資本論





第二章 投資と事業




 投資とは何らかの事業を行うために資財を投じる行為であるが、例えば個人や企業が事業を行なって利益を上げて資産を形成したら、その資産をさらに事業に投じて資産を増やそうとする行為でもあるだろうし、また自らが直接事業を行うのではなく他でやっている事業に投資して、そこから利益を得るやり方が普及している実態もあるわけで、確立された制度としてまとまった金額の資金を何らかの事業に投資する方法として、資金を必要とする事業主に直接資金を貸す場合は、そこで資金を貸す役割を担うのは主にまとまった資金を集めるのに有利な銀行などの金融機関である場合が多く、資金を貸す側は貸した資金の定期的な返済とともにその利息を事業主体から受け取ることになる。また事業主である企業が発行する株を買う株式投資だと、個人も企業も証券会社などの金融機関を介して株を買うことができ、その場合は投資先の企業から買った株式の額に見合う配当金を受け取ることになる。さらに企業が発行する社債などの債券を買う場合も、金融機関を通して個人や企業が買うことができるが、その場合は資金を直接貸す場合と似たように、満期となって資金の返却を受けるまでの間に定期的に利息を受け取ることになるが、直接の資金の貸し借りとは異なり、株式や社債は金融機関を通して市場で売買が可能で、企業の業績が好調であったり、今後の成長が見込める企業の株に人気が出て、買い手が増えれば値上がりして、高値で売れれば配当金を受け取るより多くの利益を得られる一方で、逆に企業の業績が悪化したり悪化が見込まれる株価は、売り手が増えて値下がりして、安値でしか売れなければ利益を得られるどころか損失を被ってしまい、実際に業績が悪化すると株配当も少なくなるし、さらに企業が債務超過となって倒産すれば株式は価値がなくなって、社債などの債権にしても投資した資金を全て回収するのは難しくなる。
 社債や国債などの債券を買うと、一定の期間が過ぎて満期となるまでの間に、債務不履行にならない限りは額面通りの金額と定期的にその利息が払われるので、株価や外国為替などとは値動きが異なり、例えば各国の中央銀行などの決定によって政策金利に準拠する短期金利が上昇して、物価上昇や経済成長などへの期待が加味される長期金利に準拠する債券に投資するよりは、銀行に直接資金を預けたり株式や為替相場に投資する方が有利になるようなら、債券価格は下落して、また短期金利が下落して債券に投資した方が高い金利を得られるようなら債券価格は上昇することになる。そして社債を発行している企業や国債を発行している国などの信用によっても値動きが起こり、企業の業績が悪化したり国の財政収支や経常収支が悪化して、債務不履行の危険が高まれば債券の価格は下落するとともに、そうした信用不安を背景として債券自体の金利は上昇して、逆に企業の業績が良くなったり国全体の経済が良好になって財政収支や経常収支が健全に推移しているようなら、債務不履行の不安はなくなって信用が高まって、債券価格は上昇するとともに債券自体の金利は下落する。また債券を発行する企業や国などが急な資金調達が必要な時には、債券の割引が行われ、額面より安く売りに出されて、満期が来たら額面通りの金額が償還されるので、その差額の分だけが利益となる。
 投資は物や情報や資金を動かして資産を増やすゲームと見立てればわかりやすいが、ゲームとして機能するのは投資先の経済活動が順調に推移している間だけで、投資していた事業が破綻して企業が倒産すれば通常のゲームは成り立たなくなり、その代わりに業績が悪化してから倒産するまでの間に、あるいは倒産を回避するための手法も含めて、いかに投資していた資金を回収できるかを競う別のゲームも開始されて、そうなると通常の手段では投資した資金を回収することが困難になって、事業に投資した資金が無駄になってしまうリスクも高まるわけで、自身が事業主体である場合も含めて、一般的には長期的に安定した経済活動が見込まれる分野に投資すれば、長期的に安定した利益が得られる可能性はあるが、その額は投資した金額に比べれば儲けは微々たるものとなるだろうし、その反対に短期的に経済成長が期待できる分野に投資すれば、短期的に得られる利益も相対的に大きくなるだろうが、短期的に成長する分野では競争も激しく、それだけ競争に敗れて事業が破綻するリスクも大きくなる。
 また小売業界などではよくあることかもしれないが、短期的に成長が著しい分野の経済規模が拡大してくると、長期的に安定している隣接する分野と競合関係に入ることがあり、そうなるとその分野での安定状態が崩れて、長期的に安定して利益を上げていた分野でも収益が悪化したり事業が破綻するリスクが高まり、その煽りを食って実際に事業としては成長しきった大企業などが稀に倒産することもあるわけだが、確実に利益が見込めるような経済成長が実現しているということは、その分野だけ見れば確かに安定して収益を上げているように思われるかもしれないが、そうなっていることのしわ寄せが他の分野に波及していることがあり、そこで遠からず破綻をきたすような無理な投資や経済活動が行われている場合もあるわけで、そのような面を考慮すると全体として地域間や分野間で経済的な不均衡が著しい状態となっていれば、うまくいっている部分ではすこぶる安定している一方で、うまくいっていない部分では不安定で混乱の極みに達していたり、利益が他の地域や分野から搾取されていたりするわけで、確かにうまくいっている部分に投資できればそれなり安定した利益を得られるが、得られる利益は投資した額に比べればそれほど多くはなく、逆にうまくいっていない部分では損害を被るリスクは高いが、そういうところで投資に成功すれば莫大な利益を得られる可能性もあるわけだ。また収益が安定して得られている部分ではすでにその分野で成功した人や企業が利益を独占しているので新規参入は難しく、新規参入したければうまくいっていない分野に参入して、そこで成功しなければならず、そこで成功してうまくいっていない分野をうまくいっている状態に引き上げる必要があり、それに成功すればその分野でもうまくいくようになって、その分野で成功した人や企業が利益を独占できる可能性が出てくる。
 そういう意味で投資は、すでに十分な額の資産を持っている人や企業なら、経済活動が安定して行われている分野に多額の投資をすれば、利息や株配当などからそれなりに安定した利益を確実に得られるが、そのような相対的にリスクが低くて少額の利益では満足できなければ、まだ不安定で成長途上かこれから成長する見込みのある分野に投資するか、資金を借りて全くのゼロから起業するかして、ハイリスクハイリターンの賭けに出るしかなく、それに成功してその分野が安定して収益を出せるように成長させることができれば、その過程で莫大な利益を得ることができる。もちろんそうなる過程で事業に失敗して破綻する人や企業が続出するかもしれないし、またそうなる人や企業が多ければ多いほど、そんな中から成功するごく少数の人や企業には莫大な利益がもたらされるわけだ。例えばコンピュータに関連してハードウェアやソフトウェアなどの事業を起こした人や企業などは、まさにそうなったわけで、またインターネットを利用した事業でも、ごく一握りの投資家や事業家や企業が成功して巨万の富を得ることになったわけだ。
 新規に事業を行うにしてもすでに他の事業である程度は成功していて、銀行などにも当座残高があってそれなりに信用があれば、事業によって得られる利益を見越して資金面でそれ相応の支援を受けられ、資金を借りるに際しては必要な担保となる資産の額や事業計画の内容や現状での事業規模や売り上げなどが考慮されて、それが新規に発行できる株式や社債の額などにも影響してくるのだろうが、それらを加味して資金の融資や株式や社債などの発行によって得た資金を使って事業を展開できれば、場合によっては税収や雇用を期待する政府の産業振興政策の恩恵に与かれる可能性もあり、そうなるとそれだけ事業が成功する確率が高まるだろうし、実際にそうやって金融業界や政府などの支援を受けながら成長した産業分野もそれなりにあるわけだが、何か新しい事業を行うにしても、それまでに行ってきた経済活動の成果や実績などとともに、金融業界や政府からの支援がその分野で成功する鍵となる場合がある。
 何らかの産業の分野で新たに投資が行われるということは、そこから利益が見込まれるからだろうし、それはまた結果的には既存の隣接する産業の分野から得られる利益を切り崩すことにもなり、そこで新たに隣接する産業分野同士の競合関係が生まれたり、競合する分野同士が融合して新たな産業分野が生まれることもあるだろうし、そうやって産業分野ごとの勢力地図が塗り替えられる可能性も出てくる。また企業の規模が拡大してくると事業も多角化して、一つの企業が様々な産業分野へと事業を拡大していく傾向も出てきて、途中で専門分野ごとに分社化したりして、それらを統括する会社が生まれることもあるだろうが、そういうところからも異業種間の連携や競争が進む場合もあり、様々な分野の間で競合関係が生じるとともに資本的な連携関係も生じて、それがある一定の傾向を示すというよりは多面的な傾向を示して、その中で利益の奪い合いも起こる一方で、妥当な利害調整を行って、同じ資本傘下の系列関係の中で利益を分配しようとする傾向も生じてくる。

 資本主義経済は事業が継続して順調に経済活動が行われている限りでは成り立っているわけだが、事業がうまくいかなくなって破綻してしまえばそこでの経済活動は成り立たなくなるわけで、実際に起業すればそのほとんどは失敗するとも言われているし、起業する企業がある一方で事業が破綻して倒産する企業もあるわけで、また株式や債券などを売買することによって利ざやを稼ぐ投機的な投資にしても、実際に儲かっているのは大量の資金を使って株式や債券や為替取引などで資産運用を行う機関投資家や、そのような大口投資家と連携して売買の手数料収入を稼ぐ金融機関などであり、それ以外の一般人がその種の投資や取引を行っても、そのほとんどは利益を出せない現状もある。また現実に事業に失敗して経営破綻するということは、そこで行われた経済活動が実際にうまくいかなくなってしまったということであり、そういう面では資本主義的な経済活動が成り立っていないことを示していて、それでも全体として資本主義経済が成り立っているとすれば、そのような経済は事業に失敗して破綻した多くの企業や投資家たちの屍の上で成り立っていることになるわけだ。そういう意味で失敗した企業や投資家たちにとっての資本主義経済はすでに破綻しているわけで、そうした部分での事業の失敗や破綻があったからこそ、競争の中で優位な立場にある大企業や大口の機関投資家たちに利益がもたらされている可能性もあるわけで、確かに成功した企業や投資家たちにとっての経済活動はそれなりの利益が確保されるとともに成り立っているわけで、そうだとすると資本主義経済というのは全体として成り立っているのはなく、いつでも部分的に成り立っていて、また部分的には破綻しているのであり、破綻している部分では実際に事業が失敗していて、投資した資金を回収できずに、負債として残ったものについては債権を放棄せざるを得ない事態も起こっているわけだ。逆にいうと金儲けに挑戦して失敗する投資家や企業がいないと、資本主義経済は成り立たないとも言えるわけで、そこに何らかの競争がある限りで、現実に競争して敗れ去る投資家や企業が存在するからこそ、その中からほんの一握りの成功して利益を出す投資家や企業が現れるのであり、そのような競争が成り立っている限りで資本主義経済も成り立っているとも言えるのではないか。
 またその一方で利益がほとんど出なくても、人件費や材料費や光熱費や減価償却費などの必要経費が賄えるだけの売り上げがあれば、事業自体は継続していく可能性があり、実際に競争にある程度の決着がついて大規模集約化が進んだありふれた分野では、売上に比べて利益は微々たるものだろうし、そういう分野ではもはや新規参入も困難になっていて経済成長も見込めず、その逆に新規参入が相次いで競争が激化して脱落者も多く出ている分野で成功すれば、それらの犠牲者が出した負債の額に見合うだけの利益を確保できるわけで、要するにそういう分野ではハイリスクハイリターンなのであり、もちろんそれがいつまでも続くわけではなく、しばらくそんな状態が続けば業界内での寡占化も進んで、成功して生き残った事業者だけがその分野の利益を独占するような状態にもなるわけで、いったんそうなってしまった分野では新規参入が難しくなって、同業他社を廃業に追い込んだり吸収合併した大企業が数社残るだけの状況となるのではないか。そして他にはそうならなかった分野というのもあり、激しい経済競争とは無縁のまま、そこでもそれなりに生産と流通と消費のサイクルが保たれていて、もちろんそんなところにも大企業が部分的に参入してくる場合もあるだろうが、当然のことだが誰もが大企業の従業員でも社員であるわけでもなく、実際に大企業とは無関係な人たちが生きていて生活できている現状もあるわけだから、全ての産業分野を大企業が支配しているわけではなく、利益があまり見込めない分野には大企業は参入してこないだろうし、わずかな収益によってかろうじて生活が成り立っているようなところでは、利益が見込めないから競争も激化しないだろうし、新規参入もなければそのままとなってしまうわけで、まだまだ世界にはそういう分野が数多くあり、そうしたかろうじて生活が成り立っているようなところでは、経済が停滞しているのが普通の状態であり、それで何が困るわけでもなく、そのままの状態がこれからも続いてゆくだけなのではないか。
 資本主義経済の中では地域や分野によっては特有の事情に基づく偏りや不均衡が生じていて、全ての地域や分野で一律に利益が出ているわけではないのはもちろんのこと、利益があまり出ない分野でもそこで人が必要とする物資が生産されていれば、それなりに事業が継続していく傾向があり、人が生きて生活が成り立っている現状がある限りは、そこで何らかの経済活動が行われていて、経済活動が成り立たなくなれば人がそこからいなくなってしまうわけだが、そういう意味では人が生きられる範囲内でしか経済活動が成り立たないわけで、そこで利益の蓄積が生じるということは、人が必要とする以上に経済活動が行われているということであり、しかも蓄積された利益を他の何らかの事業に投資したいのであれば、そこに新たな必要を生じさせなければならず、それが他の地域や分野に関係する人にとっては必要ではなくても、そこで実際に投資する人や企業にとっては蓄積された利益を活用するための必要が生じてくるわけで、そうなると必ずしもその必要というのは人が生きていくために必要というわけではなく、それとは異なる何らかの必要がそこで生まれることになり、例えばそれが気晴らしや暇つぶしの娯楽であったり、人々の好奇心や欲求を満たすためのものであったりするわけで、いったんそういう必要が新たに生まれると、今度はそれを人々に提供することによって生活の糧を得ようとする人や企業が現れてくるわけで、それがサービス業などの第三次産業と呼ばれる分野に広がって、今ではそれに従事する人の方が多くなってしまっている現状があるわけだ。そんなわけで必要を超える経済活動が富の蓄積をもたらすと同時に、それをさらに利殖目的で増やす必要から新たな産業の分野も生まれてくるわけで、実際に太古の昔に古代人が狩猟採集生活をしていた頃は、世界にはそれほど人はいなかったわけで、その時点ではそれほど余分に人がいる必要も余地もなく、狩猟採集だけではそんなに多くの人を養えないわけだが、その時代にはその程度の人口で人の活動は間に合っていたのであり、それが何かのきっかけで農耕や牧畜などを行うようになると、農耕や牧畜を行うのに必要な分だけ人が増え、実際に農耕や牧畜によって養える分だけ人が増えたわけだが、さらに現代のように機械技術による大規模集約的に様々な大量生産が可能となって以降は、やはりそれによって養える分だけ人が増えたことになるわけで、そうやって増えた人が活動するための必要もそれだけ増えたことになる。

 何らかの投資によって事業が始められて、その事業に必要な資財や人材が確保されて必要な設備も整えられて、うまくその事業が軌道に乗れば、そこから物や情報が生産されて流通して販売されて消費される成り行きが生じることになるが、そのような事業自体には利殖目的以外に事業を行う合理的な理由が見当たらない場合があるだろうし、他に何らかの目的を持って投資が行われて、投資が計画的に進められて結果的に事業が継続するにしても、そのような事業が必要とされる根拠は、事業が行われるに至るそれなりの事情があって、それが何らかの魅力を伴うような目的だとしても、それと事業が継続される成り行きとの間にはそれほどはっきりとした因果関係はないのかもしれない。それとは対照的に投資が可能な理由というのは、資金を融資する側に事業に必要な資金を融資できるだけの富の蓄積があり、融資される側が必要な担保を用意できて、借りた資金の返済計画の妥当性や金利の支払いや株式の配当などを行える見込みがある限りで融資が可能となり、そう判断されれば実際に投資が行われることになるのだが、どのような事業に対して投資が行われるにしても、そのような投資が行われる理由として、投資によって利益が得られるかどうかが、投資を行うに際して判断されることであり、利益を出せるということが投資する合理的な理由となるが、それ以外で事業を行う必要の有無に関しては合理的な理由はないのかもしれず、遠大な夢の実現とか社会貢献などのような利殖目的以外で事業が必要とされる切実な理由があるにもかかわらず、投資するに際して採算が合わないと判断されれば、現実問題として投資は行われないわけで、結局は利益を出す見込みのある事業は行われる一方で、事業を行う何らかの切実な必要や理由があっても、利益を出す見込みのない事業は行われないことになる。
 その一方で政府や地方自治体が行う公共事業や民間で行われる慈善事業などは、利益を度外視して必要に応じて行われることもあるだろうが、その事業主体である政府や自治体や民間の慈善団体は資本主義経済から恩恵を受ける限りで活動できる面もあるわけで、その利益を度外視した事業が可能なのも、徴税や寄付金など他から資金を集めてきて事業費を捻出している事情があり、そうなると事業費を捻出できるか否かは、集金の対象となる他の利益を見込める投資によって成り立つ事業の成否に関わってくるわけで、他の民間で行われている事業で利益が出ていないと税収も寄付金も増えず、そういう意味で利益を度外視した事業が際限なく行われることはなく、それらの事業は政府や自治体の予算規模や慈善団体に対する寄付金の額の範囲内でしか行われないわけだ。政府も自治体も際限なく国債や公債を発行することはできないだろうし、いくら赤字国債に依存していようと基本的には税収に見合うだけの予算規模になるのが妥当なところだろうし、慈善団体も慈善事業以外で資産運用を行なっている場合もあるかもしれないが、継続的に慈善事業を行うには継続的な寄付金の徴収が欠かせないだろうし、継続的に多額の寄付をしている人や団体が存在するとしても、それらの人や団体はそれなりに利益を出す事業に関わっているかもしれないし、そこから継続的に利益を得ているから、その利益の一部が寄付金に当てられているわけで、また一定の金額を慈善団体に寄付すれば、その分は非課税になるなどの優遇措置を受けられるのであれば、喜んで寄付することにもなるだろうし、そういう意味でそのような事業は必ずしも利益を度外視しているわけではなく、公共事業や慈善事業などでも間接的には利益を見込める投資に依存していることになるわけだ。
 また世の中で何らかの流行現象が起こっていれば、その流行っていることに何らかの投資が行われているから結果的に流行っている可能性があり、流行る前からそれに投資していていた人や企業は、その流行っていることが何らかの経済活動によるものなら、流行ったことによって何らかの利益を得られるだろうし、実際に流行っているものが何らかの商品であるなら、その商品を製造販売している企業には直接の利益がもたらされるわけだ。また流行っていることが土地や株を買う行為だとすると、流行る前の安いうちに土地や株を買っていた人や企業は、それらを買うことが流行りだして値上がりした時に売れば、やはり利益を得ることができるわけだが、何かが流行るということは、それが何らかの行為であれば、世の中でその流行っていることをやりたがる人が増えるということであり、またそれが何らかの利益をもたらすような行為なら、すでにそれが流行っている時点で利益を手にした人がいるわけで、たぶんそういう人や企業はそれが流行る前からやっていた人や企業であり、それが流行ったおかげで利益を得られたとなると、結局それが流行ってから利益目当てでやり始めた人や企業は、すでにその時点で出遅れているわけで、しかもそこで競争が発生していれば、競争相手が他にも大勢いる中で勝ち抜かないと利益を得られないような仕組みだと、たぶんそこで利益を得るのは至難の業であり、実際に利益を得られる人も企業もごく僅かとなってしまうのではないか。そんなわけで世の中で何かが流行っていて、その流行っていることから利益が得られるような仕組みや成り行きがあれば、すでにそれが流行っている時点で、そこから利益を得るのは難しくなっていて、実際にそこから利益を得られたのは、流行る前からそれをやっていた人や企業や、流行ってから競争に勝ち抜いたごく僅かな人や企業などであり、そういう意味で流行現象とは世の中の多くの人に夢を抱かせるかもしれないが、実際にそこから利益を得られるのはごく僅かな人や企業でしかないわけだ。
 実際には流行現象は利益とともに消費を促すの性質があり、多くの人や企業がそこへとエネルギーをつぎ込んで、結果的にそのような行為が過熱して労力や富が消費されるわけで、それが何らかの商品なら当然のことながらそれを製造販売した企業が儲かるわけだが、一方でそれを宣伝したメディアも儲かり、それに言及したメディア関係者にもある程度は利益がもたらされるだろうが、ある特定の何かを多くの人が消費する成り行きがあると、その特定の何かを提供した関係者に利益がもたらされるとすれば、それが特定の商品ではなく何らかの話題なら、やはり話題を提供した人に利益がもたらされるだろうか。その場合は何を利益と定義するかが微妙なところだが、何かを煽り立てるような行為は、そんなことをやりたがる人たちに利益をもたらすように思われるから、それを執拗にやりたがるのだろうし、実際にやっている人たちは利益がもたらされることを期待しているのだろうが、そのような行為が世の中で流行っているからといって、そんな流行に乗っかって見え透いた煽り立てをやっている人たちに本当に利益がもたらされるかどうかは、煽り立てている時点ではよくわからないのかもしれず、そこでも利益が何なのかが微妙なところだろうが、案外そんなことをやっている人たちが、実際にそうすることによって何らかの成果が上がって利益がもたらされたと思っていることは、思い込み以外の何ものでもないのかもしれず、彼らは彼らなり都合のいい夢を抱いているのかもしれないが、その夢が実際に実現して何らかの金銭的な見返りを得られない限りは、利益を得られことにはならないのであり、夢が夢のままにとどまっている状態で自己満足に浸っているうちは、そんな夢に自分たちのエネルギーをつぎ込んでいる状態であって、それでは単に夢を消費している段階にとどまり、それ以上の何が実現しているわけでもないのかもしれない。要するに彼らが得られたと思っているのは空疎な夢でしかなく、そんな夢を抱き夢を語ることだけで満足しなければならない境遇に陥っているのではないか。
 しかし利益とは何なのだろうか。金銭的な利益が蓄積したらそれをまた何かに投資しないと利益には利用価値がないし、しかも一見無駄に思われるようなことに投資している現状もあるわけで、それが世の中で流行らないといくら投資しても無駄に思われ、実際にいくら投資しても金銭的な利益が出なければ、そんな投資は無駄に思われるだろうし、実際に投資に失敗しているようにも思われるのではないか。そしてその投資が報われるのは、それが実際に世の中で流行りだしてからであり、それが流行ってメディアなどでも話題となれば、それが経済行為ならば実際に金銭的な利益が出始めるのではないか。だが投資するには事前にある程度の利益の蓄積が必要不可欠で、また利益を出すにはある程度は無駄に投資を続けなければならず、しかも無駄に投資しているうちは利益を得られる保証はなく、いつかは利益が得られることを信じながらも無駄に思われるような投資を続けなければならない。もしかしたらそのような投資の大半は無駄に終わる可能性の方が高いのかもしれず、実際に無駄な投資によって資産を使い果たしてしまった人や企業などの事例はいくらでもあるのではないか。だがそうだとしてもそれもある意味では消費だと言えるだろうし、実質的にそれは富の消尽であるわけだが、一方で消費とは夢を見ることであり、利益を得られる夢を見ながら富を消費しているわけだ。そして普通の一般的な消費は利益など念頭においていないわけで、消費とは第一に楽しむことであり、具体的には金銭を使って娯楽を楽しむことになるわけで、そこから儲けるという発想は出てこないのではないか。もちろん商業的な娯楽を提供する側は現実に儲かるわけだが、果たして娯楽を提供する側が娯楽を享受する側を儲けさせるだろうか。それが娯楽である限りは娯楽を享受する側が金銭的に儲かることはないだろうが、それでも娯楽を享受する側が儲かるような例があるとすると、それは宝くじのようなものであり、確かにくじに当たった人は多額の当選金を得ることができるわけだが、その他大勢の当たらなかった人たちは、宝くじが当たる夢を買っただけであり、実際には楽しみや期待などの心理的な効用以外では何の利益も得られていないのではないか。それでも結果発表までの一定期間は夢を見させてもらっただけでもありがたいと思うだろうか。

 利益を見込んで行われる投資は民間の企業などが主体となって行われるが、利益を優先するのではなく何らかの必要に応じて投資を行うやり方としては、国や地方自治体などが行う公共投資があるが、公共投資が行われる経緯としては、議会などで何らかの公共事業の必要性が強調されて、あるいは市民団体や業界関係団体などが議会や行政に対して、それらの団体が必要性を訴えている何らかの公共事業を行うように陳情がなされて、そのような要請の必要性が認められれば、それをやるための予算がついて何らかの公共事業が行われることになるのだろうが、そのための予算がどこから出ているのかといえば、税収や国債や地方債などの公債によって予算が確保されるわけだろうし、事業の主体は行政かもしれないが、それを請け負うのは民間の業者である場合が多いだろうし、民間業者としては当然利益が出ることを期待して公共事業に参入するわけで、そういう面では公共事業も利益を追求する資本主義経済の延長上で行われていることであり、そうやって国や地方自治体の予算を使って民間業者を儲けさせてやる分には、役人や政治家が業者に便宜を図り、業者と役人と政治家の間で不透明な金銭の授受が明らかとなれば、贈収賄事件にも発展してしまうわけで、そういう部分で不祥事が露呈するのはよくあることだが、公共事業を行うための公的資金がどこから出ているのかとなると、税収は主に民間の経済活動に対して、所得税や関節税や法人税や固定資産税などの税を課して得るわけで、また国債や地方債などの公債にしても、民間の金融機関を通じて売りに出されるわけだろうし、現代が低金利時代であるにしても、一応は金利から生じる利息や売買益を期待してそれらの公債は買われることになるわけで、そういう意味ではどちらも資本主義経済の範囲内で行われていることであり、それに関しては当然のことながら利益が優先されることになるわけだが、では利益よりも必要が優先される面があるのかといえば、公的な機関が行う公共サービスは誰でも分け隔てなく利用できることが建前であるだろうし、誰もが民間よりも安い料金で、あるいは場合によっては無料で、公共事業としての公共サービスを利用できればいいわけだが、例えば図書館とか公園などは実際に誰でも無料で使えるし、一応は高速道路などの有料道路以外の道路は無料で車両が通行できるが、日本の場合だと車を走らせるための燃料であるガソリンや軽油などには特別な税がかけられていて、車によって燃費に差があるものの、燃料を多く使った分だけ道路をそれだけ多く使ったことになるのだから、その税が道路の補修や保全などに使われるのが建前となっているわけで、また上下水道も有料で使用量に応じた料金が徴収され、ゴミの収集も処理費用のかかる粗大ゴミに関しては有料であったり、他にも一般市民は直接税や間接税など様々な税金を払っているわけだから、それが国や地方自治体にとっての利益というよりは、それらの組織が活動するための必要経費に含まれるわけで、それが住民と行政機関との間に成り立つ金銭を介した契約関係であることは言うまでもなく、そういう意味では住民に対する一連の行政サービスといえども資本主義的な契約関係の一種だと言えるのかもしれない。
 また民間の慈善事業は寄付を募って利益を度外視して行われる事業であり、確かに慈善事業自体は採算を無視して行われるようなことなのだろうが、それを行うための予算がどうやって確保されるのかといえば、大口の寄付や献金を行う人中には著名な実業家や著名人が名を連ねることが多いし、中にはその実業家の名を冠した慈善事業団体まであるだろうし、事業団体自体も株式投資などの資産運用によって予算を確保しているところもあるだろうし、結局は資本主義的なやり方で利益を蓄積して、それを慈善事業に使うわけで、しかもそれは実態としては資本主義的な経済活動で得られた資金のほんの一部が慈善事業に使われるわけだから、別に慈善事業自体が資本主義的な経済行為を否定しているわけではなく、場合によっては世界各地の狩猟採集民などのように、森林開発や漁業資源の乱獲などの資本主義的な利益追及行為によって悲惨な境遇に追い込まれた被害者たちを助けるようなことをやっているとしても、それに使われるのは資本主義的な経済行為によって蓄積された資金である限りにおいて、そういう面では利益が優先されているわけで、全ての面において採算を度外視して慈善事業が行われているわけではなく、その予算を確保する面においては何事も採算を度外視しては事業が成り立たず、利益を優先させなければ慈善事業の予算といえども確保できなくなってしまうわけだ。そして慈善事業がなぜ必要なのかといえば、日頃から貪欲な金儲けを繰り広げている人や企業の罪滅ぼしのために必要というわけではないだろうし、社会の中で名誉欲を求める対象として慈善事業があるわけで、社会のために役立っていることを示すために、また利他的な奉仕活動などを行なって、世間から賞賛されたいと思うから、名士と呼ばれる社会的な名声を得られた人々や企業宣伝に欠かせないイメージ戦略の一環として慈善事業がもてはやされる実情もあり、要するにそうやって世間体を気にしているわけだろうが、世間の方はそういう行為を否定するわけにはいかないだろうし、やはりそれも資本主義的な経済活動から派生した副産物と捉えておくのが妥当なのではないか。全ては経済的な利益を優先させるにはどうしたらいいか、という目的に結びついていて、一方ではそれが国や地方自治体などの行政活動と連動して、民間の経済活動を補完するような公共事業を行わせ、また一方では成功した実業家や企業などの世間的な名誉を確保するために慈善事業が活用され、どちらにしても資本主義経済が社会の中で円滑に作動するための方便のようなことが行われていると考えておくべきだろうか。

 投資するにはまとまった額の資金が必要であり、経済活動によって利益を得て、利益が蓄積すればそれが投資に必要な資金となり、それを元手にして事業を拡大してさらに利益を出せば、蓄積した資産を担保にして金融機関からさらに多くの資金を借りることが可能となる。また行なっている事業を法人化すれば、株式や社債などを発行してさらに資金を集められ、普通はそうやって投資という行為を継続させると同時に、事業を拡大させて資産を増やす成り行きになるわけだが、もちろんそれらの経済行為が成功して順調に発展すればそうなるわけで、中には事業がうまくいかずに発展しない場合もあるし、資金繰りが行き詰ってしまえば破綻してしまう場合もあるわけだ。その一方で民間の投資では賄えないほど大規模なプロジェクトを行うときには、国や地方自治体の予算を使って事業を行う場合もあるわけで、その場合はすぐに利益が出る見込みがなくても、政治力によって公的資金をつぎ込めば延々と事業が継続されることになり、鉄道や道路など公共性の高い施設の大規模な建設事業だと、民間の企業ではなく国や地方自治体などが事業主体となる場合もあるだろうが、投資がそれ一辺倒になってしまうと結果的に採算の取れない事業ばかりとなってしまい、かつての社会主義国のように経済が停滞してしまうわけだが、社会主義的な政治体制の国でも利益を重視した資本主義的な経済手法を取り入れたところでは、中国やベトナムのようにそれなりに経済が活性化している国もある一方で、資本主義的な経済体制の国々でも社会主義的な経済手法を取り入れて、貧富の格差を生む行きすぎた利益一辺倒の経済至上主義にブレーキをかけている面もあるのだろうし、投資という行為が利益の蓄積を前提としてさらなる利益の蓄積を目指す限りで、経済至上主義になるのは当然の成り行きであるにしても、一つの手法だけに偏向してしまうと必ず弊害が出てくるわけで、民間による投資にしても公共投資にしても、様々な方法が共存しているような環境が結果的に形成されていれば、それらから出てくる弊害や恩恵などが打ち消し合って極端な不均衡に陥らずに済むのかもしれず、そういった混沌とした状況に対して何か一つの明快な解決法を求めてしまうのは、物事を単純化して捉えようとする悪しき傾向であり、そういうところで安易な答えにたどり着こうとしないことが肝要なのかもしれず、その場で選択可能な様々な手法の長所と短所を把握しておけば、状況に応じて妥当な手法を選ぶことも可能になるだろうし、また場合によっては特に何も選ばない選択肢も出てくるのではないか。
 一般的には利益が出ている分野では積極的な投資が行われて、新規参入も相次いで競争が激化して技術革新も進み、製造や流通にかかるコストも安くなる一方で、競争によって製品の価格も安くなって利益も次第に出にくくなって、競争に敗れた事業者は破綻したり廃業したり競争に勝った業者に吸収合併されたりして、その分野での淘汰が進み、結局は競争に勝ち残ったごく少数の業者の間で寡占状態が形成されるわけだが、世の中で行われている経済活動の全てが成功することはあり得ないわけで、成功しているところがある一方で失敗しているところがあるのは当然の成り行きであり、それを全体的に見てしまうと、全ての経済活動を成功させるにはどうしたらいいかというあり得ない問いを設定して、答えの出ない問いに答えを出そうして苦悶することになるわけで、いくら有能な人材を育成して競争させても、競争に勝ち残る者がいる一方で競争に敗れる者も当然出てくるわけだから、そこに競争がある限りは参加した全員を勝たすことは原理的にできないわけだ。そして競争自体が勝ち負けの不均衡を生んでいるわけだから、いくら公正で平等な競争を実現しても勝ち負けの不均衡をなくすことはできず、だからと言って競争をなくすわけにはいかないわけで、そこで何らかの競争が生じている実態を否定するわけにもいかないわけだ。また競争で成り立っている社会であれば、勝者の意向を尊重しなければならないだろうし、勝者の立場がそれなりに優遇されるのも当然で、またそうしないと競争した意味がなくなってしまうし、競争で成り立っている社会の存在意義もなくなってしまう。そしてその一方で競争に参加しない自由もあるわけで、別に勝者を敬う必要を感じない人たちがいても構わないわけで、そういうところでは競争で成り立っている社会の価値観を共有しない人がいても構わず、実際にそういう勝者の価値観に背を向ける人々も結構いるのではないか。その辺が微妙なところであり、世の中の矛盾したところでもあるわけだが、人はいつでも結果的に生きているのであり結果的にそんな社会が成り立っているわけで、社会の中で様々な成り行きが錯綜していて、一つの価値観だけが支配的な作用を及ぼしているわけではなく、もちろん支配的な価値観を宣伝して、そうした価値観のしもべになろうとする者を取り込もうとする集団などいくらでも存在しているわけだが、いくらでもあるだけに一つの集団が社会の全てを支配するには至らないのかもしれず、至らない限りで社会の多様性や多元性が結果的に実現されていると言えるのではないか。そうだとしてもそれが理想的な状態であるわけでもないし、別にありもしない理想的な状態を目指す必要もないわけだ。
 また結果的に現状が維持されている限りで現状維持のための投資も行われているわけで、また経済成長している分には事業を拡大させるための投資が行われているのだろうが、そうなっている限りにおいて、経済成長を生じさせるような何らかの利益が生じていることにもなるのだろうが、そうであるにしてもその中で事業が破綻して企業が倒産している現実もあるだろうし、経済活動がうまくいっている部分とうまくいっていない部分との間で、その収支がゼロなら現状維持でプラスなら経済成長していると単純に考えてしまいがちだが、全体としてそう考えることが果たして意味を持つのかというと、統計的な面では確かに意味を持ち、統計結果から様々な推測や予想が導き出されて、それによって株価や為替が変動したりするのだろうが、個別の事例に限って考えてみると、事業が失敗して企業の経営が破綻している状況があるとすれば、それに伴って生じる不良債権も生じているわけで、もちろん不良債権を全額回収できなければ回収できない分については債権を持っている企業や金融機関の方で、最終的には債権を放棄して損失計上するしかないわけだが、一方で世の中には利益を出している事業も確実にあるわけで、当たり前のことだが利益が出ている事業があるから資本主義経済が成り立っているわけで、結局は利益を出ている事業が残って、債務がかさんで資金繰りがつかなくなった事業が消え去る一方で、全体として物や情報やサービスの生産と流通と販売と消費が継続している限りで、資本主義経済が成り立っている現状があるわけで、少なくとも生産される物や情報やサービスが利益を見込んだ価格で売れていれば、資本主義経済が成り立つことになるわけで、そしてそれらが売れない場合もあって、売れない物や情報やサービスを生産すれば損失が出て、あるいは生産して流通させる経費を下回る価格でしか売れない場合にも同じように損失が出るわけで、そして損失を補うだけの投資が追加されなければ事業は確実に破綻するわけで、結局は利益が出る価格で売れる分だけ生産すればいいことになるのだろうが、そうやって生産調整すれば無駄に生産することもなくなり、利益を継続的に出し続けることになるわけだが、そうなるにはこれまでの生産実績や販売実績から生産量を調整することになり、そういうことが可能な分野もあるのだろうし、そうした分野では実際にそうやって生産調整しながら価格の維持を図っているのだろうが、もちろん全ての産業分野でそれが可能であるわけではないだろうし、必ずしも計画的には行かないから事業が破綻するケースが出てくるわけで、その計画的には行かない部分を過大に捉えれば、全体として資本主義経済が将来うまく行かなくなって、そう遠くない未来における資本主義の崩壊を予言する気にもなるわけだ。
 だが現実に起こっていることは、うまく行かなくなった事業が消え去る一方で、うまくいっている事業は継続していくわけで、またうまく行かなくなった事業に代わって新たな事業が出てきて、その中でもうまくいった事業だけが残るわけで、全体としてうまく行かなくなるのではなく、絶えず部分的にうまく行かなくなって、そのうまく行かなくなった部分は切り捨てられるわけだ。つまり損失がかさんで負債が雪だるま式に増えるのにも限度があって、どうにもならなくなった時点でその部分を切り離して損失計上するとともにリセットしてしまうわけだ。それはトカゲの尻尾切りと同じ原理かもしれないが、負債を抱えた人間がいつまでも生きているわけではなく、寿命が尽きれば死んでしまうわけだから、相続権を放棄すれば負債も引き継がれないわけで、そんなことをしているうちに人も数十年で入れ替わって、そういうところで損失も負債もうやむやになってしまう部分があるのではないか。もしかしたら経済的にうまくいっている部分はほんの一部分であっても構わないのかもしれず、これまでもそうであったかもしれないしこれからもそうなのかもしれないし、現状がどの程度うまくいっているかついても、どのような基準でどうなればうまくいっていることになるのかは、これといって説得力のある基準などないのかもしれず、ただ漠然と業績の好調な企業が脚光をあびる一方で、稀に有名な大企業の業績が悪化して話題にもなるのだろうが、全体として数パーセントの経済成長が維持されていれば、経済がうまくいっていることになるだけで、その中でもほんの少しのうまくいっている部分とうまくいっていない部分と、その他は大半の現状維持的な部分があると捉えておいた方が良さそうで、それが数パーセントの経済成長が示している現状なのではないか。そして現状維持的な部分が大きければ大きいほど状況は安定しているわけで、現状が維持されている限りは全体的な資本主義経済の崩壊はありえないことになりそうで、現状を維持できるだけの資本の蓄積があるということも言えそうで、そこで物や情報やサービスの生産と流通と販売と消費が行われている実態があれば、とりあえずはそれが今後も高確率で継続していくことは確かなようで、大した利益は上げていないとしても、それらの生産量と流通量と販売量と消費量が長期的に維持されている現状があれば、今後も長期的にそれらが維持される可能性はあるだろうし、何らかの天変地異や戦争などが起こって状況が激変することもあるだろうが、それがかえって累積した国債などの負債をハイパーインフレなどを利用してリセットする絶好の機会になる可能性もあるわけで、そういう意味でも楽観的に資本主義経済の崩壊を予言する気にはなれないわけだ。

 20世紀末の情報革命以来、金融資産が増えているということは、単純に考えれば銀行などの金融機関の預金量が増えていることにもなるわけだが、預金量が増えるということは、預金者が銀行に資金を貸していると捉えれば、金融機関にとってそれは負債となるわけで、もちろん金利がただ同然の利率なら貸している感覚も借りている感覚も薄れて、銀行に資金を預けているだけとなってしまうわけだが、金融機関はそれを個人や企業に資金として貸し出さないと利息などの収入を得られないから、当然それを貸し出すことになって、そうなれば資金を借りた側の個人や企業の負債になるわけで、要するに金融資産が増えていることは、同時に負債もそれだけ増えていることにもなるわけだ。資金を借りた個人や企業などが何かのきっかけで一斉にその負債を返すめどが立たなくなれば、金融恐慌ともなるのかもしれないが、普通は借りた資金を返済する過程も一気に全額返済するのではなく、小口に分けて分割払いによって長期間にわたって計画的に利息とともに少額ずつ返済されるわけで、通常の経済状態ならば預金が一気に全額引き出されることは稀であると同時に、借りた資金の返済もそれなりに分割返済が継続していれば何の問題もないわけで、また金融資産は借りた側が払った利息の分だけ増えるわけで、預金金利よりは貸出金利の方が高いのが常識だろうから、金利の差額分だけ金融資産が増えることにもなるわけだが、それも物価上昇などによって他の資産の価格が上がれば相対的に金融資産の額が増えても資産の割合は変わらないわけだが、物価の上昇率や経済成長率よりも金融資産から得られる利子の方が高ければ、やはり金融資産だけが膨張することになるのかもしれない。もちろん金融機関の収入は他に各種の手数料収入もあるわけで、手数料は資産運用などの顧客が金融機関に払う手数料であるから、利子から得られる収入と手数料収入と金融機関自体の維持経費の収支がどうなっているのかも考慮しなければならない。
 そうなると結局は金融機関自体の維持経費と預金者に払う利息と、資金を貸した個人や企業などから入る利息と顧客の資産運用など各種の手数料収入と、金融機関自身が行う株式や債券などの売買や為替取引から得られる収支がプラスになっていれば、金融機関に利益が出ていることになるわけだが、全体として金融資産が増え続けている成り行きがあるとすれば、直接個人や企業に貸し出す資金需要が弱く、顧客の資産運用から得られる手数料や自身が行う株式や債券などの売買や為替取引から利益を出すしかなく、そうなると金融資産の枠内だけで資金が循環していくことにもなるわけで、それ以外の、例えば個人が住宅ローンを利用すると、個人が金融機関から借りた資金が住宅を建設する企業や土地を売買する会社へと還流するわけで、また何らかの商品を製造販売する企業が事業を拡大するために銀行から資金を借りる場合は、その資金が新たに雇用した企業の従業員の給料や、商品を製造する機械設備や工場などを建造する企業などへと還流して、そのような資金の還流が促されるとそれが経済成長へとつながるわけで、たぶん金融資産の枠内で資金が循環しているだけでは経済成長へはつながらず、経済成長がなければ金融資産以外の資産が増えないから、相対的に金融資産だけが膨張していくことになるのではないか。もちろん資産運用先で何らかの生産的な事業が行われていれば、それが資産運用先の国での経済成長へとつながるわけで、たぶんそういうところで経済のグローバリゼーションが関与してくるわけで、資産運用先はより大きな利益を求めて自然と経済成長が著しい地域へと移っていき、経済活動が停滞している地域よりは活発化している地域の方が利益を得やすいのは当然であると同時に、損失を被るリスクも高まるわけで、また仮に投資がうまくいって多額の利益を得られたとしても、そうやって資産運用している人の資産が増える以外では、あまり経済効果は期待できないのかもしれず、例えば資産を増やした人が贅沢品を買ったところで、それは資産運用とは無縁の一般人とは無関係なことでしかないわけだ。
 現在では株や債券などの有価証券は電子化されていて、それらの売買に使う証券会社や信託銀行などの口座で管理されているわけだが、一方で手持ちの現金以外の資金もほとんどは銀行などの口座で管理されているわけで、それらの金融システム上では物質としての有価証券や紙幣や硬貨とは無縁の環境が整備されているわけで、それは口座振替などの送金や入金に関しても同じことなのだが、口座残高が増えたり減ったりする分には、物質としての金銭そのものは不要であり、実際に現金で買い物をする分だけ口座から下ろすのが習慣となっているだろうし、金融資産といっても自分で金庫を持っていて、その中に金銭を貯めるにしても、凄まじくでかい金庫でも持っていない限りは、莫大な金額を所持することはできないわけだから、貨幣や有価証券のほとんどはその金額の情報として、口座残高のように電子化されているのであり、そうなると物質としての紙幣や硬貨などの流通額は、全体から見ればほんの一部で、そうだとすれば有価証券などの価値がいくら値上がりしても、またその種類や量がいくら増えても、電子化されている限りはそれらの売買によって何らかの生産物が増えるわけでもなく、もちろん担保や信用などの面で制約があるから、資産の裏付けのない有価証券の類いを際限なく発行することはできないわけで、確かにそれらの売り買いを活発化させれば、株や債券などの価格が事前の資産評価額からはかけ離れた高額で取引されることもあるのだろうが、企業業績などの実態からかけ離れた額で取引が行われていれば、暴落への警戒感から利益確保のための売りが入って値下がりするのだろうし、そういう成り行きにもそれなりの限度があるのではないか。また物としての資産である土地や建物などの不動産も需要が増えて価値が値上がりすれば、値上がりした資産評価額を担保として借りられる資金も増えるだろうし、借りた資金でさらに土地や建物を増やして、さらにそれを担保として資金を借りて、不動産の値上がりが続いているうちは、そんなやり方でどんどん資産を増やせるわけだが、値上がりしすぎると土地建物の賃貸価格にしても分譲価格にしても高くなりすぎて借り手も買い手もいなくなって値下がりするだろうし、そこでもそれなりの限度があるわけだが、結局は実体や実態の定かでない資産の膨張には自ずから限度があるわけで、売買の過熱によって高騰するものは、いずれは過熱が沈静化して適正な価格へと落ち着いてしまうものなのかもしれず、途中で様々な紆余曲折があるものの、結果的には歯止めのない資産の膨張とはならないのではないか。