彼の声128

2018年

9月30日「国益と公益の違い」

 何か国家に関してその存在を正当化する必要があるかというと、国があるからその国の国民が国家の庇護の下に安心して安全に暮らしていけると考えるのは、為政者側からすれば当たり前の認識かもしれないが、現状では南極大陸を除いた世界のほとんどの地域で国があるわけだから、国があるという前提以外はありえないわけで、またその国の中でもテロや内戦に明け暮れている一部の地域では、国があっても安心も安全も保障されないし、また比較的平和な国でも、安心や安全の度合いが、その人の社会的な立場や境遇などによって変わってくる場合もあり、現状ではそういう論理によって国の存在を正当化するのはあまり意味がないことのように思われるわけで、では国の存在を正当化する理由として他に何があるかとなると、まずは国家ありきという前提が世界の常識としてあるわけだから、特にそれを正当化する必要もないのかもしれず、現状では国の存在の有無というよりは、例えば国の機能が社会やその中で暮らしている人に対してどのような貢献ができるか、と同時に、人が社会や国家に対してどのような貢献ができるか、といったことを、果たして真剣に考えなければならないかとなると、それもそんなふうに考えることが、一見当たり前のように思われるかもしれないが、確かに行政に関係する何らかの部署では、そんなことを考えなければならない立場や役職を担った人がいるだろうが、どうも全ての人がそんなことを考える必要もないのかもしれないし、たぶん政治家ならそんなことを考えているかもしれないし、各省庁の官僚もそんなことを考えている可能性はあるだろうが、一般の人たちにとっては、選挙の時にはそんなことを考える成り行きが生じるかもしれないが、それ以外の時には改まって考えるようなことでもないだろうし、そんなことを考えなくても特に困らない人がほとんどなのではないか。もちろん困る困らないの水準で考えるようなことではなく、必要に応じて考えるようなことかもしれないが、例えばそれを国家に対する貢献と社会への貢献との違いで区別する必要があるかとなると、どちらも似たようなことにも思われるだろうが、そこで国家と社会とが重ならない部分というのがあって、社会は領土や領域という範囲が不明確で、特定の制度や法律にも基づいていないので、漠然としているとともに自由度が高く、一口に社会貢献といっても、国家に対する貢献と比べて、広くもあり狭くもあるような、あるいはそのどちらでもないような意味合いがあるだろうし、中には両者を同一視している場合もあるわけだが、必ずしも国家には囚われない意味合いが社会にあるとすれば、国家に対する貢献から導き出される国益と、社会への貢献から導き出される公益とでは、何らかの違いがあると捉える必要が出てくるだろうし、そうなると当然のことながら国益の方が公益よりは利己的な面が大きくなると思われるわけで、場合によっては国益にこだわることが、公共の利益に反することにもなるのかもしれず、なぜそうなるのかといえば、国と国とが利害によって衝突するような時には、そこから争いが起こって戦争状態に陥るようなことにでもなれば、それが公共の利益を損なう行為になることは明白だろうし、戦争にまでには至らないとしても、経済制裁を加えるようなことにでもなれば、制裁を加えられた側の国民の生活が圧迫されるから、それも公共の利益には反することになるだろうし、そうなると国益と公益とが一致しなくなり、国家に貢献する国益と社会に貢献する公益にもそれなりの差異が生じてくるわけだ。

 なぜ国家に関する国益に利己的な面が生じるかといえば、その領土や領域がはっきりと区切られていて、その範囲内だけを利することになれば、それ以外の地域には害を与える可能性が出てくるからで、そこに恩恵と弊害の分離が起こるから、恩恵を受ける側だけの利益として、利己的な面が生じてくるわけだが、それが社会への貢献としての公益になると、弊害が考慮されずに、ただ利益をもたらす面だけが考慮されて、漠然と社会に利益をもたらすかのように思われるから、それが公益と呼ばれる概念になるわけだが、本当に弊害がないかというと、ただ利益をもたらすことしか考慮されていない面があって、弊害についてはよくわかっていないのが実情なのかもしれず、そうであるなら国益と公益を比較すること自体が不公平かもしれないのだが、そもそも何らかの損害や弊害をもたらすことが明らかとなれば、それは公益とは認められないわけで、そうであるなら国益よりは公益の方が、より厳しい基準によって評価されるものなのかもしれないし、さらにそれを行う側が損害や弊害を被ってまでも、その対象となる側に利益をもたらすような行為が、公益と認められる場合もあるのではないか。そう考えれば国益が単に自国だけに利益をもたらす行為から生じるのとは対照的に、公益とは自国が損害を被ってまでも他国やその地域の利益となる行為から生じることになり、そうなると国益と公益とは正反対の行為となるわけだが、結局それも自国に余裕があるから、ある程度の損失を出しても許容の範囲内に収まり、それよりは他国やその地域の住民や政府などから感謝されることを狙っているとすれば、それも国益に適った行為と言えるだろうし、そうなると国益と公益とが一致点を見いだすかもしれないが、さらにその他国の中で住民と政府とが対立していると、住民を利することが政府の反感を買い、また政府を利することが住民の反感を買うような、複雑な様相を呈している場合には、やはりのその国や地域の住民を利する行為が、公共の利益に適っていることになるわけで、そうなると安易な国益の追求によって、住民を弾圧しているような政府を利する援助を行えば、国益には適っているかもしれないが、公益には反していることになってしまい、そうなるとやはり国益と公益とが正反対の意味合いを帯びてしまうわけだ。そこから公益に関して妥当な解釈を求めるなら、それは不利な立場の弱者を助ける行為から生じることになるだろうし、しかも助けようとしている自らが不利益を被ることも厭わない姿勢で行うことも重要な評価基準であり、そこで損得勘定が働いてしまうようなら公益とは言えないのかもしれず、とりあえず自らを利することは考えないで、他人の利益を優先して活動する行為を、公共の利益に合致した行為と言えるわけだが、果たして実際にそんなことができるかというと、そこに微妙な問題が生じてくるわけで、大抵の場合、社会貢献などを唱えるような人や団体は、自分たちが少々の損失を被ったところで余りある利益の蓄えがあるわけで、公共の利益に奉仕する以前に、利己的な利益の追求を十分すぎるほど行なった挙句に、その中から自己犠牲的に微々たる資金や労力を拠出しようとするわけだから、そんなことを行う時点で、社会的な名誉欲しさにやろうとしているようにも受け止められるだろうし、そうなるとある程度の偽善や欺瞞も伴っていて、そこに疚しさや後ろめたさがあると受け取られても仕方のない面もあり、そんな行為を真の意味での公共の利益に合致しているとみなせるかどうかも怪しくなってくるのだが、実際にそんなことにまで目くじらを立てていたら、誰もそんなことをやらなくなってしまうだろうし、少々の胡散臭さは大目に見ないことには、そういった行為も成り立たないわけだ。


9月29日「人権の意味と程度」

 公的な法律で定められた人の権利というのは、その権利が社会の中でないがしろにされる可能性が高いから、わざわざ法律で規定されているわけだが、果たしてそれが権利なのかとなると、権利を持っている対象となる人という存在が、社会的な存在である限りは、その権利を制限されるような関係が当然のことながら生じてくるわけで、そうした事情がある中で、いくら権利を主張してみても、実際にはそれが制限されている実態があって、そんな大なり小なり人としての権利が侵害されている状況の中で、目に余るようなひどいことが行われていれば、当然のことながらそうした行為は罰せられて改善されなければならないわけだが、一方で絶えず人の権利を制限するような成り行きが生じていることも確かであり、そうしたことの折衷的な成り行きとして、いかに人の同意を得て人の権利を踏みにじるかを競い合っている実態もあるのではないか。そもそも人の権利とは何かというと、大雑把に言えばそれは、社会の中で自由に振る舞う権利であるが、実際に自由に振る舞うと、当然他人も自由に振る舞う権利があるから、それとぶつかって、どちらの権利が優先されるべきかをめぐって争いが起こるわけで、実際にどちらかあるいは双方が争いを回避すべく譲り合えば、争いが回避されることになるだろうが、どちらも強硬に権利を主張して退かなければ、争うしかないだろうし、争っている双方を納得させるようなルールを定めて、争いをゲーム化すれば、それが肯定的な意味での競い合いになるわけだが、納得させるというよりは、しぶしぶ同意させられる面が大きければ、結局はルールに従わされることにもなり、そもそもルールに従うということ自体が、人の権利を制限することにもなるわけで、それが人の権利を尊重するというルールであるならば、そこで自己言及的な循環が起こってしまい、人の権利を尊重するという法律自体が人の権利を侵害していることにもなりかねず、もちろんそんなのは屁理屈として退ければ済むことかもしれないが、その辺を突き詰めて考えてみると、微妙な意味合いが生じてくるわけだ。そういう意味で人は他人の権利を侵害する権利があるわけでもないのだが、他人の同意を得てその他人の権利を侵害できるだろうし、それも他人がわざわざ積極的に同意するはずもないわけで、同意するにはそれなりの見返りがほしいから同意するのだろうし、そうなると報酬を払って他人を拘束して働かせるようなやり方が一般化して、実際にそれが企業などで普通に行われている形態なわけだが、もちろんそのこと自体が人権侵害であるわけでもないのだが、劣悪な環境で無理やり働かせていたり、払っている報酬が生活が成り立たないような低賃金であったりすれば、人権侵害だと言えるだろうし、そうでなくてもそうやって人を利用して利益を得ていること自体が、たとえその人の同意を取り付けているとしても、同意せざるを得ないような状況に追い込まれているとすれば、根本的にはその人の権利を制限していることになるわけで、やはりそういう意味でも、人権には必ずそれなりの制限が伴っていて、そうした制限を課すのが社会状況である限りで、あからさまに人権を尊重するような成り行きとはならないだろうし、結局は人権侵害が公的に認められる限りで、そこに人権があることが確認されるにとどまり、初めから人権があるというよりは、人権が侵害されて初めて、その人にも人権があることが明らかになる、という逆説的な実態があるのではないか。

 一般的に人を強制的に拘束しておくことが人権侵害であるとするなら、刑務所や病院や学校や工場などの施設内に人を拘束することも人権侵害の疑いがあるが、拘束する正当な理由があれば、人権よりもそちらの方が優先されるわけで、また正当な理由があっても、収容施設内の環境がひどかったり、収容施設内での人の扱われ方がひどいと、それが人権侵害の正当な疑いにもなるわけだが、そうなるとやはり人権とは程度の問題で、そこで人として耐えられないようなひどいことが行われている限りで人権侵害を疑われ、実際には耐えられないような環境や扱いの中でも耐えているわけだから、耐えられないわけでもないわけだが、現実に耐えられなくなって死傷者などが出れば、そうなった責任を問われて、そういうことを行なっていた人や団体が処罰されるわけで、そこでも人権侵害が未然に防がれるというよりは、それが明らかになってそうした行為が処罰の対象となった時点で、そこに人権があることが明らかになるわけで、人としての権利というのは、その権利を侵害されない限り、そこに権利があるということが気づかれない場合が多く、しかもどんなに侵害がひどくても、実際に虐待行為によって死傷者が出ているなどの実害が明らかにならない限りは、人権が侵害されていることも気づかれない場合も多いわけで、そういう意味で実際には社会の中で人権は、絶えず侵害され続けていると考えた方が妥当な認識だろうし、そうなっているからこそ、人権の尊重を訴えるような行為や運動が成立していると言えるわけで、社会の成り立ちそのものが人権を侵害するような構造となっていて、そうした構造を改めるべく人権の尊重を訴えるような成り行きとなっているわけだから、その逆に社会の構造から生じる慣習や規範に従わせるために、人権を制限しようとする行為は、人権の擁護派から批判されるしかないわけだが、全面的に社会の慣習や規範が人権侵害を助長する傾向になっているわけでもなく、ただ行き過ぎた慣習や規範の強要が人権侵害の疑いを持たれるわけで、従わないからといって村八分したり、いじめの対象となったりする限りで、人権侵害とみなされるわけだが、そうしないと社会的な慣習や規範を維持できないから、そうなってしまうわけで、結局そうした行為が人権侵害として批判されることで、社会的な慣習や規範を変えざるを得なくなれば、それが人権尊重派の成果としてメディア的に強調されることにもなるだろうし、その一方でそうした人々や推進団体やそれを好意的に伝えるメディアを、意識高い系と呼んで嘲笑したり、左翼とみなして攻撃したりする保守的な風潮も生まれるわけだが、それも白黒をはっきり区別できるようなことではなく、程度の良し悪しでしか判断できないようなことでしかないのかもしれず、そのような程度のどこからどこまでが人権侵害で、どの程度なら許されるかとなると、その場で被害を受けている人の心理状態や社会的な立場や境遇によって左右されることにもなるだろうし、実際に人権侵害になるようなことが行われてみて、それが公的に人権侵害だと認定されるような成り行きの中で判断させるわけだから、そんなふうにして人権侵害の事例が積み重なるにつれて、だんだんその判断も明確な区別を伴ってくるかもしれないが、実際にそんなことが行われている実態があるわけだから、そんな事例が多いほど、そうした行為が社会的な慣習や規範から生じている可能性も高くなるわけで、そしてそうした告発を快く思わない人々は、意識がそうした慣習や規範に囚われているから、人権侵害の告発者が社会的な慣習や規範に逆らっていると見えるわけで、そういうところでも人権侵害を訴える側と社会的な慣習や規範を守らせようとする側とで、せめぎ合いが続いているわけだが、根本的なところでそれが何であれ、従わせる側は従わせる行為を正当化したいわけで、また従わされる側はそれを不快な行為だと思うから、それに逆らうことを正当化したいわけだから、そうした行為が社会的な慣習や規範に照らし合わせて、度を越した行為だと思われると、やはり批判の対象となるわけだ。


9月28日「理性の発動を妨げる要因」

 それは当たり前のことだが、特に事情がない限り、普通は言語が通じない地域で暮らすよりは、同じ言語を話す地域で暮らす方が良いだろうし、生活習慣なども同じなら暮らしやすいだろうが、言語や生活習慣などが異なる人が社会の中に混在していると、その割合にもよるだろうが、意思疎通がはかりにくいだろうし、何かと不便を感じるはずで、できれば同じ言語や生活習慣を共有する社会の中で暮らしたいと思うだろうし、そうなっているのが当たり前の社会の中で暮らしていれば、そもそもそういう不便は感じないはずで、そんなことさえ思ってもみないだろうが、そうではない社会の中で生まれ育った人なら、自然に複数の言語を使いこなして、生活習慣の異なる人たちとも交友関係を深められるかもしれないし、そういうことが当たり前の環境で生きていれば、そんな状況も普通に受け入れられている実態があるのかもしれないが、普段は同じ言語や生活習慣を共有する環境の中で暮らしていれば、そんなことなど知るよしもないだろうし、仕事や観光などで一時的に異なる言語や生活習慣が混在している地域へ行く機会でもない限りは、想像でそんな状況を思い浮かべることしかできないわけだが、そんなことの延長上でいきなり国家や民族や宗教などについて考えてしまうと、何かそれとこれとは次元が違うことのようにも思われてしまうのかもしれず、そんなことを改めて考えること自体が脈絡のないことかもしれないが、公的な制度として国家があり、国家に関わる公的な機関として政府があるわけで、同じ言語や民族や宗教などの生活習慣の共有から想像されるネーション・ステートとしての国民国家と、公的な制度としての国家とは、区別して考える必要があるだろうし、実際にも多民族国家が一般的な形態としてあり、公的な制度としての国家の中では、多言語であっても多民族であっても多宗教であっても、制度的には一向に構わないわけで、実際にもスイスやベルギーなどではそうした状態が普通に維持されているが、国家の起源やその存在の必然性を考えていくと、どうしても民族という言語や宗教を共有する部族単位で国家が必要だと思われてしまうだろうし、それが現状では無理であり、そうした共有が破綻しているから、多民族国家という形態が、歴史的な経緯から生じているわけだ。そうした現状を認める限りで、言語や宗教などの国家的な共有に関しては、公的な制度との兼ね合いの中で、公用語として言語的な共有は認めるにしても、宗教的な共有は無理な面が多いだろうし、それでも地域によっては宗教的な共有を実現しているところもなくはないだろうが、少なくとも民族と国家を一致させる試みは破綻している場合が多く、実際にそうした実情を反映した国家形態になっているわけだが、国家自体の本来のあり方というのが、その時々の時代状況や地域情勢に合わせたものとなるしかないだろうし、その起源がどうであれ、元の状態を保てなくなっているわけだから、元の状態が本来のあり方であるわけもなく、いくら憲法などの法律によってそれを規定してみても、そこからずれてしまう成り行きが常に働いているだろうし、だからと言って憲法に規定された状態に保とうとする作用も同時に働いているわけだから、そうした作用のせめぎ合いが国家の現状に反映しているわけだ。そして法律の類いが現状に合わなくなってくれば、それによって生じる弊害をなくすために、議会などの公的な場で、法改正などを行う成り行きにもなるだろうし、また現状を法律の類いに合わせるような行為もあるわけで、それが警察などによる違法行為の取り締まりとなるわけだが、どちらも同時並行的に行われていることだから、どちらの行為によっても国家形態と社会情勢との絶え間ないすり合わせが行われていることになるわけだ。

 そんな経緯や成り行きがあることを前提として、国家のあり方について考えるとすれば、少なくとも絶対的な価値基準として、国家の論理を何よりも優先させて考えることはできないだろうし、もちろん国家の管理統治に携わる立場の人や集団にとっては、そうなるのも無理はないのかもしれないが、別にそうした立場の人や集団に関係していなければ、普段は相対的な認識や判断を心がけておいた方が無難だろうし、別に言語や宗教などの生活習慣が同じの人々の間でも争いは絶えないし、それらが違っていても交友関係や協力関係は生じるわけで、ただそれらの違いを利用して敵対感情を煽るような行為があって、そうした煽動を真に受けると、そんな気にもなってしまうだろうし、何らかの利害をめぐって対立がある場合には、それが民族的・宗派的な対立に結びつきやすい状況があるとすれば、それは社会が民族や宗派の単位で編成されている地域があるからだろうが、それを国家の単位で再編成し直す過程で、特定の民族や宗派を優遇しようとすると、それがその地域で支配的な民族や宗派であれば、同一民族・同一宗派の国家形態となるわけだが、完全にそうなるわけではなく、中には少数民族や宗派も含まれているから、そういった少数派の抵抗に直面すると国家統合や統治がうまくいかなくなるわけで、さらに少数民族や宗派が多数派の民族や宗派を支配するようになると、多数決を原理とした民主的な政治体制を築くのが困難となってくるわけだ。だからと言って民族や宗派に囚われない国家体制を築くとなると、民族や宗派単位で編成されている社会を壊さなければならなくなり、それも社会主義革命のような成り行きを招くことにもなり、そういった人為的に社会変革を目指すようなやり方は失敗することが多いわけだが、結局はそれとは別の方面から恣意性や作為性とは異なる成り行きによって、社会の中で民族や宗教による拘束が弱まるを期待するしかないわけだが、実際にそれが資本主義的な経済活動によって世界的にもたらされているわけで、しかもそれが民族や宗派間の対立を弱めるどころか、それに加えて、新たな対立要因として貧富の格差をもたらしているし、必ずしも資本主義経済の発展が民主的な国家体制の確立には結びつかない面もあるわけだが、成り行きによっては経済発展によって大衆消費社会が形成されて、人の生活形態の同質化が図られるわけだが、そうなるのにも条件があって、それは経済発展が続いている間で実現されることであって、それが行き詰って経済が停滞してきて、社会の中で貧富の格差などがはっきりしてくると、不利な立場を強いられている人々は幻滅するわけで、そうなるとそれとは違う価値観にすがるようになり、そんな時に苦し紛れに持ち出してくる過去の価値観として、民族や宗派などの同一性があり、それを国家的な価値にまで高めようとする試みが、ナショナリズムなどの政治的な主義主張として顕在化してくるわけだ。もちろん民族や宗派が同じでも貧富の格差があるわけだから、よく考えればそんなのはまやかしであることがわかるだろうが、そこでも敵を作ってその敵に責任を転嫁することによって、敵を攻撃しているうちは、物事を深く考えさせないような効果をもたらせるわけで、それの典型的な理屈としては、移民労働者を安い賃金で雇うから、国内の労働者が職を奪われて貧困状態から脱することができないとか、外国から安い商品が輸入されるから国内の産業が壊滅的な被害を受けているとか、そうやって国民の敵を作って、それのせいで国民の利益が損なわれているという理屈が成り立つわけだが、実際にそういう理屈で煽動をけしかけている側が、そういう商売によって利益を上げている実態があるわけだから、単にそういう煽動によって踊らされている人たちが愚かなのだろうが、そういう人たちが自らの愚かさを実感することはないだろうし、それらの人たちは政治的な宣伝・煽動活動と企業などの経済活動が思考の中で結びつかず、それを結びつけないようにしているのが、民族的・宗教的なアイデンティティーを国家に結びつける主義主張なのではないか。


9月27日「バランスを欠いた認識」

 資本主義経済の中では金銭的な資金の蓄積や保有する資産額が、それを利用して行えることを規定していて、実際に企業などはそれらの資本の蓄積を担保にして資金を借りたり、株式や債券を発行することによって、さらに使える予算額を増やそうとするわけで、しかも行なったことから利益を上げる必要が生じるから、大抵の場合はそうした利殖活動に対して投資が行われて、そうやって行えることが特定の分野に限定されてくるわけだが、個人が行えることはそれだけではないだろうし、経済活動以外でも利益が出ないような無駄なことにも資金や資産が消費されるだろうし、たとえ利益が出なくても無駄ではないと思われるから、そうした行為が行われるわけで、さらに無駄だと思ってもやりたいことがあればそれをやってしまい、中にはなぜそれがやりたいのか、理由など説明できないようなことをやってしまう場合もあるかもしれないが、別に資金や資産を使わなくても、個人でも集団でもやれることはいくらでもあるだろうし、そうした行為は資本主義経済とは無関係に行われるかもしれないが、やっている当事者にとっては、やらなければならない重要なことであったり、やることにこだわる事情があったりして、それ以外でも何かの偶然でそんなことをやる羽目になったり、大して脈絡のないことをやっている場合もあるわけで、そういうことまで含めれば、人の活動そのものが最終的には経済的な行為に結びつくとしても、それを意識させない行為などいくらでもありそうで、それらを意識して経済活動に結びつけて考える必要もなく、物や情報やサービスを生産して流通させて売買して消費する経済的な循環とは異なる面から、人の活動を捉えても構わないわけだが、それも経済活動と連動していて、経済活動が成り立っていることを前提として可能なことが多いわけで、経済活動がうまくいっていないとできない活動がほとんどで、そういう意味で経済活動は様々な活動の中で、最も基礎的かつ最も重要な活動に位置づけられるわけだが、時として経済活動が成り立っていることが当たり前の状況があり、そうなると特にそうした前提を考慮する必要もなく、その活動だけに専念できるような環境も生じるわけで、そうした環境下では、金儲けがどうこうという下世話なことは無視されて、学術研究や文化芸術などについて高尚な議論が交わされるような状況も生じるが、だからと言って経済活動が形而下の活動で、学術文化などの活動が形而上の活動などと区別されるわけでもないし、どちらも形而下と形而上の両面を含んでいるわけだから、どちらが上でどちらが下というわけではなく、どちらも本質的な面と枝葉末節な面の両面を含んでいて、どちらも人にとって欠かすことのできない活動となっていて、当然それだけで成り立っているわけではなく、両者が複雑に絡み合い錯綜しながら成り立っているから、はっきりとは区別できない面があるわけだ。またそうだからこそ、学術文化などの分野であっても、経済的な面を考慮しないと、本質的な議論にはならない場合もあるだろうし、何かそれについて語るとなると、それの経済的な面を抜きにはその成り立ちを語れないかもしれないが、その本質が必ずしも経済面から生じているわけでもない場合もあり、中には経済を無視することで成り立っている分野もあるだろうし、例えば経済効率とは無関係に無駄で過剰な装飾とともに成り立つような芸術分野もあるし、また学問などの分野でも経済よりも力学や数学がその基礎を構成していて、当の経済学もその基礎の部分は数学的な知識によって構築されていて、数式による理論を用いて経済を説明する面もあって、そういう部分では数学が基礎的な分野を構成しているわけだが、だからと言って全ての現象を数式を用いて説明できるわけでもなく、それですらも一定の限界があるわけだ。

 もちろん言葉や数式などの記号によって基礎づけられている面と経済的な面とでは、思考の次元が全く異なっているし、それらの記号の組み合わせによって学問などの分野が構成されているとしても、ただそれを表すのにそうした記号を使わないと表現できないだけで、確かに表現の面ではそうであっても、それ以外の面では活用の方法や用途などに応じて独特の傾向があるだろうし、その中の一つとして経済的な側面があるわけだが、そうした方面にこだわる理由としては、経済的な事情が絡んでいるわけで、またその分野が手厚い資金援助や公的な制度に守られて、経済的な事情を無視できるような恵まれた環境が備わっていると、あまりそういった面は考慮しなくても済むようになるだろうし、そういう方面で活動している人たちは、経済的な事情に関しては無頓着になってしまうかもしれないが、誰もがそうした立場や境遇になれるわけではなく、また誰もが経済的な面で深刻な事情を抱え込んでいるわけでもないし、そういうところで様々な役割分担に特化した分業体制が整ってくると、特定の分野にだけ関心を持っていれば事足りるような状況となってしまうわけで、そうなると特定の分野だけで経済状況が悪化しても、別の分野では何ともなければ、それほど影響を受けない分野で働いている人たちは無関心でいられるわけで、またそれが特定の地域に偏っていれば、その地域に関わりのある人だけの関心事にもなるかもしれないし、いくら特定の分野や特定の地域から窮状を訴えてこられても、他の分野や地域の人たちにはあまり深刻に受け止められなければ、そうした窮状が見過ごされて放置されてしまうかもしれないし、それを伝えるメディアの側にも商業主義がはびこってしまうと、広告収入を得るために、話題を集めそうなニュースしか取り上げなくなるだろうし、そうなるとセンセーショナルな話題にしか関心を示さない大衆心理と相まって、いびつで偏った現状認識がメディア上でもそれを受け止める民衆の間でも蔓延することになるわけで、そうやって世の中の小数意見や主張などが切り捨てられて、毒にも薬にもならない人畜無害で最大公約数的な世論や民意が形成されることになるかもしれないが、そこでも絶えず煽動や宣伝などによって世論操作や誘導などが行われて、その結果特定の意図や思惑へと偏向させられるような成り行きも生じてくるかもしれず、そんな成り行きになると、まずは特定の分野にしか関心を示さないバランスを欠いた人たちが、産業の分業化や専門化と趣味嗜好のマニア化やオタク化などによって生じてくる一方で、専門外のことはメディアから情報を入手する成り行きになると、メディアからは煽動や宣伝によって恣意的に偏向した主義主張や思想信条を含んだ情報を受け取ることになり、それを真に受けると、思考や嗜好が特定の方面に偏ってしまって、しかもいびつな現状認識にしか至らず、そういう人たちを否定的な意味合いで呼ぶなら、いわゆる専門馬鹿やオタクやマニアが大量生産されるような状況となるわけだろうが、全ての人がそうなるわけでもないし、メディアにも千差万別があって、全てのメディアが一方的に歪んだ傾向を示しているわけでもないだろうから、現状でもそうなっているとは思われないだろうが、たぶんそれは現状からある程度の距離を置いて見ないことには、本当のところはわからないだろうし、離れた地域から見たり時が経ってみないと、客観的な判断ができない可能性もあるわけで、案外現状の中に巻き込まれている人たちの気づかないところで、ほとんどのメディアが何やら特有の偏向した傾向を示している可能性があるだろうし、その可能性というのが重大な思い違いであったり深刻な勘違いであるのかもしれないし、やはり本当のところは現状の中に巻き込まれている人々には感知できないことかもしれないが、それでも普通に踏まえておかなければならないことがあるとすれば、それは自分たちの感覚や認識を過信してはならないだろうし、その全てが誤っているわけではないにしても、全てが正しいとも思わない方が無難なのではないか。


9月26日「金銭に伴う幻想の共有」

 意識が状況から引き出そうとするのが、状況に対する正確な認識であれば、まだその意識は冷静さを保っていることになるのかもしれないが、それが自らの都合を反映した認識であると、そこには勝手な幻想も含まれてくるだろうし、その幻想に基づいて自己中心的に物事を考え始めると、全てを自分の都合に合わせて解釈し始めてしまうわけで、そこで他人の都合に直面すると、それが自分の都合と折り合わないなら、どちらの都合を優先させるかをめぐって、そのような都合を押し通そうする人や集団と戦うか、あるいは妥協して調整を余儀なくされるかは、その場の状況次第な面もあるだろうが、そこで自分の都合を優先させようとすれば、それが相手との戦いに勝って自らの都合を押し通すことになるか、あるいは交渉して自らに有利な条件を引き出そうとするかは、やはりそこで直面する状況の推移から決まることになるだろうが、いずれにしても自らの願望を実現するために、正確で客観的な現状認識ではなく、自らの都合によって歪められ偏った認識に基づいて現状を把握しようとして、それが現状の中で強調したい物事へのこだわりとなり、それにこだわることが自分の願望を通した幻想に結びつくのだろうが、そうやって現状をどうにかしたいと思うことが、そうしたこだわりを生じさせて、現状の中でこだわりたい特定の物事に思考の焦点を合わせて、そこへ作用や影響を及ぼそうとして、直接力を加えようとするわけで、それが場合によっては権力の行使を伴ったりして、そうやって自分以外の力を利用することにもつながるわけだが、他人の力を利用する時に必要になるのが、金銭であったりするわけで、要するに自らの願望を実現させるために金を払って他人の協力を仰いだり、逆に他人の願望を実現させるために金をもらって協力したりするわけで、それが金の力に物を言わせて行う限りでは、売買という制度に依存して行われることになり、他にも無償で他人の助けを借りたり他人を助けることもあるわけだが、それに関して有償になるか無償になるかの境目がはっきりしているわけでもないだろうし、金銭を介した売買が通用するところでは、無償の行為は期待できないだろうし、無償の行為が当たり前のように行われているところで、金銭のやり取りを導入しようとすると、善意でやっているのに下心があるように邪推されて、煙たがれるだろうが、人に助けられると負い目を感じたり、人を助けると貸しをつくったように思われるのが、金銭のやりとりによって解消できるようにも思われるから、そうした都合を反映した物事が売買に基づく取引となって、それが世の中に普及して資本主義経済の発展を促したわけで、何でもかんでも金で片がつくのかは微妙なところであり、かえって金で片がつかないと不快な気分になってしまうのだろうが、後腐れなく金で片をつけようとすることが、金さえ払えば文句を言わせない傲慢な態度も生じさせて、そうやって無償の助け合いの精神を破壊する一方で、さらにそれを利用して、ただでもらったものをよそで売って利益を得たり、そうやって悪知恵を働かせようとすればきりがないわけだが、そういったところにも限度や程度があるだろうし、慣習によってどのような行為が金銭を必要としていて、またどのような行為ならただなのかが、ある程度は決まっている場合が多く、そうした慣習の定かでないところでは、その場で他人とのやりとりによって、その境界を推し量るしかないわけだが、金銭のやりとりが万能ではないにしても、それが主流となっている社会が世界的にできあがっていることは確かで、人工的な人や集団の力でそれを覆すことはできないだろうし、そんな中でもできることは、人それぞれに違ってくるのかもしれないが、少なくとも金銭とは異なるやり方を押し通すわけにはいかなくなるのではないか。

 様々なやり方がある中で、一つのやり方にこだわることが、そのやり方がその人の都合を反映したやり方となり、それを自身の権限や権威を利用して他人に押しつけようとすることが、権力の行使にもつながるわけで、そういう意味では金銭を介した取引が、双方の合意によって成立するから、一見平等な取引のように思われるかもしれないが、結果的には利益を得た側に有利な取引となるわけだから、平等であるように見せかけて取引を成立させようとすることが、倫理的に許されないと思われてしまう可能性もあり、そうした取引が双方に利益をもたらす等価交換だと思われる限りで、それが正当な取引だとみなされるかもしれないが、普段はそんなことにまで配慮しているわけでもないし、そうすることが当たり前のように思われる状況下では、誰もが漠然とそうした売買の制度に従うしかないわけで、そんな中で自らの都合を他人に押しつけることが可能なのは、金銭を過剰に所有している側であり、金さえ払えば他人を従わせることができるなら、それが可能な範囲内で金を払って他人を従わせようとするだろうし、そうなると所有している金銭の額で、その人の権力の強さや大きさを判断できるようになるわけで、他にも金銭と交換できる資産を持っていることも、その人を有利な状況へと導くだろうし、そうなると世の中が金銭的な尺度によって人の優劣が決定できるような環境になっていると思われるかもしれないが、人の優劣を決めることが世の中の全てではないし、そうした一つの価値観で世の中を捉えようとすること自体が、その価値にこだわっている人の偏った認識に基づいているわけで、別の価値を考慮できない都合がその人に生じていることにもなるわけだが、そうしたことにこだわって生きている人も実際にいることは事実であり、偏った認識に基づいて物事を判断しても、その良し悪しは、こだわっている当人にとってはそうであっても、他の人にとってはそうではない場合もあるわけだから、そういうところから人それぞれに異なる価値観の分散が起こっていく一方で、そうであっても世の中の支配的な価値として金銭的な価値が物を言う現状があるわけだが、誰もが物を言わせることができるわけでもなく、限られた人が限られた場所で、金に物を言わせてやりたい放題なことをやっている状況があるとしても、大多数の人がそんな行為を羨ましがるにしても、実際にはできない状況となっているわけだから、それはそんな幻想を伴う価値だと捉えるしかないだろうし、そうしたことを実際にはできないのに、そんな夢を見ることを許す価値でしかないのかもしれないが、現実にそんな夢を実現しようとする人たちによって、それを目指す競争が行われて、その中の何人かが実現することに成功すると、自分もできるのではないかと思うわけで、そうした成功者を羨むとともに崇拝するようなことになると、自分たちが成功者になれるわけでもないのに、その人につき従うような倒錯者が多数現れて、それらの人々がそうした成功者の言いなりになることによって、その成功者に権力が生じることにもなるわけだが、そうした権力の源泉となるのが、端的に言ってその人が使える資産の額になるのだろうし、資産額が大きいほど、その豊富な資金を使って社会的に有利な立場や役職などを得ることができるだろうし、またその資金を使って支持者を増やすこともできるわけだが、その人のエピゴーネンたちに何がもたらされるのかというと、ただの夢の共有でしかないのかもしれないし、追従者の中でも有能な人は、その成功者の仲間に迎えられて、その人が主導権を握っている企業や政党や行政の官僚機構などの中で重要な役職に就いて、そうした機構からもたらされる利益にありつけるかもしれないが、やはりそうなる人も限られた少数者に過ぎないだろうし、その人を頂点とした階層構造の中でも下っ端の役職しか得られなければ、相変わらず大した利益も得られないような境遇にしかならないわけで、そういうことを考慮すれば、いくらその人の信者になったところで、相変わらずその大多数の人が得られるのは、ただの願望に基づいた幻想でしかないわけだ。


9月25日「活動の本質」

 誰が社会の中でどんな活動をしようと、それだけでどうなるわけでもなく、それが他の人や集団に無視できない実質的な作用や影響を及ぼす限りで、その活動が何らかの社会的な評価を得るわけだが、別に何の評価も得られなくても、活動を続けられないこともないが、少なくともメディア上で話題となることに関しては、それに関して何らかの評価が下されて、それが当の活動にフィードバックされて、活動自体がそうした評価によってそれなりの影響を被るのだろうが、だからと言ってメディア上で話題にしてほしくて活動しようとすると、そこで好意的な評価を得られるように、メディア上の価値観に囚われた活動内容になってしまうだろうし、それの何が悪いとも思えなければ、それが本末転倒なことだなんて気づきようがないわけだが、ではそうした見せびらかしが枝葉末節な行為だとするなら、何が活動の本質なのかといえば、それはその活動に本来備わっている機能を動作させることであり、それをメディア上で見せることではなく、活動そのものを行うことになるわけだが、メディア上で見せることが活動の本質になると、それは行うことではなく見せるための活動となるわけで、見せることと行うことがどう違うかは、行うことよりも見せることに重点が移ってくると、行なっているように見せることにもなり、それでも行なっていることには違いないが、より良く見せようとすることに気を取られていると、見えないところで行なっていることがおろそかになるだろうし、そもそも見せようとすることが行なっていることだとすると、そこで行なっていることが、見せるためだけに行なっていることになってしまい、見せる以外に何の意味があるのかということになってしまうわけで、何の意味もなければ、ただそれを見せようとしているだけで、一方でそれを見る側には、見ること以外に何の意味があるのかということになるわけだが、何の意味もなければ、それを見ていること以外ではないことになるわけで、他にやることがなくなってしまうわけだが、少なくとも何かをやって見せるということは、やること自体に重点があるはずで、見せることがやることに結びつかないような見世物は、見世物以外ではないわけで、そうした見るためのみに特化した見世物は、たとえそれを多くの人が見ても、それを見た人が見たものに影響を受けて、何かをやることに結びつかないわけで、そうした行為は世の中には何の影響も与えず、そうした見世物が世間的に好まれる傾向にあると、それだけ社会に活力がなくなっていることの証拠となるのではないか。だからと言って、そこで暮らしている人々に何かをやらせるように仕向けることが、メディア特有の機能であるわけでもないだろうし、また人々がメディアを通して見るだけで他に何もやらないわけでもないが、何かを見せることだけに特化したメディアというのも、ただそれだけのことでしかなく、そういうことだと割り切ってメディアに接していれば、下手な幻想を抱くこともないわけだが、他に何かできるかような幻想を抱かせることが、メディアの魅力ともなっているのだろうし、そうしたところが矛盾しているのかもしれないが、それが単なる幻想であって、まやかしに過ぎないと思ってしまうと、社会の中でのメディアの重要性も低下してくるだろうし、それで構わないのならそれに越したことはないわけだが、それだけではないと思いたいのなら、メディアを見て何かをやるきっかけにすればいいだろうし、そこから肯定的な幻想を抱くような要素を見出して、それを自らの活動に役立てようとするなら、メディアから自らの活動に役立つ情報を引き出そうとするわけで、そうした方面でメディアの活用が図られると、メディアよりも自らの活動の方がメインになってくるわけで、ただ受動的にメディアに依存するのとは違う態度がそこから生じてくるわけだ。

 そこで何らかの活動が行われていることが、それに関連する物や情報やサービスを必要としていて、そうした必要なものを得ることが活動ともなるわけだが、それらの活動の中で何が枝葉末節なことで何が本質だとしても、それらすべてが活動の実態を構成していることは確かで、その中で何を強調してみても、また何が欠かせなくても、そのすべてが欠かせないと捉えておくべきかもしれず、実際に活動の現状を維持するには、それを構成するすべての要素が欠かせないわけだが、別に現状を維持しなくてもいいのなら、必要でないと思われる要素をそこから取り除いても構わないだろうし、そうやって活動を効率的に再編成することも選択肢としてはありうるわけだろうが、そうなると何が必要で何が不要なのかを選別することも活動に含まれてくるだろうし、そこから不要な何を取り除いたとしても、それを取り除く行為が新たな活動としてつけ加わってくるわけで、そうやって活動そのものが変質を被ってくるとともに、そこから活動の新たな可能性も生まれてくるようにも思われて、それが幻想に過ぎないとしても、活動を変化させる要因がそこから常に生じてくるわけで、不要なものを取り除いて必要なものを追加しながら、実際に活動が変化し続けている現状があり、そういうことを考慮すれば、現状を維持するのにも多大な労力を必要する活動もあるのかもしれないが、たぶんそうだとしても、なおのことそうした労力が少なくて済むように、活動のあり方を再検討するような機運も高まるわけだが、またそうやって効率化によって節約した労力や資金を、他の活動に振り向けるような成り行きも生じるかもしれないし、そんな成り行きからも、そこで関連している様々な活動の再編成が図られる可能性も出てくるわけだ。そうしたことを行いながら、様々な活動の間で有機的な結合や分岐が起こって、それらの活動によって構成される社会全体が活性化すれば、そうした活動的な社会情勢を反映して、そこで暮らす人々も肯定的な幻想を抱くようになるのかもしれず、そうした民衆の気分の高揚感が好景気をもたらすなら、それによって社会情勢も良い方へ向かっていると思われるかもしれないが、その逆にあらゆる物事が現状維持のために費やされるなら、活動も変化する機会を奪われて停滞するだろうし、それによって社会の中の立場や境遇も固定化して、その中で不利な立場や境遇を強いられている人々は希望を失って、ただ現状をこれ以上悪化させないように生活を守ることばかりに汲々としていると、そういった閉塞感から人や集団の活動も沈静化する傾向になるだろうし、そうした傾向から縮小再生産のような負の悪循環が生じてくるのかもしれない。もちろん全てがそこで暮らす民衆の気分次第というわけでもないだろうし、また縮小再生産を負の悪循環とみなすのも見解の分かれるところかもしれないが、どのような社会情勢の中でも、そこで有利な立場や境遇を占めている人や集団にとっては、自分たちを利するような情勢は歓迎すべきことであり、できるだけそうした立場や境遇を維持しようとするだろうし、誰にとってもそうであれば問題ないわけだが、そうした立場や境遇を占めることができるのが、ほんの一握りの少数の人や集団であるとしたら、その他大勢の人たちは、当然のことながら不利な立場や境遇を強いられてしまうわけで、それが現状の社会情勢であり世界情勢であるなら、世の中の大多数を占める人たちにとって、それは不幸なことだとみなさざるを得ないだろうし、できればそういった現状を変えていくことが、それらの人たちに期待を抱かせることにもつながってくるだろうが、そうだとすればたとえそれが幻想に過ぎないとしても、少なくともそんな現状を変えようと試みる人たちを応援するのが、不利な立場や境遇にある大多数の人々が抱く普通の感覚なのではないか。そしてまた当然のことながら、現状を変えようとしているのが、現状の中で有利な立場や境遇を占めている一握りの人や集団だと考えるのには無理があるわけで、むしろそれらの人や集団は現状を維持しようとしているわけで、何も好き好んで自分たちに不利になるような状況を作り出そうとは思わないだろうし、たとえそれらの人たちが世の中の多数派からの支持を得て政治的な主導権を握っていようと、そういう人たちが不利な立場や境遇にある大多数の人たちの味方を装っていようと、論理的にも状況的にも普通に考えるなら、それらの人たちを支持しているつもりの世の中の多数派を構成する人たちは、自分たちの自業自得な愚かさを自覚できないでいるのではないか。


9月24日「活動の経緯と維持」

 単純に世の中で人がやっていることの何が良くて何が悪いかの判断は、法律に照らし合わせて決まる面もあるが、それが道義的あるいは倫理的な判断を要することとなると、その場の状況によっては何かはっきりしなくなるし、それにつけ込んで恣意的な解釈をしたい放題になれるわけではないが、はっきりと規定できないことは重視されないだろうし、ただ漠然と人として尊重すべき規範といっても、それに関して人それぞれに善悪が異なる印象もあるだろうし、また異なるにしても社会的な慣習に人々の行動や言動が支配されている面もあるから、その辺のところは周囲の人たちと一致するところもあるし、またその地域特有の事情があると地域的な偏差も出てくるだろうし、そこから普遍性を持ち得ないような地域的あるいは時代的な偏りがあるようだと、そういうところであまりはっきりとは善悪を定義できなくなってくるのかもしれないが、最初からそれをはっきりと決めてしまうのではなく、何かをやっていく過程で、何かしら不都合や不具合が生じてくると、それが合法だが道義的に許されない行為だとか、倫理的な観点からやめた方が無難であるような判断も出てくるかもしれないし、その辺は具体的な行為と自身や周囲との兼ね合いから判断されるべきことかもしれず、根本的には他人が困るような行為は避けるべきかもしれないが、しかしそれをやらないと自分が困るようなら、普通は自分の都合を優先させるだろうし、そうなると道義的にも倫理的にも法律的にも慣習的にも許されない行為をやってしまう可能性が出てきてしまうわけで、そうした社会的に許されない行為をやってしまう可能性は誰にでも生じてくるだろうし、そうした事態に直面した時に、自分の都合を優先させることになれば、そういう成り行きが生じてしまう限りで、法律だの慣習だの倫理だのの社会規範の類いを守るのが難しくなってしまうわけだが、そうした方面からの同調圧力も絶えず社会の中で生じているので、誰もが勝手なことができるわけでもなく、それらの規範を守らないよりは守った方が身のためだと思わせるような状況があれば、よほどのことがない限りは、そういった社会規範の類いを守るような成り行きにもなるだろうし、そこに暮らす人々の間でそういう意識が強いほど、社会の秩序が維持される傾向にもなるだろうが、逆にそれを守れないような事情を抱えた人が増えるほど、社会の秩序も維持できなくなってくるのではないか。例えば定職につけない人が多いほど、そうした人たちの生活が不安定になるから、そうした人々が犯罪行為に手を出すようなことになれば、社会の治安も悪化して秩序も乱れてくるだろうし、そうなる要因としては他の国や地域で内戦や経済的な混乱などが慢性化していると、その地域内で暮らせなくなった人々が移民となって他の国に押し寄せて、押し寄せた先の国でそうした移民に対する行政の対応がうまくいかないと、生きるためには強盗だろう窃盗だろうと何でもやるようになって、治安が悪化してしまうことになるだろうし、実際に移民の数が多くなり過ぎると、対応しろと言っても物理的に無理な面も出てくるわけだが、そうした外部的な要因だけでなく、内部的な問題として経済格差や人種や民族や宗派間などの対立があると、そうした面で不利な立場に置かれた人々が経済的に困窮して、社会規範を守れなくなって、やはり治安が悪化してくるわけで、そうした国や地域での政情不安から内戦や経済混乱が起こると、移民が発生して周辺諸国へと出て行くような成り行きになるわけだから、特定の国や地域などの内部的な事情が、他の周辺諸国や周辺地域の社会混乱を招く外部的な要因にもなるわけだから、その国や地域だけの問題とはならずに、それが周囲ヘと波及して行くような成り行きが生じるわけで、そうした経緯からそれが特定の国や地域だけの問題ではなく、包括的な枠組みの国際問題として、多国間や地域を横断した問題への取り組みが求められるような成り行きも生じてくるわけだ。

 もちろんそうしたことが国際会議などの場で、各国の代表者の間で話し合われたとしても、それで何が解決するわけでもないかもしれないが、そういう成り行きが生じること自体が、人々に問題の本質を理解させる手助けになるのかもしれず、様々な事情から社会の中で理不尽なことが行われるにしても、そうした事件を起こす人や集団がいること自体が、その社会や周辺の社会に何らかの問題があることを示していて、そうした問題をもたらす環境に適応した人や集団が自然に社会の中に生じてくるわけで、例えばその社会で強盗や窃盗が多発しているとしたら、そうした行為を行わないと生きていけない人や集団が社会から生み出されていると言えるだろうし、そうした行為を警察がいくら取り締まっても、そんな事件が絶えないとしたら、根本的なところで問題の解決が不可能となっているのかもしれないし、そうなってくるとむしろ問題を解決するというよりは、治安の維持を担当する警察などとともに、摘発した人や集団を裁判にかけて、刑務所などに送り込む司法関連のシステムが発達してくるだろうし、それとは違う方面の住民の福祉や生活の保護などのシステムとともに、問題を解決するというよりは、問題に対処するシステムを構築して強化することが、行政などの社会を管理統治する機構の役割となってくるわけで、それも社会の中で管理統治される側の住民の都合ではなく、管理統治する側の行政の都合が優先されるような成り行きをもたらすわけだが、だからと言って安易に住民側の都合と行政側の都合が対立しているように捉えるのも間違っているだろうし、どちらにとってもメリットとなるような調整を行わなければならないのかもしれず、そうしたことを行うのが政治の役割になるのかもしれないが、調整がうまく行く保証はどこにもないだろうし、その場の力関係から優先事項が決まるとすれば、住民の意向が後回しにされる可能性が高くなるのかもしれず、そういう意味でも社会の中で生じている不合理や不具合を解決することがいかに困難かがわかるかもしれないが、たぶん解決されなくても行政による統治の継続が優先されるだろうし、それに伴って政治による利害調整も行われるわけで、そうした調整の中で現状で生じている社会問題とは、それに対処するための材料であり、行政や政治にとっては仕事の機会をもたらしてくれる資源ともなるわけだろうし、仕事を増やすには社会問題が多く発生している方が好都合だろうし、それが取り組むべき課題となるにしても、取り組んだ結果として仕事が減ってしまっては、商売があがったりになってしまうわけだから、意図的にそんなふうに仕向けているわけではないだろうが、自然の成り行きとして、世の中で起こっている様々な社会問題に対して真摯に取り組んでいる姿勢を住民たちに見せるような傾向となってくるだろうし、そうした取り組みへの成果も強調するような宣伝をメディアを通じて行うような成り行きともなってきて、実際にどんな成果を上げているかに関しては、宣伝内容を真に受ければそれなりに好感を持てるような仕掛けになっているかもしれないが、それが住民にとって問題が解決したような実感を伴うかというと、首をかしげるような宣伝内容もいくらでもあるだろうし、実際に解決してもしなくても行政機構そのものは維持されるわけだから、そういうところは住民への人気取りが商売の政治家などとは利害が異なるわけで、そういう状況が放置され続けると、あまり効果の期待できないような問題への取り組みによって仕事量が増えるに従って、自然と行政の規模も予算も膨らんできて、それが財政悪化の原因ともなってくるのではないか。もちろんそうしたことを防ぐのも政治の役割であるはずなのだろうが、住民の側がそうしたことに無関心であるなら、政治の方でも自然と共同して仕事を行なっている行政寄りの傾向が強まるだろうし、やはりそうした傾向からも、住民側の都合や意向が後回しにされてしまうだろうし、そんな傾向に比例して効果も定かでないような政治宣伝とともに、行政や政治の仕事を確保することが優先されてしまう成り行きが、より一層顕著になってくるのではないか。


9月23日「権力の行使」

 権力を行使するということは、それが相手を力づくで従わせることになれば、確かにあからさまな権力の行使になるだろうが、その力づくというのが、逆らいたいが逆らえないようにするとなると、やはりそれは最も不快な権力の行使になるだろうが、それが自発的に従いたくなるような行為ともなれば、例えば商品を買わせるように仕向けるとか売らせるように仕向けるのも、それも権力の行使になるだろうし、さらに金に物を言わせて好き放題なことをやるのも、権力の行使になるわけで、そういう意味では暴力を振るわない権力の行使の方が主流であり、実際に権力を行使するのにも様々なやり方があるわけだが、何か決まりを作って、その決まりに従うように仕向けてくるのも権力の行使になるだろうし、そういう意味でなら売買も決まりには違いなく、少なくとも盗んだり強奪するのよりは、売買させる方がまともなやり方に思われるだろうが、どのような状況下で売買を成立させるかによって、例えばそれが押し売りや押し買いになると、窃盗や強盗と同じように悪質なやり方になるだろうし、実際に騙していれば詐欺になるだろうが、それも騙す程度によっては許される場合も出てくるわけで、宣伝文句を使ってより高く買わせたり、相手をおだててより安く売らせたりするのも、相手を騙すテクニックとしては許容の範囲内となるだろうし、実際に株や為替や商品先物などの分野では、空売りや空買いという手法もあるし、そうやって値段を釣り上げたり釣り下げたりしたところで、売買を成立させて利益を上げるやり方があるわけだが、しかしそれが権力の行使かというと、たぶんそうは思わないし、そこにゲーム的な要素が絡んでくると、強引な力まかせに従わせるというよりは、相手の同意を得てこちらの主張を通すようなやり方となるわけだが、そんなやり方であっても、やる側が莫大な資金を所有していたり、あるいは豊富な資金力を有する金融機関や投資家などを味方につけていて、それを使ってやりたい放題なことをやれば、やはりそれは権力の行使だと言えるだろうし、その場合の権力とは資金力となるわけで、要するに軍隊や警察権力が権力を行使する時には、直接の暴力が権力となるわけだが、裁判所などの公的な司法権力となると、それは法的な権力となり、行政が権力を行使する時には、それは制度的な権力となるだろうし、議会で議員や政党が多数決で議決を図る時や、選挙で民衆が審判を下す時には、人の人数が権力に結びつくわけで、その場を支配する人や集団が従うべきルールによって、権力の質や内容も様々に異なるわけだが、それが何であるにしても力を出すことには変わりなく、力によって対象となる人や集団を従わせると権力とみなされるだろうし、相手の自発的な同意を得て従わせるようなら、権力を感じさせないだろうが、そこに誘惑や誘導と思わせるような手法があると、やはり何らかの力が働いているとみなされるだろうし、その力の源が何らかの権限であれば、それが権力となるわけだ。そしてたとえそれが否定的な響きを伴っているとしても、力を行使する側がその行使を正当化できるから権力になるわけだが、なるべく行使する対象に権力を意識させないようにするには、行使される側が自発的に権力の行使に同意することが求められ、同意させること自体も権力の行使となるわけだが、同意させられた側がそれに関して納得がいかないのはもちろんのこと、そもそも納得がいかないのに同意させられて、しかもそれが自発的に同意したことにさせられてしまうことが、なおさら不快感を増す要因ともなるわけだが、それによって権力を行使した側が、相手の同意を取り付けて権力を行使したことになり、そうやって自らの行為を正当化できるわけだから、場合によってはそれが正義の行使にもなるわけで、そういう形をとる限りで、権力を行使する側の主張が通って都合が反映した行為にもなるわけだ。

 だから人を騙したり脅して他人から金を巻き上げたり損害を与えることと、豊富な資金に物を言わせて豪遊したり商品を買い漁ったり過剰なサービスを要求することと、公的な権限に物を言わせて強制的な措置を講じることなどの間に、はっきりした差異があるのは確かだが、それは程度の差でもあるわけで、行為としての本質的なところは変わらないだろうし、そうやって力を行使する側に傲慢な態度が見受けられると、行使される側は不快な感情を抱くだろうし、その否定的な感情を抱く理由としては、行使された側が自由に振る舞える領域を侵犯されたように思われるわけで、権力を行使すること自体が相手から主導権を奪うことになるわけだから、それは当然のことなのだが、それが競争や闘争であったり交渉や取引であったりしても、そこで主導権を握っている側が相手に対して要求を出して、相手がその要求を呑めば権力を行使したことになるだろうし、主導権を握るということ自体からそこで権限が生じて、その権限をどちらが握るかを争っていて、そこで権限を握って主導権を得た側が優位に立って、劣勢となった相手に自分たちの都合を反映した要求を出して、その要求を相手側が受け入れた時点で権力の行使に成功したことになるわけで、そこに不平等で不均衡な関係が生じていることにもなるわけだが、そうした不快な権力の行使を弱めるには、人や集団の間に平等な関係を構築するしかなく、公的な方面での民主的な制度も、できるだけ万人の平等を実現するような方向性があるわけで、そういう意味では不平等や不均衡な関係が維持された公平さよりは、平等な関係を目指す公正さが求められているのだろうが、平等とか公平とか公正とか言う言葉には同じような意味も含まれるし、それぞれの言葉に含まれる微妙な違いを強調するのも、何か枝葉末節なことでしかないのかもしれないが、それが競争であっても闘争であっても、また交渉であっても取引であっても、そこに関わっている人や集団の間で優劣を決めるような成り行きになると、結果的にそこに権力関係が生じることになるわけで、そうした優劣が曖昧になるように合意内容を工夫すれば、不平等で不均衡な関係になるのを抑制できるかもしれないし、また争いや競い合いに勝った側も、それ相応のリスクを背負いこむような制度にすれば、公平であるように感じられるかもしれないが、実際に関係が複雑になるほど、そこに関わってくる人や集団の間で及ぼされる作用や影響も錯綜したものになってくるし、争いや競い合いについても、スポーツやゲームなどのようにルールによって勝敗を決める形を取らない限りは、優劣がはっきりしない状態となってくるし、ともかく国家間の力関係で決まる領土などは久しく小幅な増減にとどまって、現状ではほとんど飽和状態となっている一方で、企業などの勢力争いでも、産業分野で急激な再編成などが起こらないと、規模や売り上げなどの面で優劣が定まってきて、それ以降は平衡状態が維持される傾向になってくるだろうし、そうした飽和状態や平衡状態の中で、実際に権力を行使するといっても、それが優劣の定まった一方的な権力の行使であるほど、権力を行使される側に配慮する傾向になってくるわけで、要するに権力を行使する対象が存在しないと、権力の行使そのものが行えなくなってしまい、権力を行使する側はまずは権力の行使を受け止めてくれる対象を確保する必要に迫られるわけで、そうなると権力を行使した後のアフターケアなども重要な課題となってくるだろうし、行使される側が一方的に劣勢となってしまうと、もはや権力を行使しても何の見返りも得られなくなってしまうから、それでは権力を行使するメリットがなくなってしまうわけで、少なくとも権力の行使に耐えられるような強度が、行使される側には求められていて、そうなると一方的に搾取するような関係にはなれないわけだ。だからそこで飽和状態や平衡状態が実現してしまうと、権力の行使自体が弱まるか、あるいは一方的な関係ではなく、双方が相互に権力を行使し合う関係になってくるわけだ。


9月22日「整合性の欠如」

 例えば民族と領土と国家の間で辻褄が合わないのは、歴史的な経緯としてそれぞれの成り立ちが異なるからだが、それが紛争の原因となっているのも、そこで戦っている様々な勢力が、紛争に勝ってそれぞれの領域を確定させようとしているからだろうし、もちろん確定できるはずがないから紛争が長引いているわけだが、それが枝葉末節な問題ではなく、何やら根本的かつ本質的な問題だと思われるのは、それらに言語や宗派や風習などの細かい側面も加わって、争えば争うほど収拾がつかなくなってくるのはわかりきっているのに、やはりそこにこだわらなければならないからであって、そうしないと自分たちの勢力の正当性を誇示できないし、そこに矛盾や不条理が潜んでいるわけだが、結局なぜ紛争が起こるかといえば、民族や領土や国家や言語や人種や宗教や風習や生活習慣などを一つに合わせようとするからで、そんなことはわかりきっているのに、しかもそれができないこともわかりきっているのに、自然とそれを合わせようとして、結果的に民族紛争や宗派間対立などが起こっているわけで、それができるかのような幻想をもたらしているのが国家的な統一概念だろうし、さらに誰もが肯定したい民主的な政治体制もそれを後押ししていて、誰もが協調できる国家的な統一をもたらすために、民族や言語や人種や宗教や風習や生活習慣などを一つに合わせなければならないと思うわけだが、結果的にそれができないから、それらの違いから生じる対立が高じて紛争が起こって、場合によってはそれが異なる宗派や民族などを大量虐殺するような内戦へと発展するわけだ。そうした矛盾や不条理を抱え込みながら国家的な統一を維持しようとするから、国内で争いが絶えなくなるわけだが、統一を維持できなければ地域的な独立の機運が高まって、実際に国家が分裂してしまうこともあるわけだが、いくら分離独立してみても、そこには少数派となって異なる民族や宗派などに属する人々が残ってしまうわけで、当然そうした人々への差別や迫害が行われる成り行きとなって、それへの反発がテロや内戦の温床ともなるわけだが、異なる言語や生活習慣を持った人々が同じ空間に雑居することから不便を感じるとすれば、その原因は国家的な統一にあるわけで、同じ法律や制度によってそれらの空間を管理統治しようとすると、当然その地域で支配的な言語や生活習慣に基づいて法律や制度が定められることになって、それとは異なる言語や生活習慣の人々には何かと不便が生じるだろうし、そうであるならなるべく多民族や多宗派や多言語などに配慮した法律や制度にする必要があるわけだが、今度はそうした法律や制度を作る段階で、議会やそこで活動する政治勢力などの間で合意を取り付けなければならなくなり、当然そこでは揉めるだろうし、うまく調整がつかなければ、多数派の意向が優先されるしかなく、結局はその地域で支配的な勢力に有利な法律や制度になるしかなく、少数派にとっては不満が残るわけだが、多数派の側でも何か事ある度に文句を言ってくる少数派の存在が鬱陶しくて我慢がならないだろうし、そんなところから紛争が生じるのは当然の成り行きかもしれないが、そこでも国家的な統一を保つためには、絶えず多数派の意向を社会の中へ浸透させてゆかなければならないわけで、少数派を力で押さえつけておくことで国家的な統一を維持できるわけだが、その一方で少数派を切り崩して多数派に同化させる試みも続けられるだろうし、それも少数派にとっては理不尽な行為に思われるし、何よりもそれが少数意見を尊重する民主主義の理念にも反する行為となるわけだから、論理的にも倫理的にも破綻をきたしていて、そういう整合性がつかない事態がこじれてくるとどうにもならなくなってしまうわけで、うまくいかないのが当然の成り行きであるのに、それをうまく取り繕うのが政治的な課題になってくるとしても、簡単に矛盾を止揚できるわけでもないのはわかりきったことでもあるだけに、結局はその辺をだましだまし寝かしつけながらも、時が経って様々な差異が解消するを待つしかないわけだ。

 そう考えてくると根本的なところで国家的統一など要らなければ、それに越したことはないわけだが、国家に関わっている政府の官僚機構や政治勢力などはそれを必要としているだろうし、自分たちの勢力を維持するには国家的な統一が欠かせないわけだが、ではそこに暮らしている民衆もそれを必要としているかというと、一概にそうは言えないところかもしれないが、行政に関わってくる部分では、国家的な統一がないと成り立たない面があるだろうが、単に仕事にありついて生活が成り立っている部分では、必ずしもそれを必要としない面も出てくるだろうし、それでも年金生活者などは公的な機関が支給する年金に頼って暮らしているわけだから、そうした機関が国家的な統一から成り立っている限りで、それを必要としているわけだが、それも制度的にそうなっているだけだと考えれば、民間などで別のやり方が普及してくれば、そちらの方が主流となるにつれて、国家的な統一が必ずしも必要ではなくなってくるかもしれないし、そうした面で国家そのものが相対的なまとまりでしかなくなれば、それに付随して成り立っているように思われる行政などの官僚機構や、それを利用する政治勢力なども、相対的な存在意義しか持ち得なくなってくるかもしれないが、少なくとも現状の社会ではまだ国家が支配的な役割を演じているのだろうし、それに付随して存在する政府や政府に関わる官僚機構や政治勢力などが、社会の中で主導的な立場や役割を堅持していて、そこに暮らしている人々にも何かにつけそれらの勢力に頼るような事情も生じてくるわけだ。そしてまずは国家ありきという視点に立つなら、そこから国家に付随する様々な統一的なまとまりを作っていかなければならなくなるわけだが、国家を頂点としたそのような考え方が状況に合わなくなってくれば、それと別の視点からも考えていかなければならなくなるかもしれないし、まずは国家ありきでも社会ありきでもなく、ただ様々な歴史的な経緯を通じて、結果的に国家が成り立ち、そこに社会が構成されていると考えれば、必ずしもそんな前提を絶対視する必要もないわけだが、現状で生じている矛盾や不条理をそのままにしておけなければ、そこからそれに対処するような成り行きが必ず生じてくるだろうし、実際にそこで弊害や不利益を被っている人たちが、絶えずそんな事態に対処し続けているわけで、それが実際に抗争や紛争となって現れていて、そこに関わっている政治勢力や官僚機構などがそれへの対処を迫られていて、何らかの対処を行なった結果として現状が構成されているわけだが、そんな現状をどう捉えるにしても、これからもそんな現状を前提として物事が動いていくことは確かであり、今もそうした動きの中で情勢が刻々と変化し続けているわけだが、たぶんそれらの対処が必ずしもうまくいくとは限らないから、それとはまた違う新たな対処法が試みられて、それが部分的にうまくいくと、今度はそれを他の部分にも適用しようとして、そういう方面での対立や軋轢などが生じることで、それに伴って事態が流動化するとともに、結果的に情勢の変化がもたらされるのであり、そんなふうにして世の中がそうした作用によって絶えず撹拌され続けているわけで、そうであるならそうした事態に関わっている限りで、自分たちが所属している勢力の一員として、そこで争われているゲームの類いに参加しているわけで、そうした直接の関わりの中から現実に対するリアリティが生じてくるわけだが、そうなっている時点で、自分がどの勢力の一員としてゲームに参加していることになっても、果たして自らが属しているつもりの勢力の利益だけに固執する理由があるかというと、そうした勢力へ肩入れしている度合いによっても、そんな事態への感じ方も変わってくるのかもしれず、特に恩着せがましく義理立てする気が起こらなければ、別に中立的な立場を装っていても構わないのかもしれないが、そこではっきりした役割を担わされていればそうも言っていられないわけだが、そうでない限りは敵対する勢力の一員であっても友好的な態度を維持できるだろうし、自らに危害が及ばなければできるだけ中立的な立場を保っていた方が、いざとなった時に深入りしてしまう事態を避けられるかもしれないし、時として理不尽な行為を強いられてしまうような役割分担からも逃れられるのではないか。


9月21日「現状の打開」

 現状がどうにもならない状態であれば、どうにもならない現状の中ではどうにもならないことしか行われないだろうし、そんな現状の中で暮らしている人々が期待するのは、そんなどうにもならない現状を打開してくれる人や集団が現れることかもしれないが、そんな現状の中でそんな都合のいい人や集団がそう簡単に現れるわけもなく、その代わりに現れるのは、大抵の場合はそのどうにもならない現状に合わせた活動をしている人や集団であり、どうにもならない現状の中でうまく立ち回って、頭角を現すわけだから、それなりにどうにもならない現状を受け継いでいるわけで、そんな現状がひどいと思うなら、それに合わせて現れる人や集団も、それなりにひどい面を持っているわけだが、それは現状を打開してほしいと期待している人たちにも言えることで、それらの人たちにしてもそれなりにひどい面を持っているわけで、少なくともそれに気づいていないのだから、そういう面ではひどいわけだが、それをひどいとはみなさないで、何か肯定的な価値を伴った傾向だと受け取るなら、やはりそれは、どうにもならないひどい現状を肯定できるような価値となるだろうし、そんな現状の中で成功したいと思うなら、それはつまり現状の中で肯定されている価値を求めることになるわけだ。そしてそれはどうにもならないひどい現状を作り上げている価値であり、現状を肯定することにつながるような価値となるわけだが、現状を否定する態度からは求められない価値でもあり、現状を否定する限りで現状の中では価値を獲得できないわけだから、現状を否定する人たちは現状の中では冷遇される立場となるのは当然のことで、だからこそ現状を打開したいわけだが、一方では現状の中で価値を求める活動に囚われながらも、もう一方ではそうした価値を作り出す現状を打開したいわけだから、そんなことをやろうとしていること自体が自己矛盾を起こしているわけで、しかもそうした自己矛盾を抱えながらも活動していかなければならないわけだから、当然のことながら苦しい立場を強いられてしまうわけで、それだけでもマイナスポイントとなって、単純に現状を肯定しながら現状の中で肯定されている価値を求めている人たちからは遅れをとってしまうわけだ。そんな人たちの動作を自動車の運転に例えるなら、ブレーキを踏みながらアクセルを吹かすような動作となるわけだから、滑稽なことをやっているように見えてしまうわけだが、そうならざるを得ない事情を抱え込んでいるわけだから、そういう人たちが存在しているだけでも現状のひどさを物語っているのかもしれないし、現状を肯定したい人たちとしては、そういう人たちを駆逐して、現状のひどい面をできるだけ目立たないようにしたいわけだろうが、現状のひどさがそういう人たちを生み出すわけだから、いくらそんな人たちを駆逐しようとしても、次から次へと現れてくるわけだから、モグラ叩き状態となってしまうだろうし、そういう面では現状を肯定する人たちもそれなりに苦しい立場を強いられていて、そんなことをやって現状を否定する人たちと対立して争っている中でも、両者ともに現状のひどさを痛感しながらも、どちらが早く音を上げるかの我慢比べをやっていることにもなるわけで、音を上げたところで現状がどうなるわけでもないのだが、どちらも虚勢を張って相手側を非難することしかできないのかもしれず、そんなことをやっていること自体も現状のひどさを物語っているわけだが、どうしてもそんなことをやらざるを得ないのが、双方ともに現状に囚われていることの証しにもなっているわけで、そういう意味で現状に囚われないで生きていくことなんて無理かもしれないが、現状の程度にもひどい部分とましな部分があるわけだろうから、ましな部分で生きている人にとっては、ひどい部分を避けられている限りで、全てがどうにもならないわけではなく、それなりにうまくいっている面もあるわけだ。

 そして現状のひどさを批判したり糾弾することに成功している人も、そうした行為が世間的に成功している限りで、現状からそれなりに恩恵を受けているわけだから、そんなふうに批判したり糾弾したりしているひどい現状と地続きな面を持っているわけで、実際にひどい人かもしれないし、ひどい人がひどい現状を批判したり糾弾したりしている限りで、ひどい現状の中でもそれなりに成功できているのかもしれないし、そうであるなら別に善良な人が現状を批判したり糾弾したりしているわけではないことは踏まえておくべきだろうし、そういう意味では別にひどい現状を批判したり糾弾したりしている人を支持する必要もないわけで、特に批判や糾弾を行なっても現状が一向に変わらない場合は、そういった批判や糾弾と現状の打開とは無関係であり、そんな変わらない現状の中でそれなりに名声を得て成功しているわけだから、その人もひどい現状から恩恵を受けているひどい人たちの仲間だと思っておいた方がいいのかもしれず、そんなひどい人たちには現状を打開できないだろうし、実際にそれらの批判や糾弾によって現状が打開できていないにも関わらず、それらの人に現状の打開を期待するのは筋違いであり、そうであるなら現状の中で批判したり糾弾したりして名声を得ている人を支持する必要もないだろうし、真の意味で現状を打開するには、そんな批判や糾弾とは異なることをしなければならないわけだが、それでも現状に囚われて現状に苦しめられている人たちはそうは思わないだろうし、現状に対する批判や糾弾をありがたがるわけで、実際にそんな批判や糾弾を行なっている人を支持する人が増えれば、現状を打開できるのではないかと思うわけで、批判や糾弾を行なっている人には現状に対する打開策がないにも関わらず、だからこそ批判や糾弾を行う立場にとどまっているにも関わらず、そんな人への支持を広げようとして、それらの批判者や糾弾者を応援するわけだが、実際に応援が功を奏して支持が拡大して、批判者や糾弾者が政治的な主導権を握ったところで、それらの人たちが現状に対する有効な打開策を持ち合わせていない限りは、現状のままになる可能性が高いわけだが、そうした現状に対する捉え方にも疑問を抱くだろうし、それらの人たちは現状への批判者や糾弾者が政治的な主導権を握った時点で、現状が打開されて状況が変わったと思いたいわけで、だからそれらの人たちが政治的な主導権を握るためには、それらの人たちへの支持を拡大させて、選挙などで現状に対する批判票が過半数を大幅に上回るような状況を作り出して、政権交代を目指すわけだが、そうした政権交代が成功した例として挙げられるのが、二大政党制のように大して変わらない現状の中で定期的に政権交代が繰り返される現象であったり、批判勢力がいつの間にか独裁政権を築いて、長期的な独裁体制が数十年も続くような現象であったりもするわけだが、それで果たして現状が打開されたと言えるかといえば、確かにそれなりに変わった面もあるだろうし、そういう面を強調すればその場での現状が打開されたとみなしても構わないのかもしれないが、それが人々の期待した通りの打開であるかというと、そうは思わない人も少なからずいるだろうし、中にはそれ以前の方が良かったと後悔する人までが出てくるかもしれないし、そういう意味で政治的な政権交代によって現状の打開を目指すことはできるかもしれないが、目指した結果に関してどう思うかは、そんな期待にどんな幻想が含まれているかによって評価が分かれるところなのではないか。いずれにしても現状から現状の打開が起こる限りは、打開とともに現状と地続きな面も維持されて継続される可能性があるわけで、そうなると独裁から新たな独裁が生まれたり、政権交代によって現状の維持が図られたりすることにもなって、そうした現状の打開こそがまやかしとしか思えないような事態を招いてしまうわけだ。


9月20日「活動のための活動」

 違和感を抱く対象は人それぞれに異なるかもしれないが、違和感とは少しずれた意外性というのは、誰もがその思いがけないことに出くわして、そうした事象に意外性を感じるわけで、何かそれまではいつも通りの一定の成り行きがあって、それが何かのきっかけから、それまでとは明らかに違う成り行きなると意外に思われるわけだが、その逆に誰からも注目されないようなことは、そうなるのが当然に思われるから、あえてそこに注目するまでもなく、それに関して当たり前のように事態が進展するから、取り立ててそんなことには誰も注意を向けないし、その中には見過ごされてしまうような出来事が含まれているかもしれないが、別にそれも見過ごしても構わなければ、あえてそんなことに注目する気は起こらないわけで、そもそも気づいていないからそうなるしかないわけだが、そうやって誰からも注目されないまま、当たり前のことが当たり前のように進展して、そのまま過ぎ去って、すぐに忘れ去られてしまえば、それで何事も起こらなかったわけではないにしても、記憶に残らないようなことを経験したことになるのかもしれず、そんな記憶に残らないような些細な経験が、当人にどんな影響を及ぼしていようと、それがどうしたわけでもないのかもしれず、そんな些細で当たり前のように思われる経験が積み重なるだけの日常が延々と続けば、平穏無事に過ごしていることを実感するだろうし、生活にそれなりの安心感をもたらすのかもしれず、たとえそんな単調に続いていく日常が退屈に思われようと、慣れてしまえば飽きる以外はどうということはないだろうし、それに対応してどうということはない同じ動作を繰り返すことによって、その動作に馴染む一方で、別の動作を習得することが困難になってくるのかもしれず、その機会がなければ習得しようがないだろうし、そうなると同じ動作しかできなくなってきて、それに伴って活動が硬直化して柔軟性に欠けてくるだろうし、結局はそんな動作に凝り固まるしかなくなってくるわけだが、そうした動作から恒常的に利益がもたらされている場合には、それが権益となって守るべき対象となるだろうし、実際に世の中には同じ動作を繰り返すことによって利益を得られる仕組みがあって、そうした既得権益を守る集団も存在しているわけだが、そんな集団にもそうなるに至る特有の経緯があるわけで、世間的にもそうなるのが当然のことのように思われるなら、特に違和感を抱かれることもなく、そうした既得権益の上にあぐらをかいていられるわけだが、それでも何の努力もしないで利益を得られるなら、違和感を抱かれるのも当然かもしれないが、それなりに利益を得るための競争があって、その競争を勝ち抜いた末に利益を得ているように見えるなら、特に不審には思われないだろうし、それなら別に既得権益の上にあぐらをかいているわけではないことにもなるだろうが、その競争を成り立たせるための条件に不平等で不公正な面があれば、それが不審に思われて、そうした不審感が放置されたままになると、そこから違和感が生じるかもしれないが、そうした違和感もそんな動作が繰り返されていくにつれてすり減っていくだろうし、そうやってそれが常態化するようなことにでもなれば、別にそれが当たり前に思われるようになるわけで、たとえそれが否定的な印象を抱かせるとしても、さもありなんという、いかにもそうなるであろう成り行きとなって、そんな経緯にそれなりの説得力が伴えば、誰も意外には思わなくなって、たとえそれが不正な行為であっても、世間がそうした行為を許容することにもなるわけだろうが、いったんそうなって、そうなる成り行きも織り込み済みになってしまうと、それも何でもないことになってしまうだろうし、そうやって既得権益に与かれるか否かのような、社会の中での立場や境遇によって有利不利が固定されてくると、おおっぴらににそんなことが行われるわけではないにしても、暗黙の了解事項として、特定の立場や役職の人たちがそういう行為を行なっていることは、誰もが知っている周知の事実となって、誰もそれを咎めることができなくなってしまうのではないか。

 実際にそうなっていれば、そんな社会には構造的な問題が生じていることにもなるのだろうが、そんな構造を変えようとしても、構造改革というのはやろうとしてできるものでもないだろうし、政治家などが掛け声だけは構造改革を叫ぶことがあっても、実際にそれが成功したためしはないのかもしれず、たぶんそれを改革しようとするというよりは、そこで行われている活動を活性化させようとするわけで、活動が停滞しているところへ資金の注入などの起爆剤を投入するようなことが行われる一方で、規制緩和などの制度改正を行なって、障害を取り除いて活動をしやすくするわけだろうが、それを既得権益に凝り固まっている官僚機構などの集団に行わせようとするところに無理があるわけで、そうであるなら構造の内部からでは構造改革は行えないことになるわけだが、構造の内部とか外部とかいう区別ではなく、それを構造的な枠組みとして捉えるよりも、静的な構造ではなく動的な活動体と捉えた方がわかりやすいだろうし、そこでうごめいている人や集団などの活動体を思考の対象とする上で、それを言葉で説明しようとするから、言葉の構造的な枠組みがそのままそれらの活動体に反映して、それが視聴覚的に言葉を組み合わせた構造として提示されてしまうわけで、その結果から見ればそこに姿を現しているのは静的な構造でしかないわけだから、それが構造的な問題と見えてしまうわけで、そこで言葉を逃れて絶えずうごめいている動的な面が抜け落ちてしまうわけだ。だからそれらを動的に捉えるのは困難を伴うのかもしれないが、人や集団などの活動体が運動していく上で、そこに特定の固定化した目的があるというよりは、何よりも活動する口実がほしいわけで、活動するための口実として、もっともらしい目的が設定されるわけだが、それはとりあえずの目的であって、真の目的としては活動すること自体が目的となっていて、活動するために活動するような自己言及的な構造が出現するわけで、それも厳密には構造というよりは、ただ活動そのものがあるだけなのだが、そこで人や集団は理由や目的よりも先行して、とにかく活動していて、その活動を継続させたいわけで、活動を継続させるためにはどうするかが、活動するにあたっての課題であり、ただそこでやりたいことをやっている状況の中で活動していたいわけだ。しかもそのやりたいことというのが、根本的なところでやりたいという以外の動機が欠落していて、そこから考えるのではなく、絶えずその途中の活動している只中で、その活動をどうやって継続していくかを考えるわけで、とりあえず活動が継続できているから、それを続けて行きたいと思うだろうし、そんな活動を継続している実感が、それをこれからも続けて行きたいという欲求を生んでいて、それより深いところで活動の理由を考えてしまうと、根本的なところでなぜそれをやっているのかについては、理由が定かでないから、そこからは考えないようにしているわけで、それでも強いて理由を挙げるなら、好きだからやっているとか、自分の性に合っているとか、単純な理由にとどまることで、それ以上は深く考えないようにしていて、それが単なる偶然の巡り合わせてそんなことをやっているとしか言えなければ、それでも構わないわけで、だから特にそうした水準で理由や目的を追求すること自体が意味のない問いでしかなく、それで構わなければその問いに関しては、破棄してしまっても一向に困らないだろうし、ともかくすでにそんな活動が行われているのだから、それを活かしてその先へと活動を継続させようとしているだけで、そのためにとりあえずのもっともらしい目的や目標が活動に付け加われば、なおのことそれが活動を継続させる口実となるわけだ。実際にはその活動にも始まりも終わりもあるわけだが、活動にとってはそのどちらもが重要性を失っていて、続ける口実として始まりの動機を利用できれば、それを活動に役立てようとするだろうし、また終わりの目標も、現状の活動を続けさせるのに役立つ限りで必要とされるわけで、少なくともそこで行われている活動にとっては、始まりは原因ではなく、終わりも目標ではなくて、それらは活動している現状を継続させるための口実でしかないわけだ。


9月19日「社会の変動」

 世の中で信用できる絶対的な評価基準というのがあれば、物事にそうした評価基準を一様に適用することで、善悪の判断がつくかもしれないが、あいにくそんな基準があるとは思えなければ、その場その時で、その度ごとにその状況に合わせた新たな基準を設定して判断しなければならないだろうし、それがとりあえずの暫定的な判断であれば、別の機会には別の判断を適用しても構わないように思われるのかもしれず、そんな判断基準にもその有効性に関しては、賞味期限などの条件づけがつきまとうようなら、相対的な判断基準とみなすしかなく、そうであれば世の中で何をどう判断するにしても、無理に統一的な基準を用いて決めつけるようなことはしない方が無難かもしれないが、その場で働いている何らかの制度に則って決めなければならない場合には、とりあえずは制度に従って一定の結論を出した上で判断する成り行きになるだろうし、そこで制度が求める一定の判断が下されるわけだが、そんな時にも考慮しておくべきことは、そこで下された判断を絶対視してはならないだろうし、それが制度に配慮した判断であり、そんな制度がなければ、それとは異なる判断が下される可能性があることは承知しておくべきことで、そこでの条件づけは、制度があるかないかによって判断が異なるかもしれないということであり、そうした条件を考慮した上で下される判断であるならば、制度上は妥当な判断であるとしても、そうした制度が通用しないところでは、その判断が妥当ではない可能性もあり得るわけで、そこで物事を単純化したり短絡して捉えてしまうと、そうした条件を無視して、その場の判断が他でも通用するかのように考えてしまい、そんなところから勝手な思い込みに基づく勘違いの判断をしてしまう可能性が出てくるわけだ。そこでまず考えておかなければならないのは、それが何に基づくどんな判断であるかということなのだが、基づいているのが公的な法律や制度なら、自身の他にも法律や制度を守るべき人たちが大勢いて、それらの人たちも同じような判断基準を共有していると考えるのが妥当な認識だろうし、それが絶対的な価値基準とは言えないにしても、それなりに拘束力を伴った判断基準が設定されていて、とりあえずそこではそれが、それなりに正当性のある判断となるわけだが、誰もがそれに従うわけでもないだろうし、中には法律違反のように、故意か過失かはわからないが、従わない人も出てくるわけで、またそんな人たちのように従わないと、従わないことによって、法律や制度を管理統治している側から、何らかのペナルティが課される場合も出てくるわけで、それも違反の程度や種類によって、重度なものから軽度なものまで、様々な刑罰や罰金の類いが設定されているわけだろうが、とりあえず従わないことによるリスクが発生することは確かであり、そうした事情を考慮すると、公的な法律や制度に基づく判断には従っておく方が無難であり、それが妥当な認識に思われるわけで、中には悪法や欠陥を伴った制度もあるわけだから、それが絶対に正しいとは言えないだろうが、そうした類いの傾向で似たような妥当性を伴うものとしては、社会的な風習や慣習などもあるわけだが、そこで従うべき基準がはっきりと明文化されているものから、また同調圧力のような暗黙の了解事項であるものまで、そこに社会が構築されていることから生じる様々な水準があって、それぞれの水準で設定された基準を満たす物事には、それ相応の価値が生じていて、そうした社会的な価値を得るためには、そこで示されている基準に従う方が無難であり、そうすることが妥当であるようになっているとすれば、それが絶対的な判断基準ではないものの、それなりに信用できる基準となっていて、それに基づいて善悪の判断がつくようなら、大抵の人はそれに従うような成り行きとなりやすいわけで、そうした成り行きに従っている限りで、その社会の中で暮らしている人々には似たような傾向が生じていて、それなりに共通の評価基準や価値判断を共有しているわけだ。

 そして確かに社会の中でそのような傾向があるとしても、そういう傾向に全ての人が従うように仕向けることが正しいかというと、そうでもないとも言えるのかもしれず、それが正しいことかどうかは各人の判断に任されるべきというか、自然の成り行きとしてそういう傾向になってしまうとしか言えない面があるだろうし、その傾向が何かのきっかけで別の傾向に変わるかもしれないし、そうした傾向に可動性や柔軟性があれば、社会全体が一つの傾向に凝り固まることもなく、一つの傾向に凝り固まってしまうことから生じる弊害も、それなりに抑制される傾向になるのではないか。そして社会そのものが多くの人々が何らかの傾向に凝り固まって、それによって同じ価値観を共有することから形成されるにしても、それと同時にそこから多種多様な価値観へと枝分かれしていく過程で、それに従って社会も発展していくわけで、そうした運動性を伴っているからこそ、そこに傾向の可動性や柔軟性が生じるのであり、一つの傾向に凝り固まると同時に、それにとらわれない多種多様な傾向を求めるという両義的で矛盾した面を持っていて、凝り固まる傾向が絶えず社会に作用を及ぼしているとしても、凝り固まることによって弊害が絶えず生じてくるから、そこから離脱しようとする傾向も絶えず生じてきて、そうした傾向が強まると情勢が流動化してくるわけだ。そうした人や物事の離合集散が、一つの傾向を目指すとともにそこから離脱する傾向も示すような歴史的な経緯を生じさせていて、その時々で人や集団がどちらの傾向に巻き込まれるかは、その場の状況次第であり、そうした傾向との距離の取り方にもよるだろうが、そうなっている限りでそうした歴史的な経緯に拘束されてしまっていて、そうした傾向にとらわれない自由な立場にはなれないわけで、そうした傾向に従うか逆らうかの二者択一でしか物事を判断できなくなってしまうと、そこで生じている予定調和の二項対立にはまり込んで身動きが取れなくなってしまうのだろうし、そこでもそんな傾向に凝り固まっていることになるわけだが、そうした傾向に凝り固まっている人や集団の間でも主導権争いが起きてきて、そういう方面ではそうした傾向をさらに強めた方が、そんな傾向の中では主導権を握れるわけで、そうなると凝り固まり具合も尋常ではない強度を伴ってくるだろうし、そこからそうした傾向に凝り固まった人や集団の暴走が始まるのだろうが、そんな暴走の極みでそんな傾向を伴った社会そのものが、そうした傾向に耐えきれなくなって自己崩壊してしまうのかもしれず、通常はそこまで至らないうちに、そこから生じる弊害が社会の中で問題視されてくるのに伴って、その弊害を打ち消すような別の傾向へと転換が図られることが多いのかもしれないが、それもそういう傾向が行き詰まらないことには、なかなか別の傾向への転換とはならないのかもしれず、その行き詰まるまでの過程が長いか短いかで、行き詰まりに至る過程で経験する人々の苦しみにも差が出てくるだろうし、年がら年中行き詰ってはその度ごとに方針転換が図られているようなら、それだけ社会の発展も阻害されて、そうした社会では大した文明を築けないわけだろうが、行き詰まるまでの過程が長いほど、それだけ富の蓄積も大きく、それを糧として築かれる文明の規模もそれだけ膨大なものとなるのかもしれないが、またそうした文明が行き詰って瓦解する過程で、その文明の遺産を引き継ぐような別の文明が生まれると、その文明はそれが始まる時点で、以前の文明の遺産を利用することによって高度な段階に達していて、しかもそこに新たな傾向が加わって、結果的にさらに規模が大きく構造の複雑化した文明になる可能性が出てくるわけで、そうした複数の文明が混交して雑種化した果てに生じてきたのが現代文明だと捉えるなら、過去の文明の行き詰まりのパターンを、現代文明にそのまま当てはめるわけにはいかないだろうし、少なくとも過去の文明にはない傾向や特性が現代文明には含まれていて、それを考慮しないで安易に現代文明の瓦解を予測するような行為には、あまり説得力も信用も生じないのではないか。


9月18日「政治の中身」

 現代的な大衆市民社会の中では、たとえ社会的な弱者の味方を装ってみても、大衆から支持されないと政治的な主導権は握れないし、大衆から支持されて政治的な主導権を握ったとしても、政府の官僚機構や産業界から支持を得られないと何もできず、官僚機構や産業界から支持されるには、彼らが社会的な強者なのだから、社会的な弱者の味方ではいられないわけだ。要するに多数派を構成する人たちは、自分たちが社会的な弱者だとは思っていないだろうし、官僚機構や産業界から搾取されているとも思っていないだろうし、自分たちが社会的な弱者だと自覚できる人は、社会の中では少数派にとどまるのではないか。またその国で消費文化を謳歌する大衆市民社会が形成されていれば、それだけ経済的にも繁栄しているわけだから、社会的な弱者は国内よりは国外に多くいるのかもしれないし、国外から搾取していれば、国内の政治情勢とはあまり関係がなく、実際に輸出によって経済が成り立っている国では、国外からの搾取によって繁栄していられるわけだが、もちろんそれは搾取ではなく商売だと正当化することもできるだろうし、それが輸出でなくても、国外から富裕層などの観光客を集められるような魅力があれば、観光産業によって国内経済が潤うような場合もあるだろうし、それも外国に依存する経済となるわけだろうが、国外からの搾取といっても豊かな国と貧しい国とでは経済格差があって、貧しい国ではそれだけ生活水準も低いし物価も安いから、外国から搾取されているという実感が湧いてこないだろうし、そういう意味で世界が経済状態の異なる様々な国に分割されていることが、社会的な弱者の味方を装う政治勢力の政治的な実権の掌握を阻んでいるのかもしれないが、そもそも社会的な弱者だけを対象とした政治活動というのも、全ての政治活動の中では部分的なものにとどまるだろうし、それだけが政治活動の全てではないのだから、他の方面での政治活動をおろそかにしてはまずいだろうし、他の方面での政治活動といっても現状でできることは、政府の官僚機構や産業界からの要望に応えつつも、一般大衆へのご機嫌取りも欠かせないような、何やら詐欺的な体裁となってしまうのかもしれないが、それも何に対しての詐欺なのかよくわらないだろうし、ともかく社会の中で生じている様々な問題に対処していくことが政治活動となるのだろうが、それは対処であって解決には至らないかもしれないし、何を持って解決とするかも、それに対する判断や評価もまちまちであるだろうから、そうした社会問題化した事案に対する取り組みが一般の大衆から支持されれば、それなりに選挙で票を獲得して、議会で主導権を握れるだけの勢力を維持できて、とりあえず政治的な主導権を握れるわけだろうし、それで満足しなければならないのかもしれないが、そうなったとしても政府の官僚機構との間で主導権を握れるかというと、それもよくわからないところであり、政治勢力と官僚機構が一体化することが主導権を握っている状況なのかというと、そうでもないだろうし、それではむしろ官僚機構によって政治勢力が操られている状態になってしまうのかもしれないし、どのような状態なら政党などが政治的な主導権を握っていると言えるかに関してはよくわからないだけに、どう見ても政治勢力を代表している首相や大統領などが無能に見えるのに、その座を追われることもなく、かえってそれによって政権が安定しているようなら、官僚機構にとってはそういう状態が好都合だから、そうした何の取り柄もない政権を支えていると言えるだろうし、むしろ大胆な行政改革などを訴えて政権に就いた場合は、官僚機構の頑強な抵抗に遭って、政権そのものが不安定となってしまって、結局政権運営がうまくいかなくなって短期間で崩壊してしまうかもしれないし、代表者が有能に見えたり無能に見えたりするだけでは、事の善悪を判断できないわけだ。

 そもそも政治活動の中身について何か正当化できるような内容があるかというと、それはその場の状況に応じた相対的な評価となるしかなく、少なくとも確固とした価値があるとは思えなければ、何を行えばそれが正しい行為となるかは、そうした行為を批判する立場と擁護する立場で違う評価となるわけで、それに関しては選挙や世論調査などからも大まかな評価が出されるだろうし、政治活動に対する評価とはそうしたものでしかないのなら、活動そのものにもあまり肯定的な幻想は抱けないだろうが、社会で生じている具体的な問題に関して対処するのが政治の役割だとすれば、絶えずそんな対処をしていかなければならないわけで、そうした対処の積み重ねによって、それがうまくいっているようなら民衆から支持を得られるだろうし、うまくいかなければ支持を得られずに、政治的な主導権も失ってしまうわけだろうが、その民衆からの支持というのも、メディアなどを利用した世論誘導によって人工的に作られるものなら、実感としても実態としてもよくわからないものとなってくるだろうし、それに関して別に何かはっきりした実績があるわけでもないのに、それなりに宣伝や煽動などによって高い支持率を保っていれば、それで構わない面も出てくるわけで、ただ漠然とそんな支持を背景として長期政権を維持しているようなら、政治の中身とはそんなものでしかなく、特に何か世の中に肯定的な効果を及ぼすようなものでもなく、強いて挙げれば現状の維持に関して若干の貢献があるのかもしれないが、そうなると空気のようなもので、民衆の側でも特に政治を意識するわけでもなく、それよりは他のことに関心を向ける成り行きとなるのかもしれないが、メディアがひっきりなしに話題として取り上げていれば、その他の関心事の中の一つとして、何かの片手間程度には関心を集めるのかもしれないし、要するに経済的にも治安的にも災害的にも危機的な情勢にならない限りは、誰も政治には関心を抱かないようであれば、それは世の中が平和な証拠なのかもしれないが、特に政治にこれといって役割が求められていなければ、ファッションやルックスに関して見栄えがいい政治家が人気を博すだろうし、また何か政治家特有の演説能力に長けた人が注目を浴びたり、立ち振る舞いなどの演技に関していかにも政治家のように見える人が安心感を得られたり、そうした外見だけで人を判断するような風潮が世の中に蔓延しても、それも世の中が平和な証拠となるだろうし、そうした何よりもイメージが先行するのが大衆市民社会の特徴なのかもしれないし、そんな社会が形成されていること自体が行動や活動の形骸化を招いていて、ニュースの内容ではなくニュースを伝える人の姿勢や容姿が脚光を浴びたり、そうやって物事の全てがショービジネスに収斂していってしまうわけだが、それは政治も例外ではないだろうし、首脳会談の内容ではなく首脳会談の場での首脳同士の親密なやり取りを売りにして、何かそれが外交の成果のように宣伝してしまう羊頭狗肉なことが平然と行われて、肝心のそこで何が話し合われたのかが抜けてしまうようなら、それは単なる政治宣伝でそうやって世論誘導を仕掛けているだけなのかもしれないが、すでにテレビや映画などに登場する芸能人の話題で人気取りを仕掛けているわけだから、それの延長上でスポーツ選手や政治家や他の様々な分野の著名人などが同様に扱われても、何の違和感も不思議もないわけで、そうやってメディア的に話題を盛り上げればその場限りで民衆の関心を惹くだろうし、そういう仕掛けがその場限りの効果にとどまれば、それほど問題はないのかもしれないが、それ以外の面で特に活動の中身が問われるところで、人々の関心を惹くには至らなくなる可能性が出てくるわけで、何だか意図も脈絡も定かでないが、とりあえず人寄せパンダとして著名人を出せばイベントとして成り立つようになってしまうと、それにかこつけて何をやっているのかよくわからなくなってしまうわけで、メディアが報じるのがそんな人寄せパンダ的なイベントだらけとなってしまえば、そこで実際にやっている中身など問われようがなくなるのではないか。


9月17日「体制翼賛の姿勢」

 普通は誰もが自らのやっていることがくだらないことだとは思わないし、何か意義や意味のあることをやっていると思いたいのかもしれないが、そんなことさえ思わずにやっていることが大半かもしれないし、時には自らがやっていることを卑下して見せる時もあるかもしれないが、別に大したことをやっているとは思えないにしても、過ちや誤ちをしでかした時には、意識が否定的な感情に支配されるし、そんなことはしょっちゅう起こることだろうし、その度に失敗したと思って、やってしまったことを後悔するわけだが、それでも今後は失敗しないように心がけたり、次からはもっとうまくやろうとするわけで、その時にはすでに前向きな気持ちになっていて、同時に否定的な感情を振り払おうとしているわけだが、大抵の場合は周囲の状況が思い通りにはさせないわけで、また思い通りなことをやっているつもりが、周囲から様々な作用や影響を及ぼされて、それが思い違いであることに気づかない場合もあって、そうやって自らの思いと実際にやっていることの間で整合性がとれなくなってくると、そうした状況が偽善や欺瞞の温床になるのだろうし、思いとは違うことをやっているのに、そんな成り行きと折り合いをつけないとやって行かれないような状況となって、いつしかそうなってしまったことを納得するしかない心理状態になってしまい、打算的かつ惰性的にそんなことをやり続けているような境遇となってしまうのかもしれないが、そんな立場になってしまった自らを許せるかというと、心の片隅には許せない思いが残っていて、そうせざるを得ないことから生じる疚しさや後ろめたさに苛まれながらもやり続けている状況を、他から批判されると逆上してしまうだろうし、むきになって自らのやっていることを正当化したがるかもしれないが、そうなってしまう時点で痛いほど自らの欺瞞や偽善をわかっているのかもしれないし、それに気づかなくてもそうした態度がそんな心理状態を明かしているわけだが、自覚せずにそんなことをやっている場合には、自身を取り巻く周囲の状況とそこから生じている成り行きに適合していると言えるだろうし、そうした状況の一部と化しているわけだが、誰もがそれと気づかずに自覚のない面では、自らを取り巻く環境と一体化しているわけで、そうなっている時にそうなっている面を突いた批判に直面すると、痛いところを突かれたと感じるから逆上するのだろうし、それが自らに対する不当な非難だと思われるわけだが、批判する方はしてやったりとなるわけで、批判される側がそうなってしまった経緯を無視して批判するわけだから、批判された側は、こっちの事情も知りもしないのに利いたふうなことをぬかしやがって、と怒りが爆発してしまうかもしれないが、実際に批判されて当然なことをやっていれば、周囲も批判している側の味方となるだろうし、世間的にも批判された側が悪いことになってしまうわけだが、そうだとしてもそんなことをやってしまう成り行きがあるから、それに身を委ねてやってしまうのであって、当人にそれ相応の過失があるにしても、またそれが違法な行為であったり、道義的にも許されない行為であったりしても、やってしまった当人にとってはやむを得ない行為であって、実際にそれがやれてしまい、しかもやってしまうまで周囲の人たちも止めなかったわけだから、やはりそんなことができる状況となっていて、やればできるからやったわけだろうし、実際にできたわけだから、その時点ではやってしまったことには成功しているわけで、少なくともそこまではうまくいったことになるだろうし、やった後から思いがけずやったことに対して批判されて、しかもその批判が世間的にも妥当だと思われるようになってしまったら、世の中の不条理を実感せざるを得ないわけだが、それを良かれと思ってやったわけではないにしても、やることについては歯止めが利かないのに、やった後からひどい仕打ちを受けるのは納得がいかないわけだ。

 それも独りよがりで身勝手な論理であり、屁理屈でしかないわけだが、そうした屁理屈によって自らを正当化するようになってしまうと、さらに自身を取り巻く状況が悪循環のスパイラルに陥っていることが顕著になってくるのかもしれないが、それでもそうした正当化が許されるような状況となっているとすれば、そうした成り行きがそこで生じているとしか言えないわけで、どこまでもそうした行為が許されるような状況となってくると、善悪の判断もつかなくなってくるだろうし、外部からの何らかの作用によってそうした正当化に歯止めがかからなければ、そうすることが当たり前の状況ともなってくるわけで、実際にそれが許されるような状況というのが、そんなことをやっている人に何らかの権力が生じている場合だろうし、それが何らかの集団が関わって作られた環境であれば、その中で周囲よりも立場が上の人にそうした事態が起こりやすく、周囲の人たちがその人に逆らったり批判することができないと、その人のやっていることに歯止めがかからなくなるだろうし、自らがおかしなことをやっているという自覚が生まれず、それで集団内の均衡が保たれていれば、そんなことがまかり通ってしまうわけだが、そうなると集団の外部でその人の権力が及ばないところから、批判や非難の声が上がってくることもあるわけで、その人にそうした声を圧殺することができるか否かによって、その人の権力がどの程度のものなのかを見極められるかもしれないが、やっていること自体がそうした権力の行使を含めて無理なごり押しを伴っているわけだから、その継続にも限りがあるだろうし、外部からの批判に呼応して集団の内部からも批判の声が上がってくれば、いよいよその権威にも陰りが見え始めて末期的な情勢となってくるわけだろうが、それでもその人が関わっている範囲内で利害の均衡が保たれていれば、そこから利益を得ている人たちは、均衡が崩れて損害を被るわけにはいかないから、そうした体制を維持しようとするだろうし、結局は社会の中でその人を巻き込んで繰り広げられている勢力争いにおいて、優位な立場を保っている集団の意向が優先されることになり、そうした集団がその人を支持している間は、その人の権威が保たれて、そこで権力を行使していられる環境も維持されるわけだが、それは制度的な面からも支えられている可能性があるだろうし、社会的な制度がもたらす仕組みの中でその人が主導的な役割を占めていれば、その立場によって許される権限がその人にもたらされていて、そうした権限に基づいて権力を行使することが制度的に決められていれば、そうした決まり事を他の人たちにも守らせるような法律も整備されていて、そうした制度の中でその人が権力を行使することに関しては、社会的にも認められる範囲内に収まるだろうし、それが公的な制度であれば、特にそうすることについて自らが正当化しなくても、制度や法律が後ろ盾となってその人の権力の行使を正当化してくれるわけだから、そういう観点からしても、制度や法律が定める公の立場を占めることには、多大なメリットがあるように思われるだろうし、だからこそそうした立場を獲得したいがために、人は現状の世の中で主導権を握っている公的な勢力に擦り寄ろうとするわけで、そうした主導権争いに敗れた勢力がやけくそ気味に、主導権を握っている勢力への批判を繰り返すような状況がそこから生まれているとしても、どちらの勢力につく方にメリットがあるといえば、やはり世の中で主導権を握っている側につく方にメリットがあるだろうし、そこで権威主義的な成り行きから多少は無理なごり押し的な権力の行使が行われていても、それに関して良識ある人々から非難の声が上がっているとしても、功利主義的な損得勘定を重視するなら、そういった勢力に擦り寄ることを優先する人々が大勢現れるのも無理はない状況なのではないか。


9月16日「活動の程度」

 世の中に助けを必要としている人がいるのは確かであり、人道的な見地からもそうした人たちを助けなければならないと思われるだろうし、実際に自然災害に遭ったり、戦災に巻き込まれたり、経済的な苦境に陥ったりして、それらの事情から助けを求めている人がいるはずだが、誰がそれらの人を助ける義務があるのかというと、その地域を統治している自治体や政府の救急搬送や消防や警察や軍隊などの部門が、その場の状況に応じて助けに向かうわけだが、災害が起こった時には確かにそうなるだろうし、それらの人たちの親族や交友関係にある人も助けに向かうかもしれないし、さらに赤の他人が災害ボランティアとして助けに来る場合までがあるわけだが、それが仕事でやっている人や団体と、それ以外の善意でやっている人や団体とは区別しなければならないだろうし、また親族のつながりや、隣近所の助け合いや、職場関連の人たちの間にも違いがあるだろうし、そうした違いをひっくるめて、全てを慈善行為のように見せかけて、言葉や映像によって飾り立てるのは欺瞞でしかなく、それらの何が良くて何が悪いということではなく、様々に立場や思惑に違いのある人たちが、そこで人助けをやっているということが、何か一つの肯定できる価値観を伴っているわけではなく、またその価値観を利用して助けに来ない人たちを批判するのもおかしいだろうし、それを批判に利用するような人にも、そんなことをやる立場や思惑が生じているわけだろうが、それらに関わって何かをやろうとして実際に行うと、やれる範囲や程度に応じて立場が生じて、またその立場からも特有の思惑が生じてくるのであり、そんな思惑を抱いてそんなことをやっていること自体を正当化するようになると、そこから利益を得るためにそんなことをやっていると受け取られてしまい、それでは火事場泥棒と変わりなく、それも批判や非難の対象となってしまうわけだが、そんなふうにして純粋に人助けをしようとする以外の事情によって、そこから逸脱するような立場や思惑が生じてくることが、そこに制度や慣習などの社会的な仕組みが絡んでいることを想起させられるわけで、そうした社会的な仕組みから人助けをしようとする意識が生じているとすると、その人の善意から純粋に人助けをするにしても、そうするように仕向けられていると考えれば、何やらありがたみが減じられるような不快な気分となってしまうかもしれないが、だからと言ってそれが人助けをしない口実になるわけでもないし、要するに人助けを奨励するような宣伝行為が、人助け以外の活動に利用されてしまうと、それが欺瞞や偽善と受け取られてしまうわけで、またそれ以前に人助けに至る経緯やそこで生じている事情が、逆に人助けを必要とする人を生み出しているとすると、やはりその人や団体に、人助けをせざるを得ない後ろめたさや疚しさがあるのではないかと勘ぐられてしまい、純粋な人助けの精神から逸脱していってしまうわけだが、そういうのはたぶん経済活動や政治活動や行政活動にはつきものの事情であり、経済活動の背後には企業や資本家がいて、政治活動の背後には政党や政治家がいて、行政活動の背後には官僚機構や官僚がいるわけで、それらの人や団体が暗躍して、一方では人助けを必要とする人を生み出して、もう一方では人助けを利用して利益を上げる傾向があるのは否めないのだが、一般の人たちもそれらの人や団体を利用することによって生活が成り立っていて、それらの人や団体によって現状の社会が構成されている面もあるわけで、そうした循環傾向の中でそれぞれの置かれた立場を正当化して、そこで生じている事情を尊重していくと、結局はそんな現状を肯定して、そんな現状の維持に貢献することにしかならないだろうし、それが嫌なら自らがそこで不都合や不利益を感じている範囲内で、そうした対象を批判したり、それと争ったりしながら、現状を変えて行こうとしなければならなくなるわけで、そうした意味での人助けもあり得るわけだ。

 そこで何が人助けになるかは、その場の状況に応じて変わってくるだろうが、その気がなければ特にやっていることが人助けにならなくても構わないだろうし、逆にやっていることを正当化するためにそれが人助けであることを強調するのも本末転倒なわけで、人助けをする以前に自分で自分を何とかしろと思うかもしれないが、そうした自助努力が尊ばれる状況があるとしても、やれる程度も範囲もその人の立場や事情に応じて限られてくるわけで、そこにもそれなりに限界があることも確かだろうし、社会の中で人と人とが連携して協力しながら何かを行う場合には、そうしたことを行なっていく過程で、必ずそこに関わっている他人を助ける成り行きが生じてくるだろうし、そうしたことの延長上に人助けがあると考えれば、そこから人助けの部分だけを取り出して強調するのも不自然に思われてくるわけで、様々なことが行われる中で人助けを行うこともあるだけで、そこだけを強調しなければならない事情がその人に生じてきて、そうした事情の中には良からぬ企みも含まれてくるだろうが、たとえそれが肯定的な価値を担うことであっても、何か役割や目的に特化した活動が存在すること自体が、そうした活動を行う上で、その役割や目的に特化していることに関しての説明が求められ、そうした行為が広く世の中に受け入れられるには、それ相応の宣伝活動が必要となってくる場合もあるだろうし、そんなことをやっていること自体が、それが不自然な行為であることを証しているわけだが、たぶんそうした事態を招いているとしても、それが当たり前のように思われる社会状況がある限りで、そうした宣伝活動が当たり前のように行われ、そこにも活動に関わってくる人や団体が、そこから利益を得ている実態もあるわけで、それが実際に赤十字やユニセフなどの公的な体裁を装った機関となっているし、そうした機関に寄付金を託すことが肯定的な価値を担っているようにも思われてしまうわけで、そんなふうにして社会的な価値観が形成されているわけだから、そうした行為にも疑念を抱いて、それを批判するようなことも行われるわけで、そういう意味で役割や目的に特化することが、欺瞞や偽善が生じる温床ともなっているのかもしれないが、社会が発展していく過程の中ではそうした傾向が必ず生じてくるのかもしれないし、そうした欺瞞や偽善とともに社会が発展していくとも言えるのかもしれず、それもそこから生じる恩恵と弊害の両義的な方向性を示すことになるのかもしれないが、それが避けられない成り行きであるとしても、その一方で個人的な善意から人助けを行なっている人たちも大勢いるわけで、たとえそれが非効率であまり効果のないことだと思われようと、そうした行為をあまり組織的にまとめ上げない方が、そこから生じる欺瞞や偽善の程度も少なくて済むだろうし、逆に個人のレベルでやれるように社会の様々な方面で改善して行けば、無用で不快な権力の行使を招かなくても済むようになるのではないか。そういう意味で大勢の人を組織的に大量動員しようと仕掛ける人たちには、そこで大勢の人たちを従わせることによって権力が生じるわけで、それらの人たちに自分たちの設定した目的や役割を担わせること自体が、権力の行使ともなるわけで、それが煽動者のやり方であるわけだが、そうする必要が生じているということは、煽動者自身がそうしたやり方に対峙しているから、自らもそんなやり方を思いつくわけで、他で行われていることを真似ているわけだが、そこに集団で活動する形態のエスカレートが生じていることは確かだろうし、誰かがそんなことをやれば他でもそんなことが行われて、それらの間で対立や抗争が生じるわけで、そうした対立や抗争を通じて、そうしたやり方がエスカレートしていって、さらなる集団の大規模化や集積化が生じてきて、そうした対立や抗争に勝ち残った集団が、世の中を支配するような状況ともなるわけだろうし、その支配形態として政府や企業や他の各種団体があるわけだが、誰もがそうした集団の中で主導的な立場になれるわけでもないのだから、それよりは個人でやっていることの方が、たとえ世の中への影響力が微々たるものであろうと、それだけ誰もがやれる可能性も高いわけだ。


9月15日「政治の虚構性」

 現状の政治情勢をどう捉えるかは、それを捉えようとする人の立場によって見解が分かれるところかもしれないが、肯定的に捉えるにしても否定的に捉えるにしても、少なくともそこで政治に関する制度が成り立っている限りで、公的な政治制度としてそれなりにうまく機能しているのかもしれず、それを批判しようとすればいくらでも批判できるかもしれないが、それ相応の結果が出ていると捉えても構わないだろうし、そういう捉え方が気に入らない人にはうまく機能していないように思われるだろうが、現状で主導権を握っている政治勢力にとっては、とりあえず主導権を握れていることに関しては、うまくいっているはずだろうし、そうした政治勢力を支持している人たちも、それほど弊害は感じていないように思われるかもしれないが、それ以前の前提として、民衆がいったい政治に何を求めているかが、よくわからないところなのかもしれず、改めてそんなことなど考えたこともない人が大半かもしれないが、もしかしたら特に何を求めているわけでもなく、ただメディアの政治に関する報道から、それに反発したり、反発する人たちを快く思わない人たちが、反発する人たちと対立したり、そんな反応を引き起こしている当の活動内容としては、政治の場で実際に行われていることが、公平さを著しく欠いていたり、また不正を行なっている疑惑が生じているから、それに反発したり、そんな反発を抑え込もうとしたりしているわけで、そんな人たちが政治に対して具体的な要求を持ち得ないのは仕方のないことかもしれないが、実際問題として政治の場でやるべきことは、一般の人たちが関心を持ち得ないことの方が多いのかもしれないし、それに関して何か問題が起こった時にしか関心を持たないとすれば、それらを全体として把握できないのはもちろんのこと、他の関心のない分野での政治的な行為については、メディア上で話題にのぼらないわけだから、メディアが好んで取り上げるような、センセーショナルな政治問題ばかりを意識して追いかけていると、まとまりのないいびつで歪んだ認識や把握となってしまって、バランスや相互の関連性を欠いているから、そんなことばかり取り上げて批判している人たちが、実際に政治の場で何かやる機会が巡ってきたら、うまくいかないことは目に見えているのかもしれず、実際に日本では民主党政権時代がそうであったのかもしれないし、準備不足でいきなり政権の座に就いてしまったのだから、その後の対応がうまくいかなくなるのは当然だろうが、今度はその時の教訓を活かして、次の政権交代を目指してそれなりに準備を整えておく必要があるだろうし、それにはあまり民衆の人気取りのようなことばかりに気をかけないで、目立たないことでも地道に取り組んで行く必要があるのかもしれないが、それも原発反対とか生活弱者の救済とか格差の是正とか富の再分配とかの、いいとこ取りのようなつまみ食い的なこと以外で、場合によっては民衆からも経済界などからも反発を招くような分野でも、それなりに態度や対応を明らかにしておくべきだろうし、それが日本の場合だと在日米軍絡みの軍事関連の問題となるわけだろうが、それにはアメリカとの関係が無視できない齟齬や軋轢を生じさせていて、貿易摩擦などの経済に関する問題も絡んできて、アメリカ政府に対してあまり強い態度で臨めない事情もあるわけで、それを現政権と同じようにうやむやにしているようでは、民衆に向かってそうした方面で、はっきりと政権選択を迫れない成り行きになってしまうだろうし、できるだけそうしたはっきりさせたくない面をはっきりさせておくことが、政権選択を迫る上では重要となってくるかもしれないが、それとともに経済政策に関連して、いくら政策として景気刺激策のようなことをやっても、大した効果は期待できないことを率直に認めておいた方がいいのかもしれないし、その辺をごまかしてうまくいくかのように取り繕ってしまうと、現政権とやっていることが変わらなくなってきてしまうわけだ。

 また各省庁などの官僚機構との関係となると、いくら行政改革などの面で抵抗勢力を形成していると言っても、あからさまに対決姿勢を鮮明にしても勝ち目がないことははっきりしているわけで、互いに協力関係を築きながら、ともに改革を行うような成り行きに持っていかないとならないだろうが、それに関してもあまり理想を追い求めるような成り行きにはなり得ないだろうし、折衷的かつ妥協的な結果にしかならないような方面で、理想を追い求めても期待外れに終わるしかなく、うまく行きそうにない方面では、実際にうまくいかない成り行きを受け入れざるを得ないわけで、なぜうまくいかないのかといえば、それは官僚機構が構造的に矛盾する面や不条理な面を含んでいるからだろうし、もちろんそれとともに政党などにも同じような制度的に矛盾する面や不条理な面があるわけだが、それらの主な内容としては、集団の利益に反することや権益を損なうことを、当の集団にやらせようとすれば、当然のことながらそんなことはできない話となるわけで、簡単に身を切る改革と言っても、実際にやる段になれば掛け声倒れに終わる公算が高く、そこで掛け声倒れにならないようにやらせることが求められているとすれば、誰がそれをやらせるかとなるわけで、果たして民衆にそれをやらせる権限があるのかとなると、民衆が一致団結してそれをやらせるような成り行きにはなっていないわけで、また強制力を伴うような権限は、軍隊にしても警察にしても司法にしても、その全ては行政側が保持しているわけだから、普通に考えて民衆側に勝ち目はないのだろうが、そこにも矛盾や不条理が生じる余地があるだろうし、そこに及ぼされる様々な力が様々な程度や加減で複雑に絡み合いながら作用し合い影響し合ってくると、理屈では捉えられないような結果をもたらすのかもしれず、それが偶然の巡り合わせと連動して思いがけない作用を及ぼすわけで、それは民衆にとっても予想外のことになるかもしれないし、またそれは人為的な作用や影響だけでなく、自然からの作用や影響も絡まってくるだろうし、そうなった結果から現状を説明しようとすれば、いくらでも辻褄が合うように説明できるかもしれないが、そうなってみないことには説明する段にも至らないわけだから、現状の延長上で予測や予想は成り立つだろうし、概ねその通りの成り行きや結果ももたらされるだろうが、そうした予測や予想から外れていることには気づかないわけで、予測通りや予想通りの面ばかりがメディアによって取り上げられるにしても、そうしたメディアが気づかない面など取り上げようがないわけだから、思いがけない事態となった時には、今までは気づかなかったことが表面化したから、それが思いがけないことのように思われるのだろうし、やはりそこでも予測通りや予想通りな面と今までに気づかなかった思いがけない面とが複雑に絡み合って事態を構成していて、そこで予測通りや予想通りな面ばかり強調して事態を捉えようとすると、何か違和感が伴ってくるだろうし、それ以外の重要な面を見落としているようにも感じられるのではないか。そんなわけで思考や意識では現状を正確には捉えられないのかもしれないが、それについて言葉を用いて説明するとなると、さらにそれらの全てを正確には表現し切れないわけで、言葉で語っていることとその対象となっている状況の間には、ずれや歪みや偏向などが生じて、無理に語ろうとすればフィクションとなってしまうのかもしれないし、しかもそんなフィクションの方が恣意的な幻想や妄想などが含まれるから魅力があるだろうし、それが好感を持たれれば信用されるだろうし、不快な現実よりは心地良い虚構の方が本当らしく思われるのかもしれず、そうした虚構を信じてしまうからこそ、現状で主導権を握っている勢力は、世の中が思い通りになるように各方面への働きかけを強めるのであり、やればできると思い込んでそんな思い込みを信じれば、それだけやる気にもなるだろうし、そして実際に思い通りになった面だけを見ていれば満足するわけで、またそうなると、それとは違う面を強調して批判してくる輩が不快に感じられるのも当然であり、自分たちが見ないようにしている物事の否定的な面を、逆に見せびらかそうとしてくるわけだから、そうした人たちの間で対立や抗争が起こるのも当然の成り行きだろうが、どちらにして現状のある面を強調して、それを梃子にして自説を正当化しようとするわけだから、どちらの説明にも恣意的な偏向が施されていて、そういう面が自説を正当化するフィクションとして機能するわけだ。


9月14日「経過と結果」

 やっていることの何が正しく、何が間違っているかは、誰にとってもそうであるとは限らず、たとえ間違ったことをやっているとしても、それで構わないような状況であると、延々と間違ったことをやり続けていられるわけで、そうなるとそれが間違ったことだとは思えないから、そのままやり続けているうちに、やっていることが正しかろうと、間違っていようと、どうでもよくなってくるかもしれないし、すでにそうなっている時点で、意識の中で正しさの基準が崩壊していて、当初に設定していた正しいことと間違っていることの区別が曖昧になってくるわけだ。そして法律違反などの他の外部的な事情を考慮しなければ、そういった基準では物事を判断できなくなっていて、そうかといって何か別の基準に依拠するわけでもなければ、ただそこで普通にやっていることであって、それ以外ではなく、そんなことを延々とやっているだけとなってしまうのではないか。それが何を意味するとか、どんな効用があるとかに関係なく、延々とそんなことをやっているだけとなってしまうと、やっていること以外に、他のことは何も考えられないようになってしまうのかもしれないが、だからと言ってそれがまずい状況に陥っているとは思えないだろうし、そのことだけにかかりきりとなっているのだから、自身がやっていることと一体化していると言えるわけで、実際にそうなってしまった人など世の中にいくらでもいるし、それはそれでそうなってしまうとしか言えない現象なのかもしれず、そうなっている限りでそこで作動している何らかのシステムに囚われてしまっているのかもしれないが、だからと言ってそこから抜け出ようとする理由や事情が生じなければ、そのままでも構わないのだから、そんなことをやり続けている状況の中に囚われているだけとなってしまうわけだが、たぶんそれが生きているということであり、そこから生きている実感が湧いてくるかもしれないが、自身にとってはそうであっても、それとは無関係な人にとってはどうでもいいことでもあるだろうし、別の人には別にこだわっていることがあるのかもしれず、何か別のことに囚われていて、そこで作動している別のシステムに囚われながら生きているのかもしれない。そうやって社会の中で様々な人が様々なシステムの虜となっていて、そんなふうにして社会そのものが成り立っているとも言えるかもしれないが、何かそこで行われていることが、社会にとって欠かせない重要性があるかといえば、そうでもないのかもしれず、人や集団によって様々なことが様々に行われている結果として、そこに社会が成り立っているとしても、別にそれらのことが行われなくても構わないのかもしれず、社会にとって何が必要かということではなく、ただ結果的にそんな社会が形成されているだけであり、人や集団によって現状とは違うことが行われていれば、また別の社会がそこで成り立っているだけであり、社会とはそういうものだと捉えるしかないのかもしれないし、人はそこで取り立てて何が欠かせないとか、必要不可欠だとか思うかもしれないが、それらがなければないで、もとからなければ誰も困らないわけで、ただ今まであった物事が急になくなってしまうと不自由に思われるだろうし、その物事に依存しながら活動していた人や集団が困ってしまうわけだが、もとから依存していなければ困りようがないし、何かに依存して生きるような成り行きがそこで形成される限りで、その依存している物事が急になくなってしまうと困るということだろうし、そこから考えると、現状で社会の中で人や集団が普通に暮らしていて、通常の活動が行われている限りは、取り立てて何がどうなっているとも思えないが、ただそれらの暮らしや活動が成り立たないような事態が起きた後から、それらを成り立たせるには何が必要不可欠であったかを思い知らされるわけで、現状はそれ以上でも以下でもないのではないか。

 そうした社会の現状を維持するために必要不可欠な物事に、そこで暮らして活動する人や集団が依存していることは確かなのだが、そうした物事に依存していない人や集団にとっては、別にそれらが必要不可欠であるわけでもないわけで、そうであるなら必要不可欠な物事をできるだけ多くの人や集団が共有しているほど、それだけそうした物事が社会の中で重要性を帯びるだろうし、だからこそ社会の中で主導権を握っている勢力としては、自分たちが取り扱う物事が社会の中で必要不可欠になるように働きかけているのであり、他の人や集団がそうした物事に依存するほど、それを主導的に取り扱っている勢力の力が社会の中で増していくわけだ。そういう意味で企業などは、自分たちが取り扱っている商品が、そうした物事になるように仕掛けているわけで、消費者をそうした物事に依存させたいわけだが、消費者の方でも特定の商品だけに依存する生活が高じてくると、身も心もその商品を扱っている企業に支配される可能性が出てくるわけだから、そうした危険を察知できる感性の鋭い人なら、なるべく特定の企業の商品に依存しないような暮らしを心がけるかもしれないが、商品といっても物や情報やサービスまで含まれるわけだから、多種多岐にわたっていて、それらの販売を一手に引き受けるような業者もいるわけで、そうした業者の販売サービスに依存していると、特定の商品に依存しているというよりは、特定のサービスに依存していることになるわけで、そうした業者だけから様々な商品を購入し続けていると、やはり依存体質になってくるだろうし、その業者が取り扱っている商品以外を買わなくなるわけだから、知らないうちに欲しいものがそこだけに限定されてきて、自分の好みで商品を買っているつもりが、いつの間にかその業者にとって都合の良い商品が、その人の好みの商品に置き換えられてしまっていて、人の好みさえもそういった経緯から業者によって恣意的に限定されてしまうような結果も伴うわけだ。それが商品だけならまだしも、生活全般にわたってそういう傾向が出てくると、他の社会から見ると理解に苦しむような風習が、特定の地域社会に蔓延するような可能性も出てくるわけで、それもその地域社会が他から孤立している場合に限られるかもしれないが、世界全体がそうなってしまうともはや誰も気づきようがないだろうし、例えばそれが企業ではなく政治に関係する物事となると、特定の主義主張や政治信条が世界中に蔓延していると、そうなっているのが当たり前のように感じられるから、他に選択肢がないように思われるだろうし、そうした状況に依存していることにさえも気づかないで、現状のあり方こそが全てだと漠然と実感させられてしまうのかもしれないし、そうなってくると現状から脱することは不可能に思われてくるかもしれないが、そんなことさえ思っていない可能性もあるわけで、人が現状についてどう思っても、現状を変えるとか現状から脱するとかは別問題であり、大抵は思わぬところから変化する兆しが現れるわけで、しかもそれが大多数の人には気づかれない場合もあるだろうし、誰もそれに気づかないまま、いつの間には世の中が様変わりしていて、そこで暮らしている人々にもそうなるのが当たり前のように感じられるなら、世の中の変化を人の意識が感知できないことになってしまうわけだが、たぶん変化には気づかないような面と気づく面とがあって、そのどちらが重要というわけでもないだろうし、気づかれなければ無用な対立や軋轢は起こらないわけで、そんなふうにして世の中が変化して行った方が手間がかからないのかもしれないが、中には気づかれてしまう場合もあって、そういう場合は変化を起こさせないような抵抗が起こるだろうし、そこから目に見える激しい争いを起こしながら、世の中が劇的に変化するようなら、誰もがそのことに関心を寄せて注目するから、それに関して様々な方面で言及されるだろうから、何かそれが社会的に重要で重大なことのように思われるわけだが、それも結果的にそうなった限りでそう思われるわけで、そうならなければ誰も注目しないし関心も寄せないのではないか。


9月13日「信じるか否かの判断」

 科学技術などを産業に応用する分野では理論から実践が生まれ、実践から理論が生まれるのは当たり前のことかもしれないが、それが具体的に何の理論でどんな実践であるかによって、それに対する判断も評価も人によってそれなりの偏差を伴うだろうが、そこで何が考案されてどんなことが行われるかについては、そうなる過程で一定の規則的な動作や成り行きがあって、それに伴って生じる人々の行動や言動に特有の作用や影響を及ぼしながら、それらを一定の方向や範囲に導いているわけだろうが、だからと言って人の活動がそうした理論と実践だけから成り立っているわけではなく、それ以外の何だかわからないことも含めて様々なことが行われているわけで、その実態は理論と実践の関係だけからでは掴みきれないのだろうが、その理論とも実践とも違う何だかわからない何かを具体的に説明できるかとなると、それを説明していく過程で理屈が先行して、そこで法則のようなものが説明されてしまうと、すぐにそれは理論と実践の関係に還元されてしまうのかもしれないが、では法則から逸脱する面があるかというと、たぶんそれは偶然の巡り合わせであり、それらが混じり合って歴史的な経緯を生じさせているように思われるだろうが、やはりそれがわかりにくいところであって、歴史にも何らかの法則が適用されて、それに基づいて様々な出来事が起こるように説明されると、誰もが納得してしまうわけで、全てが偶然に起こっているのではなく、そこには必ず原因と結果の因果関係があるように説明されてしまうわけだが、果たしてそうではないような説明が可能だろうか。少なくともそこで何だかわからないような出来事が起きると、何かそれが興味深い現象に思われて、そうした現象が起こる必然性を考えていくと、それが起こる仕組みや起こるための条件や、そこに及ぼされる作用や影響などが導き出されてくるわけで、それらが組み合わさって、そんなことが起こるに際しての理屈が形成されてくるのだろうが、たぶんそこからはみ出てくるのが、わけがわからないことになってくるわけで、それは偶然の巡り合わせとしか言えない面であって、何だかわからないが結果的にそうなってしまうから、それが謎に満ちていて興味深く思われてくるわけだが、それではなぜそうなってしまうのかという疑問には答えられないわけで、ではそうした面についてはどう処理すれば説明が成り立つのかと問われるかもしれないが、ただそれを事実として語る以外にはあり得ないのかもしれず、それだけにとどめておけば済んでしまうようなことかもしれないが、そこで何かが起こったと語るだけでは説明になっていないだろうし、なぜどうしてどうやって起こったのかを説明しないと不十分に思われてくるとすれば、そうなるとそれと似たような現象を列挙しながら、それらの現象の間に成り立つ関係をあれこれと想像してしまうわけで、そしてそうした説明にあたかも理論的な裏付けがあるかのように匂わせると、何やらそこに科学的な根拠があるように思われてくるだろうし、そうした疑似科学のような、あるいは似非科学のようなごまかしが信じられてしまうわけだが、それをいったん信じてしまえばごまかしとは思わないだろうし、そうやって何かと何かの関係が世界の方々で成り立っているような物語が説明されてしまうわけだが、それは夢想であり迷信でしかないのかもしれないが、それも興味深く思われることは確かで、そこから幻想や妄想が生まれて、そうした幻想や妄想を信じることによって宗教が生まれるのかもしれないが、宗教にも理屈が伴ってくると哲学的な要素が追加されて、それが学術的な対象ともなってくるわけで、どのようにしてそうした宗教が生まれて、それが人々の間で信じられて社会に定着するかについての理論的な考察とともに、学問としての宗教学が成り立つわけだろうが、それはあくまでも宗教についての外部的な視点からの考察であり、そうした宗教の教祖や信者たちが見たり行なって見せた奇跡の類いを信じているわけではなく、なぜそうした非科学的な奇跡を人々が信じてしまうかについての考察にとどまるわけだ。

 何を信じて何を信じないかはその人の勝手かもしれないが、信じられることと信じられないことに関して何らかの理屈を設定できれば、人が物事を信じるか信じないかの判断について、もっともらしい説明が可能となるのかもしれないが、そうした理屈もその場の状況に応じて異なってくるだろうし、それに関して例えば何らかの宗教の信者と一般の人々とでは、信じられる内容も傾向も違って当然だろうし、そこには信じるに足る条件の違いがあるわけだが、それらの人々を取り巻く環境も異なっているわけだから、環境が違えばそこに及ぼされる作用や影響も異なってくるだろうし、さらに時代状況や地域も異なれば、信じられる内容も変わってくるかもしれないし、そこに様々な条件付けがあって、その条件を満たせば信じられることになるわけだろうが、そうなるとある人にとっては正しいことであっても、別の人にとっては正しくない場合が出てくるだろうし、それ以前に正しく思われることだけを信じるかとなるとそうでもなく、たとえ迷信だとわかっていても、それが迷信であることを承知で信じている人もいるだろうし、また科学的にその確かさが広く世間的にも実証されているのに、それを信じない人も出てくるわけで、理屈の上では正しいことであっても、それだけで世の中が動いているわけでもないから、いくらそれが正しいことを証明して見せても、それでも信じない人が出てくるわけで、そういう人に限ってたわいない迷信を信じている場合もあるかもしれないが、それがいかにたわいない迷信の類いであっても、気休め程度のことであるなら、それを信じようと信じまいと、大したことではないだろうし、またそれを信じる信じないの基準ではなく、それとは別の基準によって物事が動いている場合もいくらでもあるわけで、その場でどのような基準を適用するのが妥当であるか否かは、そこで実際に行われていることに合わせた基準があるだろうし、さらにそうした基準がない場合も含めて、そこで実際に行われていることが人の活動の実態を物語っていて、そこで何ができて何ができないかは、それを信じようと信じまいと、実際に何らかの活動が行われている限りで、そんなことが行われている事実を認めざるを得ないだろうし、またそれを推進するにしてもやめさせるにしても、例えばやめさせなければならない理由を、いかに正しい筋道や理屈を用いて説明してみても、実際にそうした行為や活動に依存しながら生きている人にとっては、やめるわけにはいかないことであり、たとえそれによって周囲の人たちが迷惑を被っていようと、強制的にやめさせられない限りはやめないだろうし、そうなってくると科学的な確かさがどうのこうの言ってみても無駄で、何に基づいてそんなことが行われていようと、実際にそこでそれを行えるという事実が、何ものにもまさる真理となるわけだ。そういうところでは信じるか否かの基準よりも行えるか否かの基準の方が優先されるわけだが、それが妥当であるか否かとなると、たとえそれを行えるとしても、法律に違反していたり、公序良俗に反するような行為であったり、倫理的にも道義的にも許されない行為であったりすれば、それなりに様々な方面からそれ相応の反作用が及ぼされるだろうし、そうした作用を退けながらも行えるなら、そうしたことを行なっている人や集団には、それを行えるだけの力があると言えるだろうし、それが権力であるか暴力であるか、あるいは他の様々な力が複合的に重なり合ってそうしたことを行えるだけの力を構成しているかは、その場の事情となるわけだろうが、たとえ偶然の巡り合わせが作用してそうなっているとしても、実際にやればできるという事実があると、時としてそれをやめる理由よりはまさってしまうだろうが、それでもそれを実際にやめた時には、そのやめた理由というのをやめた後から見つけられるわけで、結局全ては事後的に語られるわけだが、中には事前に語られることもあって、それは予想であったり予言であったりするのだろうが、その予想や予言の正しさが証明されるは、やはり事後になってからでないとわからないわけで、要するに何かが行われたり何かが起こった後から、それを信じるか否かの判断がされて、その判断に基づいて、これから行われることや起こることを信じるか否かの判断もされるわけだ。


9月12日「保守化傾向」

 方法を探るということはそこで立ち止まって考えることであり、また立ち止まらずに行動しながら考えることでもあるわけだが、それがどんな結果をもたらすかは、そこで延々と試行錯誤が繰り返されて、そんなことを繰り返すうちに、当初に設定した目的がどうでもよくなってしまうこともあり得るわけで、別にそれが方法を探るのに伴って生じる必然的な成り行きとなるわけでもないだろうが、たぶんいったん目的から外れてみないと、安易に目的を設定することの浅はかさを実感できないだろうし、もちろん安易ではないはずであり、通常のレベルで人には目的に基づいて活動している実態があるわけだが、意識の中ではそう思っていても、意識から外れる部分では、目的の正当性を疑っていて、試行錯誤の過程でその正当性を検証していくにつれて、実際に活動がそこから外れていってしまうようなら、それは目的の正当性が揺らいで霧消してしまう可能性を示しているのかもしれず、目的自体にそれを裏付ける価値がないからそうなってしまい、試行錯誤した結果が当初の期待を裏切ってしまうわけだろうが、一方でそうなってみないと試行錯誤した意味がないのかもしれないし、かえって目論見通りに事が運んでしまうと見逃してしまうような重要な何かを、期待が裏切られてしまうことを通して知らせているのかもしれない。そしてそういう成り行きを通じて新たに見出された結果が、それ以降の活動にも活かされてくるかもしれないし、そうなれば活動の幅が広がっていくのかもしれないが、逆にそれに伴って活動の目標などの焦点もぼやけてしまい、目的自体がどうでもよくなってしまったことに気づいて、そうなるとまた新たな確信を伴うような目的を設定し直すことにもなるだろうが、それとは異なる方向性として、特に目的を定めてそれを追求するような成り行きとは異なる活動もできるようになるかもしれないし、それもその場の成り行きに従って定まってきたり定まらなかったりすることであり、それに応じて活動の内容もそれなりの変動を被るのだろうが、そういう成り行きや結果の全てを肯定できるわけでも正当化できるわけでもなく、それを自身で否定したり、さらに他からの批判にさらされるようなことも起こり得るわけで、そこには自身だけではない周囲や他との関係も影響してきて、それらに左右されるような活動となってくるわけだ。だから目的に適合する方法を探ることは、その目的自体を破壊するような成り行きも含んでいて、そうならないようにあくまでも目的にこだわるべきなのか、それともそうなってしまう成り行きを重視して、そこで目的を捨て去るべきなのか迷うところだろうし、また迷ったところで結論が出てくるわけでもなく、かえってどちらでも構わないように思われてしまうと、結局それについてどう判断すればいいのかわからなくなってしまうわけだが、意識の中では迷っていても実際に動作を行なってしまえば、迷いからも引き離されて、意識もそれに従うしかなくなるだろうし、そんな意識よりも行動が先行する成り行きになるなら、たとえそれが外部から操られているとしても止めようがなく、結果的に自分の思い通りにはならなくなってしまうわけだが、思い通りになるということ自体も勘違いの可能性があるだろうし、自身と周囲との関係から生じる相互作用の中から活動が生じてくるわけだから、その辺は割り切ろうとしても割り切れないだろうし、それが正しいか間違っているか、あるいは事の良し悪しを判断する上で、さらにその場の成り行きを考慮しながらも、それでも迷って疑念を抱きながらもやっている実態があるだろうし、何事にも迷いがなく、一直線に向かうことができれば、それに越したことはないだろうが、たぶん方法を探っている時点でそうはならない成り行きが生じているわけで、結局そこで考慮しなければならないのは、自分ではそれを考慮できない可能性があるということなのかもしれない。

 自身のコントロールが利かない事態に直面したら、他に助けを求める以外にあり得ないかもしれないが、それも程度にもよりけりだが、その場の状況に応じた適切な対処ができるかとなると、どうすることが適切な対処なのかについては、その場の判断にもよるだろうが、そんなことを考えている暇も余裕もなければ、やはり思考よりも行動が先行して、行動した結果として何とかなったように思われれば、それで構わないことにもなるだろうし、対処がうまくいかなかったとしても、それをきっかけとしてさらなる活動を開始できれば、結果的にはそれで何とかなったことになるのかもしれず、結局そこで終わらなければそれで構わないような成り行きが生じて、それ以降も何かしら活動していくことになると、そこに至る過程で生じた様々な事の経緯をうやむやにしながら、あるいは特定の物事に対する執拗なこだわりを執念深く保持しながら活動していくことにもなるわけだが、そうした活動が周囲の事情が許す限りで継続していくことになるわけだから、そうなっている時点で独りよがりなことをやっている面とともに、他の外部的な事情もそれなりに考慮される面も伴っているわけで、そこからそれなりに肯定的な幻想や否定的な現実を感じ取ることもできるかもしれないが、やはりそこに自らの力ではどうにもならない面が意識される限りで、そうした活動によって自らを正当化するのにも限度が生じてくるだろうし、正当化できない面が出てくれば、そうした面があることを謙虚に受け止めて、それに対する独善的な判断や評価は差し控えるしかなく、またそれに対する他人の否定的な判断や評価も尊重すべきところは尊重するしかないわけだが、実際に尊重するとなると、当然自らのそれまでの活動に対する反省も伴ってくるだろうし、何か見直すべき点を探して提示しないと、否定的な判断や評価を下した他人を納得させることはできないわけで、そうしたこともそれ以降の活動に含まれてくるわけだが、それをきっかけとして他人との交流が生じてきて、場合によっては直接の関係や間接的な関わり合いもできて、それに伴って活動に社会性が加わり、そうした成り行きが高じて、活動に多くの人たちが関係してくると、それが公的な性格を帯びてくるわけで、当然そこには私的な利益を追求している面も含まれるわけだが、その一方で他人の事情を考慮する面では公的な性格を伴ってくるわけで、結局公共の利益を重視する成り行きというのは、そこに多くの人が関わってきて、それらの人々の事情を考慮しながら利害調整を行う過程で生じてくるのかもしれず、しかもそういう活動が何らかの結果を伴うとしても、その結果にとらわれずに絶えずそうした調整をやり続けていないと、そこで行われている活動の内容が公共性から逸脱してくるわけで、利害調整を行なった結果に満足して、その結果の中で安住していると、そうした結果から、それに関わって利益を得られる集団や勢力が次第に固定化してきて、活動に関わっていない他の集団や勢力との間で格差が生じてくると、それに伴って世の中に不均衡や不平等が広がっていくことにもなるわけで、そうならないようにするには、常時結果の見直し作業が欠かせなくなるし、関わってくる集団や勢力との関係にも定期的な見直しが必要となってくるわけだろうが、それをわざと怠ったり意図的に停滞させることによって、特定の集団や勢力に恒常的で安定した利益がもたらさせるなら、それらの集団や勢力としては是が非でもそうしたことをやりたくなるだろうし、それに関して否定的な意味での保守勢力というのは、そうやって生じてくる利益を独占することによって栄華を誇るわけで、そんなふうにして社会の中で利害の固定化が起こると、それに伴って身分制度のような階層構造も生まれてくるし、そうした成り行きが恒常的に安定しだすと、世の中が格差社会となるわけだが、それがいつ何かのきっかけで崩れる時がやってくるとしても、そうした意味での世の中の保守化傾向というのは、いついかなる時でも恒常的にそういう成り行きへと持っていくように働いているのではないか。


9月11日「新たな方向性」

 人は誰でも社会の中で有利な立場になりたいし、不利な立場にはなりたくないだろうが、様々なことをやった結果としてもたらされた境遇の中では、そこでそれなりに生きている現実があり、それが様々な面で相対的に有利に思われたり、または不利に思われたりする範囲内で生きているわけだから、そうなっている時点で、それ以上でも以下でもなく、それに関して何をどう判断しようと、またそれをどう評価しようと、そんな現状の中で生きている現実があって、どう考えてもそれ以外ではないわけだが、それを自力で何とかしようとしても、または周囲の人たちに助けられても、そのどちらにもなるだろうし、またどちらでもない場合もあるかもしれないが、自らの願望と現状を一致させるための努力が、意識してやっていることの全てかもしれないが、意識できない面では、それ以外のことも行われていて、またそれと自覚できないような周囲からの作用や影響によって、心身ともに変動し続けているのかもしれないし、そういうことも含めると、自身に関係する現状の全てを把握しているわけではなく、当人には気づかない面などいくらでもありそうなのだが、その人にとって現状が有利か不利かの判断以外で、妥当か否かの判断があるだろうし、できれば有利な立場になりたいが、不利な立場であるのが妥当なのではないかと思われてしまう場合もあるわけで、それが客観的な判断だと認識すると、それ以上は何をどうしようとも思わないのかもしれず、さらにそんな現状の中で我慢しながら生きて行こうと思われてくると、意識の中では現状維持の姿勢が定着するのかもしれないが、そうした物事の妥当性がどこから生じるのかといえば、あきらめの気持ちから生じるわけで、その人をあきらめさせるような周囲からの作用や影響が及ぼされていることになるのかもしれないし、そんな状況に自意識が呼応して、現実にあきらめの心境がもたらされているのかもしれないが、全てがそうであるわけでもないだろうし、ある面ではあきらめていても、別の面ではあきらめてはいないのかもしれず、またそこにも意識が気づかないところで、あきらめないように動作している可能性もあるわけで、自らのそういった面に気づくためにも、安易に良い方向や悪い方向へと感情が振り切れないように意識することが肝心なのかもしれず、それに関してはなるべく善悪や良い悪いの判断だけに偏らない方が、冷静な対応に結びつくのかもしれないが、もちろん全ての面で冷静さを保てるわけでもないだろうし、それに喜怒哀楽の感情がないと人として生きている面白みがなくなってしまい、そうでなくても普通に生きていればそれなりに心を揺り動かされる場面に遭遇するわけで、そこで無理に平静を装う必要もないわけだが、中にはいったん感情を爆発させないと冷静にはなれない場合もあるわけで、人の行動形態としてそういった面が結構あるわけだが、実際に行なっていることが感情の爆発を誘発させるような成り行きを伴っていると、わかっていてもそうなってしまうわけで、そのように人を動作させる仕組みを伴った社会システムが、そこで動作していることにもなるわけだが、そういう社会システムに人が巻き込まれると、そこで特定の感情が引き出されて、人にそうした動作を強いるような成り行きがもたらされて、そこで人がシステムによって感情をコントロールされていることにもなるわけで、またそういう動作を意図して引き出すことによって、何らかの効用が期待されているような場合もあって、そうであるなら、そこではそうなるのが当然の成り行きであって、それはそういうものだと捉えるしかないわけだが、例えばそこで否定的な感情が引き出されてしまうと不利な状況になり、また肯定的な感情が引き出されると有利な状況となるようなシステムがあるとすると、なるべく否定的な感情が引き出されないように、自分で自分の感情をコントロールしなければならなくなるような事態も生じてくるわけで、それがそこでのゲームのルールであれば、やはりそういう傾向が強くなるのではないか。

 自らを取り巻く周囲の状況が、自身にとって有利であろうと不利であろうと、その環境に適応しなければ生きていけないほどの深刻さが感じられなければ、とりあえずは普通に生きられる程度の環境がそこにあるわけだが、そこに社会があって大勢の人が普通に暮らしているなら、それほど深刻な状況とは感じられず、少なくともそこで人類が滅亡の危機を迎えているわけではないだろうし、比較的ひどい場合でも、犯罪が多発している程度のことだろうが、それよりもひどい戦争状態なら、普通に生活できない状態となっているだろうし、そうなっていると有利不利以前の問題かもしれないが、程度の違いに応じて事の深刻度も異なってくるわけで、どのような状態が妥当であるかは、周囲との比較によって決まってくるだろうし、しかもその比較も、比較する対象が違えば感じ方も違ってくるし、経済状態などでそれほど高望みをしなければ、自分と同じような境遇の中で暮らしている人たちとの比較にとどまっている限りで、極端な差異は感じられず、その程度なら妥当に感じられるだけかもしれないし、妥当だと感じられるなら、それほど不満はないだろうし、不満をぶつける対象も、隣近所や家族内や職場内などにとどまるなら、政府に不満をぶつけるとか、そういう大げさなことにはならないわけだが、ではなぜ時としてそれが政府に対する不満に結びつくのかといえば、そこに公的な政治制度があるからであり、また毎日のようにメディア上で政治情勢が伝えられるからだろうが、それも自らの生活状態からというよりは、見るからに不快な人たちが政治的な主導権を握っていると、それに対して反感が募ってくるわけで、なぜ不快になるかといえば、実際に批判されていて、その批判にそれなりに説得力があって、しかもその批判をものともせずに権力の座に居座っているから不快に感じられるわけだろうが、そこにそれらの政治勢力とそれを支援する人たちにとって有利な状況が生じていて、その有利な状況を支えているのが他ならぬそれらを批判する勢力やその支持者たちだとすると、何やら皮肉な成り行きとなってしまうだろうが、というよりは、たぶん批判する側もされる側も、どちらも今ある現状に適応しているのであり、そこにそうした現状が構成されていると捉えると、何やら他にやりようがなくなってくるかもしれないが、実態としてはそれを自覚しているか否かに関わらず、そうした役割分担を双方ともに受け入れていて、その役割分担から逸脱しようとしないから、そこでそうした現状が成り立っているのであり、それ以上でも以下でもないから、結果的にそうした役割分担を受け入れざるを得ない状況が形成されているわけだ。そしてこう述べてしまうと、何かごまかしのように感じられて、それは論理というよりはただの結果論に過ぎないし、結果を認めることこそが妥当な認識を伴っていて、それが現状そのもののように思われてくるわけだが、ではそうした結果が構成している役割分担から逸脱できるのかというと、批判している側が批判をやめれば、少なくとも批判している側は役割分担から解放されて、そこで構成されている予定調和の二項対立が崩れるわけだが、しかしその先に待っているのは批判を欠いた状況であり、そうなるとますます不快な状況となっていくかもしれないのだが、そこで怒りの感情を爆発させずに冷静に考えることが肝心だろうし、そこから今までと違う批判のやり方を模索する機会が生じてくるかもしれず、また批判とは違うことをやらざるを得なくなるかもしれないし、そうやって絶えず現状から主体的に立場を移動していかないと、いつまで経っても同じことの繰り返しに終始しながら、相変わらずの不利な立場を強いられてしまい、その先の主導権を握る機会を得られなくなってしまうのだが、では具体的にどうすればいいかと問うなら、実際に立場を少しづつ移動させていかないことには、光明が見えてこないだろうし、そうやって立場を少しつづ移動させていくことこそが、新たなやり方となるのかもしれず、そういう試みが実際にできれば、それが新たなやり方となるわけだが、それもそう述べているだけでは、ある意味でごまかしのはぐらかしに過ぎないように思われるかもしれないが、たぶん実践的に活動することによって、そうした試みにリアリティが生じてくるのではないか。


9月10日「政治に関する思考」

 行政機構による国家の統治そのものは民主主義の理念とは無関係で、ただ統治するために必要な官僚機構を、民衆の中から選挙で選ばれた代表者たちが利用することに関しては、民主的な国家の統治形態として妥当性があるわけだろうが、官僚機構の幹部候補などが民衆の中から試験で選ばれて、機構の中での出世競争に勝ち残って幹部に登り詰めることになるわけだから、当然のことながらエリート化しやすいわけで、それらのエリート官僚たちが、大企業の幹部や投資事業に成功した資本家などとともに、現代的な貴族層を形成している実態があるわけで、またそれらの層で世襲化が進むと、王侯貴族などが国家の主導権を握っていた時代と変わらなくなってくるわけだ。社会の中で選挙や選抜などによって希少価値が生み出されると、価値を求める競い合いの中から一部の特権的な層が形成されて、その価値を独占しようとする傾向が出てくるわけで、またその価値が希少であるほど、その獲得を巡る競争や抗争なども激化してくるわけだが、現状ではそんなことはあり得ないが、何らかの強制力を伴った制度改正とともに、そういった価値をなくしてしまうと、誰もそうした役割や役職をやりたがらなくなるし、その一方で万人の平等を目指した民主的なやり方としては、そういった社会的な役割分担に関しての価値の平準化を実現しない限り、民主的な理想を実現できないわけで、社会の中でどのような役割や役職を担っても、同じ価値しか獲得できなければ、わざわざそうした役割や役職を得る気にはならなくなってしまい、しかもそれが常に面倒で難しい判断を迫られて、うまくいかなければ他の大勢の民衆から批判されたり非難されるような役職ならば、なおさらやり手がいなくなってしまうだろうし、できることならそうした役職に就く人は、社会の中でも優秀で有能な部類に入る人が請け負って欲しいわけで、そのために選抜や選挙などによって優秀な人材が選ばれるわけだが、それが世襲化してしまうと、必ずしも優秀でなくても生まれながらに役職を担う立場になれてしまい、また社会の中の特定の層の出身者だけでそれらの役職が独占されてしまうと、ますます民主的な理想からはかけ離れた傾向になってしまうわけで、民主主義の理念を実現させるには、そうした成り行きは避けなければならないわけだが、それに関して現状に適合する妥当な方策としては、官僚機構の人員となる公務員の賃金や待遇を一般の民間企業の水準以下に抑えるとともに、そのトップには民間企業などでそれなりの経験を積んで引退した企業経営者などを名誉職として任命すれば、それなりに格好がつきそうだが、それ自体は民主主義の理想とは何の関係もないことでしかなく、官僚機構の構造が上意下達的な組織の原理をとっている限りで、そこに権力関係が生じて、結果的に民衆の意向を無視するような独善的かつ独裁的な傾向になりやすいわけで、そうならないような組織構造にしていかないとならないわけだが、それに関しては行政の不正を監視したり告発したりする市民オンブズマンなどの制度を、行政を監査する仕組みとしてそれなりの権限を持たせて、機構に組み入れるような試みも国によっては取り入れているのだが、ではそのオンブズマンとなる役職を担う人をどうやって決めるかとなると、そこでも妥当に思われるのは法曹関係者などから任命するようなことになってしまうだろうし、それも試験によって選抜された特権的な役職の経験者となるわけで、大した経歴もない普通の一般人がなれるような役職ではなく、能力的にも普通の一般人ができる役職とも思われないわけだ。だから民主主義的な政治体制を実現させるには、大多数の民衆が信頼できる人をそういった特別な役職に就けるしかないわけだが、何を持って信頼できる基準とするかも、単純で統一的なものとはなり難く、その場の情勢に応じて信頼度も変動してくると、基準そのものが定まらなくなってくるのではないか。

 議会などの公的な場で何らかの決まり事を定めるにしても、諸般の事情から善悪が交錯する面があると一概には決められず、そういった定まらない面では、その場の状況に応じてその時々で異なる対応が迫られるだろうし、また関係する方面で折り合いがついて、いったん定めた決まりについても、状況の変化に応じて折り合いがつかなくなってくると、それについても随時見直しを迫られるだろうし、そういったことの積み重ねによって社会情勢を最適に保つことができるかもしれないのだが、それもその場限りの暫定的なものにしかならないのかもしれないし、絶えずそれが誰にとって最適なのかを考えなければならないが、そんなふうにして法律や制度などの面で充実を図る以前に、そこで暮らして生活している人々の意識が、公的な活動に関心がないと、そういう成り行きに持っていくのは難しいだろうし、またそうしたことに関心を向けさせようとして、いくら啓蒙活動を試みても、人々に経済的な余裕がないと、そういった分野には関心を持てないだろうし、逆にそういった特定の方面で不利益を受けていると、そのことだけに関心があって、他のことには無関心となってしまうわけだが、実際に家族を養うために仕事に追われる日々を過ごしていれば、公的な行事や政治的な集会などにも参加する余裕などないわけだが、また経済的に余裕が出てくると同時に時間的にも余裕が出てきて、暇をもてあますような身分ともなれば、今度は趣味や娯楽に関心を向けるから、やはりそういう方面がなおざりになってしまうわけで、さらに暇がなくても政治などに関心を持っていて、それに関する知識や情報を得ようとして、メディアなどから知りたい情報を収集しようとすると、その前には特定の主義主張に意図的に誘導しようとするメディアが待ち構えていて、そこから流される安易なデマを信じたり、ポピュリズム的な煽動によって偏った知識を脳にインプットされてしまう危険性も出てくるだろうし、その際に踏まえておかなければならないことは、それらの主義主張の中で喧伝される政治活動によって成し遂げなければならないことが、結局誰を利することになるのかを考えてみなければならないだろうし、たとえそれが国を利することでも、また企業を利することであっても、その中で暮らしている一般の民衆を利することにはならないかもしれないし、一般の民衆の中でも特定の階層を利することが、別の階層には不利益をもたらすことになるのかもしれないし、果たしてそうした利益誘導のような行為が、そこで暮らす人々のためになっているかというと、たとえ多少の金銭的な利益がもたらされるとしても、その内容によっては人心が乱れて世の中が荒廃するかもしれないし、そうしたことを考えていくと、何か一つのことが良くなるような主張というのは、そういう主張を突き詰めていくと、それとは別のことが悪くなる可能性があるわけで、そうやって世の中では様々な物事が連動して作用し合い影響し合っていて、単純な主張を真に受けると、それ以外の方面への作用や影響を考慮できなくなってくるだろうし、そういう意味でメディアや政治勢力が特定の問題に人々の関心を誘導して、それだけのことに関して賛否を問うような選択を提示してくると、何かそこにそれとは別の方面で触れられたくない都合の悪い事情を抱えていて、それを意図的に隠している可能性があるわけで、だからそういう特定の事案について煽り立てをやってくるメディアや政治勢力などは信用しない方がいいだろうし、特にそれに関連して敵対する他のメディアや政治勢力などを攻撃している場合には、なおのことそうした面で都合の悪い事情を隠している場合が多いわけだから、そういう煽動に接したら、まずはそういう煽動を行なっている勢力にとっての都合の悪い事情を考えてみるべきだろうし、そうやって絶えず良い面と悪い面の両方面から両義的かつ複合的に物事を思考することが、それなりにバランスのとれた現状認識に至るには必要なことなのではないか。そして自分や自分が支持している勢力が公的な政治領域で主導権を握ったところで、それによって不利益を被る人や勢力が出てくるようなことになれば、それが将来に禍根を残すことにもなるわけで、そういう面も考慮してみる必要もあるのかもしれない。


9月9日「見せかけの世界」

 何かを他人に向かって見せている人には虚栄や虚飾がつきものだが、大抵は見せかけには仮の目的が設定されていて、その目的が見せかける理由として世間的にも妥当だと思われるから、そんな目的があるかのように装い、それを他人に信じ込ませようとしているわけで、またそれとは違う真の目的があるかのように見せかけている場合でも、仮の目的が見せかけであることをほのめかして、暗にそれとは違う真の目的を探させようと仕向けて、そうやって見ている人に疑念を抱かせるわけだが、それに関してヒントとなるようなことをほのめかして、そのヒントから答えを連想させて、それが真の目的だと信じ込ませようともしているわけで、それこそが見せかけの仮の目的であるとすれば、実際には当人にも目的がわかっていないかもしれないし、初めから目的などなかったりする場合もありそうだが、そうやってたとえいくら独りよがりに勝手に何かをやっているように装ってみても、実際に世の中で何をやるにも、それなりの制約や制限が伴ってくるわけで、それがそれを行うための外部的な条件にもなってきて、その条件を満たしているからそんなことができて、条件を満たさなければできないわけだが、当人がそれを勝手にやっていると思い込んでいても、当人には自覚できない心理的あるいは物理的な制約や制限を課している境遇の中で、できることがそれ相応に限られていて、そんな中でもやっていることが仕事となると、それが収入に結びつく限りで仕事とみなされて、その仕事が生じさせる価値を金銭と交換できないと収入が生じないわけだが、それには交換に応じてくれる他の人や団体がいないと、そういう類いの仕事は成り立たなくなるわけで、それが仕事を成り立たせる上での外部条件ともなるわけだが、そういう仕事以外に、特に収入に結びつかないのにやっていることでも、趣味でやっていることをはじめとして様々にあるだろうが、それらのどこからどこまでが見せかけであるとしても、そういった見せかけの演技を行なう上で、なぜそんなものを他人に見せようとしているのかに関して、見せかけている当人の自覚以上の何かが感じられるとすれば、やはりそこには、そんな見せかけの演技をもたらしている社会状況があって、その人に見せかけの演技を課している外部事情として、その人を取り巻く社会状況がその演技に反映していて、そこで何かを見せかけなければならない事情がその人の演技を通して生じているわけだろうが、そんなメディアを通した見せかけだけの世界に心を奪われていると、何か感覚が狂ってくるだろうし、そこから見せかけ以外の真の現実が他にあるかのように思われてしまうと、それこそが感覚の狂いから生じる幻影に過ぎないのかもしれず、真の現実として、そこには見せかけ以外の何もなく、見せかけこそが全てであり、見せかけていない部分など枝葉末節な取るに足らない些事であり、要するに何かを見せたいと思うことこそが真の目的であり、それ以外ではないとしたら、そんな傾向の社会の中で人々は絶えず自らの虚栄や虚飾を見せたくてうずうずしていることにもなるだろうし、それを特定の他人に見せたいというよりは、世間に向かって誇示したいのかもしれず、そうした感情を抑えきれないから、そうした自己顕示欲を他人と競い合うようにして見せる成り行きが生じてしまうわけだろうし、またメディアをはじめとしてそうした行為を煽り立てるようなことが盛んに行われていて、絶えずそこに人々の関心を集めようとしているわけだ。そしてそうした社会状況が何をもたらしているのかといえば、単に見せびらかしの演技が世の中に蔓延しているのかもしれず、他より目立ちたいがための無用な見せびらかしの競争が盛んに行われていて、それだけ無駄な労力と資源が過剰に消費されて、そうした成り行きの中で多くの人々が見せかけの繁栄を謳歌していて、それを見ている他の多くの人々も、それを羨ましがったり妬んでいるような社会状況がもたらされているわけだ。

 果たしてそれ以外の真の現実と言える何かを見い出すことができるだろうか。いくら見出そうとしても、それが一向に見えてこない限りは、何かとは何かでしかないかもしれないが、さらにそこから踏み出して、現状で見えているとりあえずのものでしかない仮の現実を取り去ろうとすれば、その取り去ろうとする動作さえも、それを見せようとすれば、見せかけの演技でしかなくなってしまうのかもしれないが、そこで何に気づいて何に気づかないにしても、見せかけようとすると、それ以外の何かが見えてしまう場合もあるだろうし、それが見せかけようとしている人には気づかない何かになるわけだが、例えばそれが書き割りの舞台セットであったり、張りぼての小道具であることに気づいたとしても、それは見せかけようとしている人にも気づいていることであり、気づいていることに気づかないように演技しているわけだから、見せかけでしかないことを承知しながら演技しているわけだが、そんな見せかけの物語の中に、それを演じている人も見ている人も意識が入り込んでくる一方で、演じている自らもそれを見ている自らも張りぼてでしかなく、見せかけている舞台装置もそれを見ている観客席も施設全体が張りぼてでしかないとは思わないだろうし、少なくともそれなりの中身を伴っているからこそ、実態としてそこに経済が生じていて、そこで人や物や情報を含んだ物事が取り扱われているわけだが、とりあえずはその誰もが信じて疑いようのない物事の中身というのが、見かけとは違うことを証明できるかというと、たぶんそれが見かけ倒しになった時に初めて、見かけとは違うことに気づくわけで、それを見せかけようとしている限りで、わざとぐろい光景を見せようとするにではない限り、その大抵は良く見せようとしているわけだから、そのままの印象では見かけと同じで、良い印象しか持たれないだろうし、その限りで見せかける行為が成功していることになるわけだが、それとは違う真の姿としては、見かけ倒しになること以外にはあり得ないわけで、またその見せかけの演技が見せかけでしかないことを暴いて批判しようとする人たちも、それが見掛け倒しでしかないことを強調したがるわけで、そしてそういう面を強調しすぎると、見掛け倒しであるかのように見せかけようとして、かえって物事の真の姿を取り逃がして、そんな批判自体が見かけ倒しとなってしまって、見かけ倒しに見せかけることにも失敗してしまうのだが、そこで動作するすべての出来事が見せかけることを中心にして動いていくと、もはや見かけに囚われた意識の中では見せかけること以外の現実など存在しなくなるのかもしれず、たとえそれが現実の中に存在していても、見せかけることに心を奪われているのだから、意識がそれに気づけないのも当然であり、そうなってくると結局は、自分の都合のいいように都合のいい部分だけを世間に見せたいという意識に囚われている自らを意識できなくなるわけだが、そういう見栄を張る行為以外で、何か実態を伴った意味や意義を世の中に見い出せるかとなると、たぶんそれ以外には何もなくても、取り立てて不都合は感じないのかもしれず、中には命に代えても見栄を張りたい意識に囚われたまま自滅してしまう人も出てくるかもしれないし、見かけこそが全てだと強調しても、それほど反発を招かないような世の中になっているのかもしれないが、やはりそうなると物事の表層で変化する些細な濃淡の違いを強調せざるを得なくなるわけで、それが物事としての成り立ちや動作にはそれほど影響を与えなくても、それを見る意識には多大な影響を及ぼすわけで、ちょっとの違いに過剰に反応して、しかもそれを自らの立場や境遇に応じた事情から生じる都合のいいように解釈して、そんな都合に合わせた色眼鏡を通してしか物事を見ようとせず、それが他の事情から生じる別の人の都合を反映した色眼鏡を通した物事とは違うように見えているとしても、そうした差異にも過剰に反応するしかないだろうし、そうした過敏な視覚神経が感知する意識の中では、物事を見ることだけに特化した世界に感じられるだろうし、それ以外の感覚が劣化して衰えているとすれば、それが何に対して衰えていると判断されるかがよくわからないところかもしれないが、そのような判断の対象となる感覚の持ち主からすれば、見栄を張るだけに特化した視覚過敏な人たちは何か狂っていると感じるだろうし、そういう人たちが張りぼて人形の類いに感じられても仕方のないところなのではないか。


9月8日「強いられた行為」

 たわいないことに血眼になっている人たちは、それがメディア上で行われていることなら、広告宣伝現象に操られていると言えるかもしれないが、何が広告宣伝なのかと言えば、たぶん売名行為は自身の広告宣伝であると言えるだろうし、自身の存在を広く世の中に知らしめることが、たわいないことだとは思えなければ、血眼になってそんなことを行なっていると見えてしまうわけだが、そうすることによって利益がもたらされるなら、それがたわいないことだとは言えないような気になるだろうし、功利的な行為ともなれば、どのようなやり方で利益を得ようと変わりないようにも思えるかもしれないし、少なくとも合法的な行為であれば、社会的にも許されるようにも思われてくるわけだが、では倫理的に許されるかとなると、何か微妙な感じがしないでもなく、自らのやっていることが、売名行為以外の面でも、あるいは功利的な面以外でも、例えば社会貢献となるようなことをやっていると思えるなら、自らが重視する倫理観にも合致するかもしれないが、自らの利益と社会の利益を合致させるには、自身とともに周囲の人々もやっていることに賛同してくれるなら、何やらその気になって、自らの行為を正当化してもいいような気になってくるだろうし、社会貢献とはそういうことなのかと問うならば、何が社会のためになるのかは、それほど明確な基準があるとは言えないのかもしれないが、その辺で安易には決めつけられないにしても、何だかわからない曖昧なことをやっている限りで、そういう捉え方がある意味で責任逃れのようにも思われてくるのだろうが、自らがやっていることについて、自らに責任があると自覚できるのは、それが明確に他人を巻き込んでいる場合であり、実際にそうなっているか否かが、判断基準となってくるだろうし、そこから社会的な責任も生じてくるのだろうが、しかも他人に不利益を生じさせているとなると、その他人に賠償しなければならなくなる場合も出てくるわけで、そうした自身と他人との関わり合いから、自身と社会との関わりも自覚できるようになるわけだが、単に自らの倫理基準が、他人に迷惑をかけているか否か、ということにもならないのかもしれず、たとえ他人に迷惑をかけていても、自分が納得していれば苦にならない場合もあるだろうし、結果的にそうなってしまうのだから仕方がないと割り切ってしまえば、いくら他人に迷惑をかけようと、やっていることにそれ以上の価値があるように思われてくると、周りに多くの犠牲を強いるようなことでも、やる意義があるように思われてくるだろうが、それ以前に自分が主体的にやっているのではなく、何らかの事情でやらされていることともなれば、やらせている側に責任があって、やらされている限りで受動的な立場でいられるから、その分楽な立場でいられるような気にはなれるだろうし、それがそうしたことをやらせる集団に所属することから生じる居心地の良さにもつながってくるのかもしれないが、たぶん周囲に多くの犠牲を強いるようなことは、集団で行われることが多いだろうし、単独で大量殺傷事件などを起こしたりするのでない限りは、これは上からの命令でやらされていることなのだから、どんなにひどいことをやっていると自覚していても、自分にはどうすることもできないと思いながらやってしまう場合が出てくるわけで、それが集団で行うことの利点かもしれないし、それだけ理不尽なことを大っぴらに行えるわけだが、また集団として組織的な統率がとれていない時でも、群集心理として、他の人たちがやっているのだから自分がやっても構わないと感じられてしまう時などは、例えば暴動が起こってそれに乗じて略奪行為などが行われる時には、集団がそういう心理状態に支配されていることになるわけだが、ある意味でメディア的な広告宣伝現象の中で多くの人たちが踊らされるような場合でも、そういう心理が働くだろうし、他人がやっているのだから自分がやっても構わないと思うだろうし、しかもそれがどう考えてもたわいないことであって、周囲にもそれほど迷惑をかけていないと思われ、売名行為といっても本名をさらしているわけでもなければ、それだけ無責任な気分で馬鹿げたことができるわけだ。

 人に無責任なことを行わせるのは、そういった様々な条件を満たしている限りで、それが可能となってくるわけだろうが、場合によってはやりたいことをやっている気にもなれて、やる動機とかやっていることの理由づけとして、そうした条件を持ち出してくることもあるわけだが、中にはもっと切実な自らの内から湧き上がってくるような情熱を持ってやっている人もいるだろうし、そういう何だかわからないような動機というのが、芸術などの方面では、やっている自らを正当化する上で重視される傾向があるのかもしれず、それを幻想だとみなしても構わないのだろうが、自らの主体性を確立するにはそうした幻想や妄想を利用しない手はないだろうし、そういった起源の定かでない原初的な動機というのが、突き詰めて考えると自らの存在そのものに行き着いてしまうわけで、自らが存在していることを肯定的に捉えて正当化する上で、自らが実際に行なっていることが、その存在の証明にもなり、自らに関わる全てが、実際に自らの意志で主体的に行なっていることの中に凝集されているようにも思えるのではないか。そうなってしまうと他との関わりとは無関係にやっているようにも思われてくるわけだが、そこで何を重視するかによって力点も移動するわけで、単独で何かを行う傾向の強い人ほど、独りよがりな妄想にとらわれる傾向も強くなって、また他との協力や協調を重視する傾向の強い人ほど、自分を突き放して見ていて、自分の能力や限界に関して幻想を抱かない傾向となるのかもしれないが、自分一人で全ての傾向を持つことは不可能だから、様々な傾向を持った人たちを用途に合わせて効果的に組み合わせることによって、集団の組織力を高めようとする傾向にもなるだろうし、実際にそういう集団に関わってみて、その関わっている事業などが大成功しているようだと、集団としての能力や強さに関して、何か万能であるかのような幻想も抱いてしまうのかもしれないが、それもその集団だけで単独で存在しているわけでもないだろうし、それに関わってくる周囲の人や他の集団との相対的な力関係の中で存在しているわけだから、結局個人にしても集団にしても、それだけについて考えてしまうと、その中にそれ相応の力がみなぎっているような幻想を抱いてしまうわけで、場合によってはそういう能力に関する過大評価が仇となってしまう事態も生じてくるわけだ。それは国家や民族や宗派などにも言えることかもしれず、過大評価する要因に事欠かないだろうが、それらを脅威に感じること自体がすでに過大評価を伴っているわけで、一方では他国を過大評価しながら脅威に感じたり危険視しながらも、もう一方では貶めて欠点をあげつらって批判するような成り行きも生じてしまい、それらのどこからどこまでが本当の実態を反映しているのか理解に苦しむかもしれないが、そうした幻想や妄想を抱かせること自体が、そうなってしまう自らの自信のなさが反映されているのかもしれし、そんなふうにあることないこと混ぜ合わせて妄想を膨らませるように仕向けてしまう原因が、そんなことをやっている自らにあり、その対象が他国なら、自国にその原因があるわけだろうが、自らの自信のなさを紛らわすために、他人の欠点をあげつらうように、自国のどうしようもない現状から目をそらすために、他国の欠点や問題点を盛んに論じる傾向も出てくるのかもしれないし、そこからさらにまた、自国のどうしようもない現状を盛んに言い立てることが、そのどうしようもない現状に直接取り組んで、状況を改善するための手段を欠いている絶望感につながっているのかもしれないし、いずれにしてもそれは責任逃れというよりは、自らがそのことに関して責任を取りようのないどうしようもなさを実感させるのかもしれず、そういうことがメディア上で盛んに言い立てられている現状があるとすれば、それと自覚することなくそういう人たちが悲鳴を上げていると判断しても構わないのではないか。誰もがそういう状況の中で疑心暗鬼に陥っているだろうし、根本的なところで何をどうすればいいのかわからないから、絶えずそこから外れてしまうような逸脱の中で、自らをはぐらかすような言動に終始しているのではないか。


9月7日「許容限度」

 集団の組織的な編成というのは、それが有効に機能しだすと、個人では対処できない強度を生み出して、時としてその集団が間違ったことをやっているように思われても、それを個人がいくら批判してもどうにもならない場合が出てくるし、結局それがもとで対立や軋轢が生じて、それに関わってくる集団と集団の争いに発展するようなことにでもなれば、持続性のある大規模な争いに至って、それに伴って世の中の様々な方面へと混乱が拡大することにもなる。それは集団の種類や勢力の規模にも、そこに至る経緯にもよるだろうが、集団の構成員の一人一人が、内外の事案に関して柔軟な対応を心がけても、それらをうまく連携させて事に当たらないと、そうした事態には対応できないし、その過程で集団として個人を抑圧するのではなく、集団内の個人が集団の内外にいる他の個人と、対等で平等な協調協力関係を構築できれば、集団として発揮する機能やそこから生じる効果を、個人のレベルでも役立てることができるのだが、集団の利益を優先させるあまり、個人的な事情を考慮しないで、融通の利かない教条主義的で一律な対応に終始するようだと、やはり個人にとっては不便や不利益を被る結果になってしまうのではないか。また集団が個人に対してきめ細やかな対応を心がけるにしても、それは集団に対して特定の権限を行使できる優位な立場にある個人に対してではなく、不利な立場にある個人を助けるために集団の力を行使するようなことをやれば、集団としての社会的な信用を高めることにもなり、それによって助けられた個人も集団に感謝するだろうし、そうやって個人と集団の間で良好な関係が保たれることにもなるだろうが、そうなるには、集団を利用する大多数の個人が、集団の利益に貢献できて初めて、集団がごく一部の不利な立場にある個人を助けることができるわけで、その辺の兼ね合いが微妙なところで、どうしても集団の中で権限や権力を持っている立場の個人が、その有利な立場を利用して集団を私物化するような成り行きになりやすいわけで、そういう成り行きを防止する措置を法律や制度を工夫することによって講じても、集団内で内紛や派閥争いなどが起こる度に、争いに勝利した派閥の領袖へと、なし崩し的に権限や権力が集中する結果をもたらすわけで、そうなると法律や制度が形骸化して、実質的な面で独裁体制のような形態になりやすく、またそうならないと、集団内で統制がとれないことにもなるだろうし、なぜそうなってしまうのかといえば、集団の内外で競合する集団や派閥が形成されて、そこで争いが起こるからで、争いにはその集団や派閥に求心力がないと勝利できないし、それらが集団としてまとまりを保つためには、それなりの拘束力が必要で、要するに権力を行使して集団の内外の人たちを従わせることになるわけで、そこで掟を課して従わせるにしても、それを強制する脅しがないと、なかなか従ってくれないし、そうなるとやはり最終的に暴力を行使できる手段を擁していないとならなくなって、平和的に対等で平等な関係を維持しながら行う交渉や取引だけでは、人を従わせることは難しいわけだ。そして人を従わせるということは、従うことを強いられた人たちに憎悪の感情を生じさせて、そういう不快で否定的な感情を伴いながら従うことになるわけだから、表面的には従いつつも、隙あらばそうした主従関係を逆転させて、自らが集団を支配して人を従わせる立場になりたいという野望を生み、そうした願望を秘めた人たちによる争いも激化するわけで、そうした傾向に歯止めがかからないと、ますます暴力的なやり方に拍車がかかってしまうだろうし、また利益供与などの腐敗もはびこることにもなるわけだが、それをやめさせるには、そこに暮らす全ての人が自らの生殺与奪権を委譲するような、誰も逆らうことができない絶対的な権限を保持する行政管理機構が必要となってしまうわけだが、仮にそうなったとしても、そうした機構に競合する別の機構が出現する可能性が出てくるわけだから、そうしたやり方がうまくいかないことは目に見えていて、結局は通常でもそうした管理統治がうまくいかなくなることを前提として、絶えずうまくいかない事態に対処し続けるようなやり方となっていくわけで、そんな対処を行なっていく過程で、暫定的にそうした集団に関わる個々人の間で、平和的に対等で平等な関係を維持しながら、そこで出てくる諸問題に対して、交渉や取引によって妥協や調整を図るような成り行きが生じてくるわけだ。

 人々が寄り集まって集団を形成するのは必然的な成り行きだとしても、集団で活動していくとうまくいかなくなるのも必然的な成り行きであり、どうなるにしても、そこで暫定的な調整や妥協を図るには、必然的に交渉や取引が行われることになるわけだが、そうしたことをやった結果として現状が生じていて、そこでもうまくいかないことが出てくれば、またそれに対して暫定的な調整や妥協を図るために、関係する人や集団の間で交渉や取引が行われることになるわけで、そういう対応を絶えず行いながら、結果的に社会が維持されていくわけだから、当然そこでは調整や妥協が必要となるような出来事がひっきりなしに起こり、それに関係する人や集団が対応に追われるわけで、そうした対応をきめ細かにやっていくときりがなくなるわけだが、できる範囲内でやっていくしかないだろうし、実際にそんなことが行われている現状があるわけだが、個々の対応に関して不満や批判が出てくるのも当然の成り行きで、そうした不満や批判にも応えていく必要も出てきて、やはりそうした対応もできるだけきめ細かに行なっていく必要が出てくるわけで、そうした対応をやっていること自体が、そこに関係している人や集団の活動となっていて、活動がうまくいっているということは、対応がそれなりに機能して効果を上げていることにもなるわけで、それはそこで何か問題が生じてくるのを未然に防ぐような効果もある一方で、生じてきた問題に対応することも活動に含まれるわけだから、そうした活動自体に不条理な面があって、逆に考えれば問題がひっきりなしに生じてこないと、活動が成り立たない面もあるわけで、問題が生じてこないような措置が功を奏して、実際に問題が出てこなくなってしまっては困るとなると、かえってそういう方面での対応はある程度おろそかにしておいた方が、活動を成り立たせる上では好都合ともなってくるわけで、しかも新たな問題が生じてくる度に新たな対処法を確立しなければならないのは、大変な困難を伴うならば、常時同じような問題が起こるように調整しておけば、問題が起こる度に同じ対応に終始していればいいわけだから、それだけ活動が楽になるわけで、そのための費用もそれまでの経験から計算できるし、そういう成り行きもそれへの対応を行う集団にとっては好都合となるわけだ。そしてそういう成り行きを重視するなら、問題の全面的な解決など目指す必要はなく、絶えず問題が起こっていて、その問題に対処し続けることで成り立つ活動を続けていれば、それで構わないことになってしまうだろうし、実際にそうなっている面があることが、ある意味では社会の中に不条理を生じさせているわけで、大した効果も期待できない同じような対処法が延々と繰り返されているところでは、新たな対処法によってそれが解決されてしまうのを阻むような思惑が働いている可能性があるわけで、常日頃からそういう問題に苦しめられている人や集団にとってはたまったものではないだろうが、そういう問題に関わって活動を成り立たせている側では、それが起こらないと商売が上がったりになってしまうわけだから、それこそが死活問題であり、是が非でもそういう問題が起こり続けることが望まれているわけで、そうであるなら逆にそれを問題とは捉えないで、利益を得るために必要な幸運をもたらす出来事とみなされてしまうのかもしれないが、そこから恩恵と弊害の両方が生じてくるということは、古くからわかっていることでもあり、例えば古代のエジプトのナイル川で季節に合わせて定期的に洪水による河川の氾濫が起こったから、そこに肥沃な土地が形成されて、その土地を耕すことで豊富な農作物を収穫できて、それによって文明を発達させた経緯もあるわけで、そうした利用法を現代的な科学技術の粋を集めて突き詰めることが、恩恵と弊害の極端な効果を発動させることにもなるわけで、その良い例でもあり悪い例でもあるのが、原子力の利用でもあるわけで、確かに原子力発電によって安定した電力を確保できる半面で、そこから出る放射性廃棄物や、事故が起こった時に発生する甚大な被害については、場合によっては取り返しのつかない深刻な事態を引き起こしてしまうわけだから、そういうやり方を推進するのにも限度があることは踏まえておくべきなのかもしれない。


9月6日「相対性の循環」

 社会が様々な人や集団の活動に細分化されていて、全体として統一したまとまりが感じられないことは、そういう捉え方ができるということ以外の意味はないのかもしれないが、そういう捉え方以外では国家としてのまとまりとか、地域としてのまとまりとか、あるいは民族や言語や宗教としてのまとまりとか、様々なまとまりとして重層的に社会を捉えられないこともないわけだが、そういうまとまりとして世界が細分化されていることも、そういう捉え方ができるという以外の意味はないだろうか。その中で人や集団の相対的な立場や境遇が生じていて、そこから生じる活動が流動的に起こっているのが社会の現状であり、全体としてそんな世界情勢を示しているわけだが、それらはどこまでもそんなことであり、それ以外ではないと同時に、それ以外にも様々なことが起こっていて、その中で何をどうしたらいいかということが、そうした現状から求められるわけでもなく、また実際に様々なことが行われているわけで、その行われていることに対する認識や見解がそれ相応に評価されていて、それに対する肯定や否定や賞賛や賛同や批判や非難などが起こっているわけだ。そんなことから考えていくと、それらの全てを相対的に受け止めて、そこで生じている人や集団の立場や境遇などを相対的に判断して、やっていることについても相対的に評価すればいいような気になるのだが、たぶん実際にはそうはならないわけで、当の立場や境遇の中で実際に存在している人や集団にとっては、距離感なしに直接そうなっているのであり、またそれらの人たちが直接行っていることについても、そんなことをやっている自分たちを正当化せずにはいられないわけで、そういう立場や境遇から生じてくる不均衡や不平等を批判したり、やっていることを否定して非難してくる人たちと、戦って勝利しないと、そのような立場や境遇を保っていられないし、負けてしまったら、やっていることを継続して行えなくなってしまうだろうし、だからそこで絶えず戦いが起こっているわけだが、それもそういう捉え方があるということ以外の意味はないのかもしれないが、そこでネガティヴな批判や否定や非難が起こらないように対処していくことでも、そのような立場や境遇を保っていけるだろうし、それによって無用な戦いを回避することができるかもしれないのだが、それもその場の情勢次第な面があって、大抵は否応なくそうした成り行きが生じてきて、そこに関わってくる人たちもそうした成り行きに否応なく巻き込まれてしまって、その巻き込まれてしまう成り行きというのが、ネガティヴに感じられることやボジティブに感じられることになるわけで、それらをそこに巻き込まれてしまう人たちにはどうすることもできないわけではないが、否応なくそうなってしまうのだから、そうなってしまったことについては、その場の状況に応じてネガティヴにもポジティブにも受け止められるわけで、そういう状態を変えようとするにも、保とうとするにも、そうした成り行きの中でそれなりに努力していくことになるわけだが、そうした努力によってもたらされる結果も、それなりに受け止めるしかないわけで、またそこからそれに対する対処も行われて、さらに対処した結果もそれなりに受け止められるわけだ。そんなわけでどうあがいてもそこから抜け出るわけにはいかなくなるのだろうが、抜け出ようとしても、そこには抜け出ようとする努力に応じた結果がもたらされて、そんな結果をそれなりに受け止めざるを得なくなるだろうし、それを肯定的に受け止めるか否定的に受け止めるかは、その場の状況に左右されるだろうし、やはりそこでもそういう捉え方ができるということ以外の意味はないようにも思われてしまうわけだが、意味があろうとなかろうと、人も集団も自分たちの置かれた立場や境遇の中で活動する以外にはあり得ないのだから、他の人や集団と連携して協力するなり、対立して戦うなりして、そういう成り行きの中で様々な人たちがもがいている状況が、こんな世界を構成しているわけだ。

 それ以上に何をどう捉えても意味のないことだとは思えないにしても、実際に他人のやっていることを評価したり批判する人たちは、それ以上を求めているわけだろうし、現状に関して何か言わないと気が済まないわけで、言ってみたところで、言った通りにならないと気が済まないわけで、そうならなければ不快感をあらわにして、さらに語気を強めて言うことになるわけで、どこまで言ってもきりがないことにもなってきてしまうわけだが、たぶんそんなことを言ってみたところで、何がどうなるわけでもないことを悟ってしまえば、それまでに言ってきたことを否定しなければならないことにもなりかねないから、どうあってもそれを認めるわけにはいかないだろうし、そうやって自らが言ってきたことが自らの判断や立場を限定してしまって、自業自得のようにして自らの言動に縛られながら、自ら墓穴を掘るような結果をもたらすわけで、そういう自ら定めた特定の価値判断の中で凝り固まってしまうことに関しては、いったんそこにとどまってしまえば、それ以上は求めようがないわけだが、中には自己否定もせずに、ぬけぬけとそれまでの言動を翻して、真逆なことを述べている人もいるのかもしれないし、そんな自覚がないままにそんなことを言っても、取り立ててそのことについては特に批判も非難もされない立場というのもあるだろうし、そういう意味では人の言動にも相対的な価値基準があったりなかったりして、あまり自らの言動の責任を自らに課さない方が無難なのかもしれず、全ては他人が評価することであり、それが気に入らなければ、自分で自分の立場を正当化することにもなってしまうし、そこでも流動的に物事の評価が変わっていってしまい、自ら示し定めたことの中に自らがとどまれない成り行きにもなってしまうわけだから、そんな揺れ動きの中で、他人のやっていることを評価したり批判している限りで、そういう行為が自らの支えにならないことは十分に承知しておくべきで、いつまでもそんなことにこだわっていても、そのこだわりの中に取り残されてしまうだけで、それ以上に何がどうなるわけでもなく、そうしたこだわりも時間経過の中ですり減っていってしまい、時が経てば他の価値判断とともに何でもないことになってしまうわけだが、たぶんそれに逆らって絶対的な価値基準というのは設定できないだろうし、全ての物事が相対的な価値基準に基づいて取り扱われている現状があるとすれば、そんな物事に一時的にこだわるとしても、そのこだわりへの強度が、その場の状況次第で変動を被ることは考慮しておくべきだろうし、実際に何か決定的な価値基準がなければ、他に信用できるものを探す必要はないのかもしれず、他を探すのではなく、それ自身に宿っている特徴や仕組みを効果的に利用する以外にないのかもしれないし、できる範囲内でそれらを考慮しながら工夫を凝らすしかなく、それをやった上で足りないものを外部から調達するような折衷案がもたらされて、それも暫定的なやり方であることは承知しておくべきだろうし、何かこうすれば大丈夫という気休め的なやり方にすがりだすときりがなくなるから、そういうところで倫理観を働かせないと、何事も状況に流されるままに、中途半端なことで妥協せざるを得なくなってしまうわけで、その場で工夫を凝らした暫定的なやり方とともに、その場に及ぼされる様々な作用を組み合わせて、状況に応じた妥当性を探っていく中で、そこから導き出されるとりあえずの結論を、その場に適用するにとどめておくことが妥当で無難なのかもしれず、またそこから独自のこだわりを生み出すほどまでには深入りせずに、別の事態に直面したら、いつまでもこれまでのやり方にこだわっていないで、さっさと別のやり方を模索していくことも肝要だろうし、全ての物事を一つのやり方や思考で処理しようとせずに、絶えず雑種的な複数の組み合わせを試しながら、直面する物事に柔軟に対応していくべきで、そこでも倫理的にこだわるべきことが出てくるかもしれないが、その倫理がどこから出てくるのかといえば、例えばそれは、できるだけ他人の迷惑にならないように振る舞うべきとか、そういった簡単なレベルにとどめておいても構わないのかもしれず、そうやって何事も大げさに考えないことが、深刻ぶって自意識過剰に陥らないためには必要なことかもしれないのだが、それも時と場合によっては通用しないやり方であることも踏まえておくべきだろうし、結局は究極の状態には到達しないで、程度や強度の相対性の中でぐるぐる回っているような社会が構成されることになるのではないか。


9月5日「民意の整合性と生成の経緯」

 論理というのは、そこで論理的な整合性が取れていれば、何かそれで正しいように思われるが、一方でそれが成り立つ条件があるとすれば、その条件を満たさないと成り立たない論理となるわけで、その辺から何か物事の正しさというのが、微妙なニュアンスを伴ってくるのだろうが、述べていることに論理的な整合性があっても、それを満たす条件次第では正しいとも間違っているとも言えなくなり、特に政治や経済の分野では、あまり理論の類いに信用がおけなくなってくるのかもしれないし、それとの兼ね合いで、歴史的な経緯から生じる妥当性というも、それなりに考慮しなければならなくなるのかもしれない。そして政治との関連で民主主義という概念を考えてみると、公的な政治の場で何をやるにも、民衆の同意を必要とするのが、民主主義の理想と言えるのかもしれないが、何を持って民衆の同意を取り付けたことになるのかと言えば、特定の政治家や政党が、選挙で民衆の支持を得て勝利すれば、制度的には一応民衆の同意を取り付けたことになるのだろうが、その実態となると、政治的な主導権を握っている側としては、どのような形であっても、多少のごまかしは承知の上で、民衆の支持や同意を取り付けたことにしたいわけで、それに絡んでメディアの方でも政治に影響力を行使しようとしてくる中で、世論調査という手法を用いて、民意や世論とメディアの意向を混ぜ合わせて、そうした意向に政治を従わせようとするわけで、そうやって公的な政治制度とは違う仕組みがそこに付け加わって、政治と民衆の間にメディアが介在してくるような様相を呈してくるわけだが、歴史的な経緯としては、メディア自体がもともと政党などの機関紙としての役割を果たしていて、そこで政治的な主義主張を民衆に向かって宣伝していたわけで、それは今でも部分的にはそうなのだが、そうやって民衆と行政の間に政治家や政党などの政治勢力が介在してくることによって、公的な政治制度が成り立ってきたわけで、またそういう成り行きの途中から、さらに公正中立を装った純粋なメディア勢力として、世論調査などを用いて政治的な領域に介入してくるような経緯も生じてきたわけだから、それだけ行政と民衆の間に、様々な勢力の思惑や意図が複雑に入り組みながら介入してくることになり、そうなると途中で恣意的な捻じ曲げや変質が伴うから、民衆の意向が行政に直接届きにくい事態となってくるわけだろうが、もちろん政治家や政党にもあるいはメディアなどの勢力にも、民衆の意向を行政へ届けるためにそんなことをやっている、という大義名分や口実があるわけで、そうやってそれらの勢力の意向が民衆の意向であるかのように見せかけている面があるわけだから、それ自体が民衆の名を騙った権力の行使には違いなく、本当にそれが民衆の意向なのかどうかは、やはり選挙結果や世論調査結果などによってもっともらしく示されるわけだが、実際には民衆の間でも意見や利害や考えの違いがあるわけだから、果たして民衆の総意として、何かまとまった意向が出てくるのかとなると、あるようでないような曖昧な面が常にあるわけで、少なくとも論理的にはわからないことかもしれないのだが、確かに憲法改正のような総意を求める具体的な懸案がはっきりと提示されて、そういった面で条件が整えば、特定の傾向を伴った民衆の総意が、選挙や世論調査や国民投票などの結果に表れる時もあるのだろうが、常日頃からそうなっているわけではなく、またそういった民衆の総意と見られる中身に、ある一定の水準での正しさや妥当性があるかとなると、それは見解や判断が分かれるところかもしれないし、それが民衆の総意だとして煽り立てるようなことをしても、それにどれだけ民衆が関心を持ってくれるかについても、よくわからない面があるだろうし、そうした意向が民衆の意識にどれほどの深刻さを持って受け取られるかも、よくわからないのかもしれない。ただ政治勢力もメディア勢力も、あるいは行政機構の方でも、恣意的に好き勝手なことができるわけではなく、それらの勢力が実際にやっていることは、その勢力が仕事として行なっている範囲内に限られていて、業務としての仕事から離れた領域にまで、自分たちの意向を及ぼうそうとしているわけでもないのではないか。

 そういう面から考えてみると、人それぞれに所属している団体が異なっていて、また単独で何かやっている人もいて、そういう人たちが公的な政治領域に関わっているとしても、仕事としてそうしたことを行なっている面と、仕事以外の純粋な政治的な行為があるかというと、たぶんそれらを区別できるだろうが、そこで仕事を優先させるべきか、純粋な政治的な行為を優先させるべきかの選択が迫られているかとなると、やはりその辺が曖昧となってくるだろうが、何もかもを仕事に結びつけられるわけではないにしても、仕事以外の部分を優先させることができない場合もあるだろうし、それに関しては一般の民衆の立場からすれば、政治的な選択や意思表示が仕事とは関係がない場合の方が多いのかもしれず、もちろん直接的には関係がないだけで、間接的な影響が出てくることは承知しているのだろうが、仕事も私生活も生活の中で一体化していると同時に、それ以外の公的な部分というのを意識できるかというと、別に意識しなくても意識できなくても構わないのかもしれず、またそれが仕事だからといって、職務に忠実であるべきかとなると、たぶんそうでもない方が自由を意識できるだろうし、そこから生じる信用というのも、信用されるように振る舞うべきかとなると、たぶんそうした信用を裏切ることによって自由を見出せるだろうし、そうした無責任な自由を求めることが、社会的な拘束から逃れることのように思えるだろうし、そういうところで律儀に社会的な公正さを意識すると、かえって意義や意味の不確かなことにこだわることに価値が見出されてしまうわけで、そこで成り立っているように思われる論理的な整合性や、そこに至るまでの歴史的な経緯などを考慮しなければ、いくらでも好き勝手なことを妄想できるわけだが、妄想できても実際に行う段階になると、論理的な整合性や歴史的な経緯などからの制約や制限が生じてくるわけで、しかも自身がそんなことにはこだわらないとしても、周囲の人たちがこだわっていると、ある程度はそれに合わせていかないと、周囲の誰からも協力してもらえなくなって、周囲から孤立してしまうと、自身のやれることもそれだけ制限されてしまうだろうし、やはりそこで周囲の人たちを納得させるための論理的な整合性や、そうすることが妥当だと思わせるような歴史的な経緯などを意識せざるを得なくなり、自然とそうした制約や制限を踏まえた活動になっていくわけが、さらにそこへ公的な法律や制度から生じる公的な制限や制約が加わってくると、嫌でも自身を取り巻く社会的な現実を意識させられることになって、そこから自身の能力や可能性の限界を悟らされて、それだけ謙虚な姿勢をとることを余儀なくされるのだろうが、それも個々の事情に左右されて、それなりに世間知らずでいられる度合いも異なり、その場の状況や運を味方につけて、大した苦もなく好き勝手なことをやっていられるような立場にありつける人もいるわけで、人それぞれに事情が異なってくるから、それぞれの運命にも成り行きにもばらつきが出てきて、それが社会的な地位や立場や境遇に関して不平等や不均衡をもたらすのだろうが、ある程度はそうした不平等や不均衡を是正していかないと、社会そのものが成り立たなくなる恐れが出てくるように思われるから、法律や制度によって是正するような成り行きになってくるのだろうし、しかも無理にそうした面を強めていくと、その場で成り立っているように思われる論理的な整合性や、そこに至る歴史的な経緯から生じてくる慣習などを無視しているようにも思われてくるわけで、そうなるとそうした方面を守っている人たちから反発が起こってくるわけで、そこでいわゆる法律や制度によって規定された公共の利益と、その場を支える論理的な整合性や歴史的な経緯を重視する保守派の利益が相反して、その程度に応じてそれなりの軋轢が生じてくるわけだが、それらをどう調整して妥協を図っていくかが、政治活動には求められているのだろうし、それは一方を重視して一方を軽視するような単純な図式では理解できないだろうし、実際にやっていくに従って様々な面で不条理や矛盾が生じてくるわけで、それらに直面してそこで立ち止まったままでは事態が動かないわけだから、その場の流れや成り行きに沿って、関係する物事を動かしながら、とりあえずの暫定的な判断や評価を下して、その先へと進んでいくしかないのではないか。


9月4日「立場の正当化」

 経済活動には恩恵と弊害がつきものだが、活動を正当化したければ必要に迫られてやっているわけで、そこで正当化しなければならない何らかの事情が生じているわけだろうし、またそれを批判したければ、活動した結果として生じる何らかの弊害を強調して批判することになるのだろうし、そんなことが行われること自体が、活動から恩恵と弊害が生じていることを示しているわけだが、普通に考えて金儲けに成功している人なら、率直にそれを正当化するだろうし、またその金を儲ける行為によって不利益を被っている人なら、それを批判するのが当然かもしれないが、少なくとも活動がうまくいっている人は、その活動している状況の中では強い立場でいられるわけで、強い立場でいられると、それだけその場では有利な立場を占めていることになるだろうし、それが有利な立場であれば、できるだけそんな立場を維持したいだろうし、それを維持できている限りで、結果的にそこでは人や集団によって立場の有利不利が生じていることになるわけだが、そんな立場をあらかさまに正当化することが、周囲の人々から反感を買う可能性が出てくれば、それがその人にとって不利に働くと判断されて、表立って正当化することは差し控えるようになるかもしれないし、そうなるとそれに代わって戦略的にへりくだった態度を示すようにもなるだろうし、そういう態度に直面した人はそれを好意的に受け止めるかもしれないし、また中にはそれが演技であることを見抜く人も出てくるかもしれないが、やはりそこからどんな反応がもたらされるとしても、それも経済活動が行われた結果からもたらされた現象になるわけで、そんな現象を伴いながら経済活動が行われている実態を示しているわけだが、それが合法的な活動であろうと違法な活動であろうと、それが必要に迫られて行われていることには違いないだろうし、たとえそれが気晴らしの娯楽目的であろうと、そうした活動に魅せられて、そんな活動に巻き込まれている人々とともに、その活動に対する肯定否定の反応が絶えず起こり得るわけだ。またそこでやっている内容や、そこで結ばれる人や集団との関係に応じて、それに対する反応にも立場や境遇によって違いが出てくるかもしれないが、そんな活動への依存の程度に応じても、活動に対する認識や見解が異なってくるだろうし、それをどう捉えてみても、活動を行なっている当事者は、その立場や境遇から生じてくる事情に縛られていて、それを超えて判断したり評価することはできないわけで、それを外部からとやかく言われても、それこそが不当な介入だと受け取られかねないし、どうあってもそこに限界が生じていることは確かで、そこに限界があることを承知しておかないと、それに対する批判や要求も、当事者が受け入れ難いものばかりとなってしまい、結果的に交渉や取引が不調に終わってしまうのではないか。もちろん当事者と交渉や取引を行う気があればの話だが、そこで行われている何らかの活動に外部から介入する時には、少なくとも活動している当事者にとっては、常にそうした介入には不当な批判や無理な要求があるように思われるだろうし、またそれによって当事者が認識している権利や権限などが侵害されているようにも思われるだろうし、それらはいつも当事者が行なっている活動を邪魔する要因となり、当事者がそれに納得せずに反発を伴うような反応を引き起こすわけで、だからそれだけ外部からの批判や要求は慎重に行わなければならないわけだが、結果的に敵対している他人には不当な批判や無理な要求をしておいて、その一方で味方の身内には甘い対応に終始しているように見えると、味方でも身内でもない人からは信用されなくなるだろうし、それでも味方や身内が世の中で多数派を占めていれば、問題がないように思われるかもしれないが、そこに少しでも不信感が残っていれば、それが何かのきっかけで疑心暗鬼を伴って、味方や身内の間にも広がってしまうかもしれないし、そうなってしまう危険を回避するには、なるべく依怙贔屓がないような配慮や対応が求められるわけだが、それも自覚しないでそんなことをやっている可能性まであるわけで、その人の立場や境遇に、そうした行為に鈍感になってしまうような傾向があれば、わかっていても過ちを犯してしまうわけだ。

 たぶん保守的な人々ならば、現時点で生じている自分たちに有利な力関係を、何らかの策略を用いて、その場にいる人たちに認めさせようとするだろうし、それが時には利益誘導をもたらすのかもしれないが、そうした利益誘導に正当性があるかどうかは、その場で利益誘導された側の人たちが判断することだろうが、もちろんその人なりの倫理観を持っている人ならば、そうした利益誘導には乗ってこないかもしれないが、それがあからさまで直接的な利益誘導ではなく、それとわからないような回りくどい仕組みや措置を施された上で、そうすることにもっともらしい理屈が伴っていれば、多くの人が納得してくれるかもしれず、納得しないまでも、それとなく周りから空気のようにように忍び寄ってくる同調圧力などによって、長い物には巻かれろ的な成り行きが生じるかもしれないし、それを現状を維持する上で有効に機能する方策と判断するなら、そうしたことを盛んに仕掛けてくるだろうし、それが意図した仕掛けでなくても、何か別の対策を講じているうちに、それが回り回って、自然と自分たちに有利な環境となって、そこに生じてくる可能性もあるだろうから、結果的にそうなることが、明確な意図や思惑を伴った策略の類いから生じているのではなく、その場の自然な成り行きからそうなってしまうこともあるわけだが、それはそれと自覚されない世の中の様々な方面から及ぼされる作用や影響が、そうした環境をもたらしているのかもしれないし、その中で結果的に有利な立場にある勢力が、保守という立場を担っている場合もあるだろうから、自ら積極的に保守を名乗らなくても、その場で有利な立場を占めている勢力が保守であって、そうした勢力を批判する側がいくら真の保守を自称しても、あるいは勝手に自分たちの都合に合致するような保守の定義を定めてみても、そんなのは通用しないだろうし、そういうところでそんなことをやっている人たちの目算が狂い始めて、それに伴って焦りや独りよがりな勘違いも生じてくるのだろうが、それに関して他人を一生懸命批判する前に、自身に関しての正当な評価ができていない場合が多いのかもしれないし、現時点で政権を担っている側を批判するなら、単に左翼を自認していればいいだけかもしれないのに、そうした勇気も気概もないのに、自分たちの立場こそが真の保守だとか主張する姿勢に、自分で自分に嘘をついているような欺瞞が潜んでいる可能性もあるわけで、そうした世の中に蔓延する真の保守を自称するエセ保守的な流行現象こそが、現状の悲惨かつ滑稽な行き詰まり状況を物語っているのかもしれないし、そういった猫も杓子も保守という流行語にしがみつこうとする状況の中で、かえって潔く左翼やリベラルを自認する人たちを支持した方が、民衆にとってはまともな選択になる可能性まであるのかもしれないが、それ以前にそういった言葉自体に決定的に固定した定義などないし、そんな中身の定まらない言葉を用いて、自らの正当性を主張すること自体が愚かな振る舞いでしかないだろうし、そうした印象操作でしかない保守だの左翼だのリベラルだのといった言葉を持ち出すのは、いったんやめて、何か現状の打開に関して有効な対策を提示することが、民衆の信用や信頼を獲得するには必要なことかもしれないのだが、そもそも何が有効な対策であるかがわからないのかもしれないし、そういう意味でいくらそうした主張や説明に説得力を持たせるための努力を積み重ねたところで、実際にそれを実行してみたらうまくいかない場合も出てくるわけで、それ以前に実行できる立場にならないと話にもならないわけだが、だからこそ現状がうまくいっていないという共通認識が、世論として大勢を占めているようであれば、まずはそうした現状を批判している勢力に主導権を握らせてみないことには、そこから先に話が進まないだろうし、そうなって批判勢力が主導権を握って、現状を改革するための方策をやってみてから、それがうまくいかなければ、また別の勢力に主導権を握らせて、その勢力が主張する改革を行わせるしかやりようがなく、民衆の側で特定の政治勢力に対して、現状の改革を行わせる気があるなら、民衆にとってもそうした試行錯誤が避けては通れない試練となるわけだが、そうした人為的な試みが嫌なら、その場の自然の成り行きに従っていればいいわけで、従うのが嫌なら、現状で主導権を握っている勢力を批判していればいいわけだが、批判しているだけでは現状が変わらない可能性もあるわけだ。


9月3日「虚飾の機能」

 人の活動は時間と場所が限定されているのに対して、人の空想にはそうした限定から逸脱する要素があり、意識の中では時間も場所も定かでないイメージがつきまとい、そんな印象があやふやな幻想をもたらして、それが時間と場所が限定されているはずの活動にも影響を及ぼして、そんな限定を取り払うような活動の可能性を感じさせるのだが、それが幻想であるだけに、実際の活動とはかけ離れた妄想となってしまい、活動に関係してくる物事について、ありもしないイメージを増幅させて、それが活動の実態についての思い違いや勘違いをもたらして、それによって活動自体をも狂わすことにもなるわけだ。さらにそれに応じた言動や行動を伴ってくると、実情とは違う誇張された表現となって、活動を飾り立てるような動作も伴ってきて、それが人を欺くわけで、しかも自身が意識できない面でそうなっていると、何か実際の活動とは違うことをやっているように見せかけていることにも気づけないわけで、それも通常の活動として意識されて、それに気づかないから、その見せかけの中では本来の活動からはかけ離れたことをやっているのに、その自覚はなく、それが通常の業務としても活動に含まれてくるのだから、またそこから生じてくる妄想の中でも、その中で実際にやっている自身の活動からはかけ離れた印象を伴っていて、そこでやっていることと思っていることとの間で奇妙なずれが生じてくるわけだが、それが見せかけの宣伝となるのであり、そうした宣伝がプレゼンテーションとして、世の中で脚光を浴びている実態があり、それも一種のごまかしには違いないのだが、肯定的に受け止められている限りで、許される動作として成り立っている現状があるのではないか。要するにそこでは虚飾で塗り込められた嘘の部分が強調されていて、その一方で物事の否定的な面から生じる弊害を見せないような配慮もされているわけで、そうした宣伝行為によって民衆の関心を引きつけて、それによって関連する商売を繁盛させようとするわけだが、そうした商売に群がってくる業者が一堂に会するような時間と場所が、世界各地に用意されているわけで、定期的に特定の場所で開催されるその手の催し物が、一時的なお祭り騒ぎをもたらして、何かそこに実質的な中身を伴った実態があるかのような印象がもたらされるわけだが、それが商売の繁盛を目的とした主催者側の思惑と一致する限りで、その手の商売に関する肯定的なイメージが増幅されて、それに伴ってどんどん商売の実態からかけ離れた虚飾の面ばかりが増大していって、それがそこへ訪れる人々を欺き、それと同時に、やっていることと思っていることとの間で落差が広がって行き、そこから生じる弊害も増大していくわけだが、その弊害の最たる実態が、そうしたイメージの増幅作用に貢献する見せかけのショービジネスばかりが脚光を浴びて栄える一方で、そうした虚飾を取り除いた産業の実質的な活動の部分が、痩せ細ってしまっていることに気づけなくなってしまうことだろうし、有能な人材がどんどんそういった見せかけの部分に投入される一方で、その見せかけの舞台装置を作る現場では、下請けの下層労働者が安い賃金でこき使われる羽目にもなって、そこに待遇の面で格差を伴った階層構造が構築されることにもなるだろうし、そうしたお祭り騒ぎに目を奪われているうちに、下層労働者の心が荒廃していくわけだが、祭りに浮かれている人々にはそれに気づく余裕などないし、祭りを主催している側でもそういう面は見せたくないだろうし、ただそこで商売が繁盛すれば構わないわけで、下っ端で働かされる者の気持ちまで配慮していたらきりがないし、そういう見せかけの繁栄がもたらされていれば、それ以上の詮索は意識しないように心がけるわけで、そうやって偽りの繁栄が保たれていれば、それを主導している人たちの体面も保たれて、万事がうまくいっているように思われるのではないか。そうしたショービジネスが世界的に流行っているとすれば、もはやそうした商売を支えている資本主義経済も、だいぶ行き詰ってきたことを実感させられるかもしれないが、そういう兆候に気づかない鈍感な人たちは意に介さないだろうし、目先の繁栄を求めて虚飾を競い合って、その手のお祭り騒ぎに浮かれていればそれで構わないのかもしれない。

 そうは言っても、そもそも都市の機能というのは、市場そのものの発展形態であるわけで、それ自体が景観としてもショービジネス的な面があるわけで、そこに人が大勢集まってくることを目的として都市が作られていて、その中で定期的に催し物の類いが開かれるのも当然の成り行きではあるわけだし、都市の中で主導権を握っている勢力としても、そうした催し物の開催に力を入れるのも当然であり、特にそうした傾向に不都合はないわけで、それに伴って都市がますます栄えるとしても、そこで主導権を握っている勢力にとっては願ったり叶ったりというわけだから、それで構わないのも当然のことなのだが、そこへ仕事を求めて集まってくる人たちの誰もが成功するわけでもないし、状況によっては仕事にあぶれた人たちが大勢出てくると、スラム街が形成される場合も出てくるし、そこで犯罪が多発したりギャング団が結成されて抗争が激化してきたり、そうやって都市の内部や周辺に荒廃した区画が出現することにもなるだろうし、都市が栄えるということは、同時にそういう弊害も抱え込むことにもなるわけだが、その一方で観光や娯楽などの景観や施設を提供するのも都市機能の一つであり、その娯楽施設の中にはギャンブル施設も当然のことながら入ってくるだろうし、そういう意味ではそんなことは当たり前の現象なのだろうが、都市の中で主導権を握っている勢力が、どのようにして体面を保とうとも、そこで根を張っている保守層としては、外部の勢力ではなく、自分たちにできるだけ多くの利益がもたらされて欲しいわけで、そこで主導権争いや利益の奪い合いが起こるわけだろうし、その中で外部からギャンブル業者を招致して利益を吸い上げられるのは阻止しなければならないということだとすると、その都市とは無関係な人たちからすれば、そんなことには無関心でいても構わないように思われるだろうし、都市がギャンブルで栄えようと、ギャンブル依存が仇となって寂れようと、そういう成り行きがあるということだろうし、別にそういうことに無関心でいられるならそれに越したことはないわけだが、都市の繁栄から税収などが期待される行政側からすれば、都市自体が寂れてしまってはまずいわけだから、そういうところから政治的な思惑も生じてくるだろうし、そういうレベルで争っているなら、それも一つの政治的な問題となってくるのだろうが、政治以外のレベルでは寂れてしまった都市にもそれなりに風情があるだろうし、もちろんギャンブルに特化した都市など世界中探してもほとんどないわけで、そこだけを強調することにどんな意味があるとも思えないわけだが、政治的な宣伝合戦を繰り広げている人たちの事情としては、そういう誇張表現でもリアリティを得られるのかもしれないし、そうやってお互いの論理の欠点をあげつらっている分にはそれで構わないのかもしれないし、それを印象操作の類いと決めつけるのも気がひけるなら、そういうレベルを無視していればいいのかもしれないのだが、都市の歴史にもそこで暮らしている人たちやその中で主導権を握っている人たちの思惑を超えた成り行きがあるだろうし、もとは小さな漁村でしかなかった場所が、何かのきっかけから数百万の人口を擁する大都市へと変貌した経緯もあるわけで、そこに至った時点で、そうなった結果を肯定するのが保守的な思考なのだから、その時点での繁栄をいかに保つかが、保守的な問題ともなるわけで、それはそれでそれなりの妥当性が備わっているのだろうし、そういうことに関心を持てなければ、別にそんなことは無視していても構わないわけだろうが、それとは別の次元で、それを興味深い現象と捉えるなら、例えばそれは時間と場所とが限定された問題となるだろうし、そうした限定に何の意味があるのかと問うならば、結果として生じているその都市の優位性をいかに保つかが、それらの保守的な人々にとっては切実な問題となっているわけで、それはその都市に限ってそうなのであって、他の都市や都市以外に住んでいる、その都市に関わり合いのない人たちのことまでは、考慮に入れなくても構わないということだろうし、そうした範囲の限定が保守的な傾向にはつきものの特徴であり、それはあくまでも現状で生じている優位な状況をいかに守るかということに、活動の主眼が置かれていて、それを敷衍していけばいわゆるナショナリズムに行き着くはずなのだろうが、たぶん都市の問題と国家の問題を同列に扱うのも、何か間違っていて、やはり限定の度合いや範囲が違えば、それに応じて異なる問題が生じてくるのではないか。それに関して例えば、身分制度が慣習として守られているような社会で、その人が貴族階級に生まれたら、その時点での貴族としての他の階級にはない特権を守ろうとするのが保守的な姿勢となるわけだが、それも階級と都市と国家とで適用の範囲が異なるわけだから、どのレベルでの利益を優先するかが問われてくるわけで、そういう部分で何でもかんでも都合のいいように解釈してしまって、どのレベルで守っている保守的な態度にどのような妥当性があるのかが説明できないと、保守が何を保守しているのかわからなくなってくるわけだ。


9月2日「常軌を逸した行為」

 たぶん側から見て人の行為が常軌を逸しているように思われるのは、例えば同じ内容を延々と主張しているのに、当人がそれに気づいていないように見えてしまう時かもしれないが、もしかしたら当人もそれに気づいていながら、そんな主張をごり押しせざるを得ない状況に追い込まれていて、そんな主張を聞かされる周囲の人間からすれば、延々とそんな主張を繰り返す当人が、常軌を逸しているように見えてしまうのかもしれないが、当人とすればそれが必要に思われるから、そんなことをやっているのかもしれず、それを主張することに関して、何か切実に感じられるからそうなってしまうのかもしれないし、その切実さを周りの人間が理解できない、というか、それに関して当人と周りの人間とでは温度差があるのかもしれないし、周囲の人々にとっては大したことには思われないことが、当人にとっては深刻な問題であり、その人だけが深刻に受け止めざるを得ないような事情があるのかもしれず、それに関して度を越した関心を持たざるを得ないから、執拗にその問題を取り上げて、それを周囲の人たちが軽視しているのが納得がいかないから、そういう状況を何とか正そうとして、だから事ある度ごとにそれに言及してしまうのかもしれず、しかもそうやって同じ問題を執拗に蒸し返してくることに関しては、周囲の人たちにも気づかれているわけで、だからそれが奇異に映ってしまい、何か取り立ててどうということはないことについて、延々と同じような主張を強硬に繰り返してくるから、そういう熱意が常軌を逸しているように見えるわけで、それに関して当人がいくら熱弁をふるっても、同調する気にはなれないのだろうし、それどころかおかしいとさえ感じられて、それが高じると正気を失っているようにも思われてくるわけだろうが、果たしてそういう状態に陥ってしまった人間を周りの人たちがどう扱えばいいのか、それに関して適切な対応がとれるだろうか。たぶんそのままそれを放置することが適切な対応と言えるのかもしれないし、適切というよりは、全くのお手上げ状態だから、そうならざるを得ないのかもしれないし、中には気を利かせて、その問題から当人を遠ざけようとする配慮が働く場合もあるかもしれないし、実際にそれとは別の話題へその人の関心を誘導できれば、何かのきっかけでそこから距離がとれて、冷静になってそれまでの自らの言動を振り返る機会が巡ってくれば、それが常軌を逸していることに気づく可能性も出てくるかもしれないが、果たしてそうした配慮が当人のためになっているか否かは、よくわからないところかもしれず、ただ周囲の人たちにとってはそうした状況が鬱陶しいから、それを打開すべくそんなことをやっているだけかもしれないのだが、そうではなく意外にもおかしいのは周囲の人たちの方で、ただそんな主張を延々と繰り返している人だけが、それに気づいていて、そのままにしておくと良心が咎めて、それをうやむやにできないから、延々とその問題にこだわって、そうしたことを執拗に主張せざるを得ないのかもしれないし、周囲の人たちがそのことに気づくまで、意図してそれを繰り返す気になっているのかもしれず、そうなると気づかないのではなく確信犯となるわけだが、果たしてそうした戦略が功を奏して、周囲の人たちの説得に成功するかというと、それ自体が常軌を逸していると思われているうちは、それに失敗していることになるだろうし、いったんそう思われてしまうと、いくらそれに関して熱弁をふるっても、かえって逆効果となるだけで、それでも執拗にやり続ければ、次第に周囲から相手にされなくなってしまうのかもしれないが、それでも同じ主張を繰り返さざるを得ないとしたら、やはりそれは常軌を逸した行為となるだろうし、そこにはそうした行為を続けさせる成り行きが生じていて、そこでその人が囚われている事情というのが、その人を取り巻く環境の中でその人を不利な状況へと追い込んでいるわけで、その人がそれに気づいていても、それをやめるわけにはいかないとしたら、もはや後戻りができない段階にまで来ているのだろうし、そうした状況を側から見れば、その人のそう遠くない未来における破滅を予感せざるを得ないのかもしれないが、たぶんその人とそれほど親交がなければ、またその人に巻き込まれて心中する気も、別にお節介を焼く必要も感じられなければ、そのまま放って置かれる可能性の方が高いのではないか。

 たぶん同じ主張を延々と繰り返すだけでは、それが常軌を逸しているとは思われないだろうし、周囲の人たちもそうすることが妥当だと思うなら、別に常軌を逸していることにはならないわけで、たとえそれが同じような行為であっても、それに対する周囲の反応によっては、それが当然のことだと思われたり、あるいは別に気になるようなことでもなかったり、中には不快に思われたり、さらには狂気の沙汰に思われるようなことまで、色々な受け止められ方をされるのだろうが、その人が関わっている状況の中で、その状況に対してどのような立ち位置を占めているかでも、それに対する周囲の反応も異なってくるだろうし、たとえば単なる野次馬的な立場なら、それに応じた発言から野次馬に過ぎないと思われるわけで、要するに軽く見られてしまうわけだが、野次馬がその野次馬的な立場に対応した発言や反応ができなければ、ただそれが場違いに思われるか、あるいは無視されるか、そもそも野次馬的な立場が、軽く見られたり無視されるような立場なのだから、どちらでも構わないわけだろうが、現代的な大衆市民社会の中で、一般の民衆が野次馬的な立場以外の立場を担うことができるかというと、メディア上ではほとんどの場合でそういう役割しか担わされていないのかもしれず、それもメディアの種類にもよるだろうが、それが一般の民衆ではなく、メディア側から発言する立場の人なら、少なくともそれが仕事であり、それだけで関係者という特権的な立ち位置を占めているのだから、たとえそれが野次馬的な発言内容であっても、そうした役割を演じていると受け取られて、それなりにもっともらしく見えてしまうわけだろうが、そもそものメディアという社会的な役割が、他人の行為を勝手に報じているとしか見えないような役回りであって、それ自体を野次馬と解釈できないわけでもなく、その報じている他人の行為の中では、それが身内のことでない限りは、明らかに直接の関係者ではあり得ないだろうし、そういう意味では野次馬でしかないわけで、その報じている内容を真摯に受け止めたり深刻に感じたりするのは、受け止める側の勝手であって、場合によってはメディアの報道自体を無視しても、一般市民の側に立つなら一向に構わないだろうし、実際に興味がない話題には関心を持てないのだが、そうした当事者意識の欠如が何をもたらしているのでもないとすれば、別にそれ自体が何でもないことでしかないわけだが、そうであっても異様な執拗さで同じ話題を取り上げてくるとなると、やはりそれは常軌を逸した行為のように見られてしまうだろうし、それが煽動行為そのものの特性でもあるわけだが、それを受け止める側が、そうした行為を当然のことのように思ってしまう時点で、煽動に洗脳されている兆候を示していることになるのかもしれず、そうした兆候を示す前に気づかなければならないことは、煽動している当事者が取り上げている内容が、当事者には直接関係のないことを取り上げている場合には、やはりそれはおかしいと思うのが普通の心理だろうし、それをおかしいとは思わせないような巧みな話術が、その当事者に備わっていると、やはりそうした煽動に丸め込まれてしまうわけで、それは日頃からソーシャルメディアなどを通して、他人の話題に安易な共感を示すように訓練されていると、煽動を受け入れ易い体質になっているのかもしれないし、そうした成り行きから抜け出すためにも、当事者とは直接関係のない話題をことさらに取り上げる煽動者には注意していないと、そうした洗脳を仕掛けてくる行為を見抜けないのではないか。そうした煽動体質もメディアに登場してくるジャーナリストや解説者やコメンテーターの類いには、多かれ少なかれ見受けられる傾向であり、そういう傾向がないとそれらの人々の仕事が成り立って行かないことは考慮しておくべきだろうが、その中でも義憤に駆られてやっているように見えてしまう行為が、常軌を逸しているように感じられるわけで、そうした行為から自らがやっている煽動を正当化する理由も生じてくるだろうし、それのどこが常軌を逸しているかというと、その人が取り上げている話題とその人自身との距離がなくなっていることであり、そこに短絡が生じているわけで、意識の神経回路がそこでショートしているわけだ。そうした短絡的な距離感の消失が、当事者でもないのに当事者づらしているような齟齬感を感じさせるわけだが、得てして公的な政治の領域ではそうしたことが起こりがちになるのではないか。


9月1日「願望の実現」

 資産の蓄積と次世代への継承という経済現象は、その弊害として貧富の格差や社会的な立場や待遇の不平等をもたらすが、それを阻害するような法律や制度を作って、根本的にそうした現象をなくすことができない以上は、ある程度はそうした成り行きを認めざるを得ないのが、現状の社会で暮らしている人々の共通認識ではあるものの、それをなくそうとしたり是正したりするのではなく、何かそれとは別のやり方によって、人々が社会で生きていけるようにする模索というのが、たぶん表立ってあまり目立つようなやり方として試されているわけではないにしても、もしかしたら目立たない試みとして、今も社会の片隅で細々と行われているのかもしれないが、その一方で必要に迫られるようなやむを得ない成り行きの中で、従来の経済活動とは異なるやり方が模索されているのかもしれず、それが具体的にどんなことであるかまでははっきりしないとしても、自然にそれを促してしまう現象として、経済危機を迎えた国での、ハイパーインフレによる通貨の機能不全などがあるのかもしれないが、たぶん今のところそれは一時的かつ部分的な現象であって、恒常的にそうなってしまうわけでもないのだが、経済活動から生じる資産の蓄積と次世代への継承という現象が、それに対応した社会を作り出していることは、その社会の中で暮らしている人々に、そうした現象に応じた活動や、そこから生じる価値観をもたらしていることからも確かであり、それを肯定して維持するような権力の行使にも結びついているわけで、そこから生じる弊害もそのままにして、そうした権力の行使によって、さらにそうした弊害を増大させることにも結びついてきたわけだが、そこからもたらされる民衆の不満を和らげるために、公式の政治活動として法律や制度の整備によって、そうした経済活動から生じる弊害を抑制する試みも断続的に行われてきたし、それはこれからも行われるだろうが、一方で自然の流れとしても、例えば経済恐慌や戦争などが蓄積された資産を消尽させることによって、行き過ぎた不均衡や不平等が是正されてきたことも確かなのかもしれないし、それは程度の差こそあるものの大規模な自然災害でも言えることだろうし、これからもそんな事態がそれなりに起こるかもしれず、だからといってそんな事態を防ぐような試みもそれと並行して行われるだろうし、全てが悪い方向へと向かっているわけではなく、それなりに作用反作用が生じているわけだろうが、これまでに歴史上で起こってきたそうした作用反作用を伴うような出来事を、肯定したり否定したりするのは意味のないことだろうし、そこから教訓を引き出すにしても、人為的な現象から生じる一方の行為を讃えて、もう一方の行為を非難するようなことを、現時点から遡って行うのもおかしなことであり、過ぎ去ったことは肯定も否定もせずに、ただ分析してそれについての何らかの見解を示すにとどめておく方が無難だろうし、それらの全ては可能な限り相対化されるべきで、実際にも絶対的な賞賛や非難の対象となる程の、決定的な価値や評価は伴っていないのではないか。もちろんその時々で、そうした表現を伴って賞賛されたり非難されてきた行為や出来事は、数知れずあるだろうが、常にそうした数々の行為や出来事が、連続した現象として歴史上に積み重なってくるにつれて、それを意識する精神がその重みに耐えきれなくなってきて、そこから逃亡するための安易な突破口や出口を作り出そうとするわけで、それが論理的な飛躍とともに大衆運動となって暴発すると、何やらそれに呼応してメディア上でも知性を感じられないような煽動行為が伴ってくるのだろうし、それがその時々の政治的な主導権を握っている勢力による、大衆運動に見せかけた仕掛けであることも多いのだろうが、それもある意味では世の中の情勢を反映した行為だろうし、何か決定的な印象を伴うような大規模な災害に呼応してそうした反応が巻き起こるのかもしれず、それがそれまでの歴史の連続性を突き崩す契機となることは確かだろうし、そこをチャンスと捉えて攻勢を仕掛けた勢力が、以後の社会の中で主導権を握る成り行きが生じるのではないか。

 だからと言って積極的にそうした行為を奨励するのも、何か本末転倒のように思われるだろうし、全てはその場の情勢の成り行き次第な面があるわけだろうが、それでもはっきりと言えるのは、世の中に恩恵と弊害を同時にもたらしている経済現象を、法律や制度によって制御できるわけでもないだろうし、実際にも制御できていない現状がもたらされているわけだが、一方で公式的な政治活動としては、法律や制度を講じて、さらにそうした法律や制度を用いて市場に介入して、経済現象を制御しようとしているわけで、その結果として完全には制御できていない現状があるにも関わらず、制御する役割を担わされて、実際に制御しているようにも装われているわけだが、そうした活動が政治に対する幻想をもたらしていて、そんなふうにして人々が政治に対して抱く幻想が、その時々の状況に適合しているように思われる政治的な主義主張をもたらしてきたわけで、実際に人々が政治に対して抱く幻想とともに、そこからもたらされた主義主張が、その時々の状況に適合して、状況の中で有効に機能しているようにも思われてきたわけだが、一方でそんな主義主張に基づいた政治活動が状況の変化をもたらして、その状況の変化に対応できない主義主張を過去の遺物として捨て去るような事態ももたらして、またそうした主義主張にこだわっている人たちも、時代の変化から取り残されるような事態にもなってしまったわけだが、さらにそこから制御しているつもりの経済現象が、逆に政治活動に影響を及ぼして、活動に変質をもたらすような成り行きにもなってきて、結果的にそこで主導権を握っているのは経済現象の方であり、ただ政治活動は経済現象に従うことによって対応しているように装っているに過ぎず、いつの間にか経済現象からもたらされる社会状況の変化を追認しているだけとなって、そうなって活動の主体性を奪われるがまま、それを積極的に放棄しているような状況までがもたらされているのかもしれないわけだが、政治的な幻想に囚われているとそのことに気づけないわけで、しかもそんな結果を人々に認めさせるためだけに権力を行使しているような状況ともなってくると、やはりそれも本末転倒な事態になってくるのだろうが、それでも世の中の情勢の変化に対応して活動する行為自体が、そういうことを意味しているのかもしれないし、概ねそれで構わないのかもしれず、政治活動自体が現状を追認することにしか結びつかないのかもしれないが、少なくともそのような政治活動を批判している人たちは、そうした事態に逆らっているつもりだろうし、実際に世の中の同調圧力に逆らって何か主張している気でいるわけだが、そうした主張にも一定の支持が集まっている限りで、それを支持している人たちからそれなりに期待されているのだろうし、そうした期待の中身として、世の中を現状とは違う方向へ導いてほしいという願望があるわけで、そうした願望に応じようとすることが、状況の変化に対応した行為ともなるのかもしれないし、そう簡単に人々の願望通りに世の中が変化するわけもないのかもしれないが、例えばかつてカントが指摘したように、フランス革命に民衆の願望が投影されていたのは紛れもない事実だろうし、世の中で絶望的に固定されていた階級間の格差や不平等が解消されるかもしれないと思ったから、民衆はフランス革命を熱烈に支持して応援したわけで、それが結果的に思いもよらないような悲劇や惨事を招いたとしても、なおもそれを期待する傾向が静まる気配を見せなかったから、その後様々な国で似たような革命が繰り返されて現代に至っているわけで、その過程で想像を絶する流血の惨事が繰り返されたとしても、今もそれはシリアやパレスチナなどで続いているのであり、その結果として現代ではかつてのような王侯貴族などの一部の特権階級が支配するような国は激減したわけだから、やはりそういう意味では民衆の願望がそれなりに実現している結果がもたらされているわけだ。そうであるなら現状の経済活動に伴って生じる格差や不平等も、それに不満を抱く人々の願望が長い時間をかけて実現していくのかもしれないし、その過程でやはり思いがけない悲劇や惨事が繰り返されるのかもしれない。


8月31日「知り得ない現状の実態」

 現状が何を意味するかは、それをどう捉えるかによって異なるかもしれないが、現状をどう捉えるにしても、それを肯定的に捉えたり否定的に捉えたりする限りで、そこに恣意的な感情の入り込む余地が生じてしまうのだろうが、そんな捉え方に疑念を抱くなら、それはそんな現状認識を批判しようとしているからで、現状をどう捉えるかというよりは、現状の中で行われている具体的な行為について、どのような意見を持っているかが、より率直な現状認識に結びついてくるのであり、その一方で現状の中で特定の人物や集団が関わって行われている行為について、特に興味を抱けない事情も出てくるのかもしれず、なぜそんな事情が生じてくるのかといえば、端的に言ってそれは自らには関わりのないことに感じられてしまうからであって、そんな行為などどうでもよければそう思うしかないわけで、なぜどうでもいいと思うのかは、それが大したことではないと思われるからだろうし、何に対して大したことがないのかというと、現状に対して大した作用も影響も及ぼしていないと思われるからだろうが、では現状に対して無視できないような作用や影響を及ぼしているのが何かと言えば、それはそうした特定の人物や集団が行なっている行為に対して、他の人々がどう思っているかが、現状に無視できない作用や影響を及ぼしていると思われるわけで、誰もがそんなことには無関心でいれば、そんな無関心に応じてそれらの行為が無視されているような現状がもたらされ、そんな行為に関心を抱く人が多いほど、そうした行為が現状に働きかける作用や影響も大きくなってくるのであり、そういう意味でそれが世間の話題となれば、それなりに現状に対して無視できない作用や影響を及ぼしていると思われてしまうわけで、そう思ってしまう意識の中でそうした現状が構成されていて、それはそう思っている人の恣意的な現状認識そのものとなっているわけだが、そうなると人によって異なる現状認識が生じていて、その人が捉えている現状が他の人が捉えている現状とは異なっているとしても、一向に構わないわけで、その一方で多くの人が共有する共通の現状認識があるとしても、そんな現状認識には興味を抱けなければ、やはりそれを無視して勝手な現状認識を保持していても構わないだろうし、それがどんな現状認識であろうと、そこから認識される現状というのが、その人が囚われている現状であり、そんな現状とは異なる現状というのも、人によっては生じているだろうし、そこにその人特有の事情が生じているわけだが、他の人にはそんな事情など無視しても構わない事情も生じているだろうし、ならば結局現状の中で何がどうなっていようと、その人が勝手に認識している現状がその人にとっての現状そのものなのだから、そんな現状に興味を抱けなければ、別に無視しても構わないことにもなるだろうが、その一方でその人には意識できない作用や影響もその人に及ぼされているわけで、そうした作用や影響を及ぼしているのが、その人をその中に包み込んでいる社会そのものであり、それがそこに構成されている環境だと捉えることもできるわけだから、その人が恣意的に捉えている現状が、その人にとっての現状なのではなく、その人が意識できない物事も含めた現状がそこに構成されていることは疑いようがなく、だからこそ他の人の現状認識もできる限り知った上で、それらの得られた情報から妥当な現状認識を求めようとするのだろうし、なぜそうした認識を求めようとするのかといえば、社会の中で人は一人で単独で生きているわけではなく、常に他人との関わりの中で生きているわけで、そうした実情はどう考えてみても確からしく、そうした他人との関わりや、そうした他人も含めて自分を取り巻いている社会との関わりの中で自分が存在していて、そこから自意識も生じているわけだから、そうした現実も踏まえて思考するとなると、自分だけの恣意的な現状認識だけでなく、他の人たちの現状認識も参考にしながら、できるだけそれらの現状認識との共通点や相違点などを考慮して、より現状に適合した妥当で包括的な現状認識へと至りたいのだろうが、それが何を意味するかというよりは、そうすることによって認識の精度を高めたいという思惑があるのかもしれず、結局はそうすることによって自らを高めたいのではないか。

 そして自らを高めるということが、他にどのような目的に結びつくとしても、その中で優先されるべきことは、相変わらず自らを高めるということになるのかもしれず、何か他に利益目的や社会貢献などといった、もっともらしい目的や理由を設定してしまうにしても、どうもそれは世間体を気にした付け足しに思われてしまうわけで、その世間体を気にするということ自体が、自分と社会との関わりを表しているわけだろうが、その一方でそうしたことを気にすること自体に、何か重要性があるのかという疑念も生じてくるわけで、さらにそもそもの現状に対する認識を深めることによって自らを高めたいと思うこと自体にも、それが他の何にも増して優先すべき重要度の高いことなのか、という疑念さえ湧いてくるのかもしれないが、たぶんそういうところでどう考えてみても、玉ねぎの皮をむくが如くに、いくら考えても納得できる結論には至らずに、ただそこには他には理由も原因もない空疎な謎が残っているだけで、無理に理由や原因を求めても無駄だろうし、そういうことを考えるほど、当てにならない思い込みや勘違いをもたらすだけかもしれないが、そうしたことを考えさせてしまうことにも、社会から及ぼされる何らかの作用や影響が絡んでいるのだろうし、それは自らを高めたいと思わせることでさえも、その手の作用や影響の延長上で生じていることでしかなく、そう考えてしまうと自主性だとか自発性だとかいうのは皆無となってしまうのかもしれないが、それでも妥当だと思われる現状に対する認識や解釈が、自らを高める上で足しになるように思い込めるなら、そうしたことを考慮する上で自主性や自発性を重んじる成り行きにはなるだろうし、あからさまにそれらを幻想だとみなして否定するわけにはいかないだろうし、そもそも人が現状の中で生きていること自体が、自身には自主的かつ自発的に生きていると思わせるだろうし、実際には社会に生かされていて、その中でたとえ自殺を選んで自主的かつ自発的に死ぬにも、場合によっては精神的にも身体的にも多大な労力が必要になってくると、やはり自力では生きることも死ぬこともできない不条理に直面してしまい、では自主的かつ自発的にはどうすればいいのかよくわからなくなってしまうかもしれないが、たぶんその辺で物事を深刻に考えすぎていることに気づくのかもしれないし、要するに世の中の状況に応じて自らが活動できる範囲内で、ある程度は自らの置かれた現状の都合に合わせて活動するしかなく、その中で可能な行為が自ずから決まってくるわけで、そうした行為を行いながらも、場合によってはそこからはみ出た行為にも挑戦しようとすれば、今までの経緯からすればできないように思われたことが、実際にやってみれば意外にもできてしまうことにも気づくわけで、そういうところで自分なりの試行錯誤が行えるのだろうし、現状でやらなければならないのはそういうことだと思えば、そこから自主的かつ自発的なことをやっている気にはなれるだろうし、それが積極的な活動にも結びついてくるわけで、そうした活動を行う中で、何か今までとは違う自らの可能性を発見できるのではないか。もちろんそれが見つからなくても無理に見つけようとしなくても構わないだろうし、それに関してどう捉えてみても、それ以上の結論には至らないような究極の認識が導き出されるわけではなく、絶えず現状の時間的な経過に応じた暫定的な認識がもたらされて、それに応じた活動が行われ、そうした活動の結果から新たな認識も出てきて、いくら追求してもその先があることを実感せざるを得ないのかもしれないし、そう実感している限りで、何かやっていることが前進しているようにも思われてくるだろうし、そう思いたいから前進したいのかもしれないが、その一方で停滞を意識し出すと焦ってくるだろうし、何かそうした状況を打破したいから、無茶な行為に挑戦してしまうことにもなるのかもしれないが、そこからも自らの限界と可能性を実感させられるだろうし、絶えずそうやって現状認識を改めようとしているわけで、それとともに世の中でも何か新しいことが行われ、新しいことが起こっているのではないか、という期待を抱きながら、他の人や集団のやっていることに目配せしているわけで、そういう心境は現状を守ることよりも現状を打破することに活動の重点を置いていることの証しともなるわけだが、それが単なる世間体を気にした見せかけのポーズなのか、あるいは本気でそう思っているのかは、やはりそう思っている当人が知り得ない面もあるわけで、当人の思惑や実感を超えて、当人を取り巻く状況の中で、当人の活動の範疇を超えて、物事が動いている可能性もあるわけだ。


8月30日「機会と巡り合わせ」

 何か世の中で自らの立場を維持できない機会が巡ってくるとしたら、それは自らの技量や器量を超えたことをやってしまった時にはそうなってしまうのかもしれないが、一方で人にはしばしばそうした無茶なことをやってしまう機会が巡ってくるのかもしれず、実際に無茶なことをやって失敗してしまうと、それが無謀な冒険であったり、浅はかな行為だと指摘されて批判を浴びてしまうのかもしれないが、少なくともやる時にはそれが無茶な行為であることに気づかないわけだが、やってしまって手痛いしっぺ返しなどを食らうと、無茶なことをやってしまったことを悟るわけだが、中には悟る間もなく死んでしまったりすると、他の周りの人が、当人が無茶なことをやって死んでしまったと解釈したりするわけで、別に死ななくても、当人も周りの関係者も気づかない場合さえあるだろうし、それをやる前もやっている時もやった後も、誰もそれに気づかない場合には、無茶でも何でもないことになってしまうのだろうが、それでも失敗すれば無茶なことになるのかもしれないのだが、では無茶なことに成功した場合はどうかというと、やる前にはそれが無謀な冒険だとか浅はかな行為だとか指摘されていたとしても、うまくいってしまえばそうした評価を覆したことになるだろうし、たとえそれが当人の技量や器量を超えた行為であろうと、何か他から思いがけない作用が働いて、結果的にそれに成功してしまえば、やっている当人は技量や器量を超えているとも、無謀な冒険だとも浅はかな行為だとも思わないだろうし、他人からそれを指摘されても、やっていることがたまたまうまくいってしまえば、そんな指摘は説得力を持たないわけで、結局そんな評価は結果論でしかなく、普通はうまくいって成功すれば肯定されて賞賛されることもあるし、うまくいかなくて失敗すれば否定されて批判されることもあるし、そうした結果が重視されるのは、そこに様々な人が介在してきて、それなりに経済的あるいは心理的な利害が生じて、そこからそうした行為に関わってくる人や集団が、実際に利益を得たり損失を被ったりすると、それに関して何かしら評価せずにはいられない成り行きが生じてくるから、例えばうまくいかなかった理由として、やっている当人の技量や器量を超えていたとか、無謀な冒険だったとか浅はかな行為であったとか、そう判断されると概ね否定的な評価が下されたことになるのだろうし、中には運がなかったとか不慮の事故だったとか、当人のせいではないと判断されることもあるのかもしれないが、そうだとしてもそうした行為が当人や他の人によって繰り返し行われるような状況が生じてくると、今度はその時の失敗が生かされて、それ以後の同じような行為には、その失敗した経験から導き出された対処法や対策がとられる場合が出てくるだろうし、そうやって何かのきっかけからだんだんと成功例が増えてくると、当初は無茶で無謀な行為であったのが、その何年か後や何十年か後には、何でもないような誰もが簡単に行える行為となっていたりもするわけで、もちろんそんな極端にやり方が改善される場合は稀かもしれないが、特定の行為に関しては、科学や産業などの面での目覚ましい技術革新やシステムの改善等によって、そんな事態となってしまう事例もあるのかもしれないし、その代表的な例としてコンピューターを活用した計算処理速度の飛躍的な向上をあげることができるだろうし、また医療分野での抗生物質の活用とか、発電分野での原子力の活用とか、当初においては目覚ましい成果を挙げながらも、やっていくうちに深刻な弊害が明らかになってしまうこともあるのだが、そうなるとそれは個人の問題から逸脱して、そうした科学技術を活用する制度や機構の問題ともなってくるわけで、それが社会問題としてメディアなどで取り扱われることにもなるのかもしれないが、そうした社会問題に個人が関わってくると、今度はその個人の社会的な立場に影響を及ぼしてきて、個人としてではなく、その個人が所属する集団や機構の中での立場が、その問題に関わらせる成り行きにもなってくるわけで、そうなってくると個人の技量や器量を超えて、組織的な集団や機構が無茶なことをやらせて、そうした成り行きに集団内の個人が逆らえない場合も出てくるわけだ。

 そうなるとそうしたことをやる役割を担った人が、それが無茶なことだと悟ったところで、否応なくそれをやらせられて、しかもやってみて失敗すれば、その責任を負わされてしまう場合まで出てきて、そんなことをやらされたばかりに、自らの立場を維持できなくなって、機構内の役職を辞任したり解任させられてしまう成り行きまで生じてくるだろうが、そうなったからと言って集団的な組織形態を伴った機構側としては、痛くもかゆくもないのかもしれないし、辞任したり解任した人の代わりに他の人をその役職に任命すればいいだけで、またそうした失敗に終わったプロジェクトを分析して、それを糧としてまたそれと同じような新たなプロジェクトを立ち上げたり、別のプロジェクトにそこでの経験を生かしたりするような成り行きも出てくるかもしれないし、そういう意味で失敗もそれに伴って生じる弊害や損失ですらも、集団としての活動には生かされてしまい、そうした集団の中で働く個人などは組織の歯車でしかなく、場合によっては使い捨ての消耗品としての役割しか担えないわけだが、それでもそうした役割を当てがわれている間は、それなりにそこで生かされているわけで、しかも企業などはそうした人たちの集団であるわけだから、その中でどのような役割を担っていようと、失敗の責任を取らされて辞任させられたり解任されたりする人が身近にいれば、誰もが明日は我が身であることを悟るだろうし、もちろん組織内での立場や役割にもそれなりに待遇の面で不均衡や不平等があるわけだが、身近な人をそういう目に遭わせないために庇うような配慮も働いてくるかもしれないし、そういう面で組織内に心理的な動揺が起こると、何かと活動にも支障をきたすことが明らかになれば、組織内の人員にひどい仕打ちをしない方が都合が良いという共通認識が形成されて、そうした面を配慮した効果的な組織改革が行われる成り行きにもなってくるのかもしれず、そういうところで緻密な組織運営を行なっている企業が優位な状況となってくれば、他の企業もそれを見習ったり、それは何も営利目的の企業だけでなく、他の集団的な組織形態を伴った、例えば行政などの組織運営や学校教育などにも応用されてくるかもしれないし、そういう風潮を社会全体に定着させるには、人々が事なかれ主義やひどい行為を見て見ぬ振りをしてしまうようなことをやめて、絶えず活動をより良い方向へと導いていくように持っていかなければならないのだろうが、結局そういう成り行きを阻む要因となるのが、消極的な現状維持へととどまろうとする風潮なのだろうし、またそれをもたらしているのが、やる気が失せるような世の中の停滞感ともなるわけで、中でも民衆を特定の活動へと煽動するような傾向が信用できないと、それに対する積極性よりも疑念しか湧いてこないわけで、疑念が湧いてくればそれに対する批判も当然起こってきて、そうした疑念が解消されない限りは、いくら煽動しても、笛吹けども踊らず的な情勢になってくるのだろうし、またどう見てもお粗末に感じられてしまう人たちが、世の中で人々を主導するような立場や役職を占めている場合には、そうした傾向がいやが上にも強まってくるのではないか。しかもそうした人たちを代表者と選んでいるのが当の民衆であることが、民主的な政治制度が世の中に普及している場合にはあり得るわけだから、結局はそうやって民衆自身にそうなってしまった事態についての責任が回ってきてしまうわけで、だからこそそこでぐるぐる回っている悪循環から抜け出るのには困難を極めるのかもしれないが、たぶんそんなことをやっているうちに、そうした悪循環に関わってくる様々な勢力からの作用や影響が自然に弱まってくるのだろうし、とにかく現状維持を目的として同じことを延々とやっていると飽きが生じて、次第にやる気が失せてくるとともにやっていることに対する興味も薄れてきて、しまいにはどうでもいいような状況となってくるわけで、そうなるとそんな状況がもたらされていることに関しての責任がどうのこうの言う気も失せてくるだろうし、批判している側にも批判疲れが生じてきて、次第に何もかもがうやむやになってきてしまうわけで、またそれに伴ってそれとは別の方面で民衆の興味を煽り立てるような思惑も生じてくるとともに、そうやって手を替え品を替えながら、そうした過程を通して利益を追求する行為も出てくるわけで、結局はそんな成り行きが延々と続いていく限りで、そうした世の中が維持されることにもなってしまうのではないか。


8月29日「言説の維持」

 物事の印象について理屈を伴わないようないい加減なことを述べてはいけないのかもしれないが、その印象が何を意味していると思えなくても、印象には何らかのヒントが隠されているのかもしれないし、何かを暗示させるものが印象には含まれていて、それに関して具体的に何をどう考えているのでもなくても、そこから得られる印象が、その印象に囚われた意識に考えさせるわけで、そこから思考が事物に対するまとまった認識をもたらそうとしていれば、さらにそれについて語ろうとするわけで、結局事物について知ろうとすることが、それが思考を伴う限りで、知り得たことを語る成り行きをもたらしているのかもしれず、語ろうとすることが知ろうとすることに結びついて、知り得たことを語っているような気になるわけで、もちろんそこには知り得ないことまで語っている可能性まで出てきて、その辺でやろうとしていることと実際にやっていることとの間にずれが生じてくるわけだが、厳密には印象は思考がもたらされる以前に抱く感覚なのだろうし、それを安易に考えることと結びつけるべきではないのかもしれないが、疑念も印象の類いには違いなく、他人の見解に疑問を持つことも、それについて考えるきっかけにはなるわけだ。でも中には思考をすり抜けてしまうような印象もあるわけで、実際に思考をすり抜けて感情を刺激するような印象となると、逆にそれについて考えることを受け付けないのであり、そうやって感情に流されてしまうと判断を誤って、それについて主体的に考えている感覚が失われて、そこで意識が囚われている事物に操られてしまうことにもなり、そうであるなら人を操作するには、その人が感情に流されてしまうような成り行きに持っていく必要があるのかもしれないし、実際に物事を考えているつもりで、その実単純な認識やそれに基づいた批判にとどまろうとしている人は、それ以上考えることを放棄していて、そのこと自体が、ある意味で感情に流されていると言えるだろうし、意識して思考をそこで止めようとしているわけだから、そこで止めなければならない事情がそこに生じているとも言えるわけで、実際に止めようとしているのだから、それ以上考える余地を意識させているわけで、実際にそれ以上考えてしまうと、自らが判断した評価が揺るがされてしまう可能性を意識させるのだろうし、その判断がそれ以上思考することによって、それが誤りであることに至ってしまうと、当初の認識やその単純な認識に基づいた批判自体の土台が切り崩されて、批判している立場を維持できなくなってしまうわけだ。だからそうなってしまうと自らの誤りを認めざるを得なくなって、そういう状態になるのは感情的に受け入れ難いから、頑なにそこへとどまろうとして、そうした単純明快なイデオロギーの砦にこもって、ひたすら防御戦を試みようとするのだが、やはりそんなことをやっていること自体が自己欺瞞でしかないわけで、そんなことをやっている時点で、そうした地帯に自らがとどまっていることに疑念を抱いてしまっているのだから、できることなら勇気を出して、そんな使い古されたイデオロギーの砦を打ち捨てて、そこからさらに自らの思考を前進させる必要があるのかもしれないが、その一方でそうした立ち位置が安定していて、前進する必要を感じさせない心境を考慮すれば、批判の対象となっている物事やそれに関係している人や集団との敵対関係を維持して、そこで予定調和の二項対立を構成する方を選んでしまい、そうした現状維持の姿勢から生じる立場的な安定に魅力を感じるから、実際にそんな姿勢を保っているうちにその場の居心地が良くなってきて、そうなるともはやそれが自己欺瞞だとも思えなくなってくるのだろうし、結果的にそこから先に進んで苦労することを放棄してしまうわけだが、たぶんそうした立場や待遇の安定を社会の中で勝ち得た人たちが、一致団結して保守層を構成していて、それは敵対関係という予定調和の二項対立を構成しているどちらの層にも言えることであり、それらのどちらが正しくどちらが間違っているとも言えないわけだが、できれば意識がそれらの見せかけの敵対関係に絡め取られないように用心しておくべきなのだろうが、そう自覚する以前に絡め取られていれば、そんなことにも気づけないわけだ。

 現状で生じている自らの立場を正当化したいのは、ある意味で当然の感覚なのかもしれないが、そんな人たちの立場を認めつつも、特にそこからメリットを感じられなければそれに賛同することもないわけで、実際に賛同者が少なければその人には権力が生じないわけで、そういう人は人畜無害な一般人でしかないわけだが、逆に賛同者を増やして権力が生じてしまうような人には何らかの魅力があるわけで、そこにとどまってしまうことが心地よく感じられるような思考的な環境を提供しているとも言えるわけで、それがそういう水準での思考停止を多くの人たちにもたらしている要因にもなるのだろうが、別にそこで思考停止することが悪いわけでもないだろうし、そこで思考を停止させることに何らかの妥当性を感じられるような成り行きが、そこで生じていることにもなるのかもしれず、それがより多くの人が賛同できる単純明快なイデオロギーともなるのだろうが、それを妥当だと思わせるような理屈がそこで使われているから、そうした理屈に従えば、それ以上考える必要も感じないのだろうし、別にそれが欺瞞だとも思えないわけだが、ではそうした理屈が何かとなると、それはある特定の範囲内に思考を限定することであり、そこに何らかの条件を課して、その条件を満たすこと以外は考えないようすれば、その条件を満たす範囲内で無矛盾な理屈が通用するわけで、そういう限定された範囲を課す理由として、何らかのまとまりを持った共同体が構想されるわけだろうし、その共同体の中で思考する限りでその理屈が通用することにもなるわけで、そうした典型的なまとまりが国家であり、またそれとは範囲が重なりつつも多少はずれたまとまりとして、民族や宗教などがあるわけだが、たぶん範囲を区切らないと取り留めがつかなくなってしまい、そういう漠然とした理屈の定かでない思考では、世間一般から広範な支持を得られないだろうし、世間一般から支持を得るためにはそうなってしまうのも当然ことなのだが、だからこそその中でまかり通っている理屈を通用させるためにも、民衆を国家や民族や宗派などの枠内に囲い込もうとするのであり、何とかしてそうした共同体への帰属意識を高めるために、あれこれと工夫を凝らすわけで、そうした工夫の類いとして代表的な方策が、他の国家や民族や宗派との敵対関係を煽って、民衆がどちらの勢力につくかの選択を迫るようなことが行われるのだろうし、それ以外の選択肢がないかのような理屈が作られるわけだが、逆に民衆がそうした策略にとらわれないようにするには、それ以外の選択肢を提示して、そうした選択が説得力を持つことを信じてもらえるように工夫を凝らさなければならないだろうし、しかもそうした試みが敵対関係や予定調和の二項対立をもたらさないような配慮が求められるわけで、結局世の中の反対勢力の大半はそうした配慮に欠けているから、自分たちが敵対しているつもりの保守派との敵対関係を構築してしまい、しかも世間からの支持を集めるためにそうした敵対関係を煽ってしまうから、結果的にそれは予定調和の二項対立を招いてしまう原因ともなって、そんなことをやっている自分たちも、自分たちと敵対しているつもりの保守派と同じ理屈を共有していることに気づかなくなってしまい、そこで民衆の支持を獲得するための勢力争いに明け暮れているうちに、根本的なところで自分たちが何をやろうとしていたのかがわからなくなって、自滅してしまうか保守派に吸収されてしまうわけだが、そうならないための工夫として重要なのが、ある意味では分散的な思考であり、不用意に理屈を通すための条件を設定しないことでもあるわけだが、それには思考的なまとまりに至らない危険性も引き受けなければならず、場合によってはもっともらしい理屈や理論によって自らの主張を正当化できなくなってしまうわけで、そうなると主張さえもなくなってしまうのかもしれないが、それが何らかの対象への批評となると、それなりに説得力が生じるのだろうし、何か考える対象があって、それについて言及するような成り行きになれば、無理に批判的な態度に凝り固まらなくても、言説を維持できるわけで、そうした言説の維持に努めていれば、それに関する多種多様な認識や見解が知識として、その言説の中に自ずから集まってくるのではないか。


8月28日「物事の評価」

 人の人格はその人の物事に対する嗜好やこだわりからわかり、その嗜好やこだわりにもその人なりの特有の経緯や独特の傾向があるだろうし、そこまでに至る中でその人が関係してきた物事から、何かを嗜好するようになるきっかけや、何にこだわるように仕向けられてきた成り行きが生じてきて、そういう経緯がその人を取り巻いてきた社会情勢を物語っていて、そこから影響を受けてきた結果として、その人の人格や性格が形成されてきたのだろうが、それが先天的な影響ならその人が生まれる以前からの影響で、後天的な影響ならその人が生まれて以降からの影響だと言えるのかもしれないが、先天的な影響ならすでにその人を取り巻いてきた環境に含まれているし、それらの影響を特に先天性と後天性とに区別する必要もないのだろうが、どちらにも必然的な傾向の強いものから偶然的な傾向の強いものまで、様々な傾向の要素が含まれていて、そういう要素をいくら勘案してみても、またそれをいくら分析してみても、いずれにしても影響が多種多様すぎて、そこからその人の人格まではたどり着けないかもしれないが、それが容易にはわからないからこそ、そうした面倒な分析や検討を省いて、安易なやり方を誘発することにもなるわけで、その人の人格に関するいい加減な決めつけを用いて、安易な判断や評価を下すことにもなってしまうし、そんな判断や評価を下した時の都合に合わせて、その人の人格や性格に起因する要素をあれこれと想像しながら選び出してきて、中にはその人の人柄から醸し出される曖昧な印象さえも、安易な決めつけに利用してしまうわけで、それはその人のそれ以後の行動や言動の評価にもつきまとってくるだろうし、まずその人の人格を肯定や否定の評価を伴って取り上げて、そうした人格からその人の行動や言動の原因を導き出して、そんな行動や言動に至ってしまうのが、あたかもその人の人格や性格から導き出された必然的な帰結であるかのようにみなしてしまうことにもなるわけで、どうしてもその人について語る上で避けられないそうした安易な決めつけが、その人の行動や言動の評価を決定しがちになってしまうのだが、それにも多少は正しい面がないわけではないのだろうが、それが決めつけとなってしまうからには、そうなってしまったことについて、他の要因からの考察や検討を怠っている面もあるわけで、印象としては確からしい面があるにしても、それを全面的に信用するのは危険だろうし、それがたわいない評価なら危険でも何でもないのかもしれないが、そこから深刻な事態を引き起こすような成り行きが生じてしまうと、そうした特定の人物の行動や言動に関する安易な決めつけによって、その人が関わってくる物事や人間関係や社会的な立場や役割にも、重大な作用や影響を及ぼしているように思われてしまうだろうし、それに関して例えばその人がメディア的に話題を集める人物で、そうした評価が社会的に広まると、民衆の意識もそうした安易な決めつけに影響を受けて、民衆から得られる世論や民意の類いにも安易な傾向が見られるようにもなってきて、それが世間的な評価基準にもなってしまい、場合によっては政治的な影響力まで持ってくると、そうした判断の全てが、安易でくだらない評価を伴っているようにも思われてくるのかもしれないが、たぶんそうした人物がもてはやされるような時代状況というのが、偽らざる民衆の本音を表しているわけで、その本音というのが、安易な決めつけによって全てを評価してしまっても構わないような、状況判断のお粗末さにも表れているわけで、それが世の中の多数派が構成する衆愚感を醸し出しているのかもしれないが、一方でそんな時代状況を深刻に受け止めるべきではないのかもしれないし、産業革命以降の世の中に構成されてきた大衆市民社会という現象には、全ての面でそうした安易さにつきまとわれていて、特に今の時代が最もひどいわけでもなく、かつてはさらにひどい時期もいくらでもあったのかもしれないし、絶えずそうした世の中を批判的に見ている人たちには、そこから深刻な危機感に至るような感覚にとらわれてしまう成り行きが生じているのかもしれず、そんな感覚にとらわれてしまう人が多いほど、そんな時代状況がさらに劣化するのを阻む歯止めとなっているのかもしれないが、そうした捉え方にもそれなりの思い違いや勘違いが含まれているのかもしれない。

 それらの判断や評価のことごとくが間違っているとは思えないものの、ある程度の誤りやある程度の正しさの間で揺れ動いているようなことであり、何かそこから決定的な判断や評価を伴うようなものでもないだろうし、そうだからといって全く信用できないとも思われないだろうし、そうした曖昧な面があるから、取り立てて事の深刻さを示す兆候はないのかもしれず、曖昧な共通了解として民衆の間で受け取られるような状況をもたらしているのだとすれば、いちいちそんなことにこだわるような意識も生まれてこないのかもしれないが、少なくともそこから世の中をより良い方向へ導くような機運は生じないだろうし、それよりは現状を維持するための方便として、それらの判断や評価が利用されている面の方が大きいのだろうが、そうした現状維持の姿勢が状況をさらに劣化させているようにも感じられるわけで、だからそうした時代状況に対しては批判的な姿勢で臨まざるを得ないのかもしれないが、ではそれに関しては何をどうしたらいいのかとなると、安易な決めつけを回避するような判断や評価をするしかなく、それには物事を様々な面から見て判断して、評価する時にも一定の傾向だけにこだわるのではなく、評価する対象に作用や影響を及ぼしてくる様々な社会関係を見極める必要もあるだろうし、それだけ判断や評価の基準を増やすことにもなるわけで、あまり事細かに増やしてしまうと、かえって判断や評価そのものが下せなくなってしまうのかもしれないが、それは判断や評価の目的に合わせて判断や評価を下すことで回避されるだろうし、その時々で必要となる条件も基準も変えて判断や評価をしていく必要に迫られるかもしれず、そうやって世の中の多元性や多様性に応じて判断や評価を下していけば、一つの傾向にこだわることにもならないし、一つの基準で全てを判断するような愚も避けられるのかもしれない。結局それは自分の嗜好やこだわりからできるだけ距離を置くことにもなって、それがより妥当な判断や評価にも結びつくのかもしれないが、誰にとって妥当なのかといえば、たぶんそれは判断や評価を下す側ではなく、判断や評価の対象にとって妥当な判断や評価への助けになるのかもしれず、それが正しいとか間違っているとかいうのではなく、そうした判断や評価によって、その対象なる物事をより良い方向へと導く助けとなるような成り行きへと持っていくことが肝心で、そうなるには判断や評価を行う側の嗜好やこだわりに沿った自己満足に至ってはまずいわけで、そうした判断や評価する側の自己満足をもたらすような判断や評価自体が、勝手な決めつけや判断や評価の恣意的な押し付けを生じさせているわけで、それこそが判断や評価する側の思考やこだわりの現状を維持することにもなり、さらに勝手な決めつけによって恣意的な判断や評価を押し付けられる側への権力の行使にもつながり、そうした権力の行使を受け入れることによって、判断や評価を下す側の権威が保たれるわけだが、そうした判断や評価に疑問を感じたり反感を抱いたりすることが、そのような権威主義に対する反発を表しているのは当然のこと、何かそれとは違う判断や評価を望んでいることも示しているのだろうし、そうした意見や声に応えていくことが、現状をより良い方向へと導くことにもなるわけで、それが現時点での妥当なやり方なのかもしれず、結局建前ではない実質的な民主主義という概念にも、世の中の様々な意見や声に耳を傾けながら、それらの意見や声を上げている人たちの立場や境遇に応じて判断や評価をしていくような意味合いがあるわけで、そうしたことを行なっていくには、行政機構の制度や仕組みに至らない面が多すぎるのかもしれないが、そういう方面での改革が欠かせないとしても、世の中の情勢は行政だけに頼るような成り行きにもなっていないのだろうし、様々な方面で連携や協力が欠かせないことも確かであり、それらのどれを優先させるかは、そこに関係してくる人や集団の立場や境遇に応じて違いが生じてくるのだろうし、実際に様々な方面で様々な取り組みが行われている現状があるのではないか。


8月27日「現状に対する理解」

 語っている現状と現実の現状の間でずれた感覚を伴うのは、それを言葉では表現しきれないからかもしれないが、現状に関して何か語りたいことがあるのかというと、そうでもなければそもそも現状について考える必要もないのだろうが、現状についてできるだけ詳しく知りたいと思うことと、そんな現状について語ろうとすることが、語るにはその対象について知らなければならないという目的意識に結びつくにしても、たとえ何かのきっかけで現状のある面を詳しく知ったところで、別にそれを語る必要はないのだろうし、ではなぜ現状について語ろうとするのかといえば、その理由がわからないなんてありえないのかもしれないが、特に語る理由を、語っている内容の中で明らかにする必要もないのかもしれず、現状を余すところなく正直に語ろうというのではなく、語りたい現状について語ろうとしているだけなら、それ以外の現状を無視しながら語っているとすれば、そんな現状はフィクションとは言えないまでも、正確さを欠いた現状であることは確かだろうし、そうやって正確さを欠きながらも語らざるをえない事情があるとすれば、それが語る理由となるのかもしれないが、別にその事情を語る必要はないのかもしれないが、その事情というのが現状を詳しく知りたいということだとすると、やはりそこで語ることが知ることと結びつくのかもしれず、それがフィクションをもたらすのかもしれないし、語ることは知ることとは違う行為なのに、知らなくても語れるといういい加減さを無視して、なぜかそれを結びつけて、しかもそれを語る理由にしようとすること自体もおかしいし、そうやって語ろうとする自らが陥る自己矛盾を回避しようとしているのかもしれないし、それが私が語るというのが自己矛盾そのものであり、それを私ではなく誰かが語るにしないと、語っている主体を特定できなくなるのかもしれないが、実際に私が語っていないのに、文章としてそう記されてしまうこと自体が、それをフィクションとみなせば矛盾が回避されてしまうのかもしれないが、それとは違う水準で、現状について語ろうとしているわけだから、そういう水準ではフィクションとはみなせないわけで、その辺から語っているつもりの文章の内容が破綻してきてしまうのかもしれないが、文章という次元と語るという次元を結びつけているのも、やはりそこで正確さを欠いている思考であり、そこから生じている行為であることは、紛れもない事実であるだろうし、それこそが語ろうとして文章を記しているつもりの意識が囚われている現状そのものなのかもしれないが、たぶんそれとは別に、語ろうとする現状があるということを、記しつつある文章の中で示したいのであり、そんな現象が思考の対象にもなっていて、そうした込み合っていて錯綜した事情を省かないと、語ろうとする現状には至らないわけで、そうした省略や短絡の類いが、語ることと知ることを結びつけているフィクションなのであり、そんなことは思考するまでもなく、そこで考えながら語っているつもりで、実際には文章を記している現実を言葉で表現しようとしていることでしかないわけだが、やはりそうした自己言及を省略しないと、自らが囚われている現状について語るまでには至れないわけで、語ろうとしているのが、語りつつある現状を省略した上で思考しようとする現状である限りで、どうしても語ろうとする自己からある程度距離を隔てた現状になる他ないだろうし、その自己と隔てられた現状の中に、それを意識している自己も含まれてくるから、何やらそこで事態が錯綜してきて、捉えようとしている現状に関して正確さを欠いてしまうわけで、その正確さを欠いた認識が、現状に対する客観的な認識のように思われてしまい、それが思い違いや勘違いの類いであるとはどうしても思えないのだから、そうやって実際には語ろうとする自己が現状に含まれているのに、そんな自己を欠いた語りの内容に正確さは期待できないのだが、それを現状を正確に捉えた認識だと解釈してしまうのだから、そこに含まれる自己に起因した恣意性やご都合主義に気づかないのも無理もないことであり、たぶんそういった現状を歪めてしまう要因を現状認識から取り除けないだろうし、それに気づくこともできないのではないか。

 とにかく自己に関する錯綜した事情を無視して現状について語ろうとすると、客観性に関するフィクションを受け入れざるを得なくなって、それを自覚できれば、まだ意識や思考には完全には掌握できない、という事物に対する謙虚な姿勢をわきまえていられるのかもしれないが、自覚せずに自己の外側で起こっている具体的な出来事へと興味が移っていくと、知ろうとする対象も語る対象も自己から明確に隔っているようにも思われて、その距離感が対象に関する客観的な認識を得られたような幻想を抱かせるわけで、そうやって思考の対象に自己の勝手な願望が投影されていることに気づけないままだと、そうした対象を含んだ恣意的な共同体のようなものを意識の中で構築してしまうわけで、そんな共同体には自己の他人への願望に基づいた他人の存在や他人の意識も含まれてきて、そうやって自己の恣意的な都合が周りの環境に反映されて、そうなってくると何やらそんな共同体を、肯定できる価値観を伴うものとして、他人と共有したがるような傾向も出てきて、そこに人が集団で群れたがる性質が介在していることは明らかかもしれないが、そうでなくても社会の中で人と人とが関係し合う成り行きが生じているのだから、そんな関係を通して自己の意向を外部の領域にまで拡大させようとすることが、権力への意志そのものの反映ともなるのかもしれないが、そうした自己の都合を社会の中へと浸透させようとする行為が、社会貢献にも結びつくという確信が伴うと、それだけでも自己の私益よりも社会の公益を優先させているようにも思われてくるだろうし、しかもそれに関して具体的に他の人々や組織的な集団の協賛や協力も得ながらやっている成り行きが生じてくると、もはやそれは自意識の中では自己の恣意的な都合ではなく、実際に世のため人のために行なっていることにもなるのではないか。果たしてそんな都合よく事が運ぶとは思えないかもしれないが、自分の都合が他人の都合でもあり、その意向が社会の意向だと確信させるものが、集団の組織的な活動から生じる集団意志なのかもしれないし、それと自覚することなくそうした集団意志に従っている実態が、すでに自己が心身ともに集団に取り込まれていることを明かしているのだろうが、その集団意志を社会意志と取り違えるというか、社会意志とはそういうものだと自覚することなく確信してしまうのは、天啓や天命などの使命を悟ってしまうことにも通じることかもしれないし、世の中で生じている人や集団を巻き込んだ成り行きに、神の意志を感じ取ってしまうことにも、それが表れているのかもしれないし、そこで勝手に抱いてしまうそれらの意向とは違う意向や、それに逆らう他人の意志を感じ取れないことが、そうやって形成される運命共同体の中で生き、その中で思考してしまうことから生じる効果であり、共同体の機能がそうした効果をもたらすわけだが、しかしそうした共同体を否定的に捉えるという思考も、そうした共同体から疎外された立場や境遇から個人にもたらされる効果なのかもしれないし、人々がそうした共同体に関わることによって、その社会的な共同体からもたらされる意向や意志を、自分の意向であり意志であると思い込ませる効果が生じていて、それが自分の意志であるとしても、同時に共同体の内外で生じる人や物の関係や相互作用からもたらされる意向であることにも気づかないと、短絡的にそれらを社会全体の意志や意向と混同して、そうした意志や意向に従うことが社会貢献にもなると思い込んでしまい、他のそうした関係や相互作用の外で生じている他人の意志や他の社会の意向を感じ取れなくなってしまうのだろうし、それがそれらの内外で発生する対立や軋轢を生じさせる要因ともなるわけだろうが、実際に組織的な機構の中に身を置いてみると、そうした外の思考を用いてそれを感じ取れと言っても、困難な事情も出てくるのかもしれないし、それはそうした意志や意向が世の中でまかり通っていて、他の様々な意志や意向とともに、社会に作用して影響を及ぼしている現状を見れば明らかなことなのかもしれないが、だからと言ってそれらの意志や意向から否定的な妄想を膨らませてしまうのも、それこそ自意識過剰の陰謀論者やストーカーの類いになってしまうわけだから、必要以上に悲観したり憎悪を募らせたりせずに、自然体で臨んでいくしかないのかもしれない。


8月26日「場違いな立場」

 普通に世の中で推奨されている倫理観を重視するなら、例えばその内容として妥当なのは、他人に迷惑をかけてまで自分の利益を追求しない、というありふれたものになるのかもしれないが、それ以前に他人に迷惑をかけていることに気づけないと、そうした倫理を守れなくなるだろうし、また個人が対象ではそれでもいいかもしれないが、対象が集団となると、集団の意向に背いてまで、集団の中で不利益を被っている個人を助けたり、集団に弾圧されている別の集団や外部の個人を助けたりすることが、倫理を守ることになるかもしれないが、そもそも個人の力では集団には太刀打ちできない場合がほとんどだから、助けようとしても助けられない可能性が高いだろうし、そうなると倫理を守るのは容易ではなく、場合によっては妥協せざるを得ないことにもなるだろうし、できればそういう事態に陥らないような方策が求められるかもしれないが、幸い社会に法律が行き届いていて、違法なことを行う個人や集団を処罰できる体制が確立されていて、個人が助けようとする人に違法な行為が加えられているなら、法律に訴えて、その対象となる個人や団体を処罰することで、弾圧されている個人や集団を助けることができるわけだが、しかしその法律を管理する政府が司法と一体化してそんな行為を加えていれば、やはり個人ではどうすることもできないケースとなるだろうし、それでも結果的に助けるには至らないにしても、自分が信じる倫理観に従うことはできるかもしれないし、助けようとする態度を可能な限り保持することはできるかもしれず、実際にそれができている間は、自分が信じている倫理という価値に従っていることになるわけだが、そうなるとたとえ個人が倫理観を重視していても、他の個人や集団がその倫理観に逆らうような価値を重視していれば、その限りで特定の倫理観を重視する個人の意向が社会の中で通用しなくなるわけで、ではそれ以外に何をどうすればいいかとなるわけだが、そんな簡単に方策が見つかるわけでもなく、見つかったとしても、それをそのまま社会に適用できるわけでもないだろうし、そういうところで個人の力の限界を実感してしまうだろうし、またたとえ同じ志を共有できる同志を募って、集団となって力を合わせて、真っ当な倫理を社会の中で通用させようとしても、社会の中で主導権を握るには至らないとすれば、では社会の中で主導権を握るには何が必要なのかとなるわけだが、それには現状で主導権を握っている勢力のやり方が参考になるわけで、そうした勢力のやり方を参考にしてそれらの人たちも活動すれば、それだけ社会の中で主導権を握れる可能性が高くなるかもしれないが、それが自分たちが守っている倫理観からは受け入れられないやり方だと、そうした倫理観を捨てないと社会の中では主導権を握れないことになるのかもしれず、そうなってくるとそうした社会状況の中では、その手の倫理観が廃れることになるわけだが、たぶん実態としてはそうではなく、そんな単純に倫理観を強調できるような社会状況にはなっていないわけで、またそんな都合よく倫理観を捨てざるを得ないような事態に陥るわけでもなく、さらに自分が守ろうとする倫理観が試されるような事態にも直面できないのかもしれず、それよりはそうした自分勝手な願望や思い込みをはぐらかすような事態に直面することの方が多いだろうし、はぐらかされるならまだしも、それさえも実感できずに、倫理観や正義感を意識するような成り行きにさえならないわけで、それよりはもっと卑屈な態度を強いられて、そうしないと自分の活動自体がままならないようなことにもなってしまうわけで、要するに自分が世間に対して倫理や正義を誇示できるような物語の主人公ではないことに気づくのではないか。つまり世の中で推奨されている倫理観が建前でしかないことがわかるわけだが、実際にはそれさえも気づけない人が大半なのかもしれないし、ただそうした主人公面ができる著名人を支持するか否かが求められているだけなのかもしれない。

 メディア上で世間から批判を浴びているはずの政治家や官僚や経済人などとともに、その世間を含む大衆市民社会の中で一般大衆にも倫理観が生じていないように感じられるのは、それはメディア上で一般大衆という役割を担わされているからかもしれないし、個人としてはそうではなくても、一般大衆の中で目立つのは群衆的な紋切り型の行動や言動を伴った市民であり、メディアがそうした群衆のありふれた行動や言動を意図的に選んでメディア上で取り上げていて、そこから外れるような行動や言動は群衆としての役割から外れるから取り上げないだろうし、その一方で、特定の著名人には特定の役割を求めることが多いだろうし、例えば倫理的な発言を好んでするような役割だと、そうした内容の学問を講じている大学教授とか、人権派の弁護士とか、そうした発言をするのにふさわしい著名人が、メディア的な存在として役割を担わされていて、一般市民がそうした著名人より偉く見えては困るのはメディアの方であり、メディアが何よりも優先すべきなのはそうした役割分担によって、伝えている内容をもっともらしく見せかけることであり、だからそれに伴って、そうした話題を受け取る一般市民の話題に対する印象が、自然に感じられるようにするには、自分たちが優先して取り上げる話題の中で、印象として一般市民は一般市民らしく小物感を漂わせてほしいわけで、その逆に著名人の方は大物感を漂わせてほしいだろうし、そういう意味でどちらが自分たちの語る話題の主人公となってほしいのかはわかりきったことであり、何か世間的に評価できる業績を上げた人が、著名人として話題の中心で語られるべきだろうし、その逆に世間的には特に目立った業績は何もなく、また世間の話題となるような事件の犯人でもない人が、話題として語られることはまずないだろうし、何らかの事情で話題となって語られるとしても、例えば何もしないで引きこもりがちなニートの人が場違いに立派に見えては困るだろうし、また街の食堂のおばちゃんが、どこかの大学教授のように高尚な哲学について語り出すなんてありえないだろうし、逆に実際にそれがありえたら、そういう場違いな主題として話題となるのかもしれないが、とにかく話題とはあまり関係のない単なる通行人の人に、その状況とは場違いな倫理観が試されることは、意図的なドッキリ企画でもない限り普通は起こらないし、その手のドッキリ企画も、本来のメディアが報じるような状況ではありえない状況を見せることによって、本来のもっともらしい状況との落差を作り出して、その場の主人公の意表を突いて驚かせることになるわけで、そうすることによってそれを観ている人を楽しませるわけだから、意図的にありえない感を醸し出す限りで、普通なら話の主人公とはなり得ないところを、逆説的に主人公に見せかけるわけで、それ自体がドッキリ企画の意図に沿った成り行きでしかなく、別にそういう意図とは無関係な人に何を行わせようとしているのでもないわけだ。だからメディア以外の場では、メディア上でメディア側の意図に沿った著名人の役割や、それに準じたり、それとは逆説的に話題の中心となるような役割とは無関係な場面がほとんどなわけで、そのような場違いの場で倫理観を重視していても、実際に自らが守っている倫理観を、その場に居合わせた家族や友人や職場の同僚や上司や部下や赤の他人に見せるような事態に至るとしても、それがその場にいない他の民衆に伝わることはないだろうし、特に伝える必要もないわけだが、それよりはメディアが何らかの意図を持って伝えることの方が、優先的に他の民衆にメディアを通して伝わる可能性の方が高いだろうし、そうした優先的に伝えられる内容が、例えば世論調査の結果から出てくる、民衆という集団としてまとまった存在から導き出される最大公約数的な意見になるだろうし、あるいはメディアによる誘導尋問的な設問から導き出される、メディア側が条件付ける意図を反映した世論となるわけで、それをもっともらしく自然なことのように感じられるとすれば、そう感じている時点でメディアに信頼を寄せていることになり、そうなるとメディアが批判的に取り上げる人物やその人物の行為や活動には、批判的になれるだろうし、メディアが好意的に取り上げる人物やその人物の行為や活動には、好意的な印象を持つだろうし、そうやってメディアによる誘導や操作に屈していることになるのかもしれないが、逆に一部のメディアに反感を抱くのも、それとは逆の誘導や操作に屈していることにもなるのかもしれず、一様に好感や反感一辺倒にならないことが肝心なのだろうし、メディアが伝える話題ごとにその話題に特有なメディア側の意図や思惑を想像してみればいいのかもしれない。


8月25日「公益と私益の関係」

 現状の資本主義経済の中で暮らしていると、私的な利益を求めることは、公共の利益という概念とは違って、自然な行為を連想させるだろうし、まずは人としてそうするのが当たり前のことだと思われるのだから、それを否定するわけにはいかないのはもちろんのこと、それと比べて公共の利益を強調することが、何か偽善のように思われるのも、人の心理としては当たり前のように思われるのではないか。だから公共の利益はそれだけでは肯定できる概念ではなく、それを肯定するにはそれなりの思考力を要するのかもしれず、そういうところが私的な利益の追求とは違って一筋縄ではいかないところで、そこに偽善やごまかしの臭いを感じ取ると、何かいかがわしく思われてくるわけで、そんな面倒なことよりも素直に私的な利益の追求に邁進していた方が、自己に対して正直なことをやっているようにも思われてくるだろうし、普通に暮らしている限りで、その辺はあまり深く考えない方が良いのかもしれないが、ではどうやれば公共の利益を肯定できるのかというと、私的な利益の追求と同じように肯定できるものではなく、それは私的な利益の追求が限界に達するところで、公共の利益との兼ね合いが考慮されてくるわけで、そこで無理に私的な利益を優先させようとすると、それまで私的な利益の追求を許していた環境そのものが壊れてくるのであり、そうしたことを考慮して、私的な利益の追求をそこで断念することになれば、そうなって初めて公共の利益に配慮した行動となるわけで、おそらく初めから公共の利益に配慮することはできないし、それだけで単体であるようなものでもないだろうし、それは私的な利益の追求とともに意識せざるを得ない概念であり、私的な利益を追求していくと、その追求の限界点で誰もが公共の利益に直面するのではないか。だから両者の間で対等な関係は成立しないだろうし、意識して私的な利益を追求しなければ、公共の利益を意識することもないだろうし、逆に他人がやっている私的な利益の追求によって、自分が深刻な被害や損害を受けると、公共の利益の大切さをまざまざと実感せざるを得なくなるだろうが、自分がやっている私的な利益の追求によって、他人が傷ついていることまでは気づかない場合も多いわけで、さらに他人と競争して他人を押しのけてまで、立身出世や社会的な成功の類いを目指しているのならば、そんなことには鈍感でいられる方が有利だろうし、それ自体が私的な利益の追求そのものなのだから、それにかかりきりな人たちに公共の利益を意識せよと説いても無駄かもしれないが、それとこれとも微妙にずれているのかもしれないし、個人の立身出世や社会的な成功にも、場合によっては公共の利益にかなっている面が出てくるのかもしれず、例えば公共の利益を重視する人が、結果的に立身出世したり社会的な成功をおさめるようなことにでもなれば、そこで個人の私的な利益の追求と公共の利益の追求とが合致しているようにも見えてしまうだろうが、それも異なるレベルや次元を混同していることにもなるのかもしれないし、どうも両者を対立する概念と捉えようとしたり、逆に無理に結びつけようとしたり、時と場合に応じて都合のいいように解釈したがる傾向が出てくるわけで、そうやって何とか公共の利益を積極的に肯定できる条件を導き出そうとするのだろうが、どうもそういうものではないのかもしれず、私的な利益の追求と同程度かそれ以上の効果や効用を、公共の利益に期待するのは無理なのかもしれず、何かそれとは別の効果や効用があると捉えておく方が妥当なのかもしれないが、そうだとして単体としては取り扱えないところが面倒なところだろうし、価値としては絶えず他の価値との兼ね合いにおいて出てくるわけで、他の価値を求めすぎると損なわれるようなものであり、逆に他の価値を意識しないと出てこないものなのかもしれず、また個人の事情というよりは他人の事情を考慮する限りで必要とされるのだろうし、そういう意味でどこまでも個人の主体的な意識からは逃れ去るような概念なのではないか。

 それ以外にも社会の中で他の価値と連動することで、調整的な機能を持つ価値や概念があるのかもしれないが、一方でそうした調整を無効にしようとする思惑や作用も生じているだろうし、それが集団的な活動として活発化してくると、環境破壊などを伴った深刻な事態をもたらすわけで、その最悪な事態が戦争となるわけだが、そうした破局的な結果がもたらされてしまうと、それまでに私的な利益の追求によって蓄積してきた富もいっぺんに吹き飛んでしまうことから、そこにも私的な利益を追求する功利的な損得勘定が働けば、破局を回避するような成り行きも生じてくるわけで、そうした経緯から破局に至らないような私的な利益の追求への模索も自然と出てくるだろうし、そんな試行錯誤を経て現状に至っているとすれば、世界大戦のような武力を用いた全面衝突に至る可能性も、そうした模索の結果として薄れてきているのかもしれないが、それとともにより巧妙に私的な利益を追求しようとする傾向が出てきているのかもしれず、その代表例が情報革命を契機として莫大な富を築き上げた、情報関連のグローバル企業やその関係者たちになるだろうし、それは金融関連の企業やその関係者などにも多大な恩恵をもたらしたわけで、より大量かつ迅速な情報処理や操作を行うことによって莫大な利益をもたらすことに成功したわけだが、すでにそうしたやり方も限界に達して飽和状態となっているのかもしれず、そうなるとかつて産業革命による技術革新が工業や商業などの分野で飛躍的な富の増大をもたらして、そこで財を成した個人や企業がそうしたように、何らかの財団やそれを利用した研究機関などを設立して、それを社会貢献のための公共投資などに役立てるような成り行きになって、そこでも名誉欲などの私的な利益の追求を、公共の利益に結びつけようとする試みが行われているわけだが、そうした試みにも、行き過ぎた私的な利益の追求を緩和させるような効果や機能があるように思われるだろうが、それでも私的に富を蓄積する過程で生じた、公共の利益を損なうような様々な弊害や被害をなかったことにはできないわけで、その結果として生じた社会貢献への試みが、そのことへの罪滅ぼし的な意味合いもなくはないだろうが、そうした社会貢献にも私的な利益を追求する企業などが絡んでくるのだから、やはり公益という概念がそれ単体で肯定され推奨されるようなものではないことは踏まえておくべきだろうし、公益が実現するにはそれなりの代償を伴っているわけで、それに関して単に私益を批判して公益を賞賛するような成り行きとはなりがたく、また罪滅ぼしのように蓄積した私益を公益に変換することにも偽善や欺瞞が付きまとってくるし、別にそのこと自体を批判する必要はないのかもしれないが、そうなる過程の中でマネーロンダリングのような成り行きがあって、しかもそうやって富を蓄積する過程がないと、社会貢献となるような公益をもたらす事業が成り立たないとすれば、それは税収や公債などで賄われる政府の公共事業などと同じように、途中の過程で一般の民衆からの富の収奪を伴っているわけだから、もちろん売買から利益を上げるのは収奪とは言えないし、それは徴税などの行為にも言えることだが、少なくとも善意の寄付を募っている面は少ないし、そうした寄付も大口の資金提供となると、そこに至るには経済行為としての私的な利益の追求や、徴税などの強制的な徴収を経ないとならないわけで、そういう意味で公共の利益を目的とした事業などを好意的に受け止めるとしても、それが金銭的な予算を伴った事業である限りは、そこに至る途中の過程で必ず私的な利益の追求を伴っているわけで、またそれ以外の事業などあり得ないわけだが、たとえそれが結果的に免罪符的な効果や資金洗浄的な機能を果たしているとしても、結果だけから好意的に捉えてはいけないだろうし、それに関して未来へ向かって検討すべきことがあるとすれば、富が蓄積する過程で生じる弊害や被害をいかに抑えるかが、今後の検討課題であり、それに対する妥当な対処法を確立することが求められているのかもしれないが、そもそも何をするにも富を蓄積させないとならないという前提が、公益の実現を困難にしているわけで、またそれが私的に富を蓄積するという私益からもたらされていることも、疑いようのない事実なのではないか。


8月24日「社会現象の被害者」

 社会の中である立場や境遇の人たちにとって、必ずしもそれが妥当だとは思われない法律や制度があるのは、そう思ってしまう人の立場や境遇とは異なる立場や境遇の人が存在しているからであり、そこに人によって異なる社会的な立場や境遇があるから、ある立場や境遇の人には妥当だとは思われないにしても、別の立場や境遇の人には必要な法律や制度が作られて、そんな人たちを守るような配慮がされているわけだが、実際にその法律や制度が必要とされる立場や境遇にある人が、社会の中で少数派となっていて、その一方で、そんな法律や制度があることを妥当だとは思っていないどころか、そうした特定の立場や境遇にある人の存在を快く思っていない立場や境遇にある人たちが、社会の中で主導権を握っている状況にあると、そういう法律や制度が社会の中でなおざりにされてしまう傾向も出てくるわけで、実際にそうなってくると、そうした法律や制度に依存している少数派の人たちに対する扱いや対応がぞんざいになってきてしまうわけだが、そういった社会の中で不利な立場や境遇となっている少数派の人たちを優遇する法律や制度に関して、それを妥当だとは思わない感覚に囚われた人々によって、そういう立場や境遇になってしまったこと自体が自己責任であり、自分の責任でそうなってしまった人を、法律や制度によって助けるのは不公平なのではないかという主張が出てくるわけだが、それに対して、逆に社会自体の特性が、特定の立場や境遇の人たちを優先させる傾向になっていて、そうした立場や境遇の人たちに社会の中で主導権を握らせる成り行きを生じさせているわけで、だからこそそうした不公平な社会状況の中で不利な立場や境遇となっている人たちを、法律や制度によって保護して守らなければならない、と反論することも可能なのだろうが、どちらの主張が社会の中で主導権を握っているのかといえば、当然のことながら現状で有利な立場や境遇を占めている人たちの主張が主導権を握っているわけだから、たとえ法律や制度を用いて不利な立場や境遇となっている人たちを守ろうとしても、そんな法律や制度を無視するような成り行きも生じてくるわけで、またそんな無視が常態化するようになってくると、今度は法律や制度に従っている側から文句が出てくるわけで、自分たちが律儀に法律を守り制度に従っているのに、一部の法律を無視する不届きな人たちが野放しになっているのは不公平なのではないか、と主張する人も出てくるだろうし、ならば違法状態を是正するとともに、違反に対する罰則を強化しようという話にもなってくるのかもしれないが、いくらその手の措置を施したとしても、人々の意識を変えるには至らないだろうし、そんな法律や制度があること自体が不公平だと思う人が次々に出てくる事態に変わりないとすれば、ならば公平な状態がどういう状態なのかという話にもなってくるわけで、それは社会の中で有利な立場や境遇を得ようとする人たちの間で競争が行われて、競争に勝ち残った人たちが社会の中で主導権を握るだけの社会となるわけで、そうなると競争に勝ち残れなかったその他大勢の人たちの不満が爆発して、社会自体が崩壊することにもなるかもしれないが、実際には競争にも様々な種類があるだろうし、また競争自体にもはっきりとした勝ち負けを伴わないものまであるわけで、そんなのは競争とは言えないかもしれないが、要するに競争だけが社会の中で行われているわけではなく、他の様々な活動も行われていて、その中には社会の中で不利な立場や境遇となっている人たちが、お互いに助け合いながら、あるいは他の立場や境遇の人たちに助けられながら、そうやってそれらの人たちの生活が成り立っている状況もあるわけで、そんなことまで考慮に入れると、特に法律や制度の面での不公平を強調する理由もなくなってくるのかもしれないが、それ以前にそうした不公平感を抱く人々を利用して、社会の中で主導権を握ろうとする思惑もあるだろうし、それがそういった不公平を強調する煽動行為に結びついてくるわけで、民主的な統治の大前提となる法のもとでの平等という原則に関して、平等と似たような公平という概念にすり替えて、それを煽動している自分たちの利益に結びつけようとしているわけだ。

 結局社会の中で有利な立場や境遇を占めていると思っている人たちは、そうした自らに有利な状況を正当化したいわけで、そうなるとそうした正当化とは逆の傾向を示す法律や制度があるのは不都合に思えてくるだろうし、だから不公平という相対的に妥当性を感じられるような概念に着目して、それを利用しようとしてくるのだろうし、中にはさらに念を入れて公平ではなく公正という言葉を持ち出して、自らの主張を理論武装したい人まで現れてくるわけで、そうやってなんとか平等という自分たちには不都合な概念を葬り去ろうとするわけだが、何かその辺で勘違いが生じていて、よく考えてみないとそういった煽動が正しいような気になってしまうだろうが、それ以前の問題として、誰もが平等に法律を守ってほしければ、現状で不利な立場や境遇となっている人たちを、当の法律によって優遇する必要が出てくるわけで、そこに法律自体に自己言及的なパラドックスが生じているわけだが、すでに現状で社会的に不利な立場や境遇を強いられているのに、その上で社会的に有利な立場や境遇を勝ち取った人たちと同等に法律を守れと言われても、そんな法律に従う義理は生じないわけで、そういう意味では法律の内容が正しいとか間違っているとかいうのではなく、法律を守らせるためにはどうすればいいのかという問いに対して、妥当な答えを求めようとすれば、そういう結論に至るのが自然な成り行きであり、全ての人が法律を守りやすいような状況を作るには、そのことが原因で法律を守れない可能性の高い人たちを、当の法律によって優遇する必要が出てくるのだろうし、それも法のもとでの平等という建前を維持するための方策なのであり、現状で有利な立場や境遇を占めている人たちは、すでにそうなっている分だけ社会的なアドバンテージがあるのだから、たとえそういう方面で不公平に思われるかもしれないが、別にそういう気持ちを我慢できないわけでもないだろうし、しかもそうした法律があるにも関わらず、現状の中で有利な立場や境遇を保っていられるのだから、そういう面で文句を言う筋合いもないのかもしれないが、実際に文句を言ってくる人たちは、意外にも現状の中で不利な立場や状況を強いられている人たちの方なのかもしれず、そうした不公平感を煽る煽動のターゲットとなっているのも、わずかの違いで法的な優遇措置を受けられなかった人になるのだろうし、自分たちだってそれなりに苦しい思いをしているのに、あいつらだけ優遇されているのはおかしいじゃないかと思わせて、社会的に不利な立場や境遇を強いられている者同士で争わせておけば、その分社会的に有利な立場や境遇を勝ち取った者たちは、そんな卑しい人たちの争いをただ眺めていればいいような、高みの見物を決め込むことができるという寸法で、それも自分たちの有利な立場や境遇を磐石なものとするための方策ともなるわけで、そうした煽り立てをやっている人たちに、どこまでそうした自覚があるかはなんとも言えないところだが、案外そんなことをやっている人たちも、立場が上の人たちにそそのかされてやっている可能性が高いのかもしれず、そんな経緯を想像してみれば、少なくとも現状で社会的に不利な立場や境遇を強いられている人たちを攻撃するのは得策ではないことはわかるはずだが、そこまで考えが及ばないこと自体が、すでにその人を社会的に不利な立場や境遇に導いてしまう可能性を示しているわけで、そういう意味で浅はかな煽動に踊らされてしまうこと自体が、煽動に踊らされてしまうような馬鹿な人たちを社会的に不利な立場や境遇に追い込むための方策であるとみなしても構わないだろうし、もちろんそれを誰が画策しているわけでもなく、表面的には煽動者たちが画策していることになるのだろうが、ある意味では煽動者たちも自らの煽動の被害者となって、社会的な信用を失って落ちぶれてしまう運命にもあるわけで、それを自業自得だと解釈できないこともないだろうが、世の中に腐敗が蔓延すると、それをごまかして別の方面へ責任転嫁するような煽動者が多数出現してくる成り行きにもなってくるわけで、それも社会現象の類いだとみなしておくのが妥当なところなのかもしれない。


8月23日「迷信」

 人が信じやすいのは論理的に筋の通った思考とは限らず、その場の状況から本当らしく思われてしまう根拠のない迷信である場合があり、そうした迷信によって人はしばしば理屈よりは感性を信じてしまい、そうした感性がしばしば勘違いであることが明らかとなるわけだが、では理屈の方が正しいのかというと、理屈の上では正しくても、実際にやってみるとうまくいかないことも多いわけで、結局人は迷信を信じて、勘違いなことを行なって失敗を繰り返す一方で、理屈の上では正しいことを行なっても、うまくいかないことが明らかとなって、結局途方に暮れてしまうわけだが、どちらにしてもうまくいかないから、試行錯誤を繰り返しながら、その中でうまくいったことを再度行なうことになり、それが勘や経験として蓄積して、ある一定の状況下では、それなりに正しい行いとみなせることができるようになるのだろうが、それもその場の条件が合う限りでうまくいのだから、条件が合わなければうまくいかないわけで、そうなると今度は条件が合うような環境や状況を作り出そうとするわけで、それも試行錯誤を繰り返しながら、うまくいくような環境や状況を作り出そうとして、その過程で絶え間なく試行錯誤を繰り返していくわけだ。それが実験と言われる行為となるわけだが、そうした行為の中でも、論理的に筋の通った思考と根拠のない迷信の違いを見極められずに、絶えず勘違いに陥ってしまうわけだが、別に筋の通った理屈に至らなくても、何だかわからないが何かの拍子で、たまたまうまくいってしまうこともあるわけで、逆にうまくいってしまったから、何やらそれに伴って迷信を抱いてしまうのだろうし、その時にはうまくいくコツを身につけたと勘違いしてしまうわけだが、それを再現しようとするとなかなかうまくいかず、さらなる試行錯誤の泥沼にはまってしまう成り行きにもなるわけで、そうやって何事も正しいやり方に至るのは容易ではないことを実感するのかもしれないが、正しいやり方が必ず見つかると信じることも、勘違いでしかないこともあるわけだが、信じないとやっていられないだろうし、そうした思い込みが勘違いであろうとなかろうと、そこからその人なりの信念が生じることも確かであり、それが根拠の定かでない信念であろうと、自身の勘がそう思わせるのだから、それを信じられているうちはやっていられるわけで、そこから何事も信じることが大切だと思い込むような短絡的な思考も生じてくるわけだが、単に信じているだけではなく、実践ができているうちはやろうとするわけで、そんなことをやっているうちに、確かな手応えも感じられて、しかもそれが自分だけではなく、そうした実践に関係してくる周りの人たちにもそれが感じられるようなら、それらの人たちとの信頼関係も生まれるわけだろうし、そうした他人との信頼関係を築くことも、それらの実践には含まれてくるわけで、そうやって周囲の人々を巻き込んで何らかの事業を行なっていく過程で、人間関係や物事の取り扱いから様々な煩わしい出来事に遭遇して、そうした煩事をそれなりにこなしていく過程からも、人と人とのさらなる信頼関係が生まれてくるわけだが、そういう信頼関係を築きながらやっていることが軌道に乗ってきたとしても、それ以前にやっている内容がひどいものなら、別に正しいことをやっているとは言えないだろうし、たとえそれが他の人から見れば許しがたい悪事であっても、関係者の間ではそれ相応の信頼関係が生まれるわけで、そしてそれに関わってくる人たちに利益がもたらさせる限りで、それがどのような内容であっても、そんな活動を通じて信頼し合う仲にはなれるだろうし、それがそうした行為が成り立つ上での条件ともなるわけだが、そういう意味では確かに物事を成し遂げるには、その物事に関わってくる人たちが、お互いに信頼し合う関係を築くことが大事にはなってくるわけで、その信頼できる根拠として挙げられるのが、利益を共有できることであったりするわけで、そこから同じ価値観を共有することにもなるのだろうが、その価値観が利益を共有しない他の人にとっても正しいとは限らないだろうし、特にそうした行為によって他人に迷惑がかかったり、場合によっては損害や被害などを与えたりすれば、そうした災難が降りかかってきた人にとって、それは受け入れ難い間違った価値観であり、そもそも利益を得る行為自体が間違っていることにもなるわけだ。

 またそれが迷信に基づいた利益の共有となると、組織的な詐欺行為として、他人に迷信を信じ込ませて、それを信じた人々から搾取するような関係も生じてくるだろうが、詐欺ではなく実際に利益をもたらすならば、たとえそれが迷信だろうと納得はするだろうし、信じることで利益が得られるなら、そんなにありがたいことはないわけで、そして利益が得られると思い込むこと自体が迷信となると、さらに微妙なことになってくるわけだが、それを利益とみなすか否かが、人それぞれで判断や見解が異なってくるようだと、ではそもそも利益とはどう定義すればいいのかと問われるかもしれないが、少なくとも何かを売買することによって、所持している金銭が増えることが、その人にとって利益となるかというと、普通に考えればそれが金銭的な利益だと言えそうだが、その一方で、例えばそうすることによって健康面での被害を受けて、場合によっては心身に深刻なダメージを負って、それによって死に至ようなことにでもなれば、当人がそうなることを承知でそんなことを行なっているのならば、それでも構わないかもしれないが、それに気づかなかったり、そうなりたくはなかったとすれば、金銭的な利益と引き換えにして健康面では損害を被っていることにもなるだろうし、それも程度の問題かもしれないが、それを利害や損得から判断する以外に、何か納得できるような評価基準を考えてみると、快不快の感覚であったり、真偽であったり、正しいか間違っているかとか、様々な評価や判断の基準があるにはあるだろうし、そういうことを総合的に勘案して、その場の状況に応じた評価や判断が出てくるわけだろうが、肯定的な評価や判断とともに肯定的な効果を信じている人は、それを迷信だとは思っていないわけだから、信じていること自体を肯定的に捉えているわけで、実際に肯定的に思うこと自体が、心理的にはプラスの効果があって、そこからやる気や積極性が生じてくるだろうし、たとえそれが気休めに過ぎなくても、効果があると信じている限りで、それによって自らが関わっている物事が良い方向へと進んでいるように思われることが、自らにとって利益となっていると感じられるなら、それが良いことであると判断できるだろうし、利益という言葉を使いたくないなら、正しいという言葉でも構わないだろうし、別に世間の一般的な見解では迷信だと思われるようなことであっても、自分が納得していればそれで構わないわけで、それはげんを担ぐような軽度なことから、呪詛のような深刻な行為まで、様々な程度を伴っているだろうし、実際にそれを行うことによって何らかの効果があったと確信できれば、他がどう思っていようと信じてしまうだろうし、また自分がそれを信じていることで、他の人が迷惑を被るなら、その人との関係の中で双方が納得できるような方策を話し合えばいいことでしかなく、そういう面で何かを信じるということですらも、それによって周囲の人たちに何らかの作用や影響を及ぼすこともあり得るわけだが、信じていることから生じるその人の活動が、それと競合している他の人の活動に何らかの作用や影響を及ぼすにしても、それが直接の作用ならわかりやすいだろうが、何やら因果関係がつかめない間接的な影響となると、どうにも対応しようがなく、結局そういうはっきりと対応できないような様々な影響が、ある一定の地域で複雑に絡み合っていると、そこに何らかの傾向を持った空気のような場が形成されて、そこに人々の意識が囚われてしまうと、それが同調圧力のように、その場にいる人たちを同じ傾向に従わせるような効果を発揮するわけで、そうした空気が意識にまとわりついてくると、自由な思考や判断がそれによって阻害されて、そこで守らされている掟や信じられている風習などに、多くの人が従わざるを得ないような成り行きが生じて、あからさまに逆らうような人がいれば、その人が仲間はずれにされたり、陰湿な嫌がらせを受けるようなことにもなって、そうした否定的な効果が伴ってくると、やはりそれは根絶すべき悪習として、啓発活動などの対象ともなってくるわけだ。


8月22日「不足と過剰から生じる不条理」

 政府が国内の経済を活性化させようとして実施する政策は、大抵は中央銀行の恣意的な市場への介入と連動して行われてきたのかもしれないが、もちろんそれによって目論見通りに経済が活性化したかというと、株価や為替相場などが操作された以外で、その恣意的な操作や誘導によって影響を受けた分野以外では、特に何がどうなったわけでもないのかもしれないが、それ以前に政策がうまくいくいかないの基準というのが曖昧なのかもしれないし、それでも政府に関わってきた政治家や政党の側の政治宣伝としては、結果がどうなろうと、普通に自分たちが推進してきた政策によって経済の活性化に成功したと宣伝する以外にはあり得ないだろうし、今までに経済政策の失敗を率直に認めた政治勢力や行政機構も皆無なのかもしれないし、そういうのは外部からの指摘として、うまくいっていないと指摘される成り行きとなるわけだろうし、もちろん政府寄りのマスメディアではいつも政府の政策がうまくいっていると宣伝するわけだから、メディア上で政府の政策がうまくいっていないと指摘するのは、それだけで政府に対する批判勢力だとみなされてしまうだろうし、そういう意味で同時代的にはなかなか客観的に評価できないのかもしれないし、だいぶ時間が経ってからでないと、それなりに信用できる評価は出せないのかもしれず、実際に経済政策がうまくいっていないことが明らかになるのは、財政破綻や債務超過や株価や為替などの暴落が起こって、それに連動して実体経済が手の施しようのない程に悪化してみないことには、またそれによって政権交代でも起こらない限りは、政策の破綻や失敗が広く世に知れ渡るには至らないだろうし、とにかく同一の政権が延々と続いている現状があれば、それが民主的な政治制度の中でそうなっているのなら、少なくとも政府の政策に対する民衆の支持がそれなりにあるとみなして構わないだろうし、また政策を批判する勢力が議会内やメディア上で少数派に留まっている限りは、やはり政府の経済政策が完全に破綻しているわけでもないことを示しているのではないか。だからと言って批判している人たちがあきらめるわけでもなく、実際に中央銀行が金融機関への貸出金利をほとんどゼロに据え置いたり、場合によっては金融機関の当座預金の金利を一時的にマイナスにしたりしながら、その一方で株や債券などを公的な資金で買い支えるような行為自体が、不自然さへの疑念を拭えないわけで、そんなことを延々と継続していること自体が、経済がうまくいっていない証拠でもあり、それを批判しないで何を批判するのかとなるのだろうが、もちろんそうであっても現状の実体経済の中では民間企業の賃金が上がらない程度のことであり、一方で失業率が低く推移していて雇用が守られている限りで、そんな状態をどう評価するかは微妙になってくるのかもしれず、当初の公約であるインフレ目標を達成できていないことや、世の中に蔓延する貧富の格差などの方面から、批判しようと思えばいくらでも批判できるとしても、多くの人が悲惨な思いをしている感覚というわけでもないだろうし、要するにそうしたはっきりしない面での判断停止状態が長引いてしまって、それに関して感覚が麻痺しているのかもしれず、現状が異常な状態だとしても、それが取り立てて騒ぎ立てることでもなく、一応はそこで何らかの均衡が保たれているわけだろうし、急激な変動が起こりづらい状況である限りで、多くの人が平静を保っていることは確からしく、それが世の中の現状が維持されていることを示しているわけで、現状が維持されているのだから、そんな現状に対する批判がインパクトを持ち得ないのも頷けるし、それに納得がいかないのは、これまでも延々と批判し続けてきて今や少数派になってしまった人たちの方であり、実際におかしな状況がもたらされているのに、しかもそれを批判するのが当然だと思われるのに、実際に批判したからといって現状の何が変わるわけでもなく、延々と批判し続けている状況に変わりなく、もはやそんな状態が慢性化しているわけだから、破綻が目前に迫っているとは到底実感できないわけで、逆にこれからも延々とこのままではないかと恐れているのかもしれないし、実際にそんな恐れている事態をひしひしと身に染みて感じている人も多いのかもしれない。

 果たして破綻が思いがけず突然にやってくるのだろうか。それは実際に起こってみないことにはわからないのであり、起こるまでは延々と同じような状態が続いていくとしたら、ではなぜあるとき突然に破綻するのかといえば、単に気づけないということでしかないのかもしれないが、またいったん気づいてしまうとあっという間に現状を維持している勢力が信用を失うから、それが破綻をもたらすのかもしれないが、そうであるなら現状で維持されて信用が保たれている限りで破綻しないのかもしれず、そういうのはある程度は世論誘導などによって可能なのかもしれないし、すでに世の中の人々の間で、そうした信用に対する感覚の麻痺が慢性化している状態ならば、いつまでも信用が維持される可能性もあるのかもしれないが、だからこそそれまでの常識で考えればあり得ないような市場操作がまかり通っているわけで、それも一国に限ったことではなく、世界的な規模でそれが行われているとすれば、そこに国家間の連携も成り立っているはずなのだろうが、それも明確な連携などではなく、その場の空気を読むような以心伝心のような曖昧な連帯を共有しつつも、現状がかつてない異常事態であることは、多くの識者が認識しているとしても、誰かがはっきりと言いださない限りは何も起こらず、また何も起こらないことによって利益を得ている人たちにとっては、このままでいた方がいいわけで、このまま王様が裸だと言えない空気が世界中を支配していれば、それなりに現状が維持されていくのかもしれないが、例えば意外にそうしたことに無頓着なのが、現状の中で最も有力な国の大統領であったりするわけで、その空気を読めない大統領によって小波乱が巻き起されている気もしないではないが、現状では裸の王様という話の中で登場する王様が何を指すのかもよくわかっていないのかもしれないし、案外資本主義という金銭的な幻想を引き起こす現象が、物事の本質なのではなく、ただ人が必要とする以上の物や情報やサービスを過剰にもたらす過程こそが物事の本質を構成していて、そうした行為を駆動させる引き金となっているのが金銭的な豊かさへの幻想であり、その引き金の強弱をいくら調整しても、物や情報やサービスを商品として生産させて流通させて消費させる一連の動作を止めることはできないわけで、それが止まってしまったら困るのは、それに依存して生活している人たちや、それらの人たちを構成員として利用しながら組織的な動作を行なっている企業や政府などの各種団体なのかもしれないが、個々の企業などの動作が止まることはよくあるわけで、実際に事業が破綻して継続が不可能になれば、確かに企業は潰れるわけだが、そこに政府が絡んでくると、潰れてしまっては困るような大企業は潰さないような配慮がされるだろうし、当の政府もいくら債務超過となって財政破綻しようと、他の国々との相互依存関係があると、やはり潰さないような配慮がされるわけで、そうした成り行きのおおもとの前提としては、人が生きていくのに必要な物や情報やサービスを、人が生きている限りは生産して流通させて消費するような成り行きが生じているわけで、それが人が生きている現実そのものでもあるわけだが、その過程において金銭的な欲望によって、必要以上の物や情報やサービスがもたらされている現実も一方ではあって、それらが必要以上に溜まり過ぎると、商品としては売れ残って、それらの過程が一時的に停滞してしまうわけで、結局それは足りないというよりは余ってしまうからおかしくなるのだろうし、なぜ余ってしまうのかといえば過剰に生産するからで、もちろん流通が停滞すると必要なところに届かずに不足するわけだが、それは流通させると値崩れして損失が出てしまうから意図的に停滞させるわけで、たとえそういう理由で一部では不足しているとしても、全体としてはなお余っていて、しかも余った商品を廃棄するような事態にもなっていて、逆に不足しているところへ余った物資を無償で届けるようなことをやってしまうと、それではますます商品が売れなくなって金銭的な損失が生じてしまうから、むしろ廃棄してしまった方が損失を最小限に抑えられるから、そうした不条理な事態にもなっているわけだが、結局はそうしたより多くの金銭を得るための幻想が、そうした困った事態をもたらしているに過ぎず、そうなっている時点で人が生きていく上では本質から外れた要因が、人々に欲望と苦しみを与えつつも、人々をそうした活動へと駆り立てているのだから、そんな活動から不条理な事態が生じないはずがないわけだが、そうした活動の主体となっている企業や政府も、自らの活動を完全にはコントロールできていないから、そこから困った事態が引き起こされるわけで、そうした困った事態を招いてもなお、絶えずそうした事態に対応するような活動を模索し続けているのではないか。


8月21日「保守の本質」

 人種や民族や宗教が長い時間をかけて形成されてきたのとは対照的に、経済は比較的短い期間で様々な地域に栄枯盛衰をもたらしているから、その経済の変動とともに栄枯盛衰などの変動を伴う国家の中でも、その規模や人口などの変動に伴って、人種間や民族間や宗派間での対立や抗争を、比較的短い期間の中で繰り返してきた経緯があるのかもしれないが、そんな経緯の中で人種も民族も宗教自体も栄枯盛衰などの変動を伴ってきたのだから、それらが比較的長い期間をかけて形成されてきたにしても、中身が短期間でそれなりに大きな変動を被ってきたことも確かなのかもしれず、それが比較的短期間で変動するわけだから、そこで様々な物事が混ぜ合わされて混血化や雑種化が進み、同じ人種でも民族や宗教が異なり、同じ民族でも人種や宗教が異なり、同じ宗派に属していても人種や民族が異なるという現象が起こり得るわけで、結局は人種や民族や宗教も、長い時間の中では、その内容も質も変動してきたわけで、その中身は一定ではなく、同じ人種とみなされても遺伝子的な特徴は多種多様であり、必ずしも同じではなく、それは同じ民族や宗派に属している人にも当然言えることであり、たぶんそれは国籍と同じように、本来なら全く別の人種や民族や宗教に起源を持ってい人々が、ある一定の期間の中では同じ人種や民族や宗派に区分されていて、そうした区分自体がその場の都合や事情に合わせて変動しているわけで、必ずしも同じ遺伝子的な特徴を持った人たちが、同じ人種や民族や宗派に属しているわけではなく、その中で似たような特徴や傾向が見受けられるにしても、それなりにばらつきがあって、必ずしも遺伝子的な同一性が絶対的な基準ではないものの、それは他の人種や民族や宗派や国籍の人たちにも言えることだろうし、それらの全てが他との比較によって、相対的に似たような特徴や傾向を持っているに過ぎず、それを絶対視して他と厳密に区別することはできないわけで、それらはあくまでもその場その時の都合や事情に合わせたとりあえずの区分でしかなく、それ以上でもそれ以外でもないわけだ。結局そうした区分は、社会の慣習として成り立ってきた階級や身分の延長上にもたらされたものなのだろうが、人が集団となって活動する時には、何かと集団内の同一性を、その集団の結束力を維持するのに利用しようとするわけで、そうした集団を構成するのに欠かせないのが、階級や身分などの区別であり、その延長上にあるのが人種や民族や宗教となるわけで、そうした自己同一性を集団内の他の人たちと共有することによって、その集団内での結束を強化して維持しながら、他の集団との対立抗争を繰り返してきた歴史的な経緯があるのだろうし、そうした歴史的な時間経過の中で、人種も民族も宗派も、その中身はどんどん変わってきたわけで、今では同じ人種や民族や宗派に属している人でも、その祖先は全く別の人種や民族や宗派に属していた可能性があるわけで、そのいい例が、元は全ての人が人種的にはアフリカの黒人に属していたのが、それが時間の経過とともに地球の方々へと移動を繰り返しながら、その中で地域的には北部に定着した人の肌が白くなって、また東部に定着した人の肌が白と黒の中間のような色になったわけで、それによってアフリカ人と西洋人と東洋人とを区別してみても、それは結果的にそうなったに過ぎず、他の理由をあれこれと付け加えてみても、現状では交通機関の発達によって人の移動が昔よりはかなり頻繁に起こっているわけだから、昔は白人であったとしても、地球上で紫外線の強い赤道地方の周辺に住み続けていれば、世代を経るごとにインド人のように黒褐色の肌になっていくだろうし、またアフリカ系や東洋系の人たちにもそれとは逆の現象が起こりうることだろうし、そんなことは知識として誰もが共有していることなのかもしれないが、たぶん感情的にはその場その時の都合や事情から、とりあえずの区分や区別として人種や民族や宗派や国籍などの別を正当化したがるわけで、それが自分たちが属する集団の利害に絡んでくると、歴史の中ではごくありふれた人種間や民族間や宗派間や国家間などの対立抗争へと発展するのではないか。

 様々な物事が作用し合い影響し合った結果として、現状の中でもたらされている利害関係を正当化することが、ナショナリズムなどの感情的な主義主張そのものでもあるわけで、その中には資本主義的な経済活動からもたらされる利害関係も含まれているわけだが、一方でなぜそういう結果を正当化する主義主張が嫌われるのかといえば、そうなってしまった過程の中で、理不尽なことが行われている場合が多いわけで、そうした行為を意図的に無視して結果だけを正当化するとなると、例えばそこで行われてきた特定の人種や民族や宗派に対する搾取や抑圧まで正当化してしまうことになってしまい、そうした成り行きまで考慮していくと、そうした行為の結果としてもたらされた現状の差別や格差や、それを基にして生じる利害関係や、その利害関係を維持するために行われる権力の行使などを正当化する気にはなれないわけだが、そういう現状を構成する否定的な面に向き合うのが嫌だから、どうしてもそういったことを持ち出してくる人々に不快感を募らせて攻撃したくなってくるわけで、できればそうした触れてほしくない過去の否定的な出来事を好んで取り上げるような傾向を、自虐史観として否定したくなるわけだが、それも作用反作用として生じる成り行きであり、現状を正当化するナショナリズム的な世論が流行るから、それに疑問や疑念や不快感を抱くような人たちが、ことさらに現状で生じている格差や不平等などの不条理な面や、過去にひどいことが行われた歴史的な事件などを強調したがるような成り行きが起こってきて、両者の間で過去に虐殺があったのなかったのという対立や論争が巻き起こるわけだが、結局現状の中で優位な立場や境遇となっている人たちは、誰もがそれと自覚することなく現状を肯定しているわけで、というか別に不利な立場や境遇でもない限りは、自分の立場や境遇を否定できないだろうし、逆に現状で不利な立場や境遇を強いられていれば、そんな立場や境遇を強いている対象に反発したり反感を抱いたり、そうした状況を肯定する人たちに抗議するだろうし、そうした抗議活動などを行なっていく中で、過去に行われた理不尽な行為を糾弾することにもなるだろうし、そこで対立や抗争が起こるのはある意味で必然なのかもしれないが、保守的な態度というのは、そういう感情的な浅はかさを突き放して観ている面があるわけで、たとえ過去において否定的なことが行われたとしても、そうした歴史的な経緯を通じて現状が構成されている事実を認める度量がないと、真の保守とは言えず、ともかく自分たちが現状の中で主導権を握っていて、主流派を構成している現実を直視できるならば、現状を構成する肯定的な面と否定的な面の両方ともに認めざるを得なくなり、しかも現状の中で生じている格差や差別も認めた上で、そうした現状の中で自分たちに何ができるかを探ろうとするわけで、実際にあるものをなかったかのように言いくるめたり、実際に行なっている理不尽に思われてしまうような行為もごまかしたりせずに、そういうことが行われている事実を認めた上で、その上で何ができるかが問題となるのだろうし、そうした意味で現状で誰もが納得するような方向へと導くには、現状でできることを行うしかやりようがないだろうし、現状でできることとできないことを見極めて、できることをやろうとするのが保守的な態度であり姿勢となってくるわけだが、そうした態度や姿勢を貫いて、現状の中で活動している人たちから見ると、何か左翼的な人々の主張は、できないことを求める無い物ねだり的な行為に映るわけで、そういう傾向を象徴する言葉としては空想社会主義のような、当の社会主義者からも呆れられた主義主張も過去にはあったわけだが、そうした夢想が誰もが思ってもみなかった経緯から実現してしまうと、それは保守派にはできないことだから、ただ唖然とさせられるだけだろうが、ある意味でこれから世の中を変えてゆくのは、現状の世間から夢想家のように馬鹿にされている人々なのかもしれず、もちろんそれは現状の中で主流派となっている人々には受け入れ難い変化となるのかもしれないが、そうした現状の論理から外れてしまうような人々を、保守派はどうすることもできないのかもしれない。


8月20日「批判への対応」

 特に社会の中でそうなる成り行きが生じることもあまりないのかもしれないが、民衆が金銭的な利益を追求するような経済活動に対抗するには、そうした商売の妥当性を問わなければならなくなるのだろうが、どのような基準に照らして妥当か否かを判断すべきかとなると、それ以前に判断する基準が妥当か否かを判断しなければならないだろうし、例えばそれが社会の中で暮らしている人々から支持を得られるか否かが判断の基準となってしまうと、それはすでにそうした人向けの商売として成り立つか否かが、妥当であるか否かの判断基準となってくるだろうし、その時点でそれが一般の消費者向けの商売である必要が出てくるわけだが、そうなると少なくともそれが商売として成功していれば、そうなっていること自体が人々の支持を得られている証拠になるだろうし、逆に商売がうまくいかなければ、世間的にそうした商売が不評だったことにもなるわけで、特に改めてそんなことを判断するまでもなく、商売がうまくいっている限りで、民衆からの支持を得られていることになるわけで、それ以上にどうというわけでもないことになってしまうだろうし、それだけでは特にそれに関して何か政治的に口を挟む必要は生じないだろうが、その商売が世の中に何か悪影響を及ぼしているように思われると、そういう方面ではそれなりに批判されることにもなるだろうし、それに関しては商売が繁盛してくると、周りの環境や人や他の企業に負荷を加えてしまうことによって、それなりに無理が生じてくるわけで、そうした無理が世の中に悪影響を及ぼしているように思われるわけだが、具体的には例えば従業員の過酷な労働で商売が成り立っていたり、そうした犠牲の上に利益を上げていて、それによって競合する業者が煽りを食って潰れたり、また競争相手が潰れていなくなれば、独占的な立場を利用して、材料の納入や流通などの面で提携する業者に無理な値引きを強要したりして、それによって商売がさらに繁盛することによって莫大な利益を得れば、今度はその利益が目減りしないように、なるべく税金を払わないような対策なども立ててくるだろうし、そうした節税対策によってさらに利益が雪だるま式に増えて、それによって業界内の独占にも拍車がかかって、そのことで行政から睨まれるようにでもなれば、行政に対しても何かと便宜を図ってもらう目的で、政治家などを通じて自社が有利になるような工作を行うことにでもなって、その過程で行政や政治家などが絡んで不正が行われることにでもなれば、そうした不正行為がジャーナリズムなどの追求によって明るみに出てくると、それが政治問題化するわけだが、そこまで事態が進んでしまうと、その企業の社会的な影響力も、その企業の商品の宣伝媒体であるメディア上でも、無視できないほど大きくなっているだろうし、それに関連して批判されないようにメディアに圧力をかけるようなことが行われるかもしれないし、さらに政権政党などを通じて行政にも圧力をかけて、警察沙汰にならないような工作が行われるかもしれないし、そんなふうにして世の中の法律や制度が、企業の経済活動によって捻じ曲げられるようなことにでもなれば、それは由々しき事態だと思われるわけだが、それも程度の問題であり、ほとんどの場合はそんなところまで事態が進展せずに、途中の段階にとどまっているようだと、特に政治的に問題視されるようなことにはならないのかもしれないが、それが多かれ少なかれ、経済活動には競争原理が働いているのが常で、そこで行われていることは大同小異であり、そこに何らかの歯止めがかからない限りは、そんなふうにしか事態は進展しないのかもしれず、何らかの形でそうしたやり過ぎが明らかになる度に、それが社会的に問題視されるのではないか。

 だから民衆がその手の経済活動に対抗するとかいう成り行きにはならず、ただ受動的に巻き込まれるようなことにしかならないのかもしれないが、立場が違えばそんなことを積極的に行う側にもなったり、またその逆のメディア上で行われる批判に同調できるような立場になることもあるし、一方では批判されるようなことを積極的に行なっているのに、もう一方ではそれを批判していることに気づかない場合さえあるのかもしれず、どちらになるにしても大した違いにはならないのかもしれないが、なるべくなら行き過ぎた経済活動を批判する側になった方が、それによって生じる社会の不均衡を是正する上で効果があるようにも思われるのだろうし、その効果というのもそれだけでは微々たるものでしかないにしても、そうした行為を全く怠ってしまうと、後の社会に大きな禍根を残すことにもなるだろうし、それらは自然界に働いている作用反作用の原理でしかないかもしれないし、利益という不均衡をもたらす要因を過剰に獲得しようとすれば、そうした行為に対して必ず何らかの反動が生じるのかもしれず、その中の一つがそれに対する批判となるのかもしれないが、批判によって事態が解決するわけでもなく、むしろそんな事態の進展を表しているのが批判と呼ばれる行為を招いているわけだが、そうなっている前提が、時にはそんな批判を招くような経済活動によって、現状の世の中が支えられていて、実際に多くの人がそんな活動に携わっているわけだから、それだけそんな批判を招くような事態にもなりやすく、その度に誰かがそれに対して批判していかないと、そうした行為にも歯止めがかからないわけだから、それを維持修繕などのメンテナンスと捉えれば、そうした状況を保つのにも絶え間ないメンテナンスを必要としているわけで、そうした面で批判勢力の存在も欠かせなくなってくるわけで、また批判内容が本当に世の中のメンテナンスの役割を果たしているかどうかについても、絶え間ない検証作業が必要になってくるだろうし、それに伴って批判に対する批判という行為も出てくるわけで、そんなふうにして批判が循環してくると、そうやって批判し合っている人たちが、批判のための批判を繰り返すことが目的化して自家中毒に陥ってしまい、意識が現状から遊離していってしまう事態も起こってくるだろうし、そういうことも批判の有効性を検証する上で考慮する範疇に入ってくるのかもしれないが、結局そこで生じてしまう行為の目的化が、一方では行き過ぎた利益の追求をもたらして、またもう一方ではそれに対する批判の自家中毒ももたらすのだろうし、それが経済行為であれば、その結果として生じる利益の追求以前に、取り扱う商品の内容や質を高めることが、客となる買い手への信用や信頼につながっていくのであり、またそれを批判する側に求められているのは、商品の内容や質が、買い手の要求する水準を満たしているか否かが、それを批判するかどうかを判断する基準となってくるわけで、それに関して何か商品にごまかしが見受けられるようなら批判せざるを得ないだろうし、それをわかっていながら、業者に懐柔されていたりして、それに触れることをためらってしまうと、それこそ買い手となる民衆の期待を裏切っていることにもなるわけだが、それもばれなければ批判者としての権威を保てるのかもしれないし、結局批判する側も利益の追求が目的化してくると、売り手の業者にも買い手の民衆にもいい顔をしていたいわけで、そうした利益を求めて関係してくる対象に媚を売る姿勢が世の中に蔓延してくると、それこそ嘘とごまかしで心が塗り固められたような腐敗した人たちの天下となってくるわけだが、だからと言ってそうした風潮にも必ず反動がくるだろうし、それもやり過ぎるといずれは無理が祟ってくるわけで、何にしてもこれでいいという状況にはなりがたく、やっていることに目的が伴うのは当然なのだが、その目的にこだわり過ぎると無理が生じてくるのだろうし、こだわり過ぎるなと言われても、こだわらないと何もできなくなってしまい、かといってこだわり過ぎるとその目的を通り過ぎて、こじれた事態を招いてしまうわけで、だからと言ってちょうど良い程々のところにとどまっていられるかというと、状況次第でそんなわけにもいかなくなってくるだろうし、それに対する妥当な方策として普通に考えれば、他からの批判には真摯に対応していくしかないのかもしれない。


8月19日「様々な駆動力」

 何か意識が肯定的な幻想に囚われていることが、人をその幻想を通した無責任な活動へと駆り立てているのかもしれないが、その無責任な活動というのが趣味を実益に結びつける活動にもなって、そうなると実益自体が幻想の産物となる一方で、実益を得ることが社会的な責任ももたらしていて、実際に趣味が高じて、それが他の人々に娯楽を提供する行為になれば、人々がそんな娯楽を通して抱く幻想が、金銭的な実益を生み出したことにもなるわけで、その実益の規模が大きいほど、そうした娯楽を提供している側が及ぼしている社会への影響力も大きいように思われてしまうのだろうし、例えばそれが人々にソーシャルメディアなどを提供する会社の世の中に対する影響力だとみなされるわけだが、その会社が提供するソーシャルメディアを利用する会員数や、その事業規模や売上や利益が、社会的な影響力を持っているように思われることの根拠だとみなされるにしても、そんなソーシャルメディアだけが娯楽を提供する虚業的な産業であるわけでもなく、他の実体経済と呼ばれる金融経済と区別される産業分野の中でも、娯楽に結びついている分野はいくらでもあるわけで、例えば自動車産業を支えているのは、商用車を生産する部門だけではなく、レジャー目的の車を生産している部門の方が大きいだろうし、また人々に食料を提供する産業でも、単に人々が生きるための栄養を摂取するためだけにあるわけではないし、いわゆる食道楽の欲求に応じている面と、飢餓から人々を守っている面とを区別するのは難しいだろうし、さらに医療や健康をもたらす産業でも、そこで健康と美容の区別をつけようとしても、それに関して医療や薬剤を提供するレベルでは、同じ法律や制度上の資格が必要とされるわけだから、当然その分野での利用者数や事業規模や売り上げなどは入り混じっているだろうし、それに関して人が生きるために欠かせない物資や情報などを提供する面と、食欲や性欲などの欲望を煽り立てている面とが複雑に入り混じっていて、それに関する物や情報やサービスなどを提供する産業の中で、両者を厳密に区別できない事情があるのは当然で、だからそこで実体経済と金融経済とを区分けして、実体経済こそが重要だと訴えかけることに、何か実質的な意味があるように思われるのと同じように、実体経済の中でも人々が本当に必要とする生活物資や情報を提供する部門と、娯楽などを提供する部門とを切り離して、娯楽などを提供する部門を虚業産業だとみなして蔑視することが、何か実質的な意味があるように思われるとしても、やはりそれは何らかの幻想でしかないのかもしれず、そこで売買という物や情報やサービスと金銭との交換が成り立っていれば、それらのどこにでも利益という数値的な幻想が生じているわけだから、交換される物資や情報をいくら実体と虚構とに区分けしても意味がないのかもしれず、それらが渾然一体となって利益という幻想を生み出しているから、実際に経済活動が成り立っているわけだろうし、それらの基底に人が生きるために必要な物資や情報を交換し合っているという前提がある中で、その生きるという実態には虚構を通して幻想を抱く面も含まれていて、たとえそれが生きていくには余分なことのように思われても、その余分な余暇がないと生きている意味がなくなってしまい、場合によっては余暇を利用して体験する娯楽の中で快楽などの幻想を抱くことが、逆説的に生きることの全てであったりするのかもしれないし、そうであるなら逆に労働すること自体が苦役の類いであり、働くことこそが生活の全てであるかのように思い込むことが、幻想そのものであり、そう自分に言い聞かせることによって、自らが自らに嘘をついていることになるのかもしれないし、場合によってはそんな嘘をつくことが世の中で奨励されている実態もあるのかもしれないが、それらの中で何を肯定して何を否定してみても、そんな主義主張の論理的な整合性を保てるわけでもないだろうし、そこに矛盾や不条理をもたらす面があるからこそ、それによって経済活動が成り立っているのかもしれない。

 また労働自体を苦役だと感じるとしても、労働することが全てだと思われるような生活を送っているなら、そこから喜びを感じている面もあるだろうし、娯楽を楽しむ余暇が十分になくても、労働の中に娯楽的な楽しみを見出している面があれば、不快な労働もそれなりに続けていけるだろうし、そうでないと労働だけを続けていけないのかもしれず、そもそも労働と余暇とを区別できる生活というのも、それが多くの人にもたらされたのは、農耕牧畜などに代わって、近代の工業や商業やサービス業などが産業の主流を占めるようになって以降の出来事なのかもしれないし、そんな生活自体に普遍性が備わっているわけでもないのだろうが、少なくとも売買から生じる金銭的な利益を通じて、資本主義的な幻想がもたらされている時代に生きている限りで、その余った金銭を投入して余暇を娯楽と共に過ごしたり、またそうした娯楽を趣味から仕事へと移行できたごく少数の人には、そこから金銭的な実利がもたらされるようになって、そうした金銭を得るための趣味と実益を兼ねた労働には、苦役をもたらす面よりも喜びをもたらす面の方が大きくなるだろうし、それが近代から始まる産業社会に特有な現象なのだとすれば、この先の未来にも、現状とは違う人の生活形態がもたらされる可能性がないとは言えないわけだが、一方で人々の意識が現状に囚われていることは当然であり、現状の中で生じている価値観に基づいた生活形態として、金銭的な利益からもたらされる幻想に縛られた生き方がもたらされていて、普通の感覚ではそれを肯定せざるを得ないとしても、何かそこから不都合や弊害が生じているとしたら、そうした不都合や弊害を是正したり改善させるような試みも当然生じてくるだろうし、そうしたことを行なっていくことが、現状に対する批判的な活動や行為ともなるわけだが、そうした活動や行為と現状を肯定するような価値観やそれに基づいた法律や制度との間で、どう折り合いをつけていくかが、妥協や調整の中で求められていることかもしれないが、一方でそうすることがそれなりの試練や困難を伴い、それ相応の不条理や矛盾を生じさせている可能性も否定できないし、折り合いがつかないからこそ、そこで対立や抗争が起こるわけで、妥協や調整によって折り合いをつけようとする行為こそが、ある種のごまかしそのものなのかもしれないが、実際に現状が変わる過程では、そうしたごまかしと見られてしまう行為が行われるような成り行きも生じてくるだろうし、そうした行為のうちの何を肯定して何を否定するとしても、やはりそれらが渾然一体となって現状を変えていくような成り行きとなるわけで、もちろん現状もそんな成り行きの中で生じているわけだろうが、その中で生活している人々もその思考や意識も現状に含まれているわけだから、現状で支配的な価値観やそれに基づいて行われる活動や、そうした活動を支え推進している法律や制度に囚われているわけだ。だから人々の意識が現状を肯定する幻想に囚われているのも当然であり、いくらそれを幻想だと批判してみても、あるいはそんな幻想から生じている虚業的な面を指摘してみても、どうしてもそこからもたらされる娯楽的な要素の方が批判に打ち勝ってしまうだろうし、そういう意味で娯楽から作り出される欲望に勝るものはないのかもしれないが、しかもその源泉が金銭的な利益そのものであり、さらに金銭的な利益はそれだけではなく、それよりももっと重要な人々の生活そのものを支えているように感じられるだけに、現状からもたらされる不条理や矛盾や弊害などから批判を構成できるとしても、一方でそんな現状を肯定せざるを得ない事情も、そんな批判を打ち消すほどの強さで生じている現実があるわけだ。だから現状を変えるのは容易ではないわけだが、変えようとする意志をもたらすのも現状であるから、そんな容易ではないことを人にやらせようとしている成り行きまでも、現状が生じさせているのではないか。


8月18日「おもてなしの心」

 人が様々な出来事を通して経験することは、その場限りの体験になる場合もあるだろうし、その後に活かされる場合もあるのかもしれないが、それが知識や勘として身につくにしても、それを通して特有の癖やこだわりが生じてくると、それだけ他の動作を身につけるには邪魔になることもあるだろうし、それによってそれ以後のその人の可能性や方向性が限定されて、結果的に功罪半ばするような具合にもなってくるのかもしれず、かといって生きていけば何かしら経験することになるわけだから、人の可能性というのが変な癖を身につけたことが災いして閉じられてしまうこと自体、よくありがちなことなのだろうし、偶然に様々な出来事に遭遇してしまうわけだから、そうなってしまうのをコントロールするのは難しいだろうし、そうなったらなったで、仕方がないことではあるのだろうが、逆にこうなるべきとかこれでいいという在り方など、人それぞれで違うだろうし、個人としてその人がどうなろうと、それとは無関係な他人にとっては知ったことではないだろうが、その人が他のどんな人を好き嫌いになっても、それを他人が指図したり忠告したりするような、上から目線でああだこうだ言っても、鬱陶しがられるだけで、そういうレベルではどうということにはならないのかもしれないが、では他にこだわることがあるのかというと、それも人それぞれで違ってくるとすれば、人がどう生きるかについてはっきりした基準などないことになってしまうわけで、もちろんそういう基準を設けたい人にとっては、そこがこだわるべきことになるわけだが、そういう方向で何を述べても無意味なのかもしれず、人がどんな人間になるにしても、身の回りからの作用や影響に左右されてしまう面もあるわけだから、そんなことを考慮すれば、個人単位ではどうにもならない面があることは確かで、たとえ学校教育などの場で均質化を施されるにしても、全てが同質の人間が出来上がってくるわけではないし、世の中の決まりとして法律を守り制度に従うような訓練が施されている限りで、大多数の人たちがそうした訓練の成果として、実際に法律を守り制度に従うような傾向となっていれば、それがそれなりに世の中の安定に寄与していることになるのだろうし、別にそれが学校などでの訓練の成果とは言えない面もあるかもしれないが、学校教育の中で何らかの均質化が図られていることは確かだろうし、そうした教育制度の成果として政府に逆らう人が減ってくれば、それだけ制度を管理している側の目論見が功を奏していることにもなるのではないか。もちろん世の中に及ぼされている作用や影響はそれだけではないだろうし、学校教育などの場でも、そうした教育方針に反発して不良化してしまう生徒が必ず出てくるわけで、それもあからさまに逆らうだけでなく、学校側に従うふりをしながら裏では正反対のことやっている生徒も出てくるだろうし、中には何やらグループや派閥を形成して、そうした集団の間で対立抗争を繰り返すような、一般社会の縮図のようなことになっている面もあるのだから、そうなるとそれは教育の成果というよりは、ただ世の中の状況がそこに反映されているだけで、それが取り立てて他に何を示していることにもならないのかもしれないが、そんな状況を体験することによっても、体験した人のその後の人生に何らかの影響を及ぼしてくるだろうし、さらに教育課程を終了した後に、一般の社会で何らかの職業に就いて活動していけば、そこでの体験もその人のその後の精神形成や動作に少なからず影響を及ぼして、それが身の回りの同じようなことをやっている人たちと似てくる働きもあるだろうし、またそうした作用が不快に思われれば、反発してそこからねじ曲がっていくような成り行きを示すのかもしれないし、どちらにしても特有の兆候を示して、それ相応の紋切り型的な思考や動作を伴ってくるのかもしれないが、やはりそこでも人がそうなってしまうのを人為的にコントロールするのは難しいだろうし、ある程度はその場の環境からもたらされる自然の作用で、そうなってしまうとみなすしかないのではないか。

 そんなふうにして人が世間的に見て、何らかの類型に分類されてしまうような、紋切り型的な精神構造や動作形態を身につけてしまうにしても、それも外から見てそういう印象を持たれるに過ぎないことだろうし、実際にその人の身近にいる人には、それなりに好き嫌いを伴うようなその人特有の魅力を兼ね備えているように感じられるのかもしれず、それが行為のレベルでの連係や対立関係に結びついてくるようにも思われるだろうし、そこには単純な利害関係を超えるような微妙な精神作用や影響を及ぼす成り行きがもたらされて、利害では割り切れない心情的な人と人とのつながりなども生じさせるのかもしれないが、一方でそうした四六時中自分の感情の浮き沈みまで覗き込まれているような、粘着質を伴った絡みつきを嫌う傾向が出てくれば、そうしたおもてなし的な傾向の煩わしさを極力排した、形式的な素っ気ない人間関係にとどまろうとする傾向も出てくるわけで、ファストフード店などで見受けられるロボット的な対応の方が、かえってこちらも気を使う必要を感じないから気楽になれるわけで、そうなると接客サービスを嫌ってなるべく自動販売機などで間に合わせようとする傾向も出てくるだろうし、そうした快不快のレベルで人と人との間のやり取りまで外部からコントロールしようとすると、何かあてにならない幻想ばかりが膨らんでくるのかもしれないが、もちろんそこに法律や制度の次元を持ち込むわけにもいかないのだろうが、そうした幻想を抱いてしまうと、何かというと印象操作のようなやり方で法律や制度に対抗しようとする傾向も出てくるわけで、それがどこまで世の中で有効に働いているかは定かでないにもかかわらず、そんなことをやっている人たちにしてみれば、それが何らかの効果を上げているように思い込んでいないと、そんなことを継続して行くのが馬鹿らしく思われてくるだろうし、だからサービス業に携わっている人たちなどは、客に対する感謝の気持ちを忘れないという精神論的な掟を守ることを、自らでやっていることのモチベーションを保つ上での拠り所としている人も多いだろうし、結局それはその場の環境に適応するための戦略であり戦術となっているわけだろうが、もちろんそんな大げさに事態を捉えているわけでもなく、あまりそれと自覚せずにその場の環境に馴染んでいくにつれて、後から思い返してみると、自然にそうした振る舞いや動作が身についていることを自覚できるようになるわけで、そうやって何とかその場で生じている人間関係などの面倒な事態を切り抜けながら生きていけば、だんだん当初において持っていたナイーブな謙遜などの感性もすり減ってきて、それと反比例する形で出てくるのがその時点まで生きてきたことを正当化する自信であり、それはある種の図々しさや厚かましさにもなるわけだが、しかもそうやって歳をとるに従って、自分より経験の浅い年下の人に何だかんだと指図するような事態になってくると、時には腹が立って威張りちらすようなことも起こるだろうし、またそうした行いも正当化しだすと、他人に迷惑をかけてもそれが自分より目下の者なら平気にもなってくるだろうし、そうやって次第に他の人から見るとかなり不快な人格が形成されていくのだろうが、一方でそうなってしまった他人を見ながら、それを自分への反省に利用しようとするわけで、それもある意味で社会の中で生き抜くための戦略や戦術に結びついてくるのだろうが、やはりそれもそんな自覚とともにそんなことをやっているわけでもなく、自然に身についてくるような成り行きを伴っているわけだが、そうなってしまう経緯の中で、自分の至らなさや他人への至らなさが身に染みて感じられるようなら、そうした至らないことをやっている他人に対しても、時には厳しく臨んだり、逆に寛容になるタイミングがわかってくるかもしれないし、そこからもおもてなしの心のような肯定できる対応が出てくるのかもしれないが、それが時宜を心得た対応にならないと、何かわざとらしく慇懃無礼にも思われてくるだろうし、それだけで物事の全てを解決できるわけでもないのだから、それが他の様々な有効な方策を伴った対応と組み合わさることによって、初めて効果的に働く動作である限りで、普通の考えて、それだけでは気休め程度の効果しかないことは踏まえておいた方がいいのかもしれない。


8月17日「不条理と不信感」

 それが偶然の巡り合わせでもない限り、自らがやりたいことと世間から求められていることが、重なるとは思えないにしても、自らがやろうとしていることが、たまたまそれが世間から求められていることになっているとすれば、自らがそれを自覚できないまま、世間の意向に操られてしまっている可能性があるだろうし、自分が気づかないうちに世間から影響を及ぼされていて、世間がやらせようとしていることを、自発的にやろうとしていると思い込んでしまい、実は何かをやろうとすること自体が、世間から影響を受けてやらせられること以外ではなく、自発的にそう思うこと自体が、世間が自発的にやるように思い込ませているのだとすれば、では自発性や自主性とは何なのか、と問わざるを得なくなるかもしれないが、そう思い込んでしまうことから自発性や自主性が生じるのだとすれば、自主的に何かを行うこと自体に、積極的にそう動くことへの自信がみなぎっているから、そう思われるのであり、客観的に見ればそこに内発的な要因も外発的な要因も介在していることは確かなのかもしれないが、少なくとも消極的に嫌々やらされているとは思えないような、確信に満ちた自己の動作が伴っている限りで、やはり自らの意志で主体的に行なっているような気になれるだろうし、それと世間からの影響云々とは別次元のことのように思われるのではないか。要するに自意識の水準では、いくら世間から影響を及ぼされているとしても、それと自分の意志でやることとは明確な区別がつけられていて、それについて自分なりに吟味して判断した結果、良かれと思ってやることだから、世間からの影響が悪影響だと判断されれば、やらないことだってあり得たのに、それを悪影響ではないと判断した限りで、そうした判断が正しいことに自信を持っていれば、やることをためらう理由はなく、そうやって自らが納得づくで行うことだから、自己の責任で自主的にやる気になるのだろうし、そうした自主的な判断ができているうちは、自分で自分を信じていることにもなるわけで、そこから自らの行為への積極的な意志が生じていることになるわけだ。もちろんそれは良い行為ばかりではなく、世間的に見て悪事を働く場合にも、積極的にそうするわけだろうし、個人の積極性が世の中に害を及ぼすこともあるわけだが、それもその時の社会情勢から影響を受けてそんなことを行う場合があるわけで、だからと言ってやっていることの責任を免れるわけでもないが、そういう意味でも自らのやろうとすることが、たとえ世間の常識に反しているとしても、それも世間からの影響でそうなってしまうこともあり得るわけで、そういう場合はそれが悪影響だとみなされるわけだが、なぜ世間の常識に反したことを積極的にやろうとするのかといえば、世間の常識が信じられないようになる出来事が、現に世の中で起こっているからだろうし、そうやって実際に起こっている出来事から世間に対する疑念が生じてくるわけで、それが不条理なことであり、そこから世間に対する不信感が生まれて、そうした出来事が重なって否応なく不信感が募ってくると、世間の一般常識からかけ離れたことをやらざるを得なくなって、それを大げさに言うなら反体制的な活動に結びつくわけだが、現実に世の中に不都合なことや不具合が生じていて、それを誰もがどうすることもできずに放置されている状況になっていれば、そのことに対して不信感を抱くのは当然の成り行きになるのだろうが、それを多くの人たちが見て見ぬふりをしているようだと、そこからそうした振る舞いへの反感や反発が生まれてくるのも当然だろうし、それをどうにかしなければならないと思うようになれば、やはりそんな世の中の風潮から影響を受けていることにもなるだろうし、多くの人たちが見て見ぬをふりをしながら事態を放置しているという現実が、誰かが勇気を出してやってほしいと思われてしまうわけで、それが世間から求められていることだと思い込んでしまえば、やはりそうなると自らがやりたいことと世間から求められていることが重なってしまい、場合によっては何か天啓を受けたような気になってしまうだろうし、そこから預言者のような振る舞いが生まれてくるわけだ。

 預言者は予言者とは違って、ただ予言するのではなく何らかの行為に及ぶわけで、しかもそれがもとで権力を担っている勢力から迫害されることにもなるわけだが、そうした反抗してくる者を迫害する側というのも、反抗してくるような状況を招いていると言えるわけだから、何かそこで人々の不信を買うようなことが行われていて、そうした行為を主導しているのが、反抗してくる者を迫害する勢力となっていて、何かそこにそうなってしまう成り行きが生じているわけだが、迫害する側もそうした世間の情勢から影響を受けて、そんなことをやらされていることにもなるわけで、そうした状況の世の中で主導権を握るということ自体が、人々から不信感を抱かれることとセットになっていると考えられるだろうし、しかもそんな勢力が世の中で主導権を握っているのだから、そこに暮らす人々からそれなりに支持されていることにもなるだろうし、一方ではやっていることが人々から不信を買いながらも、もう一方では人々から支持されているわけで、それがそこで生じている不条理だと言えなくもないが、そこに人々の間で対立を招くような争点が生じているとも言えるだろうし、そんな世の中の情勢としては、そこで主導権を握っている勢力のやっていることが、大多数の人々の消極的な支持を得ながらも、ごく一部の不信感を抱いた者たちによる積極的な反抗を招いていると言えるのかもしれず、反抗してくるのがごく一部の者たちではなく、大多数の人々にも積極的な反抗をもたらせば、主導権を維持することができなくなってしまうのだろうが、世の中で主導権を握るということ自体が、大多数の人々の消極的な支持と、ごく一部の者たちによる積極的な反抗をもたらしているとも言えるだろうし、別にそれが異常な事態だとは言えないのかもしれないし、そもそもそんな世の中で治安が保たれている状況というのが、そこに暮らす大多数の人々が、それなりに不満を抱きながらも、権力側に屈服している状態を示していることになるのかもしれず、そしてごく一部の公然と刃向かってくる者たちを取り締まることによって、それなりに世の中の治安を保っていることになるわけだろうが、そうした権力による統治形態というのが、誰もが不満を抱くような圧政という状態ではなく、大多数の人たちがそれなりに経済的な豊かさやそこから生じる心身の余裕や娯楽などを享受できるような状態であれば、多少の不満は我慢できるし、逆らって今ある消極的な安定を壊してしまうよりは、現状を維持する方が妥当な選択だと思われると、たとえそこで誰の目にも明らかな不具合や不祥事が生じていても、見て見ぬふりをしてしまうだろうし、それに加えて現状で主導権を握っている勢力に対抗している勢力にも、不信の念を抱かせるように仕向けられていれば、どっちもどっちという打算的な心境にもなれるだろうし、そういう大多数の人々の心理状態が現状の世の中を支えているとも言えるわけで、そうした打算的な状況を打ち破るには、状況を変化させるようなことをやらなければならないのかもしれないが、それは結果的にわかることでしかないだろうし、現状に抵抗する勢力のやっていることが功を奏して、現状を支配する勢力から主導権を奪うことができれば、結果的にやってきたことに効果があったということになるわけで、そうした効果が上がらない限りは、やっていることがうまくいっていないことにもなるわけだから、ひたすらこれまでにやってきたことと同じことを繰り返すのではなく、他にも様々なことをやってみて、やってみたことの効果を確認していくしかないだろうし、そんな試行錯誤の中からうまくいくやり方を導き出すしか、現状を打開する方法はないのかもしれず、そうした意味で現状を維持する面で主導権を握っているのは、実際に現状の中で主導権を握っている勢力なのだろうが、現状を打開する面で主導権を握っているのは、現状の体制に反抗している勢力なのかもしれないし、そうした勢力がやっていることや、これからやろうとしていることが、現状の打開に役立つかどうかが、今後の情勢を左右することにもなるのではないか。そしてもし今後政治的な主導権を巡る交代劇が起こったとしても、新たに主導権を握った側にも必ず不条理な状況がもたらされるだろうし、何をやるにしても、それなりにうまくいく面とうまくいかない面が出てくることは確実で、うまくいかない面に関してどう改善していくかが、人々の間で生じる不信感に応えていくことになるのかもしれない。


8月16日「功名心」

 人に社会的な役割が生じるのは、それを意識するからと言える面があることは確かだが、一方で世間から賞賛される立場を目指すような、功利的な名誉欲が生じる成り行きもあるだろうし、そこから社会に尽くすことによって多くの人から尊敬されて、賞賛されることによって世間から認められたいと思わされることにもなるわけだが、実際にそうした社会的な名誉を得られるのはごく限られた少数の人たちだろうし、また他人が世間から注目されて名誉を得るのを羨ましがったり、それが高じて妬ましいと思ったりして、中にはそれに泥塗ったり傷つけようとしたり、足を引っ張ろうと画策するような人も出てくるわけで、そうなるとそこに競争原理が働いていることになるだろうし、他人との競い合いの中で、そうした否定的なやり方を思いつくわけだが、そうしたことに嫌気がさして、競うことや争うことの虚しさを感じたり、現実に限られた少数の人にしか名誉がもたらされないことがわかってしまうと、自らの境遇や現状から判断して、別に自分が求めようとしなくても構わないのではないかと思うようになるだろうし、そういうモチベーションの低下が、そうした行為に対する無関心を呼ぶ可能性も出てくるわけだが、そもそも誰もが名誉欲に取り憑かれる成り行きにはならないだろうし、世間的な評価の程度にも、ほんのささやかな交友関係の中で褒められることから、何らかの権威を伴った賞を受賞するなどの大げさな儀式を伴うものまで、かなりの幅があるわけで、その程度に応じてメディア的な注目度にも、賞賛する世間の範囲にも大きな格差が生じてくるだろうが、世間から認められたいと思うことが、そうした世間を共有している他の多くの人たちとの連帯を意識させて、そこに人々が協力して維持している社会があるという認識を共有することから、そんな前提によって社会の中での自らの評価を気にすることもできるようになるわけだろうし、そんなことを気にしていること自体が、すでに自らに社会的な評価を伴うような立場や役割が生じていることを意識させられているわけだ。もちろんそうした意識にも人によって程度の差があるだろうし、誰もが功名心に取り憑かれているように見えるわけでもないが、世間の目を意識する限りで、全くそうしたものとは無縁というわけにもいかないだろうし、それが高じてあからさまに世間体を気にしているように見えてしまうと、俗物感が半端ないようにも感じられて、そのこと自体によって小馬鹿にされる対象にもなってしまうだろうし、他人にそんなことを意識させてしまう時点で、小物臭も漂ってきてしまうわけで、名誉というのは自分から求めていることを他人に察知されてしまうと、それが他人から見て分不相応に見えれば、俗物感や小物臭が生じる原因ともなるだろうし、自分が求めなくても周りの人々からその資格が備わっているように思われれば、黙っていても評価されて、それ相応の待遇を受けるような成り行きになれば、何やらその人が世間から賞賛されてしかるべき立場であるように思われるわけだが、そうした思いやそれが当然だと意識してしまうこと自体が、人と人の間に格差や階級があることを暗黙のうちに認めていることにもなり、しかもそれがその人の社会への貢献度や実績などに応じて得られるようなものなら、そんな格差や階級があることを正当化できるだろうし、そういうところが生まれながらの身分制度のような不平等を意識させるのとは違った、努力すればした分だけ報われるような幻想を生み出すのだが、そんなことのバリエーションとして、金を稼いで資産を増やした分だけ報われるような資本主義的な幻想も生まれるだろうし、そうした認識が近代から始まった大衆市民社会を支える共通の価値観や原理にもなっているわけで、人々の共通認識としてそうした価値観が肯定されている限りで、資本主義的な利益の追求原理にもそれ相応の説得力が伴うのだろうが、もちろんそこから経済格差や貧困などの現代的な社会問題も生じてきているわけで、そうした共通認識や価値観などの両義的な意味や効果に関しては、社会の中でのその人の立場や役割や境遇に応じて、それを肯定して推進するか、否定して批判的になるかの判断が別れてくるのではないか。

 またそうした名誉欲や功名心に駆られるような仕組みや仕掛けを構築して、そうした仕組みや仕掛けに飛びついてくる人たちを利用して、社会の中で主導権を握ろうとする勢力や団体も出現してくるわけで、それもそこから経済的な利益を得ようとしているだけではなく、単に主導権を握ることが目的と化している可能性もあるだろうし、そうなるとそうした集団の活動自体が権力への意志を構成していることにもなるわけだが、そうなっているとしても、集団内の構成員や指導的な立場の人自身がそれを自覚しているとは限らないだろうし、世間で話題となっている人に何らかの賞を交付することによって、それを自分たちの団体の権威づけに利用しているとしても、選考する立場の人の中には、本気でその人を賞賛したいと思っている人も確実にいるだろうし、その辺でどこまでが他人への賞賛の意を示していて、どこからが自分たちの権威づけに利用しているかに関しては、はっきりした境界など設定できないだろうし、それはその場その時でそうした受賞の儀式を観た人が判断するしかないだろうが、やっていることがどちらの意にも取れるところが、どちらの意も示していることにもなるだろうし、当人たちにその自覚が有る無しに関わらず、そうした機能が備わっていて、実際に何らかの効果を世の中に及ぼしていて、中でもメディアがそれを積極的に取り上げること自体が、そうした活動を宣伝していることにもなるわけだから、宣伝することによってもメディアに何らかのメリットが生じている可能性が高いだろうし、メディアの機能として世の中の話題を取り上げるのは当然だろうから、話題の人が話題の賞を受賞すれば、それを取り上げないはずがないだろうし、そうなると事前にその人が受賞することを予想するような成り行きにもなってきて、受賞する前からそのことを話題として盛り上げてしまうと、世の中で話題となっていることを取り上げるのではなく、メディア自体が話題を積極的に作ろうとしていることにもなってくるわけで、そうやって自作自演の話題づくりがエスカレートしてくると、話題作りのために賞を次々と作ることにも結びついてくるだろうし、そうした賞が乱立してくると、賞自体のありがたみも薄れてきて、そうした賞の中で何が真の権威を持っているかについての覇権争いまで起こる可能性まで出てくるだろうし、中には大した功績もあげていないのに、分不相応な賞をもらってしまうと、賞をもらうための裏工作が行われたのではないかと疑われてしまうようなことにもなってきて、そんなケースが増えてくると、人々の賞に対する関心も薄れてきて、誰がどんな賞を受賞しようと、またそれに関してメディアどれほど騒ぎ立てようと、人々の間で無関心が蔓延してしまうような成り行きになれば、賞の権威も地に落ちたことになってしまうわけだが、だからこそメディアとしては特定の賞だけを優先的に取り上げて、その賞がもたらす権威の維持に努めながらも、そうした賞の受賞を大々的に取り上げることによって、それを優先的に報じるメディア自体の世間的な信用を保とうとするわけだろうが、そうなるとその賞の受賞者を頂点としたヒエラルキーが構成されることにもなるわけで、そこに世間を納得させるような格差も生じて、その賞の受賞者をありがたがるような世間の空気も生まれてきて、受賞者の発言や意向に盲従するような人たちも増えてくるだろうし、そうした人たちの中から、自分が受賞したわけでもないのに、我が国ではこれまでに何人の受賞者が出たとか自慢したがるような、俗物感や小物臭が漂ってくる人が多数出てくるわけで、それもそうした権威主義がもたらす両義的な効用であり弊害でもあるわけだが、それを肯定してさらに盛り立てようとするにしても、否定したり茶化したり嘲笑したりして批判的なポーズをとるにしても、そうしたことを行うことからも、それに関連してメディア上にコメンテーターやコラムニストなどの一定の社会的な役割を伴った立場が生じるのだから、結局現状の社会の中で生きている限りは、そうした行為から生じる幻想を振り払うことはできないのかもしれない。


8月15日「社会的な役割の相対性」

 人が社会の中で果たすべき役割というのが一概には決まらない場合には、そこでは人の役割にもそれに伴った活動にも流動性が生じるだろうし、そもそも人にそんな役割を果たす義務など生じていないのかもしれないし、人が存在している分だけ社会的な役割が用意されているわけではなく、社会がそれほど人を必要としていない可能性まであるのかもしれず、そうした意味で社会には人が有り余っていて、特に役割を果たそうにも当の役割が足りなくて、その代わりに社会から必要とされない人が大勢いて、そうした何の役割も担えない余った人たちが社会から疎外されているように感じられると、実際に引きこもりのニートのような状態となってしまうのかもしれないが、一方では役割というのは他の人と競争して勝ち取るものだろうし、そうした役割には社会的な魅力が備わっているから、多くの人がそうした役割を担うことを求めて、競争という役割の奪い合いのような現象が起こるのだろうが、もう一方では強いられてもやりたくないような役割というのがあるだろうし、そうした役割は誰もがやりたくないが、貧困など経済的な事情や他の諸般の事情から、嫌々行うような不快な作業を伴うものまであるわけで、そういう意味で社会的な役割にもそれなりの格差が厳然とあるわけだが、それもそれに関連した様々な活動が行われた結果として、何らかの社会的な役割が生じてくることになるだろうし、そうした役割に普遍性があるわけでもなく、時代の変遷や状況の推移に伴って、いらなくなってしまう役割がある一方で、必要に応じて新たに社会につけ加わる役割もあるだろうから、特定の役割がなくなってしまうからといって、それによって困る人が出てくるとしても、それとは別に何らかの需要が出てくると、それに応じた社会的な役割の必要性や重要性が高まって、そうした役割を担う人が増えてくるような成り行きにもなってくるだろうし、そんな経緯から特定の社会的な役割の社会的な必要性や重要性をことさら強調しても、そこに生じている様々な事情や、事情が絡み合った結果として生じる事態の推移によっては、その必要性や重要性が薄れてくるような状況の変化も起こるわけだから、そうした役割にこだわることが、場合によっては時代遅れや流行遅れになってしまうこともあり得るだろうし、たとえそうした役割からもたらされる活動がかけがえのないことのように思われようと、そんな思いを抱く人には確かにそう感じられるとしても、それとは立場や境遇が異なる人にとってはそうでもない場合も出てくるわけで、その辺は人によって立場も境遇も異なるから、かけがえのないことも異なってくるのが当然かもしれないが、中には誰にとってもかけがえのない社会的な役割というのも、あるように思われてくる場合もあるだろうし、それがなくなってしまうと多くの人が困るような社会的な役割もあるのかもしれないが、それでもそれが別の役割によって代替が利くようなら、今度はそれが誰にとってもかけがえのない社会的な役割を担うようになるだろうし、それに関して例えば政府という機構の必要性や重要性が薄れてくることもあるだろうし、現状では政府がなくなるなんてあり得ないことだと誰しもが思うところかもしれないが、それ以前に政府がなくなるなんて誰も思いもしないことかもしれないが、今後なくなる可能性がないとは言えないだろうし、実際にも政府の管理統治が行われていない地域があって、そんな無政府状態の中で暮らしている人もいるだろうし、それが現状では極めて特殊な限られた状況だとしても、今後そうした地域が拡大していく可能性もないとは言えないだろうし、そうした事態を想像すれば、政府による行政活動のない地域で暮らしている人たちに、果たして国家という概念が実感を伴って生じているか、興味深いところかもしれないが、その逆に政府という機構の存在を前提としてしか、国家もあり得ないとすれば、国家の存在自体が政府のあるなしによって必要でも重要でもなくなってくるような、相対的な存在でしかないことがわかってくるのではないか。

 だからと言って現状では世の中のほとんどの人たちが、政府の存在を前提とした社会の中で暮らしているわけだから、そんなあり得ないことを想像することに、何の重要性もないのかもしれないが、人の社会の中での役割を規定するのが、政府などの組織的な機構を伴った存在であることは重要だろうし、他にも企業などの各種団体の存在を想像できるだろうが、例えばそれが宗教教団であるとすると、そうした団体の重要性は、その教団の信者であるか否かでだいぶ異なってくるだろうし、結局それはそうした集団に所属しているか、あるいはその集団と直接の取引関係があるかないかで、その重要度に明確な差が出てくることになるわけで、そんなことはあえて指摘するまでもないことだろうが、それは政府と民衆との間の関係にも言えることだろうし、直接的な関係を感じられる立場や境遇にある人と、そうでもない立場や境遇にある人とでは、それに対する関心の度合いにもはっきりとした差が出てくるだろうし、自らの立場や境遇から生じる関心の度合いに応じて、政府という機構に対して抱く切実さにも、それなりの強弱が伴ってくるわけで、それも政府全体ではなく、その中の特定の部署や部門に対する切実さになるかもしれないし、そういうところから政府に対する距離感とともに、その範囲にも広さや狭さの感覚に違いが生じてくるのだろうが、そうであるなら中にはそれらに無関心な人が出てくるのも当然だろうし、誰もが一様に政府に対して強い関心を持っているわけでもないし、メディアが喧伝する政治的な問題に関しても、それに対する関心のあるなしや強弱が生じてくるのも当然ではあるわけだが、政府が管理している制度は誰に対しても平等な制度であるべきだろうし、その人の立場や境遇によって対応に違いが出てくるにしても、その人の社会的な立場や境遇に応じて条件付けがされていて、例えば収入の多い人にはそれだけ所得税が多く課されるだろうし、また心身に何らかの障害を持つ人にはその健康面で、様々な優遇措置が講じられるのだろうが、それはその人が誰であろうと平等に考慮されるわけだろうし、その収入の多い少ないや健康状態によって考慮されるところであり、収入が多いからといって健康面での優遇措置が受けられないわけでもないだろうし、また健康が悪化したからといって所得税が免除されるわけでもないし、健康が悪化して仕事ができなくなって収入がなくなれば、所得税もなくなるだろうが、そういう意味で制度が課す条件というのは、その制度に関わってくるその人の状態に応じて変動するわけで、そうした様々な制度の中でその人が関わってくる程度によっても、それに対する関心の度合いに差が出てくるのだろうが、自身が関わってこないような制度にまで関心を持てるかというと、例えばそうした制度に関わっている人が、制度から生じる何らかの弊害によって苦しめられているなら、そうした制度はなくすなり改革するなりして、その人の苦しみを取り除かなければならないと思うのは、そうした制度を管理している政府に自身が関わりを持っていると思うからで、また立場や境遇が違えば自身もそんな制度によって苦しめられていたかもしれないと思うからであり、そうしたことを人々に思い起こさせるのが、そうした状況を広く世の中に伝えるマスメディアの役割となるわけだろうが、なぜそうした役割がマスメディアに生じているのか、その理由をうまく説明できるわけでもないし、ただ成り行きとしてそうなっているとしか言いようのないことかもしれないのだが、人によっては何やらそれに関して説得力のある説明をできるかもしれないが、たぶんそうなるに至る歴史的な経緯が生じているとしか言えない面もあるのかもしれず、民衆の側でそうしたことを伝えるのが妥当に感じられるようなら、それを積極的に伝えるマスメディアにはそれ相応の支持や支援が集まって、そうした民衆からの支持や支援を背景として、そのマスメディアにはそれなりの権力が備わることにもなるだろうし、場合によってはマスメディアの報道によって、制度を推進している政治勢力が、政権の座を追われることにでもなれば、マスメディアとそれを支援する民衆との協力によって、社会が良い方向に導かれたことにもなるわけだろうが、別にそうした成り行きを制度やそれを裏付ける法律の面から正当化することもないだろうし、ただその場の情勢や状況に応じて、その場だけで通用した現象として、そういう成り行きが起こったとしか言えないのかもしれないし、だからと言ってマスメディアにそうした役割を義務付けるようなことにはならないわけだ。


8月14日「イデオロギー」

 政治的なイデオロギーは、その人の社会的な立場や、そこから生じる物事に対する考えが反映されるものだから、別に現状の社会情勢からかけ離れたものにはならないだろうが、それがその時々の社会情勢に左右されない普遍性があるように思われると、何か現状には合致しないように思われるかもしれないし、そうではなく単に現状の中で合理的に考えられる主義主張をイデオロギーと呼べば、何やら説得力を伴うようにも思われるのだろうが、そうした考えに凝り固まって、他の主義主張を強烈な言葉で否定するようになってしまうと、やはりイデオロギーに思考を絡め取られてしまって、融通が利かないので、そうした類いのイデオローグの主張はイデオロギーそのものの価値を貶めているように思われるだろうし、そしてさらにそれが煽動の道具にまで堕するようだと、何か柔軟性のない単純化された内容となってしまって、それではさらにイデオロギーを台無しにしてしまうような、劣悪なことをやっていることにもなるわけだが、そうなると一般の民衆からもその手のイデオロギーが敬遠されて、そうした傾向が世の中に蔓延すると、政治活動を行なっている人の間でも、イデオロギーという言葉そのものを自らの主義主張の中では使うのがためらわれてしまうだろうし、結局は他人の意見を攻撃するためだけに用いるような、著しく偏向した主義主張などを批判する時に、それはイデオロギーだとみなして否定することになってしまい、そうやってイデオロギーそのものを葬り去るような成り行きがもたらされて、イデオロギー本来の人が社会問題について考える時に必要な理屈を提供するような啓蒙性が欠けてしまうのだが、実際に人が物事について思考する時には、ある程度は論理的な合理性を目指して考えようとするだろうし、そこで組み立てようとする妥当な理屈がイデオロギーとなるわけだから、それを世の中ですでに否定的な評価を伴っているイデオロギーだとは呼びたくないにしても、物事に関して合理的な理屈を導き出そうとする限りで、何らかの筋道の通った系統的にまとまった思考として、イデオロギー的な認識が必要になってくることは確かで、それを学問の範疇に入る思想や哲学とみなすと大げさな感じがするだろうし、現状ではそんな思想や哲学と言った言葉までも使いたくないのかもしれないが、そうした傾向が現状にどんな作用や影響を及ぼしているかは定かでないが、とにかくそれを言葉で説明して他の人たちの納得や信用や信頼などを得る上で、他の人たちにも理解可能な合理的な理屈を伴ってくるのは当然の成り行きになるだろうし、それが思考作用から生じてくるわけだから、誰もが納得できるような合理的な理屈抜きには思考にはならないわけで、それをイデオロギーだとみなすと、途端に気嫌いして拒否反応が生じてしまう社会情勢になっているとしても、それでも思考にイデオロギー的な傾向が生じるのは否定できないところだろうし、そうした傾向になるのまで拒否してしまえば、では何をどう考えればいいのかわからなくなってしまうだろうし、物事について思考すること自体に論理的な妥当性や合理性や整合性などが伴ってくるわけだから、そうしたものをいくら拒否してもイデオロギーにしかならないわけで、しかもそうした妥当性や合理性や整合性などのない理屈となってしまうと、もはやそれは理屈ではなく直感的な好き嫌いで物事を捉えているだけで、それは思考ではなく感情でしかないだろうし、人によって好き嫌いが異なるなら、そこから社会的な同意や賛同を得るのは不可能に思われるかもしれないが、それが共同体願望に基づく共同幻想に多くの人が囚われてくると、そうした類いの民族や宗教や人種などの共同幻想が、国民的あるいは国家的な共同幻想にまで至ると、理屈ではなく感情的にそれを信じることによって、人々の共通理解を得られるような妥当性を得られるのかもしれず、そうした思考すること拒否した感性によって保守的な国家主義思想などが構成されると、それが思考や哲学とは異なる宗教として世の中に蔓延していくことになるのではないか。

 もちろん宗教にも敵対感情を伴うものだけではなく、敵をなるべく作らない博愛精神などを伴うものもあるわけで、そうした宗教まで否定することはできないだろうが、民族的や宗派的や人種的な縛りを伴った感情になると、他の民族や宗派や人種が現に存在している限りで、当然それらの集団と敵対するような成り行きが生じてくるわけで、またそれが国家や国民的な縛りを伴うようだと、やはり他の国家や国民と敵対する感情を伴うだろうし、何か敵を作ってその敵と対立することによって、それによって共同体内の団結やモチベーションを保とうとする安易な戦略が見え隠れしてくるわけだが、そうやって理屈から考えると誰もが納得してくれるかもしれないが、はなから理屈を拒否して考えようとしなければ、同胞意識や身内意識や派閥意識などの集団内の結束に従うだけとなってしまうだろうし、そうした物事を考えずにその場を支配する掟にただ従っていればいいような、単なるユーザーとなってしまうと、そうした掟の類いの法律や制度や製品やサービスなどを提供する側の思う壺となってしまうわけで、結局そうしたものを提供する側は、思考することによって物事の仕組みや成り立ちやその動作などを解明して、それらを突き動かしている原理や理屈にまで至った人たちを核として、政府や企業や各種団体などの組織的な機関を伴った集団を構成しているわけで、そこに物事を考える少数のエリート集団と、そうしたエリート集団が世の中を管理する一方で、そうした集団にただ従って、そこからもたらされたものを消費するだけのその他大勢のユーザーが存在する、という単純な役割分担が生じてくるわけで、それは何も保守的な国家主義思想だけではなく、左翼的な社会主義や共産主義にも通じるような傾向があるわけで、さらにそれは企業やマスメディアなどが消費者を主導する大衆消費社会にも通じる傾向もあるだろうし、またそれは教祖と教祖の教えを世の中に広める僧侶階級と、その他大勢の一般の在家信者という宗教教団の構造とも似通ってくるだろうし、そこには一方で利益を独占して社会を支配する少数の集団がいて、もう一方にはそうした集団に盲従する一般大衆が存在する、というよくありがちな単純化が施されているわけで、そこで物事を考える権利があるのは、当然のことながら社会を支配する集団に所属する少数の人たちであり、その他大勢の人たちはただ何も考えずに、そうした集団の意向に従っていればいいような傲慢な考えが隠されているのかもしれないが、そうした考えを隠すための方便が、イデオロギー批判のように一般大衆に物事を考えること放棄させて、また民族的や宗教的や人種的な感情を煽って、考えるいとまを与えないようにする煽動であり、その延長上にあるのが国家的あるいは国民的な共同幻想であり、その中には他の国や国民に対して敵対感情を植え付けるような方策でもあるわけで、そうしたやり方を利用するのは何も右翼的な国粋主義だけでなく、左翼的な社会主義勢力も国家的な主導権を握れば、共産党などの一党独裁に陥って、結局はその手の愛国主義感情を煽り立てて、国民に考えることを許さないような思想統制を行うことになってしまうわけで、だからと言って資本主義がそれに対抗できるわけでもなく、実際に一党独裁の共産主義を掲げる中国などは、資本主義を取り入れながら国家体制の強化を図ることに成功しているわけで、中国でなくても自由主義を自称する国でも、企業が扱う商品を通じた、それを消費するユーザーの囲い込みが競われていて、そこにも商品宣伝による煽動行為が絡んできて、そうした企業の側でユーザーをコントロールするシステムの構築を進めている現状もあるだろうし、結局社会の様々なレベルで、人々にそうした物事を考えさせないようにするための管理体制が確立されようとしているわけだから、もちろんそうやすやすとそんな体制が確立できるわけもないのだろうが、それに対抗するには嫌でも物事について考えなければならないだろうし、対抗するというよりはそうした集団をうまく利用するためにも、それなりに考えていくことが求められるのではないか。


8月13日「価値の信用度」

 特に商人が自分の商売を正当化する必要はないかもしれないが、そこで商売が成り立っている限りで、そこから利益を得ていることになるわけで、商品の売買が行われていること自体が、それを改めて正当化するまでもなく、実際に商品を買ってくれる他者の存在が、商売を認めていることになるわけだから、それはそれで、そんなことが行われる必然性がそこで生じていることになるのではないか。あとはそうした商売を他の人がどう見るかだが、それが何か羊頭狗肉のようなあこぎな商売だと判断されれば、それなりに批判を浴びるだろうし、それを買う人を小馬鹿にしたような売り方を行えば、やはり買う方は騙されたように思われて腹が立つことは確かだが、特にそれが文化的な良識を装った商売となると、大衆の見栄や虚栄心などを逆手に取って、自尊心をくすぐるような売り方をされると、そういう意図が見え見えであることがわかってしまえば、買う方が馬鹿にされているように思われるだろうし、実際にそれに気づかずにそんな商品を喜んで買ってしまう人が、他の人たちから小馬鹿にされて、それを買った自らが、そんな商品を買ってしまったことによって、自尊心を傷つけられてしまうわけだから、自分が周りから小馬鹿にされていることに気づいてしまったら、恥をかかせるような買い物をさせた売り手を許せないと思うだろうし、場合によっては詐欺で訴えるようなことにもなりかねないが、大抵は騙された方が浅はかだったのであり、そんなろくでもないものを平気で買ってしまった人が、愚かだったことになるのだろうが、中にはそれに気づかない人も結構いるのかもしれず、実際に気づかなければ、そんなものをありがたがって求めたことを、肯定的に捉えたままになってしまうし、周りの人もわざわざそんな他人を貶める必要も感じなければ、そのままとなってしまうわけで、そうやって結果的にまんまとその手の商売が成功すれば、買わせた側の勝ちとなってしまうわけで、それで事態が丸く収まってしまうのかもしれず、それが子供騙しのように感じられるほど、たわいのない商売だとも思われて、売る方も売る方であり、買う方も買う方だということで、世の中で黙認される傾向にもなるのだろうが、それに絡めた文化的な事業などの仕掛けが大げさであるほど、社会的な影響の面で黙っていられない人たちが出てくるわけで、中でも本気で文化的な事業を手がけているような人たちは、そうしたまがい物と自分たちのやっていることが同列に扱われるようだと、自分たちが営業妨害されているような気分になるだろうし、そうなるとそうした商売がインチキであることを指摘して、インチキではない自分たちの商売とは違うことを、広く世間に訴えかけるような成り行きにもなるだろうし、実際にそうしたことが行われて、それが世間の注目を集めれば、インチキ商売の化けの皮が剥がされたような結果がもたらされるわけだが、そうなってしまうとインチキだと指摘された側も、商売あがったりになってしまうわけだから、インチキだと指摘する側と争わなければならなくなるだろうし、そんな争いを契機として、世間的な認識として、どういうことがインチキでどういうことがインチキでないかの、判断基準が示されるような成り行きも出てくるかもしれないが、それが広く世間の共通認識となれば、そうした文化的な事業などにも、基準や条件を満たす限りで世間的な信用や信頼感が生じるかもしれないし、基準や条件を満たした事業なら、それを誰もが安心して肯定的に受け止めて、そんな商売がそれなりに繁盛するのかもしれないが、そうした基準や条件もその場の社会情勢に左右されるだろうし、かつては多くの人の虚栄心や自尊心をくすぐって、ありがたがって買われていたような商品が、時代状況が変われば、誰からも見向きもされないような価値のない商品となってしまうこともあり得るわけだが、逆にその当時は文化的な価値など意識されずに、使い捨ての大衆消費財の類いとして買われて粗末に扱われていた商品が、後の時代になると希少性が出てきて、それを所有していること自体が、周りから羨ましがられるようなことにでもなれば、やはりそうした商品にはそれなりの文化的な価値が生じてくるわけだ。

 たぶんそうした文化的な価値というものを、ありがたがって肯定的に捉えれば、それは商売というよりは事業だと正当化したくなってくるだろうし、そこからその手のものを手がける博物館や美術館の類いと連携した、価値の創造ようなことが行われる成り行きも出てくるわけだが、そうした活動には商売としてのいかがわしさが常に付きまとってくることも確かで、本物とまがい物の区別や境界が曖昧となるようなところで、詐欺やペテンと紙一重な面も出てくるだろうし、そうした区別や境界をはっきりと誰もが納得するような形でつけられる人が、鑑定士などの職業として成り立ってくる面も出てくるわけだろうが、その一方である物を本物だとみなして、別の物をまがい物だと鑑定することが、ある意味ではその人の権力の行使ともなるわけで、そうした権力の行使に他の関係者や一般人がどこまで従うかも、それに応じた世間への影響力となって、それがその人の権威としての威信にも繋がってくるのかもしれないが、そこで生じている物事やそれに関係して権力を行使する活動自体が、世間的な信用や信頼を生む一方で、不信や疑念も生じさせるのだろうし、それが社会的な利害関係の基となってくれば、それを利用した商売も成り立ってくるわけで、それが結果的にどうなるにしろ、商売として利益を追求することが優先されてくれば、そうした欲望に応じていかがわしい面が出てくるだろうし、そこでやるごまかしが成功するほど利益も増えるような成り行きになってくれば、いかに買い手をごまかして高く多く売りつけるかが、手法的かつ技術的な目標ともなってくるわけで、そういうところが詐欺やペテンになるか否かの分かれ目になるのかもしれないが、それもその時の時代状況に左右されてくる場合があるのかもしれないし、同じようなことをやっているのに、一方では詐欺やペテンとみなされたり、実質的にはそうであっても、そこに世間的な信用や信頼関係が生じていれば許容されたり、あるいはそこに権力関係が生じていれば、それを詐欺やペテンとは言わせないような圧力が働いていて、場合によっては人々にそうした類いを強制的に買わせるような事態も起こり得るだろうし、そういう面も考慮すれば、それが詐欺やペテンではないという保証がどこから生じるとしても、商品の売買という行為自体に客観的な正当性はないのかもしれないし、そこで物や情報やサービスと金銭を交換する行為を認める法律や制度が整備されているとしても、最終的には相手を信用して売買という取引を行うしかないだろうし、そうした信用に客観的な正当性も保証もなければ、信用はどこまでも信用にしかならないわけだから、そこに確実性や必然性を求めること自体が見当違いでしかないのかもしれず、もちろん見当違いであっても、法律的あるいは制度的な裏付けを求めるわけで、それが社会的な必然であり、そうすることが社会的には確実かつ正当な行為となるわけだから、そういう方向でどこまで法整備や制度の改善を進めても、その手の商売につきまとういかがわしさが解消されるわけでもないだろうし、結局はそうした取引が行われる度に、必要に応じてそうした行為の検証作業も同時並行して行われるような成り行きになるのかもしれないが、少なくとも世間的にごまかしがばればれの見え透いたことが行われれば、それについて言及する人も大勢出てくるだろうし、そうした世間から小馬鹿にされるようなまがい物を買わされた人は恥ずかしがって、そうしたものは二度と買わないような成り行きにもなるかもしれないが、売る方も手を替え品を替えて、ごまかしに工夫をこらしながら、絶えずより多くの利益を得ようと画策してくるだろうし、そうしたやり取りの中で適正なものが適正な価格で売買されるようになってくれば、何かそこで売買に関する信用や信頼関係も生まれてくるわけだが、それもあくまでも相対的な適正さにとどまるわけで、何にしてもそこで生じる価値や信用を絶対視するような愚は避けなければならないだろうし、世の中で行われている全ての行為からは、その場の状況や情勢に応じた仮のとりあえずの価値や信用しか生まれてこないことは、誰もが踏まえておくべきことなのかもしれない。


8月12日「普遍的な問題意識」

 単に考えるといっても漠然としてしまうが、その対象として何らかの物事について考えるには、それに関する様々な判断基準が付きまとってくるかもしれないが、それを良い悪いで判断するにしても、直感で判断している限りは、そんなふうに判断する理由を明確に示すことはできないだろうし、判断する人がそれまでに経験してきたことを踏まえて、勘でそれが良いか悪いかを判断している場合が多いだろうし、たぶんそう思った後から、それを他人に向かって説明するに際しては、そう思う理由をあれこれ考えながら、自らの判断にそれなりの説得力を持たせようとするのだろうし、そうした後付け的な説明を構成する上で、自らを取り巻く世の中で認められている様々な判断基準の中から、自分の都合に合うようなものを選び出してきて、それを自らの説明に利用しようとするわけで、そこで自らの説明には合わない判断基準は、意図的にあるいはそれと自覚することなく除外されてしまうのだろうし、その説明を受けた人がそうした説明に納得できれば、その除外された判断基準については気づかないから納得するのかもしれず、またそうした説明に納得できなければ、その人なりに説明に対して疑問を感じるような判断基準を持ち合わせているのかもしれず、そうやって説明に用いられた判断基準とは別の判断基準があることが明らかになるかもしれないが、どちらの判断基準が正しいかは、さらにそれらに対してどちらが正しいかを判断する基準が必要となるだろうし、そうやってそれに関する判断が正しいか否かを判断するには、より多くの人による検証作業が伴ってくるかもしれないが、普通はそんな大げさな成り行きにはならないだろうし、それを判断するに際して切実な事情がなければ、他人がそれについてどう判断しようと、その人の勝手だと思えるような状況にもなるわけで、ただそれが切実だと思えるような成り行きというのが、そうした判断によって関係する人々に何らかの利害が生じる場合とか、判断によって自らの立場や主義主張を正当化しなければならない場合とか、それが切実に思われるようなことが、それらの判断に結びついてくる限りで、時には判断を巡って関係する人や団体の間で争われるような成り行きも起こってくるだろうし、結果的にそうした判断によって結びつくような人や団体の間に何らかの関係が生じてくるわけだが、実際に人や団体の間に関係が生じてくると、その関係の程度に応じて取引や交渉が持たれるようになるのかもしれず、場合によっては権力を行使してどちらかがどちらかを従わせるような成り行きも生じてくるわけで、そこで争いが起これば、それに勝った方が負けた方を屈服させるような出来事にも至って、それに負けた方が勝った方を憎むような因縁も生じてしまうわけだが、そうした優劣を伴った否定的な関係ではなく、双方にとって肯定的な関係に至るには、両者の間で提携や連携などの対等な協力関係を築くことが重要となってくるのだろうが、それには相互に信用し合うような信頼関係も築かなければならないだろうし、そうした様々な肯定的な要因がもたらされた上でないと、なかなか平等で対等な協力関係を築くには至らないだろうが、関係を築くのを拒否して、勝手な言い分をお互いに主張し合った末に罵倒し合うのは簡単だが、お互いがお互いの立場や境遇や事情を尊重し合うような成り行きに持っていくには、実際にそこに至るまでには多大な労力や努力を費やさなければならないから、そういう関係は稀にしか成立しないのかもしれないし、やろうとしても途中で交渉が決裂したりしてご破算になってしまう可能性の方が高いのかもしれず、それもそうした関係を築くに際して、切実な事情が双方に生じないと、なかなか上手くはいかないだろうし、その切実な事情というのも、片方だけに生じていて、しかもそれがそう思っている側の勝手な思い込みに過ぎないのも、よくありがちなことなのかもしれず、実際にはそのせいぜいが、経済的な利害などの損得勘定に基づいた関係にしか至らないのが、よくある実態なのかもしれない。

 政治的にもうわべだけは、強固な同盟関係などが、国と国の政府の間で強調されることが多いのかもしれないが、それが政治的な関係である限りで、国家間の貿易収支などに関する損得勘定が介在してきたり、また軍事力のバランスも考慮されて、その国の経済力に見合った軍事費を負担していないと、余計な軍事費を負担している側が損に思われてきたり、そこでも損得勘定が介在してくるわけで、さらに移民の流入が続いているような国では、そうした人々への財政的な負担や、それに起因する民族や人種間の対立によって、治安の悪化を招いていると思われれば、それもその手の損得勘定の中に含まれてくるだろうし、そこでもそうした様々な判断基準が考慮されながら、それらの個々の基準を比較した上での総合的な判断がされて、それが政府間で行われる様々な交渉の中で、お互いの主張や言い分が戦わされた上での、交渉相手の政府に対する要求となるだろうし、それがうわべだけの同盟関係とは違った、実質的な面での敵対関係を形成するような成り行きももたらしていて、そういうことも含めて、そうした政府と政府との間の関係を、それを判断する人の信奉する主義主張に合わせて、肯定的に捉えたり否定的に捉えたりするのは、何か実態からかけ離れているのかもしれず、またその国の指導者の個人的な主義主張の傾向に応じて捉えるのも、それでは政府の官僚機構の傾向を無視していることにもなるだろうし、そういう面でもあまり一つの要因にこだわり過ぎない方が、無難な判断にも結びつくだろうが、一般の民衆がどう判断しようと、それが個人の判断に過ぎない限りは、どうということはないのかもしれないが、それが民意や世論に影響を及ぼしてくると、そうも言っていられなくなってくるわけで、またその国に対する好き嫌いや信用や信頼ができるか否かと言った、メディアによる漠然とした設問を用いた世論調査結果などにも惑わされてはいけないのかもしれないし、その国や政府を安易に人格化して、それをその人の感情に結びつけて考えないようにした方がいいだろうし、実際にその国の政府が民衆に対して行なってきたことは、大なり小なりどの国でも行なってきたことだとみなしておくべきで、ただその程度や時期に地域的な差が出てくるわけで、例えばどの国でもその国の中で少数派が抑圧されてきた歴史があり、ただその時期や程度が異なるだけで、度を超した弾圧や大虐殺などを通過してきた国では、大抵はそれに対する反省から、人種的あるいは民族的な融和を目指すような成り行きが出てくる一方で、やはり何かのきっかけで、それらの間の対立もそれなりに再燃してエスカレートするような成り行きにもなってくるし、またそれと重なる部分も重ならない部分もあるような、民衆の間の経済格差や階級格差なども、程度の差こそあれ、やはり大抵の国で生じていることだろうし、それらにも何かにつけ、資本主義経済を起因とした企業活動などの影響や作用も及んでいるわけだが、それが時期や地域によって差が出てくるから、それらの進捗具合によっては、極端な傾向が出ている国がある一方で、それほど目立った傾向が出にくい国もあるわけで、それらの問題がどの国でもそれなりにあるわけだから、特定の国にそうした傾向が著しく出ているとしても、そうだからといって自国の方がマシと考えるのは、自国の中でもそれに起因する問題があるだけに、そうした問題を見落としていることにもなるだろうし、またその逆に自国の否定的な傾向を極端に強調して、それを自国の政府に特有の問題だと批判するのも、何か公平性を欠くようにも思われてくるわけで、現状ではそんなことなど考える気にもなれないかもしれないが、他国の民衆とも連携や協力を模索する上でも、各国の政府に共通した問題に関して、認識を共有しておいた方がいいのかもしれず、何か国家や政府や官僚機構や資本主義経済などに起因する問題が世界的に生じていることに関して、特定の国や政府だけではなく、世界的な傾向として考えてみる必要があるのかもしれない。


8月11日「物事の切実さ」

 一般的に言って、古い考えは人を安心させ、これまでにない新しい考えは人を動揺させるだろうか。それは考えている内容にもよるかもしれないが、そこに現状で生じている具体的な問題が絡んでくると、例えばこれまでに行なってきたことが何らかの弊害をもたらしていて、何かそれに代わる新しい考えに基づいた新しいやり方を採用することが有力になってくれば、それを行なう機運が高まってくるかもしれないが、もちろん実際にはそんな単純な成り行きにはならない場合も多いだろうし、その辺でこれまでにやってきたことについて、不快な批判を繰り返している人たちの目論見がうまくいかない要因があるわけで、その一方で現状を肯定する人たちによる批判の抑圧や現状の正当化などにも不快な面が多いだろうし、結局は双方ともに騒ぎ立てるのが不快に感じられると、どちらにしてもあまりそれを真に受けないような人が多くなってくるし、ただごく一部の人たちがそうした激しい非難や攻撃の応酬を行なっている一方で、大半の人たちからそれが無視されるような状況となってしまい、結果的にそんな現状が維持されるような成り行きとなってしまうのかもしれず、それが何を意味するのかといえば、そうしたことに無関心でいても構わない状況がもたらされることになるわけで、実際にメディアが提供するような話題にしても、そのことに関心を持つのはごく一部の人たちに限られる場合が多いだろうし、日頃からそうしたことに関心を持つように心がけている意識の高い人たちが、そうした問題についての激しい非難や攻撃の応酬に加わってくる一方で、それを横目で見ながらも退いてしまうのが大半の人たちの反応になるだろうし、無理に関心を持つような呼びかけには反応したがらないのが普通の対応となるのではないか。またそうした騒ぎ立てる人たちを「意識高い系」などと呼んで小馬鹿にする人たちにも反応してこないかもしれないし、何かその辺で思い違いが生じてくるのだろうが、それが世間の全てではないことは誰もが承知しているかもしれないし、話題を煽り立てて、自らがその渦中の中心に位置しようと目論む人たちの当てが外れるのはよくあることで、そんな世間の話題には背を向けて、勝手なことをやりながら自由を満喫したいのが、大半の人たちの偽らざる感覚なのかもしれず、それでもメディアを通じてもたらされる話題に、誰もが関心を持つように仕向けられているわけだから、そういうことに多くの人たちがなびいてくるのも普通の成り行きではあるわけだが、それを煽り立てている人と、それに関心を持つように仕向けられている人との間で、そうした話題に対する距離感に違いが生じてくるのは確かであり、それに関して少なくとも話題を煽動している人と同じ感覚になれる人は、そう多くはないだろうし、それも誰もが承知していることだろうが、その辺で煽動者の目算が狂ってくるのも往々にしてありがちなことだろうし、煽動の全てが成功するわけではないのも当たり前であって、その中の何割かが成功すれば、メディア上ではその話題で持ちきりのような雰囲気が生まれるとしても、実際の世の中ではそうでもないのが、大半の人が抱く偽らざる実感だろうし、何にしても世の中でメディアが煽り立てる話題の全てに飛びついてくるような人も、そう多くはないだろうし、中にはそんな暇を持て余している人がいるとしても、そうした人に世間的な影響力があるとは言えないだろうし、そうした行為から生じる世の中への影響を過小評価してしまうのは、それだけ話題を煽っていることを過大評価してしまうことの裏返しだし、そんな過小評価と過大評価を相殺すれば、何となくそれが妥当な評価であるような気がしてくるのも、大半の人が抱く偽らざる実感なのかもしれない。

 そうした成り行きの結果として現状がもたらされているのかもしれないが、現状が変わらないように感じられるなら、そこに及ぼされている作用や影響によって何らかの均衡状態となっているのかもしれず、それとは違って何か変化しているように感じられるなら、そこに及ぼされている作用や影響の中で、均衡を崩すような力の不均衡が生じていることになるのかもしれないが、そんな中でも世間に向けて何かを訴えたい人の主張が切実に思われるなら、そうした主張に賛同する人もそれなりに増えてくるだろうし、それを話題として取り上げるメディアもそれなりに出てくるかもしれないが、それが世の中で行われていることに反するなら、そんなことに比例して、そうした主張に反発する人もそれなりに増えてくるだろうし、メディア上でそうした主張に反発する意見もそれなりに出てくるかもしれないが、それに関して思い違いをしてはならないことは、現状の中でそうした争いに加わらない人たちが確実にいることであって、誰もがそうしたことに関心を持っているわけではなく、実際に関心を持つ必要もない人もいるわけで、関心を持たなくても構わない人まで争いの渦中に巻き込むのは難しいだろうし、実際に世の中の全ての人が関心を持つような話題ではない場合がほとんどなのではないか。しかも人々の関心が分散してしまうこと自体が、良いことでも悪いことでもないのかもしれず、ただそういう状況がもたらされているだけで、それに関心のない人にとっては、それが何を意味するわけでもなく、それに関して無関心であっても一向に構わないような状況の中で生きていて、たとえ無関心であったから不利益や損害がもたらされようと、そうした自覚さえ生じないような成り行きとなっているのかもしれないし、世の中の全ての人がそうしたことに関心を持つように仕向けるのがもはや困難な時代となっていて、メディアに巣食う煽動者たちもそれに応じた戦略を迫られているのかもしれず、そんな中でも人々がそれほど不快に思わないようなたわいのない話題を提供することによって、多くの人の関心を広く薄く集めている人もいるだろうし、また快不快がはっきりと分かれるような極端な話題を取り上げて、少数ではあるが濃く狭く熱心な賛同者を集めている人もいるだろうし、煽動者それぞれの戦略によってそれなりにメディアの中で居場所を確保できている人は、煽動のプロとして世間的に通用しているのだろうし、そうした煽動者になりたい予備軍のアマチュアも、ソーシャルメディアなどでそれなりに活動している実態もあるのだろうが、誰もが煽動者になりたいわけでもないだろうし、誰もが煽動に関心があるわけでもなく、他人が提供する話題よりは、自分で興味を持ったことをやっていればそれで構わないような場合もあるわけで、それに関して民主的な政治制度というのも、誰もがそれに関心を持つことを前提として制度が組まれているわけだから、誰もが必ずしも政治に関心を持たなくても構わないような時代状況の中では、うまく機能しなくなってきているのかもしれないし、そうした状況に応じた現状の政治情勢があるわけだから、いくら世間に向かって関心を持つように呼びかけても、それほど熱心な反応が返ってこなくても、それはそれで仕方のないことなのかもしれず、そうであるならそうした情勢に応じた制度改正が求められているのかもしれないが、それも現状の中で有利な立場を占めている勢力の思惑に左右される面が大きいだろうし、現状で主導権を握っていれば、下手に制度改正を行なって、自分たちに不利な状況を作ってしまってはまずいわけで、そうした党利党略のような功利的な思惑を重視するなら、現状のままになる可能性の方が高いわけだが、それも確率的にそうなる傾向があるだけで、この先においてどんな事態になるかは、現状では何とも言えない面もあるだろうから、現状で生じている政治的な弊害を、誰にとっても切実な問題として訴えかけている人たちは、それをやり続けるしかないのではないか。


8月10日「物事を駆動させる要因」

 人は様々な物事に依存しながら生きているが、それを依存ではなく自らが主体的に何かを行なっていると捉えれば、その主体性という肯定的な響きとともに、そこで生じている物事を、その人が積極的に起こしているような気になれるかもしれないが、それがその人の行為とともに起こっている出来事と言えるだろうし、そこから何らかの幻想を抱き、その種の幻想によって、何か自らが前向きに生きられているような気にもなれるわけだが、そうした主体性自体が幻想に過ぎないと述べてみても、そこで起こっている事態は何も解決しないどころか、では他に何をどうしたらいいのか、皆目見当がつかなくなってくるだけで、結局そこで人が何かを行いながら生きていること自体が、そんなことをやっていること以外の何ものでもないことであり、それ以上はそのことについて考えてみても、何が出てくるわけでもないように思えてきて、そうなってしまうこと自体が、思考の自家中毒に陥っているのかもしれず、そうなってしまう前に、そこで具体的に行なっていることに関して、そこを通り過ぎないで、その行なっているレベルで、その行なっていることについて判断したり評価したり、そんなことを行いながら生きていくしかないのかもしれず、そこから自分のやっていることに関して、何か肯定的な幻想を抱くとしたら、そうなってしまうことを前向きに評価するしかなく、そうでないと生きていてつまらないだろうし、少なくともつまらないよりは、おもしろい方が、そこで何かをやっている水準にとどまれるわけで、そこを通り過ぎて哲学的な認識に到達しようとすること自体が、思考の自家中毒に陥ってしまうことになるのかもしれず、そんなふうに考えてしまうことが、外から見れば狂気の沙汰のように思われてしまうのかもしれないが、そこでもそうした狂気を肯定的に捉える必要も生じてくるだろうし、それを単に思考作用から生じる心理的な現象とみなせば、それで済んでしまうようなことにもなるだろうし、そういう水準では何をどう考えてみても、それ以上の水準へは到達できないわけで、ただ具体的な行為の水準にとどまれるか、そこを通り過ぎて何でもないような思考の自家中毒に陥ってしまうかの、どちらかになるだけであり、どちらになるとしても、そこで出来事や現象が生じている限りで、そうなること以外の何でもないことであって、それに関していくら肯定的な幻想を抱いても、自らの行なっていることを正当化すること以外ではないわけで、そうであるならそうした正当化自体が、自らがそこで何かを行なっていることの慰めになるのだろうし、それもそうなってしまうことを卑下する必要もないだろうし、それでいいなら肯定的に捉えておけばいいわけで、たぶんそうすること以外ではあり得ないないだろうし、そうしたことの水準にとどまるしかないのではないか。そんなわけで人がどうあがいてみても、そこで何かを行なっている水準で、そこで生じている物事について考えてしまうわけだが、思考がそれ以上になることを求めても、そうした幻想を抱くだけだろうし、またそうした幻想の水準にとどまれるから、そこで思考を継続できるわけだが、絶えず具体的な行為の水準にとどまらないと、いくらでもそこから離れて幻想を抱いてしまうのだろうし、幻想を抱いてそこで何かが起こっている現実から遠ざかれる限りで、そんな幻想を抱いてしまう自らを正当化できるわけで、実際にそうなってしまうと、もはやそれが何でもないことだとは思わないだろうし、そこで起こっている思考の自家中毒状態を肯定するしかないわけで、それが自らが行なっていることの自己肯定になってくるのだろうが、実際にそうなったらなったで、これでいいと思うしかないだろうし、そうしたことへとのめり込んでしまう狂気が、そこに何か未だかつてあり得ないようなフィクションなどをもたらせれば、意識の中にそれなりの達成感が生じるのかもしれない。

 作家は絶えずそうしたことの達成感を得られる水準に留まりたいのかもしれないが、そこで何を作っているとしても、そこには周りから様々な物事が絡んできて、特有の影響や作用を及ぼしてくるのだろうが、そうした現象とともに思考を働かせて、そこで何かを行うように突き動かされていることについて考えるわけで、考えている自覚があるかどうかは、その場の状況次第な面もあるだろうが、そこで何かに突き動かされていれば、そんなことまで考える余裕が生じない場合もあるだろうし、余裕がなければそこで生じている物事に依存しながら、ただそうした衝動に突き動かされていることを自覚できないまま、そこで生じている成り行きに沿って突き進んでいくしかないだろうし、たぶんそこにのめり込んでいく過程にとどまっていられる限りで、そんなことをやっている自らを肯定できるわけで、何かをやっていることが、そのままそんなことやっている自らを積極的に肯定できるようにするのであり、それを肯定できることが、そのままそれを行う原動力にもなるわけで、そんなことをやっている自らを肯定できるから、そんなことをやり続けていられるのであり、やっている途中で何でこんなことをやっているのか疑問を抱くようになってしまうと、そこで立ち止まらざるを得なくなるだろうし、またそうした気持ちの問題ではなく、実際に外部的な経済的あるいは他の諸般の事情から、そんなことができなくなれば、やり続けたいのにできなくなるから、残念がるわけだが、心理的にやっていることについて疑問を抱くようなら、すでにそんなことをやっていることに関して、飽きてきたことにもなるのかもしれず、要するにつまらなくなってきたわけだろうが、またそこにも外部から諸般の事情が絡んできて、やりたくないのにやらざるを得ないような境遇が生じたりもするわけで、それによって自らがやっていることに関して、それをやるやらないの決定権が奪われてしまうような事態も生じる可能性まであり、何をやるにしても思い通りにはならないのが、世の中で生きていくこと自体から生じてしまう成り行きであるわけだが、たぶんそこで生じている成り行きによって、自らが生かされていることにもなるわけで、大抵の場合は自らが何によって生かされていると実感できたところで、それ以外の要因までは実感できないわけで、その時にたまたま意識できることはそれなりに限られてくるわけだが、そうした限定された意識できる要因から世の中の全てを思考しようとすると、自らが意識できないことにまで考えが及ばないのは当然だろうし、そんなことは当たり前のことなのだが、考えている途中ではそれを当たり前のことだとは意識できないだろうし、別に全てを思考の対象にしているとは思わないにしても、そこで生じている物事には、大なり小なり周りの全ての物事から影響や作用が及んできているわけだから、自らが関係していると思われる物事について考えようとしているにも関わらず、それを突き詰めていけば、世の中の全ての物事や現象や出来事について考えざるを得なくなってしまうだろうし、もちろん思考にも限界があるからそんなことは物理的にもできないわけだが、だから絶えず部分的で不完全な思考にしか至らないのかもしれず、そうであるからこそ、そうした思考には勘違いや思い違いがつきものなのかもしれないが、だからと言って考えないわけにはいかないだろうし、それが不完全で勘違いや思い違いが含まれていることを承知しつつも、それについて考えるなら、それなりの結論に至ってしまうだろうし、そんな結論からその人のなりの評価や判断が導き出されるわけだから、それに客観性などを期待するのは筋違いなのかもしれず、その人なりの思い込みや思い入れを含んだ評価や判断をどう捉えるかも、それを捉えようとする人の評価や判断でしかないわけだが、そうやって生じる様々な物事についての評価や判断が、世の中から生じる民意や世論にもなるわけで、それもそれ自体ではないだろうし、何かそこに理想やあるべき姿を求めてしまうのも筋違いなのかもしれないし、そうしたありのままの現状を受け入れるにしても、受け入れないで批判するにしても、どうやってもそれ以上にはならないのではないか。もちろんだからと言って理想をあきらめるわけにもいかないのだろうが、ともかく目指すべき理想状態を思い描いている限りで、そこへ向かって意識が突き動かされてしまうわけだ。


8月9日「外部からの視点」

 その人がどんなに努力してもできないことがあるのは、その人にそれを行う機会が巡ってこなかったり、そんなことを行う成り行きになっていない場合には、何かそれとは違う別のことをやっているわけで、他のことをやっているから、そのこと以外をやる機会が巡ってこないのだろうし、それはそれで当然のことなのだが、そこからその人にそれをやる才能や能力のあるなしには結びつかないように思われるかもしれないが、それをやる機会をとらえて行うのも、結果的にはその人にその時点で備わっている才能や能力のあるなしで決まってしまうように思われてしまうわけで、そんなふうに偶然の巡り合わせを必然ととらえてしまうことについては、物事を意識がとらえる時の状況や状態からそう思われてしまうわけだから、それがその人にとっては運命の巡り合わせなのかもしれないが、その人が世の中で何かを行ないながら活動している実態というのは、その人の意識がそれをどうとらえようと、実際にそこでそれをやっている状況や状態に依存してしまうわけだが、そういうその人には制御できない面がある一方で、確実に自らの行為を制御しているように思われてしまう面もあって、その人の生活や活動の様態や様式を厳密に観察して分析してみれば、それらの間に明確な境界や区別を設定できるかもしれないが、少なくともその人の意識の中では曖昧になっているだろうし、今の自分にできることとできないことに関して、自分なりの思い込みからそれを区別しているとしても、実際にはできないと思っていたことができたり、できると思ってやってみようとしてもできなかったりするわけで、またその時にはできなかったことが、訓練や練習を重ねているうちに、ある日突然できるようになったら、それは自らの努力の賜物だと思い込むだろうし、そうした訓練や練習を行う機会がたまたま巡ってきたことについては、努力した末にできたことの方が意識に強く印象付けられてしまうから、その時にはあまり考慮しないだろうし、また同じようなことをやっている他人と比較して、自分の方がうまくうまくやれていれば、それだけ才能や能力に恵まれていると思うだろうし、その逆ならそれらに乏しいと思って落胆するわけだが、そうした比較も、そこでたまたま比較対象となるような人物や行為などに巡り会えなければ、わかりようがないだけに、それもその場やその時の偶然の巡り合わせとしか言えない面もあるわけだが、そうした機会をとらえてそれを行う能力やそれを見つけ出す感性の有無も、やはり訓練や練習では求められないように思われるなら、自らにはどうにもならない先天的な才能や、偶然的な運命の巡り合わせのように感じられてしまうだろうし、それがその人の経験から養われていると思えば、実際に何かを行なっている中で自然に養われているとしか言えない面もあるだろうし、社会の中でその人の置かれた立場や境遇からも、その人が行えることや実際に行うことが決まってくるとしたら、それを外部からある程度は制御することができるにしても、全ての面でそうしたことを管理制御できるわけではないのは当たり前のことだが、そこに政府や企業や様々な団体が設立されて、そこで組織的な機構が動作していれば、法律や制度を定めてそういうことを行うような成り行きになるだろうし、人が集団を形成してやろうとすることの大半は、協力してその場その時の状況や状態を、人為的かつ恣意的に制御して操作することになるのだろうし、そういうところで決まり事を定めて、その場で協力関係にある人たちがそれを守ることによって、そうした集団の目的に応じた制御や操作が行われるのは当然のことなのだが、その集団だけがそうした行為をやっているわけではなく、それと関係して競合してくる他の集団も同じような制御や操作を行っていれば、当然そこで関係してくる様々な集団の間で、やっていることの調整を行わないと、やっていることが被ってしまったりぶつかってしまうような成り行きになるだろうし、そういう調整作業のようなことをやるのも、それらの制御や操作には含まれてくるわけだ。

 そうした制御や操作の万能性をどこまで有効にできるかは、それを行おうとする集団の社会内での力や影響力にかかってくるのかもしれないが、一般的に考えて、政府にはそれ相応の力が備わっていることは確かだろうし、また政府に関わってくる政党や行政の官僚機構などにも、それに準ずる力があるように思われるわけだが、それぞれの集団には固有の機能や立場があって、それが力の源泉であり、それらを効果的に駆使しながら、備わっている力を集団の活動に結びつけようとするわけで、そうした力を養うには集団の組織力の強化が必要に思われるだろうし、また他の集団との連携や協力関係の強化も、その場の状況に応じて求められてくるのだろうが、そんなことをやっている中で見失われがちになるのは、そうした集団の構成員に対する配慮であり、またそれは制御や操作の対象となる社会の構成員に対する配慮ともなるわけだが、結局は集団の目的にそれらの人々を従わせようとするほど、そうした配慮が欠けてくるわけで、世の中で許容されている人々の自由を奪ってまで、集団の目的に従わせようとするから、それだけ自由の幅が狭まってしまい、組織的な動作にはつきものの命令や指示によって、圧迫されて窮屈な思いをするほど、心身への負担がそれだけ増加して、それと自覚しないうちにおかしくなってくるのだろうし、集団の組織力の強化が、目的に応じた動作を徹底させるための命令や指示の強化や増加につながっていくわけで、そうしたことを行うこと自体が制御であり操作なのだが、そうしたやり方に人がどこまで耐えられるかも、日頃の訓練や練習にかかってくるのかもしれないが、訓練や練習をやればやるほど、そのことに割く時間も増加して、他のことをやれる余裕が減少してきて、それだけ窮屈な思いをして、心労も増加してくるわけで、そのことの典型的な事例が、集団でマスゲームの練習ばかり行なっていた北朝鮮などの状況にも表れているのかもしれないが、そんなことを突き詰めていくと、結局は次第に訓練や練習をやること自体が目的化してしまうわけで、人々を制御したり操作する目的で、延々と訓練や練習を行わせることになってしまい、そうした訓練や練習によってどんなことが達成できるのかが抜けてしまい、ただ儀式としてそうした訓練や練習を繰り返させるような成り行きに落ち着いてくるのだろうし、そうやって実際に行なっていること自体が目的と融合して、それ自身へと循環する傾向となってくるわけだが、例えば政府の官僚機構が住民に対して、竹槍防空頭巾のようなあまり効果の期待できない防災訓練などを頻繁に行わせようとする目的自体が、危機を煽って強制的に住民に訓練や練習を行わせることによって、それを通じて住民を政府に従わせようと仕掛けてきているわけで、やらせている当事者にどこまでその自覚があるかは疑問だろうし、その程度や本気度にもそれなりに差があるわけだが、集団の組織的な動作にそうした意図や思惑が刷り込まれていることは確かなのかもしれず、そうであるならそうした訓練や練習を行うことによって期待される効果というのが、その訓練や練習の対象となる行為を上達させることよりは、それを通じてそれをやらせている人々を支配することに目的の重点が移ってくるのも当然の成り行きとなるだろうし、集団の動作自体が放っておけばそうした形式的な儀式の繰り返しとなって、それが自家中毒のように集団を蝕んで、組織的な形骸化を促進させるような効果も生み出すわけだろうが、それも麻薬のような効用でしかないだろうし、集団がそうした儀式化された空疎な訓練や練習の繰り返しに依存するほど、集団内やそれに関係する人々への支配力が強まることは確かだが、それとともに集団の動作の目的が、その集団に関係する人々を支配すること自体へと自己循環してしまうわけだから、それを外から見れば無味なことを延々と繰り返しているようにしか感じられないわけで、かつてそんなことを嬉々として行なっていた北朝鮮がその後どうなったかは、今や誰の目にも明らかかもしれないが、集団の自己検証がおろそかになってしまうと、どんな集団にも絶えずそういう事態が起こりうるわけで、そうなってしまっていることを外部から指摘してくれるようなお人好しな人もそうそういるわけでもないだろうし、そうした自業自得な結果に陥らないためにも、自分で常日頃から外部からの視点を意識できるようにしておくことが肝心なのかもしれない。


8月8日「物事の柔軟性」

 いくら理想的な法律や制度を作って社会を管理統治して制御しようとしても、それ以前に法律や制度を管理して運用している人たちが、自分たちの都合でそれらを捻じ曲げていたら、宝の持ち腐れとなってしまうだろうが、やはりいくら理想を目指してもそれが社会の慣習に合わないと、そちらの方が優先されて、自分たちが優先させてしまう慣習に合うように法律も制度も捻じ曲げられてしまうだろうし、それを慣習とみなすと語弊があるようなら、功利的に利益を追求するにはそうしなければならなくなると言うしかないが、具体的にはそれが不正行為や違反行為に結びついて、それが社会を管理統治する側の都合でそうなるなら、そもそも法律や制度が何のためにあるのかわからなくなるのかもしれないが、管理統治する側の都合と管理統治される側の都合が合わないと、どちらの都合が優先されるにしても、管理統治する側とされる側で利害が食い違うことになって、両者の利害が合致するような法律や制度の理想的な状態を目指すことが不可能になるだろうし、単にそこに対立が生じるだけで、法律や制度をいくら工夫しても理想的な社会を作るのは無理になってしまうのかもしれず、ただその場で主導権を握っている勢力にとって都合の良い法律や制度が作られるだけで、それをその場で従属的な立場を強いられている人たちに押し付けて従わせるだけなら、利害や都合を異にして対立する勢力の間で争いが絶え間なく続くような状況になるわけで、実際に現状の世界がそうなっているわけだから、それが理想状態であるはずがないだろうし、不正行為や違反行為を行う人や団体にとって、それらの法律や制度が都合が悪いからそんなことをやらざるを得ないわけで、またそもそもそんな法律や制度があること自体が、それらに反する人や団体を取り締まることを目的としてそんな法律や制度が作られるわけで、結局世の中の全ての人や団体の間で利害が合致することはあり得ないだろうし、要するにそこで対立が生じて争いが起こるから、そこで争っているどちらかの都合や立場を優先させるために、法律や制度が作られるわけで、そんな経緯を考えてゆくと、どこまでいっても争いの起こらない理想的な社会を実現させることなど不可能になってくるわけだろうが、それでもとりあえず法律や制度を作って、その中でやっていいこととやってはいけないことを決めなければならず、そうした決まりごとに社会の構成員や構成団体が従うことによって秩序が生まれるわけだが、そこでは必ずやってはいけないことをやってしまう人や団体が出てくるわけで、それを取り締まるために社会の秩序を維持する機構が必要になってきて、そうした機構に取り締まる権限を持たせることになるのだが、そんな機構に所属する人たちもやってはいけないことをやってしまうわけで、権限や権力を持った人や団体がそんなことをやっているのをやめさせるのが困難になってきて、そうしたことが慢性化してくると、法律や制度が機能しなくなって破綻してしまうわけだが、ある意味ではそれを破綻とはみなさないような態度も生じるわけで、要するに権限や権力を握っている側の都合で、法律や制度を捻じ曲げて運用していけばいいわけで、そうしたご都合主義に他の人や団体も従わせれば、別にそれで管理統治が破綻していることにはならないだろうし、それも一つの秩序であり、そんな秩序に他の人や団体が逆らえなければ、万事が滞りなく回っていくだろうし、現状の世界でもある程度はそうしたやり方がまかり通っている実態があるのではないか。そして管理統治する側とされる側の間で生じる利害や都合の食い違いはそこから生じるわけで、管理統治する側による恣意的かつ不公正な法律や制度の運用が、管理統治される側に不平等や不快感や不満をもたらしている実態もあるわけだ。

 果たしてそれらの不正行為や違反行為をやめさせることができるのだろうか。そうした行為を取り締まれば、取り締まった限りでやめさせることにはなるだろうが、取り締まりを逃れてやっている人たちはやり続けるだろうし、また取り締まる側に便宜を図ってもらえば、やはり不正や違反を見逃してもらえるわけだが、そういう可能性も含めて法律や制度が社会の中で運用されて、それが社会の管理統治に利用されているわけで、そうした行為がどこまで許容されているかで、世の中の腐敗の程度や具合も変わってくるのかもしれないが、建前としてはそうした行為をなくしていくことが、法律や制度に対する民衆の信用や信頼にも結びつくわけだが、それらの内容や運用の実態が不公正や不平等に感じられるようだと、それに対する不正や違反を行う以前に信用も信頼も生まれてこないわけで、それらの内容や運用の実態を、それに従う立場の誰もが公正で平等に感じられるようにしてからでないと、逆に不正や違反を行うことに正当性があるようにも感じられるわけで、そもそもの法律や制度の内容や運用がひどいから、それに対して不正や違反を行うのも無理はないように思われてしまい、そうした法律や制度が世の中でまかり通っているのが悪いことにもなってしまうわけだが、ではそれらの何が良くて何が悪いのかについて、誰もが納得できる基準を設けられるかとなると、全てにおいてそうはいかないだろうし、そこに利害の異なる人や団体が存在している限りで、どちらか一方に有利不利が必ず生じてくるような面で、法律や制度を作らなければならない事情が出てくるだろうし、特にそんな利害を巡って争いが起こっている場合には、そんな争いを鎮めるためにも法律や制度を作らないとならなくなるわけで、そうすることによって社会に秩序を生じさせようとしているのだから、そこに矛盾や不都合が生じてくるのはやむを得ないところなのかもしれないが、結局争っているどちらかの勢力に不満が生じるような法律や制度になってしまうと、そうした不満を抑え込むために権力を行使する必要に迫られてしまうわけで、それがそもそもの不公平感を生む要因となってくるだろうし、その不公平に感じるやり方が正しいと認めさせるのは難しいだろうし、またそんなやり方がまかり通っている実態に納得するはずがないだろうし、そこでそうした行為を正しいとみなす裁定が下されると、法の下での平等などまやかしに過ぎないことが明らかとなるわけで、そうした事態をできるだけなくしていくには、社会の同質化を進めていく以外にないのかもしれないが、そうなると利害を同じにできない異質な人たちを社会から排除するような成り行きにもなるだろうし、またそうしたやり方が正しいと認めさせるのも難しいだろうし、結局はそこで生じている矛盾をいかにごまかすかが、民衆の不満を抑え込むためには必要となってくるのかもしれず、そのごまかしのバリエーションとして妥協への模索があるわけで、例えば人を殺してはいけないとか物を盗んではいけないとか暴力を振るってはいけないとか、そういう誰もが納得できる面では法律や制度を適用して、その他の判断や利害が一致しない面では、必要に応じて交渉や取引を行えばいいわけで、それでもうまくいかなければ実際に争いとなるわけだが、何でもかんでも法律や制度を適用しようとするから、社会が硬直化して、それを何とか切り抜けるためのごまかしや矛盾が表面化して、何事もうまくいかなくなってくるわけで、実際に法律や制度の適用ではうまくいかない面では、無理にやろうとしないで、そんな事例ごとに交渉や取引を行うなり、争いになれば争っている間に入って調停を行うなりして、柔軟なやり方にしていけば、それなりに困難な事態を切り抜けられるだろうし、それでも駄目な事態もないわけではないが、実際の世の中でもそんなことが行われている実態があるわけで、ただ何でもかんでも法律や制度ありきの教条主義に陥っている人たちがそれに気づかないだけなのかもしれない。


8月7日「無知の知」

 たぶん何かをやっている途中で、そこで立ち止まることを余儀なくされたら、何が原因でそうなってしまったのか、訝しく思われるかもしれないが、それがやっていることを転換する良い機会になることもあるだろうし、あるいはそんなのは気のせいで、その後何事もなくやっていることが再開されてしまう成り行きにもなるのかもしれないが、自分では転換したつもりが、周りから見ればそうでもなく、相変わらず同じようなことをやっている場合もあるわけで、自分で自分のやっていることを完全に掌握できるわけもなく、意識してやっているとしても、その中で意識せずに行なっている部分が、意識を裏切っている場合もあるのかもしれず、さらに自らの置かれた境遇が、自らの活動の傾向や方向を決定してしまう場合もあるわけだから、自分が主体的に取り組もうとしていることにも、周りから様々な作用や影響が及んでいて、それらが自らが主体的に活動しようとする意向に待ったをかけたり、制約や限界を課すことにもなるのかもしれず、結局何をやろうとしても思い通りにはいかず、また思い通りにやっていると思っていても、それが思い違いである場合まであるのだろうが、そんな場合も含めて自意識というのは信用のならないものなのかもしれないし、自身の思い込みがとんでもない勘違いをもたらしている可能性があるわけだが、そうであるならあてにならない意識よりは、実際にやっていることがその人の現実であり、それが現状そのものだとみなしておくのが無難なのだろうが、そこからその人の活動をどう評価するのにも、あてにならない意識が絡んでくるわけで、そこに思い込みや勘違いが入り込んでくる余地が生じてくるのは当然かもしれないし、たぶんそこでその人が偏った固定観念に縛られていて、それがやっていることにも影響や作用を及ぼして、その人に固有のこだわりだと思われていることが、意外にもその人が囚われている社会的な慣習から生じている紋切り型のバリエーションに過ぎない場合もあるだろうし、そうなるとやっていることに独創性のかけらもないことになるのかもしれないが、そのことに当人も周りの人たちも気づかなければ、単にそれに関する知識が欠けているだけで、歴史を紐解いてみれば、過去にも同じことをやっていた人がいくらでも出てくるようなら、それに関する無知が、その人のこだわりや独創性を支えていたことにもなるわけで、その人がこだわっていることが、その人に固有な事情から生じているのではなく、社会的な慣習がその人にそういうことにこだわるように仕向けていて、それがその人の行動様式を過去から連綿と受け継がれてきた意匠に縛りつけていて、その人なりに工夫を凝らしているつもりが、過去から受け継がれてきた紋切り型を模倣しているだけであったら、やはり結果的にそれはその人の勘違いであり思い違いに過ぎないのかもしれないが、当人がそれに関して無知であると、自分では独自にこだわっていると思い込んでいるわけだから、それはその人にはどうにもできないことであり、周りの人たちもそれに関して無知であると、そんなことを指摘しようがないだろうし、別に知らないことが罪になるとも思えないだろうし、そんなことでとやかく言われる筋合いもなく、どんなに意識していても、知る必要が生じないことまでわかろうとする必要もないわけで、結局そんなところから過去に同じようなことをやっていた人々との間で、無関係の関係が生じてしまうわけだが、それを知らないということは、当人達としては他からの作用も影響もないものとみなすしかなく、世間でも当人の独自のこだわりで通っていれば、それで構わないことになってしまうだろうし、そんな世間自体がその地域や時代に限定された世間でしかないわけだから、そんな世間の常識に普遍性も何もないわけで、そこからやっていることの正当性などを判断しようにも、もとからそれに関して大前提となる正当性云々を判断する条件が備わっていないわけだ。

 それがその人に固有な態度であるように思われてしまうのは、実際にその人自身が自分で考えて主体的に活動していると思われるからで、その人自身もそう思っているだろうし、周りの人たちもそう思っている限りで、何かそこにそう思わせるような関係の形態が生じているのであり、それがある意味ではそこに生じている権力関係となるのだろうが、別の面から見ればその人がそこで主体的に力を行使していることを、自身も周りの人たちも認めていて、その人の積極的な意思でそんなことを行なっていると感じられるわけだ。そしてそういう力への意志が過去から連綿と受け継がれてきた意匠を伴っていて、具体的にはローマ皇帝や秦の始皇帝などの模倣につながっているのだろうし、それら自体もオリエントの古い文明の意匠を借りていたり、そこに近代的な大衆市民社会の実態からはかけ離れた形式的な関係の繰り返しが出現してしまうわけだが、当人たちも場合によっては中国の古い故事などを持ち出してくるわけだから、そのことに自覚を持っている時もあるのかもしれないが、それを現代の事情につなげてしまう時には、すっぽりとその部分が抜け落ちて、それに見られる時代錯誤な認識を現代の事情に強引に当てはめようとしてしまうのであり、何かそこで論理的な飛躍とともに古代への郷愁が入り混じって、たぶんロマン主義的な傾向も見せてしまうのだろうが、そのロマン主義的な傾向というのも、その名が示す通りで古代のローマ時代から受け継がれてきた意匠なのかもしれず、何かそこに古代のギリシア・ローマや中国やインドやユダヤやイスラムなどの思想家や伝説の君主などがご都合主義的に登場してしまうのだが、それはその人たちに固有の事情とは明らかに違うし、同じようなことが中世から近代以来の欧米やイスラム世界などの方々で言われてきたことだろうし、日本で言えば奈良時代にも平安時代にもそんなことが繰り返されて、もっと時代を下って江戸時代の学者たちも、明治時代の思想家たちまでそんなことを繰り返してきたわけで、そうやって明らかに現代の大衆市民社会の中で暮らしている現代人から目を背ける態度というのが、実際にそこで暮らしている何でもない人たちに対する蔑視に結びついているのかもしれないし、そんな一般の民衆からは得るものが何もないような気分にさせるのかもしれず、それよりは歴史上の偉人たちから学んだ方が価値のあることだと思われてしまうだろうし、そういう面で当人たちが自覚できない勘違いが生じているのかもしれないし、当人たちにしてみれば自身がそんな何でもないような一般大衆とはわけが違うと思いたいのだろうし、そうした思い上がりがエリート的な自分たちによる民衆や国家の管理統治という傾向も生み出しているのだろうが、彼らが思い違いを犯しているもっとも根本的な部分というのが、自分たちもそんな何でもないような一般の民衆の中に含まれてしまうという事実だろうし、彼らが見習いたい歴史上の偉人たちも、現代から見た都合によって脚色が施されていて、そうした偉人たちはその時代の事情に応じて都合の良いように脚色が施されてきた歴史的な経緯もあるわけだから、それ自体が過去から連綿と受け継がれてきた紋切り型の意匠でしかないわけだが、まずそこで考え直さなければならないことは、自分たちも自分たちが見下している何でもないような現代人でしかないわけだから、そうした実態からかけ離れた知的エリートによる国家や民衆の管理統治などできるはずがないということであり、そうしたことを行うための法律や制度などが整備されているにしても、それが世の中の全てではなく、そうした法律や制度自体も、自分たちのことをその時代の知的エリートだと思い込んでいた人たちによる創作である面も大きいのだから、それらによって世の中を完璧に管理統治できるはずもないだろうし、そうした法律や制度によって意識や思考を拘束されているのが、当の自分たち自身なのだから、そこに自ずから能力や力量の限界が生じているのは明らかなことであり、そうした事情を踏まえると、やはりまずはそうした自分たちの無知の知を自覚して、謙虚にならないことには何も始まらないのではないか。


8月6日「決断を促される機会」

 何かやっていることの軌道修正を行う必要が生じてくるとすれば、それはやってきたことの良し悪しを判断するというよりも、悪いなりにも納得できるようなやり方を模索することになるかもしれないが、無理に納得しようとしてはいけないかもしれないし、納得していないのに惰性でやり続けていることがあるわけで、納得していないということは自分の感覚と合わないということであって、しかもやり続けられているということは、そういう成り行きに自らが囚われていて、そんな成り行きに自らの活動を合わせているということであり、納得できないのだからそれを否定的に評価しつつも、それを行うことによって現状が成り立っていることも確かなのかもしれず、そうした活動の実態が自らの生活を支えているとすれば、それに納得するのが妥当と思われるかもしれないが、無理に納得すれば、それとは別の成り行きに持っていける可能性を放棄してしまうことになるのかもしれず、そうであるならやっていることの現状に関して無理に納得するのは、自らが囚われている成り行きに屈してしまうことにもなるだろうし、それが不本意なら納得しないままでも構わないのかもしれないし、納得はしないが現状の中で妥当だと思われるようなことをやっていくしかないだろうし、その辺の微妙な感覚を保持し続けることが肝心なのかもしれないが、そんな自らの感覚に自ら裏切られている可能性もなきにしもあらずで、そう思われてしまうことが、現状に納得できないことそのものなのだろうが、ともかくこうだと決めつければ、決めつけただけ他の可能性を捨ててしまうことになるだろうし、しかもそれで構わないのかもしれないわけだから、その辺で逡巡してしまうのは仕方のないことかもしれないが、いくら迷っても成り行きが待ってくれるわけでもなく、周囲の状況から決断を促されて、他の可能性を放棄して一つのことに照準を定めて、それをやることに邁進してしまう成り行きになってしまうこともあるわけで、いつまでも判断を留保したニュートラルな状態ではいられないわけだが、待てるなら待っていても構わないわけで、やりたいことがやれる機会が巡ってくるのを待っているうちに、何もできないままとなってしまうかもしれないが、それでも機会を伺うには待つことが肝心だろうし、やはり何をやるにもやらないにも、その良し悪しを判断する決定権が自身にはない場合があるわけで、常にどちらでも構わないのにどちらか一方を選ばなければならない、という両義的な対応を迫られているのかもしれず、それでは根本的に判断しようがないわけだが、そこに判断の限界があり、判断する基準が示されていないことを自覚せざるを得ないのかもしれないが、それでも結果的にはそれをやってしまうわけで、事の良し悪しを決められないまま、結果的にやり続けていることがあるとすれば、それは他の要因によってやらされている可能性が高いだろうし、それをやる成り行きに囚われていると判断しておくのが妥当なところなのではないか。しかもそのやっていることに納得していないとすれば、感覚としてそれとは別の何かをやる機会を伺っているのかもしれず、そんな機会が巡ってきたら、現状でやっていることを打ち捨てて、それをやろうとしなければならないのかもしれないし、実際にそれをやろうとしてやれてしまうような成り行きになれば、やはりその感覚の正しさを実感することになるだろうし、はっきりとした自覚はないのかもしれないが、その時には確かにそんな予感を感じていたわけで、それ以前に不本意ながらもこれでいいのだと現状に納得するように自らに言い聞かせるようなことをやってしまうと、それに応じて感覚が鈍ってきて、結果的に別のことをやる機会を逃してしまうのかもしれないが、そこでもそうなってしまうことの良し悪しを自分では判断できないのであり、たぶんどちらが良かったかは他人が判断することであり、そんな他人がいなければわからずじまいとなってしまうのかもしれないが、それもそんな成り行きに囚われていることにしかならないのではないか。

 実際に何かやっている現状がある限りで、それをやる機会がもたらされていて、実際にそれをやっている現状の中に囚われているわけだが、そうなっている現状を肯定的に評価するのも否定的に評価するのも、その時の自身の気分次第でどうとでもなるのかもしれないが、それによってやっている現状を変えることはできないだろうし、そんな気分では変えられない現状というのが、それをやらされている成り行きに囚われていることになるわけだが、実際にそれによって現状が維持されている限りで、そんなことをやっていることに対して妥当性が感じられてしまうわけで、たとえそれを他人から批判されたり非難されても、それが妥当だと思われてしまう自身の感覚を変えるわけにはいかないだろうし、そうなればそうした反応に対して反発したり反感を抱くしかないわけだが、批判したり非難する人にとってそれは不快に感じられる行為なのだろうし、そんな批判や非難が妥当か否かは、批判や非難を行なっている人の置かれた状況や、その人が抱えている事情にもよるだろうが、それがメディアによって世の中に拡散されると、そのことの良し悪しが広く一般大衆の判断に委ねられることにもなるのだろうが、それはメディアの伝え方にも影響されるだろうし、それが否定的な評価を伴って伝えられるようだと、一般大衆もそんな評価に同調してしまうだろうし、やっていることが明確に法律に違反しているようなら、ある程度はそれでも構わないかもしれないが、政治的な意図や思惑によって、どちらとも受け取れるようなことが批判されたり非難されてしまうことにもなるかもしれないし、また不快な煽動行為によって事実に偏向したバイアスが加えられたり、権力関係を伴った圧力によって法律違反がメディアによって黙殺されるようなことにでもなれば、そうした作用に民衆の支持や賛同や無関心が加わると、社会全体がおかしな具合になってくるだろうし、民主的な制度のもとでは、そうしたことのすべての責任が最終的には民衆にあることになってしまうわけだから、民衆の側でも責任など取りようがなくなってくるわけだが、政治的な領域ではそうなる前に選挙によって、おかしな事態を招いている政権の転換を図る必要に迫られるのかもしれないが、それも民衆の側に政治に参加しようとする意識が稀薄であると、そんなわけにはいかないだろうし、そうした事態が制度の形骸化を招くのだろうが、たぶんそのことの良し悪しも民衆の側では判断がつかないところかもしれず、制度自体のありように社会的な信用が生じないと、何をやっても相手にされないだろうし、別にそれで世の中が成り立っているように感じられれば、それで構わないような成り行きにもなるだろうし、そんな成り行きに社会全体が囚われていれば、それで済んでしまうような事態にもなりかねないのかもしれないが、それで困るのは民衆の側だと明確に言えないところが、制度や法律の限界なのかもしれず、社会は制度や法律によって成り立っているわけではなく、実際にその中で暮らして活動している民衆の状態が社会そのものなのかもしれないし、いくらそこに制度や法律を張り巡らして良い方向に制御しようとしても、そうしたやり方にはおのずから限界があるだろうし、それが制度や法律に対する社会的な信用や信頼感にも結びついてくるわけだろうが、すでに制度や法律が社会に張り巡らされていて、それに基づいて様々な物事が動いている現状もあるわけだから、そうしたことが行われている程度に応じて、それなりに信用や信頼が生じていることも確かであり、そうした現状に民衆の側がどこまで自覚できるかが、そうした制度や法律の活用にも影響が出てくるだろうし、なるべく民衆から信用され信頼されるような制度や法律にしていくことが、政治的な活動の中では重要になってくるのではないか。


8月5日「探偵物語」

 世の中で起こっている具体的な出来事や現象が、人や集団にどんな作用や影響を及ぼして、それに対応した活動を引き起こしているとしても、一方で人や集団の活動自体が何らかの出来事であり、それによっても様々な出来事や現象を引き起こしているはずだが、それらの出来事や現象と人や集団の活動との間に何らかの因果関係がある場合には、そこに出来事や現象の連鎖があるように思われるが、そこで結びついているように思われる原因と結果の因果関係の連鎖自体が、一つの原因から一つの結果が生じているわけではなく、複数の原因と結果が複雑に絡み合っているように思われるなら、何が原因で何が結果なのか判別できないことにもなるだろうし、何らかの原因から何らかの結果が引き起こされるような、一直線に一連の出来事が連なるような現象でなければ、それらがどう結びついているのかはっきりしなくなるのかもしれず、そこに互いにもつれ合ってこんがらがった様々な出来事や現象の集合体があるような場合には、それらについて何をどう説明してみても、語っている対象が一つに定まらなくなってしまうだろうし、たぶんそれらが互いにどう結びついているのかわからないが、とにかくそこで様々な出来事や現象が起こっていて、それらの出来事や現象に同じような傾向や方向性があるものの、ただ漠然とそう思われるだけで、そこに連続した直接の結びつきまでは認められない場合には、ただ様々な出来事や現象が離散的に起こっているとしか言えなくなるのかもしれず、それぞれが互いに作用し合い影響し合っているとしても、何かそこで無関係の関係が生じているのかもしれないし、そこでそれぞれの出来事や現象に関係している人や集団が、お互いがお互いを直接には知らないにも関わらず、また互いに関係する出来事や現象が、時間的にも場所的にも関係し合うには離れすぎているにしても、それでも同じような傾向や方向性を示しているのなら、やはりそこに何らかの結びつきがあるように思われるだろうし、それがそうした出来事や現象が引き起こされるに際しての、普遍的な傾向であり方向性であるのかもしれないし、そうした出来事や現象が引き起こされる社会が、そこに構成されていることになるのではないか。そしてそれが何を意味するのかはよくわからないにしても、現実に世の中がそんな傾向や方向性になってしまうのだから、そうなるのは仕方のないことであり、時間も場所も隔たっているのにそうなってしまうのだから、人にはどうしようもできない傾向や方向性がそこに生じているのかもしれないし、それはそれでそうなってしまうとしか受け止めようがないことであり、たぶんそれをなくしたり改善することはできないのかもしれず、そうなってしまうことを踏まえて、そうなってしまうことが嫌なら、そこから何か違う傾向や方向性に導くようなことをやる必要が出てくるのかもしれないし、そういったことを模索していかなければならないのかもしれない。具体的にそれが何かと言えば、そんなことがわかるわけもないのかもしれないが、ともかく模索していく傾向や方向性としては、やはりそうなってしまうのが嫌であるということを踏まえて、そんな前提を覆すようなことをやりたいわけだが、実際に覆せずにそうなってしまい、それが不快に思われるのだから、まずはその不快な出来事や現象に耐えなければならないのだろうし、それに耐えながらそこで生じている傾向や方向性を、別の傾向や方向へとずらすような作用が必要となるのではないか。それを意識してやれるかどうかはわからないが、現状を別の方向へとずらすような作業を行えるかどうかは、実際にやってみないことにはわからないだろうが、まずはそんなことをやっている感覚を模索していくしかないだろうし、意識してそれができないにしても、少なくとも現状のままでも仕方がないとは思わない方がいいだろうし、最低でもそれをずらすような動作に結びつけていく必要があるのかもしれない。

 実際にずらすような動作がどうやって生じるかは、その時々でそれなりにそうなるきっかけも成り行きも違ってくるだろうが、そこで不快に思われる原因を一つに特定しない方がいいのかもしれず、様々な出来事や現象が複雑に絡み合ってそうなっているのだから、一つに原因を特定してそれに対して攻撃を仕掛けるような成り行きにはならないだろうし、全ての原因をそれのせいにして、攻撃を仕掛けているのは、実際に不快な煽動を行なっている人たちの方であり、そうした攻撃の効果が出ているとすれば、攻撃されている側にも、それと同じような傾向が表れている時だろうし、そこで争っている双方がそんなことをやり合っていること自体が、そうした煽動が功を奏していることにもなるわけで、それに対処するには、不快な原因を一つに収斂させないことが肝心なのかもしれず、またそうした攻撃を行なっている煽動者の相手をしないことも必要だろうし、それも全く無視して黙殺するというよりは、何かのついでに付け足し程度に言及することも必要だろうし、しかもそれが必ずしも煽動者その人の主体的な活動によってそうなっているのではなく、その人が依存している状況がその人にそういう活動を行わせていることを指摘すべきだろうし、実際に同じような傾向や方向性の煽動者が、時代や場所も隔てて、いくらでも出現している事実を明らかにした方がいいだろうし、そこに構成されている社会自体がそうした煽動者たちを大量生産している現実を示すことによって、そうなってしまう原因が一つではなく、そういった傾向や方向性は伝染病のように人々の間に感染していく可能性があるわけで、その感染経路として、メディアがそれを媒介していて、しかもそうした感染者が大量繁殖するように機能するのも、宣伝媒体としてのメディアであることは確かなのかもしれないが、たぶんそれが唯一の原因とは言えないだろうし、実際に煽動者たちの攻撃対象として一つのメディア媒体が存在していたりもするわけで、その攻撃対象を一つに絞り込んで、全ての原因をそれのせいにするという攻撃手法自体が、そうした煽動者たちが寄生しているメディアや、さらにそれらのメディアが寄生している社会そのものにもそうした傾向や方向性があって、またさらにそうした煽動者たちやメディアを批判する人たちにも、そうした傾向や方向性が伝染していて、そんなふうにして社会の様々な方面へと感染を拡大させていく傾向が、そうした攻撃手法を安易に使う態度や習慣からも生じるのかもしれず、結局何か特定の対象を攻撃するには、その攻撃対象を一つに特定しなければならないという循環的な強調が生じるわけで、そうした根拠の定かでない根拠を特定する決めつけという強調が煽動そのものなのだが、何か一つの対象に攻撃を絞ることが、全ての原因をその対象に押し付けるという短絡的な思考を誘発せざるを得ないわけで、そこに論理的な飛躍があるとみなせばわかりやすいだろうし、またそうしないと批判そのものが成立しないとすれば、それはそうした批判という言語行為の文法的な限界を示していることにもなるわけだが、そうした煽動的な手法が見逃しているのが、攻撃対象や批判対象以外の他の要因や原因となるわけだが、そこに様々な要因や原因が複雑に絡み合って生じている出来事や現象を説明できないもどかしさがあり、そこでそうしたもどかしさを省いて、一つの原因と一つの結果をもたらすような単純な論理を導入してしまうと、そんな出来事や現象をもたらしている犯人を特定するような話になってしまうだろうし、その犯人を捕らえれば一件落着するような探偵推理話に飛びついてしまう安易な大衆の存在も浮かび上がってくるわけだが、それも煽動によって多くの人々の関心をそこに引きつけるという事情や目的がそうさせているわけで、結局目的のためなら手段を選ばない功利的な手法がそこに導入されている実態もあるのだが、そうやって安易で安直なやり方が世の中で流行って、それが様々な方面へと攻撃を拡大させていることが、人々に不快感をもたらして、それ自体がそれを象徴するような現象ともなっているわけで、そういう意味でも安易に世の中を不快にしている犯人探しをやらずに、そうした現象のただ中で思考を働かせてみる必要があるのではないか。


8月4日「協調体制の維持」

 人と人とが協力し合うことによってしか社会は成り立っていかないわけだが、そんな当たり前の前提から思考しても、当たり前の結論にしかたどり着けないだろうが、協力し合いながらも反発し合う面もあるだろうし、意見が合わずに対立するのも、成り行きとしては当たり前のことであり、そうなるのも避けられない前提で話を進めていくしかないわけだが、それをごまかしてうわべだけの協調体制を築こうとしても、長続きするはずもないとは思うだろうが、建前としてそういうことをやりたがるのが、集団で組織的に物事を進めていこうとする時には、よくありがちな成り行きにもなるわけで、そういう建前としてのいやらしい面を批判することは簡単かもしれないが、できればそんなふうに空気を読まずに率直に批判する人たちも、組織的な動作の中に取り込みたいだろうし、そういうところが矛盾しているわけだが、集団の意向に従う人ばかりを集めて活動しても、うまくいかない面がどうしても出てくるだろうし、かといって組織を束ねるような立場の人が、集団の活動を批判している人たちの意見に耳を傾けるようでは、今度は集団の意向に従う人たちに示しがつかず反発を招くわけで、ならばどうしたらいいかとなるのだろうが、それに対する根本的な解決策などあり得ないのかもしれないし、実際に解決してしまってはまずいのかもしれないが、それが集団内で問題となれば解決しようとはするわけで、実際にそうした問題が解決できないままでも、それでもいかにして活動を続けていくかが、組織的な動作としては難しいところなのかもしれず、そうした困難を乗り越えながら活動していくしかないだろうし、実態としては乗り越えられないままとなってしまうのかもしれないが、そこでも何かしら中庸的な提案がなされて、何かしら妥協や調整を行いながら活動が続けられるから、それなりに活動が継続していくのだろうし、そうした活動には様々なごまかしや矛盾した面があるにも関わらず、活動を継続させることから実質的な利益が出ているから、やめるわけにはいかない事情が生じて、ごまかしや矛盾した面を集団の内外から批判されながらも、そんな批判を平然と黙殺したり、諸般の事情から黙殺できなくなれば、場合によっては批判されていることを率直に反省しているように装ったりしながらも、批判をかわそうとするわけで、それでも活動を継続させていること自体から、ごまかしや矛盾が生じてくるとすれば、そうしたことは避けられない事態となるだろうし、避けられないからこそ、そうしたことがきっかけとなって、嫌になって集団から離反したり脱退するような人も出てくる一方で、それと入れ替わりに、利益を得る必要から、嫌な面があることも承知して集団に入ってくる人もいるわけで、そうやってある程度は人の出入りが起こりながらも、組織的にはそれが新陳代謝のような働きとなるのだろうし、そんなことが起こりながらも、そこで生じているごまかしや矛盾の内容や程度や質も、それなりに変わってくるだろうし、それらがうまく作用すると良い面と悪い面とが相殺し合って、不快感を催す度合いが減じられたり、逆に相乗効果となってくると、耐えられなくなるほど不快感が増してきたり、それが人の出入りや組織的な新陳代謝を促進させたり停滞させたりもするのだろうが、そんな中でも利益を得る目的で絶えずやっていることの効率や効果を追求している限りで、集団内の構成員を納得させる要因が生じるから、困難なごまかしや矛盾の改善よりも、そちらの方が重視されるようになって、そういう面での改革や改善がやっていることを推し進める牽引力を生じさせるわけで、それが産業の面での技術革新をもたらしたり、組織的なシステムや仕組みの効率や機能の改善に結びつくのだろうし、そんなことができていれば集団としての活動が継続していくのではないか。

 そんな中でも言えることは、ごまかしや矛盾に目を瞑って、集団内の協調体制に従う多数派や保守派からは、真っ当な提案や意見など出てこないだろうし、集団に改革をもたらすのはいつも決まって、常日頃からそうした多数派や保守派から抑圧されている批判的な少数派であり、そうした勢力が何らかの事情で一時的に主導権を握った時に限られるのかもしれず、もちろんそんな改革が長続きするはずもなく、早晩多数派や保守派からの巻き返しによって潰される運命にあるわけだが、多数派や保守派のいやらしいところは、集団内の秩序を乱す批判的な改革派のやり方を批判して、否定しながら全力で潰そうとしながらも、裏ではこっそりとそうしたやり方を取り入れようとするわけで、それによって多数派や保守派のメンツが保たれながらも、結果的に建前としての協調体制が維持されたままでも、それなりに改革が進行するわけで、それによって批判的な少数派が犠牲となり、多数派や保守派からの弾圧によって壊滅的な打撃を被るわけだが、結果的に集団の活動を発展継続させるような改革には成功して、うまく事なきを得るようなら、当初は多数派や保守派からの黙殺に遭って、誰もその名を口にするようなことにはならないかもしれないが、後世に名を残すのは、そこで弾圧されて犠牲となった批判的な改革派の面々なのかもしれず、真っ当な提案や意見を出したのに弾圧された事情が、教訓話として象徴的に語られるようなことにもなるのかもしれないが、もちろんそんな教訓が活かされるはずもなく、現状に批判的な少数派がいつも決まって多数派や保守派から弾圧されるのが、世の常である実態に変わりないわけだが、やはりそうした多数派や保守派による主張の内容が、たとえ劣悪でまがい物感が半端ないとしても、とりあえず正規のルートから提案されて多数決によって決定されることになるのも、よくあるありがちな成り行きであるにもかかわらず、やはりそんな提案が現状の改革に結びつくわけでもないのは当然であるにしても、それによって何がどうなるわけでもない場合の方が多いだろうし、現状の破綻を予言する批判派の予言が空振りに終わるのも世の常かもしれないが、そうやって現状が批判されながらも維持されている限りで、そうした愚にもつかない主張や提案がいくらでも出されて、その度に多数決によって決定されるのだが、そうした手続きが儀式的に繰り返されることが、多数派や保守派にとっては重要なことなのであり、そうした手続きが儀式的に繰り返されている限りで、実際に現状が維持されているのであり、逆にそれが途絶えて、真っ当な提案や意見によって現状が改革されてしまうこと自体が、多数派や保守派にとっては危機的な状況だとも言えるわけで、自分たちが多数派を維持できなくなって、主導権を別の勢力に明け渡さなければならなくなることが、彼らにとっては是が非でも避けたい事態となるわけで、そうならないためにも、愚劣な提案を多数決で決めることを批判したり反対する人たちを弾圧するわけで、そうした弾圧が功を奏している限りで、自分たちの主導権が維持されていて、その場が掌握されていることにもなるわけだが、実際にそんなことがまかり通ってしまうような世の中で生きていると、普通は否が応にも不快感が増してくるように思われるかもしれないが、実際に多数派や保守派の中に身を置いていればそうでもないだろうし、逆に現状に批判的な人たちを目の敵にして、あらゆる卑劣な手段や屁理屈を総動員してでも弾圧することに、快感を見出すようなことにもなりかねず、実際にそうなってしまう人たちもいくらでも出てくるわけで、いつの時代でもそうした無名の群衆や、そうした人たちから支持される扇動者がいくらでも登場してくるのが、常に現状を含みつつも現在進行形で維持されている大衆市民社会の特徴なのではないか。


8月3日「共通感覚」

 社会の中で他の人や集団と協調関係にある人の感覚は、その人に固有の感覚ではない場合があるのかもしれず、実際に多くの人によって共有された共通感覚に囚われていると、そうした感覚に囚われた誰もが、同じような感覚で物事を捉えている可能性があるわけで、それが共感を呼ぶ感覚であり、それが同じ感覚であることを、他の人との言葉によるコミュニケーションによって確認し合うことになるわけだが、そうした言葉やイメージによる伝染や感染を介して他人に同意を求めようとする感覚は、意思疎通を図ることによって事後的に作られた感覚なのかもしれず、元からそうした感覚があるわけではなく、それが同じであることを確認し合うことによって、ある意味で感覚のすり合わせを行うわけだが、それを行う以前の実際に感じている感覚は同じではない可能性があるわけで、もしかしたら同じではないかもしれない感覚を、他人との協調関係を優先させようとして、同じ方向や傾向を共有しているように装うのであり、それを言葉によって意思疎通を図ることで実現しようとするわけで、そうした人々の間で意思疎通を促進させる役割を担うのがメディアであり、人々が関心を持つべき共通の話題を提供して、それに対して同じ感覚で反応するように仕掛けてくるわけで、メディアが言葉や映像などを用いて提示する感覚に、人々が同意するように求めているわけだが、もちろんメディアは常に複数あって、それぞれのメディアの間でそれほど強固な連携が成り立っているわけではなく、そこでは様々な思惑が交錯していて、それに伴って差異やずれが生じていて、必ずしも同じ話題に反応するように仕向けられているわけではない面もあるわけだが、そこで必ず行われているのが人気を集める行為だろうし、より人気を集めることに成功した話題が、それに対して人々が見せる共通の態度や反応を引き起こすことにも成功していて、より多くの人の関心を集めて、それに対する反応を同じような方向や傾向に誘導することに成功すれば、そういう方向や傾向を持った反応が、より多くの人の共感を実現しているだろうし、そうした反応が多くの人が抱いている共通感覚を伴っているはずなのだろうが、メディアはそれも伝えているわけだから、メディアによる演出によって、それを受け取る人々がそう思っているように装われているわけで、そもそもメディアが伝えている出来事というのは、世の中で起こっている出来事であり、その出来事の中には、メディアが伝えている話題に反応する人々が醸し出す共通感覚も含まれるだろうし、そういう部分でメディアによる自作自演の効果が働いているわけで、その中でメディアの側が、世の中の話題に人々がどう反応するべきか、その模範例を提示して、多くの人々がそれに従うように仕向けているわけだが、それについてどこまでそれを伝えているメディアの側に自覚があるかは、それを伝える側に身を置いている人々の間でも、それほど確固としたコンセンサスは生じていないのかもしれないし、世の中の話題として様々な物事を伝えることの中で、そうした話題を受け取った民衆の反応まで伝えていて、そうした反応の最大公約的なものに人々が従うように仕向けているとは、それほど自覚しているわけではなくても、そうした行為が結果的にそうした効果を醸し出してしまうことについては、人気を集めるという動作の中でそれが実現しているわけで、メディア自体に人気を集めることが目的と化している面があって、そうした動作を促進してゆけば、自ずからそうした方向や傾向を追求するようになってくるわけで、それの良し悪しを判断することはできないものの、民衆の側でもメディアにそうした動作を促進する傾向があることは踏まえておいた方がいいだろうし、そこで醸し出されている共通感覚に従わせられていることは自覚しておくべきなのかもしれない。

 自らが主体的に抱いていると思っている感覚を疑ってみることが、自らにそうした感覚を抱かせているメディアの存在を知ることになるのだろうが、またそこに社会があることを感じ取れていることが、そうした誰もが抱いていると思っている共通感覚によって、人々の連携関係が成り立っていることを意識できるわけで、そうしたことをどこまで自覚しているとしても、誰もが意識する以前に活動している実態があるわけだから、またそうした活動の実態が社会を構成しているわけだから、それらが前提となって様々なことが行われていて、メディアに人々の共通感覚を促進する作用があるとわかっても、それを民衆の側でどうこうできるわけでもなく、ただそういう共通感覚に従わされていることを自覚することしかできないわけだが、そういうことに無自覚でいるよりは、自覚していた方がそこで立ち止まって考える余裕が生じるだろうし、自覚することによってそこで判断ができるわけで、それの良し悪しの判断ができないまま、そうした共通感覚に流されていってしまうと、少なくともそこから自らの主体的な活動が生じることはないだろうが、だからと言って誰もが主体的に物事を考えたり、それを活動に役立てるような成り行きにはならないだろうし、ある程度はメディアに依存した感覚を保持していないと、世の中の流行り廃りなどの情勢の変化についてゆけないだろうし、それに乗り遅れてしまうと時代から取り残されてしまうだろうし、そういうところでメディアからもたらされる判断基準がそれなりに役立っているわけだろうが、そうであるにしても、そこで様々な差異や偏差が生じていることは意識しておいた方がいいのかもしれず、中には明らかにメディアの側で世論を誘導しようとする意図が感じられる操作が行われている場合もあるわけで、しかもそうした操作に従順になびいてしまう人たちの世論というも、積極的に伝えようとする成り行きも生じていて、そうしたことが行われていることに気づけば、そこでなぜそんなことが行われているのか、その理由や目的を知ろうとして、それについて考えることができるだろうし、そこからそんなことをやっているメディア側の意図や、そうしたメディアが支援している政治勢力の思惑を想像してみることもできるだろうし、そうなることが物事を主体的に考えて判断したり評価することにつながるわけで、日頃からそういう方向で考える癖や習慣を身につけておけば、安易に宣伝や煽動や世論誘導に同調することもなくなるだろうし、別にそういうことに気づいた上で、そんな趣旨や主義主張に賛同したり同調するのは構わないし、それは仕方のないことであり、別に無理に何でもかんでもメディア側の誘導に逆らう必要はないわけで、それはその人の思想信条の自由でしかないわけだが、少なくとも気づかないよりは気づいていた方がマシだろうし、意識して自覚しようとすることが、自らの主体的な活動に結びつくのだろうが、そうやって各方面から世の中に及ぼされる作用や影響と対等に対峙していくことが、平等かつ公平かつ民主的な社会を維持するのに役立つだろうし、それは黙っていても法律や制度などによってもたらされるものではなく、そうした法律や制度の有効性や、そこからもたらされる影響や効果を、民衆の側で絶えず検証することによって、それらの法律や制度の在り方が社会にとって妥当なものであるか否かを、民衆の側が決めることにもつながるだろうし、そういう動作が生じていないと、ただそうした法律や制度を提供する側に心身ともに依存するばかりで、結局そうした勢力のいいなりになってしまうわけだ。


8月2日「人道的な思い上がり」

 人が活動すればそこで何らかの出来事が生じて、その出来事に関わってくる人や集団との間で、何らかの関係が生じてくるのだろうが、それは人だけではなく、社会との関係も生じてくるだろうし、さらに何らかの社会的なシステムを伴った機構との関係も生じてきて、そうした機構の中で代表的な存在が、政府であり企業であるわけで、一般的には政府が絡んでくるのが政治的な関係であり、企業が絡んでくるのが経済的な関係であるわけだが、政治と経済は相互に関係し合っていて、どちらも社会を維持する上で重要な活動を伴っていて、なくてはならない活動となってくるわけだろうが、だからと言って政府や企業に依存しなければ、社会が成り立たなくなるわけではなく、歴史的な経緯の結果として、社会の中で政治的な主導権を握ったのが政府であり、経済的な主導権を握ったのが企業であるわけで、それが現代を含む時代の中では、なくてはならない存在となっていて、人も集団もそうした機構に依存している実態があって、事の良し悪しに関わらず、現代という時代に生きていて、そこで何らかの活動を行なっている限りで、政府や企業と何らかの関係が生じているわけだ。そしてそうした関係に応じて、それに関わっている人に何らかの社会的な役割も生じてくるわけだが、それは政府や企業にとっての役割であり、その人に固有の役割ではなく、他の誰がその役割を担っても構わないような状況が生じていて、現実にその役割を担うのがその人である必然性がなければ、そうした関係の中でその人の存在があまりない重要ではないことにもなるわけで、そうなってくるとその人はそれらの機構の中では重要度が低くなっていて、他の誰とでも取り替えが利くようなら、逆に何らかの理由でその人が役割を担っていることで弊害が生じるようなら、別の人とさっさと交代させられることにもなるだろうし、その人が掛け替えのない存在ではなくなってしまうわけだが、機構の中ではそうなってしまうとしても、例えばその人の血縁関係で構成される家族の中では、家族がその人の収入に依存しているような場合には、その人が失業してしまうとまずいことになるだろうし、またそうした経済的な事情でなくても、私的な愛情で結ばれるような関係であっても、掛け替えのない存在だと思われるだろうし、何らかの事情でその人が社会的な関係の中で掛け替えのない存在である限りで、その人の重要度が増すわけで、逆に必要とされないどころか、邪魔な存在であると、場合によっては抹殺の対象ともなってしまうだろうし、建前上は人道的な見地から、社会の中ではあらゆる人が掛け替えのない存在だとみなされるわけだろうが、実質的には社会的な関係の中で必要とされないと、少なくとも重要度の低い存在とみなされてしまうだろうし、さらにひとたび邪魔者扱いされてしまうと、存在することさえ否定されてしまうような成り行きも生じてくるわけで、そうした事情から、なるべくなら全ての人に社会的な役割が担わされている状況であればいいわけだが、そうでないと不要な人間として処分されてしまうような可能性が出てくるわけで、実際にはそれも程度の問題であり、平和な世の中であれば、表立って不要な人間を殺してしまうようなことにはならないだろうし、殺人が違法行為であるわけだから、普通はそうならないわけだが、実際に人が経済活動から切り離されてしまうと、餓死してしまうわけで、食料を採取したりただでもらったり自分で生産できなければ、他から買って求めるしかないわけで、買うことができなくなって餓死してしまう人が現実に出てくるわけだ。

 そうであるなら逆にその人が生きているだけで、何らかの事情でその人が必要とされている可能性があり、何よりも自分自身との関係で自分を必要としている限りで、生きようとするだろうし、それに関して屁理屈を言うなら、自殺するにもその人が生きていることが必要であり、ともかく死ぬまでは生きているから自殺できるわけだ。また邪魔だから殺すにしても、邪魔な人を殺すためには邪魔な人が必要とされるわけで、差別したり弾圧するにも、同様にそんなことをやるのに必要だから、そうした対象が求められるのだろうし、どんなことをやるにしても、それが人の活動であることに変わりはないわけで、そうした活動を行うために必要な人材が求められていることにもなり、食料が買えなくなって餓死するにしても、餓死するまでは何らかの活動を行なっているわけだから、それはそうなるに至るまでに必要な活動であったわけで、何かそうした面で、通常では意識できないようなことが行われている実態があるわけだが、少なくともそれらは人道的な見地とは関係ないだろうし、通常では考えなくてもいいようなレベルで何かが行われていて、それらは積極的には活動だとはみなされないような活動なのかもしれないが、そんなことまで活動の範疇に入れるなら、活動自体が意味のない活動であり、必要であるか不要であるかの区別すらが意味のない区別にもなってくるわけだが、結局はそこで何らかの意味を求めてしまうこと自体が、そうした意味自体を超えたところで無意味な意味を生じさせている実態まであるわけで、人の存在を規定している意味が、あまり積極的な意味として認識できないような事態を生じさせてしまい、人の存在に意味を持たせようとすることが、屁理屈のレベルではどうでもいいことにもなりかねず、そうなると特定の人が掛け替えのない存在と思われてしまうことに関して疑念が湧いてくるのかもしれず、人が人にとって必要であると思われたり思われなかったりすることが、勘違いや思い違いである可能性が出てくるわけで、そう思わせるような社会的な関係というのが、実はそれほど切実な関係ではないのかもしれず、特定の人物を必要と感じたり掛け替えのない存在であると思ってしまうことが、そもそもそれほど重要なことではなく、それが誰であっても構わなかったことでしかないのに、たまたま偶然の巡り合わせによって出会ってしまったばかりに、何かそれが運命の出会いのように感じられてしまうわけで、そうなってしまうことに何か切実な事情が生じているように思われてしまうわけだが、実はそうでもなく、誰でも良かったのにその人でなければならないと思われてしまうことの方が、その人の勝手な思い込みでしかなく、そちらの方が本当はどうでもいいことでしかないとすれば、そこで生じているように思われる社会的な関係というのが、その人の勝手な思い込みから生じている幻想に過ぎなければ、掛け替えのない存在自体が、どうでもいいような存在でしかなくなってしまい、そうしたこだわり自体には何の価値もないのかもしれず、そこに価値があるということ自体がその人の思い込みでしかないことになってしまうわけで、それに関してよく考えてみれば、自分以外の他人の存在を不快に感じるのは、その存在を自分が思い通りにできないから不快に感じるのであり、そんなことはよくあることであり、逆にその人が必要だと思われるのは、勝手にその人を利用できると見込んでいるに過ぎず、それが実際に利用しようとして思い通りに利用できなければ、不快感を募らせるのは当然の成り行きで、そう考えると逆に掛け替えのない存在だと思ってしまうこと自体が、その人の思い上がり以外の何ものでもないのかもしれず、そう思ってしまう時点で、その人を自らの思い通りには動かせないという謙虚な実感を忘れてしまっているわけだ。


8月1日「制度的な仕組み」

 世の中で起こっている様々な成り行きの中で、メディア上で批判されていることには、批判されるようなことをやってしまう成り行きがあるわけで、別に批判されるようなことをやってしまったとしても、そうしたことをやってしまう可能性は常にあるのかもしれず、しかもメディア上で批判されるようなことなら、それなりに世間から注目を浴びるようなことであり、それをやってしまう人もやってしまう内容も、それなりにそうなる必然性まであるのかもしれないし、またそうしたことを批判するというのも、メディア上でそれなりに認められているような批判なのだろうし、批判する人も世間からある程度はその存在を認められている人が批判するのだから、それなりに世間から注目を浴びるような批判であり、結局メディア上で何らかの行為が批判されたり批判したりするということは、そういうことが行われる成り行きとして、そこに至る道筋がある程度は出来上がっていて、そこで何か全面的に目新しいことが行われているわけではないのかもしれず、前もって評価が確定しているようなことが、誰もがそれとわかるように繰り返し行われる成り行きがあるから、それ自体が世間から注目されるような成り行きとなるわけで、もちろん以前と全く同じことが繰り返されるというよりは、そのバリエーションとして似たようなことが行われて、そこにその度に行為としての何らかの目新しい面が付け加えられるから、そうした面がそれなりに新鮮な驚きをもたらすわけで、以前にも似たような成り行きがあると、そんなことがもたらされるように、何らかの社会的なシステムや仕組みが機能していて、しかもそれが批判されるような成り行きも、それなりに機能するシステムや仕組みとして整備されていれば、そういうことは全て制度的な行為となるわけで、要するにそれは法律違反のような行為となり、そうした法律に基づいた制度の中では絶えずそういう違反行為が行われていて、特にそうした制度から逸脱するような行為として、それが違反行為とみなされて、それに対する批判が行われるわけで、そうなるとそこでそうした違反行為を行う人や団体と、それを批判する人や団体による予定調和の二項対立が、制度的に設定されるような実態までが整備されているのかもしれず、そうした制度的に設定されている実態というのが、誰にもはっきりとわかる何らかの機構によって管理されているとすれば、それがそうした対立を強調したり煽り立てている当のメディアであり、それが企業形態を伴った報道機関であれば、そこでそうした二項対立的な関係を認定する制度的な管理が行われていることにもなるわけで、その管理の実態がどうなっているのかといえば、それを伝えるに当たって何らかの事実認定やそれを判断する内部規定が設けられていて、その規定が定める条件を満たす物事が選りすぐられて伝えられるわけだろうが、世の中で起こっている出来事の中から何を選ぶかについて、あからさまに成文化されているわけではないだろうし、それを判断する役職を担う人がその場で判断するわけだろうが、選ぶ基準として共通認識のようなものが、そうした制度的な役割を担う人の間で共有されている可能性が高いだろうし、それを伝える側やそれを批判する側に認識の共有があれば、同じような傾向のことが選択されて、それに対する批判も同じように行われて、それを同じように伝えることによって、それを受け取る側にも、それに対する判断や評価の基準が共有されて、そうした価値判断が世の中に定着しているから、同じようなことが世の中に広まって、それに対する判断や評価も一定の基準で受け止められている実態があるのではないか。

 そうした評価や判断の基準というのを制度的に定めることが、世の中で競われ争われていることなのかもしれず、メディアという機関を介して、自らの定める基準を宣伝し煽動することによって、それを受け取る民衆の意識にもっともらしい感覚を植え付けようとしているわけで、そうした行為が実際に行われているのを選りすぐって伝えて、それに対して批判を加えることで、それが批判されて当然の行為であることを、民衆がもっともらしく受け取るように仕向けているのだろうし、そうした評価や判断の基準を民衆が信用して、そうした基準を守ろうとするメディアが民衆から信頼されるように、日頃から宣伝や煽動などの活動を行うのが、メディアに課せられた社会的な使命と言ってしまうと、何か大げさに思われるかもしれないが、そうした基準に基づいた評価や判断が、実際に社会の中で有効に機能することが、民衆の間で信用や信頼を生むのだろうし、そうすることが社会にとって好ましく思われるなら、確かにそこに信用や信頼が生じるのだろうが、その好ましく思われる理由というのが、微妙なニュアンスを含んでいるのかもしれず、普通に考えて人々を不快にさせる行為が批判されるのは当然だろうし、そうした行為が行われないようにすれば、好ましい状況が生まれるわけだが、時には耳が痛い忠告や諫言が行われないと好ましい状況とはならないだろうし、そうした忠告や諫言を行うことが不快に思われることも確かだろうし、それを批判するのは筋違いに思われるなら、それも好ましい状況だろうし、そう考えると人々を不快にさせる行為も、場合によっては行われないと困ることになり、そうしたことを意図的にごっちゃに混同して、宣伝や煽動によって耳が痛い忠告や諫言を抑圧しようとする傾向になってしまうと、それは好ましからざる状況となってしまうわけだが、宣伝や煽動という行為自体がそういうことを行うためにあるようなものだろうし、その辺がメディアという存在自体に矛盾した傾向が備わっているわけで、そうした傾向とは違った傾向をメディアとは別の方面から求めないと、感性のバランスが崩れてしまうのかもしれず、それが日常生活の中で行われる人と人との直接の交流になるのではないか。そしてそうした交流の中で、時には耳が痛い忠告や諫言によって救われる成り行きを経験すれば、それが自身のためになることを肌で感じることにもなるだろうし、メディアからの間接的な作用や影響などでは感じ取れない微妙なニュアンスを、直接の体験によって感じ取ることにもなるわけで、そうした意味で人と人の直接の交流が重要な働きをするのだが、それも同じような価値観を共有する人ではなく、全く別の価値観を持った人と交流することによって、自分とは違う人が世の中に存在している現実を実感できるわけで、それも観光などではなく、日常生活の中で様々な利害関係を伴った作用や影響がぶつかり合っている中で経験することが肝心だろうし、そうした環境の中で揉まれてみないことには、真の意味での他人との関係を構築できないだろうし、利害を共有する共同体の中でぬくぬくと生きていると、利害の異なる他の人や団体と接触したり、場合によっては何らかのトラブルが起きた時に、うまく対応できなくなるだろうし、そうした事態を避けるために、移民を排斥したり、自分たちとは異なる生活習慣や趣味嗜好を持っている人や集団を差別する成り行きになるわけだが、現状で交流せざるをえない成り行きが生じているとすれば、そんなことをやるのは悪あがきの類いとみなされてしまう可能性があるわけで、直接の交流が避けられなければ、逆にそれが当たり前で、普通のことのように感じられる環境を構築していく以外にはあり得ないのではないか。