資本論





第三章 保険と信用




 保険とは将来身に降りかかるかもしれない事故や災害などの危険に備えて資金を貯めておいて、実際にそれらが起こった時に貯めておいた資金を使って被害額に応じて金銭的な埋め合わせをする仕組みになるが、人が何らかの保険に加入するに際して、保険金を請求するような事態を引き起こしたり、そんな事態に巻き込まれたりするリスクが高い人ほど信用が低く保険料が高くなり、そのようなリスクが低い人ほど信用が高く保険料が安くなるわけだが、そのリスクと信用をどう判断するかで支払う保険料の額も変わってくるわけで、それに関しては加入者が支払う保険料や受け取る保険金の積算根拠や基準が保険契約の中で示されているだろうが、保険の対象となる人や団体の行いやその状態と、それらの人や団体が巻き込まれる可能性のある人為的な事件や自然災害に関してそれなりに妥当な基準が示されていて、実際に何らかの物的、精神的、金銭的な損害や損失をもたらすような危険があれば、そんな人為的あるいは自然災害を対象とした保険が設けられて、それに加入すると民間の保険会社や公的な保険を扱う機関に保険料を払ったり積み立てたりする成り行きになるわけだ。そして実際に保険料を払ったり積み立てたりしている人や団体が人為的な事故や自然災害に巻き込まれて損害や損失を被れば、それ相応の積算根拠に基づいた保険金が払われることになり、また積立金の方は一定の期間にわたって積み立ててきた合計金額から、契約時に決められた期間にわたって小口に分割されたり場合によっては一括して償還され、その際に利息も払われることもあるわけだが、その種の保険だと保険会社が積み立てている期間の間に資金を運用して増やさないと利益が出ないわけで、掛け捨て保険なら加入者が保険が効力を持っている期間内に実際に損害や損失を被らなければ、払った分がそのまま保険会社の収益となるわけだろうが、どちらにしても人や団体が保険に加入すれば保険会社や公的な機関に資金が貯蓄されることは確かで、そこに蓄積された資金を運用して利益が出れば、その分だけ金融資産が増えるわけだ。保険会社と保険の加入者との間で取り交わされる契約内容を記した保険証券自体は、それを介してたとえ金銭のやりとりが行われるとしても、他の株式や債券などの有価証券とは違って厳密には金融商品には含まれないだろうが、保険を取り扱う保険会社や公的機関が集めた資金を金融市場で運用している実態はあるわけで、そこでは有価証券などの金融商品の売買が行われるわけだから、そういう部分で保険会社も公的機関も金融資産の形成に関わってくるわけだ。
 銀行などの金融機関の方でも資金を集める手段として保険を取り扱っていて、それは同じ金融グループの傘下の保険会社と提携している場合もあり、また銀行が直接保険商品を取り扱っている場合もあるのだろうが、また会計事務所や警備保障会社などにも保険会社が食い込んでいて、警備保障会社が一般の顧客向けに売り出すホームセキュリティなどのサービスとともに損害保険や生命保険などの保険商品も売り込む場合があるし、会計事務所は取引のある企業の従業員や法人向けに同様の保険を売り込む場合もあるわけで、そこで顧客を保険に加入させることができれば、提携している保険会社から会計事務所や警備保障会社などにそれなりのマージンが払われる仕組みなのだろうし、また何らかの事業を行なっている団体が法人となると、従業員を雇用する上で健康保険や年金保険や雇用保険や労災保険などの公的な社会保険に加入する義務が生じて、その支払いだけでもバカにならない額に達するわけだが、例えば事業の収益が慢性的に悪化していたり、事業規模が小さく収益が不安定な企業の場合は、企業の収益を確保するためにそれらの公的な保険料の支払いを免れようとする傾向にあり、それは違法行為なのだろうが、従業員の方でも賃金からそれらの保険料が差し引かれるのを嫌がる場合は違法を承知で企業と雇用契約を交わすわけで、そうなると労働者を守るための公的な社会保険制度も意味をなさなくなる場合があるわけだが、そういう事情も含めて世の中の経済状態が良好で企業に安定した収益がもたらされていれば企業にも従業員にも保険料を払うだけの余裕が生まれる一方で、経済状態が悪化すれば真っ先に切られそうなのが保険料の支払いとなるかもしれず、それは個人が加入する民間の保険にも言えることかもしれないが、本来の趣旨からすれば保険そのものは自身が危機的な状態に陥った時に頼りにされるものなのだろうし、リーマンショックなどの金融恐慌で大手の保険会社が経営危機に陥ったり、景気の悪化で公的な保険料の未払いが増加したり、年金制度の破綻が取りざたされたりするということは、逆に保険そのものがいざという時に機能しない危険性があることを示しているのかもしれず、そうなると保険自体に矛盾している面があることになるわけだが、それとは別に資本主義経済の中での保険事業の機能というのは、広く世の中から資金を集めて、集めた資金を投資に回す役割が期待されていると考えるのが妥当なところで、実際に経済が好調な時には世の中の金余りを背景として、金融的な投資などによって保険業界の収益が増える傾向にあるのだろうし、実際に保険業界の資金運用が株や債券や為替などの取引の活況に貢献することになるのだろうが、その一方で経済があまり好調でない時でも金融市場を支えるために、政府などの判断で積極的に公的な年金や保険などの資金が金融市場に投入されることもあるわけだ。
 実際に世界でどんな危機的な状況が生じているとしても、それを直接体験しなければ実感が伴わないだろうが、体験した時にはもう手遅れかもしれないし、たとえメディア経由で間接的にではあっても、現状で起こっている何らかの危機を実感できる感性が果たして現代人に備わっているかとなると、現代人であろうとなかろうと、平穏無事な日常のただ中では何を意識することもできないだろうし、危機が間近に迫っているのに気づかなくても、平穏無事に暮らせているうちは何の問題もないわけで、それとは別に世界各地で起こっている国家や民族や宗派などの対立から派生するテロや紛争などを報道するメディアに触発されて、必要以上に危機感を募らせるのはただの神経過敏症の類いでしかないかもしれないが、どんなに危機的な事態が間近に迫っていようと、実際に自身が危機に直面していることに気づかなければ、それを危機だとは認識できないだろうし、さらに言えば実際に危機を体験して痛い目に合わないとなかなかそれを身にしみて実感できないし、実感したところで個人の力でできることは限られてくるわけだが、それでも危険が間近に迫っているのを事前に察知して、しかもそれにうまく対応して深刻な事態になるのを防ぐには、前もって危険の程度を予測して、そうなった場合に備えて何らかの保険をかけておくことも必要となってくるわけで、そのような事前に保険をかける慣習が世の中に広まったおかげで、実際に危機的な状況に陥ってもそれなりの対処法が確立されて、それに伴って社会がそれなりに安定してきたことは確かだろうし、またそのような慣習から発達した公的な保険制度や民間の保険業者を介して保険料を支払ったり積み立てる仕組みが、莫大な資金の蓄積をもたらして、それが資本主義経済の資金需要を支える一翼を担っていることは言うまでもなく、保険料を支払ったり積み立てたりする金銭的な余裕があると言うことは、何らかの経済活動の結果としてそこへ資金を還流できるほどの利潤が生じていることにもなるだろうし、その分だけ必要を超える経済活動が余計に行われていることにもなるだろうが、保険をかける必要が生じていることに関しては確かにそれが必要だと認識されているわけだから、そのための支出を余分な経済活動の結果と判断するのは保険という制度を否定することにもなりかねないが、少なくとも保険に資金を回せるだけの経済的な余裕があるなら、それがないよりはあったほうが安心できるということだろうし、例えば交通事故などを起こして多額の損害賠償が請求されるような事態が現に生じているからこそ、金銭的な余裕があれば自動車の所有者は自賠責は当然としても任意保険にも入っておきたいところだろうし、そんな事故が多発するような社会状況が保険を必要としているようにも感じられるわけで、他の損害保険や医療保険や生命保険なども含めて、将来に生じるかもしれないリスクに備えて、保険が必要と思われるような社会的な背景があることは確かなのではないか。
 そうであるとしてもそもそも保険業以外の他の産業分野で利益が出ない限りは、保険に回す資金が生じないわけだから、保険料の支払いや積立金が単独で際限なく増大することはありえないだろうが、一定の水準で保険に回す資金が生じるように、様々な経済活動の中で必要経費として保険の分を上乗せするような仕組みが構築されていることは確かで、保険料として集められた資金も利益を出すために投資に回されている実態もあるわけで、他の株式や債券などの有価証券や銀行などから還流する直接の資金と同様に、利殖目的で資金を運用する形態としては、保険も金融資本が提供する金融商品に関係してくるのだろうし、国民健康保険や国民年金などの公的な資金までが、利殖目的の派手な資金運用をやった挙句に多額の損失を出してしまうと、最終的には税収や国債などの公的資金で穴埋めされるだろうから、セーフティネットとしての役目を果たせないわけではないだろうが、そうなると保険という危機に備える手立てが、金融市場での資金運用などによって新たな危機を呼び寄せていることにもなるだろうし、その辺が投資目的の資金の循環とともに破綻の危険も循環するという資本主義経済特有の皮肉な側面を物語っているだろうか。保険を利用する側にとってはそうかもしれないが、人々が期待するような保険を用意して資金を集める側からすれば、それも一つの利殖目的の事業なのだろうから、保険事業も事業である限りは破綻する危険がつきもので、民間の保険会社が事業に失敗して破綻の危機に直面するような場合に備えて、利用者保護の観点から保険業の協会などに保険金の支払いに対応するための積立金の類いは用意されているのだろうし、そうなるとそれは保険を守るための保険とも言える類いの資金となるだろうが、そうやって様々なところで様々な種類の資金が蓄積されて、それが様々な用途で運用される可能性があるのだから、資本主義経済が将来全体として崩壊するしないとは別の次元で、それらがまとまった一つのシステムで運用されているわけではないのはもちろんのこと、部分的に様々な経路で複数の金融システムや生産システムが競合状態にあることは確かで、その中のどれか一つのシステムがうまくいかなくなっても、別のシステムがその代わりを担って補完的な役割を果たす場合もだろうし、代わりがなければ別にそのシステムが途絶えてしまっても構わない場合もありそうで、他のシステムだけでも充分に機能を果たせるようならそれで構わないことにもなり、そこで動作している様々なシステムの中で、これがなければ資本主義経済が立ち行かなくなるようなものは何一つないのかもしれず、時代の変遷に適合できずに消滅するシステムとその変遷に合わせて新たに生まれるシステムが絶え間なく交錯している状況の中で、特に両者の間で事業が引き継がれるような関係があってもなくても構わないのかもしれないし、時代のニーズに応えられない事業は勝手に消え去り、必要に応じて新たな事業が形成されるような成り行きがあるのではないか。
 身の安全と資産や財産の保全を金銭面で助けるのが保険の機能だとしても、保険だけで全面的に資産や財産を保障できるわけではないが、不完全ながらも納得できる範囲内で規約に同意すれば保険契約が結ばれて、規約に基づいてそれなりの額の保険料を払っていくことになるが、ただ保険の種類にもよるだろうが、全ての加入者が保険金を請求するような事態ともなれば、とてもじゃないが保険会社は保険金の支払いに対応できなくなるだろうし、実態としては損害保険などの場合は、加入者のほとんどは保険金を請求するような事態に遭わないまま保険料を払い続けているわけで、医療保険などの場合も加入者が病気にかかる割合を統計的なデータを基にして割り出した結果から計算して、保険会社が収益を得られるような額の保険料を設定しているわけだろうから、結果的に保険事業が何らかの人助けに貢献している面はあるだろうが、それはあくまでも金銭的な面において保険事業の活動が成り立っている限りであり、結局は保険会社も加入者も金銭的な損得勘定を考慮に入れながら互いに互いを利用し合っているわけだ。また公的な社会保険の方も行政と行政サービス受ける側の住民との金銭的な契約関係と言える面があるだろうし、健康保険や年金保険や雇用保険や労災保険などの社会保障を受けるには、住民が一般市民や企業の従業員として保険料を払っていることが前提となるわけで、それも金銭面だけの保障となるだろうが、それ以外の保障となると民間の警備会社などもあるが、主に警察機構による防犯や治安の保障や軍隊による安全保障などが行政の役割としてあるわけだ。それらすべてが住民が社会の中で暮らしていく上で身の安全と資産や財産を保全する助けにはなっているのだろうが、身の安全はともかく資産や財産は経済活動によって得られるわけだから、経済活動に関わらない限りは資産も財産も得られないわけで、それが金銭的な価値や価格を伴うものであれば当然売買の対象となり、保険サービスも行政サービスも金銭的なやり取りによって成り立っていて、民間の保険サービスは住民が任意で選べるのに対して、公的な保険サービスや行政サービスは制度による強制的な行為を伴うものであり、それは売買とは異なる金銭的な契約関係であり、しかも民間の売買を基本とした金銭的な経済活動を前提として、それに寄生して成り立っているような強制的な契約関係であるから、民間が不景気になれば保険料の未払いが増えるかもしれないし、民間の経済状態から影響を受けやすいことも確かなのではないか。
 人が身の危険や安全に金銭的な対価を払うような成り行きは、そこに社会が構成されていて金銭的な契約関係が広く普及していることが前提となっていて、それなしでは徴税を伴う行政的な制度も維持できず、現状であるような国家体制が成り立たないだろうが、そういう水準で物事を考えても、それを前提として社会が成り立っている以上は、そこで暮らしている人々には関心のないことかもしれず、逆に関心があるのは狭い金銭を介した契約関係上のことであり、金銭的な面で軋轢や争いが起こっているのもそうした水準でのことであり、そうした水準では民間の保険や公的な社会保険も社会の中でそれなりの役割を果たしていて、実際に事故や災害などが起こるような様々な場面や局面で有効に機能しているのだろうし、そのような保障や補償などのサービスの形態が広く世の中に受け入れられている実態があるわけだ。実際にそれが資本の元となる資産や財産を守ってはいるわけだが、一方でそのようなサービスが広く世の中から資金を集める役割も担っていて、集められた資金の活用先として金融市場があり、そこで資本を守るようなサービスが資本を増やす行為に転化されている実態があるわけで、金銭を介したサービスは常に資本の増加を目指す行為に結びついて、それがそのようなサービスの究極の目的だと言えなくもないが、資本が増加すれば増加した資本に見合う新たな投資先を見つけなければならなくなって、見つかったらさらにそこで資本を増加させるための投資を行おうとするのだろうが、そこでも金銭を介したサービスが開発される傾向にあるのだろうし、それが民間の保険業の範囲内で行われるとすれば、新たな保険商品の開発となるわけで、そのような商品を売り込むために、何やら至れり尽くせりのサービスを謳った保険の広告宣伝をメディア上で見かけることも多いだろうが、そのようなサービスが金銭的な利益を度外視した親切心から行われる人と人との間で生じる助け合い精神を圧迫しているとまでは言えないだろうが、全ての社会的な関係を金銭的な関係に置き換えることは無理であり、功利的な利害関係から生じる活動以外の活動も社会の中で行われていることも確かだろうし、そこにはっきりした契約関係がなくても家族関係や交友関係がなくても、見知らぬ他人を助けるような行動を起こしてしまうことも時にはあるわけで、別にそういう行動を率先して行う必要が生じているわけではないだろうが、必要がなくても行なってしまうような成り行きがいつどのような状況で生じるとも限らないわけだ。

 人の社会的な信用がどこから生じるのかと言えば、普通はその人の行動や言動の確実性から生じるだろうか。世の中で通用している制度や慣習に忠実な行動や言動をとれるなら、その人は信用できると思われるかもしれないが、ではそのような行動や言動をとることが多い立場や地位を占めている人が信用できるかというと、たとえ経歴や社会的な立場や地位が立派でも、表面的な行動や言動以外では信用できないことがいくらでもありそうで、それらの何を信用するかでもその信用度は変わってくるかもしれない。時と場合によって、その場その時の状況や雰囲気によって、例えばそれが何らかの交渉の場であれば、交渉内容や交渉相手の人柄を信用したりしなかったりする場合がありそうで、一概に信用できる条件をあげても、状況が変われば条件も変わってくるだろうし、その場の状況に応じて臨機応変な対応や判断が求められるのではないか。信用できるか否かの判断の対象となる物事の信用度を他と比較可能な数値や記号で表せれば、それが一般的な信用の目安にはなるだろうが、今度はそのような数値や記号を用いた比較が果たして信用できるのかとなるわけで、その対象が株や債券などの金融商品に関してなら、大抵はそのような商品に関する信用格付けを行なっている業者や機関を信用することになりそうだが、一般的に言うならその国の経済状態が悪ければその国の信用度が下がって格付けも下がり、その国が発行した国債の市場価格も安くなり、またその企業の業績が悪化すれば信用度も下がって格付けも下がり、その企業が発行した社債などの市場価格も下がることになるのだろうが、格付け会社が決める格付けが高い債券ほど信用度が高くてリスクが低く、格付けが低い債券ほど信用度が低くてリスクが高いのかもしれないが、社債や国債も信用リスクが高い債券ほど金利が高くなり、信用リスクが低い債券ほど金利が低くなり、リスクが高いと金利が高くなって市場で取引される債券価格は安くなり、リスクが低いと金利が低くなって債券価格は高くなるだろうが、金利だけを見るなら、信用度が高い債券ほどローリスクローリターンで、信用度が低い債券ほどハイリスクハイリターンとなるわけだが、信用の低い債券は市場での取引価格が下がって額面割れを起こしてしまい、売ってもハイリターンとはならないだろうし、またそれが国債となると、信用の低い国の通貨の為替レートが安くなるわけで、いくら金利が高くなってもその国の通貨が安くなってしまえば、それが外貨建ての外国の国債なら買っても利益は期待できないのかもしれない。
 もちろんそんな単純な基準だけから信用度が決まれば、わかりやすくて誰も困らないわけだが、例えばアメリカは支配的な国際基準通貨のドルを発行しているので、どんなに経済状態が思わしくなくても財政赤字が拡大しても、アメリカの国債が債務不履行になるリスクは低いと判断されれば、格付けは高いままなのだろうし、またアメリカの大手証券会社の取り扱う金融商品なども、ローンが払えなくなる危険性の高い低所得者向けの住宅ローンを他のローンと合体して証券化して、その分信用度が増して格付けが上がるという操作を施して、そんな証券を金融商品として売りに出して、結果的に住宅バブルが弾けて住宅価格が下がって、ローンが払えなくなった住宅の担保価値も下がって、それがリーマンショックと要因となったわけだろうが、そうなると信用格付けそのものが信用できない面も出てくるわけで、実際に近年アメリカのニューヨーク証券取引所の平均株価が異常な高値で推移しているのも、何か企業の信用度に関して公平中立性を逸脱した偏りが生じている可能性はあるだろうし、それに関連して年間数万台の電気自動車しか生産していないテスラ社の株式の時価総額が一千万台に迫る台数を生産しているGMを一時的にしろ上回ったという事態もそれを象徴していると言えるだろう。実際にメディア的な話題性からいえば、かっこいい電気自動車を製造販売しているテスラ社の方が世界的に注目度が高いだろうし、そのようなメディア情報からもたらされる印象によって株価の信用度も形成されてしまうとすれば、各国の政府も大手企業もメディア上での印象操作を重視するのは当然だろうし、そのテスラ社やロケット打ち上げ事業や新交通システムなどを手がけている企業経営者がメディア上で一躍時の人として祭り上げられて、その言動や一挙手一投足までが世界的に注目されていることも、まだ業績の定まらないそれらの事業の信用度を高めるのに多大な貢献をしていることは確かであり、その株価の高騰がいつまで続くのかは今後の事業展開の成否にかかってくるだろうが、すでに彼を好意的に取り上げるメディアとともに世界的な世論を味方につけているわけだから、それだけでもそれらの事業を成功に導く上で有利な状況となっているわけだ。
 人や集団やそれらが取り扱う物や情報やサービスに生じる社会的な信用には、合理的に思われる基準や理由から信用されている場合もあるが、それらが構成する社会が抱え込んでいるある種の差別や偏見が潜んでいる場合があり、しかもその社会の構成員にとってそれらの差別や偏見は一概に否定すべきことではなく、それらを共有する程度や度合いに応じて社会内での信用が生まれ、そうやって生じる信用に基づいて、社会の中での階層や地位や立場などがそれに関わる人や集団によって構成されているのではないか。例えばその社会で信用できる者は、社会で共有され認められた階層や地位や立場をわきまえた行動や言動ができる者であり、そのような行動や言動がその社会での秩序をもたらし、その秩序から生じている階層や地位や立場などに敬意を払うような慣習を行動や言動によってもたらすことが、それらの階層や地位や立場によって構成される社会全体を守ることだと認識されているのではないか。それは差別というよりは階層間の区別であり、偏見というよりは地位や立場に応じた配慮となるのだろうが、低い階層の出身者からしてみればそれは差別だと思われるだろうし、場所をわきまえず地位や立場にこだわらない意見を述べようとすれば、それは地位や立場を軽んじる身の程知らずの意見とみなされてしまうのではないか。また何らかの集団が世間一般に信用できる集団だと思われているとすれば、それは社会で成り立っている制度や秩序を守っているからだろうし、さらにその集団の活動が社会に利益をもたらしていると思われると、社会にとってその集団は信用できるし有益な集団とみなされるのではないか。さらにそれらの人や集団が取り扱う物や情報やサービスも信用できると思われると、やはりそれは社会の制度や秩序を守る上でそれらが有益だと思われる限りで信用されるだろうし、逆に人や集団やそれらが取り扱う物や情報やサービスの中で社会の秩序を乱して制度を破壊するような作用が認められるものが含まれていれば、それらは社会にとって有害で信用できないものとなるだろうし、それらを信用して利用したり追従するような者や集団は、場合によっては社会の敵とみなされて非難や弾圧の対象となるのではないか。そういう意味で社会的な信用とは社会そのものを守り維持するような作用を及ぼす物事に生じるのであり、普通は社会の秩序を乱したり制度を破壊するような作用を及ぼす物事は信用されないわけだ。
 しかし実際には社会の秩序を乱して新たな秩序を構築して、旧来の制度を壊して新たな制度を作り上げるような人や集団が歴史上必ず現れるわけで、そのような人や集団は旧来の制度や秩序の中では異端視されるが、それらを壊して新たに構成された秩序や制度の中では信用されるわけで、そのような新しい価値の創造者たちによって社会が刷新されることになるわけだが、刷新される過程で旧来の価値観を守ろうとする側からの激しい抵抗に直面するだろうし、そこで改革派勢力と旧主派勢力との衝突が起こるわけだ。だがそう捉えてしまうと単純化された対立の相関図を想像してしまうわけで、必ずしも実態はそう単純に割り切れるものではなく、改革派と称する人たちは場合によっては自分たちが社会の中で主導権を握るためには利用できるものは何でも持ち出してくるわけで、それが利用できると判断されれば旧主派の価値観もそのまま利用しようとするし、そういうところで彼らこそが古き良き伝統の体現者のように振る舞う場合もあるだろうし、例えば日本の通俗的な歴史家の間では時代の革命児のごとくもてはやされる織田信長が、その前の時代の室町時代に全盛だった伝統芸の能を愛好していたり、その部下で天下統一を果たした豊臣秀吉もその後を継いだ徳川家康も、支配の正統性を根拠づけるのに昔からある朝廷の権威を利用したり、その伝統はその後の明治政府においても受け継がれたのであり、新しい秩序を構築する度に、その都度古い権威との連続性を強調して、古い秩序にしがみついて抵抗する人たちを屈服させると同時に、権力を継承した自分たちを信用させるために利用するわけで、要するに文句を言わせないようにするために古い意匠を持ち出してくるわけだ。そして実質的にはそこで秩序や制度が刷新されて歴史的な断絶と不連続が生じることになるわけだろうが、その古い意匠を換骨奪胎した新しい秩序というのが、表面的には歴史的な連続性を装っているわけで、それはある種のまやかしでしかないのだろうが、敵対する勢力を取り込むにはそれが必要であり、そうすることで形式的には信用が生まれるわけで、信用というのはそれに形式的な傾向があるほど、その中で本音と建前との間で隔たりが大きくなるのであり、それが形式的な信用であるほど、本音の部分では信用していないわけだが、社会通念上は儀礼的に信用していることを装わなければならなくなり、世の中に向かって社会の秩序や制度を守っていることをアピールすることで世間的な信用を得ようとするわけで、そうした上で守っているはずの秩序や制度を自分たちの側に有利になるように作り変えようとするわけだが、そういうやり方の自称改革派は古今東西いくらでもいるのではないか。
 人や集団が社会の中で何らかの機能を果たしている実態があり、それがその機能に関係する人や集団の間で社会的な信用を生んで、それに伴ってそれらの人や集団が取り扱う物や情報やサービスにも信用が生まれ、その機能がそれらの人や集団の活動を支えて、その活動から物や情報やサービスが生み出されている実態があれば、それは経済活動としては当然の成り行きだろうが、またそうやって社会的に信用されている人や集団の機能が何らかの原因で阻害されるリスクに対して保険がかけられ、それらの人や集団が支払い可能な保険料と、実際に機能が阻害されるような事態が発生した時に保険会社や公的な機関が保障可能な保険金の額の限度内で、保険料も保険金の額も決められているわけだろうが、それが社会の中で信用や信用が失われるリスクに対して支払われる妥当な金額であれば、保険というサービス自体にも支払われる保険料や保険金の額の範囲内で信用が生まれていることになり、それが信用されている限りで保険というサービスも社会の中で機能していることになるだろうか。そうだとすると結局社会的な信用というのは、金銭のやり取りを介した経済的な信用ということになりそうだが、人や集団の社会的な機能というのは金銭のやり取り以外で信用を得ることができるのだろうか。例えば愛情関係や信頼関係などを構築する上で相手の信用を得るのは、金銭のやり取りを介した経済的な信用とは別のことのように思われるだろうが、中には愛情関係と信頼関係と金銭関係が入り混じってくる場合もあるだろうし、金の切れ目が縁の切れ目と言われるようにそこに金銭関係が入り込んでくると、愛情関係も信頼関係も金銭関係なしには信用できなくなってくる場合もあるだろうし、常にその中でどんな関係を信用するかでそのような危機に直面する人が試されているのかもしれず、そこで人や集団が何に基づいて機能しているのかを捉えておかないと、そこで成り立っている関係が何から生じているのかわからなくなってしまうこともありそうで、金銭的な経済関係が世の中で成り立っている全ての関係の土台となっていると考えるなら、まず優先されるべきは金銭的な経済関係となるわけだが、それよりは愛情関係や信頼関係などを重視したければ、少なくとも関係する者同士が経済的に同等の立場である必要があるかもしれないし、経済的な束縛から自由である限りにおいて愛情関係や信頼関係が成り立つとすれば、結局それは金銭的な蓄積のある富裕層の中での関係となってしまうのかもしれない。
 そうではない関係があるとすれば、例えばそれはネット上の掲示板などで無神経な言葉を投げ合う関係であったり、いいね!ボタンを押すだけにとどめておくような関係となるだろうか。そこに一般的な意味での信用とか信頼関係が生まれているとは思えないが、それらも一応は社会的な関係であり、何らかの機能がそこで生じているのだろうし、そのような機能や関係の良し悪しは別としてもそれもある種の社会現象から生じている関係であり、そこに人や集団が関わっている実態があり、当然のことのように金銭を介した経済関係もそこへ入り込んでいる実態があるのではないか。また金銭関係より肯定したくなる愛情関係や信頼関係などがあるにしても、何かのきっかけで憎悪や不信や懐疑などの否定的な感情が入り込んで関係が崩れることはままあるわけで、そういう意味で社会的な関係というのはその場の成り行きによって繋がったり離れたりする性質のものであり、いくら関係の絶対性を強調したところで、時に切実に必要とされたり簡単に不要ともなるような不安定なものなのではないか。またそんな中でも意中の人や集団から信用や信頼を得ようとする者は、社会の中でその人や集団の役に立つように機能しようとするだろうが、そうした社会的な役割や機能に特化して得られる信用というのは、機能や役割を果たしている限りでの信用であり、何らかのきっかけで役割や機能を果たせなくなれば、途端に信用を失うわけで、結局は愛情関係や信頼関係もそのような関係を維持する上での機能や役割を果たせなくなれば解消してしまうようなものかもしれず、それを永続させようとしてできるものでもないだろうし、それは金銭的な経済関係にも言えることで、そしてそのような信用を失うリスクに対して保険が入り込んでくるわけで、リスクを恐れて保険料を支払う余裕があれば、信用を失った時の金銭的な見返りを期待してしまうだろうし、それが本当に金銭的な見返りで埋め合わすことができるかどうかは状況次第な面もあるかもしれないが、やはりそういう部分では金銭的な経済関係を信用しているわけで、それがどのような類いの関係だとしても、そのような関係が失われるリスクに対して保険をかけるような行為に及べば、すでにそこには金銭的な経済関係が入り込んでしまっているわけで、そういう面で社会のあらゆる関係に金銭的な経済関係が入り込む余地があるかもしれないが、それを拒む意志がどこから生じるのかといえば、それは時として金銭関係に対して抱く不信や懐疑の念だろうか。

 ある面においては周囲から信用を得るために人や集団は活動していて、社会的な信用というのは人や集団が活動する上で欠かせないものとなるだろうし、信用を得る以外の目的を成し遂げようとする時、信用を得ることでその活動が円滑に運ぶことが期待されているわけで、他に様々な活動が競合している中で目的を達成するには、まずはそれに必要な人や集団からの協力が欠かせないだろうし、彼らから協力を取り付けるには信用されなればならず、そういう意味で周囲の人や集団から社会的な信用を得ることが当面の活動目標となるだろうし、それが目的を達成するための必要条件となる場合があるのではないか。ただ社会的な信用というのは得ようとして簡単に得られるものでもないだろうし、活動して行く中で誠実な対応を心がけていれば自然と得られてしまうこともあるだろうが、その一方でいくら誠実な対応をしているつもりでも、活動そのものが周囲から反感を買うような性質のものなら、いつまでたっても信用されないどころか、場合によっては妨害や嫌がらせに遭ってしまう場合も出てくるだろうが、それに関して活動を通じて関係する他の人や集団に好印象を持たれるような内容になっていれば、信用を得られる可能性が高くなるのではないか。具体的にそれがどのような活動なのかといえば、関係する人や集団に利益をもたらす活動となるだろうか。そしてその利益が経済的な利益なら金銭を介した関係となるわけで、それに関係する人や集団の間で経済的な利害の絡んだネットワークが生じることになるのではないか。もちろんそれが経済以外でも成立する場合があるわけで、中には怪しげな秘密結社のような友愛組織が生まれる場合もあるだろうし、また時にはカルト的な宗教教団などを形成する場合もあるのだろうが、程度の軽いものであれば、趣味の集まりや主催者の家に集まって談話を楽しむサロンのようなものまであるのではないか。そうやって結束のゆるいものから強固なものまで様々な関係のネットワークが社会の中で張り巡らされているわけだろうが、そんなネットワークを通して何らかの情報が蓄積される場合があるだろうし、そのネットワーク内で蓄積され共有された情報がそのネットワークの性格を表していて、その中に特有の論理や様式が生まれると、それらを共有するネットワークで繋がった人や集団と、それ以外の人や集団との間で何らかの差異が生じるわけだ。
 その差異がネットワークを共有する人や集団の利益になるとすれば、その利益を求めてネットワークに繋がっていない他の人や集団もネットワークに繋がろうとするだろうし、ある意味でインターネットというのも多くの人や集団が利益を求めて繋がろうとして世界中に拡大したわけだろうし、それが実際に利益を得られたかどうかはともかく、多くの人や集団がネットに繋がればそこで得られる利益を巡って競争が起こるわけで、そうなるとその競争に打ち勝った人や集団に何らかの利益がもたらされた実態があるとすれば、実際にそうした利益を独占することでIT関連の巨大企業が生まれた経緯にも納得できるわけで、そんな利益を巡る競争は今も続いているわけだろうが、すでにいくつかの巨大企業が存在していること自体が、ある方面での競争にはあらかた決着がついたともいえるだろうし、今さらゼロからスタートして巨大企業が生まれることはないのかもしれず、後は同業他社との吸収合併などの離合集散が繰り返されるばかりなのかもしれないが、いったんそうなってしまうとそこで形成されている社会的な信用は競争に打ち勝った数社の巨大企業が独占している状態になるわけで、ネットに繋がっている他の人や集団もそれを当然のことのように思うだろうし、すでにそんな前提がそこで出来上がってしまっているわけだ。だがいったんそうなって寡占状態が築かれてしまうと、それ以上の進展がそこから生じるかどうかは疑問に思われるかもしれないが、世界中のほとんどの人や集団がネットワークに繋がっているわけではないとしても、主要な国の人や集団がネットを通して情報を共有しているとすれば、それらの人や集団の間では差異は生じないだろうし、差異が生じなければただネットから情報を受け取っているだけでは利益など得られないことにもなるだろうし、また情報発信者になるだけでもそんな人がいくらでもいるなら信用は獲得できないだろうし、ならばどうやって信用を得て利益を獲得できるのかといえば、そこで起こっている何らかの競争に勝ち抜くしかないだろうし、たとえそれがたわいない内容だと思われようと、そこで構築されている利益を生み出すシステムに従うしかないわけで、実際に広告収入などを得るための競争が行われていて、絶えず少しでも提供する情報の閲覧者を増やすための創意工夫が求められているのではないか。ただそうなっている時点でそのようなシステムを構築してネット上に普及させた巨大企業の思う壺なのかもしれないが、そこで競い合っている人や集団にとっては、そのような前提を受け入れることで成り立つ競争なのだから、それに逆らうことなどできないし、逆らったところで何の利益にもならないわけだ。
 ネットに限らず広く社会の中で信用を得た企業やその企業が取り扱う商品は、固有のブランドとして世の中に定着して優遇される傾向にあり、その企業の製品を買ったりサービスを受ける固定客が大勢いれば、例えばその企業が新製品や新サービスを発表すればメディアが優先的に取り上げて、それが話題となって一定の宣伝効果をもたらして、結果的にそれなりの収益を上げられるわけで、そのような企業は無理な安売り競争などをしなくても安定した収益を得られるわけだが、そのようなブランドを確立するまでには、それなりに同業他社との熾烈な競争を勝ち抜いてきた経緯があり、中にはブランドを確立できずに競争に敗れ去った企業もあるだろうし、結果的にはそのような業界内での覇権を確立して製品やサービスのブランド化に成功した企業はほんの一握りの数社に過ぎないわけだろうが、いったんそうやって世間的な信用が得られれば、その成功した数社がその分野で独占的な利益を得られる立場になるわけで、そうなるとその分野での新規参入は難しくなるだろうし、参入しても資本の面で手厚い支援を行う後ろ盾がいないと、成功して世間的な信用を得るのは困難となるわけだ。また新規参入してきた企業がそのような困難に打ち勝ってある程度成功してしまうと、業界内での独占状態が崩れて利益の配分が変わってきてしまうだろうし、その分野がもはや成長が見込めない状況だと、事業が成り立つ企業が増えた分だけ各社が得られる利益の取り分が減ってしまう事態にもなりかねず、それを避けるには各社ともに新規の顧客を開拓しなければならないわけだが、そうなるには人口が増えてしかも増えた人口の中から、それらの企業の製品を買ってくれたりサービスを受けられるような経済的な余裕のある顧客が出現しなければならないわけだが、そうならなければその分野は拡大できないだろうし、拡大できなければその分野で事業が成り立つ企業は自ずから限られてくるわけで、いったん社会的な信用を得られたブランドであっても、いつ何かのきっかけで信用を失って没落しないとも限らず、ブランドを維持するために限られたパイの中での熾烈な顧客の奪い合いに発展する場合もありそうで、現状でも先進国の少子高齢化を背景としてそんな事態に陥っている面もあるだろうし、またこれから人口が増加して産業が発展すると見込まれる地域では、新規の顧客を開拓するための競争も激化しているのではないか。
 そのようなブランド戦略が成り立つ分野は基本的にはどのような分野であっても構わないだろうし、その製品やサービスなどの品質や特徴が世の中に受け入れられれば成り立つのであり、絶えず性能を向上させたりデザインを魅力的に見せたりサービスを充実させたりして、顧客を満足させてメディアが好意的に取り上げるような要素を付け加えればいいのだろうし、そのブランド以外の同種の製品やサービスと差別化できる要素があれば、それが固有のブランドとして世間的に認められるわけで、もちろんそれ以外の製品やサービスを提供する企業の方でも、あわよくば自社ブランドの製品やサービスが世間的に認められることを狙って、メディアが好意的に取り上げてくれるようにアピールしてくるだろうし、そのような宣伝攻勢が功を奏して世間的に認められるようなブランド化に成功すれば、パイが限られていればその煽りを食って没落する他のブランドもあるだろうし、パイが広がれば世間的に認められたブランドの数が増えるわけだ。そしてブランドの高級化に成功すれば製品やサービスの価格を高くして利益を増やせるだろうし、そうなるとそのブランドの製品を持っていたりサービスを受けられる人は社会の中でも経済的に裕福な上流階級に限られてきて、そのブランドが広く世の中で憧れを抱かせるような力を持つようになるわけだが、そうなるとますますその企業は安定した収益を上げられるようになるのかもしれないが、それと同時に顧客が富裕層に限られてくるとパイが狭まってさらにそこで成功できる企業の数も絞られてくるだろうし、分野ごとに世界的に数社だけがその種の地位を獲得している実態もあるわけで、そうなるとそのような分野への新規参入はますます困難となるだろうし、ほぼその数社でそのような分野は独占状態のままとなってしまい、そのような産業の分野が廃れない限りはそんな状態が今後も続いてゆくのかもしれないが、たぶんそういう分野が廃れるということは、何も特定の産業の分野が廃れることを意味するだけではなく、社会構造が根本的に変化する場合もあるわけで、そのような産業の分野を支えていた社会の中での上流階級というのが没落する場合もあるのかもしれず、例えば数世紀前の欧米の市民革命などによって貴族階級が没落した時に、それと同時に貴族御用達の産業が衰退した事例があるかもしれないし、それに関して現状で予想されるのは、今後中東の産油国などで市民革命が起これば、支配階級となっている王族などが没落して、王族達が上顧客の高級ブランドを取り扱う企業が打撃を被る可能性もあるのかもしれない。
 人や集団が行なっていることが社会の中で一定の支持を得ているとしたら、少なくともそれらの人や集団はそれを支持している人たちには信用されていることになるだろうが、たぶん信用されていなくても社会の中で行われていることがあるわけで、その人々に支持されていなくてもやれてしまうことの中には、制度的な強制力が働いている場合があるだろうし、それが多くの人たちの反対を押し切って行われているようなら、そこに権力関係が生じている場合があり、警察権力による住民の強制排除や強制執行などはその典型だろうが、そのような行為に対しても社会的な信用が生じているとすれば、そこで生じている権力関係から何らかの恩恵を受けていると思っている人や集団にとっては、そのような強権行為は信用できるものとなるのだろうが、そこで警察権力による強制排除や強制執行が行われているということは、そのような行為に抵抗している人や集団が存在していることになり、警察権力を信用している人たちにはそれらの人や集団は信用できないだろうし、権力に刃向かう行為自体がやってはいけないことのように思われるかもしれないが、まずはどういう経緯でそれが行われているのかを知らなければそのことの是非は判断できないのであり、それを知ることが大切なのだろうが、それ以前になぜ制度的な強制や権力関係に基づいた力づくの行為が成り立つのかといえば、人々がそこで生じている制度や権力に従うように仕向けられていて、すでにそこに社会が構成されていること自体が、その社会が内包している制度や権力関係に従う人々によって世の中の秩序が維持されていることを示していて、実際にそうなっている状況があるとすると、なぜそうしなければ制度や権力関係が維持できないのかといえば、そうしないと制度や権力関係に刃向かう人や集団を抑え込めないからだろうし、そうやって社会の秩序を維持している人や集団は、彼らが守ろうとしている制度や権力関係に刃向かう人や集団と戦いながら現状を維持していることになるわけだ。そしてそうである限りにおいて、そこで生じている制度や権力関係を信用している人や集団と信用していない人や集団との間で対立や敵対関係も生じているわけだが、それらを信用していない人や集団も同じ社会の中で暮らしていることは明らかで、彼らにしてみれば自分たちが信用できる制度や権力関係に変更したいのであり、そういう意味で社会に変革をもたらすために既存の制度や権力関係に刃向かっている事情があるわけだ。
 制度とは行政機構やメディアが社会を統治するために必要な情報の蓄積と活用の実態であり、権力関係とは制度を利用する権利の蓄積と活用の関係でもあり、社会はそこで生じている制度や権力関係によって統治される人々の信用の蓄積と活用に基づいて構成されているのだろうし、ではなぜ人々が制度や権力関係を信用して従っているのかといえば、そこに信用できる情報の蓄積があるからであり、彼らもその情報を活用したいからでもあり、当然そこで生じている蓄積の中には富の蓄積もあるわけだが、それを利用するには制度を活用できる側になる必要があるわけで、そのためには制度が定める権力ゲームに参加して、そこで勝利しなければならないのだろうし、要するに権力を行使する立場になる必要があるわけだが、そのような立場になれば、人々に制度を強制する側になれるわけで、制度に刃向かう人や集団に対して権力を行使することもできるわけだが、そのような立場になったからといって権力関係から自由になれるわけでもないし、勝手気儘な振る舞いができるわけでもなく、建前上は制度に従っているように装わないと、社会的な信用を失って競争相手から追い落としの対象ともなるだろうし、そこで構成されている制度に付き従う限りで権力を行使する立場でいられるだけで、俗に権力者と呼ばれるような人たちも、当然のことながら制度に付き従い権力関係を担う立場を争うゲームに参加するように仕向けられていて、それも制度的な範囲内で行われていることであり、できれば制度自体を自分たちに有利になるように作り変えたいところだろうし、絶えずそうした試みを行いながらも、その作り変えようとしている制度に付き従っているように装うわけだが、彼らも彼らと敵対している反権力的な行動や言動を行なっている人や集団にしても、自分たちが理想とする社会を実現するためには、人々を拘束する制度や権力関係が必要であることは承知しているだろうし、結局はその制度や権力関係がそこで暮らす人々にとって有益であってほしいとは考えているのではないか。そうだとするとそれがどのようなものであっても、社会の中で構成される制度や権力関係には従わなければならない前提は変わらないわけで、ただそこで暮らしている人々にとって不利益となるような制度や権力関係は変えて行かなければならない点では、両者の意見は一致しているのではないか。そういう面では両者ともに制度に付き従い権力関係を担う立場を争うゲームに参加しているのであり、ただどちらがゲームの勝者となるかを巡って争っているに過ぎないのかもしれない。

 人々はメディアを介して世の中で何が信用されているか確認していて、それが何であれ人気がある物事は多くの人の関心を引きつけているだろうし、人々がそれに対して好意的な関心を抱いていれば、それが人々に信用されていると考えても良さそうで、それとメディアが好意的に取り上げる物事とが一致すれば、世論とメディアとが共通の価値観を共有していることになる。もちろんメディアに対して批判的な意見を持っている人も大勢いて、そんな人たちはメディアに騙されないように心がけているだろうし、またメディアの中でも必ずしも同じ価値観を共有しているわけではない面もありそうで、メディアに批判的なメディアという姿勢のメディアもあるのだろうから、全てにおいて一枚岩ではないのはわかりきったことかもしれないが、その中でもどんなメディアを信用してどんなメディアを信用していないかで、人それぞれに好意的に受け止める物事と嫌悪している物事との間で違いが出てくるだろうし、中にはメディアが取り上げる何に対してもそれほど好意的でもなく嫌悪しているわけでもなく、そんなものだとしか受け止められないような感性の人もいるのではないか。そういう人は特定の政治姿勢を擁護するメディアが行う安易な煽動行為には乗ってこないだろうし、互いに対立を煽っている両者の間にそんなに違いはないとも思っているかもしれず、メディアに批判的なメディアという政治姿勢についても、そこにある種の欺瞞が潜んでいることを見抜いているのかもしれない。ではそういう人にとって何が信用できるかといえば、そこでメディアが人心を煽動して何らかの価値を巡って対立せざるを得ない状況が作り出される社会情勢を信用しているのかもしれないし、メディアに対してもメディアを介して構成される社会情勢に対しても、そこで形成される何らかの価値観が何に起因しているという探求よりは、メディアが好意的に取り上げる物事が現状の社会を維持するのに役立っていて、またメディアが批判的に取り上げる物事が現状の社会にとって脅威となる危険性があることを、メディアが知らせようとしていること自体は信用できるのではないか。もちろんその良し悪しは抜きでそのような認識が得られるわけで、必ずしもメディアが好意的に取り上げる物事が良くて批判的に取り上げる物事が悪いということではなく、そうであっては困るような物事は絶えず批判的に取り上げようとするだろうし、そうであるべきと思われる物事は好意的に取り上げるわけで、メディアが困るような物事が世間一般の感覚でも困るような物事だという認識を、メディアが人々の意識に植え付けようとしていることは確かなのではないか。
 そしてそういうことをやっているメディアを信用できるかというと、そうした行為を好意的に受け止める人は信用するだろうし、批判的に受け止める人は信用しないだろうし、しかも信用するか否かの水準ではそうだとしても、メディアが伝える物事を常に信用できるか否かの水準で受け止めるわけでもなく、そのどちらでも構わないような物事も話題としては伝えられていて、むしろそちらの方が圧倒的に多いかもしれないし、それを受け取る人々の意識の中では興味を抱かず関心を引かないような物事がひっきりなしにメディアを介して伝えられている状況もあるのかもしれず、その中のほんの一部が興味を持たれて関心を引くような話題なのかもしれないし、そうなっている時点で信用できるか否かの水準よりはるかに低いレベルで物事が認識されているわけだろうし、そういう物事に関してはいちいち価値観に照らし合わせて好感を持ったり批判したり嫌悪感を抱いたりすることもなく、ほとんど意識されない物事として頭の中で処理されるだろうし、それらが無意識の世論を形成する材料となっているとも言えるかもしれないが、意識しないことだけに思考の対象ともなり得ない物事かもしれず、それは嫌悪感も好感も抱くこともできないから、意識して操作することもできないような物事だろうし、実質的にはそのような物事から構成されている深層心理にこびりついた無意識の世論が、世の中を支配しているとも言えるのかもしれないが、そのような世論に対抗するには、まずは意識して思考を働かせなければそれを捉えられないのかもしれず、また常にそんなことを心がけている人は世の中にはほとんどいないだろうし、そういう意味で無意識の世論に対して意識した思考力には勝ち目がないのかもしれないが、別に無意識と戦っているわけでもないし、勝ち目がないにしても意識して思考を働かせなければ、無意識が作り出す世論を捉えられないだろうから、思考力を駆使してそれを想像することしかできないだろうし、そんなことを考慮すると確かにメディアが意図的に煽動して世の中で対立を作り出している面があるにしても、実際にそこでは人々が意識できない深層心理から攻撃的な闘争本能が感情として湧き上がってきたり、例えばそのような感情が社会の中で異質な文化や伝統や慣習を持つ人々に対して、意識して理性を働かせても埋めることのできない違和感の溝を生じさせていて、結果的に嫌悪感や不快感とともに異質な者を排除するような成り行きをもたらしている場合もあるだろうし、そういう否定的な感情をストレートに表現することに何のためらいもなくなっている状況が実際に作り出されていて、そういう面でも無意識の世論が意識した思考力から構成される理性に優っている結果がもたらされているのかもしれないが、だからと言って安直に理性の復権を訴えるような主張では歯が立たず、いつの時代でも理性よりは感情の方が優っていたのかもしれないし、結局はありのままの現実を体験して、その現実に自らどう向き合っているのかを意識するしかなく、現実に誰もがそれを意識しようとはしているのだろうが、それでもまだありのままの現実からはかけ離れた、世の中を理性でまとめ上げる上で欠かせない共通の価値や信用に対して、幻想を抱く習慣から抜けきれていない面があるだろうか。
 投資家は自らが保有する資本を投資に回してさらなる資本の蓄積を目指して、事業家は資本家によって投資された資本を事業に活用してさらなる事業の拡大と資本の蓄積を目指し、事業の拡大と資本の蓄積によって経済的な成功を収めれば投資家も事業家も社会的な信用を獲得し、社会的な信用を得た事業は確実な利益を期待できるからさらなる投資の対象として魅力が増して、結果的にそこへと資金が集まりやすくなるのだろうが、そんな社会的な信用をもたらしているのが何かと言えば、やはりその大元は資本の蓄積なのだろうし、一概に資本の蓄積といってもそれはキャッシュフローなどから読み取れる資金の蓄積だけではなく、事業の規模や売り上げや収益なども資本の蓄積を裏付ける根拠となるだろうし、またそれは国家的な信用にも言えることであり、いくら財政赤字が膨大なものとなっていても、その国の経済規模が一定の水準を保っていて経常収支などが悪化していなければ、一応は国際的な信用が保たれていることになるのだろうし、そこで人や企業によって経済活動が行われている限りで、絶えず資本の蓄積が目指されていて、結果的に一定規模の資本の蓄積が実現されていれば、それが投資に回されてさらなる資本の蓄積が目指されることになるのだろうが、そのような投資と蓄積の資本の循環の中で、資本を蓄積する手法の一つとして保険も活用されていて、危機に直面した時に金銭的な助けを得られるように、大勢の人や企業などから保険料を徴収して資金を蓄積しておくわけだが、そうやって集められた資金も資本として投資に運用されている実態があるわけだから、それも経済活動の一部を構成しているわけで、投資と蓄積の資本の循環の中では何ら特別な資金ではなく、一方でそれは行政上の予算にも言えることであり、税収は民間の経済活動からもたらされて、国債や公債などの債券も金融市場で取引されているのだから、全ての資金が経済活動に関係しているわけで、他の一般的な資金の活用と繋がっているわけだから、それらのうちで特定の資金だけを操作して都合のいいつじつま合わせをやろうとしても、それが他の資金の活用と噛み合えばうまくいく場合もあるのだろうが、噛み合わなければ大した効果は得られないだろうし、また思わぬ副作用を生んでしまう場合もあるのではないか。そうなると結果的に期待するような効果は得られないだろうし、そういう意味で経済政策や金融政策としての政治的な操作がうまくいかない事例はいくらでもありそうだが、ではそんなことをやっても無駄なのかというと、政治の場でできることはそういうことでしかないのかもしれず、うまくいかない場合があることは承知しつつも、国家と資本主義経済の関係から生じる政治の役割からすると、何かしらやらざるを得ないような成り行きになっているのではないか。
 そうであるならたとえそれほどはっきりした効果は期待できなくても、世論を納得させる意味でも政治的な操作は欠かせないものとなるだろうし、経済に作用を及ぼす行為として政治的な操作があるわけで、実際に他の様々な経済活動から生じる作用とともに、行政の面で行われる政治的な操作も民間の企業などが行う経済活動に何らかの影響を及ぼしているだろうし、その影響はメディア上で行われる政治宣伝や世論調査などの面でも無視できないものとなっているのではないか。そして確かに無視することはできないが、その作用や影響は経済状況によっては限定的なものにとどまるだろうし、経済活動の全てを政治的な操作によって調整できるわけではなく、操作できないところも調整できない面もあるわけで、行政上の予算を活用して住民の生活を守るのにも限度があることは確かなのだろうが、限られた予算の中で他を優先させるために住民の生活を守るための予算を削ろうとすれば、住民から反発を招いて政治家が選挙で当選が危うくなってしまうだろうし、そういうところでメディア向けに世論を意識した政策を行わなければならず、その結果として政治的な操作に制約が課せられているわけだ。また住民の側でもメディア上で行われる政治宣伝や世論調査結果を鵜呑みにして、あまりにも盲目的に現状の政治に信頼を寄せてしまったり、メディアによる煽動行為に踊らされて選挙で誤った選択をしてしまうと、自分で自分の首を絞めるようなことにもなりかねない可能性もないとは言えないだろうし、そういうところで政治に対する監視の目を光らせておいて損はなさそうにも思われるのだが、そうであっても政治に万能の力があるわけではなく、また一般市民が全くの無力であるわけでもなく、あまり事を大げさに考えないことが肝要なのだろうし、実際に大げさに考えていないから日本では比較的長期間にわたって平和が維持されているとも言えるわけだが、その一方で他の紛争地域では実際に政治的な権力闘争によって多数の死傷者まで出ているのだから、いやでも事を大げさに考えざるを得ない事情が発生しているわけで、しかも公然と政治家や官僚の汚職が行われて金権腐敗が蔓延しているような地域では、もはや政治に対する信用も信頼も地に堕ちている状況にもなっているわけだが、そういう地域と比較して日本の現状を肯定するわけにはいかないだろうし、また日本よりはるかにうまくいっている地域と比較して日本の現状を卑下するわけにもいかないだろうが、選挙での政治的な選択がそれなりに何らかの作用を及ぼしていることは確かなのだろうから、現状のゴリ押し的な自画自賛や自虐的な卑下や悲観とは別に、なるべくニュートラルな感覚を保ちながら政治に関わることが大事なのかもしれない。
 政治とは民衆の信用を得るために行う一種のパフォーマンスであり、プレゼンテーション的な意味合いもあり、そういう面だけだと実質的な効果はあまり期待できない行為となってしまうだろうが、とりあえずは民衆にメディアを介して何かできるのではないかという期待や幻想を抱かせることに成功すれば、政治的には一応の成果が得られたことになるわけだろうし、そうであるなら事前に民衆やメディアなどから不用意なレッテルを貼られないように慎重に事を運ぶ必要があるのかもしれず、そのためには政治的な中道を装うのが民衆やメディアを騙すには最適な戦略なのかもしれない。世の中から広範囲な支持を取り付けるのにも、急進的な主義主張を鮮明に打ち出すよりはその方が有利に事を運ぶことができるのではないか。そして常に心がけなければならないのは、民衆の代表者を装うことであり、民衆からもメディアからも自分たちが信頼されていることをアピールし続けることが肝要だろうか。そのためには何か政治的な争点が顕在化するたびに、民衆の判断を仰ぐ必要が出てくるわけで、メディアによる安易な世論調査などでは信用できなければ、具体的には選挙などの住民による投票行為を実施する成り行きになるだろうし、そこで住民の信任を得た上で政治を行うことになるだろうか。それは別に民衆やメディアを騙しているわけではなく、実際に民衆の意向に沿った政治を行なっていることにはなるだろうが、そう思わせるのが住民の投票を伴う政治制度の特性であり、住民の代表者が政治に参加しているように見せかける上で有効なシステムとなっているわけだ。実際には住民の意向というよりはそのような制度やシステムを維持管理している行政機構の意向が少なからず反映されていて、もちろん行政機構としては政治的には中立を装うわけで、そうである限りにおいて住民から信用を得られるわけだろうが、実質的には啓蒙と称して何かにつけて制度を守り従うように住民を指導している実態もあり、また行政機構の意向を反映した政治体制にする上で、政策を巡って議会と行政が対立しているようでは政治が滞ってしまうと考えるなら、議会を構成する政党や議員も行政の意向が反映するような勢力が多数を占めて欲しいわけだ。そしてそのような傾向が議会や行政に関わっている政治家や官僚の個人的な思惑から生じているというよりは、集団的な意志となって議員や閣僚や官僚などの意識を覆うような成り行きを制度がもたらしているわけで、そこで機能しているシステムに従っていると政治家も官僚も自然とそのような集団意志に従うように仕向けられてしまうのではないか。
 制度にはそれを維持して管理する機構の存在が欠かせないわけで、それなしでは制度が制度として社会の中で機能しなくなってしまうし、民衆も制度に従わなくなってしまうのではないか。もちろんそれを維持して管理する機構のない制度などありはしないだろうが、そこに集団で構成される組織形態が現実に施設や予算を伴って存在していると、そのような集団と民衆の間に権力関係が生じることは明らかで、実際に組織の内外で権力を行使する機会が生じるわけで、その代表的なものが住民や企業に対する徴税行為だろうし、また国によっては住民に対して徴兵制を採用しているところもあり、徴兵された住民には命をかけて国を守らなければならない義務が生じるわけで、それと比べて一見権力とは無関係なように思われるが、例えば義務教育なども行政機構が権力を行使できる機会を伴っているだろうし、さらに住民に戸籍や国籍や住所などを登録させることも、それを徴税や治安維持などに利用するわけだから権力関係が働いているわけだ。そしてそのような権力関係は義務と権利という別々の関係の中で捉えられてしまいがちで、民主的な国家体制が成立する歴史的な経緯から、それらが住民の権利として行政に対して主権や言論の自由などの権利とともに勝ち取ったかのように説明されてしまい、そうなると義務と権利とが表裏一体であることが忘れられてしまうわけで、住民から行政に向かって権利を行使しているように見えることが、行政から住民へは義務を課していることにもなるわけで、例えば義務教育は住民が教育を受ける権利を得たのと同時に、住民はその子供達に義務教育を受けさせる義務が生じていることになるわけで、それに違反すれば何らかの処罰を受けるわけだから、そこで生じている権力関係の中では住民が行政機構に従う関係となっているわけだ。権力関係は一方的に権力を行使する側が優位に立っているように思われてしまうのだが、あからさまにそうなってしまうと従わされる側が反発してそこで対立が起こって、権力闘争が始まってしまうだろうし、実際に警察権力による強制排除などを伴う各種の反対運動などは権力闘争であるわけだが、その一方で権力関係を義務と権利の関係に分解してしまうと、権利という面だけを強調すれば、従うというよりも行政から何らかのサービスを受けているように感じられてしまうわけで、住民には行政サービスを受ける権利があるかのように思われてしまい、そこで行われている権力闘争を見ないように振る舞うことができるわけだ。そういう意味で住民の反発を最小限に食い止めるやり方として、民主主義という政治制度が確立された経緯があるわけで、何かそこで住民側に主権があり、主導権を握っているような制度に見せかけているわけだが、実態はそうではないことは踏まえておくべきだろうし、あまりにも権利という面を強調し過ぎて錯覚を起こさないためにも、どちらか一方には振れないニュートラルな政治感覚を保っておいた方がよさそうで、何かあった時にそこから前進でも後退でも機敏に動けるようにしておくべきだろうか。
 社会はそこで人を拘束しておく制度がないと成り立たないことは確かだが、制度を利用して理不尽な権力の行使が行われると、それに刃向かう人や集団が出てくるわけで、もちろん実際に権力を行使する側はそれを理不尽だとは感じていないだろうし、それが理不尽だと感じる権力を行使される側とで認識や見解が異なるわけで、その隔たりが大きくなると両者の間で対立や争いに発展する可能性が出てくるのだろうが、制度自体が社会を管理して維持するシステムを含んでいるだけに、そのようなシステムに組み込まれている人たちは制度に逆らえない境遇にあるわけで、そんな境遇にある人たちが権力を行使する側の人たちを批判すれば、制度に逆らったとみなされて有形無形の何らかの攻撃を受けることになるわけだが、制度自体が恒常的に不変であるわけではないので、たぶん制度が変わるきっかけをもたらすのが、権力を行使する人たちを批判する人や集団の活動なのだろうし、双方の対立や争いから制度が変わる可能性が出てくるわけだろうが、そうだからと言ってどちらの思惑通りに変わるわけでもないだろうし、良い方向にも悪い方向にも変わる可能性があるのだろうから、どうなるのが良くてどうなるのが悪いのかも一概には言えないところだろうし、社会の中での立場や境遇の違いによってそれを良いとみなすか悪いとみなすかも認識や見解が分かれることになるのかもしれないが、少なくともそこで行使される権力に反発したり逆らったりする人や集団にとって、それが不快だと思われたり、被害まで出ている実態もあるとしたら、それが権力の行使に反発したり逆らう理由となるわけだ。そうなるとそのような人や集団を黙らせるには、合理的に考えるなら権力の行使をやめるか、不快感を減じたり被害の出ないような制度に変更すればいいわけだが、権力を行使する側にそれができない事情があれば、強制的に黙らせようとしてさらなる権力の行使が必要となってくるだろうし、また不満分子を黙らせるような制度の改正も考えられるだろうし、そうなるとますます強権政治の度合いを強めることにもなるのだろうが、歴史的に見ればそのようなやり方をエスカレートさせていった政治体制は長くとも数十年で破綻するケースが多く、今は何とか民衆の不満を抑え込んでいるとしても、将来に禍根を残すことになるわけだから、そのような体制に対する評価は将来の判断に任せるとしても、現状がどの程度の状態になっているかは、案外多くの人が気づいているところかもしれず、たとえそれが世論調査や選挙結果に表れないとしても、実際に権力の行使に逆らっている人の言動や行動から推し量ることができるだろうし、またそのような人たちに有形無形の圧力や誹謗中傷を加えている人たちの本気度からも推し量ることができるのではないか。
 だからと言って何が良くて何が悪いということでもないのだろうが、世の中で活動しているどの勢力を信用してどの勢力を信用していないかで、自らの言動や行動の傾向が定まってしまうとしても、直接どのような勢力の味方をしてどのような勢力と敵対するような関係でなければ、そのような対立や争いには巻き込まれていないのかもしれず、無関心でいようと思えばできるわけで、そういう意味で無責任な立場を堅持することができるのだろうが、直接には巻き込まれていないとしても、間接的にはメディアを通してその対立や争いの情報に接しているわけで、そのような問題と浅く触れ合っている程度の状態を保っておいた方がいいだろうし、無理にどちらの陣営の味方になるかを決める必要はないわけで、たとえそのような態度の保留が権力の行使に逆らう人たちを見殺しにすることになろうとも、無関係でいられる限りは見て見ぬ振りを装うことは可能なのではないか。そうすることに心理的な苦痛を感じないなら無関係でいられるということであり、逆にそうすることに苦痛を感じるなら、それだけでもすでに関係があることになるのであり、身にしみで痛みを感じるなら何とかしなければならなくなるわけで、そうなればそれなりの言動や行動が伴ってくるだろうし、そのような言動や行動には信用が生じるのではないか。それとは反対に軽薄な煽動やデマの拡散を信用するのは愚の骨頂なのだろうし、そんな言動や行動に浮かれて何かやっているつもりになっている人や集団はどのみち消え去る運命だろうし、しかもそれでも構わないのはそれらの人たちが一番よくわかっていることであり、わかっているからこそ焦燥感とともに突飛な言動や行動に出てしまう傾向があるのではないか。そしてそうだとしても世の中の主導権を握っているように見えるのはそれらの人たちであり、実際に権力を行使している側もそのような傾向にある人たちと連携しながら権力を行使しているつもりなのだろうが、そうした政治的な権力を行使するような立場や境遇にある人や集団がどのような末路を辿るかは歴史に示されている通りだろうし、そのような末路をどのように捉えるかは人それぞれで認識や見解が分かれるところだろうが、世俗的な歴史家たちはそれらの人や集団の活動を肯定的に捉えたがる傾向にあり、メディア的にも世間の関心を呼ぶようなフィクションに仕立てながら伝えようとしているわけだが、そのような宣伝行為が実際に世の中に何をもたらしているのかはよくわからないところであり、その対象が何になるにせよ宣伝は一過性のイベントにしかならないだろうし、絶えず宣伝し続けるにしても、そこから生じる信用とは宣伝に結びついた信用でしかないだろうし、人為的に宣伝しなければ消え去ってしまうような信用なのではないか。それ以外の信用があるのかと問われれば、そんなものはなくても構わないのかもしれないが、とりあえず軽薄な煽動やデマの拡散の上に世間的な信用が築かれるとすれば、別に信用されなくても構わないような気もしてくるし、世間一般で通用している宣伝行為から生まれる信用がそれと同じだとは思わないが、それらは程度の差に過ぎないとも思われるのは間違った認識だろうか。
 そしてそのような宣伝によって顕揚される国家的な枠組みが何を意味しているかは誰もがわかっていることかもしれないが、それを当然のこととして受け入れているのも誰もが意識していることの大前提であるだろうし、誰もが国家の存在を当然のこととして受け入れているわけだが、それを否定するのは非現実的な現状認識だろうし、安易に肯定も否定もせずにその存在を相対化して考えてみる必要があると思うなら、国家の代わりを考案するのではなく、それを超える存在を夢想するのでもないとすれば、現状からどんな認識を導き出せるだろうか。そこに住んで暮らしている人々を社会の中に拘束するための制度を維持しているのが行政機関であることは言うまでもないだろうし、その行政機関の活動範囲が市町村や郡や県や州や国などに分割されていて、人や企業などから税を徴収して予算を組んで、足りない分は国債や公債を発行して活動の糧としているわけだが、問題なのはその活動内容であり、その活動によって住民が苦しんでいるようなら活動内容を改めなければならないだろうが、その苦しみが経済活動や宗派や民族や人種や国籍や性差などに起因するものなら、行政機関にはそれらの間で格差をもたらしている不均衡の調整が期待されているのだろうし、経済格差や宗派や民族や人種や国籍や性差などから生じる対立を緩和するような措置が求められているのだろうが、そんな認識もある種の単純化でしかないだろうし、問題ははるかに複雑に入り組んでいて、しかもそんな現状を反映した社会が存在しているのであり、様々な不均衡や格差や利害や権力関係を含んだ社会を維持するのが行政機関の役割でもあるわけだから、選挙向けの政治宣伝の類いなら理想論やきれいごとを主張していられるのだろうが、そんなことを主張したからといって民衆の信用や信頼が得られるわけでもないだろうし、実際には社会の中で格差や利害や権力関係に関して主導権を握っている勢力からの支持を得ないと政権を握れないわけで、それらの勢力は場合によっては民衆の間に経済格差や宗派や民族や人種や国籍や性別などの違いで差別や対立や不均衡をもたらしているのであり、要するに民衆を苦しめている張本人たちの支持を得ながら政治を行わなければならず、そうなると理想論もきれいごとも嘘でしかなくなってしまうのだろうが、そうだからと言って民衆の支持を得られないわけではなく、逆に民衆を苦しめている張本人たちを民衆が支持している現状もあるわけで、要するに民衆の方でもあわよくば民衆を苦しめている張本人たちの仲間入りがしたいわけで、その辺を理解しておかないと世論の保守化を説明できないのではないか。
 そうやって世論が信用しているのは、民衆の間に対立や軋轢や不均衡をもたらして絶えず競争に駆り立てる成り行きであり、民衆は騙されているわけではなく、そうなることを承知でそんな成り行きを信用しているわけで、実際にもそんな競争に勝ち抜いた一握りの成功者たちを支持しているわけだ。もちろん選挙で当選して民衆の代表者に選ばれる政治家たちもその中に含まれているわけで、それが社会を構成している制度なのだろうし、ある意味では制度が世論を作っていると言えるだろうし、民衆の意識を支配しているのは制度そのものだと言えるかもしれないが、その一方では制度に拘束されて苦しんでいるのも民衆ではあるわけで、ではどうしたらいいかといえば、都合の悪い部分は見ないようにすればいいわけで、意識して見ないようにしているわけではなく、すでにそれが無意識の中で動作する習慣となっていれば、いちいち自らの矛盾を意識しなくてもよく、それを見ないようにするのも社会を構成している制度に含まれることかもしれないし、そうなるとそれは制度というよりは慣習と理解しておいた方がしっくりくるかもしれないが、それらのどこまでが制度でどこからが慣習と見るかははっきりしないところだろうし、そのようなものが渾然一体となって人々を拘束していると捉えるしかないのではないか。そしてそんな認識に至ったとしてもそこから抜け出ることはできないのであり、いやでもそんな成り行きに巻き込まれていることを自覚するしかないわけで、ではどうすればいいのかといえば、あまり深く信用しないことであり、そのような制度に支配されているからといって、別にそれを信用することはないわけで、いくら信用したからといって、競争に勝ち抜いて社会の中で主導権を握れるほんの一握りの成功者になれるとは限らないわけだから、またそれらの成功者たちを応援していくら崇め奉ってみても、成功者たちに利益をもたらすだけで、その他大勢にもたらされるのは成功者たちに抱く憧れでしかないわけだから、結局はその程度のことだと思うしかないわけで、しかも夢を見させてもらっただけでも娯楽の範囲内では満足できるわけだから、それ以上の信用はいらないのではないか。そして真にやらなければならないことは、成功者たちの味方になることよりも、社会の中で苦しんでいる人たちの味方になってあげることだろうし、それも自分たちが守ろうとしている社会が苦しみをもたらしているのだから、矛盾を伴うことは確かだろうが、どちらにしても矛盾は乗り越えられないから矛盾なのであり、自分たちの考えていることや行なっていることが矛盾をもたらしていることは自覚しておいた方がいいだろうし、そんな矛盾だらけの社会も矛盾している自身もあまり信用しないことが肝要なのではないか。

 例えば何らかの危機に備えて資金を貯めておくのが保険だとすれば、貯めた資金を機会をとらえて積極的に活用するのが投資だろうし、貯めた資金を通して両者の間につながりが生じるのは必然だとしても、資金を貯める行為が投資を通して行われる以外だと、労働を通して行われる場合があり、もちろん投資そのものが投資家の労働とも言えるわけで、様々な労働の中で成功すれば比較的経済効率の良い労働が投資だとも言えるだろうし、それも成功すればの話だろうが、成功する確率を高める手法として投資事業そのものを投資ファンドなどの企業形態を通して行うやり方もあるわけだ。また事業に伴って生じるリスクを軽減するには保険が活用されるわけで、また保険そのものも資金を集めて活用する事業であり、投資の一形態として位置付けられて、結局はそれらが互いに連携して様々な事業を推進していくことになるのだろうが、それらの事業の中で労働が行われて必要経費を除いた部分が利益となるわけだろうし、また利益が出なくて負債が膨らめば事業の継続が難しくなって、返済のめどが立たなくなった時点で事業が破綻して負債が残るわけだが、現状では世の中で行われている全ての事業が破綻することはなく、事業が継続している範囲内で経済活動が行われている実態があるわけで、そしてその経済活動が賄えるだけの人が生きていることにもなるわけで、その経済活動が継続できる限りで労働も行われているわけだ。またその経済活動に付随して行政府などの活動も成り立っている現状があり、行政府の方でも経済活動に関与するとともに、社会を経済活動を行うのに都合の良い法律を伴った制度によって管理して維持しようとしているわけだが、それも経済活動が賄える範囲内で行政府の規模も予算も決まってくるわけで、大した経済規模でもないのに行政機構ばかりが膨張すれば経済活動が行政活動を賄いきれなくなって財政破綻してしまうわけだが、そうなったところで企業とは違って行政府そのものがなくなるわけではなく、予算規模を小さくして行政府自体は存続するわけだろうが、資本主義経済がなくならない理由は、その経済活動の規模に応じてそこで生きられる人の数も行政府の活動や規模も定まってくるということだろうし、経済活動によって賄いきれない人は自然にいなくなってしまうだろうし、行政府の規模や活動も経済活動によって賄える範囲内に収まってくるわけで、経済活動の中で行われている様々な事業も、それが経済活動から生じる収益によって賄いきれなくなれば、利益が出なくなって負債が膨らんで破綻してしまうわけだ。
 またその経済活動の中では絶えず様々な水準で人や企業の間で競争が起こっていて、その競争の結果として人や集団の間に格差が生まれて、それが対立や争いの原因となるわけで、さらにそこから人種や民族や宗派などの対立に絡んでくると、場合によっては武力紛争などの原因ともなるのだろうが、時にはそれが国同士の対立にも発展する場合もあって、そうなると国と国との間で経済競争をしていることにもなってくるわけで、またそうなると各国の行政府は自国が有利になるように保護主義などの様々な方策を施すようにもなるわけで、またそれが自国民の人気取りにも使われて、議会や政府内で主導権を握っている政党や政治家はそれを政治宣伝に利用して、世界の中で他の国よりも自国が上手くやっていることを自国民に向かってアピールするわけだ。そしてそんな成り行きに伴って隣国との間で敵対感情を煽り立てたり、自国内でも政府や議会与党に批判的な勢力を、自国が不利になるような活動をしているとして攻撃する集団まで出現したりするわけだが、そんな活動も経済的に自国民を賄いきれている限りで行われていることであり、社会の中で法律を伴った制度がそれなりに機能しているとしても、行政機構は経済活動が賄いきれている人口を管理し統治しているわけで、それ以上のことをやっているわけではなく、賄いきれないほど人口が増加してもらっては困るだろうし、また経済活動が変調をきたして自国民を賄いきれなくなっても困るだろうし、逆に人口が減ればそれだけ経済規模も縮小して行政府の予算も減らさざるを得なくなってしまうだろうから、それも行政府にとっては困った事態となるのかもしれないが、国民が経済的に豊かになるには一人当たりの収入を増やさなければならないわけで、それには国内の産業が果たして高収入を期待できるような産業なのかが問われてくるわけで、実際に国民の間で経済格差があること自体が、ある程度の賃金格差を前提とした産業構造になっているのだから、誰もが経済的な豊かさを享受できるような仕組みにはなっていないわけで、実際に限られた高収入を得られる職業を求める競争も人々の間で起こっているわけだろうから、今後そのような産業構造や仕組みが大きく変わる可能性が全くないわけではないだろうが、現状が別に内戦状態でも隣国との間で戦争状態でもなければ、そのようなことにはならない程度には平和が保たれているわけだろうから、それでも不満を言えばきりがないのかもしれないが、それなりに多くの人が暮らして行ける程度には経済が安定していることは確かだろうし、それが行政府の管理と統治の賜物なのかどうかはわからないが、それなりの安定が行政府や議会与党の政治宣伝に使われる程度には上手くいっていることになるのではないか。
 今でも世界には現代的な経済活動とは無縁の原始的な狩猟採集生活をしている人もごくわずかにいるわけで、今後それらの人たちがどうなるかはわからないが、またその一方で多くの人たちが武力紛争などによって住んでいた地域を追われて難民となり、生活の糧を失い生命の危機に瀕している状況もあるわけで、それを言うなら狩猟採集民たちも森林伐採などの経済活動によって住んでいた場所を追われて絶滅したり、あるいは多少なりとも金銭的な経済活動と繋がってかろうじて生き延びたり、さらには完全に狩猟採集生活をやめて現代文明の中で暮らしている人たちもいるのだろうし、そんなふうにして世の中で理不尽な仕打ちを受けて不利益を被っている人などいくらでもいるのかもしれないが、突発的な事故や自然災害などで死んでしまう場合を除けば、人の経済活動によってそのリスクが高まっているとしても、すでにほとんどの人が経済活動に巻き込まれて身も心も絡め取られてしまっているわけだから、多くの人がそれによって生かされていることは認めざるを得ないだろうし、人種や民族や宗派などが絡んでくる対立や紛争も、経済的に豊かな集団と貧しい集団のとの間で生じる経済格差から生じていることは明らかで、もちろんそれが様々な集団の間で政治的な権力関係の不均衡も生んでいるのだろうし、それを人種や民族や宗派などのアイデンティティなどから正当化しようとするのは欺瞞でしかないわけだが、たぶんそうしないと納得できないのだろうし、そうなっていることの理由を求めようとすれば、自然と人種や民族や宗派などに行き着いてしまい、結果的に経済活動から目を逸らして、それ以外で格差が生じていることを正当化する上で、そこに何らかの違いや共通項を見出そうとすれば、人種や民族や宗派などしか思い当たらないのではないか。それで納得しないならさらに細かく分類分けしたがる傾向も出てくるだろうし、例えば特定の大学出身者であったり特定の地域の出身者であったり社会の中で特定の階層の出身者であったり、いくらでもアイデンティティの根拠づけには事欠かないのかもしれず、中にはそういう分類分けに当てはまらないケースもいくらでも出てくるわけだが、経済活動が集団で行われていることが多いだけに、そこで成功している集団のアイデンティティを求めようとして、例えば金融業界で成功している集団があるとすると、それをユダヤ系の集団であるとみなして納得するという紋切り型的な認識が、社会の中で共通の了解事項として流通している成り行きがあるのだろうし、金融業とは無縁のユダヤ人など世の中にいくらでもいるわけだろうが、そんなふうに納得しないと人の意識の中では収まりがつかない事情があるのかもしない。
 人の集団への帰属意識というのは自己防衛の手段にもなりうるだろうし、集団の中で生かされていれば個人が危機に陥った時に帰属している集団が助けてくれるという期待も出てくるわけで、それが一定の水準で顕在化しているのが国家への帰属意識だろうし、それを政治的に利用する集団もいるわけだが、実際には国民の間でも経済格差があり、経済的に不利な状況を意識している国民の中には、その格差を国家の力で解消してほしいという期待があるのだろうし、そういうところから社民的なリベラル主義が生じていることも確かなのだろうが、経済活動そのものが格差を生み出す成り行きをもたらしていて、しかも国家財政がその経済活動に依存しているわけだから、そこで生じている矛盾は根本的には解消できないわけで、それでもそんな主義主張を堅持したければ、部分的な修正主義になるわけだろうし、そうなると人種や民族や宗派などから生じる差別をなくそうと主張してくるわけで、さらに同性愛者などの性的なマイノリティの権利を主張したり、経済格差に関しては貧困の問題を取り扱い、例えば経済的に不利な状況にある母子家庭などを助けるための方策を行政に求めたりするわけだろうが、それを必然的に経済格差を生み出す経済活動の中でそういう主義主張をしなければならないわけだから、特定の集団への帰属意識に支配されている人々にとっては、敵対する集団を利するような主義主張には納得できないわけで、また経済活動の中で熾烈な競争に勝ち抜いて利益を得ようとする人々の間でも、敗者を利するような要求には納得できないだろうし、そういう人たちにとっては敗者は成功するための努力を怠っているから、仕事を怠けているから貧困に陥るのだという単純化された大義名分があるだろうし、経済競争は人を他者に対して不寛容な姿勢に導きがちになる面があるから、そうなるのも無理はないのかもしれないが、いずれにしても社会の中で生じている全ての立場や境遇にある人たちを納得させることはできないわけで、そうでなければそもそも対立や争いは生じないのだから、そのような対立や争いがあることを前提として世の中が成り立っている限りにおいて、無矛盾的な主義主張を形成するのは無理なのであり、そんな主義主張には納得できないのが当然だとしても、それでも自らの立場や主義主張を正当化しなければならないとしたら、結局は攻撃や批判の対象として敵を作って、その敵を攻撃したり批判したりしている自らを正当化するために、敵の主義主張の矛盾点をあげつらい、そんなことをやっている自らの相対的な正しさを宣伝するしかないわけだ。
 人の社会的な信用が集団への帰属意識に結びついていると、保険をかける意味でも、いざという時に助けてくれることを期待して集団への忠誠を誓うことになり、集団の方でも構成員の忠誠度に応じて人を信用することになるだろうか。そうであるなら帰属している集団への忠誠心が厚い人ほど集団の中では信用され、その信用がその人への信頼に転化するとその人に対する人望も生まれ、何かの時に周囲が助けてくれそうな雰囲気にもなりそうだが、一方で集団にとってはそういう人ほど利用価値が高く、簡単には逆らわないのをいいことに、次第に無理難題を押し付けるようにもなってしまうのかもしれず、そういう意味で悲惨な目に遭う危険性が高いのも、集団の意向に盲従する人々だろうし、実際にそうなると集団への忠誠心は保険の役目を果たさないことになってしまうだろうが、そうであるなら個人と集団との関係は、駆け引きの関係となることが多いだろうし、ギブアントテイクやウィンウィンの関係を保っている限りで、そこには信頼関係が生まれてお互いに信用し合うことになるのだろうが、一度どちらかが相手に無理強いをしたり信頼を裏切るようなことをやれば、途端に猜疑心が芽生えてきて、何かのきっかけで破局的な成り行きになることも多いのではないか。それが集団との関係でなくても個人同士の人間関係でもそうなることが多いのかもしれないが、そんなわかりにくく不安定な駆け引きを嫌う人は、はっきりした金銭を介した契約関係を好むのかもしれず、ちゃんと文章となって契約条項が示されていれば、契約はそれ以上でも以下でもなくなって、契約以外のことに関しては無関係となるわけだろうが、もちろんそこでも双方の間で駆け引きがあるわけで、いかに自分の側に有利な契約を結ぶかを巡って、法律の専門家などを交えて交渉の場が持たれるような場合もでてくるだろうし、またいったん契約を結んでからも、絶えずちゃんと契約が守られているか確かめなければならず、そこでどちらかに契約違反が発覚したら、場合によっては訴訟沙汰に発展することもあるだろうし、人や集団との間で結ばれるどのような関係であっても、駆け引きの要素を排除することはできないわけだ。そしてそれが保険契約であろうと雇用契約であろうと保障契約であろうと、関係しているどちらかが有利になったり不利になったりする限りで、そこには何らかの権力関係が生じることになるだろうし、お互いが納得して契約を結ぶとしても、双方にとって平等な契約というのはあまりないのではないか。
 人と人との関係は結局ひどいことをされても相手を許す心の余裕がないと、ドラスティックな関係とならざるを得ないだろうし、もちろん心の余裕など生じ得ない状況というのもあるだろうし、その場その時で状況に応じて猜疑や憎悪の念を押しとどめられる余裕が生じるか否かで、関係の強度や柔軟性にも程度の差が生じてくるのではないか。また関係を結ぶに当たってその切実さにも認識や感覚の違いがでてくるだろうし、簡単に壊れても構わないような関係なら気楽になれるし、それが死活問題に至るような関係ならできるだけ慎重に事を運ぼうとするだろうし、それが自分にとってどの程度の重要性を帯びているかを判断する上で、なかなかそれを適切に評価することはできない場合もあるわけで、しばしばどうでもいいようなことに執拗にこだわったばかりに、肝心な時に判断ミスを犯してみすみすうまくいく機会を逃してしまうようなことがあるとすれば、そこで自分を取り巻いている様々な関係を的確に把握できていないことにもなるだろうし、そういう時にその人がそれまで生きてきた経験が勘となって働けばうまくいくようなこともあるわけで、また偶然の巡り合わせに助けられて運が開けたりもする場合もあるのだろうが、そこに作用する何がうまく働いて何が障害となっているかについて、的確に把握するのにも限度があるだろうし、大概は結果的にうまくいけばその場で生じている関係をうまく利用できたと思うだろうし、うまくいかなければ関係を活用できずにしくじったことにもなるのだろうし、そこで交渉や駆け引きをするにしても、うまくいく場合と不調に終わる場合とがあり、確実な結果が見えてこないときは、それほどその場での権力関係が強固でないことになるだろうが、どちらかがどちらかに対して一方的に契約を結ばせたり、強制的に何かをやらせるような関係があるときは、強固な権力関係によって動かしがたい結果が設定されていることになるだろうし、権力を行使したい側はそれを望むわけで、絶えず権力の行使によってそのような関係を構築しようとする機会をうかがっているのではないか。それが世の中に張り巡らされている制度となればそこに硬直した社会が実現されていることになるわけだが、何らかの法律が制定される時に、その内容が強制的な措置を含むものであれば、そこに権力を行使する側の思惑が潜んでいるわけで、なるべくそのような法律が制定されるのを阻止した方が、世の中に自由が保たれるわけで、強制措置が多い社会ほど自由のない社会となるわけだろうが、それも強制措置を必要とする何らかの社会的な背景があることを示しているのかもしれない。

 単なる情報ではなく物自体に価値があるとして取り扱われている物の代表は貴金属の金だろうか。プラチナは金より希少な鉱物だからさらに価値が高いだろうが、古くから財産として蓄えられてきたのは金だろうし、特別な貨幣として金貨が鋳造されているし、金貨は金の含有量で価値が決まるわけだから、金の量がそのまま価値の尺度として広く世の中で通用していたわけだろうが、現代では市場で取引される金の価格も変動するし、相変わらず確実な資産価値はあるものの、絶対的な価値の尺度ではなくなっているのではないか。というか世の中に絶対的な価値の尺度はなく、場合によっては金の方が他の通貨より確実な資産価値を示す時もあるわけで、それも金の産出量がプラチナなどと同様に銀や銅などの他の鉱物と比べて極端に少ないからであり、今後世界のどこかで大量の金が見つかれば、途端にその価格も暴落してしまうのだろうが、そうならない限りは現状の金を尊ぶ文化的な伝統が続いている間は金の資産価値がなくなることはなさそうに思われるが、金自体はただの金属に過ぎないわけで、金がなくても人が生きてゆけないわけではなく、工業的に活用される金属資源や宝飾品の材料としての需要だけなら、他の金属資源や宝石の類いと比較して相対的な価値があるということであり、別に金だけに特別な価値があるわけではないことになるわけだが、ただもはやほとんど実用で使われることはないにしても、金貨という貨幣形態がある種の先入観を抱かせるのだろうし、今でも記念硬貨として少量鋳造され続けているし、金と貨幣との繋がりは否定できず、工業用や宝飾品としてだけではなく、金貨や延べ棒として貯め込んでおくための需要がなくなることはなさそうだ。そしてそんな資産として保管しておく貴金属の価値は、貨幣を貯め込むことと同じ価値を持つわけだが、貴金属は実際に物がなければ価値がないのとは対照的に、貨幣の方は紙幣や硬貨がなくても銀行の口座残高のように数値的な情報だけで構わないわけで、そういう意味ですでに仮想通貨の性質を持ち合わせているわけだ。それでも各国の中央銀行は金庫に金の延べ棒を大量に保管しているのだろうが、それは発行している通貨の総額を賄いきれる量ではないだろうし、すでに金と通貨との兌換は不可能となっているわけだが、だからといって金の準備をやめるわけにはいかないのだろうし、ある程度はそれが通貨の信用をもたらしているわけだ。
 そんなわけで仮想通貨と通常の通貨との違いは、通貨価値の裏付けとなる金の量をどれほど準備しているかということになるわけだろうが、何も通貨価値の裏付けとなっているのは貴金属の金の保管量だけではなく、通貨を発行している国の国力そのものが物を言うのだろうし、その国の国力は経済力だけではなく軍事力もある程度は物を言うわけだろうし、結局は通貨の純粋な機能だけではその価値を担えない実態があるわけで、それが仮想通貨の弱みなのかもしれないが、仮想通貨も実際に流通している実態がある範囲内では社会的な信用を得ることができるのかもしれず、その通貨を使って商品の売買が行われている限りでは通用していることになるわけだろうが、今のところは通常の通貨との交換レートが明らかになっていて、実際に通常の通貨と交換されている実態があるのだろうが、商品を介した売買に使われている実態がよくわかっていないのかもしれないし、そういう面で詐欺ではないかという疑念を払拭できていないのではないか。そして通貨の本来の機能とは商品の売買に使われることだろうし、利殖目的の運用は副次的な機能だったはずだが、通貨自体が商品としても機能するから、安く買って高く売って通貨自体を増やす目的に使われる面が出てくるわけで、結局仮想通貨も今のところは本来の商品の売買を仲介する機能ではなく、利殖目的で使われている面ばかりが強調されているわけだから、それは本末転倒な使用法であり、詐欺ではないかと疑われるのも無理はないわけだ。だがそうだとしてもそのような用途での使用が限定される性質のものであって、そういう用途で広く世の中に普及すればそういうものだという先入観が出来上がるわけで、金が工業用や宝飾品としての使用以外に貨幣として価値を担ってきたように、仮想通貨も商品の売買に使われるというよりは、他の通貨と交換されて利益を生み出す利殖目的専用の通貨として価値を見出すような使用法が確立される可能性がないとは言えないだろうし、実際にそうなるかどうかは今後の普及次第なのだろうが、そうであるなら利殖目的とは縁のない一般の人々にとっては縁のない通貨となるだろうし、ともかく実際に商品の売買に使われない限りは広く世界的に流通する通貨とはならないだろうし、通常の通貨がそれを発行している国家と強い結びつきがあることから生じる信用を得られるわけでもないのではないか。そういう意味で通常の通貨は単なる商品の売買に使われる以外で、発行している国家やその国家が保管している金の準備量という物と結びついていることで社会的な信用を得ていることは明らかだろう。
 物質的な形態を伴う一般的な貨幣である紙幣や硬貨は、いったん生産されてしまえばそれを作り出す機械とは切り離されて存在できるが、銀行口座上に存在する数値情報としての資金は、それを記憶して記録している機械とは切り離し得ず、それを表示するにも通帳などに印刷するにも紙幣や硬貨を出し入れするにもATMなどの機械が欠かせず、数値情報としての資金はそれを取り扱う電子機器という物と結びついていて、それらの情報を取り扱う機械設備とともに存在しているわけで、そのようなシステムを維持運営するだけでも莫大な設備投資と管理費用がかかっているのだろうし、それを利用している人には便利で効率的に思われるが、それは表面上の話であり、その便利さや効率性を実現させるために膨大な量の資源と労力が費やされていて、それを製造したり建設したりメンテナンスを行う側には、便利さや効率性とはかけ離れた複雑怪奇な作業が伴うのだろうし、利用者に便利さや効率性をもたらす技術的な配慮がシステムや設備の複雑さや大規模化に依存していて、それを利用者が実感できないような仕組みとなっているわけだから、そうなっている時点ですでに一般的な利用者はその種の技術をもたらしている知識から疎外されているわけで、利用者はただ利用するだけの存在となってしまい、システム自体を制御することはできなくなっているわけだ。もちろんそのようなシステムの全体を制御している者などいないわけだが、ただ部分的に役割分担されている範囲内で決められた手続きに則って操作している担当者はいるわけだが、そのような担当者がシステムの全体を制御することはできないだろうし、またシステムを維持管理している組織のトップに立っている人が制御しているわけでもなく、役割分担されている範囲内であれこれと指示を出しているだけではないのか。そういう意味で利用者も管理者もそれぞれに異なる水準でシステムに関与しているわけで、互いに部分的にしかシステムの動作を把握していないだろうし、関与している部分も異なり、双方ともにそこで動作しているシステムに組み込まれているとも言えるわけだが、そのシステムが彼らにもたらしているのが、彼らが実感していることだけをもたらしているわけではないだろうし、システム自体が彼らを操作して彼らの感覚をシステムにとって都合の良い固定観念へと導いている面があるのかもしれず、それがシステムを維持するのに都合の良い人間へと、システム自体がその利用者と管理者を作り変えるような動作を伴っているのではないか。
 要するにシステムを利用することによっても管理することによっても、利用者も管理者もシステムに逆らえないように作り変えられてしまうのかもしれず、両者ともにシステムに組み込まれることによって、いやでもそこにもたらされている環境に順応しないと生きてゆけないようにされてしまっているのではないか。それはシステムによってもたらされる本質的な効果であり、利用者はシステムがもたらす便利さや快適さと引き換えにして、システムによって馴致されてしまっているのだろうし、管理者はそこで駆動している機械の歯車のようにシステムと一体化して、システムを動かし続けることがその使命となってしまうわけだ。そして両者ともにシステムが動いている限りで生きて行けるわけで、彼らにはシステムを止める権限など委任されていないだろうし、止まってしまっては困ってしまうわけだから、いやでも動かし続けなければならず、いやでも利用し続けなければならないわけで、それをやめることは死を意味するというのは大げさすぎるかもしれないが、いったんシステムに順応してしまった時点でやめられない事情が生じてしまったことは確かだ。しかもシステム自体が時代の変遷とともに徐々にあるいは場合よっては劇的に変化することもありうるわけで、システムに順応しすぎてしまうと変化に対応できなくなる可能性も出てくるのかもしれず、その利用者も管理者も変化したシステムに見捨てられてしまう事態もないとも限らないわけで、結局システム自体がその利用者と管理者をシステムに順応させようとする作用を及ぼしながらも、何かのきっかけでシステム自体が変わってしまえば、その利用者も管理者も変化したシステムに対応しなければならないわけだから、いったんそこに何らかのシステムが確立されてしまうと、その利用者も管理者も絶えずシステムへの従属を強いられて、主導権を握れなくなってしまうのであり、システムの方がそれへの馴致作用によって、そんなことには無自覚になるように作用を及ぼしてくるわけだから、そんなシステムに対して好意的になるしても批判的になるにしても、すでにシステムありきの前提を突き崩せなくなっているわけで、どうあがいてもシステムの呪縛から逃れられないのだろうし、システムの裏をかいて何かやるような発想には至らないのではないか。そしてそのような成り行きの中でどうすればいいのかと考えるよりは、システムへの順応に失敗してしまうことを恐れないことが肝要なのかもしれず、なぜか知らないが失敗してしまう成り行きを活かそうとしなければならないのかもしれない。
 世の中では様々なシステムが競合関係にある一方で、システム間の連携も模索されていて、実際にうまくかみ合えば複数のシステムが統合されて、一つのシステムとして動作する場合もあるのだろうが、その中でも絶えず様々な作用から生じる偶然の巡り合わせによる撹乱も起こっていて、その影響でシステム自体も変形を被り、当初からあったシステムの目的自体も変わる可能性まであるだろうし、恒常的に目的に従って一定の動作が保たれるわけではないのだろうが、そうであるとしてもシステムは相変わらず一定の動作を目指す限りでシステムと言えるだろうし、そこで扱われる人や物や情報を一定の方向へと導く仕組みとして設計されていることは確かで、それに関わる人もシステムが導く一定の方向に同調することで、システムの動作がもたらす恩恵にあずかれるわけで、それで万事がうまくいくなら困らないわけだが、実際はそうではなく、システムの動作は絶えず恩恵とともに弊害ももたらすわけで、弊害がもたらされるからシステムに逆らう人が出現するわけで、また誰もがシステムの動作に同調できるわけでもなく、システムが目指す方向とは違う方角へ向かってしまう人もいるわけで、そんなわけで必ずしも一つのシステムが社会全体を覆っているわけでもなく、そこで複数のシステムが競合関係にあるとしても、各システム間で摩擦や軋轢が生じているとともに、互いに目指す方向が違っている場合もあり、全てのシステムを統合できるわけではなく、それぞれのシステムの目的が一つの方向へと向かっているわけでもなく、それを統合する必要も同じ方向へとまとめる必要もないわけで、確かにある水準においては資本主義経済を動作させているシステムが優勢なわけだが、そこには金融システムや生産システムや流通システムや消費システムなどがかみ合っている面もあるが、部分的には噛み合わずにずれている面もあるだろうし、中には消費などのようにシステムのていをなしていない部分もあるだろうし、またそれらのシステムを支えるために保険システムがつながっていることは確かだが、保険は保険で資金集めの面で金融システムとの間に補完関係があって、それが場合によっては金融恐慌の時のように保険システムを危うくする要素も持っていて、さらにそれらすべてを制御するために政治システムがあるわけだろうが、その制御がうまく行ったためしはあまりないだろうし、ただの気休め程度にしかならない場合の方が多いわけだが、いつの時代でも人々は制度的に政治に対して幻想を抱かざるを得ないわけで、政治によって世の中が変わるのではないかと期待しながらも、その期待はいつも打ち砕かれてしまうのだが、それでも制度的には政治に幻想を抱いてしまうように仕向けられているのではないか。
 第一にメディアが政治に対して幻想を抱くように仕向けていることは確かだろうし、またそのメディアを通して政治批判を行なっている人も大勢いるわけだが、メディアの中でも様々な傾向のメディアが競合関係にあって、必ずしもその中でどのメディアが主導権を握っているわけでもなく、政治批判にも様々な方向性があるだろうし、その対象にも様々なものがあるのだろうが、そこで少なくとも言えることは、メディアが直接政治を動かしているわけではないだろうし、さらに政治が世の中のシステムを直接制御しているわけでもないということだ。メディアも政治も世の中のシステムも、その間には何らかの連携関係や競合関係があるのだろうが、それは常に間接的な関係だろうし、また世の中のシステムといっても、それはあくまでも様々なシステムであり、それをシステムの集合体と捉えても、それぞれが直接繋がっているものもあれば間接的な関係もあるだろうし、中には全くの無関係な場合もあるのではないか。それらすべてが互いに何らかの影響や作用を及ぼしあっているにしても、その影響や作用を及ぼす程度にも強弱があるだろうし、それらを一概に一括りにして判断したり評価したりはできないだろうし、その中で個々の事例に関して政治的に取り上げるにしても、それは外部から作用を及ぼせるだけで、結局は何らかの法律を制定して規制したりあるいはその規制を緩和するようなことしかできないわけで、政治システムではそのようなことしかできないのであり、政治がそれ以上のことをやろうとすれば強制的な執行にしかならず、それは強権的な社会の支配を意味するわけで、そんなことをすれば世の中の硬直化を招くだけで、人々の活動の自由を制限する方向にしか行かないわけだ。そういう意味で政治力には限界があると言えるだろうし、ある一定の方向にしか働かない性質があるのではないか。だから多方向にわたる世の中の様々なシステムをすべて制御することはできないわけだが、政治ができることといえばそれらを規制したり管理したりして、制約を課すということであり、しかも制約を課しすぎるとシステムの活動が停滞して、そうなると人も物も情報も滞って社会そのものの活力が衰えてしまうわけで、それでは人々が期待していることとは真逆の結果となってしまうわけだ。要するにシステムの動作が何らかの弊害をもたらしてしまうとしても、政治がそのシステムに制約を課してしまうと、確かにそれによってシステムの動作が滞って、弊害を減じることができるかもしれないが、それと同時にシステムが弊害とともにもたらしていた恩恵も減ってしまうのかもしれず、人々が期待していたのは弊害を減らして恩恵を増やすことかもしれないが、システム自体がそんな都合のいい構造にはなっていないわけで、しかも政治システムにもそのようなことができる機能は備わっていないのではないか。

 政治的な行為には象徴的な意味合いがあり、特に何をやっているわけではなくても、世論の支持を背景としてそれらしいこと発言して、民衆の代弁者のように振る舞うのが政治家であり、それが議会の議員や行政を代表する役職にふさわしく思われていれば、それなりに信用されて役職を全うできるのだろうし、そのような地位や役職に就いてしまえば大抵はそうなってしまうわけだが、そのような人をメディア的に盛り上げたり貶したりする成り行きの中では、誰がその対象であっても構わないのだろうし、議会の与党だとか野党だとかいう分類分けの中で、盛り上げる対象と貶す対象とが選ばれて、その標的となった人に対して毎度お馴染みの擁護や非難の言葉が用意されていて、その人に関連して何かメディア的に興味を引くような出来事が起こる度に、擁護や非難が繰り返されるわけで、それは職業としての政治的な行為にとどまらず、私生活上の問題である方がテレビのワイドショーやゴシップ雑誌的には盛り上がるわけで、攻撃を仕掛ける側もそういう方面で叩く方が世間的な信用を失わせるには有効であることを心得ているのではないか。そしてそのような問題でメディア的に盛り上げようとする意図が見え見えであるときには、別の政治活動に伴う本質的な問題を隠そうとする意図が現れていることが多いのかもしれないが、その隠そうとする本質的な問題といえども政治的にはどうすることもできない問題である場合が多いのかもしれず、それは意図的に攻撃を仕掛けている側が抱え込んでいる問題でもあるだろうし、そのような仕掛けに乗せられて動いてしまう世論の問題でもあるのではないか。要するに彼らは何が政治的な問題なのかについて明快な答えを持ち合わせていないのであり、そうである限りにおいて何を優先すべきかについてもよくわかっていないのではないか。というかある意味ではよくわかっているのかもしれず、要するに単純明快なことを言い放っていればいいのであり、そんなことを言ったからといって何が解決するわけでもないのだろうが、とりあえず単純明快なことを繰り返し述べて、それ以上は言わないことが肝心なのであって、その単純明快さの中にとどまっていれば世論の支持を得られるような仕組みを、彼らを支持するマス・メディアが作り上げてくれるわけだ。
 それはそのようなことを仕掛けるメディアとそれに乗せられてしまう世論の問題ではあるのだろうが、一方でそれは何を意味する問題でもなく、ただの煽動行為でしかないといってしまえばそれで終わってしまうような問題なのだが、終わってしまってはまずいのだろうし、終わらないように繰り返し煽動し続けるのだろうが、そうなってしまった時点で世の中の仕組みをどうこうするような政治的な議論とは無関係となってしまっているのであり、そういう議論の水準にとどまれないからこそ、煽動して騒ぎながら何もかもうやむやにしてしまうしかないのであり、その代わりにうやむやにできないのは攻撃対象となっている人の責任問題であったり、その世間的な信用の問題であったりするわけで、もはやそれは論理のすり替えという水準でもなく、そのようなシステムとして動作している実態があるわけで、単純明快に敵を非難し言動的に攻撃を加えていれば、それ以外のことは過ぎ去ってしまうわけだが、果たしてそれでも政治に幻想を抱けるのだろうか。それは制度的に民衆が政治に対して幻想を抱くこととは別次元で起こっていることなのかもしれず、メディアの扇動に乗せられて世論が動くことが短期的な政治情勢の変化を示しているのに対して、制度的な政治への幻想は長期的な建前のようなもので、建前としては政治が世の中を良い方向に導いてくれるのではないかと期待しながらも、メディアの扇動には敏感に反応して攻撃対象となっている政治家には嫌悪感を示すわけで、それが世論調査や選挙結果に反映するとすれば、建前としての政治への幻想に何の意味があるわけでもないことにもなりそうだが、それでも何かにつけ扇動するメディアへの信頼と現状の政治への肯定的な幻想が重なっているわけだから、その状態はメディアが作り上げている世論操作的なシステムが揺るぎなく機能していることを示していることになるのではないか。そしてそれが世の中の不快な安定をもたらしていると言えるだろうか。それを不快だと思ってしまう人にとっては確かに多くの人々が意志の自由を奪われているようで不快だろうが、システムに従っている自覚のない人々にはそれほど不快だとは思われないだろうし、かえってあからさまに逆らうような言動をする少数の人たちの存在が目障りに感じられるわけで、そちらの方がより一層不快に感じられるのではないか。
 そのようなメディアを活用した煽動による世論形成とともに、実質的に政治が民間の経済活動に働きかけるやり方としては、産業の振興を促す意図で行政の場で行われる手法として、振興したい産業に対する補助金の交付や、税の減免措置などがあるだろうが、さらに産業の振興を阻害する可能性のある競合する他の産業に対しての課税の強化や、外国から流入する競合製品に対して関税を高くする場合もあるだろうし、確かにそれによって成長する産業もあるのだろうが、それも産業自体に成長する要素がないと、酪農のように補助金漬けになるだけで、補助金なしには成り立たない零細業者の延命に湯水のごとく無駄な補助金が使われるような事態ともなるわけで、一概にそのような手法がうまくいくわけではなく、また原発を設置した自治体に多額の交付金を出すような場合も、市町村が交付金を活用して住民に住みやすい街づくりを目指しても、万が一取り返しのつかないような事故が起こった時には自治体そのものが消滅してしまうわけだから、そのような政治と連動した行政的な手法にも、それによってもたらされる金銭的な恩恵とともに何らかの危険や弊害がついて回る可能性があるわけだ。結局それも民間で行われる投資と同じことで、うまくいく場合とうまくいかずに失敗する場合とがあるわけだから、確実にうまくいくとは限らないわけで、かつて毛沢東が無謀な大躍進政策によって数千万人の餓死者を出したような荒っぽいやり方とは無縁かもしれないが、産業に関して競合する各国とともに同じようなことをやっているだけに、国家間の経済競争に発展すれば自国だけが特別にうまくいくわけではなく、うまくいくにしても他の国と比較して相対的な成功にとどまるだろうし、またそれによって特定の産業が発展したとしても、競合する別の産業が衰退することになるかもしれないし、またそれに連動して発展して欲しくない産業が発展する場合もあるのかもしれず、例えば電気自動車が主流になると、その電気需要を賄うために原発が増設される場合もあるかもしれないし、カリフォルニア州のように風力や太陽光などの自然エネルギーを推進する場合もあるわけだが、日本などのように原発利権が政治的な主要勢力と結びついていると、それが原発の増設の口実に使われる可能性もあるわけで、そういう意味でも行政的な手法がどんな結果を招くかは、各国の国内の政治情勢や産業分野の構成にもかかってくるのではないか。そして国内でどのような政治勢力が優勢になるかは、議会制民主主義のような政治制度が機能している国では、選挙などを通して国民の判断に任されていることにはなっているのだろうが、そのような制度を管理している行政の意向やそれに与するメディアの報道姿勢も強く作用してくるわけで、国民の世論もそのような勢力に誘導されてしまう場合があるわけで、選挙結果もそのような作用を被ってしまうわけだ。
 ともかくどんな結果が待ち受けていようと、そこで暮らしている人々にできることは、結果を受け入れようと拒否しようと、政治的な選択の機会を活かすことだろうし、もちろんそれはやろうとしてもできないことでもあり、果たして自分の意志で選択することができるかどうかもわからないわけで、実際に選挙で特定の政治勢力を支持して投票したとしても、それが行政の意向やメディアによる世論操作を受け入れた上での行為なら、自発的に選択したつもりでもそれらの作用によって選択させられてしまったことになるわけだから、実質的にはそれが自らの意志で選択したと言えるかどうかも怪しく思われてくるのではないか。しかも制度的にはそれでも構わないどころかそれが当たり前のことなのであり、個人の意志など所詮は周囲からの影響を受けてころころ変わるものであって、その程度のものでしかないと言ってしまえばその通りで、そのような水準で事の善悪を判断するのは意味のないことかもしれず、政治的にも行政的にも産業的にも結果的にうまくいく程度に応じて、そのような状況下で暮らす人々の状態や程度も決まってくるわけで、それで不満ならその不満が選挙での投票行為に結びつく場合もあるだろうし、不満があってもメディアの世論誘導にうまく乗せられて現状維持に落ち着く場合もあるだろうし、不満を抱きながらもそれを投票行為に結びつけられないようなシステムが構築されているとしたら、そんな自覚もなくそのようなシステムに従っているだけとなってしまうのではないか。そしてそれを特定の誰が制御しているわけでもないだろうし、行政機構の集団意志が作用しているとしても意図して制御されているわけでもなく、世論誘導しているように思われるメディアにしても、あからさまに誰かの指示に従っているわけでもないだろうし、実際にそんな指示を出している人物がいようと、その人物も何らかの集団意志に従っているだけかもしれないし、責任の所在をはっきりさせて攻撃目標を定めて攻撃している対象があるとしても、そのような水準では確かにそうかもしれないが、その攻撃対象が何かのきっかけから失脚することがあるとしても、状況そのものが変わらなければ、それと同じような攻撃対象など次から次へと現れてくるだろうし、そういう意味では絶えず闘争を継続させなければならないのかもしれないし、闘争している自覚もないまま攻撃対象となった人物への批判を繰り返しているだけなのかもしれないし、そんなことをやっているうちに時代も状況も変わって、またそれとは別の方面からとりとめのない障害や弊害が行く手に立ちふさがってくるかもしれないが、そうであるからあまり楽観的にはなれないのと同時に、そうであるからこそかえって気楽な気分にはなれるのかもしれず、どのような未来がやってこようと、そこで人が暮らしている限りで、政治も行政も産業もそんな人々が暮らしている社会の状況に合わせて何らかの影響や作用を及ぼしてくるのであり、そうである限りにおいて政治も行政も産業も成り立つようなものなのではないか。