彼の声117

2016年

11月30日「逆行の可能性」

 人はすでに活動している実態がある限りで、社会の中で居場所を確保していて、その居場所を守るために外敵と戦っている気になれる人も中にはいるかも知れないが、そんな単純な事情だけではなく、他の様々な事情が絡み合った中で生きているから、いちいちそんなことなど意識せずに、何か興味があったり面白そうに思えることに気を取られている一方で、自身の立場を客観的に捉える機会も、その必要も余裕も感じられないまま、自らが囚われているその場の状況に対応するのに手いっぱいであったりすれば、何か物事を深く考えるような成り行きにはならないし、それで構わないしそれで済んでしまうのだろう。また他に何か目的や目標があるのなら、それに向かって活動していればいいわけで、別にそれでは駄目でも悪いわけでもなく、合法的な範囲内で活動している限りは、他の誰からも文句を言われる筋合いもないのだろうが、たぶんその活動が他の人々がやっている活動とかち合ったり、その活動を妨害するようなら、そこで争いごとが起こって、自分の身を守って活動を継続させるためにも、相手と戦うような成り行きとなるのかも知れず、そうなると戦いも活動の中に含まれてきて、活動そのものが変質してきてしまうのだろうが、世の中には戦うこと自体を専門とする活動形態もあるわけで、それを専門とする人々がテロや戦争などの場では活躍しているわけだ。

 人々が行っている活動が合法であるか非合法であるかを決めるのは、一般的には国の法律が決めているのだろうが、国に逆らうことが政府に逆らうことに直結するように感じられるとしても、政府の方針に異議を唱えることは、民主的な選挙制度や議会制度が整った国では、法律で保障されているし、実際に反政府デモや大統領や首相の辞任要求デモなども、世界各国で行われているわけだが、アフリカの内戦地域などのように、大統領や首相などが政府を私物化していたり、またアラブの湾岸諸国などのように、王族や首長などが合法的に国を私物化していたり、そのような極端な事情がなくても、何かしら治安の維持を口実とした警察権力の介入が付き物なのだろうし、ちょっとした小競り合いをきっかけにしたデモ隊と警官隊との衝突によって、流血沙汰になることもあるだろうし、そうなると逮捕者も少なからず出るのだろうが、それがエスカレートして多数の死傷者を出して、内戦などに発展するようだと、やはりそのような国は、特定の一族が国を私物化していたり軍事独裁政権だったりで、民主的な選挙制度や議会制度が機能していない場合に限られるだろうし、どのような政治体制の国であっても、その国の民意がそのような支配体制を望んでいないことは、とりあえず世界的な共通認識だと思われるし、仮に日本の現政権が現行の民主的な各種の制度を、独裁的な傾向に改めようとすれば、どんなにごまかしたり取り繕ったりしても、普通は民意の反発を受けるはずだろうが、果たしてこれから経済的あるいは軍事的な危機などが起これば、世論が人々の自由を制限するような独裁的な制度に賛意を示すのだろうか。


11月29日「不摂生」

 現状で具体的な抵抗の対象がないわけではないが、その一方でただ漠然と対象の定かでない抵抗感とともに生きている実感があり、やはり抵抗の対象が特定の人物や政治勢力に結びつかないわけではないとしても、その特定の対象を批判する行為にも抵抗を感じるのだから、世の中のどこからでも抵抗感を覚える事象が出現してしまう成り行きの中で生きているように思われ、その抵抗感を覚える対象を批判する気になれないことも含めて、特定の立場から語ることへの信仰から意識が遠く離れているようにも思われ、たぶんどのような立場から語るにしても、その立場を正当化することが疑わしく感じられ、そういう意味で特定の立場から語ろうとする人々に抵抗感を覚えるわけで、何かそれは違うのではないかと思ってしまうのだろうか。何が違うのかもわからないのに、違和感だけから批判するわけにもいかないのだが、心の奥底から湧き上がってくる微かな疑念と違和感と抵抗感の混合物を、そのまま放置しておくわけにもいかないと思うなら、自然とそれらについて語らざるをえない成り行きになってしまうようだが、すでに語りつつある内容が、それと関連して何か特定の内容を形成しているとも思えず、そうであるならそのようなことを語る立場からも遠ざかろうとしているのかも知れず、これからどう語ろうとしても、抵抗の対象を批判するような内容にはなり難く、結局何を述べているのかわからない内容に近づきつつあるのかも知れない。

 実際に事の深刻さを感じているなら、その深刻な状況をもたらしている対象を批判する理由が、事態を深刻にしているからとなるのだろうが、本当に批判の対象となる人物や集団のやっていることが、事態を深刻な状況にしているのかといえば、そうだとは思えなければ、ではなぜ批判しているのか、別の理由を見つけたくなるわけで、そこから何やら批判するように仕向けている勢力の意図や思惑を恣意的に想像してしまうと、陰謀論になってしまうわけで、そうなるのを避けようとしているわけでもないのだが、それとは別の次元で、批判が無効なのではないかと疑いだしてしまうわけで、さらに状況も批判する人々が思っているほど深刻でもないのではないかとも思われるとしたら、では彼らはなぜ批判しているのかと言うことになり、議論が振り出しに戻ってしまうわけだが、たぶん彼らは批判する立場を自明のものだと思い込んでいて、その立場にいる限りは批判する義務が生じてしまっているのではないか。しかも彼らが繰り出す言説自体が、批判する動作を表す文型に深く合致しているので、何を語るにもその文型に適合するように語らなければならず、もはやそれ以外の文型で語る術を忘れているのかも知れず、日頃から自分たちが信奉するメディアを通じて、そのように語ることを自明視したり当然視したりする環境に慣れ親しんでいることが災いして、それ以外を知らぬままに、そのような立場や文型に意識を固定されてしまった人々なのではないか。そしてそのような意識の固定化が視野を狭めて、許容範囲もそれに応じて狭まり、ちょっとしたことでも大げさに思う習慣がついてしまっているのかも知れない。


11月28日「価値の共有と共存」

 人は誰でも社会の中で有利な立場になりたいだろうし、そうすることによって他の誰かが不利な立場になるとは思わないし、現実にそのような成り行きに至っても、いったん手に入れた有利な立場を無条件で手放したりしないだろう。そんなふうに想像すれば、人と人の間に経済的にも権力的にも格差が生じるのは、自然の成り行きのように思えるが、たぶんそういう成り行きがあることは認めなければならず、それを人工的に制度を築いて是正しようとしたり、完全になくそうとする社会主義的あるいはリベラル的な試みは、ことごとく失敗してきた歴史的な経緯があることも、同時に認めなければならないのではないか。もちろんそのような試みに賛同してきた人たちは、必ずしも全面的に失敗だったとは認識していないのかも知れず、完全にはうまくいかなかったにしても、例えば税制の所得額に応じた累進課税制度や、公的な年金や健康保険や失業保険などの社会保障制度の面で、一定の成果があったことは強調したいのだろうが、どうもそのような試みの延長上で今後とも制度の充実を図って行くのは、経済情勢や国の財政状況の面で厳しいような成り行きになっているのかも知れず、少なくともそのような試みを推進してきた政治勢力は世界的に退潮傾向にあるのではないか。

 たぶんだからと言って、すぐに他のやり方を推進しようとしても、はっきりと有効だと思われるやり方が見つかっているわけでもなく、そのままリベラル的な試みを推進しようとしている人たちの間では、例えばベーシックインカムという制度が取りざたされていて、実際に試験的に試す段階まで来ている国もあるらしいが、それにどの程度の有効性があるか否かは、今後の結果待ちの面もあるだろうし、今のところは先行き不透明で、現時点では何とも言えないところだろうが、人々が社会の中で格差を求める傾向というは、人類の特性としても文明論的にも否定しようのない現実であるから、それを技術的に抑え込む試みというのは、自然の成り行きに反した行為となるかも知れず、実際にそれに成功すれば、今まで培ってきた人間的な価値観が一変してしまうだろうし、人が人でなくなるような文明や文化の大変動を免れないだろうが、太古から現代まで連綿と続いてきた人類の歴史的な経緯から考えれば、実際に人類は自然の成り行きに逆らうことができずにいるわけだから、これからも無理に逆らわない方がいいのかも知れず、逆らおうとしても逆らえないだろうし、逆に自然の成り行きに忠実である方が、社会や文明のより一層の進展を期待できるのかも知れない、と言っても別に期待しなくても、自然の成り行きでそうなるのではないか。

 その自然の成り行きから想像できる他の側面としては、何をやるにもやり方が一つの方法へと収束しないで、多種多様に分化する傾向にあることであり、社会が全体化せずに一つにまとまらず、その中で暮らす人々の価値観も多種多様に分化してまとまりを欠くなら、特定の価値を独占しようとする強大な権力が形成されにくくなって、その価値を基準として形成される人と人の間に生じる格差というのも、統一基準がなくなってしまうので曖昧なものとなり、そのような過程で人々が格差そのものにあまり関心がなくなるようなら、取り立てて価値の獲得度を基とした自らの社会の中での優位性を強調することもなくなるだろうし、それに関わる獲得競争にしても、その意欲が減退してくるのではないか。要するに同じ価値観を共有することで生じる価値の奪い合いがなくなれば、格差も自ずから解消するのだろうが、それには絶えず競争に誘導しようとする価値観の共有を目指す行為をはぐらかさなければならないし、実際にはぐらかそうとする自然の成り行きが生じているのかも知れず、それが人々の生活や生き方の多種多様な分化となっている一方で、国家を至高の価値としている政治勢力は、それが保守だろうとリベラルだろうと、絶えずその国家という一つの価値の下に国民を統合しようとしているわけだが、それも多種多様な価値観の中の一つではあるわけで、それだけがすべてではないと思う認識が広まれば、他の価値観との共存も可能となるのではないか。


11月27日「内輪の事情」

 誰もが世の中でうまくいっている成り行きを変えたいとは思わないだろうが、それが誰にとってあるいはどんな勢力や集団にとってうまくいっていることなのかが問題で、その一方で他の誰かにとっては、あるいは他の勢力や集団にとっては、うまくいっていないどころか、損害すら被っているようなことなら、それらの人々は何とかそんな状況を変えたいと思うだろうし、実際に変えようとしているのではないか。だが別にうまくいっているともいっていないとも思えないようなことに関しては、普通は何とも思わないだろうし、関わりが薄ければ無関心でもいられるだろうし、また多少の損害を被っているが、自らの力ではどうにもならないと感じられるなら、黙って引き退ったり、見て見ぬ振りを装うこともあるだろうか。戦時中などのように、状況によっては死ねと命令されて死ななければならない立場まで生じてしまうわけだから、そのような自分の意志も損得勘定も通用しない権力関係の中に身をさらしている場合は論外としても、直接の関わりがあまり感じられないことについて意見を求められても、ただ何となく思ってしまうこと以外に、はっきりした意見があるわけでもないのかも知れないが、その何となく思ってしまうことが、日頃マスメディアなどから受動的に吹き込まれている情報に基づいた認識だとしたら、それがある一定の傾向を示す世論となって、そのような世論が同調圧力として世の中に影響を及ぼしている限りで、誰もが何となくそう思ってしまうような、同質で安定した社会情勢が形成されているとみなしても構わないだろうか。それでは循環論的で何を述べていることにもならないのかも知れないが、固定観念に囚われた集団意識というは、執拗にしかもマイルドな肯定感とともに、保守的な人々の深層心理の底にこびり付いているものなのかも知れない。

 メディアを介して人の意識が社会とつながっているというよりは、人と社会が相互に依存し合い浸透し合っている中で、双方の言い分が都合良く反映されているのがマスメディアの情報内容かも知れず、政治的な権力構造やその情勢にしても、人々の日頃の体験や経験が意識させる社会そのものが、そのままそれらに反映されているとは言い切れないものの、それを何となく認めさせるだけのリアリティが備わっていて、別にその程度でも構わないような気にさせているのは、各種の世論調査などが示しているところなのではないか。簡単に今ある社会の縮図がそのまま政治的な権力構造となって現れているとみなすことには抵抗を感じるのだが、ある程度はそうであり、また少しはそうでない部分もあると言ってみたところで、何の救いにもならないだろうが、とりあえずマスメディア上で露わになっているマスメディア自体も含めた政治的な権力関係というは、現実に人々が世の中で日々体験している権力関係や権力構造の延長上で生じていることであって、何ら特別なものではなく、日常の中でありふれた行為からもたらされているのではないか。だからそれほど違和感を感じないのであり、相当な世間知らずでない限り、誰も全面的には否定できない社会的な慣習が、政治の場に持ち込まれていると見なせばわかりやすいだろうし、建前やきれいごとではなく、そのような習慣を共有する慣習に基づいて政治を執り行っている限りは、否定できないどころか支持者たちも共犯関係なのだから、運命共同体のごとくによほどのことがない限り裏切りようがないわけで、たとえやっていることが失政であってもそれをやめさせるわけにはいかないのではないか。そしてその辺の事情を考慮する限りは、この先もどうにもならないような成り行きが続いて行くのかも知れないが、それは内部に限っての話であり、内輪の事情だけでどこまでも惰性を継続させられるわけでもなさそうだ。


11月26日「ほどほどの幸せ」

 誰かを批判する上でその理不尽で不合理な行為や言動をいくら強調しても、しかもその批判が的を射ていて正しい内容であるとしても、それが毎度おなじみのいつものことである限り、批判が及ぼす影響も毎度おなじみのいつもの範囲内に収まるだろうし、だからどうしたということでしかない。世間が批判慣れしていてまたかと思うだけなら、やはりそれだけのことなのだろう。批判している人たちがそれ以上の効果を狙っているにしても、本当に憤りを感じているにしても、毎度おなじみと思われたら、その時点で負け犬の遠吠えにしかならないだろうか。別に何に負けているわけでもなく、世間という漠然とした社会空間に向けて何を情報発信しているとも言えないのかもしれないが、批判によって批判されている対象がどうにかなってほしいのだろうし、そんな願望が批判内容からひしひしと伝わってくるようなら、必ずしも願望通りにいっていない世の中の状況があり、それも含めていつものことなら、その批判が示すような否定的な状況というのが、かなり安定的に世の中に蔓延しているのだろうか。仮にそうであるとして、そんな状況の中で絶望的な気分になって、毎度おなじみの批判を繰り返しているのだとすると、とりあえずその批判に関しては、実際に批判できることが確かめられているわけだから、批判自体の有効性については甚だ疑わしいとしても、批判可能なことを批判している現実があるだけに、批判の対象となっている誰かにしてみれば、たとえ感情的には許せないと思っているにしても、現実に毎度おなじみのごとくに批判されっぱなしになっているわけだから、その批判が放置されている現状も、世間的には広く受け入れられているのではないか。一部の体制側にとって目障りなメディア関係者の公共の電波を使った批判は、じわじわと抑圧されているのかもしれないが、それもその場での諸般の事情が絡んでいるのだろうし、はっきりしたことは言えないのかも知れず、それ以外のところで、少なくともネットで一般市民が特定の政治的な対象を批判できている状態はこれからも維持されそうな気配だ。

 誰の目にも明らかな批判効果を期待するのは無理というか、逆にそうであってはまずいのかも知れず、何の影響力もなさそうに思える無名の一般市民が、体制擁護派から小馬鹿にされながらも、毎度おなじみのどうということはない紋切り型の批判を延々と繰り返している状態というのが、何か人畜無害なように感じられて、別にこのまま放置しておいても構わないように思われているのだとしたら、そこが狙い目というわけでもないのだろうが、若干の脱力感とともに可能性を感じさせるのかも知れず、それがはっきりした具体的な目的に結びつくとは思えないにしても、そこに批判の土壌が形成されているのだろうし、政治的な抵抗の意識も育まれる可能性も感じられて、それ自体はどうということはない昔ながらの市民運動の残りかすでしかないのかもしれないが、それで構わないと感じられるのだから、テロや内戦などの武装闘争には至りようのなく、表面的には平和な状況が醸し出されていること自体を肯定したいわけで、そうやってだんだんとこれまでの抵抗運動につきものの、勇ましさや悲壮感などとは無縁の脱力感に覆われていれば、たぶんそれでうまくいくとは思えないのに、しかも誰もが望んでいる結果にも至りようがないのに、なぜかそれで構わないような現実に直面してしまうのかもしれない。そこで不満な結果に直面してしまう誰もが、それで構わないとは思えないだろうし、実際に非難轟々な事態を招くかも知れないのだが、結局はその程度で構わないことを誰もが理解できない状態と言うのが、意外と人々にとってはプラスに働くわけで、逆に誰もが納得できるような社会的な正義が果たされるように望んで、それを実行しようとすると、かえって事態がこじれて思わぬ結果を招き、悲劇的な状況が到来するのかも知れず、それとは正反対の結果を望むからそうなってしまう可能性が出てくるわけで、そこまでやる必要と必然も感じられない人たちが、世の中の多数派を形成している限りは、そうはならないのではないか。たぶん今のところはそれが隣の韓国と日本の違いとなっているのかも知れない。


11月25日「沈黙の対話」

 人と人との間で対話が成り立つには、それなりの条件が整う必要がありそうだが、それ以前に対話する必要が生じないことの方が多く、また必要もないのに偶然の巡り合わせから、会話することはあるわけだが、どうもそれが対話とは思えないわけで、何か共通の話題について意見を交わすのが対話だとすれば、会話とは単に意思疎通を図るためのもので、会話はその場の偶然から気軽に交わされるが、改まって面と向かい合って対話する気になるかと言えば、それが避けられない成り行きならせざるを得ないが、できれば避けたいわけで、他者と直接対峙するような成り行きに至らなければ、それに越したことはないわけだ。そういう理由なのかもしれないが、ネット上で勝手な意見を一方的に発信しっぱなしになることが多く、それが普通の状態なのだから、例えば意図的に反論を招きやすいような配慮がされていたり、意見を差し挟めるような隙を作っていたり、あるいは誰もが共感できるような内容を心得ていない限りは、そこから対話に至ることは稀だろうし、至ったところで望んでいるような対話からは程遠く、大抵は議論がかみ合わないまま終わってしまうのが関の山で、それもそうなるのが当然だと思われるなら、やはり対話する必要などないことになってしまうわけで、たぶん対話が成り立つような共通の土台といったものが、一般には構築することが難しい世の中であり、対話したいと思わせるような他者に出会う機会もほとんどないのかも知れず、そうだとすればほとんどの人にとっては、日常生活において特に対話する必要も必然もなく、対話というコミュニケーション手段が、有効に活用される機会も皆無な状況なのではないか。そして別にその必要性を感じないのなら、そんな状況を打破したいとは思わないし、必要もないのに無理に対話しようとしても、周囲から煙たがれるだけだろうか。

 国会の場でも審議している最中に、討論という対話の成り行き次第で、決議の賛否が覆るようなことがあってはならないのなら、通り一遍の審議内容で構わないわけだから、議論がかみ合わないまま平行線に終始させておいて、あとは頃合いを見計らって採決に持ち込んで、多数決によって議案を通すだけとなってしまうのだろうし、いつしかそういうやり方が通過儀礼として定着している現実があって、それを何とも思わない世論に後押しされて、主導権を握っている政治勢力が議会の与党となっている現状もあるわけで、対話重視の市民参加型政治という昔ながらのお題目も、確立される以前に廃れているのかもしれないし、世の中で対話が必要とされていないのなら、それが政治の場に持ち込まれることもないだろうし、そういう意味では民主主義そのものが衰退傾向にあるとも言えるのだろうが、それで実際問題としてどうということもないのだとすると、実質的には対話重視の市民参加型政治というのは無用の長物であり、建前としては掲げざるを得ないにしても、各種の審議会だの公聴会だののような、形骸化した制度として結論が変わらない通過儀礼の役目は一応果たしているわけで、政府与党としてはそれらが形骸化したままであってほしいのだろうし、一般市民にとやかく勝手なことを言われたくないのもちろんのこと、言わせないためにも事前に政府寄りの都合の良い人たちを人選しておくのだろうし、そのようなことも含めてすべての制度が形骸化している現状があるのなら、議会で強引な採決を行うのも、それほど奇異なことだとは思えないし、むしろ現状に即した成り行きだとも言えるのではないか。そしてたぶんこのような状況を誰が変えるのかといえば、現状では誰もどのような勢力も変えられないだろうし、変えられないからこそ、現状そのものが変わろうとしているのかも知れず、もちろんそれは人々が望むような変化ではあり得ないのだろう。


11月24日「歴史から学ぶ」

 理屈や理論に頼った抽象的な物言いによって、何を避けているのかと言えば、それは言説の対象となる具体的な事物だろうか。なぜ事物の具体性に関する言及を避けるのかと言えば、その事物が語り得ない歴史を含んでいるからかも知れず、ひとたび事物の成り立ちについて語ろうとすれば、その事物に関する偽りの歴史を語らざるを得なくなって、それが恣意的なフィクションであることを認めてしまうと、頼ろうとする理屈や理論の信憑性が揺らぎかねなくなり、それを避けるには現実の歴史には踏み込まずに、抽象的な物言いに終始するしかないだろうか。たぶんそれでは納得しかねるだろうし、普通に考えるなら、実際の歴史的な経緯や成り行きを合理的に説明するための理屈や理論が必要とされ、その理屈や理論を用いて、事物の成り立ちとなる歴史が語られるはずなのだろうが、なぜか語られている歴史がフィクションとなってしまっているとしたら、何がそれを助長しているのだろうか。歴史には理屈や理論では説明しきれない偶然の巡り合わせが介在していて、それが歴史の本質的な面であるなら、そういう面では理屈や理論は通用しないわけだが、そうであるなら結果に対する理由を説明できなくなってしまうだろうし、もっともらしく理由を説明している部分がフィクションであるなら、やはりそうやって語られる事物の歴史自体も、虚構の語りでしかなくなってしまうだろうか。だが語りには結果についての説明が欠かせないし、それがフィクションとみなされようと、理由を説明せざるを得ないし、そうしないと言説自体が成り立たなくなってしまうだろう。だから結果とその原因となる理由を結びつけて語ると、何やらその事物に関するもっともらしい物語が構成されてしまうのだろうか。

 たぶんそのもっともらしさが現代人の感覚からすればもっともらしく感じられる面であり、それがフィクションのフィクションたる所以だと言うと、多くの現代人には納得し難いだろうが、現代人にとってもっともらしく感じられる面は、現代人の都合が反映された面だとも言えるわけで、特に現代人が過去の歴史についてもっともらしく語っている場合、それは現代人の都合が反映された過去の歴史であり、その都合が反映された部分が現代人による創作部分となるわけで、それが歴史物語でありフィクションなのではないか。そして現代人には納得し難い歴史的な経緯や成り行きは、容易には受け入れられず、場合によっては現代人の都合に合わせて改変させられる可能性まであって、しかも歴史上の各時代における歴史書の編纂において、その都度その時代における支配勢力に都合の良いように、歴史が改竄されているとしたら、歴史書の類いから明らかとなっている公式の歴史というのは、まさにその時代における支配勢力の都合が反映したフィクションの積み重なりとも言えるわけで、そのような伝統が現代においても脈々と受け継がれているとすれば、そのような歴史を学ぶことは、現代も含めてその時代の支配勢力によるプロパガンダを信じるという結果を招くわけで、中にはそういう歴史に逆らって、支配勢力にとって都合の悪い歴史というのを構成したがる人たちもいるわけだが、ではそれが真実の歴史かと言えば、どう考えてもフィクションの別バージョンにしかならないだろうし、歴史の真実を導き出そうとして、その人が納得できる理屈や理論を当てはめようとすればするほど、その人にとって都合の良いフィクションが構成されるだけなのだから、そういう面での追求は歴史の虚構化に貢献するしかなさそうだ。


11月23日「個人と集団の利害」

 人は社会との関わりの中で生きているが、生きていること自体は死んでいなければ生きているだけで、人と社会との関わりが、人が生きている状態から逸脱する部分において生じていても何の不思議もなく、例えば死者と社会との関わりも当然のことながらあるだろうし、個人としてではなく家族として、あるいは親類縁者も含めた一族として、さらに企業や各種の団体として、そのような集団と社会との関わりの中で、個人を犠牲にして集団の利益を得ようとする動作があるわけで、集団の利益を実現するには、その集団に所属している個人の集団への貢献が欠かせないように思われるにしても、人が集団として動作している時は、個人と集団は一心同体であって、そこで個人と集団を分けて考えることなどできないだろうし、集団のレベルで利害を考えている限りは、その集団の繁栄の陰でどれほど個人が犠牲になっていようと、そんなことは集団の論理の前では知ったことではなく、しかもその集団の中で主導権を握っている人物が集団の利益を優先させるのは、その人物と集団の利害が一致しているのだから当然であり、そうした特定の集団と一心同体を装う人物が、集団の繁栄のために犠牲となる人たちや、集団とは利害が一致しない人たちのことまで配慮するはずがないだろうし、場合によっては世間体を気にして配慮するようなそぶりを見せるにしても、あくまでも優先すべきは自らが主導権を握っている集団の利益であり、そうしている限りで主導権を握っていられるわけだから、見せかけの配慮と実質的な利害関係を混同しないことが肝心だ。

 果たして個人と集団の利害が完全に一致することがあるだろうか。様々な集団が社会の中で利害を巡って争っている状況があるなら、まず各集団間での利害が一致していないのだから、その集団に含まれたり含まれなかったりする個人と集団の利害など一致したりしなかったりするだけで、利害を完全に一致させる必要も必然もありはせず、そもそも個人と集団の利害を一致させようとする前提が間違っているわけで、国家の利益や企業の利益を優先させようとする人たちが、国民の利益や従業員の利益を第一に考えているかと言えば、配慮しないわけにはいかないだろうが、その利害が完全に一致しているわけではないのだから、やはり見せかけの配慮と実質的な利害関係を混同しないことが肝心であり、では国民の利益や従業員の利益と引き換えにして、国家の利益や企業の利益が損なわれるとしたら、国民や従業員はどちらを優先すべきかを問われる状況があるのかと言えば、ないわけではないし、少なくとも国の財政破綻や企業の倒産は避けなければならず、そうであるなら財政破綻や倒産をしない範囲内で利益を得ようとすべきとなるわけだが、国民の間でも従業員の間でも必ずしも利害が一致しているとは限らないわけで、要するに国家や企業の主導権を握っている人たちとそうでない人たちの間で、利害が一致していないとすれば、当然のことながら主導権を握っている人たちの利益が優先されるわけで、主導権を握っていない人たちは、そのような方針に従うか反発するかの二者択一を迫られているわけでもないのだろうが、反発するにしても個人と集団の利害を完全に一致させることはできない現実は踏まえておくべきではないか。


11月22日「動作の変更」

 何をやるにも機会を捉えて利用しようとする態度が透けて見えるようなら、よほどの鈍感でない限りはそれに抗いたくなるだろうか。お互いにお互いを利用し合っているという認識を共有していると思い込むのは勝手だが、それがこちらの一方的な思い込みである可能性がなきにしもあらずなら、下手に馴れ馴れしく近づいていくのは、かえって相手から警戒される危険性があるだろうし、利用しようとする下心が見え見えに映るような態度は差し控えるべきかも知れず、実質的な力関係がどうであれ、表面上は対等な立場を装うのが無難な対応だろうし、話す前から相手を利用する気を悟られては、相手の方でも身構えてしまうし、利用するしないはあくまでも結果論であって、まずは何を協力できるのかを確認して、協力するにはどうしたらいいのかを話し合うわけで、そのような話し合いの後に、実際にお互いに協力した成果が上がって初めて信頼関係を構築できるわけだから、まだ大した成果も上がっていない段階で、ちょっと話し合ったぐらいで信頼関係など構築できるわけなどなく、それでもその手の表現が用いられるとするなら、それは社交辞令の類いだと思っておいて差し支えなく、何もないよりは社交辞令のひとつも引き出せば、それも話し合いが行われた成果だと言えるかも知れないが、実質的にはその程度のことでしかないわけで、今のところは何がどうなっているわけでもなさそうで、この段階で何が言えるわけでもないのだろうが、メディアとしては予想やら展望やらを語るタイミングなのだろうし、そんなある種の書き入れ時だからこそ、未来を予想して来たるべき事態にどう対処すべきかをのたまう必要に迫られているのだろうか。

 それもメディア的な動作の範囲内で述べられていることだから、希望的観測から導き出された言説にすぎず、実際に何が起こるかはその時になってみないことにはわからないだろうが、何が起こるにしても先に出した希望的観測に近づけようとする解釈によって言説の整合性を取り繕うから、出来事そのものをひたすらかわそうするわけで、その実際に直面している言説の破綻を隠蔽する動作に気付かなければ、そこで何が起こっているのかわからないまま、起こっている現象に巻き込まれるしかなく、ある程度歳月が経過してもなお自分たちが何を経験して来たのかわからないまま、この世の生を終えてしまう可能性すらあるだろうし、その方が幸せだと思えるかどうかは、その場での境遇や立場にもよるだろうが、ならば真に出来事に直面するとはどのようなことを言うのかといえば、それは当事者としてじかに出来事が引き起こした現象に巻き込まれた末に、自らの変化を実感できれば、何やら希望的観測のごまかしから引き剥がされたような気にもなるのかも知れず、それも程度の問題でしかないだろうが、少なくともメディアから繰り出される希望的観測にリアリティを感じられなければ、何かそれとは異なる面を実感しているのかもしれないし、それがただの勘違いでなければ、それについて思考して言説にまとめてみれば、現に体験しつつある出来事の印象も、これまでとは違っているように思われるのではないか。そして違っているように思われる人が多ければ多いほど、その異変に気づいた世論に合わせてメディアの論調も変わってくるかも知れず、これまで希望的観測も変更せざるを得なくなるだろうか。頑なに変更を拒む論者をメディアが使わなくなれば、メディア自体も変化することになるだろうし、そうやって世論がメディアの論調を変える可能性もあるのではないか。


11月21日「わかりにくい現状」

 世の中の秩序というのが何か守らなければならないように感じられるとしたら、もうすでに意識がその秩序に染まっていることになりそうで、はっきりした利害関係がわからなくても、気づいていないところで何らかの利害関係にとらわれていて、気づかないままどのように思考し行動していようと、たとえそれが世のため人のためにやっているとは思えないにしても、結果的に世間から認められるような行為なら、世の中の秩序を守るように作用する動作となっているのだろうか。またそれが好意的に受け止められる動作とも限らず、メディアを通じて人々から、あるいはメディアから直接批判されるような行為だとしても、世の中の秩序内でなされる批判である限りは、その秩序に配慮した行為であるわけだから、秩序自体を破壊するような行為ではなく、また秩序を保ちながらも秩序内での自らの地位を上げようとしたり、権力基盤を築こうとする行為なら、ゲームのルールを守ってゲーム内での勝利を目指すやり方だから、同じゲームに興じていると思い込んでいる他のプレーヤーからは、歓迎されないまでも好敵手のような親近感を持たれる可能性はあり、少なくともそれは秩序そのものにとっての脅威にはならないだろう。たぶん真の脅威はそこからはやって来ず、ゲームの外からやって来るか、あるいは秩序内でゲームに興じない動作から、それ自体を無効にするような作用がもたらされるだろうか。しかしそのゲームに興じない動作というのがわかりにくいし、一般には誤解を与えかねない動作なのかも知れず、少なくともそれは支持政党なしなどの政治的な無関心層が選挙に参加しないのとは、趣の異なるところなのかも知れず、投票に行かないことも投票率を下げることで組織票の効力を高め、結果的に世の中の秩序の維持に貢献していることになるから、それもゲームのルールの範囲内であり、ゲームそのものを無効にする効果は期待できない。

 社会の構成員である人が気づいたり、把握しているような動作は、すべてその社会の秩序から発生している行為であり、人々が意識している範囲内では、その秩序自体を破壊するような行為にはならないのではないか。テロや戦争でさえ自分たちが信奉する秩序を守るため、あるいは新たな都合の良い秩序を築くために行われていて、そこに社会がなければテロも戦争も起こりようがなく、秩序のない世の中などありえず、秩序を破壊しようとする動作は、新たな秩序を構築しようとする動作とセットで世の中に作用を及ぼすのだから、秩序を破壊したままに保とうとする作用などは、人の意識の中ではあり得ないのだろうが、既存の秩序を破壊して新たな秩序を模索しようとする試みの中で、人々の意図や思惑から外れた状態というのはあり得るはずで、それが結果的には自然の狡智と呼ばれるものなのかも知れず、別に神の意志が実現された状態でもなく、それよりははるかに世俗的で下世話な状態でもあるのだろうが、そんな理性や理屈などでは計り知れない状況というのが、今まさに世の中に出現しているとも感じられ、だからと言って大げさに騒いで危機感を募らせるような、毎度おなじみの反応がメディア的に期待されているわけでもないだろうし、簡単に言うならこれは悲劇でも喜劇でもなく、茶番劇であり笑劇でもあるような、何か単純には割り切れず一筋縄ではいかない状況と言えば、少しは実態に近づいたような気にはなるのかも知れないが、それにしても何を述べていることにもならないのかも知れず、たぶん衆愚政治が独裁を招くと言ったわかりやすい理屈からすべてを説明しようとすると、そこからこぼれ落ちてしまう要素がかなりあるのではないか。そして肝心なことは支配だとか独裁だとか危機感を募らせる要素もなくはないだろうし、そういう言葉を使って毎度おなじみの体制批判もできなくはないだろうが、それを真に受けてしまうと現状からだいぶずれた認識となってしまい、逆にふざけて茶化し過ぎても同様にずれた認識がもたらされてしまいそうだが、そういうところで批判の対象となっている人物とともに、批判しているメディア関係者ですらも、何やら間抜けな雰囲気をまといながら、あほくさい動作を共有させられている実態を把握しておけば済むようなことなのかも知れない。


11月20日「把握不可能な成り行き」

 人は自らが体験しつつある世界の中で、自らがやろうとしていることを知っているのだろうか。たぶんだいたいは知っているはずなのだが、果たしてそのすべてにおいて、自らがやっていることだという自覚があるのかというと、その自覚もなくやっている場合もありそうなのだが、自らがやっていることを完全に把握して、完全に制御しているかとなると、自信はもてないし、そんなことはできないと思うのが、正直な実感なのではないか。その自発的にやっているとは言えない行為が、やらされている行為であり、何によってやらされているのかといえば、その場の状況がやらせているとも言えるだろうし、身の回りから及ぼされている何らかの作用がやらせているとも言えるだろうか。あるいは自分の意志に逆らって自分自身がやらせているように思われると、自分の中にもうひとりの自分がいるような感覚にもなるだろうが、その自分が制御できない部分が、自分がやっている行為の大半を占めているとすれば、自分が何かに従いながらやっているような感覚で、行為を遂行しつつあることになるわけで、その自分が従っている何かというのが、はっきりと特定できる場合は、それとの関係で物事を考えてゆけば、ある程度は具体的な行動指針というのが定まり、それに照らし合わせてやるべきこともはっきりわかるかも知れず、そういう面でその場の主導権を握っている何らかの勢力に従いながら事を進めて行くような成り行きであるのなら、比較的楽な立場でいられるのかも知れないが、自分が何に従っているのかわからず、しかもその場の状況によって何かをやらされているような感覚である場合、果たしてそのままやらされていても構わないのか、判断に迷うところであるだろうし、判断できないまま状況に流されていて、しかもやっていることをやめる成り行きには思えない場合は、たぶんそれをやり続けること以外には何もやりようがなくなってしまうのではないか。

 例えばそれが個人ではなく国家である場合はどういうことになるだろうか。そもそも国家間の覇権争いという発想自体が恣意的なフィクションかも知れないが、世界の覇権を握っているアメリカに付き従う日本という構図に何の意味があるのかについて、安全保障や経済関係から何やらもっともらしいことを述べられる状況というが、そろそろ賞味期限切れになりつつあって、これからの日本はアメリカの庇護を脱しつつも、世界に貢献する道を探って行かなければならない、などとこれまたもっともらしいことを述べられるのも、それに何の意味があるのかと問われるなら、気休め以外には特に意味などありはしないだろうし、国家の指導的な地位にある人物が建前として美辞麗句を並べる光景に、そのパフォーマティブな意義以外の何を期待しているわけでもなく、戦争以外の国家間交渉によって何か解決に至った事案があったかと言えば、あるにはあったかも知れないが、その大半は現状を追認するための儀式のようなものでもあり、すでにアメリカの覇権が揺らいでいるなら、それを追認するための儀式がこれから実際に始まると考えてもいいのではないか。その内容がどんなものになるかはまだはっきりしないし、現段階では何とも言えないところだろうが、それが経済の衰退を伴っているなら、それと並行して軍事的な安全保障の後退も意味している可能性もあるだろうし、果たして世界各地でアメリカ軍のより一層の撤退が可能なのかどうかは、実際にそういう事態になった時に、関係各国との交渉の機会が持たれるだろうが、その時にどのような解決が図られるのかは、交渉の相手国の事情も少なからず影響を及ぼすかも知れないが、そこでどちらの思惑からも外れるような意図しない結果がもたらされる可能性も十分にあるだろうし、実際に予期せぬ事態となっているのだから、期待もできるのではないか。


11月19日「現実の虚構」

 人の意識が現実の世界に接していながらも、空想と虚構の世界への嗜好を強めていることは、現実逃避の面を拭いきれないまでも、それを現実の世界に当てはめ、その延長上で思考を働かせていることは確かで、思考に付随して情念も働かせていて、現実と虚構の境界を曖昧にしながらも、その曖昧さの中に恣意的な好みを紛れ込ませながら、自らにとって都合の良い現実の捉え方が、その理想としての虚構に連結していて、恣意的な理想としてのフィクションが現実からいくら遠くかけ離れていようと、必ず自らが体験しつつある現実の中に、虚構の痕跡を探し求めていて、そんな求めに応じて実際にフィクションが作られて、それを求める人々に憩いのひと時を提供している実態があるのかも知れず、それも含めて現実の世界が構成されていて、どちらかと言えばその人工的に作り出されたフィクションの方が、恣意的な理想である分、世の中に受け入れられやすい面があるだろうし、それが人々の意識に多大な影響を及ぼしていて、その深層心理までもが感化されているのかも知れないし、場合によっては大勢の人が集団となって組織される中で、それを団結させる上で欠かせない共通の価値観がフィクションの中に形成されているのではないか。

 そのような虚構を人工的に作り出して、現実の世界の中に出現させる試みが、社会の制度の存在を信じさせて守らせる試みにも連動していて、制度が規定しているやっても良いことをやり、やってはいけないことをやらずにおくこと、それを実行するのは世の中の価値観に従うことであり、価値観に基づいて価値観が定める人格を演じることにもなるわけで、それはまさに人工的に作り出された虚構の中で、当てがわれた役柄を演じる動作であり、現実の世界に人々が信じて守るべき共通の了解事項として約束事が張り巡らされていて、その中で生活する人々は、約束事の範囲内で行動するように強いられていて、それがその社会に拘束されている人々を制約する限界となっていて、実際に人々が守っている範囲内で社会の秩序は守られ、人工的な構造物としての社会も成立しているように思われるのだが、それが人々の信じている虚構であることは言うまでもなく、現実には社会を成り立たせる約束事や決まり事は絶えず破られていて、しかもそれらの規定をいかにして破るかが、世の中でその人物や人物が所属している集団が、主導権を握れるかの鍵となっているわけで、そして破るだけではなく、それらにとって新たに都合の良い約束事や決まり事を作らなければ主導権を確立できないわけだ。

 そんな人工的な虚構の構造物である社会は、人々の行動や言動を制限する約束事や決まり事で成り立つと同時に、それを破って主導権を握る者たちに都合の良い新たな約束事や決まり事を作ることが、社会内での人や集団による主導権争いであり、自分たちが主導して作った約束事や決まり事を他の人たちや集団にも守らせることが、とりもなおさず権力の行使なのだが、たぶんあからさまで強制的な権力の行使は、よほどのことがない限りは行われず、大抵は信じさせて守らせる動作になるだろうし、完全には信じさせられないにしても、疑念を抱いている人たちを、同調圧力によってしぶしぶ従わせるようなことも行われ、そのための多数派工作であり、多数決の論理なのだろうが、味方となってくれる人々を集めて多数派を形成して、反対派などの従わない人々は多数派工作によって切り崩しながら、頃合いを見計らって多数決でカタをつけるわけで、そんな手法がまかり通っていること自体が、まだ平和な世の中である証拠ともなっていて、場合によってはそれまでも強引で力づくの数の暴力だと批判されているが、そんな批判自体が話し合いによる合意と言う理想的なフィクションを信じられる限りで可能な批判なのだから、それを信じて守ろうとする良識をいかにして破るかが、その場で主導権を握るための戦略ともなるわけで、良識を主張する人たちを抑え込むことも、権力の行使となるのだろう。


11月18日「皮肉混じりの愉快」

 時間が進む方向は、過去から現在を通って未来へと向かう方向であり、逆戻りはできないから、歴史も逆転する方向へは進まないだろうか。ただ同じようなことが繰り返される可能性があり、何やらそうなる可能性に期待して、過去を参考にして未来を予想しようとする人たちもいるらしいが、たとえ過去と同じようなことが繰り返される兆しが認められるにしても、過去から現在へと至る時間が過去にはない経験の蓄積を生んでいて、たぶん過去のある時点よりは現時点の方がその蓄積を活かせる可能性があるわけだ。未来が過去の繰り返しとならない理由は、その活かせる可能性のある経験の蓄積の分が、過去とは異なる成り行きや結果をもたらす可能性となっていることであり、それが過去にはありえなかったことが未来において実現される可能性を秘めているのではないか。そしてその可能性とは何かを考える上で、過去から現在までの間に何が世の中に新たに加わってきたのかを捉えておけば、その新たに加わった物事が、過去とは違う未来を形作っていく可能性に言及できるだろうか。ただそれも予想の域を出ない話ではあるが、それが新たに発明されたり発見されたり生産されたりして、それによって人々の生活様式やものの考え方が大きく変わり、社会全体が多大な変更や変革を被ったように思われる物事なら、誰にとってもわかりやすいことなのだろうが、人々が気づかないうちに変更を被っていて、しかも未だそれに気づいていないようだと、気づくのは至難の業なのかも知れず、もしかしたら気づきにくいことだからこそ、今もなお持続的に世の中が変更を被り続けている可能性もあるわけで、それこそが新しい未来への可能性だとしたら、何やら皮肉な気分となってくるだろうか。

 これから未来へ向かって具体的に何が変わるのかと言えば、大雑把に言えば国の在り方が変わってゆくだろうし、それとともに世界の在り方も変わって行き、国に対する人々の意識も関わり方も変わってゆくのではないか。そしてそれはこれまでも経済情勢とともに変わってきたのだから、これからも同じように経済情勢とともに変わってゆくだろうし、経済情勢の変化が人々の生活様式の変化をもたらし、世の中に対する意識の変化ももたらし、社会への関わり方の変化ももたらした延長上で、国への関わり方の変化ももたらすはずで、具体的には国が国民の面倒を見切れないことがはっきりしてきていて、何とか企業を支援してその雇用を通じて、間接的に国民をその支配下に置きたいのだろうが、国と国民の関係は法律的には対等の関係だとしても、企業と従業員の関係はあくまでも雇用関係でしかないのだから、雇用を保証するための様々な法整備がされているにしても、実質的には対等の関係ではないだろうし、国が産業振興に力を入れて、いくら雇用を創出できても、企業と従業員との主従関係が解消されることはありえないわけで、そんな実質的な主従関係を強いている企業側に国が与していることも、従業員であり国民でもある人々が、国の政治制度である民主主義を信用できないことにつながっているのかもしれず、雇用されているのに生活が苦しいと、なおさらリベラル的な幻想など信じられなくなるだろうし、その延長上に待っているのは、普通に考えるなら国家と政治への幻滅であり、無関心化でもあるだろうし、その後に続くのは形骸化なのではないか。昨今話題となっている右傾化や保守化は相対的なものであって、それらと対立するリベラル的な社民勢力が退潮傾向にあるから、目立ってきただけのことかもしれない。


11月17日「狂気と正気」

 誰かが何かの裏をかこうとして何を狙っているわけでもないとしたら、たぶん見た通りのことであり、メディアが伝えている通りのことであるならば、そう思っておいて差し支えないようなことなのではないか。だが果たしてそれが何を意味するのだろうか。それを受け止める人の立場や境遇に応じて意味も異なってくるだろうか。事の真相が見た通りのこととは違っていたら、それは驚くべきことであり興味深いことかも知れず、知りたいのは裏で誰かが糸を引いていて、そんな画策が功を奏している実態なのかも知れないが、想像したいのはそんなことであり、見た通りのことでもメディアが伝えている通りのことでもない。そして誰もが思うのは、なぜそんなことがまかり通っているのかという疑問だろうか。見た通りのことでメディアが伝えている通りのことだけなら、うまくいくはずがないと思いたいのだが、それに関して何か裏があって、メディアや報道を真に受ける人々を欺いているからこそ、そんなことがまかり通っているのであって、要するに人々は騙されているのだと想像したいのではないか。そこで誰が想像したいのかと言えば、うまくいくはずがないと思っている人々であり、実際にうまくいっていないにもかかわらず、しかも誰もがそんなことはわかっているはずなのだが、どういうわけかそんなことがまかり通っているわけで、それが現状を信じられない主な原因なのかも知れないのだが、では仮にそうであったとしても、なおも現状が見た通りのことであり、メディアが伝えている通りのことであるなら、果たしてこの見た通りのありのままの現状をどう捉えたらいいのだろうか。たぶんその辺で納得のいく理由や説明を期待しない方がいいのかも知れず、下手に納得できるような理由や説明を求めてしまうと、それは想像上のフィクションとなってしまい、逆に納得し難く理解できないような現状こそが、見た通りでありのままの現実それ自体なのではないか。

 別にそれが不条理だなんて思わなくても、驚くべきことでもなく、当たり前のことでしかない、と思っておいても構わないようなことであり、誰かが裏から糸を引いているとか、何か良からぬ陰謀が巡らされているとか、どうもそういうことではないようで、単にそうなっているだけでしかなければ、それについて納得も了解もできないような事態となっているとしか思えないにしても、現実にそのように事態が進行して、こんな成り行きとなってこんな結果をもたらしているとすれば、これは果たして驚くべきことなのだろうか。偶然の巡り合わせだけにしては、あまりにも出来すぎた結果がもたらされていると思われるなら、やはり何らかの画策やら陰謀やらを想像してしまうのも無理もないところだろうが、果たして人々はその手前に踏みとどまって、見たままありのままの現実を受け入れられるだろうか。納得も了解もできないということは、受け入れられないということになるだろうが、それでもそんな状況や事態の中にいることは確かであり、そんな現状はおかしいと感じるから、何かしら行動を起こしたり、現状の中で主導権を握っているように思われる人物や勢力を批判するわけだが、たぶんそうやって行動し現状を批判することから、何か新しい事態を作り出したいのだろうし、少しでも納得し了解できるような結果へと状況を持って行きたいのだろう。そして実際にそのような行為から、もちろん他の人々や勢力が行なっている他の行為も絡み合って、その結果としてこの納得も了解もできない事態となっているのだとすれば、納得も了解もできない理由が何となくわかってくるだろうか。自分たちがやっていること以外にも、他の人や団体の他の行為も絡んでくるから、納得も了解もできないのであって、その結果として思い通りに行かない世の中になっているのはある意味で当然なのだろう。


11月16日「労働と遊戯」

 労働と遊戯に違いがあるとしたらそれは何だろうか。労働の種類によっては、どう考えても遊戯ではない労働があることは確かだが、遊戯を見せることによって何らかの金銭的な報酬を受け取れるとしたら、それは遊戯でもあり労働でもあると言えるだろうし、遊戯を行っている人にとって、それが生活の糧を得る手段であれば、労働とみなしても構わないだろうが、それを見て楽しんでいる人たちにとって、それは娯楽であることは確かで、労働が物や情報やサービスを提供するための行為であるとするなら、娯楽は人を楽しませるためのサービスとなるだろうか。逆に人に楽しみをもたらす遊戯のすべての行為が労働であるわけでもないが、働いて金銭を得ることが楽しみであるなら、金銭的な報酬を得られるすべての労働が楽しみをもたらす反面、同時に苦痛をもたらす労働もあることは確かで、程度の差こそあれすべての労働が何らかの苦痛をもたらしているから、労働には苦楽がつきものとも言えるだろうし、労働と遊戯には違いがあることは確かだが、労働的な遊戯や遊戯的な労働と言える類いの労働と遊戯があることも確かだ。

 政治が遊戯の類いだと言えば、何やら皮肉めいたことを述べたくて、あえて遊戯という言葉に当てはめようとする魂胆を疑われてしまいそうだが、普通は娯楽と政治は別次元の概念として把握されているだろうし、政治に関して真剣で真摯な態度で臨んでいる人たちに向かって、政治を娯楽だの遊戯だのと語れば話にならず、相手にしてもらえないことは確かで、何をふざけているのかという話になってしまいそうだが、一方でオリンピックや万国博覧会などは、どう考えても娯楽としか思えないだろうし、国威発揚などというもっともらしい理由を付け加えても、実質的には見世物の類いで大規模な祭りでしかないのだから、娯楽や遊戯の要素しかないわけだ。そしてそこに政治が絡んでいて、簡単に言えば国民の人気取りに利用され、関連施設の建設や観客動員など関して経済効果も期待されているとなると、そこに政治的な思惑が働くのも、ある意味で当然のことなのだろうが、別に皮肉でも何でもなく、人を楽しませるための娯楽や遊戯に関わっている人たちは、それが労働である限りにおいて、真剣で真摯な態度で取り組んでいることは確かで、たとえある局面ではふざけているように感じられようと、ふざけることにも真剣で真摯な態度で臨んでいるのではないか。


11月15日「微細な差異」

 ここでは当たり前のように思っていることが、時間や時期や時代や場所が違えば、あるいはその場での人や物などの関係が違えば、物凄くおかしく奇異に感じられることは結構あるのかも知れず、そんなことに気づいたところで大した意味はないのかも知れないが、また物凄くも奇異にも感じられなくても、微妙にずれているように思われることが、意外と大事なことである場合もあるだろうし、そういう微細な違いに気付かないから、何もかもを一緒だとみなして、状況の変化を見逃していて、結果的にその本質を捉える機会が失われている場合さえありそうで、では具体的に何を取り逃がしているのかと言えば、それが何だかわからなければ、具体的には何を語っていることにもならないだろうか。たぶんそれでも何かを語っていて、具体的な対象がわからないまま、記された言葉の連なりが次第にそれ自身を表しつつあり、記している文章の内容が、意識しないまま語りつつある対象に近づいているのだとすれば、それに越したことはないようにも思われ、語りつつある対象を特定する手間が省けそうだが、逆に対象がはっきりしないのに、無理に特定しようとすると、自身の都合を優先させて、勝手な決めつけやレッテル貼りを強引にやろうとしてしまうのであり、そこから性急な批判や非難の言説へと持って行こうとして、しかもその対象を一網打尽に捕らえて十把一絡げに単純化してしまうから、個々の存在や相互の関係から生じている、微細な差異やずれを把握できずに、そのような違いを見逃して、それを知る機会を見失ってしまうのではないか。

 それとは物事の関係であり差異でありずれなのであり、しかもそれを無視して気づかないから、同じとみなして決めつけるのであり、そうやって物事の関係を単純化してわかった気にもなろうとするわけで、わかったつもりになれるから単純化できるのだろうが、なぜ急いでそんなことをやるのかと言えば、単にその対象を批判し非難したいからだとすれば、まずそんな目的があって、それを批判し非難したいがために、単純化して勝手な決めつけやレッテル貼りを繰り返すようなら、語る対象への畏怖の念も公平に取り扱う配慮も欠けていて、否定するために否定しているような、それ以外の可能性をあらかじめ除いた上での言及になるだろうか。そのような否定のための否定を避けるにはどうしたらいいのかといえば、単に肯定すればいいというわけではないだろうし、単純に肯定したり否定したりする以外のことを述べる必要がありそうで、例えば批判するのと非難するのは違うし、批判したり非難したからといって、別に憎んだり馬鹿にしたり嘲笑することはないだろうし、それらを連動させて否定のための否定に結びつける必要も必然もなければ、もし語る目的がそうであるなら、不快極まりない内容になることは避けられず、一方でそうする必要や必然性を感じられるなら、それはその対象へのわかりやすい単純化や勝手な決めつけやレッテル貼りを信じたいからで、なぜ信じたいのかと言えば、それは物事の複雑な関係や微妙で微細な差異やずれを感知できないからだろうか。対象を注意深く観察してそれについて思考する手間を省けば、そうなるのが当然かも知れないが、それでも困らないなら構わないだろうか。


11月14日「社会への関わり方」

 民主的な選挙によって選ばれた民衆の代表者たちが統治する国家権力が、資本主義がもたらす民衆の間に生じている経済格差を是正してくれるわけではないが、それがまったくの幻想だとは思わないし、社会保障に関する予算が組まれる範囲内で、それなりに国家が民衆を助けている面はあるのだろう。もちろんそれが国家権力が行っているすべてではなく、行政の面では民衆を統治して、司法の面では民衆を裁き、立法の面では民衆の代表者たちが、民衆を統治するための法を作っていることになるのかも知れないが、民衆を統治すると同時に、国を統治していることにもなっているわけでもあり、国を統治することと民衆を統治することに違いがあるのかと問われれば、その辺の法律的に厳密な定義などわからないが、何かその辺に微妙な差異があるのかも知れず、その微妙で曖昧な部分が官僚制の付け入る隙を与えていて、国家は官僚制がないと成り立たないことは確かであり、官僚制こそが実質的に国家を支えていて、国を実質的に統治しているのも官僚制であると言えないわけでもなく、そうなると民衆を統治しているのも官僚制ということにもなりかねないのだが、一面的な法律の解釈では、国民主権だからそんなことはないとしても、法律というのは形式的なものだろうし、それに具体的な実行力を伴った実質性を与えているのは、官僚機構という集団的な組織である面は否めず、例えば政治のレベルで政権交代が起こり、議会の与党や行政の長である大統領や首相が交代したからといって、しかも法の上ではそれなりに決定権を握っているからといって、それらの政治勢力が決定権を行使して、官僚機構を思いのままに操れるかと言えば、どうもそうだとは言い切れない面があるように思われ、主導権を握っている政治勢力と官僚機構とが、実質的には互いが互いを相互侵食しているような様相を呈していて、両者の強固な結びつきの中で国の統治や民衆の統治が行われていて、そこを見誤ると形式的な法律上の解釈に頼って民衆の権利を主張したり、政府や議会与党の強引な対応を批判する人たちの主張が、何か現実離れしているように感じられてしまうだろうか。

 マスメディアの論調でも何か特定の人物に権限があって、その人物が独占的に権力を行使できるような語られ方がされてしまう傾向もなきにしもあらずで、そう語らないと報道として成り立たない面もあるだろうし、主語である誰かが述語である何かをやったという表現にせざるを得ないのだろうが、形式的な責任の所在をはっきりさせるためにも、そう語らざるを得ないとしても、主導権を握っている政治勢力とその政治勢力に影響を及ぼそうとする行政上の官僚機構やマスメディア、官僚機構やマスメディアに関係を持っている言論人や財界人、言論人としてのジャーナリストや評論家や学者などの類いの人たち、そしてその他大勢の民衆である一般人、その中で何かはっきりと他と区別できるような人格を持ち合わせている人がいるだろうか。どうしても特定の人物が何かやっていることにしないと、それについて何も語れなくなってしまうだろうが、その人物が実際に何かやっている割には、主体的に主導権を握ってやっているようには見えないし、ただ社会の中での役割分担を割り振られて、台本通りの演技を強いられて、それを演じているにすぎないようなことになってはいないだろうか。語る対象を型通りの役柄に押し込めようとして、型からはみ出てしまう部分を執拗に批判するような動作が蔓延し、そうすることしか眼中にない人々が多すぎるようにも感じられるのだが、たぶん逆に人々が望んでいるように思われる型通りの役柄を主体的に演じようとすれば、かえって魅力が乏しくつまらない人物だと思われてしまうだろうし、反対に型からはみ出てしまう部分が人々を惹きつけて止まない部分であるのだろうが、そこをことさらにメディア上で批判し糾弾するものだから、自業自得気味にひたすら型通りの役柄を演じようとして、しかも演じきれずにぼろが出て、そこをさらに非難されて、そのような淘汰の果てに残ったのが、何らや政治的な主導権を握って権力を振るっているように語られる人たちなのだから、どうしてもそれらの人たちに主体性があるようには感じられないのかも知れないが、そういう世の中の仕組みであり構造なのだと思っておけば、それほど気にするようなことではないだろうか。


11月13日「未知の事態」

 果たして現状で何が明らかとなっているのだろうか。理論と実情を合わせようとする試みは、必ずズレを生むかもしれないが、それについて語るとすれば論理的に語ろうとするだろうし、何かしら理屈を用いて現状を説明することになるだろう。人々の間で政治に対する失望が渦巻いているとしても、別に経済が行き詰っているわけでも破綻しているわけでもなく、ギリシアのように国の財政が破綻しても、そこで人々は通常の生活を送っている現状があり、何処かの国で暴動が起ころうと内戦が勃発しようと、それは今までに起こってきたことの延長上で起こっていることだ。たとえ突発的な事件が起こっても次第に日常の中へと吸収され、時が経てば既成事実となり、その時点でいくら驚きをもって表現されようと、慣れてしまえばどうということはない許容範囲内の現象としか感じられないだろう。わかっているのはそんな通常の業務から導き出される慣習的なアプローチであり、出来事の目新しさを減じて、できることなら隠蔽しようとする動作が生じる成り行きで、既存の価値観に当てはめて、誰もがわかりやすい印象を対象に貼り付ける試みだろうし、そうやって事件そのものを日常の風景から取り除いて、何事もなかったかのように振る舞いたいのではないか。誰がそう振る舞いたいのかと言えば、それを肯定的にとらえようとしたり否定的にとらえようとしたりしながら、何とか自分の言説によって表現しようとする人々であり、そうした表現の中でその人が信奉する論理が語られるわけだが、果たしてそれが事件を事件として物語っているのかと言えば、既知の価値観に事件を塗り込めようとする動作にしかならないのかもしれない。それが目新しい出来事を物語ることかと言えば、そこから目を背けることにしかならないのかもしれず、しかもそうすることによって、それを物語る人もその物語を理解しようとする人たちも、安心するのではないか。そのように語って安心したいから、そのような物語にすがりたいわけで、そのような人たちにしてみれば、そこで何か未知の新しいことが起こったなどとは思ってはならないのだろう。

 実際に語るだけでなく、そこから生まれた新しい事態にもたがをはめて、何とか既存の秩序へと回収したいのであり、それが反動的な行為なのだろうが、その新しい事態に関与する人々は、それを生かしたい人たちは自分たちの新しい規範として社会に定着させたいわけだが、たがをはめて既存の秩序へと引きずり込みたい人たちは、それをなかったことにして解消しようとしてくるのだろうし、その辺のせめぎ合いがこれから激化してくるようなら、何らかの変化の兆し感じ取れるだろうか。すでに何かが変わり始めているような予感を覚えている人も少なからずいるのだろうが、それが悪い方への変化だと感じている人も少なからずいるだろうし、実際に世界各地で抗議する人たちの活動が流行っているわけだし、それ以前にテロや内戦が収まる気配も感じられず、多くの人が終末論的な世界観を持っても不思議ではないわけだが、実際に作用するのはそういう次元ではなく、簡単で安易な論理へと世論を誘導するような動作が生じるのだろうし、例えば平和な世の中を維持しようと言えば、国を守るために防衛力を整備充実させなければならないとなり、景気を良くしようと言えば、産業の国際競争力を高めなければならないともなるし、何とかこれまでの主張の枠組みの範囲内で思考を停止させるような効果が期待されているのかもしれないが、果たしてそんな人々への催眠効果のような世論誘導が実質的に効いているのかは定かではなく、意図して大衆の潜在意識へと何を語りかけているわけでもないとしても、偶然の成り行きから生じた歴史的な経緯が現状そのものなのかもしれず、そんな現状を当たり前のものだと意識していなくても、感覚としては現状に染まっている意識を保持しているわけだから、誰もが当然のことのように受け止めている既知の言説が、そこに暮らす人たちの固定観念の形成に関与していることは確かであり、世の中についての当たり前のような認識もそこから生じているのではないか。だから別に意識して出来事の新しさから目を背けているわけでも、見ないようにしているわけでもなく、それが自然の動作なのだから、既知の論理や秩序に則った出来事の理解も、違和感なく思考が動作して完了するわけだ。そしてそうした当たり前の動作を完了させることに、違和感を覚えたり抵抗感を伴うならば、そのこれまでにない新しい要素を伴った出来事に意識が影響を受けていることの証しなのではないか。


11月12日「立場の両義性」

 国家的な枠組みで何かを考えることと、例えば企業的な枠組みで考えることが、必ずしも一致を見るわけでもないのは当然で、巨大なグローバル企業でなくても、何らかの形で外国との取り引き抜きでは成り立たない面があるだろうし、簡単な話地球上のどの国や地域とも、必要とあらば関係を持ちたいわけで、売りたい物や情報やサービスを必要とする市場を求めているのだから、それが国内であろうと外国であろうと、市場があるに越したことはなく、というかなければやって行けないのだが、さらに言えば企業が存続する上で、資金の調達先と資源などの材料の調達先と、製品を作る建物や機械設備などを設置しておく土地と、そこで働く人材と、製品を売る市場が必要なのだから、それらがすべて国内にあるとは限らないわけで、そんな企業が発展する上で多国籍企業やグローバル企業になるのは、ある意味で必然の結果であり、そこに国家的な枠組みでたがをはめるのには無理がありそうなのだが、国家の方ではまず第一に国民が働く場を確保して、その国民が満足のいくような物や情報やサービスを受けられ、経済的にも気持ちの面でも豊かな生活を送ることができれば、文句のないところではあるのだろうが、多くの国ですべての国民を満足させるまでには至っていないだろうし、国民の間に格差があるのが現状で、しかも満足するには他人より優位に立ちたいわけで、そのためには逆に格差が必要なのだから、必然的に現状の社会ではすべての国民を満足させるのは不可能なのだが、企業の方でもそのようなニーズに応えるために、他人より優位な立場にある人たちのために、製品に格差をつけて差別化を図り、一般より上質な物や情報やサービスを提供している部分もあるわけで、そのような格差が必要悪としてあるにしても、国民が仕方がないとあきらめてくれるような程度の範囲があって、その範囲から著しく逸脱するような格差が歴然とあるようだと、国民の不満が募って行くのではないか。

 共産主義的な完全なる平等というはあり得ないとしても、各方面から影響を及ぼそうとする力のせめぎ合いから生じた妥協の産物として現状がある限りにおいて、そんな枠組みの中で政治的な試みがあるわけで、そういう面では平和的な方法での現状の劇的な変更というは期待できそうもなく、逆に無理な強権発動での変更を期待してしまうと、悲惨な結果を招くのだろうが、いずれにしても現行のシステムの範囲内ではその程度のことでしかないのだから、そこから政治に過大な期待を寄せるのはおかしいわけで、寄せたとしても期待外れに終わるのは目に見えているわけだから、逆に過大な期待を抱くように仕向けてくる政治的な宣伝には警戒しなければならないわけで、大した根拠もないのにバラ色の未来を歌い上げるような訴えかけは、百パーセント嘘だと思っておいて差し支えないだろうし、また毎度おなじみの危機感を抱かせようと仕掛けてくる訴えかけにしても、そうしたメッセージを発することで目立ちたいという思惑を含んだ誇張表現の類いだと思っておいて差し支えないだろう。現状の中でどんな要素を強調して、自らの主張を組み立てるにしても、他の要素を無視すれば、それだけ強烈なことを主張できる反面、実際に他の要素も現状に対して作用を及ぼしているわけだから、その作用を無視すれば嘘になったりデフォルメされた誇張表現になったりするわけで、常にその辺を割り引いてその手の訴えかけは受け止めておいた方が良いだろうし、例えば自由主義経済対保護主義経済といった対立を強調して、どちらかの経済を推進して行くべきだ、などと主張しようが、実際の経済の担い手である企業活動としては、保護主義的な国家の庇護を受けながら力を蓄えつつ、自由主義的な世界市場の中で物や情報やサービスを売りまくりたいわけで、要するに両義的な御都合主義でしかないわけだから、その辺を勘違いしてはまずいわけだ。


11月11日「発展途上」

 皮肉な結果から都合の良い解釈を引き出しても、皮肉な結果であることには変わりないが、具体的に何が皮肉な結果なのかと言えば、それが最悪の結果であるにも関わらず、期待が持てると言うことだろうか。それの何が最悪なのかと言えば、ひどい人物が民衆から選ばれてその地位に就いたということであり、何に期待が持てるのかと言えば、それによって長年の懸案事項が解決に向かうかも知れないと言う期待であり、ひどい人物が選ばれたから期待が持てると言うのが、皮肉な結果であり、それによって長年の懸案事項が解決に向かうと言うのが、都合の良い解釈であり、期待していることでもあるのだが、果たしてその都合の良い解釈通りの結果が本当にもたらされるかどうかは、まだこの段階では半信半疑でしかないだろうが、一方でそんな淡い期待が裏切られて、最悪の事態となってしまう可能性もなきにしもあらずだろうから、期待と不安が入り混じった心境の人も多いのではないか。

 それとは別に、倫理的な価値基準からそのひどい人物を批判する人も多くいて、その人物が行った一連の差別的で俗悪な暴言や妄言を許せないと言うことであり、心底から軽蔑に値するような人物だと受け取られているわけだが、その一方でそれらの暴言や妄言にも一理あると受け取る人たちもいるわけで、そんな俗情との結託が、その人物が民衆から支持されたわけでもあって、そのような人たちは差別的で俗悪な暴言や妄言を、俗情がもたらす本音として肯定せずにはいられないわけで、もちろんそんな感情を肯定する人にとっては、良識ぶって社会の中で生じる各種の差別を糾弾する人々の態度こそが、建前としての理性を重んじる自己欺瞞そのものであり、許せないとも思っているのかも知れないが、一般的には公的な場では建前を優先させ、私的な場では本音である私情を優先させるのが、社会規範としての暗黙の了解事項なのかも知れず、本当は私的な場でこそ公的な人間として、公共の利益を優先させるように振る舞わなければならないのが、倫理として求められているわけだが、その辺で私利私慾や国利国益や公利公益などがごっちゃになって、カオスな状態で思考の埒外なのかも知れない。

 普通はそんなところまで論理的な思考が及ぶはずもないので、何やら意見や主張が真っ二つに割れて、深刻な対立を引き起こしていて、時代の風潮としては俗情と結託した側の方が優勢であるようで、それに合わせて現状の世界ではヘイトクライムやポピュリズムなどが蔓延している様相を呈しているわけで、その原因として経済格差や民主的な自由と平等の価値観の後退などが挙げられるのかも知れないが、実際にはこの時代が特にそれらの矛盾や不条理が顕著となっているわけではなく、むしろインターネットが普及して、誰もが容易に情報にアクセスできて、しかも勝手に意見を主張できるようになったから、それだけ騒ぎが大きくなったわけで、ちょっとしたことでもすぐに大騒ぎとなってしまうから、対立が激化しているような印象ばかりが先走って、腰を落ち着けて物事を冷静に考える余裕がなくなってしまったのかも知れず、それにも良し悪しがあるのだろうし、すべてを否定的に捉えるわけにはゆかず、案外まだこの状況の有効な活用法がわかっていない面もあって、それをこれから模索して行けば、近い将来よりマシな世の中を構築することができるのかも知れない。


11月10日「団結の可能性」

 制度に従うなら、人々は信奉している共通の政治的な理念の下に団結する必要があるだろうか。それ以前に制度とは何か、政治的な理念とは何か、と問われるなら、何やらはっきりしたことが何も言えなくなってしまいそうだが、さらにそれ以前に人々とは何を指しているのだろうか。いったい誰が団結する必要があるのだろうか。選挙制度や議会制度の他に行政や司法や立法などに関する様々な制度があることは知っているが、それらの制度を活用する上での合理的な政治理念というが、はっきりと誰もが納得する形で確立されているとしたら、それをどのように説明できるだろうか。そんなものなどありはしないと否定しておくのが、安易な逃げ口上にはなるだろうが、何もかもがその場その時での手探り状態の中から場当たり的に導き出されるもので、決して一定の理論や法則から導かれるようなものでもないのかも知れず、その方法に関しては具体的に成功した前例があり、何事もその前例に則りつつも、その場その時の状況に適合するようなアレンジメントを必要としているだろうか。たぶんその程度のことなら誰もがわかっていることで、問題なのはその場その時に具体的にどうすればいいのか、ということであり、肝心なのはその部分なのだろうが、そうなると実際にその場面で問題に直面している当事者たちにまかせるしかなく、外部から助言するとしても、間接的なことしか述べられないだろうか。しかし今実際に我々は何に直面しているのだろうか。それ以前に我々とは誰なのか。誰もが同じ問題に直面しているわけではなく、同じ政治理念を共有しているわけでもなく、信奉している政治理念の下に団結する必要も感じられないとすれば、いったいどうすればいいのだろうか。つまり我々が直面している問題とはそういうことだろうか。またそれに関しては団結を訴える人たちを信用できないという問題もあり、我々は共通の価値観を持っていないから団結できないという問題もあるのではないか。

 さらに言うなら、社会を構成する各種の制度に従うことにも抵抗を感じているのであり、社会そのものの在り方にも疑念を抱いていて、そんなことを言い始めたらきりがないのだろうが、何はともあれ何か改革したいことがあるのなら、各種の制度が規定する手続きに則って改革に着手しなければならず、制度を変えるには制度に従いつつ、制度が示す手順に則って制度を変革して行かなければならない。だが果たしてそれで真の改革が実現するのだろうか。真の改革というのが具体的に何なのか、それもそれを目指す人によって定義も意味も認識も異なるだろうが、人間社会の発展と共にその構造も次第に複雑怪奇な様相を呈しているわけだから、その中で暮らしている人々の境遇や立場も多種多様に分岐しているわけで、そのことが人々を同じ政治理念や価値観の下に団結するのを妨げていることは明らかであり、例えばそれを1%の富裕層と99%のその他大勢に分けて、99%に属する人々に団結を訴えたところで、たぶん何の実感も湧いて来ないだろうし、それらの人たちの中でも、住んでいる地域や働いている職種や、所属している企業や各種団体の中での地位や身分に応じて、それなりに利害が対立しているわけで、さらにその上に信奉する政治理念に応じて、支持する政党も異なり、それらの要素を勘案して団結を呼びかければ、当然のことながら複数の様々な集団に分裂して、まとまった政治力を結集するのが困難になることは目に見えているのだが、それでも原発政策などのように一つの争点に関して、その是非を問うような成り行きに持って行ければ、その深刻さの度合いに応じて、ある程度の団結を実現できるわけで、それに関して問題なのは、果たしてその地域に暮らしている人たちが、深刻に受け止めるような切実な問題が、しかもそれが政治的な争点となるような問題が、この世の中にどれほどあるのかということであり、それがなければ、あるいはあったところで、マスメディアなどを通じて争点隠しが行われていれば、政治に関して人々の団結など期待できないのではないか。


11月9日「世界的な機運」

 その出来事から何を知り得たとしても、ただそんな結果を受け止めるしかなさそうだ。世界的にポピュリズムの流れが止まらないといっても、ただそれを否定的に見るだけでは、何か物事の一面だけしか見ていないようにも思われ、そこに多面的なものの見方を導入したところで、都合の良い面しか見なければ、皮相なうわすべりのようなことでしか述べられず、良い面と悪い面を挙げてみたところで、客観的で相対的なことしか述べられないだろうか。結局は何をどう判断したいのかもわからないのだが、今まで通りの政治体制では良くないという判断が、そんな結果を導いたことは確かなのであり、だからと言って予想とは違う結果が出たところで、この先に期待が持てるとは思わなくても、とりあえず世論調査に基づくマスメディアの予想とは違う選挙結果が出たのだから、その結果自体が状況の変化を示しているのだろう。それがさらなる決定的な政治体制の変化をもたらすかどうかは、現時点ではまだわからないところだし、確か八年前も変化を求めるような選挙結果だったのだが、あれから八年経った今の時点では、八年前に変化を求めて投票した人たちにとって、必ずしも満足のいく八年間ではなかったはずだ。だからまた変化を求めて現状の政治体制とは異なる体制を選択する人が多くいたわけだが、ここから四年なり八年なり経った後に情勢がどうなっているかは、神のみぞ知るところでしかないだろうか。

 政治体制がどう変わろうと大して状況が変わらないなら、選挙など気休めでしかないわけだが、たとえ気休めではあっても、現状を変えようとする意思が民意によって示されることが、選挙の効用ではあるわけで、誰がやっても変わらないと斜に構える姿勢では、気休めにもならないわけで、気休めさえも拒否するような態度でいようとするのなら、それもそれで見上げた根性かも知れないが、世の中にはそんなにご立派な人はごく僅かしかいないだろうから、何かこれまでとは違った民意を示すような世の中の流れが生じていて、多くの人がそれに同調する機運が生まれるなら、選挙による政治体制の変化も期待できるのだろうが、特定の誰かの都合や恣意的な世論操作によって、そのような気運が生まれるわけでもないだろうし、こればかりはその場での様々な思惑や要因が複雑に絡み合った、偶然の巡り合わせとしか言えない面があるだろうし、その逆の一見必然的に感じられる世の中のヒエラルキーや法治体制も、元を正せば詐欺やペテンで成り立っているような欺瞞の体制なのだから、どのような出自の者であろと、たとえ詐欺やペテンで成り上がった者であろうと、そのような体制に異議申し立てをするような成り行きになっているとすれば、理性的に支持されるような由緒正しい政治理念や人道精神からかけ離れていても、かけ離れているからこそ体制を打倒する可能性を期待され、衆愚的な支持を得られる機会が巡って来ているのであり、実際に今回はそれが実現したのであり、このような機運が世界的に高まっている背景が、時流に乗ったポピュリストたちを後押ししているのではないか。


11月8日「誤解したがっていること」

 何か誤解したがっていることがあるとすれば、それは何だろうか。時として人は世の中の情勢に関して穿った見方をしたいのかも知れず、他人とはひと味違ったことを述べたい衝動に駆られる時もあるだろうが、そういうことではないとすれば、例えば何か画期的なアイデアを思いつきたいのかも知れず、思いつこうと欲すれば思いつけるわけでもないことは承知していながらも、それでも思いつきたいから、それが勝手な都合であることもわかっていながら、やはり何かを思いつけるはずだと思い込み、何か根拠の定かでない怪しげな方法にすがりつこうとするが、そこに誤解があるとは思えない。どうもそういうことではないらしい。では何を誤解しているというのか。それがわかれば苦労はしないが、実際に都合の良いアイデアを思いつけずに苦労しているとすると、なぜ苦労しているのかその理由を知るに至れるだろうか。果たしてそれを思いつけないから苦労しているのだろうか。たぶんその辺に誤解があるのかも知れず、それを思いつけないから苦労している、と誤解したがっているのではないか。

 たとえ都合の良いアイデアを思いついたところで、苦労がなくなるどころか、そのアイデアを実現させるには、さらなる苦労を強いられるだろう。確かにそれを思いつけない苦労と、思いついたアイデアを実現しようとする苦労では、苦労の質が違うだろうし、それを実現しようとする苦労は、前向きに受け入れられる苦労であり、何も思いつけずに絶望的な気分でいるよりはだいぶマシであることは、容易に想像がつくが、実際には何も思いつけないからといって、苦労しているとは限らず、場合によっては何も思いつけない方が、思いついてそれを実現しようとするよりは、だいぶマシな状況の中で生活していることもあり得るわけで、何かを思いついてそれを実現しようとしたばかりに、周りの人たちも巻き込んでひどい境遇に陥れて、迷惑をかけっぱなしな状況になっているとすれば、しかも努力の甲斐なく結局実現できなかったら、何も思いつかない状態よりも、さらに悪化した状態になるわけで、そうなると努力も苦労も水泡に帰して、何も思いつけずに絶望的な気分でいるよりも、さらにひどい気分となるかも知れない。

 それでも何か誤解したがっていることがあるとすれば、何もやらないよりは、何かやった方がだいぶマシであり、たとえそのことでやる前よりも状況が悪化しようと、そのおかげでひどい状況の中で絶望的な気分を味わっていようと、後悔する気にはなれない場合もありそうで、そうなると後からやらなければよかったと後悔しているとは思われたくないのではないか。例えばそれが、シリア難民や今なお現地で反政府武装闘争を繰り広げている人たちの言い分に近いかどうかはわからないが、それに関して誰が誤解したがっているのかは、陰謀論者の想像にまかせるしかないのかも知れず、多くの人たちが自分たちの都合に合わせて、誤解したがっているだろうし、それが誤解だなんてこれっぽっちも思ってもいないだろうし、何か見解を述べれば、述べている自らの立場を正当化せずにはいられないだろうし、そこに自らの欺瞞が紛れ込まないように、細心の注意を払わなければならない立場の人たちには苦労が絶えないかも知れないが、傍観者は無責任なことを言っていられる分、苦労とは無縁でいられるかも知れないが、すでに無関心となってしまった人たちからは見捨てられたも同然で、そんなこととは無関係だと思うなら、それもひとつの立場だろうし、何にせよ関係者は解決のための都合の良いアイデアを見つけられずに苦労している最中なのだろうか。


11月7日「権力関係と自負」

 なるべく物事を簡単に考えるなら、おかしなことをやっている人たちを批判していればいいわけだが、心の中で引っかかっているのは、そんなことではない。心という想像の産物は物ではないが、それがおかしなことなのだろうか。実際のおかしなことはそんなことでもなく、唐突に何かを思いついたとき、誰がそれをやろうとしているのか、あるいはなぜそれをやろうとしているのか、それが求める問いでもなく、ただ漠然と逆説的なことを述べるなら、目指しているのは目指されてはいないことであり、たぶん誰もが簡単そうに思われることをやろうとしているわけではない。できることは限られているし、それをやる時間も限られているかもしれないが、何ができるのかもわかっていないのかもしれない。事態がこじれてしまうのは、それがおかしいとは思わない人たちが、おかしなことをやっているときであり、それがおかしいと批判する人たちとは価値観が違うと判断すれば納得できるかもしれないが、おかしいと思っている人たちも、そのおかしなことをやらざるを得ないような立場になっている場合もありうるわけで、やらざるを得ないことをやらないわけにはいかないから、すでにそこで事態がこじれているわけだ。どこでどう事態がこんがらがっているのかよくわからないうちに、やりたくもないことをやらざるを得ない状況へと追い込まれ、そのやらざるを得ないことをやらないと、その場の収拾がつかなくなるようだと、やはりそのやりたくもないことをやるしかなく、実際にそういうことをやりながらなんとか生活の糧を得ている人たちは、それを批判している人たちとは立場が異なるわけで、それらの人たちに批判されたからといって、やっていることをやめるわけにはいかなくなっている状況の中で、そのおかしなことをやっている現実があるわけだから、いくらやめろと言われても、やめるわけにはいかないだろう。

 誰かが大変な思いをして社会を支えていると自負していようと、そんなことなどおかまいなしにそれを利用して好き勝手なことをやろうとする者などいくらでもいそうだし、時が経てばそのとき大変な思いをした人たちは何も報われずに世の中から忘れられて消え去っていくのではないか。おかしなことをやっていると批判されている人たちも、それを批判している人たちも同様かもしれず、その時やっていたことが後から役に立つどころか、ただの無駄で無意味なことにしかならなくても、その時その場ではやりたくもないのにやらざるを得ないような成り行きになっているとしたら、実際にそれをやっている現実があるのだろうし、そんなことをやりながらも思い悩む人もいるだろうし、それが定めだと諦めて、割り切りながらやっている人もいるのではないか。そしてそんな事情などおかまいなしに、おかしなことをやっているのだから、それを容赦なく批判し非難し糾弾する人たちもいるわけで、物事を簡単に考えるならそうするのが当然であり、批判して当然のことを批判している気でいるわけだが、別にそれの何がおかしいわけでもない。そしてその何がおかしいわけでもないという感覚が、実際に批判されている人たちも抱く感覚なのかもしれないし、批判されているようなことをやる必然性を感じているとすれば、やはり別におかしいことはやっていないと感じられても当然のわけで、批判されている人たちに自分たちが大変な思いをして世の中を支えているという自負心があるとすれば、その一方で心の中で引っかかってくるのは、なぜこんな大変な思いをしながらやらざるを得ないことをやっているのに、それを批判してくる人たちは許せないという反感であり、そんな感情が湧いてくるのも無理もないことだろうし、それもそうなって当然の成り行きなのだろうが、それは相対的にどちらがどうというわけでもないだけの話で、そのような成り行きをもたらしているのは、そこでの権力関係が介在しているのだろうから、当然のことながら権力を行使して無理なことをやっている側が非難されてしかるべきで、しかも権力を行使することによって無理なことをやれている状況があるわけだ。それがそこでの絶対的な関係であり、それをやらざるを得ないように仕向けている原因なのだろう。


11月6日「必然の成り行き」

 この世界に陰謀が渦巻いていると思ってみても、まるでスパイ映画のようなことが行われていると想像してみても、一般人が直接そこに手出しできるわけでもないだろうし、関心があるのはもっぱら現実ではなくフィクションとしての関心だろうし、何やら妄想を抱いているわけだが、国会の中で進行している成り行きを外部から一般人が止められるわけでもないのに、止めてみせると息巻いている人たちもいるわけだから、しかもそうやって大勢の人が集まって抗議の意思表示をしないとメディアが取り上げてくれないし、近頃の主要なマスメディアはその抗議運動の規模がある程度大きくなっても、無視を決め込んでいるわけだから、ネットメディアで個人が抗議の意思表示を表すぐらいが関の山なのだろうが、それで構わないのではないか。ネットで個人が抗議の意思を示すことぐらいで構わないのであり、別に一般大衆がマスメディアに従うことはないわけだ。集団でまとまっている必要はなく、個人が分散して勝手なことを主張しているぐらいがちょうどいいのかもしれない。それがネット時代の普通のスタイルであり、まやかしの共感など要らないのかもしれず、組織的な権力の行使に組織的に争う必要はなく、現実に組織的に抗えないから無力であり、無力であるからこそ相対的に非暴力的なことを行えるのだろう。そして現状でそれ以上を求めるのは無理なのではないか。

 別にそれ以上を求める必要はないのであり、無理に集団化する必要もなく、集団化しようとしてもできないからこそ、個々の人たちがネットで勝手なことを主張している環境が成り立っているのではないか。そういう環境の中では組織的な大量動員などできないだろうし、する必要もないわけで、権力を行使することができにくい環境にもなっているわけで、無理にやろうとすれば単純化した政治的イデオロギーに従うことで、自らの愚かさをネット上にさらけ出さなければならないわけだから、それにしてもその大半が匿名なのだろうから、信用など何も得られないだろうし、全てを単純化した主張で一色に染めることもできないわけだ。そんなわけでできないことをやろうとしても無駄だろうし、無駄であるにも関わらずやろうとしている人たちは、どうみても道理の合わないことを主張せざるを得ず、少し考えればおかしいように思われる内容の主張をごり押しするしかないのだろうが、何を訴えてみてもついてくる人はそんなにはいないようだ。まず第一にそんな主張など信用できないということだろうし、同調したり共感したりしても、実際に何がどうなるわけでもないということでもあり、ただ自らに不都合がない限りにおいて、同調したり共感したりできるだけで、それ以上の関係など求めはしないのだから、少なくとも命がけでやることではないわけだ。

 それとは異なり現実の世界では、莫大な資金と資源と労力を費やして、大規模な無駄で無意味なことが行われ、それが戦争ともなれば数多くの人命が損なわれ、土地建物や大規模設備などのインフラが灰燼に帰すわけだが、それらの破壊には集団的で組織的な暴力が行使されているわけで、平和な地域ではそれが行使されないまでも、組織的で集団的な権力の源泉とは結局のところ暴力による威嚇なわけだから、それに一般人が対抗できるわけもなく、できるわけもないのに対抗する必要はないわけだが、実際には警察権力による強制排除などの暴力の行使に直面してしまうわけで、そこに矛盾と不条理があると言ってしまえば、それで何が解決するわけでもないし、それをどうすることもできないのだろうが、それを単純化した政治イデオロギーで隠蔽しようとしても、無理なことはわかりきっていて、現実にそこでおかしいことが行われていて、そうならざるを得ない成り行きがあるわけだから、それを事の善悪に単純化したりやっていることを正当化せずに、ひどいことが行われていることぐらいは認めないと、他のとの兼ね合いがとれなくなって、ごまかしようのない欺瞞があらわとなってしまうわけだが、それでもなんとか体裁を取り繕うような態度なのだろうから、ますます墓穴を掘ってしまうわけだが、とりあえずそんな自覚もなく平然としていられるならしめたもので、それがまかり通るようなら、もはやこれから先はなんでもありでも構わないわけだが、果たしてそれらの集団的で組織的な権力の行使というのが、いつまで続くのやらなどと余裕をこいている人はいないだろうし、国会での強行採決などに危機感を募らせ、深刻ぶることしかできないのが関の山なのだろうが、やはりそれでも構わないのかもしれない。


11月5日「TPPに関して」

 新自由主義という言葉を象徴的で否定的な価値概念として使いながらTPPと絡めて批判する手法は、それ自体がどうということはないのだが、何か常套句として批判している人たちの言説の中で定着しているわけで、いつものように日本の農業が壊滅するだの、公的な医療保険制度がなくなるだの、日本の国民がグローバル企業の奴隷になるだの、それらの極端な誇張表現とともに、恐ろしい事態を新自由主義的な経済政策やTPPがもたらすと警鐘を鳴らしているわけだが、本当にそうなるかどうかはさておき、TPPのような複数の国家間の協定が、どれほどその地域の経済に影響を及ぼすのかはよくわからないところだし、TPPを主導していたアメリカの政府は大統領の交代時期であり、有力な次期大統領候補の二人ともTPPへの反対を明言していて、議会でも承認のめどが立ってないのだから、現時点ではTPPが本当に発動するのかどうかさえわからない段階であることは確かで、日本の国会では委員会で関連法案を強行採決して、なんとか形だけでもTPP推進の意思表示を行なっている最中なのだろうが、TPPの内容がどうであれ、多国間で話し合いをすることは、外交としてはよくあることの延長上にあるのかもしれないが、それが何か実質的な効力を持つまでに至るかどうかは、そうなるのは極めて稀なことなのかもしれず、今回もこのままではあまり実効性のない形骸化した協定となってしまう可能性の方が高いのではないか。

 多国間で異なる制度を維持していると、貿易に関しては関税の率が国ごとに異なっていれば不公平になりがちだが、国ごとで産業構成などの事情も異なるから、異なる制度になっているのは自然な状態なのだろうが、貿易の促進のために制度を同じにしようと話し合うのも自然な成り行きではあるだろうし、そうした経緯でTPPが出てきたわけだが、それ以前にGATT(関税貿易一般協定)の多角的貿易交渉がまとまらなかった経緯もあり、まずは二国間での自由貿易協定FTAや経済連携協定EPAの拡大版であるTPPを先行させようという思惑もあるのだろうし、そうした流れが今後さらに促進するのか、あるいはその逆の保護貿易が盛んになるのか、という簡単な二者択一というわけではなく、国同士の力関係や各国の国内事情などが複雑に絡み合って、自由貿易的な部分も保護貿易的な部分も混在した、但し書きの多い妥協的で変則的な協定になる可能性が高いだろうし、自由貿易という建前は堅持しつつも、都合の悪い部分では保護貿易的な猶予も残しつつ、結局はこれまでの延長上でなんとか協定の整合性を目指すような成り行きになるのではないか。だから何が何でも絶対反対を唱える人たちが脅すような、特定の産業分野の壊滅するだの人々が大企業の奴隷になるだのの、極端で大げさな成り行きにはならないだろうし、結果的に壊滅するように見えるとしたら、それはすでに空洞化や形骸化が進んでいる産業の分野なのではないか。


11月4日「同じ現象の二つの側面」

 結果ありきの審議というのは中身のない型どおりの通過儀礼となってしまいがちだろうが、いくら審議を尽くしても結果が覆らないのなら、そういうものだと諦めるのも致し方のないところだろうか。印象だけで何を言ってみても始まらないが、都合のいい時だけ政治家に何かを求めるのはおかしいだろうし、その何かが政治倫理という抽象的でどうとでも恣意的に解釈できるようなものなら、あまり重視する気にもなれないだろうか。国民に対して政治家が誠実に振る舞うように心がけるのは、自分たちの支持者には誠実に振る舞っているように見せたいからで、その政治家を選挙で選んでいるのは有権者である国民なのだから、いくら形だけの中身のない審議を行おうとも、議会の運営上戦略的にそうしているわけで、たとえそんなことをやったところで次の選挙でも当選すれば、国民の信任を得たことにはなるのだろうし、彼らの支持者たちから信頼されているから、選挙で当選して政治家をやっていられるわけだ。彼らのやり方を批判している人たちは彼らには投票しない人たちであり、自分たちに投票してくれない人たちに対して誠実に振る舞っても、彼らにとっては何の利益にもならないし、むしろ彼らの支持者たちはそのような人たちとは敵対しているわけだから、自分たちを批判する人たちに譲歩するようなことがあれば、かえって支持者たちにそっぽを向かれ、次の選挙で当選がおぼつかなくなるかもしれず、そういう意味でも、自分たちを批判してくるような人たちの言うことを聞くわけにはいかないだろう。そして批判者の方も批判しながらやっつけようとしているわけだから、自分たちの言うことを聞いてくれるなんて思ってもいないだろうし、そう言うわけで批判する人たちは自分たちの都合に合わせた批判を繰り返し、批判される側は聞く耳など持とうともしないわけだが、それが通常の状況なのだから、別に騒ぐほどのことでもないわけで、しかも批判している人たちが騒ぐのが当然の成り行きではあるわけだ。

 そしてそうなって当然の成り行きへと事態が推移しているとすれば、それはどうということはない通常の成り行きであり、批判している人たちからすれば深刻な事態であることが、批判されている人たちからすれば通常の事態であるわけだから、もはや深刻な事態と通常の事態というのが、同じ事態に対する立場上の違いから生じる二つの異なる認識を表しているに過ぎないわけで、一方にとっては通常の事態であることが他方にとっては深刻な事態であることは、通常と深刻という言葉上の差異が、同じ事態に対する捉え方の違いから生じる認識の違いでしかなく、どちらに与するわけでもない人からすれば、どうということはない差異でしかなく、無関心であっても構わないようなことなのではないか。そしてそうであるなら批判している人たちとは異なる認識であるわけで、そのことに無関心であれば取り立てておかしな認識ではないだろうし、もうその時点でそれを深刻な事態と受け止めている人たちとは認識を共有していないのはもちろんのこと、どうということはないという認識があるのなら、批判者たちが直面している事態に、それに与しない人たちは直面していない可能性もあるわけで、そこから意識が遊離しかかっているともいえるだろうか。しかもそこから批判者たちを相手にしない世論までが形成されつつあるのかもしれず、相手にされないのだから、それも批判者たちにとっては深刻な状況なのだろうが、その相手にしないような世論に同調しながら意見を述べている人たちにとっては、それが好都合でもあるわけで、うるさい批判者たちを相手にしなくてもいいのなら、批判圧力がなくなって、好き勝手にいくらでも都合の良い意見を主張していられる環境が形成され、それこそが彼らの望む状況なのかもしれないが、結局それも状況に対する恣意的な認識から生じる主張に違いないわけだから、そんなことをいくら主張しても何がどうなるわけでもなく、それもどうということはない通常の成り行きの中で述べられていることであり、それらの全ては状況を変える力などなく、ただ状況に合わせてなされる二種類の対応でしかない。


11月3日「もっともらしい嘘」

 世の中に今まで以上に利己的な経済至上主義や集団的な国粋主義が蔓延って、民主主義の要である個人の人権の尊重や、公共の利益が損なわれているようだと、それによって人も社会も劣化していると言えるだろうか。それに関して何か危機感を抱くような気持ちになるとしたら、それはその人が理想とする状況というのが、未だかつて実現されたためしがない状況だということを知らないからだろうか。知らないわけではないだろうが、目指すべき理想というのが軽んじられている社会というのは、何か危機感を抱かざるを得ないような状況の深刻さを感じさせるものなのかもしれず、人々や国家や企業がこのまま経済至上主義や国粋主義を追求して行ったら、いずれ何らかの破局的な争いを招くことは目に見えているのかもしれず、すでに国や企業や武装組織が世界各地で争っていて、そんな争いが今後さらに激化するようなら、そんな予感が当たっていることになるのだろうが、別にそれは今に始まったことでもないし、これからもそんな争いが止むことはないだろうし、一部の人たちが指摘するように、もはや産業の発展に伴う経済活動が限界に達していて、世界的な低金利状態が示すように、資本主義経済から得られる利益が徐々に減少傾向を見せているとすれば、生き残りをかけた利益の奪い合いもさらなる激化が予想されるし、さらに追い討ちをかけるように危機を煽るような経済統計などが示されれば、メディアもそれに影響された人々も、真に危機的な状況にあることを信じるようになるだろうか。

 たとえ多くの人が危機意識を共有したところで、実質的には何もできはしないだろうが、新たに何をやろうとしなくてもいいのなら、それだけ楽な状況といえるのではないか。革命も武装闘争もいらないなら、世の中が平和になりそうなのだが、実際に革命を成し遂げようとして武装闘争の真っ只中の地域がある以上は、いらないわけではなく、その地域で武装闘争を行なっている人々にしてみれば、そうすることに必然性があり、そうしなければならないから武装闘争に参加しているのではないか。それに関連して国内で政治的な主導権を握っている勢力が権力を行使するときに、何のために権力を行使するのかといえば、まずは第一に治安を維持するためだと考えられるが、様々な武装勢力が群雄割拠しているような内戦地域では、政府が全権を掌握しておらず、治安の維持が図られていない状況なのだろうし、武力によって治安の維持が図られることが、平和になってからの経済活動を円滑に行うためには必要なのであり、そのための武装闘争なのだろうが、その一方で武装闘争には武器弾薬が必要不可欠であって、それを買うための資金が必要なのだから、武装闘争の継続には資金を得るための経済活動が欠かせないわけだが、それとは別の次元で内戦そのものが、武器弾薬を購入してそれを消費する経済活動ともいえるわけで、武器弾薬を買うための資金を得るための経済活動と、その資金を使って武器弾薬を買って戦闘行為で消費する経済活動が密接につながっているわけだから、戦争こそが究極の経済行為なのかもしれず、まさに経済至上主義の行き着く先にあるのが戦争なのだろうか。

 確かにそれが武器だろうと何だろうと、それが生産され流通して消費される過程で、利潤を得ることができるかもしれないが、借金をして買うとなると、借りた金はいつかは返さないとならなくなるわけで、最低限は利息を払い続けることによって、実質的に借りっぱなしの状況を作れるのかもしれないが、近頃は国債の金利がマイナスになるという事態にもなっているわけで、しかも通貨を発行する中央銀行が国債を大量に保有する事態にもなっていて、ただでさえ日本の場合は国家予算が税収の倍にもなって、足りない分を国債を発行して穴埋めして、さらに国債の金利がマイナスになり、その国債を中央銀行が大量に保有しているとなると、どう考えてもおかしくなっていることは確実なのだろうが、そのおかしな事態を是正できず、今のところは是正しようともしていないこともわかっていて、誰かが是正しなければいけないと主張しようものなら、それは財務省の宣伝に踊らされているとむきになって反論してくる経済評論家の類いがあとをたたないわけだが、そのような事態をまともに考慮すれば、資本主義経済が限界に近づいていると危機感を募らせるのも無理もない話かもしれないのだが、限界に近づいているからこそ、それの打破を目指してより一層の経済至上主義に傾き、危機感を煽るような論調を抑え込むためにも、集団的な国粋主義を蔓延らせようとしているのだとすれば、もはや社会が人権の尊重や公共の利益などに配慮している余裕がなくなっているとも解釈できるかもしれず、それがそれなりにもっともらしい現状認識と言えるだろうか。


11月2日「当事者意識」

 具体的に何がどうなっているわけでもないと思うのは、そう思わせる状況の中でその状況について考えているからで、実際には何もどうもなっていないわけではなく、状況の中で考えている当事者の気づかないところで、あるいはマスメディアの論調から外れたところで、何やらわけのわからぬ変動が生じているのかもしれず、別にその変動に気づかなくても構わないのだろうし、誰もが気づかない方がかえって変動が起こりやすいのかもしれず、結果的に社会に変動が起こっているのだとすれば、誰もマスメディアも気づかないような変動が起こっているのではないか。そしてそのような変動はある程度時間が経って変動が一段落してみないことにはわからないことなのかもしれない。そしてそれが起こった当時は誰もがマスメディアとともに深刻に受け止めていた出来事も、時が経ってみれば大したことでもなかったように感じられるのは、やはりそれを経験した当事者たちに特有なご都合主義的な忘却作用があり、しかも自己中心的な感覚が尚更そう思わせるのかもしれず、例えば2001年のアメリカ同時多発テロから始まって、アフガン・イラク戦争を経て、2008年の世界的な金融危機と言われたリーマン・ショックへと至る時代が、その真っ只中にいた時は、まさに激動の時代が到来したように思われたものだが、それが過ぎ去って今にして思えば、どうということはなかったようにも思え、その少し前の1980年代から90年代にかけての、東欧諸国の民主化とソ連の崩壊を経て、湾岸戦争へと至る時代にしても同様であり、また最近南海トラフの巨大地震が近づいているとしきりに噂されているが、それ以前に2004年のスマトラ沖地震や2011年の東北地方太平洋沖地震で、同程度の巨大地震を経験しているわけで、同時多発テロが今なおテロと内戦によって収拾がつかなくなっているのと同様に、地震に伴って起きた原発事故の収拾がついていない状態なのは事実だろうが、当時感じた深刻な事態も、時が過ぎれば何とも思わなくなってしまうのかもしれない。たとえ多数の死傷者を出して多大な経済的な損失を被ろうとも、直接の当事者や被害者でなければ何とも思わなくなってしまうのかもしれず、しかもその何とも思わなくなってしまった現状に気づかないわけだ。

 日本では戦争といえばすぐに軍国主義的な政治体制が起こしたアジアへの軍事拡張に起因するアメリカとの戦争が象徴的に語られるわけだが、それはすでに70年以上も前のことであり、そこから現代に至るまでに朝鮮半島での動乱からベトナム戦争などの東南アジアでの戦争を経て、今は中央アジアのアフガニスタンから中東を経てアフリカに至るまでの地域で大規模な内戦状態にあるわけで、日本は南スーダンに自衛隊を派遣している程度だから、今のところは当事者意識とは無縁だろうが、内戦地域で暮らしていたり、そこから難民となって外国へ避難している人たちにとっては、今まさに激動の時代を生きている感覚だろうし、深刻な事態の只中にいるわけだから、場合によっては命がけの感覚を味わっている最中なのではないか。そしてそれらの感覚と日本でしきりと特権的な体験として語られる戦前戦中の感覚とが、それほど隔たっているとは思えないわけで、もしかしたらそれはいつの時代でもありふれた感覚なのかもしれず、その深刻な状況だと思う感覚に何ら特権性がないとすると、その時間的あるいは場所的に深刻な事態から遠ざかっている人たちが抱く、何とも思わない感覚というのも、やはりありふれた感覚であって、いつの時代でもそれらの二つのありふれた感覚の間で、当事者意識とその欠如の感覚を共有しているのかもしれず、時間的にも場所的にも遠ざかっている人たちに、無理に当事者意識を持てと迫ってみても、大抵は相手にされない事態というのも、それらのありふれた感覚から説明がつくのではないか。そういう意味で日本で言えば戦前戦中の特権的な体験というのが、時間的に遠く隔たっているから、当事者意識の欠如となって、何とも思わないというありふれた感覚を抱かせ、昔のことを今さら蒸し返すなという否定的な反感を呼び起こすのもうなずけるところなのだが、誰も気づかない変動とは、時間的にも場所的にも遠く隔たっているのに、当事者意識を抱けという無理な要求から生じるのではなく、何とも思わないというありふれた感覚を共有することによって生じるのかもしれず、しかも何とも思わないから気づかないわけで、それは誰にも気づかれない変動となるわけだ。


11月1日「部分的な肯定と否定」

 民主主義とはどんな概念なのだろうか。それは概念というよりは理念であり理想なのかもしれないが、具体的には今は劣勢に立たされている社民勢力が政権を取って、国民本位の政治を行えば民主主義が実現するのだろうか。もちろんその国民本位の政治というのも抽象的すぎて、具体的にはどうしてほしいのかはっきりしないところだが、とりあえずは社会保障を充実させてほしいのだろうか。貧困を解消したり教育の無償化を推し進めたり、原発を廃止したり在日米軍を日本から撤退させてほしいとも思っているだろうし、政府に対する批判の中身から推測される要求とは、具体的にはそんなものだろうか。それが実現不可能だとは思えないが、またそれらの要求に対して屁理屈をこねて反論することも可能なのだろうが、それらの要求を実現させる方法が具体的には煮詰まっていないところだろうし、経済界やそれと連携しているマスメディアや官僚機構から妨害されることは目に見えているだろうし、実際に妨害されているからなかなか政権を取れない事態となっているのかもしれないが、それ以上に障害となっているのは、国民の幅広い支持を得られていないことであり、だから選挙で勝てないのだろうか。それに関して不正選挙を疑うのは簡単だが、また世論調査の信憑性を疑うのも簡単なのだろうが、疑いだしたらきりがないわけで、選挙でも世論調査でも実際に不正が行われているとすれば、もはや選挙に勝って政権交代を実現することなど不可能となってしまうから、彼らの主張する民主主義は永遠に実現しないこととなってしまいそうだ。

 民主主義の理念や理想を実現するというよりは、まずは批判することに重点を置いていると言えば、実現する方法にまで言及する必要はなくなるだろうか。別にそういう戦略が無責任だとは思わないし、ヘイトクライムやヘイトスピーチを助長する人々や集団を糾弾したり、従業員に殺人的な長時間労働を強要する企業を糾弾したり、自衛隊を内戦状態の南スーダンに派遣した政府を糾弾したり、TPPを批准しようとする政府与党を糾弾したり、その他にも色々と批判する対象には事欠かないのだろうが、そんな数々の批判に対して、それをまた批判し返すことに意味はなさそうで、批判は批判させておけばいいことなのだろうし、これまでもこれからもその手の批判は無批判に受け止めておけばいいことでしかないのかもしれず、批判の先には批判しかなく、いつまでも批判が続いていくだけなのではないか。そして批判が行われている限りは、批判する自由が保障されていることになり、たとえ批判の対象となっている政府与党や企業や官僚機構などに配慮して、マスメディアが批判を自粛しているとしても、そんなマスメディアを批判すればいいだけのことでしかなく、実際にそんな批判を繰り返す人は著名人から一般人まで大勢いる現状があるわけで、そしてそれ以上を望むべくもなく、望んだ先に何があるとも思えず、批判しなくても構わないような世の中が実現することもないのではないか。もし批判する人々に同調する人が多ければ、批判勢力が世の中の主導権を握る可能性もあるのかもしれないが、今のところは批判の対象となる勢力が主導権を握っている現状があるらしいから、たぶん批判勢力やそれに同調する人々はまだ少数派にとどまっているのかもしれない。

 現状を構成する世の中の成り行きの中で、肯定的な部分と否定的な部分とを分割して、否定的な部分を批判することはできるが、否定的な部分だけを取り除くことはできず、彼らが望んでいることがそういうことなら、やはりそれは不可能なのかもしれず、しかも彼らが肯定せざるを得ない部分から、彼らが否定し批判する部分が生じているとすれば、なおさらそんなことは不可能となってしまうのではないか。だから批判することしかできないとなると、それ以外は何も可能ではなくなってしまうだろうが、批判を繰り返すことが、批判している彼ら自身を変えることに結びつくとしたら、彼らが変わることによって、彼らが批判している対象も変わる可能性も出てくるかもしれず、世の中が変わるということは、彼らが批判する対象が変わるというよりは、批判している彼ら自身が変わることで、実現される可能性もあるということなのかもしれず、どのように変わるかは彼ら自身にはわからないことだろうし、彼ら自身が自分たちの変化に気づくことはないのかもしれず、彼らが批判している対象の変化にも気づかないのかもしれないが、彼らが踏みとどまろうとしている批判する立場というのも、世の中の変化とともにどんどん移動していってしまうものなのかもしれず、昔の批判者と今の批判者を比較して、果たして同じ立場から批判しているのかというと、どうも昔と今とでは立場がずれていることは確かで、ただ今の批判者が昔の批判者と同じ立場で同じ言葉を使って批判していると思い込んでいて、終始一貫した批判を展開していると信じることで、自分たちの自己同一性を確保しようとしているのではないか。そして世の中の変化とはその自己同一性を保持しきれなくなった時には、すでに生じていることであり、そんな思い込みや信仰が世の中で通用しなくなることが、世の中の変化を物語っているのかもしれない。


10月31日「確からしい虚構」

 どう考えても偶然の巡り合わせが招いた出来事だと思われても、実際にそうなるのが必然だと思わせるような結果を招いているとすれば、原因と結果の因果関係を説明できてしまうのだろうが、説明するために無理やり原因を特定しているように思われるなら、そんな説明など信じられないだろうし、説明される因果関係も信用できないものとなるだろうか。だが信用できないからといって、何でもかんでも偶然の巡り合わせとみなすわけにもいかないだろうし、言葉を用いて特定の出来事について説明しようとすれば、説明自体が因果関係についての説明となってしまうのかもしれず、それを説明していること自体が、そうなった原因を特定しているわけで、たとえ偶然にそうなったと説明しているとしても、それを必然的な成り行きのように説明してしまうだろうか。要するに偶然の巡り合わせが原因で、それがもとで必然的な結果を導いたと述べてしまうだろうか。意図して矛盾したことを述べているのは承知の上でさらに述べると、そのような出来事についての説明自体が原因と結果を求めているわけで、そんなふうに説明する限り、必ずその説明には原因と結果が出てくるわけで、特定の何かが原因でそのような結果に至ったという因果関係を説明してしまうわけだ。そしてたとえ原因が偶然の巡り合わせであっても、それが説明の中では特定された原因であって、そんな原因でそのような結果をもたらすなら、それが必然的な結果となるわけで、別に冗談でそんなことを述べているとしても、それがその現象や出来事についての因果関係となるのではないか。

 わざと論理的な破綻を来たしているようなことを述べたいわけではないのだが、現状の世界がこうなってしまった原因を突き止めようとする行為は、何らかの偶然の巡り合わせからこうなってしまったことは認めるにしても、それに関して批判するようなことがあるなら、必ず諸悪の根源を突き止めるのような論調となりやすく、特定の誰かや政治勢力や企業や官庁などを批判の標的として提示するしかなく、それらが悪いからこうなったという言説になるわけで、こんな結果をもたらしたのは、それらの政治勢力や企業や官庁や特定の人物が悪事を行なっているからで、それらが槍玉に挙げられ、そのせいでこうなったと批判されるわけだが、そういう批判ならいくらでも繰り返すことができ、実際に何か批判されるようなことが起こると、延々とその手の批判が繰り返され、それがマスメディアによって増幅されると、非難キャンペーンと化して、連日連夜そればかりとなってしまいがちになることもしばしばあって、執拗に続いてしまうとうんざりしてくるが、それも世の中の主導的な勢力によって、恣意的にコントロールされているようにも感じられるわけで、そのような特定の対象に対する非難キャンペーンが世論誘導に使われると、事態はさらに不快な様相を帯びてくるわけで、そこで良からぬ意図や思惑を想像してしまうわけだが、そんなふうにして世の中の情勢に関してうがった見方をしてしまうのは、もしかしたらそれこそが世論誘導に乗せられていることになるのではないか。結果から見れば特定の誰かがわざと癇に障るような発言をして、それに端を発して世論が特定の傾向を見せていれば、その誰かが世論誘導をしているように思われてしまうわけで、それに関して因果関係をあれこれと想像してしまい、そのような発言をした誰かの意図や思惑や本音や深層心理を探ろうとしてしまうわけだ。

 別にそれがメディアの罠というわけでもないのだろうが、たとえ想像していることが現状に照らし合わせて確からしいように思われても、想像を巡らせているだけであり、それに関して噂話程度のフィクションを構成できるにしても、それがフィクションのレベルでは興味深い話にはなるのだろうが、その興味深い話の内容が世論に少なからず影響を及ぼすにしても、わざと世間の一般大衆が喜ぶようなデマを流すあくどい輩がいたり、近頃はそれ専門の偏向メディアもあるわけだし、さすがにネットを中心にそんなのばかりで食傷気味ではあるにしても、果たしてそんなお粗末な行為に関わっている人たちの思惑通りの世の中になっているのかといえば、どうもそうではないような気がするわけで、現実にはそうなっていないからこそ、それらの人たちは世論誘導によって世の中を思い通りの方向に導こうとしているのだろうし、導きたいのだろうが、そんなやり方では駄目だからうまくはいっていないわけだが、なぜ駄目なのかといえば、すでに事態がそのような行為を超えて進行中だからだろうか。要するにそれ以前に、憶測や推測に基づいてこんなふうにうがった見方をされてしまうこと自体が、たわいないことでしかなく、これもフィクションのレベルでの話でしかないのかもしれず、実際に事の真相がどうなっているかなんて、誰にわかるわけでもなく、何かそれらしい原因を設定して、もっともらしい因果関係から説明すれば、何やら信用できそうな話を構成できるかもしれないが、話自体はどこまでいってもそれ以上でも以下でもなく、フィクションを超えて現実の世界へとつながっていると思われようと、それを信じるか否かはその人次第であり、別にそれらの興味深くて本当らしい話など信じなくても構わないのではないか。信じなくても構わないはっきりした理由があるわけではないが、少なくとも全ては偶然の巡り合わせが招いた結果だとも言えるわけだから、それ以上の詮索は無用であり、信じないこと自体が深刻な事態をもたらすとは考えられない。


10月30日「高価な見世物」

 大雑把に言って18世紀後半にイギリスで始まる産業革命以来、産業技術の発達に従って人力で行う労働が機械の駆動に置き換えられてきた歴史的な経緯はあるが、一方でプロスポーツのように人力で行う労働を、観客に見せて利益を得ようとする、ショービジネスの発達も伴っているわけで、機械の駆動による作業の部分では、コストの削減や効率などの生産性が重視される一方で、人が直接行う部分に関してはその作業自体が特権化され、場合によってはそれが見世物として提示される傾向にもあり、人力で作業する割合の高い製造物は、高級車や高級腕時計などのように、概して高価な贅沢品に分類されるものが多いだろうし、プロスポーツのように人力の作業自体を見世物にしている場合は、作業している労働者に直接多額の高給が支払われ、また高級車や高級腕時計などの贅沢品も、高価な品を買えることを他人に見せつける意味もあるだろうし、やはり見世物的な特性が強調される製造物であることは確かだ。見世物的な製品には人間国宝が作った伝統工芸品や有名な画家が描いた絵画などから、莫大な制作費を費やして作られるハリウッド超大作の映画まで色々ありそうだが、そこには希少性の原理が働いていて、伝統工芸師や有名な画家などはその人しか作れないものを作るわけで、年俸が数十億円にもなる世界的に有名なプロスポーツ選手も、その人にしかできないプレーによって観客を魅了しているのだろうし、ハリウッド超大作に出演する俳優なども、同様に個性的な演技とカリスマ性によって観客を魅了していて、その映画の制作を請け負っている監督やプロデューサーなども、その人でないと出せない映像的な魅力によって、観客を魅了していることになるのだろうか。

 だが社会の中でそのような希少性を売りにして活躍できる人は限られていて、その人の才能と努力と幸運に恵まれて、大人数による熾烈な競争を勝ち抜いた末に、その希少な立場を占有できるわけだが、結局そのような見世物に携わる人々を支えているのは、その人をその分野の権威として讃えている一般の人々であり、その人が権威であるように見せるマスメディアであり、場合によってはその人の功績を認めて、勲章の類いを授与する国家でもあるわけだが、ノーベル賞だのアカデミー賞だのの世間的に認められた権威を認定する機関もあるわけで、程度の差はあるものの、社会がその中で希少価値を担うごく少数の人々を選び出して、その人を頂点とした権威的な階層構造を作り出しているように見える面もあるだろうか。その社会自体がその中で暮らしている人々の集団意識の中で成り立っている想像上の構成物でしかないのだろうが、一方では産業技術によって開発された機械の駆動によって、人力の作業が駆逐される傾向にあるわけだが、その反対に特定の人力作業だけを高価で希少な見世物として保存して、それに携わるごく少数の人達をその分野の権威として賞賛する動作があるわけだから、要するにそれは労働の博物館化とでも見なせば納得できるだろうか。そのある種の労働だけを価値の高い見世物として展示するような行為は、たぶん人々が生きていく上で必要とされる生活必需品を作る動作とはかけ離れた行為だろうし、必ずしもそれなしでは生きていけないわけでもないのに、そのようなものこそが価値の高いものとして崇められ、それに携わるごく少数の人々が権威として人々の上に君臨している姿は、かつての王侯貴族や僧侶などを連想させはしないだろうか。


10月29日「わかりにくいこと」

 戦場に最前線があるように、各種の抗議活動にも最前線があるらしく、そこで戦っている人たちには正義を主張する権利があるだろうか。そのような行為の正しさではなく、そこで主張される道理の正しさでもなく、では何が正しいのかと言えば、必ずしも正しくない行為をやり、道理にかなっていない主張をすれば、それが日々普通に行われている行為となり、その場での利害関係から影響を受けた主張となるだろうし、それらが必ずしも正しいとは言えない行為や主張であるのと比べれば、各種の抗議活動やそこで主張されている内容は正しいといえるだろうか。そうだとするなら普段の生活の中でなされる行為や主張が、その手の正しさから外れてしまうのは、身の回りを取り巻く環境や状況が正しい行為をやらせないのであり、正しいことを主張しようとする意識を捻じ曲げてしまうからだろうか。たぶんそんなことではなく、その場の状況に応じて行動しているのであり、その場というのがそれに応じた主張をもたらすのではないか。政府のやっていることに対する各種の抗議活動の場では、それに応じた行為と主張があり、それ以外でもその場の状況に応じた行為と主張があるのではないか。その場でそうせざるを得ない行為があり主張があるということは、他の人たちがその行為や主張に感化されたりされなかったりする成り行きにも、その人たちのおかれた立場や境遇があるということにもなりかねず、だからどうしたということにもなってしまうだろうが、人々はそうなることを積極的に求めているわけではなく、できればそれに逆らいたいのであり、そういう成り行きから自由になりたいのではないか。その場の状況に拘束され制約された行為や主張が鬱陶しく思われるのかもしれず、本当はその行為や主張の中身に反応すべきなのだろうが、人々の感情が反応するのはいつもその仕方であり、抗議するなら抗議の仕方に眉をひそめて反感を抱き、また抗議に対する警察組織の暴力的な対応にも反発するわけで、なぜ人々が抗議しているのか、その理由にまで至らずに、その抗議の正当性をねじ曲げる方向で、何やら良からぬ画策が行われている傾向があるのだろうか。

 そうだとしてもそれらは全てその場に順応した対応であり、警察組織による抗議する人々への暴言や差別発言も含めて、そうなるべくしてなるような成り行きの中で発生した出来事に過ぎないだろうか。そこで何が問題となっているわけではなく、そこに居合わせた人々が自分たちが何を演じるべきかわかっていて、そういう成り行きの中で演じなければならない役割を演じていることになるのだろうか。結果から見ればその通りかもしれないが、結果から傍観者気取りで高みの見物を装ってはまずいのであり、そこに参加している人々を応援しなければならず、それらの抗議活動に賛同する必要もあるわけで、場合によっては参加することまで迫られるような成り行きの人たちまで出てくるのかもしれず、実際に部外者に甘んじていても構わない立場をかなぐり捨てて、直接参加している人たちまでいるのではないか。それが市民運動としての実践となるのだろうか。たぶんそれでも構わないのではないか。それ以外がないわけではないが、単なる傍観者でしかない者たちが、そのような行為を否定するのはまずいのかもしれず、否定できないとしたら、不用意に口を挟まないことが求められるのかもしれないが、そのような成り行きに対して懸命な距離の取り方などありはしないだろうし、賢く振る舞う必要もなく、かえって世間一般の良識や常識から逸脱した見解を述べても構わないのかもしれず、それが何を意味するわけでもないのだろうが、単なるパフォーマンスとして機能するような行為を引き出していて、そのようなパフォーマンスの空回りが、そこに関わる人々がその場の状況に絡め取られていることの証しとなっているのかもしれず、そのような状態のまま何を主張しても、同じ主張の繰り返しとなるのは仕方のないことなのだろうが、そこではそんな主張しかできないのであり、ただ警察側の理不尽な行為に抗議するしかなく、理不尽な挑発に乗って抗議活動が暴力的な雰囲気を纏うにしても、それもその場の成り行きに順応した結果であり、そこではそれが自然な行為となってしまい、他にとりようのない態度でしかないわけだから、それ以上の対応などありはしないわけで、そこから先はそれを見ている人たちが判断することでしかないわけだ。


10月28日「分割と対立」

 日本で失業率が低いのは、難民や移民を積極的に受け入れないからかもしれないが、専門家に言わせればそんな要因は無視して、各種の経済統計やデータの解析に基づいて何かもっともらしい理由を述べるだろうか。一方で人道的な見地からシリア難民などを大量に受け入れたドイツでは、難民や移民などによる犯罪が多発したことなどから、移民排斥を掲げる国粋主義勢力が勢いを増しているようで、人道的な見地からすれば良いことをしたメルケル政権が窮地に陥っているとの報道もあるようで、そういう面で日本政府の難民支援のための資金は出すが人は受け入れない消極的な政策が、決して褒められた行為ではないにしても、それが失業率を低く抑えることや治安の安定に関して効果を上げているのだとすれば、実利をもたらしていることになるのだろうか。自国民の利害と他国民の利害が一致しない場合は、政府は当然自国民の利益を優先させようとするのかもしれないが、日本の良識派の主張によれば、日本政府は自国民の利益よりは自国の大企業の利益を優先していて、また各省庁などの官僚機構の利益も優先していることになるわけだが、要するに国民よりは国家の利益を優先していることになるらしく、国家の利害と国民の利害が一致しないということは、国粋主義勢力から見たら、またおかしな論理と見なされそうだが、その辺が国粋主義勢力による親日勢力と反日勢力という恣意的な分割を可能とさせているわけで、反日勢力と名指しされている人々から見れば、それもまたおかしな論理だと思われるだろうし、なんとか自分たちの立場や主張を正当化するために、おかしな分割や分類を世の中に広めようと躍起となっている傾向があるにせよ、本当に国と国との間で、あるいは国民と国家との間で、さらに国民と国家と企業との間で、何かはっきりした利害関係があるのかないのか、どうもよくわからない面があるのかもしれない。

 そもそも敵対勢力を想定しないと成り立たない主張というのが、本当に信用できる主張なのかが、疑問を感じる点でもあり、敵と味方を分割する行為自体が、味方を擁護して敵を攻撃する口実となるわけだから、その擁護や攻撃の言説がそのまま主張となるなら、その一つの集団を二つに分割する契機というのが、主張の全てを含んでいると言えるだろうか。それは最近の労働組合の連合と野党共闘を目指す勢力との原発政策を巡る対立にも表れているように、原発が廃止されると原発関連の雇用がなくなる、というはっきりした労働組合の利害を設定して、その利害をめぐって対立の構図を作るわけだが、そこには例えば難民を受け入れるか否かという人道的な問題と同じように、原発が事故を起こせば広範囲にわたって多大な被害を出す、という現状の雇用状況とは異なる次元での問題があるわけで、簡単に言えは組織や集団としての利己的な利益と、公共の利益との対立が問題となっているのではないか。それが難民問題では国民の利益を優先させるか、困っている人がいたら国籍の別なく助けるべきかという対立だとすれば、国民の利益が利己的な利益で、世界市民の利益が公共の利益となるだろうが、原発に関してなら原発関連事業で雇用されている労働者の利益が利己的な利益となり、原発に反対している人たちの利益が公共の利益となるかもしれないが、果たして難民が世界市民を代表しているのかという疑問とともに、原発に反対する人々の利益が公共の利益と一致しているのかというと、原発を推進する側の企業や政府や人々は、そうではないと主張したいのだろうし、それらの原発を推進する勢力の思惑からすれば、原発に反対する人々をその他大勢の人々から分割して、場合によっては悪意を込めて、ごく少数の狂信的な集団だとみなしたいようでもあり、とてもではないが公共の利益を代表するような人たちではない、とその他大勢の人たちに信じ込ませたいのかもしれないが、それも人々を敵と味方とに分割して、対立させることによって民衆の力を弱める戦略であり、いわゆる分断工作とみなすべきなのだろうか。そんな分断工作が功を奏しているから政局が安定していると言えば、何やら説得力を伴うのかもしれないが、それも単純すぎる認識であり、実態はもっと複雑で錯綜した事物の絡み合いがあって現状が構成されているのかもしれない。


10月27日「おかしな妄想」

 現代が歴史的に見て文明のどのような段階に達しているのかなんてわかるはずもないことだろうが、現状が何かの極限にまで至っているとは思えないにしても、それ以前にどうにもならない段階にあるということは、果たしてどのような状態のことを言うのか、それが現代の状況そのものだというのなら話は早いし、だからと言っていたずらに危機的な状況だと騒いでいれば何とかなるわけでもないが、何とかするような手段や方法が果たしてあるのかどうか、それもわからないところだろうし、何もわかっていないわけではないが、わかっていることというのが、わかっていたところでどうにもならないようなことだとしたら、何もやりようがないわけだが、どうもそうではないような気もするし、そうではないからこそ、現状について考えているのだろうか。どうということはない現状なのだろうが、そのどうということはない状況というのが、様々な問題を含む状況だから、それを何とかしなければならないと思わせるような状況であり、しかもそう思ったところで何ができるわけでもない状況なのだろうか。そして何ができるわけでもない思いつつも、それとは別の方面で何かをやっている人もいるわけで、そのメディア上で騒ぎ立てられている様々な社会問題とは別の方面で、何かをやっている人たちに期待してもいいのではないか。別に期待しなくても何かをやっているわけだから、放っておいても構わないのだろうが、かえってメディアなどで騒ぎ立てられない方がいいのだろうし、放っておかれる方が好都合であり、その方がそれらの人たちを利することになるのかもしれない。

 それが地道な努力というと聞こえはいいが、実態はそんなものでもなく、実質的には何もやっていないのと同じことかもしれず、政治や経済とは全く関係がないわけではないが、表面的には無関係だと思われていた方がいいだろうし、これまでのどのような活動とも異なっているわけでもないが、全く新しい活動だと言えないこともなく、それが何かと問われたら、何でもないとしか答えようがないわけで、この何でもないような状況の中で、普通に身の回りの環境に溶け込んでいれば、それが何らかの世の中の変革に結びつくなら、それに越したことがないというよりは、そんなことはあり得ないと思っておいた方が、より妥当な認識となるわけだが、この期に及んで下手に騒ぎ立てる必要はないのかもしれず、だからと言って何が差し迫っているとも思えないのだが、たとえ差し迫っている出来事が巨大地震だろうと原発事故だろうと構わないわけで、事を大げさに考える必要も、必要以上に心配する必要もなく、普通に暮らしている次元を超えて何を考える必要もないわけで、現状でやれる範囲内のことをやっていれば、それで構わないことは確かであって、たぶんそれを超えて何ができるわけでもなく、実際に何もできないだろう。逆にそれを超えてできるように思ってしまうから、おかしな妄想を抱いてしまうのであり、政府の意向に逆らう特定の政治勢力を危険視したり、国民の団結を訴えてみたり、国のために自分が何ができるか真剣に考えてしまったりするわけだが、それでも構わないのであり、そんなことを思ってしまうだけ、まだ心理的に余裕がある証拠かもしれず、そう思うこと自体は何ら本質的なことではないのだろうが、そんなこととは裏腹に、それとの関連で実際にやっていることはと言えば、選挙で候補者名や政党名を記入して投票する行為でしかなく、それもどうということはない何でもない行為であり、例えば戦場で武器を使って敵と命の取り合いをするのとは、全く異なる些細な行為でしかないわけだ。その辺の次元の違いや落差を認識できないことが、おかしな妄想を抱く原因なのではないか。


10月26日「盲点」

 商品の生産にはまずは商品を作る機械の生産が必要だろうし、機械の生産にも商品の生産にもその原材料の生産が欠かせず、原材料の生産にはその生産に使う機械の生産が欠かせず、それらのすべてには何らかの形で機械が必要とされるわけだが、機械とは道具であり、人は道具を用いて文明を築いてきた。また機械を作るにも動かすにも、作る原理や動かす原理が必要で、何らかの原理に基づいて物や情報の生産が行われ、それを生産して流通させる活動を人が行なっていて、その活動がサービスと呼ばれる行為なのだろうが、生産と流通をなるべく効率的に行うには、いかにサービスを自動化させるかが鍵となってくるだろうし、サービスの自動化によって人件費が節約できるなら、自動化の推進とともにだんだん人がいらなくなってくるだろうか。現状では全く人手がいらなくなるというのはあり得ないだろうが、一方で生産された商品を買ってくれる消費者がいないと、商品が売れなくなってしまうだろうし、物や情報の生産や流通に関わることで人は賃金を得て、その賃金を用いて商品を買うというサイクルの中で、人の生活が成り立っているとすると、人が賃金を得られなければ、商品が売れないことになり、そうなると市場経済が成り立たなくなるわけで、そうはならないとしたら、サービスの自動化にも限界があるということだろうか。というかそんな理屈そのものに見落としている点があるのかもしれない。

 例えばサービスの自動化は延々と進展するにしても、それと並行して新たな分野へと人材が移っていって、人は絶えず人手を必要する仕事を創出し続けることが可能だろうか。そうだとするとサービスの自動化の進展とともに、従来からある産業分野ではどんどん人口が減ってきて、減った分の人材が新たな産業分野へと移っていくことになるだろうが、現状に照らし合わせてみて、新たに人材を必要とする産業分野というのが、そう簡単に出現するものだろうか。ここ二十年間に関してはインターネットの出現と発展によって、それに関わる分野での新たな人手の需要を生み出したのかもしれないが、それも自動化を促進する方向への発展であり、必要とされる人材そのものが少人数で済むような産業分野だとも思われるのだが、産業そのものの規模が拡大し続けているなら、それに比例して関わる人材もそれだけ多くなるのだから、他の分野で余った人材を吸収するだけの余地があるということだろうか。いずれにしても人余りが顕在化してくればそれだけ不況になるだろうし、人の生活が成り立つ規模に見合った産業の規模となり、産業が成り立つ範囲内で商品の生産と流通も行われ、商品が買われて利益が出る範囲内で産業が成り立つわけで、そんなふうにして人が存在する限りは、物や情報の生産と流通は途絶えないし、それに関わる人が存在する限りは、経済が回っていくことになるのだろうし、そういう次元でいくら粗探しをしてみても、危機感を煽るようなネタなど出てこないだろうか。


10月25日「継続が示している現実」

 わざと話を錯綜させようとしているのかもしれず、不意に何かと何かの間に挟まったものを取り除きたくなる。そんな誘惑に駆られているわけでもないが、どうやっても取り除けないなら諦めてそのままにしておくべきだろうか。そんな仮定や話の設定自体がフィクションであることは明白で、それ以前に取り除こうと悪戦苦闘している最中に、そんな偽りの作り話にのめり込んでいるとは思えないのだが、いくら取り除こうと試みてもどうしても取り除けない場合、それ以上に何をすればいいのだろうか。やはり諦めて何もできないことを悟るべきだろうか。そんな現実を受け入れた上で、さらにこだわるような理由はなさそうで、ただ現実を受け入れられなければこだわるのであり、たぶんそうなるといつまでも気にかかり、取り除く方法を考え続けるのではないか。それが現状への抵抗の感情に基づいているとは必ずしも言えないわけではないが、取り除けない状況が諦めるように仕向けてくるのであれば、そう仕向けてくるからそれに逆らいたくもなるわけで、いくら逆らっても埒が開かなければ、やがて諦める決断を迫られる成り行きとなれば、そんな圧力に屈したことにもなるわけで、それで抵抗する理由がなくなるとは思えないが、その場は引き下がらなければならず、素直に負けを認めて、また別の機会にかけるしかないとも思うかもしれないが、機会が永遠にやってこなければ、それっきりとなりそうで、もはやそのとき圧力に屈して負けを認めたことなどどうでもよくなってしまいそうだが、事態がそこまで進展していないと感じている限りは、諦めることなどできはしないし、そこから引き下がるきっかけもなければ、また次の機会などありはしないことを感じ取っているなら、諦めないでそこでさらなる試行錯誤を続けようとするのではないか。

 そしてその試行錯誤が現状への抵抗を表しているのだろうが、実際にそれが何のたとえ話でもないとすれば、得られる教訓など何も期待できないし、期待しない方がいいだろうか。総じて何かの役に立つ話というのが信用できなければ、ただ偶然の思いつきだけでなんとかしようとしているわけではないにしても、考えることは物事の道理や論理的な帰結へと向かい、理屈や理論から必然的な結果を導き出そうとして、それを利用する形で具体的な実践を試みようとするだろうし、あとは成り行きにまかせてその場その場で機転を利かせ、協力してくれる周囲の関係者とともに事業を成功に導こうとするのではないか。もちろんたとえ話のレベルではそれが具体的な実践に結びつくわけではなく、そういう成り行きになる可能性があるかもしれないというだけで、現実にやっていることは、そんなたとえ話では明らかにならない個々の事例につきまとう限界が、そこでやられていることとそれに携わる人々を、その作業に特有の成り行きへとつなぎとめ、他から区別しつつも、同時にその他の様々な事例のうちの一つの特殊なケースとして極限するのだが、たとえ話の中では薄められた一般化を被り、それがそれである必然性を削がれて、そこで何かやっていて、そのやっていることが社会の役に立っていたり、個人や団体に利益をもたらしていたりする以外にも、何か肯定されるような効用があるにしても、逆に社会に害をもたらしていたり、それをやっているおがげで、誰かが損害を被っていたりする場合は、批判や糾弾の対象となるのだろうが、それをやるに至る成り行きに必然的な事情がある限りは、それをやめさせるのは困難を極めるだろうし、その辺の事情は原発やダムなどでも立証済みだろう。

 自らが単純なことをやっていると思いたいなら、やっていることの良し悪しの次元で、その是非を考えればいいことになってしまいそうだが、一方で免れない運命としか思えないような成り行きがあるわけで、良いか悪いかではなく、やらざるを得ないような成り行きの中でやっていることとなると、やめるわけにはいかなくなるような状況があり、実際にそうなると良し悪しの判断ができなくなり、批判されようが糾弾されようが、利益が出ようが損害を被ろうと、それをやっている現状の中に心身ともにつなぎとめられ、それをやっていることに関しては身動きが取れなくなっているわけで、さらに情念や執念などの感情が絡んでくると、ますますやっていること自体へとのめり込んでいってしまうわけだが、他人からすればなんでもないようなことであっても、当人からすればやっていることに対する重みが違うのだろうし、そんなこだわりが人を行為へと駆り立てているわけで、外部からではどうすることもできない場合もあるだろうし、そこにやめさせるようなきっかけを挟み込むのは至難の業であったり、死ぬまでやるようなことなら、もはや放っておくしかないのかもしれない。そして当人にとってはそれをやることが、他の何にも増して優先すべき事柄であっても、周りの人々にとっては迷惑この上ないことである場合もあるだろうし、それを承知しながらもやらざるを得ない事情というのもあるのかもしれず、たとえそれが独りよがりの利己的な欲望から生じていようと、実際にそれをやっていること自体が、それをやれることを証明しているのだから、要するにそれが不可能な行為ではないということを自らの実践によって示していることになるわけだ。そしてそんな当人にそれを行わせている成り行きがある限りは、それをやめる気にはなれないだろうし、自らやめようとはしないだろう。


10月24日「厄災」

 批判しようとすればいくらでも批判できそうなことが、意識の中で何をもたらすのかと言えば、簡単に批判の対象に言及しているうちに、それ以外のことに気づかなくさせているのだろうか。だがそうだとしても他の何に気づけばいいのかなんてわからないし、実際に何に気づいているわけでもないとすると、別に気づかないままでも構わないようにも思われるだろうし、仮に気づきにくいことに気づいたところで、それが何になるわけでもないと思うなら、それだけのことだろうか。何も思わなければそれだけのことなのだろうが、それに関して何か思うところがあればそれにこだわるだろうし、そのこだわっていることについて改めて考えようとするのかもしれない。無視できずに逃げ隠れできない状況なら、それと面と向き合って何とか一定の結論を導き出そうとするだろうし、その結論で納得したつもりになりたいのではないか。しかしそこで何から逃げようとしているのか、それがわかるに越したことはないだろうが、それが何だかわからなければ、それ以降は何も考えようとしないだろうし、何について考えようとしているのか認識できなければ、そこから先の展開は意味不明となるだけだろうか。何も考えようがない時点で己の思考力が試されているのだろうか。だがそれではわざと不可能に挑戦しているつもりになっているだけで、まだ具体的には何も述べていない状態で、それについて言及すべきかどうか迷っているのかもしれないが、誰が迷っているのでもなく、自意識はそんな見え透いた嘘では不満だろうし、具体的な事象について言及したいし、すべきだとも思っているのにもかかわらず、それについてはっきりと言及できないもどかしさに苛立ち、無駄に言葉を連ねるだけの現状に焦って、思わず真実を語りそうになっているのかもしれない。

 だが真実とは何なのか。それが何でもないから語り損なっているのかもしれず、無理に真実を語ろうとするあまり、容易にはそれを語り得ないことに気づけなくなっているとしたら、実際に語っているそれは空疎な無内容ではないにしても、自らが直面している具体的な事象ではなさそうで、自分とは無関係のメディア経由の間接的な言及に基づく虚構である場合もあるだろうが、なぜそれが虚構なのかといえば、自身が現実に直面している事象とは別の場所と別の時間帯で、自らとは無関係に繰り広げられている事象だからだろうか。それでも現実の事象についての言及ならば虚構であるはずがなく、現実の世界で起こっている出来事であることに変わりはないだろうが、それが自分とは無関係だと思われてしまうことが、虚構と関係があるのかもしれない。興味のある事象ならそれとの関係を作ろうとして、それについて言及するわけで、それについて言及することがそれとの関係そのものなのだろうが、逆に興味がなければ無関係を装うというより、それとの関係に気づかないのかもしれず、影響を及ぼされていることにも気づかないわけで、興味がない対象との関係というのは、無関係だと思わせるように仕向けられていることなのではないか。そしてその無関係の関係というのが、天変地異などの自然災害とはまた違った人災という厄災をもたらすのであり、しかも厄災をもたらされていることにも気づけないから、興味を持てないし現実の出来事だとも実感できないのだろうか。そうではなく曲がりなりにもメディア経由でそれを知るわけだから、それが現実の出来事であるとは思うのだろうが、恣意的に加工され歪められて伝えられるから、そのねじ曲げられた部分が虚構であり、その虚構の部分に気づけないわけか。気づこうとすれば気づいたつもりにはなれるのかもしれないが、今度は自らの先入観に基づく恣意的なねじ曲げが介入してきて、なかなか真実にたどり着けなくなってしまうこともあり得るだろうか。そうなると真実を語っているつもりが、偏向しねじ曲げねじ曲げられた虚構を語っていることになってしまうだろうか。自らそれに気づくのは難しいのかもしれないが、別に気づかなくても構わないことではあるのかもしれない。現にメディア上ではそれに気づかないことを売りにしている司会者やコメンテーターなどいくらでもいるのではないか。彼らはわざとではあるのかもしれないが、わざとであることにも気づかないのかもしれないのだから、それに気づいたり気づかなかったりすること自体が、彼らが売りにしている虚構の一部に過ぎないのかもしれない。


10月23日「不可能な可能性」

 国の意向に抵抗する人たちの末路があらかじめ定まっているとは思えないが、体制の維持を重視する保守的な人たちと、経済的な利害を重視する人たちには、それが負けているように見えるとすればその通りだろうし、少なくとも自分たちの価値観とは違う結果がもたらされているようには見えないはずだ。しかし国家に勝つとはどういうことなのだろうか。革命が起きて成功すれば、旧主的な国家に対する勝利となるわけだが、それでは新たな国家が出現するだけで、国家という存在そのものに対する勝利とは言い難い。だから従来型の革命ではなく、何かそれとは異なる転換が必要となるのかもしれないが、今のところはそれがなんだかわからない状況だろうし、もとからそんなものはあり得ないのかもしれない。もとからあり得ないとしても、これから誰もが予想だにしない新たな変革が起こり得る可能性は否定できないが、それが変革を望む人たちの期待と一致するとは限らないだろうか。しかしこの世界がどうなってほしいのだろうか。そしてその願望を裏切るような変革とはどのようなものだろうか。なぜ人々の期待を裏切らなければならないのか。それは現状で抵抗しているのだから、なぜ抵抗しているのかといえば、現状が気に入らないからで、しかもその気に入らない現状を変えることが困難だから、そんな現状に逆らうしかないのであり、すでにその時点で思い通りにならない現状の中で抵抗していて、そんな抵抗自体が思い通りの結果をもたらしていない状況の中で発生しているわけで、すでに期待を裏切るような状況に直面しているわけだから、結果的に体制側が人々の期待を裏切る状況を維持しようとしているわけだから、そんな状況の延長上に未来の状況があるとすれば、可能性としてはそのまま期待を裏切る状況のままである可能性が高いということになるのではないか。

 普通に考えてみればそれは当たり前の結果であって、ただ現状の維持は変革とはいえないことは確かで、人々の期待を裏切るような変革が現状維持であっては矛盾するのだろうが、変革ではないのに変革だと宣伝するのが、体制側の戦略だとすれば、そんな戦略的な手法に騙される人が多すぎるということになるだろうか。騙されているのではなく、政治的な変革とは実質的には変革ではない変革であり、それを真の変革とみなすべきではないのではないか。そしてそんな偽りの変革は必ず失敗するのであり、失敗しながらも粘り強く試みられるのが変革でもあり、そんな失敗の積み重ねが変革の原動力となっているのだろう。要するに国家を維持する限り、それは変革ではない変革になるわけで、国家を世界からなくすことが真の変革だとすれば、それは左翼だろうと右翼だろうと、国家を維持した上での変革を試みようとしているから、それがうまくいかないのは当たり前なのであり、結果的には変革ではない偽りの変革になるしかないのかもしれないが、政治的な試みとしてはそんな変革しかできないのだから、それ以上を望むべくもなく、人々は失敗することが宿命づけられた変革に期待しながらも、その必然的な失敗に落胆して、政治に裏切られたと思うしかないわけで、自分たちがその中で暮らしている国家と資本主義経済に拘束されて、それらがもたらす矛盾や不条理に苦しめられながらも、そこで生きてゆくしかない現状の中で、そんな世の中が変革されることを期待しているわけだ。そして真の変革が国家がなくなることだなんて信じられないし、なくなってもらっては困るとも思っているわけだから、人々の望む変革と真の変革が一致することなどあり得ないわけで、しかも彼らが望む変革が国家と資本主義経済によって必ず阻まれるとも思わないのだから、そこから生まれる矛盾と不条理を止揚できるわけもないのだが、たぶんそんな必ず裏切られる人々の期待と政治的な試みが、どう作用しても真の変革には行き着かないところが、そこで生じている食い違いと隔たりが、世の中を動かす原動力となっているのであり、これも矛盾していて不条理な言い方だが、それが逆説的に変革の可能性を生じさせているのではないか。人々が思いもせず予想だにしないからこそ、その可能性が生じているのだろう。


10月22日「本質から外れて」

 正義を主張する人は無理なことをやっている。どう考えても無理なように思われるなら、その正義を成り立たせるための理屈は屁理屈であり、それはデマであり捏造でありこじつけになるだろうか。そうしなければ自らの正義を維持できないのなら、その正義に関しては完全無欠であるはずがないが、たぶん完全無欠の正義を求めてはまずいだろうし、無理にそれを追求してしまうと、どうしてもデマや捏造やこじつけなどのごまかしに頼らなければならなくなり、そんな無理をしている分、その正義自体に不自然さが感じられてしまうようになるだろう。そんなぎこちない正義を主張するには、それを維持する上でごまかし隠蔽しなければならないような不都合な負の側面が出てきて、そういうことに気づけば、誰もそんな正義の主張など求めないし、宣伝しても見向きもしなくなるだろうが、世の中の一定数の人たちは必ずそんな正義に引っかかって、無理な主張の虜となってしまうようで、しかもそれを信じて疑わず、その主張に敵対している人たちを攻撃してやまないようだが、たぶん相手にしなければ何でもないことなのだろうが、それ以前に関わらなければ相手にされないのであり、傍観していれば何でもないことなのだろう。そしてそれで済んでしまうような世の中なら何の問題もないわけだが、それでは済まないから、何かと争いごとが起きて、世間の注目を浴びるわけで、そんなメディア経由の注目を真に受けると、その主張に対して是非を問う罠にもはまり込んでしまうだろうか。

 だが是非がない主張があるだろうか。それに対する是非を問わなければ、何も問題などなくなってしまうのだろうが、是非があると是の方が正しいのか非の方が正しいのかを決めなければならなくなる。ではそれも決めなければ、やはり何も問題などなくなってしまうだろうか。主張の是非を問い是非を決めることが、問題の解決に結びつけばいいのだろうが、果たしてそれが解決といえるだろうか。別にいえなくても幕引きしてしまえばいいのかもしれず、それに越したことはないだろうが、それを解決として一件落着とみなして、事態を沈静化することが、果たして良いことなのか悪いことなのか、その是非も問われるならキリがなくなって、問題など解決できるはずもなく、延々とどっちつかずの中途半端な過渡状態が続いていくだけなのかもしれないが、それに耐え続けなければならないとしたら、今度は人々の忍耐が試されていることにでもなるのだろうか。そうだとすれば、下手に正義を主張したり求めたりしないで、自分たちが何をごまかしているのかについての認識を深めた方が得策なのだろうか。そうだからといって、別に自己嫌悪や自己卑下に至ろうとしているのではないし、少なくとも無理なことをやろうとしていたり、無理な要求を出しているのかについて、公平かつ妥当な方法で検証してみなければならないだろうか。そんな検証方法がどこにあるのか、それはどんな方法なのか分からなければ検証しようがないだろうが、その主張がデマや捏造やこじつけに基づいているか否かについては、身の回りの社会情勢に照らし合わせてみれば、なんとなくわかる面もあるのではないか。

 そうだとしても別に百パーセント正しいことを主張しなくてもいいだろうし、個人や各種団体の利害が微妙に異なっていたり、場合によっては激しく対立していたりする社会の中で、様々な方面から様々な主張がされている限りは、百パーセント正しい主張などあり得ず、各人や各種団体の利害が百パーセント一致することもないわけで、主張している中でこだわっている部分が、屁理屈になっていない印象があるなら、ごく真っ当な主張だとみなしておいても構わないのではないか。またデマや捏造やこじつけばかりに感じられる主張については、それを頭ごなしに否定したり、そんな主張を強引に繰り返す人たちを蔑んだり憎むのではなく、なぜそんな主張を繰り返すのかを考えてみる必要がありそうで、彼らがそんな主張を繰り返す理由や原因を、できればそんな主張を正当化できる範囲内で探る必要があるだろうか。彼らの主張を否定したり非難したり糾弾することは簡単だが、彼らの方でも対立する主張を繰り返す人たちを、同じように否定したり非難したり糾弾しているわけで、それを簡単にできるということは、どちらにしてもお互いを正当化できる部分を見逃していることになるわけで、主張の中で肯定できる部分を無視して、相手を全否定するしかないわけだから、百パーセント正しい主張がないのと同じように、百パーセント間違っている主張もあり得ないことを考慮できずにいるわけだ。現場で激しくやり合っている人たちには、そんな甘っちょろいことはできないにしても、間接的に賛同したり擁護している人たちには、当事者でない分ある程度は余裕があるわけで、世の中の大多数の人たちは当事者気分にはなれても、はっきりとした利害関係にはないわけで、最終的にはどちらか一方を支持するにしても、関心があるならそこに至る過程で、両者の立場に照らし合わせて正当化できる部分や、肯定せざるを得ない面を考えてみた方がいいのではないか。


10月21日「印象操作」

 価値観とは何か。その価値観に基づいて、例えば世の中の情勢について、できるだけ公平な立場で何かはっきりしたことを述べられるだろうか。何が良くて何が悪いのかを示すことができれば、そして何が正しくて何が間違っているのかを説明できれば、その良いと判断したことや正しいことを推し進めることが、ある種の人々や団体などにとっては、切実に求められていることになるだろうか。そうであるなら話は簡単なのだろうが、実際はそうではなく、多くの人たちから悪いとみなされたり、間違った行いだと判断されていることが、批判されながらもやらざるを得ない成り行きとなっていて、それを誰も止められない状況があって、そんな現状では止められないことを、そのような現状を批判する人々や団体が止めようとして、何やら政治的な呼びかけを行っている現状があるのだろうが、果たしてそれが正しい現状認識といえるだろうか。そんなことにも正しい認識と間違った認識とがあり、ある種の人々や団体にとっては、正しい現状認識が求められていることになるだろうか。現状認識が正しいのか間違っているのかについては、何やら政治的な主義主張の違いによって、真逆の認識へと至る場合があり、それはそれらの人たちが信じている価値観に基づいて、恣意的に現状を解釈しているからだろうが、そうなるとそれらの人たちにとって正しい行いを推し進めることが、果たして良いのか悪いのかが、価値観を共有している人やそうでない人によって、判断の分かれるところかもしれず、どちらの人にとっても、まさか間違った現状認識を抱くことが良いとは思えないだろうが、敵対する人や団体にとっては、敵が間違った現状認識でいることを願い、そのおかげで自滅してほしいとも思っているのかもしれず、そんな戦略的な判断が、誰にとって良くて悪いのかと、また誰にとって正しくまた間違っているかに応じて、そのような現状認識を利用する上で重要となってくるだろうか。

 もちろんそんなことをはっきりと意識している人などいくらもいないだろうし、ほとんどの人は意識せずに、良いと判断したり、正しい認識に従って行動しているつもりになっているのだろうが、そこに対立したり敵対するような争点があるなら、相違する価値観が絡んでいて、価値観の相違に基づいて対立しているのなら分かりやすいのだろうが、実際にはそうではなく、対立する双方がごまかし合いの化かし合いを繰り広げていることが多く、巧妙な争点の隠蔽やずらしが横行していて、自分たちの陣営が百パーセント正しく良い行いをしているように宣伝するわけで、そうなる常に敵対する相手の側が全面的に間違っていて悪いことをしていると主張されるのだろうし、そんな宣伝合戦が行われている水準では、どちらも間違っていて、真実を明かさないことに関しては欺瞞に囚われているようにしか感じられないわけで、たとえそれが反対派と警察機関との暴力的な衝突であろうと、そこでの衝突そのものの是非は、あるいは警察機関による市民運動家への暴力的は排除行為や、その際の差別的な発言などの是非は、判断を要することではないわけで、例えば選挙の時に判断を要するのは、彼らが反対運動をしている対象そのものにあるわけで、それの是非が選挙で問われているなら、そちらの方の判断が本質的であり重要となってくるわけだが、それをなんとか矮小な次元へとずらそうとする思惑があるのだとしたら、構図的に無抵抗な市民を弾圧する警察機関という印象を薄めようとしたり、取り払おうとしてくるのかもしれず、そのためにメディアを駆使して印象操作をしているのかもしれないが、そのような操作が見え透いているとしても、それを肯定するような価値観に染まっている人たちは、何とかして信じようとするだろうし、彼らにとってはそれが正しいことであり良い行いになるなら、そのような操作を積極的に推進しようとして、それが自分たちを活かすやり方だと考えるのではないか。


10月20日「評価の正当性」

 現代から見れば過去に生きた人は、その人が生きた時代につなぎとめられているように思えるだろうが、今を生きる人はそれとは違い、今という絶えず過ぎ去りつつある時間の中に生きていて、この時代に生じている時流に流されているようにも、あるいはその時流に乗って何かやっているようにも思えるかもしれないが、そうやってまだ動いている最中だから、とりあえずは完結しておらず、すでに過ぎ去ってしまった時間の中にとどまっているわけではないと思いたいだろうし、その一方で時間は空疎で中身がなく、その中で何が動いているのかと言えば、具体的には人や物や情報が動いていて、そこで人が何をやっているのかが問題となってくるだろうか。それは当人の意識の問題に過ぎないのかもしれず、現実には誰が何をやっていようと、個人的にはその人の周囲の人たちが関わる範囲内で意識されることであり、社会全体にとっては部分的で何の影響もない場合もありそうで、当人とは関わりのない赤の他人にとっては、取り立てて意識できなければ、どうでもいいことになるのかもしれず、少しは知っているとしても別に親しくなければ、その人については通り一遍の知識しか持ち合わせていないだろうし、その人について何か語る機会があるにしても、ただの人である以上には何も語りようがないだろうか。そうではなく少しでもその人に興味があるならば、まずはその人がやっていることについて語ろうとするのではないか。さらにそれはその人だけではなく、その人が所属している組織や団体について語ることにもなるだろうし、その組織や団体がやっていることにも言及するような成り行きになれば、その人やその組織や団体と曲がりなりにも何らかの関わりがあることになるのではないか。

 人と社会との関わりの中で何かやっているとすると、その人の個人的な事情よりは、その人が所属している組織や団体の意向が優先されるのは当然かもしれないが、その組織や団体が何らかの経済的な機能を持ち合わせている場合は、それが何らかの装置として稼働していることが何よりも優先されるだろうし、それを動かすことによって利益が生じている場合なら、なおさら組織や団体にとっては装置の存在が重要となってくるだろうが、人が組織や団体の一員としてその装置につなぎとめられている場合、その人が実際に何をやっているのかと言えば、装置の一部として組み込まれて機能していることになり、そこで自らの意志で何かをやっていると思い込んでいても、それは装置に同期しながら、装置によって駆動させられているようにもみなされるかもしれず、そう考えれば主体的に何かやっているようには見えないかもしれないが、その人が組織や団体の中で主要な地位や主導的な役割を担っている場合には、その装置を操縦したり制御している気になれる場合も出てくるだろうし、例えばその装置が社会であったり国家であっても、その主導権を握っているつもりになれるなら、組織や団体よりは自分の意志を反映させながら何かをやっている気になれるのかもしれず、果たしてそれが本当にその人の思い通りになっているのかと言えば、主導権を握っているつもりの人には、周囲の支持を背景にしてそう思える場合もあるだろうが、実際問題としては、ただ自分が所属する組織や団体の意向に従っていて、その意向と自分がやろうとしていることが同期している限りにおいて、主体的に何かやっている気になれるわけで、それがうまくいっている範囲内では、実際にその人がやっているつもりのことは、組織や団体の意向に反したことではないだろうし、装置の機能に逆らうようなことでもなく、結果的にその意向に従い機能を滞りなく動作させている限りで、その人に主導権が与えられていて、何らかの理由であるいは状況の変化によって、意向に反するようになってしまったり、装置がうまく機能しなくなってしまえば、その人の権限はたちまち剥奪されてしまうのではないか。そして実際にそれがわかるのは、それが過去の出来事になってからであり、その人が過去の人として過去の時代につなぎとめられてから、その人の業績は客観的に評価されるのであり、そういう意味では現在進行形での評価などあてにならず、たとえ世論調査で支持率が高くても、なぜかその大衆の支持というのが、衆愚的な支持でしかない場合の方が、歴史的にはよく当てはまる結果として、後から明らかとなるのではないか。しかもその手の支持を受けた人は忘れ去られてしまう場合も多いのかもしれず、実際に忘却されてしまうというのが、そのままその人の正当な評価となるのかもしれない。


10月19日「停滞と流動」

 変化とは誰も気づかないうちに水面下で進行していて、気づいた時には後戻りができないほどにすっかり変わっているものだろうか。しかし実際にそんなふうにして変化した事例を挙げることができるだろうか。思い当たる具体例を示せなければ嘘になってしまいそうだが、感覚としてはそうなってしまうような気がするにしても、実際には世の中が変わってしまってから、あれこれとメディア関連の人たちが変化の原因を探ろうとして、その結果なにやら誰の目にも明らかな原因が示されると、それで大方の人たちは納得してしまいそうで、そんな後追い的な結論には不満なら、誰もが気づかないうちに変化の兆しを敏感に察知して、予言者のごとくにそれを大言壮語したい衝動に駆られるのかもしれず、誰がそうしたいのかと言えば、やはりそれもメディア上に巣食っている人たちのうちに、そんな人がいるのかもしれない。だが実際に何がどう変わろうとしているのだろうか。変わろうとしているのではなく、人々は何よりも変化を阻もうしていて、現状を守ろうとしているのではないか。だから今後世の中が変化するとすれば、変化を阻もうとする人々の意向に逆らいながら変化してゆくのだろうし、それは変化を阻もうとする行為が、肯定的にも否定的にも受け止められるとしても、どちらの場合でもそのような行為に逆らうような作用が生じる可能性があり、それが良い方向なのか悪い方向なのかを判断するのが難しいような変化であるのかもしれず、どちらかと言えば人々の思いとは無関係な変化になるのではないか。要するにそれは誰にとっても思いがけない変化であり、そんな変化によって人々も人々の意識も変化せざるを得ず、変化した後から以前との連続性を求めるような成り行きにはなるのだろうが、うまく変化する前と後での連続性を説明できれば、それで納得してしまって、変化の新しさが忘れられてしまうのかもしれず、結局そこで何が変わったのかわからなくなってしまって、人々の意識の中で変化など何も起こらなかったように思われてしまうのかもしれないが、それも世の中の誰もが変化に気づかない原因となるだろうか。

 もうすでに何かが以前とは変わってきているとすれば、ではいったいこの時点で何に気づくべきなのか。誰も気づかないようなことなら、わかるはずもないだろうし、別にわからなくても構わないのだろうが、気づくことが気づくべきことだとは限らず、何かに気づいたつもりであっても、それとは別のことには気づいていないわけで、気づくべきか否かとは違う次元で気づいていたり、気づいたことがその後の変化に結びつくとも限らず、気づいたことを意識できない場合もありそうで、それに気づいていながら、それがなんだかわからないまま、そのような変化に引きずられているうちになれてくれば、別に気にするようなことでもなくなっているのかもしれず、それと意識しないで変化を受け入れているとすれば、誰もその変化に対して抵抗などしないだろうし、抵抗できないから受け入れているのであり、これまでも時代の変化を生き抜いてきたのなら、実際に多くの人々がそのような体験の中で世の中の変化を受け入れてきたのではないか。そうだとすればそれは肯定とか否定とかの対象であるにしても、意識の中では抵抗しているつもりではあっても、変化に逆らい抵抗していることが、そのまま変化を受け入れる動作となっているのであり、変化を体験してその過程を生き延びることが、それに抵抗しながら受け入れることになるのではないか。だから変化に対して順応するのと抵抗するのとは、同時に経験する動作であり、それを意識するしないに関わらず、誰もが同時に行なっていることなのではないか。そしてそのような経験が人を変えるのであり、世の中が変わるのと並行して人も変わるのだろうが、今がその順応と抵抗が同時並行的に動作している最中なのだろうし、それが人々の間であるいは組織や集団の間で争われていることの内容なのではないか。そしてそれらの順応を強いる力と抵抗する力が相殺していれば、状況が停滞していると意識されるだろうし、どちらかの力が一方を上回っていれば、状況が流動しているように思われるだろうか。


10月18日「簡単なこと」

 当たり前のことを当たり前のことのようには思えないなら、当たり前のことがおかしいと思われる場合もあるかもしれないが、おかしいなりにもそんなことが行われる必然性があるなら、そのおかしいと思われることがまかり通っている世の中なのだろうし、それが当たり前のように行われている状況を変えられない現実の中で生きているわけだ。そんな現状の捉え方はおかしいだろうか。具体的に何がおかしいのかわからないままでは、たぶん何を捉えていることにもならず、現状について何を語ろうとしていることにもならないのかもしれない。少なくとも現状は現実の世界の状況だろうし、作り話やフィクションの類いではないはずだが、どう考えても現状にリアリティを感じられないなら、なぜそう感じられるのかを考える必要があるだろうか。必要などありはしないと断言する自信はないが、たぶん必要ではないことを語ろうとしているのだろうし、必要ではないと思われる原因を探りたいのかもしれないが、どうも必要ではなく、しかも語るとすれば必要でないことしか語られないのが現状なのかもしれず、またそれを肯定や否定の評価によって単純化するわけにもいかないようで、現状をありのままに語れるわけもないのはもちろんのこと、興味のある事象についてあれこれ言葉を弄すれば、それで何かを語ったことにもなるだろうが、何も求めていないと言えば嘘になるにしても、それが本当に興味のあることなのかと問われれば、やはりそうであるとは断言できないだろうし、何かを語ろうとして、あるいは語っているように装うために、何かしら文章を構成しようとすることは、時として興味のないどうでもいいことにまで、記述の対象を広げないことには、成り立たない行為かもしれない。

 しかしそれが当たり前の現状なのだろうか。当たり前なのではなく、ただ興味がなく語ることにもリアリティを感じられない事象の中で生きている身にとっては、それ以外にはあり得ないように思われてしまうのであり、では他に何に興味を持っていて、それについて語ることにリアリティを感じられるのかと言えば、それがフィクションなのだろうし、語るとすればそれ以外にはあり得ないのかもしれず、実際にフィクションについて語っている現状の中で、そんなフィクションと地続きの現実を体験しているわけで、なぜフィクションと現実の世界が地続きなのかと言えば、ただフィクションについて語っているのが現実の世界だからだろうか。フィクションについて現実の世界で語っているのは、確かに当たり前のことなのだが、その当たり前のことが身の回りの現実とどう結びついているのかがわからないわけではなく、単にフィクションだから現実とは関係ないと言い切れず、そのフィクションが現実を基にして構成されているなら、そのフィクションと現実の関係をあれこれ考えてみたくなるわけで、よくある表現として、現実に対する願望がフィクションに投影されていると考えれば、現実の世界では実現できそうもないことを、フィクションの中で実現しようとしているのだろうし、それが実際に実現できてしまえば自己満足に浸れるかもしれないが、フィクションの中で何がどうなろうと、一方で相変わらず現実の世界はなんともないわけで、ある面ではフィクションには現実を変える力がないわけではないだろうが、例えば現実の世界の変革に挫折した人たちが、フィクションの世界で自らの願望や理想を実現しようとしている場合は、その人たちにとっては直接この世界を変えられなかった代わりに、フィクションにのめり込んでいると捉えればいいだろうか。あるいは変えようとしても変えられなかったこの世界の悲惨な状態を、フィクションによって表現しているのだ、と前向きに捉えておいた方が、事を穏便に済ませられるだろうか。いずれにしても興味がなければ、大げさに考えるようなことでもなさそうで、そんなフィクションに感化された人たちに、世界の変革をもたらすようなことを期待するのは、筋違いの勘違いでしかないだろうか。


10月17日「利益の実態」

 それは理論というより理屈に近いのかもしれないが、商品を売ることによって得られる利益が、商品を生産する過程で用いられる労働の搾取によって生み出されるという理屈は、確かにブラック企業が従業員に低賃金の長時間労働を強いて、不当に人件費を削減し、その削減した分から利益を得ていることを考えれば、何やら正しいように思われるのだが、その一方で世の企業の全てがブラック企業というわけでもないだろうし、何よりも資本主義経済が二百年近い歳月をかけて発展してきて、今や全世界を覆っている現実が、資本主義は労働を搾取することによって利益を得ている、という単純な理屈だけで批判できるような代物ではないはずで、では労働から搾取しないようにすれば、すぐに資本主義がもたらす経済格差などの矛盾が解決するのかと言えば、どう考えてもそんなことはあり得ないだろうし、搾取をやめろと言っても、いったい利益と人件費の割合をいくらに決めるべきなのかなんて、企業ごとに規模も売り上げも違うのだから、明確な統一基準など定まるわけもなく、それ以前に企業内でも仕事内容や役職に応じて賃金格差があるわけで、そこからも経済格差が生じているわけだから、単純な理屈や論理では何も解決できないことは明らかだし、本当に企業は労働者を搾取しているのかと言えば、悪く言えばそうだとも言えるし、良く言えば企業と労働者は共存共栄の関係にあり、労働者が企業の生産した商品を買うことによって、企業活動を支えているとも言えるわけで、確かに搾取という言葉を使えば、企業と労働者との感情的な対立を引き出せるかもしれないが、だからと言って何が解決するわけでもなく、予定調和的な労使紛争以外には何がどうなるわけでもなさそうだ。

 現実には生産過程や流通過程での技術革新や効率化から、以前の生産価格より安く大量に商品を製造・流通できるようになったから、その差額が利益となって生じてくるわけで、また一方では消費者のブランド志向から、特定の高くても売れる商品もあり、そういう面を考慮すれば、必ずしも労働者を搾取するだけで利益を上げているとは言えない面もあるし、実際に資本主義経済の発展と拡大の歴史は、産業革命以来の絶え間ない技術革新や効率化と並行しているわけだから、資本主義的な経済現象は直接には産業技術の発達から生じていて、その中でも昔からある社会を構成する集団内での権力関係から生じる格差も温存されているものだから、あたかもその原因が資本主義にあるかのように思われてしまうのだろうが、人が社会的な集団を構成する上では、必ず階級や階層などの上下関係が生まれるわけで、階級が上の者が集団内で権力や権限を握って、階級が下の者を組織から生じる力を利用して統御する成り行きになり、そこから得られる富も階級が上の者から優先的に分配される仕組みとなるわけだ。結局集団内で地位が上の者は取り分が多く地位が下の者は取り分が少ないわけで、なぜそうなるのかと言えば、それは集団内で権力関係が作用しているからで、それが企業なら役職に応じた賃金格差となるだろうし、利益は株配当や借りている資金の利払いや各種の税金や再投資などに割り当てられるのではないか。そしてそうであるなら、仮に資本主義経済から別の経済体制に移行したところで、人が組織する集団内での権力関係が温存される限りで、格差がなくなることはないだろう。


10月16日「現状と未来」

 わかりやすく説明するなら、現代文明というのは、人力と機械の力を組み合わせて、人力だけで行うよりも、桁違いの質と量の物や情報やサービスを提供することで成り立っているのだろうが、一方でそれらを商品として売買することによって利益を出さなければならず、人々が暮らしてゆく上で必要な物や情報やサービスが、必要な分だけ社会全体に行き渡る他に、利益を出してその利益が資本に再転用され、その人力と機械の力を組み合わせて作動する装置である資本によって、人々が必要とする物や情報やサービスが生み出されている限りで、資本主義経済が成り立っているわけで、そのためにはまず利益を生み出す装置が維持されていなければならず、昨今何かと物議を醸している原発などもそんな装置の一つなのだろうが、もしかしたら様々な装置の維持経費が回り回って、未来への借金である国債の残高として顕在化しているのかもしれず、民間の資金だけでは維持しきれない分が、国の借金となっているとしたら、国の借金がどれほど膨れ上がったら経済が破綻するのか見ものだが、経済全体が資金の貸し借りにおける信用で成り立っているだけに、あまりにも借金が膨れ上がって人の感覚が麻痺してしまえば、利益などどうでもよくなって、ただ装置を維持するためにただで働くような制度が創設されるような成り行きともなりかねず、要するに戦時経済のように物資の配給制となれば、なんとかなるわけで、仮に資本主義経済が崩壊するとしても、それほど深刻な事態となるようなことはないのかもしれない。

 深刻な事態というのがどれほどのものなのかは、大げさに騒ぎたければいくらでも悲惨な状況を想定したいだろうし、それ以前に世界大戦のような大規模な戦争でも起きれば、資本装置が破壊されて経済がリセットしてしまうわけだから、また戦後にハイパーインフレでも起これば紙幣が紙切れ同然となり、たちまち借金がなかったことになってしまうわけで、膨大な財政赤字を抱えている政府としては、願ったり叶ったりの結果となるわけで、要するに国民にとっては悲惨で深刻な事態であっても、政府と官僚機構が延命するには、全面戦争や経済破綻などのイベントは必要不可欠な通過儀礼なのかもしれず、実際に二十世紀の世界大戦の時は結果的にはそうなった経緯があったわけで、今後に起こる事態としては、騒ぎたい人たちは危機感を煽る上でそんな事態になる危険性を訴えたいわけだが、仮にそういう大規模なイベントが起こらなかったら、この世界はどうなってゆくだろうか。破局的な事態ではなく小康状態が続くなら、今まで通りの延長上で緩慢に衰退し続けるのかもしれないし、それを衰退とは呼ばずに安定と呼びかえれば、なんとなく人々の意識も苦にならない程度には推移するだろうし、まず犠牲となっているのはテロや内戦などで荒れている紛争地帯で生活している人たちであり、そして国内の貧困層も犠牲となっている自覚があるとすれば、その通りなのかもしれないが、資本装置が稼働し続ける限りは、その恩恵にあずかれる層が必ずいるわけで、その層が世の中の多数派を占めている間は、少数派を犠牲にしながらも資本主義経済は維持されるのではないか。要はどれほど借金が膨張しようと信用が崩壊しようと、農産物も含めて各種の資源が足りていて、その資源を活用して物資を作り出す資本装置が稼働し続ければ、そこから生み出される物や情報やサービスを消費する人々も存在し続けるわけだ。簡単にいうならそういうことなのだろうが、実際に社会の中で起こっていることは複雑怪奇で、様々な事象が複雑に絡み合っているので、個々の事例や出来事に関しては、そこに関わっている人たちの間では争いが絶えないだろうし、悲惨な境遇にある人などいくらでもいるだろうし、その逆にごくわずかの階層や特定の地位にある人々が、世の中の富を独占している現状もあるのだろうか。


10月15日「言論の自由」

 別に自由にものが言えているような世の中ではないが、自由にものが言えないように圧力を加える側にとっても、たぶん同じように自由にものが言えない世の中であることに変わりないだろうし、彼らは自由にものが言えないことを受け入れていて、特定の規範や慣習に縛られていることに甘んじていることを苦にしないのであり、そもそも自由のものを言うとはどう言うことなのかについてのはっきりした定義などないわけで、簡単に言えば自らの意志に逆らってまで何か言うことができるかとなると、果たしてそれが自由なのかと問われたら、自らの意志に逆らうことと自由にものを言うのとは全く違う行為かもしれず、自らの意志通りにものを言っているように思えるなら、それが自由にものを言っていると思えるだろうが、それが世間の一般常識や世の中の規範や慣習に縛られながら、ものを言っているのだとしたら、自意識が思っている自由が実は社会から束縛され規制されていることに気づいていないだけでしかなく、それが自由だと思うなら自由本来の意味から大幅にずれているわけで、それは自らの利害と社会の利害が一致していることになるだろうし、その社会の利害というのが、社会の中で主導権を握っている特定の勢力の利害であることには気づいているのかもしれないが、その利害によって不利益を被っている人たちが、一方に存在するとすれば、それが社会の中で虐げられた人々となるわけだが、社会の中で主導権を握って支配的な立場を築いている勢力と利害が一致しているなら、それらの勢力とともに不利益を被っている人々を虐げていることになるわけで、そのことに気づいていながらなおそんな行為を正当化しようとすれば、さらに自由にものが言えている状態から遠ざかってしまうだろうか。

 それでも自由にものが言えていると思っていれば、それで構わない立場でいられる場合もあるわけで、そういう人たちが実践している言論の自由は、しばしば暴言や暴論と受け取られて、良識派の人々から批判される傾向にあり、世の中のタブーに挑戦しているように装うメディア的な炎上商法などに利用されがちだが、彼らが理解できないことは、自分の意志に逆らってまで自由にものが言えるかどうかということであり、自分の利害を超えて自分が信奉する主義主張に逆らうようなことが言えない限りは、自由にものが言えていることにはならないわけで、そういう意味で自由という概念は、自らを取り巻いている社会的な制約を逸脱するような行為に結びつかない限りは、その意味や意義を達成しているとは言い難いのであり、そこまで達していないにもかかわらず、いくら自由にものを言っているつもりであっても、それは自らの社会の中での立場や地位に守られながら言っているだけで、自らが言っていることを自分の立場や地位を守るために利用しているに過ぎないわけだ。だが彼らにとってはそれでも構わないのだろうし、実際にそうやって利益を得て立場や地位を守ることは、彼らの信奉する主義主張にも合致していて、何も否定されるような筋合いではなく、それが社会全体の秩序や利益を守ることだと思えるわけだから、彼らとしては何もやましいことはしていないわけで、それに対して文句を言う方が、彼らにとっては反社会的な行為となるだろうし、社会の秩序を乱す許し難い行為として糾弾の対象ともなるのではないか。

 たぶん社会全体として利害が一致しない限りは、絶えず社会の中で主導権を握る一派とそれに逆らう一派とに分かれて、その利害を巡って対立と闘争が引き起こされて、その程度が深刻になるほど内戦などに至る危険性が高まるわけだが、世界が資本主義市場経済に覆われている限りは、全体としての利害の一致などあり得ないわけで、しかも歴史的には利害を巡って各種勢力が対立していることの方が自然な状態なのだから、脳天気に世界平和の実現などを訴えかけること自体が、荒唐無稽もいいところなのだろうが、そんなことを言える立場や地位というのも社会には用意されているのかもしれず、ローマ法王などはその代表例であるだろうし、無名の一般人がいくらネットなどで世界平和を訴えても、同じ無名の一般人にとっては、そんなのはどうでもいいことでしかないのだろうが、法王がクリスマスのミサなどで全世界に向けて訴えかければ、恒例行事の一環ではあってもとりあえずニュースとなって全世界を駆け巡るわけで、たとえそれが無名の一般人が訴えかけた時と同じように、何でもないことであるとしても、法王の社会の中での立場や地位に適った行為であり、社会の利害と一致していて、そのような行事を滞りなく行うことによって、法王の立場や地位が守られ、その信者にとっても自分たちの意向が反映された行為だと思われ、別にそれが法王の自由意志に基づいた訴えかけだと思っても、それほど不思議なことではないだろうか。そんなふうにして自由な行為だと思われることと、それが自らの意向や都合が反映された行為に結びついていることは、自由であることに対して安易な思い込みを誘発するだろうし、それはしばしば自らを取り巻いている社会とのつながりの面で不自由であることを忘れさせるわけだ。


10月14日「国家体制」

 この世の中に法律の他に万人が従うべきルールがあるとは思えないが、多くの人たちが法律以外で何か特定の決まりごとに従っているように見えるなら、それが社会の中で暗黙の掟として機能していることになるだろうか。別に暗黙でなくても構わないだろうし、そんなものがあるとしても、ルールにも色々な方面で機能するものがあるだろうから、少なくとも一つではなく複数のルールが組み合わさって、社会の中で暮らす人々をある種の局面や方面において規制しているのかもしれず、それが現実に人々の行動や言動を拘束していて、場合によってはそれを利用して利益を得ている何らかの勢力があるのかもしれない。そしてあるとすればそれは何によって従うべきだと定められているわけでもなく、明確な法律の類ではなく、慣習として人々の意識を縛っているようなものなのではないか。別にそのような暗黙の掟だけで社会が成り立っているわけでもないし、表向きは明確な法律が社会の秩序を保っていることになっているし、何よりも法支配の原則が揺らぐようなことがあってはまずいだろうから、それとこれとは別次元のことであって、そんな法律の次元と暗黙の掟の次元が重層的に絡み合っているのが、社会の真の姿だと捉えておくべきだろうか。法律ではっきりと規定されている面と、人々の間で曖昧に共有されている決まり事とがあり、その曖昧に共有されている決まり事を駆使することによって社会の主導権を握っているのが、いわゆる保守的な人々であり、それらの人々が構成する集団的な勢力が世の中に蔓延っていて、彼らが恣意的に行使する権力が人々を束縛しているのだろうし、それらの勢力は法律的に定められた特定の地位や役職を占有する人々の間にも広がっているわけか。

 世の中をそう捉えれば、法律だけではどうしようもない面があるとともに、法律そのものの制定にそれらの勢力が絡んでいると、現行の法律自体が必ずしも万人にとって平等に従うべき法律ではない可能性もあるわけで、自分たちの勢力が有利に働くような法律というのが、それらの勢力が望むような法律だろうし、実際にそうなっている面もあるなら、現行の法律の恩恵を被っている人たちが、社会の主導権を握っている人たちであり、すでにその時点で万人にとって不平等な法律がまかり通っていることになるわけだが、法律そのものは変更可能であり、規定された手続きに則って変更できるのだから、絶えず世の中の主導権を握っている勢力に好都合な法律へと変更される可能性があるわけで、歴史的にも絶えず変更され続けてきた経緯もあって、そういう意味で法律に絶対的な力があるわけではなく、新たに都合の良い法律を制定したり、これまでの法律を都合のいいように変更できるという現実は、別にその法律を無条件に守らなければならないわけではなく、実質的には守らせようとする体制に従うことを強いられているだけで、何によって強いられているのかといえば、警察権力による牽制によって強いられているのであり、しかもその警察権力が世の中の主導権を握っている勢力に従うことを強いられているとすれば、それらの勢力に刃向かう人たちには勝ち目がないことになるわけで、それはいかに民主的な国家体制であっても、避けられない構造であるのかもしれず、どのような形態の国家体制であっても、程度の強弱はあるものの、概ねそのような構造を持っているのではないか。そしてそんな体制下で暮らしている人々が理解すべきことは、いかに強権的な国家体制であろうと、そのような体制を支えているのは自分たちでしかないということであり、刃向わなければどんどんそのような体制が強化されるということだ。しかも正義は体制側にあって、刃向かう者はいつの時代も反逆者の汚名を着せられるということだ。


10月13日「以前との違い」

 日頃から思いがけない事態に直面したいとは思っていないだろうが、実際に何か不可思議な成り行きを経験すると、それがなんらかの心変わりを予感させ、現実に心変わりをしているのかもしれないのだが、その場ではそれを意識することも気づくこともできず、別に自己を完璧に制御できるわけでもなく、いつも冷静沈着でいられるような盤石な心理状態ではないにしても、不意に出現したその場の状況の変化に、とりあえず平常心を保ちながら対応したつもりが、わざと罠にはまったわけでもないのに、結果的にはそうとしか思えないような状況に追い込まれてしまうなんてあり得るだろうか。自分で自分を陥れようとして罠を仕掛けたわけではないことは確かだろうが、現実にそう思われてしまうのは、勝手な思い込みを直面している事態に結びつけようとする心理作用かもしれず、それは自己中心的な自意識過剰の表れで、今のところはなんでもないのに、その勝手な思い込みから疑心暗鬼になっていることは明らかで、それがわかっていながらそんな思い込みを払拭できず、自分を情緒不安定な心理状態へと追い込んでしまうのは、魔が差したといえばその通りなのかもしれないが、そんな自分ではどうすることもできない不可思議な経験に感動している一方で、それが妙に新鮮な感覚をもたらしているようにも思え、なんだかそれでも構わないような気もしていて、まだ本当の窮地には陥ってないような気もしてくるし、現時点ではわかっていることよりわかっていない部分の方が圧倒的に大きいのかもしれず、確かにその時の通常の心理状態からの外れ具合が尋常ではなかったようにも思われるが、後から振り返ればとても冷静沈着な判断でやったことなのかもしれないし、このままなんだかわからないままに終わるにしても、さらに思いがけない事態が待ち受けているにしても、それが一時の過ちであろうと、取り返しのつかない事態を招き寄せていようと、勝手に都合よく状況を捉えるなら、外界からの作用によって心理状態が揺れ動いているだけのことであり、それ以上でも以下でもなく、勝手な思い込みにはなんの根拠もないようでいて、そんな絶えずフィードバックしてくる反省的な心理作用が、自己をできるだけ正気に保とうとしているのだろうか。

 なんの落ち度もないわけではないだろうが、不意に反省している自分に驚くとしても、驚いている自分と反省している自分が意識の中で分裂しているわけでもないだろうし、時間的には前後関係があり、また同時進行で何か思っている場合もあるだろうし、意識は時間が進むにつれて直線的に連続するにしても、その都度考えていることを意識しているわけでもなく、意識していないところで何か考えていて、後から自意識の意表をついた行動や言動を誘発する場合もありそうで、それが何を意味するにしても、何かを意味するような行為だと思うしかないのかもしれず、絶えず何かを起こした結果から反省するだけで、反省しながらもやってしまったことをやり直すわけには行かないわけで、やってしまった結果を受け入れなければならず、それをこれからやることに活かさなければならないと思うかもしれないが、そんな行動や言動は絶えずそれを意識する前に行われることであり、活かそうと心がけても活かすことはできないのかもしれない。ただ何かをやった後からこれまでの経験を活かすことができたと思い込めるわけで、自己嫌悪や疑心暗鬼となって情緒不安定になりたくなければ、自らの行いを肯定するにしろ否定するにしろ、それとは別に何かをやってしまった現実を認めるしかないだろうか。それが取り返しのつかないことであろうとなかろうと、そんな現実を経験しているわけで、経験したからといって、今後それが何かの役に立ったり立たなかったりすると思えたり思えなかったりする限りで、それを経験しただけではなく、それがかけがえのない経験であろうとなかろうと、経験することによって得たものものも失ったものもあるとすれば、たとえはっきりとは特定できなくても、それがあったりなかったりすると思えるだけでも、何か経験する以前とは異なる心持ちになれるとともに、異なった世界へと踏み込んだ気になれるだろうか。現実に踏み込んでいないと、なんの足しにもならないかもしれず、それ以前に別にこの世界を探検していることにも冒険していることにもならないだろうが、そのことに気づくだけでも、少しは以前よりは賢くなっているのかもしれず、その少しの差異に気づけることが、今まで以上に認識を深めたり新たにする上では、重要なことかもしれない。


10月12日「不要な思考」

 別に何か人々の言動や行動に異変が起きているわけではないだろうが、今の世の中が疑心暗鬼になりやすい環境であることは確からしく、何か思想的に信じられる価値観がないということが、人を不安に陥れているのだろうか。それは今に始まったことではないだろうし、ただ昔のようにはっきりした幻想を抱けなくなっているのかもしれず、はっきりした幻想とは、いつかは世の中の不条理とか矛盾とかが、解決できるような見通しがあったようにも思われ、多くの人がそれを信じていた時期があったように思われるのだが、それこそが思い違いでしかなく、状況は昔とそれほど変わらないだろうか。今の世の中が昔と比べて取り立てておかしいわけではなく、比較すること自体がどうかしていて、何をどう比較すればいいのかわからないし、今は今であって昔は昔でしかなく、無理に比較しようとしても、昔のどの時期と比較すればいいのか、比較する理由や根拠というのが不明だし、昔は良かったと思うくらいなら、それは意識の作用で漠然とそう感じているだけで、単に昔の悪い部分を思い出せないのかもしれないし、今と昔との比較自体がそんなあやふやなものでしかないのだろうから、それについて何か述べるようなことでもないのかもしれず、その程度の内容なら意味のないことだろうか。

 では今の世の中において具体的に何がおかしいのだろうか。人それぞれで異なるだろうし、何がおかしいというのではなく、社会の粗探しをしようというのでもなく、批判している人たちに向かっていちゃもんをつけようというのでもないだろうし、ならば何かと言えば、なんでもないと言ってしまうとそこで終わってしまうような状況だろうか。何に対してもなんでも簡単に批判できるとしても、その対象の何もかもが低レベルというのではないし、レベルの高低ではなく、レベルを測る基準というのが欠けているようにも思えるし、しかも批判したところで何がどうなるわけでもなく、そんなふうに考えるなら、今の世の中はなんでもないというのが、偽らざる実感であるとともに、世の中に出回っているどのような価値観も信用できないとすると、今は無価値な時代だと言えるのではないか。価値という概念によって何を測ろうとしても、測る基準がなければ、測ること自体が意味をなさずに、どうでもいいことになってしまい、何を考えていいのかわからなくなってしまうだろうし、考える必要がなければ、ではなぜ必要もないのに考えているのかといえば、考えること自体が無用であることを証明するために考えていると言えるだろうか。そんなのはあり得ないことであり、考えざるを得ないのであり、必要であるか不要であるかとは別に、考えることを強いられていると言えるのではないか。

 なぜ強いられているのかといえば、何か世の中がおかしいように感じられ、その理由や原因を探ろうとするのかもしれず、なぜおかしいのかを考えることを強いられているのだろうか。だがそうやって考えるほどなんでもないようにも思われ、考える必要や必然性が不要であることに気づいてしまうのだろうか。改めて考えるようなことではないのかもしれず、誰もがおかしい理由や原因をわかっていて、しかもわかっていてもどうすることもできないこともおかしいのであり、わかっている人たちが懸命に批判を繰り返すわけだが、それが世の中の世論に反映するわけでもなく、批判する人たちは批判しっぱなしとなるしかなく、放って置かれるわけでもないのだろうが、社会に反響することもなく吸収され、なんでもないことになってしまうわけで、実際になんでもないのだから、それ以上はどうしようもないのだろうか。実際にどうでもいいような批判なのかもしれず、批判されることがわかりきっていることが行われ、当然のことのように批判され、ただ批判されるだけで一向に何がどうなるわけでもなく、相変わらず批判されるようなことがまかり通り、やはりそれがどうしたわけでもなく、延々と批判されっぱなしであるとともに、批判されるようなことがやり続けられる状況であるとしたら、そんな世の中がおかしいと思うのは当たり前だろうし、なぜおかしいのかはわかりきったことであり、要するに誰もが批判されて当然ことしかできないのがおかしいわけで、それ以上でも以下でもないと言えるだろうか。だがそんな結論などわかりきったことであり、それもなんでもないことだろうか。


10月11日「連続性」

 そう思うのは偶然でもあり、また必然でもある。なぜそう思うのだろうか。偶然に何かが起こり、それが起こったのが必然だと思われる時、すでにそれは何かが起こった結果から、その起こった出来事を振り返っているであり、その出来事に意識が影響を受けているから、そう思ってしまうわけで、その出来事に自らがうまく対応していると思われるなら、うまくいったと思うだけではなく、運がいいとも思うだろうし、そんなふうに自分がついていると思っているうちは、その偶然の巡り合わせで起こった出来事に、自らが助けられていると思ってしまうだろうか。たとえそれが勘違いであろうと、そう思えるのなら思っておいて損はないだろうし、思っているだけならそれについて自分が内省していることにもなり、そんなふうにして過去を振り返っているうちは過去に囚われていて、過去の延長上で現在を考え、その過去との関係に囚われた未来を予想しようとするかもしれないが、その程度なら通常の思考の範囲内だろうし、都合が許す範囲でそんな思考形態から逸脱しようとも思わないだろう。しかしそれ以上に何を考えられるだろうか。そこから飛躍して想像し空想するにしても、そこからさらに自ら経験した現実から外れてしまえば、ただの荒唐無稽な妄想になるしかないだろうか。できれば荒唐無稽に行き着く手前でとどまりたいのかもしれないが、そんなふうに述べていること自体が具体的な現実から離れていて、それでは何を述べていることにもならないかもしれないが、ならばそういう意味で現実から飛躍した荒唐無稽となってしまうと、結果的に何を述べていることになるだろうか。

 全くの虚構ではないが、実際に経験した現実でもなく、ただ現実を言葉で表現している文章を読みながら反芻しているのだろうか。それも経験の一部には違いないが、それとこれを区別する必要があるだろうか。それを特別な経験だと思うこと自体が、勘違い以外の何物でもないかもしれないが、なぜそれが偶然の巡り合わせだと思えるのか。その理由を詮索するにも、偶然以外の理由が必要とは思えないかもしれず、それに気づくのは当たり前のことであり、別に運がいいわけではなく、当然の成り行きでしかないとしたら、偶然ではなく必然となってしまうわけで、その必然的な経緯というのが、過去の経験からもたらされるのだとすれば、それは物語的な必然性を意識せざるを得ないだろうか。物語の世界では偶然の出来事こそが必然的に起こり、それが起因して登場人物を助けたり死に追いやったりするわけだが、現実の世界でそれを意識するとき、すでに出来事の偶然性を意識できずにいるのかもしれず、様々な出来事を恣意的に結びつけて、意識の都合に合わせた物語を構成してしまい、そこに自らが信じている理屈や論理に合わせた因果関係まで構成されて、それがその人の主張まで生じさせてしまうのだろうが、そんな主張に他の人たちが賛同するか否かは、その人の社会の中での立場や境遇で決まってしまう場合が多いだろうし、特定の集団内や社会の中で弱い立場にある人が、理不尽な扱いを受けていることが明らかとなれば、途端にそんな扱いをしている企業などの団体が非難され、その非難の対象となる具体的な行為が糾弾されるわけだが、そんな行為が改まることはないだろうし、これまでにも起こってきた出来事が繰り返されているに過ぎず、きっとこれからも執拗に繰り返されるのは目に見えているのだろうが、そんな行為を糾弾する行為も、何かのきっかけでメディアを通じて明るみになる度に繰り返されるだろう。

 そこで確かなことは、理不尽な行為が繰り返されているのがまぎれもない現実だとしても、そんな現実から飛躍した荒唐無稽な状態というのが、そんな行為のない理想社会の虚構なのだろうし、一方で理不尽な行為の犠牲になる人は稀であり、ほとんどの人たちはその被害に遭わないのも現実であり、被害に遭うのがごく少数だから、ある意味では世の中が平穏な見せかけを保っていられるのであり、多くの人々はそんな見せかけを保ちたいのであり、被害に遭うようなごく少数の人達は気の毒だと思うだろうが、だからと言って自分たちが被害に遭っていない以上は、ごく一部で理不尽な行為が繰り返される原因が世の中の制度的な構造にあるとしても、その構造そのものを変えようとは思わないだろうし、変えられるとも思っていないだろう。また被害に遭うのは偶然の巡り合わせ程度の頻度なら、そこに構造的な欠陥があるとしても、それはごく一部の誤差の範囲内での欠陥であって、現実にほとんどの人は被害に遭っていないのだから、自分が被害に遭わない限りはそれほど騒ぐようなことではなく、メディアが騒ぐからそれにつられて騒ぐ人なども、ごく一部に煽動したくてヒステリックに騒ぎ立てる人がいるにしても、実感としてはそれほど深刻なことだとは感じられないのではないか。そこでも自らのこれまでの経験に裏打ちされた実感があるわけで、比較的平穏無事に生活できている人が多いほど、その平穏無事な生活を延長したい意向が働き、故意に波風を立てるような行動や言動を嫌う傾向にあり、悪く言えば理不尽な行為を見て見ぬ振りをする傾向もあるということになるだろうし、積極的に理不尽な行為に手を染める人はごく少数にとどまるにしても、そのような行為に歯止めをかける機運が生まれなければ、執拗に続けられることになるだろうか。それでもごく少数の犠牲者を出すだけで、全体として社会の平穏が保たれるならば、そんな世の中が続いていくことになるのかもしれない。


10月10日「達成困難」

 政治家の不都合な所業を暴露する人たちに賛同するのは、政治に関心があるということだろうか。それだけではなく、選挙で争点となるような問題に関心を持つことも、一部の政党やマスメディアなどの思惑に沿うことになるだろうか。政治に関心を持つとか逆に無関心でいるとか、そういう次元で何が争われているわけではなく、それは選挙で投票に行くか否かの判断基準になりそうで、関心があれば投票に行くだろうし、なければ投票に行かないということであり、それ以上の何を表しているわけでもない。また選挙で争点となるような問題に関心がなくても、投票する人はいるだろうし、政治家の不都合な所業に関心がなくても、やはり投票に行く人はいるだろう。そんなふうに投票する基準も人それぞれだと言えるが、マスメディアなどがやる世論調査や情勢分析などの結果がだいたいの傾向を示していて、それらの予想通りの選挙結果になることが多いだろうし、それは一人一人の政治に対する関心の度合いとは異なる性質のものだろうか。関心のあるなしではなく、関心の度合いというと何か異なる意味合いが出てくるが、特定の政治的な争点について賛成だとか反対だとかの態度を示すとなると、賛成する政治家に投票するとか、反対する政治家に投票するとかになれば、事が簡単になるわけだが、現実はそうではないし、例えば原発の稼働に反対している人であっても、絶対に共産党には投票しない人も大勢いるわけだから、その辺で何か政治的な争点がメディア上で提示されていても、そのような判断基準には乗ってこなければ、それが選挙での投票判断には生かされないわけで、そういう意味で投票するしない以前から、他の人たちとは異なる判断基準を持っている人がいても構わないだろうし、そんな世論の集約に与しない人が大勢いるなら、選挙自体も政治の変革には結びつきそうになく、それは現状が示している通りの結果なのではないか。

 だから選挙の投票率が低くて、それが政治に対する無関心を反映しているにしても、投票しないからといって政治に関心がないわけではなく、投票することに抵抗を感じている人も結構多いのかもしれず、それもメディアなどがやる世論調査で、投票に行かないだいたいの理由がわかってしまうので、そういうものだと言われればその通りだと信じるしかないのだろうが、世論調査で判明するような多数意見とは異なる理由であっても構わないわけで、関心がないとか興味がないとかではなく、何か積極的に投票に行くことを拒否するような的外れのひねくれ者がいても、別にそれがどうしたわけでもなく、選挙に関心のある人から見たら、ただの愚か者としか思われないだろうが、そういう人がいたからといって非難されるような筋合いでもないだろうか。そんなふうに想像で物を言えば、どんどん現実から外れていってしまうのだろうが、では現実がなんなのかと言えば、与党側が国会の議席の3分の2を占めている現状があるわけだから、一票の格差や選挙制度の不備や欠陥を考慮に入れても、如何ともしがたいはっきりした結果が出ているわけで、国民の政治に対する無関心がいけないとか言い訳を述べるような状況ではなく、国民の多数が与党を支持しているから、こんな結果となっていると捉えておけば、それで構わないのではないか。少なくとも野党の支持者よりは与党の支持者の方が多いだろうし、また無党派層の方が野党の支持者よりは多く、要するに野党の支持者は有権者の中では少数派であり、与党の支持者と無党派層の数が拮抗している状況なのではないか。要するに政府の横暴だとか独裁だとか非難する人たちは、数的に圧倒的な多数派を構成している与党の支持者と無党派層を敵に回していると言えるだろうか。無党派層を敵に回しているというよりは、できれば味方につけたいのだろうが、なかなかなびいてこない現状があるわけで、なぜ味方になってくれないのかがわからない状況でもあるだろうし、そんなつれない無党派層を味方につけて、政権交代を実現するのは、今のところは至難の業だろうか。


10月9日「人の力量と真価」

 人は様々な事情で無理なことをやらざるを得ない局面に立たされた時に、何かその人の力量や真価が試されるのだろうか。そうはいってもそんなことには気づかないこともありそうで、実際に無為な時を過ごして取り返しのつかない事態を招き、手遅れとなってから慌てて騒ぎ始めたりするのではないか。要するにそんなことを述べられるだけで、具体的な行為が伴っていなければなんとでも言えるようなことでしかなく、そんなことを述べても何がどうなるわけでもなく、意味のないことなのだろうが、では具体的に何をやればいいのかと言えば、何をやるのも自由であると同時に、何をやるにも制限や制約がついてまわるわけで、できる範囲が限られていることを自覚できれば、少しは身の程わきまえた態度で何かやれるのかもしれないが、実際にやるまではわからないことの方が多いだろうし、身の程知らずな誇大妄想を抱きながらやろうとするから、周囲から相手にされなくなって、独りよがりな妄想に凝り固まって、くだらないことばかりを繰り返す結果となってしまうのだろうか。だがたぶんそれさえもそんなことが述べられるだけで、何もやらずに勝手に言葉を連ねて、いい加減な文章をでっち上げているに過ぎないのかもしれず、やはりそんなことをいくら述べても意味のないことだろうか。それも一つの行為であることには変わりなく、何かやっていることにはなるのだろうが、少なくともここで自身の力量や真価が試されているのだとすれば、果たして今が無理なことをやらざるを得ない局面なのだろうか。

 そうは思わない方が得策だろうし、かえって無為な時を過ごしていると思っていた方が気が楽なことは確かで、すでに手遅れとなってからだいぶ時が経っているし、今さら何を述べても何の意味も効果もないと思っているのではないか。述べていることの意義や効果を狙っているとも思えないし、それを狙えるような立場でも境遇でもなく、何を述べても何の影響もないだろうし、何か世の中に影響を及ぼそうとして何を述べているのでもなさそうで、ただ時流を意識せざるを得ず、時代の潮流とか時流とかに乗っかって何かを述べるような行為からは外れていることも、意識せざるを得ないのではないか。むしろ世の中で流行っているように思われる言説が、反発や反感を覚えるような内容ばかりで、今この何でもない時代において流行っていること自体が、次の時代には廃れることが目に見えていて、そんなものに賛同したり迎合しても、何の得にもならないこともわかりきっているだろうし、たとえそんな言説を繰り出す人たちがメディアで脚光を浴びていようと、それに賛同しても迎合しても別に脚光を浴びるわけでもなく、相変わらずその他大勢の中の一人でしかないのだから、しかもそんな人たちの言説に魅力を感じられなければ、結局は何がどうしたわけでもなく、やはり世の中でそんなことがいくら述べられていても意味のないことだろうか。だがなぜそんなことが世の中で流行っていて、それに対して賛同も迎合もできないのか。

 賛同したり迎合したりする人々には、そんな言説が魅力的に感じられるのだろうし、実際に流行っているわけだから、多くの人の心を捉えて離さず、それがメディアによって社会問題化しているとも言えるだろうし、何やら良識的な意見を述べる人たちにとっては、憂慮すべき事態となっていて、それについて著した本なども数多く出版されて、ある意味では世界的な流行現象となっているのだろう。それが今の時代を象徴した現象だとも見られているわけだから、それに関してメディア上で様々なことが言われているし、それが一括りのカテゴリーで示されているとすれば、何やら一定の傾向と特徴を持った現象ではあるのだろうし、しかも社会のある層に向けた暴力や差別などの否定的な価値観に基づいた行為を伴っているわけだから、普通に良識的な価値観を信じている人たちには、とてもじゃないが賛同も迎合もあり得ないわけだが、何しろ流行っていてある程度の支持も得ているわけで、それに対して危機感を抱くのが当然の成り行きだろうし、実際に危機感を表明する人たちが大勢出ているのにもかかわらず、今のところは一向に収まる気配がないわけだから、世の中に暗雲が垂れ込めているような雰囲気を感じさせるのだろうが、たぶんそんな心配が杞憂に終わることはないだろうし、今後何か深刻な事態に直面してしまうかもしれず、すでに今まさに世界の方々で深刻な事態が起こっていると捉えておいた方が良さそうだが、今たまたまこの時代のこの世界に生きているだけで、それが自身の力量や真価が試されていることに結びつくだろうか。


10月8日「無駄な言及」

 主張がぶれまくっているように思える時でも、単純な論理では通用しないというよりは、ただ論理に一貫性がなく、一貫性の欠如が主張のブレをもたらしているようにも思われるわけだが、その一方で取り立てて何を主張しているわけでもないようにも感じられ、主張する必要がないなら何も主張しなくても構わないのかもしれず、積極的に何も主張していないことを自覚できれば、その場を乗り切れるような気もするし、わかりにくいとはそういうことだろうし、矛盾だらけでつじつまの合わないことを述べている自覚があり、そんな自覚から逃れようとしなければ、やはりなんとかなるような気がしてくるのは、まるでデタラメな心境でいることになるだろうか。具体的には何を述べているのか。少なくとも何も述べていないわけではなく、何かしら述べているという自覚があるわけで、たとえ回りくどい言語表現を経由しようと、述べていることの具体性にたどり着きたいわけで、政治的な意見とは無縁の内容になろうと、現行の何に対して支持とか不支持とかではなく、おかしいところを指摘したいのだろうし、そのおかしさをわかりやすく説明したいのだろうが、結果的にわかりにくく何を述べているのかよくわからない言説となってしまうのなら、その言説が捉えようとしている状況の曖昧でよくわからない実情を反映しているのかもしれない。わかっている部分ははっきりしていて、それに関して単純明快なことが言えるのだろうが、それをそのまま述べてしまうと状況に対して無効な内容となり、他の誰もが陥っている紋切り型に絡め取られてしまい、そんな紋切り型的な言説が煽り立てる予定調和の二項対立の一方の側に分類されてしまうのだろうが、そんな分類へ組み込まれてしまう操作を拒否しながら、ひたすら現状の安定を目指す二項対立を瓦解させたいとは思わないが、そんなことができるとも思えないし、現状でできることは、そんな対立に組み込まれながらも、それと浅く戯れるしかないのかもしれず、そうやりながら対立へのより一層の深入りを避けるしかないのだろうか。

 そんなことができればの話でしかないのだろうが、できなければどうしたらいいのだろうか。できるもできないも、演じることでしかないだろうし、実生活とは無縁の領域で何かを装う態度になるだけで、無理に結びつけようとしなければ、無縁のままでいられるのかもしれず、ネット上で差し障りのない範囲内で、世間の一般常識に適合するようなことを主張していれば、それで済んでしまうようなことでしかないだろうか。それ以前に特に何も主張しなくても構わないのなら、そちらの方が楽だろうし、特定の主張をやめれば済んでしまうようなことなのではないか。特定の主張に凝り固まる必要はないのであり、一定の方向で批判する必要もなく、批判するなら多様な方向からやればいいのであって、その多様な方向性というのが無方向だとも思われるなら、批判のあり方が今までとは変わってくるかもしれず、自らの都合とは無関係に批判できるなら、批判そのものが自身の立場や境遇とは無関係になるだろうし、自分の利害とは無関係に批判できれば、比較的自由に批判できるのではないか。しかもそれが批判にならなくてもいいのであり、批判しなくてもよく、主張とも無縁なら、他に何を述べればいいのかという話になってしまいそうだが、そういう方向では何も述べなくてもよく、取り立てて何も述べていないのが、述べていることの自由度を表すのだとすれば、それに越したことはないだろうし、その批判する必要すらない水準で何かを述べることが可能なら、それがこれまでの批判に対する批判として機能するのではないか。別にそうしなければいけないわけではなく、これまで通りの型にはまった批判を繰り返すのは否定しないし、やりたければやればいいわけで、それで構わないだろうし、そんな批判には斜め後ろから言及すればいいことでしかなく、そんな批判ではない言及が可能なら、それでも構わないのではないか。構わないとしても自らの利害に絡まないような言及などあり得ないだろうし、そこに何らかの主張や批判が入っているとしても、あるいは切実な願いを他の人々に届けたいにしても、なぜそうしたいのかを考えてみる必要がありそうで、考えることによって自らが何に囚われているのかを知り得る可能性はありそうだ。


10月7日「仕掛け人」

 何を述べても的外れのように思われるが、現状では何も期待しなくても構わないのだろうか。何を期待しても的外れならそうかもしれないが、実際に人々は何を期待しているのか。メディアを経由してしか情報が入ってこないのなら、それは人々が抱いている期待ではなく、マスメディアが人々の期待を捏造していると言えるのではないか。世論調査の誘導設問を通してそう思われてしまうわけだが、世論調査によって捏造された期待に同調する人が多ければ、実際にそれが人々が抱いている期待となってしまうだろうか。ならばメディアによって演出された期待とはなんなのか。それは国民の期待についての世論調査結果から導き出されることだろうが、その誘導設問項目の大意は、果たして政治は国民の期待に応えているか、ということかもしれないが、そういうことならそれは捏造された期待や民意を導きだすための、捏造された問いになってしまうのではないか。そうであるなら問いも問いから導き出された期待も、そんな期待を背景とした民意も、それら全ては捏造された虚構に過ぎないのだろうか。だがそれが虚構というのなら、さらに問いに答える主体も期待に応える主体も捏造できるのではないか。そして何がそれらを捏造するのかと言えば、相変わらずそれはマスメディアで構わないのだろうか。他にネットメディアでもSNSでも構わないのだろうが、人々に情報を提供する側が捏造された問いや期待や、それらに答えたり応える必要のある主体まで捏造しているのだとすれば、情報媒体も情報自体も虚構であること以上に、ただ単に肝心の真実を伝えていないことにならないか。しかしそんなメディアから虚構の情報を提供される人々が、その情報が虚構であることに気づいているのなら、別にそれで構わないのかもしれず、それどころかそれが当然だと思っているのなら、そんな情報に踊らされている人々を演じ、何やら期待を抱いているふりをしているのだとすると、それらの虚構の全てはとんだ茶番であり、メディアも嘘の情報に悪乗りしている人々も、とりたてて何が問題でもないのではないか。

 実態はメディアが捏造する認識から遠く隔たっていて、誰も何も期待していないし、政治が国民の期待に応えなければならないわけでもなく、では何がどうなっているのかと言えば、関心がないのではないか。何に関心がないのかと言えば、それは捏造された虚構以外には関心がないのであり、反対に誇張され歪められ偏向した情報に関心があるわけで、つまりフィクションに関心を持っているわけだ。だからメディアの側でも人々が関心を抱くようなフィクションを捏造しなければならず、そのような情報によって人々を煽動しなければならない。しかもそんなフィクションがある面では現実なのだから、メディアを通して現実に目を向けることは、捏造された虚構に目を向けることになるだろうか。そしてそれはただの虚構なのではなく、人々の願望を反映した虚構であり、それをネタにして騒ぎ立てたい虚構でもあるわけで、賛成だの反対だのと騒ぎ立て、批判したり非難したり、それをまた批判し返したり非難し返したりするための虚構でもあり、それをもとにして騒ぎ立てなければ気が済まないような虚構なのだ。しかしそれが虚構だなんてメディアの側もそれを真に受ける人々も思わないだろうし、それらが全てメディアからもたらされた情報であり、報道内容そのものなのだから、別に嘘が捏造されているわけでもなく、ありのままの現実を反映した虚構であり、都合よく脚色したり都合の悪い部分を無視したり、伝えないような操作と配慮がなされているわけで、それもまた批判の槍玉に挙げられるのだから、騒ぎ立てるための材料になり、それ自体が煽動そのものであり、そうやって人々の意識を情報の虜にしているわけだから、それらの何がフィクションなのかといえば、騒ぎ立てていること自体がフィクションではないにしても、騒ぎ屋の役を演じさせられていることは確かだろうし、誰が演じているのかといえば、まさに騒いでいる人たちがそうと自覚せずに騒ぎ屋を演じているわけだが、果たしてそれが演技といえるだろうか。台本がどこにあるのかといえば、騒ぐように仕組まれた情報なのだろうし、騒ぎやすいように配慮され加工された情報そのものなのだろうが、何が配慮し情報を加工しているのかといえば、それは情報をもたらしているメディアなのだろうし、やはりそれ以上は何がどうなっているわけでもなく、それらは茶番劇そのものなのではないか。


10月6日「時代の嘘」

 普段から何を気にしているわけでもないだろうが、気にしないと言ったら嘘になるだろうが、気がつかないことの方が多そうで、それが都合よく気づかないのか、あるいは気づかないところで取り返しのつかないことになっているのか、たぶんどうでもいいことは気にしすぎるくらい気にしているのに、肝心なことには気づかず、しかもそれでもなんとか生きているわけだから、かなり抜けていてもなんとかなるような状況ではあるのかもしれず、それが何を意味するとも思えないのに、それについて考えているとすれば、それとはなんだろうか。何をそんなに気にしているのか。普通に考えれば自意識過剰なのだろうし、ただ漠然と自己の状態を気にしすぎて、周りが見えていないと言われれば、その通りなのかもしれず、その自己の状態というのが自己の心理状態なのか身体の状態なのか、それも普通に考えれば心身の状態なのだろうし、そんな自己への配慮が何をもたらしているのかと言えば、それが自意識過剰であると共に周りから自分がどう見られているのか、という自己中心的な視点への過剰なこだわりとなっていて、それ以外に何に気づけばいいのかなどという方向へは考えずに、そのような態度の中で自足していれば、それなりに生きて行ける場合もあるだろうし、それではだめな場合もありうるだろうが、良し悪しはともかく結果的に一つの型にこり固まるのが、人の末路なのかもしれない。

 人は身の回りの状況がもたらす背景の中につなぎとめられていて、そこから無理に身を引き剥がそうとすれば、何かしら犠牲を強いられて、周囲との関係がこじれてくるだろうし、それ以降はうまくいかなくなることの方が多そうだが、それまでの関係が気に入らなければ、妥協しようとしてもできなくなる場合があるようで、うまくいかないなりにも関係をこじらせたまま生きていかざるを得なくなるだろうか。その辺では運命の巡り合わせがそうなってしまったと思うしかなく、自らの都合を優先させながら、勝手なことをやれる範囲内でなんとかしようとする成り行きになるのかもしれず、そうすることの良し悪しも、結果として運が良かったり悪かったりで判断するしかないだろうし、そんな時にはどうすればいいのかなんて考えている余裕はなく、たとえ判断や対応が間違って窮地に陥ろうと、仕方がないと思うしかないのかもしれず、それもそんな成り行きの中で生きてゆくしかないのかもしれないが、何かメディア上で非難されるような立場の人たちにしても、ひどいことをやって非難されている人であろうと、それを他の人たちと一緒になってSNSなどで非難する気にはなれないわけで、それはあくまでも他人事でしかないとみなしがちになって、逆にそういう炎上芸人的な立場の人たちを、どう表現すれば擁護できるのかを考えてしまい、擁護する理由として面白そうな屁理屈をひねり出そうともしてしまうわけだが、もしかしたらメディア的な世論操作に屈しない態度は、そういうふざけた工夫から生まれるのかもしれず、逆に理性的なこと述べて正義漢ぶるのは危険な兆候だとも思われ、そう思ってしまうのが世間の一般常識から外れた感性である証拠だろうか。

 証拠であるはずもなく、冗談の範囲内で述べているに過ぎないだろうし、調子に乗ってわざとずれたことを述べようとしているだけなのかもしれないが、現状でも何かくだらないことの延長上で生きているような気にもなるし、理性的な対応や判断を嫌い、ひどい政治情勢などを批判する人たちを茶化してしまいたくもなるような気分で、ニュースメディアからもたらされる報道に接していて、それらの報道を真面目に受け止められずに、そんな深刻さの欠如が妙にリアリティを感じられ、それが新鮮な感覚であるわけがないだろうが、現代は過去の時代にはなかったこの時代なりの雰囲気があるようにも思われるし、たぶんこの時代に生きる人々はこれまでにない新たな事態に直面しているのだろうことは確かで、その新たな事態というのが過去の時代にはない展開や成り行きを誘発しているのだとすれば、それが今後世の中が変わる可能性も示しているのだろうし、それが人々が思いもよらぬ変化になるのなら、それは興味深いことだろうし、期待と不安の狭間で少しは状況を楽しめるのかもしれず、そんな心持ちになれたら幸いなのではないか。状況を悲観的に見るのは簡単だろうし、危機感を煽る気持ちにも当然の理由や根拠があるだろうが、良い方向には行かないのは昔からそうなのであり、ある意味心境が悲観論に傾いていないとおかしいようにも感じられるし、現状を肯定できるような気分にはなれないことは承知しながらも、無理にではなくわざとでもなく、自然な感覚として冗談のような茶番のような気になってしまうのだから、特にメディア上でもっともらしいことを述べている人たちに対する印象がそうなのだから、どういうわけか勘がそう告げているのだろう。


10月5日「不確実」

 これから何が終わるのだろうか。そこで何かの終わりを予言しているはずだが、その何かというのが大げさなことだと、なんとなく荒唐無稽な印象を持ってしまう。どこかの経済学者が資本主義の終わりを予言したとしても、それは著書の宣伝だろうし、そんな予言を信じているわけでもないが、何かが終わるということが、そんなに重大なことだとも何か意味のあることだとも思えない。たぶんその手の専門家なら終わりを予言することなどいくらでも可能なのだろうし、予言したからといって何がどうなるわけでもなく、その「予言の書」が資本主義経済の中で売れれば、それで構わないのではないか。そうなるとそれ自体が資本主義の産物であり、資本主義を利用して著書を売り、資本主義の延命に手を貸していることにもなるだろうが、別にそれが資本主義の終わりを予言する内容だとしても、よくある経済書の類いなのだろうから、資本主義経済には何の影響もなければ、資本主義にとっての脅威でも何でもなく、要するに資本主義経済の中で資本主義の終わりを予言することは、資本主義経済を終わらせる行為とは全く結びつかず、むしろ著書が売れることで一定の経済効果があるわけで、結果的には資本主義を礼賛しようと批判しようと、その終わりを予言しようと、直接には資本主義をどうすることもならないわけだが、その著書を読んで内容に賛同した人たちが、資本主義に代わる経済形態を模索することになって、それがある程度は社会に影響をもたらし、資本主義経済の終焉を早めることにでもなれば、そのような著書にも何らかの意義や意味があることになるだろうか。

 だがそんなことを想像するのはたわいないことかもしれず、現実に資本主義経済が動作している現状があり、資本主義経済の終わりを予言した著書もその中で流通しているのだから、そんな現状の中では何を想像しようと、それがどうしたわけでもないのは確かだろうし、実際に何ができるわけでもないのは明らかだろうか。意識して何かをやっている人たちもいるだろうし、意識しなくても自然と資本主義経済に逆らうようなことをやっている人たちもいるのかもしれず、そのような行為はやがて到来するかもしれない終わりを見据えてやっているのではなく、ただ現状を改善しようとする行為かもしれないし、大げさなことではなく現にやっていることの延長上でやっている行為であるなら、そういう意味では資本主義の終わりとは無関係にやっていることになるのではないか。そしてそれとは別に資本主義経済が終わる兆しがあるということを、著書の中で指摘するような行為があるわけで、それとこれとは無関係であり、終わりを予言することと終わりに導く行為は別の行為で、しかも終わりに導くような行為を実際に行っている人たちは、終わりに導こうとしてやっているわけではなく、資本主義経済の中で現状を何とかしようとする行為が、結果的に資本主義を終わらせるような行為となる可能性があるということだけで、そんな現状の中では未だ何も確定しているわけでもなく、別に彼らが資本主義を批判しているわけでも、その終わりを予言しているわけでもないのに、資本主義を批判したりその終わりを予言したりする行為が、資本主義を利用しながらそこから生じる資本主義的な利益を得ながら行われているのとは、明らかに異なる行為となる可能性が、それらの行為にはあるかもしれないということだが、果たしてそれはどのような行為なのだろうか。もしかしたら現に全ての人たちがやっている行為なのかもしれない。


10月4日「利益配分」

 資本主義市場経済はそこで暮らす人々が生きて行ける範囲内で発動する自然現象だ。どのような形態をとるにしても、理論や理屈というよりは結果的に成り立っていればそれで構わないわけで、そこに関わる各人に配分される利益は人々の間で生じる権力関係から決まり、社会の中で階層化された地位や階級に応じて、それにふさわしい取り分が決まるのだが、実際に様々な商品が生産され売買されて消費されるサイクルが維持される限りで、そこから生じる利益が各人に振り分けられ、それを生産に再投資するか貯蓄するか消費するかは、各人の社会的な境遇や役割によって様々なケースが考えられるだろうし、貯蓄するために銀行などの金融機関に預金したところで、その金を金融機関は企業や個人向けのローンなどに貸し出すのだから、結局は再投資に利用されてしまい、それらの資金は物や情報などの生産と消費の合間でぐるぐる回っていると考えられ、確かにそこから抽出される利益には、その取り分の不公平で不均衡な分配があり、不平等な分配の対して各人を納得させるための取り決めがあって、社会の中で階層化され役割分担された地位や肩書きや階級などの類いに応じて配分されるとともに、その配分を決めるには権力関係と社会的な慣習が絡んできて、ある一定の規模の企業や役所の中で特定の肩書きを持った役職を務める者に対しての配分額は、社会的な慣習によってある程度は決まるだろうし、その役職に誰が就くかはその場での組織内の権力関係によって決まるわけだが、それもその集団を形成する企業の収益や役所の予算の範囲内で決まるのだから、それほど非常識な高額になる例は少ないだろうし、一方で末端の構成員の賃金も最低限の生活が成り立つ範囲内には収まっているのではないか。

 また一攫千金を夢見て何らかの事業に乗り出す者がいるとしても、熾烈な競争を勝ち抜き運良く成功して、社会の利益分配ネットワークに参入できる者はごく僅かだろうし、莫大な創業者利益にありつける者もいるにはいるのだろうが、そうやって様々な業種で新規事業が立ち上げられて、全体としての経済規模が拡大するにしても、それは既存の事業や業種から利益を奪い取る部分もあるだろうし、それに関して簡単な例を挙げるなら農業などは最もその煽りを受けた分野だろうし、産業革命以降に人口が増加した分がそのまま他業種他分野の産業人口の増加となったわけで、人口が増加した分の食料を養うために機械化や土壌品種改良などともに農地の大規模集約化が進んで、ごく僅かの人員で農産物の大量生産を行なっているわけで、他の産業によって作り出される商品に比べれば、物価変動を考慮しても農産物の価格はそれだけ安くなっているはずで、人々は決められた賃金で農産物などの食料品を買う他に、他の産業が作り出す商品も買わなければならないわけで、しかも他の産業に携わっている人の方が圧倒的に多いわけだから、その分だけ利益の割合も様々な他業種他分野に分散されていて、農業の取り分はそれだけ少なくなっているわけだ。しかもそれらの人々のほとんどがそれなりの生活水準を保たなければならず、先進諸国では少数派となってしまった農業は、大規模集約的な企業農業以外ではあまり利益を得られないだろうし、依然として農業人口が多い低開発国では、貧農が多い分がそのまま国家的な貧困を体現しているのだろう。


10月3日「危険な兆し」

 思考の対象がそこに存在していると思えるような現実の中で、何か考えているとすれば、それは思考の対象について考えているわけだが、対象が本当に存在するか否かについて疑い始めると、考えている前提そのものが揺らぎ始めるには至らないにしても、例えばメディアを通して対象を捉えていることが、どうも事態が誇張して伝えられているような印象を拭い去れず、本当に伝えられている通りの存在であるのか疑問に思うと、報道の信ぴょう性を疑うに至るわけだが、それ以前に自意識がとらわれている社会の一般常識からして、対象を歪めている可能性が十分にあり、どのような対象について考えているにしても、その対象が存在していることについて、それが間接的あるいは直接的な情報であっても、あまり信用しすぎるような態度をとる気にはなれず、それを肯定したり否定したりの評価を下す場合も、どちらとも言えないグレーゾーンを残しておかないと、どうしても単純化した論理に流されがちになってしまって、思考が平板化して厚みがなくなり、間違って捉えていても後から修正できなくなってしまうし、対象そのものを立体的あるいは重層的に捉えていないことになるだろうし、わかりやすく単純化すればするほど、現実から遠ざかって絵空事の虚構に近くなっていくようにも思われるわけだが、その分それに関する見解や評価が、一方的な価値観やゆがんだ偏見に染まりやすくなって、現実のからずれているとともに、そのズレが甚だしくなってくると、非現実的な幻想や論理的な飛躍を伴い、現実には存在しない対象となってしまうのではないか。

 実在している対象を言葉や映像では完全には捉えきれないのは確かであり、捉えようとすれば把握できる部分は限られていて、対象を思考する過程で抜け落ちてしまう部分はいくらでもあるのだろうし、それ以前に捉えようとする感性そのものが多分に恣意的でもあり、自らの都合に合わせて誇張したり偏向したりする部分が必ずでてくるだろうから、それが現実に存在する対象について考えていることのすべてではないにしても、思考作用というのがそういう面があることは否定できないし、その対象が存在していることの背景や背景との因果関係を探ることから始まって、さらに凝ってくると存在の理論とか法則とかを考えて出そうとするわけだから、当然その過程で恣意的なこじつけや変形に至らないという保証はなく、なんとか自分の都合に合わせた論理によって対象を説明しようとして、あるいは対象を合理的に説明するためには自分の都合も変更せざるを得なくなってくる場合もあるのだろうが、ともかくそんな思考作用を介在させて対象を捉えられれば、何か対象について真摯に考えている気にはなるのだろうし、その存在についての疑いも少しは晴れてくるのかもしれず、それが自分がとらわれている世の中の一般常識やメディア上で活躍する識者やジャーナリストなどの意見とも一致するようなら、とりあえず安心できるのだろうが、そこからさらに世の中の一般常識や識者やジャーナリストの意見に疑念を持つようになれば、思考がより一層深まったようにも思えるのだろうし、何か興味を持った対象について自分独自の捉え方ができたとも思ってしまうだろうか。


10月2日「虚無の継続」

 ある任意の時間の中で過ごしていて何も思わないとしても、その間に身の回りでは何も起こっていないわけではないだろうし、そこで直接何を成し遂げようとしているのかが問題であるとすると、問題から外れた時間が見出されていると言えるだろうか。自らの思考を意識できるなら、その中身が空疎だとは思えないし、少なくとも思考がメディアなどを通じて社会から何らかの影響を被っているのだろうから、いったんそれを記そうとすれば、その結果がもたらすのが空疎な作り話だとしても、それは現実の世界を反映した何らかの内容を含んでいるはずで、たとえ具体的な事例に関して直接は触れていないにしても、可能性としてはたとえ話のような形態をとっているのかもしれず、どこかへ向かってあるいは無方向に、何かを訴えかけるようなメッセージが、そこに記された言葉の連なりから、間接的に響いていることもあるだろうか。何をどうしろと直接訴えかけない分が、何とでも受け取れるように思われ、具体的な行動を呼びかける部分が抜け落ちているのが、何やら欺瞞的な作為を感じさせるだろうが、そんな直接何も呼びかけないような語りに、何か特定のメッセージが含まれているなら、それをどう受け止めたらいいだろうか。何も感じなければスルーしても構わないだろうし、勝手な深読みや屁理屈を当てはめて、強引に読み手の都合に合致する内容を捏造する必要があるなら、それも世の中が影響を及ぼしているのかもしれず、意味を求める強迫観念にメッセージの捏造者が押し切られようとしているだろうか。社会がそれを求めていると思い込めるようなら、そんな行為に取り憑かれた自らの立場を正当化できそうだが、本当は何に取り憑かれているのかといえば、単に中身のない空疎な使命感に従っているだけだろうか。それをしなければならないと思うことは、何もすることがないという現実の裏返しであり、何もすることがないのに何かしらやらなければならないということだろうか。それが現代を生きる人間に課せられた使命だとすれば、人間には意味がないという現実を裏付けているのかもしれないが、それは断じて認めがたい現実だろうか。

 意味がないわけではなく、いくらでも人間という空疎な言葉に意味を付け加えることができるのかもしれず、現実の存在としての人間は無意味だが、フィクションとしての人間には無限の意味を付与できるということだろうか。現実と虚構を分けて考えること自体がフィクションでしかないだろうが、そんなことを考えること自体が空疎なフィクションそのもので、直接成し遂げようとする具体的な目的とは無縁の戯れ事に違いなく、現実の世の中に存在している人々が行なっている具体的な行為から外れた言説を構成しているにすぎない。しかもそこから遠く隔たっていないところが、人間の無意味さを証し立てようとする無意味な試みにも結びつきそうで、それが無謀な冒険だとも思えず、確実な歩みだとはいえないにしても、それについて言葉を記す上で避けては通れない迂回路くらいには、言い訳の材料として提示可能だろうか。提示しているつもりのそれが、意味のある言説をなし得ないとも言えるかもしれず、実際に何をやるべきかという問い自体が、なし崩し的に延命可能でない状況に近づいていて、そこで目的というはっきりした意味を求めなければ、何事もなし得ないようにも思われるわけだが、それが勘違いの幻想を抱く端緒になるかもしれず、自らのやろうとしていることが無意味ではないと信じるしかやりようのない状況に追い込まれながらも、一方でそうやって自らが自らに嘘をついているようにも思われ、そのどちらか一方を選ぶのではなく、どちらも選べないと同時にどちらも選んでいるように振る舞わないと、それをやる前は無意味であるにもかかわらず、いったんやり始めたら何か意味があるように思い込まないと、それより先へとやり続けられないようなジレンマの中で、何かをやり続けている行為を受け入れることができず、またそれは受け入れると同時に受け入れることを拒否しているようにも感じられ、そのような感覚が自らが記しつつあるフィクションから生じているとも思えないのだが、それが無駄で無意味な引き伸ばしに陥らないようにするには、やはりそうすることに肯定的な意味を見出す必要に迫られていると思うしかないのだろうか。それも幻想だと思えば済んでしまうようなことでしかなく、それ以上は思考を延長する必要も感じられず、そうなれば言葉の連なりもそこで止まってしまうだろう。


10月1日「レクリエーション」

 どうも作り話の中で誰かが何かを待っているようだが、いくら待っても何が起こるとも思えないし、何を待っているとも思えず、この先どんな出来事が起ころうと、それを待っていたとも思えない。予言者は予言した出来事が起こるのを待っているのだろうか。様々なことを予言した中から、何か的中するような予言があったら幸いだろうが、実際に何か当たることもあるのだろうし、たまには当たるから予言者なのかもしれない。しかし作り話の中で待っているのが、何らかの出来事であるとも言えないだろうし、ただ誰かが誰かを待っているだけなら、予言とは何の関係もなさそうだが、その待っている誰かというのが、自らが予言した出来事が起こるのを待っている予言者であるなら、誰かが予言者の出現を待っていると考えても良さそうで、その辺から話が少し入り組んで来るだろうか。だが話自体が作り話だろうから、いくらそれを読んでも、現実の世界で何が起こるわけでもなく、小説の類いを読み進めるうちに、そこに書かれてあった出来事に遭遇するだけなら、それは前もって記されてあった出来事に過ぎず、これから起こる出来事とは何の関係もないだろうか。例えばそれが小説ではなく予言の書なら、そこに書かれてあった出来事とこれから起こる出来事との間で、何らかの関連があるように思われるのではないか。またそれが小説の中に登場する予言の書なら、二重にフィクションめいて感じられ、現実に小説の中と現実の世界とで似たような出来事が起これば、その作者が未来からやってきたタイムトラベラーだと空想する人もいそうだが、それでもまだ解決できない問題が生じているだろうか。

 デマを広めようとしているのではなく、民衆を煽動したいのかもしれないが、人々の関心が分散していて、同じ話題を共有できないし、何か自分にとって切実な問題なのかも、各人の立場や境遇によって異なるなら、本当の意味での煽動が可能だとも思えないが、そこそこメディアを通じて共通の話題となるような出来事があるとすれば、その出来事を利用して煽動を試みている人も、世の中にはいるのかもしれず、その出来事というのがメディア上で論議されていることであり、それについて関心を持ってほしくて、論議しているように見せかけているのかもしれないが、たぶん国会では本気で論議しているのだろうし、メディア上でもそれについて論議しているつもりなのだろう。だが果たしで民衆と国会議員との間で、話題を共有できる出来事というのがあるだろうか。それがこれから起こる出来事なら、それが起こることを誰が予言しているのか。少なくともそれは小説の中の登場人物でも、その中に登場する予言の書に記されていることでもないだろうし、それは国会議員が予言しているかもしれないし、メディア関係者が指摘していることかもしれない。だがそんなことなどどうでもよく、知りたいのはこれから起こる予言の内容ではなく、現実そのものだろうか。それは誰もが知っていることであり、改めて知るようなことではないのかもしれず、知っていながら誰も語らないことかもしれない。現実は語り得ないのだろうか。作り話の中ではよく語られるが、現実の世界では語り得ない内容とは何だろう。人は出来事の中で翻弄され、それが運命だと悟る人もいるだろうが、何に翻弄されているとも思えない。要するにそれが作り話の内容なのではないか。

 それを出来事と言ってしまえば何でも当てはまるだろうし、実際に様々な出来事が起こっていて、その中で翻弄されているわけだが、翻弄されながらもそんな運命に立ち向かい、何とか対処しているつもりにはなっていて、対処していること自体も、翻弄されている運命の一部となっているわけだが、具体的にそれ以上の何が作り話の中に示されているわけではなく、読者は登場人物たちを待ち受けている運命に興味を持っているのだろうし、それが期待に違わぬ結果であることが、作り話の出来を決めるわけで、つまらない結末には失望し、予想通りの結果には安心し、思いがけないことが起こると、驚いたり感動したりするのだろうか。そんな作り話が現実を凌駕しているように思えることもあるだろうし、現実逃避の手段にもなりうるかもしれないが、一方で現実に働きかけているように思えることもあり、人々が求めるものが作り話の中にあるなら、現実の世界でもそれを求めようとするかもしれず、それがそのものではなくても、似たような精神作用を現実の世界でも味わいたいという欲求が、現実の世界の変革を促すように思えるなら、そこに作り話の効用があるとも言えるのだろうが、それを娯楽だと割り切ってしまえば、逆に現実逃避の手段となるだろうし、そんな娯楽性の強い作り話ばかりが巷で流行るようだと、現実の世界は荒廃の一途を辿るしかない、という予言にもつながってくるかもしれないが、作り話に限らずその他にもいくらでも娯楽はあるだろうし、世の中が様々な刺激の強い娯楽で満たされていればいるほど、現実の暮らしがなおざりにされていると言えるだろうか。しかし娯楽以外には何の楽しみもない現実というのが果たしてあるだろうか。少なくとも現代は娯楽と娯楽でない行為との境目がはっきりしない世の中になっているのではないか。