彼の声127

2018年

7月31日「知ることと行うこと」

 現状を考える上で技術的な問題と心理的な問題とを切り離して考えることはできないだろうが、全てが技術的な問題に還元できるわけではないと思いたいし、科学技術や産業技術が何か目くらましのように、人に肯定的な心理作用をもたらすとともに、様々な物事に付随する問題を解決するための手段として用いられていることは確かだろうし、生活の利便性や効率性などの他に、例えば医療技術が病気を治すための手段として用いられているのは当たり前のことだが、全ての病気を治せるわけでもなく、逆に医療技術の進歩によって、抗生物質の耐性菌のように新たな病気の原因が生じている場合もあるだろうが、それでも昔よりは病気が治る確率も罹患した人が生存できる確率も高くなったように思われるわけで、それによって心理的な安心感を生んでいることも確かだが、その一方で医療事故なども一定の割合で発生していることも確かだろうし、それによって治る病気や怪我が重篤化したり、場合によってはそれが死亡原因になってしまったりするわけだから、技術に対する過信は禁物だろうし、使い方を誤れば致命的な事態を引き起こしたりするわけで、それが利益と弊害の両方をもたらす諸刃の剣のような効能があることも踏まえておくべきなのだろうが、そうした技術的な進歩や革新に心理的な作用が絡んでくると、経済的な負担が伴うから誰もがそれを利用できるわけでもないのにも関わらず、それらの科学技術や産業技術があたかも人類全体の共有財産であるかのような気分にさせるわけで、そうした技術が特定の人や団体に経済的な利益をもたらすために使われたり、同様に学術的な研究のために使われたりすることに関して、そうしたことに関われる人たちが限られていることを忘れて、それとは無関係な自分たちにも利益がもたらされたり、自分たちの知的好奇心を満足させてくれたりすると思われてしまうわけで、実際にメディアを通じてそれに関する情報を共有しているから、そんな気分になってしまうのだろうが、メディアを通じた情報の共有というのが、それを共有しているつもりの人々に共感や連帯感をもたらすとしても、情報の共有の程度もそうしたことに関心を持っている程度によって異なるだろうし、実際にも誰もが同じ情報を共有しているわけでもないのだが、それを知る機会や知る可能性がないとは言えないだろうし、それを知ろうと思えば知ることができるというレベルで、そうした情報を共有しているように思われるわけで、そうした共有が可能な情報が世の中の全ての情報ではないにしても、大抵の情報が公開されているように思われることが、それだけ公共の空間が世界に広がっていることを意識させるだろうし、それとともに特定の人や団体が情報を独占していることが、世の中に不平等や不公平を生んでいるようにも思われてくるわけだが、情報の独占が利益をもたらす限りで、ある程度はそうなるのも仕方ないにしても、情報を利用することが技術を利用することにも結びつくとすれば、技術そのものがその技術に関する情報だと思われてしまい、その技術を利用可能にするための手間暇や経済的な負担がかけられていることを忘れてしまいがちになるわけで、それがメディア的な思考と実践の短絡だとも言えるわけだが、たぶんそれを知ることと、知ってからそれを利用して何らかの効果を上げるまでに手間暇や費用をかける過程の中で生じることが、技術的な問題の全てを構成していて、心理的にはそれを省いてしまいがちになるわけだ。

 知ることと行うことのどちらにも、思考を要する契機が生じる成り行きがあるのかもしれないが、それが知るだけでなく行うことになると、その実践の中では単純に対処できるわけでも片付くわけでもないことが結構出てくるだろうし、それに伴って導き出される技術的な解決策は、その技術を使うことによって、その技術特有の問題を引き起こして、その結果としてうまくいけば心理的には満足感が得られるが、そうはならなければ不快感や挫折感などの否定的な感覚をもたらして、苦悩することになるわけだが、困難に直面することによって生じる苦悩から逃れるには、あきらめて実践を放棄するか、逆に技術的な困難を克服してうまくいくような成り行きに持っていくために、さらなる苦悩を引き起こすようなことをしなければならなくなるのかもしれず、それを苦悩と受け取るか、あるいはもっと肯定的な感覚を得るような成り行きが生じるかは、その場の状況次第であるようにも思われるかもしれないが、試行錯誤に伴って生じる経済的な負担と時間的な余裕がクリアできていれば、遊んでいる感覚に近くなるのかもしれず、そうなると苦しみよりも楽しみの方が優ってしまって、そういう肯定的な心理状態に持っていければ、それなりにうまくいくようなアイデアを思いつく可能性も高まるかもしれないが、たぶん焦ってしまうような時間的にも経済的にも追い込まれるような事態に陥ってもなお、苦境を脱しようとする気力が残っている限りはそれなりに活動を続けようとするだろうし、それが功を奏してうまくいくような成り行きに持っていければ、得られる満足感もそれだけ大きくなるだろうし、そんな困難にあえて挑戦するような心理状態を保つことが、成功する秘訣であるようにも思われてくるのかもしれないが、それも結果的にうまくいった実績が伴う限りでそうした心理状態を保てるわけで、うまくいかなければそんな心理状態になろうとしてもなれるものではないし、それもその場の状況や状態に左右される心理状態であるわけだが、そういう面ではある程度はそうなる成り行きをもたらすような物事の偶然の巡り合わせも影響してくるわけで、そうした実践の過程での事情とは別に、それを知ることがそうなった結果を知ることになってしまうと、結果的にうまくいった事例を参考にして、それを真似て同じようなことをやろうとして、結果的にうまくいけばそれに関する知識の正しさを実感するし、うまくいかなければそうした知識が不十分であったことを自覚したり、何か間違っているのではないかと疑ってみたり、それ相応の回り道を経験して、中には道に迷って目的地にたどり着けなくなってしまうこともあるだろうし、またやっているうちに思わしい結果が出ずに飽きて途中で放棄してしまうこともあるだろうし、知ったことが役立たないままになってしまうことも多いのかもしれないが、そういう面で知ることを実践の中に役立てるには、それ相応の技術的な工夫を伴うだろうし、そうした技術的な工夫もそれに関して知るべき知識の中に含まれている場合もあるわけで、何かを知ろうとすることがそれに伴ってさらに多くのことを知ることに結びつく場合もある一方で、いくら知識を増やしていっても、なかなか実践面での成功に結びつかない場合も出てくるだろうし、そんなわけで知ることと行うことの間にそれなりの落差や困難が伴うことは、知ることの安易さの中にとどまっているとなかなか実感できないわけだ。


7月30日「失敗することに成功すること」

 やっていることに工夫を凝らすのは、誰もがそうしたいところだろうし、少なくともやっていることが失敗するよりは成功したいわけで、成功するためには努力を惜しまず、工夫を凝らしてやることになり、そういうレベルではそうなるしかないわけだが、そうであっても思い通りにいく部分と行かない部分が出てくることは確かで、結局は思い通りに行かない部分で、どう対処するかが問題となってくるのかもしれず、思い通りに行かないということは、やっていることとその場の成り行きが合わないということであり、果たしてその場の成り行きに合わせる必要があるのかないのかは、その時の事情で決まってくるのかもしれないが、合わせなくても構わないのなら、やっていることが失敗する可能性が高まるかもしれないが、失敗するよりは成功したいのなら、やっていることをその場の成り行きに合わせようとするだろうが、それでは思い通りとはいかななければ、やっていることが成功したとは言えなくなってしまい、結局はその場の成り行きに合わせることで、やっていることがうまくいったとしても、当初の計画に照らし合わせると、それでは失敗とみなされてしまうのかもしれず、そうであるならそれが成功と言える可能性がなくなってしまうわけだが、妥協して思い通りにはいかないとしても、その場の成り行きに合わせてやっていることがうまくいくなら、それを成功とみなせばいいのかもしれないが、やっていることがうまくいくというのが、その場の成り行きに合わせることではなく、思い通りにいくことだとすれば、やはりそれでは成功したという感覚を得られないのかもしれず、結局それはその場の成り行きに合わせてうまくいったとしても、それを失敗とみなすしかないのかもしれず、要するにそれが失敗することに成功したことになるのかもしれないが、思い通りにはならなかったにも関わらず、結果的にその場の状況に合わせられて、事なきを得たという成り行きになったとすれば、それは思い通りに事が運んでうまくいったと思われるようなことが、そこでは不可能だったことなるわけで、思い通りに事が運んで成功しようとすることが、そもそも間違っていたことにもなるのかもしれず、自らの目論見や見通しが間違っていたからこそ、その場で修正を迫られて、結果的にそうした修正作業が功を奏して、何とか事なきを得ることに成功したわけだから、そうなった時点でうまくいったと思うだろうし、それが当初の目論見とは違った意味で成功したとみなしても構わないだろうし、わざわざ失敗することに成功したなどと、回りくどい屁理屈のようなことを言う必要はないのかもしれないが、実際にその場の状況に合わせてやっていることを修正する柔軟さが求められることは、よくあるケースだろうし、結果的に思い通りにいくような場合でも、そうなるに至る過程で大したことはないにしても、こまかな修正などいくらでもやっている可能性はあるわけで、それがどうにもならないような困難に直面して、当初の目論見を断念するような場合とは、その場での気持ちの持ちように大きな違いが出てくるにしても、何でもかんでも想定内とのことだと思い込んで、無理やり合理化を図るような強引さとは違うにしても、思っていたのとは違った状況に直面することがあれば、そこで何らかの修正や微調整が必要となるわけだから、それを大げさに受け止めない限りで、うまくその場の状況に合わせて何とかしようとすることも、工夫を凝らすことの範疇に入るわけだ。

 そして失敗することに成功することに関しては、それがやっていることの規模にも関わってくるかもしれないが、大規模になるほどそこに関わってくる人も集団も多くなってくるわけだから、それに伴ってやっていることのシステムも仕組みも複雑になってきて、全体として小回りが利かなくなってくるだろうし、一度決めたことを修正するのにも様々な手続きを必要として、なかなかそれができなくなってくるわけで、その結果として、その場の成り行きに合わなくなってきているのに続けられることにもなり、実際に続けられてしまうわけだが、そうした大規模な事業自体が逆に周囲の成り行きや状況に影響や作用を及ぼして、それに合わせて周囲の成り行き状況が決まってくることにもなるだろうし、そうなってくるとそうした事業を行なっている側が、その場の状況の中で主導権を握っていることにもなるのだろうが、それがやっている側の慢心を生む原因にもなるわけだが、その主導権を握っている規模や範囲や程度というのが、意外と思っているほど盤石ではない場合があって、それが思わぬ事態を招いて、やっている事業がおかしくなってくるような成り行きをもたらすこともあるだろうし、それが日本では八ッ場ダムがいつまで経っても完成しなかったことであったり、最近の事例ではラオスで急の豪雨によって建設途中のダムが決壊して多大な被害を出したことであったりするのだろうが、それらの事態も実際に事業を行なっていく途中で様々な修正を迫られていて、思い通りにはいかなかったのことの典型的な事例となるのかもしれないが、そういう事例に関してはそうなった結果を見て短絡的かつ浅はかな批判ならいくらでもできて、実際にそういう煽動的な批判を真に受けてしまう民衆などもいくらでもいるのかもしれないが、直接的にやるべきことはそんなことではないのもわかりきったことであり、思い通りにはいかない成り行きに合わせて、やっていることを修正したり調整することでしかないだろうし、実際に現場の人たちはそんなことをやっているわけだろうし、それに対して周りからああだこうだと勝手な意見をする人たちもいくらでもいるわけだろうが、そういうことも含めて世の中では様々な方面で様々な人や団体が活動に関わってきて、自分たちの思い通りになるように作用や影響を及ぼそうとしてきて、やっていることが大規模になる程そうした行為が錯綜して複雑に入り組んでくるから、そうした作用や影響によっても、さらに思い通りにはいかない成り行きが生じてくるわけで、絶えず周囲からそうした作用や影響が及ぼされる中で活動しなければならないから、いちいちをそれらを真に受けていると、どんどんやっていることが思い通りにはいかなくなってくるわけだが、結局はそうした成り行きに合わせながらも、自らも周囲の状況に作用や影響を及ぼしながら活動している実態が生じていて、そうした水準ではそうなるしかなく、それ以上のことは何も言えないかもしれないが、実際にああだこうだと文句を言っている実態がある限りで、当初の目論見や見通しに変更を加えつつも、それに合わせて言っていることにも微妙な修正や変更を施しながら、そうした修正や変更の中でも、過去に述べたこととの間で連続性や一貫性を保とうとしている面もあるかもしれないが、そうしたことにどこまで自覚があるかないかは、案外他人の言っていることに関しては、その食い違いや矛盾などを容易に指摘できるかもしれないが、それが自分のこととなるとわかっていない面があるわけで、他人からそうしたことを指摘されても、逆上して言いわけや反論などをするばかりで、冷静になって自己の言動を検証するような成り行きにはなかなかならないのかもしれないし、ある意味ではそれが失敗することに成功することの難しさを物語っているのかもしれないが、それでも周囲の成り行きに合わせて工夫を凝らす事態に直面していることには変わりないわけで、自身の変節を自覚していなくても、それが現実の活動内容には普通に表れてしまうのではないか。


7月29日「場の力」

 人や団体による活動に関して、何かアイデアを出すということは、それについて思考した結果が示されることになるわけで、そこに考える対象があることも示しているわけだが、それが何らかの実践に結びつくには、まだ他に何か必要なものがあるだろうし、そこから生じる何らかの実践に関係して、人や団体などとの間で社会的な結びつきも生じるわけだが、必要なものが揃っていても実践に結びつくとは限らないだろうし、逆に必要なものが揃っていないのに、見切り発車で実践的な活動を行いながら、その途中で必要に応じて人材や物事を入手するような成り行きになることもあるだろうし、途中の過程がどうであろうと、結果的にうまくいけばそれで構わないようなことにもなってしまうのかもしれないが、そこで行われることに関して、はっきりした評価や判断の基準があるかというと、そうでもないだろうし、やってみないとわからないこともいくらでもあるだろうが、いったんやってしまったら後戻りが利かなくなってしまうこともあるかもしれないし、結果的にどうなるにしても、社会の中で何かをやっていくには、誰にとっても当たり前のことのように責任が生じて、それがどんな結果をもたらすとしても、何らかの機能や効果が伴っていれば、それに関係する人や団体に何らかの作用や影響を及ぼすだろうし、それが利害の他に倫理や人道に関する評価や判断を伴うなら、何やらそれが普遍的な価値判断に関係しているようにも思われるだろうし、経済的な利害の他にも尊重すべきことがあるとすれば、活動によって他人や他の団体が困ってしまうようなことが行われていれば、それが批判の対象になるわけで、できればそういうことはやめてほしいと思われるわけだが、他人や他の団体の迷惑を顧みずに行われるようなことから利益がもたらされるとすれば、迷惑を被っている人や団体との間で諍いや争いが起こることになるだろうし、争っているどちらの側に分があるかは、それに関しては様々な判断基準があるかもしれないが、単純な利害では決められなければ、やはり倫理や人道の面で、他人や他の団体に迷惑をかけている度合いが高い方が非難されるべきかもしれないが、そこに権力関係が入り込んでくると、そうもいかなくなってきて、力で押さえつけて黙らせてしまえば、他人や他の団体に迷惑をかけながらもやり続けることができるかもしれないし、できれば公共の領域では、そうした他人や他の団体を力で押さえつけるような強引な権力の行使は、なるべくやらずに済ませたいところだろうし、それは私的な範囲でもやってはいけない違法な行為かもしれないが、実際に争いが生じているところでは、そういうことが普通に行われている実態があるだろうし、そうした争いを解決するために交渉や取引があるわけだろうが、簡単に解決しないから争いもなくならないわけで、争いが起こっているところでは交渉や取引もうまくいかないことの方が多いだろうし、誰の思い通りにもいかない現状があるのかもしれないが、たぶん争わないと何事も行うことができないような状況があるとしたら、すでに新たにやる余地がなくなっていて、他を抑え込まないと何もできないような状況となっているのではないか。だからそういうところでは絶えず争いが起こっていて、そこで妥協の余地があるとしたら、それは争っている双方が受け入れ可能なルールを決めることぐらいで、争いに負けるにしてもそれで納得するしかないわけだ。

 何をやるにしても、やっていることに関して他との競合状態が生じているところでは、程度に差があるにしても争いは避けられないところだろうし、争いに勝った側に優先権が生じることになって、争いに負けた側が引き下がるしかない成り行きとなって、そこに勝敗という格差が生じることになるわけだろうが、そうした勝敗というのは単一で存在するわけではなく、重層的に生じることになって、誰の目にもわかるようなはっきりした勝敗が生じるとともに、よくわからない勝敗もあるだろうし、そこで誰が勝ったのか負けたのかわからないような結果がもたらされることもあるわけで、また競合関係というのもよくわからない状況となっていて、お互いに対立し合っておらず、ある程度は対立する部分があるとしても、他の部分では対立しないで、場合よっては連携し合うような関係であったり、さらに無関係の関係というのもあるのかもしれず、何かよくわからないが関係し合うと同時に無関係に思われるような部分もあるし、そうなると争っているのかどうかも怪しくなってしまうだろうし、争いながらも連携し合い、連携し合いながらも争うような成り行きになると、敵対関係というのがなし崩し的に融解してしまうような状況ともなるわけで、敵対しながらも争う状態に持っていけないような回りくどさが生じてきて、及ぼそうとする力が相手に届く手前でずれてくるわけで、お互いに及ぼうとする力がその手前で、捻じ曲がって方向が逸れてしまうようだと、そうした力を捻じ曲げるような場の作用が生じていることにもなるわけで、結果的にやっていることがうまく噛み合わなくなって、ねじれの関係がもたらされると、無関係の関係が生じてしまうのかもしれず、争う気があるのに争う手前で曲がって逸れてしまうわけだから、力が直接伝わらずに分散して、別の方面へと力が伝わってしまうから、そこで思いがけない効果や作用が生じて、双方ともにやっていることが無効化してしまうように思われると同時に、実際におかしなことが起こっているわけで、それが自然の狡知のような皮肉な結果をもたらしていて、それも思い通りにいかないことに含まれるのだろうが、それが思いがけないことであるから驚きをもたらすわけで、昔なら全面戦争になってしまうようなことであっても、何やら敵対し合う双方が対立しているのに意気投合しているような事態が起こって、そこで双方の思惑がはぐらかされることにもなってしまい、そういう状況を馬鹿正直に受け止めると、何やら危機感を煽って、未曾有の破局がすぐそこに迫っているようにも感じられるかもしれないのだが、そこにはぐらかしの力が働いていると、何かそこでわけがわからないような力のねじれが起こって、かろうじて持ちこたえているような状況がもたらされていて、そこでいくら危機感を煽っても、そのことごとくが空振りに終わってしまうような成り行きとなってしまうわけで、しかもそうなってしまう原因がはっきりしないから、しびれを切らして強引に単純かつ誰もがわかるような理屈を当てはめて、事態を説明しようとするのかもしれないが、何かそういう説明には説得力を感じられないわけで、結果的にそこで説明している人々に信用が生じなくなって、そうした人々にも場を制御する力がもたらされずに、しかも延々と説得力のない説明を繰り返すから相手にされずに、そこで生じている状況とは無関係の関係となってしまい、そうした人々も状況によって裏切られてはぐらかされていることにもなってしまうわけで、結局そこでは様々な事態が、力の行使とともに錯綜して入り組んでいるような状況がもたらされて、その場に関係する人や団体にはその場を制するような主導権が生じないから、制御しようとしても制御が利かずにうまく操縦できないし、結果的にそこで生じている場の力に弄ばれるような事態となっているのではないか。


7月28日「皮肉な結果」

 確かに現状の中でうまくいっていない部分を強調すれば、危機的な状況だと思われるわけだが、その一方で現状の中でうまくいっている活動があるから、実際に様々な制度や法律やそれらを基にして組まれた社会的な仕組みが機能しているわけで、そうした部分を強調すれば、特に現状が危機的な状況だとは思えなくなるかもしれないが、そこで微妙なのが、現状でうまくいっていない部分に関する判断であり、うまくいっていないにも関わらず、実際にそうした活動が継続されている実態があるならば、活動が続いているということは、それに関してはうまくいっていることになるわけで、実際に批判を浴びて、うまくいっていないことを指摘されて、その指摘が正しいと思われていても、実際に活動が継続しているわけだから、そうした活動から何らかの利益が生じている可能性があって、そこから恩恵を受けている人や集団がいる限りにおいて、それらの人や集団にとっては、うまくいっていることになるだろうし、そうした部分があるから実際に活動が続いている実態があるわけで、それをうまくいっていないと強調すること自体が、ある意味では間違っているのかもしれず、本当の意味でうまくいっていなければ、活動が続かずに終わってしまうのであり、まさにそういう意味で危機的な状況を強調する人たちは、このままでは活動が続かずに終わってしまうと予言したがるわけで、早晩そうなるから危機的な状況なのだとなるわけだが、そうだとすると危機的な状況であること自体が、そうした予言が当たることが前提となるわけで、逆に言えば予言が当たらなければ、危機的な状況ではなくなってしまうわけで、そうした前提条件をクリアしないとならないわけだから、現状が危機的な状況だと煽っている人たちの主張や意見にも、あてにならない部分が少なからずあり、実際に何十年も批判され続けていることをやってきた経緯さえあるのだから、これからもそれをやり続けていくとしたら、危機的な状況が延々と続くことになり、そうなると批判され続けている活動がなかなか終わらないことにもなるだろうし、果たしてそれが危機的な状況なのか怪しくなってくるだろうし、実際にうまくいっていないことが何十年も続けられるようなら、それではうまくいっていないことがうまくいっていることになるのかもしれず、そこから現状で危機感を煽っている人たちの矛盾があらわになってくるのではないか。要するに危機感を煽ることが何十年も慢性的に繰り返されていることになってしまい、それ自体はうまくいっていないことになるにも関わらず、現状に対してうまくいっていないことを指摘して、危機感を煽る行為自体が繰り返されているわけだから、しかもその危機感を煽る行為自体が終わらないわけだから、そのうまくいっていない危機感を煽る行為そのものから利益を得ている人たちがいるわけで、そうだとすると、危機感を煽ることがうまくいっていないにも関わらず、そのうまくいっていないことからそうした行為の継続性が保たれていて、うまくいっていないことをやり続けることには成功しているわけで、結果的にそれ自体はうまくいっていることになり、うまくいかないことに成功し続けていることにもなってしまい、要するに危機感を煽りながらも、その煽りがいつまでも空振りに終わり続けているから、そんな行為が延々と続けられる事態を招いているわけで、それは失敗することに成功し続けることで、そうした行為を続けられているわけだから、それ自体はうまくいっていることにもなってしまうわけだ。

 状況が停滞しているとしたら、停滞の中で何らかの行為を続けている人や集団は、その行為を続けていること自体には成功していて、たとえそれがうまくいっていないと判断されても、そのうまくいっていない行為をやり続けることには成功しているわけで、やり続けていること自体がそこから何らかの糧を得ていることを意味しているし、実際に糧を得ているとしたらそのことには成功していて、それ自体はうまくいっていることにもなるだろうし、うまくいっていない行為を指摘する行為には成功していて、成功しているということはうまくいっていることにもなり、しかもうまくいっていないから危機感を煽るということを繰り返しているわけで、危機感を煽っている当の状況が延々と続くようなら、危機的な状況が延々と続いているにも関わらず、それが一向に破綻していない状況を示しているわけだから、危機自体が杞憂でしかないのかもしれず、それでも危機感を煽る行為には成功しているわけで、それでは嘘をつくことに成功しているような状況なのかもしれないが、しかもそれを延々と繰り返しているわけだから、ある意味では嘘をつくことを認められているわけで、確かに現状が危機的な状況であることは間違いないかもしれないが、もうそれを何十年も続けてきたわけだから、たとえ危機的な状況なのだとしても、別に危機を乗り越えられたわけではなくても、乗り越えられないままであっても構わない状況が何十年も続いているわけで、果たしてそれを危機的な状況だと判断することが妥当なのか、という疑問を抱いてしまってはまずいわけであり、やはり何十年も絶えず危機感を煽り続けることが、一向にやってこない破綻を先送りにすることに成功する秘訣なのかもしれないが、別に危機を煽ることによって破綻を先送りにしているわけでもないのかもしれないし、その辺の理屈はよくわかっていないだろうし、ともかく現状がうまくいっていないと主張し続けることによって、そこから糧を得る行為には成功しているのだから、そんなことをやっている人たちはこれからも延々とそんなことをやり続けるだろうし、その人がやめても別の人がやり続けるかもしれないし、要するに現状に関して危機感を煽るという伝統が継続されている実態があり、それを何十年も前から延々とやり続けているのだから、これからも延々とやり続けることになるだろうし、そんな行為を職業に結びつけている人たちが実際に存在しているわけだから、現状がうまくいっていない中でも、少なくともそれらの人たちの行為はうまくいっているのではないか。もちろんそういう水準で物事を捉えるのはずるいやり方かもしれないし、それらの人たちが指摘しているうまくいっていないことの中身を吟味してみないことには、それらの人たちの主張が信用できるか否かを判断するわけにはいかないのだが、もうかれこれ何十年も様々な人たちが手を替え品を替えて、様々なうまくいっていないことを指摘してきたわけで、それらの中で個々の事例がうまくいっていないから指摘されたのだろうし、実際にうまくいっていないことは確かなのかもしれないが、だからと言って、このままでは危ないと危機感を煽られたとしても、実際に何らかの破綻を経験してきたことも確かかもしれないが、世の中でやっていることの全てが破綻の危機を迎えているわけでもないし、危機感を煽る人たちがそういうことを恐れているとしても、いつの時代でもそんなふうにして危機感を煽ってきたのだから、何かそこにそういう行為から生じる欺瞞が指摘されないことが欺瞞であるかもしれず、逆にそうやって危機感を煽っている人たちがいる限りで安心してしまうわけで、ある程度はそんな人たちを小馬鹿にしつつも、またある程度はそんな人たちの主張にも耳を傾けている実態もあって、これからもそんなことが延々と繰り返されていくことを予想しながらも、一向に全体的な破綻がやってこないことを祈りながらも、それもある種の演技でしかないことを自覚せざるを得ないのではないか。


7月27日「影の部分」

 物事の成り行きに法則を当てはめることは可能かもしれないが、法則が成り行きの全てを説明するものではなく、法則が当てはまる部分を説明できるだけで、それ以外の部分を説明するには、個別のケースごとに異なる説明を行うしかないだろうし、法則では説明できない特有の事情を個別に説明することになるのではないか。とは言ってもいちいちそんなことを念頭に置いているわけではないし、ただ意識して思考を巡らして、物事の成り行きを説明しようとするのかもしれないが、そこで何か法則のようものを発見すれば、それが当てはまる事例がいくらでもあるように思われるだろうし、実際に様々な事例に当てはまれば、何やら有力な法則を発見した気になって、様々なケースでそんな法則を用いて同じような説明を試みるのかもしれないが、物事を説明するのと、そんな物事に関連した現象に巻き込まれて、その中で活動するのとでは別次元の行為になるだろうし、実際にその中で何らかの法則を発見して、それについて説明するのも、それ自体が何らかの現象に巻き込まれて、その中で活動していることには変わりなく、それ自体が現象の一面を示していて、現象の中でその現象に関する何らかの法則を発見して、それについて説明することによって、自らが巻き込まれている現象の特徴を把握しようとしているわけで、そうした現象が法則を用いて説明を強いるような行為をもたらしているわけだが、それも人が巻き込まれている現象の一部であり、人にそうした行為を強いている現象に巻き込まれていて、人はそこで何らかの法則を探して、それを発見できれば、それを用いて自らが巻き込まれている現象について説明するような成り行きになってしまうわけだ。それが人に特有な言葉を用いて説明する現象であり、そうすることによって、その場の状況を把握しようとしているわけだが、その一方で、その言葉を用いて説明する現象に巻き込まれている自身の状況を把握しているわけではないし、すでにその時点で状況の把握が不完全となってしまっているわけだが、自分が巻き込まれている現象を把握しようとして、言葉を用いてそれを説明しようとする現象を生じさせているわけで、それも自分が巻き込まれている現象なのだから、言葉を用いてそれを説明すると同時に、そうした現象も把握する必要に迫られてはいるものの、そうした現象を説明する現象を同時に説明することも把握することもできないだろうし、そこで自己言及的な困難に直面しているわけだが、その自己が把握しようとする現象にはつきものの余分な自己言及的な部分というのが、把握も説明も困難な部分であり、それに関する説明がいつも抜け落ちているから、自己が巻き込まれている現象に関する説明は、いつも不十分なものにとどまり、そうした不完全な説明では状況を完全に説明することも把握することもできないだろうし、要するにそこで発見した法則を、それを発見するという現象に当てはめることができずに、そうやって絶えず自らによって生じさせている現象を取り逃がしているのであり、それは説明の盲点となっているだけでなく、説明自体を不完全なものにしているわけだが、そうした不完全な説明を強いられていること自体が、そこで自らが巻き込まれている現象の特徴であり、説明を不完全にする法則がそこで働いているのであり、それが自らの意向を裏切るような行為に自らを駆り立てている原因ともなっているのではないか。

 その自らが巻き込まれていると同時に自ら生み出していて、自らの思考からはみ出ている部分というのが、思考している自らにとっては謎の部分であると同時に、自らを思考に駆り立てている部分でもあり、絶えずそれを知ろうとしているわけだが、それを知って説明しようとして言葉を弄する度に、その先へと謎の部分が移動していってしまうわけで、思考が追い求めている部分が、追っていくと先へ先へと逃れ去ってしまうわけだから、いつまで経っても追いつけないから、いつまで経っても謎の部分であり続け、いつまでも思考を駆り立てる部分でもあるのだろうが、いつまで経っても逃れ去る部分でもあり、絶えずそれに関する説明を不完全にしている部分でもあり、それに関してはうまく説明できないままとなってしまうわけだが、それでも説明しようとするだろうし、実際に不完全な説明に終始しながらも、それでも絶えず説明しているわけだから、そこから自身にとって興味深い現象が生じていることは確かであり、それと同時にその興味深い現象に自身が巻き込まれているわけでもあり、その自身が巻き込まれている現象を説明しようともしているわけだが、結果的にはうまく説明できずに、不完全な説明に終始しているわけだ。それが自己言及的に自己が巻き込まれている現象であり、把握しようとして把握しきれていない部分でもあるわけだが、絶えずそれに付きまとわれているから、絶えず説明を要すると同時にうまく説明できないから、説明を逃れ去り言葉が追いつけないから、言葉からも逃れ去っていて、しかも言葉を弄して説明しようとするから、繰り返し同じようなことを述べるには容易であり、追いつけないなりにもそれについて語る言葉が延々と連なる現象を引き起こしていて、言葉を弄している自身から逃れ去っているのに、自身を捉えてやまない饒舌をもたらしていて、そこで何かを説明している現象の中に自身が囚われていることは確かで、しかも説明しているつもりが説明になっていない可能性まであって、自身が説明していることと、その説明の対象として捉えようとしていることが、重ならずにずれている可能性まであり、いくらそれについて語っても、実際にはそれについて語っていないことにもなるのかもしれず、ではその代わりに何について語っているのかといえば、その影について語っているのかもしれないし、あるいは影でさえなく、ただむやみやたらと言葉を連ねるばかりで、その言葉の対象が不在であることに自身が気づいていないだけかもしれず、たぶん対象の不在でさえも言葉をとらえてやまない言葉の対象であるわけで、言葉の対象自体が虚構の部分を含んでいて、虚実織り交ぜて語ろうとすることが、そうした説明に魅力を生じさせている面もあって、それ自体が説明を伴うような現象の特徴となっているわけだから、そうなってしまっている時点で、現実の現象を説明していると同時に、想像力を働かせて虚構を言葉によって構成している面も出てくるのであり、そうした説明自体が実際の現象からはみ出ていて、そこで生じている現象から逸脱しながら、さらに新たな現象を生み出しているのであり、その自身が言葉を弄することによって生じさせている現象に、自身の意識が巻き込まれながらも、その巻き込まれている実態がさらなる現象を引き起こしているわけだから、何もないところからとめどなく現象が生じているようにも感じられて、それを客観的に見れば、説明している意識がありもしない幻影に囚われてしまっているようにも感じられるだろうし、体験しているつもりの現象から言葉による説明が大幅に超過しているようにも感じられるのではないか。


7月26日「特殊事情」

 順序が前後するかもしれないが、社会の中でその地域に特有の歴史的な経緯が生じると、それに合わせて世の中の制度や法律も歴史的な経緯を反映したものになり、それが他の地域にはない特殊な事情を生じさせる要因にもなるわけだが、交易や人の行き来などによって地域間の交流が促進するに従って、そうした事情も徐々に平準化されて行く傾向になるのかもしれないが、それも一方的にそうなって行くとは限らないし、平準化の進行よりも地域的な特殊事情の方が頻繁に生じることにでもなれば、地域ごとの特色がなくなることにはならないかもしれないが、だからと言ってそういった特殊事情がその地域社会の中で弊害となっているなら、それは改められるべきことになるだろうが、その一方でそうした特殊事情によって利益が生じているなら、それを改めようとすればそこから利益を得ている人や勢力による抵抗運動が生じるかもしれず、そもそもそうした事情を生じさせる経緯というのが、社会の中でそこに作用や影響を及ぼしている様々な勢力の介在によって、何らかの経緯や成り行きが生じているとすれば、それを改めるにはそうした勢力との交渉や取引が必要となってくるだろうし、そうした過程の中で何事も簡単には改まらないことが明らかになってくれば、そんな面倒なことをやるよりは、別のことに力を振り向けるような成り行きが生じてくれば、それもその地域で生じる特殊な事情になってくるわけで、人や集団が活動していく過程においては、そんなことはいくらでも生じてくるかもしれないが、その全てが弊害をもたらすとも限らないし、活動していく中で絶えず利便性や効率性を重視していけば、それがややこしい特殊な事情とはならない可能性も出てくるだろうし、そうしたことの程度がどこまで追求されるかは、その場の状況に応じて異なってくる面もあるだろうが、一概にはそうした傾向が特殊な事情をもたらすとも限らないとすれば、では特殊な事情がどうやって生じるのかといえば、社会の中で特定の人や集団を優遇したり差別したりすることによって、そこから特殊な事情が生じてくるのかもしれず、それもその社会の中で存在している様々な人や集団が連携や抗争を繰り広げている中で、そうした事情が生じてくるのだとすれば、それはたまたまそうなるに過ぎないことであり、そうなることに関しては特に納得できるような必然性がなければ、そうなることについては、ただの偶然の巡り合わせに過ぎないことになってしまうのかもしれず、それを何やら必然的な出来事のようにみなすのは、単なる勘違いの類いとなってしまうかもしれないが、やはりそれを必然的な成り行きとみなすことから、それが世の中の制度や法律に反映するのであり、それがその地域独自の制度や法律をもたらすこと自体が、それらの制度や法律によって守られている人や集団にしてみれば、それが自分たちの存在や活動を保証するかけがえのない制度であり法律であると認識することになるのかもしれず、そうなればそれを守ることがそれらの人や集団にとっては最優先事項となるだろうし、ちょっとやそっとではそれを改められてしまっては困る事情が生じていて、だからそうした制度や法律に支えられた人や集団は、それらを改めようとする人や勢力にとっては、旧守派であり抵抗勢力と映るだろうし、改革を阻む障害物として目の前に立ちはだかってくるように感じられるのではないか。

 そうでなくても社会の中では様々な事情や成り行きが錯綜していて、それらを合理的で筋の通った論理によって捉えることはできないのかもしれず、それらの中で何が正しくて何が間違っていると思っても、間違っていることが平然と行われていて、正しいことが行われなくても、特にそれでそこで活動する人や勢力が困っているわけでもなく、かえって間違っているなりにもうまく事が運んでいるような事態にもなっていて、それで構わないような成り行きになっているとすれば、それがその地域でまかり通っている特殊事情とみなされてしまうわけで、そうした成り行きの中で機能している組織や仕組みがあれば、そうした組織や仕組みを統括している集団が、そこで主導権を握っていることは確かであり、主導権を握っているということは、その集団に何らかの権力が備わっていることにもなるわけで、主導権を握っていてそこで生じている権力関係の中で優位な立場を築いていれば、たとえやっていることが間違っているように思われても、そこでまかり通っている間違ったやり方を維持していることにもなるだろうし、それを改めるにはそんなことをやっている集団から主導権を奪わない限りは、改革を進めることはできないだろうし、そもそもそんなことをやっていて主導権を握れているわけだから、そうした成り行きの中ではそんなことをやっていること自体が、その場の状況に合っていることになるわけで、そうだとすればそれは間違っていることではなく、その場の状況に応じた正しいことのようにも思われてくるだろうし、そういうところで何が正しくて何が間違っているかは、合理的な判断や基準ではわからないことになってしまうのかもしれず、その場の特殊事情に合っている限りでそんなことがやれているならば、相対的にはそれが正しいやり方となってしまうのかもしれないし、実際にそんなやり方がまかり通っている限りで、その場ではそうすることが正しいやり方になってしまうわけで、その場でしかそんなことは通用しなければ、他の場では当然通用しないだろうし、通用しなければ間違ったやり方とみなされてしまうし、そうしたやり方が通用していること自体が、その場での特殊事情となっているわけだが、そうしたやり方を通用させている集団というのが、その場の特殊事情を維持している集団となると同時に、そんな集団が存在していること自体が、その場の特殊事情でもあるのだろうが、そうした集団が存在する根拠というのも、その場でまかり通っている特殊事情であるからには、何かそういうところでわけがわからないごり押し的な正当化が行われている可能性さえあるだろうし、そもそもそこで生じている特殊事情というのが、どこまでもおかしな成り行きを生じさせていて、それを自己言及的に正当化すること自体が、間違ったことをごり押し的にやる力の源泉となっているようにも思われるわけで、そういうことが放置されていること自体が、それを許している人たちの怠慢でしかなく、そうなっている限りで、そこからどんな弊害がもたらされていようと、それはそんな行為を許している人たちの自業自得でしかないだろうし、どう考えてみても被害者づらするわけにはいかない状況だと思われるわけだが、実際にそんな間違ったことをやるような集団に主導権を握らせているわけだから、被害者ではなく共犯者だとみなされても文句は言えない状況となっているのではないか。しかもそれがそんな自覚さえ伴わないような成り行きがもたらされているとすれば、もはや手の施しようがないほどに事態が進行していることを物語っていて、そこに関わっている人も団体も、そんな現状を維持することしかできないだろうし、もはやそこには現状を改革したり改善する力は残っておらず、ただ外部からしかそれが可能ではないことを示しているのかもしれない。


7月25日「判断の自由と不自由」

 社会の中で自由な立場というのは、他との関係を伴わないことによって、何の権限も権力もない立場になる可能性があるかもしれないが、そこで他人と何らかの関係が生じた時点で、そうした関係から制限や制約が生じてきて、また自分の意向と他人の意向がぶつからないような配慮が必要となる場合もあり、交渉や話し合いによって活動を調整しなければならなくなるかもしれず、さらにその場の状況によっては、自分の活動と他人の活動のどちらを優先すべきか判断しなければならなくなると、互いの意見が衝突して調整が不調に終われば、関係を解消するような成り行きも生じてしまうかもしれないが、そこで指揮命令系統を伴った権力関係が生じてくると、立場が上の者が立場が下の者を従わせて、立場が上の者の意向が優先されることになるかもしれないが、そうではなく対等の立場を維持できれば、どちらの活動を優先させるべきかについては、他に何らかの判断材料を見つけようとする場合も出てくるだろうし、例えばどちらの意向を優先させた方が利益になるかとか、また利益にならなくてもお互いのためになるかとか、他にもその場の状況に応じて優先させるのとは違う様々な判断が可能になってくるかもしれないが、それもその場での関係の状態や他との兼ね合いによって、うまくいったりいかなかったりする場合が出てくるだろうし、その場の関係がどうなるかは、個々の人の立場やその人が所属する団体などとの関係や、場合によってはその時の社会状況なども影響を及ぼしてくるかもしれないし、他にも様々な要因が絡んでくるかもしれないが、どのような場合であっても、そこでどちらかかあるいは両者ともに活動の自由を求めているような場合は、その場の関係から何らかのしがらみが生じていて、それが不快に感じられるから、できればしがらみを断ち切って自由になりたいと思うのかもしれず、結果的に関係を解消して自由になることと、それとも諸般の事情から妥協して関係を継続させて、ある程度はしがらみ受け入れながら活動することとの間で、どちらを選んだ方がいいか迷うかもしれないが、そうした場合にも、自由を選ぶことと引き換えにして失うものが大きいと判断されれば、そう簡単に関係を解消するわけにはいかなくなるだろうし、中には関係から生じるしがらみが強すぎて、そんな選択そのものがありえない境遇に陥っている場合もあるだろうし、そうなると選択の自由さえ選択肢に入らなくなって、どうあがいてもそこで生じている社会的な関係から抜け出ることが不可能に思われてくるかもしれないが、そういう場合は意識がその場で生じている関係から強力な拘束を受けていて、そういう状態が洗脳状態と言えるかもしれないのだが、それが洗脳されているだけでしかなければ、その洗脳が何らかの作用から解かれると、強力な拘束だと思っていたことが、単なる気のせいに過ぎなくなってくる場合もあるだろうし、そうした社会的な関係自体が心理的な問題でしかなければ、その実態は大したことはないわけだが、そうではなく何らかの物理的な拘束や実利を伴っている場合だと、気の持ちよう程度ではどうにもならないだろうし、実際に暴力を伴った規律が生じたり、制度的な有形無形の法律や掟がそれを体現する施設や機械設備や仕組みを伴って、しがらみとして関与してくる場合もあるだろうし、そうした実体が伴ってくると、実際にそれに関係して人や集団の活動が行われている実態が生じていることになるのではないか。

 そうした活動の実態がそこに関係している人の意識に作用して、その活動に伴って生じている物理的な作用を現実として実感させているのであり、たとえそれが中身のない空疎な演技でしかなくても、実際に体を動かして活動して、活動した結果として何らかの物質的な利益がもたらされれば、心理的な影響だけではなく、実利としての物質的な作用が生じているわけだから、そんなことをやっているだけでもそれなりのエネルギーを消費しているわけで、そこで何かが行われている事実を信じないわけにはいかないだろうし、そこで人や団体が関与する社会的な関係から何かが生じていることが事実であり、ただ単にそれが人や人の関与によって人工的な構築物や建造物や動植物などを存在させているだけではなく、それに関する情報なども伴ってくると、物質的な物と言葉や映像や音声などのイメージが複雑に絡み合って、人の心身が共にそこに絡め取られている現実が、自由を阻むような束縛を意識させるわけで、確かに自身の活動によって、自身の思いをそれらの物や情報に反映させる可能性があることは信じてもいいかもしれないが、そこに他人の思いが作用してくることも、疑いようのない事実として認めざるを得ないだろうし、そういう面で自らの自由にはならない部分があることは確かなのだろうが、なるべく自らの作用を優先させるような状況を作り上げようとすることが、果たして良いことなのか悪いことなのかは、自分では判断できないことかもしれないし、他人も他の団体もそうしているのだから、自分がそれをやらない道理はないとしても、そんなことを行う過程で争いが起こることは、ある程度は避けられないとしても、その場の状況によっては互いに折り合いがつく可能性もそれなりに出てくるだろうし、全面的に争うことの良し悪しを判断する以前に、交渉による妥協点の模索も常に行われ得ることであるのも、状況に応じて活動の選択肢に入ってくるわけだから、何かしらそこに関与しようとすることが、どんな結果をもたらすとしても、妥協して結果を受け入れるにしても、受け入れずにあくまでも抵抗する姿勢を貫くにしても、そこで行う判断もその後の活動に影響を及ぼしてくるわけだから、どこまでも自由な裁量を阻む要素が残り続けることは当然としても、その一方でそこまで自らの裁量や判断の自由にこだわってはいないだろうし、ある程度は関係してくる相手の主張を尊重して折れる部分も出てくるのが、一般的な成り行きなのだろうが、そういうところでいくら功利的に振る舞おうとしても、自由を求めることと利益を求めることが重ならない部分も出てくるわけだから、果たしてそこでこだわっていることが自らの自由なのか利益なのか、一概には言えなくなってしまうこともあり得るのかもしれず、そもそも何かにこだわるという態度が、こだわっていること以外のことについては盲目にさせる作用も生じてしまうわけで、そんなことをやっていること自体が自らの不利に誘導している可能性もあって、それこそ自業自得なことをやっている可能性もあるわけだから、自分で主体的に行なっているつもりの判断や選択が、結果的に自らの自由を奪い、そこに絡んでくる外部からの作用によって、がんじがらめで身動きが取れなくさせてしまうような事態を招いているとしたら、自由で主体的に思われる活動こそが自身を破滅に追い込んでいるとも言えるわけで、そういう皮肉な結果を招かないためにも、周囲の意見に耳を傾けられるような心の余裕を確保しておきたいところだが、それもその場の状況次第でどんな結果をもたらすとも限らず、どうあがいても思い通りにならない可能性が残されていることには変わりないわけだ。


7月24日「社会的な活動」

 人が自由であるということは、あらかじめ決められた目的に束縛されないことでもあるかもしれないが、目的が自由を求めているとなると、今度はその自由に束縛されていることになって、それ自体が自由ではないことになってしまうわけで、自由を求めることが自由ではなくなってしまうわけだが、それでも自由の中身が何なのかよくわからないから、束縛から逃れることが果たして自由なのかというと、束縛から逃れることが目的となってしまっている時点で、それに関しては自由ではなくなってしまうだろうし、そんなわけで自由という状態に関してあまり突き詰めて考えるべきではないのかもしれないが、単に自由であるとかないとかは、あまり重要なことではないのかもしれず、具体的にそこで何を行なっていて、その行なっていることに関して、自身と何らかの関係が生じていて、さらにそこから作用や影響を被るような人にとっては、その行なっていることが無視できない行為となってくるわけで、そういう面で関係やつながりがあるということが、それに対する反応や反響を生じさせるのであり、すでにそうなってしまう時点で、自由な振る舞いを阻害されていることになるわけで、社会の中で様々な作用や影響が及ぼされている限りで、そこで何らかの作用や影響を被っている人は、その点では自由ではないことになるだろうし、それとは別の面で自由を目指していたり、実際にそうした方面では自由な立場でいられるかもしれないが、実態としてはそうした制限付きの自由というのが、妥協の産物としてある程度は実現されているのだろうし、実際にそうした自由を享受している人もいくらでもいるのかもしれないし、自由とは本来的に制限のある自由でないと、虚構の自由となってしまうし、自由と不自由の度合いが、どちらか一方に振り切れることはないわけで、フィクションでなければ百パーセントの自由も不自由もないだろうし、普通に人が自由を求めている実態があるとしても、そこで具体的な内容が伴わないと、何を求めているのでもないことになってしまいかねず、特に活動するにあたって明確な目的を意識していないとしても、活動に伴って様々な制約や制限が生じるのは言うまでもないことであり、それが自由を阻む要因となるわけだが、そうでなくても社会の中では様々な活動が競合しているわけだから、そうなってしまうのが当然の成り行きとなるだろうし、程度の問題として普通に自由を意識できなければ、活動に何らかの不自由な束縛が伴っていることになるわけで、そうした束縛とどこまで折り合いをつけられるかが、活動に対する不満や満足の目安にもなるだろうし、実際に大した譲歩もせずに思い通りのことができていれば、それなりに自由なことをやっているつもりになれるわけで、その逆に様々な譲歩を迫られて、十分な成果を上げられずにいるならば、不自由な立場や境遇を実感せずにはいられないだろうし、何とかそんな立場や境遇から抜け出したいと願うなら、当人は自由を渇望していることにもなるだろうし、実際に様々な努力を行なった末に、それなりの紆余曲折を経て、晴れて自由の身になった暁には、満足感とともに自らを取り巻く状況がそれなりに自由な状態になったことを実感できるだろうし、そうした成り行きが自由をもたらしたようにも思えるから、自由であることはそれを目指す活動の内容として、そこに至る紆余曲折などを伴っていることにもなるのではないか。

 要するに活動するにあたって、克服しなければならないことは、いかに自分の思い通りのことができるかというよりは、そこに作用や影響を及ぼしてくる様々な働きかけといかに折り合いをつけるかであって、しかもそれによって自らの活動を成功に導くことができれば、それなりの達成感とともに、期待した成果を上げられたように思えるかもしれないが、そこで実感する自由となると、相変わらず思い通りのことができたか否かという基準を意識するだろうが、実際に身勝手なことができるような環境でなければ、周囲の人たちや関係する団体などから許可や同意を取り付けた上で、何かを行う成り行きになるだろうし、そうした面倒な制約や制限がある中で活動していれば、それほど自由であることにはこだわらないだろうし、実践としては許可や同意を取り付けるための活動が、その中で占める主要な活動内容となる可能性さえあるわけだから、それ自体が全く自由とは無縁に思われるだろうし、そうした社会関係が生じている限りで、自らの活動の自由よりはそちらの方が重要に思われてくるのかもしれず、そこに制約や制限を課す関係があるからこそ、関係先との間で連携や協力の関係が生じてくるわけで、そうした関係があるからこそ、そこで自らの活動ができるわけで、そう考えれば、逆に自由なだけでは何もできず、そこで何らかの法律や制度に束縛されているから、その法律や制度から何らかの社会的な関係が構成されて、その法律や制度が許す範囲内で、その法律や制度に則った活動が可能となり、その法律や制度を介して関係してくる様々な個人や団体との連携や協力が成り立ち、その限りで活動も可能となれば、そうした活動はそれを許す法律や制度による庇護の下で行うことにもなるだろうし、結果的に自由とは無縁の法律や制度によって管理され監視された活動となるわけだろうが、そうした活動の利点としては関係する人や団体から許可や同意を得ているから、後ろめたいことはないだろうし、他からのお墨付きをもらっているから、ある程度はそれなりに成功する見込みもあるかもしれないし、法律や制度によって活動の在り方が定められているとすれば、当人の他にも同じような活動をやっている人までいるだろうし、そうした人たちと競合関係を築きながらお互いに切磋琢磨しながら活動を行えば、大勢の人が知る活動となって周囲もそれなりに関心を持ってくれるだろうし、そうした活動に成功すれば関係する人や団体から認められることにもなり、場合によっては富とともに栄誉も手に入るかもしれないし、世間から賞賛を浴びることも期待できるし、それは身勝手なことをやれる自由よりはだいぶ魅力的に思われるだろうし、普通は自由を犠牲にしてでも世間から賞賛を浴びることを優先させるのではないか。要するに無視される自由よりは関心を抱いてもらえる不自由の方が満足感を得られるだろうし、自由よりはかまってくれる他人を求めているのかもしれないが、そうなると身勝手な活動よりは、他人が興味を抱いてくれる活動内容にしたくなるだろうし、そのためにはどうすれば他人が興味を抱いてくれるかを知ろうとして、その結果として自分の都合よりは他人の都合を優先させるような成り行きにもなるだろうし、その他人の都合というのが社会の都合でもあるわけで、世の中の多くの人たちから賞賛されるようなことをやろうとするわけだから、それと引き換えにして自らの自由を制限して活動に制約を課すことになろうと、他者から認められることを優先して、そうすることによって自己満足がもたらされることにもなるわけだ。


7月23日「建前と理想」

 ハンナ・アーレントあたりが述べていることは、反ユダヤ主義が世の中に蔓延ってきたのは、絶対王政から国民国家が形成されて、人々の法のもとでの平等が確立されてきた時期と並行していて、それ以前のユダヤ人の金貸しが王侯貴族に金を貸したり、それらの資金調達に重用されていた時期には、そうしたユダヤ人銀行家に特別な権限が与えられていたので、世の中でそれなりに機能していて、それなりの権力を持っていたので、民衆の方でも表立って反ユダヤ主義を唱えるような成り行きにはならなかったわけで、逆にその後貴族が没落して絶対王政のもとで官僚機構が発達してきて、金融業よりも工業や商業などの産業が発展してくるとともに、そうした事業に従事する資本家階級が行政を牛耳る官僚機構とともに台頭してくると、国政に関してユダヤ人銀行家の役割が相対的に低下してきて、そうなってくると世の中で機能しなくなってきて、一部の金融業に従事するユダヤ人に与えられていた特権も、次第に消滅してくるとともに、それと並行して権限も権力も縮小してきて、そうなると大した権限も権力もないのに無駄に莫大な資産を持っているということで、民衆の妬みや羨みの対象にもなってきて、攻撃対象としては申し分のない生け贄とみなされるようになってきたとともに、ロスチャイルドなどの金融資本による世界支配などの噂も、その手の陰謀論としてまことしやかに囁かれるようになってきた経緯があるらしく、結局国民国家の形成とともに登場してきた大衆としての民衆の生態は、社会の中で実質的な権限を持って機能している勢力や為政者には従順に従うが、そうした勢力や為政者が落ち目になってくると、途端に復讐心をたぎらせてメディアと一緒になって叩きまくるような成り行きになるわけで、それは基本的には強きに従い弱きを叩くような傾向にあるのだろうし、そういう傾向が世の中を保守勢力の支配によって安定させる要因ともなっているわけで、それに関して民主主義の幻想を抱くのは甘い考えだろうし、法の下での平等などの建前やきれいごとを並べても無駄なのかもしれないが、だからと言ってそうした本音を含んだ実態を真に受けるのも少し違うような気がしてくるし、必要以上に世の中を否定的に捉える必要もないだろうし、政治に関する制度の面で普通に対応していけばいいことでしかなく、その普通の対応というのが、大した被害も受けていないのに復讐心をたぎらせる必要もないということであり、だからといって保守的な傾向が気に入らないなら、左翼的な政治勢力を支持しても構わないだろうし、建前やきれいごとだけでは世の中が回っていかないことを重々承知しながらも、選挙ではそうしたことを主張している左翼勢力に投票しても構わないのではないか。そしてそんな政治的な選択で何が決まるわけでもないことも承知しておけばいいだろうし、要するに求めているのはそうした傾向ではなく、わざわざ人々が望む安定志向の擁護者として威張っている保守的な権威に従う必要はないということであり、建前やきれいごと述べている人たちに冒険させるだけのリスクを民衆が引き受けない限りは、何事も変化というのは起こらないということであり、まずは民衆の方が小心者であっては何事も現状維持にとどまるしかないだろうし、たとえ国政がめちゃくちゃになろうと、それで一向に構わないだろうし、そんなことはどうでもいいというぐらいの気構えにならないと、理想的な政治状況を目指す成り行きにはならないということなのではないか。

 もちろん官僚機構が実質的な権力や権限を握っている限り、国政がめちゃくちゃになろうはずがないのだろうし、また建前やきれいごとが実質的な意味を持つような理想的な政治状況を目指しても、目指すことができるだけで、実現するはずがないだろうが、別に実現するはずがないことを目指しても構わないだろうし、そういうところで下手に辻褄を合わせようとすると、話がせこくなるだけで、不快な現実を肯定するばかりの夢も希望もないようなことしか言えなくなってしまうだろうし、政治に夢も希望も持てなくても構わないのかもしれないが、そうしたリアリズムだけで生きていけるわけでもないだろうし、そこにフィクションとしての虚構の要素がないと、政治に魅力を感じられなくなってしまい、結局は官僚機構による統治だけで間に合っている現状があるわけで、そうなると政治の出る幕がなくなってしまうのだろうが、そうした現状を構成している官僚機構による統治に逆らってみせることが、ポーズとしても政治に求められている役割であるのかもしれず、保守的な政治勢力が官僚機構と癒着したり談合しているようでは、何のための民主的な政治制度なのかわからなくなってくるのかもしれないし、そうしたやり方に民意や世論が否を突きつけることこそが、民主主義を体現することになるだろうし、実際に政府や行政の行なっていることに反対したり批判している人たちがいるだけでも、そうした人たちに政治的な主導権を握らせる理由が生じるのかもしれず、絶えずそうした批判勢力を支持してゆかなければ、政治という機能を有効に保つことはできないのかもしれないし、現状のように保守的な勢力と官僚機構との間で癒着や談合が繰り返されてしまうと、政治そのものの存在意義が失われていくしかないのかもしれず、そうであるなら官僚機構だけが存在していればいいだけであり、何も選挙によって民衆側の代表者を選ぶ必要がなくなってしまうだろうし、選挙など形だけの儀式に過ぎなければ、中国のような共産党の一党独裁の形態を採用すればいいことでしかなく、民主的な政治制度が実質的な意味や機能を持つ必要がなくなってしまい、そういう意味でも、なぜ現状で政府のやり方を批判したり、政府の方針に反対している人たちがいるかに関して、普通に考えてみるべきだろうし、何事にも反対ばかりしている人たちを鬱陶しく感じるだけではなく、それらの人たちの主張の中でもっともらしい部分を探してみて、それがあるようなら、それだけでもそうした人たちを支持する理由になるだろうし、実際にそうした批判や反対意見に賛同して、選挙の時にはそうした主張を行なっている人たちを応援して、それらの人たちに投票すればいいわけだが、それで何が変わるわけでもないとしたら、実際に世の中を変える力がまだそれらの人たちには備わっていないことになるのかもしれず、そうした力が備わるようにさらに応援したり、支援の輪を広げてゆかなければならないだろうし、またそうした人たちの主張の内容にも修正や改善を加えてゆかなければならないとすれば、それに対して積極的に意見を言う必要も生じてくるだろうし、どうすれば世の中が良い方向へと変化するかについて、一緒に議論や研究を深めていくことも肝心だろうし、そうした共同作業に加わることも政治参加としては有意義なことになるかもしれないし、そんなことをやる余裕が民衆の側にあるとすれば、それだけでも結果的に政治的な理想状況に近づいていることにもなるのではないか。


7月22日「疲弊と衆愚」

 社会の中で人が集団となって機能する時には、個人の立場や意見が抑圧されがちになるかもしれないが、特定の個人を集団でサポートしたり助ける場合もあるだろうし、その個人を助けることが集団にとってメリットととなる場合はそうするだろうが、そうではない場合は、なかなか集団が個人を助けるような成り行きにはならないかもしれないが、行政機構としては社会福祉の観点から、経済的な理由や自然災害などの被災者となった生活困窮者などを助ける場合があるだろうし、それが行政にとってメリットがあるかというと、功利的には何のメリットもないかもしれないが、社会的な弱者を助けるという倫理的な観点から、助ける意義が生じるだろうし、財政面で余裕がある時には、そうした倫理的な観点が重視されても、特に問題は起こらないかもしれないが、財政難で福祉予算を削減するような成り行きが生じている時には、生活保護受給者などの社会的な弱者を抑圧するような傾向が生じてくるかもしれず、実際に受給額が減らされたり、受給資格を得られる審査を厳しくしたりして、予算を抑制するような圧力が生じてくると、倫理的な観点よりは功利的な観点の方が優先される成り行きになってくるわけだが、予算の他の方面での無駄使いなどが明らかとなってくると、それとのバランスで弱者切り捨ての政策が批判を浴びるようなことも起こってくるかもしれないが、それも程度の問題でしかなく、メディアがそうしたことを積極的に取り上げない場合は気づかれないだろうし、そうしたことが民意や世論に反映しなければ、政治的にどうということにはならないわけだろうが、その一方で絶えず宣伝や煽動の観点から屁理屈のようなことを言いたがる人が出てくるわけで、それも屁理屈とみなされる限りで相手にされない場合がほとんどかもしれないが、屁理屈に思われるようなことをメディアが積極的に取り上げると、何かそれがまともに考えるべき理屈に思われてしまう場合もあるだろうし、そうしたメディアを権威とみなしているような人たちの判断基準として、それを真に受けるような条件反射が生じてしまうわけで、それも群集心理の一種になるわけだろうし、個人の判断よりも集団内での空気に煽られて、モラルが低下する事態はよくある現象かもしれないが、実際に群衆に混じって何をやっているわけではないとしても、メディアが取り上げる意見を世の中の多数意見だと勘違いしてしまうわけで、それは実際に世論調査結果などによって、統計的に信用できるような数値的な思い込みにもなるわけだが、全てがそうした手順を踏んでいなくても、絶えず物事を短絡して考える癖がついてしまい、何かその辺で屁理屈と理屈との境界が曖昧になってきて、その区別がつかなくなって、大真面目で稚拙な屁理屈を信用してしまうような心理状態が働いて、それが怒りの感情と結びついて批判の論調になびいてしまうのだろうし、普通に考えれば無関係に思われる何かと何かを強引に比較して、それを批判したり否定してみせるといったミスリードに惑わされてしまうわけで、しかも批判者の味方を装いながらおかしな方向へと導こうとする行為が多発すると、本当に誰が味方なのか敵なのかわからなくなってくるわけで、具体的には最近の豪雨などの自然災害とカジノ法案と呼ばれる不謹慎な響きを伴った法案を結びつけて、それを推進する勢力を非難するといったことが行われてしまって、何かそれが良からぬ陰謀や策略の類いに思われてくるわけだが、そうした行為が一過性の流行現象に終わる度に、仕掛けた側になびいてしまった人たちの心が傷ついてしまうのではないか。

 そうやって勝手に心理的に追い詰められてしまう人々が報われる機会など永遠にやってこないかもしれないが、それとは別の可能性はいつでも開かれていて、それは倫理的な観点からも功利的な観点からも外れた観点になってしまうのかもしれず、それが自然の狡知と呼ばれているかどうかは定かでないが、実際には狡知でも何でもなく、ただ結果的に狡知のように働くわけで、要するに皮肉な結果を招いてしまうわけだろうが、それが誰にとっても利益にも損害にもならなければどうということはないのだろうが、それが理屈や屁理屈などによっては割り切れないから、普通に見過ごされてしまうようなことにしかならなければ、メディアからも一般の民衆からも見向きもされないこととなってしまい、実際にもそれで構わないのだろうし、あえて語るようなことでもないのかもしれないが、それに関して現状で批判し合い非難の言葉を浴びせ合っている勢力が一体化している水準があることは確かで、それを敵対とか対立しているとかみなせない水準があって、そうした水準から見れば、それらの敵対とか対立とかが見せかけに過ぎないことがわかるとまでは言えないにしても、それで構わない心境になれるのかもしれず、対立する双方が愚かさの極みに達しているとは言えないにしても、ほどほどのところで妥協し合っていることは確かなところかもしれず、しかも妥協しないという選択肢はあり得ないだろうし、実際に妥協して真面目に議論するしかないのかもしれないが、何を真面目に議論しているのかと言えば、たぶんそれと自覚せずに疲労について議論しているのだろうし、それが精神の荒廃というよりは紛れもなく疲労に関する議論になっているはずだろうが、その一方で夏という季節に結びつけて気温の暑さについても議論しているのかもしれず、普通はそんなのが議論と呼ばれることもないだろうし、実際にそれを自覚していないわけだから、議論にもなっていない現状が形成されている可能性さえあるのかもしれないが、ともかく何もかもが疲弊していて、疲労の蓄積が嵩み過ぎている可能性があるだろうし、しかも一方で夏の暑さに耐えているわけだから、不快指数が半端ない段階まで高まっているわけだ。そしてそうした虚構の議論とともに、あらゆることが混同されているわけでもないのに、見せかけの同一性に関しても議論が行われているのかもしれず、そこでは自然災害と人災とがそれに対する対策を怠ってきた結果として結びつけられていて、それが政争の道具として機能しているわけで、批判する側としてはそれらを何とか結びつけて議論に持ち込みたいわけだが、そうした批判をかわしたい側としては、何でもかんでも数年前までの三年間続いた政権交代の時期に結びつけてカウンター攻撃を狙っているわけで、そうしたやり口がある意味では愚かさの極みに達しているように見えるのだろうが、それが愚かだとは自覚できない悲惨な人たちが懸命に屁理屈をこねながら、さらに事態をこじれさせようとしているのかもしれないが、実際には何がこじれているわけでもないのかもしれないし、普通にわかっていることは夏の暑さに参ってしまって、疲労の極みに達しているにすぎないのかもしれず、自身が愚かであることと疲れていることが、現状の中で対立しているつもりの双方の間で混同されてしまっているのかもしれないし、しかもそれ自体がどうでもいいことなのかもしれず、どちらであっても構わないような状況が形成されているのではないか。


7月21日「現状維持の理由」

 人が日々行なっている活動が何を目指しているとしても、絶えず状況に応じて活動の修正を迫られていることは確かだろうが、それ以前に同じような作業の繰り返しになっている活動については、そこから安定した利益を得られているからそうなっているのだろうし、それがうまくいっているからそうした活動が継続されているわけだが、活動が生活の豊かさや便利さなどを求めていると、そうした方向での絶え間ない改良が目指されているだろうし、あらかじめ決められた結果に至ることを目指している限りで、計画的に作業を進めていることが多いだろうが、集団で行う作業は常にそうなっていて、行き当たりばったりではない活動の計画性は、予想や予測に基づいて決められた手順が組まれることも多いかもしれず、作業効率や能率などがあらかじめ計算されていたり、全体としてシステマチックな作業になっているわけだが、そうした作業は道具や機械を使って行う場合がほとんどだろうし、それらの大半は産業として規格化された形態を伴っているのではないか。そしてそうした作業に従事する人々も、その動作が規格化されているかもしれないし、中には動作だけなく思考形態も規格化されているのかもしれず、同じようなことを考え、同じような動作を伴いながら活動していれば、規格化された同質の集団となっているかもしれないし、統計学的に思考も動作も予測が立つような集団となっている可能性もあるだろうし、そうした計算に基づいて管理できるような集団になっているとしたら、ある面では集団がシステマチックな動作によって管理されることになるだろうが、集団で行う作業とはそういうものだろうし、少なくとも作業に関してはそうかもしれないが、学校や刑務所や病院などの施設では日常の生活もそうなっているだろうし、学校は勉学に特化した施設だから、一日中管理されるようなことは、全寮制でない限りはないかもしれないが、刑務所や病院ではそれが当たり前になっているし、受刑者の矯正や病人の快癒が目的だからそうなるわけだが、人の動作に目的が設定されると、目的に合わせてそれを達成するための動作というのが決められる傾向にあるだろうし、こうすれば目的を達成できるという答えがあらかじめ出ているなら、そのためにはやるべきことをやればいいわけで、そのやるべきことをやらせるシステムが構築され、そこで設定されたカリキュラムに従って動作すればいいことになるだろうが、そうなると動作した結果からも目的が生まれ、新たに集団の構成員を決められた動作に保つことが目的となり、同じ結果をもたらすためにそうするわけだが、そうなるには決められた動作に集団の構成員を従わせることが必要となり、戒律や掟を作ってそれを守るように要求することになるだろうし、それが必ずしも作業に関係することでない場合もあって、それ以前に集団の秩序を維持するためにそうすることになるわけで、誰もが従うように決められた事柄を守ることが、集団の秩序が守られていることになり、それが作業効率や能率を上げるためにそうしているだけではなく、全員が一糸乱れぬ動作を行うことで、統制が取れていることを意味して、そうした動作を行うことが目的化してくるわけで、それは同じ結果をもたらすために必要というよりは、同じ経過や過程を経ることまでが求められて、それ以上の動作を意味することになって、もはやそこでは結果ではなく形式そのものを重んじるまでに動作の統制や統一を図ろうとしているわけだ。

 そして発端や結果にかかわりなく同じ動作を保つには、いちいち反省などしていてはやっていられないだろうし、結果がどうなろうとともかく同じ動作を保つことが優先されるわけで、そうなると思考を働かせること自体が不要になってくるだろうし、何も考えずに同じ動作を繰り返していれば、集団内の秩序が維持されていることになり、下手に思考を働かせて同じ動作を繰り返していることに疑念を抱かれてしまってはまずいわけで、そんな疑念を抱かせないようにするためにも、ひたすら一糸乱れぬ動作がとれるように日頃から絶え間なく同じ訓練を繰り返すわけだが、そうした過剰なまでの秩序への欲求や要求に何か肯定的かつ積極的な意味や理由があるわけではなく、単に結果から経過へと活動の重点が移動したり、その変遷があるだけかもしれないが、それは目的の徹底という面で有効に機能しているわけで、同じ結果が得られるなら途中でどんな過程を経ても構わないとなると、同じ動作が保てなくなって集団としての統率がとれなくなってしまうだろうし、集団で作業をやる意味や意義が薄れてしまうことにもなりかねないし、そうならないためには、大勢で協力して同じ動作を保つこと自体が重要になってくるのだろうし、それが周知徹底されてくるとむしろ結果がどうなるにしろ、同じ動作が保たれること自体が重視されて、そうなるとかえって結果が思わしくないから動作の手順や仕組みを変えようとすること自体が嫌われて、少なくともそれをやってしまうと、同じ動作を保っていたこと自体が誤りとして否定されてしまうわけで、そうなるとそうした動作を推進していた側の責任が問われてしまうから、集団を管理する側としては自分たちの威厳や権威を保つためにも、是が非でもそうした成り行きは避けたいわけで、だから少々の問題や弊害が出てきても、まずは同じ動作を保つことが優先されるわけで、逆に問題や弊害が表面化するのを阻止しようとまでするわけで、そのために様々な策略や陰謀などが必要となってくるのだろうし、そうした策略や陰謀をめぐらすこと自体も、集団の秩序を維持するために必要となってくると、そうした集団の動作を維持するためのシステムや仕組みもそれだけ複雑化してくるだろうし、それが官僚機構的な組織になってくると、そうしたことを扱う専門の機関として、場合によっては諜報活動やら破壊活動などを担当する部署も必要となってくるだろうし、そうした隠密裏に非合法な事を進めるような活動が出てくると、何やらスパイ映画などを彷彿とさせるような成り行きにもなってくるわけだが、それがやっていることがうまくいかないから単にやり方を変えるような成り行きにはなり難いことの理由となると、それは単に集団で行う動作に伴った技術的な問題であるかのように思われるかもしれないが、そこに集団意志や感情などが絡んでくると事態がこじれてくるだろうし、それについては集団意思から集団意志へと思考が固まっていくにつれて、より執拗なこだわりや頑なさが集団的な動作の前面に出てきて、そうなるにつれて組織自体も柔軟性が失われて硬直化してくるだろうし、ただそこに同じ動作を守り維持しようとする意志が生じているだけでも、結果は二の次で過程を大事にするようになってくるわけで、しきたりとして同じ動作や過程を共有する同質化された集団が構成されることにもなるわけだが、いったんそうなってしまうと、そうした集団を存在させること自体が集団の目的となってしまうわけだから、そうした現状を維持すること自体が他の何よりも優先させるようになってしまうわけだ。


7月20日「大げさな表現としての諸刃の剣」

 意識が囚われている物事に関して、何か肯定できるような傾向があるとすれば、それはその囚われている物事自体に魅力を感じているからだろうし、多くの人の意識を惹きつける物事には、それに魅力を感じているから意識がそこに惹きつけられていて、それが興味深い物事だと思われるから魅力を感じるのだろうし、具体的にどんな魅力があるかといえば、それらの人に何らかの快楽や利益をもたらすように思われるから魅力を感じるのだろうが、快楽に中毒症状などの弊害が伴うなら否定的な傾向があるわけだが、肯定的な快楽ならそこから実際に利益が得られるだろうし、それは下手をするとその人を騙して破滅させるようなものでも魅力を感じるだろうし、その代表例がギャンブルなどの賭け事になるわけだが、ギャンブルが多くの人に快楽と引き換えにして金銭的な損害をもたらすのはわかりきったことであり、それを損害と呼ばずに消費と呼ぶなら、ほどほどの消費によって暇つぶし程度の快楽を得られたと思われるかもしれないが、それは自制心との葛藤をもたらすだろうし、その魅力に抗しきれずにのめり込んでしまう人が大金をすって破滅してしまうわけで、またその中から賭けに勝ったわずかな人に大金が転がり込んで、大金持ちになる夢を叶える人も出てくるかもしれないが、原理的にもそんな人がわずかに出てくるだろうし、実際に宝くじなどに当たって大金を手にする人も出るわけだが、そうなる確率がほとんどゼロに近いほど、それだけ当たった人が受け取る金額も高くなって、それに伴って射幸心を煽られて、多くの人に魅力と金銭的な消費をもたらす原理なのだろうが、実質的にそれは当たらなかった大部分の人にとっての金銭的な損害であり消尽であるわけで、有り余るほどの財産を持っている人でない限りは、それは否定的に見られても仕方のない行為であり、そうしたギャンブルを推進すること自体が、倫理的には否定されるべきことになるだろうし、しかも公的な資金を使ってそれを行うとなると、あまり褒められたことでもないだろうが、実際に公営ギャンブルがあるわけだから、そういう面があることは確かで、一応は様々な歯止めがかけられていて、節度ある運営が行われている実態もあるわけだが、実際にそうしたことの否定的な面を強調して、それを推進することを批判したり否定するのは容易にできるわけだが、その一方でそうした行為の胴元となって金銭的な利益を得る魅力も捨てがたく、それを推進することにも一定の支持が集まるわけで、全面的に賛同するわけではないにしても、必要悪として部分的にはそうしたこと行う場所を設けたいという主張も成り立つわけだろうし、それは売春行為などにも言えることなのだろうが、そうした行為に全面的に反対したり批判したりすることが、欲望を否定する潔癖症的な建前に見られてしまうと、それに対するカウンターとしての宣伝や煽動のやり方によっては、そうした面を突いて逆に攻撃の対象にもなってしまうだけに、単純に否定的な面を強調するだけでは、民衆の全面的な支持など得られないことはわかりきっていて、そういうところで言い回しや表現を工夫する必要に迫られるだろうし、実際に潔癖症的なところを誇張した攻撃にさらされている面もあるわけだろうから、そうしたすでにわかりきっている否定的な側面を改めて持ち出して、批判や反対に利用することについてのマイナス効果に関しては、慎重に対応する必要が生じてくるのではないか。

 実際に公営ギャンブルの類いに関しては、魅力がなければ廃れる傾向になるだろうし、民間のパチンコやスロットなどに関しても同様だろうし、何が流行るか廃れるかは、政治としては関知する必要のないことになってしまうのかもしれず、実際に廃れてくれば維持できなくなるわけで、そうなってくればそれを推進していた側は頬被りを決め込んでしらばっくれるしかないわけだが、そうなる以前の魅力を振りまいて宣伝したり煽動している時には、良いことばかり強調して煽り立てるわけで、そんな主張を真に受けて支持する人たちも、うまくいかなくなれば同様にしらばっくれるしかないわけで、しかもそうした煽動勢力への支持をやめるわけでもなく、ほとぼりが冷めた頃を見計らって、また手を替え品を替えて同じような宣伝や煽動を繰り返して、またそれに対して民衆もそうした行為を支持するのだろうし、衆愚的な人々にとっての政治とはそういうものでしかなく、そこに反省など生じないだろうし、そんなもんで構わないわけだから、真面目ぶってギャンブルの弊害などを強調するような人たちの説教などに聞く耳を持たないのは当然で、それで構わないのならそうしたことが繰り返されるしかないわけだが、そうした傾向を改めるのは無理だと思っておいた方が無難なのかもしれず、無難ではあるがそうした不快な現状を改めるには、無難な線ばかり追い求めても現状維持にしかならないわけで、簡単にあきらめたり開き直ったりせずに、懲りずに何らかの方策を探すことにもなるのかもしれないが、そうした水準での政治がまかり通っている限りは、それを改めるのは容易なことではないだろうし、実際に真の意味での改革派は良心的な少数派として停滞してしまうことにもなるのだろうが、現状で主流の衆愚的な酷さがさらに悪化する可能性もあるだろうし、しかもいくら悪化してもそれが破綻しない可能性まであるわけで、だからと言って政治とはそういうものだとみなしてたかをくくっても、あるいは厭世的な態度に徹して趣味の世界に埋もれても、状況は何も変わらないだろうし、まさに絶望的な状況だとみなしてしまうのかもしれないが、たぶんそれが勘違いなのだろうし、それは物事の一面しか見ていないことにもなるのだろうし、黙っていても人は何もしていないわけではなく、絶えず状況に対応しながら何かを行なっていて、そんなことをやることに魅力を感じている限りは、それをやめようとしないわけで、ただそれがメディア上で表面化してこないだけで、その代わりに表面に浮き出てくるのは、いつも決まって紋切り型的な活動であり行為なのかもしれないし、またそれだけでは飽き足らない人たちが新たな試みを行うわけだが、それが他の人たちも興味深く感じられるようなら話題となって、メディアが取り上げることにもなるだろうし、そんな現状維持だけではない作用も世の中に働いていることは確からしいし、だから実践として何かを行いながら、そこから何か今までないことを発見すれば、それが新たな魅力を生じさせて、やっていることを継続していく糧ともなるだろうし、たとえそれがすぐには利益をもたらさないとしても、現状で得られている別の方面からもたらされる利益を活用することで、その魅力的に感じられる新たな試みを継続できるかもしれないし、そうやって様々な可能性を探りながらも、何か興味深い活動を行なっている現状もあるわけで、物事の一面だけを強調すれば否定的な状況でしかないにしても、それとバランスを取るような面まで考慮に入れると、そればかりでもない現状に直面することにもなるのではないか。


7月19日「自覚なき自家撞着」

 過去の歴史の一時期に過ぎない時間の中で、何か特徴的な傾向が目についたとしても、それが現代へどのような影響を及ぼしていようと、現代に暮らしているほとんどの人には与り知らないことかもしれず、興味のある人なら過去と現代との関係の中で、社会の慣習や仕組みの連続性を見つけ出して、そこに現代人の意識が囚われている何らかの動作や傾向があって、それが今でも世の中に特有の成り行きをもたらしていることに気づいたりするのかもしれないが、またそれとは反対に、ある時期から急に特定の動作が見られるようになってきて、それ以前の社会とそれ以後の社会との間で、無視できない変化や変容や断絶をもたらしたことについて、そこで何らかの決定的な社会変革の契機が生じたことに気づいたりもするのかもしれない。だがそんなことがわかったところで何がどうしたわけでもないのかもしれず、人は現状がどれほど過去から影響を受けていようと、過去を顧みる余裕など持ち合わせていないのかもしれないし、特に自身が囚われている物事の起源など求めようとはしていないだろうし、その代わりに何を求めているのかといえば、目先の利益を求めてしまうのが関の山かもしれないが、それとこれとは全く別の水準で世の中に作用しているように思われるかもしれないし、目先の利益を求めながらも、一方では自身のアイデンティティーの元となる物事の起源も求めていて、そこから自身にとって都合の良い過去との連続性を確認して、何やら悦に入ってしまうような気分にもなれるかもしれないが、そういうのは気分の問題でしかなく、世の中に働いている物事の本質とは無関係かもしれないし、では物事の本質とは何かといえば、それは現状のありようを決めている何かであって、こんな現状がもたらされている理由というよりは、どのようにして現状に至ったのかを決定づける条件であり、その条件がなぜもたらされたかというよりは、どのようにしてもたらされたかということに関して、その経緯や成り行きを明らかにすることが、現状の世の中をもたらしている物事の本質に近づく方法となるのかもしれない。そしてそれが正しいか間違っているかというよりは、実際に現状がこうなってしまった経緯や成り行きが、現に生じていることを実感することしかできないのかもしれず、そして現状のどうしようもなさを招いているのは、紛れもなく現に今ここでこうして生きて生活している人々であり、他の誰でもないのであって、たぶんこうなってしまっていることについての責任逃れはできないだろうし、責任など全く意識していないとしても、少なくともそれが現状の一部を構成していることは間違いないだろうし、それが何を意味するわけでもないのかもしれないが、そこから肯定的な意味や意義を見出せるとしても、それとは逆の否定的な意味や意義とセットになって現状を構成しているのだろうし、それに関してどのような効果を強調しても、それは肯定的な効果と否定的な効果が絡み合った状態を示していて、そこで恣意的に何を強調しようと、強調している人の都合が優先されているわけで、それ以上でも以下でもないから、そこからさらに現状の意味や意義を求める過程で、いつの間にか自分が過去に否定した事柄を肯定せずにはいられなくなり、そんな自家撞着を引き起こしていることについても自覚できないわけだが、それに関してはどうやってもごまかしきれないわけだから、かえって自覚していない方が自身にとっては好都合なのではないか。

 そうした自覚なき恣意的なご都合主義というのは、物事の一面を把握する分析力には長けているかもしれないが、それが総合的な判断をもたらすわけではなく、たぶんそこから出てくるのはいびつで偏った認識かもしれないが、それがいびつで偏っているからこそ、そこに偶然の契機が入り込む隙が生じるのかもしれず、偶然の巡り合わせという個人や団体から生じる特定の意図や思惑を超えて発動する作用が、人の判断を狂わすと同時に思いがけない効果をもたらすわけで、そうした作用に翻弄されながらも、人も団体も自らが下した判断や認識の修正を迫られて、そんな修正を行うことによって状況の変化に対応しようとするのだろうし、それが変化しているように感じられるから、思い違いをしていた部分の修正を余儀なくされるわけだが、思い違いに気づいただけでも、少しはそこで情勢を分析できていることにもなるわけだが、中にはそうした自覚なしに状況の変化に対応している部分もあるわけで、要するにそこで勘が働いているわけだが、そこでは勘が鋭いというよりは、逆に勘の鈍さが功を奏している面もあるわけで、自覚なしに変化に対応できるというのも、自らの矛盾にわざと気づかないようにしている面があるわけで、矛盾に気づいて動くのを躊躇してしまい、結果的に手遅れになってしまうような時には、そこで勘が働いて自らの矛盾に気づかないままに動いてしまってから、結果的にそれがうまくいってしまうようなことも起こるわけで、その全てがうまくいくとは限らないとしても、ある程度は融通が利くから、かろうじて破綻や破滅を逃れている可能性もあるだろうし、そういう面で綱渡り的な活動を行なっている人なら、勘の鋭さと鈍さの両面でうまく状況に対応するような動作となっていて、どちらか一方に頼ってしまうとうまくいかなくなるから、意図しなくても自然とご都合主義を受け入れている面があり、それをなるべく他人に気づかれて指摘されないようにしている部分もあって、だから自らの全てをひけらかすようなことはせずに、常日頃から用心深く控えめな自己主張にとどめているのかもしれず、なるべく自家撞着となっている部分は隠すように心がけているとともに、わざわざそんなふうに意識しなくても、自然の振る舞いの中で自覚せずにそれができているようなら、そういう人は懐が深いように感じられるのだろうし、逆にそういう振る舞いができない人ほど、薄っぺらい見え透いたお世辞を平気で言うような浅はかさをさらけ出しているだろうが、中には逆にわざとそうした浅はかさを動作の全面にさらして、他人を油断させるような戦術をとっている人もいるのかもしれず、そういう面でその場の状況に応じて臨機応変な対応が自然にできるようなら、何か人として優れているように思われるかもしれないが、実際のところはそうでもない場合が多いだろうし、あれやこれやと他人に対する気遣いに長けていても、そんなことをやっている人たちはそんなことをやっているうちに消耗してしまうのであり、場合によってはただ単に愚鈍なだけで、周囲に対する配慮など全くできないままでも、周囲から助けられながらもそれなりに生きている人もいるわけで、そういう人には小手先の戦術や戦略など全く通用しないだろうし、わざわざそんなことをやる必要もないような生活環境というのもあるのかもしれないし、それには人の社会的な立場も影響してくるのかもしれないが、何か社会の中で優位な立場というのが一時的に生じていても、その優位性は他と比べて相対的な優位性でしかないわけで、それを意図して絶対的な優位性にしようとすると、それを維持するには周囲にそれ相応の負担を強いるようなことにもなるだろうし、そうなるとそこに不快な格差や不均衡が生じるわけだが、それを正当化するにもそれなりの無理やゴリ押しが生じてくるから、そのような社会を維持するにもそれ相応の負担や犠牲が伴うわけだ。


7月18日「官僚制の強化」

 左翼の語源はフランス革命の時の議会で、急進的な政治勢力が左翼席の一番上の方に陣取ったから、それらは山岳党と呼ばれ、のちの共産党などにその立場が引き継がれていったのだろうが、恐怖政治で名高いし、内紛からギロチンによる大量処刑などで自滅した後に、その後のナポレオン体制下では徹底的に弾圧されたらしいが、そうした経緯からも、左翼=恐怖政治というレッテルを貼られて、極左テロリズムとして保守派からは否定されることもよくあるパターンかもしれないが、また第一次世界大戦後のドイツの民主的なワイマール憲法下で、共産党よりマイルドな社民的な左翼も登場して、これも戦後の国家的な混乱を招いたとして否定されがちで、結局その後ヒトラーのナチスによる独裁体制を招いた経緯は、ナポレオンの独裁体制を招いた時と似通っているかもしれないが、近年の日本ではさらにマイルドな民主党政権が三年続いた後に、またもや極右的な安倍政権へと至った経緯があるだろうし、それを極右的と評すること自体が間違っているかもしれないし、要するになんちゃって極右という表現がしっくりくるかもしれないが、その前の民主党政権もなんちゃって左翼とも言えるのかもしれず、主導権を握っている政治勢力が束の間左へと傾くと、その後に今度はその反動で右へと傾くのも、よくあるパターンだろうし、それはアメリカでも左翼的なオバマ政権の後に、極右的なトランプ政権へと至ったことからも明らかなのかもしれない。だが政治的な傾向が左だの右だのと言っても、その内容は空疎であり、取り立ててそれ自体に中身などないのだが、その一方で、行政など面で官僚体制が着実に強化されていった経緯は、フランスでもドイツでも日本でもアメリカでも同じような傾向があるのかもしれず、その始まりは左翼的な民主主義を重視する体制下で様々な改革が行われようとするのだろうが、それがどれもこれもが失敗して挫折に終わる一方で、そうした失敗を突いて各省庁の官僚体制が次第に強化されていって、その後の極右的な体制下で官僚的な国家の支配が確立していくような経緯があるのかもしれず、それはフランスとドイツと日本では当てはまるのかもしれないが、現状のアメリカでは一見少し違うように見えるだろうが、実質的には例えば移民の排斥によって警察権力の強化につながるだろうし、貿易相手国への対抗的な関税の引き上げ措置は、保護貿易的な傾向の中で、産業への統制を強めようとする意図が感じられるし、トランプ大統領が個人的に好意を寄せているロシアのプーチン大統領も、ライバル視している中国の習近平国家主席も、また外交的な成果を強調する北朝鮮の金正恩氏にしても、それぞれに民主的な体制からは程遠い官僚制国家の長だし、その前のオバマ政権が推し進めようとした公的な保険制度などの社民的な官僚主義とは少し違うとしても、やはり確実に官僚的な統制を強めようとしているのではないか。もちろんそうした面ばかりではなく、大統領の個人的な判断と才覚によって、事態を良い方向へと持って行こうとしているように見せかけている面もあるわけだが、その下準備をしているのは間違いなく官僚機構だろうし、大統領のいかにもリベラル勢力からの反発を招くような言動や行動の裏で、したたかに自国の利益となるような政策を推し進めているのかもしれないし、もちろんそれはナポレオン時代の官僚体制ともヒトラー時代の官僚体制とも、質も内容も異なるだろうし、何よりも時代背景が異なるのだから、当然のことながら同じような事態や成り行きが繰り返されるわけでもないのかもしれないが、国家管理的な官僚体制の強化が確実に行われるような成り行きが生じているのかもしれない。

 別にそれを否定的に批判するのでも肯定的に評価したいのでもないが、アメリカの紙幣に印刷されているフリーメイスン的なピラミッドの上に目がある構図は、ピラミッドの頂点にいる者の眼差しがその底辺に至るまで、世の中の隅々に行き届いていることを示す官僚体制の理想を描いているわけで、その体制の頂点から見ているのは、普通に考えれば政府という官僚体制の頂点に位置する大統領の存在を象徴的に示しているのだろうが、その頂点に位置する目による全展望監視システムというのは、不法移民を狩り立てたり、不公正な貿易によって自国から利益を奪い去る国に制裁を下す監視の目でもあり、そうした行為を実行できる国家権力をも象徴しているわけだが、実際の大統領がそんなことまで自覚しているかどうかは定かでなく、そうした自覚もなしに自らに割り当てられた役割分担を受け入れて、その役割が課す演技を行なってしまうのが、官僚制の自動的な動作なのだろうし、しかも当人は自主的かつ主体的に活動しているつもりになっているわけで、それはトランプ氏だけなく、ヒトラーやナポレオンもそうだったし、それらの独裁者を否定的に捉えるような人たちも、彼らが自主的かつ主体的に活動した結果が悲劇的な結果を招いたとみなしているだろうし、そうした思考からはそれを実現している官僚体制の効果がすっぽりと抜け落ちている場合が多いわけだが、そうした司馬遼太郎的な人物本位の歴史的な解釈が何らかの限界を示しているとしても、歴史ドラマなどの大衆娯楽の面では一定の魅力をもたらしていることは確かであって、それがシステム論的な構造主義ではなく、人物本位の人間ドラマによって歴史が動いたかのような認識に至ることが、ある面で何らかの信憑性を感じさせるのだろうが、また官僚制を悪く言う人たちも、リーダーとなる人が公共の利益を重んじて倫理的に節度をわきまえることで、官僚制に立ち向かえるような幻想にも至るわけで、それが幻想ではなく実質的な力を持っているとみなせる面があるにしても、全面的にそうした力があるわけではなく、ある方面ではそういう力が生じるとしても、別の面では官僚体制に依存していて、官僚体制を利用しながらそうしているわけで、現状の国家体制には官僚機構が必要不可欠な面があるわけだから、全面的にそれに逆らっていたら何もできなくなってしまうわけで、しかもリーダーとしての役割を引き受ける者が、その全てをコントロールしているわけでもなく、ただそれが頂点から全てを見渡す目としての役割を引き受けているに過ぎず、その目が世の中の隅々にまで行き届いているとしても、象徴としてそんな風に見えるだけであり、それは演技としての行為であり、しかも自覚なき演技である可能性が高いわけで、それ自体が官僚体制によってコントロールされている可能性も高く、しかも官僚体制による国家支配にしても、それ自体が空疎な演技である可能性まであるわけで、確かに官僚の長である大統領が保護貿易を推進しているように見えるかもしれないが、その一方でアメリカでも中国でも自由貿易を利用するグローバル企業が着実に育ってきていて、例えば北朝鮮が目指しているらしいスイスでも、国家の官僚機構とともに国連に関係する様々な官僚機構の本部が置かれている一方で、資源穀物メジャーのグレンコアや食品大手のネスレや高級時計のロレックスなど、様々なグローバル企業を抱えていて、国家の面でも国際的な面でも企業の面でもさらに銀行などの面でも、まるでそれぞれが官僚機構の複合体の様相を呈しているのではないか。


7月17日「利益の意味」

 現状で成り立っている人や団体などの活動は、それなりにうまくいっているから成り立っていて、実際にうまくいかなくなれば活動できなくなるわけだが、たとえその活動が社会に何らかの弊害をもたらしているとしても、活動自体が成り立っている限りで、それなりにうまくいっていることになるだろうが、なまじうまくいっているからこそ、弊害をもたらしていることに関して批判を浴びても、やめるわけにはいかない事情が生じていて、それが活動から何らかの利益が出ていることになれば、簡単にはやめさせられない関係が生じていて、特にそこから利益を得ているのが、何らかの権力を担っている勢力だと、その権力を行使して利害関係を作り上げている可能性があって、そうした権力関係を取り除かない限りは、そうした行為をやめさせることはできないだろうし、そういう意味で社会の中で張り巡らされている権力関係は、そうした関係が社会の中で有効に機能している限りは、ちょっとやそっとでは打倒することはできない場合が多いのではないか。またそうなっているからこそ、そうした勢力は権力を行使できる立場を築こうとするわけで、そこからもたらされる利益を確実に得るには、そこに権力関係を構築して、利益を享受できる立場を固定化する必要が生じるわけだ。それは民主的な制度にも言えることだろうし、一般の民衆に主権があって、その主権に基づいて議会へ代表者を送り込んで、国政を制御できる権利を有しているはずなのだが、建前上はそうであっても、そこに政党や行政の官僚機構やマスメディアなどが絡んできて、民意や世論を自分たちの意のままに操ろうと企ててくるわけで、また選挙で選ばれた民衆の代表者たちも、それらの勢力と結託して、権力を民衆に向かって行使する立場になろうとするのだろうし、そうした作用が及ぼされる限りで、国民主権という制度的には民衆が本来保持しているはずの主権自体が、空疎で力のないものに形骸化させられているのだが、メディアなどの事前の予想に反して政権交代などが起こった場合には、かろうじて国民主権が実質的な力を持っているように思われるかもしれないが、もちろん政権交代したからといって、実質的な政治状況に変化がもたらされるわけでもない場合も多いわけだが、それでもそれまで権力の座を占めていたような政治勢力が、形だけでも交代したことになるわけだから、それが状況次第では実質的な意味を持つ場合もあるのではないか。そしてそうした政権交代が頻繁に起こるような事態になれば、政治的な権力の行使を伴う利害関係が相対的に弱められることになるかもしれないが、それも程度の問題でしかないだろうし、ある程度は権力に実質的な力が生じていないと、それが権力である意味がないだろうし、そして権力を行使すること自体が利権になるわけだから、そこから利益が生じるのは当然のことであり、それがどのような内容を伴うとしても、政治や行政の場で何らかの権力が行使されている限りで、そこに利害関係が生じていることになるわけで、そうした利害関係の中で、利益を得るための画策が絶えず生じることになって、それが制度を歪めるような動作を伴うと、何らかの不正行為となるわけだが、そうしたことを行なう人や団体が公的な制度を歪めて、私的な利益を求めようとしていることにもなるわけで、制度的にはそうした行為が批判されて当然である反面、そうした私的な利益の追求を当然視するような態度も、絶えずそんなことをやっている勢力の内部では生じているのではないか。

 またそうであっても制度自体が民主的な体裁を保っていれば、いくら私的な利益を追求しようと企てても、絶えず法律を参照して是正を求めるような揺れ戻しが起こるだろうし、そういう意味で法律にも一定の効力があり、その存在意義もそれなりに実質的な役割があるわけだが、それがどこまで有効に機能するかは、民意や世論にもよるだろうし、それが権力をほしいままにして私的な利益の追求を容認するような傾向にあるのなら、国民主権など有名無実なものになってしまうだろうし、その私的な利益というのが政党の利益であり各省庁の利益でありメディアの利益であることをわかっていない人も大勢いるのかもしれないし、また公共の利益という概念の意味がわかっていない人も大勢いるだろうし、その誰にも分け隔てなく利益をもたらすという意味がわかりにくいわけで、利益を得るに当たって何らかの条件をつけないと利益とはみなせない可能性があって、そうだとすれば利益は特定の人や団体に優先的にもたらされるものだろうし、それが誰にも分け隔てなくもたらされたら利益とは言えないような気にもなるわけだが、求めようとすれば誰でも得られるのが公共の利益であり、要するに必要とされる人や団体に無償でもたらされるのが公共の利益となるわけで、それが私的な利益となると、求めようとしても特定の人や団体以外にはもたらされないのが私的な利益だと言えるだろうし、要するに特定の人や団体が優先して利益を独占できることになり、特定の人や団体だけに利益をもたらされるように権力が行使されるわけだが、それとは逆に特定の人や団体だけに利益がもたらされないように権力を行使するのが、公的な権力の行使にもなるわけだが、その辺で権力の行使についてわかっていない人も大勢いるだろうし、わかっていない人たちの民意や世論が優勢となってしまうと、特定の人や団体による公的な権力の行使の私物化が起こってしまうわけだ。また求めようとすれば誰にでも分け隔てなく無償で利益がもたらされると、利益にも限りがあるから過剰に求めるとすぐに枯渇してしまうので、そうならないような措置を講じる必要も生じてくるわけで、その妥協の産物としてほとんどの人が求められる低価格で利益を提供する制度が構築されていて、それが水道事業のような公的なサービスとなるだろうが、他にも電気やガスや郵便や電話や鉄道やバスなどの事業もあるのだが、そちらの方は日本では民営化されているが、それも一応はほとんどの人が料金を支払える価格で提供されているだろうし、そうした民営化されている事業と公的な水道事業との区別をどうつけるかが、曖昧な部分もあって、いっそのこと水道事業も民営化すればいいという議論も起こっているわけだが、他にもゴミの収集や警察や消防や救急搬送などもあるし、それらも民間で行なっている部分があることは確かだが、たぶん公と民の間ではっきりした区別をつけるのは困難だろうし、全ての行政サービスを民営化すれば、そもそも政府自体が不要になってしまうわけで、そうなると国家も不要になってしまい、現状ではそんなことはありえないわけだが、公共の利益というのはそういう意味ではっきりしない面があるのは確かで、それをはっきりさせようとするのは無理なのかもしれず、あまりそういう方向で突き詰めて物事を考えるのは、やらない方が無難なのかもしれないが、世の中の状況次第では考えざるをえない成り行きも生じてくるのかもしれず、それらのどこまでが良くてどこからが悪いかは、やはり民意や世論が決めるような成り行きになる可能性があるわけだ。


7月16日「実感を裏切る事態」

 何となくそんなふうに思われる粗雑な一般論を言えば、産業の発展によって国家の経済規模が拡大して、古い慣習が廃れて大衆市民社会と呼ばれる状況が出現すると、安易な煽動者がメディア上で人気を集めて、それと同じようなメンタリティの大衆も、大勢出現しているようにも感じられてくるのかもしれないが、その実態の正確なところはよくわからないだろうし、そんな大雑把な把握ではいい加減な認識しか得られないのかもしれず、たぶん安易に党派性を強調するお粗末な煽動者などに思考の照準を定めていては、それこそ勘違いな認識しか得られないだろうし、そういう人たちは世の中のほんの一部を代表しているに過ぎず、それを社会の全体へと拡大して、一般の民衆のほとんどがそうした人たちを支持していると思ってしまってはまずいだろうし、それこそが煽動によって認識を誤らされていることになるのかもしれず、できればそういうくだらない煽動者は相手にせずに、単に無視していればいいことでしかないのかもしれないが、別に自身が世の中の状況をどう把握してどう認識していようと、それ自体がどうでもいいことなのかもしれず、ハンナ・アーレントの『全体主義の起源』などを読むと、19世紀のヨーロッパにそうした煽動者が腐肉に群がるウジ虫のように大量にわいて出た経緯が物語られていて、ついついそれと今の日本の状況を重ねて見てしまいがちになってしまうのだが、当時のヨーロッパと今の日本の状況が同じであるわけがないし、比喩としてフィクションのようにそんなことを重ねてしまうのも、かなりの勘違いを伴っているのかもしれず、確かに当時の政治的なポピュリズムを煽るルンペン・プロレタリアートとかモッブとか呼ばれる人たちと、ひたすらSNSなどを通じて安易で本当らしいデマを流して、体制を擁護して体制批判を封じ込めようとする現代の日本の煽動者たちとの間で、似通った雰囲気はあるだろうが、背景となる状況は全く違うだろうから、あまり似た面を強調しても意味のないことかもしれないが、そんな煽動に反発して、逆にひたすら体制側の粗探しをして、それに否定的な誇張を施してSNSを通じて流し続けるのも、不毛な復讐心を煽るような抗争にしかならないだろうし、これも当たり前のことだが、現状は別世界で起こっていることではなく、現実の世の中で起こっていることに過ぎないわけで、しかもそれらの煽動が安易なデマや大げさな誇張を伴っているとしても、それも単なる本当らしく見せかけている情報でしかなく、それらの活動が一部で人気を集めて、そうした人たちの実際の活動につながっているとしても、それを不快に思うなら無視すればいいことでしかないだろうし、現実の動向や現象などと結びつけて、それを安易に誰のせいにしようと、実際に特定の政治家や政党などをいくら馬鹿にしても、そうした馬鹿にされている政治家や政党の肩を持ちたいのなら、支持したければすればいいことでしかなく、彼らは彼らでそれらの政治家や政党の足を引っ張りたいのだろうし、実際に付け入る隙がそれなりにあるのだから、それはそれでそういう人たちがいても構わないのではないか。そしてそういう人たちの行為や活動と、実際に政治家や政党などが行なっている行為や活動とは別の水準で行われていることであり、また政治家や政党が行なっている行為や活動と、一般の民衆が行なっている普段の行為や活動との間に、何らかの関係や接点があるにしても、だからと言ってそれらの政治家や政党などを支持することと、その人が行なっている行為や活動に関係する利害とは、それほど重なる部分はないのかもしれず、そういう意味で自身の境遇とは関係のないことに賛同したり共感しても構わないような状況も生じているのかもしれない。

 そうしたことを考慮すれば、無理にそれらを自分にとっても切実な問題だとは捉えない方がいいのかもしれず、そこに実感を伴った何らかの隔たりや距離感を設定しないと、そうした物事に関する客観的な認識には至れないのかもしれず、しかも別に無理に至らなくても構わないだろうし、その場の感情に流されて、それらの人たちに対して不快感をあらわにしても構わないが、実際にそういう成り行きに対して、どうとでも受け止められるわけではないにしても、実際の生活実感からある程度は距離を意識できる人がほとんどなのかもしれず、少なくとも直接の当事者としての意識は希薄だろうし、それもメディア経由で受け止めていることにすぎないのだから当然なのかもしれないが、その間接的な実感というのが、忘れてはいけないことかもしれないし、別にそこから距離を縮める必要もないのかもしれないが、人によっては切実さを実感して距離を縮めて、当事者として振る舞うような立場となってしまうのかもしれず、そうした人たちが実際に沖縄の辺野古あたりには群れているのかもしれないが、それも全ての人がそうなってしまうのではないのは言うまでもないことで、それらの全てがどこまでも部分的なパフォーマンスであり、しかもそれがメディアを通して誇張されているわけだが、感情的になってそうした行為を否定したい人もいくらでもいるのかもしれないが、一方でやりたい人にはやらせるべきなのかもしれないし、そうした行為には寛容であるべきなのかもしれないが、そうした事情を考慮できない政治体制でもあるのだろうし、それに関しても隔たりを感じてしまうのが普通の感覚かもしれず、そうした隔たりや距離感を無理に縮めようとしても縮まらないのも、普通の感覚なのかもしれないが、一方で法律や制度などから幻想される民主的な政治体制というのもあまり信用すべきではないのかもしれないし、政治家の資質や政党のあり方も、法律や制度に照らし合わせて理想的な人や団体となってほしいと思うのは勝手だが、現状から影響を受けたメディアが、明らかにそうではない実情を伝えていることも確かであり、それを簡単にポピュリズムだと切って捨てて否定してしまっても、何を述べていることにもならないだろうし、そんな実情に対応することでメディアが成り立っているのだろうから、それに対してメディア全般が批判的な態度を表明してほしいと思っても、無い物ねだりにしかならないだろうし、現状に無理な解釈を強引に当てはめてみても、その現状から裏切られてしまうのが関の山でしかなく、そういったところで政治的な権力に媚びへつらうような本性を隠そうともしない人々を軽蔑してみせるのも、何か建前としてのポーズに過ぎないこともわかりきったことかもしれないが、そういう姿勢がないと何のための民主的な政治体制なのかわからなくなってしまうだろうし、それでもなおそうした実際の政治体制が危機的な状況をもたらしていると捉えるのも、何か大げさに物事を捉え過ぎているように思われるわけで、確かに批判すれば無い物ねだりに結びつくだけかもしれないが、現状でないものを理想状態と捉えるのは当たり前のことだろうし、理想を追求することがそうした無い物ねだりな面を伴うのも否定できないことであり、別にそんなことまで否定する必要はなく、現状が酷いと捉えるのも少なからず勘違いを伴っているとしても、その酷い状態が当たり前のように存在しているのだから、それ自体は否定しようのない実感であり、しかもそんな現状の中でのうのうと暮らしている実感が、酷い現状を虚構だと思わせるわけでもなく、要するに辻褄が合わないのだが、無理に辻褄を合わせようとしなくてもいいのかもしれないし、それが実感なのだから、そんな現実が意識の中で実際に構成されているのではないか。


7月15日「探求の真実」

 知識は知ろうとすることによって養われるだろうが、何を知ろうとするかによって、その知識を役立てようとする程度も違ってくるだろうし、何かを切実に知りたいと思う時、切実にそう思うのだから、その人にとってはそれを知ることが重要だと思われるのだろうし、そういう場合の求めようとする知識と、例えば何かのついでに雑学程度の知識が身につけるのとは、知識の質も重要度も異なるのは当然だろうが、特に知ろうとして知った知識でなくても、後になって思いがけない偶然の巡り合わせから、身につけた知識が役立つこともあるだろうし、特に意識して何かに役立てるために知ろうとする知識でなくても、生きていくには知っておいて損はない知識というのもあるかもしれないが、その反面、知ろうとして身につけた知識が何の役にも立たないこともあるのかもしれず、あるいはそれを知ってしまったばかりに、身の破滅を招いてしまうような知識というのもあり得るかもしれず、また特に何に役立てようとは思わなくても、興味深いことを知ろうとするのは自然な感覚だろうし、何の意図も思惑もなければ、知識に関して特に役立つか否かで、その重要度に差をつけるようなことはしないのかもしれないし、普通は他の様々な動作と知識がつながっていて、単に知識だけで独立した価値など意識しないのかもしれず、自身の活動の中で知識が役立つこともあるし、その過程で意味を調べたり用法を検索したり、必要に応じて知ろうとするわけで、それが自然な動作の流れの中で知識が活用されている場合、それが意識して身につけた知識であろうと、その場の必要に応じて新たに調べた知識であろうと、どちらでも構わないのかもしれず、その場の状況に応じて自分の記憶から取り出そうとする場合と、たまたま知らなかったからネットで検索して調べる場合とで、特に違いなど意識しないだろうし、知っていればそれだけ対応が迅速に行えるぐらいで、特にその場では差を意識しないだろうし、知識を活用して何に役立てようとしても、そうした知識の活用に関して、その時の切実さの度合いに応じて、知識の重要度は異なるかもしれないが、知識そのものは記憶として脳にしまいこまれていようと、あるいは辞書に載っていようと、検索してネット上から求めようとしても、大して違いを意識しないだろうが、そこから入手した知識を新たに組み合わせることで、思いがけない発見があったり、またさらなる疑問が出てきたりして、そうした成り行きが活動につけ加わることで、何か探求の幅が広がって、以前よりは少しは見聞の幅が広がったように感じられるとしても、それがその後において何の役に立つかは、その時にはわからないだろうし、そこから何を予想しても、それが当たったり外れたりするにしても、そうした探求が後に役立つか無駄になるかは、その時にはどうでもいいことかもしれず、ただ何かを知り得たことが自己満足をもたらすだろうし、またなまじ余計なことを知ってしまったばかりに、それまでの探求がさらに混迷の度を深めることもあるだろうし、それがその後の成り行きに何をもたらそうとも、その後の活動を左右する上で、知識の入手が何らかの影響を及ぼすことは確かだろうし、またその人の行き当たりばったりの探求の成り行きや結果が、一貫した計画を伴った他の活動や試みに何らかの影響を及ぼすようなことがあれば、そんなことをやっている人や団体にとってはいい迷惑だろうし、必ずしも個人の探求が他の人々や団体に歓迎されるわけでもなく、場合によっては弾圧の対象にもなり得るのではないか。

 それが結果的に何をもたらすのかはさておき、知識に基づいて何をやるにしても、思惑通りの結果が伴ってくれば、そうした試みが成功したと思うだろうし、それが大規模な事業であるほど、その結果的な成果がそれに関わっている人や団体に多大な影響を及ぼすだろうし、そんなやり方が続いていく限りは持続的な成果を約束するものとして、そうした事業にそれに関わる人や団体を依存させる効果も出てくるのかもしれず、それの代表例が国家的な事業だろうし、さらに言えば国家そのものがそうした事業そのものであるわけで、大勢の人や団体がそれに関わって、そこからもたらされる成果に身も心も依存させることにもなり、中には身も心も国家に捧げるつもりでそれに関わることに熱中している人もいるだろうし、そうしたことに幻想を抱かせるのが事業規模の魔力なのかもしれないが、そうした効果や成果に期待や幻想を抱いて、大前提として国家ありきな思想や信条が保守主義でも左翼思想でも国家主義的な枠組みの虜となっている実態もあるだろうし、何とか自らの活動やそこから生じる思想信条を、国家という枠組みの中で活かしたい衝動に駆られるのが、政治家の常であるのかもしれないが、それ以前にこれまでに行ってきた自らの実践を世の中の役に立てたいと思うのも、公的な政治の領域では自然な発露だろうし、それ自体を否定する人は誰もいないだろうが、それが高じて独裁的な政治家が出現するわけで、またその場の政治的な成り行きや情勢の中でそうした政治家が必要となる機運も高まるだろうし、それも実際にそうした政治家が権力を掌握した時の在り方ではなく、やっている内容で判断すべきだと主張する人たちも出てくるわけで、そうした人や団体がそうした政治家に好意を抱いて積極的に支持するから、独裁的な政治の在り方が実現するわけだが、行なっている内容が世の中の役に立っているのだからそれで構わないと思うのは当然だとしても、その一方で大した成果も結果も伴わなくても、民主的な政治の在り方を重視する姿勢というのもありなのかもしれず、その辺で民主的な手続きや制度を重視しつつも、そうした体制が世の中の役に立つような実践を行えるように工夫を凝らすという、ある意味ではいいとこ取りで無い物ねだり的な理想を追求したい衝動にも駆られるかも知れないが、現状で行われている実態としてはどちらの傾向もあるだろうし、どちらであっても構わないような状況が出現しているのかも知れず、その場の情勢によって地域的な偏差はあるにしても、いくら独裁的な政治権力を掌握していても、私的な利益からではなく公的な利益のために世の中に尽くしたいと考えていることは確かで、それを私的な利益の追求とみなして体制側を糾弾するのが左翼的な紋切り型ではあるわけだが、それとは別にやっていることが本当に世の中のために役立っているのかというと、たぶんそういう要素を恣意的に取り集めてくれば、そんなことが言えるだろうし、またそうではないような否定的な要素を取り集めてくれば、左翼的な糾弾の典型のような雛形にも収まるわけで、そうした範囲内で何をどう解釈しようと、その域を出ない擁護や批判が行えるわけで、実際にそうしたことを行なっている人たちも大勢いるわけだろうが、そうした議論や実践の積み重なりによっては見えてこない水準もあるのだろうし、それが何かというと、現状を構成している宣伝や煽動を取り除いた後に残っている現実そのものなのではないか。それが何でもないような現実であれば、恣意的な宣伝や煽動によって魅力的に見せようとする思惑が働いていることは確かだが、その一方で批判や糾弾によって否定されるべきものとしての現実もあるわけだが、それをどう解釈してもその場には何でもないような現実しかないわけだ。


7月14日「普遍的な傾向」

 普通の状況下では政治的にも行政的にも何か失敗した事例が起こると、必ずそれについての批判がメディアから出てくるはずだが、その失敗例を活かすには同じ失敗を繰り返さないことにもなるが、それが省庁などの官僚的な動作であると、同じことが繰り返されて、また同じ失敗が繰り返されることにもなって、しかも同じことが繰り返されるということは、そうした官僚的な動作としては一応は成功していることになるわけで、その活動に関して予算がついて実際にそれが行われている実態があるわけだ。そしてそれに対してメディア上で批判されている実態もあり、批判者たちにとってはそれが失敗した事例であっても、行政側からすれば実際に予算がついて行われていることになるわけだから、そういう水準では活動が成功している部類に入るだろうし、批判されながらも行なっている実態があるわけだから、そうした批判者たちを事実上抑え込んでいることにもなるわけで、そういう水準でも成功していることになるのではないか。その逆に官僚的な動作としての失敗例となると、メディア上で批判されて議会などで問題視されて、そうした活動ができなくなることを意味しているだろうし、そうなればメディア上で批判している人たちにとっては、自分たちの批判が活かされたことについては成功と言えるだろうし、議会でそれを問題として指摘して追求した政治家や政党などの政治活動としても成功と言えるわけだが、それをやめさせられた官僚機構としては失敗した事例になり、そこから何らかの対策が出てくるのかもしれず、それに関しては例えば、今後そうした失敗が起こらないように、議会工作を活発化させて、議会で主導権を握っている政党などの政治勢力やマスメディアなどの報道機関と癒着して、自分たちの意向が通るように画策してくるのではないか。そういう成り行きの中で何が問題なのかといえば、官僚機構による行政の権限を逸脱した議会やメディアなどに対する工作や対策となるわけだろうが、表立ってそうしたことが行われているとは考えにくいし、何らかの陰謀や裏工作が行われていると勘繰りたい向きもあるかもしれないが、よく知られている実態としては、官僚機構出身の元官僚たちが直接議員や大臣となったり、学者や評論家やコメンテーターなどのメディア関係者となることが多いだろうし、そうした人たちの行動や発言が行政側を利するようなら、官僚機構の意向がそこに反映されていることにもなるだろうし、さらにそれを一般の民衆がありがたがっているようなら、彼らも行政側の味方となるだろうし、民意も世論もそうした意識から影響を受けながら形成されることにもなるわけだが、そうしたことの全てが悪いことだとは思えないし、そうした活動の内容が世の中のためになっているように思われるなら、支持されて当然だともいえるだろうが、結局は官僚的な動作の全てが悪いわけではなく、事の良し悪しはその活動内容で判断すべきとなると、制度的な問題点は不問に付されてしまうのかもしれないが、では活動内容と制度的な問題点の両面から改善や改革を行うべきとなるのだろうが、そうした主張自体が真っ当で当たり前の意見となってしまい、何か言っているようで何も言っていないような意見となってしまうのかもしれず、そうではなく個々の事例の中で具体的な問題点を指摘していくしかないのかもしれないが、実際にメディア上でそんなことが指摘されてきた結果として、現状に至っているのも当たり前の事実でもあるわけだ。

 それに関してでは具体的に何をどうしたらいいのかとなると、すでにどうにかなっている実態があるわけで、そのどうにかなっていることについてああだこうだと文句を言っている現状もあり、文句を言っている人たちはこれからも言い続けるだろうし、そうした文句がメディア上で話題となって無視できなくなれば、その対象となっている人や団体が何らかの対策を立ててくるだろうし、そうしたことが今後も繰り返されていくだけかもしれないが、そうした中から何らかの新たな動きが出てくるのだろうし、そこから新たな事の成り行きや活動も生じてくるだろうし、関係する人や団体はそれに対応したり対処してくるだろうし、そんなことも繰り返されていくわけだが、そこから期待されることは、そんなことを繰り返していくうちに民衆にもそれなりの知恵がついてくるのかもしれず、政治的にも行政的にもメディア的にも、その中で主導権を握っている人や団体が、民衆の支持を求めていることは確かで、その支持や信認を背景としてその場の主導権を握ろうともしているわけで、そのためにしきりと宣伝や煽動を行なっていて、具体的にメディア上で特定の人や団体の行動や言動を讃えたり貶したりしている実態もあるわけだが、それ自体が本当に正当な内容なのか吟味してみないとならないだろうし、それが特定の思想や党派性に偏っていれば、行動や言動の内容ではなく、レッテル貼り的な傾向があるだろうし、その党派に属していれば何が何でも批判したり貶さなければならないような義務感に囚われていると、やはりその傾向が顕著になっているということであり、また特定の人物には特定のあだ名をつけて小馬鹿にする癖がついていると、やはり頭ごなしに否定的な評価を下そうともしているわけで、そういうところで感情的に過去の因縁を持ち出して、だからダメなんだと強調したい場合もあって、いつまで経ってもそれを持ち出す傾向があれば、明らかに偏向しているだろうが、だからと言ってそれを一概に否定するのも大人気ないかもしれないが、人はその場の状況にとらわれてそうしたことをやってしまう傾向もあるわけだから、人や団体にそうしたことを行わせるような状況がその場に生じていることが、多くの人に同じような態度や言動や行動をとらせるわけで、それが紋切り型的な動作でもあるわけだが、そうした傾向の中で無自覚に踊らされてしまうよりは、それにいち早く気づくことも必要かもしれないし、周囲がそうなった時に何かおかしいと疑念を抱けるように、日頃から注意深くメディアの動向を注視していれば、そうなるように特定の人や団体が宣伝したり煽り立てている実態に気づけるのではないか。そしてそうした動作に気づける人が多いほど、安易な宣伝や煽動には動じない傾向が世の中に広がって、そうしたことをやっている人たちが民衆の意識に植え付けようとする偏った価値観や政治思想に染まらない人も増えてくるし、明らかにおかしな官僚的な動作の繰り返しにも支持を与えない意識が民衆の間にも芽生えてくるかもしれず、どう考えても大した実績も上げていない特定の政治勢力が、長期間にわたって民衆の厚い支持を背景にして政府の実権を握っているようなマンネリ傾向からも解放される可能性も出てくるし、むしろ政治的な実績というのが、不必要に過大評価されたり過大否定されるようなことにはならなくなるのではないか。実際にこれまでの歴史的な経緯を偏った先入観なしに見ていけば、民主的な政治制度がそれなりに定着している状況下では、どんな勢力が実権を握っても可もなく不可もないようなことにしかならないだろうし、逆に過大評価や過大否定が世の中で流行るほど全体主義のような偏った傾向になるわけで、だから特定の勢力を激烈に評価したり否定したりする主張の内容自体がおかしいことは踏まえておくべきなのではないか。


7月13日「主張の妥協点」

 政治というと国家単位で物事を考えがちになるが、それは行政との関連で当然のことかもしれないが、統治という技術的な問題に関しては、政府に関連して官僚機構がある程度の権限を持っていて、その官僚機構を抱えている各省庁がそれぞれの専門分野で国家に関する統治を行っていて、統治の対象として土地や建物や設備などから人や集団や財産や情報などに至るまで、多種多岐にわたる統治項目があるわけだろうが、世の中の全ての物事を管理しているわけではなく、法律で規定していることに関して管理しているわけだが、法律が定めていることに関しては、法改正などが行われない限りはそのままになってしまっていて、それが時代の変遷によって実情と合わなくなっている面があれば、それに関して何かおかしな事態が起こっているかもしれないし、そうした面で世の中の実情に合うように法改正すべきなのかもしれないが、それが本当に世の中の実情に合うことなのかも疑問で、それよりも法改正を目論む政治勢力の都合が反映するようなことになりがちで、それに関して説得力のある理由を説明できれば、一般の民衆も納得するだろうが、納得しようがしまいが、議会の多数決よって決まってしまうし、その多数決の基となる選挙の時に、その政治勢力へ投票するか否かの判断基準が、必ずしも法改正の賛否ではない場合もあって、その辺が曖昧なまま、議会で主導権を握っている政治勢力と、そうした勢力を支持する特定の利害関係者や業者の思惑が、法改正の中身に反映しているようだと、一般の民衆には与り知らない内容になって、そんな内容で法改正が行われてしまうようなことも起こりうるわけで、それに対して反対する勢力の主張は、毎度おなじみの危機感を煽りまくりな主張だから、そうした人たちをにわかには信用できかねる人も多いだろうし、日本の行政の現状だと、法改正自体の中身も信用できないし、かと言って何もやらずに現状維持では、世の中の実情に合わなくなっている制度も多いのかもしれないし、どちらにしてもうまくいっているとは言い難い現状があるのかもしれないが、だからと言って危機感を煽りまくりな反対派の主張には辟易している人も多いだろうし、確かに行政が予算を無駄に使って、効果が疑問視されていることをやっているのかもしれないが、さらに効果どころか弊害までもたらすようなことが平然と行われている現状もあるのかもしれないが、それに関して少なくともやるべきなのは、政治家や政党などの政治勢力としては法改正や行政改革などについては、それに関して説得力のある説明をしていくしかないだろうし、メディアもそうしたことを積極的に伝えて、選挙の時に民衆が投票に際しての判断基準となるような報道内容にしていくべきであり、実際にもそういう傾向になっているのかもしれないが、そうなっているからといって、代わり映えのしないことが行われている現状には変わりないだろうし、税収や国債などによって組まれた予算が、無駄で意味のないことに使われているように思われても、それに関して執拗に危機感を煽りすぎな傾向もなきにしもあらずで、反対派が主張するように、実際にこのままではこの先とんでもないことになってしまうとしたら、かえってそうなってしまった方がわかりやすくていいのかもしれないし、現状で政治的な主導権を握っている勢力の人たちは、そうはならない可能性の方が高いと見ているのかもしれないが、どちらにしても制度的には手遅れになってからでないと、政治情勢が動くことはないのかもしれない。

 それにしても国民や国家のためになることと、各省庁や特定の政党や企業や報道機関やその応援団のような人たちのためになることとの間で、かなりのずれがあるとしたら、ではなぜそれが国民や国家のためにはならないのか、一般の民衆が納得がいくような説明が求められているのかもしれないし、実際に一部の批判者がそうした説明を行なっているかもしれないのだが、いかんせん現状で主導権を握っている主流派は馬耳東風で聞く耳を持っていないだろうし、しかもわざとそうしているのだから、そうした態度は悪質極まりないかもしれないのだが、それに対する批判者の方でも一般の人々が納得がいくような説明をすることしかできないだろうし、聞く耳を持たずに煽動や宣伝によって偏向した主張を行なってしまうと、結局それらの人たちの戦略的な功利主義と同じになってしまうわけだから、主流派が行なっていることの中で、普通におかしいところを指摘するにとどめておいた方が無難で妥当だろうし、下手に勝とうとしてしまうと、主張の中も余分な宣伝や煽動が含まれてきて、かえってそれでは正確さを欠いて信用や信頼を失いかねないし、あまりにも感情に訴えかけるような誇張表現も慎んだ方がいいだろうし、結局偏向した主張に煽られて、それに対する仕返しなどを目論んでしまうと、復讐心に凝り固まってしまうような醜態を公衆の面前で晒してしまうわけで、なるべくそうした否定的な言動が避けた方がいいのかもしれないし、ことさらに危機感を煽らなくても、おかしいところを指摘するだけでもそれでそれなりの説得力が生じるわけで、それ以上のこのままでは危ない的な言及はかえってしない方がまともな言説になるのではないか。たぶん批判勢力が主導権を握る可能性が出てくるのは、もはや手遅れになってからでないとないのかもしれないし、このままでは危ないと危機感を煽ってしまうと、そうなる機会が永遠にやってこないのかもしれず、要するに危機感ばかりを煽っていると、いつの間にか手遅れを通り過ぎてしまうわけで、そうなると状況のリセットが待ち受けていて、主流派としては全てをご破算にして何食わぬ顔で再出発してしまい、そういったごまかしが通用してしまう状況が生じてしまうわけだ。だからと言って破綻することを願っていては他力本願でしかないわけだから、普通におかしいところを指摘して、こうすれば良くなるということが確実なら、それも指摘しておけばいいだろうし、そうやって一般の民衆の信用を勝ち取る以外に主導権を握る方法はないだろうし、大事なのは反体制的なメディアの煽動に乗らないことだろうし、他の勢力や政治家の悪口は極力控えることかもしれず、また自分たちが主導権を握ったら何をやりたいかを明確に主張することであり、そのやりたいことに説得力が生じるように工夫を凝らすことかもしれないし、もちろん机上の空論になってしまうような実現から程遠い主張ではまずいわけで、実際にできるように思われることをやらなければならないだろうし、しかもあまりにも理想的なことを語ってもまずいし、うまくいかない場合があることも言い添えておくぐらいの謙虚さも必要かもしれないし、たぶんそうした改革の試みの大半は実際にうまくいかずに挫折してしまう場合が多く、そうした失敗に終わるような成り行きであっても、その中で曲がりなりにも何らかの改善が図れるなら、やってみた甲斐があったことにもなるだろうし、それくらいの気構えでやろうとするなら、案外それなりの成果がもたらされる可能性も出てくるだろうし、現状で主導権を握っていない勢力の主張というのはその程度で構わないのではないか。


7月12日「主導権の確立」

 社会の中で人や集団に何らかの役割が生じている状況は、そこだけに注目すれば何か当たり前のように思われるかもしれないが、結果的に役割があるということは、様々な紆余曲折を経てそうなった経緯があるわけで、最初から特定の役割が特定の人に割り当てられているわけではないだろうし、実際に何の役割も生じていないように思われる人でも、そこからその人が社会の中で活動してゆけば、他の人や集団との間で何らかの関係が生じた時点で、何らかの役割を付与されることになるだろうし、結局役割というのは人や集団の間で何らかの関係が結ばれた時に、その関係の傾向や内容から生じるものだろうし、関係がなければ役割も生じないし、全くの無関係のままだと、たぶん人は生きてゆけないだろうし、何かそこに社会的な関係が生じているから、その関係を通じて糧を得ることができて、それが何らかの役割分担を伴うような関係で、その関係の範囲内で行なっていることが、それなりにうまくいっているようなら、そのうまくいっている程度に応じて信頼や信用が生まれることになり、実際に関係を結んでいる双方が信頼し合っていれば、それなりに良好な関係が築かれていることにもなるわけで、人と人とが関係して何か活動するようなことになって、その活動がうまくいっている限りで信頼関係が成り立っていて、その関係から生じている役割分担もそれなりに機能していることになるのだろうが、実際には活動がうまくいかないこともあるだろうし、活動がうまくいかなくなってくると関係もこじれてくるし、役割分担もうまく機能せずに、場合によってはそこから信頼関係が壊れて、関係を結んでいる人々の間で相互に疑心暗鬼になって、それが高じると険悪な仲になることもあるだろうし、そうなると活動が破綻して関係も終わりを迎えてしまうような成り行きにもなるだろうし、そうなってしまうと関係を解消して別れることになるのだろうが、そこまで関係が悪化してしまうと、そうなる過程で争いや諍いなども起こるだろうし、訴訟沙汰などに発展してしまうケースも出てくるのかもしれず、結局人と人との間に関係が生じるということは、そこから良くも悪くも様々な出来事を誘発することにもなるわけで、それがうまくいったりいかなかったりすることから、互いに様々な感情も抱かれて様々な事態も生じさせて、様々な結果を引き起こすわけだが、だからと言って結果を恐れてなるべく関係が生じないように配慮したところで、何かしら社会との関係を維持していないと何も得られなくなってしまい、その先に待ち受けているのは自らの死でしかないだろうし、そこに何らかの関係が生じていることがその人が社会の中で生きている証しとなるわけで、それ自体が人間の社会性を物語っていることになるのだろうが、集団を作って活動することの利点や欠点をあれこれ述べてみても、その場の状況に応じてそうなってしまうわけだから、そうしたことを主体的に選べるわけでもなく、否応なくそんな事態を招いてしまうとしたら、受動的に対応することしかできないのかもしれないし、それ以上に何ができるわけでもなく、そうした状況を受け入れた上で、そこから工夫を凝らして、生じている関係の内容や傾向を改善していくしかないわけで、そういうことに関してうまく対処できれば、快適な生活を実現できるかもしれないが、誰もがどんな状況下でもそうした対処ができるわけでもなく、ある程度は否応なく様々な事態に巻き込まれてしまうわけだ。

 そして社会の中で集団による作業が行われる限りで、必ずしも最善のことが行われるわけではなく、その場での組織的な構成に応じて作業が行われることになるから、そこで行われる作業の内容や傾向にはその組織的な構成が反映されるわけで、集団が構成されて作業が行われる経緯や過程において、その集団ができることや内容が決まってくるのだろうし、集団が維持されているからといって、その集団によって何でもできるわけではないだろうし、またその集団のやっていることをいくら批判したからといって、その批判内容にいくら説得力があるからといって、その集団のやっていることを変えるまでには至らないだろうし、そこで行われている作業の実際に行われている実態を変えるには、その集団内で主導権を握らなければならないだろうし、それには集団を批判することとは別の作用が必要となり、必ずしも批判内容が説得力を持つからといって、批判者が集団に受け入れられるわけではないだろうし、大抵の場合は批判者はその集団と敵対関係にあるわけだから、受け入れられるどころか拒否反応を引き起こすことの方が多いだろうし、集団内の拒否反応を取り除いた上で、さらに集団内で主導権を握るのは並大抵のことではなく、そうした試みの大半は失敗に終わる可能性の方が高いわけだろうが、だからと言って批判者が引き下がるわけではなく、集団のやっていることを批判するからには、集団との関係を構築しようとしているわけで、自分の批判が集団に受け入れられるように努力もしているだろうが、そうした努力の過程でミイラ取りがミイラになってしまうように、逆に集団に同化させられて、かつて自らが批判していたこと率先して行うような事態にもなりかねないわけで、そうやって集団に取り込まれてしまう人が後をたたないから、集団のやっていることが周囲から批判を浴びながらも執拗に続いてしまう成り行きが生じてしまうのだろうし、またそういう成り行きによって集団に取り込まれない人たちは、いつまで経っても集団からは受け入れてもらえず、集団の周りで批判を繰り返すしかなくなってしまい、そうした人たちが十把一絡げにまとめられて批判勢力を形成している場合もあるわけで、もちろんそれは集団の側がまとめて対応しているだけで、それらの人たちに集団としての団結力など備わっていないから、一匹狼のように単独で吠えている場合も多く、だから大して社会に対して影響力を持たないし、大抵の場合は相手にされていないのだろうが、結局集団のやっていることが批判を浴びながらも執拗に続けられる背景にも、集団の側での選別が機能している面もあるわけで、集団に取り込まれてしまうような人たちは、集団にとっては受け入れ可能な人たちであり、周囲から批判を浴びるような行為を受け入れてまで、集団のために尽くすことができる従順な人であるとみなされるわけで、そういう意味でそうした集団に入るには、ある程度は批判を浴びるような行為を率先して行える度胸が試されているのだろうし、そこで集団への忠誠心が試されていることにもなるのではないか。だから集団の側でも安易に受け入れ可能なことはやらないだろうし、何かやることに抵抗を感じるようなことをあえてやることのできる人を集団の構成員に加えたいわけで、そういう意味で社会の中で主導権を握っている集団というのは、他の人たちから支持を得ている以外に、他の人たちを抑圧するようなことも行なっているわけで、そうしないと他の人や集団から舐められてしまうのだろうし、だから意図して行なっていることの他にも、それと自覚することなく他の人や集団を抑え込んでいるから、社会の中で主導権を握ることができるわけで、そうした行為も集団の社会的な役割として機能しているのではないか。


7月11日「改革の機運」

 世の中で起こっている様々な出来事に関して、たぶんそれがメディアを通じて世間の話題となっていると、何かそこに一定の傾向があるように思われるとしても、それらが他の出来事とどのように結びついているかというと、メディア上で何らかの関連づけがなされると、何かそこに地続きな部分があるかのように思われるかもしれないが、そうした傾向があること自体が何らかの批判に結びつくかというと、それが否定的な面であれば批判に結びつくだろうし、実際にそうした面が批判されるわけだが、たぶんそれだけではやりようがないのであり、何をやりようがないかというと、それが何らかの改革の試みだとすると、たぶん改革はそのような批判から生まれるわけではなく、逆説的に思われてわかりにくいかもしれないが、なぜか現状を肯定することからしか改革の機運は高まらないだろうし、それが現状を肯定するための改革だとすると、何やらごまかしのように思われてくるわけで、改革によって現状は肯定されるべきではなく、ただそんな現状は批判にさらされるべきかもしれないが、なぜか批判が改革に結びつくわけではなく、批判は批判以外には結びつかず、それが他の何に結びつくわけでもないのかもしれず、特に何に結びつかなくても批判者は現状を批判するしかないのかもしれない。そうであるならいくら現状を批判したところで無駄なのかというと、無駄なのではなく、ただ現状は批判されるべきものでしかなく、現状には常に批判される要素があり、それについては批判されるしかないのではないか。もちろん他にも現状には肯定される要素もあるのかもしれないが、そういう面で肯定されるとしても、別の面では現状を批判してはならないわけではなく、現状の中で批判される面があれば批判されるべきで、それとは別に肯定される面では肯定されればいいわけで、どちらがどうだというわけではなく、現状にも様々な現状があり、批判される部分と肯定される部分とがあり、他にも様々な部分があるだろうが、それらのすべてにわたって言及される必要もないのであり、現状の中で批判される面に関しては批判されるべきで、肯定される面では別に肯定されても構わないのではないか。そして批判される面と肯定される面とが重なる部分もあるだろうし、そこでそれを批判する側と肯定する側とで見解が分かれるかもしれないが、それも双方の立場の違いとして片付けてしまえば、何となくそれで構わないように思われてくるだろうし、そこで対立や軋轢が生じているとしても、そうなってしまう必然性があればそれが理由で対立していることになってしまうだろうし、それで納得してしまえばそれで構わないことになってしまうわけで、どうあがいてもそこから先へと事態が進まない現状があるわけで、それが批判勢力をジレンマに陥らせる原因となっているのかもしれず、事態の進展を促しようがないなら、そうした批判自体が無効なのではないかと疑念を抱いてしまうかもしれないが、それでもたぶん批判が無効なのではなく、必要に促されて批判が行われているのであり、その必要というのが現状を現状たらしめるために批判されなければならない部分があるわけで、それが現状の効果であり、現状が批判的な言葉を生産しているのであり、その生産された言葉のある部分が批判的な言説を構成していて、また別の部分では現状を肯定する言説も構成していて、それらの要素が様々に結びつきながら現状を言葉によって構成しているのであり、それ以外ではないわけだ。

 具体的に批判される部分というのが、人為的な行為や体制の中にあるのは当然ことかもしれないが、それが現状の中で安定して機能している部分であれば、改革のしようがない部分でもあり、またそこに何らかの権力が生じているとすれば、それも反権力的な立場から批判にさらされる部分でもあり、そこに力の不均衡が生じているから、民主主義の理念とは合わない部分にもなるわけで、何か特定の権力者が独裁的なことを行なっていて、それが諸悪の根源であるかのように思われてしまうのだが、システムとしてそうした立場の人を必要としている部分があるとすれば、そうした体制が必要悪として成り立っていることにもなるわけで、権力構造としてそうした役割を担う担当者が存在することになるわけだが、それが社会全般にわたって似たような権力者が出現するようなシステムが方々でまかり通っている現状があれば、やはりそれを批判する人たちが出てくるわけで、そうした人たちからすればもっと民主的なシステムを構築すべきとなるのかもしれないが、実際にそれがどのようにして改革されるかとなると、事の経緯や成り行きとしては、現状で主導権を握っている人たちによって改革が行われるわけで、反権力的な立場からではなく、独裁的な権力を握っている人たちが改革勢力を構成することになって、それらの人たちの都合が反映された改革が行われることになるわけだが、それも必要に応じて改革が行われるわけで、具体的にはそうした権力体制が衰退し始めると、当の体制の上であぐらをかいている人たちが危機感を募らせることになるから、何とか体制を維持するために改革を行うことになるわけで、その体制を維持するための改革というのが、反権力的な立場の人たちが主張するような理想や理念とは全く異なるものになる可能性はあるわけで、少なくとも権力者たちの必要に応じた改革になるわけだから、それらの人たちにとっては自分たちの権力が維持される形の改革が望ましいわけだが、それが必ずしも思惑通りにはいかない場合があるだろうし、場合によってはそれらの人たちを陥れて衰退させるような狡知が働いて、そうした役割が消失する可能性も出てくるわけで、それは人が有限の存在だから、いつまでも特定の人に権力が集中するわけでもなく、必ず衰えてくることがあって、その人に代わって別の人がそうした役割を担うようなことになると、必ずそれ以前の人と同じような権力が生じるかというと、そうでもないことの方が多いだろうし、それはその人の個性に依存する傾向にもなるかもしれないが、またそれとは別の面では同じような体制からは同じような人が権力者として登場する場合もあるわけだが、そうであるとしてもそうした体制が衰退傾向にあるなら、その衰退傾向に対応した人物が権力者として登場することにもなるわけで、そうなる限りでその衰退に乗じて他の勢力にもつけ入る隙が生じて、結果的にそれまでとは異なる体制に変わる可能性も生じてくるのであり、そうやって権力体制の変遷が生じることにもなるのだろうが、そうだとしても何をきっかけとしてそうなるかは、誰にも予想がつかないところかもしれないし、やはりそれはその社会が抱えている構造的な問題が影響を及ぼしてくるだろうし、それが批判の対象にもなってくるわけだが、世界的に見ればそれはその地域特有の事情ともなっているし、世界全体から見れば相対的な特徴を形成しているに過ぎないのかもしれないが、実際にその地域で暮らしている人にとっては、その中で主流派を構成している人にとっては肯定的に誇るべきことのようにも思われてくるし、反主流派を構成している人にとっては否定的に恥ずべきことのようにも思われてくるのではないか。


7月10日「予定調和の二項対立」

 世間の話題となることが人々の関心を呼ぶのは当然のことかもしれないが、人々の関心を呼んだから世間の話題となり、人々の関心を呼ぶことと世間の話題となることは同じことだとも言えるだろうし、別にどちらが先であっても構わないのかもしれないが、別に世間の話題とはならずに人々の関心も呼んでいないことであっても、世の中では様々な出来事が起こっているし、メディアが取り上げないことであっても、様々なことが行われていて、特にそれらに直接関わっていなければ、そうしたことについて関心を持つことも言及する必要もないかもしれないが、そもそも知りもしないことについて語れるはずもないのだが、それでも世の中の傾向や風潮などについて批判的に語ろうとするなら、それなりに知識のある人なら難なく語れるだろうし、それがそれなりにもっともらしく感じられるとすれば、それなりに説得力のありそうな内容になるのではないか。そしてそこから何が言えるかというと、世の中で起こっていることに関して、様々な出来事の間で関連性や実際に結びつきがあれば、それらが社会全般の傾向や風潮と地続きであるように思われるだろうし、それらに関して批判的な姿勢で何か語れるとすれば、批判的に取り上げる傾向や風潮に関して、それが世の中の主流を構成している人や集団が行なっている行為や動作として、あるいはその典型的な事例として批判的に取り上げられることが多いわけで、そうした主張に何か説得力があるように思われるなら、そうした問題となっている行為や動作を改めれば、世の中が良い方向へ変わっていくように思われるだろうが、そういう批判されるようなことを行なっている人たちが世の中の主流を構成しているわけだから、少なくともそれらの人たちが社会の中で主導権を握っている可能性が高いだろうし、だからそうした行為や動作が社会の中で目立つのであり、批判的に取り上げられるほどの話題性もあるのだろうが、そうだとしても少なくともそれらを批判している人たちは、社会の中で主導権を握っていない可能性が高いだろうし、ということはそれを改めるには、現状で主導権を握っていない人たちが主導権を握って、日頃から批判していることについて改めさせるようなことを行わなければならず、そういう成り行きで改革を行わない限りは、批判していることが改まる可能性は低いだろうし、そして現状で主導権に握れていない人たちが、主導権を握れる可能性があるかというと、メディアでその手の批判が話題となるのだから、そういう部分では主導権を握れているわけで、そうした批判に同調する人が多ければ、世の中の主流を構成するような人にとっても、それは目に余るような許し難い行為と映るのだろうし、要するにやり過ぎなことをやってしまったから、メディアで取り上げられて批判されてしまうわけで、できれば何かもっと穏便に事を運べば、表沙汰にならなかった可能性があるわけで、要するにやり過ぎなことにならなければ黙認されるような行為というものがあって、そういうことをやるのが世の中の主流を構成する傾向や風潮となっているのではないか。

 やり過ぎということは配慮が足りないということであり、結局メディアを通して批判されるような行為は、やり過ぎなければ広く世間一般で容認されているような行為であり、それを誰の目にも余るようにあからさまにやってしまうと、その程度がひどすぎて見過ごすことができなくなってしまうのだろうし、そうしたことはなるべくやらないという社会通念としての建前を維持できなくなってしまうわけだ。その時点でそうした建前としての演技をかなぐり捨てて本音の部分がむき出しになってしまったというところだろうが、そうなるとなぜ批判にさらされるのかと問われるかもしれないが、普通に考えて問題点を指摘せざるを得ないとなると、それが社会の主流を構成している人たちの本音なのだから、それを改められる可能性が低くても、現状で良くない点を指摘することが批判なのだから、批判とはそういうものだと捉えるしかないのかもしれないが、そうした世の中の主流となっている現状の動作を肯定するのではなく批判しているわけだから、現状で主導権を握っている人たちを批判している時点で、少なくともその部分では批判者たちは主導権を握れていないことなり、それが主流派ではなく反主流派という役柄を担っていることも確かかもしれないが、その主流派と反主流派という役割分担自体が、世の中の主流を構成する社会通念なのかもしれず、誰の目にも余るような行為をあからさまにやってしまうと、やりすぎのレッテルを貼られて批判せざるを得ないという動作を引き起こすのも、世の中の主流を構成する動作であって、そうなった時点で即席で反主流派が構成されて、何やら現状批判のような動作が構成されるわけで、そう考えると主流派も反主流派も裏でつながっていて、そういう動作も含めて一連の演技なのであり、やり過ぎたことに対して一応は反省を試みるような意思表示が、メディア上で行われる批判として構成していて、それこそが予定調和の二項対立なのであり、実質的には反省なき反省として社会が構成する言い訳の類いで、喉元過ぎれば熱さを忘れるように、一過性の現象として世の中の主流派が演じてみせるお祭り騒ぎなのだろうし、やり過ぎた人たちを生贄としてそうした儀式の供物に捧げるわけで、それが日本の最近の事例で言えば、日大のアメフト部が組織的に行った悪質なタックル事件であり、またサッカーのワールカップで日本代表がやって話題となった、グループリーグを通過して決勝トーナメントに出るための戦術としての意図的な怠慢プレーによる時間稼ぎとなったわけだが、そんなことに飛びついてここぞとばかりに正論を述べて批判を展開してしまう人たちが陥りがちなのが、反主流派的な立ち位置であるわけだが、それ自体が一時的な予定調和の二項対立でしかないわけで、それは誰もが意識せずに意図している演技でしかなく、結局そういうことをやってしまう人たちは条件反射的にそうした演技ができること自体に関しては、優秀な人の部類に入ることは確かだろうが、それ自体が紋切り型的な行為であり、結局いつの時代でもそういう人たちはいたのであり、そうやってなんとか世間的な建前を維持しようとはするわけだが、だからと言って主流派が構成する本音の部分を改めさせることなどできはしないだろうし、ただやり過ぎてしまったことの言い訳として機能しているにすぎず、やり過ぎなければ黙認される行為としてはこれからも行われるような行為でしかないわけだ。


7月9日「組織の論理」

 人は様々な事態に直面してなお物事に道理を求める傾向が強いかもしれないが、果たして世の中で道理にかなった正しい行いが通用しているのかと問うならば、それが人によっても立場によっても異なるなら、正しい行いの基準というのがわからなくなってしまうかもしれないが、たぶんやっていることがうまくいっている限りで、正しいことをやっていると思うだろうし、そのうまくいっていると判断できる基準というのも、人によっても立場によっても微妙にニュアンスが異なるかもしれないが、特に基準を定める必要はないのかもしれないし、道理にかなった行為というと、何かごまかしのない正々堂々としたやり方のように思われるかもしれないが、たとえば不正を行わざるを得ない成り行きに巻き込まれてしまうと、不本意ながら周囲との協調関係を重視して、共同で作業を行なっている他の人たちに配慮すれば、そうした流れを止められない成り行きになってしまうだろうし、そうなると道理が通らなくなってしまい、それがその場に作用している特有な成り行きとも言えるだろうし、自身を取り巻く周囲の状況がその人の意志や意向とは違うことをやらせて、しかもそうした成り行きに逆らえずに、心ならずも不正を黙認せざるを得なくなれば、結局は共犯関係を強いられてしまうわけで、それはただ単に意志の弱さからそうなってしまうわけではなく、周囲と協調せざるを得ないような成り行きの中では、協調を強いるような共同体の組織的な同調圧力がかかっているからそうなってしまうわけだが、なぜそれが道理に反するようなことをやらせるのかといえば、様々な事情が複雑に入り組んでいる中では、必ずしも道理だけを優先させるわけにはいかなくなってしまうだろうし、それが結果的に不正行為までやらざるを得ないような成り行きをもたらして、そこに至る途中の紆余曲折がいちいち道理を参照してそれに沿うような配慮を行う余裕を与えないわけで、それ以上に優先すべきことがあれば、そちらを優先するような成り行きになってしまうのだろうし、その優先すべきことが不正を行ってまで思惑通りの結果を求めることだとすれば、そういうやり方を強いられるような成り行きになるわけで、それが不正でなくても手続きや指揮命令系統の中で正しい手順を踏んでいれば、道理よりはそちらの方が重視される傾向にもなるわけで、それが組織の中で了解を得られる内容であれば、そこで配慮されるべき事情を考慮しつつも、必ずしも道理にかなうような行為ではなくても、受け入れ可能となるわけで、それが後になって万が一不正が発覚して関係者が処分されるような成り行きになったとしても、組織としてはそれで構わないわけで、その件についてはそういうことで片がつくのだろうし、たとえメディア経由で様々な非難が浴びせられようとも、集団の利益が守られて結束が維持されるなら、多少の犠牲はやむを得ないこととして黙認されてしまうだろうし、組織の人員は補充が利くが、組織自体は代わりが利かないので、組織の存続のためにその構成員が犠牲になるのは仕方のないことであり、そうした論理が優先される限りは、人員は集団のために使い捨てられる宿命にあると言えるのではないか。

 そうしたやり方が社会の中でどこまで通用するかというと、そういうことをやっている集団が社会の中で許容される限りは通用していると言えるだろうし、あからさまな法律違反でなくても、多少の融通が利くのが組織的な柔軟さだと思われているだろうし、それも道理にかなった行為というよりは法や慣習を優先させて、さらにうまくいくような成り行きを作るためには法律違反も選択肢としてはあるだろうし、法律を破ることが道理にかなった行為かといえば、公式的にはそれはあってはならないことかもしれないが、非公式の面ではそんなこともありうるわけで、法律を破ることで物事がうまくいくなら、隠れてこっそりやるのがある意味で道理にかなった行為ともなるだろうし、実際に法律を破ってそんなことをやっている実態があるなら、やっている人はそれが道理にかなっていると思ってやっていることであり、そういう意味では特に間違ったことを行なっている感覚はないのではないか。そして結果的にそれでうまくいく成り行きになっているとすれば、そんなことが繰り返されている実態があるだろうし、そうした行いは真面目に法律に従っている人や集団にとってはたまったものではないだろうが、不正を行うということはそれによって有利なことができるという面で、それが発覚しなければ道理にかなっていると言えるわけで、そして実際に法律違反が発覚して制裁や処罰の対象となり、それなりの損害を被れば、それが割に合わず道理にかなっていないことを思い知るかもしれないが、制裁や処罰を受けても組織として割に合ってそれなりに利益を確保できるなら、やはり非公式的には道理にかなっていることであり、一般的には違うかもしれないが、関係者や身内の間では道理にかなった行為だという認識が共有されることになるのではないか。そういう意味では人によっても立場によっても道理にかなった行為が違う状態が出現するわけだが、それが通用している社会であれば、道理にかなった行為に関しては普遍性はないだろうし、道理という意味も本来の意味ではなく、組織的な集団の中では、自分たちに都合の良い行為がうまくいくなら、それがたとえ法律に違反した行為であろうと、道理にかなっているように思われるだろうし、そういう狭い範囲で通用するような特殊なルールが世の中の方々でまかり通っている状況があるなら、やはり社会には人や集団によって異なる様々な事情が複雑に入り組んでいる実態があって、それに合わせてその場その時に応じた対応が求められるのはもちろんのこと、場合によっては法律違反も黙認されるようなケースも方々で生じていて、メディアのジャーナリズムがそれを批判したり告発したりすれば、逆にその場の和を乱す空気を読めない行為として反発や反感を招いてしまい、それが攻撃の対象ともなると、そうした非合法な慣習や掟が世の中に蔓延していることになってしまうだろうが、そうしたことがどこまで許されるかは、国によっても地域によっても事情が異なるだろうし、国によってはしばしばそうした不正を追及するジャーナリストが暗殺されるようなケースも結構あるだろうし、そうした行為のどちらに正義があるかはわかりきったことかもしれないが、しばしばそうした不正を追及する正義が通用しないケースが出てきて、法治主義が破綻していることが明らかとなるわけだが、法律もそこで主導権を握っている勢力にとって都合の良いものでしかなければ、絶対的な正義を担うものではないだろうし、そこで法律の遵守を強いる側とそれに反発して法律を破ろうとする側とで抗争が起こっているのが、普通な状態と言えるのではないか。


7月8日「型通りの動作」

 理論と実践とは一応は対立する概念だが、それなりに結びつく概念でもあり、理論に基づいて実践を行えば何らかの結果を得られるだろうし、また実践から何らかの理論を導き出すこともあるのだが、どちらにしてもそれだけではわかりにくい動作であり、何らかの結果が出るまでは無駄なことをやっているような気になるだろうし、実際に結果が出なければ無駄なままになってしまう可能性もあるだろうし、だからこそこれまでやってきたことの中で、うまくいっていることをまた繰り返そうとするのだろうし、実際にもそんなことをやっていることが多いわけだが、そうした繰り返しが伝統を作るわけで、同じことを延々と繰り返すことで動作が安定して、そこから恒常的に利益を得られるなら、やはりそんなことを繰り返す成り行きになるだろうし、全く新しいことをやって失敗するよりは、うまくいった実績のあることをやった方が確率的にもうまく行く可能性が高いわけで、また繰り返していくうちに技術的なノウハウも蓄積するし、そうやって確実に成功するやり方が確立されるわけだ。もちろん状況が変われば条件も変わって、うまくいかなくなることもあるのだが、うまくいっているうちはそれを繰り返そうとするだろうし、うまくいかなくなってきても、執拗に繰り返されることもあるわけだが、そうなるとそうした活動が次第に衰退傾向になるわけで、それでもとりあえず続けられる限りはそんなことを続けようとするだろうし、技術的な蓄積も富の蓄えもあれば余力があって、そういうことを行う成り行きが可能な限り繰り返されることになるのではないか。それが何を意味するのかといえば、行為としての動作の安定に結びつくわけだが、同じように安定して繰り返されることによって、それによって利益を得る勢力も不利益を被る勢力も固定されて、力関係としてはそこから利益を得る勢力の優位が揺るぎなくなるわけで、その一方で不利益を被る勢力の劣勢も固定化されるだろうし、そこで格差が固定するわけだが、そうしたことが行われているうちは、それに連動して力関係も固定されて安定するだろうし、ではなぜ恒常的に不利益を被っている勢力がなくならないのかといえば、そうした勢力は他から利益を得ているから勢力を維持できるわけで、その利益を得ている方面では、それらの勢力が優位を築いているわけだ。結局そうやって様々な方面で様々な勢力による縄張りが設定されていて、自分の縄張り内では優位を築いて主導権を握っている限りで、それなりに安定した収益が確保されていて、そうした縄張りを持っている勢力はそれなりに力を持っているわけだが、安定した縄張りを持っていない勢力は力も弱く、社会の中で弱小勢力として不安定な地位に甘んじていて、それに比べて縄張りを確保している勢力が収益が安定しているから、それなりに力を持った勢力として社会に対する影響力もあるだろうし、他から自分の縄張りを荒らされないためにも、組織的な防衛に力を入れているだろうし、ちょっとやそっとでは縄張りを手放そうとはしないだろうが、外部から何らかの攻撃にさらされても、相手が弱小勢力ならびくともしないだろうし、力のある勢力が攻勢を仕掛けてきたら、勝算があれば戦うかもしれないが、味方の被害も尋常でないようなら、適当なところで手打ちをやって、交渉や取引などによって妥協や利害調整を図ろうとするのではないか。

 そうしたことをやっているのは何もヤクザやギャングだけではなく、企業などの民間の団体や行政などに携わる各省庁にも固定化した縄張りがあるだろうし、不祥事などが明らかになって、たとえメディア関係者などの外部からの批判にさらされても、身内意識が強く結束が硬ければ、批判を真摯に受け入れようとはしないだろうし、明確な違法行為があっても身内を守ろうとする傾向があるのではないか。そして利害関係のない人や勢力からの提言や批判などは聞く耳を持たないだろうし、あくまでも身内とみなしている関係者だけで物事を進めようとするだろうし、そうした傾向は徹底していて、そうしたことを繰り返してきたからこそ、現状の勢力を維持できているという自負もあるだろうし、ちょっとやそっとではそういうやり方を改めないのは当然のことかもしれないが、組織の在り方としても他の組織との関係にしても、同じ状態を固定しておいた方が同じことを繰り返せるし、実際にそうやって安定した収益や動作を保ってきた経緯があれば、簡単にはそれを変えられない事情が生じていることは確かであり、現実に変える必要が生じない限りは変わりようがないのだろうし、そうしたシステムとして安定している状態が続いていく限りはそのままとなってしまうだろうし、たとえ不都合なことが生じていて問題点が指摘されているとしても、指摘しているのが身内でない限りは聞く耳を持たず、組織的な指揮命令系統の中で指示が出されたらそれに従うことがあるかもしれないが、そうした手続きを経ない指摘では動きようがなく、あくまでも通常の手続きの範囲内での動作を優先させるだろうし、それが組織として守らなければならない動作であり、それ以外の規定にない動作は行わないことが、組織としての規律を守る上で最も優先すべき重要なことになるのではないか。そしてそうしたことが滞りなく行われている限りで組織形態を維持できるのだろうし、例外的な動作を極力なくすことが組織的な動作の周知徹底につながるわけで、それが柔軟性のない硬直した組織形態として批判されても、組織としての目的が規定通りの動作を滞りなく繰り返すことだとすれば、その目的に準じている限りで何の問題もないわけで、たとえそうした動作によって間違ったことが行われていても、動作自体が規定通りならば問題のないことになり、その逆に結果的に正しいことが行われていても、規定にはないことが行われていればそれが問題となるだろうし、やっていることの内容よりもやっていることの動作や手続きが重視されて、そうした形式レベルでの動作の正しさが求められるような傾向になるのではないか。それが意味するところは、官僚特有の空疎な手続き論の優先であり、ともかく形式に則った動作が正しい動作であり、形式から外れた動作であれば、たとえ正しい内容であっても問題視されるわけで、まずは型通りの手続きに則ったことをやらないと、組織としての示しがつかず、規律が保たれなくなってしまうと、組織の存在意義が薄れてしまうわけで、別に組織形態をとらなくてもできるなら、何も組織を通して行なう必要がなくなってしまうだろうし、そうした組織形態の利点を生かして行う動作であればこそ、そうしたことを行なう上で規律や手続きが必要となってくるわけで、組織として優先されるべきはやっていることの内容よりは、組織的な動作そのものとなってきて、組織だからこそ行える動作でないとならないわけだ。


7月7日「事態の流動性」

 社会的な申し合わせとして形式に則った約束が交わされて、その場の誰もが受け入れ可能な一定のルールが守られるような成り行きがあるにしても、そういうルールが守られる範囲は限られているし、その一方でルールの裏をかくような試みも行われる可能性があるだろうし、その場で何らかの合意が成立しても、相手の出方次第ですぐに破棄されるような成り行きもあるわけで、結局は双方がルールを守ることにメリットを感じている限りで守られるが、メリットがなくなれば適当な理由をつけて破棄してしまうような成り行きもあるわけで、そういうところで約束を交わした事実を持ち出して、ルールを破ったことを非難することは可能だが、結局はその場の力関係で優位に立っている側が、自らの都合で過去に交わした約束を反故にして、また新たに自らが有利となるようなルールを作って、それを力の弱い側に守るように強要するようなことがよく行われるわけで、ルールというのは必ずしも平等な立場が反映されているわけでもなく、ルールを守ることに関して何らかの合意が形成されても、その場で主導権を握っている側の都合がルールに反映されることがあり、力の弱い側にとっては不利なルールになってしまう場合も多いのではないか。そういう意味で法治主義というのも、必ずしも法の下で社会の中で活動する様々な個人や団体の平等を保証しているわけではないだろうし、従うべき法が特定の人や団体にとって有利に働くようなら、しかもその人や団体が社会の中で主導権を握っているなら、それらの人や団体の都合が優先された法になっていて、そうやって絶えず力の強い側の都合が反映された法が作られるとしたら、法治主義というのは力の強い側が社会の中で有利な立場を永続化させるための理屈になってしまうし、功利的に物事を考えてゆくと、社会の中で主導権を握っている人や団体が、自分たちに有利になるような法を作ることが正当化されてしまうわけで、そういう部分で功利主義的な考え方には欠陥があると言えるかもしれないが、たぶん功利主義者を自認するような人にとっては、それは当たり前のことであり、欠陥でも何でもなく、正しい論理であり理屈だと思われるのではないか。そして果たして功利主義で構わないのかというと、たぶん構わないのであり、わざわざ自分たちが不利になるような法律を定める方が間違っているだろうし、法の下での平等という価値観自体が、変更しなければならないことであり、いかに自分たちが有利になるような法を定めるために、戦略的なやり方をとらざるを得ないとしたら、民主主義の理念など軽視するしかないだろうし、結局は力の強い側が弱い側を従えるようなやり方が正しいと思われるのではないか。実際にそうなってくると何がまずいのかといえば、社会的な弱者を助ける大義名分が成り立たなくなるということだろうし、そうなると弱者が強者による搾取の対象でしかなくなり、そんな関係に応じて身分制度のような階層構造が出来上がって、少なくとも現状のような社会ではなくなるのかもしれないが、現状でもある程度は格差社会となっているわけだから、現状とは全く異なる社会になるわけでもないのかもしれず、ただ現状でもそうした格差があからさまに肯定されるような社会になりつつあるのではないか。

 資本主義的な経済活動が功利主義一辺倒であり、それにある程度の歯止めをかける意味で、政治の場では民主主義が主流となるべきなのかもしれないが、一方で政治の場では民主主義とともに自由主義も重要だと思われているわけだが、そもそも自由と民主は互いに相容れない概念であり、そこでもどちらか一辺倒になってはまずいわけで、互いに相容れない功利主義と民主主義と自由主義が三竦みになった状態が堅持される限りで、それぞれの利点と欠点が程良く刺激し合ったり相殺し合ったりしながら、それなりにバランスが保たれる限りで、世の中に安定がもたらされるのかもしれず、そうした面であまりそれぞれの欠点をあげつらって、単一の主義主張に偏っている傾向を批判しても意味がないのかもしれないし、実際にそうした主義が表れている面が単独で存在するわけでもなく、様々な傾向が入り混じっている中から特定の傾向を抜き出せば、それなりにそうした傾向を説明可能となるのだろうが、それだけを抜き出してそうした傾向を批判しても、他の傾向との兼ね合いもあるだろうし、あまり説得力のある批判とはなり難いのかもしれず、だからそうした批判は一面では何か論理的整合性を実現しているように思われるかもしれないが、他の傾向には言及していないから辻褄が合っているように感じられるが、それだけのことであり、要するに物事の一面しか見ていないから、何か正しいことを述べているように感じられるのであり、矛盾する要素には言及しない限りで正しい主張とはなるのだろうが、やはりそれだけのことで、あまり世の中の実態を反映した主張ではないわけだ。そんなわけで結局できるだけ実態を反映した主張にするには、あえて積極的に矛盾した主張をしなければならなくなって、それだけ不可能な事態に直面するしかないのではないか。要するに主張の論理的な整合性を取ることは不可能であり、何か言えば一面では正しいことを述べているように感じられても、別の面から見ると間違っている面も多少はないと、世の中の実態を反映していないわけで、できるだけ正しいことを述べたいのだろうが、矛盾している面がないと正確な認識とはならないのではないか。だから例えば自国の産業が外国から安い製品が流入していることで損害を被っているから、関税を引き上げて自国の産業を保護しなければならないとなると、その分野では確かにそんなことが言える反面、別の分野では逆のことが起こっていて、自国の製品が外国に輸出されることで、輸出された先の国ではその分野の産業が損害を被っているから、ではその国でも産業を保護するために関税を引き上げたら、お互いに利益と損害が相殺されて、あまり効果がないどころか、関税を引き上げることによって貿易が滞って、さらに製品の価格が上がって消費者に負担がかかって景気が悪化する可能性が出てくると思われるが、それでも物事の一面しかない見ない人にとってはそうしたやり方が正しいように思われるだろうし、実際にそうした措置を行なってみて、何らかの効果が一時的に出たら、それが正しい判断のように思われるわけで、しかもその効果が永続しなければ、またその反動から政策の見直しが行われるわけで、そこに至るまでの間にそうした政策を推進している側が民衆の支持を失って、別の政治勢力がそれと入れ替わって政治的な主導権を握るかもしれないし、結局何か偏ったことをやればその反動が出てうまくいかなくなって、別のことをやらざるを得なくなるのかもしれないし、そうやって絶えず事態が動いていくのが、世の中の動向になるのではないか。


7月6日「娯楽の政治性」

 人が価値のあることをやりたがるのは、自分だけでなく周囲に認められたいという欲求が作用して、それが単なる自己顕示欲に対する言い訳として機能するのかも知れないが、他人が自分のやっていることの価値を認めるということは、その他人と自分とで同じ価値観を共有していることを意味していて、そんな価値を共有する仲間と連携して、お互いが欲していることをやろうとするわけだが、その際に人と人とが協力し合えるということが、同じ価値観を共有していることの証しとなり、さらにやっていることが広く社会に認められることが、その社会に暮らしている人たちが共有している価値観に照らし合わせて、肯定できることをやっていることにもなるだろうし、そうやって社会全体から認められるようなことをやることが、価値の高いことをやることにもなり、それがとりもなおさず世間から尊敬を集めることにもつながるだろうし、自尊心を満足させることにもなるのではないか。それが正しい行為かどうかは何とも言えないところかもしれないが、人が活動する動機としてはそういう成り行きがあり、世間から尊敬を集めたくてそんなことをやるというのは単純すぎる動機だが、実際にそんなことをやっている人や集団には多くの人が好意的な感情を抱くだろうし、それだけ多くの支持も集まって、そうなればやっていることが大成功となるわけだが、メディア的な演出としてそういうことを仕掛けてくるような成り行きもあり、それが世論誘導として機能するわけで、そこで本当に世間が好意を抱くようなことが行われているのかというと、世論喚起を目的としてそんなことをやっているように装っていて、よくやる手口としては感動話をでっち上げるわけだろうが、そのでっち上げるということも、全くの嘘偽りではなく、確かに多くの人たちが好感を抱くような行為を行うわけだが、それをさも大反響が巻き起こったかのように誇張して伝えるわけで、また権威のありそうな著名人がそうした行為を大絶賛したりすれば、そうした著名人の発言に引きずられて一般の人たちもそんな気になる可能性も高く、そうやって様々な方面から好意的な反響が湧き上がっていることを伝えれば、確かに世間的な尊敬を集めることに成功するかもしれないが、それが一過性の現象に終わることも珍しくないだろうし、そんなことが方々で次々に起こればその度ごとに大絶賛の嵐が巻き起こっては沈静化することが繰り返されるわけだが、そのうち一般の人たちもその手のイベントに慣れてくると同時に飽きてくるだろうし、やりすぎると飽きられてしまうから、その辺で飽きられないような工夫が求められるのだろうが、そうした現象を人為的に完璧にコントロールしようとしてできるものでもないだろうし、確かにうまくいっているうちは次から次へと大成功のイベントがつながっていくのかもしれないが、何かのきっかけからそういうやり方がうまくいかなくなる時期がくるわけで、そうなるとあまりそうした行為が流行らなくなるだろうし、そうしたイベントを仕掛ける関係者でなければ別にそれで構わないわけだろうが、そうした行為に成功して世間的な支持を背景にして著名人となった人などは、世間の関心を集めるための新たなイベントが必要となってきて、その人に著名人としての商品価値があるうちはメディアの方でも放っておかないだろうし、連携して世間の関心を集めるようなイベントを仕掛けてくるのではないか。

 普通に一般の大衆としてはそういうイベントを楽しむのが慣習として定着している面もあるだろうし、そういうイベントを主催して大衆的な人気を博して著名人にでもなれば、他の様々なイベントにも参加できる機会を得るだろうし、メディアの方でもそうした著名人たちを使い回して、様々なイベントを仕掛けている実態もあるわけだが、そうしたイベントに資金を提供して商品宣伝に役立てる企業なども出てくるし、それが興行として成功すれば、それを伝えるメディアにも多額の収益が期待できるわけで、それがその手のイベントを行う理由にもなるわけだが、そうしたイベントの目的が大衆の人気取り以外の何があるわけでもなければ、単なる人畜無害なイベントでしかないわけだが、内容としても道徳などの啓蒙活動や単に娯楽を提供しているだけだったり、興味深い内容であればそれで民衆も満足するだろうし、別に何かまずいことが行われているとは思えないだろうが、宣伝や煽動によってポピュリズム的な洗脳が行われたり、それが反社会的な危険思想とみなされると、政府の公安関係の部署が動くような事態にもなるのかもしれず、さらに社会の中の特定の階層や民族的あるいは宗派的な集団を誹謗中傷するような内容であれば、差別などを助長する悪質な行為となるだろうし、そういうあからさまな内容であればわかりやすく、そういうイベントが流行ってメディア的な話題ともなれば、社会問題化したり政治問題化して世間から否定的な注目を集めることにもなるだろうが、そういったわかりやすさとは無縁のただのイベント主催者の人気取り的な内容だと、別に批判されるようなことにはならないだろうし、またそこで安易で遊興的な娯楽などが提供されるようなら、なおのこと興行目的としかみなされないだろうし、別にそこでポピュリズム的な洗脳が行われているとも思えなければ、特にどうということはないイベントになるしかないわけだが、そうした面での非政治的な政治性が見過ごされがちなのかもしれないし、純粋な娯楽であったりただのゲームであったりスポーツ的な要素も盛り込まれていたり、一見政治とは無関係であることが、逆にそれが政治的な主張を内包している場合があるわけで、例えばそこで政治的な啓蒙活動を排除するようなことが行われている可能性もあるだろうし、一見生真面目な良識や善意の連帯を嘲笑するようなことが推奨されているようでいて、そこにパロディとしてカリカチュア的な笑いが満載されているようだと、衆愚的な保守主義への批判などが読み取れて、ある程度の知性が啓蒙的な役割を担っているようにも感じられるだろうが、最近の傾向だとそうした体制批判的な内容を逆に物笑いの種に扱うような内容も流行っているだろうし、また下衆な復讐心を煽るようなことが行われていると、露悪趣味などにも結びついて、意識高い系と称して知性をひけらかす人々を小馬鹿にしつつも、それを誘導の餌に使って、知性全般を否定的にみなすような味噌も糞も一緒に排除する態度も蔓延させている傾向もあるだろうし、何かと従来からある体制批判的な手法を捻じ曲げて、体制批判そのものを無効にするような思惑が介在しているような状況になっているのかもしれないが、そうした戦略的な巧妙さを競うような傾向が顕著になっているように思われようと、それらすべてを娯楽として片付けてしまうと、その非政治的な政治性が何かの隠れ蓑のような効果を発揮するのかもしれない。


7月5日「価値の意味」

 世界は単純な価値観で覆われているわけではなく、様々な価値が入り組んでいて、その価値も相対的な価値であり、異なる価値の間で優劣や高低の違いがあるのだろうが、それは絶対的な優劣や高低ではなく、その場の条件次第では覆る可能性のある価値なのかもしれない。そしてもちろんそれは人の意識が物や情報やサービスに介在して得られる価値観であるからには、人為的な価値であり、自然から直接得られるわけではなく、法律などの決まり事や制度として一定の動作を伴うものまであるだろうし、社会の中で生じている人や集団の関係から価値がもたらされるわけだが、その中で人がより価値の高い物や情報やサービスを求めるとしても、金銭的な価値を持ったものは誰もが得られるわけではなく、それ相応の金額を払える人でないと得られないだろうし、他の価値にしてもそれを得られる条件というのが、得られる人を限定するわけで、誰もが得られないから価値が高いことを示していたり、それ相応の努力を要するものからそれなりの運がないと得られないものまで、それを得られる条件によって得られる人を限定するから、それに応じてそれなりの価値を伴っているわけだ。そして基本的に価値は希少であるほど高く、ありふれていれば低くなるわけだが、たとえ希少であっても欲しい人がいなければ価値は生じないだろうし、ありふれていても欲しい人が多ければそれなりの価値を持つわけで、そういう意味で人の心理状態や多くの人がそれを欲しがるような社会情勢も影響してくるのだろうが、そこには需要と供給の関係などの経済的な仕組みなども関与してきて、そこに至る様々な経緯や成り行きから相対的に価値が変動する場合も含めて、それが価値を持つに当たっては一定の理屈があったりなかったりすることから、偶然の巡り合わせも絡んでくるだろうし、価値に関しては説得力を伴うような理論的な模索はあまり意味を持たないだろうが、そんな中でも相対的に変動の少ない普遍的な価値を持つものを求めるような傾向もなきにしもあらずだが、人が意識している限りでの世界には様々な価値を担った物事がひしめいているように感じられるなら、特定の価値を求めても他にも様々な価値があるわけだからそれだけでは不十分に思われるだろうし、だからと言って全ての価値を求めるわけにはいかないし、結局はたまたま関係を持つことになった価値観の中で、得られる可能性のあるものを求めようとすることしかできないだろうし、だから人には常に不十分で不完全な価値を追い求めている実態があるわけで、現実に全てを得られるはずがないから、実際にその中のいくつかを得られたことで満足しなければならなくなるわけで、人の価値を求める衝動というのも、常に渇きや不満を抱いているような相対的な水準にとどまるしかないわけだが、それでもその場の成り行きから何らかの価値を得ようとしていることは確かで、それが他人と競合すれば、場合によっては獲得するために戦うような成り行きも生じるだろうし、あからさまな戦いではなくても、絶えず何らかの競合関係になる可能性が高いわけで、人が社会の中で存在している限りは、特定の価値を求める動作が生じて、しかも価値というのは多くの人が求めるほど高くなるわけだから、そこに多くの人が価値を求めて競い合う状況が必ず出現するわけで、それが社会の中で生じる特有の現象となるわけだ。

 社会の中で不均衡や不平等が生じるのは、そうした価値の奪い合いが起こるからで、人や集団の間で価値をめぐる競合関係が生じるから、そこで価値を手に入れる人と手に入らない人が生じれば、結果的に格差が生じるわけだが、それは当たり前の成り行きでもあって、競合関係にある全ての人が価値を手にすることができれば、そもそも競争自体が無意味となってしまって、社会の理想状態とはそういうことかもしれないが、それはありえないことでもあり、目指すべき状態がありえない状態だとすれば、それは達成不可能な状態だとも言えるだろうし、それを達成しようとすること自体が、そもそもの間違いであることは言うまでもないことだが、やる前からそんなことまで考えないだろうし、実際に競合関係にある人たちはそんなことまで考えていないし、とにかく価値を獲得するための競争に参加するわけで、実際にその中からそれなりの価値を獲得する人が出てくる一方で、獲得できない人も大勢出てくるわけで、しかもどちらかといえば価値を獲得できる人が少数であれば、獲得できない人は多数となり、そんな結果を踏まえながらも少なくとも競争に参加する人たちは、そこで行われる競争を肯定するだろうし、競争に敗れた大勢の人たちも、結果には不満を抱くだろうが、競争自体は肯定せざるを得ないだろうし、そこから格差が生じている実態も肯定せざるを得ないはずだが、実際にそこで人が大勢生きている事実があるわけで、生きていて生活している限りで、何らかの糧を得ているわけで、それが価値のあることだとは思えないかもしれないが、価値に優劣や高低があるとすれば、より劣った価値や低い価値があるということだろうし、全ての人が何らかの価値を獲得できると考えれば、少なくとも人が生きている現状がある限りで、人は何らかの価値を獲得していて、現状に不満を抱いている人や自らの存在に否定的な意味や意義しか見出せない人には、相対的に劣った価値や低い価値がもたらされているとみなしても構わないのではないか。その一方でより高い価値の獲得をめぐっては熾烈な競争が起こっていて、それを手に入れる人がほんのわずかしかいないから、当然のことのようにそうした価値は希少価値となるわけで、そうした希少価値を担うような物事は世の中にほんのわずかしか存在しないだろうし、その反対に誰もが手に入れられるような低い価値を担った物事はありふれていることになるわけだが、それでもそうした価値を手に入れていることが実際に生きて生活していることだとすると、現状で生存している人が多いほど、価値を手にしている人も多くなり、それだけ価値を担った物事も世の中に多く存在していることになるのかもしれないが、果たしてそうしたより劣った価値や低い価値を獲得するための競争が起こっているのかというと、たぶん大半の人は気がつかないかもしれないが、一応は競争が起こっていて、それが目に見える形で起こっているのが移民という現象なのかもしれず、貧しい国から豊かな国へと移動しようとする人がいるということは、豊かな国で暮らしている人にとってそれはありふれている低い価値だとしても、貧しい国で暮らしている人にとってそれは希少な価値であり、場合によっては命を落とす危険を冒してでも手に入れたい希少な価値だと感じられるわけで、そうした価値を担うのが移民先の豊かな国で暮らすことになるのではないか。


7月4日「同意に基づいた権力」

 たぶん社会は何らかの機構によって管理されるものではなく、政府は国家という枠組みを管理統治していることには違いないが、それは一つの行政単位としての枠組みであり、管理という概念が何を意味するかは微妙なところかもしれないが、そこで法律に守られた制度を管理していることになるわけだが、それで社会全体を管理しているかというと、必ずしもそういうわけではなく、ただ法律によって規定された決まりを人々に守らせようとしているわけで、それを管理と呼ぶのであれば、確かにそういうレベルでの管理はされていることになるだろうが、何か確固とした実態があるとは言えないのかもしれないし、人々の意識の中で制度に従っていたり法律を守っている感覚があれば、行政による管理を受けていることになるのだろうが、それも実際に人の動作によって示されている範囲内では管理が成り立っていることになるが、そういうことを特に意識していなければ別に管理を受けている感覚はないだろうし、また動作としても制度に従わずに法律も守っていなければ、管理に逆らっていることになるだろうし、そういう意味で管理が成り立っていない面もあるわけで、実際に警察権力によって強制的に従わされているような場合を除けば、人の行動や言動の中には行政による管理から外れている面もかなりあるのではないか。それでも行政としては何らかの決まりを作って、それを人々に守らせようとしているわけで、そこで人々が行政の定めた決まりを守っている実態があれば、それによって行政による管理統治が成り立っていると言えるわけだが、決まりにも様々な種類や程度があるだろうし、特に守っている感覚を伴わないような決まりもあるのかもしれず、それに関してはそもそも人々が行政が定めた決まりの全てを知っているわけではなく、また特に行政が定めた決まりでなくても、慣習として守っている決まりさえあるわけだから、またそれが慣習になると意識して守っている感覚さえ希薄で、感覚として何を意識しているわけでもなく、ただ普通に暮らしている感覚しかなくても、意識しないところで行政の定めた決まりや慣習としての決まりなどを守っている場合まであって、だからと言ってそれが行政による管理統治が有効に機能している証しとは言えないだろうし、そういう面も含めると、行政機構による国家の管理統治といっても、その程度には様々な水準があるだろうし、中には国民に向かって特定の法律を守ることを周知徹底させるような成り行きもある一方で、特に何もやらなくてもほとんどの国民が何らかの法律を守っている実態もあるだろうし、一概に管理統治といってもそういう面で程度や強度に幅があるわけで、それを政府による管理統治が国家の隅々にまで行き届いていると捉えてしまうと、何かそうではない面がいくらでもあることを考慮していないにことになってしまって、そういうところで認識にずれが生じてしまうだろうし、管理統治という実態に関して、その程度に様々なレベルがあることをわかっていないと、政府や国家という存在に関しても、何か誤った認識が生じてしまうのかもしれず、またそうした誤解によって行政の力やその政治的な権力を過大評価してしまう傾向も出てくるのではないか。

 普通に考えるなら政府は法律に基づいて活動することしかできないだろうし、もちろんそこには法律を破る行為も含まれてくるわけだが、制度を維持するためには時には法律を破る必要も生じてくるわけで、そこで生じている権力関係の中で権力を行使する時には、そこに関わってくる人や集団が権力の行使に関して同意する限りで権力が行使されるわけで、同意しなければ抵抗が生じて、権力の行使を阻止しようとする動作も生じてくるわけで、そうなるとその場で力の強い方の行為が勝るわけだろうが、それも時には法律に照らして行為の正当性を主張する場合もあって、権力が行使される成り行きにも、何事も有無を言わせぬ強引なやり方が勝るわけでもなく、中にはやろうとしていることに関して論理的な整合性に訴えかけて、同意を形成するような成り行きもあるわけで、あからさまな武力行使にしても、武力行使が可能な条件を満たさないと行使をためらう場合も出てきて、そこにも決まりを守るように仕向ける動作が生じるわけで、条件を満たさないのに武力行使をしてしまうと、それを正当化できなくなって、場合によっては罰則規定に該当して懲戒の対象にもなるだろうし、そういう意味で無制限な権力の行使というのはあり得ず、そのほとんどはあらかじめ決められた条件に合う限りで、権力の行使が認められるわけで、それ以外では権力の行使自体が違法であったり過剰であったりする場合が出てきて、そうなると正当性のない行為となって、違法な権力を行使した側が罰せられる事態も出てくるわけだ。そしてそういう意味では政治的な権力は万能ではなく、そうであるからこそ、それをやるに際して同意を求められることが多いわけで、そうした面では何よりも合法性や合理性が求められて、やっていることの論理的な整合性も周囲の関係者の同意を形成する上で有利となるだろうし、できるだけやっていることに関して同意してくれる味方を多く集めた側が、有利に事を進められる成り行きにもなるわけで、そして味方となってくれた人や団体には、何かの時に特別な取り計らいをするような成り行きにもなってくると、味方となってくれた信頼できる仲間との間で親密な関係を維持することが、権力を行使しやすくなるような環境の整備にも役立ち、そうなってくるとやっていることの合法性や合理性に代わって、便宜供与などの利害を共有することの方が優先されてくるだろうし、そういうところから不祥事などの原因となる不適切な関係が生じてくるのであり、そういう成り行きが高じると、場合によっては法律を捻じ曲げてまで、懇意の関係者に有利な取り計らいをするような事態にもなってきて、それが合法性や合理性よりも優先されることについては、特に罪悪感も感じられなくなってしまうのかもしれず、そういうところからも政治的な権力を過大評価してしまう傾向が出てきて、本来なら法律や制度に基づいて行使される権力が、肝心の法律や制度よりも優先されるようになってくると、それが本末転倒な事態であるとしても、やはり感覚が麻痺してくるわけで、何か権力の万能性を信じてしまい、それが周囲の人や団体などの同意に基づいて行使されている実態を忘れてしまうわけだが、そうした仲間内だけで通用している論理が有効な範囲は意外と狭く、その期間も思ったほどは長続きしないのかもしれない。


7月3日「政策提言の虚構」

 政治の場において信用がどこから生まれるかというと、普通に政党単位で考えるならやはり信用できる政策を掲げて、選挙でその政策に沿った主張をする候補者を立てるしかないだろうが、一般の民衆が信用できる政策というのが何かというと、意外とそれがメディア上で議論されていない実態があるのかもしれず、不祥事などを巡る政争劇ばかりが脚光をあびる一方で、肝心の政策は行政機関に頼っているのが現状かもしれないし、その政策というのも突っ込みどころが満載の批判されやすい内容が多く、結局政策といっても現状では説得力を持つものがあまりなく、その代わりに政策の問題点ばかりが指摘されるような成り行きとなっているかもしれないし、政策によっては民衆の信用を得られないような事態となっているのかもしれないが、それはとりもなおさず政治の限界があらわになっているということであり、政治に信用が生じない状況となっているとしたら、消極的な現状維持が妥当な選択肢となるしかないだろうし、とりあえず現状の政治情勢で特に不都合を感じていないのなら、それで構わないことになってしまうのかもしれないが、それなりに不都合を感じているとしても、それを改めようのない状況なのかもしれないし、改めるべきことがそれなりに指摘されているとしても、それは現状に批判的な勢力の主張でしかなく、現状で主導権を握っている勢力によってそうした主張が顧みられることはないのかもしれないが、現状で主導権を握っている勢力の方でもそれなりに改革を唱えていて、批判勢力によればそれは偽りの改革と言えるかもしれないが、どちらの主張も政治不信の影響から民衆の信用を得ていなければ、たぶん形だけの掛け声倒れ的なものにしかならないだろうし、実際に改革が思うように行えないから信用されないということかもしれず、しかも改革したところで何がどうなるわけでもないのかもしれないし、政治宣伝としては絶えず改革が叫ばれている状況があるものの、その中身がはっきりした内容を伴っていなければ、実質的には現状維持にしかならないような改革だろうし、それが偽りの改革であるのは批判勢力が指摘している通りかもしれないが、その一方で批判勢力が唱える改革の方も、議会で主導権を握れなければ、いつまで経っても店晒し状態だろうし、結局はいくら改革が唱えられても一向に改革されない状態となってしまい、それが政治不信を招いている理由であり原因でもあるなら、それは単なる政治的な行き詰まり状況が長引いているだけでしかないのだろうが、それでも何がどうなっているわけでもなく、それなりに世の中が動いている状況がある限りは、それに関しては特に困っているわけではなく、政治的な行き詰まりを実感しつつも、実質的にはそれでも構わないわけで、それによって特に行政活動が滞っているわけでもなく、法律も制度もそれなりに機能している状況があるわけだろうし、それに対して批判勢力がいくら破綻が間近に迫っていると危機感を煽ってみても、実際に破綻してみないことには、いつまで経っても狼少年の脅し文句でしかないわけで、とりあえず破綻するまでは現状で主導権を握っている勢力の天下が続いていくわけだ。そしてそれは仕方のないことであり、政治に何か中身があるとすれば、それは行政にとっては余分な中身でしかないだろうし、普通に無視されても構わないような中身なのではないか。

 要するにそれは空疎な中身なのだろうが、政治に何か中身があるという思い込み自体が、ことごとく裏切られる宿命なのかもしれないし、ただそこに政府という行政システムがあるだけで、そのシステムを改革の名の下にいくら改善しようと試みても、そこには元から矛盾や不具合が含まれているわけだから、ある程度はうまくいくとしてもそれなりに限界もあるのだろうし、そしてうまくいかない面に関してはいくらでも批判できるのだろうし、実際に批判している勢力がいるわけだが、そういうことも含めて政府の実態を示していて、矛盾や不具合もそれに対する批判も政府としての機能の一部を構成しているのであり、簡単に言えば批判勢力に批判させないと政府に対する不満のガス抜き効果を得られないわけで、そうであるからにはある程度は矛盾や不具合も放置しておかないと、餌として批判勢力が食いついてこないわけで、だからやっていることが年がら年中批判にさらされながらも、それによってバランスをとっているとも言えるだろうし、そうであるからには政府に対する批判を完全に封じ込めるようなことをやってしまっては、かえってまずいわけだろうし、もちろんそんなことは物理的にできないわけだから、それはありえないわけだが、また政府としての行政活動が議会の政治勢力によって絶えず監査を受けている状態を維持しておかないと、汚職や金権腐敗にまみれてしまう可能性さえあるわけだろうし、そこでも批判勢力による批判頼みな面があるわけで、ある程度は不祥事を追求してもらわないと、政府としての信用が生じない事情もあるのではないか。だからとりあえずは主導権までは明け渡さないとしても、不祥事の追求ぐらいは定期的にやってほしいのであって、そうした不正や不祥事の追求をのらりくらりでかわしながらも、結果的に大山鳴動して鼠一匹という幕切れになっても、それで禊が済んだことにしたいわけで、一応はそれなりに綱紀粛正ができたことにして、それなりに反省姿勢を見せながらも、引き続き政権を担当するような成り行きに持っていきたいのだろうし、実際にそうやってうまく政治的な主導権を確保するような成り行きがあるのかもしれないが、それも最終的には民衆が判断することでしかないだろうし、実際にそれでは済まなくなったら政権交代が起こるわけだが、そうなったとしても政府そのものの体質が変わることはないだろうし、新たに主導権を握った勢力が直面するのも、相変わらず前政権と同じような矛盾や不具合だろうし、うまくいかない面が必ず出てくるわけで、だからと言ってそれを批判しないわけにはいかないだろうし、そういうところが必ず批判されて、それがうまくいかないことから生じる不満のガス抜き効果となって、バランスが保たれるわけで、それが何のバランスなのかといえば、それは予定調和の二項対立が維持されるような均衡状態なのだろうし、それ以上ではないわけだが、その範囲内に活動が収まる限りで、批判も成立している面があるわけで、それ以上に批判勢力の力が増してくると、バランスが崩れて政権交代が起こるのだろうし、また政権交代によっても力の均衡が回復するわけで、どうあっても完全に矛盾や不具合が解消することはなく、解消しない部分がある限りで政治的な活動が成り立っているのだろうし、そうした部分を突いて体制側を批判することも政治活動に含まれるわけだから、そこで見出される矛盾や不具合とともに批判勢力が存在できるようになって、そうなって初めてその存在意義も意味も見出されるのであり、それがないと批判すること自体が不可能となってしまうわけだ。


7月2日「切実な体験」

 世の中で何が実質的な効果を発揮するかは、それが行われる中で何らかの事態の推移が起こってみてから、それを分析する過程でわかるようなことかもしれないが、それ以前に具体的に何をどうしたいのか、という問いが発せられる成り行きにはなっていない場合があり、人の意志として何かやりたいことがあって、それをやると世の中にどんな効果が表れるかを予測できるなら、それをやるについてはそれなりに説得力が伴うかもしれないが、やってみなければわからないような不確実な面が大きいと、それをやる意味や意義があるのか疑わしく思われるだろうし、そんなふうにして何かをやる前からやるに際して意味や意義が問われるような成り行きになるのは、計画的に物事を進める際に出てくる成り行きだろうが、そういう成り行きではなく、特に確実な計画もなく見切り発車的に何かをやろうとする場合もあるわけで、それは実際に行う内容にもよるだろうが、特に何をやりたいとも思わないまま惰性で何かをやっているような成り行きがあると、そうした成り行きに巻き込まれている人にとっては、何をやりたいという意志も計画もはっきりしないまま何かをやっている場合があり、そんなことをやっているだけでも、別にやりたいことをやっているわけでもなく、何をやりたいのかがはっきりしていないのに現実に何かをやっているわけで、そうなると何かをやるに際しての人の意志などはあまり重要ではなくなってしまうのかもしれないし、それよりは実際に何かが行われていることの方が重要なのかもしれず、それが特に何らかの効果を期待して行われていることでもないとすれば、では誰にとってそれが重要なのかと問われるかもしれないが、普通に考えればそれによって利益を得ている人や団体にとっては重要なことかもしれないのだが、特に利益を得ているような感覚もなければ、では何のためにそれを行なっているのか、という疑問さえ出てこないようなことが行われている可能性まであるのかもしれず、そうなると実際に何かを行なっているとしても、それがどうしたわけでもないだろうし、それをやる意味も意義も不明で、さらに何の利益も得られないのに、どうしてそんなことが行われているのか不思議に思われるかもしれないが、意外と世の中で行われていることのほとんどはそうしたことなのかもしれず、ただそれをやっていることについての理由などを求めようとすれば、それなりに理由が求まることが多いかもしれないが、特に理由などいらない場合も多いだろうし、結局はそれをやるに際しての理由であれ意味であれ意義であれ、そうしたものが後付け的に求められるような成り行きがあるにしても、やる以前から積極的にそれを導き出そうとしているわけではなく、やっていることを正当化する過程でそうした理由付けが必要になることがあるにしても、それ自体が言葉を使っての説明であり、そうした説明も一応は何かをやっていることのうちに入るわけだろうが、たとえ関係があってもそれとこれとは別ものであり、やっていることに対する説明自体が、やっていることから派生した効果になるのかもしれないし、それ自体が意義や意味であり、やった後から付け加えられた理由にもなるのではないか。

 そういう意味で言葉による説明というのは、それ自体が何らかの行為であるにしても、やはりそれとこれとは別ものであり、やっていることとそれに関する説明を混同してはならないだろうし、やっていることはそれ自体であり、それに関する説明も言葉を使った別の行為でしかないわけだが、何かそれが地続きの連続した一連の行為とみなされると、やっていること自体に言葉による装飾が付け加えられて、箔がついてしまうというか、余分な付加価値が付け加えられて、余計に大げさなことが行われているようにも感じられてしまい、そこからそれに対する効果として勘違いな思い込みが生じてしまうのかもしれず、しかも直接それを体験していない人までが、それを疑似体験するようなことも起こり、しかも言葉による装飾が施されているから、それによって体験自体が影響を被ってしまうだろうし、そういうことも含んだ体験となるわけだから、それ自体の体験よりはだいぶ趣が違ってくるのは当然かもしれず、ことによると直接体験することよりも、後から言葉や映像などによって加工を施された体験の方がリアリティを伴うのかもしれないし、そういう体験を専門に作り出すメディアの方が、直接の体験をもたらす出来事よりも、人の意識に働きかける力を持っていて、しかもそうした情報によるコントロール次第で感じ方がだいぶ違ってくることから、体験自体の客観的な評価の面でも、二次体験を含んだメディア的な体験に依存した感覚というのが、世の中に無視できない効果をもたらしていることは確かだろうし、その効果が心理的な影響なのだろうが、そうした影響によって人々の政治的な選択が左右されるのも当然であり、たとえ特定の出来事から否定的な印象を受けたとしても、メディアによって後付け的に肯定的な印象が付け加えられると、後から付け加えられた印象の方が勝ってしまい、世間の感覚からすると否定的な出来事を引き起こした政治勢力が、メディアがもたらす肯定的な印象操作によって救われる事態も起こってくるわけだろうし、そうした印象操作に騙されてしまう人々にとっては、政治家や政治勢力が引き起こした否定的な出来事と、それを捻じ曲げるためにメディア上で行われている印象操作が、一連の連続した出来事として意識されているのであり、しかも出来事よりは印象操作の方が印象深く人々の感覚に訴えかける力を持っていて、それによって引き起こされた出来事に対する否定的な印象が消し飛んでしまい、それよりはメディアからもたらされる印象操作の方がより優先される判断材料となってしまうのだろうし、そういうところで出来事とそれに対する言葉や映像などを駆使した説明との区別が、意識の中で曖昧なままとなっていて、思考回路が印象操作の視聴覚映像などによって汚染されているわけだが、それも実際に普段からメディアによってもたらされる二次的な情報によって意識が構成されているわけだから、無理もないことなのかもしれず、物事を直接体験することとメディア経由で疑似体験することとの間に区別をつけること自体が、それほど切実な問題とは感じられないわけで、逆に区別をつけること自体が不自然に思われるような実感もあるのかもしれず、それ自体が判断を左右する問題とは感じられないだろうし、それよりはもっと切実なことが他にあって、そちらの方が民衆の意識に深刻な影響を及ぼしているのかもしれないが、たぶんそれが権力と信用の問題なのではないか。


7月1日「時間稼ぎの演技」

 現状の世界の中で政治活動によって何ができるのかというと、実際に政治活動として行われている内容がそれに当たるわけだが、それを大雑把に言って国を富ませることだと言える部分があるにしても、その実態が単純にそうなっているわけではなく、例えば財政赤字が増えることは国を富ませることとは少し違うのかもしれないし、また貧富の格差が拡大するような新自由主義的な政策を実施することも、単純に国を富ませることからは少しずれている面があるのかもしれないし、それが良かれと思ってやっている実態があるにしても、それなりに弊害が指摘されていたり、結果的に貧困の蔓延などのように富ませることとは反対の面が出ていること自体が、何かそこに筋の通った一定の目的があるようには捉えられない現実を突きつけているのかもしれないし、行政や政治活動の中で何らかの在り方を目指すような一定の傾向があるにしても、それを確固とした目的に基づいているとは言えない面があって、それでも政治家が何かを主張する時には、たとえそれが宣伝ではあってもはっきりとした目的を表明することが多いのかもしれないが、果たして表明した目的に沿うような活動が行われているかというと、必ずしもそうだとは言えない面があって、政府によって打ち出された政策がそれなりにはっきりした内容を伴っているとしても、それが単純に目的を成就するような成り行きにはなり難い面があるのではないか。それでも何かやっていることは確かだろうし、そのやっていることがこれまでにやってきたことの延長上で行われるに際しては、それなりの必然性を感じられるだろうが、そこで改めてやっていることの必然性が問われているわけではないだろうし、そういう場合はただ惰性や慣性のような成り行きで行われていることがほとんどかもしれず、それでは改めてやっていることの意義などは問えないだろうが、特に問われるような状況にもなっていないし、実際に何が問われているわけでもないとしても、現状維持としての惰性や慣性によって、これまでにやってきたことの延長上で何かが行われている実態があるとすれば、それを行うに際しての利害関係や権力関係があって、それに関わっている人や団体としては、そうした活動によってそれらの関係を維持できる限りで、それに伴って自分たちの存在にも意義や意味が生じてきて、その在り方にもそれなりの必然性が感じられる実態があるのかもしれず、そうなるとそれらの人たちの究極の目的とは、自分たちの勢力を維持することや、あわよくば勢力をさらに拡大することであり、特にそんなことを主張しなくても、彼らの活動している実態がそれを物語っていて、そこに勢力として存在していて、何らかの活動を行なっていること自体が、自分たちの勢力の維持や拡大に結びついていて、それ以外ではないだろうし、実質的にやっていることの意味や意義がそこから生じている現状があるとすれば、政治活動というのはそれ以外の何でもないことになるし、実際にそれ以外の何をやっているわけでもなく、後はひたすら勢力を拡大している間の時間稼ぎのようなことをやっているだけなのかもしれないが、実際に何のために時間稼ぎをやっているのかと問われるならば、時間稼ぎ以外の他に何かをやっているように見せかけるには、やはりそれ相応の時間が必要で、とりあえずそこで何かやっているように見せかけるには、そのやっているように見せかけるだけの時間が必要なのかもしれず、実質的には何もやっていないとしても、とりあえずやっていることに時間をかける必要が生じているわけだ。

 実際にそうなっているとしても、特に当事者たちが何か演技を行なっている自覚はないのかもしれないが、そうなるまでの手続きが様々に入り組んでいるとしたら、少なくとも単刀直入なことはやっていないわけで、やっていることに何か意味や意義があるかのように見せかけるのが演技であることは確かで、少なくともそれが形式的な儀式となっている傾向が強ければ、なおのことそれは何らかの演技になっているだろうし、そのような手続きの儀式化自体が行為の政治化とも言えるのかもしれず、そうであるなら政治というのは一種のごまかしの正当化であり、目的を成就するだけの単刀直入な作業だけでは間が持たないから、そこに儀式や演技を挿入せざるを得ないのかもしれず、そこで見え透いたごまかしをやっているのを相手に悟られてはまずいのだろうし、そこで政治の相手とは一般の民衆のことなのだろうが、実質的にも直接の暴力や武力行使を回避するための時間稼ぎが政治本来の意義や意味となるわけだろうが、そうまでして何かをやっているように演じなければならない理由があるのかというと、特に理由らしい理由がなくても、どこからともなくそこにもっともらしい理由が付け加えられてしまうのが、政治特有の回りくどさなのかもしれず、実際に空疎なフィクションを演じているだけだとすれば、その理由も虚構であり、しかもそれがもっともらしく感じられるとすれば、一般の民衆を騙すにはうってつけの理由となるのかもしれず、人を騙すためにフィクションが存在していて、その意義や意味としても騙すことの効用が語られることにもなるだろうが、実質的にも虚構の面でもそれでは片付かない事情も生じていて、何かそこに政治的な問題提起として取り扱う必要が語られないと、やはり間が持たない事情があって、その事情というのが民衆のための政治ということになるのだろうが、実際にそれが民衆のためになっていないとすれば、やはりそれはフィクションであり、そこで空疎な理想が政治家によって語られているわけだろうし、しかもその理想がメディアを経由すると真実味を帯びるわけだが、いくらそれが空疎なフィクションであろうと、儀式的な手続きとしてメディアを介して語られると、そうすることが慣習として社会に定着しているから真実味や現実味を帯びてしまうわけで、要するにそれは内容ではなく正式な手続きを踏んで語られるからそう思われるのであり、逆に内容がどんなに説得力があろうと、正式な手続きを踏んでいなければ世間からは見向きもされないだろうし、その正式な手続きというのがそれなりの権威を伴ったメディア経由で空疎な内容が語られることだろうし、そのための利害関係や権力関係がそれらのメディア勢力と政治勢力と行政勢力などの間で結ばれている実態があるわけだが、それが世間的な面で権威として機能していること自体も、ある意味では空疎なフィクションでもあるわけだが、そこに実質的な存在として民衆の間で信用が生じていることが、何よりもそれらのフィクションがフィクションではなく実態を伴っていると認識されるための条件だろうし、それをメディア勢力と政治勢力と行政勢力などが一丸となって支えているから成り立っているわけだろうし、それらのフィクションを民衆に信じ込ませるために様々な制度的な手続きを構築してきた歴史があり、実際にそうした信用を構築するための時間が必要であったわけで、それは今までもこれからもそうしたことを行うための時間稼ぎが弛みなく行われることで成り立っている実態があるわけだ。


6月30日「事態への評価」

 取り返しがつかない事態とは、後戻りができない事態でもあるだろうが、何がそうなのかといえば、すでに起こってしまった惨劇の大半はそんなものかもしれないし、何かの状況が悪化してくると、取り返しがつかなくなる前に何とかしなければならないとか、よくそんなことが言われるのかもしれないが、ではその逆の取り返しがつく事態とか、後戻りができる事態とは、人の力でどうにかできる事態だろうし、あえてそんなふうには言わないだろうが、まだ見込みがあるということは、良くなる可能性があるということであり、まだ希望が持てるように思われるなら、もはや手遅れとは認識されないだろうが、それが気休めなどではない限り、安心材料ともなるだろうし、普通は前向きに何かをやろうとする場合は、希望を持たせて期待を膨らませるようなことが言われるのだろうが、そうである限りは何事も悲観することはなく、成功することを願いながら努力するような成り行きになるだろうし、別にそうなっているのなら、そのままやってもらうしかないだろうし、あえて悲観論の類いを吹聴することもないわけだが、このままでは危ないという決まり文句を用いて、他人のやっていることを批判するような場合には、大げさに危機感を煽るようなことが言われるわけだが、その手の文言は聞き飽きたと思うようなら、そんなことばかりが言われているにしても、一向に危機的な状況が訪れないことに飽きてしまって、世の中で危機感を煽るような言説が信用を失いつつあることを示しているのかもしれず、またそういう狼少年的な態度の人たちが世間から相手にされなくなっている兆候も示しているのかもしれないし、そうした兆候の良し悪しはさておき、それに関して何か状況を見誤っている傾向があるとしたら、それは現状が取り返しがつかない事態とは言えないことであり、またそうかと言ってうまくいっているとも言えないだろうし、では何かといえば、そうした現状に対する評価や判断自体が的外れなのかもしれず、まだ評価や判断を下すのは時期尚早だと言えるのかもしれないが、ではいつ判断すればいいのかとなるかもしれないが、いつでも時期尚早だとすれば、いったい現状は何なのかということになるだろうが、そうでなくても現状に対する判断とか評価が無効になっている場合があるわけで、否定的な判断や評価がされ過ぎていると、そうした判断や評価を行う言説自体が無効になってしまい、要するに飽きられてしまっていることになるのだろうが、そうしたことを言う立場の人たちが口を開けばそんなことばかり言っているから、もはやそれを真に受けられなくなっているのかもしれないし、実際にその手の人たちが相手にされなくなっている実態があるとしたら、たとえ取り返しがつかなくなっているとしても、それ自体がどうでもいいことになっていて、そんなことを言うだけではどうにもならない状況となっていて、そのどうにもならない状況というのが、特に危機的な状況だとは感じられなくなっているのかもしれず、そうなっていると危機感を煽っている人たちと一般の民衆の認識との間に、ずれや落差があることになり、場合と程度によっては、それらの人たちがもはや一般の民衆からは信用されなくなっているのではないか。

 もちろん現状はそんな単純な状況ではないのかもしれず、実際に危機感を煽っている人たちを信用している民衆も根強くいるのかもしれないし、また宣伝や煽動を用いて敵対している勢力が民衆から信用されていないことを吹聴して回っている人たちも、それなりに信用されているのかもしれないし、民衆の中でも意見や見解が分かれていて、多数派を構成する世論や民意が世論調査などからそれらしく形成されているとしても、そんな世論や民意を信用していない人たちもそれなりにいるのかもしれず、また人々がどんな意見や主張を信用しているとしても、それがメディアを経由して伝えられる内容としては、かなり恣意的に歪められて伝わっている可能性さえあるのかもしれず、それに関して実態がどうなっているかは、誰も正確には把握していない状況があるのかもしれないし、要するにメディア上で何か主張している人がいるとして、一般の民衆がそれを信用したりしなかったりするとしても、たとえそれが世論調査などによって統計的な結果として示されているとしても、そうしたことが何を意味してどんな影響を世の中に及ぼしているかは、それを分析してみればそれなりに傾向がわかるにしても、そこから決定的な何かを導き出すのは、少し違うように思われるだろうし、そんなことには興味を持てなければ、それっきりとなってしまうような物事でしかないのかもしれず、実際に重要なのはそんな現状への評価や判断などではなく、そこでどんな活動が行われているかであり、そんな活動から具体的に何がもたらされているかが重要なことであり、その活動に関わっている人たちや、活動からもたらされている物事に関わっている人たちにとっては、そういった物事に関わっていることが自らの活動そのものなのだろうし、そこからどんな評価や判断が下されようと、それを否定的に見たり肯定的に見たりする中で、自らの活動の状況がどうなっているかを知ろうとするだろうし、それがそこにもたらされている結果であり、結果を肯定的に受け止めたり否定的に受け止めたりする上で、何がその判断基準となっているかは、自分の置かれた状況がどうなっているかであり、そこで自らが主体的に活動している実態を感じ取れるようなら、とりあえず現状を肯定できるだろうし、また思い通りに活動できていなければ、そんな現状を否定的に見るしかないだろうし、それ以上のことを知りたいわけでも知っているわけでもなく、知っていることや知っているつもりになっている物事まで含めて、それらの物事への自らの関わり方や関わり具合までが、自らの評価や判断に関わってくるのだろうが、そこでそれなりに筋の通った理屈や論理によって自らの活動を説明できるようなら、何か正しいことをやっているように思われるだろうし、またそれなりに利益にありつけている限りで自らの活動を正当化しようとするだろうし、やっていることが実質的な実態を伴っていることが、その活動を信じられたり信用できたりするわけで、何ももたらされなければ無意味で無駄なことのようにも思われるだろうし、そんな結果から自らの活動を評価することになるわけだが、それは他人の活動にも言えることだろうし、絶えず自らとの関わりにおいて、自分と敵対関係にある活動は否定的に見るしかないだろうし、また自分に利益をもたらす活動は、その内容はともかく満足感を得られる限りで、その度合いに応じて肯定されるだろうし、さらに公共的な面での活動に関しては私情を抜きにして、なるべく客観的な評価や判断を下そうとするのではないか。


6月29日「調整能力」

 特定の役割分担に基づいて決められたことを集団で協力して行うことによって、社会の中では様々な作業が成り立っていることは確かだが、仕事としてはそれが当たり前のことだろうが、仕事以外の面で何かをやるとなると、仕事と同じように型にはまったことをやる以外に、何となく好き勝手なことを行う機会があるのかもしれず、それが何をもたらすかとなると、何ももたらさなくても構わない場合があるだろうし、特に何をやる気にもならないのに、それでも何かやっているということは、要するに暇を持て余していることにもなるわけだが、そんな自由を享受できるのは経済的に余裕がある証拠かもしれず、それ以外でも様々な事情が考えられるだろうが、そこに目的が生じるということは、まずは仕事には目的があるだろうし、普通に考えれば仕事を行う目的が生じているわけだが、他にも家族や交友関係の中でも目的が生じるだろうし、またそれは恋愛関係の中でも目的が生じるかもしれないが、そうした目的に基づいて何かを行うこと自体は、そこに何らかの関係が生じていることを意味するだろうし、実際に人と人との関係から目的が生じて、中には目的のために関係を結ぶ場合もあるし、そんな成り行きの中では目的が重要な要素となるわけだが、何らかの活動に至るのはそんな成り行きからだけではないだろうし、中には何だかわからないが何となく活動している場合もあるわけで、あまりはっきりとした目的がなくても活動が成り立っている場合があると、そういう活動の中では目的が取り立てて重視されることもなく、何となくその場の成り行きの中で活動している場合があって、それがどうしたわけでもないのだろうが、そうした活動とともに人が生きて暮らしていると、何か意味がないようなことをやっているように思われるかもしれないが、たぶん活動する意味とか目的とかは、その活動を説明する時に必要となるのだろうし、特に説明を求められなければ、あまり目的とか意味とかは意識ないまま活動を行なっている実態があるのではないか。そしてなぜ説明する必要が生じるのかといえば、説明しなければならない事情が生じるからであり、そこに活動に関して説明を要する必要が生じて、それが誰かに向かって説明する成り行きだとすれば、その説明する対象となる人や団体との関係が生じていることになるだろうし、そこに何らかの関係が生じているから、関係者に向かってやっていることを説明する必要が生じてくるわけだ。そして言葉を用いてやっていることを説明することも活動に含まれてくると、それが余分な活動として一手間かかっていることにもなるだろうし、活動するについて他人の了承を得たり、やっていることをわかりやすく説明したり、そんな手間がかかっていること自体が、そこに何らかの社会的な関係が生じていることを示しているわけだが、なぜそうなってしまうのかといえば、勝手なことをやれないような世の中の仕組みが生じていて、例えばそこに監視体制が築かれていれば、やっていることが他人や他の団体の利害に直結しているということだろうし、許可なく勝手なことをやられては困るような事情が生じていて、そうなるとやるに関しては他者や他の団体に何らかの配慮をしなければならないということになり、そこでそれらの人たちとの間で何かが競合していることになるだろうし、そうした競合状態から対立やら軋轢やら諍いやらが起こる可能性があるから、それをやる時には関係者に向かって何らかの意思表示を行い、他の人たちの了承や了解を経た上でそれを行うことができれば、そうしたトラブルが生じるのを未然に防ぐことにもなるわけだ。

 また何らかの団体に対して許可や了承を得ないとやれないような仕組みが生じているとすると、それがその団体の利権になっていることにもなるだろうし、そこで何かをやることについて特定の団体に許認可権が生じているような状況が、権力関係としてよくある状況なのだろうが、そこに競合関係が生じていると関係者や関係団体の間で利害調整が必要な場合が出てきて、そうした調整の場を仕切る機構も必要となってきて、それが許認可団体として機能するわけだろうし、許認可の範囲に関して何らかのルールを定めて、ルールに合致する範囲内でやってもいいこととやっては駄目なことを定める成り行きとなるのだろうし、そうしたやり方が幅を利かせていること自体が、その場を仕切る団体に権力が集中する傾向を生じさせるのだが、だからそのような団体には公平で平等な判断が求められるのだろうし、特定の人や団体を依怙贔屓するような裁定を下すのは論外だとしても、判断基準の内容が公正明大であることも望まれるだろうし、だからと言って本当にそんな判断ができるかというと、実際にはそうはならないだろうし、どんなに公正明大な判断基準を設定しようとしても、その団体の都合が優先されてしまうわけで、その都合が不公正で不均衡な判断を生じさせてしまうことは否めず、そこに利害関係が生じていること自体が、それなりに有利不利が生じる成り行きにならないわけがないだろうし、その辺でそうした不公正で不均衡な部分をいかに小さく収めるかが重要となってくるのだろうが、そこで競合関係にある人や団体などが納得できるようなルールの在り方が提示できれば、それなりに文句や批判が出ないような結果をもたらすわけで、そうなればある程度はうまく調整ができていることになるのだろうが、それに対する不満や批判が少なからずあるようなら、まだ調整の余地があることになって、絶えず不満や批判がなくなるような調整を行い続けることが、その場を仕切る立場の団体に課せられた義務ともなるわけで、それは他の人や団体との間に生じている力関係から、できる範囲が限られてくるだろうし、それらの人や団体との関係が比較的良好なら、そんなに強い権限を付与されていなくても比較的うまく調整できるかもしれないが、様々な面で対立や軋轢が大きいほど言うことを聞いてくれない可能性も高くなるだろうし、またルールを無視して横暴なことをやるような人や団体も増えてくるのだろうが、それは相対的にその場を仕切る団体の権限が弱いことを示しているだろうし、そうなるとルールもその場の調整力も有効に機能していないことにもなるのではないか。そしてそう言う傾向が強まるほどその場が無法地帯となる可能性も増してくるだろうし、そうした面が極端に拡大するともはや平和な状態を保てなくなって、その場が戦争状態へと突入するだろうし、要するに制御不能な状況となってしまうわけだが、そうなってしまう原因としては、その場を仕切る団体が能力不足である面が大きいとともに、そこで競合関係にある人や団体の力が強大であることも起因しているだろうし、また利害関係が極端に不均衡な状態をもたらしていることも大きいのかもしれず、もはや武力を使わないと挽回不可能に思われるようなら、武力行使せざるを得なくなるわけで、しかも不公正なやり方によって一部の勢力が利益を得ていることが誰の目にも明らかであると、どんな手段を使っても構わないような成り行きになってしまうだろうし、そういう意味でもその場の状況の程度がその後の成り行きを左右するのだろうが、場合によっては利害関係にある様々な勢力への根回し工作などに長けた団体がその場を仕切るような成り行きになれば、何とか穏便に事が済ませられる可能性も出てくるわけだ。


6月28日「意外なきっかけ」

 現状で成り立っている社会の仕組みは、それに関わっている人や団体に利益をもたらしている限りで成り立っているわけだろうが、それが公的な仕組みになると、やはり特定の人や団体であるよりも、できるだけ利用する全ての人や団体に分け隔てなく利益をもたらすことが望ましいのだろうし、その実態はともかく、理想としてはそういう方向で公的な仕組みが作られているわけだろうが、当然そこに競争原理が反映してくると、競争に勝った人や団体に利益がもたらされる仕組みになるわけで、公共事業などの競争入札などがそういった傾向になり、そこに関わってくる全ての業者が利益を分け合うことには原理的にはならないわけだが、そこに違法な談合が絡んでくると、そこに加わった業者で利益を分け合うことにもなるわけだろうが、そういう行為も社会的な仕組みの類いには違いなく、とりあえず人も団体も何らかの仕組みを作って利益を得ようとするわけで、仕組みにはそれを管理する組織的な機構の関与が必要不可欠で、それが違法だろうと合法だろうと、社会を構成する仕組みには何らかの集団による管理体制が絡んできて、そこに人為的な制度が介在していて、その管理業務に携わる機構が必要となってくるのであり、それが何らかの官僚機構として機能するのは避けられないことだろうが、そうである限りにおいて官僚機構が社会にとって必要となるにも関わらず、その存在が否定的に見られてしまうのはその動作に問題があるからだろうし、しかもそれが官僚機構としては必然的な動作であるだけに、ただ単に官僚機構を否定したり批判したりするだけでは済まない問題があるだろうし、そうした必要悪としての存在を悪ではない存在にするには、何か上手い手法や方法があるかというと、現状ではそうしたやり方が編み出されているとは言い難く、行政やそれに絡んでくる政治について考える上で、官僚機構の改善は避けては通れない課題となるわけだろうが、どうやって改善するかについても現状では何の方策もないのかもしれないし、どうなれば改善したことになるかについてもうまく説明できないところだろうし、とにかくありのままの現状が維持される限りにおいて、必要悪としての否定的な存在として官僚機構が認識されることになるのだろうが、それに関して単純に効率性の改善だとか無駄をなくすとかでは、有効な方策とはなり難いだろうし、組織のあり方をどうすればいいのかと問われても、現状の延長上でせいぜいが省庁ごとの縦割り行政を改めて、横断的な横の連携を強化するとか、あまり実現性のない提案が出てくるぐらいで、それでは本質的なところは何も変わらないことになってしまうだろうし、そうかと言ってどう変えればいいのかわからないのだから、何ともやりようのないこととなってしまうのかもしれず、たぶんそれでは駄目なことはわかりきっているとしても、そうなるしかないことを批判するぐらいが関の山となってしまうのではないか。そうした行き詰まりは国家体制という大元の部分で画期的な統治術などないことに起因しているのかもしれず、どう考えても現状の国家体制からは政府という官僚機構の存在が出てきてしまうわけで、それに関しては現状の体制のあり方を認めた上で、対症療法的に問題となっている法律や制度などを、その場の状況に照らし合わせて改善していく以外にはあり得ないのかもしれず、そうなっている限りで現状の体制が維持されるのだろうが、それについて考えるだけではいくらでも実現不可能な荒唐無稽な方策を思いつくかもしれないが、やはり考えるしかないだろうし、考えつく範囲でアイデアを出していく以外にはあり得ないのだろうが、それとともに実際に行政へ何らかの作用や影響を及ぼしていくしかないのかもしれず、それがあからさまな抵抗運動や反対運動に結びつくようなことではなくても、様々な面でおかしいと感じたことは積極的におかしいと主張していくしかないのではないか。

 だがそんなことをやるにしても何が変わるわけでもないのかもしれず、政府という国家体制を目に見える形で変えるのは難しいだろうし、それ以前に社会の様々な方面で利害関係が錯綜して絡み合っている状況があるわけで、それを調整するのが政治の役目だとすれば、現状の延長上で政治活動が行われるしかないだろうし、今のところはそれ以外にはあり得ないのかもしれないが、政府という行政機構が存在してそれなりに機能しているにしても、他の機構や機能との兼ね合いから政府の存在や機能を相対化できる可能性はあるだろうし、政府が他の機構との間で特別な存在ではなくなってくれば、特にその機能やあり方が問題視されるような程度や割合も軽減されてくるのかもしれないし、それに関して安易に民活という言葉を使うのも無責任だろうが、さらに地方分権という考え方にも、権限の委譲や分権の程度が問題となってくるのだろうが、それをどう捉えるにしても、妙案とか画期的な政策の転換などを期待するのは虫が良すぎるだろうし、現状からしか改善の手がかりは見えてこないし、それに関して荒唐無稽で実現不可能なことを述べても無意味だろうが、仕組みを変えることに関しては、大元の予算の裏付けとなる税制から見直す必要があるにしても、また各省庁の再編などに関しても、今までにいくらでもやってきたことだろうし、そうした小手先や目先の変更では本質的な面はあまり変わらないわけだが、そうしたことよりも肝心なのは行政に対する民衆の意識を変えることにあるとすれば、それは意外なところから変わるきっかけが生じてくるかもしれないし、それに関してよく言われるような政治の面での単なる政権交代や政界再編というよりは、例えば政党の形骸化から政党と政府の官僚機構との力関係やその内容に変化がもたらされるのかもしれず、またそれによって官僚機構の力や権限が増すのではなく、逆に政治へのコントロールが利かなくなってきて、これまでのような一党独裁的な政権与党と官僚機構との間で成り立っていた、阿吽の呼吸や空気を読むような忖度などができなくなってくる恐れが出てくる可能性があるだろうし、要するに政治と行政との談合体質が弱体化するには、政党自体の組織的な官僚体質が希薄になれば、両者を有機的に結びつけるノウハウが切れてしまう可能性が出てくるということであり、それには政党の枠を超えた政治活動が盛んになることが有効かもしれないし、またそうなると政治家が集団としてでなく個人として動くようになるかもしれず、法案などを提起するにも政党の枠を超えて賛同者を募るようなことを行なってゆけば、その度ごとに賛成や反対に関して党派や政党ごとの予定調和の展開にならずに済むだろうし、法案の審議などに関しても形式的な内容にはならずに、法案そのものの内容に関しての白熱した議論が期待できるだろうし、その賛否についても政党ではなく政治家個人の判断に委ねられるようになるのではないか。またそうなれば官僚機構の方でも通り一遍の対応が取れないような成り行きになるだろうし、法案ごとに対策や対応が変わってくれば、それだけ省庁ごとの利害関係も複雑に入り組んできて、統一した対応が取れなくなってきて、政治家との結びつきも一定ではなくなってくると、官僚機構としてどう対応すべきかについて迷いが生じてくるかもしれず、それによって政治家と官僚との間で利害を共有できなくなってくれば、関係が相対化してくるしかないだろうし、両者ともに簡単に言うなら法案ごとに是々非々の立場になってしまえば、それほど談合する必要もなくなってくるのではないか。そしてそんなところから翼賛体制のような結束にほころびが目立ち始めれば、自ずとこれまでとは違った傾向が出てくるのではないか。


6月27日「求められる態度」

 たぶん愚かであることは幸せなことでもあり、愚かであるという自覚がないことが愚かであることの証拠ともなるだろうが、それはただ単に知識が欠けているだけではなく、知識の使い方を知らないことでもあるだろうが、人には誰でも愚かな面があることも事実で、別に愚かであることが致命的な欠陥となっているわけでもなく、むしろ愚かであることを活用できればそれが利点にもなるかもしれないし、愚かさを活用できれば賢いことよりも有利な面が生じる可能性さえありうるのかもしれず、確かにそういう面をうまく活用できれば人は積極的に愚かであるべきとも言えるかもしれないが、では具体的にどのように愚かさを活用すればいいかとなると、例えば愚鈍や鈍感などと呼ばれる愚かさから生じる感覚の鈍さは、少々のことでは動じない意志の強さをもたらすかもしれないし、そうした面での感覚の鈍さを活用する機会が危機的な状況の中で求められているとすれば、要するにすぐに答えまでたどり着かないことが重要かもしれず、実際になかなかたどり着けないのなら、周りからの助言を期待できるだろうし、我先に利益にありつこうとして熾烈な競争を繰り広げている賢い人たちを尻目に、後方からゆっくりと妥当な在り方へとたどり着こうとする方が無難であるかもしれないし、あまり性急に結果を求めようとしない態度でいるには、そこで立ち止まって考える勇気が必要となるかもしれず、確かにぐずぐずしていると手遅れとなる可能性が高い時には、迅速で早急な対応が求められるのかもしれないが、すでに手遅れになっていて何をやっても無駄に思われるような時には、騒がず焦らず冷静な態度が求められるだろうし、そういう時にはそれなりに感覚が鈍くないと平常心ではいられない場合があるだろうし、ちょっとしたことで蜂の巣をつついたように騒ぎ出すようでは困るわけだが、それとは逆の感覚の鋭さというのは、機を見るに敏な対応を引き出すかもしれないが、場合によってはそれが災いして先駆者としての不幸に直面してしまうのかもしれず、それは生き急いで夭折してしまうような人によく見受けられる傾向かもしれず、死後にその天才を騒がれるような人は確かに感覚や感性の鋭さを有していたのだろうし、確かにそういう天才が必要な時もあるのかもしれないが、少なくとも誰もがそうであるはずがなく、ごく少数の限られた人がそうであるにしても、それ以外の人がそうなれるはずもないだろうし、無理にそうなる必要もないわけだが、そういう人たちと比べれば誰もが凡庸かつ愚かなのも当然かもしれないが、機を見るに敏で賢く振る舞える人というのはむしろ天才よりは秀才と呼ばれるような人たちで、制度の中でうまく立ち回って出世できる人たちであるだろうし、そういう人たちは制度に対する適応力が普通の凡人よりは優れているのであり、そういう人たちが世の中で主導権を握って指導的な立場になりやすく、そうした人たちの指導の下に様々な機構や仕組みが動いていて、一般の凡人たちはそうした機構や仕組みが機能している制度の中で、指導的な立場の人たちに従わされていることが多いだろうし、そうした立場の上下関係に基づいて集団的な組織形態が維持されているわけだが、そんな制度的な秀才たちが制度の変遷とともに使い捨てにされるような人たちなのかもしれず、官僚制を支える機械の部品のような役割を担うのだろうし、愚鈍さや鈍感さとは無縁な人たちでもあるわけだろうが、そういう人たちがいったん制度に順応してしまうとそれっきりとなってしまうのかもしれず、それ以上の可能性がなくなってしまうのではないか。

 要するに特に世の中から求められていない愚鈍な人たちに可能性があるのかもしれず、下手に制度に順応しようとして賢くなってはまずいのかもしれないし、そういうことは学校教育では教えようのないことかもしれないが、なろうとしてなれるわけではないだろうし、努力とかが通用しない分野に属することかもしれないが、それでも努力していることは確かだろうし、しかもその努力が無駄に終わっている可能性もあるわけで、それなりに努力はするだろうが、それは成功しないことが重要なのかもしれないし、すぐに効果を上げないにしても失敗から学ぶことも重要だろうし、安易に世の中の風潮に流されないためには、失敗することに成功することが思考の多面性へと導かれるのかもしれず、それは単純な論理にはとどまれないことを意味して、複数の論理が同時並行的に競い合っている実態をも意味するだろうし、すぐにその中の一つの論理に飛びつかない用心深さにも結びつくのかもしれず、それが物事の一面だけを強調して宣伝や煽動によって愚かな人たちを誘い込むような賢い戦略とは違って、その宣伝や煽動の欺瞞性が見えてくるような成り行きにならないとまずいわけで、そういうことを感じ取れるにはそれなりに失敗を重ねながら、思いがけない回り道や寄り道を強いられないとわからないわけで、要するに痛い目にあった経験が多いほど、賢い人による騙しの手口を感じ取れるようになるわけで、宣伝文句や煽動行為に踊らされている感覚がどういうものかが、論理や理屈よりは経験からわかってくるのだろうし、様々なことを体験しながらそれなりに苦労してみないとそういう感覚は身につかないだろうし、しかもそうした経験が苦い記憶となって蘇ってくるようでないと、どうしても幻想を追い求めようとしてしまうわけで、そうなると痛みを忘れて成功体験ばかりが脳裏に焼き付いてしまって、結局賢くあろうとしてしまうだろうし、そんな賢さを身につけた人たちが、逆に愚かな人たちを騙す側になるわけで、こうすればうまくいくという手法や論理を宣伝するような人たちは、やはり賢い人たちの側に属することになるわけで、そうした成功体験に盲従するような人たちの中から、実際に成功する人たちが出てきて、賢い人たちの仲間入りを果たすわけだ。だからそうではない愚鈍な側にとどまるのは難しいことなのかもしれず、多くの人たちはできるだけ賢く振る舞おうとして、世の中の流行り廃りに敏感になろうとするだろうし、また成功するために成功体験から学ぼうとするだろうし、その手のハウツー書籍などがベストセラーとなるわけだが、実際にそんな本を読んでも誰もが成功できるわけでもないだろうし、実際に成功できる人は限られてくるわけだが、それでも多くの人が成功者に盲従しようとするだろうし、そんな成功者を支持していて、自分もそうなろうとしてそれなりに努力を惜しまないわけだが、普通は成功するために努力するのであり、特に失敗するために努力するような人は誰もいないはずだが、愚鈍さを保持する人はなぜかそこで失敗することに成功するのであり、それがありふれた成功体験にはならずに、その人に固有の愚かさや鈍さに結びつくのであり、それがその人の活動をその人独自の内容にしているわけで、結果的に他の人には真似できないことをやっている実態があるのだろうが、しばしばそれが世間的な価値観とは相容れない性質のものであったり、そうした価値基準では推し量れないことをやっているわけだが、その多くは実際にも世間から認められないままとなってしまうだろうし、しかもそれにも関わらずに活動が成り立っている実態もあるわけだから、たぶん普通にハウツー的な成功体験を目指す人たちには理解されないことなのではないか。


6月26日「馬鹿と鋏は使いよう」

 たぶん口先だけで言えるような単純な論理には、実際に人や団体の活動から生じる面倒な事情が抜けていて、面倒な事情がそれについて考えることを躊躇わせ、面倒臭がって勘に頼って安易な対応を行うとたちまち過ちを誘発するのかもしれないが、物事の成り行きにはその場に特有な事情が絡んでいる場合がほとんどだろうし、それが部外者には窺い知れない事情であったり、それに関して様々な方面への配慮が必要とされるのかもしれないが、そうした事情や配慮が何を意味しているのかというと、そこに関係する方面への了承を取り付ける必要が生じていて、そうしないとうまく事が運ばないだろうし、何をやるに際しても許可のような承諾が必要だと、そこにそれなりに入り組んだ社会的な関係が張り巡らされていることが窺い知れるだろうが、そうなっているからといって何もできないわけではなく、そうした関係の隙間を突いて勝手なことをやろうとする人が出てくるだろうし、実際にそれに成功して何らかの利益を得る人もいるわけだろうが、そこに何らかの社会的な関係が生じていると、そんな関係から利益を得るようなシステムが構築されていたりもするわけで、そこへ部外者が新たに参入するとなると、すでにそこで利益を得るために活動している人や集団との間で軋轢や諍いが起こる可能性が出てくるだろうし、それが経済活動を伴う関係だと利害を巡って何かとトラブルが生じやすいのだろうが、他の地縁血縁的な関係や公的な政治や行政などの関係でも、そこに経済的な利害が絡んでくると、どうしても功利的かつ利己的な思惑が生じるから、そうした部分で何らかの争いや競い合いが起こる可能性があるわけで、だからと言ってそうした関係を否定的に批判するのはおかしいだろうし、できるだけトラブルが起こらないような関係に改善していけばいいことでしかないだろうが、トラブルに対処するのも活動であるわけで、そういうことを専門に行なう活動というのも世の中には職業としてあり、そういった方面へ仕事として依頼すれば、報酬と引き換えにしてそれなりに解決を図ろうとするだろうし、また公的な行政サービスの面でも、社会の不具合や不便な点を改めようとする部門もあるだろうし、そんなふうに世の中で起こっている様々な出来事は、それに対応する活動を伴っていて、そうしたことが様々な方面で様々に行われている中でも、何かしらそれに関わる人や集団に役割が生じてきて、その生じている役割に合わせた動作を伴ってくるから、そうした役割に応じた動作と役割を担っている人との関係から特有の事情が生じるわけで、そうした事情抜きにはそれらの活動も成り立たないだろうし、その一方で生じている事情が面倒な事態も生じさせるわけで、特定の人や団体が関わってくるから特殊な事情が生じて、その事情が邪魔をして不平等で不合理なことが行われたり、その出来事に関わっている特定の人や団体の利権を守るために、場合によっては法律をねじ曲げるようなことも行われたり、実際にそんなことをやりだすときりがなくなってしまうだろうが、やはりいったんやり始めると後戻りが利かなくなるだろうし、無理なことを押し通すために理不尽なことをやり続けなければならなくなって、それが犯罪に結びつく場合も多いのかもしれないが、そういう成り行きを未然に防いだり解決する方法があるのかというと、事後的には何とでも言えるかもしれないが、事前に予知や予防ができなければ、事が起こってから対処するしかないわけで、実際にそうした事後的な処理や対処が人や集団の活動の大部分を占めているだろうし、実際に何らかのトラブルが起こるまでは気づかないことが多いわけで、そして何かが起こってからそれに関係する人や団体の間で事後処理が始まり、できるだけ当事者や関係者が納得できるような処理が施されて、それが一段落すれば事件などの幕引きが図られるわけだ。

 またそうした出来事を通して、その後に起こりうるトラブルなどへの備えもできればいいわけだが、それとともに絶えず新たな事態が起こる可能性もあるわけで、そうした予想外や想定外の事態への備えはやろうとしてもできないだろうし、そこに予知や予測の限界があるわけだが、そうした事情がある限りで、すでに起こってしまった事態から読み取れる人や団体の活動の特徴というのにも、何か一定の傾向や方向性があることは確かなのだろうが、そこから予見できるトラブルが限定されるようなら、それに関しては対処法が確立されるような運びにもなるだろうし、実際にそうやって様々な方面で対処が行われている実態もあるのだろうが、そうしたことが行われていること自体が、それによって人や団体の活動を一定の傾向や方向へと導くような作用も生じさせるのだろうし、そのような動作の繰り返しによってそれらの活動を制御していることにもなって、そうやって人や団体をコントロールしている実態も生じて、そこに必然的な物事の成り行きを生じさせていることにもなるのかもしれないが、一方でそれは人や団体の活動に関してマンネリ化を生じさせているだろうし、それが同じようなことの繰り返しとなると飽きてしまうわけで、そうなると活動自体に魅力を感じられなくなって、そうした活動が廃れる傾向になってくるのかもしれないが、それは公的な政治活動や行政活動にも言えることかもしれず、いくら公平で平等な制度を目指してそれを実現しようとしても、そのような制度に民衆が魅力を感じなくなれば廃れてしまう可能性が出てくるわけで、それに代わってポピュリズム的な宣伝や煽動によって幻想を振りまくようなことが行われて、そうした安易なやり方に飛びついてしまう人が大勢出てくるようだと、民主主義の理念などは見向きもされなくなってしまうだろうし、それよりは功利的な目先の利益につられて不均衡で不平等なことが平気で行われるようにもなってくるだろうし、またそれが新しい価値観としてメディアなどでもてはやされるようにでもなれば、いやが上にも魅力的に感じられるようになってくるだろうし、それが一時の熱病のような流行現象として世の中を席巻することもあるだろうし、そうした風潮を巧みに利用して主導権を握るような政治勢力も出てくるだろうし、それがそれ以上の何を意味するわけでも、何が実現するわけでもないのかもしれないが、とにかく幻想を抱けるなら何でも構わないような状況というのも出てくるのかもしれず、そういう大衆心理が何でもないような人物にカリスマ性を纏わせるわけで、そんな人物がどう見てもお粗末な言動や行動しか伴っていないにしても、何かできるんじゃないかと思わせているとすれば、そんな人物を利用して実際に何らかの事業を推し進めている実態まで生じてくるわけだから、そうしたやり方が今後どんな顛末をもたらすにしても、すでに動き出している物事については止めようがないだろうし、そんな物事に幻想を抱いている人も大勢いるだろうし、大勢の人たちが夢を見ているうちは、それなりに肯定的な評価が後追い的についてくるわけで、それがいつ悲惨な現実に変わるかは予断を許さないところかもしれないが、たぶんそんなふうに夢や幻想を抱いているうちに、それなりに事を進めて、それを後戻りできない段階にまで至らせてしまえばしめたものなのかもしれず、実際にそんな思惑で事を進めている勢力がいるわけで、それが今のところは様々な方面でひどい反響を招きながらも、それなりに事が進んでいることも確かであり、うまくいっている面では結果が伴ってきているところもあるだろうし、それによって一概に批判すべきとは思われなければ、それらの行為を支持している民衆も結構な割合に達しているわけだろうが、それがいつまで続くかはそれらの行為の結果にもよるだろうし、ともかくまだ一応の結果という形までには至っておらず、今後どうなるかもよくわからない面が多いのではないか。


6月25日「役割の終焉」

 人は現状の世界の中で絶えず機会とタイミングを失いつつあり、しかもそこに新たな機会とタイミングが付け足されつつあるのかもしれないが、それが何をやる機会でありタイミングであるかは、その場の状況によって異なるのだろうが、いったん失われた機会やタイミングは二度と回ってこないだろうし、人為的に機会やタイミングを作ることも可能ではあるだろうが、それには様々な条件が重ならないとうまく噛み合わなくなってしまうだろうし、遅すぎたり早すぎたりして、すれ違いや行き違いになる可能性も高くなるのではないか。そしてそのすれ違いや行き違いが新たな機会とタイミングをもたらして、人を当初にやろうとしたことから遠ざけてしまい、実際に当初の予想や想像とは全く違うことをやっている場合があって、そうした意図しない移動や展開が結果的に何をもたらすかは、誰にも予想も想像もつかないことかもしれないが、現状で起こっている状況が果たして行き詰まりと捉えられるかというと、大半の人はそうでもないと楽観しているかもしれないし、何が行き詰っているかといえば、それが政治や経済に関連した活動であるとみなせば、何かそれについてそれらしいことが言えるのかもしれず、特に危機感を煽りたい向きには、いつでも危機的な状況であることが必須の条件であるのかもしれないし、そこで行き詰まりの兆候が見られれば危機感を煽らざるを得ないのだが、状況として行き詰まりであるということは、もはや良くなる機会もタイミングもないとみなされるだろうが、たぶん今が何かを行う機会であり、何かをやるタイミングであることに気づいていなければ、やはり行き詰まりを意識せざるを得ず、現状に対して危機意識を抱いている人には、これからやろうとすることが一向に見えてこないのかもしれないし、あるいは自分がやるべきと判断していることが、実際に行われていない現状に苛立っていることにもなるかもしれないが、そんな苛立ちとは裏腹に実際に行われていることがあるわけで、別にそれに気づいてないわけではないだろうが、気に入らないことが行われていれば腹が立つだろうし、そんなことを行なっている場合ではなく、その代わりに自らが推奨していることをやってほしいと思うのかもしれず、またそれを自らがやる立場にないことも苛立ちを生じさせているのかもしれないが、そういう面で現状で危機感を煽っている人たちは、自身がやりたいことをやらせてもらえないから不満を抱いている可能性が高いだろうし、その代わりに他の人や団体が行なっていることが気に入らないのはもちろんのこと、場合によっては嫉ましくも感じているのかもしれないし、やりたいことができない自身の不遇を呪っている可能性さえありそうで、そうなると他人のやることなすことが歯がゆくて仕方がないような心境になってしまうのかもしれず、結局そういう人たちは他人のやっていることを批判しがちになるだろうし、こうすればうまくいくということ主張している場合もあるだろうし、しかしそれをやらせてもらえないから危機感を煽りながらも、自分がやる番が回ってくることを期待しつつも、なかなか回ってこないから苛立ちを隠そうとしないだろうし、時にはヒステリックなまでに他人を罵倒してしまうことすらありそうで、そうした傾向が強くなるほど周りから敬遠されがちになって、いつまで経っても自分が主導的な役割を担って行う番が回ってこないまま、気がつけば良くても批判専門のコメンテーター的な立場に固定されてしまい、悪いと相手にされずに絶望感に苛まれながら、中には自殺してしまう人も出てくるだろうし、それを客観的に評価するなら、そういう人はもはや社会的な役目や役割が終わりを迎えつつあるのかもしれない。

 そうした人たちは、じゃあお前がやれば、と言われるのを内心期待しているだろうし、実際にそうなることを願いながらも、必死に現状で主導権を握っている人や団体を批判しているわけだが、主導権を握っている側がそう簡単に主導権を明け渡すことはないだろうし、主導権を握っていること自体が力を持っていることの証拠であり、現状の力関係がそのまま立場の違いに表れているわけだが、その力関係を支えているのが、政治的にも経済的にも一般の民衆であることは言うまでもなく、たとえ批判者たちが言うように現状がひどい状況であるとしても、そのひどい状況を支えているのが一般の民衆であることは確かで、しかもそれに関しては一般の民衆が主導権を握っているはずなのだが、それに気づかないことが一般の民衆の愚かさを象徴するような事態となっているかもしれないが、それで構わない状況が形成されている現状があるわけだから、別に民衆が賢くなる必要はないだろうし、愚かなままでも構わないような世の中となっているのかもしれないし、賢くなる機会もタイミングも奪われているのが現代的な民衆の特徴をなしている可能性さえあるわけで、しかも賢くなるということがどういうことなのかについてはうまく定義しづらいだろうし、別に愚かであるならそれなりの利益や幻想に与れるわけで、それが何かといえば各種の娯楽になるわけだが、では賢い人には娯楽は不要なのかというと、娯楽を提供する側が世の中の賢さを独占している傾向があるわけで、娯楽を提供する側が賢く、娯楽を享受する側が愚かであるという構図が成立していて、それに気づかない一般の民衆が愚かであることは言うまでもないことだが、大衆娯楽はそれによって成り立っているのだから、それを享受する一般の民衆が愚かでないと困るわけで、それがその手の商売が成り立つ必須の条件であるだろうし、それ以外の条件などないに等しいわけだが、娯楽を提供する側には様々な条件がついて回るだろうし、それをおろそかにしてしまうと、立場を奪われて娯楽を提供できなくなってしまうわけで、つまり世の中で主導権を握っている人や集団から除け者にされてしまい、仲間外れにされてしまうのだろうし、なぜそういう仕打ちを受けるのかというと、その人が一般の民衆を賢くしようとしているからであり、簡単に言えば啓蒙活動を行なって一般の民衆に知恵をつけさせようとしているわけで、そうやって一般の民衆が知恵をつけて賢くなってしまうと、政治的にも経済的にもこれまでに通用していたごまかしが利かなくなってしまうだろうし、そうなると商売が上がったりになってしまうから、そういう事態は是が非でも避けたいところだろうし、だから民衆に知恵をつけさせようとする人たちを弾圧せざるを得なくなるわけだが、そういう面ではそれなりにそういった成り行きが生じているとしても、たぶんそれとは別の面では、また別の成り行きが生じているわけで、そこでは愚かさとか賢さとかいう基準では計れない事態も生じていて、それが鈍感さに関する評価だろうし、いくら賢くても愚鈍さがそれを上回ってしまう事態が生じているのであり、賢さとは異質の性質や傾向がそこで生じていて、賢い人たちが仕掛けてくる様々な誘導に乗ってこない人たちが世の中にはいるわけで、そういう人たちは愚直な人たちであるのかもしれないし、空気を読めない人たちでもあるわけだが、わざとではないにしても、それと自覚しないで大それたことをやってしまうだろうし、賢い人たちが気づかないところで物事の本質に触れていて、愚直なまでにそうするのが当たり前のように振る舞うから、ごまかしやはぐらかしが通用せず、人を欺くために仕掛けられた誘惑に惑わされるような感性が欠如しているから、やって当たり前のことを当たり前のようにしてやることしかできないのであり、それ以外の回り道的な過剰な装飾やこけおどしには乗ってこないわけだ。


6月24日「個人の存在と身体の実在」

 存在としての身体について語るには、あえてでたらめな定義を施さなければならなくなるかもしれないが、意識がメディアに依存しているのは身体がメディアに逆らう傾向があるからで、放っておけばメディアから身体が離れていってしまうから、意識をメディアにつなぎとめておかないとならなくなって、身体を意識が制御しているように装うことで、メディアに向けて実際に身体を固定しておくために、意識とメディアとの連携が必要になってくるわけだろうが、それと引き換えにして払う代償が、場合によっては深刻な事態を引き起こすのかもしれず、メディアへの依存度が増すにつれて、意識がメディアから離れたら何もやることがなくなってしまう場合が生じてきて、それこそ身体が不要になってくるだろうし、ならば不要な身体がどうなるのかといえば、意識から離れて浮遊し出すわけでもなく、そこに身体が現前していることが、その身体との地続きで、まだこの世界に意識が存在していることを明かしていると思われるかもしれないが、たぶんメディアと融合した意識に主体的に振る舞う力はなく、多数派への迎合力が勝ってしまうだろうし、そうなると個人としては無力となってしまうわけで、身体がメディアから離脱しようとする意思を感じ取れなくなってしまい、そうなれば意識が身体の求めに応じられなくなってしまうだろうが、それはメディア経由でもたらされる性的な欲求などとは異なり、身体そのものの意志が示す単独性に関わる力が欠如していることになってしまうのであり、すでに身体が存在していることから生じている個体としての意志が力を生じさせているわけで、それがないと社会が課す拘束から逃れられなくなり、そうした存在としての身体の単独性が、人が個人として振る舞う力の源泉となっているのであり、他者や身内などとの連携を拒絶することが、個人の主体性を保つことにつながるのかもしれないが、そればかりを強調しても社会の中で孤立するだけだろうし、そういったことにはあまり幻想は抱けないだろうが、それでもなお個の力が必要な時があるのかもしれないし、たぶんそれはスポーツなどとの関連で語られる個の力とは無関係かもしれず、あえて言うならそれが思考力としての個の力であると同時に、意識を介在しない思考力であり、それが身体の思考力であると言うと、思考力は脳がもたらすものであって、身体そのものには考える力などないと考えてしまいがちになるかもしれないが、脳の精神作用である意識にはメディアの支配が及んでいて、それが考える妨げとなる面があり、それに逆らう力として身体を持ってこないとならなくなるとすれば、そんな身体こそ幻想なのではないかと疑念を抱いてしまうかもしれないが、身体で考えるとは頭で考えることとは違い、少なくとも頭だけで考えているわけではなく、感覚は全身にセンサーを持っていて、そのセンサーをフルに使って考えようとすることになるわけで、しかも考えるだけでなく、身体を動かすことが肝心であり、それが人の活動となるわけだが、それもメディアからの求めに応じて動かすのではなく、全身の感覚から入手した情報への出力として活動するわけで、そうなるとただ単に身体が脳の奴隷の地位に甘んじている状態からの解放を意味するわけだろうし、脳への依存やその先にあるメディア経由で構成されてしまう意識への依存を断ち切るには、身体を使って考えながら活動するしかないだろうし、また身体に備わっている感覚を使って意識を改革することも重要なのかもしれないし、世界を肌で感じるような状態に近づける必要があるのかもしれない。

 今この世界の中で起こっている出来事や現象を身体で感じるには、メディアからもたらされる先入観にとらわれないことが肝心なのかもしれないが、たぶんそんな単純なことではなく、そこに生じている固定観念によってメディアが構築されているのであり、身体がメディアやそこから生じている自意識を逃れ去るということは、先入観や固定観念によっては身体を捉えきれないからだろうし、そこからはみ出す部分が身体にはあって、それが身体の本質を形成する部分でもあり、宣伝や煽動などのメディア的な制御ではコントロールが利かない部分でもあるわけだが、それは民主主義の理想が思い描く公式的な人間とも異なる部分であり、理想とは真逆の現実がそこに存在している身体そのものに宿っている存在なのだろうし、しかもそれを人間とは呼べない存在なのかもしれず、それは単独で存在している個人であるだろうし、その存在を取り巻く様々な社会的な関係や事情から形成されている個人でもあるわけだが、その個人に関係する社会的な事情というのも、その個人が存在している事実から生じているわけで、別にその個人を取り巻く関係に理想状態などというものはなく、それらの社会的な関係からは理想的な人間が形成される要素など何もないだろうし、絶えず理想とはかけ離れた存在が個人として構成されているわけで、そんな個人を関係の束に還元することができないから、そこに単独性としての力も生じていて、実際に身体が存在していることが力そのものを表しているわけで、実在している個人がそこで何らかの活動を行なっているわけだ。そのことの事実を取り去ることはできないから、社会にはそんな個人の存在を前提として様々な制度や法律が張り巡らされているわけだが、それが社会の個人に対する妥協点であり、個人の存在を認めないと社会そのものが成り立って行かず、確かにそこでは何らかの集団が団体としての勢力を保持しているのだろうが、それが同質化された単体としての団体ではなく個人の寄せ集めであることが、団体の集団的な組織形態を常に脅かしていて、団体としての方針に個人の身体が反発したり、離反してしまう事態が絶えず起こりうるわけで、しかもそれが団体の代表者であったり指導する立場の個人が真っ先に団体を裏切って離反してしまう可能性があるわけだから、どうやってもそれが集団として同質化できない限界として、集団指導体制の官僚制の前に立ちふさがっている現状もあるわけで、一方では絶えず集団的な組織形態として個人を抑圧する傾向があるものの、そんな集団の頂点の部分から個人的な離反作用が働いてしまうわけだから、それが集団化の矛盾を形成しているわけだろうが、たぶんそれを織り込み済みの要素とみなすことはできないだろうし、絶えずそれは不純物として集団を瓦解させる要素であり、組織の頂点からも末端からも個人の身体が抜け落ちて行く可能性があるわけだから、そこで絶えず働いている集団化の作用とは相容れない別の力が働いているとしか言えないわけだが、身体が個々に存在している状態を融合したり溶解するわけにもいかないだけに、もしかしたらそのような集団化の作用自体に無理な点があるのかもしれないが、社会そのものが人が大勢寄り集まって形成されるものだから、そこに集団化作用が働いているのは当然のことであり、そのような作用を否定するのは無意味なのかもしれないが、一方で集団的な組織形態を瓦解させるような個人化作用も生じているのであり、両者の作用反作用の力が一定の均衡状態を保っている限りでそこに社会が生じていて、それ以上ではないことが、それ以上の集団化も個人化もあり得ないことを示しているのではないか。たぶんそれは幻想では片づかない個人の存在を前提として成り立っていることなのかもしれない。


6月23日「不便な世の中」

 現状で何がなおざりにされているのかといえば、それは倫理でも道徳でもなく、効率でも採算でもなく、他に様々なことがなおざりにされていても、それを補って余りある過剰性に対する感性だろうか。何が過剰なのかといえばそれは情報過多であるのはいうまでもないことだとしても、情報過多であるそれが何かといえば、全てがそうだとはいえないにしても、ちょうど良い情報量の提供など幻想に過ぎないだろうし、情報とは過剰に提供しないと効果を上げないものかもしれず、情報過多な現状であるのは当然のことでしかないのかもしれないが、情報に対する感性とは、必要とする情報を見極める能力であれば問題のないところだろうか。だが何が自分にとって必要なのかについては、よくわからないことが多いだろうし、自分が必要だと思うことと本当に必要であることとの間にずれがあると、勘違いや思い違いを招きやすく、それは結果からしかわからないことかもしれないし、事前に知り得ないことであれば、それは探しようがないことになってしまうが、ともかく必要だと思う情報を入手しようとすることは確かで、そうやって得た情報を自分のためや他の誰かのために活動しようとするわけだが、それで何ができるかというと、何かしらできるわけだろうが、それをやって満足のいく結果を得られたら、それが実際に必要だったと認識するわけだろうし、そうなると得られた情報を利用して何かをやってみた結果からしか、それが必要だったか否かはわからないことになってしまいそうだが、たぶん得られた情報を取捨選択している過程で、選んだ情報の必要性に関して実感するわけで、それが探し求めていた情報だと思い当たるわけだが、何かそうやって正解にたどり着いたように思われることが、頭の中で辻褄が合うようにも感じられるだろうし、それが身勝手な思い込みであっても、それによって何かを知り得たと感じられることが、まさに必要な情報であることを認識させるわけで、そして行為や行動とそれに利用される情報の結びつきが、何かかみ合っているようにも思われるだろうし、さらに行為や行動の結果が満足のいくものであるなら、やはり必要な情報を入手して活動がうまくいったことになるわけで、そうなれば言うことなしだろうが、実際にそうなるとは限らない場合もあって、たとえ活動がうまくいっているとしても、なおのことそれ以上の結果を求めようとするだろうし、それに関しては文句を言えばきりがないわけだが、うまくいって当然だと思うことが、活動の困難さを忘れさせてしまい、しかも制度的な助けを借りて活動している場合には、自分や自分たちの力だけで行なっていることではないだろうし、制度によって様々な条件に関して便宜を受けながらやっていることがあるわけで、制度が活動の困難さを緩和している場合が多いだろうし、世の中の仕組みがその仕組みに従う限りで容易に行えるような行為にしていると、たとえ自分の力でそれをやっていると認識できるような場合でも、その仕組みをその人に提供している制度がそれを行わせるように仕向けてきているわけで、それが過剰なアシストだとは思えないだろうが、誰でもできるようなこととしてそのような行為が行えるとしたら、誰もが行えるような行為として制度のお膳立てが用意されている場合がほとんどで、そういうことに関して感覚の麻痺が民衆の間で蔓延している場合が多く、社会インフラの整備とはそういう感覚をもたらすためにあるようなものだろうし、そこに至るまでの苦労を忘れさせ、実際に便利で好都合なシステムが社会全体を支えているのに、それを利用している人たちは、すでにそうした便利さに慣れてしまっていて、そうなっていることのありがたみがわからないわけだ。

 世の中で行われていることの結果を、何が何でも自分が主張していることに結びつけようとする意志が強いと、そんな結論に至る過程で自分の主張にとって都合の良い情報の取捨選択を自分で行なっていることを忘れてしまいがちになるが、そうした過剰な意志は、時として現に世の中で行われていることに関して、自身を盲目にしてしまったり、それを意識の中では正確に把握しているつもりが、それに関して自分で行なっている恣意的な情報の取捨選択に関しては無自覚になってしまうわけで、またそれらの情報に対して独りよがりなアクセントをつけていることにも自覚がなく、他の人にとっては大して重要だとは思えないことにも、自説を補強するには重視する必要に迫られて、歪んだ現状の捉え方や偏向した解釈を施さないと、うまく自説を現状に適用できなくなってしまうわけで、それが天動説であるか地動説であるかは、第三者による公平な判断に任せるしかないだろうが、そんな第三者が都合良く見つかるわけでもなく、大抵は興味がなければ相手にされないだろうし、また常に同じような結論に至る自説を繰り返し主張しているうちに、ミイラ取りがミイラになってしまうかのごとくに、自説の中で批判している当の対象が自分自身になってしまっていることにも気づかなくなってしまうわけで、実際にそうなってしまう人など世の中にいくらでもいるのだろうが、やはりそれが自分であることに気づくのは至難の業だろうし、それが批判のブーメラン現象であるわけだが、そんな他人を嘲笑うことはできても、自分がそうなってしまっていることは絶対に認められないだろうし、そんな表現を他人に対して安易に使うこと自体からして、すでにそうなっている可能性が高いだろうし、実際に誰もが示し合わせたわけでもないのに、嬉々としてそんな紋切り型的な表現の虜になってしまっていることが、自覚なき感性の凡庸化の顕著な事例となってしまっているわけで、時代の変遷とともに湧いては出て瞬く間に消え去るのはそうした人たち以外にはあり得ないのかもしれないが、それに関して普通に考えられるのは、制度が人々を安易な活動に駆り立てているのはわかりきったことであり、制度自体の機能が誰もがそんなことをやるように仕向けているわけだから、別にそれが悪いことであるはずがないのであり、むしろ推奨される行為であることも明らかかもしれないが、誰もが同じようなことをやるように仕向けられていることに気づいてしまうと、かえって制度に従いながら同じようなことをやることに抵抗を感じるのかもしれないし、その結果反発したりひねくれてしまうのはよくある反応だろうし、そんな反応を示す人たちは制度によって同じようなことをやらせられていることに気づいていることにもなるだろうが、制度が巧妙なのはそうした反応も制度の仕組みから導かれてしまうことだろうし、それも制度の想定の枠内に収まるようになっているかもしれないし、制度に従うのも制度に逆らうのも制度の想定の範囲内の行為であるとすると、では制度に対してどのような態度をとればいいのかとなるかもしれないが、ともかく自身の活動が制度の助けを借りて行われていることぐらいは自覚しておくべきかもしれず、そして世の中で人が行える全ての行為が制度による支配を受けているわけでもないことも自覚しておいた方がいいだろうし、確かに制度によって過剰な情報提供が行われているわけだろうが、別にそれらの情報の全てを活用しているわけではないし、実際に活用できるわけでもなく、活用しようのないゴミのような情報がほとんどである可能性さえあるわけで、つまりそうした制度をありがたがっていると、とんでもない勘違いを招きやすいだろうし、制度の便利さを実感できるからといって、それは不便さと隣り合わせであり、ゴミのような情報の洪水の中で利用可能な情報を選び出すことにも一苦労している実態も自覚すべきなのかもしれない。


6月22日「批判的な論調」

 世の中で日々起こっている具体的な出来事について、その成り行きや結果と自分の主張とを結びつけて、自らの主張の正しさを証明するようなことになってしまうと、何か予想屋的ないかがわしい雰囲気が醸し出されてくるだろうし、それは天気予報とかもっと下世話な事例となると占い師のような職業を思い浮かべてしまうが、成り行きとしてそうした主張をせざるを得ないようなことになってしまうのが、メディア上で発言する人の常かもしれないが、それが特にどうしたわけでもないと思われてしまうとすれば、それ以外にどんな主張が可能なのかというと、実際に世の中で起こっている出来事や現象について語る上で、我田引水的に自らの主張に結びつけようとするのではなく、もっと何か突き放したような物言いに終始していれば、忙しなく事の成り行きや結果を予想することからも逃れられて、どんな結果となったところで泰然と構えていられるような立場を維持できるかもしれないが、そうなってしまうと何か世捨て人や隠居老人のように見られてしまうかもしれないし、やはり現役で何かやっているように装うには、何にでも首をつっこむようなサービス精神を発揮して、地を這いつくばるような泥臭い水準で感情的な物言いを交えて、ある程度は過ちを犯して屈辱に塗れることを厭わないような対応を迫られるのかもしれず、そうした姿勢が世間的に信用に足ると思われるならいいのだろうが、実際にそこで起こっている出来事が何を意味しているかというと、そんなことを含めてそういう動作を織り込んだ上で何らかの現象がメディア上で構成されているわけだろうし、そんなふうにしてメディア上で取り上げられる話題が、一般大衆が関心を持つべきことを指し示していて、そうした話題に多くの民衆が関心を持つことによって、そうしたことに関心を持っている人たちが一般大衆という定義に当てはまる人たちだと認識されるわけで、誰がそう認識するのかといえば、普通に考えればメディア上でそういう認識がまかり通っているわけだろうが、別に関心を持っていなくてもそれらの人たちと一括りにされて、とりあえず一般の民衆は一般大衆だと思われているだろうし、その辺ではっきりと定義されるわけではないにしても、少なくとも世の中の話題の方向や傾向がそうした現象によって決まり、関心のない人にはそれがどうしたわけでもないことだろうが、関心のある人たちはそれが当たり前だと思う以前に、ただ自発的に関心を持っていることを自覚しているわけで、そうなってしまう原因はメディアがそうした話題を優先的に取り上げているからだが、そうした話題に結び付けられている何らかの主張というのが、何か世の中の風潮を代表している話題を批判的に見るような姿勢を顕在化させていて、それが世直し的な改革の主張となるのだろうが、果たしてメディアが取り上げる話題に表れている風潮が批判されるべきことであるにしても、それを改めることができるかどうかは怪しいところだろうし、結局メディアは安易にコメンテーター的に批判できるような話題を優先的に取り上げる傾向があるだろうし、そうであるなら逆に話題性のないことは取り上げないわけで、しかも別に話題性の乏しいことは行われていないかとなると、そういうわけではなく、世の中で様々なことが行われている中で、話題性のあることがメディア上で優先的に取り上げられているだけで、逆にメディアが取り上げないような話題性の乏しいことは、批判されるようなことではない可能性もあるし、また取り上げられれば批判されるようなことでも、話題性がないから取り上げないという可能性もあるわけで、世の中で話題を呼ぶ行為だけが批判されて改められるべきかとなると、物事を公平に見るならそうではないだろうし、たぶんメディア上で話題となっていることだけが行われていることの全てではないわけだ。

 だからと言って誰もが興味を抱いていることが、全て批判されるべきことにはならないだろうし、中にはそうした識者によって肯定的に賞賛されるような話題もあるわけだから、メディアが取り上げる話題性のある物事には、批判されることも賞賛されることもあって、ある面では賞賛されながらも別の面では批判されるような物事もあるだろうし、そうしたことに一般の民衆がメディアの報道を通じて興味を持つのは当たり前のことなのだが、批判的に取り上げられることが改まるのかというと、改まることもあるだろうし改まらないこともあるわけで、改まらないことに関しては世直し的な改革には結びつかないわけだが、メディアが批判的に取り上げてすぐに改まるようなことは大したことではないだろうし、世直しと言った大げさな範疇には入らないようなことかもしれないが、メディア上で良いことと悪いことの選別が行われる成り行きがあることは確かで、批判的に取り上げられるような話題が、改められるべき要素を含んでいて、それを真に受ける民衆の間で通用する共通の申し合わせが、民意とか世論とか呼ばれる主張を形成しているわけだろうが、それが共通の申し合わせまで至らない場合もあるわけで、ごく一部の人たちが問題を指摘しているにしても、他の大部分の人たちには関心がなければ、それが民意や世論には発展しないだろうし、そうなるのを妨害するような論調も意図的にメディア上で主張されているようなこともあるだろうし、そういうところで戦略的に宣伝や煽動が行われているような事態ともなれば、そういう部分では偏向した報道が行われることにもなるわけだが、それも世の中の多数派を構成する人々の支持を得ないことには成功しないだろうが、特にそうした人為的な思惑とは別に、自然にそうなってしまうようなこともあるわけで、何か世の中の一般常識のようなレベルで事の善し悪しが決まって、何となくそれに基づいて批判的に取り上げられる話題や賞賛される話題なども決まってきて、それに異を唱える論調を抑制するような傾向も出てきて、そんな風潮にメディア空間が染まってくると、そこで共通の価値基準ようなものが形成されることにもなるわけだが、それが浅はかな煽動などによって人為的に作り出されるようなものでもない限りで、多くの人が信用してしまう価値基準となるのだろうし、そうした価値基準に照らし合わせて物事の善し悪しが決まってくるようだと、メディア上で話題となるのもそうした価値基準に照らし合わせて判断が定まった物事が取り上げられる傾向になるだろうし、話題になるのも決まってそうした物事となるのだろうが、何かそれ以外で世間で話題とならないような物事があるかといえば、あるのが当然であり、実際に世の中では話題とならないような様々な物事が生成と消滅を繰り返しているのかもしれないが、たとえ世間的な話題にならなくても、それに関わっている人たちにとっては切実な問題を伴っている場合もあるだろうし、そうした物事に関して日々人や集団が介在していて、それをきっかけとして様々な出来事や現象が起こっているのだろうが、そしてそうしたことの中には、世間的な共通の価値基準に照らし合わせれば、良し悪しの判断がつくようなことも多くあるだろうし、またそうした価値基準から外れるような物事については、判断がつかないようなこともあるだろうが、少なくともそれがメディア上で話題とはなっていなければ、改めるべきことの範疇には入らないかもしれないし、実際に改められない状態であるとすると、それに関しては放置されているわけで、そうしたことは世の中にはいくらでもあることかもしれないし、実際にそうであるなら、メディア上で議論されるような世直し的な改革の主張も、世の中のごく一部の限られた範囲内でのことでしかないわけだ。


6月21日「現状の取り止めのなさ」

 例えば木を見て森を見ないという喩えが、具体的な状況の中で何を意味するかは、そういう喩えを使う人の恣意的な解釈に依存する面が大きいとは思うが、何かそこで感覚のずれが生じているとすると、意外と森を見て木を見ないことの方が、深刻な問題を含んでいるのかもしれず、普通の感覚としては木も森も両方見ていればいいわけだが、木も森も大して違いを感じられない状況というのもあるのかもしれず、案外どちらも見ていなくても済んでしまう場合さえありそうで、それが何の喩えであろうと、あまり興味を感じられなければ無視してしまうだろうし、それが木だろうが森だろうが、見るだけでは駄目で、実際に対象と直接関係を持たないとわからないことが多いだろうし、見るのではなく感じないと理解できなかったり、あるいは理解できなくても構わないのかもしれないし、それが何であれ、意識がそこで起こっている現象や出来事に巻き込まれている実態があって、すでにそうなっている限りで、意識もそれに取り込まれてしまっているのだから、巻き込まれている対象の全体像を把握できなくなっていて、何に巻き込まれているかもわからない状況になっているのかもしれず、そうなると何だかわからないが、とにかくその中で手探りで活動する羽目に陥っていて、暗中模索の連続となってしまうのかもしれないが、だからと言ってそれがどうしたわけでもなく、そこでうごめいてるうちに時が経ち、そのままとなって風景の一部と化しているだけのような成り行きもあるだろうし、ともかく絶えず移動しながら様々な視点や観点から、自らを取り巻く環境の全体像を把握しようとしているのかもしれないが、それが木でも森でもない場合もあるだろうし、そんな喩えでは表現できないような現象に取り込まれているのかもしれず、しかもそれがありふれた現象であり、その中で暮らしている人も動いている物事も、いつも通りの何でもないような成り行きの中でしか把握できないとしたら、やはりそれは何でもない普通の日常でしかなく、その中で朽ちてゆく感覚が心身の老化と相まって絶妙なとりとめのなさを醸し出していて、それが世界の一部を構成するたわいない出来事の一部始終かもしれないし、たぶんそこで何をどうすればいいかという問いには至らないだろうし、ただあまり深く考えずにやっていることが、現状との間で共鳴現象を起こしていて、意識の中では大げさに捉えられているだけで、そんな新鮮な驚きとは無縁の世界というのが、人や物事の愚かさと中途半端な壊れ具合の救いようのない風景を描き出しているのだろうが、それ以上の何が提示されているわけでもないだろうし、ただ超えられない限界がそこにあるだけで、その限界を超えた先にあるのが、人の感情が示している違和感であり、それを違和感としか形容できなければ限界の内側にとどまっていることにもなるわけで、それでは相変わらず真理にたどり着いていないだろうし、それでもそこで不快感とともに表明される違和感こそが、思い通りにはいかない現実そのものかもしれず、思い通りにはいかないから思い出にすがりつき、過去からはいくらでも自説にとって都合の良い事例を持ち出してこれるわけだが、肝心の現状が言葉では説明できないままとなっていて、思考の限界という言い訳がそこで形成されているわけだが、それ以上に問題なのは、別に解決を目指して全ての物事が進行しているわけではなく、そのほとんどが人の目的とは違って何を目指しているわけでもない実態を示していて、それをどう捉えてみてもそこから肯定的な意味や意義など導き出せないだろうし、ただ人の意識が生きるための幻想として自らの行いを肯定して、そうやって生きている自らを正当化しているわけだ。

 何が木で何が森なのかを特定できなければ、比喩自体が成り立たなくなってしまうかもしれないが、全体として把握しようとしている物事が、把握しようとしている自らの意識が含まれるような現象の中に存在しているのであれば、それを把握することが困難になるだろうし、自らそのような現象の外部に立って観察するわけにはいかなくなるわけで、そんな自らが絶えず木を見て森の全体を見ることができないのを自覚していないと、そこで森を見ているような感覚にずれが生じていることに気づけないわけで、木を見て森を見ていないのが、そんな喩えをこれ見よがしに使っている自らであることにも気づかなくなってしまうわけだ。しかもそれでも構わないような成り行きの中でそんな喩えを使いながら、自らの感覚のずれを補正できないままに、勘違いの論理を自らがそこに含まれつつも体験している現象に当てはめようとしているのだろうし、別にそれで構わないというか、そうなるしかないような成り行きの中で思考しているわけだから、自らの主張が自らが捉えようとしている現象の一部として機能しているのであり、結局木を見て森を見ていないのが、そんな喩えを使って説明している自分自身であることに気づかないことが、そんな喩えの有効性を自らの説明によって証明するようなどうしようもなさを醸し出しているのではないか。そしてどうしようもないという認識が誰によって得られているわけでもなく、誰もそれを認識できないから認識自体がフィクションでしかないわけだが、人が導き出す認識というのが現象や出来事の部分的な解釈からしか出てこないわけで、その部分的な解釈というのが、木を見て森を見ないことから生じるとしても、全体を見通すことが不可能なのだからそれで構わないわけで、森を見たという幻想を共有できなければ、人は誰でも部分的な解釈で妥協するしかないだろうし、それが正解ではなく暫定的なとりあえずの答えでしかないことを自覚していれば、別に木を見て森を見なくても構わないわけで、かえって森を見ることができると思い込んでいる方が危ないだろうし、しかも別に危なくても構わないわけで、それもそこで生じている現象の一部を構成しているわけだから、人はそこに構成されている森という風景の一部として機能するしかないわけだ。そしてその機能というのが森が見えているという幻想を抱くことであり、見えているつもりになって、部分的な解釈でしかないものを現象の全体に当てはめようとして、そんなことをやっている自らの感覚のずれに気づかないことにもなり、その自覚もないまま森という風景の一部として機能しているわけで、実際に何やら理解可能な範囲内で勘違いの論理を当てはめながらも、それが正しい理解だと思い込んでしまうわけで、しかも風景の一部として機能している限りはそれで構わないのだから、それ以上は物事の理解を深める必要がないわけだ。そしてそれ以上の理解など元からありえないのだから、やはりそれで構わないわけで、そんな理解で満足しなければならず、時代の推移とともに消え去る人としては、それを超える役どころなどあてがわれないし、誰があてがうわけでもなく、勝手にそんな役どころを買って出ているに過ぎず、それも勘違いのなせるわざなのかもしれないが、どう見てもそれで構わないのだから、結局人にはその人に技量に応じた分があるとしか言えないのではないか。そしてその人が身につけたと思っている技量に、その人自身が騙されている場合もあって、何か気が利いたことがやれているような感覚にとらわれていることが、たぶんその人にもたらされている気休めの類いなのであり、そんな気休めがないと真実を知ってしまうから、やはり気休めも必要なのかもしれないし、その人の真実がその人には知らない方が身のためである場合があるだろうし、知らないからこそその人の活動が成り立っている実情もあるのではないか。


6月20日「形式的な動作と実質的な内容」

 否定的な感情を誘発するような人と人との関係は、単純な対立や敵対関係だけではなく、ねじれた関係やこじれた関係というのが、普通に成立している関係だろうし、それは個人だけではなく何らかの団体と人との関係や、団体と別の団体との関係にも言えることかもしれないが、簡単に言えばそこで愛憎半ばする感情が複雑に入り混じっている場合があり、そうなると一筋縄ではいかない面があるのだろうが、だからと言ってねじれやこじれを解消しようとしても、余計なお節介になってしまう可能性も高いだろうし、それを人為的に解きほぐすには大変な困難を伴うかもしれないが、成り行き次第では自然に解消してしまう場合もあって、大抵は何かきっかけがつかめるまでは放って置かれることの方が多いだろうし、放っておいても構わない事情が生じている限りで放って置かれるのだろうが、問題の解決を目指さずに放って置かれる事情というのが何を意味するかというと、問題の解決に関して切実さを感じられないから放って置かれるのだろうし、つまりそうした問題から意識が遠ざかっていれば、たとえそこで問題が深刻化しているとしても、自身にはそれほど被害が及んでいなければそれほど問題視しないだろうし、そして被害が及んでいないということは、単に関わりが希薄となっていて、あるいは他のことで手一杯で、そんな問題などに取り組む余裕がないという場合もあるだろうし、そうした面では人それぞれに様々な事情を抱えていて、自身が取り組むべきと判断した問題や課題が他にあって、その人にとってはそれが優先すべきことであり、他のことに関しては他の人が取り組んでいるのだから、わざわざ自分が出て行くまでもないだろうし、実際にねじれていたりこじれている関係というのが、その人とは無関係な特定の事柄に関してだけということもあるわけで、それらがその人の関係している方面とは別の方面で起きていることであれば、そうした面では取り立てて問題視されていないわけで、だからと言って無視しても構わないかというと、そうでもないことであっても、それらに関しては実際に当事者となっている人たちがそういう問題に取り組んでいて、それに関して部外者がしゃしゃり出る幕がなければ、当事者たちにまかせておけばいいような成り行きになるだろうし、そういう面では社会の中で自然に役割分担がされていて、特定の問題や課題に関しては、実際にそれに取り組むべき人たちがそうした問題や課題に関係する出来事に巻き込まれていて、それらの人たちはいやでもそんな問題や課題に直面しているわけで、実際にそれらの問題や課題に取り組むことを強いられている場合があるわけで、結局そんな人たちにまかせておけば、取り組みがうまく行くにしても行かないにしても、それなりの結果に至るような成り行きにはなるだろうし、そしてそれとは別の方面では、また別の問題や課題に取り組んでいる人たちもいるだろうし、特定の人や団体が全ての問題に取り組むような成り行きにはなっておらず、社会の各分野ごとに専門的な細分化が進行していれば、自分が取り組んでいること以外には関心を持たなくても済んでしまうようなことにもなって、人それぞれに取り扱っている物事が異なっていると、それ以外のことに無関心であることが、取り立てて問題視されないことにもなり、そうなると物事のねじれた関係やこじれた関係というのが、把握し難くなるだろうし、その代わりに意識が把握するのは、その人に関わりのある特定の分野の中で生じている単純な関係だけとなってしまうのかもしれず、そういう部分で異なる分野をまたいで結びついている多面的な物事の把握というのができなくなってしまっているのかもしれない。

 実際に物事の中で何がねじれていたりこじれているのかといえば、様々な方面で利害関係が錯綜していて、それに対してどのような立場や態度をとっても、ある面ではそれが正しい選択となっても別の面では間違った選択になってしまうのかもしれず、それに関する格好の事例が国家と国民の問題だろうし、自国の利益を優先させることが必ずしも自国民の利益となるとは限らないわけで、自国の利益というのも曖昧なことだろうし、自国民の利益とならないことが果たして自国の利益となるかというと、国民の中でも利益の恩恵に与れる人とそうでない人が出てくるだろうし、それは国民にも様々な立場があって、必ずしも同じ利害を共有しているわけではない場合があるわけで、そして国民の中の特定の層の利益を優先させれば、別の層の利益が損なわれたりするだろうし、特に国民の間に経済の面で富裕層と貧困層とに二極分化している傾向があるほど、国民全体の利害が一致しなくなるわけで、しかも所得の均衡を図るようなことをやろうとしだすときりがなくなると同時に、特定の層からの反発もそれだけ大きくなるだろうし、だからと言って放置しておけばさらに二極分化が進んで矛盾が拡大してしまうから、政治的にも行政的にも対処しようがなくなってくるわけだろうが、たぶん矛盾が放置されているとしてもそれで構わないような事態も進行していくわけで、民衆がそうした状態を受け入れざるを得なくなってしまうだろうし、特に政治や行政に頼らなくても生きていこうとして、そうなるとそんな事態に対処できない政治や行政の役割が形骸化していくのだろうが、そういう面では形骸化が進行するとしても他の面では何かしら機能している面もあるわけで、そうした方面で政治や行政の役割が生じている限りで、国家そのものがおかしくなってしまうわけでも衰退してしまうわけでもなく、そこで生じている役割に応じた機能の面でその存在意義を保とうとしているわけで、結局政治的にも行政的にもその活動が成り立つ範囲内で活動するような成り行きになるだろうし、それが必ずしも国民の特定の層の利益となるようなことでなくても構わないような事態も生じてしまい、だから対処可能な方面での役割や機能が維持されている実態がある限りで、政治も行政もそれなりに活動が成り立つだろうし、それが国民の特定の層の反発を招いても、他の層の支持や支援を得られていれば構わないわけで、そうした実態の中で制度や法律の範囲内で活動しているわけだから、それが世の中の多数派の間で取り立てて問題視されるようなことでもなければ、いくら特定の層の反発を招いてもそのままとなってしまうわけで、そういう部分でまかり通っていることが、他の部分に悪影響を及ぼさない限りで、現状での政治や行政のあり方が維持されていくのだろうし、現状で活動が維持されている部分を改める必要もないわけで、そういう意味で人や団体の活動というのは、絶えずその活動が成り立っている部分で活動が行われるのが当然のことだろうし、実際に活動が成り立たない部分での活動はやりようがないわけで、わざわざそうした部分での活動を無理に行う必要も生じてこなければ、そうした部分はそのまま放置されてしまうのではないか。実際に活動がなおざりにされたり形骸化してしまった部分はいくらでもあるだろうし、そうした部分での活動というのは形式的な儀式のような形態になってしまうだろうし、現状で単なる儀式と化してしまった部分というのは、かつてはそれなりに意義や意味が認識されていて、実質的な利害関係も生じていた部門であったわけだろうし、それが時代の変遷とともに形骸化してしまい、それでも継続されているような部分では形式的な儀式としての動作しか残っていないわけだ。


6月19日「妥協と調整」

 今どきの政治に対して肯定的な幻想を抱いている人はそれほど多くいるとは思えないが、実際に絶えず国家的な行政形態が行き詰まりつつも、打算や妥協の産物としてとりあえずの統治形態を維持しようとしていて、それに対していつも強引なやり方が民衆の反発を招きつつも、何とか権力の行使を伴う各方面の均衡を図ったり、対立や軋轢を交渉や調整によってはぐらかしながら、かろうじて現状を保っていると言えるのかもしれないが、そのかろうじてという感覚が実情とはかけ離れているのかもしれず、現に主要各国の行政機構の力は盤石で、建前としては法と制度に基づいて統治が行われているわけだが、実質的には軍隊や警察権力などの力で民衆を押さえつけている面もあるだろうし、それが意味するところは暴力による支配を可能としつつも、実際にはなるべく暴力を行使せずに、威嚇のための暴力装置であるように装われているわけで、それが現実に暴力を行使せざるを得ない事態になるのを極力避けながらも、いざとなったら行使せざるを得ないケースが必ず出てくるわけで、そうした時に体制側の抑圧に抵抗する民衆の美学というフィクションが、尊い犠牲の上に繰り広げられる闘争の歴史として、伝説のようにして語り継がれるような成り行きも生じて、実際にそうしたファンタジーが民衆の脳裏に焼き付けられるわけだが、たぶんフィクションと現実は大幅に違っていて、実際には民衆の多数派が警察や軍隊を支援しながら少数派の弾圧に加担していて、民衆の支持を背景としてそうした暴力装置が成り立っている面があるわけだろうし、平和な地域では滅多に起こらないように感じられるそうした暴力の行使が、現実には至るところで日常茶飯事のように行われている実態があるだろうし、しかもそれは警察や軍隊だけが行なっているわけではなく、民衆が民衆に対して暴力を行使している場合の方がはるかに多いのかもしれず、世の中の至るところでそうした暴力沙汰が起こっているわけだが、もちろん暴力が度を超すと警察による取り締まりの対象となって、傷害事件や殺傷事件として世間の話題にもなるわけで、たぶん体制による弾圧に抵抗する民衆の活動という形態も、ある程度はそうした暴力を伴っていて、警察などの治安機関や軍隊などの方が圧倒的に暴力装置としては強いわけだが、それに対して武装闘争を仕掛けるゲリラやテロ組織でなければ、一般の民衆による抵抗などささやかな暴力しか伴わないだろうし、それと体制側の暴力を同等のものとして捉えるわけにはいかないわけで、だから常に民衆の側が被害者の立場でいられるのかもしれないが、それも実際に目に見えるような弾圧が行われている範囲内に限られ、普通に民主的な政治体制が成り立っている国では、表向きはそうした抵抗勢力は軒並み懐柔されているだろうし、滅多なことでは民衆が主導する暴動の類いは起こらないのかもしれないが、社会の中で調整不可能な内部対立がある国では、度々政治的な暴動などが発生して大勢の死傷者が出るような事件も起こるし、そうした国や地域では体制側の抑圧に抵抗する民衆の美学も今なお健在かもしれないが、それも程度の問題なのかもしれず、暴力がいけない行為だとか、暴力に頼らない政治運動を行う条件とかが、まことしやかに議論されるような成り行きには、どこの国でもならないだろうし、そうではなくそれとは違う水準で、政治的な行為の中身が問われているわけで、それが行政による功利的で効率的な統治術の追求とか、民衆から生じる民意とか世論とかを味方につけるための条件やそのやり方とかが探求されているのだろうし、結局そうしたことの行き着く先にあるのはメディアを通して行われる世論操作となるわけだろうが、そうやってなるべく暴力装置から目を背けようとしているわけで、それとは違う平和的な統治が行われているように装われているわけだ。

 最終的には暴力で方を付ける傾向があるものの、現実に正当防衛以外の暴力の行使は違法行為であるだろうし、そこへ至るまでの間で妥協や調整を図りたいわけで、そうすることが政治活動の主要な部分を占めるわけだろうが、それ以前に何とか物事の流れや成り行きをコントロールしたいだろうし、そのために決まりを作って決まり通りに事が運ぶように算段するわけで、実際にはいくら決まりを作っても思い通りに事が運ばない場合もあるわけだが、そこでも様々な活動や行為が様々な人や集団の間で競合関係にあるわけだから、平和的な競争と暴力的な抗争との間に差異を見出さなければならないだろうし、競争がルールに則った平和的なゲームとするならば、暴力的な抗争は勝つためには手段を選ばない真剣勝負だと言えなくもないが、もちろんルールに則った平和的なゲームの方を真剣勝負だとみなしたいわけで、それがルールを定める側やゲームを管理する側の論理であり、実際にゲームに参加する側や娯楽としてそんなゲームを観る観客たちが抱く幻想でもあるわけで、何か正当な手段を用いて勝負を決めたい都合がそこに反映していて、暴力的な殺し合いにならないように様々な制限や安全面での配慮を施しながら、そうした法に基づいた制度を築き上げて、制度の中で勝負がついて優劣がはっきりするような結果を導き出して、そうした決着の付け方を競っている双方やそれを応援している観客などにも納得してもらうことが、制度を管理している機構にとっても利益となるようなシステムになっていて、そういうところで人為的な配慮が行われて同意や賛同の輪が世の中に広がってゆけば、平和な状況下での競争に肯定的な価値が伴うようになるわけで、そうした競争を収益源にしたプロスポーツなどの興行の形態が一般の民衆の支持や支援とともに確立されて、何やら大衆娯楽として人々の意識に多大な影響を及ぼすようにもなるわけだが、そうした成り行きと政治との間に何らかの並行関係があるとすれば、それはそれに関わっている人たちの都合を反映した決まりを作って、それを他の人たちにも周知徹底させることにあるのかもしれず、そうした決まりに基づいて肯定すべき価値が定まれば、決まりを守っている限りで肯定されることにもなり、決まりを守らずに違法行為を行えば罰せられることにもなるわけだが、決まりを作ってその決まりの枠内での活動を許すことによって、活動の方向や傾向が一定になり、そこから外れる要素を排除することによって、決められたことを行えば決められた結果に至るというシステムが成り立つわけで、そうしたシステムを定めるのが政治の役目なのかもしれないが、それと同時に絶えず競合関係にある人々と議論を交わしながら、そこから一定の妥協や調整を図ろうともするわけで、それはスポーツの中では結果として出力されたゲームの結果を、その参加者の全てが受け入れて納得しなければならなくなるわけで、個々の判定などには不満が残るものの結果が覆らなければ勝敗を受け入れざるをえないわけで、それがある意味では妥協や調整が一段落した状態を示しているだろうし、政治の場ではそこから事態がこじれていくこともあるだろうし、スポーツなどでも勝敗の判定や結果に異議を唱える場合もあるわけで、決まりを作ってそれに従うことで成り立っているゲームであるにしても、決まりを破ったり結果に納得せずに従わない態度をとったり、そうした様々な状況が想定されるわけで、それは政治の面でも同様なことが起こりうるだろうし、何かそこで決まりを作って全ての人をその決まりに従わせようとする動作が、決まりを作る側の都合を反映していて、それに従わせられる民衆の都合がなおざりにされているようだと、不満が募って反発を招くわけで、そうしたところでそこに関わってくる人や団体との間で妥協や調整が図られる成り行きが、政治的な行為の本質を表しているところだろうし、多くの人々から同意を得られるような決まりを作ることも、常に政治的な課題となっているわけだ。


6月18日「状況の中で生じる個人差」

 社会の中で暮らしていて、つまらないと思う時には、何か期待外れな出来事に出くわした時にはそう思うかもしれないが、それとは少し違う思いがけない出来事に出くわした時には、普通は驚くだろうし、例えばその驚きが感動に結びつくか嫌悪に結びつくか怒りに結びつくか喜びに結びつくか笑いに結びつくかは、他にも様々な感情の発露に結びつくかもしれないが、その時の状況にもよるだろうが、たぶん自分の価値観に照らし合わせて適合する感情に結びつくのかもしれないが、別にそれを意識しているわけではなく、無意識の内に自然とそうなっているわけで、それを肯定的に感じられれば感動や喜びに結びついて、否定的に感じられれば嫌悪か怒りに結びつくかもしれないし、また何かおかしかったら笑うしかないだろうが、それ以前にまず驚くということは不意を突かれているだろうし、それが何らかの感情に結びついた時点で意識の中で合理化の処理が行われて、そうなった時点で最初に驚いた時のインパクトが減じられて、何とか自分で把握可能な範囲内に落ち着かせようとしていて、意識が不意を突かれた時の驚きを感覚的に忘れようとしているわけで、そうなった時にはすでに自分の都合のいいように解釈が行われて、しかもそれを世間的な共通の了解事項にまで押し下げようとする時には、単なる紋切り型的な表現で体験した出来事を説明しようともしているわけで、そうなってしまうともはや不意を突かれた時の新鮮な驚きからは、だいぶ遠ざかってしまっているのだろうが、誰もがその新鮮な驚きの瞬間にとどまれるわけもなく、逆に驚きを忘れようとしていて、何事も自らの把握可能な範囲内にまで減じようとまでしているだろうし、そうした処理に慣れてしまうと、何事もすでに体験したことや身につけた知識の延長上で捉えようとしているだろうし、全ての体験がそうした自己に都合のいいように意識の中で処理された矮小化した経験の範疇に収まるような事態になってしまうと、世の中で何か新しいことが起こっているなんて思わなくなってしまい、体験している何もかもが過去の繰り返しかその延長上の類似物にしか感じられないだろうし、そういう感覚は老人に特有なものなのかもしれないが、中には若いうちからそうした傾向に凝り固まっている人も結構いるのかもしれず、何でもかんでも無理やり自己の都合のいいように解釈したがるのは、そうした傾向が顕著に表れている証拠かもしれないが、たぶん異なる物事の間に生じている同様な傾向を見つけようとするのと同時に、差異や違いにも敏感であった方が、世の中で起こっている現象や出来事に対するより正確な認識を得られるのかもしれないが、似たような面だけに注目するその手のアナロジーばかりにのめり込んでしまうと、何でもかんでも全ての物事から同じ傾向を発見してしまうわけで、それでは物事の解釈や認識の単純化に結びつくしかなく、そこからの延長上で紋切り型的な表現にも至ってしまうわけだが、そういう方向へと一辺倒に進んでしまうと、同じ傾向以外の異なる傾向を見落としてしまうだろうし、物事に様々な面や傾向があることを忘れてしまうわけで、確かにそうした解釈や認識や見解はわかりやすいだろうが、わかりやすいだけにわかりにくい面や傾向が削ぎ落とされて省かれていて、そうした部分を無視したままだと、思わぬところで手痛いしっぺ返しを食らうことにもなりかねず、その手の一見わかりやすい解釈や説明にも、思わぬ落とし穴が潜んでいることぐらいは留意しておくべきかもしれない。

 体験している物事に昔の物事と似た面や傾向があるにしても、それに気づいて何やらわかったような気になるにしても、昔にはない新たな面や傾向があることに気づかないと、昔にはない新鮮な驚きを感じ取れないわけで、そして昔と同じようなことだと決めつけて安心してしまうと、昔とは違う面や傾向によって足元をすくわれてしまう可能性もあるだろうし、それが躓きの原因となることが多いのかもしれないが、足元をすくわれても躓いても構わないのかもしれないし、実際にそうなってみないと気づかないことも多いだろうし、気づいた時には手遅れになってしまっても構わないのだろうし、全ての行為がうまくいかなくても、うまくいかないなりに活動が成り立っている面があるわけで、結局は手遅れになってもうまくいかなくなっていてもそれでも構わない面もあって、全ての成り行きには多かれ少なかれそういう面が含まれていて、そういう面だけ取り上げれば確かに手遅れでありうまくいっていないことになるのだが、だがそれはそれとは異なる面を見ていないことにもなるだろうし、実際に何らかの成り行きの中でそういうことが言われているのだから、すでにそういう成り行きがそこにあることは確かであり、そういう成り行き自体が足元をすくわれている面も手遅れになっている面もうまくいっていない面も含んでいるわけだ。だからと言ってもはや後戻りできないわけだから今さらそれをなしにはできないわけで、足元をすくわれている面や手遅れとなっている面やうまくいっていない面も同時に含みながらも、全体として状況が推移しつつあるわけだから、そうした成り行きの中から否定的な面を取り出して批判したところで、それは木を見て森を見ていないことにもなるだけで、しかも批判している人はそれで構わないわけで、さらにそんな批判を真に受ける人たちにとってもそれで構わないわけだ。結局はどちらも傍観者の域を出ない人たちであり、実際に当事者たちは足元をすくわれたり手遅れになったりうまくいかなくなったりしながらも前進しようとするわけだ。そしてそういうところからも活動が成り立っている実態があるとすれば、確かにそれらの面ではうまくいっていないかもしれず、それを批判者たちに取り上げられて実際に批判されているとしても、それ以外の面では必ずしもうまくいっていないわけではなく、中にはうまくいっている面もあるから活動が成り立っているわけで、批判者たちはそういう面を見ていないか、気づいていても自らの批判を成り立たせるために意図的に無視している場合さえあるわけで、どちらにしても実際に活動を行なっている当事者とそれを批判する批判者とでは立場が違うので、どちらもそれぞれの都合で動いていて、自らの都合を優先させるには、都合の悪いことにはあえて言及したがらないだろうし、そうであっても現状の中ではそれぞれの活動が成り立つような関係が形成されていて、お互いの役割分担に忠実である限りは、そうした対立や敵対の関係を維持しなければならず、お互いの主張にもそうした面が反映されているわけだが、現実にそれができているうちはなんとかなっている面があるわけで、特に破局的な事態にはなっておらず、対立や敵対関係も予定調和の範囲内で維持されていて、そうである限りは何かしら均衡状態が保たれていると捉えておいても構わないのかもしれず、立場上危機感を煽りまくりな人もいくらでもいるかもしれないが、それが杞憂であるか否かもそれぞれのおかれた立場によっても異なるのではないか。要するに世の中には危機的な状況に置かれている人とそうでない人が同居しているわけで、全てがそうであるはずがなく、また全くそうでないわけでもないわけだ。


6月17日「失敗することに成功すること」

 対立を止揚するというのは、方便としてより高い次元での合一を目指しているのかもしれないが、もちろんそれは方便ではなく実質的にもそうであるべきなのだろうが、その実態には両義的な意味合いがあり、元から対立していないものを対立しているように捉えている可能性まであるだろうし、止揚を目指す以前に、人には元から両義的な立場や姿勢があり、それが良い方にも悪い方にも受け取れるような活動とともに成り立っていて、何らかの立場や姿勢を伴った人の存在というのも、無色透明な存在というのではないだろうし、人にも物事にも様々な方面から作用を及ぼされるその場の状況によって、独自の味付けが施されていて、それは一概に理路整然とした論理や法則では説明しきれない立場や姿勢を伴っていて、確かにそこで様々な人や団体が対立関係にあるとしても、それを部分的に捉えて対立を強調するのが、宣伝や煽動などではよくあるやり方かもしれないが、その部分的な捉え方というのが、そう捉える人の都合を反映していて、確かにその人の都合が他の人の都合と一致していれば、その限りでは共感や同意や支持を得られるかもしれないが、都合が一致していなければ疑念を持たれるしかないだろうし、それも立場上の違いと割り切ってしまえば、それで済んでしまうようなことにはなるだろうが、その人の立場やその人が置かれた状況や境遇の中では、それでは済まされない場合があり、表向きは対立を装いつつも、できれば裏で交渉を行うような成り行きへと持って行きたいわけで、その辺をうまくごまかせれば、対立を装いながらも、対立しているつもりの相手からうまく譲歩を引き出せるのかもしれないが、状況が変わればそうもいかなくなってきて、後ろめたさを引きずりつつも裏交渉などでお茶を濁すのではなく、表から正々堂々と話し合いを行うような成り行きとなるわけで、実際にそうやれば状況が変わってきたことがはっきりするし、そうした状況の変化に応じていち早く新たな交渉のやり方を確立できれば、その場の主導権を握れるだろうし、自らの主導の下に話を進められるわけだが、だからと言ってそうすることに何のメリットがあるかというと、たぶんメリットとか利害とかがはっきりしない場合があるだろうし、実際に従来の枠組みにとらわれている人にとっては、何のメリットも感じられないだろうが、そうした場合にもただ事を前に進めることが成り行きとしては求められているわけで、それが何になるわけでもないだろうが、とりあえず目先の利害を超えてやらなければならないことがあって、それがこう着状態を打開することであり、打開したところで何が起こるとも限らないが、そのような事の推移を感じ取っている人ならば、それを進めたくなるのではないか。要するにそこで機が熟していることを感じ取っているわけだろうし、それを行うターンが自分の回ってきたのだから、先のことなど心配するまでもなく、やってみるのが正解だと思いたいだろうし、実際にやってからでないと何が起こるかわからないようなことは、どう考えてもやってみるべきだと思うのが普通の感覚であるし、そこで従来からの枠組みにこだわっていると、やる機会を逃してしまうだろうし、ともかく機を見るに敏な人なら、絶好の機会を逃したくはないだろうし、それが絶好の機会かどうかもわからないような段階で決断しないと、やはり機会を逃してしまう危険性があるだけに、そういうところで前例にとらわれない蛮勇が求められているのではないか。

 もちろんそんな機会に恵まれない人が世の中の大半を占めているのかもしれないが、たぶん人それぞれに決断を求められる時がやってくるのであり、中にはそれに気づかなかったり、気づいていながらも諸般の事情から現状を維持するような選択を迫られたり、そういうところから人の運命は分岐していくのだろうし、それらのどれが正解だとも言えない場合もあるのだろうが、そこで何かに導かれてそうなっていくとしたら、人がその後どんな運命を辿ろうと、他の人にはどうということはないのかもしれず、縁のない人には関知しないことの方がはるかに多いだろうし、社会の中で誰かと誰かが何らかの関係を結ぶ場合の方が稀な出来事かもしれないが、それでも思いがけないところから関係が生じてしまうのだろうし、それが人の意志ではどうにもならない成り行きであったり、どんな関係となるかは人には制御できないことなのかもしれず、その場の偶然の巡り合わせに左右されるとすれば、それは他の様々な方面でもそうなのであり、確かなことはあまりわからないような成り行きの中でそうした出来事が起こっていて、その場の状況に対応しようとするのにも限度があって、対応しきれないこともいくらでもあるだろうし、ちゃんと対応しているつもりがそうでもないことも多いだろうし、そうした面で個人の能力にも集団としての活動にも限界があることは確かなところだろうが、曲がりなりにもそれなりに対応しようとしていることも確かであり、それに関してはたとえお粗末な対応しかできなかったとしても、それはそれで仕方がないだろうし、そうした個々の対応からもその後の成り行きが分岐していくのだろうし、人によっても集団によっても状況への対応の仕方や対応力の程度に応じて、それなりの運命が待っているわけだが、うまく対応できたからといって満足のいく結果が得られるわけでもなく、お粗末な対応しかできなかったとしても、結果オーライな面も出てきて、そこで人や集団が望んだ通りの結果が得られても得られなくても、それぞれにその後の成り行きが続いていくだろうし、いくらその場で得られた結果の良し悪しを評価しようと、そうした評価とは別に、それぞれに異なる偶然の巡り合わせも生じるだろうし、そうした状況下で起こる成り行きには、公平だとか正当性だとかとは無関係な不平等で不均衡な運命が待っていて、それをどう捉えても正当化できないことが行われてしまうわけで、それはその場で正当な評価基準を求めようとする意志を絶えず裏切るように事が進行してしまうのではないか。だがそうだとしても絶えずその場の状況に対応した正当な評価基準を求めようとする欲求が減じるわけでもなく、状況を批判的に評価しようとする向きには正当な評価基準が必要とされるし、そうでないと何が正しく何が間違っているかについて、筋の通った意見や主張を述べられなくなってしまうだろうし、現状の中で起こっている現象や出来事について正しい理屈を交えて説明しようとする欲求がなくなることはないのだろうが、そうした批判を行いたい人たちは、そこでどうすればいいかについて正しい答えを提示したいわけで、こうすれば正しい行為や活動となるが、現状で主導権を握っている人たちはそれをやっておらず、だから間違ったことをやっていると批判するのだろうし、それがその場で主張できる正しい批判のあり方となるわけだろうが、そうだとしても正しい行いをやったからといって、満足のいく結果がもたらされるわけでもないだろうし、かえって間違ったことをやっているから状況が安定しているとも言えるわけで、しかもそうした安定こそが批判すべき状況なのかもしれないが、現状で主導権を握っている勢力からすれば、状況が安定していることが現状の維持には欠かせない条件であったりするわけだ。


6月16日「制約と事情」

 そうすることが良いことでもあり悪いことでもある場合には、その場でできることがそうすることだとすれば、そうする以外にはあり得ないのかもしれないが、ともかくやれることをやるのが当たり前だとしても、それが良いことでもあり悪いことでもある行為というのがあるのかもしれず、そういう場合にはどちらを選択しても批判されるだろうし、またやってもやらなくても賞賛されたり支持される場合もあるわけで、どうやっても他人から文句を言われる可能性があるわけだから、自分を信じてやりたいようにやるしかないのかもしれないが、実際にはやりたいようにはできない場合があり、そこに様々な制約が働いている場合も多いのかもしれず、そうした制約がある中でやるかやらないかを判断しなければならないわけで、特にやりたくてやっているとは言えないとしたら、周りの状況から様々な制約や事情が作用している中で、やれることをやろうとすることしかできず、またそれができたとしても良くも悪くもあるわけだから、どう評価していいのかわからないまま、何かをやっている状況が生じているのかもしれず、そうなってしまう時には、少なくともそんなことをやっている自らを正当化するわけにはいかず、またそんなことをやっている自らを卑下する必要もないだろうし、平常心を心がけながらもできることを淡々と行なうしかないわけだが、そんな状況ではやっていることに対して幻想を抱く気にはなれないだろうし、そうした自らの活動を積極的に肯定する必要はないのかもしれない。そして社会の中では様々な人たちが様々な制約や事情を抱えながらも活動しているから、そうした活動には大して魅力を感じないしても、実際に行われていることのほとんどはそうした類いの活動であり、それらが社会の中で重層的に重なり合って、互いに結びつき絡み合い錯綜し合っている現状が、一定のレベルで社会の均衡や安定をもたらしているように感じられるのであり、それらの行為の中途半端な面を批判するのは簡単だが、また批判していることを正当化するのも簡単であり、批判する理由はいくらでもあって事欠かないのかもしれないし、そのいくらでもあることが選択の自由をもたらしているわけだが、しかもそれと同時にそんな批判しかできない限界ももたらされていて、それらの全てが理想的な環境の中で行われているわけではなく、理想状態から見るような視点に立てば、確かに全ての行為を批判できるわけだが、批判したところで改まるようなことでもなく、仕方なくそんなことをやっている側としても、外部から批判されたところで、改められるような環境の中で活動しているわけでもないだろうし、それでも批判されてしまうのだから、逆ギレするのも無理はないのかもしれないが、そうした批判などもそこで生じている制約や事情に属する事柄には違いなく、絶えず批判にさらされながらもそうせざるを得ないことを行なっている場合もあるわけで、批判される側もあまり自らの立場を正当化したり肯定する気にはなれないだろうが、それでも中には自画自賛気味にやっていることを誇って見せたがる人たちも現れるわけで、そうした人たちとそれを批判する人たちの間でしばしば諍いが起こって、そんな出来事をメディアが誇張して取り上げれば、世間の好奇の目にさらされることになるわけで、そうなってしまった時点で、やっていることに関する制約や事情が無視されて、どちらが良くてどちらが悪いかという白黒をつけるような話になってしまうと、さらに状況がこじれてくるわけだ。

 社会の中で人が個人としても集団としても活動する環境は様々にあることは確かだが、そうした環境を人が主体的に選べる範囲は限られているだろうし、誰もが好き好んで理想的な環境を選べるわけでもなく、実態としてはどのような環境の中で活動していても、ある程度の不満は付き物だろうし、何の不満もないなんてありえないことだが、欲求としては活動している環境を理想状態に近づけたいだろうし、そのために様々な作用を環境に及ぼそうともしているだろうし、実際に様々な人や団体とつながろうとして関係を築きながら、コネクションを社会の中に張り巡らそうともするだろうし、他の人もそうするわけだから、お互いに利害が一致すれば連携や協調の関係を結ぶ一方で、利害が一致しない人とは場合によっては敵対関係となってしまうだろうし、またそうした関係を一定のレベルで制度化しようとすると、それを維持管理するための機構が必要となってきて、その関係の種類や内容に応じて様々な団体が結成されることにもなるわけで、そうやって社会の中でそれらの団体の集団的な活動に応じた縄張りが形成されるわけだが、そうした縄張りの大規模なものが国境で区切られた国家となるわけだろうが、そんな国家を維持管理する機構として機能するのが政府であるだろうし、そうした国家を伴った政府が世界に多数存在していて、ひしめき合っている現状を考慮すると、それらの国家間でも様々な連携や対立が生じるわけで、国家間で生じる利害関係を調整する役割として国連などの枠組みもあって、そうした場で各国の政府同士が交渉を行うことにもなり、そうした枠組みを通じてそれなりに国際的な秩序が生じているわけだろうが、別にそれが理想形態というわけでもないだろうし、良い面も悪い面もそれなりにあるわけだろうが、そうした場で交渉を行うのもそれ以外の場で二国間交渉や多国間交渉を行うにしても、様々な制約や事情を抱えながらも行うわけだから、そこで国家としてあるいは国際的な秩序として理想的な状態を目指すにしても、最初からそれが実現されているわけでもないのだから、現状で悪い面や批判される面などいくらでもあり、そうした面だけを見れば、とてもじゃないが肯定できないし、批判しようとすればいくらでも批判できるし、実際に様々な方面から批判されている現状もあるだろうし、そうした批判を真に受けるなら、そうした交渉の成果を否定的に評価することなどもいくらでもできるわけで、実際にそうした評価にさらされている交渉などもいくらでもあるわけだろうが、それでも交渉すること自体はやらなければならない事情が生じている限りで、実際に各国の政府同士で何らかの交渉が行われていて、そうした交渉の成果も、交渉する側はそれなりに成果が出たと主張するだろうし、どんなに小さな前進でも前進には違いなく、それが成果だと言えるだろうし、またたとえ交渉が決裂しても、交渉しただけでも何らかの結果が生じたのだからそれが成果だと言えないわけでもなく、何はともあれそうしたことを行なっていく以外には、対立を解消するすべはないのだろうから、やるに越したことはなく、大した成果もあげられなければ批判にさらされるのも当然の成り行きであるにしても、だからと言って交渉を行う成り行きがそこで生じているのだから、それをやらないわけにはいかないだろうし、そうすることが良いことでもあり悪いことでもある場合には、その場でできることがそうすることだと判断されれば、交渉を行う成り行きになるわけで、それに関しては結果的にそうした事情が生じているとしか言えない面もあるのではないか。


6月15日「変化の実態」

 やっていることの動機が何であっても、期待した通りの結果を伴えば満足できるかもしれないが、周囲から様々な事情が絡んでくると、思わぬところからこじれてくるわけで、そのこじれ具合によっては不安や不快感が増してくるし、結果的にもたらされた状況が、当初に思い描いていたのとはだいぶ違っているとすれば、それだけ予想とは違う事態に遭遇していることにもなるわけで、何かしら活動した結果として生じる変化とはそういうものだろうし、これまでの認識を改めなければならないような状況がもたらされているなら、満足したり不満を抱いたりすることからずれた感覚を伴っているだろうし、それはこれまでにない未知の状況に直面していることにもなるわけで、下手すると今までにやってきたことが通用しない状況にもなっているかもしれないし、全てがそうであるわけではないにしても、そんな状況から新たに学ばなければならないこともあるわけだ。人は状況の変化から学びながら対応しようとするだろうし、学ばなければ対応できないわけだが、変化に対応していること自体が学んでいることにもなるわけで、学ぶことは対応することでもあるわけだが、対応できなければ学びが足りないのかもしれず、中には学ぶことすらできないような変化もあるだろうし、そうした変化に対応しきれずに破滅してしまうこともあるわけだ。だから期待した通りの結果に満足しているだけでは、そこから何も学んでいないことにもなるだろうし、状況の変化に気づかなければ、対応していないことにもなるし、学ぶ必要さえ感じていないことにもなり、逆にそこで不満に思ったり不安や不快感が生じているということは、何かしら気づいていることにもなり、期待していた通りにならなかったということも、予想とは違った結果がもたらされていることに気づいていることにもなるし、そのような状況に対応しなければならないから、安心も満足もできないわけだが、安心したり満足するには何かを行わなければならず、それが状況の変化に対応することであり、状況から学ばなければならないことになるわけだ。そうやって実際に状況の変化に対応できれば、安心感や満足感を得られるだろうし、状況から学んで必要な対応ができたことにもなるわけだが、それで終わりとはならないだろうし、絶えず状況から学んで対応し続けなければならないし、それを怠ると状況から見放されてしまうかもしれないが、それを避けるには対応したり学ぶ以外に、状況が変わらないようにしようとするわけで、状況が一定のレベルで安定していれば、そこに作用する様々な方面から及ぼされる力の均衡状態がもたらされて、そういう安定した状況の中で暮らしていれば、これまでと同じようなことをやっていればいいことになり、新たに対応する必要も学ぶ必要もなくなって、決められたことを決められた通りに行っていれば決められた結果がもたらされて、そこから満足感や幸福感が得られるわけだが、そんな状態を維持するには、変化をもたらす兆候を片っぱしから押さえ込んだり、その萌芽を摘み取らなければならなくなるだろうし、結果的にはそうしたことを行う専門の機関が必要となるわけで、それが官僚機構であり、その中でも治安機関がそうした取り締まりを行いながら、社会全体が変化しないように管理することになるわけだが、そうした機関も歳月の経過とともに内部から腐ってくる可能性があるわけで、それ自体が状況の変化をもたらしてしまうこともあるわけだ。

 また社会の中で人に様々な役割分担が施されている面があるが、誰かが役を割り振っている場合もあるし、誰に頼まれたわけでもないのに、勝手に自主的にそんな役を引き受けている人もいるかもしれないが、中には自分の役割を自覚していない人も大勢いるだろうし、誰もその人の役割などに関心がない場合も普通にありそうだが、実際に組織的な活動の中でそんな役が割り振られているように見える場合もあるが、そういう集団的な組織形態以外では、自分の役割など自覚できるわけでもなく、自分で自主的に活動していると思っていれば、自分の役割など気にする必要もないだろうし、ただそこで生きて死んでいく限りは、勝手にそうなっていくだけのようにも思われるだろうが、人と人とが関係していたり、何らかの団体との間で決められた関係があれば、当然そこで何らかの役割分担が生じていて、その役割に沿ったことを行わなければならない事情も生じてくるだろうし、そうした面で生じているその人の事情というのが、その人の役割に関係する部分だろうし、その人が何らかの事情を抱え込んでいて、何か特定のことをやらなければならないとしたら、それが役割に応じた動作であり行動となるわけだが、そうした役割に拘束されていると、その役割から生じてくる動作に関しては、自分の自由にはできないし、そこで何らかの約束が交わされていれば、その約束に基づいた動作を行わなければならず、それがその人の役割分担に結びついているわけだが、そうした動作には囚われない人も中にはいるわけで、他の人や団体との結びつきが希薄な人ほど、そうした関係から生じてくる役割分担からも自由でいられるわけだが、自由であることは孤独と表裏一体な面があり、誰からも相手にされなければ、確かに関係が生じないから自由ではあるが、その一方で他人の気を引きたいと思うだろうし、他人からかまってもらいたいわけだが、そうなれば積極的に何らかの役を引き受けたいと思うだろうし、そのためには世間に向かって自己をアピールしようとするわけだろうが、しばしばそれは自意識過剰の空回りに終わるだろうし、また他人の気を引くためには手段を選ばないような心境になると、道化のようなくだらないことでも積極的にやって他人の気を惹きつけようとするだろうが、それがメディア的な煽動や宣伝に結びつくと、そこで役割分担が生じて、メディア上で自分を宣伝しようとするから、宣伝する人という役割が生じるわけだが、普通は自分のやっていることを通して自分の存在を宣伝するわけだが、それが何を意味するわけでもない場合があって、何か商品を宣伝するなら、その商品を製造したり販売する業者との関係が生じて、その業者の商品を宣伝することに関して報酬をもらうような関係も生じるわけだが、自分自身を宣伝するとなると、自分の存在そのものを宣伝することにもなり、それが他の何にも結びつかずにただ自分を宣伝しているだけとなると、そうしたことに他人が興味を持つにしても、他人にとってはそれが何をもたらすわけでもないだろうし、実際にメディアからその人の姿が映し出された情報がもたらされたり、その人が喋った内容がもたらされたりするわけだが、それに対してどう反応すればいいかとなると、好意的に受け止めたり嫌悪したりするわけだろうが、それがその人の真似をすることに結びつくと、そこでやっていることが他人へと伝染するだろうし、結果的に同じことをやる人が増えたりするわけだが、それ自体は変化には違いないが、他人の真似をすることは安易な変化だろうし、結果的に大勢の人たちが同じことを同じようにやるようになれば、そういう動作の繰り返しによって世の中が安定するとともに、そこから幸福感や満足感ももたらされて、それとは違うことをやる人たちが少数派となって、同じことやる多数派から圧迫されることにもなりそうだが、他人と違うことをやらないようになるだけでも、世の中の安定には結びつくわけだ。


6月14日「認識の共有」

 人や団体が協調できる条件はその場の状況によって変わってくるだろうが、協調しなければならない理由が生じるのも、その場の状況がそうさせるわけで、その場の状況に応じた判断が迫られているようなら、アプリオリに判断基準が固定されているわけではないにしても、その場の状況に応じた柔軟な対応が求められているとすれば、大雑把なところでコンセンサスが得られるように、関係している人々が価値観を共有して、その価値観に沿った基準を設定できれば、お互いにその基準に合わせて協調するような成り行きになるだろうし、それがそこで対立を避けなければならない事情となるわけで、何か一見回りくどいように思われるとしても、対立する双方が歩み寄ることを前提として話し合いの機会を設けることが、何らかの事態の進展を促すだろうし、そうしたことが可能となる環境を構築していくことが、国際社会の中で各国の政府に求められていることかもしれないが、実際に軍事衝突などの紛争が慢性化している地域では、話し合う環境が整っていないから無理なのだろうし、どうやればそうした環境が整うかは、やはりその場の状況次第であり、状況を変えるには各国の首脳の決断が必要だが、その決断をもたらすのが情勢の変化であることも当然かもしれないが、どこまでいってもその場の状況次第であれば、人の決断によって状況を変えることなど不可能かもしれないが、それでも決断する機会が訪れてしまうのだから、それが何に起因しているとしても、判断するのは人であり、誰かがそこで情勢を変えるような決断を下さないと、いつまで経っても同じことの繰り返しとなってしまうわけだ。そしてそうした立場であるのが世界各国の首脳なのかもしれないが、それも力のない国の首脳では情勢に何の影響も与えられないわけで、その場の主導権を握っている国の代表者が決断する以外では、人為的に状況を変えることは難しいのかもしれないが、そうした決断を促すのが民意や世論である場合もあるだろうし、またそれが政府の官僚機構の意向であれば、それとなく周りから国の代表者へと助言が行われるだろうし、その場の情勢とともにそうした働きかけが決断を下す契機や材料ともなるだろうし、それに関しては他にも様々な方面から働きかけが行われるわけだが、関係している人や団体の思惑が様々に交差して錯綜している中で、それらの要因が有機的に結びついて、思わぬところから決断が促されて、状況を変えるような決断や方針転換が行われるわけで、それによってどんな結果がもたらされようと、これまで繰り返されてきた予定調和の二項対立を打開しようとする機運が高まるだろうし、状況が変わればそれに応じて従来からある利害関係にも変化がもたらされるだろうし、長らく一定の傾向で固定されていた枠組みや体制が瓦解する可能性も出てくるわけで、それも瓦解という大げさな表現では言い表せないような微妙な変化になるかもしれないが、誰の予想も裏切るような微妙にずれた結果がもたらされて、それが新たな時代の始まりとなるかもしれないし、またこれまでの延長上で予想の範囲内に情勢が落ち着くこともあるだろうし、結果的にどうなるにしても、それによって世の中の枠組みや体制にわずかでも変化が起きれば、それに伴って新たな活動の余地が生まれるかもしれないし、そうしたことをきっかけとしてこれまでない新しいことが行われるようなら、それによって世の中が活性化されるのではないか。

 変化の肯定的な側面をみれば確かに良くなる可能性を指摘できるかもしれないが、一方で従来通りの枠組みを堅持しようとする勢力も必ず出てくるだろうし、そうした勢力との折り合いをどうつけていくかが、持続的な改革を目指す上で課題となっていくのだろうが、ともかく破局的な結果を避けることに関しては双方ともに利害が一致するところだろうし、そういうところが突破口となって、折り合いをつけるような成り行きへと持っていければいいのだろうが、また一致点としては経済的な利害があり、それは同時に対立点でもあって、さらに宗派的あるいは民族的な対立も従来から根深くあるところだろうが、それらが複雑に絡み合って解きほぐし難い問題を形成しているわけでもあるが、経済的に対立していても政治的に協調関係を実現していたり、あるいはその逆の関係もあるわけだろうが、国家的な枠組みとともに地域的な枠組みもあるだろうし、地域の範囲にしても認識のずれを生じさせる要因ともなっていて、同じ地域内では対立していても、異なる地域同士の関係では協調関係であったり、そこでも関係の複雑な絡み合いが生じているのだろうが、様々な関係の中でも様々な方面でも利害が錯綜していると、特定の利害だけで対立や協調関係が築かれているわけでもないだろうし、そうなると意外と決定的な対立とはならない場合があるわけで、要するにそれらは常に部分的な対立にとどまっている限りで、全面的な対立には至らないわけで、ある面では協調しつつも別の面では対立していると、とりあえず協調している関係は維持しながらも、対立しているところでは交渉を行いながら、それなりの妥協や妥結に至ればいいわけで、ある面で対立しているとしても、協調関係が維持されている面まで破棄してまで対立をエスカレートさせる必要が生じない限りで、中途半端な対立となりやすいだろうし、つまり部分的な対立が全面的な対立となるのを防ぐ歯止めとなっている可能性があり、部分的な対立で済んでいるうちは、それ以外のところで維持されている協調関係をやめようとはしないだろうし、そこに関係が生じて交流が行われている範囲内で、そうした交流を維持するには双方が協調しなければならなくなるだろうし、そこに関係を断ち切れない事情が生じているわけで、そうした事情から幾分でも対立が和らげば、それ以上は対立をエスカレートさせる必要がなくなって、対立の度合いも一定レベルで均衡が保たれることにもなるわけだ。そしてそうやって全面的な対立や衝突が回避されているとしても、部分的には対立していて意見の衝突もあるわけだから、絶えずそういう部分で協議しなければならず、それに伴って交渉が断続的に継続することにもなるのだろうが、たぶんそういうことをやり続けている限りで全面的な衝突が回避されるわけで、衝突を回避するためにも交渉が必要となり、交渉を続けている間はその部分では衝突が回避されるわけだから、別の部分では衝突しているとしても、それが全面的に拡大することもないわけだ。そして対立する部分での協議が衝突の代わりに行われるとすれば、まずは協議して交渉を行う必要が生じてくるのだろうし、それが対立や衝突を回避する口実や事情にもなるわけで、そういう部分での話し合いを続けなければならない事情として、対立や衝突の回避が理由としてあげられることとなり、うまくいくかいかないかは結果から判断するしかないだろうが、とりあえずはそこで交渉する口実が生じていることについては、双方ともに認識を共有していることになるわけだ。


6月13日「経験と勘」

 社会の中で個人は自らの経験で培った勘で動いていることが多いが、意識して思考していれば物事の道理に適った動作を行おうとするだろうし、勘で動こうとしているのを、改めて思考を働かせて、道理に適っているかどうかを確かめようとして、動作の正しさを確認してから動こうとするわけで、そういうところで知識として学んだ情報が活きてくるわけだが、具体的に何をやるかに関しては、世の中で他の人が行なっていることが参考になるだろうし、自分独自のやり方にこだわるにしても、他人のやっていることを応用しながら行うことが多いだろうし、そういうところで人は最初は他人のやり方を模倣しながらも、徐々に自分独自の方法を編み出そうとしてくるわけで、ただ単に真似ているだけでは満足しないのだろうし、自分なりのやり方で工夫を凝らして、何とかうまくやろうとしているわけだ。そしてやっていることが他人に認められたら喜ぶだろうし、他人の共感を期待しながらも自分独自のことをやりたがるわけだが、それが往往にして独りよがりなことに陥りがちとなって、他人から賞賛されないことを逆恨みしたりする過ちも招きやすく、ただ自己主張するばかりでごり押し的な行為をやってしまうと、賞賛されるどころか逆に迷惑がられてしまうだろうし、しかもなぜ迷惑がられているのかその理由がわからないまま、逆恨みが高じて世間に対する復讐心に凝り固まってしまうと、中には無差別テロなどの凶悪な事件を起こしてしまう人も出てきて、そうやって勝手に自爆してしまう人がニュースなどで話題になることがあるが、それが世相の暗さと相まって世の中の行き詰まりや閉塞感などを感じさせてしまうだろうし、たぶんその背景には個人として求めていることが、他人を介した形でしかわからないことが挙げられるのかもしれず、自分では何をやればいいのかわからないから、他人とコミュニケーションしてそれを知りたいのに、うまく意思疎通が図れないうちに、勝手にそれを他人のせいにしながら被害妄想に陥り、そうやって自分の殻の中に閉じこもっていくうちに、何かのきっかけでそれが他人に対する暴力衝動として爆発してしまうのかもしれず、そういう意味で現代社会の中では精神的に依存する対象がうまく見つからないままであっても、孤独を恐れずに自立する勇気が湧いてこないだろうし、何をもって自立とみなすかもよくわからないのかもしれないし、できればそんなことまで考える暇が生じないようにスケジュールを目一杯詰めておけば、ただそれらを与えられた課題のようにこなしていれば気がまぎれるだろうが、それでも実際にやることがなくなってしまうと、心の隙間を埋めるものがなくなってしまって、そうなると自らの空っぽさに我慢がならなくなってしまうだろうし、普通はそんな空隙を埋めるために趣味や仕事や私生活に熱中しようとするのだろうが、そんなごまかしにも限度があるだろうし、そうしたどうにもならない空っぽの自己に耐えられなくなってしまうと、やはり精神的におかしくなってしまうだろうし、それを他人のせいにできなければ、大抵の人はそこから自殺へと向かうのかもしれないが、それも選択肢としてはありふれていて、他人と同じことをやっているのでは我慢できない人は、少しは気の利いた人生を送れるように工夫を凝らそうとするわけで、それがたわいない趣味に向かうにしても、それなりに楽しいことをやろうとするのではないか。

 それに関して自己とは他者であると言ったわかったようなわからないような屁理屈では満足できないのはもちろんのこと、自己に関するおまじないのような理屈を見出せない方が普通だろうし、そもそもそんなことまで考える必要もないのだろうが、人は他者との結びつきや関係の中で、他者との比較において自己を見出そうとするだろうし、できれば他者よりも有能であったり優秀であったりすれば自己満足に浸れるだろうし、そうでなければ他者への攻撃衝動に不満をぶつけるような成り行きにもなりかねず、そうした反社交的な社交性が対立や抗争というありふれた動作や現象を生み出すわけだが、それをスポーツなどの競争として制度化すれば、何やら経済的な効果を引き出すことにもなるわけだが、実際にそういう制度的なゲームが遊びとして広く世の中で定着している実態もあるだろうし、興行として成り立っているプロスポーツでなければ遊びの段階でとどまるのだろうが、程度や方向性が遊びとは異質の状態に至ってしまう可能性もあるわけで、それが現実に起こっている戦争の類いだろうし、別に戦争が遊びが高じて起こるわけではなく、政治の延長上で起こるわけだが、それに関してはスポーツの方が戦争ごっことして発展してきた経緯があるのだろうし、それとは別に個人と個人が果し合いの決闘のような形態で殺し合う場合もあるわけで、そういう状況では他者の危険性が最高度に高まるわけだが、それが場合によっては自己表出としての主体的な行為になる面もあるだろうし、そうした自己表現が他者へと向かって攻撃形態をとることで、あらゆる手段を使って他者を倒すことが、自分の価値を証明することになると思い込むわけだが、あるいはそこで他人に勝つのではなく自分に勝つことが重要だと思うこともできるだろうし、よく格闘技などの試合ではそういう倒錯した心境になることが、何らかの境地だと思われているわけで、それがやっていることを正当化する言いわけになるようだと、本来のニュアンスから少しずれてしまうかもしれないが、たぶん己に勝つという表現は自己の美学化にもつながってくるわけで、そうやって自己と他者との葛藤から他者を抜いてしまうと、自分にとって都合のいいまやかしの他者ではなく、その他者さえも心の中から消し去ってしまうわけだから、さらに自分の都合が強化されてしまうのかもしれないが、そうではなくそこから自己を滅却するという表現も出てくるわけで、他者だけではなく自己さえもなくしてしまえば煩悩にとらわれることなく悟りの境地へと至れるわけで、その自己を滅却することこそが自己に勝つという表現の真髄だとも言えるのかもしれないが、そうした何やら神秘的な奥義を極めることに幻想を抱くことができなければ、たぶんそこに至るのをあきらめたままでも構わないのかもしれず、自己を卑下するわけでも尊重するわけでもなく、フラットな感覚で自己と接していけばいいのかもしれないが、そうした自己とは別にその場の程度や傾向に応じた対応ができれば、とりあえずその場を乗り切れるような気がするだろうし、別に乗り切ろうとしなくても構わない場合もあるだろうが、自己にこだわったり他者にこだわったりする事情が生じる限りで、それらに関係していることを自覚できるわけで、無理に自覚しようとしなくても必要に応じて自覚できたりできなかったりもして、それがそこに至る経験から導き出された暫定的な答えであり、答えだと気づかない場合もあるわけだが、結局はそこで何かに気づいたり気づかなかったりするから、それなりに偶然の巡り合わせを体験できるわけで、そうした何かのきっかけから巡り会う出来事に巻き込まれながらも学ぶしかないわけだ。


6月12日「集団の制御」

 普通の人が普通に暮らしていることが当たり前のように思われる状態というのが、世の中に対する平均的な認識として人々の意識の中に定着していると、何かそこから逸脱することが危機的な状況だとは思わないものの、実際に普通の状態から逸脱しているのが良くないことだとは思われるだろうし、そこから何とか人並みの普通の生活を送りたいと思うかどうかは、人によっても生活している状態によっても異なるだろうが、人の暮らし向きはその人のおかれた境遇によって様々な傾向を示していて、同じような状態ならいくらでもありそうだが、決して厳密には同じにならなければ、普通の人が普通に暮らしている状態というのが、個々の事情を無視した虚構に思えてくるかもしれないが、収入とか財産とか家族構成とか住んでいる家屋とかの条件などを考慮して統一的な基準を定めれば、統計的な平均値としての普通の状態が求まるだろうし、それと個々の事例との比較によって、それぞれの世帯の偏差値が出てくるかもしれず、そういう比較を行えば確かに数値的に自分の暮らしが、平均値からどれほど離れているかがわかってくるだろうが、実際にそういうことを知る機会はほとんどなく、多くの人たちはただ漠然とメディア経由や周囲から入ってくる様々な情報を基にして、自分の状態が裕福であるか貧困であるか中流であるかといった大雑把な認識に至るだけだろうし、実際にそんなことを気にする機会なども滅多にないのかもしれないが、そうした比較をする以前に自身が生きている現状があるわけだから、その時点でそれなりに生活が成り立っているわけで、自分の状態をどう評価してみても、そこから良くなる可能性というのも、現状で抱え込んでいる事情からおぼろげながら推察できるだろうし、良くなる可能性が見えてこなければ現状に対して不満を抱いていることが多いだろうが、その一方である程度はあきらめている面もあって、それは経済状態とか職業とか年齢などから想像してしまうところだろうし、中には自らの可能性のなさに絶望して自暴自棄になってしまう人もいるだろうが、それも特殊な状況で、日常生活に支障をきたさない程度の普通の精神状態を保っていれば、ある程度はあきらめつつも、それなりに人生を楽しめる範囲内で楽しもうとするのかもしれず、それも人によって事情が異なるだろうから一概には言えないことかもしれないが、そうした個人的な境遇や心境からの地続きで、何を思い何を考えているとしても、それらは個々の事例の一つに過ぎないことかもしれないが、そうしたところから政治的な認識を持つに至ることがあるかというと、それは自分だけでなく自身を取り巻く周りの状況や、広く世間一般の情勢に想いを馳せるところから、何やら政治意識が育まれてくるのかもしれず、世の中との一体感や他の人々との連帯感が、それらの人々と力を合わせてやらなければならない使命感のような啓示をもたらすのかもしれないが、なぜそうした啓示がもたらされるのかと言えば、それは世の中の状況に関して不条理を感じているからで、それらの大半は不快な政治家や政党などが不快なことをやっているように思われるからだろうし、そしてそれをやめさせるために、そうしたことを行なっている政治家や政党や政府などを批判して、そうした人々が批判勢力として結集する場合があるわけだ。

 そうした世の中の状況に対して抗議する人々というのが、一般の民衆を巻き込んだ政治活動の担い手として社会の中に定着していると、デモ活動や抗議集会といったパフォーマンスが行われることになるわけだが、当然のことながらそうした抗議運動だけで政治活動が完結しているわけではないだろうし、実際に議会や政府などの場で政策や法案などに関して審議したり、そこで議決したことを行政の場で実行させなければならないだろうし、また政府の一員になれば対外的には外交交渉などを行なったり、内政の面では業界関係者などとの懇談や、一般の民衆と直接対話して要望を聞かなければならない場合もあるだろうし、そうした職業としての政治活動と、一般の民衆が無償で行なっている抗議活動とは別の行為であることは確かなのだが、公的な制度として確立しているのは議会や政府などの職業としての政治活動であり、デモや抗議集会などのパフォーマンスは、とりあえず制度として確立しているわけではないものの、法律的な枠がはめられていることは確かで、そこから逸脱する行為は警察などの治安機関による取り締まりの対象となってしまうわけで、そういう面では政府による管理の対象ともなっているわけで、そうした行為を管理する制度が確立されているとも言えるし、過激派などへの取り締まりの延長上で市民運動などもそれなりに監視対象となっているはずだが、また職業として政治活動を行なっている政党などでも、デモや集会などの活動を行う時にそれらを管理しようとしている面があるだろうし、それに絡んで労働組合や生活協同組合や宗教団体や環境保護団体や政治結社や学生団体などの団体もそれらを管理しようとしていて、実際にそれらの団体からの動員によってデモや集会が成り立っている面があるなら、そうした活動も制度的に管理された活動と言えるわけで、結局一般の民衆を巻き込んだ抗議活動の類いも様々な思惑や戦略などを持った組織的な集団に管理されていると、個人が使命感に駆られたり、世の中の不条理な状況から啓示を受けたりして、自主的に集まるようなことではなく、組織的に演出されたパフォーマンスとなりがちになって、その場を仕切っている集団にコントロールされていることにもなるわけで、それの善悪は活動の内容にもよるだろうが、そうやって社会の中で行われている様々な活動が集団的な組織化の影響を被っていると、そうした中で個人の存在が疎外されることにもなるわけで、果たしてそうやって行なっていることが、個人の切実な願いを反映しているかというと、それよりは集団の利害の方が優先される傾向となっているだろうし、それで良いか悪いかはさておき、日頃から思ったり考えたりするのは個人が行なっていることであり、それを集団の側で尊重する意思があればいいのかもしれないが、それも集団の中で主導権を握っている人の意思は尊重されるというか、その人が集団の中で指導的な立場であれば、自分の意志を集団の方針として定着させようとするだろうし、そうなると他の人の意思は集団の方針としては尊重されないこととなるだろうが、その人が集団内の他の人の意見を聞いて、説得力のあるものなら集団の方針に取り入れるような協調タイプの指導者なら、そうはならないかもしれないが、また集団内が合議制のような形態になっていれば、少なくとも方針をめぐって話し合いが行われる成り行きになるかもしれないが、たぶんそうしたところで個人の主張と集団内から生じる主張との間で、何らかの違いやそれぞれに特有の傾向が生じるのではないか。そしてそこに何らかの差異があると、それが個人としては政治的な無関心の傾向を示している要因であるかもしれないし、そうした政治活動の集団的なコントロールの傾向が、個人の政治離れを促進している可能性さえあるのではないか。


6月11日「政争の行方」

 世の中では様々なことが行われていて、その中でも公的に行わなければならないことは、主に利益が出ない分野で人々が必要としていることを、税収などから予算を確保して行うことになるわけだが、人々が必要としていること以外では、国家として必要とされていることも行われるだろうし、特に軍事関連の予算は莫大な額を必要としていて、実際に戦争を起こさないようにしているのだから、できれば削減したいところかもしれないが、対外的な事情を考慮すると、一定規模の予算を確保して国力に見合った軍事力を維持するのが常識のようなことになっているだろうし、そうした面で実質的に無駄な予算が使われていることは確かかもしれないが、何が無駄で何が無駄でないかに関して、それほどはっきりした統一の基準があるわけでもないだろうし、様々な事情や経緯から、それなりに妥当だと見なされるような予算の使われ方がされてはいるものの、いきなり前例にないような予算配分を行なって、これまで予算がついていた分野で予算をカットしようものなら、たちまちその方面から反発や抵抗が生じてくるだろうし、そういう意味で現状維持的な予算配分になる可能性が高いだろうし、それを変えるための説得力を伴った理由というのがないわけではないが、変えるにはそれなりの抵抗が伴うことは確かだろうし、また現状を変えることに抵抗する側を否定的に批判することもありふれているだろうし、すぐに単純化した理由をつけて批判するのは、そのような批判がいかに説得力を伴うにしても、すでにそういう批判が一般化しているから、誰もが容易に批判できるわけで、そうした批判しやすい批判によって何がどうなるわけでもなく、そういう批判は現時点ですでに織り込み済みの批判となってしまい、それ自体が現状を維持するための批判となってしまっている可能性が高く、無駄な批判というよりは現状を維持するためには、批判勢力によるありふれた批判が行われることが不可欠な面もあって、そうした批判を多数決の論理によって押さえ込みながら、現状を維持するわけで、かえってそれがないと不満のガス抜きにはならないだろうし、それが予定調和の二項対立の形成に貢献しているわけだろうが、だからと言ってそれ以外に何ができるのかというと、批判勢力には何もできないだろうし、批判勢力が自分たちの主張を実行に移すには、何よりも選挙に勝って議会や政府内で主導権を握ることが不可欠であるだろうし、そうならないと何もできないから、現状を批判するしかやることがないわけだ。要するに民衆が批判勢力に投票すればいいわけだが、それができない限りは批判する以外にやりようがないのではないか。そしてそうした予定調和から脱却するには民衆がそれらの勢力に投票しやすい状況を作ることが肝心だろうし、それには現状での政府側の不祥事を追求することがメインの批判を改める必要が出てくるだろうし、それよりは議会の本来の機能が要求していることを行うことが重要だろうし、つまりそれは法案や予算案の作成や提出を行うことになるわけだが、それは議会選挙の時にも不祥事の追求よりは、法案や予算案を提示してそれをわかりやすく説明しながら、それらを議会で通すために投票を呼びかけるのが、議会という制度に応じた活動になるのではないか。

 またメディアの側でも野党としての批判勢力に、政府側の不祥事を追求することを期待するような風潮があって、そうやって勝手な役割分担を押し付けてくるわけだが、何かその辺で政権交代を阻むような作用が、メディアを通して及ぼされている現状があるのかもしれないが、メディア側の思惑通りに不正を追及しても、知らぬ存ぜぬで押し切られてしまえば、批判勢力の追求がダメだからそうなったと煽り立ててくるわけだろうし、そうした役回りに甘んじている限りは、絶対に主導権を握ることはできないだろうし、そういうところで政府とメディアがグルになった見込みのない戦いを強いられていることもなるだろうし、そういう成り行きから脱却しない限りは、議会本来の機能に基づいた活動ができないままとなってしまうのではないか。だから不正の追求はするなというわけではなく、それよりは法案や予算案などの作成や提案の方に力を入れるべきかもしれないし、少なくとも現状でうまくいっていないなら、現状とは違うことをやらなければならないだろうし、そういうやり方が難しくてわかりにくいのなら、何かしら主張に説得力があるような工夫が求められるだろうし、そうしたところで地道な努力をしていかないと、所詮は政府側の不祥事待ちでしかなくなってしまうだろうし、敵失に期待するだけでは政権担当能力を疑われるのも当然のことであり、何よりもそういうイメージをメディアによって印象付けられてしまっている現状は深刻に受け止める必要があり、実際には与野党の区別なく現状の中で選挙に当選して議員になったわけだから、それだけでも政権担当能力が備わっているわけで、逆に与野党の区別を強調すること自体がマイナスのイメージを印象付けているのかもしれず、現状の制度の中では条件を満たしていれば誰が議員になっても構わないのであり、実質的に与党と野党の議員に違いなどなく、ただ役割分担を割り振られている限りで違いや区別が生じているだけで、どちらがどちらになったとしても同じようなことを行なってしまうだろうし、それ以外ではないわけだから、あまりにも不祥事を追求し過ぎて、何か政党によって全く違う人種が議員になっているかのごとき印象を民衆の意識に植え付けてしまうと、では何のための民主的な政治制度なのか、根本的なところで疑念を抱かれてしまうのではないか。少なくとも同じような民衆が与党に投票したり野党に投票したりしているわけで、実際に同じ社会の中で生活している限りは、立場や境遇の違いを無視すれば、大して変わりないだろうし、その中で誰がどのような立場や境遇になるかは偶然の巡り合わせな面が大きいだろうし、そんなことを考慮すれば誰もがありふれた大衆の内の一人であり、ありふれた立場や境遇の中で活動しているわけで、そうしたことを超えて何を行えるわけではなく、誰もが批判されている政治家や官僚たちと大して違わない人たちでしかないわけだ。それでもそうした人たちを批判している人たちは、間違っても自分たちが彼らと同じだとは思わないだろうし、自分たちならそんなことは行わないと思っているだろうし、自分たちにやらせれば、もっとマシなことをやれるはずだとも思っているのかもしれないが、そうであるならそうした批判勢力に投票して主導権を握らせればいいのだろうが、そうなるか否かは実際に選挙をやってみれば明らかになることであり、実際に選挙結果が出てみるとこんな現状となっているわけだ。


6月10日「現状の妥当性」

 人は社会の中で様々な制約を受けながら暮らしているはずだが、制約というのは関係から生じるわけで、人と人との関係、さらに人と集団との関係、そして集団といっても、何らかの組織形態や仕組みや制度を伴った機構と関係することから制約が生じてくるわけだろうが、中には人為的な関係ではなく人と自然との関係とか、どうにもならないような関係もあるだろうが、そうした関係の中で利益や糧を得ているところでは、関係を解消するわけにはいかないだろうし、解消するのと引き換えに利益や糧を失うことになるわけだから、どうしても関係を解消したいのなら、他との関係から利益や糧を得なければならない事情が生じるだろうし、そうやって新たな関係を構築できても、そこからもそれなりの制約が生じてくるわけで、結局自分の側に有利な関係を構築したいのだろうが、それは相手の方でもそう思っているだろうし、そうなると関係を結ぼうとする双方の間で平等な関係を構築できればいいのかもしれないが、そうなるとそうした関係から利益や糧が生じることになるかというと、その辺が難しいところだろうし、人為的な関係から搾取することができなければ自然から搾取する成り行きになりそうだが、自然から搾取するにしても人為的な関係を構築して、そこから協力して自然から搾取するような成り行きになれば、人為的な関係の部分でなるべく平等な関係になるような努力が求められるわけだろうが、何らかの機構を伴った関係になると、当然のことながら機構側が有利となるような関係にならざる得ない面が出てくるだろうし、そうでないと機構側がその利用者を管理できなくなるわけで、そんな機構に管理されることになった人は、それなりに機構から制約を課されて、それを遵守しないと機構を利用できないことにもなるだろうし、そんな関係から機構が成り立つ限りにおいて、人と何らかの機構との関係の中では平等とは言えない面が必然的に出てくるわけだが、機構側もそれを管理する側の人の労働によって成り立っている面もあるわけだから、管理する側の人と利用する側の人とが協力して、なるべく双方にとって不都合が生じないような機構の仕組みを作っていけばいいのだろうし、政府や地方自治体などの公的な機構でもそうした試みが浸透していけばいいのだろうが、ただ漠然とそんなことは言えるかもしれないが、具体的に何をどうするかでなかなか実現が難しくなってくるだろうし、実際に公的な機構が徴税によって利用者から搾取を行なっている実態があるだけに、根本的には両者の間で対等な関係とはなり難い面があるわけで、そうしたところで不平等な関係を改めるわけにはいかない事情が生じているわけだが、現状の関係というのが様々な面で均衡状態にはなっているだろうし、確かに他から搾取されている面があるとしても、他を搾取している面があるから均衡を保っていられるだろうし、しかも実質的に利益や糧を得ているわけだから、現に生きていて生活も成り立っていて、そういう現状を考慮すれば、搾取されている面より搾取している面の方がまさっているわけで、そうした人間が世界中で数十億人もいるわけだから、人間同士では不平等な関係が成り立っていても、全ての人為的な関係を相殺してもなお自然から搾取している部分があるから、現実に人がそれほど多く生存できているわけだ。

 そうだとしても人も自然の産物に過ぎないわけだから、人為的な部分からの搾取と自然からの搾取を区別すること自体が、あまり正当性のあることとは言えないのかもしれず、人為的な部分のからの搾取を悪いことだとは言えない面もあるだろうし、そういうことに関する判断が微妙になってくるのかもしれないが、一応の判断基準として、法律や制度などに関する面からは人の同意を経ない暴力的な搾取は認められないところだろうし、また契約などの同意を経た上での搾取であっても、理不尽な面があれば非難されるだろうし、具体的にどのような面が理不尽なのかと言えば、搾取によってひどい境遇に追い込まれたり、搾取する側が暴利を貪っていると判断されれば、そうした搾取に正当性が生じることはないのだろうが、その一方で合理的かつ正当な搾取によって巨万の富を蓄えることに成功してしまうと、そうした成功者と他の人との間に貧富の格差が生じてしまうから、そうした状況が好ましくないと判断される傾向もあるだろうし、結局は何事も極端な状況になってしまうと好ましくないわけだろうが、社会の中で人が何らかの成功を収めることは、その極端な状況を作り出すことにつながるわけで、そうやって成功を目指すことが奨励されている一方で、その結果として格差社会になってしまうと好ましくないと判断されるわけだから、それに関しても微妙な認識や判断が求められるわけで、表立って両者の間に矛盾が生じているとは見なされないだろうし、それとこれとは別々のことであって、何らかの分野で成功を収めた人が世間から賞賛を浴びるのは当然のことであり、その一方で極端な格差社会が出現するのも問題とされるわけで、なるべく両者を絡めて語らないようにすればいいわけだろうが、それよりは巨大なグローバル企業が節税対策によって税金の支払いを逃れていることが問題視されたり、金儲けに成功した人たちがタックスヘイブンを利用して徴税逃れをしていることも問題視されることになるわけで、とりあえず金儲けに成功することは許せるが、課税を逃れることは許されないというところでコンセンサスを得るのが妥当なところとなって、それが徴税を行なう行政機構の立場や正当性を反映した論理となるわけだろうが、そうした行政機構の存在が民衆の同意を得ていることが、制度面でも法律面でも強調されるところだろうし、民衆の同意を背景として行政機構が徴税を行なっていることになっているわけで、それが選挙で選ばれた民衆の代表者たちが議会や政府の実権を握っていることに表れているわけだろうし、そういう仕組みを維持する上でも選挙で民衆の代表者を選ぶことが必要となるわけだが、確かに理屈としてはそうなのだろうし、何かそれが筋の通った理屈だと言えないこともないわけだが、現状に至るまでの成り行きが理屈通りのことを示しているのかというと、必ずしもそうは言えない面もあって、それは現状を正当化するために後付け的に理屈が編み出されてきたとも言えるわけで、そうした理屈が大前提となって現状を成り立たせているわけでもなく、その証拠に選挙の当選者が民衆の代表者と言えるかどうかも怪しいところだろうし、政府や地方自治体が民衆の同意を得て徴税を行なっているという建前も、特に同意しているとは思っていない民衆が大勢いるだろうし、そんなところで疑問や疑念を抱いていたらきりがないわけだが、少なくとも現状で成り立っているある程度の均衡状態を壊す必要も壊せるわけでもないだろうし、そうであるなら後付け的に加わっている現状を正当化する論理にも、ある程度の妥当性があるとみなしておいても構わないわけだ。


6月9日「信用できる情報」

 状況によって選ばれる人物も一方では制度によって選ばれていることには変わりないわけで、制度が特定の人物に社会的な役割をあてがうわけだが、それが民主的な制度であるほど誰であっても構わないようなことになるのだろうし、制度上はただの役割に過ぎず、実際に行なっていることが制度が規定する役割分担の範囲内に収まっているのであれば、特に文句を言われる筋合いはないわけだが、それでも世間の一般常識的な価値観から著しく逸脱するようなことを行なっていると、メディア上で批判される成り行きにもなって、それが民衆の世論や民意などに反映されると、その人物が制度的に選ばれない可能性も生じてくるのだろうが、それも制度が規定している手続きや仕組みが、その人物に有利に働くようなことになっていれば、その人物が長期間にわたって特定の社会的な地位や立場を占有していられるわけで、それが政治的な地位や立場であると、やっていることに関して公的な権力の行使が伴ってくるわけだが、そうなっているとしても実際に直接何をやるわけでもないだろうし、政治的には議会で決まりを作って行政に実行させることになるわけで、そうしたことを行う過程で、特定の業者や団体に便宜を図っていることが発覚すると、それが問題視されるわけだが、それ以上のことではないだろうし、また国内外の交渉相手と交渉を行って約束を交わす上で、その約束の内容や約束の実行に関して、それが公的に不都合なところがあるとそれも問題視されるわけだが、たぶん政治的な活動の中では、そういうところだけに関してその是非が問われることになるなら、選挙の度にそれを民衆が投票するにあたっての判断材料すればいいのだろうが、現実問題としてそうはなっていない実態もあるわけで、またそうならないようなことを宣伝や煽動の中で仕掛けてくるのだろうし、その辺が現状の維持を図る上で重要となってくるのかもしれず、それも政治的な駆け引きの範疇に入ることなのだろうが、政治の次元での駆け引きではなく、実際に政治が社会にどんな作用を及ぼしているかが問題とならなければならず、その社会に及ぼしている政治的な作用が問われているはずで、選挙の時に投票の判断材料となるのはそれであるべきなのかもしれないが、たぶん実感としてはそれに関してあまりはっきりしたことは感じないのかもしれないし、また政治の場で今行なっていることと並んで将来の展望などに関しても、確かなことはあまりわかっていない面もあるだろうから、現実問題としてそうしたこととは異なることが争点になりやすいのかもしれないが、さらに現状維持を図る上で争点を絞らせない戦略というのもあるだろうし、実際に何が争点なのか分からなければ、特に現状を変更する理由もなくなるだろうし、そうなると現状で実権を握っている勢力が有利となりやすいのだろうが、それ以前に現状を変更することに多くの民衆が躊躇いを感じるなら、政治的な情勢は現状のままでも構わないということになるだろうが、そもそも選挙によって現状を変えることができるのかというと、結果によっては変わる面もあるが、どんな結果になっても変わらない面もあるだろうし、選挙が政治的な判断を要する全てではないということも言えるだろうし、公的な領域での政治という営みが世の中に何をもたらしているとしても、それだけが全てではないことはわかりきっていることだが、人によっては政治に関しては何も語らず、何の主張も持ち合わせていない場合もあるだけに、そういう部分でメディア上で行われる宣伝や煽動などが、世の中に重大な影響や効果を及ぼしていると考えること自体が、何か思い違いや勘違いである可能性もあるわけで、それ自体がそんなに重要なことではない場合もありうるのではないか。

 そしてそうしたことを踏まえた上で、現状で何をどうしたらいいのかという問いを立てるなら、政治的な面では何もやる必要がないとは言えないだろうし、現状維持でも困らないとも言えないわけだが、実際には行政の活動に合わせて何らかの政治的な判断を下しているはずだろうし、具体的に行政の不具合や問題点を指摘して改善するための処置を施しているはずなのだろうが、たぶんそれ以上はやりようがないわけで、後は政治の場で何かができるようなことを宣伝しているわけで、例えばそれが行政の決定に対して異議を唱えるようなことでもあるだろうし、また政治主導で行政に何かやらせるようなこともできるはずなのだろうが、別にそうしたことが政治的な争点となっていなければ、取り立ててそれが話題となるわけでもなく、民衆の側でもそんなことに関心があるわけでもないだろうし、その代わりに関心があるのが政治や行政を巻き込んだ不祥事であったり、それに関係している行政側の官僚や政党側の政治家の進退であったり、またそれが刑事事件となるか否かということでもあり、監督責任のある大臣が辞任するか否かであったり、それらは全てメディアが好んで取り上げる話題となるのだろうが、メディアの方でも不祥事に関して取り沙汰されている疑惑に関係する官僚や政治家の進退問題に関して、それを批判するような内容で煽り立てているわけだろうが、それが世間的な関心を呼ぶから大いに取り上げるべき話題となるわけだが、それがメディアがやるべきことの範疇に含まれているわけで、それが何をどうしたらいいのかという問いとどう関係してくるかというと、少なくとも疑惑を招くような行為が行われていて、今後はそうした疑惑を招くような行為は慎むべきということになるわけだろうし、それが何をどうしたらいいのかという問いに対する回答になるわけだろうが、そうなると疑惑を招かないような行為をやる必要があるとなるわけで、それが現状の改善に結びつくなら、現状の維持では困るから、現状を改善するようなことを行うべきとなるだろうし、それも何をどうしたらいいのかという問いに対する回答となるわけだろうし、そうやってそれなりにやるべきことが定まってくるのだろうし、大雑把に言えばその全てが現状の改善を目指すような行為となるだろうし、実際にそうしたことを行おうとしている勢力を民衆が支持すれば、選挙でそうした勢力が躍進して、実際に政治的な主導権を握って政権を掌握するような成り行きになれば、それも現状で何をどうしたらいいのかという問いへの回答となるだろうし、そんな単純な理屈から政治勢力を選んでも構わないのだろうが、実際にはそうはならないだろうし、それ以外の要因が選挙結果を左右するような面もあるわけだろうし、それがあまり説得力を伴わないような理由ともなると、少なくとも政治に関心を抱いている人は納得しないはずなのだろうが、そうした政治に関心がある人だけが選挙で投票するわけではないだろうし、またそうした意識の高い人だけが特定の政党を支持しているわけでもないのだろうが、特に政治に対して要望もなく、関心があるわけでもない人が世の中の多数派を形成していて、それらの人たちが現状を維持している勢力に投票すれば、結果的には現状維持となるわけだろうし、それは政治的な問題点の指摘やそれに対する批判や現状を改善するために何をやるべきかに関して真面目に考えているわけでもない人たちが、現状の維持に加担していることにもなるわけで、そうした面を考慮に入れれば、必ずしも現状で何をどうしたらいいのかに関して、特に何もやる必要がなく、現状維持でも取り立てて問題だとは思っていない人たちが、主導権を握っていることにもなるわけだが、もちろん世論調査の中で誘導尋問のようなことをやれば、現状が問題だと思う人が多数派を形成することにもなるわけだが、それもあからさまに質問されればそう答えるしかないが、特に質問されなければ取り立てて関心があるわけでもないのかもしれないし、それがそうした調査結果があまり信用できるわけでもないことを示しているのかもしれない。


6月8日「状況に選ばれた愚鈍さ」

 個人の認識と集団的な作業から導き出される認識とは質が違うのが当然だろうが、個人が語っているように思われる認識でも、データ分析などは集団的な作業を伴っているかもしれないし、そうしたところから個人の意識が影響を受けている面があるわけで、それらを明確に区別することはできないのかもしれないが、個人的にどんな主義主張を持っていても、その人の行動が主義主張と一致するとは限らず、また行動を意識でコントロールできている割合もそれほど高くないのかもしれず、その場の状況に影響を受けながら行動している面が多分にあるわけだろうが、だからといってその人の主義主張が実質的な効果を伴っていないわけではなく、心の支えとしての役割を果たしている面が大きいわけで、自身の行動や言動を心の支えとして保持している主義主張から説明しようとしていて、それによって思考と活動とが一致しているように装いたいわけだが、たぶん本人が思っているほど一致しているわけではないだろうし、それよりはその場の状況に対応した活動を行なっている面の方が大きいわけで、自然にそういう対応ができる人ほど、活動に柔軟性が生じるのかもしれず、その逆に自身が保持している硬直化したイデオロギーの類いに、無理矢理行動を合わせようとするほど、何かぎくしゃくした活動になってしまうのだろうし、そうなると結果的にもうまくいかなくなってしまうだろうが、さらに中にはそうしたこだわりのない空っぽな人物もいて、そういう人はただ功利的に活動するのみで、全てが相対的な価値しか持ち合わせておらず、そうなるとただその場で主導権を握っている人や集団に従うことしかできない場合もあるだろうし、そうした人が官僚的な集団の中では便利な手駒として重宝される傾向にあるのかもしれないが、そうした個人の間で個々に差異が生じているとしても、集団で行う組織的な活動に組み込まれてしまえば、個々の違いは均されてしまうだろうし、そうした面では個人ではなく集団の活動と捉えればいいわけだが、そんな中でも集団を束ねるカリスマ的な指導者の立場が生じる時があって、そうした指導者が集団をコントロールしながら、その人の意志によって活動を行わせているように見えることもあるだろうが、現代的な政治情勢の中ではそういうことが起こっているわけではなく、メディアが伝説の人物として作り上げるようなカリスマ的な指導者など誰もいないのかもしれず、ただどこにでもいるありふれた人たちが議会の議員になっていたり、行政のトップに立っているわけで、しかもそれで構わないわけで、個人が有能であるとか見識がある人が組織のトップに立つ必要がないような制度になってきているのかもしれないし、それが民主的な政治体制であるほどそうなる傾向になっていくのかもしれず、誰がなっても構わないのにたまたま特定の人物が様々な経緯や成り行きから、そういう役回りを引き受けることになり、実際に誰がなっても構わないように教育制度が充実していて、それなりに有能で見識を備えた成人がほとんどなら、大して問題は起こらないわけだろうが、たぶんそうでなくても構わないのかもしれず、実際にとんでもない人物が大衆の間でポピュリズム的な人気を博して、政府を代表する役職に就いても構わないのが、民主的な政治制度であり、そうなったとしてもその人ができることが一定の範囲内で限られていて、誰が代表になっても同じようなことしかできない制度になっている可能性があるのではないか。

 そして制度的にはそうなっているとしても、その場の状況からその人にしかできない活動がもたらされてしまうわけで、それがその場の状況に合わせた活動となって、そうなった結果から説明しようとしてしまうと、何かその人が有能であったり立派な見識を備えていたり大胆な行動ができる人に見えてしまうわけだが、逆に自分を立派に見せようとしてかっこいい演説の類いによって大衆を魅了するような人ほど、そうした柔軟性に欠けている可能性があるわけで、結局メディア的な有能さの定義と実際の状況に合わせた対応力は異なっていて、その辺のずれを認識しづらいのだろうし、そういうところでしばしば評価の判断を誤ってしまうのかもしれないが、硬直した価値基準で凝り固まっている人ほど、政治的には無能に思われてしまうだろうし、いつも決まり切った主張を繰り返している人ほど、そうなってしまう可能性が高いのかもしれないが、中には恣意的に認識を自己の主張に合わせて捻じ曲げて解釈してしまう人までいて、本当は逆のことをやらなければならないわけで、自己の主張を状況に合わせないとならないわけだが、それがやろうとしてもなかなかできないことであり、普通はそんなところまで気が回らないわけだが、別に意識しなくても自然にできる人も中にはいるだろうし、それは価値基準が空っぽの相対的な功利主義者というわけではなく、それよりはある種の頑固さや愚鈍さを備えた人であり、しかも状況がそういう人を利用して何かを行わせようとするわけで、別に状況に人格などあるわけではないだろうが、ちょうどそうした情勢になると、その情勢に適した人に何かを行う番が回ってくるといった喩えがしっくりくるのかもしれないが、そうした情勢に選ばれた人が出現してしまうと、自然にその人が何かを行う成り行きになってしまうのだろうし、そうなったところで固定したイデオロギーに縛られた人には役が回ってこないのだが、だからそんな情勢に選ばれた人がごくありふれた人材であろうと愚かな言動が世間の注目を浴びていようと、それが勘違いであろうと述べていることとやっていることが一致してないような人物であろうと、何か黒幕的な人物の思惑に操られているのではなく、その場の情勢に操られていることに無自覚であるほど、そうした鈍感さによって普通では成し遂げられないことが成し遂げられてしまう可能性が出てくるわけで、そういう部分ではどんなに有能で頭のキレる人であってもできないことが、ただ愚鈍であるからできてしまう場合もあるわけで、そういう人はそれまでの常識にとらわれずに、そこに至るまでの経緯の延長上ではやろうとしないから、それができるわけだろうし、だからそういう人の行うことはある面では非常識で非難轟々となるようなことを平気でやろうとするだろうし、そんな中には実際にひどい結果をもたらすものもあるし、実際にやっていることのほとんどがそうなってしまう可能性さえあるわけだが、万が一その場の情勢に操られていることに無自覚なら、うまく状況とやっていることが噛み合って、今までの経緯では想像すらできなかったことができることもあるわけで、そういう意味で功罪半ばするようなことを平気で無自覚にやってしまうのが、その手の愚鈍な人であり、一般的な基準で優秀な人たちは、そういうことをやってしまう人を非難してやまないわけだが、その場の情勢が主役として選ぶのはもっぱらその手の愚鈍な人なのではないか。もちろん当人は自分が愚鈍だなんてこれっぽっちも思っていないだろうし、またそういう人は誇大妄想狂の兆候もあるかも知れないし、状況がその人を選ばなければ周囲から相手にされない場合さえあるのではないか。


6月7日「活動の実態」

 政治活動の現状で目立ってきていることは、現状が政治的な理想からはかけ離れた状況には違いないが、そもそも政治的な理想の中身がわからなくなってきているのかもしれないし、そうなっている時点で現状を理想に近づける努力が放棄されているだろうし、そうであるなら実質的にやることが何もないのかもしれないし、何が理想なのかわからないのだから、それ自体が意味のないことなのかもしれないが、とりあえず敵対していた者同士が敵対関係ではなくなるにあたって、何らかの取引や交渉が行われなければならず、それによって少しでも合意が形成されれば国家同士の緊張緩和に結びつくのだろうし、そうやって国と国との関係が平和な状態に近づけば、それが理想に近づくとみなしても構わないだろうが、ある面ではそうであっても別の面では敵対関係を煽り立てるようなことをやっているのだから、その差し引きでそんなに理想状態に近づいているわけではないだろうし、そうした面で利害関係が複雑に入り組んで錯綜しているのが、国と国との関係であるだろうし、それに伴って経済面でも軍事面でも様々な対立や軋轢が生じているわけだろうが、そうした中で少しでも自国を有利な状態へと導くには、敵対関係を止めるところと逆に敵対関係を煽り立てるところで、別々の対応をするような成り行きになるらしく、そうやって結果的に自国が有利となるような状況に持って行きたいのだろうが、そんなことをやっていること自体が何でもないことである可能性があるだろうし、結果的に当事者たちには何かやっているように思われるが、実質的にどちらが有利でどちらが不利になるわけでもないのかもしれず、ただそうやって政治活動が成り立っている範囲内では、それなりに事がうまく運んでいることになるわけで、しかもそうした当事者たちの思惑とは別に、現状が何らかの傾向を示していることも確からしく、たぶんそれが政治活動の形骸化なのかもしれないし、何かやっているつもりの人たちからすれば、実質的に活動を行なっているわけだから、自分たちの行なっていることが形骸化の兆しを見せているとは到底思えないだろうが、もしかしたらいつの時代でもそうなのかもしれず、政治活動を行なっていくと絶えず行き詰ってくるわけで、それが根本的に不要な行為とは言えないにしても、行政活動に付け足されたのが政治活動であり、民衆の支持を背景にして行政をコントロールするために政治活動を行なっているわけだが、逆に行政の官僚機構のコントロール下に置かれているのが現状で、実質的に官僚機構の利益を害さない限りで政治活動が行えるわけだが、それが何を意味しているわけでもなく、特に気の利いた理念を持ち合わせているわけでもなく、筋の通った主義主張を持ち合わせているわけでもなく、ただメディアを使って民衆のご機嫌取りや人気取りを行なっていれば、それなりに勤まるような職業かもしれないが、議会の議員や行政の長になるには、それなりの手続きを経ないとなれないから、普通の一般人がなれるような地位や立場ではないだろうし、世の中の制度や慣習などの相互作用の中でうまく立ち回る必要も出てくるだろうし、少なくとも民衆の支持を取り付けなければならないから、そういった方面では好き勝手なことはできないし、やるべきこともおのずから定まってくる傾向にはあるわけだ。

 そしてその定まっていることというのが、行政活動の結果として宿命的に生じる財政赤字の削減なのかもしれないが、もちろん政治が行政のコントロール下にある時点で、赤字の削減はうまくいかないのだが、そうなると赤字を削減するのではなく、経済を活性化させて黒字を出して、それとの相殺によって赤字を減らしていくという難しい選択を迫られるわけで、しかもそうなると税収を上げる一方で、さらに民衆の人気取りのためには減税を行う必要も出てくるだろうし、減税を行いつつも経済を活性化して税収を増やして財政赤字を削減する、という無茶なことをやらなければならなくなるのだから、そんな都合のいいことが実現できるわけもないだろうし、そういう試みは破綻するしかないわけだが、それでも破綻を隠す必要も出てくるだろうし、結局は財政赤字などいくらあっても大丈夫だ、と強弁するような政治宣伝までメディアを通じて流布されるようなことにもなり、そうしたところから政治に対する不信感が募ってくるわけだが、たぶん原発事故でなくても、社会的なシステムは人為的なコントロールが利かない面があって、その代表格が行政機構だと言えるのかもしれず、放っておいてもおかなくても財政赤字が嵩んでいくシステムであり、そうやってうまくいかなくなる面があるにしても、それでも普通に成り立っているわけだから、確かに財政赤字などいくらあっても大丈夫な面があるわけだが、その合わない帳尻にいつリセットをかけるかで、政治と行政の間で責任のなすり合いのようなことも起こるのだろうが、いつの間にかなかったことになってしまうのかもしれず、どうしてそうなってしまうのかは、普通に考えてごまかしでしかないわけだが、最終的には何らかの負担が民衆にのしかかってくるにしても、それでもどうということはないだろうし、何事もなく事態が推移するはずもないが、少なくともこれまでは世界各国ともに何とか乗り切って現在に至っているわけだから、今後もそうなってしまう可能性が高く、結局のところ問題は財政的な均衡という部分ではなく、物資が生産されて流通して販売されて消費されている実態がある限りで、民衆の生活が成り立っているわけで、しかもある一定レベルの人口が確保されていれば、国家としての形態が維持される傾向にあるだろうし、どのような経済状態であっても、人が生きて生活しているということは、それに伴って何らかの経済活動が成り立っていることを示していて、人が生活していく中で不満を抱いていようと満足していようと、生きていくだけの糧を得ている状態であれば、それによって生きて行かざるを得ないだろうし、そういうところで政治や行政に対していくら不満を抱いていても、経済活動に絡んで日々行っている労働をやめるわけには行かないだろうし、たとえストライキを行うにしても一時的なことでしかないだろうし、それはどのような政治勢力が政権を担っていても滞りなく行われることなのではないか。そしてそうした営みは実際に政府が財政破綻してもそれとは無関係に行われるだろうし、経済状態が思わしくない時でも、失業者が大量に発生しても、それなりに続いていくわけだから、経済活動が全く行われなくなるわけではなく、そういう部分では公の政治とは無関係な面もあるのではないか。要するに政治活動によって制度として何を決めたとしても、労働活動そのものが成り立っている実態がなくなるわけではないだろうし、ただその内容に多少の変更が加わるに過ぎないわけで、その変更された内容が不満であれば反対運動でも行う成り行きになるわけだ。


6月6日「将来のビジョンと現状」

 将来の国家的なビジョンというのが果たして現状の世の中でリアリティを持つかというと、今ひとつピンとこないのかもしれないが、そんなことを考える立場の人が世の中にそんなに多くいるとも思えないし、それに関して政治的にやるべきことは何かと問われても、具体的に思いつくこともあまりないのかもしれないが、そんなことを考えようとしている時点で、国家の枠組みに囚われてしまっていることは確かだろうが、それ以外の枠組みがあるとは思えないだろうし、選挙に勝って政権を担当する政治勢力がそうした国家的なビジョンを示せば、それに対して各方面から批判や反発や支持などが表明されるのかもしれないが、果たして政治的に実現しようとすることがそういうことなのかというと、単なる政治宣伝の類いではないかと勘ぐる向きもあるだろうし、大真面目になって考えるようなことなのか疑問に感じてしまうとすれば、では政治の場でやるべきこととは何なのかと問わざるを得なくなるかもしれないが、特にそんなことを問う必要がなく、宣伝として具体性のない抽象的なことを唱えていれば、それらしく聞こえてしまうようなことなのかもしれないが、そうした方面の人たちが唱えていることと実際の状況から推察される未来像とが、だいぶ食い違っているように感じられるとしても、それも大して問題となるようなことでもないだろうし、では何が問題なのかといえば、それは世界情勢の中で果たすべき役割というのが、政治的な行為には求められていないということなのかもしれず、ただ国家的な枠組みの中で活動する限りにおいては、国家の統治に関して行政とともに一定の役割があるのかもしれないが、それ以上ではないだろうし、国内の秩序をどう保つかに関して、憂慮すべき要因として外国との関係があるわけで、そうしたことと世界情勢の中で果たすべき役割とは、必ずしも一致するようなものでもないだろうし、それに関しては少なくとも自国の縄張りが保全されることが優先されるべきことだろうし、それ以上は問わない方が身のためというか、他の国のことまで考慮する余裕がないのかもしれず、少なくとも内政干渉にならない程度に付き合ってゆけば、さして問題が生じるようなことでもないだろうし、戦争状態にならない限りは問題として認識されるようなことではないのかもしれず、政治的にはそうであるとしても、別に頻繁に外国へ出かけてゆくわけでもない一般の民衆にとっても、世界情勢などという大げさなこととは無縁だと思っているだろうし、そこで何か果たすべき役割があるなんて思うはずもないことかもしれないが、世界の中で自国民がよく思われようとすることも、何やら自意識過剰な妄想の類いとなりかねず、また親戚などの他の家族との見栄の張り合いのような心境になってしまっても、それもくだらぬ虚栄心の表れにしかならないだろうし、たぶんそういったことではなく、最低限の心得としては世界に出して恥ずかしくないような国の代表者を選挙で選ぶべきなのかもしれず、そういうところであまりにも手前味噌な基準で政治的な代表者が選ばれていると、世界的な基準からかけ離れた人物が国を代表していることになるだろうし、世界を意識する時にはそういうところで一般の民衆の民度が問われてくるのではないか。

 とは言っても世界的な基準という基準が何を意味しているわけでもないのかもしれず、自国の選挙で選ばれた政治的な代表者が、世界の他の国の代表者と比べて恥ずかしいなどと思ってしまうのも、とんだ勘違いである可能性さえあるかもしれないし、そういうところはその国の民衆が抱いている価値観が、世界の中で何かずれている可能性があるなどとは思わない方がいいのかもしれないし、どんな政治家がその国の代表者であろうと、大差はないと思っておいても構わないだろうし、世の中で錯綜している様々な利害関係の中で、様々な経緯から政治家が出現するわけだから、そうした関係の中に意識も身体も絡め取られているだろうし、他に何か理想的な環境が世の中にあるわけでもなく、それなりに限界づけられたところから政治的な思惑も生じてくるわけで、そうした政治的な思惑を抱きながら考え行動するしかないだろうし、国家的な枠組みとともに国家的な制度に則って選ばれた代表者である限りは、そうした制度や枠組みを尊重しながら活動していく以外にはやりようがないだろうし、そういう面を考慮すればそうした政治家に世界情勢の中で果たすべき役割といえば、自国の利害を第一に考えながら活動する以外にはあり得ないのかもしれないが、理屈として考えれば確かにそう言える面があるにしても、何かそれとは違う役割を想定できないわけではないだろうし、単に世界に貢献するとか世界平和の実現を目指すとか、そういうこともいくらでも唱えられるだろうし、実際にいくらでも唱えている実態さえあるかもしれないが、それが何を意味するのかといえば、建前としては自国の利害だけではなく他の国の利害も考えながら活動できるわけで、それが見栄を張っているとか口先だけのリップサービスであるとか、実際に世界中の国々に援助しているとか、そういうところでも様々な実態があるだろうが、そんな中でももっともらしいことを主張している部分が必ず出てくるだろうし、そういうところで国内の支持者を意識した言動が出てくるわけだが、なるべくそれを字義通りに受け止めるべきだろうし、あまり裏事情だとか策略とか陰謀とかを考慮しない方が、素直に事態を受け入れられるのかもしれず、実際に世界を股にかけた企業活動とか、また政治的あるいは外交的な努力が実を結んでいる実態とかを、ありのままで受け止めておけばいいだろうし、それらをあまり卑屈に否定的に捉えるべきではないのかもしれないし、そうしたことが行われている中で、政治活動もそれなりに行われていて、そんなふうに行われていることが世界の現状をもたらしていて、現状の一部を構成していて、それが様々な国の政治家たちが世界中で右往左往している結果なのだろうし、それ以上ではなく、それ以外でもない実態があって、そんな実態の中でも人や企業などの活動が成り立っているわけで、そうした活動が政治活動にも影響を及ぼしていて、そうした活動に対応して政治活動も行われている実態があって、それが世界の実情そのものなのではないか。そんな状況の中で様々な対立や紛争も発生しているわけだが、政治活動がそれを招いている面もあるだろうし、同じ政治活動がそれらの問題を解決しようとしている面もあるわけだが、少なくとも自国の利害を優先させるだけでは解決できない問題が山積しているわけだ。


6月5日「合法的な理屈」

 何か政治的な主張に関してわかりきったようなことを述べるなら、例えば国家的な安全保障の充実を図ることと経済的な利益を重視して産業を振興することが、どちらも優先的に取り組むべき課題だと言えるにしても、では具体的に何をやるべきかとなると、実際に行政の場で行われていることに関しては、果たしてそれでいいのかよくわからない面があるだろうし、実際に何が行われているかについても、詳しく調べてみないとわからないし、わかったところで専門的な事柄については、その方面の専門家の意見を聞いてみないことには、やっていることの妥当性に関して納得できるようなことにはならないだろうし、ともかく一般の民衆がそうしたことに関して詳しく理解しているわけではないし、メディアを通じて断片的に批判や反対の主張を聞いたところで、そうした意見を支持するか否かの判断がつかなくても、それは当然ことかもしれないが、そうした行政や産業などの専門的な分業体制と、分業とは無縁の民主的な政治体制との間で齟齬が生じるのは必然的な成り行きかもしれないが、普通に一般の民衆が行政が行なっていることを詳しく知らなくても構わないだろうし、メディアが断片的に提示する政治的な争点について、批判勢力を支持したり、現状で主導権を握っている側を支持したりするのは、そういうレベルではそうなるしかないようなことなのかもしれないが、それ以上に何がどうなるわけでもないとすれば、そういうところから改革の機運が生じることはないだろうし、それ以前に何をどう改革すればいいのかわからないままかもしれないが、それが制度的な改革である限りは、現行の制度内に収まるような改革となるだろうし、制度そのものを変えようとしても、現行の制度の中で何が弊害を生じさせているのかがはっきりしているところがあれば、それを改革してゆけばいいのだろうが、そのはっきりしていることに関して、改革を阻むような作用が生じていることも確かかもしれないし、そうした方面で現行の制度から生じている弊害が、現行の制度そのものの根幹に関わるような面から生じているとすれば、それは改革しようがないところかもしれず、例えばそれが行政の官僚的な体質から生じているとすれば、逆に官僚機構が官僚体質で機能しているから行政が成り立っている面もあるわけで、それは功罪半ばするというか、ある面から見れば弊害であっても別の面から見れば理に適っているから、それを改革するわけにはいかないとなるかもしれないし、たぶんそういうところでどうしようもない面があるわけだろうが、官僚機構が官僚体質であるのは当然だとしても、そうした官僚機構に特有なことをやっていく範囲内では、そんなことをやってもらうしかないのかもしれず、そうした面を改革することができないのなら、それはそのままにしておくしかないだろうが、別にそれ以外のことをやらせようとしなくてもいいだろうし、行政の官僚機構が行うことをその官僚体質に合ったことだけにしておけば、それほど弊害は生じないのかもしれず、それ以外のことをなるべくやらないようにすれば、それだけ無駄に予算を使わずに済むのではないか。

 行政が行政特有のことだけ行えばいいと言っても、行政特有のことの中身を知らないと、どう対応すればいいのかわからないだろうが、要するに法律に違反するような無理なことはやらせないようにしていけば、それが法律や制度に則った行政特有の行為となるわけで、そうであるなら別に改革するとかしないとか、そういう次元のことではなくなってしまうのだろうが、政治宣伝などに絡んで民衆の人気取りのようなことを仕掛けてくると、必ずそこで行政特有の行為から逸脱する面が出てきてしまうのかもしれないし、また特定の勢力や業者に政治的な便宜を図ろうとしても、やはりそこから法律に違反するような行為をやらざるを得なくなってしまうわけで、つまり本来の合法的な範囲内で行政活動が収まっている限りは、ほとんど行政の面で問題が生じることはないのかもしれず、簡単に言えば違法行為を避ければいいわけだが、ではなぜそれを歪めるような成り行きになるのかと言えば、それだけでは済まなくなるからで、その済まなくなる原因が民主的な政治体制にあって、そうした体制を行政側でコントロールしようとすると、そこから様々な問題が生じてきて、それに伴って制度をゆがめたり形骸化させたりしながら、政治体制を行政に合わせるために行なっていることから無理が生じてくるのかもしれず、その一環として官僚出身者を主要政党に送り込んできたり、また議会勢力と何かと癒着するような成り行きになるわけだが、それと同時に行政に逆らうような勢力を弾圧したりするわけで、そうやって民主的な政治体制を民主的ではなくなるように仕向けてくるのが、官僚的な意向となるのかもしれないが、そうした意向が個々の官僚自身の意識として顕在化しているというよりは、組織的な集団意志として表れてくるわけで、その延長上で生じているのが、一般の民衆を管理して制御しようとする意志だろうし、何かとそうした検閲などの管理体制の強化に結びつくようなことをやろうとしてくるわけで、その方が官僚体制としては都合がいいのだろうが、一方で民主的な政治体制としてはまずいだろうし、そうやって国家体制が行政機構そのものとなってしまうと、議会も司法も単なる付け足しに過ぎなくなってしまうわけだが、そこで問題となってくるのが民主的な政治体制をいかにして構築するかということになるわけで、ただ選挙を行なって議会の議員や行政の長を決めるだけのことなら、合法的にそれを行えばいいだけなのだろうが、そこにメディア的な宣伝や煽動などが絡んでくると、それに関連して様々な方面から様々な思惑が湧き上がり渦巻いてくるわけで、そうした思惑から恣意的な条件付けが勝手に行われて、その条件を満たさない勢力が国政の主導権を握ることができなくなってしまい、結局は行政の官僚機構や主要なメディアが認める勢力が選挙に勝利して、政治的な主導権を握ることになるわけだが、果たしてそれが民主的な政治体制と言えるかとなると、大半の民衆はそういうものだと思うしかないだろうし、それに対して疑問や疑念を抱くのは少数派の批判勢力になるしかないのかもしれないが、そもそも民主的な政治体制が必要なのかというと、一般の民衆の支持を取り付けるには必要であるはずなのだろうが、たぶん民主的とは言えない独裁体制であっても、民衆の熱狂的な支持を得られる可能性もあるわけで、要するに民衆の人気取りに成功すれば選挙で勝利して政治的な実権を握れるわけで、その実態が必ずしも民主的であろうとなかろうと、選挙で勝利すれば構わないという現実が、少なくとも合法的な範囲内では通用する理屈となっているのではないか。


6月4日「神の祟り」

 たぶん現状の世の中から得られる印象は、世論という決まり切った表現とは違うように感じられるし、それは同じような意味の民意でもなく、特定の政治的な主義主張とも無縁な実態かもしれず、その大半は公的な政治の領域とは無関係であっても、実際に人々がメディアから受け取っている情報の中身が、情報発信者の政治的な思惑が絡んでいる面が大きいのかもしれず、人々の興味を引くような情報を、わざと特定の方向へと誘導するような強調や変形を施しながら伝えようとしているわけで、そうした内容を真に受けている人は少数でしかないかもしれないが、そうした人たちが騒ぐリアクションが社会の中にこだまして反響するわけで、それが世の中の印象を決定しているように思われてしまい、実態としては特に大げさに騒ぎ立てない人が大多数を占めているにも関わらず、目立つのはいつも決まってリアクションとしてわざとらしく驚いたり感動したりするごく少数の人たちによって仕掛けられる、世の中の世論とも民意とも言えないような反響の類いに引っ張られて、微妙に偏向した方へと振れてしまっている実態かもしれないが、それも印象のレベルでそうなっているだけで、実質的にはそんなことには無関心な人たちが大多数を占めているはずなのだが、メディアがもたらす印象としては相変わらずの過剰な宣伝と煽動の体質には変わりないわけで、そんな実感と印象の間で生じている微妙なずれをどう表現したらいいのかわからず、戸惑うばかりというわけでもないにしても、何か微かな虚構感とでも言うべき、紋切り型的な言葉とリアクションが醸し出す冗談のような感覚とともに、リアクション専門の人たちが騒いだ後に残る残滓のような反響に、多くの人々の意識がつきまとわれているのではないか。たぶんそれらの人たちが思惑として抱いている方向に多くの人々が誘導されていることは確かかもしれないが、それも大半の人たちは冗談を真に受けていないわけで、むしろ誘導されているふりを楽しんでいるわけではないにしても、お約束のリアクションに安心しきっていることは確かかもしれないし、ああまたやっているぐらいにしか思っていない人がほとんどであるにも関わらず、それを伝えるメディアとしては伝えるのが仕事であるからには、冗談半分では済まないわけで、ちゃんと伝えようとしているはずなのだろうが、元の内容がお粗末なだけに間が持たないことに関してはどうにもならないわけで、どうでもいいようなことにこだわっているように見えてしまったり、こだわらなくてもいいようなところに執拗にこだわっている割には、肝心なところがしどろもどろになってしまっていたり、何かちぐはぐな印象しかもたらせないような成り行きとなっているのかもしれず、すでにそうなっている時点で、これさえ語ればいいような確かな基準がないわけで、その場の状況に巻き込まれながらも、何を語ってもそれが物事の本質だとは思えないようなことを選んで取り上げているように見えてしまうわけで、しかもそうした報道に対するリアクションが、尾ひれのようにこだまして社会の中に反響してしまう事態となってくると、どんなに枝葉末節で大したことはない話題でも、とりあえず真剣に傾聴しているふりをしなければならないという同調圧力に屈してしまうわけだ。

 そうだとしてもこれまでの延長上で成り行きが構成されているのだから、それほど奇異な印象はもたらさないわけだが、ともかくこれまで通りに事が推移してもらわないと困る人たちが、世の中の主導権を握っているつもりになっているはずで、そうした人たちの主導によってリアクションのこだまが反響しているはずだし、特にそれが耳障りな騒音だとは思えないだろうし、どちらかといえば心地よい響きだと感じている人たちがリアクション芸を演じているわけだろうし、またどこからともなく事情通を装っていかにも自分が見てきたふうな物言いに終始して、枝葉末節なことを大げさに語り出す人もメディア経由で騒ぎ始めるわけだが、リアクション芸人たちがそうした語り部の応援団を形成している場合もあって、それらと連携してこだまを作り出しているのだろうが、それが多数派を装う少数派でしかないだけに、それ自体が貧相なこだまでしかないわけで、そこから逆らえないほど強力な同調圧力が生じているわけでもないのだろうが、なぜか善意の連帯を示したい人たちもそれなりにいるわけで、そしてそうした人たちを中継基地局として、リアクションのこだまが世の中に広がっていくように感じられるわけだが、それらのこだまの一つ一つが取るに足らないたわいないものであろうと、それらが一斉に鳴り響けば、それなりに他の人たちを動揺させるほどの威力を持つのかもしれないし、実際に話題となってメディアを振り向かせるほどの力を持つわけだから、ほとんどの人たちにとって無視できない出来事であるはずなのだろうが、だからと言って自分たちも一緒になってリアクションを演じる気にはなれないだろうし、実際に同調してリアクションをやっているのは限られた人たちのはずなのだが、大勢でやっているように装われていることは確かだし、そうした拡声器の役割を果たしているのが、SNSなどのネットメディアであることも周知の事実だろうし、中には嬉々としてそんな役回りを演じているつもりになっている人も一人や二人では利かないはずで、実際にそんな善意の連帯を示している中に入ってしまうと、おびただしい数の大勢の人たちで同じ動作を行なっている気にもなるわけで、それはそれで大掛かりなパフォーマンスだと捉えても差し支えないわけだろうが、何かそういう心境になるのが一種のステイタスとは言い難いが、そういうところで微妙に連帯感が生じてしまって、肯定的な達成感とともにそういうことをやっているのが、一種の流行現象のような按配になっているから、余計に重要なことのようにも思われるのだろうが、実際にはリアクションでしかないわけで、空疎な反響としてのこだま現象であり、それ以上の意義も価値も伴っていないだろうし、その場で消費されてしまう類いのパフォーマンスなのだから、大方の見方とは違ってそれが何につながるわけでもないのかもしれず、そうした流行が過ぎ去って下火になってくれば、すぐに関心が薄れていってしまう類いのものでしかないだろうし、いつまでもそれを引きずっていっても無用の長物となってしまうだけで、かえってさっさと忘れてしまった方が後遺症も残らず健康に暮らしていけるだろうし、それで構わないわけだが、やっている当人たちはそれなりに真剣にやっているのだろうから、そういう実態に関しては、わざと小馬鹿にするほどのことでもないのかもしれないし、触らぬ神に祟りなしと捉えておくべきかもしれない。


6月3日「制度的な認識」

 現実の世界の中で実質的に政治の場において何が行われているかというと、普通に考えればそこで何らかの交渉が行われていることになるだろうが、行政活動と重なる部分があるだろうし、政治と行政とは融合して捉えられているかもしれないが、交渉して協議して方針や行うべきことを決定していく中で、必ずしもそうした行為が実を結ぶとは限らず、うまくいかない場合も多いだろうが、そこで決定したことが実行されたりされなかったりもする中で、そういうことに関して一般の民衆が直接支持を表明するわけでもないだろうし、ただ世論調査などでは支持する割合が統計的に導き出されるわけだろうが、そういった調査結果がメディア上に示されて、何やら国政の主導権を握っている政治勢力の支持率が示されたりするわけで、それに関して一般の民衆がどう捉えるとしても、それ以前にメディア上でそれに対する見解も示されているだろうし、そうしたことが様々に入り組んでいる中で、政治や行政などの活動で公平さや公正さから逸脱するようなことが行われると、実際にメディア上で批判的な論調が見受けられるようにもなるわけだが、だからと言ってそれ以外は何もやっていないわけではなくても、メディア上で政治に関して何も語られなければ、一般の民衆が支持するだのしないだのに関して判断材料がなくなってしまうわけで、すでにそうなっている時点でメディア上で語られる政治に関する意見から、一般の民衆の民意を反映していると言われる世論が少なからず影響を被っているわけで、そうしたことを考慮すれば、一般の民衆が政治に関してどう捉えているとしても、メディア上で示される捉え方に倣った捉え方にならざるを得ず、それの良し悪しがどうだというわけでもないだろうが、それ以上に何か新しい政治に関する捉え方が編み出されるわけでもないだろうし、大抵は紋切り型的に公平さや公正さから外れる行為に対して批判が加えられるだけであり、それ以上ではないだろうし、そしてなぜそうした行為が行われようとするのかといえば、第一にそれは国家的な利害関係からそうした行為が行われるわけであり、自国を有利に導くやり方がしばしば公平さや公正さを欠いた行為となるわけで、それに対してメディア上で批判がなされるわけだが、それが国家主義的に自国の利益を求めるやり方に合致すれば、そうした主義主張に関して功利的な見地から支持するような態度も生まれるだろうし、そこで行政の利益と企業の利益と一般の民衆の利益が合致しない場合が出てくると、行政の側に立った見地と企業の側に立った見地と民衆の側に立った見地から、それぞれに批判したり擁護したりする意見や主張が出てくるわけで、果たしてそうした特定の立場に基づいた主張に正当性があるのかというと、それぞれの立場から見れば確かに正当性を強調できるわけだが、一方でそれぞれに重なる部分も交わる部分もあるわけで、そうした立場がはっきりと区別されること自体に正確さを欠いた面もあって、また国家の利益が民衆の利益に直結しているような捉え方にしても同じように正確さを欠いている面も出てくるし、どちらにしてもうまく辻褄が合うような捉え方ができないだろうし、そういったところで主義主張が公平さや公正さからずれてくるようにもなって、結果的に整合性を得られないことにもなるわけだが、たぶんその辺で政治的にもうまく正当化できないような状況になってくるのではないか。

 そういうところで様々な立場から利害がぐるぐる堂々巡りするような状況になってくるとしても、相変わらず特定の立場に固定した主義主張がなされて、そういうことを主張している人たちにとってはその立場が固定されたものだと捉えられていて、それがフィクションではないことが主張されるわけだが、そうした立場の虚構性に関しては、正確なことは言えないだろうし、ただそれ以外に言えることはいくらでも言える状況があって、主張している対象としてはっきりした立場あると信じられてしまうと、その辺で矛盾や食い違いを無視して正しいと思われるような意見が述べられてしまうわけで、そう述べることができるからそれはそういうことになってしまい、それで構わないという認識がそういうことを述べている人たちの間で共有されている限りで、それは正しい意見とみなされてしまい、それに対する疑問や反論をあらかじめ禁じるような成り行きにもなるだろうし、そうしたところから特定の立場に固定した意見を述べることにこだわりながら、そうしたやり方に疑問すら抱かない議論が当然のこととして世の中に流通してしまうわけで、そうした意見や主張が依拠している立場が根本的に不安定であることが忘れられてしまうわけだが、自らの立場を正当化する限りはそれで構わないとみなすしかないだろうし、自らの立場に疑問を感じない限りは、実際に正当化できるだろうが、そんなことを主張している自らの立場が固定されていないことに気づいてしまうと、途端に主張や意見に説得力がなくなってしまうわけで、どんな社会的な立場も常に可動的で、自らが占めている立場が未来永劫固定されているなんて、普通に考えてありえないわけだが、とりあえず主張や意見を正当化するにはそうした主張や意見を述べる上で依拠している立場を固定化しないと、はっきりしたことは何も述べられなくなってしまうだろうし、そこに社会の中で固定的な地位を占めるような立場が設定されていないと、その人の存在が何らかの権威として機能しないわけで、そして権威とならないとメディア上で発言する特権が付与されないだろうし、そうした特権があることを一般の民衆が信じないと、世論の元となる紋切り型の意見を述べる立場の人が存在できなくなってしまうわけだが、民主主義の理想を実現するならそんな権威的な存在自体がいらない制度となるべきかもしれないが、実際にそうであるとしてもそこに制度的な矛盾があるわけで、人々の代表者として特権的な地位や立場を設定して、そうした代表者を選挙などで選ばないと制度として民主主義が機能しないわけで、選挙で選ぶならまだしもメディア上で意見を述べる人たちが選挙で選ばれているわけではないし、そうした役割を担う人たちが人為的にそうした立場を占めるわけで、それは著名人を必要とするメディア的な宣伝や煽動の結果として、そうした役割を担った人たちが出現してきて、さらにそうした著名人の中から選挙で選ばれて議員になる人も出てきて、そうした成り行きが半ば制度化するような事態になってくると、そういう成り行きを経ないと選挙で当選すらできないような事態にもなってきて、何かそれが民主的な公平さや公正さを欠いた実態ともなってくるわけで、それでもそこに民衆を満足させるようなメディア的な宣伝や煽動が行われているわけだから、そうした成り行きを当然のことと思われるような風潮が世の中に蔓延していれば、そういう成り行きに疑問も疑念も抱かないようなことにもなるわけだが、そもそもそれが現状を反映した制度的な仕組みとなっているわけだから、それの良し悪しに関しては特にどう捉えることも評価することもできないのかもしれない。


6月2日「価値基準からの逸脱」

 大勢で連携や協力しながら行う事業の類いは、計画的に事を進めるのが当たり前な面があるかもしれないが、それが機械的な作業になってしまうと何か味気ないようにも思われ、個人でやるようなことについては、ついつい冒険的なやり方を夢想してしまうのかもしれないが、やっている内容によっては、つまらない基礎的な修練や鍛錬を怠ってしまうと、いつまで経っても技術的な上達は望めず、低水準の段階で止まってしまうのかもしれないし、そこに何か克服すべき技術的な壁があるとすると、それを乗り越えるためには絶え間ない修練が欠かせず、しかもそうした努力を行ったところで、人によっては身につかない技術というのもあるのかもしれず、それを身につけられる人と身につけられない人との間で、乗り越え難い差が生じてしまうのかもしれないが、そういうところからその人にしかできないことと誰にでもできることとの間で、価値の高低も生じてくるのだろうし、価値の高いことができる人は希少だから、それだけ多くの富や名誉がもたらされて、価値の低いことしかできない人はありふれているから、大した富も名誉ももたらされないという違いが生じるわけで、一般的に格差が生じるというのはそういうことを言うのかもしれないが、それが修練や鍛錬などの努力によって身につくかつかないかということ以外でも、運や偶然の巡り合わせによっても、富や名誉を得られるか得られないかが左右されてしまう場合もあるだろうし、そうしたところで世の中が公正でも公平でもないことが明らかになるかもしれないが、それも大雑把にいうなら程度の問題なのかもしれず、ある人が何らかの事情や経緯から多くの富や名誉を獲得したとしても、そうしたことを判断基準として人を比較するのも、そういう物事に縁のない人たちにとっては何でもないこととなってしまうし、人が行なっていることに関して、多くの人の間で競い合いがあるところでは、そうした競い合いに関わっている人たちや、競い合いに興味を抱いている人たちの間だけで通用する価値があるだろうし、またそうであっても一般のメディアがそれらの競い合いを大々的に取り上げるなら、それが広く世間で共有される価値となるのだろうが、一般のにわかファンとなった人は、そこで行われている競い合いについては大して詳しくないだろうから、その方面で権威と言われている人の意見を鵜呑みにしてしまうだろうし、そうなるとそこで通用している価値の意味や内容がよくわからなくても、権威の取り巻きのようにしてそれらの競い合いに興味を抱くような成り行きになっていくわけで、そこで権威となった人に競い合いをやっている特定の人物に関して偏見やえこひいきのような傾向があると、価値の中身がゆがんだ形で一般の人々に受け取られてしまうだろうが、そうした価値自体もそれに関わっている人や団体の間の力関係や相互作用などから決まるわけだから、競い合いの経過や結果に影響されて絶えず揺れ動いているので、一概には基準や尺度が定まらない面もあるわけだが、そうした面を考慮しなくても、単純に考えればそこで行われている競い合いに勝った人や団体の価値が上がって、負けた人や団体の価値が下がってくるわけで、たとえ権威となっている人がいくら特定の人物をえこひいきしても、競い合いに負ければ価値が下がってくるのが当然の成り行きであって、そういうところからそれが勝ち負けのある競い合いなら、単純に結果から価値が決まってくるわけだ。

 しかし世の中では単純には競い合いの勝ち負けが決まらない場合もあるわけで、しかも勝ったり負けたりの結果が伴わない競い合いもあるだろうし、さらに競い合っているのかいないのかはっきりしない場合まであるわけで、多くの人や団体が同じようなことをやっていればそこに競い合いが発生していることは確かなわけだが、中には競い合わなくても済んでいる場合もあるわけで、そういうところであまり共通の価値を想定しなくても構わない場合もあるだろうし、どういう経緯でそれを行なっているにしても、そうした行為が行える環境が整っていればそれで構わないわけで、そして特に他の人や団体などとの競い合いを意識しなくてもそれができている状況があれば、現状で行なっていることに関して、その価値を他の人や団体に認めてもらわなくても構わないだろうし、そうした面でやっていることの種類や傾向によっては、たとえ価値や意味を意識しなくても、実際にそれを行なっている現状があるだけでも、それで満足しても構わないような状況も成り立つのではないか。そしてそこで人が生きている現状があれば、そこで何かをやっている実態も生じているだろうし、そのやっていることが特に他の人や団体に認めてもらえなくても、実際にそれを行なっている実態があるだけでも構わないのなら、そうした他との競い合いが生じないようなことをやりながら生活している人にとっては、世間で通用するような物事の価値にはそれほどこだわらなくても構わないことにもなるわけで、そういうところで他との比較がなければ、それに関しては人と人との間に格差が生じないわけだが、その一方で一般的には世間的な評価基準や判断基準もあるだろうし、それがメディアを通じてもたらされる場合には、広く一般の人々の間でも価値の基準が共有されている部分では、確かに人と人との間に格差が生じているように感じられるわけだが、少なくともそれと関係なく生活が成り立っている限りでは、現状の生活に満足していればそれほど格差を気にする必要もないだろうし、またはっきりした競い合いに巻き込まれているわけでもなければ、そんなに他の人との差異を気にする事情も生じてこないわけで、そういう意味で一般に言われるような格差社会の解消を目指すには、格差そのものの解消を目指すというよりは、格差を意識させない面を社会全体に広げて行くことを目指すべきなのかもしれないが、それに関して格差を強調して競い合いを激化させるような現状がある中で、競い合いのない部分で生活を成り立たせる努力をすべきとなると、そうした努力が具体的に何を意味するのかよくわからなくなってくるかもしれないが、そうした可能性を探る上で、社会の中で競い合わなくても済む部分と言うのがどこなのかはっきりさせるべきなのかもしれず、そうしたことがわかってくればそれなりに公的にも法制化や制度化によって可能な対応も出てくるのかもしれないが、たぶんそうした政治や行政などに関係する面では、現状では相変わらず競い合いが重視される傾向になっているのかもしれず、実際に制度的に競い合いの勝者に富や名誉がもたらされるシステムになっているだろうし、そうした面を強調しないと政治や行政の面では活動が成り立っていかないのであれば、それとは逆ことをことを行うのは期待薄な面もあるわけだが、そうであるなら現行の政治や行政とは関係のないところで、競い合いとは無関係な行為を広げてゆくべきかもしれないが、それも程度やバランスの問題に過ぎないだろうか。それらの両面が両立しないのなら政治や行政とは無関係なのかもしれない。


6月1日「人為的な操作の限界」

 それをフィクションと考えるなら、現状で人々が何を体験しているかというと、現実に進行している物事の成り行きが人を戸惑わせることがあるものの、その成り行きを人が作っているように思われる時には、何か黒幕が糸を引いているように思われたり、策略や陰謀によって物事が動いているようにも思われてしまうのだが、それがどうも人の力を買いかぶりすぎているのかもしれず、黒幕に思われたり策略や陰謀を巡らしているように思われている人物や集団なども、そこで起こっている出来事に翻弄されている可能性が高く、決して思い通りや思惑通りに事が進んでいるわけではないとすれば、ただそれについて語りたい側が、事件の黒幕やら策略や陰謀やらを想定して、話の辻褄を合わせようとしていて、そこに生じている偶然の巡り合わせや不条理な事の成り行きから目を逸らしているのかもしれず、そんな兆候が感じられるようなら、そういう面であまりにも単純でわかりやすい物事の説明には疑念を抱いておいた方がいいのかもしれず、そう簡単に人が黒幕として権力を振るうことなどできないだろうし、そう簡単に策略や陰謀が成就するわけでもないと思っておいた方がいいだろうし、物事の成り行きはそう簡単に人の思惑や意図によって操れるものでもないことは踏まえておくべきなのではないか。だがたぶんそうであっても、策略や陰謀を巡らさないわけではないだろうし、思惑や意図を抱きながら物事を自らに有利になるように操作しようとするだろうし、ある程度はそれに成功することもあるわけだが、そのある程度というところが、それがある面では思い通りに事が運んでいると思う時もあるだろうし、うまくいっていると思うからそう思っているのだろうが、他の人たちもそう思っていることもあるわけで、味方となっている人たちと連携して同じ思惑を共有しながら事を進めていれば、そんなふうに自分たちのやっていることを自画自賛しているうちはそれで事が済んでしまうのだろうが、周りから見てそうではなくなってきた時に、手遅れにならないうちにそのことに気づけばいいのだろうが、たぶん集団で行なっている作業だと後戻りや方向転換をするのが難しいだろうし、しかも法律や制度によってやっていることの方向や傾向が定まっている場合は、法改正や制度改革などを経ないと、やっていることを改められないわけで、そうした手続上の煩わしさが仇となって、手遅れになるまで事態が放置されてしまう傾向があるだろうし、そうしたところからも批判することは容易だが、それによってやっていることを改めるところまでは至らない場合が多いのかもしれず、しかも手遅れになってしまっても何とかなるというか、ひどい事態を招いてしまってからしか、その後の成り行きが生じない場合あるとすれば、面倒なことはやらずにひどい状況になるのを承知で事態が放置される傾向にもなって、それが政治や行政に関係することであれば、そういうことを行なっている勢力を支持している民衆やメディア関係者にとっては、普通に自業自得であるとしても、別にそのことの責任を取るような成り行きにはならないだろうし、そんなことからも公的な法律や制度というのは、より良い仕組みにしていく上でも絶えず悪い面を改めるべきなのかもしれないが、その一方でそうした行為にも何かしら限界があることも承知しておくべきなのかもしれない。

 人はその時々の成り行きの中で、巻き込まれている出来事が制御不能な事態に遭遇して、途方に暮れてしまうこともあるわけだが、周囲からの様々な作用によって自らの主張とは違うことをやらざるを得ない事態にも直面するだろうし、そうなると述べていることとやっていることの辻褄が合わなくなってきて、それでもそんな自らの行為を正当化しようとすると、言動と行動の食い違いをごまかすしかなくなってしまうだろうし、それが周囲の人々から指摘されてもなおごまかすしかない境遇に追いやられてしまうと、開き直って嘘を押し通すしかなくなってしまうだろうし、そうなるとその人の信用にも影響が出てくるわけだが、その人に利用価値があれば嘘を承知でその人を支持したり、場合によっては嘘を押し通すのを助けたりもするわけで、そうした面で退くに退けない状況が形成されてくるのだろうし、結果的に周囲に多大な被害や迷惑をかけながらも、最後まで嘘を押し通すような成り行きになってしまうとすれば、別に誰が黒幕となって裏で糸を引いていたり、嘘を押し通すために策略や陰謀を巡らせているとしても、そんなことは見え透いたごまかしに過ぎないことは誰もが承知しているはずなのだが、だからと言ってそうしたことをやっている人たちの味方であることをやめられないだろうし、そんなところでおかしなことやり続けなければならないことには変わりなく、それが結果的にいかにひどい事態を招いたところで、自分たちの過ちや誤りを認めてしまったら負けなのだから、後はひたすら可能な限り嘘やごまかしのごり押しをやらざるを得ないのではないか。そうした成り行きこそが制御不能な事態であり、実際にそんな出来事に巻き込まれているわけだが、やはりそこで何とかそれが不条理な事態であることを覆い隠すためには、何やらそこで黒幕に操られていたり、謀略やら策略やら陰謀が巡らされていて、結果的にそうなってしまっているかのように事態を語ろうとするわけで、それでも味方の側がそこで主導権を握っていて、敵側が失態を重ねているかのような筋書きをこしらえようとして、それを宣伝や煽動によって誇張したり強調したりしながら、自分たちの立場を正当化しようとするわけで、そしてそこではあくまでも自分たちの主導によって事態が掌握されているかのように装うのは当然のこと、うまくいっていることを強調するために、絶えず自分たちの優位のうちに事が進んでいるかのように、成り行きを歪曲して民衆に伝えようとするだろうし、さらに何かと言うとすぐに敵の失策に乗じて一本取った話をでっち上げるわけで、そんなことが毎日のように積み重なっていくと、いかにも味方側の大勝利の連続のような話になってしまうわけだが、冷静になって考えてみれば、敵が一向に減らないし、別に痛手を被っているようにも見えないし、何かそういうところで辻褄が合わなくなっているわけだが、そうだとしてもそんなことは味方の間では周知の事実であっても、あくまでもそれをやり続けるだろうし、ひたすらそんな宣伝や煽動を繰り返しながら、少しでも味方に有利な兆しが見えたらそれを誇張して宣伝するわけで、しかもそれが客観的に見ても不利に思われるような兆しであっても、わざと屁理屈を弄して逆に解釈するだろうし、要するにすでに匙を投げられて放って置かれているような状況の中でそんなことしかできなくなってきたら、もはや末期症状を呈しているわけだが、たぶんそういう状況を嫌になるほど長引かせようとする思惑も働いているのではないか。