彼の声100

2014年

1月31日

 不思議な書物だ。常識的に考えるなら、翻訳者は自分が翻訳した書物を、読者に読んでほしいと思っているのではないのか。それが実際は違う結果になっていたりするのだろうか。ロラン・バルトの『サド,フーリエ,ロヨラ』(篠田浩一郎訳 みすず書房)は訳注が274もあるので、読んでいくと、度重なる本文と巻末の訳注との往復運動で疲れてしまって、なかなか読書という行為に集中できない。訳注を読む度に本文の内容を忘れてしまうような気がして、気が気でなく、それでも難儀しながら少しずつ読み進め、やっとのことで本文を読み終わると、そのあとに訳者あとがきが、細かい字でびっしり埋められて16ページもあって、疲れた頭にとどめを刺される。そこで翻訳者の主張が延々と述べられているので、これも難儀しながら読んでいくと、今まで読んできた本文の内容を忘れてしまうような気がして、バルトのことを知らない人のために善意で詳しく説明してくれているのだろうが、何だかバルトの本を読んでいるのか、篠田浩一郎の批評を読んでいるのかわからなくなるようで、嫌な感じになってくる。こういう書物はいわゆる研究者向けで、一般の門外漢が読むようなものではないのだろうか。というか自らの文章読解力のなさを痛感させられるのだが、ミシェル・フーコーの『知の考古学』(中村雄二郎訳 河出書房新社)も、訳注の量が半端でなく、しかも翻訳文が読みづらく、読んでいて内容がまったく頭に入ってこない書物で、何よりもフーコーがこの本を出した経緯が、当時のフランスのメディアがフーコーに対して、安易に構造主義者のレッテルを貼ることに反発して、自分は構造主義者などでは断じてなく、いわゆる構造主義と呼ばれるものとはまったく違うやり方で、自らの書物を著しているのであって、そのやり方をこの『知の考古学』で明らかにしたのであり、これを読めば自分のやり方が構造主義とは明らかに違うことをわかってくれるだろう、というようなことを、本の中で述べているのにも関わらず、翻訳者の中村雄二郎はあとがきで、《この本は、いわゆる「構造主義」思想家のなかで、もっとも哲学的な「構造主義」者であり、事実、現代における哲学的冒険を広義の「構造主義」の場面で行うことによって大きな話題を呼んだM・フーコーの第六冊目の著書、第四の主著である。》と思いっきり構造主義のレッテルを貼ってしまっていて、おいおいおい、それはないだろうと思ってしまうわけで、何だかフーコーの敵がフーコーの翻訳書を、わざと読みづらくして出版しているみたいに思われ、これも嫌な感じになってくるわけだが、『知の考古学』に関しては、河出文庫で別の翻訳者(慎改康之訳)の本が出ていて、こちらは訳注も少なく簡潔で、読みやすい文章になっているので、何とか門外漢でも理解可能な内容となっている。訳者解説の中でも、「自らの研究方法をこのように提示するなかで彼が繰り返し述べているのは、彼の方法をとりわけ構造主義的な方法と混同してはならないということである。自分がやろうとしているのは言語学タイプの形式化では全くないということを強調しつつ、彼は、しばしば自分が構造主義者の一人として分類されることに対し、ここで異議を申し立てるのである」と述べ、ちゃんと著者の意向に配慮している。

 それにしても難しい内容の書物を難儀しながら読むことに、何か肯定的な意義があるのだろうか。何よりもその内容を読んで理解することが肝心なような気がするのだが、どうもその辺が理解できているのか怪しいところだ。それともたとえ理解するのが難しくても、読むことで少しは頭脳が活性化し、そういう面で役に立っていたりするわけか。別に何の役にも立たなくてもいいわけで、実際サドもフーリエもロヨラも、それらの人物は現代人には何の役にも立たないどころか、逆に有害ですらあるだろうか。まあ世間的にはサドはサディズムで有名なところだが、フーリエ(同時代に生きた数学者のフーリエとは別人)はフーリエで、何だか誇大妄想の狂人の部類に入れられるような人で、ロヨラはイエズス会の創始者の一人なわけだ。そして三者三様に何か書いていて、書くことによってそれぞれが特有の言語体系を構築していて、それがバルトにとっては興味深い兆候を示しているようで、それについて書物の中で述べられているわけだ。簡単に言ってしまえば、彼らは彼らで書くことによって世の中の流れに抗っていたわけなのか。実際にも抵抗を実践していたのだろうし、それが原因でサドは長期間牢獄につながれ、フーリエは空想社会主義の元祖のごとくに見なされ、ロヨラはイエズス会を結成してプロテスタントに対抗していたわけか。その自らの信念を書くという行為は、現代の反権力派の作家たちにも通じるところがあるだろうか。例えばロヨラは、保守派の牙城であるローマ教会を利用していたわけだが、やっていた行為は、当時の禁欲主義的なものであるか神秘主義的なものであるかの支配的な信仰に、真っ向から対立していたわけだ。


1月30日

 目覚めているとはどういうことなのか。遠くでカラスが鳴いているのが聞こえていることか。今現在はどうなのか。それがおかしく感じられるらしい。相変わらずカラスが鳴いている。何かが過ぎ去っているのだろう。いつものことだ。鳥がいて人がいるわけだ。鳥には食べ物があるらしい。周りの風景に染まっている。まるで小説の主人公のようにそうなのか。それはどうなのだろうか。すぐにそれができるわけではない。生きている人間には何かが必要だ。死んでしまった人間にもそれが当てはまるのか。そこから降りてしまった方がいいのだろうか。抽象的な疑問を抱く。他に何を目指しているわけでもないだろう。疑念ばかりが糧となっているわけではない。他から影響を被っているわけだ。力を及ぼされている。空を飛んでいるカラスからだろうか。想像している。そこに想像力の源泉があるらしい。何かが湧いて出る。天然水か何かだったら、当たり前のことだろうか。そこから語るべきなのだろう。何かが一巡している。君が語ろうとしているのは、語らなければならないことではない。今はそのようだ。それで安心しているのだろう。心安らかに眠れる。墓石には何と刻めばいいのか。まだ永眠するつもりはないらしい。彼が死んでからすでに十年以上の歳月が流れ、もうその名も忘れられているだろう。ジョー・ストラマーとは無関係か。でもまだ君が生きている時代は続いているはずだ。彼が誰だか知りたいわけではない。政治的な文脈から外れているはずだ。何かが違っているのだろう。外れているのだから仕方がない。何も語らなくてもかまわないのだ。そのような成り行きに関して疑念を抱いているわけでもなく、当然の成り行きだとも思っていないようだが、とりあえずそうすることに意味があるのだろう。後は仕上げをご覧あれとなるだろうか。しかしいったいそこで何が仕上がってしまうのだろうか。うまくやっているはずだ。うまく取り込まれているのではないか。他人のやり方にあれこれ注文をつけるようなことはやらず、黙ってその流儀を眺めているらしいが、まさか2月9日あたりに結果が判明してしまうわけか。結果がどうなるにしろ、微笑ましい光景には違いない。

 アイルトン・セナがレース中の事故で死んだのは、もうずいぶん昔となってしまったが、今やミハエル・シューマッハもスキーで転倒して、頭を打って意識が戻らず寝たきり状態だ。人の運命はわからない。誰が呪っていたわけでもないのだろうが、そうなるには何かきっかけがあったりするのだろうか。常に危険と隣り合わせの自動車レースで事故死するのなら、まだあきらめがつくかもしれないが、そこで前人未到の優勝回数を重ね、凄まじい額の大金を稼いで、引退した後に待ち受けていたのが、悠々自適の余生となるはずが、意識が戻らない寝たきり状態なわけだ。それは近い将来映画になりそうな話か。その状態から奇蹟の回復を遂げたら、よりいっそう映画になりそうな話となってしまうだろうか。でも実際映画の『スーパーマン』で当たり役だったクリストファー・リーヴは、乗馬中に落馬して首の骨を折り、首から下が麻痺して車椅子生活のまま、奇蹟の回復を願いながら、ありとあらゆる医学的処方を試した末に死んでしまったはずだ。それでも人はそういう困難に打ち勝とうとして、不可能に挑み続けた人生に心を打たれる。そこに何か救いがありそうに思われてしまうからか。大病を患いそこから奇蹟の生還を果たして闘病記を著す、確かにそういう成り行きに沿った話が求められている一方で、また人はセナ的に夭折した天才神話などにもロマンをかき立てられるのではないか。もしセナがもっと長生きしていれば、と天才の早すぎた死を惜しむわけか。例えばそれらと比べて、まるでレーシングドライバーのお手本のような、アラン・プロストの自叙伝など出たとしても見向きもされないか。憎まれっ子世に憚るということかもしれず、最高の運転技術とレース中の駆け引きを兼ね備え、プロフェッサーと呼ばれた男のクレバーでスマートな人生は、今なお続いているらしいが、実質として人が求められているのは、セナでもシューマッハでもなく、やはりプロストのような生き方だろうか。話のおもしろさは見たり聞いたり読んだりする娯楽の対象であり、要するに派手な打ち上げ花火を見て楽しんでいる一方で、実生活では仕事も家庭も堅実に保ってゆきたいと思うわけか。どうもその辺の事情を勘違いしてしまってはまずいのかもしれない。特定の誰かが有名人としてメディア上でおだてられ、ちやほやされているとしても、あくまでそれは娯楽の対象としてそうなのであって、そういう人たちがいっとき栄華の極めて、そのあと何かのきっかけから、バッシングされ落ちぶれてしまうとしても、今度はその落ちぶれ具合まで娯楽の対象となってしまうわけだから、そこに人としての実質がともなっているわけではないということか。


1月29日

 何かの渦中にいる人間には、それが当たり前のことだと思われてしまうらしいが、その外にいる人間にしてみれば、とても正気とは思えないことをやっているように見えてしまう。その渦中にいる人間がやっている行為をどう擁護すればいいか、その辺で考えあぐねているようで、無理に擁護などせずに、批判するのは簡単なことかもしれないが、そういう批判は得てしてつまらなくなってしまいがちだ。ともかくそれと同じようなことは主張したくないか。ではどう擁護すればいいのだろう。そもそも具体的に何を擁護したいのか。例えばそれは、この世界に問題など何もなく、あるのは人がねつ造した問題だけという認識か。それではまずいか。なぜいきなりそんなところまで行ってしまうのか。途中で立ち止まらないと、何も語れなくなってしまいそうだ。問題そのものが人と関わりがあり、常に問題意識を持っていないと、社会から外れていってしまう。何が外れていってしまうのだろう。君自身がか。それは面倒なことだが、すでに外れかかっているのではないか。だから完全に外れてしまう前に、やらなければならないことがあり、まさかそれがこの社会に対する問題提起となるわけか。冗談に違いないが、具体的に何を問題提起しているのだろうか。いつもその具体的に何を語ろうとしているかがはっきりせず、語る対象がなかなか定まらず、ねつ造しようとする問題の手前で逡巡していて、その渦中に入るのをためらい、本気でそれについて語る気になれないようだ。本当は何もないのだろう。それを言ってしまってはおしまいか。言うのではなく記しているのだろうが、それで何か言っているつもりになりたいらしく、おそらくフィクションの中でそう述べているようにしたいのだろうが、現状ではうまくいっていない。だから語らなくてもいいことまで無理に語る必要はなく、特に何を提起しなくてもかまわないのではないか。そう思っておいて差し支えないらしい。君がそうしなくても、誰もが何とかしようとしている。それで何とかなるとは思えないが、ともかく何かをやっているふりでもしておかないと、気が済まないということだろうか。でもそんなふりだけでは本気になれないのは当然か。何よりも実質がともなっていない。でも実質がともなっていないから、それらはすべて幻影なのであって、何がそれらなのか特定されないまま、さらにごまかしにごまかしを積み重ねながら、その先に意識だけが突き進んでゆき、身体は置いてきぼりを食ってしまうわけだ。そしてその意識だけが先走っている空っぽの身体が、傀儡人形のごとく無意識に操られ、何やらどこかの現場で作業中のようだ。

 この世界では誰が目覚めているわけでもない。誰もが眠っているのだから、いくら妄言を繰り返しても、それは寝言のたぐいになるだけだ。君は自らの眠りの中で、黙示録の中で述べられていることを信じようとしているのではなく、そんな妄想の中に見出される未来の幻影を打ち砕こうとしているのでもなく、ただ回り道を選ばざるを得ず、いくらでも遠回りしてもかまわないのなら、その途中で力尽きてしまっても、後悔しないだけの心構えができているのか、まさかそれが試されていることのすべてなのだろうか。そこで危惧の念を抱いているとしたら、やっていることが報われないことに憤っているのではなく、どこまでその報われない行為に携われるか、あるいは無駄足を強いられている状況にどこまで耐えられるか、ということになるのだろうか。そんな妄想をいくら抱いてみてもきりがなく、実際にはそれとは違う方面でどうにかしなければならないわけだ。今ここでわかっているのはそういうことであり、戯れに何を語っても、そこから先には何もなく、他に何がもたらされるわけでもない。すべては戯れ言として片付けられ、いちいち真に受けている暇もなく、そんな面倒なことに関わるのはごめん被りたいのであって、そんな暇があったら、もっと長く眠っていたいのではないか。そうやってできるだけ長く睡眠時間を確保して、とにかく眠っている間は夢心地でいたいのだ。そんな夢心地を保ちたいがために、人はあれこれ努力しているわけで、なるべくならそれを断ち切ってしまう現実のみすぼらしさには直面したくない。いずれは直面してしまうとしても、可能なら先延ばしにしておきたいところか。そのためにはどうしたらいいだろうか。わかっているくせになかなか答えを出そうとしないのは、そのために強いられる戦略のたぐいか。あるいは答えなどどこにもありはしないととぼけてみせる。先延ばしとはこういうことを言うのだろう。朝目覚めた時にこういうことが思い浮かんだとしたら、それは吉兆なのだろうか。何かをやり通そうとすれば、無理なことをやっている分、それにともなうリスクを引き受けなければならず、それを承知でやっているのだから、今さらそんな運命を呪ってみても仕方のないことか。君はそこから語りだしているわけだ。語っている途中からフィクションの中へ、架空の登場人物として闖入してしまうのもうなずける。どうしてもこの世界から逃れたいのだろう。それが高じて自らの影を失い、失われた影に語る主体を託し、誰もそこでは語ってないような環境を空想して、それがフィクションとして作動するような仕掛けを考案したいわけか。回りくどいやり方であり、うまくいかなくて当然のような気がするが、実際のところはどうなっているのか。やる気がしなくなっているのだろうか。一応は語っているのかもしれない。確かに誰かがそこで語り続けているのだろうが、その誰かと君とが一致した方が、何となくわかりやすくなるのかもしれず、そんな誘惑をはねのける理由も特には見当たらないだろう。ならばどうするべきなのか。それも先送りの対象となるだろうか。


1月28日

 まだ思い出していない。辟易するようなことか。語るのは無理か。語れないとすれば何なのだろう。説明のつかない現象が起こっているらしいが、そこで何を調べているのか。調べればやがて説明できるようになるのだろうか。説明したところでどうなるのか。やはりうんざりしているのか。そんなことは放っておいた方がいい。あちら側で適当な処分裁定が下されるだろう。人は自らがそこで占有している立場に合わせて、自らの言説を構築しなければならないらしい。それがそういう役割を担わされた者に生じる責任というものだろうか。組織の中で人が人の上に立つと、上に立った者は、その役職にふさわしい立ち振る舞いを演じなければならず、記者会見等における質疑応答にもそれなりの見識が求められる。そんなところか。そういう大人の対応ができない人に、大人の対応が求められる立場を割り当ててしまうと、面倒な事態となってしまうらしい。そういう意味では、大阪の橋下市長も、籾井とかいうNHKの会長も、欧米の連中から見れば、まだまだ子供だと見なされてしまうわけか。かつてマッカーサーが、「アメリカがもう40代なのに対して日本は12歳の少年.....」と述べたことに、腹を立てた当時の日本人たちと同じか。どうやらその手の日本人には自尊心というものが必要なのだろう。そして彼らは彼らで、自分たちにはすでにそれが備わっていると思い込んでいて、それを認めてほしいわけだ。誰に認めてほしいのかといえば、それは韓国や中国の連中ではなく、欧米の連中にだ。俺たちは韓国や中国の連中とは違って、すでに欧米の連中と同じように一等国民なのだ、ということらしい。そういう国家的あるいは民族的な差別意識が芽生えていること自体が、すでに一等国民である証しなのだろうか。それはひと昔前の西洋かぶれに多く見受けられた症例かもしれないが、今でもそういう症候群が猛威を振るっているようで、彼らはすでに自らの内に備わっていると思い込んでいる国家的あるいは民族的な自尊心を、何とか世界の連中に認めさせたいのだろう。ご苦労なことといえばご苦労なことであり、それが徒労となるとは思っていないのだろうが、世界の連中からすれば、それはもはや忘れてしまいたい忌まわしい過去を思い出させるような、鬱陶しい自己主張となるだろうか。それは韓国や中国の連中が言い立てていることの延長上にあり、またそれは新大陸の先住民が土地を奪われ殺戮された歴史であったり、アフリカが奴隷交易や植民地化によって搾取されてきた歴史であったりするわけか。過去を蒸し返せばいくらでもその手の過ちが出てくるのだろうが、そういうことを言い立ててくる連中に対して、何か反論しなければいけないわけか。子供なら反論するしかないわけか。その辺がわからないところだ。たぶんそういうところでいくら自国民や自民族の立場を正当化しても、おそらく勝ち目はないだろう。ではどうすればいいのか。欧米の連中は何をやっているのか。例えばオバマやキャロライン・ケネディが、原爆が投下された広島へ行って献花したいというのなら、それは過去の過ちを認めたいということであり、少なくともその意思表示を行っておきたいということなのだろう。たぶん欧米の連中の良識に照らし合わせるなら、そういったことをやるのが大人の対応であり、それがそういう立場にある者のふさわしい立ち振る舞いなのではないか。じゃあ日本も一等国にふさわしくありたいのなら、例えば安倍ちゃんが韓国に行って、従軍慰安婦の像に献花すればいいということか。それはいくらなんでも無理なんじゃないだろうか。でも本当にやったら、すっげぇー!ということになりはしないか。やったら内心、してやったりとなるだろうし、そんな光景を想像しながら笑ってしまうのは君だけだろうか。そうだ、そのついでに伊藤博文を暗殺した安重根の像や墓にも献花して、どうだい、A級戦犯も従軍慰安婦も暗殺犯も、分け隔てなく弔っちゃう俺って心が広いだろう、と韓国の連中に見せつければいいわけか。でもあまりニコニコしながらわざとらしくやっちゃうと、逆に反感を買って、伊藤博文みたいに暗殺されちゃうか(笑)。


1月27日

 安易に語ってはだめだが、安易に語らざるを得ない成り行きの中で、何を考えているのか。無理を承知で厳密に語ろうとすると、何も語れなくなってしまう。厳密に語れるほど材料を持ち合わせていないのではないか。だから憶測や推測だらけとなってしまい、いい加減なことを語ってしまうわけだ。そうなるならなったでかまわない。結果的にそんなことしか語れないなら、そういうことだったのだ。海に投げ入れたビンが手元に戻ってくることはない。ビンの中に入れた手紙の内容を思い出せるわけがない。それは誰に向けて書いた手紙でもなく、君自身に向けて書かれた内容でもなかったはずだ。今さら独白の中身などにこだわっていられないということか。風とともに去っていったのは、誰の思い出でもない。吹きすさぶ風の中で、誰かが誰かに語りかけ、その聞き取りにくい声に反応するまでもなく、たぶんそこには誰もいなかったのだろう。少なくとも誰の意識とも無関係に、声が発せられ、その内容を理解するまでもなく、おせっかいに別の声が応答する機会が失われていたのであり、その暇がなかったのかもしれず、答えるあてのない問いとして、その場で宙づりとなったまま、時が経ち、固まって風景の一部と化してしまったのではないか。現状では石碑に刻まれた文字を読んでいる余裕などないか。すり減って所々が剥落していて、読めない箇所が多すぎて、解読作業が困難を極めているわけでもないのだろうが、風に吹かれて言葉が宙に舞い、その風が砂埃を舞い上げ、その場に立っている誰かを咎めているようにも感じさせ、さっさとそこから退散するように促しているみたいで、その時はそんな成り行きに従うしかなく、焦れながらも離れてしまったようだ。今となっては後悔するしかないわけか。なぜそう思う。問われていることはそれとは違うのではないか。記された文字なら、今ここで画面上に映し出された連なりを読んでいるではないか。自分で記しつつある文章さえ読んでいる。何も古びて壊れかけの石碑に刻まれた文字を読む必要はないか。黄ばんで経年劣化した文庫本を読む必要もない。手に入るものなら、何を読んでもかまわないのだから、その場の気まぐれで買った書物を読めばよく、それが評判の良いものだろうが悪いものだろうが、自分で読んで判断すればいいわけだ。結局わざわざ出向いて何を求めようとしていたのか知らないが、要するに無駄足だったのか。昔の記憶に照らし合わせるわけにはいかないようだ。それで何がわかるというのだろう。かつての君が知っていた結末はそうではなかった。確かそれに類するフィクションの中では、苦労の末にどこかへたどり着き、そこで何かを見つけて物語は終わっていたはずだ。なぜ今さらその続きを語る必要があるのだろう。語る上で足りなかった挿話などどこにもありはしない。それで物語は完璧のはずで、何も付け加えずに終わりを迎え、後は記憶を消し去り、事前の申し合わせの通りに何もなかったことにして、万事が丸く収まったわけだ。そんな話がどこにあったのか。君はわざとらしくとぼけている。

 何事も完璧とは行き難い。それどころか荒唐無稽も甚だしいか。誰も知らない秘密の場所で会合があり、そこで秘密の暗号文が作られていたりして、それを解読すれば、どこかの秘密結社がこの世界を支配していることがわかったりするわけだ。そんな物語のあらすじを知ってがっかりしたのかもしれないが、今のところはそれ以上の進展は期待できないか。なぜ安易に語ろうとしてしまうのだろう。語らざるを得ない立場に追い込まれているのだろうか。気まぐれなのかもしれないが、何かが高じてそこから導き出された案を却下して、それとは別の理由をねつ造しなければならなくなり、そのねつ造した理由をもとにして、話を組み立て直しているようだ。そこで誰かの想像力が行き詰まっているのだろうか。理由がどうあれ、ねつ造された理由が真実味を帯びるのにも、それなりの理由があり、それなりの理由に至っても、またさらにそれなりの理由に至る理由を、ねつ造しなければならない。君は無理にねつ造するのではなく、発見したいのではないか。どうやら理由の無限ねつ造地獄から思考を解放させたがっているようだ。安直に歴史から理由を求めたいのか。例えばボストン茶会事件はテロのたぐいで、ジョージ・ワシントンやベンジャミン・フランクリンなどが当時の主要メンバーだったフリーメイソンが、アメリカ独立戦争を主導していたことは確かだ。その結果アメリカ合衆国が生まれ、のちに世界の覇権を握ることとなり、あたかも秘密結社が世界を支配しているかのような陰謀説が流布している原因となっているわけだ。そしてその陰謀説を打ち砕くべく、テロ活動によって世界中で抵抗運動を繰り広げているのがアルカイダなわけか。まあアルカイダも秘密結社には違いなく、仮面ライダーにおいて世界征服を企むショッカーと変わりないか。わざと冗談に持ち込んで話を打ち壊しにしたくなっているようで、歴史やフィクションから理由を求めようとすると、とたんにおかしくなってしまう。ともかくその手の陰謀や策略がどの程度功を奏しているのかは知らない。それについて語れば興味深く思われ、逆に明らかになっている現実の政治や経済の動向から語れば、何となくまともな神経をともなった人たちが語っているように思われる。要するに胡散臭く思われるような人たちは、すぐに何それの陰謀や策略を持ち出して語り、まともに思われるような人たちは、現実の世界の政治経済情勢をふまえて語っているように思われるわけだ。だが君はそれらの人たちの間に違いがあることを、本当に信じているのだろうか。味噌も糞も一緒にするわけにはいかないが、結局どちらも信じていなかったりするのかもしれない。そして娯楽としておもしろければ、どちらであってもかまわないような気もしているのではないか。その程度のことだ。


1月26日

 限られた情報から何かを組み立てようとしている。それらの物語のあらすじならいくらでも読んだはずだ。でもそれだけで何を語れるというのか。話が長過ぎてさすがについてゆけないらしい。面倒くさくなって途中で挫折か。君は未だにポストモダンという言葉が有効だと思っているのか。確かポストモダンもモダンの中に含まれるはずだ。モダンの内部でのポストモダンだろう。でもそれで何を説明したことになるのだろう。ちなみに現代は何なのか。あと百年も経てば、百年前の時代を定義できるのではないか。だから安易に決めつけるべきではないということか。たぶんわからないままでもかまわないのだろう。大げさなことは何も言えないらしい。実際に正気とは思えないが、未だに戦後なのだ。戦後とは第二次世界大戦後のことらしい。今年が2014年で第二次世界大戦の終結した年が1945年だ。終戦直後に生まれた人たちが、ほとんど人生の黄昏時に達しようとしている時に、平然と第二次世界大戦の終結を起点にして、そこから後の時代を戦後としてひとくくりに語ってしまう人たちがいるわけだ。その一方で自分たちが生まれる前の出来事を、あたかも自分たちが引き受けるべき切実な問題として語り、その内容がほとんど神話化していることも意に介さず、他人の経験を自分の経験のようにもっともらしく語ってしまい、それが実感をともなわないフィクションと化していることにも気づかない。それでかまわないのだろうか。君にはそれがおかしいと思われるようだ。戦前と戦後の違いが今の時代にとって切実だとは思えないか。ではモダンとポストモダンの違いが切実な問題となるだろうか。確か19世紀のフランスでは、ナポレオン三世による統治下の約二十年間はポストモダンな時代で、日本においては大正時代から昭和初期にかけてが、同じくポストモダンの時代だったと主張している人もいたはずだ。そして実際に世界的にそういわれ始めたのが、1980年代以降から現代まで続いている時代がそうであり、中には1990年代の湾岸戦争で、あるいは911の同時多発テロで、また日本では311の巨大地震と原発事故で、それぞれ時代が変わり、それらの出来事を境に新しい時代に突入したといわれた時もあったが、またここにきて日本で右翼系の国家主義が流行りだして、それが昭和初期から戦争へと突き進んでいく戦前の時代の再来を予感させ、要するに今がまさにポストモダンからモダンへ、戦後から戦前へと時代が移り変わろうとしているパラダイム転換の時期なのだろうか。まあそうだとしても、今さらそれを深刻に受け止めようがなく、冗談でそう述べているだけかもしれないが、そう考えると何やら世の中の流れがもっともらしく理解できたように感じられ、戦後思想だのポストモダン思想だのが、どうたらこうたら述べている人たちの言説を、少しは理解できるようになるだろうか。その気もないのにそんなことを述べていること自体が、要するに君はそれらの人たちを馬鹿にしているのではないか。

 ユーチューブで右翼系の人が、村上春樹の長ったらしい題名の短編小説を酷評して、何やら戦後日本を象徴する日本国憲法を、自ら体現している村上春樹の無国籍小説の崩壊を見た、とかいうのを見ながら、また凄まじく長そうな長編小説『1Q84』について、4人ぐらいの評論家みたいな人たちが、戦後文学がどうたらこうたら言いながら、延々と批判している映像も、途中で飽きるまで見ながら、さらに東浩紀が、村上文学とそれから影響受けた漫画との関連で、あるいは世界の資本主義の発展段階との関連で、なぜ世界中の多くの人たちに読まれているのか、それについて何やらおもしろおかしく語っているのも聞きながら、なぜかそれらの人たちが馬鹿にしている村上春樹の小説を読んでみたくなるが、果たして実際に読んで馬鹿にせずに批評できたら、愉快な気分になれるだろうか。馬鹿にしないどころではなく、肯定したり絶賛したりすれば、それは画期的なことになるだろうか。そんな愚かで倒錯したことを考えているのだから、君の中では、まだ時代はポストモダンなのかもしれず、戦争だのテロだの原発事故だの、そんな出来事がいくら起ころうとも、君の頭の中ではパラダイムシフトが起こらないということか。まあともかくそのパラダイムシフトとかいう概念を平気でいい加減に使っていること自体が、まさにポストモダンを象徴していたりするのかもしれず、要するにポストモダンとは、人々のやっていることのすべてが茶化され、2チャンネル的な皮肉が通用している時代なのかもしれない。でもそれもまたいい加減な解釈で、未だに戦後がどうたらこうたら言っている人たちを馬鹿にするどころではないか。


1月25日

 知っているのはそんなことか。がっかりしてしまったようだ。でも慌てることはない。これからまだ知らなければならないことも出てくるはずだ。そのつもりで探求を続け、誰かがどこかへ至るのだろう。それが君である必要はないらしい。要するにどこかへ至るのは、他の誰であってもかまわないのだろう。それらの内容は誰が語ってもかまわないようなことであり、特定の誰に語る権利があるわけでもない。本当は誰も語っていないのかもしれず、誰もが沈黙する中で、その中の幾人かが言葉を記しているだけなのかもしれない。そんなはずがないと思っているのだろうか。たぶん中身がないのだろう。この世界には中身がない。誰かが中身のない世界を空想しているのではないか。そしてそれが小説になる。小説の中で語られている内容以外は何もない世界だ。ならばそれは言葉の世界なのか。しかしその世界には何が欠けているのだろうか。言葉が記されているのなら、それでかまわないのではないか。その記されている中身が問題なのか。中身のない世界ではまずいだろうか。しかし今さらどんな中身を付け加えればいいのだろうか。そんなところで考え込んでいるようでは、先が思いやられる。君がこれから読もうとしている小説はどんな内容なのだろうか。それは読んでみればわかるような内容なのか。それを知りたければ読んでみればいい。君が読みたくないのなら、きっと他の誰かが読むだろう。君に残された時間はあとどれほどあるのだろうか。そのときになってみなければわからない。だからその時が来るまでは書物を読み、言葉を記さなければならないだろう。君が読まないのなら他の誰かが読み、言葉を記さないなら、他の誰かが言葉を記してくれるだろうから、そんなに深刻に事態を受け止める必要はない。誰もがそんな立場なのであり、代わりはいくらでもいるのだろう。君はかけがえのない存在ではないらしい。そんなわけでこの世界では中身がないことが必然なのだ。常に頭の中を空っぽにしておかないと、固定観念にとらわれて、新しいことは何も入ってこないだろうか。そういう意味ではない。すべては外部にあり、必要に応じてその都度、外部から情報を入手しなければならないのか。それも中身のないこととは無関係か。では何なのか。ところでこの世界は誰のものなのか。また虚無が遠いところから助け舟を出してくる。虚無以外の誰に助けられているわけでもないだろう。

 言葉を記している途中で何かが違ってしまったらしい。現状の何が問題なのだろうか。語るとは何か。言葉を記すとは何か。そういう水準で問題となっているのは、語り方や言葉の記し方なのではないか。君には興味のない範疇だろうか。どのように語り、どのように言葉を記しているのか。いったい誰がそう考えているのだろうか。そういう方面では言葉が続かないか。この世界には中身がないとすれば、なくなった中身はすべて世界の外部にあるわけか。しかし世界の外部とはどこにあるのだろうか。何が世界の外部を構成しているのか。そこにすべてが構成されているとすれば、いったい世界の空っぽの内部とは何なのか。人は世界の空っぽの内部から、外部の世界を想像しているということか。どうやらそこにすべてがありそうで、世界の外部にすべてがあるから、絶えずそのすべてを求めているとなるわけか。そしてそのことが、世の中にありふれた宝探しの物語が量産されている原因となっているわけか。確かにそれらの物語では、誰もが何かを探し求めていて、その探し求めているものは、人によって千差万別なのだろうが、たぶんそれはここにはない何かであり、やがてどこかに見出される何かなのかもしれず、その何かが見出される場所が、この世界の外部となるのだろうか。君もそんなありふれた物語を空想しているのだろうか。誰かが読んでいる漫画の世界では、まだ宝まではたどり着いていないようで、そこに至る冒険の最中で、何やら決闘が繰り広げられていて、仲間同士で助け合い、暴力によって傷つき、ある者は力尽きて死んだり、またある者はかろうじて窮地を脱し、生き残ってまた宝探しの旅を続けていたりしているわけか。そんな漫画を読むのを毎週楽しみにしながら、多くの人たちが今日も生き長らえているわけか。それとは別に生き長らえる理由があるのではないか。それは何だろう。人々は空っぽの内部を何かで満たさなければならない。何かとは何だろうか。それも人それぞれで千差万別か。それはしばしば世論調査によって、マスメディアが提示して見せる何かではないのか。最大公約数的にはそういうことであり、それは選挙の時に問題化され、何やら多くの人たちがそういう問題に関心を持っているように語られ、立候補者がその問題について語らなければならない慣わしとなっている。例えばそれは少子高齢化や福祉問題、続いて景気と雇用問題、そして原発・エネルギー問題や災害対策などとなるらしいが、それらは議会で議論され、行政によって対策が講じられなければならない問題だろうか。そのような問題が改善されて、人々は安心して生き長らえたいわけか。でも依然としてこの世界の内部は空っぽのままだ。あるのは夢と幻想だけか。実体のないものでいくら内部を満たしても、リアリティを得られるわけがない。でもそんなものが必要だとは思わないのではないか。


1月24日

 眠っていたのかもしれない。何か他のことに気をとられていたのだろうか。不意にさっきまで語っていた内容を思い出せなくなる。昨日は何を語っていたのか。確か自ら記した気に入らない言葉の連なりを削除していた。深夜にユーチューブを見ていたのかもしれない。人は千年も生きていられない。そう思いながら、そんなたぐいの内容の映像とは無関係に、何を忘れてしまったわけではないらしいと思う。もう思い出してしまったのか。実際には何も忘れていないはずだ。ここに1カ月ぐらいで何かが立て続けに起こっているだろうか。首相の靖国神社参拝に対しては、「日本の指導者が近隣諸国との緊張を悪化させるような行動を取ったことに、米国政府は失望している」そうで、和歌山県太地町で行われているイルカ追い込み漁に対しては、「米国政府はイルカの追い込み漁に反対します。イルカが殺される追い込み漁の非人道性について深く懸念しています」ということらしい。些細なことでしかないが、そんなことをきっかけとして、いよいよ時代が動き出すのだろうか。すでに何かが変わり始めていて、君がそれに気づいていないだけか。こういう声明があからさまに出されること自体が、すでに何かが変わってきている証拠だろうか。人が神社に参拝しようが漁師にイルカが殺されようが、そんなことはそれに関わっている当事者以外にとっては、どうでもいいことかもしれない。でも何かを象徴する行為となっているようで、文化だの伝統だのとか言う事柄に人心が絡めとられているとしたら、何やらそこに重大な問題が生じているに違いないと思い込んでしまうとしても、何の不思議もないところか。だがそれにしても君は本気になれない。いつまで経ってもそうなのだ。説明ならできるのではないか。日本人の文化や伝統について何やら利いた風な意見を述べられるということか。でもそれはよくあるパターンだろう。そんなことを述べながら、日本人としてのアイデンティティーを正当化してみるわけか。でもそのアイデンティティーという言葉自体が、日本人の文化や伝統とは関係のない外来語なのではないか。日本固有の何かについて語るのに、日本固有ではない言葉を使って説明するのもいかがなものか。でも本当はそれどころではなく、そもそも日本人も文化も伝統も、すべて日本の外からもたらされたものなのではないか。日本の外からやってきた外人とその子孫たちが日本人となり、外人がもたらした外来の文化や伝統が、その後の様々な紆余曲折や変遷を経ながら、日本の文化や伝統として定着したのではないか。そういう成り行きに従って、いつの頃からか神社という建物が建てられ、いつの頃からかイルカの追い込み漁が始められ、その様々な紆余曲折や変遷の一環として、明治維新以降の西洋化の流れがあって、その影響を被って、戦没者を慰霊する、という神社形態としては極めて特異な、靖国神社という奇形児が生じたりしたわけだが、その西洋化の流れは今も続いていて、それを象徴しているのが、先に取り上げた一連の米国政府による、圧力とも受け取れる遺憾の意を込めた声明なのだろう。

 人は絶えず外から学ばなければ学んだことにはならず、たとえ独りよがりなことをやっているようでも、それは外部から何らかの影響を被りながらやっていることなのかも知れない。そこから思うに、自国の文化や伝統を重んじる、という一見自発的な思考自体も、ひょっとすると西洋由来か中国由来の外来思想かもしれず、そういう文化や伝統が、外国の圧力によって変節を被ってしまうことに抵抗する行為さえ、外来の思考に由来するのかもしれない。だからそういう文化や伝統とは無関係な部外者が、あまりむきになってこだわる必要もないことなのではないか。でもまあそういう文化や伝統に関わっている人たちにとっては、うざいことなのだろうし、外部からの圧力に屈して、自分たちの代でその文化や伝統が途絶えてしまったら、たまったものではないだろうが、それでも元来そういう文化は外部からもたらされたものであり、それが内面化されると伝統となり、伝統は絶えず外部からの圧力によって変容を被り続け、不変の様態を保つことは難しい。それは考えてみれば当たり前のことなのだろうが、やはり今までやってきたことを簡単に改めるわけにはいかないだろうし、それに抗いたくなるのも当然の成り行きだ。ともかくそういう抵抗運動に同調したい人は同調すればよく、そんなふうにして文化や伝統の変容や変遷の過程に関わることで、何らかの役割を演じられるのかもしれない。中にはそんな行為に生き甲斐を感じている人もいそうだ。


1月23日

 偽りの破滅がギャング映画の中にある。実際のヤクザやギャングはもっとビジネスライクなことをやっているのではないか。派手に撃ち合って壮絶な最期を遂げるのは、よほどのことがない限りは避けなければならないか。映画と現実は違う。つまらない話は映画にならないし、どうでもいいシーンも映画には出てこないはずか。まあその辺はガンダムアニメも似たようなもので、ガンダム乗りの主人公が敵のモビルスーツと戦い、派手に殺し合うわけか。でもギャング映画とは違って、最後には生き残るのではないか。キーマンである敵の赤いモビルスーツに乗った金髪で仮面舞踏会状態の男も、死にそうでなかなか死ななかったりする。その辺がギャング映画とは違うところか。確かに派手なドンパチが繰り返されるのは似ているが、そういうことがやられている背景が違っているのではないか。しかしなぜそこで戦っているのか。それは愚問だ。戦う必要がないのに戦っているわけではないらしい。その辺でフィクションとして戦う必然性がねつ造されていなければならない。壮絶な戦闘シーンを売りにしているのであれば、そういうシーンが話のメインとなり、戦いが長引いたり、繰り返されたりする理由が必要とされるのではないか。戦っている理由とはそういう事情なのだろうか。そんな理由ではつまらないか。別に戦う理由に興味があるわけではなく、君はそれとは無関係なところで、何か適当なことを考えているのではないか。実際がどうであれ、作り話の中で実際よりも誇張されて、派手で劇的なことが演じられているのであれ、そこで現実には見えていないものを見せようとしているのであれ、そういうものを見せて、何を考えさせようとしているのであれ、そんなことはおかまいなしに、作っている側とも見ている側とも思惑の外れたところで、何かが起こっているのであれ、実際に現実の世界でもフィクションの世界でもそうなっているのであれ、たぶんそれについて語ろうとしているのでもなく、君は適当にいい加減に別のことを考え、わざとそんな見所を外して無視しながら、それらの本質からずらして語っているわけか。でもそれで何を語っているというのか。そう語る理由も必然性もありはしないだろうが、それの何が気に入らないのだろうか。愚かなのかもしれず、わざと愚かに振る舞っているのだろう。それらの何が興味深いわけでもなく、見ているつもりのそれらは、出来事の表層上でうごめいている影でしかない。他の誰かの記憶がそう思わせるのか。他の誰かとは誰なのか。たぶん誰であってもかまわず、誰でなくてもかまわないのだろうが、いつまでもそこにとどまっているわけにはいかないのであり、君が影響を受けている他の誰かの記憶をなかったこととして、それ以降に新たな言葉を連ねようとしているのだろう。果たしてそんな成り行きとなるのだろうか。

 それにしても人はおかしな現象にとらわれている。何がおかしいわけでもないのに、それをおかしいと思わなければ、それについては語れず、語る必要もないのに無理に語る理由も見当たらないのに、やはりそれに心が奪われていると思い込み、それについて語ろうとしてしまうわけか。その辺に語る上での不条理があるのだろうか。理由など何もないと思えば、語らなくても済むのかもしれないが、そうは思えないから語ろうとしてしまい、実際に誰かがどこかで何かを語っているわけか。フィクションとしてありもしない話をでっち上げるとしても、実際にあった話が謎や不条理に満ちていて興味深く、他の人にも知ってほしいと思うにしても、なぜ手を替え品を替え、その手の話が途切れることなく、これでもかと出てくるのだろうか。退屈を紛らわすためなら、もう腹一杯で、これ以上は詰め込む余地もなく、この辺で降参するしかないだろうか。そう思った時点ですでにそこから離れているのではないか。そしてそのすべてが過去に起こった出来事だ。たぶんこれから起こる出来事もそれの延長上に起こるのだろう。無論そうではなく、思いがけない出来事に遭遇したいのだろうが、たとえそうなったとしても、そういうのに直面して感動したりしなかったり、驚いたり驚かなかったりするのだろう。そんなことを予想すること自体が、現状に退屈しきっている証拠か。わざと自らにそう思わせておいて、未来への期待を忘れようとしているのではないか。君は何を期待していたのか。それを忘れてしまったから、また性懲りもなくこの場へ引き戻されてしまったのではないか。この場とはどの場なのか。ただの部屋の中だ。少なくともここは戦場ではない。ギャング映画と戦争映画について検索していたはずだが、なぜそれについて語れないのか。実際に映画館に出向いて見ていないからか。実際にそれがお涙頂戴であれ不条理であれ、どうも語ろうとしているのは、そういうことではないような気がするわけか。何を語ろうとしているでもないような気がする。そんな気がするだけで、実際には何か語っているはずだが、やはりそれは謎でも不条理でもなく、その手の興味深さとは無縁の何かについて語りたいのであって、実際に語ろうとしているのではないか。それは驚きとも感動とも無縁の内容なのかもしれない。忘れてしまうような時間の経過の中で、何を考えるでもなく、他の何を語るでもなく、やはり考え、やはり語り、言葉を記している最中なのだろうか。言葉を記しながらそう思っているのだろう。でもその思っていること、考えていること、語ろうとして語れないでいること、それらの内容がまだ明かされていない。どうもその辺にためらいがあるらしい。『プライベート・ライアン』的なものが嫌なのか。


1月22日

 確かにこれまで通りのことを主張していればわかりやすいだろう。それに対するこれまで通りの反論を繰り返す者とも、予定調和の対立を継続していられる。でもそれで何が変わるのか。変わらないことがいいことか。たぶんそうだ。状況が変わってしまったら、今までの主張を維持できなくなり、新たに自らの立場を正当化できる主張を模索する羽目になりそうだ。そうなってしまったら厄介だろうか。ではどうすればいいのか。そんな話は聞いていない。君はこれから何を語ろうとしているのだろう。何かがずれているようだ。美談とは何だろう。メロドラマとは何なのか。それの何が子供騙しなのだろうか。そういう話に批判的な人たちも、お涙頂戴的に感動してしまう人たちも、待ってましたとばかりに食いついてきて、まさに毎度おなじみの紋切型を煽っているメディアの思うつぼなわけだ。いつまで経っても進歩がないとはこういうことだろうか。こういうこととはどういうことなのか。やめた方がいいということかもしれない。いつまで待っても総決算の時はやってこない。もう待ちくたびれているはずか。何の羞恥心も抱かずに従来通りの主張を繰り返し、それに反発し非難してくる人たちに逆ギレして、そんな立場に居直ってみせる。不動の立場というものが果たしてあるのだろうか。居直りを可能とする状況があるのかもしれない。でもそこから何を救い出せばいいのか。そんな行為を肯定する必要があるのだろうか。お涙頂戴のメロドラマも、需要があるから供給があり、実際に供給されれば、感動を目当てに大勢の人が、それを見に集まってきて、ナイーブな人たちが涙を流しながら感動してしまうわけだ。そしてそんな予定調和な状況を目の当たりにして、はらわたが煮えくり返っている人もいるらしい。てめえらいい加減にしろ!ということだろうか。しかしなぜそんな状況が生まれたのか。神風特攻隊による滑稽で倒錯した自爆攻撃は、戦争の敗北を精神の勝利に転倒したわけか。だから我々は断じて鬼畜米英には負けていない!となるわけか。あるいは確かに鬼畜米英には負けたが、中国と韓国には絶対勝つ!ということなのか。その辺がよくわからないが、アルツハイマーに罹ったロナルド・レーガンは、大統領時代にこんなことを述べている。「映画『バック・トゥ・ザ・フューチャー』で述べられているように、我々がこれから行こうとする場所には、道など必要ないのです。 ("Where we're going, we don't need roads.")」ギャグのたぐいだろうか。たぶんこれだけでは意味不明だろう。利いた風な内容をそれに付け加えるなら、過去の怨念を復讐心に転化しながら後生大事に抱えていないで、今はお涙頂戴にやられているとしても、くだらぬ感傷に浸っている暇はなく、若者は道無き道を突き進んでゆかなければならず、自らの手で自らの未来を切り開いてゆかなければならない、となるだろうか。だがこれも言い古された紋切型的な励ましのたぐいか。

 たぶんメロドラマ的な美談に対抗するには、怒りをあらわにして罵倒してしまっては負けなのかもしれず、それどころかそもそもそういうものを賞賛する人たちには勝てないのだろう。勝とうとしてはだめで、理性や論理では感情には勝てないわけだ。もののあはれを知る心は、理性や論理や倫理で動こうとしている人の前に立ちふさがり、人の心はそんなものでは割り切れないと諭すわけだ。そういうことを言ってくる人には勝てないのだから、負けるしかないのかもしれず、下手に逆らわずに負けておいた方が無難だろう。でも負けたままでいいのだろうか。それでは埒が明かないのではないか。たぶんそれでかまわない。埒が開かなければふざければいい。理論武装をして自らを正当化するには及ばない。ふざけたことで相手を困らせたと思うなら、謝ればいいのではないか。だから安倍ちゃんが靖国神社に参拝した行為は正解なのか。あれはふざけた行為なわけか。彼自身は百パーセントそうは思っていないのだろうが、君はそう思っていればいいわけだ。たぶん別の誰かは間違った行為だと思うのだろうが、それも一応は正しい認識だと理解しておけばいいのではないか。おふざけの一環として一国の首相が靖国神社に参拝して、理性のある良識人がそれを間違った行為だと憤り、一方もののあはれを知る心に取り憑かれた人たちは、兵隊さんがお国のために家族のために命を捧げたメロドラマ的な美談に逆らう良識人に向かって、人の心はそんなものでは割り切れないと諭すわけだ。そんなわけでやはり君はそんな成り行きを眺めながら、別に高みの見物を決め込んでいるわけでもないのだろうが、何となく愉快な気分となり、そんなメロドラマが果てしなく続いていく成り行きに、うんざりしてはだめだと自らに言い聞かせはするが、でも到底彼らには勝てはしないのだから、退屈紛れにあくびのひとつやふたつ漏らしてもかまわないような気もしてくるわけか。たまには気まぐれにいい加減にしろ!と叫びたくなるのかもしれないが、それも人としての精神鍛錬が足りないことによるのではないか。


1月21日

 この世界では何かをやって得をする者がいれば損をする者もいる。それを肯定的な現象と捉えるなら、得した者について語ればいいわけか。たとえそれが詐欺だろうとごまかしだろうと、例えばそうやって金を儲けて億万長者になったとしたら、そのような行為を賞賛しなければならないだろうか。実際にそういう容疑で逮捕されて、送検され、裁判で有罪になり、刑務所に収監され、保釈され、出所してきた人もいるだろう。たぶん時と場合によって、賞賛したり非難したりするのだろう。要するにおもしろがるわけだ。フィクションの題材になったりもする。小説で語られ、映画の中で詐欺師を演じた俳優が活躍していたりもする。話の内容としては、詐欺で大儲けして、儲けた金で豪遊し、バレて警察に捕まり、裁判で有罪となり、刑務所に収監され、刑期を終えて出所し、自伝を著し、世間の注目を浴びて、講演会を開き、詰めかけた聴衆を前にして、自らがやってきたことをおもしろおかしく語ってみせる。確か裁判では自らがやってきたことは詐欺ではないと主張していたのかもしれない。今でもそう思っているのだろうか。彼は検察による国策調査にはめられたのか。度重なる痴漢の容疑で逮捕された経済学者も、政治資金規正法違反で執拗に強制起訴されながら、最終的に無罪となった政治家もいたはずだ。彼が意識して大勢の人をだまそうとしていたのか否かについては、部外者にははっきりしたことはわからないが、彼にだまされたと思い、実際に損害を被った人が大勢いることは確かなところか。ところで君は誰のことをの述べているのだろうか。話の途中から二人の人物がひとつに混ぜ合わされて、現実に起こった出来事から遠ざかってしまい、事実と虚構がないまぜに語られ、信憑性がともなわなくなっているのではないか。要するに君もおもしろおかしく語ろうとしているわけか。さあわからない。おもしろおかしく語ろうとしているとしても、実際にそれがおもしろおかしいのか、語りつつある本人には与り知らないことなのではないか。実際に起こっていることと、それについて語っていることとの間には、何か取り返しのつかない大きなずれが生じているのかも知れない。

 でもそうだとしても語っていること自体には関係のないことだろう。むしろずれることが肝心なのではないか。現実に起こっていることを利用して、何かそれとは違う現実を生じさせたいのではないか。自らが語りつつある語りの中に真実があるように見せかけたいのか。あるいは本当のことを語っているように思わせたいのか。報道関係者なら思わせたいのではなく、現実に起こっている出来事について語っていることを、信じて疑わないはずか。たぶんそこに何らかの短絡が起こっているのだろう。どこかで回路がショートしているわけか。ではそれに対して君は何について語っているつもりなのか。自らが抱いている妄想について語っているわけか。ときにはそういう場合もあるだろう。本当は違うのに、妄想を抱いているつもりになりながらも、実は本当に起こっている出来事について語っている場合もありそうだ。そのどちらでもない場合もあり得る。そう述べて誰かを煙に巻きたいのだろうか。要するに適当に嘘をつきながら、適当にいい加減に語りたいのだろうか。たぶんそれはそうであってないような話となるだろう。いったいどちらなのか。君も頭のどこかで思考回路がショートしているのではないか。わざとそうやって、自ら語っている内容に真実があるように見せかけることを放棄しているのかもしれず、その辺に倫理的な何かがあるわけか。何かと何なのか。少なくともそれは冗談のたぐいではないのだろうか。何があるとしても大したことではないような気がするが、それはフィクションを語る上で邪魔になる何かだろうか。相変わらずはっきりしたことは何もわからないが、たぶん強制起訴されたあげくに無罪となったが、疑惑は残って信用が失墜し政治力が失われた政治家も、度重なる痴漢行為で信用を失い、メディアの表舞台から姿を消した経済学者も、希代の起業家として派手な振る舞いを繰り返して、時代の寵児としてメディアにもてはやされたあげくに、詐欺容疑で捕まり有罪となり、服役を経て刑務所から出所して、また性懲りもなく著名人として活動し始めた誰かも、それらのどこに真実があろうと嘘偽りがあろうと、相変わらずそこから世界に対する本質的な批判が導き出されているわけではないのだ。それらの出来事は絶えずおもしろおかしい何かにとどまり、そういう現象に人々が心を奪われているとしても、そこで語られている物語は、興味本位の感情とともに、それについて語ろうとする者たちに、語る対象としての虚像を提供し、何かそれとは別のフィクションを語らせようとするのであり、それが人々が抱いている願望を投影していると思わせる、それらの物語なわけだ。しかしその別のフィクションとは何なのか。それは古来より語られてきたありふれた栄枯盛衰の物語か。それだけではなく、一時的にせよ体制に逆らうと同時に取り込まれていた、つかの間の出来事として体制に逆らいつつもその体制の一部として機能していた、パルチザン伝説のたぐいだろうか。そういうフィクションを含んだすべてが体制として成り立ち、今も絶え間なく機能しているということか。そうではないのかもしれない。どうも何かが違っていて、それが未だにわからないままとなっている。別にそれがわかればすべてがわかるような本質的な何かを知りたいわけでもないのだろうが、それが何かの拍子に突然わかるとも思えないが、とりあえずは疑念を抱いているわけか。


1月20日

 果たして働かなくても生きていける時代がやってくるだろうか。ベーシックインカムにして、日本だと国民一人当たり月に7〜8万円支給すればいいそうだが、7万X12カ月X1億2千万人=100兆8千億円か。税収を二倍にして必要経費となる公務員をすべてボランティアにすればいいわけか。日本の国内総生産が500兆円ぐらいあるらしいから、絶対に無理な数字でもないそうだが、でも現時点ではめちゃくちゃな考え方であることは確かだ。働かざる者食うべからず、という考え方がそもそもおかしいそうだが、死刑制度さえ改めようとしない風土なのだから、働かなくても食っていけるなどというのは、今の日本人の大半の常識からすれば、到底受け入れ難いのではないか。そのためにはまず教育のやり方を根本的に変えなければならないそうで、グループ学習とかを積極的に導入して、成績の良い勉強のできる者が成績の悪いできない者を教えるような、グルーブ内で互いに教え合い助け合いながら、なるべく落ちこぼれをなくし、自分だけができるようになろうとする利己主義を抑制するようなやり方が望ましいそうで、そういうところから人々の間での助け合いの精神が育まれ、立場の弱い人々に嫌な仕事を集中的に押し付けたりしない、人が人を支配したりしない、公平な社会が形成されるそうだ。世の中にはそういうことを考えている人たちもいるらしいということか。ベーシックインカムに関しては自由主義・資本主義経済で行うことを前提にしているそうで、小さな政府を目指している新自由主義の人たちが主に提唱している制度らしく、共産主義の人たちが提唱しているわけでもないらしい。すべての人に最低限の生活が無条件で保障されているから、あとは働けば働くほど収入が増え、労働意欲が衰えることはないそうだが、果たして実際にはどうなるのだろうか、そんなことを語っている人たちによれば、日本ではやらないにしても、数十年以内にヨーロッパ辺りのどこかの国で実施されるかも知れないそうで、そういうのが世界中に広まれば、ブラック企業による無茶な労働もなくなるだろうか。でも現状の資本主義市場経済が、そういう無茶で過酷な労働によってかろうじて支えられているのだとしたら、それを実施したとたんに世界経済が破綻してしまうか。例えば古代ギリシアの最盛期のアテネでは、労働はすべて奴隷にやらせて、市民階級は仕事をせずに政治に参加して、直接民主主義を維持していたようで、古代ローマ帝国でも市民は労働から解放され、パンが無料で配給されて、市民は毎日、円形闘技場で催される見せ物に酔いしれ、そんないわゆる「パンとサーカス」によって堕落していったらしいが、その頃から比べれば現在では労働生産力が格段に進歩しているから、古代ギリシアやローマのような無茶なことにはならないそうだが、果たして今の世界では、奴隷的な劣悪労働なしでも回っていくほど、経済的に豊かになっているのかいないのか、その辺が人の立場や見方によって意見の分かれるところか。

 やはり現状では何とも言えないが、とりあえずTPPやFTAなどで国ごとの関税が撤廃され、それによって関税障壁に守られていた国内産業などが、壊滅的な打撃を受けるにしろ、そういうのが世界的に一巡した後でないと、はっきりしたことは何もわからないのではないか。一方ではアメリカや中国などの大国の圧力に屈したくない、左翼の社民主義と右翼の国家主義の皆さんの、互いにいがみ合いながらの抵抗運動があり、なかなか世界統一して国家そのものの揚棄といった段階には行きづらいのだろうが、それらの主義主張のおおもとである、元祖左翼のマルクスも元祖右翼のヘーゲルも、どちらも弁証法的な揚棄や止揚によって世界統一を目標として掲げていたような気もするし、それは両者の元祖であるカントの目標というか理念だったのかもしれず、まさかそんなわけでカントの統整的理念が働いて、結局いつか世界が統一されて、左翼も右翼も一緒くたにされ、そういう政治的な主義主張がどうでもよくなってしまったら、冗談というかギャグのような世界が到来してしまうだろうか。そんな愉快な状況の到来を予感しないわけにはいかないが、これも現状から考えればめちゃくちゃな妄想のたぐいか。まあ君が生きているうちはベーシックインカムも世界統一も実現しないだろう。君ができるのはそんなあり得ないことが実現するふざけた未来を妄想するだけで、妄想している間は愉快な気分となり、妄想をやめれば現実に引き戻されて、暗澹とした現状にうんざりし、どうしたらいいものか困り、途方に暮れて、やりきれなくなって、また現実逃避しながら、あり得ない妄想に耽ってしまうのだろうか。それでもまだ持ちこたえているわけで、いくらか余裕もあるらしく、平然とそのままの生活を送り、ただ漠然ととりとめのないことを考えているわけだ。それは意味不明だろうか。今はそれでかまわないのだろう。そう言い聞かせているわけか。


1月19日

 威勢のいい経済評論家がアベノミクスを支持しているようだ。老人たちでは太刀打ちできそうにないディベート力も持ち合わせているらしく、よく通る大きな声で堂々とよどみなく説明しまくるそのスタイルは、そういうたぐいの評論家としては申し分のない素養だ。ユーチューブを見ている限りは、日の丸を背景にして語る右翼の若者と似た雰囲気だが、それよりは数段頭がキレそうだ。論争をやらせたら無敵なのかもしれず、体制側にとっては使い捨てにするには惜しい逸材なのだろう。でもなまじそういう方面で有能だと、敵を作りやすく、いつまでも便利屋として重宝され続けたあげく、老いて衰えてきたところを、愚鈍な連中に丸め込まれて、猪瀬直樹的な末路へと持っていかれそうな未来を予感させる。いったんああいう方面で目立ってしまうと、何も残らないような気がするが、それでも彼からすれば本望なのかもしれない。でもあれが彼のすべてなのだろうか。そんなふうにして大した根拠もなく、他人の末路を予想したりするのは、意味のないことかもしれず、君には関係のないことだろう。それにしてもそんな彼よりは幾分軟弱そうな、若手経済評論家みたいな人物があと二人ぐらいいるようで、何やらユーチューブで利いた風なことを語っているのを見かけたが、みんな何か主張したいらしく、そちらの方面での何というか、権威あるコメンテーターになりたい競争もし烈なのだろうか。恐ろしい世の中だ。世界中にああいうお勉強ができて弁が立つ人材がうじゃうじゃいるのを想像してみると、それが今や世界全体を覆っている資本主義の成果なのであり、功利主義がもたらした人間像の典型が、ああいったものなのだろうと認識せざるを得ず、どうせこれから先も弁論サイボーグみたいなのが次から次へと出てくるのだろうし、すでに疲れる世の中で生きていることを実感させられ、ため息しか出てこないようだ。もっと貧乏でもかまわないから、気楽に生きられる世の中にならないものか。功利主義的には何が何でも原発を再稼働させて、韓国や中国と対立しまくりながら競争を激化させ、さらに経済発展がしたいのかもしれないが、それは世界の他の地域でやればいいことでしかなく、別に高齢化社会の日本でやらなくてもいいような気がするのだが、やはりそんな後ろ向きな意見ではだめなのだろう。

 発電といえば原発をやめるとなると、特定の発電手段一辺倒ではそれがだめになった時にヤバいから、様々な発電手段をバランスよく組み合わせなければならないのだろうが、現状では資源の埋蔵量や価格から見て、石炭火力発電が無難なところだろうか。温室効果ガスを出すとかいうので、以前は敬遠されていたのかもしれないが、結局中国が煤煙を排出し続けている現状を考えると、煤煙に含まれる粒子状物質を核として雲が発生して、日光が遮られ、気温の上昇も抑えられるから、あまり気にすることもないのではないか。太陽光や風力は天候に左右されて発電量が一定しないから、蓄電池などの技術革新が欠かせないところで、まだ電力の安定供給には時間がかかるのかもしれず、ガスは発電効率は良いようだが、なぜかそれ特有の事情があるらしく、諸外国に比べて高い価格で買わされているみたいで、また北米のシェールガスなどを使うとなると、採取する際にガスが含まれる地層に有害な化学物質を注入して採取するらしく、採取現場周辺などでの水質汚染が深刻みたいだから、積極的には使うのは、倫理的に気が退けそうだ。

 確かにこのまま現状の資本主義市場経済を維持継続していくとなると、先に述べたような功利主義的に偏差値の高い人材が欠かせないのだろう。でもそういう一握りの有能な人材が輩出される裏で、その過程で学業や仕事において、そういう連中に敗れ去るその他大勢の、彼らより劣った人材が世の中に多数輩出されざるを得ず、そこから社会的な格差が生まれ、そういう人たちも何となく嫌な気分を抱えながらも、それなりに生きてゆかなければならないわけだ。それが良いことなのか悪いことなのか、あるいは良い悪いに関係なく当たり前のことなのか、そういうところにひっかかりを覚えるのかもしれず、その辺はどうなのだろうか。嫌な気分とならないように、何か自己啓発的な洗脳みたいなのが必要とされているわけか。そこでそれなりに設定された人生の目標に向かうように仕向けられたり、あるいは気休めの娯楽にうつつを抜かしたりして、それなりの仕事をあてがわれて、社会に貢献するような成り行きに順応しつつ、その一生を終えて、めでたしめでたしとなるわけか。それが気に入らなければ、何かそれとは別のやり方を模索するしかないか。


1月18日

 地球は寒冷化しつつあるのだろうか。氷河期の到来か。世界各地の氷河が後退または縮小しているのにそれはないか。それでも太陽の活動が一時的に弱まっているらしいから、小氷期が到来しているようだ。ほぼ14世紀半ばから19世紀半ばにかけて続いたのと同じことかも知れず、その時から百数十年経ってまたそれなのか。数年前までは温室効果ガスがどうしたの何だのと騒がれていた記憶があるが、当てが外れてしまったのだろうか。ただ冬と夏で寒暖の差が激しくなったような印象はある。果たしてそれが人間による化石燃料の消費により、温室効果ガスが増大したのが原因なのかどうか、その辺のところはよくわからないのが現状だろうか。人間の活動以外で、地表面の大陸の位置関係だとか、それにともなう海流の分布だとか、その他いろいろあるらしく、果たして地球は温暖化しているのか寒冷化しているのか、真逆の説を唱えている人たちが共存している状況は興味深い。まさか温室効果ガスによる地球温暖化という説はギャグのたぐいか。この前の小氷期ではアイスランドからグリーンランドへ移住したバイキングが絶滅したらしいから、今回の小氷期も五百年ぐらい続いて、地球温暖化説を唱えていた人たちが絶滅してしまうわけか。それとこれとは違うだろうか。正確には今回のそれは、太陽の黒点の数が異常に少なくなっている現象だそうだから、それはマウンダー極小期という、1645~1715年の間に生じたのと同じことらしい。それでも前回のそれは70年間は続いたのだろうから、70年も続けば、さすがに地球温暖化説を唱える人たちはいなくなってしまうのではないか。だから何なのだろうか。原発をなくして火力発電でもOKということか。それはご都合主義のこじつけで、我田引水もいいところか。でも京都議定書とかは何だったのだろうか。地球温暖化防止京都会議で大げさにいわれていたことは、それから十数年経った現在でも有効性があるわけか。当時よく温暖化による弊害として、メディア上でよく引き合いに出されていた、南太平洋のツバルとか、本当に海面上昇によって島が沈みつつあるのだろうか。それとも単に埋立地の経年劣化による地盤沈下が起こっているだけか。そういえば元アメリカ副大統領のアル・ゴアが主演した『不都合な真実』という、地球温暖化防止キャンペーンのアメリカ映画が数年前に話題となっていたはずだ。確かそれに関連してゴアは、環境問題の啓発に貢献したとしてノーベル平和賞までもらったのではなかったか。まさかそれが今さら間違っていたとなると、やはりその手の地球温暖化説はギャグなのだろうか。しかしいくらなんでもギャグでノーベル平和賞はもらえないか。そんなふうにしていい加減に言葉を繰り出す度に、それらの問題を深刻に受け止められなくなってきて、勝手にどうでもよくなってしまうようだが、ともかく今から数十億年後には、太陽の寿命が尽きてきて、膨張して赤色巨星になってきた時には、確実に地球表面も暑くなってくるだろうから、その時まで人類が存在していたら、ようやく地球温暖化説の正しさが証明されることになるだろう。

 そういえばその〜説というので思い出したが、今でも天動説を疑わない人たちもいるようで、一応科学的には地動説を認めながらも、なお信仰として天動説的な思考を保ち続けていたりして、そういうたぐいの内容のユーチューブを見ながら感心してしまう。全宇宙の中で高度な文明を築いているのは人類だけで、生命が進化して人類が誕生して、なおかつ高度な文明を築ける条件を満たしているのは、確率的に計算しても、宇宙の中でただひとつ地球だけであることを証明したつもりになり、どうして地球だけがそうなのかという疑問に答えるなら、やはりそれは神によって人間が作られたから、という結論にたどり着くようになっていて、なるほどと思わずうなってしまうわけだが、どうなのだろうか。何でもハビタブルゾーンとかいう太陽から近すぎず遠すぎずの位置にあり、岩石惑星で液体の水があり、月という地球の四分の一もある分不相応な大きさの衛星を有することで、気候が安定していて、大気の厚みがちょうどよくて、銀河系の中心から程よく離れた位置にあり、夜になれば銀河系内の天体と銀河系外の天体も両方見えるから、そこから宇宙の物理法則を理解できるようになり、科学技術も発達できる環境にあるそうで、それらのいろいろな条件を満たす確率は、ほとんどゼロに近く、唯一地球だけがそうであり、人類だけが文明を築けるのだという結論に達してしまうらしい。ジコチューというのはそういうことを言うのだろうか。要するに今ある結果だけから考えて、まだ気づいていない要因はみんな無視して、ゴアの映画とは逆に都合のいい真実だけから帰納的に導き出せば、そうなってしまうわけか。それはひと昔前によくメディアで取り上げられて話題となっていた、日本人論とか日本特殊論とか、『ジャパン・アズ・ナンバーワン』とかいう啓蒙書の人類版といったたぐいの思考だろうか。


1月17日

 果たしてそのような行為に意味があるのだろうか。何かを蒸し返そうとしているわけか。人々は何に及んでいるのだろう。目くらましのたぐいだろうか。それはいつものやり方か。それでも希望がないわけではない。君はそうなる予感があったはずだ。少なくとも君が語ろうとしていた内容はそれに基づいていたはずか。薄っぺらな人間が薄っぺらな正義感から薄っぺらな言動に及んでもかまわないと思っていたはずだ。しかし薄っぺらという表現の意味するところは具体的に何なのか。それは誰の想像にまかせればいいのか。あえて指摘するまでもないことだろうか。誰が悪いわけでもない。それが深刻な争いだとも思えない。なるようになるといえばそれは当たり前の成り行きになってしまうのだろうが、たぶんそういうことだろう。それでも関わっている連中は必死なのだろうか。それなりに騒いでくれないと割に合わないか。でもどう騒げばいいのか。今こそアメリカと決別しなければいけないとなるわけか。狂気の沙汰だと思うだろうか。君は相変わらず冗談でそんなことを述べている。そのつもりでそんなことを述べているとすれば、真に受ける必要もないのだろうが、どうも微妙にニュアンスが違うような気がするのはどうしてなのか。そこに何か重層的な意味合いが含まれていたりするわけか。それとこれとは無関係かもしれないが、今政府寄りの主要なメディアが避けなければならないことは、都知事候補の田母神氏をニュースで取り上げて話題にしてしまうことか。彼らは舛添氏を都知事にしたいのだろうから、保守層の支持基盤が重なる田母神氏を好意的に取り上げてしまうと、共倒れとなりかねず、戦略的に田母神氏を右翼の泡沫候補として扱い、無視し続けることが肝心だろうか。もちろん本気でそう思っているわけではなく、君がそう述べることで何がどうなるわけでもないのだろうが、何となくそう述べて内心にやりとしながら、メディアの方は失言を見逃さず、失言でもないのに失言として扱ったりして、何やら田母神氏にさりげなく批判を加えているようで、その辺にその手のメディアの嫌らしい素顔が見え隠れしているところが、愉快な印象を受けるらしい。ACミランへ移籍した本田のデビュー戦をNHKがトップニュースで伝えたことについて、「始めから12分間がそのニュースです。サッカーも人気が有るのかもしれないが、トップニュースで12分間もやることなのか。これでは国民が馬鹿になります」としながら、「つい先ほど、本田選手がミランで初ゴールを決めたそうです。こんなに早く初ゴールとはすごいですね。日本国民として嬉しいです」と賛辞を贈ったようで、それが「本田初ゴール、日本国民として嬉しい」が「馬鹿になる」発言から3日、「手のひら返し」の声も、ということらしい。まあ普通のメディアとしては、当然といえば当然のことを伝えたまでのことかもしれず、そこにどんな思惑が潜んでいるわけでもないのだろうし、わざと穿った見方をしてしまうところが、君のひねくれ具合を如実に物語っているところか。でもまあその手のメディアとしては、あとは舛添氏の失言待ちといったところなのかもしれず、舛添氏にしてみれば、これから投票日までの間は、なるべく本音が出ないように自らの発言に気を使いながら、ひたすらきれいごとを言い続けるだけの苦しい日々が続くのかもしれず、それを思うと何だか気の毒なような気もするが、これまでの言動からすれば、人一倍権力欲の強い人のようにも思われ、もしそのような人物が当選するのだとすれば、当選した後が見物だろうか。猪瀬直樹のように思わぬところからぼろが出てしまうわけか。

 大した話ではない。都知事としての資質をもっともらしい論調で語ろうとするのは、くだらない行為に違いない。なぜそう思うのか。選挙だから立候補した人のうちの誰がなってもかまわないからか。君はただのスポーツイベントでしかないオリンピックに、それ以外の意味などないと思っている。主要なメディアが受け入れられないのはそういう当たり前の認識だ。何とかそれを大げさな出来事であるように見せかけようとして躍起となり、煽るだけ煽って人々の関心をオリンピックへ向けさせたい。たぶんそういう意図を感じ取った時点で、すでにしらけているのだろう。田母神氏が思わず本音を吐いてしまったように、「これでは国民が馬鹿になります」ということだ。そしていったんオリンピックが始まれば「トップニュースで12分間もやることなのか」どころではなく、期間中は延々とやり続けるのではないか。そして当の田母神氏も、メダルを取った日本人選手に向かって、「日本国民として嬉しいです」と神話作用を意識した賛辞を贈らなければならない。それに関してモーリス・ブランショが次のように述べている。

《私たちはごまかしの世界のなかに生きている。この世界では私たちの振る舞いも、私たちの言葉も、私たちの思考もー忘れてはいけない、私たちの書いたものもー、自分たちには見抜けない偽りの意味をそなえて私たちのもとに到来する。この意味を私たちは自分のものとして、自分のなかから自然に浮かんできたものとして受け取るが、それだけではない。この意味は、私たちのうちで、また私たちを起点として、逃れ去り、二重になり、なにかに変身してしまう。それゆえ、私たちはかかる二重性を、あるときは、ほとんど意識されない自分自身の目的のために活用したり、またあるときには、より大きな力にそれを奉仕させようとする。そして私たちはこの大きな力の共犯者になったり、犠牲者になったりするのである。》(『ユリイカ詩と批評』6青土社1996特集ロラン・バルト「巨大な欺瞞」訳=谷口博史)

 これはブランショがバルトの『神話作用』について述べた批評の冒頭文だが、田母神氏は国家主義者であるから、自らの言動を、「ほとんど意識されない自分自身の目的のために活用」させようとすると同時に、国家という「より大きな力にそれを奉仕させようとする」のであって、自らの良識に照らし合わせてみれば、一方ではスポーツばかりにうつつを抜かしていると「これでは国民が馬鹿になります」ということになるだろうし、また一方では国家の国威発揚的な利点から見て、日本人が国際的なスポーツイベントで活躍すれば、「日本国民として嬉しいです」となるのだろう。それは田母神氏にしてみれば「自分のなかから自然に浮かんできたものとして受け取る」だろうが、自衛官として国家によって刷り込まれた思考がそう思わせるのであり、田母神氏「には見抜けない偽りの意味をそなえて」、田母神氏自身「のもとに到来」しているのかもしれない。


1月16日

 今さら納得できるはずもなく、相変わらずつまらないことにこだわり続け、そんなこだわりを捨てられないようだ。神話作用からも見放されているわけか。でもそれはいいことではないのか。幻想を抱く手間を省けて、すっきりしてしまう。そして何もなくなり、いつものようにここへ戻ってくる。時間の進み方が心持ちゆっくりになったような気がして、気のせいでしかないことを割り引いてみても、少しは作業がはかどるような予感がしてくる。いつもの気休めだろうか。何に見とれているわけでもないらしく、さらに語ろうとしているのだろうが、何を語っているわけでもないようだ。ゴリラも人も殺害されて、それが映画化され、たぶんその中で何かを訴えかけていたのだろう。それが何年前の出来事だったのか。1985年に殺されて、その人物の伝記映画が1988年に公開され、今日がそんなだいぶ前に殺された人間の生誕82周年ということらしいが、今日だけ検索サイトのロゴマークを、そのゴリラ研究の動物学者にちなんだものにしたグーグルの意図がわかりかねるか。そういうことをやっていた人に何か思い入れでもあるのだろうか。密猟が後を絶たないからゴリラは遠からず絶滅するだろう。今はその地域から産出される希少金属や宝石を密輸して、武器を買い、内戦状態になっているようだ。ところでゴリラの肉はうまいのだろうか。ゾウやサイなら牙や角目当てだろうが、ゴリラはやはり肉目あてか。武器を買って戦争するカネと、密猟から守るためにレンジャーを雇うカネはあるらしいが、住民がゴリラを食わなくてもいいようにするためのカネはないらしい。カネの使い道にもなかなか融通を利かせられないということか。要するに人が多すぎて食糧難ということで、餓死するか内戦で死ぬか、ゴリラでも何でも食って生き延びるか、ということなのだろう。たぶん密猟で死ぬゴリラの数より、内戦で死ぬ人間の数の方が圧倒的に多いのだろうが、生きているゴリラの数より、生きている人間の数の方も圧倒的に多いわけだから、やはりこのままではゴリラは密猟されて絶滅してしまうわけか。それを防ぐために先進国の連中がゴリラの保護活動にカネを出しているのだろうし、そういう活動にグーグルも一枚噛んでいたりするのだろうか。でもその一方で希少金属や宝石を買っているのも先進国の連中だろうし、内戦に必要な武器を売っているのも先進国の連中だろうし、要するにそうやって先進国の連中が、混乱を助長させる原因も作っているわけで、たぶんそういう仕組みの中で、その地域の人口が増えて食糧難になり、ゴリラが密猟されているわけで、何だかどうにもならないような成り行きみたいだが、まあ人類がやっていることは古今東西どこでも似たり寄ったりで、そうした動乱に乗じて利益を得ようする様々な勢力が暗躍し、それらの利害関係が様々に錯綜して、そこに様々な思惑が渦巻いていて、そういう泥沼的な状態が延々と続いていくわけで、実際にゴリラ学者が殺された理由もその辺にあるのだろうし、少なくとも彼女が殺害された1980年代から延々と続いている状況なわけだ。

 救われない話だろうか。でも当事者たちは敵も味方も希望を捨てずに生きていて、今も自分たちの信念に基づいて、あるいは利益を得るために、相争っているのかもしれない。そして日本でも原発だの靖国神社だの在日米軍基地だのの問題で、それに絡んで周辺国の韓国だの中国だのアメリカだのの思惑も巻き込んで、互いに利害を異にする勢力が、互いに互いの立場や主張を非難しあい、相争っている最中か。とりあえずこれからどのような結果がもたらされようと、事態がどう転んでも、なるようにしかならないわけだが、それに関してはあまり利いた風な意見を述べる気にもなれず、何となく静観していたくなるようで、久しぶり選挙に行って投票する気もあるみたいだが、どうせメディアが注目するような候補者には投票しないような気もしていて、相変わらずひねくれているようにも思われ、アフリカでゴリラの保護活動に携わっているような人たちとは、まったく無関係な境遇の中に埋もれ、何やら首を傾げながらも、言葉を記し、それを読み返して、また考え、そこからねじれた位置へ視線を注ぎながら、利害とは無関係な何かを求めようとしているらしい。目標とは何だろう。仕事に気をとられている人たちにとっては、たぶん目標設定が必要不可欠なのだろうし、そんな大前提なしでは何も語れなくなってしまうのだろう。それが君にとっての嘘なのか。そんな気がしないではないが、どうでもいいことでもあり、あってないような目標を掲げながら、何かを語ろうとしているようで、だらけた気分を装い、見え透いた演技を駆使しながら、それらのフィクションの中で架空の登場人物について語っているつもりで、そこから離脱しようとして果たせず、また性懲りもなくそこへ舞い戻り、何か考えているようなふりをして、誰を惑わせるわけでもなく、そんなことを語っているつもりの自らに戸惑いながらも、たぶん飛躍したいのだろうし、自分自身から遠く離れて、真の自分を放棄しつつ、戯れの中に架空の自分を再発見したいのであり、今がそれについて語っている最中なのかもしれず、それをさらに押し進めて、何か途方もない境地に到達したいわけでもなく、ただわざとわかりにくいことを述べながら、そんなごまかしの上にごまかしを上塗りして、現実にはそこから飛翔もできず離脱もできない自らを見つめ、そういう状況について語っていたいのかもしれないが、実際は語り損ねているのだろうし、何も語っていないような気になって、空疎な思いとともに虚無に取り憑かれ、それでも言葉を連ねて、その先を目指し、それが目標とはなり得ないような何かを、その場に出現させ、それが文章だと見なせば、たぶんここに記されている文章がそうなのかもしれず、君はそうやって自らに嘘をついているのであり、それが嘘であることがわかっていながら、あえてそれを否定せず、隠そうともせずに、それをさらに続けようとしているのではないか。冗談を述べるならそういうことになりそうだが、あえてそう述べているのではなく、苦し紛れで述べているのかもしれず、それ以外にあり得ないからそうなっているのだとすれば、それは必然的な帰結なのだろうか。何だかわからないが、うまい具合にはいかないようで、あきらめるしかないような結果なのかもしれない。でも一方で君はそういう成り行きになることを否定しているわけでもないのだろう。たぶんそれもひとつの成り行きであって、君が繰り出す技のひとつでもあるのだろう。


1月15日

 日が射してこない。朝から曇っているようだ。雪でも降るのだろうか。降ったところでこの地域ではたかが知れている。誰かが空を見上げてそんなことを思っているわけでもないが、戯れに未確認飛行物体を探しながら、誰かが空へ舞い上がろうとしている。それは嘘だろう。作り話以外ではあり得ないことか。睡眠中に見た夢か。しかし他に何も思い出せず、思い出す代わりにくだらぬ妄想を抱き、誰かの空想の中に夢の光景が埋もれているようだ。それ自体でフィクションを含んでいるのかもしれず、そこで何かを見出そうとしている。でも話にはならないだろう。まともな話ではない。幻想の世界でしか人は冒険ができない。そんなゲームもあるらしい。そこでどんな映像を眺めているのか。現実の世界では働いているようだ。意識がそこから離れていて、気乗りがしないようで、躊躇して逡巡しながらも、どのように語ったら納得がいくのか、考えあぐねている。別に夢の中でそう思っているわけでもないだろうが、考えている内容をうまく言い表せないらしい。人はいくらでも考えられるのだろうか。何を考えているのか。それともまだくだらぬ妄想の続きを語ろうとしているのか。琵琶湖の島のひとつに何か秘密がありそうだが、その地中に魔神像でも埋もれていたりするわけか。周囲の湖底から土器や埴輪が発見されるようだ。昔テレビで見た『大魔神』でも思い出しているわけか。きっと何かの幻影に心を奪われているのだろう。この世界に神秘はなく、人がそれを夢想しているだけか。世界のどこかに聖杯や聖剣が隠されていて、誰かがそれを探しているわけか。確かにいつかそんな夢を見ていたのかもしれない。でもそれは子供が抱く夢であり、つかの間の空想がそう思わせ、それはすぐに脇へ追いやられ、今は別の何かに心を奪われているようだ。現実の世界では何がどうなっているのだろうか。誰かが神話の世界を思い描き、その全人生を費やして物語を著し、それから数十年後に映画化され、その映像の断片をユーチューブで見ているのかもしれない。人の魂は永遠に存在し続けるらしい。どこかの島の狩猟採集民の間ではそう信じられていたりするようだ。だから他人の首を刈っても大丈夫なのだろう。そうしないと成人として認められないなら、ひとりが大人になる度に他のひとりが首を刈られて死んでしまうので、人口が増えないから資源を使い果たすこともなく、森やジャングルが続く限り、その中で狩猟採集生活を送れるという仕組みになっているわけか。なるほどそういう意味では首狩り族の風習も合理的にできているわけだ。

 動物と人間の境目に何か特別な認識の違いというものを差し挟むわけにはいかないか。また冗談でそんなことを記してみるが、それに関して何を考えているわけでもないらしい。積極的には何も差し挟むことができず、両種の間の違いを明らかにしようとも思わず、そこから語られようとしているのは、種の問題ではないだろうと思う。鉱物と生物の違いもわからなくなり、人工知能を有するロボットはケイ素系生物だと見なしたくなるが、それはでたらめな発想だろうか。ターミネーターも想像上はそのたぐいか。CGで合成され、映像上でうごめいているのも生物の幻影には違いない。人が思い描いた幻影に似せて新たな生物を作り出そうとしているわけか。生物だけではなく、神や悪魔も作りだそうしているのではないか。動くものなら何でも作り出したいのか。それを用いてこの世界を破壊したいのではないか。自らの手で世界を終末へと導きたいのだ。誰かがそんな妄想にとらわれ、どこかの秘密基地で最終兵器とやらを製造中か。またくだらぬ空想へと言葉の連なりを持ってゆきたいらしい。要する心の均衡が崩れて現実逃避へと傾いているわけか。そんなはずがなく、きっと何かの戯れでそんなことを述べているのだろう。他の言葉の連なりや映像から影響を受けているのだ。でも他に何があるというのか。君はそれらの幻影の限界を知っているはずだ。いったい何が限界なのか。幻影はやがて現実の世界で形となり、映像から飛び出て、その辺の街の通りで見かけるようになるだろうか。でもそれはコスプレではないのか。例えば大魔神や首狩り族のコスプレなんて見たくもないか。そこからふと思うわけだが、まさか議員とか大臣とか都道府県や市町村の首長も、あるいはヤクザの親分やテレビなどのコメンテーターやアナウンサーや番組司会者なども、そういうたぐいのものは、すべて首狩り族の風習の延長上にあったりして、その立場にある誰かを殺らなければ、それをやりたい者が新たにその地位に就けないということではないのか。それは会社の社長や役員でも同じことだろうか。その辺は中国の共産党の幹部などでは、そのポストをめぐる争いが熾烈なのだろうし、北朝鮮ではあからさまに殺されてしまうから、首狩り族の風習そのものだろうか。


1月14日

 トヨタやユニクロがグローバル企業だとすると、村上春樹がグローバル小説家で、村上隆がグローバル芸術家であったりして、そんなたとえがあるわけがないか。それを言うならハリウッド辺りのアメリカ映画は、グローバル映画ということになるだろうか。そのついでに宮崎駿のアニメーションはグローバルアニメか。そんなわけで比較的豊かな中産階級の人たちは、グローバル企業が売り出す商品を買い、グローバル小説家の小説を読み、グローバル芸術家の作品を見て、グローバル映画を観賞しながら、生活をエンジョイしているわけか。そうだとすれば、すでに世界も日本もグローバルで統一されていたりして、あとは国民国家が解体して、世界がひとつの行政府のもとに統一されるのを待つのみなのだろうか。そんなことになったらネット右翼の皆さんが黙っていないだろう。まあともかく人々はそんなグローバル的なものに期待しているのだろうし、メディアもそれを煽っているのではないか。それは手軽に気軽に誰もが楽しめる何かになるだろうか。たぶん小難しい観念に凝り固まっている人からすれば、そんなのは子供騙しだと馬鹿にされるものなのかもしれないが、実際にそういうものを作るのには、信じられないような凄まじい予算と労力がかけられていることを忘れてはならず、その辺はアメリカ映画に詳しい人ならわかるのかもしれないが、それを見る人の喜怒哀楽をともなった感情や感動を引き出すために、手間ひまをかけて様々な技巧を凝らし、ありとあらゆる手段を使って映画を作っていて、彼らにしてみれば、それがブラッシュアップされた選りすぐりの作品として、消費者の皆さんに提供されていることを、信じて疑わないはずか。でもそんな至れり尽くせりのおもてなし競争の、行き着く先に待ち受けているものが何なのかはわからない。中には去年公開された宮崎駿のアニメのように、物知りオタクな人の知的な自尊心をくすぐる仕掛けまで施されていて、何だかそれらの娯楽が、従来からある娯楽という水準を超えて、すでにどこか得体の知れない地帯へとはみ出しているようにも感じられ、作っている側にしてみれば、そういう常軌を逸して何かを極めようとしている自分たちの衝動に、ある種の虚しささえ覚えているのではないか。そしてそういうものを見させられる側も、あまりにも膨大な情報が詰め込まれているので、精神的に疲れてきたりするわけか。もしかしたらその手の映画評論家の皆さんがだめだし連発の、ずさんで粗雑な作りの日本映画ぐらいで済ませておいた方が、まあこんなものだと物事を醒めた目線で突き放して、日々繰り広げられているそれらの狂態を、平常心を保ちながら眺めていられるのかもしれない。

 しかしそんな認識ではおかしすぎるか。世界は常に人々の思惑や思い込みを裏切るように変貌を遂げつつあるのかもしれない。それがいわゆる事物のバロック化ということだろうか。一見操作が単純で洗練された作りのスマホでも、アプリの数がどんどん増えてくると、アプリの数だけ機能が増え、滅多に使わないアプリもどんどん増えてきて、結局収拾がつかなくなってくるわけだ。まあ科学的にはエントロピー増大の法則と言ったところかもしれず、ある程度まではごちゃごちゃしていないと気持ち的にも落ち着かないというのもあるのだろうが、それは自然の成り行きのたぐいなのかもしれない。そんなふうにして人々は自らの手に余るまでは、ひたすら複雑怪奇な手順を極めようとして、それに従って携わっている事物もどんどんバロック化してゆき、次第に操作や意識が追いつかなくなると、思いがけない出来事が起こり、例えば原発事故のように手に負えない事態に遭遇したりして、手遅れになって途方に暮れ、そこでやっと今までやってきたことを反省したり、やり方を改めようとしたりするわけか。原発事故に関してはまだ反省が足りないようだが、そんなわけでそういう現象から考えるなら、どうも人類といえども、あまり高級な生物でもないらしく、その手の学者もどきな人たちが誇っている文明とやらも、バロック化とその行き詰まりの繰り返しでしかないような気がして、それもこの宇宙の始まりから終わりに至る歴史の中で起こった一挿話に過ぎないということだろうか。そういう水準で考えるならそういうことになってしまうが、もちろん人々は人々が現にそこで活動している水準で、事物を認識せざるを得ないのであり、絶えず近視眼的にその認識も極めようとしているのであって、その結果目先の利益を追い求めてしまい、世間もそうやって利益を得られた人たちを讃え、メディアもそうした動作を煽り立て、結局極め付きを見るまではそれをやめようとせず、どうだと言わんばかりの過激でどぎつい光景を、人々の目の前にもたらしてしまうわけか。そして人々は何もそこまでやらなくてもと思い、次第にそういうものを敬遠するようになり、やがて廃れてそんな流行も終わり、その反動で人々は無意識のうちに手軽に気軽に誰もが楽しめる何かを求めるようになり、今度はそういうニーズに応えて、グローバル的な企業などがまたそういうものを極めようとして、極めようとすればするほど、性懲りもなくバロック化の罠にはまってゆき、そればかりとなれば飽きてくるから、またそれとは目先の違う何かを作り出そうとするわけで、結局はそんなことの繰り返しとなってしまうわけか。


1月13日

 どうも冗談が過ぎるようだ。でもそれでかまわないのだろう。いつまで経ってもその程度のことしか述べられず、それ以外に何も語れないことに苛立ち、それに影響を受けながら、自ら連ねた言葉に自身が巻き込まれている。それが冗談のすべてだろうか。すべてというわけでもないのだろうが、それを超える言説に至るわけでもない。でも時が経てば心に何かが伝わってきて、苛立ちも和らぎ、やがて和解の機会が訪れ、そこでわだかまりを解消できるわけか。そういう成り行きになる前に、まだやらなければならないことがあるらしく、今はそれをやっている最中なのだろうか。確か以前もそんなことを述べていた。アマゾンの書評でちらっと読んだのだが、内田樹という人は、蓮實重彦が村上春樹を批判していることに対して、『もういちど 村上春樹にご用心』という本で、「蓮實は村上を罵倒する前に、どうして『表層批評宣言』が世界各国語で訳されて、世界各国から続々と『蓮實フォロアー』が輩出してこないのか」(P.244)と批判しているらしいが、蓮實が村上を批判しているのは『表層批評宣言』ではなく、『小説から遠く離れて』であることを知らないのだろうか。たぶんこちらの方は読んでいないのではないか。そんなわけで『小説から遠く離れて』から何かそれに関する文章を紹介した方がいいのだろうか。

《たとえば、村上春樹の長編のほとんどは、作者の感性と読者の感性とが、ときには彼らのそれに酷似した作中人物の感性によって共鳴しあい、それぞれが、ともに、同じ共同体の同じ時代を生きつつあるという安心感において連帯しあっているという意味で、「交通」を排した読まれ方に安住する言葉からなっているといってよい。その限りにおいてそれはよくできた物語だといえようし、その連帯に亀裂を走らせることなく、共同体のあり方そのものについて何がしかを告げもするだろうが、「小説から遠く離れて」の冒頭で「几帳面な執着のなさ」という言葉で要約しておいた同時代的な感性の「表象」として、言葉は決して方向を変えることがない。その意味で、『パルチザン伝説』(引用者注 桐山襲著)をその縮小形態として持つ『羊をめぐる冒険』は、村落の自己同一性を保証する物語として流通してはいるが、その外部へと横滑りする都市的な逃走線は周到に回避されているといってよい。》(P.296)

 これは1980年代後半に書かれたものだが、今の村上春樹の小説はどうなのだろうか。何か以上のように書かれてあったところから、大きく逸脱するような内容となっているのだろうか。それがわかるには自分で読んでそれについて批評してみるしかないか。批評するような力量が君にあればの話だが、内田樹という人は、何やら思想家だとか哲学者のたぐいであるようで、ユーチューブでその発言を聞いた限りでは、国民国家を守るためにグローバルな大企業を攻撃しているような感じの論調で、グローバル企業が国民国家を解体に追い込んでいると危機感を募らせているようだ。そしてグローバル企業で活躍できる語学堪能な人が上層階級となり、日本語しか話せない人が下層階級になって、日本は階級社会になってしまうとか言って、日本の将来を憂いているらしい。彼はそのグローバル企業がオリンピックの代表選手のように、彼が守ろうとしているとうの国民国家の支援や保護を受けて、グローバル企業として成長し、世界各地で活動できるようになったことを知らないのだろうか。身近な例としてトヨタなどをあげればそれは一目瞭然だろうが、彼も一応知ってはいても理解できず、そういう側面はあまり重視していないということか。要するにグローバル企業とは、国民国家の手先として世界各地で利益を漁っているのであり、その活動はこれまでに繰り広げられてきた国家間戦争や植民地争奪戦などの延長上にあり、今の時代はさしづめ国家資本主義戦争の真っ最中と言ったところか。

 どうもそこから思うに、内田樹という人も、1980年代後半までの村上春樹の小説に出てくる登場人物たちも、あるいは世界各国における資本主義的な市場経済の進展によって、一時的にその繁栄を謳歌できる中産階級となり、村上春樹の小説を読んで共感を覚えるようになった、世界中の読者の皆さんも、「同じ共同体の同じ時代を生きつつあるという安心感において連帯しあっているという意味で、」「村落の自己同一性を保証する物語として」村上春樹の小説を読んでいるのかもしれず、そういう共同体内にいることで保証される安心感や連帯感から、「その外部へと横滑りする都市的な逃走線は周到に回避されている」ので、村上春樹の小説を否定しようがないのではないか。そういうわけで君も彼の小説を読めば気分が良くなるだろうか。ともかく村上春樹は内田樹が忌み嫌うトヨタやユニクロなどの日本のグローバル企業とともに世界を席巻したグローバル小説家であり、そしてさらに付け加えるなら、同じ村上でも村上隆の方はグローバル芸術家と呼べるだろうか。

 その後『表層批評宣言』のページをパラパラめくってみたが、要するに『表層批評宣言』はそのほとんどが他人の批評を批評している内容で、ロラン・バルトやミシェル・フーコーやジル・ドゥルーズなどの名前も出てきて、当時の蓮實重彦にしてみれば、それらの人たちの書物の水準に肉薄しようとしていたのかもしれず、そうなると自然と内容も難解となってくるだろうか。それと比べれば『小説から遠く離れて』は他人の小説を批評する普通の内容となっていて、こちらを読めば内田樹も何も大げさに蓮實重彦を批判することもなかったのではないか。そんなわけで内田樹にとって『表層批評宣言』は、ちょっと内容が難しすぎたのかもしれない。


1月12日

 何と何がつながっているのだろうか。漠然とそう思うが、他意はない。ここでは相変わらず言葉が記され、それを誰かが読み、それについて考えたり思ったりしているのかもしれない。そこで神が演技をしているとも思えない。俳優ではないのだから、特定の役回りなどありはしないだろう。それを成し遂げようとしているのでもない。結果的に続いているだけか。神ではない誰かがそう思い、また当然のことのように目的がないらしい。嘘をついているのだろうか。語ることが目的ではないのか。今さらそんな当たり前の目的を持ってきても、何のおもしろみも新鮮味もないか。では何なのか。ていかい趣味のたぐいか。でも余裕があるのはほんの一時期に過ぎない。そのうちどうにもならなくなり、焦り始めるのだろう。ともかく自己啓発の幻想を振り払い、語る対象の質を高めることが肝心だろうか。それは無理か。がらくたで身の回りを固めているから無理なのか。別にオタクな立場に安住できるほど知識もコネもないし、そんな自らを正当化できる自信もありはしないか。でも自らとは自分のことではないし、誰のことでもありはしないのだろう。そういうごまかしを前提として語っているはずで、その辺のひねくれ具合を改めないと、いつまで経ってもまともに語れないのではないか。またそんな嘘をついて誰を煙に巻こうとしているのか。ところで語りそのものではなく、語る対象の質を高めるとはどういうことなのか。世の中はごり押しがまかり通った者勝ちではだめなのだろうか。それを前提としてああだこうだと論争が繰り広げられているだけではつまらないか。ただそういうことではないような気がするだけか。君は論争の中身に興味がないのだろうか。メディア上で誰かがごり押ししてくる者をおだてて煽り、別のごり押ししてきた者と論争させて敗れたら、今度は論争に勝った者とともに、そいつをけなして葬り去ればいいわけか。結局はその手の論争もスポーツと同じことか。冗談としてならそういうことで、冗談でなければもっとマシなことを語らなければならない。だからその手の論争は架空の域を出ないことで、語る対象としては質が低いということになるのだろうか。具体的にどんな論争だったのか語っていないのだから、質の高い低い以前の話で、語る度胸と力量がないだけではないのか。だがそれについて語るには、論争の当事者でなければ、語る正当性がないようにも思われ、でも正当性がなければ語れないのだとしたら、御都合主義もいいところで、これまでにも正当性があろうとなかろうと、その場の気分次第でいい加減に語ってきた経緯からすれば、やはり語ることから逃げていると見なされても仕方のないところで、それでもかまわないというのなら、もう語ろうと語るまいと、そんなことはどうでもいいとなってしまうだろうか。結局君は何を語りたかったのか。それで架空の論争から逃げ果せたと思っているのか。そうではないだろう。とりあえず何やら世相を反映するような利いた風なコメントを携え、ごり押し気味に居座ろうとする詐欺師も学者も芸能人も、そんな既得権益の上にあぐらをかきながら、お互いに反目し合ったり徒党を組んだりしているのが、見苦しく思われ、うざいと感じたら、彼らの間に生じている些細な亀裂や軋轢を見逃さず、機会を捉えてそれらをネタとして論争させ、そんなコップの中の嵐を眺めながらおもしろがればいいわけか。でもそんな論争を仕掛けているのは誰でもなく、それらを眺める鳥瞰的な視点などどこにもありはせず、要するに神の不在を補う立場などあり得ないということか。しかしそんな当たり前のことに言葉を弄して何になるのだろう。当たり前だとは思っていなかったのではないか。

 鶏が先か卵が先か、という関係が、市場経済の拡大が先か人口増加が先か、という関係と似ているような気がするのだが、ともかく人口増加が止まれば、消費者の増加が止まり、市場経済の拡大も止まり、逆に市場経済の拡大により、そこに暮らす人たちが経済的に豊かになったから、経済的に余裕が出てくれば、がつがつ競争しながら成り上がり気味に生きていく気力もなくなり、結果としてその地域の人口増加が止まったのだとすれば、それは当たり前の成り行きであり、必然的な結果となるだろうか。貧しい人たちが豊かになる過程が、市場経済が拡大する過程だとすれば、それが人口が増加していく過程と連動していて、すべてがすべてに関係しているとも思えないが、そうなるための主な要因である人口増加が止まったのだから、もうこれ以上は経済的に豊かになる必要も必然性もないのかもしれず、小手先の政策で少しは経済的に上向くとしても、そこには根本的な限界があり、すでに先が見えているということだろうか。それでも日本の経済を成長させるという目標を取り下げられないのは、政治家の哀しい宿命か。どこまでも永久に経済が成長していくという幻想を捨てたりしたらまずいだろうか。それ以前に一国だけの経済成長を前提としているから、うまく説明できなくなるのであって、要するに世界の他の人口が増加している地域で、経済が成長していればいいだけのような気もするのだが、さらにいえば世界の人口増加が止まった時点で、市場経済の拡大も経済成長も止まり、そこで今までの経済成長神話も終わってしまうのではないか。そんな単純な成り行きにはならないのかもしれないが、それでも今あるような資本主義的な制度や思考や行動様式にも、だんだん先が見えてきたということだろうか。


1月11日

 用語が整理されていない。天使が神に逆らうと堕天使になる。北欧のどこかの刑務所に神が降臨して、囚人に向かって何か語ったらしい。つまらない内容だろうか。演技論でも戦わせていたのかもしれない。そんな決めつけを平気でやり、神の語りを中断させ、怒りを買って地獄へ落とされたわけでもないだろう。誰がそうなったのか。誰でもなく、それはあり得ない嘘だろうか。嘘をついて人々を困らせようとしているのか。困らせようとしても無駄だろう。語っている何もかもが中途半端なようだ。悪夢にうなされていたわけでもない。眠れない日々を送っているわけでもないだろう。ではそこで神は何を語ろうとしていたのか。刑務所と無関係だとは思えない。人は刑務所の中で快適な生活を送れば、再び罪を犯す気になれなくなるのだろうか。人にもよるのではないか。刑務所内であれ一般の社会であれ、嫌なことはなるべくやらせない方がいいのかもしれない。嫌なことを無理矢理やらせると、反抗心とか復讐心とかが芽生え、その結果やられたらやり返すが横行してしまうか。そういう成り行きの中で、神の支配に反発した天使が堕天使となり、悪魔となったように、国家の支配に反抗した人々が革命家になるわけか。それは遠い昔の夢物語だろうか。何もかもが道半ばでしかないようだ。人はどこへ向かって何をやろうとしているのか。浅はかな気分で誰を見捨てようとしているわけではなさそうだ。また甘い夢を見て、自らを甘やかそうとして、自堕落な生活に戻り、遠い破滅を引き寄せようとしているわけか。誰がどこで破滅するのだろう。凶悪犯はすべて人殺しを楽しんでいるサイコパスだと思い込み、そんな奴らは死刑にしなければ気が済まないわけか。映画と現実を混同していて、しかもそんなサイコパス映画を見て楽しんでいたりする。社会の片隅で、誰かがそんなおぞましい日々を送っていたりするのだろうか。少なくとも君がそんな光景を眺めているわけでも、思い浮かべているわけでもなさそうで、君自身の未来が絞首刑台へと導かれているわけでもなさそうだ。これから何が起こるかわからないが、このまま何かに導かれるがままにしておいてかまわないのだろうか。それとも一大決心して思いっきり方針転換しなければならないのか。自然とそんな成り行きにはならないのかもしれないが、どこかで二者択一を迫られ、乗るか反るかの大バクチとなったら、それこそ出来の悪いテレビドラマ的な成り行きだ。たぶんそこで何が極まっているのでもないのだろうが、もし本当にそうなってしまったら、もうやっていられない気分となり、そんなくだらぬゲームからさっさと降りてしまい、何もかもやめてしまうような気がするが、たぶんそこでその気になって大バクチを打ってしまうと、大成功したり大失敗したりするのではないか。もう中途半端な気分でいるのには飽き飽きしているとすれば、ここはひとつそうなることを願い、失敗するにしろ成功するにしろ、すっきりした気分になれるような成り行きへと状況を持っていきたいところだろうか。どうすればそうなるのだろうか。どうせその気もないのにそんなことを記しているのだろう。

 しかし無意識とは何なのか。どこかの頭の良さそうな学者のたぐいが、それを説明しているのを見たか聞いたかした記憶があるようだが、わかりやすいのかわかりにくいのかわからないが、説明を見たか聞いたかしている途中で面倒くさくなったようで、その内容までは覚えていない。わかろうとしていなかったのかもしれない。それ以前にそんなことを嬉々として説明したがる人は、あまり信用したくないか。ウィキペディアでスピリチュアリティを検索すると、「宗教は傷ついた小鳥を保護し癒した後にかごの中に閉じ込めてしまう。」「スピリチュアリティは小鳥を保護し癒した後にかごから外に逃がしてくれる。」「宗教はアフリカ難民に食糧援助をして依存させてしまう。」「スピリチュアリティはアフリカ難民に魚の釣り方や小麦の作り方を教えて自立させる。」と言った文句が説明文の中に出てくるが、体のいいたとえ話といえばそうなのかもしれず、別にすべてのアフリカ難民が魚の釣り方を知らないわけでもなく、中には小麦の作り方を知っている人もいるだろうし、その地方では小麦より他の穀物の栽培に適しているかもしれず、そんなことを言えばきりがなくなるのを承知で、あえて何を付け加える気にもならないが、まあたとえそれが勘違いだとしても、宗教を求めている人には宗教が必要なのだろうし、スピリチュアリティを求めている人にはスピリチュアリティが必要なのだろう。求めて手に入れることができるなら、そんなに楽なことはなく、本当にそうなればおめでたいことなのかもしれない。実際は求めてもそう簡単には手に入らないか。簡単に手に入ったらラッキーということになるのだろうか。スピリチュアリティはフィクションの中では、それが重要なアイテムとして使われ、スターウォーズの中ではジェダイやシスがフォースとして使い、ガンダムの中では同じような力をニュータイプが使い、ドラゴンボールやワンピースやナルトの中でも、同じように覇気だのチャクラだのと呼ばれて使われるものかもしれないが、例えば心霊現象で商売している人と、それをインチキだと否定している人の、両者ともにスピリチュアリティについて語り、それをオカルトだとかインチキだと否定している人が、自らは科学的にスピリチュアリティを語っていると思い込んでいるとしたら、それを信じてやるべきなのかどうか、どうもその辺でひっかかりを感じてしまうわけで、そういう人たちが粗製濫造的に出版している本の総体が、それがオカルトだろうと科学的だろうと、そこには心理学者や社会学者やコンサルタントなどの人たちも入るのだろうが、いわゆる自己啓発本なわけで、現代人にとっては安価で簡単に手に入るアイテムなわけだ。子供の頃から漫画やアニメで慣らされ、大人になれば自己啓発本を読んでその気にさせられて、何だか現代人はスピリチュアリティに身も心も支配されているような気がするのだが、果たしてこれで良いのか悪いのか、その辺はどうなのだろうか。


1月10日

 この世界はどのようにして成り立っているのか。答えようのない漠然とした問いだ。でも君がそこで何か適当なことを語っているとしても、それによって誰を敵視しているのでもないらしい。意味のないことだ。ではそこで何を空想しているのだろう。でたらめな未来か。あり得ない成り行きを空想しているのかもしれない。どうやらほとんどの人は長生きする傾向にあるのかもしれない。若死にするのは無茶なことをやった人だけか。老人といえどもすぐには死なないのだから、特定の誰かに対して無理な批判を繰り返し、亀裂が決定的となり、後戻りできなくなるのは避けなければいけないか。でもいったいこれまでに特定の誰を批判してきたというのか。何か忘れていないか。健忘症にかかっているわけでもないだろうが、今のところは誰が敵でもなく、君自身が敵でもないことは確かなようで、誰からも相手にもされていないというのが、客観的な認識となるだろうか。たぶんその程度のことでしかなく、相変わらず何をどう語ってもかまわない状況にあるのだろう。だから何を語っても、雲をつかむような話となってしまう。そうならないためには何を心がけたらいいのか。誰を敵視しているのでもないのだから、そうなってもかまわないのではないか。的外れなことを述べていてもかまわないような気がする。虚無的な態度で居直っているわけか。トラブルメーカーにさえなれないのだから、そんな態度ではだめだろう。だめなのがわかっていて、それを改めようとしないのだから、なおのことたちが悪いか。でもこの世にいくらでも人がいる限りは、人と人の間での軋轢はつきもので、そうなってしまったら、その場の成り行きに従ってそれなりに対応するしかないだろう。国家間の軋轢もそれの延長上にあるわけか。それについては様々な人たちが様々な立場から様々なことを主張して、メディア上でそんな主張が戦わされ、どうでもいいようなアホくさい結果をもたらし、それぞれの主張に組する人々が、自分たちの主張の正当性を主張したりして、それをごり押しした者勝ちだと思わせたいのだろうが、とりあえず君はあまりそういうことに乗り気ではないらしい。というかいつも逃げ腰で、なるべく関わらないようにしたいわけか。それは見え透いた嘘かもしれないが、やはりそれ以前に相手にされていないというのが、正直な実感であり、実態なのではないか。

 君には主張することがないのか。この世界も君自身もどうなってもかまわないと思うなら、何を主張する気も起こらないのは当然か。それが見え透いた嘘なのだろうか。わかりきったことを問わないでほしいか。でもわかりきっているからこそ、あえて問うべきなのではないか。君は何者なのか。もはや下手な作り話には興味を持てないのか。でもそんなふうに語り、何かをもたらしたいのだろう。影響とは何だろう。そういう語り方は何から影響を受けてそうなってしまうのか。人為的な操作ではない。語る人は自信に満ちていて、それが間違っていようとおかまいなしに語ってしまうだろう。予測は外れ、外れてなお居直り、何かを強弁しようとする。そんな人たちがお互いの主張を戦わせ、あとから勝った負けたのと周囲からはやし立てられてむきになる。だからこの機に乗じてでたらめに語らなければならないのか。それでも何を語っているわけでもないとうそぶけるだろうか。そんなふうに語ればいいわけだ。そうではないとしてもそういうことになり、そう語ってかわしきれない何かをかわそうとして、かわしきれずにどうなってしまうのだろうか。そんな結果を受け止めなければならなくなり、痛い目に遭ったふりをしながら、落ち込んでしまうわけか。どう語っても釈然としないようだ。君は見て見ぬ振りをしているわけか。実際には何を見ているのだろう。これ以上良くなることがないのはわかっていながら、あえて幻想を振りまこうとしていると思っているわけか。誰がそうしたいのか。それはすべての政治家だろうか。現状にしがみついている限りはそうなり、そうしていないとさらに状況が悪化して、自らの立場が危うくなってしまうからか。たぶんそれはわかりきっていることであり、状況が悪化しないと改革する理由がなくなり、改革を実行したとしても、悪化を食い止めることができないとしたら、彼らは何をどうしたらいいのだろうか。そんな仮定を信じるわけにはいかないか。たぶん彼らが主張しているのはそういうことだ。事態はすでに改善しつつあり、状況は悪化するどころか上向いている。人々もそれを実感しているはずだ。それを信じたいのだろうか。信じるも何も、自らの行為が深刻な状況を招いているとも思えず、かといって楽観視しているわけでもないのだろうが、何とかなっていることに変わりなく、かえって自信を深め、そんな自らを正当化する余裕もあるらしく、そして感情の暴走をそのまま放置して、わき上がってくる不安感も適当にいなしつつ、あとは無闇矢鱈と旅の空なわけか。でもそんなフィクションをこの先どう語ってゆけばいいのか。だんだん何かが明らかとなってくるだろう。そうなった時に現状を肯定していた人々が、どのような言動に及ぶかが見物となってくるわけか。しかし君はそれを信じていないはずだ。そうならなくてもかまわないと思っている。君は君自身のことで手一杯なのであり、他のことに首を突っ込む余裕などないのではないか。


1月9日

 誰も孤立してないようだ。しかしその件については誰も何も語らない。ただそういうやり方がまかり通っている。微妙な位置関係を保ち、対象との距離感をしっかり認識しておくことが肝心か。でもそれが語る対象とは限らないだろう。その辺は感覚が鈍い方がうまく語れるのかもしれず、語る前から語る内容がわかってしまうと、すでにその時点で結果が見えてしまうのではないか。そこからが容赦なく妨害工作が始まってしまうのか。何のことでもない。自業自得なのだから仕方がないだろう。そんな現象のただ中にとどまれるのだろうか。君はそこで何を見ているのか。裸眼で見ているものではない。君にはピカソとアンディ・ウォーホルと村上隆の違いがわかるだろうか。ピカソは画家としてのセンスがあり、ウォーホルはイラストレーターとしてのセンスがあり、村上隆は起業家としてのセンスがあるということか。では草間彌生はどうなのか。芸術家としてのセンスがあるわけか。そんな簡単に一言で言い表せるものでもないのでもないか。フランシス・ベーコンが描いた醜く歪められた顔や身体を見て、君は何を感じるだろうか。それを簡単に画家の狂気だと述べてみても、何も伝わってこないだろう。では語ること自体がナンセンスなのか。そう記すことによってとっかかりになりはしないか。でもその程度では何を述べていることにもなりはしない。例えばジャクソン・ポロックがやったアクション・ペインティングの真似をしたがる人が後を絶たないのはどういうことなのか。画家だけではなく書道家でさえそうなのではないか。ただの意味不明な落書きにしか見えないとしても、デュシャンの便器のように、それが美術館に飾られれば、芸術に見えてしまうということか。トイレに設置されていれば、ただの便器にしか過ぎないものが、ひとたび美術館の展示ケースに入れられれば、人は美術館に入ったとたん、無意識のうちにそれがトイレに設置されている日常の光景をカッコに入れるから、それを芸術作品として観賞することができるということか。どうなんだろうか。ただの品のないユーモアのたぐいとして片付けられないだろうか。それほど単純には割り切れないことかもしれないが、とりあえず村上隆が手がけたフィギュアやイラスト系の作品群などは、アニメオタク系の人たちの間では見慣れたものかもしれず、他でも通用するものかもしれないが、草間彌生が手がけた水玉模様のオブジェのたぐいはどうなのだろうか。ただの抽象芸術以外の何ものでもないか。どう見ても他の何ものでもなく、どう考えても他では用をなさないものなので、やはり芸術作品と見なすしかなく、好き嫌いは別としても、他の何ものでもあり得ないのだから、それは仕方のないことだろうか。そしてそこからいえることがあるとすれば、村上隆はまがい物の起業家であり、草間彌生は本物の芸術家ということになるのだろうか。もちろん儲かっているのは起業家である村上隆で、草間彌生の方はいかにも本物の芸術家らしく精神を病んでいる。


1月8日

 たぶん簡単なことなのだろう。そこに至る経緯としてはそうであり、人は誰でもそんな結論に行き着いてしまうのだろう。そして悩むわけか。いったい何を悩んでいるのか。もっと何か違った結論に至れないだろうか。なぜ君はここにいて、そこにはいないのか。どこにいればいいというわけではない。まるで歯が立たないようだ。うまくいく方法を模索しているわけではない。そんなことはわかっていて、今さら何になれるわけでもなく、だからここにいるのだろう。そしてつかの間の休息を取っているわけか。それにしては休息が長過ぎないか。まさかここから死ぬまで休んでいるつもりか。それではつかの間ではないか。そのうちまた何かやるような成り行きになるのだろう。それにしても眠い。どこかでオタクな人の自意識過剰が暴走しているようだ。『不思議の国のアリス』のルイス・キャロルと宮崎駿と、連続幼女誘拐殺人事件で死刑になった宮崎勤との関連で、何か語ろうとしているのだろうか。『千と千尋の神隠し』に登場するカオナシが、宮崎勤だとでも言いたいのだろうか。たぶん三者に何らかの共通点があるとしたら、それは誰かの想像にまかせるしかないのだろうが、それに気づいていながら気づいていないふりをしている他の誰かが、彼の長編アニメの最後の作品を批判して、宮崎駿には大人の女が描けないとラジオでけなしていたらしい。そしてまた他の誰かが、『風の谷のナウシカ』の続編をエヴァンゲリオンの作者がやるのではないかと期待しているようで、何やらオタクな人たちが、どこかで盛り上がっている光景を想像しながら、君は他に何を思い出そうとしているのか。加害者家族への執拗な嫌がらせによって、死ななくてもいい父親まで自死して、村八分となった家族は一家離散状態となり、日本という共同体に属している無名の人々による惨い仕打ちが明らかになったということか。そして君は神戸の酒鬼薔薇少年を思い出す。それらの何が作り話で、何が現実に起こった出来事なのでもなく、たぶん何を批判したいのでもなく、何を連想させたいのでもないのだろうが、世の中の建前だとかきれいごとだとかを打ち壊しにしようとする誰かが、必ず登場してしまう成り行きが必然なのか偶然なのか、それを知りたいのでもないのだろう。では何なのか。いったい何を知りたいのだろうか。今田勇子による犯行声明の内容か。

 もうそれで語るべきことは語ってしまったのではないか。でもそこにあえて付け加えるべき架空の登場人物がいるとすれば、その手の評論家の誰もが出来の悪い日本映画として退けた『藁の楯』に出てくる、「この男を殺して下さい。名前・清丸国秀。お礼として10億円お支払いします。」という現実にはあり得ない賞金首で少女殺害犯の男か。それはちょっと勇み足だろうか。もう遅い。余分な付け足しでしかない。だいいち君はその映画を見ていないし、原作の小説も読んでいないはずだ。見てもいないし読んでもいないものまで語るのはおかしいか。そういえば宮崎駿の長編アニメ最終作も見ていない。要するにいい加減なことをいい加減に語っているだけか。何となくそういう経緯もあって、最初から腰が引けていて、何とかそれらの域には深入りせずに、表面だけさらっと触れて、それで語りを済ませ、急いでその場を立ち去りたくなっているのだろうか。オタクな人たちは無知な人々による宮崎駿への表面的なインタビューが気に入らないらしく、作品に対する知識も理解も足りない者が安易にインタビューするなと憤っているようで、それに比べて自分はこんなにも知っていると自慢げに語っているみたいで、そういうところで他の一般人と差をつけたいのかもしれず、たぶんそういう方向でオタクな人たちに太刀打ちすることはできないように思われ、さっさと退散するしかないのだろうが、それでもまだ疑念を抱く余地が残されているというのか。また気分が冗談に傾きそうになり、支離滅裂なことを記してその場から逃げ出しそうになっているのをこらえ、何とかそこで踏みとどまっている気になりたいのだろうが、どうしたものだろうか。それらの何を否定するまでもなく、とりあえず安易に肯定しておけばいいのではないか。どうあっても現在の有り様が過去に投影されているようで、そんな現在と過去の時点の間の差異が知識をもたらしているのであり、それに興味を抱き、それについて調べる余裕と時間がある人は知り得ることができるし、無関心な人は知らないままにとどまり、映画も娯楽の対象である以上は、歴史的な知識に無関心な人たちを遠ざけるわけもいかず、それについて知り得た人たちが無関心な人たちに対して優越感を抱くにしても、無関心な人たちにとっては、それがどうしたわけでもないと思うのは当然のことかもしれず、アニメ界の巨匠としてもてはやされている人の作品なのだから、当然無知な人たちも、そうした宣伝メディアに煽られて見に行くわけで、たぶんそれでも無知なら無知なりに楽しめるということでしかない。そして無知な人たちの内の誰かが、彼にインタビューする立場であるなら、そういうことになってしまうのだろう。そういうシステムだといえばそういうことでしかない。そしていかに周到かつ緻密に過去の社会を再現しようとしても、少なくともそこに描き出されている主人公の意識は、現代人のそれであり、そうでない場合も中にはあるのだろうが、そうでなければ現代人の共感を呼ぶこともないだろうし、それがフィクションである限りは、未来であろうと過去であろうと、現代において語られているそれでしかない。


1月7日

 やはり冗談でしかないのだろうが、そこにいると迷いと疑念ばかり生じてきて、双方向性のない時空が君をどこか遠くへと追いやってしまうのかもしれず、だんだんそこへとどまっているのが嫌になってくるようだ。今さら誰かのロマンなど否定するまでもなく、そこで何かが滅びようとしているとしても、それがいいことか悪いことかなんてどうでもよく、滅んだあとからそういう成り行きだったと思うだけで、滅ぶまで君がこの世に居続ける保証もないが、現状の何を呪っているわけでもないだろう。呪詛の効かない世界に暮らしているのかもしれないが、それでも人は必要のない何かを観賞しなければならない。映像を見ながら、誰かは否定的な気分となるらしく、それらの映像にケチをつけたくなるのかもしれず、何かそれについてさかんに言葉を費やしているのを聞き、君はまた退屈な気分となってくるようだ。でも人はそういうのを見て感動している。感動している人たちはわざわざそれに対してケチをつけたりしないだろう。人は惰性で生きていて、いちいち細かいところまで指摘する気にならないのかもしれない。ただそれなりに予算をかけて作られた映像を見て満足すればいいだけなのかもしれず、わざわざそこに言葉を付け足すのが面倒くさいのだろう。あとで批評家と呼ばれる人たちの言葉を読んだり聞いたりして、そんなものかと思ったりするのかもしれないが、それは黙ってそこを通り過ぎてもかまわないことでしかなく、あまり深く考えたりする必要のないことかもしれない。それでも何やら利いた風な意見を真に受けて、自分なりの認識を育んでいかなければならないのか。そんな時間があったらの話だが、そういう成り行きになるとしても、それは意識してそうなるように仕向けるわけにはいかないようで、君は待っているのだろう。どうなることを期待しているわけでもなく、どうにもならないようにも思われ、何がうまくいく見通しも立たず、まともな返答など期待できないのだから、あとはただその場の成り行きに合わせて言葉を記すのみのようだ。やはりそれで何がどうなることもないような気がして、君はいつまでも途方に暮れるしかなく、何だか困った事態なのだろうが、どうすることもできない状況に変わりないようだ。

 でも現状を肯定しなければならないのは、それらの批評家も同じことのようで、すべてをけなすわけにもいかないようで、メディアに登場している以上は、褒めるべきところは褒め、褒めている一方でけなし、その辺で何とかバランスをとりながら、仕事としての批評活動を継続させたいようだ。その褒めたりけなしたりする基準がどこにあるのか、恣意的にそうしているのだろうが、何か特定の党派制というのがあるわけでもなく、微妙で曖昧なところかもしれず、一概にこれはだめでこれはいいとか言えたものでもなく、その場その場で判断する基準も違っているのかもしれない。そこに原理や理論など生じるべくもなく、とにかく与えられた時間内で批評する対象について、語っている自らが納得できるように語ろうとして、あれこれ工夫を凝らしているらしく、その結果としてそれを聴いている人たちが、おもしろおかしく愉快で興味を惹くような内容になっていればいいのかもしれず、それを目指している限りは批評する機会を与えられ、それを継続させていくことができるのかもしれないが、実態はそういうことではないのか。どうやら語りの限界がその辺にあるかもしれない。具体的には誰かは何について語っているのか。そこに避けては通れない語りの対象としての固有名が記されねばならず、それを記すか記さないかで、君のいい加減な作り話に信憑性がともなうかともなわないかの分かれ目となっていて、何について語っているのかはっきりさせなければ、そんな語りはどうでもいいこととなり、誰にとっても無視してかまわないような内容になるしかなく、君はその決断ができずに、どうしたらいいものか考えあぐねているようだ。ともかく誰かがけなした映画を見たいわけでもなく、見ようとしているわけでもないらしく、すでに半年以上テレビのない生活を送っているので、これから何かのきっかけでもない限りは、テレビで映画を見ることもないだろう。ここで安易にスピルバーグとか宮崎駿とかいう固有名を持ち出して、それらが担っていると思われる対象にケチをつけてみても、それは違うような気がして、確かにそういうものには何か限界があるように感じられ、ケチのひとつやふたつつけても、それらしい説明とともにつけられるような気もするが、それで何か語ったことになるのかならないのか、たぶん何を語っていることにもなりはせず、どうでもいいことの範疇にとどまるしかないように思えてきて、その辺で面倒くさくなり、自らの力不足を痛感してしまうのかもしれないが、冗談として述べるならそういうことになってしまうのだろう。

 どうも本心では何を求めているのでもないらしい。嘘とか冗談として何か求めているように装いたいのであり、そんな気分に合わせて何かを適当に言葉を記し、悦に入るでもなく、それが気に入らないからといって退けるでもなく、そうかといって他に何を付け足す気にもならず、そのままでもかまわないように思われ、誰が何と戦っていようといまいと、そんなことなどおかまいなしに、語るしかないのだろうが、どうしてもその先に抜けられないらしく、いつもそこで立ち往生のままとどまり、やはりそこでも考えあぐねているようだ。何をどう語ったらいいのだろうか。結局そんなことを思っている地点へ引き戻され、さらに停滞し、そんなくだらなさの中に意識が埋没していって、まるで底なしの泥沼にはまってしまったかのように身動きが取れなくなり、そこで語るのをあきらめてしまうのだろうか。どうやら言葉を記すのもあきらめているようで、それ以上の進展を許さない何かに邪魔され、どうしてもそのから先へ進めないらしい。なぜここかしこに架空の物語が紡ぎだされ、それについてああだこうだと語らなければならないのか。そういう大前提がおかしいのか。たぶんそういうことではなく、そこに居座り続け、いつまで経っても語りをやめようとしない誰かが鬱陶しく思われ、そういう成り行きを無視したいのだろうが、無視できずに関わりを持ってしまうことが問題なのであって、なぜ無視できないかわからないところが、何やらそういう語りに魅力を感じさせてしまう原因なのかもしれず、他に何も提供できない仕組みの中にいるようにも思われ、何かジレンマのようなものを感じているのかもしれないが、そういうことに嫌気がさして、あきらめてしまった人たちは、それらの娯楽を受け入れざるを得ないのであって、日々提供され続けるそれらを楽しむしかなく、そんな日常を呪うこともなく、そのまま生き続ける限りは生き続け、そういう成り行きに抵抗し続ける人たちとともに、リアリズムとファンタジーの両極端の間に自らの好みを配分し、時には恣意的に移動させながら、何となくその場の雰囲気に合わせて、そんな気分を取り繕い、それを保持しつつも、別の何かにも目配せをして、気が変われば気分次第で行きつ戻りつ、何とか現実から逸脱しないように心がけているのかもしれず、それでも思いがけず逸脱してしまえば、そのままあちら側の世界に行き着いたり行き着かなかったりして、途中で思い直してまた戻ってくることもあるのだろうが、そうなったらなったらで、そこに待ち受けているのはいつもの日常となるのだろうか。ならなければどうなるというのか。あちら側の世界に入り浸っているわけにもいかないか。


1月6日

 果たしてまだ先が長いのだろうか。もういい加減にくたばってほしいか。くたばっている人なら他にいそうだ。どこで戦闘が続いているわけでもない。君は架空の事件にかかりきりか。それをうやむやにしたいのだろうか。それとは何か。もうすでに何かが始められているようだ。それはゲームではないのだろうか。なぜそう思う。逃れられない定めだからそう思っているのかもしれない。だからそれが冗談なのだろう。ではまだ可能性があるはずか。それはいったいどうなる可能性なのか。相変わらずわからないままにしておきたいようだ。言葉の他に何を繰り出せるわけでもなく、架空の戦闘は作り話の中で繰り広げられ、その作り話も君が語っているのではない。それに関して訳知り顔でいられる人も限られていて、君はその中に含まれていないようだ。ただそれを見ているのだろうか。時には読んでいたりする。話が膨らみ、作者が大風呂敷を広げ、終わらない物語が発動して、とりとめがなくなり、キャラクターばかりの世界となるらしい。君にそれを止める力はない。話がつまらなくなれば自動的に止まるのだろうか。キャラクターが一人歩きし始めれば、止めたくても止まらなくなってしまうのではないか。誰も止められなくなり、架空の人生が無駄に費やされてしまうわけか。ではそこで何かが狂っているのだろうか。装置がいつまでも正常に作動し続けているだけか。そうであるなら何も心配することはない。君は黙っていればよく、あとは他人任せでかまわないはずか。たぶんそこで何が繰り広げられているわけでもなく、スクリーンに映し出された光の中で、影たちが舞い踊っているだけではないのか。そしてそれらの動きに合わせて音声がホール全体に響き渡り、そこに居合わせた人々は何やらキッチュな気分に浸り、憩いのひとときを過ごしたつもりになれる。でもそれは別に皮肉な結果などではなく、皆が望んでそうなろうとしてなったのだろう。そうなるためにわざわざそこまでやってきたのではなかったか。快楽の源泉がそこにあり、それに合わせて何かが演じられていたのだろう。

 しかし君は何を想像しているのか。そこに何かがあるように思い、それについて語っているつもりになるが、語っている対象がはっきりしない。どこかのメディアでは相変わらず病を克服した美談が語られ、あなたもがんばりなさいと他の誰かを励ましている。でも別に特定の誰かが励まされているわけでもなく、君が幻想を抱いているわけでもない。健康な状態はとりとめがない。身体に滅亡の危機が迫っているわけではなく、精神に異常を来しているわけでもない。要はタイミングであり、機会を捉える能力なのだろうか。そんな能力が備わっているとも思えず、偶然の巡り合わせに期待するのも虫がいいようで、ただありもしないチャンスがめぐってくるのを待ち続け、そのまま何も起こらず、あきらめとともに年老いるだけか。君はそんなつまらない物語をなぞりたいのだろうか。どうやら気休めに漫画でも読んでいた方がよさそうだ。誰かが映画を見て漫画について語り、漫画と比較しながら映画について語っている。長い長い退屈するほど長い物語と長編小説は違うらしい。たぶんそれはいつまで経っても何も起こらない話だ。それは物語でさえなく、誰が謎を求めて旅をしているわけでもないらしく、その謎が探し求めている宝なのでもない。常に何かが目標となり、その目標に向かって突き進もうとすると、途中でわけがわからなくなってしまい、おかしな成り行きと不可解な逸脱とともに、誰かの逡巡が始まってしまうのだろうか。今では目標に向かう気すらなく、すでに形骸化して抜け殻だけになってしまった夢を、それをもう一度肉付けして語り出そうとする気力もなく、見失った目標を再構成しようにも、かつてそれがあったという事実さえ信じられなくなっているのではないか。そんなわけでそこからの逸脱は果てしなく続き、話をそこから逸らすことだけに執着し、今ではそうやって彷徨し続けることが新たな目標となっているみたいで、まるで今の君は君自身のゴーレムとなってしまったかのようだ。でもそんな語りでは作り話の限界を超えることはできない。君が君自身と無関係であるのはもとからか。要するに君の不在が君を形作っているわけだ。でもそれではますますわけがわからなくなる。

 たぶんそれをいったんやめなければ、気持ちの整理がつかないのか。それは違うのではないか。そこで語られていたのは誰の物語でもなく、君が何を語っているのでもなく、ただ漫画を読んでいるに過ぎず、そこから何を得ているのでもないらしい。リアリティを感じられないのだろうか。話が具体的な事物に及ぶのを逸らし、そんなはぐらかしの中に真実があるように装い、そんな見え透いたごまかしを利用して、何とかその場から立ち去ろうとしている。でもそれがうまくいく保証もないのに、いつまでも試行錯誤を繰り返し、結果的に失敗し続けているようだ。でもそれがこれまでに語られてきた話の一部始終なのだろうか。途中で何かが違っているのかもしれない。ではもう一度当時抱いていた疑念を蒸し返し、そこから話を語り直した方がいいのか。今さら遅いか。すでにそれらの経緯については語り尽くされているのに、さらにありもしない出来事をねつ造して話を膨らませるにしても、とうに破綻を来していることを隠しようがなく、どう修正してみてもうまくいきそうにない。そう思われて仕方が無いから、その話はなかったことにしておきたいのであり、あえて隠す必要もないことだが、語り直す必要もなく、ただ無視しながらその前を通り過ぎればいいだけで、それ以上の詮索は無用だと思わせておけばいいのだろうか。そうしておけば、やがて自然の風化作用によって跡形もなくなり、そんな記憶も消えて、知っている人たちもいなくなり、完全に忘れ去られる頃には、人心も一新しているのではないか。でもその頃には君もいなくなっているような気がするのだが、そんな未来の果てにどんな希望があるのだろうか。たぶんそこで何が起ころうとも、今ここで生きている人たちにとっては関係のないことであり、ここに記されていることは、メディア上で他人に媚びている人たちとともに、すべては忘れ去られるべきことで、何の価値もないことであり、特定の価値を担うことができない言葉の連なりなのではないか。だから本気で語る必要はないのか。しかし持っていきたいのはそういう結論ではないだろう。そして単なるひねくれ者の戯れ言として読まれるべきものでもなさそうだ。では何なのか。では何なのかと問い続けることが重要なのか。冗談のつもりでそう問い、それを明日につなげたいのか。


1月5日

 くだらないことはくだらないままに推移しそうで、でたらめにもほどがありそうだが、今さら何をやってみてももう遅い。水面下ではすでに何かが決定していて、あとは時がめぐって来るのを待つだけか。でも本当にそうなってしまうと、ただでさえややこしい情勢なのに、わけがわからないどころか、誰も何も対処しようがなく、あとは黙って情勢を見守るだけとなってしまい、どうにもならなくなってしまうだろうか。でも何かをぶっ壊すとはそういうことだろう。ところで君はいったい何のことを述べているつもりなのだろうか。そんなことまでわからないなら、ただの意味不明なのは相変わらずだとしても、何だか頭のねじが外れているようで、何かが故障中なのか、あるいは暴走中なのかわからないが、ただの戯れ言ならそのままスルーして、あとは何事もなかったように振る舞うだけだろうか。面倒くさいならそれでもかまわないのではないか。何を頑なに否定しているわけでもなく、認めるべきところは認め、改めるべくは改め、どんな基準でそれが実行に移されるのか興味があるわけでもないが、君はいつでもそれがあり得ないと思い、冗談のつもりでそんなことを述べているだけで、具体的な事柄はいつでも曖昧なままに放置して、何を述べているのかわからないようにしながら、誰を煙に巻こうしているのでもないにしても、そんなことはどうでもいいように思わせておいて、ある時不意に誰かの本心を暴露したりして、それで誰を驚かそうとしているのでもないのだろうが、何となくくだらない気分を維持したいらしく、いつまで経ってもそんなやり方にかけているように装い、怠惰な気分を保ち、そのまま何かの惰性にまかせて、急場を凌ごうとしているのか。しかし何が急場なのか、そんなことさえわからずじまいになってしまいそうだ。それでかまわないのだろうか。

 まったく笑い話にさえなりはしない。冗談にもほどがあり、冗談でなければ何でもなく、冗談以外にはあり得ないのだろう。でもなぜ笑えない話になってしまうのか。たぶん本気ではない。それに関しては何も語れないのに、語っているふりをしているのだから、だんだん語るのが苦しくなってきて、終いには息継ぎもできなくなり、ついには溺死を免れないか。死ぬまで語るつもりではなかったらしいが、結局語りながら死んでしまうのだろうか。そんなことで死ぬのは馬鹿げている。だいいち死にたくても死に切れないのではないか。語りきるまでは死ぬ気にはなれず、語り得ないのだからますます死ねなくなるはずだが、それでも語り得ぬまま死んでしまうわけか。いったいそれは何の話なのか。たぶんそこで君は空疎について語っているはずだ。死と空疎は関係ない。空疎がもたらすのは偽りの死であり、それは君自身から生じているごまかしがそれをもたらしているのであり、わざと嘘をつくように君をそそのかしているのかもしれない。君もそれに抗うつもりはなく、そんな嘘をつきながらも空疎と戯れ、偽りの死について語っているつもりらしく、君をたぶらかしているつもりの怠惰とともに、空疎は空疎自身と折り重なり、空疎と空疎の間に君を差し挟みながら、怠惰と癒着している君と一体化しつつ、そうなる過程において何かを語ろうとしているのであり、その何かに具体性をまとわせたいのだろうが、今のところはうまくいっていないようで、無理に具体的な何かについて語らせようとしているのでもないのだろうが、君がそれを発見するまで待っているわけにもいかないようで、見切り発車で語りながら、語っている途中で何か思いつくのを待っているふうを装い、実際に何を待っているのか定かでなく、気まぐれにも左右されているようで、本当は何も思いつかずに、語っている内容が空疎のままにとどまっていてもかまわないようで、たぶんそのまま終わりまで語ってしまっても、気にもとめないのだろう。

 しかし何を急かされているのか。相変わらず国家の利害と人々の利害が一致しているかのような欺瞞を共有しながら、そんなたわいのない束縛と限界とともに、君たちは何について語っているつもりなのか。少なくとも君は人々の心を蝕んでいる虚無について語っているつもりのようだ。でもそれは心の存在を前提とした話だろう。心がなければ虚無も蝕みようがなく、もとからそんな話などありもしない虚構であり、すべては架空の次元にとどまり、君もそれ以上は語りようがなくなってしまうのではないか。そんなことなどおかまいなしに語るとすれば、そういう語りは自ずから抽象的な空疎をともない、普遍性を得るまでもなく希薄になり、時の経過とともに劣化してゆき、あとから思えばどうでもいい話となってしまうのだろうか。その辺で苦痛を感じさせるようで、やはり語るのが苦しくなってくる。どうやら君はそれらの人々と幻想を共有できないようだ。それどころかたぶん人々の間に共通の幻想などありはせず、それがあると思わせているのが、マスメディアによるまやかしの効果なのであり、何か共通の問題があり、それについて特定の人々がどこかの会合で議論し合っているように見せかけていて、それを見ている人々も参加している気でいるのかもしれないが、そんなのは思い込み以外の何ものでもなく、実質的にはその場から排除されているのに、何やら意見を求められているように思い込まされているだけで、実際には参加できないのに、その参加できないイベントを見せられて、サポーター的な気分を割り当てられ、それに対する感情移入を強要されているわけか。別に強要されているわけでもないのに、その場の雰囲気がそんな空気を醸し出しているのだろうか。たぶんその手の代表制だとか代議員制だとかいう制度が、人々を洗脳し馴致しているのかもしれず、その場から排除されている自分たちに、あたかも主権があるかのように思わせているのだろうし、そんな偽りの主権とともに、主権者であることから生じる責任を押し付けているのであり、人々は担う必要のない重荷を背負わされ、苦しむ必要のない苦しみに喘いでいるわけか。たぶんそんなはずがないと思いたいのだろう。


1月4日

 とりあえず米中韓で対日包囲網を敷くには、中国の民主化が欠かせない条件か。共産党を二つに割るだけでいいようにも思えるが、現状では無理だろうか。だいたいアメリカなどは民主党と共和党で、議会も大統領職も独占しているのだから、第三の選択肢などあり得ず、議会制も大統領制も形骸化も甚だしいところで、その程度なら中国も見習えるような気がするのだが、やはりこれからも頑なに共産党の一党独裁体制を堅持していくつもりなのだろうか。そんなわけでどうやら安倍ちゃんの今年の目標は、とりあえずひと月に一回、最低でも一年に十二回は靖国神社へ参拝してもらい、韓国や中国の反発をよりいっそう煽り、それに連動してオバマには、中国へ民主化要求をしてもらい、民主化を条件に米中韓の対日包囲網へ参加することにすればいいのではないか。そうやってもし米中韓の同盟関係が強化されれば、日本はアメリカから見捨てられ、もはや在日米軍も必要なくなり、出て行ってもらえるような成り行きになればいいのだが、そのためにはやはり安倍ちゃんのこれでもかこれでもかの靖国神社参拝攻撃が欠かせないところだろうか。そんなギャグのようなあり得ない成り行きになれば、世界がよりいっそう平和になり、君も愉快な気分になれるかも知れない。そんなわけで親類の佐藤栄作元首相のように、ノーベル平和賞を目指して、安倍ちゃんには世界平和のために靖国神社へ連続参拝してもらうしかないか。でもそれではノーベル賞でなく、連続参拝記録のギネスへ挑戦となってしまうか。

 人々の思惑を外れて様々な事柄や出来事が連動して、何かとんでもない皮肉な結果がもたらされれば、それが理性の狡智というか、神の見えざる手というか、そんなものに本気で期待しているわけでもないのだが、どうしても偏った方面へ凝り固まっている人たちが、似た者同士でしかない互いが互いを非難し合い、そんな予定調和な対立関係の上に安住しようとして、そういう居場所を求めてがんばってしまう成り行きにしかならないように思えて、何だか退屈な気分となり、この世はそんな退屈で予定調和な人たちのためにあるようにも思えてしまうわけだが、気休めでも何でもかまわないから、もっと何か気持ちが晴れ晴れとして溜飲が下がるような出来事がもたらされないものか。もはやスポーツ観戦程度では満足できないらしく、そんな心を蝕んでいる虚無とともに、どことも知れぬ荒野の風景を思い描きながら、何もない虚空を見つめ、見つめるだけでは疲れてしまい、見つめ続ける代わりに、現実にはあり得ないようなフィクションを記したくなってくるのかもしれないが、本当は何を記しているのか。相変わらずふざけたことしか記せないらしく、身も心もねじれてしまって、まともにはいかないのかもしれず、まともにいかないからわけのわからぬ冗談でごまかし、ごまかしたついでに何か述べているように装っているわけか。それだけではないと思いたいが、現状がそれを許さないのかもしれず、またどこか得体の知れない地帯へと引きずられていってしまいそうな気配を感じて、何やら面倒くさい運命の到来を予感しているのかもしれない。

 またそれも妄想のたぐいだろうか。ラジオで歴史に関するお勉強の成果を語る人気タレントも、ユーチューブで日の丸を背にして、左巻きの人たちを嘲笑しているつもりの若者も、何か劣等感を心のどこかでくすぶらせているように感じられ、それを自らの存在基盤としているようにも見受けられ、そんな不幸をバネにして生きているのだとすれば、それこそが勘違いのなせる業なのだろうか。そういうことが作用して、これらの退屈でありふれた成り行きをもたらしているわけか。君はそんな成り行きをどう説明する気なのか。改めて何を説明するつもりもないとすれば、他に何を語ればいいのだろうか。またそこから逡巡が始まってしまい、それを装い、悩んでいるふりをしているわけで、そんなわざとらしくも浅はかな行為を尻目に、君はまたそこから遠く離れようとして、何か画策している最中かもしれず、そんな嘘をつきながらも、気がつけばまたそれらの予定調和が成立している地帯へと舞い戻っているのだろうが、今回はまた何か新しい言葉の言い回し方でも仕入れてきたのか。別に今後それらの成り行きが行き着いた先に待ち受けている結末を予言したいのでもないのだろうが、結果的に何か予言しているふうを装いたいのだとすれば、君はそこで何を感じ取っているのだろうか。彼らは延々とこの先も努力し続けるつもりでいるらしいが、それはいつか報われることを願ってそうしているのではなく、何かの定めが彼らを突き動かしているのであり、彼らも彼らでこの状況を何とかしたいのだろうが、たぶんそこに勘違いというか、目算に狂いが生じているというか、要するに世界を侮っているのではないか。自らがとらわれている状況が見えていないということかもしれない。無論意識して見えるわけでもないのだろうが、ともかく自分のやっていることがどこかおかしいと思っていないと、どうしても独りよがりとなってしまい、それが他人の目にさらされているという自覚がないと、やはりその程度の輩だと軽く見られてしまうのだろうか。


1月3日

 何か君には役割があったりなかったりするらしい。その時々の状況によって役割も変化したりするのだろうか。今あるこの世界は十九世紀のヨーロッパから始まっているようだ。そこからどう変わったのだろうか。何も変わっていないと言えば嘘になるだろうか。まず革命によって市民階級が国王から主権を奪い、自由と民主主義を勝ち取ったという建前のもとで、実質的には社会が人々から自由を奪い制限し、そこに構築されている共同体の中に束縛し、法律に従わせて、国家や会社などの官僚機構が、そこに属する人々を管理しているわけか。そういうシステムが十九世紀の西欧で確立し、それが二百年かけて、その時々で様々に改良を加えられつつ、全世界に広まったということだろうか。そんな中で君が担っている役割とは何だろう。たぶん君自身の気づかぬところで何らかの役割を担っているのだろう。それに気づく必要はないのか。気づいても気づかなくても、そんなことはおかまいなしにこの世界は成り立っているのかもしれない。面倒なことだろうか。面倒であろうとなかろうと、とにかくそんなことを語り、何か考えているつもりになり、時折出るあくびの合間にふと我に返る。そこに何が見出されているわけでもなく、人と言葉と物が関係し合った世の中があり、その中で何か考えざるを得ないということか。どうもそこから話が進まないらしい。それが良いことなのか悪いことなのか判断がつかず、どちらでもかまわないような気がして、たぶん真相などがわからずじまいになり、そのまま眠ってしまい、翌朝に目が覚めて、また何を考えていたのか思い出そうとしているらしいが、結局何がどうなっているのでもないようで、やたらと無駄に言葉を記している。そういう認識の何が間違っているのか。知識としてはそういう考えでかまわないのだろう。気休めとしてはそうだ。気休めでなければ何なのか。正しい認識ではなく、たとえそれが間違っているとしてもかまわないのか。あるときは間違っていると思い、またあるときはそうでもないと思う。そんなふうにして思ったり思わなかったりして、それで何がどうしたとも思わず、頭の中でそんな思い込みが循環しているのかもしれない。

 君の役割とは何だろう。そんな問いが意識的に繰り返され、何を導き出そうとしているのか。それは答えではない。逡巡でしかなく、自らに問いかけながら、どこかを彷徨い歩きたいのか。無駄で無意味な行為だろうか。他に何を夢想したいのか。それは市民革命とは別の物語だろうか。子供たちが日夜勉学に励み、受験競争を勝ち抜き、偏差値の高い大学を好成績で卒業して、ある者は一流企業に入り、またある者は司法試験や上級公務員試験や希少価値の高い資格試験に受かり、そういう人たちが国家や会社などの官僚機構で上層部を占め、あるいは議会の議員や行政の長となり、人々を指導し管理する役目を担っている。そういうのが立身出世主義を形成しているのだろうか。でもそれが自由と民主主義神話の何を補完しているとも思えない。そういう成り行きの中からは、自由も民主主義も生まれてこないのはもちろんのこと、実質的に実力主義の中で生きているのに、なおもそこからきれいごとを語るのは欺瞞に思えてきさえするだろう。それでも建前は建前として大事にしていかなければならないのだろうか。たぶんそこに何かの可能性があり、努力した者は報われる、という誰もが納得せざるを得ない結果がもたらされているのであり、功利主義を正当化する根拠ともなっているわけで、そういう成り行きの中で生きる者の励みとなっているわけだ。それがないと矛盾に満ちた人間社会が成り立たなくなってしまうだろうか。それでも君はそれらの物語を信じられないのか。どうでもいいのかもしれず、物語の外で生き、考えたいのかもしれず、そんなあり得ない立場や態度や姿勢でいたいのかもしれない。やはりそれは冗談のたぐいとなるのか。何だかわからないが、考えがまとまる気配もなく、先の見通しも立たず、どんな言説も構成不可能なのかもしれない。それは特定の思想とも理論とも無関係なのかもしれない。自由主義と民主主義が互いに相容れない関係であることとも無関係か。自由主義を追求するには民主主義を制限しなければならず、民主主義を追求するには自由主義を制限しなければならないことと、君が考えていることとは無関係なのか。自由を追求するには平等を犠牲にしなければならず、人々の間での平等を保つには各人の自由を犠牲にしなければならず、そうしないと格差が広がり民主主義は崩壊する。そんな矛盾を解決したいと思っているわけでもないのだろうが、ではそれとは無関係に何を考えているのか。君がそこで理論でも思想でもないと感じるとき、要するに万人に当てはまるようなことなど考えられないということだろうか。社会からもたらされる様々な制限に抗うにしても従うにしても、それはその時々の状況に応じて、個々人で対処するにしても他人と連携するにしても、そこで絶えず新たなやり方を模索しながら、対処していくしかないということか。でもそれでは当たり前すぎて何のおもしろみもなく、何か物足りなさを感じてしまうようで、それだけでは愉快な気分とはなり難い。その辺で何かもう一工夫がほしいところか。どうも考えあぐねているらしい。


1月2日

 相変わらず粗雑でいい加減なことを記している。その辺が君の限界なのだろうが、あまり厳密になって小難しいことを述べようとしても、それは君の能力を超えて語ることになり、途中でわけがわからなくなって、意味不明に陥るのがオチかもしれず、分をわきまえたレベルで語るしかない。そうでなくてもわざとわけがわからないように語りながら、その結果としてもたらされる意味不明を楽しんでいるようにも感じられるのだが、果たしてそれを楽しんでいられるほど心にゆとりがあるのだろうか。でもそれ以外に何があるというのか。気休めの何かがあるわけか。とりあえず気休めの材料としては、世界の歴史とか世界情勢とかがあり、それについてもっともらしく語ってみせればいいのだろうが、気が利いた人なら、そこに何やら黒幕めいた人物や団体やらを登場させ、彼や彼らがこの世界を支配し操っているように語り、またそんな陰謀説が高じて、狼少年のように破滅的な未来を予言したりして、そういうのを煽って人々の興味をつなぎ止めようとするのだろうが、そこまで気を利かせる義理も必要も感じられず、何やら冷めた調子で淡々と表面的に語ればそれでかまわないような気がするのはなぜだろう。仮にそんな人為的な操作があったとしても、果たしてそんなことをやるだけの価値がこの世界にはあるのだろうか。この世界を支配したり操ったりする意味や意義を見出せないのであり、わざわざ大げさな陰謀をめぐらしてそんなことをしなくても、この世はなるようにしかならないのであって、そんな成り行きの中で、人々は各々が勝手気ままに生きていたいだけで、それをわざわざ思想統制して行動を制限して、それらの活動を全般的に管理する必要がどこにあるのか。どうしても人々は強迫観念として、映画の『マトリックス』のような世界の到来を心配してみたいのか。それともそんな強迫観念にとらわれること自体が、気晴らしであり、娯楽の一環なのか。たぶんそんなふうに語ることに生き甲斐を感じているのかもしれない。

 現代における世界帝国とは、アメリカ、ロシア、中国、インド、EUといったところだろうか。そういう状況が意味するものとは何だろう。表面的には何を意味するわけでもなく、多くの何かが寄り集まって、地域的に一大勢力を形成している。そこから何がわかるのだろうか。そんな認識をそこから得ているだけで、今のところはそれ以外は思いつかないようで、それに関して何を思ってみても仕方がないように感じられ、実際に何を思う必要性もないらしい。そこに至る歴史があり、それを利用して何らかの物語を構成することができるはずだ。ある特定の時期において、地域ごとに覇権をめぐって争いごとが起こっていた。今もそれは世界各地で起こっていて、様々なレベルや分野で繰り広げられていて、それは政治や経済やスポーツの分野にも及んでいるのだろう。例えばそれは学問の分野でも、何やら支配的な学説になるための覇権争いが起こっていたりするわけか。宇宙の生成をめぐるビッグバン理論とかがそうなのだろうか。しかし思いつくのはそんなことで、それらのいずれもが、部分的な域を出ない範囲で思いつくのであって、決してすべてを語れるわけではない。別にそれでかまわないのだろう。その時々の気まぐれで、あるいは偶然の巡り会わせにもよるのかもしれないが、とりあえず興味を惹いたことについて語ればいいだけで、他に何を語りようもなく、ただそんな具合に、一貫性を無視しながら語るだけで、それ以上でも以下でもなく、そういう限界の範囲内で語っているわけか。どうやらそこから散漫な印象を拭いきれず、集中力が切れているらしく、何事も通り一遍の説明で済ませて、それが済めばそこからさっさと離脱したいらしく、細かく詳しく説明するのが嫌になってしまったのかもしれず、要するに興味がないということだろうか。それを言ってしまったらおしまいか。それでも何だか暇つぶし以上の何かを感じているらしく、それを語ることに情熱を感じているようにも装いたくなってくるが、本当のところはどうなのだろうか。まだ言葉を記す気力が残っているとは思えないが、そこに何かがあるらしい。


1月1日

 どうやら昔読んで印象に残ったレヴィナスに対する批判とは、柄谷行人が『探求Ⅱ』でレヴィナスと比較しながらフロイトについて述べていた次の箇所だったのかもしれない。

《レヴィナスが語っている「ユダヤ教」も、実際は、「ユダヤ的なもの」のことである。「異教」もまた、けっして多神教のことを意味していない。それはただ、世界(=共同体)の内に閉じこめられた思想を意味する。つまり、それが偶像崇拝なのである。だが、レヴィナスがやはり「ユダヤ教」の文脈のなかで語っているのに対して、フロイトはそのことを拒んでいる。また、レヴィナスが結局イスラエル国家を支持したのに対して、フロイトはシオニズムをまったく認めなかった。国家とは“偶像”だからだ。この徹底性はすさまじい。》(『探求Ⅱ』第三部世界宗教をめぐって第二章ユダヤ的なもの225頁)

 何やらユーチューブで一年ぐらい前に武田鉄矢がやっていたラジオ番組を、たまたま聴いたのだが、そこで彼は台湾の作家が韓国や中国を痛烈に罵倒している本を読んだそうで、折しも韓国や中国で反日デモがさかんになったときから半年ぐらい経った状況で、武田は台湾の作家とともに、フランス構造主義の哲学者であるらしいレヴィナスの本も読んだらしく、物事を考えるときはカッコに入れて考えるとか語りながら、レヴィナスを通して韓国や中国を考えるそうで、哲学的な難しい文章を引用しながら、それを一般人でもわかりやすいように説明する、というよくあるパターンで、物事を見るときは、そこに舞台と演出があり、要するに中国や韓国の反日暴動をメディアを通して見るときは、そこにはメディアによる演出があることに注意しなければいけない、ということを言いたいみたいで、なるほどそういう話をラジオで聴く一般の人たちは、武田による講談師的な話の演出に引き込まれ、彼が語っている内容を真に受けてしまうだろうことは、よくわかるような気がして、それを聴きながら複雑な心境に至ってしまったわけで、そこでレヴィナスが昔何か批判されていたような文章を読んだ記憶がよみがえり、昔読んだ本の中から見当をつけて、それをパラパラめくってみて、これではないかと示してみたわけだが、レヴィナスが弟子のデリダから批判されているのは、有名な話のようで、ネットで検索すればよく出てくるのだが、デリダの思想というか、その主張というのが、翻訳の問題もあるのだろうが、一般人には難しすぎてよくわからないように思われ、さすがの武田鉄矢も、レヴィナスまでは読むが、デリダは読めないのだろうか。デリダのディコンストラクションは武田鉄矢レベルでは理解不能か。というか思想的に受け入れ難いのか。でも本人は読書家であることを自認しているようで、案外デリダも読んでいて、これから武田鉄矢がテレビなどで、もっともらしく例の講談口調で、デリダについて語っている光景を思い浮かべると、何だかギャグみたいで愉快な気分となってくる。金八先生気は確かですか!とMCのお笑い芸人に突っ込まれそうだ。だが仮に彼がデリダの哲学を語ったところで、武田自身の思考の延長上でしか語れず、一般人に受け入れやすく加工された似非デリダとして語られるだけか。

 でもまあそうなったところで武田鉄矢を批判するつもりは毛頭なく、まさか彼に韓国や中国や台湾などという固有名をカッコに入れ、コスモポリタンとして人々について語ってほしい、などと無い物ねだりをするわけにもいかないだろうし、結局は彼も「世界(=共同体)の内に閉じこめられた」一般人と同じレベルの人であり、無意識のうちに国家という偶像を崇拝しているのだろうし、それだからこそ、人気タレントとして一般の人々に受け入れられているわけであり、もし彼が本物のフロイトみたいになってしまったら、あるいはそれとは別の意味で本物のデリダみたいになってしまったら、何か新興宗教にいかれて頭がおかしくなったとか思われ、日本のメディアから完全に排除されてしまうのではないか。


2013年

12月31日

 偶然が偶然を呼び込み、語り方がまともでなくなり、何に驚いているのか定かでない。まともではないから語るのにも限界がありそうだ。何がどちらなのだろうか。相変わらずつまらないことを考えている。つまはじきだとすれば、そこから弾き出されて何を思うのか。そう思えばいいことでしかない。腑に落ちなければ、さらに語ってみればいい。出来事はそこで起こり続け、君をさらに戸惑わせるだけだ。関係ないと思えばいいのだろうか。たぶんそう思っているはずだ。理由もなくそう思い、何が関係ないのでもないのに、それらの言葉の連なりに戸惑う。それが理由ではないのか。記された言葉が君の心を蝕み、果てしない彷徨へ導くだろうか。そうなることを望んでいるわけか。何も語れなくなってしまうかもしれない。つまらないことにこだわりすぎているのだろう。でもこだわらなければ何も語れない。ジレンマなのだろうか。まともでなくてもかまわないのか。かまわなければ抽象的な物言いに終始してしまう。その気もないのにそのつもりもなく、どちらでもなければ、何を語ってもかまわないような気分となり、だらだらと意味のないことを語ってしまい、あとで悔やんでも仕方のない惨状を呈するが、いったい何を利用して語らなければならないのか。たぶんそれが勘違いなのだろう。それ以前に眠たいのか。人が暮らしているのはこの世界でしかない。それがわかりきったこととは思えないようで、絶えずそれ以外に何かがあり、その隠された何かを探り当てないと、物事の真実を解き明かすことはできないと思う。そしてそんなありふれた認識を共有しながら、今日も君はネットで検索しながら、隠された何かを探り当てようとしているらしく、要するに宝探しゲームの最中なのだろうか。そんなことを思うこと自体もありふれた認識には違いない。確か以前の君はそこから遠ざかりたかったのではなかったか。なぜ引き戻されてしまったのか。過去の亡霊が君の意識をその場から離そうとせず、いつも何かそこにあるように思わせ、そこから遠ざかりたい気持ちを思いとどまらせ、もう少し探求を続けてみようとする気にさせるのだろうか。しかし過去の亡霊とは何か。君自身が過去の亡霊なのか。君が君の姿を映す鏡を覗き込みながら、それを亡霊だと思い込み、君と君の影を分割し、影に亡霊の意識が宿っているように思い込み、傍目にはモノローグにしか見えないのに、自身は亡霊と対話しているつもりでいるのだろうか。実際にそれは退屈な対話だ。いつも同じ問答を繰り返し、一通りそれが一巡すると、その先にはもう何も言葉が残っていない。あとは黙って互いに見つめ合い、そんなにらめっこに飽きたら、さっさとその場から退散して、そこでようやく空疎な探求が終了して、君も亡霊から解放され、言葉が記された画面を閉じ、他のことをやる時間が到来するわけか。でも他に何ができるわけでもなく、どうせまた時が巡ってくれば、自然と画面の前に座っていて、何やら言葉を記しながら自己対話を続けていて、ネットで検索の最中となり、亡霊に突き動かされながら、何か語らされているのかもしれず、それをやらなければ気が済まなくなるわけだ。

 それは偶然でも何でもなく、君がそこにつなぎ止められている必然性を示していて、誰に頼まれたわけでもないのに語りだし、何やら自発的に語っていると思い込み、それ以上語る可能性を閉ざしてしまい、気がつけば自己言及的なモノローグに歯止めがかからなくなり、他には何も語れなくなって、そこで語ることに挫折してしまうのだろうか。いったい何を語っているつもりなのか。他があり得ないとすれば、どうすればいいのか。そういう流れを止めようがなく、どうすることもできないみたいで、やはりそれを続けるしかないようだ。でもまだ何かを隠しているのではないか。君にとっては都合の悪いことは語らず、どうでもいいことならいくらでも語れるというわけか。それが空疎な無内容ならかまわないわけだ。君は君にとっての真実を語ることで傷つきたくないわけだ。ではそういう方向で語るとすれば、他に何を語ることができるだろうか。できなければならないということではなく、たぶんそこには何かが抜けているのだろう。例えば他者が抜けている。他者とは何か。君以外の誰が他者なのだろうか。ならば今こそ他者への友愛のために語らなければならないのだろうか。私の友だちはどうなってしまったのか。それは遠い昔のことかもしれず、誰かがどこかでそんな問いを発している。君はそんなことが記された文章を読み、その誰かの友人に捧げられた文章から何か啓発めいた感情を受け取り、それについて考えようとする。嘘だろう。すぐにそれを否定しにかかるのは君の悪い癖かもしれないが、もうしばらく立ち止まって、それらの断片を読んでみよう。レヴィナスは何を批判されていたのか。その批判されている内容を忘れてしまったようだ。ネット上で探ろうとしても、どうしても哲学的な抽象性の域を出ない文章にしか遭遇できず、昔それらの書物を読んで理解したつもりでいた、具体性をともなった心に響く批判には巡り会えず、何やらもどかしさが増してくる。そういうわけでまたそれらの書物を一から読み直して、そこでレヴィナスが何をどのように批判されていたのかを、探らなければならなくなってしまうのか。骨の折れる作業になってしまうだろうか。今さらレヴィナスも何もないだろう、とは思うが、やめておいた方がいいのだろうとも思うが、しかし友愛とは何なのか。それはフランス革命由来の何かだろうか。たぶんその何かにとどめておくべきものであり、それを深く掘り下げる必要などないのかもしれず、そんなことをやっても骨折り損のくたびれ儲けとなるのは確実な感じで、何か頭の中で警告のサイレンが鳴り響いているようにも感じられるが、なぜそんなことにこだわらなければならないのか、その辺も理解不能なままにしておいた方が身のためか。何やら悩ましくも頭の中にひっかかっていて、おかしな心境のまま、いったん言葉を記すのをやめなければならないようだ。まったくこれらの中途半端は何なのか。どうやらまだ時間が足りないらしく、無為に過ごしている他の時間を、もう少し言葉を記す作業に割り当てなければならない必要性を感じているようで、そんな成り行きに身をまかせるべきかどうか迷っているのかもしれない。


12月30日

 システムは変えようとして変わるものではないらしい。それでも変えられると信じて変えようとしなければならず、変えようとする人たちが変えようとして、変えることに失敗しなければ、結果としては変わらないのではないか。そのようにして変えようとする試みが常に失敗し続けて、誰もがそれらの失敗に落胆したとき、彼らはシステムが変わっていることに気づかないわけだ。システムは思いもよらぬところで変わっていたりする。変えることに失敗しなければ変わらないというのも厄介なところだ。変革のための理論が次々に様々に編み出され、それらが実行に移され、それに失敗して落胆し、変革の期待が裏切られ、世の中に失望感が広がった状況の中で、何かが確実に変わっているのであり、その時は気づかないかもしれないが、時が経てばそれを実感できるようになるのかもしれない。だから民主党だろうと維新の会だろうと、変革に失敗した連中にはどんどん罵声を浴びせさせてやればいいのだろうか。そういう調子に乗って罵声を浴びせている人たちには、常にざまあみろと思わせておかないと、なかなか隙が生じないのであって、そういう人たちを慢心させて隙を作らなければ、世の中はなかなか変わらないということか。それも少し違うだろうか。たぶんそれも違うのであり、そんなふうには語り得ない成り行きを経ないことには、なかなかうまい具合には変わらないのかもしれず、そもそも世の中はうまい具合には変わらないような変わり方しかしないのかもしれない。ともかく戦略も戦術も固定していてはだめで、その場の状況に合わせて変えていかなければならず、しかもそれに失敗して挫折しなければならないということだ。要するにその手の変革者は常に敗れ去らなければならず、彼らは彼ら自身が目指した変革の犠牲者とならなければならない。そんな過酷な運命を受け入れなければ、変革など実現しようがなく、そんなわけで世の中を変えようなどと思ってはいけないのであり、しかも変えようとしなければ変わらないのであり、変えられることを信じて変えようとして、それに失敗して世間を失望させ、罵声を浴びせられなければ変わらないということだ。そしてその結果として生じた変化は、変えようとした者にとっても罵声を浴びせた者にとっても、決して満足のいく変化ではないということだ。

 常に何かから逸脱するのは必然的な成り行きなのか。たとえそれが宿命だとしても、理論を構築しようとする誘惑からは逃れられず、何やら試行錯誤の末に完璧な理論を導き出し、その通りにやればすべてがうまくいくような理論の完成を夢見て、理論家は今日も飽くなき試行錯誤を繰り返し、究極の理論を導き出すためにがんばっているわけか。そんな理論家の物語を夢想しながら、そんなことを語り、それがどんなことでもないとしても、たぶんそんな夢想は果てしなく続き、たとえ夢想家が息絶えても、別の夢想家がそれを引き継ぎ、引き継ぐとともに別の夢想も混ぜ合わせ、それを含めて新たな夢想として物語り、それを他の誰かに伝え、そんな伝承がこれからも果てしなく続いてゆけばいいのだろうか。君にとっては面倒なことだ。物語はいつまで経っても終わらず、執拗に語り継がれ、世の人々に影響を及ぼし、新たにそんな魅力に取り憑かれた多数の夢想家を生み出し、彼らが人々を夢の世界へと誘い、人々の夢の中で、誰もが望む理想の世界が構築されようとしているのだろうか。実際に睡眠時間を利用して、夢の世界で生きる試みも行われているようで、そういう人たちは現世での煩わしさから逃れるために、夢の世界こそが真の世界で、現実の世界は仮の世界であるような思い込みに取り憑かれ、そんな思想を世界に広めるための団体まで設立されているらしく、そこの教祖様みたいなのが盛んに勧誘活動をしているみたいだ。君たちもそんな人々の仲間入りがしたいのだろうか。誰が何を夢想してもかまわず、夢想しているだけなら人畜無害だろうし、昼間は従順な労働者を装い、黙々と働き、仕事もそつなくこなし、うざい上司にも媚びへつらい、人としての正義や倫理が試される場面でも、過不足なく世間体が許される範囲内で、マナーやモラルを優先させ、羊の群れに紛れ込むようにして生き、多数派におもねり、決して自らが突出しようとは思わず、そのようにしてたまった憂さを晴らすためにも、睡眠中に夢の中で好き勝手なことができるようになれればいいわけか。何やら心に念じることで、幽体離脱体験ができるようになれば、夢の中で夢を見ていることを自覚できるようになり、夢の内容も意識して制御できるようにもなるらしい。世に言う臨死体験もそんなことのたぐいのようで、死の危機に直面することで、夢を制御できる力が解放され、死につつある意識にとって、もっともふさわしい夢を見させてくれるらしいが、本当のところはどうなのだろうか。現実逃避のもっとも有効なやり方が、夢の世界で生きることか。あまりその手の神秘主義にのめり込むのも面倒に思われ、とりあえずは現実の世界で娯楽にうつつの抜かす程度にとどめておきたいところかもしれないが、まあ人それぞれで、中には現実の世界を変えようとして、そんな思いの犠牲者として、自らを仕立て上げようとしている人もいるのではないか。


12月29日

 人は死んでしまったら黙るしかない。霊媒師が死者の名を借りて語りだすかもしれないが、それは彼らが勝手に語っていることか。どこかに生前の言葉が残っているかもしれない。生前の行為も含めて、生きている者たちが、不当に貶められた死者の名誉を回復したいのだろう。でも今さら何を主張したいのか。確定してしまった結果を覆したいのか。それを自虐史観だとかいって非難したいわけか。そういう言い分があるならあるで、主張していればいいことでしかない。きっといつの日か、その主張が報われるときがやってくるのかもしれず、その機会がやってくるまでは、そんな過去との絆を大切にしたいのだろう。人はそうやっていつまでも虚しいことをやり続け、やっていることに生き甲斐を感じているのではないか。死者を英霊として祀っているわけだから、まさに彼らは死神と共に生きているわけか。共に生きているわけではなく、死神は死んでいて、生きている者たちは、死神の名誉を回復させたいのではないか。死神ではなく英霊と呼ばせたいのだろう。そして欧米でも似たような風習があるなら、自分たちの行為も認めてほしいのだろう。でも欧米の風習に倣うなら、8月15日に千鳥ケ淵戦没者墓苑にでも行って、簡単に祈ってさっさと済ませればいいことでしかないのだろうが、彼らにとってそれはできない相談なのかもしれず、何やら英霊を奉っている神社に出向いて、これ見よがしに大げさな儀式めいたことをして、自分たちのやっている行為を、国の内外に向けてどうだといわんばかりに誇示してみせなければならず、そのへんのこだわりが宗教の宗教たる所以なのだろうが、そういうことをやっている人たちを、Yahoo意識調査で8割近くが「妥当」と回答しているらしく、国民の大半が支持して支援を惜しまないのだとすれば、日本はいつまで経っても土人の風習から抜けきれていない宗教国ということになるだろうか。死神と共に生きている人たちは、そのへんも往生際が悪いのかもしれず、何を言っても馬耳東風なのだろうし、国家が続く限りはそういう人たちも存在し続けるのかもしれない。まあ欧米もバチカン市国に行けば、靖国神社など見劣りするほどの規模で、盛大で大げさな宗教行事をやっているわけだから、英霊が何やらかんやらなどというのも、せこくてみみっちいことでしかなく、どうということはないのか。

 それでも人は絶えず生まれては死に、世の中もだんだん変わっていくのだろうか。今ここで顕在化している東アジアのアホくさい対立劇も、国家による最後の悪あがきで、後から思えばそんな時代もあったということになるのだろうか。後から思えるほど先まで生きていないか。今でさえこだわらなくてもいいことにこだわり、おせっかいなことを述べているだけかもしれず、わざわざそんな国家宗教の亡霊どもにおつきあいして言葉を記し、韓国や中国の人たちのように、挑発に乗って律儀に反発するほどお人好しにならなくてもいいような気もするが、その辺はどうなのだろうか。国家間で対立を煽っているのは、沖縄の米軍基地を保つための口実か。それもそれでやりたければやればいいだけのことで、何が自業自得のなのか知らないが、回り回ってアメリカが自業自得となるような気もするのだが、現時点では思うつぼだと思っている側の自業自得なのかもしれず、あまりそういうことに首を突っ込んで、それふうの批判はしない方がいいようにも思え、黙っていた方が無難に思われてしまうのだが、その辺もどうなのだろうか。結局何が得をするとも思えず、現状では不必要な軍事力をその域において維持し続けることで、不必要な経費がかかり、国家が摩耗の度を深めているのだろうか。沖縄は日本から独立して、台湾と同盟でも組めばうまくいくような気がするが、もちろん現状では中国で内戦でも起こって分裂したりしない限りはあり得ないことで、日本も北海道と沖縄が分離独立したりして、東アジアで多数の国家が一挙に出現したらおもしろそうだが、そうなればヨーロッパみたいになってしまうだろうか。そんなありもしない冗談を述べて何を狙っているのか。狙いなど何もなく、ただくだらぬ幻想を抱いているだけか。しかしその幻想の中身がわからない。たぶんあり得ないことを述べて、誰かの気を逸らそうとしているのだろう。でも気を逸らしたところでどうなるものでもない。国家がいくらあっても、何がもたらされるわけでもなく、議会制度や行政機構の在り方が問題なのかもしれず、資本主義的な制度の在り方もどうにかしなければならないか。でもそれは君の考えていることではない。なぜか知らないが、思考がそこから離れていて、制度的な改革を目指すべきではなく、現状の範囲内で何とかしようと思っているのか。それどころか何とかしようとも思っていないのかもしれず、現状のままでもかまわないと思っているのではないか。どうも社会の理想とする状態を積極的には示せないようだ。他の人たちが示そうとしている状態に、リアリティを感じられないのかもしれず、いつも何だか違うような気がして、そうではないように思われてしまい、ではどのような状態になればいいのかといえば、それが積極的には示せないようだ。ともかく人は生まれては死に、世の中も徐々に変わっていくような気がして、それで何がどうなるとも思えないが、君自身もどうなるとも思えず、そんな現状から抜け出られないことを自覚しているわけだ。


12月28日

 どうもくだらぬ気分で軽薄にはしゃいでいるわけにもいかないようだ。そこで誰の陰謀が働いているわけでもなく、すべては偶然の巡り合わせと思っていればいいのかもしれず、何かが起こった後からでなら、その場の都合に合わせて何とでも説明できるのかもしれないが、そうやって偶然の出来事をありきたりの物語に回収しつつ、そこで生じた驚きを受け止め可能な水準まで減じて、その上で何を語れるのだろうか。それとも今さら何を説明したところで虚しいだけか。利いた風な内容でなら説明できるかもしれない。きっと世間はそれを求めているのだろう。君はひねくれているから、どうしてもそれができないらしく、それに逆らっているつもりで、さかんにふざけたことを語ろうとしてしまい、世間から白い目で見られることを望んでいるようだが、今のところは無視されているだけか。そんな言説をどこかで読み、他人事とは思えなくなってしまうのか。誰もがそんな幻想を抱きながら、すべてを批判せずにはいられなくなり、現状を肯定することからもたらされたくだらぬ価値観をかなぐり捨てて、何もかも批判しまくり状態になり、それがこうじてついには正気を失い、ニーチェのようになってしまったら、その死後に崇拝者が多数現れ、まるで宗教の教祖のように崇め奉られるようになるだろうか。たぶんニーチェはニーチェで、後にも先にもニーチェただ一人なのであって、誰もニーチェになろうとしてなれるものでもない。だがそんなニーチェもあと数千年も経てば忘れ去られてしまうのだろうし、今となってはゾロアスター教の創始者のことなど誰も知らないのと同じことか。しかしツァラトストラは何を語っていたのか。ニーチェ主義者なら彼について何か知っているのだろうか。『ツァラトストラはかく語りき』を読めばそれがわかるというのか。

 ひょうたんから駒が出てきたりして、君はそれを意識に尋ねるのではなく、身体に尋ねなければならない。誤解がともなうのを承知でそんな冗談を口走り、実際にその通りになってしまうのだとすれば、そこで生じている人の精神とは、身体から生じている架空の現象なのだろうか。わかっているくせにわざととぼけ、誰かの意識をどこかへ引き込みたいのだろうが、そんな意図が見え透いているようで、誰もひっかからず、ひっかけようとする意図も、引っ込めざるを得ないような成り行きの中で、何かを見出そうとしているのかもしれず、それは何なのだろうか。今から探り出そうとしてももう遅い。すでにそこを通り過ぎているらしく、わかり得ないことをわかろうとしているだけで、そんな姿勢をとりながら、そこから何が導き出されるわけでもないことを隠し、いずれ何かがわかるような見通しを語り、わかるときが来るまではモラトリアムでいられるようにしたいのであり、できれば永遠に刑の執行を猶予してもらいたいのかもしれないが、いったいどこまで我慢と忍耐を引き出したいのか。君はそんなくだらぬこだわりの中で苦しみ悶えたいのか。やはり冗談でしかない。中途半端なところでそれらの我慢比べからは降りさせてもらうらしい。何もかもが身勝手な思い込みから生じていることで、誰がどんな過去を引きずっているとしても、そんな過去にとらわれていることが、偏狭なものの見方や考え方をもたらしているのであって、今はそういう思考を突破する方法を模索している段階なのではないか。それも冗談のたぐいなのかもしれないが、そんな言葉の錯綜状態に寄りかかっているだけで、本当のところは何もわかっていないのではないか。たぶんその通りだろう。そうなるべくしてなっているのであり、わかっていないからはっきりしたことは何も述べられないわけで、難しいことを述べているように装うのが精一杯で、実際には何も語れなくなっている。

 君はそこから出発して、また元の地点に戻ってしまう。語り得ないことを語ろうとして、そこで挫折してしまうわけだ。そのへんで限界に達しているのだろうが、それはたわいない低水準の限界で、その限界を突破しなければ、まともなことは何も語れないだろう。それがわかっただけでも、まだマシな方だろうか。でもそれで何がわかったというのか。また何かを蒸し返して、そこから言葉を先へつなげようとしているわけか。果たしてつなげられるだろうか。つなげようとして無理に語れば自己言及となり、語ろうとしていることを語ってしまうわけで、限界を突破するどころか、限界の手前で行きつ戻りつしながら、そんな行きつ戻りつしている現状を果てしなく語ってしまうわけだ。そうなったら何を語ろうとしても無駄で、それ以外は何も語れなくなって、自己嫌悪を催し、それが語るのをあきらめる理由となって、そこでおしまいだ。そうなればいいというのか。君はそこで君自身から突き放されてしまうらしい。呆れてものもいえない。そう思ってもらって結構のようだ。慰霊だとか鎮霊だとかいう言葉を持ち出して、そんな自らの行為を正当化すること自体が、要するにそれは洋の東西を問わず宗教行為以外の何ものでもなく、たとえ欧米人がそんな発言をしたとしても、誰も違和感を持たないのではないか。結局為政者が自らを正当化するときには、そういう言葉を持ち出して、世間の感情に訴えかけるものだ。それは洋の東西を問わずやっていることはどこでも同じで、もはや口をきけない死者を利用して、自らの有利な状況を作り出したいのであって、そういうふうにして世間の支持を取り付け、引き続きやりたいことを続けたいわけで、そんな行為にだまされてしまう人たちも、その程度のメンタリティといってしまえば、そういうことでしかないのだろうが、メディアを総動員してそういう雰囲気を作り上げているのだろうから、それはそれでだまされて当然なのだろうか。靖国神社もそういった世論操作の道具でしかない。


12月27日

 何だか小泉元首相の時もそうだったのかもしれないが、半島系の総理大臣というのは、日本国への忠誠の証しとして、靖国神社へ参拝しなければいけない掟だとかあるのだろうか。要するに靖国神社とは、在日系にとってはキリシタンの踏み絵みたいなものか。この時期に唐突に参拝しちゃって、不自然だ何だのといわれているみたいだが、安倍ちゃんも自らがチキンでないことを見せつけたみたいだけど、保守層の支持を取り付けるのも大変そうだ。小沢氏などもその気になれば自民党時代に2〜3年ぐらい総理大臣やれたのに、そういう掟があるから嫌だったのか。まああまり調子に乗ってそんな憶測を膨らますのも気が退けるが、たかが神社に参拝するのしないのでもめること自体が異常といえば異常で、未だ政教分離ができていない日本を象徴する出来事には違いないが、かたやイスラエルはユダヤ教一辺倒だし、イランをはじめとしてその周りにはイスラム教一辺倒の国も多いし、アメリカの大統領は就任式で聖書をおいて宣誓だったっけ。プーチン大統領はロシア正教会を政治利用したいみたいか。まさか中国も道教辺りを政治利用していたら愉快だが、毛沢東思想とかが一種の宗教的色彩を帯びているといえば、そんな感じもしないでもない。神様、仏様、稲尾様じゃないけど、孔子様、関羽様、毛沢東様といった具合か。

 宗教はその国の文化だろうか。神秘主義に救いを求めたがる人もいるわけか。資本主義の世界的な普及が人々に疎外感や孤独感をもたらし、心の支えとして宗教が蔓延ったりするわけか。何やら利いた風なことを述べて、肝心な点をうやむやにしたいらしいが、靖国神社には戦争犯罪者のA級戦犯が祀られているからだめだという理由も、A級戦犯だった岸信介の孫の安倍ちゃんにしてみれば、何やら因縁めいていて興味深く、韓国もそれに対抗して、初代韓国統監の伊藤博文を暗殺した安重根を、民族の英雄として祀り上げていたりして、双方ともに過去の因縁を断ち切れず、そんなどうでもいいことにとらわれているうちに、物事の本質からどんどん遠ざかっていってしまうのかもしれず、それはそれで愉快なことかもしれないが、メディアにしてみれば話題を提供してくれてありがとうとなるわけか。ありがとうも何もあったものではないのかもしれないが、とりあえず君には関係のないことかもしれず、他の何に関係があるわけでもないらしく、ただ黙って高みの見物を決め込んでいるのだろうか。だがいつまでも見物してはいられないかもしれず、そのうち深刻な事態となって、悪あがきを承知で右往左往し始めるのではないか。その時はすでに手遅れだ。

 どうもこれといって決定的となる要素も見当たらない。そういう成り行きなのだろうし、それ以上の話の展開を求める気も起こらない。みんなそれらしい物語を構築することに夢中なのかもしれず、そんな幻想の物語に埋没しながら、現実を見失い、困った顔をしながら、さらなるドツボにはまってしまうのか。できればそうならないようにしたいところだが、たぶんそういう成り行きなのだろうし、黙っていてもそうなるしかないのかもしれず、誰もが運命に逆らえず、そういう時はそうなってしまうのだろうが、何が有利に働くとも不利に働くとも限らず、状況を見極めながら、うまく立ち回って事なきを得たいところだが、果たしてこの先にどんな運命が待ち受けているのか。君が何を期待しているのか知るよしもないところだが、少なくとも何かを感じ取っていて、その結果がそれらの記述に反映しているのだろうし、それに酔っているわけでもないのだろうが、それほど勘違いでもないと思っているらしく、正鵠を射ているとは思えないが、何かに誘われてそんなことを述べているのは間違いなく、それが何なのか、これからわかるといいのだが、いつまでもわからないままだと、もしかしたら気づかないうちにわかる機会を逃し、その場を通り過ぎてしまったのかもしれないと不安に感じてしまうわけか。でも焦ることはない。そのうち何とかなると思っていれば、何ともならなくてもあきらめがつくだろうか。

 たぶん何ともならなくても、何とかなったことにするような気配も感じられ、要するにどのような結果がもたらされても、それを肯定的に捉えればよく、安倍ちゃんの頭の中で、何かのリミットが外れていることは間違いなく、彼を支持している国民の皆さんや御用マスコミの皆さんを驚かせるためにも、これからも思いがけない行動に出ることを期待しつつ、このままどこか得体の知れぬ地帯へと突っ走っていってもらいたいが、果たして彼に歯止めをかけられる人物がこの先に登場するのかどうか、まだこの程度で歯止めをかけられてはもったいないような気がして、どうせやるならいくところまでいってもらって、彼を支持した人たちを恐怖のどん底にたたき落とすぐらいの勢いで、支離滅裂で意味不明な行動に出てほしいが、肝心なところで世間の一般常識が邪魔をしたりして、まさかそこまでいけるとは思えないか。いったいどこまでいけるというのだろう。それに支離滅裂で意味不明な行動とは具体的に何だろうか。たぶんその時には想像を絶する行動となるだろうから、今ところはよくわからないが、とりあえず一度心の病で総理大臣をやめちゃったわけだから、もはや怖いもの知らずのはずで、精神的にもタフになり、かなり開き直っているだろうし、やる時はやる覚悟はできているような気がして、あとはその覚悟でやってもらうだけで、今もそれをやっている最中なのかもしれず、この調子でがんがんやってほしいとなるか。どうやら君は愉快で間抜けな結果がもたらされるのを期待しているようだが、果たしてどうなってしまうのだろうか。


12月26日

 当たり前といえば当たり前のことでしかないが、普通に考えれば、普通に思うようなことを語っていれば、それでかまわないわけか。別に猪瀬直樹が反省したところで、どうなるものでもないとは思うが、せっかくつかんだ都知事の座を、思いもよらぬところからケチがついて、追われてしまったのだから、当人としては反省せざるを得ないのだろうが、仮にもっとうまく立ち回れて、借りた五千万円も疑惑を持たれないようにうまく処理できたところで、そしてこれから何期にも渡って都知事の椅子に居座り続けたところで、当人はもとより誰も気づかないかもしれないが、そんなことを述べている君も、本当のところはわからないのかもしれないが、前の都知事の石原氏や、これから立候補する噂の舛添氏や東国原氏などもそうだが、何というか、要するにそれらの人たちは、大衆社会によって作り出されたキッチュな人物である以上でも以下でもなく、みんなそれなりに個性を持ち、その手の人たちが期待している範囲内で、それなりの主張を戦わせていて、そういう役割を担った人物が都知事になれば、それなりにメディアも対応して、それなりのことを伝え、人々もそれなりに受け止めるのだろうが、それはシュワルツェネッガーがカリフォルニア州知事になった時と、大して違わないことかもしれないが、知事という立場自体がそういうことでしかなく、それは下手をすると一国の首相や大統領ですらも、要するにそういう立場でしかないのかもしれないが、そういう人たちが行政の長になり、それふうのことを主張し、それふうのことをやり、人それぞれでやっていることに差異が生じ、その差異を巡ってメディア上で誰かが良い悪いを論じ、賞賛したり非難したりして、悪かったり非難されている人は、辞任したり選挙で敗れたりして、そうやって世の中は移り変わり、そんなことを思いながら君も年老いていってしまうのだろうが、しかしこれらの成り行きはいったい何なのだろうか。なぜ何かの冗談のように思われてしまうのか。無い物ねだりが招いたあり得ない妄想がそう思わせるのか。別にそれらの人たちに何を期待しているのでもなく、そういう世の中を知れば知るほど期待できなくなっていってしまうのかもしれないが、もしかして知事だろうと首相だろうと大統領だろうと、誰も何も動かせないような世界になっているのではないか。もちろん冗談でそんなことを思っているのだろう。誰も何も動かせないわけではなく、動かせる立場の誰かが動かせる範囲内で動かしているわけで、その立場と範囲が限られているということであり、議会で多数派を占める会派の了承を得られる人物が、官僚が許容できる範囲内で動かせるということだ。それが議会制民主主義という制度なわけか。

 やはりそれは当たり前といえば当たり前のことなのだろう。それ以上の何が導き出されるわけでもない結論に、何を付け加える気も起こらず、それで済んでしまえば、また別のことを考えるしかないのだろうが、別に何があるわけでもなく、何もなければ何もないまま、議会や行政に何か期待すること自体がおかしいのだろうし、君は君でそれとは違う方面に期待しているのかもしれず、自らもそれなりに何かやっているつもりなのだろうが、やはりそれとこれとは無関係で、期待するようなことでもないわけか。いったいこの世界に何を期待しているのだろうか。君を楽しませてくれる何かを世界がもたらしてくれるというのか。それとも世界には何も期待せず、世界の一部でしかない自らが何かをもたらそうとしているわけか。それが思い上がりなのか。何もなければ抽象的な思考を働かせて、ありふれた幻想を抱き、あるいは夢の世界で虚構を思い描き、そんな言葉のごまかしによって、空疎な言説を込み入らせ、それがいつもの悪い癖なのだろうが、何か語っているように装うわけか。人は政治に無い物ねだりをしては、それが受け入れられないと、現状を肯定するしかなく、無い物ねだりをしていた頃の自分と、今も無い物ねだりをしている人たちを嘲笑して、そういう自らの変節を正当化するわけで、その手の現実主義者たちは、少数派となってなお未だに夢見る人でいられる人たちを無視できず、我慢がならずに、事ある度ごとに、そんな人たちに向かってさかんに罵倒を繰り返してきたわけだが、やはりそれでも夢見る人たちはそのままでいられるようで、いつまでも実現不可能な夢を見ている。まさか君もその中の一人なのだろうか。そういう態度でいられると腹が立って仕方ないわけか。いつまでもふざけたことを述べていないで、世の中の多数派に同調すべきか。そして現実的な政策によって現実的に問題を処理している人たちを支持し、それで世の中が動いていることを実感すべきか。たぶんそれが大人の認識であり、大人の対応なのだろう。では夢見る人たちは、そんな大人になることを拒否しているわけか。大人になってからも夢を見ているわけだから、それでも一応は大人には違いなく、大人になることと夢見る人であることとは無関係なのかもしれず、それと現実主義者になることも関係ないのかもしれない。たぶんそれらはただの思い込みであり、夢見る人たちが未だに無い物ねだりをしているわけでもなく、現実主義者たちには、誰かがどこかで無い物ねだりをしているように見えてしまうのかもしれないが、彼らが日頃感じている現実こそが、現実主義者の無い物ねだりによって生じた現実なのかもしれず、ないものがあるように感じられてしまうから、それが現実であるかのように思い込み、自らが罵倒しているつもりのとうの対象が、鏡に映った自分自身であることに気づかず、要するに彼らは彼ら自身が作り上げた幻影と日々戦っているのであり、それは死ぬまで続く苦悶のようなものなのだろう。


12月25日

 しかし在日韓国朝鮮人の排除を掲げてがんばっている人たちは、あまりやり過ぎると、安倍ちゃんの身辺にも火の粉が飛んでしまうことに気づいているのだろうか。安倍ちゃんと朝鮮半島系の人たちとの関わりで有名なところでは、安倍ちゃんの母方の祖父で岸信介元首相(実弟は佐藤栄作元首相)の岸一族の祖先が、半島からの渡来人で帰化した人たちらしく、そのへんの事情はウィキペディアに、

《天文24年(1555年)毛利元就が陶晴賢と厳島沖で戦って大勝を収めた際、寝返って毛利方についた船の調達人が“ガン”と称する帰化人であったという。周防長門を手中におさめた毛利は、その功績によって“ガン”を田布施周辺の代官に召し立てた。》

と載っているし、父親の安倍晋太郎元外相は、韓国の合同結婚式で有名な統一教会と交流疑惑とかあるらしく、これもウィキペディアに、

《義父・岸信介は「国際勝共連合」・「統一教会」(世界基督教統一神霊協会)と友好的な協力関係を持っていたが、晋太郎も同じく、関連が深いとの見方がたびたび取り沙汰されていた。「自民党内部の統一教会シンパとしてさかんに議員に統一教会員を秘書として紹介し、セミナーへの勧誘をしていたと言われており、1999年には『週刊現代』が統一教会と国会議員の繋がりを暴いた記事で「安倍晋太郎氏がセミナー等への勧誘を行っていた」と報じた。》

と載っている。

 ヘイトスピーチだか何だか知らないが、結局やっていることが国民国家=一民族一国家幻想由来の西洋かぶれというか、そのへんは韓国人も日本の民族主義者以上に西洋かぶれで、昔は高句麗・新羅・百済と三国に分かれていたのに、その後ハングル文字で統一されたこともあるが、韓民族・朝鮮民族で固まっていて、現状が南北に分断されていることを異常事態とでも思っているのだろうか。まあそれは過去の日本の植民地支配で、民族感情を傷付けられることで、よりいっそう民族意識が強まった結果だろうし、そのへんはかつて西欧の列強諸国に植民地にされた地域も似たり寄ったりかも知れず、御愁傷様としか言いようがないが、柄谷行人の『世界史の構造』などを読めば理解できると思うが、同一の言語・民族として国家を統一してしまうと、それとは違う言語や宗教や慣習などを持っている他の民族を抑圧せざるを得ないのであって、旧ユーゴスラビアやパレスチナとイスラエルなどのように、昔は異なる民族同士が同じ地域で平和に共存していた時期もあったのに、西洋由来の国民国家が成立すると、とたんに民族対立が起こり、内戦状態となってしまうわけで、偏狭な民族主義で凝り固まって、自分たちの利益だけ優先させて、他の連中を排除しにかかるわけで、始末に負えないといえばそういうことになるだろうし、本当はオリンピックなどのスポーツイベントで国威発揚したりするのは、百害あって一利無しだと思うが、そういう成り行きなのだから仕方ないか。

 ともかく日本は世界史的に見れば恵まれた地域のようで、西洋諸国による世界征服以前は、朝鮮半島が防波堤の役割をしていたので、中華帝国による直接の支配が及ばず、地理的に絶妙な位置にあったわけで、その一方で朝鮮半島の王朝は常に中国の属国扱いされて、肩身の狭い思いをして、気の毒といえばそうなのかもしれず、そして豊臣秀吉が国内統一を成し遂げた勢いで、調子に乗って明王朝まで攻め込もうとした時には、逆に日本からの攻撃の防波堤とされてしまい、国内を荒らされてさらに気の毒なことになってしまい、そしてさらにまた日本による植民地支配を経て、第二次世界大戦後には、米ソによる冷戦対立のあおりを食って南北に分断されて、その後の朝鮮戦争でも国土が戦場となり、場所的に日本と中国の間に挟まれて位置しているだけで、まさに歴史的には貧乏くじを引きまくり状態だろうか。それに比べて日本は、西洋諸国による世界征服の時も、東アジアにおける第一の侵略ターゲットは当然中国で、彼らが中国支配に手間取っているうちに、ちゃっかり西洋のサル真似で近代化してしまって、その後調子に乗って中国支配に乗り出して失敗したが、米ソによる冷戦対立や朝鮮戦争などを利用して立ち直ってしまったし、これまではその時々でうまく立ち回って、それなりに繁栄してきたのだろう。

 そういう日本的なポジション取りは、世界的に見てそれほど特殊な例でもないようで、かつての古代ギリシアなども似たような位置にあったらしく、その当時に栄華を誇った古代エジプトやアッシリアやペルシアなどの帝国から地理的に適当に離れていたので、うまい具合にそれらの先進地域から文化を吸収しつつ、かつ直接の支配からは免れていたようだ。それは古代ローマ帝国時代におけるアルプス以北のゲルマン地域(占領された時期はあったが)や、イスラム帝国時代のヨーロッパ諸国(東ローマ帝国が防波堤となっていたらしい。)や、モンゴル帝国やオスマン帝国(最終的にはヨーロッパ列強諸国によって分割)全盛時代のヨーロッパも同様で、そうやって歴代の強大な世界帝国から適当に離れていたから、ぬくぬくと力を蓄えられて、ついには自らが強大となり、国民国家に分割されていたから、ヨーロッパ全体で統一した帝国を形成するには至らなかったが、各国が競い合って世界征服に乗り出したわけで、そこでもたまたま彼らの餌食として中国があったから、日本はうまく立ち回って事なきを得て、今に至るわけで、それを思えば、オリンピックなどでこれ見よがしに韓国や中国が、日本の数倍も金メダルを獲得して得意になっているのを、羨んだり妬んだりしない方がいいような気がするし、どうせ彼らも、昔は自分たちより文明的に遅れた地域だったのに、うまく欧米に取り入っていいとこ回りばかりしやがって、と腹立たしく思っているかどうかは知らないが、とりあえず今さら彼らの過度な立身出世主義を見習う必要もないようにも思え、これまで通りの中途半端などっちつかずの姿勢が、この地域に暮らす人々には似合っているのかもしれない。


12月24日

 たぶん現状の何が問題でもない。問題がないのが問題でもなく、問題に向かって解答を導き出せないのも問題でもなく、試験の準備で忙しい受験生とは無縁のようで、好き勝手に振る舞う機会もつもりもなく、ただ画面上に表示された言葉の連なりを読む。相変わらず大した内容ではない。中身のない空疎なことばかりが記され、そんな低水準で自足している。そんな気分で一通り語ると、何だか嫌悪感が増してくるだろうか。それに逆らって主張したいことでもあるのか。なければ偶然の思いつきに期待するしかない。でもきっかけはどこにもないだろう。あくまで否定的な気分を保ち、そこから一歩も外へ出られず、憩いのひと時を装うために漫画でも読んでいるつもりか。実際には何を装っているわけでもなく、相変わらず考え込んでいる。現実の世界から思考が遊離しているみたいだ。でも誰もが感じている現実自体が、現実の世界から遊離しているのではないか。このリアリティのない現実が果たして現実なのだろうか。ニュースがそれを構成しているのかもしれない。ではそれもフィクションのたぐいなのだろうか。たぶんこの世界では何がリアリティをともなっているわけでもないのだろう。メディアからいったん意識を遠ざけなければ、リアリティを感じられないのか。そんなはずがないとは思うが、たとえそれを感じられなくても現実には違いなく、現実の世界で何もしていなければ、メディアからもたらされた情報にまみれるばかりで、実世界でリアリティを感じられなくなってしまうということか。だが何もしていないわけではないだろう。何かしているからこそ、そこにリアリティがあるわけで、それとこれとは無関係に言葉を記しているわけでもなく、それは確実に現実の世界で起こっていることだ。それを信じられないからリアリティを感じられない。そんな答えで納得できるだろうか。その件についてはあまり深追いすべきではなく、その程度で納得しておくべきではないのか。あまり考え過ぎるとまた頭の中で何かの均衡が崩れ、おかしな精神状態となり、実生活に支障を来す。実際にこれまでもそんなことはなかったはずだが、これから何が起きるというのか。何を起こらないことを祈るばかりか。

 何かが起こればそれがニュースとして伝わり、それについて考えさせられ、語ろうと思えば語れるわけだ。それが話題となりそうで、実際になっている出来事なのだろうか。その出来事について君はどう思っているのか。その時々で何か思っているのだろうし、場合によってはそれについて考えることもあるのだろう。今は何も考えていないようだが、考えている時のことを思い出そうとしているのだろうか。そのつもりはなく、拒否しているように思われ、そうしているうちにも、語り方がだんだん回りくどくなってくるようで、どんどんそこから逃れていってしまい、何も思い出そうとせず、わざとそれを無視しているようにも感じられ、何だかおかしな気分となって、意味もなく辟易しているのかもしれず、もう二度と関わりたくはないのだろうか。なぜそう思うのか。それが冗談だからか。それの何が冗談なのだろうか。何だかわからないが、まただいぶ遠回りしてしまったようにも思われ、無駄に言葉を弄して無駄なことを語ってしまったらしい。とにかくあまりそれらの出来事を真に受けるべきではなく、それで目が覚めたと思うなら、そのままでかまわず、それ以上を目指す必要もない。今までが考える必要のないことを考え、語る必要のないことを語っていたのだとすれば、これからもそうなるしかないだろう。そうすることで現実から遊離し、それらの思考も語りもフィクションへと近づき、そんなことをやっている君を戸惑わせるのかもしれないが、それを阻むことはできない。そうなるしかないのだとすれば、そんな成り行きに身をまかせ、これからも考えながら語ってゆくしかないが、果たしてこれでいいのか。そんな疑念を抱きつつ、それについて語っているわけか。違うのかもしれない。疑念は深まることもなく、その場の成り行きに押し流され、やがて忘れられ、気がつけばまたいつものように考え込み、悩み、語っている。つまらない循環を経て、また語る。いったいこの世界はどうなっているのか。まだ取り返しがつくのだろうか。後戻りは可能なのか。リセットできるのか。たぶんそれで何か考えているつもりなのだ。そこからはみ出て考え、考えていることを否定する。そのついでにいつも語っている内容も否定し、そんなふうに語ることを拒否する。常識を外れたところに常識があり、常識はずれなことを語っているつもりが、逆に常識にとらわれていることに気づかされる。

 ひねくれているのだろうか。そのつもりで言葉を記すが、それも常識の範囲内でやっていることか。たぶんそうだ。とりあえずその調子でやれる範囲内でやってもらえばいいことでしかなく、それがうまくいけばいったらで愉快なことかもしれないが、うまくいかなくてもかまわないのであって、後は野となれ山となれということにもならないようで、たとえこの世界のどこかで戦争状態が継続されようと、それに無関心でいられないとすれば、誰かが首を突っ込み口を出し、介入して泥沼状態に陥っても、そんな成り行きを利用して、うまく事を運ぼうとしている輩もいるらしく、そこにつけ込んで何かをやろうとしているのを止められないとしたら、君はそれについてどう考えればいいのだろうか。放っておけばいいだけか。実際に起こっていることと、それについて考えていることがかみ合っていないようだが、たぶんそれでもうまく事を運びつつあるのだろう。また失敗することに成功しただのと強がるつもりはないが、人の思惑とは関係のないところで、何かがどうにかなってしまう成り行きを信じるにしろ信じないにしろ、それらは相変わらず枝葉末節な挿話に過ぎず、その中でやれるだけのことをやり、やれないことには手を出さず、それでうまくその場を取り繕っているつもりが、実態はそうでもないのなら、それこそが愉快なのであり、そこで笑っていれば気が済むのかも知れない。でも一方でそれだけでは不十分だと思うなら、そこから語りだせばいい。冗談であることを承知でそんなことを語り続け、その優しさにつけ込まれるとしたら、それも運命だと思ってあきらめるしかないわけか。つけ込みたければつけ込んでもらうしかない。そんなことが度重なるとしたら、その行き着く先に待っているのはどんな結果になるだろうか。君には予想などつかないのかもしれず、安易に予想したり、破滅的な結果を予言したり、警鐘を鳴らしたりしない方がいいだろう。人の優しさにつけ込んで利益を得ようとすれば、それなりに利益を得られるだろうし、そうすることで、そんなことをやっている人たちが優位な立場となり、それでうまく事が運ぶなら、それでもかまわないのではないか。そんなことをやっていられるうちが華なのであり、それで栄華を極められるとすれば、極めてもらうしかない。極められたらということかもしれず、現実はそんなに甘くないとすれば、それも仕方のないところか。いつか必ずとんでもないところからぼろが出て、滑稽で間抜けな成り行きを経ながら、幸運も瞬く間にしぼんでいってしまうわけか。そうなると今までの無理が祟って、下り坂を転げ落ちるように人心を失い、マスメディアによる非難の集中砲火が始まり、そら見たことかとなるのだろうか。


12月23日

 また理由の定かでない疑念を抱いているのか。いつもながら成り行きが単純すぎる。そんな思考が語る上で重荷となっているようだ。それは自らの荒唐無稽な空想や妄想からもたらされているのかもしれず、それ以外はあり得ないようにも思われ、それを抱いている君を落胆させ、できればそんな成り行きから外れ、何かそれとはまったく無関係なことを考えていたいのかもしれない。でも現実にそうはならない。ため息が出る。相変わらず考えがまとまらず、言葉が思わぬ方面へ散らばってしまう。それは自然の成り行きで、散らばるがままにまかせるべきなのか。どこまで自らの意志を反映させるべきなのか迷うところだが、何を語っているのでもない現状がある以上は、また自分の意志が何なのか定かでない以上は、そのままにしておくしかないのかもしれず、今のところはそれらの散らばり具合を尊重するしかないのだろう。それらの散漫な言葉の散らばりようが、君を構成するすべてなのだ。そこに君が示されているとすれば、その有り様が君の意志そのもので、そこから読み取らなければならない何かが、この世界の反映なのではないか。別に病んでいるのではなく、危険が潜んでいるのでもなく、自然な成り行きから導かれているのであり、それ以外は何も言い表せず、そんなふうに思い、そこから言葉が記され、それに言及しているわけだ。そのつもりで語っているのだろうか。くつろぎのひと時というわけでもないだろう。でも戦場にいるわけでもなく、図書館の閲覧室で居眠りの最中というわけでもなく、どこから遠ざかっているのでもない。今はここにいて、何か適当なことを思い、適当に語ろうとして、それを何に妨げられているとも思えず、狂気にとらわれているわけでもなく、至って正気だとも思えないが、どこに至らずとも普通に語っていられるのかもしれない。やはりくつろいでいるのだろうか。それを否定することはできない。何を否定しようとしているのでもなく、何から疎外されているわけでもなく、そのままの気分でいるだけか。いられるものならそうしているところだ。でもまだ心に余裕が感じられない。何も標的とはなっていないようで、批判する気も起こらず、まなざしがどこへも届かず、何を眺めているのでもないらしく、そんな気配を察知して、虚無が心の中に入り込んできて、空洞を穿とうとしているみたいだが、それにどこまで抗えるとも思えず、なすがままになってもかまわないと思っているのかもしれず、何と戦う気も起こらず、どんどん虚しくなっていき、そこで終わりの気配を感じているのだろうか。いったい何が終わろうとしているのか。

 たぶん終わらせられないから、この世界はまだ続いているのだろう。でも虚無の力は依然として健在だ。隙を見せれば人々の心の中で誇大妄想へ行き着いてしまい、そこから大げさな崩壊を予言して、すぐにも人類が滅亡してしまうような言動に至り、そんな物語の中で架空の誰かを困惑させるのかもしれないが、それも冗談のたぐいだと思っていればいいようで、いつまでも空想の次元にとどまり続け、そこに生じている虚無が君自身のようにも思われ、虚無は君を眺めながら、何か君とは無関係なことを思っているようだが、言葉を発することができず、君に虚無の思いが伝わることはない。君はそこで何をあきらめなければならないのか。言葉を記さなければならないのはわかっている。そしてそこに生じている架空の危機を乗り越え、虚無とともにそれらの文章を完成させなければならない。でも虚無が何を思っているのかわからないままでは、そこから何も引き出せない。いったい虚無から何を引き出せばいいのか。そんな状況で君には何ができるというのか。自らを語るには及ばず、何も語れないと思うなら、やはりあきらめるしかないのだろうか。あきらめられないとすれば、何か他に語る方法があるとでもいうわけか。そこから不意に虚無が語りだすのかもしれず、そんな空想を誰かが抱き、そこに生じているそれらの物語が、虚無に語らせようとしているのかもしれず、それも誰かの空想の一部なのだろうが、そんなことを思っているうちにも、それに影響を受け続け、記述している内容も、だんだんでたらめの度合いが高まっているようにも思われ、たぶんこのままではまともな内容には至らないのだろうが、窮余の策としてはそんなのもありかもしれず、もうしばらく無為に語らせておくようで、そのまま何かが放置され、その何かが未だ語らずじまいのまま、ほったらかしにされている誰かの物語なのであり、その内容をどうしても思いつけない君を哀れんでいるわけでもないのだろうが、そんな光景を眺めている虚無は、ひたすらその場にとどまり続け、黙ることでその力を行使しているわけか。黙っていれば何も進展せず、君には手も足も出ないということだ。そんなやり方でかまわないのか。誰の了解も受けつけずにそうやっているのだろうから、思うがまま好き勝手にやりたい放題というわけでもないが、ともかく黙り続け、何も出てこないようにしておかなければ、虚無の存在理由も何もありはせず、それこそが虚無の虚無たる所以なのだろう。そんな状態にどこまで耐えられるのか。そのうち焦れて苦し紛れの冗談でも繰り出されるのか。たぶん待ちの姿勢を保ち、何かが出てくるのを期待しながら、今回はあきらめなければならないらしい。今さら過去と同じように語れるとも思えない。じり貧状態で右往左往しても、得るものは何もなく、記された言葉の連なりが自らの紋切り型をなぞるしかない。


12月22日

 確かに何かが繰り返されているようだ。誰かが教え、誰かが学ぶ。誰も何も学ばないわけではないらしい。君はそこで何を教えられたのだろうか。朝日がまぶしい。どうやら夢の中に住んでいるわけではないらしい。意識が現実の世界へと戻り、それについて考えようとするが、まだ何かが出尽くしておらず、結論に至らず、容易に話がまとまるわけでもなく、神話作用が機能していたのは遠い昔の世界でのことかも知れず、常に知性の地盤が固まりつつあるのは否めないことであり、君はそこから遠く離れようとしていて、また先回りしようとして、あやふやな根拠の定かでない予想をもとに何か断言して、それが覆される時のことを思うと気が気でなく、まさかその時のためのいいわけを今から用意しようというのか。おかしな気分だ。嵐が近づいているとも思えないのにこの胸騒ぎは何なのか。どうせまた作り話なのだろう。薄いドリップコーヒーでは気に入らないのか。はぐらかす相手を選ぶ余裕などありはしない。相手のエネルギー源を攻撃しなければ、その動作を止めることはできない。占い師が水晶の球を見ながら何がつぶやいているが、君はさっきから上の空だ。またそんな映像を見ながら何とも思っていないのだろう。そんなことには興味はないといった風情だろうか。言葉が散らばるだけ散らばって、偽りの中心をかく乱しているつもりで、どうせまたどこかきりのいいところで、寄り集まって何かを構成するのだろうし、そのまま発散してしまう不安をかき消し、特定の内容に基づいて語っているふうを装い始めるのだろう。語るとは妥協点を模索することかもしれず、それができなければでたらめのままか。嘘でもかまわなければ、そんなふうに語れると思い込み、語っているつもりになれるのかもしれない。今の君はそこから遠ざかれずにいるらしく、もうしばらく幻想を追い求め、そこで漂っていたいと思っているのかもしれないが、現状では何が許されているのだろうか。どんな振る舞いも許容範囲内に収まるわけでもないだろうが、なるべくなら放っておいてほしいのか。それで済むならそれに越したことはない。それで済むようにその方面へ働きかけているわけか。それはどういうことなのか。記しつつある言葉の連なりが、そういう方面にまとまろうとしているわけか。でもまだそれが何のことやらわからないようで、わからないままにとどまり、とどまるつもりもないのに、そんなところで一休みしている最中に、思いがけない事態に遭遇しているらしく、それが作り話でないことを祈る思いで、なおのことでたらめに拍車をかけ、何かが宙に舞い、何の問題もないことが明らかとなり、要するにまた嘘をついているらしく、現状ではあり得ない未来の光景を夢想しながら、次いでそんな妄想を追い払い、何でもない時の気分を味わい、それを思い出せなくなるまで沈黙を守り通し、その時がきたら何事もなかったかのように振る舞えるだろうか。

 無理なのではないか。車のエンジンをかけながら、不意に忘れ物をしたことに気づき、家に戻って何か探しているようだが、それが夢の中とも気づかず、延々と探しまくり、探し疲れふと窓から外を眺めると、未だかつて見たこともない街並であることに気づき、旅の途中であったのかもしれず、過去の記憶をまさぐりながら、思い出すきっかけを得ようとしているみたいだが、君がそのとき何を思い出そうとしていたのか、今となっては思い出せないようで、今がいつなのかもわからなくなり、果てしなく止めどなくそんな夢の話をねつ造しているつもりで、それとは違う何かが得られるように、そうではないような気分を模索しつつも、そんな作り話の途中で何かに気づくことを期待して、さらに言葉を記しているみたいで、何やらでたらめにもきりがないように思われ、それを止めるべく、その場を離れて気分転換のつもりで外に出てみると、まだかつて見たこともない街並が目の前に広がっているのだろうか。虚しい作業には果てがない。何かをやろうとしてできず、仕方なく単純労働に勤しんでいるつもりが、そういうわけにもいかなくなり、そんな偽りの思いをぶちまける機会にも恵まれず、わだかまりを抱えたまま、その場を離れられず、まだうじうじと言葉を記している最中のようで、いい加減にきりをつけ、今よりもっとマシな環境へ移行する手だてを考えるべきかもしれず、それが数年前にきっかけと機会を得た結果がこういう状況をもたらしてしまったようで、それを今さら後悔しているわけでもなく、そんなことを思い出しながら見知らぬ街を歩いていると、そういえばそんな出来事があったことを思い出し、徐々にその時の記憶が戻ってくるようにも思われ、何だか懐かしい気分を取り戻しているみたいで、ちょっと安心しつつも、そこにとどまったままでもだめなようにも感じられ、それ以上の何かを模索したくて書物でも読んでいたのかもしれず、書物を読みながら突然何かがひらめく機会を捉えて、それらの行動に及び、それをきっかけとして移動し、移動した先でまた何か考えているらしいが、ここはいったいどこなのか。問われるまでもない場所にいる。車のエンジンをかけたのは今から何週間も前のことで、忘れ物を思い出したのはそれとは別の時間帯で、それとこれとは無関係で、別々の時間帯で起こった何かであり、それらの何かを組み合わせて文章を構成しようとしているのも、たぶん複数の何かがバラバラに起こっている結果だろう。そんな現象に耐えられないから、偽りの結びつきをねつ造しながら、何か語っているように見せかけたいのだろうし、そんなことを記している自身が、そこに何か因果関係があるように思い込みたいのだ。君によって解明されるべき謎があるわけか。だからこうしてそれを説明しようとしているのだろうか。でも説明しきれるとは思えず、途中で投げ出してしまうのだろう。すでに説明するのが嫌になっているみたいだ。

 きっとそうではない。気づかぬうちに世の中は移り変わっている。偏狭な民族主義の台頭などあり得ず、今さらどんな幻想にすがりついても無駄なのだ。資本主義の進展にともなう功利的な利益追求姿勢が国家同士の対立の原因となっているのに、それがあらわになってはまずいから、民族主義にすり替えようとしているだけで、メディアやネット上に偏在する浅はかな輩を総動員して、対立を煽っているのかもしれないが、まあ無駄な悪あがきだろう。そうかといって大衆娯楽へと人々の関心を向けさせるのにも限界がありそうで、そちらの方面でもすでに飽和状態が近づいているのではないか。どうあがいても現実から目を背けさせるには至らない。それは誰彼の陰謀でもなく、ユダヤ系のロスチャイルド家やイルミナティやフリーメイソンがどうしたわけでもなく、すべてがすべての方面へ行き渡りすぎていて、それらの用語が使い古されるだけ使い古されていて、どうにもこうにも収拾がつかなくなっている状況で、それでもまだ隠された陰謀や秘密があるとすれば、そんなものはネット上で検索すればいくらでも出てくるだろう。死んだはずの誰それが生きていたり、誰それが殺害されていたり、莫大な金塊がどこかに眠っていたり、天皇が明治維新前後ですり替わっていたり、天狗が古代ユダヤ人で、曽我氏が古代ローマ人で、平家はペルシア人であったりして、そういう噂と戯れるのも娯楽のたぐいなのかもしれず、それらをどこまで信じようと信じまいと、この世界が誰かの思うつぼにはまるわけでもなく、誰の思い通りに事が運んでいるわけでもなく、誰もが思うつぼや思い通りに事が運んでいるように見せかけたくて仕方ないのであり、そのために言葉を弄し、映像や画像で信憑性があるように思わせ、みんな必死で思い通りになるように各人の主張を戦わせているからこそ、特定の誰かの思い通りにはいかないのだろうし、それが時に状況を混乱させ混迷させ込み入らせ錯綜させ、誰それが暗中模索を強いられ、何かの妄想や幻想を抱かせ幻影を見させ、恐るべき何かを感じさせ、それによって恐怖し驚愕し、何らかの行動に走らせ、そんな行為や出来事の結果が歴史を構成し、何やらそこから一定の結論を導きだそうとする者を戸惑わせたりして、そんな現象を眺めている君を愉快な気分にさせているらしい。眺めているだけでは物足りなければ、君も自分独自の見解や主張とやらをねつ造し、それをそれらの人々が抱いている同じように生じさせた何かと戦わせてみればいいことだ。そうすれば君もそれらのゲームに参加していることになるのではないか。


12月21日

 何を探り当てようというのか。何のあてもないのに模索が続くらしい。何を探しているわけでもないのだろう。あてもなくぶらついているわけでもない。何も見えていないようだ。寒いだけなのかもしれない。冬だからそれは当然のことだ。冬だから何も見えていないのも当然か。それは違うと思うが、そんなのもありかもしれない。おかしいのだろう。何かが狂っているのだろうか。何を問いかけているわけでもないので、答えを模索しているわけでもない。だから正しい答えには至らないだろう。君が遠ざかりたいのは現実の世界だ。それが果てしなく続いているからまどろんでしまい、世界を理解できなくなってしまう。心の中で理解を妨げる何かが生じ、それが理解に至る道を踏み外すように君をそそのかす。その方が楽しいだろう。愉快な気分になれるのではないか。そうやってまともな思考から外れ、冗談半分でおかしなことを述べているうちに、現実を見失ってしまうわけだ。寒いからそうなってしまうのか。それが冗談だとは思えないが、寒い現実の中でそんなことを感じるのだろう。外はもっと寒いに違いない。凍えるような寒さで楽しさも半減か。無理に言葉を模索中らしく、さらなる表現の逸脱を目指して無意識に語りかけ、見失った現実を文章上に再構成して、誰かに戸惑いをもたらそうとしているのか。どうせ長続きはしない。調子に乗って語り過ぎれば馬脚を現し、考え過ぎれば紋切り型の繰り返しとなる。やはりそこに何があるとも思えず、何ももたらしていないのかもしれない。その代わりに言葉が記されているのだろう。すでに気持ちも解けかかっていて、投げやりに傾きつつあり、それらしい雰囲気を醸し出せなくなってきて、後はそこから退散する手はずを整えるだけか。面倒くさくなってしまうらしく、言葉を記すのも億劫となり、今度は嘘をついて間を持たせようというのか。それは嘘でも何でもなく、ただの現実だろう。寒いだけでここまで語ってしまい、後戻りができなくなり、どうしたらいいものか悩ましく、迷いが生じているようだ。気まぐれにそう思い、そう思っているふりをしながら、それとは別の思いに至るようにしたいが、本当はどうなのだろうか。本心からはかけ離れているようだ。怠惰な気分をつかみかけているのかもしれず、それが何かのきっかけに結びつくとでも考えているのか、あるいは考えているわけでもなく、そんなことを無意識に語りかけているだけなのか、そのへんがはっきりしないようで、はっきりさせたいとも思わず、本当のところは何を思っているのか定かでないらしい。

 たぶんそれが探していた答えなのだろう。何を思っているのか定かでなく、何か勘違いしているのであり、それでうまくいっていると思っているわけだ。そう思わせておけばいいのだろう。何が犠牲となることもなく、何を犠牲にしているわけでもない。現実が見えていないのはお互い様で、これまでも繰り返し主張されてきたようなことを、性懲りもなく同じように繰り返し主張している輩に同情する気も起こらず、それでもまだ眠りの世界へと誘われるには早すぎるようで、君はそこで何とか気を取り直し、過去の結果を未来に投影する愚か者を横目に見ながら、そこを通過しきれていないのは承知で、さらにやわな言葉を記し、さらなる何かを模索しているふりを装い、ついでに何を装っているのでもないように思い、そんなふうに感じられることが嘘偽りなのかもしれず、それを不可思議に思っているのでもないのだろうが、とりあえずはそれで楽しい気分でいられるのだろうし、つかの間の達成感を味わっているのだろう。すぐにそれでは物足りなくなってしまい、そこに何かを付け加えたくなり、実際に付け加えすぎて、すべてを台無しにしてしまい、また一から出直しとなるのかもしれず、そんな崩しては積み上げ、積み上げては崩す行為を繰り返しているうちに、誰かの一生は終わりを迎え、後継者も追従者も生み出さず、そこですべてはおしまいとなり、後は忘れ去られるだけとなってしまうのかもしれない。そこで何かの断片が偶然に残るとしても、何が顧みられようと無視されようと、未来に存在するかもしれない誰かがそうするだけで、それは今現在の思考とは無縁であるばかりか、それがいったん忘れ去られなければ、再び発見され得ない過程を通過することでしか存在し得ない。そしてその再発見された何かは、今構築されつつある何かとは無関係な思考をともなうわけだ。今の時代に生きている人々が考えもしないことを、未来の世界にいる誰かは考えていて、その考えに基づいてその時代には過去の遺物となっている何かは評価され、そこから生じる新たな価値をまといながら、それらの事物は未来の世界に存在しているのだろう。そんなわけで今生きている人々が未来の人々に何を託そうとしても、そんな思いは顧みられず無視され、未来の人々はその時代に生じている価値観に基づいて判断するだけで、それは今の時代に生きている人々には手出しできない領域なのかもしれない。

 いったい人々はそこで何をやっているのだろうか。君は作り話の中で何を語っているのか。何かの神話を創作し直しながら、未来へ語り継ごうとしている誰かが、ふとそんなこと思い、よかれと思っているやっている自らの行いが無に帰してしまうのではないかと恐れ、日頃間を見てはつけている覚え書きに付け足して記す。汝この草稿を世に広めよ、とでも記したのだろうか。でも肝心の草稿が見当たらないではないか。それでは神話の内容もわからずじまいだ。どこか架空の大地で魔法使いにそそのかされた小人が冒険に旅立つ。それがホビットの物語か。指輪を巡る物語の数十年前の話になり、それが映画化されて話題となり、君はそれに関する情報をたまたまネット上で見かけ、興味深く感じられたのか、しばらく読んでいたようだったが、それは数日前のことか。そこから関心が数年前の大地震で起こった津波の映像へと移り、それを夜遅くまで延々と見続け、家や車や街が押し流されている映像に釘付けとなっていたわけか。その合間に他の映像も見ていたのだろうが、何が思い出されるわけでもなく、未来へと語り継ぐべき神話の内容を考える暇もなく、稚拙な何かを訴えかけているような『明日の神話』を検索して、壁画の画像を眺め、それが太陽の塔とともに執拗に残り続け、それを見るだろう未来の人々に心に何らかの影響を及ぼすことを訝しみ、それらの何がキッチュで何がキッチュでないかの判断材料になるとも思えず、今さらながら力とは何かという本質的な問いを、ごく一部の人たちに投げかけることを期待しているわけでもなく、その執拗に残り続けるだろう力の源泉がどこにあるのか、それを探ることで何らかの答えを得られるとも思えない。またそれと同じかどうかはよくわからないが、例えばNHKなどのテレビ局はこれからも機会を捉えては、執拗に司馬遼太郎原作の時代劇をやり続けるのかもしれず、その執拗にやり続けようとする力の源泉が何なのかを問うつもりもないのだが、たぶんそれらの事物によって象徴される現象は、君とは相容れない何らかの価値観をその内に宿しているのだろうし、もしかしたらそういうところから、現代に生きる人々の多数派を構成する力が生じているのかも知れないが、それらの力が執拗に持続し、各方面に影響を及ぼし続ける限りは、今あるような世の中はこれからも執拗に続いていくような気がして、岡本太郎や司馬遼太郎の作品に代表されるようなものをチャイルディッシュだと思う輩は、多数派からはこれからも執拗に無視され続けるのかもしれない。


12月20日

 様々なことがあって、それについて様々に考え、結果から見ればこんな感じとなって、納得してしまうのだろうか。何に納得しているのか説明できないようだが、それでもかまわないらしい。何に納得しているわけでもないのだろう。その時々で様々なことを思うのは自然の成り行きか。相変わらずそんな状況から抜け出せず、他に何をすることもなく、それらの風景を眺め続け、次第に何かを失いつつあるようだ。ユーチューブも見飽きたらしい。どうやら風景の中に入っていけないようで、君はどこでも拒絶されてしまう運命にあるらしい。周囲に合わせるのが面倒くさいのか。それらの雰囲気には馴染めなかったようだ。映画の表面ではならず者が砂埃にまみれながら何処ともなく去ってゆくシーンがよくあるパターンか。君はどこかゆくあてがあるのだろうか。たぶんどこでもない架空の場所が安住の地なのだろう。現実の世界ではあり得ない場所か。ではこれもフィクションの中で起こっていることなのか。これでなければどれなのだろう。どれでもなければこれでもないか。だんだんわけがわからなくなってくるようだが、そうやって何かをごまかしているのだろう。怠惰な気分に負けて、何もかもがなおざりとなっているようだが、そこから何がもたらされるわけでもなく、空疎以外の何をもたらそうとしているのでもないらしい。

 ではそんな予定調和なフィクションから遠ざかるとすると、現実の世界では誰が何をやっているのか。そこでは相変わらず誰かが誰かを批判していて、そんな誰かを他の誰かが擁護している。この世は持ちつ持たれつの関係で成り立っているわけか。今さら都知事の辞任を発表した猪瀬直樹を擁護することもないだろうが、例えば猪瀬を批判したメディア関係者の中から誰かが都知事になったところで、どうせ猪瀬程度のことしかできないのだろうから、結局都議会の多数派を占める会派が押す人物がなればいいだけなのだろう。またここにきて単なる数年後に開かれる予定のスポーツイベントを理由に、メディア上で何やらもっともらしくあれこれ言っている人たちも今さらながら滑稽に思われ、結局都知事になったから何ができるのかといえば、官僚や議員たちと折り合いを付けて、何やらそれらしいことを主張していればいいだけのような気がして、大して変革を印象づけるようなことはできないのではないか。例えば大阪の橋下市長が提唱していた大阪都構想なども、だんだん尻窄みとなってしまいそうだし、アメリカでオバマが実現しようとしていたオバマケアとかいう医療保険制度改革なども、今のところはうまくいっていないような印象を受けるが、それらに比べれば日本のアベノミクスは、円安で株価も上がったし、今のところはうまくいっている方なのか。うまくいっていると思われているから、調子に乗って国家機密がなんやかんやな法律をつくったり、原発をどうしても再稼働させたがっていたりして、その筋のメディア関係者たちからひんしゅくを買っているようだが、まあそれも官僚や議会で多数派を占める議員たちや経団連などの圧力団体と、それなりに折り合いをつけながらやっていることのたぐいでしかないのだろう。

 そういう水準から物事を考えればそういうことになり、どこかのメディアで飽きもせず伝えられている程度のつまらない内容になるしかないが、でも他に何があるのかといえば、取り立てては何もないのであって、どうやら現実の世界では予定調和なことしか見出せず、くだらないことだらけとなってしまいそうで、ますます憂鬱な気分に拍車がかかり、現実逃避したまま戻って来れなくなってしまうだろうか。別にそうならないようにしたいわけでもなく、そうなったらなったでかまわないと思っているのではないか。今さら失うものなど何もなく、すべてを失って、電気も水道も止められ、生活保護も受けられずに餓死してしまう人もいるらしいが、まだそこまでは至っていないらしく、何もできない状況に居直っていて、ふざけた気分でパチスロ動画でも見ながら、心が荒廃しつつあるのかもしれず、そんな誰かを置き去りにして、時は流れ歳月が積み重なり、やがて何もかもが風化してしまい、それもこれも忘れ去られた時代の一コマでしかなくなってしまうのかもしれない。いったい何がそうなってしまうのだろうか。ユーチューブで有名人の成れの果てのような老人たちが、何やら政権批判のようなことをしゃべっていた。落ち目になったお笑い芸人も他のお笑い芸人を気に入らないらしく、さかんにあいつが嫌いだと繰り返している。それらが後の時代には残らないような記憶の断片を形成しているのかもしれず、そんなどうでもいいような情報が辺り一面に散らかりながら、人々の退屈を紛らす暇つぶしとなり、心地よい眠りへと誘い、睡眠中にありふれた夢でも見させるわけか。君はそんな夢の中に出てくるようで、何やらメッセージを伝えようとしているみたいで、このところ頻繁に現れては、度々誰かに何かを語りかけているようだが、目が覚めてからそれを思いそうしても、どうしてもその内容を思い出せず、何だか焦れったいようで、そんなモヤモヤを解消できずにいるらしい。


12月19日

 君は無能な人間だ。役に立つことができない。いつも無駄で意味のないことばかりやりたがり、挙げ句の果てにはそれもできずに苦悶する。どうやら人間社会にも動物社会にも適応できないようだ。この世は有能な人たちが支配する世界だ。君は無能だから支配する側にはなれないのだろう。そして有能な人たちが作り出している幻想を真に受けることができずに、いつもそこから外れる塵や芥のたぐいに惹かれてしまう。役立たずのやることは人から理解されないようだ。それどころか誤解されているのかもしれない。有能な人間になるには、役に立つようなスキルを身につけることが肝心なのかもしれないが、わざとそれとは無関係な何かを求めているのだから、誤解されて当然だろう。ところで何かとは何なのか。たぶん自分では捉えられず、理解できない何かなのだろう。そして結果的にはいつも取り逃がしている何かなのかもしれない。でも取り逃がしていないと恐ろしいことが起こりそうだ。たぶんそれを強引につかみ取ってはまずいのだろう。わざと取り逃がしているわけではないが、つかみ取ろうしているのでもないらしい。有能で役に立つ人たちは、そこで作動している装置の歯車と化しているのかもしれないが、資本主義社会で機能するとはそういうことなのか。たぶん社会を有効に機能させることが有用な人間の証しなのだろう。君はそんな社会を無効にしたいのか。それができると思うほどの誇大妄想狂ではないのかもしれないが、役に立たないままでいたいのかもしれず、ひたすらがらくたのようなことを記そうとしているのだろうか。まさかそれらの内容の意味不明さ加減が至上の喜びとなるわけか。たぶん他の誰が喜んでいるわけでもなく、君の場合は喜びに至らずに苦悶しているのではないか。そんなわけでまだまだ達人の境地にはほど遠いようで、何をもって達人というのかもわからず、何を極めたいのでもないらしく、でたらめを極めること自体が間違っているのだろうし、極められないから思い悩むのかもしれないが、悩んでいるうちはまだ終わっていない証拠だろうか。でも何を終わらせようとしているのでもなく、これから何を始めようとしているのでもないらしく、終わりも始まりもない時間の中で、ただ言葉を記して、それについて考えを巡らしながら、さらに言葉を記しているわけか。

 しかし彼らは何の役に立っているというのか。資本主義社会が円滑に機能するためには欠かせない役割というのがあるのだろうか。スキルの高い人は企業コンサルタントにでもなりたいのかもしれない。そして顧客の企業の収益を上げて、自らも利益を得るわけか。収益を上げられなければ契約を打ち切られてしまうだろうから、企業の寄生虫と見なされないようにするためにも、いろいろな手を打たなければならず、そのへんが大変なのかもしれない。そういう職業がもてはやされているだけでも、その手の顧問弁護士や会計事務所やコンサルタントなどで経費がかかっている分、それなりの利益を出さなければならず、企業間競争も激化してきて、企業自体も効率最優先で互いに吸収合併しながら垂直統合しつつ大規模寡占化していき、それを支える官僚機構も強化されていくのだろうが、そういう成り行きの行き着く先に待っているのが、富の一極集中という結果か。そして競争に勝ち残った一握りの大企業の幹部や株主やその関係者が多額の報酬を得て、富の大部分を占有し、その他大勢が残りかすのわずかな富を巡って熾烈な奪い合いを繰り広げるわけか。メディアでよく語られるアメリカ的な物語のたぐいには、そんな内容が多く見受けられるだろうか。彼らはそんなふうに社会の負の側面を語りながら、何をどうしようというのか。例えば日本共産党などが主張しているように、大企業に税を課して、その税によって国民の福祉を充実させたいわけか。一国だけでそんなことをやれば、大企業が外国に逃げていくだけで、うまくいかないのかもしれないが、世界的にそんなことをやっても、大企業から税を収奪する側の国家の官僚機構の権限が増大して、国家による国民の支配が強化されるだけだろうか。たぶん成り行き的にはそういう傾向があるにしても、それを真に受けてどうこう考えるべきではなく、対抗手段をあれこれ模索してみても妙案など思いつかないのかもしれない。では有能な人たちのように、そういう成り行きから想像される装置の歯車になって、装置がうまく機能するように持てる力を存分に働かせて努力すべきなのか。たぶんそういうことをやっている人の中から、富を独り占めするほんの一握りの成功者が出てくるのかも知れないが、たぶんそうなるための競争は熾烈を極めるのだろう。そうだとしてももはや手遅れの君には関係のないことか。現実がどうあれ、メディアによって語られているのは物語に過ぎず、事実の歪曲には違いない。そして世界の真実の姿がどうあれ、世界の一部として世界内に存在しているつもりの意識がどう考えようと、世界を超えて思考することはできはしない。ではもはやあきらめるしかないわけか。そういうわけでもなく、結局は役に立たないような何かについて語ろうとしているのかもしれず、実際に語っている最中のようで、それと気づかずに何やら模索しているわけで、いつかそれが何らかの内容をともなうことを期待しつつ、さらに語り続けようとしているのだろう。それが冗談なのかもしれず、本気ではないのかもしれないが、それに対する答えなど出ようがない問いをねつ造しようとしているだけなのかもしれない。


12月18日

 今日も何か考えているようだが、架空の話がまとまるはずもなく、上機嫌とは言い難いようで、不機嫌を装いながら、さらに何か考えているようだ。また現実から離れて、ありもしない空想の中に閉じこもろうとしている。いったいこの世界の何が気に入らないのか。北朝鮮などから漏れ伝わってくる情報からすれば、現実も一皮むけば奇怪な人たちが奇怪なことをやっているだけで、とても正気とは思えないようなことが行われていて、何もかもが理想からかけ離れているようにも思われ、世の中にはきれいごとの通用しない弱肉強食の動物社会が形成されているわけか。でもそれは昔からそうだったのかもしれず、安定した収入のある職業に就き、普通に生活できている限りは、そんなことは思いもしないのだろうし、そんな人たちが国内で多数派を占めている限りは、そこに当たり前のように人間社会があるように感じられるのであり、それが何かのきっかけでそこから外れてしまえば、そんな幻想が音を立てて崩れ去り、日々世の中で恐ろしいことが行われている現実に気づくわけか。例えば無理な仕事を押し付けられて苦悩したり、他人から力を行使されて理不尽な扱い受け、挙げ句の果てには職場から追い出されたりして、そんなふうにして建前的には自由と民主主義の人間社会に暮らしていられなくなってしまうと、人が人を食らう恐ろしい現実に直面してしまうわけか。そんなわけでやはりこの世は、誰かが得をすれば他の誰かが損をして、誰かがやりたい放題なことをやれば、他の誰かが何もできない不自由な立場に追い込まれ、誰かが大金を手にして大金持ちになれば、他の誰かが極貧の境遇に追いやられたりして、要するにプラマイゼロのゼロサムゲーム的な環境にあり、誰もがみんな楽しく愉快に暮らしていけるような世界ではないということなのか。そうだとすれば、そんな世の中で何をやればいいのだろうか。傍観者気取りでそれらの争いごとを眺めているだけではだめで、自らも積極的にそれらの争いごとに参加して、そこで他人を蹴落として勝利しなければならず、他人を不自由な立場に追い込んで、自らの自由を勝ち取り、そうやってある程度までゲームが進行すれば、勝ち残った者同志がタッグを組んで、社会の支配層を形成して、これ以上は自分たちを脅かす者が出てこないように、下克上を禁止することで社会の安定化が図られ、そんなふうにして弱肉強食の動物社会から、建前的には自由と民主主義の人間社会へと移行するわけか。そうであるなら今現在は、そうなる途中の段階なのかもしれず、今まさに社会の支配階級に入るために、人々が熾烈な闘争を繰り広げている最中なのだろうか。それとももうすでに決着がついていて、今まさに経済的に悲惨な境遇にある人は、二度とそこから這い上がれない階級社会の真っただ中にいるわけか。

 どうやら未だにくだらぬ妄想が果てしなく続いているらしい。たぶん他に何をやることもなく、そんな風景を眺めながら、まるで仙人になったような気分で、それらの偽りの空想を無視しつつもいとおしみ、いつまでも続けられないことを悟りながらも、可能な限りはそこに居座り続けようとしているのかもしれず、愚かなことこの上なく、その愚かさに魅入られとらわれ、それを超える何ものも君の眼中にはないらしい。エベレストには遭難者の死体が放置されたままになっているようで、登っていくとあちらこちらに死体が横たわっているらしい。他の八千メートル級の山でも事情は同じのようで、その死亡率も結構高いみたいだ。1924年にエベレストの初登頂を目指して登って、途中で遭難してしまって、70年後ぐらいに発見されたマロリーの乾涸びてミイラ化した死体を、ユーチューブで眺めながら、やはり彼もその手の愚かさに魅入られてしまった一人なのだろうか、と思いを巡らせるが、エベレストに次ぐ標高のK2に登頂した女性登山家の5人中3人が、降りてくる途中で死に、生き残った2人も、別の八千メートル級の山で遭難死しているらしく、そんな話もネットで検索すれば出てくる。たぶん人それぞれには違いないが、中には恐ろしいことをやらなければ気が済まない性分の人もいるのだろう。北朝鮮の金正恩も、公開処刑を催して機関銃で銃撃させ、死体がバラバラになるまで平然と眺めているのだとすれば、恐ろしい人物には違いないが、子供の頃から学んでいる帝王学とやらが、そういう恐ろしい人間を作り出すのだとすれば、どうやら人の上に立つ人とは、世に言う聖人君主とか呼ばれる人ではないようで、未だにマキャベリ的な非情さを身につけていなければならず、たぶん人の上に人が立たなくてもいいような制度にしない限りは、そういう人間がこれからも飽きもせず登場してしまうような気がして、建前以外では自由だの平等だのという幻想を抱いている場合ではないのかもしれない。


12月17日

 それが何を意味するとも思えず、いつものように冗談に逃げてしまいたくなるが、現実がどうあれ、理念や理想がないと、人はどんどん現状肯定へと傾いていって、昔よくいわれたエコノミックアニマルとかいう蔑称で呼ばれ、表向きは功利主義的に賞賛されながらも、陰口を叩かれる身になってしまうのかもしれないが、それも自らが成功した証しと捉えればいいのだろうか。でもそこから何を語ればいいのだろうか。すでに語りそこなっているのではないか。後はありふれたビジネス書などで見受けられる成功話として語られ、すぐに忘れ去られるだけか。結局は何がどうなっているのでもなく、そこでどんな変革が成し遂げられようとしているのでもなく、どうしても語りそこないながらも、そんなことを語ってしまうらしく、うまくいかないのは承知の上だが、そんなものだとあきらめながらも、さらに語ろうとすれば、そんな結果を招くしかないようだ。しかしそれはどんな結果なのだろうか。今語りつつあるこれがそうなのか。そこではくだらぬ何かが反復され、その何かにそそのかされているようで、内心いい気になっているだけではないのか。たわいのない範囲内でなら、それでもかまわないのかもしれないが、それをうまく語れないとなると致命的な欠陥となるような気もしなくはなく、たぶんここから先が肝心なのだろう。うまくいく気がしないのはどうしてなのか。さらに語り得ないことを語りだしているからなのか、それとも何も思いつかないからなのか。ともかく想像の中で何かの断片をつかみ取り、それを何かとつなぎ合わせて、それらしいことを語ろうとしているのかもしれず、そこで安易に語られていることを否定する気にもなれず、それでかまわないとも思い、それらを表面的に賞賛しつつも、内心小馬鹿にしていることを悟られまいとしているのかもしれないが、たぶんすでにバレてしまっていて、不機嫌な気分を感じ取って、何やら居心地が悪くなっているようで、その場を退散する機会をうかがいつつも、何とか相手の体面を汚さぬような物言いに終始しながら、その場の体裁を取り繕っているのだろうか。でもまさかそれがその話のメインでもないだろう。またしても君はどこか上の空らしく、そんなことなどどうでもいいといわんばかりの顔をしながら、我関せずを貫き通す所存らしいが、いったいそれで何を語っていることになるのだろう。冬のどんよりした曇り空を眺めながら、何もかもがアホくさく感じられ、当分は前向きな気持ちにはなれないように思われてくるが、果たしてそれで何の作り話につながるのか。

 君はそれが嘘であることを知っているらしい。すべてはその場限りのでっち上げで、他人がどのような不幸に苛まれていようと、それが語られる端から笑い話に転じ、どんなに残酷な運命に弄ばれようと、たとえそれが原因で自死に追いやられようと、いったんそうなってしまえば、後は語り手の思うがままに歪曲され、軽薄な漫才のネタにされようが、古典落語で名人芸の十八番とされようが、当人の与り知らぬところで、おもしろおかしく語られるだけで、もはや当初にあった誰の思いとも関係なく、要するに過去に起こった出来事のひとつとなってしまうわけだ。そしてそれが伝説や神話の域に達すれば、もはや出来事としては認知されず、民間伝承の寓話や聖書の挿話などとともに、説教師や牧師や僧侶などが語る宗教上のありがたい話となり、教会や僧院などに入った時に感じられる、神秘的な雰囲気に包まれていないと、まともに受け取られないような内容となってしまうわけか。でもそういう話の質や内容の変遷や経過が意味するものとは何なのか。人は語ることによって何を伝えたがっているのだろうか。いくら否定的な内容の話でも、そこから何とか肯定的な意味を探し出し、探し出せなければでっち上げ、少しでも救いのある内容にしたいのかもしれず、そんなふうにして理念化され理想化された話に接することで、これから現実に起こり体験するだろう悲惨で残酷な出来事にも、耐え得る精神を養ってもらいたいのだろうか。そしてそんな精神に至ることが、エコノミックアニマル状態から脱出する契機となるのかもしれないが、たぶん本気でそんなことを述べているとも思えない。ではそれも罠のたぐいか。罠だと思っていればいいのかもしれず、実際に宗教の罠にはまって、本気で布教活動にいそしんでいる人もいるのだろう。そういう人にとってはそれは罠であるどころか、それこそまさに救いへの道であるわけで、そういうことをやればやるほど幸福感に包まれ、過去にはそれがこうじて宗教弾圧に遭っても、殉教することで救われていると信じていた人もいたぐらいで、そうした殉教話が、説教師や牧師などによって、ありがたい話として教会などで語られているとすれば、そこに話の循環があり、人の営みとしての反復が生じているのかもしれない。


12月16日

 君は現状の何を疑い、疑うことにどんな意義があると思っているのだろうか。何か他に方法があるわけではない。できることはいくらでもあり、そのための方法もいくらでもあるが、それらの方法が有効であるとは思っていない。きっと何をやってもうまくいかないだろう。そんな前提から何をやろうとしているのか。またいつものたわいない作り話か。ただ何もしないうちからそれを否定することもないのではないか。何もかもが終わった後から何を始めようとしているわけでもなく、安易なフィクションへ逃げ込んでしまうわけでもなく、相変わらず現状を疑い続けている。ただ疑い、疑っている自らを正当化できず、疑いを抱いている根拠を示せずにいるらしい。疑う必要はないのかもしれず、疑わずにそのままその道を進んでいけばいいのかもしれない。実際にそうしているのではないか。では疑っていること自体が嘘なのか。何を疑っているのでもないのに、何かを疑っていると思い、その根拠を示せずに苛立っている。そんなことがあり得るだろうか。またおかしくなっているようだ。それが冗談なのかもしれず、誰かの作り話の中で現状を疑い、映像の中で毒舌を売りにしている芸人が、自分の思っていることを代弁しているとも思えず、その他人に対する辛辣な悪口や厳しい皮肉が、ただの他人事でしかないことを疑うはずもなく、そんな光景を眺めながら、その毒舌の餌食となっている落ち目の芸人に同情するわけでもなく、世間から特定の人物がもてはやされたりけなされたりすることが、誰かのおしゃべりのネタにされ、そんなおしゃべりの映像を眺めながら時間をつぶしている自らに、どんな正当性もないような気がして、気晴らしといえばそうなのだろうが、無駄に時間を浪費しているだけなのではないかといえば、たぶんその通りなのだろうし、それは疑う余地のないことなのかもしれず、そんなところで無駄に時間を使っている場合ではないのだろうが、そんな成り行きを否定しながらも、否応なくそうなってしまう流れの中で、そんな疑いようのない現実を直視するしかないらしいが、それでどうなるわけでもない。

 どうかしているのだろうか。きれいごとを語らなければならないようだ。あからさまに本音が出てしまう政治家を非難するわけでもないが、きれいごとを語る度量がないと、政治家としては三流なのだろうか。でもそのきれいごととは何なのか。例えばそれは憲法第九条を守り、日本を世界でも例のない恒久的な平和国家として邁進させることか。たぶんそれが何かの冗談なのかもしれず、本当は何とかそれを改正して、日本を19世紀的な国民国家として生まれ変わらせることか。時代は21世紀なのに、今さら19世紀に逆戻りというのもおかしな話だが、根本的なところで、天皇制をやめて共和制に変えないと、普通の国民国家にはなれないような気もするのだが、そういうヤバいところはうやむやにしておかないとまずいみたいで、とりあえず自分たちにとっては都合の悪い憲法第九条だけはどうしても改正したいらしく、そのためにいろいろと策を講じて布石を打ち、何とかそれを実現させる手はずを整えつつあるのかもしれないが、そんなところで無駄な労力を費やして、他のところがおろそかになってはまずいのかも知れないが、実際はどうなのだろうか。アメリカから押し付けられたものではなく、自主憲法制定という大義が果たして大儀なのか、そのへんのところを国民が疑問に感じてしまったらまずいだろうか。例えばイギリスとかは成文化された憲法なしで、国家として成り立っていたりするわけで、そういう事例からすれば、別に憲法などあってもなくてもかまわず、憲法違反などメディアが大げさに騒ぐほどのことでもなく、それを騒ぎ立てること自体が、大して正当性のあることでもないのかも知れない。とりあえずアメリカだのフランスだのが成文化された憲法を持っているので、その他の国もそれに倣って、成文化された憲法をこしらえているだけで、そういう国家的な慣習を受け入れるか否かなんて、大して重要だとは思えなくなってしまうとまずいのだろうか。国民が大前提として国家権力の組織や権限の基本原理を認めないとなると、国家としての体をなさなくなり、国家そのものがフィクションであり、共同幻想の産物だとかなってしまって、そういう間違った認識が国民全体に広まれば、それはそれで愉快なことかもしれないが、日本の周りにも国家があるわけで、どんな国家も対外的には国家主義を堅持している限りは、どうしても国家という存在を前提としなければならず、たぶんそんなところから、容易にはフィクションや共同幻想に移行するわけにいかないのだろう。そんなわけで結局国内に向けては民主主義の幻想を振りまき、国外に向けては国家主義で対外的ににらみを利かせ、それで国家が成り立っているようなものだとすれば、憲法第九条があると、対外的ににらみを利かせられないとなるのだろう。確かにそれはきれいごとを語る度量のない政治家たちにとっては、厄介な問題かもしれないが、そんなことなどどうでもいいと思うなら、国家が存在するという大前提そのものを疑ってしまってもいいような気もしてくる。

12月15日

 ここから見える地平線の彼方には何があるのだろうか。海があるのかもしれない。山もあるだろう。そして人がいて、何かやっている。何を思っているわけでもないらしい。そんなことを語る意味もない。ではなぜそうなのだろうか。いつものように理由はない。ただなぜそうなのだろうかと問う。そんなことを記しているようだ。知らないうちに何かから影響を受けているのだろうが、きっとそうは思わないのだろう。自分の意志でそんなことを語っているような気がする。具体的には何でもないのに、何だか遠くまできてしまったような気がする。気がするだけのようで、実際にはそれほど遠ざかってはいないのだろう。でも気分としてはかなり遠ざかっている。人としてこれでいいのだろうか。静かだ。でも成り行きに逆らうわけにもいかず、流れに身をまかせ、どこまでも流されてゆくだけのように思われる。君はそうなることを予感して、実際にそうなってしまった。それでいいも悪いもなく、現実にそうなり、ここに至り、後から悔やんでいるわけでもなく、そんな成り行きの中にその身を置き、そこで考えているわけだ。これからどうしたらいいのだろうか。すでにどうかしているから、どうかしたままでいいのではないか。何でもないように振る舞いながらも、そんなふうに語っているわけだ。それ以上の成り行きには至らないだろう。それを超えて何が起こるわけでもなく、きっと何も起こらない。そんな予想を超えて何か起こるとしたら、それは思いもよらぬ出来事に違いない。何も起こらなければ、しばらくはそのままなのだろう。それでかまわないと思っているのかもしれないが、きっと思いがけないことが起こるはずだ。そうでなければこの世界には何の魅力もないのではないか。それを信じて、さらに語るべきなのか。

 しかしこの世界のどこに幻影があるのだろう。映像がそうなのか。君が見ている映像が幻影なのだろうか。あるいは現実に見ている光景がそうなのか。思っていることが何を意味しているのか。たぶんまたくだらないことを考えているのだろう。きっと誰かがどこかで自らの妄想を膨らませ、それを自身の行動に結びつけているのかもしれず、それがこの世に幻影をもたらしているのだろうか。世の中にはおかしな人はいくらでもいて、君もその中の一人なのだろうか。そう考えれば納得がいくだろうか。心に痛みを覚え、そんな幻覚とともに、何か適当なことをあれこれ考えている。具体的には何も記せない。記さなくてもかまわないのだろうか。記す必要のないことを考えているのだろうか。歴史が終わり、新たに再開される。そんな節目が過去にあったわけか。そんなことを今から二十年以上も前に語っていた人たちがいるらしい。君はそこから影響を受けている。でもそれはとうに過ぎ去ったことであり、二十年後に暮らしている人々にとっては、そんなことはどうでもいい出来事に過ぎない。ベルリンの壁が崩壊してソ連も消えてしまったのは、そんな出来事の一部だったかもしれず、それは自由と民主主義と資本主義の勝利だったはずだが、そこから世界はどう変わってしまったのだろうか。君も今やそんな出来事や事柄からは、時間的に遠く離れた世界にいるらしい。そして今さらそれらについて何か語るべきことがあるとは思えず、その時期に出ていた対談集を読みながら、当時の世の中に関して言われていたことが、今ではだいぶ古びてしまったような感じを覚えるだけか。でもこの二十年間で世界はどう変わったといえるのだろうか。例えば湾岸戦争やイラク戦争で何が変わったのだろうか。戦争に勝ったことになっているアメリカの相対的な影響力の低下か。オバマがそれらの戦争の後始末をつけたということか。でも未だに無人機で爆撃を行い、つい最近も誤爆で多数の人命を奪ったらしいし、まだ当分は後始末を付けるには至らないのかもしれない。

 そういえばソマリアは相変わらずこの二十数年間無政府状態で、付近の海域では海賊が出没していて、まるで漫画のワンピース状態か。それでも新聞やテレビやラジオ、それにインターネットなどの普及も進んでいるそうで、無政府状態でも人々は暮らしていけるらしく、とりあえず暴力だけが支配している悲惨な状況とばかりはいえないようだ。そしてこのまま無政府状態が近隣諸国にも及び、いずれ全世界がソマリア状態となれば、ワンピースの世界がこの世に実現するわけか。もっともそれには世界政府の存在が不可欠か。とりあえず国全体を掌握して統治する政府があっても、北朝鮮みたいなことになってしまうと、まだ無政府状態の方がマシなのかもしれず、ソマリアと北朝鮮では無政府状態と独裁国家の両極に位置する存在かもしれないが、安全地帯の日本にいながら他人事で無責任なことを述べるならば、何となく無政府状態には夢がありそうに思えてくる。毎日命の危険に脅かされながら、紛争地帯で暮らしている人からすれば、日本はまるでこの世の天国のように思えるかもしれないが、実際に住んでみればそうでもないことに気づくはずで、カネとカネを稼ぐあてがなければこの世の地獄なのではないのか。それは世界中どこへ行ってもそうなのかもしれず、少なくとも資本主義が発達している先進諸国ではそういうことになりそうで、カネの有る無しがそのまま力の有る無しに直結しているわけか。ではこの世の天国はどこにあるのだろう。要するにカネがなくても暮らしていければ、そこが天国なのだろうか。暮らしていけるだけではだめで、何かに束縛されず、勝手気ままに暮らしてゆけなければつまらないのではないか。例えば生活保護世帯は行政に束縛されて、窮屈で後ろめたい暮らしを強いられている。ではカネがなくても勝手気ままに生きてゆくにはどうしたらいいのだろうか。海賊になればいいわけか。でもソマリアの海賊みたいに、命がけて他人からカネを奪わなければならないとすると、勝手気ままというわけにもいかないのではないか。


12月14日

 気概とは何だろう。いらぬことまで考えようとすることと何か関係があるのだろうか。でもなぜそう思えてしまうのだろうか。そう思う理由がわからず、いたずらに無用な言葉を連ねるばかりとなっているようだが、そんなふうに思えてしまうのだから仕方がない。まだ時期が早すぎるのであって、その理由は後の時代にならないとわからないのだろうか。ならばもう少し待たなければならない。いつまで待つのか気が知れないが、いつものように待ちくたびれて、理由がわかる頃には、そんなことなどどうでもよくなってしまうのかもしれないが、そして忘れた頃に知りたくもない理由を聞かされ、腹が立ってしまったりして、そのとき腹が立っている理由さえわかず、やはりそんなこともどうでもよくなってしまい、そんな理由を考えるのが面倒くさくなっているのだろうか。何を想像する理由もありはせず、どう考えてもうまく説明できないようで、考えていること自体が要領を得た説明に至るのを阻んでいるのかもしれず、要するに考え過ぎなのかもしれない。それでも君は様々なことを考えていて、考えすぎていることを楽しんでいる。いくら考えても虚しくなるだけで、それが愉快でたまらないらしく、ひたすら無駄に考える。もはや矛盾しているどころではなく、思考の暴走を食い止められなくなっているのかもしれない。そんなふうに思えば納得がいくだろうか。でも相変わらずそう思う理由がわからないままで、納得がいかない理由もわからない。

 すべてが昔の思考のようだ。人はそれを簡単に考える。そんなことではないのにそう思い、そう思わなければ気が済まなくなり、そういう思考が自らの内側で固まってしまう。人々はそういう凝り固まり具合を競い合い、それを見せびらかし、自慢し合っているのだろうか。要するに固定観念にとらわれているということだろうか。それをごり押しすればするほど、そうやっている自らの勝利を確信するわけか。結局は力を行使して、標的となる者を黙らせる。そんなやり方となるしかないらしく、実際に飽きもせずそんなことが執拗に繰り返されているのだろう。いくら世の中の仕組みを変えようとしてみても、そういう傾向はなくならず、程度の差があるだけで、例えば北朝鮮では邪魔者はすぐに殺されてしまうが、日本では長期間に渡って執拗な批判に晒され、それが当人が役職を辞めるまで続けられるわけか。邪魔者の社会的な立場にもよるのだろうが、法律違反が明確になれば、日本でも身柄を拘束されて裁判にかけられ、罪に応じて何らかの社会的制裁を受けるのではないか。場合によっては死刑になって、実際にそれが執行されているわけだ。そして人々はどうしても死刑制度をやめたくないらしく、世論調査をすれば死刑制度を容認する意見が多数を占めるのだろう。それでも死刑制度を廃止したら、日本の国会議員の良識を世界が賞賛するのかもしれないが、今のところはそこまで人間ができている議員は少なそうだ。事故になった時の原発の危険性や放射性廃棄物の処分場問題より、再稼働させた時の経済的な利益が優先されるようだし、まあその程度の人たちといえばそういうことなのかもしれない。

 それでも楽しい世の中には違いなく、思い通りに振る舞えれば愉快な気分となれるのだろう。そうなるには何かを断念して、断念したことを忘れ、断念したこと以上の価値があるように思われる行為に夢中になれれば、それで気が済んでしまえるのかもしれず、思い通りにやっているような気になれるのだろう。そんな気になれない人はどうするのか。それなりに生きていけばいいだけか。言うは易しで行うは難しなのだろうが、あまり物事を簡単に考える気にはなれず、簡単にうまくいくようなことをやっているわけでもないらしく、うまくいかずに思い悩みながら生きている人が大半なのだろうし、それもどうということはない世の常であって、その時々でそれなりに喜怒哀楽の気分を経験しつつ、生きて死んでいくだけで、その合間に何か考えているのだろうが、うまく考えがまとまらず、苦労して何か成し遂げたつもりでも、あっさり無視されてふさぎ込み、嫌になってしまうのかもしれないが、やはりそれがどうしたわけでもなく、相変わらず考え込み、相変わらず何かやっているのであり、懲りない性分なのかもしれないが、腐らず焦らず地道にやっていくしかないようで、あまり過度な期待は抱かず、そんなものだと思うしかなく、冷めた気分で何かを続けながら、そのへんで何かがうごめいているわけか。何がうごめいているのか。現状を捉えるとすればそうなり、それが間違っているとも思えないが、できればそんな現状から抜け出して、何かそれとは違った状況に至りたいのだろうが、今のところは抜け出せないようで、相変わらずの現状に嫌気がさしつつも、そんな現状の中に安住しているようで、それはいつまでも続かないことは承知でいるらしく、将来に対する漠然とした不安に苛まれ、でもそれをどうすることもできず、結局はそれ以外は何もできないまま、そこにとどまっているわけか。

 君は何をあきらめてしまったのか。今では幻想に浸っている気にもなれず、ただひたすら考えている。それも君の想像から生じた幻想の一部だろうか。本当は何も考えていないのかもしれない。精神的に追い込まれて考えるゆとりさえ失ってしまったのか。またそんな作り話が生じようとしているらしい。テレビのバラエティー番組で遊んでいるふりをしている芸人たちは、何か他にやることがあるのだろうか。たぶん他にも仕事があり、それなりにきつい仕事をこなしているわけか。テレビ番組を仕切り、高い出演料を得て、つかの間の何かを享受して、人々にそれなりの話題を提供しているわけだ。そして番組のスポンサー企業の宣伝に一役買い、そこからカネが出ていて、NHKなら強制的に徴収した受信料からカネが出ていて、そんなふうにして何かが成り立っていて、そこで成り立っているシステムの維持継続に貢献しているわけか。どこでもやっていることは変わらないようで、それが国家となると、国民から強制的に徴収した税金と、国債を発行して得た借金によって、それらのシステムは維持継続されていて、国民が選挙で選んだ議員が議会でそれらを運営する予算を承認する仕組みとなっていて、そのシステムを統括する責任者も議員から選ばれ、形の上では国民が自ら進んでそれらのシステムを運営する主体となっているわけだ。しかしなぜそれがとんだ茶番だと思われるのだろうか。それが形の上だけであり、実質的には違うわけか。実質的にもそうなのではないか。要するに形の上でも実質的にもそうなのであり、そうだからこそ、とんだ茶番だと思われてしまうのではないか。それが議会制民主主義の制度の本質であり、多数派による支配とはそういうものであって、民主主義と呼ばれる人間を支配する制度自体に、えも言われぬ嫌な抵抗感がともなっているのかもしれない。


12月13日

 たぶん君は幻想の革命家とは違う方面で違うことをやっているのだろう。それは無益な行為なのだろうか。誰にとってもそうではないのかもしれないが、また不安となってきたようだ。何かがどうしようもなく違っているような気がしてならない。場所とタイミングがずれているのだろうか。それを語っている主体が問題なのではなく、そんな文章を読んでいるつもりの意識が問題なのでもない。ただ話を込み入らせて、誰を煙に巻こうとしているのでもないらしく、では何なのかと問うならば、何でもなければ何が問題なのでもなく、何も問題ではないとすれば、どう語れば問題となるのだろうか。でもなぜ問題となるような語り方を目指さなければならないのか。それが問題だ。どうやら相も変わらずわかったようなわからないような、予定調和の意味不明を繰り返しているらしい。それが問題なのだろうか。それ以外の何が問題なのか。

 とりあえずアメリカが世界のすべてを支配しているわけではなく、そんな国家の幻影にいつまでもおびえていても、勘違いが増幅されるだけで、それこそ根拠の定かでない臆見に惑わされている証拠かもしれず、もちろんそれでもかまわず、そう思いながらも、そういう勘違いに抗っているふりを装いつつ、アメリカの世界支配に抵抗している気でいればいいのかもしれず、そこからまともな言説が導き出されると思い込んでいれば、そんな傾向の文章が記されるのだろうし、実際にそれを記しているのではないか。でもそれが予定調和の意味不明をもたらしているのだとは思えないか。ではそれらの内容は相変わらずのでたらめなフィクションの域を出ない話なのか。そう感じているのなら、それもそういうことに違いなく、そんな話をおもしろおかしくこねくり回し、そこから何やらおかしな思想を練り上げればいいのかもしれず、実際に君はそうしているのではないか。それでは何の救いにもならないが、救われようとは思っていないのだから、それも予定調和のたぐいで、そんな文章を記しては読み、そんなことを記している自らの愚かさを笑っているだけでは埒が開かず、それが嫌なら、何かそれとは違った方面へと、それらの言説を軌道修正して向かわせなければならない。まさか今それを試みている最中なのだろうか。でもそれでは予定調和とはならないのではないか。そういう成り行きから抜け出るためにそんなことをやっているわけか。まさかそれはないだろう。

 君がそれに関してどう思っているのでもないらしい。ただそれよりも重要な何かを見出そうとしている。でもそれはいつもの思わせぶりなのではないか。君が求めようとしているものは、常にそれとは違う何かであり、求めているものは求められない何かでしかない。だからそこから語れることがあるとするなら、それはいつもとりあえずのことでしかなく、とりあえずアメリカの世界支配の戦略について語っているつもりで、その実それとは関係のない他の何かについて語ろうとしているわけだ。たぶんそれはありもない妄想のたぐいか。推測や憶測のたぐいには違いないが、リアリティを得られるとは思っていないようで、SFやオカルトもどきの内容になってしまうのかもしれず、そうなったらなったで、笑ってごまかせばいいようなことでしかなく、なるべく本気に受け取られないように工夫を凝らすべきか。冗談のたぐいには違いなく、冗談で済むような内容にしたいのかもしれず、できればそこから逃げてしまいたいのだろうが、果たして逃げ切れるだろうか。そのつもりでそんなことを述べているのではないか。

 特定の国家が世界の覇権を握っていると仮定したところで、そこから何が得られるとも思えず、何を得ようとしているのでもなく、現実に何がもたらされているわけでもなく、誰がそんな認識を真に受けて暴走しているのでもないらしく、それに動揺して何を取り繕ってみても、大した結果には至らないだろう。たとえ国家間で何かの交渉が決裂したとしても、そんなことにいちいち動揺する必要はなく、特定の諸個人には関係のないことだと思っていれば、それで済んでしまうような状況なのだろうか。君が実際に見聞きしながら体験している現実とはかけ離れた次元で行われていることであり、それについてどう思ってみても仕方のないことなのか。でもそれがいつものいいわけとどう結びつくのか。いいわけとは何だろう。それは自らが無力であることのいいわけに結びつくのか。たぶん無力ではなく、人は諸個人が生きている社会環境の中で、常に力を行使する状況にあるのではないか。

 ところで穿った見方をすれば、すでにアメリカの世界支配は終わりを告げていて、ヨーロッパもロシアも中国もアメリカとは一線を画していて、それぞれに独自の路線へ歩みだしているようで、今世界で未だにアメリカの勢力圏にあるのは、イスラエル・カナダ・メキシコ・日本・韓国ぐらいなものだろうか。たぶん日本も遠からずその勢力圏から離脱していきそうな気配があり、日本政府や自民党の首脳も気が気でなく、いろいろわけのわからない法律を制定したりして、必死になってそれを食い止めようとしているのかもしれないが、何だかもう終わりが近いみたいだ。それは本当だろうか。そうなったらおもしろそうだが、実際は違うというのか。いったいどこにそんな兆候を感じられるというのだろう。たぶんそれは日本にではなく、アメリカの国内でそういう方向へ成り行きが進んでいきそうな気配なのだろうか。では日本がアメリカから見捨てられる日も近いということか。まさかとは思っているのだろうが、実際にそうなったら愉快だろうか。


12月12日

 その語り方に期待させる雰囲気は感じられない。ではもう謎解きは終わったのか。あるいは謎解きの途中で探偵気取りが殺されてしまったのか。そんな小説を読み、呆れているのだろうか。それともすでに謎解きをあきらめてしまったのか。話としては探偵気取りを殺すために復讐鬼が謎解きを仕掛け、まんまと罠にかかった探偵気取りを殺して、その短編小説は終わりを迎える。何かがその場を立ち去り、それと入れ替わりにまた他の何かがやってくる。誰かが見ているのはそんな光景か。おそらく君は何も見ていないのだろう。考えながら言葉を記す。考えてなどいないはずだ。何を否定するまでもない。すべてを否定したいが、それで何がどうなるとも思えない。本当は何も否定できないのかもしれない。時間が止まっているのだろうか。誰かが銃殺される瞬間に時間が止まり、あれこれ考える時間が与えられ、考え終わればまた時間が動き出し、銃殺されてしまう。銃殺される前の晩に見た夢の中で、神への祈りが天に届き、神が考える時間を与えると告げたようだ。それが現実のものとなり、彼は止まった時間の中で心行くまで考えを巡らし、心の中で自らの著作を納得がいくまで手直ししながら、至福の時を過ごす。そんな話は不条理か。フィクションだからそんなでたらめでもかまわないのか。過去に誰かがそんな小説を書き、それに関する膨大な草稿がその死によってやり残されたままとなり、打ち捨てられ燃やされる寸前にどうなったのだろうか。何を考えても無駄かもしれないが、いつもと代わり映えのしないことを考えているらしい。誰も知らないそんな物語が他の誰かの手に渡り、世間で公にされる機会をうかがっていて、いつかふとしたきっかけでその機会が巡ってくるわけか。誰かの亡霊はそれを待ち望んでいる人がいるとでも思っていたわけか。何も期待していないはずだった。希望も持ち合わせておらず、半ばあきらめかけていた時に、どこかのフィクションの中で架空の登場人物がそれについて語りだし、それの実在が否定されてしまう。実際にそんな物語など書かれてはおらず、それが公表される話自体が出来の悪いフィクションだったわけだ。そんなわけでただ話を込み入らせ、他の誰かを煙に巻こうとしていたようだが、それ以前に話が退屈すぎて、話の中で人々の関心を失っていたようだ。どうやら君は何かを語りだす以前にあきらめてしまうらしい。何だかわからないが、馬鹿げた話の構想を練っている最中に魔が差し、そこでやめてしまい、結果的には何も考えていなかったことになるわけか。

 何かを読んで誰かが影響を受けているのかも知れないが、それをもう少し詳しく語ってみたらどうか。君の話はまだ終わっていないらしい。革命家の話はどうなったのか。顔に大きな傷跡がある男の身の上話をボルヘスが語りだしてしまうわけか。裏切り者で革命家の英雄譚とはどこか違うのかも知れないが、皇帝になる直前で殺されたのがカエサルで、天皇になる直前で殺されたのが足利義満で、他に誰が何になる直前で殺されたというのか。そこに何やらその方面では有名な人物がいるらしく、何かのついでにそのエピソードも語っていたのだろうか。でもすでに読んでしまい、その話はもう忘れようとしていて、だんだん思い出すのが面倒くさくなってきて、いい加減にでたらめをつけたし、元の話が何だかわからなくなってきて、結局それは誰かがねつ造した作り話と化してしまう。読んでいて退屈な印象を受けたのかもしれない。そこで語られている紋切り型は何だろう。世の中の制度に抵抗する者たちが勝者となることはない。最終的には友や師を裏切り、汚名を着せられ、どこか遠くへ逃亡し、悲惨な余生を送るのがそれらの物語につきまとう慣わしか。誰かは落馬して半身不随の人生を送りながら思索にふける。君はそこで何を夢想しているのか。それは君にしか通用しないルールであり、他の人にしてみれば、言葉のくだらぬ遊戯に過ぎないことだ。話としてはあるとき不意に何かが起こり、それについて語らなければならなくなり、そういう成り行きに身をまかせれば、そこからフィクションが生じていくのだろうが、そんなふうに語っている自身が、すでにフィクションの中の登場人物であり、存在の虚構化を免れられぬ意識の持ち主となっている。人は今ある退屈な現実を容認することができない。だからさかんに書物がもたらす作り話の中にその意識を埋没させようとしているのか。退屈に感じている現実こそが、それらの書物を生じさせる原動力となっているのではないか。人は幻想を求めて書物を読み、それで退屈しのぎになったとでも思いたいのか。でもそう簡単には事が運ばず、書物の内容も退屈に思われ、そうではないような話の内容を夢想しているわけだ。もっと何かおもしろおかしく、興味深い出来事に巡り会えないものか。中にはそれに出会うために旅に出かける者もいるらしい。それがいらぬ寄り道をもたらし、命の危険を感じさせるようなスリル満点の事件にでも巻き込まれ、実際に命を落として無言の帰国をして、それがニュースになったりするわけか。冗談には違いない。それ自体が虚構からの逃亡であり、受け入れ難い現実を形成しているわけか。そして話のつじつまが合わなくなる。

 どうやら君のくだらぬ妄想力には期待できそうもなく、虚構の逃亡者にも期待できない。革命も何も、結局アイルランドもその大部分はイギリスから独立したのではないか。北アイルランドが残ってしまったのかもしれないが、それ以前にジャガイモ飢饉で多くの餓死者と移民をもたらし、その大地にはもう何も残っていないのではないか。イギリスという国民国家の支配がアイルランドを国民国家として独立させ、その後に何が残ったというのか。U2が世界規模のロックスターとなって、ボノがアフリカのために活動中か。そう述べてまた話を革命から逸らしているようだ。実際の革命によって多くの血が流されたにもかかわらず、その結果は保守反動をもたらし、それらの試みは簡単に否定され、調子に乗った現状維持派から嘲笑され罵声を浴びせられ、革命を熱狂的に迎い入れた住民の間に、根深い不信感と諦念をもたらしているわけで、結局そうした感情が理性に打ち勝ち、結果からしか物事を受け止められない認識にとらわれ、ひどい目にあったという被害妄想が心を覆い、そういう人々が死に絶えるまでは、なし崩し的な現状維持にごまかされてしまうのだろう。すでにその時点で取り返しのつかない事態に陥っているわけか。でもそれも君の妄想から生み出された虚構の作り話のたぐいではないのか。それに付随する様々な出来事がもたらした成り行きは、それぞれの時代や状況で違っていて、ありふれた単一の物語では収まりがつかず、多種多様な結果をもたらし、フィクションによってはそれらのすべてを語り得ないのだろう。そんな歴史にどんな理論を当てはめようと、どのように語り、いかに説得力を得ようとしても、部分的にそうなるだけで、それほどリアリティを得るには至らず、そんなことを語っている時点で、ある種の物語に支配されているのであり、それは文化人類学の物語であったり、構造主義の物語であったりして、語っている当人を心地よい納得に導き、そんな書物が著されて、それを読んだ多くの人も納得するのかもしれないが、やはりそこから何が出てくるとも思えない。ただそうではないのかもしれないと思うだけで、それとこれとはまた別の話で、実際に革命を夢見て現実に敗れ去った人たちと、そういう試みに影響されて、そんな書物を著して人々に啓蒙を呼びかけている人とは、まったくの無関係とは言い難いが、やはり違う方面で違うことをやっていると見なさざるを得ず、それらの行為やそれらがもたらす光景を伝えようとするメディアも、やはり違う方面で違うことをやっているのであり、またそれらに啓発されて、そんな小説を書いて世に問うた著者も、やはり違う方面で違うことをやっている輩の一人なのだろう。


12月11日

 遠くで誰かがささやく。そこに馬耳東風な何かを感じるが、それは人々が持ち合わせている利点のひとつだろうか。そういう行為に出て何かを伝えたいのかもしれないが、やはりそれは馬耳東風なのだ。そうなるしかないだろう。やっているのはそんなことであり、語り得ないのではなく、わざと語らないだけなのかもしれず、そうやって何を伝えたいのでもなく、何かを伝えたい素振りを装いつつ、その実何も伝えたくないのだろう。そんな思惑を感じつつも、要領を得ない説明に終始する。それもわざとやっていることなのだろうか。本当はうまく説明できないのかもしれない。また説明しようのないことを説明している気でいるらしい。確かに説明できていない。何を説明すればいいのだろうか。何が問われているのでもないことが致命的な欠陥をもたらしているのか。それを感じつつも、何もできないでいるらしい。ところで致命的な欠陥とは何なのか。語ることが何もないということか。それはいつもと変わらない状況か。そんな嫌な流れを断ち切って、何かを前進させたいところだが、何かとは何なのか。そこで行き詰まってしまっては元も子もないか。そのへんがうまく語れないところらしい。

 『バベルの図書館』は簡単に読めたが、それがどうしたわけでもないことに気づく。他にもそれはあり、それだけではないようで、それらをすべて読むには至らないのだろう。そういうスノッブな図書館幻想自体が、もはや昔の話題となってしまったようで、今や電脳仮想空間によって実現している現実がそうなのだろうか。確かにネットは無限の図書館と化しているようだが、それは無際限であり、とりとめがなく、そこから何を探し出そうとしても、すでに探し出そうとしている当のものが、どうでもいいものであることに気づかされ、お宝でも何でもなく、ただの情報に過ぎず、今さら無限の図書館などと、もったいぶって説明されるようなものではないのかもしれない。すでにそうした知の制度自体が崩れかかっているのだろう。でもそうした制度にしがみつきたい人は大勢いて、現実にそうした人たちによってそれらの制度の権威が保たれているわけか。そうではなくネットも図書館もすべてが共存していて、互いに棲み分けができていて、より低価値なネットからより高価値な図書館へと序列や階層構造をなしていて、相互に知を補完し合い、それらを含んだ総体で無限の図書館を実現しているのだろうか。しかしそれらを利用して人々は何を探し求めているのか。それは様々な物事であり、人によって立場によって、その時々の成り行きによって、探し求めている物事はそれぞれ異なってくる。

 君が探し求めているものは何なのか。その時々によって異なり、その場の気分次第でどうにでもなってしまいそうだが、たぶんそのほとんどはたわいのない物事となるだろう。そしてネットで調べて、そのたわいのない検索結果にがっかりして、さらなる探求をあきらめてしまい、次第に煩わしくなって飽きがきて、何を探し出そうとしていたのか忘れ、忘れたふりを装い、思い出せなくなったように見せかけ、そんな自らを欺き、忘れた頃に不意に思い出す。何かが不意打ちを仕掛けてくるのだろう。そうでもしない限り、興味と情熱を持続させられないのではないか。そんなはずがない。今も何かを探し求めているはずで、その何かが何なのか、それを知りたがっているのかもしれず、ああでもないこうでもないと思いと考えを巡らし、必死に探し求めているのかもしれない。そう思い込みたいのだろうか。現実には無意識のうちに虚無を探し求めているのかもしれない。そう考えることに何の根拠もありはしないが、探し求めていること自体が目的化してきて、結果的に何が探し出されようと満足せず、探している途中の心境に至りたくて探しているのかもしれず、どんなにたわいのないことでもかまわず、何やら暇にまかせて検索を繰り返し、まるで謎解き中毒の探偵気取りのような気分となり、さかんに何かを探求し追求している気分を味わいながら、それで何かやっている実感を得たいのかもしれない。でもそんな手の込んだごまかしをいくら弄してみても、ただ虚しいだけではないのか。

 それでも君は知っている。その気もないのにをそんなことを語っている誰かの真意を探るには及ばない。まさかそれはエントロピー増大則と関係があるのだろうか。いきなり馬鹿げた思考が発動しているようだが、どう考えても話がまとまる方向にはないらしい。そんな気配を感じながら、まだ何か語れるとしたら、それは何なのだろうか。探し求めていたものがついに見つかった瞬間に思いを馳せているわけか。それらの果てしない探求の果てに、何かの果てがあるとしたら、その果て自体が果てではなく、やはりそれらの探求自体がごまかしなのであって、探す理由もないのに理由をねつ造し、それを利用しながら探求し続けて、その果てに自らの納得のいく結果に至りたいのであり、ああではないがこうでもなく、こうでもなくてああでもないなどと、ひたすら思索に耽りたいのかもしれず、最初のうちは単なる二項対立状態と考えられていた物事が、だんだん思考の対象となる事物が増えてゆき、それらの事物間の関係も複雑怪奇となってきて、ついには無限に細かくなっていく方向で、世界には無数の思考対象があり、それらの対象についてひたすら思考を巡らしながら、そんなふうに考えている自らの存在意義を肯定したくなってきて、わけのわからない無限の書物でも編纂しようとするのだろうか。まさかそこに世の中のすべてを知りたいと欲する野望でも生まれるわけか。それがライプニッツ症候群と呼ばれる病なのだろうか。そのへんのところは他の誰かに訊いてみた方がいいのかもしれないが、訊いたところで真っ当な答えが返ってくるとも限らないか。そこには問いだけがあり、それは答えの出ない問いなのかもしれない。


12月10日

 何事も語るようには進まない。それは小説だけではなく、評論や随筆もあるらしい。すべてが短く、難なく読めてしまうようだが、心に響かず、頭に入ってこない。内容を具体的に語れないのだろうか。様々な方面に及んでいて、一概にはいえないらしい。世界は広い。空想上の別の惑星でも人が住んでいる。それは小説の中の話だろう。外では雨が降っているらしい。たぶん話がまとまっていないのだろう。どこかで諍いが起こり、人が何人か殺められ、警察でも乗り出してきたのか。辺りが騒がしくなってきたようだ。確かそういう話ではなかったか。要するに誰かを探して誰かが旅立ったのだろう。よくある話ではないのか。話のあらすじが違っているのもよくあることかもしれない。誰かの創作をけなしているつもりで、何か語っているようだが、何となく上の空だ。雨が気になるのだろうか。どこかの架空の国の歴史を物語っているようだ。過去の世界に登場する架空の歴史家が書物を著し、それを読みながら話を進めているらしいが、あくびが出る。話の中身が退屈なのだろうか。ただ眠い。途中で随筆と評論と小説がごっちゃになっているようだ。そのへんの記憶が曖昧で、次第にどうでもよくなってくる。すでに誰かの作り話と融合して、元の話が何だかわからなくなってくるが、まだそれを読んでいる途中なのだから、今のところはでたらめでもかまわないようにも思われ、何だかわからないのはいつものことで、そのままで済ませてしまいたくなる。確かにこの世界は広い。具体的な固有名のほとんどがなじみのない名前で、たまに有名な歴史上の人物の名前も出てくるが、必ずそこにはひねりが利いているようで、実在した当人とは違う人物に仕立てられ、現実の歴史の中で語られる出来事とは無関係な事件の渦中でうごめいている。君は誰なのか。誰でもなければ知ったことではないのか。それでも思考はまだマシな認識へとたどり着けるのか。でもそれは冒険ではなく、魔導士が自らの分身を苦心して制作したとしても、たちまち自らがそれ自身であることに気づき、突然吹きつける炎の中で炭化して、意識は残りかすとなった黒い塊から抜け出て、青白い炎とともに空高く舞い上がり、空の青さと区別がつかなくなって、そのまま消散してしまう。何の話でもありはしないようで、誰の空想とも結びつかず、まったくのでたらめで、話のつじつまを合わせるつもりもないらしい。要するにジャングルに埋もれた廃墟の中で幻想と戯れているだけか。それもフィクションの中に描き出される光景なのだろうか。

 記憶とは何だろう。嘘をつくために記憶喪失になっているのだろうか。まだそれ以上の話にならない。語っていくうちにだんだんもとの話の原型が崩れてきて、世界各地に伝わる民話だとか神話だとかに浸食され、つまらない寓意も付け加えられ、ありふれた結末めがけてミイラ化していくようで、それが途中の評論において批判の対象となり、そこに登場する架空の批評家が話の軌道修正を迫り、語り手はそれに抗いつつも、すぐに思いついてしまう寓意にも悩まされ続け、それを誘発してしまうような教養を身につけてしまった自らの生い立ちも呪いつつ、まだ話の終わりにはほど遠いところで、すでにどうしたらいいのかわからなくなっているようで、語ろうにも語り得なくなっているわけか。そんな成り行きなら納得がいくだろうか。でもそこで災いしているのは昔の記憶なのだろうか。ことさらにこだわっているわけではない。思い出は思い出としても、そんな思い出から何が生じているというのか。たぶんそこで語られようとしているのは何かのたとえではない。熱帯のジャングルをかき分けながら歩き続け、枝や刺で皮膚を擦りむき、虫の毒にかぶれながら、ようやくたどり着いたお目当ての廃墟は、壁が黒く煤ぼけていて、過去に焼かれたことを物語り、自らもその時の炎に包まれ、焼死していたことが思い出されるのだが、たぶんそれが作り話だからそう思われるのだろうし、過去の時点で殺された自分と今の自分が同一人物でないとしても、記憶の連続性をどう維持すればいいのか、そんなところでいくら考えあぐねていようと、本当らしい話にはならず、すでにリアリティを失っているのではないか。現実の世界から遠く離れ、誰かが思い描いている架空の惑星とも無関係で、歴史上の登場人物からも見放され、魔導士などというわけのわからない子供騙しの人物設定がおかしいのであり、そこにつけ込んできた架空の批評家からも呆れられ、もはや途中でそれらの物語を投げ出すしかない状況なのかもしれないが、まだ救いがあるとすれば、君はまだそれらの書物を途中までしか読んでいないということか。まさかそれとは別の著者を必要としているのだろうか。それが行き詰まりを打開するための鍵なのか。君はそこで何をごまかそうとしているのか。読んでいる途中の書物の内容からだいぶかけ離れたことを語っているようで、これでは『バベルの図書館』にはたどり着けそうもない。ではもうそこでギブアップなのか。そうでないとすれば打開策とは何なのか。たぶん別人同士の記憶の連続性など無視して語ればいいのかもしれず、そこで外しておいた括弧を改めてつけ直し、この世界の誰かについて、さももっともらしい逸話を探して、それについての吟味を記せば、見え透いたごまかしもそれなりに取り繕うことができるのかもしれない。

 嘘をつけなくなくても記憶喪失は便利な方便となり得る。あるとき不意に思い出したりするのであり、そんな自分に驚いて、そこから過去の思い出を語り始めるわけだ。空の青さに吸収されたのは君の意識ではなく、青磁の色だろうか。釉薬の色と貫入の肌理が気に入らないようだが、また暇を見つけて気に入った逸品を探せばいいことか。要するにそれらの話と読んでいた小説とは無関係なのだろうか。何かの評論と随筆の合間に短い小説が入り込み、読んでいて混乱させるのかもしれないが、すぐに読めてしまうのですぐに忘れ去られ、難儀せずに読み飛ばし、場合によっては読み捨て、何の印象も得られずに、ただ無駄に時を費やしてしまうらしく、それではまずいと反省し、またはじめから読み直してみると、読み飛ばしたり読み捨ててしまった読みをよみがえらせることが可能なのだろうか。どうやら雨がやんできたようで、雨音も聞こえなくなり、近所のマンション工事現場の音もうるさくなり、道を行き交う自動車の騒音とともに耳障りに感じられ、意識の集中が不意に途切れて我に返る。一度失ってしまった感覚がよみがえることはない。作り話の中ではそういう成り行きに話が進み、探していた人物に最後に巡り会ったとしても、それは話の途中でそれと気づかずに誤って殺めてしまった者でしかなく、最後に巡り会ったであろう人物とは、別の時期に書き直された同じ小説の中に出てくる登場人物であって、書き直す前の小説の中ですでに殺されてしまっているのであり、それが批評家を退屈させ、否定的な見解をもたらし、批評家自身も小説の中で架空の人物に仕立て上げられ、語り手に対して批判的な立場を担う登場人物として、誰かの作り話の中で語られてしまうわけだ。それが嘘なのだろうか。君はわざと話を込み入らせて煙に巻くつもりだったのか。たぶんそれらの関する面倒な説明をやり過ごそうとしているのかもしれず、そのためにはそういった回りくどい話をねつ造して、それによって誰かの気を逸らし、その間に語り終えてしまうつもりだったのだろうが、まだ雨が降ってきたようだ。どうやら気をとられていたのは君自身の方で、その間にだいぶ話が進展してしまったらしく、もはや君の出る幕も話に介入する機会もなくなって、それどころか置いてきぼりを食っているのかもしれず、誰かの読みはお目当ての題名の小説へと次第に近づいているようで、読み飛ばしたり読み捨てられたりした文章は、後からまた読まれる機会を見つけ出すのかもしれず、しばらく放っておけばいいような気もしてくるが、自分で殺してしまった人物に出会うために旅を続けている小説の主人公は、未だジャングルの廃墟で自らが作り出した幻影と戯れているようで、いつか君によってそこから助け出される話を、君自身が物語るのを期待しているのだろうか。


12月9日

 たぶん人それぞれであり、その場で何を述べていてもかまわないのだろうが、調子に乗って小難しいことばかり述べていると、周りの人間が次第についてゆけなくなる。それを語るには限界があるのかも知れない。いらぬ誤解を与えているのだろうか。それが勘違いのもととなっているのかもしれず、その勘違いをはらすために、さらなる詳細な説明を求めて、結果的にどうでもいいことをどうでもいいように語ってしまうのかもしれない。実際はどうなのか。本当にごまかしようのないことを語ろうとしているわけか。でも誰も語りようのないことを語っているとも思えず、たぶん誰かが語っているようなことを語っているのだろう。意識の外部からそんな語りが到来していることに気づかないのか。それでも人はどこからでも力を行使しようとして、どんなに些細などうでもいいようなことでも見逃さず、隙さえ見つかればそこを突いてくるものだ。いくらやっていることがえげつなくても、そんなことをいちいち気にしていたら何もできなくなってしまう。狂気の沙汰を装っているくらいがちょうどいいのかもしれない。正気とは思えないようなことをしていないと、気が済まないのではないか。倫理や良識などあり得ないような環境の中で何かをするとなれば、そういう感じでかまわないわけか。でも何がそれをもたらしているのだろうか。そんなところまで親切に指摘してあげるほどお人好しではないか。誰もがそんな具合に振る舞い、結果的に誤解が誤解を生み、もとから荒涼としていた背景がさらに荒んで、もはや後戻りができなくなるくらいに荒れ果ててしまえば、そこで終わりとなるわけか。そしてやりたい放題荒らすだけ荒らして、やりたいことをやって粋がっている輩は、得意になって自らの勝利を高々と宣言してしまうのだろうか。そんな成り行きでもかまわないのかもしれないが、やはりそのやっていることがくだらなく思えてきて、後は何も争う気にはなれず、ただ黙って事態の推移を眺めるしかないのだろうか。今日は雲って肌寒い。冬に寒さが身にしみて、布団にくるまり、そこから出て来れなくなっているのかもしれないが、それでも何か語っているとすれば、内容は自然とそんな感じになってしまうのだろうか。気にすることはないと思いつつも気にしているようで、そんな罠にはまり、だいぶ落ち込んでしまったようだが、気を取り直す気にもなれず、そのまま鬱状態を保ち、そんな演技に磨きをかけ、何やら気を病んでいるように装いながら、そのままふらふらとあてもなく街を彷徨い、歩き疲れていつものように公園のベンチに腰を下ろし、鳩を見ながら考え込んでいる光景を想像しながら、何となく至福の時を過ごしている気でいるようだ。またどこからともなく寒気が忍び寄ってきて、雪景色でももたらしてくれれば幸いだが、まだそこまで寒くはなっていないようで、気持ちの準備もできていないらしい。

 まだ心に余裕があるのだろうか。そんなはずもないのかもしれないが、とりあえずそこから遠ざかるには至っていないようで、しばらくそのへんをぶらつき、何かの幻想を抱き、それによって救われた気分となり、次第にそこから意識が外れてゆく様を眺めながら、空想の中で虚無と戯れ、止めどなく溢れ出てくる意味のない言葉を受け流し、気が向いたら一部を取り込んで記し、それを連ねているつもりのようで、そんな逆らい得ないような何かの流れに身をまかせ、どこまで流されてゆくのか見当がつかず、きっとどこまでも流されていって、身も心も疲れ果て、そこで息絶え、要するに溺死と見なされてしまうのか。そんな冗談のような話の展開を期待しているのか。実際はそうならないから、それが何かの冗談と思えてしまうわけか。もうそろそろ目が覚める頃だろうか。覚めたところで事態は相変わらずで、何の代わり映えもしない現実に退屈し、愛想を尽かし尽かされ、世界に見放され、まるで悲劇の主人公になったような気になれるかどうかわからないが、悲劇そのものがどこにもないのかもしれず、今や世界は喜劇や笑劇で満たされ、そこで人は人を小馬鹿にして、人から小馬鹿にされ、見限り裏切り、見限られ裏切られ、それを糧として生きているのかもしれず、いつまでもどこまでもこの世界から離れられず、世界に甘やかされて虜となっていて、時には自分が何か偉大なことをやっているような気になり、そんな独りよがりな思いにとらわれ、我を失い、何かを見失い、それが致命的な過ちだとも気づかず、手遅れになるまで突き進み、その結果がこんな状況をもたらしているわけか。楽しい状況だろうか。苦しみながらも強がっているわけか。痩せ我慢で空笑いを繰り出し、どうだと言わんばかりに胸を張り、のけぞりすぎて仰向けに倒れ、後頭部を強打して、そのまま瞳孔が開いておしまいか。そうならないように気をつけた方がいいだろうか。別に誰に向かって忠告しているわけでもなく、自らを戒めているわけでもなく、どこから何が発せられているとも思えず、ただそんなことが記され、それを読んで何を思うこともなく、そこを何事もなく通り過ぎ、どこか思いもかけぬところで交通事故にでも遭い、やはりそのまま終わってしまうわけか。でもそう述べて何を終わらせようとしているのか。それともまだ何も終わっていないと強がりたいのか。本当は困っているのではないのか。次第にそこから脱出できないような気がしてきて、何だか不安な気持ちでいっぱいとなり、切羽詰まって神に許しを請い、何を許してもらうのか心当たりもないのに、罪を忘れたまま許されるわけもなく、どうしても思い出せずに逆ギレして、今度は神を呪い、神社の神木に藁人形を打ちつけ、罰が当たって死んでしまうわけか。それも冗談のような終わり方だ。

 どうやらそれでも目が覚めないらしく、すでに永眠状態かもしれないが、そこで神にも運にも見放されているのは誰なのか。宝くじやサッカーくじが外れたのがそんなに残念なのだろうか。まだまだチャンスがありそうにも思えるが、それが思い違いで、当たるはずのないことを延々とやり続けているのだろうか。現実には何をやり続けているようにも思えず、そう思っているのも何かの思い違いなのかもしれず、思う必要のないことを思っているのか。いったいそこで何を説明しようとしているのだろう。それは偶然の気まぐれでそうしようとしているのではなく、本気で説明する気でいるのかもしれないが、今までのところはうまく説明できていないようだ。わざとそうしているのだろうか。説明しているのには違いないが、きっと説明不足で力不足なのだろう。そんな嘘もその場での説明になっているのだろうか。たぶん何かしら糧にはなっているのだろう。ともかく何かが一段落しつつあるようで、君は久しぶりに小説を読む。何の役に立つこともないだろうが、何となくそうしているのだろう。未来が見えているわけではない。何を予想する気も予言する気も起こらず、そうすること自体が身の程知らずのような気がしてくるが、なぜかそう思ってしまうらしい。何をどう思っているのかもわからないのに、そう思うも何もあったものではないが、本当に何も思わず、何とも思っていないだろう。すべての成り行きが君の目の前を通り過ぎ、どこか得体の知れぬ暗闇の中へとその姿をくらましてしまい、どうせしばらくしたら、もう何を眺めていたのかも思い出せず、何の思い出にもなりはしなかったことを悔やむ気にもなれず、ただそう思いながらも、他に何を思い出そうとしているのでもないらしく、君はそこで途方に暮れるばかりなのだろうか。笑っているばかりでは埒が明かない。本当は笑う気にもなれないのではないか。そう感じているのなら、今度はそんな現状を説明すべきか。今さら説明にこだわるべきではないのかもしれず、苦しくなったらその場の情景描写でごまかすべきなのだろうか。もしかしたらごまかすものさえ見つからないのではないか。何のごまかしもなく、辺り一面に出来損ないのおびただしい数の文が散らばり、それぞれの文と文とがつながらず、どんな文章も構成できずに、意味も意志も思考も担えず、そんなただの言葉の散乱が他の誰を悩ますこともなく、誰の気を惹くこともなく、そんな光景を眺めている君をその場に押しとどめているようだ。これからどうしたらいいのだろうか。またわざと悩んでいるふうを装うわけか。見え透いた演技だ。少なくともまだ終わったわけではない。終わり得ないのに終わろうとしているのでもなく、そんな状況を利用してさらに語り続けようとしているのでもない。ただそんな成り行きが君をその場に引き止めているのだろうか。理由など知ったことではないのにそれはないか。確かにその場にいる理由を知りたいわけでもなく、知ったところで何をどうしたらいいのかわからないだろうし、要するにそういう成り行きに抵抗したいのだろうが、抗いながらも語ろうとしてしまうから、さらに追い込まれてしまうわけか。でも実際にどこへ追い込まれているのだろうか。それを語らざるを得ない状況に追い込まれているわけか。


12月8日

 別に何を隠そうと意識しているわけでもないのだろうが、その場の成り行きが自然とそういう流れになってしまうのだとすれば、何か後ろめたいわけでも生じているのかもしれず、そのわけを探りつつ、どこかの探偵気取りが、そこで起こった事件の謎解きでもやり始めてしまうと、物陰に潜んで様子をうかがっていた真犯人が青くなってしまうわけか。そんなはずがないだろうが、知りたいのはそんな物語のあらすじなのだろうか。あらすじでも何でもないが、別にそれが知り得ないことなのではない。たぶんそんなことはとうに知っているはずで、今さら隠しても隠し遂せるものでもないらしい。それでも隠そうとして、さかんに辺りを見回しながら、隠し先を探しているのだとすると、それはよほど秘密にしておきたいものらしく、そういう成り行きになればなるほど、どうやってもその秘密を暴いて、白日の下に晒したくなるものだろうか。ではその秘密とは何なのか。扉についている蝶番が外れかかっている。気がつくのはそんなことでしかない。君は知りたい気持ちをはぐらかして、そこから逸脱しようとしている。目下のところ秘密を知る上で役に立つ情報など何もなく、代わりにどうでもいいようながらくたばかりを持ち合わせていて、他に何もないので仕方なく、それらを使って文章を構成してみるが、当然のこと内容はそれらのがらくたに似てくるようで、目を覆いたくなるような惨状を呈しているのかもしれず、ひたすら無関係なことを無関係なように述べていて、記された内容と記している言葉の連なりは、どこまでも平行線を辿るしかないらしく、お互いに結びつく契機が見つからず、いつまでも意味不明でわけのわからないことを述べているように感じられ、それがでたらめなのかがらくたなのか、はたまたその両方なのかどちらでもないのか、そんなことはどうでもいいのかもしれず、そんな文章を読み返しているうちに、次第にその内容がおもしろおかしく感じられ、何だか愉快な気分へと導かれているように思われてくる。ところでいったい君はそこで何を語っていたのか。それを今さら知りたいとは思わないのか。そんな文章を記している自らを思い浮かべてほくそ笑んでいるだけか。でもそれでしてやったりはないだろう。ではもっとまともな内容すれば良かったと反省すべきなのか。何やらそこで様々な思惑が離合集散を繰り返しているようで、なかなかひとつの方向性を得ることができずに、散らばり続けているようだ。どこまでもそう思われ、語り得ぬことを無理に語っているみたいになって、そのへんでやめておいた方がよさそうに感じられ、実際に中断を余儀なくされる。

 秘密とは何だろう。性懲りもなくそう問いかける。いくら問いかけてみても埒が開かないのはわかっているはずだ。それでも問いかけること自体に意味や意義もないこともわかっている。きっと無駄に問いかけているのだろう。無限に問いかけ、問いかけている主体が無限に後退する。そこから何か適当な物語が始まるのかもしれない。きっと何か隠しているのだろう。そういう疑いを生じさせる目的で秘密があるわけか。では中身が空の箱でも開けてみせればいいわけか。空っぽであることが秘密とされなければならないのか。まさかそれがパンドラの箱というわけでもあるまい。人を疑心暗鬼にさせるのはその手の秘密か。君は問いかける対象を知らず、知り得ないまま、なおも問いかけているわけだ。ペンタゴンの中庭には役に立たないがらくたが山と積まれ、やがて火を放たれ、盛大に燃え盛るだろう。そんな光景を夢想している誰かが、世界中のありとあらゆる秘密を探っているのかもしれない。君が待ち構えているのはそんな場所と時間なのか。ちなみに五稜郭とペンタゴンは敷地面積はどちらが広いのだろうか。知ったことではないが、そんなことを述べて何を狙っているのでもなく、どんな意図や思惑を隠しているとも思えない。きっと何かを象徴する建物なのだろう。軍隊・警察・工場・農場・オフィス・病院・学校・刑務所などは、人に規律を教え込む場か。そこで人は調教され馴致され、役に立つような人材となり、目的のために働かされる。中でも刑務所の囚人たちは、一見役に立たないように思われがちだが、施設内で懲役を科せられている人たちは、一応は出所した時に役に立つための技術を教えられているのだろうし、再犯を犯せば警察の仕事の糧となり、彼らの役に立つのだろう。そういう意味で考えるなら、病院の患者は医師や看護師の糧となり、学校の生徒は教員や事務員の糧となり、事件の被告は裁判官や検事や弁護士の糧となり、国民は政治家や官僚の糧となり、日本はアメリカの糧となるわけか。そんなわけであらゆる人たちはみんな人様の役に立っているわけか。でもそれらがみんながらくたのたぐいだと見なされたらどうだろうか。なぜ人間はがらくたなのか。国防総省の職員がみんなペンタゴンの中庭で火あぶりの刑に処せられているわけか。それはあり得ない妄想か。彼らは世界平和に貢献しない役立たずなのだろうか。そんなはずがないと思いたいが、果たして映画のワンシーンででも、そんな壮大で残酷なキャンプファイヤーを見る機会が訪れるのだろうか。中世から近世にかけてのヨーロッパではジャンヌ・ダルクをはじめとして、火あぶりの材料となる人物は数知れずだが、まさか今の時代に火あぶりはないとは思うが、わけのわからぬ幻想に心を奪われているらしく、果たして人が燃やされることで何の糧となるのだろう。確かに死ねば火葬されてしまうわけだが。


12月7日

 とらわれの身にとなってどれほどの月日が経過したのか。フィクションの中ではだんだん死刑が執行される日が近づいてきたようだ。現実の世界ではどうなのか。別にその手の小説を読んでいるわけでもないらしい。じっとしているとまたどこかがむずがゆくなってくるが、しばらく何かを忘れていたようだ。でも忘れていたものを思い出したわけでもなく、忘れたままになっていることを思い出したのだろうか。そんなはずがない。でもそれらの試行錯誤は無駄な悪あがきに終わるのだろう。確か君が思い描いていた話の中ではそうなっていたはずだ。またありもしない架空の話について語ろうとしているわけか。まだ君はそこから逃れようと思っているらしいが、死刑囚の他は誰が絞首刑にされるわけでもないらしく、電気椅子に縛り付けられて笑いが止まらなくなっているわけでもないのだろう。フランスのギロチン台はすでに廃棄済みか。あるいはその手の博物館に飾られているわけか。それに関して何を思っているのか知らないが、ただ眠い。目をこすりながらそんなことを感じている。そしてさらに思うことは君とは無関係で、他の誰かに降りかかった不幸をあざ笑っているわけでもないのだろうが、例えばダミアン神父は癩病にかかり、ダミアン少年は悪魔に取り憑かれていて、国王の暗殺を企てたダミアンは八つ裂きの刑に処せられた。世の中には不吉な名前があるらしい。一方自らの内なるダイモンからの指令を受け、今日もソクラテスはアゴラへと向かい、誰ともなく話しかけ問いかけている。果たして今日の獲物は誰なのか。彼もそんな余計なおせっかいが災いして、死刑になったのではなかったか。日常の光景から空想の世界へと話が飛び、検索画面には不吉な名前が並んでいるようだが、ともかく絞首刑などというむごたらしい惨状を見るのが嫌なら、さっさと死刑制度などやめて、死刑囚はみな南鳥島辺りに島流しにでもして、死ぬまで南国気分を味わってもらえばいいのではないか。そんな意味のない空想に、理屈も合理性も感じられず、そこにあるのは誰のものとも知れぬ記憶の断片であり、それを誰が見つけたわけでもないのだろうが、ネット上に情報として散らばっているらしく、別にそれを探し出して喜んでいるとも思えないのだが、そんな空虚で覆われた記憶をたどりながら、いつか来た道を後戻りしているわけでもないのだろう。そこに何があるとも思えず、カネの匂いを嗅ぎつけて、どこからともなく飢えたハイエナたちが集まってきているわけでもないらしく、軽薄なハウツー教室から刺客が送り込まれてくるわけでもないのだろうが、誰もが他人にその場限りのくだらぬノウハウを教えて、あわよくばカネを巻き上げたいのか。

 君がその時間帯で知り得たのは、ざっとそんなところか。どこかの山の中で不法投棄されたゴミに囲まれて、意味の定かでない隠遁生活を送っている仙人らしき人影を見たわけではないが、その白いヒゲに囲まれ歯の抜けた赤黒い口から出てくる言葉といえば何だろう。胡散臭そうな呪詛の言葉か、あるいは無の境地へと至る道についての崇高な教えか。誰を説き伏せようとしているのでもなく、誰に向かって語られているわけでもない。それは自己対話のたぐいで、飼っているつもりの野良犬に向かって、いつ果てるともなく語りかけていて、止めどなく言葉が口をついて出てくるらしい。しかし辺りをうろついているのは野良犬だけなのか。気に入らなければ野良猫や狸や狐などを付け加えてもかまわないのかもしれないが、あまり付け加えすぎてしまうと、話が錯綜してこんがらがり、わけがわからなくなってしまうのではないか。だからほどほどのところで切り上げて、以下同文で済ませたいのかもしれず、あまりしつこく食い下がっていると、気がつけば下品な物言いに終始しているように思われてしまい、デコレートが過剰でキッチュなバロックもどきの様相を呈してしまうだろうか。そんな心配をしている段階ではないか。それは杞憂といえば杞憂かもしれず、何がどこまで到達しているとも言い難く、まだいくらも語り始められてもいない話を、語られた結果から考えようとするのはおかしな話で、それも先回りしたがるいつもの悪い癖かも知れないが、どうやら不法投棄されたゴミの山とともに、時間と空間の停滞を招いているらしく、ゴミの山が自然発火でもしない限り、何もそこからは動き出さず、そんな判断停止状態の中で、さらに無謀なアクションを繰り出そうとするならば、必ずや因果応報の定めに従い、君は自らを使い果たすだけとなり、そんな消耗と消尽の途上で、天に向かってひたすら祈り、何を祈っているのか定かでないが、ともかく祈るだけの存在となり、そこで固まってしまい、いつしか崩れかけた彫像と成り果ててしまうのだろうか。それもおかしな話のバリエーションのひとつと言えるだろうか。そうなる可能性があるのかないのか、そんなことは問題にもならないのかもしれないが、自然と湧いて出る言葉の連なりがそんなものだと理解すれば、そうなってしまう原因を突き止めようとすることも、馬鹿げた話の一部となってしまうのかもしれず、そんな成り行きをどこまで突き詰めても、それ以上の何を得るにも至らず、そういう水準で停滞しているだけで、そこでのおもしろおかしさを追求するばかりとなり、そんなことをやっているうちに、時が経てば次第に退屈に思われてきて、飽きられ打ち捨てられて忘れ去られ、跡形もなく消え去るばかりとなってしまうのだろうか。

 それはいつものように何を目指しているわけでもなく、どんな目的があるわけでもなく、ただそこにとどまり続け、何をしたいとも思わず、風雨にさらされ、浸食され摩耗し、やがて何もなくなってしまう。それが物質としてその場に存在する何かに課せられた運命だろうか。改めて語るには及ばない話でしかないらしい。君が知っているのはそれらの一部でしかなく、その狭い範囲内で考えている一部始終を、言葉で示そうとするばかりで、他に用をなさないようで、今はそんな成り行きや結果を受け止めているだけかもしれず、それに逆らう気力もなく、だんだんやる気も薄れてきて、どうかしてしまったらしく、何も思いつかず、何も考えられなくなってしまったらしい。くだらぬ思いつきが養分を失い、枯れるがままに放置されているわけか。いったいそれで何を語ったことになるのか。語りかけのまま途中でやめてしまっただけか。どうせそんなはずがないと思っていて、いつか必ず祈りが天に届き、何か幸いをもたらしてくれると信じているのではないか。ともかく冗談を述べているときりがなくなり、次第にそんな冗談で頭の中がいっぱいとなって、それらが外に向かってこぼれ落ちるようになると、何かが起きるらしく、どこかで神経細胞が弾けて、それらの得体の知れぬ虚構へと、記されつつある言葉の連なりが向かい、何やら語っているふうを装い、その実ほとんどが空疎で構成されているのかもしれないが、何となく気休め程度の何かがもたらされていると感じられ、それが君を一安心させ、そこで安住することはできないのだろうが、しばらく凌げると思っているらしい。でもそれでだいぶ神経をすり減らしていると実感できるだろうか。なぜすり減らす必要があるのかといえば、何かを忘れるためにそうしているのかもしれず、忘れてしまいたいことが途方もない量に達していて、もはやその重みで押しつぶされてしまいそうになっているのかもしれず、そこから逃避するために、わけのわからない冗談に終始しているのだろうが、果たしてそれでかまわないのだろうか。そんなことをやっても無駄か。どうせまた嫌なことを思い出してしまうに決まっていて、夜中にはっと目が覚めて、暗い天井を見つめながら何を思っていたのか忘れてしまったようだが、やはりそれもまた無意識のうちに反芻している証拠かもしれず、どうもそういう成り行きから逃れられそうもないように思われ、どこまでも追いかけてくる何から必死に逃れようとしている悪夢に追われ、そんな堂々巡りの果てに待ち受けている何かを想像しながら、まだ破滅には至ってほしくないと思っているのだろうか。でもどうせいつかはうんざりするような結果を受け入れざるを得なくなってしまうような気もしている。


12月6日

 批判から批判が生じているのかもしれないが、ここからが違うのだろうか。抽象的な物言いだ。果てしなくそう思われ、気持ちに余裕が感じられない。君は民主的な支配の形態を信じていない。メディアは人の心を支配する道具なのだろうか。簡単に言い切れるものではない。でも何に抵抗しているわけでもない。そうではないのかもしれず、そうであってもかまわないのだ。両義的な意味を見出したいのか。公共放送は政府系メディアであってもかまないのだろう。実際にそのようにしたいらしいから、何かと政府に批判的な報道を慎むようにてこ入れしたいわけだ。国家があり政府があり、それを動かしている官僚機構がある。別に議会制民主主義が官僚機構を作り出したわけではなく、それ以前からあったものに、議会制度が後から付け加えられただけで、官僚たちが制御できる範囲内で議会を運営しているだけのことで、元議員の子弟たちや元官僚たち、それに国家に迎合的な元メディア関係者たちなどが、議員となって牛耳っている議会と、機構は持ちつ持たれつの関係にあるわけだ。議会制民主主義であれ株式会社であれ何であれ、それらは人を支配する目的で作られた制度に違いはなく、支配する対象となっている人たちの自由など制限されて当たり前なのだろうし、そういうものにあまり幻想を抱く気にはなれず、いくら憲法や法律で個人の自由が認められていても、そんなのは制度の運用次第でどうにでもなるものなのではないか。早い話が政府にとって邪魔な人間は、適当な言いがかりをつけ、警察が捕まえて裁判にかけ、刑務所にでもぶち込めばいいだけのことで、日本ではそれ以上に危険だと判断されれば、オウムの連中のように死刑になるわけで(北朝鮮では即公開処刑らしいが)、いくら国民主権だの言論の自由だのといっても、それは程度の問題で、国家や政府や官僚機構が存続できる範囲内でそうなのであって、そこから逸脱すると判断されるような、過度の言動に出る者たちは、多かれ少なかれ排除の対象とされてしまうわけだ。そういう人たちはマイナーな左翼メディアの範囲内に囲い込まれて、そこでいくら過激な主張を展開しようと、一般大衆には届かないように、メジャーなメディア上では決して取り上げられず、恐竜全盛時代に生息していた哺乳類のように、社会の片隅で細々と生き続ける運命となるのだろう。そんな現状認識でいれば、何やら合点がいくだろうか。もちろん誰が本気でそう思っているかどうかはわからない。これも偏見や臆見に基づいた作り話なのかもしれず、どうでもいいと言えばそんな話でしかない。

 どうやらすべてをご破算にするわけにはいかないようだ。何とか体裁を取り繕いたいのかも知れない。それでもかまわないと言えばかまわないような気もしてきて、やはりどうでもいいことなのかもしれないが、今ある制度の中から何を主張すればいいのだろうか。制度には逆らわず、制度とともに生きよということか。制度から恩恵を被っている人たちはそうするだろう。それが多数派であればいいということか。少なくとも議会で多数派を占めれば、自分たちに都合のいい制度を維持継続できるだろうし、実際に彼らはそうやっているのではないか。もちろんかつての民主党のように、一時的に議会で多数派を占めたところで、官僚機構やアメリカに逆らえば、何もできずに終わってしまう。戦略としてはそれだけではだめなのだろう。しかしだめであってもかまわないような気がするのはなぜだろう。エジプトではやはり官僚機構一部である軍隊と、保守的なイスラム原理政党によって、自由を求める民衆の蜂起は台無しにされた。アメリカとしては、エジプトの軍部と一定の妥協を図りながらも、形だけでも民主的な体裁を整えた政権の誕生を望んでおり、できればエジプトがイスラエルと対立しないような落としどころを模索しているわけか。しかしそんな思惑通りにいくのだろうか。今ある前提とは何なのだろうか。それがわからないままでもいいような気がするのはなぜなのか。語っているレベルが違っているわけか。民主主義という大前提をもとにして、いくら正論を語ってみても無効らしいのはわかる。議会制民主主義という制度に欠陥があることもわかる。そういう言葉で語るのこと自体が、言説の限界を示しているということなのか。ではどう語ればいいのだろうか。たぶん人々はまだ民主主義の限界を直視することができずにいるのかもしれない。世界的に国家に付随している官僚機構をどうにかしなければ、真の自由は勝ち取れないわけか。それは現時点では無理で無謀な話だ。それ以前に世界が一つの政治行政機構に統一されなければならないのだろうか。それも現時点では大げさすぎて実現不可能な話か。いずれも現時点では考えられないような誇大妄想に行き着くしかないらしいが、それもレベルの違う話だろうか。では現状でも多く人々がそれなりに暮らしているのだから、それはそれでかまわないことなのか。とりあえずそれについて語るとすれば、そういうことになるしかないらしい。


12月5日

 しかし幻想や妄想ばかり抱いていても仕方がないのはわかるが、それしかないとなるとこの先どうなってしまうのか。たぶんそれらをみんな終わらせて、夢から覚めなければならないのだろう。そして夢から覚めれば現実の世界から逃げ出せなくなり、それからどうなってしまうのか。それはこれから君が体験することか。すでに体験しつつあるのではないか。何かが終わった後からそんなことを思う。夜が明け、朝になってしまったようだ。今さら夢の終わりにこだわっているわけではない。すべては謎のまま、何も見出せない時間が到来して、考えが固まってしまう。たぶんそのとき何かをごまかしながら語っているのだ。別に夢から覚めていないわけではない。現実の世界の中で何か考えているようだ。でも相変わらず考えているその何かがよくわからない。ただ昔体験した世界を懐かしんでいるのか。気休めにそんな内容の文章を読んでいるだけか。それはすでに読み終わった文章でしかなく、過去の記憶に属するはずだ。今は何をやっているのか。ようやく何かが一段落して、ほっと一息ついているわけか。もうしばらくは恐ろしい体験とは無縁となりそうか。でもいくら考えてもそこから出られるあてはない。出口などどこにもなく、四面楚歌というわけでもないだろうが、これから煩わしい何かに巻き込まれるまでの間は少しでも休んでおいた方がよさそうだ。何も手に付かないわけではないだろう。すでに何かしら語っているはずだ。しばらくはそれを続けていればいい。何かの表面から受け取れる手触りを言葉にすれば、そこに何か記されていることを感じられるはずだ。たぶんそれを語っているのだろう。手痛い反撃を食らっているわけではなく、唐突に関係のないことを思っているだけか。因果応報なわけで、行為の善悪などにわかには判断しようがないが、何かあった後からそんな認識が到来するようで、そう思った時にはもう遅いわけだ。ではすでに決着がついているのか。世の中は絶え間なく変わり続け、人が社会の中で孤立しているとすれば、人と人とのつながりがネット上に移動していることの証しとなりそうだが、それが良いか悪いか判断しようがないほど、どこか突き抜けてしまったような気分で語るしかなく、現に君が架空の存在となるにつれ、失われてしまった感覚を懐かしみ、それが現実の世界に滲みだしてきて、こうして言葉としてどこかの表面に連なっているということだろうか。

 突然何かのギアが入り、機械の歯車が回り始めているらしく、放っておけばだいぶ遠くまで行ってしまうのだろうが、どこかで歯止めが必要だろうか。無理に止めなくても、燃料が切れれば、どこかで自然と止まるような気もするが、そこに醸し出された雰囲気を活かしきろうとは思わず、また違った方面へと視線が移動しているようで、それらを打ち消すように動作するのかもしれない。君の影の中で何かがうごめき、きっと何かの気配を感じているのだろう。語っていることが的外れのままになっていて、意識がしばらく遠ざかっていた何かを取り込んでいるのかもしれないが、このまま外れたままでいていいものか、迷っているのかもしれず、またしばらく考え込んでいるようで、やがて周囲は静寂に包まれ、何も語りようがなくなり、すべてがまどろんでいるようにも思われてきて、それらの機械が停止していることに気づく。本当の悪夢はいつやってくるのか。まさかすでに悪夢の真っただ中にいるわけか。そう思うと絶望的な気分となってくるが、きっと気のせいだ。気がつけばさっきから耳鳴りがしているようで、おかしな気分に襲われ、どうかしているようだが、ここから立ち直る機会が巡ってくる可能性があるのだろうか。確かにどうかしているのだろう。心が何かに押しつぶされているのかもしれず、しばらく前からめまいがしているらしい。床が揺れ動き、斜めになって、階段がねじ曲がっているようで、昇ってゆけなくなり、息切れがして動悸が激しくなる。どうやら突然の終わりがやってきたらしい。なるほどそれは作り話とはいかず、現実の世界で何かを体験しつつあるようだ。そう思えば何だか楽しくなってきて、目の前が急に明るくなり、過去の記憶が走馬灯のようによみがえり、それから君はどうなってしまったのか。たぶんサバイバルゲームで勝ち残ったわけではない。ありふれた気分でありふれたことを思い、またさらにこの世界に存在している。そう思っているだけのようだ。実際は違うのか。そこに倒れ込んでしまったのは君ではないのか。君でなければ誰がそんな光景に出くわしているのだろう。無理に語ろうとすればそうなり、ちぐはぐな記憶を無理につなぎ合わせれば、何となくそれらの光景が見えてくるのかもしれず、話のつじつまなど合わなくても、そのまま語ってしまえば、そういうことだと合点がいき、それでかまわないと思い、さらに続けて語ってしまうのだろう。残された時間を逆算しながら、それを超える手だてを講じようとしているらしく、無理だとわかっているつもりが、ついつい悪あがきへと発展してしまうようだ。

 でもまさかここから思いがけないことが起こるとは思えない。ゲームオーバーからだいぶ時が経っていて、もう何も起こらないようにも思えてくるが、そこによみがえっているのは、戦う勇気とは無縁の、常に尻込みしているような臆病風に吹かれた猜疑心だろうか。できればそっとしておいてもらいたいものだが、心の片隅ではまた息をのむ光景に出くわしてみたいと思い、唐突にそんなことを思いながらも、実際にはそれとは無縁の空疎をつかみ取ろうとしている。たがが外れ、すでに心が壊れてしまっているのに、ここに至ってまだ高望みか。何に守られているわけではなく、他の何に突き放されているわけでもなく、すべてに見捨てられたまま、何も取り戻そうともせずに、そのままどこか得体の知れぬ地帯へと迷い込み、暗闇での手探り状態にも拍車がかかり、ただ闇雲に実体の定かでない何かを探し求め、そこから遠ざかるエンジン音を聞きながら、自らの境遇を呪っているのかも知れないが、もはや付け足すものなど何もないのだろうか。確かにこれがすべてであり、これは何でもなく、何がこの世の中心に存在しているとも思えず、存在させようとしているのでもなく、他の何が解き放たれようとしているのでもないようだ。未来への希望や期待は、すでにどこか遠くへと飛び去ってしまったのか。待ちくたびれているのなら、もうあきらめてしまってもいいのかもしれないが、そうなればなるほど、言葉はいくらでも付け足し可能のようで、やろうと思えばどんどんそうなってしまい、止めどなく無闇矢鱈と連なり、何を語っているのかわからなくなるが、そのつもりで語ってしまい、後から悔やんでみても手遅れとなるだけだ。わざとそうしているのだろうか。それでも語ろうとしているのだから仕方がない。君はどこまでもそのつもりでいるようで、それに突き動かされ、そこで何かが生じているのだろう。それを終わらせる手だてはないのかもしれない。そこにどのような思惑が働いていようと、それ以上を求めているのだから、やはり過剰な何かがもたらされるしかなく、それに向かって突き進んでいくとしても、玉砕だとか自爆だとかではないように思われ、別に悲壮感にとらわれているわけでもなく、虚無的な気分で無駄に余分に語りたいのかも知れず、もはや何も付け足すことが何もないのだとすれば、そういうことになるが、たぶんそれでいいとは思えないのだろう。いくら世の中の流行り廃りから乗り遅れていようと、執拗にまとわりついてくる感傷的な気分感を払いのけ、植林されて放置されたままの杉林を通り抜け、そんなごまかしもやり過ごし、またさらに前進する機会をうかがい、虎視眈々と何を狙っているわけでもないだろうが、とりあえずの結果を真摯に受け止めているはずで、ここに至ってふざける気は起こらないようで、もうそんな段階ではないのかもしれないが、しかしこの惨状は何なのか。笑うに笑えないとはこのことか。


12月4日

 やはり現状に関しては確かなことは何も言えず、納得できる断言には至らない。そう述べて何かに媚びているのだろうか。でもそれほど調子に乗ってでたらめなことを記しているとも思えず、偏った内容にしたいのでもないらしい。頭で考えていてはまずいのだろう。嘘でもかまわないから、感じるままに言葉を記さなければならない。それは迷信なのだろうか。何がうまくいくとも思えないが、具体的には何も語れない。引きこもっていても、少しずつ社会の中へと引き出されてしまうわけか。そして無様な醜態をさらけ出し、惨めな気分で落ち込んでしまう。そういう成り行きにならないようにするにはどうしたらいいのか。君が考えることではない。救いの神など現れないだろうし、未だに強がっているだけで、救われようとも思っていないのだろう。だからそうならないうちに、どこか遠くへ逃げ出さなければならないのか。また逃避願望が頭をもたげてきて、自然とそこから走って逃げていることに気づき、何に追われているわけでもないのに、気がつけば全力疾走で逃げている。そんなはずがなく、実際にやったら息が切れて、途中で道端に倒れ込んでしまいそうだ。どうやらまた作り話の中で何かから逃げている夢でも見ているのだろうが、到底逃げ切れるとは思えず、結局追いつかれて観念してしまうわけか。それでも隙を見ては逃げようとしているのであり、いつまで経っても逃避願望が頭から離れず、要するにそれが甘えの構造となっているのかもしれず、そこから会話にも対話にも至ることがなく、モノローグの世界でいつまでも自足しようとしている。そこで記されたすべては架空の作り話の中で成り立っている文章なのだろうか。そう思うとがっくりきてしまうが、それにしてもたわいのないことだと思いつつも、こればかりはどうにもならないことであり、どこにも至らないのが致命的で、至りようがない成り行きの中で、どのように言葉を記そうとしても、空疎でつじつまの合わない内容となってしまうらしい。そんなわけで相変わらず試練の中にいるようで、それらの語りから何も生み出せないことに焦り、さらに語ろうとして何かが壊れてしまうわけか。しかし何かとは何だろう。

 精神的なものではないのか。何かとは架空の何かかもしれず、その何かを探し出そうとしているのではなく、その存在を無視しようとしているのではないか。だが無視するも何も、無視できないからつい何かと記してしまうのであって、それは困った時の何かであり、不意に心の隙を突いて回帰してくる何かなのではないか。要するに無意識が何かという言葉にこだわっているわけか。だがたとえこだわっているとしても、そんなあやふやなこだわりは無視されるべきもので、実際に何かと記した後、すぐにそれを無視して無関係なことを語りだそうとする。だから話の中でつじつまが合ってしまったり、文章の中で答えが導き出され、そこで話が完結してしまってはまずいのかもしれない。語ることとは語りの範囲内で語られることであり、実際に何かをやるのとは違い、何かが行われた後から、それについてああだこうだと語られてしまうのだから、そこには当然こと限界があり、語ることだけによって、何が成し遂げられるわけでもなく、語られることの中から、たとえば現状を変革するための処方箋とかが見出されてしまうのはおかしいと言わねばならず、たぶんそれは間違った文章の解釈となりそうだ。しかしそう述べる理由は何なのか。それは本当だろうか。にわかには信じ難いか。ではまたでたらめなことを語っているわけか。そんなことを語っているうちに、心の中で何かがぶれてきているようだ。そしていい加減にその何かを特定したくなっているのか。何かとは何なのか。そんな問いが繰り返されて、意味のない語りが継続され、嫌になってしまうのだろうか。でもそれはいつものことであり、そういう成り行きには嫌というほど遭遇していて、もはや馴れてしまって、何とも感じていないのかもしれず、嫌になってしまうと記しているにしても、それほど嫌がってはおらず、何かの惰性で平然とそんなことを記しているだけではないのか。それもおかしいだろうか。端から見ればおかしいのかもしれないが、それで何を解決しようとしているわけでもなく、現実に何がどうなっているわけでもない。でもそんなことを語っている現状があり、君はそんなことを語りつつも、そこから逃れられずにいるらしく、全力疾走で逃げているつもりが、気がつけばすでに虚無に追いつかれていて、自らが相も変わらず空疎なことを語っている現実に出くわしているわけだ。

 君はそんな現状に感動しているのだろうか。そんなふうにわざと嘘をついてみても無駄か。では実態に則して語るならば、それは感動ではなくあきらめか。あるいは呆れているのだろうか。何を強弁するつもりはないし、そんな語りによって、無理に自らを有利な立場へと引き上げようとしているのでもない。現状に対して正しい認識を示しながらも、これからどうしたらいいのかが示せないでいるのは、その手の言説に共通する欠陥だろうか。それについて語るだけでは現状を打破できないということか。でも打破しようのない現実に直面しているから、思わずそういう言説に終始せざるを得ないのではないか。たぶん批判することは可能なのだろうが、ではどうすればいいのかと問われれば、納得できるような処方箋など出しようがなく、要するに批判するだけでは現状を変えることなどできはしない。もしかしたら批判すること自体が間違っているのかもしれないが、批判するしかない立場に追い込まれていて、実際に多くの人たちがその手の批判を繰り返しているわけだ。そういう批判自体を改めて批判したところで意味をなさないのはわかりきったことで、批判の批判など何の効果もなく、返って状況を悪化させるだけだろうか。しかしそれでも批判を繰り返さざるを得ないわけだ。それを際限のない批判の悪循環だとは言うまい。批判しているだけでもまだマシな方で、口をつぐんで沈黙してしまえば、それは自らの敗北を認めたことになってしまうのだろうか。そうではないと思いたいところだが、君はそういうのとは違う方面で、何かを見つけ出したいようだ。まさかそれが出口であったりするわけか。しかし何が出口なのだろうか。まあありふれたことを繰り返し述べるならば、官僚機構は軍隊や警察や裁判所や刑務所という強制的な暴力装置も持ち合わせていて、元官僚の政治家もごろごろいるようで、そういう連中とグルになって自分たちに有利になるような法律を作って、それを強要して支配下の住民から税金を搾り取り、自分たちの組織を盤石なものとしたいのかもしれず、今回のNHKのテレビのない世帯からも強制的に受信料を徴収するというのも、それの一環には違いなく、果たしてそんな法律ができたら、それに逆らう手段があったりするわけか。そんなことを考えると、実際には何が出口でもないような気がするのだが、何も思いつかなくても、自然と出口からそれらの外に出られるような成り行きになっていたらいいのだろうが、何もしないでそれはないか。でも批判はできるのだろう。


12月3日

 まさかテレビがなくてもNHKに受信料を払わなければならないのか。支払いを拒否すれば訴えられてしまうのだろうか。ユーチューブの映像を見ていてはまずいのか。そうなってしまうと、受信料の拒否を貫くためにはホームレスにでもなるしかないわけか。まったく世も末だ。そういえばヨハネの黙示録によると、世界の終末に四人の騎士が順番に現れ、最初に白い馬に乗った騎士が現れて、それが世界を征服して統一をもたらす反キリストで、次いで赤い馬に乗った騎士が現れて戦争をもたらし、さらに黒い馬に乗った騎士が現れて飢饉をもたらし、最後に青い馬に乗った騎士が現れて疫病をもたらすらしいが、どうも白い馬に乗った騎士が反キリストというのが疑わしく、昨晩ユーチューブで見た映像ではそうなっていたが、気になって新約聖書の一番最後にあるヨハネの黙示録を読んでみても、そうはっきりとは記されていないようだ。ネットで検索すると、反キリストの候補者としては、過去にルターやカルバンなどが名指ししたりので有名な、昔から言われているローマ教皇だとか、6月生まれで国王になった時点で名前と666が一致する、イギリスのウィリアム王子だとか、いろいろな説があるらしく、本当にそうなったらおもしろそうだが、まあその映像ではそれぞれの馬に乗った騎士の出る順番が聖書とは違っていて、話のつじつまを合わせるためかもしれないが、赤い馬と青い馬に乗った騎士の出る順番が入れ替わっていたりして、何だか怪しい感じで、その手のオカルト映像にはまりかけながらも、そのへんで今ひとつ信じきれないところがあり、その他宇宙人だの南極のUFO画像だの、いろいろあるようだが、別に信じようとして見ているわけでもないだろう。たぶん見た映像はイランのアフマディネジャド前大統領が出ていたから数年前のものらしく、聖書に反して最後に出てくる赤い馬に乗った騎士がもたらす戦争が、中東で起きる第三次世界大戦のようで、ロシアと核開発疑惑のイランが同盟して、聖地エルサレムを目指してイスラエルに攻め込んできて、アメリカとイスラエルが迎え撃つという構図となっていて、最終的には核戦争に発展して世界が滅ぶそうだが、なぜ攻め込んでいく先が聖地エルサレムなのかが理解できない。やはりオカルト的にはエルサレムは世界の中でも最重要な都市であり、そこには何かとんでもないものでも隠されているのだろうか。確かに宗教的あるいは象徴的な意味はあるのだろうが、キリスト教徒でもユダヤ教徒でもイスラム教徒でもないので、ただの歴史が古くて宗教的な紛争の絶えない観光都市なのだろうが、今ひとつ実感が湧いてこないようだ。そういえばマヤ文明の栄えた地域が、6500万年前に地球に落ちて恐竜を滅ぼしたとされる巨大隕石の落下地点に重なることを根拠として、宇宙人と交信していたとか、どうたらこうたらとかいう映像も見たらしいが、だいたいその手のオカルト的なものの主張とは、そういう感じなのだろうか。

 しかしそれでどうなのか。そこからどう話を持っていくつもりなのか。世界が反キリストによって統一されてはまずいわけか。でも必然的にそうなるのだとすれば防ぎようがない。そして最終的にはその反キリストが敗れ去り、最後の審判の時がやってくるわけだから、すべては予定調和な話であり、ヨハネの黙示録を語りながら教会で説教している牧師さんが、何を云わんとしているのか理解し難いか。まさか総本山の教皇自身が反キリストだとしたらシャレにならないだろう。ちなみに前教皇はスターウォーズに出てくるダースシディアスに似ていて有名だったらしく、ダースシディアスで画像検索すると、必ず登場するのが嫌だったのか、異例の死ぬ前に退位してしまったが、そのへんもオカルトファンにとってはおちょくり甲斐があるところで、バチカンの財務的な暗黒面とか、その手の噂は絶えないところか。それにしてもまあ予定調和としては、科学的な予想によれば、1の後にゼロが何十個も並ぶような遠い未来には、この宇宙にある物質がすべて消えてなくなり、何もなくなってしまうのだろうから、今この時代で何が起ころうと、人類が滅びようが栄えようが、そんなのはどうでもいいことかもしれず、そのような考えからは、どのような倫理も善意も生まれてこないのは確実で、そういう考えはとりあえず括弧に入れておかないと、人の行為自体が意味のないことになってしまい、投げやりな気分となるだけかもしれないが、社会的な動物としての人の本能から考えるならば、自らが生きている時代のみならず、次の世代にもまたその次の世代にも、できれば未来永劫栄えてほしいのだろうし、だんだん世の中が良くなっていってほしいと思っているのかもしれず、良心的な人々は、そのために今何ができるかを日々考え続けているのかもしれない。そういう話に持っていけば、少しは救われた気分となるのだろうか。でも付け足し方が不自然な印象も免れず、まるでとってつけたような話となるだけか。


12月2日

 また独り言をぶつぶつつぶやきながら歩いているのか。あるいは寒空の下で何かの呪文を唱えているのか。そうしていると誰かの幻影が見えてくるわけか。ありふれた光景以外は何も見えてこないが、あくびをすると涙が出てくる。眠たいのだろうか。眠っているわけではない。たぶん大したことではないのだろう。テロリストは肩身が狭い。暴力によって世界を変えようとするからそうなのかもしれない。有名になるとアメリカ軍の無人爆撃機に狙われてしまう。割に合わないことをやっているのだろうか。別にそうは思っていないのかもしれない。君に何ができるわけでもない。少なくともテロリストではないはずだが、暴力的に振る舞うしかないのだろうか。意味がわからないらしく、それに関しては何も語れなくなってしまうようだ。疲れているわけではない。ただ君には関係のないことのようだ。気持ちが切れかかっていて、今にもやめてしまいそうで、いくらでも投げやりになれるのかもしれないが、自暴自棄になったところでたかが知れている。うまくいかない時などいくらでもありそうだ。君は焦っているのだろうか。たぶんそうだ。でも語れないことはないと思う。そう思っているだけで、実際には語れないのかもしれず、それで焦っているのではないか。何に関して語ろうとしているのでもないから語れない。図星だろう。痛いところを突かれて、何も言い返せなくなってしまうか。でもそれでかまわないわけだ。君はそれ以上の何かを求めていて、何も語り得ないようなことを語ろうとしている。そう考えれば納得がいくだろうか。それともそれは苦しいいいわけに感じられるか。どう考えようと、現状をどう捉えてみても、納得がいくような答えなど何も導き出されず、たぶんそこから外れているのだろう。外れようとしても外れないのに、外れていなくても外れているように思える。それは謎である以前に意味のないことだ。

 ただ無駄に時を費やし、何もしないでいることはできず、きっと無駄なことをやりながら、人はどこか遠くにある地点を目指して歩んでいるのかもしれず、それを意識せずにやり遂げようとしているのだろうか。でも君はいつも先回りしているようで、その地点に立って、周りの景色を眺めている自分の姿を空想している。楽しみは後にとっておくものだが、どうやらそれができない性分らしく、何をやるにも先回りの妄想ばかり抱いているようで、結果を妄想するだけして、それで飽きてしまい、結局何も成し遂げられず、何の結果も残していない段階で、途中でやりかけのまま、やっていることを自ら投げ出してしまうわけか。そうならないようにしなければいけないか。できればそうしたいところだが、根気が続かないらしく、何をやってもうまくいったためしはなく、そして落ち込み、それからどうなってしまったのか。どうやらそこから先は作り話が続かないようだ。これ以上は面倒なことに首を突っ込みたくないのだろうか。結局具体的には何も語り得ないまま、そこからどこかへと意識が飛んでしまうらしく、こらえきれずに何かがでたらめになり、現実逃避の方向へ舵を切ってしまうのか。うまくいかないものだ。でもわざとうまくいかないように語っているのではないか。実際にうまくいかなかった架空の話をでっち上げようとして失敗して、具体的には何も語らずに途中で投げ出してしまい、それをごまかすための意味のない付け足しに終始しているようで、そんな自己言及もどきのいいわけを弄しながら、何を述べることもできなくなり、実際にわけがわからなくなってきているのではないか。アメリカ軍の無人爆撃機によって殺されたテロリストの話はどうなってしまったのか。そんな話をどこかのニュースで見かけたわけか。しかし危険人物とはどんな定義で危険人物なのだろうか。何もせずにどこかの公園でふらついているホームレスが危険なのか。不良少年たちに絡まれたりして、彼が危険な目に遭うのかもしれない。

 どうやらまた無理に話をねじ曲げようとしているのかもしれず、今日はどう語ってもまともにいかないらしい。語るために無理に語ろうとしてもだめか。たぶんそれはわかりきったことだが、わかりきっていてもなお語ろうとしている。そうだとすれば、やはりここから先は無駄に言葉が費やされ、君をがっかりさせてしまうかもしれない。でも何を恐れているのだろう。勝手に語っているのだから、何も恐れることはない。そのまま語れないようなことを語っていればいい。やがて語れないことを悟り、あきらめてしまうだろう。そのへんは世間知らずなのだから仕方なく、他に何も知らないわけでもないだろうが、ならば何か知っていることを語ろうとすれば、支離滅裂になり、また納得がいかなくなってしまうのかもしれず、どう語っても無理なのだろうから、逆の意味で心の琴線に触れているのではなく、何に感銘を受けて語ろうとしているのでもないらしく、ただそこで虚無的に振る舞おうとしても、強がりや痩せ我慢として受け取られ、自らが情けなく思えてくるだけで、さらに落ち込んでしまうしかなく、いくら空笑いしてみても、うまくいかないものはうまくいかないのであり、何が君にそうさせるのかわからないところだろうが、はじめから割に合わないことがわかっていながら、あえてそれをやろうとすれば、そうなって当然で、うまくいかないことのすべてが君自身に返ってきて、結果的に悲惨な目に遭うのだろう。すでにこの時点でそうなっているのではないのか。それでもやり続けなければならないのか。しかしすべてはその場の成り行きであり、そんな結果の先に、またそれとは違う結果が待ち受けているのかもしれず、それを期待しながら、やり続けられる限りは続けていた方がいいのだろうか。そうやって自らの行為を正当化したいわけでもないのだろうが、たぶん成り行き的にはそういうことになりそうだ。


12月1日

 君は民主主義ごっこには無関心なのだろうか。現実が現実だから何とも言えない。でも虚無的に振る舞っているわけでもないだろう。人々が声を上げなければどんどんおかしくなっていくのだろうが、でも一方でそうした市民運動を冷ややかに見ている人たちも大勢いるはずか。それは昔からそうなのかもしれない。ユーチューブで日の丸の国旗の前に立って、そうした左翼の人たちの行為を嘲笑している人を見かけた。まあ弁が立つとはそういう人のことを言うのだろうが、これからはそうした雄弁な右翼の人たちが活躍する時代となってくるのだろうか。内容としては職場体験学習の一環で、生徒を自衛隊に体験入隊させた小学校に、クレームをつけた左翼系団体の人たちを気違い扱いしているわけだが、その立て板に水的な語り方がうまく、ナイーブな人ならすぐに惹かれそうなことを述べている。そんな映像を見ているうちに、その手のメディアが喜びそうな保守的かつ進歩的かつ最大公約数的なことを、恥も外聞もなく当たり前のように主張していた猪瀬直樹を、あまり馬鹿にしてはいけないような気がしてきて、何だか大衆の支持を得るとはそういうことなのだと改めて思い知らされた次第か。まあ前例があるだけに、今さらヒットラーやムッソリーニのように熱狂的な支持は得られないにしても、大阪の橋下市長や安倍ちゃんなどのように、程度の差こそあれ、民主主義によって選び出される政治的なリーダーとは、いつの時代でもそういった人たちになるのだろうか。しかし今挙げた彼らの間の差異を無視して語るのも乱暴この上ないか。別に嘲笑しているわけではないが、民主主義にごっこをつけているようなメンタリティの君には、まだまだ理解不能なことかもしれない。

 何に関心があるわけでもなく、どうなってほしいとも思わず、そんな嘘をついて何を狙っているのかわからないし、狙っているとしてもはじめから的外れなようにも思えてくる。要するに社会の制度とは相容れない場所や立場にいるようで、そんな地点から何か語りかけているわけか。そんな大げさな認識も単なる勘違いと思われてしまいそうだが、本当のところはそうなのかもしれず、くだらなく思えてならないようだ。そこが限界なのだろうか。そんなことにこだわっていること自体が愚かなのか。でもそれは仕方のないことだ。なぜかそう思われてならない。頭の中で何かが外れているようだ。そして笑ってしまい、このままでかまわないと思う。なぜなのか理由はわからないが、何が違っているわけでもないと思い、それ以上の詮索をあきらめ、そういうことでしかないと思う。なぜだろうと問い続ける一方で、何でもないと思うわけだ。外では猫同士がけんかしているようで、さかんに大きな唸り声で牽制し合っているようだ。縄張り争いだろうか。それにしても韓国の大統領がクレーマーおばさんで、中国の国家主席が何なのか。アメリカの大統領はあと数年はオバマのままか。まさかロシアの大統領はプーチンのあとはまたメドベージェフで、首相はメドベージェフのあとはプーチンなのか。もうそろそろ違う人材が出てくるような気がするが、そうだとしても何が変わるわけがないと思えるのはどうしてなのか。みんな国家的な指導者を絵に描いたような人材でしかない。何がそれらの出現を許しているのかと言えば、やはりそれは国家そのものだろう。国家が必要とされる人材が自ずから現れ、それが民衆の意志として表され、反対勢力を封じ込めようとするわけだ。まさかそれが民主主義の実態か。一応中国は違うのだろうが、他も大して違わないように思えてくるのはなぜだろう。

 誰がなっても結局国家的な制度やしきたりに従わざるを得ないから、そう見えてしまうのだろうか。そしてそれらの制度やしきたりに沿ったことしか主張できず、その範囲内で政治を執り行い、そういった伝統が過去から未来へと脈々と受け継がれ、国家という存在の必然性を民衆に向かって知らしめているということなのか。どうもなかなかそういう制度やしきたりや伝統を打ち破るのは難しそうだが、まさか今の体制が最終形態ということでもないような気がして、これからまた何かのきっかけで違った政治行政形態になる機会が訪れるのかもしれないが、今のところはその気配すら感じられず、変化の予兆もありはしない。だからすべてが冗談だと思われ、馬鹿げたことを馬鹿げたようにやっているだけで、まったく本気になれないわけか。だからそれが勘違いなのだろう。信念を曲げず、自らやっていることを信じなければならず、ごまかさないで語り続け、デモや集会をテロと見なされようと、耳ざわりで騒音に聞こえてしまう反対の声を上げ続けなければならないということか。やはりそれはご苦労なことかもしれない。無駄な努力かもしれないが、やがてそれが無駄でなかったと思う日がやってくることを願いながら、無駄な努力を続けるべきなのか。まあ選挙結果が選挙結果であるからして、当分は保守派のやりたい放題なのかもしれず、それでかまわないのではないか。それでどうなるとも思えないのだが、どうにかなったような気になるのかもしれず、それが幻想だとは見なしたくないところだが、たぶん幻想ではなく現実なのだろうし、そんな現実の中で、それを前提として考えなければならず、いつの時代でも世の中の変革を訴える声は嘲笑され馬鹿にされるだけなのであって、すべてにおいて現状維持に理があり、体制を守ることに正義があるのだろうし、そういう前提の上で、なお変革を訴えていかなければならないわけだ。