彼の声103

2014年

7月31日「思うところ考えるところ」

 たぶんどこかでそれを見つけているはずだ。何かを解く鍵だろうか。意識の内部から離脱して外部へ向かったところで、君は何に遭遇したのだろう。自分とは違う別の意識の所有者に出会ったわけか。それとも他人と同じ欲望を抱く他者に出会ったのだろうか。その他者が自分と同じような気がしたわけか。どれもずれているのではないか。それは君の予想を超えない事態だ。予定調和に思える。でも他者に何を期待していたわけでもなかったはずで、いつもありふれた他者に出会っていた。それが過去の経緯だろうか。何を期待していたわけでもなく、未だに洞窟にとどまっている。それが嘘なのか。その外にいると思っているのに、何が見出されているわけでもない。形だけ外部に出て、外の風景を眺めている。結局は誰にも出会わず、心の内に何を秘めているわけでもないのに、そこで達成感を得たいわけだ。外部自体が意味不明だろうか。何のためにでもなく、ただ外へ出ただけで、誰にも出会わずに帰ってきたわけか。未来の他者も過去の他者も幻影に過ぎないだろうか。他者から何を学んだわけでもないらしい。それは書物にもいえることか。それでも学んでいるのだろう。意識せずに思惑から外れた意図しないことを学んでいるはずだ。そんな出来事を経験して、それなりに意識が変化している。それは一口には言い表せないことか。そうしていないのだから、それは当たり前のことで、あらゆることを別々に語ろうとしているのではないか。たぶんそれはあらゆることではない。では逆にただ一つのことを様々な語り口で語ろうとしているのだろうか。どちらも違うような気がする。ただうまく言い表せないだけかもしれない。実際に何も言っていないだろう。言葉を記しているだけだろうか。それと同時に何か考えているのではないか。内部についても外部についても考えている。ただそれが何の内部で何の外部なのか定かでない。思考の対象を特定できないようだ。少なくともその手の哲学とは無関係だろう。何も形式的に還元できるわけがない。そこから外部へ出る手がかりなど何もなく、そこが何かの内部なのでもなく、ただの表面上にとどまっている。例えばそこは地表面だろうか。位置的にも場所的にもそうなのではないか。でもそれが思考の対象とはならない。位置や場所だけではどうしようもないか。では何が必要なのか。言葉が記されている以外は何も必要ではない。

 そこで思考が停止している。一人で考え込んでいる。何もないのに安易に語りすぎている。そんな批判は受け入れられないか。誰も批判などしていない。他者が親切に批判してくれるほどの立場でも内容でもない。そんな現状を受け入れないことには何も考えられない。要するに大したことはないわけだ。語りようがないことなど何もなく、語る必然性も伴わないようなことを語るしかない。要するにそれについて語る立場にも至っていない。それが何だかわからないのに、それはないだろうか。それでさえないわけだ。何も読み得ていないのだろう。その内容を把握できずにいるらしい。少し安易なやり方だったことを反省しているわけか。でも語るとなればそういうことしか語れないのではないか。少なくとも現状ではそうだ。まだ十分に遠ざかりきれていないようだ。その遠ざかろうとしている対象とは何だろう。哲学のたぐいだろうか。哲学は過去の亡霊か。それほど深くコミットしているわけではない。哲学からは何も学んでいないはずだ。では何から学んだのか。それは現状でしかなく、ありのままの現実から学んだのだろう。しかしその現実はフィクションとごちゃ混ぜとなっている。要するに真の現実ではないわけだ。現実をそのまま体験できるわけがない。その時の感情が邪魔をしているわけだ。でもその場で体験した現実がその感情をもたらしたのだろう。感情が現実から目を背けるように強いている。受け入れがたい現実を突きつけられ、思わず目をそらして、そこから遠ざかろうとしてしまうわけだ。そこで踏みとどまれないし、踏みとどまる必要もないのだろう。嫌なら逃げればいいわけだ。それで何が解決するわけでもないが、とりあえずうんざりするような事態を避け、逃げていること自体がうんざりさせられるわけだが、それでもそこにとどまるよりはマシだと思う。そして十分に遠ざかり、距離をとってから改めてそれについて考えるわけか。それはごまかしのたぐいだろうか。でもそれは避けられないごまかしだ。そこで退くのは適切な判断だと自らに言い聞かせ、どうにか体勢を立て直したいのかもしれない。安易なやり方かもしれないが、そうなる必要を感じ取り、実際にその時の感性に従うわけだ。しかしそうなってから今はどうなってしまったのだろう。誰も知るよしもないことか。今となってはその時の心境など思い出すまでもなく、ただそのように行動しただけか。

 気持ちが逃げていることは確かだが、いったい何から逃げているというのか。それが現実には違いないが、現実そのものが不透明で漠然としていて、そんな有様でしかなく、どう考えても何も出てこない。向き合うべき対象はわかっているのだろうが、それについて語ろうとすると、とたんに暗中模索を強いられ、何をどう語ればいいのかわからなくなり、語る以前のとりとめのない状況に意識が投げ込まれ、その渦中にとどまっているわけでもないのだろうが、たぶんこれから何を語るとしても、それは偶然の巡り会わせになるしかなさそうだ。巡り会わなければ何も語れない。こうして空疎なことを延々と語り続けなければならない。何かを語りたくないのかもしれず、語りたくないことに巡り会い、それを語り得ないのに語らざるを得ず、やむなく語ろうとしたが、途中でそれをオブラートに包み、何とかそれでごまかそうとしているのではないか。苦々しいことなのか。トラウマになっているのかもしれず、それを包み隠そうとして隠しきれず、部分的にはそれがあらわとなっているわけで、そこに真の現実があるわけだ。フィクションについて語っているのではないらしい。どうも逃げているつもりが避けきれないようで、自然とそこへ引き込まれていってしまい、気がつけばそれについて語っている。それはやむをえない成り行きなのだろう。ならばさっさと済ませて、すっきりしたいところだが、意識に絡みついてなかなか離れてくれないらしく、今もそのことで悩んでいる現状があるのだろうか。いくら悩んでみても何も解決はしないだろうし、悩めば悩むほど逆に落ち込んで、精神的に追いつめられていくのではないか。君はそれを狙っているわけか。そうなるように何やら仕組んでいるのかもしれない。できれば二度とそこから立ち直れないようにしたいところか。でもそう述べてしまうと、そこから先はフィクションの世界であり、語る対象が現実から遊離して、ありもしない事柄が記され、何とかそれを架空の登場人物として取り扱う余裕が生まれ、あることないことその操り人形に背負わせ、適当に右往左往させた後に、火にくべて燃やしてしまえばいいわけか。それでその件は一件落着だろうか。そんな都合良く事態が進めば言うことなしだろうが、現実にはまだまだ長引きそうに思われ、当分はうんざりするような現実につきあわされ、心身ともにすり減らして、それだけ老いてしまうのだろうが、それこそが望んでいたことだとすると、むしろ願ったり叶ったりだろうか。でも冗談で済むわけがなく、このまま事態を放置していると、いつかとんでもないことになるのかもしれない。


7月30日「監視塔からの眺め」

 だいぶ遠くまでやってきた。夢の中でそんな感慨を抱いているのだろうか。時が経ってしまったのではないか。どちらもいえるだろうか。しかし相変わらず間違っている。考える方向性が間違っているのかもしれない。旧約聖書のアブラハムの逸話でも現実に起こるわけか。話に脈絡がない。唐突にそれはないだろう。その鮮明な夢が何か重要な寓意を含んでいるとすれば、後にその場面に遭遇するのではないか。ありがちなことを言うとしたら、自らの死を覚悟した瞬間から運が開けるのではないか。そこで九死に一生を得るわけだ。君の場合はそのまま死んでしまうのではないか。普通は邪魔物扱いされるわけだ。そんなものでしかないだろう。ありふれた共同体の論理に基づいている。別にそれでかまわないのであり、君は夢の中で別の出口を探して、各地を彷徨い歩き、その後どうなってしまったのか。どうもそこまでは覚えていないようだ。そこまでのところは何がどうしたわけでもなく、それほど間違ったことは語っていないように思われるが、その先に何があるのだろう。話がそこで尽きているのではないか。現実の世界では何も手に入らない。そう思うならそれは間違っているのだろう。ここにはすべてがあり、すべての中で生きているわけで、それらは手に入れる対象とは別の何かだ。すべては賭けでしかない。それを嫌って確実性を目指すなら、たぶんそれは宗教になるしかないだろう。この世界では詐欺か宗教かどちらか一方の戦略しか取れないわけだ。倫理的にはどちらもが嫌悪の対象となるかもしれないが、たぶんそれ以外の方法はあり得ないのだろう。それを拒めば生きてゆけないのかもしれない。生きてゆこうとするならば、詐欺の被害に遭うよりは、宗教の信者になった方が無難なのかもしれない。すべてを賭けるわけにはいかないとすれば、宗教の信者で妥協しておいた方がいいのだろう。君にはそういう選択肢はないのだろうか。何を選ばなくても信者にはなれるのではないか。国家教から拝金教からブランド教のたぐいまで、生活の隅々に宗教が入り込んでいて、それと気づかなくても、すでに何かしらの信者になっているわけだから、今さらそれを否定しようがないだろう。信じることが生きる支えとなっていて、それらの何も信じられなくなってしまったら、もはや生きてゆくことなど不可能なのではないか。そんなわけで人々は今も昔も信仰の世界に生きている。

 それを安易に否定できないとすれば、では他の何に賭けたらいいのだろうか。具体的にどんなばくちを打つ気もないのに、いったい何に賭けるつもりなのか。それともすでにばくちを打っている最中であることに気づいていないのだろうか。乗るか反るかの賭けに出ていることに気づかないのはどういうわけなのか。それがフィクションだからか。そういう逃げ道があるわけだ。ごまかしなのだろう。フィクションに逃げることが根本的な間違いなのだろうか。現実を正視できない。正視できるとすれば、それはフィクションになってしまうのかもしれず、それを目の当たりにして気が狂わないように、それとは別にフィクションが用意されていて、それを見ながら安堵させる仕掛けとなっているのではないか。だから人は夢を見るのだろうか。夢を見るのはそんな理由ではないと思いたいが、夢と現実を結びつけたくなる何かが、この世界には作用しているわけか。それについて考えあぐね、何だかそれが的外れのように思えてきて、意識は自然とその場から遠ざかろうとする。まだ現状に対する認識が粗雑な域を出ないようだ。詐欺も宗教ももっと巧妙になっているのではないか。簡単にはその仕掛けを解き明かせないからこそ、執拗に人間社会に取り憑いているのであり、それこそが社会そのものであるかもしれず、それが社会を成り立たせているのだとすれば、たぶんそれを拒否することはできない。しかし何が詐欺で何が宗教なのか。すべてがそうなのだろうか。たぶんそう考えてしまうのが間違いなのであり、粗雑な思考そのものなのではないか。そこから一歩も外へ出られず、そこでさっきから同じような言葉が循環しているようだ。どうやらそちらの方面でのそれ以上の話の進展は望めないらしい。結局はそういういい加減な認識から遠ざからなければならなくなる。実際は詐欺でも宗教でもなく、極めて当たり前の仕組みでこの社会は成り立っているわけで、それを詐欺だ宗教だと貶めてみても、得られるものは何もない。君もそこから利益を得たいのなら、その詐欺や宗教だと否定している仕組みを利用しなければならず、現にそれを利用して利益を得てきたから、こうして生き続けているのではないか。それはいくら否定しようと紛れもない現実なのであって、別に夢を見ているわけでもなく、フィクションの中へ逃げ込んでいるわけでもないのだろう。君にはそれをやる選択肢しか残されていないのではないか。だから現にそれに賭けているのだろう。

 くだらぬことだと思えばその通りだが、それをいくら馬鹿にしても虚しいだけだ。否定的に語るのは、却って自ら墓穴を掘っていることになりはしないか。でもそこで真実を直視してしまった者はなおのこと悲惨だ。誰がそうなのか。それは誰とも知れず、たぶん凶悪事件を起こした犯罪者の中の誰かなのだろう。そこでは何でもありなのであり、そういう人たちにとってこの世は天国なのかもしれない。悲惨なのに天国なのだ。真の自由とはそういうものなのかもしれず、まともな人間が目指すようなものではないのかもしれない。自由はその瞬間にしか訪れず、永続することはないのだろうが、それを体験する者たちは、ひたすらその到来を求めているのであり、そのための努力がその手の凶悪事件となって、普通の人々を震撼させ、またその手の映画の題材にもなり、娯楽の対象にもなるのだろうが、別にフィクションの中でそれを擬似体験しようと、その人が自由になれるわけでもなく、ただの恐いもの見たさの欲求が満たされるだけだろうか。それもそれが退屈な日常に潜む真実だと悟ったりするわけか。それだけはなく、そんな幻想を抱かなくても済むような何かが、この社会には備わっていて、それを利用しているかぎりは、真実に向き合わなくても済むような仕掛けとなっているわけか。たぶん自由を追い求めた果ての悲惨な現実を目の当たりにして、それがそこに至らないように人を躊躇させるのであって、その結果が中途半端な詐欺や宗教の興隆を招いているのかもしれないが、たぶん現状ではそれでもかまわないと思うしかなく、そんな現状のただ中で生きているかぎりは、ほとんどの人は妥協の産物としての信仰生活を強いられる。いったいそれ以上の何を望めばいいのか。そこから抜け出るあてなどどこにもなく、相変わらず出口はふさがったまま、何やら退屈な作り話の中で、あるいはどこかの街中で、さらに欲望の施設の中で意識がうごめいている。


7月29日「空回りする戦略」

 しかし何が幻想だといっても、それを指摘したところでどうなるものでもなく、どうしようというのでもない。では何なのか。別に幻想ではないと思いたいのでもないのだろう。反駁する気も起こらず、別に幻想でかまわないと思うしかないか。それ以外に何を求めているのだろう。幻想も幻影も求めていないとすれば、他に何を求めているのか。思い通りの現実か。そうなるように努力すればいいだけではないのか。もちろん現実が思い通りにならないから、思い通りにいった現実を幻想し、そんな現実の幻影を追い求めているのかもしれないが、それが本当に実現したらどうなるのか。先回りせずに実現した時に思えばいいのだろう。そんな現実に感動すればいいわけだ。すでに感動しているのではないか。何もない現実に感動している。別にそれを幻想していたわけでもなく、そんな幻影を追い求めていたわけでもないのに、思いもよらぬ現実に直面して、感動しているわけか。ただ驚いている。皮肉にも何かがそこで実現しているわけだ。それが皮肉に思えることが重要だ。嫌な感覚が残っている。要するにそんな現実では満足できないのだろう。もっと何か自分に有利な立場になるような現実になってほしいわけだ。そこにエゴが芽生えている。そして現にそうなるように手を尽くしているつもりなのだろう。だがその一方でそんなエゴに呆れているのではないか。現状では絶対に実現しないような夢を抱いているわけだ。それはあり得ない現実だろうか。確率的にはゼロに近い。だから手を尽くしているといっても、荒唐無稽なやり方なのではないか。まったく現実味のないことだ。要するにそれらの努力が実を結ばずに、あからさまに失敗すると思っているのではないか。それを承知でそうやる気が知れないが、やはりやっていることが矛盾していないと気が済まないのか。無意識のうちにわざと失敗に終るようなことをやっているわけだ。それを意識しないように努力している。なぜなのだろう。セコい範疇でうまくいってもらっては困るのか。それで自らにわざとそんな実現不可能な妄想を抱かせ、その裏で着実な成果を得たいわけか。しかし成果とは何だろう。そんなわけのわからない戦略が何をもたらすというのだろう。少なくとも短期的には何の利益にもならないことだ。それでかまわないと思う理由を知りたくなるが、尋ねる相手が見当たらず、とりあえずは相変わらずの暗中模索の日々が続くしかないようだ。

 そうしているうちにも確実に時が経ち、やがて何もかもが雲散霧消してしまうだろう。何も成し遂げられないままとなってしまうわけか。別にそれを望んでいるわけでもないのだろうが、その途中で理由付けすることもないだろう。結果から理由が求まってしまう。後からそれが理由だったと納得するふりをしなければならなくなり、そんなごまかしでもないよりはマシだと思い知るわけだ。思い知ってからではもう手遅れなのだろうが、手遅れになった方が却って気が楽になるわけで、肩の荷が下りた気になれるのではないか。結局はそうやってあきらめてしまうわけか。だから妄想を抱くなら、今のうちにせいぜい大それた夢を抱いておくべきなのか。今でさえもう遅すぎるような気がしているのに、なぜ今さらそんな思いにとらわれてしまうのか。そんなやり方ではうまくいかないのがわかっているのに、たぶんそれ以上は求めていないのではないか。自らがあきらめるのを自らが待っているわけだ。わざとあきらめるように仕向けているのかもしれず、そうやって早く楽になりたいのだろうか。その辺がなかなか込み入った戦略なのだろう。そしてもちろんそんな戦略などまったく信用しておらず、気が変わればそれとはまったく違うことを企てようとしてしまうのだろうし、そんな戦略があったなんてまったく覚えていないのではないか。たぶん言葉を記しているうちに、そんなありもしない戦略をその場で思いつき、さらに記していくと、その記述からまた別の戦略を思いついてしまい、さっきまでの戦略などなかったことになってしまうわけだ。要するに戦略が戦略とならないうちに打ち捨てられ、結果的には戦略など何もありはせず、ただその場その場で、場当たり的に何かいい加減に思いついているだけで、それでその場は凌いだつもりになれるが、その場を通り過ぎてしまえば、相変わらずの無為無策が明らかとなって、前方に立ちはだかっている乗り越え不可能に思える障害物を前にして、途方に暮れている現状があるのかもしれない。要するに困難は困難としてあり、言葉を記すことで気持ちをはぐらかすことはできるが、いくらはぐらかしても困難は立ち退かず、依然としてごまかしようのない困難のただ中にあるわけだ。これはどうしようもない現実だろうか。そこから目を背けるだけでは埒が開かないのはわかっていながら、やはり目を背けることしかできない現状があり、そうしたジレンマに直面しながら、何もできない歯痒さがあるだけで、他に何をしているわけでもないらしい。

 だからただ待つしかないのだろうか。時が経つのを待つしかないのか。だが黙って待っているわけでもないのだろう。こうしてあれこれ無駄な悪あがきの最中なわけか。悪あがきにすらなっていないような気もするが、実質的に何を語っているわけでもないらしい。でもこれが語っている実質なのだろう。この実質を受け入れなければならない。静かなる抵抗運動が今全世界的に展開されているらしいが、これもそれの一環なのだろうか。無意識の共有があるわけか。それをやっている人たちはそれぞれに連帯もせず、個人でやっているだけなのかもしれないが、やっている感覚すらないのかもしれない。何ら成果もあげることも期待されているわけでもないのだろうが、やはりそれがあるからブレーキがかかっているのであり、ブレーキを掛ける側にそれと気づかずに多くの人々が参加しているわけだ。この新たな形態をとる運動でさえない運動は、意識して連帯する必要もなく、特定の誰かがそれを呼びかける必然もないので、常に潜在性のうちにとどまり、体制側もメディア側もそれに対処しようがないわけで、除去することもできず、厄介な様相を呈しているわけだ。漫画や映画の中での大げさな対決に気を取られているうちに、足下が虚無が忍び寄り、意識されないまま浸食され、それとともに何かが着実に成し遂げられつつあるのではないか。この先現実にそれが顕在化したところでもう遅いわけで、やはりそんな結果から原因をあれこれ探る人が出てくるのだろうが、その時点ではすでに過去の出来事に属しているわけで、後戻りすることはできない。たぶん現時点で誰がそれを狙っているわけでもなく、そんな連帯なき連帯が世界に蔓延しているようで、アクセルを踏み続ける一握りの人たちに気づかれないように、その他大勢の人たちがこっそり軽くブレーキを踏んでいるわけだ。それが何をもたらすのかはもうじき明らかになるだろうか。たぶんメディアを通じて何が明かされることもないだろう。誰もそんな幻想を抱いているわけでもなく、静かなる抵抗運動など幻影でさえなく、現実に誰も何もやっていないのだ。ただ心の片隅で何かがおかしいと感じているのかもしれず、それが邪魔して素直に現状を肯定する気になれないのだろう。実際に何かが違っているわけだ。だがその違っている何かがはっきりとはわからない。たぶんそこに来たるべき社会の兆候を読み取ろうとしている人もいるのかもしれない。


7月28日「意識が生み出した幻想」

 たぶん意識の内部空間に出口などありはしない。読んでいてそんな印象を抱くが、それだけでいいのだろうか。よくなかったからその後おかしな方向へと突き抜けてしまったのだろう。内部だの外部だのといっているだけではだめなことはわかっている。別に内部にとどまったまま語っていてもいいわけだ。具体的に何を語るかが問題なのだろう。そんなことはわかりきっているのに、今さらながらそれを自覚する。当たり前のことができていないらしい。でも一方ではそれでもかまわないと思ってしまうわけだ。語っていくうちに何か思いつくだろう。思いつかなくても言葉を記しているはずだ。要するに何でもかまわないわけだ。ではさっきの内部だの外部だのは何だったのか。不意の気まぐれでそんなことを述べてみただけか。そうかも知れないが、そこに何らかの差異を感じ取ったからそんなことを述べてみたのか。他者との交流が出口なのだろうか。それもわかりきったことだろう。しかしどこに共同体があるわけでもなく、その中でコミュニケーションが成り立つわけでもない。だから意識の内部も含めてすべてが外部なのではないか。内部空間などどこにもない。そんな嘘をついてみてもかまわないわけだ。建築物の内部空間はあるだろうし、洞窟の内部もある。細胞の内部もあるし、臓器の内部もある。具体的な内部などいくらでもあるし、具体的な外部もある。ただ内部は閉じていない。そこへ入り込めるとしたら閉じていないのだろう。何かしら内部に入り込んでいる。抽象的な内部でさえ、外部から見られていたりするわけだ。内部と外部との交流があるらしい。交流があればそこは完全な閉じた空間ではないということか。限られた者しかその内部へ入れないとすれば、そこに選別があるわけだ。選別する主体がいる。たぶんそれが意識なのではないか。厳密にはいろいろあるのだろうが、いい加減にそう見なしておけば事足りるだろう。意識は内部と外部の境界にいて、そこで出入りを管理しているわけだ。少なくともそのつもりになれる。それを管理しようとするのが意識なのだろう。そうすることに価値を見出そうともしているのかもしれない。内部と外部との間に境界線を引き、そこに関所でも設けたつもりになりたいわけだ。自分の利するものだけを取り込み、内部空間を豊かにしたいのだろう。そんな意識も資本主義社会の発展とともに進化してきたのだろうか。ものの売買によって利益を得られることから欲望が生じ、貨幣を貯蓄できることから心が生じているわけか。そして自意識は心の内部にお宝を貯め込むことに生き甲斐を感じ始めている。たぶんそれは資本主義が生み出した幻想に違いない。

 そして意識は幸福と呼ばれるかけがえのないものを手に入れたい。そんなはずがないと思いたいのか。かけがえがないわけではない。それはものと同じでいくらでも交換可能なのだろう。カネで買えないものにろくなものはないか。ただでもらうともれなく負い目というおまけがついてきたりするのだろうか。無視すればいいことだろう。無視しなければ心苦しくなるわけか。無視しても心苦しさは変わらない。気持ちのもちようなのかもしれない。そこまで気が回らなければいいのだろう。わざとそうしているわけではなく、そういう方向での語りから離脱したがっているわけだ。そんなことは忘れてしまえばいいのか。別に何を忘れようとしているわけでもないのに、行き過ぎてしまったことを反省したがっているようだ。妙にねじ曲がったことを記そうとしてしまう。そこに歯止めをかけるのも意識の役目なのだろうか。誰がそんな役目を意識に割り振ったわけでもないのに、自動的に歯止めがかかり、でたらめを是正しようとするらしい。内部から撤退して、外部へとはみ出ようとしても、そこに何があるわけでもない。内部には記憶があり、外部には事物があるだけだ。記憶を思うように引き出せないのと同じように、事物もうまく捉えられない。そこに齟齬感が生じている。でもそれをうまく回避しようとしてはいけないのだろう。齟齬感こそが意識そのものなのだろうから、内部も外部もままならない感覚がそれを意識させるわけだ。逆説的にそうなのか。そうでなくてもかまわないのに、実際にそんな感じを覚えるとしたら、別にそれでかまわないのではないか。それ以上の何を意識できるわけでもなさそうだ。そんなことを述べているうちに危険区域からの離脱が完了してしまったわけか。何が離脱したのだろうか。自意識ではない。齟齬感などそう簡単に解消できるわけではなさそうだ。それが麻痺するまで抱き続け、心を苛んでいるわけか。いったいそうやって何を攻めているのか。それが外部からの攻撃なわけか。内部からも攻撃され、今まさに自意識が窮地に陥っているのだろうか。しかしそれはわざとらしいフィクションだ。仮想世界での話か。現実にそうなっていることを意識が感じ取れない。そんなはずがない。はぐらかしているに過ぎず、真に受けるわけにはいかないようだ。戯れの水準で済ませて、さっさと面倒な自意識過剰な精神状態から脱却したいわけだ。別にそれが罠だとは思えないが、はまっているとしても表面だけにとどめて、深入りするわけにはいかないのだろう。そうすることにリアリティを感じられない。

 遁走という表現が当てはまらないのだろうか。別に解離性遁走というわけでもないのだろうが、何らかの障害を負っているとしても、あまり魅力的には思われない。病気であっても健康であっても、どちらにしても興味深い現象とはならない。ただそこから逃げている。それだけの事実から何が導かれるわけでもなさそうだ。内部も外部もその境界を分ける意識も、現実の世界をそう捉えているだけで、そこから何がもたらされようと、君の現状を変えることはない。そんな認識では退屈か。でもいい加減に語るかぎりはそれでかまわないのかもしれず、厳密にそれぞれの概念を定義しようとすれば、なおいっそう退屈な話となってしまいそうだ。すべての幻想や幻影が現実の世界からもたらされている。そんなおおざっぱな認識でかまわないのではないか。そしてそんな認識を抱いている意識が何かを思い、何かを記そうとしている。それだけのことなのだろうが、そう記してしまうと、そこから遠ざかりたくなり、またそれに逆らいながら、でたらめなことを述べようとするわけだ。すでに意識が抱く幻想や、そこに現れる幻影について語っているつもりなのだ。例えば君は架空の世界で視霊者に出会い、自らの運命について尋ねているはずだ。この先に何が待ち受けているのだろうか。夢の中でそれを空想しているのか。唐突に戯れ言を記している。どうやら観念からの脱出に失敗している。きっと逃げ足が遅くて、虚無に追いつかれてしまったのだろう。そしてでたらめな観念に取り憑かれ、そこに意識が滞留しているらしい。結局誰の霊魂を見たわけでもない。それに乗り移られて何を語り出しているわけでもなく、現実の世界でたわいない夢について話しているわけでもない。すべては記述が生じさせた内容だ。そこに書物の内容を介在させて、思考の方向性を定めようとしても、とりとめのないことが記されている現状に変わりなく、そこから離脱するきっかけをつかめないようだ。遠ざかろうとすればするほど、今度は別の虚無に近づいてしまっているのだろうか。


7月27日「ファミリー・ロマンスの呪縛」

 言語の問題がすべてではないのだろうが、やはり何かを語っている以上は、言語の問題に突き当たってしまうようだ。それを突き詰めて考えてみなければいけないのだろうか。しかしそれについて語るほどの力量はない。力がないならそれなりのいい加減さを装うしかなさそうだ。それが今のところの結論になるだろうか。そんなわけで語れることは限られてくる。しかしそれ以上の何がいえるのか。まだ何も語っていない段階でそれはない。なぜか何も語れないようだ。問題は言語ではないのか。とりあえず何かが語られているわけだ。人はそう語る。いったいどう語っているのだろうか。それについて語っているわけだ。言語について語っているつもりのようだ。それについて何がいわれているわけでもない。少なくともここではそうだ。それが言語なのではないか。ただ言葉を記しているだけでもまだマシなようだ。問題に行き着かないうちにはぐらかしモードに入ってしまう。まともに考えられない。たぶん語るべきはそれではないのだろう。もっとマクロなレベルで語るべきなのか。一つ一つの言葉ではなく、それらが組み合わさって構成される言説について語らなければならないのかもしれない。やはり人はそう語るが、どうやって語るつもりなのか。それを読むだけでは語れない。それについて記さなければならない。そしてその辺でさっきから言葉が循環しているらしい。行ったり来たりで、なかなかその先へ進めない。外に出られないまま終ってしまうのかもしれない。しかもその終わりが何ももたらさない終わりとなる。そんなふうにしか事態は進行しないようだ。語りたい内容と実際に語っている内容が一致しない。何も積極的には語りたくないのに、そんな嘘をついてみるが、どうもしっくりこないようだ。たぶんそれが間違っているからなのだろう。どう間違っているかもわからないまま、そんなことを述べてみても始まらないのだろうが、たぶん何かが間違っているとしかいえず、それをそのまま放置できないからそんなことを述べてしまうのだろうが、相変わらずそれも間違っていることの一部でしかないようだ。要するにそれ以上は何も語れないということだ。だからそこから退かなければならないわけだ。

 何も語らないうちから退き、何も得られない結果に落胆する。それ以外の何がもたらされているわけでもない。この世界は静まり返っている。すべてが現前していて、さらにそれを超える現前が期待されている。だがすでに何もかもが飽和状態だ。それ以上はあり得ない話だろうか。そうなると無理に語ろうとすれば、やはり空想にしかならないわけか。それは遥か昔の話になるだろう。断言はできない。そんな気がするだけのようだ。構造的にファミリー・ロマンスのたぐいとなる。それは類型的な構造でしかなく、心はそこから遠ざかりたいのに、知らず知らずのうちに引き込まれ、そこで嫌な思いをするのだろうか。広いようで狭い世界だ。それがいかに壮大な世界の中での争いごとであろうと、結局そうなってしまうのは、それが語られる世の中の風潮の反映でしかないからか。だからそこに限界があるらしい。すでに遥か昔という物語設定から逸脱していて、現代の身近な世界に引き寄せられ、そこでありふれた世間話の範疇に堕しているのだ。それ以外には語れない。結局何も革命的ではなく、保守的な人々が喜び安心するような内容となっている。それでかまわないのではないか。物語としてはそれで上出来なわけで、それ以上は望むべくもなく、そういう線で落ち着いてしまい、それで満足させられ、釈然としない気持ちのまま、その場を後にするしかないようだ。なぜそんなところで止まってしまうのか。もっと何か認識を新たにするような出来事に巡り会えないのか。でも君が避けているそれこそがすべての根源なのであって、それなしでは物語などあり得ず、その呪縛から逃れようとする者こそが、意識とは裏腹にそれを求めている。それは否定されるべき現実だが、いくら否定してみたところで無駄なのだ。結局はそれを受け入れざるを得ない。どう考えてもうんざりするような経緯をたどってしまうのだが、他に語ることがない以上は、いくら離れようとしても、結局そこへ戻ってきてしまう。それらの互酬的な関係の煩わしさに抗うために、資本主義が発展してきた経緯もあるのではないか。

 人は自由を求めているが、その自由が新たな束縛をもたらしている。必要とされないことを延々とやっても、何がもたらされるわけでもなく、それが自分にとって必要であることなのかどうか、判断できないところなのだが、要するにそうやって何かに逆らっているわけで、いつまでどこまで逆らえるか我慢競べをやっているわけでもないのだろうが、いったい何と我慢比べをやっている最中のつもりなのか、それもわからず、どう考えてもそこに意識の空白があるように思われる。それが空虚な中心なのだろうか。語るべきはその部分についてなのか。でも空虚なのだから語りようがない。そこに語り得ない中心があるらしく、そこに思考を集中させようとして果たせないようで、どうしてもそこから逸れていってしまうのだろう。気持ちが逃げているわけだ。逃げているとかいないとか、そういう水準で語るようなことではないのだろう。ではなぜそこへ向かおうとするのだろう。何もない場所へわざわざ出向くこともないだろうに。それに関してまだ語っていないことがあるのかもしれないが、語ろうとして語れることでもないのか。偶然の巡り合わせと無意識の助けを借りなければ語るのは無理か。それでは何の展望もなさそうで、それに関してまとまった文章を導き出すには至りそうもない。やはりすべては分散してしまうしかないのか。言葉が方々へ散らばり、意味をなさない言葉の連なりを形成し、何を記しているのかわからなくなる。そしてまたここへと戻ってきてしまったようだ。ここが以前の場所とどう違うのか。こことはどこだろう。空虚の中心なのだろうか。すでに抜け出たはずの牢獄の中へと舞い戻り、また性懲りもなく脱出の算段を巡らせる。何かが繰り返されているに違いないが、意識がその反復を感じ取れないのだろうか。これがここでのすべてらしく、こことはどこなのか、それを知ろうとしていないことが、ここでの語りを支えているわけだ。人は勝手気ままに振る舞いたいようだが、他人に邪魔されて腹が立ち、しかしそんな他人に支えられて存在するしかなく、それがさらなる腹立たしさを呼び込んでいるのだろうか。そんなていたらくではだめか。何がだめなのかわからないようだが、わからないままでもかまわない。わかろうとしなければしないだけ、より遠くへと意識が到達できるのかもしれない。束縛を無視して、虚無の境地へとたどり着こうとしているわけでもないのだろうが、降りかかってくる火の粉を必死に振り払っているつもりでも、そんなことに気を取られているうちに、肝心なことを忘れているようで、そのおかげで虚無に取り込まれてしまう恐怖心とは無縁でいられるらしいが、それでもやがて迫り来る運命には気づかないようだ。しかし忘れている肝心なこととは何なのだろう。それを思い出せば、すべてがうまくいくとも思えないのだが、その辺で何かが錯綜しているのだろう。


7月26日「呪いの果てに見た光景」

 果たしてここから遠ざかれるのだろうか。気持ちはすでに遠ざかっているようだが、身体はこの地に固定されたままだ。可能性があるとすれば空想の領域だけか。でもすでにそれは汲み尽くされているのではないか。だいぶ前から空っぽのままだ。では他に何があるのだろうか。とりあえず運命に逆らっているわけではなさそうで、内心焦りながらも、その成り行きの中に身を投じているつもりなのではないか。何も起こらない空疎な成り行きの中で暮らしているわけだ。起こりようのない環境なのだから、それは当然の成り行きなのだろう。わざとそうなったわけでもなく、あてが外れているわけでもないようで、何も起こりえないことは十分承知で、そんな場所にいるわけだ。別に奇跡が起こるのを期待しているわけでもなく、ただそれなりに思案している最中なわけで、無駄な気もしているわけだが、他にすることもないので思案している。何かを予感しているのかもしれないが、その予感ははっきりせず、何を予感しているのかもわからない。とりあえずその兆しを感じ取っているのだろう。そのつもりでそんな成り行きを受け入れている。退屈を持て余しているのだろうか。そのふりをしているといった方が正確だろうか。何もかもがあやふやなのに、正確も明白もありはせず、ただそのはっきりした結果から目を背けているだけではないのか。その通りなのだろう。逃げていないでそれと向き合わなければだめなのか。逃げているつもりはないのだろう。ではいったい何と向き合っているのか。それを意識できないのではないか。そのものが今ここにあるわけだが、それが何だかわからない。またそんな嘘をついていること自体が、逃げている証拠となるだろうが、それでも逃げていないと言い張れるか。たぶん逃げているとしても仕方のないことなのかもしれず、その逃げている対象をはっきり特定できなくてもかまわないのかもしれない。ただそこで何かを語っていることだけは確からしい。それでかまわないのではないか。それ以上の言及は今のところ要らないように思われる。

 そして語っている内容がつまらなくなるわけか。そうならないようにしなければならないとは思うが、どうも歯止めがかからない。急いでそこから離れなければならないのに、なぜかその気にならず、却ってそこにとどまり続け、居心地がいいみたいで、そのままそこで固まっている。何も考えていないわけではないのに、思考を麻痺させるような作用が働いているらしい。これも虚無の力なのかもしれない。ここが運命の分かれ道なのか。それともまた冗談に逃げようとしているのか。どちらにしてもくだらないことになりそうだ。君はそれを避けようとしている。構造は時間の経過を考慮に入れていない。そんな単純な理由でもないのだろうが、経年劣化が甚だしく、絶え間ない補修を必要とする。悲惨な現状とはそのことだろうか。それでも持続させることに躍起となり、そこで我慢比べが生じているわけだ。そこでも虚無と向き合っているのだろう。感性がすり減ってしまった人々も、粘り強くそこにとどまろうとしている。自分たちの非がわかっていても、今さら降りるわけにはいないのだろう。そこで人が対峙ているものは何なのか。ものではないのだろうか。ものが抽象的な概念であるわけがない。では何なのだろうか。ものはものだろう。ものと呼べるようなものはいくらでもありそうだが、そこに救いがあるとしたら何なのか。そこから外れるものに救いを見出したいのか。でも救われなくてもかまわないのだろう。救い自体がそれほど必要とされていないのではないか。誰も救われなくてもかまわないのであり、ただそこでうごめいているわけだ。争いが起こり対立し合い、利害が衝突している。そしてそれを調停するために無駄な努力が試みられ、そのことごとくが失敗に終っているわけだ。君はそこからうまく逃れているといえるだろうか。逃れているとしても、逃れた先では何も起こらない。何かが起こっているのかもしれないが、君には関係のないことだ。要するに対立し合い争わなければ、その存在が無視されるわけだ。だから人は絶えず何かと戦っていなければならず、気の休まる暇などありはしないということだろうか。無視されていればいいのではないか。しかしそれでは張り合いがないか。なくて結構なのに、わざわざ紛争の渦中に飛び込んでいく人もいるわけだ。何だか馬鹿げているような気もするが、そうしないと生き甲斐を感じられないのだろう。

 いったいそれらの行為に終わりがあるのだろうか。何かの渦中にいることが、やる気を出させ、生き甲斐を感じさせるとすれば、それ自体が救いなのかもしれない。何かやっているような気になれるのだろうし、実際にやっているのではないか。しかしやっているような気になることと、実際にやっていることの間に、どのような差異があるのだろう。それを混同してもかまわないのだろうか。本当に何かやっているのだとすれば、混同しているとは思えないのではないか。それでかまわないのだろう。現実に何をやっているかなんて人にわかるはずもない。人は意識せずにそれを行う。自らのやっていることがどんな結果をもたらすか、そこまで意識してやっているわけではない。やっている途中でそれを予想しても裏切られるだけか。実際に裏切られて、こんな場所まで至っているわけで、ここがどこなのか、そんなことはどうでもいいわけでもないのだろうが、しかしこんな場所とはどんな場所なのだろうか。心当たりはない。この先どこまでいってもそんな案配のような気がする。何も語らなければ意識も内面も生じない。どこまでいっても何もない。それでかまわないのではないか。そうなることはあらかじめ織り込み済みで、そのためにこうしてわざわざ遠回りしているのだろう。でも誰がこうしているわけでもない。こうしているとはどうしているのだろうか。たぶん頭がどうかしているわけでもないのだろう。ただ呪われている。そんな気がして被害妄想にとらわれ、これから頭がどうかしてしまうわけか。でも呪いも戯れ事に違いない。ただの儀式だろう。その呪いの儀式を感知しないかぎりは、有効には作用しないのではないか。感知したところで何がどうなるわけでもなく、呪われた対象がどうかしてしまうには、心理的な何かが影響を及ぼさないと、うまくいかないのではないか。例えば人づてにそれとなく呪いの対象であることを明かすとかしないと、恐れはしないのではないか。たぶんそれだけではない。実際に身の回りで不吉なことが起こる必要がありそうだ。果たしてそれが呪いの作用で起こっていることなのか、そう思わせればよく、思わせなくてもそう思ってしまうのなら、なおのこと呪いが効いている証拠となるだろうか。そう思い込んでいればいい。

 結局時間が解決してしまう。時が経てば人も社会も様変わりしてしまい、呪いの対象者もこの世から消えてしまう。呪いであれ何であれ、人為的な行為は自然の力の前では無力だ。それは力でさえなく、どんな作用でもなく、ただ人的な行為がそれ自身ですり減ってしまうわけで、時の経過とともに効力が失われていって、終いにはフェードアウトしてしまうわけだ。関心が薄れてしまい、別のことに気を取られていて、いつまでも戯れ事につきあっていられないのだろう。結局呪いの儀式が廃れるまで待つしかないということか。しかし呪いの儀式とは具体的に何を指すのだろう。それはどこかの神社で行われている加持祈祷のたぐいか。それは誰かの想像にまかせるとして、かえってそれはいつまでも長続きしていた方がありがたいことなのかもしれない。いつまでも呪っていれば、呪っている対象がわからなくなる。誰を呪っているのか忘れてしまうわけだ。本当は誰も呪っていないのかもしれず、ただそんな儀式がいつの間にか形骸化して、そうすることが日課となっているだけなのかもしれない。それが年中行事となるにつれて、その儀式自体が何やらありがたがられ、呪いの効果は完全になくなり、それを執り行うこと自体に意味があるように思われてくる。やがてもっともらしい理由がつけられ、それをやることだけに意義があるように思われ、大勢の人が集められ、盛大に執り行われるようになるわけだ。そうなってくるとフェードアウトどころではなく、祭りのたぐいと化すのだろう。そのような成り行きが何を示しているのだろうか。別に災い転じて福となすわけでもないのだろう。もはや特定の誰に災いをもたらしたのかも不明確で、ただ延々とそんな儀式が執り行われている現状があるわけだ。それは虚構ではなく現実なのであり、部外者はそんな現実に逆らうことも同調することもできない。


7月25日「冗談では済まないこと」

 記されるのはいつも決まってあやふやな内容だ。そこで何が見出されているわけでもない。遠ざかってみればたわいないことだ。でもただそんな光景を眺めるばかりでは埒が明かない。必死で何を語ろうとしているわけではないが、継続する意志がなければできないこともあるらしい。状況を説明して文章を構成しなければ、何も語っていることにはならないそうだ。しかし思い出されるのはそんなことか。何かもっとマシなことを語れないのだろうか。状況に即した適切な判断が求められるところかもしれないが、それは絵に描いた餅か。現状では何が適切なのかわからない。そしてそこでも試行錯誤がつきもので、どれほど失敗を積み重ねても、何が適切なのかなんて判断しようがないのではないか。やっていることの何が失敗なのかもわからず、わからないまま延々とやり続け、いつしか何をやっているのかも自覚できなくなってしまう。もはやあきらめるしかないのだろうか。実際に何かをあきらめているのではないか。今さら何をあきらめているのか。具体的には何もわからない。具体的に語っていないからわからないのではないか。たぶんそれがはっきりしなくても、現実に何かをあきらめているのだろうが、そのあきらめていることについては、今のところ思い当たる節がない。しかしなぜそんな見え透いた嘘をついてしまうのだろうか。どうもさっきからおかしな記述の繰り返しになっている。どうやらまともに語るのをあきらめてしまったらしい。そんな気がしないでもないが、また空想上の迷路に迷い込んでいるのだろう。実際は迷路でも何でもないのだろうが、何となくそこで逡巡しているような気になり、そこがどこだかわかろうとしていないわけで、そこで何の説明をしているわけでもないように思われ、要するにだらけているわけだ。限界なのだろうか。語ることの限界を思い知ったわけか。確かどこかで停滞していたはずだ。

 どこかの思想家の著作が永劫回帰的で、それをどう表現したらいいのかわからず、説明がそこで止まってしまって、数日前から記述が滞っているようだ。継続の意志を曲げてでも、それにこだわらなければならないのか。やめておいた方がよさそうに思えてくる。たぶんそこに永劫回帰ではなく、後戻りの利かない一回限りの歴史があり、何かの巡り会わせでそうなってしまったことの積み重なりが、そのような歴史を形成しているわけだ。君はその偶然を必然として読み取りたいのか。事後的に説明すれば偶然も必然となり、そこに見出される必然性が論理の整合性を支えているわけだ。そんな説明に感動して、それを読んだ後は何も言えなくなってしまう。それがそこで語られる物語だ。でもそれがたわいないことの一部始終ではないのだろう。絶えずそこから外れようとしているのであり、それらの論理的整合性を伴った説明を無視して、日常のありふれた言動から得られるどうでもいいような物言いを使って、支離滅裂な反論を試みているわけか。軽薄ないちゃもんをつけているだけか。それがただの言いがかりであったとしても、時と場合よっては有効に働くことがあるのだろうか。たとえうまくいったとしても効果は限定的ではないのか。しかもその限定的な効果が幻想を生み、浅はかな人々がその幻想に群がり、一度しか成功しなかったことが、二度でも三度でも成功するような勘違いを生じさせて、無益な努力が繰り返されるわけで、賢い者はそこを見逃さず、そこにつけ込んで浅はかな人々から利益を奪い去るわけだ。それは何かの寓話となるだろうか。具体的には何について語っているのでもないので、寓話でも何でもなく、虚構でしかないのではないか。それとも具体的な事象の何かに当てはまっているわけか。君はそれを知っていて話さない。そんなはずがないだろう。知っていたら真っ先にそれについて語り出すのではないか。本気ではないから、あやふやなままにとどまりたいのだろうか。

 無理に語ることでもないのだろう。たぶんそれでは批判したことにならず、いちゃもんもいちゃもん以上にはならず、時が経てば忘れられ、誰かが打ち立てた必然性の歴史は、権威として世に広まり、人々の思考を覆い、そんな思考に導かれながら、今なおその範囲内で物事について考えているわけだ。それが進化論としての人類文明史か。またずいぶんと大げさな意味合いを帯びてしまったが、冗談でそこまで語れるだろうか。たぶん冗談では無理で、真剣に語らなければならないのだろうが、戯れにそんなことを述べている現状に変わりはなく、何か場違いなことを述べているのかもしれない。ならば冗談で済ませるしかないか。そうなるとまた例によって陰謀論なわけで、世界の支配を企む勢力が、まことしやかにその説を広めていて、その説とはいわゆる終末論のたぐいになりそうだが、そこから何がわかるのだろうか。それらの妄想を簡単に終らせるわけにはいかないということか。スペクタクル映画のようにドラマチックな話の展開とならなければならず、すべてはその脚本家の思い通りに進展し、最後にあっと驚くような仕掛けが用意されていて、それを体験する者たちが感動の渦に巻き込まれるような、大団円の結末が待ち受けているわけか。しかしそれとその手の陰謀論とはどう関係するのだろうか。その手の大げさな映画が、彼らの企みを明かしているとでもいうのだろうか。たぶんそれが彼らからのメッセージなのではないか。そうやって絶えず地球人に向けてメッセージを送っているのであり、人々がそれに馴れさせるために、毎年多額の予算をかけて、飽きもせずそんな映画が制作されているのであり、それが彼らの陰謀の一端を示す証拠でもあるわけか。何やらだんだん呆れてものもいえなくなってくるようで、ここに至ってなおあきらめてはいけないのだろうか。いったい何をあきらめようとしているのか。その辺もどうもわからない。


7月24日「当ての外れた現状認識」

 やがて事態は沈静化する。それがつかの間の安らぎをもたらすのかもしれないが、それですべてが終ったわけではない。目くらましが長続きはしないのだろうが、事情は変わらない。疑心暗鬼にとらわれ、それが身を滅ぼす原因なのかもしれず、うまくいかないことは確実で、うまくいったためしもないことが証明されるわけだ。だから沈静化するわけだ。何もできはしないだろう。うまくいくような兆しは感じられない。誰かの陰謀を察知しているのだろうか。フィクションの中ではそれはありがちなことだ。そんなわけで苦しくなると意識がまた虚構に逃げてしまうらしい。何らかのトラウマを背負っているわけか。誰がそうなのだろうか。これ以上は架空の登場人物に頼るわけにはいかないらしい。そろそろそれらの圏域から離脱しなければならないのだろう。事態に対処できなくなりつつあるのかもしれない。遠回りしてでも現実の世界の中で考えなければならない。運命に逆らっているわけでもなく、その通りに歩み続けているのだろうか。いつも何かと何かの狭間で考えていることだ。とりとめがなく、まとまった言葉の連なりとはなりがたいが、それらの断片化された時間の中で少しずつ考えている。やがてそれらが一つにまとまるとは思えないが、できればひとつながりの言説の中で思考の成果が響き渡るようにしたい。そうなるように仕向けているのだろうか。誰がそれを仕掛けているわけでもなさそうで、君もその辺は途方に暮れるしかないようだ。虚構の世界ではその辺がうまくいっているのだろうか。どうも信用できない。相変わらず何を語っているのでもないようで、ただ嘘をついているだけのように思われる。おかしな制度の虜となっているのだろう。そんな状況自体が気に入らないのであり、そこから目を背け、さっさと遠ざかろうとしてしまうわけだが、何かやっていることが間違っているのだろうか。たぶんそうなのだろう。どうしてもそんな競争の中で互いに切磋琢磨してしまい、それが面倒な事態を呼び込んでいるのだろうが、どうしてもそこに違和感があるわけだ。

 矛盾が見出されているわけではなく、ただどうにもならない現状があるらしい。それは特定の階層構造の中で自生している人たちにはわからないことだ。それをどう表現したらいいのだろうか。それらのどこにひとの意志があるとも思えず、記された言葉の連なりを読むことでしかそれを感じられない。ただの現象に過ぎないのだろうか。そこに技術の洗練と感性のひらめきがあることは確かだが、それに接していると嫌になってくる。もたらされたものだけでは満足できないらしい。そこから遠く外れた何かを求めているのだろうか。たぶん何も求めていないわけではないのだろう。特定の誰かがそこで覇権を握り、君臨してしまう制度の中で、それを下から支えようとする気にならないのかもしれず、そんな制度の中で安住する気にもなれず、人は自然とそこから外れていってしまう成り行きの中で生きている。安易なごまかしは通用せず、すぐにわかってしまうのだろう。魅力を感じられないのだから、人心が遠ざかってしまうのは致し方のないことだ。幻想を抱くのはほんの一瞬で、すぐに現実に引き戻され、他に何もないことに気づかされる。それ以上の何を引き出せるのか。支持を得られないのははじめからわかっていたのではないか。それを承知で他人を批判していたわけか。たぶんそれも虚構の中での話なのだろう。疑念は他にもあるらしい。疑いはじめたらきりがない。実際にどんなフィクションを構成しているわけでもなく、そこに記されたすべてはあやふやな内容に終始していて、それをまともに語ろうとしない現状があり、君はそんなどうしようもない現状に甘えながら、さらに言葉を連ねようとしている。でもそれが話の一部始終というわけでもないのだろう。わずかにそこからはみ出る部分があるから、そのおかげで、かろうじて語りを支えているわけだ。物語とはなり得ないが、特定の誰を物語っているわけでもないので、話のつじつまが合わなくても何とかなっている。そんな認識でかまわないのだろうか。他に何があるわけでもなく、ただ誰かがそんな現状を認識していて、それがここでの語りを構成しているのだろうが、君はそれが気に入らないらしい。

 それでもまだ君は話の中に存在し続けるつもりなのか。君の自由になるわけでもない。誰もそれを自由に操れないはずだ。制御の利かない何かがあり、思うようにいかないことが、君を苦しめているのだろうか。それだけではない。誰も苦しんでいないような気もするわけだ。君が誰だかわからない。誰も君ではないような気がする。不在の語り手にとってはそうなのだろう。物語に対する執着がないから実在しきれていないわけだ。執着がなければ語りとしては不充分だろうか。でも他の何にこだわるつもりもなく、却って語らない部分が大きすぎるのではないか。それも君の計算の内なのか。しかしそれでどんな効果を期待しているのか。負債がないことが、それらの無神経さを誘発しているのか。何もかもあっさり認めようとしている。認めたところで良心の呵責などともなわず、それ以外には何の感慨もありはしないようだ。それ以外のそれとは何なのか。それはこの世界の印象でしかないのだろうか。誰がそんな印象を抱いているわけでもなく、記された言葉の連なりから伺えることでしかないのかもしれないが、でもそれを読んだからといって、すぐにこの世界を変えられるわけでもなく、そうかといって自らの無力感に苛まれているとも思えず、ただそこからそんな印象が滲み出てきて、君の知らない誰かを行動にせき立てているのかもしれず、もちろんそれがどのような行動なのか知るよしもないが、ただ誰かがそんな印象を持っているのだろう。別にそれを今ここで明らかにしようとしているわけでもない。明らかにしようにも、知らないのだからできるわけもなく、知ろうとしているわけでもないのだろう。それ以上の思惑を想像できない。現状はとりとめがないだけで、そこで言葉を記そうとすれば、漠然とした内容になるしかないだろう。何をやってみてもうまくいかないのなら、その世界がすでに行き詰まっているのであり、人の想像を超えたところで、得体の知れぬ何かが動作しているわけだ。それを感知し得ない君は、もはやそんな世界から見捨てられているのではないか。そんなわけで君は相変わらず語ることが不可能な何かについて語ろうとするが、もういい加減にあきらめたらどうか。


7月23日「奇怪な出来事」

 たまにぬか喜びするときもあるが、それは確率的な出来事の範疇に入りそうだ。要するにたまにはいいこともあるが、その大半はあてが外れているということか。よくできたゲームだ。逆説的に何かがあらわになる。すべては多様で混沌としている。そこから規則性を見出し、理論を打ち立てる行為が求められ、実際にそれをやっている人もいるらしいが、徒労に終わるのだろうか。そんなことははじめからわかっている。でもまだ終っていないのではないか。それをやる時間が残されているわけだ。しかしやろうとしてもできないかもしれない。やろうとしていないのではないか。やる手間をかけたくないのだろうか。面倒くさいか。何をやろうとしていたのか思い出せない。どうやらやる気をはぐらかす理由はいくらでもありそうだが、それについて語っている内容は単純だ。やる気云々ではなく、すでにやっているわけで、やりながらその都度考えている。そして語るべきはそんなことではないようだ。意識と無意識で見解が分かれるのはその辺からなのだろう。どちらも虚構なのではないか。はじめからそれらが見出されるわけではなく、何かを突き詰めて試行錯誤した末に見出される概念なのだろうが、何もそんな境地にまで至らなくてもかまわないのだろう。途中であきらめてしまってもいいわけだ。誰もそれを最後までやり抜けとは言わない。最後までやったらそこで終わりなのだろうか。たぶんそうだ。そうでないと思索がおしまいにはならないのではないか。やり続けてしまったら、それが最後ではなくなってしまう。自意識にとってはその続きがあっては困るのだろう。だからそこでおしまいなのか。その辺でやめておいた方がよさそうだ。君がやめられないのなら、他の誰かがやめさせてくれるだろう。しかし現実には誰もやめさせてくれないうちに目が覚める。また奇怪な夢でも見ていたのか。当分はそんな幻影から逃れられそうもない。具体的に何がどうなっているわけでもなく、単にとりとめがないだけで、話にならないわけだ。夢の中でやっていたゲームは跡形も残っていないようだ。それが現実の世界に持ち越されることはなく、いったん目覚めたらすべてがリセットされてしまうらしい。

 追い求めている当の対象が見当たらないだけはなさそうだ。それに気づいた時点では、すでに何も追い求めてはいないのではないか。そんな気がしてならず、またそこから意識が退いてしまう。そしていったん引き下がって考えると、何かをやっている気がしない。ただそれについて考えているだけのようだ。話にとりとめがないのも毎度のことで、結局何について語っているわけでもない。そう思いたいが、言葉が連なっている現状があり、それとは意識できない何かについて語っているのかもしれず、それを続ける羽目になりそうだ。語りながら得体の知れない何かに引き寄せられているのかもしれない。それが語る対象となるのだろうか。実際にそれについて語っているのではないか。それが何だかわからないのに語っている。やがてわかる時が来るかもしれず、とりあえずその時が来るまで語り続けるだろう。そんな甘い見通しのもとに、さらに誰かが語っているらしい。誰もがそれについて語っているのだろう。君はそれを無視するつもりなのか。誰もが語っているそれを小馬鹿にしたいのか。それとは何だろう。リンゴが実った木からリンゴが落ちるのではなく、空からリンゴの木が落ちてくる。だがその木にリンゴが実っているかどうかはわからない。ではなぜそれがリンゴの木だとわかるのか。たぶん語っているのがそんな内容なのだ。ちぐはぐなことを語っているだけで、それは謎かけでも寓意でもなく、ただの不条理かもしれない。重力の作用でもないのだろう。そして人はそんな光景を眺めながら、裏切られた思いにとらわれる。いったい君たちは何に目を奪われていたのか。それでも人は絶えず語り続ける盲目の老人に微笑みかけ、次の瞬間に何かが起こるのを期待しているわけだ。何も起こらなかったら、それは賭けに負けた証拠だろうか。何を賭けているわけでもないだろうが、暇つぶしにはなるようで、たわいない戯れ事には違いなく、でたらめにそんなことを空想しているだけなのだろう。ちゃんとした話にまとめる気がないのなら、それは倫理観が欠如していることの表れか。まさか君もそれ以上の何かを期待している口か。それを望むなら、君もまた盲目の語り手となるしかない。

 でたらめな空想には際限がないようだ。前もって教えられていたこととは違う。発想がどことなく不自然だ。わざと話をねじ曲げて、意味不明を装いたいのではないか。語るべきはそんなことではない。では何なのか。そこで振り出しに戻ってしまうらしい。時機を逸しているのではないか。あり得ないことが起こる前から君は夢を見ていたのか。たまたまその機会が巡ってきたのだろう。あり得ないことが起こるチャンスを待っていたわけではない。そんな気にさせる時期というのがあるらしい。でもすぐさま目が覚め、大したことでもなかったのを実感するしかない。いつもの日常が帰ってきて、落胆してしまうわけだ。長続きするはずのないことを体験したわけで、それがほんのつかの間のぬか喜びに過ぎなかったことが、却ってまた日常の退屈な日々を耐えさせる糧となるのかもしれず、またいつか夢を見させてくれる機会が巡ってくることを願いながら、夢の後片付けをしている最中なのだろうか。何が続いているわけでもなく、その不連続な出来事の過程を思い起こしながら、何かを語ろうとしているのだろうが、たぶん具体的には何もなく、それの印象ばかりが語られ、やがて忘却されるような話に変形を施され、その縮約された全体は、何やらありふれた紋切型のような成り行きに変貌してしまうかもしれず、たわいのない日常の馬鹿話の中に埋もれ、もはや出来事に遭遇したときの驚きなど摩滅して、以前そんなことがあった程度になり、そんな語りに無理矢理押し込めてしまう人の卑しさばかりが目立ち、それに相づちを打つ人たちの事なかれの態度ともに、それらの驚くべき出来事は完全に死んでしまうわけだ。そんなえげつなさを呪うこともないだろう。何事もその手の人たちにかかれば、その程度のことにしかならない。口惜しがったり残念がるのも無駄で無意味な感情だ。寓意としての効果など、発揮される前に無視の対象となるしかなく、何も発現させないように、巧妙に無化されてしまうわけだ。だからそれに期待する人々は、不意の一撃に賭けるしかない。だがそれが空振りに終れば、その時点ですべてはおしまいで、次の機会が訪れるまで、また果てしない待機を迫られ、待っている間に諦念に精神を蝕まれながらも、辛抱強く機会が巡ってくるのを待ち続ける。現実にはそのまま朽ち果ててしまう人ばかりかもしれないが、それでも気長に待つしかないのだろう。


7月22日「言葉が連なるままに」

 何を悟ったわけでもないが、もはや進歩とか進化とかいう幻想を捨てなければならない。捨てる理由は何なのか。もとから幻想などない。それも違うのではないか。焦ることはないだろう。なぜそれがだめなのか理由がわからない。いつのも目くらましか。何をはぐらかそうとしているのか。その当てがないのに言葉を記している。論理的な思考を押しのけて、無意味な言葉の戯れが奇妙な感覚を呼び起こしているようで、意味が通るように言葉を並べられず、無方向に散らばっている。まとまった思惑を文章として構成できないようだ。しかしでたらめな言葉の配置の何に魅力を感じるのか。何を守ろうとしているのではない。たぶんそうなのだろうが、もとから文章に対する信頼がない。他人を押しのけてでも何かをやるような情熱もなく、そんなごり押し的なやり方を素通りして、またとりとめのない感覚にとらわれているらしい。何やら面倒くさくなる。行く当てもなく街中を彷徨っているわけでもないが、ただ風景を眺めることに飽きてしまったようで、事物の遠近感を度外視しながら、その表面に何かを見出そうとする。なぜ意味不明を求めてしまうのか。たぶん話の論理的整合性を信頼できなくなってしまったのだろう。いったい何から影響を受けているのか。何と決別してしまったわけでもない。久しぶりに摂取したカフェインの影響かもしれない。でもそれは一過性の現象だろう。またカフェインが切れたらもとの退屈な状況に戻るのではないか。そうだとするとあまり信頼できるような感覚とは言いがたい。がっかりするとまた胃が痛くなるのではないか。そろそろ胃がんで死ぬ頃か。冗談で死んでしまったら元も子もないか。別にそれを求めているわけでもないのだろう。戯れとおふざけはもうこの辺でやめておいた方がよさそうだ。

 やはり何を目指しているのでもないようだ。目指そうとしていない。この世界に幻想を抱けなくなってしまったらしい。きっとどの世界でもそうなのだろう。フィクションの中でそう思っているのでもない。たぶん現実の世界でそうなのだろう。だが他の何に目覚めたわけでもなく、目新しい認識も得られていないのではないか。気持ちがぶれているのだろうか。意識のどこに志があるわけでもなく、それがどのような意志を形成しようとしているわけでもない。そうかといって何を皮肉る気持ちにもなれず、ただ風景を眺めている。それだけなのではないか。どうもそこで感情が動作しているわけでもなさそうだ。心象風景は荒野のままか。それが原風景というわけでもないだろうが、他に何を見出したわけでもなく、空っぽの中身を何で埋める気にもならず、相変わらず無意味な言葉の羅列に頼るしかない。人は幻想と戯れることでしか生きてゆけないようだ。もちろんそれに対する反論などいくらでも可能だろうが、別に抗わなくてもいいわけだ。それが何の可能性を示しているわけでもないのだろうが、そこに積極的な意味を見出すとしたら、何かの論理を転倒させるしかないのだろう。この社会は限りなく止めどなく意味を生じさせる一方で、人をそれの虜にして、肝心の何かから逸脱させる。とらえどころを見失わせるわけだ。そうなってしまえばそれ以上の進展を期待できないのだろう。いったいこれまでに何を進展させていたのだろう。たぶんそこに精神の深みなどありはしない。奥行きも厚みもなく、ただ何かの表面で戯れていたのかもしれず、記された言葉の連なりがそれを証し立てているのかもしれない。たぶんそのかも知れない何らかの現象が、仮想空間で生じている精神の拠り所なのではないか。眼前に広がる言葉の海を見渡せば、波間の所々に意味の岩礁が見え隠れしていて、そこに近づこうとする度に座礁して、意識は海中に投げ出され、海の藻くずと消えてしまっているのかもしれず、その度ごとにリセットして新たな意識を再起動させているのだろうか。何度やっても同じことの繰り返しだ。

 お目当てのお宝自体が幻影に過ぎないのだろうか。それを探しているわけでもないのに、なぜ引き寄せられてしまうのか。相変わらず肝心の何かを見落としているのだろうか。その見つけられない何かを見つけようとしているわけでもなく、見当違いの方角へと導かれ、そこで拾ったゴミクズに興味を抱き、それをお宝と勘違いして後生大事に懐に忍ばせ、いざという時の切り札に使うつもりらしいが、その時が来たら気づくかもしれないが、何の役に立つわけでもないことは承知で、そんな役回りを演じようというのか。いったいそれはどんな登場人物なのか。考え込めばますますわからなくなり、考え込む手前でそんな物語は切り捨てなければならないのかもしれないが、未だに後生大事に抱え込んでいるのだから、始末に負えない。そんな自由も平等も幻想には違いない。そして誰がこの世の中を支配しようとしているのでもない。たぶん誰もどのような組織も団体も、世界を支配できないようになりつつあるのだ。権力は細かく細分化され、四方八方に分散するしかないだろう。それにともなって言葉も意識も散り散りになる。それでかまわないのであり、覇権を握ろうとする意志が粉砕されつつある。もはや権力の一極集中などあり得ない。それこそが虚構の物語なのか。君はそんな幻影を追い求めている。現実はさらに分散しているのではないか。人々の意識が状況に追いつけないほど散り散りになっている。何もかもが分解していて、ありとあらゆる構築物が瓦礫の山と化している。そんな状態が世界の現状なのではないか。いったい何がそうさせているのだろうか。人々の無意識の行為がそうさせているのか。無意味な行為こそがそれの元凶だろうか。何が無意味な行為なのだろうか。一連の株価操作のマネーゲームもその一因かもしれない。そこから得られた利潤こそが幻影そのものなのか。君はなぜそれに加わらないのか。資金がないので加われないのか。さあ虚構の存在にはわからないことかもしれないが、そのような事象を素通りしていることは確からしい。

 それも物語のたぐいなのか。今のところはその動作が何を示すのかわからない。何かを空想しているのだろうが、頭も体もそれを受けつけない。外部からもたらされた恣意的な妄想なのか。意識の中をそれを都合のいいように変形している。だから血肉とならないうちに外へ吐き出されてしまうわけか。異物には違いない。力を求めていないのかもしれず、力になり得ない空疎な何かを求めているのだろう。しかしそれで何になるのだろうか。求めることの意味がない。動機もなく理由もない。ただ求めているだけか。意味あるものを求めることに飽きているのだろうか。そのような行為自体が倒錯のたぐいか。そうともいえなくもないが、まだ何も語っていないようなような気もするし、ただ思い浮かんだ空想と戯れ、言葉を並べてその並び具合を眺め、悦に入っているだけのような気もする。美学になる兆しがあるのだろうか。とりあえず中身をともなっていないようで、それは求め、つかみかけている空疎の反映なのかもしれない。あやふやな心情吐露がここにきて功を奏しているわけか。逆の意味でそうなのかもしれない。そんな状況が否定的に思われる。状況でさえないのかもしれず、ただの空想かもしれない。そんな空疎な光景ばかり思い描いていると、心身共に衰弱してしまうのではないか。しかしこの感覚は何なのか。言葉の連なり以外は何ももたらされない。その事実をどう受け止めればいいのか。受け止めようのない事実なのだろうか。しかしまだ死んでいるわけではない。言葉を記している現実があり、その現実から一歩も外へ出てない。何も気休めにはならないことは確かで、ただそう思われる。精神に錯乱を来しているわけでもなく、精神とは無縁の現象のただ中に現実があり、それを意識せざるを得ないのではないか。要するにとりとめがない。それはいつものことだが、そこからどこへもたどり着けないのはどういうことなのか。何も探さなければそうなるしかないのだろうか。たぶん無意識のうちに探しているのだろうが、それが意識の表層へ浮き出てくることはないのだろう。形を成さぬまま、言葉の海の中で浮遊している。その現状をどう捉えたらいいのか。すでに捉えているそのあやふやな感覚のままでもかまわないのだろうか。


7月21日「ありふれた論理に潜む残酷さ」

 たぶんそういうことなのだろう。人の動作はたわいない。そのとき何かを感じ取ったのだろう。それでこうして動いているわけだ。揺らめいている。何かの果てにたどり着いたのだろうか。そんな境地に至ったのだから、そこから外れてもかまわないのではないか。飽きてしまったのだろうか。何に飽きたのか。世の中の出来事か。メディア上で報じられる話題だろうか。そこから離れなければならないようだ。そう思うなら離れてみればいい。どうせまた戻ってくるだろう。それは自然現象のたぐいであり、中にはそれで苦しんでいる人たちもいるのだろう。気が変わって別のことをやり始める人もいるわけだ。高望みしてはいけない。最低限だめにならなければいいわけだ。信じているのはそんなことか。そんなふうに状況を感じ取っているのだろう。もう何もない。それは違うだろうか。たわいない水準で語るとすればそうなるのではないか。立ち直れないのだろうか。何から立ち直るつもりもない。すべてが分散している状況は変わりない。思い描くのは空想の世界だ。意識の中で何かが決壊して、止めどなく溢れ出る。興味がないらしい。また一から出直しになるしかない。緊張の糸が切れるとはそういうことなのだろうか。

 思っていたよりここは広い空間だったのではないか。ともかく粘り強く語らなければならない。でもそれを読み返してみれば意味不明になる。どうにもならないのはそういうことらしい。何を諌めようと、そんなことはおかまいなしだ。そこで重くのしかかってくるのは他人の才能だろうか。そう感じられてしまうのだから、そういうことにしかならないのかもしれず、やはりそれに関して大したことは述べられないのだ。始めからそういうことではなかったわけだ。その時点で気づいていたはずだが、やはりそれを無視して何かを語ろうとして、何となくそれは違うと気づく。結局元の木阿弥だ。ならばはじめから語らなければよかったのではないか。でもそういうわけにもいかないのだろう。語っている途中で気づくしかない。要するに語ってみなければ気づかないわけで、それは語る前から気づいていたこととは若干ずれている。そのわずかなずれが重要なのではないか。それによって少しは何かを理解したような気になるわけだ。でもそれは真の理解ではないのだろう。真の理解に至るには、それに気づいてからも語り続ける必要があるのではないか。そして取り返しのつかない段階に至らないと、真の理解には到達できないわけか。それも嘘っぽいような気もする。まだそこまでたどり着いてこともないのに、いい加減な憶測でそんなことを述べているだけではないのか。

 逡巡し始めたらきりがない。迷っているうちに終わってしまいそうだ。でも迷わないようにはならない。ただ迷う。迷う原因もわからずに迷う。そしてそれを批判することしかできない。出来事が遠すぎるのかもしれない。それを体験し得ないのだろうか。身近に接している物事にリアリティを感じられない。今はそれでかまわないわけか。いつまでもそうなってしまえばしめたものか。たぶん後からとんでもない報いを受けるのではないか。だから今ここで努力しなければならないわけか。笑っていてはだめのようだ。真に受けていない。わざとそうなのだろう。それ以上に語れないわけだ。どうやら亡霊も退散したようだし、肩の荷が軽くなったような気がする。きっと気のせいだろう。見晴らしのいい高台から眺めているのだろうか。でも眺めている対象は語れない。眺めるのと語るのとはわけが違うらしい。わけとは何だろう。ただ書物を読んでいるだけなのだろうか。文字を記すのがそれほど苦痛なのだろうか。それを読めるのだから、まだ理解する可能性があるのではないか。現に理解しがたい状況ではない。読んで理解したつもりになり、それに関して語っているつもりにもなっているのではないか。つもりではなく、現に語っているはずか。君はこうして語り続けている。架空の世界でか。それは違うだろう。本当は現実の世界なのだ。本当でなくてもそうだ。何もない現状からそれを求めているのではないか。何を求めているのか。架空の世界か。たぶんそこで嘘になってしまうのだろう。

 平和な地域に暮らしながら、紛争地域のニュースを見ているだけだ。やがてこちらもそうではなくなるのだろうか。そんなことはそうなってみないことにはわからない。彼らとは美的感覚が違うのではないか。美学の領域ではなく、現実の経済問題なのではないか。紛争に必要なのは武器よりもカネだ。戦う以前に金儲けが必要なのではないか。儲からなければ武器も買えない。そんな経済的な事情がその地域での力の優劣を決めているわけか。たぶん誰かが支援しなければ武装闘争も成り立たない。それがオイルマネーなのだろうか。しかしオイルマネーの恩恵に与っているのはアラブの王族で、民衆の敵なわけだ。そこに矛盾があるわけだ。でも金儲けがうまくいけば戦う必要もないのだろう。儲かっていないから戦うのであって、貧困がテロリストを育てているのではないか。でもその地域が貧しくなるように仕向けているのが、当のイスラエルなのだから、いくら軍事力で圧倒しても、ガザ地区を経済的に豊かにしないかぎりは、またそこからテロリストが生まれてくる。それらの戦闘員をテロリスト呼ばわりするなら、それを招いているのは、そう呼んでいる彼ら自身なのだから、そこにどうにもならない現状があるわけだ。ナチスのようにホロコーストでパレスチナ人を皆殺しにしないかぎりは、彼らの論理では問題の最終解決はないだろう。でも先例があるから今さらそれをおおっぴらにやるわけにもいかず、それとは別の論理での解決も望まないのだろうから、今まで通りに定期的に空爆して地上戦で蹂躙し、害虫駆除みたいな行為を延々と繰り返すしかないわけだ。しかし別の論理での解決とは何か。イスラエルが滅ぶことか。共存共栄があり得ないのだとしたら、そうなるしかない。結局それが異教徒や異民族を排除した上に成り立つ国民国家の宿命であり、状況的に滅びようがないのなら、これまで通りに定期的な害虫駆除をやっていくしかないだろう。しかもその駆除の対象が人間なのだから、イスラエルに暮らす人たちには嫌な思いが消えないだろうし、世界の人たちも人間を駆除し続けるイスラエルに共感することも同情することもないだろう。


7月20日「これはあなたの世界だ」

 何を反復させているわけでもないのだろうが、どうも繰り返し同じことを述べるわけにはいかないらしい。ただそう思ってしまうわけだが、記憶違いというのではない。常識から外れて思っていることがあるのだろう。そう思いたい。思っているふりをしたいのか。それを考えたい。考えながら、そこから逸れていっているのではないか。逸れながら考えているのだろう。真夜中に目を覚ます。記憶にあるのはそんなところだ。記憶にないことを記すわけにはいかないらしい。またそんな嘘をついている。それを思い出すと都合が悪いわけがない。ただ思い出せない。思い出そうとしていない。それでも想像している。それとは何だろう。おかしくなっているのだろうか。何かの影響から逃れている。本当に逃れ去っているのだろうか。何から逃れ去っているのか。状況は元に戻りつつあるのか。それともそれは偽装に過ぎないのか。だがいつものはぐらかしでは物足りない。何かを求めていることに違いはないようだが、その対象がはっきりしない。定まっていないわけではないのだろうが、躊躇してしまう。何を特定するとしても、想像の域を出ないことだ。本当は何だかわからない。定まった内容にならない。何も構築できないのか。そうだとしても言葉を記している。降りてしまったのだろうか。どこから?詩的に語ろうとしているわけでもない。思考する手がかりがないようだ。そうは思わないだろうか。たぶんそこに心の内面が生じているのだろう。そしてきっかけをつかみそうになり、それを続けようとする。間違っているかもしれないのに、続けられるかぎりは続けようとする。どうあがいても無駄なのではないか。無駄ではないと思いたい。何かを語らなければならないと思うなら、すでに語っている最中なのではないか。肝心なことは語り損ねているのに、それでもかまわないわけだ。語る範囲が感性に収まりきらないのだろう。そこには何もないように思える。そんな水準でいくら語っても無駄なような気がするが、それ以外に語る材料はなさそうに思われる。語っている水準が間違っているのだろうか。間違っているとしても語っている現状がある。それをやめてもかまわないのだろうが、実際にやめていない。今はこの不可思議な感覚にこだわりたい。

 信じるということは誓うことか。そこでどんな誓いを立てたのか。君の背後にいる亡霊が何かを求めている。君は誰かの幻想を信じている。でも振り返ればそこには誰もいない。話になっていないようだ。話の内容が不完全なのだろう。不完全だからこそ、そこに付け込む隙がある。しかし何かが違う。単なる知識のひけらかしで、思考の奥行きが感じられない。そのまま話の表層と戯れていればいいのかもしれない。だが結論は何も出てこない。やはり何かが違うのだ。世に不条理な成り行きならいくらでもありそうだが、それと戯れているだけでかまわないのか。それらのどこに真実の言葉が刻まれているわけでもない。ただそれを試みている。語りながら得体の知れない何かを導き出そうとしている。そんなことの繰り返しが語りを形成する。もちろん中身はありふれた内容だ。結論などない。その解釈には果てしなく異議申し立てが続き、新たな解釈を披露したい輩が巨万といる。そんなはずがないと思いたいが、それが独自の解釈ではないことはわかっている。その後に何が控えているわけでもないのに、以下同文では不公平だろうか。それでは早く語った者勝ちではないのか。それが嫌ならさっさと語ってしまえばいい。それにしてもまだ誓いを立てていない。語るべきはそんなことではなく、具体的な事象についてだ。

 彼は何を知りすぎていたのだろう。物語では知りすぎていた男が謎の変死を遂げ、消されたのではないかと憶測を呼ぶ。そんな内容の小説でも読んでいるのか。読みながら記述を断念している。意識がその継続を認めないのだろうか。巧みに虚無の場所へと誘導されているわけではない。そこへ至ったところで、なお言葉があり、それを連ねて文章を構成しようとする。たとえそれに関する記述を断念していようと、まだ他の何かについて記述している現実がある。疲れていることは確かだが、それをやめるわけにはいかないらしい。何かに突き動かされているような感覚を覚えながら、それをやり遂げようとしているのか。果たして終わりまで行き着けるだろうか。行き着くように言葉を操作しているつもりになり、それを何とか早く終わらせようとしているのではないか。そして別の何かに取りかかりたい。それこそが本命だったのか。そのあやふやな何かに賭けているわけか。まだ思いだけが先走っているだけだ。具体的に何の計画があるわけでもなく、そんなことを誰かに打ち明けようとしていた矢先に、その誰かがこの世から突然いなくなってしまったわけか。そんな話なら興味があるだろうか。たぶんそうではないのだろう。

 これはあなたの世界だ。あなたとは誰なのか。夢を見ている。その程度のことでは驚かないだろう。誰かがそう告げている。夢で見た世界と現実の世界との接点を探しているらしい。それはこの世界のどこにあるのだろうか。探しているからまだ見つかっていないのだろう。なかなか見つからないからといって、フィクションをでっち上げるつもりはない。気長に探し続けた方がよさそうだ。探している間は気がまぎれる。何かそれが目的であるように思い込める。本当は違うのだろうが、時には偽りの目標も必要か。それが何かの方便には違いなく、それを求めているふうを装いながら、心に穿たれた空洞から目を背けていたい。そういうフィクションならアリだろうか。どうも本気に受け取るわけにはいかないらしい。探していたものはもう見つかったのではなかったか。今それを思い出して、何となく安心してしまったようで、気が抜けて、上の空でやる気を失い、失ったついでに記された文章を読み返し、何も内容がないことに唖然として、焦っているのではないか。こんなはずではなかったのか。他がどんなはずであろうと、避けては通れない状況に直面し、腑抜けた気分を立て直すことができないようだ。不意に湧いては弾ける幻影が、君の夢の中で君に向かって語りかける。これはあなたの世界だ。繰り返し語られるのはそんな言葉でしかなく、他に何もない。ふと荒野の風景を思い浮かべるが、それとこれとは無関係なのだろう。他の何と関係しているわけでもなく、夢から覚めても、それが何を意図していたのかわからないのはもちろんのこと、幻影の言葉が何も意図していないはずがないとも思い込み、その隠された意図を知りたいのだが、知り得る手段など皆目見当がつかず、考えあぐねて途方に暮れ、夜明け前に再び眠りにつく。


7月19日「際限のない負の連鎖」

 解決の手段などありはしない。解決させるのではなく、納得させようとして納得させられない状況が延々と続いてゆく。それも手段の一つだろうか。現状を取り戻したいのか。しかし現状とは何なのだろう。見た通り感じた通りの世界だ。それが現状でないなら何なのか。フィクションの中には状況を操る黒幕がいる。それがいても不都合はないのだろう。現状を語っていることに変わりはない。そこに鍵を握る人物が現れたりするわけか。不信感が増大してゆけばいいのかもしれない。誰も現れはしない。このまま国同士の本格的な戦争になればおもしろそうだが、それは誰も望まぬところであり、たぶんそうはならない。誰もが状況が見えすぎている。秘密は世界のどこにもない。何も隠されていない。戦争ごっこを繰り返すイスラエルの人々でさえ、無駄なことをやっている現状に気づいている。何をやっても無駄なのだ。状況は何も変わらない。ただ閉塞状況を打開したように装うだけだ。国家の矛盾に気づいていながら、それをどうすることもできない。そんな現状の中で生きてゆくしかないだろう。国家のために何かやろうとする人々は、その矛盾の前に疲れるしかない。どうやってもうまくいかない。抗う人々を暴力で押さえ込んでも、それは限定的な行為となる他なく、そのすべてを押さえ込むことは不可能なのだ。いくら殺しても根絶することはできず、憎悪と絶望が広がるだけで、やがてそれをもたらした当事者に返ってくる。倍返しとなったらなおのこと悲惨な目に遭うだろう。やり過ぎると誰も助けてはくれない。庇護者からも見捨てられ、路頭に迷うだけだ。それらの行為に欠陥があることは一目瞭然なのに、その欠陥を改めるわけにはいかないのだから、もはやそういうことをやっている勢力が一掃されるのを待つしかないわけか。君はそのやり方を知っているのではないか。たぶん時間が解決してくれる。すべてがそうだ。でも人はそれを解決とはいわない。風化だろうか。自然の力には違いない。新たなバビロン捕囚が必要なのではないか。君は恐ろしい未来を思い描く。それを求めているのだろうか。部外者がそう思っても、当事者は無自覚だ。残虐な行為はいつの時代でも行われてきたはずだ。蛮行の報いなど忘れた頃にしかもたらされない。しかしそれをやればやるほど、その後に想像を絶する悲惨な結末が待ち受けているのではないか。それは物語の結末だ。現実はそうではない。ではやった者勝ちなのか。勝ったところでどうするのか。勝てば勝ったら後が大変だ。そこに際限があるのだろう。限りがあり、その先がない。それでも勝ち続けたいのか。負けるよりはマシだろうか。たぶんそんな現状に逆らって負けてしまった方がいい場合もあるのではないか。しかし負けられないのだろうし、作戦を実行しているつもりなのだ。祖国を守るためにはある程度の犠牲はやむをえない。

 ものは捉えようで、負の連鎖でも正の連鎖でも、そんな連鎖を断ち切るためにやっていることが、新たな連鎖を呼び起こし、その連鎖の継続によって、人類史に新たな歴史が刻まれるわけか。でもそれがどうしたわけでもないのだろう。人類史などという物語がどこで顧みられることもなく、何を示しているわけでもなく、宇宙の歴史のある瞬間の微視的な一部分を顕微鏡的に覗き込んだまでのことで、何の意味もないことだろう。ただ損得勘定こそが人を狂わせ、誤った方向へと導くかもしれないが、道を誤ったところで、それに気づいて引き返そうとしても、引き返す場所などありはしない。誤ったままその先へと進むしかなく、時間を後戻りすることはできない。人は簡単に死に、その死はすぐに忘れ去られ、かつて大量に殺された記憶をどこかに刻み付けようとしても、そんな痕跡など無視すればいいわけだ。実際に多くの人々が忘れようとしているのではないか。イスラエルの人々は新たに殺すことで忘れようとする。たぶんあの地域で行われていることが人類史の縮図なのだろう。たぶんすでに勝敗は決しているのだ。世界は資本主義の一人勝ち状態で、国家やゲリラ組織が互いを攻撃し合いながら、その事実を覆い隠そうとしている。何とかそれだけではないと主張しなければならない。そうしないと自らの存在基盤が掘り崩され、やがて人々から忘れ去られてしまうだろう。官僚機構の暴力装置を発動させて、税を取り立て、その税で何かやっているように見せかけなければならず、何やら国民のためになるようなことをやっているふりをしなければならない。そうしないと国家の存在そのものが疑われてしまう。そのための戦いであり、それによって自国民を殺してしまっては元も子もないか。そのためには何とか被害を最小限度に食い止めながら、作戦を遂行しなければならない。でもそんなことにかまけているうちに、何かが足下に忍び寄っていることに気づかないわけだ。その忍び寄っている何かとは何だろう。それは気づく必要のない何かなのかもしれず、実際に誰もそのことに気づいてないわけか。

 何やら債務不履行でアルゼンチンはデフォルト覚悟のようだが、地域通貨のトルエケがあるから、デフォルトしても大丈夫なのだろうか。日本も近い将来デフォルトしたら、また地域通貨運動が活発になってくるのだろうか。それが国家が弱体化する契機になるとしたら、結構有力な手段となるかもしれず、アベノミクスも捨てた物ではないのかもしれない。国土強靭化計画が却って国家を弱体化させるものだとすれば、まさに願ったり叶ったりではないのか。どうせ公共事業で借金が増えるだけだろう。株価の買い支えもいつまでもつのだろうか。それもニューヨークの相場がいつまでもつかにかかっているのだろう。青天井でこのまま際限なく値上がりしたりするわけか。そうなったらなったで、何かがおかしくなるだろう。もはや人類全体で株価を買い支えるようになったら、それこそ狂気の沙汰だ。そうなったら各国の中央銀行が発行する通貨は、もはや資金運用専門でしか使われず、生活必需品は地域通貨で買うしかなくなってしまうか。そんなギャグのような展開になってしまうわけもないだろうが、そんな状況を空想すると愉快になってくる。もしかしたら地域通貨さえ要らないのかもしれない。そうしないと人がいなくなってしまうから、生活必需品だけ誰もが買えるような低価格にするしかなくなり、資金運用するための株だの債券だのは、ごく一部の金持ち階級か金融機関しか買えない代物になってくるのではないか。今でさえそうだろう。結局高価なものは極端に高く、ありふれたものは極端に安くなるだけのような気がする。そうしないと誰も物を買えなくなって、資本主義そのものが破綻してしまう。しかしそれで経済がもつのか。たぶんもたせるようにするのではないか。現状でもっているのだから、それの延長上に未来の経済があるのではないか。それが国家経済なのか世界経済なのか知らないが、そのどちらもなくなっていたらおもしろいか。おもしろいでは済まないか。何事も一筋縄ではいかず、どうせこんがらがった成り行きになってしまうのであり、今でさえそうだ。


7月18日「百億の昼と千億の夜」

 おごれる者は久しからず、というわけでもないのだろうが、長続きすればおごり高ぶってしまうのも仕方のないことだ。たぶん何かがそうさせているのだろう。何もそうさせていないわけではない。負けることに居直っていてはだめだろうか。たぶんそんな人たちが大勢いるのだろう。しかし勝ち負けを拒否できないのなら、負け続けていることに居直るしかないか。それでも実際に生き続けているわけで、別に勝たなくてもいいことになってしまう。それが現状に対する甘えだとしても、そういう甘い現状があるのだから、そんな幸福な社会に暮らしていることになるのだろうか。日本共産党や雑誌の週刊金曜日などが存続していることが、そういう状況を物語っているのかもしれない。だが何も勝つ必要がないということは、必ずしも優勝劣敗ではなく、自然の棲み分けができているということだろうか。でも何が優れていて、何が劣っているかなんて、その基準は曖昧で、別に優れていなくても残るだろうし、劣っていなくても消え去るだろうし、優劣と勝敗は違った概念で、違った概念を結びつけて新たな概念として優勝劣敗が生じているだけで、そういう概念自体もそれほど現状を反映しているわけではないということか。またまた残っているものが優れていたり、勝ち残っていたりしているように思われるだけで、それは結果と原因を取り違えているわけで、結果から原因を推測しているに過ぎず、確かなことはわからない。そして現にこうして残っている事実を正当化するとすれば、自らが優れていたり、優れているから勝ち残れたのだと思い込んでしまうのも無理はない。どうしてもただの偶然の巡り合わせだけでは説明のつかないことであり、それだけで説明してしまうと、自己否定することになってしまい、そんな自己が現にここにこうして存在していると思っているのだから、それはあり得ないことだ。今までにやってきたことが無意味で無駄なことだとは思えない。そこに人の意識や思考の限界があるのかもしれないが、その限界を打ち破るわけにはいかないらしい。その限界を受け止めるしかない。その限界を超えて何かやろうとすれば必ずうまくいかなくなってしまうか。現にそうなってしまった人たちも大勢いるのかもしれない。例えば優れた者ほど早く滅び去る運命であり、劣った者ほどやっていることが長続きするのだとすれば、それに当てはまる事例も結構あるのではないか。天才夭折神話など数知れずなのではないか。それとは反対に世論の多数意見に迎合する凡庸な人などは、そういった世の中が長続きすればするほど、その人も生き長らえる可能性があるのかもしれない。だから自己正当化の感情から出てきた優勝劣敗の論理ほどあてにならないものはないということか。

 自らの運命を切り拓こうとすることはできる。運命に逆らうこともできるのではないか。しかしその結果がどう転ぶかはわからない。何かに逆らい続けることにその一生を費やした人もいるのではないか。その何かと何なのか。岐路に立っていると思い込んでもかまわないのだろうか。そう思いたければ思うしかない。だがそれに逆らってみてもかまわないのだろう。結果がどうなろうと誰の知ったことではないし、自分の知ったことでもなく、たぶんうまくいかなくなってしまい、後悔してしまうのかもしれないが、それでもかまわない。そんなふうに語ることからその人の内面が生じ、それを記すことから苦悩が始まる。それだけのことではないのか。だけではないと思いたい。いつもそれ以上を期待しているようで、それを超える何かが起こってほしい。そんなことを妄想するだけで、それだけではないと思いたいのだろう。たぶんそこで停滞してしまうのだ。やはりそこに限界があり、それ以上は語れなくなってしまう。語るのではなく、実際に行う羽目に陥り、そんな行為から身の破滅を導いてしまうわけだ。運動を展開する人々は過激にならざるを得ず、周りがついてゆけなくなってしまう。過激派は孤立し、テロに訴えかけるしか道が残されてない。そこでも話が飛躍しているようだ。物事の大半はそうはならないだろう。限界の内にとどまるということだ。分相応にわきまえ、逸脱するような自由への道はあらかじめ断たれている。束縛によって継続を図ろうとするのだろうし、何に束縛されているのかといえば、社会の慣習に絡めとられているわけだ。そんな社会との紐帯を断ち切るような機会がそうそう巡ってくるものでもない。それどころかそれにしがみついていないと生きてはいけないのではないか。多くの人々がそうであり、何かのきっかけでそれが切れてしまった人は悲惨な末路を辿り、孤独死したまま放置されたりして、見物人のいないただの乾涸びたオブジェと化す。それはある意味見せしめとしての効果があるのだろうか。そうなりたくなければ必死でしがみついていろという警告か。そんな脅しに屈するわけにはいかないと強がれば、それ相応の仕打ちが待ち構えているのかもしれず、それに抗って戦い続けなければならないのか。しかし抽象的な物言いだ。それでは具体的に何をやればいいのかわからない。たぶん文章ではそれを示せないのではないか。ではどうやって示せばいいのか。何かやればいいわけで、そのやり方を間違えばテロとなってしまう。何をやるかその対象はいつも空っぽのままで、その場その場で各個人の実践にまかされており、何をやってもかまわないのと同時に、何をやっても失敗に終わる可能性があり、いくらやってもうまくいかないのかもしれない。たまたまうまくいけばすぐさま社会に取り入れられ、多くの人たちの賛同を得て、それが新たな社会の制度と化し、今度はその制度に逆らう者たちを弾圧する側となって、それにしがみついていないと生きてゆけなくなってしまうわけだ。資本主義を代表する株式会社などその良い例だろうか。国家のようにあからさまな弾圧はしないが、同意を強要するのだろう。強要はしないが、個人が同意せざるを得ない状況に追い込まれてしまうのではないか。そんなわけでだんだんやり方が巧妙になってくる。そうなった時点で、社会が規律訓練社会から管理制御社会へと進化したといえるだろうか。このままの進化が続けば、終いには同意さえ必要とされず、しかも逆らうことさえできない社会が到来したりするわけか。それがキリスト教の終末論でいう「神の国」であったり、プラトニズムでいう「イデアの世界」となるわけか。仏教でも末法の世の後に弥勒菩薩が現れ、「弥勒の世」を実現するとされるのではないか。何やらSFの『百億の昼と千億の夜』が思い出されてしまうが、たぶん今のところは空想でしかないのだろう。


7月17日「まやかしの現実」

 君は何に取り憑かれているのか。悪霊か何かだろうか。そう思えば愉快な気分になれるだろうか。違う。愉快とかそういう問題ではないだろう。ただそこに気分が漂っているように思える。そんな気がするだけだ。それ以外に何か取り逃がしているような気もするが、気分には逆らえない。その場の気分に流されている。それだけか。それだけではないのだろうが、今はそれだけと思いたい。思いたいだけで、実際に思っているのは、それとは違うのかもしれない。悪夢を見ているのだろうか。悪霊の次は悪夢か。ひらめくことが似ているだけのようだ。ひらめくこと以外に記すことが思い浮かばず、思い浮かべることとひらめくことの違いもわからない。どうも何かに取り憑かれているのではなく、何かを取り逃がしているのではないか。そんな疑念を払拭できず、また考え込んでしまう。いくら考えても何も出てこないか。何かが邪魔をしているわけか。またそう思い込んで、別の何かをもたらそうとしているのか。やはりただの気分だ。思考に到達することのない気分が醸し出されている。そんなはずがないだろうか。それでかまわないのではないか。本当は何も見えていない。言葉の空疎な響きが現状を照らし出す。照らし出しているのはただの日差しではないのか。あるいは蛍光灯の灯りか。虚しく響き渡っているのは、音でしかない。機会音と自然の音が混ざり合い、空気の振動となって耳に届く。音楽でも聴いているのだろうか。聴いているのは誰かの演奏かもしれない。たわいない現象だ。気にもとめないことでしかない。感覚が正常に反応している。幻影を見ているわけではなく、ただの映像と周囲の風景が融合しているわけでもない。見慣れた風景の中で何が思考の対象となっているわけでもなく、気分の外側で騒音が空気と戯れる。そんなふうに感じられる。たぶんそれは即興の思いつきから導き出された何かなのだろうが、すぐに空気に溶け込んで、認識のとしては言葉にまとまらず、そのまま取り逃がしてしまう。たぶんそれでかまわない。もとから思うところは何もないのだから、得るものは何もなくてもかまわない。

 得られるものが何もないとすれば、またそこから遠ざかってしまうわけか。いったい何から逃げているのか。具体的な事物から逃れて空想と戯れる。そんな単純なことではないらしい。単純な現象に逃げてもいい。君の考え次第だ。何かに反対したいのか。原発再稼働に反対したいのか。それとも憲法改正に反対したいのか。あるいはイスラエルのガザ空爆に反対したいのか。でも逃げられないとしたらどうだろう。逃げられないような状況に直面しているのだろうか。空疎な現実から逃れられず、逃れようとしてもまとわりついてくる日常から逃げられない。しかし戸惑うことはない。すべてはいつも通りで、何の変哲もない。すでにその手の単純な現象から意識が逃れている。エアコンが夏の熱気を和らげ、使えば使うほど電気料金を値上げする口実となり、原発を再稼働させようとするのだろう。そういう論理で押し切ろうとする。論理でも何でもないのではないか。要するに雰囲気が問題なのであり、再稼働に向けて、そういう空気を造りだすことが肝心なのかもしれない。つまらないこじつけなのかもしれないが、御用メディアを駆使すれば、そういう世論を造りだすことが可能なのか。では憲法改正には何が必要なのか。韓国や中国による反日圧力が欠かせないか。それもつまらない口実だろうか。ではイスラエルのガザ空爆はどうなのか。発端と見られるイスラエルの少年3人が殺害された事件で、事件の捜査はどうなっているのか。何か進展があったのだろうか。しかしなぜそこからガザ地区空爆へと至るのだろうか。もうすでに空爆で200人近くが死んでいるそうだ。もはや口実とかそういう問題の次元を超えている。それでも事態を放置するわけか。停戦の呼びかけはされているのだろうが、それが口実なら何でもありか。要するにやりたいことがまずあり、何でもいいからそれをやる口実を見つけてきて、それにこじつければいいわけだ。そして実際にそれをやっている現実がある。そういうごり押しがまかり通る世の中でかまわないのか。それは昔からそうで、これからも変わらないのかもしれず、そんなことにいちいち目くじらをたてているようでは、身がもたないか。たぶんそれだけではないと思いたいのだろう。

 たぶんそれ以上の何かを求めているのであり、ごり押しをさせないような状況に持っていきたいのだろうが、食い止める手だてが見当たらず、人々はそんな成り行きに翻弄されるばかりなのかもしれない。たぶんできることはそれとは別の方面にあるのだろう。それがわかっていながら、そこへ向かう一歩が踏み出せず、躊躇しながら現状にとどまっているわけだ。怠惰なのか。それとも機会が巡ってくるのを待っているのだろうか。でもそこから先は空想の世界だ。現実とは関係がない。今のところはそうだが、現実を空想に近づけることが可能なのではないか。それも昔から多くの人たちがやってきたことだ。それは発明とかそういうことだろうか。例えばそこから原子爆弾が造られたのではないか。話があちこちに飛びすぎている。それも空想だから仕方のないことか。では空想以外に何があるのか。現実から目を背けているわけではない。たぶんそうだ。もっと身近な現実から何かをやろうとしているのではないか。実際にそこで悪戦苦闘の最中なのかもしれず、そんな現状にかかりきりで、世間の話題にまで気が回らないらしい。その手前で乗り越えなければならないことがある。そういうことでしかなく、メディアからもたらされるニュースにも、大して気にならなくなっているのではないか。少なくとも感情移入の対象ではないが、世の不条理に対して、何かコメントしなければならないのか。すでにしているのではないか。でもそれは不条理に思えるだけで、そんな不条理の前提となっている常識が、今や現実に適合していないのかもしれない。それを理不尽な行為だと感じてしまうことが、もはや認識が現実からズレている証拠でしかないのかもしれない。その渦中にいる当事者からすれば、平和ボケの部外者によるたわ言としか感じられないのではないか。そのどちらに分があるとしても、現実にそんなことが起こっているわけだから、それを真摯に受け止めて、コメントしたければすればいいだけのことでしかなさそうだ。


7月16日「亡霊に取り憑かれた人々」

 しかしそれが何になるというのか。そこで何かを解明しようとしている。ともかくそういうことだろう。何を擁護しようというのでもないが、人は価値ある物を造りだそうとするらしい。独りよがりにそう考えているようで、そこに宗教の落とし穴が待ち受けているわけか。意識が意識として感じられないようになったら、神経の自動制御機構に意識を委ねていることになるのだろうか。そんなご大層なものが頭のどこに備わっているのか。そう感じるだけで、具体的には何を想像しているわけでもないのではないか。そこに精神があるわけでもない。それに気づかないだけのようだ。だから否定せざるを得ない。何があるようにも思えず、何もなくてもかまわないようにも思えてくる。未だに亡霊に取り憑かれている人もいるらしいが、どうしても現実を受け入れがたいのだろう。しかし現実とは何なのか。その人が思い込んでいる現実が現実なのだろうか。誰かが亡霊に取り憑かれていることに気づかない現実を、君が忘れようとしているわけか。亡霊とは何か。誰かとは誰なのか。当てはまるものならいくらでもありそうだ。取り憑かれている人は、何かと戦っているらしい。例えばこの世界のどこかに、反日勢力というレッテルを貼られた人たちがいて、それらの人たちと日々戦っている最中なのだろうか。きっとそう思い込んでいるのだろう。実態としてはそう思い込んでいる人たちが、逆に反日勢力に操られているのだろうが、では反日勢力とはどんな人たちのことを指すのかといえば、その人たちが名指ししている対象とは違う何かが、どこかで陰謀を巡らせながら地下世界でうごめいているわけか。誇大妄想にも程があるだろうか。それらの大部分はフィクションなのかもしれない。亡霊は誰の背後にいるのでもなく、誰かがそれを先験的に見出そうとしている当の精神とやらが、亡霊そのものなのではないか。要するに反日勢力と戦っている思い込んでいることが、仮想敵としての反日勢力を必要としていて、本当はそんな戦い自体がフィクションに過ぎないのに、それを虚構として片付けてしまったら、今実際にやっていることが無意味な行為となってしまい、そこで精神の崩壊と直面せざるを得ない。だから何かに取り憑かれたように、必死にネット上で情報発信を行っている。そんなことをやっていること自体が、すでに亡霊に取り憑かれているわけで、現状ではそんな現実に気づきようがないのではないか。

 戯れ事に過ぎない。娯楽のたぐいなのかもしれない。気晴らしでそんなことをやっている。亡霊に取り憑かれていた方が楽しいこともある。妄想と戯れること自体が娯楽なのだ。必死になって何かをやっていると思い込むことも、何らかのカタルシスをもたらし、それが娯楽の醍醐味なのかもしれない。その日々戦っている感覚が、あたかもそんな自らを正義の戦士になぞらえ、愛する祖国を滅ぼそうとする悪漢たちをやっつけている最中だとでも思わせるのだろうか。だが本当は何でもない。本当の現実などどこにもありはしない。ただそれが本当の現実だと思い込んでいる。別にそれが本当でなくてもかまわないわけだ。本当の敵などもいるはずがなく、どこにもいない敵と戦っているつもりなのでもなく、敵を敵と感じられない現実を見ようとしていないだけかもしれない。ただそこでは終わりのない消耗戦が繰り広げられているわけだ。仮想敵はいつまで経っても仮想敵のままで、仮想敵の他に敵などいるはずもなく、何と戦っているのかもわからぬまま、背後に口を開けている虚無から目を背けながらも、ただそれを仮想敵だと思い込むしかない。そんな思い込みが、行為の必死さを演じさせ、演じている自らを奮い立たせ、演じているのではなく、実際に何かをやっているのだと思わせる。それが独りよがりのなせる業なのか。そしていつの間にか娯楽を娯楽と感じられなくなり、本気になっている自分を頼もしく思えてくるわけだ。これこそ生き甲斐だと感じさせる行為なのか。しかしこれとは何なのか。戯れ事に過ぎない。背後の虚無がさりげなくそれを指摘してくれるが、聞く耳を持たず、ますますのめり込み、のめり込んでいく自らを愛おしく思う。その成り行きは際限のない負のスパイラルを構成しているのかもしれないが、いったんそうなってしまえば目覚めることなどあり得ないだろう。永眠するまでそのまま続いてゆくのかもしれない。実際にそのまま永眠してしまった人はいくらでもいて、その人たちは自らが大義に殉じて死んでゆくことを誇りに思っていたはずだ。そんな物語に取り憑かれているだけでも幸せな人たちなのかもしれない。死んで英霊として後継者たちに祀られ、いつしかそれが伝統芸能として語り継がれる日のことを思うと、もうやめたくてもやめられなくなってしまうのだろうか。別にそんな現象を皮肉に感じることはない。何かの繰り返しだと思ってしまっては罰当たりか。実際何の繰り返しだと思えるのか。すでに気づいているのかもしれないが、それは亡霊たちに聞いてみないことには確証をもてないか。

 なるほど気づくことは多々あり、それについて語るのはやぶさかでないが、わざともったいつけることもないだろう。何に振り回されているかは、当人がわかり過ぎるくらいにわかっているはずだ。君もそのことで苦労が絶えない。行き着く先に待ち受けているのは徒労感だけか。地面をいくら掘り進んでも他者に出会うことはない。他者に出会うとはどんなことなのか。それによって何がもたらされるのだろうか。たぶん内心あきらめさせてほしいと思っているのではないか。時代から取り残されてしまうような気がして、危機感を募らせているのかもしれない。しかし時代はどこへ向かっているのだろうか。亡霊は取り憑いた者を引き止めることはできるかもしれないが、すべてを引き止めることはできない。だから亡霊に取り憑かれた人々は取り残されてしまう。世界はそんな時代遅れの人々などにかまってはくれず、どんどん先へと進んでしまうのだろうし、時代を引き止めようとする人々に、過酷な仕打ちを仕掛けてくるのかもしれない。過酷な仕打ちとは何なのか。何かしら弾圧のような運命が待ち受けているわけか。そうではなく、要するにほったらかしにされてしまうということだろうか。それの何が過酷な仕打ちなのか。そうとは感じられないところが、そこから抜け出せない宿命を暗示させるのであり、置いてきぼりにされて二度と顧みられないとすれば、それが何を意味するわけでもなく、ただの塵や芥の存在であることを自覚できなくなるだけだ。しかし世の中にそれ以上の存在があるだろうか。そんな存在でしかないことは、それはそれでそういう存在にとっては本望なのだろうか。だからこそ勝手気ままにやっていられる。無意識がそういう認識にとらわれ、意識をそういう存在として制御するわけだ。そのようにして制御を施された人たちは、次第に周りの風景に溶け込んでゆき、何かの背景の一部と化す運命にあり、何かとは世間といわれる社会の一断面のことか。果たしてそれ以上の存在があるだろうか。存在ではなく、自意識の不在なのではないか。背景の中に人の意識はなく、あるのはそのような背景化に逆らう場合だけだ。人は抵抗することでしか自意識をもち得ず、世の風潮に抗うことによって、かろうじて自らの存在を意識できる。抗うことなく同調したままでいると、いつしか世間の一部として、そんな世間について語る言説の中で、その他大勢として扱われ、世論調査の円グラフにはめ込まれてしまうのだろう。それ以上の存在ではないということだ。しかしそれ以上の存在があるだろうか。自身が脚光を浴びている幻想を抱かないかぎりはあり得ないことか。でもそう思うこと自体が何かの亡霊に取り憑かれている兆候なのではないか。


7月15日「抵抗運動」

 自分とは異質なものを受け入れようとするとき、そこに摩擦が生じる。抵抗感を覚え苦痛がもたらされる。逆に自分とは異質なものを排除しようとするとき、そこに快感が生じる。攻撃本能が満たされ、排除に成功すれば達成感が得られる。そして何か大切なものを守り抜いたことを誇りに思う。そこに自我が生じるのかもしれない。でも実際はそんな単純な成り行きにはなりがたく、自らも他者も敵対する他の誰かも、それらが関係することで得られるものは、誰の手にも余るものだろう。そこに豊かさがあるとすれば、それらすべてを犠牲とした上に構成される豊かさだ。一概には何も言えないのかもしれず、そこでは様々な事象が絡み合って、思いがけない何かを産出している。しかもその産出された何かは、誰のものでもない。誰もそこから利益を引き出せず、逆に生気を吸い取られ、消耗して疲れ果ててしまい、何もやる気がなくなり、すべてが投げやりになってくる。ともかく長居は禁物で、さっさとそこから退散しなければ、心身ともにとらわれの身となってしまう。もう十分だろう。つかの間の気分を味わっただけだ。何もかもをそこから解き放って自由になりたい。その時点で思いがけない事態に遭遇しているわけだ。事件に巻き込まれている。でも気づいた時にはもう遅い。それらのでたらめな相互作用が君に有利に働くことはないのだろうか。うまく立ち回って、それらの出来事を味方につけなければ、その難局を切り抜けられないだろうか。何がどう作用して、君を苦しめているのだろうか。そんなはずがない。きっと夢でも見ているのだ。またいつもの現実逃避でごまかそうとしているのか。それが現実の作用だとすると、言葉でごまかせるわけがなく、すでにある程度は損害を被っているのではないか。身に覚えのない濡れ衣でも着せられているわけか。本当にそうなっているとしたらおもしろい。それを利用して、こんがらがってしまった事態を解きほぐして、何とか現場を正常化させたい。それは現実にそうなっているとしたらの話だ。君の出る幕はない。そう思っておいて差し支えなさそうだ。結局何の話にもなっていない。そういうことにしておいて、逃げ切りたいのだろうか。何から逃げようとしているのか。それがわかってしまったら話は終わりか。そうまでして言葉を連ねる気にはなれない。

 時が去ってしまったようだ。時間がない。そんな気にさせられるほど、すべてから遠ざかる。現実と虚構がごちゃごちゃになってしまい、そこから導き出される複数の出来事が互いに矛盾し合って、正しい話の筋を取り出せなくなる。あまりにも遠すぎて力が及ばなくなってしまったらしい。そんなはずがないか。ならば少し話を現状に近づけなければならない。そこでは具体的に何が起こっているのか。錯綜する情報を整理して、話の筋道をつける必要がありそうだ。異質なものを受け入れる度量が人には欠けていて、それを無理矢理受け入れさせると、何かが起こるわけだ。そこに神が降臨するわけか。しかしキリスト教の本質とは何なのか。キリスト教はヨーロッパで誕生したわけではなく、ヨーロッパにとっては外来宗教なのに、ヨーロッパ人はそれを当然のこととして受け入れたわけだ。彼らは生まれたときから自分がキリスト教徒だと思っている。受け入れたのは遥か昔のことで、受け入れてからすでに千数百年が経っているので、異質なものを受け入れた時に生じた抵抗感や苦痛などは、もはや忘れ去られているのだろう。キリスト教がユダヤ教の一宗派に過ぎないことも忘れられている。むしろその事実は積極的に否定されなければならない。彼らはユダヤよりはギリシアにその精神の起源を求めようとしていて、実際にプラトン由来のプラトニズムから少なからず影響を受けている。キリスト教でいう最後の審判の後にもたらされる「神の国」は、プラトニズムでいう「イデアの世界」だろうか。またそれはマルクス主義でいう階級闘争の後にもたらされる「共産主義社会」となるのか。そしてさらに柄谷行人がいう「来るべき社会〈交換様式D〉」までがそれに含まれてしまうのか。たぶん彼らは来たるべき社会の実現を目指しているのだろう。そこに彼らのユートピア願望が反映されている。しかし天国を空想するばかりではだめで、実際に資本主義によるグローバリゼーションがもたらす、自然環境の破壊や経済的な貧富の格差から生じる社会や家族などの崩壊の弊害を取り除こうとして、何やらそれに対する抵抗運動を展開しつつ、その解決方法などを模索している最中なのだろうか。


7月14日「抵抗の戦術と戦略」

 宗教は人の心をとらえてやまない。安易に救われようとするからか。困難に直面しているのではないか。人の社会生活が宗教をもたらすのか。心の拠り所を得ようとする。すがりたいわけか。それだけのことではないか。他に何があるというのか。何があったとしても、宗教は滅びない。人がいる限り、そこに宗教がある。人がいる限り、物の売り買いがあるのと同じことだろうか。それが自然の流れだとすれば、押しとどめることはできない。押しとどめられなくても、逆らうことはできるはずだ。現に逆らっているのではないか。たぶん人がいる限り、宗教に対する抵抗運動もやむことはない。逆らう人々によって現状が変革される。そう思いたいらしいが、現実は甘くない。しばしば逆らう人たちに対する弾圧が行われるわけだ。そして世の中のあらゆるレベルで覇権を巡る闘争がある。それらの闘争の行き着いた先に今がある。今が途中経過に過ぎず、さらに闘争が続けられ、これからも果てしなく続いてゆく。そんなふうに現状を捉えれば捉えられなくもない。嘘だろうか。どうでもいいようなことだ。その渦中の中で生きていればそうなる。自然に抗うようになるし、覇権を握ろうとする。その自然の成り行きをどうにかしたいのか。しかし話が抽象的だ。具体的に何をどうしたいのか。その辺のところが未だにはっきりせず、あやふやな物言いにとどまっている。それどころかすべてをやり過ごしてしまう傾向にある。あるがままの現実をあるがままに受け止めているだけだろうか。老荘思想にかぶれているのか。抗う気になれない。でもそれで実際に抗っているとしたらどうなのか。その気もないのに抗ってどうするのか。無意識のなせる業か。具体的に何に抗っているのだろうか。あやふやな何かか。何となく抗っているような気がするだけかもしれず、実際はどうかわからない。そこに具体的な行為がない限りは、抵抗していることにならないだろうか。程度にもよるのではないか。個人による抵抗には限界があるが、集団による抵抗運動は弾圧の対象だ。抵抗のやり方にも問題があるのではないか。紋切型のごり押しではなく、絶えず工夫を凝らさなければならないわけか。方法を模索しなければならない。それにも限度があるだろうが、実際に抵抗運動をやっている人たちは、それを試みているのかもしれない。君はどうなのだろう。そうありたいと思っていて、実際にそれをやっている最中なのだろう。それをはっきりさせないのも戦略の内か。

 わざとはぐらかそうとしているのもいつもの通りだ。手抜きだらけで何をやっているのかもわからない。堕落と混沌の中に誰かの魂が宿っている。でもそれは虚構なのだろう。言葉を散らして意味不明を漂わせ、それで自己満足を得ようとしているのか。実際にもたらされているのは、自己でも満足でもなく、落胆と焦燥になりそうだ。失敗してしまうのが自然な帰結だろう。失敗することに成功したわけではなく、ただ失敗している。そしてそのままにとどまり、そこで固まってしまうわけだ。そんなふりをしている姿を想像しているわけではない。そこに映し出されたのは誰の姿でもなく、誰の影でもない。戯れにそんなことを述べているだけかもしれず、述べていること自体が無意味な行為となり、そう述べながら現実をやり過ごそうとしているのか。抵抗への誘惑に抗っているのだろうか。それで抗い続けているつもりなのかもしれない。語ることで果たして抵抗していることになるのだろうか。語っている内容にもよるのだろう。それもはぐらかしのたぐいになってしまうかもしれず、どこからどこまでが本気なのかもはっきりさせないまま、しばらくはそんな状態が続いていってしまうのかもしれない。それが君のやり方か。定まったやり方ではなさそうだ。その場その場で絶えず違ったやり方を試しているつもりで、そのくせ実態としては、飽きもせず同じやり方に固執しているのかもしれず、結局は何かの一つ覚えとなっているわけか。自分では気づかないのだろう。状況的には浅さの領域にとどまっている。ただそう思っているわけで、本当のところはよくわからず、深みにはまっていることに気づいていないかもしれない。何か上っ面だけ捉えようとしているわけだが、意外と深いところまで届いているわけか。何について語っているわけでもないのに、そんなことを述べていること自体が、軽薄さの領域にいると思いたいが、そう思ったところで気休めにもなりはせず、精神的に深刻な鬱状態にでも至ってしまったら、取り返しがつかなくなってしまうか。そう述べてみたところで、本気と受け取られかねないとは思えず、冗談のたぐいとしてスルーしてほしいことでしかない。どうやら知らず知らずのうちにフィクションの領域に迷い込んでしまったようで、繰り出された言葉は自身に突き刺さってくることもなく、そのすべてを受け流して、後は知らんぷりを決め込んでもかまわないのかもしれず、記された言葉が残っているのに、他人事のように取り扱い、気がつけば自己の防御を固めている。それもはぐらかしには違いない。そんなやり方がまかり通ってしまうのは、やはりすべてがフィクションの中で繰り広げられている言説だからか。でも今さらリアリティを求めるのはおかしい。

 いったんニュースから遠ざかればこんなていたらくだ。それは偽装でも何でもなく、誰かの真の姿なのではないか。今までが偽装だったのだろうか。それもある意味で真の姿だったかもしれないが、その時々で気が変わり、その場の取り繕い方もその場の気分次第なのだろう。いい加減に意味不明なことを語っている方が気楽な反面、そればかりに流されてしまうと、本当にとりとめがなくなり、何を語っているのかわからなくなる。そうかといって世の中に出回っている話題に接近しすぎてしまうと、狭い範囲で独りよがりなことを述べてしまいそうだ。そういうメンタリティの人たちが寄り集まって大衆を構成する。それはメディアによる操作の対象となり、都合のいいように洗脳され、盲目的に流行現象の中で踊らされてしまうのか。そんなはずがない。そう思いたいだけで、すでにその手の罠に意識を絡めとられているはずだ。実際にツイッターだのフェイスブックだのユーチューブだので踊らされている現状がありそうだ。利用しているつもりが、逆に利用されていて、利用されていることを自覚できないまま、主体的にそれらのメディアを利用していると思い込んでいる。その積極的な情報発信を糧にされているわけだ。それでもかまわないのだろう。同じように利用していると思い込んでいる人たちと、ネット上でつながりたい。頻繁にたわいないコメント書き込んで、それに対する他人の反応に一喜一憂したい。たまには真剣に世の中の物事について考えているつもりが、そんな善意を操作するメディアに踊らされ、その宣伝文句を真に受け、同じ色に染め上げられ、いつの間にか他の人たちと思考も嗜好も同じとなり、気がつかないうちに同じようなことを主張し、その最大公約数的な意見に同調して、それと意見を異にする少数派を排除しようとしている。それでは世論調査によってご都合主義的な意見の集約を図ろうとするメディアの思うつぼなわけだ。思うつぼでもかまわないか。そう思わせておくことが肝心なのではないか。そうなることが自然な流れだと思わせておいた方がいい。誰が思っているのでもなく、そこに存在しているように感じられる集団的な意識が、そう思っているように見せかけておけばいいわけだ。それも流行り廃りの現象には違いなく、そういう現象とは意識的に距離を取りつつも、表面上はそれと戯れていればいいのかもしれない。大げさに抵抗の意思表示などしなくてもよく、素直にそれを肯定しておけばいい。否定する必要はなく、軽蔑したり小馬鹿にしなくても、廃れるときは自然に廃れてしまうのだから、流行っているうちにそれと戯れ、せいぜい楽しめばいいのではないか。それ以上を求める必要はなく、求めなくても向こうから何かしらもたらしてくれるだろうし、それを享受すればいい。いくらのめり込んでもたかが知れていて、たかが知れていると思い込んでいる程度でかまわないのだろう。それ以上を求める必要はなく、必死に求めなくても、たかが知れている程度のものはもたらしてくれるのだろう。それ以上を期待すべきではない。一握りのヘビーユーザーにはそれ以上の何かがもたらされるかも知れないが、その他大勢の人たちには、それなりのたわいのない何かがもたらされるだけだ。それでかまわない。


7月13日「意識と無意識の絡み合い」

 迷っているうちに言葉を記すきっかけをつかみ損ねている。そこに何があるというのか。何もなければすべては不在だ。空想も不在なのだろうか。ありふれたことを思い浮かべ、あり得ない未来の姿を導き出そうとしているのか。カフェインが体にしみ込み、脳が活性化され、きっと何か適当なことを思いつくのだろう。何もかもが不在なのではない。何かがそこにある。無理がある。少なくとも今は無理だ。そこから何かが生じていて、それをつかみかけている。そんな幻想にとらわれているようだ。沈まぬ太陽があろうか。詩的に語りたいわけでもないのに、それはないだろう。ないことを語ろうとする。きっとそれが無理なのだろう。気の迷いに過ぎない。あきらめずに言葉を記していれば、また何かを思い出す機会もあるだろう。これから何をするとしても、ほんの気休めであってほしい。物語の中では何もかもが上の空のような気がするが、それが何もかもではなく、何か特定の事柄を忘れようとしているのかもしれず、その忘れようとしても忘れられない心が鬱陶しく、面倒くさいので、頭から意識を引き離そうとしているのかもしれない。そうやってまた外れてしまうのだろうか。それとは別に密かに思い描いていることがある。どうせ実態が明かされることはないのだろうが、思い上がりの不意を突いて、無意識がそれを実行に移そうとしているのか。そんな気がしてならない。何かの狡知が作用しているとしたら、とんだ言葉の巡り合わせだ。運命に逆らうわけにはいかないらしい。そうなることを望んでいるのだろう。自意識がそれを求めているわけか。裏切られることを望んでいる。相変わらず思いがけない出来事に出会いたい。望んでいるのとは違う事態になることを望んでいる。それが無い物ねだりであることを承知しているのに、なぜか現状から遠ざかりたい。見据えているものが違っているのではないか。ものとは何なのか。何がものなのだろう。物を語るのが物語だ。そんな自己言及的な解釈でかまわないのか。物自体が他者なのかもしれないが、物はそれだけではない。あらゆるものが物なのだろう。たぶんその中に人も含まれる。人は人について語りたいのではないか。

 だが人の物語がおもしろかったりするのだろうか。君も人について語っているようだ。物語としてはありふれている。たとえ稚拙な語りだろうと、それを小馬鹿にするつもりはない。ただ興味がない。いつも途中で興味がなくなってしまう。うろたえているのだろうか。なぜその必要があるのか。すべては不要の要で、もがき苦しんでみないことには、何ももたらされないのかもしれない。すべてでなくてもかまわないのに、意識はすべてを求めようとする。欲張りなのだろうか。でも相変わらず何を欲しているのか気づかない。無意識が気づいているのだろうか。それは方便に決まっている。気づいてしまっては都合が悪いのではないか。それに気づかないまま、何かを成し遂げられたら愉快だろうか。何かとは何なのか。たぶんそれはこれからわかることだ。まだ頭の中の整理がついておらず、歯車が噛み合っていない段階なのだろう。それを語るには早すぎる。でもそれを捉えきらないうちに通り過ぎてしまい、つかみ取れないまま繰り出された言葉が空回りしてしまう場合もあり得るはずだ。そう述べて何をほのめかそうとしているのか。そのほのめかしも空手形に終わってしまいそうだ。君は何ももたらされない現状を楽しんでいる。そんなはずがないと誰かが反論を試みようとしても、それに逆らう術が見当たらない。それだけ後退しているわけだ。どこからどこまで後退しているのか、はっきりたことはわからないが、もとの地点を確認すれば、何か後退の原因をつかめるだろうか。いったい君はその初期と比べて、どこまで退いてしまったのか。

 君とは誰なのか。そもそも君にその初期状態があるとは思えない。いつまでも変わらないわけでもないのだろうが、その姿勢は常に一貫しているようにも感じられ、どこにその起源が記されているわけでもなく、始まりも終わりもないような途中の段階にとどまり続けているのではないか。葛藤というものがないのだろうか。それは良心でも悪意でもなく、たぶん平常心でもないのだろう。何でもないわけだ。それでは話になり得ないようだが、もしかしたら最初から後退していたのかもしれず、話にならない段階にとどまり続けているのではないか。未だにそれを語ろうとしない。語り得ないわけではなく、語る気がないのかも知れず、やはり語ってみても話にならないのだろうか。上の空のようだ。探しているのはそれではないらしい。では何を探しているのか。誰でもない君が何を探しているとも思えない。レトリックの一種だろうか。そういうことにしておかないと、先に進めないような気がするが、もう少し粘ってみた方がいいのかもしれない。そのつもりではないのだろう。面倒くさいのでやはり外れてしまう。妄想が勝ってしまい、理性の入り込む余地はなく、たとえ理性から妄想が生まれていようと、脇に押しやられ、心を覆い尽くし、記憶の中の出来事を食らい、さらに増殖する。何が架空なのだろうか。すべてが現実に起こったことだとは思えないが、自意識を打ち砕くには十分な材料が揃っているわけか。攻撃されたらひとたまりもなさそうなので、さっさとそこから退散することにしよう。自然とそこから退いてしまう原因がそこにあるらしい。そんなわけであくびとともに気分転換を図り、それとは別のことを考えようとしている。躓きの原因などを追及しても自己嫌悪に陥るだけか。せっかく立ち直りかけているのに、傷口に塩を塗るようなことばかりにかまけていると、いつまた発作が起こるとも限らず、その辺はいい加減なままでもかまわないのではないか。でもそれは架空の発作だろう。真夜中に隣近所で誰が大声でわめき散らしていようと、君には関係のないことだ。発作とはそういうものなのではないか。

 何事も意識してしまうとうまくいかなくなる。無意識のうちにやらなければ、何も成し遂げられない。そんなことはないだろうか。では何を意識しているのだろうか。思いつくのはくだらぬ物語ばかりだ。それらはみな妄想の域を出ず、言葉の連なりとして外部に出てこれないまま、また諦念とともに意識の中に沈んでゆき、それと入れ替わりに同じような妄想が浮かび上がってきて、言葉として連なろうとするが、やはり試みは途中で挫折してしまう。何が打ち砕いたわけでもないのに、自然と空虚の中で分解して、虚無に溶け込んで、虚無と反応して、空疎な言葉の連なりがもたらされ、それ以外に記すことがなくなってしまう。そういう説明によって誰を納得させようとしているでもない。自らですら納得しがたく、その対象さえ不在なのではないか。ただ自然とそうなってしまう。言葉の連なりが何を打ち砕こうとしているのではなく、癒しをもたらそうとしているのでもない。攻撃の手段とはならず、攻撃対象を定められぬまま、途中で道に迷い、迷っているうちにその意欲を削がれ、意識の希薄化と探求のとりとめのなさに打ちのめされる。ただ漠然とそう思う。すでにその時点で無駄に語りすぎているのだ。無闇矢鱈と逡巡しまくり、語ろうとする対象が見当たらなくなっていることに気づかないまま、さらに余分な語りを付け加えようとしてしまう。要するに語る量に比例して増加する自己満足に浸りたいのか。それも自然の成り行きの一種だろうか。語り得ぬことを語ろうとすればそうなってしまうのだろう。何がそれに関係しているとも思えず、君とは無関係にそれらの語りがもたらされているようで、それは君の不在を証し立てているのかもしれず、君とはそんな自意識のたぐいなのではないか。どうやら無意識が君の出現の邪魔をしているようで、君を取り囲んで外部へと抜け出られないようにしているみたいだ。それを許している君が意志薄弱なのだろうか。やり遂げる気力が足りないのか。それを内部に押しとどめながら、心を覆い尽くしている無意識の奏でる旋律が、外部へと響き渡っている現状があるらしく、その効果が空疎な言葉の連なりとなって表出しているらしく、それをひたすら読み返しつつ、それへの対抗手段を意識が模索中なのかもしれない。いつかそのバリアーを突き破り、意識を反映した真の言説が、外部へともたらされる時が来るだろうか。でもそれを誰が期待しているのか。今のところは君自身がその出現を望んでいるだけか。


7月12日「教育と民主主義」

 単純な論理だ。それが仇となったわけか。明らかに見せびらかしだろう。よく考えたら馬鹿馬鹿しいと思われてしまうのではないか。そんなイベントだったのだろう。いくらごり押しで乗り切ろうとしても、やがて飽きがくる。そして廃れてしまったわけか。今では影も形も残っていない。そんなはずがないと反論する気も起こらない。ブームが完全に去ってしまったようだ。しかしいったい何について述べているのだろう。フィクションの中で架空の流行り廃りがあったのか。そんな話ではない。流行現象なら過去にいくらでもあったはずだ。そんなことを語りたいのではない。では何なのだろうか。

 民主主義は法の下での平等を求めている。それをどうすれば達成できるというのか。要するにみなが同じ人間になればいいということだ。そこに論理のすり替えが起こっているわけか。国民を教育すればいいということになり、同じ価値観を子供の頃から意識に刷り込めばいいわけだ。それは全体主義の論理だろうか。少なくとも学校教育では平等に同じことを教えようとしているのではないか。思想教育ということだろうか。韓国や中国あたりではさかんなのだろう。日本では卒業式などの学校行事で、国旗を掲揚して国歌を斉唱させることがそうなのか。それの何が思想なのだろう。愛国心を高めるためにそうさせているわけか。それだけでかまわないのか。道徳の時間を活用すればいいらしい。でもそれで同じ人間を作れるだろうか。そこに競争と能力別の選別がある限りは、同じ人間にはならないだろう。社会の中でも立場や役職が違えば、自ずから考え方も変わってくる。とても共通の価値観を共有するわけにはいかないはずだ。国家の中で不利益を被っている者に愛国心などなくて当然なのではないか。それをいくら強要しても無駄だろう。それは学校の中でも同じことで、普段から威張りくさっている教員に限って、国旗に向かって敬礼させたり君が代を歌わせたりしたがるので、当然一部の生徒はそれに反発して、その時は渋々従うかもしれないが、結局そういう強要が、国旗や国歌に対する不快感を植え付けてしまうわけだ。それは戦略的に間違っているのかもしれない。人の意識に刷り込むにはさりげなさを装わなくてはならない。一部の左翼系の教員や、威張る教師に反発する生徒に、反抗心を催させたり、不快感を与えないようにするには、あからさまに従わせようとするのではなく、それなりの工夫が必要なのかもしれない。例えば卒業式などで壇上の背後の壁に、でかでかと日の丸の国旗を張り付けたりせずに、脇に校旗などと一緒に、三脚を据えて目立たぬように立てかけておいたり、却ってそこに注意が向くようにすればいいわけで、また国歌の斉唱で起立して歌わなかった教員に、ペナルティを科したりする事態を避けるには、事前に合唱団などを用意しておいて、その人たちに歌わせ、それを着席させたまま教員や生徒や来賓者に聴かせたりすればいいのではないか。そうやって教員や生徒が反発する隙や、意思表示のためのパフォーマンスをする機会を与えないようにした方が、却って無意識の刷り込み効果が有効に発揮される可能性がある。その程度のことで犠牲者面されることに腹を立てている人が多いのだろうから、面と向かって対決姿勢を鮮明にするのではなく、そういった最低限の配慮をしておいた方が、却って好感を持たれるような気がするのだが、現状ではそうならないようで、教師も生徒も同質化させて、国旗の掲揚や国歌の斉唱に反発する者たちを排除して、別に排除しても殺すわけではないのだから、それらの人たちは社会に残り続けるわけで、要するに見せかけだけの同質性を装いたいだけで、それで民主主義の体裁を取り繕いたいわけだ。まさか北朝鮮みたいに逆らう者たちを強制収容所に押し込めるわけにもいかないだろうに、どうもその辺にその手の人たちの勘違いがあるのかもしれない。

 たぶん教育によって国民を同じ価値観で同質にするのは不可能だ。子供の頃からその手の洗脳教育を徹底化している独裁体制の北朝鮮でさえ、違った価値観を抱く者たちが存在していて、実際にそういった者たちを摘発して、強制収容所に押し込めている実態があるわけで、そんな北朝鮮の実態を鑑みれば、そういうことをやればやるほど閉鎖的になって、周辺諸国の反発を招き、結果的に国力が低下して、一部の特権階級以外は飢餓に苦しんでいたりするわけで、たぶん何もいいことはないのではないか。そういう方向での民主主義の徹底化は場合によっては独裁を招く。第一次世界大戦後のドイツでは、当時もっとも民主的といわれたワイマール憲法下で、ナチスが勢力を広げて第二次世界大戦を招いてしまったわけで、彼らも国民の同質化にこだわって、ユダヤ系住民などの異質な者たちを、強制収容所に押し込んで抹殺しようと企み、実際に数百万人を焼却炉で燃やして灰にしたといわれている。それでもそういう抹殺計画から逃れて生き残った人たちが大量にいたわけで、殺されないためには自分たちにも国家が必要だということで、彼らとは異質なイスラム教徒やキリスト強度が大勢住んでいたパレスチナの地に乗り込んで、強引にイスラエルという国家を建国し、そこでやっていることはといえば、ユダヤ系という価値観で同質化を推し進め、異質な者たちを排除しながら、形の上では民主主義を標榜する国家を作り上げてきたわけだ。そして今なお国民の同質化を目指して、異教徒たちと終わりのない戦闘を繰り広げているわけか。


7月11日「地下室からのつぶやき」

 ここに来るまでの間にいろいろなことがあった。なぜかやたらと回想シーンが多いが、それだけのことかもしれない。余裕がなければやれないこともある。たぶんそこから市民運動が始まるのだろう。それが余計なおせっかいなのか。余裕が余計なのだろうか。でもそれがなければ市民社会は成り立たない。世の中が商取引だけになってしまったら、逃げ場所がなくなってしまう。人は無意識のうちに金銭を介さない関係を求めているのではないか。ビジネスを嫌悪している。でもビジネスなしでは生きてゆけない。その辺に無理がありそうだが、その無理をどうしようというのでもない。それはそれとして放置されるしかなく、嫌なことはやり過ごすしかない。嫌な面は見ないようにすればいいのか。見ざるを得ない。耐えていればいいわけだ。そこから忍耐を学ぶわけだ。でもそれでやり過ごしていることになるのだろうか。いいことばかりでないのはわかっているはずだ。嫌なことがあるからいいこともあるのではないか。束縛から解き放たれる瞬間もある。時にはつかの間の自由を満喫できたりもする。そういうことがあるから生きていけるわけだ。そう思っていればいい。生きているから死ぬときもあり、いつかは必ず死んでしまうわけだ。そして今は耐えるときなのだろうか。それはどうかわからない。耐えているつもりでも、内心それを楽しんでいるのかもしれない。期待しているのだろうか。あるいは期待外れに終わることを期待しているのか。本当は思いがけないことが起こるのを期待しているのではないか。わけのわからない成り行きに巻き込まれて感動してみたい。それは嘘だろう。もうすでに予想がついているのではないか。何も起こらないだろう。そう思っている。だから思いがけないことが起こると感動できるのか。そのときになってみないことにはわからない。どうせ思い知るのだろう。考えが甘かったことを思い知るわけか。それでかまわない。思い知ってから考えを改めればいいのではないか。それでは手遅れなのはわかっている。それでもかまわないのか。たぶんそうだ。そのときになってみてからそう思えばいい。後悔してから何をやろうとしているのか。たぶん冗談なのだろうが、疲れているのだろう。わざとそう思っているのだろう。でも深追いは禁物か。別に獲物を取り逃がしたわけでもなさそうだ。フィクションとして語ればそうなってしまう。それ以上に語る必要はない。すでに無駄に語りすぎている、独りよがりが過ぎるのだろうか。

 それにしてもおかしな場所だ。人が活動する領域ではない。人以外に何が活動するのか。地下室で機械が動いている。それも人為的な構築物だが、シロアリの塚のような都市を空想している。都市の中を人がうごめいている光景を天から眺める視点こそが思い上がりの表れか。神の視線が行き着く先に何があるというのか。何かがあるのだろう。それを今から空想しなければならないのか。そんなわけではない。ただ映像に見とれているふりをする。視線が遥か遠くまで届いているようで、なかなかこちらまで戻って来れない。誰かの空想だと承知しているようだが、それをまともに語れない。この隔たった感覚は何なのか。意識が何かと隔絶しているというわけではないが、どうも変だ。書物に頼り過ぎだろうか。たぶんそれしか頼る先がないのではないか。では率直な意見をありがとうか。誰に感謝しているわけでもなく、完全に打ちのめされているのではないか。状況がそう思わせるのか。でもそれ以外ではどんな状況でもない。ただ過去を振り返って懐かしんでいる。では過去の記憶から君に何がもたらされているのか。現実の時間と場所だ。眺めているのは現代の光景であり、そこで政治風刺の小話が流行っているわけではなく、近視眼的な政府の外交政策を誰が非難しているわけでもなく、みんなそれでかまわないと思っているのではないか。それ以上の何ができるというのか。でもこれが精一杯では情けないか。もう少し何とかならないものか。今から何とかしようとしているらしい。それにしても的外れな憶測ばかりでは気が滅入ってしまう。毎度おなじみの子供の埋葬シーンも見飽きたか。空爆後のガザ地区では見慣れた光景だろうか。カメラマンはそれを撮りたいのだろう。ファッションショーのスライド画像を見ながら、そのついでに子供の死体を見る。互いの場所が遠く隔たっているだけで、同じ地上で行われているイベントだ。空爆を正当化する理由には事欠かず、誰もそれを止められない。イスラエルに住む人々も疲れているはずだ。それでも先住民の土地を奪いながらここまで成長してきた国家だ。他人から何かを奪い取らない限りは生存できないのかもしれない。とりあえず今は命を奪い、隙ができたら土地を奪う。それが人間の原初的な行為だろうか。人は人とは闘争状態にあり、それは国同士にも当てはまり、共存共栄とはなりがたい。未だにそんなことをやっているのだから、先が思いやられるか。その終わりのない戦いが、やがて全世界を覆うことになるのだろうか。すでにそんな状態なのか。つまらないところでも何かの奪い合いが起きていて、セコく立ち回って、目先の利益を確保したいわけだ。そう見えてしまうような行為なのだから、こればかりはどうしようもないことで、生きてゆくだけで目一杯なのだろうから、疲れてしまうのが当然の成り行きだろうか。


7月10日「自由主義という欺瞞」

 それほど外れたことは述べていないような気がするのだが、気のせいだろうか。独りよがりにも程があるか。それにしても何を述べているのか。だいぶ読んできたような気がするが、果たしてそれが糧となっているのだろうか。映画が民衆を救っているわけがない。民衆は民衆によって救われるしかないだろう。だが民衆とは特定のどの集団を指すのか。実態がないのかも知れない。少なくともそれは映画の中に出てくる民衆ではなさそうだ。例えばイスラエルの空爆によって死んでいるガザ地区の住民も、民衆のうちには入らないのだろうか。民衆といえば民衆なのではないか。それは話の入り方の問題ではないらしい。それがどうしたわけでもなく、いつものように何を語ろうとしているわけでもない。中国政府がいくらチベット人やウイグル人を弾圧していようと、アメリカ政府もパレスチナ人を弾圧しているイスラエルを支援しているわけだから、二つの問題は質や経緯が違うとしても、実際に人が大勢死んでいるわけで、アメリカと中国のどちらにも非があることは明白なのだが、やはりアメリカの味方を装わざる得ないだろうか。別に誰が装うのではなく、アメリカと同盟関係にある国家がアメリカの味方を装うだけなのかもしれない。メキシコで反グローバリゼーション運動をしていたサパティスタ民族解放軍のマルコス副司令官はまだ健在なのだろうか。ウィキペディアを見ると、2006年までは何かやっていたらしいが、その後の消息はよくわからない。マルコス副司令官ほどではないにせよ、今も世界各地で無数のアメリカに対する抵抗運動が起こっているのかもしれない。日本の右翼もその中に入るわけか。彼らはアメリカとは同盟するがオバマが嫌いらしく、早く共和党系の大統領が誕生してほしいみたいで、でもそうなると他の世界各地の反グローバリゼーション運動とは違うのかもしれないが、それでも一応は国内産業や文化を守りたいのだろうから、そういう意味では反グローバリゼーションなのだが、でもそうだとすると、アメリカの産業界と手を結んでグローバリゼーションを押し進めようとする、共和党系の大統領が誕生すれば、今よりもっと貿易の自由化と門戸開放の圧力が増して、国内の零細な産業や文化が危機に瀕することは確実なのに、その辺が変なふうにねじれているみたいで、要するに感情的に左翼を憎んでいるだけみたいで、戦略が稚拙というか支離滅裂な感じがしないでもなく、しかもそれに気づいていないのだから、何だかおめでたいというか、たぶんそこまで頭が回らないのだろう。それに共和党系の大統領の方が、人権意識が希薄だろうから、チベットやウイグル問題など軽視して、却って功利的に日本よりも中国との関係を重視するような気がするのだが、もしそうなったら日本の右翼はどうなるのだろうか。たとえそうなっても対米追従は変わらないわけか。

 しかし自由主義とは何なのか。確かブッシュがアフガンやイラクに宣戦布告するとき、自由主義陣営への挑戦がどうたらこうたら言っていたような気がするのだが、自由主義陣営=資本主義陣営ということだろうか。右翼系の人たちが用いる自由主義とは概ねそういう価値観なのだろうが、その場合国家に対する個人の自由だとか考慮されないわけか。自由主義と言いつつ国家主義でもあるわけだから、その辺が矛盾をはらんでいて、あまり深く考えずに、国家に束縛されながら自由を叫んでいるわけで、言葉を発するときの状況に応じて恣意的な使い分けがあり、要するにそこに欺瞞が潜んでいるわけだが、やはりそれに気づくこうとはせず、気づくつもりもないのだろう。そういうところから詰めの甘さを突かれておかしくなってゆくのかもしれず、あまりその手の現象には関わらない方がいいだろう。国家も資本も民族も個人の自由を阻害し、それぞれの価値観に押し込め縛り付けようとするのであり、それぞれが互いにがんじがらめに絡まり合って、それを押し進めるための装置の歯車として人を機能させようとする。そしていったん歯車となってしまった人間に、何を言っても馬耳東風で、そんな聞く耳を持たない人たちが集団となって、やはり自由を求める個人を抑圧しようとするのであり、組織の歯車にするための罠を仕掛けているわけか。そうだとしてもそれにしては、罠の仕掛けも組織も装置もあまりにもお粗末なのではないか。そう見えてしまうのであり、それにひっかかるのはよほどの世間知らずな人たちのような気がするのだが、生きていくにはひっかかったふりでもしておかないとまずいわけか。内心馬鹿にしながらも、長い物には巻かれろという感じで、そのような風潮には従うふりをしておかないといけないわけか。逆にあからさまに異議を申し立てる人の方が世間知らずとなってしまうのか。そういう風潮に対しては面と向かって正義漢を気取るのは、却って逆効果なのかもしれないが、とりあえず茶化すでも皮肉るでも激高するでもなく、冷静な対応が求められるのだろうか。しかし冷静な対応とはどういうことなのだろう。その辺がまだまだわからないところらしい。


7月9日「IT植民地」

 何か原因があるわけでもない。本当はあるのかもしれないが、今はそう思っておいた方がいいだろうか。かつて大英帝国の世界制覇の裏で暗躍していたのが東インド会社だったとすれば、今の時代にアメリカの世界制覇の裏で暗躍しているのは、グーグル・アマゾン・フェイスブック・アップル・マイクロソフトなどか。別に裏で暗躍しているわけではなく、表舞台で堂々と活動しているのではないか。それに別にアメリカが世界制覇しているわけでもないか。でもネット上のコンテンツはアメリカの企業が独占状態か。その分野での日本企業は日本語が通じる国内向けだけで、かろうじて成り立っているわけだ。結局日本の独自性とかガラパゴスとか言われる原因は、日本語の使用にあるわけで、日本語のおかげでかろうじて生き長らえているのかもしれない。もちろんアメリカの企業もみんな日本語対応しているから、そのうちIT分野で日本企業は駆逐されてしまうのだろうか。ある程度コンテンツが支持を集めている企業は、今後しばらくは大丈夫なのではないか。だが本質的にはどうなってもかまわないのかもしれない。どこの国の企業だろうとかまわないか。なぜそう思うのか。このままでは日本が外国企業の植民地と化してしまうのではないか。それほど搾取されている感覚がないのかも知れない。その辺が企業側の狙い通りなのだろうか。いったいそれらを利用することで何を奪われているのだろうか。実際にそれらのおかげで貧困に直面してみればわかるだろうか。知らず知らずのうちに富を奪われていたことに気づくわけか。そうなってからではもう遅いだろうか。遅くなってもかまわないだろう。気づいていないのだから、何を恐れているわけでもなく、ただ能天気にそれらのコンテンツを利用するだけで、本当は利用され搾取されているのかもしれないが、なぜかそれでもかまわないと思われてしまう。はじめから抵抗する気がしないのだろう。世の中の状況が新た段階へと進展しているのではないか。植民地だとか搾取だとかいう言葉を使うことが、状況を説明する上で適切ではないのかもしれない。それらの企業はアメリカ本国のために利益を追求しているわけではないのではないか。必ずしも企業と国家が同じ方向を目指しているわけでもなく、お互いに重ならない部分が大きくなっていて、そのズレが増大する傾向にあるのではないか。そう感じてしまうこと自体がだまされている証拠か。本当はみんな国策企業で、自国を利するためにそれらの企業が世界中で暗躍していたりするのか。トヨタ自動車が過去5年間法人税を払っていなかったことが話題になったらしいが、トヨタは日本のためになっているのだろうか。売り上げ世界一で、日本国民の自尊心を高めるためにでも貢献しているわけか。その辺は韓国のサムスン電子あたりと似たような立場なのか。

 国家が自国の企業によって滅ぼされるような事態になればおもしろいか。それは本末転倒な妄想に過ぎないか。妄想であろうとなかろうと、お互いに気づかないうちにそうなってしまえばいいのかもしれないが、そこに何か勘違いが生じているのだろうか。国家が滅ぶのではなく、その実態が希薄になるのではないか。形骸化が進んでいるわけか。というか国家にこだわっている人たちが、次第におかしくなってきているのかもしれない。精神的に追いつめられているのではないか。その理由は何なのか。自己矛盾に気づかず、あるいは気づいていないふりをしていることに無理が生じているのか。いったい何が矛盾しているというのか。そもそもアメリカのグーグル傘下のユーチューブで、アメリカにたてついて日本の国家主義を広めようというのだから、何やらおかしな事態なのかもしれないが、それは果たしてアメリカの国策に合致しているのだろうか。それともそれらの国家主義者たちは、何もアメリカにたてついているわけではなく、アメリカに飼いならされた番犬のたぐいだから、そこで何を主張しようと、アメリカにとっては人畜無害なのだろうか。もしかしてアメリカ自体が一枚岩ではなく、そこで軍産複合体と癒着した共和党系が、リベラルな民主党系と対立していて、というかそういう幻想を抱いていて、日本の国家主義者たちは共和党系と連携しているつもりなのか。そもそも政府批判をするのがメディアの役目だとすれば、ユーチューブというアメリカのメディア上で、アメリカ批判をするのはごく真っ当な行為だろう。そういうことではなく、日本語でしゃべっている限りは、ユーチューブであろうと日本向けのメディアであり、それを運営しているのがどこの国の企業であろうと関係ないか。要するに企業が巨大化して世界各地で活動するようになれば、その企業は無国籍化して、どこの国の住民であろうと平等に搾取の対象となりうるのか。別に搾取しているわけではなく、サービスを提供しているということだろうが、多くの人がユーチューブを見ている分、それだけ国内の他のメディアを見る時間が減って、それらのメディアに関係する人たちが弱ってしまうわけで、そういうところからじわじわと影響が出始め、長い目で見れば日本企業の体力が削がれていってしまうのか。それでもかまわないのではないか。そういう事態が進んでいくと、例えばテレビ番組に介在しているプロダクションや芸能人などによる中間搾取がどんどん減っていってしまい、低コストなコンテンツしか受け入れられなくなり、そのような産業自体のボリュームがしぼんでゆき、真に必要なものしか需要がないような世の中になれば、資本主義自体の衰退傾向を示していることになりはしないか。結局資本主義という宗教は、人の夢とか欲望とかに食い込むことで、必要以上に膨張しているだけで、それがなくなってしまえば、人畜無害なものに成り下がってしまうのではないか。でもそれがなくなることはまだ当分はなさそうだ。


7月8日「民衆の敵」

 ただ文章を読む。映画は何を救うのか。救世主願望に取り憑かれているわけではない。正義を振りかざす者は、自らの行為を正当化するために権威を利用したがる。それが映画か。そうではないだろう。映画の何が権威となっているわけでもない。文化人のふりをしたいわけでもない。映画を見ているわけではなく、それに関する文章を読んでいる。相変わらず耳鳴りがひどい。殺伐とした雰囲気が好きらしい。また強がりだろうか。何にしても限りがあるのだろう。資本の無限増殖にも限界があるのかもしれない。そろそろ株価も頭打ちか。大金を稼いでいる人たちは気が狂っているのだろうか。そう見えるだけで、そう見えてしまう状況があるわけだ。大金を稼ぐ行為自体が人を狂わせる。人はそこにとどまることができず、常にそれ以上を求めてしまう。それを望む限り正気でいることができないらしい。そんな悲惨な現状があり、それについて語ったからといって、またそれを告発する映画を撮ったからといって、また多くの人がその映画を見たからといって、そこから期待できるのは、何も期待しないよりはマシな、ほんのささやかな変化に過ぎないだろうか。現状を知り得ただけでもその試みに感謝しなければならない。たぶんそれで十分なのだ。それを伝えることがメディアの役目なのかもしれない。それで救われた気持ちになれるだろうか。気持ちになれただけでも救いか。映画はそれを見る人の気持ちを救っている。そんな内容の文章を読んでいるわけか。フィクションには違いない。読んでいること自体が嘘なのではないか。ではすべては空想の産物に過ぎないわけか。君がそんな話を空想している。でも君自身が架空の存在だとすると、またややこしいことになりそうだ。耳鳴りがひどくなった時点で、何か外部から情報がもたらされていたのかもしれず、それについて語ろうとしていたのかもしれない。確か映画についての文章を読んだのは数日前のことだった。それを不意に思い出しただけか。でもその映画の内容が違っているのだろう。もっと救われない話だったはずだ。

 すべての努力は無に帰す。たぶんそこが出発点なのだ。いつかは救われるという幻想をはねのけた上で、そこから話が始まるわけだ。だから殺伐とした雰囲気が感じられ、話の中では、既存の権威にもたれかかる者たちが、そこに暮らす人々を支配しようとする。支配に屈せず異議を申し立てる人たちは、いつも敗北する側になり、みじめな境遇に追いやられ、確かそこからささやかな抵抗運動が始まるのだろう。だがそのような行為はささやかなままでは終わらない。何かのきっかけからそれが大々的に盛り上がって、全国に飛び火し、それに浮かれる民衆の熱狂的な支持を得て革命が成就するわけだが、たぶんその先がないのだ。混乱の中からまた保守勢力が盛り返し、新たな権威をまとって支配体制が築かれ、つかの間の熱狂から覚めた民衆は落胆して、以前の生活に戻ってゆく。やはりそこから話が始まるわけだ。また支配に屈しない者たちによる抵抗運動が開始されるのか。それでは同じことの繰り返しではないのか。だから今度はそうならないように、事前に周到な準備が為されなければならないわけか。だが本気でそんなことをやろうとしているのではない。誰かがそれを物語ろうとしているだけかもしれず、革命を神話や伝説として後世に語り伝えようとしているのだろう。そして同じことの繰り返しは面倒なので、それに関する教訓話でもでっち上げたいのではないか。そんな試み自体が世の中の冷めた反応に影響されているわけで、多少の不自由には目を瞑って、高望みはせずに、支配を支配と感じられない程度なら許容範囲で、権威に屈するのではなく、権威と共に生きていけるように、民衆の方がそのような体制に順応するようになるのではないか。そんなわけで革命の味方は民衆であり、革命の敵は民衆でもあるわけだ。それを超えた何かがそこにはある。それは幻想ではなく、現実なのかもしれず、現実の生活であり、現実に関わっている仕事なのではないか。生活と仕事さえ確保されていれば、それほど政治に対して文句は出ないのだろうか。いくら世の中に悲惨な現実があろうと、虐げられた境遇にある人がいるとしても、それがごくわずかで少数に過ぎないのなら、そんなものは無視されて当然なのかもしれず、それを告発する映画を見たとしても、その場で善意の同情を呼び起こすとしても、あとはほったらかしにされてしまうのかも知れない。おせっかいな反骨ジャーナリストや市民活動家が救いの手を差し伸べるのを期待するしかないか。今までがそうだったのだろうから、これからもそうなる可能性はあるのだろう。今やその手のおせっかいな人々にも罵声が浴びせられるご時世かも知れない。作家の大江健三郎あたりが、反政府的な発言をすれば、たちまちネットのコメント欄が右翼による口汚い罵りで埋め尽くされてしまうので、自然とそういうところからは遠ざかってしまう。


7月7日「アナーキスト」

 語る対象を欠いているようだ。残り物が道に散らばる。不意に意味もなくそんなことを記してしまうが、イメージがわいてこない。それはいつか見た光景だろう。残り物と何なのか。その辺がはっきりしないようで、その対象となる事物の姿が定まらない。どうも空想が足りないらしい。戯れにふざけているのだろうか。また不意に別の言葉を記す。なぜ方法が見つからないのか。見つからないことに苛立っているわけではない。でも他に苛立つことなどありはしない。それは何をどうするための方法なのか。方法ではないのかもしれない。そこに何があるわけでもないのはいつものことか。迷っているのだろう。状況はただ漠然としている。すでに間に合わないようだ。何が遅すぎたというのだろう。そこでもはっきりしたことはわからないが、そう感じたのだから何かが遅すぎたのだろう。何も救世主の登場を待ち望んでいたわけではない。それは貧しい空想だ。もうここには何もない。誰もいないということだろうか。何もないところから考える術が見つからない。誰かがそこで弱音を吐いているのだろう。そしてそういうことではないと思いたい。強がっているわけだ。相変わらずそれを否定している。何も定まっていない頭の中で、靄がかかったような光景を空想する。それは眼前に広がる光景ではないらしい。君の体験はそこから隔たっている。そんな映像を見ながら、屏風に描かれた絵を思い出そうとするが、思い出すことに取り立てて意味はない。ちなみにそこには何が描かれていたのだろうか。そこまでは思い出せないようだが、少なくともそれは破れたふすま絵ではなかった。何にしても思い描くべき光景ではない。しかし方法とは何だろう。夢の中で山が見えてくる。山水画のたぐいか。どこへ向かっているのだろう。そこへ行く途中で歩きながら誰かと言葉を交わしているらしい。絵を眺めているわけではない。絵を描く以外に他に方法がないから、人は安易な行為に及ぶわけか。そんな理由ではないはずだ。安易な行為とはどんな行為だったのか。テロかストライキか。それらを同列に扱ってはいけない。労働者に権利があるのはストライキの方だ。何を仕掛けているわけではないが、誰がそれを煽動しているわけでもない。革命家などという職業は存在しない。ただ犯罪に手を染めている者がいるだけか。日本でも爆弾テロが流行った時代があった。確か東アジア反日武装戦線とかいう組織がやっていたはずだ。いくら人を殺めてみても、結局革命は起こらなかったし、起こせなかったのだろう。今でも懲りずにその試みが進行中なのだろうか。テロが必ずしも革命に結びつくわけでもない。

 戯れにコンビニ強盗などをやっているわけでもないか。やっている方は必死だ。雨空を見上げながらそんなことを思う。過去のニュースでも検索してみたのか。気まぐれにそういう方面へと興味が向いているわけでもないが、店員に包丁を突きつけている手が震えているのは演技なのだろう。テレビドラマの映像かもしれない。少なくとも防犯カメラの映像ではない。思い出すべき光景でもなさそうだ。とりあえず誰かがそこでしくじって、警察に捕まったらしい。そんな作り話では物足りない。よくある話か。そこからどうなったのだろう。未来へつながる可能性を見出せない。何のあてもなく、ただ漠然とそう思う。何かを試みるというわけでもなさそうだ。いつも気まぐれな偶然が作用している。それに支配されているわけでもないのだろうが、行き当たりばったりが好きらしい。ではそれは行きずりの犯行だったのか。犯罪の話ではなく、強迫観念に凝り固まっているのが嫌いなのではないか。何事も集団でやれば、すべては国家に打ち当たってしまうようだ。ユナ・ボマーもそうだったのだろうか。彼は単独で行動していたはずで、小包爆弾を送りつけて3人殺害したらしく、連邦ビル爆破事件の容疑者はボマーではなく、ティモシー・マクベイだった。どうも記憶違いだったようだ。ボマーは「現代文明の発展は人間性や生態系を破壊する」、「産業革命は絶対悪であり、文明社会を発展させるために追求した技術の進化によって、それを創造した人類もが支配されてしまう」と主張したらしく、国家ではなく現代文明そのものに挑戦していたわけか。マクベイの方は元軍人で、湾岸戦争に従軍しておかしくなってしまったようだ。ボマーもマクベイも別に革命を起こそうとしていたわけでもなかったようだが、彼らもアナーキストに分類されるのだろうか。アナーキスト=テロリストというわけでもないだろうし、人畜無害な誇大妄想狂もアナーキストいうわけでもないか。ではアナーキストとは何か。そういう人も犯罪に手を染めたら危険人物になるのだろうが、日本語にすれば通常は無政府主義者となるらしい。まあ単独で国家に挑んでも相手にされない。せいぜいがテロで有名になるだけか。でも集団で徒党を組めば維新の会みたいになる。どちらにしろ国家に挑戦するのは無理なのではないか。ではアナーキストは何に挑戦するのだろうか。その辺がもとから不明確だ。何に対しても戦いを挑まないのなら、無政府主義者としては看板倒れだろうか。


7月6日「否定の否定」

 人は何も求めていないようだ。そう思いたいのか。自由など求めているはずがない。では束縛されることを望んでいるのだろうか。その場の状況にもよるだろう。人は衣食住を求めている。それが人として生きられる大前提か。人は嘘を求めている。ちょっとずらすとそうなるか。何をずらしているのだろうか。いつものはぐらかしだろう。人とは誰のことなのか。誰でもなければ人ではないが、特定の誰というわけでもなければ、それは嘘になる。人一般について語っているのだとすれば、個々の差異がなくなってしまい、ただ漠然とした物言いとなって、大して興味を惹かない。人などに関心を持たなくてもかまわなくなってしまう。そんなことはないか。ふざけているのだろうか。何を否定したいのか。それともすべてを肯定したいのか。少なくとも否定の感情を肯定したいらしい。あるいは否定するのに飽きているのかもしれない。そこに謎があるわけでもないだろう。現状に復讐する理由などありはしない。その対象がないわけだ。差別する対象もない。深く恨まれているわけでもなく、何に敗北しているわけでもない。では求めているのは勝利なのだろうか。何に勝とうとしているのだろう。そもそもその対象がはっきりしていない。それが定まったら、求めている何かがわかるのだろうか。わかるわけがないだろう。それをわからせるために言葉を記しているわけでもない。すべてが偶然の巡り合わせなのではないか。そこに物語的な要素はない。そう言い切ってしまっていいのだろうか。後から嘘をついていたことにすればいい。その程度のことか。君はそこに介在している何かに気づいていない。そういう話の設定にしておけば無難なのではないか。別に話の無難さを狙っているわけでもないのだろうが、面倒くさくなってきたので、自由と束縛の矛盾から逸脱したいのではないか。本当は自由と不自由の関係なのだろうし、束縛からの解放なのではないか。それが話の主題となるべきなのか。人が求めているのはあらゆる束縛からの解放なのか。そういう話にすればわかりやすくなりそうだ。しかし実際に何によって束縛を受けているのか、その対象を特定しない限りは、話が抽象的なまま終わってしまいそうだ。自由とは何か。それこそが抽象的な問いかけだ。何かそこに自由を妨げる束縛の対象があって、その対象に打ち勝って、自由をつかみ取るような話の展開に持っていきたいところだが、具体的な対象を特定してしまえば、それがありふれた対象でしかないことがわかってしまうか。いったいそれは何なのだろうか。

 ならばそれを思いつけば自由になれるのか。それとこれとは無関係だろう。それも単なるはぐらかしだ。何かと何かをごっちゃにしたごまかしであり、支離滅裂な物言いにすぎない。どうもわかってしまうこと自体を避けているらしい。結論に至るのを避け続けることによって、話を長引かせようとしているのだろうか。あまりいいアイデアではなさそうだ。それに関して不毛な議論を期待しているのか。そんな架空の対話こそが否定の否定を構成する。何を否定しているのではなく、それ自体を否定している。そんな消極的な立場から逃れられないわけだ。いくら否定してみても、不在の対象としての事物は揺るがず、その揺るぎようのない事物の脇を言説が通り過ぎるばかりで、何もつかみ取れずに、途方に暮れるしかない。言説の対象を言葉の連なりがつかみ損ね、いくら語っても空転するだけのようだ。そんな語りでは何も生じないことがわかっていながら、それをやめられず、ただその場を満たす空疎な現実に感動している。そのまま放っておけば独り言の世界に埋没して、二度と語りが外界に出ることはないだろうか。それも程度の差によるのではないか。そこまでのめり込む気概すらなく、飽きてくればまた冗談に逃げてしまうのではないか。それでは外界に向かって何の影響も及ぼせない。別に及ぼそうとしているわけではなく、逆に外界から影響を被っているから、自己防衛本能が働いて、内に閉じこもろうとしているのではないか。今度はそんなふうにして心理的な解釈に逃れようとしている。いつからそうなってしまったのか。ついさっきからなのではないか。要するにそれを思いついたわけで、何かひらめいたから、それにすがろうとしているのだろう。すがっても無駄だ。すでにそれに対する言葉が連ねられている。それを語りながらそこから離れ、また別の何かについて語ろうとしている。記された文章はそんなことの繰り返しを表し、無駄に内容のない話が長引いていってしまうわけか。たぶんそれをどこかで食い止めなければ、ただの冗長さばかりが目立ってしまうのだろう。それでも語っているうちは自己満足に浸れるだろうか。何を隠そうとしているわけではなく、それがむき出しのままになることを望んでいるのかもしれず、それが物語から自由である証しなのだろうか。でもそれでは誰も読んだりしないだろう。まさか意図してそれを目指しているわけでもあるまい。自然とそうなってしまうのだから、致し方ないのかもしれないが、一方でそれを食い止めるべく、何やら試行錯誤を繰り返しているのかもしれず、それに関して語ろうとすれば、今度は自己言及の罠に捕らえられ、またその反復からも逃れられなくなり、どうにもこうにも行き詰まりの現実に直面してしまうわけか。今がまさにそれだろうか。そこから脱するにはどうしたらいいのか。

 放っておけば語りは必ず劣化する。絶えず読み直しと見直しが欠かせない。そんなはずがないだろうか。わざとそうしているのではないか。それ以外に何を語ろうとしているのか。だいぶ話の主題から外れてしまったらしい。気のせいだろう。堪え性がないわけだ。いつもの癖か。すでにそれは気づいていることだ。気づいているのにわざとそうなるように語っているらしい。そういう無意味な動作に束縛されたいのではないか。そうやってただあてもなくだらだらと語りたいのではないか。それが自由だろうか。ある一定の現象に束縛されながらも、あえてそのままでいる自由を享受している。そこから逃れようとすることばかりが自由ではなく、そのまま流されていることも自由なのだろうか。その空疎な状態を受け入れたままでもかまわないわけだ。気にしないということか。心に余裕が生じているのかもしれず、たとえそれが気に入らなくても、そのまま受け流すのが可能なことも試しておきたいのではないか。君にはそれを試す機会がある。そう思っていればいいわけだ。いつか必ずそれを見逃した報いを受けるだろうが、そうなったところで後悔するわけでもなく、報いは報いとして、そういうものだと受け止めておけばいいのだろうか。その時点ですでにそこから弾き出されているのではないか。身も心も弾き出され、それらの狂態を眺めることも断念して、どこか遠くの隠れ家でおとなしくしているつもりなのか。そういうやり方も可能だと思っているのだろう。ではもはや周囲の雑音に悩まされることもなく、黙ってやりたいことをやっているつもりになれるだろうか。それがやりたいことだと思い込んでいるのなら、そのつもりになれるかもしれないが、一方でそれが冗談だとも思っている節もあり、本気でそうしているわけでもないとも思える。興味がないらしく、そのふりをしているともいえず、たぶんそこでその件はおしまいとなってしまうのではないか。ではそれでくだらぬ謎解きも解き明かせないまま終了か。それを他の誰に委ねているのでもないだろうし、放っておかれるだけのようで、そんな放置状態から抜け出ようとしているわけでもない。もっとも他にやり方はいくらでもあるだろう。すべてが暇つぶしだと思えば、そういうことになってしまいそうだ。ところでなぜ君はそれらの狂態を眺めることを断念してしまったのだろうか。あまりのお粗末さに呆れ、どうでもよくなってしまって、さっさとそこから撤退してしまったのか。多数によるごり押しに抗うのは、無駄な抵抗だと思われてしまうらしい。その辺が粘りがなく淡白で、やはり堪え性がないということか。たぶん世界的にその種の抵抗のやり方が間違っていることははっきりしているようで、その辺に人間の弱さが垣間見えるのだが、何もそれに心情的につきあうこともないようで、そうやって弱者の連帯によって幸福を得ようとする行為が、結果的に取り返しのつかぬ悲劇を招くことは、歴史の必然かもしれず、現状もそれに向かっているのだろう。でもそれを皮肉るような言動をいくら繰り出しても、負け犬の遠吠えにしかならないのではないか。とりあえずそんな風潮にコミットする気がしないのなら、今はそういう気分に従うしかないだろう。


7月5日「自由と束縛の原因」

 人は自由を求めている。会社や役所や学校などの組織の中で不自由な立場を強いられ、うんざりしながらも、組織の意向にたてつくわけにもいかず、嫌な思いをしているのだろうか。でも反面それによって生かされているのだから、面と向かって文句がいえず、鬱屈した気分でいるのかもしれない。だから官僚機構は嫌か。でも嫌なだけでは何ともしがたい。世の中は変わらない。組織の中でも命令する側に倫理観があればいいのか。でも組織の意向には逆らえないのだから、その意向が他人を搾取して利益を上げることを目的としている限りは、嫌な感じを免れ得ないのではないか。でもそうしなければ組織の体制を維持できないのだとしたら、そうするより仕方ないだろう。嫌だからといってやめられないし、やめたら生きてゆけないとしたら、それを続けるより他はない。そんなことはわかりきっているわけだ。結局それに関わっている人たちの善意に期待するしかないのか。それで何が改まるとも思えないが、そういう問題に過ぎないのだろう。根本的には何も解決せず、組織内で自由を求めるには、その頂点を目指さなければならないわけか。そして部下に命令を下し、その命令によって束縛し、他人を不自由にしなければ、自らの自由を確保できない。でもそれが自由ではないだろう。組織が命令することを強いているのであって、命令を下す人間も不自由なのではないか。それは組織のためにしていることであって、それを自らが自発的にやっているように錯覚しているわけか。そうやって他人の自由を奪うことに快楽を見出すわけだから、権力に取り憑かれているのあり、それに身を委ね過ぎると、遠からず自らの破滅を引き寄せることになる。そこに主導権争いや権力闘争が発生し、それが度を越すと、組織自体が自壊する。うまくいかないときはどうやってもうまくいかないのであり、人はそんな官僚体制を維持するために、ほどほどのところで妥協を図り、組織を利用することで利益を得られる間は、多少の不自由は我慢して、組織のために働こうとするのではないか。それが腐敗や癒着や組織内の陰湿な嫌がらせをもたらしているとしても、組織そのものをなくそうとする気は起こらないだろう。組織内でルールを定めて、なるべくそういうことが起こらないような方策を施すわけだ。それも焼け石に水か。

 まあ否定すればきりがないが、人間社会はそういう組織や官僚機構によって成り立っているわけで、嫌でも関わらざるを得ない。現状がそうなのだから、そういう現実を受け止めなければならず、そこからあまり隔たったことを主張しても意味がないだろうか。自由か不自由かの二項対立が成り立たないようなところから考えなければないわけか。そうした官僚機構の存在を前提として、そのような組織が社会全体に役立つための方策を模索する必要があるということか。何やら政治家や評論家の物言いに近づいてしまったようで、冗談でそんなことを述べているのかもしれないが、そういう方向での模索は保守主義者のやることではないのか。組織内の綱紀粛正や自浄化努力でいいわけ程度には不具合が解消され、その組織を延命させるわけだが、そんなふうにして世間の評判を気にしながら、組織内改革を図りつつ社会の中で存在し続け、それに関わる人たちに利益をもたらし、利益をもたらすことで存続しようとするのだろう。その存在を肯定したい人はいくらでもいて、それなしでは生きてゆけないと思い込んでいる人も大勢いるわけだ。そんな人たちがこんな現状をもたらしているのかもしれず、それに逆らいたい人たちを悩ませている。どこまでいっても組織の域を出ない話だ。果たしてそれでかまわないのだろうか。それを生業としている人たちにとってはそうだ。自らの糧となっている組織の不要論を主張するわけにはいかず、それがなくなってしまっては困るわけだ。そこからどんな提言が出てこようと、提言する者を利するための内容にしかならず、それに関する論議も関係者の損得ずくで行われ、どうあってもそこからはみ出るわけにはいかないのだろう。そんな人たちが社会の支配勢力を構成し、そこに暮らす人々を自分たちの味方につけるべく、日々メディア上であれこれと予定調和の主張を戦わせ、時には偽りの対立を構成しつつも、それが目くらましであることを気づかせないようにしているのであり、それが社会の安定に一役買っているわけか。それは恐ろしいことでも何でもなく、極めて真っ当な行為なのだろう。別にいつの日にかそれが破綻し崩壊することを願っているわけでもないか。


7月4日

 すべてはその他大勢の人たちから生まれるらしい。そこに大衆の力あるのだろう。それが力だとしたらそういうことだ。だが眠っていることが力となるのだろうか。眠っていればそれだけ革命が遠ざかる。革命などいらないと言われればそれまでのことだ。眠らなければ力を養えないだろう。でもその力を何に生かそうとしているのか。大衆に迎合しようとする政治家を浮かれさせようとしているらしい。実際に浮かれているのではないか。それでかまわない。大衆が政治家を浮かれさせてその気にさせている。これが民主主義というものだ。実際に世論調査でも支持率が高い。君はそんな民主主義が嫌いなのか。そんな大衆を嫌悪しているのだろうか。別にそれがどうしたわけでもない。いつものことだ。保守的な新聞の論調が政府寄りだからといって、メディアファシズムというわけでもない。そこで踊っている人たちはそれでかまわない。いくらでも踊っていればいいのではないか。やがて楽しい事態になるはずだ。たぶんその辺に儚い夢が介在しているのだろう。みんな心地よい睡眠を欲しているのだ。夢を見ているうちが天国なのであり、夢から覚めればどうなるか、薄々気づいているのではないか。だから心地よい眠りから覚めたくないのだろう。もうしばらく夢を見させてやった方がよさそうだ。いずれ自分たちの行いが何を招いたかわかる時が来るだろう。わかってからではもう遅いかもしれないが、これも運命だと悟るのではないか。夢の代償とはそういうことか。でも実際はそうならないとしたら、君の予想が間違っていたことになるわけだ。もしかしたら君だけが夢を見ているのではないか。そして夢から覚めていないのも君だけで、他の人たちはみんな夢から覚めて、正気を取り戻しているとしたら、この先どんな自体が待ち受けているのか。考えただけでも恐ろしくなるだろうか。そんなはずはないと思いたいが、たぶんそれでも現実の世界は変わりなく、世の中はいつも通りに回っている。そうなるしかなさそうだ。現状は狂気の沙汰でも何でもない。ただユーモラスに感じられるだけで、これも冗談のたぐいだと思うしかないか。

 冗談では済まないかもしれないが、神の見えざる手に導かれて、案外無難なところに着地するのではないか。その辺がユーモアのセンスなのかもしれず、仕上がり具合が楽しみだろうか。楽しむ余裕さえない人もいるのではないか。君はそれが楽しいのだろうか。内心焦っているのではないか。そもそも社会をコントロールしようとする考えに同調できない。ありのままでかまわないだろう。これがすべてなのであり、幻想を抱くとしても、ここから生じているのであり、これ以外ではない。他に何があるというのか。貧しい精神と裏腹な物質的な豊かさだろうか。やがて物質的にも貧しくなってしまうのだろうか。それを食い止めるために何とかしようとしているのではないか。その何とかしようとしているやり方がおかしいのか。別におかしくてもかまわないだろう。おかしいなりに努力しているわけだ。その努力が実を結んで、物質的も精神的にも豊かになれると信じているのではないか。信じる者は救われる。それは宗教なのだろうか。宗教は実質的な結果をともない、その結果が夢の世界をもたらすのではないか。また夢か。いい加減夢から覚めて、もっと地に足の着いたことを考えた方がいい。しかし地道な努力とは何なのか。今現実にやっていることが地道な努力と無関係だとは思えないか。わからないが考えあぐねている。何に結びつくとも思えないのではないか。それでもやらざるをないとしたら、何なのだろうか。普通に人々の良識に期待し、真っ当な意見を述べなければならないのではないか。ただそれだけか。それだけで何がどうなるわけでもないのだろう。でもそれでかまわない。ヒステリックに騒ぎ立てる輩の方が間違っていて、何事も冷静に受け止めるべきなのではないか。でも支離滅裂に語る方が性に合っているのだろう。実際にそうなっていて、何を言いたいのかわからないまま、ただ延々と理屈をこねくり回しているようにも感じられ、これではいけないと思いながらも、離れようとしても離れられず、気がつけばそうなっているわけだ。それはどうしようもない現実であり、この先も延々とそんな現実につきあわされてしまうのだろう。それを超える概念に巡り会うことはない。現実がそうなのだから、そこに囚われ、逸脱したつもりでも、それは偽の逸脱であり、相変わらず心身ともに束縛されている現実の中で考えているわけだ。超えようとしても超えられない何かが目の前に立ちふさがっている感じか。でもそれは何のたとえなのか。

 まだはっきりとは把握できていないのではないか。何を理解しているわけでもない。理解の範疇にはないのかもしれず、それでかまわないのかもしれない。何を皮肉るべきでもないのだろうが、どうしても不快に感じられてしまうのだろうから、現状に抗うしかないようだ。嫌なことはなるべくやりたくないし、できる範囲内で抵抗しなければならないのだろう。抵抗し続けることで道が開けると思うしかなく、一応はそんな抗う気持ちを信じるしかないようだ。他に何があるというのか。結局はそこに戻ってきてしまい、頑なにそれをやり通す気でいるわけで、それが打ち砕かれるまではそのつもりなのだろう。その先のことはわからない。遅きに失しているのかもしれないが、たとえ間に合わなくても、何かをやり遂げようとする素振りは見せておかないと、悔やんでも悔やみきれなくなってしまうだろうか。ともかく後悔したくなければそれをやるしかない。それだけのことであり、そういうことでしかなく、何もくどくどと語るようなことでもないのだろうが、そんなふうにしか語れないようで、その辺はあきらめなければならないのだろう。現に今もそのような状況の中にいる。そしてここからが問題なのかもしれず、これまでにも幾度もここまで来たのだろうが、ここから先が何も出てこない。何も思いつかないまま、別の何かに心を奪われ、そこから導き出された言葉を記し、何か語ったような気になって、それで終わってしまったわけだ。つまらない事象に囚われているのだろうか。さっきもそうだったではないか。どう語ろうと、波瀾万丈な成り行きとはなりがたく、物語とも無縁に感じられ、そこで詰まって、たちまち言葉を失い、語りを放棄するしかない。力を抑えてすべてを出し切らずに立ち去ろうとする。まだこの先が長いと思いたいのかもしれず、この先に飽くなき抵抗の機会が待ち受けていることを期待しながら、切りのいいところで引き下がろうとする。ここは深追いする場面ではなさそうだ。それも気まぐれにそう思っているのではなく、たぶん苦し紛れの妥協なのだろう。


7月3日

 どこかで出会ったことがある。誰と出会ったのだろうか。記憶にない。そんなことはないだろう。誰に声をかけているのでもない。声の主が誰かもわからない。どうも目が覚めているようだ。きっと気のせいだろう。話の続きというわけではないが、途中で席を立ち、出口に向かっているようだ。ほんのすぐ先だ。何を目当てに向かっているわけではない。ただの気まぐれか。足取りが重い。悩んでいるのだろうか。何を悩んでいるのか。天から声がかかったような気がした。見上げてみれば初夏の日差しだ。梅雨の晴れ間は蒸し暑い。だから何だということでもない。何かと何かの関係がこじれているのだろうか。誰と誰の関係なのか。作り話だろうか。何かを空想している。でも記しているのは無駄な言葉の連なりだ。そうやってはぐらかしているわけだ。脇道へ逸れている。新たな関わり方を模索しているようだ。この世界との関わり方を改めたいのか。でも誰がそう思っているのだろうか。君でなければ誰もなさそうだ。前ふりが長過ぎる。何の前触れでもない。変化の兆しを感じられない。何と向き合っているのでもない。遠ざかるのが遅すぎたのか。自らの正当性を求めているのは、それが生きている証しだからか。それ以外に根拠などなく、ただそこで生きているから、その存在を認めてほしいのか。誰に向かって主張しているのだろうか。空を見上げてみても、そこには何もない。人が空に浮いているわけではなく、地上でうごめいているだけだ。もはやこの世界に他者の入り込む余地などない。それを認めなければならないのだろうか。拒否できないわけか。拒んだら殺されるわけでもないだろう。まだ改められると思っている。そんな気がするわけだ。だからこうしてここまで出向いたわけだ。誰に諭されるでもなく、自ら気づいたのだろうか。いったい何に気づいたのか。君は何を改めたいのか。そこで考え込んでいる。その理由を探している。書物の中に理由が潜んでいるらしい。その箇所を探し当てて自己満足に浸りたいのか。そう読める箇所もあるのだろう。読もうと思えば読めなくもないわけだ。気のせいではないのか。そうくると思った。自らのふがいなさを嘆いてみても、それが何をもたらすわけでもない。冷めたコーヒーを一気に飲み干して、エアコンのスイッチを入れる。その後に何が行われたかは、誰の想像とも違っているわけでもないのだろう。

 動作が未だに不安定だ。時々思いもよらないような話の展開を見せる。すべてが的外れなのだろうか。そうとも言い切れないだろう。記された言葉が何かを捉えていることは確かだ。ただそれが有効に機能していない。世間から外れことを語っている場合ではないのかもしれない。でもとらえどころがなさそうに思える。侵略者にも侵略する必然性があり、侵略された側と価値観を共有できないのはわかるが、他人を不幸に陥れてでもやらなければならないと思っているのだから、それは止めようのない行為なのだろう。止められないほどの力を持っているということだ。そうやって征服に次ぐ征服を重ねて今日に至り、まだそれを上塗りしようとしているわけだ。いくら征服者の非を訴えてみたところで、正義が行使されることはない。力こそが正義だと強弁したいわけで、その強弁の通りにごり押ししてしまうのだろう。しかしそれでも抵抗しようとする。映画の中で力に蹂躙された人々が訴えかける。今ではこの世の人でない過去の住民も訴える。なぜ正義が果たされないのか。神は何をしているのか。虚ろな目がそう語りかけている。もはや過去の平穏な日々は戻ってこない。弱き者たちは排除され滅びる運命を背負わされ、それを記録する映像の中で苦しみながら、過去の世界へと退いてゆく。抵抗しながらフェードアウトしてゆき、そうした成り行きに翻弄され、散り散りになりながら大地に染み込んでしまうのだろう。それは悲劇なのだろうか。そう思えば思えなくもないが、誰が思っているのでもなく、どこで芝居が上演されているのでもない。それでも現実に抗っている人たちがいるわけだ。何とかしなければと思いつつも、何ともできない状況の中でもがいている。この世はそんな苦しみに覆われているのだろうか。それが苦しみだとすればそういうことだ。苦しみでなければ何なのか。他人を陥れるのは楽しいか。いったい誰を陥れているのだろうか。別に手の込んだ罠を張って待ち構えているのでもなさそうだ。気が向いたらそんな罠でも仕掛けてみたらいい。獲物などかかるわけもない。何も得られなくて笑ってしまうのかもしれないが、それでかまわないのだろう。そんな言葉が醸し出す空疎をつかんで満足すればいい。語るのは自由で、いくらでも語っていられるのだろう。いくら語っても、何ももたらされないだろう。次第にそれは負け惜しみへと変貌して、何も認められなくなって、そんな受け入れがたい結果に落胆することもできなくなり、ただ笑ってしまう。それは結果ではなく、そんな結果を予想しているのではないか。そして今も空笑いとともに記述が進行中だ。

 止めどない何かに心を奪われ、ただ唖然としている。いくら考えてみてもとりとめがなく、気が散るだけで、そんな散り散りとなった気を集める術を知らず、きっと気のせいだとおもうしかない。それもフィクションの一部なのだろうか。自然とありもしない心境を記しているのかもしれないが、その辺で言葉に詰まってしまうのだろう。とりあえず悲劇も喜劇も見せ物には変わりなく、映像として見せ物になってしまえば、現実から遊離して無害となりそうだ。思想的影響を考慮しなければそうかもしれないが、そこに隠されたメッセージを受け取る人たちが現れると厄介か。娯楽以外の何ものでもない作りを装いながらも、映像の制作者は何かを期待しているのだろう。その中で不利益を被っている者たちに同情してほしいのか。それとも他者を力で屈服させる行為に非難の声を上げてほしいのか。抵抗勢力のやれることといえば、そんな抵抗に限られてくるわけか。その一方でそれだけでは満足しない人たちが、他のやり方を模索しているわけだ。でも他に何か思いつくとしたら何なのだろうか。直接の対決によらず、罠を仕掛けるでもなく、他にどんなやり方があるのだろうか。相手を術中に陥れようというのではなさそうで、力による支配を何か別の方向へと逸らそうとしているのかもしれない。それと気づかないうちに力を分散させ、雲散霧消へと導こうとしている。果たしてそんなことが可能なのか。今まさにそれを試しているわけか。様々な場所で様々に試みられていて、無意識の賛同者を募りつつ、何やらそれを催す言葉の連なりを増殖させようとしているのかもしれない。それは催眠効果でもあるのだろうか。眠らせるのではなく、気づかないうちに行為させようとしているのではないか。何もかもを平準化しようとしているのではなく、同じやり方に統一させないようにしているのであり、逆にやり方を無数に分散させ、どんなやり方を用いても、限定的な効果しか得られないようにしたいのではないか。でも効率性を考えれば同じやり方に統一した方がいいのではないか。やり方を統一しようとすれば、違うやり方を抑圧しなければならず、そこに権力による強制が働き、そうした強制に対する抵抗が生まれ、強制する側と抵抗する側の闘争から悲劇が生まれ、結局元の木阿弥となってしまう。その一方で、物の売り買いは相手の同意を得なければ成り立たない。資本主義は相手の同意を得ながらその勢力を広げてゆくのであり、一見強制をともなわないように感じられるが、その勢力の拡大とともに、それなしでは生きてゆけなくなってしまうから、結果的に同意を強制させられてしまうわけだ。気がつけばそれ以外の方法がなくなっている。そこに怖さがあり、現状ではそれを止める手だてがない。それに逆らう人たちは不可能に挑戦しているのかもしれない。君はそれをどうしようとしているのか。


7月2日

 感覚がおかしいのだろうか。認識がずれているのではないか。いつも思うのはそういうことだ。情報はどこへも届かない。入ってくるのは都合のいいデマばかりだ。誰にとって都合がいいのか。君にとってそうなのか。誰にとっても都合がいい。まだ誰もが夢の中にいる。意識がその中でうずくまる。遠い出来事の中でうずくまる。なぜここから遠いのか。人がしゃべることはない。誰かがしゃべっている。それが人でない理由があるだろうか。人でなければ人であることはない。感覚が壊れている。未来が見えているわけか。過去に人の都合が反映されている。常識から外れているのだろうか。何がそうなのか。文明のすべてが過剰なのだから、人が狂っているのも当然の帰結か。でもそうである以外に、人が人である必然はない。偶然に人であるのは、人がまだ人になれない兆しなのだろうか。ただそれに気づいていないわけだ。気づかないままだろう。でもこの世に人などというものは存在しないと言い切れるだろうか。なぜそう言い切ろうとするのか。誰も言い切っていないからか。空が回っているのは地球が自転している証拠だ。何を見てそう判断しているのだろうか。成果など期待していない。目が回っているのではない。それが事実だとすれば、何を求めるわけにもいかないのではないか。それでも人は成果を求める。進化論を信じているのだろう。すでに止まっているのではないか。これ以上は無理だ。わざとずれている。何だかおかしいと思う。自らの非を認めざるを得なくなり、困った事態となっているようだ。でもそれが評価とは関わりがない。そこでも外れているわけだ。たぶん老人が何かに反対していたのだろう。これまでに歩んできた道のりを考慮すれば、当然の反対表明なのかもしれないが、そこに認識のずれが介在しているのだろう。すでにそこから人心が離れているのだろうか。賛成するにしても反対するにしても、あまり意味のあることだとは思えない。

 世界ではこれまで平然と間違ったことが行われてきた。それが何をもたらしたかは誰もが知っているはずだ。大量破壊と大量虐殺の他にもいろいろあるのだろう。今もそれは続いているのだろうが、人も国家も一応それらの間違った行いを改めようとはしているのではないか。もちろん全面的に改めるには至っておらず、それは今も世界各地で起こっている紛争からも明らかだが、経済発展した地域では、紛争が内面化されていて、軍事衝突というよりも治安的な警察沙汰となっている。たぶんそれが進化とは言わないのだろうが、戦争が映画や漫画などの虚構の中に後退して、実際の戦争を取り扱ったニュース映像も、紛争地域の遠さと隔たりを感じさせるわけだ。たぶん世界は何かに覆われているのであり、その中で人が確実に眠らされようとしている。それは文明の退潮を予感させる。例えばフェイスブックやユーチューブなどが介在して、そうなっているのかもしれない。一つの文明が終わり、また新たな文明が始まっているのだろうか。文明と文明の間が断絶しているのか連続しているのかわからないが、それは人を何かから背離させる力がありそうだ。何かとは何なのか。何かが変質しようとしているのは確かかもしれない。でもその何かとは何なのか。それはまだ認識することが不可能な何かなのではないか。過去の遺物なのかもしれないが、失われて初めて思い当たるような何かなのだろう。今はそれに気づく必要はないのかもしれず、それは忘れ去られるべき何かなのだろう。それにしてももはや大勢は決しているのではないか。いったいどんな大勢が決しているというのか。はっきりしたことは何もわからない時点でそれはないか。わかる必要もなく、大勢が決していることにも気づく必要さえないのかもしれず、人は黙って眠らされていればいいのではないか。しかしなぜそうなってしまうのだろうか。何が暗躍しているわけでもなく、すべては目の前にあり、人がそれを招いているのだろう。でも人とは何なのか。

 それはすでに死せる人でもまだ見ぬ人でもなく、今この時代に生きている人たちだ。人が人である限りは、人にはなれないのではないか。これまで通りの人であるしかない。すべては間違っているのかもしれず、たとえ間違っているとしても、その間違いを押し通して、決着をつけなければならないのだろう。しかし決着とは何なのか。これからそれがわかるのだろうか。それともわからなくてもかまわないわけか。決着がついたことに気づく必要もないのか。では何のための探求なのだろうか。人が何を探求しているわけでもないか。ただ流されている。流れて行く先に何かあるのかもしれないが、流れ着いてみるまではわからない。流れ着いてもわからないのかもしれず、流れ着いた先で何を見出すこともないのかもしれない。人は放浪するしかないわけか。それは人が人でなくなる過程であり、人でなくなった時に初めてそれに気づくわけだ。人でなくなったことに気づく。でもそれに気づいてどうなるのだろう。ただ気づくだけで、それ以上の進展はなさそうだ。話は前に進まず、後戻りもしない。誰もが途方に暮れ、その場に立ち尽くすしかない。そんな未来を予感させる。得るものは何もなく、得られるものは定かでない。もうそこで行き止まりとなり、そこから先へは前進できなくなる。それでも人は歩み続けている気になり、寝言をつぶやきながら、夢の中で歩いている。どうもそれは遠い未来の話ではなさそうで、すぐにも到来しそうな予感がしているらしく、近い将来現実に体験できるのではないか。人はそこで生きているのでも死んでいるのでもなく、ただ物質に還元されているのだろう。その時点で何かが起こったわけではなく、過去のある時点でも起こっていたことが、未来のある時点でも反復的に起こり、そのどちらもが架空の出来事で、その過去と未来の同じような出来事の間で、人は自身が生きていることを実感するのだろうが、それが夢の中で起こっていることに気づかないまま、それらの生きているのでも死んでいるのでもない状態が、現実の世界に固定されているわけだ。果たしてそんな説明でいいのだろうか。わかるわけがなく、理解の外側に言葉の連なりがはみ出ているようにも思われ、実質的には気の迷い以外の何を語っているのでもないのだろう。しかしこの感覚は何なのか。たぶん何かに配慮しているのだろうが、それに気づいてもらっては困るのだろうか。


7月1日

 欧米由来の国民国家は建国神話を必要としている。その辺はイスラム国家も同じで、何でも正統カリフ時代を現代によみがえらせようとしているらしい。日本も明治維新で欧米由来の国民国家になったわけだが、昭和初期ぐらいに軍部の圧力が増したあたりから、国民の間に建国神話が広まったのかもしれない。神武天皇が即位して2600年ぐらいが経過しているわけか。実質的は天武天皇が即位したあたりからの話なのかもしれず、当時の中国の唐王朝に対抗して『古事記』という建国神話を編纂したのだろうか。白村江の戦いで唐新羅連合軍に敗れてから、それほど時間が経っていない頃だったから、外国との軍事的緊張が高まっていた時期で、それは昭和初期も同じだったかもしれず、外圧が自分たちを夜郎自大に見せようとする契機になるようだ。そういえばアメリカの建国神話であるピルグリム・ファーザーズの話も、米英戦争あたりの時期に一般に広まったのかもしれない。要するに帝国という強大な敵に対して立ち向かうには、国民が建国神話を共有して、一致団結しなければならないということか。今回のイラクとシリアにまたがる国家はアメリカ帝国に立ち向かい、天武天皇の頃の日本は唐帝国に立ち向かい、昭和初期の軍国主義の日本は鬼畜米英に立ち向かい、独立間もない頃のアメリカは大英帝国に立ち向かっていたわけか。それも新たな建国神話というフィクションの続きだろうか。今回の国がこのまま拡大して、旧イスラム帝国の領域全体にまでその版図を広げたらおもしろそうだが、それには欧米由来の国民国家の壁を突き破らなければ無理だろう。イスラム帝国はアッバース朝時代になると、帝国内の民族宗派に関係なく、イスラム教に改宗した人には平等の権利を認め、改宗しない人でも割り増しの税金を納めればよかったわけで、今回のようにイスラム教スンニ派だけの国とは違ったわけだ。その辺に勘違いがあるのかもしれず、それはアフガニスタンのタリバンなどをはじめ、イスラム原理主義の人たちに共通する勘違いなのかもしれない。要するに彼らはイスラムの名を借りた右翼の国家主義者なのであって、その辺は案外欧米や日本などにいる同種の排外主義者たちと、同じメンタリティを共有しているのかもしれない。それは世界共通の認識なのか。

 結局資本主義の発展によって、民族や宗教や文化などの共同体の絆が断ち切られてくると、それへの反動として、何とかそれらを取り戻そうと躍起になる人たちが台頭して、世界的にそういう人たちが踊っている状況なわけか。日本の場合はそういう人たちが左翼を叩くことで、資本主義の弊害をごまかそうとしているわけだが、国会の勢力図を見ても、今や左翼などほとんどいないわけで、要するにそういう左翼叩き自体がフィクションなわけで、比較的まとまった購読者がいる朝日新聞や毎日新聞などが、格好の攻撃目標となっているわけだが、別にそれらの読者が左翼というわけでもないだろう。ひと昔前の民主党も左翼といったわけでもなく、欧米の社会民主主義を標榜する人たちも、広い意味での国家主義者なわけで、そういう国家主義者たちが右と左に別れて、偽りの対立を演じながら、資本主義の弊害から国民の目を背けさせようとしている現状があるのではないか。考えてみれば資本主義自体、拝金教という宗教と呼べなくもなく、今や世界全体が拝金教に染まっているわけで、その中で一部の人たちが、想像上の共同体の絆を取り戻すために、見当違いな攻撃を仕掛けているわけか。見当違いというわけではなく、拝金教をもっと栄えさせるように、無意識のうちに操られているのだろう。彼らが目指す想像上の共同体とは、拝金教の副作用から生じる貧困の痛みを和らげるための麻薬のようなものか。そんな行為を続けてみて、裏切られた思いが募ってくれば、次第にそういう勢力も衰退していくのだろうが、そこで踊っているダンサーたちがいなくなれば、拝金教も衰退してしまうのだろうか。それともそれと入れ替わりに、また新たなムーブメントが次から次へと起こり、拝金教は人類がこの世界から消滅するまで続いていくわけか。そんな宿痾と上手につきあっていく方法が、果たして今後見出されることがあるのだろうか。今までそれに立ち向かってきた人たちは、共産主義者を始めとして、そのことごとくが敗れ去ったわけだが、もしかしたら立ち向かう必要などないのかもしれない。大げさに立ち向かう人々は、却って利用されたあげくに、ミイラ取りがミイラになったようにして、拝金の徒となってしまうわけで、中国人などがいい例なのかもしれないが、どうも立ち向かうという行為から、有効な打開策が導かれることはないのかもしれない。ではどうすればいいのか。

 拝金教をうまく利用して、その内部から瓦解させる方法でも考えているのだろうか。瓦解させなくてもいいのではないか。ではどうすればいいのだろうか。逆にもっと繁栄させなければならないわけか。たぶんそれも違うだろう。とりあえず嫌ことを無理にやる必要はないということだ。そこでがんばってしまうと、拝金教の思うつぼで、下手をすると過労死するまで働かされてしまう。家族のため会社のため国家のためだとか、そういう想像上の共同体由来のイデオロギーに殉じてしまうと、絆という美学的な価値観の共有と引き替えにして、使い捨ての消耗品として扱われてしまうわけで、いざとなったら、家族を捨て会社を捨て国家を捨てる勇気を持たなければならない。たぶんそれは間違った行為とされるわけで、あからさまにやってしまうと弾圧の対象となってしまうのであり、できればそういう究極の決断を迫られる立場に追い込まれないように、日頃から本音と建前を使い分けながら、使い捨ての対象から逃れるための気配りが大切となってくるのだろう。要するに拝金教徒として卑屈に生きろということか。たぶんそれにも限度があり、運悪く決断を迫られた時は腹を括るしかない。そして覚悟を決めた後にどうするかが問題となってくるわけか。やはりその辺でうまくいかずに堂々巡りだろうか。答えのない問題と格闘する羽目に陥り、心身ともに消耗して、そこから先がなくなってしまうのか。どうやらまた振り出しに戻ってきてしまったらしい。それでも何とかしようとしているのだからご苦労なことか。


6月30日

 作り話に逃げていて、現実に起こっている出来事に言及できなくなってしまったのか。どこから逃げ気ているのだろうか。さあ見当がつかない。逃げていく先に何が待ち受けているのかもわからない。逃げていることだけは確かかもしれないが、なぜ逃げなければならないのか。また夢の中での逃走劇なのだろうか。そんな内容の映画を見たわけでもなく、ただ逃走映画のあらすじを読んだだけか。確か少し前までは何かを追い求めていたような気がするのだが、それにはもうすでに飽きてしまったのだろうか。それにしては逃げたついでに、またくだらないアイテムを手に入れてしまったかもしれない。使いようによってはおもしろくなるのだろうが、今のところは使い道がないらしい。使ったところで戯れ事にすらならないようだ。それでかまわないのだろう。そう思うしかなく、それ以上を期待するわけにもいかないのかもしれない。今のところはそうだ。そこで何を語ろうとしているのでもなく、ただ戯れているに過ぎない。それは出来事ではなく、ただの空疎な映像に過ぎないのだろうか。中身が何もない。それが中身なのかもしれず、何もないことがそれらの映像のすべてだ。それでも映像には違いなく、たまにはその中で何かを語っているのだろう。それは空疎な事実だ。それ以上を求めるわけにもいかず、それに満足するしかないらしい。それでは不満なのに、満たされているわけだ。それはいつもの状況だろうか。

 新聞やテレビニュースは、世論調査の結果にメッセージを込めて、現状を訴えかける。それが不都合な現実だと主張する。憂慮すべき事態だと言いたいらしいが、それに呼応して誰が踊るのか。揚げ足取りが好きな連中が嘲笑している。結果の恣意的なねつ造だと批判したいらしい。誘導尋問のような設問を用いて、思惑通りの回答を引き出している。それがメディアによる世論操作の実態か。それを右翼陣営と左翼陣営とに分かれて、各種メディアが支持を競い合う。自分たちの懸念をこんなに大勢の人たちが憂慮していて、自分たちの主張をこんなに大勢の人たちが支持している、と喧伝しているわけか。でもあながちそれらの憂慮や支持がねつ造だとも言えないのだろう。多くの人たちが実際に新聞を購読し、テレビニュースを見ているのだから、それはそれらのメディアに対する暗黙の支持を表しているのではないか。信頼している人も大勢いるはずで、メディアと話題を共有しているはずだ。左翼メディアを嘲笑したり罵ったりして、それらのメディアの世論調査結果を否定するのに躍起となっている、右翼メディアとその支持者たちも、そういう認識を共有しているから、さかんにネット上のコメント欄に罵詈雑言のたぐいを書き込んで、仕掛けているわけだが、果たしてそれで自分たちへの支持に結びついているのか。実際に支持が拡大しているわけか。

 そんな日本の右傾化の副作用なのか、ここにきて中国の習近平国家主席が北朝鮮より先に韓国を訪問するらしく、怒った北朝鮮がミサイルを発射したのかどうか、その辺の事情はよくわからないが、日本政府が中国や韓国と政治的に対立しているのが功を奏して、朝鮮半島情勢が緊張緩和に向けて動き出しているということだろうか。これで中国の国家主席の訪韓にあわせて、日本の首相が北朝鮮を訪問すれば、画期的な出来事になるかもしれない。そして朝韓の国境線上の板門店で、中韓日朝の4カ国首脳会談が実現したりするわけか。安倍ちゃんがそれを狙っているとしたら大したものだが、まさか日本の政府関係者もそこまで冴えていないか。しかしそういうパフォーマンスを仕掛けて、何か得るものがあるのだろうか。そこで何も決まらないとしても、とりあえず4カ国の首脳が一堂に会することに意義があるわけか。アメリカの主導権を脅かすことになるのだろうか。そんなことを定期的にやれば、それだけ東アジアの平和に貢献するだろうし、東アジアが緊張緩和に向かえば、在日アメリカ軍の削減の口実にもなり、沖縄の基地負担も減らせるのではないか。それには中国の習近平体制が、どこまで国内のアンタッチャブルな状況を改善させるかも鍵となってくるだろうし、それによってアジアへの覇権政策も変わってくるだろうから、今のところは何とも言えないのかもしれないが、嫌韓嫌中の経済評論家などが言うように、韓国も中国も経済的に行き詰まって崩壊寸前だから、互いに接近を図っていて、嫌われ者同士で協力関係を結ぼうしているのか、また一連の瀬戸際外交が裏目に出て、外交的にも経済的にも崩壊状態の北朝鮮が、日本からの経済援助を引き出す目的で、日本と交渉したがっているのか、仮にそんな思惑があるとしても、今がチャンス到来なのだろうか。でもたぶん日本はその千載一遇でもないチャンスを逃してしまうだろう。習近平の訪韓もスルーしてしまうのではないか。そしてそれとは無関係に、安倍ちゃんが何かの隙を突いて電撃訪朝し、拉致被害者の何人かを連れ帰って、マスコミと国民が拍手喝采を浴びせるわけか。そんな勝手なことをやればアメリカがかんかんに怒るだろうか。


6月29日

 何に言及するつもりだったのか。独りよがりにも度が過ぎる。すでに冗談のほどを超えているだろうか。こねくり回しているうちに、だいぶ面倒くさい言葉の並びになってしまったようだ。言葉を連ねるほど、具体的な事象をつかみ損ねているように思われる。ならば仕方がないか。できないことは素直に認めて、自然に出てくる言葉を連ねるとしよう。わかりやすい表現を断念してしまいそうだ。待つしかないらしい。何を待っているのでもないが、やはり待っているのだろう。待ちきれずに、まともな言葉の並びになるまで記そうとするが、試みは失敗に終わる。何も出てこなければそれまでのことだ。意味不明気味に酔っているわけではない。表現とは違うらしい。何か別の事象に気を取られている。それが何を意味するのかわからない。狭い範囲で考え過ぎか。黙っているだけでいいのではないか。たぶん虚無はいくらでも黙っているはずだ。主語が足りないのではないか。主語となるべき主体が不在なのだろうか。わざとそれを明かさないのではないか。それを記さない理由がわからないが、確実に私がいないようだ。省いているのではない。私から始まる文ではないのだろう。どのように記してもかまわないはずなのに、あえてそれを避けているのかもしれないが、避ける理由が見当たらない。でも避けているのだろう。避けられないのに避けながら、避けている間に何か考えているらしい。レトリックに過ぎないのだろうか。それですらないのではないか。あえて危険を冒す必要がないということか。私が語ることにどんな危険があるというのか。それが私でないので、嘘をついていることになってしまうのか。でもそれは危険のうちに入らないことだ。では危険とは何なのだろう。私と語る者のすべてが私でないとしても、私が複数いるはずもない。それはごまかしのはぐらかしにしかならないだろう。どうやら他者の問題に行き着かないようだ。それで正解なのだろうか。他者に関わらない方が身のためか。いらぬおせっかいは禁物か。そういう方向での語りは退屈極まりない。楽しみは後にとっておいて、もう少しの辛抱なのだろうか。今は私については語れないのであり、それは他者の問題ではなく、自己対話の延長上にある齟齬かもしれない。そう述べて何とか切り抜けようとしている。切り抜けられるわけがないだろう。

 言葉の問題ではないらしい。つぶやく必要もないことだ。私以外の誰がつぶやこうと、この世界は変わらない。それとは無関係に誰かが言葉を記し続け、何かを語り、語れずに断念したりする。そんな行き詰まりの彼方に何かがあり、それが世界を変える言説なのか。あり得ないことだ。現実に何を変えようとしているのではなく、変わらないことに苛立っているだけか。そこで誰が敗北を喫したわけではなく、いつも通りの成り行きに退屈しているだけではないのか。付け焼きの論理を主張すべきではなく、間に合わせの妥協策を講じるべきでもない。実際にそうなっているとしても、それは政治上のレトリックの範囲内でやっていることだ。その有効性は限られていて、たぶん偶然の出来事の前に敗れ去る運命なのだろう。面子をつぶされて悔しがるわけだ。実際の有効性はその先にあり、その先では恣意的な解釈がまかり通り、場合によっては超法規的措置を講じざるを得ない。その場の成り行きにまかせて勝手なことをやろうとして、夢の続きを追い求め、気がつけば瓦礫のただ中に呆然と立ち尽くしている。アウシュヴィッツを語れる者は誰もいない。語る資格のあるものはみんな死んでしまったからだ。でもそれが政治的なレトリックに過ぎないとしたら、真の物語はどこにあるのか。不在や否定の語りでは不完全だ。それはあえて語る必要のない物語なのではないか。少なくとも君が語るには及ばない。記念行事とは無縁の領域に語るべき内容があるとしたら、それについてメディアが伝えていることは空疎な絵空事に過ぎないのか。たぶんそこに私は存在しない。指示対象を持たない不特定多数の不在があるだけか。すべては誰でもよかったのであり、通り魔が口にする誰でもよかったという台詞が、事の成り行きのすべてを物語っているのではないか。特定の誰かではなく、誰でもかまわない人たちが特定の役割を担わされているから、無責任な言動や行動に終始できるわけだ。すべてが戯れ事の範囲内で行われていることであり、そこでは誰も本気になる必要はなく、例えば本気で人を殺傷してしまった者は、その場の空気を読めないKYな人になり、もちろんそれはルール違反なのだろう。そんなわけで人は常に遊び半分で何かをやっていないと、後でとんでもない負債を背負わされてしまう羽目に陥るわけだ。絞首刑にされてからでは、何も発言できなくなってしまう。そんな説明もごまかしに過ぎないか。

 たぶんごまかしのない説明などできないだろうし、ありはしないだろう。説明自体がごまかしでしかない。途中からズレているし、はぐらかそうとしている。わかっていることなのに、自然とそうなってしまうわけだ。そこに語り得ない何かが立ちふさがっていて、それを避けることでしか語り得ないのであり、避けてしまえばごまかしとなってしまい、語った後からやましさに苛まれ、心はフィクションの中で満たされるしかない。ごまかしだらけの説明自体がフィクションになり、そこで話のつじつまあわせに使われた嘘やごまかしが、物語の構造を支えているわけだ。それがなければ瓦解するしかなく、不連続で矛盾だらけの出来事を嘘やごまかしでつなぎ合わせて、一つのまとまった話として、かろうじて成立させているわけだ。そこに語りの真実があり、避けようと思えばいくらでも避けられるのに、実際に避けて通っているつもりが、気がつけばぶつかっている。ぶつかってしまえばフィクションの虜か。何に囚われているわけでもないのに、策略を弄して切り抜けようとしてしまう。戯れ事に過ぎないのにむきになって、そこから脱出しようとして、却って深く入り込み、まとわりついてくる言葉の蔓に絡めとられ、できるだけ詳しく説明しようとすれば、それだけ多言を費やして、装飾過多な言説の虜となってしまう。いったい何を語っているのだろうか。わけがわからなくなってからではもう遅いか。それでもバランスに気を配っているつもりか。でも何の均衡をとっているのだろう。振り返ろうとしても、すでに取り返しがつかなくなっているのだろうが、たぶんそんな現状を改める必要などないのだろう。手遅れになってしまった方が気楽になれるのではないか。


6月28日

 自己責任とは何か。それに関して思い当たる節がすぐに出てくるわけでもないが、そこで行われている行為は誰もが知っているはずだ。でもそれを何と比べて語ればいいのか、その辺がよくわからないところだろうか。どうせいつものようにしらばっくれているのだろう。気が散っているのかもしれない。それでもうまく逃げ果せて、ここまでやってきたはずだが、大したことではないらしい。感慨は何もなく、それが何を意味するものでもないらしい。ただそこに言葉の連なりがあり、何か語っているような気がしないでもないが、それがどうしたわけでもないらしい。要するに無責任なのだ。無責任に振る舞うのも自己責任のうちか。虚無は自己とは無縁の不在だ。そこに他者が介在しているとしても、自意識過剰を受け入れるわけにもいかず、受け入れられないからこそ、自意識過剰となってしまうのだろうが、他者の視線にさらされて、そこから影響を被っているのだろう。それは過去の他者でも未来の他者でもなく、心の中に巣食っている不在の他者か。意識が把握できない場所に他者がいるらしい。でもそれは空想するしかない存在で、本当の他者とは違うのではないか。君は他者の存在に気づいていない。自己の鏡像でしかない空っぽの存在を空想しているだけだ。その不在に自らの恣意的な都合も反映させることもできない。他者を求めていないということか。それを手段とするとともに目的としないと、人は生きてゆけないのかもしれないが、たぶん架空の人物は不在のままだ。物語になっていないのだろう。語りようのないことを語ろうとしているらしいが、それで語っていることになるのだろうか。そこから先には進めないのに進もうとする。そんなことの繰り返しのうちに、頭の中で何かが弾け、毛細血管でも破裂しているのかもしれないが、目の前が真っ赤に染まる幻想を得て、架空の街路にでも飛び出していってしまうのだろうか。そんなわけですべては空想上の話となってしまうらしい。そこから何かを得ようとしているわけだ。それが利益なのか。虚無は不在ではなく利益なのだろうか。

 たぶんそこから利益を得ている人は、それについて発言する権利があるのだろう。多くの人がそれを支持しているわけだ。それが一種のステータスとなっているのではないか。でも君はそれについて語る権利があるのだろうか。いったい何について語ろうとしているのか。世の中の何が間違っているのか。まず始めに君が間違っているのではないか。正しい主張とは何だろう。何を礼賛したらいいのか。それがわかれば苦労はしない。君はどこから利益を得ているのか。空気を吸って生きているから空気から利益を得ているのだろうか。どうも真正面から批判できないことがあるらしい。大半の人がそこから利益を得て、実際に幸せに暮らしているのだろうから、それをことさらに批判するのはおかしい。実際にそれによって不幸な生活を強いられ、悲惨な境遇にある人ならまだしも、たぶんそういう人に発言する権利がないのだろうから、そんな人たちになり代わって、それとは真逆な多大な利益を得て、何不自由なく暮らしている人が、それを批判するのは倫理的に間違っているのかもしれない。しかし現実にそれを批判している人たちは、やはり社会的なステータスを持っているわけだ。誰もがその辺の矛盾は重々承知しているわけだが、批判する権利がある人たちは、その批判している当の対象から利益を得られ、それによって損害を被っていることにすら無自覚な人たちは、批判する権利すらなく、批判しようとすらせずに、ただそこで悲惨な境遇を受け入れるしかない。それがこの世界の矛盾を形成しているのかもしれないが、そんな人たちに発言権がないのはおかしいか。別におかしいわけではない。大衆の支持を得ている人により大きな発言権があるのは、この社会の常識なのではないか。そんな彼らが、発言権のない無名の大衆の代弁者となって、その支持者たちのために語ってくれているわけだ。彼らの語りが大衆が求めているものを的確に表現しているわけか。それが正しい主張なら申し分ないだろうか。でも君はその正しさの基準を知り得ない。何が正しく何が間違っているのか、それを知りたいわけでもなく、知る機会もない。

 しかし大衆はくだらない手間をかけているのかもしれない。そう思っている限りは誰も大衆ではない。大衆の中に君はいない。特定の顔がない大衆は無力であり、それは常に操作の対象となる。誰もそこにはいないのであり、ただ語る権利を持った者が語る空虚な不在だ。それが語る対象となる度に、それについて語る者の都合に合わせて、大衆の顔が語りの中に浮かび上がってくるが、その顔が特定の誰に結びつくこともなく、ただ架空の顔として、語り手のフィクションとともに世の中に流通するに過ぎない。大衆の語り手はその虚構に同調する哀れな多数派を求めている。自分の主張に多数派が同調してほしいわけだ。しかし多数派とは何なのだろう。それも語り手が求めている空想上の人たちなのだろうか。そこに何らかの最大公約数的な主張を想定できるのか。少なくとも誰もが幸せになりたいのであり、多くの人が幸せになれる方法がその主張に含まれていたりするわけか。そんなことを無意識のうちに考えていたりして、それが語りから読み取れると、多くの人の賛同が得られるわけか。あるいは嫌われ者を攻撃したりすれば共感を得られるだろうか。でもなぜ多くの人の賛同を必要とするのか。大衆の支持が政治的な力となるからか。かつて嫌われ者を標的として一躍人気を博したのがヒトラーだったわけだが、その際仮想敵として浮かび上がってくるのが金持ちのユダヤ人となっていたわけか。ではそうした否定的なやり方ではなく、真の幸福の実現を主張していたのは誰だったのか。それがあからさまにわかるのが宗教団体の手口だろうか。それも洗脳によって対象者が盲従するようにしなければ無理だろうか。それほど大げさなことではない。ただちょっとした何かに同意してもらえばいいわけだ。世の中を変えるとか、そういう誇大妄想的なことではなく、日々の暮らしにちょっとした幸福感をもたらすような何かが必要とされていて、その何かを大衆は求めているのではないか。だからこのままの現状でもかまわないのであり、不満を抱いて世の中に反逆しようとしているのは、いつも少数派であって、そんな愚かな少数派を嘲笑するのが大衆の役割なのではないか。でも具体的に誰が愚かな少数派に属しているのか。もしかしてそんな嘲笑の対象となっているのも、多数派を構成する人々なのではないか。たぶんこの世の中に真の意味での少数派など存在せず、それは多数派が抱く虚構の不在でしかあり得ないのではないか。誰もそんな者など見たことはなく、虐げられた少数派などどこにもいない。この世に生きているすべての人たちが多数派に入っていて、そんな多数派の気を惹こうとして、メディア上で常に誰かがひっきりなしに踊っているわけだ。では踊っている彼らに自己責任が生じているのだろうか。彼らにはどんな責任があるのか。まさか彼らが大衆を幸せに導く責任を負っているわけか。それは恐ろしい冗談だろうか。


6月27日

 すぐに思い当たる原光景は貧しい。精神分析用語はそれふうの解釈をもたらすが、当たっていなくても遠からずなのか。雨が降っているのだろう。ただ雨が降り続いている。それとは違った解釈もあったはずだが、それは封印している。その場所へ至る前に外れてしまったのかもしれない。いつもそうだ。何も思い出せずにおびえている。何を主張しているわけでもない。もう忘れてしまったらしい。思い出せないまま忘れている。状況に合わせた自然な発想ではなかったのかもしれない。うまくいかなかった試みだ。それをまだ試している。今もまた言葉を記しているわけだ。不意にそう思う。思わなくてもかまわないのだろう。何かが周期的に回帰している。それは同じような言葉の連なりをもたらし、誰かを困惑させる。なぜそうなってしまうのだろうか。必要のないものを求め続け、それを獲得しようと試み、いつも失敗しているのではないか。確かに空疎な言葉の連なりで、中身が何もない。別に卑下しているとも思えない。いつも同じように推移して、結果は落胆とともに到来し、また振り出しに戻ってしまう。いくら試みてもそれ以上の水準がもたらされるわけでもなさそうだ。余分なのだろうか。たぶん批評が余分なのだろう。その必要のないところで批評しようとしている。その余分な批評に寄りかかりすぎているということか。謎解きがしたいらしい。批評が無理ならそうしたいのだろう。謎を解き明かし、解き明かした主体を誇示したいのか。それでは行き過ぎだろうか。たぶんそれ以上の何かを求めている。行き過ぎ以上の過剰を求めているわけか。それは何なのか。富と名声だろうか。その通りかもしれないが、無意識のうちにそこから降りてしまう。現状では期待できない。人は物ではないと思いながらも、人を物として見なし、それを恣意的に取り扱いたい。そこから外れるとはどういうことなのか。まだ何も明らかになっていない。その意味不明な試行錯誤をくぐり抜けなければ、たどり着けない境地がある。それが独りよがりな幻想なのか。それを否定するわけにもいかないだろう。幻想が行く末を決める。あるべき未来がそこにあるのかもしれない。

 真理をつかみ損ねて心が解離してしまったのだろうか。そういう言葉の用法はないのではないか。それでもわかりきっていることはあるわけだ。特定の言語や慣習に依存する国家に普遍性はない。ただそこには特有の歴史と特殊な事情があり、それがそこに住んでいる人たちを惑わしている。国家とともに自己正当化したいわけで、要するに自分たちが何やら特別な民族だと思いたい。どう考えてもそこに限界があるのだが、それを認めたがらないのだから、国家に心を奪われている人たちは救われない。それでも世界が国ごとに分かれている現実があるのだから、国家の存在を前提として、まずは国家ありきで、そこから物事を考えなければならないのだろうか。いくら考えても国家そのものに不具合の原因があるのだから、結局国家の中で政治家や官僚や学者や評論家や国民が、自分たちが関係する政党や官庁や議会や企業や学校や家族などの各種団体で、あるいはテレビの討論番組やネット上のSNSなどで、お互いに責任のなすり合いに終始するしかないだろう。それともそれとこれとは違うのか。そもそも何がそれで何がこれなのだろうか。そこには様々な何かがあり、その何かに依存しながら誰もが生きているのだから、その依存している総体を成している国家を否定するわけにはいかないということか。その辺が厄介なところだろうか。厄介というか、何かに依存しなけば生きていけないと考えてしまうことが、そもそも間違っているのではないか。何が正しくて何が間違っているかなんて、それを判断する材料がそもそも人それぞれで違う。現実にある特定の国家の中で暮らしているとすれば、その国家に依存して生きていると考えてしまうのも無理はない。その辺から幻想が始まっているということか。自らが属している何らかのカテゴリーに、精神的あるいは経済的に依存しているとすれば、そのカテゴリーを守らなければと思うのは自然な発想だ。そしてその対象を守り発展させるために、使命感に燃えて、政治家や官僚になったりする人がいるわけだ。政治家などが演説している内容は、だいたいそんなたぐいだ。そういう暑苦しい使命感やら情熱やらを抱かせないようにした方がいいわけか。さあどうなのだろう。どうすれば幻想を取り去ることができるのだろうか。


6月26日

 この世界には力まかせに動かそうとしても動かない物がある。それは重い物だ。重さの程度にもよるのではないか。動かそうとする力の程度にもよるのだろう。動かそうとしなくても動いている物もある。大半の物が動いている。人はすでに動いている物を恣意的に別の方向へ動かそうとしているわけか。それが人の性質なのではないか。それも自然の成り行きなのだろうか。どこからどこまでがそうであるわけではなく、人と自然の境界は定かでないが、人が動かせば人為的に動かしていることになるのだろう。人は物を動かすことに魅力を感じている。思い通りに動かしたい。そのためには努力を惜しまない。たとえそれが徒労に終わろうとも、あきらめずに何度でも挑戦してしまうわけだ。それが人の業というものだろうか。運命には逆らえず、逆らおうとすれば現実に連れ戻され、それを受け入れるしかなく、あきらめてそれを成し遂げるために生きる。成し遂げられなくてもかまわないのだろうか。成し遂げようとしているのだから、かまわないわけはないだろう。でもその辺で勘違いが生じているわけだ。ともかくそれが勘違いだと気づくまでは、ひたすら努力するのだろう。しかしなぜそれが勘違いなのか。それも勘違いに気づいてみないことにはわからないか。たぶん気づいてみて、初めてそれが勘違いだったとわかるのだろう。要するに勘違いに気づくためにも努力が必要なのだ。だからこれからも無駄にひたすら努力しなければならないようだ。きっと誰もがそうしているのだろう。すでに出口は閉ざされ、後戻りができないようになっている。時間の進み方がそうなっている。前にしか進めないわけだ。

 それにしてももう間に合わないのではないか。細かいことは何もわからない。今さら学ぼうとも思わないのだろう。気づく機会を失い、思考も空回りしている。季節は過ぎ去り、秋も深まって、寒暖の変化に身体がついてゆけない。年老いた誰かが故郷から遠く離れた街で迷子になっているのかもしれない。彼は見捨てられたことに気づいている。戻る場所もなく、路頭に迷うしかないわけか。そうならないうちに何とかしなければいけなかったわけだが、努力を怠っていたわけではなく、ただその努力が実らなかったわけだ。しかしそこに至るまでにどんな経緯があったのだろうか。どのような成り行きでそこまで流れてきたのか。断片的なその映像を見ただけでは何もわからない。それがフィクションであることを願っているのかもしれない。行き倒れの過去がフィクションの中で語られ、路上に横たわる未来の屍を暗示させるわけか。でも映像が何を物語っているわけではなく、そこに映っているのは埃にまみれたしわだらけの無表情と、その背後に重く垂れ込めている曇り空だ。それを誰かが想像して、そこから話を膨らまそうとしているのだろう。そんな荒野の風景と同化してしまった老人のもとに、何か新しい出来事が訪れるはずもなく、足下の荒れた大地は何の実りももたらさず、コンクリートとアスファルトで固められた道路の所々はひび割れ、ひび割れた隙間から赤褐色の乾いた土がこぼれ出る。もはや誰が何を眺めているわけでもない。いつまで経ってもリアリティの導入の拒否し続ける語り手に、不満はあるが猜疑心を抱くには至らず、諦念とともに心は自然とそこから遠ざかり、別の何かを空想する気も起こらず、淡々と曇り空を眺めているだけで、衣服を通して差し込んでくる風を肌で感じながら、時が過ぎゆくのを待っているようだ。だがいくら待っても誰も現れない。誰を待っているわけでもないのだから、それは当然の帰結だが、冗談で空虚をごまかすわけにはいかないようだ。

 雑な思念に囚われている。もうあきらめた方がいいと諭すべきなのか。諭したところでそれを受け入れるわけでもないだろうが、ともかく反発を誘発させてでも、物事を動かさなければならないのだろう。それが人の業なのか。とりあえずフィクションの中では、話を盛り上げるためにそういう成り行きになってしまうのだろうが、現実の世界ではどうなのだろう。行き当たりばったりで、その場の気分次第でどうにでもなってしまうということか。しかし誰の気分次第で、誰の運命が左右されてしまうのだろうか。誰がどうなろうと、代わりの人材はいくらでもいるのだろうから、それは誰にとっても知ったことではないのかもしれず、気まぐれな運命などに大した意味もないのだろう。状況がどう転んでも大勢に影響はないわけか。影響があったとしても、それによって誰が得して誰が損したとしても、他の誰かにとっては関係のないことか。荒野に生えているヨシュア・トゥリーの画像を眺めながら、枯れた盆栽もついでに眺め、それも隣りの画像に過ぎないことに思いを馳せ、大豆アレルギーに悩まされながらも、大豆とともに糊口を凌ぎ、どうにかまだ誰かは生きているらしい。相変わらず誰でもないのだから、虚構の住人に過ぎず、取り立てて誰になろうとしているわけでもない。ひび割れたアスファルトの上に佇む老人も、架空の物語さえ紡ぎだせぬまま、荒野のただ中で置いてきぼりを食っているようだ。その生死は未だ明らかにならず、そうなる前に話が途切れ、何も語らなかったことになってしまうようだ。話す水準が未だに定まらないので、まともに語りようがない。人は目の前にいる他者を認識できない。ただ鏡に映った自らに見とれているだけで、それ以外の姿を認めようとしない。そんな心持ちでいる限りは、他者との対話は困難を極め、それすらもまともにできないのだから、対話をすること自体が不可能な、過去や未来の時空に存在する他者のことなど知るよしもない。そしてそんな自己対話から何が生じているわけでもなく、ワールドカップで自己対話に終始していた人たちも、その天狗の鼻をへし折られたぐらいで目が覚めるわけもないのだろう。


6月25日


シバ神

 世界3大宗教というとキリスト教・イスラム教・仏教だそうだが、宗教人口の多い順だとキリスト教・イスラム教・ヒンドゥー教らしい。仏教は広がっている地域は広いが、人口ではヒンドゥー教に負けているようだ。その大半はインドにいるのだろうが、インド人以外にヒンドゥー教を信仰している人がいるのだろうか。ネパール人あたりがそうか。

 イスラム教はスンナ(スンニ)派とシーア派以外にどのような宗派があるのだろうか。主なところではムータジラ派とアレヴィー派とイバード派とドゥルーズ派とハワーリジュ派というのがあるらしい。最大宗派のスンナ派が全体の8〜9割で、次のシーア派が1〜2割だから、他の宗派はごく一部ということだろう。スンナ派やシーア派の中にもいろいろ細かい宗派があるらしく、その辺のところを考慮すると、いったいどれほどの宗派があるのかよくわからなくなる。ともかくシーア派は、「イスラム教の開祖ムハンマドの従弟で、娘婿のアリーと、その子孫のみがイマームとして預言者のもつイスラム共同体(ウンマ)の指導者としての職務を後継する権利を持つと主張する」(ウィキペディア)という限定性があるから、一部の熱狂的な信者がいる反面、多数派にはなれなかったのだろう。歴史的に見ても、第4代正統カリフのアリーが暗殺された後、ムハンマドの親戚のウマイヤ家が実権を握ったウマイヤ朝時代に、度々内乱を起こしたが鎮圧され、同じくムハンマドの親戚のアッバース家と同盟を組んで、ウマイヤ朝を倒したまでは良かったのだが、多数派のスンナ派を味方につけたいアッバース家に裏切られ、結局アッバース朝時代にも、度々内乱を繰り返しては鎮圧されていたわけだ。でもそれは今から千年以上も前の話で、その後シーア派の王朝もあったらしいが(16世紀のサファヴィー朝)、近代における宗派対立を作った決定的な要因は、やはりヨーロッパ諸国による植民地支配と、その後の国民国家としての独立が背景となっているのだろう。

 ヨーロッパ諸国による進出以前のオスマン帝国時代であれば、特定の民族・宗派は問わずに帝政による一律支配で、またサウジなどの王国では、やはり王族による一律支配で成り立つから、特定の民族や宗派による、反乱や反乱の嫌疑さえかけられなければ(オスマン帝国によるアルメニア人大虐殺)、弾圧されることもないのだろうが、その後にオスマン帝国から領土を奪ったヨーロッパ諸国の都合で、勝手に国境の線引きが行われてしまうと、そこから独立した国民国家の共和国には複数の有力部族や宗派が含まれ、重石となる独裁者などがいなくなれば、たちまち国内の各民族宗派による勢力争いとなってしまうわけか。そしていったんそうなってしまうと、民族宗派間の融和がない限りは、結局多数派を占める一民族一宗派で、複数の国家に分裂する羽目になってしまうのだろうか。イスラエルとパレスチナの分割もそれのたぐいだ。

 同じように欧米による外圧から生じた日本の明治政府などは、主導権を握ったのが民族や宗派ではなく、薩摩や長州などの藩閥勢力だったから、また一応他民族として存在したアイヌや琉球なども少数派でしかなかったし、旧幕派との戊辰戦争も新政府側の一方的な勝利に終わり、その後の内戦になった西南戦争でも、うまいこと不満分子を一掃できたので、たまたま国家の分裂は避けられたわけで、その辺は幸運だったのだろうか。それでもその後、台湾を奪い、朝鮮を併合し、満州も獲得して、戦争に負けてそのすべてを失い、そんな経緯があったから、今さら韓国や中国と対立関係にあるわけで、やはりそれも形を変えた民族対立なのかもしれず、すでに日本・韓国・中国と複数の国民国家に分裂状態にあるわけだ。

 そしてそれらの欧米の影響下で生まれた世界各地の国民国家を、どのようにすれば統一された世界政府に集約できるかが、今後の課題となってくるのかもしれないが、やはり今のところはそれらの中で最有力国である、アメリカ主導で世界統一が為される成り行きなのだろうか。それもどうせ何百年も先のことだろうから、今の時代に生きている人々には関係のないことか。でも今まさに人の欲望と商取引がマッチした資本主義が、世界を席巻しているわけだから、それも自然の成り行きだとしても、やはり経済的な統一の後には、政治的な統一が為されるような成り行きになるのかもしれず、これから時間をかけて、そういう方向へと事態が進展してゆく可能性はあるのだろう。そこで現状の不具合を止揚すべく、何かしら理論的な模索が必要となってくるのかもしれないが、マルクスの『資本論』のような、後世に影響を及ぼす書物を著そうとしている人が、現実にいるわけか。やはりそれは誇大妄想だろうか。確かにマルクスがいなければ、またそれを実践しようとしたレーニンがいなければ、ソ連や中国やその他の社会主義国はなかったわけで、そんなふうに〜がいなければとその原因を、特定の個人の存在に結びつけることは可能なのだが、結果としてそういう説明が成り立つだけで、だからといってそういう存在になることを狙って、理論的な書物を著そうとするのは本末転倒なのかもしれず、その辺に今ひとつ信用できないところがあるわけか。それらの事の成り行きを順に説明するとすれば、様々なやり方の中から、次第に商取引の慣行として資本制が世界的に広まってきて、それが西欧的な国民国家の国家戦略と結びつき、それにともない様々な不具合も発生してきて、それらの不具合を是正すべくマルクスなどの共産主義者が現れ、そういう人たちの実践の結果として、多数の社会主義国が誕生したが、うまくいかずに崩壊して、そんな経緯をふまえて、依然として解消されない資本主義の不具合を解消すべく、何やら模索中の人がいるわけだ。現状ではそんなところなのだろうが、それも自然の成り行きには違いない。


6月24日

 言葉で人を押さえ込もうとする人は、そうすることで何かを守ろうとしている。何かとは何なのか。人を押さえ込もうとする行為そのものだろうか。他人の行為を阻止しようとしている。ブレーキをかけているのではないか。暴走してしまうとまずいわけか。今こそ歯止めをかけなければならないと思って焦っているのだろうか。みんな正義を気取って悪を叩く側に回りたいのだろう。でも君は悪の側に立ちたい。それはひねくれ者の証しだろうか。世の中にそんな間抜けな悪役がいるだろうか。見逃される悪が大半だ。たまたまその場の雰囲気にのまれ、調子に乗りすぎてボロが出ただけで、ついついやってしまった勇み足でしかなく、そんな見え見えの過失が見逃されるはずがないか。そういうわかりやすく叩ける格好の標的なら、みんなでよってたかって叩いておいて損はなさそうで、普段から抱いている本音は違っていても、ここで悪は許さないポーズをとっておけば、とりあえずの免罪符にはなりそうだ。その程度のことだろう。それが社会的な制裁の本質なのかも知れない。騒ぎのどさくさにまぎれて、調子に乗って生卵を投げつけた人がそれを象徴しているのではないか。今回の件で差別主義者の皆さんも、たとえうっかりミスでも面倒なことになる事例として、教訓を得たのかもしれず、差別はなるべく目立たぬよう陰湿にやるべきだと心に誓ったのではないか。表向きは差別反対の看板をかかげておかなければならず、うっかりミスをやってしまった者は、あまり情けをかけずに、トカゲのしっぽ切りのように見捨てなければならない。それくらいの対処は最低限しておくべきだろうか。

 人は根本的に差別主義者だ。自分とは違う素性や考えの持ち主を押さえ込みたい。自分に甘く他人に厳しく、自分のミスはすぐに許し、他人のミスは絶対に許さない。そういう自己中心的な性格に嫌気がさして、それとは違う心持ちになろうとする者がいるわけだが、そういう心境に至れまま年老いてしまう人が多いみたいだ。長年の慣習から身についたこだわりは、なかなか捨てられず、捨てる理由も見当たらず、改心する必然性もなければ、そのまま死ぬまで保持していくのだろう。テレビの素人参加番組でちょっと脚光浴びて、そこで生じたコネを利用してうまく立ち回って、ついには議員にまでなってしまったのだから、そういう人には腹が立って当然かもしれないが、たぶんそれが罠なのだろう。その人のそういう経歴自体が罠であり、罠にはまってしまうと偏見が生まれ、偏見を偏見だとも思わずに、たとえ偏見でなくても偏見と見なされ、その偏見に操作されて言葉が組み立てられ、その言葉がうっかり外へ出てしまうと、待ってましたとばかりに、それを目当てに叩きたい人が大勢集まってくるわけだ。後はそれをネタにしてみんなで炎上会か。世の中にはそんなざまあみろ的なことを言いたい人が大勢い過ぎるのではないか。ちゃんとしたことを言いたいのなら、そのざまあみろが言えない水準で何かを言わなければならないのだろう。もちろんちゃんとしたことなど言わなくても済んでしまうわけで、いつまでもざまあみろの言い合いに終始していても、それでおもしろければかまわないのだから、またその言い合いをネタにして、何やら真っ当な意見を述べているように装うこともできるのだから、そういう成り行きの中で生きているとなれば、それまでのことだ。要するにとどまることを知らない人にとどまる理由などありはしない。

 人は一つの場所にとどまらない。とどまろうとしても耐えられない。絶えずその辺をうろうろしていないと気が静まらないのだろう。きっかけを探しているわけで、うろつきながら他人を攻撃する機会をうかがっている。そしてその機会が訪れたことを確信して、それが罠とも気づかずに、野次を飛ばして攻撃を仕掛けたはずが、とんだ災難に遭ってしまったわけだ。結果的には自業自得となってしまったわけだが、たぶん罠は罠として放置しておくべきなのではないか。罠だからといってそれを取り払おうとしてはいけないのだろう。いくら目障りだからといって、罠を撤去してはもったいないのであり、罠はいつまでもさらしておくべきなのだろう。少なくとも自然に朽ち果てるまではそうしておいた方がいい。たぶん罠にも限りがあり、何もしなくてもやがて崩れ去る時が来るだろう。それまでは罠とともに、罠に落ちた人を叩く人たちもついでに眺めながら、興味のある人はその風流な景色をいつまでも愛でていればいい。いくら眺めていてもその景色に穴があくわけでもなく、そんな景色を作り出す装置は、相変わらず休みなく動作し続けていて、次なる犠牲者を陥れるための罠を、すでに景色の中に用意しているはずで、また次なる犠牲者を目当てに、野次馬たちもその周りを取り囲んで待ち構えているのだろう。そんないつ始まるともわからない祭りの期待に抗しきれなくなって、そのうち耐えきれなくなった誰かが、仕掛けのヤジでも飛ばして自ら罠に飛び込んでしまうわけか。そうなるとまたみんなでよってたかって、祭りの生け贄を叩きまくるのだろうか。要するに日本人はお祭り好きな民族なのだろう。そのためには飛んで火に入る夏の虫的なメンタリティが重宝されていて、そんなメンタリティの持ち主たちが、祭りの起爆剤として絶えず使い捨てにされている現状があるわけか。では今回のヤジ要員の人も、お勤めご苦労さんといったところだろうか。


6月23日

 技術の匿名性は動作の無限反復を引き起こす。誰かがそれを動かしているのだろうが、それは誰でもかまわないわけでもなく、少なくともそれを操作している誰かがいるわけで、しかもその誰かが特定の誰かである必要はないわけだ。誰でもかまわないわけでもないのに、特定の誰かである必要はない、というパラドックスを抱え込んでいる。そしてそこからそれを操作する技術のロボット化が進み、職人の無限反復が産業機械に置き換わり、同じ製品の大量生産が実現したわけだ。そしてその反動として出現したのが、特定の作品を特定の人物が制作する芸術だろうか。職人が産業機械と芸術家とに分かれたわけだ。そこにどのような矛盾が生じているのか。それが矛盾なのかパラドックスなのかは、それに接している各人で見解の分かれるところかもしれない。それが当然だと思えばパラドックスなのだろうし、気づいていれば矛盾していると思うのだろう。そんなわけで産業機械的な大衆文化の芸術性について、何か考えてみるべきことでもあるのだろうか。余計なお世話かもしれないが、大量生産された製品に芸術性を感じれば、それは製品であるとともに作品だともみなされ、人々は自らが嗜好する製品を、芸術作品として擁護するようになるだろうか。その製品に作者の名前が刻まれていれば、なおのこと幻想を抱くのではないか。そしてその名前が個人の名前ではなく、会社名だとすれば、やはりそれはただの製品でしかないか。

 ベストセラーになった漫画や小説、あるいは大ヒットした音楽や映画など、大量生産された製品に制作者のとしての個人名が記された物ならどうだろうか。それらは果たして芸術作品なのだろうか。そうなってくると芸術であるかないかの判断基準そのものが、意味がなくなってくるだろうか。別に人々はそれらに芸術性など求めていないし、ただそういうものが好きだから、それらを見たり聴いたり読んだりしているわけで、それを何も高尚ぶって芸術だなんて思わないだろう。逆に訳知り顔で鼻持ちならない少数の通な人たちが愛好する芸術作品は否定の対象か。世の中にはそれについて時間をかけて学習しなければ嗜好できない芸術作品と、何の知識も感性も必要でない娯楽作品の二種類があるということだろうか。たぶんすでに世の中に広まっていて、メディア上でありふれている感性を取り込んだ作品ならば、ことさらに学習しなくても自然とその良さがわかってしまうのだろう。多くの人々が受け入れ可能な大衆娯楽作品とはそういったたぐいのものだ。ではなぜそれだけでは気に入らない人が少数ながらいるのだろうか。その一方で金持ちの虚栄心を飾り立てる貴重品が必要とされているからか。

 わかりやすい例を挙げれば、腕時計のセイコーとグランドセイコーの違いか。数十万円もするグランドセイコーと同じデザインで、数千円から数万円の腕時計をセイコーは作ることは可能だろうが、それを売り出してしまったら、金持ちはグランドセイコーを買わなくなってしまう。その辺が高級時計専門のロレックスとの違いなのだろうが、資本主義の発展から生じる貧富の格差が、少量生産の高級ブランド製品や、希少で高価な芸術作品の需要を生み出しているわけか。それにしてもセイコーはキネティックの自家発電腕時計を、わざとひどいデザインにしているのではないか。GPSソーラー腕時計も、グランドセイコーのようなさりげない普通のデザインにしたら魅力的に見えるかもしれない。それはカシオのGショックのMRGにも言えることか。先進技術だからといって、わざと近未来ロボット系デザインにすることもないのではないか。安い腕時計でもパテックフィリップのカラトラバのようなスッキリ感は可能だと思うが、安物には余計なワンポイントが必ずついてきてしまうのはなぜなのか。それをつけてしまうところが貧乏性のなせる業なのだろうか。スカーゲンあたりなら、安くてもその辺のスッキリ感が出ているような気はするのだが、スカーゲンは電池式のクォーツ時計しか扱っていない。安くて電池交換の手間のかからないソーラー時計あたりで、スッキリデザインの腕時計がほしいところだろうか。それともデザインなどを気にすること自体が贅沢な悩みで、貧乏人にはカッコ悪い腕時計がお似合いなのか。

 横道に逸れてしまったが、それとともに芸術需要を促しているのが、高等教育機関の学術研究のたぐいだろうか。例えば大学で教える対象が大衆娯楽作品では格好がつかないのではないか。もちろんメディア論などの大衆文化を研究する分野でなら、それもアリなのだろうが、美術系の芸術と名のつく大学などでは、やはり芸術を教育や研究の対象としなければならないだろう。そして文学部系にしても、わりと評価の定まった古典的な作品を対象とせざるを得ないか。逆にそちらの方面では、大衆娯楽作品がいかにひどくて粗雑な代物であるかを、喧伝したがる文芸評論家のたぐいもいるのかもしれないが、そのひどくて粗雑な娯楽作品がなぜ大衆に受け入れられるのか、それを研究している学者もいるわけか。ではそれらの大衆娯楽作品を批判している学者や評論家が、肯定し賞賛している文学作品が、広く大衆に読まれないのはどういうわけなのか、それもその手の人たちの研究対象となっているのだろうか。要するに学術と娯楽は同じ価値基準では両立しがたいということか。ではその手の大衆娯楽作品は、なぜ専門的な教育や学習を必要とせずに、幅広く大衆に受け入れられているのだろうか。安易な欲望を提供しているだけの理由で受け入れられてしまうわけか。メディアによる宣伝効果が絶大なのはわかるが、大勢の人たちがまとまって一つの社会を形成している場合、そこには人々を一つにまとめあげるための、すぐに同じ価値観で意気投合できる最大公約数的な何かが必要であり、その何かがスポーツや芸能を含んだ大衆娯楽のたぐいなのだろうか。芸術作品でも評価の定まった巨匠の作なら、マスコミの宣伝効果で大勢の人が物見遊山で見に集まるだろうが、その作品の本当の良さを理解しているわけではなく、ルーブル美術館や大英博物館の観光見物のようなものになりそうだ。やはり本当の良さを理解するにはそれなりの学習が必要か。だが人々にその学習する機会が与えられているのだろうか。矛盾もパラドックスもその辺にあるのかもしれない。


6月22日

 何やら余分な言葉から文章が成り立っているようだ。それを省いてしまうと何も残らない。何も語らずに言葉を記しているだけのように思われ、それについて何かを語ってしまうとまずいような雰囲気さえ漂っている。言葉が余分に感じられるのだから、何も語れなくて当然だろう。それでも言葉を記しているわけで、それは文章の構造としては避けがたいことか。言葉を記さなければ文章も生まれない。意図していないのに結果としてそうなってしまうのなら、そこには文章も語りもありはしない。それは仕方のないことだろうか。とりあえず言葉を記して、何かを語っているように見せかけなけばならない。社会の中で人には人特有の役割があるらしい。事後的に考えればそうなるのかもしれない。記述した後から読み返せば、それを想像できそうだ。例えば装飾過多な文章にも、それを記述する者の意図とは違う意味が隠されているのだろうか。それを後から丹念に読み返してみれば発見できるわけか。わざと意図してそれを仕込むほど芸が細かいわけでもなさそうだ。やはり言葉を記す人の、その時代に束縛された無意識に期待するしかないわけか。期待したところで空振りに終わるだけかもしれない。思うように行かないのはいつの時代でも変わらないことだ。

 それにしても1990年前後に東欧の社会主義国やソ連が崩壊して、アメリカの一人勝ちになって新自由主義のグローバリゼーションが世界を覆い尽くし、いったんはそうなったように思われてから、すでにかれこれ二十年ぐらいは経っているはずなのに、何だか思いのほか事態は良い方向にも悪い方向にも進展していないような気がする。大した変化は何も実感できないこののっぺらぼうな感覚は何なのだろうか。この二十年の間に何があったのか。思惑とは逆になったといっても、アメリカがそれほど劇的に激しく衰退しているわけでもないし、それとは対照的な中国の経済発展も予想外というほどでもないだろう。またグローバリゼーションの副作用として語られた、イスラム原理主義のテロ活動も、当初ほどには虐げられた人々の間に支持が広がっていないようにも思われ、貧富の格差が拡大したところで、貧しい人々の反乱などどうとでもなるみたいで、やはり何もかもが小康状態といったところだろうが、東西冷戦の象徴であったベルリンの壁が作られてから崩壊するまでが二十年余りだそうだから、それからさらに二十年余りが経過しているわけで、まあ住んでいる地域が日本だからかもしれないが、何の実感も湧いてこないこの現状は何なのか。確かにこの二十年余りの間に世界は変わったのだろう。だが誰もが待ち望んでいたようにも、誰かが恐れていようにも変わらなかった。要するに期待外れということだろうか。何をどう期待していたのか今となっては定かでないが、何事もなく平穏無事に過ぎ去ってしまったことだけは確かで、例えば数年前の地震や津波や原発事故で被災してしまった人たちとは感じ方が違うのかもしれないが、第二次世界大戦が終わったすぐ後から始まった東西冷戦の宙づり状態が終わって、その後さらに二十年もの月日が経ったというのに、結局何がどうなったわけでもなかったのか。一応はそれなりにどうにかなったのだろうが、それほど世界にインパクトを及ぼさなかっただけか。及ぼしたのかもしれないが、それを覚えていないということか。どうもその辺が人それぞれで感じ方が違うということだろうか。今となってはどれほど世界が劇的に変わったと言い募ってみても、それがどうしたとしか思えないような虚脱感を伴いながら暮らしているわけで、要するに期待外れの度合いが並大抵のことではなかったということか。

 期待こそが余計だったのかもしれない。恵まれた環境の中で暮らしている人たちが、意味もなく期待していただけだったのではないか。彼らは何を期待していたのだろうか。ただ漠然と今よりもっと幸福になれると思っていたわけか。あるいは世の中がもっと悲惨な状況になると恐れていたわけか。どちらにしろそれをことごとく裏切るように事態は進展して、今に至っているのだろうか。たぶんそうではないのだろう。たぶん何を予想していたわけでも期待していたわけでもなかったはずだ。後から思えばそんなふうに思われるだけで、過剰な期待や希望的観測がどこで為されたわけでもなかったのかもしれず、すべてはそれらの出来事について語られた中に詰まっていたのではないか。それについて語るとなると、当然その出来事が及ぼす将来への影響についても語らなければならず、語るとなると期待したり憂慮したりするわけで、そんな期待や憂慮がそれを読んだり聞いたりする人々に伝染して、それへの共感とともに、あたかも自分も期待したり憂慮したりしている気になるのであり、要するにそれはそれを伝えたメディアに影響されているだけで、実際に起こった出来事そのものから、直接感じ取られたことでもなかったのではないか。全面的にそうだというわけでもないだろうが、ともかくメディアがそれらの出来事をセンセーショナルに報道すればするほど、それに接した人々の共感も高まり、そこに過剰な期待や憂慮が含まれているとすれば、それを真に受ける人もそれだけ多くなって、必要以上に期待したり憂慮したりするようになるわけか。そしてその話題が一段落すると、また新たに大げさに報道するような出来事が起これば、今度はそれに気を取られて、以前の期待や憂慮は急激にしぼんでいって、そんな出来事が立て続けに起これば、あのとき何を期待していたり憂慮していたりしたのか、すでにそんなことはどうでもよくなっているわけで、後から振り返って、数十年後にその当時の雑誌などを読み返してみると、そのとき抱いた期待や憂慮と、今ある現実を比較してみれば、当然のごとく拍子抜けな気分となってしまうわけで、何となく一過性の話題に気を取られていただけだったように思われてしまう。そしてその一過性の話題が都議会のヤジ問題だったりするわけか。


6月21日

 堕落とは何か。フィクションが現実を取り込んで成長する。そこでの現実が誰かをおもしろがらせ、それがあらぬ空想を生み、君を困惑させる。もう新たな物語が生まれることはないだろう。そこに何かがあるとすれば、それは何かの焼き直しであり、蒸し返しなのかもしれない。そんなふうにして絶えず物語は繰り返される。今も言葉を取り込んで成長し続けている。記された言葉の連なりは無限に延びようとしているわけだ。いくら遅延してもかまわない。遅れれば遅れるほどその内容は豊かになり、計り知れないエピソードを包み込み、膨大な量の塵や芥をその空間内に貯め込む。それはまるでゴミの埋立処分場のような光景をもたらし、不燃ゴミや産廃の堆積層を成すのだろうか。それが美しく見えるにはどうしたらいいのか。言葉の連なりは思い出とともに埋葬されなければならない。塵や芥を覆い隠すには植物の繁茂が必要だ。表面を土で覆って放置すれば、瞬く間に雑草が生えてきて、何十年も経てば樹木で覆われ、森に生まれ変わる。人が自然を離れれば、離れただけ自然がよみがえり、人が遠ざけていた動植物が戻ってくる。人はその成り行きを物語るしかない。自然環境から物語が生まれ、それを塵や芥に変え、堕落と快楽をもたらし、人をおもしろがらせる。何とすばらしい景色なのか。それは自然から抽出した黄金の輝きだ。誰がそれらに見とれているわけでもなく、不快な皮肉を用意しているわけでもない。ただありもしない景色を眺めているふりをしたい。現実逃避というやつか。それは違うだろう。堕落ではなくでたらめなのかもしれない。人はたわいない行為から窮地に陥る。何気ない一言が仇となるらしい。そこから転落が始まり、転げ落ちた先が天国だったわけか。なぜそれが奈落ではないのか。地獄が天国というわけでもなさそうだ。気休めに記すべき言葉を間違えているだけか。夢でも見ていたのだろうか。でもありふれた夢から何が生まれるわけでもない。そこで何かを見つめていることは確かだ。誰の狂態を眺めているわけでもないのだろうが、何かが演じられ、待ってましたと非難の言葉を弄ぼうとしているわけでもなく、ただ黙って見つめているに過ぎない。くだらないと思うならそのままスルーすればいいことではないか。あまりにも娯楽としてできすぎた話だろうか。工夫やひねりなど不要か。ならば遠ざかるしかない。無視していればやがて下火になるだろう。何が炎上しているように見えるわけでもなく、キャンプファイヤーの周りで踊っているわけでもない。それどころではなく、冷ややかにしらけきっているのかもしれない。

 この距離感が大切か。状況を見誤っているとしても、判断は変わらないだろう。少なくともまともに語る必要はない。ひねくれているわけでもなく、その必要を感じないとすれば、それとは別に外れたことを語るべきか。実際にここまではでたらめに語っているのではないか。一つの方向へとまとまろうとする言葉の集積を解きほぐし、無方向に空虚な気持ちを分散させなければならない。それは人の意識ではなく、意志でも意図でもなく、どんな思惑を抱いているわけでもない。ただそこから離れようとしている。そして離れた先の目星はついているようだ。どこに逃げようと誰かが追いかけてくる、追いかけていって、そのまま追い越し、何事もなかったように逸れていってしまい、なぜ追いかけてきたのか、理由を忘れてしまったらしい。どうも窮地に陥っていたのは追いかけてきた相手のようだ。なぜ追いかけてきたのに逃げているのか。話のつじつま合わせの記憶喪失でもないのだろうが、そこから逃げるのにもたついているうちに、何から逃げているのかも忘れてしまったらしい。確かちょっと前までは誰かを追いかけていたのではなかったか。ならばなぜ慌てて逃げているのだろうか。さっきは誰を追い越してしまったのだろう。その辺に出口があったはずだが、うっかり通り過ぎてしまって、目算が狂っているわけか。事前に申し合わせていた通りの行動がとれずに、何が何だかわからなくなっているようだが、気休めに聴いていたのはたわいのない音楽だった。それにしても気が変わるのが早すぎやしないか。まだそんなに遠くまでいっていないはずで、今から引き返しても間に合うはずだ。でも何に間に合わせようとしているのか。とりあえず語り得ないことについては語らない。でもそんなルールに従うつもりもないのだろう。何が守るべきルールであるわけでもない。大きなお世話と無い物ねだりの狭間で、政治家たちが言い争いを演じているようで、徒党を組むことの利点と欠点をあげつらい、それを止揚するための方法でも思いついたのか。それとは次元の違う問題だろうか。たぶん政治に何を期待するのでもなく、未来を託すのでもなく、要するに政治家は政治家を演じてほしいのではないか。それを演じている限りは誰も文句を言わないのだろうし、そこから逸脱すると嫌になってくるのではないか。人々は政治家が政治家を演じている姿を見て、安心して民主主義という幻想を抱きたいのだろう。立候補者の中からくじ引きで議員を選べば楽なのだろうが、それでは幻想を抱けないのだろうし、やはり何らかの人気投票をやらないと、自分たちの意志や意向が政治に反映できないと思い込んでいて、選挙で得票数の多い人から順に選ばれてほしいようで、そうしないと気が収まらないのだろう。でも人気投票をやってしまうと、より多くの愚かな人が選ばれてしまうのではないか。そんな人たちが議会の政治劇場ではしゃぎすぎて、何やら愉快なことになっているのかもしれないが、そんなことでは民主主義の幻想を実感できないか。もっと見てくれがまともな政治家を望むなら、選挙などをせずにくじ引きで議員を選べばいい。あるいは裁判員制度のように有権者の中から任意に抽出して、議会を開催中に仕事を休める人にきてもらって、休んだ分だけ日当を払えばいい。政策など官僚まかせで十分で、議会はそれの賛否を決めればいい。今の日本の現状なら、その方が経費が安上がりで済んでしまうだろうし、却ってうまくいくのではないか。実質的な現状もその程度のことなのではないか。


6月20日

 妙な付け足しが加わってしまって、何だか話のつじつまが合わなくなってしまいそうだが、物語の登場人物にしては動機が不自然だ。今すぐにどうということはない。今すぐでなければならないというわけでもない。だが今すぐでなければ何も語りようがない。思い込みが激しいのだろうか。それとも自らにそう言い聞かせつつも、内心それが嘘だと気づいているのだろうか。具体的には何を言い聞かせているのだろうか。何を伺わせる兆候も感じ取れないが、何をやるにも今すぐでなければならないと言い聞かせているわけか。そんな思いが架空のエゴからきているのかもしれない。他に何がもたらされているわけでもなく、自らの意志しか確認できず、それだけが行為遂行的な自我を支えているのではないか。それだけの存在でしかなく、他にどんな存在があるわけでもない。無意識の中身を事前に知ることはできず、思いもよらない行動や言動に出てしまったとき、事後的に無意識が作用したと想像できるだけだ。たぶん意識が制御できる範囲は限られていて、そのほとんどは条件反射のような動作で、事後的に意識がそれを追認しているに過ぎず、中にはそれさえも超えて動作してしまう場合もあるわけで、そんな自らの行為に納得がいかなければ、それは無意識が作用したと考えるしかないだろう。そう考えられるだけで、無意識の意図や思惑を事後的に想像してみたところで、意識してそれに同調できるわけもない。意識はいつも行為した後からついてくるだけで、先回りして事前に意識したとしても、そのことごとくが空振りに終わり、逆に意識してしまったことを後悔するだけか。意識してしまうと却って硬くなって、臨機応変な対応もできなくなり、結果的にやっていることがうまくいかなくなってしまうわけだ。だから今すぐにどうにかしなければと思い、焦って強引な行動に出てしまうと、今まで積み重ねてきたことのすべてを台無しにしまう場合もあり得る。だから今はひたすら耐えなければならないのか。でもいったい何に耐えているのだろう。それは君の想像にまかせるとして、さしあたりそれに関して思いつく事柄などは何もなく、たぶんどこからその焦りが出てきたとしても、その原因を探る必要はないだろう。無意識のうちに焦っているのであり、その焦りが無用な行動を生み、余計な思い込みも呼び込み、さらに焦りが募って、そんな苦し紛れの行為や思い込みから自滅してしまうわけか。今がその自滅している最中なのかもしれないが、そんなふうにして思い通りに行かないことは幸いだ。それに関する語句をネットで検索すると、それに類する文章が検索項目として表示され、そこからどこをどう辿っても、君の無意識には行き着かないようで、また途中から無意識のはぐらかしによって、いつものごまかしモードに入ってしまったようで、それもいつものことだと呆れてしまい、それ以上の無意識の探求は断念せざるを得ず、心理的な弄びをひとまず終わらせなければならないようだ。それに関して言葉を記していくうちに、だんだん面倒になってきたのだろう。

 たぶんそれが余分な付け足しなのだ。語ろうとしても語り得ないことがあり、その語り得ない何かが抜け落ちたままでは、語りそのものが不完全のままにとどまり、意識は絶えずそれの完成を希求し続けるわけだが、そこに埋め込むべきパズルのピースはいつまで経っても見つからず、そうこうしているうちに時の経過にともなう風化作用によって、それを断念せざるを得なくなってしまうのだろうか。しかし何を語り得ないのか。語りの内容がよくわからず、うまく説明できないようだが、強がるわけでも開き直るわけでもなく、とりあえず困っていればいいのだろうか。世界にはそれとは違う事情で困っている人が大勢いて、その困っている現実を何とか改善したい人たちもいるのだろう。でもそれを語るだけは無理で、告発してみても現状維持勢力の抵抗にあい、それを政治運動に結びつけ、集団で力を合わせて改革を断行しなければならないのだろうが、今ところはそれらの試みがうまくいっているのかいないのか、各人で評価が分かれるところだろうが、それに関して世界が進んでいる方向はある程度見当がついているのではないか。現状をさらに進化させる方向にあるようで、その流れは止まらない。少なくとも今のところはそうだ。世の中の急激な進化に従来からある政治運動がついてゆけなくなっているのではないか。それが進化なのかどうか、それもその渦中にいる各人で判断の分かれるところかもしれない。たぶんその中で知性の活用が廃れつつあることは確からしく、何とか大衆の感情レベルに引きずり込もうとする力が働いていて、そうすることが正義だと思っている向きもあるようで、その功利的な幸福の追求ですべてを押し切ろうとしているのかもしれず、すべてを現時点での利益に結びつけ、それを未来へ延長しようとしているわけだ。未来永劫現状を支配している多数派が栄えるような方法を模索している。そのためにはどうしたらいいかということで、様々な提案が為され、それを実行すべく政策が練られているわけだが、果たしてそれでうまくいくのだろうか。たぶんうまくいかなくなるようにしなければならず、実際にうまくいかなくなるように、大衆の無意識が作動しているのだろうし、それは政治家の言動や行為にも反映されているのではないか。それは世界的にそうなのかもしれず、世界中の人々の無意識が作用して、現状で繁栄を謳歌している人々が滅びるように仕向けているのだろう。それらの人々が滅びなければ人類の未来はないと無意識のうちに思われているのかもしれず、繁栄を謳歌している人々も、無意識に操られながら、自滅するように動作しているのではないか。そしてそのような動作が表面化しないように、いつまで経ってもそれについては語り得ないようになっていて、意識が気づかないように無意識が動作しているわけか。しかしそう述べてみたところで、何が変わるわけでもない。現時点では何を述べたところで馬耳東風であり、何の説得力も宿らず、ただの妄言に過ぎないように思われてしまうのであり、それこそが無意識の動作であって、わざと問題の核心部分にふれようとしないのも、それのなせる業なのではないか。だから繁栄している人々はその繁栄を誇示しようとして、メディアに働きかけて大衆の支持を得たいのであり、そうやってできるだけ繁栄を長引かせるように画策しているわけだ。それがその手の人々による功利的な幸福の追求になるわけだが、たぶんそんなふうに事態が推移してゆけばいいのだろう。


6月19日

 別に狩人になったわけでもないのだろうが、追い求めている獲物はこれとは違うらしい。それは獲物ではなく事柄であり、優先すべき事案とは別にあるらしく、それを優先させてこなかった結果がここに出ている。結局何も求めていなかったのか。振り返ってみればそんな感じか。語るとすればそういう結論になってしまうのだろう。狩猟採集民ではないので、獲物が見つからなくても生きていけるわけか。当分の間はそうだが、架空の出来事を思い浮かべているだけでは、それ以上の進展は望めないのだろう。余計な空想が邪魔をして、捉えるべき事象を取り逃がしていて、それについてまともに語れなくなっているのだろうか。そんな思いにとらわれている。そしてもうこれ以上は面倒なことに首を突っ込みたくないので、そこから自然と気持ちが離れていってしまう。それがそこでの経緯の一部始終か。いったいいつのことだったのだろう。それも思い浮かべている空想でしかないわけか。どうもそうらしく、とりとめのないことを思い続けているようで、たぶんそこでは何かが省かれていて、そのわざと省略している何かについて語る気が起こらないのではないか。しかしこれとは何なのか。そんな疑念で間に合ってしまうのか。どうもそれでは話になりそうもない。現実に起こっている出来事には興味を抱けないのか。いったい何がそこで起こっているというのだろう。大地の鼓動を感じているわけではない。エアーズロックにでも行った気になっているのだろうか。発見されている中では世界で二番目に大きな一枚岩の画像を眺めているだけで、そんな画像を見つめているうちに、語るべき対象を取り逃がしてしまったようで、要するに対象の選択に関してこだわりすぎているということだろうか。いつもはいい加減なのに、その場の気まぐれなのかもしれないが、こだわる必要のないところでこだわり、それをスルーしてしまったら後の祭りなわけだが、ダボハゼのように食いつくわけにはいかないのか。食いつきたくてもそれはエサでも疑似餌でもないのかも知れず、辺りに釣り針も釣り竿も釣り人も見当たらず、その代わりでもないのだろうが、目の前の画面上に映っているのは、たぶん語る対象ではないのだろう。そう思ってしまうのだからやめておいた方がいい。

 心の中で何かが切れかかっているのだろうか。それも想像に過ぎないのだろうが、心の空虚をきらびやかに飾り立てる言葉も見当たらず、空虚は空虚として、不在の空間に空想されたらそれで済んでしまうのかもしれず、美的な感性からかけ離れた何かをつかんで、それを何もない表面にぶちまける誰かを想像するまでもなく、美しさとは正反対の汚物を思い浮かべる感性も、それはそれで美学的な思い込みに囚われている証拠か。その手のパフォーマー眺めているほど余裕があるわけでもなく、せいぜいが暇つぶしに音楽を聴いている程度の貧しさを受け入れ、それ以上の生活環境を求めているわけでもなく、その種の贅沢とは無縁の成り行きの中に身も心も収まっているわけだ。いったいそれ以上の何があるというのか。美術館の床の上で中身の入った牛乳ビンを金槌で砕いてみせるパフォーマンスを断られ、代わりに床に米をまいて回った人は、まだどこかでその手の芸術行為をやっているのだろうか。実際に地表面はスーパーフラットではないらしく、あちらこちらに凹凸があり、それが障害となって、人のスムーズな行動を阻んでいるわけで、マーカス・ミラーのリードベースも、それほど枠からはみ出た驚異のパフォーマンスとはなりがたく、ジャズとファンクの形式内で程よく収まっている。そこにくぼみがあり、くぼみの中でそこの環境に対応した音を奏でているわけだ。その反対に何かの頂点を目指して凸面を登る人は、運良く登頂に成功すると、その頂上で歌舞伎的な大見得を切って、後は満たされた思いをかみしめながら、そこから滑り落ちてゆくばかりなのだろうか。でもそれは何の比喩となるのか。疑念を抱く必要はなく、勝手にそれらの状況に当てはめてみれば、自ずからわかるのではないか。わかったところでそれを語る以外に比喩の使い道などなく、自然と記しつつある言葉がその場の環境に対応してくる。過去の記憶がその連なりを導き出しているようだ。でも動作の許される範囲は、自らが切り開いた範囲内に限られるわけではなく、他の領域に絶えずはみ出てしまうようで、たぶん他者との交通はそこからしか生まれないのだろう。誰かが追い求めているのは、そうした偶然の出会いなのだろうか。しかし誰かとは誰なのだろう。それが誰でもなければスルーするしかないわけか。それでも誰にも出会わないわけにはいかなくなり、孤独でいられる時間はそう長くない。もちろんあえて孤独を求めれば、孤独死を選ぶこともできるのだろうが、それはあえて求めなくても、自然と向こうからやってきてしまう成り行きなのかもしれず、まともに振る舞いたければ、ほどほどのところで切り上げるべきだろうが、まだ見えている光景に未練があるのだろうか。その視線の先には何があるのだろうか。たぶんそれは空虚ではなく、物質的な感触をともなった世界なのだろう。他に何を見据えていようと、そこからそれほど遠ざからずに、求めている何かを見つけることができるのかもしれず、それほど飛躍する必要もなく、奇矯な振る舞いとも関係のない次元で、ありふれた現象とともに考えなければならないのだろう。


6月18日

 果たして中東情勢が俄に緊迫しているのだろうか。このままではイラクが3分割されて、北部がクルド人で中部がスンニ派で南部がシーア派勢力の支配体制となるのか。現にそうなっているのではないか。今ある国境線が欧米の植民地政策から生み出された人為的なものだから、別に3分割されてもかまわないのかもしれない。あるいはこのままイスラム教スンニ派勢力が、シーア派勢力主体の政権側を破って、イラク全土の全権を掌握したとしても、フセイン時代の体制に戻るだけか。フセイン自身がもうすでにこの世にいないのだから、クルド人もシーア派も今のところは健在みたいだし、その可能性は低いだろうか。武装勢力の背後で同じスンニ派のサウジアラビアが支援しているとか言う噂もあるらしいが、サウジアラビアとしては、アラブの春の民主化革命とイランのシーア派がやったイスラム革命の、両方共に起こってほしくないところだから、このまま王族支配を継続させるには、イラクの内戦は願ったり叶ったりというところだろうか。一方欧米のリベラルな民主的な価値観を共有する側からすれば、中東地域で問題なのは、表面的にはイランの核開発なのだろうが、実質的にはイスラエルとパレスチナをいかに和解させるかとともに、王族が支配する湾岸諸国をいかに民主化させるかなのではないか。もちろん彼らは石油商売や高級ブランド商売などの大事なお得意様だし、表立っては友好関係を保っているのだろうが、とりあえず西側同盟国内の3大抵抗勢力である、イスラエルのシオニズムとアラブの王権体制と日本の天皇制は、民主主義の進展を阻害する邪魔物であることに変わりはないので、いずれは何とかしたいと思っているのではないか。アメリカが共和党政権になれば3つともに功利的には黙認されるのだろうが、民主党政権のままだと、さしあたり中国やロシアへの民主化圧力の方が優先されるだろうが、次第に風当たりが強くなってくるだろうか。当分の間は世界各地で起こっている紛争に目を奪われ、それへの対処で精一杯だろうから、すぐにどうこうということはないか。

 何だか今世界各地で起こっている紛争など、それらをいちいちあげればきりがないように思われるが、西から順におもだったものをあげてゆくと、まずは西アフリカのイスラム原理主義勢力の武装闘争があり、それは東アフリカの南北に分裂したスーダンやソマリアでも同様だし、北アフリカではリビアの内戦も未だくすぶっているし、隣りのエジプトでは旧主派の軍部が、結局原理主義勢力と民主化勢力の両方ともに、力で押さえつけようとしているし、中東ではシリアでの泥沼の内戦が今まさに隣国のイラクにまで波及して、周りをすべて紛争地域に囲まれた元祖紛争地域のパレスチナでは、かろうじて小康状態を保っているようだし、そこから北へと目を転じれば、ロシアとウクライナの間で紛争真っただ中で、さらに東へと向かえば、アフガン紛争もまだ治まりがたく、アラビア半島の南側では、アメリカの無人爆撃機が誤爆による民間人の犠牲を出しながら、武装勢力の拠点を爆撃中で、そしてさらに東へと向かえば、中国の新疆ウイグル自治区では爆破テロが真っ盛りで、そこからさらに東へと向かえば、中国の海洋進出におびえるアジア諸国があるわけか。もしかしてこの状況は、気がついたら第3次世界大戦モードへと進展していたりするのだろうか。それとも今がまさにそれの始まりの状況で、後世の歴史家の解釈では、すでに現時点で第3次世界大戦が始まっていることになっていたりして、今のところはまだ冗談の範囲内かもしれないが、数年後には東京オリンピックどころではない世界情勢となっていたりしたら、それこそそちらの方面の人たちにとっては喜ばしいことかもしれない。それがどの方面なのかはっきりしないが、何となく血湧き肉踊る連中ということだろうか。まあ命がけが好きな人にはたまらないだろうが、そういうのはすでに時代遅れなのかもしれず、無人爆撃機やロボット兵器などが幅広く使われて、命がけになるのはそれらの攻撃対象となる人たちだけなのかもしれず、メディアも完全に情報を管理コントロールされ、実際に戦闘に巻き込まれて悲惨な体験をする人などほとんど殺されてしまうから、それが表に出ることなく隠蔽されて、闇に葬られてしまい、一般人は何も感じないまま、普通に暮らしているだけなのかもしれず、気がついたら第3次世界大戦も終わっていて、戦闘が行われた地域以外では、反戦活動も盛り上がらないままに、悲惨な映像のたぐいも人目に触れることもなく、普段通りの日常がただ続いているだけだとしたら、何だか拍子抜けとなってしまうのではないか。そうなると第3次世界大戦が続いている間に、何事もなく東京オリンピックも開催されていて、マスコミもメダルの数がどうしたこうしたと騒いでいたりするわけか。

 たぶんそれらの妄想の中で何が根源にあるわけではなく、何が根本というわけでもなさそうだ。現状は現状としてあり、そんな現状からおもしろおかしく空想することは可能だが、それが何を言い表しているとも思えず、ただ途中から妄想が暴走しているだけではないのか。この程度では暴走とは言いがたいが、とにかくそれは違うのかもしれない。では現状の何がおかしいのか。利害関係にある勢力のせめぎ合いと富の奪い合いが行われている中で、そんな勢力争いのどちらか一方に加担したり、その立場を正当化するような主張はやめた方がいいということか。どちらにもごもっともな言い分があると同時に、どちらにも正当化できないうさんくささがある。非難すべき点はいろいろあるのだろうが、どちらか一方の立場を正当化しながら、もう一方を非難するのは、どうもおかしいような気がするわけで、どちらの陣営にも肩入れするわけにはいかないのではないか。そういう勢力争いに巻き込まれている人たちは、自分たちの属する勢力が勝つように努めなければならず、実際にそういう線で行動している人たちも大勢いることは承知しているが、どちらにつくか選択を迫られているわけではない人たちは、可能ならどちらも批判すべきなのではないか。少なくとも戦争に関してはそうだ。それはきれいごとだといわれればそれまでなのかもしれないが、紛争の直接の当事者ではないのだから、そこから遠く離れていても間接的には関わっているとしても、巻き込まれている度合いは微々たるものでしかない。だから無責任に語れるわけで、無責任だと思うなら、やはり当事者たちのどちらか一方の味方になるのは、どうもおかしいように思われ、できればどちらの側も無責任に批判しておいた方が、突き放して情勢を見ることもでき、感情的にならずに冷静な判断が下せるのではないか。要するにずるい立場でいられるわけで、そのずるさを確保しておかないと、ロマン的な感情移入とともに、そこから生じるヒロイズムに酔ってしまう傾向になるのではないか。要するに安易に義勇軍気取りになるのは避けなければならない。パレスチナの味方をしてテロ活動に加わった日本赤軍のようになってしまっては、それはそれでパレスチナの英雄にはなったわけだが、心情的にも共感を得られるのかもしれないが、実際にそれで何が解決したわけでもないし、当人たちの自己満足に過ぎないといわれても、それは否定できないことだ。もちろんその反対に経済的な利害関係から、強い方(欧米側)の味方を気取る人が圧倒的な多数派で、そういう身もふたもない姿勢に反発を覚える少数派がいて、両者で二項対立を生じているのだろうが、そういう予定調和の対立軸をずらす意味でも、どちらの陣営についても批判すべき点は批判しなければならないのではないか。


6月17日

 方法が見つかって浮かれていた時期はあったのではないか。それが十数年前だ。それから十数年が経って今に至る。そんな経緯だろうか。自然な推移なのだろうか。たぶんそうだ。すぐにうまくいかなくなって、破局へと向かい、そこでおしまいとなったわけだが、浮かれていた時期はほんの数年のことに過ぎない。人為的な操作はうまくいかないようで、自然の摂理には勝てないらしい。それがいかに正しい行いであろうと、長続きしない。まだその物語は続いているのだろうか。本気になるべきではない。問題はいくらでもあるようで、それを一つ一つクリアしていくだけの根気がない。たぶん机上の空論はそのままにとどまり、その気にならなければそれを実践に移す必要はないわけだ。そんなことはやらなくてもかまわないのなら、それで済んでしまうのかもしれない。そんなわけで、そこで終わってしまった行為はもう二度とよみがえらない。簡単によみがえってしまっては困るのではないか。需要があれば他の誰かがよみがえらすこともあるようだが、たぶん利益が見込まれるものしかよみがえれないのだろう。具体的にそれは何なのか。昔流行った漫画がリバイバルでもしているわけか。それならそれなりに需要があり、実際に復活して人気を集めているはずだ。その一方でいくら倫理的に正しい行いでも、それだけではいかんともしがたく、人の都合が自然環境に反映されるには、正しいか間違っているかの基準とは別の何かが作用するのだろうし、いつまでも間違った行為が社会に蔓延して、そこに暮らす人々を長期間に渡って苦しめることもあるのだろう。それでも人は倫理的に正しい行為に憧れ、その実現を声高に叫んでいる人もいるのだろうが、叫んでいるだけでは実現不可能だ。それどころか大して必要とされないことが、何かのきっかけで脚光を浴びて、瞬く間に流行りだしてしまうこともありそうだ。後から思えば、どうでもいいようなことなのかもしれないが、とにかくそのどうでもいいことが一過性の熱病のように流行ることもあり、それが延々と続いてしまうこともありそうで、中にはそれに乗っかって大儲けしてしまう人もいるのだろう。そんな現象を目の当たりにして人は何を思うのか。そんな不条理に愕然として、何とかしなければと思い、世の中を変革する運動に乗り出すわけか。たぶんそれが十数年前の出来事であり、それが二年余りであっけなくついえ去り、今はどうしているのだろうか。何か新たに別の運動を起こすつもりなのか、それともすでにあきらめていて、自らの領分をわきまえ、自らが得意とする分野で、分相応に振る舞おうとしているのだろうか。たぶんそれが物書きのたぐいなのではないか。現実にもうすぐそんな書物に巡り会えそうだ。

 それ以上は何とも言えない。ただ単に状況論に過ぎないようなことしか語れないらしい。それなりに影響力があり、影響を受けた人たちが運動を別の形で引き継ぎ、また忘れた頃に何かが始まっていることに気づくかもしれない。おおかたは予想がついているのかもしれないが、ともかく何が起こるかわからず、何かが起こることに期待する一方で、それに向かって考えなければならないのだろうか。何を考えているのだろうか。その時々で異なり、過去に買った書物でも読み漁りながら、思い向くまま気の向くままに、気まぐれにその場で思いついたことを語ろうとしてしまうのだろう。それ以上でも以下でもなさそうだ。自然の成り行きとは何なのか。そのような営みがそうなのだろうか。なぜ人は交換を必要としてしまうのだろう。物や情報をカネと交換し、カネと物や情報を交換したいのだろうが、そこに売る立場と買う立場の非対称性があることはわかるのだが、売りたくても売れず、買いたくても買えない物や情報があり、誰かはそれを求めているのかもしれないが、なぜそれが売れそうもない代物であったり、買えそうもない代物であったりすることがわかるのだろうか。それが何の役にも立ちそうにないゴミクズだからか。道端に転がっている石ころがそうなのだろうか。人はそうではないものをほしがっていて、ほしがるということはそこに欲望が渦巻いているのだろうし、それを提供したい人たちはカネと交換することを要求しているわけで、それはカネを持っていなければ手に入れることのできないアイテムなのだろう。だからほしいものを手に入れるためにはカネを用意しておかなければならず、稼ぐか借りるかして用意するわけだ。いったいそれをどう変えようとするのだろう。そこにはただであげたりもらったりするわけにはいかない事情があり、長年の慣習と成り行きが歴史となっていて、その事情をちょっとやそっとでは変更できないようにしている。たとえその慣習の不具合に気づいていても、その不具合を改めるのには、それに関係するすべての不具合を改めなければならず、ドミノ倒しやオセロゲームのように、一つの動作ですべてがひっくり返るわけにはいかないのだろうが、やはりせっかちな人たちはそれを狙ってしまうのであり、一発逆転を目指して、その方法を生涯をかけて探求してしまうわけか。まったくそれはドン・キホーテ的な滑稽さと荒唐無稽さをともなってしまうのかもしれず、それを馬鹿にして嘲笑してしまうのは簡単だろうが、やはり本気でそんな試みに賭けている人は、愛すべき人なのであり、そんな人が著した書物には魅力があるのだろう。当人は大真面目で論じているのだろうし、実際に敬意を表するような内容になるのかもしれない。少なくとも世の流行に追従するようなことを主張する人たちよりは、よほどマシなような気がしてしまうのであり、たぶんそこに付け入る隙が生じて、少数派ながらもそういう人を生かしておける社会的な余地が生まれるのではないか。


6月16日

 簡単に語ってしまえば楽なのだろうが、果たしてそれでいいのか。そうは思えないから、難しそうな概念をともなう造語のような言葉を使って、複雑に込み入らせて説明しようとして、素人にはちょっとやそっとでは理解できないような言説となってしまうのだろうか。それを読んで何を理解したつもりになればいいのか。そのつもりにはなれないから困惑してしまうのか。現状を過去の事例や歴史に照らし合わせて説明していて、その分析自体は秀逸で、確かにその部分は説得力があるのだが、それだけに、ではどうしたらいいのかと問わずにはいられなくなり、たぶんその問いに対する答えが、それらの文章にはないわけだ。中にはそれついて語ってしまっている言説もあることはあるのだが、その部分にいくと急に説得力がなくなってしまい、未来への予言程度でお茶を濁すぐらいが関の山だと思えてくるわけだ。ではどうしたらいいのかは、読む者が考えるべきことなのだろうか。たぶんそこにいくまでの説明自体は、いくらでも洗練させることはできるが、そこから先がうまく説明できないのであり、無理に説明しても説得力がともなわなくなってしまうのだろう。要するにへたに説明すると、経済評論家の安易な処方箋となってしまうわけで、そんな当たるも八卦当たらぬも八卦の、現代の占い師の書いたハウツー本ならいくらでも出回っていて、中にはひと月に一冊のペースで書いている強者もいるらしく、そうならないためにも、やはりなるべくなら将来の予測や予言は避けた方が無難で、現状分析だけにとどめておいた方が倫理的な態度なのかもしれない。でもそうなると、ではどうしたらいいのかという問いに至ってしまうわけで、やはり堂々巡りの感を拭えない。

 たぶんそこには語る者の願望が反映されてしまうのではないか。それが邪魔をして判断を曇らせてしまうわけか。すでに起こってしまった出来事なら、いくらでも説明可能だが、これから起こることについては、それと同様には説明できない。だからこれからやるべきことについて提言したところで、それを信じるか信じないかは、あなた次第としか言いようがないのではないか。願望としては、これから誰の予想も期待も裏切るような思いがけないことが起こって、ありとあらゆる権威や価値観がひっくり返って、世界が大混乱に陥ったら愉快なのだろうが、それはフィクションの中でしか起こりえないことだろうか。まじめに考えるなら、人々が理想とする自由と平等を実現する社会になるように努力していかなければならず、そのためにはどうしたらいいかを絶えず考えてゆかなければならない、という循環論的な結論に至りそうもない提言が、きれいごととして求められているのかもしれない。要するにどうしたらいいのかと絶えず問い続けているだけで、その答えはいつまで経っても出てこないわけだ。というかいつもどこかで答えが出ているのかもしれず、ただその答えがいまひとつ信用できないわけか。求めているものとは違う答えならいくらでも出ていて、そんな答えでは納得がいかないのだろう。要するにそれは無い物ねだりなわけだ。あり得ない答えを求め、不可能なやり方を模索しているわけか。そこに何か見落としている点はないだろうか。その見落としている何かが、求めても導き出せない答えなのだろうか。そう述べてその答えの出ない問いから逃げようとしてしまう。逃げようとしても逃げられないだろう。ではどうしたらいいのだろうか。常にその答えの出ない場にとどまりながら考えているわけか。

 ごまかすとすれば禅問答のような閉域へと逃げることが可能か。でも禅で悟りを開くことは無意味に至ることではないのか。それも禅寺にいる限りは方便となるのだろう。いったん禅寺の外へ出れば、それがどうしたということにしかならなくとも、禅の権威に庇護されている限りは、無意味な問答も方便として通用してしまい、意味不明な問いに意味不明な答えを返して、そういう問答に明け暮れることが悟りを開くための修行となり、それが禅宗という共同体を成り立たせているわけで、共同体の内側ではそれでかまわないわけだ。それを外部へと押し広げ、社会全体に適用させることができるだろうか。禅問答ではだめかもしれないが、物の売り買いを基本とした資本主義なら可能なのだろうか。逆に今まさに資本主義が全世界を覆ったと考えるなら、そこに一つの共同体が出現したと考えられるのではないか。その共同体内で通用している規則が、物の売り買いを基本とした資本主義だとすれば、まさにそれは外部のないすべてを含んだ資本主義共同体といえるだろうか。たぶん他にも規則があり、それは国家が税金を徴収する規則だとか、私的な財産贈与とかの規則もあるのだろうが、力関係からすれば、圧倒的に物の売り買いの規則が上回っているだろうし、国家も人もそれに依存しているわけか。そのような現状の中で、何か見落としている点はないだろうか。またそれだ。結局そこへ戻ってきてしまうのであり、そこでどうしたらいいのか考えてしまうわけだ。それをそのまま放置しておいてかまわないのか。そのままではカネに縛られ、カネの有る無しで主従関係となってしまうから、自由と平等を実現できなくなってしまうか。そもそもそういう実現すべき理念が間違っているのだろうか。しかし自由と平等という理想はどこから出てきたのだろうか。不自由で不平等な現状がそんな幻想を抱かせるのか。すべての人がそうなることは永遠にできず、他人を支配することで不自由にさせ、そんな不平等な現状を持続させることで、そうやっている自らが自由を享受でき、それを強いている連中が団結することで、そういう連中の間での平等を実現できるということか。それなら古代ギリシアのポリス市民や古代ローマ市民と同じであり、虐げられた者たちの奴隷労働によって、それがつかの間実現されているわけで、それを現代の世界で実現させるのはおかしいか。とりあえずそうではないようなやり方を考えなければいけないのだろう。


6月15日

 日本の著名人や名士の方々にとって、皇室ブランドはやはりその虚栄心を満足させる格好のアイテムなのだろうか。スポーツや学術や芸能などの各界の著名人や、高級官僚や世襲政治家や新聞社やテレビ局や大企業の幹部やその子弟たちは、平安時代の上級貴族たちみたいに、皇室の取り巻きになりたいわけか。というかもうすでになっているのか。彼らは上流階級として、社交界のような場を設けていて、そこに皇族を招いて自分たちの権威づけに利用していたりするわけか。もしそんなふうになっているとすれば、ネトウヨたちが皇室の冠婚葬祭で騒ぎ立てるのも納得できるだろうか。彼らが兵隊蟻のように皇室を命をかけて守るべき対象と考えているのなら、そうした身分制度のような支配構造の中で洗脳されてしまっているということか。それはネトウヨだけでなく、一般の人たちにも波及していて、あわよくば富や名声を手にして、自分もそういう上流階級の仲間入りがしたいと思っているのではないか。民主主義や国民主権といった抽象的な概念よりは、そちらの方が魅力的に感じられ、平等であるよりは支配する側になりたいのであり、皇室などの権威を利用して、人より偉くなって、優越感に浸りたいのではないか。それは偉い人たちに仕えることでもそんな気分になれるのかもしれず、そういう人たちの下僕や臣民となり、自分がそうした権威の側に属していることを誇ってみせるわけか。結局人を魅了する価値観とはそういうところにあるのだろうか。一人一人が自由な個人であるよりは、群れることでその群れの権威を高め、集団の力で個人を支配することに魅力を感じるわけだ。そんな集団の結束力の前では個人は無力な存在か。ならばどうせ勝ち目はないのだから、そういう人たちには本気で立ち向かったりしない方が無難なのか。探せば対処の仕方がそれなりにあるのかもしれないが、そうした権威主義を弱点を見つけてどうしようというのか。戯れにそんなことを述べているだけかもしれない。

 権威の押し付けに対抗して、バラバラな個人が左翼的に結束しなくてもいいのではないか。個人は個人のままでいいのであって、たぶん革命を目指さなくてもかまわないのだ。権威は権威のまま放置すればいい。個人が正義を気取る必要はない。たぶん個人の立場はどのように言い繕ってみても正当化できない。個人を抑圧する権威の正当化の方が勝ってしまうのではないか。勝負を挑まずに勝ったり負けたりする価値観の押しつけから逃げなければいけないのだろうか。逃げる必要はなく、負けるなら負けておくしかないのではないか。そして負けた分を別の方面から取り返す必要もなく、負けたままにしておいてもかまわないのではないか。権威を相手にする必要はないということか。相手にするなら負けておけばいいということか。たまには勝ってしまってもかまわないのではないか。負けたふりをしてもかまわない。勝ち逃げしてもかまわないだろう。要するに勝ち負けにも多様な結果があるということだ。結果を結果として受け入れなくてもかまわない。結局そんな思考の柔軟性ぐらいは確保しておいた方がいいのかもしれない。ごまかしでしかないのかもしれないが、ごまかせるならごまかしておいた方がいいだろう。ごまかしがきかないなら、素直に負けを認めれば済むことか。でもどうせ内心では認めたふりをしているだけなのだろう。それが権威に抗うやり方なのだろうか。やり方は他にいくらでもあり、その時々で新たなやり方を模索すればいいことでしかない。やり方を固定化してはまずいのかもしれない。対処できなくなってしまう。対処できなければ権威の軍門にくだるしかなく、そうなれば兵隊蟻のネトウヨと同じか。変節だとか転向だとか言われる態度を取らなければならなくなって、それを受け入れながらも、心の片隅では復讐心が煮えたぎっていたりするわけか。たぶんそういうルサンチマンが兵隊蟻の先頭に立って、権威の軍門にくだらない個人を、より苛烈に口汚く罵り嘲るのではないか。リンチを加えろとか煽るわけか。そんなことを思わず口走ってしまう人も、たぶん権威の犠牲者なのかもしれない。

 そして犠牲者が大勢いればいるほど、その権威はさんぜんと輝き、その力も揺るぎないものとなるわけか。民衆を下敷きにしながら、その上に高くそびえるわけだ。そのピラミッドの頂点には誰が君臨するのだろうか。たぶん誰もいない。ピラミッドの石積みに使われているのが人間そのものであり、人がその構築物の材料となっていて、構造物自体がヒエラルキーを成しているのではないか。そして誰もがそれの重みに耐え苦しんでいるわけか。権威にすがることの見返りにもたらされるのは、そんな苦渋だろうか。高層建築は下の階にいくほど支える建物の重さが増すから、そのヒエラルキーの下位に属する者ほど負荷がかかるわけで、より多くの者たちでピラミッドを支えなければならなくなり、その結果一握りの上層階級と大多数の下層階級とに分化するわけだ。でもそれは何かのたとえに過ぎない。それに対して魅力を感じないなら、自ら進んでヒエラルキーに加わる必要はないのではないか。付き合い程度で立場上加わらざるを得ないのなら、あまり深入りせずに加わっているふりをすればいいわけで、本気にならない方が身のためだろうが、たぶんそういう煮え切らない優柔不断な態度が、その手の権威をいつまでも持続させる要因となっているのかもしれず、誰もが信じていないからこそ、積極的に抗う気も起こらず、それがなかなか崩壊せずに長続きしてしまうという逆説もあるらしく、その辺が厄介なところなのだろう。逆に心酔しきってしまうと、二・二六事件の青年将校のような悲劇を生むわけだが、その反対に反抗分子が寄り集まって結束してしまうと、大逆事件のように権威に歯向かうとどうなるか、格好の見せしめに使われてしまい、どちらにしろ権威に対して集団で行動すると、弾圧されて悲惨な結果となってしまうわけだ。集団だと小回りが利かずやり方も固定されて、それへの対処法もすぐに編み出されてしまうから、なかなか効果的な作用は及ぼせない。結局のところ、集団となって結束せずに、それぞれに価値観の異なる個人が、それぞれに違うやり方で、権威の押し付けに逆らうしかなく、それでは大した効果は上がらないのかもしれないが、逆にそのおかげで権威の方が油断してしまうのであり、それと気づかれないように、あからさまに反抗しているわけでもないように装いながらも、やはり煮え切らない態度を保つしかないわけで、こんなふうに述べてしまうのも偽装のたぐいなのだろう。


6月14日

 特定の理論や思考に頼ってみても、そこから先には何もない。それを突き抜けて、何か画期的な認識に至ることはないようで、その理論や思考の閉域の中でぐるぐる旋回しているだけのような気がするのだが、例えば物理の量子力学や相対性理論も、19世紀の思考から生まれただけで、20世紀にそれを応用したに過ぎず、新たな思考は何も生まれなかったのなら、21世紀も同様に何も生まれずに終わってしまうわけか。先のことはわからないが、何もかもが飽和状態であるように感じられるのは確かなところだ。資本主義がもたらした世界文明が、今まさに一つの飽和点に達しているということだろうか。そんな状況の中に生きているのだから、それを突き抜ける思考など導き出せなくて当然か。でもそれを考えざるを得ないのだろう。今ある行き詰まりがどうしてもそんな方向での探求を促してしまうわけだ。それとは別の方向への探求もあり得るのだろうか。それはどの方向なのか。今のところは皆目見当もつかないが、考えあぐねながらも考え続けるしかないわけで、要するに行き詰まっているわけだ。安易な答えを導き出して、それで何か考えたような気になることもできなくはないのだろうが、たぶん人生の黄昏時になると、そういう仕上がり方を示す人はいくらでもいて、そんな思想もいくらでもあるのかもしれないが、そういう仕方のない成り行きに身をまかせるほど、思考を探求し尽くしているわけでもないのだろうから、ともかく考えられる限りは考えてみなければならないのだろう。でも考えたところで答えが出るとは限らず、答えなど何も出ないまま、どこへも突き抜けられずに終わってしまうのが、よくあるパターンのありふれた成り行きだろうか。そうなったらなったで、そんな結果も受け入れなければならない。

 どこかに突破口があるはずで、そんな場所を探しまわっている人も大勢いたりして、インディ・ジョーンズみたいに世界を探検してみたいところだが、たぶんそれはフィクションだ。隠された財宝を探し当てても、それは財宝以外ではなく、それは世界を現状のまま富ませることにしかつながらないだろう。そして今や世界はそんな財宝など必要としないほどカネ余りなのではないか。あるところにはいくらでもあり、ないところにはまったくないが、それを求めても、現状を補強することにしか貢献しない。インディ・ジョーンズの冒険自体が巨額の富を稼ぎ出し、その映画を制作した関係者は大金持ちになったわけか。そういう意味でフィクションの世界でいくら冒険者を演じてみても、現状を突破するには至らず、ただ現状をさらに盤石なものにするだけか。でも別に映画の中の主人公が財宝を手にして大金持ちとなった話ではないだろう。求めていた財宝は宝探しのライバルたちの命を奪い、その手をすり抜け消え去るか、また人目のつかぬ場所へしまい込まれてしまったのではなかったか。そういう成り行きと結果は何を暗示しているのだろうか。それに関して安易な寓話を思い浮かべればいいのか。いくらなんでもそれではつまらないだろう。宝探しの儚い夢を見させられた人々は何を思うだろうか。それを見たからといって、現実の世界での宝探しをあきらめるとは思えないか。しかし現実の世界での宝探しとは何なのか。それこそがフィクションなのだろうか。安っぽい愛と友情のヒューマニズムとは関係のない次元で、何か気の利いた考えでも抽出しなければならないか。そもそも主人公を冒険に駆り立てる動機は何だったのか。事件に巻き込まれ、偶然の巡り合わせとその場の成り行きで冒険が始まってしまう。確かそんな話ではなかったか。

 何やら事件の黒幕がいて、それに利用されるがまま、あるいは直接依頼されて、宝探しに赴き、絶えず命の危険に晒されながらも、何とか宝のありかを探し当て、最終的には黒幕にその宝を横取りされてしまうのだが、その宝には危険な力が宿っていて、それが発動して欲に目がくらんだ黒幕の命を奪い、主人公は何とか難を逃れてめでたしめでたしで、確かにお目当ての宝を手にすることはできなかったが、その代わりに別の思いもよらない宝をゲットすることができた、というありふれた寓意以外の何ものもないとなるわけか。やはりそれではつまらないだろうか。それともそこで何かを見逃しているわけか。わざとそれを見逃していることは確かなのだが、なぜ主人公は宝を探し当ててしまうのか。話の主人公は探し当てなければならない宿命なのだろうか。たぶんそうだ。そうでないと話が成り立たず、成り立たない話は映画とはならない。ただ人はそんな不可能な話を空想できるわけで、そんな空想の中で、架空の登場人物たちが架空の世界を彷徨っているらしく、主人公にはなり得ない彼らが実体化して、現実の世界に投影されて、人々の意識を捉え、何か満たされない思いとともに、それを満たすべく、虚構の宝探しへと誘われるわけか。そこで彼らは彼らがなり得ない映画の主人公に思いを馳せる。そんなわけでこの世界に実在している多くの人々は、映画の主人公とは違う境遇にあり、己を冒険へと駆り立てる動機もなく、宝探しへと導く事件も起こらず、それへと巻き込もうとする黒幕に目をつけられるわけでもなく、そんな世界に憧れ羨ましがることもなく、暇つぶしにそんな映像を見て楽しみ、そんな快楽に身をまかせ消費しながら、それとは何か違う水準の現状に囚われていることに気づかないまま、気づくきっかけをつかめないまま、やり過ごしてしまっているのだろうか。それと気づかぬまま突破口を見逃してしまっているわけか。常にそこを通り過ぎてしまうような成り行きの中で、誰もが生きているのではないか。


6月13日

 とりあえず自衛隊は軍隊だから、戦争になれば戦うだろう。憲法9条があろうとなかろうと、戦争はするのではないか。戦争にそなえて日頃から訓練しているのだから、演習通りに戦うだろう。戦争は国内法を超えた超法規的行為だろうから、9条があったから戦争に負けたなどといういいわけは通用しないのであり、莫大な税金を投入して蓄えてきた装備をフルに生かして、戦ってもらうしかないだろう。ではなぜ憲法9条は必要なのか。とりあえずそれが足かせとなっているから、先制攻撃はしないのではないか。満州事変や真珠湾攻撃みたいな無理矢理戦争を起こすような真似はやらないのではないか。実際にはどうなるかわからないが、一応建前上はそうだ。そして平和な時に9条は必要なのだろう。政治家は9条の理念に従って、国内に高まっている好戦的あるいは挑発的な世論を鎮め、外交によって戦争に至らないように努めなければならない。憲法9条を解釈するとすれば、そういうことにしかならないだろう。集団的自衛権がどうしたこうしたとか言うのは、要するに憲法学者の問題で、実践的にはそれほど大したことではないのではないか。よその国では平気で法律など無視して、軍部が勝手にクーデターなどを起こすわけだから、盆栽いじりみたいにいくら憲法解釈を取り繕っても、いざとなったらそんなものは簡単に踏み倒されてしまうのではないか。だいたい満州事変や日中戦争なども、当時の大日本帝国憲法上は軍の最高司令官で国の唯一の主権者だった、天皇の意向が反映されてやったのか曖昧のままだし、陸軍が勝手に暴走したとか言われてもいるわけで、アメリカとの戦争だって、天皇はやりたくなかったのに、軍部の意向に押し切られてやらざるを得なかった、ということにもなっているわけだから、戦争をやらない平和な時にいくら憲法解釈を議論したところで、やはりそんなのは机上の空論に過ぎず、実際に戦争をやる直前になれば、当事者たちにはそんな議論があったことなど知ったことではないのではないか。結局憲法9条だけで戦争を防ぐことはできないのであって、政治家や官僚や国民が戦争にならないように努力するしかないわけで、もちろん自衛隊がクーデターでも起こせば、そんなものは吹っ飛んでしまうのであり、武力にものを言わせれば、憲法など有名無実となってしまうわけだ。そういう意味で国家や憲法などに過度な幻想は抱かない方がいいだろう。

 日本だけで日本は成り立っているわけではなく、諸外国との関係の中で成立しているわけで、いくら自家中毒気味に国家や憲法の在り方を議論したところで、リアリティをともなわない。左翼系の人たちは、どうしても社民主義的に富の再分配によって平等を実現したがるのだろうが、諸国家の経済的な力関係があり、周辺国のアメリカや中国や韓国などが、企業や金持ちの優遇政策をやっている限りは、日本だけが企業や金持ちからの課税を強化すれば、国際競争力を失いかねず、そうなると政治的な支持は得られにくいのではないか。そういう意味では、オバマにはTPPなどをてことして、地域内の経済統合を目指し、それをゆくゆくはEUなどとも統合させ、長い目で見れば世界的な経済統合と国家統合へ向かうような目論見があるのかもしれず、それがどれほど先になるのか、本当に実現するのかわからないが、たぶん世界が経済的・政治的に統合されない限りは、社民的な富の再分配による平等の実現は難しいと思っているのではないか。そしてオバマの次にクリントンが大統領になれば、そんな意向が引き継がれるのだろうか。目指す方向性としてはそれで正解か。だが結果はそれとは違ったものになるのかもしれない。というか結果がなかなか出ないままに状況が推移して、国内的にも国外的にも、方向性が一つにまとまることはあり得ないのではないか。短期的に見ればそうだが、長期的に見れば、効率的にも考えれば、世界が一つにまとまった方がいいに決まっているのだろうが、理想はそうであっても実際は違うのだろうか。それに対する抵抗勢力はいくらでも想定可能か。結局それは世界的な天変地異や人為的な世界大戦などで、人が大勢死んで主要都市が灰燼と帰したりして、世界各国の国力が著しく弱まったときを狙うしかないのだろうか。平和裏のうちにスムーズな世界統合が進むとは到底思えないか。世界統合というよりは、逆に世界分散というのはあり得ないだろうか。人も物も分散して、すべてが散り散りとなり、国家そのものが意味をなさなくなって、人を管理コントロールする官僚機構も不要となり、物の売り買いも自然消滅して、経済活動もなくなって、人類終了世界終了となってしまえば、面倒なことは何も起こらずに、すべては丸く治まってしまうような気がするのだが、どのような成り行きでそうなってしまうのか、今のところは想像もつかない。


6月12日

 人はその必要も必然性もなくても、不意にそこから外れてしまったり、逸れていってしまうのかもしれない。原発事故にもめげずに、福島県で楽しくはしゃいでいる人たちの映像を眺めているわけでもないが、人気テレビ番組で農業指導をやっていた、事故避難区域出身の老人が白血病で亡くなったらしく、それが事故の影響なのか否かで物議をかもしているそうだ。ともかく避難区域外の福島県内で楽しくはしゃいでいる映像を見せたいのだろうから、そこには何らかの意図や思惑があり、そんな映像を見て勇気づけられる人たちもいるのではないか。そしてそれは、その一方でそれを見て腹を立てる人たちを誘い込む罠でもあるわけか。後はこの映像に文句を垂れる奴らは人の善意を踏みにじるクズどもだとなるわけか。どうも非難されようが賞賛されようが、どちらでもかまわないのかもしれず、要するにメディアを通じて情報を流して、その情報に食いついてくる愚かな人たちをそこで踊らせて、あわよくば情報を流している自分たちの利益にもつなげようということらしい。それがいわゆるフェイスブック商法の本質なのか。たぶん倫理観の強い人なら、幸せいっぱいの映像とともに、悲惨な現状も同じ程度に見せて、判断は見る人にまかせるのだろうが、それでは愚かな人たちは食いついてこないわけで、わざと軽薄にはしゃいでいる映像を見せつけて、そういうのにカチンとくる同レベルの浅はかな人たちを誘い込み、そこで賛成派と反対派の二項対立に持ち込んで、ちょくちょく火に油を注ぐようなコメントを差し挟みながら煽り立て、そんな不毛なコメント合戦を眺めながらほくそ笑むわけか。ほくそ笑みはしないだろうが、たぶんそこには無意識の悪意が潜んでいるのだろうし、できればそういう嫌らしい意図に気づいて、それに対処するようなコメントを書き込んだ方がいいのかもしれないが、そんなコメントは少数派に追いやられ、感情にまかせて罵詈雑言を書き込んでしまう人たちを、シニカルに嘲笑したり冷笑を浴びせたりする人に、人気が出てしまうのではないか。そして相手を論駁できそうな人に絞り込み、どうだといわんばかりに長々と論駁を書き込み、それで勝ち誇ってみせるわけか。その手のディベート術になれていないナイーブな人なら、そういう見せかけの論駁にひっかかり、仕掛けている人の思うつぼにはまってしまうのかもしれない。でもまあそんなことをやっていくうちに、人々もだんだん学習していくような気もするし、これもあざとい仕掛けにひっかからない賢さを身につける良い機会なのだろうか。それとも誰もが機会を逸して、これまで通りの不毛な応酬を楽しむわけか。

 何事も一筋縄ではいかないようで、物理的な作用反作用の法則でも当てはめればいいのかもしれないが、いろいろな対処法が試されているわけで、それの一環でそうなっているのかもしれず、そんな試行錯誤がこれからも延々と続いてしまうのだろうか。どうせなら甘ったれた幸福を共有している多数派に媚びたりしないで、嫌らしい下心など滲ませずに、罵詈雑言しかコメントできないようなことを、正々堂々と主張すべきなのではないか。たぶん真実を語るとはそういうことだ。痛いところを突いているから、罵詈雑言だけを誘発するのであって、そうでなければ黙殺すれば済むことだ。そんなことを主張されてはまずいから、そんな主張を必死になって叩き潰そうとしてしまうわけだ。そういう間違った用法で人の琴線に触れるようなことを語れば、何やら楽しい気分になれるのかもしれないが、とりあえずそんなところで目立ってしまうと面倒だと思うなら、誰の目にもふれない場所で凡庸なことを述べて、無視されている方が差し障りはないだろう。不必要に騒ぎ立てずに済んでいるうちはそれでもかまわないか。逆に騒ぎ立てずにはいられないというのだから、それだけ現状に対して危機感を抱いているということか。というか自分の意見を世の中に反映させたいから騒ぎ立てているわけで、何とかしたいからそんなことを主張して、危機的だと思い込んでいる現状を打開したいのだろう。まだまだ世の中にはそんな勇ましい人たちが大勢いるわけか。ならばそんな人たちを黙らせるにはどうしたらいいだろうか。もう少し世の中が静かになるような洗脳を施さなければいけないだろうか。それともすべての人たちが飼い主に従順な羊の群れの一員となるような管理手法を編み出すべきなのか。その辺の社会を管理制御するための試みも着々と水面下で進行中か。そんないい加減なデマを弄んで人々の不安を煽るのは良くないか。要するに君は意識して世の中に悪意を振りまこうとしているわけだ。


6月11日

 強迫観念に突き動かされて、その衝動に逆らえず、悩む日々を送っているわけでもないのだろうが、たぶんそんな成り行きを超えて、どこか思いがけない場所へと押し出されていってしまうような気がしないでもなく、何が強迫観念なのか意識しているわけでもないようだ。特定の作用ではないのかもしれない。自然にできた仕組みを人が意識して改変しようとしても、思惑通りにはいかないのはもちろんのこと、却って事態を悪化させてしまう場合もあるようだ。変革の幻想を打ち砕こうとする抵抗が絶えず生じていて、改革は遅々として進まず、やがて制御不能に陥り、計画は空中分解してしまう。たぶんそれが自然の成り行きなのだろう。でも落胆するには及ばない。そんな惨状の中でも何かが確実に変わっているはずだ。気休めかもしれないが、そう思わずにはいられない心境が、変えようとする意志をかろうじてその場につなぎ止める。そうやって話のつじつまを合わせようとするわけか。しかし退屈だ。意志の強度が不足しているのかもしれない。すでに逸脱しているわけで、話にもならない状態となっている。それでもその時のことを覚えているのだろうか。誰もが忘れてしまったのに覚えているらしい。強引に引き戻すわけにはいかず、そこに生じている散逸作用にまかせて、無意味なこだわりが自然消滅するのを待つしかない。そもそも何が間違っていたのだろうか。自然に逆らえばそれ相応の報いを受ける。そんなことでしかないのだろうか。しかしそれ以上の何があるというのか。絶えず周期的な反復作用に晒されていて、それが今生じている揺り戻しのたぐいなのだろうか。やがてそれも一段落するだろう。すでにそうなってしまった事象もいくらでもあるらしい。自然の作用に主義も何も通用しないだろう。自然発生的に生まれた、ものを売ったり買ったりしていることの何が主義でもなく、資本主義と呼ばれる現象が主義ではないことは明らかだが、そこから生じる不具合を何とかしようとする人たちに対抗して、そう呼ばざるを得ないだけなのではないか。

 しかしすべてが自然の成り行きまかせでいいのだろうか。その成り行きの中に人為的な行為が溶け込んでいるわけで、誰もがその中で何かやっているつもりでいる総称がそうなのだから、それを超える行為はあり得ない。要するにその中で何かやらなければならないということだ。人は自然の成り行きに逆らう宿命なのであり、その逆らう行為自体が自然の成り行きに含まれているのにも関わらず、やはり結果的にそうなってしまうわけだ。要するに自然の成り行きに逆らうことが自然の成り行きとなってしまう。それが自然の変化を促す要因となっているのだろう。人が抱く幻想や思惑とは異なる水準で自然が変化していて、その変化の中には人の変化も当然含まれる。どうやら何かが確実に変わりつつあるのは当然の成り行きのようだ。しかし何が変わっているのだろうか。変化や変化の兆しを感じられないのだとしたら、それは気づかないところで変わりつつあるということか。そしてその変化から人が利益を得られるわけでもないのかもしれず、そんな期待や希望を打ち砕くような変化である可能性もありそうだ。それでも人は自然に抗い、何かをやろうとしているのであり、そのやっていることが自然の成り行きに含まれているとしても、そうした成り行きに逆らいながらやっていると思われてしまうわけだ。それがこの世界の一部でしかない人間の限界であり、それを超えて何かやることはできない。常にやっていることが自然の成り行きに含まれているわけで、そうは思えないことが、人が自然や社会を変えようとして、何かしら行動する原動力となっているわけで、それを強いているのが自然とは思えないから、人はそれをやめるわけにはいかないわけだ。やめられるはずがなく、やめてしまったら人が人でなくなってしまうのかもしれない。たぶんそれをやめたときが、人がこの世界から消え去るときなのだろう。人はこの世界から生まれてきて、この世界を支配する自然の成り行きに逆らいながらも、実際はそれも自然の成り行きに含まれていることに気づかないまま、絶えず何かをやり続けているわけで、それが人が世界の一部としている存在している証拠でもあるわけだ。

 スピノザ的な思考とはそういうことなのかもしれず、だからどうしたといわれれば、何がどうしたわけでもなく、人はこれまで通りに何かやってゆけばいいだけで、やっていった先で何がどうなろうが、そういうことでしかなく、どこまでいってもどこまでやってもいつまで経っても、何がどうしたわけでもないのであって、人はただそんなことをやりながら消耗してゆき、やがて死んでしまうのだろう。だから幻想を抱かなければならず、必要とあらば救いを求めなければならないし、やっていることが報われなければならないわけだ。それが幻想に過ぎないとしても、やっているときは自らの主体性を信じてやるしかないのだろう。そのような思考の先には何もなく、その先をいくら考えても、言葉が無限に循環するだけで、どこにもたどり着けずに、気がつけば元いた地点に戻っているだけなのかもしれないが、そんな堂々巡りをした分だけ時間が経っているわけで、それだけ限られた生を使って死に近づいたわけだ。やがて人も変わり社会も変わり世界も変わるのだろうが、それは今人々がやっていることが反映された結果かもしれず、たとえ自然の成り行きでそうなっているだけなのかもしれないが、人は否応なくそうするしかない。人が存在するだけでも変化するわけで、現状に抵抗する人々の存在が、何かしら変化を生み出すのだろう。もちろんそれは抵抗する人々の思惑通りにはいかない変化であり、その結果がっかりさせるような結果をもたらすのかもしれないが、落胆したからといって抵抗をやめるわけにはいかないのだろうし、そういう人たちは絶えず現状に抗いながら生きて死んでゆくわけだ。それが無駄な抵抗であったり悪あがきであったりしたとしても、なおのこと抗わざるを得なくなり、中にはやめてしまって、その敗北感を糧にして生きていく人もいるだろうが、そういう人に成り代わって、また新たに抵抗する人たちが生まれてきて、新たな抵抗運動が開始されるだろう。それが自然の成り行きならそういうことであり、今のところはそういう成り行き中で果てしなく状況は転がり続け、地球は自転し続け、太陽の周りを回り続けている。そんなふうに語ってしまうときりがない。


6月10日

 起こりそうもないことをいつまでも期待しても仕方ないが、実際に起こってしまうこともあるらしい。なぜそうなるのかわからない。しかし何かの巡り合わせがあるらしく、そんなことが起こってしまうわけだ。そんなこととはどんなことなのか。どんなことでもあり得るだろうか。それが起こった後から考えればそういうことだとわかる。ではいったいこれから何が起こるのだろうか。起こってみなければわからない。21世紀には何も起こらない。そんな予想もあるそうだ。すべては19世紀のヨーロッパで起こったことで、20世紀には何も起こらなかった。きっと21世紀も同様に何も起こらないだろう。そんな馬鹿げた断言が何を意味するのか。要するに大したことは起こらなかったし、これからもそうだろうということか。ならば大したこととは何なのか。このまま何も起こらずに21世紀は終わり、22世紀に暮らしている人たちは、21世紀には何も起こらなかったと思うことが、大したことではないというのか。たぶん何かを否定しているわけだ。それらの出来事を拒否しているということか。何かが起こっているそこから目を背けているのかもしれない。しかしなぜ目を背けなければならないのか。そこには出来事を記念した建物があり、その建築物や構築物を見れば、そこで何が起こったかわかるのではないか。まさかそれがねつ造された歴史を物語っているとでも言うのだろうか。たぶんそう見せかけたいのだろう。信じ込ませたいわけだ。あるがままの姿を受け入れることができない。人は愚かなのだろうか。ありふれた感情に盲従したい。だからあえてそんな感情に逆らって、20世紀には何も起こらなかったと強弁したいのか。それらのインチキ記念碑などすべて打ち壊して、すべてはなかったことにしようとしているのか。現実には誰がそうしようとしているのでもないらしい。誰かが頭の中で考えているらしく、それを実行に移そうとしているわけではなく、ひたすら考え込んでいるだけなのかもしれない。余分な構築物がすべて取り払われた世界を想像している。そこに何があるというのか。障害物がない。それがなければ何もないということだ。思ったり考えたりするきっかけがないわけだ。何もなくなるとはそういうことではないのか。

 失ったものが多すぎるように思われるのは、取り返しのつかないことをやってしまった証拠だろうか。何かをやった後から悔やんでいるとすれば、それはありふれた感情の推移によってもたらされた心境に違いない。君はそれが気に入らない。ここでは何も起こらない。それが偽らざる実感だとすれば、君は予感がしているはずだ。きっと思いがけないことが起こるのだろう。そんな期待が忘却に代わるとき、君はそこで何かを忘れている。それは当たり前のことだ。記念碑的な正当化を拒んでいるわけだ。立ち止まっている場合ではないと自らに言い聞かせる。それが無駄な悪あがきと見えるなら、そんなくだらぬことをやっている人々を罵倒すればいいわけか。誰もがやれることをやっているのであり、やれないことはやれないままに終わろうとしている。そのやりたくてもやれないことの中に無念の気持ちが潜んでいるのか。だがそれを誰が察するのだろうか。すでにその時点で空想の領域で考えているようだ。後はフィクションになるしかなく、それを物語る誰かを必要としている。誰も入り込めない場所に架空の意識があるらしい。たとえそこで言葉が記されるとしても、またそれも空想なのだろう。破綻するのを避けているわけだ。何かの移り行きを眺めながらも、記しつつある言葉の連なりが、誰かの物語に移行するのを妨げている。どうやらそこに障害物があるらしく、それが行く手を遮っているらしい。でも誰がそこへたどり着こうとしているわけでもない。勝手にどこかへ流れ着こうとしているだけか。得体の知れぬ領域に何があるわけでもないだろう。ただそれを語りたかっただけではないのか。そんな思いにとらわれて何かを語ろうとしていたのだろう。そして語ることに挫折したわけか。まだそう決まったわけでもない。その時点から先の話が残っているはずだ。その残りの話に誰かの思いを託さなければならないか。だが通り過ぎてしまった場所に今さら戻るわけにもいかず、またいつか巡ってくるだろう機会に期待して、ここは先を急ぐべきか。もうだいぶ無駄に言葉を記してしまって、当初にこだわっていた内容などどうでもよくなってきて、意識は他の何かを探っているのかもしれない。そこでねじ切れてしまった粘土細工に未練はなく、また別の造形を練り上げようとしているのだろう。気が向いたらそれも語るとしよう。今は違うようだ。雨と雨の合間に雑草を引き抜き、ゴミ袋に入れて狭い区画をきれいにしようとするが、やっている途中にまた雨が降ってくる。君が知っている無駄話はそこに至る経緯だ。また忘れた頃にそれを思い出すのだろう。どうしようもなく怠惰と労働の日々を思い出し、なぜそこから逃れようとしていたのか理由がわからなくなる。結局はそれだけのことだったのではないか。語りようがあるのはそういうことだ。

 すべては遅れてやってきて、取り返しのつかなくなってしまった時点から考えるしかないのではないか。そしてもうそこから抜け出られなくなっているわけか。そうなってしまったらおしまいか。だからおしまいになった時点から考えるわけだ。そんなわけですべては遅すぎるのだろうが、間に合ってしまった人たちは何も考えないのだから、考えているだけマシな方なのだろう。だがそこに語るべきことがあるわけではない。語り得ないことを語るべきで、語り得ることは語らなくてもいい場合が多い。雑草だらけの荒れ地を彷徨いながら、アスファルトの破片を辿って、道があった地点へと出る。引き返そうとしても迷うだけのようだ。どこへ向かっているのかもわからない。要するに無駄に語りすぎてしまったのか。それくらいがちょうどいいのかもしれず、却って目標を見失っているわけでもないことに気づいて、しらばっくれながらもそこに近づいていることを確信してしまうのかもしれないが、たぶんそれが偽の目標であることはわかっていて、何かを語るための方便でしかないのだろう。すでに語り飽きている。すべての道がどこかに通じていると思い込むのはよそう。道は途中で途切れ、それがどこへ行く途中であることも忘れてしまうわけで、道に迷っていることにも気づかずに、さらに余計なことにも気づき、それが躓きの石となって、探索者をよろめかせ、その拍子にまた別の余計なことを思いつくわけだ。まったくきりがない。そのまま続けてもどこへも至らないだろう。それを覚悟しなければならないのか。たぶんそれに気づくべきではなかったのだろうが、気づかずにいられないところが、そんな成り行きがもたらす宿命的な特性であり、結局どこへもたどり着かないとしても、人はそれをやめようせず、やめるわけにはいかないのだろう。それを思いとどまらせるには短すぎる一生なのであり、勝手なことをせずにはいられない。譲り合っている場合ではなく、我先に思いを遂げようとして、競合相手と激しく争い、何とか相手を押しのけてでも、自らの信念を貫き通そうとして、馬鹿な人たちの勢力争いに巻き込まれ、そこで無駄に消耗して、そんな人たちに影響を及ぼされて、安住の地を見出したつもりとなって、そこで朽ち果てるまで利用されてしまうわけか。でもそんな悲惨な人たちを改心させるのは無理なのではないか。もはや手の施しようのないほど心身ともに改造されてしまっていて、同じような動作しか期待できず、反応も金太郎あめのように紋切型で、そういう水準で仕上がってしまっているわけだ。当人たちは何か行動しているつもりなのだろうが、その実態は工場の産業機械のように、同じ場所で同じ動作を延々と繰り返しているに過ぎない。しかもそうすることが当然だと思い込んでいて、ひたすら事前に仕込まれたプログラム通りに動き続け、決められた文句を繰り返す。そういう人たちが組織的に動けば、それは蟻の群れのような強さを発揮するのだろう。そんな人の心を削ぎ落とした蟻人間たちが、ネット上に群れ集い、同じような文句をひたすら書き込み、数の力を誇示しているのだろうか。

 結局20世紀の教訓などは忘れ去られ、何も活かされず、炎上と呼ばれるエサに群がる蟻の群れしか目に入らず、そんな殺伐とした光景がネット上に広がっているわけか。そういう面を強調して語ればそうなるが、20世紀には実際に戦場で人々が殺し合いをしていたわけで、国家が面倒な人たちを押し込めた強制収容所でも、人が大量に殺されたわけだ。たぶんそれとこれとは違う水準で起こっていることなのだろう。蟻たちも仮想空間に群れ集っている限りは、大して害はないのだろうか。でもそういう蟻人間たちが現実の世界に這い出てきて、集団行動に訴える事態がやがて起こったりしたら見物だろうが、果たしてそれを野次馬のように見物している余裕があるだろうか。とりあえず現実の世界は仮想空間より広いのかもしれず、蟻たちもその偏狭な心と同じように行動範囲も狭いのかもしれず、あまり遠くまでは行進できないのかもしれない。蟻の巣に近づかなければいいわけか。誤って近づいてしまい、足音に気づいて蟻たちが巣から這い出てきたら、一目散に逃げるしかないか。ならば今から逃げ足を鍛えておかなければならないが、今のところそれも冗談の域を出ない話だ。それが何のたとえにもならないことを願っているが、現実は甘くないようで、何か最近ヤフージャパンのニュースのトップ項目で、大して関心も惹かないような皇族の冠婚葬祭話が、執拗に何日も見受けられたのだが、要するにそれは蟻人間たちが組織的にその記事へ大量にアクセスしていて、それでアクセス数の多いニュース項目が必然的にトップに来るようなカラクリが反映された結果だったのかもしれず、何やら不意にそんなことを想像してしまい、ぞっとしたわけだ。まあ宣伝目的の有名人や芸能人の冠婚葬祭と同じような現象でしかないのなら、別に目くじら立てるほどのことでもないのだろうが、蟻人間たちがメディア上で煽らなければ関心を抱けないのだとしたら、それだけ皇室の権威も地に落ちたということだろうか。というかもともとそんなことに関心を抱く必要はないのかもしれない。


6月9日

 その場その場で態度を使い分ける必要を痛感させられるみたいだが、でもそれで何を取り繕っているのだろうか。立ち振る舞いがあざといだけか。そうなるしかない。そう見えてしまうのだから仕方のないことだ。何が正しいわけでもなく、真実とはそういうことなのだろう。それを指摘してしまえばそこでおしまいで、単にゲームのルールを無視して、言ってはならぬことを言ってしまったに過ぎない。共同体の中では暗黙の了解というものがあり、言ってはならない禁句は、なるべく避けなければならないというのが、ゲームのルールで、それを言ってしまうと、ゲーム内での予定調和の対立が成り立たなくなってしまうわけだ。そして当然のことのように共同体の外部があり、外部から見れば、そんなものはくだらぬこだわりとしか見えず、共同体そのものが不合理な教義に覆われた、不自由な迷信を共有する空間でしかないことに気づかされる。迷信は宗教につきものなのだろうか。そもそも宗教とは何か。それを信じなければならない必然性があるから、それが成立しているわけだ。そこには解きほぐすことのできない、厄介な諸事情の絡まりがあるわけか。それをどうすることもできないから、人々は宗教にすがるしかないわけか。では宗教に替わって誰かが問題を解決しなければならないわけか。宗教とは不具合を修正したり問題を解決したりするものではなく、それらをそのままにして、それらからもたらされる苦痛や苦難を、ただ癒やすためにあるのではないか。では宗教では何も解決できず、何も改まらないということか。そういう現状に業を煮やして、宗教改革に立ち上がる者が現れるわけだが、それは異端者として現れ、しばしばその宗教を共有する共同体によって抹殺される運命をたどり、改革者が悲惨な死に方をすればするほど、その宗教により強固な結束をもたらすこととなる。イエスの磔刑しかり、その使徒たちの殉教しかり、シーア派の創始者のアリーしかりか。ヨーロッパでは異端者として火刑に処せられた者数知れずか。でもそれは地域的に偏りのある特定の事例に過ぎないのではないか。それも劇的な成り行きからの宗教の成立を補完する迷信でしかないか。鎌倉仏教の改革者であった法然や親鸞や日蓮は、流罪の刑に処せられただけだ。

 でもその執拗さは、人の感情と結びついているので、なかなか治まることはなく、同じ感情の共有ほど結束の堅いものはなさそうに思われる。たぶんその感情の共有こそがゲームに参加する条件なのかもしれず、感情を共有できない者は、そこに加わるメリットを感じられないのであり、ゲームの何がおもしろいのか理解できないのかもしれない。部外者は宗教にはまることを恐れているのではなく、単に関心がないだけか。そうではなく、共同体の外部から内部に向かって批判を繰り返しているのではないか。内部の人々よ目覚めよ、というメッセージを絶えず送っているわけか。しかし目覚めたらどうなるというのか。目覚めて自分たちの惨状に気づいたとして、他に何か救いの道が提示されていなければ、今度はそれを気づかせた者を憎み呪うしかないのではないか。結局何も解決されておらず、ただ癒しが妨害されるのみなのだ。人々はそうやって苦痛や苦難を耐え、延々と心の癒しを求め続けるわけだ。そして世の中はそのような状況に固定され、それが当たり前となり、人はそんな運命を受け入れながら生きて死に、輪廻転生を繰り返しながら、この世とあの世を行き来すると信じるのだろうか。信じるか信じないかはあなた次第だ。あなたとは誰なのだろうか。汝がキリストである証拠がどこにあるのだろうか。この世界では誰もメシアにはなれないし、救われることは苦痛でさえあるのではないか。だから汝はただの他人であり、ただの傍観者でさえある。他人が苦しみ悶えているのを見守るでもなく、その場を通り過ぎる者こそが汝なのではないか。それは共同体の外部からおせっかいな忠告や諫言をもたらす者でさえない。そして路上に行き倒れ、誰からも弔われずに身元不明者として火葬されてしまう者こそがキリストなのだろうか。それはロマン派的な倒錯でしかないかもしれない。そういう言い方がおかしいのだろうか。たぶん行き倒れの人はキリストでさえない聖者なのだろう。またそれもおかしな言い方だ。そういう線でどう言い直してみても、それは違うとなってしまい、要するにこじつけでしかないのだろう。君はそう述べて宗教を否定した気でいるのだろうか。インドの大都市でターバンを巻いた薄汚い仙人くずれの老人が路上に座り込んでいる光景でも想像しているわけか。確かに聖者とは乞食のことだ。物乞いをしながら道端で暮らしている者が聖者なのかもしれず、そんな聖者に施しを与えることで、人は救われた気持ちになるのだろう。その程度の宗教観でかまわないのではないか。

 やはりそれも何かを歪曲しているような気がしないでもない。語るとは何かをこじつけ、そのこじつけを正当化するために語り、そこから自己言及の迷路にはまっていくことが語ることの本質だろうか。別に本質というわけでもないだろうが、聖者という言葉の持つイメージが、何かしら宗教を語る上で、人の心を惹きつけるわけで、それが言葉の力であり、語る者を酔わせる作用があり、過剰な思い入れとともに、多言を要して語り上げてしまう傾向にあるわけで、その向かう先にあるのが崇高な感覚なのかもしれない。尊さと卑しさを兼ね備えているのが聖者であり、その落差が崇高な感覚を呼び起こし、崇め奉る対象となってしまうのだろうか。でも実際に誰が路上の聖者を崇め奉っているというのか。そこに物語的な想像力が関与しなければ、誰も物乞いを聖者とは見なさないのではないか。要するに聖者というのはフィクションの中でしか聖者ではないということか。人の心の中に聖者がいて、たまたまそれを近所の道端にいる物乞いが聖者だと錯覚しているだけか。信心深い人ならそれもあり得るかもしれず、それは托鉢の僧侶の延長上の存在だろうか。もしかしたら托鉢の僧侶が路上の物乞いの真似をしているだけではないのか。自らを聖者に見立てているわけで、それには無一文の物乞いにならなければ、聖性を身にまとうことはできないわけか。その辺が宗教が資本主義と相容れないところかもしれないが、その一方で宗教法人が信者からのお布施や寄進で潤い、税金も免除されて金満体質になっている面もあるわけで、その豊富な資金をバックに何やら冠婚葬祭などの宗教商売を繰り広げている現状は、やはり資本主義的でもあるわけで、街で鈴を鳴らしながら托鉢しているお坊さんを見かけたら、その人が属しているのが全国規模の有名な宗派であったりすると、偽聖者ということになってしまうだろうか。まあそれも修行の一環だと判断すれば、その人に罪はないわけだから、温かく見守って、余裕があったらその場で何かあげた方が、ご利益があるのかもしれず、それも気の持ちようなのだろう。


6月8日

 世の中には優れた人とそうでない人がいるようだ。それは成功した人とそうでない人か。当人たちにとっては意味のあることかもしれないが、社会全体にとっては、誰が成功しようが関係のないことかも知れない。ともかく成功した人としなかった人の二種類がいれば、それでかまわないわけで、そうなれば成功しなかった人が成功した人を羨み妬んで、場合によっては憎んだりして、そんな嫉妬や憎悪に内心ほくそ笑んで、成功した人は優越感に浸り、そうした成功した人と成功しなかった人の関係によって、活力ある弱肉強食の社会が構成されるわけだ。それが今あるこんな社会の実態なのだろうか。現状ではこんな社会以外にはあり得ないということか。こんな社会に身も心も浸かっている限りは、別の可能性など思いつかず、何を夢想しようとしても無理なのか。成功しようが失敗しようが、どちらでもかまわない社会が到来したら、人々は嫉妬や憎悪といった否定的な感情から解放され、犯罪の起こらない社会が実現されるのではないか。でもたぶんそうなると、嫉妬や憎悪の感情を乗り越えて、他人を誉め称える感情もなくなってしまうか。そこにはただ人を愛するだけの社会があるわけか。それが最後の審判の後に実現される社会だろうか。そうなれば人が人である必要はなくなってしまう。人でなくなってしまえば何になるのか。神か。おそらくそこには人も神もいないのではないか。誰もいなくなり、何もなくなり、無の世界となるわけか。話の途中からわざと飛躍させて、無意味なことを語ろうとしているようにも感じられるが、何を意図しているのでもなさそうだ。

 日本人は相撲のモンゴル人横綱を妬み憎んでいるのだろうか。その一方でアメリカのメジャーリーグで活躍している日本人選手を誉め称え誇りに思っている。日本で活躍するモンゴル人には否定的な感情を抱き、アメリカで活躍する日本人には肯定的な感情を抱く。みっともないといってしまえばそれまでだが、それが国家に囚われた民衆の特性なのだろう。その辺にどうしようもないバイアスがかかっていることは否定できないが、そのどうしようもなさも肯定しなければいけないのだろうか。何ともいえないところだ。そういうのが嫌なら、日本人が出てこないNBAのプロバスケットボールとかでも見ている方が、気楽なのかもしれず、それを伝えるメディアも、偏向した報道をやる必要がないから、見ていて倫理的かつ良心的に感じられるのではないか。たぶんそこに携わっている人たちは、日本人ではなく、バスケットボールをこよなく愛しているのだろう。しかし日本でもバスケ漫画は人気があるらしいし、NBAを目指しているプレーヤーもいるのだろうから、将来的には日本人がNBAで活躍するようになると、国家に囚われた民衆もそこに関心を向けるようになり、その手のメディアも下世話に煽り立てて、偏向報道もまかり通るようになって、バスケットボールをこよなく愛する人たちはがっかりしてしまうのだろうか。それともそれはそれこれはこれとして、日本人をえこひいきせずに、節度を保ってスポーツを楽しもうとするのかもしれない。現に相撲や野球を愛する人たちの中にも、少数ながらもそういう人たちがいるのではないか。できればそういう人たちが主流となることを期待したいか。


6月7日

 そういえば昔からアメリカはそれほど世界の平和に貢献してきたわけでもなかったのではないか。前世紀の二度の世界大戦においても、始めはヨーロッパ人同士の殺し合いを傍観していたわけで、殺し合って双方が消耗するのを待ってから介入してきたはずだ。そして最終的な勝者となって、世界の覇権を一時的に握ったわけだ。今回のロシアや中国の問題にしても、戦争になるを防ぐために介入することはなく、全面戦争にでもなって、ロシアや中国が消耗してからでないと、要するに100パーセント勝てる見込みがなければ、自国が圧倒的に有利な状況にならない限りは、積極的には介入してこないのではないか。そんな勝てない戦は絶対にやらないアメリカに、どうやったら勝つことができるだろうか。ベトナム戦争ではアメリカが負けたとかいわれることもあるだろうが、別にベトナム軍がアメリカ本土まで攻めていったわけでもないし、アフガン・イラク戦争でも、アメリカに攻撃されて、どちらの国の政権も倒れてしまったのだから、とりあえずアメリカが負けたわけでもないはずだ。アメリカが戦争に負けるとは、アメリカ本土が他国の軍隊に侵攻され、アメリカ政府が全面降伏して初めて負けたことになるのであって、ともかく未だかつてそういうことはなかったわけだから、宇宙人でも攻めて来ない限りは、今のところそれは不可能だろうか。

 かつて第一次世界大戦が終わった頃に、アメリカ大統領のウィルソンが、もう二度と悲惨な戦争が起きないように、戦争に至る前に話し合いで紛争を解決するための機関として、国際連盟を提唱したわけだが、言い出しっぺのアメリカの議会が本国の加盟を承認せず、確かウィルソンは選挙遊説でアメリカ全土を回りながら、必死に国際連盟への加盟を説いて回っている最中に、脳梗塞か何かで倒れて半身不随となり、数年後には亡くなってしまったようで、高邁な理念を掲げた大統領ですら、結果的に見殺しにしてしまうような国なのだから、それをいうなら同様のメンタリティの持ち主だったかも知れない、リンカーンもケネディも暗殺されてしまったわけで、その反面自国の利益を守るために、国連を無視して強引に戦争をやったブッシュ親子などは、未だに平然と生きているのだから、まあそういう国なわけで、それと比較すればプーチンや習近平などをいくら悪く言ったところで、それは安倍ちゃんとは程度が違うだろうが、自国の権益を守るために行動する政治家のたぐいとしては、ありふれた存在といってもかまわないのではないか。そしてプーチンや習近平を調子づかせているとして、弱腰外交だとオバマを非難したところで、非難している当人の他力本願的な焦りを表明しているに過ぎす、非難する以外に打つ手なしな自身のみじめさを、八つ当たり気味に非難することで晒してしまっているわけだ。

 政治家にも国家にも限界があることは確かだ。そういえば昔読んでいた雑誌を読み返していたら、ゴダールが自作の『映画史』が完成した直後のインタビューで、こんなことを言っていた箇所を発見してしまった。

C&G 最後のエピソードのなかで、ウェルマンの『民衆の敵』というタイトルを分けて、「民衆、敵」に変形しています。なぜですか?

JLG あれは、批評家は「敵に通じるために自分の陣営から脱走する。敵が誰だって?民衆だ!」と批評家について語るジュール・ルナールの文句なんだ。ご承知のように、民衆はしばしば美しい歴史を生きる勇気を持っているが、そうした歴史を物語る勇気を持ち合わせてはいない。それゆえに、人が劇場に行くときには、任務を放棄した状態にあるわけだ。したがって、映画作品が「ほとんど民衆的でない」ときには、よく言われるように、人は罪ほろぼしをしたと感じられるし、抵抗を感情を抱いたりもするわけだ。しかし、わたしたちでさえ、ストローブやカサヴェテスのよくできた映画作品を見に行くこととブルース・ウィリスやデ・パルマのできの悪い映画作品を見に行くこと、そのどちらかといえば、アイスクリームを買ってウィリスを見ながら、それを食べることのほうが好きだ、なぜなら人は民衆の一部なんだから。そのあとで、恥ずかしくなる.......。(『批評空間』2000 2−24 145ページ)

 これを改めて読んでみて、なぜストローブ=ユイレのDVDを最後まで見ることができずに、途中で耐えられなくなって見るのをやめてしまったのか、わかったような気がした。ここでゴダールが言っている「ブルース・ウィリスやデ・パルマのできの悪い映画作品」とは、世に傑作の呼び声が高い、『ダイ・ハード』の最初の作品や『スカーフェイス』のことかもしれず、それをアイスクリームを食べながら見て楽しんで、「そのあとで、恥ずかしくなる」というのだから、ゴダールは民衆が求めているのがどのようなものなのか、ちゃんとわかっているということか。そんな民衆をその内に抱え込んでいるのが国家であり、民衆の求めに応じて政治家たちが尽力しているわけで、安倍ちゃんもオバマもプーチンも習近平も、そうした政治家たちなのだろう。


6月6日

 相変わらず雑なたとえ話の水準でしか語れない。それでも一応は何かを語っているわけで、それほど卑下するようなことでもないか。人には考える暇が必要で、そのためには労働から一時的に解放されなければならない。そこから思考と感性の融合体としての文化が生まれてくる。実際には労働とともに文化が存在していることと矛盾していないか。ブルジョワ文化を頽廃芸術として否定する時代ではなく、労働の合間に文化が享受されなければならない。文化とは何だろう。日本民族が誇るべき心の拠り所が文化なのだろうか。わざと茶化そうとしてはいけない。では他に何を考えているのか。たぶんそれは外へ向かって誇らなくてもいいことかもしれず、民族などという付加価値を自慢する道具となってはならない。いかめしく肩肘張らずに、普通にその時代の世相を反映した作品が作られ、それを通して考えさせられるわけだ。別に社会に対して警鐘を鳴らしているだけではなく、それが未来へ向けて何かを提示しているのかもしれない。何かとは何だろう。これからどうするべきか、その指針となるようなヒントでも与えているわけか。たぶん穏便に考えるならそういうことだ。文化に接しながら人は何か考えているのかもしれない。心に余裕があるうちはそうしているのだろう。何も否定されるべきものではなく、自己正当化に利用されるべきものでもないのかもしれない。それを通して何か感じてもらえればそれでいいわけか。とりあえず文化を擁護するとすれば、その程度のことしか思い浮かばない。たぶん音楽でも文学でも原発は止められないだろう。かつて文学や映画で革命を起こそうとした人たちは荒唐無稽な妄想を抱いていたわけか。

 それでも人がまともな精神状態でいるには文化が必要か。創作する必然性に悩み、若くして自殺した芸術家の狂気に触れることで、安易に美学にのめり込むのを戒める教訓とするわけか。あるいは様々な趣向を凝らした罠や仕掛けを張り巡らして、競争相手を陥れて栄光を手にしようと企む物語の主人公が、その明晰な頭脳を過信するあまり、却って墓穴を掘り破滅してゆく様を観ながら、人間の脆さや人生の儚さに思いを馳せたりするわけか。それらの自分が創作し得ない作品に接したり、体験し得ない他人の生を擬似体験することで、何やら心が豊かになったような気になるのだろうか。気になるだけではなく、実際にそのような文化を享受できる豊かさを実感するわけか。少なくともそこに単純さを求めてしまってはまずいのだろう。勧善懲悪とか御涙頂戴とか性風俗とかをこれ見よがしなウリにして、大衆に媚びてしまうと、下劣で低俗な文化となってしまうから、その辺で倫理観が必要なのかもしれないが、手っ取り早く儲けるには、倫理などにかまっている必要はなく、大衆が欲しているものを提供すればよく、若い女の子が大勢で水着姿で踊りながら歌えば、踊りと歌の稽古で怖いプロデューサーに怒られて、涙を流している映像などを見せられれば、欲求不満な若者たちがすぐに飛びついてきて、中にはその手のアイドルの握手会に出かけて、ノコギリで斬りつける人騒がせな輩も出てくるということだろうか。たぶんそれの何が悪いわけでもないのだろう。そういう現象に接して、何かがおかしいと疑念を抱く人も出てくるだろうし、自分たちが何に踊らされているのかに気づく人も出てくるのではないか。

 文化に本物とまがい物の区別などないのかもしれない。ピンからキリまでそれらのすべてをひっくるめたものが文化なのではないか。安易な欲望のエサに飛びついてひっかかる人たちがいて、それを馬鹿にする人たちも一方にいて、そんな人たちの毒舌芸にひっかかる人たちもいる。そのどちらもが金儲けの手段であり、ユーチューブなどでもその手の毒舌芸をウリにする人たちの映像が流されていて、それなりに人気があるようで、その程度で済んでいるうちが、人々の考えが及ぶ範囲なのかもしれない。しかしそれを超える水準で何を主張できるというのか。でもそれはどのような水準なのだろうか。そこではそれらのどちらもが否定されてしまうということか。果たしてそんなことが起こりうる状況が、これから到来するだろうか。それも流行り廃りであり、飽きられれば手を替え品を替え、目先の変わった代物が流行ったりするわけか。その程度で済んでいればその手の商売もやりやすいのかもしれない。


6月5日

 互いに矛盾した価値観を同時に求めるとはどういうことなのか。それがコインの裏表なのだから厄介か。柄谷行人的な資本主義と国家主義と民族主義は、ラカンの精神分析的には現実界と象徴界と想像界に対応しているのかもしれないが、三つがボロメオの輪を形成していて、三つのうちのどれか一つを攻撃しても、他の二つが支えてしまうので、なかなかそれらの連合体を打ち破るのは難しいわけで、コインの裏表のたとえでいうと、相矛盾する資本主義と民族主義が裏表で、コイン自体が国家を体現しているといえるだろうか。なぜ資本主義と民族主義が矛盾する概念なのかといえば、資本主義が進行すると、貧富の格差がどんどん開いて階級社会となり、階級間で同じ価値観を共有できなくなって、民族としての統一性を保てなくなるから、国家は基本的には富める人たちの味方なので、貧しい人たちの不満を押さえ込むために、メディアを駆使して洗脳しようとしてくるわけだ。洗脳するための単純なスローガンとしては、貧しい人も一生懸命汗水たらして働けば、やがて富める人になれるということだが、もちろん熾烈な競争に勝ち抜いて、現実に富める人になれるのは、ほんの一握りの限られた人でしかないわけで、よく考えてみれば、それほど話に説得力があるとも思われないのだが、考えるいとまを与えないように、次々と目先を変えるための宣伝文句を繰り出して、欲望を煽り、新たな価値観を絶えず生み出し、いつまでも夢から覚めないようにすればいいわけで、そのために使われたのが、スポーツや娯楽などの流行り廃りをともなう文化現象だったのだろう。意図して特定の誰かがそれを使ったというよりは、一般大衆の間でそれを嗜好する無意識の共有があったわけだ。

 それでも実感として経済的な苦しさを覚えるようになってしまうと、その手の気休めは効力を失い、不満のはけ口がなくなると、暴動や革命に発展してしまうわけだが、それを抑えるためには、昔は戦争という手段があり、外国を武力で侵略し植民地化して、植民地から搾取することで国内を富ませようとしたわけだ。無論収奪した富の大部分は、富める人たちをますます富ませることに利用されてしまうが、多少は国内の貧しい人にもおこぼれが回ってくるので、それなりに豊かになれたのかもしれない。そしてもはや地球上にフロンティアがなくなり、植民地を持てなくなってくると、今度は貿易によって富をもたらそうとするわけで、輸出産業を育成して、海外にどんどん物を売ることで、国内を富ませるやり方に転換したわけだが、それも他の新興工業国との競争が激化してきて、そこからもあまり利益を出せなくなってくると、今度はどうするのだろうか。一時期次世代の産業としてもてはやされた情報産業といっても、すでにアメリカに独占されている状況だし、残された道は金融業で儲けるしかないわけか。そこでもすでにイギリスとかアメリカとか先客が詰まっているわけだし、国際金融資本とかもいるわけで、そうなるともはや国家の枠組みとは関係なくなってこないか。地域的にも歴史的にも偏差があるから、それほど単線的な成り行きにはならないだろうが、人々にそれらの矛盾を意識させないようにする洗脳が、いつまでも有効だとも思えない。いつか必ずボロメオの輪も壊れる時がやってくるのだろうか。

 ともかく世界中の国の中では、日本はそれなりに先頭集団の中にいたわけで、今までに各分野で培ってきたノウハウもあり、それなりに富の蓄えもあったりするはずで、それが国家としての強みなのだろう。いつまでもつかわからないが、それがあるうちは何とかなるのかもしれない。まあ何とかなっているうちに何とかしたいのかもしれないが、どうせ手遅れになるのだろう。今世の中に出回っている思考や思想では、無理な状況がやってきそうに思えるのだが、それがいつになるのか今のところは定かでなく、世界的にじわじわと追いつめられていっている最中なのかもしれず、何かのきっかけからそれが一気に露呈して、とんでもない事態になった方がわかりやすいが、どうもそうはならないような気がしていて、知らないうちに変わってしまうのかもしれず、大どんでん返しが起こりつつあるのに、誰もそれに気づいていないのだとしたら、何だか愉快な気分となってくるわけで、たぶん気づかれないうちに何とかしている最中なのではないか。それは特定の誰かが何とかしているのではなく、人々の無意識が作用してそうなっているように思えてならない。人口が減少する現象などは、まさにそれの兆候なのだろうし、地方のショッピングモールやコンビニなどにたむろする、無気力なマイルドヤンキーなどもそれの顕われだろうが、それらはあくまでも表面的な目くらましの兆しなのかもしれず、たぶんそんなことに気を取られている間に、水面下で根本的な変化が起こっているのであり、それを体制側に悟られてはまずいのかもしれない。


6月4日

 ドストエフスキーの小説を批評する批評家の文章を、さらに批評する批評家の文を読みながら、何やらおかしな気分となってくる。大本のドストエフスキーの小説など読んだこともないのに、まともにわかるわけがないだろう。二重に批評された文章の何を理解できるというのか。まさかそれをまたここで批評しようというのだろうか。できるわけがなさそうだ。小説に出てくる複数の登場人物の錯綜する思惑と行動が招いた結果や、もたらされた心理状態を延々と語っている批評家に、その批評家は興味があるらしく、彼と同様に興味を持っている複数の他の批評家にも興味があるようで、それらの批評家と自分の批評の違いを説明しながら語っているわけだ。それを君がどう語れるというのか。それほど多くの批評家を惹きつける魅力がドストエフスキーの小説にはあるということか。というかそれを批評する批評家に惹きつけられる批評家が、日本には大勢いるということか。今はどうかわからないが、ひと昔前にはいたということだ。要するに当時は誰もがその有名な批評家について語りたかったのだろう。

 そして小説の登場人物の行動や心理状態を、当時の流行りの哲学や精神分析を用いて説明しようとしている。それを作者のドストエフスキーやそれを論じている批評家の思想や思考にまで及ぼそうとして、ちょっと読んだだけでは理解しがたいような小難しいことを、それを読む者を疲れさせながら延々と語るわけだ。しかし例えば虚構の人間の精神分析とは何なのか。それがその虚構を作り出している作者やそれを論じる批評家の精神分析にまで及ぶというのだろうか。また虚構の人間の心理状態を哲学的に分析するとはどういうことなのか。それも精神分析と同様の効果があるわけか。でもその虚構の人物たちが陥っている状況というのが、不条理な運命に翻弄されて殺したり殺されたり、その家族を巻き込んで救われない境遇になっていくわけで、今巷に氾濫しているその手のドラマがドストエフスキーを元祖して産まれてきたような話なのだろうが、誰もが飛びつくにはうってつけのフィクションということだろうか。現象的には映画でいえばヒッチコックみたいなものだろうか。ヒッチコックもドストエフスキーも観もせず読みもせずに、そんなことを平然と述べてしまうのがおかしくてたまらないか。要するにヒッチコックについて語ったり、ドストエフスキーについて語ったりする批評家の文章を、読んだことがあるということだ。それの何がおかしいのか。たぶんおかしいのだろう。理解がおぼつかない文章を難儀しながら読んでいくにつれて、だんだん読むのが馬鹿らしくなってくる。それを読んでああだこうだ論じるレベルには達していないらしい。

 関係なといってはそれまでなのかもしれない。関係あるように思われてしまう方がヤバいのではないか。それで済ませられるのだから、楽な人生を送っているということか。むきになってこだわる必要がないわけだ。その必要性を感じないのだから、悪霊に魅入られているわけでもないらしい。わざと深刻ぶって考え込むにも及ばない。それらの文章の中でどれほど複雑に入り組んだ事情が語られようと、それを素通りできてしまうのだから世話がない。なぜ読みながらもスルーできてしまうのだろうか。読みながら不意に関係のないことを考えている自分に気づき、慌てて言葉の連なりに目を移すと、もう半ページも先を読んでいて、その間の文章が頭に入っていないように感じられ、半ページ前に戻って読み出すが、すぐに別のことを考えている自分に気づき、そんなことが幾度となく繰り返されて、なかなか読み進められず、ただ時間ばかりが無駄に過ぎ去ってしまうようだ。たぶん読書そのものが空回りしているのだ。この感覚は何なのか。無意識のうちにこんなものは読まなくてもいいと告げられているわけか。誰が告げているのだろうか。自分の無意識が自分自身に告げているのか。それでも深夜までかかってようやく読み終え、翌朝に疲れが残っている。人には分相応があるらしい。無理にわかったようなことを述べてはまずそうだ。他人の文章には躓きの石が転がっている。至る所に躓いた拍子に罠にはまり込む仕掛けが張り巡らされているわけでもないのだろうが、ドストエフスキーの罠にはまったついでに、その罠にはまった小林秀雄の罠にもはまり込んでしまう批評家や作家が、かつて世の中には大勢いたのかもしれない。その中にはそんな状況に逆ギレして、小林秀雄程度の小者にはまり込むなと警鐘を鳴らしているつもりの批評家もいたわけだが、そんな現象もひと昔前の話で、今さらそんな文章を無理矢理読んでも頭に入らず、その内容を真摯に受け止める気にもなれず、ただ疲れるだけのようで、何かが確実に過ぎ去っているように感じられるだけか。


6月3日

 どうも感覚が違うようだ。脳みそがロボット化している人たちが多すぎる。そういう人たちが多ければ多いほど、メディアも政治家も官僚も、社会や人々を管理コントロールしやすいから喜ぶのかもしれないが、同じような意見ばかりが主張されているようでおもしろくない。無理してそれらとは違う意見をひねり出さなければならないわけでもないのだろうが、自分の意見が彼らの思惑によって管理コントロールされた、ありふれたものであることを自覚できる程度にはなりたい。それさえ困難だというのなら、やはりロボットのような決まりきった動作を繰り返すしかないか。その方が面倒な回り道をせずに生きていられるから幸せなのかもしれない。どう考えどんな意見を持とうとその人の勝手には違いなく、それにああだこうだと文句をつける筋合いもなければ、放っておけばそれでいいのかもしれないが、やはりそれではつまらなくなってしまい、そこから外れて暴走してしまいたくなるのだろう。しかし言葉だけで暴走と記してみても、それは偽りの暴走でしかなく、どのように暴走しているのかも定かでなく、何かが暴走している姿を空想しているに過ぎず、やはりそれでもおもしろくないか。ならばどうすればいいのか。つまらなくてもかまわないのだろうか。

 行き詰まっていることは確かで、何も出てこないのなら、程よく大衆迎合的な意見で妥協してもかまわないと思えてくる。もともと特定の何に逆らっているわけでもないのだろうし、空気のようでありたいとも思っているのではないか。でも疑念を抱いていることも確かで、社会が完全に管理コントロールされているとは思えないにしても、多数派によるありふれた言説の共有を感知して、それに抗ってついつい奇妙きてれつなことを述べてしまいそうになり、そんな動作に戸惑いながらも逡巡しているらしい。迷っているわけだ。血迷っているわけでもないのだろうが、何となく不快に感じられてしまい、そんな気持ちをどう表現すればいいのかわからなくなる。適当な言葉が見当たらず、やはり行き詰まってしまう。

 勘違いかもしれないが、気づいてしまうのはそういうことのようだ。たぶんユダヤ教もイスラム教も、現代の社会状況に対応した、新たな預言者の出現が待望されているのだろう。それはキリスト教や仏教やヒンドゥー教にも言えることだろうか。それとも必要とされるのは、宗教とは別の思考や思想だろうか。あるいは特定の思考や思想に囚われない自由な精神が必要とされるのか。たぶんそれらのどれでもあり、またどれでもないような態度が求められているのかもしれない。簡単にそんなのは不可能だと思わないことが肝心か。君は民衆の力を侮っているのだろうか。同じスローガンの下にまとまり、デモ行進するそれらの力を分散させ、できれば無力化したいとも思っているのではないか。それは非暴力や不服従運動のたぐいではなく、無力そのものにしてしまいたいらしい。またわけのわからない妄想に行き着いてしまったようだ。

 それは単なる現状肯定の動作だろうか。そう思われても仕方のないことか。人々が特定の居場所に安住できないようにしたいのではないか。誰もが彷徨うしかないような未来の到来を望んでいるのだろう。しかしなぜ彷徨わなければならないのか。来たるべき砂漠の時代に安住の地など残されていないからか。しかしそれは何のたとえなのか。人の心が砂漠化していくのだろうか。そう言われても具体的な情景が浮かんでこない。社会の管理やコントロールの裏をかくわけではなく、そのまま管理されコントロールされてしまえばいいとも思っていて、そういう作用の進展と比例して、物事に対する熱意や情熱が失われることは確かで、人は草食動物化を通り越して植物化していくのではないか。そうなると人は大地に根を下ろして固定化されてしまい、彷徨できなくなってしまうのではないか。それとも身体が動かなくなってしまうと、想像力を働かせて心が仮想世界を彷徨うようになるのだろうか。それが砂漠化とどう関係するのか。

 行き先も定かでなく、心が一つの場所に定まり得ないということか。特定の宗教や思想や思考に安住できず、拠り所を失い、幽霊のように身体の墓から彷徨い出て、フワフワとあたりを徘徊してみるが、どこにも居場所が見つからず、興味を惹くような事物にも巡り会えず、無気力無感動から次第に無色透明へと変化していって、ついにはこの世から消え去り、残された魂の抜け殻のようになった身体は、ひたすらロボットのように機械的な動作を繰り返すだけとなるわけか。それはメディア上で作られた他人の物語であり、おびただしい数の心がそれと同期しているようだ。すっかり空洞と化した心の中にそんな物語が響き渡り、テレビドラマや映画や漫画の物語として、その他大勢の人の心と共鳴現象を引き起こし、世間の話題となって流通している。そんな未来の情景を思い浮かべているのかもしれない。どうもとりとめがないようで、何を述べているのかわからないが、たぶんそれが疑念の行き着く先にある未来の有様なのかもしれない。


6月2日

 とりあえず少子高齢化が進んでいるということは、教育制度の成果なのだろう。子供を学校で勉強させて、それだけ賢い人間に育て上げたということだ。子供を産めばそれだけカネがかかるし、育てるのも大変であることがわかれば、産まなくなって当然だろう。発展途上国や先進国のスラム街で暮らしている貧乏子だくさんな人たちは、満足に教育を受けられなかったからそうなるのであって、少子高齢化の社会で暮らしている人たちが羨ましがるようなことではない。そういう貧乏子だくさんな人たちを移民で受け入れたら、労働市場の人手不足が解消され、人口は増えるかもしれないが、異民族の侵入により、日本民族の誇りを保てなくなってしまうから、そういう方面の人たちにとっては、断じて受け入れがたい状況となってしまう。もし移民がイスラム教徒だったら、日本がイスラム化する危険性もあるし、できれば日本民族系の人たちを、低賃金の下層労働者階級にしてしまえば、産まれてくる子供は満足に教育を受けられずに、ハングリー精神旺盛な貧乏子だくさん世代になるのかもしれないが、今まさにその対象になりつつある人たちは、黙ってそんな状況を受け入れるだろうか。反抗して左翼的な労働争議や革命の戦士となってしまうと厄介か。ではそうならないようにするためにはどうしたらいいのか。あきらめたらいいのでははないか。へたな小細工はせずに、これでは国家が衰退してしまうというのなら、衰退に身をまかせた方がいい。衰退してしまえば一攫千金目当ての移民労働者もやってこないだろう。現状のままでも結構みんなそれなりに生活をエンジョイしているはずで、おもしろおかしく愉快に暮らせればそれでかまわないのではないか。人手不足なら仕事を減らせばよく、それではやっていかれないなら、そういう事業からは撤退するしかないだろう。今さら成長戦略も何もあったものではないのではないか。もっと別の方面で新たな何かを開拓してゆくしかないのかもしれない。それも自然の成り行きだと思えば、それほど不具合とも感じなくなり、苦にならなくなるのではないか。

 経済発展は人の心にどんな影響を及ぼしているのだろうか。小金が貯まればそれを趣味に使いたいし、大金が貯まれば事業に投資して、さらに大金を貯めて、もっとでっかい事業に投資したくなるか。貯めるのではなく、貯めた金や資産を担保に入れて、金融機関から大金を借りて、あるいは他の投資家を募り自社株を買わせて、それらを元手にして、どんどんやっていることをでっかくしていきたいのではないか。そういう無限大を目指している人たちの間で行われている競争を勝ち抜けば、後は何をやればいいのだろうか。蓄財に飽きたら名誉がほしくなる。財団でも設立して人から尊敬されるようなことをやりたくなるだろうか。自然環境の保護を訴えたり、戦争や貧困で困っている人たちに人道支援を申し出たり、誰もが文化的な生活を享受できるように、美術館や劇場やコンサートホールなどを建ててみたり、プロスポーツに出資して、アメリカの大リーグ球団やイギリスのサッカークラブなどのオーナーになりたがったりするのか。そんな現状があり、人もメディアもその手の経済活動から生じる現象を肯定しないわけにはいかなくなっているわけか。果たしてそれは人々にもたらされている恩恵なのだろうか。そういう文化現象の中にどっぷり浸かっていれば、それを受け入れざるを得ないだろうし、そこから恩恵を受けていることを認めざるを得ないだろう。そんな莫大な資金と膨大な数の人間たちを巻き込んだ多岐多種に渡る混合現象に、単なる一般の小市民でしかない個人が異議を唱え立ち向かうなど、荒唐無稽の極みでしないのはわかりきったことだろうが、そんな誇大妄想を抱いていると愉快な気分となってくる。単に勝ち目がない以前に、勝ち負けを決める基準そのものが成り立たず、ただわけのわからぬことをほざいているとしか映らないだろう。たぶん具体的に何を語ろうとしているのでもなく、そういう現象がなくなる可能性を夢想しているに過ぎないのかもしれない。まさかそれらのすべては一過性の現象でしかないのだろうか。今がすべてではなく、今はすぐに過去となり、過去から継続的に積み上げられた出来事が歴史となり、歴史は出来事が連なった現象の物語だ。それらの連続にくさびを打ち込んで、途絶えさせることができるだろうか。そうするにはどうしたらいいのか。何が大それた事件でも計画しているわけか。映画や漫画にはそういう登場人物がしばしば現れ、既存の秩序を守ろうとする側と対決するわけだが、それこそが娯楽の対象なのだから、それも今続いている現象の範囲内だ。たぶんそれは事前や事後に表明するようなことではないのだろう。犯行声明を嬉々として告げてしまうその手のトリックスターも現象の一部だ。たぶんそれらとは違う人たちは、それと気づかれないうちにすでに何かやっているはずだ。


6月1日

 何かを伝えていることは確かだ。それが何かでなくなる時もあるのだろう。何でもないのだ。たわいない主張となり、がっかりするわけだ。それを後から読み返してみる。世界は一様だ。様々なことが起こっているのは事実なのだろうが、それぞれの出来事の間に大した違いはない。日本の独自性を主張したい人がいると同時に、各国の独自性を主張したい人も各国ごとにいる。どこの国にも右翼のポピュリストはいるし、それらの主張も似たり寄ったりで、不正確な意味で大衆に迎合しているように見せかけながら、ありふれた排外主義を煽ろうとしているわけで、やっていることは世界共通のようだ。それがある程度成功すれば全体主義へと移行するのかもしれないが、恐れたところでなる時はなるのだろうし、別にそうなったからといって、大したことはないだろう。違う考えの人や違う生活習慣を持つ人を閉め出したいだけで、みんな同じ考えと同じ生活習慣で統一されるに過ぎない。そしてその中で役割分担して、気持ちを一つにしてお国のためにがんばろうということになるのだろう。そうなると国家と国民の関係は、蟻の巣と蟻の関係に似てくるのかもしれない。あるいは蜂の巣と蜂の関係とも似ていて、シロアリの巣とシロアリの関係にも似ている。わざとそんな嫌なたとえを使ってそれらの人たちを批判しているつもりなのだろうか。もっと魅力的なたとえはないものか。みんなそろって同じことやるのが嫌なのか。それはかつてのソ連や今の北朝鮮などにも言えることではないのか。それも嫌なたとえだろうか。しかしなぜ国家を前提とすると、みんな同じ思想や習慣でまとまらなければならないのか。そういう発想自体に何か欠陥が潜んでいるのだろうか。対外的に別の国家が隣りにあるから、その隣りの国家に対抗するには国内が一つにまとまらなければならないということか。簡単に言えばそんなことでしかないような気がする。やはり大したことではない。

 人は何よりも自由でありたいのではないか。国家に束縛される必然性をあれこれ言い立てられるのがうざいのだろう。そこから国家に対する反発が生まれてきて、脱国家主義を唱えるようになるわけか。誰がそんなふざけた主張を唱えているのか。それは主義といえるようなものではなく、怠惰なたわ言に過ぎないか。今のところは大して理論武装しているとも思えず、説得力がともなわないモラトリアムのいいわけに過ぎないことだろうか。しかしどういえば説得力を持つことができるのか。何か特定の主義になってはだめなのかもしれない。目指すべき状態などないのかもしれず、何かのついでに国家が無化するような成り行きに持っていきたいのだろうが、やはり個人の力でどうなるわけでもないのだろう。理論的な裏付けなどありはしない。なにしろ国家をなくした後に生まれるかもしれない、世界政府的な官僚機構もなくしたいと思っているのだから、現状からは想像もつかないような妄想を抱いているわけか。だいいち人はどうすれば暴力的な衝動を抑えられるのか。それができなければ治安を維持するための警察機構が必要となってしまう。ともかく人が人を支配する装置を世界から取り除きたいのだろうが、実際にそれがなくなったら、人は何をやったらいいのだろうか。人が寄り集まって官僚機構を作り、機構が支配する人々を管理コントロールすることに、どのような意味や意義があるのだろうか。それによって人が安全に暮らしやすくなるわけか。それ自体が現実に官僚機構が存在していることから生じた幻想なのかもしれない。実際に官僚機構は税金という形で、強制的に人々が生産した富を収奪していることは確かで、それ自体は同意を必要としない暴力的な行為であり、税金を払わなければ資産を差し押さえて、競売によって当人の許可なく売り払ってでも収奪したりするわけだ。官僚機構がなければ今度は強盗などが暴力によって人の財産や命を奪いにきたりするわけだが、すべては奪わずに稼いだ分の上前をはねるだけの官僚機構の方がまだマシということか。でもそれは一度に奪ってしまったらそれで終わりとなってしまうので、死ぬまで少しずつ恒久的に上前をはね続けるための戦略と言えなくもない。

 その一方で人々が税金を払えるように、産業を育成してそこで働いて稼げるように仕向けているのだろうが、それは官僚機構を維持継続させるためにやっていることだとも言える。どうも官僚機構を主体として説明しようとするとそうなってしまうのだが、それをまた違う側面から考えてみるとどうなるだろうか。人は絶えずこの世界にある資源を利用して何かを生産し続けている。人が生きていくために必要な衣食住に関わる何かを生産しているわけだ。それを生産して交換して消費している。ここで問題となっているのは交換過程で、より多くの交換権利を得るために、人は貨幣を蓄積する衝動に駆られ、貨幣に交換できる動産や不動産を含めた富を蓄積する上で、絶えず自らに有利に働くようなゲーム展開に持っていきたいわけだ。それを実現させるためにやれることは何でもやろうとして、それの一環として官僚機構も自分たちの思惑に沿った形に動作するようにしたいわけで、実際に世の中で貧富の格差が顕著になってきていて、一握りの富裕層とその他大勢の貧困層に分かれてきているのだとすれば、それは富裕層に有利に働くような官僚機構の動作になっているのだろう。北朝鮮のような極端なことになっているわけではないのだろうが、果たして民衆から選ばれた政治家が、民意に沿うように官僚機構の動作を変えるだけで、そのような不具合は解消できるのだろうか。二十世紀後半に破綻した社会主義諸国の事例から考えれば、どうもそれだけでは無理なような気がするのだが、ともかく欧米諸国では官僚機構の動作を変更したり改善したりすることで、何とかしようとしているわけで、そのために政治家や官僚が日夜努力している現状なのかもしれないが、先行きは不透明な感じだ。だいたいメディアはカネを稼ぐことに成功した人々を賞賛して、努力すれば誰もがそうなるチャンスがあるかのように絶えず人々を煽り、煽られた人々もそれを真に受けて、そんな一握りの成功者に嫉妬しながらも憧れ、結果的にそういう格差社会が継続されるのを無意識のうちに願っているのではないか。というか自身がその手の成功者になる可能性のほとんどない社会の仕組みに気づいていないわけだ。要するに当たりもしない宝くじを延々と買い続けているだけなのかもしれない。