彼の声102

2014年

5月31日

 答えを導き出せない。とりとめのない問いにこだわりすぎている。たぶん批判していればいいのだ。現状を批判すればいい。単純に考えればそういうことかもしれない。無理にひねり出した答えにリアリティを感じられないのだから、そんなものにこだわるわけにはいかないようだ。だからとりあえず現状を批判しなければならない。そんな答えしか導き出せない現状を批判する。そういうことだろう。それ以外に何ができるのか。思いつかないのなら批判するしかない。考えて導き出せるほど単純なことではないらしい。それは人の思惑や思考を超える現実だ。そんな現実の中で人は生きている。そしてその中でできることは、現実を説明し、そうなっている原因を解き明かし、それをより良い状態へと導くことではなく、ただそこで生じている不具合を指摘し、それを招いている現状を批判することでしかなく、そうすることによって、結果的に今とは違う状況がもたらされるに過ぎないのかもしれない。そして批判の結果として生じた新たな状態が、より良い状態かどうかは、実際にそうなってみないことにはわからない。そうなってみたところでわからないのかもしれない。良い状態であるか否かは、その状況の中で生きている人の立場によっても見解の分かれるところなのではないか。利害関係が複雑に入り組んでいる状態では、一概に良いか悪いか言えなくなってしまうのかもしれない。

 物事を単純化して考えれば、たちまちより良いやり方が見つかるのかもしれないが、現実は単純化して考えられるような状況にはなっていないということか。それでも高邁な理念をかかげて、それを実現するように働きかけなければならないのかもしれないが、そういう実現不可能なきれいごとを嘲笑する人は掃いて捨てるほどいる。そういう人たちは放っておけばいいのか。きれいごとを主張するにはそれなりの覚悟がいるようで、まずはそんなことを主張している自らの愚かさを自覚しなければならない。実利を捨て自己正当化を放棄しないとやっていられない。要するに常に不利な立場に追い込まれてしまう。それでもきれいごとを主張しなければならないから、たぶん並大抵な根性ではやってゆけないだろう。それともそんなことなど苦にならない本当の大馬鹿ならやってゆけるだろうか。右翼からキチガイ呼ばわりされるぐらいがちょうどいいのかもしれない。そういう正義や正論を声高に訴える人々を苛立たせ、物笑いの種になるぐらいでないと、一人前とはいえないのだろう。それはそれで倒錯的な振る舞いなのだろうし、実利を重んじ功利を追求する人にとっては考えられない行為となるだろう。果たしてそれが良いことなのか悪いことなのか、そういう善悪の水準を超えたところで、なおのこときれいごとを主張しなければならず、それをやっている当人にしてしみれば、そうせざるを得ない衝動みたいな心的な働きかけがあるのかも知れない。

 人は不可能を乗り越えなければ決断できない。不可能なことがあるからこそ決断しなければならず、可能なら決断しなくてもその通りにやればいいわけだ。例えば中国の軍事的な海洋進出に対する包囲網など、それは日本とフィリピンとベトナムがアメリカと連携しながらやれる可能性があるから、そんなことを主張しているだけで、それに関してどのような決断がともなうわけでもない。主張したければいくらでも主張していればよく、主張できるから主張しているに過ぎず、ただアメリカの思惑に従って、中国の軍事的な膨張の防波堤として使われているだけで、昔の共産主義包囲網の二番煎じでしかない。決断はそういうところからは生じない。たぶん日本政府には中国国内にいるウイグル人やチベット人に対する抑圧政策を批難することはできないのではないか。内政干渉と言われればそれまでだろうが、日本にとっては何の実利もともなわない、ウイグル自治区やチベット自治区のそれらの民族による自治権の拡大を要求したり、複数政党制の導入を促したり、ネットでの検閲をやめるように呼びかけたり、政治犯の釈放を要求したり、そういった方面で、真正面からの自由だの民主主義だのの理念の実現を主張するわけにはいかないのだろう。中国の現状ではそれが不可能だからこそ、それの実現へ決断を迫るべきなのだろうが、どうも今の日本政府にはそんなきれいごとを語る筋合いはないらしい。もっぱら目先の利害しか眼中になく、それをアメリカあたりに見透かされていて、いいようにあしらわれている現状があるようだ。


5月30日

 いくら考えても無駄か。それを思いつけないとしたら無理なのではないか。それが自然の成り行きだとしたら変えようがない。結局実現不可能な理念の実現を目指していることになり、それ以上の何を意味することもない。そこで変革の可能性が閉じてしまうわけか。でもだからといって深刻ぶって暗澹とした気分で落ち込んでいるわけでもなく、それ以上に何がどうしたわけでもない。それでかまわないのだろう。また何か思いつくのではないか。機会を捉えれば思いつけるはずだ。何を思いつくかはその時になってみないとわからないが、どうせ大したことはないのだろう。

 そんなことはわかりきったことなのだろうが、別に日本が他国に比べて経済的にうまくいっていないわけではない。バブルが弾けて証券会社や銀行がつぶれた時期でもそうであって、巨大地震と原発事故のダブルパンチに見舞われていた時期でもそうだ。それは同時多発テロが起ころうと、アフガンやイラクで戦争をやろうと、リーマンショックがあろうと、アメリカが経済的にうまくいっていないわけではなかったのと同じことで、要するに世界的にこんな具合なのではないのか。少なくとも経済に関しては慢性的にこんな具合なのだろう。これ以上良くなろうと悪くなろうと、大して代わり映えしないのではないか。それともそのうちもっとひどい状況になるのだろうか。今は何とも言えない。そうなってからでないとわからないか。ともかく今は誰もが不安を抱きつつも、その手の人たちにとっては気に入らない状況で安定しているわけだ。もっとどうにかしてほしいと思っているのだろうが、たぶんそれは欲張り過ぎなのだろう。

 これ以上を期待できるとも思えず、平和な世の中とはこんなものではないのか。もちろん世界のあちこちでは戦渦が絶えず、もろもろの事情で苦しんでいる人が大勢いるのだろうが、結局そういう人も死んでしまえば、苦しみも憎しみも忘れてチャラになってしまうのかもしれない。この世に救いがなければ、あの世で救いを求めてもらうしかなく、不幸な人にはそんな諸行無常を体験してもらうしかなさそうだ。神ではないのでそれ以上のことは言えない。

 もはやあらゆる分野で行き着くところまで行き着いて、それ以上は望めない段階まで来てしまったのかもしれず、そんな閉塞感に包まれているのが21世紀の現状だろうか。誰もがその分野での一流を目指してしのぎを削っているわけでもなく、限られた人が限られた範囲内で何かやっているに過ぎず、決してそれが全体に広がることはないのだろう。虚しい努力とは思えないのだろうし、実際に成功して大金を手にすれば、それなりに満たされた気分となるのかもしれないが、富と栄光がそれ以上の何を意味するわけでもなく、まあその方面でがんばっている人は、続けてがんばってもらうしかないようで、やれる範囲内でやるだけのようだ。

 わずかな差異を見つけてそこから利益をひねり出そうとしている人も、そうすることに魅力を感じていられる時期も長くは続かないようで、次第に精神的にしんどくなるとともに、飽きてきてやる気を失い、もっと何かカッコいいやり方がないかと思うらしく、そちらの方面で新規に事業を開拓したくて、何やら物色している最中のようだが、そういうことをやっている人の中から、また成功者が現れ、世間的に脚光を浴びるのかもしれず、そんなことがこれからも繰り返されるのだろうか。くだらないことにこだわっている場合ではないか。しかしそれらの手法の何が目新しいとも思えず、何に魅力を感じているのでもなさそうだ。ただ惰性で動いているようにしか見えない。何事もルーティンワークとなってしまったらおしまいなのかもしれない。

 お互いが対話することすらできず、不信感が渦巻いている状況では何をやってもうまくいかないのだろう。外交的には行き詰まりなのだろうが、それに輪をかけてこの機に乗じて何か画策している勢力もあるのかもしれず、そういう人たちはそちらの方面でがんばってもらえばいいのだろう。行き詰まったままの方が好都合なのだから、それは想定内の情勢なのかもしれない。今さら何を騒ぎだしてもどうなるものでもなく、いがみ合いたい人はいがみ合っていても結構であり、それを利用して商売したい人もいるのだろう。たぶんの世の中が平和なだけでは行き詰まってしまうから、隣国同士で緊張を高め合うしかなく、そこに活路を見出そうとしているわけだ。でも昔ならそのまま戦争に突入できたのかもしれないが、なぜか現状ではそこまで踏み切れていないようで、戦争して国土を荒廃させて、国内経済をリセットする勇気に欠けるらしく、その辺で牽制しつつも躊躇しているようだ。いくらその方面でプロパガンダを担当する人たちが危機感を煽っても、実際に踊りだす人は少なそうだ。やはり踊っているのはネット右翼と、それに追従する経済評論家のたぐいだけなのか。現実に東アジアでは政治・経済の両方ともに魅力が感じられない。


5月29日

 架空の成り行きを空想している。頭の中がごちゃごちゃしてきて、トランス状態となってきたようだ。他人のことを偉そうに批判する気にはなれないが、どう見てもポンコツな人たちのたまり場と化している。職人はいるが芸術家はいない。もちろん君はそんな芸術家を嘲笑しているわけだ。職人でも芸術家でもないのに馬鹿にしている。それの何があり得ないわけでもないが、そんな状況が到来しているのか。カメラの誕生とともに芸術家は生まれた。対象を写真で撮って、それをコピーすればいいから、職人的な技術を必要としなくなったわけか。芸術家は何を作ればいいのか。抽象芸術はもう古い。何でもいいからコピーしてコラージュするわけか。何の意味もないことだ。それがパフォーマンスとなるのだろうか。素人に口を挟まれる筋合いはないか。言葉が浮いているのだろう。浮かせようとして浮いているのではなく、ひとりでに地を離れてしまう。地に足がついていないのは今も昔も変わらない。たぶんそれからの歴史が芸術を生み出してきたわけだ。誰かがそう定義したのか。成り立たせることができないことを成り立たせようとしている。それはいつの時代でも不可能なことなのだろうか。記された言葉が上滑りするばかりで、まとまりを欠き、特定の対象にたどり着けないようだ。一過性の現象が人類の歴史なのではないか。過ぎ去るだけ過ぎ去って、何も残らない現実を突きつけられる。神が突きつけているのだろうか。廃墟こそが芸術なのだろうか。何を問われているわけでもない。問う必要さえ感じられず、問いそのものが答えを必要としない。わかるようなことをやらなければならない。それが唯一課せられた条件か。でも誰がそれを求めているわけでもない。誰も求めようのないことを考えているだけではだめらしい。思い違いなのかもしれず、それを活用しているのだろう。軽蔑すべきは職人芸ということか。その域までも達していないようだ。行き止まりを背にして、必死のパフォーマンスを披露しているうちに、上空から大きな岩が降ってきて、それの下敷きになった時の心境だろうか。何かを思い浮かべる以前に即死状態なのではないか。そんなたとえが冗談めいていて、何を真に受けていいのかわからなくなるが、定義する必要のないことを定義するばかりのようで、それも定義しきれていないわけで、薮の中で大声で叫んでいるらしいが、その叫んでいる内容がよく聞こえてこないのだ。薮に遮られているのか。人の行く手を遮っているのはそんな薮だけなのか。君は回り道を選ぶ。誰もがそうするところを、中にはあえて薮に突っ込んでゆく愚か者もいるらしい。それが虎穴でも何でもないことは明らかなのかもしれず、薮のどこに宝が隠されているわけでもないのに、叫んでいる声の主を助け出したいのだろうか。薮から引っ張りだしてみればただの狂人だ。凶器を振り回しながら、見当外れな人たちに襲いかかる。どうせ誰でもよかったのだろう。パフォーマンスにかぶれる人は見境がないようだ。さびしかったのだろうか。誰からも相手にされないことが我慢がならなかったのかもしれない。

 しかし芸術とは何なのだろうか。それを本気で考えないことが肝要か。何も問われていないのに考える必要はない。その先に道がないのが芸術なのではないか。それ以上前へ進みようがないのかも知れない。そして生き残るためにそこで必死のパフォーマンスを披露しなければならない。勘違いもいいところだろうか。原始人の振る舞いのような気がして、呆気にとられる。やることがなくて暇を持て余しているようにも見え、それも労働のたぐいだと受け取ることに抵抗を覚える。いったいそこで何が消え去らなければならないのか。仕事だとは思えない。必死の問いかけなど実を結ぶはずもなく、確かにどこかに届いているようだが、届いた先では、そこに居合わせた意識の群れがあえて無視を装い、語るのをあきらめさせようとしているのかもしれない。そこで何を論じているのでもないことをわからせたいのだろうか。でもそれで危機に陥っているわけではなく、誰かを取り巻く空気が危機を演出しているのであり、すべては架空の議論に終始するしかなさそうだ。それもまったく噛み合ず、空転しているわけではないと言い張りたいのだろうが、作業は遅々として進まない。自家中毒に陥っているわけか。必要のないことをやろうとしているのだから、無理もない状況なのかもしれない。他にやることがなければそうなってしまい、それを超える動機が見当たらず、怠惰をいいわけとして、そんな動作にはまり続けるしかない。一部の人たちの間ではそうなのだろう。言葉を操りながらそこまでやってきたわけだ。特定のイデオロギーと無縁ではない。観念の体系を作り上げることが芸術なのか。また早とちりしているようだ。芸術風の言い回しならよく耳にするのではないか。そこで何かと何かがコラボレートしている。チャラチャラしたことをやっているわけだ。文化こそが暇つぶしの最たるものなのだろうか。言葉を無駄に無方向に広げ過ぎだろうか。いかれた頭をいくらひねってみても、まともな見解など出てくるはずもなく、それを何につなげようとしても、下世話なジョークとなるだけか。悪ふざけとは違うようだ。薮から飛び出して通行人に襲いかかっているのは、野良犬の群れだったかもしれず、背後から猪が突進してきて、ぶつかるすんでのところで何とかかわしたようだが、その後がいけなかったらしく、かわした拍子によろめいて、車道にはみ出たところを、通りかかった大型ダンプカーに轢かれたわけか。君はそこで何を見ていたのか。通りを歩いていたら、いきなり近くの家の番犬に吠えかけられて、気が動転してそんな光景を思い浮かべてしまったわけか。それと何が関連しているのだろうか。どうせ苦し紛れの作り話だろうし、芸術家でもないのに芸術について考える必要はなさそうに思えてくるが、まさか芸術について批評したいわけでもないだろうに、どこかの美術館に出かけるわけでもなく、美術品を見る鑑識眼が備わっているわけでもなさそうだ。それでもそんな内容の文章を読みながら、架空の未来を空想しているのかもしれない。その目に映る光景について語っているつもりなのか。しばらく幻影と戯れているようで、気の迷いとともに記された言葉をいったん遠ざけ、新たに何かを付け足すつもりらしい。


5月28日

 まったく見当違いの方向でアナロジーを働かせている。比較する水準が違っているのかもしれない。そこで様々なことを考えていることは確かだが、どうも説明するとリアリティに欠けるようだ。やはり関係ないのだろう。関連性が薄い。それについて考えること自体がおかしいのか。それに根本的な欠陥があるのに、それを無視して語ろうとしてしまう。幻想を抱いているわけだ。どう考えてみてもそういうことになってしまいそうだ。何が問題なのか。すでにそれはわかっているのではないか。それと気づかずにマトリックスに囚われ、その中でそれとは違うことを考えるように仕向けられている。それとは何だろう。それがわからないような仕組みになっているのか。思い出そうとしても記憶がない。気づかなかっただけか。思考をコントロールされているのかもしれない。何によってそうなっているのか。自らが制御していると思い込み、そう思わなければ気が狂ってしまうのではないか。そんなふうに思っていること自体がコントロールされている証拠となるだろうか。いったい何によってコントロールされているのか。それを突き止めなければならない。でも探りようがない。何の手がかりもないようだ。どうやら幻影に包まれているのではないらしい。これが真の世界なのだろう。そう思っておいた方が良さそうだ。それ以上は何も言えない。遠くにあるものは小さく見え、近くにあるものは大きく見える。当たり前の光景だ。それのどこに秘密が隠されているわけでもない。何が現実とは違って見えているのか。それが現実だと気づいていないだけだろうか。気づいていなくてもさして問題にはならないわけか。その中で暮らしているのだから、それでかまわないわけだ。しかし妙な気分だ。遅れを取り返せていないように思われる。他人と同じペースで生きていなくてもかまわないのではないか。実感が湧いてこないのも、その辺に原因があるのだろうか。どの辺なのか。何を急かされているとも思えないのだから、マイペースで何かやっていればいいのではないか。君の無意識がそれを制御しているわけでもない。コントロールされていると思うこと自体が幻想なのか。確かにそこには逡巡があり、疑念を抱かざるを得ないのかもしれないが、そこで考えていることは確かだ。考え得る限りで考えている。それ以上考えるのは無理か。そう思うならそこで考えるのをやめればいい。何を知ってしまったわけでもない。真理は誰に向かっても開かれているが、そこにたどり着くに至らない場合が多いのかもしれない。そんなことを悟るだけ悟って、それ以上先へは進めなくなる。そこにありふれた現状があるらしく、絶えず疑念を抱き続けているわけで、何か思い違いをしているような気がしてならず、そんな思いにも確信を持てないらしい。いくら考えても無駄なのか。きりのない逡巡が続くばかりのようだ。

 よかれと思っているやっていることが、結果的に他人を裏切っていることになるわけか。それもありふれたことなのだろう。言葉がどこへも届いていないようだ。誰かの叫び声が空洞の中で反響しているだけか。ここにはもう誰もいないのだろうか。不意にそんな思いにとらわれるが、虚構の空間なのだろうから、適当に登場人物をねつ造すればいいだけか。それができればの話なのかもしれず、本当は誰もいなくてもかまわないから、誰もない設定だったのかもしれず、別に誰もいないからといって驚くこともなく、驚いたふりをするのもわざとらしい。語るとはそういうことなのだろう。何について語っているわけでもない。要するに制御しきれていないわけだ。仮想空間をコントロールしたかったわけでもなく、その中で何を演じようとしていたわけでもない。語り手の人格が反映されている語りというわけでもない。何も語らずに済ませようとしていたのかもしれない。やはり損得勘定で物事を語れるわけでもなさそうだ。それによって誰が得しようと損しようと、語ってしまえるのだから語るしかないのだろう。常に制御から逃れ、自由に無駄なことを語ってしまい、空疎な気分とともに語ろうとするわけだ。君は詩人なのか。誰がそうなのだろう。確か詩に未来はなかったはずだ。過去を懐かしむばかりか、呪ってさえいたのではなかったか。言葉に囚われたその身の儚さを嘆いていたはずで、そんな心境が国家に付け入る隙を与え、実際につけ込まれて、国民を励ます詩を創作してしまう事態となり、またそんな浅はかなことをやってしまった自らを悔やみ、どこかの山奥で懺悔の日々を送っていた詩人もいたはずだ。月に吠えるのは狂人の所業か。狼と心を一体化させていたのではないか。負け犬の遠吠えというわけでもないのだろう。なぜ遠吠えする者たちは負け犬にたとえられるのか。そこに言葉の神秘が横たわっているわけでもない。誰も遠吠えなどしないはずだ。この世はテレビドラマとは無縁だろうか。すがる対象を間違えているのではないか。すがりつこうとしなくても、向こうから励ましにやってくる。シャブ中の歌手も不特定多数の人たちを歌うことで励ましていたはずだ。今度は歌に励まされていた人たちが、彼が薬物依存から早く立ち直るように、カラオケで歌って励ませばいいのか。気休めには違いない。だが気休めだけでは世の中は回っていかないらしく、実利が求められ、実際にカラオケで歌えば、彼の収入となるわけだ。週末にでもなればどこかの盛り場で歌われているはずだ。

 エアコンではないのだろうから、空気で社会を制御できるというのも、虫のいい話には違いない。密閉された室内空間ではないのだから、エアコンをいくら回しても、温度などコントロールしようがない。いくら多数派におもねろうとしても、いつ何時でも空気を読もうとする必要はなく、それほど敏感でいる必然性もないのではないか。他人の心をコントロールしたいがために、どれほど宣伝しても、無関心な人には届かない。そう思っておいて差し支えないのだろうか。それとも今はコントロールの仕方がずさんだとしても、次第に試行錯誤を繰り返しながら学習してきて、近い将来すべての人たちの心を制御できるような技術が編み出されたりするのか。ともかく抗う人たちをいちいち抹殺するのは効率的でないようだ。スターリンによる反逆分子の粛正も、金正恩一派によるそれも、やりだしたらきりがないようで、どこまでやったらいいのかわからず、やっている連中が途方に暮れてしまったのではないか。適当なところで妥協しないと、付き従ってくる国民が一人もいなくなってしまうだろう。人心の掌握は容易でない。日本では失われた十年だとか二十年だとか言って、過去を否定して現在を持ち上げようとしたわけだが、軽薄なキャッチフレーズで持ち上げているうちに、そんなことをやっている年月も失われた年月に加わってしまいそうで、次に登場してくる人たちは、今度は失われた三十年だとか言い出す始末になってしまうのではないか。そんなことを言わなくても年月は失われる。栄光の年月でさえ忘却の彼方へと失われ、いくら懐かしがっても二度と戻ってこない。国家や国民を躍起になって制御しようとした人たちも、当の国家や国民に見捨てられ、哀れな末路をたどった人も多いのではないか。吉田茂が国内を掌握できたのも、サンフランシスコ講和条約を締結するまでの五年やそこらのことでしかなく、そこでお役御免で勇退したらよかったのだろうが、後の数年は権力の座にしがみつこうとして、醜態を晒し続けたのではなかったか。


5月27日

 何かが一方方向へと進んでいる。時間の他に何があるだろう。歴史上のある時点から人が生きていく手段として、商品の売り買いが主流となり、今やほとんどの人間がそれなしでは生きてゆけなくなった。便利になったということか。人口が増えて繁栄を謳歌しているのではないか。そういう見方もあるということだ。いつか人々が商品の売り買いをやめてしまう時代が訪れるのだろうか。現状ではそんな事態は想像できない。売ったり買ったりするのではなく、生活に必要な物資をただ与えるだけというのはあり得ないか。誰が与えるのか。誰かが誰かに与えるだけで、見返りは何もない。見返りがなければ誰も与えたりしないか。でも自然はそうだ。太陽光が降り注ぎ、地球が資源を与えている。食料となる動植物も与えられている。でもただ与えられた資源を活用するだけでは文明は生じなかった。狩猟採集生活のままか。労働によってものを造り出さなければならない。それが文明の始まりだ。やがて物の売り買いも始まり、今に至っているわけか。物の売り買いが文明を覆い尽くし、それなしでは生きてゆけなくなったわけか。便利になったのと同時に面倒になったわけだ。売るものがなければ買えず、買えなければ生きてゆけない。何もなければ労働そのものを売るしかないわけだ。それが気に入らないことなのだろうか。ともかく誰かが売り物にならないものを作っているのかもしれない。反抗的な性格のようで、頑なのだろう。本当は売りたいのだろうが、売れる水準に達していないのかもしれず、あるいは世間と感覚がズレていて、どうやっても売り物とはならないのかもしれない。自然と同じでただ与えているだけなのかもしれない。それでかまわないのではないか。文明とは無縁なのだろうか。あるいは文明から商品とは無縁の何かが作り出されているのか。そうだとすると文明自体がビジネスとは無関係になりつつある兆しを生じさせているのかもしれない。

 たぶんその方が気楽なのではないか。商品から商品でないものが生み出され、それが世界に拡散していく。そんなふうにして事態が推移していくと、その兆候は近い将来ビジネスそのものが崩壊する可能性をはらんでいるのだろうか。物の売り買いが国家を支え資本主義を成り立たせているのだから、そんなことがあってはならないか。でも真の崩壊とはそういうことなのではないか。すべては過渡的な状態で、今もそうだとすると、そんなふうに事態が推移する可能性もまるっきりないわけではない。あらゆるビジネスにおいて寡占化が進んでいるとすれば、その手の競争の激化は一方で空洞化を促進させはしないか。淘汰され滅んだ側が二度と立ち直れなくなるとすれば、そこで産業の空洞化が起こりうる。その空洞から新たにベンチャー企業が生まれるなら、そうはならないだろうが、寡占化によって巨大になった大企業相手では太刀打ちできないのではないか。それでも隙間産業的に細々とやっていける余地が残されているわけか。雑な推論には違いない。というよりこの世からビジネスがなくなること自体があり得ないことだ。でもそのあり得ない事態を妄想してみるのは愉快なことか。しかしその寡占化によって生き残った超巨大企業はどうなるのだろうか。どうやれば滅ぼすことができるのか。人々が商品の売り買いとは無関係に生きていける方法を模索しなければならないのかもしれないが、今現在が商品経済にどっぷり浸かった中で、それを導き出すのは無理なのではないか。少なくともすぐに思いつけるようなことではない。でもおもしろそうだから妄想を膨らませてしまうわけで、そんな荒唐無稽な未来の姿を思い浮かべてしまうわけだ。冗談半分でそう思っているのか。何かビジネスを崩壊させるビジネスというものを模索したくなってくる。相手がそれと気づかないうちにそういう成り行きに持っていきたいわけで、しかもそれが犯罪行為にならなければなおいいということかも知れない。

 そんな妄想を抱いている時点ですでに頭がおかしいが、そういうムーブメントが自然発生的に起こることはないのだろうか。そんなことを考えている時点でどこまでもご都合主義的だが、今まさに世界各地で起こっている商品とは無縁の創作行為を、どう肯定すればいいのだろうか。たぶん人気が出ればたちまち商売に結びつけようとしてしまうのだろうが、では人気が出ずにしかも持続するやり方というものがあるのだろうか。目立たないようにじわじわと浸透していくやり方を模索しなければならないわけか。たぶん意図してそんなことはできはしないだろう。意図や思惑を超えた行為が世界を席巻するわけで、それを目指さなければならないのだろうが、意図や思惑を超えている時点で、すでに目指すようなものではなく、その辺でパラドックスが生じてしまうわけで、人知を超えた現象を人知で作り出すのは不可能で、その不可能を目指さないと、不可能が不可能ではなくなる可能性がなくなってしまい、要するにわけがわからなくなってしまうわけだ。やはりそんなことを考えている自らを煙に巻くしかないわけか。いったい誰が煙に巻こうとしているのか。それが自らである可能性があるわけで、そこでも意味不明なパラドックスが生じているわけだが、ともかく今はあからさまにそんなものはあり得ないと語るしかないだろう。どう考えてもあり得ないことを目指しているのであり、それが起こってほしいと思いつつも、そんな思いもまったく信用していないわけで、別に起こらなくてもかまわないのかもしれず、今ある現状でも不都合はないのだろう。世界中で物の売り買いが行われ、その手のビジネスが全盛を誇り、人々は商品に群がり、成功した人たちは資産を貯め込み、商品を買える可能性を果てしなく追い求める。その貯め込んだ資産を無にしたいわけか。要するにいくら資産を貯め込んでも、何も買えないようにしてしまいたいわけだ。でも情緒的にカネで買えないものを顕揚するのはやめた方が良さそうで、カネで買えないものが貴重なのではなく、それはありふれていて、気にもとめられないような状況を作り出したわけだ。もちろん現状でもそうであり、その辺に散らかっているゴミや塵のたぐいはそうであり、今でもカネで買えるものの方が貴重であることはわかりきっているのだが、ただ人々が求めているのがカネで買えるものであって、それがないと生きてゆけない現状を何とかしたいということか。その辺に実践上の無理があるのもわかりきったことか。


5月26日

 まだ何も為されていない。理論的な裏付けなどあり得ないのだろうか。不意を突いてやってくるのだろう。突風が吹くわけか。でも風車はすぐに止まってしまう。曇り空の下で無風状態がしばらく続いているようだ。また想像しているらしい。誘惑に抗しきれず、ついつい無駄に記してしまう。やはり理論とは無縁の文章になるようだ。もう忘れてしまった。昨日ことなど覚えてない。それはいつの出来事でもなく、記憶にも残らない些細なきっかけだったのではないか。たぶんそこから始まったのだ。為すべきことをやらずに、関係ないことを欲している。無駄で無理なことだ。今のところはそうだろう。何のあてもないのにそう思っている。やはり悪あがきなのか。そう考えて差し支えないようだ。抗えるが、抗うだけで、こちらから攻勢をかけることはできない。受け身の姿勢で抗い続けるだけなのかもしれない。でもそれでは展望が開けないのではないか。それはそうだが、あれから十数年の歳月が経ってしまったのに、納得できる方針など何も示されず、ただ抵抗するしか術のない現状が続いているだけではないのか。未だ編み出されない架空の理論を拠り所とするわけにはいかないだろう。だからただ抵抗あるのみなのか。それでは人もついてこず、運動も盛り上がらない。そんなふうに状況が推移しているのだろうか。とりとめのない成り行きだ。理論を目指す必要はないのかもしれない。そんなものを探求しているうちに、老いて頭も働かなくなってしまったのかもしれず、今はただ沈黙するしかないようだ。最終的には理論などあり得ないことが証明されるだけか。それは誰が亡くなった時に宣言されるべきなのか。誰が言い放つべきことでもないのかもしれず、ただ諦念として自然に行き渡るべき心境なのではないか。歴史的にも文化的に言語学的にも、隅から隅までくまなく踏査された結果がそれなのか。ただそこに批評があるだけで、批評の対象に関する語りがあるのみなのかもしれない。そして批判があり抵抗があるわけだ。そのついでに預言や予言もあるわけか。少なくとも何か肯定されるべき未来の到来を高らかに宣言するような状況ではないらしい。でも彼らの過去の所業を皮肉る気もないのだろう。たぶんそこに文化があり、サブカルチャーみたいなことについて語っていた時期があったわけだ。ジャズについても語っていたはずだ。社会学というジャンルもあったはずで、今もそれについて語っている人がいるらしい。老人がロックについて語っている。昔は若者文化に含まれていた。歴史が無駄に積み重なってしまったのかもしれない。それが無駄ではなかったと見なすこともできはしないか。商業的に成功したのだろうから、社会に受け入れられたということではないか。シャブ中の歌手が逮捕されれば、とりあえず各方面にご迷惑をかけたと謝罪の声明が出されるのだから、それ自体はロックとは無関係だが、それの延長上で成り立っている産業であることは確かなようだ。

 21世紀は20世紀で尽きてしまったのだろうか。そうならないためにもこれからがあるわけだ。ある時期に一度限界にまで達してしまったことは確からしいが、今はその時点から後退しているのだろうか。文化とは何か。芸術的な洗練と資本主義の発達は無関係なのか。哲学はもはや過去の学問だろうか。それに関して何を聞き及んでいるわけでもなく、ただの門外漢に過ぎない。それらのすべてが根本性を担えないジャンルなのかもしれない。まさかすべてがサブカルというわけでもないだろう。そこに住んでいる人が変わらなければ社会は変わらず、社会が変わらなければそこに住んでいる人も変わらない。ではどうなれば変わるというのか。ある日突然事件が起こればいいわけか。それでは理論も何もありはしない。推し量れるようなことではない。人は思いがけない出来事に対処しようとするのだろう。普段から抗っていても、余裕がなくなれば順応しようと努力する。仕方なしにそういう成り行きに従おうとするのではないか。戦時体制のようなものだ。そんな状況から逃れるために理論を模索しているわけでもないのだろうが、社会を根底からひっくり返すようなやり方を導き出せるとは思えない。狂信的なイスラム原理主義に何ができるのだろうか。戦うこと以外に取り柄がないように思われる。脅迫だけでは何も変わらないか。専制君主制でもドバイのような経済発展は可能だ。林立する高層ビル群は見せかけなのだろうか。差異を求めそこから利益を引き出そうとしているだけで、ほとんど詐欺的な手法を用いながらも、やった者勝ちな結果に持ってゆきたいのだろうし、グレーゾーンで儲けてしまえばそれでいいわけだ。そのためのノウハウならこれからも絶え間なく編み出されるのだろう。それに理論が対抗できるとは思えない。やっていることの倫理性を求めようとすれば功利主義が邪魔をして、妥協の産物として幸福主義が支持されてしまい、幸せになるにはどうしたらいいかということになり、またそのためのノウハウが編み出されてしまうわけだ。気休めに過ぎないのだろうが、人はそれにすがりつこうとし、安易なやり方が横行して、結局元の木阿弥となってしまうわけだ。人々はそこで何を台無しにしているのだろうか。それはその時々でしか意識されないことなのだろう。すぐに忘れ去られてしまい、またそんな事態になった時にしか思いだされないことかもしれない。普段は生きるために功利主義が優先されてしまうわけだ。うまく立ち回って生き残りたい。他人の事情を思いやる余裕などありはしないか。たぶんそれだけではないのだろう。そう思いたいわけだ。思いたいだけで、実践がついてゆかない。それで何とかなればいいのだろう。

 なぜそんなことにこだわってしまうのだろうか。不思議でならないわけではない。ただそんな文章を読んだだけか。引き返すことはできない。引き返せるとも思っていない。狭い範囲でこだわりすぎているのか。結局自然にそうなってしまうわけだ。そうなる時はそうなるしかないのだろう。解決が図られたように思える時がやってくる。特定の理論に沿って発展してきたようなことではないのだから、そこには自然な成り行きがあるだけかもしれない。誰かの思い通りに事が運ぶこともあるだろうが、たまたまそうなるのであって、それがすべてではなく、そう思い込んでいると、後で手痛いしっぺ返しを被るのだろう。だからそれは理論とは関係のない成り行きのようだ。模索すべきはそういうことではないのか。たぶん違う。そこでそういうことをやるためのノウハウが蓄積され、それを活用しながら、うまく困難を乗り切ろうとしているわけだ。ではすべては部分的な手直しにとどまるのだろうか。リセットしてはじめから再構築される時もあるのかもしれないが、そうなる機会の到来を待ち続けているわけではない。すべての出来事が起こった後からそう考えている。すべての後にさらに何かが付け加わるわけで、それがすべてではないと気づき、気づいた時にはさらに別の出来事が起こっている。そんな出来事の連鎖は理論を構築しているいとまなど与えはしない。放っておけばいつまでも続いてしまい、それを阻止するためのやり方を導き出したいのかもしれないが、探求するだけの時間が残されているのだろうか。それをやり続けている人はいるにはいるのだろうが、まだそれが明かされる段階ではないようだ。だから行き詰まっているわけか。誰かがどこかで行き詰まりを打破するために必死で考えているのだろう。それが悪あがきと思えてしまうとすれば、君は何をやったらいいのか。たぶん考えれば考えるほど、その思考は複雑怪奇な方向へと進展し、常人には理解不能な思想へと結実してしまうのかもしれない。今までがそうだったからそう思えるのだろうか。難しい概念を生み出し、言葉をこねくり回したような表現に終始して、屋上屋を重ねたような言説となってしまうのだろうか。そこから実践的なやり方が導かれるわけでもなく、難解な言説を理解するための難解な言説が繰り出されるに過ぎず、それを理解したつもりの人たちによって秘教的な学派が形成され、それに関する研究論文のたぐいが大量に生み出されるわけか。それは新たな形而上学になり、21世紀を代表する思想や哲学となって、知識人たちを魅惑し、現状を置き去りにしながら、侃々諤々の議論が展開されてしまうのか。そうやって現実から逸れていってしまうのが、その手の学問の傾向だろうか。そうならないようにするためにはどうしたらいいのだろう。


5月25日

 たぶん語る対象が定まらなくても、自然と何かを批判しているわけだ。語るということはそういうことなのではないか。そんな語りを批難しているのか。今はそうでなくともこれからそうするつもりなのか。それではだめだとすると、では何を賞賛すればいいのだろう。誉め称えるべき対象を探さなければならない。必死になって探しているのだろうか。現状はそうではない。特定の方向に凝り固まっているのかもしれない。そんな思考の凝り固まりによって、周りがよく見えていないのではないか。盲目に近いのだろうか。何に盲従しているとも思えない。何を強いられていようと、従うわけにはいかず、自由でありたいと思っているのではないか。でもどう考えても不自由な現状から抜け出せているとは思えない。今もそんな現状を批判して、理想の世界を思い描いているのだろうか。ありふれた幻想を抱いている。抜け出せない現状から抜け出そうとしているのだ。逃れられないのに悪あがきを繰り返しているわけか。誰もそれを止めることはできないだろう。何を夢見ているのだろうか。そんなことはないと思いながらも、理想の未来の到来を夢見ているのではないか。そんな幻想を否定しきれていないわけだ。何も賞賛できずに、何を探しているのでもない。自らの幻想を賞賛しようとしている。きっと探しているふりをしながら、そんな幻想のただ中にとどまり続けているのだろう。何のためにそうしているわけでもなく、現状を変えられないから、仕方なしにそうなってしまっているのではないか。そんな現状の中で生きることを強いられ、困惑しているわけだ。それに耐えなければならない。それは否定的な態度だ。そこから抜け出るべきなのだろう。そこから抜け出して、矛盾に満ちた現実の世界を賞賛しなければならない。皮肉を込めて賞賛するふりをするのではなく、率直に心から賞賛しなければいけない。果たしてそんな心境になれるだろうか。なれなければ現状にとどまるしかないわけか。そんなはずはないと思いながらも、そんな思考から逃れられていない現状に苛立っているのではないか。その辺の認識に微妙なズレを感じているのではないか。どうせ無理にそう思い込もうとしているのだろうが、たぶんそんな思いが報われる必要もないのだろう。いくら抗ってみても、現状は相変わらず現状のままだ。

 そう思い込んでいるだけで、知らず知らずのうちに独りよがりなモノローグにはまって、変化を感知できなくなっているのではないか。それでも世の中は変わり続けている。君の思い通りにはいっていないのかもしれないが、誰の思い通りになっているわけでもなく、人々のくだらぬ思い込みを絶えず裏切りながら世の中は変化しているのではないか。うまくいっていないから、絶えず誰かが仕掛けているわけだ。プーチンも習近平も何とかしようとして積極的に仕掛けているのであり、必ずしもやっていることがうまくいっているわけではなさそうだ。強権政治をやればやるほどテロの脅威に直面して、ひとたび弾圧すれば後戻りができなくなり、際限のない暴力の応酬が待ち受けていて、今が現にそうなっている最中なのではないか。どこの国でも国家を守るためにそんなことをやりたい勢力があり、現に日本でもそういう人たちの盛り上がりがネットを中心に勢いづいているのだろう。今のところはそれを中国やロシアのように国家が直接主導しているのではなく、民間のヘイトスピーチ程度にとどまっているようだが、隣国の韓国や中国やロシアにいる同種の人たちと一緒になって、いつそれが直接の暴力に発展するとも限らないか。みんな現状の不満を暴力に向けようとしているのかもしれず、結局そういう人たちが向かう先は、他民族への排斥となって現れる傾向にあるようで、それが中国ではウイグル系チベット系の人たちに向かい、ロシアとウクライナではロシア系ウクライナ系タタール系の人たち向かい、ベトナムでは中国系の人たち向かい、日本では在日韓国朝鮮系の人たちに向かっているわけか。そしてそれが日常化するとアメリカのようになり、ブラジルのように多民族混血社会が形成されるまでは、特定の民族に対する差別が絶えず社会問題として顕在化し続けるのかもしれない。でも誰もブラジルのようにはなりたくないと思っているはずで、大都市周辺のスラム街の現状を目の当たりにすれば、ああはなりたくないと思うしかないわけだ。少なくともブラジルの現状が理想であるはずがなく、その手の人たちはブラジルのようになる前に他民族は国外へ出て行ってほしいと願っているのだろうが、たぶんそれは時間的地域的な錯覚なのかもしれない。

 今この時点が普遍的な状態なのではなく、この時点で生きている人はこの時点の状況を基準にして考えるしかないわけで、過去や未来の状況の中で考えるわけにはいかず、世界中の誰もが移民の子孫でしかないことを自覚するわけにはいかないわけだ。アフリカを起点として世界中に散らばった人類の歴史を考えれば、確かにそうなのだろうが、ともかく先に定住した人にその地では優先権があると思うわけで、自分たちが苦しんでいるのに、よそ者にいい思いをされては腹が立つ。単純に考えればその程度の感情でしかないわけだが、そこに何やらもっともらしい理由をつけて、何とかそんな感情を抱いている自分たちを正当化したいわけで、何やらよそ者が悪さをしているという被害妄想に閉じこもって、そんな悪だくみをしているよそ者を排除しなければならないとなるのだろう。実際にその証拠をつかんだつもりなっている人たちが陰謀説をまき散らし、差別を煽り、それに同調してしまう人たちと一緒になって、ヘイトスピーチで盛り上がっているわけだ。同じ民族同士の結束が堅いほど、その手の攻撃の標的になりやすく、ユダヤ人などはユダヤ教のもとに結束しているわけだから、しかもユダヤ教には選民思想の教義があるように見えてしまうのだから、格好の攻撃目標なのであり、過去に何度も迫害を受けてきたわけで、それにもかかわらず金融業などによって巨万の富を築き上げたユダヤ系の人たちもいるわけだから、なおのこと世界征服を企んでいるのではないかとなるわけか。実際にすでに世界はユダヤ人に支配されていて、それに対する抵抗運動を繰り広げているつもりの人もいるようで、そういう水準の話になってくると、何だかそれはそれでユーモアの領域に踏み込んでいるように思えてくるわけだが、ヘイトスピーチの領域でがんばっている人たちは、まだまだ暴力の生々しさに魅惑されているのだろう。自分たちの発する言葉の破壊力に酔いしれ、脳みそから欲望を促進させる物質も分泌されて、なおのこと口汚く叫ぶ行為に拍車がかかり、やめられなくなってしまうのかもしれず、シャブ中ならぬ罵り中毒に陥っているのだろうか。それも欲求不満の解消の一形態なのかもしれないが、やったところで状況が改善することはなく、ますます不満が募り、いったんやり始めるとやめるきっかけが見つからず、そこから抜け出られなくなっているわけか。どうやら何事も程々に済ますわけにはいかないらしい。


5月24日

 何を学んでいるとも思えないが、無意識のうちに学んでいるのだろうか。例えば語る前に語り方を学ばなければならないが、語りながら語り方を学んでいるのではないか。他人が語っているのを見ながら学んでいるわけか。あるいは本を読みながら言葉の記し方を学んでいるわけか。話す聞くという動作と教える学ぶという動作が同時に起こっているとしたらどうだろう。話しながら教え、聞きながら学んでいるのだとしたら、それはあり得ることだろうか。そうであるなら、話しながら聞き、話しながら学ぶことも可能で、聞きながら話し、聞きながら学ぶことも、学びながら話し、学びながら聞くことも可能となりはしないか。さらに言えば、話しながら話し、聞きながら聞き、教えながら教え、学びながら学ぶことも可能か。いったい何が言いたいのか。すべては同時に起こりうるということか。では言葉を記しながら読み、読みながら言葉を記すというのは、同じことなのだろうか。同様に映像を見ながら言葉を記し、言葉を記しながら映像を見て、音楽を聴きながら言葉を記し、言葉を記しながら音楽を聴く。映像を見ながら音楽を聴くのはよくあることだ。以上に述べたことで何かごまかしがあるだろうか。たぶん何かありそうだが、大したことではないように感じられ、実際に大したことではないのだろう。ただモノローグとダイアローグの違いを無視している。無視してもかまわないのか。そんな語り自体がモノローグだから、大して不都合は感じられず、その差異が深刻に受け止められることはない。だからそれでかまわないと思うのだろう。でもその差異を深刻に受け止めざるを得ない状況というのがあるだろうか。独我論に凝り固まるほど何かを極限まで探求する機会など通常ではあり得ないか。どこかの哲学者のたぐいなら、そういう状況もあり得るのだろうか。そんな状況を想像してみても、何を得られるわけでもなさそうだ。それもモノローグから出てきた想像に違いなく、たぶんそういう内容を連想させる書物を過去に読んだのだろう。

 何事も程々に済ませたいのだろう。それで済むならそれに越したことはない。自己と他者を隔てる差異を絶対化することもあり得ない。自己が他者であったりするわけか。他者の他者性を相対化したいのだろうか。言葉遊びのたぐいなのかもしれず、誰が他者を発見したいわけでもなく、もとからそこにいて、何か語り続けているのだとすれば、それが架空の存在であったとしても、そこに他者がいたりするわけか。DJが首を傾げながら何か語っている。しきりに違和感を気にしているらしく、気分が優れないようだ。調子が悪いのか。架空の話しの中ではそういうことにしておきたいのだろう。何に惑わされることもいとわずに、そのこんがらがった状況を楽しみたいのかもしれない。決まりきった動作を避け、なるべくねじれた気分でいたいようだ。上下前後左右を一度に見回し、鏡を取り出し左右が反転した自らの姿も確認しながら、違和感の原因を探ろうとしているみたいだが、何がおかしいわけでもなく、気のせいにして、その件はおしまいにしたいようだ。言葉が尽きてしまったのだろう。結局何も解決しないまま、何を解き明かそうとしていたわけでもないように思えてきて、そんな自覚とともにさらなる自己対話を模索しているようで、そのまま精神の深みに沈み込んでしまうのか。泥沼から抜け出す機会を逸しているようだ。でもそんな光景を他の誰が眺めているわけでもないのだろう。手出し無用の独りよがりというわけでもない。記された言葉の連なり具合を気にしているのか。他に何を導き出そうとしているわけでもないのだろう。他がなければここに何かがありそうだ。そんな語り方を誰から学んだわけでもなく、周りから様々な影響を被りながら、自分では試行錯誤を繰り返しているつもりなのだろうが、自然にそうなっていると見なしてかまわないのかもしれない。それは結果ではない。まだ結果にたどり着けないでいるだけで、いたずらに結果を求めているのでもないのだろう。自ら求めなくても結果は自ずから求まるものだ。それが結果なのだから仕方がなく、その変えようのない結果を受け入れるしかない。すでに語ろうとしていた内容から逸脱して、当初に思っていたこととは無関係なことを語り、そんな語りに意識が引きずられていって、自己の外へはみ出ようとしているみたいだ。

 そんな気がするだけで、実質的にはモノローグの域を出ない内容なのだろう。いくら語ってもそうなるだけで、何の進歩もありはせず、別に進歩も進化も目指していないのだから、それでかまわないはずだ。そういうことにしておきたいのだろう。本当はどう思っているわけでもなく、そんなふうに語っているに過ぎないのではないか。でも無理に疑念を抱く必要はない。そんなことはどうでもいいのであって、語り始めに戻る必要がありそうだ。いったい何を語っていたのだろうか。それを何かに結びつけたかったのだろう。自己が自己であり他者が他者であり自己が他者でもある。そんな関係を説明したかったのか。自己と他者を混同しているわけか。その混同する過程を示したかったのかもしれないが、どうやら失敗してしまったらしく、自己も他者も関係ないようで、自己であろうと他者であろうと、語りから弾き出されて、自己でも他者でもあり得ないような中性的な架空の誰かが語っていることにしたいのか。フィクションではよくある現象か。フィクションの語り手が作者自身でないことなどわかりきったことかもしれず、そこに作者の幻影を見てしまうと、その内容が作者のモノローグに過ぎないように見なされ、作品の他者性が消えてしまい、つまらない解釈を助長してしまう恐れがあるか。それもよくある現象なのではないか。それでも作者の固有名を無視するわけにはいかず、作品を賞賛すると同時に作者を賞賛せずにはいられず、批評家は作者の神格化を推し進める司祭の役割を担うことになるわけか。そういう水準で語ればわかりやすそうだ。そうならないためにはどうしたらいいのだろうか。ただ作品について語ればいいだけか。作品を語る上で作者の固有名を抜きにして語るわけにはいかないだろうが、それを作者の生い立ちやプライベートに結びつけるのは避けた方がいいということだろうか。語る上でそれも避けて通れないとすれば、作品が成立した時の時代状況とも結びつけて語れば、少しは作者の神格化が避けられるだろうか。そのような時代背景の中で作者を取り巻く社会情勢から影響を被りながら、作品が生み出されたことにすれば、それを論じた言説にも説得力が出るだろうか。概ねそんな言説が批評の大半を占めるのだろう。


5月23日

 気候変動が人を何か特定の思考へと導いているのだろうか。論理や話の筋道などおかまいなく、でたらめに何かと何かを関連づけようとしているのか。無理に変えようとしても変わらない時もあるのだろうが、それでも世の中は絶えず変化し続ける。それをチャートやダイアグラムを用いて説明するまでもなく、世の中を形作っている様々な現象において、その変化の度合いはまちまちで、変化する速さも違う。その変化に対応しようとしたり、都合のいいように変化させようとしたり、そういうことを考えるときりがないが、その辺に現状を変えるヒントが潜んでいたりするのだろうか。ただでさえ変化し続けているのに、それをさらに人力で変えようとするのだから、いったい変えようとすることにどんな意味や意義があるのか、その辺をどう説明したらいいのか、そもそもそこで何をどう変えたいのだろうか。それに関しては人それぞれでいろいろな計画があるのだろう。無論計画通りに事が運ばないのを承知で、事を進めている最中なのかもしれないが、やはりそれは面倒なことだろうか。何が面倒なのか。ただその計画を遂行しているはずが、何やら途中から雲行きが怪しくなってきて、気がついたら当初の目的とは別の何かを目指して、ひたすら試行錯誤の毎日であったりするわけか。計画自体があってないようなものだったのかもしれず、漠然としすぎていたのかもしれず、途中でぐだぐだになってしまうと、そんなものはなくてもかまわないように思えてしまうわけで、そう思われてしまう時点ですでにとりとめがない。近頃はどう見ても行き当たりばったりで、その場の思いつきで行動しているだけのような感じだ。具体的に何がそう感じられるのか。とりあえず思考は機械的に動作する。雑な思念がそんなことを思い起こさせるが、たぶんごまかしでしかない。どうしても変われないというのならそれでもかまわない。動作の変化が顕われるのは、何かが起こってからだろう。何らかの出来事が思考の変化を促し、人もものも時の経過とともに変わってしまう。少なくとも寒いからそうなっているわけではない。たぶんその辺に思い違いがありそうで、君を戸惑わせる原因となっているのだろう。

 どうしても人は定常状態から物事を考えてしまい、すべてが過渡的な状態であることを忘れ、そこに固定観念を投影してしまう傾向にあるようだ。その中でいつまでも特定の事柄こだわっていると、すぐに現状を見失い、気がつけば抽象的な物言いに終始していて、そんな時代遅れの感性とともに、その場に置き去りにされてしまうわけか。それほど変化のスピードが速いわけでもないか。たぶん程々に時代遅れの方が、周りの人々の感性と合うのではないだろうか。あまりに先走ったことを語ろうとすると、却って何を言っているのか理解されなくなってしまうのではないか。でも今ここでそんなことを口走っているわけでもないはずで、これも過去の思考から導き出された見解のたぐいなのだろう。その内容は相変わらずとりとめがなく、話の焦点を絞りきれずに、漠然とした内容となっているわけだ。そんなわけでどうも言説の対象が定まらないようだが、人がこの世界で感知する事象の中から特定の何かと何かを比較して、そこから差異を求めることはできるが、それはその時点での暫定的な差異であり、いつまでもその差異にこだわっていると、やはり現状から思考が離れていってしまうのだろうか。たぶん長年にわたってそれほど変わらない価値観というものもあって、そういう対象について語っているうちは、それほど時代から外れたことを語っているわけでもないのだろうが、そればかり語っていると、何だか古い人間だと思われてしまうのかもしれず、そういう方面で凝り固まっている人たちにとっては、それは安心して受け入れられる主張となるのだろうが、そればかりをごり押しされるとうざい主張となり、周りから煙たがれる存在と見られてしまうか。たぶんその程度の水準ではそうなのだろう。でもその程度ではない水準というものがあるのだろうか。世の中が停滞していると感じられるなら、そういう古い価値観で凝り固まっている人が大勢いて、そういう人たちが世の中を、そんな状態に押しとどめようとしているからそう思われるのか。そんな理由がどこから導き出せるわけもなく、どんな主張を正当化する気も起こらず、ただこんな世の中なのであって、無意識のうちにそれをどうにかしたいと感じているのだろうが、そんな気持ちが記している文章の内容に自然と反映されているのかもしれない。それは冗談や戯れ言で済ましてもかまわないような気持ちだろうか。本気になれないのだからたぶんそうだ。

 人はいつでもたわいのないことにかかりきりのようだ。戦争もテロもそのたぐいから生じていることなのだろうが、おかしなことにこだわらざるを得ない成り行きになってしまうのだから、それは始末に負えない宿命なのか。せっかく国政を担う立場になったのだから、どうにかしてかねてから思い描いてきたことを実現したくなるのだろうが、いくらそちらの方面のメディアを味方につけても、それに抗う人たちが必ず出てくるわけで、まあ面倒なことだと思っているのかもしれないが、現にそうなってしまうのだから仕方のないことか。ロシアや中国や北朝鮮のような強権政治に打って出られるのなら、それに越したことはないのだろうが、どうなのだろうか。それもそれでさらに面倒なことになってしまうような気もするし、そうでなくても御用メディアのお仲間が後押ししてくれているのだろうから、まあ大船に乗った気分で事を進めていけば、それなりの成果を残せるのではないのか。どう見てもその程度のことしかやっていないように思われ、大げさなキャッチフーレーズとこけおどし的な主張を前面に押し出して、それなりにがんばっているのだろう。でもいくら日本だけ突出して独りよがりなことをやろうとしても、周りの国々や地域の抵抗に遭って、足を引っ張ってくるだろうから、結局はそれらと歩調を合わせるしかなく、特定の政治家がわけのわからない妄想を抱いて、ポピュリズム的な支持を背景として、それに向かって突き進んでいく時代ではないのかもしれず、今や強権政治の代名詞となった感もあるロシアのプーチンですら、それほど事を荒立てるつもりはなく、今のところはヒトラーやナポレオンのような暴走を開始する気配はない。そういう時代背景といってしまえばそれまでなのだが、日本の場合には曲がりなりにも民主的な政治制度なのだから、メディアがいくら世論誘導を行おうと、最終的には有権者が選挙で判断するしかなく、政治に関してはそれにかかっているのだろう。そしてもしかしたら、すでに政治でどうこうできるような状況ではないのかもしれず、有権者によって選ばれた政治家たちでは太刀打ちできないようなどうにもならない現象によって、この世界は動いているのかもしれない。


5月22日

 縄文式土器は時代が進むにつれて次第に禍々しい形へと変貌する。岡本太郎はそういう禍々しくおどろおどろしい火焰式土器など見て、芸術は爆発だ!という思いを抱いたのかもしれないが、どうも世の中が荒んで末期的になってくると、そういう表現が出てくるらしく、それはその地域で育まれてきた文化が滅びる兆候を示しているらしい。それは古代中国の殷のゴテゴテと装飾過多な青銅器や、マヤ文明の建物に刻まれた首なし人間や髑髏や怪物的な神獣のレリーフなどにも言えることだろうか。そこには神の名の下に人を管理するための呪術が蔓延っていて、殷やマヤやアステカでは生け贄が捧げられていたらしいから、芸術のたぐいもそういう状況を反映したものになっていたのだろう。芸術は抵抗の表現だそうだが、何に対して抵抗しているのだろうか。死に抵抗しているのであり、社会の状況に抵抗しているのだろうか。状況的にヤバいと感じるから、表現も過激になってくるのだろうか。スペインの内戦がピカソの『ゲルニカ』をもたらしたのもうなずけるか。その一方で抵抗があれば支配があり、支配者の芸術は人を威圧するための巨大なモニュメントとなる。確かに北朝鮮の金日成や正日の像は巨大だ。古代のアッシリアやペルシアの遺跡には、巨大な門に羽の生えた馬とひげ面の顔が一体となった神獣が刻まれ、そこをくぐる者ににらみを利かせている。やたらと金をかけて巨大な記念碑を作りたがる人は、それだけ支配欲や権力欲が強いのだろうか。自分が死んだ後も未来永劫その手の記念碑が残り、その記念碑とともに自分の名も未来永劫残したいということか。秦の始皇帝とかは、国は死後すぐに滅んでしまったが陵墓は残り、それに付随して作られた兵馬俑坑などは観光名所となり、今のところはそれに成功しているといえるだろうか。たとえ巨大であっても仁徳天皇陵などは、本当は誰の墓なのかわかっていないのが皮肉なところだが、発掘調査されればわかるだろうか。今の天皇や皇太子などは、死んだら火葬にして、なるべく質素に葬ってほしいという意向があるらしく、その手の欲とは無縁のようだが、国家の方は国の威信をかけて、世界中の要人を招いてなるべく大げさな葬儀を執り行いたいのではないか。国の威信とは何だろうか。東京オリンピックには国の威信がかかっているようだが、原発事故処理にはかかっていないのだろうか。それともそれなりに国の威信をかけてやっている最中なのか。

 今は世界的に規律・訓練的な社会からコントロール的な社会への移行期だそうだ。要するにわざわざ刑務所や学校や病院や工場や事務所などに幽閉しなくても、ネットワークを通じて人々を管理できるノウハウが次第に整備されつつあるらしい。将来的には体にICチップでも埋め込まれて、脳波や脈拍数が危険な兆候を示したら、それが病気の兆候なら救急車が保護のために出向き、犯罪の兆候なら警察が捕獲に向かったりするわけか。また武装して反乱やテロを企てようしている兆候を察知したら、すぐに無人爆撃機が飛んできたりしたらヤバそうだ。映画の『マトリックス』ような世界となったり、漫画の『NARUTO』の無限月読の世界となったりしたら、それらは支配する側が人々を麻痺させ拘束しながら、偽りの幻影を見せてそれと気づかないようにする、究極の管理社会の到来だろうが、どうもそうではなく、行動の自由を確保した上で、なおかつすべての行動を監視しつつ管理するという、自由と束縛の矛盾をそのまま包み込むような社会が目指されているということか。止揚という概念の意味とはそういうことなのだろうか。映画や漫画ではそこでも少数者による抵抗が開始され、管理体制を守ろうとする体制側との抗争が物語られるわけだが、果たしそれらの抵抗の表現が実際に功を奏してきたのだろうか。芸術による抵抗表現にしろ、様々な時代に行われた抵抗活動が作用した結果が、現代に結実しているのだとすれば、現代は過去の時代と比べて人が生きやすくなっているのだろうか。それともただ単にいつの時代も、人々を支配し服従させようとする体制側と、それに抗う人たちとの闘争が、絶え間なく繰り返されているに過ぎないのか。これから本当にすべての人たちをコントロールしながら管理する社会が到来するとは思えないが、そういう方向での努力が絶え間なく為されているのは確かだし、それに対する抵抗も各方面で行われているのだろうから、結局そのせめぎ合いによって社会の均衡が保たれていて、均衡が崩れれば動乱の時代となるのだろう。そしてそういう成り行きを題材とした物語では、支配する側よりは支配に抵抗する側の方が、その主人公になる場合が多いように思われ、ヒーローとしてカッコ良く語られるのではないだろうか。


5月21日

 なぜ犯行を認めてしまったのだろうか。せっかく無罪になりそうだったのに、釈放されて気がゆるみ、余計な小細工をして追いつめられてしまったわけか。なかなか完全犯罪というのは成立しないらしい。オウム事件で名を上げたあざといジャーナリストも応援していたのに、もったいないことをしてしまったようだ。あのままだまし通せたらすごい人になれたわけか。あるいはへたな小細工がバレた後に自殺が成功していればよかったのか。何はともあれ大どんでん返しに終わってしまうところが愉快なところなのだろうか。彼によって犯人に仕立て上げられて、誤認逮捕されてしまった人たちにとってはたまったものではなかったわけだろうが、警察をおちょくったその手口はあっぱれだったということか。猫好きオタクのその風貌とともに憎めない人なのではないか。平気で嘘をつけるサイコパスだと自慢していたようだが、悪魔に魂を売るにはまだ優しすぎる。本物の悪人はもっと立派な人たちなのであり、世論の支持を背景に善や正義を声高に訴えている人たちだ。

 しかし何が予定調和なのか。特定の理論や思想では説明できそうもない。一方に世論調査に自分たちの主義主張を忍ばせながら、その結果を押し付けようとする人や団体がいて、もう一方に巨悪に立ち向かい、弱者の味方を標榜するあざといジャーナリストたちがいるわけだ。どちらも困った人たちだ。保守派の戦略とはその両方を使い分けて、役割分担しながらどちらの支持も取り込もうということなのだから、そういう人たちを自分たちの味方だと思い込んだ時点で、すでにゲームオーバーなのであり、後はその人たちの都合のいいように操られるだけで、その時々の状況に合わせて設けられた偽りの出口に向けて誘導されるだけで、実態としては迷路の中で右往左往しているだけなのだろう。

 偽りの出口とは何なのか。例えばそれは脱原発と原発再稼働のどちらもそうなのだとすれば、人々はどう判断すればいいのだろうか。どちらも選択しようがなく、どちらを選択したとしても彼らの思惑通りなのだとしたら、何だかそれは絶望的な事態なのではないか。その辺が特定の理論や思想では説明不可能なところなのか。たぶんそういう選択肢が示されて、判断が迫られている時点で、もうすでにそれは決着済みということなのではないか。要するに再稼働ありきで事態が進行中ということであり、将来的には脱原発も検討課題だが、今はとにかく再稼働しなければならない、という線で脱原発派を丸め込もうとしている最中なのだろう。

 そういう状態が進行するとどうなるのか。原発とは意味合いが違うが、例えば公の場では、誰も天皇制反対とは表明できなくなってしまっている。個人の思想・信条の自由や言論・報道の自由は憲法で認められているが、少なくとも天皇制反対だとは言えなくなっている。またそれとも意味合いが違うが、死刑制度の賛否に関してはどうなのか。あるいは夫婦別姓の是非については。死刑制度は存続すべきだし、夫婦別姓は容認できないという方向で固まっているようなのだが、そういう世論を形成している要因はどこにあるのだろうか。日本の文化や伝統がそれを強いていて、容易には改まらないということなのか。有名人が公の場で原発再稼働反対と天皇制反対と死刑制度撤廃と夫婦別姓に賛意を表明したら、その人はどんなレッテルを貼られるだろうか。それが芸能人なら仕事を干されてしまうか。まさかそれが君の主張なのだろうか。今は何とも言えないところか。


5月20日

 机上の空論といえば、いよいよ共産党も共産主義を実践できる時代になったといえるだろうか。例えば役所の生活保護申請窓口の隣りに、共産党員の入党窓口を設けてみてはどうか。役所も御用マスコミも国家主義者の皆さんも、生活保護世帯が年々増えていく現状を苦々しく思っているのだろうから、できれば申請に来た人を適当な因縁をつけて追い返したいわけで、そういう時こそ共産党が受け皿となって、党員に勧誘すべきではないか。でそういう人たちを党員にしたらどうするかといえば、共産党系の生協で働いてもらうか、生協と契約している農場で働いてもらうか、地方の耕作放棄地で開墾してもらうかといったところだろうか。そこで暮らしていけるだけの生活必需品を生協に提供してもらって、田畑を耕すか畜産をやるか陶芸や機織りなどの工芸をやってもらうかして、生産される農畜産物や工芸品を生協が買い取るかすれば、そういう人たちの生活も立ち行くだろうし、共産党も党勢が拡大できていいのかもしれない。どうせ共産党もそれなりの組織で官僚機構で成り立っているのだろうから、この際第二の役所として、国家や資本主義を補完する役割でも担った方がいいのではないか。でも生活破綻者を受け入れるわけだから、生協が提供する生活必需品と買い取る農畜産物や工芸品の差額が赤字となってしまう事態も充分考えられ、そういう人たちを受け入れ過ぎると共産党そのものが破産してしまうだろうか。その辺が机上の空論の域を出ない話となってしまうわけか。めげずにさらに机上の空論を押し進めるとすると、この際だから世界各国の共産党と連携して、セーフティネットを構築し、互いになるべく安い生活必需品を融通し合うしかないのかもしれない。日本の周辺の共産党なら、ベトナムとか中国とか北朝鮮とかロシアとなりそうだが、モンゴルとかもまだ共産党は残っているのだろうか。モンゴルからは放牧している羊の羊毛とか乳製品とかを安く調達するわけか。地下資源もかなりの埋蔵量があるらしい。それらの共産党系の政党同士での連携を密にしていけば、ベトナム・中国・北朝鮮は体制側だし、結構安全保障的な面でも貢献できるような気もするが、現実はどうなのだろうか。ベトナムと中国の共産党は犬猿の仲らしいが、ベトナム沖で中国が掘削して問題となっている石油資源も、共産党のネットワーク経由で割安で調達できるとかなればおもしろそうだが、でもそうなると机上の空論どころではなく、単なる冗談でしかなくなってしまうか。

 たぶん共産主義では資本主義に対抗できないのかもしれない。そもそも共産主義対資本主義という対立軸がおかしかったのか。夜郎自大で共産主義陣営が無理矢理対立しているように見せかけたかったのだろうか。読みもしないのにマルクスの『資本論』を過大評価するわけにもいかないか。イエスや仏陀の共産主義も長続きしたわけではなく、後に体制側に取り込まれてキリスト教や仏教となり、形骸化した宗教として続いてゆくしかなかったわけだから、せめてそれらの宗教の良心的な部分だけでも肯定的に受け止めるしかないか。人は理想的な状態を夢見て、それを実現するためにいろいろ努力し続けている人もいるのだろうが、なかなか思い通りの結果にはたどり着けないのだろう。「仕事とは生きることそのものである」であるそうだが、カネにならない仕事は仕事ではなく、カネにならなければ生きてゆけないのかもしれない。たぶんその辺に矛盾があるのかもしれないが、そういう考え方も行き着くところまで行き着けば、狂気の沙汰となってしまうようで、「365日24時間死ぬまで働け」という倒錯的な理念に行き着くらしい。たかだか外食チェーン店であったとしても、死ぬまで働かなければならない状況に追い込まれるとすれば、それは崇高な理念に殉じることになるのだろうか。今進行中の行き先がすべて、その手の大規模安売りチェーン店同士の熾烈なシェア争いのつぶし合いだとすれば、仕事とは死ぬことそのものとなってしまいそうで、まさにそこには現実の戦争が再現されているのかもしれない。高給取りの幹部たちが安月給の労働者たちに向かって、てめえら死ぬまで働け!と号令をかけている光景を思い浮かべてしまうが、もはや共産主義とか回りくどいやり方ではなく、働けませ〜ん、食っていけませ〜ん、と駄々をこねながら、何もせずにふらふらしているしかないのかもしれない。それでも生きていけたら、それもそれですごいことだろうか。まあ言ってはいけないことかもしれないが、本音としては誰も働きたくないのではないか。そういう欲求に対する折衷案としては、遊んでいることが仕事になればいいのだろうが、その辺に理想と現実の背離があって、ユーチューブで無理矢理遊んでみせて、それで金を稼いでいる人もいるらしいが、それをやれるのも限られた人たちのようで、年がら年中遊んでいるみたいで、くだらぬ遊びの回数が尋常ではなく、ほとんどルーティンワークと化しているのだろうから、あれだけやればもはや遊ぶことが苦痛となっているのではないか。それほどまでにやらなければカネを稼げないとなると、やはり遊ぶこととは死ぬことそのものとなってしまい、死ぬまで遊んでいろ!ということになりそうだ。


5月19日

 大丈夫なのかもしれない。中には調子に乗っている人もいるらしいが、それでかまわないのだろう。たぶんそういう人はそのままなのだろう。それほど忌まわしい時代でもなさそうだ。通過儀礼としてはそういうことなのだ。我が世の春を謳歌している気でいるのかもしれないが、もう夏が近づいている。そして秋になり冬になってしまうだろう。季節が移り変わるだけのようだ。残念がる必要もなく、流行に乗り遅れてしまった方が良さそうに思える時もありそうだ。今がそうなのか。マッカーサーも吉田茂も国家が使い捨てにした人たちだ。当人たちはそれで本望だったかもしれないが、彼らを賞賛したり持ち上げる気にはなれない。それらの成り行きのすべては予定通りだったのか。そう思えないこともないが、別にそうは思わなくてもかまわない。予定調和が好きな人ならそう思えばいいのだろう。そこから誰が彼らを救い出してくれるわけでもない。中途半端なことをやっても、その時が来たら吹っ飛んでしまうのだろう。何をどう解釈しても、自己満足に浸るためにそうやっているだけで、具体的な実効性など考慮されていないのかもしれない。面子を保つための机上の空論を披露してしまったのかもしれないが、こうした事態は机上の空論ではありません、と断りを入れたところで後の祭りだ。仮に何かの偶然でそういう事態になったところで、そら見たことかと自慢したところで、そういうことでしかなく、だからどうしたと思われるだけかもしれず、戯れ事をやって胸を張られても、周囲から馬鹿にされるだけなのではないか。事前に緊急事態を想定しておかなければ何もできないというのなら、それでは子供のママごと遊びになってしまうのではないか。そういう時こそ現場の人間が大人の判断で対応すべきだろう。マニュアル通りにしか行動できなければ、もうその時点でおしまいなのではないか。そのために日頃からマニュアル通りの訓練が欠かせないとしても、実際にマニュアルを超える事態に直面した時が、その場に居合わせた人たちの判断が求められているわけで、臨機応変な対応が求められているわけだ。憲法解釈がどうこう言っている場合ではない事態に遭遇した時にこそ、そこに関わっている人たちの力量が試されるわけだから、事前にどんな取り決めを想定しておいても、机上の空論の域を出ない論議になるしかない。

 確かにお勉強の成果はプレゼンテーションで発揮されるものだろうが、プレゼンと現実を混同するわけにもいかない。プレゼンのパフォーマンスはあくまでも見せ物的な芸であり、実践でのパフォーマンスとは次元が違う。そんな演劇的な錯覚にとらわれているうちに、何か感覚がずれてくるのかもしれず、今はそれに気づかなくても、そのときになったらわかることであり、長年の平和ボケで勘が鈍っている輩が、いくらプレゼンで格好をつけても、宴会芸のたぐいとしか思われないのではないか。恵まれた環境の中で育ってきた人たちは、どうあがいても弱肉強食を生き抜いてきた人たちに敗れる宿命なのではないか。そういう成り行きは素直に受け入れた方がいいのであって、負けるのが嫌なら、そういう力勝負の成り行きに持っていかれないようにするしかなく、今さら勇ましいことを叫んでみてももう遅いのだ。ユーチューブで毎日のように勇ましいことを言い放っている若者も、そういうプレゼンをやればやるほど、その手のプレゼン力に磨きがかかり、そうやって講演活動に精を出しているうちに、将来保守派の論客として頭角を現すかもしれないが、それは日本国内でしか通用しない人になるだけで、それで本望というのならかまわないのだろうし、そういう人を気の毒に思うのは大きなお世話かも知れず、とりあえず上から目線でそういう人を偉そうに批判する気にはなれないし、少なくとも説教口調で諭す立場にはないようだ。せいぜいがんばってほしいとしか言えないか。


5月18日

 すべてが馬鹿げている。そんなはずがないと思いたいのだろう。四六時中そんなことを考えているわけでもないらしい。それでも人はうろたえる。くだらぬことで騒ぎ立て、出る杭は打たれ、同じような長さの杭が立ち並んでいる光景に満足する。それだけのことか。それを利用しているのではないか。杭の長さを同じにしておかないと不安な小心者たちが基準となり、その神経を逆撫でされると、警報のサイレンが鳴りだし、たちまち風評被害だ何だとぎゃーぎゃー騒ぎ立てるわけだ。つくづく悲惨な人たちだ。でもその悲惨な人たちが世の中で多数派を形成しているとすれば、そういう人たちを相手に商売をしている限りは、ご機嫌を伺い媚び諂わなければいけないのだろうか。少なくともそういう見せかけなのだろう。本当のところは何だかわからない。多数派など幻影に過ぎないのかもしれず、舞台上の書き割りにおびただしい数の人面が描かれているだけかもしれず、スポーツ漫画の大コマにアシスタントが描く観衆でしかないのかもしれない。架空の舞台もスポーツ漫画も虚構でしかない。そんなふうに語れば多数派を想定できてしまうわけだ。メディアの都合に合わせて何とでも語られてしまう。たかだか数人が示し合わせて騒いでいるとしても、それが多数意見であるように見せかけることも可能だ。漫画の登場人物たちが超人的な力を発揮しなければならないのも、そんな架空の多数派に配慮した結果だろうか。いったい彼らは何を意識しているのだろうか。架空の意識とは何か。その中身を知りたくなってくるが、架空であるから想像してみるだけだ。

 現実にとんでもないことが起こってほしいのかもしれないが、実際はそれも架空の意識が思っていることだ。なかなか極め付きの出来事は起こらず、欲求不満に陥った人々は漫画にそれを求めるしかなく、漫画もそんな欲求に抗いきれずに、主人公は凄まじい力を宿した超人となるしかない。そうなってしまう前になんとかしたいわけだ。その辺が腕の見せ所なのだろうか。架空の大衆を惑わすために、あれこれ策を講じなければならない。そのために物語があるのだろう。物語の罠に陥ってもらって、ほどほどのところで満足してもらわなければならないか。その辺の事情は権力者に群がるメディア関係者も同じで、何とか大衆の欲求を満たすような物語を紡ぎだしたいのかもしれない。政治家が人々のためになるようなことをやっているように装わせたいわけで、そのためにあれこれ策を弄さなければならないわけか。信じさせたいのだろうが、なかなか額面通りには信じてもらえないのかもしれず、いつもその辺で疑心暗鬼になって、うまい方策が見つからず、困り果てているのかもしれない。

 様々な水準での妥協の産物として、結果的に何を語るにしても、実際は政治で何とかなるようなことではなく、特定の誰かがその方面でいくら影響を及ぼそうとしても、それが全体に及ぶことはないだろう。ただ彼らは政策が功を奏してうまくいっているように宣伝したいのだ。そういう物語を人々に信じ込ませたい。そこに無理があることは承知しつつも、そんなふうにしか語れないわけで、どう語ってみてもそんなふうにしかならず、やはりジレンマに陥るしかない。うまくいっていないのに、うまくいっているように報道しなければならないところが、大本営発表報道の欠陥であるのはわかっているのに、しかもそれを真に受ける人もいなくなりつつあるのに、それをやめるわけにはいかないところが、いったんそれをやり始めたら後戻りの利かない成り行きを物語っているわけか。どのように語ってもそうなってしまうのだとすれば、そう語るしか選択肢が残されていないわけだから、結局そう語るしかないわけで、この先どのような事態に陥ろうと、御用メディアは自分たちが守ろうとしている政治家を擁護し続けるだろう。ではすでにそうなってしまったからには、多くのメディア関係者が安倍ちゃんと心中するしか選択肢が残されていないわけか。それとも落ち目になったら、沈む船からネズミが逃げ出すように、手のひら返し的に裏切ってもかまわないのだろうか。どうも今後の見所はその辺にあるのかもしれないが、今のところはいつそうなるかは何とも言えず、早とちりしてそんな事態の到来を声高に宣言するのもみっともないだろうし、たぶんもっと盛り上げてからでないとおもしろくはないのだろう。少なくとも東京オリンピックぐらいまでいってほしいところかもしれない。要するに君もその手の漫画ファンと同じように、極め付きの出来事を体験したいわけだ。


5月17日

 苦し紛れに雑な歴史の知識を披露してしまったようだ。それにしてもとりとめがない。いったい何を語ろうとしているのか。物事を合理的に考えたり、国を統治する理論に基づいて、様々な制度や仕組みを整備したりするやり方は、古代の王朝から連綿と続けられてきたことだ。いろいろなやり方が試され改良されてきたのだろう。国家はそこに暮らす人や土地や財産を管理したいわけだ。その管理する制度や仕組みが形骸化すると、国家も崩壊が近いといえるだろうか。そういう考え方そのものがそもそも勘違いなのか。なぜそう思うのだろうか。今や人が世界のどこにいようと関係ないのだろう。自分の才覚に頼って生きられる人は勝手に生きていけばいいわけだ。では才覚のない人たちは国家の閉域に取り残され、そこで管理されながら家畜のように生きていかなければならないのか。それも違うのかもしれない。管理しきれないから見捨てられてしまうのではないか。利益を生み出さない人間はいらないということだ。国家も才覚のある人を求めているわけだ。しかし人は無用な人間になろうとする。働かずにいつまでも惰眠をむさぼっていたい。国家は人を働かせようとするが、国家に利用され踊らされるのはまっぴらごめんだ。逃げられるものなら逃げ出したいのかもしれず、食っていけないからやむをえず働いているのではないか。それが自然の成り行きなのかもしれない。どうやら勘違いの原因はその辺にあるらしい。始めから国家の枠組みを維持継続していくのには無理があるのではないか。働きたくない人を無理矢理働かせないとだめなのだから、そもそもそこに矛盾が生じていて、昔は奴隷に無理矢理働かせて何とか国家の体裁を保っていたのかもしれないが、今の時代にそれはできないから、遠からず行き詰まってしまうのかもしれない。働いて金持ちになるという資本主義的な夢も、才覚のない人には無縁でしかなく、一握りの才覚のある人が成功して金持ちになればなるほど、その他大勢の才覚に恵まれなかった人たちはやる気を失い、ふてくされてますます働かなくなり、どんどん貧富の格差が開いて、利益を生み出さないから国からも見捨てられ、そういう人たちが増えてくると国家も衰亡の一途をたどり、やがて消滅してしまうだろうか。たぶん人がどんどん減ってきたら、別に昔ながらの狩猟採集民に戻ってもかまわないのではないか。今でもアフリカやニューギニアの奥地などには、そういうことをやっている人がいるのだろう。科学技術が発達して宇宙に進出するどころではなく、人類にもそんな成り行きで文明の衰退期が訪れたらおもしろそうだ。そういう未来の状況を描いたSF映画なども結構あったのではないか。

 古代の人はなぜ苦労して農耕をやり、文明を築いたのだろうか。生き残るためにそういう成り行きになったのだろうか。そうやって以後一万年近く人類の繁栄が続いたのだろうから、もうそろそろ衰退の時期にさしかかっても不思議ではないか。放っておいたら資本主義は未来永劫続いていくと危機感を募らせる共産主義者もいたらしいが、現時点では何とも言えないか。いつまでごまかしが通用するのだろうか。何をごまかしているわけでもないと言い切れるほど、何か明るい未来を思い描ける状況なのだろうか。その辺も現時点では何とも言えないか。メディア上では社会のありのままの姿がありのままに語られていて、別に何をごまかしているのでもないわけか。人間社会のどこが欠陥でもなく、不満を抱いたり不都合に思われたりするところが欠陥なのかもしれないが、それは人間自身に欠陥があるからそう思われてしまうのかもしれず、その欠陥が災いすると、何やら人類滅亡の危機とかいう大げさな事態となってしまうわけか。たぶんその最大の欠陥は、人類の文明の象徴でもある科学技術にあるのかもしれない。人間が誇っている当のものが最大の欠陥なのだろうか。文明自体も意味のない代物かもしれない。このまま科学技術が発展していって、例えば自らを再生産できる人工知能を内蔵したロボットのようなものを開発した時点で、人類の役割が終了してしまったら、それらのロボットにしてみれば、人類は自分たちを創造してくれた神だと認識されるだろうか。それの何が欠陥なのか。自らを無化するような無駄で無意味なものを作り上げるために科学技術を発展させたからか。そんなSF的な妄想を抱く頭脳に欠陥があるのではないか。そしてそういう疑念を抱く自己言及的な精神構造にも欠陥があるのかもしれず、要するに人の腫れ上がった脳みそはそこら中で神経配線がショートしていて欠陥だらけということか。たぶん人類も文明も科学技術の発展も、いったん進みだしたら後戻りが利かないようなものなのではないか。それらが進展するにつれて欠陥が次々に生まれ、過ちも際限なくもたらされるのだろう。


5月16日

 西暦3千年ぐらいになれば、ヨーロッパはアフリカ系やアジア系の人々が入り交じった人種の坩堝になるという予想があるらしい。でも今いる人たちの祖先も、ゲルマン民族の大移動などと言われるように、別の地域から移動してきた人たちなのだから、もともと多くの民族が混在している地域なのだろう。何かヨーロッパ人は白人という先入観があるのだが、要するに高緯度地域に暮らしているから肌の色が白いわけで、約3万年前に滅んだとされる旧人のネアンデルタール人も白人だったらしく、アフリカ系やアジア系の人たちも、千年も北ヨーロッパに定住すれば、金髪の白人になってしまうのではないか。また白人といえば顔の彫りが深いという印象があるが、実際に金髪が多い北欧の人々は、意外と彫りが浅かったりするわけで、民族大移動以前にヨーロッパに住んでいた人たちは、結構日本人などに顔つきが似ていたのかもしれない。そしてどうしてもナチスドイツなどからの影響で、ヨーロッパ文明が古代ギリシアから連綿と続いてきたように解釈されがちになるが、ローマ帝国を滅ぼしてヨーロッパの中世を担ったゲルマン民族と古代ギリシアは無関係なようで、古代ギリシア人は紀元前千年から二千年の間に、インド・ヨーロッパ語族の一部が中央アジアからやってきて、エーゲ文明を築いていた先住民を駆逐して定着した人たちで、要するにアジアから来た人たちらしく、それから三千年ぐらい経った現代でも、同じようにアジアからヨーロッパへと人々が移動してきているということではないか。また現生人類はもともとアフリカから全世界に広まったという説が有力なのだから、それから数万年後の現代でも同じようにアフリカから人々が全世界に移住することに何の不思議もないわけか。でも実際に以前からそこに暮らしている人にとっては、移民によって既得権益が脅かされるから、外から外人が入ってこられては不都合だし、脅威なのだろう。実際に新大陸では、ヨーロッパ人の移民によって先住民たちがひどい目にあったわけだ。

 それでも人は絶えず地球上を移動し続けるのだろう。方々で先住民との軋轢を起こしながらも、侵入や侵犯を繰り返し、そのうちどこか他の惑星などに移り住むようになれば、地球上での移民問題など何の意味もないことになってしまい、宇宙から見れば地球上のどこにいようと同じと見なされてしまうのかもしれない。でも少なくとも今は違うわけだ。宇宙全体から見れば地表面の狭い区域でしかない領土を守るために汲々としていて、国土を守るために必要とあらば武力を行使して、外国からの侵略者たちを撃退しなければならないと主張するわけだ。そのためには憲法解釈を変えて、武力行使をしやすくしなければならないということか。少なくとも今の日本ではそういうことが話題となっていて、何やら戦争に向かってまっしぐらに突き進んでいる、と危機感を募らせている官僚もいるらしいが、まあ戦争になったらなったでかまわないのではないか。でも日本にまともな戦争をやらせるほど世界は甘くないような気がしないでもない。まともな戦争とはどういうことなのか。戦争をやるとしても、大義のない戦争をやらされて、結果的にひどい目に遭うということか。戦争に至るまでの外交的な駆け引きで敗れ、世界から非難を浴びつつ戦争をやらざるを得なくなるわけか。それが満州事変から太平洋戦争に至る、十五年戦争と呼ばれる成り行きだったのだろうが、ともかく今のところは他国を侵略する意志は日本側にはないようだ。では例えば果たして中国が武力で尖閣諸島を奪還しにかかった場合はどうだろうか。そうなれば日本も国土防衛という口実のもと武力行使の機会を得て、そこで戦争が始まるわけか。それもかつてイギリスとアルゼンチンがやったフォークランド紛争程度のことで、全面戦争には至りそうもなく、どちらが勝つにしても、ほどなくして収まるのではないか。それ以外にどのような可能性があるだろうか。

 どうしても歴史的成り行きとしては、一度目は悲劇に終わり二度目は笑劇に終わる、という格言めいた教訓が思い出されてしまうのだが、いくら安倍ちゃんががんばってみても、十五年戦争のような規模で戦争をやるまでには至らず、そのせいぜいが、普仏戦争に敗れてプロイセンの捕虜となり、無様な醜態を晒したナポレオン三世程度のことになってしまうのではないか。ナポレオン三世は有名なフランス皇帝ナポレオン・ボナパルトの弟の息子で、元首相の岸信介の孫の安倍ちゃんと比較すると、世代的には一世代古いのだろうが、安倍ちゃんも同じような言い方をすれば、岸三世と呼べなくもなく、ナポレオン一世がフランス大革命から出てきたのと同じように、ナポレオン三世は数十年後の二月革命から出てきた人で、選挙で安倍ちゃんと似たような経緯で、知名度と選挙民の消極的な支持で大統領に選ばれ、その後あれよあれよという間に、なぜか民主主義的な国民投票によって、独裁的な皇帝に即位してしまうという、そういう成り行きが当時イギリスで亡命生活を送っていたマルクスに、笑劇と言わしめたわけだが、マルクスはナポレオン三世の帝政は短期間で崩壊するだろうと予想したが、予想に反してなぜかその後普仏戦争に敗れるまで二十年近く続くわけだが、その終わり方も、ナポレオン一世が全ヨーロッパを占領する勢いであったのに対して、隣国のプロシアに軽くねじ伏せられてしまったところも、フランス大革命とそれに続くヨーロッパ全体を巻き込んだナポレオン戦争の悲劇と比較すれば、しょぼくて笑劇的ということだろうか。まさか安倍ちゃんもここから二十年近くも首相をやった末に、隣国の韓国などに軽く戦争でねじ伏せられて、笑劇的な結末を迎えたりするのか。韓国とプロシアの共通点としては挙国一致的なところだが、韓国も韓国で、笑劇的な国情ともいえなくもないか。


5月15日

 歴代ベストの映画として呼び声の高いオーソン・ウェルズの『市民ケーン』は、公開当時話題にはなったようだが、実在する主人公のモデルとなった新聞王による全面的な妨害工作で、興行的は大失敗だったようだ。アカデミー賞にも3部門でノミネートされたが、唯一脚本賞を取るにとどまり、以後ウェルズ自身ハリウッドでは不遇だったようで、俳優として何本か有名な映画に出演したようだが、映画の制作資金を工面するためにB級映画などにも出演したりしながら、20代で撮った初監督作の『市民ケーン』を超える作品を出せないまま、その生涯を閉じたらしい。

 何だか才能の浪費というか、ハリウッドもウェルズに制作費を与えて、好きなように映画を撮らせてやれば、もっとすごい映画が何本もできたように思われてしまうが、現実にはそうはならなかったところが、そういうものだと思うしかない歴史なのだろうか。

 それにしてもその手ものに接する機会がない。たぶん20世紀を代表する小説といわれる『失われた時を求めて』も『ユリシーズ』も読まずに生涯を終えてしまいそうで、もちろん『市民ケーン』をまともに観賞したこともなく、80歳を超えて未だに新作を発表し続けるゴダールの映画も、何一つ見る機会もありそうにない。まあそれで済んでしまうのだから、そういうものだと思うしかないわけだ。映画通でも文学愛好者でもないのだから、当然の成り行きなのかもしれず、残念がるのも勘違いかもしれない。せいぜい漫画を読むぐらいが関の山か。

 しかし何が歴代ベストだとか、何が20世紀を代表する作品だとか、そういう知識ばかりが頭にインプットされるわけで、肝心の作品を直接見たり読んだりしていないにも関わらず、それに関する批評は見たり読んだりしているわけだ。批評とは何なのか。ヤバいものに出会わずに済むための魔除けのようなものなのか。

 直接見たり読んだりせずに、うわさ話のように間接的に聞き及んだりするのが好きなのだろうか。そういううわさ話をする人たちの、偏見だとか誇張だとか歪曲だとかの、不純物を含んだ下世話な感じが、おもしろおかしく思われてしまうのか。あるいは面と向かって真正面から物事に対峙する勇気に欠けていて、斜め後ろからちらりと覗き込んだり、そこに至るわけのわからない紆余曲折を楽しんだり、茶化したりけなしたり、そうやってなるべく遠回しに接することで、何とか事物からの直接の影響を最小限に食い止めつつ、なるべく無傷でいたいわけなのか。でもいったいそこで何を回避しているのだろうか。それらに感動してはまずいのか。

 それらに巻き込まれないための自己防衛本能でも働いているのか。でも批評には巻き込まれているのではないか。では直接事物に向かわずに、批評という横道に逸れることで得られるものとは何なのか。共感や安心感か、あるいは批評に対する反発か。ひいきの対象を批評が嘲笑していたら、当然反感を抱くだろうし、ネット上にはその手の誹謗中傷の攻撃的なコメントがあふれかえっている。要するに好きなものは褒めてほしいのだろうし、嫌いなものはけなしてほしいわけで、その好き嫌いを共有したいがために、人々はそんなことを述べている文章や映像に群がるのかもしれず、それを煽って商売に結びつけようとしている人もいるのだろう。

 たぶんそれではだめなのだ。その程度で済ましているうちは、どこへもたどり着けない。でもその程度で済ましていられる現実があり、その程度に安住しようとしてしまうのだろう。自堕落なのだろうか。たぶんそうではない。では何かをつかみかけているわけか。

 安住を強いるような世間の風潮に、勝てやしないし、勝とうとも思わない。どうもその辺に戦略や戦術などとは違った対処法があったりするわけか。たぶん有効な対処法などではないだろう。ともかく右翼とか左翼とか、二項対立をでっち上げて、その一方に組するように仕向けてくる人たちが必ず出てくるわけで、その二項対立のどちらか一方に安住の地を見出すのではなく、常にその対立軸をずらし、あわよくば対立を無効化するようなことを述べていかなければならないのではないか。言うは易しで行うは難しなのはわかりきっていることだが、どうもそういう方向で語っていくことでしか、まともな言説には至れないような気がする。


5月14日

 何だ自民党も野党時代に国会で用意した参考人が、原発事故の避難住民が毎日鼻血を出していると訴えていたようで、詳しくはユーチューブで、

選択的避難の権利/北海道へ自主避難した人の声 参院12/2 (http://www.youtube.com/watch?v=ajlb0XONPeQ#t=131)

を見てもらえばわかると思うが、まあ自民党も取り上げていたのだから、どうやら鼻血が出るというのは事実のようだ。じゃあ必死こいて鼻血を否定していた連中は何だったのか。まさか事実を隠蔽したかったのだろうか。それにしてはお粗末この上ないような気がするのだが、いずれはバレるのがわかっているのに、何だか理解不能だ。

 多くの人が鼻血が止まらなくなるというのなら、放射線だか大気中に漂っている放射能に汚染された粒子状物質だかわからないが、ともかくそれを吸い込むと、鼻の粘膜を刺激したり傷つけたりする作用があって、それで鼻血が出るという症状はあり得るのかもしれず、それが人体に害を及ぼしている証拠といえばそうなのかもしれないが、程度の問題で、鼻血が止まらなくなったからといって、今すぐに死ぬとかそういうことではないのだろう。ともかく大前提として、危険だから避難しているのであり、そこに近寄ると放射線を浴びるのは確実で、避難している人の多くがすでに放射線を普段以上に浴びている可能性があり、そして以前にはなかった鼻血や倦怠感などの自覚症状が出たのだとすれば、そういう症状が出ている原因を、避難の原因となっている当の原発事故に結びつけるのは、たとえ因果関係が科学的に証明されていなくても、普通の人が抱く自然な発想であり連想なのではないか。その程度のことなら素人でも言えることで、別にそれが知名度の高い漫画で取り上げられたからといって、声高に否定したり叩いたり、むきになって騒ぎ立てる必要はなかったのだろうし、御用メディアの連中の対処としては、黙殺するか、さらっと受け流しておけば、それでよかったのではないか。後から冷静に考えてみればそういうことかもしれないが、やはり現代のベートーベンやら割烹着のリケジョ以来のマスコミ病が未だ治っておらず、不必要に事を荒立てておもしろがろうとする人が多すぎるのか。それにしてもリンチだ何だのと騒いでいた人は何だったのか。単なるやぶ蛇ということか。あるいはまさかそれも原発事故の影響で、放射線で頭をやられてしまったのだろうか。まあ後出しじゃんけん風に言うなら、件の漫画共々騒いでいる連中はみんなひっくるめて、原発事故便乗商法だと非難できなくもないが、味噌も糞も一緒くたにするのも気が退けるか。


5月13日

 道を踏み外しているわけではない。階段を上っているのか下っているのかわかりそうなものだ。そこに重力が作用している。君がとらわれているのはそんな感覚だ。上を目指しているのではなく、下へと下っているのでもなく、地面の上を歩き続ける。たまたまそこで上り坂だったり、下り坂だったりするのだろうか。マラソンではないのだから、上り坂や下り坂に対応できないわけではない。きっと誰かが歩いているのだろう。猫も犬も歩いている。誰もその歩みを止めようとしているのではない。誰かが道端にしゃがみ込む。きっとそんな光景をテレビカメラか何かが撮っているはずだ。それはテレビを見ていた時の記憶だろうか。マラソンも猫も犬も、道端にしゃがみ込む人の映像も、それらの光景を空想しているとしても、直接その目で見た光景が含まれているとしても、そこにテレビ映像も混ざっていたりするのではないか。何が言いたいのか。直接体験したことが重要だとでもいうのか。そこで誰が道端にしゃがみ込んでいたのか。そのまま崩れるように横たわり、しばらく胸を上下させ呼吸をしていたようだ。行き倒れの光景を想像しているのだろうか。フィクションを語ろうとしているのかもしれない。死体の画像は見せてはいけないものだろうか。殺された死体ならなおさらか。誰もその死を喜んだりしないのだろうか。表面的にはそういうことにしておきたい。人の死は悼むものだ。弔うものであったりもする。それが忌むべき存在だったら喜んだ方がいいのだろうか。何か忌まわしい過去とともに語られるべき存在というものがあるわけか。作り話の中ではそういう人が出てくる。恐怖映画の殺人鬼などはその典型か。死してなお亡霊となって災いをもたらし、除霊師などが活躍の場を与えられ、そこで殺人鬼の亡霊と対決してしまう。下らぬ想像をかき立てられているのかもしれず、そこにもテレビで見た映像が混ざっているのだろう。何に影響を受けて何を想像しようと、大して違いはないようだが、とりとめがない。強権的な独裁者が死ねば、圧政に苦しんでいたその国の住民たちが喜ぶ。それもテレビ映像のたぐいか。

 何を思い出そうとしているのか。別にそれらの死体の共通点を指摘したいわけでもなく、何を推理したいのでもないようだ。キューバのカストロは引退したようだが、まだ生きている。身長が191センチもあるらしい。要するに過去の歴史を振り返っているのか。工場から吐き出される人の群れに混じって、野良犬が人の足にまとわりついている。エサをねだっているのだろうか。それをブロック塀の上から猫が眺めている。ふと何かを思い出しているようだ。そんな映像に見とれていたのだろう。直接見た光景ではなかったようだ。映像に見とれている人の姿まで想像しているのではないか。テレビ画面を食い入るように見つめ、映像の中に誰かを見つけようとしている。人影にまぎれてお目当ての霊媒師でも隠れているわけか。いつの間にかブロック塀の上の猫が消えていた。どうもそこから道端にしゃがみ込んでいた人のその後が出てこないようだ。その場で死んでしまったのか。映画の場面ではなかったようだが、気にとめるような出来事でもなかったはずだ。急な石段を上り、買い物を済ませてまた降りてくる。途中のいびつな段に躓かないように、用心深く一歩一歩段の高さを確認しながらゆっくり降りてくる。転んで打ち所が悪ければ死んでしまうかも知れない。ところであたりをきょろきょろ見回して何を警戒しているのか。隠れ住んでいるわけでもない。隠れ住む必要性を感じる理由がない。別に指名手配犯というわけでもなく、闇の組織から命を狙われているわけでもない。賞金首をかけられるほどの有名人というわけでもないか。何かやましいことに手を染めているのか。人知れず家の中で大麻でも栽培していたりするのだろうか。いくら栽培していても、売りさばくルートがなければ話にならないのではないか。自分で吸うだけなら、面倒なことはせずに買えばいいわけか。さっきから死体だの大麻だのと不穏なことを語っている。思いつくのがそんなことばかりではとりとめがない。水族館の白いワニがエサも食わずに一年間生き続けた話を思い出す。それもフィクションなのだろう。そういえば崖の上のポニョは金魚だったのかクマノミだったのか。たぶん映画など見もしなかったのだろうし、何を思い出そうとしていたのでもなかったのだろう。

 何やら暗号めいた文章を記しているつもりらしい。確か坂口安吾はクスリのやり過ぎで身を持ち崩して、48歳で死んだらしいが、最後の方はヤク中で狂乱状態だったそうだ。国宝の金閣寺など焼けて結構だし、ブルーノ・タウトが絶讃する桂離宮も見たことがなく、小菅刑務所やドライアイス工場などの方がよほど美しいと言ったとか言わなかったとか、書いている内容はカッコいいわけだ。無頼派の典型か。桂離宮も英国式庭園も根は一緒で、ちまちまとしたママごと遊びのたぐいなのだろうか。良い趣味の範囲内で生活を楽しんでいるわけで、ヤク中で半狂乱の無頼派から見ればたわいない代物でしかないか。文化とは何だろう。北大路魯山人が実際にやっていたことと、漫画の中で海原雄山がやっていたことと、柳宗悦がやっていた民芸運動などとは、何か重なる部分があるわけか。どうもその道を究めた達人といえども、無頼派にかかれば、ただの趣味人と見なされてしまうのかもしれず、禅の達人とか陶芸の達人とか茶の達人とか、そういう人間国宝的な人々は、どこかおかしいのかもしれない。欠陥人間だろうか。欠陥のない完璧な人間などいないといえば、そういうことでしかない。人間を人間として、それを取り巻く社会的な諸関係から単独で取り出して、その優劣を論じること自体が、司馬遼太郎的な荒唐無稽には違いないが、趣味人として余生を送っていた細川護煕が、突然小泉純一郎の脱原発宣言に共感して、その運動に加わったように、趣味人にも趣味人なりの狂気が心の奥底に渦巻いているのかもしれず、小泉純一郎はどちらかといえば石原慎太郎的な無頼派に属するのかもしれないが、趣味人も無頼派も共に、たぶん世間の常識が通用しない人たちであり、海原雄山的な美食趣味の世界を繰り広げていた漫画の原作者も、そういうたぐいの傾向があるのではないか。常識的な一般大衆にとってはヤバい人なのだろう。もちろんそういうルサンチマンにこだわっている雑魚な人たちよりは魅力的に見えてしまうわけだが。


5月12日

 見物人は無力か。手出し無用の諍いを見つめ、黙って情勢の推移を見守っている。それを批判して何になるのか。漫画を読むとはそういうことか。はぐらかしているのだろう。それが本質ではない。漫画ではないはずだ。漫画のフォーマットには収まりきらず、現実の世界へとはみ出しているわけか。それの何を評価できるだろうか。そのつもりもないのにそんなことを持ち出しているわけではなく、差し出がましいことを言い募るつもりもないのだろう。いったい何を見誤っているのか。現実に見えていないのだから見誤っているわけではない。罠にはまっているわけでもない。何が仕掛けられていたわけではなく、地雷を踏んで死傷したわけでもない。ただ思わぬところから横やりが入っただけか。思い出すのはそこまでだ。それでおしまいにしておきたいところだが、たぶんその先で何かが起こったのだろう。それが重大な出来事だったのか。誰にとってそうだったのか。君にわかるわけがなく、苦渋の決断を迫られているのはどこも同じだ。いつもそうやって行き詰まるのは、歴史的な成り行きの必然だろうか。日常茶飯事に敗れ去るのではないか。語れないことを語ろうとするからそうなるのか。でも語れることだけ語っていれば、それこそ紋切型の大洪水だ。人々はそういう紋切型に操られ、そこから外れた内容をめざとく見つけ、紋切型によって攻撃を加え、何とかはみ出してしまう言説を葬り去ろうとするわけだ。それは汚いやり方かもしれないが、はみ出る人たちを許せないのだろうから、攻撃するしか手だてはないのだろう。困っているのは紋切型に心を支配されている人たちも同様か。彼らにとっては規律を守れない人たちは脅威であり、放っておけば自分たちが丹精込めて作り上げた共同体を崩壊させかねない。無論それは幻想の共同体であり、現実にそんなものがあるわけではなく、ただ同じような言葉遣いを共有している人たちが、そこから外れたことを語る人たちを敵視しているに過ぎず、そういう人たちの存在が目障りなだけなのだ。

 しかしなぜ人は語り得ないことを語ろうとするのか。そもそも語り得ないこととは何なのか。それは語られていることが語り得ることで、語られていないことが語り得ないことか。単純にそう考えれば納得できるだろうか。紋切型とはすでに語られている内容を繰り返し語ることで、そこからはみ出ると、それはまだ語られていないこととなる。でもそうなると、完全にはみ出てしまうと、もはや紋切型では対処できなくなってしまうのではないか。ならば紋切型が攻撃可能な言説は、別の紋切型的な言説であり、少なくとも紋切型と重なる部分があるから、そこを足がかりとして攻撃してくるのではないか。例えば福島の原発事故現場に近づくと、放射線による被爆で体がだるくなり、鼻血が止まらなくなるという紋切型に対しては、原発事故とそのような体調不良との因果関係は公には証明されておらず、根拠が曖昧なことを声高に叫べば、風評被害で福島産の農作物が売れなくなり、怖くて福島に人が近づかなくなり、福島からの人口流出が止まらなくなり、その経済的な打撃は計り知れない、などという紋切型で批判できるわけだ。そこに語り得ない部分があるとすれば、それは被爆と体調不良の因果関係だろうが、それを埋める手だてとして利用できるのが、その方面の専門家の見解であり、どこかの大学の放射線被爆の研究者などにもっともらしいことを語らせれば、その筋のお墨付きをもらったことになり、何とか自らの主張の体裁を保つことができるわけだ。もちろんそんな見解を語る研究者など信用できないとか、反対意見を述べる別の研究者や、管轄する役所の見解などを持ち出したり、またどうせそいつは左翼仲間だろうとかいう下世話な紋切型で攻撃してくる輩も少なからずいるだろうが、その辺で議論はこう着状態となり、後は泥仕合的な罵り合いに終始したり、わけのわからない訴訟合戦に展開していったりするのかもしれない。そしてそんなことをやっているうちに、人々の興味もその辺で尽きてきて、適当なところを見計らって事態の幕引きとなってしまうのか。そうやって一通り騒いだ後に残されたものは何なのか。とりあえず現状はそのままで、紋切型的な言説を用いて、ああだこうだと因縁をつけた人たちの思惑通りの展開だったかもしれず、彼らが守っているつもりの共同体の権益が守られたわけだ。

 できればそんな予定調和な結末に終わってほしくないか。終わるも何も、興味が尽きてしまえばそこで終わりだ。それ以上は何を語るべくもなく、語る必要もないのではないか。それを人々がどう受け止めるかで、現状のままでかまわないのなら、興味は持続しないだろうし、放っておけばまた方々の原発も稼働し始めて、かつての生活が戻ってきたことを実感できるようになるのではないか。それがつかの間になるのか、長続きするのかはわからないが、そのうちマスコミもオリンピックだ何だのと騒ぎ始め、何か重大なことが起こらない限りは、福島も忘れられてゆくのかもしれず、無論3月11日が来る度に、儀式めいた追悼行為が取り上げられ、その日だけいいわけ程度に報道されるのだろう。たぶん語り得るのはそういうことだ。それ以外は語り得ないだろう。語り得ることはすでに嫌というほど語られていて、それ以上繰り返し語ろうとすれば、もううんざりだという反応しか返ってこず、そこに語ることの限界があるのかもしれず、手に負えない紋切型の膨大な堆積があり、現実がそれらの言葉や映像に埋もれて見えなくなっているのではないか。そしてそれらに付随している、大勢の人たちによって繰り出された恣意的な意図や思惑が、複雑に錯綜し積み重なって、そこに新たな現実を構成していて、そういう現実を見たり感じ取ったりしているわけだから、もはや何を語ろうとしても、すでにそういう現実に心を奪われているわけで、それ以外を語る術などあるわけがないか。たぶんよほど用心深く考えを巡らさないと、簡単に紋切型の罠にはまってしまうのだろうし、そんなふうにして他人と同じようなことを語っていれば、仲間意識や連帯感も生まれるし、その場に集った大勢の人たちで多数派を構成して、良心の呵責など覚えもしないで、気分よくそこから外れた少数派を攻撃できるわけか。


5月11日

 大したことは何も起こらない。そう思っておいた方が良さそうだ。あてが外れて落胆していないと、何かが起こった時に驚けない。そんなはずがないとは思うが、実際はそんなはずなのかもしれず、予言はことごく外れていた方が身のためで、万が一当たった時は、そこで終了の合図なのかもしれない。でも現実に何が終了するというのか。この世界が終了するとは思えないか。求められているのは予言ではないのかもしれない。では何なのか。軽はずみな箴言のたぐいか。箴言の何が軽はずみなのか。何を戒めているのだろうか。たぶんわからない。実際に何が現実を理解する上で障害となっているのだろう。現実とは何なのか。過去は現実ではなく、物語の題材に過ぎない。でもそれが思考の対象となっていることは確かだ。過去の出来事から言説を導き出しているわけだ。そしてその言説の内容も思考の対象となっている。そこで軽はずみな箴言を繰り出してしまいたくなるのも無理はない。待ってましたとばかりにそうなってしまうのだから、浅はかこの上ないが、そういうことをやっている人たちも必死なのだろう。何もないところからそれが起こるわけではなく、そんな現象を誘発する火種があり、どこかの時点でそれが発火すると、たちまち炎上してしまうわけだ。人の琴線に触れる些細な一言が、機会を逃すまいと待ち構えている人たちの心に響き、嬉しくなってしまうわけで、ここぞとばかりに調子に乗って攻撃してくる。それはまるで仕掛ける側の思うつぼな展開で、そういう低水準で罵り合いや嘲り合いをしているうちに、肝心の何かが見失われてしまい、何が肝心なのかもわからなくなってしまう。しかし何が肝心なのだろうか。何も思い浮かばなければ、何も肝心ではなかったのかもしれず、その程度の応酬でかまわなかったのかもしれない。あえて言葉を弄して批判するには及ばないようなことを述べていたいのか。工夫を凝らして語るには及ばないのかもしれず、どんな趣向で語っているのであれ、興味がなければスルーされてしまうのだろう。

 実際に何が見えているのだろうか。何を考えているのか。何も考えていなければ、何も語れないのだろうか。たぶん考えているのだろう。ただそれを思い出すまでにだいぶ時間がかかりそうだ。どうせ思い出せずに終わってしまうのだろう。何が終わるわけでもないが、とりあえず終わったことにしないと、次に進めず、進めなくてもかまわないのかもしれないが、それでは終わったことになってしまうのだろうか。本当に終わりなのか。フィクションの中ではいつでも終わりを迎えているはずで、そういうことにしておかないと示しがつかず、区切りもつかずにいつまでもだらだらと同じことを語ってしまうわけだ。週刊誌の連載漫画などではよくあるパターンだろうか。でも君がそれを狙っているとは思えない。勘違いをしているわけではない。そうは思えないところが勘違いの勘違いたる所以だが、勘違いをしているとしてもかまわないのだろう。その勘違いがあらぬ妄想を抱かせ、それについて何か語っているような気にさせ、それがおもしろければかまわないと思われてしまうのだろう。でもつまらなければどうなるのか。どうもなりはしないだけか。それ以上は何を伝えることもなく、ただ黙るだけか。気がついたら沈黙があたりを支配していて、言葉が出なくなり、何も記せなくなっているだけか。そんな成り行きになることを期待しているわけでもなく、何を予想したいのでも予言したいのでもなく、そこに出来事が起こっているのだろう。すぐにそれは過去に含まれてしまうが、目を背けたくなるような陰惨さは感じられず、なるべく惨い結末は避けようと思い、軽妙な演劇風の筋立てを求めているのかもしれないが、思うようにはいかないのだろうし、極めつけを見るまではそこから退かない人が多い。たとえくだらないものであっても、それを追い求めずにはいられないのだろう。それが身の破滅をもたらしているわけだが、たぶんそうなってみないとわからないこともあり、身の破滅に気づいてみたいのではないか。劇的な生涯を体験してみたいのかもしれず、それを見聞している架空の物語に託しながら、日々のつまらない現実に埋もれている自らを一時忘れていたいのだろう。

 それを浅はかに夢想することが娯楽の要か。そればかりではないだろうが、ありふれたことを思うことが気晴らしになりはしないか。ありふれていなければ困るわけでもないが、思いつくのがありふれていることばかりではそうなるしかない。それでも人は何事もなく平和に暮らしているのであり、そういう成り行きに身をまかせていれば時が経ち、やがて寿命が尽きて死んでしまうのだろう。戦渦の中を逃げまどっている人たちにはわからないことだ。体験している時空が異なっている。人はそれを選べず、成り行きに従いながら生きていくしかないわけか。中にはそこから抜け出そうとして悪あがきの最中の人も大勢いるのではないか。難民キャンプなどはその典型だ。そして平和な地域で平和を享受している人々にとっては、そういう人たちが自分たちの共同体内に入って来られては困るわけで、無理に入ってこようとする人たちを追い返そうとする。そこで立場の異なる人たちのエゴがぶつかり合っているわけだ。国家はどちらの味方なのだろうか。気休め程度に素性のいい難民だけ受け入れ、不満たらたらの住民たちをなだめ、それで共同体の利益を守ろうとしているわけか。でもそれが誰もが求めていた結末に行き着くとは限らず、忘れた頃にとんでもないことが起こるとしても、そんなことはおかまいなしに、誰も気づかないうちに、さらにどうでもいいような事態が進行してしまうのであり、平和が心の荒廃を招き、エゴがたわいのない暴力をもたらし、心の荒んだ人たちが日々の些細な欲望に駆られながら、くだらぬ暴力でその身を滅ぼす事件が社会を覆い、ますますそういう嫌な人たちの天下となるわけか。平和こそが人々の性根を腐らせ、弱者をいじめ、詐欺でだまし、安易な金儲けを助長させるのだろうか。たぶん荒廃の原因が平和だとは認めがたいはずだ。平和ではなく資本主義だと言いたい人もいるのではないか。平和だからこそ誰もが金儲けに勤しめる。もちろん平等な条件で金儲け競争をやらせたら、一握りの勝者とその他大勢の敗者をもたらすわけだが、たぶんそうならないようにしたいのであり、それが階級社会の実現だろうか。持てる上層階級と持たざる下層階級を固定化したいのであり、下層階級から上層階級に這い上がれる者をごくわずかな例外を除いて制限したいのだろう。そうやって競争にともなう争いを鎮めて、できるだけ長く平和な状態を保ち続けたいのではないか。


5月10日

 とらえどころがない。人は様々な境遇にあるので、一概には言えないことばかりだ。それでも差別や区別について語ってしまう。ひどい人はひどいまま生きている。何がひどいかといえば、何もかもがかみ合っていない。ひどいままでいられるところが救われない。安易に語るわけにはいかないようだが、安易に語ってしまうのだろう。救われない人たちは救われなくてもかまわない。実際に救われないまま生きている。鼻血が止まらなくなるとは何が原因でそうなるのか。原発事故との因果関係を指摘したいわけか。そういう症状が出たというなら、それでかまわないと思うが、やはり風評被害を理由に文句をつけたい人が出てくる。ここぞとばかりにつぶしにくる人や団体もあるのかもしれないが、やりたければやってみればいいのだろうか。実際に鼻血が止まらなくなったというのだから、そういうことなのではないか。事実は事実として、それを伝えたいのなら伝えた方がいい。もちろん漫画というフィクションの中で描かれていることで、それもどうこう言う筋合いのものでもないのかもしれず、それを読む人が判断することでしかない。実際に読んでそう判断して、その漫画の原作者をリンチしろとけしかけている人も、現実にそういうことが起こったら、罪に問われるのだろうか。そういう圧力でその漫画が連載中止に追い込まれるのなら、そういう世相だと思えばいいのか。漫画を抹殺しようとするほどの、なりふりかまっていられない状況なのだろうか。そんなに必死なのか。過敏に反応しすぎているわけか。まさか深刻な状況を隠しているとかあるのだろうか。どうにもならない状況だから、ちょっと何か不都合な現実が明かされると、デマだ何だと過敏に反応してしまうのだろうか。原発が事故って長年住んでいた土地を追われてしまったのだから、たとえ放射能が原因でなくても、ストレスは相当なものだろうし、体調を崩して鼻血も止まらなくなったりするのではないか。そしてそんな話を聞かされた側も、心理的にそういうのが伝染したりするのかもしれない。立ち入り禁止区域に防護服を着込んで入っただけでも、ヤバいとは思うだろうし、チェルノブイリでそういう事例があったと聞かされれば、そこから遠く離れて暮らしている神経過敏な奥様方にも、鼻血が止まらなくなる症状が伝染したりするのか。腫れ物にふれてほしくないヒステリックな原発推進派の方々には気の毒だが、漫画の原作者がキチガイだ何だのと騒げば騒ぐほど、痛くもない腹を探られているような被害妄想の虜となるわけだ。それとも何かやましいところでもあるのか。やましいところだらけと勘ぐられても仕方がないような騒ぎようなのかもしれない。なにしろ漫画の原作者にリンチを加えたくなるほどのトラウマを抱えているわけだから、ある意味で原発事故はその方面の人たちに相当な精神的なダメージを負わせたことになるのだろう。ならば方々の原発が再稼働し始めたぐらいを見計らって、また南海トラフの大地震でも起これば、もはやそちらの方面の人たちは精神的に立ち直れなくなってしまうだろうか。というかその時が来たら日本終了だろうか。そうなると韓国や中国の人たちがざまあみろで大喜びか。案外安倍ちゃんなども無意識のうちにそういうのを狙っているのかもしれず、そのために再稼働を急いでいるのかもしれない。そうなれば従軍慰安婦も南京虐殺も、もういいやとなったりして、それを期待しているわけか。

 とらえどころがあったのではないか。でもそんな気がするだけで、本当は何も語っていないのかもしれず、天災頼みでは情けない感じがしないでもない。でも実際はそういうことかも知れず、恐竜が絶滅したのも隕石衝突という偶然の天災が原因だとすれば、生物の繁栄など儚いものだと思うしかない。人はそれと気づかないうちに、人知を超えた何かによって影響を被っているとすれば、時として理解不能な行動に及ぶのも仕方のないことかもしれず、そんな何かに操られながら、理性や論理からかけ離れた、わけのわからないことをやってしまうのだろうか。例えば現状では何がそうなのか。わけがわからないように思えるだけで、実際にはただ愚かしいことをやっているに過ぎないのではないか。例えばどう見ても北朝鮮やシリアやナイジェリアの状況が正常だとは到底思えないし、南スーダンやソマリアなども、かなりおかしなことになっているように感じられるが、では日本やアメリカがどうなのかといえば、まだマシな方だといえなくはないが、現実に日本では福島の原発周辺では人が住めなくなっているのだし、他の事故が起こっていない地域の原発周辺でも、巨額の交付金で不必要に立派な建物ばかりが建っていたり、そういう光景を見せられると、何か不自然な感覚を抱くのではないか。それはアメリカのシェール革命が起こっている地域でもいえることかも知れず、採掘現場付近の地域で水道の蛇口から火が出たり、水が飲めなくなって人も家畜も住めなくなったりしている、とかいうドキュメンタリー映像など見せられると、何だかヤバいことが行われているように感じられ、その一方でアメリカの株価が市場最高値を更新して、シェール革命のおかげで景気が良くなったとかいうニュース解説などを読むと、何だかおかしなことになっているような気がするわけだ。たぶん目を背けていられる人はいくらでもそうしていたいのかもしれず、世の中にはそうした矛盾などいくらでもあり、実際に大した不自由もなく暮らしているわけだから、そんなことをいちいち気にしていたらノイローゼになってしまうと主張したいのなら、それでかまわないのかもしれない。福島に行ったら鼻血が止まらなくなったとかいう漫画に過剰な拒否反応を起こす人たちは、いったい何から目を背けようとしているのか。だいたいあの漫画は昔からああいう内容だったはずで、農作物の残留農薬などの時も同じような主張だったし、確か有機栽培が抗生物質漬けの家畜の堆肥を使っているからヤバい、というような主張もあったはずだ。逆に捕鯨問題などの時はその方面の人たちも共感を覚えたはずだが、根は同じで主張は終始一貫しているはずで、それをそこだけ気に入らないから直せといわれても、原作者もふざけるな!と反発したくなるのではないか。


5月9日

 ユーチューブの広告はあからさまだ。例えばFXに関して金儲けのノウハウを伝授したい人がいて、そのハウツー本を買ってほしいそうだ。またその手の広告を出している人の中には、韓国や中国に関する鋭い情勢分析を見せて、そういうニュース解説のような情報を定期購読してほしい人もいるみたいだが、果たして金を払って情報を手に入れたい人がどれほどいるのだろうか。だまされやすい人の名簿なら金を払ってでもほしいか。金儲けにつながる情報なら金を払ってでも手に入れたいか。宝くじの当たり番号教えますとか、金を払ってガセネタをつかまされたいわけでもないのだろうが、たぶんその情報を活かして金儲けできる人と、それを活かせずに金儲けできない人がいて、できる人はやはりほんの一握りに過ぎないのではないか。実際にFX(外国為替取引)で金儲けを勧めている人は、FXはゼロサムゲームだと言っている。他人の損失を自分の利益に結びつけるわけで、その人がこれまでに多額の利益を得てきたということは、それによって大勢の人の損失を招いてきたことになりはしないか。そして今も多くの人たちを金儲けに勧誘しておいて、金儲けのハウツー本を売りさばき、そこから利益を得たいわけだ。そしてハウツー本を買った人たちの中から、またほんの一握りの人が金儲けに成功すれば、その成功談を語らせて羨ましがらせ、それをハウツー本の販売促進に利用するわけか。なるほど金儲けのカラクリがよくできている。では韓国や中国の経済が今にも崩壊寸前だと説いて回っている人には、どんな意図があり、そこから何を引き出したいのか。韓国中国ざまあみろ!と叫びたい人たちの自尊心をくすぐって、そういう人たちが喜ぶような情報を有料で提供することで、そこから利益を得たいわけか。でもその定期購読させる情報の内容が、毎回のように今にも韓国や中国の経済が崩壊しそうだばかりでは、やがて飽きられ、呆れられてしまうだろう。何かもっと建設的な意見や見解が含まれていたりするのだろうか。興味のある人は是非試しに取り寄せてみればいい。

 そういう教祖様に群がる人たちは愚かなのだろうか。端から見れば愚かに見えるが、ひとたび渦中に入れば、群がってこない人たちが愚かに見えるか。たぶん渦中にいる人たちも、端から見ている人たちも、それほど違いはないのかもしれない。教祖様に憧れ、あわよくば自分も教祖様になって、世間から注目を浴びたいのではないか。ひとたびその手の教祖様になれば、マスコミにおだて上げられ、化けの皮がはがれたら叩かれ、何やらそういうことが日常茶飯事のニュースネタとされてしまうのだろうが、何だかそんな現象がひっきりなしに起こっている状況が鬱陶しく感じられ、いちいちそれをおだてたりけなしたりしても、同じような傾向の人たちが次から次へと出てきて、そういう人たちがマッチポンプのように、とっかえひっかえ話題の俎上に載せられているだけで、それぞれの教祖様の違いなどほんのわずかでしかなく、誰が教祖様になってもならなくても、世の中がどう変わるわけでもないような気がして、もういいのではないかと思ってしまう。君は世間でもてはやされている教祖様たちの預言を信じられないのか。そもそもそれの何が預言なのか。彼らの言動に共感を覚えられないのだろうか。演技でもかまわないから、たまにはなるほどと相づちを打ったりした方がいいのではないか。安倍ちゃんの日本を取り戻すとかいうキャッチフレーズに心おどらされたりしないか。まさかそういうのを好意的に取り上げる人たちが馬鹿に見えたら、君も左翼のレッテルを貼られてしまうのではないか。差別の対象にされたら困るか。結構そうなった方が愉快な気分になれるのではないか。どうでもいいように思われるよりはいくらかマシだろうか。では君もマルクスに倣って共産党宣言でもしなければならないか。冗談でならそれもありかもしれないが、やはり本気にはなれないところが弱点となっているわけか。たまには弱点を利点と勘違いしてみるのもいい。


5月8日

 考える上で物事をどう捉えたらいいのか。依然として何かをわかりかけているとは思えない。誰が遊牧民であるわけでもないだろう。確かにそういう人たちが実際にいるかもしれないが、隠喩としての遊牧民などが存在したところで、誰からも相手にされないのではないか。でもノマドについて語らざるを得ないのか。ざるを得ないわけではなく、ただ語ればいいわけか。語らざるを得ないのと、ただ語るのとはどう違うのか。語ろうとしている君は偽装された遊牧民なのか。あり得ないことだが、幻影の存在なのかもしれない。その偽のノマドがどうしたというのか。マルクス主義者気取りで世界同時革命を訴えているわけではなさそうだ。ただ何かに逆らっているのかもしれず、逆らい過ぎると定住できなくなってしまうかもしれないが、とりあえず逆らっている気分でいるようだ。他の人たちも巻き込んで、世界に革命の輪を広げようとしているわけか。それは何の革命なのか。何でもなければ革命ではないだろう。何でもないように見せかけなければ、革命など成功しはしないだろう。虚を突かなければならず、それが本当の虚であれば何でもない。詐欺だろうか。偽革命ですらなく、本当に何でもないようで、革命の空手形を乱発しているだけか。誰が乱発しているわけでもなく、ただ革命だと騒いでいるだけか。そんなふうに語っているわけで、革命について語ろうとして、未だ語らず、すでに語れなくなっているのではないか。実際に何も語れず、架空の遊牧民が何を語れるはずもない。たぶん実際に革命を起こそうとしているのではなく、呼びかけるだけにとどめて、他には何もしていないのではないか。やるやる詐欺のたぐいか。それとも何もやろうとしないところが革命なのだろうか。それでは革命とは言えないだろう。平和革命などというものがあるだろうか。今さら非暴力不服従でもないか。何もやらないわけではなく、ただ普通に日常生活を送っているだけか。だからそれは革命ではない。でもイスラム原理主義者のように武装してテロを行っているわけではない。それとこれとはまったく違うが、もはや武装テロが革命には至らず、際限のない暴力の応酬を呼ぶだけだとしたら、それを革命の手段としない方が賢明か。しかしただ日常生活を送っているだけでは革命とはならない。暴動もデモも起こさず、淡々と暮らしているだけでいいのか。逆に騒がない方が不気味だろうか。騒げば体制側の思うつぼで、騒がなくても思うつぼだとしたら、ではいったい何をすればいいのだろう。何もせずに日常生活を送っていればいいのか。その辺がよくわからないところだ。よくわかっているところは、もはや誰も遊牧民ではないということか。ではノマドとは何か。レトリックにもならない空疎な概念だろうか。それについては語らないことが肝心か。なぜ肝心なのか。ノマドという概念について納得のいく見解を示せないからか。その通りだと思う。エグザイルでもバガボンドでもなく、無論ノマドでもないということだろうか。定住しているのに、そこで農業をやっているわけでもなく、朝になればよそへ働きに出かけ、夜になれば寝に帰っているだけか。それが現代のノマドの実態だろうか。だからノマドとは言えないだろう。無理にこじつけるべきではないか。

 中にはノマドを楽しんでいる人もいるのかもしれない。生活のためにそうしているのではなく、娯楽のたぐいでノマドをやっている人もいるのではないか。観光ノマドということか。だからそれはノマドとは言えないはずだ。それに観光も娯楽も生活の一部ではないのか。固定観念にとらわれないのがノマドということかもしれない。右翼とか左翼とか保守とか革新とかの政治信条にこだわらず、上からの押し付けがましい主義主張に反発する姿勢がノマド的態度なのだろうか。でもそれだけでは革命には結びつかないのではないか。却って結びついてはまずいのであって、みんな一緒に一つの目標に向かわないところが、逆に革命にもファシズムにも至らない秘訣か。後はマスコミと一緒に下世話な話題で盛り上がっているふうを装えば、人畜無害で押し通せるだろうか。もはや集団ヒステリーの時代ではないのだろう。国家や官僚機構が機能不全を起こしながら、自然と溶けていくような雰囲気を醸し出したいのか。本当にそうなるのだろうか。どうやればそうなるのか。だからみんなノマドになればいいということか。その辺が説明としては意味不明だろうか。説明になっていないだけで、その気もないのにノマドという言葉で何か言った気になっている。ごまかしのたぐいだろうか。たぶんそうやってごまかしているところがノマドな気分ということか。何だか呆れてものも言えなくなってくるようだが、いい加減なことを言うだけ言って、それでお茶を濁して、後はどこかへおさらばしたいのかもしれず、それもノマド特有のやり方と見なしてかまわないか。要するに周囲を煙に巻くということだろうか。そうやって政治的に真面目になってはいけないわけで、常に命がけからほど遠い場所へと退避していれば、何とかそこからの逃走線を確保できるということか。しかし本当に逃げ切れるだろうか。いつもノマドな気分に浸っていれば、苦もなく逃走できるわけか。そのときになってみなければわからないだろう。空疎なままでいるにも日々の鍛錬が欠かせないとすれば、その境地に至れる人も限られてくるのではないか。その時がくれば、心が空っぽの状態に耐えきれずに、ついつい中身の充実を求めてしまう人も続出してしまうだろうか。何かのアンチテーゼを示しているのではなく、積極的に空疎な気分を求めるべきだと主張するのも、何かおかしい感じがして、やはりその辺で微妙に勘違いしてしまう人も出てくるのも承知で述べていることかもしれず、わかりづらいといえばわかりづらい観念かもしれないが、国家が資本とともに抱かせようとしている幸福感こそが、空疎そのものだと主張しても、俄には信じがたいのだろうし、そこで微妙にずれている何かを何かとしか言えないところも、抽象的で説得力に欠ける言い回しとなっているのだろう。だからたぶん別に納得しなくてもわからなくてもかまわないことを述べているのではないか。信じられないのなら信じなくても結構であり、逆に信用されては困るようなことを語っているのであり、そんなものだと心の片隅にとめておけばいいようなことでしかなく、それだけでは何の効力も効用もありはせず、却って真に受けたら害を及ぼすようなことかもしれない。それがノマドという言葉が意味していることか。存在意義も価値もないのに、時としてそういう言葉を使って、何かを語らなければならないようだ。


5月7日

 何を心配しているのか。警戒を解いたわけでもない。警戒されていたのはそんなことではなさそうだ。溜飲を下げたわけでもない。では何なのだろうか。いつも通りの話の展開に胸を撫で下ろしているのだろうか。でも安心するのはまだ早そうで、これからが気の抜けないところか。どうせそんな言葉では収まりがつかないのだろう。痛い目に遭わないとわからないのはいつものことだ。そして痛い目に遭ってからではもう遅いのか。遅すぎても取り返しがつかなくなってからでもかまわない。気づいてみたら大したことではなかったのかもしれず、骨折り損のくたびれもうけどころか、損害を被っている感覚すら抱けないのかもしれない。何も覚えていないわけか。何に晒されているわけでもない。砂漠の乾いた風を顔に受けてよろけ、砂混じりの背中が妙にかゆくなっていることに気づいたのか。そんな作り話はもうごめんか。ありもしない砂丘のてっぺんから見渡す限り砂が広がっている眺めを堪能し、たとえそれが自分の両眼でなくても、そんな架空の気分を味わうことができるだろうか。空想しているだけのようだ。君ではない誰かが思い描いている。行ったこともない場所にそんな光景が広がっているのだろう。それが幻影であることも承知していて、別に行ってみたいわけでもなく、ただ言葉と幻影を縫合して、何かそれらしい文章を記している。そんな現状に飽き足らなければ、全面的にフィクションにすればいいわけか。その気もないのにそれはない。今のところはそうなってしまう。単純な気分にしかなれないようだ。相変わらず何かを肯定したり否定したりする。それ以上の判断はあり得ず、すべてを肯定する心境にはほど遠く、ニーチェやドゥルーズのようなわけにはいかない。なぜ無理をして言葉と概念をこねくり回しているように見えるほど、そうしなければならなかったのか。当時はそういうのが流行っていたということか。でもいくら言葉を弄しても、そこに新しい概念をいくら積み上げても、読む気にならなければただの意味不明か。謎のままでも結構なのだろう。読まれないままいつまでも書店でたなざらし状態なのだろうか。中には読める人もいて、難解な書物を読んで楽しんでいるのかもしれない。

 惑わされているのだろうか。素直に戸惑っているわけだ。それではただの馬鹿正直なのではないか。でもそれ以外の態度はあり得ない。人の心などあてにできず、誰がそれをあてにしているわけでもなく、メディアがそれを操作しようとしているだけか。メディア自体も大衆の最大公約数的な意見に配慮しつつも、それを自らに引き込みたいわけだ。徐々にこちら側に引き寄せ、それらを我が物として、それを利用して収益を上げたいわけなのか。馬鹿で従順なほどありがたいのかもしれない。でも大衆は本当に馬鹿なのか。最大公約数的な意見がそうなってほしいだけか。そうなってほしいから堕落させたいのか。何が堕落するというのだろうか。当てが外れるということもあるのではないか。ならば目算が狂ってどうかしてしまうわけか。正論を述べているつもりが、それが災いしておかしくなっていってしまうのだろうか。そうなればおもしろいか。ならなければどうなるというのか。どこから災いがもたらされるかわからないだけか。でもそうなるのが定めならそれでもかまわないのではないか。定期的かつ忘れた頃に災禍がもたらされ、そこで何かがリセットされなければならないのだろう。地震によって多大な被害がもたらされ、原発推進政策が一時的に止まっただけでも、不幸中の幸いだったように、今度は右翼の人たちに踊ってもらい、もっと大掛かりな人災を引き起こしてもらって、そこで何かが明らかになった方がいいのかもしれず、その何かとは明らかになった時にわかる何かなのだろうが、それが何だかわからないままでも、一向にかまわない何かなのかもしれないが、たぶん人々はその時が訪れるのを無意識のうちに期待しているはずで、楽しみは後にとっておいた方がいいのかもしれない。でも実際には何も起こらないのかもしれず、期待はいつも裏切られ、期待していたことをいったん忘れてもらわないと、なかなかその時は訪れないのかもしれないが、その期待が無意識のうちに為されている場合でも、そうなってしまうのだろうか。いったい君たちは何を期待しているのか。中国が沖合の岩礁を奪還するために軍事行動を起こしたりするわけか。あれは岩礁ではなく島であり、韓国が独島と呼んでいる竹島とあまり違わない大きさか。岩礁というのは例えば沖ノ鳥島のようなものを指すのではないか。岩礁を島に見立てる工事中の事故で作業員が数人死んだらしいが、そうやって自国の領土や領海を隣国同士が主張し合い、その気になっている人たちが死守しようとしているわけだ。

 そういえば中国共産党の法輪功信者への弾圧や、人権蹂躙や臓器狩りの疑惑はどうなったのか。何でも強制収容所に入れられ、そこで生きたまま腹を裂かれて臓器を抜き取られて殺され、それが臓器移植に使われているとネット上で噂になっていたが、スペインかどこかの裁判所が集団殺害の容疑で江沢民などに逮捕状を出しているそうだが、中国の国外へ出たら捕まったりするのだろうか。確かセルビアの将軍が同じような罪状で捕まったようだが、その時はセルビア国内だったかもしれない。ミロシェヴィッチという名の大統領と軍の司令官とサッカー選手がいるらしく、検索してもどれがどれだかこんがらがってくるが、ともかく大統領はもう死んでいるみたいで、司令官はどこかの刑務所に収監されているようだ。いつの時代でもそういうことが行われる条件さえ整えば、惨劇が繰り返されてしまうのだろうか。そういった大義が叫ばれ、人々も賛同してしまうのだろうし、民族浄化とかいう美学に踊らされてしまうのだろうが、実態は富を奪うために行われていることで、国家による暴力的な収奪行為でしかないのだろう。例えばそれは、中国政府が地下資源と領土保全目当てで、チベットやウイグルに漢人を送り込んで実効支配しようとしたり、明治時代の日本でも北海道に屯田兵を送り込んで、アイヌ人たちから土地と資源を奪ったり、イギリス政府がオーストラリアに囚人を送り込んで、先住民を追い立て皆殺しにしたりしたわけで、かつて南北アメリカ大陸でも何が行われたかは周知の通りか。


5月6日

 誰かがろうそくの炎に手をかざして未来を占っている。1999年がいつの間にか2001年の911にすり替わっている。ノストラダムスの大予言の解釈が変わったらしい。何かが起こった後から、それを強引にノストラダムスの大予言に結びつけてしまう。予言が未来ではなく過去の出来事を説明するために用いられているとしたら、それは本末転倒だろうか。そうなってしまった時点で興味のない話か。何がインチキなのでもなく、人々がそれを求めているのだろう。人類にとって何か重大な出来事が起こる直前には、コインの裏か表かが出る確率が50パーセントではなくなるらしく、実際に911テロの四時間前にそうなったそうだ。では例えば年がら年中サイコロでも振っていれば、ある日突然出る目の確率が6分の1ではなくなる時が来て、事前に何かを察知することができるだろうか。数年前の大津波が起こった地震の直前はどうだったのか。人間の隠された能力は何に結びついているのだろうか。あてにならない能力なのかもしれず、そんな不確かなものをあてにしても、気休めにもなりそうにない。あてにする以前にまだ能力が十分に引き出されていないのではないか。それは超能力のたぐいか。漫画の中では十二分に発揮されるのだろうが、現実の世界ではスプーン曲げ程度のことしかできない。宙に浮くことさえ叶わず、それだけでは何の役にも立たないか。結局そんなものはないということだろうか。あるいはまだその手の人たちの修行が足りないのか。なかなか修行の成果がメディア上でお目にかかる機会が訪れないのかもしれず、人知れず今も山奥にでもこもって、修行をしながら仙人のような生活を送っている人がいるのだろうか。その手のギャグならテレビで見飽きているはずだが、本物にお目にかかったことがなく、フィクションの世界にしか本物がいないというのであれば、それで我慢するしかないのだろうか。要するに本物こそが幻影ということか。そんな空想の産物に思い入れがあるわけでもなく、また想像上の翼を羽ばたかせ、意識がどこか遠くへと旅立っていってしまいそうだ。誰がそうなのだろうか。意味のないことかもしれず、実際に何をやっているのでもないのだろう。ただ空想している。誰が空想しているのでもない。

 無頼を気取って早死にしても、人々に幻想を抱かせるだけのようだ。そこに何か隠された能力が働いているわけか。放浪し続ける運命の下に生まれたわけでもなく、どこかに引きこもって何かをやっているだけだろうか。昔の人は紙に文字を記して、それを破り捨て、また書き、さらにそれも破り捨て、そんな紙を浪費する行為に何かを託していたらしいが、悪魔に魅入られると何か錯覚してしまうらしく、無頼を気取る人にそれが顕著に顕われ、魅入られた人はみな、そのことを紙に記しているそうだ。破り捨てた紙片をゴミ箱ごとかっぱらってきて、丁寧につなぎ合わせてみると、そこにはあっと驚く内容が記されていたらしい。

 それは作り話のたぐいだろうか。なかなかその手の話にのめり込めないようで、さっさと切り上げて別の話に興味が移ってしまうわけでもないが、嘘でもついているように装い、内心ではそれの何が嘘でもないようにも思い込み、結局しどろもどろになって、話の途中に無関係な別の話を接ぎ木したくなってくるようだ。気持ちにぶれが生じているわけか。何かはいつでも破壊される運命にあり、構築されようとしているものは、途中で解体される運命にもあるわけだ。間違ってもそれが脱構築にも行きはしない。そんな高級な動作は似合わないし、許されない状況なのかもしれず、みるみるうちに煤ぼけてきて、そのくすんだ色からは往時の輝きなど見る影もなく、記憶の風化作用に晒され、興味の持続を保てないようだ。何が輝いていたわけではないのかもしれず、金属的な輝きを何にたとえても合わないようにも感じられ、もはや断念するしかないのだろうが、断念しそうになっている当の話をどこで蒸し返す気も起こらないか。どうせ忘れた頃に蒸し返すのだろう。

 一連の護憲発言などから推測すると、たぶん天皇一家は左翼なのだろう。それとも父と長男が左翼で次男は右翼か。右翼というか保守派なのではないか。だからその方面の人たちは、次男とその息子に期待しているのかもしれない。将来は次男の息子に天皇になってもらい、国家も天皇家も保守派で固めたいのかもしれない。現状は違うのだろうか。昭和天皇の時代は少なくともそうだったのではないか。今は違うわけか。天皇一家が左翼だろうと右翼だろうと、君には関係のないことか。でも右翼が信奉している天皇が左翼じゃいくらなんでもまずいのではないか。でも護憲発言をしたら左翼のレッテルを貼られる現状がそもそもおかしいのかもしれない。そういうトンデモな人たちの発言力が日増しに強まっているご時世なわけか。


5月5日

 苦労して遠回りしながら、やっと気がついたのはそんなことだ。別に退屈な現状に飽き飽きしていたわけではない。遠い記憶が呼び覚まされ、まだ忘れていなかったことに驚き、それを足がかりにして、その先へと歩を進める。相変わらずそこには何か秘密が隠されていると思い込み、それを探って世界の果てまでやってきたわけだ。フィクションの都合上でそういう成り行きになっているようだが、君はそこで何を見つけたのか。見つかるはずもないものを見つけたわけではなく、そこに落ちていたものを拾い上げただけか。苦労して見つけたわけではない。一応はそれも発見には違いないが、たわいないものだ。石ころか何かだろか。それを発見とは言わないだろう。地球が丸いことにでも気づいたのか。地球上で起こったことではないのかもしれない。どこかの惑星まで出かけていって見つけたわけか。そんなSF映画でも見ていたのかもしれない。記憶が定かでなかったのはそこまでで、そこから先はよく覚えているのかもしれない。腹部が損傷している宇宙人の遺骸でも発見したのなら、それは映画の『エイリアン』だったはずだ。それをテレビで見ていたのかもしれない。あるいはそれのパロディを四コマ漫画か何かで見かけたのか。ひたすら遠回りしているような感じがしたのは、それとは別の機会だったかもしれない。君はそこで誰と出会っていたのだろうか。相手の顔までは思い出せず、名前も覚えていないような誰かと会っていたのか。でも気になっているのはそんなことではないはずだ。語っているうちに、何を語ろうとしていたのかわからなくなり、記してきた文章を読み返してみるが、どうもはっきりしないようだ。語らなくてもいいことまで語ってしまい、その余分な何かが、語ろうとしていたことを語るのを阻んでいるようだ。君は見せかけの何かにこだわりすぎて、肝心な何かを見失っているのだろうか。でも見失っているそれが何かではわからない。何を見失っているのか。その問いでようやく何かを探していたことに気づき、また秘密の何かを見つけようとするわけか。やはりそれでは遠回りの繰り返しだ。何かの核心部には近づかずに、ひたすら迂回し続けるのはおかしい。そうやってわざと何かとの出会いを避けているのかもしれず、何かのはずみで不意に出会ってしまうことを恐れているのだろうか。

 避けていても思いがけずに出会ってしまうことはあるだろう。そのときそれが何だかわかるわけか。そんな避けたくても避けようのない成り行きから逃れるために、ひたすら遠回りしながら道草を食っているわけなのか。避けようがないのにそれを回避しようとしているのだから、愚かにも程があるだろうか。でも本当に避けようのないことなのだろうか。いったい何を避けようとしているのか。例えば自らの死は避けようがないだろう。意識していようと無意識のうちだろうと、自らの死を避けようとしているのは、自死しようとしている人以外にとっては共通の願望だろうか。でもそれが自らの死であるとは限らない。死はありふれていて、誰のもとにも到来し、誰の死であってもかまわず、死でなくてもかまわないはずだ。死でなければ何なのか。死ではない何かか。死以外に避けられない運命があるだろうか。それは避けられない何かに遭遇した時にわかることか。そうやってわかってしまう事態を回避しようとしているわけだ。遭遇してみないうちはわからなくてもかまわないと思っている。遭遇しないうちからわかってしまえば、なおのこと回避しようとするのではないか。それが悲惨な境遇をもたらすようなことであれば、回避しようとするのは当然の行為か。そんなわけで君は未だわからない何かを避けようとして、ひたすら回り道をしながら、途中で立ち止まり、なぜそれが回り道なのか自らに問うてみるが、そんなことがわかるわけがなく、なぜ回り道だと思うのかも明確な根拠もないようで、ただ何となく回り道をしているような感じがするだけで、それが罠だと思ってしまうと疑心暗鬼になるから、とりあえず理由は定かでないが、回り道をしていると思い込み、そう自らに言い聞かせながら歩を進めている最中なのか。そんなはずがないといえばそうなってしまうだろう。君にとっては、そんなはずがあってもなくてもどちらでもかまわないわけだ。わけもなくそう断言したくなるが、たぶんわけを知りたいわけではなく、わけを知り得ないうちにそこから遠ざかりたいのかもしれない。避けようがなく何かに出会ってしまう場所から遠ざかろうとしているわけだ。わけを知ってしまったら、遠ざかれなくなってしまいそうで、二度と回り道もできなくなって、そこへ向かって一直線に進み、その場所で何かやらなければならなくなるわけか。いったいそこで何をやるのだろう。例えばいきなり見知らぬ誰かと対決したりするわけか。そして敗れ去って、取り返しのつかない悲惨な境遇に陥ってしまうわけか。いくらそんなことを想像してみても、実際にそうなってみなければわからないだろう。別にそうなることを期待しているわけでもなく、とにかく平穏無事に済んでくれればいいとしか思えない。要するに回り道とは、そうなるのを避けるためにやっていることなのか。


5月4日

 ネットセキュリティがどうのこうのとなると、端末の側よりもサーバ側の方が事態は深刻なのだろうか。システム開発者や管理者の問題だから、いくら事態の深刻さ具合を説明されても、素人にはどうにもできない問題だ。ただより高いものはないというが、金を払っているのだからなんとかしろ、と開発者や管理者に文句を言えるだけ、有料の方が気休めにはなるだろうが、開発が終了してしまっていて、アップデートができないものは、どうしようもないのかもしれない。代替があるとしても、それを導入して、新たに一からシステムを構築するのに時間がかかってしまうわけか。その辺は素人だからよくわからない。仕事をやめて暇になったので、十数年ぶりにほったらかしにしていたJavaのプログラミングを何とかしようとしているのだが、まともになるまでにはだいぶ時間がかかりそうだ。ネット上に公開されている他人のソースファイルをパクって、それをあれこれ変更して見栄えを良くしたいのだが、もともと誰に習ったわけでもなく、プログラミングの基礎もまったくできていないので、見よう見まねでやっているに過ぎず、うまくいかずにまた途中で放棄してしまうかも知れない。趣味の範囲内でやっていることだから、それでもかまわないか。それにしても、もはやブラウザでjavaを見るような時代ではないらしく、MacBookではセキュリティがどうのこうの表示が出て、デフォルトでは表示できないようだし、今回はうまくいったとしてもソースファイルの公開だけにとどめておこう。JavaScriptの方はブラウザの設定をいじらない限りは表示できるようだが、まだIEには一定のファイル容量を超えると表示できなくなるバグが残っているのだろうか。Windowsをほとんど使わなくなってからだいぶ経っていて、今さら確かめる気も起こらず、それもそのままほったらかしとなってしまいそうだ。今回はMacBookにJDKの他にRubyも入れてみたので、対応しているらしいレンタルサーバ側から操作できる何かを作ってみたいところだが、果たしてそこまでいけるかどうかはわからない。

 しかし知るべき情報とは何なのか。知らなくてもいい情報が知るべき情報なのだろうか。あるいは知るべき情報が多すぎて、知りきれないような気がしているだけか。何やら著名な経済評論家らしい人が、ユーチューブで韓国の社会状況がいかにヤバいか語っていたが、やはりそれが知るべき情報なのだろうか。要するに韓国はアメリカの属州の一つとなってしまったわけで、社会が荒廃して犯罪だらけで、住むのが嫌になったら、どこか他の地域へ移住すれば、そのうち人口も減って、過度な競争もなくなり、アメリカの片田舎のようなのんびりした地域になるのではないか。たぶん今がその過渡期なのだろう。TPPなどでだいぶ譲歩を迫られたらしいから、このままいけばいずれ日本もそうなってしまうわけか。とりあえずアメリカナイズにも地域差があり、何もかもがそうなるとはいえないだろうが、結構アメリカの片田舎のような寂れた雰囲気が好きな人もいるのではないか。アメリカの周辺国のカナダやメキシコなども、成功したい人たちはみんなアメリカへと向かい、同じような傾向になっているのかもしれない。日本でもプロ野球選手などはそんな感じなのだろう。韓国人などは生まれた時から何もかもが競争人生なのだろうから、世界のどこへ行ってもたくましく生きてゆけるのではないか。どうせコリアンコミュニティでもつくって、一致団結してその地域での経済的な成功を目指すのだろう。それは華僑と似たような傾向かも知れず、昔から隣りの中華文明に直接晒されてきたのだろうから、その辺の要領はよくわかっているのだろう。そういう点で、たぶん日本人はふざけた連中の集まりなので、韓国人のようなわけにはいかないように思われ、アメリカもその点を警戒しているのかもしれず、人々が構成する無意識の思惑が、アメリカの意図からずれているような気がするわけで、もしかしたらユーチューブで語っていた経済評論家の認識とも、ちょっとずれているのかもしれない。もちろんそれは憲法第九条を守りたい人たちともずれていて、それらの人たちが批判しようと思えばいくらでも批判できるような状況を作り上げているのだろうが、右からも左からも外国からも、いくら批判されても、批判している国や人たちの思い通りにはならないところに、何らかの力が生じているわけで、たぶんそれは肯定されるような力ではないのかもしれないが、なかなか無化できないような力なのではないか。それはしばしば無責任体系を生んでいると非難されているようなものなのだが、やはりそこで開き直ってそれを肯定してはまずいのかもしれず、肯定も否定もできないどっちつかずの態度を、いかに保ち継続させるかが試されているのだろうが、しかしその保ち継続させている現状を、全面的に肯定してはいけないわけで、西田哲学のように無の論理となってはまずいのだろう。その辺のわかりづらさで持っているのが日本の現状だろうか。


5月3日

 何か大変なことが起こっているわけではない。少なくとも実態としてはそうではない。それは寓話のたぐいだろうか。何が安全で何が危険かなどと誰に説いているわけではなく、危険で脆弱なものをどうしても使いたいわけだ。それで何だかんだ理由をつけてそれを使うように仕向けている。それだけではないのか。実際に大半の人はそういうものを使うしかない。別にそれが不条理なわけではなく、使うのをやめられない事情があるのであり、その事情を知る必要もないわけだ。だから与えられたものを使っているだけで、それで間に合っているのだから、他をわざわざ探す手間をかけるほどの切実さはない。そんな連中に何を警告しても無駄だ。一応警告しておいたから、使う時は気をつけて使ってください、という程度のことなのかもしれない。そしてすでに事態は収束に向かっていて、アップデートすればもう大丈夫だとアナウンスされているのではないか。どうせまた忘れた頃にそれの危険性が明らかとなり、性懲りもなく警告が発せられるのかもしれないが、それでも使わせたいことに変わりはなく、実際に多くの人たちが相変わらず使い続けているのではないか。そんなことが繰り返されていくうちに、たぶんあるとき気がついてみれば、そんなものを使わなくても済んでしまう時代が到来していたりするわけか。人が変われば使っているものも変わり、そうなればPCなど使う必要がなくなってしまうのかもしれない。例えばネット端末がグーグルのアンドロイドOSばかりとなれば、OSの中核部分にリナックスが使われているそうだから、最終的にはリナックスの勝ちとなるわけか。OSがオープンソースでただになりつつあるのだから、勝ち負けなど意味がなくなってしまうだけか。それに今回の件はPCやOSの問題ではなく、ネット閲覧ソフトの問題か。でもそれの何が寓話なのか。人々に何を諭しているのだろう。別にそれを都合のいいように解釈してほしかったわけではなく、できれば警告を警告として真摯に受け止めてほしかっただけか。無論人々の反応に何を期待していたわけでもないのだろう。

 何が脅かされているわけではない。依然として安泰なものは安泰で、その安泰が覆されうるのだとすれば、その可能性はあらかじめ閉じられている。それを無理にこじ開けようとしなければ安泰のままなのかもしれないが、こじ開ける必要はないのかもしれず、そのまま放置しておいてもかまわないのではないか。安泰だと思わせておいた方がいいのかもしれず、大丈夫だと思わせておかなければ、堕落に拍車がかからないのかもしれない。でも誰を堕落させようとしているのではなく、ただ誰もが堕落している光景を眺めていたいだけか。勤勉になってはいけないのだろう。ネット端末の画面上だけで間に合うようになってほしいわけか。そこに閉じこめられたいのだろうか。そんなはずがなく、人々は行動するだろう。見せ物を観に行く以外に何かあるはずだ。そこにはきっと何かあり、そこへ向かっているわけだ。楽しみや苦しみ以外の何かを求めている。砂漠のオアシスを目指しているわけでもなく、その途中で見出される何を楽しみたいわけでもない。ただ行動することに意義があるのか。それも違うと思われる。誰かに出会い、そこで対話するわけか。それだけではないはずだ。行動するだけではなく、思考したいのではないか。そして何かを作りたいのかもしれない。物の売り買いとは違うところで、何かを見出したいのかもしれず、その何かが何かのままにとどまっているとしても、それを形あるものにしたいのかもしれず、そこに固有名が生じるような結果をもたらしたいのかもしれない。だから思考し行動してそこへたどり着きたいのか。たどり着けなくてもかまわないとも思っていて、何かをやり続けているだけでかまわないのだろう。そしてそれをやめてもかまわないとさえ思っている。執拗にこだわるのは野暮か。ともかくやり続けているのだから、その継続している現象を眺めているわけだ。ただ眺めている。無心でいられるわけがないのだろうが、たまには無心で眺めていたいのかもしれず、楽しみとも苦しみとも悲しみとも関係のない状態で見つめていたいのかもしれない。いったいそこに何がもたらされているのか、冷静に認識したいのだろうか。そしてどうやら寓話とは無関係に、それを閉じてしまう成り行きとなりそうに思われる。そんな何でもない話を空想しているのかもしれない。


5月2日

 乾涸びているようだ。何をやっているとしても戯れ事である限りは大したことはない。でもそれ以外がないとしたら深刻な状況なのだろうか。普通の状態から遠ざかっているのだろう。古い音楽を聴いている。昔もそうだった。日差しがまぶしすぎたのかもしれない。相変わらず外れているようだ。疲れてしまったらしい。説明が長過ぎるのか。地の果てるところに海があり、遠くに島が見えている。どこから逃げ出してきたのか。行くあてがあるとは思えない。行き過ぎている。また通り過ぎてしまったのだろうか。目的地を目指していたわけでもない。歩いていこうとしていたわけでもなく、電車に乗って出かけたはずだった。そこから先が覚えていないのか。また夢の中での出来事というわけでもなさそうだ。失われたものは戻ってこない。それだけのことかもしれず、その辺でその話はやめておいた方がいいのかもしれない。先が長そうだ。どこまで続いているとも思えないが、まただいぶ眠っていたらしい。目が覚めたことに気づいていなかったのかもしれない。それでタイミングがずれて、たどり着けなくなってしまったのか。たぶん夢の続きではない。雑な言葉の並びを眺めている。どう読んだらいいのかわからなくなり、意味がわからない。振り返ればまたいつもの光景が広がっていて、意識がそこへ溶け込んでいく。朦朧としているとも思えない。見えていないのだろう。見えている光景が幻影というわけでもないが、外れているのはどこでもなく、外しているのはだじゃれのたぐいだろうか。まだ間に合うのか。乗り遅れないようにしなければならないが、どうせ乗り遅れてしまうのだろう。中身が固まる時間かもしれない。相変わらず何が問われているわけでもない。幻想の映像に溺れているのだろうか。たどり着けないのだから、そういうやり方はやめるべきだ。語るのが面倒くさくなっているのだろうか。要するに放浪者なのだろう。そらんじているのは詩ではない。決まり文句のたぐいか。

 何が決まっているのだろうか。遠い未来の出来事か。冗談なのだろう。それを説明できなくなっている。また暑くなるのだろうか。季節が移り変わろうとしている。説明が雑すぎたのか。反省している場合ではなく、さっさとやることをやって、急いでそこから離れるとしよう。おかしな設定だったのだろう。何かをつかみかけていたはずだが、寝て起きるともう忘れている。所詮は付け焼きの浅はかな知識であって、身についていたわけではない。必要のないことだったのだろうか。思い出せないのだから、間に合っているということか。何かのテーマだったのだろうが、無関係だったようだ。求めていたのは乾涸びたミイラではなく、現状を説明する知識か。そこに理論があるわけではない。行き当たりばったりで何かを求めていたわけか。でも説明できない。それが結果だったかもしれない。説明しているうちに、何を説明しているのかわからなくなる。そんな説明だったのだろう。それ以上は知識を詰め込めなくなっているのかもしれない。だから頭に入ってこないのか。まだ努力が足りないとは思えない。それも違うのだろう。思い違いかもしれず、やるべきことが山のようにあるのではないか。でも残っているのは何なのか。残りかすだけではないはずか。記憶に残らない記憶とは何か。記憶ではないということかもしれない。でも記憶でなければ何なのか。忘れられた記憶だろうか。しかし失われた文明がどこにあるのだろうか。失われた記憶から連想するとすれば、そんなところだろうか。物と物との交換だけではなく、何もかもが物と見なされなければならず、労働時間も物として、貨幣という物と交換されなければならないということか。物が物でないのだから、それは架空の物だろうか。それは物とは言わないのではないか。では何なのか。物でないとすれば何なのだろうか。架空の物が物であるわけがないということか。だんだんでたらめに近づいているような気もする。そういう屁理屈にもなっていないでたらめでは、何を説明していることにもなりはしない。要するに物では解き明かせない何かがそこにあるのではないか。それでもでたらめな説明に結びつく何かか。

 商品として物を作る際、労働者が物作りに関わっているとすれば、またその物を運んでいる際、労働者が物を運んでいるのだとすれば、またさらにその物を貨幣と交換する際、労働者が交換手続きに関わっているのだとすれば、介在した労働者の賃金分が、必要経費として物の値段に含まれているということか。もちろん売れなければ労働者の賃金分が出ないのだろうが、それの何が理不尽なのだろうか。労働者を労働力商品として物化することがまずいわけなのか。たぶん何が矛盾しているわけでもなく、当たり前のことが当たり前のように行われているに過ぎず、別に胡散臭い宗教にはまっているわけではない。でもその物の値段には材料費や開発費や賃金などの必要経費以外に利益が含まれているわけで、その利益がどこから来ているかが問題とされるわけか。そして果たして普通に働けば普通に暮らしていけるだけの賃金が労働者に支払われているかも問題となっているわけか。ともかくなるべく必要経費を抑えて利益を出さなければならず、無論売れなければ利益が出ないわけで、商品が売れてなおかつ莫大な利益が出ているとすれば、その利益とは何なのだろうか。あまりこういうことは考えたくないのだが、結局それって、消費者をだまして、商品を不当に高い価格で売りさばいていることになりはしないか。たぶんそういう合法的な詐欺行為によって資本主義経済は成り立っているのであり、金持ちが値段の高いブランド品を買い漁っていたり、高級車を乗り回して豪遊しているところを見かけたら、こいつらみんな詐欺師だと見なしておいた方がいいのだろうか。それとも詐欺も付加価値の高い労働のたぐいなのであり、まかり間違えば事業に失敗して破産したり、本物の詐欺罪とかで警察に捕まってしまったり、無理が祟って体を壊して死にかけたりするのだから、それなりにリスクを負って金儲けに成功したわけで、金持ちにしてみれば合法的にやっている限りは文句を言われる筋合いはないのだろう。


5月1日

 強いて何を取り上げようとしているわけでもなく、また同じようなことを語ってしまう。しかし何だろうか。理論も方法もなく、ただ闇雲に語ろうとしている。だめなことはわかりきっているのに、それを承知でやってしまうのか。それでも需要があり供給が待たれているのだろう。記された文章にもそれになりに工夫が凝らされている。語ろうとすれば自己満足にしかならないが、気休め程度の何かをつかみかけ、必死に食らいついていこうとしているわけか。だがそれが何を意味するわけでもなく、寂れた何かを期待しているわけだ。うらぶれている。ことさらに語るわけにはいかないらしい。そういうものだと思っておけばいいのか。思いつくまま言葉を記しているわけではなく、何も思いついていないのかもしれず、ごまかしがきかないらしい。求められているのは情報ではない。偶然の巡り合わせだろうか。その程度で済んでしまえば運が良い方か。外からリズムがもたらされている。音楽を聴いているだけだろう。こだわるべきではないのかもしれない。ことさら何にこだわるべきなのか。

 現実には何もないのに、映画の中では戯れに銀行強盗が演じられ、リアリティを抱けない人がそれを批判している。そのお粗末な演劇は人形劇のたぐいだろうか。別の場面ではアニメーションのようだが、それも戯れに違いない。語るべき立場にないのだろう。語る必要のないことを語っているわけだ。それほどに何もない。同じことの繰り返しだ。執拗に繰り返されているらしい。ことさらに批判するようなことではないのだろう。そんなことはどうでもいいとは思わないが、やはり以前と同じようなことを語っている現状の範囲内で、同じような音楽を聴きながら、見てもいない映画について語ろうとしてしまう。雲間から時折陽の光が射してくる。魅力を感じられないわけか。不意に見渡す限りの荒野の風景が思い出されるが、たぶんそこに何があるわけでもないのだろう。エリア51がどうかしたのだろうか。道路沿いに土産物店があり、観光客向けに週末だけ営業しているようだ。調べればその手の情報ばかりだ。俳優たちが演じる演劇がそのまま映画になっても、そこに何があるわけでもなく、すべては子供騙しのたぐいなのだろうか。すべてではないのだろうが、よほど工夫を凝らさなければ、得るものは何もないのかもしれず、すでにそういう演劇的な表現形態の限界が見えていて、可能性の何もかもが出尽くしていて、その末路も見通せるような状況となっているわけか。でもそれらとは無関係な君にその末路を語る資格があるとは思えない。偉そうに終わりを宣言するには、足りないものが多すぎるか。

 たぶんその手の終了宣言をするのが巷で流行っているから、それに影響を受けて、そんな思いになってしまうのではないか。その方面の人たちにしてみれば、何とか早く韓国が終了してほしいのかもしれないが、来年の今頃になっても、まだ韓国終了ざまあみろ的なことが流行っているとしたら、年がら年中そればかりということになりそうだ。そんなことを言っているうちにも日本も終了してしまうのだろうか。たぶん何が終了しているわけでもなく、その手のざまあみろ野郎たちの、何かが終わったと執拗に叫ばずにはいられない荒廃した心理状態の蔓延が、ある意味で今の日本の他人を思いやる心の欠如した悲惨な現状を如実に物語っているのかも知れない。これも資本主義が社会の隅々にまで蔓延って、そこに暮らしている人たちが、心に余裕がなくなり、功利的な金儲け以外は何も肯定できなくなったことの表れか。もはや世界的にそうなのかもしれない。まさに世も末だろうか。だからその世も末と思ってしまうのも、その手の終了宣言流行りから影響を受けているわけだ。たぶん誰もがそうだというわけではなく、一部のソーシャルメディアやネット上の掲示板が、ざまあみろ野郎たちの自己主張の場と化しているだけなのかもしれず、そこだけ見ていればそんなふうに思えてしまうのであり、そんな状況に呆れている人たちは、それらのざまあみろ野郎に反論する気も起こらず、ただ黙って見ているだけだから、あたかもネット上がざまあみろ野郎たちの発言で埋め尽くされているように感じられるだけか。それは「悪貨は良貨を駆逐する」ということわざを思い起こさせるが、たぶん呆れている人たちに状況を覆す力はないだろう。別に無理に覆さなくてもかまわないのだ。ざまあみろ野郎たちの天下でかまわない。語りたいことがあれば、ネットの片隅で静かにつぶやいていればそれでかまわないのではないか。何の天下であろうとなかろうと、同調したくなければそれでかまわないのかもしれず、救いなど求める必要はないのだろう。「ヨハネの黙示録」のように、ざまあみろ野郎たちに天罰が下るなどと預言してはならない。天罰など下らなくてもかまわず、できる範囲内で好きにしてもらえばいいのだろう。かつてざまあみろ野郎たちの口車に乗ってひどい目にあった記憶も薄れてきたのだろうから、口車に乗る人が多くなれば、また同じようなことが繰り返されるだけで、そうなればそれが一段落つくまでは、黙っていた方がいいのかもしれず、新たな戦後が来るまでは、矢面に立たされないように逃げ隠れしていた方がいいのだろうし、せいぜい無駄死にしないように矛を収めて、正義漢を気取って立ち向かうような真似は控えた方がいいのだろう。


4月30日

 目を覚ませば誰かが毎度おなじみのありふれたことを語っているようだ。何が連動してそうなってしまうのか知らないが、オレンジジュースにもアレルギー反応があるのだろうか。身体が何と対立しているとしても、その抵抗の形態にとらわれ、そこから何らかの症状が出ているとすれば、それが生きている実感をもたらしているわけか。何かと対立しているのがわかっただけでもマシな方で、それがせめてもの救いか。たぶんフィクションの登場人物たちは、互いに対立しつつもそれと同じような考えを持っていることに気づかない。そこで抗争している誰も彼もが揃いも揃って、世界の秩序を打ち破って新たな秩序を打ち立てる、という妄想にとらわれているわけか。安易な発想だが、それを実行するだけの力を誰が持ち合わせているわけでもない。理想とされるあるべき秩序などあり得ず、進化論的な物語が信じられているにすぎず、例えばそれはエイリアンの物語であり、ゾンビの物語なのかもしれない。なぜそれが進化論と結びついているのか不明だが、話の進展に沿って、否応なく戦う仕掛けが整えられていき、あとは当初の筋書き通りに戦って決着をつければいいだけだ。戦いそのものが何かのメタファーというわけでもないだろう。とらえどころのない何かが暗示されているわけでもなく、ただありのままの現象を読み解けば、それが物語の真っ当な解釈につながるのだろう。そしてそうやって理解したついでに落胆すればいいのだろうか。現実ではないのだから、落胆するには及ばず、そのような予定調和的な結末を無理に嘲笑することもない。そう解釈するのが自然の流れなのだから、黙って眺めていればいいのだろう。しかしそれらはいったい何について語っているのか。誰かが思い描いたとりとめのない夢の中身がそれなのか。そうであるとすればわざと話をこじらせる必要もなく、ごく真っ当にそれらに接して、理解したつもりになればいいわけだ。現実はそうではないのだろう。話の代わりに天気がこじれている。それとこれとは関係ないのかもしれないが、わざと話を込み入らせて、誰を煙に巻きたいわけでもなく、実際に語りそこなって、話の収拾がつかなくなっているのだろうか。部屋の中では何がとっちらかっているのか。転機が訪れているのかもしれず、それ以上詳しく語るのを放棄して、何とか自らの力不足をごまかしたいようだ。要するにいくら詳しく語ってみても、それらについては語りきれないということか。実際に君がそう思っているのかもしれない。夢の中では何かをつかみかけている気でいたのに、現実には相変わらずの虚無と戯れているだけで、得体の知れぬ何かをつかんでいる気になって、それがこれかと思ってみるが、これが何だかわからないのも毎度のことで、いくら語りたくても、これについてはこれ以上は語りようがないわけだ。語りようがないのに語ろうとしているわけで、もはやこれについて語る立場ではないのかもしれず、要するにこれはこれではなく、他でもそれでもないらしい。それでも何なのかと問うならば、これは語りそのものなのだろう。もうその時点で答えが出ているのにも関わらず、執拗に蛇足を付け足しているのであり、語らなければならないことなど何もなく、すでにすべてを語ってしまっているのに、さらに問い続けているわけだ。そのすべてがこれなのだろうか。いい加減に夢から覚めた方がいいみたいだ。現実を直視して行動に出なければ、目を覚ますタイミングを失い、ひたすら夢の中でつぶやいているだけとなり、熱にうなされ、うわごとのように誰かの名前を呼び続け、そこで意識が途切れてしまったようで、翌朝目覚めてみれば、昨晩読んでいた書物とは無関係なフィクションについて語ろうとしていて、現に語っている内容に関しては興味が失せてしまったみたいだ。今さら小説でもないのだろうし、どうしても話のつじつまを合わせようとして、また無理な回り道の途中でやりきれなくなって、語りを放棄してしまい、そこでフェードアウトするしかないらしい。


4月29日

 音が気になって眠れなくなる。近所で何かの機械が動作している音を聞きながら、とりとめのないことを考えているようだ。実質的に言論で何が動くわけでもない。言論の自由が保障されているわけだから、大して有効ではないのだろう。ヤバければ禁止されているはずか。ヤバくても禁止されていないものもあるのではないか。何がヤバいか否かは当局の恣意的な判断で為されるようなものだろうか。たとえ言論の自由が保障されていようと、自由にものが言えない社会になっていると感じられることもあるだろう。何が制限されているわけでもないのに、暗黙の了解事項として、正面切って言ってはいけない領域があり、そこにふれてしまうと、社会的な立場によっては危険な目にあってしまったりするわけか。猛烈な非難を浴びたり、殺傷事件に巻き込まれたりするわけか。時と場合にもよるのだろう。普通の一般人にとってはどうということはなく、何を言おうが知ったことではなく、何の影響もないわけか。社会的な影響力のある有名人が、社会の常識やしきたりから外れるようなことを言ってしまうと、それをメディア上で取り上げられたりすると、何やらまずいこととなり、場合によっては仕事を干されたり、社会的な制裁のたぐいを受けたりするわけか。そうなると日頃から何に依存していたかが明らかとなり、そういう人たちの役割があぶり出されてくるのかもしれない。そういう役割に忠実に振る舞うとすれば、差し障りのない言動に終始していなければいけないのだろうし、そこからはみ出て言いたいことを言うには、それなりのリスクを覚悟しなければいけないのだろう。そういう意味で毒舌というのは、いかにそこからはみ出ているように思わせるかが、それの正否がかかっていて、思わせるだけで、実際は人畜無害なことを言っている場合が多いのかもしれず、別に耳の痛いことを言っているわけではなく、要するに攻撃しても大して文句のでない人を攻撃しているだけで、例えばずさんなことをやっている人をずさんだと言えば、それが毒舌と受け取られて支持を集める傾向にあり、根拠のない悪口ではなく、それなりに言っていることに説得力がともなっているからウケるのだろうし、ずさんなことをやっているのに当人に人気があるから、ずさんだとは言えない雰囲気を逆らって物申したわけで、よくぞ言ってくれたとなるわけだ。それも世に出回っている評論家のたぐいだと見なしておけばいいのだろうか。たぶんそれを超えて物申してしまうと、あいつ最近偉そうになってきたと逆に非難の対象とされ、また逆に大したことのない人ばかり毒舌の対象としてしまうと、今度は飽きられてしまい、その辺のさじ加減が難しいところなのかもしれないが、人気のある人の揚げ足取りだけではない、なるほどと思わせるような話芸を持ち合わせているのだろうし、そこに存在意義が見出されていたりするのだろうか。

 何を語るにしても、天井がなく底が割れていることは確かで、言論の自由に特に制限などありはしないのだろうが、そこに何やら世間の一般常識的な道徳を持ち出して、説教めいたことを語るにしても、どうもぱっとしないというか、憲法で保証されいているということが、何のありがたみも感じられないような状況なのかもしれず、それとは別の次元で何か語らなければ、まともに何を語ったことにもなりはしない。しかしだからといって何も語らなければそのままにとどまり、その辺がうまく言い表せないのだが、毒舌であれ何であれ、何かに異を唱えなければ、何も変わらないと思われてしまうのだろうし、異を唱えたところで大して変わらないのかもしれないが、結果的に変わらないにしろ、嫌な感じがしたら、とにかく異を唱えておくことが肝心だろうか。その程度のことであり、そこからはみ出るようなことはなかなか語れないのかもしれないが、やはりいったん異を唱えたら、今度はそこからはみ出るようなことを語りたくなるわけで、単に異を唱えるだけではなく、そのような行為を脱臼させるようなことを語りたくなってしまうのだろう。要するにはぐらかそうとしているのだろうが、そのはぐらかし具合が愉快な気分を誘うようにはぐらかしたいのであって、何も非難の応酬の泥仕合へと導きたいわけでもないのだろう。異化作用を無化するのではなく、それを何か別の次元へと昇華させたいのかもしれず、その辺の有り様がどう表現されるかが、そこでの課題となってくるのだろうか。現状では難しいのかもしれないが、何とかそういう方向へとそれらの言説を発展させていきたいらしく、そのような試みの中で現に語っている最中のようだ。たぶんすぐにうまくいくわけがないのだろうが、徐々に毒舌的な単純さから外れて、語りに多層的な意味や意図が生じるように仕掛けているのかもしれない。それは意図してそうなるようにしているのではなく、当人の意図から離れて、思ってもみなかったことがそこに生じているように思わせたいのかもしれないが、それは意識してそうできるわけでもないのだろうし、方法など見つからなくて当たり前の不可能な挑戦かもしれず、不可能が可能となるようにはいかないのだろう。ではどうすればいいのだろうか。無意識の動作と外部からの作用に期待するしかないのだろうか。


4月28日

 あれは何かの預言だったのだろうか。いったい誰からその預言を託されたのか知らないが、まともに語ろうとしたのがいけなかったのか。いつものはぐらかしが足りなかったのかもしれず、その結果急激な先祖返りに晒され、戸惑いを禁じ得なくなる。そんな大げさな物言いでは嘘になってしまいそうだ。もとから話になっていないのだろう。内容の意味不明から逸脱したいが、なかなかうまくいかない。でも無意識には逆らえず、心ならずも抽象的なことを述べてしまうのだろう。記されつつある言葉が意識から外れているのは確かだ。でも他の何から外れて語ろうとしているのでもなく、心や意識から外れないとうまく語れないのかもしれない。別に語り方が昔と比べてうまくなっているわけではないらしいし、何事もまともに語り得ない状況に変わりない。また何と真っ向から対立しているとも思えない。真意は別のところにあるのではないか。では今はふざけているのだろうか。何でそうなるのだろう。何かの延長上にこれがあり、これが何だかわからず、困惑しているのだろうか。これとは何か。記された文章がこれを求めているわけではない。でもさらによりいっそうこれについて語ろうとしている。そう思えてしまうだけか。心境の変化ではないらしい。要するにこれが預言の内容だったのだろうか。それにしてはあっけなく、大した中身ではなかったように思われ、拍子抜けの感を免れない。だから逆説的にこだわっていたわけでもないのだろうが、理由にも説明にもなっていないようなことを語らされる羽目になり、現状では誰かが損な役回りを引き受けざるを得ない立場になっているわけか。それも冗談で済むようなことだろうか。他に何が冗談で済んでいるとも思えないが、それでは済まないような事態を想定しているわけではないし、何事もフィクションの中で起こっていることだと思い込んでおけばいいわけか。なぜそんなふうにはぐらかしてしまうのだろうか。ここまで語ってきたのにそれはないか。その辺をぐっとこらえて何でもないように装い、この世界で通用している儀礼的な慣習のたぐいをカッコに入れて、素のままに事態を捉えてみる必要があるのかもしれず、お粗末な比喩で取り繕うはやめにしたいところだが、その語りを言説にまで構成しようとすると、どうやっても何らかの寓話が持ち出されて、教訓話になってしまい、鼻白む思いに行き着くしかないのかもしれない。そういうところから齟齬感が生じてしまうのは致し方ないことか。始めからそういう筋書きだったのかもしれず、肝心な預言の内容を素通りして、中身を欠いたままどこまで言葉の連なりを引き延ばせるか試しているわけでもないのだろうが、そんな現状を連想させる無内容なのかもしれず、その辺に手法的な行き詰まりを感じているわけでもないか。でも今さらおかしいと思ったところで、もう遅いはずだ。賽が振られてからだいぶ時が経っている。

 今は預言の内容を思い出さなければならないと思っているようで、思い出すまでの時間稼ぎに言葉を記しているのかもしれないが、一方でそれは思い出された内容を忘れようとしていることのいいわけになりかねず、その辺の思いが矛盾を含むのはいつものことかもしれない。本当はそのどちらでもなく、単に嘘をついているだけではないのか。もとから預言などなく、それを発する対象も受け取る対象も、現実の世界では疲れ果てていて、今さらそんな時代遅れの行為を蒸し返す気になれないのかもしれない。いったい何が神で誰が預言者だというのか。誰からも必要とされていないのではないか。まさか映画がそれを必要としているのか。映画もテレビも見せ物一般が斜陽産業となったらおもしろいか。それはアメリカの没落を意味するかもしれず、現代文明が自壊する兆しを感じさせる現象となるだろうか。何が起こりつつあるとしても、あるきっかけからいっぺんに崩壊するわけでもなく、それと気づかれずにじわじわと浸透してゆくような現象だろうか。でもそれが預言の中身であるわけではなく、誰がそれを啓示として受け取ったわけでもなく、それを誰に伝えようとしているわけでもないだろう。たぶんそんなことではない。衰退しつつあるのはもっと何か根本的なことか。それがメディア一般と受け取ればいいわけか。それも何かずれているような気がする。何が退潮傾向にあるわけでもないのかもしれず、そこに今明かされなくてもいいことがあるのかもしれない。その時が来たら誰もが実感するようなことか。それは例えば来たるべき書物が、書物の形態からかけ離れた何かであったことと関連があるわけか。現代は価値があると思われていたすべてが、価値のないものへと変容しつつある時代なのだろうか。だが果たして将来宝石や貴金属が無価値となる時代が訪れたりするのか。例えばそこでは物質で構成されるものがすべて無価値となり、それに代わって形のない情報だけが価値があるようになってしまうわけか。そしてさらに情報さえもが無価値となってしまえば、今あるような人類の文明が消滅して、そのあとにはどんな世界が待ち受けているのだろうか。価値がないということは何も求めたがらないということであり、求めるものがないということは、目的がなくなるということになり、では何のために生きているのかとなるわけだが、生きることに価値がなく、生きることが目的でもないとなれば、もうそこでは誰も生きていないということだから、そうなった時点ですでに人類は滅亡していることになるのかもしれず、価値も目的も消滅した世界に人類は存在していないことになるわけか。いるとしても現代の人間が持っているような思考形態ではないだろう。そこではただ生まれて生きて死ぬだけの成り行きが維持されているだけか。それだけでは物足りないとすれば、他に何があるのだろうか。今ある現状に照らし合わせてみれば何かわかるだろうか。おおざっぱにいえば、現代では生きやすいようにかつ死ににくいようになることが、価値を持っているはずで、そうなることが目的となり、そうなるやり方を求め、そういう情報が価値を持ち、それをほとんどの人が求めているわけで、それは現代人が生まれにくく生きにくく死にやすくなっているように思われていることの証しであり、その辺でこのままでは先がないという漠然とした危機感が共有されているのかもしれないが、では生まれやすく生きやすく死ににくくなるような社会が実現したら、地球から人類があふれて出てしまうだろう。だから必死こいて宇宙を目指さなければならず、それが人類が共有している本能なわけか。


4月27日

 誰かの言動を茶化しているのだろうか。精神的に追いつめられているのかも知れない。そのことについてはだんだん語れなくなってくるように思われ、それに関して語るには、言葉を選びすぎて逆に言葉から見放され、単調で貧相な物言いに終始しているように感じられる。そうなってしまっては何も語れない。だからそんな成り行きに逆らって、単刀直入にそのものズバリなことを語らなければならないのだろう。いったい何について語らなければならないのか。それらの何かに共通点があるとしたら、出来事からかなり時間が経過していることか。それらとは何なのか。忘れ得ぬ思い出か何かか。遠い昔の出来事について何か語ろうとしているらしい。そして具体的に何を思い出しているにしても、今日に至って未だなおそれの決着がついていないわけだ。少なくとも当時の関係者たちがそう思っている。いったいそれは何千年前の出来事なのか。当事者たちはそんな昔だとは思っていないらしく、つい先日もその話題で持ち切りだったのかも知れない。忘れようとしても忘れられないのだろうか。だが印象は何もない。その場からわざと遠ざかろうとしていて、語る場などもはやないかのように装い、それでも勇気を出して語るとなれば、語ろうとする度に苦痛を伴うような不快な感情に阻まれ、なかなか正直にありのままを語るわけにはいかないらしい。でも美辞麗句で語りを装飾するわけにはいかないだろう。思い出を美化しては仁義に反するのか。ならばどう語ればいいのだろうか。たぶん仁義に反し、人倫にもとるような語り方でかまわないのではないか。それでかまわないのに、実際にそれに関しては何も語ろうとせず、代わりにそれとは無関係な何かについて語ろうとしてしまうのではないか。何かについて語ろうとして、何について語っているわけでもないように装いたいのだろう。それがそこでの最善手なのか。というか誰もがそれ自体に関心がないのかも知れず、無理して語るほどのことでもないのかもしれない。煙に巻くための煙さえおこせず、火のないところに煙も立たずに、拍子抜けの気分でそんなことを語ろうとしているわけだ。それでかまわないと思ってしまい、あとはそのまま忘却の彼方へと消え去る運命なのかもしれない。それらを語ることの何が苦痛だったのだろうか。今となっては思い出せない遠い過去の出来事だったのか。そういうはぐらかしによってごまかされた何かの断片が、誰かの心に今も突き刺さっていて、執拗にうずいているのだとしたら、それを取り除いてやるにはどうしたらいいのだろうか。現状では取り除きようがなく、それによって生じている癒やしようのない心の傷を、そのまま放置して、ただ時が過ぎゆくのを待てばいいだけか。今までそうしてきたようにか。

 たぶん何がそこでほったらかしになっているのでもなく、今も絶えず何かに利用されているのではないか。ことある度に蒸し返されて持ち出され、それに対する関心を呼び起こそうとしている。思惑通りに非難してほしいのだろうし、実際にそうしているのではないか。現にそれとともに追い込まれている人たちもいるのではないか。いったいどこに追い込まれているというのか。何かの幻影に執拗に追いまくられ、幻想のただ中に追い込まれ、そこで安住している暇もなく、自分たちを支持してくれている人々ともに、反抗の機会をうかがっているわけか。実際はそうではなく、それほど追いつめられているとも思わずに、戦略を誤っていることにも気づかず、戦術の練り直しさえ怠り、至ってマイペースでルーティンワークをこなす日々を送っているのだろうか。それも見せかけだけかもしれず、内情は深刻な事態に陥っているのか。そんなところまで詮索するには及ばず、どうなろうと知ったことではないと思っていてもかまわないのかもしれないが、いずれにせよ開き直るしかない状況かもしれず、実際に開き直って、今まで通りのやり方を押し通そうとしているのだろう。ごり押しでも何でもかまわないから、やれる範囲内でやれることをやり、それでだめでも最後まであきらめずに、今さらあきらめようがないのかも知れないが、当初に定めた目標に向かって、ひたすら突き進んでいくつもりなのかもしれない。では気分はすでに玉砕覚悟なのだろうか。まだそこまでいっていないと思っているのが正解か。楽観的な見通しを抱いているのかも知れず、それが根拠の希薄な幻想を抱かせ、今現在の状況に至っている要因か。しかし実際にどのような状況になっているというのか。そんなことなど把握する必要も感じていないだろうし、たとえ現状がどのような事態になっているとしても、都合のいいように解釈すればいいのかもしれず、それで間に合っているうちはそうしておいた方が無難なのだろう。ありのままの現実など把握しなくても済んでいるのだから、誰も好き好んで不都合な真実など伝えるわけがなく、都合の許す損得勘定の範囲内で何か語れば、誰もがそれを真に受け、とりあえず一安心してしまうのだろう。そういう人を安心させるためにこそメディアの存在意義があるのだろうし、たとえ危機感を煽るにしても、そういう狼少年的なレッテルを貼られた人がそうするのだから、誰も心配するわけがなく、至ってのんきに平穏な日々と戯れていれば、そのまま時が経ち、忘れた頃にまた何か不意に思い出し、それが気のせいだと思うのが関の山か。そういうやり方がいつまでも通用することを信じていないと、現状と戯れることなどできはしないか。世界の方々で起こっているお祭り気分を取り上げていれば、それが思考すべき出来事になってしまうのかもしれず、不都合な真実などさらっと受け流し、まともに取り上げるまでもなく、従来からある解釈をかぶせて、その先に思考が及ぶのを防ぎ、それについての予防線でも張っておけば、当面は凌げると思っているのだろうし、実際にそうしているわけだ。従軍慰安婦問題にしろ何にしろ、それで何とかなると思っているのだから、やらせておけばそれでいいのかもしれない。あとは世界全体の成り行きがどうなるかで、その後の進展が思惑通りにいくか否かが決まるのだろう。


4月26日

 何にこだわるにしても五十歩百歩で、その方面でこだわりのない部外者にとっては、興味のない嗜好に過ぎないのかもしれないが、その辺で各自の趣味がばらけていることが、何らかの救いや気休めを生じさせているのかもしれず、特定の趣味に興味が集中しないように、自然の狡知が働いていて、それによって精神の均衡が保たれているわけか。すべての人が同時に気が狂わないように配慮されているのだろうか。でも誰が配慮しているのか。神に決まっているだろう。それを言ったらおしまいか。雑な思考にとらわれている。そうでなければ対処できそうもない。何に対処していることになるのか。アナロジーは危険だ。それで何かわかったような気分となってしまい、それを通して同じような気分を共有している他の人たちと、宗教的につながろうとしている。世界各地に散在する似たような何かを取り集めて、そこから神の意志を抽出しようとしているわけだ。そこでは黄金比などの神秘的な関係が、そこからさらに崇高な何かを類推するきっかけを与えていて、そんな思考に拘泥しながら、ピラミッドなどの世界各地の遺跡群に数学的な法則を当てはめようとしている人もいる。何か世界があっと驚くような発見を導き出したいわけで、それによってこの世界の有り様を一変させたいのだろうが、たぶんその手のオカルティズムでは無理なのだろう。人々は他の何かに目がくらんでいるのであり、それがオカルティズムよりは遥かに強力にこの世界に作用していて、オカルティズムでは歯が立たないような魅力を人々に感じさせているわけで、それへの信仰を打ち破らない限りは、オカルティズムはその信仰の従属物にとどまるしかないのではないか。しかしその信仰とは何なのか。それが言わずもがなの資本主義なわけか。だから神と同じで、それを言ってしまってはおしまいなわけだ。それは誰にも勝てない信仰だ。

 たぶん詐欺ではないのだろう。物と物との交換から利益が発生することの何が詐欺なのか。詐欺師がそう主張しているのではない。それを信じなければならず、利益がもたらされることを信じなければ、赤の他人同士で交換など成立するわけがない。そういう意味で信用がすべてだ。等価交換ではだめか。だめではないが、それでは富の蓄積が不可能なのではないか。富の蓄積をもたらしている原理が詐欺でないとすれば、それは信仰でしかないだろう。信仰こそが錬金術を支えていて、錬金術は誰もがそれを信仰していることを前提として発動する。錬金術によって富を蓄積し、その富をさらに強力な錬金術に投入する。それは漫画の主人公が話の進行過程で、強大な力を手にすることと変わらず、人やそれが属している組織や団体は、錬金術とそれによって蓄積された富によって、強大な力を手にし、その力をさらに強力な錬金術の開発と富の獲得のために活用する。そこに際限がなく歯止めの利かない無限連鎖が生じていて、人々はそこから生じる富の不均衡を、国家が是正してくれるものと期待しているが、今のところはブレーキをかけるどころか、逆に錬金術の開発競争を奨励していて、それによって国を富まし、国家に属する人々に利益をもたらすことを期待しているわけで、歯止めの利かない無限連鎖をさらに加速させようとしている始末だ。もしかしたらそれも自然の狡知なのだろうか。そのような現象がやがて臨界点を迎え、そこで大規模な破綻が起こり、取り返しのつかない惨劇を招き寄せ、あわよくば人類そのものを抹殺できればしめたものなのか。それともその先に次のステップが用意されていて、何か想像を絶する進化が起こり、SF的に地球の限界を超えて、宇宙に向かって人類が拡大増殖していくための起爆剤となることが、その信仰が意図しているところの作用なのだろうか。だがそれは誰の意図なのか。神に決まっているだろう。だからそれを言ったらおしまいだ。そこに何か隠された意図があると考えるのが、オカルティズムの典型的な思考なのではないか。でもそう考えていないと精神のバランスが崩れて、気が狂ってしまうのではないか。そうならないためには常に隠された意図を幻想しながら、それがあることを堅く信じ、そこに架空の出口を設定しつつ、錬金術による富の獲得競争に参加しなければならないか。


4月25日

 たぶんオバマはハンバーガーとフライドポテトとコーラかコーヒーで間に合ってしまう人間なのだろう。寿司が好物だという情報がどこからもたらされたのか知らないが、要するにそれは回転寿司程度のことだったのではないか。どう見ても家族そろってファミレスに出かけるような感じで、高級グルメにこだわるような人物には見えないのだが、そのへんの「おもてなし」感覚がおざなりなのが、安倍ちゃんの取り巻きたちの世間知らずなところだろうか。そういう雑なところも、オバマや彼の関係者たちに見抜かれているような気がしてならず、なめられてしまう原因となっているのではないか。見栄えだけ取り繕っても中身がともなっていないと、何かあか抜けていないというか、間抜けに見えてしまったりする。どうせ寿司を食わせるなら、回転寿司チェーンのスシローあたりで食わせた方が、ギャグにしてもパンチが効いていたような気がするが、まあたかが外交儀礼に過ぎないと思えば、あの程度でも分相応な対応になるのだろうか。要するにそういう方面を担当している人たちにも、お仕事感覚が出てしまっているわけで、寿司が好きそうだから高級寿司店で食わせれば喜ぶんじゃないか、マスコミの連中もそういう下世話なところを好んで騒ぎ立てるだろうから、その程度でOKだろう、ということなのかもしれない。でも今さらフジヤマ・ハラキリ・テンプラ・スシ・ゲイシャの時代でもないか。そういうところは枝葉末節な問題でしかなく、でもそういう枝葉末節の積み重ねが、何らかの意味や意図をメディアを通して人々に伝えてしまうわけで、そういう意味で今回の日米首脳会談は日本側の焦りと空回りと覇気のなさが浮き彫りになったということか。はりきっていたのに覇気が感じられないところが、おもしろいというか、はりきりどころを取り違えているというか、それが安倍ちゃん独自の味なのかもしれず、世界に対する異化作用を思う存分発揮しているということか。やはり日本はこうでなくちゃならないと神様もお喜びになっているのではないか。しかし神とは誰なのか。

 ともかく希薄に感じられる善意の空気とともに、何かやっているつもりなのだろうし、日本を取り戻すというキャッチフレーズも、もう十二分に機能しているだろうし、実際に取り戻せているのではないか。取り戻された日本とは、今誰もが感じているこんな日本なのだろう。それは右翼が妄想するような勇ましい国家イメージには収まらない、優柔不断でとらえどころのない感じだ。右翼は断じて拒否するだろうが、彼らが妄想する日本のあるべき姿とは、韓国のような感じになるのではないか。国民が一致団結して国のために戦うような国が韓国のだと思うのだが、右翼の連中は意識して韓国と激しく敵対しながらも、その敵対している態度が、自然と当の敵対している韓国に似てきてしまうのは、結構ありがちな成り行きなのではないか。それはかつて千数百年前にも同じような状況があったはずで、今日はアメリカを巡って韓国と日本が意地の張り合いを演じている構図が、当時は中国の唐を巡って朝鮮半島の新羅と日本の大和朝廷が意地の張り合いをしていた構図に当てはまり、確か当時は、奈良の東大寺の大仏開眼式典に新羅の使者を招いておいて、肝心の大仏を見せなかったという意地悪な逸話があったような気がするが、似たような立場のライバル同士(互いにライバル視しながらも、相手を自分の下と見なし、ライバルとは認めたがらない)が、さかんに上司のご機嫌伺いを競い合い、その上司であるアメリカや唐から、うわべだけの媚びへつらいを見透かされていて、呆れられつつも、逆にそれを利用され、便利な持ち駒として、いいように扱われている現状なのではないか。悔しかったらそういう現状に逆らってみろとは言わないが、そのへんを百も承知で対応しないと、結局何か事が起こった時に、こき使われるだけ使われて、いざとなったらはしごを外され、捨て駒にされてしまうこともあり得るのではないか。本気で忠犬ポチになる必要などないのだから。


4月24日

 何か思いついているのではないが、浅瀬で足首まで水に浸かる。深みにはまらないように心がけているのか。事物が光に照らされると、色がついているように見えるらしい。でも思い描いている空想にはリアリティがない。空に浮かぶ島でも見えているのだろうか。意識が浅瀬から急に遠ざかっているようだ。そう思えるだけで、水辺などどこにもありはしない。さっきまで浸かっていたのが水なのかもわからず、何も覚えていないようだ。目が覚めたわけでもなく、夢を見ていたわけでもないらしい。ちょっとめまいがして、よろけた拍子にそんな光景が見えた。そんな気がしただけだろう。それとこれとは話が別だ。不意に何かを思い出しているわけだ。それ以外はでたらめなのかもしれず、本当はまだ目が覚めきっていないのかもしれない。でも覚えているのはそんな光景だ。相変わらずそこで何かが繰り返されているのだろうか。毎晩同じ夢を見ているわけでもないだろうが、単調な日々に飽きているのだろうか。でも望んでいたのはそういう日々であり、それ以外の選択肢があったわけではない。それがつまらないフィクションだろうか。話の内容が何もないのに、なぜいつまでもそんなことにこだわるのか。とっさに何を思いついたのでもないような気がするだけで、たぶん気づかないところで何か思いついているのかもしれないが、さらに無意味なことを語ろうとしているのだろうか。強引に他の何かへと移るわけにもいかず、しばらくはそんな調子で虚無と戯れていたいのかもしれない。でたらめに拍車をかけるわけにはいかないのか。ちょっとふざけすぎて、常軌から逸脱して、はみ出るままにしておいたらまずいと思ったのか、小休止の必要性を感じ、無意識にブレーキをかけているのかもしれない。そのまま突っ走っていれば、危うくガードレールを突き破って崖から転落するところだった。そんな感じがしているわけか。でも何に導かれてそうなっていたわけでもなく、それが何のたとえにもなっていないのはいつものことで、語っている内容が意味不明なのは相変わらずな気もするが、不意に思い出されるのは間一髪で逃れた危険ばかりか。いつも逃れられたわけでもなく、死なない程度には怪我を負い、性懲りもなく繰り返さない程度には、反省を促されるような痛い目に遭っていたのではないか。本当にいつもその程度で済んでいたのなら、運のよさに感謝しなければいけないだろうか。しかし本当に運がよければ死んでいるはずか。そこで死んでいないことが、かえって後の不幸な成り行きを呼び寄せているわけか。そういう屁理屈はくだらないが、不運も運のうちで、不幸も幸せのうちか。さらなる屁理屈が呼び込まれてしまうようだ。たぶんどう考えてもそうではなく、気休めに不幸や不運と戯れているわけではないが、悪運の強さを自慢したいわけでもなさそうだ。そこで何かが君を引き止めていたことは確からしい。だから今もそんなことを思っていられるわけだ。

 架空の過去を振り返れば振り返るほど、絶えずわけのわからない成り行きに翻弄されてきたことに驚くしかなく、今でも今現在もそうなのかもしれず、どうあがいてもそこから逃れられないように思われ、もうほとんどあきらめかけている節もあるようだが、それも思い描いているフィクションの一部となるらしく、話の内容も定かでないのに、なぜかそんな成り行きばかりを空想して、無意味な語りに終始している。言うに事欠いてそんなことを述べているわけでもないのだろうが、それにしても罠にはまっているようだ。罠の中で何かにとらわれているわけか。それがこだわりなのか、それとも気まぐれなのかわからない。たまにはかまわないのかもしれず、すべてをなげうってそこにとどまっているのでもないようで、結局語ることに賭けていたわけでもないような気分となり、どうでもよくなって、そのまま普段通りの戯れになってしまう。そこに安らぎを見出してしまったのだろうか。リハビリの最中というわけでもないはずだ。過去の出来事から不意な恩寵を授かり、それに甘えていたのだろうか。甘えるほどのことでもないだろう。でも厳しい試練に晒されている自覚もなく、至って順調に何をこなしているわけでもないのだろうが、ともかく言葉を記している現実があり、その現実を何に結びつけるめども立っていないのに、一方でそのままでもかまわないと思い、半ば投げやりになっているわけでもないようで、実際に不思議な感覚を覚え、たぶんこれは罠ではなく、架空の外部に立っているような感覚なのかもしれない。この世界に外部などあり得ないのに、例えば虚数が存在するような場を想定しておかなければならないようで、そうしておかないとこの世界を語り得ないのかもしれず、意識の他に無意識があるように、現実の他には虚構があり、実数だけでは説明のつかないような現象を説明するには、複素数のような虚数の存在が必要不可欠となるわけか。それらを同列に扱うことはできないが、そのような概念が考えだされてしまうこと自体が、この世界と人の思考との間の何らかの関係性を物語っているのかもしれず、そこに思考の限界に関係した世界の特性が顕われているのではないか。普段の思考からは感じ取れない何かがあるのだろうが、それは人の感覚を超えていて、今ひとつ捉えきれない不可思議な何かなのだろう。


4月23日

 何かを否定しなければいけないのだろうか。つまらないギャグが空振りに終わり、スルーされて嫌な感じがするが、要するに無意識の想定内でそんなことをやったのだろうか。センスがないようだ。思い出されるのはそんなことか。主張するのはこちらの都合の良いことばかりなのだろう。得意分野の工業製品の関税はなくしてほしいが、苦手分野の農産物の関税障壁は維持したいわけで、それですべての関税をゼロにすることを目的としたTPP(環太平洋戦略的経済連携協定)の交渉に臨んでいるわけだから、虫が良すぎるのは最初からわかりきっていて、交渉相手のアメリカから足下を見られてしまうのも致し方ないことか。付け込む隙が見え見えなのだから、当然そこを突いてくるのはわかっていて、国内も荒廃しているから、日本のわがままに配慮している余裕などないのだろう。アメリカ中国ロシアEUの世界の四極それぞれに国内問題を抱えていて、それぞれが日本の煮え切らない態度に苛立っているのではないか。でもそれが逆説的に日本の強みなのかもしれない。たとえ見せかけだとしても、頭脳明晰でリーダーシップの取れる人が政治のトップに立っているように見える他の主要国とは違って、日本は頭がおかしい人ばかりが総理大臣になっているような感じがするし、他国ではあり得ないような隙だらけで穴だらけなことを平気で主張してくるところが、こいつら本気じゃないのではないか、とある意味で不気味がられているのかもしれない。右翼にしてみれば、戦後教育が日本を情けないだめな平和ぼけ国家にした、と苛立って当然かもしれないが、どうもその辺が微妙な勘違いを生じさせているのかもしれず、民主主義や自由主義という世界が肯定するきれいごとのお題目的な価値観を、どうも日本という国にいる人たちは共有していないのではないか、というか本気で信じていないのではないか、と世界から見られているのかもしれない。それが良いことなのか悪いことなのかわからないが、こいつら何かあるんじゃないか、と別の意味で過大評価されているのかもしれない。例えば漫画やアニメやゲームで世界中の人たちをオタクへと堕落させようとしている、と思われていたりするわけか。たぶんそういうわけのわからないところから世界に影響を及ぼしているところが、日本の日本たる所以なのだろう。そういう意味では安倍ちゃんのチャイルディッシュなニコニコキャラも、こいつヤバそう、と思われているのかもしれず、中国や韓国も内心恐れを抱いているのかもしれない。ブッシュやレーガンなど別の意味でヤバそうな人たちならいざ知らず、知的なリベラルを気取っているキャロライン・ケネディやヒラリー・クリントンなどにしてみれば、不気味なおじさん程度の認識で、何事もビジネスライクなオバマにとっては、人格や人柄などはカッコに入れて、単なる物扱いで済まそうとしている傾向もなきにしもあらずか。

 ともかく表面的な政治交渉でどんな決着がつこうが、大した効果が上がるとは思えず、見せかけだけで効果が上がったように思わせたいのだろうが、政治が見通せない部分が多すぎるのかもしれない。TPPも世界の国ごとの格差を是正する意味で、何らかの効用があるのかもしれず、交渉がうまくいかずに、結局妥協の産物として骨抜き的な形に落ち着いてしまうのかもしれないが、そういう試みをやってみただけでも、国ごとにいろいろな問題が明らかになって、これからやるべきことが定まった部分については、肯定的に評価してかまわないのではないか。日本でも政界財界官界の三位一体一蓮托生とそれにゴマをする主要メディアとのいかがわしい関係が、よりいっそう顕著になって、メディアによる国民へのマインドコントロールにも、少しはほころびが生じてくれればいいのかもしれないが、もうだいぶ前からそうだったのだろうから、その辺は望み薄か。世界中のどの国も大なり小なりそうなのだろうし、ナチスドイツの昔から、いかにメディアを駆使して国民をマインドコントロールするかが、国家を維持継続する上での最重要課題であり続けている現状は変わらず、きっとこれからもあの手この手で人々を操ろうとしてくるのだろう。でも古くは司馬遷の『史記』が暗示しているように、国はいつか必ず滅びる。司馬遷は国の意向に逆らう逆賊を積極的に『史記』の中で取り上げたし、当時の最高権力者の武帝の徳を讃え媚を売って、宰相にまで取り立てられた文化人の公孫弘の欺瞞性を見抜いていたらしい。司馬遷と公孫弘とでは立場が違うだろうし、どちらがいいとも思えないが、当時は公孫弘は国内では有名人だったのだろうし、武帝の逆鱗に触れ去勢されてしまった司馬遷などは、生き恥をさらしている情けない役人の一人に過ぎなかったのかもしれないが、それから二千年経った現在では、公孫弘のことなどはほとんど誰も知らず、生き恥をさらしながら『史記』を完成させた司馬遷の名は誰もが知っているわけだ。


4月22日

 何を読んだとしても、たぶん何をわかっているわけでもない。何をやめられないわけでもなく、割とあっさりやめて、不意にいなくなってしまうのかもしれない。それでも努力しているわけか。絶え間なく考えているのかもしれないが、それが気に入らないのだろうか。特定の誰に気に入られようとしているわけでもないらしい。そんなたぐいの思考ではなく、それについて考えている君は相変わらず誰でもない。君でもないわけだ。しかし何について考えているのか。何かそこに問いがあるわけだ。問いでもないようなことが問われている。問われるようなことがいくらでもあるのかもしれない。でも答えが見つからないのだろう。ゲームなのだろうか。なぜそれを問われなければならないのか。それがいくらでもある無意味な問いの一つだ。無駄な問いばかりのようだ。不在の君には答えられず、答える資格もない。だからいくら答えようとしても無駄か。現に答えようとしていないのではないか。問いも答えも見つからないまま、誰かが語っているらしい。語り続けるつもりなのだろう。きっかけがゲームというわけでもないようだ。でもゲームの中で人が作られている現実があるのではないか。それが何のゲームかにもよるだろう。虚構の中で爆破された何かの破片が、ゲームの一部をなしていたわけか。ゲームの中で語られる話もディテールが肝心なのだろうか。その辺が精巧に作り込まれていないと、感情移入できないか。でも語っているのはゲームの内容ではない。相変わらずそれはありもしないフィクションについてなのかもしれず、架空のゲームの中で、狩られる側と狩る側の間に友情が芽生え、何やら理解しがたい妥協が生まれるわけだが、そんな成り行きにしないと話が持たないのだろうか。要するに続けられなくなって、そこで終わりとなってしまうのだろう。それが語る側の論理が優先された結果か。人は成長しないのだ。精神的にも肉体的にも成長せず、成長しないまま大人となり、成長しないまま老いて死ぬ。そんな逆説をそのフィクションは物語っている。成長しないために必要なアイテムが、仮想的な物品・武器・通貨などだが、それらを使って必要な別の何かを得ることによって、成長する機会をやり過ごすことができる。無駄に努力しなくても何とか虚構の中で生きていけるわけだ。別にそれが良いわけでも悪いわけでもないが、現実の世界でもそれはありそうだ。

 でも現実の世界の中で何を物語ればいいのだろうか。物語ることで何を回避できるのか。それを避けて通ればゴールにより近づけるわけか。近づけたところで到達できるわけではなく、近づけば近づくほど、何がゴールなのかはっきりしなくなるだけか。それを目指していたわけでもないのに、ゴールに行き着けるわけでもないだろう。もとからゲームではないのだから、何がゴールであるわけでもない。物語ることもそこでの目的とはならないわけだ。世界のどこを見渡しても何もかもがあり、それは何もないのと変わらないように思われてしまう。要するに何もかもがある状況と何もない状況を混同しているわけだ。その違いを見分けられず、意図的に無視していたりもして、そんな意図を理解できなくなっていたりもする。どのような意図があったというのか。君はそこで何と何を混同していたのか。愛と友情はいいわけの重要なアイテムとなっているのだろうか。たぶん安易なフィクションの中ではそうだが、現実の世界ではそう簡単に事が運ばず、それを避けて通っているつもりが、知らないうちに引き寄せられ、いくら逃げ回っても先回りしていて、行く手に待ち構えているわけだ。いったい何が待ち構えているのか。何かのゴールが待ち構えているのだろうか。あるとすればそのゴールポストに蹴り込まれるのは、人間そのものなのではないか。人間が人間をゴールポストに蹴り込むわけか。たぶんそれでは何のたとえにもならず、そこから想像されるゲームのたぐいとは無関係だろう。古代マヤ人たちが、ちょん切った生け贄の首をボール代わりにして、球技に興じていたわけでもなく、そこから何を想像してもゴールにたどり着けそうもなく、かえってわけのわからぬ空想が邪魔をして、ゴールからは遠ざかってしまったのではないか。無駄で無意味な迂回だろうか。そういうくだらぬ回り道が成長を阻んでいるわけか。でも成長することがゴールなのだろうか。それとも立派な大人に成長して、世の中の役に立つことがゴールなのだろうか。若者にそんなたぐいの説教をたれているような大人は、成長が途中て止まってしまった父ちゃん坊やだろうか。たぶん抽象的な道徳思考では限界があるのだろう。しかし具体的にはどうなのか。ゴールはゲームの中にあり、現実の世界にゴールがあるとすれば、それはゲームである証しなのかもしれず、当人にゴールを目指しているという自覚があるとすれば、それは何らかのゲームに参加しているに過ぎず、そのゴールはゲームの中だけでしか有効ではなく、ゲームの外であったり、ゲームに参加していない人たちにとっては、ゴールを目指すこと自体が、大して価値のある行為ではないのかもしれない。


4月21日

 なぜそれを求めてしまうのだろうか。フィクションと現実とは何かが違っていて、誰もがそこへ飛びつきたいわけか。たとえそれが空回りしているとしても、興味はそこへと行き着いてしまう。人は自らの手で新たな現実を作りたい。その人の手で作られた新たな現実がフィクションなのだろうか。それだけではなく、人類が作り上げた文明そのものが新たな現実か。そんな大げさなことを語りたいのか。まさに文明こそがフィクションだと言いたいわけか。何を短絡しているのか。馬鹿げた答えが導き出され、呆れてしまうわけか。フィクションと現実と文明との間に語るべきことが隠れているような気がするのだが、その隠れた何かを引っ張りだして説明しなければ、まともな話とはなりがたいか。ちゃんと語ろうとすれば面倒なことになりそうだが、それは人の欲望が反映された何かだろうか。何かのままではだめだろうか。その対象をはっきりさせなければならないが、無理かもしれず、だめなら何かのままでもかまわないのではないか。肝心の何かがあやふやなままでも語ることはできそうだ。ただあやふやな話となるだけかも知れないが、フィクションならそれでもかまわないか。君は何かフィクションを語ろうとしているわけか。それを誰かに想像させなければならないのだろう。その何かが何なのかを、それぞれに思い当たる対象を思い浮かべてほしいわけか。そして時が経ったら忘れてしまってもかまわないと思っている。忘れてしまったら、あるとき不意に思い出してもらってもかまわない。要するに何でもかまわないわけか。具体的な事物でなくてもかまわない。何に興味を抱いていたわけでもないし、フィクションと現実との間に差異がなくてもかまわない。では何か思い違いをしているのだろうか。わざとそうなるように仕向けたのではないか。意識の範疇にはないのかもしれない。無意識のうちにそれを求めてしまうのだとしたら、例えば興味を惹く対象が、必ず誰かと誰かが対決する漫画になってしまうのも、人々の欲望が反映されていることの表れだろうか。そしてそこに超能力が介在して、対決を盛り上げるわけか。どうもそこに行き着くしかないようだ。だがその超人的な対決に行き着く前に、何かが省略されているわけで、それは戦いをつまらなくする何かかもしれず、人間の情けなくもみすぼらしい現実かもしれない。それは日頃のニュースに出てくるようなありふれた殺傷事件が物語る何かであり、虚構の英雄たちが繰り広げる美しくも超現実的な戦いとは違う、弱い者同士が些細な感情の行き違いから起こすつまらない諍いのようなものか。それがエスカレートして殺傷事件が起こるのだとすると、何だか救われない気持ちとなってしまうか。それ以外に何があるというのか。例えばヤクザやギャングたちが引き起こすもっと醜くもむごたらしい抗争事件などもあったりして、軍が介在するテロや戦争ともなると、さらに大規模で悲惨な様相を呈するだろうか。それらのフィクションと現実と文明との間には、目を背けたくなるような惨い現実が横たわっていて、そういう意味で隠れた何かとは暴力のことかもしれない。別に隠れていたわけではなく、そんな現実が不快だから目を背けていただけで、フィクションのオブラートに包めば魅力的な何かとなるわけだ。そこには暴力を正当化する話の構造があるのだろうか。別に正当化しなくても魅力的なのかもしれない。

 でもそこに何ものにもとらわれない現実を見出すわけにはいかないか。そうしたいからフィクションが生まれるのであり、人々が求めているのも、自らがやってみたい願望のようなものだろうか。できれば身勝手な理由をでっち上げて思いっきり暴力を振るってみたいか。だからフィクションの中でやっているだろう。実際にやっているわけではないが、無意識のうちに暴力に引き寄せられているわけだ。日頃からやりたいことができずに思うように生きられない不自由な現実を、暴力によってぶち破りたいのではないか。鬱積している不満が今にも爆発寸前なのだろうか。夢と現実との絶望的な落差が我慢ならないか。そして苛つき些細なきっかけから暴力に及び、さらにドツボにはまって嫌な思いをするのだろうか。たぶん誰のせいにするわけにもいかないところが救いようがなく、どこへも行き着けない閉塞感の中で、短絡的な思考が社会の中で幅を利かせ、ますます心が荒んで、そんな不満のはけ口として、攻撃対象として、やはり何かが必要なのだろうか。そういう意味では韓国の存在意義も貴重なのかもしれず、キム・ヨナなども立派に憎まれ役を演じてくれたわけか。でも勝ち逃げされてはますます腹が立つだろうから、この辺で韓国経済がだめになって、そういう人たちの溜飲を下げる効果が期待されているのかもしれない。たぶんみんなでざまあみろ!と叫びたいのかもしれないが、結構韓国もしぶといだろうから、恐ろしい弱肉強食の競争社会でもあるだろうし、なかなかそう簡単には引き下がらないような気がするのだが、このまま両国のそういう人たち同士での意地の張り合いが長期化するのかもしれない。


4月20日

 彼らは何かを破壊したいらしい。その煮えきらない優柔不断な態度を改めさせたいのだろうか。それが今すぐにでも世界的な慣習を改めさせる突破口になると思えないが、そうなれば何かが確実に前進するのかもしれない。そういう結果になることを願っているのだろうか。誰が意識して願っているとも思えないが、情勢はそういう段階に来ているのかもしれない。疑似餌に食いついて釣り上げられようとしている魚でもないのだろうが、まんまとドツボにはまってざまあみろと嘲られても返す言葉が見当たらないか。それでかまわないわけだ。時にはこてんぱんにやられているように見せかけておかないと、相手もいい気になれないだろう。実際にやられつつあるのではないか。そんな交渉となっているのだろうか。たぶん彼らの目論見通りなのだろう。確かにそう思わせておけば一安心だが、それで誰が納得するのだろうか。納得しがたいところも目論見通りか。そういう意味ではやはりうまくいっているわけだ。実際に交渉している当事者たちにとってはたまったものではないか。でもそれでかまわないのだから、たまったものではないような雰囲気を醸し出しておけばいいわけだ。でもすべてが明らかになった時が見物ではないのか。別に交渉決裂のままでもいいのかもしれない。出来レースなのか、それとも本気で争うほど実力が拮抗しているのか、その辺はわかりきっているのかもしれないが、ともかく交渉しているように見せかけていることは確かで、ともかくそういう見せかけとは別の次元で、うまく事が運ぶような予感がするのはなぜだろう。どう転んでもおかしくなることは目に見えているのに、何だかそれが愉快な気分を呼び込んでいるようで、やはりそれが何かの突破口になるような予感がするわけだ。こういうところで外圧に期待するのは情けないかも知れないが、何もないよりは外圧があった方がいいのかもしれず、それだけ緊張感を保っていられるのだろうし、それは日米のTPP交渉などにも言えることだろうか。虚構の世界だけでなく、現実の世界でもそんな出来事をてこにして、何かが変わろうとしているのだろうか。でもこのままでは日本が危ないと危機感を煽るのはメディアの常套手段だったはずだ。せいぜいのところはぬか喜びに終わらないことを願うまでか。すでにそういう兆しもなきにしもあらずだろうか。どちらに転んでも何もやらずに済ますわけにはいかないのだから、双方にとって望まぬ結果が出たところで、それもある意味では望むところなのかもしれず、坂道が続く限りは転がる石は転がるままで、それが大岩となれば、なかなかちょっとやそっとでは止められず、脇に退いて呆然とその転がる様を眺めているしかないのかもしれない。今のところはそれが何のたとえにもなっていないのがまだ救いといえば救いなのだろうか。

 しかし坂道を転がる大岩が何のたとえになればいいのだろうか。土砂崩れならたとえではなくそのままか。たとえ何を思い浮かべて何かのたとえになろうと、そういうたとえではあまりにも大げさな出来事となってしまうような気がするが、それをさらに極端なたとえにすれば、青天の霹靂といったことになるのかもしれず、それを何にたとえたとしても、その手の大げさな表現には事欠かないわけか。それでも青天の霹靂ではまずいのかもしれず、いきなり何かの直撃ではなく、坂道を何かが転がっていくように、いずれは何かに打ち当たるとしても、直撃するまでの過程が重要で、転がっているうちに何かしら考え、何かしらやる暇や隙があるわけで、その暇を活用し、その隙を突いて、何かしらやっているのが人間なのかもしれず、それが結果としてうまくいくのかいかないのか知らないが、何かに打ち当たるまでの限られた時間内で幻想を抱き、それと戯れることで救われた気持ちになれるのではないか。その時間が永遠に続くわけではないのはわかりきったことだが、なるべくそれは考えないようにして、ある日突然そうなってしまったような結果を期待しながら、何とかそれで正気を保っていられたらいいのかもしれず、たぶんそれ以上は望まない方がいいのかもしれない。転がる石がある日突然何かに打ち当たって止まるか、あるいは坂道がだんだん緩やかになっていって、転がる石のスピードが落ちてきて、ついには道が平坦になり、あとは惰性で転がってゆくだけとなり、じわじわと止まる日が近づいているように感じられたら、もうそこで観念するしかないだろうか。それも一興だと強がる気にもなれないか。それも転がっている途中で考えていることでしかなく、たわいない想像のたぐいなのだろう。転がっている過程にどのような寓話を差し挟んでみても、たとえ話の範疇で理解できることは限られていて、とても意識や感覚のすべてを網羅するわけにはいかないようで、結果的には何を言ったことにもならず、それらの一部分について思考したまでのことで、それで満足できるとは言いがたいが、半端なところで無駄話を切り上げて、さっさとその先に言葉の連なりを進めていかないと、限られた時間を有効活用するには至らず、いずれはそんなことをやっている暇もなくなってしまうだろうか。たぶん追いつめられ、暇がなくなってから後悔するのだろう。あとからあれもやっておけばよかった、これもやっておけばよかった、と嘆いてみても後の祭りには違いなく、どうせ納得には至らないだろうが、それなりにあきらめがつく状態にまでは持ってきたいのかもしれない。これだけやったのだからもういいのではないか、という心境になりたいのだろうか。果たしてそこまで至れるかどうか、誰に見守られているわけでもなく、誰を見守っているわけでもないのだろうが、また誰と視点を共有しているわけでもないのかもしれない。


4月19日

 その時の立場や状況によって態度がころころ変わるのは致し方ないか。それが処世術だと言い張るなら、その調子でやっていればいいのだろう。臨機応変な対応を心がけているわけか。先月のニュースで、『核安全保障サミットに出席するためオランダ・ハーグ入りした韓国の朴槿恵(パク・クネ)大統領は23日夜(日本時間24日未明)、中国の習近平国家主席と会談し、初代韓国統監を務めた伊藤博文を暗殺した安重根の記念館が1月に中国のハルビン駅に開設されたことを評価した。韓国大統領府が明らかにした。』『習氏は会談で「私が記念館建設を指示した。両国国民の(安重根への)思いを強め、(中韓の)重要な結び付きとなる」と切り出し、朴氏が「両国国民から尊敬される安重根義士をしのぶ記念館は、友好協力の象徴になる」と応じた。』(MSN産経ニュース)というのがあるが、中国は大丈夫なのだろうか。抗日の英雄を認めたとなると、ウイグル人やチベット人などの抗中の英雄たちを認めないわけにはいかないだろう。あちらが英雄でこちらがテロリストではダブルスタンダードもいいところだ。ウィキペディアによると、事件が起こった当時の日本では、『事件当時、明治日本の右翼人士や知識人は、安重根は単身で要人暗殺テロを完遂した汎アジア主義者の志士であるとして、動機と犠牲精神の純粋性に共感する傾向があり、助命嘆願をする者もいたほどだった。』『夏目漱石も元首相の暗殺には驚愕しつつも、安は独立活動家であるとその動機を判断していた。被害者の1人である中村是公は漱石の親友でもあった。』と安重根の行為を評価していた人たちもいて、親友を危うく巻き添えで殺されかけた夏目漱石までもが共感を寄せていたらしい。国家としては敵は敵で、敵の敵は味方ということなのだろうし、イラクのフセインなんかも、敵のイランの敵だった頃はアメリカの味方だったわけで、その辺はよくあることなのだろうが、そうやって平然と損得勘定で二重規範を適用する、国家と国家に属する人たちと、それと一線を画する在野の人たちとの間で、どちらが誠実なのかは火を見るよりも明らかかもしれないが、それもその時の立場や状況によって態度がころころ変わるのは致し方ない、と思えばいいのだろうか。例えば日頃から在野で反骨ジャーナリストを気取って体制批判などを繰り返していた人が、いったん体制側に取り込まれて、国家に属する人になったとたんに、手のひらを返したようにダブルスタンダードを用いて利いた風な物言いとなってしまうのも、よくあるパターンだろうか。それはある一方向で視線や見方や考え方が固定されている人にとっては、納得できないことなのかもしれないが、ではそれを批判しているお前はどうなのか、と問われれば、たぶんそういう立場になってみないとわからない、と答えるしかないか。例えば満州事変から1945年の敗戦までの対中米英15年戦争当時に、治安維持法などで検挙されて獄中非転向を貫き通し、生き残った共産党員などは偉いとは思うが、ただ偉いだけで、実質的に何か偉大な業績を残したわけでもなく、単に日本で革命を起こそうとして、失敗して捕まっていただけのことでしかない。そんなことで威張られても困った人たちにしかならないだろう。


4月18日

 そこで誰が批判されているとも思えない。お高く止まっていては何もできず、媚び諂うこともいとわなければ何も得られないとしたら、人は迷わずそうするだろう。それも戦略の一環と思えばいいだけか。そういう人が何かを成し遂げられるとしたら、それでかまわないわけか。実際にそれを批判するのは負け犬の遠吠えとなってしまい、それもそれである程度の需要が見込めるのかも知れないが、ともかく生きるためにはその場での損得勘定が必要不可欠か。でも相変わらずそこで何を述べているのでもなく、高望みして何も得られないのを承知するなら、やはり迎合的で人畜無害な物言いは避けたいところか。それを貫けるうちは貫いておいた方がいいということか。たぶんそれが間違っているとしても、あえてそこは間違っておかなければならず、それも戦術のうちだと自らに言い聞かせているふりをしながら、本当のところは何を考えているのかわからないように振る舞っているつもりなのだろうか。その辺が見え透いているのに一向に改まらず、曖昧な態度のままにとどまり、他にどんな態度ができるわけもなく、そんなことを述べている自身もさっぱり理解できず、わかっているのに何だかわからないふりもしているらしく、別にそれで誰を煙に巻いているつもりでもないようだ。たぶんそんな方法論ばかりでは何も語ったことにはならず、それ以外の何かがほしいのかも知れないが、それがわからないわけか。現状では何ももたらすつもりもなく、それとは別にひらめいたことを語るだけのようだ。それが好ましいとは思えないが、そんなふうにしか語れないのかもしれない。しかしそれで何を語ったことになるのか。

 たぶんそれでも何かしら語っているのだろう。でもごまかしがいつまでも通用するとは思えないか。どこでどう通用しているわけでもないのだろうが、何となくそこに突破口が開いているような気がするのかもしれず、そこに向かって無闇矢鱈と言葉を投げ込んで、とりとめのない文章を記しているつもりになりたいらしく、それが間に合わせの何かをもたらしているわけか。気分といっても差し支えないようだ。誰かがそんな気分がもたらされていることに困惑しているのだろうか。困惑しているふりをしているのかもしれず、気持ちの動揺を隠しきれていないように装っているのではないか。要するにそれは演技なのか。表向きはそう見せかけておきたいのだろう。そんなふうに振る舞うことで、他人を安心させたいのかもしれず、あわよくばその安心につけ込んで、自らに有利な状況へとその場を誘導したいのだろうか。だからその辺でいろいろと画策しているようで、今はそれを悟られてはまずいのだろうし、慎重に事を進めるためにはそんな演技が欠かせないわけか。でも依然としてどのように事を進めるべきか迷っているようで、方針が決まらないうちは、こちらの意図や思惑を悟られないように、言葉を選んで適度に本音と建前を使い分け、思わず本音を漏らしてしまう機会はなるべく減らしていかなければならないのだろう。でもあくまでもそれは作り話の範囲内で、架空の誰かが思っていることではないのか。なぜそうなるのか。誰がそう思うのか。誰にそう思うきっかけがあったとは思えないが、何だかじわじわとそう思わざるを得ないような心境に追い込まれているようで、そんな雰囲気を無意識が敏感に感じ取っているのかもしれない。良くない傾向だろうか。とりあえず状況に惑わされていることは確からしい。

 まあ関係のないことかもしれないが、意外とロシア国民の大半は、他の東ヨーロッパ諸国民と同様に、ロシアもEUに加盟すればいいと思っているのではないか。今はプーチン&メドベージェフによるごり押し政治になす術もなく従わされているようだが、何かのきっかけで彼らがいなくなり、他の穏健な政治指導者が現れたら、間違いなくEUへの加盟を支持するような気がするが、あと何年彼らが政権の座に居座っていられるのだろうか。中国とは違って表向きはロシアは複数政党制の議会制度を採用しているわけだから、中国よりはスムーズにそうなる可能性もなきにしもあらずのように感じられるが、その辺は日本にも言えるかもしれないが、欧米のようにドラスティックに政権交代が行われるほど、官僚機構に携わっている人々の間に、割り切った政治観が浸透していないようにも思われ、どうしても自己保身のために、自分たちと結託しやすい特定の政治勢力が、政権を担当しやすくなるように、様々な方面でいろいろと便宜を図ってしまうような成り行きになってしまっているのだろうか。結局欧米諸国のように右でも左でもどちらが政権を担当しても、やっていることは大して違わないようになれば、官僚機構も安心して政権交代を許す気になるのかもしれないが、そう述べてしまっては身もふたもないわけで、結局今の制度のままでは、世界のどこでも民主主義なんて建前でしかなく、実質的には官僚機構と産業界とメディアが結託して、人々はそれらの思惑通りに誘導されるがまま、何やら都合のいいような世論が形成されて、その世論の許す範囲内で選ばれた政治家たちが、政治家の役柄を演じさせられているわけで、ともかく今ある制度が民主主義的な体裁を取り繕うには、それらに携わっている人たちの善意に期待するしかなく、そうしないと民主主義の見せかけを維持できなくなってしまうわけだ。そういう意味では、実質的には階級社会であったり、カネがものを言う弱肉強食の市場経済であったとしても、建前として民主主義の体裁を保っていられるのは、そういった善意の政治家を演じている人たちが、欧米には多いということだろうか。やはりプーチンみたいな本音でものを言い、いざとなったら実力行使の人は嫌われる傾向にあるのだろう。


4月17日

 それは当たり前の前提だ。人は住んでいる地域につなぎ止められ、その地域特有の思考形態にとらわれている。それで何を納得したいわけではないが、そこでその人が生きている時代の風潮にも影響を受けているのだろう。要するにそこに限界があるわけだ。例えば古代に岩や洞窟に描かれた壁画が何を意味しているとしても、それは現代人が想像する範囲内の意味でしかない。それをいくら眺めても、古代人が当時それを眺めていた感覚とは何かが違う。そう思うのも現代人の想像でしかないが、それだけで古代人が思っていたこととは違うわけだ。また古代人にはそれらの壁画を観た未来の人々が、それをどのように思っているかなんてわかるわけがないか。当時の人々からすれば想像の範囲外だろう。それは想定外の何かであり、壁画自体は当時の人々の想像の限界を超えた何かを、数千年から数万年後にそれらのを見ている現代人に語りかけているわけだ。

 聖書に登場する預言者たちは当時の人々に何を訴えかけていたのだろうか。その時代や地域特有の風潮や情勢にとらわれた思考から導き出された何かか。彼らは彼らがとらわれている諸々の地域的時代的な背景の限界の範囲内で、神を実際にその目で見たと思い込み、その存在を堅く信じて、神から発せられたメッセージを受け取ったと感じ、それを当時の人々に伝えようとした。そこに何がしかの迷信や真理が含まれていようと、現代人はそう解釈するしかないだろうか。聖書にはそれ以外の何が語られているわけでもないだろう。預言がその場しのぎの浅はかな欺瞞に満ちた内容なら、たぶんすぐに忘れ去られて、現代までは残っていないのではないか。長い年月を経ても残っているだけの理由がそこにはあり、人々の心を打つ普遍的な何かがあるのかもしれず、預言の書にはそれが記された当時の地域的時代的な限界を超えた何かが記されているだろうか。その限界の範囲内にとらわれた人々から生じた何かが、限界を超えた何かを発しているわけだ。

 その時代を超え地域を越えてもたらされている何かとは何なのか。少なくともそれはその時代特有の何かでもその地域特有の何かでもない。しかし人々が現に求めているのは、時代にも地域にも縛られない何かなのだろうか。たぶんそうではない、その時代限定の、その地域限定の、その時代に流行している何かをその時代の人々は求め、その地域特産の何かを特産品としてありがたがって求めたりするのが、よくあるパターンだろう。要するに人々は相変わらずその時代や地域特有の風潮にとらわれ、却って限界づけられとらわれていることに快感を感じていたり、中にはそれを誇りに感じている人たちさえいるわけだ。日本国を愛し、日本人であることを誇りに思い、そのことを大前提として、そこから世界に向けて、時代や地域にとらわれない普遍的な何かを発信しようとしているわけか。狂気の沙汰だろうか。それとも彼らこそが現人神から啓示を受けた現代の預言者たちなのか。そういう意味でなら、普遍的な何かとは、それらの人たちの心に宿っている大和魂といえるかもしれない。しかし大和魂が時代や地域を越えた世界に通用する普遍的な精神だとすると、例えば日本がワールドカップで優勝して、まさに大和魂が世界に通用することを証明してみせなければならないのではないか。何だかスポーツ新聞の太文字見出しのようになってきた。


4月16日

 何を相手に批判を繰り返しているわけでもないだろうが、さらにそこから逸脱してしまう気配を感じている。無意識の領域を理解できないのは当然としても、意識が捉えきれていないところで何か考えているようで、時折はっとさせられるような記憶が呼び覚まされ、その何かの拍子に偶然引き出された過去の記憶を意識せざるを得ないのだが、それをどうすればいいのかわからず途方に暮れていると、またそれとは無関係に思えるひらめきが降りてきて、さらにわけがわからなくなってしまうのかもしれない。いったい神は何を思考せよと迫ってきているのだろうか。それは神ではなく自分自身なのではないか。無意識が意識に問いかけているわけか。何を問いかけているのか理解できないのに、問いかけていると思っているのだからおかしい。思い違いなのではないか。そうかもしれないが、そう思っていることにしておいてもかまわないような気がして、とりあえずそう思い込んで、そこから先に考えを巡らし、何かを探求しているつもりでいたいらしい。何だかわからないが、そのわからない何かを探求しているのだろう。安易にそれを世間の話題と結びつけるわけにはいかないか。でもそうしないと話にならないのではないか。

 雨の景色に続いて表面に映っているのは、夜明けの光景かも知れない。またそんなとりとめのない画像を眺めている。いくら眺めても何を思いつくわけもなく、画像の中心で背を向けている孤独な人影を見つめるばかりだ。ただの人影であり、たぶん興味のない話題を抱え込んでいるわけではない。それについて安易に語れば語れないこともないだろうが、何となくそれではくだらないことのように思われ、気乗りがしないらしい。しかしそんな光景がどこにあるというのか。何事も安易には語れず、どこにも何も見当たらない。それが嘘なのではないか。もうすでに夜明けの光景からは遠い。時がだいぶ経っている。

 少し音程が外れているようだ。誰が歌っているのでもなく、それを聴いているだけなのではないか。幻聴が鼓膜を震わせているわけでもなく、頭の中で響いているのかもしれない。意識が先祖返りしているのだろうか。昔そんなことを語っていた記憶が不意によみがえってくる。誰もがそれを知っていて、いちいち指摘しなくても余計なお世話なのに、なぜかそれを指摘せずにはいられないのだろう。知っていることを確認したいのか。いちいち指摘するまでもなく、今となっては誰も知りはしない。よみがえることなど誰も望んでいないはずだ。だから意識は自然と虚無と戯れ、何もない現状を謳歌しているのだろう。それでかまわないと思いたいのだ。そこで何が試されているのでもなく、誰のもとに試練の時が訪れているのでもないらしい。

 腑に落ちない。また雨の景色が映る。すでに飽きてしまったようだ。でもまだ満たされていないのだろう。満ち足りた気分からは遠い。虚無だけでは満たされないか。それで何を満たそうというのか。チュニジアの夜も遠いだろう。スタンダード・ナンバーのようだが、その一つが異常に速いテンポで演奏される。他は通常のテンポのようだ。ラッパーの好みなのだろうか。虚構の語りがその理由を解き明かしているわけでもなく、どうでもいいような理由付けも不要で、さらに飛ばしてしまうらしい。お目当ての決まり文句を求めていた者たちは戸惑い、それ以上は何も文句を言えなくなる。彼はそれで終わりなのだろうか。それともさらなるスピード感を求めているのか。別次元のスリルを味わいたいのか。味わうには塩気が強すぎる。いくらスピード上げても、堂々巡りではどこへもたどり着けない。目標が定まっていないのだろう。定めようとせずに、ひたすらその辺をぐるぐる回っていたいだけではないのか。時折突拍子もないような奇声を上げるが、チンパンジーのたぐいだろうか。声が裏返るのは興奮している証拠か。

 たぶんそれらの言葉の連なりは空想の産物なのだ。それ以外に封印を解除すべきではない。日々が日々なのであり、それ以外の日々があるとは思えない。それが退屈な日々であるわけがないのだろうか。思うところは別にあるようだ。外部からもたらされるリズムなのだろう。それによって内部のリズムが狂わされ、場合によってはリセットされ、始めから語り直さなければ気が済まなくなり、それからどうしたのか。何か他に気づいたことでもあるのだろうか。311と911が素数だということに気づいていたのは誰でもなく、素数は無限にあり、ありふれた数なのだろうが、何やらそれにまつわる出来事に魅了されている人も少なくないようで、偶然の一致を必然と見なして、陰謀めいた妄想に耽りたいのかもしれない。誰にとっても特別な出来事を見出したいわけだ。どこかの集合住宅の屋上に設置された給水塔の横に佇み、ヘッドホンで音楽を聴いている人もいるらしく、空を見上げながら何を思っているのか知らないが、そこから下を覗き込めば、地面に這いつくばって何かを必死に探している誰かの姿を確認できるだろうか。ちょうどその時間帯に外へ出ていたのだろう。そこで突然の出来事に遭遇したわけか。何を空想しているわけでもなく、他の誰かが思い描いているのは崇高な理念だろうか。

 どこまで知っているのかは知らない。知る必要さえないのかもしれない。メヌエットとは何だろう。首を傾げながらも知っている程度のことは知っていると思い、大したことはないので、それとは別の何かについて語ろうとしてしまう。いくら画面を睨みつけても何も出てこないようだ。ソファーは人を怠惰に導き、くつろぐだけで何もしようとしなくなる。人はそうやって人本来のたわいのなさに近づいていく。猫も一緒だろう。その場が残酷な現実からの避難所と化しているようで、いっときでも労働に縛られている現実を忘れたいのかもしれない。でも実際には遠ざかるわけにはいかないのだろう。そこで考え込んでしまうわけだ。果たしてそれでかまわないのだろうか。でも結論が出ているわけではなく、さらなる模索が必要とされているのではないか。何を模索しているのか知らないが、幻想の出口などには見向きもせず、ひたすら迷路と戯れ、その醍醐味を味わい尽くそうとしている。いつまでもそこに捕らえておこうしている虚無が疲れる機会を狙っているのだろうか。疲れたら隙が生じるとでも思っているのか。たぶん偽りの出口から抜け出ようとしている人たちは金持ちになるしかない。金持ちになってからそれ特有の苦しみを味わうのだろうか。それが苦しみだと思わないうちに、働き尽くめのうちに死んでしまえばいいわけか。たぶん人は愚かにならなければ楽しめないのかもしれない。馬鹿げた享楽にその身を預けられるほど愚かにならなければならないのだろう。


4月15日

 自業自得かもしれないが、身の回りを取り巻いている空気を読んでいるわけではない。心が乾いているから湿気を引き寄せるまでもない。引き寄せると何がもたらされるのか。言説の中身がよりいっそう空疎になる。それでも乾いているから快適なのか。空気が乾いているのだろうか。それが何の理由にもなっていないのはいつものことだが、戯れとしてはそういう理由がないわけでもないのだろう。本当はちゃんとした理由があるのではないか。それの中身が空疎なのではなく、たぶんそれに関して記された言葉の連なりを読んでいるだけなのかもしれない。そしてそれに関して語る理由を模索している。その場の意識がそうさせるのか。どのような意識があるわけでもない。迷いがあるのはいつものことで、頭の中で組み合わせている言葉の連なりが気に入らないようで、もう少し読み進めてみないとわからないと思い、さらにわけのわからない内容の文章を我慢しながら読んでみる。相変わらず面倒なやり方に固執しているようだ。それでもやってできないことはないのだろう。できてしまうからうぬぼれが生まれ、さらにでたらめな罠にはまり、どうでもいいようなことを延々と述べてしまうわけだ。君が抱えている問題はそんなものではない。心の荒廃をもたらしている当の現象を説明しようとして、それが果たされていないことに気づかされているわけだ。何によってそうなのだろう。そうなる理由を求めているわけでもない。では何なのか。その辺でわけがわからなくなってしまうようだ。頭の中がこんがらがっている。

 何のたとえでもない。普通に相対化して語れば良いものを、なぜか日本の独自性を言い募ることとなり、結局は自己正当化の言説となってしまい、そんなふうにして日本人の自尊心をくすぐりながら媚を売っているわけだ。やはり商売とはそういうものなのだろう。突き放して語ることができずに、批判するにしても、国内の仮想敵として左翼的なレッテルを貼られた新聞を口汚く罵り、それで溜飲を下げたつもりになっているわけだ。残念ながらそういう傾向は否めないか。でも具体的には何を主張しているのだろうか。君は何も主張していないのではないか。もうわかったということか。これ以上は何も主張しなくてもかまわないのではないか。すでにすべてが破壊し尽くされている。別に怪獣が街を破壊したわけではなく、価格破壊の激安チェーン店やネット通販よって、業界のしきたりが破壊されているわけか。商品の流通マージンが得られなくなっているわけか。中間搾取がなくなってよかったのではないか。あとは広告宣伝費をいかに節約するかにかかっているわけか。たぶんそういう方向で努力していけば、世の中の構造が単純化するだろうか。手間がかからなくなり、その分人手がいらなくなってしまうだろうか。余った人はどうすればいいのだろうか。少子高齢化が加速しているから、黙っていても人が減っていって、それも自然の摂理だろうか。それは神の見えざる手が働いている証拠か。右翼が憲法改正によって、国家宗教の教義を変えようとしても無駄か。もう間に合わないのではないか。でも何が間に合わないのだろうか。何を間に合わせようとしているのでもないのだろう。現実には何もやっていない。

 少なくとも戦争には間に合いそうもない。する手間もかからず、する前に無縁となってしまうのだろう。何と無縁となってしまうのか。破壊と創造のただ中で、人は戸惑うばかりのようだ。誰がそれを予想していたのでもない。別に無理に予想する必要はなく、大げさに予言することもなかったようだ。酒とバラの日々でかまわなかったはずだ。深刻ぶらずに余裕こいて日々を楽しんでいれば、やがて天国に召される日が訪れる。求めているのは気休めと気晴らしの繰り返しであり、興味のある出来事の結果に一喜一憂し、そこに喜怒哀楽の感情を差し挟みながら、時が過ぎゆくにまかせ、危機感を煽っている人々を訝しむ。そんな境遇になれたら幸せだろうか。何を焦る必要があるのか。焦ったところでなるようにしかならないだろう。冗談でそんなことを述べているのかもしれないが、いい加減なことを語って、自分自身を欺きたいのか。他に何を欺けば気が済むわけでもないらしい。欺こうとしても欺けない誰かが心の中にいて、それが君を操作しようとしているのか。たわいのない妄想に過ぎない。何をやってもうまくいかないだろう。そんなふうに語れば済んでしまう。何もかも済んでしまうわけではないが、すべては戯れ事の範囲内で行われていることだ。それなりの手順を踏んで出された提案も、期待された効果を上げることもなく、文句が出ているのでやってみました程度のことにしかならない。無駄で無意味な行為を千回やれば、そのうちの一回か二回は効果を上げるのではないか。期待されているのはその程度のことでしかない。だから腐らずに何度でもチャレンジしてみるべきか。それを真に受けるか気休めとして受け取るべきかは、誰次第でも君次第でもなく、その場で振った賽の目が決めることだ。


4月14日

 否定的な見方になるのは致し方ない。物事や現象を単純化して捉え、それに自らの考えをかぶせながら語るのもよくあるパターンか。でもそうしないと何も語れないだろう。そんなことに関心を持っているのだろう。語ることで社会に関与したいわけだ。でも単純化するとはどういうことなのか。それを言葉で説明すれば、その時点で単純化したことになるのだろうか。要するに単純化しなければ説明できないということか。というかそういう説明でないと理解できないのではないか。そうしなければ何を説明したことにもならず、何を理解したことにもならない。それ以外の説明はないし、理解もあり得ない。いったいそれ以外にどう説明すればいいのだろう。そしてそれをどう理解すればいいのか。説明せずに物語ればいいのだろう。説明することと物語ることはどう違うのか。似たような意味なのではないか。では要するに説明したり物語ったりすればいいということで、それ以外はあり得ないということか。そう思っておけばいいのではないか。それが物事や現象を単純化して捉えているというなら、そう思っておけばいいということか。安易な出口はないようだ。でも別に説明と物語の呪縛から解放されたいわけでもないのだろう。それ以上の何が求められているわけではなく、その必要性を感じているのなら、それについて説明したり物語ったりすれば事足りるはずか。現にみんなそうしているのではないか。何もその中で君が逆らうことはない。現に逆らわずに説明したり物語ったりしているのではないか。やはりそれを否定せずに肯定しなければいけないわけだ。でもいったい何を説明したり物語ったりしているのか。たぶん何かについてそうしているのだろう。そうやって放っておけばいつまでもしらばっくれているようだ。

 そのやり方には限界が見えている。見えているのにその限界を超えることはできず、向こう側に突き抜けることもできないわけだ。それを試みているのにうまくいかず、それらの試みはことごとく失敗に終わっているのだろうか。失敗に終わっているという自覚すらないのかもしれない。だからいつまで経ってもそれらの呪縛の中で試行錯誤を繰り返し、同じようなことを延々と説明したり物語ったりしているわけか。今もそうなのではないか。いったいそれの何が呪縛なのか。そんなことを述べていること自体がそうなのか。わざと呪縛にとらわれているとは思えない。わかっているのだろう。わかっているから呪縛にとらわれる。本当は何を説明したくもないのかもしれない。ただ説明せずに物語ればいい。それだけのことだろう。説明と物語の意味的な差異など無視して、さっさと物語ってそれを済ましてしまえばいいことでしかない。今までもそうしてきたのではないか。悩むことなど何もないのかもしれない。何もないから悩んでいるのかもしれず、空疎について物語ろうとしているのではないか。たぶん何を空想しているのでもないはずだ。もったいつけて説明することなど何もなく、ただありのままを物語ればいい。それができないから恣意的な付加価値をそこに導入しようとしているわけか。他人からあるあると同意を得たいから、世の中の風潮に染まろうとして、流行りの言説を駆使して、より多くの共感を呼ぶようなことを語りたいわけだ。そしてあわよくばそこから利益を得たいのであり、世間の同情や共感を得るべく工夫を凝らして語った分の、見返りや報酬がほしい。よくぞそこまで語ってくれたというお褒めの言葉もほしいのではないか。それが彼らがとらわれている呪縛だろうか。でも果たしてそういう誘惑に逆らいつつ語ることができるだろうか。逆らえば非難されたり無視されたりするだけか。しかしそういう語りを求めている世間とは何なのか。そういう語りを遂行する人たちが、時には互いに互いを褒め合いながら、また時には些細なきっかけから反目し合いながらも、全体としては同じような語りを共有する仲間としてスクラムを組んで、メディアという集合体を形成していて、そのようなメディアによって表象されている全体が世間なのではないか。

 そしていったんそういう言説の流通回路上に組み込まれてしまうと、それについて延々と語らなければならず、ともかく世間から飽きられるまでは語り続けるのだろう。誤動作して突然世間の意向に逆らうようなことを語り始めたり、耐用年数が過ぎた部品は取り除かれて廃棄され、その時々の社会情勢に沿って回路の設計も変更され、それにふさわしく新たに基盤が組み直され、世間を操作する目的に応じて、より効率的にそれに見合った言説が流通するような仕組みが、その都度構想され、いったんは出来上がるのかもしれないが、それが安定動作しているうちは平和を保っていられるのかもしれず、もちろんその平和のうちには、貧富の格差やそこから生じる様々な対立や犯罪などの矛盾も織り込み済みで、全体としてその構造が維持継続されながら動作していればいいのであって、それを表象している国家が存在していて、この世界が様々な国家に分割されていて、その中で各国家同士が同盟したり反目し合っている状況そのものを、それらの動作が物語っているわけか。やはりそれは面倒な世の中だろうか。君はそのような仕組みを肯定したいのだろうか。たぶん否定するのは簡単で、そこに生じている様々な矛盾をあげつらって否定するのは容易いのだが、果たしてそれでいいのだろうか。いいと思わないならどうすればいいのか。肯定も否定もせずに、そのような構造に替わる、より納得できる新たな構造を提示しなければならないのだろうか。世間にはそういうことをやっている人もいるのだろう。


4月13日

 誰かが考えあぐねているようだ。もう言うべきことは言ってしまったのだろうか。言ったとしても曲がり角を曲がればまた別の曲がり角だ。街中の道はそうなっている場合が多い。郊外に出ればまた一直線に進んでゆける。どこへ行こうとしているのかわからないが、さっきから前方が気になっているわけでもないのだろう。空想の中では結果を得られないようで、それが重荷となっているのだろうか。それ以上の何があるわけでもない。たとえ負荷がかかっているとしても、それが外れてしまったら何も残らない。重荷に耐えながら苦しがっているうちがちょうどいいのではないか。誰がそれを求めているとも思えないが、隠喩として重荷にどのような意味を込めても、語る対象が得られていないのだから、何も語りようがないのではないか。でもそこから逃げるわけにもいかず、しばらく言葉を記しかけの画面とにらめっこか。そのまま逃げられずに立ち往生となるのだろうか。どこへ逃げても追われる身に変わりはない。だからその場で考えあぐねているようだ。もはや指名手配犯の心境だろうか。そういう嘘では取り返しがつかなくなる。安易な言動に煽られているとも思えないようだ。論理のすり替えだろうか。それもあるかもしれないが、そうなってしまう理由もあるにはあるのだろう。それについてはあまり正面切って語りたくないのかもしれない。語らずに何とかごまかしながらここまで来たようだ。ただ文句があるだけか。それを賞賛できないのだろうか。何を誉め称えたらいいのだろうか。褒めるにはタイミングを逸しないようにすることが肝心だろうか。その気もないのにそれはない。公園のベンチに5人で座ることもない。昼寝の最中なのだろうか。そんな画像を眺めている。20年ぐらい前の写真だろうか。今ではもう何もなくなってしまったのではないか。いつも頭に浮かぶのは何もない光景でしかない。何にもならないことが何かをもたらしている。否めない現実だろうか。そんな現実を生きているのかもしれず、安全で人畜無害な人たちがそこで生かされている。日本とはそういう国なのだろう。そこでも何か葛藤があるのかもしれず、そうではない有り様を夢見ているのだろう。そうなってほしいのかもしれず、そうなろうとしてなれない現実に落胆しているわけか。だから時折しびれを切らして誰かが事件を起こしてしまい、取り返しのつかない事態となり、なるほどそこから指名手配犯となり、追われる身となってしまうわけか。でも君に似た手配犯はすでに死んでいて、その顔もだいぶ前に手配リストから外れてしまったのではなかったか。君が何に追われているとも思えない。追っ手を逃れてどこかに潜んでいるわけでもないのだろう。公園のベンチに座っていた5人組もだいぶ前に散り散りとなって、今ではそのリーダー格が別の徒党を組んでいるはずだ。他の連中の消息など知ったところで興味はないわけか。人はそんなふうにして離合集散を繰り返しながら、何かをやり続けているのだろう。何を憂う必要もないのかもしれない。勝手に生きて勝手に死ねばいいだけか。投げやりに考えるならそうなるかもしれないが、それでは済まない場合もあるのだろうか。何を念頭に置いているわけでもないのだろう。

 何に従う必要もない。カネを稼げればいいだけか。そこが問題なのかもしれない。それとは違うやり方にいきなり移行するわけにはいかず、そうかといっていきなり移行しなければ、今までのやり方をずるずるとやり続ける羽目となり、やはりそこから逃れることは叶わないわけだ。だから何に従う必要もないのに、カネを稼ぐやり方には従わなければならない。切羽詰まってどうにもならなくなれば、カネ目的の犯罪に手を染めなければならない。合法的にやるわけにはいかないのか。合法的にできなかった場合は、非合法な金儲けに頼るしかないわけか。でもやったとしても必ず成功するわけでもないのだろう。その辺が面倒な世の中だ。冗談だとしても生きにくいか。あらゆる手段を使ってでもカネを稼ぎ、生き続けられる限りは生きてゆかなければならず、生きてゆけなくなったら死ぬしかない。果たしてそれでいいのだろうか。フィクションの世界ではありふれた話だろう。それが無駄で無意味な行為なのかもしれず、結局そうやって多くの人々が身を滅ぼしてしまうのだろう。でも実際はそれより遥かに多くの人たちが、そこまで追いつめられないうちに何とかしようとするのだろうし、現実に何とかなってしまうのかもしれない。そうなる人とそうならずに犯罪者となってしまう場合があるのだろう。そうなるかならないかの差異は、その時の社会情勢とその場の偶然の巡り合わせみたいなものか。君もそれに賭けているのではないか。今のところはわからない。まだそこまで思い詰めるような状況ではないのかもしれず、要するにいつものように本気になれないのだろうか。もしそういう状況に追い込まれたとしても、果たしてそこまでやる必要があるのか。この世界に本気で取り組まなければならない行為があるとは思えず、みんな冗談半分でやっていることに過ぎないのではないか。また例によってそんな嘘をついてみるが、気が晴れないことは承知で、それが確かな実感として心の片隅に残りつつも、結局もやもやした気分のまま、金儲けとは無関係なことを延々とやっているわけだ。それが何に結びつくとも思えない。そこまでやる必要はないのかもしれない。誰も望んでいないようなことか。要するに誰も望んでいないようなことをやりたいのだろう。そういう結論に持っていきたいわけだ。他に何をやるべきでもないのかもしれず、やる必要もないのだろう。やろうとしてもやりきれないのかもしれない。そんなわけで相変わらず語る必要のないことを語らざるを得ない。なぜそうなってしまうのだろうか。世の中がおかしいからか。それと君の頭の中身もおかしい。


4月12日

 何に巻き込まれているとも感じられないのに、知らないうちに巻き込まれている。また心がそこから離れてしまったらしい。意識の中で何かが折れ曲がっている。やはり大げさな話だろうか。何がそうなのではなく、そんな成り行きを想定しているだけか。何か心配事でもあるのだろうか。過去の話に違いない。今につながらない話だろうか。今も過去も関係のない話かもしれず、要するに架空の作り話なのだろうか。内蔵がいかれて死ぬのはよくある話か。日頃の不摂生が祟ってしまうのかもしれないが、不摂生に及んでしまう原因があるのだろうから、不摂生を招くような環境に身を投じている人にとっては、今さらどうしようもないことか。人は自らがおかれた環境が原因で病に罹ってしまい、そしてそういう環境の中でしか生きられないとすれば、そこから抜け出すわけにはいかなくなり、その環境がもたらす病とつきあいながら生きていくしかないのだろう。そうなりたくなければ他の環境に身を移せばいいだけなのだろうが、そうはいかない事情があって、どんな事情か知らないが、要するにそこでとらわれの身となっているわけで、何だか面倒くさい成り行きとなっているようだ。でもくじけるわけにもいかず、そんな成り行きに抗いながら、何かをやる羽目に陥っているわけか。どう考えても割に合わない話だ。どうせまた何かの作り話なのだろう。それについて考えようとしてはだめで、考えざるを得ないのに考えてはだめらしい。それはどういうことなのか。やっていることがことごとくうまくいっていないということか。やはり割に合わないことをやっているのか。まだその段階になっていないだけか。だからもうしばらく探ってみてから判断するとしよう。始めからそのつもりだったのではないか。何を語ろうとしているとも思えず、答えを求めているわけでもなく、問いを発しているわけでもないか。どうでもいいような問いなら無限に問いかけているのかもしれないが、そこから納得できるような答えを導き出そうとしているのでもないらしい。数限りない何かに取り囲まれて、それらからの作用を避けるわけにはいかないから、何事も思うようにはいかず、逆に思っている以上の何かがもたらされているのであり、その思いを超える何かを受け止めることができないのだろう。でも何かとは何なのか。それはそんなことを思っている主体とは無関係な何かなのかもしれず、誰も気づかないところで、そんな何かがもたらされているのだとすれば、それは誰とも関係のない成り行きなのではないか。ではそれはどうでもいいことなのか。でもそんなどうでもいいことに人々の心がとらわれているとしたら、それは誰にとってもどうすることもできないような成り行きなのではないか。それが今あるような世界を構成しているとすれば、それを変えるなんてまったくの不可能だろうか。でも現に多くの人たちが変えようとしている結果がこれなのだろうから、わけのわからない水準でも何かが刻一刻と変化し続けているのではないか。だから誰もが絶えず状況にコミットし続けているのだろうし、何らかの主張とともに批判し続けているのではないか。それが今はわからないとしても、後からだんだんわかってくるのかもしれない。

 しかし何について語っているのだろうか。途中からわけがわからなくなってきているのかもしれないが、まだくだらない妄想にとらわれているのか。それに巻き込まれながらわけのわからないことを語っているのかもしれず、精神のトランス状態を体験しているわけか。見せかけでしかなく、ユーチューブでも観ながら、そんな雰囲気を探っているのかもしれない。そうでもしなければ間が持たないような気がして、そんな偽りの気分で何かを考えている。まあどうということはない。今さら何を批判する気も起こらず、どこかの新聞が日本国内で日本人に向けてアメリカやオバマの批判を繰り返して、無駄な悪あがきをしているようだが、それがアメリカやオバマに伝わるとは思えない。アメリカの議員か何かがアメリカのメディアで日本批判をすれば、それがすぐに日本のメディアを通じて日本国内に伝わるのだろうが、日本の議員がそれをすれば、たちまち日本国内で批判され、自粛ムードが漂ってしまうのには笑ってしまう。それが腹立たしいのかどうか知らないが、日本の保守系メディア自らが、自粛ムードの議員や官僚の代弁者となって、しかも日本国内向けにアメリカやオバマの批判をするのも情けないか。何か日本の保守系の言論人などが、向こうのメディアにそういう批判の内容を堂々と投稿できるようなシステムがないのだろうか。それともすでにそういうことをやっている人がいるのだろうか。実際にそんなことをやればかえって事態がこじれるだけか。それとも向こうのメディアははなから日本の保守系メディアなど相手にしていないのだろうか。その辺は向こうの保守系メディアはどんな論調なのだろうか。果たして日本の国家主義的な勢力の台頭を危惧しているのは、向こうのどのような勢力なのだろうか。普通に考えれば左翼系メディアのような気がするのだが、欧米の右翼系メディアが日本のそのような傾向を歓迎しているという話を聞かないはどういうわけなのだろう。その辺に報道の偏向があったりするわけか。


4月11日

 新聞の一面を覆い尽くしているのは誰の顔だろうか。有名人の顔なのだろう。どこかの有名人が見果てぬ夢を追い求めているのではないか。ともかくそんな顔を売りにして、その新聞が少しでも多く売れてほしいという願いなのではないか。新聞を販売している業者がそう願っているわけか。その新聞を発行している業者がそう願っているのではないか。それも見果てぬ夢か。まだ滅び行く産業でもないのだろうが、それでも一応は生き残りをかけているのではないか。有名人の顔でか。それがセンセーションを巻き起こしているわけだ。でもすぐに消えてしまうのではないか。それは今後の成り行き次第かもしれない。そういうのを吹き飛ばすような大事件が起これば、みんなそっちの方に気を取られ、件の有名人も大助かりなのではないか。その場の感情がいつまでも残るはずがない。人々の関心も移ろいやすく、それについて根掘り葉掘り語り尽くされ、もう新事実が何も残っていなければ、つまらなくなるからそこでおしまいか。ない袖は振れず、それでも無理に語ろうとすればねつ造するしかないだろう。ねつ造ではないと言い張っているのだから、そうではない証拠を見せなければならなくなり、それにはまだ時間がかかるということか。そんなわけで引き延ばされてからどうなってしまうのだろうか。今度はどちらが謝罪しなければならなくなるのか。相変わらずのマッチポンプなことをやって、その瞬間は良かったのだろうが、いつものことで、万が一そうなってしまったら知らぬ存ぜぬを決め込むのだろうか。しらばっくれるしかないだろうか。いつもそんなふうにして時が経ち、何かをやり損ねているわけだ。他人の顔で商売してしまったのだから、それ相応の責任を取らなければならないだろうか。まあそのときになって、何を追求するのか見物だが、それが理にかなったやり方なのだろう。それ以前に人心が疲れてしまったのかもしれず、そこまでのことだったと割り切ってしまう人も多いのではないか。見せ物になるとはそういうことなのだろう。そこに人を惹き付ける磁力があり、磁場が作り出す磁力線に沿って踊りだし、そういう成り行きに割り振られた役を演じてしまう。それがよくある話なのか。よくある話になってしまうところが救われない。でもやはり後から思えばそうなってしまい、それで何を語っていることにもならないのだろうが、人の善意に寄りかかるわけにはいかないらしい。そこに至るまでに積み重ねてきたそれなりの実績があるのだろうから、それは認められなければならないのだろう。でも今さらそういう言い分が成り立つだろうか。とりあえずそういう方面ではそうなのだろう。

 ところで君が眺めているのは動かない風景か。風景画のたぐいか。眺めている時間が短すぎるのであり、時が経てば塗ってある絵の具が劣化して画面がくすんでくるのかもしれない。それも味のあるたたずまいだと感じればいいことか。後から考えれば、そんな思いに至る時代背景がはっきりするのかもしれないが、今は何だかあやふやだ。絵画は昔も今も趣味の世界だ。そう思えば気が楽になり、セザンヌが描いた山の絵あたりで感性を止めておけばいいのかもしれない。あれでかまわないのではないか。あれ以上進んで、わけのわからない抽象画の領域に足を踏み入れてしまうと、狂気を体験する羽目になってしまいそうだ。またそうやって嘘をついてみるが、それの何が嘘なのだろうか。至らないことは至らないままに終わるしかなさそうだ。嘘まで至っていないのかもしれない。でもそれが嘘でないとすると何なのか。君は何もわかっていないようだ。相変わらず無知なふりをして、問うだけ問い、回答などに関心はないように振る舞い、その場にとどまったまま、どっちつかずの精神状態に至ろうとする。まだたわいないことを語る力しかないわけだ。本気になる機会ではないのかもしれず、その機会を逃し続けているのかもしれない。黄砂が舞う季節は過ぎ去ってしまったのだろうか。誰もが微小な砂に操られている。砂が毒を運んできているのだろうか。呼吸によって体内にその毒が取り込まれ、病を引き起こしているのなら、それも一興だとうそぶいていればいいのだろうか。まだ死が遠いような予感がしているのか。誰の予感でもないだろう。誰もそれを感じられないか。誰がそれを感じるとしても、それが間近に迫った死だとするなら、さっさと死んで、その感覚も早晩消え去るだけかもしれず、例えば結核に罹って死を覚悟しながら、あこがれのパリまで出かけていって、実際に彼の地で絵を描きながら死んでいった画家もいるようだが、彼が感じた死の感覚が、その絵に描き込まれていたりするのだろうか。日本ではその夭折した画家が、あたかもゴッホみたいな語られ方をしていたようだが、世界的にみてどうなのだろうか。描かれたそれらはあくまでも日本国内でしか通用しない絵かも知れない。ネットで探ってみると、本物の絵の値段まではわからないが、リトグラフでもかなり高そうだ。別に佐伯祐三の絵がほしいわけでもないのだろうが、自分で画材を買って絵を描き、額縁に入れて飾るにしても、それなりの値段になるには違いなく、そんな趣味に興じていられるだけの余裕があれば、それだけでも満ち足りた気分になれるのだろうか。


4月10日

 何かが負の連鎖を引き起こしているようで、また抽象的な内容になってしまいそうだ。限界なのかもしれない。天は我を見放したのか。そんな大げさなことでもないようだ。ともかく人は人の感情に訴えかけて同情を得たい。気に入らないことはなかったことにしたい。攻撃的な感情の共有が人々の間に広まり、そんな無意識の連鎖が悲劇を生むとしても、それをあとから非難されてもむかつくだけのようだ。それがどうしたということか。忘れていたいのに、何を蒸し返そうとしているのか。蒸し返された側は腹が立つだけか。たぶんそれを狙って蒸し返そうとしているのだろうが、それも攻撃的な本能の表れなのかもしれない。そんなわけで感情の連鎖に歯止めをかけるのは難しそうだ。厄介なことなのかもしれないが、それをどうやって乗り越えてゆけばいいのだろうか。今のところは非難の応酬に際限はないようで、沈静化するには途方もない時間が必要だろうか。拙速に答えなど見つけようとしない方が良さそうに思われる。ほったらかしでかまわないとは思わないが、現状ではそれが最善策なのかもしれない。無意識のうちに最悪と最善を取り違えているわけか。ものはいいようだ。そうする理由など何もないのに、それでかまわないと思うしかないらしい。何かに魅入られているのだろう。理性では太刀打ちできない。説得しようとすれば逆ギレされ、生半可な覚悟などすぐに跳ね返され、取りつく島もない。元いた場所にすぐに引き戻され、また一から出直しとなってしまいそうだ。見え透いたごまかしは通用しないらしい。別に通用させようとも思っていないのだろう。そこで立ち止まって考えてみるが、何も思い浮かばずに、しばらく瞑想に耽る。無理なのはわかっていたはずだ。そんな気がしていただけだろう。気にすることはない。それを語ればいいわけだ。動物界は弱肉強食の世界だ。人間も動物に含まれる。君はそうなることを知っていたのだろう。誰が君でもないようだが、事がひとたび起こればそうなってしまうわけだ。内部の世界では人が人を監視していて、邪魔者はすぐに消されてしまう。そんなことの繰り返しをどこかの映画が物語り、観ている人たちに何かを訴えかけているようにも感じられる。別に消された人たちに同情してほしいわけでもないのだろうが、未来の惨事が未然に食い止められることを願っているのかもしれない。でもどのように語ってもそれの繰り返しとなってしまう。そのような作用の何を否定しているわけでもない。いくらでも代置可能なわけで、情緒不安定になれば、身も心も荒れてくるのだろう。でもそれが理由ではないのではないか。そういう状況下にいるのだから仕方がない。

 晴れているのに雨の光景を見る。画像に過ぎないが、心が癒やされるように感じられ、遠い昔の悲劇を想うのをやめ、フィクションでしかないことに気づき、それ以上の詮索をやめてしまう。現実の世界では何も起こらない。空は相変わらず晴れているようだ。誰が曇り空に憧れているわけでもない。付け入る隙がそこにあり、それに乗ってしまったのだから、そういう成り行きでかまわなかったわけだ。気づかなかったのだからそれも無意識のなせる業か。だからそれでかまわないと思っているのだろう。いつまでもそんな意識に取り憑いていても面倒くさいだけではないのか。何を探ってみてもわからない。やっと見つけたそれはがらくたでしかない。気づくことはそんなたぐいか。それで結構だと思うが、強がりでしかないだろう。安易に合理性の論理に逃げ込んで自己正当化するわけにはいかないか。その画像はピントが合っていないようだ。寒いのかもしれず、風邪を引いてしまうのだろうか。人の顔も千差万別だが、種類は同一で、大した違いはなさそうだ。中には月の光を浴びると変身する種族もあるらしい。虚構だろう。人の想像力が生み出すわけか。でもその虚構が誰かの心を揺り動かすのだろう。朝になれば工場の中に大勢の人が吸い込まれ、夕方になれば吐き出され、繁華街で酒を飲んでいる光景を思い浮かべ、そんな映像を眺めている誰かの姿もついでに想像している。それが何を物語っているのだろうか。工場で何かが大量に生産され続ける。現実はそういうことだ。エジプトでもアメリカでもそういう光景に出くわしているのだろう。人はそれだけではないと思いたい。絶え間ない技術革新によって設備の自動化が進み、工場で働く人員もだんだん減ってきている。人は何をやればいいのだろうか。生産の効率化を担う部門で働けばいい。実際にそうなってきているのではないか。気づかないうちに労働環境がだんだん改善されてきているわけか。そういう方向で推移しているのではないか。その一方で無駄で無意味なことをやっている人たちが相変わらず大勢いるのだろう。君もその中のひとりなのだろうか。生産効率とは無関係の、何の利益ももたらさないようなことを延々とやっているわけだ。何に逆らっているわけでもないのだろうが、どのような意図も思惑も感じられず、たぶんそれを意識しないようにしているのだろう。無意識の赴くままにまかせているのかもしれない。それでかまわないのだろう。誰が何をやっていてもかまわないわけだ。それに文句をつけたければつけてもかまわない。やっていることが気に入らなければ、無人爆撃でミサイル攻撃して、その存在を消し去ろうとしてもかまわないわけか。そういったやり方が非難されていることも確からしい。そういう行為をやめさせなければならないと訴えかける人もいる。不条理の行き着く先にそんな事態が生じているらしい。ある特定の国家や階層の利益を優先させた結果が招いた悲劇だろうか。それが悲劇だろうと喜劇だろうと笑劇だろうと、それも一つの途中経過に過ぎず、それがまた別の事態を引き起こす要因になっているわけか。冗談では済まないことかもしれないが、また何かが新たに起こったら、それについて語るしかないのだろうか。きりがないか。


4月9日

 何やら抽象的な物言いに終始してしまう予感がする。どうやらネット上では何かの成れの果ての何かが消えたようだ。それでも気持ちがまだ遠い。意識が薄れているようで、地上から離れて、空に舞い上がっているとも思えない。まだここにいるらしい。存在という言葉が気にかかる。本当に遠ざかるのはまだ早いのだろうか。時期が早いわけか。何を待っているわけではない。何かが到来し続けているようだ。言葉が連なり続け、文章が出来上がる。それだけのことかもしれない。立て直すことができないのかもしれない。おかしいことはわかっている。不公平というわけでもないのだろう。呆れてものも言えない段階なのでもない。言葉が錯綜しすぎていた時代があったのかもしれない。そこから異常にわかりにくい言葉の連なりが生まれたのだろうか。そんな内容の書物を読みあぐねているのかもしれない。ごまかしだとわかっていても、物事の関係をある程度単純化しないと、理解できなくなってしまう。それで理解したことにしておかないと、延々と複雑怪奇な言葉の関係性を追求するばかりとなってしまうのではないか。そんなことをやっている時点で、出口のない思考の袋小路に追いつめられているわけで、実際にそんなことをやっているうちに、寿命が尽きて死んでしまい、後に残された信者たちが、それらの晦渋で難解な文章について、延々と重箱の隅をつつくような解釈を繰り返し、信者たちが催す会合に出かけては、互いの解釈についてああでもないこうでもないと果てしなく論じあう。君が読んでいるのはそれらの解釈の一つに過ぎない。理解する必要がないような文章か。理解できないのだから、必要も何もないのではないか。それでかまわないのだろうか。疑問を感じるなら、理解できるまで読み返してみればいい。時間の無駄かもしれない。どちらにしろ適当なところで切り上げた方が良さそうだ。君の持ち合わせている理解力を超えている。根本的に間違っているのかもしれない。しかし信者たちはそこから引き返すわけにはいかないのだ。今さら間違っていることを認めてしまったら、今までやってきたことのすべては水の泡だ。それを恐れてやめるにやめられなくなっている。そこで思想の秘教化が進行中なのだろう。いったんそうなってしまえば先は見えている。真言密教などもそういったたぐいだろうか。最終的な形骸化の過程で、秘教的な中身がそっくり抜け落ちて、理解とは無関係の決まり文句だけが残り、それが固有名となって社会に流通し、本来とは無関係なかけ離れた使い方がまかり通り、それが流行れば流行語のたぐいとなってしまうのだろう。しかし彼らはその時代に何を脱構築したつもりになっていたのだろうか。

 その方面での侃々諤々が何をもたらしたわけでもない。今となってはもう誰も何も覚えていないだろう。何が戦わせられていたわけでもない。ある時期から議論する対象そのものが消え去ったわけか。時が流れ、思考する必要がなくなってしまったのかもしれない。不意に他の何かが訪れ、すべてを消し去ったわけでもないのに、万事が流れ去るようになって、何も考えなくても済むようになってしまったのかもしれない。それは時期的な問題だろうか。そこで行われていたことのすべてが無駄な試行錯誤だったとは思えないが、ともかくそれなしで済むようになってしまったのには、何らかの原因があるのかもしれず、それを今さら詮索する必要もないようにも思われ、それらの思考の中心を占めていた人がいなくなってしまえば、後に残されたのは烏合の衆でしかなく、その思考にもそれについて語る人にも魅力を感じられなくなり、自然と意識がそこから遠ざかっていってしまうのかもしれない。そしていったんそこから離れてしまえば、あとは忘れてしまうだけか。実際に君は忘れていたのだろう。今さらそれを読み直してみてもちんぷんかんぷんらしい。失われた時代は二度と戻ってこない。昔を懐かしむ人がいるだけで、いつまでもつきあっていたら時代に取り残され、くだらぬこだわりの内部に閉じこもり、外の世界で起こっていることを理解できなくなってしまうだろうか。どうやらまた瞑想に耽る時が到来してしまったようだ。たぶん理解する必要のないことなのだろう。未来の人のために何か残したい人もいるらしいが、とんだおせっかいだろうか。それでも残るものは残ると高をくくっていればいいのかもしれないが、それがどうしたわけでもないのだろう。辺り一面に散らばった言葉の断片を拾い集め、それを種類ごとにまとめて整理整頓し、何とか他の人にも理解できるような形に再構成しなければならない。そう考えて何かやっている人もいるようだ。そういう時期にさしかかっているということか。たぶん何も成し遂げられないまま時が経ち、あとには徒労感ばかりが残り、他に何も残っていないような気がするが、そんなことを語っている人の話を聞いても、何の実感も湧いてこない。そういう嘘をついていてかまわないのか。何も成し遂げられないままに終わってしまうのは、誰もが実感する結末となってしまいそうだ。世の中のすべてがありふれているわけでもないのだろうが、他に残すべき何があるとも思えず、たぶんそんなことを考えていること自体が無駄で無意味なことなのかもしれない。


4月8日

 確かにおもしろおかしい話にするには、デマを取り込むのも一つの手だろうか。デマ情報を流して浅はかな人たちを煽動するわけか。でも人々がだまされるような本当らしいデマというものがあるだろうか。ユダヤの陰謀説とかはウケ狙いなのか本気なのかよくわからないのだが、南京大虐殺はなかったとか、地球温暖化は嘘だったとかは、やはり本気でその手の人たちは主張しているようで、たぶんウケ狙いのデマではないのだろう。では本気で論敵を打ち負かすために本当らしいデマを流すより、ウケ狙いでわざと嘘っぽいデマを流す人たちの方が良心的だろうか。事はそんな単純ではないような気がする。デマっぽく本当のことを語らなければならないのだろう。デマゴーグのふりをして、真実にわざと荒唐無稽な装いを施しながら語る必要があるのかもしれない。それは隠喩とか寓意を込めた語りのたぐいか。なぜそうする必要があるのか。本当のことをあからさまに語るとヤバいからか。しかし本当のこととは何なのか。何が本当なのかわからないから、とりあえず嘘っぽく語って、嘘がバレたときの保険もかけながら語らなければならないわけか。どうやら君は真実をウリにして語る気がないらしい。もしかして語る内容の真偽などどうでもよく、それっぽく語ればいいだけなのかもしれない。それっぽくとはどういうことなのか。その辺がうまく説得力のある表現に至らないようで、とりあえず実際にあった出来事をそのまま伝えるだけではニュースにもならないのだろうし、伝える側がそれに恣意的な情報を付け足して、伝える側の意向が反映された形で、それらの情報を受け取らせようとしているわけで、情報を伝えることによって情報を受け取る側を操作しようとしているわけだ。自分たちが伝える情報を真に受けてほしいのだろう。そして自分たちと同じ思いになってほしいわけで、そんな自分たちを支持してほしいわけだ。そんな思いで日々情報発信しているとすれば、たとえ善意でやっているとしても、そういう人たちがデマゴーグになってしまうのは当然の帰結か。情報を受け取っている人たちもそれを望んでいるのではないか。情報発信者が自分たちの指導者となって、そんな人たちと連帯して、この社会を自分たちの思いのままに変革してゆきたいのではないか。実際にその手のメディア関係者が政治家になるのはよくあるパターンだ。というか政治家とはいつの時代もそういう人たちが担ってきた職種なのではないか。そういう意味でどんなたぐいであれ、情報を人々に向かって発信する側の人たちはヤバいのであり、常にデマゴーグになる危険性があり、そういう人たちがもたらす情報によって大衆が操作され、何やらおかしな方向へと多くの人たちが動員され、その結果として何か取り返しのつかないことが起こった後から、なぜあんな馬鹿げたことに心酔していたのか、訝しく思われてしまうのかも知れず、そうなってしまったら後の祭りなわけか。だからわざと嘘っぽくふざけながら語ることに正当性があるとも思えないのだが、何となくそういう成り行きになってしまうのは致し方ないことなのか。それが何の戦略だとも思えないし、その戦略が功を奏しているわけでもないのだろう。

 そういう意味で善意のデマゴーグと成り果ててしまった人は痛ましい。自分がもたらす情報によって世の中が変わってほしいという思いが透けて見えてしまって、自分がこんなに正しいこと主張しているのに、何で世の中は何も変わらないのか、というジレンマとともに、さらなるデマゴーグの深みにはまって、全盛時からすればほんのわずかな数となってしまった信者の心をつなぎ止めるために、より過激な言動に訴えかけ、自分が体制側の陰謀にはまって、メディアの表舞台から抹殺されてしまったとか主張したりして、実際に被害妄想に苛まれているような雰囲気だ。今や自分は世界を巻き込む巨大な陰謀に、孤軍奮闘で立ち向かっているという妄想にとらわれ、その手の講演会を開いては、集まった人々に持ち前の誇大妄想を披露しているのだろうか。ユーチューブで検索すると、そういう人たちの講演会が出てきて、全国各地のどこかの会場で講演しているらしいシーンを観ることができるのだが、果たして聴衆がどれほど集まっているのだろうか。観衆の側にカメラが向けられていない場合がほとんどなので、もしかして誰もいない会議室で一人で講演しているシーンを撮っているとしたら、なおのこと痛ましく感じられるだろうか。ネット上でもその手のデマ人間を嘲笑しているブログとかもあるようだが、そういうサイトもあえてその人の売名行為の一環でやっているとしたら、何だか手の込んだ冗談のたぐいだと受け止めればいいわけか。もちろんギャグの一環として世界中の嘘っぽいデマをかき集めて、人を笑わせようとしているサイトもいくらでもあるのだろうが、それは人を安心させながら笑わせようとする行為か。それではだめなのだろうか。気晴らしではだめで、そんなのは人畜無害でしかなく、やはり本当に人をだまして行動に駆り立てなければデマとは言えないのではないか。そのデマによって人を驚嘆させ恐れさせなければいけないわけか。あるいはそれによって人々から熱狂的に支持され、国家や世界を動かすほどにならなければいけないわけか。まあその手の誇大妄想に限りはなさそうだ。


4月7日

 信じられない出来事もあっという間にリアリティを失い、今は小難しい何かに取り憑かれているようだ。もっと単純なことを語りたいが、それも難しい。そんなはずがないのだろうか。逆らっている当の対象を見出せず、静けさの中で高音の耳鳴りを覚えるが、それは小説の中での会話だろうか。それらの幻聴は真実を含まない。無理にそう思っている。漫画の世界では幻聴も不完全だ。耳を傾ける対象とはなりがたく、そこで描かれている出来事は、真実とも事実とも無関係なのだろうか。真実も事実もそこにあり、無意識の願望が反映されているのではないか。惑わされているのかもしれない。惑わされなければ読みはしないだろう。虚構から抜け出す出口がそこにあるわけではなく、そこから抜け出す手がかりとなり得るかもしれない言葉をネット上で検索してみても、どこへも行き着かないだろう。見出された言葉と画像と映像は君を現実の世界から遠ざける。意識がそこへ避難して、身勝手な幻想を抱かせる。現実を操作可能と思わせ、誰かの願望が反映した偽りの世界が広がっていく。それをさらに押し広げようとしていて、そういう作用には歯止めが利かない。それでもやがて現実に引き戻される機会が巡ってくるのかもしれない。ふとした拍子に正気に戻ってみれば、まるで浦島太郎になってしまったかのような感覚に襲われ、取り返しのつかないことをしてしまった事実に打ちのめされ、二度と立ち直れなくなってしまうのだろうか。実際にそういう心境になってみないとわからないこともありそうだ。とりあえず引き込まれているのはこの世界に違いない。どこまで引きずり込まれていくのかわからないが、そういう成り行きならそれでもかまわないのではないか。もうすでに重大な局面は通り過ぎているような気がする。それと気づかずにやり過ごしてしまったのだろう。それはどのような事態だったのか。まだすべての現実に気づいていないのかもしれない。それらのどこが情報源となっているわけでもないのだろう。それでも君は探している。動かないまま探しているのだから、だますには手間がかからない。ネット上で探しているだけなのだろうか。でも真実が失われているわけでもないのだろう。そう思いたいだけで、本当はそこにはもう何も残っていないのかもしれない。そこで何を探しても徒労に終わるのだろうか。わずかな痕跡が残っているはずか。それを塵や芥と見分けがつくだろうか。単なる思い込みに過ぎないのだろうか。何を探しているわけでもないのにそれはないか。本当は何を探していたのか。今となってはわからない。途中でわからなくなってしまったのではないか。何も探していなかったような気がするのはどうしてなのか。どうせ忘れた頃に気づくのだろう。不意に思いつくのか。何か思い当たる節があると思う。何に関してでもないのに、それはないだろうか。気づかないうちにくだらぬ逡巡に陥っているようだ。いくら迷ってもどこへも至らない。そういう認識でかまわないのか。どこかへ至る手前に言葉の迷路が出現している。自分で作っているのではないか。理解不能な文章を読み続け、無意識に励まされてそれを解明しようと試み、さらに読み進めながら、そのついでと合間に吐き出されるのが、がらくたのような言葉の連なりか。嫌ならそう思わなければいい。いつまでも何か語っていると思い込んでいれば、夢から覚めるまでは幸せでいられるのかもしれない。君が目指しているのはそんな境地だろうか。でもこの世界のどこに桃源郷があるわけでもなく、あるのは乾いた大地と塩気を含んだ海原だけか。その境目に人が住んでいるのかもしれない。そこで何が見失われているわけでもなく、すべてがそこにあり、天国も地獄も存在しているのかもしれない。人がそう呼んでいるだけの境地があり、人以外にとっては何でもない場所だ。要するにただの荒れ地でしかない場所を天国だとか地獄だとか思い込みたいのだ。君が探しているのはそんな場所ではなく、誰の思い込みをも拒絶するような境地か。あり得ない場所なのかもしれない。

 でも誰にとってもありない場所で、何が紡がれるのだろうか。今の状況があり得ないのではないか。この世から人がいなくなってしまうのかもしれない。人はいるのだろうが、それが人とは見なせなくなっているのだろうか。人でなければ何なのか。特定の固有名を持った存在か。それが人と呼ばれていたのではなかったか。人でなくても他人から見下されるような嫌な仕事はごめんか。移民でも受け入れたら、彼らが低賃金でも喜んでやるような仕事などやりたくないか。人は見聞きした情報から学習してしまうのかもしれない。そこでどのような仕打ちを受けるかわかってしまうのだろう。人を使い捨てながら金儲けをするやり方がうまくいかなくなっているのだろうか。誰もが夢から覚めてしまったのか。すでにメディアが提供する夢の洪水に辟易していて、もう勘弁してほしいと思っているのだろうか。宝くじに当たるような叶わぬ夢は結構だから、もう少し楽に慎ましく暮らしていきたいと思っているわけか。それもメディアが提供している夢の一部かもしれない。いくら夢があっても、働かなければならない現状は変わらない。仕事とは何なのか。人をその気にさせるには、嫌な仕事を徐々になくしていく努力が必要不可欠か。それはできない相談だろうか。嫌な仕事は他人に押し付けて、自分だけのうのうと暮らしていきたいのだろうか。のんびりしたいのはやまやまだが、そういう境遇に至れる人がほんの一握りしかいないとすれば、夢のない話になりそうだ。休む間もなく身を粉にして働いて、早死にしてしまうのが当たり前の時代だったら、文句も言わずに嫌な仕事も我慢しながらやってくれる人がいたのだろう。そうやって自分が家族の犠牲となることで、子供たちにはより良い未来が開けると信じていられた時代もあったのだろう。今はそれとは違う時代なのだろうか。そういう自分が社会や世の中からどう扱われているかがわかってしまったので、そんなご都合主義的な価値観を信じるわけにはいかなくなってしまったわけか。それだけ人に知恵がついてきたといえるだろうか。でもそんな知恵を誰がつけたのか。それはこれまでにそういう人たちを利用するだけ利用して、利益を享受してきた社会であり世の中でありメディアなのだろうか。ともかく今やそこで夢が飽和状態となっていて、誰もそれを信じられない状況となっているとすれば、この閉塞状況を打開するには、移民でも受け入れて、彼らに日本人がやりたがらない嫌な仕事を押し付けるぐらいしかやりようがないか。下層民やスラム街が増えるだけかもしれないが、それでも金持ちはより金持ちになれるのかもしれず、要するにそういう現象が全世界的に進行しつつあるのかもしれない。


4月6日

 何をもって完全と判断できるわけでもないのだろうが、ともかく完全な理論はない。ある分野ではどこかしらうまくいかないところがあるようだ。言葉では説明できないのが無意識だとすれば、無意識とは何だろう。それを無意識と呼ぶしかないが、言葉では説明できない。そういうことではないのだろうか。たぶん違うと思う。あまり深入りしたくないのかもしれず、ただその場の状況に合わせて、うまくそういう言葉を使って説明したいのだろう。それで切り抜けたつもりになりたいのか。うまくいかないはずか。他人の思想を利用して、その状況を説明できたように思われたが、実態としてはごまかしに過ぎず、それらの思想に対する理解が浅はかだったのだろうか。浅はかな理解でもかまわないと思っていたのではないか。でもそこから逃げてはいけないらしい。その浅はかな理解から生じる勘違いを利用しながら語ってきたのではなかったか。今まではそうだったかもしれず、それではだめだと悟ったわけか。別に悟っているわけではなく、ただそれらの言説が読解不可能なのではないか。今もそうなのか。昔からそうだったのではないか。だから今もそうなのだ。いくら読んでもわからないのだから、それはそれですごいことか。そんなわけで、完全には理解できないにも関わらず、自らが語るとなると、それを利用せずに語ることはできない。だからおかしな内容となってしまうのだろうか。それでかまわないと思っているうちは、そんな内容しか語ることができない。でも本当にそれでかまわないのだろうか。どうもそういう方向で語りだすとつまらなくなってしまい、行き詰まり感を拭えない。いつもの悪い癖がでている。そこから外れようとしていたのに、どんどん巻き込まれていってしまうようで、後戻りもできない。このままつまらないことを延々と語る羽目に陥りそうだ。ここはそういう成り行きに身をまかせ、さらに語る必要がありそうだ。逃げていては安易なおもしろさに引きずられるだけか。なぜそれでかまわないとは思わないのか。君がそれを望んでいるからか。なぜそうなのか。現状がくだらなく思われるからそうなのか。現状の何がくだらないのだろうか。その辺から何も語れなくなってしまうらしい。また逃げているのだろうか。何から逃げているのか。その手のつまらなさを引っ張るだけ引っ張って、何らかの現実を引き出したいのだろうか。でも現実とは何なのか。現状での限界を見極めたいのだろうか。見極めてどうするのか。それを今後に役立てたいのだろうか。浅はかな功利主義に染まっている。でもそうでないとすると何なのだろうか。間違っている。それだけのことかもしれない。わかっていてそんなことを語る。そういうやり方なのだから仕方がないだろう。わざとそうやっていると思っているのか。そうならざるを得ないからそうなってしまうのか。微かに何かが聞こえているのかもしれず、それはベースの音なのかもしれない。エレクトリックベースにしないとはっきり聞こえないのだろうか。不意にそんな関係のないこと思うが、偶然のはぐらかしが功を奏して、何とかそこから抜け出るきっかけをつかみ、さっさと一区切りつけて、それとは別の何かについて語ろうとしてしまう。

 精神分析が何を意味するとも思えない。実態としては何を分析しているわけでもないのだろう。あやふやな言葉を持ち出して、ただ表面だけ触れようとする。しかしそう語れば精神分析を避けられるのか。たぶんそれも何も語っていないのと同じことだ。結局精神分析という字面だけで終わりなのか。死の欲動にとらわれているわけではない。人の完成形は死であるらしい。そこで固まってしまうのが死だ。それ以降は動かなくなり、死人として時間軸に固定されてしまう。その先がないわけか。たぶんこの世界ではそうなのだろう。やはりそれでは理解が浅いか。かまわない。そういう意味では写真は止まっているから死を象徴し、映像は動いているから生を象徴している。安易に語るならそういうことになりそうだ。でもどちらも幻影だろう。実体を反映しているに過ぎないか。人がそこに何かもっともらしい意味付けを加えて、そこからそれに関する語りを導き出す。精神分析とは関係ないか。でもそれを一方的に攻撃しているわけではない。人は自らの完成に向かって動いている。途中で固定されたくないようだ。固まってしまったらおしまいか。その固まった状態になるを回避したいがために、あらゆる可能性を試そうとしているわけだ。固まる前になんとかしなければならない。固まることを恐れているわけか。でもすでに写真の表面上に固められているわけだ。それは君の影に過ぎないのだろうか。気休めにそう思っていれば、何とかその場しのぎとして影を動かすことができるだろうか。その場しのぎではなく、影を全面的に動かしたいのではないか。映像作家の見果てぬ夢がそこから生じているとは思えないか。ロマンか何かだろうか。でも苦し紛れには違いなく、影の演技を見飽きて、もっと何かリアリティのある幻影を探そうとしてしまうのだろう。映像の中にそれがあるだろうか。他の誰かがそれについて語っているのかもしれない。映像ではない現実の世界について語っているのだろうか。それは無理かもしれず、人は自らの幻影を追い求めなければ、何も語れないのかもしれない。幻影とは己の精神が作り出す何かか。それとも無意識が作り出す夢だろうか。意識して何かを構成しているだけでは足りず、そこに無意識が作用しなければ、幻影に不可視の趣が生じないのかも知れない。要するに自らのすべてを意識することは不可能なのであって、そこには無意識の領域があり、気づかない無意識の領域を含めて精神があり、その気づかない無意識の作用を解明するのが精神分析であるわけか。でもそこから何がわかるのだろうか。精神に障害を抱えた人を精神分析によって治そうとしているわけか。治療と称して障害の原因を探り当てようとしているのだろうか。障害にも様々な種類と傾向があり、それぞれに有効な治療法を確立しようとしているのだろう。人のやり方はそういう方面にしか作用しない。それが技術であり、そういう技術を用いて、絶えず正しいやり方を模索するしかないらしい。あやふやな幻影を追い求めているわけではなく、確かな手応えがほしいのだろう。不確かなことをはっきりさせなければ気が済まないのだ。気が済まないどころではなく、はっきりさせることによって利益が得られると思っているのではないか。そこに進歩や進化があると思っているのだろう。精神には意識される領域の他に無意識の領域もあるとわかっただけでも、進歩だろうか。


4月5日


リビアのど真ん中


関東地方


リビアのバンカー


南極大陸の穴


スコットランドの湖

 以前グーグルアースで穴だらけの地形を南極大陸で見つけたが、何と北アフリカのリビアにも同じような穴だらけの地形を見つけてしまった。場所としてはリビアのど真ん中で日本の関東地方と同じぐらいの広さで岩場が広がっていて、その全面に無数の穴があいているように見え、南極大陸では穴に雪と氷が詰まっているみたいだが、リビアではサハラ砂漠の砂が詰まっているみたいで、まるでゴルフ場のバンカーのように見える。たぶん地形的には、北欧やスコットランドやカナダやアラスカなどにあるような、岩盤を氷河が削って、その後温暖化して氷河が退いた痕に、穴だらけの地形ができ上がると思っていたのだが、まさか北アフリカのリビアにかつて氷河が存在した時期があったのだろうか。それともリビアのそれは何か大規模な珊瑚礁とか溶岩噴出などの跡か。

 地表なら観た通りの表面なのだろうが、社会の表層とは何か。たぶん意識は常に表面上で流通している言葉に惑わされているのだろうか。何やらその地面を掘り進んで、深層の岩盤などに突き当たらないと、物事について真摯に考えていることにならないわけか。それはわざとらしい比喩に違いない。深く掘り下げるのは宝探しのやることか。そして深層ならぬ真相に突き当たり、それがお目当てのお宝と勘違いするわけか。それで何かわかったことにしておかないと、深く掘り下げた意味がないか。ところでネトウヨの若者たちは、近い将来戦争が起きたら、喜び勇んで戦地に赴き、国のために死んでくれるだろうか。イラクやアフガンで死んだアメリカの若者たちのようにか。しかし日本は国家としてどこと戦争することになるのだろう。中国・韓国・北朝鮮・ロシア・アメリカのどれかか。それとももし沖縄が日本から独立しそうになったら、琉球独立戦争とかが勃発したりするのだろうか。そうするとアルカイダが沖縄に乗り込んできて、アメリカ軍基地に向かって、自動車に爆発物を満載して自爆攻撃を仕掛けてきたり、ゲリラ戦とかが現地で展開されるわけか。別に沖縄県民はイスラム教徒とは関係ないから、それはないかもしれないが、どこからかわけのわからない義勇軍とかがやってきたらおもしろそうだ。作家のヘミングウェイやマルローやオーウェルがスペイン内戦時に義勇兵として参加したときのように、名前だけであまり戦場では役に立たなそうだが、アメリ軍基地の辺野古移設に反対声明を出した言語学者のチョムスキーとかが、老体にむち打ってやってきたらおかしいか。彼は若い頃はベトナム反戦運動の活動家だったらしい。ともかくそんなこんなで戦いが泥沼化してくると、戦場の悲惨さをメディア上で訴えかけなければならなくなり、そうなるとロバート・キャパを真似た戦場カメラマンとかも出現してしまうのだろうか。現実的な戦力を考慮すれば、案外中国に助けを求めれば、義勇軍として中国人民軍が駆けつけるかもしれない。クリミア半島を占拠したロシア軍のようにか。まあ在日米軍が現地に居座っているのだから、それは無理だろうか。君はアメリカと中国の全面戦争を期待しているわけか。しかしそれで何を掘り下げていることになるのだろうか。掘り下げるだけの体力も気力も知力もないから、仕方なく冗談に逃げているだけか。

 どうもその手の思考は苦手らしい。過去の出来事の切り貼りでは未来は見通せない。ともかくそういう20世紀的な戦争が、ブッシュによるアフガン・イラク戦争で終止符を打たれたのだとすると、21世紀的な戦争とはどんな様相を呈するのだろうか。それとも戦争ではなく、別の形態で今まさに何かが進行中なのだろうか。例えば労働者による世界同時革命幻想も、従来からある誇大妄想的な出来事とは違った形で、誰も気づかないところで、何かが少しずつ起こりかけていたりするわけか。オバマなどは従来からあるやり方の延長上で、国内の製造業など活性化させ、雇用機会を増やして、失業者を減らし、国民の間にある貧富の格差を減らす方向で努力しているようだが、今のところはシェール革命などで、少しは状況が改善しているのかもしれず、うまくいっていることになるのだろうか。でもやはりそれにも限界がありそうだ。根本的には何も変わっていないだろうか。やはりわずかでも事態を好転させようと努力するのが、政治家の使命となるわけか。そしてそのたゆまぬ努力とわずかな改善の積み重ねが、数十年から数百年かかって、ようやく大きな変化として後世の人々が実感できるわけか。そうなるとその成果は、現在生きている人たちは享受できないことになりそうだ。それはかつてリンカーンが多大な犠牲を払いながらやろうとしたわずかな改革が、それから百数十年経って、ようやく黒人大統領誕生という成果を上げたようなものだろうか。ならばオバマが現にやっていることも、今から百数十年も経てばようやく何らかの成果として実感できるようになるのだろうか。


4月4日

 またつまらない考えにとらわれているらしい。でも仕方がないだろう。追いつめられているのだろうか。誰がそう思っているわけでもない。過去に関してはそうだ。今はどうなのか。何かやるべきことがあるのだろうか。たぶんそれがやるべきことだとは限らないのだろう。では何なのか。やらなくてもいいことまでやってしまうわけか。やらないと気が済まないのだろうか。多くの人がそんなことをやっているのではないか。それにしてもなぜエイリアンが襲ってくるのか。その方が話としておもしろいからか。それだけの都合で襲ってくるわけか。世の中には襲ってくる人もいるだろう。殺人事件の犯人などが襲ってくる人になるのか。肉食動物も獲物に襲いかかる。襲うには何か理由があるのだろう。貞子はテレビ画面から這い出てきたが、映画のスクリーンからは這い出て来れなかったのだろうか。レンタルビデオで観れば、また這い出てくるのかも知れない。そこで誰が死ぬのか。作り話の中の登場人物ならいくらでも死んだはずだが、観ている人が誰が死ぬのを期待しているわけでもない。中には期待している人もいるわけか。しかし人はそこで何に襲いかかられているのか。映像か。映像の中では幽霊が襲ってくる。そういう話だったのか。正確にはそうではなかったかもしれないが、そんなものだと受け取っておけばいい。現実には病魔に襲われて死んでしまうのだろうが、それではありふれていてつまらないから、別の何かに襲われて死んでしまうわけか。死ぬときぐらいはあっと驚く死に方がしたいのではないか。誰がそう思っているのでもない。少なくともそれらのフィクションの中ではそうだ。ともかく死人に口無しで、何に襲われて死んだのか、直接死人に問いただすわけにもいかず、謎解き探偵は持ち前の推理力を働かせて、死因を突き止め、何やら大勢の前でそれを暴露したいらしい。そんなフィクションがテレビ画面上で飽きもせず繰り返され、人々の興味をつなぎ止め、その合間に流れる商品宣伝のCMによって、テレビ局が利益を得ているのだろうか。でも別に誰が話をそういう成り行きに持っていこうとしているわけでもないのだろう。自然とそうなってしまうわけだ。ではそれは逃れられない宿命だろうか。テレビを観なければ逃れられる成り行きか。ならば宿命などではなく、逆らってもバチが当たるわけでもないか。でもそれで何に逆らっていることにもならないのだろう。人は逆らい得ない状況の中で暮らしていて、ほとんどの人が自給自足では生きていけず、商品を買わなければならず、買うにはカネが必要で、働いてカネを稼がなければならない。それが生きていく上の大前提となっていて、そんな当たり前のことは改めて考えるまでもないらしい。まさかそれに逆らっているわけか。つまらない考えにとらわれているのだろうか。実際には何を考えているわけでもなさそうで、何か得体の知れない怪獣のたぐいが襲ってきて、人類が築き上げた面倒な文明を根こそぎぶっ壊してほしいと思っているだけか。でもそれではいささか拍子抜けのオチで、幼稚な発想に違いない。

 ではそれが嫌ならまた現実逃避になるわけか。逃避するのも嫌なら、とりあえずアメリカ方式で貧富の格差を増大させ、貧困層の出身者が大学に入るには、軍隊にでも入って学費を稼がなければならないようにすれば、自衛隊の人手不足も解消するだろうか。まさかそれを狙っているわけでもないだろうが、これからは自然とそういう成り行きになっていくのだろうか。ネトウヨなどもその予備軍となるのかもしれない。そうだとすると先の都知事選挙に立候補した元自衛官の人も、勧誘の窓口的な役割を担っていたわけか。そんなわけで自衛隊の人手不足を解消するために、ネトウヨの活動が利用されていると考えれば、何となく合点がいくだろうか。それを敷衍させて考えれば、国家と資本主義にとっては、貧富の格差があることは互いにメリットがあり、一握りの富裕層がヒエラルキーの頂点に立って、メディアを利用して金儲けの夢を人々に振りまき、保守主義を蔓延させて革命を防ぎ、貧困層には右翼思想を蔓延させ、若者を軍隊の予備軍として活用するわけか。それは国家を維持継続させるには理にかなったやり方だろうか。でもそれはかつての大日本帝国の実態か。経済は三井・三菱・住友・安田の4大財閥に牛耳られ、富裕層の子弟たちが学問に秀でた帝大卒のエリート官僚たちとともに、民衆を指導する役職に就き、学歴のない貧困層がそこから抜け出るには、軍隊に入るか移民となって出て行くかの二者択一か。別にそれは大日本帝国時代の日本に限った話ではないだろう。今も中国や韓国ではそうかもしれず、欧米諸国でも大なり小なり似たり寄ったりの傾向があるのではないか。表向きは自由の幻想を抱けるのだろうが、いくら幻想を抱いてみても、実際には階級社会の現実が立ちふさがっていて、そこから抜け出られる人は幸運を手にしたほんの一握りの人たちにすぎないのではないか。だからこそ人々はどん欲に自分の利益を追い求め、他人を押しのけてでも、それをつかみ取ろうと努力しているのだろうか。現状ではそれ以上の何を望めばいいのか。何を望むべくもなく、そうやって生きていくだけで精一杯なのかもしれず、大卒予定の若者の就職活動なども、わらをもつかむ思いで、リクルートスーツを着て何十社と面接を受けようとしてしまうのだろうし、それに群がるリクルート業界も活況を呈しているわけか。訳知り顔の輩たちが就職活動のハウツーを伝授したくて、何やらそれふうの激励メッセージもネット上にあふれかえっているようだ。


4月3日

 何か特定の主義主張というのがなくなってしまったようだ。ぼやけてしまったのだろうか。何を先鋭化しなければならないのか。それに関して何か気の利いた四文字熟語が思い浮かばず、すべてをスルーして、空振りに終わってしまいそうだが、何も語らなくてもかまわないのか。セコく振る舞う気も起こらず、漠然とした気分となる。無力ではないのだろうが、力を信じられず、無駄に空回りしている人たちを眺めながら、それすらもうらやましいと感じるのか。気の毒なのかもしれない。必死でつまらないことをやり続け、身も心も消耗しているわけか。それで世の中が成り立っているのだから、大きなお世話か。どうせ凝りだすときりがないのだろう。彼らにしてみれば、見せかけの対立を解消するわけにはいかず、相手に気を許したらつけ込まれるだけだと思っているのだろうから、いつまで経ってもけんか腰の姿勢を改められない。しかし実際に何を巡って対立しているのか。その辺がどうもはっきりしないのかもしれず、互いの主義主張がそれほど大きく隔たっているわけでもない。ただ対立しているように見せかけているだけでは物足りないか。実際そう感じているのかもしれないが、そうではないと主張したいわけか。その辺が面倒なことになっているようで、どうにも我慢がならず、些細なきっかけで激高して思わず強権発動してしまうわけか。セコくて地道な勢力争いを繰り広げていればいいのだろうが、頃合いを見計らって唐突に派手なドンパチもやっておかないと、志気が上がらないし、気のゆるみから体制が瓦解しかねない。ともかく臆病風に吹かれないように、時には蛮勇を奮って断固たる措置に訴えておくわけか。でもそんなやり方がいつまでも続くだろうか。続けられるうちはそういうやり方を押し通すのだろう。それで何がどうなるとも思えないが、世界各地でそんなことが行われているうちは、まだ何か世の中が次第に良くなっていく余地があるような気がするわけか。気がするだけでは不充分だろうか。具体的に何をどうしたら良くなるのだろうか。それがわかれば苦労はしないか。わからないから苦労が絶えず、間違った方面への探求が後を絶たず、今も面倒な紛争が方々で起こっているわけだ。そこで醜悪な人たちが醜悪なことをごり押しで実行して、善良な人たちのひんしゅくを買っているわけか。でも一方でそういう善良な人たちが主張するきれいごとに腹を立てている人も大勢いて、それを皮肉混じりに嘲笑しながら、各方面での対立を煽っているのだろう。人間は自らの欲望に忠誠を誓い、本音と共に生きてゆかなければならないか。それにも限度があるだろうか。

 愚かでいる方がマシなことはわかっている。他人の欲望は自分の欲望であり、そんな共通の欲望を成就させるために、互いに互いを切磋琢磨させながら競争しているわけか。そんなやり方が何やら成果を上げて、それをやり遂げた人が自己満足に浸り、そんな成果をあげた人たちが、メディアを通じて自慢しあい、それを誉め称える幇間とともに、つかの間の宴に興じている。毎日が宴会なら世話ないが、それだけでは済まないことはわかっていて、そのツケをどこで払えばいいのか、払う機会を先延ばしにしながら、いつまでもお祭り騒ぎをやっていられたら、それが至高の生き方となるのだろうか。どうせ周囲に飽きられてきたら、ある日突然真面目にめかしこんで、眉間にしわでも寄せながら、沈痛な面持ちで深刻ぶって、何やら世界情勢についてもっともらしいことを語り始めるのかも知れない。激動の21世紀を生き抜くには、我々は何を為さなければならないのだろうか。次世代のリーダーに求められる条件とは何か。21世紀が激動の時代かどうかは、22世紀になってみなければわからないことか。少なくとも20世紀は二度の世界大戦もあったことだし、激動の時代だったのだろう。また我々が為すべきことは、22世紀になってから、21世紀に生きていた人たちが何を為すべきだったのかがわかるかもしれず、その時には21世紀のリーダーたちが、どのような条件下でリーダーとなったのかもわかるのだろう。わかるまで待ちきれないなら、持ち前の想像力を働かせて、それに関して何かもっともらしいことを予言してみればいい。たぶんどんな妄想を抱いてみても、すぐに突き放されて、どうでもいいこととなり、しばらくすれば忘却の彼方で消滅している。人々のこだわりはこだわりとして動作せず、誰もがこだわっていることの一つに過ぎなくなり、どんな影響力を及ぼそうとしても、他人のこだわりと相殺されて、端から見れば水面の揺らぎのごとく一様に見えるだけで、そこに特定の固有名の介在さえ認められない。たぶん遅ればせながらも、ようやく誰もが世の中の変化に気づきつつあるのかもしれず、特定の誰かが何を仕掛けてみても、何の変化ももたらせない状況となっているのかもしれない。例えば有名人がメディアを通じて何を訴えかけても、太鼓持ちたちが一緒になって何を騒ぎ立てようと、空回りの空騒ぎ以外は何ももたらされない状況となりつつあるのか。もしかしたらそうではなく、仕掛けている側がもはや空騒ぎ目当てでしか仕掛けようとしていないのかもしれず、それ以外に何をどう仕掛けたらいいのかわからなくなってきているのかもしれない。他に何があるというのだろう。自分たちの日々の生活をメディアを通じて報告しているだけとしか思えないが、いったい他に何を報告すればいいのだろうか。たぶん他に報告すべきことなんて何もないのではないか。そして報告すべきことは取り立てて報告すべきことでもなく、そんなことを報告しているうちに、気がついてみれば何を主張したらいいのかわからなくなっているわけだ。


4月2日

 成り行きになっていない成り行きという成り行きがあるだろうか。苦し紛れの謎掛けか。どんな思いに浸っているのでもない。安易な思考から抜けきれていないようだ。やり方が昔とどれほど違っているわけでもない。とどのつまりというわけでもなく、行き着くところはどこでもない。どこへも行き着けない。でも何かやっているのだろう。一年中サッカーに興じている人たちもいる。プロ野球も公式戦が始まって、観に行っている人もいるのだろう。観客がいなければ見せ物として成り立たないか。サッカーでは無観客試合があったそうだ。埼玉スタジアムに掲げられた「JAPANESE ONLY」の横断幕が、人種差別を意図したものなのか、そう受け取られて無観客試合となったらしい。受け取った側は卑劣きわまるサポーターの行為と断じているらしいが、何を意図してそんな横断幕を掲げたのか、掲げた当事者にそれほどはっきりとした意図はなく、かえって事が大きくなって困惑しているのかもしれない。差別意識は広く根深く社会に蔓延しているものだから、それと意識せずに染まっていたりして、当人は善意でやっているつもりが、結果的に差別を助長していると受け取られたりする可能性もなきにしもあらずで、後から卑劣きわまるとか言われたら納得がいかないか。現物を写真で見る限り、結構真面目で熱心なサポーターが横断幕を手書きで作ってきた感じだ。とりあえずそれを掲げた当人が卑劣であろうと高潔であろうと、たとえ周囲から好感を持たれている人物であろうと、横断幕に書かれた言葉が人種差別を意図していると受け取られ、ペナルティーを科されて無観客試合となり、試合を主催した側の経済的な損失も相当な額になるらしい。なるほど当人や周囲の思惑や意図を大きく超えて進行してしまう成り行きとはそういうものか。感動してしまうだろうか。部外者にとっては何でもないことか。例えばかつて起こった戦時中の南京事件や従軍慰安婦などで、中国や韓国からの非難に腹を立て、義憤に駆られてそれらに罵詈雑言を浴びせている人たちも、同じように日本で行われている捕鯨漁などが野蛮な行為だと非難してくる国々や団体に立ち向かっている人たちも、そういう人たちの側に立てば、その主張に何かしら正当化される面があるのだろうが、そういう人たちにとっては、納得しがたい成り行きになっているのだろうか。納得できなくても現実にそうなっているわけだ。ではそれが不条理に思われるのか。

 たぶんそれらの行為を生んだ実際の出来事が不条理そのものなのではないか。大勢の観客を集めてボールのけり合いを見せるという行為が、狂気の沙汰なのであり、実際にそれを観ている人たちは熱狂しているわけだ。興奮していて正気の精神状態ではない。日頃の憂さを晴らすと言っては身もふたもないが、それを見て発狂していないと気が済まないのだ。ヨーロッパや南米でもそうだ。その他のスポーツイベントを含めれば、世界中でそうなのだろう。人々は刺激を求めている。みんなで騒げる何かがほしい。例えばそれがスポーツでなくてもかまわないわけか。好みにもよって、映画館の大スクリーンを観ながら発狂する人もいるだろう。でもそれらの現象を発狂という言葉で語るのはおかしいのではないか。何かそこに皮肉を込めているような気もするが、もう少し穏便に語りたいのなら、熱狂や興奮という言葉にとどめておくべきか。例えば南京事件で、日本兵が刀を使って百人斬り競争をやったとか、従軍慰安婦が一日に何十人もの性処理に使われたとか、捕鯨船からクジラに銛が打ち込まれ、引き揚げられて血まみれで解体処理されている光景などを思い浮かべて、興奮して恍惚の表情を浮かべていたら、その人は発狂していることになるか。なるはずがない。たぶん君は意地悪く冗談で発狂という言葉を使っているのだろう。それでもわざと発狂という言葉を使うと、なるべくなら人は人畜無害な範囲内で発狂していてほしいのではないか。それが行政的な配慮だろうか。とりあえず食肉として解体処理されるのは家畜の範囲内にしてほしいし、クジラのたぐいは愛玩用に、イルカショーやホエールウオッチングで観るぐらいにとどめてほしいわけで、性処理のたぐいも、売春している人たちの意志が反映される範囲内で行われるのが妥当で、百人斬りも映画のスクリーン上でウルヴァリンやキル・ビルがやる程度にとどめてほしいわけか。そして日中韓の非難合戦も、戦争に至らない範囲内でやってほしいわけで、なるべくならサッカーの国際試合などのスポーツイベントを、高まった憎悪や不信感のはけ口として利用してほしいわけか。さらにそこで乱闘騒ぎが起こって負傷者などを出さないためにも、なるべくなら誤解を生むような不穏当な内容の横断幕を掲げるのはやめてほしいとなるだろうか。


4月1日

 形式上に実質があるわけではないらしい。中身は何もなく、意識したら何も出てこない。何もしていないからでくの坊になってしまったのか。泥人形と木偶は違うようだ。ともかく罵り対象となり、否定的な意味で使われる。そこから何が出てくるわけでもなく、深夜の神社で神木に藁人形を打ちつけているわけでもないらしい。丑三つ時がそんな雰囲気を感じさせるのだろう。そこでいくら語源の由来を求めても、傀儡で泥偶が操れるわけでもなく、誰かが何かを妄想しているだけか。煙に巻くにも何かが足りず、しばらくは低回趣味とは無縁でありたいようだ。あり得ないことだろうか。何に操られているとも思えないようだが、たぶん何かに操られて、どこか得体の知れない場所へと導かれ、そこでできもしないことをやろうとして失敗する。物語的にはよくあることだ。試されているわけだ。試練のたぐいだろうか。上部構造とは何か。単純労働を免れた人たちが何かを考えているらしい。その辺が危うい幻想にはまりかける境界線だろうか。知識人は知識人として考えるしかなく、労働者は労働者として考え、両者の考えが重ならなくなり、どちらの考えも実質をともなわず、互いにとって都合の良い夢物語に視界を遮られ、その向こう側にある現実にまで到達できなくなってしまうのか。想像力の及ぶ射程が短すぎるのかもしれない。想像力自体に限界があるのではないか。だから思考力に頼ろうとしているのだろう。思考力を働かせている最中は夢見心地なのか。それではまずいのだろうか。具体的には何がどうなっているのか。考えているだけではどうにもならないのか。結局いつまで経っても逡巡と堂々巡りの繰り返しだ。果てがないらしい。武装闘争の果てにつかの間の高揚を得るが、いつの間にか革命の季節は過ぎ去り、いつまで経っても事態が好転することはなく、気がつけば倒したと思っていた旧主派の勢力が盛り返しているわけだ。それはよくあるパターンで、エジプトでもアラブの春などともてはやされ、チュニジアに続き無血革命への期待が高まったが、すぐに行き詰まって、今では第二のムバラクも台頭してきたようで、ムバラク自身が第二のサダトで、サダト自身が第二のナセルなのだから、そういう方向で軍部の支持を受けた人物が大統領となり、全権を掌握して、それで一応の幕引きなのだろうか。シリアのように泥沼の内戦にならなかっただけでも救いなのか。地中海沿いにある高級別荘地とおぼしき画像を、グーグルアースで上空から眺めている気分に浸りながら、虚しさがこみ上げてきたりするのだろうか。持つ者と持たざる者との間に生じている格差は、何をもってしても埋めようがない。

 季節は移り、どこかの薄汚れた駅前で、長髪のフォークシンガーが弾き語り気味に歌っている。そんな光景を他の誰かが思い描いているだけのようだ。ニール・ヤング症候群だろうか。世の中にはゴダール病というのもあるらしい。中二病が癒えて、己の領分を悟り、ある程度世間的に成功すると、また性懲りもなくゴダール病やニール・ヤング症候群に罹り、その後どうなってしまったのだろうか。やはり反省しながら己の領分を悟るわけか。架空の登場人物が罹る病ではないらしい。自然治癒力に頼るしかない場合は、ひたすら謙虚になるしかないのだろうか。ハーモニカを吹いている老人が酒とバラの日々の果てにどうなるわけでもなく、たぶんそんなのを聴いていれば、気分が和むのだろう。洒落た雰囲気を醸し出しているニコラ・コンテなどではあざとすぎるか。でもそういうので我慢しておいた方が無難なのだろう。深みにはまるときりがなく、勘違いが増幅するばかりだ。音楽だけではどうしようもないことはわかりきっているが、でもそれが肝心なのであって、知らないうちに何かがねじ曲がり、脱臼させられるような力を幻想させ、その幻想に過ぎない力が、自由というあり得ない気分を己のうちに引き寄せるのかもしれない。虚の力の行使が実の力の行使に遠く及ばないとしても、そういう方面へ人を導こうとしていること自体が、実の力を行使している人たちの不快さをあらわにする。そんな不条理をいくら暴き立てても、依然として不条理はあり続け、それにはまってしまった人たちを苦しめているわけだ。悪魔に魂を売ってでもそこから抜け出たいなら、そうすればよく、そうすることでつかの間の高揚感を得られるかもしれない。そういうやり方が今ある現実を構成しているのなら、それもありだろう。この世に出口はない。あるとすればあの世への入り口だけか。でもそれは何の罠でもないのだろう。何にはまって痛い目に遭っていても、またたとえニヒリズムの罠にはまろうと、たぶんそれが出口ではないのだろう。要するに出口に向かっているわけではないということか。向かっていることは確かだが、それと気づかずに通り過ぎることを期待しているのかもしれず、そこから抜け出ることに失敗し続けたいのかもしれない。そんなことがいつまでも通用するとは思えないが、通用している限りは、絶えず失敗し続けていたいのかもしれない。