彼の声116

2016年

9月30日「人それぞれ」

 都合の悪い過去は忘れても構わないのかもしれないが、忘れようとして忘れられるような過去ではなく、都合の悪いことは何かあるたびに、繰り返し思い出されて、心の傷に塩を塗りこめるような気分にさせ、精神的なトラウマとなる場合もありそうだが、忘れたくても忘れられないような過去ではなく、すでに忘れてしまった過去の中に、現在では失われてしまった可能性があるのかもしれず、それを思い出せないだけに、想像してみるしかないわけだが、想像することが過去を捏造することになれば、それは過去を都合よく捏造していることになるだろうか。たぶん想像する人にとって都合の悪い過去を捏造するはずがなく、わざわざ捏造するのだから都合の良い過去を捏造するのだろうし、捏造することによって過去を自分の都合に合わせて正当化したいのだとすれば、それが過去を捏造する目的となるわけで、その一方で過去は過去として歴史的な事実として固定されるにしても、その評価を自らの都合に合わせたい場合もあるだろうし、誇張や偏向などの恣意的な操作を施して、自らの評価に合う過去を取捨選択しながら、都合の良い歴史を構成する手法もあるわけで、肯定的な歴史を語りたいなら、肯定的な評価の定まった過去の出来事をつなぎ合わせて歴史を再構成すれば、自ずから肯定できるような歴史となるのだろうし、そのような歴史を子供達に学ばせれば、なにやら巷で言われている自虐史観から抜け出せるだろうか。

 強迫神経症的に過去の恥ずかしい失敗を繰り返し思い出すのは、現在から未来への歩みの中で、何かの役に立っているのだろうか。それを肯定的に捉える必要はないのかもしれず、否定的な心の働きだと思っていても構わないのではないか。思い出したくないのに思い出されてしまうのだから、嫌な思い出なのだろうし、忘れてしまいたい過去なのだろうから、それは普通に否定すべき過去なのだろう。しかも否定しているのに度々思いされて、自らを苦しめているわけで、そんな過去の呪縛から逃れられないわけだから、それは克服しようとしてもできないようなことなのだろうし、無理に克服しようとしなくても構わないのかもしれず、それを思い出すたびに心の痛みに苛まれているなら、たぶんそれが通常の精神状態なのであり、克服する必要のないことなのではないか。要するにその程度のことであり、なにも大げさに悩むことはなく、もちろん悩ましいことであり、悩むことはないと自分に言い聞かせながらも、結局は思い出すたびに悩んでしまうのだろうし、それは仕方のないことなのだろうが、それをどうにかしたいと思いつつも、どうにもできない自らに苛立つわけで、そんな辛い思いがぐるぐると頭の中で循環するばかりだろうが、それで構わないわけだ。苦い過去を思い出しながら辛い思いの中で耐えるしかないだろう。そこに踏みとどまれるなら踏みとどまっていても構わないし、耐えられなければ辛い過去を忘れようとすればいい。

 そんな心理状態を改善することができなければ、そのままであっても構わないし、何か心理療法的な効果によって改善できたと思えるなら、それはそれで幸いなのだろうが、だからと言ってそれはそういう範囲内での効用なのだろうし、たとえ辛い過去に決着をつけてポジティブな人生が送れるような気がするとしても、それはあくまでも人それぞれで症状も対応も異なっていても構わないわけで、何か万人にとって一番良い答えがあるわけではなく、全てが同じではないのだから、人の精神状態も同じである必要はなく、それぞれに暮らしている環境が違うのだから、同じ精神状態になるなんてあり得ないわけだから、様々な精神状態があるだけそれに対する様々な対応があるだろうし、悩みにも様々な程度や強度や傾向などがありそうで、中には克服できそうな心の痛みもあるだろうし、克服できなくて心を病んでしまった人もいるだろうし、それらのどれが良くてどれが悪いかなんて、その方面の専門家でない限りは気にとめるようなことでもないだろうし、ある部分では都合よく抑え込むことも変えることもできたりする反面、どうしても抑えきれずに逆上してしまったり、いつまでも執拗に悩み続ける状況から抜け出せなくなってしまうこともあるだろうか。それらの症状をどう捉えようと、それを肯定も否定もできるだろうし、どちらでも構わないような精神状態に至ることもあるのではないか。そしてそんな無の境地に至ろうとも、それがどうしたわけでもない日常の中で暮らしていると思えば、なんら価値のある状態でもないだろうし、どこまでいっても人それぞれでしかないだろうか。


9月29日「批判の効果」

 それはまるで荒唐無稽なことでもないのだろうが、大気中の二酸化炭素濃度が上がって地球が温暖化するにしろ、資本主義経済が行き詰っているにしろ、不紛争地帯でテロや内戦が激化して世界大戦の危機が間近に迫っているにしろ、そんなこととは無関係に毎日を過ごしていることは確かであり、危機があるにしてもそれに関してどうしようとも思わないし、危機に対処する気もなく、対処できるとも思わないし、危機に直面しているとも思えないことが、まぎれもない実感なのだろうから、それについて考えることは、全くの現実離れした想像にしかならないだろうか。くだらないことではないにしても、くだらないと思うことの方が興味があったり、面白かったりする場合の方が多いだろうし、世間的にはどうでもいいようなことでも、自分にとっては切実な問題というのもいろいろありそうで、日頃から考えているのは個人的な事情に関することであり、自分さえよければ他のことなどどうでもよかったりする場合も結構あるだろうし、そんな様々な事情から様々な水準でいろいろなことを考えている中から、何か語るべきことがあるのかといえば、別に語るべきことを語ろうとしているとも思えず、その場の思いつき以前の偶然の巡り合わせから語っているわけで、果たしてそれが自分にとっても他人にとっても興味のあることか否かなどを考慮しながら語っているわけでもなく、その辺はあまり意識せずに語っているなら、では何か他に語るきっかけが介在しているのかといえば、それもその場の気分次第などの様々なきっかけから、偶然の巡り合わせで語っていると言えるだろうか。その辺もなんとでも言えるだろうが、その場で判断していることは、それとは違う水準で判断しているのであり、その判断が記述する文章の構成に影響を及ぼしているのかもしれない。

 確かに様々なことを考えているのだろうが、同時に様々なことを語らずにスルーしているわけで、語ろうとして途中で気が変わって削除したり、それらの中にはメディアを通じて世間の話題となっていることが結構あるわけで、なぜそれを文章の題材として取り上げないのかといえば、その気にならないのが第一感として思い浮かぶにしても、ひらめいた後から躊躇したり、うまく表現できずに文章にするのをやめてしまったりすることもあり、何か引っかかるものを感じるとそうなってしまうことが多いのだが、例えば世間的に批判の対象となっているようなことを、一緒になって批判するのは気がひけるし、どうしても同じ調子で批判する気にはならず、まずはなぜそんな話題がもてはやされているのか、その原因や理由を考えることもあり、そしてなぜそんな批判のされ方をしているのか、やはりその原因や理由を考えている時点で、批判している人々と同じ調子で批判してはまずいのではないかとも思うようになるし、批判されて当然であり、理不尽な批判にさらされているとも思えなければ、別に世間と一緒になって批判しても構わないのだろうし、批判すること自体が悪いことだとも思わないが、一方でそんなことを述べて何になるのかという疑問も湧いてくるわけで、それが一方的な批判ならはぐらかそうとする気にもなるわけで、単にひねくれていると言われればそれまでのことなのだろうが、特に体制批判的な批判には、それに対するはぐらかしや筋違いな返しを試みたくなり、そうする理由としては体制批判自体を疑っているのかもしれず、さらに批判の仕方自体にも違和感を覚えるわけで、当たり前のことだが紋切り型的な批判の繰り返しを嫌う傾向にもあるだろうし、常に批判の内容に新機軸を求めていると言えるだろうが、そうだとしても理屈の通った批判を試みたいのかもしれず、感情まかせの稚拙な論理の押し売りには反発するわけだ。

 基本的には反体制的な姿勢の人たちには親近感を覚えるだろうし、一方で体制迎合的な姿勢の人たちには嫌悪感を覚えていることは確かなのだろうが、それとは別に不条理や矛盾を自覚できない人たちにも嫌悪感を抱いていて、それは反体制的な立場の人であってもそうであり、何かその辺で欺瞞や偽善を感じ取ってしまうのだが、簡単に言えるようなことは世の中には何もないとは思われるにしても、確かに体制迎合的な人たちの屁理屈のような論理を自分たちの主張の都合に合わせて、デマなどの嘘偽りと混ぜ合わせて利用するようなやり方には反感を抱くし、そんなやり方を糾弾している人たちに落ち度などないのだろうが、一方で体制批判を繰り返す人たちにも似たような面もあるわけで、そういうことをやっている自覚がないにしても、両者ともに似た者同士の印象は拭えず、批判する相手に対する思いやりに欠けるところが似ているように思われるのだが、端からそんなものはいらないと思っているのだろうし、そう思っているような批判の仕方であり、そんなやり方としか感じられないから、それに対して反感を抱く原因となっているのだろうし、その辺に価値観や考え方の違いがあるだろうし、現実問題として実際に反体制派が勝つことはないし、勝てないのだから勝とうとしなくてもいいようにも思われ、スポーツではないのだから勝敗とは違う次元で批判をするなら、一点突破で集中砲火的に同じような批判を繰り返すこともないだろうし、いつまでも同じ調子で同じことを主張し続けるのではなく、毎回毎回違うことを述べていればいいような気がするのだが、どうしても印象としてはみんな揃って同じことを執拗に繰り返すようなやり方に固執しているように感じられるわけで、体制側に聞き入れられない主張や要求をいつまでも繰り返す成り行きに囚われているのではないか。ならばそれ以外にどうしたらいいのかと問われると、決まり切った答えもやり方もないような気がするし、決まり切ったやり方がないのなら、それでは何の力にもなり得ないと思われるかもしれないが、そう思われるがままでも構わないような気もしていて、そんな気がすることについては、何か説得力のある理由を持ち合わせているわけでもないので、別にこれまで通りであっても構わないとも思っている。要するに可能性はいつでも開かれていて、それについての決まり切った結論はないのではないか。


9月28日「構わない感覚」

 わざと一部の人たちが抱いている印象とは逆のことを述べるなら、メディアはその役割を十分に果たしていて、一応は伝えるべきことを伝えていると思われ、たぶん誰もが思っているメディアに対する印象の全ては、それが指摘されている範囲内でメディアの真の姿をあらわにしているのではないか。それ以上の何をメディアに求める必要もないだろうし、それはマスメディアにもネットメディアにも言えることであり、時には利害や主義主張に絡んで誇張したり偏向したりする政治的な情報も含めて、それなりに誠実に伝えているのではないか。だから情報を受ける取る人々が情報によって洗脳されているわけではなく、ただ人々が求める情報をその知的レベルや興味に合わせて忠実に伝えている。そう思っておいた方が面白いのではないか。それとは無関係につまらないことを指摘したいなら、また別のことを思っていればいいことであり、どう思っていてもどんな印象を持っていようと、誰がそれに関して何を述べようとも、そんなことはメディアにとってはどうでもいいことかもしれないし、一般の人々の意見に合わせてどう変わるわけでもなく、変わるとしたらそれとは別の面で変わりうるのかもしれず、すでに変わってきているだろうし、様々な情勢の変化とともに変わりつつあるのだろうか。そしてその変わった結果が批判の材料ともなっていて、メディアの中でメディアを批判しながら変わろうとしているわけだが、批判に合わせて変わろうとしているわけではなく、批判を意に介さずに変わろうとしているのではないか。逆に批判に反発して、批判を無視しながらも無効にする方向で変わり始めているのだろうか。

 批判したい人たちはそういう危機感を煽るような印象にすがりつきたいのかもしれないが、実際にはそうではなく、変わろうとしても変わらないのであり、変わりようがなく、そんな印象自体が無効であるとともに、無効であるからこそ、逆に安心して危機感を煽れるのではないか。世間に危機意識を持たせなければ、メディアの役割を全うできないのであり、危機感を煽って大衆をその気にさせるのが、メディアが課せられた使命なのだろうし、何が課しているのかと言えば、それは政府や与党勢力などではなく、メディアを批判しているメディア関係者なのかもしれず、彼らの危機感がメディア全体に伝わって欲しいのだろうし、日頃から彼らが批判しているように、メディア全体で批判対象を批判して欲しいのであり、では何が批判対象なのかと言えば、それはメディア批判を繰り返しているメディア批判者が批判している対象となるだろうか。そして自分たちが批判している対象を他のメディアも批判して欲しいのは、それは彼らがその対象を現実に批判しているからであり、彼らはそれを他のメディアも一緒になって批判しろと主張して、そんな主張に従わせようとしているのだろうが、実際にそんな意図や思惑がそれらの批判メディアからひしひしと伝わってくるのだから、それらの主張はすでに十分に世の中に伝わっているのであり、そういう意味では何も危機感を煽る必要はなく、一定の水準で広く一般に受け入れられているだろうか。そうだとしても選挙結果や世論調査の結果が彼らの主張通りにはならない以上は、やはり危機感を抱かざるを得ないだろうし、まだ十分に世間一般で支持を得られていないのだから、さらにこれまで以上に批判の度を強める必要に迫られているのだろうか。

 実際に危機感を煽っている人たちは、そういう方向で活動を活発化させているのだろうし、政府や与党勢力やそれに迎合するマスメディアや、そんな思いとは裏腹に保守化する有力野党などにも、批判の矛先を向けているのかもしれないが、そうであるからこそ彼らは、彼らが信奉する報道機関としての使命を果たしているのであり、彼らはある意味で立派なことをやっていると言えるのかもしれず、そのような行いと批判精神は賞賛に値するだろう。だから彼らにそれ以上の何を求める必要はなく、今まで通りに反体制的な批判を繰り返していればいいのだろうか。そうだとしても変化はそれとは別の方面からやってきて、彼らを置き去りにしながら、メディア全体に変化をもたらしているのかもしれず、それはメディアそのものの機能の強化と無効化の両面から進行している事態であり、機能の強化とはより一層の分散化の強化であり、それを利用する各人の好みに合った情報を伝えようとしていて、誰もが同じ情報にアクセスしているわけではなく、別々の傾向を持つと同時に同じような情報を共有しながらも、全体としては微妙に異なる趣を呈しているわけだが、結局はそれがどうしたわけでもなく、各人の好みに合った情報自体が、人畜無害で毒や牙を抜かれたような形骸化を免れず、情報に抵抗する必要のない情報であり、至れり尽くせりを装いながらも、お粗末で信憑性の定かでない情報に踊らされるような結果となるが、別にそれが危険でもなんでもないように思われるものだから、要するに毒にも薬にもならないような無効性なのであり、情報に接して抱く安心感にも危機感にも、まがい物感を拭えないような印象がついて回り、普通はそんなメディアは信用できないはずなのだが、なぜか信用できなくても構わないのかもしれない。


9月27日「自覚」

 賞味期限というのがメディアが取り上げる話題にもあるとすれば、話題となっている人にもあるだろうか。人そのものは使えなくなったら引退するしかないだろうが、そんな人物を誰が使うのかと言えば、人が使うことになるのだろうし、そうであるなら人を使っている人にも賞味期限がありそうで、なにやら賞味期限という皮肉めいた言葉を使って、メディアで話題となっている特定の人物をからかうような行為は、それにまつわる言語表現にセンスがなければ、からかっている当人が賞味期限切れということにもなりそうだが、はなからその存在が無視されているなら、取り立てて騒ぐほどのことでもないだろうし、なにがそうなのかと言えば、アメリカの大統領選挙あたりに漂っている雰囲気だろうか。すでに賞味期限切れになっていないと大統領にはなれないわけでもないだろうが、これから大統領になってなにをやろうとしているのかについて、何か注目に値するような主張があるのだろうか。なにもないとは思わないが、取り立てて言及する気にもならないだろうし、言及するようなことでもないだろうか。興味があるのはそんなことではないとすると、すでに決着がついていることだろうか。それともそもそも決着をつけるようなことでもないのだろうか。たぶんメディアで話題となっている大統領候補者が、その存在を無視されているわけでもないだろうし、メディアで取り上げられるような人物は、無視されていないから話題として取り上げられているわけだから、話題となっている限りは賞味期限が切れているわけでもないが、ならば次期大統領が話題となっているわけだから、あと少しで任期が切れる現職の大統領は、すでに賞味期限切れとなっているだろうか。

 はなからその存在が無視されているわけでもなく、任期が切れるまでは現職の大統領として職務をこなすのだろうし、それに関して取り立てて興味を引くわけでもないが、そこで何か皮肉な結果を招いているとしたら、それに関しては何か述べることがあるだろうか。なにも述べる気になれないなら、それが全てを物語っているのかもしれず、ただごく当たり前のように職務をこなしてきただけで、なにを期待していたわけでもなかった、といったら嘘になるだろうが、期待そのものが幻想だったといえばその通りのような気がするし、考えてみればアメリカの大統領が世界を変えるような状況にはなっていないことを理解できただけでも、良かったのではないか。しかもそれで何の問題もないわけではないが、問題は容易には変えられない世界情勢の方にあるのは確かなのだろうし、変えられない世界を変えようとする試みが、主要各国の首脳たちが主導権を握って行われているように装われているのは、そのようにメディアが報道しているからそう思われるだけで、それを真に受けて生じる人々の期待に、各国の首脳たちが応えているようにも思われないが、彼らもやれる範囲内でやってきた結果が現状なのだろうから、過剰な期待を抱く方が間違っていることも確かだろうし、間違っているとしても期待するような成り行きにもなっていて、期待を抱くのをやめるわけにもいかない状況が、民主的な政治体制からもたらされていて、人々は選挙に参加して投票することによって、そのような制度に組み込まれているわけだ。逆にいえば投票しなければ期待を抱く必要などなく、無関心でいても構わないわけでもないだろうが、実際に無関心な人たちは選挙には参加しないだろうし、制度に組み込まれていることについても、取り立てて意識しなくても構わないだろうが、制度の方ではそんな人たちの存在も織り込み済みなのだろうし、投票するのが義務である国の人たちは、いやでもほとんどの人たちが投票するのだろうし、それが権利でしかない国では、いやであったりその気がなければ投票しないことも可能で、だからと言って制度そのものが破綻しているわけでもなく、ただそんな制度になっているのであり、そこから政治に対する過剰な期待や幻想が生まれているにしても、誰もが期待や幻想を抱く必要はないし、マスメディアの論調に従う必要もないわけで、彼らに乗せられて事態を深刻に受け止める必要もなく、軽い気持ちでマスメディアとは異なる判断や決定を下しても構わない。そうすることが勇気を要するというほどのことでもなく、群衆の中の一人でしかない自分たちの行為が、取るに足らない些細な動作に過ぎないことを自覚できれば、何もメディア上で騒いでいる煽動者たちに従う必要はないことに誰もが気づくのではないか。


9月26日「揚棄」

 たぶん通常の暮らしの中では、意識が本物の狂気にとらわれることはまずなさそうだが、その一方で狂気という言葉にはよく遭遇するだろうか。狂気という表現はこけおどし的な感情の発露から、事態を誇張して伝えようとして、標的となる人物の行為を大げさに批判するような時などに、正気の沙汰でないと言われることもしばしばあるが、対象となる行動や言動を否定したくて、その常識や良識からの外れ具合を非難するのに、狂気という言葉を使ってしまうのではないか。使ったからといって何がどうなるわけでもなく、そのほとんどは使った当人の自己満足にしかならないのかもしれず、本当に非難の対象が狂気にとらわれているように見えるとしたら、正気の人間が狂気にとらわれているようなことをやっているように見える、ということであり、それでは比喩としての狂気でしかないわけで、何も本当に気が狂っているわけでもないのだろうし、狂気という言葉を使って他人を非難したいわけだ。そういう意味では本当にそれが気が狂ったような行為と見えるか否かも、そこでは判断するようなことではなく、ただ狂気という言葉を使って他人を非難する人物がいて、その人物の述べていることを信用できるか否かが、そこでの判断対象となるしかないだろうし、その人物がいつも敵対しているつもりの人や勢力のやっていることを、狂気だ正気の沙汰でないなどと非難し続けるような人ならば、いつもの調子で非難していると認識するだけで、それ以上はその人物の言動を真に受ける必要もなくなってしまうわけで、実際に狂気の所業だと他人を非難する人などいくらでもいるだろうし、そういう人たちにとっては正気の沙汰でないと述べることが決まり文句と化していて、そう非難することが通常の言動となっているのだから、言葉の本来の意味での狂気からはかけ離れているとも言えるのではないか。

 そんな実質を伴わない言語表現を誘発する対象が、狂気の所業ではないことは明らかだろうし、彼らが非難している対象が通常の業務として行なっていることに対して、正気の沙汰でないとか狂気の所業だとか非難しているわけで、たとえそれが警察機関による暴力を用いての活動家や住民を排除するような行為であろうと、あるいは内戦地域への自衛隊の派遣だろうと、さらに常軌を逸したような金融政策や経済対策だろうと、そして国民の知る権利を侵害するような理不尽な内容を含んだ法律の制定だろうと、それらが狂気の所業ではないことは誰もがわかっているし、それに対して正気の沙汰でないと非難する人たちが少なからずいることもわかっているだろうし、それらすべてが政府や行政機関が行う通常の行為であることは、国民の誰もがわかっていることであり、なんら異常な行為でもないだろうし、現状がそうさせているわけで、そのような行為を非難する人たちも、そんなことはわかっているはずで、非難すべくして非難しているわけだから、そういう意味でも現状はなんら異常な事態ではなく、やるべき機関がやるべきことをやり、それに対して非難すべき人たちが非難しているわけで、それらが本来の意味での狂気の所業であったり、正気の沙汰でなかったりするわけではない。そこではそんなことやる側とそれを非難する側での役割分担がはっきりしていて、それ自体が演劇空間のような様相を呈していて、そこへ介入しようとする人たちも、その辺の役回りを心得ているようで、対立しているどちらの側へつくかによって、それに伴って生じる言動や行動も自ずから決まってしまい、彼らにはそれ以外の役回りがあるなんて思えないだろうし、そこから外れる言動や行動をとる者は、部外者として排除される対象でしかないだろうか。本当にそういう状況となっているのだとしたら、真に状況の変革を求める行為としてリアリティを担えるのは、対立するどちらの側へつくかではなく、対立そのものを揚棄するような行為が求められているはずなのだろうが、それは現に対立しているどちらにとっても受け入れがたい行為であるのは確かだろうし、彼らが真に対立しているのは、対立そのものを揚棄し解消しようとする人であり勢力なのではないか。


9月25日「知ること」

 興味がなければなんとも思わないだろうが、興味があるならそれを知ろうとするだろうし、それとは何かと問うなら、たぶんそれが世の中の全てではないにしても、この世の中に存在する何かであったなら、それを知ろうとする限りで、自らが生きている世界となんらか関わりを持つことにはなりそうで、求めているそれがなんであろうと、それを知ることによって世の中がどうにかなるかと言えば、知る内容にもよるだろうし、例えばそれを知ることによって、この世界が大変動を起こすような秘密があるなら、何か大げさな映画のような話になってしまい、あまりリアリティはなくなってしまうだろうが、普通の一般人が知り得る範囲内ではそんなことはあり得ないので、知ろうとしてなんらかの紆余曲折を経て、それを知ったところで、世の中の大勢にはそれほど影響のないことになるだろうし、その程度のことなら別に知ろうとすることにそれほど多大な情熱を傾けることにはならないだろうし、またそのほとんどが何かのついでにネットで検索するくらいで知り得ることだとすれば、些細な知見を満たすようなものでしかないだろうか。そんなふうにして事のついでに身についた知識がなんの役に立つのかと言えば、やはり何かのついでに役に立つこともあるだろうし、取り立ててなんの役にも立たないまま、忘れてしまうような知識もあるだろうか。そしてそれとこれとが何に結びつくわけでもないのに、何かの拍子に不意に結びついて、今まで知っていたこととは別の意味を知ることもあるだろうか。

 別の意味とはなんなのか。例えば民主主義に今まで知っていたのとは違う意味があるだろうか。民主主義と自由主義は対立する概念であろうと、あるいは両者を混同していようと、重なる部分があろうとなかろうと、いくらそれを主張する人たちが自分たちの都合で民主主義を捻じ曲げて用いようと、少なくともそれは無意味な概念ではないだろうし、屁理屈をこねて民主主義など無意味だと主張しようと、民主主義という概念を利用しながら、何かを主張しようとする行為が民主主義を求めているのであり、主張している人たちにとっては、彼らにとって都合の良い民主主義が必要なのだろうか。肯定するにしても否定するにしても、肯定や否定とは無関係に民主主義に論じるにしても、民主主義についての言説から民主主義の何を知り得るだろうか。取り立てて何も知らなくても構わないのかもしれず、何となく肯定的なイメージを抱きながら民主主義という言葉を使えば、それらしいことが語れるだろうし、しかもそれで何が問題というわけでもなく、そんな語りによって民主主義の不可能性をやり過ごすことができ、うまく自らの主張を取り繕うことになるのかもしれない。たぶんそんなふうに語る範囲内で民主主義が必要なのであり、それ以外でも必要なときもあるのだろうが、他の場合であれそんな場合であれ、人は社会的に共有された民主主義という概念を利用しながら、民主主義について語るのだろう。それ以上の何を知ることができるだろうか。それ以上の意味を知らなくても間に合うのなら、下手に詳しく語ろうとしなくても構わないのではないか。

 それを知ろうとするよりは、そんな言葉を使って自らを社会の中で有利な立場へと導きたいのだろうか。言語表現の利用がもたらす利益というのが、何かを語る上での動機となるなら、その使用法というのが知識を伝授するという目的とは違って、同じ使用法を共有する仲間たちの結束を高める上で、彼らの間でまかり通っている論理や意味などを統一することに意義があり、知っている内容も同じレベルで統一するだろうし、そうすることによって、それ以上の詳しい知識を求める必要もなくなるのかもしれず、意識してそうしているとは思えないだろうが、同じ知的レベルで同じことを主張しているうちは、仲間たちの結束を強めることができるだろうし、それ以上の知的レベルを目指さない限りは、間に合っているのかもしれないが、果たして人々の間で知的レベルに顕著な差があるのかといえば、あってもなくても大して違わないといえばその通りで、身につけた知識を何に利用しようとも、その利用に関して何か一定の基準や取り決めがるわけもなく、何か語っていたり論議していたり、仲間内での会話であったり討論であったりしても、実践している範囲内で間に合っていれば、それで取り立てて不都合はないわけで、たとえ語っている内容が世間の一般常識から逸脱していようと、周りの人間が事を荒立てずに大目に見てやれば、それで済んでしまうようなことでしかなく、そのような配慮に守られながら語れる環境が整っていれば、それで構わないのではないか。またたとえ理不尽な攻撃にさらされようと、それでも主張を曲げないことが可能である限りにおいて、言論の自由が確保されているとも言えるわけで、くだらぬ世論に迎合したり同調しないことが、言論の自由を守ることだとわかっているなら、実践においてそれを示せばいいことでしかないだろうか。


9月24日「対象との距離」

 自らが関わっていると思っている現実は、それほど広範囲には広がっていないだろうし、しかもその大部分は想像でしかないのかもしれず、たまには世の中を理解できたように思う時にも、身勝手な思い込みの中でそう思っているにすぎず、印象で述べるならいくらでもそれらしいことを述べられるのかもしれないが、理屈を用いて説明しようとすると、あまり説得力を伴うような言説にはならないようにも思え、その辺ではっきりした物言いに対する躊躇が感じられ、理屈や理論ではなくイメージで物事を捉えているだけで、それでも一応はそれに関して何か語っていることにはなるのだろうが、それでは何を述べていることにもならないだろうか。感知している物事に語らされているのだから、その物事からの影響を受けていることになるだろうし、それに関して何かイメージを抱かせられることによって、それに関して語る動作がもたらされるわけで、そのような動作が語る対象と語る主体との関係を構成していて、それが記された文章の内容として表されるのだろうから、イメージの反映としての言葉の連なりと対象となる物事との間で、何らかの結びつきを想像しても、それほど間違ってはいないと思うだろうし、物事とそれについて語る主体としての自らとの関わりを想定してしまうと、それについて語る限りである以上の、何か特別なつながりを求めてしまい、それが語る対象について抱く幻想となるだろうか。

 語っている以上は無関係であるはずがなく、何か関係があるからこそ語っている、という原因と結果を転倒させた倒錯を意識できずに、語っている対象にのめり込んでいけたら、それは何か危険な兆候なのだろうか。危険であるとともに魅力を感じるだろうし、それが自らの都合が反映した結果なら、喜んでのめり込むだろうし、もうその時点で語る対象との利害を共有していることにもなり、運命共同体ような感覚になれるだろうか。それが身勝手な思い込みであり、一方的にそう思っているだけで、対象の方では関知しないことでしかなく、語っている対象が特定の人物や団体であり、それらの与り知らないところで何かやっているにすぎないとしたらいい迷惑でしかなく、要するにそれは関係の非対称性を示していて、相思相愛でないのはもちろんのこと、まかり間違えばストーカーのような感情も伴っているのかもしれない。そんなメディア的な特性を承知した上で、なおそれについて語ろうとするなら、どうしてものめり込むのは避けようとするだろうし、また対象との距離感や隔たりを意識せざるを得ないし、少なくとも直接の関係性については疑念を抱いておいた方がよさそうに思えてくるだろうか。無関係といってしまうと語る必然性すらなくなってしまうような気もしてくるので、それについて語ることから生じるのは、間接的な関係程度に捉えておくのが無難なところかもしれず、それ以上に距離感を縮める必要はないのかもしれない。

 そうはいっても興味を引く対象について語っているのだから、それが勝手な思い込みであろうと、それについて興味を抱き語ることから生じる関係である以上は、語っているつもりの自らと語っている対象との関係を、語りの中で構築することになるだろうし、それが文章であるならその内容が自らと対象との距離を構成することになるだろうか。そこに自分の存在や思いや考えが現れていなくても、対象についての説明が示されているだけで、その示し具合が距離そのものであり、そこに記述されている言葉の組み合わせが、対象と文章自体の隔たりを示していることになるだろうか。記述者の意志とは無関係に記述自体が対象についての説明だとすれば、その説明そのものを読めばそれで済んでしまうのであり、記述者の意向など考慮せずに、文章そのものと向き合うならば、それは文章とその読者との関係なのであって、それは記述者と記述対象との関係からは隔たっていて、そこでも新たな距離が生じているのであり、その文章の内容に関して言及するなら、さらにその言及自体が新たな文章として記述体を示していて、それを読む者はその記述との関係を構築しようとするわけで、そうやって対象も対象について語ろうとする者も移動していて、固定した対象となることも固定した言及者となることもなく、常にうごめいているわけだ。そのうごめきの中で対象もそれについての言及者も変形を被り、一つの対象に定まることはなく、対象とその言及者との間の距離も縮むことはない。だからそんな関係の中で対象についてのはっきりしたイメージを捉えるのは容易なことではなさそうだ。


9月23日「中身のない話」

 どのような事態に直面していようと、普通に生活できていれば何も大げさに考える必要はないのだろうが、それでも生きていること自体が試練と思えるようなら、それは何に直面していることになるのだろうか。たぶんそう思いたければ勝手に思っていてもいいような気もするが、そう思えるのだから少なくとも何かの冗談ではないらしく、実際に冗談にならないような事態が到来しているのかもしれないが、具体的に何かはっきりとした兆候が表れているわけでもないとすると、現状に対して真摯に向き合っているつもりでいるということだろうか。少なくとも注意深く現状を見守っている気でいるのだろうし、今後現れるかもしれないはっきりとした兆候とやらも、見逃さないように心がけているのなら、それなりに緊張感を保ちながら、この何でもないような事態に対処できるだろうか。あるいは兆候など現れるはずがないと思っていれば、直面している事態をやり過ごすことができるだろうか。現にそれほど深刻な危機意識とは結びついていないのだから、実感としては何でもないような事態なのだろうし、それが勘違いでなければそれに越したことはないわけで、それで済んでしまうのなら何の問題もなく、今まで通りの日常がこの先も執拗に続いていくのかもしれないし、退屈を持て余しながらも、それが望んでいる可能性でもあるわけだが、それを誰が望んでいるのかと言えば、誰でもない誰かとはならないにしても、少なくとも自分自身ではなさそうで、他の誰が望んでいるようにも思われないにしても、この先何が起ころうとそんなことは自分には関係ないと思っていられるなら、これまで通りの日常の中で生きていくことに何の疑念も感じないだろうか。それが何を意味するのかと問う気になるなら、一応は暮らしている日常に何らかの疑念を抱いていることになるのかもしれず、何か気になることでもあることにもなるだろうが、それが何だか分からなければ何も問えないだろうし、疑念の対象が特定されるわけでもないだろうか。

 中身がないのに無理やり中身を捏造するわけにもいかないだろうが、政治にも経済にも何か思考すべき中身があるとは思えないなら、それは隠蔽すべきことだろうか。それでも何か中身があるように見せかけなければならないとすれば、その中身とは何であるべきだろうか。ありふれた中身を考えるなら、例えば政治は行政上の働きかけだろうし、経済は企業活動と労働活動と消費活動などの関係となるだろうか。そう考えれば中身がないとは言えないし、政治が行政に対して何らかの働きかけをする事例として、今話題となっている東京の築地市場が豊洲へ移転する問題で、都知事や都議会議員たちが何らかの働きかけを行っている最中だし、また日本の国際貢献として自衛隊が内戦状態の南スーダンで警備活動を行うことについても、担当の大臣や国会議員たちがマスメディアや一般大衆の納得がいくように、何らかの働きかけを行っているわけだろうし、原発の再稼働や沖縄の在日米軍施設の建設などについても、同様に何らかの働きかけを行っているはずだろうか。また経済についても日銀や経済関連の大臣や国会議員などが、行政上の対処を施して景気を上向かせようとしているはずだし、各企業やそこで働いている労働者も、企業活動を継続させて労働者の生活がたちゆくように、日夜働いていることになっているだろうし、消費者に商品を買ってもらえるようにそれなりに工夫を凝らしているはずだろうか。そういう面では政治家や官僚たちはマスメディアや一般大衆に向けて、自分たちのやっていることに対しての支持を取り付けるために、何やら納得のいく説明を心がけているのだろうし、実際に支持を得られるようなことをやろうとしているわけだが、一部の人たちから批判や反発を招くようなことでも、対外関係や国内の行政上の関連でやらざるを得ない場合もあるだろうし、実際に非難を浴びたり反発を招きながらもやっていることもあり、その辺が今後の選挙にどう響くかが懸念されているかもしれないが、果たして迎合するマスメディアと連携しながら批判を抑え込んでいることになるのか否かが、政府与党を擁護する側と批判する側とで見解や認識が分かれるところかもしれないし、それを大げさに捉えるべきなのか、またそこで誰が試練にさらされているのか、そういうことについて具体的な事例に絡めて考えるならば、それが思考すべき中身となるだろうか。それに関して何か為政者が危険な野望や陰謀を抱いていると想像するよりは、彼らの行動や言動を評価して、それを選挙での投票する基準にするくらいが無難なところだろうか。そうであるならその程度のことであり、そんなに大げさに考えることでもないような気にもなるだろうが、その程度のことなら何も思考するまでもなく、そんなのが思考すべき中身とも言えないだろうか。


9月22日「知りえない自己」

 考えていることを意識していないと、何を考えているのかわからないままとなってしまいそうだが、自意識は自らが考えていることを意識できない場合があるのかもしれず、その意識せずに考えていることが行動や言動に出て、思わぬ動作を誘発しているように感じられてしまうと、ますます自分が何を考えているのかわからなくなりそうだが、少なくともそれは普段から意識している目的などとは結びつかない動作となり、行動や言動が首尾一貫性を欠いているようにも思われるわけだが、一方でそれがないと行動にも言動にも幅が出ないのかもしれず、一本調子のわかりやすい動作が災いして、かえって予期せぬ事態に対処できずに、目的を達成できなくなってしまう場合もあるのかもしれない。というか普段は目的そのものがはっきりしていないことの方が多いだろうし、目的に向かって自らの動作を決めてかかっている時など稀であり、決めてかかるような状況にならなければ、目的に対する重要度もそれほど高くはなく、何かのついでにそんなことを思うくらいなら、それ以外の不確定要素の方を気にかけていて、そちらに対処することで精一杯になっているとしたら、自分が何を考えているのかなんて、いちいち気にかける余裕など生じてこないのではないか。

 人の経験は経験した後からでないと意識できず、それを意識して理解しようとする過程で、経験したことが単純化されて理解されてしまうのだから、理解すること自体が現実のフィクション化に加担していて、それだけリアリティを失ってしまうのかもしれないが、実際には単純明快に割り切れるような事態に直面していることよりは、なんだかわからない状況の中で活動していることの方がはるかに多いだろうし、そこから反省的に振り返りながら、何やらまとまった行動と言動を恣意的に結びつけて再構成することによって自らの目的を抽出してくると、そのような作業からこぼれ落ちる部分が忘れられてしまうのかもしれず、忘れてしまう部分は当然意識できないだろうし、そういう部分で自らが行なっていたことや考えていたことが抜け落ちているわけで、それを意識しようとしてもできないということになりそうだが、そこに可能性があることに気づかないままとなってはもったいない気もしてくるわけで、後から自分がその時切り捨ててしまった部分を想像してみるのも、まんざら無駄ではないのかもしれず、そうやって思考を反芻することによって、なんらかの可能性を導き出せるだろうか。その可能性というのがあいまいではっきりしないところなのだが、あいまいのまま保っておけるように配慮できれば、他者への対応も外界との駆け引きもそれだけ融通を利かせられて幅が出てくるのかもしれない。

 実践してみないことには、何もやらずにそれらしいことを述べてみても虚構でしかなく、可能性は可能性のままにとどまり、確実なことは何も言えないのだろうが、確実性は結果から求まるだけで、結果が出てしまった後からならなんとでも言えるわけで、結果に基づいた解説などは、それ以外の事象では大して役に立たないのだろうし、役に立たないのなら可能性について述べる方が、不確かな部分では希望が持てるのかもしれず、その不確かな可能性に賭ける方が、楽しい気分にもなって無責任に振る舞える一方で、失敗するリスクも負っているわけだが、冒険とはそういうものだろうし、そんな冒険の不確かさが夢や幻想を抱く原因ともなっているだろうか。それで構わないのならそれに越したことはないわけだが、いつまでもふざけたことをやっているわけにもいかない状況に負けて、くだらない思想や観念に凝り固まって、つまらない生き方を強いるのが、世間一般なのかもしれず、そんな世間の同調圧力に逆らうことができないとしても、それがつまらない生き方だと思う必要もないし、いくら世間に同調していても、それがリスクのない生き方であるわけでもないだろうし、自覚していないところで冒険していることに気づいていないだけで、あまり反省的な自覚によって自分を自分に縛りつけない方が、その反省をもたらしているメディアや世間が押し付けてくる価値観から自由でいられるのではないか。たぶんその普段から自覚している自分という存在自体が、世間を投影した自分という存在であり、世間的な価値観から構成された自己でもあって、世間という物語の登場人物でもあるわけで、メディアが振りまく夢や幻想の構成物でもあるわけだから、そうである以上は自意識が自覚している限度を超えることはなく、その限界を超える部分を知りえないのだろうか。


9月21日「信じること」

 幻想を信じているのならそれは妄想であり、幻想に現実が重なり合っていると思われるなら、それは紛れもなく現実の世界の中で想像していて、何を想像しているのかといえば、自分が心地よく感じられるような、理想の現実を想像しているのかもしれない。だがその理想の現実というのがありえない現実であり、なぜそれがありえないのかといえば、すでにそれを想像している現実があるからだろうか。あるのではなくそんな現実の中でありえないことを想像しているからかもしれないし、その想像している現実が邪魔をして、体験しつつある現実の世界を忘れているのかもしれず、想像とは異なる現実を感知できずにいるだろうか。そうではなく体験しつつある現実を感知しているからこそ、感知している現実から想像してしまうのだろうか。何を想像しているのかといえば、他人の妄想を想像してしまうのだろうし、さらに特定の他人ではなく、世論を形成するような不特定多数の妄想を想像してしまうのであり、世論調査から構成される安易な群集心理などを想像しながら、それを基にして世の中を単純化しようとするわけで、多数の人々が特定の政治勢力やその勢力を代表する人物を支持していたり、支持していなかったりすると思い込むのだろうが、誰が思い込むのかといえば、誰かがそう思い込んでいると想像しているのであり、では誰が想像しているのかといえば、たぶん誰かが想像していると想像しているわけだが、それが誰であろうとそんなことはどうでもいいことであり、何やら世論調査の結果がそう思われるような結果だから、何となくそう思っているだけであり、それを信じるのは幻想なのかもしれないし、信じても信じなくても構わないような幻想だろうか。

 しかし現実とは何なのか。それは信じるような類いではないのかもしれず、信じられないから現実なのであって、信じられないような現実に直面した時に初めて、それが現実であることを実感できるのではないか。そういう意味で信じられるような現実は幻想なのかもしれないし、少なくとも都合良く現実を捉えているから信じられるのであり、現実の中で都合の悪い部分など信じられるわけがなく、信じられないからこそ、都合の悪い部分を排除したり修正しながら、都合の良い現実に作り変えようとするのだろうし、そうやって絶えず現実を作り変えようとしてきた結果が今に至っているのであり、今が心地よい現実の中にいると感じられるなら、都合の悪い部分が感じられないような幻想の中にいるのかもしれず、そういう面で現実を都合良く解釈したり思い込もうとしている可能性があり、例えば他人の現状認識がずれているとしたら、都合の悪い部分を見落としているか、意識して見ないようにしていて、あるいは意識しなくても、現実の中で都合の良い部分だけを見るように訓練されているのかもしれず、そういう見方が自然に身についているとしたら、それは社会がその中で暮らしている人々に見せている幻想かもしれないし、さらに他人と現状認識が一致しているとしても、それが仲間内の認識なら、やはり集団で幻想を抱いている場合もあるだろうし、自らが信じている通りの現実しかないと思われるなら、それは幻想に包まれながら暮らしていることに他ならず、自らにとって都合の悪い現実を感知できるようなら、そういう部分では少なくとも幻想から離れていることになるだろうし、幻想とは異なる現実を目の当たりにしていることになるのではないか。

 そして都合の悪い現実を作り変えようとするだろうか。自分にとってあるいは自身が信じている理想にとって、それが都合が悪ければ作り変えられる範囲内で作り変えようとするだろうし、作り変えられるならそれだけ都合が良くなるだろうし、作り変えられなければ都合が悪いままとなるだろうが、一方で都合が悪い現実に合わせて自分を作り変えようとする場合もあるだろうし、現実に合わせられるなら、それが自分にとって都合の良い現実となる場合もあるだろうし、要するに作り変えられる範囲内では現実を作り変えようとするが、作り変えられない部分については現実に順応しようとするのだろうし、そういう意味で変えられる部分については変えようとして、変えられない部分については妥協して順応しようとするのが、人の習性としてありがちな動作だろうか。だが信じている理想があまりにも真理に近く、真理への信仰があまりにも強いと、その真理に反するようなことがまかり通っている現実があるなら、許せないと思うだろうし、悪行だと思うようなことに対しては、見過ごすわけにもいかなくなるだろうし、そんな現実を変えられない状況の中でも批判することはできるのであり、現実を変えることと現実に対して批判することが結びつき、批判していれば変わるはずだと思うようにもなるだろうし、そんな幻想を信じるしかない状況にも追い込まれてしまうのかもしれない。だが信じることを否定するわけにはいかないし、信じている理想が本当に真理に近いと言えるのかについて、合理的な説明が必要となってくるだろうし、またその合理性を信じられるかについても、何やら説得力のある説明がないと、他の多くの人たち信じてもらうことは難しいのだろうが、それが都合の悪い現実を作り変えるような努力についても、他の多くの人たちの協力なしにはできないことなら、同様に説得力のある説明が必要とされるのだろうが、その信じていることが安易な幻想や妄想に基づいているように思われるなら、少なくとも他の多くの人々を納得させるような説得力があるとは言えないだろう。


9月20日「茶番の顛末」

 今と昔とは状況が違うのは確かだろうが、現代と比較しようとする過去の一時期というのが、果たして本当に比較の対象となるかについては、比較しようとする人の都合で比較しているわけで、例えば現状を批判するために過去の一時期を持ち出して、このままで過去と同じ悲劇を招いてしまう、といった危機感を煽る目的で過去を利用するのがよくあるパターンだろうが、それに関してよく言われるのが、現状は体制批判する個人や政治勢力の言論を弾圧して、軍国主義的な傾向を強めていった戦前と同じ状況だという認識であり、その時期と比較して程度の差はあるだろうが、ネット上や一部のメディアなどで、リベラルな発言や主張に異常な反発や憎悪の感情をむき出しにして、屁理屈とデマを織り交ぜながら執拗に嘲笑したり罵倒する人々とともに、体制批判を意図的に自粛する一方で、ひたすら体制に迎合するだけの翼賛的なマスコミの体質に、権力を笠に着て威張り散らすような人々への記憶とともに、戦前と似通った雰囲気を感じている人も多いのだろうし、そのような認識に対して反論する気にはならないのだが、程度も違うし必ずしも同じような症状でないにしても、今の世の中で世界的に流行っているように感じられるヘイトクライムなどと結びつきがあるのかもしれず、少なくとも日本だけの現象ではなく、実態としてはそれほど行き詰っているわけではないにせよ、なぜか世界経済が行き詰っているような閉塞感が蔓延し、出口の見えないテロや内戦の長期化とともに、それに伴って発生している難民問題なども現状では解決できそうもなく、よく考えてみればそれらは昔から断続的に続いてきたことで、世界のあちらこちらで起こってきたことなのだろうが、ここにきて人々の認識や態度が、建前やきれいごととして肯定されてきた他者に対する寛容や思いやりなどの肯定的な観念を放棄して、人種や民族や国家や宗教などの同質性の中に閉じこもる傾向を見せていて、現実の経済的あるいは軍事的な敵対関係の中で、それらの同質性を共有する人たちと利益の獲得を目指す傾向にあるのだろうか。

 実際には社会の中での地位や身分や階級や階層などの違いによって、利害が異なるだろうし、人種・民族・国家・宗教などの同質性というのは幻想であり、そのような幻想を信じ込むことによって、社会の中で階級間での利害の違いや、富や権力の不平等や不均衡などを忘れられるはずもないとも思われるが、現実の利害を忘れるために必要な幻想であることに変わりはなく、そんなことも昔からわかりきっていたことなのだろうが、やはり今更ながら幻想を信じるしかない状況に追い込まれている人たちが結構いるようで、それが幻想だなんて思いたくないのであり、それこそ嘘やデマだと信じたいのかもしれず、それは日本に限らず世界中でそんな幻想に救いを求めている人たちが大勢いるように感じられ、その中で過激な勢力はイスラム原理主義を掲げてテロや内戦の中に巣食っているのだろうし、それに対抗して昔ながらのネオナチ勢力も移民排斥運動やヘイトクライムなどを行っていて、そんな動きに合わせて日本でも似たような思考にかぶれている人たちもいるらしく、ネットや街頭で煽動活動しているのだろうし、そういう人たちの親玉を気取って一部の作家や評論家や思想家気取りが、マスメディアやネットメディアの中で蔓延っているわけだが、それらの現象に呼応して、一部の陰謀論者や環境原理主義勢力や昔ながらの左翼ジャーナリズムなども、原発や在日米軍や憲法改正や新自由主義や経済格差や政府による言論弾圧などを拠り所にして、このままでは大変なことなると危機感を煽りながらも、微妙に国家主義的な主義主張を繰り返しているようにも感じられるのだが、彼らの何が問題なのかということではなく、逆に何も問題ではないと述べてしまうと、何か拍子抜けてしまうわけで、やはりそれらの現象を無理やり問題化しないと気が済まない人たちがいることは確かであり、実際にそんな人たちにとっては問題なのだろうが、あえて問題を指摘するなら、ここまで述べてきた範囲では何ら目新しい要素はなく、昔から延々と繰り返されてきた問題が、飽きもせずに執拗にまた繰り返されているに過ぎず、このままでは大変なことになるというのは、そんなことの繰り返しだからこのままでは大変なことになる、と危機感を煽らなければならなくなるような気もするのだが、もしかしたらそうやっていくら騒いでも、大変なことにもならないということが、どうしようもない茶番であり冗談なのではないか。


9月19日「アホくさい世間」

 感覚がおかしいと思うのは、間違っているわけではなく、ただおかしいと思われるだけで、もしかしたら正しいのにおかしいのかもしれず、行動や言動の正しさがおかしく感じられるとしたら、別におかしくしても構わないのだろうか。ただおかしいだけではどういうことでもないのかもしれず、そういうおかしな行動や言動が世の中でまかり通っている現状があるのなら、そういう世の中だと思うしかなく、ただおかしいと思っていればそれで済んでしまい、それ以上は何を思う必要もなく、それは批判するようなことではないのかもしれない。そういうわけで取り立てて問題はないわけだが、感覚的に問題がないだけで、それでは我慢がならない人々はそれを批判したり、場合によっては話題の人物に誹謗中傷を浴びせているわけだが、別に世間が騒ぎ立てているように感じられようとも、与する気にならなければ放っておいても構わないわけで、一緒になって騒ぎ立てる必要はないのだろう。要するにその辺がおかしく感じるから与する気にならないのだろうし、騒ぎ立てている人達の言動や行動がおかしいと思われるのだろうから、しかもそれが彼らにとっては正しい言動であり行動であるように見えるのだから、それについて批判しようとする気にもならないし、普通にスルーすればいいだけで、具体的な言及など必要ではなく、空っぽの中身を提示するだけでとどめるしかないのかもしれないが、それで何を述べているとも思えないし、実際に何を述べているわけでもなく、ただおかしいと感じながら、その違和感を説明しているつもりにはなれないが、少なくとも直接の言及は避けながらも、それについて述べているふりを装いながらも、実質的には何か別の内容に終始しているのではないか。

 だがその状態をいつまでも保てないかもしれず、述べているうちにしびれを切らして、不意に直接言及する成り行きにもなりそうな気配を感じつつも、かろうじて避けているつもりでいるのかもしれない。おおよそ語れるのはそんなところかもしれず、それより先へと踏み込んではならない領域というのも想定でき、それがフィクションの領域なのかもしれないが、真実が虚構の中に現れるのがいつものパターンだろうし、意識しないままそれを語ることができるのは稀かもしれないが、語ろうとして語れるわけでもなさそうで、語らないままに終わっても構わないわけで、結果的に直接の言及や真実についての説明などには至らなければ、それはそれでなんとかなっている証拠かもしれず、話にリアリティがあるとしたら、虚構のままに語っている意識がそれを感じられる時かもしれず、それを目指しているわけではないにしても、あからさまな話の具体性の出現を押しとどめる何かが、そのおかしな言動や行動に覆われている世の中にあるとしておけば、それについての言及を避けられたことになるだろうか。それは語らなければならないことなのではなく、常に語り損なう内容であり、語らずに済んでしまうような具体的な事象なのかもしれないが、誰もがそれについての言及を避けているわけではなく、たぶん誰もが日頃から語ろうとしている対象なのであり、語っている当人たちは、それについて語っているつもりでいるのだろうし、実際に語っているわけだが、彼らは語っている自らのおかしさについて気づいていないのだろうか。気づいているのかもしれず、気づいていてもそれを自らの言説の中で表現できていないのかもしれないが、普通は語っている自らがおかしいとは思わないだろうか。

 自らの信仰に確信を持っているわけでもないのだろうが、それを信じきっているような話の内容になってしまうのかもしれず、信じていることを意識はしないものの、信じているような内容になってしまうわけで、信じていることに気づかないのに信じているように語ってしまうのは、語り手が語っている内容にとらわれていて、話に拘束されている意識を自覚できずに、話とは別に自己が存在しているようにも思われてしまうのかもしれず、語っている自己が話の一部となってしまうことに気づかないのかもしれない。言葉を記しているに過ぎないのに何か語っているかのように意識することは、自己意識そのものを記述が裏切っていることになるのかもしれないが、何か映像の中で直接語っているようなテレビの司会者や解説者やコメンテーターなども、結果として構成される映像そのものに自らが同化していることに気づくことはないだろうか。それは映像の一部なのだろうが、それとは別に映像全体が主張しているわけで、映像の主張に言葉を発している人格が飲み込まれていて、映像に登場する個々の人物と映像が語りかける内容が別物であるに気づくのは難しいだろうか。そういう意味でおかしいと思われるのは、記述される文章や構成される映像であり、文章を記述している個人や映像に登場する個々の人物ではなく、それらの個々人が含まれる文章や映像なのかもしれず、そして彼らが含まれているわけでも属しているわけでもなく、彼らとは別物として文章や映像が構成されていると捉えれば、そこから感じられるおかしさが解消されるわけでもないが、なんだかそう捉えておいた方が無難のように思われるわけで、それほどそれらの文章や映像が冗談のようなくだらなさに付きまとわれているように思われ、もはや彼らの責任ではなく、彼らを取り巻くアホくさい世間が彼らを介して文章や映像を出力させているということだろうか。


9月18日「自分の生活が第一」

 何らかの主義や主張が人々に一定の思考や行動の原理を課すにしても、そんなことが問題なのではなく、現実に抑圧され弾圧されている人々を助けなければならないと思い行動することは、何か一定の思考や行動の原理を伴った主義主張とは別であり、それが人としてやるべき倫理的な行為と捉えるなら、それは人道主義という範囲内に収まるのだろうが、それは何か特別な主義主張だろうか。こういう言い回しでは回りくどく循環論的な堂々巡りを避けられないかもしれないが、屁理屈に陥らないように述べるなら、抑圧や弾圧などの理不尽な仕打ちを受けている人々を助けようとするのは、人として当然の行為であり、少なくとも傍観者や野次馬でいるよりはだいぶマシなことをやっているのではないか。それが人の行為についてあれこれ評する前提であり、それを戦略的な思惑から非難したり罵倒するような行為は、どう見てもおかしいと思うしかないだろうし、しかもそのおかしい行為がまかり通っている状況があるのだとしたら、とりあえず理は人道的な振る舞いをしている人々にあり、非はそれを非難したり罵倒している人々にあるわけだが、たぶんそこで善悪の決着がついたら、世の中には何の問題もなくなってしまうのかもしれず、現実にはそうではないからこそ、世界中に不条理が蔓延している現状があるのだろうか。金の力で理を捻じ曲げたり、不条理を見て見ぬ振りをしながら、権力に迎合しなければならない境遇にあったり、すでに抑圧と弾圧によって滅ぼされた民族の事例などいくらでもあるのだろうから、人道的な行為が実を結ぶことは稀なのかもしれないが、それでも善意にかられて困っている人々を見捨てるわけにはいかないのが人情だろうし、非力であってもなかなかうまくいかなくても、そういう行為はいつまでも続けられるのだろうし、いくら強圧的なやり方を用いても、それらの行為を根絶やしにすることはできないのかもしれない。

 そして世の中の多数派がやっている行為はそれとは違い、社会的な慣習や規範に従いそれを守る行為であり、それは社会に秩序をもたらし、秩序によって社会を安定化させることになるわけで、その秩序とは社会の中での役割分担とか身分や階層の形成を意味しているのだろうが、それを守らせ従わせることが、ある階層の人々やどこかの地域に住んでいる人々に対する抑圧を生み、そんな抑圧に逆らう人々に対する弾圧も生じるわけで、具体的に言えば日本に住んでいる外国籍の人や日本国籍に帰化した人が、社会の中で公的な地位や立場になってしまうと、分をわきまえず秩序を乱しているように思われるのだろうし、また政府の意向に逆らう沖縄の人々やそれを助ける人々や、原発の稼働に反対している人々も抑圧や弾圧の対象となっているのだろうが、そうすることが社会にとって利益となっているのかどうかは、はっきりしないところだろうし、ただ実態としてはなんとなくそうなっているだけで、実際に攻撃している人たちは多数派の利益を守っているつもりで、自分たちの都合に合わせた稚拙な論理と勝手な思い込みに従って行動しているのだろうが、社会の多数派を構成する人々の方は係わり合いになりたくないのだろうし、下手につついて攻撃されたらやぶへびなので、見て見ぬ振りを決め込む傍観者にとどまるに過ぎず、積極的に何かやっているわけでも、意識してそれについて考えているわけでもなく、結果的に社会の慣習や規範を守りながら、それらが構成する秩序の中で暮らしているだけで、受動的な立場でしかなく、そんなどうでもいいことを気にとめるほど神経質でもないだろうし、それとは別の次元で何らかの事象にかかりきりであったりするのではないか。それは仕事であったり家庭であったり交友関係であったり趣味であったり娯楽であったりするわけで、それらに意識して優先順位をつけているわけでもないのだろうが、自分の生活が第一である限りは、政治に関する争いごとは二の次で済んでいる場合もありそうだ。


9月17日「実質的な中身」

 例えば何かひどいことがまかり通っている世の中だと思うなら、状況が悪くなっていると思うだろうし、それは昔と比べて悪化しているとも思うのだろうが、それが思い違いである可能性はないだろうか。それ以前に昔が良かったと思われるのは、恣意的な印象でしかなく、何ら客観的な基準があるとも思えないなら、状況が悪くなっていると思われるのは、現状が自分の思い通りにはなっていないからかもしれず、実際にひどいことがまかり通っている現状があるとしても、そんなのは昔からそうだったのかもしれないし、何も今に始まったことでもなければ、ただの恣意的で無根拠な印象でしかないのかもしれないし、むしろ無理なことを主張していたり、主張を実現するために活動している現状がそんな印象をもたらしていて、そんな無理が祟って心理的に追い込まれているから、状況が悪化しているように感じられるのではないか。しかもその無理な要求を取り下げることはできないわけで、取り下げることは負けを認めることになり、何に負けるのかといえば、世の中でまかり通っているひどいことをやる勢力に対してだろうか。それは世論調査や選挙結果が示している主流派を構成している勢力であり、実際に事なかれ主義とともに体制に従う人々だとも思われてしまうのだろうが、それも現状を否定的にとらえることから生じる印象だろうし、そんな事なかれ主義も今に始まったことではなく、昔から大衆的なありふれた態度であったことを思い起こせば、状況の悪化が思い違いであるという認識にも、それほど違和感は覚えないだろうか。

 状況が悪化したと思うよりは、状況が変わってきたと思っておいた方が、より正確な現状認識になるかもしれないし、そんなことはわかりきったことかもしれないが、状況が変わってきているのに、以前の認識や感覚のままで対処しようとするから、状況の変化に対処しきれずに、対処できなければ思い通りにはいかなくなるだろうし、思い通りにいかなければ状況が悪くなってきたと思うしかないだろうか。たぶん昔から変わらない部分もあるわけで、その変わらない部分しか感知できなければ、変わってきた部分に関してはなおざりとなってしまい、その感知できずにおろそかにしてきた部分が、世の中の主流の人々に受け入れられてもてはやされるようになると、昔ながらのやり方にこだわってきた人々はついて行けなくなってしまい、場合によっては時代遅れの烙印を押されて相手にされなくなってしまうのかもしれず、そういう部分で状況の変化に対応しようとする人々との間で、認識や感覚が異なるようになると、昔ながらの正しい主張にこだわる人々は違和感を持たれてしまうわけで、そこから生じるズレを突かれて、場合によっては批判や攻撃を許してしまうのかもしれないが、それでも世の中に受け入れられたいのなら、世の中の主流を構成する人々にも受け入れ可能な新たな主張を模索しなければならなくなってくるだろうか。それが体制に迎合するような主張なら、これまでに体制批判を繰り返してきた人々から裏切られたと思われるだろうし、そんな失望によって自らの立場が危うくなるとすれば、避けては通れぬ試練となるかもしれないが、人々は表面的には主張の中身がぶれないことを求めている一方で、新たなスタイルを求めているのかもしれず、そのスタイルというのが微妙な表現だろうが、それは表現を模索していくうちに身につくものかもしれないし、最初から方針や方向性を決めてかかるようでは見つけられないものだろうか。


9月16日「政治の実態」

 そこで何か策略が巡らされているとしたら、誰を陥れようとしているのだろうか。それはわかりきったことで、どう見てもあからさまな事態に直面しているのだから、ターゲットとなっているのは、その多くの人が知っている人物ということになるのだろうが、果たしてそれがあからさまな事態なのかどうかは、当人が事の次第を明らかにしない限りは、よくわからないままだろうか。明らかになってはまずいことでもあるのなら、策略を巡らせている側に弱みを握られていて、それをバラされると困るから、言うことを聞かざるをえなくなって、メディアで取り上げられるようなあからさまな事態となってしまったのだろうか。実際に不可解な対応だと思われるのだから、そんなことを推測するしかないだろうし、はっきりしたことがわからないまま、それが終始憶測のままにとどまるなら、何らかの策略が巡らされた結果としてそうなったと想像するしかないだろうか。真実が明らかにならなければ、そのまま時が経てば忘れ去られるようなことでしかなく、その出来事に関しては不自然な幕切れとなりそうだ。

 どんな事業でも大規模で利権が絡んでいると、こじれてくるとおかしなことが起こり、そんな出来事の後から事の顛末が明らかにされると、それについて何やら世間で話題となり、メディア上でセンセーショナルに語られることが多いのだろうし、それによって利益を得る側と損害を被る側との争いというのが、メディアが取り上げる社会問題のほとんどなのであり、一般の人たちがそれについて何か意見すれば、メディアを通して関わってしまうことになるわけで、中には間接的な関わり合いでは飽き足らずに、直接のめりこんで市民活動家になったり、そこから転じて職業政治家になった人も一部にはいるのだろうが、実際には直接利権に関わる側から政治家になる人たちの方が多いだろうし、直接関わっているだけに事情に通じていて、有利な立場でもあるのだろうが、そういう人たちの方が社会の信用を得ていて、一般の人たちも胡散臭い市民活動家よりは社会の利権に関わる人たちを支持する傾向があるだろうし、一般のメディアでも社会的な地位や名声のある人たちを優遇するのは当然で、そういう前提条件をもとにして政治的な権力関係が生じているわけだ。

 つまり有利な立場で利権に絡んでいる人たちが、政治の場においても有利な立場にあるわけで、それをメディアを通して間接的に絡んでいる一般の人たちが、不利な立場から反対運動を展開する市民運動家とともに打ち倒すのは、かなり難しいことであり、そんなことはわかりきっているのだろうが、それでも原発事故などがきっかけとなって、また沖縄の米軍基地への反対運動や、あるいは憲法の改正に抗議する人たちと一緒になって、それなりに世論の支持も得ながら利権政治と戦ってきたのだろうし、一定の成果も上げているわけだが、残念ながら議会では少数派にとどまるしかなく、そういう面では厳しい状況となっていて、それらの人たちにしてみれば、支持する政治勢力が議会において多数派となって政権を奪取し、自分たちの願いを実現するような政治を行ってほしいのだろうが、たぶん政治の役割というのが、国政から生じる様々な利権に関する利害調整の機能を含んでいて、その利害調整の中で様々な政治的な決定が行われるのだろうし、そういう実態を批判するだけでは、政治の機能そのものを批判することにしかならず、利権に絡んで動いている政治家たちの役割そのものを否定するのは、政治の何たるかを分かっていないことになるだろうか。だがそれこそ民主主義の建前からだいぶずれた論理に思われるだろうし、利権政治とは決別することが政治の理想だとも主張することはできるが、現実にはそんな主張とは裏腹な政治情勢ではあるわけだ。


9月15日「冗談のついでに」

 国家の存在をはなから否定するのは意味のないことかもしれないが、国家のあり方について何か主張や見解を示すというのは、まずは国家ありきで何か述べているわけで、それは極めて当たり前の態度なのだろうが、最近よく言われるような憲法を守ったり改正しようとするのも、まずは国家の存在を認めることが前提となっているわけで、それも極めて当たり前の姿勢ではあるわけだ。そんなわけで何か政治的な発言をするというのは、自らが存在を認めている国家に関わるような発言内容であることが、まずは前提されているだろうか。そういう意味で意図して政治的な発言を控えるということは、国家の存在を否定して無政府主義的な態度で何か意見することに結びつくわけではないが、そんな態度で何か述べても実体のない空想的なアナーキズムにしか至らないのかもしれず、政治的な発言をすることが当たり前のように思っている人たちからすれば、少なくともあからさまに無政府主義を主張するような輩は、まともな論争の相手にはならないだろうし、頭がいかれていると思えば、無視するに越したことはないのだろうが、たぶん誰からも無視されるようなことを主張していれば、それこそ人畜無害な人物とみられるかもしれず、そういう意味で政治とは無関係な主張をするには、国家から外れた無政府主義的な発言に終始していれば、誰からも相手にされないし、好き勝手に罵詈雑言の類いをほざいていられるわけだが、そうであっても普通はどこかの国の国籍を持っているわけだから、そんな人物でも定義上は国民であり、国民としての自覚があるなら、何らかの形で政治に関わり合うことになれば、その際に政治に関する発言や主張をせざるをえない立場になるだろうか。

 それは具体的にはどんな場合なのだろうか。日頃から政治家やメディア関係者の存在が鬱陶しく感じられ、その手の胡散臭そうな輩とはあまり関わりたくないと思っていれば、意識して政治的な発言は避けようとするだろうし、もし何かの巡り合わせでそれを強いられるような境遇になったとしても、巧妙にはぐらかしたりあるいは明確に拒否すれば、政治的な発言を強いる周囲の空気や圧力に抗していられるかもしれないし、案外そういう人は世の中に多いのかもしれないが、果たして人は無理にも政治に関わる必要があるだろうか。そうすることが権利ではなく義務だと感じるには、どのような境遇が想定されるだろうか。仕事上で政治に関われば、いやでもそうならざるをえない機会が増すだろうが、それとは無関係な職業で日常生活の中でも関心がなければ、政治的な問題はスルーしていられるのかもしれないし、何も無政府主義を標榜しなくても、普通に無関係な立場を保ちながら暮らしてゆけるだろうが、たぶん政治情勢と自分の暮らしが無関係だと感じられるなら、無理して政治に関わろうとする必要はないわけで、政治に関して何かもっともらしいことを発言する必要も、利いた風なことを主張する必要もなく、それで済んでしまうのだろうが、逆にそれでは済まない場合とはどんな場合なのだろうか。メディアの論調に感化されて、好感を持っている著名人から危機感を煽られたりして、その気になってしまう場合などが、そんな場合かもしれないが、それはまだ間接的な立場でいられるだろうし、メディア的な領域内でそう感じているに過ぎず、それ以上は踏み込まなければ、いつでも傍観者や野次馬へと戻れるだろうが、その先の領域へと踏み込んで、何やら政治的な活動に関わるようになると、もう後戻りができなくなってしまうだろうか。中には幻滅してやめてしまう人もいるだろうし、あるいは夢中になって特定の主義主張に凝り固まってしまう人もいるだろうが、そんな段階に至ってもまだ政治そのものには無関心でいられるだろうか。どうもその辺でいつものように矛盾した言い方になってしまうのだが、思想的には無関心になる一方で、実務的な面では技術的な解決や妥協や合意を目指していければ、それがまっとうな姿勢であり妥当な態度となるだろうか。


9月14日「妥当な判断」

 普通に考えるなら金利が上がれば、銀行から資金を借りている企業が、金利が上がった分だけ利益が食われるので、利益が少なくなることを見越して株が売られて、株価が下がるということになるのだろうが、アメリカの金利が上がればドルが買われて円が売られ、円安メリットに助けられて日本の輸出産業の業績が上向くことが予想されて、株価が上がる面もあるのだろうが、一方でアメリカの金利が上昇して株価が下がると、それにつられて日本の株価も下がるという面もあるだろうし、結果的に株価が上がろうと下がろうと、株式売買に無関係な人たちにはそれほど影響はないのかもしれないが、アメリカの企業業績が上向くとアメリカの金利が上がるのが予想されるとなると、それに連動して日本の企業業績や株価にも、それなりに影響があるのだろうし、それが日本の景気にも影響を及ぼしかねないと思われるわけだが、日本の金利は上がるどころか、さらにマイナス金利が拡大するとも予想されているわけだから、少なくとも金利が上がることで利益を得られる金融業界は、とりあえず犠牲を強いられていると考えていいのだろうか。もちろん株価を維持するために低金利またはマイナス金利にしているわけだから、それ以外に株価を買い支えるために、年金資金が突っ込まれていることを考えれば、この先年金受給を受ける人たちも、犠牲を強いられているとも言えるのだろうが、結局金利によって得られる利息というのは、資金を借りている企業の利益の一部から得られるものだから、企業業績が改善しないと金利は上げられないし、金利を上げようとすれば株価が下がるし、金利を上げても株価が下がらないほどには、この先企業業績が良くなることはないのだろうか。ということはやはり資本主義経済が世界的に限界に近づいていると萌えるかもしれないが、だからと言ってすぐにどうなることもないだろうし、日本に関してはマイナス金利やゼロ金利を維持しながら、株価は公的資金で買支えながら、企業は内部留保を高めて体力の維持を図りながら、一般の労働者は質素倹約を心がけながら、そうやってかろうじて資本主義経済を維持していこうとしているわけか。

 少なくとも企業がそれなりに収益を出して、従業員の賃金も右肩上がりに推移して、株主への配当もそれなりにあり、金利もそこそこの水準であり、銀行に預金すればそれなりに利息が付くような状況は、今後はありえないということだろうか。ありえないというのではなく、現状が世界の経済情勢に照らし合わせても当たり前の水準なら、今後もこんな水準で推移するということだろうか。そうだとするならもしかしたらこれが健全な状況だと言えるのかもしれず、これでいいのなら、これから先もこんな状況が延々と続いてゆく可能性があり、そうなってしまうと資本主義経済の終焉など期待すべくもなく、間近な破綻を期待していた人々は当てが外れて、いくら待っても何も起こらず、どうしたものかと困惑するしかないわけだが、それでもまだ途方に暮れているわけでもないのだろうし、景気回復に向けて政府もあの手この手を試みている最中で、何かやっていることは確かなのだろう。それが本当に効果が上がっているかどうかは、疑問に感じられるところなのだろうが、やっているつもりの政治家や官僚たちにしてみれば、やっているふりをしているだけだとは思っていないだろうし、実際に経済界や政府に迎合する各種団体やマスメディアから支持されている範囲内では、何かやっていることになっていて、さらに世論調査や選挙結果が示すところでは、国民の支持もそれなりにあることにもなっているのではないか。だからたとえ財政赤字が累積で1000兆円を超えていようと財政破綻しているわけでもなく、一応は政府の信用も維持されているわけだ。そういう意味では憲法改正や原発の推進や沖縄の在日米軍施設の建設なども、それらに反対する人々にとっては、言論弾圧やマスコミの事なかれ主義も含めて深刻な状況なのだろうが、国民や経済界の支持を背景とした政府与党にとっては、とりあえず政権運営は順調にいっている部類に入るのだろうし、世論のコントロールもそれほど破綻もなくできていると考えていいのではないか。冷静に現状を分析すればそんなところでしかないだろうか。それに対して批判できる部分はいくらでもあり、言いようによっては全面的に否定できるのかもしれないが、世論調査や選挙結果からはこんな判断が妥当なところではあるわけだ。


9月13日「有効性」

 世の中で起こっている事柄と、それについて語っている内容とが一致していないとは思わないが、恣意的な解釈を伴っていることは確かだろうし、何か特有の傾向を示していると、その内容から特定の意図や思惑を想像してしまうだろうし、それがいつもながらの否定的に思われることだと、嘘も百遍つけば真実になるとは思わないし、嘘であっても構わないようなことだとも思わないのに、信じられない嘘を平気でつくような成り行きへと人を駆り立てるのは、その人の置かれた状況や境遇がそうだからとしか思えないだろうし、少なくともこの世の中の一部がそうなっていると思うしかないのだろうが、一部ではなく全てがそうだと大げさに思うのは躊躇するにしても、何かおかしくなっていると思うのは当然のことで、人の行為が不可解な印象を与えていることは、まぎれもない真実であり、わざとそうやっているにしても、あるいは意識せずにそうなってしまっているにしても、それがその人の意図や思惑から生じていると思うなら、その人がおかしいと思うしかないだろうか。具体的に何がおかしいとも言えないわけではないのだが、おかしいとはっきり指摘してしまうと、そんなことはわかりきったことにされてしまうわけで、それよりもおかしいのに平然としていられるところがおかしいのかもしれず、誰もがおかしいと思っているかもしれないのに、おかしいままでも構わないところもおかしいわけで、別におかしいところを改める必要がない世の中になっているとしたら、それはおかしな世の中なのだろうか。

 そのおかしいところを批判している人も大勢いるだろうが、おかしなところが一向に改る気配がないとしたら、いくらそれを批判しても無駄だと思うしかないだろうし、無駄だと思いつつも批判している現状があるとすれば、それもおかしなところだろうか。そうではなく、おかしいのに何とかなっている現状があって、おかしいのに構わないというわけではなく、そうであってはいけないのに、それを改められない状況があるから、おかしいのはおかしいとしても、誰もそのおかしさをどうすることもできないということだろうか。結果的にはどうすることもできないままになっているのかもしれないが、少なくともそれを批判している人たちはどうにかしようとしているわけで、そのどうにかしようとしている行為が、今のところは実を結んでおらず、そのような行為自体がうまくいっていないわけか。何事も途中経過であると考えれば、まだ実を結んでいないだけで、いずれはうまくいく可能性も出てくると期待しておいたほうがいいだろうか。やっている人たちは期待しているのだろうが、妨害している人たちは、このままうまくいかないままとなってほしいのかもしれず、自分たちがやっているおかしな行為が継続されてほしいとは思うだろうし、そのために妨害しているわけだから、そういう人たちにとっては、批判勢力に対する妨害工作がうまくいっていることになるのかもしれず、おかしな行為を正す行為が実を結んでほしくないのかもしれないが、果たして彼らの思惑通りに、このままおかしな行為がまかり通っていても構わないだろうか。

 実態はそうではなく、それをおかしいと思うこと自体がおかしいのであり、おかしいことを批判したり正そうとする行為は行為として、そういう行為があってもおかしくないのだろうが、なくてもいいのかもしれず、実際におかしいと思っているのだから、なくなることはないのだろうが、なくても構わないようなことをやっているのかもしれず、それがある一定以上の支持は得られないような行為であることは、うまくいっていない現状が示しているわけで、これからもうまくいかない可能性は十分にあり、しかもそれでも構わないと思われるような状況の中で、そんなことをやっているわけだ。そういう捉え方で構わないような状況だろうか。もしかしたら何がおかしいわけでもないのかもしれず、何かがおかしいと思うのは当然だとしても、そう思うことも含めて何がおかしいわけでもなく、おかしいと思ってもそれで構わないのだとすれば、やはり何がおかしいわけでもないのかもしれず、そのおかしさにいちいち目くじら立てる必要はなく、おかしいのは当然だが、おかしいままでも構わず、そしてそのおかしいのを改めようとする行為も、うまくいかないなりにも継続できるわけで、それを批判しようと無駄だが、無駄であるからといってやめることはなく、やめなくても構わないのだから、いつまでも批判していても構わないわけで、要するに何でもありなのだが、それが無効な限りで何でもありなのであって、現状をおかしいと思ったり、そのおかしなところを批判したり、それを改めようとしたりする限りでは、それらの試みは無効となってしまうような状況なのかもしれない。


9月12日「信仰への拒否」

 すでに起こってしまった事件の真相を知ろうとすると、真相を騙る陰謀に直面するだろうか。陰謀そのものは興味深いから、別に信じなくても面白いし、そんな陰謀を連想させてしまう背景を想像したくなるわけだが、本当に陰謀があるかないかとは別に、自然の成り行きについても考えてしまうことがあるわけで、別に誰かが不自然な陰謀を巡らさなくても、自然の成り行きと偶然の巡り合わせによって事件が起こってしまったと考えれば、そちらの方がより本当らしく思える場合もあるだろうか。事の真相を説明するには、事件が起こるべくして起こった必然的な因果関係や巡り合わせが必要かもしれないが、誰もが納得できるような説明を強いられている立場ではない場合、そんなことより面白おかしく事件について考えてみたくなるかもしれず、例えばミステリー仕立ての物語性が構成できれば、事件についての魅力的な話になるだろうし、話の内容が面白いのと話そのものを信用できるのとは位相が違い、いくらストーリー的に説得力があろうと、それがそのまま真実を語っているのかとなると、よくできた話は信用できない場合が多いだろうし、できすぎたストーリー構成はフィクションとしては面白いが、逆に真実の方は案外つまらないきっかけから生じていたり、さらに信じられないような偶然の巡り合わせが作用していたりして、嘘のような本当の話というのも、結構ありがちな事の真相であったりするわけで、誰もが納得するような明確な因果関係がないからこそ、思いがけない出来事が起こる場合の方が多いだろうか。

 結果から推測すれば事件に関与した人々の間で陰謀が渦巻いているように思われるだろうし、実際にそんな陰謀から事件が起こったように説明できる場合もあるのだろうが、それだけで事件が起こるわけではなく、陰謀に関与した人たちの出会いが偶然の巡り合わせであったりするだろうし、また陰謀通りに事が進んでいない場合もあるわけで、その筋書き通りでない部分が、現実の現実たる所以の真実が現れている部分だろうが、実際にそんな現実に直面しているのに、なかなか意識の方がそんな真実を含んだ現実を認めようとしないのかもしれず、自意識にとって都合のいいフィクションしか意識できず、そちらを信じ込んでいるうちに、真実を取り逃がしているとしたら、やはりそんな幻想に溺れる人々が、世の中の真の姿を認識するのは困難だろうか。そういう人たちは様々な出来事の中から自身に都合のいい因果関係を結びつけて意識に投影して、それで現実を把握したつもりにはなれるが、都合の悪い関係や理解できない部分は無視しているわけで、仲間内ではそれで済んでしまうものだから、不都合な真実や理解不能な論理を主張してくる人たちは敵でしかなく、そういう輩は仲間とともに無視するか攻撃するだけのことで、そんな身勝手なやり方がまかり通っている状況を賛同する仲間たちとともに守ろうとしていて、それも仲間内だけでしか守れないとしても、そんな仲間たちを擁する勢力が世の中で幅を利かせている現実があるのかもしれず、それが政党などの政治勢力であったり、経済界や官界やマスメディアであったりするのだとしたら、一般の人たちがそういう勢力の中で何かよからぬ陰謀が渦巻いていると思い込んでしまうのも、まんざら間違いでもないような気にはなるだろうか。

 たぶんそんな認識にもそれなりに真実が含まれていて、それなりに説得力があるようにも思われ、それなりにはっきりした因果関係も推測でき、そんなことをもとにしてそれらしく説明すれば、何やらもっともらしいことを述べているように思われてしまうのだろうし、実際に多くの人たちがそんなことを主張し、そんな主張を信用している現実があるのだろう。そしてそんな現実がもたらしている現状がこうであり、ある方面の人たちにとっては不快な現状であり、どうにかしたい現状でもあるのだろうか。では現状を変えるにはどうしたらいいのだろうか。今まで信じてきたような認識を改めれば、見えている光景も今までとは違って見えるだろうか。違って見えたところで現状が変わるわけでもないだろうか。それ以前にそもそも今まで信じてきた認識をそう簡単に変えるわけにはいかないだろうし、それへの信仰が深ければ深いほど、信仰にしがみつこうとするだろうし、現実に自らと敵対する勢力がいるわけだから、しかもそんな勢力と様々な水準で対決していると思い込んでいるとすれば、認識を変えることはそれらの勢力に対して負けを認めることとなってしまうわけで、そんなことは断じてできないだろうし、許されないことなのではないか。それほど深刻なレベルで現状を認識しているとすれば、現状を変えるには敵を倒さない限りは変えられないと思うのが、自然の発想であり成り行きだろうし、そんな成り行きに身を任せながら今に至っている現状ではあるわけだ。だからそれを簡単に間違っているとは指摘できないだろうし、指摘したところで受け入れるわけにはいかないだろうし、そういう頑なな態度を言葉による説得などで覆すのは無理だろう。だから現状が変わるには誰もが予想だにしないような、わけがわからぬ偶然の巡り合わせが必要なのではないか。


9月11日「メディアのカモ」

 他人を偏見と憎悪の目で見ることはたやすいことだ。要するにメディアを通して見ているから、簡単にそう見えてしまうわけで、実際に出会ったこともない他人を偏見と憎悪の目で見ている。そう見ることしかできない情報をメディアから受け取っているのだから、メディアから受け取った情報通りに偏見と憎悪の目で見ているわけだ。それ以上に何をどう見たらいいのだろうか。普通に考えるなら偏見や憎悪をもたらすような情報だけではないと思っておいた方がいいだろうし、中にはそう思わせたいような意図や思惑を持って情報を流しているようなメディアもあるということを認識しておくべきだろうか。その程度のことを押さえておけば、見ず知らずの他人を偏見と憎悪の目で見ることの不自然さを理解できるのではないか。そしてそう思わせるような意図や思惑を持ったメディアの存在に気づくこともできるはずだ。特にメディアが特定の人物や集団を批判する時には注意した方がいいだろうし、伝えている内容から偏見や憎悪を助長するような雰囲気を感じられたら、そういう意図や思惑があると捉えておいた方がいいだろう。そういう意味で批判されている対象が不快に感じられ、否定の対象と思われるとしても、メディアが伝えている情報からそう感じられるわけだから、メディアによってそう思わされていることは認識しておくべきで、自分の判断以前にメディアの判断があるだろうし、批判しているメディアの判断が自分の判断に影響を及ぼしていることは確かで、メディアから得られた知識をもとにして自分がそう判断しているわけだ。

 だからメディアがその対象をどう伝えているのかを十分認識した上で、自分が肯定あるいは否定の判断を下すにしても、その時にはすでにメディアの判断に寄りかかりながら自分が判断しているわけで、メディアの判断と自分の判断が一致すれば、それはメディアの意図や思惑が反映した判断になり、たとえ自分の価値基準に基づいて判断したと思っても、それはメディアが求めた通りの判断になるわけだから、そのメディアの思う壺にはまっているとみなしておいた方がいいのではないか。ただ闇雲にメディアとは違う見解を示そうとしても、それもメディアからの影響を被ってメディアに反発しているだけであって、反発している時点で影響を受けていることになるわけで、メディアの術中にはまっているとも言えなくもなく、メディアに同調するのも逆らうのも、メディアが提供する価値観の範囲内で思わされていることになり、メディアの意図や思惑通りの思考形態から抜け出せなくなっているわけだ。そういう意味でメディアに対抗するのは難しいわけだが、メディアから一方的に情報を受け取っている一般市民に、もとからメディアに対抗する力などないわけで、無理に対抗する必要などなく、対抗する以外でできることは、メディアがなぜそんな情報を伝えようとするのかについて、その意図や思惑について考えることだろうし、もちろんメディア側に明確な意図や思惑があるわけでもないのだろうが、少なくともメディアが伝える何らかの判断を伴った主張というのを認識する必要はあるわけで、人々がメディアに同調すればどう思うのか、あるいは反発すればどう思うのかについて、想像してみるぐらいはできるのではないか。

 もっとわかりやすく言えば、メディアの報道に対して自分がどう受け止めているのか、そして他の人たちはどう受け止めているのかについて、ネット上などの反応を見ればある程度はわかるだろうし、その反応の傾向や方向性をはっきりと読み取れるようなら、それがメディアの意図や思惑から影響を受けた人々の反応だとみなせるだろうし、多数意見などの同じような傾向の反応が現れているとしたら、メディアがそんな反応を期待して情報を伝えたことになるのではないか。例えば偏見や憎悪を助長するような反応なら、メディアがそれを期待しているとも言えるだろうし、もちろんそういう反応が出たら、それをさらに煽るようなことをやったり、世論が過熱しすぎたらそれを冷ますような冷静な意見を出したり、偏見や憎悪を戒めるような識者の意見を出してきたり、そうやって人々が関心を示すような情報についての、多方面からの多角的な意見や反応を伝えながら、いつまでも世間がその話題で持ちきりになるように仕掛けてくるのが、メディアのマッチポンプ的な常套手段だということは理解しておく必要があるだろうし、それがメディアの主要な機能と動作であるわけで、常に世間がメディアの提供する話題で持ちきりになっていないと、メディアの主要財源である広告宣伝料を稼げないわけだから、メディアとしてはそうせざるをえない宿命なのであり、人々はその辺の事情を理解した上で、メディアから情報を受けとっているはずなのだが、ネット上などでメディアと一緒になってセンセーショナルに騒ぎ立てている人たちは、自分たちがメディアのカモとなっていることを認識しているのだろうか。果たしてメディアに同調したり反発することが自分たちが関係している利害と重なるのだろうか。その辺が勘違いなのか、あるいはそれで構わないのかは、どうもよくわからないところではあるわけだ。


9月10日「虚構の中身」

 政治的な主義主張とは関係なく、現状の何を軽視しているのかといえば、世論が信じていることになっているメディア的なフィクションの中身だろうか。しかしフィクションの中身とは何のことかといえば、それは現状を肯定する類いの主義主張だろうか。それが政治的な主義主張なら、無関係とは言えなくなってしまうわけだが、普通に考えてみることが肝心で、そうなるとただ単に国家が予算を無駄遣いしているだけとなってしまい、簡単に言うなら機能的にも制度上でも利権を死守しようとする官僚機構を制御できずにいるだけであり、しかもそんなことを述べてみてもらちがあかず、財務省がどうこう言うような範囲を超えていて、むしろ財務省はその機能として財政均衡を正常化しようとはしているのだろうが、他からの様々な抵抗や妨害に直面していて、巨額の財政赤字を減らすことができずにいると考えられるわけだが、果たしてそれがメディア的なフィクションの中身なのだろうか。その一方で財務省のイメージ操作に騙されてはいけないと主張する輩が後を絶たず、現状の財政赤字が1000兆円を超えているのに、それでも大丈夫だというわけだが、果たしてどちらがメディア的なフィクションなのだろうか。それにしてもあまり信用できそうもない経済評論家などが、財務省の嘘を見抜いたとする自著の宣伝に余念がないのは、今に始まったわけではなく、現状では財政赤字が膨らみ続ける一方の作用を止められない現状があるのだろうし、このままで構わないわけがないとも思えるが、どうも政治的にはそれを止める手立てがありそうにも見えないし、実際に積極的に財政赤字を抑制しようとはしていない現状があるのではないか。

 世論がそのような現状を軽視していることは確かだろうが、あまり実感が伴わないから深刻には考えられないのも確かで、それよりも沖縄の米軍施設の建設工事や原発再稼働などの具体的な事例の方がリアリティを伴うのだろうし、限られた人たちがそれらに反対したり、それに対して警察機構とともに反対派を弾圧しようとする人たちもいて、それらの事象に対して敏感に反応する人たちは、そのような個別の問題の他にも憲法改正などに関心を持っていて、言論の自由に制限を加える法律の制定や、軍国化を助長するような憲法改正を阻止するつもりでいるわけだが、それらは現実に起こっていることなのだろうから、メディア的なフィクションであるはずがないと思われるだろうし、実際に沖縄の米軍施設の建設現場などで機動隊や公安関係者から暴行を受けた人たちには、国家権力による民衆への弾圧を生身で実体験したのだから、それはメディア的なフィクションなどとはまったく次元の異なる現実であるわけだが、そうだとしてもすべての問題が今に始まったことではなく、長い年月をかけて積み重なってきたことであり、今すぐにどうこうできるとは思えないが、政府のやっていることがおかしいと思われるのだから、それに対して反対の声を上げないと、国民主権や民主主義の建前を守ることはできないだろうか。またそれを実際の政治に反映させなければならないだろうし、具体的には反対の声を上げている人たちの意見を尊重するような政治勢力が政権を取らなければならないわけで、そのためには国政選挙でそれらの勢力が勝たなければならず、選挙で勝つためにはどうしたいいのかということになるわけだが、残念ながら世論調査などの結果から言うと、現状では勝つ見込みがなく、実際にここ数年の選挙では負け続けているわけだ。この現状を構成する現実というのが、果たして体制迎合的なメディアが煽るフィクションが世論に影響を及ぼしている結果から生じているのか、それともただの現実に過ぎないのかといえば、たぶんそんなフィクションも含めてただの現実なのではないか。民衆の多数派が構成する世論がメディア的なフィクションに煽られているのなら、それは仕方のないことであり、そんな現実から出発して何かそれなりにアクションを起こして行けば、それで構わないのだろう。そして選挙で体制批判勢力が勝つとか負けるとか、そういう結果が事の本質ではないような気がしている。それに関しては矛盾したことを述べるしかないのだが、個人でやるしても集団で連携しながらやるにしても、できる範囲内でやって行けばいいことでしかない。そして何ができるのかといえば、今現実にやっていることでしかないわけで、これからやろうとすることもその延長上にあるのかもしれない。


9月9日「論理の正しさ」

 考えるということは一応は論理的に考えていることになるのだろうし、おかしいということは論理的におかしいことになりそうだが、そのおかしいか否かを判断する論理的な基準というのに、果たして論理的な整合性があるか否かということになると、何やら雲行きが怪しくなってくる場合があるのかもしれず、正しいと考えている論理に何かおかしな部分があるだろうか。何を持って正しいと考えるかについての定義付けが信用できなければ、そんな前提からいくら正しい結論を導き出そうとしても、元からおかしいことになるわけで、そのおかしいと思われることを正しいと考えているような人とは、議論が噛み合わなくなるのは当然のことであり、そういう人といくら対話しても、話が平行線に終わる可能性が高いのではないか。お互いに歩み寄りがなければそうなるのだろうが、対話が行われる背景があり、何らかの対象をめぐって対話せざるをえないような状況であれば、一応は合意形成に向けて努力することになるだろうし、話し合う必要が生じている程度に応じて、その進展も結果も違ったものになるだろうか。そういう意味で対話が行われる必然性の強度がどの程度あるかによって、互いの論理にもできるだけ同じ価値観を共有できるような配慮がなされる度合いも違ってくるし、対話の後に実践される何らかの行為にも影響が及ぶのではないか。

 人と人とが意思疎通できる可能性というのは、その人の立場や境遇によっても違ってくるわけだが、それと連動していかに他人に配慮できるかについての、思考の柔軟性や許容力も必要とされるだろうし、他人を思い通りに制御しようとする戦略などがあると、騙し合いやはぐらかしなどの意表をついた行為にも及んでしまい、そういう段階になってくると、建前としての行為や言動の論理的な正しさとは次元の違う話となってくるわけで、論理的に正しいと思われる主張がなかなか通らない場合は、それを妨害するような思惑が働いていて、妨害する理由が社会的な利害関係から生じているとすれば、その利害を共有する人たちの間では、それを反映した論理も成り立っているだろうし、その論理と建前としての論理とは当然違ってくるだろうし、建前としての論理的な正しさに基づいて考えると、それらの人々の利害を反映した論理というのが、何かおかしいように思われてくるわけで、それがおかしいと思われるような人々とは、それらの利害が異なっている可能性が高いだろうか。そうやって対立し合う人々の間では、利害とその利害を構成する論理も異なってくるのかもしれず、一方にとっては正しいように思われる論理も、もう一方にとっては間違っているように思われる場合があるだろうし、何か身勝手に思われるような屁理屈を振りかざして、一方的に攻撃してくるような人たちには、一応はそんな人たちの間では正しいと思われている論理があるわけで、そんな論理がそれらの人たちの行為や言動の正しさの拠り所となっているのではないか。


9月8日「空想批判」

 何か正しいことを主張しようとするとき、いくら論理的には間違っていないように思われようと、感覚的にはそんな主張などまったく通用しないような、どうにもならない現状があるのだとしたら、やはりそのどうにもならないと思われる感覚の方を信用してしまうし、それがまぎれもない実感なのだから、その実感の方を信用するなら、たぶん論理の方が間違っていて、何度も論証を重ねて導き出された、一見正しいように考えられる論理には、それでも何か考えが足りない要素があるのかもしれない。仮定の話ならそんなことも言えるのかもしれないが、実際にはそれほど論理的に突き詰めて考えているわけでもないとすると、冷静に振り返ってみると、日頃の暮らしから生じる勘や慣習に頼りながら考えている部分の方が多そうだし、何も屁理屈かもしれない理屈から結論を導き出そうとしているわけではなく、頭の中では論理的に思考していると思い込んではいても、その実態が世間の一般常識から想像される思考の妥当性に行き着くしかないのかもしれず、そのような思考から何か画期的な思想や見解などが導き出されるとは思えないし、常に他の誰もが納得するような答えを出そうとしている可能性があるわけで、たぶんそれがありふれた思考作用なのだろうし、自然とそう考えてしまいがちになっているのが、普通の人たちが考える習慣となっていて、誰もがそんな思考から逃れることはできないだろうし、現実に世間の一般常識というハードルは思いの外高いように思われる。しかも普通に暮らしているのならそれで構わないのだから、何も無理してそれを越えて考える必要などないように感じられるのではないか。

 しかしそれを越えて何を考えればいいのだろうか。要するに必要のないことを考えようとしているだけで、無理に思考を巡らせても荒唐無稽な空想にしか行き着かないだろうか。それでもたとえ机上の空論だろうと、ひねくれた理屈から奇抜な論理を導き出そうとしなければ、得るものは何もないだろうか。ひねくれた理屈という表現が気に入らなければ、自然に考えればいいだけなのだろうが、自然に考えた結果が、ひねくれた理屈をこねくり回したような論理に感じられてしまうと、それは仕方のないことなのだろうが、それがどうにもならない現状を反映しているのだとすれば、それなりにリアリティが感じられるのではないか。そうだとすれば他の人はともかく考えている当人は納得できているのかもしれず、少なくとも当人にとっては妥当な結論が得られていることになるのではないか。その妥当性というのが万人にとってもそうだとは言えないところが、いまひとつ確証が持てないわけで、さらに確証が得られるまで思考を積み重ねて、考えている対象について探求する必要に迫られているだろうか。どう考えてもそんな大げさな哲学的探求とは無縁だろうが、世間の一般常識から逸脱するには、そういう方向での探求が必要なのかもしれず、それが何の役に立つとも思えないが、ともかく考えてみないと気が済まないなら、考えるしかないだろう。それが目下のところの勘が示している方向なのだろうし、たとえ勘違いであろうとなかろうと、そういう方面で思考を巡らせているつもりにはなれるのではないか。

 たぶん逆に万人に当てはまるような思い込みというのが、世論を形成しているわけで、そんな世論によって世の中が成り立っているとは思えないにしても、世論を利用する言論機関のごとき団体にとっては、自分たちの意志を世間に向かって反映させる機会を与えているわけで、もちろん反映しているかどうかは、そう思い込めばそう思えるような類いだろうし、それを信用しない人たちにとっては、くだらない妄想だとみなしても構わないような、どうでもいいような内容でしかないのだろうが、一応世間は世論を気にかけていることにしておかないと、世論そのものが虚構になってしまうから、気にかけているように見せかける必要があるのかもしれず、実際に統計理論からすれば信用に足る結果だと思われているのだから、世論を利用して何か主張したい人たちにとっては、役に立ち利用価値のある調査結果なのだろう。そしてそれも一種の利権を伴っているのだろうし、アンケートの内容にもそれを利用する側の政治的な恣意性が含まれていて、都合のいい結論を引き出すための誘導設問まであって、結果の発表によって世間を納得させようとしていて、そこに彼らにとっての妥当性が表されているわけだが、その政治的な恣意性というのが、何も特定の人物の意志が反映されているわけではなく、そこに世の中の利害関係が反映していて、それが政治的な恣意性を伴っているように思われてしまうわけで、誰もが批判する特定の人物の意志というのも、そこに含まれているのではないか。そういう意味ではそれに対する批判は、世の中の利害関係そのものを批判していることになるのだろうが、批判している人物ですらその利害関係の中で生きているので、世間とそれを批判している自らを都合よく分けるわけにはいかないわけで、一方的に世間一般を批判している姿勢でいると、それは自らの欺瞞や偽善の要素を含むしかないだろう。


9月7日「空気の価値」

 果たしてそこに語るべき話があるだろうか。話の本筋から外れたところで何か主張している可能性もなきにしもあらずで、その外れ具合が取り立てて面白いわけでもなく、興味を引くような内容ではないと思われた時、では話を本筋に引き戻さなければならないのかというと、その本筋というのがもはや失われているようにも思われるわけで、かろうじて残っているのは枝葉末節な問題ばかりだろうか。何がそうだとも言えないところかもしれないが、少なくともそれは政治的な問題ではないように思われ、単なる制度上の問題なのかもしれないのだが、その制度というのがややこしい制度であり、何が制度かといえばそれは誰もが知っている制度であり、そんな制度に則って様々なことが行われ、実際にそれが当然のように思われてくるわけだ。そしてそんな範疇で何を主張しようとも、制度内で述べていることであり、誰もが制度に従っているという前提では、誰もがその全てを理解できないまでも、理解していることを前提として話が成り立っているはずなのだろうが、理解の程度にも個人差があり、ある程度は本筋から外れた理解であっても仕方がないと思えば、その制度についての理解が広く社会全般にわたって行き届いていないことになるのかもしれず、すべての人に理解させるには、その辺を周知徹底させるべきだということになるだろうが、その必要があるかどうかは何とも言えないところで、普段は誰もが意識できない空気のようなものなら、取り立てて理解していなくても間に合ってしまうのではないか。

 実態としてはどのようなものであれ、世の中を包み込んでいる制度が人々の心理状態に影響を及ぼしていて、常識的な範囲内で行動していれば、結果的には制度に従っているとみなされてしまうことが多いだろうし、形式的には法律などに違反していなくても、立ち振る舞いや言動が周りから拒絶されたり非難されるようだと、何らかの制度から外れているのかもしれず、軽い場合は空気を読めないと言われたり、ひどい場合だとヘイトクライムなどの被害に遭う場合も出てくるだろうか。社会的な差別や憎悪の感情は多分に制度的な影響から生じているのかもしれず、不文律などの暗黙の了解事項を知らないと、そのことで不利な立場になってしまうわけで、善意の発露から行ったことが思わぬところから反発されて、何が何だかわからないうちに攻撃対象とされてしまい、結果的にひどい目にあうようなことになるとしたら、それは知らないうちに制度から外れていることになるのではないか。世の中にそのような傾向があるとしたら、それは異物を排除する不寛容な社会となっている可能性があり、はっきりと言葉では説明できない空気のようなものに社会全体が支配されていて、その空気に馴染んでいるつもりの人々によって、絶えず四六時中社会が監視されていて、そんな人たちから異物とみなされた者はたちまち排除の対象となり、理性的に考えればどうでもいいような理由から攻撃される成り行きとなるのだろうが、その空気を共有していると思い込んでいる人たちにとっては、そのどうでもいいような理由というのが切実な問題であり、何があっても死守したい基準となっているわけだ。


9月6日「余分な思考」

 長年紛争地帯で生きてきた人にとっては、テロや内戦などは当たり前のことだろうし、そう想像してしまう一方で、縁もゆかりもないテロリストに同情して、何か紛争を解決する手段や方法がないものか、無駄に思考を巡らしてしまうわけで、もちろんただの一般人に解決法など思いつくはずもなく、テロや内戦で多数の死傷者が出ている現状を傍観するしかないのかもしれないが、そんな遠い地域のことではなく、自分が住んでいる地域についても、何か問題があってその解決法を模索すべきだとは思うが、その問題というのがどうでもいいことだとは思えないのもちろんのこと、それにしても簡単に解決法など思いつけないような問題なのかもしれず、世の中には様々な解決の難しい問題が山積していると述べるのも、何やら無責任極まりないようにも思えるわけで、そういう問題を解決する気もないのに、する立場にもない者が、無駄に思考を巡らせて解決法を模索しようとすることも、まったくの見当違いなのかもしれないが、たぶんそれらの問題について何か語ってみたいような成り行きの中で、それについて何か記している現状もあるわけで、そういう暇にまかせた動作から、問題解決のための妙案などが導き出されるはずもないのだろうが、要するにそんなことを考えながら、あるいは考えあぐねながらも、何かしら現状についての納得できる理解を得たいと思っているのかもしれない。もちろん納得できるはずもない現状認識にしか至らないのであり、この世界にはわからないことが山ほどあるというありふれた認識が導き出されるだけではあるが、それでも考えを巡らしている間は、何か前向きな気持ちになれて安心しているのだろうか。

 しかしテロや内戦で死傷する大勢の人たちよりも、それを起こしているテロリストや戦闘員に同情してしまうのはなぜだろうか。際限のない殺し合いに巻き込まれているのが、何だか不憫に思われるのだろうか。それに巻き込まれて死傷する一般市民の方が不憫なのだろうが、殺される側よりは殺す側の方が、逃げ場がないように思われるし、殺す行為を続ける限りは自動的に殺される側にもなるわけで、しかもいつ殺されても文句を言えない立場にもなっているわけだから、その時点で取り返しのつかないことをやっていて、後戻りが利かないのはもちろんのこと、前進してもいつ死ぬかわからない状況の中を前進するしかないわけで、それ以上はどうなるわけでもないところが、かわいそうに思われてしまうのだろうか。そうだとしても納得できる理由とはならないだろうし、普通なら誰もテロリストなどに同情しないし、その余地などないわけだが、それにしてもテロを実行しなければならない状況に追い込まれてしまうのはなぜなのか。それも納得できるような理由に行き着くとは思えないが、とりあえず武器弾薬が供給されていて、現実に戦闘状態にあるわけだから、テロを起こせる状況にはあるわけで、そういうところから考えれば、起こって当然のテロが起こされていると言えるだろうか。それ以外に何をどう説明しようとしても、ただの迂回に思われてしまうわけで、宗教としてのイスラム教がどうたらこうたら述べてみたところで、何か間接的なことでしかないように思われ、直接には戦争状態だからそれに付随してテロも起こっているだけなのかもしれない。それ以上の説明は不要だろうか。

 そうだとしてもイスラム教圏で戦争が行われているわけだから、まんざら宗教と関係がないわけでもなく、危険思想の類いとしてイスラム原理主義が問題視されていて、テロリスト=イスラム原理主義の信者と相場が決まっているわけだが、それについてどう反論しても無理なこじつけだと思われてしまうだろうし、そんな決めつけで構わないような世論が世界を席巻している現状がある限りは、そういうことだと思っておいて間違いはないのだろう。それに関して何か同情する余地があるだろうか。イスラム教とキリスト教との歴史的な対立の経緯や、ユダヤ人問題や西洋諸国による植民地支配や国民国家の問題、あるいは石油資源と湾岸産油国の民主化の問題も絡んでくるだろうし、そんな事柄を適当に織り交ぜて説明すれば、何か納得がいくような言説になるかもしれないが、そうだとしても現に起こっている紛争を終結させる手がかりが見出せるとは思えないし、そんな現状を肯定するでも否定するでもなく、そういうものだと無責任に思えるほどには、日本に暮らしている人々にとっては当事者意識が希薄なのは承知の上で、他に何か考えられることがあるとすれば、それは何だろうか。何があるとは思えなければ、そんな認識で構わないのかもしれず、ましてや紛争の解決法を考えるなどというのは、身の程知らずで余計なお節介以前の無意味な態度かもしれないが、まさかそこに世界を平和に導くようなヒントが隠されていたりするのだろうか。さすがにそこまでは考えないが、毎日のようにニュースなどで多数の死傷者が出たテロが報じられると、何か不思議に思われるわけで、それにまつわる様々な因果関係について考えを巡らせてしまうわけだ。


9月5日「平和憲法」

 資本主義経済の中で資本主義的な経済活動以外で、一般市民が何かやれることはないだろうか。国家権力に対抗するような運動だと、それが派手にメディアなどに取り上げられたら、たちまち警察権力による監視対象となりかねず、警察権力による取締りの強化に一般市民が対抗するのは難しいし、公安警察のように取り締まるための口実をわざと作って活動家を逮捕するような、昔ながらのありふれたやり方の餌食となってしまうだろうか。そういう方面で繰り返されていることについては、今後状況が改善することはないだろうし、できることならそれとは違う方面から力を加えるしかないのかもしれず、力を加えると言っても、それを国家権力に悟られてはまずいわけで、あからさまに行動を起こすのではなく、気づかれないうちに気づかれないように、何らかの活動を継続する必要があるのではないか。現実問題としてそんな活動などありえないだろうか。たぶんありえないと思われていればそれで構わないわけで、表沙汰にならない活動によって国家転覆とは行かないまでも、そういう大それたことではなく、何か何でもないようでいてじわじわと効いてくるが、警察が取り締まる対象にはならないというのが、うまいやり方かもしれないが、やはりそんな活動などありえないだろうか。そしてありえないと思われていればそれで構わないのだろうが、そんなふうに机上空論以前の段階でぐるぐる妄想が循環しているにすぎないことかもしれない。

 要するに何かの冗談だと思われていればいいのではないか。そして世界の中で日本はそんな暴力的なテロなどとは違う活動の可能性を秘めた社会なのかもしれず、そういう意味で平和憲法と呼ばれる憲法の効用に期待しても構わないのではないか。それにしても半分冗談で残り半分も虚構でしかないようにも思われ、少なくとも政府に反抗する活動を取り締まる側の警察権力も、真に受けようのない軟弱な主張以前の主張と受け取られたら、そういう水準では成功していると言えなくもないが、活動としては失敗することに成功しているとは言えないだろうし、それ以前に現状では何もやっていないことになりそうだが、それでも構わないのではないか。ある面では何をやってもうまくはいかないだろうし、別の面ではうまくいっているようであっても、全面的にうまくいくようなことはないのかもしれない。国家権力というのが具体的な警察の取締りによって痛切に体感されようと、それはその場の一時しのぎであり、取り締まられて弾圧された人々が社会の犠牲者となるしかなく、それに対抗する暴力手段がなければ、一方的にそんな弾圧が繰り返されるだけだろう。しかも状況的には暴力には暴力で対抗しなくても構わないわけで、むしろそれを望んでいるのが取締りを強化を図りたい警察権力なのだから、警察権力としては取締りを強化する法律でも制定してもらって、そのような法律を制定する口実を作るためにも、活動家たちが暴力で対抗してほしいわけだが、そこに立ちはだかってくるのが平和憲法による効用だとみなしておけば、何か冗談であり虚構でしかないのかもしれないが、要するにそんなふうに思っておけばいいわけだ。

 冗談やフィクションの効用とはそういうものかもしれないし、それは真に受けようのない嘘なのだろう。そう意味で反国家的な活動など不可能だろうし、実際にはありえないのだろうが、不可能を承知でそんな無駄で無効な嘘をほのめかすことはできる。そんな架空の口先だけで文章上だけの活動とは言えない活動に、どんな効用があるというのだろうか。一つ言えることは言えないことでもあるわけだが、集団で同じ行動や言動は取らないということであり、一般に広まることもなく、勝手に一人一人がやっているわけでもないわけで、ただ集団ではない個人の活動というのが、決して正当化できない活動としてあるのかもしれないし、他人による賛同も支持も期待しないような活動であるなら、それで構わないような気がするわけだ。もちろんそれでいいわけではなく、社会的な力を得るなら集団的な活動でなければならず、そのような活動が最終的には国家権力を奪取する目標を持っていようと、それは否定しえない目標となるのだろうし、集団によってそういうことが目指されているなら、別にそれを否定する筋合いはないわけだが、その一方で否定され無視されるような活動なら、別に集団による支持や賛同を期待しなくても構わないわけで、そういう面では実態が冗談や虚構でも構わないのではないか。しかも命がけだとか本気だとかでなくても構わない。そしてあからさまにその手の無抵抗や非暴力などを顕揚したり正当化する必要もないわけで、自らのやっていることをそれほど強く肯定する必要がなくなってしまい、それでは何の力も持ちえないのかもしれないが、たぶんその辺は曖昧のままでも構わないような気がしている。そして平和憲法の中身はそんな軟弱でふざけた内容ではないはずなのだろうが、別にそんな態度や姿勢が否定されているわけでもないはずだ。


9月4日「衆愚」

 やっていることに意味を見つけようとすると、時には何かの巡り合わせのついでに、それをやっている自らを肯定したり否定したりするに至るだろうか。心理状態がそこまでたどり着けなければ、わざと途中でうやむやにして、意味など考えない方がいいのかもしれず、ただそれをやらざるを得ない状況に追い込まれていると感じている限りで、やっていることかもしれないし、そんな行為に意味があろうとなかろうと、やらざるをえない範囲でやっていることに自意識も従うしかないのかもしれず、そんな自らに従っている限りは、それをやっている状態が持続しているわけか。何を考えているわけでもないというのは嘘で、考えていることがそのまま意識されるわけでもなく、思考と行動の間にズレがあるとしたら、そのズレが心の余裕であり隙間なのかもしれないが、余裕が油断をもたらしていることも確かだとも思えないが、油断していないと心の余裕は生まれないし、余裕がないと柔軟には振る舞えないだろうか。目的があって振る舞うのとは違い、何気なく振る舞っている中に、何か意味を見つけようとすると、そこから恣意的な思い込みも入ってきて、それ以上何を述べたいのかわけがわからなくなることもないだろうが、目的がはっきりしていた方が安心できるし、目的のために動いていた方が、その目的を肯定するにしろ否定するにしろ、その行動や言動を信用できるだろうか。

 信用できなくても信用してもらわなくてもいいのなら、その分だけ他人の思惑から自由になれるだろうか。そういう意味で自由でいることは信用されないことであり、その逆に何らかの束縛を受けている者は、その束縛されている理由や原因がはっきりしている範囲内で、束縛との因果関係から生じる言動や行動はとりあえず信用できるのかもしれず、それを肯定するにしろ否定するにしろ、理由や原因がはっきりしていることは、とりあえず確かなこととして認識されているのではないか。そしてそんなことについて語っているうちは、何となく分かりやすいことを語っているように感じられ、その語りについての評価も、肯定したり否定したり賞賛したり批判したり、そんなふうに評価する理由や根拠も、それらしくはっきりしているように思えるし、そんなに疑問や疑念を挟む余地も生まれないだろうか。人々はそれと意識せずにそれとなくそんなことを思っていて、そんなに確信があるわけでもないことまで、時にははっきりと批判したり否定したりしてしまうわけで、肯定したり賞賛するよりは安易に批判したり否定できるのではないか。そこに中立的な物言いなどありはしないし、よほど注意深くその場の状況や背景を分析しないと、結構安易に中立的な領域を踏み越えて、不用意に攻撃的なことを主張してしまうわけだが、その踏み越えの大胆さを爽快に感じてしまうと、かえって途中に踏みとどまることが中途半端に思えてくるだろうし、どうしても潔さや思い切りの良さの方に判断が傾いてしまうのかもしれない。

 だが果たしてそれが本当に大胆な行動や言動だと言えるだろうか。もしかしたら選挙結果や世論調査結果などから、何かはっきりした傾向や民意といったものを導き出してしまうと、それは個々人が考えていることとは何か異なる印象を拭えないだろうし、ただ集団の最大公約数的なものでしかなく、そういうものでしかないものに個人として従うとか賛同するとか拒否するとかではなく、かえって日頃から思ってもいないようなことに、勝手に結びつけられてしまうのが不快に感じられるのではないか。だからそれはそれとして、そんな結果が出たことは事実なのだが、個人としてそんなものに従う必要はないだろうし、結果は結果として真摯に受け止めざるをえないが、そういう結果と個人としての主張や考えは別だと思っておいた方がいいだろう。そしてそんな結果が出てしまう理由や根拠を考えることと、それを否定したり擁護したりすることも別であり、結果を否定したり拒否したり、従うように呼びかけたり、これが国民の総意であり民意であると正当化したりするのは、何か違っているわけで、こういう理由や根拠があるからこういう結果が出たと語るにとどめておくのが無難なところなのかもしれず、そこにとどまれないから、世論調査結果はこうなのに、なぜ政治家は世論に従わないのかとか、なぜ反対派は世論に従わないのかとか、そうなった理由や根拠を省いたおかしな主張になってしまい、自分の都合で世論の味方を装ったり、結果が気に入らなければ世論そのものを批判したり、そんなふうに自らが衆愚的な感情に取り憑かれていることに気づけなくなってしまうわけだ。


9月3日「仕込み」

 虚構の中身は虚構であり、虚構だからこそ安心して信用できる。虚構でない情報などありはしないだろうか。真実を伝えているつもりがいつの間にか虚構に変わってしまうわけではなく、真実と虚構の区別がつかないだけで、区別などつけなくても構わないような情報を求めているのかもしれず、求めている人にとって都合が良ければそれで構わず、その情報を基にした自分好みの物語を作りたいわけだ。好みだと意識しなくても、好みの情報を自然に収集しているのだろうし、自分に都合の良い情報ばかりに浸って、都合の悪い情報は避けるようになり、その人にとって不快な情報が都合の悪い情報なのだろうが、そんな心理状態が進行すると、都合の良い情報は真実で都合の悪い情報はデマだと信じるようになるだろうか。一般的にはそんなご都合主義はありえないのかもしれないが、意識せずにそう思い込めるようになれば、日頃の悩みも忘れられるかもしれず、そのような心理作用は何か特定の症候の典型例として、安易な心理状態を好む人々の間で流行しているだろうか。信じていなくても戦略的にネットなどでその手のデマを拡散したい人もいるだろうし、目的意識の強い人なら、目的のためなら平気で嘘をつくことも厭わなくなるだろうか。それも人として一つの在り方かもしれず、そんな人たちが同じ目的の下に集まり、集団で特定を使命を帯びて動いているとすれば、世の中を変えることができるかもしれず、実際に変えている最中かもしれないが、そんな根拠の定かでないことをいくら想像してみても意味のないことだろうか。

 面白いと思うなら想像していればいいことだろうし、根拠が定かでないと思っていれば、そこから構成する話はフィクションでしかないのかもしれず、ただ世の中の情勢や雰囲気から、あるいは実際にネットやその他のメディアなどで見受けられる言動から、そんなことを想像してしまうわけで、何か偏った情報によって世の中を恣意的に動かそうとする意志が感じられてしまうのだが、そんな言動を繰り出している人々にとっては、それは別に偏った情報ではなく、自分たちが信じている、自分たちの都合と主義主張と価値観が反映された言動であり言説なのだろうが、そこにそんな人たちの意図や思惑が透けて見えるとすれば、そう思わせるような偏りが確認できるわけで、それは想像というよりは現実に感じていることなのであって、他の人たちによってそんな意図や思惑が見透かされるような内容の言動であり言説なのだろうし、それを見透かすことができるか否かによって、その人の程度がわかってしまうようなものなのかもしれず、その程度のことはわかれよと言えるような内容をわからないと、やはりそういう人はその程度以下の知性の持ち主だと思われても仕方がないのだろうが、その仕方がない程度の人が世の中の多数派を占めていると、その手のデマを拡散する人たちの思う壺な世の中となってしまうわけで、逆にその手の見え透いた宣伝や煽動がわかる人々が世の中の多数派を占めているなら、デマを拡散する人たちの思い通りにはならない世の中になるだろうか。

 実際にはそんな単純なことではなく、特定の人たちではなく、誰もが自分好みの偏向した情報を拡散したくてうずうずしているような世の中なのかもしれず、デマを流すことに罪悪感など覚えないのが当たり前の世の中になっているとすれば、しかもデマを流している意識すら感じられないようだと、別にそんなことはどうでもよくなってしまうわけで、逆に受け取っている情報の真偽を見極めることすらが、無駄で無意味なことでしかないのかもしれない。それが嘘でも虚構でも構わないわけで、そういう基準ではなく、面白いかつまらないかの基準や、自分にとって都合が良いか悪いかの基準であったりして、それで何の不都合も感じないなら、真偽の見極めよりもそちらが優先されるだろうし、実際に優先されているとすれば、それを信じるか否かもどちらでも良いこととなってしまいそうだが、そうなれば結局は何事も利害関係でしか判断できなくなってしまうだろうか。現実にそうなっているからデマを拡散して面白がっているのだろうし、気休めにあるいは真剣に都合の良いデマを信じているのかもしれない。もちろんそれがデマであろうとなかろうと構わないわけで、それによって自分にとって都合の良い情勢や状況になればいいわけだ。それ以上の何を求める気になれるだろうか。果たして良心的な人々は真実を求めているのだろうか。それが自分の気に入らない不都合な真実であろうと構わないだろうか。そこまで考えている人はほとんどいないだろうし、ほとんどの人たちは意識せずに都合の良い情報を求めていて、都合の悪い現実に直面することを避けているのではないか。それが視界に入っても見ないように仕込まれているのかもしれず、見えているのに見えていることを意識できなのかもしれない。


9月2日「提案する姿勢」

 どうやら現状に対する批判勢力に現実的な対案は存在しないようだが、現実離れした理想論ならいくらでも主張できるだろうか。現状を認めることは批判できなくなることを意味するだろうか。その辺が微妙なところで、しかし現状の何を批判しているのだろうか。政府やその関係者のやることなすこと批判しているとしたら、ではその反対のことをやればいいということだろうか。たぶんやる機会が巡ってくるような状況ではなく、ただ批判している現状があるだけで、それ以外はありえないということだろうか。それも微妙なところだろうし、世の多数派が積極的に支持するようなことは主張できないのかもしれず、何を主張しても何をやろうとしても、必ず批判を招くようなことしか主張できないし、批判されるようなことしかできないのだろうか。そうなるとそれらを批判し反対する人たちが主張できるのは、現実離れした理想論となるしかないだろうか。だがそれが必ずしも現実離れしているとは思えないわけで、実行可能だと思っているから理想論を主張していて、政権交代が実現すれば新たに政権を奪取した勢力が、それらを実現してくれると信じている人が大勢いるのかもしれない。具体的には原発の即時全面停止と廃炉の実現や、沖縄から在日米軍を撤退させてほしいのだろうし、国民間の経済格差を縮小させてほしいとも思っているのではないか。

 それらがすべて非現実的な理想論だとすれば、現実的な妥協策としては何を主張したらいいのだろうか。原発に関してなら新規増設は止めて、公正な外部機関を設立して、外部機関が定めた寿命年数が来たら、必ず廃炉にする決まりを作るしかないだろうし、沖縄に集中する在日米軍施設に関しては、県外や国外への移転を目指して、アメリカ政府と粘り強く交渉するしかなく、経済格差の縮小に関しては、ベーシックインカムの試験導入とか、年金は積み立てた分しか戻ってこないような制度に変更せざるをえないだろうし、医療保険制度も含めて、破綻する可能性の低い新しい社会保障制度を模索していくしかないわけだが、また教育の無償化を徐々に実現するとか、子育てに関する家計支出の抑制策とかも、それなりに国民の理解が得られやすい政策だとは思われるが、以上に述べたような政策ですら現実離れした理想論とみなされ、既得権益を侵害する部分では、それによって利益を得ている勢力による妨害工作が行われる可能性が高いだろうし、現実にそれに近い政策を実行しようとした数年前の民主政権は、ほとんど何もできずに潰されたし、未だに悪意ある誹謗中傷が連綿と行われている状態だ。だから楽観的なジャーナリズムに与する人たちが、未だに戦後民主主義などという幻想を抱いていようと、その集大成が現状だということを忘れてはならず、実際に世論を構成する多数派は現状維持しか望んでおらず、選挙結果や世論調査結果も多少の紆余曲折はあるにしても、もはやそんな傾向しか示さないだろうか。

 ではどうすればいいのかということになるのだが、悪意ある誹謗中傷には安易に反論せずに、ひたすら草の根レベルで対話を重視して粘り強く善意の連帯の輪を広げていくのが、妥当なところかもしれないが、たぶんことあるたびに挑発してくるような、野党にまともな経済政策などありはしないという揶揄については、反論として現政権の経済政策の失敗をいくら強調しても無駄なのかもしれず、なぜか失敗していること自体が成功だと強調されてしまうわけで、それを批判するにしろ擁護するにしろ、都合のいいデータならいくらでも出せてしまうのが経済に関する議論であり、現状を批判している勢力が独自の経済政策を出すにしても、政治によって経済を制御するのは困難を極めるだろうし、宣伝や煽動によってそれをごまかしている現状から逸脱するのも、やはり困難を極めるのではないか。もちろん何か有効な政策を主張できるに越したことはないわけで、それに関しては現政権との対立を強調するのはあまり得策とは言えないだろうし、批判するよりは国会や記者会見などの場で、積極的に提案する姿勢を打ち出した方がいいのではないか。それは他の政策にも言えることかもしれず、対立を前面に展開して選挙結果が思わしくなかったわけだから、今後もひたすら批判や対立ばかりだと、反対しかできないのかという紋切り型で返されるだけであり、それは心情的にやめられないのだとすれば、それと同等の水準で提案する姿勢も強めれば、提案から妥協や協力も生まれる可能性も出てくるかもしれないし、そうなれば無闇矢鱈の不毛な全面対決も避けられるのではないか。


9月1日「話の辻褄」

 何が真実であろうとなかろうと、それについて何を知っていようと、知っていることと知らないことの間で、大して違いがないとしたら、たとえそれを知らなくても、取り立てて不都合はないだろうか。知っていても知らなくても、とりあえず何かをやろうとするわけで、それを行為に結びつけた者の中から、運良く何らかの成功を手にする者が出てこようと、あるいは別の誰かが成功しようと、結果は大して変わらず、やっている行為そのものが成功者を選ぶわけではなく、放っておけば誰かがやるようなことをやっていて、時間の経過とともにやっている者の間で次第に差が出てきて、ある者はうまくいっているような結果を得て、別の者はそれほどうまくいっているわけでもないような結果を得るわけだが、それとは違った状況の下では、確かにやるとやらないでは差がつくだろうが、やらずに済むようなことをあえてやる必要はないと思いながらも、逆に必要もないのにやっている状況もあるわけで、そのうちいつもやっていることの範囲内から逸脱して、未経験の未知の領域で何かを求めている場合もあるわけで、そこで何だかわからないことをやっているとしても、それをはっきりとは意識できない状況の中で、果たしてやるべきことをやっていると思い込めるだろうか。別に思い込む必要などなく、ただやるべきことをやっていると信じていれば、それで済んでしまうようなことかもしれないが、さらに信じる必要もなければ、自らのやっていることに疑問を感じる必要もなく、あるいは自分を信じて、その信念のままに行動している場合もあるだろうし、その場の状況と自らの都合に合わせて何かをやっている場合もありそうだ。

 両義的であり一方的でもあり、均衡が取れている場合も不均衡な場合もあり、その中で何か基準となる物事を定める場合も、漠然とあやふやなままでいる場合もありそうだが、時には何か一定の思考や行動の範囲内で凝り固まるとしても、興味を持っているからその範囲内で何かを語ろうとして、何かをやろうとしているのだろうし、自然とそこから逸脱していることに気づかないだけで、逸脱しているからこそ驚きや感動に巡り会えるわけで、思いがけない光景の中にいる自分に気づくことがあるわけだ。それがどうしたわけでもないと思い込んで、すぐさまこれまでの経験上にある自己へと立ち返ってもいいわけだが、都合が許せば外れたままであっても構わないわけで、そこに自由があると言っても、そんな自由を満喫できるのはつかの間のことでしかないかもしれず、それが貴重なひとときなのか、あるいは無駄で無為なひとときなのか、どちらでも構わないとは思えないが、選択の余地などない場合がほとんどで、いきなりそうなってしまうのだろう。ただその場の体験を後の局面で生かそうとするのは欲張ったやり方だろうし、それができるかできないかはさておき、どのような分野であっても、それに成功した者は勝手な思い込みと共に成功している場合があるだろうし、その者の意識の中では成功体験としてつじつまが合うのだろうが、それが他の者の体験にそのまま当てはまるとは言えないだろうし、何か共通点があるように思われても、それは後からつじつまを合わせていることでしかなく、そこで共通の体験というフィクションが構成されているだけなのかもしれない。もちろんそれが万人に役立つ場合もあるだろうし、役立たない場合もあるわけで、それもその者の都合に合わせて解釈された話の構成となっているのだろう。


8月31日「裏切り」

 普通に暮らしている限りは、どこかの独裁国家の反体制勢力とも無関係なのだろうから、抵抗の証に命を差し出すようなことではないにしても、何に逆らっているとも言えない状況の中で、くだらない世論に流されているとも言えないわけで、くだらないのは正論を吐くことでもないだろうし、正確には何が正しいとも言えないとしたら、では何を主張すればいいのだろうか。とりあえず回りくどく否定的に現状を捉えて、皮肉な屁理屈を構成してみたら、それで何か適当に述べていることになるのだろうか。それではゴマカシにしかならないだろうし、ゴマカシ以外に何も述べることが見当たらなければ、それでお茶を濁すくらいが関の山かもしれず、それでも何か語っているつもりで言葉を記して行けば、自ずから内容を導き出せるのかもしれず、何を狙っているつもりがなくても、言説の狙いがおぼろげながら意識できたら、結果的にはそれについて述べていることになると思い込めたら、現状ではそれ以上を求めてはならないのかもしれない。意識の中では何を求めていなくても、言葉を記せばその中に求めているものが自然と浮かび上がってくるだろうか。それは意識が求めていたものではなく、記された言葉の連なりが求めていたものかもしれず、その自意識が介在せずに浮かび上がってくる内容が、文章から導き出された現状のそのものであり、誰でもない誰かがそれを語っているようにみなされるだろうか。そんなのはフィクションでしかないだろうが、文章にそれ以上の意味が求められるとしても、それは言葉を記していることが求めているものではないのかもしれない。

 人が手作業で行う労働を機械の駆動に置き換えることが、産業革命と資本主義経済が発展する原動力となったことは確かだとしても、その機械を駆動させる核の部分が小型化と効率化の果てに、シリコンチッブ上の大規模集積回路までに縮小した先に、人間の思考パターンを模した人工知能にまで進化したわけで、さらに人工知能が人間の知能を凌駕する段階にまで発達して、人が行う労働のすべてを機械が肩代わりするだけなく、人間の存在そのものが機械と入れ替わればSF的な未来が到来するわけだが、そんな現状からかけ離れた未来を空想しながら現実逃避しても、今のところは人畜無害であるだけで、それがくだらない空想とは思えないにしても、そんなことを空想する以前に、もっと現状と結びつくようなことを語らないと、思考の現実逃避と無駄な迂回から生還できなくなってしまうだろうか。しかしフィクションではない生身の人間が体験している現実からは何がもたらされているのだろうか。在日アメリカ軍の施設を建設するための工事を阻むための闘争と、原発の再稼動を阻止するための闘争だろうか。それは先に述べた未来への空想とは全く別次元の問題だろうし、その闘争に関わっている人たちにとっては、はるかに関心のあることであり、リアリティを感じる切実な問題なのだろう。またそれとは全く無関係なことを関心を持っている人も大勢いて、中には国内にいる外国人や帰化して日本国籍を取得した元外国人などの行動や言動に関心を持っている人たちもいて、その中で日本の文化に同化しようとしない人たちがいるとみなして、それらの人たちを反日勢力に見立てて攻撃を繰り返しているわけだが、たぶんそれらの行為と行為から発生している言動を、すべて同次元で取り扱うわけにはいかないとは思われるわけで、やはりそれらを恣意的に結び付けて語ろうとしては、リアリティのないフィクションとなるしかないだろうか。

 では何を混同していると言えるのか。資本主義経済が招いている資産や賃金の格差から生じるいわゆる貧困問題と、在日米軍施設の施設建設工事と、原発再稼働と、ヘイトクライムなどの集団憎悪と、憲法改正や国民の自由や主権への侵害や制限を課す法律の制定などが、すべて同じ根元を持った問題だと主張しながら現政権を批判することが、なぜかリアリティを感じてしまうのは、どのような経緯からもたらされた現実なのだろうか。それらに全てに対する反対運動が方々へと分散させられているとは意識できないだろうし、選挙や世論調査によって世論を構成する多数派から見放されているような結果を提示されても、なおそうせざるをえず、中にはマスメディアによる世論誘導と世論操作や、不正選挙などへの疑念や陰謀を信じてしまう人たちも大勢いるわけで、それらの反対派や支援するメディア関係者や政治家を誹謗中傷する人たちとの対立や対決も繰り広げられ、両派による宣伝と煽動合戦の様相を呈しているとみなすと、何やらそんな捉え方もリアリティを感じてしまうわけで、たぶんそれらに対して無関心を装う人たちも含めて、ほとんどの人たちはそれらの問題が存在することを認識しているのだろうし、真に受けているはずなのだろうが、すべての反対運動は劣勢を強いられ、しかもだからと言って反対の声が止むことはなさそうで、たぶんこれからも延々と反対運動を継続することになる気配が濃厚で、少なくとも現状では終わりが見えてこないわけで、マスメディアから見放されようとも続いてゆくのではないか。要するに世論調査結果や選挙結果が民意の反映であるとしても、だからと言ってそれがおかしいと思ったら、そんな民意に従うわけにもいかなくなるということであり、民意と自分たちの意見を混同するのは間違っていることがはっきりしたということだろうか。そしてそれらの人たちは、これまで世論調査結果や選挙結果に一喜一憂していたのを愚かしいことだと気づいたわけでもないのだろうが、それがいくら不正操作だと疑っていようと、そんな民意に自分たちが裏切られていることに気づいたわけでもないのだろう。


8月30日「軽いノリ」

 にわかには信じられない理由というのがあるだろうか。本当は別の理由があるが、その理由を話せないから、わざと不自然な理由を述べて、真意を汲み取って欲しいと言ったところだろうか。何やらそこから危険な裏事情を想像してしまいがちになりそうだが、それで構わないのだろうか。お笑いや茶番劇などではなく、どす黒い陰謀が渦巻くアンタッチャブルな状況だと捉えておいた方が、現状に関して何か真実味を感じさせるのだろうが、それでも冗談のように思われる理由があるだろうか。好感を抱かせるような人が理不尽な誹謗中傷を受けているのを愉快だとは思わないだろうし、不快な人々が好感を抱かせるような人を誹謗中傷しているのも愉快ではないはずなのだが、誹謗中傷している理由を想像してしまうと、何か愉快な気分となってしまうわけで、それが何か冗談のような行為であるようにも思われ、誹謗中傷を受けて窮地に陥ってしまう人には気の毒だが、何よりもそうしなければならない切迫した理由があり、目的のためには手段を選ばない行為の一環として誹謗中傷攻撃があるだろうし、そうまでして目的を果たそうとしているのだから、せいぜい頑張って誹謗中傷攻撃を継続してほしいとも思われるし、実際にそんな攻撃のおかげで、状況を変えるに至ったのだから、誹謗中傷攻撃が効力を発揮して、目的を果たすことに成功したわけだが、果たしてそれが理由だったのだろうか。

 それとは何かといえば、彼らにしてみれば誹謗中傷の標的となった人を貶めようとしていたわけだから、貶めて除外した先に真の目的が控えているということになり、その標的となった人を除外した理由がそれとなるのかもしれない。そして実際に除外されてしまった人は呆れているのかもしれず、卑劣な手段を使ってまで除外されてしまったことに関して、改めて現状の恐ろしさを思い知ったというよりは、何かあっけにとられた気分でいるのかもしれない。要するに降りるならそれで構わないわけで、権力の座に執着する必要もなく、さっさと辞めてしまうことについては何の障害もないわけで、別に命懸けて取り組むようなことではなく、普通に道理が通っている範囲内でやればいいことでしかなく、それ以上は求められていないことを悟っておけば、意外と楽な立場であることにも気づいているようにも思われ、だからくだらない攻撃を受けた時点で、その程度の事態であることを認識せざるをえなかったようにも見受けられる。そういう意味で理不尽な攻撃を加えて理性的に振る舞おうとする人を蹴落とすような人々には、実際に威張ってもらうしかないわけで、彼らに権力を握ってもらって、彼らの思い通りにやらせてみようと考えるのも、一つの見識ではあるわけだが、そういう人たちが調子に乗って権勢を振るうような情勢となると、結局とどのつまりは死に物狂いな事態に直面してしまうのだろうか。そうなってくると冗談では済まなくなるのだろうが、それでも本質的には茶番劇のお笑い種でしかなく、人が不可解な陰謀によって葬り去られているように思われようと、その辺の事情が変わることはなく、ただ軽いノリでそうなっているように感じられるだけかもしれない。今後もそんなことの繰り返しだろうか。


8月29日「時代の要請」

 国家が経済発展する上で欠かせないのは、道路や鉄道などの交通網や電気・ガス・上下水道網、さらに物流拠点としての港湾施設となるだろうか。それらのインフラ整備によって経済基盤であるハード面を整えて、あとは学校などの教育施設を整備してそれらを管理運営する人材育成に力を注げば、国家として経済発展するだろうか。それではまるで絵に描いた餅かもしれず、肝心の中身が抜けているだろうか。しかし肝心の中身とは何か。要するに元から経済発展していた地域では、自然にそれらのインフラ整備が進むわけで、何もない地域に後から経済援助などによってインフラ整備しようとしても、なかなかうまくいない例が多く、アフリカなどはまさにその典型であり、いくら予算をつぎ込んでも人材と資源を無駄に浪費するばかりだったのかもしれないが、それは今までの話であり、さすがにここにきて今までの失敗から学んで教訓を得て、うまくいくような見通しとなってきたのだろうか。やってみなければわからないだろうし、現状でうまくいく見通しが立っているとは思えないが、他に何らかの思惑があり、うまくいくいかないの問題とは別に、その場しのぎの政治宣伝の類いから、アフリカに対する国家的な投資計画をぶち上げているのかもしれない。

 どこの国の政府にご立派な計画があろうとなかろうと、いざそれを実行に移してみると、その場その時の成り行き任せの部分が大きいだろうし、今がまさに国家総動員体制で産業界の協力を得ながら、世界の中で勝ち組になるべく、あらゆる可能性を模索しながら投資している最中なのかもしれず、仮にそのほとんどが失敗に終わろうと、何もやらずに国内で縮こまっているよりは、諸国間で繰り広げられているつもりの覇権争いに加わった方が、彼らが信仰する国家意志に従っているような気になるのかもしないが、現実にそんな気がするわけでもないだろうし、ただ成り行きとしてそう捉えておけば、何やら物語的なわかりやすさを意識できるかもしれず、もっともらしい理由や根拠を提示して、政府のやることに迎合してみせる識者の意見や主張に惑わされることもないだろうし、いつものように予算の無駄遣いを指摘しつつ批判を繰り返しながらも、何の権限も権力もない無力な反体制派のみなさんからも距離を取っておいた方がよさそうにも思われるし、だからと言って何ができるわけでもない現状に絶望する気も起こらないし、とりあえずはこんなふうに語っておけば、それで構わないのだろうし、政府がやることを後押ししているのは世論であり、その世論が正しいか間違っているかなんてどうでもいいことではないにしても、それによって国民の資産を消尽するような結果を招こうとも、それは主権者である国民の責任で行われていることだろうか。

 すでに危機感を煽りすぎて、もうほとんど誰も耳を貸さなくなっているだろうし、煽っている人たちも煽らせたままにしておいて、耳を貸さなくなった人々を呆れさせる戦略なのかもしれず、そういう面では国民の分断に成功していると言えるのではないか。そして分断されてしまった人々が、そら見たことかと危機感を煽る行為の正しさが証明されるのが、この先何十年も後になるとしたら、すでに現状においては危機感を煽る行為など無効なのかもしれないが、その行為の正しさを信じているのなら、危機感を煽る行為をやめることは、負けを認めることになるのだろうから、今さらやめるわけにもいかないだろうし、それがどうにもならなくなった現状を反映しているとしても、それはそれで構わないのかもしれず、もちろんそれらの人々にとってはどうにもならなくなったと感じている現状が、そうでもない人々にとっては何の変哲もない通常の状況なのだろうから、この先何も起こらないとしても、そんな状況の中で普通に暮らしていればいいことでしかなく、それがたとえ理性的に振る舞おうと心がける人々にとっては、正気の沙汰だとは思えないにしても、それらの人々とは正気と狂気の基準が少しずれているだけなのかもしれず、今から思えば数十年前の経済的なバブル全盛時が狂気の沙汰のように感じられるのと同じように、あと数十年も経てばこの時代の状況が、愚かな妄想に取り憑かれた人々が跋扈していた時代だと認識されるようになるのかもしれない。


8月28日「価値と価格」

 価値と価格の違いは何だろうか。価格があるということは、少なくとも商品として売買できる可能性があるだろうが、価値があるというだけでは、人それぞれで価値観が違うと考えるなら、何か共通の尺度や基準があるわけではないので、価格がついている方がわかりやすいだろうか。社会の中で広く一般的に認められる共通の価値というのもないわけではなく、そのような価値があることを信じている人たちにとっては、価値がある物事についての基準というのが、共通認識としてあるだろうし、使用したり利用する用途によって、価値や価格の有無があるわけで、価値もあり価格もついているような物事なら、その使用や利用の目的や用途がはっきりしているものがほとんどなのではないか。ただ一方でそうすることに価値があると思われるような物事だと、それはそう思う人の勝手な思い込みである場合もあるだろうし、またある種の集団的な洗脳によって、集団に属する教徒や信者にとっては、そうすることが価値がある思われる場合もあるし、さらにメディアの宣伝を真に受けることによって、あるいは社会的な慣習や規範に従うことが、そして理性を働かせて合理的な行為に及ぶことが、それぞれに価値があると思われる場合もあり、そういう意味で価値の有無だけでは、思い込みや信仰などでなんとか間に合ってしまうわけだが、それに価格がついてくると、貨幣との交換という現実的な行為が伴ってくるだろうか。

 価格には価値にはない機能があるというのではなく、言葉を使う時の用途の違いだけで、価値としての値段が価格であり、その物事がいくらの価値があるのかという話になれば、それは暗黙のうちに値段であり価格なのだろうから、明確に意味として区別されているわけはない面もありそうだ。そういう意味でなら要するに価値の尺度としての値段であり価格となるわけで、それが実際に貨幣と交換できるか否かも含めて、比較のための目安として貨幣の量が用いられるわけだが、そこから逆説的な言語表現も生まれて、金で買えないものがあるかないか、などという理屈も出てくるわけで、そんな理屈を持ち出す時点で、貨幣量との比較の論理に染まっているわけで、そこで価値だけでは信用できずに、価格のついた事物を介してでないと、他人や他の勢力との信頼関係を築けないような社会の中で自身が存在していることを物語っているのではないか。もちろんそれも程度と種類の問題であり、金銭を介した仕事を通しての関係ならそうなるのが当然だろうし、職場での友人関係ならギャンブル以外ではそうでもないだろうし、私的な交友関係や家族内でも金銭とは別の関係である部分の方が強いだろうし、特定の政治勢力を支持するか否かの場合も、できれば金銭的な利害とはある程度は距離をおいて判断した方がいいのだろうが、現実には気に入らない政権のお陰で経済がおかしくなっていると批判するわけで、表向きは私個人ではなく、国民全体の問題だということなのだろうが、他にも政治的な弾圧だの抑圧だの色々な批判要因もある中で、景気とか税金の無駄遣いとかの、直接の金銭的な利害が批判の常套句として利用されている面も確かにあるだろう。


8月27日「関係」

 文明とは経済的な富の蓄積の結果が示す状況のことを言うのかもしれないが、富の蓄積は人々の間で不平等で不均衡な関係をもたらしていて、社会の中では富裕層に属する人がいる一方で貧困層に属する人もいるわけだ。しかもそんな経済的な格差が人を魅了していて、富裕層などの社会の中で有利な立場に属する人々にとっては、富がある種の幻想とともに経済的な豊かさを実感させ、貧困層に属する社会の中で不利な立場を強いられている人々にとっては、その豊かさを実感できないところが不満に思われるだろうが、その有利不利というのが相対的な立場であって、有利な立場があればその反対の不利な立場もあるわけで、どちらか一方だけの立場などありえず、それが比較的有利な立場から不利な立場までの階層構造をなしているのが社会の現状だろうし、そんなふうにして人々の間で、あるいは関係する家族や様々な団体や勢力の間で、格差があるのが当然の成り行きになっていて、貧困層などの不利な立場になっている人たちは、格差が是正されてほしいとは思っているだろうが、一方では自らが有利な立場になりたいとも思っているだろうし、格差が是正されるよりは有利な立場になりたいという思いの方が強い人々が多ければ、世論として現状の階層構造を有する社会を受け入れるような風潮となっているのではないか。

 もちろん人々がどう思っていようと、また世の中の多数意見がどのような傾向を示していようと、社会の中で存在する様々な勢力の間の力関係によっても、社会の支配的な集団意志のような空気が出来上がっているとも言えるわけで、それが権力関係なのだろうし、そのような権力を握っている勢力に世の中の多数意見が同調する傾向が強いとみなされるなら、それが現状の社会の傾向を左右していると言えるだろうし、多数意見の集約である世論と、権力を握っている勢力の意向が一致しているとすれば、社会の状況はそれなりに安定していて、権力を握っている勢力と、多数意見に体現しているようにみなされる大衆との間で、一種の共謀関係が成り立っているとも言えるだろうし、それが現状の格差社会を容認しているように見えるなら、社会の中で不利な立場になっている人々の間でも、たとえ支配勢力に対して不満や反発があろうと、今のところはそれが格差社会を変えるほどの力になっていないと言えるのではないか。それだけ不利な立場となっているという自覚のある人々が、まだ社会の中では少数派でしかないのかもしれず、このまま多数派にならなければ現状のままなのだろうし、仮に多数派になったところで、現状での支配勢力の力が上回っていれば、あるいは巧妙な世論操作によって、格差を是正しようという社会的な気運をうまくはぐらかすることに成功していれば、やはり現状のままであるだろうし、場合によってはさらに格差が広がる傾向にもなるのではないか。

 格差と言っても、人々の意識の中で格差があるように思われたり、そう感じられたりするわけだから、何かしら漠然とした基準というのが、メディアからもたらされる情報から影響を受けて、あるいは周囲の人々とともに抱く共通認識としてあるような気がするだけで、そのおぼろげな基準に照らし合わせて、自分や家族が世間的にどのような階層に属しているのかを想像してしまうわけで、その共通認識に基づいた基準というのが、年収であったり資産状況であったり、あるいは他の国々との比較であったりするわけで、それと生活実感などはまた微妙にずれてくるのだろうし、富裕層に属していると思っていても、見栄を張りすぎて借金が溜まって生活が苦しかったり、また貧困層に属していると思われても、無欲であるなら気楽に生活できていたりするわけで、要するにその人のペースで暮らせていれば、貧しくてもそれほど苦にならなかったりするのではないか。それも程度の差があり、食うや食わずやの餓死寸前であるなら、そんな悠長なことも言っていられないわけだが、さすがに日本ではそんな人や家庭はごくわずかであり、大抵は衣食住がなんとか間に合っている程度の貧困層がほとんどなのではないか。だとすればまだそれほど経済的にも追い込まれてはいないわけで、マスコミが誇張して騒ぐほどではないのかもしれず、それとは別に、現状の格差社会とは違う方向に社会が変化する可能性もまだ残されているのではないか。それが現状の支配勢力に迎合する人々とは無関係な人々の間で何やら模索されている可能性なのかもしれない。それがすぐにでも現行の資本主義経済にとって変わることはないだろうが、何かそれとは違う人間関係のような経済関係が模索されていて、まだそれが人々の意識の上でも顕在化していない状態なのかもしれない。


8月26日「限界」

 人が動作するのに何かはっきりした理由があるとは思えないが、取り立てて理由を探しているわけではなさそうだ。理由がはっきりするのは、個人が後から考えることによってであり、自分が何を欲しているのかを考えることによって、理由が動作につけ足されるのだろうか。もちろん考えてしまった後からは、理由が目的となって、目的を達成することが動作する理由となってしまうわけだが、動作する意味や意義もそうやって後からつけ加わるにしても、その時にはすでに考えるよりも先に動作していることを忘れてしまっているのかもしれない。また人が集まって動作する組織と呼ばれる形態にしても、同じようにその動作自体にははっきりした理由はないのかもしれず、集団の利益を求めて動作しているように思えるにしても、やはりそれは後付けによって集団内の人々によって確認されるわけで、同じ目的の下に多くの人たちが集結する頃には、そんな後付けされた理由が付け加えられて、何やらそうやって集団で行う動作が、集団内にいる人々によって正当化されるわけだ。そして何か正当化された理由や目的によって、集団内にいる個人の自由が制限されるとしても、それは目的を達成させるために制限されるわけで、目的に合理的な理由がある限りにおいて、個人の行動や言動が制約を制限を受けることが、集団内での約束事にもなるわけだ。

 結局個人の自由というのは、国家的な集団の動作に正当性があると思われる人たちにとっては、制限の対象となるわけだが、もちろん個人の自由が憲法によって保障されていると言っても、憲法の次元ではそうであっても、企業や政党などの何らかの集団的な勢力の中では、集団の目的のために制限されるわけで、その集団内にいる脈絡の中で行動や言動が制限を受けるわけで、集団の利益に反しないことが求められ、その延長上で国家の利益に反しないことも求められ、そのように求めているのが、国家主義的な価値観に染まった人々であるわけだが、その価値観というのが国家の下に国民の集団的な動作を求めるような思想から生じていて、そのような思想は憲法が保障している個人の自由を制限する傾向を示しているのだが、要するに国家に反逆しない範囲内で自由を保障するということであり、その国家というのが政府であり、政権を握っている勢力という混同が生じているわけだが、国家と政府という存在自体が曖昧で両義的な面もあって、その存在の捉えようによっては何とでも都合よく解釈できる面があるわけで、それが勝手な主張だろうと恣意的な解釈だろうと、それを主張している人たちにしてみれば正しいと思われるわけだから、あとは他の人々が彼らに賛同するか、そんな主張など拒否するか、二者択一かあるいは無視するか相手にしないか、いろいろな反応が可能であり、結局どうとでも受け取れる面があるのかもしれない。

 そういう意味で個人にしても集団にしても、国家的な枠内ではたとえ憲法やその他の法律の類いや、または社会的な慣習や規範などがあるにしても、自らの立場や境遇によって制約や制限を受けるにしても、何が正しく何が間違っているかがはっきりわかっているつもりであろうと、それでも曖昧な面があることは十分に考えておいた方がいいだろうし、個人的な範囲内でも集団的な範囲内でも、そこで何をやっていいか、あるいは何をやってはいけないかが、社会的な慣習や規範の範囲内でも法律的な範囲内でもわかっていても、それに従えない動作が可能なわけで、自分の意志で従わないとしても、心ならずも決まりごとを破ってしまったとしても、動作可能である限りはそうなってしまう現実を受け入れなければならなくなる場合があるだろうか。だから当事者ではない限りは、他人の行動や言動については、隔たりや距離感を認識しておいた方がいいだろうし、さらに当事者であるとしても、その時の自分の行動や言動にも、時が経って自分の立場や境遇に変化が出てくれば、隔たりや距離感を抱くのは当然の成り行きなのではないか。だからいつまでもその時その局面での自分の行動や言動にこだわっていると、それによって自分の殻に閉じこもってしまい、それが自分の限界となって、それ以降の行動や言動まで拘束されてしまい、時代遅れや流行遅れの立場や境遇に甘んじなければならなくなる場合もあるのではないか。だがそうなってしまったからといって、それで構わない人もいるわけで、変わるか変わらないかは、その人の立場や境遇によっても制約や制限を受けるのではないか。


8月25日「始動」

 空疎な理念が有効だと思うならそれを唱えていればいいのかもしれないが、理念が空疎だとみなすのも理念の役割を理解していないことになるのかもしれず、ただ憲法などの理念は理念として保持しておくべきことなのだろうか。あってないようなものなら空疎だと言えるわけだが、実質的に存在していて、一応はそれを守っていることになっているわけだから、誰もが表向きは憲法の理念を尊重しているわけで、それは空疎な理念などではないのだろう。実際に改正しようとしているのだから、現状でも何らかの効力を持っていると言えるだろうか。改正しようとしている勢力はその効力を変えたいわけだから、改正すればその勢力の主張に近い効力を発揮すると思われるから、改正しようとしているのだろうが、それは実際に改正してみないことには効果のほどははっきりとは実感できないだろうか。今からそれを予想して、改正したら大変なことになると危機感を煽っている人たちもいることはいるわけだが、憲法を改正するしないは、一応は国民投票によって最終的には決定するわけだから、そんな機会が訪れることを期待するしかなさそうだ。

 何を期待しているのかは、その時になってみないことにはわからないかもしれず、今ここで何を期待しているわけでもないので、その時が来たところで何も期待していない可能性もありそうで、国民投票によって示される国民の意向が、個人としての自分の意向と一致するような気がしないので、どうでもいいようなこととしか感じられないのかもしれず、自分にとっては国民投票も憲法改正もあまり興味を持てないことでしかないのかもしれない。実際に憲法改正を求めている勢力の主張にも、改正反対を訴えている勢力の主張にも、これといって目新しい内容はなく、ただ憲法9条と自衛隊の存在が矛盾しているように思えるだけで、別に矛盾したままでも構わないし、矛盾のないような改正案が提示されたら、その時に賛成か反対か判断することになりそうだが、どうも今のところは9条ではなく、他のところで緊急事態条項を設けるとかの搦め手の案までが検討されているようで、その辺ではっきりしていないようだから、まだ興味があるとかないとか、あるいは改正に賛成するとか反対するとかの段階ではなく、とりあえず改正案がはっきりしてくるまでは態度を保留するしかないだろうか。

 改正するなら別の箇所を改正した方がいいとも思えるわけだが、それは国民の世論とはかみ合わない方面の改正であり、そういうところで国民の世論とはほとんど接点がないようで、それが憲法改正に興味を持てない理由なのかもしれず、それ以上に何を述べる気にもならず、国民の世論というメディアが操作しうる意見や主張とは無関係に、何か別の方面で考えていることがあって、たとえそれが荒唐無稽な妄想であるとしても、やはりそちらの方がリアリティがあるわけで、一方でメディアが世論調査の結果として伝える国民の世論というのが、どうでもいいようなことでしかないのかもしれない。要するに考えていることが、世論調査結果と一致するようなことではつまらないのだろうし、そんなのはわかりきったことであり、常識の範囲内や他の誰かがメディア上で主張しているようなことは、すでに手垢にまみれた新鮮味のないありふれた内容であり、それを改めて政治家たちが主張するような内容でもあるわけだが、それに賛成するだの反対するだのの意思表示を、無名の一般人がやっても意味のないことなのではないか。政治家やメディア関係者なら、自分たちの賛同者や批判者の存在がどの程度いるのかを知る上で、世論調査などが意味を持つわけだが、それは彼らの都合であり、別に一般の市民が彼らの都合を尊重する必要はないわけで、彼らとは違うことを考えていても何ら不都合はないわけで、勝手に考えているならそれで構わないのではないか。


8月24日「隔たりの感覚」

 実際に語っていることは実際に記している内容とは違い、また現実に行っている行為や行動と、実際に語っていることや記している内容との間にも、何らかのズレや違いがありそうだが、たぶんそんなことをいちいち意識しているわけでも、ズレや違いを確かめようとしているわけでもないだろうし、忘れていることも気づかないこともあるだろうし、言動も記述も行為や行動も、連続した動作としては認識されておらず、それらの一つ一つが独立した動作である場合が多いのかもしれない。だから他人の言動や記述内容や行為や行動を、一連の動作として結びつけて捉えようとすると、何かちぐはぐな印象を受けるのであり、例えばそれらから都合に合わせて肯定的な部分や否定的な部分を抽出して、何か理路整然とした論を展開させようとすると、それらの動作の対象としての人物と、現実に存在する人物が必ずしも同一人物とはみなすわけにもいかなくなるだろうし、言葉を使ってある一定の人物像として言説化した個体というのは、フィクションとしての要素が多分に含まれてしまうことにもなりかねず、そういう意味で特定の人物に対する批判の類いを、そのまま真に受けるわけにはいかないのはもちろんのこと、他人が何か説得力のある批判をしているとしても、少なくとも批判している部分については信用した方がいいのかもしれないが、それ以外の部分については、肯定否定に関する評価は保留しておいた方が妥当なのではないか。

 誰もが批判しているような人物であるとしても、その批判内容は内容として、そういうものだと捉えおくしかないだろうし、そういう部分についてはそう思っておくしかなく、それ以上に踏み込む成り行きにならなければ、それだけでも構わないだろうし、一緒になって批判する気にならないなら、必要以上に批判者の肩を持つ必要もなければ、そういうことはそのままにしておいて、それについては特に語らなくてもいいのではないか。他人が抱いている憎悪の感情が自分に乗り移るのは、非難されるような他人の行為に感情移入しているからかもしれず、しかもそのような行為を直接見たわけでも、その場に居合わせたわけでもなければ、要するにそれはメディアを介して入ってきた情報のわけだから、そういう面で間接的な情報であり、その間接性をまずは認識しておく必要があるだろうし、たとえそれが信用できる情報だろうと、少なくとも直接自らが関与しているような情報でなければ、そういうところで自分とは関係が薄いことは確かだろうし、全くの無関係ではないにしろ、情報の元となった対象とは、それ相応の距離や隔たりがあるわけで、それに興味を抱いてそれについて何か語るにしろ、何らかの行動を起こすにしても、関与の間接性や対象との距離は認識しておくべきなのではないか。

 たぶんそれは当事者意識とは別の認識であるほかなく、直接関与しようとしても、疎外感は覚えるだろうし、その疎外感をなくして距離を縮めようとする人もいるだろうが、実際に距離をなくして当事者になれたところで、興味を持った対象との関係が、間接的なものから直接的なものに変わったわけで、それ以上に何がどうなったわけではなく、何か当事者として責任を伴った立場になっただけではないのか。そして以前はメディアを通して批判していた対象が、自分がメディア上で批判される側になったわけで、批判していた頃と同じように振舞っても、通用しない面が出てくるのだろうし、そんなことなどわかってはいても、メディアによって取り上げられる人物にはそれなりに虚像がついてくるだろうし、その虚像の部分まで責任を引き受けるわけにはいかないと思われるだろうが、批判したり非難したり、場合によっては誹謗中傷するような人たちは、その虚像の部分を都合のいいように膨らませて、そこを突いてくるわけだから、そのようなデマや中傷攻撃に慣れていない人なら、面喰らう部分もあるだろうし、感情的に激昂したりして、うまく対処できずにまごついているうちに、それがさらなるマイナスイメージとして取り上げられて、そういう負の部分が雪だるま式に増えて行けば、それらの人たちの思う壺の展開となるだろうし、メディアを介して情報を受け取っている人たちは、物事をできるだけ理性的に捉えたければ、そういうところを汲み取ってあげる必要があるだろうし、感情に任せてメディアの論調に迎合するのが鬱陶しく感じられるなら、そういう部分について敏感であるべきなのではないか。


8月23日「評価」

 架空の物語の中でいずれは明かされる謎と、現実の世界で解き明かされるのを待っている謎とでは、謎の質が違っているだろうか。謎が解き明かされないまま物語が終わってしまうこともありそうだが、謎をめぐる冒険が物語の主要な内容で、しかもそれが登場人物たちが追い求めている謎なら、いずれは謎解きが行われて、物語の最後には謎が謎でなくなる可能性が高いのではないか。謎をめぐる物語なら目的が謎解きなのだろうから、また謎が解き明かされるのが期待されているわけだから、中には解き明かされないまま終わってしまう場合もあるにはあるだろうが、その場合は続編目当ての思惑が作用してそうなる場合もありそうだが、不慮の外部的な事故や災難による物語の中断とか、そんな製作者の思惑から外れるような事情が生じない限り、その物語の結末を楽しみにしている人たちは、謎が解き明かされるのを期待しながら、いずれは解き明かされることを前提として、物語に接しているのではないか。それとは対照的に現実の世界の謎は、それに興味のある人でも、解き明かされることを期待しているとしても、いずれ解き明かされるかどうかについては確信を持てないだろうし、解き明かされないままになってしまう事態は充分に想定できるわけで、謎が解き明かされる可能性としては、現実の世界の謎の方が不確実性が高いだろうか。

 そんな現実の世界の謎にもいろいろあるわけで、物理学や生物学や考古学などの謎が、ニュースの題材としては話題となっていることが多そうだが、例えば大衆心理に関する謎としては、物事の流行現象などが真っ先に思い浮かぶだろうか。ある時期には流行っていたり、また時期が過ぎると廃れてしまう現象は、多くの人々がそのような物事に惹かれたり、魅力があるように感じられると流行り、またその後に飽きたり幻滅すれば廃れるわけだが、なぜ一時的に惹かれたり魅力を覚え、またその時期を過ぎると飽きて幻滅してしまうのかについては、それに関して個々の流行現象の共通点を指摘して、それを流行り廃りの理由として説明できれば、それで一応は謎解きが完了したことなるのかもしれないが、現代の大衆メディア社会の特徴から説明するなら、メディア上でやられる宣伝や煽動が、人々の心を捉えて魅惑すれば流行り、そのような流行が快く思わない人たちやメディアによって、否定的な宣伝や煽動が行われると、人々の心に否定的なイメージが植えつけられて、拒絶の対象となって廃れるわけだろうか。それがメディアによる大衆への世論操作とも言われるわけだが、何か何らかの現象が流行る時期と廃れる時期の間で、潮目の変わる時期においては、何か契機となる説得力のあるきっかけが介在しているのだろうか。たぶん何かのきっかけで、これまで肯定的なイメージを伴って受け入れられていたのが、突然否定的なイメージを植えつけられてしまうわけだが、もちろんそんなレッテルを貼られる以前に、じわじわと否定的な要因が積み重なっていく場合もあるだろうし、それが徐々に蓄積されてきて、もはや肯定的なイメージでは支えきれなくなった時が、俗にいうネガティブ・キャンペーンの開始となって顕在化する時だろうか。そのものが否定的な流行現象も言えなくもないわけで、その流行に乗っかって騒ぎ立てる人々が、そのまま否定的なイメージの体現者となっていて、一定期間そういう現象が流行った後には、やがて廃れる時期がやってくるだろうし、そんな人たちはそのまま否定的なイメージの烙印を押されて、忘却の彼方へと退いて行ってしまうのかもしれず、目下のところそんな現象にうんざりした多くの人たちが潮目が変わるきっかけと契機の到来を期待しているのかもしれないが、実際に戦争や経済恐慌などの破局的な時期を経ずにそれらの現象が退潮傾向になると、それは単なる流行現象として片付けられてしまうだろうし、今までの不快な時期のことなどさっさと忘れてしまい、また何事もなかったかのように普通に暮らし始めるのかもしれないが、そうなると何が謎だったのかわからないままとなってしまうのはもちろんのこと、わからないままでも構わないことにもなるだろうし、その程度の現象なら要するに茶番劇でしかなったという評価になるのかもしれない。


8月22日「平行線」

 何も起こっていないふりはさすがにできないだろうし、メディア上ではどうということはないイベントではないのは確かで、多くの人たちにとっても楽しみにしていた催し物なのかもしれず、それについて興味があるとかないとかではなく、人々につかの間の話題を提供する祭典なのだろうか。実際には数日も経てば忘れているに違いなく、それについて語ることもないだろうし、そうであってほしいかどうかは、現時点では何とも言えないが、今ここで何とも言えなければ、それほど興味などなく、誰にとってもということではないが、少なくとも批判の対象とはなり難く、無理に批判するようだと、こじつけの感情が絡んでくるようなことかもしれない。騒ぎ立てるメディアにもそれほど否定的な言葉を投げかける筋合いも脈絡も感じなくなってきたようで、茶化したり皮肉ったりする気持ちにもなれないのだから、それだけメディアへの依存体質が薄れてきたのかもしれないが、自意識過剰な心理状態からも次第に離れつつあるということだろうか。しかしそれで世の中がより客観的に見えていることになるのだろうか。客観的という意味からはずれているようにも思われ、何が客観的な見方でもないことに気づいているのかもしず、何を述べても、述べている範囲内で勝手な思い込みに引きずられながら述べているわけで、勝手に偏向した思い込みがないと、何も述べられないのかもしれず、いくら何を述べようと、その内容は勝手な思い込みによって偏向していて、誇張された表現をかなり含んでいる内容となるしかないのではないか。

 今のブラジルを見る限り、オリンピックと貧困問題は別であり、オリンピックがあろうとなかろうと、大都市周辺のスラム街ではギャング団が日夜抗争を繰り広げ、警察が貧民を容赦なく撃ち殺すような状況があるのだろうし、アメリカではアフリカ系住民を警察が撃ち殺して問題となり、フィリピンでは大統領が麻薬犯罪者を千人殺したと話題となっているが、中東やアフリカで続くテロと内戦と空爆も収まる気配はないようで、今やそれが当たり前の事態なのだろうから、その辺の事情は昔も大して変わらなかったのかもしれないが、平和の祭典が四年間隔で世界のどこかで行われる一方で、最近では夏と冬で年をずらして二年間隔となっているが、開催することに意義があると思っている人たちが、まだ少しはいるのかもしれないが、興味も関心もそれほどない人も、結構大勢いるような気配も感じるし、それについて何か意見があるとか、主張するようなことがあるとは思えないのだとしたら、どうもそれで構わないと思うしかないようで、またネットメディア上でシリアの内戦で負傷した少年のこれ見よがしな画像が掲載されたが、それもただ可哀想だと思うと同時に、助けようがないとも思うわけで、さらにNHKの貧困家庭を扱った番組に出た少女を、ネット民や一部の政治家が貧困層ではないと糾弾しているのが話題となっていたが、それらすべてにおいて、一般の市民を無理やり話題作りに加担させようとする魂胆が感じられてしまい、何か抵抗感があるわけで、何でもかんでもメディアが差し出す餌に食らいつくように、意見や主張を述べる必要が感じられないことに気づいてしまう。

 しかもSNSなどでそれに対していちいち意見や主張などを述べている人たちが、何だか批判疲れしているようにも思われるわけで、メディアによってくびきを取り付けられて、いいように引き回されているうちに、日々の話題に対する条件反射のような単純な批判しかできなくなり、そのような作用によってそれらの人たちが、どんどん無内容で空っぽな人形へと変形させられているようにも見えてしまい、それは意図してメディアが引き回しているのでも、批判の対象となっている政治家に操られているのでもないのだろうが、たぶんメディアの体質がそのような動作をもたらしていて、また批判の対象となっている政治家と社会や国家などとの関係も、そのような作用をもたらすような動作があるのかもしれず、そしてそれが取り立ててどうということもないように思われるのは、それらの意見や主張が同じような結果しかもたらさないとしか思えず、要するにメディアが提供する話題に対する決まりきった反応と結果がもたらされていて、そこから逸脱するような反応も結果も皆無だというのが、ある意味では状況が極めて安定していることを物語っているのだろうか。テロや内戦の最中にオリンピックが定期的に開催され、その時期が来るとメディアが騒いで興味のある人たちも一緒になって騒いでいるのかもしれないが、期間が過ぎて終われば、また何事もなかったかのように、継続中のテロや内戦が話題となっている日常に戻って行き、時々平和な地域でも貧困や格差の問題が話題となると、それについても決まりきった肯定や否定の反応が巻き起こり、決してそこから逸脱することがなく、それ以上の事態の進展にも至らない。ただそれが起こっているのに気づいていないだけなのだろうか。


8月21日「あやふやな見解」

 たぶん現代の資本主義社会では労働者も資本家も別の労働者や資本家によって搾取の対象となっているのではないか。それが企業や国家を通して行われているわけで、労働者でいえば人気の高い職業や特殊なスキルを要する専門職の賃金が高い一方で、人気のない低賃金で単純作業の労働があること自体が、そのような低賃金で単純労働を強いられている人たちが、社会全体から搾取されていると言えそうで、それを搾取とみなすのには語弊があり、おかしいと思う人が大勢いるだろうが、そもそも搾取とはそのような境遇を強いることにあるわけで、何ら違法行為も犯していないし罰を受けているわけでもないのに、不利な境遇にあるということは、それだけで社会の中で搾取されていると言えないこともなく、その一方で逆に高い賃金をもらっている労働者がいるとすれば、たとえその人が正当な報酬を受け取っていると言えるとしても、国家や社会や企業のシステム上は、安い賃金で働かされている人がいる一方で、高い賃金の恩恵を受けている人たちがいるわけで、それが直接の搾取関係でないとしても、間接的にはそう捉えられるのではないか。それは元々の企業内での雇用を通しての搾取関係が、社会化された階層秩序として実現していることになるのではないか。

 資本家による別の資本家への搾取で言えば、株式投資などの資産投資においては昔からそうであり、大資本家が小資本家を搾取して破産に追い込むことで、さらに資産を大きくしていく過程が昔から繰り返されてきたわけで、株式会社では株をより多く持っている人や勢力により大きな発言権があり、会社が利益を出せば所有している株式額に応じてそれだけ配当額も大きくなり、配当額が増えればそれだけ資産も増えるわけで、資産が増えればそれだけ信用も増して、銀行などからの資金の借り入れも容易にできるようになるし、安全確実な投資先も優先的に回してもらえるようになるのではないか。その一方で小資本家は小株主にしかなれないだろうし、それだけ株主総会での発言権も小さく、配当額も少ないだろうし、危ない橋を渡らないと資産を増やすのが難しいだろうし、銀行などからも冷たくあしらわれるかもしれないし、逆に不利な投資を強いられ、銀行や証券会社などによって手数料収入の食い物にされてしまう危険性も増してくるのではないか。そのような食い物にされた小資産家たちの犠牲の上に、銀行や証券会社などは肥え太るのだろうし、大資産家たちもそれらの金融機関とグルになって、間接的に小資産家たちから搾取することによって資産を増してゆくわけだ。

 要するに非合法の詐欺などよりも、合法的に世の中の仕組みを利用して弱肉強食としての搾取とは見なされない搾取が行われているわけで、誰もが納得した形での行為が成り立っているわけだ。そしてそうした行為を通して格差社会が形成されているとも言えるわけだが、そのような行為や社会を肯定する人たちにとっては、そもそも合法的に資産形成をやっているわけだから、裏ではインサイダーな取引をしているとしても、表向きは何ら自らの存在を否定する理由は見当たらないわけで、社会的に不利な立場や境遇を強いられている人たちの味方を気取って、社会的に成功した富裕層や彼らの産業振興を後押ししている政治家や官僚などを敵視する人たちは、そもそも逆に彼らが主導権を握っている企業や政府や社会の敵であるわけで、合法的なあるいは非合法すれすれである場合もあるかもしれないが、とりあえずあらゆる手段を使って弾圧しにくるのは、当然の成り行きなのかもしれず、今までが彼らを甘やかしすぎて、一時的にしろ数年前の民主党による政権交代などもあったわけで、二度とそういう事態を引き起こさないためにも、ここ数年は本気で潰しにきているのかもしれないが、それにしても彼らの思い通りに事が運ぶかどうかは、現状でも何とも言えないところであり、それ以前にその手の敵対関係というのが、メディア的なフィクションである可能性もあるわけで、そんな対立や抗争自体が社会の制度内で演じられているに過ぎず、資本主義社会では昔からありふれた事態なのかもしれない。現実の事態はそのような予定調和の階級闘争自体を無効化するような方向での成り行きが模索されているのかもしれず、特定の誰がどのような勢力が模索しているわけでもないだろうが、あるとすれば人々が意識できない次元で模索されているのではないか。


8月20日「搾取の実態」

 イギリスの産業革命時代には確かに労働者が紡績工場などで低賃金の長時間労働を強いられ、資本家による労働者の搾取が顕在化していたわけだが、その一方で機械設備などの技術革新と効率的な生産体制の確立によって、労働を搾取するだけで利潤が出ているとは思えないほどの産業資本主義の世界的な進展が続いたわけだから、昔ながらの資本家が人間の労働を搾取して金儲けが行われていると言う認識では見落とされている特性があるような気がしてくるわけで、また商品を安く買って高く売ると言う商業的な取引だけで資本主義を説明するのも何か単純すぎる気がするわけだ。そういう意味でいったい利潤が商品の生産過程や流通過程のどこから生まれているのかを特定したくなってくるのだが、人間を不当に安い賃金で雇い、その労働によって作らせた商品に利潤の出る価格を上乗せして売ることによって、その差額が利潤となっていると考えるのは簡単なのだろうが、他に材料費を安く仕入れたり、製造に用いる機械類を改良して生産効率を上げたり、画期的な製造方法を開発したり、流通面では輸送態勢の効率化や、金融面では資金集めや借り入れや決済方法などの改良も、利潤を得るためには何らかの影響があるだろうか。

 それらすべての面で機械類の発明や改良がなければ、資本主義経済が全世界を覆うことはなかったわけで、どう考えても人間の直接の労働というよりは、労働の結晶であり労働に欠かせない道具類の延長上にある機械類の存在が、利潤追求に果たしている役割が大きいように思えるわけだ。実際に生産物を生産する場に機械設備が設置され、人力で行う作業とは量的にも質的にも時間的にも比較にならないほどの規模と水準で製品を生産しているわけだから、どう見ても人間の労働を搾取するのとは異質なことが行われているわけで、それは商品としての製品が自動的に短時間で大量に製造される方向で事態が進んでいることを示しているのではないか。その製造と流通の効率的な自動化を推し進めることによって、無駄で非効率な部分をできる限りなくそうとしているわけで、無駄で非効率なことをやっていた時点と、それが改善された時点での差から利潤を生み出そうとしているようにも思われるわけで、要するに無駄で非効率なことをやっていた過去、あるいは今もそれをやっている地域から、すでにそれが改善された現在、あるいは改善された地域が、そこに生じている差異から利潤を生み出すといえば、それで理解できるだろうか。

 具体的にどうやって利潤を出しているのかといえば、商品の価格は実際の売買によって決まるわけで、それが売れた時点の価格で利潤が出ているとすれば、製造費用と売買価格の間で差があるわけで、当然製造費用よりは高い価格で売れれば利潤が出るわけで、その売れた時点での製造費用よりは安く製造できて、しかも過去に売れた時点と同じ価格で売れれば、それだけ利潤が大きくなるわけだが、要するに製造過程や流通過程で無駄で非効率な箇所を改善できれば、製造費用や流通費用が安くなるわけだ。時間的には過去の時点より改善されればいいわけで、地域的には無駄で非効率な箇所が改善されいない地域よりは、改善されている地域の方が製造費用や流通費用が安くなるわけだが、地域というよりは国としてもいいだろうし、さらに企業ごとに改善されていない企業とされている企業とでは、当然利潤に差が出てくるだろう。そしてその無駄で非効率な箇所というのが、広くは国家体制や社会の構造までも含めると、その中で仕事をしている労働者の賃金や労働内容までが含まれるだろうし、その仕事の内容と賃金との相関関係が、国家や社会の中で適切な水準であるかどうかが、そこで暮らしている人々の生活実感や心理状態に影響を及ぼしているのではないか。


8月19日「拙劣な感覚」

 どうしても人は追い詰められると精神論に傾いてしまいがちだ。自分の信念を守る方向でなんとかしようとするのだろうが、そういう方面で凝り固まると、何か宗教じみてくるようにも感じられ、ともすれば独りよがりなことをやってしまい、場合によってはさらに心身ともに追い込まれてしまうだろうか。それが嫌ならそこから逃げるのではなく、自分のやっていることや言動を正当化しない方が気楽になれるだろうか。そんなことを意識して心がけると、それも一つの信念になってしまうから、あまり何か一つのやり方に決めてかからない方が良さそうだ。それでもただ漠然と不用意に一般的に使われている概念を、それが自明であるかのように言説に組み込んで、そんな言説の中で自らが何かを主張していると思ってしまうと、そんな主張を受け取った他人までも、それが自明のことのように自分には思われてしまうわけだが、言葉のやり取りをした後から考えてみると、自分が自明視していることを他人は別の捉え方をしているように思われ、どうもお互いの主張がかみ合っていないようにも思われてくるわけで、例えば民主主義という抽象的な概念の有効性を信じているわけではなく、それも一つの制度だと見なしているだけで、その制度自体に何か肯定できる中身があるとも思えないのだが、それを他の人たちは主張の中心に据えている場合もあるようで、民主主義を守れなどと主張しているのに出くわすと、彼らが主張している中身が何なのかわからなくなり、民主主義を守るために具体的に活動している人たちが、その中身であるようにも思われ、それでは主張と中身がぐるぐる回って循環しているだけでしかないような気もしてくるわけだが、彼らの存在と活動が彼らの信じている民主主義を体現していることになるのだろうか。それを肯定する気も否定する気も起こらないのだが、デモや集会などのパフォーマンスの次元で騒いでいることが実質的に何を動かしているとも思えないし、ただそれに参加して賛同する人たちの心を揺さぶり、勇気づけ奮い立たせていることは確かだが、それが何につながっているのかといえば、やはりパフォーマンスの次元で騒ぐような運動の持続となっている。一般の人たちにはそれが皮相上滑りと見えるだろうか。そして他に何か主張するとなると、批判しなくてもわかるようなこと批判しているわけか。それが彼らが信じている民主主義の実態であり現実だろうか。たぶん彼らも含めて誰もそうは思っていないのではないか。やっている人たちはメディアが話題とする社会問題や政治問題などの具体的な事例について何か述べているはずだ。

 貧困や差別や暴力や地域的な不平等や財政的な不均衡などによって割を食っている人たちを応援し助けようとしているのではないか。そしてそれらの面で優遇され利益を得ていると思われる人や勢力を批判する。常に社会的な弱者の側に立とうとして、少数者の権利を守ろうとするわけだ。そんな彼らについての悪質なデマを広めて誹謗中傷するのは許せないことだろうが、実際にネットや一部のメディアなどで延々と攻撃を仕掛けている勢力があり、しかもそのような行為が形だけの規制とともに野放しになっている現状があり、それは彼らが批判の対象とする社会問題や政治問題としても、彼らによって取り上げられていて、それに関しても主張の当事者であり問題の当事者でもある彼らの中で、ぐるぐる循環している様相を呈しているだろうか。そして無関心な人たちはそのような問題と関係することを嫌い、見て見ぬ振りをするか、あるいは傍観者となって野次馬的に面白がっているのだろうか。それも何か勘違いなのかもしれず、誇張された実態でしかないだろうし、どうでもいいことではないのだろうが、枝葉末節な現象でしかないだろうか。それとは別の現実の中に生きていて、違う何らかの個別的な問題への対応で手一杯なのかもしれない。また比較的余裕のある人たちは、それらの問題を意識できる環境の中では暮らしていないのかもしれず、感じ取れる度合いが深刻なレベルまで達していないのだとすれば、そんな人たちにとってもリアリティの欠ける問題でしかないだろうか。全ては想像で述べていることでしかなく、こんなことを述べている時点でフィクションなのだろうが、直接の当事者ではない間接的な関わりの中では、せいぜいがこんなことしか述べられないのであり、少なくとも大げさに騒いでいない現状の中で述べているのだから、深刻な問題とは意識できないわけだ。当事者たちがそうではないことは容易に想像できるだろうし、中には深刻な状況に直面している人たちもいるだろうし、それはそれで社会問題であり政治問題でもあるわけだが、だが一方でそんな人たちから見たら、ぬるま湯に浸かっているように見える人たちにとっては、ぬるま湯こそが退屈で死にそうな環境をもたらしているのかもしれず、苦痛でも何でもないのに、苦しみや痛みを感じ取れないとりとめのなさの中で生きているとすれば、それこそが救われない世界でもあるわけで、そんな世界で生きている人たちからすれば、民主主義にリアリティを感じられないのは当然のことかもしれず、それがどうしたわけでもないだろうか。それも想像で述べていることであり、フィクションでしかないので、それほど実感を伴っているわけでもなさそうだ。


8月18日「自分の演じ方」

 何かをやった結果が現状をもたらしているとしたら、現状は果たしてうまくいった結果の反映なのだろうか。あるいはうまくいっていないとしたら何か不満があるわけか。不満があってもあきらめているのかもしれないが、もたらされている諦念も気まぐれに思っていることかもしれず、全てが偶然の巡り合わせとは思えないが、何らかの思惑でやっていることなのだろう。だがそれが何を物語っているとも思えないのは、物語をはるかに超える情報量の多さがあり、それらの情報を適当に組み合わせて、何かもっともらしいことを物語る気が起こらないのであり、そこに納得できるような因果関係があるようには思えないなら、全てとは言わないまでも、そのほとんどが分散状態にあるようにも思われてしまうわけで、そのような現状からまとまった話になるような内容を導き出せないのが、現状のとりとめのないところだろうか。それでも何とか現状を肯定すべく、現状を批判する勢力を抑え込むために、誰となくあるいはある程度は組織的に、ネット上でもその他のメディア上でも、何らかの動作が働いてはいるのだろうが、どう考えてみてもそれがどうしたわけでもなく、いくら現状を肯定してみても、現状が現状であることに変わりはなく、そんな現状の中で支配的な空気に染まった人たちが、何やら主張しているわけだが、その主張に取り立てて魅力があるとも思えないわけで、それでも魅力があるように取り繕ってはいるのだろうが、このまま現状をいくら長引かせようとしても、現状が現状であることに変わりはないような気がするわけで、こんな現状に文句がある人はいくらでもいるのだろうが、また文句を言っている人たちを抑え込もうとしている人たちもいくらでもいるようだが、どちらの試みも現状を打破するには至っていないようで、打破したいとも思っていないのかもしれないが、要するに現状が現状のままでも構わないわけがないのだろうが、だからと言って現状の中で生きている人たちが、現状の外で生きられるとも思えず、現状の外などありはしないのだろうが、無い物ねだりなどする気力ももはや失せた人たちが大勢いるのかもしれない。そして現状はそれで構わない雰囲気を醸し出していて、現状は絶えず現状の中で停滞するしかないらしい。

 果たしてそれを認めることは現状に負けていることになるだろうか。それとも勝ち負けとは無関係にひたすら現状に絡め取られているだけだろうか。心身ともに絡め取られていることが心地よいとは感じないまでも、あきらめの感覚をもたらしているのなら、もはや惰性で生きていることになるだろうか。誰でも惰性の部分があることはあるのかもしれず、現状に対してまだ幻想を抱ける部分とともに、また心地よい催眠効果でももたらしているのかもしれないが、それで構わないのだろうし、何とかそういう空気に逆らって、感覚の鈍感な人たちが騒ぎ立てているのだが、今騒いでいる人たちが自滅するのを待っていたら、あと数十年は待ち続ける羽目に陥るのかもしれず、自らの過ちを認めたがらない老人たちが、だんだん寿命を迎えつつ亡くなっていくのを待っている間に、待っている人たちも老人になってしまうわけで、それが現状に巻き込まれている人たちの運命だと思えば、そういう人たちを哀れんでみても大きなお世話で、勘違いでしかないのだろうし、巻き込まれまいと思っても巻き込まれてしまうのが現状なのだろうから、巻き込まれてしまうことについてはあきらめるしかないようで、せいぜい鈍感な人たちと一緒に、自らが鈍感なことに無自覚のまま、何か鈍感な主張を繰り出していれば、そういう部分はそれで間に合ってしまうわけで、それで現状をやり過ごせるわけでもないのだろうが、自らの鈍感さゆえに、現状と格闘しながらもがき苦しんでいる自分を演じていれば、自然と時が経ってしまうのではないか。それが気に入らないならそれ以外の部分を求めないと、退屈のままに終わってしまうのかもしれず、鈍感さを取り去って敏感になれるわけではないが、鈍感な自らを自覚しているつもりにはなれるかもしれないし、本当に自覚しているかどうかなんてわかるはずがないが、特定の人物が持ち合わせているとされる感性の鋭さなんて幻想に過ぎないと思っておいたほうが無難なような気もするし、個人では変えようにも変えられない現状とともに、そんな現状と格闘しているふりを装う演技も真剣に演じるようなものでもないだろうし、ただそんな中でもやれることは、自然にやっていることをやり続けることでしかないのかもしれない。そしてそのやり続けていることと比較すれば、鈍感な人たちがわざとらしく演じている役割が、なんら魅力あるものでもないように思えるわけだ。


8月17日「コンクリートから人へ」

 大規模な建物や機械設備を作ると、作っている間は土木建設業者や機械設備業者などの仕事があるわけで、リニア新幹線などはそれらの業者にとってはまたとない仕事にありつける絶好の機会だろうし、それだけでも莫大な経済効果が期待できるのだろうか。東京周辺ではオリンピック関連や築地市場の移転などでも関連施設の建設によって同じような期待があるだろうし、施設が作られた後でもそれにかかる固定資産税から施設の維持管理や運営によっても収益を期待できるだろうし、一度大規模な構造物を作ってしまうと、作るのにかかる費用と作ってからの維持経費などによって、民間業者の収益から税収まで期待できるわけで、たとえ運営が赤字だろうと、それがなくなるまでは収益が発生するわけだ。もちろん運営が赤字続きなら最終的には税金や国債などから穴埋めされるのだろうが、それと比べれば保育園が足りないから増設にかかる費用とかは、建設費用も維持管理費用も微々たるものだろうから、経済効果はあまり期待できないだろうし、教育の無償化によってかかる費用なども、目に見える経済効果という面では全くの未知数と言えるだろうか。それはダム建設や原発建設などにも言えることだろうし、できるだけ大規模で建設費用のかかるものを作りたいのかもしれず、国がそのような方面で予算を優先的に使う傾向があるなら、現政権はそれらの予算によって潤う業界から支持されていると言えるだろうか。

 そういうやり方に反対するにしろ賛成するにしろ、かつて民主党政権が掲げた「コンクリートから人へ」と言うキャッチフレーズに賛同するにしろ、それを推進したり一定の歯止めをかけようとするときに、政治家が何か説得力のあることを言えるような現状があるだろうか。またそんなことを言えたとしても、現実に政治家の言動によってそれらの事業が推し進められたり歯止めがかけられたりするのだろうか。少なくとも「コンクリートから人へ」のキャッチフレーズ通りのことを実行しようとした民主党政権は、歯止めがかけられずに潰され、その後を引き継いだ現政権は、推し進める立場を堅持しているわけで、そのおかげなのか、タカ派的な姿勢を批判されつつも、今のところは政権の座を降りるような成り行きにはなっていない。そういう意味で現政権がそのような政策を推進しているから、そういうやり方が推し進められているというよりも、もとから国家としてそのようなやり方が推進されていて、現政権はそういう方針に従っているからこそ、表立ってそれを推し進めている勢力から妨害工作などを受けていないと言えるのではないか。そして果たしてそれが国民の民意を反映しているのかどうかは、建前上は選挙結果が示しているところなのだが、多くの国民がそれで納得しているかどうかは、なんとも言えないところかもしれない。うがった見方をすればそれが国家意志であり、その意志に国民は従わざるをえないと言えるのかもしれないが、もちろん本気で従っているのは少数派だろうし、国家意志などという概念も虚構でしかないわけだが、それでも何かそう捉えるとそういうものであるような気がしてくるわけだ。

 とりあえず民主党政権の失敗の教訓としては、あからさまに国家意志に逆らうようなことをやろうとしても、うまくいかないということであり、そのような意志を構成している各種団体の利権ネットワークを一朝一夕で断ち切ることはできず、そもそもそれを断ち切るための方策すら確立されていないわけだから、このまま万年野党として止まるなら、理想論ばかりをキャッチフレーズ化して主張していれば事足りるのかもしれないが、政権交代を目指すならばそれでは駄目なことが明らかとなったのではないか。そういう意味では現政権と正反対の主張では通用しないのかもしれず、かといって同じような主張では支持者を裏切ることになりかねず、ではどうすればいいのかといえば、支持者を説得するしかないのかもしれず、結局は支持者を裏切るようなことをやる羽目になるのではないか。しかもそうした方がいいのであり、具体的にどうしたらいいのかとなると、要するにこれまでとは批判の質を変える必要があるのかもしれず、馬鹿正直にわかりやすく現政権と正反対のことを主張するのではなく、よく考えてみないとわからないようなことを主張すべきだろうし、現政権を支持する各種の利権ネットワークにも配慮するようなことを述べながらも、一方で良心的な国民の声にも耳を傾けているようにも装わなければならないだろうし、その辺を微妙にニュアンスを織り交ぜながら、両義的な主張を繰り出せれば、ある程度はごまかしが利くのではないか。あからさまな反対ではなく、条件付きの反対であり批判となるような主張をした方がいいだろうし、その辺で現政権の政策にも一定の評価を織り交ぜながらも、部分的にこうした方がいいのではないかと提案するような形を取れば、なんとなく全否定的なイメージが薄らいで、有権者の間にも迷いが生じるだろうし、頭ごなしに拒絶するような空気を和らげる効果もありそうで、挑発的な煽動に踊らされてしまう愚かな人々を煙に巻くようなしたたかさを身につけるべきなのではないか。


8月16日「堂々巡り」

 日頃から接している情報媒体にしても、何かを考える上でそれに依存しているうちは、その依存している対象を通して世の中を感じ取っていて、思考や思想の面でも多大な影響を受けていると言えるだろうか。だがメディアが取り上げている内容にもいろいろあって、みんな同じような方向へと偏向しているわけでもないとは思うところだが、それが気休めに過ぎない現状なのかもしれず、それらのほとんどから同じような意図や思惑を感じ取れるとしたら、自らが荒唐無稽な陰謀論に取り憑かれているとしても、何かそのメディアから受け取っていると思われる同じような意図や思惑について考えてみなければ、事の本質を理解できないだろうか。それが単純化された論理に基づいたメッセージだと思うなら、その中身が政治的なプロパガンダの類いだと勘違いしているからだろうか。しかしなぜ勘違いしてしまうのだろうか。人は常に物事を単純化して解釈する傾向にあるからか。すべての人がそうだというのではなく、自分が勝手にそう思い込んでいるだけで、何か他の人たちを自分が都合良く認識できるイメージに当てはめて、見下しているからかもしれず、人がそういう傾向にあると思い込んでいる自分がそうなのであって、自分の思い込みを他の人たちに当てはめて投影しているだけなのかもしれない。だがそんな勝手な思い込みを誘発している原因が、メディアの中にあるのだとしたら、メディアに対する接し方が一方的な誤解に基づいているのかもしれず、メディアが伝える内容を特定の主義主張に基づいた勝手な決めつけを通してしか受け取れなくなっているのではないか。要するに事前に思考的なフィルターをかけてしまっているのかもしれず、それが勝手な決めつけとなって、自分が何かの機会に繰り出す毎度おなじみの批判的な言説に利用されるわけで、そういうメディアの利用法に慣れてしまって、意識がフィルターにかける前の情報に直接アクセスできなくなっているのかもしれない。果たしてそんな思考的な偏向傾向に陥るのもメディアに接しているうちに身についた固定観念の類いなのだろうか。

 そんな同義反復的なことをいくら述べても、同じ場所で思考がぐるぐる循環するだけで、なんら建設的な認識や提案には至りようがないが、勝手な決めつけをいつまでも述べ続けると、それは紋切り型的な言説になるわけで、そんな主張を延々と繰り返していると、他のことは何も述べられなくなってしまい、どんな情報が頭脳にインプットされても出てくる言説は同じような内容にしかなりかねず、現にそうなってしまった人が、逆にメディア上で論客やら評論家やらコメンテーターとして重宝されている状況もあるだろうし、しかも否定的な評価を伴ったいわゆるやられ役として利用されている場合まであるわけで、そういう傾向の人たちはこの程度のレベルという悪い見本の代表として、メディアに取り上げられて登場する人なわけだが、それがよりによって選挙に立候補するようなケースが多いのかもしれず、そしてそんな人たちが有力な候補者としてメディアに取り上げられ、そんな候補者の中から選んで投票しないと死票となってしまうのだから、それは大衆メディア社会がもたらした不条理な歪みを表しているとも言えるだろうか。歪んでいない民主主義などありえず、いつの時代でも世の中の支配的な傾向を生み出している勢力の都合を反映した制度に、そこに暮らしている人々は従うしかなく、有無を言わさずもたらされている不平等で不均衡な決まりに付き合わされるしかないわけで、それに逆らうにしても、社会に影響力のない人たちは無視され、影響力のありそうな人たちは集団いじめのような叩かれ方をされて、世間に向かって謝っても黙るまではそれが続くわけだが、それを見ている人たちのほとんどは無関心であるか、真に受ける人たちは世間の味方かそれの追従者を強いられているのかもしれず、それらの人たちにそんな状況を変えるような力はないのはもちろんのこと、しかも状況が変わるとすればそんな人たちが変わるしかないのが、それもある意味で不条理なのだろうが、たぶん何でもかんでも不条理で片付けるわけには行かず、実際に片付かないわけだが、それに気づいて反抗の狼煙を上げた人々がはまり込んでしまうのも、なぜかメディアによって求められている紋切り型的な思考なわけで、そうならざるをえない人々は、結局それに気づいたということ自体が、勝手な決めつけと思い込みであることに気づいていないのかもしれず、本当に気づくべきなのはそういうことではないということだろうか。ではいったい何に気づくべきなのだろうか。


8月15日「別次元」

 たぶん民主主義は否定されるべき概念でも制度でもないのだろうが、ただ定義が曖昧で多義的な意味を付加でき、それを主張する人たちに合わせて、どうとでも言えるようなものだろうか。具体的に何をどうするかが問題で、民主主義を守ろうとかいう抽象的な物言いでは、やはりどうとでも解釈できる人畜無害なものにしかならないだろうか。しかしそれでも民主主義を否定するのも意味のないことなのだろう。だから民主主義とは違った面から政治について考えてみる必要があるだろうか。例えば政治はいかにして権力の行使を回避すべきだろうか。それは個々の事例にごとに対応が変わってくることだろうし、具体的にどのような場合において権力を行使すべきか回避すべきかを、その場の状況に応じて判断しなければならないだろうか。そもそも権力の行使とはどのような動作なのだろうか。あからさまな例としては、反対派住民を強制排除するやり方が権力の行使だと言えそうだが、それは警察権力の行使であり、現場で行う前にそのような実力行使を決定し指示を出すのが政治的な権力の行使と言えるだろうか。そんな政治的な決定と指示に基づいて、現場で警察権力が実力行使に出るやり方が、反対派住民のさらなる反発を招くのは火を見るよりも明らかかもしれないが、そういう火に油を注ぐような行為には象徴的な意味合いがあるのかもしれず、あえてわざと強硬手段に出て、権力側の意志が強いことを見せつけているのかもしれないが、ここにきて安全審査をおろそかにした原発の拙速な再稼働も含めて、選挙での勝利の勢いを買って、一気呵成に事を進めようとしていることの表れなのだろうか。ではそんな権力行使を回避するにはどうすればいいだろうか。

 現状では回避しようがない状況だから、そんな行為がまかり通っている現状があるわけで、それを招いている元凶が、反体制派なら誰もが批判の矛先を向けている人物だとすれば、反対派の誰もが認識しているわかりやすい結論となってしまいそうだが、その元凶とされる人物が行っていることについて、世論調査の結果が示すように比較的高い支持率を保っていて、それも現状での回避しようがない権力の行使を招いているとすれば、政治はいかにして権力の行使を回避すべきかという問い自体が、無意味なものとなってしまうだろうか。そのような具体的な事例についてはそういうことになるかもしれないが、一般論としてはどうなのだろうか。いかに理路整然とした一般論を述べても、それは机上の空論であり、現実に起こっている実践面で役に立たなければ、そんなことをいくら述べても無駄だろうか。無駄である以前に、何か権力の行使を回避するうまいやり方があるとは思えないし、理路整然とした一般論すら述べられそうもなく、問いに対する回答などありえないようにも思われてしまうのだが、あえてそれで構わないと述べるなら語弊があるだろうか。そしてさらに誤解を招きかねないことを述べるならば、政治の理想的なあり方は、権力の行使を回避するような方向で事を進めることかもしれない。だがいかにしてそんなことができるだろうか。そんな方向を目指せば、現政権の支持者が嫌うような「何も決められない政治」となってしまうのではないか。何をやろうとしても反対されて、何も決められずに何も実行できなくなってしまうとしたら、そういう事態も回避しなければならないだろうか。ならば権力の行使を回避しながら、何も決められずに何も実行できなくなる事態も回避しなければならないとしたら、ではどうしたらいいのだろうか。反対派の住民たちと対話と交渉を重ねなければならないだろうか。対話しなければならないだろうし、対話してもお互いの主張が平行線に終始するとしても、やはり対話を継続しなければならないだろうか。あるいは反対する人が一人でも出る計画は中止した方がいいだろうか。できればそうした方がいいだろうが、それができない場合もあるだろうか。要するに一般論としてはそれで構わないのであり、現実には何らかの判断を決定して実行しなければならない。そして現状で行われている反対派の強制排除のような強硬手段は回避しなければならない。語れるのはそういうことでしかなく、それについて語るのと、実際に何かをやるのとでは、次元の違う問題かもしれない。


8月14日「幻想」

 政治の役割をあまり否定してみても意味のないことかもしれず、現実に何らかの権力行使の面で役割があるのだろうから、建前とは違う意味で、その実質的な役割と機能を考えてみる必要があるだろうか。あるいは社会の中でどのように機能させるべきなのか。あまりこれといって役割があるとは思えないとすれば、なぜそう思われてしまうのだろうか。政治の役割とか機能とかを積極的に定義できるような世の中ではないということか。民主主義の建前からならいくらでも定義できそうにも思われるが、実質的な役割や機能を考えると、何か漠然としていて、これといって思い浮かばないなら、すでに政治に関心がないということだろうか。政権を担っている政治勢力に対してなら、またいくらでも批判したり否定できるかもしれないが、その批判できる要素や否定的な面を取り除いてしまうと、そのあとに何が残るだろうか。そういうところから考えると、積極的に推し進めるべき役割や機能が何も思い浮かばないのは、何か奇異な印象を抱いてしまうわけだが、現代ではもはや政治の実質的な役割や機能がなくなっているとすると、では過去においてはどのような役割や機能があったのだろうか。過去において例えば著名な政治家が行ってきた業績とは何だったのだろうか。これも独裁者とかに定義される人物については、批判や否定の対象となるようなことを行ってきたことが、負の業績として思い浮かぶが、また国家主義的な富国強兵を推し進めてきた時期の代表的な政治家なら、そういう方面を賛美するような人々にとっては、それらの政治家によって成し遂げられたとされる業績は、積極的に肯定される対象となるのだろうが、そういう業績は自国民や先住民の多大な犠牲と、外国への侵略戦争や植民地支配などによって成し遂げられたものであることが多いので、現代の基準からすればやはりそれは批判され否定されるようなものだろう。そういう方面の業績としてはイギリスが代表的な例だろうが、日本も含めて19世紀後半から20世紀前半にかけてそんな野蛮な行為を世界を股にかけてやってきた国々が、現代において先進諸国を形成しているわけだから、それらの国々が推し進めているつもりの民主主義的な建前にしても、そういった残虐な行為の上に築き上げられたものだと認識するしかなく、もともと民主的な政治制度というのは、古代ギリシアの民主政が奴隷労働者が支えていた制度であるのと同じように、比較的長期間に及ぶ国内外での侵略と略奪による富の蓄積行為の果てにしか成り立たない制度なのかもしれない。

 実際にそのような富の蓄積が起こらなかった他の地域では、未だに民主主義的な政治制度は根付いておらず、少数の支配勢力による汚職や金権腐敗がはびこり、独裁的な強権政治が繰り返されている現状があるわけで、民主的な政治体制が確立されているとされる日本や欧米などの地域でも、経済状態が思わしくなくなった途端に、心理的にも経済的にも余裕がなくなってくると、人々の心に潜んでいた攻撃的な闘争本能が呼び覚まされて、民主主義の理想を脅かすような右翼的な国粋主義勢力などが台頭してきて、人種・民族・宗教差別や外国人に対する排斥運動などが起こり、日本では貧困層や障害者などの社会的な弱者を差別するような思想も蔓延している気配も感じられ、社会の中で異物扱いされる対象を攻撃する傾向が高まっているのではないか。それが支配的な空気となって社会全体を包み込めば、政権を担う勢力の中でもそういう空気に染まった人々が主導権を握ってくるだろうし、そういう意味で権力は上から押さえつけることによって成り立つわけではなく、社会の底辺からじわじわと上に向かって浸透していくものであり、社会の支配的な空気を敏感に感じ取った政治勢力が、そういった空気に染まった人々を味方につけて実権を握る傾向があるわけで、それがポピュリズムと言われる現象なのかもしれないが、それもある意味では民主的な政治形態であるわけだから、政権を支持する人々にとっては違和感など感じられないだろうし、民主主義の制度に基づいて政権を握ったわけだから、逆にそれに文句を言ってくる人たちが奇異に映るのではないか。特に戦後民主主義という都合の良い一時期に幻想を抱いている人々などは、そこに至る侵略と略奪の過程を否定するしかないだろうし、しかもアメリカとの戦争と敗戦によって都合よく断絶しているから、なおさらその後の時期を神格化したがるわけだが、実際はその後の高度経済成長期でさえ、米ソ冷戦を利用してアメリカによる保護を背景にして、優先的に付加価値の低い一次産品を輸入できて、それを加工して工業製品などの付加価値の高い二次産品を輸出することによって、富を蓄えることに成功したわけだから、彼らの信奉する民主主義が経済的な好景気と密接に結びついていることを忘れているわけで、しかもその民主主義の幻想を信じていた期間において、先進工業諸国を除いた世界の他の地域がどのような状態だったのかも忘れているわけだ。


8月13日「予言の言葉」

 危機的な未来を予言するのは簡単なことだろうか。予言といえば大抵はそういうものだと相場が決まっているような気もするが、たぶん予言しているつもりがなくても、未来について語ると結局は予言になってしまうのではないか。近い将来において巨大地震や火山噴火によってまた原発事故が起こりそうに思われるが、そんなことは織り込み済みで誰もが危惧していることであり、予言にもならないようなことかもしれず、現状ではそれがどうしたわけでもないことだろうか。では他に何を予言すれば人々の関心を引くことができるだろうか。預言者が世間の関心を引くために予言するのだとしたら、その予言は人々の期待に応えるような内容となるのかもしれない。そうだとすれば予言者はただ闇雲に予言するのではなく、広く世間の関心を引くようなことを探り当てなければならないだろうか。だが果たしてそれが予言だと言えるだろうか。誰も関心を引かないようなつまらないことを予言しても、世間から無視されるだけだろうか。予言者は何らかのメディア上に登場するわけだから、そこで注目を浴びるような発言を強いられているのではないか。それ以前にまずは予言が当たったという実績がなければ、メディアに呼んでもらえないわけだから、何か奇抜なことを予言して、それが当たったという話題がメディアによって取り上げられないと、そもそも予言者にすらなれないわけで、たぶんその辺が微妙なところだろうし、そうなるためのありがちな成り行きとしては、これから巨大地震とか火山噴火とかが起こり、起こった後からそれをすでに予言していた人がいたという話となるのかもしれず、それが起こる数か月前に前兆現象を捉えていた地震学者や火山学者がいて、どこかの学会などで報告していたとすれば、その人が現代的な予言者として脚光を浴びるだろうし、そうなると事後的に予言が当たっていたことになりそうだ。また宗教やオカルト以外の予言となると、他には経済動向などの予言となりそうだが、株価の暴落や為替の急激な変動を予言するのは、もはやどこのメディアでも取り扱う日常茶飯事の予言でしかないだろうか。それは予言ではなく予想や予測なのだろうが、世間の気を引くために誇張した表現を多用するような手合いは、予言者と同じ体質なのではないか。

 自然現象や経済現象ではなく人の運命を予言して当てれば、しかもその人が世間的に知名度の高い人なら、何かメディア上で注目を浴びそうだが、それは占いの類いに思われるだろうか。自殺や他殺や事故死などの不幸な運命を予言するのはありがちだろうが、一瞬の出来事ではなく長期的な運の浮き沈みなどを予言するのも占いなどではよくあることだろうし、気の利いた占い師ともなると運が上向くための助言なども売りにして、人の気を引こうとするのだろうが、人の気を引くための話術や技術などは、宣伝や煽動などでも欠かせないものかもしれず、詐欺師などの常套手段でもあるわけだが、煽動者や詐欺師や政治家などに共通しているのは、予言者や占い師が述べるような、社会やそこに暮らす人々の未来に関する内容となるだろうか。これまで起こってきたことの中で、自説に都合のいい出来事や内容を恣意的にサンプリングして、人々が興味を引くような内容にして、うまくわかりやすくまとめて説明し、しかもそこに自らの主張や誘惑の言葉を忍び込ませ、さらに人々が引き込まれるような巧みな話術や文章術を駆使しながら洗脳できれば、聴衆や読者の絶大な信用を勝ち取れるかもしれないし、そんな風にして信用を勝ち取った上で、これまで述べてきたことの延長上で、これから起こることを予言や予測や予想するわけで、それが近頃はよくありがちな危機感を煽るような内容なら、危機を避けるにはどうしたらいいかということになり、そのどうしたらいいかが、信者となった人々が従うべき命令として機能するわけで、どうしたらいいかの中に、そうしなさいというメッセージを忍ばせているわけだが、信者はそれをそうしなさいという命令とは受け取らず、自発的あるいは自主的にそうしようとするわけで、特定の誰かに命令されているなどとは意識せずに、みんなで力を合わせて善意でやっている気分となってしまうのではないか。あるいは自然の発露として使命感に駆られてやっていることになるだろうか。そしてそのやっている内容が、過激なことから何でもないことまで千差万別だから、それらの全てが同じ傾向を持つとは考えられず、たぶん和気あいあいとした集の中でやられていることなら、それが特定の誰かの強制的な命令だなんてありえないわけだ。


8月12日「普通」

 これといって有効な策などなく、ただ宣伝あるのみだとすれば、宣伝と煽動の繰り返しとなるのかもしれないが、そんなことばかりやっている人たちにしてみれば、逆に敵視している人や勢力が何か有効な策を持ち合わせているような状況はまずいわけで、デマや誹謗中傷を駆使してその人や勢力を潰しに来るだろうか。敵対するほど有力な人や勢力でなければ無視すると同時にメディアに圧力をかけて、話題になるのを阻止しようとしてくるかもしれないが、特にそんな工作が行われているようには感じられないのなら、現状を改善する上で有効な策など今のところはないと認識しておけばいいだろうか。しかし現状を改善するとしたら、具体的に何をどう改善すればいいのだろうか。問題はいくらでも指摘されているし、批判する人たちにとっては政権を担っている勢力によってひどいことが行われているわけだが、政治・経済情勢としてはこんなものでしかないのかもしれず、何がどうなっていようと、それは常に世界情勢とシンクロしていることだろうし、ありのままの現実を反映した情勢なのだから、改善しようがないだろうか。人があれこれ改善策を考えて、それを実行して改善する成り行きにはなり難いのかもしれず、たぶん結果的に状況が改善されたら、その結果を受けて改善した原因を専門家と言われる人たちがメディア上で解説して見せる成り行きになるだけで、そういう意味でいつも結果ありきの原因であり、その原因が後から改善策として捏造されることになるのではないか。だから今政権を握っている勢力は何かやっているふりをしているわけで、その何かやっているふりこそが、状況が改善した時に有効な改善策として喧伝されるわけだ。それはかつてのアメリカのニューディール政策などにも言えることで、その後に第二次世界大戦が起こらなかったら、それほど顕著な成果としては強調されなかったのではないか。ニューディール政策が何かやっているふりという評価でないことは確かだが、積極的にやったわけではなく、そんなことしかできなかったというのが真っ当な評価かもしれない。

 アメリカのレーガノミックスやイギリスのサッチャリズムなども、当時はそれほどもてはやされていたわけでもなく、大した成果が上がっていたとも言えない面があったわけだが、後の時代になってリベラル的な政治を批判しながらも昔を懐かしむ保守派が、あの頃がよかったと宣伝したので、何やら保守派の間では低迷していた経済を立て直した時期だと評価されるようになったわけだ。たぶんその当時もそんなことしかできなかったことをやっていたのだろうし、それは現代においても言えることで、世界各国ともこんなことしかできない政策を苦し紛れに打ち出していると捉えておくのが無難なところで、経済に対する政治的な関与はいつの時代でも変わらないのかもしれず、常に後手に回っているわけで、何か問題が起これば対策を立てて、それを実行に移すときには、たいていの場合はもはや手遅れになっているのではないか。要するにどうしようもなくなってから、仕方なくやれる範囲内で手を打つしかないわけで、逆に上手くいっているときには何もしなくても上手くいくものなのではないか。あとは宣伝と煽動であり、上手くいっているように装い、見せかけるのが常套手段であり、国民の目を別の方面にそらせたり、別の方面に責任転嫁したり、そんなことしかできないのは今に始まったことではなく、いつの時代でもやっていたことなのではないか。しかもそんなことはちょっと歴史を紐解けばわかることかもしれないのに、そこまで頭が回る一般大衆ではないだろうし、理性と善意で啓蒙しようとする人たちを鬱陶しく思うだろうし、今やそういう人たちが嘲笑されたり攻撃されているわけだから、聞く耳を持っている人の方が少数派となっているのではないか。そんなわけで現状はそれほど奇異な状況ではなく、良識ある人たちが憂うほどの深刻な状況だとしても、それで構わないのかもしれない。


8月11日「人材供給システム」

 終わっている人はそれなりに何か語るようだが、まだ終わっていない人は終わりたくないから、語りたくても語れないことがあるのかもしれず、そういう面でもどかしさが滲み出ているだろうか。別に誰が終わっていて別の誰が終わっていないと言っても、終わる終わらないの表現自体が恣意的な他人の評価であり、他人から終わっていると言われても、うろたえずにそんなはずがないと思っていれば、どうということはないようで、現に普通に生きているのだから、その状態の何が終わっていようと、終わっていると言われる当人にしてみれば、終わる前と後で何も変わっていないと強がって見せる場合もあるだろうか。確かにそれに気づいていないふりをしている限りは、何も終わっていないと強弁していればいいのかもしれないが、ただ周りが終わったと認識したり評価しているのなら、終わる前と後では周りからの信用が低下したとみなしておくのが妥当かもしれず、またそういう状況では終わったとみなされる人に対してとやかく言うのは、駄目を押しているに過ぎず、そうやって否定的な評価が世間に蔓延しているのをあたらめて確認してみても、何を今さらという感覚だろうか。しかしいったい誰が終わっているのか。確実に死んでいなければ誰も終わっていないのはもちろんのこと、普通に死んでいても伝説の人として祭り上げられてしまえば、まだ終わっていないことになるだろうか。それこそ後の祭りと言えるのかもしれない。

 その人が生きていて活動している限りは、駄目を押し続けて何とかその活動を下火にしながら、フェードアウトへと追い込んで、完全に葬り去りたいという思惑が働いているのかもしれず、特定の対象へいつまでも執拗に攻撃を繰り返している人たちの狙いはそういうところにあるのかもしれないが、意識して何を狙っているわけではなく、何となく世の中の情勢がそういうところへと攻撃しやすいような傾向を示していて、多くの人が吸い込まれるようにこき下ろしたがる人物というのが、標的として浮かび上がってくるというか、そういうムードを作り上げているのがマスメディアなのかもしれないが、たぶん特定の誰が音頭をとってそんな見え透いたキャンペーンを煽っているというわけでもなく、同じようなメンタリティを持った人々の感性の波長が合ってしまうわけで、彼らにしてみれば敵として好都合な飛んで火に入る夏の虫的な人物を求めていて、しかも求めている人材が手近に確保できるような状況となっていて、そういう人物がメディアによって常時用意されているとしか思えないような周到さを実感させられるわけだ。実際にそういう人材がテレビの政治に関する討論番組や時事問題を扱うニュース番組などで育まれ、いつでも政治家として選挙に立候補可能なようにストックされているわけだ。そして人気取りのために政党が安易にそういう人たちを迎え入れ、有権者もそれが当たり前のように思っているわけで、世襲制や元官僚と並んで、ジャーナリストやテレビタレントなどが政治家になりやすい制度として認知されているわけだが、逆にそれ以外の誰が政治家になれるのか。


8月10日「実態」

 人は何に立ち向かっているのだろうか。それは自身の運命なのではないか。自身の境遇や立場や偶然の巡り合わせから生じる運命に立ち向かいながらも、周りがちゃんと見えているわけでもなく、他人への配慮を欠いて恨まれたり憎まれたり無視されたり嘲笑されたりしながらも、それでも自らの運命に立ち向かっているつもりになれるだろうか。実態はそうではないのかもしれず、自意識過剰気味に空回りの最中であることを自覚できずに、何やら滑稽なことをやっているだけかもしれないが、そんなふうにいくら自分を卑下してみてもどうなるものでもないだろうし、さしあたり現状があるわけで、現状の中で何かやっているわけか。何もやっていないとすれば、もう諦めたということだろうか。何を諦めたわけでもなく、現状の成り行きに身を任せているということでしかないのかもしれないが、それ以上に何を認識できるだろうか。あとは意識せずに勘を頼りに何かやっていて、それで活路でも開こうとしているのだろうか。意識して活路を開こうとしているのでもないとしたら、全ては成り行き任せであると同時に無意識の動作に期待しているわけか。しかし誰がそれを期待しているというのか。

 できれば意識して計画的に活動した方が納得できるだろうし、なかなか計画通りにはいかないとしても、ある程度は見当や目算をつけて何かをやろうとするだろうか。また場合によっては、自分一人ではなく周りの人たちを巻き込みながらも、巻き込んでいることについても周りの了解を取り付けながら巻き込もうとするだろうし、場合によっては話し合いの機会を持って互いに腹の中を探り合いながら、話し合いの中で練り上げた計画を推し進めようとするわけか。そんな集団で行う活動に持っていければしめたものだろうか。しかし集団で何をやろうというのだろうか。それは他の集団がやっているようなことになるだろうか。何か他にはない斬新なことをやろうというのなら、それなりに勝算や皮算用を提示しないと集団を一つの方向にまとめ上げることはできないだろうし、それにはある程度の集団内での支持勢力や権力基盤を持っていないと、たとえ会議などでそれなりに説得力のあるプレゼンをやったところで、集団としての了解を取り付けるのは難しいだろうか。結局は裏で根回しや懐柔や説得工作をやりながら、何とか集団をまとめ上げて何かをやろうとするのだろうが、それがうまくいくか否かにも、予期せぬ外部からの作用が絡んでくるだろうし、なかなか思惑通りに事が運ぶような成り行きにはならないだろうか。

 どうなるにしろ各人の利害が絡んでくると、理性や合理性を基準とした動作では片付かなくなるだろうし、不条理でこんがらがった結果を招きかねず、それによって生じてくるのは不均衡で不平等な利益配分にならざるをえず、できるだけ多くの利益を分捕るために権力の行使がものを言ってくるわけで、自分や自分たちの勢力に有利な状況を作るために、あれこれと策を弄してくるだろうか。場合よっては騙し討ちや汚い手段を使ってでも利益を確保しにくると、そのうち争いが戦いに発展して、集団内や集団と集団との間での対立が修復不可能なまでに激化するだろうか。ヤクザ同士の抗争ならそれが当たり前かもしれないが、一般の人たちが集団でまとまってそこまでやるかどうかは未知数だろうし、そんな集団的な活動が成り立つかどうかも、何事にも無関心な人が世の中の多数派を占めている現状があるなら、よほどのことがない限りは、そうはならないと思っておいた方が無難なところだろうか。そういう意味では個々人がそれぞれに勝手に考え勝手なことをやり、別々に生きている状態が、現状の延長上で起こりそうな状況で、実際にそういう傾向が世の中で顕著になっているのかもしれない。政治の面でも騒いでいるのはいつも少数派であって、他は無関心を装うか、あるいはさらにごく少数の狂信的なグループでまとまっているか、そしてそれよりもさらに少数の人たちが、理性や合理性に基づいた政治の理念を唱えているのが現状だろうか。それらの何が良くて何が悪いとも言えない状況の中で、特定の何に立ち向かっているとも思わない方がいいのかもしれず、騒いでいる人と一緒になって批判している特定の対象があるとしても、その対象が果たしてそれほどひどいのかどうか、騒いでいる人たちが言うほど、騒いでいる人たちと異なっているとも言えない印象があって、同じような人たちが立場を逆にして対立しているようにしか見えない部分もありそうで、現状ではどちらも信用できるような存在とは思えない。


8月9日「反映」

 人は他人を利用しながら生きている。社会の中で暮らしていればそれは当たり前のことなのだろうが、他人を利用しておきながら、他人から束縛されるのが鬱陶しいだろうか。それでも他人にかまってもらえなくなるとおもしろくないだろう。要は敵と戦っているのが一番楽な状況かもしれず、敵である他人をやっつけようとしている限りは、容赦なく振る舞えるわけで、漫画やアニメやゲームで繰り出される必殺技が心地いいのも、それによって相手をやっつけるときの快感に浸りたいからだろうか。プロスポーツなどで贔屓のチームや選手が勝つと心地いいのも、それと同じことだろうか。そんな敵と戦って活躍したい願望の延長上に、現実逃避の幻想がはびこっているのかもしれず、そういう戦闘のフォーマットに自我を押し込めることによって、そうではない現実を忘れたいわけか。そうではない現実が何かといえば、他人に配慮しながら生きることの息苦しさであったり、世の中の制度や慣習に束縛されながら生きなければならないことの不自由さだろうか。他人に対する配慮が世の中の制度や慣習からもたらされているとすれば同じことだろうが、中には制度や慣習に逆らってまで他人に配慮しなければならない時もあるだろうし、そういう場合は息苦しさではなく、例えば勇気と決断を伴うだろうか。制度や慣習に逆らうことが、若者にありがちな反抗期の紋切り型的な症例の場合もあるだろうが、他人に対する配慮が、攻撃的な反抗精神とは異なる面があるとすれば、和解だとか妥協だとか中途半端な決着に導く面かもしれない。それで決着しないところが面倒なところかもしれないが、白黒をはっきりさせたところで、その後にいざこざが絶えない場合もあるのだろうから、優劣をつけるというのも幻想に過ぎないのかもしれず、勝者が一時的に優越感に浸れる一方で、敗者の側には憎悪や怨念が渦巻いているとしたら、何も良いことはないのかもしれない。

 そういう意味で攻撃的な人は、勝者になりたいだけの身勝手な願望にとらわれていて、相手に対する配慮が欠けている傾向があり、それは現実に争いが絶えない世界から経験的あるいは心理的な影響を受けているのだろうし、いちいち他人に配慮していたら、そこにつけこまれて逆に打ち負かされてしまうような恐怖感があるのかもしれず、実際にそんな経験もあるのかもしれないが、そんなやるかやられるかの二者択一ではなく、もっと込み入った事情が絡んでいる場合もあり、様々な人や組織の意図や思惑が複雑に絡み合う中で、ずる賢く立ち回る知恵を身につけた人が、運も引き寄せて成功を掴み取るのが、世の中の普通の成り行きとなっているだろうし、単細胞で攻撃的な群衆などは、ただそんな人たちの煽動に乗せられているに過ぎないのかもしれず、さらにそんな人たちでさえ、社会の中で生じている現実の利害対立をうまく利用することによって、かろうじて生息できるような存在でしかないのかもしれず、それも一種の社会的な人間の進化形態なのであり、そういう単細胞で攻撃的な群衆とずる賢く立ち回る人たちのコンビネーションを社会から取り除くことはできないのはもちろんのこと、ただそういう人たちによっていいように社会を牛耳られていることに、少なくともそれ以外の人々は気づいているべきなのだろうが、気づいていながらも無関心を装っているのだとすれば、結局自分たちが牛耳っているつもりの社会の表舞台で活躍しているように見える人たちは、無関心を装う人によっていいように踊らされていることになるだろうか。たぶん無関心な人たちにはそんな自覚などないだろうし、実際に踊らされているという表現がしっくりくるのは、人でも群衆でもなく社会そのものであり、社会そのものによって踊らされているのであり、また単細胞で攻撃的な群衆の頭の中では、社会=国家という等式が成り立っているのかもしれず、自分たちの都合が反映していると思われる社会の部分が、国家という固有名をまとっているように感じられるに過ぎないのかもしれない。


8月8日「慣習」

 なぜ人はそんなことに関心を持つのだろうか。それが愚問であるのは言うまでもないが、たとえ直接には関係がなくても、興味を持った対象に同情したり共感したりして、無理やり関係を持とうとしているわけでもないのだろうが、それについて言及していると、何となく関係があるように思われてしまうだろうか。その関係があるように思われてしまうことの中で、同じ国民であるとか、同じ対象を批判しているとか、その他に色々と理由が思いつきそうだが、言及している時にはすでにそんな理由のことなど意識しないだろうが、何かメディアからもたらされた関心事に言及して、それについて批判したり、擁護できる部分は擁護したり、それが高じて政治的な物言いを多用するようになれば、一般の人たちでも評論家もどきの物言いとなったり、活動家気取りで政府を批判してみたり、何かの抗議活動に共闘の姿勢を示したり、いくらでもその手のバリエーションには事欠かなそうだが、そんなことを述べている時点では、もはや無関係ではいられなくなっているはずで、中には直接抗議している現場に出向いて活動に参加する人もいるのかもしれず、大半の人たちはネット上でそれふうの物言いに耽っているだけかもしれないが、そうやって共闘の環が全国へと広がってゆけば、実際に抗議活動の最前線に立っている人たちも勇気づけられるだろうか。

 それ以上は何をどうすることもできないなら、それを続けて行くしかないだろうし、実際に続けている現状があるのだろうが、たぶん人々は意識しなくてもその先を見据えていて、そのつもりがなくても活動によって社会を変えようとしているのだろうし、そうならなければそのような活動が成功することはなく、世の中が変わらなければ、延々と同じような活動を繰り返すしかないだろうし、抗議している対象と対峙し続け、まさに我慢比べの展開になってしまうだろうが、今まさにそうなっている現状があるわけで、そんな光景を見せつけられれば、世の中がなかなか変わらないことを実感してしまうわけだが、たぶん変わらないなりにも、何かしら楽観視していることもあって、絶望とまではいかないにしても、本気になれない部分が気持ちの半分を占めていて、それが無理に楽観を装っているのかもしれないが、どちらにしろ大したことではなく、そう思っている時点で、判断の基準が違うところにずれているわけだ。それについて何か言えること自体が、そもそもの無関係を無視していて、無関係の関係を無理やり関係付けながら語ろうとしているわけで、無関係だなんて思うこと自体が、何か倫理に反しているようにも思われ、普段はそんなことなど思うはずもないのだが、抗議活動をしている人々に同情し共感し共闘を装わないと、薄情な人間だと思われてしまうのがいやだから、無理にそんなことを言っているわけでもないのだろうが、どうもそう見られてしまうような成り行きに思えるとすれば、やはりある種のやましさに心をとらわれているからだろうか。

 本気になっている人たちからすれば許しがたいことかもしれないが、その辺がユーモラスに見えてしまうのかもしれず、誰からどう見られようと、どのような勢力に利用されていようと、好奇心からでも何でも、興味深い対象に接してみたいだろうし、できれば行って話がしてみたいと思うだろうか。誰の立場を尊重して、誰の心を踏みにじっていると思われようと、そんなことはおかまいなしでもいいと思えば、そう振る舞うだろうし、それが面白そうならそう振る舞う誘惑に屈してみても、実際に振る舞えば何かしら達成感を得られるかもしれず、そういう意味では行動することが、当人にとっては一番納得できることなのではないか。そうやって迷わず行動していれば、迷って行動を躊躇するよりは気持ちがすっきりするだろうか。実際には迷わないことはないだろうし、躊躇している部分もあるのだろうが、振る舞いがそう見えてしまうなら、それはそれでその人の特性であり個性と見ておけばいいのではないか。そんな振る舞いにとやかく文句を垂れる人も大勢いるにはいるのだろうが、それも無関係の関係でしかないわけで、無関係でしかない人ならいくらでも文句を言えるし、批判も否定も簡単にできてしまうのが大衆メディア社会なのだから、そんな社会の慣習としてその手の言動がメディア上に満ちているわけだ。だからそんな慣習が常態化している以上は、世の中は大して変わらないとも言えるわけで、意識しないで世の中を変えようとする行動を妨害しているのが、その手の慣習の類いだと捉えておくのは、それほどずれた認識でもないだろうか。


8月7日「臨機応変」

 現状ではどこに盲点があるわけでも争点があるわけでもないと思うなら、これから何かをやって行けば、盲点も争点もその途中から生じてくるのかもしれず、探せば絶えず生じていることに気づけるだろうか。気づかなくても論争すれば争点が自ずから発生し、盲点があるとしたらその場限りの争点にこだわりすぎて、解決の糸口を見つけられなくなってしまうことだろうか。成り行きの中で絶えず見出さなければならないことが、その場の論理を固定化して、いつまでもそれにこだわっているうちに、周りの状況が変わってしまっていることに気づかないまま、すでに効力を失いかけていることを金科玉条のごとくに繰り返し主張してると、それにこだわっている人以外の支持を失い、たとえそれが正しい主張のように思われても、良識ある少数派にとどまるしかなく、無関心な大衆からは支持を得られなくなってしまうだろうか。だがそれは盲点でもなんでもなく、わかりきったことだろうし、わかってはいてもそれしか主張していないようなイメージを大衆に与えてしまって、それは伝えるメディアにも責任の一端があるのかもしれないが、その主張をやめろとは言わないが、それとは違う主張も臨機応変に盛り込んで行くことが肝心で、しかもそれはメディアで話題となったから後追いで取り上げるのではなく、誰も気づかなかったようなことを、しかもそれが重要であるように思わせるように取り上げ方を演出して、何か盲点を突かれたような状況に持っていければ、場合によってはセンセーショナルな効果を伴って、世間の注目を浴びる可能性が高いだろうか。

 本気でそんなことを考えてしまうと、ただの煽動者となってしまいそうだが、煽動の仕方も否定的なイメージを大量動員すると不快なものとなってしまうだろうし、肯定的なイメージで煽れば、反発も少なくて済みそうだが、肯定的な煽動となると、不必要に敵を攻撃しないことが重要となってくるだろうか。安易なイメージ戦略では魂胆を見透かされてしまうだろうし、大衆を馬鹿にしてはならないのと同時に、大衆から馬鹿にされないようなことを主張する必要があるだろうし、それには安易なレッテル張りをされないような内容にしなければならず、すぐにも対立が鮮明となるようなわかりやすいことを繰り返し主張すると、安易なレッテル張りの餌食となりやすいわけで、できればその逆の内容であるように見せかけながらも、人々が少し考えればわかるようなことを主張したらいいのではないか。そういう意味で大衆に頭を使わせるような主張となるには、それは対立する陣営と似たようなことを主張する必要があり、しかも微妙に異なることが重要かもしれず、例えばこれまでだと、憲法改正を絶対許してはならず、戦争と武力を放棄した9条を死守しなければならない、と言った具合いの同じ主張を延々と繰り返して、人々を耳にタコができるような気分にしてしまうわけだが、それを日本には自衛隊という武力を行使できる軍隊が現に存在しているから、9条の趣旨を尊重しつつ、9条の条文に自衛隊の存在と役割を明記するような改正をしよう、と言った主張に転換すれば、これまでとは異なる新たな支持層を獲得できる可能性があるだろうし、原発に対する反対運動にしても、例えば即時全廃と稼働から50年が経った原発は無条件で廃炉にするのと現状維持の3択ぐらいで国民投票を実施して、もっとも多数の票を獲得した案を採用するとか、何かこれまでとは少し違う主張を打ち出せば、メディアの取り上げ方も人々の受け止め方も変わってくるだろうし、これまでの主張を支持してきた人々には裏切られた思いを抱かせるかもしれないが、これまでが成果を上げてこなかったと捉えるなら、思い切った政策の転換も必要になってくるのではないか。と言っても微妙なニュアンスを残しつつ変えて行けばいいのかもしれず、人々に少し考える機会を与えるような提案を出して行けば、それが肯定的な啓蒙とも結びつく可能性がありそうだ。


8月6日「不可能」

 場合によっては枝葉末節なことにこだわっても構わないのだろうが、逆に物事の本質が何なのか、それがわからない時には、とりあえず枝葉末節なことにこだわってみないことには、何もわからないままに終わってしまうだろうか。しかし何が枝葉末節な問題なのだろうか。感知できる物事は何でもそうであるようにも思われて、一見すると本質なんて何もありはしないようにも思われる場合も、決して少なくはないのかもしれず、それについて何か語るとしても、もしかしたらその内容の空疎で何もないような感じが、語りそのものの本質なのではないかと思ったりするわけだが、無理に中身を詰め込もうとすると、その話の中身自体が空疎な本質からかけ離れた的外れな内容となってしまうだろうか。ならばその空疎な本質とは何なのだろうか。それをあからさまに言うなら、人には目的がないが、目的を求めている人が大勢いるということだろうか。もちろんあからさまに目的を求めているわけではなく、自らのやっていることを信じようとしているわけで、信じるにはそこに目的を見出さなければならなくなってしまうような成り行きにとらわれ、信じることを自らに強制して、強制することが目的であるように思われてしまうということか。そこからさらに手の込んだ論理を求めると、目的の合理性とか妥当性とかを吟味するような動作をもたらし、そんな探究的な動作を深めるにつれて、目的から使命感が得られて、自らのやっていることについての揺るぎのない信念を確立してしまえば、もう自分探しの旅の終着点が間近に迫っていることを自覚できるだろうか。

 本気になって何かを極めようとする人々の中には、何か狂気の部分があるようにも感じられるわけだが、その揺るぎない信念に裏付けられた目的を追求する動作が間違っているとしたら、何が間違っているのだろうか。物事の空疎な本質から外れているからだろうか。空疎な本質の中では精神が耐えられないのかもしれず、だから信念にすがろうとするのかもしれないが、信念は人を盲目にさせるのかもしれず、信念が目的以外の空疎を見えないようにしているのだろうか。世の中は空疎で満たされているわけではなく、具体的な事物で満たされていると思いたいのかもしれず、事物にはちゃんとした中身があり、その中身から手応えが感じられ、人々に実感をもたらしているのだろうか。そんな実感であり感触を得られるのだから、事物に対して盲目であるはずがないと思うだろうか。あるいは盲目であることと実感として手応えや手触りを感じることは矛盾しないだろうか。では盲目であるとはどんなことなのだろうか。単に見ないようにしているだけで、それと盲目とは表現としては異なるだろうか。たぶん見ないようにしているのは、意識してそうしているわけではなく、見えているのに見ないようにしていることを意識できないと、それは盲目であることと同じことだろうか。同じではないだろうが、見えている事物を意識できないのだから、それを感知できないような世の中の制度にとらわれているとも言えるかもしれないが、その代わりに手応えを感じるものはといえば、目的を求めてそれに向かっている確固とした自らの信念であり精神状態だろうか。

 そのような精神状態を保つ上で、邪魔になるような物事を見ないようにしているとしたら、いちいちそれを意識していたら信念がぐらついて、目的に向かう精神状態を保てなくなってしまう可能性があり、それを意識しないような世の中の制度を確立しなければならない成り行きになるだろうか。だがその制度とはなんなのだろうか。それはメディア上で都合の悪いことは黙殺する人々の行動や言動を見ていれば、自ずから明らかになるのかもしれず、そのような制度に従いながら成功している人たちが実在していて、彼らこそがその制度の担い手であることが、まさにマスメディアによって示されている現状があるわけか。そうであるなら制度とは都合の悪いことは黙殺する制度であり、それが誰にとって都合の悪いことであるのかは、世の中で成功しているようにマスメディアによって見せかけられている人々にとってではないのか。そしてその制度が暗黙の了解事項として守られている現状が、物事の空疎な本質であり、それを見ないようにしている限りは、制度が制度として機能しているように感じられるわけで、それは見ないようにしていると同時に、見ないようにしていることを意識できないような制度でもあるわけで、それを盲目というなら、二重の意味で盲目とも言えるかもしれず、しかもそれが実際の盲目とは本質的に異なり、意識せずに盲目を装っているわけで、盲人を演じているとも言えるだろうか。そして意識せずに装っていたり演じていることにも無自覚な人々によって、世の中の制度が守られているとすれば、そのような空疎な本質を実感したり、空疎なのに手応えを感じるなんてありえないことであり、そもそもが人にとっては不可能な動作なのかもしれない。


8月5日「分散」

 商品は高い価格設定でも需要があれば売れるわけだが、それは宣伝効果による面が大きいだろうし、ブランド商品と呼ばれ、流行のデザインであったり、品質や性能に信頼性があったり、その商品を持っていることが社会的なステータスだと思われたりすると、そんな付加価値が魅力となって、製造販売している企業が広く一般に認知されるほどには売れるだろうか。そうなればコスト削減の安売り競争などに巻き込まれることなく、常に安定した収益を確保でき、その企業に勤める労働者もごくまっとうな社会生活が営めるほどの賃金にありつけるだろうか。そういった企業は全体から見ればごく一部だろうし、自社のブランドのステータスを維持するために絶え間ないイメージ宣伝戦略を講じていないと、たちまち廃れて消えてしまう可能性もあるだろうし、そういった面での様々なブランド間での競争も熾烈を極めているのだろうか。すでにそういった競争や淘汰が進んで、その中で生き残った世間的に高級ブランドと言われる分野の商品を取り扱っている企業などは、もはやどんな状況になろうと廃れようがないほど経営が磐石なのかもしれないが、そんな企業とは仕事上は無関係な人が世の中の大半を占めている一方で、ブランド商品と言っても様々な価格帯であるわけで、一般の人たちでも買えるような価格のブランド商品なら、誰でも持っているものも多いだろうし、そういう商品はその分野で独占的な地位を占めていて、グローバル企業などの巨大資本が製造販売に関わっているものがほとんどだろうか。そのような大企業になると、その企業の正社員なら世間一般が羨むような高い給与をもらっていて、幹部社員ともなれば富裕層に属するような部類に入るのかもしれないが、その企業に関連する末端の下請け企業で非正規雇用の待遇で雇われている人ともなれば、低賃金で場合によってはブラック企業並みの過酷な職場環境の中で働いていたりするのかもしれず、そういう面で企業といえどもそこで働いている労働者といえども、もはや平均的な職場環境や労働者の待遇といった基準では、うまく捉えられない偏差というものがあって、企業一般や労働者一般として一括りにして論じることができない事情があるのではないか。

 それだけ世の中が多様化していると言えるのかもしれず、もしかしたらそれは昔からそうだったのであり、今に始まったことではないのはもちろんのこと、今さらそんなことは言うまでもないことなのかもしれないが、今まではごく大雑把に企業なら企業一般として、あるいは労働者なら労働者一般として、それで何か語っていてもそれほど不自然に思われないような状況だったのかもしれず、それが今ではそう語ってしまうと、その語っている対象として浮かび上がってくる企業や労働者が、実際の企業なり労働者としてリアリティを担えないような状況となっているようで、要するに企業にも労働者にもピンからキリまであり、種類が境遇が多様化しているとともに、より一層の分散化が進行していると言えるのかもしれず、企業も労働者も階層構造を成していて、決して一括りに論じるわけにはいかず、企業なら企業、労働者なら労働者として、それを主語に用いて語りだすと、語っている内容が現実感を欠いたフィクションと感じられてしまうような印象があるのではないか。また左翼的な論者が大企業を目の敵にして批判的に語りだすと、彼らが擁護するような中小企業やその従業員やパートタイム労働者も、下請けや孫請けや垂直統合や水平分業などによって、大企業のグループ内に属している場合があるわけで、それも何か語っている範囲内で都合のいい部分だけを批判したり擁護したりするだけで、大企業だけ増税すれば財源をひねり出せるような主張でさえも、それが実現できるとも実現したところでうまくいくとも思えないわけで、その辺で一般の人々を説得できるような主張の内容ではないのかもしれず、政治家や市民活動家や反体制派ジャーナリストなどが、単純明快に労働者や消費者や貧困層などのいわゆる生活弱者の味方を装っても、一般の人々には容易には受け入れられない時代に突入しているのかもしれない。


8月4日「暴発」

 人が何かに役立つとしたら、それは人が集団で構成しているつもりの社会の役に立っていれば、何かその人の存在が肯定的な意味を持っているように思われるだろうか。しかし社会の役に立っているとはどういうことだろうか。何か社会の中で活躍していれば役に立っていることになるだろうか。では活躍しているとはどういうことなのか。その人の動作が何かしら機能していて、その機能の仕方が社会を存続していく上で、有効に作用していると言えるだろうか。だがそれはそれを評価する人の立場によって見解が異なるだろうか。例えば政府批判を繰り返す人たちにとっては、批判している政権寄りの政治家や官僚たちやそれに迎合するメディア関係者が、社会にとって有害この上ないという認識だろうし、逆に政府寄りの人たちにとっては、政府批判を繰り返す反体制派の政治家やメディア関係者が、反日的で有害この上ないと認識しているかもしれず、そうなると自分たちにとって邪魔な人たちは、役に立つどころか害を撒き散らしていると思われるだろうか。実際にはそんな単純な論理ではなく、邪魔な人たちに否定的なイメージを植え付けることで、そのイメージを受け入れる人たちを味方につけて、味方についた人たちが対立に無関心な人たちを除いた残りの中で多数派を占めれば、邪魔な人たちも否定的な意味でそれなりに役に立ち、利用価値があることになりそうだが、では社会の中で利用価値がなく、役に立ちそうもないと思われる人たちがいるとしたら、そういう人たちは抹殺すべきだろうか。抹殺する役目の人がいるとすれば、その人にとって抹殺すべき人たちは役に立つわけで、少なくとも抹殺する行為を成り立たせるには、抹殺されなければならない人たちが必要となりそうだ。

 その人の行為を成り立たせる上で、行為の対象となる存在が必要であり、その対象となる存在こそが、その行為を行う上で役に立つ存在となるわけだが、もちろん殺人を実行する人が、殺す以前にそこまで考えを巡らせているかどうかは甚だ疑問で、そんなことを考えるような人が衝動的に人を殺すはずがないとも言えそうで、邪魔だから役に立たないから殺すとなると、何にとって邪魔で役に立たないのか、その対象が存在することになるだろうが、例えばそれが社会にとって、あるいは国家にとって邪魔で役に立たないとなると、なぜ邪魔で役に立たないのかとなるわけだが、例えばそれが心身に重度の障害を持っていて働くことができず、それらの人々を社会や国家が養っていくのが負担になるというなら、そんなふうに思う人にとっては、社会や国家に役に立たない人たちを養ってゆくだけの財政的な余裕がないと思われるかもしれないが、安易にそれを抹殺する理由として思いついたとすれば、それは社会や国家の経済情勢を反映していると言えるだろうか。自身の悲惨な経済状態と社会や国家の経済状態が重ね合わせられたとも言えそうだが、現状で重度の障害者が専門の施設で生かされているのだとすれば、それは社会や国家にある程度の経済的な豊かさが備わっている証拠で、さらに経済的に豊かな社会や国家になると、施設ではなく一般の家庭で生かされていて、専門の介護や医療サービスを低額あるいは無料で受けられるようになるのかもしれないが、それが許されるような世の中になるには、人々の間で経済的な余裕とともに、社会や国家に役に立つか立たないかの基準とは違った価値観が必要となるだろうか。普通に考えるなら価値観の多様性といったら、もっともらしいきいたふうな意見となってしまいそうだが、その辺で愛国的な保守派が目の敵とする従来の人道主義的な価値観とは異なる新たな価値観を創造することができるだろうか。

 簡単に言えば、自分と価値観を共有する味方や仲間が、社会や国家の役に立っていると思うことが幻想なのであり、そう思うことが根本的に間違っていると言ってしまうと、社会や国家の役に立つ人材を世の中に送り出す目的で行っている学校教育自体に問題があることになってしまいそうだが、たぶんそんな大げさなことではなく、重度の障害を持った人を家族や周りの人たちが生かそうとしているなら、障害者当人の意向が最優先されて然るべきかもしれないが、生かそうとしている人たちの意向や行為も尊重しておいた方が、無難だし妥当なところなのだろう。たとえそれらの人たちのやり方が気に入らないとしても、他人なのだろうから、わざわざ抹殺することもないのではないか。もちろんそれが家族や友人や仕事に関係しているとしても、相手の立場を尊重しておいた方がいいだろうし、何か特定の人や集団が社会や国家の役に立っていると思われようと、果たしてそれらの人たちと自分が何か関係があるのかと言われれば、ツイッターのフォロワーになっているぐらいの関係なら、赤の他人とみて間違いなく、たとえ彼らの利害と自分の利害が一致していると思われようと、それはこちらの勝手な思い込みの可能性も十分にあるわけで、仲間意識を抱くことが悪いことではないのだろうが、自分とそれらの人たちとの隔たりや距離感を意識しておくことが、自分が自分であることの存在証明となるだろうか。逆にそうでなければ群集心理や集団意識に操られ、メディアから繰り出される政治宣伝が醸し出す軽薄なポピュリズムが心地よく思われ、煽動者の思いのままに動かされるロボットでしかなくなってしまうだろうか。そうであっても構わない状況の中で生きていくことを強いられている現状だと捉えておくのも、あながち誤りではないのかもしれないが、そういう状況を真に受けすぎて、時たま暴発してテロ行為に走る人もいるということだろうか。


8月3日「三文芝居」

 たぶん政府が税収や国債などの借金から構成された予算内で公共投資などを行うのが、従来から行っている経済対策の主なものなのだろうし、その他に金融政策が経済対策として期待されてきたのが、ここ数年のメディア上での論調だったのだろうが、中央銀行による金利の引き下げや量的金融緩和政策や、なにやら怪しげな為替や株価の操作によって経済状況を上向かせる手法は、結局限定的な効果しかなかったと捉えるのが妥当なところだろうか。現状で経済が行き詰っているのか否かは、経済政策を批判する側と擁護する側で評価の分かれるところだろうが、大半の人が普通に暮らしているわけだから、しかも経済対策をやっている政権が批判されつつも度重なる選挙で勝利していまだに政権の座にあるわけだから、そんな状況でしかないと捉えておくしかないのではないか。不正選挙だなんだと騒ぐ人やメディアぐるみで国民を洗脳していると騒ぐ人まで、いろいろな人がそんな批判を繰り返している現状もあることは確かなのだろうが、たぶんそういうことも含めてこんな状況でしかなく、果たしてこの状況が政府の経済対策によって出現した状況なのかどうか、あるいは経済対策を講じていなければさらにひどい状況になっていたのかどうか、どう判断するにしろどうとでも言える状況であることは確かで、批判する側も擁護する側も、どちらにとっても思惑通りにはなっていないだろうし、まだ鮮明な結果となるには程遠い状況なのかもしれないが、将来に迫っている破局的な状況を懸念する人たちも、危機感を煽ることしかできないだろうし、現実にそんな状況になってみないことには、政策を転換することなどありえないかもしれないが、その時はさすがに政権交代しているだろうか。

 世界各国が似たような経済政策を取っているのなら、たぶん日本だけが経済破綻するようなことはありえないのかもしれず、極端なことをやっているように見えて、意外と相対的な偏差の範囲内でのことでしかなく、経済そのものが政府の経済対策で左右されるような性質のものでもない可能性もなきしもあらずなのかもしれず、経済対策の重要性を説く評論家の類いも、そう説くことが飯の種となっている面もあるわけで、政敵を批判したり味方を擁護する言説の中に、小難しい経済理論と統計結果の恣意的な解釈を忍ばせて、何かもっともらしい主張をしているように見せかける手法でしかなく、それ自体の重要度がそんなものでしかないのなら、大真面目に論議するようなことでもなさそうに思われてしまうが、逆に政治に関する議論そのものが、そのほとんどがその程度のことでしかないとすると、人々の政治に対する見方がだいぶ変わってくるように思われるのだが、例えば沖縄の米軍基地の周囲で命がけの形相で抗議活動をする人たちに感化されて、何か真剣に取り組まなければならない問題だと思ってしまう人たちと、無関心を装う人々との間で、あまりにも現状認識に落差がありすぎるだろうか。普通に考えるならそれでいいはずがないと思うだろうが、それが偽らざる実感ならそういうことでしかないだろうし、真剣に取り組んでいる人たちが少数派で、無関心な人たちが多数派であるなら、軽薄なポピュリズムによって政治が乗っ取られるとしても、それは当然の帰結であり、それでうまくいっているのなら、何ら憂慮すべき状況でもないだろうか。うまくいっているように演じているのかもしれないが、たとえそれが見え透いた三文芝居であろうと、人々が三文芝居で満足している間はうまくいっていることになるのではないか。


8月2日「工夫」

 たぶん労働者の全てが死ぬまで労働者であるわけがなく、うまく資産を形成したり年金生活者となれば、途中からは労働者ではなくなるだろうか。あるいは社会に出て働くようになるまでは学生であったりするわけで、意外に働かずに暮らしている期間は長いのかもしれず、また企業や役所の管理職ともなれば、一般の労働者よりは賃金が高くなり、命令を下す部下もできれば、どちらかといえば企業の取締役や役所の幹部の味方へと重心が移動するのではないか。自分も出世して将来なれるかもしれないと思えば、そうなるのが当然だろうし、逆に出世への道が閉ざされて敗残者のような境遇になれば、出世した連中に対して嫉妬の気持ちも湧いてくるだろうし、地縁血縁によって優遇されているような人たちに対しても、同様の否定的な感情が生じてくるかもしれないが、労働者とひとくくりに捉えてみても、個々人の境遇は様々で、誰もが労働者の味方を装う政治勢力を支持しているわけではなさそうだ。中には自分が生活の糧を得ている企業や役所への忠誠心が芽生えている人もいるだろうし、それの延長上で国家や政府への忠誠心に結びつくような人もいそうで、はっきりと忠誠心を意識していないにしても、国家や政府に批判的な意見を持っている人たちや、実際に各種の反対運動などに嫌悪感を抱くようになるとしても、そんなにおかしいことではないだろうか。

 関心がないと言ったら嘘になるかもしれないが、積極的に関わらなくても済んでしまうのなら、それでも構わないのであり、他に優先すべきことがあるならそちらを優先したいのではないか。たぶんその程度の関心だから有権者の4割強の人々が選挙で投票に行かない現状なのだろうか。だがそんな現状を批判しても意味のないことかもしれず、たとえ政府や議会与党が批判されるようなことをやっているとしても、一般に暮らしている人たちにはそれほど堪えないのだとしたら、批判勢力が選挙で勝つような結果はもたらされないわけだが、政府や議会与党に迎合するマスメディアからの影響もあるだろうし、また批判するメディアや批判勢力自体に問題がある可能性もあるわけで、それらも含めてそんな単純に割り切れるようなことでもないのかもしれない。そして現状が現状として安定しているように思われるなら、何か不測の事態が起こらない限りは、このままの現状がいつまでも執拗に続いていくのかもしれず、批判勢力がいくら批判しても現状が変わらないなら、現状では批判が無効なのかもしれず、少なくとも現状でされている批判のやり方自体が効果を上げていないわけだ。しかもでは効果があるような批判の仕方があるのかといえば、現状ではそれがなされていないわけだから、誰もそれに気づいていないか、あるいはそもそもそんなものはないということになるだろうか。

 現状に危機感を抱いている人はいくらでもいるのだろうが、それらの人たちが現状を変えられないから危機感を抱いているわけで、危機感を抱いている人たちに期待するのは見当違いなのかもしれず、彼らは現状を変えられないから危機感を抱くことしかできない人たちであり、批判を繰り返している人たちも今のところは批判によっては現状を変えられないから、いつまでたっても執拗に批判を繰り返しているにすぎないわけで、やはり彼らに期待するのも見当違いなのかもしれず、要するに彼らに期待している人たちに期待するのも見当違いなのだろうし、危機感を抱く人たちもいつまでたっても同じような批判を繰り返す人たちも、そしてそれらの人たちに期待している人たちも、変えられない現状の中でもがき苦しんでいる人たちなのではないか。それらの人たちが批判勢力の全てだとしたら、そもそも彼らに何かを期待するのは間違っているだろうか。では彼らの他に誰に期待したらいいのかといえば、他人に期待するのではなく、自分で行動を起こすしかないわけだが、一方で選挙で投票に行かない有権者の4割強を占める人たちや、政府や議会与党の支持者に期待してもいいわけだし、あるいは自分も含めて誰にも期待できないと思うなら、それでも構わないのではないか。たぶん現状が変わることを期待するのは現実逃避かもしれず、現状の中でいかに生きていくかを工夫すべきであり、実際に改めて意識はしないが、誰もがそうしているのではないか。


8月1日「ポピュリズム」

 制度は制度内での勢力争いによって形骸化し、その勢力争いから生じた力関係を反映した制度へと変容し、制度内で優位な立場にある勢力の意向が反映しやすいようになるだろうか。絶えず勢力争いが行われているわけだから、制度もそれに対応して変容し続けるだろうし、その変容し続ける制度の中で各種の勢力が争いながら、常に自分達の勢力が優位になるような制度の改変を目指すならば、制度自体が制度内で争う各種の勢力にとって中立公正なものではないことは明らかだろうか。確かにそういう面もあるにはあるだろうが、制度内で争っている各種に勢力の妥協の産物が制度だと捉えるなら、妥協している部分はそれなりに中立公正さが実現しているとも言えるだろうか。制度に関わっている人や勢力にとって、中立公正さの持つ意味はどれほどの重要度なのかはわからないが、少なくと中立公正に見せかけないと、多くの人や勢力が制度に従ってくれないか、あるいは制度に従うことが重要とは思われないだろうから、多くの人や各種の勢力が制度に従うように仕向けるには、力によって強制する手段によらないなら、従うことが妥当だと見なされるような内容の制度にしなければならないだろうか。

 でもそうなると社会の慣習や規範が反映された制度になる可能性が高いだろうか。日本国憲法などはアメリカの占領軍の力による強制によって押し付けられた制度である面がある一方で、それが社会の慣習や規範として定着した経緯があるわけだから、押し付けられた側からすれば、それに従うことが妥当だと見なされた面もあるだろうし、だから制定されてから数十年も改正もされずに今に至っているわけで、もちろん改正手続きが改正されにくい手続きともなっている面も差し引いて考えなけばならないのだが、それ以前の大日本帝國憲法も欧米諸国からの圧力によって生じた面もあり、今までとは全く違う制度を敷く場合は、ある程度は力による強制を伴う必要があるわけで、それ以後の社会への定着に関しては、社会の中で暮らす人々や政治勢力からそれなりの妥当性を感じられる成り行きになれば、ある程度の長期間にわたって定着することもあると捉えておくのが妥当な解釈だろうか。そうだとしても制度こそが守るべき至上の価値というわけではないだろうし、制度は制度であり、世の中の維持継続に欠かせないものであるにせよ、それがすべてであるわけではなく、制度を変えること自体が何らかの世論形成を伴うような争点になることもあるだろうが、それを中心に思考を組み立てるのはあまり魅力的なやり方とも思えない。

 制度自体が人々に意識されないようになっているとすれば、ほとんどの人が無意識のうちに制度に従っていると言えるかもしれず、制度とは何も憲法のように条文を伴った制度であるだけなく、普段は意識されないが何らかの機会に、多くの人々がある決まった動作を繰り返すような現象が見受けられると、何かそこに目に見えない制度が介在しているように思われるわけで、そこに関わっている人々の無意識の動作がそんな制度を作り出していると言えなくもないわけで、それが世の中のある種の慣習であり規範なのかもしれないが、政治に関してなら左派とか右派とかいうカテゴリー分けから始まって、左派には左派特有の言説が用いられ右派にも右派特有の言説が用いられ、その言説の範囲内でひたすら対立や相手への批判を繰り返す様相を呈するようになると、それは左派的な紋切り型であり右派的な紋切り型となるわけだが、そのような紋切り型によって思考や動作が凝り固まってしまうと、やはりそれは制度的な現象と言えるだろうし、それは意識せずに彼らなりの二項対立的な調和と安定を目指していて、それに絡め取られた言説は魅力ないものとなるしかなく、そんな言説駆使している当人はそれを意識できないのだが、そういう予定調和から外れた人にとっては、何やらつまらないことを述べているとしか思えないわけで、もちろんそこから外れた人は人で、それとは異なる別の紋切り型にとらわれていることが多く、むしろ現状ではそちらの方が社会の多数派を構成しているから、その種の陳腐な政治的な対立が流行らなくなっているのではないか。