思い描く理想の状態というのも、それらの人々の根強い変化への抵抗の意志を反映しているわけだから、何か現実離れしたアナクロな思想を含んでしまうわけで、そうした傾向がそれなりに世の中に作用や影響を及ぼしていると、実際のありのままの現状と、その現状に対する認識との間で、おかしなずれが生じてくるのかもしれず、そういった認識のずれが無視できないほど拡大していれば、何かそこに現状に対する大きな勘違いが生じて、そうなっているほど、これから思いがけない事態に遭遇する可能性も高まるのかもしれない。

 そういう意味で人が思い描く理想状態というのが、ありのままの現状から遊離しているほど、そうした人々が抱いている現状認識も、実際の現状に関して大きな勘違いを含んでいる可能性も高いわけで、そんな勘違いや思い違いとしてよくありがちなのが、現状に対する危機意識だろうし、危機意識を抱くほど危機感を煽りたいわけで、そうした危機感を煽っている人ほど、現状に関して勘違いや思い違いをしている可能性も高く、しかもそうした危機感を延々と煽っている実態があれば、その内容自体が紋切り型と化している事例が多く、危機を延々と煽っているのに、実際に危機的で深刻な事態がいつまで経ってもやってこないわけだから、そうなると危機感自体が勘違いであることが証明されているのに、いったん煽り出したら、それをやめるわけにいかなくなってしまい、煽っている手前、引っ込みがつかないから、本当に危機的な状況がやってくるまでは煽っていないと、途中で引っ込めてしまえば自らの過ちや勘違いを認めたことになってしまうわけだから、やはり延々と同じような紋切り型の危機感を煽りながらも、そんなことをやっている自らの過ちを認めることは頑なに拒否するだろうし、そうやってそういう人は危機感という紋切り型にはまって、現状から遊離してしまうわけだが、それ以前に何かを煽っているという動作が、自らが思い描く理想と実感する現実との落差を感じざるを得ないから、心理的に追い詰められて焦って危機感を抱かざるを得なくなるのだろうが、そうした人に固有の症例が理想の固定化だろうし、世の中の変化に関係なく、こうでなければならないという変わらぬ理想を保持しているわけで、またこうであるからこうなるべきという論理も固持しているだろうし、そうなっているからこそ、実際にはこうなっていない現状があり、またこうであるからこうなるべきところが、こうなっていない現状もあるから、そうした自らの理想と論理が現状から疎外されていることに憤りを感じていて、だからこそ、このままでは大変なことになってしまうと危機感を募らせるわけで、実際に今にも世の中の情勢が悪化していって、実感としても悪化しつつあるのに、誰もそのことに無自覚でいるように思われるから、何とかしなければならないと思うのだろうし、そうやって延々と危機感を煽るような負のスパイラルへと、自分で自滅的に巻き込まれていってしまうわけだが、それはまた、自らの主張を他の人たちが聞いてほしいという懇願の表れでもあるだろうし、自分の言うことを聞かないと大変なことになるぞ、という世の中への警告でもあるわけだが、それはとりもなおさず、その人の認識と世間の認識が、大きくかけ離れていることの証しでもあるわけだが、そんな危機感を煽るような人が他にも大勢いるようだと、そうでもないことになり、そういった危機意識を抱いている人がそれなりに一定数いて、他にも同じような人たちが無視できない程度にはいるから、その人も安心して危機意識を抱いていられるし、だから同じ危機意識を抱いている人たちと一緒になって、危機感を煽りながら世論喚起を行なって、それに同調する世論が世の中の主流となるように持って行きたいわけだが、そうなるとそれはもはや危機的な状況などではなく、ある意味でそれらの人たちにとっては安心できる状況となってしまうわけで、赤信号みんなで渡れば怖くない、と同じように、みんなで危機意識を抱いていれば怖くない、となるわけで、それだけ多くの人たちが、勘違いな現状認識を共有していることになってしまい、それもある意味で危機的な状況かもしれないのだが、やはり実態としてはそうでもなく、誰もが安心して危機意識を抱いて、多くの人たちがそれに同調して危機感を煽っていること自体が、流行現象として世の中の安定をもたらすわけで、それは前世紀末のノストラダムスの大予言の大流行によっても証明されていることであり、要するに人々は現状維持のような消極的な世の中の安定に飽き飽きしていて、何かそれを根底からぶっ壊すような大事件が起こってくれることを願っていて、だから危機的な事態の到来を煽る予言者の類いに惹かれるわけで、そうした世の中の風潮に応じて、実際に予言者の類いが大量に湧いて出るのだろうし、そうした人々によって危機感を煽る予言が大流行することもあるわけだが、それも一過性で収束してしまえば、予言者もその予言を信じて騒いでいた人々もはしごを外されて、行き場を失ってしまうわけで、だからこそ、そうした事態になるのを恐れるから、危機感を煽るのをやめられなくなってしまうわけで、またそうやって危機感を煽る行為を続けていられる限りで安心できるだろうし、そうなると安心を得るために危機感を煽るという倒錯した状況ともなってしまうわけだが、そうなるにしてもそうなっている状況が続いていく限りは、心身ともに安定できるわけだから、それも一つの安定を目指した活動となるのではないか。


11月21日「正直者が馬鹿を見る」

 人は敵を出し抜いたりやり込めたりやっつけたりして、そうやって結果的に味方を利するために、平気で嘘をつく人を信用できるだろうか。信用できるとすれば、それはその場で何らかの勢力同士が敵対している状況がもたらす心理的な効果かもしれず、功利的には役に立たない正直者よりは、むしろ役に立つ嘘つきの方を信用できるのかもしれず、そういう意味で政治家や官僚が敵対する人たちに向かって、見え透いた嘘を平気で言い放つような光景を見ると、その支持者は頼もしいとまで感じるのではないか。そうだとしても、果たしてそういう心理状態が正常な判断力を伴っているかどうかは微妙なところで、正常な判断というのが、世の中が敵と味方とに分かれているという前提の上に成り立っているとすれば、やはりその前提がおかしいと思えなければ、そう思ってしまうこと自体が正常ではないのかもしれないが、それも部分的な範囲では成り立つだろうし、国会などの審議で、相手をやっつけるためには手段を選ばない、という態度が蔓延しているような状況下では、戦術として平気で見え透いた嘘をついたり、わざと暴言などを吐いて、攻撃的な追及をはぐらかしたりするようになってしまうわけで、そういうやり方は、それを見ている人にも報じているメディアにも伝染して、それが当たり前のように感じられる状況が常態化すれば、正直者を信用しないで嘘つきを信用するような、倒錯した心理状態もまかり通るようになるだろうし、別にそれをおかしいとは思わなくなってしまうわけだ。もちろんそこで正直者と嘘つきという単純な区分けは妥当ではなく、自らに都合の良い部分では嘘をつく必要はなく、また自らに都合の悪い部分では正直に答える必要もないということであり、そういう意味で正直者がどこまで正直であるかについては疑問が残るだろうし、たとえ正直者に見えるような人でも、自らに都合の悪い部分では嘘をついている可能性があるわけだから、本当の意味での正直者などどこにもいないとなって、ただその場の都合で正直者を装う嘘つきがいるだけだとみなせば、別に嘘つきを信用するのもおかしくはないわけで、そういう屁理屈を並べていくときりがないわけだが、屁理屈だろうと何だろうと、敵をやりこめるために平気で嘘をついているように見える人たちを信用できるかというと、たとえ今はそれが味方であっても、いつか何かの加減で立場が変わって、敵対する側に回れば、今度はその人が自分に向かって平気で嘘をついてくる場面を想像してしまうと、やはり信用できないと思われるだろうし、もちろんメディアの向こう側で行われていることが、まさかすぐにこちら側にいる自分に降りかかってくるとは思えないにしても、果たして平気で嘘をつくような人を味方だと思い込んでいる人がいるとしたら、またそれが自分だとは思えないにしても、何かその人はやましさや後ろめたさを感じているのではないか、と思うのが普通の感覚だろうが、そこで生じている敵対関係を本気で信じている人なら、やはりやましくも後ろめたくもなく、平気で嘘をつく人たちを本気で味方だと思い込んで信用しているのではないか。そういうところでもどこまで想像力を働かせてもきりがないわけだが、安易で浅はかな判断力しか持ち合わせていない人なら、目先の利害という幻想を抱くわけで、それが目先の利害だとも自覚できなければ、幻想を幻想だとも、目先の利害に惑わされているとも思わないわけだが、何か正直であることは、馬鹿正直という表現に結びついてくるだろうし、また正直であることは、世の中の世間的な馴れ合いに馴染めないことも意味するだろうし、その場で人と人との間で行われる付き合いややり取りから生じる、嘘と本当の微妙な配分やさじ加減を工夫しないで、何でもかんでも直線的に白黒をはっきりさせて単純化してしまうような傾向を、正直者に対して感じるわけで、しかもそうやって自分に都合が良い部分では正直者を装っておいて、その場のやり取りや付き合いの中で劣勢となって、相手に言い負かされたりして、述べていることの整合性が取れなくなって、そういう面で都合が悪くなってくると、途端にその辺の微妙なさじ加減を持ち出してくるような人に直面すると、やはりはじめから正直者を装う人は信用できないと感じるわけで、そうであるなら、何か押しが強くて一癖あるような人でも、他との付き合いややり取りをする際に、論争などに発展する場合には、相手と互角以上に渡り合える人を信用したくなってくるわけで、そういう面で正直者に見える人たちは、損な役回りとなってしまうことが多いのではないか。

 それも因果応報で、回り回って、今までについてきた全ての嘘やごまかしが、結局は自らに返ってきて、そのことでそれ相応の報いを受けるような結果を招くこともあるだろうし、それも実際にそうなってみないと、それを目の当たりにしてみないことには信じられないだろうし、実際にそうなってしまえば取り返しがつかないわけだろうが、またそういった事例を過去の歴史からいくらでも抽出してこられるかもしれないが、まさかその時点では自らがそんな事態に直面するとは思ってもみないだろうし、結局そういう成り行きの中で目先の利害にこだわるのが当然に思われるわけだが、その目先の利害というのも、本当にそれが利害なのかは、その場の都合で何とでも言えるような成り行きもあるだろうし、利害そのものを信じられるかというと、金銭的な利害でさえも、実際に深刻な状況となってみない限りは、自らに余裕がある範囲内では、何が得か損かはよくわからない面もあるわけで、その場の判断で得なことをやったつもりが、後になってそうでもなかったことに気づくかもしれないし、そうでなくても目先の損得ばかりにこだわっていると、せこく小さく偏狭な性格になってしまい、それでは人を惹きつける度量や魅力に欠けるから、そのことで周りから信用を得られずに、かえって多くの人たちの協力によって生じるより大きな利益を得る機会を逃してしまったり、そんなことにも気づかないまま、しみったれた人生を送ってしまう人などもいくらでもいそうだが、そういう意味で功利的な利害も、その場ですぐにそれを感じられるものから、しばらく時間が経ってみないことには感じられないものまで、社会の中で様々な利害関係が様々な人や集団の間で複雑かつ多様に張り巡らされている現状では、それに関してあまり安易にわかったような気にはなれないわけで、そういうものを簡単に信じ込めるような状況ではないと捉えておくのが無難なのかもしれず、それに関しては特に宣伝や煽動などによって、一方的に利害を煽り立てているような勢力を支持する気にはなれないし、またそういう勢力を支持するような人たちも信用できないし、さらにまた世の中の情勢をそんな人や勢力が敵対しているように見せかけて、そういった対立を煽り立てているようなメディアの論調も信用できないし、実際にそういう局面が部分的に生じているとしても、全てがそうではないはずで、その全てがそうなっているわけではないということに関しては、それが妥当な認識だと思われるわけだが、局面によってはそういった激しい対立が実際に起こっているわけで、自らもそういう対立に巻き込まれてしまえば、嫌でも敵対関係にある人や集団と抗争関係になってしまうわけだから、そこでのやり取りや付き合いの中で、党派的な利害を重視して、そうした利害を信じて戦うような成り行きになってしまうわけだが、果たしてそこで公平な立場で、双方の利害を調整したり妥協を図るような成り行きへと持っていけるかとなると、そういう立場に実際になってみないことには何とも言えないだろうが、少なくともそういう立場を目指すには、馬鹿正直にその場の対立や敵対関係を真に受けて信用するわけにはいかないだろうし、そしてそこでの利害関係も含めて、対立が解消可能であることを示して、そうやって双方を歩み寄らせて納得させないと、うまく調整や妥協を図れないだろうし、またそうした調整や妥協もすぐに実現できるようなものでもなく、長い時間をかけて辛抱強く粘り強い交渉の中で、なんとか解決の糸口を探っていくような成り行きになるだろうし、そうではなく何かのきっかけで急転直下で成立するような妥協は、脆く崩れやすく、何かのきっかけから簡単に反故にされるから、また簡単に成立するような成り行きを繰り返して、結果的にこう着状態に陥ってしまうことも多いわけだが、結局どのような成り行きに至るにしても、それはそこで生じている社会の複雑で錯綜した事情を反映しているわけで、それを外部から筋の通った論理的な見方や捉え方を用いて、その状況をうまく説明できるとしても、そんな説明をしている人が実際にその渦中に入って、その場をうまく仕切れるかというと、もちろん説明することと仕切ることは違うわけで、今までに誰がやってもうまくいかなかったようなことを、そこから他の誰が引き継いでやってもうまくいかない場合などいくらでもあるだろうし、たとえその場に関わってくる人が正直で実直な人柄であろうと、毀誉褒貶が著しく一癖も二癖もあるような人であろうと、また他で何らかの輝かしい業績があろうとなかろうと、その人を信用できるかとなると、普通に出たとこ勝負な面もあるわけで、まずはその場の成り行きからそういう立場になってしまった人がやるしかないだろうし、実際にそういう人にその場をまかせるような成り行きが生じてしまうし、その人が実際にうまくやろうとうまくいかずに行き詰ってしまっても、それなりに他からも支持が集まっているなら、そういう人を他の大勢の人たちも支持して支援するような成り行きになってしまうわけだ。


11月20日「介護の現実」

 世の中には人がやりたくない仕事があり、では人以外の誰がやるのかというと、機械にやらせるような成り行きにはなってくるが、その全てを機械にやらせるような段階にはまだ来ていないので、やりたくない仕事を人にやらせるように仕向ける仕掛けが講じられるわけだが、そういう仕掛けの網にかかりやすいのが、移民労働者などのように、どんな仕事でもやらざるを得ない境遇に陥ってしまう人々なわけだが、そうでなければ誰も好き好んでやりたくない仕事などやろうとはしないだろうし、ましてや世の中でやりたい放題やってきたような、上から目線の人に指図されて、やれと言われても、お前がやれと言い返したくなってきそうだが、日本ではそうした仕事の中に、老人介護などの介護関連の仕事があるわけで、自分の親の介護をやりたくないから、もちろんやりたくてもやりきれない事情を抱えた人が、介護施設に老人を入れているのに、他人の親の介護など金をもらってもやりたくないというのが、多くの人の本音だろうし、しかも報酬が安ければなおのことやりたくないわけだが、民間の事業だと、報酬を低くしないと利益が出ないというわけだろうし、そういう方面では話のつじつまが合っているわけで、いくら行政が補助金などを交付して報酬額を引き上げようとしても、交付額にも限度があるし、そもそもやりたくない仕事だし、利益目的でやっている民間の業者としても、利益を出すために人件費を極力抑えようとするだろうし、それでも富裕層向けの利用料や入居費の高い施設なら、高い料金に見合ったそれなりに満足できるサービスが受けられるだろうが、そうなるとそういったサービスにも、その人の資産に見合った格差があるということになるだろうし、そういった成り行きを肯定するなら、別に現状で構わないわけだが、何か現状で不都合な面があるかというと、それはそうした仕事をやる人が不足していて、またそれを外国人労働者にやらせることに抵抗を感じる人もいるわけだろうが、仕事自体がやりたくない仕事なのだから、結局はそういう感情も無い物ねだりでしかないわけだが、それを無理に解決しようとしても無理なのはわかりきっているだろうし、部外者としてはその場の成り行きに任せるしかないわけだが、そんなところでも都合のいいことだけ宣伝して、うまく立ち回って利益を得ようとする人や集団などがいくらでも絡んでくるだろうし、またそれにかこつけて勝手な決めつけとともに他に責任転嫁して、勝手な批判を繰り返す人もいくらでも出てくるわけで、さらにそんな宣伝や批判などを真に受ける一般の人たちもいくらでもいて、そうやってそれなりに世間的な事態も進展していくわけだが、そこで何が明らかになるかというと、世の中の仕組みにはうまくいかない面があるということだろうし、またうまくいかなくてもそれなりに事態が進展していって、それに関わって多くの人たちが嫌な思いをしながらも、そんな状況の中で利益を得られる限りで、そういったことが行われるわけで、またそんなことが行われるうちにも、曲がりなりにもうまくいっている面では、そこでそれに関わっている人々の間でそれなりに満足感を得られるから、そういうところではその状態が維持されて、その一方でうまくいかない面では、うまくいくような模索や試行錯誤が繰り返され、やはりそこでもうまくいかないなりにもそんな状態が維持されて、維持されながらも改善される面では状況が好転するし、また改善できずにかえって状況が悪化する面も出てくることもあり、そうやってそれなりに状況が良い方にも悪い方にも変わっていくのだろうが、だからといって、それが誰にとっても危機的な事態をもたらすわけでもないだろうし、人や集団が絡んだ活動によって、そこに何らかの利益が生じるようなら、そこへ他の人や集団も群がってきて、そこからもたらされる利益のおこぼれにあずかろうとしたり、またそこで競争が起これば、利益の奪い合いへと発展するわけで、利益が限られる範囲内で、その規模もそれに見合った形態へと落ち着くだろうし、そこで行われる活動に見合った需要や供給も、それ以上に増えることはないわけだ。そしてその中でそこに関わってくる人や集団の満足度に応じて格差が生まれ、うまくいっているところではそれなりの満足感が得られて、うまくいかないところでは不満が渦巻くことになるわけだが、そういうところではうまくいかないなりにも、うまくいかないことによって生じる犠牲を糧として活動が続けられるわけで、そんな活動の犠牲者となるのが、介護事業ではそこで働く労働者であったり、そういったサービスを利用する消費者であったりするわけで、そういった活動を行う事業者も、利益を得られなくなれば、そうした事業から撤退するしかなくなるだろうし、どんなに工夫を凝らしてみても、それ以上のことにはならないわけだ。

 それが何を意味するわけでもないが、やっていることや受けていることに関して幸福感などの幻想を抱けるなら、そうした肯定的な気分をもたらす満足感とともに、それがその人の前向きなやる気へとつながるのかも知れないが、やっていることがただの作業となれば、ただ作業をこなすだけとなってしまうし、人は活動の中でそんな作業をこなすだけでは幸福感は得られないだろうし、それがやりたくない仕事なら、なおさら作業と受け止めるしかなく、そんなやりたくない仕事から受けるストレスを感じながら作業をこなそうとするわけで、またそんな苦痛を伴う作業をやった割には、受け取る報酬が少ないとさらにがっかりするだろうが、たとえそれが無報酬であっても、やりたいことをやっていられるなら、それで生活は成り立つ限りで、それほどストレスは受けないだろうし、そんなふうに仕事に対して、あるいは仕事でさえもない作業に関して、肯定的あるは否定的な幻想を抱けるなら、それだけわかりやすい状況となるかもしれないが、そういうことではなく、それさえも感じられずに、漠然と必要に駆られて仕事をやっていたり、また仕事そのものがやりたくなかったりすれば、それに伴って生じるストレスなどとは関係なく、それに価値があったりなかったする判断そのものを受けつけない心境にもなるだろうし、またそんなサービスを受ける側でも、それに対して金銭を払っているから、その対価については満足や不満を抱くとしても、受けたくもないサービスを勧められるまま、その場の成り行きから受けている場合もあるだろうし、そうなると満足や不満ではなく、それ以前にどうでもいいような心境になってくるわけで、別にそれを無理強いされているわけでもないが、あえて拒否するような強い感情も起こらないし、そういう曖昧な気分でどうでもいいようなサービスを日々受けていれば、だんだん無感覚になってくるわけで、そうやってその場の惰性でサービスを受けている人に対して、そのサービスの感想などをしつこく尋ねられても、そういう善意の押し売りに気兼ねして、適当に肯定的な返答をするしかないわけで、そうやってその場が丸く収まるなら、それで済んでしまうだろうし、サービスをする側もサービスを受ける側も、そうやって何とかそういう何でもないような作業時間をやり過ごしているわけだから、そこから幸福感とか満足感とか、その反対の不満感とか不幸感とかの、そういうはっきりした感情を抱く成り行きにならないようなシステムになっている場合があるだろうし、またそれをやる方は人の世話をするのが面倒臭いし、それを受ける方は人から世話をされるのが鬱陶しいし、どちらもそれなりに多少の不快感を抱いていることは確かであっても、やはりそれをはっきりと表明する気になれるかというと、状況としてそんなことを言うような環境ではない場合もあるだろうし、そういう意味でそんな活動自体が、そこに関わってくる人を疎外するような作用を伴っていると、別にそんなサービスを行う必要も受ける必要もないのかもしれないし、それがなくて困っている人がいようと、それも無い物ねだりでしかないのかもしれず、実際にそれをやれば、あるいはそれを受ければ、人が幸せになれるかのような幻想を振りまきながら、そういったサービスが宣伝されるわけだが、そういった幻想を信じられるような体験が、実際にそこで起きないと、それは幻滅につながるだけだろうし、しかも別に幻滅しても構わないのかもしれないし、むしろ誰もが甘い幻想を打ち砕かれて正気に戻った方がいいのかもしれないが、そもそも人が嫌がる仕事があるのだから、それをやらされて幻想を抱けるかといえば、抱ける方がおかしいだろうし、またそんな人が嫌がるような仕事が含まれるサービスを受けて、幸せな気分になれるかといえば、他人に嫌な仕事をさせておいて幸せになってしまっては、倫理的にまずいし、嫌な仕事をさせられた人に申し訳ないだろうし、結局そんな嫌な仕事を推進すること自体がおかしいとなるわけで、もちろん必要に応じてそういう人が嫌がる仕事が成り立つ現実があるにしても、それを嫌がる人に強制するような仕組みを作るわけにはいかないだろうし、それが嫌だと思うなら、そんな仕事はやらない自由があるのは当然であり、それを無理に誰もが積極的にやりたがるような仕事に仕立てることはできないだろうし、たとえそれが必要であっても、多くの人がその必要性を実感していても、様々な事情から成り立たない活動など他にもいくらでもあるかもしれず、特にそれが金銭のやりとりを含む経済活動となると、それが割に合うと実感できないと、仕事としては成り立たないだろうし、どうしても必要なら割に合うように工夫を凝らさないとならないのだろうが、今のところは割に合わないと思われているから、仕事のやり手が不足しているわけで、外国から騙して労働者を連れてくるとしても、嘘がバレれば逃げようとするだろうし、そうやって事業を行う側と雇われる側とサービスを受ける側の間で行われる、それ相応のせめぎ合いの中で、そういう活動が成り立っていることは確かなのではないか。


11月19日「世間的なもっともらしさ」

 現実の世界で人が語ることができるのは、いつも部分的な限られた範囲になってしまうのだが、全体として何が語れるのかとなると、ただ漠然ととりとめのないことしか語れないのかもしれず、全てを語ろうとするとフィクションになってしまうのは仕方ないとしても、それでも語ろうとする物事の全ての面に関して詳しく語ろうとすれば、それに関してはそれで全体を語っていることになるかもしれないが、少なくともそれが世界の全体というわけではないだろうし、相変わらず部分的な特定の物事について語っていることになってしまい、別にそれで構わないのだろうが、特に世界について語ろうとしているわけではないだろうし、世界について語ったところで、その全てを語れるわけではないことはわかりきっているのだろうが、語っていることが部分的な範囲にとどまっているのに、特定の物事について語ると、その語っている範囲内ではつじつまが合うように語ろうとするのは当然だとしても、そこから範囲を広げるとつじつまが合わなくなってくることについては、無自覚のままでいられるわけで、全てがそうなるわけではないとしても、話のつじつまを合わせようとしていることが、他につじつまが合わない事例が存在すると、そうしたやり方がフィクションになってしまうことについても、それほど自覚があるわけではないだろうし、何かその辺で疑念を抱かざるを得なくなってしまうわけだが、そうしたことにいちいち目くじらを立てるのは良くないことで、とりあえず話のつじつまが合う範囲内では、本当らしい話として受け取っておけば構わないのかもしれないが、他につじつまが合わない事例が発覚したら、他の誰かがそれを指摘するにとどめておくのが無難なところかもしれず、それによって本当らしい話に不都合が生じるとしても、それもそういう事例が新たに生じたことになるだけで、別にそれが虚構だとして批判するには及ばないことかもしれないが、無自覚にそういう本当らしい話を信じている人も少なからずいるだろうし、そうやって本当らしい話がもっともらしく信じられているのが、普通に世間一般の状況だとしたら、果たしてそんな状況が改善されなければならないのかどうかは、よくわからないところで、意外と世の中の世論というのは、そんな本当らしい話を多くの人たちが信じることで形成されるのかもしれず、別にそんな世論が間違っていると主張するつもりはないが、そういった本当らしくもっともらしく思われるような言説が、世の中には結構多く流通しているだろうし、それが多くの人たちの間で信じられている限りで、そういったまことしやかな俗説を吹聴している人たちが、世間でもてはやされる傾向があるのかもしれないし、それを俗説とみなすのも、そんな説を吹聴している人たちからすれば、それは俗説などではなく、紛れもない真実だと信じて疑わないようなことだろうし、確かに世間でもてはやされている話の全てが俗説であるはずがないだろうが、それらが本当らしくもっともらしい内容だからこそ、多くの人がそんな説を信用しているわけだろうし、そういう話の中で都合の良いデータや挿話を並べ立てれば、本当らしくもっともらしい説として通用するわけだろうが、ではその反対の都合の悪いデータや挿話がどこにも見当たらないのかというと、もちろんそうした話の中では出てこないわけだが、たぶんそれに反論する気になれば、捏造してでも都合の悪いデータや挿話をこじつけ気味に持ってくることができるだろうし、特に体制批判的なことをやっている人に対しては、体制側に与する人たちがそういうことを仕掛けてくるのは日常茶飯事であって、もはや一部ではそれが常態化しているわけだろうし、またそれがフェイクニュースなどに使われて問題視されていて、そういうことが少なからず世論操作にもつながってくるわけだが、そうやって真実と虚構がごっちゃにされている中で、それらをどう判断すればいいかとなると、それらを区別できなければ、どっちも信用できない状況となってしまうわけで、それが体制批判の信用を落とす戦術として有効に機能しているのかもしれず、そうであるなら、やはり一方的に自説に都合の良いデータや挿話ばかり並べ立てないで、時には都合の悪いデータや挿話も使って、自説に真実味があるのは、ある一定の範囲内で限られた条件を満たすことが前提だと説明した方がいいだろうし、そうしないとなぜ批判の対象がそこに存在していて、しかもそれがそれなりの安定した支持を得ているのかを、うまく説明できなくなってしまうわけで、そういうことが本当らしくもっともらしい話ではない、本当の事実を示す上で重要となってくるのではないか。

 その際に現実に存在していたり実際に起こった出来事を語るだけなら、その内容が本当の真実である部分はいくらでもあるわけだが、それを用いて何かを批判したりする時に、その批判にとって都合の良い事実しか示さないことが多いわけで、示さないのではなく示せないのかもしれないし、実際にそんな余裕もなければ、わざわざ自説に都合の悪い面までは調べたりしないだろうし、それを意図的に隠しているというよりは、都合の良い事実を示すのが精一杯で、それだけ限られた範囲にしか思考や視野が及ばないのかもしれないが、そうなるとそれでは一般的な宣伝や煽動と変わるところがないだろうし、そういった説を信じるか信じないかは、それを受け取る側の知識や経験や勘次第な面が出てくるわけで、そうでなくてもそうなるしかないのかもしれないが、日頃からそうした都合の良い面ばかりを宣伝したり煽動するような言説ばかりに接していると、その中で何を信じたらいいかに関しての基準がわからなくなってしまうわけで、そうなってくると、結局は世間的なもっともらしさを基準とするより他になく、他の大勢の人が信じているように思われるから、自分も信じてしまうような成り行きになってくるし、またそういう世間的な風潮を捉えて、根拠の定かでない噂やデマをもっともらしく述べることに長けた人たちの独壇場となってくるかもしれず、そうした話術や文章術を駆使した宣伝や煽動が世の中にはびこってくるわけだが、さらにそうした技術に磨きをかけたディベートやプレゼンテーションなどの興隆とともに、世間的なもっともらしさが形成されてくるわけで、そういった傾向に善意や良識で対抗するのは困難だろうし、しかもその善意や良識自体が、それらの話術や文章術から生じてくるのかもしれず、何かそこで人の心理作用の中で、善意や良識を表すのに都合の良い面だけを正当化するような技術的な仕掛けが施されて、そういう面だけを強調していれば、それについて語っている範囲内ではそう思われてしまうのだが、要するにそれはそれ以外の面を語っていないだけで、善意や良識では通用しない面を語らないから、そうした言説を受け取っている限りは、気分がその気になってしまうわけだが、そこから外れるような事態に直面すると、途端に逆上して、その人の暗黒面があらわになるのかもしれず、そういった面を追求していくときりがないわけだが、そんな状況の中で何が信用できるかとなると、それなりに公平な視点で考えるなら、物事にはどんな立場や境遇にある誰にとっても、その人にとって都合の良い面と都合の悪い面があると考えておくしかないだろうし、だからまずはそうした物事に関する言説の中で、一方的に自説に都合の良い面ばかりや批判対象の悪い面ばかりを強調する言説は信用しない方がいいだろうし、またいかに批判対象がひどいかを執拗に強調する言説があっても、そうした批判対象が世の中で大手をふってまかり通るような実態があるなら、そういう批判を行っている批判者よりは、批判対象の方がより大きな世間的な信用があるとみなすしかなく、またそういう自らに不利な面を批判の中でも強調しておかなければならないだろうし、実際にそうなっている限りで、批判者は世間を敵に回していることを自覚しないとならないだろうし、そういう面で世間の善意や良識に期待するのは無理かもしれないが、いつまでもそうした世間を敵に回した少数派に留まっているわけにはいかないことも、批判を世間に広めたければ自覚せざるを得ないだろうし、そうなると自ずから、自らを利するだけではなく、場合によっては批判する対象さえも利するようなことを主張しなければならず、そうすれば世間を味方につけるまでには至らないとしても、世間を敵に回すような状況が少しは改善するかもしれないし、それによって批判者としての自らの立場や境遇を、以前とは違った段階に進める可能性も出てくるのではないか。だからといって結果は偶然に左右されるから、そんなことをやっても、何がどうなるわけでもないのかもしれないし、今まで通りのことをやって、それなりの支持を得られていれば、そこに自足できる限りで、これまでと同じようなことをやっていればいいのだろうし、そういう人が他にいくらでもいれば、それも少数派にとどまるが、それなりに一定の世間的な世論を構成していることになるわけで、その人にとってはそれで構わないような成り行きになっているわけだが、しかしそれで批判を反映して世の中が変わらないのなら、では何のために批判しているのかということになるわけで、その辺はその場での双方の力関係が反映した結果だから、その人ばかりに責任を押し付けるわけにもいかないし、批判によって世の中が変わるにしても、それが批判だけであるはずがなく、他の様々な要因が作用や影響を及ぼして、批判以外の面でも世の中が日々変わりつつあるのだから、やはりそこだけを強調するわけにはいかないのだが、少なくともそれが全てではないことは踏まえておくしかないわけだ。


11月18日「制度的な束縛」

 そこで何らかの人為的な活動が行われていて、それを行うに際して、社会の中で人や集団の間で何らかの関係が生じていると、それに関係する人や集団には、そういうことを行うと、何らかの利益が生じるから、それを積極的に行おうとしているならわかりやすいのだが、そうとは言い切れないようなことを行なっている場合があれば、それは何かを強制的にやらされている場合だろうし、あるいはやらざるを得ないような状況に追い込まれている場合もあるわけだが、またそうしないと利益が生じないから、否応なくそうしたことをやらざるを得なくなっていると、それらの人や集団にとっては、それ以外にはやりようのないことをやっているわけだから、それをやるに関して選択の余地がなく、そうした状況や成り行きによってやらされていることにもなるわけで、もちろんそこに上下関係などの組織的な階層構造があって、上からの命令によってやらされているならわかりやすいわけだが、何かをやらざるを得ない状況とは、そういう場合も含むが、それだけではない場合もあるだろうし、そこで主導権を握って積極的に行なっている場合でさえ、そういうことをやらざるを得ない状況に追い込まれている場合があるわけで、それ以外でも何かをやることに関して、自由な選択の余地がない場合などいくらでもあって、そういう成り行きの中で否応なくやらされている場合だと、そこに拘束力が働いているから、いくら外部からそれをやめるように働きかけても、やめるわけにはいかなくなっている場合もいくらでもあるのではないか。そこでなぜそういうことをやらざるを得ない成り行きが生じてしまうのかといえば、他の誰もがそういう状況の中ではそうしているからといえなくもないが、そういうことをやらせる制度がそこで生じているとも言えるのかもしれず、少なくともそこで誰もがそういう成り行きに逆らえなくなっているわけで、逆らうとやっていることがうまくいかなくなるから、そうせざるを得なくなってしまい、たとえそれが違法行為だろうと倫理的にも道義的にも許されない行為だろうと、それをやることによってその場が丸く収まるような行為があるわけで、そうなるとやはりそこでは、そういうことをやるのが制度的に正しい行為になってしまうわけだ。逆に違法だから倫理的にも道義的にも許されない行為だからといって、それをやるのをためらってしまうと、やはりやっていることがうまくいかなくなってしまうわけで、かえってそれをやらないことで、周囲から責められたりして、そうなると不条理を実感せざるを得なくなるのかもしれないが、しかもそれが違法行為であり、やったことが発覚して処罰されることになっても、やはりそこではそういうことをやるのが正しかったと実感することにもなり、そこでは正しさの意味自体が矛盾していることを悟らされるのではないか。またその場が丸く収まることが正しいのなら、それが違法行為でも倫理的にも道義的にも許されない行為でもやらざるを得なくなり、さらにそれが自らに害を及ぼす行為でさえも、やらざるを得なくなる場合まであって、そもそもその場が丸く収まるということがどういうことなのかといっても、その人にとってもそれ以外の人にとっても、よくわからないような場合もあるだろうし、極端な場合にはその場にいる全員が死んでしまうことが、その場が丸く収まったことになるのかもしれないし、実際にそういう成り行きがあるわけで、そうなると安易に功利的な価値観からその場の状況を推し量るわけにもいかないだろうし、結局何が正しいかが人の思考からは導き出せないかもしれないのだが、そんな成り行きの中で、その場の成り行きに応じて活動した結果がどうなるかは、そうなった結果が正しいのなら、その正しさも無限にあって、結果がどうなっても特に何が間違っていたわけでもなく、結果的にどうなっても、それが正しい行為の結果から生じたことになってしまえば、人はただその場の成り行きに従って、何かをやらされているだけとなってしまい、そうであるなら何をどうやろうと、その人の勝手になってしまうかもしれないが、少なくともその場の成り行きに逆らうことはできず、逆らおうとするとどこからともなく圧力がかかって、やっていることがうまくいかなくなってしまえば、やはりそこには制度的な拘束力が働いていることを実感させられてしまうわけだ。もちろん制度を慣習と置き換えても同じようなことがいえるわけだが。

 そしてその制度というのが、特に法律で規定されているようなものではない場合もあるだろうし、その場に作用や影響を及ぼしてくる様々な条件や要因から、決まった動作を生じさせて、それ以外の動作を阻むような力が働けば、それを制度とみなしても、それほど間違ってはいないだろうし、そうやって制度的な拘束力がその場の人や集団に生じて、その活動に制限や制約をもたらすわけだが、そこで勘違いしてもらっては困るのは、動作が同じでも結果が異なる場合があり、要するにサイコロを振る腕の動作が同じでも、振って出た賽の目は異なるわけで、必然的な動作から偶然的な結果が出るわけだが、それに関して正しい行為から正しい結果が出るとは限らず、正しい行為から間違った結果が出ても、間違った行為から正しい結果が出ても構わないが、それが正しいか間違っているかというよりは、そこで同じような動作しか行われないとしても、その同じような動作から必ずしも同じような結果が出るわけではないことが重要なのだが、制度に囚われた意識は、それを同じ結果とみなすだろうし、制度的な拘束力が人の意識も拘束して、同じ動作から同じ結果が出ることを信じさせることで、その場を支配する制度に人を従わせようと仕向けてくるわけで、そんな制度的な拘束力に逆らうには、そこから出てくる様々な結果の間に差異が含まれていることを見つけ出す必要があり、その場にいる多くの人たちがそうした差異を感じ取れるなら、その場を支配する制度的な動作を信じられなくなってくるわけで、そうなれば制度の呪縛から解放される可能性が出てくるわけだが、そうした呪縛に多くの人が囚われている限りは、誰も制度に逆らおうとはせずに、そこに働いている拘束力の程度に応じて、同じような動作を繰り返して、それによって出た結果も同じとみなして、またそうした紋切り型の動作から外れそうになっている人たちを咎めるようなこともやりながら、そうした出る杭を打つような同調圧力によって、世の中の安定と均衡を保つような成り行きが生じるわけだが、どのなような社会でもそれが社会である限りは、ある程度はそういう制度的な拘束力が働いているのは当然だとしても、同時にそういう必然的な力に逆らうような偶然的な力も働いていて、そうでないとサイコロを振っても出る目がいつでも同じになってしまうわけで、またそうした結果の偶然性に着目した、宝くじから違法なサイコロ賭博まで、偶然の作用を利用した制度もある反面、制度を守る側からすれば、サイコロを振る精度を高めて、思い通りの目が出るようにもしたいわけで、結局人が社会を構成する動機として、人々に同じ動作を強要して、同じ結果を出そうとする追求があるわけで、もちろん社会を構成している一人一人があからさまにそう思っているわけではなく、ただ何となく群れているように感じられるに過ぎないだろうが、例えばそうした人の社会化に付きまとうようにして生じた原始的な呪術の類いには、人や自然を思い通りに制御したいという願望が表れているだろうし、そこには特定の呪詛をかければ特定の結果を導き出せるような思惑があって、そういう思惑を受け継いだ発展形態として、社会的な制度があるわけで、法律によって人や集団の活動に制限や制約をかけて、その法律が求めるような結果に導きたいのだろうが、それは法律を守っても、またその法律を破っても、それぞれの行為に応じた一定の結果をもたらしたいわけで、法律を守っていれば特に問題はないとしても、法律を破ったら、それ相応の一定の報いを受けるような制度にその人を拘束したいわけで、それが裁判の制度であったり、またそこで有罪判決を受けた人が収容される刑務所の制度であったりするわけだが、偶然の力はそうした必然的な結果をもたらそうとする制度に対しても、様々な機会を捉えてその隙を突いて作用を及ぼして、結果的におかしな状況が作り出されてしまうわけで、その例としては無実の受刑者が出てしまったり、また人を更生させる目的で作った刑務所の制度が、逆に犯罪を助長させる効果を発揮してしまったり、しかも刑務所の中で犯罪人のネットワークが形成されて、それも一つの制度となって、社会の中でギャングやヤクザなどの非合法的な組織を支えるように機能しているわけで、そういう面を考慮するなら、人が人為的にその目的に応じて、必然的な結果を得たいがために、社会の制度を強化していく傾向があるとしても、またそれと同時に自然発生的な制度も、そのような制度に付きまとうようにして生じてきて、それが求めたい必然的な結果を微妙にずらすような効果を発揮しているだろうし、またさらにそれに加えて偶然の作用がもたらされて、想定外の思いがけない結果がもたらされてしまい、絶えずそうした思惑をはぐらかすように作用するわけで、人は確かにそうした人為的な制度にも自然にもたらされる制度にも拘束されているのだが、そうした制度からもたらされる結果が、必然的なものだと信じてしまうと、偶然の作用によって裏切られてしまうわけで、だからそうした結果には、ずれや差異が含まれていることを、絶えず認識しておく必要があるのではないか。またそうしたずれや差異の中に制度の拘束を逃れる自由が潜んでいるのかもしれない。


11月17日「批判の意義」

 世の中に存在する物事の何かを肯定して、それと比較することによって別の何かを否定することは、それが批判の中で用いられることになれば、よくある内容となるわけだろうが、また何かを否定しておいてから、それと同じようなまた別の何かを否定することもあるだろうし、そうやって否定する対象となる物事を批判するわけだろうが、逆に何かを肯定して、それと同じような別の何かを肯定することが、批判として機能するかというと、普通はそうは思われないだろうし、肯定するだけでは批判することにはならず、必ずそこには否定するような内容が入ってこないと、それを批判だとは受け止められないのではないか。たぶんその辺が難しいところかもしれないのだが、極力否定的な内容にならないように批判できれば、そうした否定の安易さから逃れられるかもしれないが、なぜ否定することが安易なのかといえば、それが批判だと思われてしまうからで、それではまずいのかというと、別に批判としてはまずいわけではないのだろうが、安易に言説の対象を否定すると疑念が生じてくるわけで、その疑念というのが、実際に否定する対象がそこに存在していることであり、どんなにそれを否定してみても、それが存在する限りは、その存在までも否定することはできないわけだ。少なくともそれがそこに存在していること自体は肯定されなければならず、なぜそれがそこに存在していて、さらになぜそれが批判され否定されなければならないのかをうまく説明できないと、話に説得力が伴わなくなってしまうわけだが、そうした話の中で使われる手法が比較であり、何か別の肯定できる物事と比較して、それに比べてその物事の劣悪な面を指摘することによって、その物事を批判しているつもりになれるわけだが、果たしてその肯定できる別の物事というのが、本当に肯定するに値する物事かというと、そうでもないと思われてしまえば、そうした批判自体が疑われてしまうだろうし、その辺が微妙なところかもしれないのだが、手放しで肯定できなくても、相対的にはまだマシな部類に入るという表現で、条件付きの肯定にとどめておけば、そうした疑念を少しは薄められるかもしれないが、ならばそれと比較して、完全に否定できる批判対象の方はどうなのかとなると、それも否定できる面があるにしても、少しは肯定できる面にも言及しないと、全体としてバランスが悪くなってしまうだろうし、普通はそんなことまで気にする必要もないのだろうが、何か安易に否定したい物事があって、そうした否定に説得力を持たせるために、世間的にも認められる安易に肯定できる物事を、比較の対象として話の中に設置しているように思われてしまうと、どちらも安易な否定であり安易な肯定だと思われるしかないだろうし、それもその程度の安易な比較と受け止められて、そうした比較が安易な批判の言説を支えることになるのかもしれないが、そんな安易な批判を信用できるかといえば、それが安易な内容に思われるなら、普通は信用もできないとなるわけだろうが、もしかしたらそれらは別に否定する必要も肯定する必要もないような物事であり、そうであるなら批判もする必要もない物事であり、そもそも批判にするに値しないような物事でしかないのかもしれず、では批判するに値する物事とは何かといえば、安易な否定や肯定では済まないような物事を批判の対象として選ぶべきだろうし、そうした対象がなければ、安易に批判するようなことは差し控えるべきかもしれないが、世の中にはそれを控えられないような立場や境遇に追い込まれている人たちもいるわけで、そんな人たちが安易な批判によって、メディア上で否定すべき物事と肯定すべき物事を提示してみせるのだが、そこで示される安易な比較の論理と比較の対象となる物事から何がわかるかといえば、そんなどうでもいいことにこだわってみせる批判者の浅はかな思考形態と、大したことでもないのに批判せずにはいられない安っぽい正義感かもしれないのだが、そんなこと以外に批判することがないのかとなると、それはよくわからないところかもしれず、ひょっとするとそれでも構わないのかもしれず、物事に対する批判とはその程度のものでしかないのかもしれないし、たぶんそれ以外に何かあるのかもしれないが、それはその人の立場や境遇から、その立場に境遇に合わせた批判の対象があって、それを浅はかで安っぽい批判としか思えないような立場や境遇にある人には、それとは別に何かもっともらしい批判対象があるとすれば、そんな浅はかで安っぽい人たちを小馬鹿にしていないで、自らに合ったそれなりに大げさな批判対象を批判すべきであり、それができなければ、それらの安易な批判に関して何を述べる資格もなく、それはそういう批判として肯定も否定もしない方が無難なのかもしれない。

 しかしそうであるにしても、果たしてその存在を認めることは、それを肯定することになるかというと、それに関しては微妙に意味がずれるかもしれないのだが、それが存在することを否定できなければ、それがそこに存在するということであり、その存在自体は、特にそれと比較する対象なしに存在しているわけで、そうであれば、ただそれがそこに存在していることでしかないだろうが、その存在を認めた意識が、それと似たような別の存在を、それに対する比較対象として、それに関する言説の中で利用しようとするわけだが、それが一般的な批判の中では、その存在を貶めるために利用されるわけで、そうなるとその比較対象となる別の対象は、それよりもマシな存在として肯定せざるを得ないだろうし、果たしてそうした肯定が説得力を持つかということになるわけだが、そうした物事を肯定する説明が説得力を持っていれば、それと比べて劣っているとみなされる物事を否定する言説にも説得力が生じるかもしれないが、そもそもの比較を可能とする条件に無理があれば、単純に比較すること自体が説得力を伴わないわけで、さらに批判の対象を貶めるために比較を利用する行為自体が、倫理的に許されるのかとなると、それは批判の内容にもよるかもしれないが、たぶん根本的なところで比較のやり方が間違っているのかもしれず、比較には他に比べて劣っている点を指摘することとは逆に、他に比べて優っている点も指摘しなければならないだろうし、単に劣っている点だけ指摘して、その対象を貶めているようでは、比較の半分しかやっていないことになるだろうし、なぜ半分しかやらないかといえば、そうやって批判する対象を貶めたいからやっているわけで、優っている点など何もありはしないと主張したいわけだが、そうだとすると、なぜそんな劣悪な物事が普通に存在しているのかをうまく説明できなくなってしまい、そういった点に関して、そうした否定だけの批判では信用できないわけで、何かそういう面が疑わしく思われるわけだが、特に批判者がメディア上で、世の中の情勢やそこで活動している何らかの人や集団を批判する場合には、しかも批判どころか罵倒しているように見えてしまうと、そんなことをやっている批判者自身が、当の批判対象や罵倒対象から大した攻撃も受けずに普通に暮らしている状況は何なのか、ということにもなってしまうわけで、例えばそれを批判すれば身の危険を感じたり、普通に生活することが困難になるようなら、それは深刻な事態であり、権力や暴力を用いて批判対象を黙らせるような劣悪な対象が存在することにもなるわけだが、そうでないなら、その程度の対象ということであり、またそれとは逆にむしろ批判する側の方が劣悪な場合は、権力や暴力を用いて批判対象を脅している場合もあるわけだが、世の中で平和な状況が保たれていれば、そういうのは稀にしか起こらないことであり、それよりはよくありがちなのは、批判者が批判対象から相手にされていない場合であり、批判対象から無視されていたり、あるいは小馬鹿にされているような場合には、批判者がむきになって批判対象を罵倒するようなことがよく起こるわけで、さらに罵倒するだけではなく、こちらにも余裕があるように見せかけて、相手を小馬鹿にするような表現を多用するわけで、そうなると時折罵倒するかと思えば次には小馬鹿にするような態度にもなり、そうやって何とか批判対象から認めてもらおうとして、様々な手法を駆使して執拗に同じ対象へと批判を繰り返すわけで、その一環として、他の似たような肯定できる対象と比較して、批判する対象を貶めるようなことも行うわけだが、いくらそんな批判を繰り返しても、相手にかまってもらえないままだと、事あるごとにそら見たことか、だから言わんこっちゃないと批判するにしても、次第に批判のネタも尽きてきて、自然と安易でお粗末な紋切り型の内容にもなってくるだろうし、そうやって自業自得気味に自滅へと至るケースが多いのかもしれないが、何かソーシャルメディアなどで、ひたすら延々と同じ対象に向かって同じような批判を飽きもせず繰り返しているような行為を見かけたら、それはすでにそうした自滅の典型例だとみなしておくのが妥当なところだろうし、いったんそうなってしまった人は、もはやそこから引き返すことができなくなっていて、聞く耳を持たない人になってしまっている可能性もあるだろうし、そういう可能性も含めて、批判者や批判対象の社会的な立場や境遇などから、そうした批判の内容がどの程度のものかを推し量ることができるかもしれないし、またそうした批判が世の中で何らかの効果を上げているか否かも、ある程度は推察できるかもしれないが、大雑把に言って、そんな批判にも関わらず、世の中が大して変わっていなければ、そうした批判は無効であるどころか、むしろ積極的に状況への不満に対するガス抜き効果を発揮していて、それが世の中の安定に寄与していると捉えておくのが無難なところなのではないか。


11月16日「関係の多様性」

 社会の中で行われている人為的な行為や活動は、大雑把にいうなら全て人の暮らしに関係することでしかないわけだが、その職種や役割が細分化して専門化している状況から見ると、直接には人の暮らしとは関係のないことをやっている人もいくらでもいて、それらが間接的には全て人の暮らしに関係してくるとしても、そこだけを強調すると、他とは無関係に独自の領域でやっているようにも見えてしまうわけで、そこからそれだけを正当化するような専門的な論理がもたらされて、そうした論理によって、それとは無関係な門外漢を排除するようなことにもなりがちになるかもしれないが、それ自体は他の分野との関係や関連から成り立っていて、それ単体では成り立たないことも多く、その部分だけを切り取って、いくらそこだけを正当化してみても、そういう論理が成り立つ範囲も限られてきて、確かにそこではそれで通用するかもしれないが、他では通用しないことも多いだろうし、それはそういう領域で主に通用するだけの論理とみなしても構わないわけだが、ではそうではなく全ての領域で通用する論理があるかとなると、中にはそういう論理もあるかもしれないが、逆にそういう論理は個々の分野では役に立たないだろうし、そういう意味で論理というのは特定の領域で通用するから、その領域では重宝されるのであり、別にそういう論理で構わないのかもしれず、世の中の全ての領域で通用する論理を求めるのは意味のないことなのかもしれない。もちろん論理を適用できる範囲も様々に異なるだろうから、比較的広い範囲に適用できるものもあれば、狭い範囲でしか通用しない論理もあるだろうが、その分野でしか通用しない論理を他の分野で通用させには無理があるだろうし、そうした限られた範囲でしか通用しない論理を、他の分野でも通用させる必要はないだろうし、そんなことよりは専門的な論理とは異なる何かを活用して、それによって様々な分野の間での連携や協力の関係を構築するような成り行きになればいいのだろうが、たぶん現状でもそうなっているだろうし、改めてそんなことを持ち出して強調するようなこともないのかもしれないのだが、普通はそうした連携や協力によって利益を得ることを目指すわけで、その利益が一般的には金銭的な利益となることが多いわけだが、中にはそれとは異なる面での連携や協力もあり得るだろうし、例えばそれが人を助けることを優先させたり、他にも環境保護とか、それに関連して希少な動植物を保護するための活動であったり、さらに大げさになってくると、地球の温暖化を防ぐための活動となっている場合もあるわけだが、また助けるという大義名分を立てやすい理由ではなく、楽しむための連携や協力もあるだろうし、さらにそれが否定的な形態になってくると、人を苦しませるためとか、傷つけたり殺すためとか、他にもありとあらゆる活動の中で人や集団などの間で、連携や協力の関係が生じるわけだが、それが全て共通の利害関係となるかというと、そうでもないだろうし、敵の敵は味方だとか、双方の思惑が異なるのに、そこで一時的な協力関係が成立したり、そうなるとたとえ連携や協力の関係にあっても、それぞれが別々の論理で活動している場合もあり得るだろうし、そうやって利害も異なるし論理も異なるのに、連携や協力の関係が成立している場合も考えられるわけだが、中にはある面では敵対しているのに、別の面では連携や協力の関係を維持できる場合さえあるのかもしれず、そうなってくると敵対関係であっても連携や協力の関係であっても、それが絶対的に他の関係を受け入れないようなものでもなく、職種や役割の細分化や専門化に伴って、それぞれの相互の関係も様々な場面や局面で複雑に入り組んでいて、その関係の種類や程度や強度などに関しても、相対的な関係にとどまる傾向にあるのかもしれないし、それが必ずしも絶対的に固定した関係とはならず、それがかつての封建的な主従関係のような、命のやり取りを伴うような上下の関係ではないのは当然としても、現代的な契約関係でさえも、気に入らなければさっさと破棄できるような関係になったり、もちろんそれも法的な拘束力はあるだろうが、いざとなったら法律の類いを破ってしまえばいいわけで、それに伴ってそれ相応の報いを受けるとしても、そういう面を考えると、全ての面で完璧な関係というのはあり得ないし、絶えずそのあり方や程度や強度が変わっていくような傾向になるだろうし、そんな中でもそれなりに強固な結びつきというもあることは確かだろうが、そこでも互いの相手に絶えず配慮していないと、そういう関係もいずれは壊れてしまうだろうし、たとえそれが連携や協力という肯定的な関係であっても、その中身が実質を伴っていないと、意味のない形だけの関係でしかなくなってしまうのかもしれない。

 またそうなるとしても、それで構わない場合もあるだろうし、必要に応じて関係を結んだり解消するような成り行きになる一方で、それを怠れば形骸化してしまうわけで、またそうした関係の形骸化でさえも、新たな関係を構築するきっかけになるかもしれないし、さらにまた、なかなか関係を構築できずに、交渉する度に、互いの論理を衝突させることに終始していても、それによってさらなる交渉の機会が生じる成り行きになれば、そういう終わりなき交渉をやっているだけでも、それも一種の関係とみなせるだろうし、そこで互いの立場を固定して対立させても、立場をずらして調整や妥協を図るにしても、そんなことをやっていることが、そうした交渉を継続することによって、それに関わっている人や集団を、そうした関係の中にとどまらせるような効果が出ているわけで、それの良し悪しは、それとの関わりの程度や立場にもよるだろうが、中にはそうした膠着状態を利用して利益を上げる人や集団も出てくるのかもしれないし、またそれでは困るとして、何とか交渉を前進させようとする人や集団もいるかもしれないし、どちらにしてもそれに関わっている限りで、それぞれが活動している状態が維持されるわけだろうが、それだけに関わっているとは限らず、それとは別の方面でも活動していれば、そうした活動も成り立つような関係も構築されていて、さらにそれとは別の方面ではまた違った関係も構築されていたりして、そこではまた別の人や集団と別の交渉を行っている場合もあるわけで、そうした関係が様々な方面で様々な交渉をもたらしていて、もちろん交渉以外でも、物や情報やサービスなどの生産や流通や販売や消費に関連した活動も行なっているわけで、そうした活動が世の中で暮らしている人々に関わってきて、そこで暮らしがそれなりに成り立っている限りで、それに伴って様々な職種の人や集団の活動も成り立っているわけだが、そこで言えるのは、少なくとも何か特定の活動が成り立っていないと、人々の暮らしが成り立たなくなってしまうという論理ではなく、そこで人や集団によって何らかの活動が行われるような成り行きが生じていて、またそこで人の暮らしが営まれるような成り行きも生じているとしか言えないのかもしれず、それを結果から見てしまうと、こうだからこうだという論理になってしまい、またそこからこうでなければこうはならないという論理も生じてきて、結果がこうなっているからといって、それを正当化したり、あるいは否定して批判することが、果たして正しい物事の認識に基づいているのかというと、やはりそれは疑わしいわけで、そこで言えることは、少なくとも様々な成り行きや紆余曲折を経てこうなったとしか言えない面があって、そこから論理を用いて、こうあるべきだとかこうなるべきだとかいう話になってくると、こうあるべきとかこうなるべきという前提や根拠が、こうなった結果を肯定したり否定したりすることから生じている限りで、こうはならない可能性まで考慮すれば、そうした論理を用いる正当性が怪しくなってくるわけで、そういう意味で時にはそういった論理を使って何か述べるような成り行きになるとしても、そうしないと何も述べられなくなってしまうとしても、少なくともそういう論理を過信するわけにはいかないだろうし、現にそんな論理から外れるような偶然の巡り合わせによって、思いがけない出来事が起こって、誰も予想しなかった想定外の結果がもたらされてしまうから、そうした結果に伴って、それまでの関係が崩れて、新たな関係を模索しなければならなくなったり、実際にこれまでにない新しい関係が結ばれて、そこからこれまでにない活動が生じてくるわけで、またそんな結果が起こってから、今までの論理では説明がつかなくなって、そうした結果に応じた論理が新たに編み出されることにもなるわけで、そういう面を考慮するなら、現状でそれなりに妥当な認識としては、結果としてもたらされている状況や情勢に関して、あまりにも決定論的な論理で語ってしまうと、思わぬところから足元をすくわれてしまうだろうし、またこうでなければならないという論理から導き出された理想論を語り出してしまうのも、こうでなければならないという前提自体が偶然の産物なのだから、そういう理想状態こそが虚構に過ぎないことにもなりかねず、やはり語っていることに説得力がなくなってしまい、論理自体の妥当性が問われてくることにもなるわけだが、それでも何らかの目安として、そんな類いことを語らざるを得なくなってしまうわけで、できれば暫定的な指標として、その手の論理を用いて、もっともらしい筋の通ったフィクションのレベルで語る程度にとどめておくのが妥当なところかもしれず、それをあまりにも断言口調でこうなるしかないと語ってしまうと、それがフィクションのレベルから逸脱してしまい、またそこから予測や予言などに至ってしまうと、占い師などのまやかしと大して変わらない内容となってしまうわけで、そういうところでフィクションのレベルに留まっていた方が、それなり良心的に見られるのかも知れない。


11月15日「幻想の感染」

 自らの行為や活動に関して幻想を抱くのはその人の勝手だが、それがあるから自分が他人とは違うことをやっていると自覚できるのかもしれず、実際に他人と同じことをやっていることに気づいたら、つまらなく思えてしまうだろうし、実際に同じことをやって同じ結果しかもたらされなければ、幻想を抱けなくなってしまい、そこに他とは違う何らかの差異を見出せないと、やっていることの意味も意義も感じられないのかもしれず、そういうことを実際にやっているという自覚が、まさに幻想なのかもしれないし、そんな幻想を抱けるから、そこから自己満足とともに、そんなことをやっている自らを誇りたい気にもなってくるわけで、それがやる気を保つためにも必要になってくるわけだろうが、そうした必要が生じてくること自体に、その人を何らかの行為や活動に駆り立てる力が、その場で働いていることを示していて、その力が何かといえば、その人の存在から生じる重力の類いになってくるのかもしれないが、なぜ重力の類いが行為や活動に結びつくのかといえば、それは他人の重力と引き合うからだろうし、他から見て何かその人に存在感が感じられるなら、それはそんな他人に対して抱く幻想なのかもしれないし、そんな幻想が他人に対しての信用につながってしまうと、そこから他人に対する期待も生まれてくるし、その存在を意識しただけで、他人が自分に対して何かやってくれるのではないか、と根拠の定かでない期待を抱いてしまうわけだが、その存在感という重力の類いが、人と人とを識別して、期待を抱かせる特定の人の存在を重視するような気を起こさせるのだろうし、やはりそういうところからも根拠の定かでない幻想が生まれるのだが、人が自身や他人に幻想を抱くのは、自分や他人に期待していることの表れで、その期待が失望に変わらない間は信用や信頼が維持されて、その対象に好感を抱いているわけだが、少なくとも幻想と実態は違うだろうし、意識が幻想を抱いている対象の実態を正確に把握しているわけではなく、そうであるだけに、そこから生じる信用や信頼も、それだけでは根拠の定かでないものとなるしかないのだが、もちろん普通はそれだけではなく、その人の日頃の行為や活動から情報を得て、それらを総合的に判断して、何やらもっともらしいその人への評価を下している場合もあるわけだが、当人の勘から導かれる実感としては、やはり信用や信頼するに足る何かを、その対象から漠然と感じているわけで、そうした自らの勘を信じるか否かとなると、やはり他に何も判断材料がなければ、信じるしかないだろうし、そうなるとそれは幻想などではなく、意識がその実態を把握していると思うだろうし、それが間違っていれば勘違いとなるわけだが、たぶんそこでそれなりの勘違いを経験してもなお、当初から抱いている幻想を捨てきれない場合もあるだろうし、期待を裏切られても期待してしまう何かが、その人の存在感から得られてしまうわけだが、そういうところで意識は、その対象の実態とは違う何かを感じていて、それがその人自身の勝手な思い込みに過ぎないのか、あるいは人と人との関係がもたらす行為や活動などの相互作用から生じるのかは、両方が入り混じっていると捉えておくのが妥当なところかもしれないが、それが実態からかけ離れるほど、妄想に近づくだろうし、また実態とそれほど違っていなければ、勘違いではないことになるわけだが、逆に実態に近いほど、それは幻想などではなくなり、実態そのものに近づくほど、その実態が当初に抱いていた幻想とは違っていれば、それに気づいた途端に期待を抱けなくなってしまう場合もあるわけで、それがいわゆる幻滅につながるわけだが、そうやって自分の実態からも他人の実態からも幻滅が生じてしまうと、そこには夢も希望もない現実の社会が眼前に現れて、その中でありふれた人間関係がもたらされていることに気づくだろうし、そうやって人に対する期待や願望とは異なる、ごく普通の人と人の間のやりとりが行われることになるわけだが、それでも希望を捨てきれなければ、また性懲りもなく幻想を抱ける対象を探そうとするだろうし、そんな対象として、いつまでも幻滅させないようなものとなると、自らは直接関係することのないメディアの向こう側で起こっている物事から選ばれるのかもしれず、そうやって人は興味を惹かれる物事から隔てられ遠ざかるほど、そうした対象に勝手な幻想を注ぎ込むことになり、またそうした対象に近づくほど、そんな幻想とは相容れない実態を知ることとなり、そうした実態を知れば知るほど幻滅するわけだが、それを知る過程に興味を抱く場合があって、幻想を抱きながらも、そんな幻想とは違う実態を知ろうともするわけで、またそんな実態を知るに至れば、そうした実態を知り得た自らを優秀だと思い、今度はそんな自らに幻想を抱くに至るのではないか。

 それも興味を抱いた対象と自意識との相互作用でしかないだろうが、対象を知るということは、まずはそれに対して勝手な幻想を抱いて、それに興味を持って接していくうちに、そんな幻想とは相容れない実態を知るに至って、今度はそういう実態を知ることが貴重な経験となり、またそんな経験から得られた物事の真相としての知識をありがたがり、そんな知の経験に裏打ちされた自らの能力を過大評価することが、自らに対する幻想そのものとなるのかも知れないが、そんな幻想の中にいつまでも留まることはできないだろうし、さらに経験や知識を利用して何かをやらなければならなくなり、そうした行為や活動からもさらなる経験や知識が得られるだろうし、一方でそんな経験や知識からその人独自の勘が養われるわけだが、そんな勘に頼って行為や活動を行なって、それでうまくいっているうちは、自らの勘の確かさに幻想を抱いていられるわけだが、一度やっていることがうまくいかなくなって、それが勘違いであることに気づくと、そんな勘に対する信用や信頼も揺らぐだろうし、そうやって勘が狂っていることに気づけば、勘に頼っているだけでは駄目で、他にも周囲から様々な情報を得てそれを利用したり、場合によっては他からの協力を仰がないとうまくいかないことにも気づくだろうし、そんなことをやっているうちに幻想とは違う現実の世界の実態を知ることにもなるわけだが、そういう成り行きが順を追って進行していくわけではなく、それらが並行して同時進行で起こってくるわけで、結局様々なレベルで様々な行為や活動を同時進行で行うことになり、そうなると一つの物事だけに意識を集中することができなくなって、意識せずにやっていることが多くなってくるだろうし、またそれと自覚することなく、様々なことをやっているわけだから、そんなことをやっている自らの中で、自意識が知り得ない面が生じてくるわけで、そうなってくるとやっていることと言っていることと思っていることの間に、無視できない食い違いも生じてくるだろうし、そうやって自らを自らで把握できなくなっているにも関わらず、それでもそこで何かをやっている実態があるわけで、そんなことを平然とこなしている自らに対する幻想が生まれるにしても、そんな幻想とは関わりのないことをやっている自覚もなく、普通にそんな幻想を裏切るようなこともやっていることが、自らの意識では把握できていない実態も生じてくるだろうし、そうなると他人の実態を知って幻滅しようと、自分の実態を知らずに自身に対して勝手な幻想を抱いていようと、そんなこととは関わりなく行為や活動を行なっていることに関して、自らも自らと関わっている周囲の人たちも気づかない可能性が出てくるわけで、そうやって様々な物事が複雑に絡み合い積み重なって、さらにやっていることと言っていることと思っていることの間の隔たりが広がってきてしまうわけだが、それが絶えず広がる傾向にあるわけでもなく、その場の状況に左右されて、広がったり縮んだりしているわけだろうが、そういう実態から言えることは、自らが抱いている幻想の他にも、その経験から導き出される知識や勘もあまり信用できるものではないだろうし、やっていることが結果的にうまくいけば、確かにこれまでの経験から培われた知識や勘が活かされたと思うだろうし、そのこと自体を誇示しようが自慢しようが、その人の勝手だろうが、結果的にうまくいかなくなれば、そうした知識や勘では対応しきれない事態が起こっていることを自覚すべきだろうが、誰もがそれに気づけるかというと、そうでもないだろうし、なまじ自分の知識や勘を過信している人ほど、その勘違いの度合いも強くなってくるし、そういう人に限ってなかなか自らの過ちを認めたがらないし、実際に認めようとしないから、さらにひどい状況の中へと追い詰められてしまう事態にもなりやすく、それもやっていることの程度にもよるだろうが、そうやって身の破滅や周囲への損害も招くわけだが、結果的にそうなってもなお幻想を捨てきれないだろうし、もちろんそうした失敗から学ぶ余地がまだ残っていれば、そこから再起を図ろうとするだろうし、結局はそんな失敗をより多く経験できれば、さらにそこから多くの知識を得て、そこで培った勘にも磨きがかかってくるようにも思われて、さらにそれらへの過信も甚だしくなってくるのだろうが、そういう経験にもきりがなく、また個人の経験にも限りがあるだろうし、そんな様々な個人や集団などとともに、それと関わった出来事などが知識として集積されたものが、データベース化されて、図書館などに保存されることになるだろうし、またそれが百科全書などにも編纂されて存在しているわけだが、それをどう活用するにしても、それらは今までに起こったことの集積でしかなく、これから起こることはまだ知られていないわけだから、やはりそういう営みもやり始めるときりがないとともに、それなりにそれらの活用にも限界があることは確かなのではないか。


11月14日「格差の相対化」

 現状では人の労働がないと企業活動など成り立たないのは当たり前だとしても、その労働力を買うことに関しては、そこで人を物扱いすることにもなるかもしれないが、人そのものを売り買いするわけではなく、あくまでも人の労働を売り買いするわけだから、その辺を似て非なる奴隷労働と混同するわけにはいかないのだが、個々の労働において、労働を買う側が払う報酬の額に差がつくことは当然だろうし、それ自体が売買なのだから、買う側はできるだけ安く買いたいだろうし、また売る側はできるだけ高く売りたいわけで、そこで買う側に主導権があれば、安く買い叩かれ、売る側に主導権があれば高く売れるわけで、またその需要と供給の関係からいえば、商品の需要が多ければ値上がりして、供給が多ければ値下がりするわけで、原理的には需要が多い時には売り手市場になって、引く手あまただから、売る側が主導権を握ることになるから値上がりして、供給が多ければ買い手市場になって、供給過剰となって、買う側が主導権を握ることになるから値下がりするわけだが、もちろん実質的には労働する設備を持っている買い手側の企業が恒常的に優位な立場にあることは変わりないわけだが、それが売買である限りで、そこで主導権を握っている側の都合で、需要や供給を促進させたり抑え込んだりしながら、ある程度は価格の操作や調整をできないことはないだろうが、そこで行政の側が法律で最低賃金などの最低価格を決定したりすることも、実際に行われていることだが、それも人が必要最低限の生活が送れる程度の額を目安にして、生活物資となる商品の価格などとの兼ね合いから決まるものだろうから、それなりに妥当な額へと落ち着くしかないだろうが、そういった売買の関係がある限りは、それを外部から介入して勝手に価格を決定するわけにはいかないだろうし、その辺の調整が難しいのかもしれないが、何かそこで政治的あるいは行政的な方策を行なって、自国だけ高い労働賃金を維持しようとすれば、そのしわ寄せが国の内外へと何らかの形で及ぶだろうし、例えばそうした高い賃金を保っている国の人たちが、貧困国で搾取的な奴隷労働をやっている企業などを非難するとしたら、その国が高い賃金を保ってそこで暮らしている人々が、豊かな生活を楽しんでいることのしわ寄せが、当の貧困国へと及んでいる可能性もあるわけだから、そうだとするとそうした非難自体が全面的に正しいわけでもなくなり、またその国の企業が利潤を出して高い賃金を維持するために、貧困国の資源や農作物などの一次産品を安く買い叩いている可能性もあるし、また政府が自国に有利な保護貿易を行なって、自国で生産される製品と競合関係にある外国の製品に高い関税をかけて、自国の市場に外国の製品が入ってこないようにしている可能性もあるだろうし、そうやって自国さえ良ければそれで構わないなら、それでは世界的な水準での公共の利益を損なっていることになるわけで、もちろんそんな単純な理由や原因だけからそうなっているわけでもなく、そこには他にも様々な政治的・経済的・社会的・地理的・地政学的な要因が複雑に絡み合っていて、一概にそうなっている理由や原因を、その国の高い賃金に結びつけるわけにはいかない事情も出てきそうだが、少なくともそういった面を考慮すれば、単純に他国と比較して自国の欠点をあげつらったり、あるいは自国の利点を誇るようなことから、そうなりがちなのはある程度は仕方がないにしても、それ以外の何がわかるわけでもないし、また他に何かそこで見落としていることがあるのかもしれない。また国内でも、安い労働力を酷使しないとやっていけない産業などいくらでもありそうで、そこに劣悪な労働環境が形成されているわけだが、なぜそうなっているかといえば、特定の産業に利益が偏ってもたらされているから、そのしわ寄せがその産業に及んでいる場合もあるだろうし、また同じ産業の中でも特定の部門だけに利益が偏っている場合もあるかもしれないし、特に系列的な関係にある複数の企業の間で役割的な上下関係があると、上位の階層を構成する大企業の賃金と下位の階層を構成する下請けや孫請けなどの中小企業との間で、明確な賃金格差があるだろうし、そこで利益の大部分を上位の大企業が奪ってしまって、下位の中小企業などにはほとんど利益がもたらされない構造が形成されている場合もあるだろうし、またそれが世界規模で構成される状態となっていれば、大企業を多く抱えている諸国が利益の大部分を奪っていて、そのお陰でその国の平均的な賃金も高く、それ以外の国には利益がほとんどもたらされずに賃金も安いという現象も起きている可能性もあるわけで、そうやって国の内外で複雑に格差が形成されている状況では、一つの国の政府やその国の政治的な行為だけでは手に負えない事態となっているのではないか。

 だからと言ってそんな状態を放置するわけにもいかないだろうし、そんな状況を改善するために、その国の政府や議会の中で何らかの議論が行われているのかもしれないが、必ずしもそんな状態で固まって安定しているわけでもなく、絶えず物事が流動的に推移していて、その中でも各勢力が主導権を握っているレベルがそれぞれに違っているだろうし、政府が主導権を握っているレベルと議会が主導権を握っているレベルと企業が主導権を握っているレベルはそれぞれに違うし、政府の中でも各省庁が主導権を握っているレベルもそれぞれに違うだろうし、それなりに権力や権限が離散的に分散しているわけで、それらを全体的に統制したり統括することはできないだろうし、また各レベルでもやれることが限られてくるのだろうが、何をどう改善させるかとなると、様々な経緯や状況の変遷の中で、そういった格差に基づいて格差を利用することで経済活動が行われてきたのだから、むしろ格差をさらに一層際立たせることによって、さらなる利益を得ようとしている中で、人為的に格差を縮小させることには抵抗があるだろうし、そこで自家撞着に直面するしかないわけだが、その中でも相対的なことを主張する人たちは、現状でうまくいっているように見える国から学ぼうとしたり、逆にその国ではうまくいっていないことに関しては、それを教訓としたいわけで、よその国ではこうなっているから、わが国でもこうしなければならないとか、よその国ではこうした過ちを繰り返してきたから、わが国では同じ轍を踏むわけにはいかないとか、そんなことを主張する人たちは、自身ではそれなりに気が利いていて、筋の通ったことを主張しているつもりになっているのかもしれないが、自身が他との関係で相対的に優位な立場を占めているから、そこから生じる格差を利用してそういうことが主張できる立場になっていることには気づいていないわけで、誰もがそんなことを主張できるわけでもないのに、自らは幸いにもそうしたことを主張できる立場を占有していて、そんな立場を利用してそんなことを主張していることに関しては、考えが及ばないだろうし、そんなことを主張したい人が他にもいくらでもいるのに、自分が優先的にそういうことを主張できる場で主張していること自体に、そういうことを主張したい他の人たちとの間で格差が生じていることに無頓着でいられることは、やはりそんなことまでは考えなくても済むような状況がその場に生じていて、そんな場こそがそうした格差の源泉であるわけだが、そういう人たちにとって関心があるのは、そういう身近な場ではなく、自身とはそれほど関係のない、別の職種の別の場に注目してしまうわけで、そこでは何やら低賃金で立場の弱い外国人労働者が過酷な作業を強いられていたり、またブラック企業でサービス残業を強いられている立場の弱い従業員が過労死したり自殺したりするような、そんな極端な事例を持ち出して、そういうところを改善しなければならないと主張するわけだが、それも言われてみればごもっともな意見に思われるだろうが、やはりそれは程度の差であり、いくらそういう行き過ぎたところに制度的な制限を加えたり罰則規定を強化してみても、根本的なところで人と人との間で格差がないと利益が生まれてこないわけだから、それが自分たちの主張を反映したほどほどの程度になるとしても、またそんなことを主張する自らの立場をいくら正当化してみても、主張している自らが格差的に有利にあることには変わりなく、またそうした優位な立場を占められるのは、限られた少数の人たちに過ぎない現状もあるわけだから、全ては相対的な範囲内で主張できることであり、またそんな主張通りのことが実現されるにしても、やはりそれは相対的な限られた範囲内で実現されるわけだろうし、そこから何か根本的に格差をなくすような画期的なことが実現されるわけでもないし、そうした主張や試みの全ては現状の範囲内での改善となるしかないのかもしれないが、そういった制度的な歯止めや制限は、それまでの経緯を反映したものでしかなく、それ以降にはそんな制度の盲点を突く試みが必ず出てくるわけで、そうやって絶えず新たな試みによって新たな格差を生じさせて、そこから利益を得ようとするわけだから、そのような対応が後手に回ることは避けられず、場合によっては焼け石に水的な大して効果が上がらない状況となってしまうだろうが、中にはそういう相対的な対処とは全く違うことが行われる可能性もあるだろうし、それが格差とは違う何かをもたらすような行為となればいいのかもしれないが、実際に現状でもそれがもたらされているのかもしれないし、それが何なのかを現状ではうまく表現することはできないわけだが、たぶんそれが今後において利益を超える価値となる可能性があるわけだ。


11月13日「理屈と屁理屈の違い」

 安易で浅はかな屁理屈とそうではないまともな理屈に違いがあるとすれば、そういう理屈を信じられるか否かという判断では、人によって判断も異なってくるから、それが恒常的な違いとはならないかもしれないが、人によって判断が異なるのは当然であり、何が屁理屈で何がまともそうな理屈に思えるかは、それを屁理屈だと感じるのは、理屈としては破綻している面があるからだろうが、その破綻を見破れなければ信じてしまうだろうし、そういうところで知識や経験に裏打ちされた勘が働けば、その理屈がおかしいことに気づくわけだろうが、そうでなくても妙に理屈を強調してくると、その理屈だけでは無理な面を隠そうとして、そこだけを繰り返し強調していることに気づくだろうし、もちろん理屈を並べている当人もそれには気づいているから、理屈が成り立っているように思われる面しか述べたがらないわけだが、当人もそれがおかしいと勘づいている別の人も、理屈がおかしくなってしまう面をはっきりとは指摘できないまでも、しきりにそこだけを強調するのが不自然でぎこちないことには気づいて、何かそういう理屈には無理があるのではないかと推測して、後から考えてしまうわけで、そうやって理屈のつじつまが合わない面を発見できれば、そういう面ではそれが屁理屈になってしまうわけだが、たぶん全ての面で筋の通った理屈というのはないだろうし、大抵の場合は大なり小なりつじつまの合わない面が出てきてしまうのかもしれないし、理屈と屁理屈の違いは程度の問題に過ぎないのかもしれないが、理屈云々という面ではなく、理屈を強調してしまうこと自体に無理があるということだろうし、理屈だけはうまくいかないから、他の面も考慮しなければならなくなるわけだが、逆に他の面がうまくいかないから、理屈を強調せざるを得なくなって、しきりに理屈を並べてしまうような事態となってしまうことも多いだろうし、それが不自然に感じられる人には、無理なこじつけのように思われてしまうわけで、そういうところで屁理屈をこねているように見える人は、冷静さを失っているようにも見えてしまい、そういう面で信用も失ってしまうわけだ。またそういうところで勘が働く人は、理屈には限界があることをわきまえていて、同意を無理強いするようなことは言わないし、理屈に同調するように仕向けたりはしないわけで、その逆に自らが主張する理屈を過信している人は、他人が同調してこないと焦るわけで、なぜ理解してもらえないのかを理解できないから、わかってもらえるまで繰り返し理屈を並べ立てて、執拗に同じことを主張せざるを得なくなって、ますます自業自得気味に自らの理屈への過信と他人の無理解との狭間で、煩悶することになるわけだ。またそうしたことがきっかけとなって、無理を無理と思わなくなるから、理屈が屁理屈へと傾斜する傾向も強くなっていくだろうし、ついにはそんな理屈への凝り固まりが、現状からかけ離れた妄想を抱かせるわけで、そんな妄想まで語るようになってしまうと、まともな人からは相手にされなくなると同時に、その人にカリスマ的な雰囲気があれば、そういう妄想を信じてしまう熱心な信者を集めて、その人を教祖としてカルト的な宗教教団が生まれる可能性まで出てくるわけだが、大抵の場合はそんな成り行きにまでは至らないだろうし、そうなる以前に信用を失って相手にされなくなって、そこでそういう理屈は葬り去られてしまうのかもしれないが、後になって稀にその理屈の正しさが他の人たちによって証明されるようなことにでもなれば、その人の名誉回復が図られるかもしれないが、そうなった時にはすでにその人が亡くなっていたりもするわけで、そういう意味ではその理屈が何かの役に立てば、そういう面ではその有用性が明らかになって、それをそういう方面に利用する人たちに信じてもらえるわけだが、そうなるにしても、ただそういう成り行きが起こっただけであり、何らかの理屈を活用することで、何らかの活動がうまくいったということでしかないだろうし、そういうことは他にもいくらでもあるのかもしれないが、そうした活動からは恩恵も弊害ももたらされるだろうし、弊害がもたらされる面では、その理屈ではうまくいかないことが明らかとなるわけで、そうなればそれとは違うまた別の理屈を活用することで、弊害をうまく取り除くことができるかもしれないが、そうなるとまた別の面でうまくいかない可能性も出てくるかもしれず、そうやってその理屈によってうまくいく面といかない面の両方がもたらされることが、理屈の不完全性を明らかにするのではないか。

 もちろん理屈がうまくいく面に関しては、誰かがそれを利用して利益を得ようとするだろうし、そうなると利益を得られるからこそ、その理屈が正しいと主張したいわけで、またそうした理屈を利用した制度や仕組みによって弊害を受ける面では、実際に損害を被るからこそ、その理屈が間違っていると主張したいわけで、利益を強調したい人たちは理屈の正しさを信じてしまうし、損害を強調したい人たちは理屈が誤っていることを信じて疑わず、両者の間で対立や抗争が起きるのは必然的な成り行きとなるわけだが、そういう両面がわからない人は、他人の理屈は間違っていると批判するのに、自分の理屈は正しいと主張するわけで、そういうところで理屈に関して一般的に言えることは、まず自分の理屈が正しいことを信じて疑わない人は信用できないだろうし、また他人の理屈が間違っていることを信じて疑わない人も信用できないと言えるのかもしれず、少なくとも自らが主張する理屈のうまくいく正しい面と、うまくいかない間違っている面の両方を説明してくれないと、それなりに信用するわけにはいかないだろうが、それでもまだわかっていない面もあるのかもしれないし、そういう意味で現状で理屈の正しい面だけ強調して主張することに関しては、疑念を持たれても仕方のない面があるわけで、また同様に理屈の間違っている面だけを強調して批判することに関しても、やはり疑念を持たれても仕方のない面があるだろうし、なぜその理屈を利用して利益を得ている人や勢力があるかを、そうした人や勢力を頭ごなしに悪者扱いせずに説明しないと、そうした利益を得ている人や勢力からは敵対者として警戒されてしまうだろうし、それを悪く受け取られると、批判を煽って騒ぎを起こして一儲け企んでいるともみなされてしまうだろうし、やはりそういう批判一辺倒の立場を保とうとしてしまう人たちは、損得勘定抜きで真面目に取り組んでいるほど、それだけ損な役回りとなってしまうわけだが、またそうした損な役回りを進んで引き受けるほど、そんな理屈によって直接の損害を被っている一部の少数者からは、熱心に信用されて崇拝されもするが、またそうなるほど、その人に対する周囲からの風当たりも強くなって、下手をすれば利益を得ている側から苛烈な弾圧を受けて殉死するようなことにもなりかねず、そうなるとその人の死後に、その人が聖人とみなされたりして、そういう成り行きも後に、そうした聖人を開祖とする宗教に利用される事態にもなるわけだ。しかしまたそうやって理屈を利用して、そこから生じる利益や弊害の両面をことさらに強調することも、何か不自然に思われてくるわけで、その理屈の全ての面を知り尽くしているわけでもないのに、急いでそこから生じる利益や弊害へと進みすぎるから、途中にあるかもしれない理屈の改善できる点を見落としてしまい、理屈自体を利用しきれないまま、弊害を見つけた時点で、そのことで鬼の首を取ったかのように騒ぎまくって、まだまだ利用価値が眠っているかもしれない理屈を葬り去ろうとしてしまうわけで、そういう面もあるかもしれないから、何か他に利用価値がありそうな理屈に対しては、なるべく謙虚な姿勢で接しておくことが肝要であり、現にそれを利用して利益を得ている人や勢力が存在する限りで、それを頭ごなしに否定するわけにはいかないだろうし、そういうところで短絡的な肯定や否定などの決めつけを行うような宣伝や煽動をやるのは好ましくないのだが、逆にそうした決めつけの方がはっきりしていてわかりやすいから、そんなやり方にすぐに飛びついてしまう浅はかで愚かな人たちが大勢出てくるのだろうし、そういう人たちの弄ぶ理屈というのは屁理屈になるしかなく、そうした安易な肯定否定の決めつけこそが、理屈を屁理屈へと押し下げる効果を生むわけだ。またさらに一方で、物事に関する枝葉末節な脇道から拾い上げてきた小さな理屈を積み上げて、何かそれを大きな正しい理屈に見せかけようとする人たちは、その対象を肯定して礼賛するにしろ否定して批判するにしろ、そういう挿話的な付け足しの効果を利用して、自分の主張する理屈の正しさを強調したいわけだが、その正しさがあやふやになる面は巧妙に避けようとするだろうし、そういうところでは口を濁したり話題を逸らしたりしながら、その代わりにそういう枝葉末節の挿話に関しては、熱心にユーモアやルサンチマンなどを混ぜ合わせて面白おかしく語るわけだが、そうした話の面白さはそういうものだと受け止めるしかないだろうし、それはそれで一種の話芸の域にまで高められていれば、落語や漫才のような芸能に落ち着くわけだろうが、それと理屈は別の次元で判断しなければならないだろうし、話が面白いからといって、おかしな理屈を信用するわけにはいかないわけで、そういうところでお笑い芸人の類いが、政治に関して何かもっともらしい主張をするような場合は、注意しなければならないだろうし、特に体制翼賛的な言動や反体制的な言動の両面で、述べていることの中身に関してと、その手のはぐらかしの話芸に関しては、それとこれとは別問題として、注意深く判断しなければならないのではないか。


11月12日「役割や立場の正当化」

 現状の世の中で、それがメディア上で話題となるような何らかの活動が、間違いだらけで欠陥だらけに思われるとしたら、そう思った識者の類いが、それもメディア上でそうした間違いや欠陥を指摘することになるだろうが、指摘されてもそれが一向に改まらなければ、そうした間違いや欠陥は、それをやるに際しての必要不可欠な要素であるのかもしれず、そうした間違いや欠陥がないとそういうことができないとなると、ならばそういうことはやめさせなければならないとなるのかもしれないが、それでもそういうことをやっている実態が続いていれば、現状でそれをやめさせることができない実態もあるわけで、それでもそういった批判を繰り返し行なっていって、次第に批判を支持する世論が優勢になっていけば、いずれはやめさせることができるようにも思われるかもしれないが、そういった類いの活動が実際に行われている限りで、それが現状の中で実際に行われている活動であるとしても、世の中ではそれとはまた異なる活動も様々に行われているだろうし、そうした活動の中でも別の間違いだらけで欠陥だらけの活動も行われているかもしれないし、またそれを別の人が批判する活動も行われているかもしれないのだが、またそれらとは異なる活動も行われているかもしれず、そんな中でもそれぞれの活動が互いに関連があったりなかったりするのであり、その全てにおいて言えることは、活動はそれだけではないということであり、人々がその中から特定の活動に関心を持つかどうかは、偶然の巡り合わせにも、その時の世の中の情勢にもよるだろうし、確かにそんな中でも多くの人々が、メディア上で盛んに報じられることには関心を持つかもしれないが、そうした関心の中に特定の活動への批判が含まれるかどうかも、やはり偶然の巡り合わせにも、その時の世の中の情勢にもよるわけだ。具体的にそこで何が行われているかについて、活動の内容を明かさないまま、そんなことを述べていくときりがないわけだが、たぶんメディア上で世の中の全ての活動が伝えられているわけでもないし、また別にメディア上で伝えられることに関心を持たなければならない義務もないし、さらにメディアがそれを積極的に伝えないからといって批判したところで、メディアが伝えられることにも限りがあるだろうし、やはりそんなことを述べるときりがないわけだが、きりがないなりにも、何かしら様々なことが伝えられていることは確かだろうし、それで何がどうなるわけでもなければそういうことでしかなく、ただそんなことをメディアの報道によって知ったに過ぎないのかもしれないが、知り得たことについては考えさせられる機会もあるわけで、考えてみておかしいと思ったら、そのおかしなところを指摘したくなってしまうだろうし、そうやって物事に対する批判が行われるきっかけが生じてしまうわけだが、そんな批判にも多様性があり、それが他人事に過ぎないのに批判している現状があるとすれば、まさに批判している当人にとってそれは公的な問題なのだろうし、それとは無関係な他の人たちも関心を持つ必要があると思うから、そんな物事に首を突っ込んで批判するわけだが、さらにそれは無関係であるどころではなく、ただ関係があることに気づいていないから、それを他の多くの人にも気づかせる意味でも、批判する意義があると思われるのかもしれないが、たぶん世の中の多くの人たちがそういう物事に関心を持つことから、そこに公共の場が生じてくるわけだろうが、逆に多くの人たちがそうしたことに無関心を装うような成り行きもあるわけで、さらにわざと偏向した議論を公共の場で多くの人たちが関心を持つように仕向ける、ポピュリズム的な戦略もあるし、そうなると公共の場で多くの人たちが関心を持つように仕向けることが、何かを主張したり批判したり宣伝したり煽動する人たちにとっての主な活動となってくるわけだが、そういうことをやるのがメディアの活動でもあるわけで、それも様々な紆余曲折を経てメディアの社会への関わり方として、そんな形態が生じたに過ぎないことであり、それをメディアの側で正当化するようなことになると、そこで何か違和感が伴ってくるわけだが、別にそれに関してメディアの正しい在り方などありはしないだろうし、メディアの伝え方が悪いとか批判するのは、それが戦略的な煽動から功利的にそう批判するのだとしても、そういう批判を真に受けるのは愚かしく思われてしまい、そこでメディアの報道を真に受けるのも、そうしたメディアの報道姿勢を批判する論調を真に受けるのも、それらの報道や批判の中身から判断するしかないわけだが、別にそれを肯定的あるいは否定的に判断したからといって、そんな判断を正当化する必要もないのかもしれない。

 自らの立場の正しさや活動の正当性を主張することが愚かなことだと自覚できれば、そういうことに関しては少しは謙虚になれるかもしれないが、戦略的かつ功利的な判断からそんなことをわざと主張して強調したがる人も多いだろうし、自分にはその権利や資格や義務があると思えば、自然に傲慢な態度になっていくだろうし、その反対に世の中にそんな固定された立場などありはしないと思えば、それだけ自由な立場で物が言えるかもしれないが、立場など何でもないと思っておくのが無難なところなのだろうし、それに関して冗談でもおかしな先入観や固定観念を披露するようなことにでもなれば、何かそういうところにねじくれたこだわりや過去の経緯から生じたルサンチマン(恨み)でもあると邪推されるかもしれないが、そういう轍にはまり込んでいる人たちを無理に助けようとしても、かえってこちらが引っ張られて同じ轍に引きずり込まれてしまうかもしれないし、それも何でもないことだと思うしかなく、世の中には確かに制度的に定められて固定化された立場や役職があるわけだが、そこから生じる様々な権限や権益が何をもたらすかといえば、そういう立場や役職に伴って生じる権利や資格や義務などの正当化だろうし、そういう立場や役職に就いているから、それに伴って生じる権利や資格や義務などに基づいて、ある一定のことができるわけで、それが権限や権力の行使となるわけだが、それを前提として物事を考えていくと、そこからそうした階層的な社会秩序の中で、どう振る舞えば自分にとって利益となるかについて、功利的な戦略を練ることにも結びついてくるかもしれないが、すでにそうなっている時点で、そうした階層的な社会秩序を正当化せざるを得なくなっているわけで、そこに至るまでの過程でその中で十分に恩恵を受けているだろうし、そうした階層的な秩序を重んじるからこそ、そうした前提を階層秩序の中で活動している他の人たちとともに共有しながら、その中で活動している実態があるのだろうし、そうなっていること自体が良いわけでも悪いわけでもないのかもしれないし、それもそれとは無関係な人たちにしてみれば何でもないことなのだろうが、果たしてそれとは無関係な人たちが存在しているかというと、社会の中にはそんな余地などないと思っている人が大半を占めているとしても、そう思うことが愚かなことだと自覚できれば、それとは無関係になれるわけではないにしても、それに殊更こだわらなければ、そんな気にもなれる時もあるかもしれないし、それも結局は多くの人たちがそんな秩序があると自覚して、それを信じている限りで成り立つことでしかないし、そんな信用に基づいて成り立っている制度なのだから、たとえそれが法律で明確に規定されているとしても、それも多くの人たちがそんな法律に従う限りで、法律の有効性が生じているに過ぎないことであり、そうした前提があるとみなすことが肝心なのかもしれないが、前提がなければそもそも社会的な決まり事の何もかもが成り立たないわけで、だからこそそこで暮らす誰もがそんな前提の上に成り立っている社会の秩序を守るように仕向けられているわけだが、そういうことが何でもないとは思えないにしても、時と場合によっては、それを無視したり破ったりしながら、勝手なことをやり出す人や集団が出てくることは理解しておいた方がいいだろうし、そしてそういう人や集団を批判する時に、社会の法や秩序の側に立ってしまうと、そうしたものが人々の信用に基づいて成り立っていることを見落としてしまうわけで、そこではそういった前提をいったん取り払って、そうした法や秩序が信じられないから、それを無視したり破ることによって、社会の主導権を握ろうとする勢力が出てきていることを理解する必要があり、そうした勢力に対して多くの支持や共感が集まっているということは、要するに法や秩序が間違いだらけで欠陥だらけであることを、多くの人々が知っていることが明らかとなったということであり、たとえそれが論理的にちゃんと筋の通った理解から知っているわけではないとしても、感覚としてそう思い込んでいて、だから法や秩序やそれらによって支えられている社会的な階層構造が信じられなくなってしまったわけで、そうなるとたとえ社会の中で主導権を握った勢力が、法や秩序を無視して勝手なことをいくらやっても、それ自体が信用のおけないものなのだから、何とも思わないだろうし、そういう状態が放置され続けると、それに対して憲法違反だの何だのと騒ぎ立てている人たちが滑稽に見えてくるのではないか。だからこそ、その手の勢力はメディア上でわざと偏向した屁理屈を用いて見え透いた煽動を行うわけで、それを真に受ける人々の物事に対する正常な判断力を低下させてから、本格的に好き勝手に振る舞うことになるわけだが、そういうやり方がいつまでも通用するわけではないとしても、それなりの期間にわたってある程度は通用するわけだ。


11月11日「主張と批判と実行」

 メディア上で何かもっともらしいことを主張している輩は、そうした主張をすることについては優れていると思われるかもしれないが、それが政治的な主張となると、実際に主張した通りのことを行えるかというと、主張することと行うことは違うわけだから、それをそこで判断することはできないし、では実際に主張者がそれを行える立場になって、実際に主張通りのことをやる機会が訪れるかといえば、やはりそれもそこで判断することはできないし、主張とはどこまでもそういうことでしかないわけだが、それが未来に向かって達成すべき目標である限りは、その実現性を度外視するなら、もっともらしいことはいくらでも主張できるわけだが、それが現状では何も実行できていないのなら、少なくとも現状では実現していないことだとみなしておくのが無難なところなのではないか。そしてそれがもっともらしく説得力のある主張であるほど、そんな主張を受け取る側は好印象を抱くかもしれないが、それがいつまで経っても一向に実現されないようだと、主張はできるが実行はされないという既成事実のみが積み重なってゆき、そうなると空理空論というレッテルを貼られて、それ以降はそんなことを主張するほど、それが実行される可能性が低下していくのかもしれないし、そんなことを主張している人は、主張できる場さえあれば、いくらでも延々と同じことを繰り返し主張するだろうが、結局はそういうもっともらしいことを主張する主張者という立場で凝り固まってしまうわけだ。それに対して実際に行われていることは、批判者によっていくらでも批判されるような劣悪なことが行われていたりして、そうやっていくらでも批判されるが、実際に実行されていて、もちろん実行されているが失敗に終わっていると批判されている面もあるだろうが、そういった失敗に終わっている面も含めて実行されているわけで、またそれが掛け声だけで全く中身が伴っていないと批判されるにしても、そういった面も含めて実行されているわけで、さらにそれはもっともらしい主張などではなく、間違いだらけで説得力の全くないお粗末な主張とともに実行されているとしても、やはりそんなことをも含めて実行されていることには変わりなく、要するにそんな実行の実態があるわけで、そんなことがいくらでももっともらしい説得力のある批判にさらされていようと、そうしたことが実際に実行されているのだから、それは批判されながらも実行されているということでしかなく、結果的にそんなことが実行できる成り行きになっていて、実際にそんな状況に応じて、そういうことが実行されている現状があるわけだ。そしてそれを批判しようとすればいくらでも批判できるし、実際にいくらでも批判されているにも関わらず、やはりそんな批判とともに批判されるようなことが実行されている現状があるわけで、そこでもっともらしい批判をしている批判者も、批判することしかできない批判者という立場で凝り固まってしまっていると言えるのではないか。そうやって主張者も批判者も実行者もそれぞれの立場で凝り固まっている現状があれば、その分野ではそういった役割分担で安定していると言えるのかもしれないが、少なくともそれらの凝り固まり状態が崩れないことには、そんな状況が延々と続いていくことにしかならないのかもしれず、実際にそうなっている限りで、もっともらしい主張をする主張者も、もっともらしい批判をする批判者も、もっともらしい批判にさらされている実行者も、自分たちが分担している役割を全うしていることになるだろうし、そうした役割に自足していれば、それで構わないような状況の中で活動していることになるわけで、そうなっている限りで、それを超えることは起こらないのかもしれないが、それを超える事態とは何かといえば、それは革命が起こることかもしれないが、革命といってもピンからキリまで様々な程度があるだろうし、そこでそうした役割分担の体制を覆すような出来事がいくら起こったとしても、そうした役割を超えるような新しい何らかの役割が出てこない限りは、状況が落ち着けば、また従来の役割分担の中で立場が凝り固まってしまう可能性があるわけだが、その新たな役割というのは、従来からある役割が分担されて、それぞれの分野で分業するのではなく、それらの役割が融合して一つにならなければいけないのかもしれず、そうなった時に、同じ立場で主張していることを実行してそれを批判するようなことが行われるようになるのではないか。

 現状からはそうなる可能性もならない可能性も考えられるが、いくらまともな主張や批判ができる立場であっても、その立場がそのまま実行する立場へはつながらず、実行する立場の周りではそういった主張や批判を受け付けないような事情が生じていて、主張する側や批判する側ではそれを考慮できないから、それを考慮するとまともな主張や批判ができなくなってしまうからだが、結局はそこで対立が形成されて、双方がお互いを受け入れ難いような関係となってしまうわけだが、そんな関係がそのまま続いている限りは、それぞれの立場が一つに融合することはないわけだが、そもそもまともな主張や批判をできるということは、それができないような状況から遠ざかっているからできるわけで、そうした主張や批判をしている人々には、そうした状況を改めることができないわけで、改めるような立場にはなれないから、主張や批判しかできないような立場に甘んじているわけで、そのことに関しては主張者も批判者も何も言及できないだろうし、自らがどうして主張や批判しかできず、実行する立場になれないかについては、まともに言及することができないわけだから、その辺で主張者や批判者には限界があり、要するに力不足の状態なわけだが、それでも主張者や批判者の立場では一定の力を持っていて、それなりにその立場を維持できる程度の力は持っているわけだが、それが実行者となるには、それとは別の方面の力が必要となるのだろうし、そうした力を手に入れるには、自らの主張や批判を曲げて、そうした方面に頭を下げなければならないわけだが、それをやってしまうと、自らの主張や批判と、自らが実行できることの間で、矛盾が生じてしまい、結局は言っているとやっていることが違ってしまうから、そうした矛盾を引き受けるわけにはいかないから、主張や批判の首尾一貫性を保つには、主張者や批判者に甘んじているのが無難な選択であるだろうし、そんな立場から一歩も外へと踏み出せない状況となってしまうわけだが、そこから外へと踏み出せば、自らの主張とは違うことをやらなければならないだろうし、また自らが批判していることを自らやって、そのことで自らが批判される立場にならないと、実行者にはなれないわけだから、現状ではそれができないから、かろうじてまともなことが言える立場を維持していられるわけだが、それでも主張しているだけでも批判しているだけでも不満だから、執拗に同じ主張を繰り返して同じことを批判し続けながらも、自らが実行者になる未練を捨てきれずにいるところで、何かのきっかけで魔が差して、実行者の側から協力の申し出などがあると喜んで加わろうとして、結局は以前の主張からはかけ離れたお粗末なことをやる羽目に陥ったり、自らが批判してきたことと大して変わらない劣悪なことをやらざるを得なくなって、今度は批判される側に回ってしまうわけで、そうやって以前の主張や批判に支持や共感を示した人たちからは裏切り者呼ばわりされながらも、かつての敵からは歓待されて、それなりの地位や名誉を獲得して、そうした翼賛勢力の中でそれなりの立場を占めることにもなるわけだ。だから現状でひたすら同じようなこと主張したり批判しているだけの人たちは、たとえその主張や批判の中身がそれなりに説得力を伴っていて、筋が通った理屈に支えられた内容であっても、実際にはそういうところだけをつまみ食い的に選んで主張したり批判しているわけで、実際にそうした主張を実行に移そうとしたり、批判を考慮したことを行おうとすれば、説得力を伴わない事情や筋が通らず理屈に合わない要因が絡まってきて、それらが邪魔をして、うまく主張した通りや批判した通りには実行できなくなってくるわけで、そうなると結果的に、劣悪でお粗末な、いくらでも批判されるようなことしか実行できなくなって、そんな実行の惨状では失敗としかみなされないだろうし、そういうのは外から説得力のある筋の通った批判にさらされることになるわけだが、そうやってそれを批判する側にとっては格好の獲物となるかもしれないが、果たしてそんな批判を受け入れればちゃんとしたことができるかとなると、実際にやってみるとそうはならないだろうし、そうした状況の中では批判にさらされるようなことしかできないだろうし、逆に批判にさらされるようなことが実際にできるわけだから、それに対する一見筋の通った説得力のある批判というのは、要するに絵に描いた餅のようなものでしかないのかもしれないし、それを理解していないのが他ならぬ批判者であり、理解しているのが批判されながらも現実にそれをやっている実行者であるのかもしれず、そういう意味で、何かまともなことを主張しっぱなしの人や筋の通った批判をしっぱなしの人には、それを実際に行う実行力が欠如していて、そうした力の欠如と引き換えにして、まともな主張や批判ができるようになっているのではないか。


11月10日「改革の機会」

 物事を理解するには、それに関する知識が必要となり、それに関して集めた知識の総体が、その物事自体となることはないが、ただそれはその物事の他に、それに関して知り得た知識の総体という別の物事が生じることになったわけで、その物事自体と物事に関する知識と物事に対する理解は異なるわけだが、それがこちら側からのその物事への関わりの状態を表していて、その物事からそれなりの作用や影響を受けて、こちら側からも物事へとそれなりの作用や影響を及ぼしながら、その結果としてその物事に関する知識と取り扱いの仕方を身につけることになるわけで、またそうした相互的な作用や影響の及ぼし合いから得られる知識や取り扱いの仕方が、物事に関する情報として貴重な価値を持つとともに、今度はその情報を活用して、こちら側から物事に対して作用や影響を及ぼそうとするわけで、そうやって興味を持った物事と意識との間で行われる相互作用から、それとは別の物事が生じることにもなり、物事と別の物事が作用し合い影響し合って、さらに別の物事が生まれるわけだが、そんな物事の中には人や人の意識も含まれるだろうし、そんなことの延長上で、意識が別の意識と作用し合い影響し合うことで、時には両者の間に共感や共鳴が生じて、そこから協力や連携の関係も生まれるし、逆に反発や反感が生まれると、それが対立や抗争へと発展して、さらにそれらが混じり合って、結果的にややこしい事態をもたらすこともあるが、そうした成り行きの中で、それらの物事を取り巻く事態が変動して、それらが関わり合う以前の状態には後戻りできなくなって、またそれらに対する以前の認識を改めざるを得なくなってくるわけで、そうやって世の中では様々な物事が複雑に関係し合って事態が進展していくわけだが、そのような事態の進展に伴って、物事と物事との間に新たな関係が生じてきて、そうした関係に伴って人も物も情報も動いて、様々な方面で取り扱われ交換され流通していくわけだ。そんなふうに様々な物事が社会の中で関係し合っている中で、そんな社会を統治する上で行政的な手法としては、そこに法律や制度などの決まりごとを設けて、物事の関係やそこから生じる作用や影響などを一定の状態に保とうとするわけだが、人や物や情報が一定の関係に保たれる限りで一定の状態が保たれ、そうした様々な物事の定常状態の中で社会の秩序が安定するわけで、そうした状態が保たれている間は、表面上は取り立てて何事も起こらず、不具合などの問題も表面化してこないようにも思われるだろうし、実際はそうではないにしても、そうした見せかけの平和と安定の中で、何もかもがうまくいっているように装われるわけだが、そうやって社会を一定の状態に保とうとするほど、次第にその中身が凝固してきて、その中で様々な物事が固有の傾向に分離してくるわけで、またその中でもそれなりに人の地位や立場に流動性がないと、その地位や立場に伴う有利不利が固定化されて、不利な地位や立場を強いられている側では不満がくすぶってくるし、その反対に有利な地位や立場からは奢りや慢心が生まれるし、そうやって表面上は平和や安定を保っている中でも、水面下ではその状態が崩壊するきっかけや原因をもたらすような要素が次第に溜まってくるわけだが、その中でも現状に対する不満が、外へ向かっての攻撃的な衝動に結びついて、それが実際に攻撃を仕掛ける成り行きになると、攻撃する理由として、自分と攻撃対象との違いを見つけようとするわけで、相手が自分と違っていて、しかもそのことで相手が不当に有利になっていると思い込めば、それが許せないわけだが、また攻撃を正当化するには、相手が先に攻撃を仕掛けてきたことにしたいわけで、そうなれば自己防衛のために攻撃することになるから、攻撃している自らを正当化できるわけで、そういう理屈を唱えている時点で、自己中心的で自意識過剰な被害妄想に囚われていると言えるのかもしれないが、それもその場の成り行きの中で、その場の状況に応じて、そこに関係してくる様々な物事が互いに作用や影響を及ぼし合いながら結びついて、さらにそうした現象を理解するために必要な知識や取り扱いの仕方が取り集められて、またそこで知り得たことを理解するにも取り扱うにも何らかの理屈が必要となり、そうやって導き出されたもっともらしい理屈に基づいて何かが行われるわけで、その行われる主なものが攻撃的な行為となると、そうした行為が社会の安定を揺るがせて、そこに動乱がもたらされるとともに社会情勢が流動化してくるわけだが、それも攻撃の程度によって動乱の程度も違ってくるだろうが、そうやって生じた社会の流動的な情勢を利用して、それまでとは違ったやり方が試されたり、違った秩序を打ちたてようとする試みが行われるわけだ。

 そういった試みが成功した例しがあるかというと、ないとも言えないがあるとも言えないだろうし、結果的にうまくいくこともあるし、いかないこともあるだろうが、ある時点では成功とみなされても、それからさらに時が経過してみれば、そこで一時的に成功したばかりに、のちに致命的な欠陥となる様々な弊害を抱え込んでしまった例などが結構多いわけで、そうでなくてもそんなこととは無関係に、社会が大きな変動を伴うような時期もあれば、また長期的に安定する時期もあるわけで、そこで改革の類いが人為的に行われるにしても、そういう成り行きになるような事態に追い込まれてしまうから、結果的にそんなことが行われるわけで、それをその場の情勢の変化に応じて、社会変革などを行う機会が到来したように、後からもっともらしく説明できるだろうが、何らかの政治勢力が主導してそれを行う場合でも、それを行えるような情勢の変動が起こらないと無理だろうし、結果的にそうした機会を利用して何かを行う成り行きになってしまうわけだから、そんな機会がない時でも、世の中で絶えず社会変革を訴えている人なり集団なりが存在するだろうが、そうした人や集団がその機会を得られるかというと、そうでもないだろうし、意外とそういう人や集団は時宜をわきまえずにそうした主張を延々と行なっているので、実際にそうした機会がやってきた時には、すでにその人が亡くなっていたり、その勢力も衰えてしまっていたりするわけで、実際に機会を捉えて改革の主導権を握るのは、思いがけない人や勢力である場合が多いのではないか。そういう意味で社会の混乱に乗じて頭角を現すような人や集団には、最初から定まった理屈や教義などは持ち合わせてはおらず、頭角を現す過程や成り行きの中で、そこに至る紆余曲折とともに、そうなった結果に応じて、後づけ的に主導権を握ったことを正当化する理屈をこしらえ上げるわけで、そういった理屈が必ずしも社会の現状や実態を反映していなくても、未来に向けて達成すべき目標の類いとなることもあるだろうし、さらにひどい場合には単なるその場で主導権を握るための目くらましの方便でしかない場合まであるわけで、そういう場合は理屈や教義の類いが先行して存在するわけではなく、そんな集団がだんだん勢力を拡大していく過程で、他の多くの人たちを味方に引き入れるために、多くの人の賛同が得られるような内容を理屈や教義として定めて、またそうした理屈や教義に基づいた改革を行うことを、支持者や賛同者たちに約束するわけだが、その時点では単なる空約束でしかないだろうし、まずはそこで世の中の実権を握らなければならないわけだから、そのためには利用できるものは何でも利用しようとするわけで、そうやって手段を選ばないやり方でそこでの実権を握ることに成功してみれば、すでに以前から支持者や賛同者たちに約束したこととは違うことをやってきたことに気づくわけで、そこからどうごまかすか思案することになるわけだが、それに関して例えば全体主義的な支配体制がやってきたことは、絶えず世の中が安定しないようにするわけで、要するに政権の内部や外部に敵がいることを煽って、事ある度ごとに内部の敵に仕立て上げられた人々を粛清したり、外部の敵に関しては、例えば世界征服を企む陰謀組織が存在していて、その敵と戦うために国内を常時戦時体制にして、それに伴って警察による治安統制を強化し、それとともに思想言論統制なども行なって、政権への反乱を企てた人や集団などを定期的に仕立て上げて、それを実際に摘発して、処刑したり収容所に閉じ込めたりするわけだが、そうやって人々がお互いにお互いを敵国のスパイだとか国内の反乱者だとか思い込むように仕向けて、そのことでいつ隣人に密告されて警察に摘発されるかわからない状態を作って、お互いに疑心暗鬼にさせておけば、国内の安定を望むどころではなくなって、それよりも人々が現状の中でいかに生き残るかに精一杯な状況を作り出せれば、そんなことが続く限りで体制を維持できるわけだが、それほど極端な例でないにしても、何か政権の内部や外部に敵対勢力がいて、それに対して攻撃を仕掛けたり、それへの防衛を声高に叫んだりするような成り行きなると、そこには別の方面へと煽動して、実際にやっていることをごまかすような思惑が働いている可能性が高く、そんなことを繰り返している限りで、実際の改革はとうに失敗に終わっていて、それを隠すために盛んに煽動を仕掛けている場合があるわけだが、たぶんそれが何のための改革であるとしても、実際に起こることは、それとは無関係なことが大半なのかもしれず、またそうだとしても、そんな無関係な出来事をきっかけとして、世の中の変動が現に起こっている可能性もあるわけで、変動と改革とは似ても似つかないものであるにしても、人や集団はそうした変動を利用して、何かこれまでにないことを行う機会を得るわけで、そういう意味でも現に今やっていることの中から、そういう機会を探る成り行きになってしまうのではないか。


11月9日「政治への無関心」

 個人が公的な政治に無関心でいることが、取り立ててその個人が住んでいる国に害を及ぼさないとすれば、その個人が国にとっては取るに足りない存在であるのかもしれないが、逆に政治に関心があるということは、政治の力で何かを行なってほしいと思うから、関心を持つわけで、それが公的な面だとすると、公共の利益になるようなことをやってほしいと思うわけだろうが、そこで私的な利益を求めることは利益誘導となってしまうし、それ自体が不純な動機とみなされてしまうかもしれないが、では何が公的な利益となるかというと、すぐには思いつかないし、そういうところで政治に無関心になるのは当然に思われてしまうわけだが、それよりはとりあえず制度だから、選挙の時に投票すれば、一応は政治に関心があることになるのかもしれないが、その関心の度合いというのも、人によってまちまちだろうし、特に関心がなくても、投票ぐらいはするかもしれないし、関心があるからといって、それが政治にどのような影響を及ぼすことにもならないのかもしれない。ただ漠然とそうは言えるかもしれないが、政治的な問題に関しては、メディア上で様々なことが言われていて、そうした話題に関してなら、ある程度は考えるかもしれないし、それについて何らかの理屈を用いて、おかしなところは指摘できるのではないか。そしてそのおかしなところというのが、何やらその人の都合のいいようなねじ曲がった論理を用いて、特定の政策やそれを推進しようとする政治勢力を批判する人々の存在かもしれないし、またそれに関して我田引水的に批判しやすいところをことさらに強調して、それで何か批判しているように装う人々の存在かもしれないが、そういったおかしさは、批判する人々に特有の問題であり、公的な政治全般の中では枝葉末節な部分でしかないかもしれないが、そういう現象が何か現状の政治につきまとう込み入った事情を反映しているのかもしれず、それが素直に政治に関して考えることができない状況をもたらしているのかもしれず、そこに過去の経緯から生じた大きなわだかまりがあって、そのわだかまりに対する処理の仕方が、現状ではうまくいっていないから、そうしたわだかまりが感情を刺激する度に、何やら妙にねじくれた感情が世の中に蔓延していくのではないか。そうやって誰もが素直になれないから、その隙をついて大衆迎合的なポピュリズムの躍進を許しているのかもしれないが、そんなポピュリズム的な政治姿勢を正当化する人々も、公的な場での公平な立場に関しては無関心であり、しかもその無関心を利用して、政治に対して私的な利益を追求させるような作用を及ぼしてくるわけで、それらの人々はそうやって公的な政治の領域を破壊しようとしているわけだが、その破壊するとともに打ち立てようとしているのが、それらの人々に特有の私的な政治の領域なのかもしれないが、そこで公私の区別がつかないのも、政治的な無知をさらけ出しているわけだが、やはり何が公的で何が私的なのかがわからないと、自然とそうなってしまうだろうし、実際にわかりにくいから、そうなるのも無理はないのだろうが、ではわかっている人がいるのかと言われると、もしかしたら誰もわかっていないのかもしれず、だからわかりやすい私的な利害を政治の領域に持ち込んで、わかりやすい政治を行うようにしたいわけだろうが、たぶんそれではまずいわけで、その何がまずいのかが、よくわからないところもまずいわけだが、やはり誰もがよくわかっていない公的な政治の領域を確保しないと、どうしても政治全般がおかしくなってしまうわけだが、別にそれがおかしいとは思わなければ、特にそんなことには関心を持たないだろうし、実際にはおかしくはないのかもしれないし、そのあるのかないのかわからないような公的な政治領域というのが、本当に必要なのかもわからなければ、そんなことに関心を持つこと自体がおかしいのかもしれないし、そういう意味で、果たして公的な政治の領域が必要なのか、必要だとすれば誰にとって必要なのかを明らかにしない限りは、そんなことには無関心であっても構わないような状況になっても、取り立てておかしいわけではないのかもしれないし、各人や各団体の私的な問題を政治の領域に持ち込む限りで、そうすることによって社会の様々な領域で利害がぶつかるところで、政治による調整や交渉が持たれるようになって、政治の必要性が改めて認識されるような事態となるのではないか。

 またそうであるなら、そうした問題とは無関係な人々がそれに関しては無関心になるのは当然のことだが、たぶん公的な領域はそれと地続きであったり、その延長上にあるような場所を含んでいて、そうしたところに関係してくる人や団体の問題に対して、それとは利害の面で無関係な人々が口を挟むことによって、それが公的な領域と化すわけで、自分たちの利害とは無関係な問題であるからこそ、公平な立場で物を言う成り行きになって、関係者の間での利害が衝突している問題に対して、それとは利害の無関係な人たちが公平な立場から調整を行えば、利害が衝突している双方が納得しないまでも、そこで調整がうまくいけば、一応の妥協を図れるわけで、そうしたことを行うのが政治的な行為だと言えるわけだが、現状では政治家や政党が利害関係者の一方の側に立っていて、もう一方の利害関係者の側の味方となっている政治家や政党と対立して、議会の場で双方の利害が衝突するような成り行きとなっていて、そうなるとそれとは無関係な公平な立場というのがあり得ないわけだが、もともとそんな立場などあり得ないのかもしれず、どちらか一方の立場しかなければ、そこで延々と対立と衝突が繰り返されるしかないわけだが、そういう意味で従来からある政党政治という自然発生的に生じた形態が間違っているとも言えるわけで、要するに現状のままの政治形態そのものを変革しない限りは、現状の行き詰まりを解消できないわけだ。もちろんそれが行き詰まりだとは思っていないから、現状のままの政党政治の形態を頑なに守ろうとしている勢力が大勢を占めているわけで、お互いに共通する利害を求めて徒党を組んで政党を結成して、議会の場で衝突を繰り返しているのが現状の政治だろうし、話し合いをする前から相手を否定し批判して、攻撃することばかりが行われているわけだが、それではうまくいかないことがわかりきっているのかもしれないが、そこで何とか妥協が図られるような成り行きに持っていかないと、数に物を言わせた多数派の意見や主張が通るだけとなってしまうわけだが、実質的には議会で議論を戦わせる以前に、多数派の中で調整や妥協が成り立っていると言えるわけで、議会ではただそれを公的に認めさせるための通過儀礼のような成り行きになっていて、すでにそうなっている限りで、議会そのものが形骸化しているとみなせるのだろうが、さらに多数派を構成する政党や会派の中でも、主導権を握っている多数派が非主流派の少数派を抑圧することによって、調整が行われて、そこでも議論を省いて通過儀礼化する傾向にもなっているだろうし、そうやって公平な立場から判断を下すような公的な領域が、どんどん狭められていってしまうことにもなるわけだが、それに対して、民衆が支持する政治勢力が選挙で勝利して、議会の多数派となるのだから、そうなっている時点で民主的な政治が実現している、と大雑把に捉えることもできるわけだが、選挙で当選する議員は多数派の議員だけではなく、少数派に属する議員もいるわけで、それらの議員も一応は民衆から支持されて選挙で当選したわけで、制度として議会があるわけだから、そこで少数派の意見を聞きながら議論して、少数派の意見も尊重するような調整や妥協が図られる成り行きになればいいわけだが、結局は多数決をとって議決するしかなく、多数決をとって決めるなら、議会で議論する以前に多数派だけで調整して、議会の少数派の意見を無視する形で決めてしまうような成り行きにもなってしまうわけで、実際にそうなってしまう事情があるわけだろうし、そうした事情をなんとかしないと、議会が通過儀礼の場となるしかないわけだが、そうやって議会での議論が噛み合わずに一方的な意見を主張し合って平行線を辿るだけとなってしまえば、選挙で議員を選んだ民衆の側からすれば、そんな内容のない空疎で形骸化した議論には関心を持てないだろうし、要するに政党政治の議会を軽視した事前の談合体質が、人々の政治への無関心を促進させていると捉えておくのが無難なところかもしれないのだが、だからと言って現状の政党政治をやめさせることはできないし、それは様々な歴史的な紆余曲折を経た挙句にそうなってしまったものであり、すぐにそれを改められるようなものではないだろうが、それが嫌ならそれとは違う政治のあり方を模索していくしかないわけで、そうした模索が民衆の支持を得られるなら、また現状とは違う政治のあり方が実現するかもしれないが、現状ではまだそこまで至っていないだろうし、そうなるかどうかもよくわからない現状なのかもしれないが、現状の制度が制度としてある限りは、そうした制度が歳月の経過とともに形骸化してしまうのは、よくありがちなことでもあるだろうし、それを一朝一夕に変更できないことも確かなのだが、実際に選挙で当選した議員たちが自分たちで改革していく以外には、やりようのないことなのではないか。


11月8日「ボランティア精神」

 集団で行われる活動には、そこで集団で固まって行うように何らかの拘束力が働いているわけだが、それは団結力とも言えるが、団結して活動するにはそれなりの利点があるだろうし、また集団で行わないとできないことも、効果を上げないこともあり、そういう活動ではそうするのが当たり前なことなのだろうが、社会そのものが人の集団で構成されているわけだから、それは当然のことだとしても、その一方で個人が一人でやっていることも、あるいは数人が連携して協力しながらやっていることもあるわけで、そんな中で一人でもやれることを、わざわざ集団で束になってやっている場合には、それが奇異に見えることもあるだろうし、それを集団で行うことによって、そうした集団自体が何かをアピールするようなことにもなって、それがデモ活動などの特徴でもあるわけだが、またそれが宗教の布教活動などのように、個人が自主的にやっているように見せかけると同時に、その背後で宗教教団や政治団体などが裏で糸を引いているような場合もあり、そういった行為が結果的に宣伝や煽動のためのパフォーマンスになってしまうと、そんなことをやっている人の動作が、見え透いた演技のようにも思われてしまうわけだが、少なくとも集団が個人に向かって、その集団の活動に参加するように呼びかけている場合には、それは勧誘活動であるだろうし、しかもそういった勧誘活動が勧誘活動自体に参加するような仕組みになっていると、ねずみ講のような事態ともなるわけだが、その自分たちのやっていることに他の人たちも参加してほしいと呼びかけて、しかもその呼びかけに参加するように勧誘する事態となってくると、宣伝行為に参加するように宣伝しているようなことになってしまうわけで、そうなると参加する人が宣伝に利用されているだけとなって、その人にとっては肝心の宣伝の内容が問われないことにもなってしまうわけだ。もちろんそうした活動に加わる人は宣伝内容にも納得して加わるのだろうが、宣伝内容自体が宣伝活動に加わるように勧める内容だとしたら、宣伝するための宣伝のような事態にもなってきて、厳密にはそんな宣伝はあり得ないが、効果としては実態がそうなっている場合があるわけで、それが最もはっきりしているのがねずみ講の類いだろうが、何もそういう人を誘い込むための罠が、人為的に仕掛けられているのではなく、自然にそうなってしまっている場合もあるわけで、それがよくありがちな傾向として、善意の押し売りのような様相を呈してしまうわけだが、ボランティアなどの勧誘もある意味ではそういう傾向があるだろうし、実際にやっている作業自体は大したことでもないのに、参加することの意義ばかりが過剰に宣伝されて、とりあえずそこに参加すること自体が免罪符のようなことになってしまうと、実質的にそれは宣伝のための宣伝の効果が出ていると言えるわけで、またそれが良い行いで、そんな良いことをやっているのを、メディアが好意的に取り上げてほしいような意図や思惑も自然に発生してくるだろうし、またそんな宣伝を積極的に取り上げてくれるメディアも、良心的なメディアであるように思われたがっているように受け取られると、そんな良い印象ばかりが独り歩きしながら、雪だるま式に良い印象を増殖していくような効果が働いてきて、ともかくそんなことをやっている自らを自己宣伝していることになってしまうわけで、その内容自体が、例えば道路や公園のゴミ拾いのような大したことでもないのに、そんな誰からも非難される危険性のないことをやっている自らを宣伝したくなるわけで、たとえ他で人を騙すようなあこぎな商売をやっていようと、そこでは無償のボランティアのようなことをやってみせて、そしてそんな面だけを過剰にアピールしたいような成り行きとなってしまうから、何かそれが偽善的な行為であるかのように思われてしまうわけだが、たぶんそういううがった見方をしてしまう意識自体も、その人がそんな善行ばかりやっているわけではないと思い込みたいわけで、何かそこに裏があるように勘ぐってしまうのも、そうした過剰宣伝のような成り行きに対しての防御的な反応としてはありふれていて、それが宣伝のための宣伝に対する防御のための防御のような効果を発揮して、そうやって人と人の間で相互不信と疑心暗鬼に拍車がかかって、ますます純粋な良識や良心の発露から出た行為に対する疑念を増幅させる成り行きとなり、結果的に人の心の荒廃にも拍車がかかるわけだが、そうなるのを防ぐには、なるべく人の見ていないところで気づかれないように、善行をこっそり行うことが、世の中の荒廃を防ぐ歯止めとなるのかもしれず、しかもそういうことをやっているのを見つけても、あからさまにそれを賞賛したり騒ぎ立てないことが肝要となるのかもしれない。

 ともかくメディア上で善行や悪行などの過剰な宣伝やアピールの応酬が続いている中では、誰もがそんなことには無関心ではいられないわけだが、そこで良識や良心を発揮するには、自らが宣伝する側にもされる側にも回らないことが肝要となってくるのかもしれないが、実際にそんなことができるかというと、たぶん現状でも誰もがほとんどそうなっているのかもしれず、そういう広告宣伝に関係していない人なら、誰でもそうなっている可能性があるわけだが、逆に過剰宣伝などをやっている人たちは、ほんの一握りの少数の人たちであって、そういう人たちの宣伝でメディア上が埋め尽くされていると捉えておくのが無難なところで、それを他の大多数の人たちが見て真に受けているに過ぎず、それが常態化しているわけだが、そんな状況の中で、宣伝している側が宣伝を受け取る大多数の人たちに向かって、絶えず宣伝する側に回るように誘惑しているとも言えるわけで、それと同時に、宣伝する側に回ると大金が得られるような幻想も振りまいているとも言えるわけだが、実際にそんな誘惑の罠にはまって、宣伝競争に巻き込まれた人たちの中から、ごく一部の少数の人たちが競争に勝ち残って、実際にそれなりの額の大金が手に入るシステムも整備されていて、そこからも誰もが無関心ではいられない状況がもたらされているわけだが、それでもそんな状況の中で巧妙に立ち回って、それなりの利益を得られる人も限られてわけで、それに対して無理にそうした状況から背を向けるのではなく、かといって積極的にそんな状況にのめり込む必要も感じられなければ、ほどほどの感覚でそうした宣伝広告合戦に接していればいいのかもしれないし、それも絶対に真に受けないという姿勢ではなく、それを素直に受け止めて、真に受ければいいだろうし、そういう成り行きの中でそれなりに関心を持って、暇があればそこから大金を得られるような幻想を抱いて、そうしたシステムに参加してみても構わないだろうし、場合によってはそこへのめり込んでも構わないのではないか。そしてそうなったとしても、実際にそれに成功するのは限られた少数の人たちだから、ほとんどの人たちは大金を得られないままとなってしまうだろうが、それでも構わないだろうし、そんなことでしかないのをその身でもって実感すればいいわけだ。そうやってそういう幻想に対する免疫を作っていくしかないだろうし、逆にそこから大金を得られたごく少数の人たちは、病が重篤化していると言えるわけだが、そうはならなかった大半の人たちは、特にそうならなくても普通に生きていることを実感できるだろうし、それらの人たちは、そうした幻想がその程度のことに過ぎなかったことを素直に受け止めるべきで、実際に大金を得られなかったのだから、そう受け止めるしかないわけだが、別にそれがどうということではないだろうし、そういうことに関して優れているとか劣っているとかを比較してみても、大多数の人たちが劣っていることになってしまうわけだから、特にそれによって自らを卑下することもないだろうし、それ以外でも世の中ではそれなりの競争があって、それに勝ち残るのがごく少数の人たちである分野など、他にもいくらでもあるだろうし、そうした分野でも同じような状況となっているわけだから、たとえメディア上でそうしたごく一部の少数の成功者たちを過剰に賞賛するような成り行きが生じているとしても、それはそういうことだと素直に捉えておくしかないわけで、何も自らがそうでなくても、それを深刻に受け止める必要はないだろうし、またそういうことに影響を受けて、道路や公園のゴミ拾いのような大したことはない行為を過剰にアピールするのも、それとこれとは全く違う行為なのだから、何かおかしいと思うのが普通の感覚だろうし、そういう面を考慮するなら、そうした無償の何でもないような行為自体は、普通にやっている限りで、別にどうということはないわけだが、そういう行為をまるで尊い善行であるかのように煽るのがおかしいわけで、何かのイベントにかこつけて大勢の人たちが路上で乱痴気騒ぎをするのは、それなりの必然性があるとしても、その騒ぎが収束した後に、そこで散らかったゴミを拾うような行為が、それとの対比でメディア上で賞賛されるとしても、別にそれが大した行為ではないことは踏まえておかないと、今度はその手のゴミ拾いばかりが過剰に取り上げられて、それも一つのイベントとなってしまい、そういう行為に参加していることを過剰にアピールするような風潮も生まれてくるわけで、そこで考えておかなければならないのは、別にそんなことをこれ見よがしにアピールすることは、どうということはないことであり、むしろそんなことを強調するのは愚かな行為だと捉えておいた方が無難なのではないか。


11月7日「世間の常識」

 人の先入観や固定観念などは、それが先入観や固定観念だとわかれば、そこからもたらされた認識は疑わしく思われるが、それに気づかなければ別に疑わしくは思われないだろうが、そんな認識を打ち砕くような出来事に遭遇すれば、それまでの認識を改めざるを得なくなるわけで、そうなって初めて、それまでに抱いていた認識が、先入観や固定観念に基づいていたことがわかるわけだが、そんな認識を固く信じてそれに凝り固まっている人たちは、気づくためのハードルがそれだけ高いだろうし、よほどのことがない限りは、なかなかそれが先入観や固定観念に基づいた認識だとは気づかず、またそう都合よく認識を改めさせられるようなインパクトのある出来事に遭遇できるわけもないだろうし、別にそうなるまではそれを信じて疑わなくても不都合がなければ、それでも構わないのだから、特に先入観や固定観念に囚われているとは思わないのが普通の感覚なのではないか。そしてそういう感覚に囚われた人たちが抱いているのが、いわゆる世間の常識と言われるものだろうし、そんな常識に囚われている限りで、世間的な一体感を他の人たちと共有している気でいられるだろうし、またそう感じられるレベルでは特に不都合はないだろうし、それどころか何かと他の人たちと気が合うことが意気投合する上でも好都合だろうが、その一方でそういう感覚からずれた物事には違和感を覚えるだろうし、そういう違和感を覚えるような物事に遭遇すると、それが現にこの世界の中に存在していることが、時には自らの感覚や認識の狭さや浅はかさを実感させるかもしれないが、それは自身がそうした物事に対して謙虚な姿勢で接した場合であって、逆に世間の常識をわきまえた自分たちの方がまともだと思えば、そんな常識から外れた物が存在していたり、事が行われていること自体が、時には許せなかったり不快感を覚えたりするわけで、そういう姿勢でそうした物事に関わると、それと対立したり、時にはそれに攻撃を加えたりするようになるわけで、そうなると結果的にそうした物事を排除することによって、世間が成り立つような成り行きになるわけだが、常識に囚われた人たちはそれを否定的には捉えないだろうし、逆に世間的な感覚からずれた人や物事を攻撃したり排除することが、世間の常識に照らしても当然のことのようにも思われてしまうわけで、実際にそう思っていることと、そう思った結果として行われることとの間で、否定的な結びつきを意識できないわけだが、それをあからさまに差別だとか弾圧だとみなしてしまうと、やはりそうみなすことについても違和感を覚えるわけだ。そこで世間の常識に合わないような物事を排除するのが当然のように思われるのに、それを否定的なニュアンスで差別だとか弾圧だとか言われると、それ自体が世間の常識に反しているように思われるだろうし、逆にそうだとすると、では世間の常識は何のためにあるのかとなるわけだが、やはりそれは世の中の傾向を世間の大勢に合わせるためにそういう常識がまかり通っているわけだから、それを弾圧するのは行き過ぎだとしても、最低でもそこから外れる人や物事は差別したり区別するのが当然に思われるわけだ。それが罪悪感ややましさを伴わない差別意識となるわけだが、そう思ったりそうすることが当然視されるような状況というのが、なぜ生じるのかというと、そこに矛盾なくつじつまが合うような理屈が形成されている可能性があり、それを守るために一般常識が形成されていて、そうした常識に従っている限りで、その理屈に合う物事を肯定できて、そうした理屈に合わない物事を排除することによって、そうすることによって一般常識の確かさがそれに従う人たちによって共有されることにもなるわけで、その理屈というのが、こういうところではこうすべきという決まりのようなものであり、そうした方がその場では理にかなっているように思われるから、それが理屈のように思われるわけだが、そこでこうすべきと思われるようなところでも、他のことをやっても他のものを用いてもできないわけでもないのに、そうすることが理にかなっているように思われるのは、実際に他の人たちもそうしているから、それに従っておいた方が無難に思われる程度のことである場合が多いのかもしれず、そういう意味で世間の常識の確かさがその程度でしかないにも関わらず、それを同調圧力のようにして強要する成り行きがあれば、それが慣習のような働きを伴っているとしか言えないのかもしれないが、少なくとも他の大勢の人たちがそれに従っていれば、そうするのが当然のことのように思われてくるわけだ。

 そういう状況の中でそれ以外の他の物事が通用するような成り行きがもたらされると、そこで常識が覆されて、新たなやり方が発見されたようなことになるわけだが、それが他の大勢の人たちの反発や反感を伴わないような成り行きでそうなれば、何の問題もないわけだが、その辺が微妙なところであり、スムーズにそういう新たなやり方が社会に導入されて定着することもあるだろうし、その反対に明らかな摩擦や軋轢や抵抗を伴いながらも、それでもなお定着するようなこともあるし、また定着できずに廃れる成り行きもあるだろうし、さらにそうした成り行きと並行して、それまで常識的なやり方として定着していたやり方が何らかの理由で廃れることもあるだろうし、そうやって常識もそれなりに変動や変更を被るわけだが、そうやって常識が変わってもそんな常識に従っている人たちの態度は変わらず、ただその場で主流となっている常識に従うまでで、それが理屈とは言えない面もあるが、常識に従うことが理にかなっていると思われる限りで、それがそこでの理屈となるわけだから、合理性自体がその程度のことであれば、非合理な面も不合理な面も合理性に含まれてしまうような不条理なことにもなりかねないが、たぶん物事のあらゆる面から見れば、ある面から見れば合理的に思われることも、別の面から見れば非合理に思われたり不合理に思われたりする場合もあるだろうし、そうした決して一概にそれを肯定できるようなやり方として決定できないような状況の中でも、とりあえず他の大勢の人たちがやっていることに従っていれば、少なくともその大勢の人たちと同じ状態を保っていられるような気になれるだろうし、それがそこでの理屈とみなせば、それもそれなりに合理的な理屈とみなされるわけだが、そんなことばかりを追求しても、その大勢の人たちから抜け出て、自分だけがより多くの利益にありつくことはできないから、最低限の常識としてそれを踏まえておく一方で、それに加えて自らの独自性を打ち出そうとする人もいるだろうが、それでも常識に従うことに関しては同じなのだから、それが常識を覆したり壊すようなことにはならないわけだが、世の中で主導権を握りたいのであれば、自分たちに都合のいいような新たな常識を世の中に定着させることに成功すれば、そうした面で自分たちに有利な状況となるわけで、そうした人為的な思惑の面では、メディアなどを通じて新たな常識となるような物事を世の中に広めようとする活動が行われているわけで、その主な担い手が商業的な面では企業であり、また公的な面では政府や政党や宗教団体なども、そうした活動に加担しているだろうし、それぞれの得意とする分野で、世の中の人々をその常識となる物事に依存させるようなことを行なっているわけだが、さらにそうやって人為的に常識を作ろうとする行為の他にも、自然に常識化するような物事も多いだろうし、世の中で通用する慣習的な行為が多くの人々に共有されることで、そうすることが常識化するわけだが、そうした行為や活動の常識化の際には、そこから逸脱する行為を規制するような作用も働くだろうし、他の人たちと同じように振る舞わないとうまくその場に溶け込めないから、そうするより他なくなるようなことも起こるわけだが、それに関しては、その場の状況に応じた行為や振る舞いがそうなることが多く、そうすることが自然に感じられるからそうなるのだろうし、そこで不自然な行為や振る舞いは自主的に自粛されるようなことも起こるし、それを強要するというよりは、他に迷惑をかけないように振る舞おうとすれば、自然にそうした振る舞いに落ち着くような成り行きももたらされるわけで、そういう成り行きで常識的な行為や振る舞いがもたらされるなら、誰もが抵抗なくそうした行為や振る舞いを受け入れるだろうし、たとえそこから外れる非常識な行為や振る舞いが自粛されるとしても、それに対して反発するような成り行きにはならないだろうし、そういう面で世間の常識の全てに抗ったり逆らったりするような人はまずいないだろうが、それなりに良識が通用する範囲で、常識的な行いや振る舞いが自然に共有される成り行きもあり、そうなればそれに反する行為や振る舞いに対して、特に差別や弾圧などが起こらない場合もあるわけだ。そういう意味で何らかの常識が世の中で共有されている状況の中でも、その内容が人為的な宣伝や煽動や強制や差別や弾圧が伴っている場合と、そうではなく自然な慣習として大した抵抗もなく溶け込んでいる場合とで、明らかな違いがあるのではないか。


11月6日「革命の危機」

 社会の中で行われる活動には、その活動内容に応じて様々な人や集団が関わってくるが、そこで権力や権限の有無から生じる身分や立場の上下関係よりは、対等の立場で並行的な連携や協力関係を結んだ方が、権力が分散する傾向になり、そうやって特定の人や集団に権限が集中しなくなれば、何をやるにもそれに関係する人や集団の間で協議や交渉が必要となり、それだけ迅速で効率的な活動ができなくなってしまうわけだが、実際にはそればかりとなることはないだろうし、やっている内容によって、指揮命令系統を伴った独断専行型でやる方がうまく行くこともあるし、また周りと協調しながら関係者の間で合意を形成しながら事を進める方がうまく行くこともあるだろうし、どちらがいいかは一概には言えないわけだが、やるに際して制度的な手順を踏まないとできない場合は、それが良いか悪いは別にして、あらかじめ決められた手順通りに手続きを踏んでやらないとやれない場合があるだろうし、そういうところで迅速かつ効率的なやり方を重視して、手順や手続きを省略して、独断専行でやって、それが仮にうまくいったとしても、手順や手続きに関係してくる人や集団の反発を招いて、そのことが原因で自身の立場や身分が危うくなってしまうこともあるだろうし、その一方で、ちゃんと手順を踏んで手続き通りに事を進めて、その結果うまくいかなかったとしても、そうしたことに関係してくる周囲の人や集団からは納得してもらえる場合もあるだろうし、やはりそういう面でどちらが良いか悪いかは一概には言えないわけだ。いずれにしてもそこで何をどうやるかは、その場の状況や成り行きから判断するしかないわけだが、結果的にうまくいけば、たまたまうまくいったと思うしかない場合もあるし、仮にうまくいかなかったとしても、どこで間違ったのかが、はっきりとはわからない場合もあるわけで、大抵の場合は、やった後からそれなりに検討すれば、うまくいかなかった原因や理由が出てきてしまうわけだが、その出てきた原因や理由も、結果から出てくる限りで、もう一度同じ条件で同じことが出てくるとは限らず、また同じことをやれば、今度は別の原因や理由からうまくいかないこともあり得るわけで、その都度うまくいかない原因や理由が異なるようなら、そうした原因や理由そのものが疑わしくなってくるわけで、そういうことも含めて、やっていることがうまくいったりいかなかったりするのは、そのことの良し悪しを判断してもしなくても、そうした判断の正しさが何に起因してくるかで、その判断に対する信用度も変わってくるし、さらにたとえうまくいかない可能性が高くてもやらざるを得ないこともあるだろうし、またうまくいく可能性が高くてもやらない方がいいこともあり、それをやるかやらないかの判断を一概には決められないようなこともあるのかもしれないが、そうであってもやらざるを得ないような成り行きの中では、やらざるを得なくなってしまうわけで、やるかやらないかの判断以前にやらざるを得なくなってしまえば、それをやらないわけにはいかなくなってしまうわけだ。それが制度的な成り行きであり、そんなやらざるを得ないことをやっている人たちを外部からいくら批判しても、やっていることをやめさせることはできないだろうし、しかも制度上の手続きを踏んで手順通りに行なっていれば、それは正しい行為となってしまうわけだから、正しいことをやっているのに批判される筋合いはないことにもなってしまうわけで、それを批判する方がおかしいことになってしまうわけだ。だから法律に則った行為をやるような制度を定めて、人々がその法律を守って制度に従っていれば、その枠内では何をやっても構わないようなことになってしまうわけだが、その上にさらに社会の慣習や道徳や倫理や合理性などの枠を重ねて、それらすべての枠内でやるように、人や集団の活動を規制していくと、何やら正しい活動のあり方が示されるだろうが、実際にはその場の状況に応じて、そこから逸脱するようなことをやっている場合もあるわけで、その良し悪しをそうした枠から一概に決められるわけでもなく、決めたところでそれを破ることができる限りで、あるいは破らざるを得ないような成り行きになってしまう限りで、実際に破ってしまうわけで、そこで定められている様々な規制や規約などを破って行われることが、どこまでが許されてどこからが許されないかも、そんなことを判断する機会がある度に、その都度決められるような成り行きになるのかもしれず、もちろん誰が決めても決めなくても、そんな決まりなど無視してやってしまうこともあるわけで、そういう状況はどこまでも流動性を伴って変化していく可能性があるわけだ。

 それでも大雑把に言えば、その場で生じる様々な事情や条件などから、その場でやれることが限られてくるわけだが、そうした事情や条件なども情勢の変化から変わっていくだろうし、そしてその情勢を変化させる要因としては、そこに存在している人や集団の活動そのものでもあるわけで、それらの活動自体がその場の情勢を変える可能性があるわけだから、その辺で様々な物事が循環しながら複雑に入り組んで特有の事情を形成していて、それらが互いに作用や影響を及ぼし合っているわけだが、そんな面倒で煩わしい様々な関係をいちいち考慮していくときりがないので、とりあえずは自らが抱いている法律や慣習や道徳や倫理や合理性などを考慮して形作られる価値観に照らし合わせて、とりあえずの基準としてやっていいこととやってはいけないことを区別するわけだが、実際に活動していくと、そんな区別から外れるようなやらざるを得なくなって、結局思い悩むわけだが、そのやらざるを得ないことが、その場の状況からもたらされるわけで、そういうことをやらせるように仕向けてくる成り行きがそこで生まれていて、それに逆らえないから思い悩むわけだが、それができればやりたくはないことだが、やらざるを得ないことであり、それをやればそれなりにうまくいく行為でもあり、しかもうまくいったところで、率直に喜べない行為でもあると、それをやることが自分にとって得なのか損なのかもよくわからなくなってくるだろうし、そうしたことをやらせるような制度が世の中で成り立っていると、そうした制度があるおかげで、何かと気苦労が絶えなくなってくるのだろうが、そうした制度を単純に批判して、それをすぐになくすように主張しても、諸般の事情から簡単にはなくせないだけに、そこからそうした制度を改めるための活動が開始されることにもなるわけだが、活動はそれだけではないだろうし、そこで曲がりなりにも制度が機能していれば、そうした制度を支えるような活動もあるし、推進するような活動もあるわけで、制度を改めようとする活動よりも、それを支えたり推進する活動が勝っているから、そこで制度が機能していて、そんな制度によって、やりたくないようなことをやるように仕向ける作用が生じているわけで、しかもそうした制度から利益を得ている人や集団が少なからず存在していれば、そんな人や集団が多いほど、それを改めるに伴って作用や影響を被る人や集団もそれだけ多くなるわけだから、そんな事情が制度を改めるにあたっての無視できない大きな障害となってくるだろうし、そういう面を考慮すると、社会の中で制度として定着している活動を改めるのが、いかに困難なのかがわかってくるわけだが、それでもやらざるを得ない事情が生じているとすれば、やはりそれはうまくいかない可能性の高い活動と言わざるを得ず、しかもそれをやらざるを得ないとすれば、それに関して事の良し悪し判断するなら、うまくいかない可能性が高いのにやろうとするわけだから、その判断は間違っているとも言えてしまい、しかも間違ったことを積極的にやらざるを得ない状況に追い込まれているとも言えるわけで、そうなるとそれをやるにあたって自分たちのそれまでの判断の基準となる価値観を変更せざるを得ないだろうし、そうやって人や集団の価値観や判断基準が変わってゆけば、それに伴って活動内容も変わっていくだろうし、活動内容が変わってゆけば、それに伴って制度も変更せざるを得なくなるわけだが、そんな回りくどい成り行きからしか変化が実現しないとすれば、それは特定の人物がその場の思いつきによって、すぐに制度を変更できるような成り行きとはだいぶ違うだろうし、そこにも変更しやすい制度としにくい制度との間でそれなりの偏差があり、その中で何をどう変えるかについても優先順位もあるだろうし、やはりそんな面倒なことまで考慮していくときりがないわけだが、結局そういう様々な事情を考慮するような成り行きに巻き込まれてしまうと、事態が遅々として進まなくなって、下手をすると途中の段階でつっかえて、そのままうやむやにされて葬られてしまう危険もあるだけに、その手続きや手順の一つ一つの段階でいちいち合意を形成しながら改革を少しずつ前進させていくのではなく、少々荒っぽいやり方に思われても、独断専行で強引に改革を進めるようでないと、うまくいかないのかもしれないが、そうなると独裁的な権力が必要となって、そういった必要に応じて独裁体制を構築する過程で、それとは別の方面でも様々な無理をごり押しするような成り行きともなって、結局は社会全体を破壊するような成り行きにもなってしまう危険があるだろうし、それが実際に20世紀の社会主義革命で起こった出来事であるだけに、それがどのような成り行きになるとしても、それ相応の危険が伴うわけだ。


11月5日「活動の多様化」

 世の中では基本的に経済的な豊かさを求めて人や集団が活動していて、集団としての企業の活動もそれに伴って成り立っていることは確かだが、また企業とともに政府も経済活動を促進させている一方で、それだけではなく、そうした経済活動を規制するようなことも行なっているわけで、それは行きすぎた活動を規制しないと弊害が生じるからで、弊害とは環境の破壊や汚染とか貧富の格差の増大とか、他にも様々な弊害が起こるわけだが、さらにその一方で政府の活動からも弊害が生じることも確かで、戦争を起こしたり民衆を弾圧したりするわけだから、それらに関しては民衆の側が政治活動を行なって、政府の活動を規制しなければならなくなるわけだが、民衆の側でも決して一枚岩で団結しているわけではなく、そこでは民衆同士の対立や抗争も起こっていて、企業の味方をする民衆や政府の味方をする民衆や、企業と政府の両方の味方をする民衆や、特定の企業の味方をする民衆や、外国の政府の味方をする民衆や、またそれらの企業や政府や民衆の活動ごとに、ある活動には賛成して、別の活動には反対する民衆もいるし、さらにそれらの活動に無関心な民衆までいるわけだから、そういうところで特に固定した立場というが成り立ちにくい面があり、そういう面を考慮するなら、企業や政府などの特定の勢力に対する一方的な支持や不支持では単純すぎることがわかるわけだが、その単純すぎる虚構の支持や不支持の姿勢を取らせるために、一方的な宣伝や煽動が行われるわけで、それには政党やメディアなどが絡んでくるわけだが、特定の政党への支持や不支持を呼びかけたり、そうした宣伝や煽動を誇張したり偏向して伝えるメディアがあったりして、そうしたことを背景としてさらに事態が混沌としてくるわけだが、そんな支離滅裂な状況を理解するのは難しいだろうし、政治に関して特定の政党を支持したり、特定の政策を支持したり、内外の政府を支持したりすることが、本当に正しい選択なのかというと、それぞれに一長一短があるわけだから、正しい選択など不可能かもしれないのだが、そもそも何かを支持すること自体が、そこに判断の正しさを求めること自体が間違っているとも言えるわけで、その場その時の印象から支持したりしなかったりするだけで、そんな姿勢を一貫して保とうとするからおかしくなるわけで、あまりその辺を掘り下げて深く考えるわけにはいかなくなり、結局は実際に世の中で起こっている様々な面を考慮しながら総合的に判断するしかないわけだが、その判断が恒常的に状況に適合するわけでもなく、絶えず状況の変化に応じて判断を改める必要もあるわけだ。もちろんそんな面倒な判断などしない方が楽だろうし、そういうことに関してそれほど関心を持てなければ、常に同じ政党を恒常的に支持していた方が、いちいち考える煩わしさから逃れられるわけで、そうやって大勢の支持者が怠惰にまかせて特定の政党を甘やかしていれば、そこから増長や慢心が生まれて、そんな政党が政治的な面で主導権を握っているようなら、世の中に腐敗や不正が蔓延して荒廃を招くわけだが、それも程度の問題であり、政治活動自体が社会の中でそれほど重視されないような傾向だと、どんな政党が政治的な主導権を握っていようとそれほど影響がないような状況となって、どの政党が政権政党になろうとほとんど何も変わらなければ、どうでもいいことになってしまうわけで、そうなると特定の政党への支持といっても、それほど熱心な支持ではなくなり、とりあえずの支持によってとりあえずの主導権を握っているだけなら、そんな主導権では大したことはできないことにもなって、そうでなくても別に大したことをやる必要もなく、ただそこで何かをやっているふりをしていれば、民衆の消極的な支持を得られて、それによって政治的な主導権を握っているように振る舞うことができる程度のことで、そうしたことが実質的な政治活動であるなら、別にそれで構わないような世の中になっていると言えるわけで、そんなことを支持したりしなかったりすること自体も大したことではなく、それが世の中にどんな作用も影響も及ぼさないような成り行きを招いているのかもしれず、そうやって政治活動もそれに対する支持や不支持も何でもないような形骸化を招いているとしたら、そうした状況の中で民衆ができることなど何もないように思われるだろうし、それが無力感だとも感じられなければ、ただの無関心の蔓延に過ぎないのかもしれないが、それが今起こっている新しい状況だとすれば、そうした状況に対応するためには、今までにないやり方が求められているのかもしれない。

 もちろん何もやろうとはしないことも選択肢の一つではあるわけだが、それが今までにはないやり方というわけでもなく、特に何をやろうとしなくても、そこで生きて暮らしているだけで、何かをやっていることになってしまうだろうし、そんな民衆の生活や暮らしの中から自然に世論が生じてくるなら、実際に何もやっていないわけでもないことになるのだろうが、ただ漫然と暮らしているわけではないにしても、政治は政治として産業の発展とともに生じてきた職業の細分化とともに、政治家という専門の職業が確立された経緯があるわけだから、政治のことは政治家や政党に任せておけば済むことでしかないとしても、議員などを選ぶ選挙の際には民衆が投票して選ぶわけだから、自らが立候補するのでない限りは、ほとんどの人たちは政治活動などせずに、投票するだけで済むならそれに越したことはなく、それだけなら普段は政治に関してはそれほど関心を抱かなくても構わないわけで、大して関心もないのに無理して市民集会などに参加する気がなければ、それだけで済むような成り行きになってしまい、それだけで済んでいる人が世の中で多いほど、それだけ世の中が平和で安定していて、特に政治的には何もやることがないような雰囲気が世の中に蔓延しているだろうし、そういう雰囲気に逆らって活動家の類いが勇ましい口調で何を呼びかけても、そのシンパ以外は無反応となってしまうだろうし、そんな世の中の情勢を反映して、政治家の方でもそんな状況に適合した無能に見えるような人たちが主導権を握る流れとなっているだろうし、そんなことも含めてそんな世の中となっているわけだろうが、たぶんそれがひどい事態だと思われない限りで、そんな世の中が続いていくのだろうし、そんな世の中に馴染んで暮らしている人にとっては、それでも構わないのかもしれないが、馴染めない人たちは馴染めないなりに、世の中の主流とは違うことをやろうとするだろうし、そんな人たちが世の中で少数派に留まっている限りは、世の中がそれほど変わることもないのだろうが、そんなことをやっている人たちに他の人たちが興味を示すようにでもなれば、それをきっかけとして世の中が変わっていくかもしれないし、だから現状で世の中の主流から外れたことをやっている人たちは、実際にそれをやり続けられるようなら、そんなことをやっている限りで、それが世の中を変える要因となっているわけだ。そういう意味で勝手なことをやり続けている人たちは、その勝手なことが世の中の主流から外れているほど、それが世の中を変えるようなことを実際にやっていることになるわけで、またそれが新たな世の中の主流となるわけではない方が、そんな外れたことが普通にやれる世の中になっていくわけで、実際に公的な政治の領域からはみ出るようなことが政治とは言えないような行為として行われるようなら、それだけそういった活動が多様化したことになるだろうし、それが良いとか悪いとかいう話ではなく、実際にそういうことが行われることが世の中を変えることに結びつくのかもしれないし、またそれが他の人の迷惑になるようなことなら、他との関わり合いの中から妥協や調整が行われるような成り行きになるわけで、そうやってやれることが多様化していけば、世の中がそれ以前とは変わったことになるだろうし、また以前はやれた行為が、何かのきっかけでできなくなるようなことも起こるだろうし、それに関しては環境に負荷をかけるとか、非効率だとか、他にも様々な理由や原因から廃れてしまうような行為があるわけで、そうやって以前にはできたことができなくなることによっても、世の中が変わったことになるだろうし、そういう意味で現状に合わせて、やっていることをそれが自然の成り行きとして変わっていけば、結果的に世の中が変わったことになるわけだが、それを政治が主導して変えていくというよりは、政治主導で行うことがうまくいかないことによって、そのうまくいかなくなった間隙を突いて変わるような成り行きが生まれるわけで、そういう意味では無能な政治家や官僚が主導してお粗末なやり方ですくに失敗してしまうような改革を推進していくことが、結果的に世の中の変化につながる可能性もあるわけで、ともかくそうやって現状の世の中で主導権を握っている人たちは、たとえ無能だろうとその主導権を生かして何かをやろうとしていることは確かだろうし、またそのやっていることが必ずしもうまくいっていないから、様々な問題や弊害が出てきているわけだろうし、そしてそれを批判する人たちも実際に多くいるわけだが、そういった批判の類いは、主導権を握っている人や団体が何かをやろうとして、世の中の現実と格闘する際に舞い上がる砂塵のようなものであり、それ自体が何か主導権を握ってなされるわけではなく、それはあくまでも受動的な摩擦や抵抗の類いであり、すでにそこで行われていることから発生する効果の一種なのではないか。


11月4日「問題を共有することの困難」

 人がこの地上のどこでどうやって暮らそうが、すでにそこには他にも人や集団が暮らしていて、そこに何らかの社会的な共同体が形成されて、そこでそれらの人や集団が活動していれば、その人の勝手とはいかない事情が生じているわけだが、それが人の社会的な生活や活動の限界と制約を意識させるところかもしれないが、それに関して反射的に自らの思考の自由度を確保しようとして、すぐにそんな現状から遠く離れた場所や、時間的に遠い過去や未来へと思いを馳せてしまうのも、現状の場所や現在の時間から目を背けてしまうそれなりの事情や傾向を示していて、そういう自らの自由を制約して限界づけるような事情や傾向が、それと自覚することなしに、理想と現実とのギャップという昔ながらの避けがたい思考的な課題を物語っているのかもしれないが、だからといって現状の場所や現在の時間の中に何があるとも思えなければ、そうなるのも無理はないことかもしれないが、もちろん実際には何もないわけではなく、そんなこと考えている自らの思考を縛るような事情があるから、そこに特定のこだわりが生じていて、そんなこだわりを捨てられないから、例えば国家的な枠組みを通してしか物事を考えられないような成り行きになってしまうのかもしれないし、もちろん誰もが国家単位でしか物事を考えられないわけでもないだろうが、そういう常に場所や範囲や時間を限定された思考とともに語ろうとすれば、何やらもっともらしい論理に基づいた正論を吐けるのかもしれないし、その手の正論を吐ける限りで、それはそれで正しい問題の捉え方となるだろうし、それについて何をどう反論する気も起こらないが、そんなことならいくらでも右から左へと意識を通過させることが可能かもしれないし、通過させたからといって何がどうなるわけでもないが、たぶんそれでは済まない状況の中で物事を考えている人も中にはいるだろうし、そういう人たちにとっては、特定の物事の枠組みから離脱して考えることに意義や価値があるように思われるのかもしれず、実際に何やらそういう論理には囚われない思考の水準を目指して、それなりに矛盾の少ない妥当な結論を導き出そうとしているのかもしれないし、そういった思考から導き出された新たな論理が示しているのは、国家的な枠組みから逸脱しなければ思考できないような水準で通用することになるのかもしれないが、誰もがそうしなければならない必然性はないだろうし、それこそ国家が現にリアリティを持って機能している現状から目を背けることになってしまったら、何を考えていることにもならないだろうし、ならばまともに思考するには国家的な枠組みの中にとどまらなければならないと認識してしまうわけだ。そしてそこに思考の限界や制約があるとしても、そうした限界や制約の枠内で何とかしないと、国家的な枠組み自体が崩壊しかねないと思われてしまうから、余計にその水準を死守したくなってくるわけだが、やはり誰もがそうする必要はないのだろうし、そうする必要を切実に感じてしまう社会的な立場や境遇以外の人なら、そこから外れてしまっても構わないだろうし、そういう意味では誰もが自身がリアリティを感じられる水準で、自らに関係してくる物事について考えれば済むことでしかないのかもしれないが、そうなってしまうと自身と周囲の関係者以外と接点を共有できないから、それとは無関係な他の人たちとの間で問題を共有して、誰もがその問題と真摯に向き合える水準としての公的な領域が見出せなくなってしまうだろうし、他の人にとってもそれがあると思われる限りで、公的な領域を含むような国家的な水準での問題提起があるのかもしれないが、やはりそれもそんな水準を他の人や集団が共有できる限りで設定できることでしかなく、そういう水準では実感が伴わずにリアリティを感じられなければ、そんな問題も目の前を右から左へと通過するばかりで、それを自らに引き寄せるきっかけが生じなければ、そのままとなってしまうわけで、そんなわけでそういうきっかけが生まれる人もそれなりに限られてくるだろうし、誰もが公的な領域に関心を持たなくても済んでしまうようなら、そんな領域が実感を伴うわけもなく、そういう水準でリアリティを共有できなければ、公的な領域自体も存在しなくなってしまうのかもしれず、現状では全くなくなるわけではないとしても、それがごく限られた人や集団の間で共有される問題でしかなくなれば、別にそこに暮らす全ての人たちが問題を共有する必要はなく、ほとんどの人が無関心であっても構わないような状況となってしまうのではないか。

 またそれが誰にとっても悪いことだとは思われなくなってしまえば、そうしたこだわりにリアリティがあった時と比較して、状況が変化したと捉えるのが妥当なところだろうが、例えば公的な領域や国家的な水準で考えられることが、単に経済的な豊かさへの憧れへと収斂してしまうようなことであれば、それ自体は大したことではないだろうし、もちろん現状では誰もが経済的な豊かさを享受できるとは限らないわけだが、何かそれに関して不都合な点や問題を指摘したければ、自分のことは棚に上げて、他人や他の集団がやっていることに関して指摘することしかできないだろうし、そう言うお前はどうなんだ、という問いに関しては、躍起になって自己肯定するような成り行きになるだろうし、またそういうことに関して問題や不都合な点を指摘された人や団体としても、一応は躍起になって自己肯定するような成り行きになるだろうし、要するに現状の中でそんなことを指摘できるような人たちも、現状から恩恵を受けている限りで、自身にとって不都合な点や問題を抱えていて、それを何らかの方法でごまかしているようなところがあれば、むきになってそれを否定することしかできないだろうし、誰にとってもそうであるわけでもないにしても、それなりに程度に差があるにしても、現状でもたらされている社会的な不都合や問題点に関して、共犯者意識を持っていることは確かであり、そういう意識を共有しているからこそ、現状を維持している勢力を支持しなければならない事情を抱えていることにもなるわけで、自分たちもそうした勢力の一翼を担っている感覚を持っていれば、なおさらむきになって自己肯定に拍車がかかるわけだが、たぶんそういった共犯者意識の広範な共有が、現状の社会を支えているのであり、もちろん経済も支えていて、さらにその一部である株価や為替などの相場も支えているわけで、それはヤクザやギャングなどの犯罪組織から官庁や役所などの公的な機構にまでも及ぶことだろうし、それが現状で成り立っているあらゆる人間関係を含んだ共同体の枠内で作用や影響を及ぼしているはずだが、それらの共通する傾向とは違う、それぞれの共同体を隔てる齟齬感に注目すれば、それらの共同体がある一定の範囲の外には広がってゆかない限界や制約が浮かび上がってくるわけで、そういった事情に共同体の構成員が囚われているから、それによって他の共同体の構成員との間で区別を伴うわけで、それが共同体と共同体を分かつ境界を構成するわけだが、その境界を乗り越えて別の共同体に入るには、その共同体に特有の事情を共有しないと入れない仕組みになっていて、時にはそれが乗り越え難いハードルを形成したりするわけで、普通に考えてそれが人種や民族や宗派などの違いとなるわけだが、またそうした事情を共有することで、その共同体に特有の共犯者意識を育むことにもなるだろうし、特に他の共同体との関係で、身分や立場の上下関係や経済的な搾取の関係を伴っていれば、なおさらそれに伴って生じる加害者意識や被害者意識を共同体内の構成員たちが共有することになるわけだ。またそういう意識が共同体の結束を強めることにも貢献するだろうし、特に加害者意識などを伴う共犯関係となると、新米の構成員や有望な幹部候補生などにわざとひどいことをやらせて、もはやそこから抜けられずに後戻りできないようにさせるための儀式などが用意されているだろうし、そうやって構成員を共同体に対して忠誠を誓わせて掟に縛りつければ、それが他と区別できるその共同体の特殊な事情としてリアリティを持つわけだが、それも絶対的な区別ではなく、時が経ち周囲の状況が変われば、次第に磨耗していって、ついには何でもないことになってしまう可能性もあるだろうし、そうならないようにするには、日々新たにその共同体に特有な事情を積み重ねていかなければならず、そのために日々活動している面もあるだろうし、そうした事情から絶えず他の構成員とつるんで共同体内の絆を強めるための活動を欠かさなければならず、それに伴って定期的な儀式を反復するような成り行きになるだろうし、例えば外から見れば何の意味があるかもわからないような、奇異で型にはまった動作を飽きもせず繰り返すようなことも行われるわけで、それを恥ずかしがらずに何の疑いも抱かずに平然とできることが、共同体への変わらぬ忠誠の証しであったり、そういう動作を他に見せつけることが、何よりも他との区別を際立たせることにもなり、そうやって実際に特異な活動を行うことによって、共同体としての一体感や統一感を維持しようとするのだろうが、それが見せかけの儀式だけではなく、実利的な面も伴っているなら、その共同体は他から見てもより一層魅力的に見えるのではないか。


11月3日「力の正義」

 力こそが正義であるのは、実際に力の前に屈してしまう誰もが認めることだろうし、そこで行使される力の前では何事も問題とはならず、問題にならないような配慮や処理が力を行使して行われるわけで、そうしたやり方に対して、たとえそこでどんなにリアリティを伴った理屈を持って対抗しても、力がまとっている現実と実感を伴った現実性の前には、いかなる理屈も虚構であることを余儀なくされてしまい、それは中身のない空疎な理屈になってしまうのかもしれないが、そんな力によってもたらされる現実も、その行使から生じる現実性も、その力を正当化する理屈に伴って生じる制度の一部でしかないとしたら、その現実や現実性は、それを裏付ける制度が説明する虚構から生まれたものとなり、そういう面では現実ではなくなってしまうかもしれないが、そんな現実が実感を伴って存在しているとしたら、ではそんな現実を生み出す虚構とは何かといえば、それはやはり力の行使を正当化する法律であり制度でもあるわけだが、またそれは現実を制御する虚構でもあり、実際にそれらには人や集団を従わせる効果があり、人も集団もそれに従うべきだと思うから従っていて、誰も従わないとそうした制度によってもたらされている社会の秩序が乱れて、社会そのものの実態が失われる恐れがあるから従っているわけだが、中には従わない人や集団もいるだろうし、実際に従わないと罰せられてしまうわけだが、それでも従わず、罰せられることを覚悟で従わない人や集団も存在しているわけだが、全ての法律や制度に従わないわけでもないだろうし、自分たちにとって都合のいい法律や制度には従って、そうでない法律や制度には従わないような選択の余地が生まれるわけで、その場の都合に合わせて合法的な行為と違法な行為の両者を効果的に組み合わせて、それが自分たちにとっての利益に結びつくように活動していくわけで、もちろん違法行為をやる時にはばれないように画策しながらやるわけだが、ばれたところで権力を行使できる立場にあるなら、それによって周囲を黙らせることもできるわけで、そうやって行使される力の前では、法律も制度も都合のいいように歪められ捻じ曲げられて、その実効性のない虚構の姿があらわとなって、それに従わざるを得ない力のない人たちを驚かせ失望させ落胆させるわけだが、果たしてそれが正義だと言えるかとなると、一般的には不正義であるが、それが何らかの操作によって理にかなっていることになれば、正義だと強弁することができるだろうし、厳密には理ではなく利であるわけだが、利を理と言いくるめるには、集団による同意が必要になるだろうし、その集団というのが公的な範囲では国民とみなせばいいわけだが、もちろん中には納得できない人も大勢いるわけだろうが、同意できる人だけを国民とみなせばいいわけで、力を行使して同意できない人たちを黙らせて、それで国民の同意を取りつけたことにすれば、それが理にかなった正義の行為となるだろうし、そうやって自分たちのやっていることが正義であることを国民に認めさせることに成功すれば、それが虚構ではなく現実であることを証明したことにもなるわけだが、そうなったとしてもそこにはそれなりの虚構性が含まれているだろうし、まず何よりも国民の同意を取りつけたことが嘘で虚構であり、また利を理と言いくることも嘘で虚構でしかないわけだが、力を行使してそれらが嘘や虚構だとは言わせないように黙らせる行為は、虚構ではなく現実に行われることであり、あるいはそれに反抗している人たちがまるでいないかのように見せかけることも現実にメディア上で行われていることだろうし、そうやって嘘や虚構を真実や事実に置き換えていく作業が現実に行われるわけで、そしてそれに伴って、利を理に置き換えて、それを理にかなっている行為だとみなすことも、現実に行われていることなのではないか。実際の理にかなった行為には、利益も不利益も生じるわけだが、ただ利益を得る側にとっては理にかなった行為であるとしても、不利益を被る側にとっては理にかなった行為だとはみなせないわけで、不利益を被る側を力で黙らせることによって、それが利にかなった行為でもあり、同時に理にかなった行為ともなるわけだから、結局力の行使とは行使される側に虚構を現実として押しつけることになり、それが虚構の現実化としての権力の特性だと言えるのではないか。またそういうことをやっている限りで、正義は力とともにあり、正義を行使することが理にかなっているからというよりは、単に力を行使することが正義であり、そうやって得られる利を理と言いくるめた後から虚構を真実にして、それがそれ以降も力を行使するための大義名分として行為に付け足されることになって、そうした込み入った作業や操作の過程で、なし崩し的に虚構の現実化が、力を行使される側への強制的な同意と、そういった強制に反抗する人たちへの無視や弾圧とともに実現するわけだ。

 果たしてそんな強引なやり方を民衆が受け入れることができるかというと、受け入れさせるような成り行きとなれば、それに従わざるを得なくなるわけで、時としてそんな成り行きになることがあるから、そこでそれが有効なやり方であることが実証されてしまうわけだが、なぜそうなってしまうかといえば、簡単に言えばそれは国家という制度からもたらされる必然的な成り行きでもあり、国家という構築物が現実の存在として実態化するには、時としてそういった力の行使が必要となり、それに際して必要な人員が集団となって力を結集させるから、そうやって結集して強大化した力の行使には、個人や小規模な集団では太刀打ちできなくなるわけで、それを避けるには力を行使する口実を与えないようにしなければならないわけだが、それに関してこれまでに推進されてきたのが、理不尽な力の行使を行わせないようにするための制度的な工夫だろうし、それも簡単に言うなら、民衆にとって自由で平等な民主的な政治制度にして、社会的な立場や境遇に囚われない民衆の意見が政治や行政に反映するようになれば、社会の中で有利な立場や階層の意向を反映した独裁的な権力の行使に歯止めがかかるように思われたのだろうし、実際に民主的な制度の整備にそれなりに取り組んできた諸国では、比較的独裁的な政治体制にはなりにくいわけだろうが、それでも完全に独裁体制を排除できるかとなると、そうでもないだろうし、メディアを利用して宣伝や煽動によって幻想をふりまいて、偏向した思想信条などを民衆の意識の中に吹き込んで、特定の政治勢力を支持するように誘導する手法がしばしばとられるようになって、そうした行為が功を奏して、独裁的な政治体制が成立することがあるわけだが、実際にそうなってから民衆が騙されたことに気づいて反抗しようとする時には、すでに民主的な制度が機能しないような仕掛けが施されてしまっているわけで、結局はどのような政治制度であっても、権力を行使する側の対応次第では、制度自体が虚構化したり形骸化してしまい、そうやってリアリティを失ってしまうわけで、そうした制度の虚構化や形骸化を促進させる要因が、民衆の政治に関する無知や無関心であったり、それを促進させるような経済的な功利主義の蔓延であったりするわけだが、経済的な功利主義の方は、自身の収入や資産などの面でそれなりのリアリティを伴っているから、そこに虚構が介在しているとは思わないだろうし、日頃の売買を介した経済の制度が人々の身にしみて生活を支えているだけに、政治的な経済政策に実質的な効果があるように思われてしまうと、やはりそうした経済政策を行なっている勢力を支持して、そうした勢力が民主主義の建前を軽視したり、踏みにじるようなことをやっても、簡単には支持が揺るがなかったりするわけで、そういうわけであまり実感が伴わない民主主義の建前と、実質と実感が伴っているように思われる経済的な価値観などを比較した場合、どちらを優先させるかは自ずから明らかとなってくるのかもしれず、経済がそれなりにうまくいっているように思われれば、またメディアを通じてそう思わされているようだと、さらに民主的な建前を重視する勢力が、経済政策などに関して信用できるような裏付けがない場合、どうしても功利的な経済政策を推し進める側を信用してしまうわけで、しかもそれによって社会の中で経済格差が広がるような事態になっているとしても、誰もが富裕層に憧れていることは確かで、チャンスがあれば富裕層になりたいと思うだろうし、そうした欲望を煽られている限りで、たとえ実質的にはその可能性がほとんどないにしても、そうしたことをやっている勢力を支持するだろうし、その一方で理想主義的な勢力が掲げる富の公平な分配などという幻想を抱くには、実際に自身が他との競争にさらされるような経済活動を行なっている中で、そういうことが行われたためしがないことを肌で実感しているだけに、やはりそうした夢ではリアリティを持ち得ないだろうし、現状では実現性の定かでない空想上のフィクションと思うしかなく、そういうところでも民主的な建前を保持しているだけの勢力には信用が生じないだろうし、そうした経済至上主義的な実感とともに、それを肯定している勢力が政治的な主導権を握るのはやむを得ないとしても、もしかしたらそれとは次元の違うところで、政治的な幻想を捨てなければならない可能性も出てきているのかもしれず、それは現状をどう捉えても、政治的な権力の行使自体が世界的に弱まりつつあって、それに代わって強まりつつあるのは行政的な民衆の管理体制の強化であり、またそれと並行して企業側でも顧客となる消費者を管理する体制を強化しつつあり、その両面から侵食されて、次第に政治的な活動の領域や範囲が狭まりつつあるのかもしれず、それを隠すためにメディア上で盛んにポピュリズム的な内容のない政治宣伝が煽られているのかもしれないし、人々がそんな宣伝に煽られてそれを真に受けている間にも、行政と企業による民衆の管理統治体制が着実に強化されつつあるのではないか。


11月2日「既存の思考」

 何事も性急に事を運ぼうとすると、急いては事を仕損じる危険があるわけだが、別にそうなっても構わないのであり、そこで失敗してもまたその人が再挑戦するか、あるいは代わりに別の誰かが挑戦すればいいわけで、ただその失敗の当事者になってしまうと、そこでその人はおしまいとなる可能性があって、できれば失敗の当事者にはなりたくないから、それなりに余裕のある人は慎重に事を運ぼうとするわけだが、それでも失敗する時は失敗するだろうし、慎重に事を運びすぎて失敗してしまえば、やはり再挑戦の機会を失って、そこでおしまいとなってしまう危険があるだろうし、どちらにしてもそれが運命だと思って受け入れるか、あるいは受け入れずに最後の最後まで可能な限り悪あがきを繰り返すか、という選択を迫られてしまう場合もあるだけに、どういう結果になろうと救いのない話になってしまうのかもしれないが、そんな成り行きの中で活動している人たちは、それなりにやれる限りのことをやるしかないわけで、その先にどんな運命が待ち受けていようと、そこまで察知することはできないだろうし、察知する必要もないわけだが、ただ可能な限り状況を見極めようとするだろうし、そうやって何かの予兆を察知しようとするのだろうが、その大半は空振りに終わるか、勘違いな思い込みを抱いてしまうかして、逆にそこから余計で意味の定かでない幻想がもたらされたりして、そんな思いを抱いているうちに、やっていることが当初の目的や目標からずれていってしまうわけだが、そうした紆余曲折がやっていることに幅を持たせるわけで、それが可能性の広がりを表しているのだろうし、時にはそれがそれとは違う他の何かとの偶然の遭遇をもたらして、そこから袋小路や行き詰まりを打開する可能性が生まれるかもしれないが、別にそこまで至らなくても、途中の段階に留まっていても構わないのかもしれない。そしてそんな成り行きの中で、特定の物事から感銘を受けてそれを強調しようとすると、それとは別の物事との関係がおろそかになって、バランスを欠いて偏向した認識に至ってしまうのだが、そこからも無駄で余計な幻想が生まれるだろうし、しかもそれが無駄でも余計でもなく、何らかの魅力を感じられてしまうから、やはりそれが幻想なのだが、たぶんそういう幻想がないと、世の中には他に何もないように思われてしまい、時にはそうした幻想が心の支えにもなるわけで、だから一概に幻想を抱いてしまうのを否定することはできないのだが、それでも幻想は幻想に過ぎないし、実際に幻想を抱いてそれに向かって進んでみると、どんどん幻想とは違う現実の世界が視界を覆ってきて、そこには幻想の中では思いも及ばなかった障害が行く手を塞いでいる事実に気づくわけだが、そんな障害に怖気づいて、それ以上進むのを諦めるか、あるいはそこから障害を取り除いてさらに先へと進もうとするかで、迷いが生まれるだろうし、また迷っているうちにも、他の事情から事態が進展したりして、そこからも状況が変わってくるわけで、そんな事態に対応しているうちに、さらにそれとは別の方面からも作用や影響が及んできて、そんな事態に直面しているうちに、当初に抱いていた幻想などどうでもよくなってくるのかもしれないし、それでも幻想にこだわり続けていれば、そんなこだわりに意識が凝り固まって、何やらそれ以上の進展を望めないような成り行きを招いて、そこで右往左往しているだけに終始してしまい、そんな逡巡の繰り返しの中に自足してしまう危険も出てくるわけで、それを危険とは気づかないと、それが安住の地であるかのように思われてくるだろうし、そうやって活動領域が一定の範囲内に定着してしまった人など、世の中にはいくらでもいるのかもしれず、そんなふうにして人は人生の終着点に到達するわけで、それが他の人にとっては何を意味するわけでもない地点で、ひたすら自分にとっては意味のある研鑽に励むような成り行きもあるだろうし、もちろんそこには他の人や集団との関わり合いもあれば、それなりに関係する人や集団と価値観を共有できるわけだが、たぶんそれ以上に何かを求めるとなると、それだけより多くの人や集団と関わるような成り行きへと導かれるだろうし、そうなればさらに多くの物事に遭遇して、そうした物事への理解や認識も新たに得られて、それによって従来から抱いていた価値観では状況に対応しきれないことを知るだろうし、そうやって物事に関する見聞を深めていけば、少なくとも以前よりは特定の物事に関して抱くこだわりも薄れてくるかもしれないし、薄れてくるとしても、その代わりにより多様で多彩な価値観を得られる可能性もあるだろうし、それが何を意味するわけでもないと卑下することもなく、素直にそんな状態を肯定しておいた方が無難であることに気づくかもしれない。

 そうであっても意識はやっていること自体へと引き寄せられていってしまうわけで、それがその人の全てであるかのように思われてくると、それ以上の進展は望めなくなるわけで、そんな事態を打開するために他のことに目を向けるようになるとしても、それも一時の迷いや気休めとなる場合もあるだろうが、そこからやっていることに対する別の面への気配りや別の捉え方ができるようになれば、何やらそこから新たな進展が望めるようにも思われてくるわけだが、そうした視点や視線の移動によって、関わっている物事への認識を新たにすることができたとしても、それだけでは物事自体は変わらないわけで、物事自体を動かさないとそこから先への進展は望めないわけだから、そうした物事への関わりとともに自らも活動していかなければならないわけだが、関わっていくこと自体が活動となるわけだから、その依存している物事を否定的に捉えてしまうと、やはりそれでは物事を一面的にしか捉えていないことになり、それ以前に特定の物事に関わろうとすることの動機として、それに魅力を感じるから関わろうとするわけで、たとえ意識がそれを否定的に捉えているとしても、意識の気づかないところでは惹かれている面があるわけで、特定の物事に否応なく惹きつけられてしまうから、それが否定的な言及を伴うとしても、なお肯定しなければならない面があるわけだ。たぶんその肯定しなければならない面というのが、その物事の魅力なのだろうし、それを語れないとすれば、少なくともその段階では言葉で表現できないような魅力があって、それを語ることとそれに惹かれてしまうことが意識の中で結びついてはいないものの、気にはなっているから惹かれてしまうのだろうし、そうした物事の肯定的な面に意識が惹かれている状況にあるわけで、それを表現できないことには、それに関する否定的な捉え方を改めるには至れないわけだが、そこからさらに認識を深めるには、さらなる物事への関わりが必要となるだろうし、それへの否定的な捉え方で凝り固まるにしても、それまでの認識では物足りなくなってきて、自らがその物事を捉える上で、それまでとは違う面や違う次元や水準を見つけようとするだろうし、そうすることで思考の転換を目指すのだろうが、それでも関わっている物事自体は変わりようがなく、そうした関わり方の行き詰まりを解消できないまま、ひたすら否定的な捉え方を堅持しつつも、そうした物事の面を批判せざるを得ないわけだが、それでも惹かれているからには、当然他の人たちも惹かれているわけで、社会の中で他の大勢の人たちが惹かれるから、そこに魅力が生じているように思えるのだろうし、なぜそんな物事に惹かれてしまうのか、その理由や原因を探ろうとするしかないだろうし、そうやって意識が惹かれている物事の周りをぐるぐる旋回することになり、時折それに近づいたり遠ざかったりしながらも、相変わらず視線をそれに釘付けにしながら、その周りで逡巡を繰り返すわけだが、結局それがその物事への関わりの一部始終だとすれば、活動もそうしたものでしかないだろうし、それだけでは飽き足らず、自らがそれ自体へと同化してしまうような成り行きを伴ってくれば、今度は自らが他から惹かれる対象となるわけで、そうなってくると傍観者ではなく当事者としての責任を自覚するしかないだろうし、そうやって自らが時には批判される立場ともなれば、ようやくそれまでに足りなかった認識を獲得できるのかもしれず、それが当事者意識からもたらされる認識であるとともに、それまでに自らが犯した過ちや誤りについて、それに関して他人からの評価を受け入れるか否かの選択を迫られるだろうし、受け入れられないような評価であれば、それに反発してそれなりの反論を用意しなければならないだろうし、そうなって初めて、かつての批判一辺倒だった認識を改める機会が訪れるわけで、たぶん現状の社会の中でそこまでに至れる人はそう多くはないだろうし、それに引き換えほとんどの人たちは、批判しっぱなしの立場を維持できるわけで、それだけ一方的な認識や見解の中に安住していられるわけだが、そうなってしまうと物事の一面だけを見ていれば済むような成り行きとなってしまって、それだけで当事者意識になる事態を免れてしまうから、意識が惹かれている物事に対する活動の幅が狭まってしまうわけだ。だから限られた範囲内に意識も思考も固定されてしまって、それ以上に達することができなくなって、そこから先へと考えが及ばなくなってしまって、そうしたレベルからもたらされる固定観念では、それを超える事態には対処しようがなく、そんな固定観念に世の中の世論がつなぎとめられているうちは、そこからもたらされる閉塞状況を打開できなくなってしまうわけだが、そうした既存の秩序を打ち破るには、そういう秩序を支えている制度や法律から逸脱するようなことを行わなければならないわけで、もちろんそれが正しい行為になるとは限らず、違法な行為や倫理や道徳に反するような行為をやらざるを得なくなってしまう成り行きも、結構な割合で伴ってくるのではないか。


11月1日「群集心理の不都合」

 群集心理としてよくありがちなのは、世の中の多数意見に同調しようとする傾向であり、では多数意見とは具体的に何かとなると、にわかにははっきりした内容を示すのが難しいかもしれないが、何となくそんな感じがするだけで、取り立ててそこから群集心理に絡めて、世の中のどんな傾向を批判しても、当の群衆心理に囚われた人たちには馬耳東風でしかないだろうが、たぶんそんな批判を受けつけないのも群衆心理の特徴だろうし、絶えず群としての動きに従ってしまい、そこから抜け出られない境遇に追い込まれているのだが、別に群の中にいる人たちは追い込まれている感じはしないだろうし、むしろそこからはじき出されてしまうことを恐れているのであり、そうなるのが怖いから、ひたすら多数意見に同調しながら群の中に埋没しようとするわけだが、そもそも当の人たちは自らが群集心理に囚われる理由や原因を、思考を働かせてそんなふうには考えないし、それを言葉で説明しようとすると、群衆心理としてのリアリティを持ち得ず、思考ではなく感覚として、そういう状態へと巻き込まれてしまうわけで、そうなってしまった人たちが、実際に群集心理が作用して起こる暴動や略奪行為を行えば、それはやってはならない違法な行為となるわけだが、その一方で合法的なデモ活動などは許されるし、またスタジアムなどの観客席からプロスポーツなどの興行を観戦する時には、意識して積極的に周囲の観衆に溶け込んで歓声を上げたりするようになるだろうし、そうであるなら群集心理から生じる行為の全てが悪いとは言えないだろうし、そういう心理状態となるだけでは善悪の判断はつけられず、そこから生じる行為の内容によって善悪を判断することになるわけで、祭りなどに人が大勢集まれば、そういう共感作用は誰にでも起こることであり、そうなるのは極めて自然な成り行きかもしれないが、そういう心理作用を利用して、大勢の人たちを巻き込んで何かを画策することの是非は問われなければならないし、その内容によっては、その場の雰囲気からもたらされる高揚した気分に身をまかせるのではなく、冷静になって理性的に振る舞うべきと考えがちになってしまうかもしれないが、普通に考えて群集心理に身をまかせている人たちにそんな考えが通用するはずもなく、適切な群集心理の利用法としては、人々が我を忘れて、そこで煽り立てられる行為に従うように仕向けることになるだろうし、それに関しては正常な物事に対する判断力を奪うことによって、それが実現するわけだが、ではなぜ人々が安易にそういう成り行きに身をまかせてしまうのかといえば、単に群れるのが楽しいからだと結論づけてしまうと身も蓋もないが、逆に冷静になって理性的に振る舞おうとしてしまうと、馬鹿げた行為を行えなくなってしまうだろうし、大勢で浮かれて馬鹿げたことをやっている人たちに冷たい視線を投げかけてしまい、孤独が身にしみてしまうわけで、結局は馬鹿げたことをやらないと周りにかまってもらえないから、演技でも構わないから他の人たちに合わせて馬鹿騒ぎに加わろうとしてしまい、いつの間にかそれが演技ではなく、本心からそういうことをやろうとするようになるだろうし、さらにそういうことを率先して行なっている自らを肯定したくなってくるし、逆にそういう輪に進んで加わろうとしない、お高く止まった人を不快に感じるようになるのではないか。それが群集心理の本質的な効果であり、人々の孤独感につけ込んで共感を煽って群衆として寄せ集め、そんな集団を単純で浅はかな行為へと駆り立てるために、しばしば理性ではなく感情に訴えかけて冷静さを失わせて、これから行わせることについて考える暇を与えないような工夫を凝らすわけだが、多くの人たちはそんなことにまでは考えが及ばないし、考えが及んでしまうのは心理的にも経済的にも余裕のある人たちだろうし、そういう人たちはその手の騒ぎに加わらなくても満ち足りているのかもしれないし、だから世の中で心理的にも経済的にも余裕のない人が多いほど、その手の騒ぎの規模も激しさも大きくなって、盛大に行われる傾向となるだろうし、またそんな騒ぎが頻繁に繰り返されるようなら、それが日頃の憂さ晴らしとして、あるいは政治的・経済的な要因から生じる、大衆の不満のガス抜きにも貢献するだろうし、またそれがある程度の合法性をまとって去勢された行為として、政治的なデモ活動や労働者のストライキなどが制度的に定着しているわけだが、そうした騒ぎの制度化にどのような効果があるかといえば、そこで主導権を握っている団体の制御がある程度は利くことであり、要するに騒ぎが暴走しないように一定の歯止めがかけられているわけで、要するにそれは去勢された暴動と言えるのではないか。

 そうやって群集心理に一定の歯止めをかけて制御しようとする試みが、制度的な体裁を取らざるを得ないのは、そこに制限や制約を課して、騒ぎを一定の範囲内へと留めておこうとする配慮が働いているからだろうし、人々の行為を法律や制度によって制御しようとする行政的な手法の延長上で、そんなことが行われているわけなのだろうが、思考ではなく感情に身をまかせるように誘うのが群集心理であり、それを理性的な許容の範囲内に押さえ込もうとするわけだから、無理な面があることも確かだろうし、実際にしばしばそこから逸脱して騒ぎが暴走してしまうから、そこに魅力が生じるわけだが、そんな心理状態に囚われた群衆が果たして何か社会的に有益なことをやれるかというと、社会にとって何が有益であるかに関しては、人それぞれで立場も境遇も違うし、社会の中に構成されている様々な物事の有益性に関して、それなりに見解も認識も異なるだろうが、例えば経済的な有益性に関しては、群集心理を煽って商品を買わせることに成功すれば、その商品を買った消費者にとって、本当にそれが価値のあるものかどうかは定かでないとしても、それを買わせて利益を得ることに成功した企業などにとっては、その有益性を証明してみせたことになるだろうし、また群集心理を煽って選挙で大量の得票を実現した政治家や政党にとっても、たとえそれをポピュリズムなどと揶揄されようとも、それらの政治家や政党にとっては、同じようにその有益性を証明したことにもなるだろうが、有益なのはいつもそれを煽って利用する側であり、煽られて利用される側にとってはどうなのかといえば、その場で気分などの面で高揚感を得られることは確かであり、他の大勢の人たちと一体となって楽しく騒ぐことで、それが日頃の憂さ晴らしにもなるし、そういう面では有益であるように思われるだろうが、少なくともそこで何らかのエネルギーを消費することは確実であり、それを煽られるということは消費させられるということであり、一時の高揚感と引き換えにしてエネルギーを奪われて、しかもエネルギーを奪われている間は理性を失うわけだから、理性を保って冷静になっていれば奪われることのないものを消費させられるわけで、何かそこに詐欺やまやかしが潜んでいてもおかしくはないだろうし、そういう意味で理性を保っていれば奪われることがないものを、理性を失わせることよって奪うような試みには、しかも大勢の人たちから少しづつ奪い取るような仕掛けがあると、何やら資本主義的な利益を追求する原理に基づいた行為であることがわかってくるわけだが、だからといって合法的な範囲内で行われていることなら、それを一概に否定するわけにはいかないだろうし、逆に理性を保ったままでも当人が納得するなら、それなりの消費を行うわけで、要は程度の問題であり、それがあまりにも理不尽に思われるようなら、メディア上で非難の対象となるだろうし、またそういうことをやった後から人々が騙されたことに気づけば、そんなことをやった側が一気に信用を失ってしまうだろうし、結局はそういうことをやった側とそれを一時的に受け入れた側との間で、信頼関係が保たれている限りで、そういう行為が行われる余地が生じるわけで、そういう面では対等な関係を構築できる可能性もあるわけだが、そこにいったん権力関係が生じてしまうと、そんなのは幻想でしかなくなるわけで、なぜそうなってしまうかといえば、大勢の人たちが欲望を煽り立てる側に身をまかせて従ってしまうからで、そうやって煽り立てる側が大勢の人たちを従わせることができるほど、その権力も強大化してゆき、そうなるほど個人の力では逆らうことができなくなっていくわけで、そうした権力の増大に従って強制力も生じてきて、そうした強制力がどこから生じてくるかといえば、従っている人々自身の力がそこへと結集されるからで、大勢の人たちが一緒になって同じ方向へと力を加えることになるわけだから、それに一人の力で対抗しようとしても無理だろうし、結局それに対抗するにはさらに大勢の人たちを集めて、力を結集してそうした強制力を跳ね返す必要が生じてくるわけで、ではどうやって人を大勢集めるのかとなれば、やはり煽動するしかないわけで、しかもその際には人々の理性に訴えかけるよりは感情に訴えかけた方が、より多くの人を集められるわけで、結局はそうやって敵対する双方の間で感情的な煽動合戦を繰り広げているうちに、理性やそこから生じる冷静な思考などをおろそかにして、単純で浅はかな煽動を繰り返す人たちの天下となってくるわけだが、たぶんそれだけでは世の中が回ってゆかないので、何とかそこに制度的な歯止めをかけようとする思惑が働くのだろうし、そういった感情的な煽動行為をほどほどのところで収めるような作用が、どこからともなく及ぼされることになるのではないか。


10月31日「必然性の支配」

 偶然を活用できるかというと、偶然に巡ってきた機会を捉えて何かをやって、それがうまくいけば、活用できたことになるのかもしれないが、うまくいかなければ、機会を捉えたと思ったのが勘違いであったかもしれないし、そもそもそれは偶然に巡ってきた機会ではなかったのかもしれないのだが、では何なのかというと、何でもなかったのかもしれないし、そうでなければそうなることが必然と呼べるような状況になっていたのかもしれないし、それを偶然と呼べるか必然と呼べるかは、結果から判断することしかできないのかもしれないが、同じ成り行きを偶然の巡り合わせとみなしたり、あるいは必然というよりはもっと強い言い方で、宿命的な巡り合わせとみなしたりする場合もあるだろうし、どちらであってもそれなりに説得力があり納得できるような状況なら、両義的な面があるとも言えるわけで、物事の成り立ちや成り行きには、偶然的な面も必然的な面も両方の側面があり、それに対する見方や捉え方によって、どちらかの要素や要因が強調される場合もあるわけだが、それはそうした物事に対する捉え方の程度の問題であり、それをどう判断するかは、判断する側の主観に左右される面もあるだろうし、それに関する説明の中でどこに重点を置くかにかかってくる場合もあるだろうが、それでもどちらかを強調しないと話のつじつまが合わない場合はそうするしかないだろうし、結局そこではそういうことだと判断するしかないわけだ。そしてそこにはそう判断する側の事情も絡んでくるだろうし、判断する側と判断する対象とが敵対関係にあるなら、判断する側は判断する対象を否定的な捉え方をして、場合によってはそうなるのが当然であるかのような断言口調で決めつけることもあるわけだが、そういう決めつけに対する反応にも賛否が分かれるだろうし、敵対関係がその対象への決めつけられた判断や評価への反応にまで表れて、その対象自体よりは対象との敵対関係が、対象への否定的な敵意となって、そういう判断や評価を受け止める側にまで影響を及ぼすわけだ。それは敵対関係から生じる必然的な成り行きかもしれないが、そういう判断や評価が説得力を持つか否かは、そういう判断や評価を下した人に対する判断や評価にもよるだろうし、その人の言動がいつも一方的な断言口調の決めつけばかりだと、そんなことばかり言っている人という判断や評価となってしまうだろうし、そういう人に対する好き嫌いはあるだろうが、そういう傾向を割り引いてなおそれを真に受けるか否かの判断を伴ってしまうことは確かで、そういった対象との敵対関係によってもたらされる作用や影響を考慮してみないことには、そういう判断や評価が妥当か否かの判断や評価も、説得力を持つかどうか微妙になってくるだろうし、そんなことがそれに関係する様々な事情となって積み重なると、そういう判断や評価も偶然にもたらされるわけではなく、そう判断すること自体が必然性を伴っているようにも思われてくるわけだが、そこに至るまでの成り行きを重視すればそうなるだろうが、そうだとしてもそういった対象にたまたま出会ってしまうことに関しては、全くの偶然性を考慮しないわけにもいかないだろうし、何だか理由も原因も定かでないまま、誘い込まれるようにそういった判断や評価の対象へと引き寄せられてしまう成り行きというのが、時として信じられないような偶然の巡り合わせとしか思えないような成り行きとともに実現してしまうわけで、それは判断を要する対象との相性でしかないのかもしれないが、そうした出会いの脈絡のなさというのは偶然の遭遇としかいえない面があり、それをわざわざ無理に必然性によって説明しようとすると、不自然な感じを免れないだろうし、またそういうやり方に慣れてしまうと、次第に憶測を用いて話のつじつまを合わせながら語るようになってゆき、そればかりだと語る対象ではなく語る側の都合を全面的に反映したフィクションとなってしまうわけだが、語っている当人は自らが積極的にフィクションを語っていることにも気づかずに、絶えず自らのこうあるべきという願望を語る対象へ押しつけようとして、それに合わない目の前の事実や現実から目を背けながら、自ら語るフィクションの中で自閉するようになっていくわけだ。

 そうなってしまう成り行きに関して、どこまでそれを自覚できるかが、語る対象への謙虚さの度合いを示していて、何でもかんでもそれについて自らが語る必然性があるかのようにして語り始めると、途端にそこへ恣意的な決めつけが入り込んできて、しかも語る対象への否定的な決めつけを通して語っている自らを正当化するような内容になると、それでは単なる自己宣伝となるだけだろうし、そういうところで語る必然性を和らげるような配慮が伴わないと、どこまでも語っている自己を正当化するために、語る対象を貶めているだけの内容となってしまい、それを受け取る側にとっては、そうまでして語っている自己肯定への執着を示す内容が不快に感じられるだろうし、そうした語る対象への謙虚さを欠いた言動が世の中で幅を利かせているようだと、そこで他人への攻撃的な感情が蔓延しているようにも感じられるし、何としても語る対象を攻撃しなければならない義務感や焦燥感などが、実際にそんなことをやっている人たちをそうした行為に駆り立てていること自体が、それに関して攻撃している側とも攻撃されている側とも無関係に思われる人たちに、別にどちらの味方になる気もなければ、どちらかといえば攻撃することによって騒ぎを煽り立てている側に対して不信感を抱かせることになるのではないか。そうでなくても取り立ててどうしたわけでもない対象に、なぜそれほどまでの執着を示して攻撃を仕掛けているのか不審に思うだろうし、何かそうしなければならない事情が攻撃している側に生じているのではないかとも勘ぐってしまうだろうし、そこに攻撃している側のやましさがあるようにも感じられてしまうわけだが、そういうねじくれた感情があらわになるのが、執拗で粘着質的な攻撃の繰り返しとなるわけだが、特にそれが勢力の弱い側への攻撃となって顕著に現れる傾向にあるだろうし、しかもそもそもの始まりとして弱い側が強い側を批判しているのに、その弱い側を貶めて、結果的に強い側を利するような弱い側への批判となることが多いわけで、そういう受け止められ方をされてしまうと、不快な弱い者いじめのように思われても仕方のないことなのかもしれないが、さらにそれが一層ねじくれて変形を被ると、強い側が我関せずで傍観を決め込んでいる前で、弱い者同士で非難合戦を繰り広げるような状況となってくるわけで、そういうのを目にするといたたまれなくなってくるわけだが、当人たちは互いに非難合戦を繰り広げている限りで、そんなことを自覚できるわけもなく、そういう行為が世の中に蔓延し出すと次第に精神の荒廃した雰囲気が醸し出されてきて、それに呼応して多くの人たちが世も末だと思うような成り行きになれば、まだ救いがあるのかもしれないが、世の中の多数派を構成する人たちはそうは思わないだろうし、またそうした弱い者いじめ的な批判を繰り返している人たちも、結局はその場で主導権を握っている強い側に媚びないと、そもそも主要なメディア上でそんな批判をさせてもらえないだろうし、そうなると自然な傾向としてまずは批判しやすい人たちを重点的に批判するような成り行きになってしまうのではないか。しかもちょうどよく批判しやすい手頃な対象が、一般大衆の中から出てくるわけで、そういう手頃な批判対象となる人たちは、一般的にいって空気を読めない人たちであり、空気を読めないことを自覚できずに、自分ではまともな意見を主張していると思い込んでいるか、あるいは思い込んでいるふりをしているわけで、目立ちたいがためにふりをしている人たちはわざと批判されることを望んで、そういう空気を読めない演技をしているわけだが、一般の人たちにそれの見分けがつくかといえば、そんなのはどちらでも構わないようなことであり、攻撃対象としておもしろければいいわけで、結果的に何か話題になるような人に対して攻撃が仕掛けられて、それが実際に世間で話題となって、その話題をみんなで共有できれば楽しいだろうし、そうであればあまり悲惨な状況とならない程度にとどめておくのが大人の対応となるだろうし、その辺のさじ加減が巧妙なら、それなりに話題となって、その話題をそれなりに長引かせることに成功すれば、それだけ楽しい気分も長引くだろうし、そうなれば攻撃する側もされる側もそれを見ている傍観者たちも、それなりの満足感を得られるわけだが、一通りそんな話題で騒いでそれが自然に収束すれば、また次の手頃なターゲットを探す成り行きになるだろうし、そうやってほどほどのところで調和や均衡が保たれている状態が、そこで主導権を握っている側にとっては望ましい状況だろうし、自分たちが手を汚すことなく、次から次へと話題性のある犠牲者たちが登場して、ほどほどの攻撃目標として世間の話題をさらうような成り行きが繰り返される限りで、結果的に世の中の安定が実現することになり、それが偶然を廃した予定調和の必然性が支配する大衆市民社会の実態なのではないか。


10月30日「世界の秘密」

 普通に考えて時間は過去から未来へと一方方向にしか進まないように感じられるが、意識は過去と未来の中間地点のように思われる現在から、過去を振り返ったり未来を予想したりしているわけで、そこに意識と感覚の間でずれが生じているわけだが、そのずれを感じて意識を感覚に合わせようとするか、逆に感覚を意識からもたらされる思考に合わせようとするかで、自らが体験しつつある世界の捉え方も、それなりに変わってくるかもしれないが、意識が世界をどう捉えてみても、それによって世界が変わることはないだろうし、ただ世界の見方や捉え方が変わるだけで、それによって世界そのものを変えることはできないわけだが、実際に人の活動によって世界が変わってきたことは確かであり、そうした活動の動機となるのが、期待や欲望などの幻想であり、意識が世界を見たり捉えたりすることによって、そこから世界への幻想の類いが生まれてくるわけだが、幻想は現在の世界だけなく、過去や未来へも及ぶわけで、そこから夢想される世界の過去や未来の姿が、現在以上に人の想像力を掻き立てて、そこに世界の秘密を解き明かす鍵があると妄想したりして、過去へ向かってはその痕跡を探し回り、未来へ向かっては、探し回って得られた過去の痕跡を繋ぎわせて、そこから世界の秘密を読み解こうとするわけで、そんなふうにして隠された秘密としての謎が解き明かされることを期待して、そんな夢想によって現にある世界から意識が遠ざけられてしまうこともあるが、しかも遠ざかった先にあるのが、現実の世界から夢想される世界のフィクションとなってしまい、それが世界そのものではなく、世界の模造品となってしまうことについては、妄想が世界に作用した結果として恣意的な歪曲や誇張などが含まれてしまうからだろうが、なぜそんな妄想を抱かせるかといえば、そこに謎や秘密があるように思われるからで、それらが解き明かされることを期待してしまうから、妄想の虜となってしまうわけだが、妄想の虜となって想像力を掻き立てられて、謎や秘密を解き明かそうとする動機から活動していくと、それによって世界が変わるとしたら、実際にどう変わっていくのかとなると、人の想像や幻想や妄想などが世界に作用することによって、具体的に何らかの物体が作られるのかもしれず、それが何らかの建造物であったり、あるいは設備や機械類であったりして、それらを作るのに使う資源や動植物などが、自然界から収奪されて、その収奪された痕跡が地表面などに刻まれる一方で、それらを利用することで新たに作られた建造物や設備や機械類などが世界のあちらこちらに出現することによって、実際に世界が変わったと実感できるわけで、それらと解き明かされるべき世界の謎や秘密とは、どう関係するのかというと、まず考えられるのは、なぜそれらの人工物が作られたか、という問いにつながる謎であり、それに対する答えはすぐに導き出されて、ただ必要に応じて作られたわけだが、それに対してはまたすぐに、なぜ必要なのか、という問いが導き出されるだろうし、そのなぜという問いにつきあっていくときりがないわけだが、人は妄想の中で問いに対する答えを想像してしまい、そこで期待される答えというのが、何かとんでもない内容であることを期待するわけで、世界の謎や秘密というからには、何かそこに人知の想像を絶するような物事が隠されていて欲しいわけだが、それを解き明かす鍵となるのが、過去の痕跡である限りで、当然それが人工物であることを想像させるだろうし、そうでなければ人以外の何らかの意志が作用して作られたものだとも想像されるわけだが、そうした自然とは異質なものの痕跡を過去に求めて、それがなぜどうやって作られたかが謎となって、そこに人知を超えた秘密が隠されていると空想するわけだが、それに関して期待する内容としては、現代を含む未来の人に向けたメッセージがそこに何らかの形で刻まれていて欲しいわけで、そのメッセージの内容を知ることが、謎や秘密を解き明かすことにもなると、それが世界の謎や秘密を解き明かせというメッセージそのものでもあり、過去の意志が未来へ向かって期待しているのも、そういった内容ともなるわけだが、肝心の謎や秘密の内容自体が、謎や秘密を解き明かせとなってしまうと、ただそれらが解き明かされる期待として循環するだけで、それらが具体的にそれら以外ではなくなってしまって、結局は謎は謎のままであり、秘密は秘密のままとなるしかないし、ただそれらを解き明かせというメッセージが延々と過去から未来へ向かって連なるばかりとなってしまうわけだ。

 そんな見え透いた仕掛けが世界中に張り巡らされているとは思えないだろうが、世界の秘密を解き明かせという謎のメッセージの内容を解き明かすことが、過去から未来へと託されたメッセージの内容でもあるとすれば、そこにはすでに問いと答えが同時に出現してしまっているわけで、それ自体には何の謎も秘密もありはせず、そうであればそんなのは罠でも何でもないだろうし、それが物事を動かして世界を変える動機となるとは考えにくいが、では実際に存在する過去の痕跡が何のためにあるのかとなると、単に過去の建造物などの残骸や遺構や、それを建造するに際して自然界から資源や動植物などを採取した跡なども残っていて、そこにそうした人の活動を示す痕跡があるに過ぎないが、そこに何か謎や秘密が隠されているとすると、それは考古学的な興味から出てくることだろうし、具体的には過去の時代の人の活動をその遺構から推察することが、考古学的な興味が解き明かすべき謎となるわけだが、それを解き明かすことによって何がわかるかといえば、それを現代と比較することによって、現代文明とのつながりが見えてくるだろうし、人の活動の形態が過去から現代に向かって、どのように変化してきたかを解き明かそうともしているだろうが、果たしてそれが解き明かすべき謎なのかといえば、考古学という分野ではそれも解き明かすべき謎の一つかもしれないし、実際にそれを知りたいと思っている人もそれなりにいるのではないか。実際にそう思っている人がいれば、それが解き明かされることを期待しているだろうし、興味のない人にとってはそんなのはどうでもいいことかもしれないが、たぶん考古学などに興味がある人にとっては、そうことに関心を抱くことが当然の態度であり、それを知ることがそれなりに価値のあることになるわけで、考古学などの分野に携わる人にとっては、そういう価値を共有することが、その分野に関わっていることの証しでもあるわけだが、一方でそれも世界の秘密を解き明かせというメッセージに重なる問いになるだろうし、そこから知り得た内容が問いに対する回答の一つになるもわけで、またそれは世界そのものを知るということにもつながってくるだろうし、この世界を知るということが、世界の秘密を解き明かすことにつながれば、世界の秘密とはこの世界そのものだとも言えるだろうし、世界そのものが秘密だからこそ、世界を知ろうとしなければならないとも言えるのかもしれず、実際に見たままで感じたままの世界であるはずなのだろうが、そこにどんな謎が隠されているのかとなると、見たままではなく感じたままでもない世界の真の姿が隠されているとも言えるだろうし、その隠されている世界の真の姿を掘り起こすのが考古学の役目だとも言えてしまうかもしれないが、では実際に見えていて意識が感じ取っている世界は何なのかとなるわけだが、それは世界の一面に過ぎず、確かにそれも世界の真の姿だが、それが全てではないということになるだろうし、この世界の全てを知ろうとしても、それは人知を超えることかもしれないが、できるだけ詳しく、人知の限界いっぱいまで知りたいとは思うかもしれず、それがその人の願望であり、そうした期待を抱いているとしたら、その人にとっての世界の秘密とは、この世界そのものだと言えるだろうし、それが何にしても、知るということは、必ずその対象が世界の一部を占めているわけだから、何を知ろうとしても、それは世界を知ろうとすることにつながって、それが世界の謎や秘密を解き明かせというメッセージとも重なるわけで、たとえそれがどのような些細なことであっても、何かを知ろうとすることが世界を知ろうとすることにつながってしまえば、何もそれが大げさで荒唐無稽な妄想でなくても構わないことにもなり、人は常に世界の謎を解き明かそうとしていて、隠された秘密を暴こうともしているわけだが、それがここにはないどこかにあるとしたら、探しにゆかなければならないだろうし、またそれに関する情報を調べて、その内容を理解しなければならないし、そういう物事を探したり調べたりする行為も、世界を知ろうとする行為の一部となるわけで、それが謎を解き明かして秘密を暴くには必要と思われるわけだが、その対象が世界そのものだとすると、また世界の一部が知ろうとしている自身でもあるわけだから、まさに自分を知ろうとすることが世界を知ろうとすることにもつながるだろうし、もちろん自身が世界の全てではなくその一部を構成しているものでしかないわけだが、少なくとも自分の中にも世界を知るための手がかりがあるわけだ。


10月29日「必然的な偶然性」

 世の中には誰もがやりたがらない劣悪な仕事があって、貧困などの経済的な事情から、強いられてそれをやらされるような成り行きが生じるわけで、そこにそういう仕事に関して需要と供給の関係が成り立つ限りで、そうした仕事がなくなることはないわけだが、それとは無関係な外部から、そういう仕事をなくすように仕向ける作用はあまり生じないだろうし、そういう仕事はそれを取り巻く様々な事情や必要から、生成したり消滅したりするのだろうが、そういう仕事をやらされる身からすれば、そういう仕事がなくなるに越したことはないだろうが、実際にそういう仕事があれば、そこから利益が得られるから、その仕事が成り立つのであり、結果的にそれが必要だからそういう仕事があるわけだが、そうなってしまう成り行きとしては、社会の中で役割分担として仕事が細分化してくると、その中で誰もがやりたい仕事と誰もやりたがらない仕事とに分かれてくる可能性があるだろうし、誰もがやりたい仕事を誰もがやろうとしても、実際には仕事に限りがあるから、それだけ競争率が高くなっていって、結果的に誰もができるわけではなくなって、それをやりたいのにできない人は仕事にあぶれてしまうから、仕方なく別のやりたくないような仕事をやらざるを得なくなり、またそのやりたくない仕事の中でも、その条件や程度に応じて、やれるか否かの許容限度が生じて、我慢すれば何とかできる仕事と、どうしてもやりくない仕事との間で細分化が進んで、その中でも最低レベルのどうしてもやりたくない仕事のやり手がいなくなってくるだろうし、よほどのことがない限りはそういった仕事をやる人はいなくなり、結局は食うためにはそういう仕事をやらざるを得ないような人たちが、嫌々やるような仕事となっていくわけだが、そもそも富の蓄えがあれば仕事などやりたくはないのかもしれず、仕事をやらずに遊んで暮らしていければ、それで構わないような成り行きもあるだろうが、普通は初めからそうはならないから、まずは仕事をして富を蓄えてから、蓄えた富を使って遊んで暮らしていければいいわけだが、誰もがそうはならないだろうし、短期間で遊んで暮らしていけるほどの富を蓄えられる人はそう多くはなく、ほとんどの人たちは、老人になるまで長期間にわたって働く成り行きになるだろうし、それも程度によるだろうが、現状では人生の大半を仕事に費やすような成り行きになっているわけで、そんな成り行きに応じて社会も構成されているだろうし、そんな社会の中でも主導権を握っているのは、やりたい仕事をやっていると思い込んでいる人たちであり、その反対にやりたくない仕事というのは、一般的に言って蔑まれる傾向にあるだろうし、また価値がないから魅力もなく、主導権を握れないから不満が溜まるだろうし、だからなるべくならやりたくない仕事となるわけだが、その中でやりたくない仕事をやりながらも、そこで行われる競争に勝てば、価値が高くて魅力もあり、それをやることによってその場の主導権を握れるような、やりたい仕事ができるようになれば、そんな競争に参加する人たちは納得するしかないだろうが、そういう競争も、結果的に大半の人たちが競争に敗れて、それらの人たちにやりたくない仕事をやらせるための制度となっている面もあって、だからと言ってそれも、多くの人たちの許容限度の範囲内で成り立っている制度であれば、そういう制度が維持されていくわけで、そんな制度によって現状の社会も成り立っているはずだが、結局はそれが成り立つ範囲内で制度の内容も質も程度もそれなりに変動していくわけだ。またそれに関連して政治的な問題も生じてくるだろうし、制度を政治の領域でどういじってみても、最終的には実情を追認するような流れとなり、それなりに情勢の急激な変化に対する歯止めや制限を課すのが制度の役目であるにしても、なし崩し的に変化することに関しては歯止めにも制限にもならず、逆になし崩し的な世の中の変化に対応して、制度自体を変更するような成り行きとなっていくのではないか。そしてそうなっていく過程において、社会に様々な軋轢や対立が起こって、そうした出来事への対応に関しても、政治的な活動が伴ってくるわけだが、それが公的な制度を維持しようとする行政と、実際に変化し変動していく社会情勢の間に立って、調整を行う活動となってくるだろうし、それに伴って民衆の不満を和らげたり、時にはなだめたりしながらも、なし崩し的な社会の変化に対応して、それらの変化を建前では肯定できるように、制度や法律などに変更を加えていくことになるのではないか。

 もちろんそこに関係してくる人や集団の思惑を外れるような成り行きを常に伴うから、誰もが予期しないような社会の変動が起こるわけで、だから人々が思い描くような未来などやってくるわけがなく、そんな事態に直面しつつも、人々はいつも結果から原因を突き止めて、そこから導き出された原因と結果の因果関係を、そこで起こっている現象に当てはめて安心しようとするわけだが、その一方で安心するのと引き換えにして見落としてしまうのが、そうはならなかった可能性であり、たまたまそんな結果が出たに過ぎないのに、それを必然的な結果とみなしてしまうから、そんな結果に対応して制度を修正しようとするのだが、そうやって修正を施していく先から、現状がそんな制度から外れていってしまうわけで、だからさらにまたそこで現状に合わせた制度に改めようとするのだが、現状がそこから外れる可能性などいくらでもあって、絶えず現状に合わせて制度を見直さざるを得なくなり、確かにそうやって制度としての体裁を保つことはできるわけだが、そんなふうに現状からもたらされる様々な紆余曲折が制度に反映してしまうのだから、結果的に筋の通ったつじつまの合うような制度とはならないわけで、だからこそそこから筋の通ったつじつまの合うような論理を用いて、制度を批判することができるわけだが、そのどちらにリアリティがあるかといえば、筋の通ったつじつまの合う論理を用いた批判ではなく、結果的に筋が通らなくてつじつまの合わない継ぎはぎだらけの制度の方であり、そうしたリアリティの伴わない正しい批判を行う人たちは、結果的に現状から外れていってしまい、それでも自分たちの保持している正しいフィクションの中で自閉しながら、批判活動をできる限りでやるしかないわけだが、そういう人たちはそもそもの始まりのところで、結果から原因が生じるという不条理を理解できないわけで、せっかく結果を詳細に分析して、もっともらしい原因を突き止めたのに、そこへ留まることができずに、今度は逆に自分たちの都合に合わせた原因を設定しようとするわけで、その原因というのが自分たちの都合を反映した理想の制度であり、それが論理的に正しいからこそ、そうした正しい原因としての制度を作って、それを社会の中に適切に設置すれば、自分たちの目論見通りの結果が得られると信じてしまうわけで、そこで見落としてしまうのは、偶然の成り行きとして結果が出たという事実であり、違う結果になる可能性などいくらでもあったのに、たまたまそんな結果が出たという事実を忘れてしまうから、自分たちの思惑通りの制度をこしらえれば、それが論理的に正しいからこそ、必然的に自分たちの思惑通りの結果が出ると考えて、そこで実際に起こる様々な物事の偶然の巡り合わせを考慮できないので、実際にそういう思惑が外れて思いがけない事態に直面して、最悪の場合には呆気にとられてそこで思考停止に陥ってしまうわけだが、結局論理的に思考する限りはそうなるしかないわけで、しかもそうやって制度を作っていくしかなく、そうすること自体が制度的な作業であり行為なのだから、そうするより仕方ないわけだが、だからと言って論理的に正しいと考えて行うことをやめるわけにはいかないわけで、そうやって現状を批判的に捉えて実際に批判しつつも、絶えず現状からしっぺ返しを食らって痛い目に遭いながらも、なおもそんなことをやらなければならないわけだから、どう考えても割に合わないことをやっているのは確かなのだが、要するにそういう人たちの犠牲を糧として世の中が回っていくことになるのだろうし、論理的に思考して現状に立ち向かう人たちは、そういう自覚のあるなしに関わらず、自らが犠牲者となることを引き受けているわけだろうし、そういう人たちを社会が受け入れる余地があろうとなかろうと、やはり社会にとっては必要不可欠な存在なのかもしれず、そういう人たちが自ら進んで過ちを犯してしまうから、他の人たちが安心してそうした人たちの屍を踏み越えて前進しているつもりになれるのかもしれないし、実際に前進しているか否かは定かでないとしても、役割分担として先導役として進んで躓きの石に躓いてしまうのだから、後から続く人たちは、そこから何らかの教訓を得られるだろうし、それが人によっては気休めにもならないとしても、少なくとも思考作用やそこからもたらされる思考内容の確からしさやもっともらしさを過信してはならないとは悟れるわけだ。


10月28日「判断の正しさ」

 何かを判断する時には、判断に使う材料を、それを判断する度に、その場の情勢に合わせて変えてゆかないと、正確な判断ができないはずだが、わざとそうしているわけではないにしても、何らの事情でそれを怠って、あるいは確信犯的に、いつも同じ判断材料を使って、何でもかんでも判断してしまっていることに気づかない場合もありそうで、それに関して、まずは判断する以前に、自らの固定観念や先入観を周到に退けておかないと、それが作用してしばしば躓きの石となってしまうわけだが、そもそも自分の固定観念や先入観に気づいていない人が多いだろうし、それはいつも同じ判断材料を使って、何でもかんでも判断することによって、自分の固定観念や先入観を補強しつつ正当化する行為にも表れていて、それ自体が自らへの過信そのものなのだが、そうした自らの判断を過大に肯定する行為は、自意識過剰な人に特有な習性かもしれないが、そうでなくてもしばしばそうなってしまうだろうし、それだけに自らの判断への過信は禁物なのだろうが、他に判断を仰げるような信頼できる人が周りにいなければ、自分で判断するしかない状況となってしまい、そういうところで判断ミスを犯してしまうのかもしれないが、そこで具体的に何をどう判断するかに関して、重要なことを判断する時には、それなりに慎重になるだろうが、軽い判断ならいちいち他人に相談することもないわけで、それが軽い判断か重い判断かを判断する時にも、判断ミスを犯す危険があって、そんなことを考えていくときりがないかもしれないが、何をもって判断ミスとみなすかについても、判断した結果から判断するしかないだろうが、たとえ判断ミスを犯したところで、結果オーライでそれで構わない場合まであるわけだから、そこまで考えてしまうと、さらに判断することに関して混乱するばかりかもしれないが、たぶんそこで何をどう判断しようと、そこからまた状況が変わってくれば、その判断をその都度改めざるを得なくなって、場合によってはそれ以前の判断を撤回したり、改めて暫定的な判断を下すことにもなるわけで、そういう状況の中では、いちいちその時点での判断の正しさなどにこだわる必要はないのかもしれず、とりあえずその場その時で暫定的な判断を下しながら、その先へと進んで行くしかなく、それが正しかろうと間違っていようと、そんな結果に応じて、それによってもたらされる状況に対処していくだけのことであり、そんな判断と判断からもたたらされた結果への対処の繰り返しによって、活動が成り立っていて、そんな活動自体がそうなっている限りで、絶え間ない判断と対処の循環以外の何をもたらしているわけでもなく、そんなことをやっているうちに、結局は何をどう判断したらいいのかわからなくなってくるかもしれないし、何をどう判断したところで、そんな判断に対する疑いや迷いがかさんでいくばかりかもしれないが、たぶんそれで構わないのかもしれず、そこで自らが巻き込まれている事態や状況を把握するには、それをどう捉えるかに関して疑いや迷いがないと、絶えずそれをやり過ごしてしまいかねず、それに対していちいち疑問や疑念を抱くから、それが考える対象となるわけで、それについて考えるから、考えた結果として、何らかの判断が伴ってくるわけで、そうでなければ特に判断を下すこともなく、それをやり過ごして忘れてしまうような成り行きになってしまい、別にそれで構わないなら、特に物事に関して考える必要もなく、それについて考えているという意識を経ないで活動していくことにもなるだろうし、そうした活動からもたらされるのは、ただその場で生じている成り行きに従っているだけのことになるわけで、要するにその場を支配する空気や、そこで主導権を握っている人や集団の意向に盲従するような事態を招いてしまうわけで、それで済むなら、自分から積極的に判断するようなことにはならないだろうし、そうした他への依存体質が身についてしまえば、その場の環境の一部となってしまい、そこに自己が存在していないことになるわけで、そして自己がなければ判断もなく、判断しなければ対処も不要で、さらにそうした成り行きから抜け出る必要もなく、それについて改めて振り返ることも考えることもないまま、ひたすら自らを先導する何かに付き従うようにして、誘われている状態の中に埋没してしまい、それが何を意味するわけでも感知させるわけでもなく、ただそうなっていることを確認する必要もない状況の中で漂い、それが活動の全てなら、特に何の問題もないのかもしれないが、そもそもそれを問題とみなす自己が存在しないのだから、それについては何も判断しようがないわけだ。

 だからそこで判断する必要が生じるということは、判断する対象へと積極的に関わることにを意味していて、判断しなければならない事情が生じているわけで、そうした意識できる判断対象があること自体が、その対象がそれについて判断する人にとって重要な物事だと認識されるのだろうが、判断がうまくいけばその対象との関係が良好になり、判断を誤れば対象との関係が悪化することにもなるわけで、その人にとってそれが重要な関係であれば、関係を良好に保つには判断を誤るわけにはいかないわけだが、そう判断するには、それとは別の関係との兼ね合いが絡んでくることもあり、どちらの関係を優先させるかとか、あるいは両方ともに重要な関係であるのに、その両者が敵対関係にあると、その間で板挟みとなって判断がつかなくなってしまう場合もあるだろうし、またいくらでも判断のしようがある場合には、それらの中で何が正しい判断だとも言えなくなってしまうかもしれないが、結果的にうまくいけば、それが正しい判断だとも言えるわけだが、その結果についても、どう判断してみてもうまくいく場合もあるかもしれないし、逆にどう判断してもうまくいかない場合もあるかもしれないし、そうなれば結果からも何が正しくて何が間違っているとも言えなくなってしまい、さらに判断してもしなくても構わないような状況もあるのかもしれないし、それが重要な関係だと思っていたのに、その対象となっている人や集団の方ではそうでもなかったりして、そうなってくると重要だと思っている方が何をどう判断しても、判断の対象となっている側では、そんなのはどうでもいいことであったりするわけで、その辺でも判断にずれや度合いの違いが生じてきて、その判断が正しいのか間違っているのかさえ定かでないような状況も生まれてくるわけで、一般的に結果に勝敗が伴ってくれば、勝った方の判断が正しくて、負けた方の判断が間違っている場合が多いだろうが、その場ではそうであったとしても、そこからしばらく時間が経ってみると、その場での勝ち負けなどどうでもよくなってしまうような状況も生じてきて、そこで勝ってしまったばかりに、その後にそのことが災いしておかしくなってしまう場合もあるわけで、その逆の場合も含めて、様々な事例が歴史上には示されているだろうが、そうした歴史上に示されている結果を現状で生じている事例に当てはめて判断する際にも、その場ではうまく説明できることもあるかもしれないが、それが後になって説明がつかないような結果を招く事態も出てくるだろうし、何かと言うとすぐに過去の事例を自分の説明に都合がいいように解釈しながら、その後になって以前の説明ではうまくいかない事例が出てくると、また性懲りもなく同じ過去の事例を使って、その時とは微妙に違う解釈を後から付け足したりしながら、結局は現状の成り行きや結果に合わせて過去の事例を都合よく解釈しつつ適用して、さらにそんなお粗末な解釈を行なっている自らを正当化したいがために、歴史を弄ぶようなことを平気でやっているのに、やっている当人がそのことに気づかない場合まであるわけで、それが娯楽の類いであればある程度は許されるのだろうが、やっている当人がそのことに関して十分に自覚していないと、滑稽に見えてしまうわけで、そうした輩が偉そうに国や世界の政治や経済の現状を語りたがるわけだから、それを真に受けるわけにはいかなくなってしまうのが通常の感覚かもしれないが、たぶん世間的にはそれを真に受けても構わないのであり、その手の内容に関してはそんなふうにしか語れないのかもしれず、それ自体がそれ以上を求めるわけにはいかないジャンルであって、そういう現状分析の類いが、分析自体の精度の確かさなど求めようのない特徴を示していて、人々がそれをもっともらしく思うこと自体が、過去の史実の恣意的な解釈を持ってしかそうは思われないのであって、そんなジャンルが成り立っていること自体が、いかがわしくも魅力的なフィクションから派生してきたことでもあり、実際にそんなことをもっともらしく語ってみせる作家の類いが、その作家の信奉者の意識にはそれなりに無視できない作用や影響を及ぼしてはいるのだろうが、それが必ずしも人畜無害とは言えない娯楽の類いであっても、またそうではなく真摯に受け止めるべき内容であるとみなされるにしても、それらをどう判断してみても、その判断の対象となっている国や世界の政治や経済の情勢には、大した作用も影響も与えていないのかもしれない。


10月27日「虚構の現実」

 たぶん公的な制度が不具合や欠陥のない完璧さを誇っている国など皆無だろうが、その制度的な不具合や欠陥を指摘することで、制度に対する批判が成り立っていることも確かだろうし、実際にそうやって批判している人はいくらでもいるのかもしれないが、その一方でそうした制度の不具合や欠陥を利用して利益を上げている人や団体もいくらでもいるのかもしれず、場合によっては批判するのが商売である人たちも、そうした人や団体に含まれるのかもしれないが、実際に公的な制度が不具合や欠陥だらけなら、年がら年中それを指摘していれば、それによっていくらでも批判することができて、そうした商売が繁盛するのかもしれず、そうなるとそれも制度の一部に入るのであり、そこで制度の不具合や欠陥を指摘する制度が成り立っていることになるのかもしれないが、現実にはそんなことがいくらでもできるわけでもなく、制度の不具合や欠陥にも限りがあり、またそれを指摘する人の能力にも限界があって、そんな限界から早晩同じような批判の繰り返しとなって批判がマンネリ化してしまい、飽きられて誰からも見向きもされなくなってしまえば、批判としての商売も成り立たなくなってくるだろうし、それでも制度の不具合や欠陥が放置されたままであるなら、そうなっている状態からも何らかの利益を得ている人や団体がいるのかもしれないし、そういう人たちからすれば、別にそれは不具合でも欠陥でもなく、むしろ制度の利点であるのかもしれず、制度に関してそれを欠点とみなす批判勢力と、その反対に利点とみなす推進勢力との間で、どちらの勢力が強いかで、その制度のありようが決まるのかもしれないし、それが現状での制度の実態を示していて、制度を批判する側が延々と制度の欠点を指摘しているのに、一向にそれが改まらなければ、そうした制度を推進している側にとっては、それは欠点ではなく利点であるとみなされていて、そんな自覚がなくても、少なくとも制度を推進している側は、自分たちにとって都合の良い制度にしようとしているだろうし、実際にそうなっているから制度を推進しているわけで、そうした制度によって世の中が成り立っているのなら、制度を推進する側にとってはそれで構わないわけで、少なくとも制度を推進している側はそう感じているはずであり、また制度を批判している側も、自分たちの批判が成り立っている限りで、延々と同じような批判を繰り返していられるだろうし、そこでも批判を含んだ制度が成り立っていることを示していて、それはどっちもどっちというよりは、結果的に両者がうまくかみ合っていると言えるのかもしれないし、そこで一定の均衡が保たれているから、批判する側と推進する側との間で、延々と予定調和の二項対立が演じられることになるわけで、それ自体が別にどうということはないわけだが、時には批判する側が推進する側に回ったり、その反対に推進する側が批判する側に回ったりして、そこで定期的に人員の入れ替えや勢力の再編成なども起こっているだろうし、また制度自体も一つにまとまっているわけではなく、複数の制度が複雑に入り組んでいて、それらが相互に作用や影響を及ぼし合っているわけで、その中で何を批判して何を推進するかによって、批判する側の中でも推進する側の中でも、意見や見解などが各人で異なっていて、それだけ立場や境遇に違いがあって、批判勢力も推進勢力も一つにまとまることはあまりないわけで、それらの勢力の中でも、連携関係や協力関係や対立関係や敵対関係などが複雑に入り組んでいて、その中で何をどう批判して何をどう推進するかで、勢力の離合集散が起こっているとも言えるわけだが、それも外側から傍観している限りでそんなことが言えるだけだろうし、実際にその渦中に入って、それらの批判や推進に対して、何を批判して何を推進するかに関しての、自らの立場をはっきりと示すような成り行きになってみないことには、個々の事例に関しては何も言えないわけだが、別に興味がなければ無理に論争に加わる必要もないわけで、実際にそういったことに関して利害関係を感じられないようなら、無関心になるしかないだろうが、それが公的な制度に対しての距離の取り方にも関係してきて、自らが利害を感じられる範囲内で、そうした制度への批判や推進に関わろうとする気になるわけで、実際にそれ以上に関わるような成り行きにはならず、そこから義務や強制などが生じない限りで、制度と自身との間でフラットな関係を保っていければ、それなりに冷静な態度でいられるだろうし、適切な対応や判断ができるのかもしれない。

 だがそうやって世の中の制度との間でそれなりに折り合いをつけられるとしても、それで全てが片づくわけでもないだろうし、絶えず公的な領域との関係で、個々の問題に対して自らの立場を確認しておく必要があるかもしれないが、それも年がら年中公的な領域に関わろうとする必要も生じないかもしれないし、必要に思われる時だけ関わろうとすれば済むことかもしれず、そこで関係する物事の有効性や必要性も限られてくるだろうし、それに関係する活動の有効性や必要性もそれなりに限られてくるわけだが、そうした限定的な領域での活動の中で、政治的な行為が生じるのかもしれないが、少なくとも世の中の全ての領域の全ての物事にわたって政治が関係してくるわけでもなく、その中のほんの一部分で政治が機能する余地が生じるのだとすれば、それに関していくらメディア上で政治的な宣伝や煽動が行われているとしても、その有効性や必要性もそれなりに限られてくることは確かだろうし、世の中の全ての面にわたって政治的な宣伝や煽動が機能しているわけでもなく、そうであるならそれをいちいち批判的に捉えることもないだろうし、その大半は聞き流すにとどめておくだけで済んでしまうことかもしれず、実際にそうなっていれば、そこから主体的に何をどう判断する必要もなく、必要に応じて判断するとしても、義務や強制などを伴わないような判断となるだろうし、実際に関心がなければそうしたことに積極的に関わる成り行きも生じないわけだが、宣伝や煽動をやっている側も、無視される分にはどうすることもできないだろうし、実際にそういう面では無力である他ないわけだが、実際にそういう面に関して放って置かれると、そのままで構わないような成り行きになってしまうのかもしれず、そのままで済ませてしまえばいいことになれば、そこで政治の出る幕などないだろうし、いちいちそんなことにを気にする必要もないわけで、かえって気を遣うと、そこにつけ込まれて何やら作用や影響を及ぼされて、政治勢力が仕掛けてくる罠にはまってしまうわけだが、実際に政治的な行為などに関わり合うのもその程度にとどめておくべきことかもしれないし、そうなっている限りで世の中の平静が保たれているわけだろうが、そうした部分的で限られた政治に関する作用や影響を強調したり誇張して捉えてしまうと、世の中とそこに暮らしている民衆との関係がぎくしゃくしているように思われてくるわけで、そうなるとほどほどの関係から外れて、全面的な関係を構築しようとするから、それに伴って強権的な手続きや権力の行使が必要となってくるわけで、それが嫌なら、絶えずそうした方面での気遣いが欠かせないわけだ。また気遣うとは具体的にどういうことかといえば、選択できる範囲内で政治勢力との間で無用な偏りが生じないようにすることだろうし、それが民衆にできるかというと、制度的に限定された範囲内でそんな選択を行うしかないだろうし、できる範囲内で他の多くの人たちと連携や協力が行えるような運動に参加すればいいわけだ。それは何も特定のはっきりした運動を伴うことにこだわらなくても構わないだろうし、その大半はほんの些細な意思表示を行えば済むことでしかなく、そういう意味でメディア上で大げさな意思表示を行う必要もなく、ただ選べる範囲内で人を選べばいいわけだ。そしてその際に、大げさな意思表示を行なって同調や支持を求めてくる勢力に従う必要もないわけで、そこで主導権を握ろうとする人たちにも従う必要もないだろうし、できればそうした同調圧力から外れるように心がけていれば、それなりに冷静な判断ができるだろうし、何よりも結果にこだわる必要もないわけで、目先の利害にこだわらずに長期的な視点で物事を判断できれば、自ずから結果がついてくると期待すればいいことでしかなく、別にそれが期待外れに終わっても構わないだろうし、そうなればまた次の機会がやってくるのを待てばいいわけだ。現状からわかるのはその程度のことであり、世の中への政治的な作用も影響も限定的なものだと捉えるなら、事を深刻に受け止める必要はなく、それ以前に実際に多くの人が生活している現状を踏まえるなら、どう考えてもそれ以上にはならないだろうし、それ以下でもないはずだが、メディア上で蔓延している誇張表現を真に受ければ、そうではないような気になるとしても、実際にメディア上で語られていることが現状の全てではないことは、誰もが承知していることでもあり、その中のほんの一部分が拡大解釈されて伝えられていることでしかないわけだから、そうしたことを踏まえておくなら、現実の世界がメディアによって突き崩されるわけではないことも理解できるのではないか。


10月26日「価値の本質」

 やっていることに価値があると思われるには、その価値というのが何を意味するかによって、価値のあることをやろうとする、あるいはやっているつもりの人が抱く、価値に対する期待や幻想の内容によっても変わってくるかもしれないが、一般的にいって、それが世間が認めるような価値であるなら、価値があることをやっている自らの存在を世間が認めてほしいと思うだろうし、もっと単純に、価値のあるものを所有することで、自らが所有する価値のある何かを世間に向かって誇示したい気にもなるだろうが、それだとやっていることが単に富を蓄えることになるわけで、その蓄える富の質の高さや量や規模の大小で、やっていることのすごさも変わってくるだろうが、やっていること自体はありふれたことであり、富を蓄えること自体は誰もがやっていることだから、行為自体には大して価値がないともいえるわけだが、結果として蓄えられた富の質や量や規模が甚大だと、それらが資産としての金額で価値が測られるわけだから、それ自体に価値があることは確かであり、そうなるとやっていることというよりは、やった結果としての状態に価値があることになるわけだ。そこでやっていることとやった結果としての状態との間に差異があることは確かが、ほとんどの人はそんな差異など気にせずに、両者を同じことのように捉えているだろうし、実際に混同しても構わないようにも思われるわけだが、価値というのはいつも結果から判断されることであり、何かをやっている途中では、そのやっていることの価値を測ることはできないし、やっている人も、価値のある結果を残せることを期待してやっているわけで、そうした願望として価値が生じることを信じながらやっているわけだから、まだその時点では価値があることが他には認められていないだろうし、ただ自分がそれを信じている段階であるとすれば、価値のあることをやろうとすることは、価値を獲得する未来を目指していることになり、それが何かをやる目的ともなるわけだが、少なくとも目指している段階ではまだ価値を獲得していないわけだから、価値を獲得できることを信じながらやるしかないわけで、その信じている段階で、価値のあることをやっていると思い込むのであり、それがそう思い込んでいる人にとってはそうであるにしても、思い込めない人にとってはそうでもないわけで、そこで思い込める人と思い込めない人との間で、やっていることの価値の有無に関して見解が分かれるわけだが、そこで信じる姿勢を強めすぎると、他から見ればどんなに些細でどうでもいいように思われる行為だろうと、それをやっている当人にしてみれば、やり続けていればいつかきっとすごい価値を獲得できるに違いないと思い込めれば、いくらでも価値のあることをやっているつもりになれるわけで、それがやっていることからもたらされる期待や幻想としての価値なのだが、それをどこまで信じ込めるかとなると、周囲の状況によって思い込みの程度にも差が出てくるだろうし、それに関しては一人で思っているよりも集団で思っている方がより確信が持てるだろうし、それが集団としてやるような行為であれば、集団内の他の構成員も価値があることだと思っているようなら、その価値に関しては、そう思っているのは自分だけではないことを実感できるわけで、それだけ価値があることを信じやすくなれるわけだが、逆に集団内でやっていることに関して否定的なことを言う人が多いほど、価値があるとは信じられなくなってくるだろうが、また集団内での地位や役割分担に応じて、価値の高いことをやっている人と価値の低いことをやっている人という区分けや格差が生じてくる場合もあるわけで、そうなるとそこで価値の高いことをやれるような地位や役割を目指して競争が起こるだろうし、それが集団としての活動を活性化させることに寄与する場合もあるが、かえって価値の低いことをやらされている人たちのやる気を削ぐことにでもなれば、逆効果となる場合もあるだろうし、そういうところで集団の全ての構成員を価値のあることをやっている気にさせるには、それなりに工夫が必要となるわけで、それに関しては、やっていることが個々のパーツに分離しているわけではなく、全てが一体化していて、しかも全体として何か一つの目的としての大義のためにやっていることだと規定して、集団の全ての構成員がその大義としての意義を信じることができれば、誰もがその大義のために献身的に尽くすようになるだろうし、そうなればその集団の全ての構成員にとっては、その大義のためにやっていることが至上の価値となるのではないか。

 そしてその大義というのが、人が生きている期間よりもはるかに長い、それを達成するのに数千年の時を要するような大義であれば、それに比べて現状がどんなに悲惨であっても、いくらでも我慢することができるかもしれず、それが宗教などの集団的な活動が目指す大義でもあるわけだろうが、その崇高な大義のために死ねるとか殉じる覚悟であるとか、そこから大げさな幻想を抱くことができるかもしれないが、そうした崇高な感覚というがまやかしと紙一重であることも、価値に関する思い込みとしては、その幻想や幻覚の度合いを高めるだろうし、実際に自らが生きているうちには達成できないようなことにその身を捧げる覚悟が生じるということ自体が、その人が現に体験しつつある現実から遠く離れたフィクションの領域へと誘うような作用を生じさせるだけに、それだけ価値に関する不確実さが増していることにもなるわけだが、それと同じようなことが、国家百年の計とか言われるような未来への予測に基づいた指針などにもいえるのかもしれず、今から数十年後の人口予測に基づいて、これからやるべきことを決めるようなことが、果たしてリアリティを持つかと問うなら、現状の立場や境遇がどうであれ、実感など湧いてこないだろうし、それもほとんどフィクションの領域で語られることでしかなく、一般の人たちにそんなことを真に受ける必要があるかというと、たぶんその必要のない人が大半であり、そういう意味で、集団としての枠組みが大きくなるほど、その規模が拡大していくほど、何か冗談のようなことが本気で受け止められてしまう危険性が高まるのかもしれず、そうした大きな枠組みを対象とした宣伝や煽動を真に受ける人が多いほど、現状を無視した、後の時代から振り返れば非現実的な幻想が、その時代の世の中を覆っている可能性が高いのかもしれないし、実際にその手の奇想天外で馬鹿げた未来予測が、これまでにもいくらでも流行ってきた歴史的な経緯もあるだろうし、もちろん実際にその時代の世の中で流行っていたのだから、その時代の一般の人たちはそれらを真に受けていたわけで、だから後の時代である現代から振り返れば、そんなことはどうということはないのかもしれないが、それは現代に生きている人たちにも言えることであり、後の時代から振り返ればどうということはない未来への展望や予測を真に受けて、そこから生じるどうでもいいような幻想を抱きながら生きているわけで、それでも普通に暮らしている現実があり、今後も現状の延長上で事が推移していくのをそれなりに体験できるし、それを実感もできるだろうし、確かに何事も起こらないわけではないが、少なくともそれは未来への展望や予測とは違ったリアリティを伴って体験できるだろうし、そこでそれらの展望や予測を覚えていれば、それが昔流行った取るに足らないどうでもいいようなことでしかなかったのを実感できるかもしれないが、もちろんそんなことを覚えている人は稀だろうし、ほとんどの人はそんなどうでもいいことなどすぐに忘れてしまうだろうし、要するにそこで未来への展望や予測などを真に受けるということは、すぐにそんなことなど忘れてしまうという現実をもたらし、それが一般の人々が身につけたその手の宣伝や煽動などへの対処法だとも言えるわけで、そうなってしまう限りで、実質的に世の中の安定を保っているのは、そうした対処法を身につけた一般の人々だとも言えるわけで、一見その場で主導権を握っているのは、その手の宣伝や煽動などを仕掛ける側にあるように思われるだろうが、実際には一般の人々の気晴らしのネタとして、そうした宣伝や煽動などを仕掛けている実態があるわけで、しかもその場で主導権を握っているつもりの人たちが、ただ一般の人々の求めに応じて媚を売っているだけのことに気づかず、自分たちの主導で一般の人々を自分たちが求める未来へと先導しているつもりになってしまうわけで、その辺の感覚に関して落差を感じ取れないから、それらの人たちはそうした一過性の流行現象の中に埋没してしまい、そんな流行現象の終息とともにそれらの人たちの存在も、時代の変遷や歳月の経過に従って忘れ去られてしまうわけだが、そんな現象自体が、そんな宣伝や煽動をやり過ごすための儀式と化しているわけで、それが皮相上滑りの感を免れないとしても、現状に及ぼされている実質的な作用を表しているのかもしれないし、そういうことの積み重ねとして現状の大衆市民社会が成立しているのではないか。


10月25日「自己への配慮」

 人がどんな境遇にあろうと、またそこで何をやっていようと、そこで行われていることの全てがその人に関係していて、また当人がやっていることに関して主導権を握っていれば、それなりに責任感を抱くとともに、当事者意識を持てるかもしれないが、他にも大勢の人がそれに関係していて、それに伴って行なっていることが複雑に錯綜して、その手順や手続きも様々に入り組んでいる状況の中では、個人としてはそのほとんどが部分的な関与に過ぎなくなってしまう場合が多く、特に集団で連携して協力しながら作業を行なっていると、それらの作業の何から何までが特定の個人が担当しているとも言えなくなってきて、個人が関与できるのはそれらの作業の中のほんの一部分でしかなくなれば、それに伴って権限も責任も限られてくるし、そこで何か不測の事態が起こった時でも、自分が直接関与していない部分でそれが起これば、自分のせいじゃないと思うだろうし、それを連帯責任のような言われ方をされれば、当然のことながら反発するだろうし、その分やっていることに対してある程度は無責任な立場でいられる場合も出てくるわけで、そこで自らの関与が部分的であるほど、時として他人に責任転嫁しても、それほど罪悪感も感じないだろうし、特にそこに身分や地位の上下関係があれば、上司が部下に責任転嫁するような成り行きも頻繁に生じるかもしれないし、そういう集団の組織形態の中での人と人との対等でない上下関係や部分的な役割分担などに起因して、やっていることに対する当事者意識の欠如がもたらされて、それに伴って責任逃れや責任転嫁が横行するような環境の中で生きていれば、別に一般的に言われるような社会人としての倫理観や道徳観などがなくても構わないように思われてしまうだろうし、それに関係して自らが時としてやってしまうかもしれない怠惰な対応や不公正な行為などに関して、やましさや後ろめたさも感じないようになってしまい、そういうところで利害関係に伴って生じる功利的な価値観に逆らうような倫理や道徳などの普遍的な価値観が機能しないと、その場が単なる利己的な損得勘定に支配された状況となってしまうかもしれないが、果たして本当にそれに逆らうようなそれ以外の価値観が必要かとなると、そういったものが必要に応じて生じて機能するのなら、自ずからそうなるだろうし、実際にそういう成り行きにならなければ、別に必要ではないことになってしまうのかもしれず、仮に必要だとしてもそれに気づかない場合もあるのかもしれないし、気づかないところで、それと意識することなくそうした対応が行われていれば、それによって功利的な価値観との間で均衡が保たれているかもしれないのだが、少なくとも気づかないよりは、できるだけ多くの人がそれに気づいた方がいいだろうし、多くの人たちが意識してそんな価値観に基づいた行為を行えば、それだけましな状況となるのかもしれないが、実際にどういう状況下でそういう価値観がもたらされてその場に作用するかというと、単純に考えるならそれは金銭的な関係以外の関係が生じる時だろうし、何でもかんでも金銭的な関係に還元されるような成り行きであれば、当然そこには金銭的な利害関係が生じるだけだが、それだけでは収まらない状況ともなれば、その程度や度合いに応じて他の関係も生まれてくるわけで、その余地がどれほどあるかは、その時の状況にもその社会のあり方にも左右されるだろうが、実際に金銭のやりとりによって、取り扱う物事のほとんどが処理できるような状況であれば、それで済んでしまうようなことにしかならないわけだが、それで済まないような事態になってくるとしたら、そこで他の価値観を持ち出してくるような成り行きになるだろうし、例えばそこで愛情や友情の関係が必要となると、そこに金銭を介在させると、かえって関係が壊れてしまうような事態も生じてくるわけだが、もちろん介在させるタイミングや度合いに応じて、その必要が生じてくるわけで、全面的にそれぞれの価値観が金銭的な価値観と対立することにはならないのかもしれないが、時と場合に応じてそれぞれの価値観のどれを優先させるかに関して、選択や調整や妥協などの判断が必要となってくるわけで、そこでも常に功利的な振る舞いを優先させるにしても、中には金の話を持ち出すと不利になるような状況もあり得るわけだから、そういう場合は金銭的な価値観から外れても功利的に振る舞っている可能性もあるわけで、金銭的な利益を捨てでも愛情や友情を保つことが自分の利益になると判断するなら、功利的にもそうすることになるだろうし、その辺で何が功利的であるかが問題となってくるわけだ。

 また何が功利的であるかに関して、そこで自己の利益を犠牲にしてでも優先させなければならないことがあるとすれば、さらに判断が複雑になってくるだろうし、そうなると自己を犠牲にして集団の利益を優先させるとか、他にも自己の利益も集団の利益も犠牲にしてでも他の何かを優先させるとかの、自己の範囲を大幅に逸脱した価値観も想定されてくるわけだが、そうなってくると何の利益でもないことを優先させても構わないような成り行きも考えられるし、普通はそんなことはあり得ないと思われるかもしれないが、時としてそれが価値からも逸脱した行為になってしまうかもしれないし、そこで判断する基準がなければ何でも構わないことになってしまうわけで、論理的あるいは合理的には説明のつかないことをやっているなら、そもそも価値など考えられないわけだが、そういうところですぐに功利的な損得勘定が働かない人にとっては、自己に関する価値観を意識する成り行きにはならず、もっと単純に他人が喜んでくれることを率先して行おうとしたり、他人が嫌がることはやめようとしたり、それを他人がやっていたらやめさせようとしたり、そういう無私の人が大勢いれば、それだけ世の中がうまくいくような気もするわけだが、実際にそんなお人好しな面はあまり世間的には評価されない現状もあるだろうし、それだけで生きていけるような世の中でもないのだが、それでもそんな私欲がないということも、様々な価値のうちの一つではあるわけで、そういう価値を利用する機会も、実際にそれによって助けられる機会もあるだろうが、また他の価値を利用する機会も、それによって助けられる機会もあるだろうし、世の中には様々な価値を体現する行為が様々にあるはずで、多くの人がそれらを効果的かつ適切に使いこなすことができれば、世の中もそれだけうまく回っていくのかもしれないが、その様々な価値の間でも優劣の関係があるだろうし、それもその場の状況に左右されることでもあり、またそれぞれの価値を体現する行為にも得手不得手があって、その場でどんな行為を行えばいいかも、その場の状況に左右されるだろうし、そうやってその場の状況に応じた行為を行う必要があることは確かかもしれないし、その場でどうすればいいかがわかっていれば、誰も過ちや誤りなどを犯すはずもないのだが、そこで何をどうすればいいかは、一概には言えないし、実際にわからないから、その場でこうすればいいと判断したことを行えば、結果的にそれが良かったり悪かったりするわけで、中には判断する余裕もなく直感で行なっている場合もあるだろうし、そういう試行錯誤の経験が多いほど、その場で適切な判断が行えて適切な行為を行えるかもしれないが、それでも社会情勢がめまぐるしく変わって、しょっちゅう何が良くて何が悪いかの判断も変わっていくような状況だと、そうした経験もすぐに古くなって、賞味期限が切れて世の中で通用しなくなってしまうだろうし、そうした面でもその場の状況に左右されてしまうわけだが、そうした価値判断については恒常不変の価値などないと思っておくしかなく、たとえ賞味期間が比較的長そうな金銭的な価値などの現状の世の中で支配的な価値を優先するように心がけても、それがそれなりに妥当だとしても、全てがそれだけで通用するわけでもないのだから、絶えず他の価値にも配慮できるような柔軟な態度や姿勢を保っておいた方がいいだろうし、またそれによって自己を優先的に配慮するのが自然な傾向になるとしても、時には他者を優先したり、さらに他の未知の何かを優先しなければならない事態になるかもしれないことにも備えておければ、実際にそうなった時にもそれなりに取り乱すこともなく、冷静な対応ができるかもしれないが、実際にそうなったとしても、またそこで何を優先させてもさせなくても、それなりに結果がもたらされて、そんな結果に応じて何らかの判断を迫られるか、あるいは何の判断も不要な事態も考えられるだろうが、そこからその場その時の判断に応じて、その先に待ち受けている状況も様々に異なってくるだろうし、さらにまたその先の状況の中でも様々に判断して、それに基づいて何かを行なったり行わなかったりするわけで、それらの判断や行為の全てを一つの価値に基づいて無矛盾に保つことなどできはしないだろうし、普通はその時々の状況に応じてそれなりのぶれを伴ってくるだろうし、それをいちいち過ちや誤りとみなしても気苦労がかさむだけだろうし、大抵は自らの力の限界を超える部分については、できるだけ気にしないように心がけるしかないだろうし、そう心がけている限りで平静を保つことができるのではないか。


10月24日「活動の継続」

 その場の状況の中で人や集団としての立場や境遇に応じた活動を行うことは、そうすることが正しいとか間違っているとかいう以前に、そうならざるを得なくなるとも言えるわけで、まだそれをやっている時点ではそれ自体が何を意味するわけでもないが、それが正しいか間違っているかは、何かをやった後からでしか判断することができないだろうし、もちろんやりながらも絶えずそれを考えているのかもしれないが、それよりは具体的にそこで何をどう行うかが、そこで考えることの全てとなってしまうのかもしれず、そんなことをいくら考えてみても、実際にそこでやっていることが、人や集団としての活動でしかないわけだが、少なくともそこでそれをやっている時点では、そのやっていることが正しいか間違っているかは判断できず、実際にやってみた後からでないと判断する余裕は生まれてこないだろうし、判断する余裕が生じたところで、そこで正しい判断ができるとは限らず、やっていることはいつも暗中模索で試行錯誤の連続でしかないのかもしれないし、それを嫌って安心したければ、これまでやってきたことの延長上にとどまるしかなく、そうやって安心できたとしても、それでもそれが正しいとは限らないわけだ。だからやっていることの正しさを求めるというよりは、まずはその場の状況を考慮しないわけにはいかないだろうし、またそれと同時にそこに至った成り行きも考慮せずにはいられないわけだが、それらを考慮したところで、実際に行なっていることに反映されるのは、それ以外のこともいくらでも反映されているだろうし、ただ意識がそれらまでは捉えきれていないのであり、実際に自らが自らの思考も及ばないようなことを行なっている場合さえあるわけだ。だから意識も思考も実際に行なっていることに対して謙虚にならなければならず、そこで無理に意志の力によって主導権を握ろうとしたり、やっていることを制御しようとしてはいけないのかもしれないし、気に入らないからといって、やっていることを意識や思考が妨害しようとしても、それらは全て失敗に終わるしかないだろうし、すでにそれをやっている時点で、自らの意志や思考の他にも、他の様々な作用や影響が周りから及ぼされていて、それらを自らが制御することなどできないから、もちろんそうした自らの行為に及ぼされる作用や影響などに逆らうこともできるわけだが、自らの行為がそれだけで他から独立して単独でおこなわれているわけでもなく、自らの力が及ばないところから、そうした作用や影響が及ぼされているのなら、それ自体を自分ではどうにもできないわけで、だから自分のやっていることが正しかろうと間違っていようと、他から及ぼされる作用や影響が正しく思われたり間違っているように思われる場合でも、それらの全てを自分の力で取捨選択できるわけがなく、半ば強制的に及ぼされるような作用や影響には歯が立たないだろうし、実際にそうしたことを意識するしないにかかわらず、それらを否応なく受け入れている実態もあるわけで、それを自分だけの責任で判断したり評価するのは、あまり意味のないことかもしれず、そうであってもそれらのほとんどは、そうしたことが行われた後から思考の対象となるだけで、そこに反省や教訓などの材料がいくらでも埋まっているとしても、やはりそうなってしまったこと自体を素直に受け止めないとまずいわけで、それを安易に否定したり、あるいは無理に肯定してみても、得るものは何もなく、たとえ自分がそれを失敗であったと判断しても、ただそうなってしまった成り行きを、他に向かって失敗談として語りながらやり過ごすぐらいしかできないわけだ。要するにそれをそのまま受け止めることが、何か困難でわかりにくいことのようにも思われるのだが、別にそれを改めてわかろうとしなくても構わないだろうし、ただ謙虚に現状を受け止める以外にないのかもしれないが、それでもそんな結果を踏まえて、その上でなおその場でできることをその先でやろうとするだろうし、実際にそんなことをやっているから現状がもたらされているわけだが、しかもそうすることがそこから先へと物事を進めていくことにもつながっていくわけで、少なくともそこから活動を継続させるには、絶えずそんなことをやっている現状を肯定できるように活動の内容を修正し続けなければならないわけだ。

 そして結果的に活動の継続が実現されていることが、そんな活動を許している周囲との力の均衡をもたらしていることにもなり、そうした均衡状態もいつまでも保てるわけではなく、常にそれが崩れかかっているのを、かろうじて支えて持ちこたえているにすぎないのかもしれないが、結果的に持ちこたえている現状を肯定できるにしても、それもそんな現状をありのままに受け止めるしかなく、そこから現状よりももっとましな状態を夢想するのも気休めにしかならないだろうし、そんな幻想を抱いていることもそのまま受け止めておくしかなく、それがどうということはないのだろうが、その何でもないような感覚から離れようとしても、現実逃避にしかならないだろうし、実際にそうなるとしても、意識も思考もそこにとどまっている状態から離れようとしているだけなのだが、そこから離れて安易に理想を追い求めたり、やっていることの正しさを求めてしまうと、結局は現状を見失って、その代わりに現状ではあり得ない虚構へとのめり込んでいってしまうか、あるいは過去に遡って、実際には行われなかったその時点での正しい選択を、後悔とともに夢想することにもなるわけで、そうやって安易な現状への否定や否認とともに、現状から意識も思考も遠ざかっていってしまうわけだが、結局はそうやって現状を否定したり否認してしまう人たちが、現状についての無理な批判を行いつつ、無理な主張をしながら、無理な要求を行うことにのめり込んでいくわけで、それは現実から逃避して、その代わりに自らの思い描く理想状態の中で惰眠を貪っているだけかもしれないのだが、それでもそんな夢想の中に意識がとどまっている限りで、それなりに居心地がいいだろうし、その居心地の良さの中にとどまれるだけの社会的な立場や待遇も、世の中にはそれなりに用意されているのかもしれず、そうした立場や待遇の人たちがより多く生息できる環境であるほど、そうした人たちの社会的な負担を抱え込んだ格差社会になる傾向が強まるのかもしれないが、少なくとも富の蓄えが大きければ、その蓄えた富を利用しながら自由に振る舞えるのかもしれないし、その自由というのが、現状を否定して思う存分に現状とは違う虚構を思い描く自由であるなら、そうした自由には抗いがたい魅力があるだろうし、そんな魅力の虜となって夢の中に安住していられたら、さぞかし気分がいいだろうが、そこに格差社会が形成されていれば、ごく一部の人たちにはそんなことが可能だとしても、他の大半の人たちは絶えずそれとは正反対のみすぼらしい現実と向き合っていないと生きていけないだろうし、その向き合っている現実が、自らの夢とも理想ともだいぶ違う現実であれば、そんな現実を真摯にあるいは時として深刻に受け止めるしかなく、なぜ現実が夢とも理想とも異なるかについて考えざるを得ないだろうし、またそんな夢や理想をもたらしているのが何かについても考えてみないと、自らがそこに存在している現状についての正確な認識を導き出せないのではないか。実際にどこからそんな夢や理想がもたらされてくるのかを探ってみれば、たぶんそれがメディアからもたらされていることがわかるはずだが、なぜメディアがそうした夢や理想をもたらすのかといえば、メディアの方でも意識してわざとそうしているわけではないにしても、結果的には現実から目を逸らせるような作用や影響が及ぼされているわけで、現実ではあり得ないというわけではないにしても、これから目指すべき理想としての夢の世界へと人々を誘い込もうとしているわけで、別にそれが現実から目を逸らす口実であるわけでもないのだが、今体験しつつある現実としてのありのままの現状よりも、夢としての理想の世界を思い描いている方が心地良いだろうし、何かそこに今よりも良くなる可能性を夢想できるわけだが、夢想してそれを目指すことが、現状を支えている様々な制約や制限を忘れさせることになるのなら、やはりそんな夢は現実離れしていて、現実逃避以外の何ものでもないわけだが、つまり少なくとも現状を現状たらしめている条件としての制約や制限をどうにかしないことには、理想には近づけないだろうし、実際に制限や制約をどうすればいいかとなると、それを示せなければどうにもならないわけだが、それをどうにかできるのかとなると、現状ではどうにもできていないから現状があるわけで、それとどうにかしようとすることと、夢や理想を思い描くこととの間がつながっていないから、現状が現状のままに存在しているわけだ。


10月23日「不条理な成り行き」

 そもそもそれをそう認識できるか怪しいところだが、少なくともやっていることが不合理であるなら、それを合理的なやり方に直せるかもしれないが、それが不条理であるとなると、否応なくそうならざるを得ないのだから、それ自体はどうしようもないことであり、そうなってしまうのを変えようがないのかもしれず、その変えようがないことをいくら批判しても、無駄だと思われてしまうのも当然かもしれないが、それを批判せざるを得ないのも当然の成り行きだとすれば、それも変えようがないことの一部をなしていて、不条理なことを批判することも不条理に陥ってしまうわけで、それらすべてが予定調和の範囲内となってしまうわけだが、果たしてそれを免れることができるかというと、それができないからそうなってしまうのだとすれば、そうなってしまう状況や成り行きをいくら批判しても無駄かもしれないが、ではそれを批判しなければいいのかというと、それも批判せざるを得ないような成り行きに巻き込まれている人にはどうすることもできないだろうし、たぶんいったんそうなってしまった人をそれとは違うことをやるように仕向けるのは不可能なのかもしれず、そうなってしまった人たちはそのまま放置するしかないのかもしれないが、その一方で自らもそうした成り行きに巻き込まれないようにするにはどうしたらいいかとなると、そこから逃れられない状況の中にいるのなら、否応なくそうなってしまうとしても、たぶんそれに気づかないだろうし、気づかないままそうなってしまうのだから、逃れようがないわけだが、そんな逃れようがない状況の中でも、それなりに活動していけば、そんな成り行きに身をまかせることにしかならないのかもしれず、身をまかせている自覚もないのかもしれないが、そうなってしまうと自らの意思や意志には関係なく、ただそうした成り行きに囚われてしまっているのかもしれないし、そうなってしまった結果として、やりたいことと言っていることとやっていることなどが一致しなくなる可能性が出てくるのかもしれないが、それにも気づかない可能性があるわけで、要するにそこへと至る様々な紆余曲折を経て、周りからも様々な作用や影響を及ぼされながらやっていることが、自分の意思や意志に従ってやっていると錯覚してしまうわけだが、それを錯覚と捉えるのも間違っているのかもしれず、そういう意思や意志自体が、そこに至る様々な紆余曲折や周りからの作用や影響にさらされながら形成されているわけで、そういった物事が人の意思や意志をもたらしていると捉えるなら、自然の成り行きでそうなってしまうとしか言えず、それを後からどう捉えてみても、そういう捉え方がそれなりに正しいように思われるだけで、それ以外ではないのかもしれない。そしてそうなるのが自然な成り行きに思われるとしても、あるいは不条理に思われるとしても、それはそう思う人の都合を反映した思い込みであり、そうなってしまうことについては、そうなる可能性がある限りは、別にそれがあり得ないことではなく、そうなるについてそれなりに納得がいく理由が原因を見つけ出せれば、そうなるのが自然な成り行きだと思われるわけで、またそれが見つけ出せずに、しかもそう思う人の都合とは相容れない結果がもたらされるようだと、何かそうした結果には納得できないだろうし、さらにそこで道理が成り立っていないように感じられると不条理に思われてしまうわけで、そこに関係している人や集団の意思や意志や意向と、その場の成り行きが異なると、何か不自然に思われてしまうわけだが、しかも関与している人や集団の思惑通りには物事が推移せず、さらに思惑と実際の成り行きとの間で落差が著しいと、それが思いがけないことのように思われてしまうわけで、それがそのまま不条理な成り行きとはならないものの、少なくともそれを体験する人の思考から認識される道理や条理とは違う成り行きがもたらされているなら、やはりそれは不条理な成り行きだと思われるだろうし、そしてそんな成り行きが自然な成り行きとしてもあり得るなら、その人の思考から認識される道理や条理に適った成り行きというのは、自然の成り行きと比べてそれなりに限定されたものだと捉えられるだろうし、そうした道理や条理に適った成り行きというのは、そうなるような条件を満たさないとそうならないようなそれなりの限定や限界を伴った成り行きとなるわけだ。

 その道理や条理に適った成り行きというのが、その人にとっての理想的な成り行きであり、それがその人の都合が全面的に反映された成り行きであるとするなら、結局それはその人の意識の中で考えていることであり、それが他の人にとってそうでなければ、それはその人だけの思い込みに過ぎない場合もあるだろうし、それでは他の人たちや世間も認めるような物事の道理や条理に適っているとはならないわけだが、それが他の多くの人たちや世間でも認められているようなことであるなら、それなりにそうなることに関しては自然な成り行きとも一致してくるだろうし、道理や条理に適った成り行きが自然な成り行きとも一致してくるわけだが、そうであっても自然な成り行きの中には、それ以外の成り行きも当然含まれるだろうし、それが世間一般で通用するような道理や条理に反していれば、不条理な成り行きだと認識されるわけだが、だからと言ってそういう成り行きを否定的に捉えるのも、あるいは世間で通用する認識に反して肯定的に捉えるのも、それもその人の意識の中でそう思っていることであり、実際に起こっている成り行きを意識が判断してそういう認識に至るわけで、その人の意識が捉えている成り行きが、実際に起こっている成り行きのすべてであるとは限らず、その人が気づかない面や捉えきれない面もあるとしたら、あるいはその人は成り行きのある部分を誇張して捉えたり、またそれを恣意的に歪曲して解釈してしまったり、さらにその人の偏見や思い込みが作用して、成り行きを正確にありのままの姿で捉えられないとしたら、しかもそれらが世間から作用や影響によってもたらされているなら、その人だけなく他の大勢の人たちも似たような認識に至るだろうし、そういったことが作用や影響を及ぼして、自然な成り行きからはだいぶずれた恣意的かつ人為的な偏見を伴ってくると、一見自然な成り行きのように思われることが、実はそうでもないことにもなってくるわけで、そうなるとたとえ自然な成り行きであっても、人々の意識には不条理に感じられるだろうし、また不自然な成り行きであっても、そうなるのが当然のことのようにも思われてしまうわけで、逆にそう思わせることによって、特定の勢力が自分たちに有利な状況を作り出そうとしている場合もあるわけで、そういう面を考慮していくと、例えば世の中で特定の勢力が不自然に強大な権限や権力を振るっている状況があるとして、それを他の多くの人たちもそうなるのが当然のことのように思っているとしたら、そこで支配的な力を振るっている勢力によって、世間一般で通用している道理や条理が、その勢力が有利になるように恣意的に捻じ曲げられている可能性があるわけで、もちろんそういった勢力にとってそれは恣意的かつ故意に捻じ曲げているわけではなく、制度や法律に基づいて正当な活動を行なった結果としてそうなったはずであり、そうなるのも道理や条理に適った自然な成り行きとみなされてしまうのかもしれず、そうである限りで、それが不条理な成り行きだとはみなされず、少なくともそうした勢力が世間的な支持や賛同を得ている間は、そうした世間に同調する多くの人々の間でもそう思われているはずだが、それに本来の自然の成り行きから著しく逸脱する傾向があり、そうした傾向によって自然との間で様々な摩擦や軋轢を生じさせているようだと、いずれはそうした力の反作用によってそれらの勢力が権勢を維持できなくなって、何かのきっかけでその勢力の支配体制が崩壊してしまうと、それまでは当然と思われていた世間的な道理や条理が、全くの不自然で不条理なことのように思われてくるかもしれず、もちろんそんな極端な転換は歴史上でも滅多に起こらないことかもしれないが、そういう意味では一見そうなるのが自然なことのように思われる道理や条理に適った成り行きも、そう思われること自体が世の中の状況や情勢の変化に左右されることかもしれないし、たとえそれがその時点では不条理に思われるような物事の成り行きも、それを取り巻く世の中の状況の変化次第では自然な成り行きに思われるようになる可能性もあるだろうし、そうでなくても実際に多くの人たちがそういう不条理な成り行きを体験している実態があるとすれば、実際にそんなことが起こっていること自体が、そういうことが起こり得る可能性を実証しているわけで、たとえそれが不条理に思われようと、それなりのリアリティを伴っている限りで、そうした成り行きを体験している人たちに無視できない様々な作用や影響を及ぼしているだろうし、そうした作用や影響によってそれを体験する人たちの意識が形成されているわけだ。そしてそうなってしまうのがそれらの人たちにとっては思いがけないことであり、それ自体が不条理な成り行きなのではないか。


10月22日「批判の逆効果」

 現状の社会で行われていることの中で、何をどう捉えるにしても、恣意的に物事の一面だけを見れば、そこでつじつまが合っているように見えるとしても、意識してつじつまの合う面だけを見ようとしているのかもしれないし、たぶん物事はそれだけで成り立っているわけではないから、それに気づかないとしても、中にはそこでやろうとしていることがうまくいかずに、しかもうまくいかないなりにも絶えず試行錯誤を繰り返しながら行われている面もあるだろうし、またやっていることのつじつまが合っていない面があれば、そこでは何かが矛盾していたり、結果的に不条理な事態になっているかもしれないが、当然そういうところではやっていることがうまくいっていないように見えるわけだが、別にうまくいっていないからといって、そこで人や集団が活動している実態があれば、それはそんなうまくいっていない面を含んだ活動となっているわけで、やっていることのつじつまを合わせられないままでも、活動している実態があれば、そこに惰性が生じていて、そのままでも活動がなし崩し的に続けられる可能性があるだろうし、そうやって人や集団が関わっている物事には、うまくいっている面とうまくいかずに破綻している面の両面を伴っている場合もあるだろうが、それでもつじつまが合ってうまくいっている面が、うまくいかずに破綻している面をカバーすることで、全体としてはかろうじてうまくいっているように装うこともできるわけで、そんなふうにうまく帳尻を合わせて危うい均衡が保たれているとしても、それらの中でうまくいかずに破綻している面を強調して、それを批判するようなことも行われるわけだが、批判されながらも持ちこたえている状況があれば、批判をかわしきれていると言えるのかもしれないし、または批判そのものが活動を妨害しているわけでもないとも言えるわけだが、実際にそれに対して何をどう述べてみても、やろうと思えばいくらでも文句が言える反面、文句を言ったところで結果的に何がどうでもなるわけでもなければ、そんな文句など無視されていることにもなるだろうし、それだけでは他人のやっていることをどうこうできるわけでもなく、また何らかの権限を行使してそこへ直接介入するにしても、介入した結果がうまくいかなければ、今度は介入した側が批判されることにもなるわけで、結局はうまくいかないのにはそれなりの理由があって、むしろうまくいっていない方が、その場では好都合であるかもしれないし、それもそこに関わっている人や集団の立場によって変わってくるかもしれず、そこで何らかの対立関係があれば、ある立場の人にとってはうまくいっているとしても、それとは対立関係にある立場の人にとってはうまくいっていないことになる場合もあるだろうし、さらに対立関係に伴って利害関係まで生じていれば、うまくいっている側ではそれが利益に結びつき、うまくいっていない側では、それによって何らかの損失を被っているとすれば、その場での損得勘定がトータルでプラスマイナスゼロであるなら、そこでつじつまが合ってしまうわけで、つじつまが合っているのに、一方ではうまくいっていて、もう一方ではうまくいっていない状況となっていれば、うまくいっている側としては、是が非でもその状態を保ちたいだろうし、逆にうまくいっていない側では、何としても情勢をひっくり返して、自分たちがうまくいくような状態に持っていきたいわけで、だからうまくいっている側のあら探しをして、それを見つけ出してはあげつらって批判するような成り行きになるのかもしれないが、結果的にそんな批判が効果を上げず、また他の攻撃もことごとく空振りに終わってしまえば、うまくいっていない側は劣勢を挽回できないままとなってしまうわけだが、それでもそんな成り行きの中でそんなことをやっていること自体が、そこでそれなりに活動していることの証しとなるわけで、たとえやっていることがうまくいかないなりにも、うまくいくまではそんなことをやり続けようとして、そうやって絶えず自分たちがやろうとする活動を継続させようとするわけだから、そういう面ではそれなりにつじつまが合っているわけだ。そしてそうなっている限りで、そんな活動の中でもつじつまの合わない面については気がつかないだろうし、実際にうまくいかないことをやり続けている、というつじつまの合わない現状には気づかないわけで、またそんなことをやり続けても一向に効果も成果も上がらないにも関わらず、それでもやり続けなければならないという不条理を自覚することもできないわけだ。

 そんなふうにうまくいかないことをやり続けている現実があるとしても、別にわざとうまくいかないようにやっているわけでもないだろうし、少なくともうまくいくことを目指しているわけで、そう思っている限りで、やっている人の頭の中では、思っていることとやっていることが一致しているわけだが、ただ結果が伴わないからうまくいっていないことになるだけで、そういうところではつじつまが合わないわけでもないのだが、それを結果から見れば、うまくいかないことを飽きもせず延々とやり続けていると見えるわけで、そんなうまくいかないことをやり続けられていること自体が不条理に思われるわけだが、なぜうまくいかないのにやり続けられるのかといえば、他ではうまくいっているから、そのうまくいっているところから生じる利益をうまくいかないところへと回して、それで全体の帳尻を合わせていたりするわけだろうが、そうであるならうまくいかないところをやめれば、その分損失が減ってもっと利益を得られるのに、なぜそれをやめられないのかというと、たとえうまくいっていなくても、そちらを優先したい事情が生じているわけだろうし、意識の中ではうまくいっていることよりはうまくいっていないことにこだわりを感じていて、実際にそちらの方に力を入れているわけだろうし、それを是が非でもうまくいくようにしたいわけだろうが、たぶんそうしたこだわりや情熱が、はたから見ると不条理に思われるわけで、なぜうまくいっていることに専念しないで、わざわざうまくいかないことにこだわるのかが疑問に感じられるわけだ。それでもやっている当人からすれば、うまくいかないことをうまくいくようにすることに魅力を感じていたり、そういった困難に挑戦することが、安易なことを惰性でやり続けるよりは、より大きな満足感やおもしろみを得られるわけだろうが、それがはたから見れば延々と同じ失敗を繰り返しているように見えるなら、それはそんなことをやっている当人の思い違いであり、ただ勘違いなことをやっているとしか思われないわけだが、それでもいつかはうまくいくような気がするなら、やれる限りはやろうとするわけだから、たぶんそんなことをいくら批判されても聞く耳を持たないだろうし、当人の気が変わるまで好きにさせておくしかないわけだが、当人や周囲の人たちがそれについてどう思っても、またそんなことをいくら批判されても、そんなことをやっている実態というのが、それを可能にしている状況に適合していて、たとえそれがうまくいっていないように感じられても、そのこと自体がその場の状況に応じた行為である可能性があり、その場の成り行きに応じて従っている行為というのが、うまくいかないことを延々とやり続けることであるとしたら、それこそがその場の不条理を示していることにもなるのかもしれないが、では何のためにそんなことをやらなければならないのか、という理由を考えてしまうと、そんな理由を導き出そうとすることも、何かおかしいような気がしてくるだろうし、ともかく何だかわからないが、そんなことをやり続けているとしか言えないような状況となっているのかもしれず、ただそれがうまくいっていないと判断される行為だとしても、実際にそんなことをやっているわけだから、世の中には結果が思わしくなくても続けられる行為があるとしか言えない面があり、そうした行為が周りからいくらでも批判や非難を浴びている状況もあるだろうし、それでも続けられているとしたら、やはりそんなのは不条理以外の何ものでもないだろうが、現にそうした状況が実現していれば、それは実際にそれを止める手立てが見当たらないことを示しているだろうし、そういう意味ではそれを延々と批判している人たちも、それと同じようにして、うまくいかないことを延々とやり続けていることにもなるだろうし、そのうまくいかないことというのが、批判が効果や成果を上げて、それをやめさせることにあるわけだが、逆に批判される側は、そこからやる気を得ているのかもしれないし、批判されているからこそ注目されていると思うだろうし、無視されているわけでもなければ、実力行使によって強制的に行為を阻まれているわけでもないとしたら、だからこそそれをやっている実態があるわけだから、まさにそれを行う機会がそこに生じていると言えるだろうし、要するに口先だけでそれを批判しているだけでは、それをやめさせられず、またそんな批判しかできなければ、批判が成就することも、その効果や成果を期待することもできない、というジレンマや不条理がそこにもたらされているわけだ。


10月21日「凡庸な感性」

 人の感性はその人が意識してコントロールできるものでもないだろうし、成人するまでに身についてしまった感性がそう簡単に変わるとも思えないが、その感性というのが何かはっきりとわかるようなものでもないだろうし、その人の行動や言動や物事への反応や対応や対処などから、その人の感性が窺い知れるだけで、これといってそれ単体で示されるようなものでもなく、それだけでは判断や評価の対象とはならないわけだが、ただその人の感性がその人が関わっている物事へ作用や影響を及ぼして、結果的に何らかの現象や出来事をもたらすわけだから、その人に関係する現象や出来事にはその人の感性が反映されていると言えるだろうし、その現象や出来事に関して何らかの判断や評価を下す際には、間接的にその人の感性についても判断や評価を下すことになるわけだ。だがその現象や出来事に関係しているのはその人だけではないだろうし、他の様々な人や集団やそれらが取り扱う物事が関係して、それらが有機的に反応し合った結果として何らかの現象や出来事がもたらされるわけだから、たとえそれがその人の作品として存在することになるとしても、その人だけの感性によってそれが作り出されたことにはならないわけだが、とりあえずその人の名義で作品などが世に出される経緯があれば、その作品を論じる際にその作者である人の感性にふれることにもなるだろうし、そこでその人の感性の特徴や傾向などに関して、その作品の出来とともに何らかの判断や評価が下されることにもなるわけだ。そうやって語る上では感性について語れるわけだが、それはその人が何かを行なった結果から導き出されるものだろうし、感性だけを単体で論じるようなことにはならず、何かをやった結果を論じる際に、それに伴ってうかがい知れるその人の感性の鋭さとか鈍さを評価することになるだろうし、結果として生じる物事がそれを示していることにもなるわけだ。またそうであれば単純にそれを肯定したり否定したりするだけで済んでしまうことかもしれないが、場合によってはそれが逆説的な表現を伴って判断されて、その感性が何に反応するかで評価が分かれることにもなり、一見感性が鋭そうに感じられても、それがどうでもいいようなくだらないことにだけ反応するような感性であれば、それは的外れで取るに足らない凡庸な感性だと見なされてしまうだろうし、またあえてそうしたどうでもいいようなくだらないことには反応せずに、それに関しては鈍感に思われるとしても、肝心なところでは物事の本質を捉えて反応するような感性だと、やはりそうした感性の方が肯定されるだろうし、その辺で物事に関する判断や評価を適切に行える感性の持ち主であるなら、枝葉末節で些細な物事の部分には目もくれず、そうしたどうでもいいことに関する反応を競い合っているような凡庸な人たちを尻目に、物事の急所となるようなところを素早く探し当てて、それを的確に捉えて鋭く反応するだろうし、またそうであれば他よりも抜きん出た有能な人物として評価されることにもなるわけで、そんなふうにして感覚の照準をどこへ向けるかによっても、その人の感性が問われることにもなるだろうし、何にでも手当たり次第に反応して、他人と同じような動作をもたらすような感性だと、やはりそれ自体が紋切り型の凡庸な感性でしかありえないわけで、しかもそういう凡庸な感性であるほど、他の人たちと同じような反応を示すから共感を呼び、同じ感性を共有する者同士で団結して、自分たちが恐れるような鋭いごく少数の感性の持ち主を排除して、誰もが安心して肯定できる凡庸な感性を尊ぶような成り行きをもたらすだろうし、またそうした多数の凡庸な感性の持ち主に訴えかけるような商品を売り出して利益を得ようともするわけだが、やはりそうなると、どうやれば多数の人々の共感を呼ぶような商品を作り出せるかが問われてくるわけで、そこで誰もが共感できるような物事の急所を的確に捉えて表現する感性が求められるだろうし、やはりそういう面では感性の鋭さが必要とされるわけだから、いくら感性が鋭いからといって、その場の状況や必要に応じた鋭さでないと話にならないし、どのような状況でも他の人たちと同レベルの反応しかできなければ、それは凡庸な感性でしかなく、また時には鋭い反応を見せるとしても、ただ反応の速さを競い合うようでは、条件反射として世の中の流行を追いかけているだけの紋切り型の感性でしかないわけだ。

 そしてその場の必要に応じた感性というのが、誰にとっての必要に応じているかも問題となるわけで、例えば商品を買わせる側の必要に応じて反応してしまえば、買わせる側の思う壺にはまってしまうだろうし、それが商品でなくてもメディア上で行われる宣伝や煽動を真に受けて反応するような人は、やはりそうしたことをやっている勢力の思う壺にはまってしまっているわけだが、それでも思う壺にはまっている人たちが他にも大勢いると安心できるだろうし、誰もがそうなっているのだから、そんなふうに反応することが間違いではないと思うかもしれないし、それが群集心理なのかもしれないが、それをやる側はそうした心理を利用して宣伝や煽動を仕掛けてくるわけで、そうした群集心理に囚われた人たちが愚かなのだとすれば、結果的に愚かな人がいくら集まっても愚かでしかないわけだが、少なくとも安心感を求めて集まるような人たちは自分たちが愚かだとは思わないだろうし、もちろん宣伝や煽動を仕掛ける側も、自分たちが利用しようとする人たちをあからさまにバカにして見下しているわけでもなく、むしろお客様は神様ですとかおだてながら利用しようとするわけで、心の底からそう思っていないと、感性の鋭い人に見下していることを見破られてしまうだろうし、だからできるだけお互いがお互いを利用し合うような、ウィンウィンの関係になっているように装うのであり、実際にもそういう関係になっていれば問題はないかもしれないが、それをどう捉えてみても宣伝や煽動を仕掛ける側が、そうすることによって自分たちよりも格段に大勢の人たちを従える成り行きになっているわけで、またそこでどちらがより多くの利益を得られるかといえば、もちろんそんなことを仕掛けている側に決まっているわけだが、そうしないと利益を得られないのだからそうするより他になく、世の中がそういう仕組みになっているとも言えるわけだが、人を多く集めてそこから少しづつ利益を抽出して、それらを加算して全体として利益の合計を大きくするような試みが用いられる中では、多くの人がそのような試みに同調してくれないとうまくいかないわけで、だからこそ安易な宣伝や煽動に引っかかってくれるような凡庸な感性の人が大勢いてくれた方がありがたいだろうし、そうでないとそういうやり方が成り立たなくなってしまうだろうし、実際にそうなっているから、そうした試みに同調してくれる多くの凡庸な人たちを引きつける成り行きになっているわけで、そんなことが当たり前のように行われている実態があるわけだ。そういう面では鋭い感性が求められるのは多くの人たちを引きつけようとする側であり、また凡庸な感性が求められるのは宣伝や煽動によって引きつけられてしまう側になるわけで、両者の関係が非対称で不均等な関係になるほど、そうした試みが成功すると言えるだろうが、誰もが一方的に宣伝や煽動を行う側になれるわけでもないし、実際にも限られた少数の人たちしかそういうことを行えないし、行なったとしてもそれに成功する人たちはさらに少ないだろうし、結局はそういうことを行うにもそれなりの競争があって、競争に勝たないと成功できないわけだから、いくら感性が鋭くても、それを大勢の凡庸な人たちを引きつけるために活用しないと、世の中の仕組みに適合しているとは言えないだろうし、またいくら凡庸な感性の人が大勢いても、そうした持ち主を大勢集めて特定の傾向を持つ集団として従わせないと、そこから利益を抽出できないわけだが、果たしてそういうことに人の感性を利用しているだけでいいのかというと、たぶんそれだけで社会が成り立っているわけではないだろうし、他にも利用法などいくらでもあるのかもしれないが、現状の大衆市民社会といわれる状況の中では、凡庸な感性の持ち主が圧倒的な大多数を占めている現状があるわけで、別にそれらの人たちは好き好んでそうなっているわけでもないだろうし、できることなら凡庸であるよりは鋭い感性の持ち主になりたかったはずだろうし、そうなるためにそれなりの競争に参加した結果として、現状があるわけだが、そんな現状を打破する可能性として、競争に勝って感性の鋭い少数の指導者層を目指すというよりは、そうではない別の世の中をもたらすような成り行きにならないかというと、やはりそんなことまで考えている人はごく僅かだろうし、自然な成り行きとしても、現状に応じた結果をもたらしていることは確かなのではないか。


10月20日「活動に伴う判断」

 現状で自分にとって都合のいい部分だけを語るなら、それを自分の活動に役立てようとしているわけだが、では自分にとって都合の悪い部分まで語る必要があるかとなると、それを語ってしまうと自分の活動に支障をきたすようなら、普通は語らないだろうし、都合の悪いことには触れないのが当然の成り行きとなるわけだが、それ以前に果たして現状の全てを語ることができるかというと、そんなことができるわけがないだろうし、それでも何かを語ろうとしているのだから、当然のことながら伝えたいことを語るわけで、伝えたいことは当然のことながら自分にとって都合のいいことになるわけで、わざわざ自分にとって都合の悪いことまで伝えようとはしないだろうし、そのことで自分が不利になってしまうようなら、ではなぜあえてそんなことまで伝えようとするのかとなるわけだが、実態としては何かを一方的に伝えられるわけではなく、それを伝えるに至る成り行きの中で、他との問答を伴う場合がほとんどであり、大抵は他からの問いに返答する形で語らなければならないわけで、そこに語らせようとする動機があるから、その動機が語る内容を限定しているわけだ。そしてその問いが都合の悪い部分まで語らせようとする問いならば、その要請に従うならそれを語らざるを得なくなるわけで、そんな状況に追い込まれてしまったら、実際にそうなってしまうわけだが、ではそれとは反対に都合のいいことだけしか語らなくても構わないのは、どんな状況なのかといえば、自分で自分にそんな要請を出している時だろうし、自発的に語ろうとするなら、語りたいことだけ語ろうとするわけで、そうなると都合のいいことだけしか語らない成り行きになってしまいがちになるだろうが、ただそこで他人の存在を考慮するような事情があると、大抵は他人に向かって語るわけだから、それだけでは済まないような気になるだろうし、その他人に信用してもらおうとするなら、過去の失敗談とかこれまでに様々な過ちを犯してきたことを告白しながらも、そうした失敗を乗り越えてここに至っていることを説明したがるかもしれないし、それが他人の信用を得るためには必要だと判断するなら、誠実さを装うためにもそういうことを語ろうとするのだろうが、そうなると当然のことながら信用を失うようなことは隠す傾向となるわけで、そんなふうに他人との関係に応じて、語れることと語れないことを選別するような成り行きも生じてくるわけで、それもその場の都合に合わせて語ることになるわけだが、語っている全てがその場の都合に適うように語るにはそれなりの技量が必要で、それはその人の語ることに関しての技術的な修練度にもよるだろうし、日頃からそうした技術を磨いてきた人にはそんなことができるかもしれないが、それが他人の信用に結びつくかとなると、必ずしもそうとも言えないだろうし、あまりにもうまく語れる人は、話がうますぎると思われて、かえって警戒されたり疑われる傾向にもなり、またそれはそうした語りを受け取る側の知識や経験に裏付けられた感性にもよるだろうし、それまでに様々な人と接してきた経験から、語っている人の信用度を測る知識やノウハウが蓄積されているなら、直感でその人が正直者かそうでないかを見分けられるだろうし、そういう人には浅はかな嘘やごまかしは通用しないし、隠し事もすぐに見破られてしまう可能性もあるわけだが、その人を単体で評価するというよりは、その人を取り巻く周囲の人脈や関わっている人や集団からも、その人の信用度が左右されるだろうし、仮にその人が浅はかで愚かに見える人物だとしても、周りのバックアップが充実しているようなら、その人を利用して周囲の人や集団が利益を得ていると思われるだろうし、そうなると自分もその人に取り入って、その人を利用して利益を得られることを期待してしまうわけで、そういうところで損得勘定が働けば、その人がどうこうというよりは、その人を取り巻く勢力をどう判断するかに重点が置かれるわけで、それだけ人への信用度も複雑で込み入った判断を要するわけだ。

 関係する人や集団が信用できるか否かが、活動をする上での一応の判断基準とはなるだろうが、それも活動の内容によっては、信用できない相手と関係を結ぶ場合もあるだろうし、こちらからいずれは機会を見計らって裏切るつもりなら、信用できない相手とでも利害が一致する限りで、一時的に行動を共にする場合もあるだろうし、その辺はケース・バイ・ケースとなるだろうが、そういう面も含めて様々な状況や条件を想定してそれらを比較しながら活動していて、活動の様々な場面や局面でその是非を判断していくと、何やらそういう経過から生じる紆余曲折によっては、それが偶然の巡り合わせであるにしても、本来なら全く無関係な物事が結びついたり、そこから想定していなかった思いがけない事態に直面することもあるだろうし、そうなってくると単なる利害や善悪の判断を受け付けないような情勢となってきて、結果的に従来の判断基準からはかけ離れたことをやっている場合もあるわけで、そういう場合は判断しようがないだろうし、何だかわからないがとにかくその場の状況に合わせて何かをやっていて、それが何を意味するかも見当がつかないようなことをやらされているようなら、場合によってはそこで思考停止するようなことにもなってしまうだろうし、そんな状況の中で常に冷静でいられるわけでも平常心を保っていられるわけでもないわけだが、少なくともそこで実際に行なっていることと、そこで実際に主張していることとの間で、ずれや相違があるとすれば、そうしたずれや相違が、その人の限界を示しているわけで、それがその人の評価にも影響を及ぼすわけだが、そういう面も含めて総合的に判断するなら、総合的な判断が何を意味するわけでもないかもしれないが、その場の状況に応じて善悪や利害の判断が一時的にはできるとしても、別の場ではまたそれとは別の判断もできるかもしれないし、それがその場の状況という条件下で判断されるものである限りは、恒常的な判断とはならないだろうし、そういう意味で判断や評価は絶えず変わるかもしれないし、また変えようがなく、変えようがない事情が判断を下す側にあると、そうした判断を下す側の事情を反映した判断というのが、判断を誤る原因ともなるわけだが、判断の対象にも判断する側にもそうした要因があり得るわけだから、自らの判断基準を固定して判断する対象を判断しようとすると、その判断によっては致命的な過ちを犯してしまう事態にもなるかもしれず、そうした判断ミスを犯さないためにも、自らの判断基準が恒常不変であるとは思わない方が無難かもしれないし、また判断を下す対象もそれを取り巻く情勢の変化によっては、いかようにも変わる可能性があれば、当然そうしたことは考慮に入れなければならないわけだが、それでも結果的にうまくいっている状況となっていれば、それなりに正しい判断がされてきたと認識してもそれほど間違ってはいないだろうし、またその判断自体が深刻な事態を招かない程度の軽い判断だったかもしれないし、それも結果から判断すればいかようにも判断が可能だろうが、現状でそれなりに満足できる状態であるなら、そんな状態を肯定するしかなく、それ対していくら批判してくる勢力がいようと、現状の満足感に勝るものはないだろうし、その反対に現状が不満な状態であれば、それまでにやってきたことを肯定するわけにはいかなくなるだろうし、それに関して批判してくる人や集団がいるなら、できることならそうした人や集団を自らの活動に巻き込んで、そうした人たちの助言や提言を受け入れて、活動の仕方を抜本的に見直すようなことをやろうとすればいいだろうし、たぶんそうしたことをやろうとする上で、判断や価値の基準を固定化していると、なかなか外部からの指摘を受け入れるわけにはいかない事情が生じてくるわけで、うまくいかないならいったんはこれまでに守ってきた判断や価値の基準を見直す必要が出てくるわけで、そうしたことに関して柔軟に対応しようとすると、やはりその場の情勢に応じてやり方を変えていくようなことが求められるわけだが、それも批判してくる相手次第な面もあるわけで、相手がこちらを潰すようなそぶりを見せているのに、そうした相手から助言などを期待することはできないだろうし、そうであるなら日頃から修復不可能なほど対立を煽るようなことはなるべく避けるべきだろうし、それが無用な敵を作らない配慮となるのではないか。


10月19日「現状の問題点と限界」

 物事にはそうなるに至る道筋があって、その道筋の中でその物事に関わってくる人や集団に役割分担が生じて、しかるべき人がしかるべき立場でそれに関わらないと、物事の取り扱いがままならなくなってきて、逆にそうならないと不自然に思われてしまうような意識も生じてきて、そういう成り行きがそれに関する専門家と呼ばれる人々の地位や立場をもたらすわけだが、いったんそんな地位や立場ができあがってしまうと、何はともあれそういった物事に関しては、それに関する専門家の意見や主張が優先されて、専門外の人の意見や主張は、その内容がどうであれ無視される傾向ともなってくるわけで、そうなってくると専門家と称する人の意見や主張がどんなにお粗末でいい加減な内容であっても、その地位や立場から生じる権威によって、重視され優先されなければならない成り行きにもなってくるわけで、それがわからないのが、そうした傾向になっているメディアの報道を真に受ける一般の民衆であり、その対象になっている物事に関する知識を持ち合わせていなければ、そうなるのが当然かもしれないし、そこで何が問題になるかというと、そうした専門家と称する人々が関わっている物事と、それに関して意見や主張を必要とする物事とが、果たして一致しているかとなるわけだが、必ずしもそうではない場合があり得るわけで、意識がそうした権威主義に慣らされてしまうと、そうした人々が自らの専門分野から離れるほど、お粗末でいい加減な意見や主張になっても、それを受け取る側がそれを見極めることができなければ、そうした意見や主張を真に受けてしまうわけだが、果たして一般の民衆にそれを見極める能力があるかといえば、それがなければそうした意見や主張が世の中でまかり通ってしまうだろうし、またそんな意見がまかり通るほど、専門家と称する人々がメディア上でもてはやされて頻繁に登場することになり、そうなるほどその人のメディア上での権威も高まって、その権威の高まりに比例して、その人の世間的な信用度も高まるだろうし、さらにそうなるとその人も調子に乗って何にでも首を突っ込んで、それに関して意見や主張を述べるのが当然のように思い込んでしまうわけで、そうやって実際にコメンテーターのような立場や役割も生じてくるわけだが、それも何にでも首を突っ込んで当たり障りのない意見を述べる専門職と化してしまう傾向もあるわけで、そうなるとその場を空気を読んでメディアの求めに応じた意見を述べられる人が重宝されることにもなって、空気を読めずに差し障りのあることを述べてしまう人は敬遠される傾向も出てくるだろうし、また辛口コメンテーターのようにわざと何でもかんでも否定的な意見を述べて、それを売りにしてしまうから、空気を読めて差し障りのないことを述べるコメンテーターがまともに見えるようにするための当て馬のような役割を担わされてしまう場合も出てくるわけで、結局はそういう場面ごとや局面ごとの専門化と細分化によって、何でもかんでも首を突っ込んで口を挟むような役割としての紋切り型が形成されて、決まり切った出来事には決まり切った人たちが出てきて決まり切った意見を述べるような様式が確立されて、一般の民衆がそれを見て安心するような娯楽ができあがってしまうわけだが、それが気休めや気晴らしの娯楽であるか、あるいはそうではなく、その内容を真摯に受け取って、思考を働かせて真剣に検討するようなことか否かの境界が定かでない場合も出てくるわけで、一般的に言ってお笑い芸人が出てくるようなワイドショーなどが、その境界線に位置するような捉え方もあるかもしれないが、そんな捉え方もある程度の偏見を伴っているだろうし、そもそも誰がどんな立場の人でも意見や主張を述べても構わないのが、建前としての民主的な制度であるはずなのだから、別に専門家の意見を尊重したり優先する必要のないこともいくらでもありそうだが、何が専門家の意見を必要として、何が必要としないかの区別がつくかというと、その境界も厳密には決定できなようなことばかりかもしれないし、その辺の判断はメディアから情報を受け取る側の良識に委ねられているわけだ。

 メディアから受け取る情報の内容を判断する上で、何を重視する必要があるかというと、そんなのは人それぞれで構わないのかもしれないが、少なくとも意見や主張を述べる人が、自らの立場をわきまえていれば、自らの意見や主張の問題点や限界を認識していて、それを意見や主張を受け取る側にもわかってもらえるように配慮するはずで、そういう配慮のない意見や主張であれば、そこには必ず宣伝や煽動が含まれてきて、自らの意見や主張にそれを受け取る側を同意させて賛同させるような配慮が伴ってくるわけで、どんな意見や主張にもそういう面が少なからずあることは確かなのだろうが、それとともに、やはり自らの意見や主張に対する中立的かつ客観的な視点が示されていれば、そうした意見や主張にはそれなりの問題点や限界があることを踏まえて、そうした配慮がされているわけだから、そういう面では信用に足る情報が含まれていて、少なくとも一方的に自らの意見や主張をまくし立てて正当化するだけの態度よりは信用できるだろうし、その分それを受け取る側の信頼感も高まるのではないか。またそういう情報を受ける以前の前提として、世の中に絶対に正しい意見や主張などあり得ないことを踏まえていれば、そういう中立的かつ客観的な視点が意見や主張に含まれているか否かが、それを信用できるか否かの判断基準となるわけだが、全ての真っ当な意見や主張にそうした視点が含まれているわけでもないだろうし、それが含まれていなければそれを受け取る側が、そうした視点をそれらの意見や主張に当てはめてみる必要が出てくるわけで、それにはそれに関する知識や経験が必要となるだろうし、意見や主張を述べる人と同等以上の知識や経験がそれを受け取る側にも求められてしまうわけだが、そうなってしまうとそれは気休めや気晴らしの娯楽ではなく、それと真摯に向き合ってそれについて真剣に考える姿勢が必要となってくるだろうが、その一方で、そういう面で意見や主張を述べる側もそれを受け取る側も、娯楽の水準で、なあなあの気分でいい加減でお粗末な対応に終始している現状もあるわけで、別にそれと真摯に向き合う必要を感じなれければそうなるしかないだろうし、それが悪いことだとは思われなければ特に何の問題もなく、そうした姿勢や態度が世の中でまかり通っている状況があるということになるだけで、そうであるならそうしたことをやっているメディアが栄えている限りで、そうしたメディアに依存した世論もそういうレベルに終始するしかなく、それが当たり前のように思われるなら、そうした傾向が改善される可能性はないわけだが、それで済んでいるならそれに越したこともないとも言えるわけで、そういう状況に関していくら批判を試みても、一般の民衆がなびいてこなければ、そのままとなってしまうだろうし、それはそれでそういうことでしかないのだが、そんな現状が嫌なら、情報を発信する側が、自らの意見や主張に問題点や限界があることを示していくしかなく、それは功利的な判断からはあり得ないことだろうが、そういうことを踏まえて情報を発信するように心がければ、それなりに中立的かつ客観的な視点や内容を意見や主張に含ませることに成功するのかもしれないが、大抵の場合は、それよりは自己主張の方が優ってしまうだろうし、ともかく自らの意見や主張を宣伝し煽動して世に広めたいわけで、それになびいてくる一般の民衆を味方につけて、多くの支持や賛同を得て、自分のやりたいことをやって、自らの理想とする状況を実現したいだろうし、何よりもそういう欲望が優ってしまうのだから、いちいち中立的かつ客観的な視点などにかまっていられないだろうし、しかもそういう欲望を抱いているのはその人だけはなく、他の多くの人たちもそんな欲望を抱いて、そうした欲望を抱いている者同士で夢を実現するために連帯しながら競争している現状もあるわけで、そういう人たちが世の中の主導権を握っている中では、そんな状況から作用や影響を受けた意見や主張しか出てこないわけで、結局はそれを受け取る側も、そんな状況を考慮に入れながらそうした意見や主張について判断や評価を下すしかなく、それでもできるだけ中立的かつ客観的に判断し評価したければ、そうした状況から生じる問題点や限界を考慮に入れながら判断や評価を下すしかないわけだ。


10月18日「制度と慣習の食い違い」

 法的に何かを禁止することは、禁止しないとまずいから禁止するわけだが、禁止している行為をやると支障をきたすのは、他の行為であり、また禁止しないとその行為によって人や物事が害を被るから禁止するわけだが、また禁止している行為を行うと、違法な利益を得ることができる場合もあるだろうし、そういうことからも何かを禁止するということは、法的には適切な処置であるように思われるわけだが、一方で違法な慣習として禁止している行為が、社会の中で広く行われている場合もあるだろうし、そういうところでは禁止している法律や政令などが有名無実化しているわけで、実質的に禁止が効力を失っているとも言えるわけだが、多くの人たちが禁止に従わなければ、それは慣習として社会に定着するだろうし、そうなると禁止を理由に取り締まることよりは、制度を変更し法律を改正して、そうした行為を合法化するような事態も起こるわけで、それに関して最近話題となっているのがマリファナの合法化であり、一部の国や地域では実際にそんなことが起こっているわけだが、他にも様々な禁止されている慣習があるだろうし、警察などから取り締まりを受けながらも行われているわけだが、それが実際に根絶されなければ、慣習として社会の中で定着していることになるわけで、そういうところで公的な制度と慣習が対立している実態があるわけだが、なぜそうした慣習が法律による禁止によっても改まらないかといえば、それが民間の私的な制度によって守られている場合もあるわけで、それはギャングやヤクザなどの非合法的な犯罪組織などが管理する制度であったりもして、それなりに力のある勢力が支援しているから違法な慣習が存続しているわけだ。もちろん違法ではない慣習もいくらでもあるから、制度と慣習が社会の中で全面的に対立しているわけでもなく、そのほとんどは共存共栄関係にあるのだろうが、制度が違法と認定している慣習がある限りは、そこから事件が発生するのは必然的な成り行きとなるだろうし、公的な機関によって社会が全面的に管理統治される可能性がなければ、管理統治を免れる領域で違法な慣習が存続されることになるわけだから、絶えずそこから社会の矛盾や不条理が生じてくるわけだが、そもそも政府などの公的機関によって社会が全面的に管理統治される必要があるかといえば、法律や制度がそのためにあって、それを目指しているとしても、実際にはできないだろうし、できない部分が必ず残ってしまうわけで、それを住民の側がどう捉えるかが重要であるのかもしれず、社会の全てを政府などの公的な機関によって管理統治されることを望むのか、あるいはできる範囲内にとどめておくことで妥協するのか、その二者択一というわけでもないだろうし、他にも様々な選択肢があっても構わないのかもしれず、そういうところで必要な部分では管理統治が必要であることは認めつつも、誰もが全面的に管理統治されることを望んでいるわけではないだろうし、実際に何から何まで行政に依存するような成り行きにはなっていないわけで、行政の側でも予算の範囲内でしかできないわけだから、しかもしばしばその限界を超えてしまうから、財政赤字が膨らんでいってしまうわけで、それは住民の側でも考慮すべきところであり、そういう面で行政側と住民の側とで、全面的な結びつきや依存関係の構築を期待するわけにはいかないだろうし、必要な時にできる範囲内で行われるのが行政の活動だと捉えておくのが無難なところなのではないか。そう捉えたからといって何がどうなるわけでもなく、現状が現状のままであることに変わりないわけだが、それでも公的な政治制度の範囲内で、住民側の事情や要望を汲み取ってくれる勢力を支援していくしかないだろうし、それが政治活動によって行政にどの程度反映されるかは、行政機構と政治勢力との交渉や折衝などから決まっていくことだろうが、そうしたこと自体が全面的な管理統治から外れる行為であり、それは制度の上でもそれを許さない形態になっているわけで、形の上では住民の側に主導権があるように装うのが、民主的な制度であることの証しなのではないか。

 また制度からも慣習からも外れた行為というのも考えられるわけだが、それは制度にも慣習にも逆らう行為となり、そういうことをあからさまにやると、制度を守る側からも慣習を守る側からも非難されたり排斥されたりして、攻撃を受ける可能性まであるわけだが、なぜそういう行為に及ぶのかといえば、制度や慣習にも問題があって、それに逆らわないとやりたいことができなかったり、逆らわざるを得ない状況に追い込まれていたりする場合もあるのだろうが、それも普通にあり得る行為であることは確かで、制度も慣習も人が行う全ての行為を制御しているわけではなく、そういう決まりごとに依存しない行為というのも当然行えるわけで、またそれをやったからといって、制度とも慣習とも関わり合いのない方面で行なっている限りで、何の問題もないとは言えないものの、少なくともそんな行為を行える可能性はあるだろうし、それによって制度や慣習が脅かされなければ、放って置かれるのではないか。またそういう行為が増えていくと、世の中で制度や慣習の影響力がそれだけ低下してくることにもなるだろうし、そうした影響力の低下傾向を食い止めるために、制度を守る側でも慣習を守る側でも巻き返しのための策を講じてくるかもしれないが、そういうところで勢力争いや、連携や協力関係を構築するための努力が行われるような状況となっているなら、世の中が必ずしも制度や慣習によって完全にコントロールされているわけではないことが明らかとなるだろうし、制度も慣習もそこへ人や集団をつなぎとめている限りで成り立つわけだから、当然つなぎとめられた人や集団を制度や慣習によって制御しようとするわけだが、そこでも制御できる面とできない面があるだろうし、そもそも一つの制度と一つの慣習があるわけではなく、様々な制度と慣習が複雑に入り組んで絡み合い、相互に作用や影響を及ぼし合っている現状があるわけで、それらが独立に作用を及ぼせる部分が限られているのは当然のことなのだが、その中には協力し連携している面もある一方で、対立し競合して衝突している面もあるわけだから、それらが作用や影響を及ぼせる部分でそうなっていることについては、特に問題視する必要もないわけだが、そうした社会に作用や影響を及ぼしている様々な制度や慣習をうまく統合して、なるべく矛盾や不条理が生じないようにする試みも、政治の領域では行われる可能性があるにしても、そういうことをやるのが合理的な価値観からすれば正しいとしても、それが一つの制度による住民の完全な支配という全体主義的な管理統治に結びつく危険性もあるだけに、合理的には正しいとしても実践としては間違っているともみなされるわけで、そういう面を考慮するなら、全体的なレベルではなく部分的なレベルで、様々な制度や慣習を推進する様々な勢力が互いにせめぎ合いを繰り広げている水準にとどまるしかないわけで、しかもそうした制度や慣習から逸脱する活動も許容できる状態も実現しなければならないだろうし、制度や慣習によって制御された一定のパターンを伴う活動と、その場の状況の変化や推移に応じた活動があるわけで、それらが組み合わさって人の活動が形成されるわけだから、何から何まで制度や慣習に則った活動とはならないわけだ。そういう面で制度的な思考や慣習的な感性では受け入れがたい活動が必然的に生じて、それが制度や慣習を守る勢力にとっては脅威に映ったり、そうした活動を抑制するような作用も生じさせるわけだが、そういうところで対立や抗争が生じるとしても、人々が制度や慣習に全面的に依存しているわけではないことに気づけば、何とかお互いに折り合いをつけようとしたり、妥協点を模索するような成り行きにもなるのかもしれず、そこで実際に様々な勢力の間で交渉や取引が行われているわけだろうが、そういうところでは制度や慣習に依存するような価値基準は通用しないだろうし、その場の事情や状況に応じた妥当な基準を構築していくしかなく、その都度それに基づいて適切に判断や評価を下していくしかないわけだ。


10月17日「偶然の作用」

 不意を突かれて思いがけない出来事に遭遇すると驚くしかないが、偶然にそうなってしまうとしても、意識はそこに必然的な成り行きを見つけようとしてしまうわけだが、何の脈絡もなくそうなってしまうはずがないと思うのは、そこに原因と結果の因果関係を求めてしまうからだが、何かそうなってしまう原因や理由について、納得できる因果関係が見つかったとしても、出来事自体はすでに起こってしまったことだから、それをどうすることもできないのは当然だとしても、出来事からもたらされた経験とそこから得られた知識を、これから起こり得ることに役立てようとするわけだが、同じような出来事が繰り返し起こるとは限らないし、それまでに経験したことのない全く新しい出来事には、それまでに培ってきた知識や経験が全く役に立たないかもしれないが、同じ環境の中では同じような出来事が起こる可能性の方が高いだろうし、そうである限りにおいて、出来事から得られる知識や経験がそれなりに役に立つわけだが、そんなふうに思われることから何が排除されているかといえば、それは出来事の偶然性であり、偶然にそうなってしまうことに関しては、その種の思考では対処できないわけだ。では偶然にそうなってしまう出来事から何がもたらされるかというと、それに関してすぐ思いつくのが驚きや感動の体験であり、未知の体験だから心の準備ができておらず、未体験であることから恐れや畏怖の念を抱くこともあるだろうし、それに対してすぐには対処が思い浮かばないから、その場で何もできずにあっけにとられてしまうかもしれず、そんなわけで偶然の出来事には心身が無防備な状態となってしまい、そんな時に虚を突いて不意打ちのような作用を及ぼされてしまったら、深刻な事態を招きかねないわけだ。だからそうした不測の事態に備えて、日頃から精神の鍛錬を行なっておくべきだと思われるだろうし、精神の鍛錬が何の役に立つかといえば、物事に動じない態度を養っておくことで、どんな出来事が起こっても平常心を保つことができて、そうである限りにおいて、その場で冷静な判断や行動ができるわけだが、それではその場で抱いた驚きや感動を真に受けない態度になってしまい、偶然を意に介さずに偶然でなかったかのように振る舞うことにもなってしまうわけだ。それも程度の問題であり、想定を超える事態に遭遇すれば、どんなに心の準備をしていても驚いてしまうだろうし、思いがけない状況の出現に不意打ちを食らって焦って取り乱してしまうことにもなるわけだが、そうであるならどのような態度や対処であっても相対的な強度しかもたらせないだろうし、その場の必要に応じて準備したり鍛錬するようなことでしかないとしても、前もってそうするというよりは、絶えずその場の体験や経験から学ぶ姿勢を保っておく必要があるだろうし、それ自体が改めて認識するようなことでもないわけだが、それでも偶然にそうなってしまうことは、素直に受け止めるべきことかもしれず、何か工夫を凝らして驚きや感動をかわそうとすると、人為的な調整を伴って、そんなことをやった分だけ自らの都合が意識に反映されてしまうわけで、そしてそんなことを繰り返しているうちに、意識の中に偏見が育ってくるのだろうし、それが高じて個性という名の独りよがりな思い込みとなって、そんな思い込みを肯定する論理にその人の意識を縛りつけることになるのかもしれないが、それが誰にでも起こり得ることだとしても、そこにも程度の問題があり、意識がそんな自己と浅く触れ合っている程度では、まだ周囲との協調が可能だろうが、そんな自己に意識が完全に埋没しているようだと、それらのこだわりや思い込みが固定観念となって、それとは違う論理を受けつけなくなってしまうだろうし、自らが信じている一つの論理によって他の全てを判断し評価するようなことになってしまうのかもしれない。

 そんな思い込みがその人に独自のものだとすれば、確かにそれはその人の個性だと言えるわけだが、どうもそうではなく同じような個性が他にいくらでもあるようなら、世の中がそういう個性という名の思い込みをもたらしているとも言えるわけで、物事への対応や対処が多くの人で同じような場合、そういう対応や対処が世の中で流行っているとも言えるのかもしれないが、偶然にそうなっているのではないだろうし、そこに何らかの必然性が潜んでいるように思われるとしたら、人をそういう対応や対処へと向かわせる一定の傾向が社会の中で作用していることになり、それが人の思考や行動を制御する作用だとすれば、意識がそうした制御に興味を抱けば、そんな作用を及ぼしている原因を突き止めようとするのかもしれないが、そういう考え方が偶然性を排して必然性へと至る物事の捉え方になるわけで、事の真相を究明しようとする意志が、他ならぬ必然性としての社会の構造を意識させるわけだが、構造が一定の傾向を持っていると、そんな構造の中で活動する人の思考や行動も、構造に沿って一定の傾向を示して、そこから外れるよりはそこへと集まる傾向が強くなるわけだ。ではそういう構造が社会の中に出現する理由は何かと考えるならば、それに関するありふれた見解としては、世の中で機能している制度や慣習がそういう構造を作り上げていると考えられるわけで、社会の中で多くの人々がそれに従っているから、思考も行動も一定の傾向を示しているように見えるだろうし、それ以外の理由ではないようにも思われるわけだが、そうした制度的あるいは慣習的な物事の捉え方の他に、何を考慮しなければならないかとなると、やはりそれは偶然の作用であり、そこに様々な機会を捉えて様々な作用が及ぼされた結果として、偶然の出来事が積み重なって、その積み重なり方によってその社会が特有の傾向を示していることになり、それがその中で活動している人や集団の傾向にも少なからず影響を及ぼしていて、時にはそれが突発的な事件を起こさせたりして、それが制度や慣習に背くような行為であったりすると、そうした事件から制度や慣習の問題点が浮かび上がってくるわけで、また制度と慣習の間に微妙なずれや食い違いがある場合は、制度に従うことが慣習に背くことになったり、その逆もあり得るわけだが、そうした微妙なずれや食い違いが、事件を起こすきっかけをもたらすわけで、制度に従っているつもりがいつの間にか慣習から外れて、そのことで慣習を守っている人たちから反発を招いたり、またその逆も当然のことながらあるわけで、そういう事件をきっかけとして社会の中で人や集団の間で動揺が起こると、それをきっかけとして制度や慣習に変更が加わることもあるだろうし、さらにそれが高じて、連鎖的に次々に似たような事件が起こってしまうと、そうした出来事が社会にそれなりに大きな作用や影響を及ぼして、結果的に以前とは様変わりした制度や慣習になってしまう場合もあるわけで、そうした成り行きから言えることは、社会への必然的な作用や影響は、社会に安定と停滞をもたらして、社会への偶然的な作用や影響は、社会に動乱と変革をもたらすと言えるだろうし、そういう意味で制度や慣習は安定と停滞をもたらして、偶発的な事件は動乱と変革をもたらすとも言えるかもしれないが、なぜ偶発的な事件が起こるかといえば、制度や慣習が社会の中で活動する人や集団を、それらに従わせる力があるにしても、それら自体がつじつまが合うような構造や仕組みを伴っていないわけで、そこには必ず矛盾や不条理などのほころびが含まれているから、それらを守り従っていると、何かのきっかけでそこで躓いてしまって、結果的にそれらに背くような事件を起こしてしまうわけで、それが偶発的な事件となって制度や慣習を揺るがせて、それらを含んで成り立っている社会をも揺るがせることになるわけだ。


10月16日「技術的な困難」

 世の中には技術的に解決可能な問題とそうではない問題があり、科学技術などの進歩によって何から何まで解決できるとは限らず、いくら科学技術が進歩しても、相変わらずうまくいかない問題があるわけで、では具体的に何がうまくいかないのかいえば、それは利益に関する問題であり、全ての人に無償で利益を供与できれば、それは利益ではなくなってしまい、限られた人にしかもたらされないからこそ、それが利益として認識されるわけだ。実際に全ての行為に対して報酬が支払われるわけではなく、それが労働として認められた行為にのみ賃金が発生するわけだが、誰が認めるかといえば雇い主が認めるわけで、それは人ではなく企業である場合がほとんどかもしれないが、そこで行われている経済活動に関してのみ金銭的な報酬が発生して、何かがそこで売買されないと金銭のやりとりが生まれないわけだが、少なくとも金銭的な利益が生まれるには金銭的なやりとりが必要で、人の行為が売買に結びつかない限りは、金銭的な利益が生まれないわけだ。要するに技術的に貨幣はいくらでも作れるが、そのやりとりには売買という行為が必要で、それを介さないでいくら貨幣を作っても、貨幣の量が増えればインフレとなってその価値が下がるだけだろうし、そんな貨幣は意味をなさないわけで、そもそも勝手に貨幣を作ったら、それは違法な偽造貨幣になるだけで、売買に使用できる貨幣は、造幣局などの決められた機関によって決められた量しか作られないし、それ以外は流通しないわけで、それだけしか貨幣は存在しないわけだが、信用取引によって貸したり借りたりしているうちに、将来返却される予定の金額がどんどん膨らんでいってしまうこともあり得るわけで、そうやって実際にはない金額を負債として増やすことが可能であり、現状ではそれが技術的に解決不可能な問題となっているわけだ。またそれに伴って未来への投資として株式や債券などを発行できる制度もあり、そうした金融商品も将来において配当や利子をつけて金銭に変換されることを見込んで発行されるわけで、それらも現時点では存在しない金額を負債として増やす効果があるだろうし、それらの配当や利子が投資においては直接の利益となるわけだから、それに伴って行う経済活動がうまくいかなければ、利益を得られずに損失を被るわけだろうし、それも負債として残るわけで、そこでの技術的な困難さは未来を正確には予測できないということになるわけだが、いくら人工知能などの技術的な計算能力が進歩して、未来を正確に予測できる確率が上がったとしても、将来に損失が出ることが明らかになれば投資しないだろうし、他には粉飾などの詐欺以外では利益を作り出すことはできないわけで、詐欺によって一時的に利益が出ているように見せかけても、発覚すれば処罰の対象となってしまうわけだから、確実に利益を上げたことにはならないわけだ。そうやって未来へ向かって人を騙して投資への誘惑を掻き立てられるとしても、その種の幻想を持ち出したらきりがないわけだが、そのつけが負債の膨張となって現れることも事実だろうが、一概に夢を見させることが騙すことにもならないわけだから、実際に結果が出てみないことには、その辺の境界は曖昧なままとなるしかないだろうし、不確実な未来を当てにして利益を見込むことで投資が成り立っている現状もあるわけで、逆に百パーセント利益が見込める投資が誰にでもできるようになってしまえば、それは利益ではなくなってしまうだろうし、そこに利益に関する矛盾があるわけだが、少なくともそこから言えることは、利益を上げることと損失を出すことはセットとなっていて、利益を上げる人がいる一方で損失を出す人も必ずいるだろうし、何よりも資金がなくて投資できない人は、投資によって利益を上げた人と比較するなら、それだけ負債も含めた全体の資産が増えてしまうのだから、相対的に損失を出している範疇に入ってしまうことになるのではないか。もちろん常時利益を上げている側になれるわけでもないのだろうが、実際に巨万の富を蓄積している人や企業などが多数存在するわけだから、その反対に膨大な負債を国債という形で貯め込んでいる国家も多数存在しているのだろうが、今のところはそうした不均衡が技術的に解決される目処が立っているとは思えないわけだ。

 人や集団の間で資産や資金の面で有利不利を作り出して、そうやって生じさせた格差を利用して活動するのが、資本主義経済の中で行われていることの一部始終であるのはわかりきっているわけだが、格差が固定してしまうと活動が滞ってしまうだろうし、常に流動的に物事が動いている限りで経済が活発化するわけだから、要するにそこで活動している人や集団の栄枯盛衰が頻繁に起こっているほど、それだけ資本主義経済もダイナミックに動き続けていることにもなり、いったん特定の人や勢力の支配体制が確立してしまうと、そこで経済は停滞傾向になるわけだが、それでも人や勢力としては、経済活動の中で他の人や勢力と競争しているわけで、自分たちが栄えている状態を確保して維持するためにも、否応なく世の中の支配体制を確立しようとするのであり、そういう意味では実際にやろうとしていることと、そこからもたらされる効果や結果が矛盾してくるわけだが、活動自体の方向性としてはそうなるしかないわけだから、そうした矛盾を自覚しないで活動していくことになるだろうし、たとえそれがわかっていても、自分たちが有利になるように他との格差を生み出そうとしなければ、他のとの競争に敗れるしかないわけで、そこに活動のジレンマと限界があるのだろうが、限界があるからといって、その限界に近づくように努力しなければならないわけだから、それに関して技術的な改良や改善などは、競争に勝つために、そして勝ってその分野での覇権や支配体制を確立するには有効だが、いったん支配体制を確立してしまえば、その先に待っているのが必然的な停滞となるわけだから、そうなってしまう成り行きをそれらの技術を用いて解決することはできないわけで、結局停滞を打開するには、当の支配体制を確立した勢力が衰退して他の勢力が台頭してくる以外にはあり得ないという逆説的な答えが出てしまうわけだ。そんなわけで活動を継続させるには、活動している当事者の他との交代が必要ということ自体は、他のどんな活動にも当てはまるだろうし、そうした世代交代や主役の交代が活動を活性化させることになるわけだが、そうした活動自体も別の活動へと引き継がれることも必然的な成り行きなのかもしれず、同じ活動を継続させようとすると、やはりそこで何らかの停滞に直面してしまうだろうし、映画などのシリーズ物が次第にマンネリ傾向に陥ってしまうのと同じように、あらゆる活動がその継続には困難と停滞が伴うのかもしれず、そうした困難を打開して活動を活性化させるには、その活動自体をやめる成り行きにならなければ、それに代わる他の活動の余地が生まれてこないことにもなるだろうし、さらにそれが以前の活動と同じような傾向では、やはり以前の活動と同じような停滞をもたらしてしまうのかもしれず、そういう意味でそんな現状を批判するにしても、その批判自体も同じような批判を延々と繰り返していれば、当然それがマンネリ化してしまうだろうし、そうしたマンネリ化を避けられないとしたら、そうした批判を継続させる意義が、マンネリ化とともに次第に薄れてくるのかもしれないし、そうなると批判者の主役交代や世代交代が促進しないと、その分野がいつまで経っても停滞とマンネリ化から抜け出せなくなってしまうのかもしれないが、当の批判者は当然のことながら批判者の地位を他に明け渡すわけにはいかないし、その気もさらさらないわけで、そこで競合が生じて競争が行われて、他の批判者に競り負けない限りは、結果的にその地位や立場を死守してしまうわけで、だからいつまで経っても執拗に世の中の停滞傾向を批判している人は、自らもその停滞傾向に加担しているからこそ、いつまで経ってもそんな批判ができる地位や立場に留まり続けられているわけで、それも批判自体の矛盾を自らが身をもって体現しているわけだが、やはりそれも、それと自覚することなく様々な分野で支配体制の確立を目指すような勢力と同じジレンマに直面していると言えるのではないか。


10月15日「具体的な行為」

 ただ物事について思考するだけでは、現実の世界には何の作用も影響を及ぼさないだろうが、では具体的に何をやるかが重要だと思われても、実際にやっていることが周囲からの作用や影響を受けていれば、やれることはそれだけ限られてくるだろうし、結局は周囲が反対や抵抗をしないような無難なことが行われているようなら、誰もそんな行為には注目しないだろうし、大したことは行われていないことになるわけだが、では大したこととは何かといえば、周囲が期待した以上のことが行われるようなら、大したことだと言えるだろうが、実際には周囲の反対や反発や抵抗を招きながらも、それに打ち勝つことができれば、何か大したことをやっているような実感を伴ってくるわけだが、またそれに打ち勝つには、やっていることを支持してくれる賛同者の協力が必要不可欠と思われたり、何よりも協力を取りつけるために、周囲を納得させるような説明や、実際に利益をもたらすことを証明して見せれば、それなりの賛同者を得られて、それなりの利益をもたらすことにも成功すれば、結果的にうまくいったことにもなるわけだが、実際にはそうしたことの全てがうまくいくとは限らないから、それほど多くの人から賛同を得られなかったり、また期待したほどの利益をもたらせなかったりして、やっていることがうまくいかなくなることの方が多いかもしれないが、そんな中でもうまくいけば、そのうまくいった事例が希少であるほど、大したことをやっているように思われたり、周囲のほとんどが失敗している中でも、わずかな成功例として認められるなら、そこからもたらされる利益も思いがけないほど大きくなるかもしれないし、実際にそうなれば周囲の大半の失敗した事例と比較しても、大したことだと思われるだろうし、それが世間から賞賛される格好の事例となるわけだろうが、印象としてはそうだとしても、実際にそれが周囲にどのような作用や影響を及ぼしていても、それ以外の大半のありふれた成り行きを伴った行為と比較して、特異な結果がもたらされただけのことであり、大したこととはそういうことだとみなすなら、そんなこととは無縁な人たちにしてみれば、自分たちとはあまり関係のないことのように思われるだろうし、そういう意味では別にそれがどうしたわけでもないのだろうが、そうした行為に対する見方や立場を変えれば、それがどうしたことでもないように思われるような行為など他にもいくらでもあるだろうし、そんなことまで考慮すると、それが自分にとっては大したことのように思われるとしても、周囲にとってはそうは思われない場合もあるし、その逆の場合も、あるいはどちらにとっても大したことであったりなかったりする場合もあるかもしれないが、誰にとっても全てが相対的な判断や評価の対象ではないとしても、その中でもそれなりにこだわっていることがあって、そのこだわっているところで一致を見れば、それが大したことであったりなかったりする判断や評価に結びつくわけで、それが周囲の判断や評価と一致する部分で、共感や賛同をもたらすのだろうし、そういう部分が多いほど、またはその程度が高かったり大きいほど、それが大したことのように思われるだろうし、それによって甚だしい成果を上げているようにも思われるわけだが、そういう面ではそうだとしても、それとは別の面ではそれほど大したことはやっていない実態もあるだろうし、そんなことも含めると、世の中で様々なことが行われている中で、その人にとっては興味深いことを行なっている限りで、それがその人にとっては重要なことだと思われるわけだが、その場での重要さというのが、別の場ではそうでもなかったり、また他の人にとってもそうであったりもなかったりもして、具体的に何をやるかやらないかだけでは、周囲の世界との結びつきや関係によっては、何の作用も影響も及ぼさない場合もあり得るだろうし、結局は何をやるにも、それがどんな思考や思惑から行われるにしても、そのやっていることとそれを取り巻く社会的な関係性や関連性を考慮する必要があるわけだ。

 またその人のやっていることのこだわりがどこから生じるのかといえば、他の人のやっていることが興味深く魅力的に感じられるから自分もやろうとするのだろうし、そこからその人と他の人との関係性や関連性が、やっていることのこだわりから生じて、やっていることを通して人と人との結びつきが生まれるわけだが、そうした結びつきが社会的な関係性や関連性を表しているわけだから、その人が何にこだわっているかによって、その人と社会との関係や関連など結びつきの内容も、またその人がどんな人や集団と関わっているかも変わってくるわけだが、そうしたことの中で何が判断や評価の対象となるかは、やっていることの内容が、周囲にどのような作用や影響を及ぼしているかに関して、それを肯定的に捉えるか否定的に捉えるかで、それに対する判断や評価も変わってくるわけだが、なぜ肯定されるかといえば、周囲が好感や共感を抱く限りで、好意的に受け止められるだろうし、また何らかの利益をもたらす限りで、賛同を得られるわけで、その反対になぜ否定されるかといえば、周囲が反発や反感を抱く限りで、否定的に受け止められるだろうし、また何らかの損失や損害をもたらす限りで、賛同を得られないどころか、賠償や懲罰の対象にもなるだろうし、やっていることから具体的に何がどれほどもたらされるかによって、周囲の受け止め方も変わってくるわけだが、そこで踏まえておかなければならないことは、特定の人や集団の中では好感や共感が抱かれるにしても、別の人や集団にとってはそうでもない場合もあるわけで、中にはそうでもないどころか、敵意や憎悪を抱かれてしまう場合もあって、それを受け止める社会的な立場や境遇などによっても、肯定や否定などの判断や評価が分かれる場合もあり、誰にとってもどんな集団によっても、好意や共感を抱かれるようなことができるわけではないことは踏まえておかないと、場合によってはそれが勘違いの原因ともなってしまうわけだが、だから周囲からのそうした反応や応答には、それが様々な傾向を伴っていれば、必要に応じて様々な対応をしていくしかないだろうし、たとえ全面的な好意や賛同が得られていると思われても、否定的な反応や応答が出てくる事態には、そうなることを想定して、それが起こり得る可能性について検討して、それに備えておかないとならないだろうし、そんなことにまで配慮するようなことをやっていなければ、それに越したことはないわけだが、それも実際にやっていることの程度にもよるわけだが、たぶんそれが公的な領域で行われるような行為であるほど、それに対する反応や応答も広範囲に及ぶだろうし、それに関わってくる人や集団も多種多岐にわたっている場合は、なおのことやっていることの整合性が取れなくなって、その場の判断や評価も分かれてくるし、それに関して様々な方面から意見や提言が寄せられて、いちいちそれらの全てに対応している余裕がなくなってしまうと、無視されたりおざなりの対応と受け取られた人や集団からの反発や反感を招くだろうし、メディア上でそんな方面の反応ばかりを強調されてしまうと、世間的な印象の面でも面倒な事態となってくるのだろうが、そんな対応に追われるばかりでは、肝心のやっていることにも身が入らなくなるだろうし、そうなってくると、公的に行われていることが、何のためにどんな目的で行われているかがわからなくなってきて、政府などが表明し主張する目的や目標が、それに対する世間の反応や応答などを踏まえて、それへの対応として出されるようになってくると、そもそも何のためにそんなことをやろうとしたのか、肝心の当初の目的や目標が達成できなくなってくるわけで、そうなるとやっていることは同じでもその目的や目標が変わってきてしまい、その目的や目標が疑われるようになってくるだろうし、ただの方便でそんな目的や目標を立てているだけだと思われてしまえば、やっていること自体も信用のおけないものとなってくるのではないか。


10月14日「世間の意味」

 物事に関する凡庸な判断や評価というのは、世間的な判断や評価の基準に従っている限りで、多数派の支持を当てにできるわけだが、なぜそれが凡庸に思われるかというと、ありふれているように思われるからだが、凡庸であるだけに否定的な批判にさらされるわけでもないし、許容の範囲内に収まるような内容であり、積極的に評価されるわけでもないが、それなりに批判を免れつつも消極的な共感も得られて、そういう判断や評価を下す人たちは、他の人たちから安心感を持って受け入れられる可能性があり、そういう意味では世の中でうまく立ち回っていると言えるだろうし、無難なことをやりながら世間からの批判にもさらされずに、ぬくぬくと生暖かい環境の中で生きていけるように思われるのだが、意識してそれを目指しているわけではなくても、それと自覚することなく結果的にそうなってしまう人が多いから、それが世間的に見て妥当に思われるのだろうし、そういう判断や評価が現状への消極的な肯定に結びつくから、何となく妥当で無難な判断や評価だと見なされるわけだが、普通に考えて現状を受け入れないよりは受け入れた方が、そんな現状の中で実際に生きているわけだから、それが妥当に思われるのが当然なのだが、そんな判断や評価ばかりしていると、現状を改善したり変革していく可能性を潰してしまうことにもなりかねず、時には批判されたり無視されるのを覚悟で、世間的な判断や評価の基準から逸脱したことを主張して、それに伴って世間と敵対するような立場を強いられてしまうのだろうが、日頃からその手の凡庸さに徹していると、そういう機会を逃してしまうのかもしれないし、逃してしまってもそれを悔やむわけでもなし、意識してそんな態度を心がけているわけではないにしても、世間から漂ってくる長い物には巻かれろ的な傾向に無自覚でいると、そういう雰囲気に慣れ親しんでしまい、そうなるのが当然のように感じられてくるわけだ。しかも逆に世間的な批判を受ける立場というのも、必ずしもそうした凡庸さから逃れられているとは言えないわけで、世間からまたあんなことをやっていると呆れられるようなら、それ自体が凡庸さを体現してしまっているわけで、それが世間との予定調和の二項対立を構成している証拠ともなるわけだが、ではそうした凡庸さを免れるにはどうしたらいいかと問われるかもしれないが、そういう方法論的な傾向にこだわって、一定のやり方を模索してしまうと、常に世間が喜ぶような紋切り型へと誘導されてしまうわけで、世間は安心できない対象は無視して、その代わりに批判するにしても安心して批判できるものを選んで批判する傾向にもあるわけで、周囲からの反応を気にして世間の関心を集めるような批判を心がけているうちに、安心して批判されるような凡庸な立場になっていることに気づけなくなってしまうわけだ。だから世間的な判断や評価を気にかけている時点で、意識が世間の中に埋没してしまっているわけだが、たぶんそれを意識してもしなくても、世間的な判断や評価に関心を持っている限りはそうならざるを得ないのかもしれないし、そうでなくても普通に自分の感覚で判断して、おかしいと思うことはおかしいと表明するしかないのだろうが、そういう表明が世間からの格好の攻撃目標として注目を集めるなら、そういうことを表明する人は世間の関心の範囲内で活動していることになるだろうし、世間に囚われている人たちは、そういう対象を安心して批判したり攻撃するわけだ。意識してそういう世間的な判断や評価の対象から逃れようとしても、ただ無視されるだけかもしれないが、そうした判断や評価そのものがおかしいと思うなら、それを指摘せざるを得ないだろうし、そこから世間的な判断や評価に囚われている人たちのおかしさや愚かさを積極的に批判することも可能となるのではないか。もちろんそうした批判が凡庸な内容となってしまう場合もあり得るから、そういうことにこだわっている自らの判断や評価が、世間の基準からそれほど逸脱しているわけでもないことも踏まえておく必要もあるのかもしれない。

 では世間が紋切り型と受け取って安心するような物事に対する態度とは違う態度をとれたからといって、それが何になるかと問うなら、世間の目を欺くことに成功するかもしれないし、真の意味で世間をあっと言わせることにも成功するかもしれないが、それだけのことならどうしたわけでもないし、たとえ世間が目を背けるようなことにあえて着目して、それに世間の目を向けさせることによって、世の中の二重基準やそれを隠そうする世間の欺瞞や偽善を暴いて見せても、そればかりやっていると世間の方でも慣れてしまって、そんなことをやっている人たちを称賛しておだて上げ、褒め殺すような成り行きに持って行こうするだろうし、その挙句に些細な過ちを大げさに咎めて、お前だってやっているじゃないかと叩かれることにもなるだろうし、どうやっても世間を批判する少数派が世間を体現している多数派に勝つことは難しいし、別に勝ちにこだわる必要もないわけだが、少なくとも世間に対して決定的な勝利を期待するのは間違っているだろうし、そんな幻想に囚われていると足元をすくわれるしかなく、ミイラ取りがミイラになるような事態を招いて、気がつけばその手の成功者として世間的な権威に祭り上げられてしまうのだろうが、そういう世間的な権威を崇め奉っているのが他ならぬ世間でしかないわけだから、そういった循環構造を絶えず意識していないと、世間も認める著名人となった批判者とともに一般の人たちも世間に組み込まれている事態に気づけなくなってしまうわけで、一般の人たちが批判者の批判内容に賛同している限りで、内容から判断してそれが良いことだとも悪いことだとも言えるかもしれないが、そうした世間を良くしていこうとするのは良いことだという共通了解ともに批判者に賛同してしまうと、世間というのがアプリオリに存在しているかのような権威主義に陥ってしまうだろうし、それは社会という枠組みにも国家という枠組みにも言えることかもしれないが、そうした枠組みの中で特定の人物の存在を肯定したり否定したりするのは、その人物の言動や行動の内容が良かったり悪かったりするからであると同時に、大したことを主張しているわけでもないのに、その人物の社会的な名声を考慮すると支持せざるを得ないとか、その逆に名も知れない一般人の身の程をわきまえない発言に腹がたつとか、しかも自らがそういう判断や評価を下していることを自覚できなかったり、自覚していてもそれが当然のことのように思われたり、また人の後ろ盾として世間や社会や国家という枠組みがあるかのように思われてしまうと、集団的な組織形態としての企業や政府などの各種団体も、世間的な評判や社会的な名声に依存して成り立っていて、そこで評判を上げたり落としたり、名声を博したり汚名を着せられたりするのが、それらの団体の活動の内容からきているとしても、それを判断したり評価するのが世間や社会という仲介物であるかのように思われてしまうわけで、そうした世間や社会がフィクションだと言っても何を述べていることにもならないが、そうしたフィクションに人や集団が依存しているように思われる限りで、世間や社会がその意向に従うべき権威のように思われてくるわけで、人や集団の活動を制限したり制約を加えているのが世間や社会だと思われると、実際にそうしたことに関して機能している慣習や制度が、世間や社会の意向に従って作られていると思われてくるわけで、そこに人との間で微妙なずれが生じていることに気づけなくなるわけだが、それらの何が主で何が従であるというよりは、そこで様々な物事が相互に依存し合うと同時に相互に排斥し合うような傾向を示しているのかもしれず、そのような現象が起こっている場を世間とか社会とかみなすことができるにしても、それはただの場であって、その場を支配しているのが何らかの勢力であると感じられても、その場自体が何か特定の意向を示しているわけでもないのだが、それでも何らかの傾向を伴っているように思われてくるわけだ。


10月13日「矛盾した対応」

 普通に国家を管理統治している政府が現状の制度や体制を維持しようとするのは、現状に何かしら問題があるにしても、そこから何らかの利益を得ていれば、とりあえずその利益を確保するためにも現状を維持しようとするだろうし、それが現状を維持しようとする理由になるだろうが、では現状で生じている問題はどうするかとなると、その問題によって不利益を被っている人たちが現状を変えようとするだろうし、そんな現状を変えようとする勢力と現状を維持しようとする勢力の間で、対立や争いが起こるのは当然の成り行きだろうが、その対立や争いの形態が民主的な政治制度に基づいて行われる限りで、それは選挙や議会内での駆け引きに限定されてくるだろうし、それだけで収まっていれば、平和的に対立や争いが繰り広げられていることになるわけだが、そこから逸脱した行為を伴ってくると、最悪の場合はテロや内戦などに発展するわけで、実際に世界の現状の中ではそうなっている地域が少なからずあるだろうし、そうした地域にはそうならざるを得ない事情があるわけだが、要するにそこには民主的な政治制度では解決できない問題があるわけで、もちろんそれはテロや内戦で解決できるわけでもなく、そうやって争っていること自体が問題なのだが、逆に言えば民主的な政治制度に問題があるから、そこから逸脱して暴力の応酬になってしまうわけで、そうであるなら制度自体を改革しなければならなくなるわけだが、そういう成り行きにならないから、暴力の応酬になっているとも言えるわけで、だからいつまで経っても解決不可能な問題を抱えているとも言えるだろうし、問題を解決するための出口はどこにもないことにもなるわけだが、少なくとも他では民主的な政治制度の範囲内で、平和的な対立や争いに推移している地域もあるのだから、そこから逸脱してしまう地域とその範囲内に収まっている地域との違いは何かというと、そこに至る歴史的な段階に違いがあり、現状で平和的な対立や争いに推移している地域では、民主的な政治制度に移行する過程で、それなりにテロや内戦を経験してきたとも言えるわけで、その期間に暴力の応酬をやり尽くした経緯が、それへの反省として平和的なやり方へと移行するきっかけをもたらしたとも言えるわけだが、そうだとしても現状で続いている暴力の応酬がいつまで続くかはよくわからないだろうし、平和的なやり方へと移行する契機がいつ訪れるかもよくわからないところだろうが、とりあえずは暴力の応酬によって、争っている双方が消耗し尽くすまでは続けられることになるだろうし、それに伴って双方へ武器や資金の供与が続いている限りは終わりようがないわけだ。またそうだとしても、争いを終わらせるための和平に向けた努力は続けられるだろうし、さらに争いに終止符を打つためにも、決着をつけるための争いも激化し拍車がかかることにもなるだろうが、そんな状況下でもそこへ武器や資金を供給している側は、そうすることによって利益を得ようとするわけで、利益が見込まれる限りで武器や資金の提供が続けられるわけだが、一方でそんなふうにして紛争地域へと武器や資金を供給している側の国内では、民主的な政治制度に基づいて平和的な対立や争いに推移している状況もあるわけで、自分たちの国内では平和的に物事を解決しようとしているのに、武器や資金を提供している先の国では暴力の応酬を促進するような行為にも加担していることになるわけで、そうした国で武器の製造が盛んに行われている事情があるから、自国の利益のためには他国がテロや内戦に明け暮れていても構わない、と受け取られても仕方のないことになってしまうわけだが、しかもそうした国が積極的に平和的な紛争解決に努力しているとなると、一方では武器や資金を供与しながら、もう一方では平和的な紛争の解決を図ろうとしていることにもなるわけで、そういうことをやっている部門や部署がそれぞれに異なるにしても、全体として見ればやっていることのつじつまが合っていないことにもなるだろうし、それが必然的な成り行きとしてそうなってしまうように見えるなら、そういう方面での問題の解決の難しさを物語っていることにもなるわけだ。

 そんな事態の中で関係する物事が複雑に入り組んでいるから、結果的につじつまの合わない矛盾した事態となってしまうわけで、そうした事態の中で物事を単純に捉えて敵と味方に分けて対立を煽って攻撃を仕掛けるようなことをやれば、火に油をそそぐことにもなりかねず、さらに事態が悪化するのが目に見えているわけだが、それを回避するには部分的な面で直接対峙しているところでそれぞれに折衝する以外にはやりようがなく、そんなことをやっている限りで現状が維持される傾向になるのだろうし、全体的には矛盾や不条理が生じているにも関わらず、部分的には平衡関係が成り立っていて、そうなっている限りで各部門に利益がもたらされるのだろうし、もちろんそれによって被害や損害を被っている面も生じていて、そうした負の側面を象徴しているのが、内戦の泥沼化や慢性的なテロの頻発や難民や移民の流出や流入となっているわけで、それらのどれを取っても一筋縄ではいかない問題となっているわけだが、それらについても部分的な対処にとどまる限りで、現状の維持と均衡をもたらしていて、対症療法的に絶え間ない対処が迫られていて、実際にも事態をこれ以上悪化させない程度には対処が行われていて、そんな現状の均衡をもたらす措置にとっては、犠牲となる地域やそこに住んでいる人たちも搾取の対象としてそれなりに必要となるわけだが、今後そうした地域がなくなって、そこに住んでいる人たちも民主的な制度の中で平和に暮らして行けるようになるなら、全面的に搾取の対象となる地域がなくなってしまうことになるだろうし、もちろんそれでも国内で経済格差などが生じている限りで、そこに多かれ少なかれ搾取する側とされる側の役割分担が存在することになるわけだが、たぶんそれも相対的な程度の問題となるだろうし、民主的な制度を後退させなければ、資産を持つ者と持たざる者との間に、はっきりした境界が設けられるような成り行きにはならないのかもしれないし、そうである限りで一般の民衆に求められているのは、民主的な制度の後退を許さない態度だろうし、そういう意味でも資産を持つ側が仕掛けてくる安易な利益誘導などの誘惑に乗らないことが肝心だろうし、現状の資本主義経済が貧富の格差を生じさせる仕組みとなっているのだから、それとバランスを取るには、公的な制度が資産を持たざる者を優先する仕組みとすべきで、逆に公的な制度でも資産を持つ側を優先させるような仕組みにしてしまうと、バランスがさらに崩れて格差が増大していく傾向となってしまうだろうし、だからそうならないような制度的な仕組みが求められるわけだが、具体的にどうすればいいかとなると、資産を持つ側と持たざる側のどちらが権力を持っているかとなると、当然のことながら資産を持っている側の方が強く、あからさまに資産を持っている側を敵視するような制度は実質的には作れないわけで、そういうところで工夫が必要となるのだろうが、ではどのように工夫を凝らせば双方が納得するような制度的な仕組みになるかというと、資産を持っている側ではさらに資産を増やすための競争を促進させる一方で、資産を持たない側ではそれなりに暮らしが成り立つような状況に持っていかなければならないだろうし、そうした両義的でつじつまの合わない矛盾した対応が求められるのかもしれず、果たしてそんなことが本当にできるかとなると、現状ではそんな対応はあり得ないかもしれないが、それに関係してくる作用を複雑に入り組ませることに成功すれば、意外とそれが実現できるかもしれず、これからどのような制度を作るにしても、単純でわかりやすい仕組みにするのはあきらめた方がいいのかもしれないし、実際にやろうとすると、回りくどく錯綜した仕組みになっていってしまうのではないか。もちろんそれも一から十まで人為的にやろうとするとおかしくなってしまうだろうし、ある程度はその場の成り行きにまかせるようにしていくしかないし、状況が自然に推移する傾向に逆らわない方が結果的にうまくいくのかもしれない。


10月12日「価値の相対性」

 文化的な価値と金銭的な価値が必ずしも一致するわけではないのは、売買には適さないものが文化的な価値にはあるからだろうが、一方で全てを金銭的な価値に換算できればわかりやすいだろうし、大抵の価値は金銭的な価値に換算して物事の評価が行われるわけだが、もちろん金銭的な価値に換算できたからといって、直ちに売買が行われるわけでもないし、その価格を示す数値がただの指標として扱われることも多いわけだが、たぶん何もかもを金銭的な価値に換算しようとするのは、すでにそうすることが常識となっているからだろうし、逆に換算できないものについては価値を認めない方がわかりやすく、そんなわけで全てを一つの基準で測って、価値に関する判断や評価を単純化したいという思惑が働いていることも確かだろうが、世の中にはそれに積極的に逆らう傾向があるわけでもないし、大抵はそんな成り行きを受け入れる方向で事が進みがちになっているだろうし、ほとんどの人は別にそれが悪いことだとも思わないのではないか。そういう傾向が空気のように感じられる限りで、それについて特に考えようとはしないだろうし、そういう傾向が世の中に何をもたらしているかについて、何か重要で深刻な認識や見解が示されているわけでもないし、そこは素通りして、普通にその先で金銭的な価値を高めることに向かいがちになるわけだが、他にこだわるべきことがあるとは思えなければ、そういう傾向の中ではそれが正しい方向だと思うしかなく、たぶん気づかないところでそうした価値とは無関係なことをやっているしても、特にそういう行為を誇示するわけでもないし、逆に何の価値も得られないことをやっている自らを愚かだと思いながらも、価値から逃れられる自由を満喫している場合もあるわけだが、心の余裕とは価値にとらわれない行動に表れるわけで、別にそういうことができるということが、本当の豊かさを示しているわけではないにしても、またそれなりに金銭的な蓄えがあれば、特に意識することなく、そんなことを余裕を持って行えるわけだが、やっていることを誇示する必要のない状態というのが、価値にとらわれていないことの証しとなるだろうし、もちろんそんなことが証明される必要もなく、逆に証明しようとすることが、こだわっていることの証しとなるわけだが、特に何にこだわっているわけでもない状態を維持できるなら、自然体を保っていることになるのだろうが、自然体にこだわるのも自然体ではないことになってしまうわけで、何かにこだわっていると自覚していることが、そのこだわっていることに意識が囚われていることになり、こだわっていることに価値を見出していることにもなるわけで、中にはそれと自覚することなくこだわっているように見えてしまう場合もあるわけだが、そこに価値があるように思われてしまうことが、果たしてそうなってしまうことの良し悪しとは無関係でいられるかというと、普通に否応なく善悪の判断を伴ってしまうだろうし、判断をいつまでも保留しておくことができないから、その先に事態が進んでしまうわけで、そうなってしまってから取り返しのつかないことをやってしまったのを悟って、それが悪いことのように思われたら悔やむしかなく、要するに後悔先に立たずなわけで、判断や評価の機会はいつも遅れてやってきて、やってしまったことの責任を断罪したり、あるいは大げさに賞賛して、うまくやったと思い込ませるわけだが、たぶん行為に対する評価は心の余裕を与えないことの方が多いだろうし、やってしまったことにこだわらせて、その是非を問い、どうするべきかあるいはどうするべきだったかに関して、何かそれに関する判断や評価が固定しているかのように思わせるわけだが、そうしたことにこだわらなければ特に意識することもないだろうし、こだわってしまうことについては意識の中で反芻を繰り返すから、いつまでも忘れないでいられるわけだが、だからといって忘れられないことが自らにとって重要であったり、重大なこだわるべきことだとは限らないのかもしれず、案外どうでもいいような些細なことをいつまでも気にかけこだわっているのかもしれないし、特にそれが否定的な感情を伴うなら、負い目ややましさを自覚することになるのではないか。

 それでも価値があると感じられる物事にこだわるのは自然な成り行きだろうし、また意識してそういう成り行きに逆らうのも自然な成り行きであり、そこから価値の判断や評価に関して対立が生まれるのも自然な成り行きかもしれないが、そういう自然な成り行きを意識できるかというと、自然であるだけに意識できない場合が多そうだが、たぶん特定の物事にこだわり、また他人のそうした物事へのこだわりに逆らい反発してしまうと、対立してしまう当事者になってしまうわけで、そんな争いの渦中にいると、人為的に双方の思惑が絡み合って、自分が正しく相手が間違っていると思うしかないわけで、それが自然な成り行きであることなど意識できないわけだが、ではそれが自然な成り行きであることを意識できれば、それによって何が行えるかというと、どちらが正しくどちらが間違っているのでもなく、そこに対立関係が形成されること自体が自然な成り行きであり、そんな対立を抑制するには交渉や取引によって妥協を図るぐらいしかやりようがないかもしれないが、それもそうすることがその場で生じている自然な成り行きに逆らわない対応だと感じられる限りで、そうすることが自然な成り行きだと感じられるかもしれないが、自然な成り行きにこだわらなければ、無理な対応や強引なやり方を押し通そうとして、それなりの軋轢や抵抗に直面するのかもしれないが、それも自然に生じる成り行きの中でそうなるしかないのかもしれず、何が自然な対応で何が不自然な対応だと思うにしても、他の判断基準である合理性や功利性などと折り合いをつけられなければ、そんな対応はしないだろうし、また実際に対応してみないことにはわからないことも多いだろうし、対応してみてもわからないこともあるわけだから、それが暗中模索になろうとわかりきった当たり前の対応になろうと、対応する前と対応した後では、判断も評価も変わってくるかもしれないし、だから人はそれなりにはっきりとわかる価値を求めるのだろうし、例えば対応する前と対応した後で、所持している金銭の額が増えれば、対応がうまくいったと思うだろうし、そうなれば自分だけでなく周囲も納得する結果となるわけで、それだけで済むならそれに越したことはないわけだが、現実にはそうはならない場合が多いだろうし、対応に関係してくる人や集団が多いほど、それに伴って事情も複雑に入り組んできて、そうした関係者の全てを納得させることは難しい場合が出てくるだろうし、実際に関係者の間でなかなか折り合いがつかないから、それに伴って起こる対立や紛争が長引くわけだが、それがなかなか解決に至らないから、それに伴って特有の事情が生じてくるわけで、それに関して絶えず交渉を行なったり、その場の事情に応じて取引内容を変えてきたり、それらは現在進行形でその場の変動要因として状況に絡んでくるわけだが、できれば価値のあることやって、その価値を共有している人や集団に認められたいわけで、その場を上手く収めるには、関係する人や集団に価値から生じる利益を配分しなければならなくなって、交渉や取引を行うにも、そうした行いによって利益を生じさせて、その利益を他に分け与えることによって、そうした行為を行なっている自らの存在や立場を、それらの人や集団に認めてもらわなければならなくなるわけだが、実際問題としてはそんなことだけやっているわけではないだろうし、他にも様々なことをやっている中で、そんなことをやらなければならない事情が生じてくるわけで、そこに他の人や集団との関係が生じている限りで、それに伴って利益配分が必要となる可能性が出てくるわけで、それもやっている行為から利益が生じている限りで、そんな必要が出てくるわけで、利益をもたらさないようなことをやっていれば、そういう関係は生じないだろうし、それとは別の関係もいくらでもあるのだろうが、そうした関係が築かれる中では、やはり絶えず関係者との価値観の共有が行われる成り行きが生じてくるわけだ。そして価値観が共有されている限りでお互いの信頼関係も成り立つし、協力や連携するにあたっての交渉や取引もスムーズに事が運ぶのではないか。


10月11日「都市の機能」

 特定の場所に人や物や情報が集まって都市が形成されることが、文明が繁栄する一般的な形態だが、その繁栄の度合いが、その都市の人口とか経済規模とか住民の所得とか土地の価格とか、様々な指標によって測られるにしても、一方でそこに集まった人や物や情報も他から移動してきてそこに集まるわけで、それらが絶えず差異を求めて移動することから利益が生み出されるわけだが、利益が発生するということは、そこに価値がつけ加わることであり、そこで人為的な加工が施されるわけだ。具体的には人や物が移動するには車や鉄道や船舶や航空機が必要で、それらに乗せて移動させれば運賃が生じて、そうやって移動させる側に利益が発生するわけで、また情報を移動させるには通信手段が必要となって、それに伴って無線や有線などの使用料が発生して、そうした通信設備を提供する側にも利益が発生するわけだが、結局それらが移動した距離や移動した量や移動に費やした経費などに利益が加算されるわけで、また単にそのままの形で移動するだけなく、物によっては加工を施されるわけで、加工に費やした手間暇も経費に加算されて、そこにも利益が上乗せされるわけだが、なぜ人や物や情報が移動してくるのかといえば、移動した先で使われるからであり、またその際に使いやすいように加工も施されるわけで、そうやって人や物や情報が移動してきて加工されて使われる場が密集している場所が都市として形成され、それらが密集していると使う面でも加工する面でも便利であり、使用や加工が効率的に行えるからそれらが自然に密集するわけで、また使いやすく加工しやすいようにそれらを人為的に密集させるわけだが、途中でどれほど加工するにしても、最終的にはそれらを人が使うわけだから、そこに人がいないことには移動させてくる必要も生じないわけで、それらを使う人が多いほど、またそれらを多く使う人がいるほど、そうした物事を取り扱う経済規模が大きくなるわけで、原理的にはそうした物事の大量消費によって経済が発展することにもなるわけだが、物資をそこへ大量に持ってくるから、そこで必要が生じて使われることにもなり、また大量に持ってこられると、持ってくるまでのコストが低下するから価格も下がって、容易かつ手軽に買えるから、さらに普及が進んで大量に使われることにもなり、それらが相乗効果となって経済が潤うことにもなるわけだが、また大量に取り扱われるから利益も大きくなり、その蓄積も増えて、蓄積した資金を使って価格の高い物資も買えるようになって、それに伴って奢侈品の需要も増えるわけで、それも経済の好調に伴う相乗効果となるわけだが、それらの成り行きをどこからどう説明してみても、人や物や情報の移動と集積と加工と使用が、都市を中心にして行われている実態を説明することになるわけで、そこに必要に応じて人が集まってくるから、人が取り扱う物や情報も集まってきて、結果的に都市が繁栄して、それが都市そのものの規模となって出現しているわけで、それらが構造として形を伴っているとしても、それとともに人の意識の中でも幻想を生んでいて、それが都市そのものの魅力を形成しているのであり、それが幻想であるだけに、都市そのものの機能である便利さとか効率性とかとは無関係な面も出てきて、そこから見た目にこだわる美的な印象などを重視するようになると、景観を保全するとか気休めの空間を確保するような成り行きも生じてきて、それが観光的な需要を促すことにもなり、そんな経緯から都市に重層的な魅力が付け加わって、何か都市の価値が高められたようにも思われるわけだが、それだけ都市に富が蓄積しているからそういうことができるようになるわけで、それは金持ちが贅沢品を所有するようなことでしかないのかもしれないし、そうした価値も自然に得られるような成り行きにならない限りは、無理に背伸びして積極的に獲得するようなものでもないのかもしれない。

 結局それは付加価値の類いであり、長い期間をかけて歴史的に積み重なるような面もあり、それも実質的な面というよりは、過去の遺構から想像される幻想も含まれるわけで、それは一朝一夕にどうなるものでもないし、それを文化とみなすと、何かありがたがるような風潮も生まれるわけだが、景観というのはあくまでも表層的な価値でしかないわけだから、他の産業的な価値と比較すれば、そういう面で重視される優先順位は低いが、その都市から実質的な産業が抜け落ちて、その抜け殻としての観光資源が取り残されているような場合には、昔ながらの景観が売りにもなって、観光土産の類いにもそうした景観を反映した商品が売りに出されるようなら、都市の景観にも価値があることにもなるわけだが、それを眺めているだけで人が生きていけるわけでもないし、他の実質的な産業が伴っていないと文明としての繁栄を維持できないわけで、そういった文化都市がある一方で産業都市も必要不可欠であり、中には両方を兼ね備えた都市もいくらでも存在しているわけだが、都市に富が蓄積されてくると文化面での付加価値が求められるわけだから、そこに主従関係があると捉えるなら、産業が主であり文化が従であることは明らかで、産業の発展なくてして文化の発展もないわけだが、だからと言って文化の自立を疑うわけでもないが、産業と文化の両面で相乗効果がもたらされるから文化面での幻想も生まれるわけで、それが景観からもたらされる価値によってとりとめのない幻影を生じさせているとしても、そこで人々が手に入れたつもりになっている価値こそが幻影でしかないとしても、具体的に文化財の保存という行為から何らかの利益が生じていることは確かであり、それに伴って関係する人や集団の活動が活発になれば、そういう方面での経済が活性化したことになるわけで、文化財としての景観の前に観光客を集めて、そうした人々の移動や宿泊や飲食に伴って生じる費用が、景観を所有する都市の経済を潤すことになるわけだから、そういう意味で観光も産業の一つであり、そうした景観を生み出す文化そのものを売りにしているわけだが、その一方で文化には売りにならないものまで含まれていて、それらのすべてを見世物にはできないだろうし、逆に見世物にされた文化というのは、見世物として形骸化した末に残された文化の残骸でしかなく、人の振る舞いとしての実質的な内容を伴っていないのかもしれない。そういう意味での文化とは実際に現状の社会の中で人が立ち振る舞っている活動そのものであり、景観とは人々の立ち振る舞いがもたらした表面的な風景に過ぎないわけだが、そこに不快感を伴うような景観があれば、そこで人々が行なっている行為がそのような景観をもたらしているのであり、不快という感情を伴うようなことが行われていることになるだろうし、それを隠しようがないから、そういう光景が出現するわけだが、それを行政的な配慮によって隠そうとしても、人々が実際に行なっていることをやめさせない限りは、いくら隠しても繰り返し生み出されてくるわけで、その典型的な例が落書きの類いであり、中にはそれが芸術として認められるようなものにまで高められたものもあるだろうが、なぜ落書きするのかといえば、街の景観を傷つけたいから落書きをするのであり、落書きする以外に鬱積した不満を吐き出すことができないわけだが、ではなぜ不満が募ってくるのかといえば、都市がもたらす富を享受できない人々が都市に集まっているからであり、要するに都市の中で持てる者と持たざる者との間に極端な貧富の格差があるから、持たざる者たちの間で不満が渦巻いていて、そうした不満のはけ口として、わざと都市の景観を汚すような落書きがそこいらじゅうに出現するわけだろうが、それも都市が生み出す文化であるだろうし、中にはそうした落書きを芸術作品として売り出すような試みもあるわけだが、たぶんそれが商品として売り物になってしまうと、もはや実質的な効果が形骸化して、毒抜きがされて無害化されてしまったことになるのだろうし、景観を汚すような否定的な都市の機能が資本主義活動によって抑え込まれてしまったことになるのではないか。


10月10日「繁栄と衰退の評価」

 安易な冒険者にありがちな認識として、その非日常的な冒険の中で体験することのすべてが、誰も知らない未知の領域で行われていることのように思われてしまうかもしれないが、確かにそこが人跡未踏の地であるなら、そういう認識もあながち間違ってはいないだろうが、そこで現地の人たちが普通に暮らしているなら、別に未知の領域で冒険が行われているわけではないだろうし、そうでなくても地球の表面は全て陸と海で覆われているわけだから、人がそこで生存できれば、その延長上で人の暮らしが成り立っていて、その限りで、そこで当人がスリル満点の冒険を楽しんでいるつもりでも、その隣では普通の人が普通に暮らしている可能性もあるわけで、結局そこで人のやっていることが異なれば、その場の見方も感じ方も変わってしまい、しかもその見方も感じ方もその場で行なっていることに依存した感覚なのだから、冒険という特別な行為が、他の人たちが普通に暮らしている日常の中で行われていても、何ら不思議ではないにしても、冒険者と普通の一般人が共有している空間と時間が、非日常的な特別な感覚で満たされているか、あるいは日常の普通の感覚で満たされているかは、そこで行われる活動の内容次第であり、どちらか両極端に振れるというよりは、それらが混ぜ合わされた感覚になるのかもしれず、さらに冒険というよりは観光になると、それは普通の旅行者の体験に基づく感覚であり、そんな日常と非日常が混ぜ合わされた感覚が、観光の中で味わえるとすれば、それは安全な冒険という摩訶不思議な感覚となって、それを体験する人々を安心とともに魅了するだろうし、そんなご都合主義的な感覚を求めること自体が、安易な冒険者の態度そのものかもしれないが、大抵は経済的な豊かさを享受する人々が、そんな楽しみに耽ることになるわけで、それを肯定的に捉えるか否かは、そうした観光を受け入れる側の意識にもよるだろうが、果たして観光地で普通の日常生活を送っている人々は、そういう感覚をどう捉えているのだろうか。それらの人々も他の観光地で楽しみに耽ることができればお互い様となるだろうが、一方的に観光客の召使いのような役割分担を課されているようなら、やはりそこに格差が生じていることになるだろうし、別にそれを仕事と割り切ってやっているのなら、それほど苦にはならないだろうが、観光客の横柄で傲慢な態度に辟易しているようであれば、そういうところから憎悪などの否定的な感情が芽生えるかもしれず、それに関しては同じサービス業でも尊敬される立場と見下される立場というものがあるだろうし、例えば高級料理店のオーナーシェフなどは客から尊敬を集めるわけだが、下働きの雑用係などは見下されているだろうし、中にはそこから修業を積んでオーナーシェフになる人も出てくるのだろうが、誰もがそうなれるわけでもないし、実際にそうなって尊敬されるようになれば、その人は特別な人間に見られるわけだが、観光客の方でも資金の蓄えがあって、世界中を観光して回れる人はそう多くはいないだろうし、豪華客船に乗って世界一周の旅に出られる人と、船員としてその豪華客船で働いている人の間には、どう考えても格差があるだろうし、別に格差があるからといって、普通に暮らして行ける限りにおいて、どうということはないとみなすしかないが、少なくとも格差を感じて劣等感を抱いている人はおもしろくないだろうし、それが特別な体験であれ日常の体験であれ、そうした体験を楽しめる立場と、そこから苦しさを実感する立場とが、同じ時間と場所を共有していれば、楽しめる立場を占有している人が優位に立っていて、苦しさを味わっている人が不利な立場を強いられているわけだろうが、日常の空間では楽しさと苦しさが混合しているとしても、観光などの非日常的な空間の中では、その場で占めている立場によって楽しさと苦しさの両極端に分かれて、一方的に楽しさを味わう立場と、一方的に苦しさを味わう立場とに分かれていれば、やはりどちらの立場を占有する人も、そこに格差があることを認識するのではないか。

 もちろん苦しくてもそれ相応の見返りがあれば納得するだろうし、それが賃金などの金銭的な見返りであり、しかも耐えられる程度の苦しさであれば、それほど問題はないわけで、また観光というのは長年労働によって金銭的な蓄えを増やした後に、老後の楽しみとして行く場合も多いだろうし、観光客の中には、若い頃にはひたすら働いていたから、労働の苦しみも十分に知り尽くしていて、だからそういう人はサービスを提供する側に横柄で傲慢な態度で接することもないだろうし、そうした労働と余暇の循環の中で観光業が成り立っていれば、大した不都合も生じないのかもしれないが、そうはいっても老後に観光を楽しめるほど資金を蓄えられる人も限られているなら、そういう人向けの観光地も限られてくるだろうし、そういう意味で世界の全ての地域が観光化するわけでもないし、またそうした観光地が社会の中で気休め以外の何か重要な役割を果たしているわけでもなく、中にはその国の政治や経済の中心地が観光の中心地となる場合も少なからずあるわけだが、様々な分野でその地域が栄えるとしても、それは相対的な繁栄であり、他の地域を押しのけてその地域が繁栄するとなると、押しのけられた地域の人たちは黙っていないだろうし、そうやって地域間で格差が生じて、それが争いの火種に発展することもあり得るだろうが、そもそも商売というのはそうした格差を利用して利益を求めるやり方であり、地域間でも人の間でも格差がないと商売にならないわけだが、それが同じ地域や同じ人であっても、時間的な発展の過程が過去との現在の間で格差を生じさせるわけで、昔は寂れた漁村に過ぎなかった場所が、何かのきっかけで高層ビルが立ち並ぶ大都市に変貌したら、それは繁栄とみなされるだろうし、昔は小さな食堂の見習いコックだった人が、何かのきっかけで三つ星レストランのオーナーシェフにまで出世したら、やはりそれも繁栄とみなされるわけで、そういう場合は場所の移動だけなく時間の経過とともに利益が生み出されたことになり、繁栄している地点が位置的にも時間的にも移動することを示しているわけだが、それが個人であっても企業であっても国家であっても、繁栄を求めるのは当然の成り行きだろうが、その逆に誰も好き好んで衰退を求めるような成り行きにはならないとしても、これも当然のことながら繁栄がある一方で衰退もあるだろうし、中には衰退して廃墟と化した場所が観光名所となって再び栄える場合もあるわけだが、そうやって個人も企業も国家もそれぞれにあるいは相互に関係し合いながら栄枯盛衰を体現していく過程で、そこに生じている人と人の間や企業間や国家間や地域間に生じている格差を利用して経済活動が行われて、そうした活動の結果として利益が生じたり損失が生じたりしながら、またその利益と損失の間でも格差が生じて、格差が生じている中でも有利な立場を占めている側は、できるだけその格差を固定して恒常的に利益を得ようとする一方で、不利な立場を強いられている側は、できるだけ格差を縮めて損失をなくそうとしてくるわけだが、経済活動の主な過程は、物や情報やサービスが生産されてから流通して販売されて消費される順に進んでいくわけだから、そうしたことが行われるそれぞれ段階の中でも格差が生じるだろうし、簡単に言えばそれは生産業者と流通業者と販売業者と消費者との間で、どの立場が強いかで格差が生じるわけだが、その中でも複数の立場を一手に引き受ければ立場が強くなったり、あるいは特定の部門を独占的に取り扱うことで立場を強めることもあるだろうし、これも業種によって支配的な立場になれるか従属的な立場を強いられるかによって、利益を得る上での有利不利が決まってくるわけで、そんなふうにして時間的にも位置的にも部門的にも、そこで結ばれる様々な関係が複雑に絡み合って錯綜しながら、その中で有利な立場を占めた側がより多くの利益を得られて、またその利益を利用して活動を盛んに行うことによって繁栄するわけで、より盛んに活動が行われているところが繁栄していて、活動が停滞しているところが寂れているわけだが、繁栄が良くて寂れているのが悪いのかとなると、一般的にはそう思うだろうが、寂れているところでもそこで人がそれなりに生活していれば、そこで生活している人にとってはそれが日常なのだから、それを外部からどう評価されようと、気にしない人はしないだろうし、そんな場所を活性化させようとする成り行きが起こらなければ、別にそのままであっても構わないのではないか。


10月9日「バランス感覚」

 別に世間的に見て特殊な事情を抱えていないただの人が、大衆の中の一人として扱われると、何の特性もない無価値な存在とみなされるわけでもないにしても、そこから何らかの価値を担うには、その人が他と比較して何か特別な存在として認められなければならないと思うのは、誰もがはっきりとそう自覚しているわけでもないだろうが、ある程度の状況的な確かさを伴ってそう思われていて、例えばメディア上で取り上げられる著名人などの存在が典型的にそう思われるだろうし、そうでなくても社会の中での地位や身分の上下関係の中で、上位の人間の方が下位の人間よりも価値が高いと素朴に思われることからも、それは確からしいわけだが、そうした社会的なヒエラルキーから自由になるには、そう思ってしまう意識を跳ね返すような別の価値が求められてしまうだろうし、それが人為的に平等な社会を作ろうとする動機に繋がるのかもしれないが、そういう方面の試みとしては、例えば前世紀に盛んに行われた共産主義社会を作る試みの失敗から、うまくいかないことが明らかとなってしまったわけだが、それを社会全体で行うような共同的な試みではなく、個人的あるいは企業的な努力によって達成しようとする試みとして、経済活動によって金銭的な富の蓄積を目指す行為があるわけで、社会的な地位や身分の上下に関係なく資産の蓄えがあれば、その資産を使うことによってそれなりに制約なく自由に振る舞えるし、金さえ払えばそれなりに高級なサービスを受けることができるわけで、それがしばしば金に物を言わせた傲慢な態度と受け取られるにしても、それなりに社会の中で自らの優位さを誇ることもできるわけだが、そんなやり方が一方では資産の多い少ないに基づいた社会的なヒエラルキーを形成してしまうわけだから、それも社会的な上下関係を決める価値になっていることに変わりないわけで、そうした価値があるかないかをめぐって優劣を競い合う成り行きから抜け出すのは困難に思われるかもしれないが、そもそも差異を比較すること自体がそんな結果を招いてしまうわけだから、そこだけを意識して強調する必要性が感じられなければ、別にそう思わなくても構わないわけで、単に比較しなければいいだけでしかないわけだが、また比較する機会だけなく、他のことを意識する機会もいくらでもあるわけで、それを意識できれば価値がそれだけでないことがわかり、またそれだけを意識してしまう自らが、そんな価値観に囚われていることにも気づいてしまうかもしれないが、だからと言ってそうなってしまう成り行きを無視して、そうした価値を無理に否定するのもおかしいだろうし、不必要にのめり込まない程度でそうした価値を意識していれば、それなりに免疫効果を期待できるだろうし、それも程度の問題であり、ほどほどの状態を維持できる限りで、執拗にこだわてしまうような自意識過剰な状態に陥らずに済むわけで、何事も極端なこだわりへ振り切れなければ、心身のバランスを保てるわけだが、周囲の状況がそれを許してくれない場合には、意識して避けていても巻き込まれてしまうだろうし、巻き込まれてしまえばそれなりの対応を強いられてしまうわけだが、それを真に受けないことが必ずしも精神のまともさを保証してくれるわけでもないし、ある程度はそうした世間的な価値観に従って行動しないと、社会の中で他の人や集団との関係を良好な状態に保てないわけで、そうしたことにこだわりながらも、積極的にこだわるのではなく、付き合い程度の受動的なこだわりにとどめておく方が無難かもしれないし、そういうレベルで他人や他の集団への気遣いを怠らなければ、それなりに劣等感とも優越感とも浅く触れ合う程度の状態を維持できるかもしれないが、たぶんそうした相対的な範囲内で活動していると、自身の存在が中途半端に思われてくるのかもしれず、できればそうした中庸な状態を抜け出て、同じような思いを抱く他人と競い合って、頂点を目指す誘惑に抗しきれなくなってしまうのかもしれないが、誰もがそうなるわけでもないし、結局それも程度の問題でしかないのかもしれない。

 そしてそうしたことが必ずしも社会全体の問題とは認識されず、個人的な問題として取り扱われるのが、大衆市民社会の特徴なのかもしれず、そこで何か不具合や不都合が生じていても、他人の問題とみなせばいちいち首を突っ込む必要も感じないだろうし、そうなる限りで公的な政治問題には発展せずに、そういうレベルにおける他人や他の集団との協力関係や連携関係も生じないわけだが、そこで協力や連携の必要性を痛感させられる契機となるのが、政府による民衆への弾圧や企業活動による環境破壊や地域社会への破壊行為に対して、個人が無力であることが明らかとなるからだろうが、政府には政府が対抗して企業には企業が対抗するのも、よくありがちな成り行きであるわけで、集団の組織的な活動形態として政府や企業があるわけだから、個人もそれらの集団に伴って生じている制度的な成り行きを通して、政府や企業に関わっていて、それが個人が公的な問題に関わる契機にもなってくるわけで、何も無償のボランティアとして関わる市民団体のような形態だけが、一般的に正しいあり方とは限らないわけだが、また政治に関する専門的な領域では政党が幅を利かせていて、そうした様々な形態の各種団体が公的な領域で活動していて、その中で個人として関わってくる部分もあるかもしれないが、それらのすべてにわたって関わっているわけでもないだろうし、少なくとも部分的な関わりにとどまっているのが一般的な状況だろうし、そうであるからこそ大衆と呼ばれる組織形態を伴わない状態として捉えられているわけで、大衆が大衆である限りで、その存在に力の方向性が生じていないから、無力な状態を保っているが、一般的に言えば、それに対して様々な集団が、目的を持った団体として組織的な宣伝や煽動攻勢を仕掛けて、そうした活動が功を奏して大衆を味方につけることに成功すると、社会的あるいは政治的な主導権を握ることになるわけだが、別に大衆のほとんどが無関心であっても、それぞれの団体が少数ではあるが一定のまとまった支持や賛同を背景として、その中で相対的に多くの支持や賛同を得た団体が、あるいは特定の利害をめぐって複数の団体が提携したり連合することによって、制度的には主導権を得ることに成功するわけで、そういうやり方によって、選挙などでたとえ投票率が低くても、熱心な支持者の組織票が物を言って、特定の政党などが議会で過半数の勢力を得て、政権を構成するような成り行きになり、政治に無関心な大多数の民衆などは無視した政治を行える成り行きとなるわけで、またそういう状況が作り出されている限りで、政党政治という形態も成り立つのかもしれないが、逆に言えば大多数の民衆が政治に対して無関心でいられるということは、民衆が政府がやっていることに対して利害を感じられないということだろうし、そこから利益を得ているとも損害を被っているとも思えないから無関心でいられるわけで、そういう意味では、メディアも含めた政治に関わっている各種団体の意見や主張などを真に受けてはいないわけだ。そこで問題となってくるのが、自分にとって直接の利害が絡むこと以外は何一つ関心を持とうとしない大衆の存在となるわけだが、逆にそういう人は自分にとって直接の利害が絡んでくる問題だけが切実に感じられるわけで、他のことはどうでもいいとなると、そういう面では公的な政治制度としての民主主義的なシステムが成り立たない事態ともなっていて、そういうレベルで他人や他の集団への気遣いを怠っているわけだが、何でもかんでも自分の問題として引き受けるのはおかしいにしても、たとえそれが他人の問題だとしても、その他人が困るようなことがあれば、少しでも困らないようにした方がいいと思う程度には力を貸そうとしないと、社会そのものが成り立っていかないだろうし、しかもすでにその場の主導権を握って力を持っている勢力に、さらに力を貸せば、そうした力を背景にして威張り出してしまうことぐらいは理解しないとならないだろうし、そういったところで社会の中で活動する様々な勢力の間で、力の均衡をもたらすように配慮する必要があることぐらいは理解しておいた方が身のためなのではないか。


10月8日「実行力」

 公的な行政機関の中で現状を現状のままに保つ傾向が生じるのは、現状の中で機能しているシステムが、現状を保つように作動しているからであり、たとえそれが変革の妨げになっているとしても、現状が変革されてしまったら、システムが機能しない恐れがあれば、現状の中でシステムを作動させている側が、変革を阻止しようとするのは当然だろうし、それをシステムと捉えてみても、いくつものシステムが複雑に絡み合いながら動作している現状があれば、現状の変革を目指す上で、その中の何をどう変えようとしても、直接には変えられない事情が生じている可能性もあり、そういう意味で現状の変革が困難となっているのかもしれないが、それは実際に現状の変革に取り組んでみないことにはわからない面もあるわけだが、しかも現状の変革に取り組む立場というのも、実際にそういう立場がない場合もあるだろうし、公式的なシステムとしてそこに組み込まれている全ての役職が、現状を維持するために設けられた役職しかなければ、そうしたシステムを維持する制度の中では、現状の変革を目指すのは困難となるわけだが、無理に変えようとしても、あるいは機会を捉えて変えようとしても、たぶんそういう成り行きにならなければ変えられないだろうし、では変えるような成り行きに持っていくにはどうすればいいかとなると、現状が民主的な政治制度になっていれば、民衆の支持を取り付けてから変えようとしなければならないだろうし、実際にそうやって様々な政治勢力が現状の変革を目指しているわけだが、それでも一向に現状が変わらなければ、あきらめるしかないかもしれないが、システムとしてはそうであっても、それ以外ではそういうわけでもなく、むしろそうしたシステムを形骸化させるような作用が他で生じているかもしれず、なぜそうなるかといえば、現状を変えようとして、実際に現状で機能しているはずの制度やシステムに則って変えようとして変えられないと、そうした制度やシステム自体がうまく動作していないことになり、すでにそうなっている時点で、制度やシステムが形骸化していることになるわけで、そうだとすれば、そうした制度やシステムが変わる可能性というは、それらが形骸化する方向に変わる可能性が高く、そうしたシステムを維持していく上で顕著となっているのは、システムの形骸化を阻止できないということなのかもしれない。システムというのは同じことを繰り返すのには向いているが、そうした動作を維持しようとすると、それを取り巻く周囲の環境の変化に合わなくなってきて、それを放置すると機能しなくなり、だから周囲の変化に応じて絶えず改良を施さなければならないわけだが、システムの現状を維持しようとする側は、逆に周囲の環境を変化させないようにするわけで、それが江戸時代の鎖国政策のように、一定の期間内ではうまくいくこともあるわけだが、それでも同じことの繰り返しに飽きてくれば、内部から徐々に腐食が始まるだろうし、それが形骸化作用だと言えるわけだが、そうしたシステムを支えているのが人である限りは、心理的に耐えられずに、それまでとは違うことをやろうとしてしまうわけで、そこに不都合や不具合が生じているとしても、それが一向に改まらない場合がある一方で、ただ単につまらないから違うことをやろうとしてしまう成り行きも生じるわけで、結局それは理性や理屈から生じるようなことではなく、怠惰や不精から堕落が始まって、そうなるとつまらなく思えてきたり、やっている意味がないように感じられたりして、システムを維持する集団内でも組織的な規律が取れなくなって、腐敗や不正行為が蔓延るようになれば、そうなるとシステム自体を再活性化させる機会を失って自己崩壊するしかなくなるのかもしれないが、そうなるまで待てない人たちが改革を訴えて、体制を維持しようとする保守派と絶えず対立や抗争を繰り返しながらも、そうした抗争から糧を得て保守派が生き残るような成り行きが繰り返されると、やはりそうした成り行きがマンネリ化してつまらないから、必然的に形骸化が促進されるわけだ。

 それでもたまには改革を訴える側が選挙で勝って、政権交代のような成り行きも生じるわけだが、そこから行政改革のような相対的な改革に結びつくとしても、行政機構そのものは維持されるわけで、別に制度やシステムを維持している集団の全てが解体されて、新たな組織へと編成され直すわけでもないだろうし、その大半は従来通りの形態で従来通りのことが行われるわけだから、特にそうした改革に抵抗する必要もないのかもしれないが、装置の歯車のようにして狭い範囲内で動作している人たちは、そういう広い視野で物事を見渡せる能力が欠如していて、そうした見地から物事を捉えられないわけで、そうした人たちの現状維持を図ろうする力が合わさると、現場の草の根から生じてくる力だから、そうした力によって執拗な抵抗が試みられる傾向にもなるだろうし、それが組織力の源泉ともなっていて、そこから理性や理屈とは異なる集団意志ような意向が組織全体に作用してくるのかもしれず、それが自己保存本能のように働いて、頑なな抵抗となって改革の意向を打ち砕くことにでもなれば、それも対立や抗争の過程で起こる挿話の一つとなるわけだが、全体の成り行きから見れば枝葉末節なエピソードに過ぎないだろうし、そうした挿話の類いをいくら集めてみても、本質的な傾向を示すわけでもなく、ただ何かもっともらしく見えるわけで、そのもっともらしく見えるような改革への意志とそれに抵抗を示す旧主派勢力との対立の構図というのが、たぶん本質を見失わせる理由や原因を構成しているわけで、では何が本質なのかといえば、それを制度やシステムの次元で解釈しようとする思考そのものが間違っていて、そうではない捉え方が別にあるというのでもなく、ただそう解釈してしまうと、そうやって解釈された制度やシステムの次元で、最適な形態を追求してしまうということであり、それ以外の次元がおろそかになって、思考の全てが形式的なシステム論の類いに堕してしまうわけだ。ではそれとは違う次元があるかとなると、たぶんそれは必要に応じて必要な措置を講じるという次元があって、場合によっては制度やシステムに逆らってまで、そうしたことをやらなければならない事態も生じてくるだろうし、そういったことをその場の判断で臨機応変に対応する必要があり、そういうことを積極的に行なっていく過程で、結果的に制度やシステムの改善が図られるわけで、あくまでも制度やシステムは何かしら行なった結果として生じている現状をもっともらしく説明するために必要なのであり、それらが実践を伴っているわけでなく、実践を後追い的に補完する上で、それを制度とみなしたり、そこで恒常的なシステムが作動しているように見せかけたりするわけで、そうであっても現場で交渉や調整に当たる担当者の存在が欠かせないわけだから、その交渉や調整の結果が従来の結果から逸脱するようなら、新たな事例としてシステムの機能に付け加えられて、そうした事例がそれ以降どんどん増えていくと、システムの機能もそれに合わせて変わったようにみなされるわけで、そうした結果を受けて後追い的に制度改正などの手続きが必要となれば、随時それを行うような成り行きにもなるだろうし、だから結局、その場で交渉や調整を行う担当者が慣例や前例に縛られて、事なかれ主義に徹してしまうと、それが怠惰や不精の原因にもなって、その場で機能しているように見える制度やシステムが、動脈硬化のような形骸化を被ってしまうわけだから、実際にそうした交渉や調整がうまくいかなければ、それまでの慣例や前例にとらわれない柔軟な対応が求められるわけで、そうした対応を実践していくことが改革に結びつくわけだから、そういう意味では行政機構と政治勢力が協力しながら事を進めていく以外に改革を実現する方法はないと思っておいた方がいいだろうし、双方が対立関係を維持する限りは、改革を実現するのは不可能なのかもしれない。


10月7日「対象との距離」

 意識が体験する出来事から感じ取れる内容には、その出来事への肯定や否定などの評価が含まれると同時に、その出来事と自身との距離感も含まれるだろうし、さらに直接体験するのではなく、間接的にメディアを経由して出来事を見聞きするような場合には、そのメディアへの肯定や否定などの評価が含まれると同時に、そのメディアと自身との距離感も含まれるわけだが、距離が近く感じられるほど、事を真摯に受け止めたり、深刻に受け止めたりする一方で、距離が遠く感じられるほど、事を真に受けないような態度を伴うだろうし、それだけ自身とは関係ないことのようにも思われて、体験そのものをさっさと忘れてしまうような成り行きになるかもしれないが、距離感には場所的な隔たりと共に時間的な隔たりも含まれていて、それがメディア経由で見聞きする出来事だと、住んでいる地域から遠く離れた出来事や、遠い過去の出来事までが含まれてくるわけだが、それらの場所的かつ時間的な距離が、たとえ遠く離れていても身近に感じられる場合には、見聞きする出来事が起こった社会と、自身が現に暮らしている社会との間で、相似関係が成り立つように思われるから、それを真摯に受け止めたり深刻に受け止めたりするわけで、それが起こった時のシチュエーションが自身の暮らしている社会と似たような状況を想像できるから、そういう受け止め方になるわけだが、そういう相似関係に敏感に反応する人とそうではない人との間で、受け止め方に開きが出てくるのも想像に難くないことであり、それが直接にしろ間接にしろ、体験する何でもかんでも自らに引き受けて感じ取るようなことにはならないだろうが、意識して感じ取ろうとしても感じ取れないこともある一方で、感じ取っていることを自覚できない場合もあり、そういう意識の面で過敏に反応する人は、ちょっとのことで大騒ぎする習慣が身についていると、騒いている割にはそこから何も学んでいない場合もある一方で、そういう面で鈍感に見える人は、何事にも動じないから何も感じていないように見えて、当人にはその自覚がなくても、それらの体験からちゃっかり学んでいる可能性もあり、そういう意味でリアクションとしての直接の反応からはうかがい知れない面もあるわけだが、それに対する言動からうかがい知れる面としては、何でもかんでも自らの主張や論理に結びつけて語ろうとする態度になりがちだと、自らの主張や論理に結びつく面しか見ていないことにもなるわけで、そうした主張や論理があまりにも一方的で偏向していて、それ以外の何を語らせても、当人がそれまでに語ってきた内容と同じになりがちだと、もはや自らの主張や論理に合うことしか語ろうとせず、それ以外の傾向が顕著な出来事は、その人の頭が受けつけないようになっている場合さえあるだろうし、そうなってくると、もはやその人の言動を真に受けるわけにはいかなくなるわけで、そういう人は他からも相手にされなくなるかもしれないが、当人がそのことに気づいていなければ、やはり飽きもせず延々と同じようなことを同じように語ろうとするだろうし、それだけその人にとっては切実に感じられることであり、語れば語るほど、語ろうとしている対象との距離がゼロに近づいていくわけで、そうやって距離感なしに直接語ろうとすると、そこで何が生じるかといえば、そうなるともはやそれはフィクションでしかなく、その人の都合が全面的に反映された虚構を語っていることになり、語っている当人がそれに気づいていないことにもなるわけで、それでもそうした内容が他の多くの人たちにも興味深く思われれば、そんなことを語っている人に人気が出るかもしれないが、そういう人を支持したり賛同している人たちも、その人と同じような傾向があるかもしれないし、語ろうとしている対象と距離感なしに接していることに当人たちが気づいていないのかもしれない。

 語っている対象から距離を感じ取れる人は、語っている対象と語っている内容との間にも、それなりに違いが生じていることをわきまえているだろうし、その距離を語りによっては縮められないことも承知しているのかもしれず、そうなるとあまり対象へは感情移入せずに、突き放すべきところは突き放して見ているわけだが、何を突き放して見るべきかといえば、その対象が囚われている地域的な事情や時代的な背景になるわけで、それがそれなりの限界や制約を生じさせていて、その出来事がそうなる必然性を構成しているわけだが、だからと言ってそうならなければならないとか、そうならざるを得ないとか言うわけではなく、結果的にそうなってしまったとしか言えないようなことかもしれず、そうなることに関して、そのことの良し悪しを判断しているわけでもないのだろうが、物事を突き放しすぎて、まるで他人事のように語るわけにはいかないものの、そうなると語る意味がないと思われてしまうわけだが、ある程度は距離を置いて見ないと、そんなことが起こっている事情や背景が見えてこないだろうし、あまりに対象に近づきすぎると、出来事が起こっているそこしか見えないわけで、そうなると他の出来事との関連や差異が見えてこないだろうし、そうしたことを省略して、それと似たような他の出来事と直結してしまうと、それらが距離や時間をおいて別々に起こっている理由がわからなくなってしまうわけで、別々の出来事が別々の場所や時代で別々に起こっている事実を考えてみないと、その場所やその時代にその出来事が起こっていることをうまく説明できないし、そうしたことを説明できる限りで、語っている対象との距離感が生じるわけで、それがないと単にそのことの良し悪しを論じているだけで、良い理由や悪い理由まで示すにしても、必ずしも良い面ばかりでも悪い面ばかりでもなく、それが良いとみなされたり悪いとみなされるのにも、それなりの事情や背景があり、なぜそれを良いとみなしたり悪いとみなしたりするのか、そうした判断や評価を生じさせる地域事情や時代背景にまで踏み込まなければ、事の良し悪しの判断や評価には納得しがたい面が出てくるのではないか。もちろんそうしたことにまで踏み込ませないような事情や背景が、それを語ろうとする人に生じている場合もあるわけで、物事を語る上でそれを語ろうとする人に生じている事情や背景が、その人に限界や制約を課していて、そんな限界や制約に囚われているから、結果的に不十分なことしか語れずに、その人の語っている内容にあまり説得力が生じないことにもなるわけで、そんな疑念や疑問が感じられるとしたら、そんなことを主張する人とそれを受け止める人の間にも、それなりの距離や隔たりが生じていることにもなって、そうした差異が生じているから、主張の内容を全面的に支持したり賛同することにはならないだろうし、そうかといって差異を故意に強調して否定するのではなく、それなりの差異があることを踏まえて、その差異に基づいて、自らの主張や考えを表明すれば、それが建設的な議論や討議に発展するかもしれないし、そうした議論や討議を通じてより妥当な認識や結論を得られるなら、それなりにまともで民主的な政治を行なっていることにもなり、現状をできるだけそういう方向へと近づけていくべきかもしれないが、やはりそうなるには議論や討議に参加する各人が、お互いに距離を保っていないとうまくいかないだろうし、無理に距離を縮めたり、距離の近い者同士で利害を共有して派閥を作って、事前に多数派工作を行うような成り行きになってしまうと、議論や討議そのものが形骸化してしまい、それ以前に決着がついてしまうようなら、まずは結論ありきで進める儀式になってしまうだろうし、そういうことを積極的に行う傾向にあるから、それが原因で議論や討議をつまらなくして、結果的に世の中に政治的な無関心がはびこってしまうのかもしれず、制度などを工夫してそれを止める手立てが見つからなければ、それもそんな傾向になるような地域事情や時代背景があるとみなすしかないだろうか。


10月6日「リアリティの水準」

 リアリティという言葉が何か肯定的な意味合いを持つのは、誰もがそれを意識するところで、世の中でリアリティを得られる対象があるかというと、それは人によって様々に異なるかもしれないが、例えば何かに本気で取り組むべきことがあれば、意識がそれにリアリティを感じているわけだが、では現状でやっていることからリアリティを得られているかというと、そうでないとやりがいを感じられないだろうし、またそういうことをやっていないと生きがいも感じられないかもしれないが、やりがいを感じられるから本気で取り組もうとするわけで、またそうした本気の取り組みが周囲からも好意的に受け止められるようなら、さらにその気になって、熱心に取り組もうとするだろうが、逆に取るに足らないどうでもいいことをやっている気になってしまったら、そんなことをやっている自らも何か取るに足らないどうでもいい存在に思われてくるだろうし、それによって自暴自棄になってしまうかもしれないが、ならばこの世の中で何か本気でやるに値することがあるかというと、よほどの思い上がりでない限りは、現状でやっている仕事の類いに真剣に取り組んでいるつもりだろうし、それが価値のあることだと思われる限りで真剣に取り組んでいるはずだが、別にそれ以外の大半ことが価値のないことだとも思えないだろうが、自分から見て価値のないことをやっている人がいると、そんな人間には価値がないようにも思われてしまうことも確かで、自身がそんなことをやっている自覚があるなら、少なくともそれをやることにやりがいは感じられないだろうし、そんなことをやっている自らが生きがいを感じているとも思えないだろうから、特に生きている意味も意義もないようにも感じられて、否定的な気分になってしまうかもしれないが、だからと言って、そこから自らを奮い立たせて、無理にそんな自己を肯定するような契機が生まれるとも思われないだろうし、どうもそういう方面で肯定的な幻想を抱く気にはなれないのかもしれないが、それとは別の方面では、特に価値を意識するというよりは、もっと軽い気持ちで楽しいことや面白いことをやろうとする方が、肯定的な成り行きに至れるのかもしれないが、趣味や娯楽の類いならそれでも構わないとしても、それが仕事となるとそうもいかないだろうし、苦しいことやきついことでもやり遂げなければならない、という使命感を伴う場合には、やはりそれが価値のあることだと思うしかないわけで、実際にも経済的な利益をもたらすようなら、価値があることを実感するだろうし、そういうところからリアリティが生じてくるわけだが、ではその反対にリアリティのなさというのは価値のないことかというと、場合によってはそうなるかもしれないが、逆にリアリティのないことを肯定するような場合には、それが価値を持つかもしれないし、何か実感を伴わないような幻想に浸っていたい時には、現実逃避としてそんな娯楽に価値を見出すのではないか。そういう意味ではリアリティのあるなしで価値があるかないかという判断を伴うわけではなく、必要に応じてリアリティがあったりなかったりして、またその時の事情や求めに応じて価値があったりなかったりするわけだろうが、その場の状況に応じてそれを使い分けるとなると、それ自体が恣意的なご都合主義のように思われて、それが他人にとっては価値がないことのように思われたり、またリアリティを感じられない場合もあるだろうし、それが単なる趣味嗜好の違いだけでは済まなくなってくる場合もあるかもしれないが、ただ漠然と趣味や価値などを共有したい事情があると、倫理観なき馴れ合いの関係となって、内輪のなあなあの関係に依存してお互いの傷を舐め合うような、外部からは見るに耐えないような具合になってしまうことにもなり、そういう場合のリアリティとなると、やはり否定的なニュアンスも含まれてくるのではないか。

 そうした事情を考慮すると、リアリティを感じるか否かとか、価値があるかないかとか、それだけで物事を評価しがちになるのは仕方ないとしても、それだけでは済まないような事情があると、他人から見るとどうでもいいようなことにこだわってみたり、無意味なことを執拗に主張してみたり、何かその人にとっては切実なことでも、それが周囲に伝わらないと理解されないだろうし、伝えようとしても共感を得られなければ、その人の切実さが伝わらずに終わってしまうだろうし、またそれが明らかに内輪だけで通用する事情だと思われてしまうと、場合によっては反感を抱かれるかもしれず、そこで何を考慮してどんな条件が設定されているかによって、価値判断も評価も異なってくることは確かだろうが、そこに誰もが納得できるような普遍的な統一基準を設けられるかとなると、そういうわけにはいかないだろうし、そこに同質な社会が形成されているわけではないから、それなりに事情が異なれば条件も異なってきて、それに応じて価値判断も評価にもある程度のずれが生じてくることは間違いないが、それでも社会が形成されている時点で、何らかの価値観の共有が起こっていることは確かで、そうした価値観を共有できる限りで、ある程度の統一基準が想定されるだろうし、それが普遍的な価値観の共有とみなされる場合もあるだろうが、別にそうした価値観に逆らってはいけないというわけでもないし、そういう意味で個人的な趣味嗜好を考慮するなら、いくらでも勝手なことが言えるわけだが、他の人たちがそんな事情をどこまで考慮できるかといえば、そんな義理もなければ配慮もされないだろうし、そういうことに関して何をどう批判してみても、かわそうとすればかわせるような成り行きも生じてしまうのかもしれないが、後は自分たちの社会的な影響力や権力に物を言わせて、自分たちが信奉する価値観を相手に強要できるか否かが、そういう人たちにとっては重要な意味を持つのかもしれないし、そういうところからは逃れようとしても逃れられないような社会的な事情が生じてくるのだろうが、他にも利益を餌にして誘導したり誘惑したりする手法もよく試みられるところだが、それらが複雑に絡み合って生じるのが同調圧力だろうし、そういう同調圧力をそれと自覚することなく行使している例などいくらでもありそうで、中でも善意や良識を装ってそういうことをされると始末に負えないわけで、特に相対的に良心的な立場を取りながらも、微妙なところで差異を認識できないような人たちが、政治的な体制派を批判する一方で、微妙な差異を混同するような鈍感さを伴った価値観の強要を周囲に向かって迫ってくるわけで、その微妙な差異というのが、些細で枝葉末節な差異ではなく、根本的なところで欠陥を伴ったような価値観だと、それ自体が体制的な批判を台無しにしているわけで、それに気づかないからこそ、普通に他からの賛同を得られないのかもしれないが、それが内輪で固まってなあなあの関係を築いている場合には、なおのこと反発を招く原因ともなっているだろうし、当人たちがそれに気づかないことにはどうしようもないわけだが、なまじそれが一定の世間的な支持を得ていると、自分たちに欠陥があるとは思えないわけで、しかもそれを批判している側が少数派でしかなければ、そんなのは無視していれば済むことだろうし、だからいつまで経っても欠陥がそのままとなってしまうのだろうが、それが一定の世間的な支持や評価とともに固定されてしまっているわけだから、やはりどうにもならないところなのではないか。そういうところは他でもそれなりにあるだろうから、そんなことに目くじらを立てても意味がないのかもしれないが、だからと言ってそうした人たちを支持できないことには変わりないわけで、そんな人たちが存在している限りで成り立っている現状もあり、そういう現状はちょっとやそっとでは変わりようがないわけだ。


10月5日「不満のガス抜き効果」

 この世界が日常の次元で示していることは、その人の社会的な立場や境遇によっては、大した苦もなく日々平穏に暮らしていける地域がある一方で、そんな地域の中でも不満を表明している人たちが少なからずいて、そこで何が不満なのかといえば、同じ社会の中にその人にとっては気に入らないことをやっている人や集団がいるから、それが不満の原因となっていて、しかもそうした人たちが政治的な主導権を握っていると、それが批判となって表れるわけで、そういう不満を批判として表明している人たちにとっては、不満のない世の中が現状では実現されていないわけだが、それは永久に実現されないことかもしれないが、だからこそ現状に対する不満を飽くことなく表明し続けられるわけだが、そういう不満の表明が何をもたらしているかというと、何かそこで政治的な主張を述べているらしい状況が実現しているということであり、それが日常の次元で実現している状況なのだから、さぞや不快な現実に直面していると思いきや、実際にはそうでもなく、経済的には何不自由なく暮らしている人たちが、メディアを通して不満を表明できる権利があるような状況にもなっていて、そういう面で不満を表明するにも格差があるかもしれないのだが、その格差がどこから来ているのかといえば、それはその人にどれほどの権力があるかによって、不満を表明できる度合いも違ってくるのかもしれず、そんなところで権力の強さを比べても意味がないかもしれないが、とりあえずその人がメディアを通して政治的な不満を表明できる度合いが、その人の権力の強さに比例して増しているとすれば、社会的に権力のある人ほどより強く不満を表明できるというありふれた状況がもたらされているわけで、そうなると何不自由なく暮らしているほど、より強く不満を表明できるわけで、逆に権力のない人ほど不満を表明できなくなってしまい、不満を表明するにも社会的な権力が必要となってくるわけだが、不満を表明したからといってその不満が改善するかというと、そうでもないだろうし、ただ不満をより強く表明できるということであり、自分の権力に物を言わせて、表明したい人は年がら年中不満をぶちまけているわけで、それと世の中の状況が改善する成り行きが生じるのとは別であり、むしろ不満を表明している人にとっては、状況が改善するしないに関わらず不満を表明していられるわけだから、それとこれとは別のことだと捉えておけばいいのであって、そういう人たちの不満は、言いっ放しであっても何の問題もないわけで、そこに社会的に不満を表明する役割分担のような仕組みが生じているとも言えるかもしれないし、しかもそういう役割を担った人たちに不満を言わせたい思惑まで生じていて、そういう人たちに不満を言わせるだけ言わせておけば、それを利用してそうした不満の表明に賛同するその他大勢の一般大衆が満足するような状況を作り出したいわけで、それが不満のガス抜き効果という手法なわけだが、だからそういう不満ならいくらでもあった方がいいのかもしれず、そうやって不満を表明する人たち向けの不満をわざと作り出すような配慮もされている可能性さえあるわけで、そうやって一般大衆の関心をそちらへと向けさせておけば、社会の中で主導権を握っている勢力としては、その裏で自分たちのやろうとしていることを粛々と行う上で、大した障害にも直面しないような状況がもたらされているのではないか。そういう意味でそうした不満の表明は想定の範囲内で行われていることであり、そうした役割を付与されている人たちが不満を表明していること自体は何の問題もないわけで、むしろそれらの人たちにはおおいに不満を表明してもらって、一般大衆の関心を引きつけておいてほしいわけで、そんな状況が実現している限りで、自分たちのやるべきことが、大した妨害も受けずにやれている状況がもたらされるわけだ。

 例えばそうした不満をぶちまける対象として、一過性のイベントを定期的に開催して、それが一過性であるだけに、それが過ぎてしまえば後腐れなく忘れ去られてしまうような催し物であるほど、恒常的に社会の中で主導権を握っている側としては好都合なのかもしれず、だからせいぜい大規模に大げさな催し物として盛り上げて、予算も大盤振る舞いで無駄に使って、これ見よがしにそうしたイベントを開催したいわけで、そうしたものをわざとらしくメディアを利用して煽り立ててれば、飛んで火に入る夏の虫とばかりに、鐘や太鼓を鳴らしながらいちゃもんをつけてくる人たちが出てくるわけで、そういう現象も含めて一過性のイベントであるわけだから、不満を表明しながら否定的に騒ぎ立てている人たちも、それを自覚することもなくそうしたイベントに巻き込まれてしまっているわけだが、だからと言ってそうした人たちが愚かで間が抜けているとは言えないだろうし、それは条件反射としては申し分なく敏感に反応しているわけだから、そうした面では優れているとも言えるわけだろうし、いちゃもんつけ係としての自分たちの立場や役割をわきまえているわけだから、少なくとも鈍感ではないわけだが、だからといって一般の人たちもそれらの人たちに同調して、一緒になっていちゃもんをつけていればいいかというと、そういうわけでもないだろうし、むしろそうしたいちゃもんつけもイベントに含まれる娯楽の一環と捉えた方が無難かもしれないし、それもイベントを楽しむ一つのやり方と捉えることもできるのかもしれず、別にそうしたことに興味がなければ無関心でいても構わないのかもしれないが、要するに一過性のお祭り騒ぎというのは、それ自体への対応も含めた憂さ晴らしだと思っておけば間違いはないだろうし、それまでに溜まりに溜まった不平不満を、そうしたイベントにかこつけて一気に爆発させて、まるで忘年会のようにして一気にリセットしてしまおうとする試みであり、そんなことをやっても不平不満の原因となっている問題は一向に解決しないわけだが、解決しなくても一時的に忘れることはできるわけで、そうした一時的な忘却作用がそういう大げさイベントにはあるのだろうし、例えば世界の中でも治安の悪さや貧富の格差などの社会的な不条理や矛盾に満ち満ちているブラジルでカーニバルが盛んなのも、そんなお祭り騒ぎを定期的にやっていないと社会がもたないのかもしれず、そうした負の側面が大きいほど、それを打ち消すように一過性のイベントが盛んに行われる成り行きとなるわけで、それ自体が社会にもたらされる恩恵と弊害を象徴的する出来事でもあるわけだから、日頃から鬱積している不満をそこで爆発させないとならない成り行きが、そこで生じていると捉えるなら、実際にここぞとばかりにイベントに対する不満をぶちまける人たちも、すでに自覚せずにそうしたイベントの趣旨に賛同していることにもなり、イベントが発生する前から、そうした興行イベントを煽り立てる宣伝に乗せられて、踊らされていることにもなるわけで、自分たちがつけているいちゃもんに賛同してくれる一般の民衆の数が多いほど、してやったりとご満悦になるかもしれないが、自分たちまでもがそうしたイベントを興行する側の思惑に踊らされていることなど未来永劫気づかないだろうし、そういう意味ではおめでたい話ではあるわけだが、おめでたくなる人が多いほど祭りとしては成功するわけだから、それで何の問題もなく、祭りが終わってしまえば、いちゃもんつけに加わっていた一般の民衆も、潮が退くようにいなくなり、またいつもの平穏な日常へと戻っていくわけで、次の祭りが近づくまでは何にいちゃもんをつけていたのかさえ思い出せないだろうし、結局そうしたいちゃもんはそれっきりとなる公算が高く、また次の祭りが近づけば、飽きもせず同じようなことにいちゃもんをつけていることにも気づかないのではないか。


10月4日「犯罪の意味」

 世の中では許されることと許されないことの間で、明確な区別がされている場合もあるが、実際に法律によって合法的な行為と違法行為との間に境界が設けられていることは確かなのだが、境界付近ではグレーゾーンのように曖昧な部分もあるだろうし、その辺でやっていることがどちらの側に位置するかは、各人の恣意的な判断にまかせられている面もあるかもしれないが、その場の状況によっては似たような行為でも、許されたり許されなかったりする場合もあるかもしれないし、その行為だけを単体で取り上げて、事の善悪を判断するわけにもいかないだろうし、それを取り巻く状況から判断されることかもしれないが、どのような状況下でも批判されるような行為には、それなりに不公正に思われる点があるから批判されるわけで、それを正そうとする意見には、それなりに納得できる内容が含まれているかもしれないが、一方でそんなことをやらざるを得ない成り行きが生じていることも確かだろうし、その場で不公正なことをやらざるを得ない状況になっていれば、そんな状況の中でそうしたことをやらざるを得ない立場になってしまうと、誰もがそんなことをやってしまうのかもしれず、もちろんそうした行為が批判されてしかるべきなのは言うまでもないことかもしれないが、それでもそんなことをやってしまう人が次々と現れてしまうとすれば、それがその場の状況に適合した行為なのであり、不正行為をやらざるを得ない環境がそこに用意されていることになるのではないか。もちろんそれを誰が用意したわけでもなくても、そういう環境がもたらされてしまうこと自体が、ある意味では必然的な成り行きとなっているのかもしれず、それがどういう意味かというと、やりやすいことができるという意味で、そこで最もやれる可能性の高いことが行われる成り行きになっていて、その可能性というのが不正が行われる可能性であり、もちろんそうした可能性が高いからこそ、それが法律によって禁止されているわけで、だからこそ禁止されている行為をやってしまう可能性も高く、そうした過ちを犯してしまう人が次々に現れるから、それをわざわざ法律で禁止しているわけだが、たとえ法律で禁止しているとしても、その禁止を破って違法行為をやってしまう人が次々に現れる状況となれば、そうした違法行為を取り締まるしかないだろうし、取り締まって処罰しても、またそうした取り締まりを強化して、罰則を重くしても、それでもまだそんなことをやる人が後を絶たなければ、やはりそこでは違法行為とそれを取り締まる行為が循環していて、それらが必要不可分に結びついていると言えるのかもしれず、何かそこでやってはならないことがあり、それを禁止する法律もあるのに、それでもやってしまう人が後を絶たないような状況というのが、それを取り締まる理由にもなっているわけで、要するに世の中にはそれが禁止されている行為もあるし、取り締まりの対象となっている行為もあるわけだが、一方ではそうした行為ができる状況にもあるわけで、またそうしたことをやらざるを得ない成り行きもあって、そうした成り行きに巻き込まれてしまうと、やはり大抵の人はそれをやってしまうのだろうし、やったことがばれてしまったら取り締まりの対象となって、実際に取り締まられたら処罰されてしまうわけだが、だからと言ってもう二度とやらないように心がけたとしても、そういう成り行きに巻き込まれてしまったらそれをやらざるを得なくなり、そうなると常習犯としてさらに重い刑罰を受けるかもしれないが、いったんそうなってしまうと、そこから抜けられないような環境も用意されていて、それが犯罪を常習とする裏社会となるわけだろうが、そうした常習犯を収容する施設として刑務所などもあるわけだから、刑務所自体が犯罪人の巣窟であり、そこに裏社会が形成されることにもなり、刑務所を出所した人の再犯率が高いと、刑務所自体に犯罪を助長する効果があるかもしれないわけだ。

 法律を作って違反者を処罰する法律も作って、処罰する施設として刑務所も作って、それでも犯罪がなくならないとすれば、それらは別に犯罪をなくすためにあるわけではなく、犯罪人を処罰するためにあるわけだが、法律は犯罪を認定する機能もあるだろうし、その意味では犯罪を作っている面もあるわけで、そうであるなら犯罪がなくならないのも当然だろうが、その一方で警察も犯罪を取り締まる目的で設立されているわけで、その存在と活動によって犯罪と認定された行為がなくなるはずもないのだが、それも状況に応じた対処の一環で行われていることであり、社会を管理統治するための一環としてそれらのことが行われていて、そうした統治の良し悪しによって社会状況も良くなったり悪くなったりすれば、そうした管理統治の是非が問われることにもなるだろうが、成り行きとしてはそうだとしても、それだけが社会状況を決定しているわけでもないことも確かで、そうした要因の中の一つが、行政による管理統治の良し悪しとなるわけだろうが、他の要因として何があるかとなると、経済状況であったりそれに連動した政治状況であったりするわけで、そうした要因に連動して社会状況が良くなったり悪くなったりするのかもしれないが、犯罪というのはそんな社会の矛盾を象徴する出来事であり、そのやってはならない行為をやらざるを得ないということが、やらざるを得ないような社会的な立場や境遇がもたらされていることを意味していて、しかるべき公的な機関がそうした行為に対処するように促されているわけだが、実際にその対処がうまくいけば、そうした行為が減少するかもしれないし、うまくいかなければ、そうした行為が増加するかもしれないわけだが、うまくいく対処というのが、法律を作って違法行為を取り締まって処罰することではないのかもしれず、ではそれをやめてしまった方がいいのかというと、すでにそんなことをやっている現状を唐突にやめるわけにはいかない事情が生じているから、やめられないことは確かだが、そうした対処の他に何かやるべきことがあるかというと、もしかしたらそれはやるべきことなのではなく、すでにやっていることなのではないか。それは防犯への備えという面では、警察や消防や民間の警備会社なども含めて、防犯活動として行われていることではあるだろうが、他に何があるのかというと、犯罪行為ではなく別のことをやらせるという面においては、職の斡旋なども犯罪の防止にはある程度の効果を上げているのだろうが、仕事の内容が贈収賄や脱税や職場内暴力などの犯罪につながるような場合には、仕事の内容を変えなければならないだろうし、また家庭生活が家庭内暴力など犯罪行為につながる場合には、生活の内容を変えなければならないだろうし、至るところに犯罪につながる要素があって、それらのどこからでもきっかけさえあればいつでも犯罪行為が起こり得るわけで、要するに世の中にはやってはならないことなどいくらでもあり、それらのどれを取っても普通にありふれたことであって、そこから何ら特別な出来事が起きるわけでもなく、社会に暮らしている誰もが過ちを犯す可能性があるわけだから、犯罪者を特別扱いする必要もないわけだが、そうであるならたとえメディア上で凶悪な犯罪がセンセーショナルに取り上げられても、犯人の異常性が社会問題と連動して話題になっても、それが特に何を示しているわけでもなく、強いて挙げるなら、ただ同類の人たちが互いの過ちを貶し合っているに過ぎないと捉えておくべきで、それ以上の何が示されているわけでもないのかもしれないし、常に批判している対象が自らのうちにも起こりうることだと捉えておくのが無難なところなのかもしれない。まただから批判するなということではなく、ただ批判者と批判の対象者との間に決定的な違いはないということは踏まえておくべきなのではないか。


10月3日「経済的な自由」

 自由であるということは、それを邪魔する者がいない限りで成り立つ状況だが、実際には何をやるにも自由にやれるわけでもないし、やろうとして自由にやれないと、何か自由を奪われているように思われてしまうわけだが、それでもとりあえずただ漠然と自由になることを目指して、人は何かをやろうとするのかもしれないし、特にそんなことを意識しない時でも、自由をあきらめているわけでもなく、しがらみから抜け出して好き勝手にやりたいと思うわけだが、実際にはそうはいかないから、特に意識して自由になることを目指しているわけでもなく、それでも自由を制限されることが不快に思われるかもしれないが、それを制限する側になれば、積極的に他人の自由を制限しようとするわけで、だからと言って自由であることが行動の基準となったり尺度となるわけでもなく、ただ漠然と自由を意識するにとどまるかもしれないが、客観的に考えるなら、絶えず人の自由を奪うことで、人や集団の社会的な活動が成り立っているとしても、少なくともその自由が何らかの価値を形成しているとは思われないだろうし、むしろ他人の自由を奪って従わせることが、価値のある行為に思われてしまうのではないか。だから経済的な自由主義を掲げる人たちが何を行なっているのかといえば、人々の自由を奪うと同時に金銭的な価値に従わせて、実際に企業などの場で働かせているわけで、それを客観的に捉えるなら、他人の自由を奪うことによって金銭的な利益の追求が成り立っているわけで、そこで奪われている自由とは何かといえば、活動の自由を奪っているわけだが、そもそも活動の自由によって何がもたらされるかというと、人がてんでばらばらに好き勝手に動き回っても何ができるわけでもないし、むしろそうした個々の自由を制限して共同歩調を取らせることによって、個々の力が合わさって一つの事業が成し遂げられるわけだから、そういう次元では、各人が好き勝手に自由に振る舞えるという前提自体がありえないわけだが、ならば経済的な自由主義が目指す自由という概念が何を意味するかといえば、それは人の活動の自由を制限して利益を追求する自由であり、そうした条件がつけられた自由を目指すわけで、果たしてそれが自由かというと、ある意味ではそれも自由の範疇に入るのかもしれないが、ただし自由を追求するには他の自由を制限しなければならないということであり、そういう意味で世の中には限られた自由しかないことも実感させられるわけだが、それは自由には犠牲がつきものであることも意味しているわけで、自分の自由を追求するには、他人の自由を奪わなければならない成り行きがもたらされていて、そこで自由の奪い合いが生じていると捉えるなら、自由とはこの上なく貴重な価値を形成しているとも言えるわけだが、普段はそんなことを意識できるわけでもなく、その代わりに意識しているのは利益の奪い合いであり、他人の自由を奪って獲得するのが利益と捉えるなら、自由とは利益そのものだと考えられるだろうし、普段何気なく意識している利益とは、他人の自由を奪うことから生じていて、それが経済的な搾取の本質的な意味であり機能なのだが、人は他人の自由を奪うことには無頓着であっても、利益を得ることには異常な関心を示すわけで、なぜそこに関心を奪われるかというと、それが自由の源泉だと思われるからであり、利益の蓄積があればそれを使って勝手なことができるだろうし、そこから自由が迸り出ていることは確かなわけだが、それが他人の自由を奪うことによって生じていることまでは考えが及ばず、だからこそ好き勝手に利益を追求しても構わないと思い込めるわけで、あえてそれ以上は考えないようにしているというよりは、売買という商習慣がそれを考えないようにさせていて、それが一見平等で公平な行為に思われることが、相場より高い価格で売ってしまえばこっちのものだと思われたり、相場より安い価格で買ってしまえばこっちのものだと思われるような、利益の追求に伴うあこぎなやり方を正当化させるわけで、もちろんそれは他人が高く売る自由や安く買う自由を奪うことによって利益を得ていて、それが商取引に伴う不公正な面ともなるわけだが、そうしないと売買が成立しないことも当然の事実ではあるわけだ。

 そうやって自由を奪うことが利益になる限りで経済活動が成り立っていて、それが利益にならないと活動が成り立たなくなってしまうとすれば、では利益にならない自由があるかというと、それは不自由に変換できない自由であり、従わせることのできない自由となるわけだが、それは金銭的な尺度では測れない自由でもあり、例えば労働に変換して時給として時間に換算できなければ、金銭的な尺度では測れないだろうが、具体的には何を労働に変換しているかというと、技能や知識を労働に変換しているわけで、その人が自由な時間を利用して身につけた能力が労働に変換できるわけだが、果たしてそれが自由な時間であるとかというと、例えば学校などの施設に人を押し込めて強制的に技能や知識を身につけさせる過程を伴っていたりして、とてもそれが自由な時間だとは言えず、そういう労働者に変換できる人間を作り出すのにも、それなりに労力と時間が伴っていて、まずはそういうことをやらせる制度を構築しなければならず、もちろん制度を機能させる設備を伴った施設も建設しなければならないわけだが、そうした学校に行かなくても学べる余地もないこともないが、例えば書物を読んで学ぶとしても、その書物を製造する設備を伴った施設と、それを流通させて販売する設備を伴った施設も必要となり、またネットから情報を入手するにしても、ネットを構築する通信インフラとそれを利用する端末などが必要となるから、同じように機械的な設備や施設が必要となるわけで、果たしてそれらが自由な時間を利用して身につけた能力であるかは疑問に思われるだろうが、その時点ですでに十分に他人の自由を奪っているわけで、機械設備や施設もそこから生み出された書物や情報も、自由を奪われた人の労働によって生産されているわけだから、人の自由を労働に変換して得られた利益を使って、人の自由を労働に変換する装置を作って、その装置を使って人の自由を労働に変換して、その労働力を使って利益を得ていることになり、そういう回りくどい手法を使って、人の自由を奪うことによって利益を得ているわけだから、そうした状況がいちいちそんなことまで考させる余裕を与えない成り行きを形成していて、そうした循環的な回りくどい成り行きを省略して短絡すれば、そこで経済的な利益を追求する自由を正当化できるだろうし、売買によって儲け出すことに何の後ろめたさも感じないわけだが、そうした過程の中で身につけた全ての知識や技能が労働に変換されるかというと、そうではないことの方が多いのかもしれず、人がそうした教育過程や余暇を利用して身につけた知識や技能のほんの一部が労働に使われるだけで、他の知識や技能が何に使われるかといえば、中には使われずに埋もれたままとなってしまうものもあれば、労働ではなく消費の楽しみに使われるものもあるだろうし、そういうのは雑学の類いでしかないかもしれないが、趣味や嗜好の対象となって、それなりに生活に豊かさをもたらすかもしれないが、中にはそうではなくそれ自身のために使われる場合があるだろうし、より高度な知識や技能を身につけるために知識や技能を身につけようとして、そうした自己言及的な循環を起こすことによって、知識や技能をより高い次元にまで引き上げようとするわけで、そうした行為が安易な利益の追求を拒絶するから、そんな行為にのめり込んでいる間は、経済的な利益の追求から自由でいられるわけだが、そうした行為にのめり込む時間と労力を確保するには、それなりの利益の蓄えが必要となるだろうし、すでにそんなことをやっている時点で、十分に他人の自由を奪っているわけで、自らが直接には奪っていなくても、そうやって奪われた自由を他から引き継いでいる場合があり、それが遺産相続のようにして引き継がれたか、あるいは他人の好意によってもたらされたかは、そんなことをやっている時点ではさして問題とはならないわけで、要はそうやって探求された知識や技能をどうやって他人に与えるかが問題となるのかもしれず、それを金銭と引き換えにして与えるにしても、あるいは何の見返りもなくただで与えるにしても、どちらにしても有効に活用されなければ、やはり無駄な知識や技能として埋もれたままとなってしまうのではないか。


10月2日「社会との関係」

 人には自然との関係や社会との関係がある他に、自己との関係もあるが、それらの関係とともに、一見それらとは何の関係もないような関係もあり、そうした気づかない関係は無関係だと思うしかないが、気づかなければ無関係だとも思わないわけだが、他からも自らにも必要とされる限りで関係が結ばれ、自分自身が自分を必要としている限りで自暴自棄にならずに生きていけるし、そんな関係の中にその人自身が存在していることは確かなのだが、自分にとってはそうであっても、そんな自分とは無関係な他の人や集団から見れば、別に必要でなければそんな人など要らないわけで、その人やその人が所属している集団に関係ない限りで、それらとは無関係な人が死のうが生きようがどちらでも構わず、たとえそれらの人や集団のせいで死んでしまっても、良心の呵責など起こらなければ、死んでしまった人とは無関係に思われるかもしれないが、実際にそれらの人や集団のせいで死んでしまったのなら、関係がないわけでもないことにもなるわけだが、その場合は関係といっても敵対関係であれば、確かに殺してしまっても良心の呵責など起こらず、それどころが敵対する相手を殺すことに喜びさえ感じる場合もありそうだが、相手を虫けら以下の存在だと思っていれば、たとえ殺しても無感動で無感覚かもしれないし、あるいは殺すことが作業の一環だとすれば、屠畜場の作業員のようにただの仕事でしかなくなってしまうだろうし、そういうところから人道主義的な理念から生じる博愛精神の発露などとは、全く無関係な成り行きが生じるわけで、たとえ人を死なせてしまうという出来事に関係しても、その関係の仕方や関係のあり方によっては、それが当事者の感覚や感情に訴えかけてくる意味合いや深刻度などもだいぶ異なってくるわけだ。またそれに関係して何らかの活動を行なっている場合は、活動を利するように振る舞おうとするだろうし、活動の中で自らの利害に一致するように振る舞おうとして、出来事から引き起こされる感覚や感情よりもそちらの方が重要となってくるから、他人が死んで悲しもうが喜ぼうが、そんなこととは無関係に活動を優先させる過程で、そこに社会的な慣習が絡んでくるとしても、通り一遍の対応となってしまう場合もあるだろうし、たとえば葬儀などの場で誰かの死に対して哀悼の意を捧げるのは、そこで通用している社会的な慣習がそうさせているだけのことかもしれないし、かえって本心からそう思ってやっているわけではない場合の方が一般的なのではないか。そういう場合は込み上げてくる悲しみの感情に連動してそうやっている場合もあるかもしれないが、慣習がもたらす形式的な動作としてそうやっている場合もあり、どちらにしてもその場の状況に応じた動作となるわけだが、中には憎たらしい他人が死んでざまあみろと思っている人もいるかもしれないし、そうした喜びの表情がその場の状況に合わないと判断すれば、感情を押し殺した動作となるしかないだろうし、それも慣習がもたらす形式的な動作の類いになるだろうが、それでその場が丸く収まるならそれに越したことはないだろうし、事を荒立てることが自らの不利になるように思われるなら、その場の成り行きに従うような動作に落ち着くわけで、そうした成り行きがその場の保守的な安定をもたらすことにもなるわけだが、そうした安定を壊すことにメリットを感じるなら、あえて事を荒立てようともするだろうし、葬儀などの儀式を台無しにして、そこで儀式を主催している人や団体などの世間的な評判を落とそうとする思惑などが生じる可能性もあるかもしれないが、それも儀式の種類や内容にもよるだろうし、またそれをぶち壊そうとするやり方にもよるのではないか。

 だから人の動作がその場の状況に合うように働くなら、その場に居合わせた他の人にも違和感を抱かれず、その場が丸く収まることになるだろうが、その場が丸く収まることにメリットを感じるから、人はその場の状況に合わせて行動しようとするわけで、それはその人の思想信条や良識などとはあまり関係のないことかもしれないが、それを悪い意味に解釈するなら事なかれ主義とみなすこともできるだろうが、事を荒立てないように配慮することが悪いと思われる状況があるとすれば、それはその場でひどいことが平然と行われている場合があるわけで、そういう場合は良心の呵責に耐えられなくなった人が声を上げて、そうした行為をやめさせようとして、あえて事を荒立てようとするわけだが、それもその場の同調圧力が強すぎるとそうはならないだろうし、声を上げようとしても、その場を主導する立場の人や団体の威嚇行為に怯えて、声を上げられない場合もあるわけで、それがひどい行為であること承知の上でやっていれば、なおさら脅しの度合いを高めてくるだろうし、やっている当事者も良心の呵責を感じているとすれば、自らを奮い立たせる意味でもあえて凶暴になろうとするかもしれないが、さらにそこで働いているシステムが円滑に動作してその場を支配しているようなら、かえって感情をあらわにする必要もなくなって、無表情を装いながら日常のルーティンワークのようにして淡々と作業をこなすことにもなるかもしれず、それもその場の状況に合わせた動作となるわけだが、現代の機械文明もある面ではそういった傾向になっていて、人の動作を機械に置き換える過程で不要なのが感情的な抑揚になるだろうし、もちろん人形などのように機械を人らしく見せようとするなら、かえって感情の起伏などの人間的な面を強調するわけだが、作業効率を重視するなら機械に感情はいらなくなり、それの延長上で人の作業に関しても作業効率を重視するなら、平常心を保つ上でも感情を押し殺した無表情の持続が求められるかもしれないが、ひどいことを効率的に行うには、平静を装いながら作業そのものに集中することになるだろうし、戦場で大量殺戮行為などをやるには、やはり機械を用いた効率的な作業を遂行する成り行きになるわけで、そうした何事も迅速かつ効率的にやってのける機械的な動作が、人の良識などとは無縁の仕事には必要であり、それがある面では人工的な環境が目指すべき理想のあり方なのだろうが、そこで無駄に思われる感情の起伏や抑揚などをあからさまに強調するやり方も、宣伝や煽動などの手法を用いる別の場では好んで使われる傾向にもなっていて、それもある意味では人工的な環境の中で行われていることであり、要するに迅速かつ効率的な機械の動作も大げさな感情表現も、その場の必要に応じて過剰に使用されるような不自然さが、人工的な環境の中ではよく見かけられるわけだが、そういう不自然な動作にも慣れてしまえば何とも思わなくなるだろうし、その何とも思わなくなる状況というのが、世の中の慣習に支配された環境の中で行われていることであり、そうした慣習に慣れていない人にとっては、不自然極まりない動作に感じられるかもしれないが、いったん周囲からの同調圧力によって慣らされてしまうと、やはり何とも感じなくなるわけで、あえてひどいことを積極的にやろうとする人たちも、そうした効果を狙っているわけで、実際にそうした人たちの脅しに屈して批判の声を上げられないでいると、やがて感覚がすり減って何とも思わなくなってしまうわけで、世の中にそうした行為を助長するような風潮が生じているとすれば、そうした傾向に合わせてそういうことをやる人たちも勢いづいてくるわけで、それも時代状況を反映した行為だと言ってしまえばそんな感じもしてくるだろうが、別に脅しに屈して声を上げられない人たちが悪いわけでもなく、むしろ良心の呵責に耐えられなくって声を上げてしまう人たちの方が、メディアによって悪者に仕立て上げられてしまう傾向もなきにしもあらずだが、自分たちがどちらであるかも気づかないような人たちにとっては、そんなことには無関心である限りにおいて、無関係で意味のないことでしかないわけだ。


10月1日「視覚的な表層」

 物事の表層を見るという比喩には、逆に物事の深層を想像することの虚構性を明らかにするという意図があり、もちろんそれを比喩として使うこと自体が皮肉で倒錯した表現なのだが、またそれによって表層がうわべだけの内容であり、深層こそが本質的な内容を含んでいるという錯覚も明らかにしたいのかもしれないが、だからと言って物事の本質的な内容が、その表層に浮き出ているというわけでもないし、表層はただの見えている面に過ぎないとしても、それが見えていること自体の真実であり、実際にそれを見れば、見えている光景がその表面を構成しているだけと思っておいて差し支えないだろうし、それを見ること自体はさして困難ではないし、それにひきかえ物事の深層は目には見えないし、実際に見ようとすれば、その表層を取り除いてみないと見えてこないものだから、それだけ見るには手間がかかるわけで、そうした手間が思考することだと捉えれば、何やら比喩的には、物事の本質的な内容を思考によって導き出すような意味合いが得られて、それに適合する対比的な表現として、安易に物事の表層を見ただけでわかったような気になるのではなく、もう一手間かけて物事の深層まで見えるようにすることが思考することであり、それが物事の真相に辿り着くことであるかのような幻想をもたらすのだが、それが幻想ではなく真実だとみなせば、例えば物事の表層しか見ないような行為が、気楽で安易な観光的な視線の遊戯でしかないのに対して、物事を思考によって解体して、その全てを白日のもとに晒す行為こそが、見ただけでは知り得ない物事の謎を解き明かす行為でもあり、それこそが考える葦である人の特性を反映した理性的なやり方だと肯定できるかもしれないのだが、それ自体が比喩的な表現でしかないわけで、本当に思考することが物事の深層まで見えるようにする行為だと言えるかとなると、考えることを物事を切り裂き分解してその内部構造や仕組みを探る行為にたとえているだけであって、中にはそうした比喩が当てはまる場合も多々あるだろうし、そういった表現が何やら真実味を帯びるようなケースを思い描けるから、もっともらしく思われるのかもしれないが、そもそも見ることを考えることに結びつけることが、見ればわかったような気にさせているわけで、そうなるとそれが錯覚かもしれないのに、そんなことは考慮されないだろうし、そこに短絡的な思考作用が介在しているのかもしれないが、言葉で表現しようとすると、どうしても何かにたとえないと表現できないわけで、そうなると見ることを考えることにたとえるのが手っ取り早いのかもしれず、実際に人間の構造的な特徴としては、他の感覚よりも視覚的な情報が優先される傾向になっているわけで、実際に対象を見ながら考えていることもあるだろうし、何よりも言葉で表現された文字情報はそれを見ることによって読み取れるわけだから、どうしても思考に関する感覚が視覚過多になる傾向は否めず、別にそれを他の聴覚や触覚や味覚などの強調によって覆そうとするのもおかしいわけで、そうなるのは自然な成り行きでしかないわけだが、だからこそ見ることから得られる情報は、事物の表層からしか得られないと考えるのが妥当なのだが、たとえその表面が透き通っているとしても、その先に見えるのは深層の表面でしかないだろうし、それも表層ではあるわけで、要するに表層を切り裂いてみれば、またその下に埋もれていた別の表層に出くわすことになり、いくら皮をむいてみても、それは玉ねぎの皮のようになっているだけで、表層の表面にも深層の表面にもそれぞれに表面が見えているだけだということが理解されなければならないわけだ。

 そうであっても思考には一般的にいって物事の真実を見抜く力が求められているわけだから、それが思考力であり、そこでも見抜くという見る表現に思考が伴っているのは疑いようがないわけで、見ることと考えることの結びつきが強い傾向を示しているのは事実であり、比喩的に両者を同一視することも一般化しているわけで、同一視という表現自体も見ることと考えていることに関係しているわけだから、見ることが考えることを伴ってしまうのは避けようがなく、それ自体は何ら問題ではなく、むしろ推奨されていることであり、積極的に見ることを考えることに結びつけるべきであり、だから視覚に関するたとえを使って思考を表現することに、いちいちいちゃもんをつける必要もないわけだが、一方で見ることは物事の表層を見ているという事実にも結びついていて、その事実が皮相上滑りのような否定的な思考表現にも結びついていて、物事の表面に気を取られて本質を見抜けないことのたとえにも使われるわけで、確かに見ること自体はその表面しか見えていない事実がある一方で、表面的ではないところに物事の本質があって、その容易には見えない本質を見抜くことが思考に求められていて、思考力を使って物事の真相を探ることが、表層の下にある深層にたどり着くことにたとえられてしまうわけだが、その一方で見ることは錯覚にも結びつき、錯覚は幻想をもたらして、錯覚が見ることから生じて、幻想が考えることから生じるとすれば、そこでも否定的な意味で見ることと考えることが結びつくわけだが、そうした悪い意味での結びつきが生じてしまうと、視線も思考も誤った方向へと導かれて、そこから思い違いや勘違いが引き起こされて、意識がありえない妄想の虜となってしまい、そのうち見えないものまで見えてくるかもしれないが、そうなるのが嫌だからといって、見たくないものは見ないようにして、見たいものだけ見るようにしていれば、自分の好みに合った自己中心的な世界観が意識の中で形成されて、自らの世界観に合わないものは生理的に受けつけないような偏狭な性格に陥ってしまうかもしれないが、どうなるにしても、まずは物事を見るということがその表層を見ていることは自覚しておくべきで、見るという行為によっては見ているものの表面しか見えていないわけで、そうした事実を踏まえながら思考を働かせて、見ている対象に意識を集中させて、その機構や機能や仕組みや、それに関係して引き起こされる現象や出来事を考えるにしても、それらの何が本質的なことだとみなすにしても、それに関する様々な条件づけや水準によって、物事の本質が異なってくる可能性もあるだろうし、それらの物事の中で何に注目するかによって、それに関係して起こる現象も異なってくるというか、現象にも様々な面があって、それを見る角度や方向に応じて、現象のありようも変わってくると捉えられるかもしれないが、それが一つの現象の部分的な側面であったり、あるいは複数の現象が複雑に混じり合っていて、それぞれを単独で取り出して見るわけにはいかなかったり、見えている表面だけでは計り知れない量や捉えきれない内容を含んでいることを、それについて思考することによって理解できるかもしれないが、それでもなお見えているのは表層であり、そこからは物事の一面的な理解にしか至らず、多面的かつ全面的な理解に至るには、見ることだけでなく思考することが必要となってくるわけだが、見ることが思考することにつながるには、そこから疑念や疑問が生じないと、考えるには至らないわけで、見たいものをいくら見ても、疑念や疑問は生じないだろうし、この世に見たくないものがあることから、なぜそんなものがあるかを考える契機が生じて、それが自らの視線の限界や思考の有限性を意識させたり、自らを取り巻いている世界に対する自分なりの理解にもつながるわけだ。